長田幹彦氏が書いた「わが青春の記」(初発は『中央公論』昭和11年。日本図書センター『長田幹彦全集 別巻』1998年)には、明治41年1月、長田氏などの七人が新詩社から脱退する顛末が書かれています。この決定は神楽坂の「紀の善」で行いました。
長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪。小説「澪」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。
新詩社脱退事件は誰れが主謀者であつたか、今では記憶がはつきりしてゐない。とにかく皆鬱勃としてゐたのであるから、一人が火をつければ忽ち燃え上るに極つてゐる。近頃流行の一觸卽發といふ奴である。何んでも神樂坂の下の紀之善といふ鮨屋の二階へ集つたのが、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、深井天川、秋庭俊彦、秀雄、僕この七人で、新詩社脱退の議は忽ちそこで一決してしまつた。その理由は、とにかく與謝野寛氏に對する不信任で、折角われわれが努力していい詩をつくつても皆與謝野寛氏に吸収されてしまふ。新詩社といふやうな團體を結成してゐては、成長の見込みがない。だからこゝで分裂して自由な天地へ泳ぎ出ようといふやうなことだったと思ふ。
その翌晩僕の家へ又皆が集まつて、仕出し屋ものか何かとつて、大いに氣焔をあげたものである。その座に加はつたのが、蒲原有明先生、それから瀧田哲太郎氏もゐた。瀧田氏は僕の親父の患家だつた。で、それで招んだのだつたと思ふ。むろんもうその頃には中央公論の編輯をやつてゐて、小栗風葉氏や獨歩氏のもので大いに賣つてゐた時代であつた。 |
新詩社 明治32(1899)年、与謝野寛(鉄幹)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
首謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家でした。
仕出し屋 注文に応じて料理を作って配達する店。出前をする店。
気焔 燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。
宴たけなはに、皆で唐紙に寄せ書をやつたが、それは非常に面白い記念品である。一度さがしてみてもしあつたら、是非寫眞版にして掲載してもらはふと思つてゐる。
蒲原先生はりんりたる醉筆を揮つて白秋の似顔をかき、「白秋は三位一體の教へ説き」と賛をされたのであつた。 さて脱退と決した翌日われわれは顏をそろへて、新詩社へ押しかけた。新詩社は丁度今の神宮外苑の裏参道のところにあつて、家賃にして二十圓位の、板羽目のどぎどぎした小さな貸家であつた。霜どけの頃にたると、道がどろどろにぬかつて、垣根には山茶花が寂しく咲いてゐるやうな町であつた。 與謝野氏もたゞならぬ氣勢を感じたとみえて、眉宇の間に不安の色を漲ぎらせながら、我々を迎へた。脱退のことは誰が先へ口をきつたか、忘れたが、とにかく口頭で、勇敢に聲明をやつてのけた。與謝野氏は默つて聞いてゐゐたが、そこへ長男の息子さんが入つてきて何かいふと、與謝野氏はかツと激怒して、眞鍮の火箸を坊ちやんへ投げつけた。往年の朝鮮時代の鐵幹を思はしめるやうなその顛は實に恐ろしかつた。僕はその時にもむろん味噌ッ滓なので、隅の方へすツこんで小さくなつてゐた。陣笠の悲哀は何處までもついて廻つた。與謝野氏の居間には座敷の半分もあるやうな大きな木製の寢臺が据ゑてあつたが、僕はその陰へ坐つて、事件の推移を固唾をのんで見てゐた。その時、僕はいよいよ詩に見限をつける決心がついたのであつた。 (長田幹彦「わが青春の記」『中央公論』昭和11年4月)
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りんり 淋漓。勢いなどが表面にあふれ出る様子。
酔筆 酒に酔って書画をかくこと。その作品。酔墨。
三位一体 さんみいったい。キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。三つのものが一つになること。また、三者が心を合わせること。
賛 さん。ほめたたえること。その言葉。
板羽目 板で張った壁や塀。板張りの壁や塀
どぎどぎ 刃物の鋭利なさま。うろたえ、あわてるさま。
気勢 きせい。何かをしようと意気込んでいる気持ち。気配と間違えたもの? 気配は、はっきりとは見えないが、漠然と感じられるようす。
眉宇 まゆのあたり。まゆ。「宇」は軒。眉を目の軒と見立てていう
往年 おうねん。過ぎ去った年。昔。
思わしめる 古語。思わせる。「しめる」は使役の意味。
味噌っ滓 みそっかす。味噌をこした滓。価値のないもの。一人前にみなされない子供。
陣笠 下級の武士が兜の代わりにかぶった笠。政党などで一般の議員。ひら議員。政党の幹部に追従し、自分の主義・主張をもたない議員
寝台 寝るとき用いる台。ベッド。
固唾 かたず。緊張した時に口中にたまるつば。