牛込濠」タグアーカイブ

外堀の堰の構造

文学と神楽坂

 JR飯田橋駅のホームに「外堀そとぼりせき構造こうぞう」があります。

外堀の堰の構造

外堀の堰の構造

江戸城外堀縦断面

 牛込うしごめつけは牛込ぼりいい濠の間に位置しており、牛込濠の水をせき止める土橋と、その水位を調整するためのが設けられていました。
 2017(平成 29)年のJR飯田橋駅ホーム移設工事において、牛込橋の真下より、この堀の一部と思われる石敷いしじきが外堀で初めて発掘されました。明治期に撮影された古写真には、堰のおとしぐちが写っており、発掘された石敷はこの落口の手前の水路をなす箇所の一部分であることが考えられます。
 せき。河川の流水を制御し、水を取り入れるために、川の流れをさえぎって造る構造物。水力発電用ダムや堤防の機能はない。

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。

石敷 いしじき。平たい石を敷き詰めて舗装した所。石畳。
落口 おとしぐち。滝となって水流が落下する所。下水などの排水口。

牛込御門

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001)

 現在、この石敷はホームの下に保存されていますが、調査によって明らかになった限りにおいてこの石敷があったと想定される範囲がわかるように、ホーム上のそうの種類を変えて表現しています。また、一部取り外した敷石を、駅前広場に展示しており、その大きさを確認することができます。

石敷発掘位置

石敷構造図、発掘された石敷

色を変えたホームの下に敷石があった。

駅前広場に展示した敷石

 現時点で、外堀の堰の構造に関する文章や記録は残されていませんが、同時代で類似する構造物の石敷の事例として、神田川から神田上水を市中に引き込むために設置された堰である関口せきぐちおおあらい堰(現在の文京区関口に存在していた) があります。この記録によると、堰の水路に当たる部分の石材の並び方が、今回発見された石敷と類似していることがわかります。
 また、ホーム上からは堀を繋いでいる現在の水路を見ることができます。

  Ushigome-mon Gate was located between the Ushigome-bori and Iida-bori Moats. A weir was constructed under Ushigome Gate in order to protect the earthen bridge that dammed the water in Ushigome-bori Moat and control the water level.
  When JR Iidabashi Station’s platform was relocated in 2017, remnants of stone paving believed to comprise a portion of the weir was discovered for the first time anywhere in the outer moat area. Photographs from the Meiji period contain images of the weir’s outfall and the sections of stone paving uncovered at the site are thought to have comprised a portion of the aqueduct located immediately in front of the outfall.
  Currently, the section of stone paving discovered is 2017 is preserved in its original location directly under the train platform. A portion of the platform’s surface has been modified in order to express the scope of the area that was covered by the stone paving. In addition, a portion of the paving removed from the site is on display in the plaza in front of the Station. It enables visitors to get a sense of the weir’s size.
  Unfortunately, no documents or records that describe the weir’s structure have been discovered. A similar type of structure known as the Sekiguchi Weir, however, which was constructed during the same period and transported water into the city from the Kanda River, provides us with some insights about weir technology and design. Located in present-day Bunkyo Ward’s Sekiguchi district, the arrangement of stone material used to construct the Sekiguchi Weir’s channel resembles that of the stone paving discovered along the outer moat in 2017.
  Also from the platform you can see the current waterway connecting the moats.

外堀の変遷|史跡解説板4

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()の4枚目は「外堀の変遷」です。外堀は江戸城の防御が本来の役目ですが、他にも浮世絵の背景、舟船の輸送路、さらに江戸城がなくなっても、甲武鉄道と外堀の絵葉書として登場します。さらに明治では、新しい「新見附橋」もできています。

外堀の変遷

外堀そとぼりの変遷
The Transition of the Outer Moat

 外堀は江戸城防御の役割だけではなく、豊かな水辺空間として当時から江戸市民に親しまれ、名所絵などの浮世絵にも多く描かれました。「名所めいしょ江戸えどひゃっけい」(広重ひろしげ」・1856(安政あんせい3)年—1858(安政5)年)には、市ヶ谷八幡の門前町あんぜんまちが堀端に広がり賑わう景色が、外堀とともに描かれています。また、「富士ふじさんじゅう六景ろっけい」(広重・1858(安政5)年)には、御茶の水の懸樋かけどいしたを、荷物を載せた船が往来する様子が描かれ、外堀が物資輸送路としても使われていたことがわかります。
 明治期以降も外堀はけいしょうとして受け継がれました。1893(明治26)年、地域有志者からの寄付金により、ばんちょうより市谷いちがやまちに通じる新道(現・しんつけ)開設願いが出され、こう鉄道の延伸工事と一体で建設されることとなりました。
 1894(明治27)年に開通した甲武鉄道と外堀の風景は絵葉書などに多く取り入れられました。1911(明治44)年には、牛込からくいちがいまでの土手遊歩道を江戸城外堀として永久に保存するため公園とすることが計画され、1927(昭和2)年に牛込橋から新見附橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設されました。なお、甲武鉄道や近代の牛込濠周辺の変遷については、駅舎2階に解説板を設置しています。
懸樋 かけどい。懸け樋。地上にかけ渡して、水を導くとい
景勝地 景色がすぐれている土地。勝地、行楽地、観光地、保養地、避暑地、リゾート
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。

 More than just a component in Edo Castle’s defense structure, the outer moat was also a verdant, waterside leisure space much loved by city residents. Depictions of the outer moat were frequently included in Tokugawa-era collections of woodblock prints. One famous collection entitled the One Hundred Famous Views of Edo, which was composed between 1856 and 1858 by the artist Hiroshige, includes a print depicting the outer moat and bustling, moat-side cityscape in the vicinity of Ichigaya’s Hachiman Gate. In a separate collection entitled Thirty-Six Views of Mount Fuji from 1858, Hiroshige depicts a cargo-filled boat passing under the outer moat’s Ochanomizu Acqueduct. This tells us that the moat was also a functional space used to transport goods around the city.
  After the 1868 Meiji Restoration, the outer moat continued to be considered a scenic area and a residential district was constructed on the moat’s Shinjuku side. Following the construction of the Köbu Railway in 1894, the Railway and surrounding outer moat area frequently came to be featured in postcards. In 1911, the authorities presented a plan to preserve Edo Castle’s outer moat as a public park. Specifically, the plan called for the construction of a pedestrian walkway along the embankment extending from Ushigome to Kuichigai. The plan came to fruition in 1927 with the construction of Tokyo’s Dote City Park, which extended from Ushigome to Shinmitsuke Bridge.
  For more information about the Kōbu Railway and Ushigome Moat’s modern development, please visit the history plaza on the second floor.

写真 土手公園 この写真は「日本地理風俗大系 II」(新光社、昭和6年)でも「日本地理風俗大系 第1改訂版」(誠文堂新光社、昭和11年)でもありませんでした。
写真 市谷濠
写真 現在の旧土手公園
図 四ツ谷御門外 だいじょうけんに してほかばんの しょうきゃく住むこと いずれの口もことなら ねど、わきこうしゅう 街道かいどうよりるの くちにして、かの玉河たまがわの じょうすいひく大樋おおとい あり。千歳せんざいきゅうの 仁計じんけいあおぐ べしとうとむべし
図 市ヶ谷八幡

牛込見附のせきに用いられていた石
 この解説板の横に置いてある石は、牛込見附ばし構築こうちくされていた堰の水路面に使用されていたもので、駅舎工事にあたり発掘されました。発掘結果や当時の堰の様子をうかがい知れる史料などを、JR飯田橋駅ホーム上(実際に堰が発見された位置となる牛込橋の真下付近)で解説しています。

 せき。河川の流水を制御し、水を取り入れるために、川の流れをさえぎって造る構造物。水力発電用ダムや堤防の機能はない。

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

The Stone Used to Construct Ushigome-dobashi Bridge’s Weir
  The stone located next to this installation was used to construct the weir located under Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Portions of the weir were discovered during the construction of lidabashi Station. Documents detailing what was discovered at the site and describing the weir’ s appearance can be found at the exhibit on the platform at JR lidabashi Station. The exhibit is located in the vicinity of the site under Ushigome-bashi Bridge, where the weir was actually discovered.


外堀の工事方法|史跡解説板3

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち3枚目は「外堀の工事方法」で、牛込から赤坂まで、外堀の工事方法の説明です。

工事方法

牛込うしごめ赤坂あかさか間の江戸えどじょう外堀そとぼりの工事方法
The Way to Make the Outer Moat from Ushigome to Akasaka

 牛込から赤坂にかけての外堀のうち、牛込~市谷までは、かんがわこくの地形を利用して造られました。次によつこうじまち付近は、もともと台地の尾根が横切っている地形であったため、台地を掘り込み、赤坂側の溜池ためいけの谷へと結ぶ大工事となりました。この区間の工事は、普請を担う各大名が組を編成し、組毎の掘削土量が一定となるように分担されました。
 外堀は、くいちがいつけが最も標高が高く、さなぼりよりかんがわに向かって堀毎に順に水位が低くなりました。そのため、牛込うしごめもん(飯田橋駅西口)のように外堀を渡る土橋にはせきが設けられ、堀の水位を調整していました。また、自然の谷地形を活かしながらも、じょうかくとしての防御効果を高めるため、現在の千代田区側の台地に土を盛って高いるいを築き、きゅうしゅん土手どてが形成されました。
 江戸城外堀は総延長約14kmをほこり、このうち牛込門から赤坂門までの約4km、面積約38haの堀が国史跡指定されています。史跡区域には、地形を巧みに利用して築かれた外堀が水をたたえる姿や、外郭がいかくもんの石垣、土塁の形態を見ることができます。

普請 家を建築したり修理したりすること。また、道・橋・水路・堤防などの土木工事。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 せき。川の途中や流出口などに設けて、農業用水・工業用水・水道用水などの水を川からとるなどのため、水位を制御する施設。ダムや堤防の機能はない。
城郭 城と外囲い。堀や土塁・石垣などにより,外敵の攻撃を防いだ施設。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
土手 川などがあふれて田地や家屋に流入するのを防ぐために、土を小高く積み上げて築いた長い堤
外郭門 城などの外がこいにある門

  The section of the outer moat located between Ushigome to Ichigaya was constructed by utilizing the topography of the Kanda River valley. In addition, because the Yotsuya and Kojimachi sections of the moat were located on a ridgeline, which cut across the Kanda Plateau, moat construction in those areas required the execution of a large-scale infrastructure project in which sections of the Plateau were removed and the moat was extended to the valley in the vicinity of the reservoir on the Akasaka side. Groups of domainal lords were mobilized to carry out the project and each group was required to remove a predetermined amount of earth from the plateau. The outer moat reached its highest point in the vicinity of Kuichigai Gate.
  From there, the water level gradually lowered as it passed through the channels linking Sanada-bori Moat with the Kanda River. In order to control the flow of water and prevent flooding, weirs were constructed to around gates, such as Ushigome-mon Gate, which were located on earthen bridges. These weirs were then utilized to control the water level in the moat. Furthermore, utilizing the natural topography, large earthen fortifications were constructed by building up sections of the Kanda Plateau on the present-day Chiyoda Ward side of the moat in order to improve the Castle’s defenses. That project resulted in the establishment of a steep embankment.
  Edo Castle’s outer moat boasts a total length of approximately 14 kilometers. The approximately 4-kilometer, 38-hectare section between Ushigome and Akasaka Gates is a designated as a National Historic Site. Visitors to the site can see the ingeniously constructed outer moat filled with water, the stone walls of the Castle’s outer gates, and the shape of its earthen fortifications.

工事方法➀

見附の水位が違う

工事方法②

喰違から弁慶濠を見る

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 石垣の桝形は、各組頭の他に毛利長門守秀就・蜂須賀阿波守忠英・森内記長継・生駒壱岐守高俊・池田勝五郎光仲(溜池櫓台)が担当している。いずれも大大名である。桝形の竣工時期(建築工事を完了する日時)を示した記録は少ない。毛利家の記録には、正月8日に諸家一同で鍬入れを行い、同家の丁場が3月14日に竣工したとある。細川家の場合は、3月27日とある。また、池田家の場合、同家の御船頭である東原半左衛門が伊豆の岩村に行き平田船(石船)に積んで回送するとあり、その後、日付は不明であるが、将軍家光が同家の丁場を巡視した記録が残されている。つまり、3月末前後には、池田家ではまた石垣工事を行っていたのである。この三家に共通しているのは、各々の担当した桝形の竣工日を正確に記されたものではないということである。しかし、竣工日を参考とするならば、各藩の担当箇所による差もあるが、およそ3月前後と考えることができよう。

 つまり、寛永13年(1636)1月8日に工事が始まり、3月14日に終了しています。

飯田橋駅から牛込濠に 令和6年

文学と神楽坂

 朝8時から飯田橋駅2階のモーニングサービスに行くと、そこから牛込濠がよく見えます。時間は令和6(2024)年9月2日ですが、まだまだ暑く、そのため傘を開く人もたくさんいました。

牛込濠

牛込濠

牛込濠

 一番近い店舗は牛込橋のたもとの「アパート・マンション Mini Mini」。あとは右側は外堀通りです。

牛込濠(令和6年9月)
  1. 飯田橋グラン・ブルーム(オフィス・商業棟)
  2. パークコート千代田富士見ザタワー(住宅棟)
  3. 法政大学 市ケ谷キャンパス 外濠校舎
  1. 東京理科大学入試センター(双葉ビル)
  2. 東京理科大学(9号館)10階
  3. 東京理科大学(7号館)10階
  4. 東京理科大学(1号館)17階
  5. ブリティッシュ・カウンシル(英国国際文化交流機関)
  6. 三幸ビル(1階にファミリーマート)
    ——れいざか
  7. 飯田橋レインボービル
  8. 家の光会館
  9. NBCアネックス市谷ビル
  10. (ビルが多く省略)
  11. トーマス体操スクール市ヶ谷校(市ヶ谷科学技術イノベーションセンタービル)(黒いビル)
  12. コモレ四谷(地上31階、地下3階)(遠くに見える黒いビル)

牛込濠(写真)遠景 ID 19340 令和1年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 19340は令和元年(2019年)、新見附橋から牛込方面などを撮影した写真ですが、ID 486と比べると、撮影位置は外濠公園(土手公園)付近でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 19340 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右からJR中央・総武線、静寂な牛込壕、並んだ桜の裸木、その奥に外堀通りがあります。建物では……

ID 19340から

ID 19340から


A 市ヶ谷エスワンビル。看板は「(en)a 日比谷高 26名/西高 46名/国立高 69名/(エスワン)ビル」
B ヤマト運輸 市谷砂土原センター
C 油井工業所(護國園)
D 丹京ビル 慧修会 看板は「広告募集中」
E 丹京
F サクラテラス
G Nicco Corporation(日興)
H セルフ市ヶ谷店 看板は「油」(ガソリンスタンド)
J ギャラリーパウゼ

1 船河原マウントロイヤル(マンション)
2 アンスティチュ・フランセ東京(現在は「東京日仏学院」に復帰)
3 神楽坂アインスタワー(地上26階)
4 NBCアネックス市谷ビル(地上12階)
5 家の光会館(地上7階)
6 飯田橋レインボービル
7 三幸ビル
8 研究社センタービル
9 東京理科大学1号館(地上17階)
10 東京理科大学7・9号館
11 東京理科大学入試センター双葉ビル

令和2年 住宅地図

牛込濠(写真)遠景 ID 19041 令和3年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 19041は令和3年(2021年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 19041 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線、静かな牛込壕、樹木で隠れた外堀通りがあります。建物では……

ID 19041から

1 「東京理科大学5号館」
2 「双葉ビル」(地上4階)看板は「日刊大衆 週刊大衆 アクション」「ポケチュー」
3 「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
4 「ヒルズ砂土原」(地上5階、地下1階)
5 「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)看板は「都立中高に/圧倒的実績/ena/◯◯200◯◯◯◯/◯◯◯◯」
6 「東京日仏学院
7 「あずさセンタービル」か?
8 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)」
9 「家の光会館」(地上7階)
10 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
11 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階)
13 「東京理科大学1号館」(地上17階)

ID 19041から

14 「東京理科大学7・9号館」
16 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下2階)
17 「揚場ビル」(地上10階)
18 「第一勧銀稲垣ビル」(地上8階、地下2階)(青い塔屋は「MIZUHO」)
19 「福升ビル」(地上8階)
20 「住友不動産飯田橋ファーストビル」(地上14階、地下2階)
21 「住友不動産飯田橋ファーストビル」
22 「五洋建設
23 「後楽鹿島ビル」(地上12階、地下1階)
24 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)
25 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」南棟(地上20階)
26 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」北棟(地上16階)
27 「首都高速道路5号線(池袋線)」

牛込濠(写真)遠景 ID 18548 平成28年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18548は平成28年(2016年)1月27日、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18548 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右下にはJR中央・総武線の線路があり、中央線の快速電車が走っています。牛込壕があり、左には樹木で隠れた外堀通りがあります。

 右側からの建物は……

ID 18548から

1 「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)
2 「飯田橋プラーノ」の住宅棟「プラウドタワー千代田富士見」(地上38階)と
3 「飯田橋プラーノ」の事務所棟「ステージビルディング」(地上17階)
4 「東京都立中央・城北職業能力開発センター 人材育成プラザ」
5 「警視庁飯田橋庁舎」
6 「住友不動産後楽園ビル」(地上20階、地下2階)
7 セントラルプラザ「ラムラ」の北棟(地上16階)と南棟(地上20階)

 左側からの建物は……

ID 18548から

1 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
2 「家の光会館」(地上7階)。
「油」は「油セルフ セルフ市ヶ谷SS(ライフ白銅)」
3 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
4 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階 )
5 「ブリティッシュ・カウンシル」語学学校
6 「東京理科大学1号館」(地上17階)
7 「東京理科大学7・9号館」
8 「東京理科大学入試センター双葉ビル」
9 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
10 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)

 中央は……

ID 18548から

1 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
2 「揚場ビル」の塔屋看板
3 「揚場ビル」(地上10階)
4 「飯田橋ビル」(地上11階、地下1階)
5 「飯田橋中央ビル」(地上8階、地下1階)
6 「安田ビル」(地上8階)
7 「ファーストヒルズ飯田橋」(地上14階)
8 「五洋建設ビル」(地上13階、地下1階)
9 「エトワール飯田橋」(地上10階)
10 「CANAL CAFE」


日本地理風俗大系|昭和6年

文学と神楽坂

 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)です。

牛込見附 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が続らされている。濠の内側には要所要所に幾多の關門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾は大方跡形もないが山手方面にはなほ当時が偲れる石垣や陸橋が残っている。写真が牛込見附で石垣が完全に保存されている
牛込見附 この「牛込見附」は「牛込御門」と全く同じ意味で使っています。
關門 かんもん。関所。目的を達するのに突破しなければならない難所。
跡形 あとかた。何かがあったというしるし。形跡。痕跡
偲れる しのぶ。偲ばれる。しのばれる。過去の事や遠く離れた人や、亡くなった人などを、しみじみと思い出す。
石垣が完全に保存されている 見附はもともと、石垣で囲まれた四角い空間(枡形)でした。明治中期までは完全に残っていたようです。その後、邪魔な部分は撤去され、この写真の時期には外堀に面したごく一部しかありません。

 写真の右手、外堀沿いに旧国鉄(当時は鉄道省)の中央線が走っています(O)。中央線は昭和3年(1928年)に複々線化され、同時に牛込駅が廃止、代わって飯田橋駅が誕生しました。写真中央のコンクリート製の牛込橋も、この時に改修したのかもしれません。
 つまり、この写真は、飯田橋駅の開業(昭和3年11月15日)から間もない時期に撮影したものです。
 旧牛込駅の駅舎も関東大震災で倒壊し、その後に建て直されました。写真右手の濠沿いの建物(M)は、廃止後に残った旧駅の施設でしょう。
 牛込橋の左奥、方形屋根(E)が新設した飯田橋駅西口です。この建物は戦災を免れ、令和2年(2020年)7月に新駅舎になるまで使われたようです。
 震災前の大正11−12年(1922−23年)ごろの写真と比べると、わずか10年で牛込見附付近の様子が大きく変わっていることが分かります。
 写真の左手、濠に面した複数の建物は、もともと牛込駅に通じる道があった場所に建てられたものです。右側には駅に渡る橋(G)が残っています。
 家の裏手には、土砂崩れを防ぐ擁壁(C)があるようです。ガケ上の道には石の手すりが整備されています。

牛込濠 ボート乗り場

牛込濠 ボート乗り場 外堀風景 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5102

 この場所は第二次大戦後、牛込橋につながる土堤(早稲田通り)に面した部分を1階とするいくつかの店になりました。これらの店は、今も地下に下りるような形で土堤の下を使っています。一方、土堤の下から濠の上に張り出す形でボート乗り場などが出来ました。これが今のカナルカフェです。
 昭和30年代前半のボート乗り場の写真(ID 5102)や、昭和42年ごろの牛込見附全景(加藤嶺夫写真全集)を見ると、かつての牛込駅に続く道が時代を経て別の利用方法になっていることが分かります。

 左から
A. ボート乗り場(濠の上にせり出している)
B. 旧牛込駅への道に建った建物
C. 擁壁
D. 旧牛込駅への道に建った建物
E. 飯田橋駅西口
F. 牛込橋
G. 旧牛込駅に渡る橋
H. 牛込濠と飯田濠をつなぐ水路。飯田濠側に落差(どんどん)がありましたが、この頃はただの水路です。ボートが遊覧中。
J. 旧牛込駅の施設
K. 石垣(牛込御門の一部)
L. 長大化した電柱。電線の条数も多い
M. 旧牛込駅の施設
N. おそらく富士見町教会の鐘楼。その右は煙突
O. 省線の中央線

 人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)ではAは「大明建設」、Bはボート乗り場、Cは古川氏の自宅でした。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

逢坂下-新見附(写真)第3系統 都電 昭和42年など

文学と神楽坂

 新宿区の外堀通りに逢坂などが交差する付近を撮影した写真が3枚あります。でも、[1]のように、写真は「牛込見附」だと名前をつけると、とんでもない!と叱られそうです。
 戦前には「逢坂下停留所」という路面電車の停留所がありました。その廃止はおそらく昭和15年で、戦後、再開はありませんでした。しかし、もし「逢坂下停留所」が今もあれば、[2][3]の地点がまさにそうですし、[1]は「新見附停留所に近い場所」でしょうか。

[1]東京都電アーカイブ③

 写真[1]にはバスの「新見附」停も見えます。新見附橋のわずか先にあったようです。なお、写真の位置は逢坂下よりも新見附に近い場所です。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

 右手にある楕円のマークは「ピノキオ」(子供服の店舗)。(写真と地図はページの最下部で。写真は「ピ」で、地図は「子供服/ピノキオ」)

[2]東京都交通局「わが街わが都電」

東京都交通局「わが街わが都電」平成3年 撮影日時は不明

[3]都電15番の鉄道趣味

1967年7月某日
東京都新宿区東端の牛込濠脇、東京日仏学院付近
2017品川行(飯田橋行だけどもうすぐ折返しという事で)よく見るとお客がいないらしく車掌さんが運転台に来てる。
都電3系統は品川から都心を泉岳寺、三田、神谷町、虎ノ門、溜池と抜けて赤坂見附から市ヶ谷見附、飯田橋へと走っていました。一等地を走っているようですが赤坂から飯田橋はなにやらローカルな雰囲気で運転数もとても少なかった。飯田橋停留所も他路線につながってない尻切れとんぼ。僕も乗ったことないし。
撮影した年の12月10日に静かに廃止になりました。

 写真左側は牛込濠と新見附橋、左寄りに防護柵と架線柱、電柱広告「大日本印刷」、歩道。中央には外堀通りと路面電車、その路線。写真[1]~[3]は全て「飯田橋」行き(下り)の路線です。[3]の路面電車に「品川駅」と「2017」と書いてありますが、一足早く方向板だけが「品川駅」に変わったもの。
 写真[2]と[3]の右側から左側に(参考にはID 13108を)……

  1. 逢坂があり、写真[2]に運転中の自動車。町は「市谷船河原町」
  2. 色◯ ◯◯ 写真◯◯◯◯ 尾形伊之助商店
  3. (教育図書)
  4. (軽自動車工業)
  5. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  6. (神田印刷)
  7. (2)~(3)で、新見附橋の反対側にある高いビル。昭和51年「サンエール」などが入っていた

【参考】東京都電アーカイブ③

住宅地図。1976年

牛込濠(写真)日仏学院、昭和27年 ID 14743, 14744

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から牛込濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4795 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4796 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

 昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
 昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
 写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
 濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。

 その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました

 写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
 右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。

市谷船河原町 (写真)地下鉄 昭和48年 ID 535-36

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535-36は昭和48年(1973年)5月、地下鉄工事のため牛込濠を大きく掘削したものです。カメラは新見附橋の上で、市谷田町三丁目、市谷船河原町、神楽坂一丁目などに向いています。翌49年(1974年)に地下鉄・有楽町線が開通しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535 市谷船河原町付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 536 市谷船河原町付近:市谷見附より牛込

 メトロ アーカイブ アルバムの「有楽町線の歴史」では……

有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設築堤仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。
留置線 駅などにおいて、列車を一時的に停め置くための線路。
検車用ピット線 検車とは車両を検査すること。ピット(pit)とは車の下部の検査や修理ができるよう低くなっている場所
桟橋架設 桟橋とは谷間などに高くかけた橋。架設とは線路を一方から他方にかけわたすこと
築堤 堤防をきずくこと
仮締切り 一時的に戸・窓などを、閉じたままにすること
鋼矢板 鋼製の平らな板
支保工 しほこう。坑道やトンネルなどの工事で、掘削してから覆工するまで土圧を支持する仮設の足場
土留め どどめ。高低差のある敷地で、土が低い土地に崩れてこないように止めること。
アンカー 部材や器具などを建物へ取り付けるために打つ鋲で、抜けにくい構造をもつ。

 写真の中央左、外堀通りから工事現場に下りる仮設の斜路の上に看板があり、「営団地下鉄8号線牛込第二工区土木工事」「企業者 帝都高速度交通営団」「施工業者 鉄建建設株式会社◯」とあります。
外堀通りには高層の建物は少なく、二階建てが目立ちます。昭和45年のID 13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に左から見ていくと……
 その奥に外堀通りがあり、高層の建物は少なく、二階建ての建物が目立ちます。参考は昭和45年のID13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に、左から見ていくと……

  1. 看板「三平ストア 食堂三平」
  2. 看板「タケヤみそ」
  3. 八木医院
  4. 看板「雪印牛乳」
  5. 奥山歯科
  6. 新益塾
  7. 恵◯社マイクロフィルム
  8. 週刊大衆 双葉社
  9. 龍生会館(いけばな龍生派)
  10. 東京理科大学 薬学部
  11. 東京理科大学(体育館)

  1. 双葉社
  2. 日本不動産短期大学校
  3. 三興製本
  4. 油井工業所
  5. 神田印刷㈱
  6. 渋谷ガラス㈱、看板「日本ペイント」
  7. ◯◯自動車工業㈱
  8. 教育図書㈱
  9. 尾形伊之助商店
  10. 丸善石油(ガソリンスタンド)
  11. 日仏学院
  12. 家の光会館(農協の出版・文化団体)

  1. 家の光会館
  2. 研究社新館
  3. 研究社旧館
  4. 東京理科大学
  5. 東京理科大学
  6. 東京理科大学
  7. 飯田橋東海ビル(現、飯田橋御幸ビル 下宮比町)
  8. 首都高速道路5号線(池袋線)
  9. 貸ボート乗り場(現、カナルカフェ)

牛込駅から飯田橋駅

文学と神楽坂

 牛込駅の開業は明治27年(1894)10月9日。廃業は昭和3年(1928)11月15日。風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。

●牛込停車場
牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。
當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。
今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。

[現代語訳]牛込停車場は、牛込堀の東側を埋めて設備した甲武鉄道線の駅であり、飯田町の次に来る停車場だ。その構成は四谷停車場と大差はない。ただし、当所の階上の廊下は、駅の西側にあり、直ちに旧牛込門の南口の乗車券売り場に行く場合、右の下に行けばよく、四谷や新宿に行くブラットホームになる。飯田町行は改札所の前で、跨線橋を登るわずらわしさはない。
 当所の土手には四谷と違って多くのつつじの花はないが、秋の夜、草むらのつゆのなかで、虫の音は心がひかれる。
 現在は電車の準備中で、長い黒煙を吹いて走る奇観はないといえよう。なお、土手の松では電車のほうがよくはないか。

甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
飯田町 牛込駅の建設が終わると、下の橋も利用可。飯田町の場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。

 明治初期(おそらく明治10年以前)、まだ牛込橋は1つだけです。

 明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 牛込見附の桜花について、石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)は

明治34年、牛込御門の前に明治34年架橋の牛込橋。右手にあった牛込御門は明治5年に渡櫓が撤去され、明治35年には門構えも収り壊された。左手は神楽坂になる。右に甲武鉄道が走るが飯田橋駅(明治3年11年15日開業)はまだなかった。この写真で右後方に牛込停車場があった。ルーペで覗くと右橋脚の中程に線路が見える。橋上の人は桜見物を演出するためのサクラのようだ。

 同じく石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」で

これと同じ牛込橋だ。現JR中央線飯田橋駅西口付近である。赤坂溜池からの水(南側)と江戸川から導いた水(北側)の境目で、堀の水位に高低差があった。今も観察すると水に高低があることが分かる。

 関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、1928年(昭和3年)11月15日、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 新光社「日本地理風俗大系 II」(昭和6年)では……

牛込見附

 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が繞らされている。濠の内側には要所要所に幾多の関門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾が大方跡形もないが山手方面には当時が偲れる石堰や陸橋が残っている。写真は牛込見附で石垣が完全に保存されている。

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「首都圏の鉄道と駅の写真」には

 山高登氏の「東京昭和百景」(星雲社、2014)では 昭和48年(1973年)頃の牛込橋の絵画です。

山高登「東京昭和百景」星雲社。2014。「牛込見附夕景」は1973年

 牛込見附夕景(1973年)
JR飯田橋駅のホームから描いた。市ヶ谷堀から来た水が落ちるところが揚場町の堀だった。此の河岸は文字通り建築材料や材木を陸揚げする岸で、外堀は飯田橋で神田川に合流していた。右手の灰色の建物は近くの警察病院の病棟の分室。正面の神楽坂口を出ると左にはいくつか学校があって学生の乗降が多かった。

警察病院の病棟の分室 正しくは警察官の牛込寮でした。

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

 以前の飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

 また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。

新飯田橋駅

20/7/12から http://blog.livedoor.jp/schulze/archives/52256026.html

 新しい西口駅舎