石切橋」タグアーカイブ

飯田橋分水路工事(写真)ID 14812〜15 昭和52年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 14812-15は昭和52年(1977年)、飯田橋分水路の工事を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14812、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14813、飯田橋分水路工事、昭和52年

 神田川沿いの目白通りを東向きに撮影しています。ID 14812は右端に「石切橋」の交差点表示と信号機。左の先に石切橋があり、神田川を渡っています。目白通り沿いには写真奥に向けて「三菱石油」「共立」の看板。さらに奥のビルの「◯AN」は、ID 14813の「TO」と併せて「TOPPAN」(凸版印刷)でした。
 首都高速道路はT型橋脚で、「非常駐車帯」の出っ張りが路面を覆うコンクリートに影を落としています。分水路の工事が終わったあとでしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14814、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14815、飯田橋分水路工事、昭和52年

 ID 14812-3とは逆で西向きの撮影です。首都高のT型橋脚は右側が長く、神田川の上にせり出しています。ID 14815は手前の交通信号のある橋橋を自動車が渡っていて、これは「古川橋」です。さらに奥に向けて「掃部かもんばし」と「はなみずばし」と「江戸川橋」と続きます。

 ID 14814の左に「三菱銀行」の江戸川橋支店の看板があります。この支店は2020年10月26日に統合(廃止)され、現在は三菱UFJ銀行神楽坂支店内です。

石切橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「石切橋」からです。

石切橋(いしきりばし) 新宿区水道町から文京区水道二丁目に渡す江戸川の橋で、西江戸川橋古川橋のあいだにあり、古くは単に大橋とよび、寛文年間に架されたといわれ、新編江戸志に「大橋 俗に石切橋と云う。赤城下へゆく通りなり、馬場片町より水道丁へわたす。むかし此所に石切あるよりの名なり。」とあり、府内備考に、
 一、橋 長凡八間程 幅2間1尺
 右は江戸川相掛り候橋の儀は町内(小日向水道町)より牛込水道町の方へ渡り小橋御座候。江戸川大橋と相唱え申し候。又里俗石切橋とも唱え候えども、如何の訳にて唱え来り候や相知れ申さず候。御役所向に認め候節は、江戸川大橋と相認め申し候。右は武家方御組合橋にて、町内東側横町間口十九間の処、右入用差出し来り申し候。
 とあり、また新撰東京名所図会も諸書を引いて「石切橋 小日向水道町と西江戸川橋との間より牛込水道町に通ずる木橋にして江戸川に架せり、もと大橋といえり。続江戸砂子に云う。大橋、馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切はしというなり。(下略)」と記述している。明治19年橋架明細表ではこの橋は長8間半、幅3間の木橋で、江戸川にかかっていた諸橋のうちではもっとも幅員が広い。むかし大橋とよんだのもそういうことからであろうか。
  下りて石切橋をわたる。ここは神田上水の下流なる江戸川の流るる所なり。橋より下十町ばかりの間、両岸に桜樹ならびて新小金井の称あれど、それでは小金井があまりかわいそうなり。殊に近年水大いに減じて、川よりも寧ろのようになりて風致一層減じたり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
  江戸川の水かさまさりて春雨のけぶり
  煙れり岸の桜に    若山牧水

古川橋 ふるかわばし。文京区水道2丁目と文京区関口1丁目との間をつなぐ神田川の橋。神田川は古川ふるかわと呼ぶ時期があった。
大橋 大橋は他の大きな橋を比較検討することではなく、近隣の橋との対比で、大橋と呼ぶことが多い。
寛文年間 1661年から1673年まで。
新編江戸志 しんぺんえどし。別称江戸誌。近藤儀休編著・瀬名貞雄補。寛政年間。「江戸砂子」の体裁を意図して刊行。内容は江戸城を中心に東は葛飾、南は六郷、西が武蔵府中、北が豊島・川口方面の地誌を記す。
石切橋 いしきりばし。名前はこの周辺に石切りが住んでいたことからつけられた。石切りとは、石材に細工をする職業や職人。いし。石屋。
武家方 ぶけがた。武家の人々。武家衆。武家とは武士の総称で、公家くげはその反意語。
御組合 ある目的で、仲間をつくる、その人々。「御」は「庶民ではなく、武士がつくった組合」の意味。
馬場片町 新宿区西五軒町の一部。古く牛込村の沼地だったが、承応年中(1652-55)に埋立て、武家屋敷等を建築。町名の由来は、この時に小日こびなた馬場の隣接地だったことによる。
水道丁 東京都文京区の町名。「丁」は「市街の一区画」の意味もあったが、代わって明治期には「町」を使った。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
長凡八間程 幅2間1尺 長さ約1456cm、幅394cm
間口 正面からみた敷地・家屋などの幅。
十九間 3458cm
入用 いりよう。必要である。必要な費用。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
小日向水道町と…… 原文と引用の2つが違っています。「新撰東京名所図会」の本来の引用では「牛込水道町より小石川水道町に通ずる木橋にして、江戸川に架せん、古川橋と西江戸川橋との間の橋なり。府内備考、牛込水道町の書上に(略)と見ゆ。本名は江戸川大橋にして、石切橋は其俗称たりしてと比記に據て詳らかなるべし、橋の名は、蓋し側に石工の宅あろしに起因すべけれど、其證なければ容易に断定し難し、石切の俗称、最も著はれ、江戸川大橋の名は遂に世人の忘却する所となれり」
続江戸砂子 正しくは「続江戸砂子温故名跡志」。享保20年刊(1735)。江戸砂子の著者、菊岡沾涼による補遺。内容は五巻からなり、巻一は江戸の年中行事、巻二は江戸方角図・御役屋敷・高札場等、巻三は神社拾遺・名所古蹟拾遺として日本橋の南北辺・小日向・深川・渋谷・目黒・本所・亀戸など、巻四は浄土宗一八檀林と諸州宗役寺、巻五は名木。四季の遊覧場所なども紹介。
明治19年橋架明細表 石切橋では長さ8間半、巾3間、25.5坪、木造、明治7年12月架換。川名は江戸川。
長8間半、幅3間 長さ1547cm。幅546cm
幅員 ふくいん。道路・橋・船などの、はば
十町 1町は60間。メートル法換算で約109m。10町は約1090m
 みぞ。地を細長く掘って水を通す所。どぶ。下水。流し元の小溝
大町桂月 おおまちけいげつ。詩人、随筆家。東京大学国文学科卒業。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。また紀行文を多く書いた。生年は明治2年1月24日(1869.3.6)。没年は大正14年6月10日。57歳
水かさ みずかさ。水嵩。川・湖・池などの水の量。水量。
けぶり 煙。物が燃えるときに立ちのぼる、微粒子が混じた気体。けむり。
煙れり けぶる。煙る。煙が立ちのぼる。煙などでかすんで見える。

石切橋

桜並木だった神田川土手|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 43.桜並木だった神田川土手」についてです。

桜並木だった神田川土手
      (新小川町)
 大曲から石切橋までの間は、明治から大正にかけて両岸が桜並木で、花時には人出でにぎわったものである。島崎藤村の詩集「若菜集」(明治30年)には「水静かなる江戸川の、ながれの岸にうまれいで、岸の桜の花影に、われは処女となりにけり」という一節がある。
 武蔵野をこよなく愛した織田一磨の「武蔵野の記録」には、大正6年の石切橋あたりの絵と説明があるが、それによると清流が豊富で、桜並木では、春は灯火をつけ、土手には青草が茂って摘草もできたということである。
 大正12年以後昭和8年にかけて神田川改修工事が行なわれると、その姿はなくなった。
 〔参考〕 新宿と文学

若菜集 明治中期、島崎藤村の第一詩集。1897年に春陽堂から刊行。詩51編。ロマン主義文学の代表的な新体詩。
水静かなる江戸川の これは「二 六人の処女をとめ おえふ」の項で出ています。他に「おきぬ」「おさよ」など。
処女 詩には「おとめ」と読み方がついています。「おとめ」は「おとこ」の反意語で、年の若い女。未婚の女性。むすめ。しょうじょ。処女。
大正6年の石切橋 「第16図 江戸川石切橋附近」と「第18図 江戸川河岸」です。

江戸川石切橋附近

第16図 江戸川石切橋附近 (素描)大正6年作 四ツ切大
 江戸川の護岸工事が始まるというので、その前に廃滅の詩趣とでもいうのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思って、可成精密な素描を作つた。
 崩潰しようとする石垣に、雑草が茂り合った趣き、民家の柳が水面にたれ下った調子、すべて旧文化の崩れようとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折ったものだ。
 20図、21図も同様の目的で、同時代の作品であるが、記録といる目的が相当に豊富だったために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失われている。芸術としては、牛込見附の方に素描らしい味覚がある。
 記録としてはこの図なぞ絶好のもので、これ以上にはなれないし、それなら写真でもいいということになってしまう。

江戸川河岸

第18図 江戸川河岸 (素描) 大正6年作 四ツ切大
 この作も前記二図と同じ意図の下に描写した記録作品で、江戸川に香る廃滅する詩趣を写さんと志したものだ。河の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。
 石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れている。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来ていないし、橋梁もまだ旧態を存していた。
 この下流へ行けば大曲までは桜の並木があって、春は燈火をつけ、土手には青草が茂っていて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代って、殺風景というか、近代化というか、とにかく破滅した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思わせる。

西江戸川橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「西江戸川橋」についてです。

西江戸川橋(にしえどがわばし) 文京区水道二丁目から新宿区西五軒町江戸川に架され、石切橋中之橋の間にある。この間にはざくら橋(西江戸川の下手)もあるが、いずれも江戸時代にはなかった橋で、西江戸川町から西五軒町に渡されたので西江戸川橋と命名したもので、新撰東京名所図会はこれを「西江戸川橋 西江戸川町(小石川区)より牛込五軒町に通ずる木橋にして、江戸川に架せり、即ち石切橋と中之橋との中間に位し、前記の諸橋に比し最も後れて架設せられたる橋なり、万延元年秋改の小日向絵図に載せず、明治後の架橋なり、又前田橋ともいう。」としているが、東京府志料(明治7年編)にはこの橋の記載がないので、それ以後の創橋であろう。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰から船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、半分は水道一丁目、昭和41年4月1日、残る半分は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
西江戸川橋 不思議ですが、この文章で始まるものは「新撰東京名所図会」牛込区や小石川区に全くありません。
小日向絵図 嘉永5年(1852)、外題「小日向絵図」、内題「礫川牛込小日向絵図」が刊行され、それに手を加えて改訂された切絵図「小日向絵図全 礫川牛込小日向絵図」(万延元年、1860年、作者は戸松昌訓、金鱗堂 尾張屋清七)です。
前田橋 昭和28〜29年の間、初めて「前田橋」が架橋され、約25年後の大正11年になると「西江戸川橋」になっています。

1. 東京実測図(明治20年)2. 東京実測図(明治20年)3. 東京実測図(明治28年)4. 東京市牛込区全図(明治29年8月調査)5. 東京市牛込区全図(明治40年1月調査)6. 地籍台帳・地籍地図(大正元年)7. 東京市牛込区(東京逓信局編纂. 大正11年)

(1) 明治20年は中之橋と石切橋の間には何もありません。(2)同じ明治20年ですが、新しい架橋があり、しかし、橋の場所が違っています。(3) 28年もほぼ同じ絵ですが、(4)明治29年になって、初めて地図とほぼ同じ場所になりました。しかし、橋の名前は「前田橋」でした。(5)明治40年、(6)大正元年も「前田橋」ですが(7)大正11年となると「西江戸川橋」と変更、現在と同じ名前になりました。さらに新しく橋が1つ、「西江戸川橋」の東側で「小桜橋」と同じ場所に登場します。
 なお、(2)と同じ橋が下の図でも出ています。

西江戸川橋の由来

東京府志料 明治5年、陸軍省は各府県勢を把握するため、地図・地誌の編纂を企画し、これに応じて東京府が編纂した地誌。人口・車馬・物産等は明治5年、田畑数・貢租の額等は6年、区界町名の改正等は7年に基づいて編纂。

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

明治33年(1900年)、花見客で賑わう江戸川橋。この絵は江戸川小同窓会長 石川省吾氏

中之橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。今回のテーマは中之橋です。

中之橋(なかのはし) 新宿区新小川町二、三丁目のさかい文京区水道一丁目江戸川に渡された橋で、創架年月は不詳だが寛文図に無名ながら記されている。東京市史稿はこれについて、「橋 橋名なし 同川筋(江戸川)に架し、後の中の橋に当るべきものなれど、位置やや上流にあり。この橋の位置の変れるは元禄頃なり。中の橋は武江図説に『中の橋、同し川に渡す。立慶橋大橋の間、築土下へ行く通り、此辺りゅうヶ崎と云う、一名鯉ヶ崎とも云う。』とし、また府内備考には「中ノ橋は築戸下より江戸川ばたへゆく通りにかかる橋なり。立慶橋と石切橋の中なる橋なれば、かく名付くなるべし。」と記す。明治時代になってこの江戸川両岸に桜が植えられ、市民遊行の地となった。小石川区史はこれを、
  石切橋より下流隆慶橋に至る間の江戸川両岸一帯の地は、明治の末頃まで市内屈指の桜の名所として讃えられていた。此処の歴史は比較的新しく、明治17年頃、西江戸川町居住の大原某が自宅前の川縁に植樹せるに始まり、附近の地主町民が協力して互に両岸に植附けたので、数年にして桜花の名所となり、爾来樹齢を加えると共に花は益々美しく、名は愈々喧伝せられて、其景観が小金井に似たところからいつしか「新小金井」の名称を与えられ、観桜の最勝地たりし中の橋は小金井橋に比せられるようになった。
 そこで地元でも時には樹間に雪洞ぼんぼりを点じ、俳句の懸行燈かけあんどん、花の扁額、青竹のらちなど設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて花のトンネルを上下すれば、両岸の花影、燈影、水に映じて耀かがやき如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった
  はつ桜あけおぼめく江戸川や水も小橋も
うすがすみして              金子薫園
ほそぼそと雨降り止まぬ江戸川の橋に
たたずみ君をしぞ思う           小林 操

新撰東京名所図会。牛込区。東陽堂。明治37年。

新小川町二、三丁目 現在は「丁目」を付けません。昭和57年(1982)住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合され、単に「新小川町」といいます。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んでいました。
寛文図 寛文江戸大絵図。寛文10年12月に完成。絵図風の地図ではなく、実測図に従い、正確な方位を基準として、以後江戸図のもとになった。

武江図説 地誌。著者は大橋方長。安永2~寛政年間(1773~1799)に刊行し、寛政5年(1793年)に筆写。別名は「江戸名所集覧」
東京市史稿 明治34年から東京市が編纂を開始し、令和3年、終了した史料集。皇城篇、御墓地篇、変災篇、上水篇、救済篇、港湾篇、遊園篇、宗教篇、橋梁篇、市街篇、産業篇の全11篇184巻
大橋 石切橋と同じ
築土 つくど。江戸時代には「築土明神」も「築土」も正式な名前でした。なお「築土前」「築土下」はそれぞれ「築土の南側」「築土の北側」の意味。
築土下へ行く通り、此辺立ヶ崎を云う、一名鯉ヶ崎とも云う 「築土の北側に行く道路があるが、この周辺を立ヶ崎という。別名、鯉ヶ崎という」。「崎」は「岬 。みさき。海中に突き出た陸地」の意味です。文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)によれば「『新編江戸志』に、『中の橋、築土つくどへ行く通りなり、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(約一米)に及ぶなり。』とある。」。つまり「立ヶ崎」や「恋ヶ崎」よりも「鯉ヶ崎」の方が一歩も早く世に出た言葉だったのでしょう。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
築戸 「つくど」と読む方が正しいのでしょう。
ばた はた。端。傍。側。物のふち、へり。ある場所のほとり。そば。かたわら。そばにいる人。第三者。
江戸川両岸に桜

小石川区史」から

江戸川桜花満開『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』尚美堂 明治43年 国立国会図書館デジタルコレクション

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

遊行 ゆぎょう。出歩く。歩き回る。
小石川区史 昭和10年、小石川区役所が「小石川区史」を発行しました。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、1/3は水道一丁目に、昭和41年4月1日、残る2/3は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

川縁 かわべり。かわぶち。川のへり。川のふち。川ばた。川べ。
爾来 じらい。それからのち。それ以来。
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まる様子。ますます。より一層
小金井 元文2年(1737年)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門が吉野や桜川からヤマザクラの名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。
最勝地 これは誤植。正しくは「景勝地」。けいしょうち。景色がすぐれている土地。
 この文章は一般的な花ではなく、桜のことでしょう。「桜の時には樹間に雪洞を点じ、俳句の懸行燈、桜の花の扁額、青竹の埓など設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて桜のトンネルを上下すれば、両岸の桜影、燈影、水に映じて耀き如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった。」
雪洞 行灯。あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
懸行燈 掛行燈。屋号や商品名を書いて店先に掛けて看板代わりにするもの。俳句の懸行燈とは、屋号や商品名に加えて俳句もはいるもの。

扁額 建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(額とは書画などをおさめて、門・壁などに掲げておく)。
 周囲に設けた柵。
夜の観楽境であった この文章は「小石川区史」881頁に載っています。なお、このあとに続く文章があり「然るに其後江戸川の護岸工事の為め、漸次桜樹の数を減じて、大正の末年頃には当時の面影を全く失い、両岸は総てコンクリートの堅固な石垣と化して、忘れたように残る少数の桜樹に昔の名残を偲ぶのみとなった。已むを得ざる工作の結果とは云えあまりにも悲しき文化の侵略ではある」
はつ桜 はつざくら。その年になって最初に咲く桜の花。季語・春
 あけぼの。夜がほのぼのと明けはじめる頃。
おぼめく はっきりしない。あいまいである。ぼやける。
うすがすみ  薄くかかったかすみ。かすみが薄くかかる様子
金子薫園 かねこくんえん。歌人。和歌の革新運動に参加。明星派に対抗して白菊会を結成。近代都市風景を好んで歌った。生年は明治9年11月30日、没年は昭和26年3月30日。満75歳で死亡。
ほそぼそ 非常に細いさま。物がかろうじてつながっている様子。かろうじてその状態が続いている様子
思う 慕う。愛する。恋する。

首都高(写真)石切橋 平成元年 ID 509, 510

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」では、平成元年(1989年)9月、ID 509のタイトルは「石切橋から大曲」、ID 510のタイトルは「大曲から石切橋」を撮影したといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 509 石切橋から大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 510 大曲から石切橋

神田川の橋

 ID 509では石切橋の上から大曲方面を撮影しました。神田川の向かって左側(北側)は文京区です。
 西江戸川橋と小桜橋がはっきりと見え、その先の中ノ橋は川面に影が落ちています。新宿区のある右岸(南側)に台のようなものが等間隔に並んでいます。護岸の石組みの色が変わっており、工事の足場のようなものかもしれません。
 この付近は出版・印刷の街です。左岸に見える「太洋社」は中堅の出版取次(書籍問屋)でしたが、2016年(平成28年)に経営破たんしました。現在はマンション「ブリリア文京江戸川橋」です。少し先には(TOP)PAN(凸版印刷)が見えています。
 右岸には首都高速道路5号線(池袋線)が建ち、ふくらんだ「非常駐車帯」があります。高い柱の上に非常電話のピクトグラムと「非常電話 SOS」が併記されています。

 ID 510の写真説明の「大曲から石切橋」は誤りで、目白通りの石切橋付近から大曲方向を撮影しています。右寄りの信号機の表示3文字は読めませんが、少し先に首都高の非常駐車帯があることから、ここが石切橋交差点であることが分かります。交差点の左の橋が石切橋で、この橋からID 509を撮影しています。石切橋の文京区側のたもとの2階家は江戸期から続く鰻の「はし本」です。
 また信号機の右奥に8階建てのビルがあります。これは2009年Googleにあった石切橋の8階建てのビルとよく似ています。1989年、写真のビルの2階と3階の窓がなく、ここは違っていますが、4階以上の窓は4枚に分かれ、非常階段は酷似しています。これは2017-18年に取り壊されて、2019年に三晃ビル(マルエツ 江戸川橋店)になりました。

首都高(写真)新小川町~石切橋 昭和52年 ID 501-505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501-05は、昭和52年(1977)5月、新小川町から東五軒町、さらに石切橋までの首都高速道路5号線(池袋線)のカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501 飯田橋インターチェンジ

 この写真はID 12208(2)とほぼ同じです。ただID 501は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 502 飯田橋インターチェンジ

 場所について遠くの首都高には膨らんだ「非常駐車帯」があり、首都高は標識(最高速度60キロ)、橋脚は「T型」で「飯田橋ランブ」は見えません。目白通りの左側の建物は半世紀前とは多くが違っていますが、左端で見切れているのは2021年頃に解体されたトーハンの旧本社でしょう。横断歩道を右側に越えていくと、架橋があり、信号機は3つ。また、歩道の先では左に行く小さな道路も。建物は半世紀昔に建てられて、どれも名前は全くわかりません。
 ここは「小桜橋南」交差点でしょう。
 この区間の目白通りの地下に、昭和52年度末に「江戸川橋分水路」ができる予定で、バリケードや三角コーンも沢山あります。これは完成直前の様子を撮影したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 503 石切橋附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 504 石切橋附近

 左の信号機に「石切橋」の交差点表示があり、これは「石切橋」の東側から撮影したものです。さらに行くと昭和45年に架設した「古川歩道橋」があります。標識は(転回禁止)(区間内)ですが、ID 504では(車両進入禁止)が加わっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 505 江戸川橋分水工事看板

 工事の看板は見えませんが、この写真はID 12216(4)とほぼ同じです。ただID 505は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

西五軒町(写真)神田川 昭和33年 ID 8430-32

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。

S38 大曲付近(地理院地図に加筆)

神田川の橋

 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。
 目白通りの中央には都電の軌道があります。首都高速道路は建設されていません。通り沿いの建物は低層が主体です。
 神田川の護岸は、手すりが埋もれるような形でコンクリートでかさ上げされています。大雨のたびに、この地域が洪水に悩まされていたことを物語ります。
 地図や空中写真と照合すると、左側で見切れている建物が凸版印刷の工場、右側の端が同潤会江戸川アパートです。江戸川アパートの前の通り沿いの低いビルは日本交通大曲営業所で、横看板も無理に読めば読めそうです。その奥のビルは、日本専売公社ではないでしょうか。

ID 8430 西五軒町(一部を拡大)

 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8431 西五軒町(目白通り、江戸川)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8432 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。
 西江戸川橋は石切橋とは違って鋼板をそのまま壁高欄かべこうらん(特に丈夫な欄干らんかん)に使っています。
 右側には電柱看板「質 新客歓迎 小森」「質 長島」「ナショナル」などが付いた電柱が沢山見えます。左側の電柱看板は「活字母型製造」「」(駐車禁止。これは昭和20年代に見られた英文と和文を混合した標識)です。ID 8432では路面電車が走行中。左側には店舗が並び、「文化印刷◯」、三軒あけて「カタログ社」、また数軒あけて三菱のロゴマークがあります。
 30年代の自動車がいかにも昔々しています。当時、昭和35年のサラリーマンの平均月収は約4.2万円でしたが、一方、昭和33年「スバル360」は42.5万円でした。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

首都高速(写真)新小川町 昭和44年 ID 12780, 85-86

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12780とID 12785-86は、昭和44年9月、首都高速道路5号線(池袋線)を撮影したものです。撮影場所は「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12780 新小川町付近高速道路下

 目白通りを西に向けて撮影しています。対面通行で、右カーブの先が江戸川橋交差点、背後に戻ると大曲です。
 道の上を首都高速が走り、緊急車両や道路管理車両などが停車する「非常駐車帯」も先に見えます。首都高の直下は神田川で、一本足の橋脚は川と道路の間に立っています。
 神田川には多くの橋がありますが、写真右端の細い橋は「西江戸川橋」です。橋のたもとに街灯があり、この写真では工事のため通行止めになっているようです。バリケードや土管、土盛りが見えます。
 東京都建設局の資料では、目白通りの地下の「江戸川橋分水路」の整備は、この写真より後の昭和47~52年度です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和41年10月住民の署名を添え治水対策を早急に進めるよう都河川部・下水道局に強く交渉し昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設、江戸川ー白鳥橋・江戸川橋ー船河原橋にそれぞれ放水路二本が作られました」といい、下水の移設などの準備中でした。
 西江戸川橋を渡って文京区に行くと、「北」(か「丸」「九」)で始まる事務所があります。
 39番のバスが大曲方向に走っています。この区間には都電15系統と39系統が走り、昭和43年(1968年)9月には廃止されています。この代替として都バス539系統(早稲田-上野公園)が運行し(都営バス小滝橋営業所 Wikipedia「上69系統は、高田馬場から上野まで東西に横断する。1968年(昭和43年)の都電第3次撤去で廃止された39系統(早稲田 – 厩橋)の代替として、539系統(早稲田 – 上野公園)で運行が始まる。1972年に系統番号を上69系統と変更、1974年に小滝橋車庫まで延伸した」)「539系統」は書面上のもので、乗客向けには39番を表示していたようです。「都営バス資料館 その他のヘッドマーク(省略)。代替後1年程度で定期券の移行措置が終わるとともに取り外され、それ以後は一般路線と見た目が変わらなくなった」といいます。バスの行き先は、無理をすれば「早稲田-〇〇〇〇」と読めそうです。
 江戸川橋方向にバン「Coca-Cola スカッとさわやか コカ・コーラ」や自動車「◯YAMA PRINTING CO. LTD」「岡◯商店」が見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12785 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12786 新小川町付近高速道路下

 ID 12785-86は、さらに西に行き、目白通りの「非常駐車帯」の直下で、石切橋付近から撮影しています。写真説明の「新小川町付近」からはだいぶ遠ざかっています。
 首都高の直下はチェーンスタンドとバリケードで区切られて、何台のも自動車が駐車しています。資材置き場になったのか、カバーで覆われたものもあります。恒久的な駐車場とは考えにくく、工事のために一時的に撤去したものの代替でしょうか。この場所は現在は車道になっています。
 橋脚の間に石切橋が見えます。ID 12785では道を横断する人と自転車、左端には横断する自動車が一部写っていて、右には信号機の背面が見えます。ゼブラ柄は見えませんが、ここが横断歩道だとわかります。
 石切橋の反対側(文京区)には「喫茶 アサノ」「生蕎麦」「寿司 割烹 玉明」などがあり、現在も「生蕎麦 浅野屋」が同じ場所で営業中です。
 昭和52年のID 12205は、ほぼ同じ場所の撮影で、先に行くと歩道橋があります。この「古川歩道橋」は東京都が管理し、飯田橋歩道橋と同じで、1970年(昭和45年)に架設しました(東京都建設局「横断歩道橋個別施設計画」No.439)。この写真が撮った昭和44年には、まだありません。

死者を嗤う|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛は大正7年6月に小説「死者をわら」(中央文学)を発表しています。29歳でした。

 二、三日降り続いた秋雨が止んで、カラリと晴れ渡ったこころよい朝であった。
 江戸えどがわべりに住んでいる啓吉は、平常いつものように十時頃家を出て、ひがしけんちょうの停留場へ急いだ。彼は雨天の日が致命的フェータルに嫌であった。従って、こうした秋晴の朝は、今日のうちに何かよいことが自分を待っているような気がして、なんとなく心がときめくのを覚えるのであった。
 彼はすぐ江戸川に差しかかった。そして、ざくらばしという小さい橋を渡ろうとした時、ふと上流の方を見た。すると、石切橋いしきりばしと小桜橋との中間に、架せられているを中心として、そこに、常には見馴れない異常な情景が、展開されているのに気がついた。橋の上にも人が一杯である。堤防にも人が一杯である。そしてすべての群衆は、川中に行われつつある何事かを、一心に注視しているのであった。
 啓吉は、日常生活においては、興味中心の男である。彼はこの光景を見ると、すぐ足を転じて、群衆の方へ急いだのである。その群衆は、普通、路上に形作らるるものに比べては、かなり大きいものであった。しかも、それが岸にあっては堤防に、橋の上では欄杆らんかんへとギシギシと押しつめられている。そしてその数が、刻々に増加して行きつつあるのだ。
 群衆に近づいてみると、彼らは黙っているのではない。銘々に何かわめいているのである。
「そら! また見えた、橋桁はしげたに引っかかったよ」と欄杆に手を掛けて、自由に川中を俯瞰みおろし得る御用聴らしい小憎が、自分の形勝けいしょうの位置を誇るかのように、得意になって後方に押し掛けている群衆に報告している。
「なんですか」と啓吉は、自分の横に居合せた年増の女に聴いた。
土左衛門ですよ」と、その女はちょっと眉をしかめるようにして答えた。啓吉は、初めからその答を予期していたので、その答から、なんらの感動も受けなかった。水死人は社会的の現象としては、ごく有り触れたことである。新聞社にいる啓吉はよく、溺死人に関する通信が、反古ほご同様に一瞥を与えられると、すぐ屑籠に投ぜられるのを知っている。が実際死人が、自分と数間の、距離内にあるということは、まったく別な感情であった。その上啓吉は、かなり物見高い男である。彼もまた死人を見たいという、人間に特有な奇妙な、好奇心に囚われてしまった。
嗤う 相手を見下したように、笑う。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
東五軒町の停留場 路面電車の停留場です。現在はバス停留所(バス停)に代わりました。

東五軒町のバス停 Google

フェータル fatal。命にかかわる。破滅をもたらす
小桜橋石切橋 図を参照
 西江戸川橋です。

神田川の橋

欄杆 欄干。らんかん。橋や建物の縁側、廊下、階段などの側辺に縦横に材を渡して墜落を防ぐもの。
喚く わめく。叫く。怒ったり興奮したりして大声で叫ぶ。大声をあげて騒ぐ
橋桁 はしげた。川を横断する道路の橋脚の上に架け渡して橋板を支える材。
御用聴 ごようきき。御用聞き。商店などで、得意先の用事・注文などを聞いて回る人
形勝 地勢や風景などがすぐれていること、その様子や土地
土左衛門 どざえもん。溺死者の死体。江戸の力士成瀬川土左衛門の色白の肥満体に見立てて言ったもの。
眉を顰める まゆをひそめる。不快や不満などのために、眉のあたりにしわを寄せる。顔をしかめる。
反古 反故。書きそこなったりして不要になった紙。
一瞥 いちべつ。ちらっと見ること。流し目に一たび見ること
屑籠 くずかご。紙屑など、廃物を入れる籠。
数間 1間は1.818…メートル。数間は約7〜8メートル。

 と、啓吉のすぐ横にいる洋服を着た男と、啓吉の前に、川中を覗き込んでいる男とが、話している。
 すると突然、橋の上の群衆や、岸に近い群衆が、
「わあ!」と、大声を揚げた。
「ああとうとう、引っ掛けやがった」と所々で同じような声が起った。人夫が、先にかぎの付いた竿で、屍体の衣類をでも、引っ掛けたらしい。
「やあ! 女だ」とまた群衆は叫んだ。橋桁はしげたに、足溜あしだまりを得た人夫は、屍体を手際よく水上に持ち上げようとしているらしい。
 群衆は、自分たちの好奇心が、満足し得る域境に達したと見え、以前よりも、大声をたてながら騒いでいる。が、啓吉には、水面に上っている屍体は、まだ少しも見えなかった。
足溜 足を掛ける所。足がかり。

 すると、突然「パシャッ」と、水音がしたかと思うと、群衆は一時に「どっ」と大声をたてて笑った。啓吉は、最初その場所はずれの笑いの意味が、わがらなかった。いかに好奇心のみの、群衆とはいえ屍体の上るのを見て、笑うとはあまりに、残酷であった。が、その意味は周囲の群衆が発する言葉ですぐ判った。一度水面を離れかけた屍体が、鈎のずれたため、ふたたび水中に落ちたからであった。
「しっかりしろ! 馬鹿!」と、哄笑から静まった群衆は、また人夫にこうした激励の言葉を投げている。
 そのうちに、また人夫は屍体に、鈎を掛けることに、成功したらしい。群衆は、
「今度こそしっかりやれ」と、叫んでいる。啓吉は、また押しつまされるような、気持になった。彼は屍体が群集の見物から、一刻も早く、逃れることを、望んでいた。すると、また突然水音がしたかと思うと、以前にも倍したような、笑い声が起った。無論、屍体が、再び水面に落ちたのである。啓吉は、当局者の冷淡な、事務的な手配と、軽佻な群衆とのために、屍体が不当に、曝し物にされていることを思うと、前より一層の悲憤を感じた。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
倍する 倍になる。倍にする。大いにふえる。大いに増す。
軽佻 けいちょう。考えが浅く、調子にのって行動する様子

 三度目に屍体が、とうとう正確に鈎に掛ったらしい。
「そんな所で、引き揚げたって、仕様がないじゃないか、石段の方へ引いて行けよ」と、群衆の一人が叫んだ。これはいかにも時宜タイムリイな助言であった。人夫は屍体を竿にかけたまま、橋桁はしげたから石崖の方へ渡り、石段の方へ、水中の屍体を引いて来た。
 石段は啓吉から、一間と離れぬ所にあった。岸の上にいた巡査は、屍体を引き揚げる準備として、石段の近くにいた群衆を追い払った。そのために、啓吉の前にいた人々が払い除けられて啓吉は見物人として、絶好の位置を得たのである。
 気がつくと、人夫は屍体に、繩を掛けたらしく、その繩の一端をつかんで、屍体を引きずり上げている。啓吉はその屍体を一目見ると、悲痛な心持にならざるを得なかった。希臘ギリシャの彫刻で見た、ある姿態ポーゼのように、髪を後ざまに垂れ、白蠟のように白い手を、後へ真直にらしながら、石段を引きずり上げられる屍体は、確かに悲壮な見物であった。ことに啓吉は、その女が死後のたしなみとして、男用の股引を穿うがっているのを見た時に悲劇の第五幕目を見たような、深い感銘を受けずにはいなかった。それは明らかに覚悟の自殺であった。女の一生の悲劇の大団円カターストロフであった。啓吉は暗然として、滲む涙を押えながらおもてそむけてそこを去った。さすがに屍体をマザマザと見た見物人は、もう自分たちの好奇心を充分満たしたと見え、思い思いにその場を去りかかっていた。
 啓吉も、来合せた電車に乗った。が、その場面シーンは、なかなかに、啓吉の頭を去らなかった。啓吉は、こういう場合に、屍体収容の手配が、はなはだ不完全で、そのために人生における、最も不幸なる人々が、死後においても、なおさらし物の侮辱を受けることをいきどおらずにはおられなかった。それと同時に啓吉は死者を前にして哄笑する野卑な群衆に対する反感を感じた。
 そのうちフト啓吉は、今日見た場面を基礎として、短篇の小説を書こうかと思い付いた。それは橋の上の群衆が、死者を前にして、盛んに哄笑しているうちに、あまり多くの人々を載せていた橋は、その重みに堪えずして墜落し、今まで死者をわらっていた人たちの多くが、溺死をするという筋で、作者の群衆に対する道徳的批判を、そのうちに匂わせる積りであった。が、よく考えてみると、啓吉自身も、群衆が持っていたような、浮いた好奇心を、全然持っていなかったとは、いわれなかったのである。
時宜 じぎ。その時々に応じた。ちょうど良い頃合。適時。タイミング。
タイムリイ タイムリー。ちょうどよい折に行われる。時機を得ている
後ざま うしろざま。その人や物の、後ろのほう
白蠟 はくろう。白い蝋燭ろうそく。黄蝋を日光にさらして製した純白色の蝋。
穿う うがつ。穴を開ける。人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。衣類やはきものを身につける。
カターストロフ  カタストロフ。ギリシア語のkatastrophēに由来。悲劇的結末。破局。
滲む にじむ。涙・血・汗などがうっすらと出る。
 おもて。顔。顔面。

首都高速5号線(写真)水道町 東五軒町 新小川町 昭和52年 ID 12205、12208、12215-16

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205、12208、12215-16は、昭和52年(1977)5月、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋から江戸川橋までの写真です。
 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。飯田橋-江戸川橋間は新宿区と文京区の区境にあたり、神田川の中を通っています。
 さらにID 12205、12215-16は備考として「新小川町一丁目付近 隆慶橋」、ID 12208は「水道一丁目 新小川町三丁目」をあげています。昭和57年の住居表示実施に伴い、丁目を廃止し、新小川町だけとなりました。また「水道一丁目」は「文京区水道一丁目」が普通ですが、「文京区水道二丁目」「新宿区水道町」もありえます。

(1)新宿区水道町。西向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205 首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋

 高速道路は右奥へと曲がっています。神田川のこの付近には、江戸期から「大曲おおまがり」と呼ばれた急カーブがありました。
 しかしこの写真は大曲ではありません。首都高の大曲付近の橋脚は、川を挟むように2本の足を持つ「門形」で、写真の1本足の「T型」とは違います。また左側に見える歩道橋も大曲と飯田橋交差点の間にはありません。
 該当する場所は目白通りの新宿区水道町から西向きに石切いしきりばし方向を撮影したものです。橋脚の形や歩道橋、首都高がふくらんだ「非常駐車帯」の位置、高速の下の道が(三角コーンで仕切られて)対面通行になっている様子なども合致します。

現在の新宿区水道町 Google

 なお、ID 12205の備考の説明は「新小川町一丁目付近 隆慶橋」ですが、「新宿区水道町 石切橋付近」としておきます。
 歩道橋の手前が石切橋交差点です。田口政典氏の「歩いて見ました東京の街」の1976年(昭和51)12月2日の写真06-09-54-2「下流から石切橋を」では古くて狭い石切橋が写っています。ID 12205でも、かろうじて確認できます。

 ID 12205の「安」「全」「+」の工事柵の向こうの小さな橋は、おそらく工事時の架設の橋でしょう。

(2)新宿区東五軒町。東向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12208 首都高速道路5号線 水道一丁目 新小川町三丁目

 東五軒町の北、目白通りを東向きに撮影しています。(1)のID 12205から飯田橋側に寄ったところで、位置としてはざくらばしのたもとです。
 首都高の柱の左側を神田川が流れます。川の小さななかはしも写っています。文京区側につながる斜めの橋が見えています。この橋は中ノ橋と白鳥橋しらとりばしの間にあり、「新白鳥橋」と命名されました。また「(TOP)PAN」(凸版印刷)の印刷工場は川の北側で、この場所は文京区水道一丁目にあたります。
 写真の正面奥、首都高が右に丸く膨らんでいるのが飯田橋料金所です。広がった部分を支える大きな門形の橋脚が分かります。料金所付近から右に「大曲」のカーブになります。写真右端の(共同石油)のガソリンスタンドから先は新小川町(昔の新小川町3丁目)です。
 また、地上を走る上り車線は正面の柵の奥、信号の場所で左右2本に分かれます。高速に出入り口を設置すると、どうしても道幅が狭くなってしまいます。そこで目白通りの一部を左の文京区側に通すことで交通渋滞を減らすことを狙いました。
 地上でまっすぐ奥につながる道は飯田橋に向かう目白通りの上り車線です。工事のため車が走っていません。
 以下の上り車線と下り車線はどちらも地上の車線です。

昭和54年 新白鳥橋付近(地理院地図 整理番号 CKT794 コース番号 C10 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14)に加筆。

整理番号 CKT794 コース番号 C10B 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14(昭54

現在の目白通り

 この区間の目白通りの地下には、神田川の洪水対策のための「江戸川橋分水路」があります。この分水路は昭和52年に完成しました。写真は完成直前の様子を撮影したものでしょう。高速の柱の下には、地下に降りるオレンジ色の階段入り口があります。

神田川と目白通り地下(分水路・地下鉄)の断面図(東京都建設局市料)

 新小川町付近は大雨のたびに神田川の洪水が繰り返されてきましたが、分水路の完成によってリスクは小さくなりました。


(3)新小川町(かつての一丁目)付近。北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12215 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 新小川町の東側の目白通りから、首都高の飯田橋料金所の建設風景を撮影しています。首都高の下は神田川。正面が大曲の急カーブ。背中側に隆慶橋や飯田橋交差点があります。
 首都高では出入口を「ランプ(ramp、高低差のある場所を連結する傾斜路)」と呼びます。インターチェンジ(interchange、IC、複数の道路を相互に接続する施設)やジャンクション(junction、接合点、合流点)と違い、特定方向にしか行けないからです。写真の飯田橋ランプは、目白通りから首都高5号線の北池袋方面に進入するためだけの入り口です。
 冒頭に記したように、5号線のこの区間は1969年(昭和44年)6月に開業していますが、この写真を撮影した1977年(昭和52年)でも、まだ飯田橋ランブは建設中でした。
 もう1点、特徴的なのは、三角コーンを境に対面通行になり、車が手前向きに走っていることです。この状態では、北に向かう車がランプの坂を上れません。
 撮影当時、高速道路の真下はID 12208と同様に神田川の「江戸川橋分水路」を建設していました。このため下り車線を狭めて、対向車の通るスペースを確保したのでしょう。目白通りの整備は高速道路だけでなく、地下の分水路、その下の地下鉄有楽町線の建設を含めて、非常に長期にわたりました。
 この写真の撮影場所は後に大々的に区画整理され、平成28年に放射25号線が開通。「新隆慶橋」という新しい橋が架けられました。

 ID 12215の左には「国際航空輸(送)」(かつては新小川町一丁目5)の看板がありますが、今は何も残っていません。高速道路の向こうの「日本信販」の広告は文京区です。

(4)新小川町(一丁目)付近 北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12216 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 ID 12215とほぼ同じ場所で、道を渡った高速の真下から道沿いの建物を撮影したものです。
 建設中の坂道が、飯田橋料金所に上がる首都高のランプ。その手前の坂のように見えるのは目白通りの上り車線です。一番右にガードレールが見えます。
 この区間は神田川の「江戸川橋分水路」建設のため通行止めになっています。一番、奥に工事車両が見えます。その先は新白鳥橋に分岐する交差点があります。
 道路脇の建物は新小川町で、出光とロゴマーク()と看板「全軽和」、ナショナル(現、パナソニック)のロゴマーク()などが見えます。「全軽印」の看板のビルの左は東京電力新小川町変電所で、現在も変わりません。その左側の消火栓広告は「きもの英」です。

牛込から早稲田へ

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込から早稲田へ」です。生年は1903年(明治36年)5月23日。没年は1973年(昭和48年)11月13日。享年は71歳でした。

牛込から早稲田へ
 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公くまこうというのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さがすん、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たツて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。地震後に、こゝで水谷みずたに八重子やえこが芝居をやったところだ。その先に木村屋がある。木村屋といえばパン屋だ。東京中に、この屋号のうちは何軒となくあるが、みんな銀座の店とは関係がない、こゝはそうではない。それが証拠には、GINZA DOTENとローマ字で書いてある。もう少し行く。左へ這入はいると寄席よせだ。僕が小さい時に、この寄席の突きあたりに青洋軒なるトツクニのタベモノをヒサグ店ありて、ことにオムレツなどのうまかッたことをいまでもおぼえている。この間通って、のぞいてみたら、そんなうちは影も形もなくなって、オムレツの代わりに女の子のお尻が、横丁へゆれてゆくのが見えた。
六寸一寸二寸 一寸は約3.03cm、二寸は約6cm、六寸は約18cm
GINZA DOTEN 英語は正しいですが、銀座のDotenは不明。「同店」か?
トツクニ 外つ国。外国。異国。「つ」は「の」の意の格助詞
ヒサグ 鬻ぐ。販ぐ。売る。商いをする。

待ってくれ、牛込で僕の好きなものはまだある。新小川町しんおがわまち花屋だ。新小川町なんていうより大曲おおまがりの方が早わかりだ。横浜植木会社の東京売店だ。こゝにスガヤ、、、君なる揚げ、、まん、、じゅう、、、みたいな青年がいる。僕は、花を買う時は、どんな時でも、こゝまで行って買う。スガヤ君のくれる花を持って行って恋人に、つれなくされたことはない。
 大曲へ来てしまったか! 電車でんしゃみちを早稲田へ行く。石切いしきりばし。――向こう側に橋本という鰻屋、こいつは有名すぎるほど有名だ。その隣の丸屋まるやのそば、こいつも有名だ。この二軒は小石こいしかわに属するが、ついでだからこゝに書いておく。左側が改代かいだいちょう。講談本だとムッシュウ・クラヤミのウシマツが住んでいたところだ。こゝにフタバヤというエプロン屋がある。これが大変だ、と言ったら諸君はおどろくだろう。だが、この家を大変だと感ずるのは僕ばかりだ、このフタバヤは僕の家の家主なのである。なアーンだ。
花屋 横浜植木は現在も神奈川県横浜市で営業中。1890年(明治23年)鈴木卯兵衛を代表者として「有限責任横浜植木商会」を創業。1913年(大正2年)4月、東京市牛込区新小川町に東京売店を開設。
電車道 路面電車が敷設してある道路。電車通り。ここは現在は目白通り。
橋本 文京区水道2-5-7にある鰻の「はし本」。創業は天保6年(1835年)。
丸屋 現在不明。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
ムッシュウ・クラヤミのウシマツ 暗闇の丑松。戯曲。昭和九年(1924)、六世尾上菊五郎が初演。一時の激情から殺人を犯した料理人丑松は、愛妻お米を親方四郎兵衛にあずけて江戸を立退いた。一年たって戻るときに、丑松は女郎になったお米に再会。四郎兵衛に騙され売り飛ばされたと事情を聞いても信じられず、激怒。お米が首を吊って死んだ後になって、やっと真実を理解した丑松は、非道に気づき、江戸へ帰るや四郎兵衛夫妻を殺し、何処ともなくのがれて行く。

紫鯉|遊歴雑記

文学と神楽坂

 十方庵敬順氏が書いた「遊歴雑記初編」(嘉永4年、1851年)です。これは1989年、朝倉治彦の校訂で平凡社が復刻した部分から取りました。江戸川(現神田川)の「中の橋」で「むらさき鯉」があったといいます。最初は現代語訳です。

[現代語訳] 武蔵国江戸川の最上部は牛込区と小日向区との間にある目白下大洗堰で、ここで白堀上水を分け、あまった水は下流にながす。一方、江戸川の最下部は船河原橋であり、これで終わる(訳注。昔の神田川を神田上水、江戸川、神田川と3つに分けていました。現在は全て神田川です)。川の長さはおよそ2000mで、この間を江戸川という。しかし、誠実に呼ぶと、小日向の「中の橋」の上流220m、下流220m、前後440mをあわせた流れを江戸川という。
 その理由は、「中の橋」の流れが大部分は深く、鯉も数多く、橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはどれも鯉だ。どれも肥えて太っていて、あるいは、丸く短い。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る。これを紫鯉というのは、江戸川という名前からきたもので、逆に、数千万匹の紫鯉があるからこそ、江戸川という名前がついた。以上が、江戸むらさきの由縁である。
 この清流の鯉は、むかし、五代将軍徳川綱吉がここに御放流し、この鯉は成長し、さらに、八代将軍徳川吉宗も同じくここに放流してこの鯉も成長したので、「中の橋」の前後、川の中央部では550mほどの間は、「御留川」として、釣魚は厳禁である。また鯉は「中の橋」前後でだけ動き、外には行かない。ただし、大雨が降りつづき、満水する場合は違い、鯉は川下の竜慶橋の辺りにまで下がることもある。逆に水上の石切橋の辺りに上る場合もある。石切橋からの川上では、まれに網や釣りをして、鯉をとらえる場合もあるという。例年1~2度、2,3艘の御用船はならべて乗り入れ、鯉を採ることもある。

神田上水と旧江戸川

 東武江戸川(現神田川)といふは、牛込小日向の間にハサまりて、カミ目白下ヲゝ洗堰アライゼキに於て白堀シタホリ上水をワケ余水の下流にして、末はフナ河原ガワラバシまでの間、川丈カワタケ長き事拾八九町、此間を惣名ソウメウ江戸川といひ来れり、しかれども誠の江戸川とサスところは、小日向ナカハシ水上ミヅカミ弐町、橋よりシモ弐町、前後四町が間のナガレを江戸川といえり、
 その故は、中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しき緋鯉ヒゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川トネガワの鯉、これにツグべしとなん、是を紫鯉といふ事は、江戸川といふ名によりて名付、又此処に紫鯉数千万スセンマンあるが故に、江戸川とは称す、江戸むらさき由縁ユカリによりてなりとぞ、
 此清流の鯉は、むかし、常憲尊君五代将軍徳川綱吉へ御放しありて、生立ソダテしめ給ひ、後又有徳尊君(八代将軍徳川吉宗)同じく此処へ放して生立ソダテしめ給ふによりて、中の橋前後、河中五町程の間は、御止川ヲントメガワと成て、釣するを堅く禁じ給ふ、此鯉魚中の橋前後にのみ住て、更に外へ動かず、但し、大雨降つゞき満水する時は、川下カワシモ竜慶橋辺へさがるもあり、又水上ミヅカミ石切橋イシキリバシ辺へ登るもありけり、石きり橋より上にては、マレアミツリして、鯉魚を得る事もありとなん、例年壱両度づゝ御用船弐三艘ならべ乗イレ、鯉魚をトラしめ給ふ、

東武 武蔵国の異称。江戸の異称。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
小日向 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
目白下 目白下は文京区目白台よりも標高は低く、江戸川橋の周辺で、場所は関口一丁目、水道二丁目、水道一丁目など。
洗堰 あらいぜき。常時水が堰の上を溢れて流れるように作った堰。
白堀 しらほり。開渠。蓋のない地上の水路のこと。
余水 よすい。余分の水
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。
川丈 川の長さ。
 およそ。おおかた。だいたい。約。
拾八九町 長さの単位で、1963~2072メートル
惣名 そうみょう。総名。いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。呼び名。
中の橋 なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けた橋。
水上 みずかみ。「みなかみ」で「流れの源のほう。上流。川上」
弐町 二町。約220メートル
 ほとんど。大多数。大部分
鯉魚 りぎょ。鯉(こい)
邂逅 「わくらば」と読み、「まれに。偶然に」
たまさか 偶さか。適さか。偶然。たまたま。
弐尺四五寸 2尺4~5寸。約91~95センチ
三尺 114センチ
緋鯉 ひごい。赤や白の体色の鯉の総称。普通、橙赤色。観賞用。
豊嶋 豊島郡。武蔵国と東京府の郡。おおむね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、大部分の練馬区。江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分離。
江戸むらさき 色名の一つ。濃い青みの紫。16進法では#745399     
常憲 第5代将軍徳川綱吉つなよしの戒名は常憲院殿贈正一位大相国公。
尊君 男性が、相手の男性を敬っていう敬称
 ここ。現在の時点・場所を示す語
生立 おいたち。生い立ち。育ってゆくこと。成長すること。
有徳 徳川吉宗の戒名は有徳院殿贈正一位大相国
御止川 御留川。おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所
 と。いっしょに事をする仲間。
竜慶橋 隆慶橋。りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。上図を
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」。上図を
壱両度 いちりょうど。一回か二回。1~2回
御用船 江戸時代、幕府・諸藩が荷物運送などを委託した民間の船舶。

川柳江戸名所図会③|至文堂

文学と神楽坂

 次は「江戸川」です。「神田川」は、東京都の井の頭池を泉源にして、中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川ですが、そのうち中流部、つまり、関口大洗おおあらいぜきからスタートし、外堀と合流するふな河原かわら橋の川までを、1965年(昭和40年)以前には「江戸川」と呼んでいました。ちなみに当時の上流部は神田上水、下流部は神田川と呼んでいました。1965年(昭和40年)、河川法が改正され、神田上水、江戸川、神田川3つをあわせて「神田川」と呼ぶようになりました。

江 戸 川

ここで江戸川をさかのぼってみる事にする。井の頭に発する上水が、関口で分れ、一方は神田上水としてやや上を流れて、後楽園を過ぎ、神田川水道橋の所でで渡って神田に入るが、他方は落ちてこの江戸川となり、東へ流れ、大曲と称する辺から南流して、お濠へ合流して神田川となる。
 橋は関口橋江戸川橋華水橋掃部橋古川橋石切橋大橋ともいう)・中の橋、曲ってから隆慶橋とんど橋である。
 中の橋の辺りは、白鳥が池といったという。後に、大曲のところにかけられた橋を白鳥橋というのはその故であろう。

神田上水と旧江戸川

江戸川 ここでは神田川中流のこと。神田上水の余水を文京区関口台の江戸川橋付近で受け、飯田橋付近で外堀の水を併せて神田川となる。現在、神田上水、江戸川、神田川はすべて神田川になる。
井の頭 いのかしら。東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる地区。中央に武蔵野最大の湧水池である井の頭池がある。神田川の源流。
上水 飲料などで管や溝を通して供給する水。水道水。汚物の除去や殺菌が行われている。
関口 文京区西部の目白台と神田川にまたがる地域。地名の起源は、江戸最初の上水道、神田上水の取入口、大洗おおあらいぜきがあったため。
神田上水 江戸初期、徳川家康が開削した日本最古の上水道。上図を。現在は廃止。
後楽園 文京区にある旧水戸藩江戸上屋敷の庭園。中心に池を設け、その周囲を巡りながら観賞する。上図を。
神田川 東京都の中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川。昔は上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川といった。
水道橋 千代田と文京両区境の神田川にかかる橋。地名は江戸時代に神田上水からの導水管を渡す橋があったため。
 とい。水を送り流すため、竹・木などで作った溝や管。神田上水の水道橋では上空をわたす管、掛樋かけひがありました。
神田に入る 神田上水は小石川後楽園を超えると、水道橋駅の先の懸樋(上図の右下を参照)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。橋は白鳥橋と呼ぶ。

延宝7年(1679年)「江戸大絵図」

関口橋 関口の由来には、奥州街道の関所とする説と神田上水の大洗ぜきとする二説がある。せきとは「河川の開水路を横断し流水の上を越流させる工作物」。
江戸川橋 「江戸川」とはかつて神田川中流部分(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1km)の名称。江戸川橋は中流域で最初の橋梁
華水橋 はなみずばし。江戸川の桜並木と関係があるのか、わかりません。
掃部橋 かもんばし。江戸時代、橋のそばに吉岡掃部という紺屋があったことから。
古川橋 昔、神田川は古川ふるかわと称した時期があり、橋の南詰側には昭和42年まで西古川町、東古川町の地名があった。
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」
大橋 おおはし。石切橋のこと。
中の橋 中ノ橋。なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
とんど橋 現在は船河原ふなかわらばし。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がして、ほかに「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていた。
白鳥が池 大曲から飯田橋に至る少し手前まで、大昔には「白鳥池」という大きな池があったようですが、延宝7年(1679年)の「増補江戸大絵図絵入」(上図参照)ではもうありません。
白鳥橋 しらとりばし。湿地帯で、神田川の大きな池があったという。

 さて、この川には紫色を帯びた大きな鯉が多くいて美味であったところから、幕府御用として漁獲禁断の場〈お留川〉となっていた。
    鯉までも紫に成江戸の水        (明三信1)
    お上りの鯉紫の水に住み         (三七・25)
 江戸は紫染のよいところであった。
    こくせうになぞとほしがる御留川     (二七・28)
 こくせうは〈濃汁(こくしょう)〉、鯉を濃い味噌汁でよく煮たもの、いま〈鯉こく〉という。
    奪人の無いむらさきの御留川      (一三五・33)
    紫を人の奪ぬ御留川          (六〇・2)
論語に「子日、紫之奪朱也。」とあり、意味は間色が正色を乱すことであるという。その語を借りたしゃれである。

 紫色を帯びた大きな鯉が多かったというおそらく事実は、岡本綺堂氏が小説「むらさき鯉」でも書いています。

お留川 おとめかわ。御留川。河川や湖沼で、領主の漁場として一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
紫染 紫根染。しこんぞめ。ムラサキ(紫)の根から抽出した染料を使った染色。灰汁を媒染とする。
こくせう 濃漿。こくしょう。魚や野菜などを煮込んだ濃い味噌汁。鯉こくなど。
鯉こく こいこく。鯉濃。鯉を筒切りにして、味噌汁で時間をかけて煮込んだ料理。「鯉の濃漿」から
奪人 人から奪う、獲得するなどの意味。
論語 孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。
悪紫之奪朱也 紫の朱を奪うをにくむ。朱が正色なのに、今では間色の紫が朱に代って用いられることがあるが、これには警戒したい。「奪」は地位を奪う、取って代わる、圧倒する。

    江戸川小松川鶴の御場      (一一二・34)
 葛飾の小松川は幕府の鶴の猟場であった。
    車胤王祥江戸川の名所なり      (一ニー・21)
 鯉のほか、螢も名物であった。昔、支那の晋の車胤という者、家が貧しくて油が買えず、螢を集めて本を読んだという故事は、「螢の光」という歌で知られている。
 王祥は、二十四孝の一人で、冬に継母が鯉が食べたいというので、川の氷の上に寝ころんでいると、氷がとけて鯉が躍り出、捕えて母に供したという話がある。
 螢について「絵本風俗往来」には「螢の名所は、落合姿見橋の辺・王子谷中螢沢目白下江戸川のほとり……」とある。姿見橋や、目白下はこの川のすぐ上流であるから、この川一帯にも見られたのであろう。
 橋の内、石切橋のしも、大曲のかみにかかる橋が〈中の橋〉である。この辺りを〈鯉ヶ崎〉とも言った。
    中の橋一本ほしひと言所         (明二仁5)
    むらさきの鯉濁らぬ橋の下        (二八・5)
 橋の名は、日本橋・新橋のように、連声で「ばし」と濁音になることが多いが、中の橋は濁らず清んで訓むということと、濁らぬ水ということもかけているのであろう。

小松川 東京府南葛飾郡小松川村は「つる御成おなり」と呼ぶ鶴の猟場でした。
御場 普通は「御場」は幕府の御鷹場おたかばのこと。鷹場は鷹狩りを行う場所。
猟場 りょうば。狩りをするのに適している場所。かりば
車胤 しゃいん(不明~400)。中国東晋の官吏、学者、政治家。灯油を買うことができず、蛍の光で勉強した話で有名。
王祥 おうしょう(185~269)。継母にも孝行を尽くし、生魚を食べたいというので、真冬に凍った池に行き、服を脱ぎ氷の上に横になった。氷が溶けて割れ、大きな鯉が二匹躍り出た。王祥は捕まえて継母に捧げ、継母も王祥をかわいがったという。
故事 昔あった事柄。古い事。昔から伝わってきている、いわれのある事柄。古くからの由緒のあること。
二十四孝 にじゅうしこう。中国古来の代表的な親孝行の24人。虞舜、漢の文帝、曽参・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老萊子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅。
絵本風俗往来 正しくは「江戸府内 絵本風俗往来」。明治38年、江戸の好事家が江戸の町の移り変わりや町家・武家の行事のさまざまを300枚以上の大判挿絵を添えて描いた本。蛍については「中編巻之参」5月で出ています。
姿見橋 おちあいすがたみばし。姿見の橋と面影橋は別々の橋なのか、同じ橋なのか、私には不明です、新宿区がだした「俤の橋・姿見の橋」を参考までに。
王子 東京都北区中部の地名。桜で有名な飛鳥あすか山公園がある。
谷中螢沢 やなかほたるさわ。近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」がありました。
目白下江戸川 めじろしたえどがわ。目白台下にある江戸川(神田川)に大洗堰があり、また桜で有名でした。
鯉ヶ崎 「江戸志」では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひははなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる、此川の内中の橋の邉を鯉か崎といへりといふ」と書いています。
むらさきの鯉 紫色を帯びた鯉が多かったため。

織田一磨|武蔵野の記録

文学と神楽坂

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。

       一四 牛込神樂坂の夜景
 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。
 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

牛込、小石川、麹町 代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。
夜更 よふけ。深夜。
大戸 おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。
散乱 さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。
五色 5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。
下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。
 おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影
流露 気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。
浪花 大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。
東山 ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。
都大路 みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。
屋台 やたい。屋形のついた移動できる台。
牛飯 ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。
遊人 ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。
お店者 おたなもの。商家の奉公人。
湯歸り 風呂からの帰り。
東都名所 国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。
傳坊肌 でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。
舊態 きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。
電燈 でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。

 卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。
 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡赤城神社築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。

卑賤 ひせん。地位・身分が低い。人としての品位が低い。
都ずし 江戸前鮨(寿司)は握り寿司を中心にした江戸郷土料理。古くは「江戸ずし」「東京ずし」とも。新鮮な魚介類を材料とした寿司職人が作る寿司。
遊野郎 ゆうやろう。酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者
お神樂藝者 おかぐらげいしゃ。牛込神楽坂に住む芸妓。
廃堂 廃墟と化した神仏を祭る建物。
軒燈 けんとう。家の軒先につけるあかり
画趣 がしゅ。絵の題材になるようなよい風景
早稲田矢来 地図を参照。
俗趣味 低俗な趣味。俗っぽいようす
穴八幡、赤城神社、築土八幡 地図を参照。

穴八幡、赤城神社、築土八幡

江戸川 神田川中流の呼称。ここでは文京区水道・関口の江戸川橋の辺り
石切橋 神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。

東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名