新宿区教育委員会」タグアーカイブ

まま子いじめで掘らせた井戸|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 15.まま子いじめで掘らせた井戸」です。

まま子いじめで掘らせた井戸
      (市谷船河原町9)
 逢坂下の印刷所前は堀兼の井戸跡である。昭和10年ごろまでは井戸の姿であったが、戦時中はポンプ井戸になり、20年5月24日の空襲後廃井となった。ここには次のような哀話が残っている。
 男の子をもったあるやもめ暮しの武士がいた。後妻を迎えたがこの継母は子どもにつらく当り、夫が帰宅すると、ありもしない子どもの悪口を告げた。それを借じた夫は子どもがいたずらをしないように、庭先に井戸を掘るよう厳命した。
 子どもは井戸掘りをはじめたが、井戸を掘りあげるだけの体力がない。それでも継母の厳しい毎日の看視のもと、働き続けた子どもは、日増しに衰えてついに倒れて死んでしまったという。「江戸名所記」「江戸砂子」に出ている話である。
 堀兼の井というのは、いくら掘っても水が出ない井戸とか水が出ても掘るのに苦労をした井戸といういみで、武野台地に多くある。その中でも有名なのは、埼玉県入間郡入曽村のものである。俊成卿の歌に、「むさしには掘かねの井もあるものを、うれしく水にちかづきにけり」とある。
 江戸時代には遠方から茶の水にとくむ人が多く、この水で洗うとよごれ物は良く落ちて白くなるといわれていた。
 〔参考〕江戸砂子  新宿と伝説  紫の一本  江戸名所記

江戸名所記 江戸の最古の絵入り地誌。著者は浅井了意。発刊は寛文2年(1662)。江戸を代表する名所・神社・仏閣などの沿革や伝説・縁起などを記す。7巻
江戸砂子 享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
武野台地 正しくは武蔵野台地。関東山地の東麓に広がる洪積台地。北は入間川,東は荒川,西は多摩川,南は東京湾周辺の山手地区までの範囲。東西約40km、南北約20kmの長方形で、西部青梅市の標高190mを頂点に扇状に東へ低く傾斜する。
埼玉県入間郡入曽村 現在は埼玉県狭山市入曽地区。
俊成 藤原俊成。平安末・鎌倉初期の歌人。「千載和歌集」の単独撰者。幽玄の歌を確立。古今調から新古今調への橋渡しをした。

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は……

「掘兼の井」とは、井戸を掘ろうとしても水が出ない井戸とか、水が出ても掘るのに苦労した井戸という意味である。中でも有名なのは、埼玉県狭山市入曽の「掘兼の井」である。有名な俊成卿の歌に
 むさしには掘かねの井もあるものを
  うれしく水にちかづきにけり
とある。「御府内備考」によると船河原町には、“その井戸はない”と書いてある。しかし逢坂下の井戸はそれだとも云い伝えられ、後世そこを掘り下げて井戸にした。それは昭和10年ころまでは写真のとおりであった。戦時中はポンプ井戸になり、昭和20年5月24日の空襲のあと、使用しなくなった。今は、わずかにポンプの鉄管の穴がガードレール下に残っている。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

 上は昭和初期の「堀兼(ほりかね)の井戸」(牛込区役所 『牛込区史』)、下は『風俗画報』です。堀兼の井

 まず「枕草子」第161段から「堀兼の井」についての説明です。枕草子は平安中期、996年(長徳2)〜1008年(寛弘5)に日本最初の随筆文学で、作者は清少納言です。

井は ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。山の井。などさしもあさきためしになりはじめけむ。飛鳥井は、「みもひもさむし」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少将の井。櫻井。后町の井。

 ブログ「枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる」では……

井といえば…。堀兼の井。玉の井。走り井は、逢坂の関にあるのが素敵だわ。山の井は、どうしてそんなに心が浅い例として引き合いに出されるようになったのかしらね? 飛鳥井は「御水(みもひ)も寒し」と褒めたのがおもしろいし! そのほか、千貫(せんかん)の井。少将の井。櫻井。后町(きさきまち)の井もね。

 このブログではさらに各々の井戸も見ていきますが、ここでは要約することにして……

◯堀兼の井:埼玉県狭山市の堀兼神社の井戸
◯玉の井:一般に良い水の出る井戸
◯走り井:泉や流水から飲み水を汲みとる井戸
◯山の井:山中にわき水がたまって、自然にできた井戸
◯飛鳥井:京都市上京区の白峯神宮か、奈良明日香村の飛鳥坐神社
◯千貫の井:東三条院の敷地内にあった?
◯少将の井:かつて京都市中に存在した名井
◯桜井:松ヶ崎(場所は不明)の湧水
◯后町(きさきまち)の井:后町とは宮中の常寧殿の別名

 それでは江戸名所記 巻六の堀兼井(1662)です。

牛込村のほりかねの井は、これ武蔵の名所なり、俊成卿の歌に、
 むさしにはほりかねの井もあるものを、うれしく水にちかつきにけり
とよめり、むかし継母のざんによりて、その父わが子に井をほらせけるが、いとけなかりければゑほらで死けるゆへに、堀かねの井と名づけて、今にこれあり。
 ほりかねの井にはつるへもなかりける、又のみかねの水といふへく
 事実にないことを言って他人をおとしいれる。悪口をいう。そしる。そこなう。かげぐち。
ゑほら 不明。「ほら」は「洞」や「堀」?
つるへ つるべ。釣瓶。縄や竿の先につけて井戸の水をくみ上げる桶。つるべおけ。
のみかねの水 飲み兼の水。飲みにくい水。

 さらに正徳4年(1714)の「紫の一本」では……。なお、「紫の一本」について流布本が多く、ここの底本は今和学講談所本で、参校は正徳本だそうです。

堀兼の井、牛込逢坂の下の井をいふといへり、、、、正本ナシ)此水は山より出る清水を請て井となす、よき水なるゆへ、遠き方よりも茶の水にくむ、よごれたる衣を洗へば、、ふに正本)あかよく落て白くなるといふ、いつがいふ、此ごろ方々あるきよごれたるまゝ、此水にて洗ひ、色白くよき入道になるべしとて、あらへども/\、生れつき(正本 )黒くやせおとろへたる坊主なれば、少しも白くなる事なし、、、、らず正本 )遺佚面をはらし、此水にて白くなるといふは偽成りとて、はらを立つ、陶々正本 )がいふ、いかに遺佚、南ゑん山に火浣布といふは、鼠の毛にて織る布なり、是は洗ひてはあかおちず、火の中へ入るればあかのある程はよくもえ、あか儘れば火消る、取て見れば白くいさきよき事氷雪の如しといへり、遺佚が黒きも、とかく水にても落つまじ、やがて死なれて後火に焼き(正本アリ)、又生れきたらん時白くなら給へと笑へば、遺佚はらを立て、つるべ竹を取て理不儘に陶々正本 )をたゝく、終に竹を打折る、つるべ主是を見て、いたづらなる入道 正本アリ)かな、竹の折れたるやうに、腰正本ナシ)ほねを打折てくれんと棒を持て出る、陶々正本 )南無三宝思ひ中へ入て、此入道は名誉の歌よみなり、歌をよみたらばゆるされよといふて、はやう/\とせむる、遺佚棒におぢてふるひ/\いひ出す、
 堀かねのゐづつにさげし釣べ竹をれにけらしな呑みみざるまに
といへば、、、、、、此歌にめんじて、、、、、、、たゝく事をゆるす、、、、、、、、正本ナシ

遺佚 いいつ。遺逸。有能な人が、世に用いられず、民間にうもれている。物事が散らばり、なくなること。
入道 仏門にはいること。

 1732年に成立した「江戸砂子」の「堀兼の井」では……

◯堀兼の井 逢坂のふもと
里諺ニ曰、継母の讒によりて、その父、子に井をほらすに、ほりゑずして死。よつて名とすと也。俊成郷、千載集むさしには堀かねの井もあるものをうれしや水にちかつきにけり
〔枕草子〕井はほりかねのゐ。 注ニ武蔵也ト有。又多磨郡中野の 先にもほりかねの井と云あり。
  あるものをうれしさ絞る片ぬくひ  北村東巴
北村東巴 喜多村東巴。きたむらとうは。江戸時代中期後期の俳人

 遅れて1829年に出た御府内備考では……

堀兼井は逢坂の上久保氏の屋敷のうちともいひ 富士見の 馬場也 又逢坂の下今も現にある路傍の井なりともいふ そのまさしき所をしらす 名所の堀兼の井は当国入間郡川越のうちにて古き諸記に露顕せり 此はおのつから別なることは勿論なり 改撰江 戸志 牛込村堀兼の井といへるはむかし継母の讒によりてその父わか子井をほらせけるかいとけなかりけれはえほらて死しけるゆへ堀かねの井と名付ていまにのこれり 江戸名 所記
久保氏の屋敷 下図を参照。

牛込市ヶ谷御門外原町辺絵。嘉永2年(1849)

 船河原町築土神社によれば…

この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられるが、昭和20年戦災で焼失し今はない。

 なお、平成21年、手前に「堀兼の井」(現代版)ができました。

掘兼の井

防災井戸 掘‵兼井戸

区の説明は、神社前の説明板の通りであるが、その後井戸は掘られ、共同井戸として長い間使われてきた。
 地下鉄工事等の影響で一時枯れたが、平成21年に市谷船河原町町会により、防災井戸として現在の形に整備されている。(ちなみに、船河原町の町名は江戸期から続く名称で、この牛込・箪笥地域には多数現存している)
        (写真)
    明治39年(1906年の「逢坂」と「堀兼の井戸」
    レンガ塀のあたりに現在の神社がある。
㊟ 水をだすときは、周囲に多量に流れ出さないようお気をつけください。 この水は飲めません。
令和2年1月  新宿区市谷船河原町町会

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では……

逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です。

冷水の井|新小川町2−2

文学と神楽坂

 牛込区(現、新宿区)の「冷水ひやみずの井」はどこにあったのでしょうか? はじめに冷たい清泉が出る井戸が日向ひなた区のたかしょう屋敷内にあり、武士屋敷に変わっても存在したようです。また、傍に治安維持のため辻番所も置き、ここは冷水番所と呼ばれました。江戸時代中期の享保6年(1721)、屋敷がなくなると、この井戸もなくなります。
 この水の硬度は高く、無類の名水(江戸砂子)だという報告もありますが、冷たいけれど良水ではなかったという報告もあります。
 また、明治13年11月から小日向区新小川町は牛込区新小川町に変更されています。
 まず菊岡せんりょう氏の「江戸砂子」(東京堂出版、1976)です。原本は享保17年(1732)です。

冷水の井 冷水番所 立慶橋の南の方也。此地むかしは御たかじやう屋敷にして、御鷹かいの井にて無類の名水也。其後武士屋敷と成りて傍に番所を置、これを冷水番所とよべり。然るに享保六丑の秋、辻番所御引はらいの時、此井すでにうづむべかりしを名水をおしみ、その所をおゝひ呼井戸にして今以これを汲。今番所あらずといへども冷水番所とよび、所の名のやうに成
鷹匠 たかじょう。朝廷、将軍家、大名などに仕えて、鷹を飼育・訓練し、鷹狩に従事した特定の人々。
餌飼 えかい。えがい。鳥獣などを、えさを与えて養うこと
番所 江戸時代、交通の要所などに設置した監視所。通行人、通航船舶、荷物などの検査や税の徴収を行なった。御番所。ばんどころ。
辻番所 江戸時代、江戸市中の武家屋敷町の辻々に幕府・大名・旗本が武家地の治安維持のために設置したもの。

 次に「御府内備考」第2巻「小日向の一」の文章です。

   冷水ノ井
冷水の井は江口長七郎か屋敷の脇にあり、その處のかたはらに番所ありしかば、その地を冷水番所といひて地名のやうになれり、立慶橋をわたりて西の方なり、【改選江 戸志】 むかしはこの所御鷹匠屋敷にして、御鷹の餌飼の井にて名水なり、その後旗下の士の屋敷となりて傍に番所をおかれ、是を冷水番所といふ、然るに享保六年の秋、番所は引れて今はなし、【江戸 砂子】

 「新撰東京名所図会」小石川区之部其三「小日向の称」では……

天正年中御入国の後。小日向御成の時。此辺皆沼多し。今の竹島町にて御休ありて。粥を煮させ御弁当にも御用ひ被遊。諸士へも賜ふ。其水今に冷水の井を御用水に成るよし。その時の釜今にありと。

 当時の小日向区で「立慶橋の南の方」「立慶橋をわたりて西の方」以外の場所は分かりません。しかし、延宝7年(1679)の「新板江戸大絵図」では「番所」らしき場所(下図)があり、これが冷水番所でしょう。

新板江戸大絵図

明治40年の東京市牛込区全図。赤で「番所」と思える場所を追加。「新小川町2丁目1番地」は青で

 また「冷水の井」は元小日向区(現在は新宿区)の新小川町(現在は丁目はなし)にあって、大正5年の「岡田寒泉伝」では「冷水の井」は昔の「新小川町2丁目1番地」(現在の「新小川町2ー2」)だと言っています。冷水橋について下図以上の説明はありませんが、流れる水を超えるように橋をかけたのでしょうか?

あげ 重田定一氏の「岡田寒泉伝」(有成館、大正5年)71頁から。

冷水の井は新小川町2丁目1番地。岡田寒泉の出生地は新小川町2丁目20番地。寒泉精舎は主に揚場町4番地に。


 東京市市史編纂係の『東京案内 下巻』(裳華房、明治40年)では……

新小川町一丁目 昔時小日向村の内也。万治中神田川改鑿かいさくの時、其土を以て此地ををさめ、小川町の士邸を移す。よつ里俗しんがはまちと呼べり。明治5年7月旧称にり町名をつ。本町は元と小石川区に属せしを、明治13年11月当区に属せしむ。町東に江戸川あり。
新小川町二丁目 沿革えんかく一丁目に同じ。江戸川は町の東北を廻る。
新小川町三丁目 沿革えんかく一丁目に同じ。里俗本町の中央北側を冷水ひやみづ番所ばんしょといふ。元と有名の清泉あり、冷水ひやみづび、はい番所を立つ、よつて此称あり。江戸川まちの北をながる。
改鑿 かいさく。土地を改善して道路や運河などを通すこと。
士邸 武士の邸宅。明治維新後では旧武士階級の士族の邸宅
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし。
清泉 せいせん。清く澄んだいずみ。みず

 岸井良衛氏編の「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、昭和40年)では……

 冷水ひやみずの井・立慶橋の南。むかしは此処が御鷹匠屋敷で御鷹の餌飼の井として有名な清泉で、武家屋敷が出来てからは番所が出来て、冷水番所といった。享保6年(1721年)の秋に辻番所を引移した時に、井は埋められてしまった〔砂子〕

 新宿区教育委員会の「新宿区町名誌」(新宿区教育委員会、昭和51年)では……

 一丁目南部は、江戸時代冷水ひやみず番所といった。もと御鷹匠屋敷で、そこには御鷹の餌飼の井として有名な清水の井戸があり、冷水の井と呼ばれていた。鷹匠屋敷のあと番所が建てられたので、俗に冷水番所と呼ばれたのである。冷水の井がある番所屋敷地といういみである。享保6年(1721)の秋に、番所が他に引越した時に井戸は埋め立てられた。なお、冷水番所は、明治40年の「東京案内」には、三丁目の中央北部としてある。しかし、その位置にすると埋立地内となるので、清水のわき出る井戸になるか疑問になるので、岸井良衛の「江戸町づくし稿」によって一丁目とする方が適当と思われる。
 この冷水の井があったことを考えると、新小川町の南部は、牛込台地のふもとで、陸地になっていたものと思われる。同じような清水の井戸が、二丁目南部にもあった。

 ここで、昭和57年(1982)住居表示が変更し、新小川町の1~3丁目は統合されて、ただの「新小川町」に代わりました。
 では、伏見弘氏の「牛込改代町とその周辺」(非売品、平成16年)126頁によれば……

  新小川町、冷水の井戸  新小川町(大曲〜船河原橋の間)の成立についてはさきに述べたが追記することにする。新小川町は、「お茶の水」の開削の残土で造成し、しかる後に神田小川町の士邸の一部を移転させて「新小川町」と唱えたとされる。いうならば神田川外堀の河川改修の嚆矢であった。
 ここには、御鷹匠屋敷があり、鷹の飼育に使われた名水があった。市井の井戸とは違い、水番所が置かれたので“冷水の井番所”と称された。その位置は現在の厚生年金病院の裏である(推定)。後年、その井戸は埋められ現存していないが、「冷水番所」という呼称のみが残ったのである。

 新宿歴史博物館の『新修新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)では……

 町域の東南部は、江戸時代冷水番所と呼ばれた。もと御鷹匠屋敷で、そこには御鷹の餌飼の井として有名な清水の井戸があり、冷水の井と呼ばれていた、鷹匠屋敷のあと番所が立てられたので、冷水の井のある番所屋敷地という意味で、俗に冷水番所と呼ばれた(町名誌)。
 ちなみに揚場町にある東京都指定旧跡である寒泉かんせん精舎せいしゃあとは、江戸時代に儒学者・政治家の岡田寒泉(1740-1816)が開いた私塾跡であるが、この寒泉は新小川町に生まれ、出生地に冷泉があることから、それに因んで寒泉と号したという(町名誌)。

神楽坂5丁目(写真)神楽坂百年写真展 昭和43年 ID 8018

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8018を見ましょう。撮影は1968年(昭和43年)です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8018 目で見る神楽坂百年写真展 会場

 これは「目で見る神楽坂百年写真展」で、主催は「神楽坂通り商店会」、後援は「新宿区教育委員会」、10月15日~10月25日まででした。なぜ神楽坂百年なのか不明ですが、この写真の1968年には明治改元100年の記念式典が10月に日本武道館で開催されました。それにあやかったイベントでしょう。また「目で見る…」の「目」にかぶっている提灯は「神楽坂百年」と書いていそうです。
 場所は左上の看板の「組合」だけが分かります。日本勧業信用組合(勧信、現在は第一勧業信用組合)は昭和40年5月に神楽坂5-3に本店を置きました。この写真は、それから間もない頃の日本勧業信用組合本店前の様子です。
 向かって左側の入り口に、不二家のペコちゃん人形のようなマスコットが立っています。勧信と縁の深い旧・日本勧業銀行(勧銀)のマスコットだった「のばらチャン」のようです。「のばらチャン」は中身が空洞になるソフト塩化ビニール(ソフビ人形)の貯金箱としてノベルティに使われました。勧銀が合併して第一勧業銀行になってからもマスコットを継続し、ソフビ貯金箱は非常に多くの種類が残っているそうです。

旧日本勧業銀行 貯金箱 のばらチャン http://is-and-is.jugem.jp/?eid=206

 左の看板の柱の陰に四角いブースが見えます。宝くじ売り場です。宝くじの販売は勧銀が独占的に受託していて、その縁で勧信にも売り場があります。信用組合としては特殊なケースで、この関係は今日まで続いています。
 写真展は万国旗を飾っていて賑やかです。正面ガラスケースに掲示されている写真の右側は「現在の神楽坂」(1937年、昭和12年ID1)、左側は「大正時代の神楽坂通り」のようです。
 会場は店舗前の空きスペースですが、歩道の縁石の切り下げを見ると駐車場を想定していたようです。実際には「勧銀が建つ前には、お祭りの御神酒所や商店街のセール時の福引所などに使われていた」と地元の方。写真左の看板には「正面右側駐車場をご利用下さい」と書いてあり、図もついています。地図でも分かるように、2軒ほど隣に別に駐車場があったのでした。
 写真の左は写っていませんが「相馬屋」。右は玩具店「かやの木」で、万国旗に隠れた看板は割れているようですが、ショーウインドウに箱入りのおもちゃが並んでいるのが分かります。この家並みは昭和38-39年のID 12910で確認できます。ID 12910の中央、相馬屋とかやの木の間の石造りの古いビルを建て直して、勧信の本店が建ちました。

 ここで勧信についてまとめておきます。

第一勧業信用組合 神楽坂 ウィキメディアから 創業時の場所からは移転している

 勧信はもともと、勧銀の職域信用組合(産業組合法に基づく保証責任信用購買利用組合互援会)、つまり勧銀の行員のための社内金融組織でした。それを東京の地域信用組合に転換し、昭和40年(1965年)5月、日本勧業信用組合が神楽坂で再スタートしました。発足当初は信用獲得のために伝統ある勧銀との共通性を前面に出していて、社名のロゴタイプは勧銀そっくりでした。
 勧信が本店を置いた場所には戦前、東京貯蓄銀行の神楽坂支店がありました。石造りの立派な外郭で、三菱銀行神楽坂支店と同様に戦災で焼け残りました。ただ三菱銀行が戦後、営業を再開したのとは違い、東京貯蓄銀行は終戦間際に合併で日本貯蓄銀行になって消滅しました。
 日本貯蓄銀行は協和銀行を経て現在のりそな銀行になるので、勧銀や勧信との直接のつながりはありません。東京貯蓄銀行の神楽坂支店跡は戦後、倉庫などに使われていたようです。それが勧信の本店として再び金融機関になったのは何かの縁でしょう。
 勧信は昭和46年(1971年)10月、第一勧業銀行(略称・DKB)の発足に伴って第一勧業信用組合(略称・DKC)に改称。DKBと同じハートのマークをシンボルに使っていました。昭和57年(1982年)11月には四谷に本店を移しました。神楽坂は支店に降格されましたが、現在も店番号は001です。第一勧銀が合併により「みずほ銀行」になった時には名称やロゴマークを追随せず、別の路線をとっています。

第一勧信店内の8番と9番の向かって左に ❤マークが見える。(テレビ番組 「気まぐれ本格派」1977年から)

 

大正期の神楽坂通り(写真)

文学と神楽坂

 1枚の写真があります。大正に撮られたものですが、店舗などは全くわかりません。インターネットではこの写真を2人があげていますが、出典を書く人ではない人もいて、結局わかりませんでした。不明のまま来たのですが、しかし、見つけました。新宿区教育委員会「新宿と文化」(昭和43年)の5頁です。

 しかし、これでは解像度は悪い。原典を探しましょう。で、探しました。原典は野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)でした(と最初は思っていました)。中古でも綺麗な本で、60年以上経っているとは考えられない本です。
 しかし、この写真の右端は切れています。「写真・東京の今昔」の写真は全く小さくなってはいないので、どうもこの原典の原典があり、「新宿と文化」の原典と「写真・東京の今昔」の原典はわずかに違っているようです。しかし、この原典の原典は国立国会図書館のコピーしかなく、解像度は悪いと予想され、ここで諦めました。ところが……

 私は諦めましたが、地元の方は違います。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯(大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号71を教えてもらいました(下図)。当時の東京市役所公園課が発行した写真集で、これが本当の原典の原典です。

 キャプションは「牛込見附より神樂町に通ずる坂路で、その阪上には、高田の穴八幡社の旅所ありて神輿此に渡御して神樂を奏するより名くと云ふ。坂路往来織るが如く、殷賑極むること他に多し観ざる所である」。なお、旅所たびしょは祭礼で、かつぎ出した みこし(神輿)をしばらく泊める所。るはいろいろなものを組みあわせて作ること。いんはさかん、しんはにぎやかで、賑は非常ににぎやかで活気があること。

 では、写真の詳細を見ましょう。最初は「名産 支那 甘栗」「一粒撰 風味絶佳」「々軒」「中華名産甘栗 来々軒」。
 現代でも「天津甘栗」と言いますが、来々軒という中華甘栗の専門店でした。「絶佳」は「ぜっか」で、「すぐれていて、形が整い美しいこと」。ちなみに牛込区史編纂会編「牛込町誌、第1巻」(大正10年)コマ番号89には山岸商店の写真がでていて、甘栗店が当時ポピュラーだったことが想像できます。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」(昭和45年、新宿区教育委員会)には「来々軒」も甘栗店も書かれていません。一方、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市 神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃として「松末軒中華」と「山本甘栗店」が出てきます。「甘栗 来々軒」と関係がありそうです。

 写真を坂上に見ていくと 次は「西洋御料理 松月亭」です。次の店名は縦に「神楽園」、その次は「圖書雑誌」店です。「圖」は「図」の旧字です。

 さらに奥に行くと「金〇製造/諸金物類」と書かれているようです。また靴のようなイラストがあり、と「陳列」もあります。
 では反対側は「〇〇歯科〇〇」と「タングス電球」が見えます。

 以上で手がかりは全てです。野沢寛著「写真・東京の今昔」では大正12年3月にこの写真は出たと書かれています。これから神楽坂2丁目にあるとしか考えられません。登っている場所は神楽坂2丁目か3丁目でしかなく、まず2丁目です。甘栗は昭和5年でしか売られていません。また、雑誌と金物が2つ並んで売っているのは大正11年から昭和5年ぐらい。
 こういったことを考えて、2丁目でも最も急になった坂道の直前にカメラをおいて撮ったものだと思います。

昭和5年は岡崎公一「神楽坂と縁日市」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から。大正11年は古老の記憶による関東大震災前の形『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)から

神楽坂2丁目(2021/5/14)

和泉屋横町|白銀町

文学と神楽坂

 和泉屋横町ってどこ? 「町方書上」で牛込白銀町には

町内東横町、里俗和泉屋横町申候、以前和泉屋と申酒屋住居仕候故申習候

 つまり、和泉屋横町は白銀町内の東にあり、酒屋の和泉屋があったといいます。また東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では…

     ◎町名の起原幷に沿革
牛込白銀町は慶長年間の開創にして。田安の地に居住したりしもの移したる所なりといふ。町内に和泉長屋と稱する所あり

 東京都新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(昭和51年)では津久戸町について

白銀町との間を俗に和泉屋横町といった

 なるほど白銀町と津久戸町を分ける場所だったんだ。つまり灰色の場所だったんだ。

 さらに新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば…

牛込白銀町 起立の年など詳細は不明。一説には慶長年間(1596~1615)の江戸城修築の際、田安(現千代田区)の住人を移して町を開いたともいう(町名誌)。町内の東側のあたりは、かつて和泉屋という酒屋があったことから和泉屋横丁と呼ばれていた(町方書上)
 明治4年(1871)6月、常陸松岡藩中山家(水戸藩付家老)上屋敷ほか近隣の武家地と合併(市史稿市街篇53)。明治44年、「牛込」が省略され白銀町となり、現在に至る。

 江戸時代、「牛込白銀町」は2つありました。2つとも「牛込白銀町年貢町屋」でした(青色)。「年貢町屋」とは年貢を納める農家がある町。明治4年、白銀町は拡張し、拡張した町は黄緑色で描いています。巨大な場所です。

 2つのうち中央下のほうの牛込白銀町に「和泉屋横町」があったのでしょう(赤色)。現在はマンションになっています。なお、明治時代には「和泉長屋横丁」と呼ばれたようです。


牛込の地図

 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から。細部では現在の地図と違っています。「国勢調査町丁・字等別境界データセット」から取ったほうがいいでしょう。

筑土八幡町 袋町 筑土八幡町交差点 大久保通り 改代町 飯田橋交差点 大曲交差点 西五軒町 横寺町 岩戸町 揚場町 筑土 納戸町 牛込見附交差点 神楽坂一丁目 神楽坂二丁目 神楽坂三丁目 神楽坂四丁目 神楽坂五丁目 神楽坂六丁目 寺内地区 矢来町 白銀町 神楽河岸 津久戸町 下宮比町 新小川町二丁目 鷹匠町 箪笥町 中町 南町 牛込北町交差点 神楽坂上交差点 新小川町 石切橋 赤城元町 山伏町 本村町


魁雲堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 久保たかし(大久保孝)氏は神楽坂のことを書き、平成2年から新宿区の図書館に自費出版の書籍を数冊寄付しています。過去のことを探すにはこれらの本は結構面白く、たとえばお店については、あっ、わかるね、となりますが、しかし、それでもわからない場面もあります。

 たとえば、この魁雲堂。昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ても、魁雲堂はでてきません。氏の『坂・神楽坂』(平成2年、1990年)では

 さて、木村屋の左に亀さんの家、「魁雲堂」があった。亀さんこと川村君は弱々しい子供だから皆でいたわった。オカッパの可愛いい子だから誰からも好かれた。それが今やフランス文学の大家で、酒は呑む、豪快な男に変身し、あれが亀さんかと云われてもビックリするような成長ぶり、あれは亀ではなく、(さか)(かめ)と云った方が良い。
 このお宅は古い木造の2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書いてあり、墨、筆、すずりの商いをしていた。亀さんの兄さんは私の兄と小学校同級生。
 この家の裏が待合で、亀さんは夜になるとはなやかな芸者の姿を見、踊りをながめ、唄を子守唄として育ったせいか、シャンソンが得意である。

川村 川村克己。かわむらかつみ。1922年 – 2007年。フランス文学者、立教大学名誉教授。東京神楽坂生まれ。1945年東京帝国大学仏文科卒、立教大学教授、88年定年、名誉教授。

 川村教授も東大出身でした。神楽坂には意外と東大出身の人が多いのです。特に色恋の町では多いなあと思っています。この川村氏が書いた文章もあります。雑誌『ここは牛込、神楽坂』第4号で

 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
魁雲堂→津久戸小

魁雲堂→津久戸小

パン屋 木村屋です。
飴屋 宮城屋です。
置屋 芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店。

 久保たかし氏の『ふるさと神楽坂』(平成6年、1994年)では

 「魁雲堂」
 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。
 ここの次男坊、川村克己君は小学校の同級生。アダナは亀さん。オカッパ姿の可愛いい子だった。しかし、60年たった今は、豪快な男に変身、立教大学でフランス文学を教え、今や新潟県の新しい大学の副学長となり、忙しく働いている。あれは亀ではない、酒(かめ)だと云った方が良い酒仙である。

新しい大学 新潟産業大学です。

「魁」について。 かしら、首領、堂々として大きいさま(例は魁偉・魁傑)を表し、音はカイ、訓はさきがけです。かいうんどう、と読むのでしょう。

「 さて、もう一度、「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、なんと「筆カイ雲堂」となっていました。初めからあったのですね。

魁雲堂

 右図では昭和12年の「火災保険特殊地図」ですが、すでに「加藤商店」に替わっています。魁雲堂1

 現在の建物です。「摩耶ビル」といい、美容室の摩耶などが入っています。摩耶

『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』

文学と神楽坂

『新宿区町名誌』は昭和51(1976)年、新宿区教育委員会が発行し、『新修新宿区町名誌』は平成22(2010)年、新宿歴史博物館が発行したものです。『新修新宿区町名誌』によれば、2つの違いは

一、本書は、昭和51年(1976)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区町名誌』の内容を再調査し、全面改訂を行ったものである。
一、地域区分は『新宿区町名誌』を踏襲し、古い村を単位とした十区域(①牛込東部、②牛込西部、③牛込北部、④市谷、⑤四谷、⑥新宿と周囲、⑦大久保・百人町、⑧西早稲田・高田馬場、⑨落合・中井、⑩北新宿・西新宿)に分けた。項目は原則として現在の町名を立項し、その町域内にあった過去の町名は小項目として立項している。項目の配列も原則として前書を踏襲したが、読みやすさを考慮し、広域の地名解説を各章の最初に記述した部分もある。

 たとえば、神楽坂1丁目を『新宿区町名誌』では

 神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保14年(1729)11月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。
 宝暦11年(1761)9月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌12月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥(あすか)井、花園等の受領地となって町屋ができた。

『新修新宿区町名誌』では

 牛込御門に近い外堀端沿いの地域で、江戸時代には武家地と、牛込(うしごめ)牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)という拝領町屋があった。
牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24目に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)。

 一番正確な町名誌でしょうか。