一
島の自然観、乃至はその住民の状態に就いて、何か話せとお仰るのですか。それなら差当り小笠原島のお話でもさしていただきませうか。 |
林投樹 アダン(阿檀、Pandanus odoratissimus)は、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。小笠原なのでアダンではなく、タコノキなのでしょう。ただし、戦後大量に固有種の「タコノキ」が都道の周りに植えましたがすべて純正品かは判りません。
モモタマ モモタマのジュズサンゴではなく、モモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科 )のことでしょう。巨大な葉が有名です。
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で #2A5CAA
信天翁 アホウドリ(信天翁、阿房鳥、阿呆鳥)はミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属です。
婉転 美しくまわり動いていること。
瑠璃鳥 オオルリ(大瑠璃、学名Cyanoptila cyanomelana)はヒタキ科オオルリ属です。青い小鳥です。
光芒 細長く伸びる一筋の光。尾を引くように見える光のすじ。
燦爛 光り輝いてあでやかなさま、まばゆくきらびやかなさま
たまたま、天明五年に土州の船頭四人、同じく八年に肥前船の十一人、寛政元年に日向志布志浦の船頭栄右衛門とその船子の四人都合十七人が同じ一つの無人島に漂流して、永いのは十二年、短かくて七八年、辛さに漂人としての辛苦艱難を共にする内に、その中の幾人かは病死し、やつと残りの人数だけで、覚束ない小舟を造つて、やつとの事でハ丈島まで漕ぎついたといふ事もありました。その島は今でいふ鳥島かと思はれますが、ああいふ限りの無い麗光の中に在つても、人間は決して人間社会を離れて生きてゆけないと云ふ大事が痛切に感じられたに違ひありません。 |
天明 天明五年は1785年。 杉田 玄白、伊能 忠敬、大田 南畝などがいた時代です。
土州 土佐国の異称
肥州 現在の佐賀県と長崎県(ただし壱岐と対馬を除く)。
寛政 寛政元年は1789年。寛政の改革は1787(天明7)年から1793(寛政5)年にかけて松平定信が老中になり、大規模な幕政改革を行いました。
日向志布志浦 日向国の志布志湾。現在は湾、以前は浦。違いは湾は単に地形。浦は「湾」のうち「磯」や「断崖」ではなく、浅瀬の砂浜のこと。
船子 水夫。船子は船長の指揮下にある。
辛苦艱難 かんなんしんくのほうが普通。人生でぶつかる困難や苦労
鳥島 伊豆諸島の無人島。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名。
麗光 美しい光
母島の伝説に拠りますと、曾てその島に漂流した内地人の中で、生き残つたはただ船頭とその妻と、若い船子との三人でした。無人島に男が二人と女が一人です。1人の女は自然と二人の妻になつて了ひました。其処は無人島です。人間社会の外です。考へて下さい。その三人にはその時、ただ一つの共同の火を守る事が何より神聖な、また痛切な緊要事でした。船頭とその妻とが洞窟に夜眠る時、若い船子は、一晩中その外に在つて、その火を守らなければなりませんでした。そしてまた、若い船子と自分の妻とが夜眠る時、船頭は、しよぼしよぼと目をしぱだたきながら、また一晩中、洞窟の外に蹲んで火を守らなければなりませんでした。船頭は老いてゐる。船子は若い。人間は終に人間です。船頭はある深夜、突然激怒と嫉妬に駆られて思はず、自分の守つてゐた薪火を岩壁にたたきつけて了ひました。火が消えて了ひました。その三人の生死の火が。 |
蹲 蹲る。蹲う。かがむ。しゃがむ。
所謂黒船の提督ペルリが浦賀へ来て、太平の島帝国を脅かして、一旦本国へ帰ると称して南へ去つた後、再交渉の為め北上したその間は、彼は彼の艦隊を小笠原島の父島に停めてゐたのだと云ひます。本国へなぞは帰つてゐなかつたらしいのです。彼はその島を開墾し、石炭貯蔵庫を建て、部落を作り、後には整然たる三頭政治を布いたと申伝へます。さういふ風にささやかでも人間同志の社会組織が成立すると、ただ絶海の無人島として、人をして恐れしめ凄まじがらせたその島々にも初めて温かな人間の愛情と心音とが燃え立つて来ました。人間もまた、その燦爛とした自然の麗光を初めて、安心して目にし耳にし、触れ、嗅ぎ、親しみ出した事も、非常に考ふべき事だらうと思ひます。無論、人間はゐなかつた時も、一人二人漂流した来た時も、部落ができ一小社会を形つた後も、その自然の本体には少しの異動があつた筈はありません。そこへゆくと寂しいのは人間です。大勢集まつて、愛と道義と礼節と相互扶助とで寄り合はねば生きてゆけないのです。何ものの麗光を感知する丈の余裕も持ちあはせないのです。 |
ペルリ マシュー・ペリー。ペルリ提督。米国の海軍軍人。1794~1858。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結
石炭貯蔵庫 大正時代に大村にペリーの残した貯炭所があったといわれる。青野正男氏の『小笠原物語』によると、大正時代オガサワラビロウの古い屋根の下に炭が山積みになっていたという。昭和初期には屋根はなく石炭はただ野積みになっていた。
三頭政治 3人の実力者による政治体制
燦爛 華やかで美しいこと
ペルリの艦隊が去つた後も、残るものは残つたし、それに船から逃げ上つた黒人の奴隷、密猟船員の家族などが相変らず共同的な安楽な生活を続けてゐました。大統領もゐました。無論共和政治です。然しただ部落は小さな一つの部落に過ぎませんでした、それだけ山野の食物は豊富なり、大して開墾せずともバナナもあれば椰子の実もあり、自然の恩恵は少数の人々にとつては飽き足るほど充実してゐました。それに外界との小面倒な交渉は無し、不純な権勢からも圧迫されず、ただ自然と整つて来る秩序と無文律の道義的制裁とが、その社会をおのづからな美しいものに育ててゆきました。それで人々もしぜんと珍草奇木を愛翫したり、畑を作つたり、互に遊楽したり、自由に恋慕し合つたりしたらしいのでした。空腹じくなる頃には、工合よくまたぺルリの放して置いたのちに、しぜんと繁殖した豚の群集が山を下りては部落の檳榔葺の小屋近くに啼いて来たさうです。それを甘蔗焼酎を飲み合ひ乍ら、厨房から鉄砲で射つたものだと云ひます。正覚坊にしてからが、その頃は随分と湾内に游泳してゐたものださうで、二時間も丸木舟で漕ぎ廻れば、三頭や四頭は無雑作に手捕りにする事ができたし、全くその頃の小笠原島は一種の極楽島だつたに違ひありません。 |
大統領 共和国の元首
共和政治 特定の個人ではなく、全構成員の利益のための政治体制
檳榔 ビンロウ。学名はAreca catechu。ヤシ科の植物、太平洋、アジア、東アフリカの一部に。
正覚坊 しょうがくぼう。アオウミガメのこと