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中之橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。今回のテーマは中之橋です。

中之橋(なかのはし) 新宿区新小川町二、三丁目のさかい文京区水道一丁目江戸川に渡された橋で、創架年月は不詳だが寛文図に無名ながら記されている。東京市史稿はこれについて、「橋 橋名なし 同川筋(江戸川)に架し、後の中の橋に当るべきものなれど、位置やや上流にあり。この橋の位置の変れるは元禄頃なり。中の橋は武江図説に『中の橋、同し川に渡す。立慶橋大橋の間、築土下へ行く通り、此辺りゅうヶ崎と云う、一名鯉ヶ崎とも云う。』とし、また府内備考には「中ノ橋は築戸下より江戸川ばたへゆく通りにかかる橋なり。立慶橋と石切橋の中なる橋なれば、かく名付くなるべし。」と記す。明治時代になってこの江戸川両岸に桜が植えられ、市民遊行の地となった。小石川区史はこれを、
  石切橋より下流隆慶橋に至る間の江戸川両岸一帯の地は、明治の末頃まで市内屈指の桜の名所として讃えられていた。此処の歴史は比較的新しく、明治17年頃、西江戸川町居住の大原某が自宅前の川縁に植樹せるに始まり、附近の地主町民が協力して互に両岸に植附けたので、数年にして桜花の名所となり、爾来樹齢を加えると共に花は益々美しく、名は愈々喧伝せられて、其景観が小金井に似たところからいつしか「新小金井」の名称を与えられ、観桜の最勝地たりし中の橋は小金井橋に比せられるようになった。
 そこで地元でも時には樹間に雪洞ぼんぼりを点じ、俳句の懸行燈かけあんどん、花の扁額、青竹のらちなど設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて花のトンネルを上下すれば、両岸の花影、燈影、水に映じて耀かがやき如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった
  はつ桜あけおぼめく江戸川や水も小橋も
うすがすみして              金子薫園
ほそぼそと雨降り止まぬ江戸川の橋に
たたずみ君をしぞ思う           小林 操

新撰東京名所図会。牛込区。東陽堂。明治37年。

新小川町二、三丁目 現在は「丁目」を付けません。昭和57年(1982)住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合され、単に「新小川町」といいます。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んでいました。
寛文図 寛文江戸大絵図。寛文10年12月に完成。絵図風の地図ではなく、実測図に従い、正確な方位を基準として、以後江戸図のもとになった。

武江図説 地誌。著者は大橋方長。安永2~寛政年間(1773~1799)に刊行し、寛政5年(1793年)に筆写。別名は「江戸名所集覧」
東京市史稿 明治34年から東京市が編纂を開始し、令和3年、終了した史料集。皇城篇、御墓地篇、変災篇、上水篇、救済篇、港湾篇、遊園篇、宗教篇、橋梁篇、市街篇、産業篇の全11篇184巻
大橋 石切橋と同じ
築土 つくど。江戸時代には「築土明神」も「築土」も正式な名前でした。なお「築土前」「築土下」はそれぞれ「築土の南側」「築土の北側」の意味。
築土下へ行く通り、此辺立ヶ崎を云う、一名鯉ヶ崎とも云う 「築土の北側に行く道路があるが、この周辺を立ヶ崎という。別名、鯉ヶ崎という」。「崎」は「岬 。みさき。海中に突き出た陸地」の意味です。文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)によれば「『新編江戸志』に、『中の橋、築土つくどへ行く通りなり、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(約一米)に及ぶなり。』とある。」。つまり「立ヶ崎」や「恋ヶ崎」よりも「鯉ヶ崎」の方が一歩も早く世に出た言葉だったのでしょう。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
築戸 「つくど」と読む方が正しいのでしょう。
ばた はた。端。傍。側。物のふち、へり。ある場所のほとり。そば。かたわら。そばにいる人。第三者。
江戸川両岸に桜

小石川区史」から

江戸川桜花満開『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』尚美堂 明治43年 国立国会図書館デジタルコレクション

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

遊行 ゆぎょう。出歩く。歩き回る。
小石川区史 昭和10年、小石川区役所が「小石川区史」を発行しました。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、1/3は水道一丁目に、昭和41年4月1日、残る2/3は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

川縁 かわべり。かわぶち。川のへり。川のふち。川ばた。川べ。
爾来 じらい。それからのち。それ以来。
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まる様子。ますます。より一層
小金井 元文2年(1737年)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門が吉野や桜川からヤマザクラの名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。
最勝地 これは誤植。正しくは「景勝地」。けいしょうち。景色がすぐれている土地。
 この文章は一般的な花ではなく、桜のことでしょう。「桜の時には樹間に雪洞を点じ、俳句の懸行燈、桜の花の扁額、青竹の埓など設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて桜のトンネルを上下すれば、両岸の桜影、燈影、水に映じて耀き如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった。」
雪洞 行灯。あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
懸行燈 掛行燈。屋号や商品名を書いて店先に掛けて看板代わりにするもの。俳句の懸行燈とは、屋号や商品名に加えて俳句もはいるもの。

扁額 建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(額とは書画などをおさめて、門・壁などに掲げておく)。
 周囲に設けた柵。
夜の観楽境であった この文章は「小石川区史」881頁に載っています。なお、このあとに続く文章があり「然るに其後江戸川の護岸工事の為め、漸次桜樹の数を減じて、大正の末年頃には当時の面影を全く失い、両岸は総てコンクリートの堅固な石垣と化して、忘れたように残る少数の桜樹に昔の名残を偲ぶのみとなった。已むを得ざる工作の結果とは云えあまりにも悲しき文化の侵略ではある」
はつ桜 はつざくら。その年になって最初に咲く桜の花。季語・春
 あけぼの。夜がほのぼのと明けはじめる頃。
おぼめく はっきりしない。あいまいである。ぼやける。
うすがすみ  薄くかかったかすみ。かすみが薄くかかる様子
金子薫園 かねこくんえん。歌人。和歌の革新運動に参加。明星派に対抗して白菊会を結成。近代都市風景を好んで歌った。生年は明治9年11月30日、没年は昭和26年3月30日。満75歳で死亡。
ほそぼそ 非常に細いさま。物がかろうじてつながっている様子。かろうじてその状態が続いている様子
思う 慕う。愛する。恋する。

むらさき鯉|半七捕物帳

文学と神楽坂

 岡本綺堂氏の「半七捕物帳」の「むらさき鯉」の出だしの文章です。この小説が実際に起こったとすると文久3年(1863年)ですが、では綺堂氏はいつ書いたのか、これがわかりません。大正5年、年齢は44歳から半七捕物帳を書き始め、大正14年に前半5巻の47篇を書き終わり、その後、昭和9年から11年までに、後半23篇を書いています。多くの場合、その初出の年月は不明です。

        一
「むかし者のお話はとかく前置が長いので、今の若い方たちには小焦こじれったいかも知れませんが、話す方の身になると、やはり詳しく説明してかからないと何だか自分の気が済まないと云うわけですから、何も因果、まあ我慢してお聴きください」
 半七老人は例の調子で笑いながら話し出した。それは明治三十一年の十月、秋の雨が昼間からさびしく降りつづいて、かつてこの老人から聴かされた『津の国屋』の怪談が思い出されるような宵のことであった。(中略)
「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾かつしか江戸川じゃあない、江戸の小石川牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろはどてに桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞ぼんぼりをつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下でき止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川おとめがわとなっていて、ここでは殺生せっしょう禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、せきは低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどんと云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどんのあたりを蚊帳かやふちとも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳をさらって行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多めったに鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、さかなは大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕あこぎ平次のへいじをきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」

小焦れったい こじれったい。もどかしくていらいらする。じれったい。
因果 原因と結果。その関係。
津の国屋 半七捕物帳の1つ。酒屋「津の国屋」で幽霊が出るという。半七は犯人を捉える。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
葛飾 東京都葛飾区のこと。区の左側に利根川の支流、江戸川がある。
江戸川 利根川の支流。千葉県北西端の野田市関宿で分流し、東京湾に注ぐ。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
行灯 あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
雪洞 ぼんぼり。紙・布などをはった火袋を取りつけた手燭てしよくか燭台。右図を参照。
新小金井 東京都小金井市東町。桜が有名な町で、西武鉄道の新小金井駅がある。小石川区(現、文京区)と牛込区(現、新宿区)から見ると、小金井はかなり遠い。
船河原橋 旧江戸川、外濠のお堀、さらに神田川を結ぶ橋。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。
堰き止める せきとめる。塞き止める。堰き止める。流れなどをさえぎりとめる。
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
殺生 せっしょう。生き物を殺すこと。仏教では十悪の一つ。
堰く せく。堰く。塞く。流れをさえぎってとめる。せき止める。
堰かれる せかれる。流れをさえぎってとめられる。
どんどん 江戸川落とし口にかかる船河原橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。解説とは違い、近くに船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。

蚊帳ヶ淵 かやがふち。船河原橋の下を流れる水がよどんで深くなった所。『東京名所図会』第41編(東陽堂、1904年)では「蚊屋が淵は船河原橋の下をいふ。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」
攫う。 さらう。攫う。掠う。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。関心を一人占めにする。
紫鯉 むらさきこい。江戸志では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひはなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる」
阿漕 あこぎ。禁漁地の阿漕ヶ浦で、ある漁師が密漁をして捕らえられたとの伝説から。しつこく、ずうずうしい。義理人情に欠け、あくどい。特に、無慈悲に金品をむさぼること
阿漕の平次 あこぎのへいじ。阿漕ヶ浦で、母の病のために禁断を破って魚をとり、簀巻すまきにされたという伝説上の漁師。