外濠公園」タグアーカイブ

牛込門・牛込駅周辺の変遷|史跡パネル④

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル④は「牛込門・牛込駅周辺の変遷」です。写真3枚と図2枚を掲載し、日本語と英語で解説しています。

牛込門・牛込駅周辺の変遷

牛込うしごめもん・牛込駅周辺の変遷
The Transition of Usigome-mon Gate and Ushigome Station Areas

 外堀そとぼりは、1660(まん3)年、牛込・和泉いずみばし間の堀さらいが行われ、外堀(神田川)をさかのぼって、牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸かしができました。牛込橋東側の堀端ほりばたには、あげちょうの「町方まちかたあげ」と御三家のひとつである「わり様物さまぶつ揚場」があり、山の手の武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶかるが、「軽子坂」を往来したといわれています。
 牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国ぜんこく沙門しゃもんてん)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町屋が建ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。
 明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡がげいおきや料亭となり、神楽かぐらざか花街はなまちが形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが建てられました。
 牛込土橋東側の堀は、1984(昭和59)年、再開発事業により暗渠あんきょとなり、現在に至っています。また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・くいちがい間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公園として歴史的ふうが保全されています。
和泉橋 千代田区神田を流れる神田川にかかり神田駅に近く昭和通りの橋。。
堀さらい 水路清掃のため堀の土砂・ごみなどを取り除くこと
河岸 江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の港
堀端 堀のほとり。堀の岸
町方揚場 「町方」は江戸時代の用語で,村方・山方・浦方などの地方(じかた)や、武家方・寺社方に対する語。「揚場」とは船荷を陸揚げする場所。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んでもっこのようにつくったかると呼ばれる運搬具を用いた。
毘沙門天 多聞天。サンスクリット名はVaiśravaṇa。仏法を守護する天部の神。
寺町 寺院が集中して配置された地域。寺院や墓地を市街の外縁にまとめ、敵襲に際して防衛線とする意図があった。
芸妓置屋 芸妓を抱えておく家。揚屋、茶屋、料亭などの迎えに応じて芸妓の斡旋を業とする。置屋。
花街 はなまち。かがい。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。
暗渠 地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路。暗溝。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


土塁 どるい。敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁

喰違 喰違見附。江戸城外郭門で唯一の土塁の虎口(城郭の出入り口)。紀尾井ホールの筋向かいにある。
土手公園 昭和2年8月31日「東京市立土手公園」として開園。当初は新見附から牛込見附までの長さ300間(約550m)(大日本山林会報)の公園だった。
外濠公園 昭和7年12月17日、「土手公園」を「外濠公園」と改称。(都市計画東京地方委員会議事速記録)。区域も変更し、牛込見附から赤坂見附までの細長い公園に。現在は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までに。
風致 自然の風景などのもつおもむき。味わい。

 In 1660, the section of the outer moat located between Ushigome-bashi and Izumi Bridges was dredged. This made it possible for boats to travel up the outer moat (Kanda River) to Ushigome-bashi Bridge. In addition, banks were constructed on both sides of the Kanda River. The bankside area on the eastern side of Ushigome-mon Bridge was home to the Agebachō neighborhood’s “community landing,” and “the Owari House Landing,” which was controlled by the Owari, one of the three branches of the Tokugawa clan. Both sites were used to offload arriving cargo. Porters transporting firewood and charcoal to warrior estates and commoner neighborhoods in the Edo’s Yamanote area are said to have traveled from these moat-side landings up an incline known as Hill of Karuko.
 Entering the castle grounds from Ushigome-mon Gate, warrior estates lined the street. The area located at the foot of Zenkoku Temple between the moat banks and present-day Kagurazaka was home to warrior estates and, on the Waseda side, there were Buddhist temples. Commoner residences lined the space in front of the temple gates and the area emerged as one of Edo’s most bustling sites.
 Entering the Meiji period, unoccupied former warrior estates outside the castle walls on the Shinjuku Ward side came to host restaurants and establishments employing geisha entertainers and courtesans. This led to the establishment of the Kagurazaka pleasure quarter. In contrast, schools and other institutions were constructed on the grounds of abandoned warrior estates inside the castle wall on the Chiyoda Ward side.
 In 1984, the moat on the eastern side of Ushigome-bashi Bridge was enclosed in conjunction with a local reedevelopment project. It remains covered today. In addition, in 1911, the government presented a plan to transform the portions of the moat embankment in the vicinity of Ushigome-mon Gate that survived the construction of the railroads into a public park and preserve remaining portions of the outer moat between Ushigome and Kuichigai as a pedestrian walkway. This resulted in the creation of Tokyo Dote City Park, which was founded in 1927. Even today, historic landscapes located inside the area officially designated as a national heritage site have been preserved in the form of Sotobori Park.

図 牛込神楽坂
画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。

図 牛込揚場(江戸土産)
牛込御門外北の方 ふね原橋わらばしより南のかたちょう第宅ていたくのきを並べ 東南の方は御堀にて材木および米噌はさらなり 酒醤油始め諸色を載てここに集へり 船丘をなせり 故に揚場名は負けらし これより四谷赤坂辺まで運送す 因てこの所の繁華山の手第一とせり

写真 1905年頃の神楽坂下

牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

写真 1959年の神楽坂下
神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち(やらせ? 他にも色々な論争が発生しています)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

写真 牛込濠の桜

鉄道写真と飛行機写真の撮影紀 トーキョー春爛漫

牛込駅|史跡パネル②

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル②は「牛込駅」です。写真は6枚、図は2枚、コンピューターグラフィックス(CG)1枚で、日本語と英語で解説しています。

牛込駅

牛込うしごめえき
Ushigome Station

 1894(明治27)年10月9日にとう鉄道てつどうがいせんの新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が開業しました。この牛込駅は翌年4月3日のいい町駅まちえき開業までのわずか半年の間ですが、甲武鉄道の始発駅として活躍していました。
 牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあたりとなります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線快速のあたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。
 駅の改札口は現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、駅のこ線橋から階段で土手どてを上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。その駅舎脇にあった土手の擁壁ようへきが現在でも外濠そとぼり公園こうえん入口の付近にそのままの姿で残っています。一方新宿区側は、牛込見附のばしの脇を埋め立てて道路が塾備され、せきの水路付近に設置された小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
2方向に 正しくは、当初は新宿区側の出口だけで、遅れて跨線橋と千代田区側の出口が出現。(註:牛込駅の通路新設
こ線橋 跨線橋。こせんきょう。鉄道線路の上をまたぐような形で架けた橋。渡線橋。
擁壁 土圧に抵抗して土の崩壊を防止する土止め壁。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 川を横切って流水をせき止める施設。水を取るため、また、水深・流量の調節のため、川の途中や流出口などに設けて流水をせき止める構造物

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

  Ushigome Station opened on October 9, 1894, the same day that Kōbu Railway initiated service between Shinjuku and Ushigome Stations. Before Iidama-chi Station opened on April 3, 1895, Ushigome Station served as the starting station on the Kōbu Line.
  Ushigome Station was located on the portion of present-day Iidbashi Station that extends from Ushigome Bridge in the direction of Ichigaya Station. At the time, portions of the outer moat were reclaimed in order to construct the station house and train tracks. Ushigome Station’s platform was located on the site currently occupied the JR Chuo Rapid Transit Line. In addition, the station house was constructed on the site currently occupied by the JR Chuo and Sobu Local Lines.
  Ushigome Station had two ticket gates. One was located on the present-day Shinjuku Ward side and the other was located on the Chiyoda Ward side. The gate building on the Chiyoda Ward side was constructed facing the road alongside the outer moat’s embankment and could be accessed by a staircase that rose from the Station’s rail bridge and climbed the embankment. A retaining wall from a section of the embankment next to the station house remains in place today in the vicinity of the entrance to Sotobori Park.
  On the Shinjuku Ward side, a road was constructed on land reclaimed from alongside Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Thereafter, Ushigome Station could be reached via a small pedestrian bridge, which was erected near the aqueduct attached to Ushigome-mon Gate’s weir. Today, portions of the foundation that supported the pedestrian bridge remain in place and are visible from Iidabashi Station’s platform and atop Ushigome Bridge.

牛込駅と土橋

 上と同じような写真はありませんが、ただし、三井住友トラスト不動産の写真「牛込駅」の開業が似ています。説明では「写真は明治後期~大正期の撮影で、手前が『牛込駅』の駅舎、その北(写真では上)に『牛込濠』が広がり、その先が『神楽坂』の入口となる。『牛込駅』から『神楽坂』の入口までは『牛込見附』の坂の隣に通路・橋が設けられており、坂を通らないで行き来することができた」

「牛込駅」の開業。三井住友トラスト不動産

 手前の駅舎と牛込濠の間にある立派な瓦屋根の建物は本屋でした。

牛込駅のCG

牛込駅見取り図

牛込駅駅舎

① 写真 牛込駅駅舎

牛込駅。法政大学専門部商科卒業アルバム(1929年3月)所載。牛込駅は1928年11月廃止。HOSEIミュージアム。

写真 現在の牛込駅駅舎跡

現在の牛込駅駅舎跡

2024/09/02の牛込駅駅舎跡

②写真 現在の外濠公園入口

現在の外濠公園入口

2024/09/02の外濠公園入口

牛込駅

③図 跨線橋立体図

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

④写真 関東大震災直後の牛込駅

関東大震災直後の牛込駅

 国立映画アーカイブで、上の「駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族」(映画)が残っています。キャプションは「被災した牛込駅や焼失した車両とともに、無蓋貨車に避難した一家の中に、幼少期の三木鶏郎の姿が写っている」。ひらがなの「うしごめ」の後ろで倒れた家は本屋でしょう。牛込濠の向こう側にある牛込区の建物は無傷に見えます。
 映画の「地割れした牛込駅前の道」のキャプションは「牛込駅とその手前の道に発生した地割れの様子。当時中央本線の駅舎は万世橋駅(煉瓦造)を除いて木造であったが、牛込駅付近は火災を逃れ、駅舎についても焼失ではなく倒壊の被害が報告された」。倒れた本屋が写っています。新宿区側(連絡橋付近)から見た牛込駅です。

⑤写真 連絡橋レンガ擁壁遺構

連絡橋レンガ擁壁遺構

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」(1972年)の「首都圏の鉄道と駅の写真」「駅市谷側」には連絡橋があり、実際に使われていたようです。ただし、この橋は橋脚よりかなり幅が狭く、おそらく牛込駅の現役時代には、もっと幅の広い橋が架けられていて、戦災で橋は焼失し、戦後に管理用の橋が架けられたのでしょう。

 また、「ひとりごと 主に鉄道工事現場・車両改造を観察した内容を紹介するページJR飯田橋駅改良工事(その26)の最後に「余談ですが、濠にちょっと出っ張った部分があります。旧牛込駅の連絡橋の擁壁遺構なのだそうです。草むらで覆われていますがよく見るとレンガ造りの遺構が見えます」と書かれています。

JR飯田橋駅改良工事

JR飯田橋駅改良工事

江戸城外堀跡の案内図|史跡解説板5

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 西口駅舎1階の歩行者空間にある「遺構巡り」は「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」と「江戸城外堀跡 散策案内図」です。

江戸城外堀跡

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡 散策案内図
Edo Castle’s Outer Moat Walking Map

 この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。

大木戸 おおきど。大きな城門。近世、国境や都市の出入り口に設けた関門。
墨引図 「御府内」とは朱引で表し、江戸時代「江戸の市域」のこと。朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、墨引で示された範囲は「町奉行所支配の範囲」

 These two maps indicate the location of historical sites in the vicinity of Iidabachi and Yotsuya Stations. The sites offer vital insights about Tokyo’s history from the early modern to the modern period.
 The map on the left traces the path of early modem Japan’s “Five Routes,” which radiated out in all directions from central Edo’s Nihon-bashi Bridge, and indicates the location of the city’s entrance gates and post stations on its periphery.
 The second map is a jurisdictional map indicating the territories under the authority of the Edo City Governor. It shows that areas inside the Yamanate Line comprised the city center and that the city area extended over a vast space that stretched far east as present-day Kinshicho Station.

江戸城外堀跡周辺案内図

 小さな小さな文字です。でも、神楽坂に関係するものは多くはありません。

神楽坂界隈(Kagurazaka District)江戸時代に武家や神社の街として作られましたが、明治期に料亭に利用され、今も江戸以来の路地が残されています。
善国寺(Zenkoku Temple)1595(文禄4)年に馬喰町で創建、麹町を経て1793(寛政5)年に現在地へ移転しました。神楽坂の毘沙門さまです。
牛込門跡(The Remains of Ushigome-mon Gate)1636(寛永13)年に作られた江戸城外郭門の1つで、1902(明治35)年に大部分が撤去されましたが、現在でも石垣が良好に保存されています。
外濠公園(Sotobori Park)1927(昭和2)年に外堀を埋め立てることにより、土手公園を開設。グランドなどに利用されています。
田安門(Tayasu-mon Gate)上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点で、1620(元和6)年に完成しました。高麗門は江戸城に残る最も古い建築物です。
市谷亀岡八幡宮(Ichigaya’s Kamegaoka Hachiman Shrine)江戸城の鎮守として1479(文明11)に建てられましたが、外堀築造で現地に移転しました。江戸名所として多くの錦絵に描かれました。
江戸歴史博物館(Shinjuku Historical Museum)旧石器、縄文時代等の遺跡から江戸時代の暮らし、明治以降の発展まで新宿区の歴史を紹介しています。
江戸歴史散歩コーナー 東京メトロ市ヶ谷駅構内(Exhibit: Walking Edo’s History/Ichigaya Metro Station Concourse)地下鉄工事で発掘された江戸城の遺構や外堀機築技術が紹介されています。
江戸城外堀跡史跡展示広場(Edo Castle Outer Moat History Plaza)外堀及び四ツ谷駅周辺の歴史を四ツ谷駅構内の展示広場で紹介しています。
市谷門跡(The Remains of Ichigaya-mon)1639(寛永16)年に完成した江戸城外郭門で、1913(大正2)年に石垣撤去され、現在は土橋の石垣のみが残っています。
コモレ四谷(CO・MO・RE YOTSUYA)四谷地域の歴史を紹介する解説版が設置されています。
四谷門跡(The Remains of Yotsuya-mon)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。1903(明治36)年に大部分は撤去され、現在枡形石垣の一部が残っています。
心法寺(Shimpo Temple)心法寺は1597(慶長2)年に創建され、一部が千代田区の文化財に指定されています。
四谷大木戸と水道碑(Totsuya Gateway and Tamagawa Aqueduct Commemorative Monuments)江戸への人や物の出入りを監視するため江戸初期に設置されました。玉川上水の碑とともに大木戸の記念碑が残っています。
四谷見附橋(Yotsuya-mistuke-bashi Bridge)1913(大正2)年に東宮御所(迎賓館)にあわせネオバロック調の意匠で架橋されました。1991(平成3)年現在の橋に架け替えられました。
須賀神社(Suga Shrine)1634(寛永11)年に江戸城外堀が造られた際に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)から移転された稲荷神社が起源で、のちに神田明神の牛頭天王が合祀されました。
外堀普請で移転した寺院(Temples Relocated in Conjunction witk Outer Moat’s Construction)江戸城外堀の工事に伴い寺院が四谷地域に移転し、現在もこの地域に多く立地しています。
御所隧道(Gosho Tunnel)1894(明治27)年に開通した甲武鉄道のトンネルで、東宮御所(現在の迎賓館)を通過することから名が付けられました。現在も利用されています。
喰違(The Remains of Kuichigai Gate)外堀で唯一土塁を組み合わさせた門で、1612(慶長17)年に完成しました。現在も原形を確認できます。
赤坂門跡(The Remains of Akasaa-mon Gate)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。石垣は一部現存し、福岡黒田家の刻印がみられます。

飯田橋周辺案内図

牛込駅(千代田区側)駅舎跡

牛込駅(千代田区側)駅舎跡
 甲武鉄道時代、ここには牛込駅の出入口がありました。
 現在でも、当時作られた駅舎の左右にあった石積み擁壁がそのまま残されており、見ることができます。
The Remains of Ushigome Station
石積み擁壁 高低差のある土地で土砂崩れを防ぐために設置し、石を積んだ壁。

牛込門枡形石垣跡の舗装表示
 かって牛込門の枡形石垣があった位置が自然石舗装で表現されており、その大きさを体感することができます。
Remnants of Ushigome-mon Gate’s Stone Walls
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。

石に刻まれた印

石に刻まれた印
 かつて牛込門の枡形石垣を構成していた石垣石が移設展示されています。
 枡形石垣の整備を担当した徳島藩蜂須賀阿波守の刻印とみられるものが確認できます。
Inscriptions on the Stone

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡散策案内図

散策モデルルート
Aルート:「外堀散策ルート」Edo Castle’s Outer Moat
周囲14kmの江戸城外堀を史跡中心に巡ります。
This walk visits heritage sites along the outer moat’s 14-kilometer periphery
Bルート:「江戸城内ルート」Edo Castle
牛込門から北の丸の田安門を経て旧江戸城本丸跡を巡ります。
Departing from Ushigome-mon Gate, this walk passes through the Northern Citadel’s Tayasu-mon Gate before visiting the remains of Edo Castle’s Inner Citadel.
Cルート:「外堀水辺散策ルート」The Outer Moat Riverside Walk
神田川と日本橋川にある鉄道遺産などを巡ります。
This route visits sites along the Kanda and Nihonbashi Rivers relates to local railroad development.

牛込濠(写真)新見附橋から ID 6898 昭和27年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898 外堀飯田橋付近 日仏学院、東京理科大学

 このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
 国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
 おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
 建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
 さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
 写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。

牛込濠(写真)日仏学院、昭和27年 ID 14743, 14744

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から牛込濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4795 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4796 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

 昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
 昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
 写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
 濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。

 その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました

 写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
 右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。

牛込濠(写真)昭和45年 ID13108-15

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13108 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13109 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13110 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13111 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13112 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13113外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13114外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13115 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

 この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。

外堀通り・解説

 写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
 この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
 外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。

美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。

http://toeibus.com/wp-content/uploads/2017/01/da658f58c676c090be7454023a3ba4ef.jpg

  1. 双葉ビル(双葉社)か?
  2. 東京理科大学7号館
  3. 東京理科大学3号館
  4. 東京理科大学1号館
    ーーーー若宮公園に上がる坂
  5. 研究社旧館
  6. 研究社新館
  7. 菱屋ビルか?
  8. 三幸工業
  9. 三幸工業
    ーーーー庾嶺坂。ここから船河原町
  10. 塩原ホテル 寿苑 東京
  11. 家の光会館
  12. スナックベルなど
  13. 個人宅
    ーーーーここは逢坂
  14. 丸谷石油(ガソリンスタンド)
  15. 尾形伊之助商店
  16. 日仏学院
  17. 教育図書
  18. 軽自動車工業
  19. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  20. 神田印刷
  21. 東京理科大学体育館

住宅地図。1973年