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七福神巡り|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 4.繁華街の核、毘沙門様」を見てみましょう。ここでは、主に参考書『郷土玩具大成』の中の“七福神”を扱います。つまり、8種(谷中、向島、芝、亀戸、東海、麻布稲荷、山の手、柴又)の七福神です。
 ここでどの七福神が何年に初めて参詣したのか、簡単にわかる表を作りました。
 谷中七福神   元文2年、1737年
 向島七福神   文化元年、1804年
 芝(港)七福神 明治末期、1900年以降か
 亀戸七福神   明治末期、1900年以降か
 東海七福神   昭和7年、1932年
 麻布稲荷七福神 昭和8年、1933年
 山の手七福神  昭和9年、1934年
 柴又七福神   昭和9年、1934年

繁華街の核、毘沙門様
     (神楽坂5-36)
 神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁華街だったが、その核をなすものが坂を上って左側の毘沙門様である。正式には善国寺である。文禄4年(1595)に、中央区馬喰町に建立され、寛政4年(1792)に類焼してここに移転してきたものである。本尊の毘沙門天像は新宿区の文化財になっている。
 元文2年(1737)から、江戸では七福神詣でという巡拝が谷中ではじまり、寛政初年(1789)から流行したが、文化13年(1816)の「遊歴雑記」中の、江戸七福神詣にはここを入れてあるから、そのころから有名になったのであろう。
 このにぎわいを背景にして、神楽坂に花街ができたのは明治初期で、「近代花街年表」には「明治7年1月24日、牛込肴町より出火、神楽坂花街全焼す」と出ている。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治20年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。
 だから、明治、大正時代の縁日のにぎわいは格別で、夜には表通りが人出で歩けないほどになり、坂下と坂上大久保通りの交差点には、車馬通行止めの札が出たほどである。
 なおここが山の手七福神の一つになったのは昭和9年からである。山の手七福神というのは、このほか原町の経王寺(市谷6参照)、東大久保の厳島神社(大久保27参照)、法善寺(大久保25参照)、永福寺(大久保29参照)、西大久保の鬼王神社(大久保2参照)、新宿二丁目の太宗寺(新宿22参照)である。
 七福神の発達は前にふれたが、明治末期には芝と亀戸に設置され、昭和7年には東海(品川)、8年には麻布、9年に山の手と柴又とに設けられたのである。
 山の手七福神は、大久保の旧家で中村正策という俳人(花秀という)が発案したものだが、はじめの候補に筑土八幡(恵比寿)と新宿布袋屋百貨店(布袋)が予定されていた(新宿72参照)。しかし、筑土八幡は氏子に反対されて鬼王神社にかわり、布袋屋は営業の宣伝に使われるおそれがある上に元旦から三日間は休業するので問題となり、太宗寺になったのであった。
〔参考〕 郷土玩具大成東京篇 新宿区文化財 新宿と伝説

善国寺の毘沙門天像

毘沙門天像 昭和60年7月5日、有形文化財(彫刻)で登録。
遊歴雑記 ゆうれきざっき。著者は江戸小日向廓然寺の住職・津田敬順。文化9年(1812)の隠居から文政12(1829)までの江戸、その近郊、房総から尾張地方に至るまでの名所・旧跡探訪の紀行文。
近代花街年表 おそらく『蒐集時代』の一部でしょう。『蒐集時代—近代花街年表・花街風俗展覽會目録・花街賣笑文献目録』2・3号合輯(粋古堂、1936年。再販は金沢文圃閣、2020年)

 では、有坂与太郎氏の「郷土玩具大成 第1巻(東京篇)」(建設社、昭和10年)317頁の「七福神」についてです。最初は谷中七福で、七福神が初めてこの地に設置されたのです。

 その七福神が江戸に於て初めて設置されたのは元文2年(1737)といわれているが、七福は、俗に谷中七福と呼ばれ、左の五寺院が挙げられている。即ち
  (弁財天)不忍弁天堂(毘沙門)谷中感応寺(寿老人)谷中長安寺(えびす大黒、布袋)日暮里青雲寺(福禄寿)田畑西行庵
 つまりこれを順々に巡って福を得ようというので、その中には多分に遊山気分が含まれている。特にこれが流行したのは寛政の初年(1789)あたりからであったとみえて、同じ五年には山東京伝の「花之笑七福参詣」を筆頭とし類似の青本が数冊上梓されている。

谷中 東京都台東区の地名。本郷台と上野台の谷間に位置する。
青本 江戸時代に出されていた草双紙の一種。人形浄瑠璃や歌舞伎といった演劇や浮世草子に取材したもの、勧化本や地誌、通俗演義ものや実録もの、一代記ものなどがある。

 これは写真の七福神です。高さは13.5糎(cm)しかありません。もう1つ、手に入るのはミニチュアの七福神です。スタンプを押す方がよかったかも。

七福神

 また「享和雑記」にも
  近頃正月初出に七福神参りといふ事始まりて遊人多く参詣する事となれり
とし、屠蘇機嫌で盛り立てた谷中の七福もどうやら本物になつてきたらしいが、好事魔多しとは神仏の方にもあったらしい。文化の初年[1804]、日暮里布袋堂の住職が強盗のために惨殺されたのが七福の挫折する初まりで、布袋の像は駒込の円通寺へ還され、七福が一福欠けて、さしもの初春絶好の遊山気分にひびが入ったのは是非もない盛衰である。

 住職が死亡し、挫折と衰退があり、そこで別の七福神、墨田区の向島七福神が登場します。時代は書いていませんが、おそらく文化元年(1804)頃以降でしょう。

 この機に乗じて興ったのが向島七福神であって、これは肝入りであり、土地開拓者の一人である梅屋鞠塢の宣伝よろしきを得たため加速度に売り出してしまった。
 梅屋鞠塢は仙台の産で、初め堺町の芝居茶屋和泉屋に住み込んでいたが、後、独立して骨董商を営んでいた。晩年、向島に梅屋敷を開いた事もまた七福神を創設した事もすべてこの骨董商時代に知遇を得た文人墨客の力に興って大なるものがあった。即ち、鞠塢が七福設置を企画するに当り、先づ喜多武清の宝船に、角田川七福遊びと憲斎が題をした一枚摺板行した。そして、抱ー蜀山を抱き込み通人雅客清遊地と云う折紙附の芝居を打ったので、「山師来て何やら裁えし角田川」と白猿に難じられながらも、半可な酢豆腐には迎合されるに十分なものがあった。鞠塢自身にして見れば、たただ向島に人がきて呉れればよかったので、どれほど売名的だと云われてもそんな事には亳しも頑着していなかった。文化元年に梅屋を開いた時も、千蔭春海などの歌人を利用して立派に宣伝効果を挙げていたので、七福の受り込みなどは鞠塢にとって寧ろ朝飯前の仕事であつたかも判らぬ。つまり、向島の七福は谷中のそれと相違し、創設の目的が江戸人の吸引策にあったので、七福神の如きも、寿老人の髯から思いついて対象物のない白髭神社を寿老人に見立てたり、前身の骨董商で既に経験済みの、なにやら得体の知れぬ福禄寿をさも有難そうに梅屋敷へ持ち込んだりしてみた。
 こんな具合に鞠塢の手際は頗る鮮やかだったので、終には谷中の七福という母屋を奪って、どっちが本家の如く思惟されるまでになったのは、考えように取っては鞠塢は向島発展の恩人であつたと云う事が出来る。
 天保四年(1833)に上梓された「春色梅兒誉美4編巻8には向島の変遷に就て次のやうな事が語られてある。
 由「イエ向島も自由は自由になりましたネ渡り越の舟が、今じゃア六人でかはり/”\に渡しますぜ
 藤「くわしく穿つの、船人の数まではおれも知らなんだ、昨今まで竹屋を呼に声を枯したもんだっけ、それだから故人になった白毛舎が歌に
◯   文々舎側にて当時のよみ人なりし万守が事なり
    須田堤立つゝ呼べど此雪に
     寝たか竹屋の音さたもなし
 藤「この歌も今すこし過ぐると、こんは山谷舟を土手より呼びて、堀へ乗切りし頃の風情を詠めりと、前書が無いとわからなくなりやす」
 天保頃の向島は既にこういった著るしい推移が見られた。これは勿論、鞠塢の売名的手段がその発展を急速に促したものであると共に、七福神の存続が向島に対する一般の認識を強めさせる一つの原動力となっていたという事は考えるまでもなかった。

おこった おこる。さかんになる。おこす。はじまる。ふるいたつ
肝入り 双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。鞠塢氏の百花園が中心となって七福神を立ち上げたのでしょう。
梅屋敷 正式名称は清香庵。伊勢屋喜右衛門の別荘内にあり、300本もの梅の木が植えられ、梅の名所として賑わった。
鞠塢 佐原鞠塢。きくう。江戸後期の文人、本草家。中村座の芝居茶屋に奉公し、骨董店をひらき、財をなし、文化元年、向島寺島村に3000坪の土地を使って花木や草花をあつめ、当初は「新梅屋敷」、後に「向島百花園」で開始。生年は宝暦12年。没年は天保2年8月29日。70歳。「向島百花園」は、昭和13年、全てを東京市に寄付し、現在、都立庭園の1つ。
喜多武清 きた ぶせい。1776-1857。江戸後期の画家
角田川 すみだがわ。隅田川の別表記
憲斎 中川憲斎。なかがわ けんさい。江戸後期の書家。
一枚摺 いちまいずり。紙一枚に印刷すること
板行 はんこう。書籍・文書などを版木で印刷して発行すること
抱ー 酒井抱一。さかい ほういつ。江戸後期の絵師、俳人。
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人・狂歌師
通人雅客 つうじん。あることに精通している人。がかく。風雅を理解し愛好する人。
清遊 せいゆう。世俗を離れて風流な遊びをすること
白猿 五代目市川団十郎白猿。芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」をもじって「山師来て 何やら裁えし 角田川」と詠んだ
半可な酢豆腐 知ったかぶりの若旦那が、腐って酸っぱくなった豆腐を食べさせられ、酢豆腐だと答える落語から。知ったかぶり。半可通。
亳しも こうも。「毫」は細い毛の意。少しも。ちっとも。おそらく「亳しも」と書いて「少しも」と読むのでしょう。
千蔭 加藤かげ。江戸中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。
春海 村田春海。むらたはるみ。江戸中期・後期の国学者・歌人。
福禄寿 ふくろくじゅ。七福神の一神。幸福・俸禄ほうろく・長寿命をさずける神
春色しゅんしょくうめ兒誉美ごよみ しゅんしょくうめごよみ。人情本。江戸深川の花柳界を背景に描いた、写実的風俗小説。
穿つ 穴をあける。押し分けて進む。人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。新奇で凝ったことをする。

 ここで、向島七福神の内訳を書いておきます。
角田川七福神(=隅田川七福神)
(夷大黒)東京市本所区向島二丁目 三囲神社
(布袋) 同  本所区須崎町   弘 福 寺
(弁財天)同  本所区須崎町   長 命 寺
(福禄寿)同  向島区寺島町   百 花 園
(寿老人)同  向島区寺島町   白鬚神社
(毘沙門)同  向島区隅田町   多 聞 寺
 では、谷中七福神がどうしているのでしょうか。文化13年(1816)には牛込岩戸町の善国寺がでてきます。善国寺は牛込肴町になったこともあります。明治12年(1879)、復活が企画されましたが、これも失敗。また、明治末期、芝と亀戸の七福神が出ましたが、人気は出なかったといいます。

 こうして、向島の七福は江戸人の春興として最早一つの常識とさえなるに至ったが、一方谷中の七福はどうなったかといえば、十方庵の「遊歴雑記」三編(文化13年、1816)には御府内七福神人方角詣として左の七ヶ所が挙げられている。
(毘沙門)牛込岩戸町   善国寺
(大黒) 小石川伝通院内 福聚院
(福禄寿)田畑村     西行庵
(布袋) 日暮村     妙了院
(寿老人)谷中      長安寺
(弁財天)しのぶ岡    弁天堂
(夷)  浅草寺境内   西の宮
これを一瞥して直ちに感ぜられるのは、創設時代とこれといろ/\な相違が見出される事である。即ち、創設時代から文化13年(1816)まで依然として変らないのは、不忍の弁財天と長安寺の寿老人と西行庵の福禄寿と僅かに三ヶ所で、他は凡て新らしい組織になっている事と、もう一つは、従来は上野の不忍から田畑迄という比較的短距離であったものが、これでは牛込から浅草まで延びている事である。何故こんな変動があったかといえば、これは、前記布袋堂住職の横死に起因しているものであって、この長距離(道程約三里)とこの組織では如何になんでも江戸人を吸収する事が出来ない。これでは急造の向島七福に圧倒されたのも無理からぬ事であり、谷中七福の声誉はこうして徐々に転落の一途を辿るのみとなってしまったのは誠に余儀ない結果であった。所が、明治12年(1879)、不図した事から高畠藍泉等の手により復活が企画され、山下の清凌亭施版で橋本周延画の道案内図が作られたり、清元仲太夫三遊亭金朝等の鳴物入りもあって、ここに華々しく谷中七福は毎度のお目見得をする段取にまで漕ぎつけたのであった。但し、この時組織された七福の顔触れがまた変わっている。
(弁財天)上野不忍    弁天堂
(毘沙門)谷中      感応寺
(寿老人)谷中      長安寺
(布袋) 日暮里     修性院
(大黒) 日幕里     経王院
(夷)  日暮里     青雲寺
(福禄寿)田畑      西行庵
と、こういう具合になっている。この復活は大体に於て当を得ていたが、無論これは一時的現象で殆どアトがつづかなかった。いうまでもなく、向島の七福にも盛衰があって安政の地震(1855年)後は、まさか雑煮腹を抱えて七福詣でもないので、自然閉塞の形となっていたが、これも亦、明治33年(1900)、小松宮殿下御徴行以来、漸く復活の曙光が見え出して来ている。尤も、同じ更生でもこの方は谷中と異り、鞠塢が組織したそのももの顔触れが揃って亳しも変動がなかった。現在、元旦より七日迄、七福の各社寺より尊像が授与される慣例は、この復活の機運が崩した小松宮殿下御徴行以来と云われ、大正12年(1923)の東京震災にも安政の轍を踏まず いよ/\増々盛大に行はれつつある現状に置かれている。
 この向島の七福に倣って、明治の末期、芝と亀戸との二ヶ所に七福神が設置されたが、これらは向島の如く地の利を得ていない事が第一の理由で、世間的には認められずにしまった。従って、七福神といえば、全く向島が独占した形であったが、俄然、昭和7年(1932)に東海七福神が出現するに及んで、七福の氾濫時代を惹起する事となった。こうなってみると、地下の鞠塢に先見の明ありと北叟笑まれても二の句がないかも判らない。
横死 不慮の死。非業の死。天命を全うしないで死ぬこと
声誉 せいよ。よい評判。ほまれ。名声。
高畠藍泉 たかばたけらんせん。明治初期の戯作者と近代ジャーナリスト。
清凌亭 上野の料亭。「佐多稲子の東京を歩く」で詳しい
橋本周延 はしもと ちかのぶ。江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などの浮世絵師。
清元仲太夫 江戸浄瑠璃。江戸浄瑠璃とは江戸で成立か発達した浄瑠璃のこと。
三遊亭金朝 2代目でしょう。落語家。
徴行 びこう。身分の高い人などが身をやつしてひそかに出歩くこと。
北叟笑む ほくそえむ。うまくいったことに満足して、一人ひそかに笑う。
二の句 二の句が継げない。次に言う言葉が出てこない。あきれたり驚いたりして、次に言うべき言葉を失う。

 小松宮殿下が徴行する明治33年(1900)からは、向島七福神が谷中七福などを打ち砕き、独占した形になりました。しかし、昭和7年(1932)には、新しい東海七福神が出現し、これで氾濫時代にはいりました。

 その七福氾濫時代のトップを切った東海七福の企画者はかくいう筆者であるが、生の動機は向島七福の創設当時と一致するもののあった事は断言し得られる。勿論これを企画した筆者は酒落でもなければ戯談でもなく、まして御信心の押売りをしようなどと大それた考えは毛頭持ってなかった。それではどんな所に動機があったかといえば、沈滞しつつある品川を昔の繁栄に引戻そうとした一つの手段に過ぎなかったので、これを設置すればたとえ短時日の間でも他区民が同所へ足を踏み入れるであろうし、それと同時に煙草一ヶ位は売れるに違ひない、そうすれば品川という土地がどれだけ潤うであろうと考えたのが本当であった。
 ほぼ。全部か完全にではないが、それに近い状態。
戯談 ぎだん。冗談。

 昭和8年(1933)には麻布の稲荷七福が出てきます。

 この東海七福の好評だった反響は直ちに昭和8年(1933)の麻布稲荷七福の創設によって現れて来ている。これは十番の末広稲荷の肝入りで、初めは麻布七福神として発表した所、七福が凡て対象のない稲荷を象っため、神社会から難じられ、已むを得ず稲荷の名を冠して麻布稲荷七福と看板を塗り代えたものであった。ここの宝船は皮付きの丸木舟で、尊像は悉く木彫であるが、別に恵比寿に象っている恵比寿稲荷から鯛と宝珠(いづれも土製)を吊した「女男登守」というものが出されている。
象る かたどる。物の形を写し取る。ある形に似せて作る。
悉く ことごとく。全部。残らず。すべて。みな。
宝珠 ほうじゅ。宝石。
女男登守 「男女ともにお守りを授かる」という意味?

 昭和9年(1934)、山の手七福神がついに登場し、柴又の七福神も開設されました。ここで、当時の山の手七福神を書いておきます。
山の手七福神
(昆沙門)東京市牛込区神楽坂上 善国寺内 毘沙門堂
(大黒) 同  牛込区原町        経王寺
(弁財天)同  淀橋区東大久保      巌島神社
(寿老人)同  淀橋区東大久保      法善寺
(福禄寿)同  淀橋区東大久保      豊香園
(夷)  同  淀橋区西大久保      鬼王神社
(布袋) 同  四谷区新宿二丁目     太宗寺

 つづいて昭和9年(1934)、山之手七福と呼ぶものが出現した。これは大久保の中村花秀という俳人の発願であったが、花秀氏の依頼で筆者もこれに関し、最初から七福編成の難局に当たる光栄に浴せしめられた。当初候補に充てられた恵比寿の筑土八幡と布袋の新宿百貨店布袋屋中、筑戸八幡は氏子に反対されて途中から脱したので鬼王神社を以てこれに代え、布袋屋は営業の宣伝に供される恐れがある事と、元旦から三日間休業するため他との統一がとれぬ事とで排除し、太宗寺に交渉して更めて諾を得たものであった。ここの尊像は土製着彩、東海七福の類型であるが、宝船は経木で製られた頗る瀟洒なものである。(尊像授期日、麻布、山之手共に例年元旦より七日迄)
 右の外、昭和9年から柴又七福と称するものが開設された。これは寺院ばかりで編成されたもので、福禄寿は葛飾区新宿町崇福寺、寿老人は同区高砂町観蔵寺、毘沙門は同区柴又題経寺、弁財天は同区柴又町真学院、布袋は同区金町良観寺、恵比寿は同区柴又町医王寺、大黒は同区柴又町宝生院、以上であって、出処からは仕入ものの七福の腰下げが出されている。但し、柴又に限り例月7日に修行されるので、一年に通算すると 12日間腰下げが授与されるという事になる。
 かくして七福の氾濫時代が到達したのである。右の内どれが残ってどれが廃れるかは、かかって将来に対する興味ある問題でなければならぬ。
経木 きょうぎ。杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの。
腰下げ 印籠いんろう・タバコ入れ・巾着きんちゃくなどのように、腰にさげて携帯するもの。ミニチュア七福神よりも実用性は高いのでは?

「郷土玩具大成」の本は昭和10年(1935)に上梓した約90年昔の本です。七福神が競争する、結構本気で真剣な張り合いでした。しかも、筆者自身が「東海七福神」や「山の手七福神」でダイレクトに出ている。山の手七福神ははるか昔から決めたものではなく、昭和9年に決まったものでした。

善國寺(明治時代、昭和初期)

 明治時代の善國寺です。最初は新撰東京名所図会第41編(明治37年)の「善国寺毘沙門堂縁日の図」です。

新撰東京名所図会第41編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

 左から右に見ていきましょう。まず見えるものは縁起のいい餅花もちばなで、ヤナギやミズキなどの木の枝に、紅白の餅や団子を丸めています。鯛や小判、賽、キツネ、「当たり矢」「おたふく」「ひょっとこ」の飾りが下がり、行灯は「商人中」でしょうか。賽銭箱の前で女性2人が拝んでいます。
 その次にのぼりがあり、「奉納 明治三十五年 開運 壬寅 正月」とあり、右側の「開運 毘沙門尊天」と同じものでしよう。
 善国寺は池上本門寺の末寺に当たります。「牛込千部講」というのは法華経8巻を1000回読んで、ご先祖の精霊を供養すること。僧侶100人が2回ずつ読んで200回、これを5日間行って1000回。
 参拝客の中央、メガネの男性がひめ小判守を大事そうに持っています。その奥にはおそらくだてがさがあり、そこで何かを買っている人もいます。右側の屋台はおもちゃ屋でしょう。のぼり鬼などの面、小さな獅子舞や三味線を売っています。その手前の毛氈もうせんの台でも、手ぬぐいをかぶった男性が七福神の人形やおもちゃを柿を持った子供に説明しています。
 これらの露店の奥、本堂前には現在も残る狛虎1匹。右の入母屋の瓦屋根はお守りや縁起物の販売所でしょうか。「神楽坂」の旗、中にも「兼子」「牛込」「名台○○」などの旗があります。
 右上で見切れているのは、たくさんの小さな幟をロープか竹でつなげたものです。「御華◯◯」「牛込芸妓中」「業平吾妻の寿し」「ふくや 業平」「◯し中」「會」「牛込」「◯中形」などです。

 昭和時代になると、次の写真も残っています。

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

善国寺(写真)昭和44年頃 ID 14126-28

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126~28は、善国寺の写真を撮ったものです。撮影の年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
 この時期、善国寺には昭和45年 ID 8299-ID 8300昭和44年 ID 8271-ID 8272などがあり、これらを元として解説します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126 善国寺

 境内の隅から斜めに撮影しています。手前右側の四角い石はおそらく建物の基礎で、戦前にはこの場所には建物があり、東京名所絵図(明治37年)の挿絵には賽銭箱なども描かれています。その奥の建物は基礎がない仮設の小屋と思われ、商店街のセールの福引所などに使われました。
 T字に並んだ敷石は参道です。戦前のものと思われ、凹凸が目立ちます。左手間は毘沙門横丁側の門につながり、左側は本堂(毘沙門堂)に、右は正門に続いています。
 参道の向こうに四角い石があります。このあたりも戦前は建物があったので、礎石の一部かもしれません。左には屋外灯と旗の掲揚塔。さらに左は石虎で、土台に「奉」の一文字が掘られています。
 その奥の手すりは、写真には写っていない石造滑り台から降りてくる子どものための安全柵です。黒っぼい角柱は日よけの支柱で、その足元は砂場。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。いずれも区立毘沙門児童遊園の施設です。
 最も左奥の建物には「易占えきせん/毘沙門天/易断所」という看板がかかり、そこで易者が占っていました。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14127 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14128 善国寺

 ID 14127とID 14128は、いずれも北側の正門の外から本堂を見ています。左側にはベンチと、わずかに見えるくじ引き用の抽選器。その上には「餅花もちばな」を模した小さな正月向けの飾り。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習でした。軒下には提灯が並びます。
 中央の5列の敷石は参道。右は門柱で、大きく欠けているようにも見えます。いずれも戦前から残存したものでしょう、
 屋外灯、石虎、中央奥には本堂と鈴紐すずのお、賽銭箱には右書きで「奉納」と「神楽坂振興会」。石虎の右奥は、背もたれが独特なベンチでしょう。
 参拝者はコートを着ています、時期は年末で「陽差しから見ても、ID 8299と同時撮影でしょう。本堂は昭和46年に再建されるので、その建築前、おそらく昭和44年の年末でしょう」と地元の方。

善國寺。住宅地図。1970年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

善国寺(写真)平成22年 ID 13351

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13351は平成22年(2010年)3月に、神楽坂4丁目にあるちんざんしゃもんてんぜんこくを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13351 神楽坂毘沙門天

 車道はアスファルト舗装、側溝はL型で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色で意味は「駐車禁止」。歩道もアスファルトのインターロッキング(interlocking)ブロック舗装。
 街灯は戦後4代目で、水銀と高圧ナトリウムの2つのランプ。この街灯は令和4年に更新され、古い街灯が本堂前の境内灯として再利用されました。続いて三角コーンがあり、次の標柱の内容はここで解説しています。
 石囲いは無地で、左端に「毘沙門寄席」の看板があります。ちなみに神楽坂毘沙門寄席の第一回は2005(平成17)年11月、22年7月では50回以上だそうです。看板は「七日の出演者」、<昼席 十三時半開場 十四時開演>は五街道彌助、三遊亭遊雀、柳家喜多八、<仲入り>、松旭斉 美智 美登、柳家花緑。<夜席 十八時開場 十八時半開演>古今亭菊六、金原亭馬遊、柳家さん喬、<仲入り>、三遊亭小円歌、林家たい平。下に行って<十三日の出演者 出演順>春風亭一之輔、入船亭扇辰、柳亭市馬、林家正楽、古今亭菊之丞、立川らく次、三遊亭白鳥、古今亭志ん輔、柳亭小菊、立川志らく、<十四日の出演者 出演順>柳家三之助、桃月庵白酒、林屋正雀。その右側に白と青のポスターが2枚、「墓地売出中」と読めます。門前を歩く人は背広、ダウンジャケット、上着を手に持った人などで、肌寒かったと想像します。
 赤い山門は平成6年(1994)に作られたものです。梁の間に「毘沙門天」「善國寺」の提灯が多数。左側の門柱には「毘沙門天」、右側の門柱は「善國寺」と銘板「神楽坂興隆会」。
 山門を潜り、境内にはいると 左の青銅色の屋根は浄行菩薩。境内灯は街灯とは違い、傘と円筒形の照明でした。本堂前の2体の石虎(右は阿形あぎょう、左は吽形うんぎょう)。その右に読めない看板、さらに右には石虎を描いた絵馬やおみくじを結ぶ棚があり、さらにその上は藤棚で、境内はアスファルト舗装されています。さらに右、門脇の石囲いの中はしだれ桜ですが、こちらもシーズン前です。
 最後は本堂(左、おみく[じ]と読める)と庫裏くり(右、住職や家族の住む場所)です。本堂と庫裏とは渡り廊下でつながっています。また庫裏の受付でおみくじが買えます。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13167~13170

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13167-70はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目などを東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13167 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13170 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。車道もアスファルト舗装でしたが、コンクリート舗装があるという意見もあります、
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色です。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (テーラー)島(田)
  2. アワヤ(オシャレ洋品 阿波屋)
  3. ▶たばこ
  4. 「福屋不動産 」「毘沙門せんべい」「福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」。無数の字がある。ID 101の説明1の「〇〇〇〇銘茶研究会〇〇」と同じ(大佐和)
  7. 仐とは(きもの)(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 五十(番) 中華料理
  11. 日邦工〇(宮坂ビル)
  12. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 ロッテ商事 おおとり(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13165~66, ID13171

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13165-66とID 13171-73はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目など東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13171 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13165 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13166 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13172 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13173 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。
 ID 13166の写真では花輪が少なくとも7輪ほど出ています。「祝開店 おおとり 〇〇」と読めます。パチンコ「おおとり」の開店祝いに見えます。
「おおとり」を経営する鳳企業株式会社の会社沿革では

1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン
1969年(昭和44年) 鳳企業株式会社設立
1970年(昭和45年) 新宿西口にパチンコ店『アラジン』オープン
アラジン新宿店2階に焼肉店オープン
1971年(昭和46年) 『北京料理 西口飯店』オープン
1977年(昭和52年) 『アラジン池袋店』オープン
1980年(昭和55年) NASA ビル建設

 地元の方によれば

「1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン」とあります。昭和41年のID 12280にも「おおとり」の看板が写っています。
 パチンコ店では新台入れ替えなどを機に「新装開店」で出玉サービスをうたうことがあったので、この花輪はその種のものと想像されます。5丁目に新たに開店した「山水林」に対抗したものかも知れません。

 ID 12280の写真と住宅地図とは全く違います。住宅地図では昭和47年までは「おおとり」はなく、あるのは「フードセンター」です。しかし、地元の方によれば

ID 12272-73, 75-7612280、12282の縁日(夜店)の写真について念のため撮影年代を再検討しました。
・毘沙門堂の石囲いは再建前のもので、昭和45年以前
・易占の看板は池田信「1960年代の東京」(昭和40年)に酷似
・歩道は文様のない角石で昭和45年より前(ID 8299など)
・「オバケのQ太郎」などのブーム
昭和41年(1966年)という記録に無理はないと思います。

 では、どうして「フードセンター」が住宅地図に昭和39年から昭和47年まで、何年も残ったのでしょう。多分、今のように精密さや正確さは求めていなかったのでしょうか? でも住宅地図の最後に「航空写真一図化一測量修正一調査-トレス一筆耕一仕上。氏名・番地・職種すべて実態調査(足で調べる)。年一回現行維持」と書いてある。う~ん。わかりません。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (カネボ)ウ化粧(品)。尾沢薬局「化粧品/カメラ・材料 尾沢」「
    ――ごくぼその路地
  2. オシャレ洋品(阿波屋アワヤ
  3. ▶たばこ
  4. 福屋不動産 毘沙門せんべい 福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」
  7. 仐(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 おおとり ロッテ商事(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. (ジャウ)トーヤ(果物店)
  11. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂3, 4, 5丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13152-53,13159-60

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13152とID 13153、ID 13159、ID 13160は神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13152 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13153 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13159 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13160 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、おそらく黄色と無彩色に塗り分けていたでしょう。道路標示「駐車禁止」が立っています。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったでしょう。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。例外としてID 13160では右側にも電柱があり、路地の奥に電線をつなぐためのものでしょう。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節と思われます。歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施なので、銀行をはじめ営業していない店が目立ちます。
 ID 13152-13153の三菱銀行は昭和47年(1972)ごろ5丁目の仮店舗から建て直した新店舗に移りました。仮店舗の後に「パチンコ山水林」(現在はシュエット神楽坂)が開業しています。ところが昭和47年や昭和48年の住宅地図では「パチンコ山水林」はまだありません。
 一方、ID 13159-13160の「毘沙門せんべい 福屋本舗」は写真では2階屋ですが、昭和48年(1973)9月に5階建ての現ビルに建て替えられました。従ってこの写真の撮影時期は昭和47年の秋から、遅くとも昭和48年の春先と推定されます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. 電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  2. ジャウトーヤ (喫)茶 フルーツ。手前が果物店、奥がフルーツパーラーでした。
  3. (店舗)
  4. 神楽坂通り/美観街
  5. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  6. 宮坂金物店
  7. (歩行者横断禁止)
  8. フクヤ。電柱看板「川島歯科
  9. 街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  10. DC JCB。サムライ堂洋品店 ばぁ侍(2階)
  11. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  12. FIRE HY(DRANT) 消火栓。広告「カメラのミヨシ」本多横丁にあった。角から4軒目くらい(下の右図)
  13. 電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  14. 毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  15. 善國寺。子どもが石囲いに登っている。本堂再建時に石囲いは一新したので滑り台はなく、この写真はただのワンパク坊主。
  16. (駐車禁止)
  17. 立て看板「こどもの飛び出し多し/徐行」
  18. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  19. 電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  20. おおとり(パチンコ)
  21. やきとり殿堂 鮒忠
  22. 中河電気
  23. パチンコ(山水林)。現在はシュエット神楽坂、築年月は2007年6月
  24. タイヨウ(時計・メガネ)
  25. 神楽坂通り/美観街
  26. 薬ヒグチ
  27. 遠くに協和銀行
  1. 京都。看板「オープン 浪費させない店 コンパ 〇〇プレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. (一方通行入口)。本多横丁へ(ここから4丁目)
    (数店おいて)
  3. (大佐和)神楽坂店(現・楽山
  4. (バー)鼓 この先突き当たり右 (「紅小路」へ)(下図)
  5. 電柱看板「 フクヤ」「旅館 宝楽」
  6. (店舗としもた屋)
  7. 毘沙門せんべい 福屋本舗 福屋不動産
  8. (店舗)
  9. オシャレ洋品 アワヤ
    ―――「ごくぼそ」へ
  10. 紳士服 テーラー 島田
  11. 尾沢薬局 (くす)り尾崎 カネボウ化(粧品)
  12. (店舗) (ここから5丁目)
  13. 第一勧業信用組合(駐車場)
  14. (店舗)
  15. かやの木(玩具店)
  16. (消火栓)
  17. 第一勧業信用(組合)。昭和46年(1971年)10月に改称

住宅地図。1980年。つづみとミヨシ

住宅地図。1976年。

善國寺(写真)昭和54年 ID 11865

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。これは[A]とします。

[A]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865 善国寺

 同じく昭和54年1月に善國寺を撮ったもの[B]があり、それが下のID 11830です。2つとも昭和54年1月の撮影ですが、いくつか違いがあります。

[B]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 また、ID 9909は昭和50~51年に撮ったもので、これを[C]として3つを比較します。

[C]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

 立て看板[A]は「歳旦祝祷祈願会」、[B]は「歳旦初寅祈願会」です。
 歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。
 祝祷しゅくとうとは宗教行事の終りに会衆や人物に祝福を求める祈り。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。祈願きがんとは神仏などに祈り願うこと。
「毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれる」(善国寺公式サイト)とされ、寅の日を大事にしました。
 昭和54年(1979年)の初寅は1/11(木)でした。[B]は11日以前、[A]はそれ以降の撮影と想像できます。
[A]と[C]には、のぼり旗「奉献開運大毘沙門天」があがっています。添え書きとして[A]は「神楽坂興隆会」、[C]は「神楽坂」しか見えませんが同じものでしょう。「神楽坂興隆会」は地元の方によると「善国寺の応援を主目的にした地元の団体。後に、この団体が中心になって現在の赤い山門を寄進した」とのこと。確かに今の山門には「神楽坂興隆会」の銘板があります。

神楽坂興隆会

[B]にのぼり旗がないのは正月休み中の撮影だったからかも知れません。
[A][B]とも賽銭箱には「志納」とあります。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
[A]は階段脇に一対の提灯があって、「毘沙 善國寺」と書かれています。本堂の長押なげしの中央は正月飾りがあります。その奥の内陣には山号の「鎮護山」。ガラスケースに入っているのは、日蓮宗の祭礼で使うまといでしょうか。ガラスケースの前にも賽銭箱があり、「浄心」と筆書で書かれているようです。

神楽坂落語まつり

三遊亭金翁

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂落語まつり」について送ってくれました。ここで出てくる三遊亭さんゆうてい金翁きんおう氏は、落語界最古参で、唯一の戦中入門の落語家です。1970年『淀五郎』で芸術祭賞優秀賞受賞。ほかに古典落語の演目では『薮入り』『茶の湯』、正月しか口演しない『七草』など。生年は昭和4年(1929年)3月19日。

神楽坂落語まつり」というイベントが毎年、開かれています。第1回は2009年。2020年は新型コロナウイルスの影響で中止。21年に復活し、22年で第13回になります。
株式会社粋まち」が事務局となり、新宿区が共催しています。
「粋まち」のサイトには次のように書かれています。
「昭和40年代の三遊亭小金馬(現金馬)の勉強会を皮切りに、毘沙門天善國寺書院では落語会が続々開催され、人気・実力兼ね備えた多くの噺家たちが羽ばたいていった街でもあります。その伝統を受け継ぎ、神楽坂ならではの新たな話芸の魅力も加えて発信していきたいと、『神楽坂落語まつり』は地元の方々の協力を得て、2009年に始まりました」
 興業情報サイト「カンフェティ」に、第10回の「神楽坂落語まつり」の記事があります。プロデューサーである古今亭菊之丞師匠と、その時に襲名披露した二代目立花家橘之助師匠(前名・三遊亭小円歌)のインタビューです。
 この中で菊之丞師匠は
「1970年代、今の毘沙門天善国寺の舞台が新設された時に落語の会を始められたのが金馬師匠の勉強会『金馬いななく会』でした。神楽坂落語の原点が金馬師匠なんです」と話しています。
 話の主役である四代目三遊亭金馬師匠(現二代目三遊亭金翁)は、前名の三遊亭小金馬時代にNHKのコメディ番組「お笑い三人組」で大スターになりました。
 番組終了後、タレントではなく落語家として精進するために始めたのが「金馬いななく会」だそうです。新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829には、毘沙門寄席として「金馬いななく会」の案内が写っています。四代目三遊亭金馬師匠は2020年に二代目三遊亭金翁を襲名しています。
「カンフェティ」のインタビューに出てくる立花家橘之助師匠も神楽坂と縁のある人です。学生時代に神楽坂にあった俳優養成所に通っていて、講師にきた三代目三遊亭円歌師匠にスカウトされ、芸の道に入ったことを話しています。
 立花家橘之助の初代は、女優・山田五十鈴の代表作である舞台『たぬき』の主人公です。明治から大正にかけて女流音曲師として圧倒的な人気だったと語り継がれています。その墓所である清隆寺赤城元町1-27にあることも何かの縁でしょう。
 再開後の「神楽坂落語まつり」は善国寺の毘沙門ホールではなく他の会場で開かれています。ホールが狭くて換気に問題があるからと思われますが、「毘沙門寄席」ではなくなってしまったのが残念です。
金馬いななく会 「先代金馬の家の電話番号が1779番でイナナクと読ませていたことによるものだろう」と、大西信行氏の『落語無頼語録』
清隆寺 日蓮宗。本光山清隆寺。

清隆寺。赤城元町1-27にある、全国地価マップから

善國寺(写真)昭和54年 ID 11829-11831

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829~11831は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11831 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿  b」ID 11829 善国寺毘沙門寄席

 善国寺の境内の石囲いには複数の門があります。当時(昭和54年)は神楽坂通りに三門が開いていました。向かって左側が他の店舗などの門(たとえばスゴオ洋菓子店)、中央は本堂に続く正門(ID 11830「神楽坂」とID 11831「毘沙門天」)、右側は庫裏に続く門(ID 11829「善國寺」)です。ちなみに、毘沙門横丁の側、出世稲荷の奥にも別の通用門があります。今は石囲いの一部を壊して駐車場にしていて、アルミの扉になっています。
「神楽坂」の門には「昭和四十六年五月十二日 児玉誉士夫建(之)」と書いてあります。また、本堂の柱には「来る十一日 歳旦初寅祈願会」の告知看板が出ています。なお、歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。賽銭箱には「志納」が書いています。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
 ID 11829 の門柱脇には、蛍光灯のついた常設の「神楽坂毘沙門寄席 月例興行」の案内があります。昭和46年に完成した本堂の1階部分(内陣の下)は「毘沙門ホール」になっています。戦前にもあった寄席の復活の意味で、このホールで定期的に落語の興業がありました。
 撮影時の顔ぶれは「五日六時開演 千円 創作落語会 桂米丸 三遊亭金馬 三遊亭圓歌 林家三平 春風亭柳昇 都合で当分の間 圓右休演」と「廿五日 六時開演 七百圓 金馬いななく会 三遊亭金馬二席他 落語漫才多数助演」でした。
 落語ブームの今では考えられない、かなり豪華な顔ぶれです。なお、林家三平(初代)は1979年(昭和54年)正月に脳溢血で倒れ、翌年にがんで亡くなっています。この落語会に出られたかどうか分かりません。

善國寺(写真)昭和51年 ID 11481

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481は、昭和51年、毘沙門天善國寺やスゴオ洋菓子店仮営業所などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481 神楽坂 善国寺前 スゴオ洋菓子店仮営業所

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建し、昭和46年に今の本堂を建てています。したがって、昭和51年には現在の本堂ができてから5年目になりました。
 左奥には毘沙門横丁という道路があります。車道はアスファルト舗装で、歩道はありません。続けて、側溝、縁石です。
 毘沙門横丁に面して善国寺の脇門があり、大きな鉄枠の門扉が横に開く構造になっています。ここは境内をイベント会場や臨時の駐車場に使う時の入り口です。現在も同じ場所に脇門がありますが、この写真当時より幅が広くなっています。
 境内のスゴオ洋菓子店仮営業所は、ID 9911の竹谷電気工事の仮店舗と同じ建物のようです。続けて利用したのかも知れません。
 スゴオ洋菓子店は4丁目、三菱銀行前にありました。ID 6338(1958年)には古い店舗の看板「純フランス菓子ス(ゴオ)」が見えます。また1977年のTVドラマ「気まぐれ本格派」第10話には新築したビルの1階店舗「洋(菓子) ス(ゴオ) COFFEE」が映っています。この写真の1976年頃は新ビルが完成間近だったと思われます。

楽山旧店舗とスゴオ洋菓子店(後の英和ビル)(TVドラマ「気まぐれ本格派」第10話から。1977年)

 ID 89(1979年)でもスゴオが確認できます。現在はこのビルも取り壊され、隣の楽山と一緒の「楽山ビル」の一部になりました。

神楽坂5丁目(昭和51年)左→右
  1. 電柱1本。上から電柱看板「料亭 松ヶ枝」、蛍光灯、看板「 大久保」、「神楽坂3-7」
  2. 掲示板。上に横書き5文字(ID 8247によれば「新宿区役所」) 、脇に縦書き8文字(「箪笥町特別出張所」か)
  3. 奥に善國寺
  4. 善国寺の脇門。模様はない。
  5. 車両進入禁止マーク。「自転車を除く」
  6. 女性の顔に一見みえるが、多分違う。電気の盤かな?
  7. 石囲いはここで終わり…
  8. 毘沙門天の境内で、スゴオ洋菓子店 仮営業所 洋菓子のスゴオ。店内にはショーケースと化粧箱、右端に人影
  9. 「ゴ」の上に円盤形の境内灯

善國寺(写真)昭和50~51年頃 ID 9909-9911

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909-9911は、昭和50~51年頃、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9910 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9911 善国寺

「昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と善國寺
 戦後の最初の再建は仮堂扱いで毘沙門堂と称し、本格的な再建で本堂が出来たと考えているようです。善国寺は江戸期から「神楽坂の毘沙門様」として知られており、「毘沙門堂」とした方が一般に理解されやすい面もあるでしょう。どちらにせよに本尊は毘沙門天像です。
 1代昔の毘沙門堂は木造でしたが、現在の本堂はコンクリート造です。規模は大きくなり、本尊を安置する内陣は2階になりました。1階は「毘沙門ホール」として会合やイベントに使われます。

毘沙門堂 毘沙門天(多聞天)をまつる堂
本堂 寺院で本尊仏を安置する建物
内陣 本尊仏を安置してある中央部

 本堂の再建と同時期に、境内を囲んでいた石囲いも一新されました。それまでは戦前のもので、1本ずつ寄進者の名が刻まれていました。新しい石囲いは写真でも分かるように、何も刻んでいません。
 境内の本堂前に円盤形の灯りが2灯あります。この時期の神楽坂通りの街灯ととそっくりですが、下部の「神楽坂通り」の四角い照明はありません。ID 8271-8272の建て替え前の境内では、通りの街灯が円盤形になっているのに、本堂前の左右には古い街灯と同じ鈴蘭灯があります。この鈴蘭灯を新しくしたもののようです。現在の境内の灯りは街灯とは違う形になっています。
 ID 9909とID 9911では道路標識の「12-24 駐車禁止」と「歩行者横断禁止」が見えます。これには神楽坂の逆転式一方通行が関係していると思われます。坂下から坂上に向かう12-24は善国寺のある左側に駐車禁止の標識で、0-12は逆側に標識がないといけません。田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02(1984年10月02日)で、反対側の楽山前にある駐車禁止標識が確認できます。
 写真を見ると、のぼり旗「奉献開運大毘沙門 神楽坂」は2つ立っています。さらに「本日 開店 麻雀」もでています。「神楽坂通り」の下には数本の木と竹や笹に似せた人工葉があります。
 ID 9910とID 9911では正門に「神楽坂」と「毘沙門天」、のぼり旗の向こうに石虎が見え、さらに右側に藤棚も見えます。ID 9910のさらに右側に石造りの灯籠(石灯籠)がありますが、現在はなくなっています。
 ID 9911の左側はキリンビールやサッポロビールを積んだトラック、次に電柱広告で「割烹〇〇」「自慢のうぐいす巻 八千代鮨」と読めます。八千代鮨は本多横丁の老舗です。 その奥の「営業所 (竹)谷電気工事 260-682X」は毘沙門天境内にあった仮店舗でしょう。ガラス戸の中には人影も見えます。竹谷電気は神楽坂3丁目にあり、ID 8805-8806(昭和48年)では2階建ての店舗、ID 88(昭和54年)ではビルになっています。現在はファミリーマートやロイヤルホストの入ったビルの一部です。

善国寺(写真)昭和20年代後半 ID 9503

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503は、昭和20年代後半、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建されました。昭和46年に今の本堂を建てています。
 ID 8245は昭和44年(1969年)頃の写真ですが、違いは確かにあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 前の写真(ID 9503)では鴨居の高さを神前幕で覆っています。賽銭箱は同じ場所にありますが、ID 9503では中央に文様がひとつです。
 向かって左側には礎石の上に防火用と思われる水盤があります。屋根の雨樋の降水を受ける位置にあるようです。また「毘沙門天」の石碑の右側は柵で若木を保護しているように見えます。
 ID 8245では賽銭箱は別のもので「奉納 神楽坂振興会」と書いてあります。鈴紐すずのおが垂れ、本坪鈴ほんつぼすずを鳴らすようになっています。
 正面左右には一対の境内灯が立ち、向かって右側に文化財の木札があります。水盤はなくなり、境内灯の足元に撤去した礎石や壊れた石囲いらしきものがまとめて置いてあります。「毘沙門天」の石碑の右側は藤棚になっています。

神楽坂・楽楽散歩と新楽楽散歩

文学と神楽坂


 善國寺の正面の歩道には「神楽坂・楽楽散歩」という地図がありました。下は2013年に撮った地図。おそらく1994年(平成6年)ごろに作成されたと思います。

神楽坂楽楽散歩

神楽坂楽楽散歩。2013年1月。

 以来、特別に見ていなかったのですが、2019年6月、360°パノラマ写真の関係でもう一度見てみると…

楽楽散歩。2019年6月

楽楽散歩。2019年6月

 絵が薄れ、コンクリートにひび割れがはいり、文字も読めない。「神楽坂・楽楽散歩」はまるで見えません。
 しかし、令和2年(2020年)7月、再度新しい神楽坂・新楽楽散歩ができました。下図は大きく拡大できます。

神楽坂・新楽楽散歩

 さらに、以下の地図は、神楽坂地区まちづくりの会の「神楽坂・楽楽散歩」(新宿区都市整備部管理課、平成6年、1994年、新宿区図書館)でした。

神楽坂・楽楽散歩

神楽坂・楽楽散歩

 結局、地図は3個ありました。1つは風雨にさらされ、読めない「神楽坂・楽楽散歩」。2つ目は「神楽坂・楽楽散歩」で、平成6年、神楽坂地区まちづくりの会が作成、新宿区図書館に寄贈したもの。3つ目は令和2年の「神楽坂・新楽楽散歩」です。
 1つ目と2つ目は、よく似ているのですが、大胆にもまた微妙にも違っています(この写真は巨大に拡大することも可能)。だれか原図をもっていないでしょうか? 25年前のものなので、難しい? まあ、だからこそ、令和2年の「神楽坂・楽楽散歩」になったのですね。
 山下さんが描いた別の「楽楽散歩」も見つかりました。ですが、これも神楽坂地区まちづくりの会の「神楽坂・楽楽散歩」と同じものです。
 2つ目の「神楽坂・楽楽散歩」の文章は次の通り。これも1つ目の地図とは少し違っている。

<この地図の使い方>
 この『神楽坂・楽楽散歩』は、神楽坂地区(神楽坂1~6丁目)とその周辺で、歴史的な社寺・特徴的な坂・趣のある横丁など、私たちの暮らしている神楽坂の「まちの魅力」を集めてみました。
 この地図を片手に、まちの魅力の再認識や新たな発見をしてください。

 この地図では、2つの散策コースを設けました。
 「石畳・料亭コース」は、神楽坂通りの北側を歩くコース。石畳の路地や横丁などを巡ります。
 「歴史・文化コース」は、神楽坂通りの南側を歩くコース。歴史的な寺社などを巡ります。
 2つのコースとも、JR飯田橋駅と地下鉄東西線神楽坂駅を結んでいます。どちらの駅から歩き始めてもかまいません。ゆっくり歩いて1時間程で歩けるコースです。
 神楽坂の魅力を味わいながら散策してみてください。コース以外の横丁を歩いてみると、また違った魅力が隠れているかもしれません……。

泉鏡花『神楽坂の唄』

文学と神楽坂

 泉鏡花は大正14(1925)年に「文藝春秋」で「神楽坂の唄」を書いています。すずと所帯を持った思い出深い神楽坂を唄ったものです。町名、坂の名、名所を織り込みながら大正時代の神楽坂情緒を唄いこんでいます。
 さらに昭和38(1963)年には杵屋勝東治師がこの唄に曲をつけ、花柳輔三朗師の振付で、神楽坂の曲として使っています。『ひと里』という曲で、ふだんは最初の2行と最後の5行の歌詞を抜粋して踊ります。
 春から冬まで季節が順次出てきます。意味が分かるように訳しましたが、わからないところがまだまだ沢山あります。変なところ、あればどうか教えて下さい。掛詞が出るところ、五七調、七五調もたくさんあるようです。

(ひと)(さと)は、神樂(かぐら)()けて岩戸町
(たま)も、(いらか)も、(あさ)(がすみ)
(やなぎ)(のき)()(うめ)(かど)
(もゝ)(さくら)()(なら)べ、
江戸川(えどがは)(ちか)(はる)(みづ)山吹(やまぶき)(さと)(とほ)からず。
(つく)()(まつ)(ふぢ)()けば、
ゆかり(きみ)(あふ)ぞぇ

 現代語訳を書いておきます。五七調などの名調子はなくなりました。

神楽を演奏していると、ここ一帯や岩戸町も夜は終わり、明るくなっている。
きれいな宝石も醜い甍も、朝霞にかすんでいる。
軒のはしには柳が見え、門では梅が見える。
春は桃や桜が並ぶ。神田川中流にも遠くない春に、水が流れる。山吹の里も近い。
筑土地域の松もいいし、藤の花は満開で、
つながりがあるあなたに仰ごう。

一里 約4km。この一里を見ると
神楽 かぐら。神をまつる舞楽。
明けて 神楽を演奏していると、神楽坂では夜も終わり、明るくなってくる。
岩戸町 いわとちょう。北部は神楽坂に接し、都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の出入りがあります
 たま。丸い形の美しい石。宝石や真珠など
 いらか。屋根の頂上の部分。屋根に葺いた棟瓦。きれいなもの(玉)もそうでないもの(甍)も
朝霞 あさがすみ 。朝立つ霞。 季語は春。
軒端 のきば。軒のはし。軒口。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。東京都文京区水道・関口の江戸川橋の辺り。
山吹の里 室町時代の武将、太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ります。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつも持ち合わせがないと教わりました。新宿区内には山吹町という地名があり、この伝説の地ではないかといいます。
築土 筑土(つくど)八幡町(はちまんちょう)は、東京都新宿区の町名。
 ふじ、東京で藤の見ごろは4月下旬から5月上旬にかけて。
ゆかり なんらかのかかわりあいや、つながりがある。因縁。血縁関係のある者。親族。縁者
 ここでは敬慕・親愛の情をこめていう語
仰ぐ 尊敬する。敬う
ぞえ 終助詞「ぞ」終助詞と「え」が付いてできる。仰ぐぞ→仰ぐぞえ→仰ぐぜ。注意を促したり念を押したりする。

牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)(くれなゐ)は、(たもと)(つま)ほのめきて、 (こひ)には(こゝろ)あやめ(ぐさ)
ちまき(まゐ)らす(たま)ずさも、
いつそ人目(ひとめ)關口(せきぐち)なれど、
(みなぎ)ばかり(たき)津瀬(つせ)の、(おもひ)(たれ)(さまた)げむ。
蚊帳(かや)にも(かよ)へ、()(ほたる)
(しのぶ)()れよ、(あお)(すだれ)

牡丹屋敷にある牡丹の紅は、袂や裾の両端でもほのかに、香のにおいをしている。恋をするときは物事の道筋を見失うぐらいの恋をしてみたい。
5月、ちまきをあげている使者も、かえって他人の目を気にしているようだ。
あふれるばかりにいっぱいの滝のような急流のように、この思いを妨げる人はいない。
夏、飛ぶ螢は蚊帳の中まで入ってくる。
青竹を細く割って編んだ新しいすだれは、夏、軒下などにつるす忍玉(しのぶだま)と同じで、涼しさがある。
つりしのぶ

荵の忍玉

牡丹屋敷 八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門も一緒に紀伊国(現和歌山県)から出てきたが、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領しました。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷。牡丹の開花は4-5月です。
 くれない。鮮やかな赤色。ほたんの色です
 着物の裾(すそ)の左右両端の部分。
ほのめき ほのかに見える。香る。
あやめ草 あやめ草はサトイモ科の草で、池や溝の周辺に群をなして繁茂する。季語は夏。「文目」(あやめ)は物事の道理、筋道。物の区別。
ちまき 笹の葉で巻き、蒸して作った餠(もち)。端午の節句に食べる。季語は初夏
参らす 献上する。差し上げる
玉ずさ 使者。使
いっそ 予想に反した事を述べるときに用いる。かえって。反対に。
人目 他人の目。世間の人の見る目
関口 東京都文京区の町名で、牛込区(現在は新宿区)と接する
みなぎる 力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる
滝津瀬 たきつせ。滝。滝のような急流。
蚊帳 蚊帳の季語は三夏。陰暦で、4・5・6の夏の3か月。初夏・仲夏・晩夏
 季語は仲夏。夏のなかば。陰暦5月の異称。中夏
 荵はシダ植物。岩や木に着生する。根茎は太く、長く、淡褐色の鱗片を基部に密生する。葉は長柄で根茎につく。根茎を丸めて忍玉(しのぶだま)を作り、夏、軒下などにつるして、その下に風鈴を下げたりし、水をやり涼しさをたのしむ。忍ぶ草。事無草(ことなしぐさ)。
青簾 青竹を細く割って編んだ新しいすだれ

あはぬ(まぶた)()(ゆめ)は、 いつも逢坂(おふさか)軽子坂(かるこざか)
重荷(おもに)(うれ)肴町(さかなまち)
その芝肴(しばざかな)意氣(いき)(はり)は、
たとひ()(なか)(みづ)(そこ)
(ふね)首尾(しゆび)よく揚場(あげば)から、
(きり)(ともし)道行(みちゆき)の、(たがひ)いの姿(すがた)しのべども、
(なび)つるゝ(はぎ)(すすき)
(いろ)(つゆ)()御縁日(ごえんにち)

ここで見た夢はいつも逢坂や軽子坂が出てくる。
肴町だと重荷は新鮮な魚なので嬉しい。
芝浦の海でとれた小魚は意地を張っている。たとえ火の中でも、水の底でも。
小魚を船で揚場から首尾よく手に入れた。霧の灯に旅行し、お互いを思い出す。
秋になり、萩や薄は、なびいているが、まだその場にいる。露がある御縁日になった。

あはぬ あわない。合っていない。どうしても瞼が開いてしまうが
逢坂 市谷船河原町にある急坂で、下から上に向かう神楽坂では左側
軽子坂 新宿区揚場町と神楽坂二丁目との比較的に緩徐な坂。下から上に向かう神楽坂では右側。
肴町 神楽坂5丁目の以前の名称
芝肴 しばざかな。芝魚。芝肴。江戸の芝浦あたりの海でとれた小魚で、新鮮で美味とされた。
意気張 遊女が意気地を張り通すこと
揚場 船荷を陸揚げする場所。揚場町もある。
 「ともし」と読む。意味は「ともしび」
道行 旅すること
しのぶ つらいことをがまんする。じっとこらえる。耐える
靡き なびくこと。「靡く」とは「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く。他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する。女性が男性に言い寄られて承知する。
つるる つるの連用形か。「吊る」は「物にかけて下げる。高くかけ渡す」。「釣る」は「釣り針で魚をとる。巧みに人を誘う」。 「攣る」は「筋肉がひきつって痛む」。
萩薄 萩(はぎ)と薄(すすき)。萩の季語は初秋、薄の季語は三秋(秋季の3か月で、初秋、仲秋、晩秋。陰暦の7、8、9月)
 つゆ。空気中の水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。季語は三秋。陰暦の7、8、9月
添う そう。そばを離れずにいる。ぴったりつく
御縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すれば特に御利益があると信じられている

毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
(むす)ぼる(むね)(しも)とけて、
(そら)小春(こはる)若宮(わかみや)に、
(かり)(つばさ)かげひなた
比翼(ひよく)(もん)こそ(うれ)しけれ。

毘沙門様は守り神。毘沙門様は守り神。
冬になると結んだ胸にある霜もとけてくる。
空も11月頃の小春で、若宮町に広がる。
雁の翼は、うらおもて。
比翼の紋(相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋)になるのは本当に嬉しい。

毘沙門 びしゃもん。「神楽坂の毘沙門さま」で親しまれている。福や財をもたらす開運厄除けのお寺
 しも。0℃以下に冷えた物体の表面水蒸気が固体化し、氷の結晶として堆積したもの
小春 こはる。陰暦10月のこと。現在の太陽暦では11月頃に相当し、この頃の陽気が春に似ているため、こう呼ばれるようになった
若宮 地域北部は神楽坂地域に接し、若宮八幡神社があります
かげひなた 日の当たらない所と日の当たる所。2人の見ている所と見ていない所とで言動が変わること。人の見る、見ないによって言葉や態度の変わること。うらおもて。
比翼の紋 ひよくのもん。比翼紋。相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋。二つ紋。

善国寺|毘沙門天

文学と神楽坂


善國寺

 善國寺ぜんこくじです。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。

 この前に標柱があります。

かぐざか
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

となっています。詳しくはここで

 では中に入ると……

 善國寺毘沙門天(びしゃもんてん)です。別名を多聞(たもん)天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。

 明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。

 昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。

 1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。

 文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。

「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。ema 『続日本紀』には神の乗り物、(しん/じん)()を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。

 木柾もくしょうを叩いて読経します。

「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足(むかで)ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。

 中を読むと

 往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足(むかで)と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。

ひめ小判

 小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は

神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺

と書いてあります。
 さらにひめこばんについて、まとめてみました。

児玉誉士夫建之

山門の右側の柱に「児玉誉士夫建之」

 ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
  昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。

 もう一つは境内のトイレのそばで
 ○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主

とかかれた慰霊塔の
 昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫

と書いてありました。

ireihi

 家畜慰霊碑は

東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部

と書いてあります。

浄行菩薩jpg 本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。

 またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
 また書院では隔月で落語をやっています。
拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では

毘沙門前
   通りをつっ切り境内へ入る一平。


毘沙門に

 最後に下図は1993年の神楽坂。

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)