朝8時から飯田橋駅2階のモーニングサービスに行くと、そこから牛込濠がよく見えます。時間は令和6(2024)年9月2日ですが、まだまだ暑く、そのため傘を開く人もたくさんいました。
一番近い店舗は牛込橋のたもとの「アパート・マンション Mini Mini」。あとは右側は外堀通りです。
牛込濠(令和6年9月) | |
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朝8時から飯田橋駅2階のモーニングサービスに行くと、そこから牛込濠がよく見えます。時間は令和6(2024)年9月2日ですが、まだまだ暑く、そのため傘を開く人もたくさんいました。
一番近い店舗は牛込橋のたもとの「アパート・マンション Mini Mini」。あとは右側は外堀通りです。
牛込濠(令和6年9月) | |
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石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)に下の写真が載っています。
飯田橋近くの外濠のあたり このあたりは濠を境に千代田区と新宿区が高台をなして相対している。写真は千代田区側の外濠公園から新宿区の対岸をみたところで、このへんには理科大学、日仏学院、研究社、家の光などの立派な建物が丘の中腹に集中していて、お濠をふくめての眺望はなかなかに趣きがある。 |
下から中央線・総武線の線路、牛込濠と貸ボート、外堀通りが見えます。さらに写真を左右の2つに分け、それぞれの建物の名前を見ていきます。最初は左側です。
参考は日本分県地図地名総覧(昭和35年、下図)、全住宅案内地図帳(昭和43年、2番目の図)、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス(整理番号 MKT636、昭和38年)、昭和45年のID 13108と昭和56年頃のID 486です。
石川悌二氏の「東京の橋」(昭和52年、新人物往来社)の「新坂橋」によれば
新宿区神楽坂一丁目と船河原町のさかいを北西へ若宮八幡神社の方へ上る坂を新坂または幽霊坂というが、新坂橋はこの坂下の大下水に架されていたもので、明治28年版東京15区区分図によれば、この構渠は市谷御門橋の方から飯田橋へかけて外濠ぞいの道端に通じている。新撰東京名所図会は「新坂橋 市谷船河原町と牛込神楽町一丁目の間、大下水に架す。木橋、新坂下、若宮町に通ず。」と記している。 |
現在、大下水はなく、当然、新坂橋もありません。下部の左はGoogleで、右は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)です。これから、左の緑の円は新坂橋はあったと思う場所です。
おそらく横断歩道のあるところに新坂橋があったのでしょう。
神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。
10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌が江戸城鎮護、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2年(1456)開始、翌長禄元年(1457)4月完成しています。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。
明治2(1869)年の神仏混合禁止今により若宮八幡神社となりました。境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木があったようです。
明治20年ごろでは、若宮小路があり、これは庾嶺坂と若宮八幡神社を結ぶ小路です。
ほかに下に行くと庾嶺坂。左には新坂、右は小栗横丁、上は出羽様下があります。また若宮神社の前は車は通れません。つまり、アグネスホテルから車で直接若宮小路にははいれません。アグネスホテルは右の地図では大きな「若宮町」の「宮」の場所にあります。
さらに若宮小路では北から南に一方通行です。
大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、黒塀は倒壊しました。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。
昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。その時代の写真は
その後、社殿を西側に寄せ、東側は社務所を兼ねたマンションになりました。現在の神社は……
例祭は9月14~15日、神事・行事で中祭は1月15日と6月15日です。
また右側の立て看板ではこう書いています。
神楽坂若宮八幡神社縁起録 若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で |
外堀通りを飯田橋駅から市谷駅に向かい、神楽坂1丁目と市谷船河原町の間で北西に入ります。この坂を庾嶺坂といいます。この坂は明治にはもう何個も名前が付いています。
庾嶺坂 江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。 |
中国の梅の名所とは、大庾岭といいます。庾とは屋根のない米倉、あるいは野外にある倉庫です。岭の旧名は嶺で、峰、尾根、山脈になります。大庾岭(大庾嶺)は「大きな米倉がある山脈」になるのでしょうか。この山脈は中国江西省と広東省との境にあります。唐代に張九齢は梅を植えその場を「梅嶺」と名づけました。
なお、「庾」は漢字配当はなく、JISの文字コードはなく、第3水準の漢字です。さらになぜか中国でも大庾県の「庾」は現在では「余」に変えて使い、大余県が正式な言葉になっています。いずれにしても、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名前を付けたので、本来は庾嶺「ゆれい」があり、それが変化して「ゆうれい」になりました。
しかし、別の解釈もあります。「新撰東京名所図会」では違った説明を取り、昔唯念という僧が小庵を建てて住み、ゆうねん坂といい、それが転じて幽霊坂になったといいます。「往昔此辺に唯念といふ僧小庵を結びて居住せし唯一名をゆうねん坂といひしを、後にあやまりてゆうれい坂といふに至れるよし。行人坂ももと此僧のことより出たるものなるべし」。つまり「ゆうねん」から「ゆうれい」になったのです。また「行人坂」の行人は本来の言葉は修行者で、寺院で世俗的な雑務に行う僧侶です。唯念坂と行人坂は同じ僧の名前から来たものです。
さらに、ゆう(祐・幽)玄(元・源)が住んでいたことからゆう玄坂と名前が付いたともいいます。「むかしゆう玄といへる医師この所におりし故の名なり」。ただし、新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では同じ僧侶・唯念をさすものだとしています。
「幽霊坂」について「ゆれい」や「ゆうねん」は訛って幽霊坂になったのか、実際に幽霊がこの坂から出たのか、ここにも諸説があります。
坂の上に若宮八幡があり、「若宮坂」ともいわれていました。また、江戸切絵図には「シンサカ」と書いています。
赤レンガの壁から石垣の塀になり、オコメヅタの緑を左に見てあがって行き…あっという間に上がるのは終わってしまいます。逢坂のほうが庾嶺坂よりも距離も長く、高低差も大きいのでしょう。
大仏次郎氏の『照る日曇る日』(大正15年)では
……すたすたと牛込御門の方角へ歩いて行く。夜は更けていても星明かりがある。(中略) 武士の姿の隠れたのは、俗に幽霊坂という坂へ出る町角、角は武家屋敷の土塀、それに沿って小走りに勢いよく道をまがった刹那、男はぎょっとして立竦んだ。意外にも武士は、その角に隠れて自分の来るのを待っていた。ひやりとしてぱッと鳥の立つように逃げ出そうと伸びた背を追いざまに木下闇に銀蛇のように躍ったものがある。 |