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神楽坂矢来の辺り|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄氏が書く『学生物語』(1953年)で「神楽坂矢来の辺り」の一部です。これは(1)になります。
 氏は小説家で、生年は明治32年12月25日。没年は昭和58年3月31日。早大卒。志賀直哉に師事。昭和12年、「暢気眼鏡」で芥川賞。戦後は「虫のいろいろ」「まぼろしの記」など心境小説を発表。昭和50年、自伝的文壇史「あの日この日」で野間文芸賞受賞を受賞しました。

神楽坂矢来の辺り 学校の近くに下宿してゐた。早稲田界隈から最も手近な遊び場所と云へば、どうしても神楽坂である。そこには、寄席も活動小屋も飲み屋もカフェーも喫茶店も洋食屋もあった。牛込郵便局(当時の)あたりから肴町をつっ切り、見附に逹する繁華な遊歩街には、両側に鈴蘭燈がつき、夜店も出た。両側の商店も名の通った家が多かった。
 神楽坂が最も繁華を誇ったのは、例の関東大震災のあとだったらう。(略)
 十二年の九月一日に大震災である。(略)
 牛込区は大体無事だった。神楽坂にも被害は無かった。丸焼けの銀座方面から神楽坂へ進出する店があり、また客も神楽坂へ移ったやうであった。
牛込郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」となっています。右の「大正11年の東京市牛込区」の郵便局の記号は丸印の中に〒で、通寺町30番地でした。現在は神楽坂6-30で、会社「音楽の友社」がはいっています。

大正11年 東京市牛込区

大正11年 東京市牛込区

肴町 さかなまち。現在は神楽坂5丁目です。
見附 牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。これが原義ですが、しかし、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、神楽坂通りと外堀通りが交差する所を「牛込見附」と言ったりするのも正しいようで、ここでは交差点の「牛込見附」でしょうか。
鈴蘭燈 すずらんとう。鈴蘭はユリ科の高原の草地に生える多年草。高さ約30センチの花茎を出し、五、六月ごろ鐘形の白花を十数個下垂します。鈴蘭燈は鈴蘭の花をかたどった装飾電灯。左は昭和30年代の神楽坂の写真の1部ですが、こんな具合に見えたわけです。
鈴蘭燈

 それは、――私がこの神楽坂プランタンに出入りしてゐた時分、或る夜のこと、寺町通りを坂の方へ元気よく歩いてゆくと、向うから、背の高い長髪の人物が、手下を四五人引き連れて悠々とやって来るのを見つけたのである。――ははん、広津和郎だな、と思った。雑誌の口絵写真で見知ってゐるし、それに、学校へ講演で来たこともあったから、その時見覚えたに違ひないが、確かに広津氏である。は、すれ違ひざまに凝っと見て、それを確かめた。
 二三間行過ぎてから、心を決めて取って返し、
「失礼ですが、広津さんですか」
 さう声をかけた。
 長身の広津氏は、うん? といふふうにこっちの顔を見下して、立止まり、
「広津ですが――」お前は? といふ顔をした。その時私は、学生服に、学帽をつけてゐた。すでにどこかで少し飲んでゐたが、当時の私は二本や三本飲んでも、全然外見に変りはなかったから、広津氏の目には、普通の(大体真面目な)早稲田の学生とうつっただらう。
「私は、早稲田の文科の者で、尾崎と云ひます。実は、ちょっとお話をうかがひたいことがあるのですが――志賀さんについて」
「あ、さう、志賀さんのこと……」
 広津氏は、目をぎょろりとさせ、ちょっと考へるふうだったが、連れの人たちに向って、
「ぢやあ、先に行ってゐてくれたまへ、僕ちょっと――」
 四五人の、いづれも髮の長い連中が、うなづき合って歩き出した。広津氏は、来た方ヘ大跨に戻ってゆくので、私も大跨について歩いた。どこへ行くのかな、と思ってゐると、肴町の電車道をつっきると間もなく右手に折れて、神楽館といふ下宿へ入っていった。二階だったか階下だったか忘れたが、六畳位の部屋に通された。そこには、二十いくつといふ女の人がゐだ。夫人だなと思った。
寺町通りを… 神楽坂6丁目を交差点「神楽坂上」に向かって
 尾崎一雄です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。ここでは大久保通りのこと。
神楽館 昭和12年の地図の『火災保険特殊地図』ではっきりわかります。神楽坂2丁目21でした。細かくは神楽館で。

「早稲田の尾崎君」
 広津氏が云ふと、夫人はお叩頭をした。私もイガグリ頭を深く下げた。
 広津氏は、こまかい紺絣着流しで、きちんと坐ってゐた。私も制服の膝を正しく折ってゐた。
「あの、『志賀直哉論』といふのをお書きになりましたが……」と云って、ちよっとつまった。
「ええ、書きましたが――」
 大きな目をして、凝っとこっちを見てゐる。で、それが? とうながされる思ひで、私はうろたへて、
「あれを拝見したのですか、あれは、――良いと思ひました」
「あ、さう」
 この時、夫人が茶をすすめた。しかし、私はそれに手を出してゐる余裕がなかった。あれも云はう、これも云ひたい、と頭の中はいっぱいなのだが――いや、いっぱいな筈なのだが、まるでこんぐらかってしまって、焦れば焦るほど、言葉が見つからなくなった。私は、確かに寒い時だったにかかはらず、汗をじとじと感じた。
 広津氏が、言葉少なに何か云ったが、それがどういふことだったか覚えてゐない。私自身の云ったことも覚えてゐない。志賀さんの小説か大好きで、全部熟読してゐるし、志賀さんに関する批評も落ちなく読んでゐる――といふやうなことを、どもりどもり云ったぐらゐのところであらう。
 とにかく、広津氏を呼び留めた時の元気は更に無く、私は逃げ出すやうにいとまを告げたのである。
イガグリ頭 いがぐり(毬栗)とは、いがに包まれた栗。イガグリ頭は髪を短く、丸刈りにした頭。
イガグリ頭紺絣 こんがすり。紺地に絣(かすり)を白く染め抜いた文様。その織物や染め物。かすりは文様の輪郭部がかすれて見えるから
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 「お対」とも。「つい」とは長着と羽織りを同じ布地で仕立てたもの。
着流し 男性の羽織、袴をつけない略式のきもの姿のこと。きものだけの楽な姿のこと。

 この一件は、思ひ出すたびに冷汗の種で、すでに三十年近い昔のことながら、実は私は誰にも話さなかった。先日、ある雑誌の記者にふと話して一と笑ひしたら、何となく気が済んだ思ひがした。勿論広津氏にも話さない。もっとも広津氏は当事者の一人、と云ふより被害者なのだから、(おぼ)えて居られるとすれば改めて苦笑されるかも知れない。しかし、公平に見て、広津氏としては、左ほどの大被毒ではないし、もともとさっぱりした人だから忘れて居られるかも知れない。だが、私は忘れることが出来なかった。広津氏には、再々お逢ひしてゐるくせに、私はどうもこの昔話を持ち出す気がしなかったのである。
 広津氏が、仮りにあの件を覚えてゐるとしても、あの無邪気な文科生が、この私だったとは思って居られぬだらう。私は、そんなことがあってから少くとも二年位経って、初めての同人雑誌を持ったのである。――茫々三十年。私も純真なる文学青年であった。
茫々 ぼうぼう。広々としてはるかな様子

かくてありけり①|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の「かくてありけり」で、神楽坂の土蔵づくりと絵はがきについて書いてあります。

 昭和四十五年三月発行の「新宿区立図書館資料室紀要」に、『古老の記憶による震災前の形』という副題をもつ、七十センチ近くもある横長な『神楽坂通りの図』というものが附載(ふさい)されている。大通りに面した商店はむろんのこと、裏通りに至るまで明細に詮索(せんさく)されている手書きの地図を恐らく縮写印刷したもので、それをみているとひとたびうしなわれた記憶が私のなかにもゆっくりよみがえってくるのだが、牛込見附のほうからいえば坂上の右側にあったパン屋の木村屋、毘沙門前の尾沢薬局や、それより先の相馬屋紙店などとともに黒い漆喰(しっくい)土蔵づくりであった。そのパン屋とせまい路地を一つへだてた先隣りが太白飴の宮城屋、それから筆屋、三味線屋で、その先が絵はがき屋であった。
 絵はがき屋も太白飴などとともに消え去った商売の一つで、今では私が知るかぎり浅草のマルベル堂などが都内唯一の生き残り専門店かとおもわれるが、時代のスターも幾度か交替して、芸者から映画俳優、そして歌手という経過をたどったとみて誤まりあるまい。新橋、柳橋、赤坂などの芸者が一世(いっせい)風靡(ふうび)した時代があって、ブロマイドになる以前の絵はがきが飛ぶように売れた。私の姉などは、それにあこがれた最後の世代に相当するのではなかろうか。

『神楽坂通りの図』 コピーはここでも手に入ることができます。
附載 本文に付け加えて掲載すること
詮索 細かい点まで調べ求めること
木村屋 酒種あんぱんなどパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。
尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています

相馬屋 創業は万治2年(1659年)。雑誌『ここは牛込、神楽坂』で相馬屋の主人、長妻靖和氏は「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買い物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」と話しています。
漆喰 しっくい。消石灰に繊維質(麻糸等)、膠着(こうちゃく)剤(フノリ、ツノマタなど)、時に砂や粘土も加えて水で練ったもの。壁の上塗りや石・煉瓦(れんが)の接合に使います。

昭和初期の神楽坂(「牛込区史」昭和5年) 全て土蔵づくり

土蔵づくり 土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った構造や家屋。江戸時代には江戸や大坂で町屋を土蔵造にすることが奨励されて、特に明暦の大火後には御触書( おふれがき)まで出ています。なお、外壁を大壁とし土や漆喰を厚く塗って耐火構造にした倉庫が土蔵。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖(太白砂糖)を練り固めて作ったあめ
筆屋 魁雲堂でした。
絵はがき 裏面に写真や絵などのある葉書。1870年ごろ、ドイツで創案し、日本への渡来は明治20年代。
一世 その時代。当代
風靡 風が草木をなびかせるように、広い範囲にわたってなびき従わせること。また、なびき従うこと 「一世を風靡する」とは、ある時代に大変広く知られて流行する。
最後の世代 野口冨士男氏は1911年生まれです。姉は2歳上。中学校にはいるのは氏が12歳で、大正12年(1923年)。おそらくこの最後の世代は大正10年ぐらいに思春期になった世代でしょうか。

4丁目南東部の歴史|神楽坂通り

文学と神楽坂

 神楽坂通りに面した紅小路と本多横丁との間の場所です。楽山茶舗があるのが一番有名でしょう。大正の終わりから、昭和、平成までこの場所を調べてみました。

 まず大正12年の関東大震災の以前の図を見ます。昭和45年新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。

楽山、本多横丁、紅小路

 ここでは「玩具橋本」「山本コーヒー」「竹川」「靴」が書いてあります。「竹川」「靴」は、昭和5年になると「竹川靴店」と書いていますから、これはおそらく一語だと思います。「山本コーヒー」には本多横丁と神楽坂通りの2店があり、中でつながっていたようです。メイセン屋(メイセン屋はおそらく銘仙屋?)は紅小路の左に書いてあります。なお、地元の方の情報を加えてメイセン屋もここに含有されると考えます。

 次は『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」にあった図ですが、原図ではなく、やはり地元の方の情報を加えて一部変更した図です。

『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)「神楽坂と縁日市」

 昭和5年頃の図は左に、平成8年の図は右です。メイセン屋は楽山茶輔と同じ位置にあり、紅小路通りの右にあったようです。どちらがいいのか? 神楽坂の住人によれば「昭和3年生まれの父によると、新宿区の『古老の記憶』が間違い」(通信欄)といいます。なるほど。また、同じ住民から、魚国鮮魚店は表通り側に、牛込花壇は裏道側にあるといいました。上図が正しいと推定させるものです。

 さて次は「火災保険特殊地図」で昭和12年版と昭和27年版の2つです。左の昭和12年版は「コーヒー」だけが見えます。一方、右の昭和27年版は「神楽坂郵便局」「空白」「みさこのみや」「近江やハキモノ」が見えます。

4丁目

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)でこんな写真がでています。

大東京写真案内

 もう1つ、昭和60年に神楽坂青年会がつくった「神楽坂まっぷ」です。

L

神楽坂まっぷ

 平成15年の神楽坂通り商店会の「神楽坂マップ」です。

平成15年

 さらに『神楽坂まちの手帖』第12号の「昭和三十年代とその周辺」から昭和35年の地図をもらいました。また昭和35年以上は国立図書館の地図をまとめています。以上、まとめると

坂上/西北の店舗① 店舗② 店舗③ 坂下/東南の店舗④
大震災前 メイセンヤ 玩具 橋本 山本コーヒー 竹川 靴
昭和5年 メイセンヤ 橋本オモチャ 山本喫茶店 竹川靴店
昭和12年 (建物) (建物) コーヒー (建物)
昭和27年 神楽坂郵便局 (空白) みさこのみや 近江や ハキモノ
昭和35年 神楽坂郵便局 仕出し 魚藤 近江屋
昭和35年頃 神楽坂郵便局 フランス菓子スゴオ 鮮魚 魚三 履物近江屋
昭和45年 (空白) スゴオ菓子店 魚三 近江屋ハキモノ
昭和51年 大佐和商店 スゴオ菓子店 魚三 近江屋
昭和55年 神楽坂楽山 栄和ビル コーヒースゴオ 魚三 近江屋ハキモノ
昭和60年 銘茶楽山 3F ラサール美容室
5F 栄和歯科
魚さん 近江屋ハキモノ
平成2年 神楽坂銘茶楽山 中坪ビル 魚さん 近江屋
平成8年 楽山茶舗 ゲームセンター 魚さん料理 近江屋履物
平成28年 楽山(①+②) うおさん 4丁目近江屋ビル
AGARIS、Poisson、野菜食堂サクラサク、つみき、神楽坂イカセンター 8.va 五十番。蓮、やまあい
La cuchara, 九蔵
楽山

楽山

楽山
『まちの手帖第11号』には楽山のこれまでの歴史があります。昭和34年に牛込北町の中央通りに店を開き、昭和43年に現在の場所に変わりました。『まちの手帖第11号』ではこんなことを書いてあります。

昭和39年のお茶審査競技会で5種5煎というきき茶部門で優勝。「その後何度も入賞したから、トロフィーや賞状がトラックいっぱいになったよ(笑)」

山本コーヒー
 「ここは牛込、神楽坂」第5号のイラスト「戦前の本多横丁」では

(本多横丁のコーヒー店は)表通り(神楽坂通り)のコーヒー店と裏でつながっていて、ここで名物のドーナツを作っていた。サトウハチローさんがここのドーナツのファンだった。

 サトウハチロー氏も『僕の東京地図』で書いていますが、ここは別紙に。

かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

山本コーヒー(喫茶店)
楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった。

 河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである
うおさん

昔の山本コーヒー店、現在のうおさん

 

魁雲堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 久保たかし(大久保孝)氏は神楽坂のことを書き、平成2年から新宿区の図書館に自費出版の書籍を数冊寄付しています。過去のことを探すにはこれらの本は結構面白く、たとえばお店については、あっ、わかるね、となりますが、しかし、それでもわからない場面もあります。

 たとえば、この魁雲堂。昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ても、魁雲堂はでてきません。氏の『坂・神楽坂』(平成2年、1990年)では

 さて、木村屋の左に亀さんの家、「魁雲堂」があった。亀さんこと川村君は弱々しい子供だから皆でいたわった。オカッパの可愛いい子だから誰からも好かれた。それが今やフランス文学の大家で、酒は呑む、豪快な男に変身し、あれが亀さんかと云われてもビックリするような成長ぶり、あれは亀ではなく、(さか)(かめ)と云った方が良い。
 このお宅は古い木造の2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書いてあり、墨、筆、すずりの商いをしていた。亀さんの兄さんは私の兄と小学校同級生。
 この家の裏が待合で、亀さんは夜になるとはなやかな芸者の姿を見、踊りをながめ、唄を子守唄として育ったせいか、シャンソンが得意である。

川村 川村克己。かわむらかつみ。1922年 – 2007年。フランス文学者、立教大学名誉教授。東京神楽坂生まれ。1945年東京帝国大学仏文科卒、立教大学教授、88年定年、名誉教授。

 川村教授も東大出身でした。神楽坂には意外と東大出身の人が多いのです。特に色恋の町では多いなあと思っています。この川村氏が書いた文章もあります。雑誌『ここは牛込、神楽坂』第4号で

 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
魁雲堂→津久戸小

魁雲堂→津久戸小

パン屋 木村屋です。
飴屋 宮城屋です。
置屋 芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店。

 久保たかし氏の『ふるさと神楽坂』(平成6年、1994年)では

 「魁雲堂」
 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。
 ここの次男坊、川村克己君は小学校の同級生。アダナは亀さん。オカッパ姿の可愛いい子だった。しかし、60年たった今は、豪快な男に変身、立教大学でフランス文学を教え、今や新潟県の新しい大学の副学長となり、忙しく働いている。あれは亀ではない、酒(かめ)だと云った方が良い酒仙である。

新しい大学 新潟産業大学です。

「魁」について。 かしら、首領、堂々として大きいさま(例は魁偉・魁傑)を表し、音はカイ、訓はさきがけです。かいうんどう、と読むのでしょう。

「 さて、もう一度、「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、なんと「筆カイ雲堂」となっていました。初めからあったのですね。

魁雲堂

 右図では昭和12年の「火災保険特殊地図」ですが、すでに「加藤商店」に替わっています。魁雲堂1

 現在の建物です。「摩耶ビル」といい、美容室の摩耶などが入っています。摩耶

私のなかの東京|野口冨士男|路面③

文学と神楽坂

 昭和53年(1978年)、野口冨士男が書いた『私のなかの東京』③は、『神楽坂通りの図』と『牛込華街読本』の紹介があり、さらに神楽坂の路面はどう変化してきたかを書いています。最初は砂利、それから大正12年以降は木の煉瓦、そして昭和初期には石畳の場所もできたようです。

 私が神楽坂に住んでいたのは、小学校入学の前年に相当する大正六年秋から震災後の十三年春までで、その後も昭和三、四年ごろまでひっかかりを持っていたが、『神楽坂通りの図』には表通りの商店が軒なみ拾いあげられているばかりではない。路地奥の待合や芸者屋に至るまで詳細をきわめていて、私の家も図示されているからまことにありがたい。
 また、かつて東京新聞社政治部記者であった加藤裕正から贈られた、昭和十二年十ー月に牛込三業会から編纂発行された非売品の『牛込華街読本』には、巻末に『牛込華街附近の変遷史』というものが収載されていて、明治三十年代の写真や「風俗画報」の挿絵などが多数転載されているし、そうした有様は関東大震災前までさほどいちじるしい変化をみせていなかったので、それをひろげてみると回想のための援軍を送られたような気がする。震災前の神楽坂には砂利が敷かれていて、傾斜ももっと急であったから、坂下には九段坂下ほどではなかったが、荷車の後押しをして零細な駄賃をもらう立ちん棒がいたことまでが思い出される。

砂利 これははっきり出ています。昔は『牛込華街読本』にもあるように砂利でした。写真ではぶらぶらと坂に人相の悪そうに見える数人が立っていますが、次に説明する立ちん棒をやっていたのですね。
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立ちん棒 立ち続けている者。戦前では空巣ねらい、制服巡査。現在は売春する女性で、路上に立ち、直接交渉を行う者。明治から大正にかけて、立ちん棒は坂の下に立って大八車や荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業
神楽坂通り

 その砂利が取り払われて(もく)レンガとなったのは震災後のことだったはずで、坂の傾斜がゆるくなったのもそのときだったとおもうが、それがさらにサイコロ形の直方体の石を扇面状に置きならべたものに変ったのは昭和初年代のはずである。たしか昭和四年に中央公論社から出版された浅原六朗の『都会の点描派』というクリーム色のペーパーバックスの一冊に掲載されていた随筆の一つに、神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていたと私は記憶する。そして、『牛込華街読本』に掲載されている昭和十二年当時の写真をみると、ほぼ現状にちかいものに改まっている。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。まして、平面ともなれば、なんらの変化もみとめられないと言いきっても、恐らくまちがいではない。どこの横丁や路地を入っていってみても、他土地のばあいは道幅がひろげられたり、曲線が直線にちかく改変されている例がすくなくないのに、神楽坂周辺にはそういうことがない。都市開発からそれだけ取り残されているともいえるが、そういえば新宿区は町名変更も最もおくれている区の一つで、神楽坂周辺にはいまのところまだ旧町名をとどめているものがかなり多い。が、それももはや時間の問題であることは言うまでもない。

木レンガ 木で作ったレンガ。レンガ状の木。木材を輪切りやサイコロ状にして、木口を上に向けて敷き並べたもの。
震災 関東大震災のことで、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発震。
石畳サイコロ形… 石畳の1つ。ピンコロ(つまり、おおむね正方形の)石畳(敷き詰められた上面が平らな石)を使った鱗張り舗装(舗石張り技法の一つで、魚のうろこのように張ること)
都会の点描派 『都会の点描派』は1929年に中央公論社から出て、1993年、河出書房新社が再度出した当時の東京の随筆集です。最初に「神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていた」という点についてです。
 まず、この文章は『都会の点描派』のどこにも出ていません。つまり、河出書房新社の『浅原六朗選集 第3巻』(1993)には『都会の点描派』が完全に載っていますが、ここには同じ文章はどこにもありません。
 神楽坂は「弧を描く街から」という章にあり、「弧を描いている神楽坂の街路は、近代的な直線から離れて何処かなつかしいローマンスがあるので、人々はここを中心として夜にさかる」と「それらの物語を抜きにしても、神楽坂には曲線的都会情緒がある」だけです。「さかる(盛る)」とは「繁盛する。にぎわう。はやる」のこと。河出書房新社版ではこれ以上はわかりませんが、「弧を描いている」はどちらかというと「魚のうろこのように」、つまり石畳に似ています。
 さらに「路面は中央が高くて左右が低い」のは、道路全体について書いているのでしょう。道の中央が盛り上げられ、左右はどぶになり、前から下に割るとカマボコ形になっていた。(これから先に説明する道路を参照しましょう)。しかし、これも『都会の点描派』では書いていません。
当時の写真 『牛込華街読本』の昭和十二年当時の写真はこうなっています。詳細はここで

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神楽坂。『牛込華街読本』172頁から

志満金 しまきん。神楽坂下の2丁目の鰻屋のこと
時間の問題 ではなく、牛込では今でも古い町名をとどめています。

手の字|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた「手の字」の場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 が散歩から帰って来て、
「今手の字に寄ったら、尾崎が若い連中をつれて来ていた」など書生に話しているのを聞いたことがあった。
 手の字というのは、肴町の方から通寺町に入って直ぐ左手の路地に屋台を出していた寿司屋で、硯友社の人達はこの寿司屋を贔屓にしてよく出かけて行ったものらしい。
 この手の字はずっと後まであって、近松秋江氏などもよくそこに立寄って、おやじから紅葉の思い出話などを聞いたらしい。私が早稲田を卒業したのは大正二年であったが、その頃もその寿司屋はまだそこに出ていた。

肴町 現在の神楽坂五丁目です
通寺町 現在の神楽坂六丁目です
路地 ろじ。狭い道。「横丁」にも同じようなニュアンスがありますが、「路地」では更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道です。

手の字 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査

 これからは全くの空想ですが、次の場所が正しいと思っています。まず図を見てください。明治29年の東京市牛込区全図の1部です。赤い丸を見ると、ここに道路3本が集まっています。赤丸から西北西に出るのが「通寺町通り」、反対側の東南東にずっと行くと「神楽坂通り」になります。南西南に行くのは江戸時代では「川喜田屋横丁」と呼ばれ、明治時代には無名の路地でした。その中に寿司屋「手の字」(赤棒)があったのでしょう。

 ちなみに昭和6年、横井弘三氏が書いた『露店研究』を読むと、

 まづ牛込郵便局から出発して坂を下らう。右側に寿司、おでん、左側にある、古本、八百屋、ミカン、古本、表札、古本、XX、古着、眼鏡、電気、靴墨、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺刷り、古本、柳コリ(略。ここから愈々露店は両側になる)

 当時の牛込郵便局は現在の「音楽の友社」(神楽坂6-30)にありました。そこから下を向いて右側には露店2店、左側には19店が並びます。この左側の19店は恐らく等間隔に近い形で並んでいたのでしょう。では右側の2店はどう並んでいたのでしょう。しかも右側の1店は寿司が出てきます。これは「手の字」であったのか、違ったのでしょうか。
 明治時代には、この地図で見られるように赤丸から西北西に進む通寺町通りは急に狭くなりました。明治29年の上の東京市牛込区全図ではそうなっています。露店も同じです。赤城神社から出発しても、初めは道路は狭く、当然、露店用の面積も狭く、そのため、露店は一方向だけ、つまり北側だけにできたのではなかったのでしょうか。道路が広くなる赤丸を超えてから、初めて露店は両側にできたのです。つまり、赤城神社から神楽坂の方に来る場合、最初は北側の露店だけがあり、しかし、南側は何もなく、南側にできるのは川喜田屋横丁を超えた所からで、そこに寿司とおでんの2つがあったと考えます。この場合はこの寿司と「手の字」は同じでしょう。
 なお、邦枝完二作の「恋あやめ」(1953年、朝日新聞社)の「新世帯」には「郵便局前の屋台ずし『ての字』ののれんに首を突っ込んで」と書いています。これは少なくとも広津和郎氏が描いた「手の字」ではないと思います。

かくてありけり②|野口冨士夫

文学と神楽坂

 野口冨士夫氏の『かくてありけり』(昭和53年)は自伝ですが、子供の時、母親と父親は別々に住んでいました。では、冨士夫氏と一緒に住んだ母親は、神楽坂のどこにいたのでしょうか。最初に『かくてありけり』です。

金鱗堂版の江戸切絵図にも行願寺と記されている行元寺は明治三十九年に西大崎へ転移したが、「寺内」という呼び方だけはのこっていて、母の家は一軒の例外もなく待合と芸者屋だけになってしまっていた「寺内」の、ほそい路地を幾まがりかしたいちばんどんづまりの位置にあった。そして、数えでもまだ二十五歳でしかなかった母は、平池という姓から一字取った池本という芸者屋の主人でありながら、自分もふみという名で(ひだり)(づま)を取っていた。

金鱗堂 きんりんどう。金鱗堂板や尾張屋板とも。金鱗堂板の江戸切絵図はもっとも有名。江戸の市街や近郊地域を地図に分割して編纂した絵地図集。尾張屋(金鱗堂)板は、嘉永2年(1849年)刊行開始、同7年(1854)26枚揃、安政12年(1856年)28枚揃、文久3年(1863年)30枚揃を完成、作者は景山致恭と戸木昌訓。武家地が白、町家が灰、神社仏閣が赤、川や堀は青、道路が黄、土手や田畑や原が緑と色分けしています。
切絵図 きりえず。地域別に区切って作った絵図、つまり区分図。
行願寺 きょうがんじ。正しくは「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
寺内 じない。かつて行元寺があり牛込肴町と呼ばれた地域。現在の神楽坂5丁目。
待合 まちあい。貸席業。待ち合わせや会合のための場所を提供します。
左褄 ひだりづま。芸者の異名。左手で着物の褄を持って歩くことから

 では母の家は? 最初に昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」ではこうなっています。なにもわかりません。
古老の記憶
籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』(平成18年)では

大正六年より牛込区肴町53番地で、芸妓屋『池本』を営む母のもとで暮らすことになった

と書いてあります。また、東京都近代文学博物館の『野口冨士男と昭和の時代』(平成8年)でも

大正六年 牛込区肴町五十三番地に居住の生母のもとへ引き取られる

と記載しています。

 では肴町53番地はどこにあるのでしょう。昭和12年の「火災保険特殊地図」で53番地には2軒の家があるとわかります。行元寺
上の家は「山喜」で、待合なので、違います。下の家は(妓)と書いてあり、まずここでしょう。現在、この一帯はマンション「神楽坂アインスタワー」に完全に覆われてしまいました。

田原屋[昔]|神楽坂5丁目

田原屋の写真

文学と神楽坂

 創業者は名古屋出身の高須宇平氏で、19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。場所はここです。2002年2月に閉店。

 岩動景爾著「東京風物名物誌」(昭和26年)では

 明治20年頃は牛鍋で名を売り、果物店になったのは明治40年頃、明治末年日本で始めてのフルーツパーラーを始めて、千疋屋万惣高野もこれに倣ってパーラーを兼営するようになった。当時アイスクリーム8銭の頃15銭で売る等すべて高級味覚本位で一貫し東京の代表的果実舗の一に算えられた。田原屋のフランス料理も有名でこれは大正3年に始め広く食通人を集めた。戦後は京橋東仲通り万珠堂の隣りで弟さんが昔の田原屋系コックを集めてレストラン田原屋を始めている。

千疋屋 せんびきや。本店は中央区日本橋室町2-1-2。創設は天保5年(1834年)。果物の輸入・販売を専門とする日本の小売業。現在も営業中。
万惣 まんそう。神田須田町の交差点のフルーツパーラー。創設は昭和2年(1927年)。閉店は2012年3月24日。
高野 タカノフルーツパーラー。新宿高野本店。新宿区新宿3-26-11。創業は明治18年(1885年)。現在も営業中。

田原屋ロゴ 夏目漱石菊池寛佐藤春夫永井荷風らが通いました。メニューにはなんとも懐かしい「田原屋」のレタリング。

昔の田原屋、田原屋跡

 田原屋は最初はおいしかったと思います。しかし後半はこのメニューのように、新しいものも新鮮なものもなく、あるのは旧弊だけとなり、うーん、どうもなあ、でした。

 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)の注として

 毘沙門の隣の静岡という魚やが、土地付で家を売りたいというので4000円で30坪、家付で買って、これで今の田原屋のめばえとなったのです。開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には、 観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目、先々代歌右ヱ門、松永和風、水谷八重子サトー・ハチロー、加藤ムラオ、永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生は京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅田清吉氏の“手紙”から)

 加藤ムラオという名前はないので、野口冨士男氏は註として「加藤武雄と中村武羅夫?」と書いています(『私のなかの東京』 文藝春秋)。2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では対談を行っています。ここで出てくる人は、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「高須さん」はレストラン田原屋の店主。

馬場さん それでいよいよ隣りの「田原屋」(*)さんにいくわけね。田原屋さんていうのはどうなんですか?
相川さん これは昔「静岡屋」という魚屋さんだった。魚屋さんのあとを買ったんです。
馬場さん 静岡屋さんつてのは知ってる、頭?
相川さん 知らない。相当前だ。大正初期。あそこで牛肉屋をやったのね、あがり屋を。
高須さん 牛肉屋は潰れたはずですよね。それで屋号をさかさまにして田原屋にしたっていう話は聞いているんですけど。
相川さん 牛肉屋のあがり屋さんをやっていたときに女中さんできたのがおばあちゃんなんですよ。それでウヘイさんと見合いして一緒になって。
馬場さん 「原田屋」はウヘイさんのおとっつぁんなの?
相川さん お父さんは金魚屋だったの。それは赤城下にいた。
高須さん だけど、ウヘイさんは金魚屋やったり質屋に丁稚奉公したりしていた。
相川さん ああ、二丁目の質屋さんだね。山本さんの連れ合いの。
高須さん ウヘイさんのお父さんというのは下の弟さんのほうを可愛がっていて、ウヘイさんとはうまくいかなかったんですよ。
相川さん 水道町の高田さんに話を聞いたところでは、昭和四、五年のころ、要するに恐慌が来ていたときですね、ウヘイさんはいまの経済理論なんか知っている人じやないけれども、「不景気ってのは金持ちと貧乏人がますます差が開くことだ、これからの田原屋は貧乏人相手ではなくて金持ちだけを相手に商売をしよう」ということで、ガラッと商売を替えたんだという話を間きましだけどね。貧乏人を相手にしていてもダメだと。金持ちを相手にして、昭和五、六年の恐慌を乗り越えたという話があって。非常にわかりやすい(笑)。
高須さん あれ、質屋に勤めていて勉強したんじやないですか? 質屋の小僧がよく下のお堀で船に乗って京橋におつかいに行ったって。
馬場さん 質屋さんというのは一種の金融業者ですから、経済の動きってものがよくわかるんだ。
高須さん 質屋の小僧さんをやっていたんですよ。じいさんと一緒に金魚屋やって、そのあと質屋に丁稚奉公に行って、それから店をもった。
相川さん だけど、よくああいう商売をポッと考えたものですね。
高須さん じいさんが生きていたときはもう晩年でほとんど無口になっていますから、話を直接は聞いてないですけどね。よく聞いたのは、関東大震災のおかけで神楽坂はよくなったって。
相川さん そうそうそう。あれで下町は全部焼けたからね。

あがり屋 不明。「揚がり屋」は「浴場の衣服を脱いだり着たりする所。脱衣。江戸時代では「武士、僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋」。「あがる」には「御飯を食べる」という意味があります。
ウヘイ 宇平です。高須宇平でした。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第17号で二代目田原屋の奥田卯吉氏が書いた「おれも江戸っ子、神楽坂」では

創業時の田原屋のこと
 ここで田原屋とあたしのことを振り返ってみよう。
 先々代は水道町で金魚の卸をしていた。一坪くらいに区分けした浅い池がいっぱいあって、それぞれの種類の金魚が飼われていた。
 やがて神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。昔、牛の肉を食べるのは敬遠された時代から、ようやく醒めた頃で、大いに流行し繁盛したのである。昔は長男を除く子供は分家せねばならぬしきたりがあったらしく、皆、別姓を名乗っている。
 時代の先端をゆく父たちは、五丁日の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った昧で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になっだ中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波さんぱ石が据えられていた。これが親父の自慢で「千疋屋などどこ吹く風」だった。
 昭和初期の当時は、万惣(万世橋)、高野(新宿)、紀伊国屋(青山・スーパーのパイオニア)西村(渋谷)などが揃っていて、常に業界の先頭に立って親睦を
はかっていた。ちなみに「果物は健康の母」なる標語は、父の発案で、組合に協力していた。

 また、その中の「親父と二晩かけて考案したフルーツみつ豆」では

 いまどきフルーツぬきのみつ豆など考えられないくらいだが、これは親父と二晩がかりで考え出したもの。世に言う「フルーツみつ豆」の始まりで、後にあんこをのせて「あんみつ」ともなった。
 当時のお客さんは、フルーツみつ豆を珍しかって、なかなかの好評だった。変色の早い桃、林檎、梨、枇杷などは甘露煮をしてタップリと、そしてメロン、苺、バナナ、サクランボ、西瓜、オレンジなど季節の香りを彩りよくあしらって見事なものとなった。

 夏目純一氏は『父の横顔』でこう書いています。父は夏目漱石です。

 やはり、小学一、二年の頃だったと思う。父は私達をつれてよく散歩に行った。当時新宿はまだ今のように発展してはいなかったが、神楽坂はとてもにぎやかで、夏の夜なぞ、夕方から団扇(うちわ)をもった浴衣がけの人達が、夜店をひやかしたり、往来の金魚屋をのぞいたりして仲々風情があったものだ。そんな通りをぶらつきながら、毘沙門さまのあたりまで来ると田原屋という料理屋があった。表は果実屋だが中に入ると洋食を食べられるようになっていて、それが仲々美昧かった。父は私達をよく、この田原屋へつれて行ってくれたのだが、前にすわっていて、いちいち、がちゃがちゃ音を立ててはいかん、他所(よそ)見をしないで前を向いて食べろとか、口にほうばってべちゃべちゃ喋るなと、そのやかましい事といったら、何々するな、何しちゃいかんの連続で、せっかくの御馳走もさっぱり食べたような気がしなかった。後で考えるといちいちもっともな事ばかりなのだが、その時はおいしい物もいいが、こういちいち何か言われたんでは、田原屋も願いさげにしたいなと思った。父は父で、せっかく連れて行ってやった小供達が自分の顔色を見たり、何か自分を敬遠したりする私達を感じて、淋しい気がした時もあったろうと思う。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

 毘沙門の向ふ隣。果物屋として昔から名の知れた店ですが、同時に山の手一の美味な洋食を食べさせることも、既に永い歴史になってゐます。店先を見ただけでは、どこで洋食をたべるのか一寸判らぬ位ですが、果物の間を抜けて奥へ行くと食堂があり二階は更に落付いた上品な食堂になってゐます。

 安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で、マカロニは少量、カレーライスも少量、スイカの匙は貧弱だといわれてしまいます。

M   「もうその邉で手つ取り早く食べ物の評に移らうぢやあないか。マカロニチーズ(三十錢)のチーズは却々よいのを使つてゐるが、マカロニは少し分量を儉約し過ぎてゐる」
H   「特別カレーライス(五十錢)お値段も相常だが、流石にうまく、第一カレーがいゝや、それに小皿に盛つてくる副菜の洒落てゐること、大いに推賞したいね。がたゞ僕の方も量を少々増して欲しいと思ふ。この一皿で一食分にはどうも少な過ぎるから」
S   「西瓜(三十錢)の味は無類、但しこの貧弱な匙はどうです、頸が折れ相で、その方に氣を取られる。この頃は百貨店でも大抵特別の匙を添へるのだから」
小が武 「アイスクリーム(二十錢)は餘りほめられません。どうも果物屋のクリームは千疋屋にしても美味くないし、こゝも感心しない」
M   「果物屋ではシャーベットをお食べと云ふ洒落かね」

 牛込倶楽部が発行する「ここは牛込、神楽坂」別冊『神楽坂宴会ガイド』(1999年)です。

 単品でのおすすめ料理は、ハヤシライス(1800円)ビーフクリームコロッケ(1200円)ビーフカツレツ(2400円)など。ちょっと贅沢にというときには「牛ヒレ肉田原屋ふう煮込み」であるところのビーフストロガノフ(6000円)が最高。

 ここでハヤシライス(1800円)が出ています。四半世紀を越えて、物価1800円は2000円以上です。しかし、本当に2000円以上に相当する味があったのでしょうか。ビーフストロガノフはなんと6000円。う~ん。
 美味しいものなら量は少なくても価格は高くてもいい。しかし、本当に美味しいの? 美味しくない場合には、やがて消えていくのでしょう。

 最後は大河内昭爾氏の氏の『かえらざるもの』から。氏は武蔵野大学名誉教授で文芸評論家です。やっぱり悲しい。

神楽坂「田原屋」が消えた

 神楽坂「田原屋」が昨年姿を消した。いつも愛想よく声をかけてくれていたおばあさんが店に出られなくなったせいであろう。店の前を通っても欠かさず愛想をいってくれた。
 昭和四十年。公団住宅に激烈な競争をくぐり抜けて当選したというだけで、あと先かまわず東京西郊のコンクリートばっかりの殺風景なところに引越した。そしてわずか半年で退散、こんどはうって変わって石畳の路地と黒板塀のある、あこがれの牛込神楽坂近くに引越しが出来た。友人の持ち家の古ぼけたしもた屋の、隣家からは三味線の音も聞こえてくるという路地裏であった。大学以来なじみの界隈であるが、郊外暮らしが性にあわなかった分だけ、まさに蘇生のおもいをした。それ故家族をひきつれて神楽坂「田原屋」へ出むくのが、当時の私の最高の贅沢だった。「この店のなつかしさ サトーハチロー」という大ぶりなマッチ箱にデザインされた文字がのびのびと躍っていて、見事に私の気持を代弁してくれていた。
 月の五の日には毘沙門さんの植木市を中心とした門前市が全盛の頃で、子供の手をひいて雑踏の神楽坂歩きはいっそう楽しかった。
「田原屋」は階下が華やかな果物屋で、二階がレストランだった。濃厚な風味を誇ったハヤシライスがあって、それがいかにも洋食屋といった風情にかなっていた。私はかねてレストランならぬ「洋食屋」を証明するものとしてハヤシライスの有無ということを言っていたか、「田原屋」を根拠にそれを口にしていたような気がする。鳥羽直送と壁に貼りだした生ガキの知らせは季節の風物詩だった。
(「東京人」平成16年1月号)

 現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。ふぐ


大東京繁昌記|早稲田神楽坂13|追憶

文学と神楽坂

追憶

私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染なじみだが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。
 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。

都寿司

都寿司 織田一磨作の神楽阪(1917)(「東京風景」より )には都寿司は次の絵のように載っています。

織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では現在の「福屋せんべい」の前に寿司がありました。

神楽坂と縁日市

郵便局 神楽坂6丁目にあった「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
ヤマニバー 菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物が昔のヤマニバーでした。細かくはここで
神谷バー 創業明治13(1880)年。日本初のバー。ずっと浅草1丁目1番地で。2011年(平成23年)、神谷ビル本館は登録有形文化財に

その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ/\した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手に閻魔えんまがあり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう/\とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。

 新宿区横寺町交友会『よこてらまち今昔史』(00年)の「昭和10年頃の横寺町」を見ていきます。横寺町

第一銀行支店 現在は「スーパーキムラヤ」です。これは、まあちょっと高級なスーパーです。上の図では最も右で、青灰色です。
お閻魔様 正蔵院のこと。丸形で色は濃紺色。
市営の公衆食堂 「神楽坂公衆食堂」です。薄緑色で。
飯塚酒場 現在は普通の家ですが、長い間酒場をやっていました。薄茶色です。
同じ酒場 新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)の「昭和10年頃の横寺町」では「1. 米屋 2.パーマネント 3. 公証人役場 4.目覚し新聞 5.マッサージ業 6.靴修理店 7.歯医者 8.若松屋 9.大工職 10.洋服店」で、昭和10年頃で「同じ酒場」はありません。若松屋が何を指しているのか分かりませんが、酒場ではないようです。若松家であればテキヤの1つ。テキヤとは縁日など人出の多いところなどで、居合抜き、独楽回し、手品、曲芸などの見世物を演じ、各種の薬品,商品を売る者。なお、横寺町の「もきち」(居酒屋)はこの時はまだ生まれていません。この横寺町の「もきち」は「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」にでています。
芸術座跡 座長の島村抱月が大正7年12月、スペインかぜで死亡し、大正8年1月、1か月後に主演女優の松井須磨子氏は自殺し、2人を失った芸術座もこれでなくなり、松井須磨子氏の兄、小林さんのアパート(芸術倶楽部跡)になりました。紫色
荒物… 「荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋」は「荒物屋、染物屋、女髪結、製本屋、質屋」のこと。荒物屋は「家庭用の雑貨類を売る商売や店」で、別名は「雑貨屋」。以下のイラストでは赤で書いてあります。横寺町はあらゆる店があり、なんでも売っていたようです。
日蓮宗のお寺 円福寺です。黄色で。現在も円福寺はあります。
田川 花屋の田川は青色で。現在はありません。

私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しいいたましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。

芸術座 げいじゅつざ。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。これは第一次芸術座のほう。
トルストイ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич ТолстойLev Nikolayevich Tolstoy)。帝政ロシアの小説家、思想家。生年は1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)。没年は1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)。
闇の力 愚かさにより父殺し・嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
死とその前後 大正7年10月、須磨子は有島武郎の「死と其(その)前後」の妻役で好評を博しました。
印銘 いんめい。 公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すこと。
傷しい死 島村抱月はスペインかぜ(新型インフルエンザ)で、大正7年11月5日に死亡し、翌8年1月5日、松井須磨子氏は自殺します。

私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。

赤城神社 現在は赤城元町1-10。700年にわたり牛込総鎮守として鎮座しています。
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。しかし、清風亭はどこにあるのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
博文館 はくぶんかん。東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊。取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、戦前は日本最大の出版社に。
筑土の植木屋旅館 近松秋江がここに来る前は筑土の植木屋旅館だったといいます。場所は不明。筑土とは「津久戸」なのか、「筑土八幡町」なのか、合わせてそう呼んだのか、わかりません。
楠山正雄 くすやま まさお。1884年11月4日 – 1950年11月26日。演劇評論家、編集者、児童文学者
永代橋 都川えいたいばし。隅田川にかかる橋で、地上には永代通り、地下には東京メトロ東西線が通っています。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。実際は巨大な地図が東京紅團(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ にあります。
都川 都川も上図で。

その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀土肥水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会もとを作った由緒ゆいしょづきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。

清風亭 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋になりました。しかし、赤城神社内で清風亭はどこあったのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
貸席 料金を取って貸す座敷
土肥 土肥春曙。どひしゅんしょ。明治2(1869).10.6.-1915.3.2。俳優。1890年東京専門学校 (現早稲田大学) 文科の第1期生として入学。卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、1901年川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、翌 06年文芸協会が設立されると技芸監督、中心俳優として活躍。
水口 水口薇陽。びよう。1873-1940。05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、上演運動を行う。
文芸協会 1906年、坪内逍遥、島村抱月が中心で、演劇のみならず宗教・美術・文学など広範な文化運動を目的として発足。09年演劇研究所を設立して演劇団体に。1913年、解散。
江戸川の清風亭 清風亭は石切橋の近郊に転移しました。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」(三交社)では「この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になる」と書いてあります。石切橋は
石切橋
古蹟 こせき。古跡とも。歴史に残るような有名な事件や建物などのあと。遺跡。旧跡。古址こし

東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06|蟻の京詣り

文学と神楽坂

蟻の京詣り

私が早稲田の大学に学んでいた頃、また卒業してからでも、それは明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門縁日になると、あすこの入口に特に大きな赤い(ふたはり)提灯ちょうちんが掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛かったのを覚えているが、外でもそうであるように、時勢と共にいつとはなしにその影をひそめてしまった。又、植木屋の多いことが、その頃の神楽坂の縁日の特色の一つで、坂の上から下までずっと両側一面に、各種の草花屋や盆栽屋が所狭く並び、植込の庭木を売る店などは、いつも外濠の電車通りの両側にまではみ出し、時とすると、向側の警察の前や濠端の土手際にまで出ていたものだった。そしていろ/\な草花や盆栽の鉢を、大切そうに小脇に抱えたり高く肩の上に捧げたり、又は大きな庭木を提げたりかついだりした人々が、例の芸者や雛妓すうぎやかみさんや奥さんや学生や紳士や、さま/″\の種類階級の人々のぞろ/\渦を巻いた、神楽坂独特の華やかに艶めいた雑踏ざっとうの中を掻き分けながら歩いていた光景は、今もなお眼に見えるような気がする。それもつい五、六年前、震災の前あたりまで残っていたように思うが、今はそうした特殊の縁日的の気分や光景はほとんど見られなくなった。定夜店が栄えるに従って、植木屋の方が次第にさびれて行ったらしい。

電話局

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
のぞきからくり のぞきからくりは、江戸期に発祥した伝統的な見世物芸能のひとつ。最初は数個ののぞき穴からからくりや浮絵をのぞく簡素なもの。それが明治・大正には20個もの覗き穴に細かい押し絵をほどこした豪勢なものも。各地の縁日の盛り場、社寺の境内によくあったが、活動写真の流行とともに衰退。
草花屋 現在は花屋です
電車通り 当時、電車は市電(都電)を指し、JR(国鉄)ではありません。「外堀(そとぼり)通り」のこと。
雛妓 すうぎ。まだ一人前にならぬ芸妓。半玉(はんぎよく)御酌(おしゃく)とも
定夜店 決まった場所にでる夜店

その代り近頃毘沙門の境内に、夜昼なしの常設植木屋が出来て、どこへでも迅速に配達植込までしてくれるという便利調法なことになっているので、毎日中々繁昌しているのも面白い。つい一、二年前からはじめられたことだが、毘沙門様御自身の経営か、或は地代を取って境内を貸しているのか、兎も角震災に潰れた何とか堂の跡の空地を利用してのこの新しい商売は、毘沙門様にとっては、あたかも前庭の植込同様、春夏秋冬緑葉青々たる一小樹林を繁らして、一方境内の風致を添えながら兼ねて金儲けになるという一挙両得の名案、毘沙門様もさて/\抜け目なく考えたものかな、その頭脳のよさに流石さすがは御ほとけなればこそと自然とこちらの頭も下る次第で、市内至る処の大小神社仏閣の諸神諸仏も、よろしく範をわが神楽坂毘沙門様に取っては如何いかにと、ちょっとすゝめても見たいところである。
 私はそんな今昔談を友達にしながら、電車待つ間のもどかしさに、むしろ徒歩にかずとそのまま焼餅坂を上り、市ヶ谷小学校の前からぶら/\と電車通りを歩いていたのだが、いつかあの白い海鼠餅なまこもちを組立てたような、牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ、気がつくともう肴町の停留場のそばへ来ていた。
「いよう! なるほどこりゃ大した人出だね」

調法 ちょうほう。重宝とも。便利で役に立つこと。便利なものとして常に使うこと。貴重なものとして大切にすること。
如かず 及ばない。かなわない
焼餅坂 昭和56年の「新宿区史跡地図」には焼餅坂ははっきりこの右図だと描いてます。残念ながらこの絵は間違いです。焼餅坂はここで書いている新道ではなく、正確には旧道が焼餅坂になります。でも、新道を焼餅坂だとしてももういいでしょう。旧道と新道はここに昭和56年「新宿区史跡地図」
市ヶ谷小学校 市谷山伏町9番地と10番地にありました。現在と変わらない場所でした
海鼠餅 つきたての餅をのさないでナマコのような半楕円形の形に成型してある餅。
豆なまこ餅
電話局 正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。
NTT牛込

友達は思わず角の交番の所に立ちどまって、左右を見廻しながら大袈裟に叫んだ。見ると今丁度人の出潮時らしい、電車線路をはさんで明るく灯にはえた一筋路を、一方は寺町の方から、一方は神楽坂本通りの方から、上下相うつ如くに入乱れて、無数の人の流れがぞろ/\と押し寄せていた。そして時々明るい顔を鈴のようにつらねた満員電車が、チン/\と緩やかにその流れをかつき且通し、自動車の警笛の音と共に交通巡査の手がくる/\と忙しく廻っていた。
「いつもこうなのかね」
「毎晩この通りだね」
「まるで大きな蟻の京詣りみたいだ」
 なるほどその形容は適切だと思った。そして私は、この短い、しかしてあまり広からぬ一筋の街を中心に、幾条となく前後左右にわかれている横町々々から、更にその又先の横町々々から、あたかも河の本流に注ぐ支流のそれのように、人々が皆おのがじしにこゝを目ざし、こゝの美しい灯をしたつどい寄って来る光景が眼に見えるような気がして、非常に愉快だった。

且堰き且通し 川の流れを堰き止めたり、通したりする
蟻の京詣り 蟻の熊野詣とも。社寺などの参詣さんけいで、蟻の行列する様に例えて群衆が集まってにぎやかになること
おのがじし 己がじし。各自がめいめいに。それぞれに
慕う したう。恋しく思う。懐かしく思う。
つどう 集う。人々がある目的をもってある場所に集まる。

神楽坂今昔(2)|正宗白鳥

文学と神楽坂

私がはじめて寄席へ行つたのは彼等に誘はれたゝめであった。神樂坂あたりには、和良店牛込亭との二軒の寄席があつたが、前者は落語を主とした色物席で、後者には義太夫がよくかゝつてゐた。朝太夫といふ本格的の語り手ではなくつても、大衆に人気のあつた太夫が一時よく出てゐたことがあつた。私は自分の寄席ばひりも可成り功を經た時分、或る夏の夜この牛込亭の一隅で安部磯雄先生の浴衣姿を發見したので、御人柄に似合ぬのを不思議に思つて、傍へ行つて訊ねると、先生は朝太夫の情緒ある語り囗を讚美され、樂んで聞いてゐると云はれた。先生の如きも、浄瑠璃に漂つてゐる封建的人情味に感動されるのか。
 あの頃の和良店は、東京の寄席のうちでも、名の聞えた、榮えた演藝場であつて、私のはじめて行つた頃は、圓遊の全盛時代であつた。これも圓朝系統では本格的の噺家ではなかつたさうだが、大衆には人気があった。私はよく聽きに行つた。落語家の東京言葉江戸言葉が、田舎出の私にも面白く聽かれたのだ。神樂坂區域の都曾情味だけでは次第に物足りなくなって、單獨行動で、下町の寄席へも出掛けた。

彼等 この文章の前に彼等とは早稲田の法科の学生だと書いてあります。
和良店 和良店亭の設立時期は判っていません。が、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が公演し、天保年間には「わら新」で義太夫が興行をしました。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席が中心になっていきます。(詳細は和良店を)
牛込亭 牛込亭の場所は6丁目でした。。
色物席 寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。これで色物と呼ぶようになりました。
義太夫 義太夫節。ぎだゆうぶし。江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。
朝太夫 竹本朝太夫。たけもとあさたゆう。1856-1933。明治-昭和時代前期の浄瑠璃太夫。
>寄席ばひり 寄席ばいり。寄席這入り。寄席にたびたび行くこと。
安部磯雄 あべ いそお。生まれは元治2年2月4日(1865年3月1日)。死亡は昭和24年(1949年)2月10日。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者。日本の野球の発展に貢献し「日本野球の父」。早稲田大学野球部創設者。
圓遊 2代目三遊亭 圓遊。生まれは慶応3年(1867年)7月、死亡は大正13年(1924年)5月31日。江戸出身の落語家
圓朝 初代三遊亭 圓朝、さんゆうてい えんちょう。生まれは天保10年4月1日(1839年5月13日)。死亡は明治33年(1900年)8月11日。江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した落語家。

私は、學校卒業後は、一年あまり學校の出版部に奉職してゐた。この出版の打ち合せの會を、をりをり神樂坂近邊で高級な西洋料理屋とされてゐた明進軒で催され、忘年會も神樂坂の日本料理屋で開かれてゐたので、私も、學生時代には外から仰ぎ見てゐただけの享樂所へはじめて足を入れた譯であつた。明進軒に於ける編輯曾議には、一度、高田早苗 坪内逍遙兩先生が出席された。私が學生生活を終つてはじめて世間へ出た時の集まりだから、爽やかな氣持でよく記憶してゐる。秋の夕であつた。たつぷりうまい洋食をたべたあとで、高田先生は漬物と茶漬とを所望され、西洋料理のあとではこれがうまいと、さもうまさうに掻込んでゐられた。

明進軒2

出版部 早稲田大学出版部。1886年の設立以来、多くの書籍を出版してきました。
明進軒 昭和12年の「火災保険特殊地図」では明進軒は岩戸町ニ十四番地です。なお後で出てくる求友亭は通寺町75番地でした。また神楽坂通りから明進軒や求友亭をつなぐ横丁を川喜田屋横丁と呼びます。
享樂所 快楽を味わう所

我々の部屋の外を横切った筒つ袖姿で、氣の利いた顏した男に、高田さんは會釋したが、坪内先生はふと振り返つて、「尾崎君ぢやなかつたか。」と云つた。
横寺町の先生は、この頃よくいらつしやるかね。」
と、高田さんは、そこにゐた給仕女に訊いた。この女は明進軒の身内の者で、文學好きの少女として噂されてゐた。私は、牛門の首領尾崎紅葉は、この界隈で名物男として知られてゐることに思ひを寄せた。紳樂坂のあたりは、紅葉一派の縄張り内であるとともに、早稲田一派の縄張り内でもあつたやうだ。
 私は學校卒業後には、川鐵相鴨のうまい事を教へられた。吉熊末よし笹川常盤屋求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。記憶力の衰へた今日でもまだ覺えてゐるから不思議である。こんな家へは、一度か二度行った事があるか、ないかと云ふほどなのだが、東京に於ける故郷として、故郷のたべ物屋がおのづから心に感銘してゐると云ふ譯なのか。

tutusode筒つ袖 つつそで。和服の袖の形で、(たもと)が無いこと
横寺町の先生 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。尾崎紅葉の住所は横寺町でした。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門
相鴨 あいがも。合鴨。野性真鴨とアヒルを交配させたもの
吉熊 箪笥町三十五番「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では「吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。」箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左図。地図は現在の地図。
笹川 0328明治40年新宿区立図書館が『神楽坂界隈の変遷』を書き、それによれば 場所は3丁目1番地です(右図)。しかし、1番地の住所は大きすぎて、これ以上は分かりません。
常盤屋 場所は不明。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、4丁目の「料亭常盤」と書いてある店がありますが、「常盤屋」とは同じかどうか、わかりません。
求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
おのづから 自然に。いつのまにか。偶然に。たまたま。まれに

大東京繁昌記|早稲田神楽坂10|商店繁昌記

文学と神楽坂

商店繁昌記
商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗しにせとか大商店とかいうものがほとんどないようだ。いずれも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)
酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらはしかし普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではないようです。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは出していないとはっきりと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
尾沢 カフェー・オザワは神楽4丁目の「カフェ・ベローチェ」にありました。詳しくはここで

菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。
その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。
ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具()的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。

塩瀬 塩瀬菓子店はちょうど山田洋傘の対面になります。現在はナカノビルでしょうか。喫茶店「Broxx」などが入っています。
船橋屋 神楽坂6丁目です。詳しくはここで
盛文堂 昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。(昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」を参照)。しかし、盛文堂の場所はもっと色々な場所に建っていました。助六履物から下に行った場所も1つ。また野口冨士男氏の「私のなかの東京」の中で「ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった」と書いています。
元祖寿司
機山閣 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂5丁目にありました。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
ゴールドフォンテン
南北社 寺町は通寺町のことで、現在は神楽坂6丁目に変わりました。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地の南北社はあり、さらに『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」に「通寺14に系列の南北社の南北書店があった」と書いてあります。その後、通寺町14を南北社にしています。赤い四角で書いてあります。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など、かなり本を出版したようです。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。昭和5年「牛込区全図」
竹中 『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。青い四角でした。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 戦前の武田芳進堂は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通りと藁店)から一軒左にありました。場所は「ISSA」と「ブラカイルン神楽坂」に挟まれて、以前は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。一方、戦後の武田芳進堂は三つ角にありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では≪芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。「最新東京学校案内」「初等英語独習自在」など。現在の芳進堂ラムラ店≫と出ています。現在では飯田橋駅のラムラに出しています。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂05|寅毘沙・午毘沙

文学と神楽坂

寅毘沙・午毘沙寅毘沙・午毘沙

 その時わが家の女の子供が三人仲よく手をつらねて玩具屋の前に立っているのに出会った。
「お父さん、風船買って頂戴」
 七つになる一番末の子が、逸早く私のたもとを捉えて甘えかかった。同行の友人の手前、私がこばみ得ないという弱点を、かの女は経験によってちゃんと知っているのだった。私は文句もいえずだまって十銭の白銅を一つ握らせた。
「お兄さんも来ているわよ」
 かの女はうれしさの余りにか、おせっかいにもなおそんなことを私に告げ知らせるのであった。なるほど少し行くと、長い巻紙にたらに沢山数字を書きつらねたのを高く頭上にさしあげて記憶術の秘訣ひけつとやらを滔々とうとう弁じている角帽の書生を取り巻いた人だかりの中に、私は長男の後姿を見かけた。が、つかまったら()()だと思って素知らぬ顔で通り過ぎた。
 あちらにもこちらにも小さな人の渦が出来波が流れて、この狭い場末の一角にも、ひなびた、ささやかな、むしろ可憐な感じのものながら、流石さすがに初夏の宵の縁日らしい長閑のどかな行楽的な気分が漂っていた。すぐ近くの河田町にある女子医専の若い女学生が、黒い洋服姿で、大抵三人ずつ一組になってぶら/\しているのが、こゝの縁日の特色のように目立った。漬物屋へ入って、つくだ煮や福神漬など買っているものもあった。

10sen-T9

つらねる 連ねる/列ねる。 1列に、または順番に並べる。
 和服の袖付けから下で袋のように垂れた部分
白銅 主体は銅、ニッケルは10~30%の合金。100円硬貨が代表的。10銭白銅貨幣は大正9年~昭和7年(1920~1932年)に流通し、1.00匁(3.750グラム)。割合は銅750とニッケル250。直径は22.121ミリ。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日のこと。神仏の(ゆかり)のある日を選び、祭祀や供養を行う日。縁日と東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

こゝで縁日と夜店との区別について一言しておきたい。縁日は地蔵なり不動なり稲荷さまなりの祭日で、神社では祭日であり仏では縁日である。夜店は毎日特定の場所に限り夕方から露店を出すもので、縁日の露店は昼間から店を出している。大抵境内には子供相手の安玩具や、喰べものやが出ている

女子医専 現在の女子医大。1900年12月5日、東京至誠医院の一室に東京女医学校創立。03年、牛込区市ヶ谷河田町の陸軍獣医学校跡地に移転し、08年、東京女医学校附属病院を設置。12年、東京女子医学専門学校、通称「東京女子医専」に昇格。20年、卒業生は無試験で医師免許取得ができるようになった。50年、 大学令で東京女子医科大学医学部を開設しました。

「どこの縁日でも同じだね」と友達はむしろつまらなさそうにいった。
「まあそうだね、殊にここなんか子供相手が主で、実に貧弱なものだが、それでも縁日だというと不思議に人が出るからね。そしてあたりの商店でも何でも段々と自然によくなって行くからね。だから土地の繁栄策としては、どうしても縁日というものが必要なんだね」と私がいった。「神楽坂にしたって、今日の繁栄を見るに至ったのは、そりゃ種々様々な条件や理由がそなわっていたからに違いないが、(ごく)最初は、矢張り毘沙門びしゃもんの縁日なんかゞ主としてあずかって力があったんじゃないかと思うんだ。現に、今ではもう普通の日も縁日の日も区別が付かないようになってしまったけれど、僕が知ってからでも、元はとらうまとの縁日の晩だけ特に沢山夜店が出て、従って人出も多く、その縁日の晩に限って、肴町から先が車止めになったような訳だったからね。その頃は僕なども、特に今日は寅毘沙だ午毘沙だといって、丁度今僕の子供等が手をつないで近所の縁日を見に行くように、友達を誘ったり誘われたりして早稲田の奥あたりから出て行ったものだった。夜店なんか見るよりも、ただ人込の中をぶら/\しながら若い異性の香を嗅いだり袖が触れ合ったりするのを楽しみにね、アハヽヽ」
「随分不良性を発揮したことだろうね」と友達は笑いながら半畳(はんじょう)を入れた
「いや、どうして/\、きわめて善良なものだったさ。今日のモダン・ボーイと違って、その頃の僕等ときたら、誰も彼もいわゆる『人生とは何ぞや』病にかかっていたので、そういう方面には全く意気地がなかったよ。それにこの頃のように、善くも悪くも簡単に女の見られるカッフエなんていうものはなしさ、精々三度に一度位、毘沙門隣の春月か通寺町の更科さらしなあたりで、三銭か五銭のザルそば一つ位で人生や文学を談じては、結局さびしく帰ったものだよ。それでその頃は、普通の日はそんなににぎやかでもなかった。夜店も寿司屋の屋台店位だったが、それがいつとはなしに、銀座あたりと同じく毎晩定夜店が出るようになり、人出も毎晩同じように多くなり、従ってあたりも益々発展して来たというわけだ。今ではもう特にいつが縁日だということも分らない位で、吾々も又いつが寅毘沙だ午毘沙だなどいうことを知る必要もなくなった。いつ出かけて行っても同じように賑やかで、華やかで享楽地的気分が益々濃厚になって来たね」

寅と牛 『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

中でも神楽坂の毘沙門天の縁日は余り盛り場のない山の手の事であるから、付近の人が盛んにこの縁日に集まり、寅毘沙、牛毘沙といって十二日のうち二日は、特に陽気のよい時などは人出で賑わったが、寅の日は毘沙門の縁日で、牛毘沙は毘沙門天の縁日ではなく、境内の出世稲荷の縁日なのである。

ではどれぐらい前に始まったのでしょうか。東京理科大学理窓会埼玉支部の「西村和夫の神楽坂」ではこう書いています。

 さらに夜店が明るく華やいだのは電気とアセチレンランプが現れた20世紀以後からのことだ。夜店が明るくなるにつれ震災前後を境に「バナナの叩き売り」で代表されるような威勢のいい香具師の啖呵が聞こえるようになると、植木屋は次第に隅に追いやられることになった。
 そればかりかアセチレンランプからでる異様な臭いは夜店の臭いとも思われる時代に変わっていく。街路灯も少なく、ネオンもイルミネイションもない時代、日が暮れ神楽坂の夜店が一斉に明かりを灯すと、光の帯が明るく道路を歩く人を浮び上がらせた。そして時間がたつにつれて光に集まる虫のように人の数は次第に増えていった。
 寅の日だけの縁日がやがて午の日にも出るようになり、寅の日と午の日は寅毘沙、午毘沙と言って200軒以上の夜店が狭い道路の両側に2列に並んだ。やがてそれが連日になり、人の出盛りの時間になると坂が人間で埋めつくされ、坂下と坂上には[車馬通行止]の提灯が下げられ坂は歩行者天国にされた。これで通行人は安心して神楽坂の夜店見物を十分に楽しむことができたのである。夜店を訪れた客は坂を2~3時間かけて2~3回上下するのが普通だった。200軒もでる店を見て回るのには1日や2日で終わるものではなかった。
 夜店の範囲も通寺町から矢来町に達するいきおいでのび、大久保通りも人と店で溢れるようになったが、しかし、通行人は神楽坂の夜店のほうが格が上だと考えていたようだ。この状態は日中戦争が始まるころまでつづいたが、戦争が激しくなると急速に姿を消してしまった。敗戦後、米軍の空襲で焼土と化した街は復興したが再び夜店を見ることはなかった。

 寅の日に縁日がでたのは江戸時代でした。午の日に縁日が出たのは『新撰東京名所図会 第41編』(明治37年)によれば、「境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。」と書いてあります。つまり、明治37年よりは昔です。区の「新宿区史・史料編」(昭和31年)の「古老談話」によれば「明治中頃」です。
 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)では「東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治二十年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。」
「大江戸歴史散歩を楽しむ会」(https://wako226.exblog.jp/16086315/)によれば、「明治20年(1887)東京で初めて縁日に夜店が出て神楽坂通りは人波で溢れ、坂の上下に設けた車馬通行止めは歩行者天国のはしりとなった。」と書いています。原典がでるまでは、完全な引用にはなりません。

半畳を入れる 他人の言動を茶化したり、非難したり、野次ったりすること。半畳とは江戸時代の芝居小屋で敷く畳半分ほどの茣蓙(ござ)のこと、役者の演技が下手だとヤジを飛ばして、この茣蓙を投げ入れたという。
更科 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「更科」は左の図で赤い四角の色を使って書いてあります。

更科11

左は昭和12年の「火災保険特殊地図」。右は現在。右にある縦の道路や赤い更科の絵はあった場合の想像図

しかし岡崎弘氏と河合慶子氏が『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり」で「遊び場だった『寺内』」を書き、その「更しな」は神楽坂通りに直接面しています。以前の明治末期は直接面し、大正に大震災が起こり、昭和の初めでは奥に引っ込んだ場所になったのか、どうなのか不明です。
地図.11
享楽地 快楽を追求する場所。

神楽坂今昔(1)|正宗白鳥

文学と神楽坂

 正宗白鳥正宗白鳥氏は小説家・劇作家・評論家。生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。「塵埃」で文壇に登場。「何処へ」「微光」「泥人形」を書き自然主義文学の代表的作家になりました。
 昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書いています。

 ふとした縁で江戸川べりのアパートの一室を滞京中の住居と極めるやうになつてから、昔馴染みの神樂坂に久し振りに親むやうになつた。朝晩の散歩として、筑土の方からか飯田橋の方からか、坂を上り下りして、表通裏通を、あてもなくたゞ歩きながら見てゐると、人通りが疎らで、商店喫茶店なども賑つてゐないらしい感じがするのである。をりをりの上京に、何處へ行つても人口過剰の日本の眞相を見せつけられてゐるやうなのに、昔は山の手第一の盛り場であった神樂坂がこんなにひつそりしてゐるのは不思議である。昔榮えて今さびれた町は趣味深きものである。榮華にほこつた人の落魄した姿を見るのも興味がある。どちらにも文學的味ひがあると云へる。詩が感ぜられるのである。それで、この頃の神樂坂散歩も、一度から二度と、たび重なるにつれて、馴染みの深かつた過去の記憶がこんこんと湧き出て、現在の寂寥たる光景を、詩味豐かにさせるのである。
 坂の大通を、大勢の人が歩いてゐないから町が衰微してゐるといふのは輕率な判斷だ。兩側の商家は一通り復興して、店先は小綺麗になつてゐる。左右の裏通には、昔を今に待合茶屋が居を占めてゐるが、薄汚なかつた昔のそれ等とちがつて、瀟洒たる趣を見せてゐる。入口に骨董品見たいな手水鉢を置いて、秋草がそれを色取つたりしてゐるなんか、下宿屋然たる昔の神樂坂待合情調ではないのである。昔よりも待合の家数は多いやうだが、まだところ/”\に新築までもしかけてゐる。
 それ故、大通の人の往來が乏しかつたり、果物屋菓子屋荒物屋などの店先が賑つてゐないのを見て、土地の盛衰の判斷は出來ないので、案外この地の待合商賣なんかは繁昌してゐるのかも知れない。
 さういふ風に心得てゐながら、私は、夕方になつても、昔はぞろぞろと出盛つてゐた散歩客なんかの全くなささうなひつそり閑としてゐるのを、人間社會の榮枯盛衰の一例ででもあるやうに見倣して、空想の餌食とするのである。
江戸川 神田川の中流域。都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
滞京中の住居 この時期、氏の本宅は長野県軽井沢町でした。
筑土 神楽坂に筑土(津久戸、つくど)から来るというのは、神楽坂坂上から来る場合です。
飯田橋 1881(明治14)年にできた橋で、飯田橋は牛込区下宮比町と麹町区飯田町とを結ぶ橋でした。また目白通りと外堀通りの交差点は「飯田橋交差点」と呼んでいます。飯田橋を起点にすると神楽坂の坂下から坂上に行く場合です。
賑っていない 第二次世界大戦の直後に神楽坂は全く繁昌していませんでした。
昔は山の手第一の盛り場 昭和初期には流行っていました。
落魄 らくはく。らくばく。衰えて惨めになる。落ちぶれること。零落
寂寥 せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと。
昔を今に 昔を今に戻すような。
瀟洒 しょうしゃ。すっきりとあか抜けしている。
手水鉢 手水を入れておく鉢。参拝前の身を清めるために寺社の境内に置きました。
手水鉢
 五十餘年前、二月の下旬の或る晩、不眠の疲勞でぼんやり新橋を下りた私は、未知の同縣人の學生に迎へられて、目鏡橋まで鐵道馬車に乘り、其處から歩いて、牛込見附を通つて、神樂坂を上つて、横寺町下宿屋に辿りついた。朧ろ月に照らされた見附あたりの眺めは、江戸の名残りを繪の如く見てゐるやうであつた。坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。 兔に角東京では、私は最初牛込區の住民となり、牛込の場末の學校に通つてゐたので、第二の故郷か第三の故郷か、故郷といふ言葉の持つてゐる感じを、神樂坂あたりを見るにつけ感ぜられるのである。五十年の昔は歴史的存在のやうで、私は今神樂坂についての遠い昔の歴史のページをひもといてゐるやうな氣持になつてゐる。
五十余年前 初めて早稲田に入学したのは明治29(1896)年です。この随筆が発表されたのは昭和27(1952)年です。したがって、56年の違いがあります。
目鏡橋 実際にここでは万世橋を指します。神田須田町一丁目にある駅を降り、歩いて神楽坂に行きました。なお、目鏡橋は橋の1種で、本来は石造2連アーチ橋を指し、橋自体と水面に映る橋とが合わさって眼鏡のように見えるためです。この時点では東京駅はまだなく、中央線もありませんでした。
鉄道馬車 鉄道上を走る乗り合い馬車。1882年(明治15年)に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として走り始めました。しかし、馬には糞尿をだすことが問題で、電車の運行がはじまると、多くの馬車鉄道はなくなっていきます。東京馬車鉄道も1903年(明治36年)に電化。東京電車鉄道となりました。

目鏡橋鉄道馬車停車場

目鏡橋鉄道馬車停車場

牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
横寺町 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。
下宿屋 何番地がわかればいいのですが、残念ながらこれ以上はわかりません。
朧ろ 現在は「朧」で「おぼろ」と読みます。ぼんやりとかすんでいること。はっきりしないさま。
国民之友 評論雑誌。徳富蘇峰の民友社が1887年(明治20)創刊しました。
学校 東京専門学校(現早稲田大学)です

 横寺町の私の下宿屋と目と鼻の間に紅葉山人が住んでゐた。誰に教へられたのでもなく、私は通り掛りに、尾崎德太郎といふ表札を見て知つたのだが、お粗末な家だなと、意外な感じに打たれただけであつた。紅葉の門下を牛門のなにがしと呼ぶ者もあつて、当時第一の流行作家であつた彼は、牛門の首領として仰がれてゐたのであらう。早稲田も牛込區内に屬してゐても、端つこにあつたので、私は、都會から田舎へ通學してゐるやうな氣持であつた。生れ故郷の地は溫かいためでもあつたが、私は體軀の鍛練を志して寒中足袋を穿かなかつたので、上京後もその習慣を守つてゐた。それで初春三月はじめの雪降る日にも裸足で學校通ひした。足はヒビが切れて、雪の染む痛さを覺えた。その頃の學校の教室には防寒設備はなかつたので、私などは身體を縮めて懷ろ手して講義を聽いてゐたのであつた。自分では無頓着であつたが、馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病状を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勧めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫師よりも信頼されさうな風貌を具へ、診察振りも威厳はあつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に(さかな)をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門です。
生れ故郷 正宗白鳥の出生地は岡山県でした。
曲り角 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。
文明振り 仕方・あり方。「枝ぶり」「勉強ぶり」。これが「歩きっぷり」「男っぷり」「飲みっぷり」のように「っぷり」となることも
 浅田宗伯老の藥はあまり利かなかったやうだが、「米の飯に魚をくらへ。」と云った田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。下宿屋の飯は、米は米でも、子供の時から食べ馴れた米の飯ではなかつた。下宿屋の魚は、子供の時から、食べ馴れたうまい魚ではなかつた。自分の村の沖で捕れた清鮮な魚介。自家所有の田地で實つた滋味ゆたかな米殻。私は、下宿の食膳を前にして、「これではおれの身體は、學問に堪へられないかも知れないな。」と悲觀することもあつた。だが、一歩外へ出ると、神樂坂を中心としたあちらこちらの商店には、見るからうまさうな物、食慾をそゝられる物が、これ見よがしに並べられてあつた。寺町の表通の青木堂の西洋食料品は私などの伺ひ知らない贅澤至極の飮料品であり食品であると思はれた。坂際の四つ辻の一角に屹立してゐるのは、「いろは」と云ふ牛肉屋であり、坂へかゝると、左に日本菓子屋の「べに屋」があり、右に「都ずし」あり、それからパン屋の木村屋があり、うどん屋の「春月」があつた。どれもみなうまさうだ。都會は誘惑に富んでゐたが、學資は一ヶ月に八圓か十圓に極められてゐたのだから、歩行の途上に見られる誘惑物のどれへも手は出せなかつた。さういふ覺悟をして、神樂坂といふ、生れてはじめて接觸した人世の大都會を、毎日のやうに見ながら、たゞ見るだけにしてゐたつもりであつたが、いつとなしに、自分の机の中に、木村屋の餡パンとか、(べに)()の大福餅とか、何とか屋の蓬萊豆、花林糖のたぐひが入つてゐることがあつた。蓬萊豆や花林糖をかじりながら、英語の教科書をぼりぼり讀みかじつて行くことに、云ひやうのない興味を感じてゐた。
 あの頃――日清戰爭直後――の神樂坂は、山の手第一の繁華街であつた。晩食後の散歩にも最も適した町であつた。寅の日の、毘沙門樣の緣日には、露店の植木屋の並ぶのが呼びものとなつてゐて、それを目當ての散歩は、お手軽な風流であつた。私など、この神樂坂地區の住民になつても、年少の身の、さういふ風流にはちつとも心を寄せられなかつたし、散歩のための散歩はあまりしなかつた。だけど、この緣日の夜の賑ひ、さま/”\な東京人が面白さうに歩いてゐる光景は、自分が幼少時代に幾年も、小説や新聞雜誌の記事でまぼろしに描いてゐたものよりも、陽氣で華やかで、都會人といふほこりを持つてゐる人々の群集であるやうに、私の目には映つてゐた。
滋味 じみ。栄養豊富でおいしい食べ物
青木堂 新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では「洋酒の青木堂」「洋酒と煙草の青木堂」と出ています。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)では通寺町(現在は神楽坂)51番地で、朝日坂から北西に3番目の地域でした。現在、51番地はありません。青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目を参照。

地籍台帳・地籍地図 東京

屹立 きつりつ。堂々とそそり立つこと。
都ずし 同じく「都ずし」もここで出てきます。しかし、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」ではもうありません。つまり、「都ずし」は関東大震災前になくなっていました。都ずしから玩具店、昭和27年のパチンコ店、最後におそらく「くすりセイジョー」に変わりました。なお、屋台の都寿司もあったようです。
木村屋 残念ながら絵ではもっと左の方向、神楽坂が下がるはじめにあります。詳細は木村屋
春月 春月も以下の図に書いてあります。詳細は春月で。神楽坂4~6丁目
餡パン あんパン。あずきあんを詰めた菓子パン。本店の木村屋創業者達が考案し、1874(明治7)年に銀座の店で売り出したところ大好評でした。
蓬萊豆 ほうらいまめ。源氏げんじまめ。小麦粉と砂糖で作った衣を煎った落花生の周りにまぶした豆菓子です。源平豆とも。蓬莱豆

  • 神楽坂今昔
  • 1
  • 2

『露店研究』|神楽坂

文学と神楽坂

 著者・横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章で「牛込神楽坂の露店」を書いています。以下はそのコピーです。1つ、重要な事実があります。ここにはいろいろな露店はありますが、今川焼の一種である熊公焼はありません。

 ところが、色川武大氏は同じ本を使って『怪しい来客簿』を書き、「露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、(中略)、さびない針(錆ビヌ針)、万年筆、人形、熊公焼、花(ハナ)、(色川武大氏はミカンは書いていない)、玩具(オモチャ)(後略)」と説明します。この熊公焼は色川氏が加えたものでした。

露店1

大東京繁昌記|早稲田神楽坂01|床屋の壁鏡

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』です。

床屋の壁鏡床屋

 神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土(つくど)八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナヽ屋の露店が出て、パンパン戸板をたゝいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

本多横町 「神楽坂最大の横丁」。神楽坂3丁目と4丁目の間にあり、飲食店などの店は50軒以上。
本多横丁2
筑土八幡 筑土八幡町は南端部を大久保通りが通っています。筑土八幡神社があり中心的な存在です。筑土八幡町
狭い横町 これは本多横丁のこと。本多横町は現在「神楽坂最大の横丁」です。
豊島 豊島理髪店。神楽坂通りと本多横町が交わる場所にありました。今までは中華料理と肉まんで有名な「五十番」でしたが、2016年からは「北のプレミアムフード館 キタプレ」になりました。「3丁目北側最西部の歴史」でもっと詳しく出ています。
バナナ屋 バナナの(たた)き売りは独特の口上を述べながらバナナを露天で売る手法です。やがてこのバナナ屋は神楽坂に一軒、巨大なビルを設けました。
戸板 雨戸の板。これを並べ、物を置いて販売しました。
手を打つ 感心したり、思い当たったり、感情が高ぶったりしたときに両手を打ち合わせて音をたてる。
口上 口頭で述べること、述べる内容

 私はその床屋へ、まだ早稲田の学生時代から今日までずっと行きつけにしている。特にそこが他よりすぐれていゝとかうまいとかいう訳でもないが、最初その辺に下宿していた関係で行き出したのが元で、何となく設備や何かの感じがよいので、その後どこへ引越して行っても、今だに矢張やはり散歩がてらにでもそこまで出掛けるような次第である。数えるともう十七、八年もの長い年月である。その間私は、旅行その他特別の事情のない限り、毎月必ず一度か二度位ずつ、そこの大きな壁鏡に私の顔をうつし続けて来たわけであるが、する(うち)いつか自分にも気のつかぬ間に、つやつやした若々しい青年だった私の顔が、皮膚のあれゆるんだ皺深しわぶかい老人じみたものに変り、自ら誇りとしていたほど濃く、且つ黒かった頭髪が、今はすでに見るもじゝむさい 胡魔塩ごましおに化してしまった。
「随分お白いのがふえましたね」
「うゝむ、この頃急に白くなっちゃった。まだそんな年でもないんだけれど……」
「矢張り白髪のたちなんですね、よくこういうお方がありますよ」
「何だか知らないが、実際悲観してしまうね」
 大分以前、まだそこの主人が職人達と同様にはさみを持っていた頃、ある日私の髪を刈り込んでいる時、二人はそんな会話を取りかわした。見るとしかしそういう主人自身の頭も、いつかしらその頂辺が薄く円くはげているのだった。
あれゆるむ 「あれてゆるむこと」。荒廃し、ゆるむこと。
じじむさい 若さや活気がなく、年寄りくさい。じじくさい。
胡魔塩 本来は胡魔塩とは焼き塩と炒りゴマを混ぜた調味料のこと。白と黒が混じったものの比喩として使って「胡麻塩頭」とは白髪が混ざった黒髪の頭髪
たち 質。生まれつきの体質。 「涙もろい-」

「君も随分変ったね」
 私はもう少しでそういおうとした。主人も今はもう五十に間もない年頃で、むしろ背の低い、まるまると肥えた、鷹揚おうような、見た眼にも温良そうな男であるが……変ったのはかれや私の頭髪ばかりではない、それの店の内部も外観も、ほとんど昔のおもかげを(とど)めない位に変ってしまった。何時(いつ)どこが()うなったということはいえないが、何度か普請ふしんをやり直して、外観もよくなったと同時に、内部もずっと広くなり綺麗にもなり、すべての設備も段々とよくなった。散髪料にしても、二十銭か二十五銭位であったのが、今はその三倍にも四倍にもなった。髪の刈り方ひげの立て方の流行にも、思うに幾度かの変遷を見たことであろう。わけてそこに立ち働く若い理髪師達の異動のはげしさはいわずもがな、そこの主人の細君でさえ、中頃から違った人になった。多分前の人が病気で亡くなりでもしたのであろう。又そこへ来る常客の人々の身の上にも、それこそどんなにか、色々の変化があったことだろう。単にその外貌がいぼうだけについていっても、例えば私のように、血気な青年だったものがいつかすでに半白の初老に変じたものもあろうし、中年の壮者が白髪の老者に化し、又白髪の老者がいつかその姿を見せなくなったということもあるだろう。更にまた昨日まで母親や女中に伴われて、クルクル坊主にされに来た幼児や少年が、今日はすでに立派なハイカラな若紳士姿で、そのふさふさした漆黒しっこくの髪に流行の波を打たせに来るといったようなことも多いだろう。私はそこのかぎ形になった二方の壁にはめ込まれた鏡に向い、最近急に、自分でも驚くほどに変った自分の顔貌をうつし眺めるごとに、いつでもそうした事など考えては、いろいろの感慨にふけるのが常である。

鷹揚 鷹が大空をゆうゆうと飛ぶように、ゆったりと振る舞うこと。
普請 家屋を建てたり修理したりすること
髯の立て方 「髯」は「ほおひげ」ですが、ここではあらゆるヒゲ(髭、鬚、髯)のことでしょう。
漆黒 つややかな純粋な黒色。
かぎ形 (かぎ)のように先端が直角に曲がった形

大東京繁昌記|早稲田神楽坂04|神楽坂気分

文学と神楽坂

神楽坂気分
 私は()めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。
「僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた/\していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら/\夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた/″\ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしや(の講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風なな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハヽヽ」

神楽坂気分

新開地 新しく開墾した土地。新しく開けた市街地やその地域
用足し場 用事を済ませること。大小便をすること
かたがた 「…をかねて」「…のついでに」などの意味があります。「…がてら」
見物場 見世物小屋。普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。例えば口上として「山から山、谷から谷を渡り歩いた姉妹が、何故、人が忌み嫌う長虫(蛇)を食わなければならなかったのか?これから。お目にかけまする姉妹は「サンカ」の子に生まれた因果で、哀れ、今もその悲しさを伝えてくれますよ。さあ、見てやってください。見てください」。実際に生きた蛇を引き裂いて食べる人もでたようです。
バナナのたたき売 「ここは牛込、神楽坂」第3号の「語らい広場」で友田康子氏の「三〇年前、毘沙門様で」という投稿が載っています。そして口上は「『さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百…、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!』威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり」と書いています。
蝮屋 商品になるのはニホンマムシの蒸し焼きかその粉末です。毒蛇の強靭な生命力にあやかり、食べると心身の強壮に効果があるとされていました。
標札 屋標札は戸籍法との関連性が高く、明治5~11年頃、各戸に標札を備えつける布達がなされたようです。当時は筆を使って書きました。
無我的 無心。我意がないこと

「あゝそれ/\」と友達も一緒に笑った。「ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね」
「よかろう」
 そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日(えんにち)で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。
「おや/\、こんな所に縁日があるんだね」
と友達は珍しそうにいった。
「あゝ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね」と私がいった。
「第二の神楽坂が出来るわけかね」
「アッハヽヽ前途遼遠りょうえん)だね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ」
「ここへ電車が敷けるのか?」
「そんな話なんだがね、音羽おとわ護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡(れんらく)する予定になっているそうだ」
「そしたら便利になるね」
「だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ」

柳町 やなぎちょう。南北に外苑東通り、東西に大久保通りがあり、ここ市谷柳町で交差しています。
車止め くるまどめ。停止すべき位置を越えて走行してきた自動車や鉄道を強制的に停止させるための構造物
前途遼遠 ぜんとりょうえん。目的達成までの道のりや時間がまだ長く残っている。今後の道のりがまだ遠くて困難。「途」は道のり。「遼遠」ははるかに遠い。「遼」は道が延々と長く続いているという意味です。
音羽 おとわ。これは音羽町という地名。最南端は神田川、以前の江戸川に接しています。
護国寺前 ごこくじまえ。「護国寺前」は交差点の名称で、東西に向かう不忍通りと、南に向かう音羽通りの交差点です。
江戸川 神田川の中流域で、「江戸川」というのは都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
矢来の交番 矢来の交番は現在、正しくは矢来町地域安全センターといいます。ここに3つの通りが交差点「牛込天神町」に集まっています。北から来る道路は江戸川橋通り、東から来る道路は神楽坂通り、西から来る道路は早稲田通りです。

榎町 えのきちょう。町の名称。ここで、交差点「牛込天神町」から交差点「弁天町」(早稲田通りと外苑東通りとが交わる)に至るまでが早稲田通りです。
弁天町 早稲田通りから交差点「弁天町」を左に曲がって、外苑東通りに入ると、弁天町になります。さらに南に行くと、交差点「市谷柳町」です。
塩町 しおちょう。「外苑東通り」の「合羽坂」で左に曲がり、「靖国通り」を東に行き、交差点「市谷本村町」で右に曲がり、「外堀通り」にはいるとそこは塩町。現在は「本塩町(ほんしおちょう)」になります。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」です。音羽4
① 護国寺前
ここがスタート

② この辺りが音羽

③ 江戸川
昔、神田川の中流を江戸川と呼びました

矢来交番

矢来の交番

④ 矢来の交番はここ  →
⑤ この辺りが榎町。ここを通って…
⑥ 早稲田通りから交差点「弁天町」にはいり、向きを左(下)に変え、外苑東通りに行き…

⑦ 交差点「市谷柳町」を通り…

⑧「外苑東通り」の交差点「合羽坂」で左に曲がり、

⑨ 交差点「市谷本村町」で右に曲がり、
⑩「外堀通り」にはいると塩町に。現在は「本塩町」。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」になります。

熊公焼|神楽坂

文学と神楽坂

 熊公焼も夜店で売られる一種の今川焼、アンコ巻きです。三遊亭円生氏の「円生 江戸散歩」(集英社、1978年)では…

 坂をあがったところの左に、私の子供の時代には今川焼をうってる店があったんです。勿論、これは屋台店ですがたいへんにはやったもんで。子供時代にこの今川焼を買ってもらった事をおぼえているのですが、のちにその今川焼がなくなってしまったら、今度は“くまこうやき”てえのがはやったんです。うどん粉でこう平ったくしておきまして中へ餡をこうすーっと巻いたもんですが、まあいえば餡巻きですか、これにくまこうやき、という名前をつけた。これが大変繁昌をした。わざわざ遠いところからこれを買いに来たという人があるんですから、ふしぎなもんですね。
 今川焼とは草薙堂でした。さて、問題は熊公焼です。この夜店はどこにあったのでしょうか。

 最も古い記事は「製菓実験」昭和12年8月号に出ています。

新聞などにも度々出て、可成り有名な神樂坂の熊公と、その唯一の商品である都巻。鐵板の上に薬の利いた中華種を四角な口付のブリキ型で流し、中に棒にした飴を巻いたものです。生憎手許が見えないが、鐵板は四ッに仕切つてあつて廻轉式になつてゐる所は、如何にも屋臺向です。一個四十匁平均で、一個の値段は金五錢也。

 新宿区立図書館著『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「古老談話・あれこれ」では

「熊公焼」は永楽銀行の前にありました。(中略)
 これはやや高級品で品物はアンコ巻なんですが1本5銭、巻いてある皮にはほんとうの玉子がたっぷり入っていました、やっぱり屋台店でして売れることは今川焼やと同じに飛ぶように売れました。熊公焼は今川焼がなくなって、震災後しばらくしてから出たものです。(中略)このアンコ巻を焼いていたおやじさんの顔が又、その気になって顔にいっぱい髯をはやしてしまって、恐ろしい顔をますます恐ろしくして「熊公焼」の名を高からしめたってわけです。

「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」によれば昔の「永楽銀行」は現在青柳LKビルが入る場所でした。ちなみに青柳寿司は数年前になくなり、しかしビルは残り、代わって14年版「神楽坂」(神楽坂通り商店会)では「叶え」、「Mumbai」、「えちご」、「神楽道」が入っています。1階は平成26年9月で「沖縄麵屋、おいしいさあ」です。これはちょうど神楽坂通りを上にあがった場所です。

 同じように2005年『神楽坂まちの手帖』第8号で「石濱朗の神楽坂界隈思い出語り」というエッセイがあり、そこに「子供に大人気の熊公焼って?!」として書いてあります。

 それはまだ大東亜戦争の始まる前だった。
 神楽坂を上がり切った左側に「玩具屋」があった、その近くにその店は出ていた。
 何時頃から出るようになったのか、まだ小さかった僕にはわからない。
 厚い鉄板の上にうどん粉を溶かしたものをたらして焼き、小豆餡を上に載せてくるりと巻いたものを売っていた。
 菓子の名前は「熊公焼き」、売っている人の顔が熊に似ているからか、熊吉とか熊太郎と言う名前のせいか、その由来は判然としない。兎に角美味かったので良く売れていた。

 同じような場所で、坂上で、上を向いて左側でした。

 では色川武大氏の「怪しい来客簿」では

今、私の机の上に、昭和六年刊『露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。(中略)
……ここで肴町(さかなまち)の電車路(現在の大久保(おおくぼ)通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏(ざつとう)した。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆(なんきんまめ)、寿司、古道具、半衿(はんえり)、ドラ焼、(かなばさみ)(のこぎり)唐辛子(とうがらし)、焼物、足袋(たび)、文房具、化粧品(けしようひん)、シャツ、印判、ブラッシュ石膏細工(せつこうざいく)、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗(ちやわん)(かばん)玩具(がんぐ)煎餅(せんべい)、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、(くし)類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆(えんぴつ)、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子(ぼうし)洗い、焼物、植木、植木、寿司。(中略)
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗(しょうき)さまのような(ひげ)を生やしたおっさんが、あんこ(まき)を焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。

白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ ホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。

 右側は上から下に見ているので、西北西から東南東の方面を向いて流しています。新宿区郷土研究会二十周年記念号の『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」を参考にして(ただし、「神楽坂と縁日市」は道の右側と左側は逆)、これから読むと熊公焼は以前の喫茶パウワウ、現在はボルタ店のあたりにでてきたようです。

 一方、横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章「牛込神楽坂の露店」を書き……

ガマ口、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キヤラメル、本、表札、キリヌキ、眼鏡、古本、地圖、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホーズキ、古道具、壽司、焼鳥、おでん、オモチヤ、南京豆、壽司、古道具、xx、半衿、ドラ燒、カンナ、ノコギリ、唐辛子、焼物、足袋、文房具、化粧品、シヤツ、印判、ブラツシユ、石膏細工、ハモニカ、xx、メリヤス、古本、茶碗、カバン、オモチヤ、煎餅、xx、古本、大理石、錆ビヌ針、萬年筆、人形、ハナ、ミカン、オモチヤ、櫛(略)

 まったく熊公焼はどこにも書いてありません。人形とハナ(花)の間にはなにもありません。そのコピーもあります。

『神楽坂まちの手帖』第2号の『神楽坂の「マチの魅力」を考える』では

元木 クマコウ焼ってのがあったんだけど知ってますか? 今のパウワウの辺りで人形焼みたいのがあって。そのオヤジが、当時殺人犯で有名だった「熊公」に似てて、それでクマコウ焼っていうのが流行ったんだよ。

 次はサトウハチローの『僕の東京地図』です。神楽坂3丁目になると真っ先になると出てくる白木屋が熊公焼の後で紹介されているので、熊公焼はおそらく神楽坂2丁目です。

 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公というのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さが六寸、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たッて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。(後略)

 以上は白木屋よりも前なので坂下です。上を向いて左側にあったというものです。

 もう1つ。『ここは牛込、神楽坂』第18号で鵜澤紀伊子氏は「親子3代神楽坂(四)」を書き

坂下の左側に熊公焼きの夜店が出た。鉄板の上で小麦粉をといたのを長方形にのばし、飴をのせて一巻きしただけの単純な物だったが、結構お客がついていた。1組の親子のお父さんが焼いていた。美味しいよと言ったら、照れ笑いをしたことがあったっけ。戦時中粉や小豆が入手困難となってべっ甲飴を売るようになり、そのうち夜店も出なくなった。お父さんは軍需工場に入ったと聞いた。

 やはり、坂下の左側にその店は出ていたといいます。

 次は渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では

神楽坂が牛込一の繁華街と呼ばれていたころの縁日で、はじめは今川焼が坂上の左側の屋台で売られ繁盛していた。その今川焼に変わって、超人気の「熊公焼」が登場したのである。熊公焼はその当時の神楽坂の縁日を抽いた文学作品やエッセーにたびたび登場している。熊公焼の露店の場所は、神楽坂二丁目、割烹志満金のまえあたりが屋台の定位置のようだ。鉄板の上で、どら焼に似た玉子入りのうすい四角い皮に、あんこをのせて巻いたもの。今川焼が二銭で、このあんこ巻は一本五銭と高額であったが、いつも黒山の人だかりで、わざわざ遠くから買いにくるほどの人気だった。それは、この露店の店主岩木さんが、当時、日木中の注目をあつめた「鬼熊事件」の凶悪犯人に笑ってしまうほとよく似ていることを逆手にとり、「熊公焼」と名付けて売り出し、その犯人を一目見ようと押しかけた客で大繁昌してしまったのである。

 やはり坂下の左側で、「志満金のまえあたり」と、これから坂がまだ上に向かってもいない所で出ていたと言います。

 さらにもう1つ。都筑道夫氏が阿佐田哲也全集の第十三巻付録に書いた「神楽坂をはさんで」では

有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしよに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。

 これは熊公焼は毘沙門のそば、坂上にあったといいます。

 さらにもう1つ。水野正雄氏が「神楽坂を語る」(「神楽坂アーカイブズ 第1集」)では

その山本コーヒーの前に「熊公焼き」というあんこ巻きを売る夜店がありました。これは普通の人形巻きが二銭だったころ、八銭で売られていました。

 これも熊公焼は山本コーヒーのそば、現在の「うおさん」のそば、つまり坂上にあったといいます。

 次は坂下で、なんと右にありました。平成7年『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」です。

いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。

 結局20年以上も続くと常設夜店もその場所が変わるのでしょうか。ただし、草薙堂という今川焼き屋と混乱しているものもあるように思います。

神楽坂|椿屋 もう老舗に

文学と神楽坂

 さらに「神楽坂上」に向かって行きましょう。

 左側は「椿屋」です。お香と和雑貨の店。いつも香を焚いています。創業は平成14年(2002年)。なぜか老舗になってます。場所はここ

tubakiya

 以前は「宮坂金物店」でした。昭和5年ごろには「宮坂金物店」の前には縁日になると金魚すくいが出ていました(新宿区郷土研究会20周年記念号『神楽坂界隈』平成9年)。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

大東京繁昌記|早稲田神楽坂12|花街神楽坂

文学と神楽坂


花街神楽坂

花街神楽坂

 川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
 この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の(うわさ)をそのまま記すだけにとどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

区役所 現在は新宿区立牛込箪笥区民センターのこと
吉熊 大正9年、赤城神社の氏子町の1つとして、箪笥町が出ています。その町の説明で

牛込区役所は15,6,7番地に誇る石造二階建の洋館(明治26年10月竣工)である。41番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正10年11月25日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった

と書いています。1970年、新宿区立教育委員会の作った「神楽坂界隈の変遷」では「新撰東京名所図会 第42編」(東陽堂、1906年)を引用し

吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

と書いてあります。場所は箪笥町35番でした。 箪笥町三十五番

牛込区役所と相対しています。地図は昭和5年の「牛込区全図」です。意外と小さい? いえいえ、結構大きい。現在35番は左側の「日米タイム24ビル」の一部です。

箪笥町35番 明進軒2求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。地図は昭和12年の「火災保険特殊地図」。
無慮 おおまかに数える様子。おおよそ。ざっと。
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。
末よし 末吉は2丁目13番地にあったので右のイラストで。地図は現在の地図。 末吉
温泉横町  牛込会館横で、現在は神楽坂仲通りのこと
江戸源 昭和8年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

白木屋横町。小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの『花の家』カフェー『東京亭』野球おでんを看板の『グランド』繩のれん式の小料理『江戸源』牛鳥鍋類の『笑鬼』等が軒をつらねています

と書いています。ここは「繩のれん式の小料理」なのでしょう。なお、白木屋横町は現在の神楽坂仲通りのこと。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら/\と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りもまばらになり、両側の夜店もそろ/\しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ/\いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフェからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら/\した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

額ずく ひたいを地面につけて拝むこと。
新内 浄瑠璃の一流派で、鶴賀新内が始めた。花街などの流しとして発展していった。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けた
声色使い 俳優や有名人などの、せりふ回しや声などをまねること。職業とする人
地内 現代では「寺内」と書きます。寺内の花柳界は極めて大きく、「袖を引く」(そでをとって人を誘う)という風習は花柳界から生まれました。
都の西北 もちろん早稲田大学の校歌。作詞は相馬御風氏、作曲は東儀鉄笛氏。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」と始まっていきます。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂08|独特の魅力

文学と神楽坂

独特の魅力
独特の魅力

 そうはいっても、しかしその寺町の通り神楽坂プロパーとでは、流石さすがにその感じが大分違っている。何といっても後者の方が、全体としてすべての点に一段級が上だという事は、何人も認めずにおられないだろう。例えば老舗と新店という感じの相違のようなものであろうか、矢張り肴町電車路を越えてから、はじめて神楽坂に出たという気のするのは、私だけではあるまい。たった電車路一筋の違いで、町並も同じく、外観にもにぎやかさにも相違がなく、出る人も同じでありながら、全体の空気なり色彩なりが急に変るということは、地方色などといえば少し大げさだが、多少そういったようなものも感ぜられて興味あることだ。寺町の通りが今の神楽坂本通りと同じ感じになるには、まだ/\相当長い年数を経なければなるまい。

寺町の通り 神楽坂6丁目の通り
神楽坂プロパー 神楽坂1~5丁目の通り。この本では「神楽坂本通り」と書いています
肴町 神楽坂5丁目
電車路 大久保通りは昔は都電のチンチン電車が通っていました

 それにこちらの方は、その両側の横町や裏通りがことごとく、芸者家や待合の巣になっていることをも考慮に加えなければならない。座敷著姿の艶っぽい芸者や雛妓おしゃく等があの肩摩(けんま)轂撃こくげき的の人出の中を掻き分けながら、こちらの横町から向うの横町へと渡り歩いている光景は、今も昔と変りなくその善い悪いは別として、あれが余程神楽坂の空気や色彩を他と異なったものにしていることは争われない。そして一見純然たる山の手の街らしいあの通りを、一歩その横町に足を踏み入れると、たちまちそこは純然たる下町気分の狭斜(きようしや)のちまたであり、柳暗(りゆうあん)花明(かめい)の歓楽境に変じているのであるが、その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶かくぜつもなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合(ゆうごう)して、そこにいわゆる神楽坂情調なる独特の花やかな空気と艶めいた気分とをかもし出し、それがまた他に求められぬ魅力となっているのだ。よく田原屋オザワなどのカッフエで、堅気なお邸の夫人や令嬢風の家族連れの人達や、学生連や、芸者連れの人達やがテーブルを並べて隣合わせたり向い合ったりしている光景を見かけるが、こゝ神楽坂ではそれが左程不自然にも不調和にも思われず、又その何れもが、互に気が引けたり窮屈に感じたりするようなこともないという自由さは、私の知っている限り神楽坂をいて他にないと思う。

Road_hub

ウィキペディアから

こちらの方 神楽坂プロパー、つまり神楽坂1~5丁目の通りのこと。
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などと呼びます。
肩摩轂撃 けんまこくげき。人や車馬の往来が激しく、混雑している様子。都会の雑踏の形容。肩と肩が触れ合い、車の(こしき)と轂がぶつかるほど混雑している。轂はハブのことで、車両・自動車・オートバイ・自転車などの車輪を構成する部品で、車輪(円盤状の部品)の中心部のこと
狭斜のちまた きょうしゃのちまた。中国長安で、遊里のある道幅の狭い街の名から、遊里。色町。「狭斜の(ちまた)」も遊廓のこと
柳暗花明 りゅうあんかめい。春の野が花や緑に満ちて、美しい景色にあふれる。花柳界・遊郭のことを指す
その山の手式の気分 安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」で引用されています。
隔絶 かけ離れていること。遠くへだたっていること

 私はぶら/\歩きながらそんなことを友達に話した。友達はなるほどといった様子で一々私の説にうなずいた。そして山の手の銀座といわれるのも無理がないとか、下町気分もかなり濃厚だなどと批評した。
「それにこゝは電車や自動車も通らず、両側町だからなおさら綺麗でもあるしにぎやかでもあるんだね。ちょっと浅草の仲見世みたいに」とかれはいった。
「そう、それもある。それにも一つ、こゝでは人通りが大体において二重になるということもあるんだ。というのは、坂下の方から来る人達はずっと寺町の郵便局辺まで行って引返す、寺町の方から出て来た連中は坂上か坂下まで行って又同じ道を引返すというわけなんだ。丁度袋の中をあっち行きこっち行きしているようなものだ。だから僕なんか、こうしてぶら/\していると、何度も同じ人に出会わすよ、のみならず、こゝを歩いている人達はみんな顔なじみという気がするんだ」と私は、あの人もあの人もと、折りから通り合せたいつもよく見る散歩人を指した。
「なるほどみんな散歩に出て来たという感じだね」と友達がいった。
「それも他所よそ行き気分でなく、ちょっとゆかたがけといったような軽い気持でね。だから何となく気楽な悠長な気がするよ。そしてこの辺の商人も、外の土地に比べると正直で悠長で人気が穏やかだという話だよ。通り一ぺんの客は少ないんだから、店同士でお互に競争はしていても、客に対しては一ぺんこっきりの悪らつなことはしないそうだよ」と私は人から聞いた通りに話した。

仲見世 なかみせ。社寺の境内などにある店。東京浅草では雷門から宝蔵門に至る浅草寺参道の商店街のこと。
ゆかたがけ 浴衣を無造作に着ること。また、浴衣だけのくつろいだ姿。
人気 じんき。にんき。その土地の人々の気風。「―の荒い土地柄」
一ぺんこっきり いっぺん[一遍]こっきり。1回を強く限定する意を表す語。一度かぎり。

木下杢太郎氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 木下杢太郎氏は皮膚科医師で、さらに詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家でした。最終的には東大医学部の皮膚科教授になります。氏も与謝野寛氏、西條八十氏、内藤濯氏などと同じようにフランスに留学しています。大正10(1921)年5月、35歳、横浜を出発し、米国シアトル着、キューバ、ロンドンを経て10月にパリに到着します。そして「サン・シユルピスの廣場から」では

 ムツシユウN氏に就いてわたくしは佛語を習つてゐる。同氏がわざわざわたくしの客寓に來てくれるのである。この物靜かな、素養のある人から、この國の名家の講釋を聽いたことは、ずつと後になつても、わたくしに喜ばしい記憶となつて殘るであらう。
 その時窓の外には、弱い温さうな光が、くつきりと向側の家の廣い灰色の壁に當つでゐた。空はセリユウレオムの靑である。そして一瞬間わたくしは海邊に近き綠林の、夏早朝の日光のうひうひしさを想像した。

客寓 かくぐう、きゃくぐう。客となって滞在する。その家
セリユウレオム Cerulean。セルリアンブルー。16進表記で #007BA7。19世紀半ばに青い顔料が発明して付いた名称です。ラテン語で空色。JISの色彩規格では「あざやかな青」     

 ムッシュNは「ヌエット」なのか、ここではまだ判りません。次の1922年6月22日夜の「巴里の宿から(与謝野様御夫妻に)」では

 詩人のヌエトさんが貴方がたのことを時時噂します。この間ル・ジュルナルといふ新聞へ貴方かたのことを寄書しました。奥さんの寫眞は十幾年の前のものだつたらうと思ひますが、歌集の繪から複寫したやうでした。御惠贈の「旅の歌」はヌエトさんにお贈りしました。
 ヌエトさんがよくレシタシオンに件れて行つてくれます。マダム・マレユツクといふレシタシオンの先生のおさらひで、若い娘さんたちが歌唱し又吟詠します。そしてわたくしは佛蘭西語の發昔のいかに美しいものであるかと云ふことをつくづくと驚嘆します。紐育からの船中で或る老英国夫人の英詩の吟詠を聽いた時には少しも感動しませんでした。
 ヌエトさんの詩を讀んだ娘を、夫人がヌエトさんの處へ紹介しに來ました。むすめはおづおづ挨拶しましたが、かういふ臆病らしさをも佛蘭西のむすめは持つてゐるかと驚きました。

貴方がた 与謝野寛・晶子のこと。約10年前に与謝野夫婦はパリに来ています。
レシタシオン Recitation。朗読

 ここでヌエト氏と名前が出てきます。ヌエット氏です。ヌエット氏は詩人兼画家で、神楽坂の寺内公園で有名な版画『神楽坂』を作っています。ほとんどフランスにいたみんなが氏を知っていたようです。

晩年のノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

ノエル・ヌエット著「東京 一外人の見た印象」第2集、昭和10年

ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵

 1971年(昭和46年)、野田()太郎(たろう)氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。

 野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。

 一方、ノエル・ヌエット氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園にある版画『神楽坂』などを描いています。その死亡後、その版画は寺内公園の案内板に載りました。

     ヌエットと「濠にそひて」
 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデルの詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。

クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。

 野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。

 それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。
 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を()ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。
 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を(しやべ)らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど(くま)なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。

ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。

 昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。

 二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには(ぜい)を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。
 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。

   過ぎにし時のかげうつす
   ここの宮居の濠にそひ
   愛惜、のぞみ、()ひまぜて
   はこびし夢のかずかずよ!

 後の詩文は省略し

 この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重の錦絵版画「江戸百景」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの(こま)やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を()でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。
 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。

安藤広重 歌川広重と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『名所江戸百景』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。

数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。
 一方、西條(ふたば)()氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。
 その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。

 日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。

 去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。

 ヌエット氏の没年は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。

ノエル・ヌエット|矢来町12

文学と神楽坂

 ヌエットノエル・ヌエット氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園の説明で『神楽坂』という版画を描いています。

 Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。
 英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。
 日本に行くとそれが「ヌエット」となります。

 ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。

昭和22年の矢来町12。左上は現在。



与謝野寛とノエル・ヌエット

文学と神楽坂


与謝野寛晶子

 『巴里より』はパリのあれこれをまとめたもので、歌人の与謝野寛、与謝野昌子が共著で、大正3年、出版しています。1911年(明治44年)、寛はパリへ行き、明治45年5月、晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪し、晶子は10月に帰国、寛は大正2年に帰国します。
 この本のうち「飛行機」の章で、フレデリツク・ノエル・ヌエがでてきます。彼はフランス人の詩人でした。なお、この「飛行機」の章は初めて昭和45年、与謝野寛氏が単独で執筆しています。

 二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里(パリイ)の青年詩人を相手に仏蘭西(フランス)語の稽古をして()られる処であつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に(つい)てヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義(サンチマンタリズム)を脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週二度田舎の母親を()ふのを(たのし)みにして居る。ヌエ君と下宿の(かど)で別れて三人は自動車に乗つた。

サンチマンタリズム センチメンタリズム。sentimentalism。感情面を重んじ、知性よりも内的心情に支配される傾向。

 明治45年6月なので、与謝野氏は39歳、ヌエ氏は27歳です。2人が話をする場合もあります。
 しかし、この名前ヌエは鵺(ヌエ)と同じ日本語です。この鵺という言葉は妖怪のことで、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持っていました。これも変える必要もあったのでしょうか、15年後、ヌエ氏の日本の呼び名はノエル・ヌエット氏になっています。このヌエット氏は神楽坂の寺内公園の中では『神楽坂』という版画を作る詩人兼画家でした。
 次は大正元年12月。

     火曜日の()
 夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時(いつ)も服の畳目(たゝみめ)の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので「何かよい瞑想(めいさう)(ふけ)つて居たのを(さまた)げはしなかつたか」と問うたのも謙遜(けんそん)(この)詩人の問ひ相な事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電燈を()けた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼(こんな)(もの)を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。(つと)めて()れに新しい価値を見出さうとする。奇異(きい)を以て人を刺激する所があれば其れも新しい価値の種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の(しわ)(あらは)して「わたしには(わか)らない絵だ」と云つた。ヌエは内衣囊(うちがくし)から白耳義(ベルジツク)の雑誌に載つた自分の詩の六頁折の抄本を出して(これ)を読んで呉れと云つた。日本と(ちが)つて作物(さくぶつ)が印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況して其れで若干かの報酬を得ると云ふ事は殆ど不可能である。発行者の厚意から其掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬いられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解らない文字に()(くは)す度にヌエは傍から日本の辞書を引いて説明して呉れた。七篇の(うち)で「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相に微笑(ほゝゑ)んで頷いた。君が前年出した詩集の伊太利(イタリイ)に遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味(にがみ)が加はつて来た。其丈(それだけ)世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。

畳目 紙・布などをたたんだときにできる折り目
キュビスム 20世紀初頭、ピカソなどが始めた革新的な美術表現。ルネサンス以来の遠近法で現実を再現するのではなく、複数の視点から眺めた姿を平面上に合成して表現しようとしている
内衣囊 洋服の内側にあるポケット。内ポケット。
白耳義 ベルギー
圧迫 押さえつけること

 このころから既にノエル・ヌエット氏はフランス語の個人教師をしていたのです。


西條八十とノエル・ヌエット

西条八十氏西條(さいじょう)()()氏は1892年(明治25年)1月15日に生まれ、詩人、作詞家、仏文学者で、大正12年(1923年)、フランスに留学しソルボンヌ大学で学び、帰国後早稲田大学仏文学科教授になりました。「唄を忘れた金絲雀(かなりや)は」で始まる「かなりや」は有名な童謡です。

 昭和36年(1961)、西日本新聞に西條八十氏は『我愛の記』という連載を書いています。これは『西條八十全集』第17巻、随想・雑纂の中で読むことができます。さて、その中の「リルケ」ではこう書かれています。

振返ってみてぼくのいちばん楽しかったのは、パリのカルティエ・ラタンの学生宿にいて、朝から晩までフランスの詩に読みふけった時代だ。ぽくは一五、六世紀から現代までの、あらゆる詩人の詩集を買いあさり、終日辞引片手に読みふけった。そして、どうしても意味の難解な詩句には、鉛筆でアンダーラインしておいて、いちいち知り合いのむこうの詩人をたずねて解釈してもらった。現在ずっと日本に住んでいる「ラ・ミューズ・フラソセーズ」の詩人ヌエル・ヌエット氏などは、その中でも、もっともぼくに協力してくれた人だ。冬になると、パリは午後三時ごろに日が暮れた。さむざむとした下宿の中庭に、黒つぐみの鳥が遊んでいた。そういう時、小さな電気スタンドをつけて、ヌエット氏から詩を学んでいた若い自分がしみじみなつかしい。近ごろあまり本を読まなくなったのは、きっと老眼鏡が重くてうるさいせいだ。
 そうだ、ことしは思いきって、きれいな声でぼくの代わりに好きな本を音読してくれる誰かを雇おう。そしてリルケの愛した図書室の高い澄んだ空気を孤独の身辺に築こう。

 現在、ヌエル・ヌエット氏というよりはノエル・ヌエットと書くようです。ノエル・ヌエット氏は寺内公園に版画の『神楽坂』を描いています。氏は当時パリにいた日本人をかなり知っていたようです。そして、その後、氏は日本にやってきます。

西条とノエル 1959年、NHKの「黄金(きん)の椅子」でヌエット氏を見ることもできます。前列左側からノエル・ヌエット氏、サトウ・ハチロー氏、佐伯孝夫氏、西條八十氏が出ています。これは西条八束著、西条八峯編『父・西條八十の横顔』にあった写真の一部です。本文では

一九九三年三月のことである。父と姉の蔵書を神奈川県立近代文学館が受け入れてくださることになり、それらを整理していると、姉が持っていたおびただしい数の写真が出てきた。その中に、一九五九年一月十六日から四回にわたってNHKテレビの「黄金(きん)の椅子」という番組の百回記念として放映された、「西條八十ショウ」の写真があった。その一枚には、堀口大學、サトウハチローなど多数の有名な方がたに交じって、ノエル・ヌエットさんも写っていた。パリに留学した父がフランス語を習っていた詩人である。

 最初は西條八十氏の家に宿泊したようです。

ヌエットさんは一九二六(大正十五)年、父が日本に帰国して間もなく、父の招きもあって来日し、晩年に帰国されるまで、親しくおつき合いしていた。ものしずかでやさしい人だったが、日本語はいつまでもうまくならなかった。
 ヌエットさんは初めて日本に来て、しばらくはわが家に滞在したらしいが、母をはじめ、欧米の生活をまったく知らぬ私の家族は、彼の食事その他にとても苦労したらしい。その頃父の家に身を寄せて家事を手伝ってくれていた叔母が、ヌエットさんのために新宿の中村屋までパンを買い行かなければならなかったことなど、よく話していた。

 内藤濯氏もノエル・ヌエット氏と一緒に働いていました。しかし、西條八十氏のほうがかなり一緒になって働いているといえそうです。

星の王子さまとノエル・ヌエット

文学と神楽坂

内藤濯 内藤(あろう)氏は『星の王子さま』を翻訳した人で、最後は一橋大学の教授になっています。生まれは明治16年(1883年)。明治40(1907)年、東京帝国大学文科大学フランス文学科へ進学。フランス近代詩の翻訳を発表します。
 この時こんなエピソードも残しています。なお、この筆者、内藤初穂氏は内藤濯氏の息子です。

(内藤濯は)大学二年にすすんだぱかりの分際で「印象主義の楽才」と題する一文を『音楽界』九月号に発表、ドビュッシーの存在を日本に初めて喧伝した。
「種本」のあることなど知らぬ顔をしていた。が、知る人は知る。第二高等学校の三年先輩に当たる太田正雄、医学の分野で業績をあげる一方、木下杢太郎の筆名で詩・劇作・美術史の分野でも名をあげた人物が、詩集『食後の唄』(大正八・一二)の序文で父の論説を容赦なく切り捨てた。
「まだ聴いたこともないDebussyを評論する、出過ぎた批評家」(1)
 この酷評から三年後、父はパリ遊学中に杢太郎と出会い、親交を得る。
 父自身は、杢太郎の謡を白秋以上のものと評価していた。父の話では、杢太郎は一徹にも、白秋が売名のために童謡を濫作しているといって、10年ほども交わりを絶っていたらしい。が、白秋が太平洋戦争二年目の秋に死去するその三年ほど前には、一切のこだわりを捨てて旧交を暖めたという。
 杢太郎は、戦後まもなく胃癌をわずらって他界したが、その詩を愛しつづけた父は、昭和31年10月21日、JR伊東駅に近い川畔の伊東公園でおこなわれた詩碑「ふるき仲間」の除幕式に出席、父が晩年に勤めた昭和女子大学や地元の西小学佼・伊東高等学校の女子学生たちに山田耕筰作曲のその詩を歌わせ、タクトをふった。
内藤初穂著『星の王子の影とかたちと』(筑摩書房) 2006年
以下引用文献は同一。

 話を元に戻します。内藤が大学を卒業したのは明治43(1910)年。フランス語教官として陸軍幼年学校に勤務。大正9年、母校・第一高等学校の教授になり、文部省在外研究員として、大正11-14(1922-25)年、パリに留学。
 パリに留学したのは38歳からです。留学中に内藤は日本人の友人を作ります。

 折竹がパリの見どころを案内する間、東京帝国大学の四年後輩で明年四月から同大学で教鞭をとるという辰野隆が初対面の挨拶にあらわれ、つづいて音楽エッセイを何度か投稿した雑誌『音楽界』の主幹、小松耕輔が姿を見せる。

 またフランス人の友人、ノエル・ヌエー氏も話し相手でした。ノエル・ヌエーは1885年に生まれており、内藤と2歳しか違いません。

 加えて辰野はノエル・ヌエーという物静かな詩人を父に引き合わせ、会話力の鍛錬かたがた文学講義の話し相手とした。

 このノエル・ヌエーって誰のことなのか、わかりますか? 結果はすぐ後で。1924年帰国後、内藤は東京商科大学(現在の一橋大学)教授となります。当時の教え子に伊藤整など。内藤が日本に帰って見ると、1926(昭和元)年、ノエル・ヌエーも日本にやってきました。

 ルナアルの文章は、単純なようでいながら間違いやすく、ひと癖あるようで最高に正しいフランス語だという定評がある。その翻訳に当たって、父は疑問の個所をノエル・ヌエーに質すことにした。ヌエーは静岡高等学校で三年の契約をすませたのち、いったんフランスに帰ったが、日本を忘れられぬまま東京外国語学校の要請に応じて一ツ橋の校舎に着任したばかりのところであった。日本ではヌエーの末尾サイレントを発音してヌエットと呼んでいたが、父はフランスいらいの「ムッシュー・ヌエー」を押し通した。
 大森の家によく姿を見せていたように覚えている。ほどよく髭をたくわえた四角の顔に眼鏡をかけ玄関の式台に座って靴をぬいだあと、さらに二重にはいた靴下の外側をぬいで靴に押しこんでから上がってくるのが珍しかった。父によれば「日本語を覚えようとしない日本贔屓のフランス人」で、二人の交わすフランス語が音楽のように書斎から流れていた。

 つまり、ノエル・ヌエー、フランス語ではNoël Nouëtで、この日本語名はノエル・ヌエットで、神楽坂の寺内公園案内板に彼が描いた絵が描いてありますが、その絵を描いた画家兼詩人がヌエットでした。ヌエットが日本に2回目に訪問した時は1930(昭和5)年です。
 1953(昭和28)年、内藤濯訳で「星の王子さま」を出版。ノエル・ヌエットは1962(昭和37)年、日本からフランスに帰国します。昭和44(1969)年、ヌエットは84歳で死亡。昭和52年(1977年)、内藤が死亡。94歳でした。

(1) 木下杢太郎の『食後の唄』の序(大正七年九月四日版)ではここはこうなっています。この批評家は本当に内藤濯だったのでしょうか。まあ、息子がそういっているので…そうするか。

 さう云ふ情緒も又無論同時の詩的氣稟から見逃されてはゐなかつた。新に西洋から歸つた洋畫家の中には、まだ人の瞳が靑く見える習慣のままで、お酌の踊を畫かうとするのもあったが、我我はその中でも、蒲原有明氏の「朝なり」から大なる感激を受けた。無論そんなしやれた心持は少しも分らないで、子どものおしめの心配や、下宿屋での月末の苦勞を記述する、牛込邊の文士團體もあるにはあつたが、然し一方にはまだ聽いたこともないDEBUSSYを評論する、出過ぎた批評家もあつたのである。
 街頭の張札(あふいつしゆ)を愛し、料理屋の色紙の印刷を愛し、モンマルトル畫家の漫畫(きやりきやちゆる)を愛し、隆達、弄齋、竹枝、山歌(しやんそんねつと)を愛するを知つた予が、こいつを一番小唄でやらうと考へたのは惡い思ひ付きであつた。當時小傳川町の廣重、淸親ばりの商家のまん中に、異樣な對照をなして「三州屋」と云ふ西洋料理屋があつたが、是れは我我の屢「パンの會」を催した會場であつた。その頃椅子に腰をかけて三味線をひいた五郎丸、ひさ菊、お松つさんなどいつた女たちは今はどこにどう四散してゐることやら。
木下杢太郎著『食後の唄』序



三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。

 石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。

石畳

石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。

見返しとかくれんぼ

 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

神楽坂の半襟|水野仙子

水野仙子 菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)から

菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)

文学と神楽坂

 水野仙子(せんこ)氏は肺結核で死んだ女流作家です。

 『神樂阪の半襟(はんえり)』は大正2年(1913)、25歳に書いています。神楽坂で夫と一緒に、髢屋、半襟屋、履物屋に行き、しかし、半襟屋では何も買ってくれません。でも、本当は、本当は買ってくれるだ……本当に? と心は乱れます。

生年は明治21年12月3日。没年は大正8年5月31日。結核のため32歳で死亡しました。

 お里は爪先あがりにを登りながら數へたてゝゐたが、ふと屋の店が目につくと、『あ、さうさう、私すき毛を一つ買はう。』と、思ひ出したやうに小ばしりにその店に寄つて行つた。
 髢屋の主人が背のびをして瓦斯にマッチを擦ると、急に靑白い光がぱつとして薄暗い店先を照した。氣がつくと、阪下阪上の全體に燈がはひつてゐた。
『下駄はどこで買ひませう。』と、そこから出て来たお里は、夫と並んで歩き出しながら言つた。
『さあ。』

 「坂」と同じで、神楽坂のこと。
 かもじ。日本髪を結うとき、地毛の足りない部分を補って添える髪。
すき毛 毛の束で、結髪の形を整えるために髪の中央に入れたり、頭髪の汚れをとるため梳き櫛に挟んで髪をけずったりすること
 お里はふと立ち止つて、とある半襟店の小さなショウウインドウを眺めてゐた。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。しかし、夫は半襟を買いません。
 お里はちぷりと油に水をさされたやうな氣がした。黑地に赤糸の麻の葉を總模様にしたその半襟をかけた自分の白い襟元と、着物の配合とが忽ちにして消えた。…
 あんなけちな安物1つ思のまゝに買ふことができないのだと思ふと、何やらうらめしいやうな氣がしてならない。…
『あの家に入つて見ませう。』と、お里はずんずん夫の先に立つて、昆沙門前の下駄屋にはひつて行つた。

下駄屋 下駄屋、半襟屋、髢屋はここにありました。(新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)
神楽坂の半襟
現在の下駄屋は煎餅の「福屋」です。半襟屋は「味扇」や「わしょくや」などに変わりました。
下駄屋と半襟屋
髢屋は「俺流らーめん塩」になりました。
ラーメン

 さて、その後の行動は、ひょっとして、買うつもりではとお里は考えしまいます。ここがいい。
 実際はやっぱり買ってくれません。簡単な小説ですが、男女の相克は別として、結構、お話と心理はよくって、うまいと思います。

『さうかも知れない、あの人のことだもの。』と考へた時は、嬉しさに胸が早鐘のやうに鼓動を打つてゐた。
 お里は夫が黙つて、そつとあの半襟を買ひに行つたのだと思つたのである。さう信じてしまふと、嬉しいやうな、有り難いやうな、先刻の不平だの、味氣なさだのは泡のやうに消えてしまつて、さうまでして自分を劬つてくれる夫の心持が氣の毒にもなつて来る。

劬る いたわる。思いやること

竹久夢二|神楽坂

文学と神楽坂

筒井筒直言
 1905年(明治38年)6月18日(20歳)、夢二の最初の絵「勝利の悲哀」が「直言」(「平民新聞」の後継)に掲載されました。世に出た夢二の最初の作品のコマ絵です。白衣の骸骨と泣いている丸髷の女が寄り添う姿で、日露戦争の勝利の悲哀を描いています(左図)。 一方、「中学世界」増刊号には竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が出ます(右図)。1905年10月(21歳)、竹久夢二は『神楽坂おとなの散歩マップ』によると、神楽坂3丁目6番地の上野方に住んだといいます。『竹久夢二 子供の世界』(龍星閣 1970)の『夢二とこども』で長田幹彦氏は

 “東京の街から櫟林の多い武蔵野の郊外にうつらうと云ふ、大塚の或淋しい町で”と、いうのは、当時、明治三十八年十一月号の『ハガキ文学』に、絵葉書図案が一等で当選して居り、その図版の傍に印刷されて″小石川区大塚仲町竹久夢二″というのがあるから、明治三十八年頃大塚にいたことのあるのはたしかである。掲載の前月の十月には、“神楽坂町三ノ六上野方ゆめ二”という手紙を出しており、翌々月の十二月の『ヘナブリ倶楽部』二号には“詩的エハガキ交換希望”として名前が出ているが、その住所は“東京淀橋柏木一二八竹久夢二”となっている。まことにめまぐるしい転々さである

 江戸時代、3丁目6番地はもともとは松平家の敷地で、大きさは他の敷地(1番地など)と比べて10倍以上もありました。しかし、翌月はもう場所が変わっています。実際に下宿はこれから何回も変えています。

 1907年(明治40年)1月(22歳)、竹久夢二はたまき(戸籍上は他満喜)24歳と結婚して「牛込区宮比(みやび)(ちょう)4に住んだ」と書いている本が多いようです。しかし、明治、大正時代には宮比町はありません。(今もありません。全くありません)。

 あるのは(かみ)宮比町と(しも)宮比町の2つです。台地上を上宮比町、台地下を下宮比町と呼んでいました。昭和26年、上宮比町は神楽坂4丁目になります。下宮比町は変わらず同じです。

 新宿区の『区内に在住した文学者たち』では「上宮比町であるか下宮比町であるかは不詳」と書いています。一方、けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』では「竹久夢二がたまきと結婚し下宮比町に住む」と書いています。三田英彬氏の 『〈評伝〉竹久夢二 時代に逆らった詩人画家』(芸術新聞社、2000年)では

 二人は二ヶ月余り後に結婚する。夢二が彼女の兄夫婦を訪ね、結婚の申し込みをし、許しを得たのは明治四十年一月。牛込区宮比町4に住んだ。たまきによると「神楽坂の横丁下宮比町の金さん」という職工の家の2階の6畳を借りたのだ。

 実際に岸たまきも「夢二の想出」(『書窓』 昭和16年7月)でこう書いています。

 当時夢二は神楽坂の横町下宮比町の金さんという造弊の職工に通い居る息子のある頭の家でした。二階の六畳に一閑張の机が一つあるきりの室でした。

 では、上宮比町四はないのでしょうか。明治40年4月7日、夢二氏は「府下荏原郡 下目黒三六六 上司延貴様」に葉書をだして(二玄社『竹久夢二の絵手紙』2008年)

四月七日 さきほどは突然御じゃま いたし御馳走に相成候 奥様へもよろしく御伝へ 下され度候  上宮比町四   幽冥路

 と書いています。 神楽坂3丁目6番地と上宮比町四と下宮比町四については、下図を。結局、上宮比町がいいのか、下宮比町がいいのか、どちらもよさそうで、本人は上宮比町、妻は下宮比町と書いています。わからないと書くのがよさそうです。

 明治41年(1908)2月(23歳)、長男虹之助が生まれます。 明治42年5月(24歳)、たまきと戸籍上離婚。12月15日(25歳)には、「夢二画集」春の巻を出版。これがベストセラーになります。

 明治43年6月(25歳)、大逆事件関係者の検挙が続く中で、夢二は2日間、警察に拘束。警察から帰るとすぐに有り金を持って、九十九里方面に逃避します。 明治44年1月(26歳)、大逆事件で幸徳秋水らが処刑され、夢二はあちこち引越しをくりかえしています。そのころ自宅兼事務所兼仕事場として牛込東五軒町に住んだこともあります。竹久夢二自書の『砂がき』では

 その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの寫眞屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な繪をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた。夢に出て來る「青い家」は、たしか東五軒町の家らしい。その家は恐らく今もあるだらう。夢の中の橋は、大曲の白鳥橋だと思はれる。

明治40年夢二がいた場所 一番上の赤い四角が東五軒町の一部です。江戸川添なので、川のそばにあったのでしょう。

 その下は下宮比町4です。

 その下で最小の長四角は上宮比町4です。

 最後の赤い多角形は神楽坂3丁目目6番地で、ここは巨大です。

「ゴンドラの唄」と芸術座|神楽坂

文学と神楽坂

「ゴンドラの(うた)」は、1915年(大正4年)芸術座第5回帝劇公演に発表した流行(はやり)(うた)です。吉井勇作詞。中山晋平作曲。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を劇にした『その前夜』の劇中歌です。大正4年に35回も松井須磨子が歌いました。

『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。

『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。ゴンドラの唄。セノオ新小唄。大正5年(1916)

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(あか)(くちびる)()せぬ()に、
(あつ)血液(ちしほ)()えぬ()に、
明日(あす)月日(つきひ)のないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ()()りて()(ふね)に、
いざ()ゆる()(きみ)()に、
ここには(たれ)れも()ぬものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(なみ)にたゞよひ(なみ)()に、
(きみ)柔手(やはて)()(かた)に、
ここには人目(ひとめ)ないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)黒髪(くろかみ)(いろ)()せぬ()に、
(こころ)のほのほ()えぬ()に、
今日(けふ)はふたゝび()ぬものを。

 1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
 実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。

私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。
    命短し、恋せよ乙女……
 だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。
「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」
「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」
 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。
「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」
「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」
 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。
 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。
「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」
 私は短兵急に訊いた。
「あんた、命短しって唄、知ってる?」
「あ、ゴンドラの唄ですね」
「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」
「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……
「じゃ、ちょっと歌ってよ」
 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。
   命短し、恋せよ乙女
   赤い唇 あせぬまに
   熱き血潮の 冷えぬまに
   明日の月日は ないものを……
 その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。

 この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
 さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。

  • 売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』で書き、
  • 『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
  • 森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
  • 『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
  • NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、
  • コーラス、独唱、合唱でも出ました。

 まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。

小林アパート(旧芸術倶楽部)|横寺町

 この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。

 高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。

 さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して

 大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。

 なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。

 しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは

 その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。
「松井須磨子の幽霊がいますよ」
と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。

 この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では

 そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」
「芸術倶楽部の跡はそこです」
と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略)
 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。
    カチューシャ可愛や別れのつらさ
    せめて淡雪とけぬまに
    神に誓いをララかけましょか
 そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。

 戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では

 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。


芸術倶楽部館|神楽坂

文学と神楽坂

 芸術倶楽部の館は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』(明治書院、昭和55年)では……

『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正3年3月22日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜11時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町9番地に決り、2階建の白い洋館。一階には間口7間に奥行4間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は300。総工費7000円。建築費の大口寄附者(500円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。
 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正4年8月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。

 芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。

芸術倶楽部の2プラン

 また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)では

日本新劇史186頁

牛込芸術倶楽部

日本新劇史200頁

 次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)にある図です。

芸術倶楽部の場所

 また今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)に書いてある図ではこうなっています。

芸術倶楽部2

 高橋春人氏の「ここは牛込、神楽坂」第6号の『牛込さんぽみち』では想像図と地図が載っています。

芸術倶楽部の想像図 芸術倶楽部の想像図

高橋春人氏の芸術倶楽部

 高橋春人氏は…

芸術倶楽部 これを描くときに参考にしたのが印刷物の写真版である。これは、芸術座・芸術倶楽部用の封筒の裏に刷られたもので(宣伝用?)、ここにあげたものは、抱月(滝太郎)が、大正6年12月に使ったものである(早大、演劇博物館、蔵。なお、筆者が見た芸術倶楽部の写真はこのワンカットだけ)

 昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では

小林アパート(芸術倶楽部)

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。これはどこだか正確にはわかりません。おそらく上図の「小林 9」と上から2番目の「11」の間にカメラを置いて撮影したのでしょう。

芸術倶楽部の跡。1954年

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

1984-09-01。写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

 毘沙門せんべい福屋の福井 清一郎氏は「商売人どうし協力して 街を盛り上げていきたいよね。」(東京平版株式会社)の中で

 神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。

魚浅 一水寮 矢来町 朝日坂の名前 朝日坂 Caffè Triestino 新内横丁

神楽坂|翁庵 なんたってかつそばだ

文学と神楽坂

 蕎麦の「翁庵(おきなあん)」は神楽坂上を見で左側にあります。明治17年(1884)、関東大震災以前から商売を続けています。場所はここ

翁庵

 朝間義隆氏は映画監督の山田洋次との共著『シナリオをつくる』(筑摩書院、1994年)でこう書いています。

「和可菜」は夕食は出さないので、神楽坂下の山田さんのお気に入りのそば屋「翁」に大体は出かける。近くの理科大学の学生でいつも賑わっている店で、おかみさんたちがすっかり山田ファンになりいつも特別の惣菜をこしらえてもてなしてくれる。主役級の俳優さんとの顔合わせの場所にも、たびたびなっている。

 黒川鍾信氏の『神楽坂ホン書き旅館』(日本放送出版協会、2002年)では

 神楽坂を下って外堀通りにぶつかるちょっと手前に、「(おきな)(あん)」というそば屋がある。午後は東京理科大の学生たちで賑にぎわっている。ここの「カツ(どん)ライス」を知らない者は理科大生でないといわれるほど、卵でとじたカツの皿と大盛り(どんぶり)(めし)は有名である。
 ある晩、山田(洋次氏)たちはこの店に入った。注文を取りにきたアルバイトの店員は、寅さん映画のファンだった。客のひとりが山田洋次だということに気づいた店員は、女将に耳打ちした。それでは奥の座敷に上がってもらいなさいとなり、注文した料理の他に、「これは自家用の惣菜ですがよろしかったら召し上がってください」と、小松菜をそえた厚揚げの煮物と大根のあら()きが出てきた。
 これが決め手となった。山田たちはここをすっかり気に入り、また、店の人たちも山田組のファンになった。和可菜でカズさんがやったように、翁庵の女将さんは、徐々に山田や朝間の嗜好(しこう)を覚えていった。(たい)や松坂牛は必要ない。季節の食材を惣菜風にして出せば喜ばれるのだから、親戚(しんせき)縁者が遊びにきたというあんばいで気楽に調理することができた。

 また「拝啓、父上様」でも登場します。第7話で板前と仲居さんで翁庵(台本では「まるそば」)を舞台に集会があり、料亭「坂下」が廃業してしまうのでは、どうしようというものでした。

まるそば
  客で賑わっている.

まるそば
 昭和56年(1981年)、神吉(かんき)拓郎(たくろう)氏の『東京気侭地図』の一節です。氏は小説家、俳人、随筆家で、昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がけ、昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞を受賞しました。『東京気侭地図』の神楽坂は別に書いています。

 坂の上り口から、ほんの二三軒先の左側に「おきな庵」という蕎麦屋があるが、この店は好きだ。学生にとりわけ人気のある店で、見かけも値段も、まったく並の蕎麦屋だが、今どきには珍しいほど、ちゃんとしたものを出す店だと思う。
  法政大学を出た男に教えられて入って以来、たびたびこのノレンをくぐるようになった。
 お目当ては、カツそば、という珍味なのである。
 カツそば、などというと、眉をひそめられそうだが、どうして、どうして、これが悪くない。かけそばの上に、庖丁を入れた薄いトンカツが一枚のっている。普通の感覚でいうと、どうもギラギラとして、シツコくて、とても喰えないと思うだろうが、これが淡々として軽い味わいなのである。
  食べてみて、あまりにも意外だったので、教えてくれた男に早速報告すると、その男は、しまった、と額を叩いた。
「忘れてました。温かいのを食べちゃったんでしょう」
「そうだ」
「いうのを忘れたけれど、冷たいのを喰わなくちゃ話になりません。カツそばは、冷しに限るんです」
 ますます奇妙である。冷したカツそばなんて喰えるのかしらんと思ったけれど、次に行ったとき、その、冷し、というのを註文した。食べてみて、へえ、と感心した。
 温かいのもウマかったけれど、冷し、は一段とウマい。世のなかには不思議な取合せがあるものだと、目をぱちくりして帰ってきた。
 ここのカツそばの味は保証してもいいけれど、喰いものの評価は、まったく独断と偏見によるものなので、口に合わないということだってあり得る。でも、大人が食べてみて、損をしたような気にならないことは承け合える。

 ここの「かつそば」は「かつ」と「そば」をあわせたもの。かつそばってはじめてだと思った人はだめだめ。食べログによれば「全国にあるカツそばに関連するお店62件を一般ユーザーの口コミをもとに集計した様々なランキングから探すことができます」とでてきます。 すごい。62件もあるんだ。ただし、「カツカレーのカツ そば大盛り」など、「カツ そば」もいれて62店なのですが。入れない場合はとても怖くって調べていません。
 かつそばは毎月5日、15日、25日は限定100食まで500円で食べることができます。さらに、毎月8日、18日、28日はいなりずし1個を無料でサービス。
  でかつそばを食べてみるとなんと美味しい。かつは厚くはなくて、普通のかつの70%の厚さ。しかも油っこくはない。そばとあっている。おどろきでした。
 かつそばには、温かいかつそばと冷たいかつそばがあり、どちらも880円です。確かに「冷しかつそば」の方があっさりしていいと思いますが、それほど違いはあると思えません。

温冷かつそば

かつそばの2種。左は温かいかつそば。右は冷やしかつそば




漱石と『硝子戸の中』16

文学と神楽坂

 十六

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪をつて貰った事がある。
 平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子ガラスの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻つて、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむか寺町郵便局そばに店を持つて、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。
高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」
その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知つてるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、つて贔屓ひいきにして下すったもんです」
 彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声をげた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」
「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

宅の前 うちはこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。2つの説があるわけです。
M40

 一番の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園が始まります。

 その先の坂を下りかけた左手が区立漱石公園。ここは「漱石山房」…漱石が最後に住んだ住居跡で(家は貸家だった)、中央に、漱石の胸像、右手後ろに石を積み重ねた猫の墓がある。これは漱石の死後、鏡子夫人が『吾輩は猫である』の主人公や犬、文鳥などを供養するために建て、戦災で焼けたのを修復したもの。これだけが当時をしのぶよすがとなっている。
 ここで漱石は『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』などを次々執筆した。木曜日には弟子たちが集まって山房は文学サロンとなった。でも、園内はひと気もなくそんな面影はない。「漱石終えんの地」という文字ももの悲しい。本来なら漱石記念館などあってしかるべきなのに。
 門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。
“宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度其処で髪を刈ってもらった事がある。”
 見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」

 第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり

 当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。

 第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと

“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
(中略)
 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。

と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっていて、橋はなくなっていた場所が弁天橋の場所でした。

小川 名前がついています。「加二かに川」です。

金巾(かなきん) 平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
金巾
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺とおりてら町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺よこてら町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
T11郵便局
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・(ふさ)の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。

「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉をぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝ひ物なんかあつて、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたつけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
成金横丁
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
古老の地図 寺内(じない)へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作(かさく))でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋(たび)屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝さんかつ」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…

誰袖や待合らしき春の雨
(岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。)

東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

明治20年の神楽坂の地図

 1970年、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』45頁に「神楽坂付近の地名」として出ています。

明治20年の地図

神楽坂上交差点 神楽坂下交差点 外堀通り 大久保通り 和泉長屋横丁 善国寺 若宮小路 竹内小学校 毘沙門横丁 毘沙門横丁 軽子坂 揚場町 牡丹屋敷 小栗横丁 小栗横丁 一丁目 鏡花仮宅 二丁目 三丁目 本多横丁 四丁目 庾嶺坂 逢坂 新坂 地蔵坂 地蔵坂 わら店横町 わら店 光照寺 大田南畝故宅は中町 寺内 肴町 瓢箪坂 安養寺 川喜田屋横丁 川喜田屋横丁 袖摺坂 袖摺坂 弁天坂 朝日坂 筑土八幡 浅田宗伯 尾崎紅葉址 白銀坂 赤城坂 山里 六丁目 横寺町 北町 北町中町南町

若宮小路竹内小学校毘沙門横丁軽子坂神楽坂1丁目牡丹屋敷鏡花仮宅小栗横丁神楽坂2丁目神楽坂3丁目本多横丁四丁目庾嶺坂逢坂善国寺新坂藁店光照寺大田南畝故宅(正しくは中町)肴町コノ辺 地内ト云瓢箪坂安養寺川喜田屋横丁袖摺坂弁天坂五味坂朝日坂筑土八幡浅田宗伯尾崎紅葉址白銀坂赤城坂山里六丁目横寺町

成金横丁|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 成金横丁は江戸時代ではまったくありません。保善寺の真ん中にできるはずですが。

6丁目

 明治39(1906)年、保善寺は牛込ではなく東中野駅に移っていきます。左側は明治43年の地図ですがまだなにもありません。右側の大正11年になってから、ようやく道路がでてきます。

明治43年と大正11年2

 あとはあまり変化はありません。現在の地図は

成金横丁

 参考までに大〆などがでている写真を載せておきます。

大〆


川喜田屋横丁|神楽坂5丁目と6丁目

文学と神楽坂

 神楽坂の西側に大久保通りがあります。その西側に神楽坂六丁目(以前の牛込通寺町)があります。しかし、神楽坂五丁目(以前の肴町)もあるのです。(☞大久保通りを越えた神楽坂5丁目

肴町(現在の神楽坂五丁目)の大半は大久保通りから見ると東側ですが、実は西側にも広がっています。牛込三光院門前(現・通寺町)と肴町の間にある横丁は、大久保通りから見ると西側に位置し、川喜田(かわきた)()横丁と呼ばれていました。現在もその他の名称はなく、使ってもいいはずです。

これは横丁角に川喜田久右衛門という町人が住んでいたといわれます(町方書上「牛込三光院門前」)。

横町有之、通はゞ九尺程、俗川喜田屋横丁と唱申候、右横丁角町内川喜田屋久右衛門と申町人住居仕候故申習候

明治時代もあまり大きな変化がありません。江戸時代と現在で神楽坂と大久保通りと朝日坂と川喜田屋横丁の関係を示します。

川喜田屋横丁と神楽坂と大久保通りと朝日坂

現在は

川喜田屋横丁

では、川喜田屋横丁を見ていきたいと思います。最初は入った所。なんとなく登りに入っています。右は「はり鍼灸院」やマンションです。

なお、明進軒、次にプランタン、婦人科の医者、マンションになった場所や、求友亭もここにありました。

川喜田屋横丁1

下の写真(↓)は「ハピネス神楽坂」です。ええ、これで1階はファッションビルなのです。でも、会社の社員が一杯いることはまずありません。創業は1974年12月。本物の手づくりにこだわり、「山の幸染め」「グラスアート」「押し花」などを作っています。13年9月28日、4チャンネルの「ぶらり途中下車の旅」でこの「山の幸染め」をやっていました。葉脈も綺麗に見えます。体験受講は1000円+教材費実費。

川喜田屋横丁2

本来の川喜田屋横丁はこれで終わりです。しかし、この坂をさらに上に登ると、右の小さな路地があります。こんなこざっぱりして清潔で綺麗な路地は、はい、ないと思います。右手の路地は1.4mしかありません。やはりほとんど人は入ってこないためだと思います。で、てっぺんの法正寺です。さらに下がる途中にある繁栄稲荷神社です。

川喜田屋横丁3

一番頂上から下に望むと、ららら、おどきですが、相当高い。幅は3.7mです。川喜田屋横丁4
三光院と養善院の横丁 白銀公園 瓢箪坂 駒坂 成金横丁 神楽坂5丁目 牛込亭
神楽坂の通りと坂に戻る

文学と神楽坂

お蔵坂|小栗横丁

文学と神楽坂


 平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

阿久津 それから若宮八幡を前に見て、小栗横丁の、「熱海湯」の前に下りるまでの小路。
   あそこは今度、ビジネスホテルが建つとかで。
坂崎  あの坂の細い道は残るのかしら。
   残るでしょう。残さないと人が通れない。もともと蔵のようなものがあったところなんですよ。
坂崎  じゃあ『お蔵坂』と。マンションが建つと日陰で暗くなるかもしれないけど。暗い細道というのもいいものなんです。

 なお、このビジネスホテルというのは2000年竣工のアグネスホテルです。小栗横丁の右が「熱海湯」だと言っています。一方、左は何もない坂道なのですが、ここをお蔵坂と呼びました。


 2007年のテレビ「拝啓、父上様」の最初のシーンから「お蔵坂」がでてきます。
 テレビの『拝啓、父上様』で「お蔵坂」は最初の数分間でもう何度もでてきます。

神楽坂通り
  朝まだき。
  しんと静まり返っている。
 り「東京、神楽坂。坂だらけの町
  この町の夜明け前が、俺は好きだ」

 テレビではお蔵坂を下から見た絵もでます。
お蔵坂1
 お蔵坂を上空から見た絵もでてきます。走っているのは主人公、一平で、多分、寮から飛び出し、駐車場に行き、築地市場に先輩たちと行くのです。お蔵坂2
 それから数シーン後に出てくるのは

石段に
  陽光が漸くさしこむ。
  夢子が子猫に餌をやっている。
  他の猫たちも集まってくる。


お蔵坂3

お蔵坂41

 小栗横丁からお蔵坂の上に向かって歩くとアグネスホテルになります。そこでは「拝啓、父上様」の倉本聰が原稿書きで長期に泊まったとか。なぜこのまわりが愛着と好意を集めるのか、わかります。

ほんとは主人公の一平とは違うけど一平荘




庾嶺坂

文学と神楽坂

 外堀通りを飯田橋駅から市谷駅に向かい、神楽坂1丁目と市谷船河原町の間で北西に入ります。この坂を庾嶺坂といいます。この坂は明治にはもう何個も名前が付いています。

()(れい)
江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念(ゆうねん)坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。
庾嶺坂1

 中国の梅の名所とは、(たい)()(れい)といいます。庾とは屋根のない米倉、あるいは野外にある倉庫です。岭の旧名は嶺で、峰、尾根、山脈になります。大庾岭(大庾嶺)は「大きな米倉がある山脈」になるのでしょうか。この山脈は中国江西省と広東省との境にあります。唐代に張九齢は梅を植えその場を「梅嶺」と名づけました。

 なお、「庾」は漢字配当はなく、JISの文字コードはなく、第3水準の漢字です。さらになぜか中国でも大庾県の「庾」は現在では「余」に変えて使い、大余県が正式な言葉になっています。いずれにしても、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名前を付けたので、本来は庾嶺「ゆれい」があり、それが変化して「ゆうれい」になりました。

 しかし、別の解釈もあります。「新撰東京名所図会」では違った説明を取り、昔唯念(ゆうねん)という僧が小庵を建てて住み、ゆうねん坂といい、それが転じて幽霊坂になったといいます。「往昔此辺に唯念といふ僧小庵を結びて居住せし唯一名をゆうねん坂といひしを、後にあやまりてゆうれい坂といふに至れるよし。行人坂ももと此僧のことより出たるものなるべし」。つまり「ゆうねん」から「ゆうれい」になったのです。また「行人坂」の行人(ぎょうにん)は本来の言葉は修行者で、寺院で世俗的な雑務に行う僧侶です。唯念坂と行人坂は同じ僧の名前から来たものです。

 さらに、ゆう(祐・幽)玄(元・源)が住んでいたことからゆう玄坂と名前が付いたともいいます。「むかしゆう玄といへる医師この所におりし故の名なり」。ただし、新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では同じ僧侶・唯念をさすものだとしています。

「幽霊坂」について「ゆれい」や「ゆうねん」は訛って幽霊坂になったのか、実際に幽霊がこの坂から出たのか、ここにも諸説があります。
 坂の上に若宮八幡があり、「若宮坂」ともいわれていました。また、江戸切絵図には「シンサカ」と書いています。庾嶺坂2
 赤レンガの壁から石垣の塀になり、オコメヅタの緑を左に見てあがって行き…あっという間に上がるのは終わってしまいます。逢坂のほうが庾嶺坂よりも距離も長く、高低差も大きいのでしょう。
 大仏次郎氏の『照る日曇る日』(大正15年)では

……すたすたと牛込うしごめ御門ごもんの方角へ歩いて行く。夜は更けていても星明かりがある。(中略)
 武士の姿の隠れたのは、俗に幽霊坂ゆうれいさかという坂へ出る町角、(かど)は武家屋敷の土塀、それに沿って小走りに勢いよく道をまがった刹那、男はぎょっとしてたちすくんだ。意外にも武士は、その角に隠れて自分の来るのを待っていた。ひやりとしてぱッと鳥の立つように逃げ出そうと伸びた背を追いざまに木下闇に銀蛇のように躍ったものがある。

ヌエット「東京のシルエット」…特に神楽坂について

文学と神楽坂

ヌエット

「東京を愛した文人画家 ノエル・ヌエット」。『東京人』2011年4月号から

 昭和29年(1954年)4月15日、著者ノエル・ヌエット(Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。この時、ヌエット氏は69歳でした。定価は430円。ヌエットの当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。

 この本で神楽坂と関係があるのは2つだけです。しかし、それ以外にも懐かしい版画はたくさんあります。最初は「神楽坂」です。

東京のシルエット 神楽坂 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 水野正雄氏は、戦後、「建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました」と書いています(NPO法人粋なまつづくり倶楽部 神楽坂アーカイブチーム編『まちの思い出をたどって』第1集、2007年)。上図の倒れていない建物は三菱銀行(現在は三菱UFJ銀行)だったのです。戦後、一時的に「千代田銀行 神楽坂支店」という名前にかわっています。

 次は日仏学院です。一時的に「アンスティチュ・フランセ 東京」と名前が変わり、また元に戻っていますが、これはフランス政府が管理・運営するフランス文化センターです。
東京のシルエット日仏学院 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 あとは他の版画をいくつか。

東京のシルエット 芝の大門 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 和田倉門 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 三宅坂のお濠 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 半蔵門のお濠 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 なおノエル・ヌエット氏の『神楽坂』(昭和12年)は別の項で。

ひめ小判守|毘沙門天

文学と神楽坂

 まず「ひめ小判守」について。神楽坂アーカイブスチームの樋川豊氏は「かぐらむら」65号にこう書いています。

 江戸時代…百足は毘沙門天のお使いで、百の足で福をかきこみ、開運・招福のご利益をもたらすと信じられていました。…山の手随一の賑わいだった神楽坂の毘沙門天では、「ひめ小判守」という名の百足小判が評判で「新撰東京名所図会」にも小判を手にとる紳士が描かれています。「財布に入れると小銭に不自由しない」とされたのですが、寅の日の縁日がなくなるとともにひめ小判も姿を消します。
 昨年、私たち神楽坂アーカイブスチームは毘沙門天善国寺様を取材した際、「ひめ小判守」の事を知り残念に思っていましたが、先日、嶋田ご住職様から「ひめ小判守を復活する」というご連絡を頂きました。お聞きすると百年振りの復刻で、ご開帳の時限定でお配りするとか。

新撰東京名所図会」の絵にある善国寺毘沙門堂縁日の画(明治37年1月初寅の日)では
新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画

新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画2

 ここで中央の男性はよく見ると 「小判を手にとる紳士」なのかなと、まあそうなのかなあ、と思えます。
 で、本物の現在のひめ小判守は、結構小さく、4cm x 2.5cmで、値段は1000円です。これで交通安全……ではなくって、開運・招福は大丈夫。寺務所で買うことができます。
ひめ小判守ひめ小判守2ひめ小判守3
 紅谷研究家 谷口典子さんに感謝します。ありがとうございました。

石畳|神楽坂|寺内公園

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 ここは神楽坂通りの北側の石畳のうち「寺内(じない)公園」です。

 この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装です。もう1つは大きな板を置いた舗装。最後はアスファルトで覆った舗装です。

石畳 寺内公園

 一番前の舗装は鱗張り(扇の文様)です。右には赤茶けた石の舗装が貼っています。さらに遠くにはアスファルト・コンクリートで覆っています。ここでは手前が赤茶けた石の舗装、奥がピンコロ石畳です。

石畳 寺内公園

 ここでは手前がピンコロ石畳で、奥がアスファルト・コンクリートです。

石畳 寺内公園 アスファルト

 2019年の寺内公園です。土はなくなり、芝生になっています。

 この名前については平松南氏がインターネットの「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」2004年03月01日「神楽坂学を成立させることができるか(2月27日)」にこう書いています。

 神楽坂はじめての超高層26階建てマンションは、新宿区の区道付け替えで区長が住民から訴訟を起こされたが、区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」がデベロッパー側から区に差しだされた。
 公園には名前がなかった。新宿区は名前がないことをとくに気にする様子もなかったが、わたしたちは「寺内公園」の名前を提案した。江戸時代ここは行元寺があり、「寺内」とよばれるようになった。新宿区の公園担当部局は、みどりや歴史のことはあまり関心がなく、わたしたちの要望はそのまま受け入れられた。
「寺内公園」では、新住民にはなにがなんだか分からなかろうということで、公園周辺の歴史や名前の由来を説明する看板をつくることになった。寺内の花柳界を昭和12年に浮世絵版画に仕立てたフランス人ノエル・ヌエットの絵も載せることにした。提供してくれたのは麹町のフランス人収集家クリスチャン・ポラックさんである。
 2月初旬にそのゲラがでてきた。私は掲載直前の文章の校閲を担当した。

 この文章の看板は「寺内公園」の案内板に書いてあります。

 この奥、先にはまた階段です。この先は前に玄関があって、行っても行き止まりだと思うのは間違いです。クランク坂上につながるのです。

クランク坂

 しかし、2016年1月に行くとこの場所はレストランが数軒集まったビルになっていました。

寺内公園20160117

石畳



熱海湯|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

熱海湯

 熱海湯は千鳥破風造りの銭湯で、昭和29年に創業しました。今も薪で湯を焚いているそうです。

拝啓、父上様」で田原一平がよく利用する銭湯もコインランドリーもここ。「熱海湯」正面の階段で料亭「坂下」の大女将、坂下夢子がよく猫にエサをやっていた路地もここ。上から田原一平が朝やってくるのもここです。

 ただし、上に行っても有名なホテル「アグネスホテル」がでるくらいです。蔵のようなものがあったところなので日本路地・横丁学会の人たちは「お蔵坂」と呼ぶのはどうかと言っています。

 細かくはお蔵坂で。360°カメラもあります。

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神楽坂通り3丁目
小栗横丁 アグネスホテル

神楽坂|東京神楽坂組合

文学と神楽坂

 伏見火防稲荷神社があり、次に「見番けんばん横丁」の標柱があります。この標柱には

見番横丁
Kenban-yokocho
芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる

と書いてあります。平成23年(2011年)12月22日に新宿区はここから図では左手の方向に見える路地を見番横丁という名前を付けました。 

青い標柱の裏の建物は、全く普通の建物ですが、これが見番を行う建物です。場所はここ。見番は検番とも書き、芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のことです。東京神楽坂組合の稽古場はこの上の建物になっています。

見番5

 少し左を見て、この建物も東京神楽坂組合の建物で、事務所に当たります。

 なお、東京神楽坂組合は田中角栄が建てた家としても有名ですね。
 ここで 熱海湯階段に行く場合は ここ
 見番横丁に行く場合は ここ
 伏見火防稲荷神社

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文学と神楽坂

神楽坂|河合陶器店…今日やってなかった

文学と神楽坂

 ついになくなってしまいました。山下漆器店と同様に、河合陶器店もなくなってしまいました。大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、道路になるという流れは変えられず、閉店しました。詳しくは山下漆器店の項に。

都市計画道路。東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)から「都市計画情報」を選び、「新宿区」最下の「同意する」から「表示切替」で「都市計画道路」だけを選ぶとでてきます。

 これは以前の話ですが……、河合陶器店は、昔も今も「角のせともの屋」だったのです。陶磁器食器、金魚鉢、園芸用土、植木鉢、香取線香のぶた、招き猫、福助、狸の置物などを販売していました。下は昔の写真です。

河合

 将来は大久保通りの拡張があり、ここは道路になります。それでなくなったわけです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。

 神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。

相川さん それから河合(陶器店)さんですね。
馬場さん あれはまったく変わらないね。
山下さん 大きな樽かなんかを飾ってあったのを思い出すね。角のところへね。
相川さん 二階のベランダにずっと瀬戸物を飾ってあった。
山下さん そのときは天利さんが長屋を建てていたんだね。
相川さん そうそう。
山下さん だから、うちで家を建てるときに、河合さんが、あれは三階だったんかね、うちの上まで使っていたらしい。そのことをちょっと言われたことがあったんですよ。


神楽坂通り
神楽坂の通りと坂

神楽坂|五十鈴

文学と神楽坂

 五十鈴(いすず)。和菓子。昭和21年(1946年)から。場所はここです。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第4号で金田理恵氏の「おいしいもの大好きおばさんの神楽坂ガイド」では

ちょっと塩気の効いた『五十鈴』の豆大福もいいし…(いけない、糖尿のこと忘れてた)

 また、岸朝子氏は「神楽坂饅頭」を「東京五つ星の手みやげ」として絶賛し

現在の主人は「自分の感性で新しい菓子をつくりたい…」と、伝統の小豆餡を西洋菓子のパイ生地で包んだ「神楽坂饅頭」を生み出した。餡に使う小豆は、皮が柔らかく調理が難しい北海道十勝産の「雅」を使用。丁寧に煮上げた小豆餡を独学で習得したパイ生地で包みオーブンで焼く。しっとりと香ばしい和と洋の美味しい二重奏。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

五十鈴

馬場さん 「五十鈴」のところへいった太田の半襟屋さん。この半襟屋さんですか、いつだったか長岡の桂木館へ町会で行きましたよね。
相川さん それは塩物屋の松葉屋さん。長岡のね。そこで番頭さんやっていたってね。
馬場さん 大田の半襟屋さんのあとに。
相川さん 「安田貯蓄」っていうのが来た。若松町の警察の並び、安田貯蓄っていうのがあった。
馬場さん それで戦災?
相川さん 戦災のときは、何屋になっていたかな?それがいまの第一勧信(注)のところへ借りて越したんですよ。勧信の前に。あの入口のところで小使いさんがシヤッター開けながら焼け死んじやった。ほら、昔のだから手で巻いていたでしょ。注:第一勧業信用組合の略称で、現在の時間貸し駐車場(現在は焼肉丑家とパンのPaul店舗)にあった
馬場さん 戦災の前が何屋と何屋があったかということがあるんだね。
相川さん 何があったんだろうな? その安田貯蓄の仕事も私がやったんだけど。
馬場さん これは調べればまた出てくるでしょう、そのへんは。
山下さん だったら五十鈴さんは?
相川さん あれは西沢さんから受けたのよ。
山下さん でしょう。だからニ十ニ、二十三年ごろじゃないの? 五十鈴さんが出てきたのは。
馬場さん あそこで最初は氷屋をやっていた。氷のいちごが二円五十銭。私、いまだに覚えている(笑)。
相川さん 私が木更津から通ってくると、五十鈴さんの後ろへ道具をおいて、シャベルだつるはしだなんてのを預けて、私は体だけで帰ってきて。通勤していた。若いからできたんですよね。

 以前はここは太田屋という半衿店さんでした。半衿とは襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟です。

 鏑木(かぶらき)清方氏が書いた『続こしかたの記』の「夜蕾(やらい)亭雑記(1)」では

前記田原屋に並んで太田屋といふ半襟店があつた。銀座には襟善、ゑり圓の專門店もあるが、この土地には太田屋が繁昌して、山川はそこの主人と心安く、圖案の相談にも乘つてゐたやうである。半襟に數奇を凝こらしたのは明治、大正を盛りとしてその後、だんだん影を消した。

 河合慶子氏は『ここ牛込、神楽坂』第3号の『懐かしの神楽坂』で「肴町界隈のこと」を書き、

ワラ店の角の「太田半衿店」。箱にきれいに並んだ半衿の、赤・黄・緑と色とりどりの鮮やかさ。


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神楽坂|相馬屋 大きなぬいぐるみがいっぱい

文学と神楽坂

 相馬屋。創業は万治2年(1659年)。店舗はここに

G

 360°カメラでは

 手漉き和紙の問屋、宮内省御用達の紙屋。相馬屋製の原稿用紙が人気を呼び、看板商品になりました。

ここは牛込、神楽坂』でご主人の長妻靖和氏は「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買い物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」と話しています。
 以下の2枚は昭和20年代の相馬屋です。

佐藤嘉尚「新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡」生活情報センター、2006年

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 24

 なお、『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷(江戸期から大正期まで)』「古老談話・あれこれ」の「古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋」では

神武天皇の獅噛のバックル

獅噛のバックル

先輩の話に、昔この先の藁店に蜀山人が住んでいて、毎日のように相馬屋の店先へ来てはなくなった大旦那とよもやま話をしていたそうです。真鍮の獅噛み火鉢へ突込んでおいてはお燗をして飲んでいたんですって。蜀山人の書いたものでいわば悪戯書(いたずらがき)とてもいうんですかね、ちゃんとした軸になったもんぢゃないんですけど、そばに鼻紙や、半紙なんかあると、ちょっと筆をとってサラサラ書きおろしたものが15枚もありました。


 なお、獅噛(しか)火鉢(ひばち)とは獅噛み(獅子の頭部を模様化したもの)を脚などに施した、金属製の丸火鉢。上図は神武天皇の獅噛のバックルです。

 おなじく「古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋」では

 忙しかったのは日露戦争(明治37~8年)の頃でしたね。手始めは慰問袋、恤兵品(じゅっぺいひん)なんてもいってましたがね。筆、墨、紙、それに仕入れの手ぬぐいなんかを一袋にしまして20銭か30銭で売り出したんです。売れましてね、飛ぶ様に売れました。そのうちほうぼうの紙屋さんでも売り出したんですがうちのが一番いいってんで、当時は町会なんてものは無かったんでせうがそういった団体、それも全国から相馬屋の慰問袋っていって註文が毎日どの位い来たかわかりません。それが囗火になったんですが、今度は軍隊に出入りする様になりました。そん時の忙しいの何のって目が回るようでした。紙ばかりぢゃないんです、筆といわず墨といわず、ローソクといわず、何でもかんでもでした。その代りこっちも大変です。きめられた時間にちゃんとその品物を納めなきゃならないんですから。品物を集めるのにはその苦労は大変なもんでした。
 その次は大震災、何しろ下町の紙屋さんは皆んな焼けちまったでしよ、品物の在庫のあるのは相馬屋だけでしたからね。警視庁といわず、その他の役所といわず、10円札を束にして持ってきて店の中のものをあらいざらい皆んな持って行っちまったんです。

 恤兵(じゅっぺい)は、軍隊や軍人に対する献金や寄付、または送ること。戦地に直接届けられるものとしては慰問袋が有名でした。

 また『拝啓、父上様』の第6話では

 り「街には早くもクリスマスの音楽が流れ出し、神楽坂は師走の活気に溢れていた」


相馬屋

 また、店には実際に使った原稿用紙もあります。

漱石の原稿

漱石の原稿

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)


神楽坂|伊勢藤 大好きな人もいるけど

文学と神楽坂

アサヒグラフ。昭和63年6月3日号。朝日新聞社。

 伊勢(いせ)とうの創業は昭和12年。しかし創業店は戦災で焼け、昭和23年に再度建築。町屋造りの酒亭です。場所はここ


 一代目はいい話だけでしか聞こえてきません。

 二代目のモットーは…一、大声禁止。二、笑い声は微笑まで。三、ビールも焼酎もなく酒は燗酒のみ。四、女性の一人酒はご法度。五、感謝の気持ちで飲む。

 現在は三代目。三代目はそこまでは厳しくないようですが、座敷から下品な笑い声があがるとやはり注意するそうです。

伊勢藤

 籐と藤。伊勢(いせ)(とう)ではないか、という考えがあります。「たてかんむり」の籐 【トウ】はヤシ科のつる植物の総称。茎は強靭で、籐細工に使用。主に熱帯アジアやオーストラリア北部に分布。「くさかんむり」の藤【フジ】はつる性の落葉高木で、日本人には万葉の時代からなじみのある植物。しかし、どう考えても店の立て看板は伊勢藤だし、インターネットもほとんど全部伊勢藤と書いて「いせとう」とふりがながついています。藤という文字も「かずら(つる性植物の総称)」、「とう(木の名前)」という読み方もあります。

籐と藤

ル・ブルターニュ福屋鳥茶屋大門湯[昔]

兵庫横丁に戻る
神楽坂通りに戻る
石畳について
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神楽坂|せんべい 福屋 結構いける

文学と神楽坂

「毘沙門せんべい 福屋」の創業は昭和23年。

 歌舞伎の名優、17代目中村勘三郎丈は「勘三郎せんべい」を好んだといいます。ほかに「山椒せんべい」や「げんこつ」など。「勘三郎せんべい」を除くとあとは結構おいしい。場所はここせんべい

 東京平版株式会社のBLOGで「第1回 毘沙門せんべい福屋」(2017/5/31)では

ー花街の印象が強いからか、敷居が高いとか、一見さんは入れないお店だらけなんじゃないか?など、神楽坂にはちょっと手強いイメージを持つ方も多いようなのですがいかがでしょうか?
〈福井さん〉確かにちょっと特殊な街ではありますよね。あちこちに人間国宝級の方が住んでいますし、長唄や鼓や琴などの伝統芸能のお師匠さんたちがたくさん生活していますからね。神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。
真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形 芸術座の劇場は360°見下ろせる形ではないようです。コの字に見えます。

神楽坂|鳥茶屋 

文学と神楽坂

「鳥茶屋」は「うどんすき」で有名。ほかにもやきとりや、あれこれ。
 昭和30年代後半に創業しました。1984年には軽子坂、それが1990年は神楽坂4丁目に来ています。2020年10月末、本店は閉店しました。
 場所はここtorityaya 一方、「鳥茶屋別亭」は熱海湯階段(フランス坂、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実は鳥茶屋別亭の玄関でした。

神楽坂|楽山

文学と神楽坂

「楽山」はお茶の店です。場所はここ。昭和34年、牛込北町の牛込中央通りに茶海苔コーヒーの「斉藤園」を開店。昭和43年、神楽坂4丁目に移転し、「大佐和商店」として営業を開始しました。なお、住宅地図では間違えて「大佐秋」となっていますが、正しいのは「大佐和商店」です。

 昭和52年に神楽坂銘茶の「楽山」に変えます。ほかには「抹茶アイス」もあります。『4丁目最東部北側の歴史』では細かく調べています。

『まちの手帖第11号』には楽山のこれまでの歴史があります。

昭和39年のお茶審査競技会で5種5煎というきき茶部門で優勝。「その後何度も入賞したから、トロフィーや賞状がトラックいっぱいになったよ(笑)」

楽山

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神楽坂|五十番 売れればOK(転居)

文学と神楽坂

 本多横丁の北側には「五十番」が見えます。創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。場所はここ
 2016年3月、本店の五十番は本多横丁の6丁目にうつって「元祖 五十番 神楽坂本店」になり、かわって、反対側の4丁目に「神楽坂五十番 総本店」がでてきました。
 昔の3丁目の本店は…

五十番2

 4丁目の総本店は…

五十番

 6丁目の「五十番 神楽坂本店」は…

ヤマダヤ|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側のヤマダヤは洋傘と帽子の店。4代目。明治10年(1877年)創業しました。場所はここ
ヤマダヤ

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丸岡陶苑|神楽坂3丁目 人形が可愛い

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側の「丸岡陶苑」は和陶器を売る店です。

 創業は明治24~25年(1891~92年)。場所はここ

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年、和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」とあります。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には…

「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」

丸岡

 右側のショーウインドウは、陶器でつくった人形がテーマになっています。例えば、2月はお花祭りでした。これは12月です。価格は決して高くはありません。小さい人形は1000円から3000円までです。丸岡陶苑

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二葉[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「上島珈琲館」から「神楽坂上」に向かって右側に少し奥に入ると、「二葉」になりました。ここは初めて「ばらちらし」が誕生した店です。昭和6年創業。地図はここ

「二葉」の「ばらちらし」は、江戸前のちらし寿司はすし飯のうえにもみ海苔をふって魚を並べたもの。それに比べるとネタが細かくきざまれています。呉服商の依頼で、着物に醤油がとばないようにしたようです。ばらちらしは昼は1500円のみ、夜は2500円から。残念ながら、2015年に廃業しました。新しい店舗は2016年6月22日に開業した居酒屋「こんぶや」です。

二葉

 あるブログには

奥で食券買ってくださいと、お帳場で。おばあちゃんから黄色い札をもらって着席すると、やがて、ばらちらしが運ばれてきます。ランチ時にはこの単品メニューだけなのに、なぜこういうシステムなのか? あらま、不思議

と書いてありました。

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神楽坂木村屋(昔)

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目にある「上島珈琲店」は以前は「神楽坂木村屋」でした。

「神楽坂木村屋」は酒種あんぱんなどのパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。終戦では下記の如し。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。場所はここ

 やはりコーヒーが一番うまい店はこの「上島珈琲店」か神楽坂6丁目の「珈琲館」だと思います。まあ、高いけど。上島珈琲店はパンも心持ち美味しい。ちなみにパンが一番うまい店はメゾンカイザー(場所は箪笥町)です。メゾンカイザーの普通のコーヒーです。

助六|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 助六は神楽坂3丁目にある履物の店です。明治40年(1907年)、場所はここ。履物博覧会で1等賞を取り、創業は明治43年(1910年)です。

 助六の前に若松亭という浪花節の定席があったようです。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第1号で『お店の履歴書 履物の老舗「助六」さん』では

 先代である今は亡き父上の要氏は、若い頃、横山町の下駄屋さんで働いていた。でもその界隈で商売するだけでは埒があかないと、東京中の花柳界を回るように。
「それまでの駒下駄はもっと歯が厚かったんです。でもそれじゃ花柳界では不粋だからって、親父は歯を薄くして。いまのような駒下駄にしたわけです」
 先代が考案した小粋な下駄が世に広まる契機となったのが、明治四十年、東京で開かれた履物博覧会だった。
「ええ、いいあんばいに一等賞をいただいて」

助六

 また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『助六』の創業は明治四三年、創業者は石井要氏である……
 当店は創業の頃から傘と下駄を扱ってきた。出来合いの傘だけではなく、注文に応じた品も作らせていた。下駄のサイズは一つしかなく、鼻緒のすげ方で二一cmから二五cmまで対応する。鼻緒をお客さんの足に合うように挿げるのは一番大切な仕事で、足を見ただけで文数がわかるようにならなければだめだ、と言われた。顧客のなかには与謝野晶子宮城道雄菊地寛西条八十川合玉堂などもいて、自宅に注文をとりに行き納品することもあった……
 草履にはふつう畳表をはるが、要氏が皮張りの草履を考案した。昭和の初め頃には、様々な色を使ったエナメルの草履なども作っていた。その頃、有楽町宝塚劇場のサロンのウィンドウに商品の見本を出せることになり、それを見て買いに来るお客さんが増えたこともある。また昭和二九年から昭和五六年頃まで、新宿伊勢丹の「さつき会」という催事(母の日を含む1ヵ月間)の際に出店していた。デパートの売り場の中でとてもよい場所とされる一階に店を出し、実際にたいへんよく売れた。
 花柳界が近く、また一般のお客さんも多いため、現在の店には様々な好みに合わせられる珍しい希少商品や、オリジナル商品を置いている。


龍公亭|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

龍公亭

 龍公亭は中華料理で四代目がやっています。創業は明治31年(1898年)。創業当時は「あやめ寿司」という寿司屋でした。大正13年の改装を機に2階で中華料理店「龍公亭」をスタート。初代の中華のシェフは楊澤林氏。本格的な中華料理店は山の手で初めての開店だといいます。じきに中華のみの営業に変わりました。かき氷の「あずきアイス」はここで生まれました。

 開店時の看板メニュー、ラーメンの「あやめそば」や初代シェフが娘さんの名前を取って名付けた「桂春麺」もあります。

 4代目のオーナーシェフは周富徳氏が料理長を務める赤坂璃宮で3年修業をしてきました。全面的な改装を行い、外がよく見えるようになっています。1代目から初めてのオーナーシェフです。

 今からうん年前、3代目のシェフのときに食べに行き、2回ほど行き、うううんと。それからは行きませんでした。4代目のシェフになって、初めて行き、うまい。どれも古典的な中華ですが、ひとくち、いい点がある。なんとまあ。名前は同じでも中身はまったく違うものもある。デザートもちょっと違っています。絵葉書や本も売っています。すぐに人で一杯になるのもわかります。場所はここで。

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菱屋|神楽坂3丁目 昔は糸を扱う店 今は…不動産です

文学と神楽坂

 このひしも歴史があります。創業は明治5年(1872)。場所はここ

菱屋

「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。店がよく栄えたのは二代目。肴町(現在の5丁目)では大家になっています。

 現在は天利義一さんが社長。そして「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか?

 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業です。天利海によれば賃貸物件は

  • 東京都新宿区神楽坂 3-2
  • 東京都新宿区神楽坂 5-12(7ヶ所)
  • 東京都新宿区矢来町 125(3ヶ所)※
  • 東京都新宿区原町 1-59
  • 東京都豊島区高田南町 1-25(2ヶ所)

たとえば大久保通り角のビルもこの不動産の物件になっています。

牛込神楽坂之図の碑

文学と神楽坂

 神楽坂通りの上を向いて右側の歩道には歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。そこには拡大図もあります。

牛込神楽坂の図

 さらにその下には

神楽坂の由来については
坂の途中にあった
 穴八幡御旅所で
  神楽を奏したから
津久戸明神が
 移転してきた時に
  この坂で
   神楽を奏したから
若宮八幡の神楽が
 この坂まで
  聞こえてきたから
この坂に赤城明神の
 神楽堂があったから
などの説があります。

と書かれています。なお、戦前の津久戸明神筑土八幡神社の隣りにありました。

4神社

神楽坂|ファミリーマート 昔は牛込會館

文学と神楽坂


サークルK

 1階は「ファミリーマート」、2階は「ロイヤルホスト」、それ以上はマンションです。


 この範囲は江戸時代では土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で囲まれた本多屋敷がありました。その後「温泉山」という地域の銭湯「イソベ温泉」や歯医者になり、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の少し前には貸し座敷「牛込會館」に変わります。

 同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。

 その後、牛込会館は白木屋デパートが営業しましたがほとんど客が入らず廃業になりました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

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神楽坂仲通りに行くには
小栗横町に行くには
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神楽坂|太陽堂 ブリキは仮の姿かな

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目の「太陽堂」も本来は陶器店ですが、ブリキなどレトロなものを置いています。これは中国産のものが大半です。場所は左端のここ
 これも50年は古そうですが、よくはわかりません。
 1952年の「火災保険特殊地図」(昭和27年)は加藤陶磁店と出ています。1960年頃の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)では「瀬戸物 太陽堂」です。加藤陶磁店と太陽堂とは同じ経営陣ではないかと思います。違う場合もありますが。
 さらに昔に行き、1937年(昭和12年)の「火災保険特殊地図」は名前は書いていません。
 昭和5年(1930年)は「甲斐屋布団」になっています(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」)。おそらく太陽堂は終戦後にできたものではないでしょうか。

taiyodo

昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場


神楽坂|肉のますだや すごく客が一杯の店

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目の「肉のますだや」は、戦後同じ場所で、ここに。味も価格も昔ながらのものを売って、店ですき焼き、牛鍋、しゃぶしゃぶを食べることもできます。少し安くて、少しおいしくって、人がいつも一杯の店です。50年は古そうで、戦後すぐにできたものだと思います。

ますだや

昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場


神楽坂|陶柿園、写真館、さわや

文学と神楽坂

 最初は陶柿園とうしえんです。陶磁器をおいています。昭和23年、開業しました。1階は手頃なもの、2階は高級品を選んでいるようです。陶磁器以外にガラス製品も売れています。場所はここ

 昭和31年、陶柿園に車が突っ込む交通事故が発生し、ここから逆転式一方通行になりました。

 この3階は「神楽坂写真館」、つまり「旧夏目写真館」で、場所はここ。やはり1世紀以上続く写真館です。昔、この写真館は反対側のここでした。もっと昔は陶柿園が現在いる場所にでています。

 つまり、坂上を上に見ると、最初は夏目写真館は右で、第2次世界大戦後では左に、そのあと、2011年、「ポルタ神楽坂」ができると、また右に移ります。

 しかし「2023年8月末日をもちまして、神楽坂写真館は閉館いたします」と案内が出て、現在は「神楽坂やまもと内科クリニック」に変わっています。

tousien

さわやは資生堂の一店舗として化粧品を置いています。しかし、創業はなんと大正2年。本来はかんざし、櫛、かもじを扱う店でした。場所はここ
さわや

 令和6年(2024)末には「さわや」も廃業します。11月23日には閉まっていました。

梅花亭|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

「神楽坂 梅花亭」の創業は1935年(昭和10年)ですが、でも、いいですか、ここで始まっているわけではありません。場所は池袋です。もちろんみんなに聞けばちゃーんと教えてくれます。

 神楽坂の出店は08年。11年にポルタ神楽坂店を開店。池袋などは閉店し、現在は神楽坂の2店舗のみになりました。場所はここです。もちろん和菓子です。けっこうおいしい。

梅花亭


千年こうじや|神楽坂 うぃっと

文学と神楽坂

「千年こうじや」は新潟県魚沼の地酒「八海山」の酒蔵・八海醸造の子会社です。場所はここ

「千年こうじや」は12年3月3日に麻布十番、10月20日に神楽坂にオープンしました。

 八海醸造の創業は1922年(大正11年)です。清酒以外では発酵食品企業として『米・麹・発酵』をコンセプトにしています。

 酒のアイスクリームはおいしい。うぃっと、酔いました。でもうまい。

 ほかの店は神楽坂通りを前にしてしますが、「千年こうじや」は裏通りの小栗横丁を前にしています。

こうじや


神楽坂|二丁目食堂トレド なんでもやったる

文学と神楽坂

「二丁目食堂トレド」は創業は昭和47年(1972年)です。場所はここ

 ここ神楽坂で始まり、まえのビルがないと消え、新しい建物ができると戻ってきました。

 以前も裏通りで、今度も裏通りです。「継ぎ足しカレー」で有名です。

トレド


神楽坂|紀の善 おいしいけど難点はたかい(閉店)

文学と神楽坂

 ぜんは「令和4年9月30日をもちまして店舗を閉店させて頂きました」。理由は「店主の高齢化や諸般の事情」のためでした。あーあ… 閉店は「紀の善の閉店」で。

 新しい店舗は「しんぱち食堂」。前書きに「炭火焼干物定食」。和食ファーストフードチェーンです。別に書くとして、今日は紀の善についてです。

「紀の善」は東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋でした。場所はここです。
 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では……

「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業

 口入業とは職業周旋業者のこと。これと違って創業の年は嘉永年間(1848-1854)だとするもあります。

創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前(「食行脚 東京の巻」協文館、大正14年

 大正14年(1925年)から70余年前は嘉永年間(1848-1854)です。しかし、どちらも引用文献はなく、正確にはわかりません。
 冨田冨江氏の「私が生まれ育つたまち」(「ここは牛込、神楽坂」第16号、平成12年)では……

 戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。

 同じく「紀の善と牡丹屋敷」(「ここは牛込、神楽坂」第17号、平成12年)では……

 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは三十人頼むとか、きょうは雨だから五人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂で代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。
 その後、牡丹屋敷は町屋になりますが、ずっと牡丹屋敷と呼ばれていたようです。で、紀の善はご維新後、寿司屋に転向しましたが、そのときはこの絵柄から、花蝶寿司といっていました」

 明治維新後は「紀の善・花蝶寿司」。それまで牛込壕端沿いに住んでいたのですが、大地主升本喜兵衛に薦められ、現在の場所に移りました。

 宮内省の御用達になると、「御膳寿司紀の善」に変更。

 なお新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、関東大震災前の当時、大正11(1922)年頃は「神楽小路」のことを「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

kinozen

 明治41年1月、北原白秋吉井勇木下杢太郎など七人はこの2階で新詩社の脱退を決めました。かわって『パンの会』を作ります。これは長田幹彦氏の「わが青春の記」に書いてあります

 また出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

 紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數繋(じゆずつなぎ)にされてゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの

印絆纒 シルシバンテン。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 たかげたとも。10センチ以上視線が高くなります
珠數繋 数珠(じゅず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎは、糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋の名は弥助やすけでした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では昭和11年2月26日、2・26事件の時に「神楽坂が鎮圧部隊の駐屯地にされた時、紀の善が鎮圧部隊の司令部になった」と書かれています。戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)なので別で、あくまでも「鎮圧部隊」の司令部でしょう。

 建物は戦争で焼失し先々代の女将が中心となって今の甘味処「紀の善」に変わりました。刺青から甘味処に変わったのです。(内緒にしようっと。)最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。

 赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、1970年)では

 昔は早稲田の運動会は向島でやったものです。その時は学生達は思い思いのふん裝で会場へ乗り込むのですが、四十七士もいれば児島高徳を気取って鎧の上から蓑を着て来る学生もいました。弁当は学校から出るんですが、「紀の善」で一手にひき受けていたらしく、何でも3,000人分くらいだそうで洗い方煮方炊さ方詰め方と分業で手分けをして徹夜で戦争のような騒ぎでした。こんな騒ぎは大正の末頃まで続きました。今では近くにも大きな大学が沢山できましたが、昔の早大と神楽坂の様なつながりを持った学校は一つもありません。

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)



神楽坂|不二家 かわいいペコちゃん でもペコちゃん焼は…

文学と神楽坂

 地下鉄の出入り口の先には「不二家」のフランチャイズ店があります。昔は岩瀬糸店でしたが、小間物みどりや、パンの神楽堂になり、昭和42年(1967年)、ケーキ・洋菓子などの不二家になりました。場所はここです。

fujiya

 わずか105円の「ペコちゃん焼」が有名です。現在はここにしか残っていません。05年、鉄板を新しくしたのを機に「ポコちゃん焼」が登場しました。かわいいペコちゃん、りりしいポコちゃん、新しい鉄板、きれいな店構え、ペコちゃん「焼」もうっとりするほど可愛くなりました。(若干、うそです)。

 決して甘すぎるものはないので大丈夫。なお、店の前のペコちゃんはしょっちゅう衣装が変わります。

 この平松南社長は父がフランチャイズの社長で、本人は講談社の社員でした。祖父と兄はなくなり、本人がここの社長になりました。ここ神楽坂が大好きな社長として書籍の出版などもやっていました。現在はインターネットが中心です。


神楽坂|のレン 山田紙店[昔]

文学と神楽坂

「のレン 神楽坂店」は、2016年12月に開店したスーベニアショップです。

 その会社は株式会社コラゾンで、元々は海外在住経験のある創業チームが「人々をワクワクさせるようなまだ知られてない日本の魅力を国内外に伝えたい」と、2008年に京都市内に祇園店を開店しました。現在は、京都嵐山/四条通り、東京浅草、横浜赤レンガ倉庫、愛知中部国際空港など観光地やゲートウェイに10店舗を展開しています。

 この半分は地下鉄の駅につながっています。

のレン

現在の『のレン』

 その前は「山田紙店」でした。この「紙店」とは文房具屋のことです。平成28(2016)年9月に閉店しました。

 この「山田紙店」の創業は中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』(1955年、昭和30年)によれば、明治22年(1889年)。江戸時代は木版師ついで絵草紙屋でした。場所はここ

 その後、煙草の販売店と一緒になっていました。中には「原稿用紙」も売られていましたが、ほとんどの人は煙草を買う時に立ち寄り、煙草以外のものを売っているとわからないでしょう。実際、煙草はものすごく、ものすごーく売れていました。しかし、ここでのポイントはあくまでも「原稿用紙」。

 はるか昔から「原稿用紙」が有名な二店のうち一店なのでした。夏目漱石、川端康成、吉行淳之介などの作家たちは山田紙店の原稿用紙を愛用したといわれています。

山田紙店

過去の『山田紙店』

『拝啓、父上様』の第1話で

一平 神楽坂上ったとこに、相馬屋っていう有名な文房具の店があってな。そこの原稿用紙買って来て書くとすらすら文章が書けるって云うぞ
時夫 本当かよ
一平 夏目漱石とか、ア! 仲々書けない筆の遅い奴はな、坂下の山田屋の用紙がいいらしい。井上ひさしなンて人はそこらしいって云ってた
時夫 ――いい話聞いた

 いつになるかはわかりませんが、遠い時間の先で「のレン」はなくなります


神楽坂|オザキヤ靴店 数なら負けない

文学と神楽坂

 靴のオザキヤ「オザキヤ靴店」について、ただただもう大量な靴があります。場所はここ

 西村和夫氏は『雑学 神楽坂』にこう書いています。

 日本人が靴を履き始めた時代から100年にわたる靴屋だ。明治末、創業者が洋行帰りの人から履き潰した靴を貰い受けて、それをばらして構造を研究して製造販売から修理まで行った。まだ既製品の靴がない時代全てがオーダーメイドで、昭和の初め頃まで『銀座に劣らぬ職人がいる』と、神楽坂は山の手の政治家や文化人に贔屓にされた。

 創業は明治33年(1900)。現在は3代目です。


昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店


神楽坂|志満金 鰻は絶滅危惧種1B類になったけど 

文学と神楽坂

 志満金は昔は島金でした。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。場所はここ

 さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

 実は初めは神楽坂通りではなく、小栗横丁(鏡花横丁)にでていた時もあったのです。

 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では…

志満金

 泉鏡花の『神樂坂七不思議』にこの話が出ていますが、仕立屋と書いてあるのは「洋服 ハ木下」に間違えて入っていったのでしょう。

島金しまきん辻行燈つじあんどう
いへ小路せうぢ引込ひつこんでとほりのかどに「蒲燒かばやき」といた行燈あんどうばかりあり。はややつがむやみと飛込とびこむと仕立屋したてやなりしぞ不思議ふしぎなる。

 実際にはこの頃は島金(志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)のほうに顔を出していたのです。

昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店



神楽坂|寺内公園の由来

文学と神楽坂

 ここが「拝啓、父上様」1回目で出てきた駐車場です。

以前の寺内地域

 この階段の左下に車が止まっており、主役の「田原一平」役の二宮和也は車をスタートして、熱海湯の下まで先輩板前2人を向かえに行き、築地市場で魚を買いに行く。ここから熱海湯に行くのは……まあできるか。

「坂下」・駐車場
  ワゴン車に乗り込み、バックさせる一平。
 り「この町の料亭”坂下”で、板前の修業をずっとしており」


寺内公園と駐車場

 現在は食事を楽しむビルになっています。

寺内公園20160117

 もっと遠くから見ると寺内じない公園がみえてきます。(昔はこの地域を地内じないと呼ぶこともありました)

寺内公園

 この案内板を読みましょう。

寺内(じない)公園の由来

 この「寺内公園」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
 江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。)
 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、昆沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。
 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王・柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。
 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。
 いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出の場として大切に護り育てましょう。
平成15年3月吉日  新宿区

 写真についは

ノエル・ヌエットの『神楽坂』/Kagurazaka Noël Nouët 1937「当時の寺内の風俗を描いたといわれる」

ノエル・ヌエット(仏)画『神楽坂』(昭和12年)

作品提供/クロスチャン・ポラック
「Kagurazaka」 Par Noël Nouët (1937年)

 写真はクリックすると大きくなります。なおノエル・ヌエット氏の『東京のシルエット』については別の項で。

 また、この上の版画『神楽坂』は下の写真とよく似ていませんか? 寺内横丁で詳しく書いています。

 もう一つ、ノエル・ヌエット氏は木版画の前に必ずペン画を作っています。これは1937(昭和12)年1月30日に描いています。

 ここで出てきた人物を簡単に紹介します。
 柳家(やなぎや)金語楼(きんごろう)は落語家や喜劇俳優、 NHKテレビ『ジェスチャー』などで有名、1972年、死亡。
 山下(やました)敬二郎(けいじろう)は金語楼の息子でロカビリー歌手、2011年1月で胆管がんで死去。
 花柳(はなやぎ)小菊(こぎく)は予定は神楽坂の芸者、しかしマキノ正博にスカウトされ、映画で主演し、テレビドラマ・舞台で活躍。2011年1月、死亡。しかし、神楽坂5丁目だというもあります。
 (かつ)新太郎(しんたろう)は日本の俳優。『座頭市物語』で主演。1997年6月、死亡。
 神楽坂(かぐらざか)はん子は昭和の芸者歌手。『ゲイシャ・ワルツ』は大ヒット。1995年6月死亡。

 本当は行元寺と芸者の路地だったのですが、その雰囲気はまったくありません。






神楽坂5丁目

文学と神楽坂

神楽坂6丁目

神楽坂五丁目から藁店を通り、袋町。右側の「もん」も八百屋「丸喜屋」もなくなりました。

 毘沙門天から先の神楽坂5丁目は昔は武器、兵器庫があり、このあたりは「兵庫(ひょうご)」と呼ばれていました。徳川3代将軍家光の鷹狩りの帰途のたびごとに、町民は魚を献上し、家光は酒井讃岐守忠勝に命じ「(さかな)(まち)」と地名変更をさせました。このため明治、大正、戦争前は肴町でした。たとえば明治20年の地図では肴町です。「神楽坂5丁目」に変わったのは昭和26年です。理由は文京区の肴町と誤認されやすいことなどが上げられています。
「玄品ふぐ神楽坂の関」の所にかつては田原屋」が開いていました。「五十鈴」は現在もあります。

 さらに行くと、左に高くなる「藁店(わらだな)」です。かつては上に行く途中で寄席の牛込亭や映画の牛込館がありました。これを藁店横町ともいいますが、藁店のほうが普通です。
相馬屋」は現役。その隣にかつては酒屋の「万長」と「紅谷」が店を出していました。河合陶器店もなくなりました。
 旧万長の横は寺内(じない)と呼ぶ地域があります。昔は地内とも呼びました。その場所はここここからすこし向こうに寺内公園があり、その場所は巨大な高層マンションがあります。明治40年(1907)まで、高層マンションではなく、行元寺という寺があり、その跡地を「寺内」「地内」と呼んでいました。

 ほかに近江屋山せみキッコ美濃屋かアジアンタワンくるみ、本の武田芳進堂マルゲリータなど。
 最後に現在「神楽坂上」の交差点は当然昔は「肴町」の交差点になっていました。交叉点の名前は横の交通は「大久保通り」、縦の交通は「神楽坂」か「早稲田通り」です。標高14mほど。
 坂上の信号機を渡り、つまり大久保通りを渡ると、右側は神楽坂6丁目ですが、左側の数軒はまだ神楽坂5丁目です。戦前にはデンキヤホールもここにありました。



善国寺|毘沙門天

文学と神楽坂


善國寺

 善國寺ぜんこくじです。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。

 この前に標柱があります。

かぐざか
坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

となっています。詳しくはここで

 では中に入ると……

 善國寺毘沙門天(びしゃもんてん)です。別名を多聞(たもん)天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。

 明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。

 昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。

 1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。

 文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。

「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。ema 『続日本紀』には神の乗り物、(しん/じん)()を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。

 木柾もくしょうを叩いて読経します。

「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足(むかで)ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。

 中を読むと

 往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足(むかで)と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。
このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。
皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。

ひめ小判

 小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は

神楽坂
令百由旬内無諸衰患
南無 開運・除厄 大毘沙門天守
受持法華名者福不可量
善国寺

と書いてあります。
 さらにひめこばんについて、まとめてみました。

児玉誉士夫建之

山門の右側の柱に「児玉誉士夫建之」

 ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
  昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。

 もう一つは境内のトイレのそばで
 ○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主

とかかれた慰霊塔の
 昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫

と書いてありました。

ireihi

 家畜慰霊碑は

東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部

と書いてあります。

浄行菩薩jpg 本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。

 またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
 また書院では隔月で落語をやっています。
拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では

毘沙門前
   通りをつっ切り境内へ入る一平。


毘沙門に

 最後に下図は1993年の神楽坂。

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)


神楽坂3丁目 熱海湯階段

文学と神楽坂

いかにも私道に見えるほうに進みましょう。私たちの方角では左のほうで、見番横丁とは反対の方向です。この路地にはいっていきます。熱海湯に行く道
 下図について、矢印(手のアイコン)を叩くと地図は奥に進み、それ以外の場所をにぎって動かすと、360度回ります。

この正面を右側に回ると、下に行く階段が出てきます。
フランス坂1フランス

ととととと歩くと…
フランス坂3熱海湯階段
 それで終わりです。この階段や路地は「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「フランスの坂」、「芸者小路」、「カラン坂」などと呼んでいます。

なぜ有名になったのか? やはりテレビ番組「拝啓、父上様」ではないでしょうか? それまではこの階段、まあ有名でも、ものすごく有名ではありませんでした。それが、階段を下りる「ナオミ」の持つ箱からりんごが何十個かこぼれて落ちて、主役の「田原一平」役の二宮和也はリンゴを何個も拾い上げて、 これで田原君は1目ぼれです。 なぜナオミはこの階段にいたの? りんごはどこで買ったの? りんごをどこにもっていくの? などとは聞かないこと。しかし、この階段、和可奈の兵庫横丁よりも沢山でてきます。

なお、2017年以前のいつかから、少し変わりました。テラスができたのです。

しかし、この階段が大好きな人もいます。たとえばパリジェンヌのドラ・トーザンです。『東京のプチ・パリですてきな街暮らし』の一節で

私は熱海湯のところから鳥茶屋別邸を横に見て上がっていく坂をフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。

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当時「熱海湯」を上がった芸者はここを通って神楽坂に行ったといいます。この下に音声ガイドつきの「芸者小路」がありますが、行ったときは電話の相手は不通になっていました。なお、芸者はここで書いています。



もとに戻って神楽坂4丁目へ行く場合は
見番横丁に行く場合は
神楽坂の通りと坂をご覧ください

神楽坂|御旅所について

文学と神楽坂

 さらに神楽坂通りを上がりますが、左に細い路地があります。ここを入ってみます。かのテレビドラマ「拝啓、父上様」でリンゴが20個ぐらい転がった階段がここにあるのです。
 しかし、そこに行く前に……
 最初は「高田穴八幡()旅所(たびしょ)」について。下の絵では四角で囲んだ場所が3つあり、上は「毘沙門堂」、右は「こんぴら」、左下は「高田八まん御旅所」です。また、この画讃には『月毎の寅の日には参詣夥しく植木等の諸商人市をなして賑へり』と書かれています。御旅所
 御旅所とは神(一般には神体を乗せた神輿みこし)が巡幸の途中で休憩や宿泊する場所です。
 この「高田八まん御旅所」は、安政4年改「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では「穴八幡旅所」ときちんと書いてあります。西早稲田にある穴八幡宮からの神輿がこの御旅所にやって来て、神輿はよく奏し、これが神楽坂の名前になったという説があります。
 この御旅所の場所はヤマダヤ丸岡陶苑などがある場所でした。

地図18571

 ちなみに1860年、御旅所はもうなくなっています。下に青色の代地の隣にあったはずです。いったいどうしたのでしょうか。不思議です。

絵図

 しかし、「不思議です」と書いていながら、明治6年には御旅所はまだありました。小栗横丁を向いて、現在は「神楽坂かつのとうふ」などがあります。

神楽坂 長~い3丁目

文学と神楽坂

 昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年の神楽()三丁目はここ


 現在、3丁目は菱屋龍公亭助六丸岡陶苑ヤマダヤ椿屋五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。

 2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。

 また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉神楽坂演芸場があったところです。

 神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば

外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。

と書かれています。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では

 最高点から神楽坂下を見たところは…

最高点 最高点。神楽坂下を見たところ

 最高点から神楽坂上を見たところは…

最高点上 最高点。神楽坂上を見たところ

 左にはいると見番横丁です。

 すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。これは寄席の1つで、柳家きんろうなどが有名でした。

駐車場

 では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。

 本多横丁です。

本多横丁

 なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。


神楽坂1丁目 神楽坂下

文学と神楽坂

 神楽坂を神楽坂通りの向かい側から見ています。交差点は「神楽坂下」です。1980年代初頭までは「牛込見附」という名称の交差点でした。
 南北(横)の道路は「外堀通り」です。 東西(縦)の道路は「神楽坂通り」、あるいは「早稲田通り」です。神楽坂下の標高は6m。ここを真っ直ぐに上がっていくのが「神楽坂」で、現在は「神楽坂1丁目」。かつては「神楽一丁目」でした。神楽坂下
 その前に左を見ると、スターバックスが見えます。(前にはパチンコ店でした)。さらに昔(江戸時代)のスターバックスは牛込「牡丹屋敷」でした。道路の右側に神楽坂の標柱があります。神楽坂のいわれを書いたものです。神楽坂

かぐざか  坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
平成14年3月 新宿区教育委員会

 これ以外にも諸説があります。
 ほかには全部のお店を描いたものがあり、これはインターネットでもでています。http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2017.pdf

 江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で

 神楽坂1丁目 これは戦後の改称であって戦前は神楽町1丁目と称していた。現在では外濠の電車も取払われて,牛込橋を下って神楽坂を上る両側坂口が1丁目となっている。右端軽子坂より左は庾嶺坂まで1丁目である。江戸時代此の辺は片側町屋で、坂の右側は武家地であった。嘉永切図を見ても分る通り、右角松平祐之亟、その上近藤儀八郎、国領正太郎の屋敷があって、右へ曲って新小川町の通りとなる。軽子坂の上を新小川町へ下ると此処が三年坂又は三念坂という。だが1丁目は薄っぺらな町で三念坂の通りは今2丁目になっている。1丁目、坂の入口の左側の角には牡丹屋敷があった。そのあとに戦前は本所亀沢町で有名な最中を売っていた寿徳庵の支店があったが戦後はない。

 石黒敬章氏が編集した『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)では

牛込神楽坂。明治35~39年頃。

【牛込神楽坂】
 元来急坂だったものが明治10年代後半になだらかに改修され、以後賑わい始めたという。特に明治末から大正の神楽坂は、花街と毘沙門天の縁日で繁栄を謳歌した。にもかかわらず、当時の写真はほとんどない。これは牛込見附(現飯田橋駅西口付近)より写したもの。手前は外堀通り。明治35~39年頃。

神楽坂1丁目

 平成14年(2002年)、電線はなくなりました。

神楽坂上を見て左側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
陶仙亭中華田口屋花屋
東京堂洋品炭火串焼やき龍三経第22ビル
須田町食堂翁庵 そば會田ビル
翁庵 そば清水貸衣裳モスバーガー 神楽坂下店
伊勢屋乾物
空き家エイブル 飯田橋店
畔柳氷店
壽徳庵ニューパリースターバックス コーヒー

神楽坂上を見て右側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
紀の善寿司紀の善甘味
小間物 みどりや不二家洋菓子
斎藤洋品店地下鉄
山田屋文具のレン
萩原傘店薬ヒグチ
田中謄写堂カレーボナッ
赤井足袋店カフェベーカリー
ル・レーブ
アパマンショップ