白銀坂」タグアーカイブ

神楽坂—坂の町

文学と神楽坂

 北斗星の『月刊監査役』(日本監査役協会、1993)では……

新宿—坂の町—神楽坂

 新宿と言えば、誰もが新宿駅西口側に林立する高層ビルの光景を思いうかべるにちがいない。都庁も新宿に移転して新庁舎が完成し、今や新宿は首都東京のみならず日本を代表する顔になったと言っても過言ではない。新宿駅の東口側には、歌舞伎町などの繁華街・歓楽街も広がり、昼夜の区別なく人々が集散する町、それが新宿である。
 誰もが抱くこうしたイメージの新宿のすぐ傍らに同じ新宿区にありながら、全く対照的に、落ち着いた静かな佇まいの町があり、伝統的な職業や生活様式を大切に守っている人々が、何代にもわたって住み続けていることは、意外に知られていない。
 現在の新宿区は、昭和22年までは、四谷、牛込、淀橋の三つの区に分かれていた。その牛込地区を日曜などに散策してみて先ず気が付くことは、坂が極めて多いことである。区から出ている地図を広げて名前をひろってみたら、
 まだまだあるが、それにしても、趣きのある名、粋な名、愉快な名がつけられているものである。ひとつひとつの坂に、歴史や由来がありそうで、調べてみたらきっとおもしろいにちがいない。
 坂は数限りなくあるが、この中で有名なのは何といっても神楽坂である。神楽坂という名前の由来については、坂の途中二箇所に標柱が建っていて、
 「市谷八幡のお祭りで牛込見附で神楽を奏したからという説、近くの若宮神社のお神楽がこの坂まで聞こえてきたという説、赤城明神の神楽堂がこの坂の途中にあったからという説など諸説ある。」
と書かれている。

新庁舎が完成 昭和60年(1985)に新宿移転が決定。昭和63年(1988)4月に着工。平成3年(1991)3月9日に落成式、4月1日に開庁。
佇まい たたずまい。立っている様子。ものによってかもしだされる雰囲気・様子・ありさま
四谷、牛込、淀橋の三つの区 四谷区、牛込区、淀橋区は、昭和22年(1947)3月15日に合併して新宿区に
闇坂 くらやみざか。新宿区教育委員会によれば「この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたという」
途中二箇所 1丁目善国寺にあります。

 神楽坂は、JR中央線の飯田橋西口を降りて、外堀通り牛込見附から大久保通り交わるところまでをいうのだそうだが、大久保通りの神楽坂上の交差点を越えて再び坂を登り、地下鉄東西線の神楽坂駅の入口のある赤城神社参道あたりまでも含めて神楽坂ということもあるという。
 元祖神楽坂のほぼ中ほどに、毘沙門様で有名な善国寺がある。ここは、江戸時代から山の手七福神の一つとして庶民の厚い信仰を受け、その縁日は大変な賑わいであったという。文豪夏目漱石の小説『坊っちゃん』の中にも、
 「それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸許りの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落として仕舞ったが是は今考へても惜しいと云ったら、赤シャツはあごを前の方へ突き出してホゝゝゝと笑った」
と書かれている。
 縁日に夜店が出るようになったのも、この毘沙門様の縁日が最初で、明治20年頃だったそうである。
 また神楽坂には、文人の旧居や記念碑などが多いが、この町特有の雰囲気に魅かれたからであろう。
 当時の情緒を今日に伝えるものが数多く残されている神楽坂にも、カラオケ・ハウスやディスコが出現し、時代の波は確実に押し寄せてきている。
 神楽坂界隈を散策して、明治・大正の文人たちの情緒に浸ることができるのも今のうちかもしれない。
(北斗星)

飯田橋西口、外堀通り、大久保通り、神楽坂上交差点、地下鉄東西線の神楽坂駅、赤城神社参道、善国寺

神楽坂と神楽坂上交差点、神楽坂下交差点

牛込見附 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」は「牛込御門」「牛込門」と全く同じ。さらに、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができると市電の駅(停留所)をも指し、さらに「神楽坂下」交差点も一時「牛込見附」交差点と呼び、交差点や、この一帯の場所も「牛込見附」と呼びました。
八寸 約24cm

相生坂と白銀坂|東五軒町と白銀町

文学と神楽坂

 (あい)(おい)(ざか)、別名は(つづみ)(ざか)は、白銀町から東五軒町と西五軒町へ下る坂で、2つあります。

相生坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では、

相生坂(あいおいざか) 別名をつづみ坂という。白銀町から東五軒と西五軒町の間へ下る坂路で、「続江戸砂子」は「相生坂 小日向馬場のうへ五軒町の坂なり、二坂並びたるゆへの名なり。」とし、「新編江戸志」は「鼓坂、筑戸の方より小日向へ下る坂なり。二つありてつづみの如し。」としているが、「新撰東京名所図会」は「同町(西五軒町)の南と東五軒町の間を北へ下る坂あり、相生坂といふ。小日向の新坂と相対するが故なり。」とし、また「東京府志料」も「坂名は小日向の新坂と南北相対せるを以てかく唱ふといふ。」と記している。
 地理的にみればこの坂は江戸川をはさんで新坂の西方荒木坂に相対している坂で、新坂では位置がややずれている。したがって「続江戸砂子」が「二坂並びたるゆへの名なり」といっているのは、むしろ赤城神社をはさんで、その西わきを北に下る赤城坂を対称としていったものかとも思える。後考をまつ。
続江戸砂子 続江戸砂子温故名跡志名所古蹟拾遺では「相生坂 小日向馬場のうへ、五軒町の坂也。二坂並びたるゆへの名也と云」
新編江戸志 「築戸の方ゟ小日向へ下る坂也 二ツありてつづみのとく」
新撰東京名所図会 「同町の南と東五軒町の間を北へ下る坂あり、相生坂といふ、小日向の新坂と相對するが故なり。」
東京府志料 「坂隆 相生坂 町ノ南従前市廛ノ前東五軒町トノ間ヲ北へ下る 坂名ハ小日向ノ新坂ト南北相對セルヲ以テ斯唄フト云 長二間 幅四間」

 では横関英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)ではどうなっているのでしょうか。

 江戸時代から現代までの(あい)(おい)(ざか)を並へてみると、おおよそ、次の三つに分類することができる。
  A 坂路が途中でY字型に分れているもの
  B ニつの坂が平行しているもの
  C こつの坂が離れて合っているもの
 東京都内の相生坂は、今日ほとんど昔の形を残いていないほどに道路をいじっているものもあるので、多少苦しい形になってはいるか、それでも現代の坂路から、相生坂と呼ばれた当時の形を想像することはできる。(中略)
 同じ根もとからはえた松を相生の松というのであれば、相生坂もY字型のほうが原義に合うように思われる。『百草露』には、「播磨の国に高砂の松とてあるは、根はひとつにて、上はふたつにわかれて雌雄の双生也」とあって、これを相生の松と呼んでいる。これなら相生の松として申し分はない。それから日光の「相生の滝」であるが、これも二つの滝が並んで落ちて、一つの流れに落ち合って、末は一本の川となって厦れて行くかたちのもので、明らかにY字型に属している。これも理想的に相生である、ニつの平行した坂路や大小二つの坂のくっついたもの、向き合っている坂などに、相生坂という名称をつけたことのほうが、むしろ、おかしいくらいのものである。

 標柱は

坂の由来について、2つの坂道が並んでいるから(『続江戸砂子』)、小日向の新坂と向かいあっているから(『御府内備考』)、などの説がある。

 昔の標柱は

「続江戸砂子」によると、「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。

 東側の相生坂は

相生坂 東

 西側の相生坂は

相生坂 西

 もうひとつ、白銀坂という坂があります。

白銀坂

「神楽坂附近の地名」では、白銀坂は相生坂から南の場所(赤)にあることになっています(左図)。しかし、この場所は坂ではなく、平地です(右図)。
 もうひとつは、赤色の相生坂は右側の相生坂そのものだという見解です。たとえば、岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)では……

 平行して並ぶもう一本の坂は、前述の白銀町の西北隅を北に下る坂(市販の地図は、これを白銀しろがね坂としている)の坂上を東に寄ったところにある。国鉄アパートの西側を、北に下る、急坂である。この坂の坂上にも標柱が建ててあり、これにも同じく、小日向の新坂に向かい合う相生坂だと記してある。

 なお、国鉄アパートは現在はマンションになりました。
 さらに小林信彦氏の『新版私説東京繁昌記』(筑摩書房、1992年)では

 大久保通りを横切って、白銀しろがね公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱しているのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。

 どうも、この白銀坂は他と少し違っているようです。