外堀通り」タグアーカイブ

再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

地価

神田千代田区神田須田町一丁目26番2513万
日本橋中央区日本橋3-11-1817万
銀座中央区銀座4-5-65770万
虎ノ門港区虎ノ門1-15-161050万
赤坂港区赤坂4-1-30540万
四谷新宿区四谷1丁目9番2外554万
神楽坂新宿区神楽坂2丁目12番18287万
後楽文京区後楽1-4-18305万
本郷 文京区本郷3-39-4220万
湯島文京区湯島3-39-10413万

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


道路通称名

文学と神楽坂

地元の方からです

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り外堀通りでしょう。

都道

早稲田通り 千代田区九段北の靖国通り(田安門交差点)から西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草の青梅街道(井草八幡前交差点)に至る。
大久保通り 新宿区飯田橋(飯田橋交差点)から新宿区百人町、中野区中野などを経由し、杉並区高円寺南(大久保通り入口交差点)に至る。
外堀通り 東京駅八重洲口の中央区八重洲二丁目が起終点。全線が都道405号外濠環状線になる。

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。

鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候

この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂


 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

神楽小路の池

文学と神楽坂

「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏号(1998年)で、林功幸氏(今はない「巴有吾有」オーナー)は

 昔は、いまのギンレイホールの隣のビルのあるあたりは湿地帯で、きれいな湧水の池があった。

と簡単に書いています。
 同じく『神楽坂まちの手帖』第4号「軽子坂」で米倉智子氏は
 戦争で、神楽坂は丸焼けになる。そのころ、このあたりは、野っ原であった。キンレイホールのビルもその先のビル群も当然になく、代りに池があったのである。それは、こどもらのかっこうの遊び場たった。私はこの池でカエルをとり、やごをつかまえ、みずかまきり、げんごろう、たいこうちなどの水生昆虫に夢中になった。ぎんやんまもおにやんまも、この池をかすめとんでいた。
 平成18年(2006年)『神楽坂まちの手帖』12号「津久戸小学校(昭和31年度、佐藤学級)ミニ同窓会」では

平松 神楽小路に池がありましたよね。
土屋 ありましたね。池の左側が細長い崖みたいになってて。
上田 あの辺り、二、三年生の頃は原っぱでね。
平松 それで真ん中に池があって、よくそこでザリガニ釣ったのを覚えてますよ。
上田 釣りはやりましたね。
平松 あれは、どのくらい広い池でした?
上田 子供の頃は随分大きいような気がしたけどね。あれは佐久間さんのお屋敷(注)にあった池じやないかな。湧き水かなにかで、小川みたいにギンレイホールの方まで流れて行ってて。
平松 飯田壕まで流れてたんですか?
土屋 外堀通りには流れてなかったですね。あそこはもう車が通ってたから。
上田 どうだったかな。五、六年生の頃はもう、神楽小路になってて、トリスバーとか小柳ダンス教室とかあって。
平松 ありましたね、小柳ダンス教室。
上田 俺、大学生の頃にちょっと通ってた(笑)。

注。軽子坂を上がった左手。現在中央ビルになっている所にあったお屋敷

神楽坂30年代地図

神楽坂30年代地図

 たしかに池はありそうです。では、年代ごとに見ていきましょう。 最初は、江戸時代です。嘉永5年(1852年)の「当時の形」では桃色の線が将来の「神楽小路」です。でも「神楽小路」はなく、あっても垣根ぐらいでしょう。池もなく、「佐久間さんのお屋敷」には「塩谷大四郎」が住んでいました。

1852年の当時之形

1852年の当時之形。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

 次は昭和12年「火災保険特殊地図」です。昭和初期で、戦前です。将来の「佐久間さんのお屋敷」を見ると、普通の家が並んでいます。この時も、池はありそうではありません。

昭和12年「火災保険特殊地図」

昭和12年「火災保険特殊地図」

 次は昭和27年の「火災保険特殊地図」です。これは戦後で、2丁目の18番地と17番地には何も建っていません。原っぱなのでしょう。これは上の対談者たちが小学校2年生になっていた時期です。この場所で、おそらく低くなった真ん中に、池があったのでしょう。「神楽小路」の名称もこの時期からつくようになりました。 昭和38年(1963年)の住宅地図になると「佐久間さんのお屋敷」がでてきます。上の対談者たちは19歳になり、当然ながら、池はなくなっています。

 最後に1990年の住宅地図です。まだ「佐久間さんのお屋敷」は残っていますが、その後、2000年以前に中央ビルになりました。

1990住宅地図

1990住宅地図

 ここで名前の「佐久間裕三」が出てきます。これは平成16年、81歳で亡くなった方で、昭和28(1953)年、学習院大学法学部正治科卒業。大日本図書に入社し、昭和45(1970)年に社長。また、祖父は佐久間貞一氏で、秀英舎を創立し、大日本図書と大日本印刷の創業者です。2代目の佐久間長吉郎氏も大日本図書と大日本印刷社長。地元の大地主でした。


神楽坂1丁目 神楽坂下

文学と神楽坂

 神楽坂を神楽坂通りの向かい側から見ています。交差点は「神楽坂下」です。1980年代初頭までは「牛込見附」という名称の交差点でした。
 南北(横)の道路は「外堀通り」です。 東西(縦)の道路は「神楽坂通り」、あるいは「早稲田通り」です。神楽坂下の標高は6m。ここを真っ直ぐに上がっていくのが「神楽坂」で、現在は「神楽坂1丁目」。かつては「神楽一丁目」でした。神楽坂下
 その前に左を見ると、スターバックスが見えます。(前にはパチンコ店でした)。さらに昔(江戸時代)のスターバックスは牛込「牡丹屋敷」でした。道路の右側に神楽坂の標柱があります。神楽坂のいわれを書いたものです。神楽坂

かぐざか  坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
平成14年3月 新宿区教育委員会

 これ以外にも諸説があります。
 ほかには全部のお店を描いたものがあり、これはインターネットでもでています。http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2017.pdf

 江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で

 神楽坂1丁目 これは戦後の改称であって戦前は神楽町1丁目と称していた。現在では外濠の電車も取払われて,牛込橋を下って神楽坂を上る両側坂口が1丁目となっている。右端軽子坂より左は庾嶺坂まで1丁目である。江戸時代此の辺は片側町屋で、坂の右側は武家地であった。嘉永切図を見ても分る通り、右角松平祐之亟、その上近藤儀八郎、国領正太郎の屋敷があって、右へ曲って新小川町の通りとなる。軽子坂の上を新小川町へ下ると此処が三年坂又は三念坂という。だが1丁目は薄っぺらな町で三念坂の通りは今2丁目になっている。1丁目、坂の入口の左側の角には牡丹屋敷があった。そのあとに戦前は本所亀沢町で有名な最中を売っていた寿徳庵の支店があったが戦後はない。

 石黒敬章氏が編集した『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)では

牛込神楽坂。明治35~39年頃。

【牛込神楽坂】
 元来急坂だったものが明治10年代後半になだらかに改修され、以後賑わい始めたという。特に明治末から大正の神楽坂は、花街と毘沙門天の縁日で繁栄を謳歌した。にもかかわらず、当時の写真はほとんどない。これは牛込見附(現飯田橋駅西口付近)より写したもの。手前は外堀通り。明治35~39年頃。

神楽坂1丁目

 平成14年(2002年)、電線はなくなりました。

神楽坂上を見て左側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
陶仙亭中華田口屋花屋
東京堂洋品炭火串焼やき龍三経第22ビル
須田町食堂翁庵 そば會田ビル
翁庵 そば清水貸衣裳モスバーガー 神楽坂下店
伊勢屋乾物
空き家エイブル 飯田橋店
畔柳氷店
壽徳庵ニューパリースターバックス コーヒー

神楽坂上を見て右側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
紀の善寿司紀の善甘味
小間物 みどりや不二家洋菓子
斎藤洋品店地下鉄
山田屋文具のレン
萩原傘店薬ヒグチ
田中謄写堂カレーボナッ
赤井足袋店カフェベーカリー
ル・レーブ
アパマンショップ