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牛込御門橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋 生きている江戸の歴史」(昭和52年、新人物往来社)の「牛込御門橋」です。

 牛込御門橋(うしごめごもんばし) 千代田区富士見二丁目から新宿区神楽坂一丁目に架された外濠の廓門橋で、府内備考には「牛込御門 正保御国絵図には牛込口と記す。蜂須賀系譜に、阿波守忠英寛永13年命をうけ、牛込御門石垣升形を造る」とあり、「この時建てられしならん。新見某が随筆に、昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂やり、須田久左衛門のならびの屋蚊を番町方といい、牛込方は小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築五右衛門などの並びを牛込方という。その間道はば百間にあまりしゆえ、牛込と番町の間ことの外広く、草茂りしとなり。その後牛込、市谷の御門は出来たり。」とある。この外濠は牛込見附の南側までは赤坂溜池の水をみちびき、北側は飯田橋の方から江戸川の流れをみちびいたので、この見附門の両側は水位に高低があったが、現在でもよく見るとその様子がわかるのである。牛込御門にかかる橋は土橋で廓門当時の石組の跡は千代田区側の橋畔にわずかに残っている。警備については、万治2年(1659)に旗本寄合の渡辺清綱、高力正房の両名が任命され、正徳3年(1713)にいたり万石以下三千石以上の寄合担当と定まり、また小日向通音羽町辺の出火の節は、方角火消詰所を御門内に設ける例となっていた。明治5年に渡櫓の払下げ撤去が行われ、門構えだけが残されたが、それも同35年に取払われた。現橋は鉄筋コンクリート桁長35.61メートル、幅11メートル。
  牛込の見附のやなぎ雨ふるに似たるしづれもよしと歌えり
               金子薫幽
  送りゆく牛込見附の青あらしが夏服を吹きてすずしも
               同  前
  ざわめける夜の神楽坂を下り来て見らくとうとき見附の桜
               岡山 巌
廓門 郭門。かくもん。城の外郭の門。外囲いの門
府内備考 三島政行編『御府内備考』第1(巻1至24)(大日本地誌大系刊行会、大正3年、国立国会図書館デジタルコレクション)の牛込御門では…
     牛込御門
【正保御国絵図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英 寛永13年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が随筆】に昔に牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血須・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といい、牛込方は小栗半左衛門・間宮七郎兵衛・都築又右衛門などの並びを牛込方という。其間道はば百間にあまりしゆえ、牛込と番町の間ことの外広く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。

牛込見附址(「麹町区史」から)

正保御国絵図 しょうほうくにえず。江戸幕府が、諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図。明治6年、皇城火災により消失。
蜂須賀 蜂須賀正勝が羽柴秀吉に仕えて大名となり、1585年に阿波国徳島を与えられその領地に入る。江戸時代にも徳島藩25万石の藩主を世襲し、維新後には華族の侯爵家に列した。
阿波守忠英 阿波徳島藩の第2代藩主。

徳島藩は阿波と淡路両国を領した大藩

寛永13年 1636年
升形 枡形。ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
新見 新見正朝氏の書いた「八十翁疇昔話」(天保8年=1837年)でしょうか。

むかしは牛込の堀無之。四番町、長坂血鑓、須田久左衛門抔の屋敷並び、番町方といひ、牛込方は、小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築又右衛門抔の並び、牛込方と申す。其間の道巾、百間余有之、草茂り、毎度辻切有之、其後、丸茂五郎兵衛、中根九郎兵衛などと申す小十人衆に、小栗、間宮が前にて、屋敷被之、鈴木二郎右衛門、松原所左衛門、小林善太夫抔へ通り、一谷田町まで取付くゆゑ、七十四間の道巾に成る。其後、牛込御門、一谷御門出来るなり。

番町方 牛込方 牛込門の建築以前を参照。
百間 1間が1.81mで、百間は181m。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


橋畔 きょうはん。橋のほとり。橋のたもと。橋頭
赤坂溜池 用水を溜めておく人工の池。

景山致恭ら編『〔江戸切絵図〕赤坂絵図』(尾張屋清七、1849−1862) 国立国会図書館デジタルコレクション。

水位に高低があった

見附の水位が違う

警備について 昭和10年の「麹町区史」では……

 警備に就ては万治二年(1659)の昔、8月26日と言うに発表された外郭門衛の制に、寄合渡辺半三郎清綱、同高力左京正房の下に侍2人足軽仲間各5人を附け、棒5本 サスマタ1本 ツクボウ1本 長柄5本を備えて守らせたのをはじめとし、正徳3年(1713年)4月には、大体に於て外郭門は万石未満三千石以上の寄合担当と決定し、後年には鉄砲5挺 弓3張 長柄5筋 持筒2挺 持弓1組を備えて、万石以下三千石高勤番3ヶ年間、番士3人を置いて羽織袴を着用せしめた。小日向通音羽町辺出火の節は、方角火消詰所を門内に設ける例であった。

方角火消 正徳2年(1712)に制度化。江戸城を中心に5区に分けて担当の大名を決め、その方角に火災が発生すれば出動した。
渡櫓の払下げ撤去 渡櫓(わたりやぐら)とは、左右の石垣の上に渡して建てられた櫓。昭和10年の「麹町区史」では……
 明治5年(1872)4月15日に牛込門渡櫓の払下げが発表になり、24日迄に辰之口なる土木寮出張所へ希望者の申出を布令した。かくて8月23日から着手し9月6日に終了した。撤却は同35年である。

しずれ しずること。木の枝などに積もった雪が落ちること。また、その雪。しずれ
青あらし あおあらし。青嵐。初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風。せいらん
ざわめける ざわめく。ざわざわと騒がしいようすになる。
とうとき とうとい。尊い。貴い。崇高で近寄りがたい。神聖である。高貴である

石切橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「石切橋」からです。

石切橋(いしきりばし) 新宿区水道町から文京区水道二丁目に渡す江戸川の橋で、西江戸川橋古川橋のあいだにあり、古くは単に大橋とよび、寛文年間に架されたといわれ、新編江戸志に「大橋 俗に石切橋と云う。赤城下へゆく通りなり、馬場片町より水道丁へわたす。むかし此所に石切あるよりの名なり。」とあり、府内備考に、
 一、橋 長凡八間程 幅2間1尺
 右は江戸川相掛り候橋の儀は町内(小日向水道町)より牛込水道町の方へ渡り小橋御座候。江戸川大橋と相唱え申し候。又里俗石切橋とも唱え候えども、如何の訳にて唱え来り候や相知れ申さず候。御役所向に認め候節は、江戸川大橋と相認め申し候。右は武家方御組合橋にて、町内東側横町間口十九間の処、右入用差出し来り申し候。
 とあり、また新撰東京名所図会も諸書を引いて「石切橋 小日向水道町と西江戸川橋との間より牛込水道町に通ずる木橋にして江戸川に架せり、もと大橋といえり。続江戸砂子に云う。大橋、馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切はしというなり。(下略)」と記述している。明治19年橋架明細表ではこの橋は長8間半、幅3間の木橋で、江戸川にかかっていた諸橋のうちではもっとも幅員が広い。むかし大橋とよんだのもそういうことからであろうか。
  下りて石切橋をわたる。ここは神田上水の下流なる江戸川の流るる所なり。橋より下十町ばかりの間、両岸に桜樹ならびて新小金井の称あれど、それでは小金井があまりかわいそうなり。殊に近年水大いに減じて、川よりも寧ろのようになりて風致一層減じたり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
  江戸川の水かさまさりて春雨のけぶり
  煙れり岸の桜に    若山牧水

古川橋 ふるかわばし。文京区水道2丁目と文京区関口1丁目との間をつなぐ神田川の橋。神田川は古川ふるかわと呼ぶ時期があった。
大橋 大橋は他の大きな橋を比較検討することではなく、近隣の橋との対比で、大橋と呼ぶことが多い。
寛文年間 1661年から1673年まで。
新編江戸志 しんぺんえどし。別称江戸誌。近藤儀休編著・瀬名貞雄補。寛政年間。「江戸砂子」の体裁を意図して刊行。内容は江戸城を中心に東は葛飾、南は六郷、西が武蔵府中、北が豊島・川口方面の地誌を記す。
石切橋 いしきりばし。名前はこの周辺に石切りが住んでいたことからつけられた。石切りとは、石材に細工をする職業や職人。いし。石屋。
武家方 ぶけがた。武家の人々。武家衆。武家とは武士の総称で、公家くげはその反意語。
御組合 ある目的で、仲間をつくる、その人々。「御」は「庶民ではなく、武士がつくった組合」の意味。
馬場片町 新宿区西五軒町の一部。古く牛込村の沼地だったが、承応年中(1652-55)に埋立て、武家屋敷等を建築。町名の由来は、この時に小日こびなた馬場の隣接地だったことによる。
水道丁 東京都文京区の町名。この「丁」は「市街の一区画」の意味。明治時代にはいると「町」の方が「丁」よりも多く使われている。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
長凡八間程 幅2間1尺 長さ約1456cm、幅394cm
間口 正面からみた敷地・家屋などの幅。
十九間 3458cm
入用 いりよう。必要である。必要な費用。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
小日向水道町と…… 原文と引用の2つが違っています。「新撰東京名所図会」の本来の引用では「牛込水道町より小石川水道町に通ずる木橋にして、江戸川に架せん、古川橋と西江戸川橋との間の橋なり。府内備考、牛込水道町の書上に(略)と見ゆ。本名は江戸川大橋にして、石切橋は其俗称たりしてと比記に據て詳らかなるべし、橋の名は、蓋し側に石工の宅あろしに起因すべけれど、其證なければ容易に断定し難し、石切の俗称、最も著はれ、江戸川大橋の名は遂に世人の忘却する所となれり」
続江戸砂子 正しくは「続江戸砂子温故名跡志」。享保20年刊(1735)。江戸砂子の著者、菊岡沾涼による補遺。内容は五巻からなり、巻一は江戸の年中行事、巻二は江戸方角図・御役屋敷・高札場等、巻三は神社拾遺・名所古蹟拾遺として日本橋の南北辺・小日向・深川・渋谷・目黒・本所・亀戸など、巻四は浄土宗一八檀林と諸州宗役寺、巻五は名木。四季の遊覧場所なども紹介。
明治19年橋架明細表 石切橋では長さ8間半、巾3間、25.5坪、木造、明治7年12月架換。川名は江戸川。
長8間半、幅3間 長さ1547cm。幅546cm
幅員 ふくいん。道路・橋・船などの、はば
十町 1町は60間。メートル法換算で約109m。10町は約1090m
 みぞ。地を細長く掘って水を通す所。どぶ。下水。流し元の小溝
大町桂月 おおまちけいげつ。詩人、随筆家。東京大学国文学科卒業。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。また紀行文を多く書いた。生年は明治2年1月24日(1869.3.6)。没年は大正14年6月10日。57歳
水かさ みずかさ。水嵩。川・湖・池などの水の量。水量。
けぶり 煙。物が燃えるときに立ちのぼる、微粒子が混じた気体。けむり。
煙れり けぶる。煙る。煙が立ちのぼる。煙などでかすんで見える。

石切橋

隆慶橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「隆慶橋」についてです。「隆慶橋」の名前は大橋龍慶氏に由来し、また、龍慶氏は書道の大橋流開祖の大橋重政氏の父になります。
 なお、父・大橋龍慶氏と息子・大橋重政氏の筆がしばしば似ていて混乱する原因になっています。

 隆慶橋(りゅうけいばし) 立慶橋、龍慶橋ともかかれている。新宿区新小川町一丁目より文京区後楽二丁目へ江戸川に架された橋で、創架年月は不詳だが、正保図にはなくて寛文図になって無名橋がこの位置に記されている。船河原橋の上流の橋で、むかし大橋龍慶なる者がこのあたりに屋敷を賜わって住んでいたのが橋名の起りで、龍慶は長左衛門、源重保といい、甲州の人で大奥側近の御祐筆で、いわゆる御家流書法の元祖だといわれている。
 府内備考は「立慶橋は中の橋の次なり、川のほとりにむかし大橋立慶の邸宅ありしゆえにかく橋の名となれりという。案ずるに正保年中(1644-1648)江戸図といえるものに、この橋のほとりに龍慶寺といえる寺見ゆ。恐らくはこの寺のほとりの橋なればかくいいしならん、されど今江戸の内にかかる寺あることをきかず、疑うべし。又『紫の一本』に、立慶橋というあり、されば町ありての名なりや。一説にりゅうけい橋と称す。」と記す。
 また、「新編若葉の梢」はこれを「(穴八幡)社地を寄進した大橋龍慶は長左衛門源重保といい甲斐の人で、大奥側近の御祐筆であった。老年に及び職を辞し、台命あって剃髪し、龍慶の号を賜った。式部卿法印に叙せられ、老体の采地として牛込の郷三十余町を賜り、その屋敷附近の江戸川に架された橋を龍慶橋と名附け、今にその名を残している。龍慶の書は徳川家の御家の書体として採択され、御家流と称して永く伝わるに至った。茶を小堀正一に学ぶ。寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」とする。
 なお、校合雑記、不聞秘録などの誌す伝説では、旗本水野十郎左衛門に殺害された侠客幡随院長兵衛の遺体が、この隆慶橋の下に流れついたという。そのころ水野の屋敷は小石川牛天神網干坂に在ったというが、しかし水野屋敷の位置については、牛込の築土下、麻布六本木、西神田一丁目などと諸説が多い。

   隆慶橋を衰る頃、空しきりに曇りければ、家路急ぎて橋をはしる、そも/\此橋の古えを聞くに、大橋長左衛門立慶と云いたる人、此所に家有りければ、此橋の名に呼付けり。
雪洞「東都紀行」

 明治十九年の調査だとこの橋は長さ十六間、幅十四尺五寸の木橋とあるが、現在は鋼鈑橋である。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
正保図 正保年中江戸絵図。正保元年か2年(1644-45)の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから。ただし、正保図でも隆慶橋はありそうだ。

正保年中江戸絵図

寛文図 寛文江戸大絵図。裏表紙題箋は、新板江戸外絵図。寛文12年6月に刊行。

大橋龍慶 江戸初期の能書家。通称長左衛門、いみな(死後にその人をたたえてつけられる称号)は重保。初め豊臣秀頼の右筆。1617年(元和3)能筆のゆえ、徳川秀忠の幕府右筆となり、采地500石を賜る。生没年は1582年〜1645年(天正10年〜正保2年)
甲州 甲斐国。現在の山梨県に相当する。
御祐筆 江戸幕府の職名。組頭の下で、機密の文書を作成、記録する役
御家流書法 おいえりゅう。小野道風、藤原行成の書法に宋風を加えた、穏和で、流麗な感じの書体。室町時代に盛んとなり、江戸時代には朝廷、幕府などの公用文書に用いられた。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
紫の一本 江戸時代の地誌。天和2年(1682)成立。2巻。戸田茂睡作。江戸の名所旧跡を山・坂・川・池などに分類し、遺世とんせい者と侍の二人が訪ね歩くという趣向で記述。
若葉の梢 「若葉の梢」は金子直徳著で、上下2巻(寛政10年、1798年)。新編が付いた「新編若葉の梢」では、昭和33年に刊行した「新編若葉の梢刊行会」の本。
台命 たいめい。だいめい。将軍などの命令。
式部卿法印 式部卿とは式部省の長官。法印は僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。大橋式部卿法印は戦国時代末期に右筆として活躍した大橋重保のこと。
小堀正一 安土桃山時代〜江戸時代前期の大名。生年は天正7年(1579年)。没年は正保4年2月6日(1647年3月12日)。約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及んだという。
寛文十一年 大橋龍慶の死亡は1645(正保2)年2月4日。子の大橋重政は1672(寛文12)年6月30日。
五十五歳 大橋龍慶は63歳で死亡。子の重政は55歳。どうも「寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」の少なくとも1文は、子の重政のことを間違えて書いたのでしょう。
築土下 築土(現在は筑土)の北側。ちなみに、築土前は築土の南側。
雪洞『東都紀行』 『燕石えんせき十種じっしゅ』は江戸末期の写本の叢書。明治40年、国書刊行会が三巻本を刊行。続編として『続燕石十種』(2巻)、『新燕石十種』(5巻)が新たに編集、刊行。辻雪洞氏の『東都紀行』は『新燕石十種』(明治45年)で刊行。
長さ十六間、幅十四尺五寸 長さは約29m。幅は約4.4m。