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まま子いじめで掘らせた井戸|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 15.まま子いじめで掘らせた井戸」です。

まま子いじめで掘らせた井戸
      (市谷船河原町9)
 逢坂下の印刷所前は堀兼の井戸跡である。昭和10年ごろまでは井戸の姿であったが、戦時中はポンプ井戸になり、20年5月24日の空襲後廃井となった。ここには次のような哀話が残っている。
 男の子をもったあるやもめ暮しの武士がいた。後妻を迎えたがこの継母は子どもにつらく当り、夫が帰宅すると、ありもしない子どもの悪口を告げた。それを借じた夫は子どもがいたずらをしないように、庭先に井戸を掘るよう厳命した。
 子どもは井戸掘りをはじめたが、井戸を掘りあげるだけの体力がない。それでも継母の厳しい毎日の看視のもと、働き続けた子どもは、日増しに衰えてついに倒れて死んでしまったという。「江戸名所記」「江戸砂子」に出ている話である。
 堀兼の井というのは、いくら掘っても水が出ない井戸とか水が出ても掘るのに苦労をした井戸といういみで、武野台地に多くある。その中でも有名なのは、埼玉県入間郡入曽村のものである。俊成卿の歌に、「むさしには掘かねの井もあるものを、うれしく水にちかづきにけり」とある。
 江戸時代には遠方から茶の水にとくむ人が多く、この水で洗うとよごれ物は良く落ちて白くなるといわれていた。
 〔参考〕江戸砂子  新宿と伝説  紫の一本  江戸名所記

江戸名所記 江戸の最古の絵入り地誌。著者は浅井了意。発刊は寛文2年(1662)。江戸を代表する名所・神社・仏閣などの沿革や伝説・縁起などを記す。7巻
江戸砂子 享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
武野台地 正しくは武蔵野台地。関東山地の東麓に広がる洪積台地。北は入間川,東は荒川,西は多摩川,南は東京湾周辺の山手地区までの範囲。東西約40km、南北約20kmの長方形で、西部青梅市の標高190mを頂点に扇状に東へ低く傾斜する。
埼玉県入間郡入曽村 現在は埼玉県狭山市入曽地区。
俊成 藤原俊成。平安末・鎌倉初期の歌人。「千載和歌集」の単独撰者。幽玄の歌を確立。古今調から新古今調への橋渡しをした。

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は……

「掘兼の井」とは、井戸を掘ろうとしても水が出ない井戸とか、水が出ても掘るのに苦労した井戸という意味である。中でも有名なのは、埼玉県狭山市入曽の「掘兼の井」である。有名な俊成卿の歌に
 むさしには掘かねの井もあるものを
  うれしく水にちかづきにけり
とある。「御府内備考」によると船河原町には、“その井戸はない”と書いてある。しかし逢坂下の井戸はそれだとも云い伝えられ、後世そこを掘り下げて井戸にした。それは昭和10年ころまでは写真のとおりであった。戦時中はポンプ井戸になり、昭和20年5月24日の空襲のあと、使用しなくなった。今は、わずかにポンプの鉄管の穴がガードレール下に残っている。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

 上は昭和初期の「堀兼(ほりかね)の井戸」(牛込区役所 『牛込区史』)、下は『風俗画報』です。堀兼の井

 まず「枕草子」第161段から「堀兼の井」についての説明です。枕草子は平安中期、996年(長徳2)〜1008年(寛弘5)に日本最初の随筆文学で、作者は清少納言です。

井は ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。山の井。などさしもあさきためしになりはじめけむ。飛鳥井は、「みもひもさむし」とほめたるこそをかしけれ。千貫の井。少将の井。櫻井。后町の井。

 ブログ「枕草子を現代語訳したり考えたりしてみる」では……

井といえば…。堀兼の井。玉の井。走り井は、逢坂の関にあるのが素敵だわ。山の井は、どうしてそんなに心が浅い例として引き合いに出されるようになったのかしらね? 飛鳥井は「御水(みもひ)も寒し」と褒めたのがおもしろいし! そのほか、千貫(せんかん)の井。少将の井。櫻井。后町(きさきまち)の井もね。

 このブログではさらに各々の井戸も見ていきますが、ここでは要約することにして……

◯堀兼の井:埼玉県狭山市の堀兼神社の井戸
◯玉の井:一般に良い水の出る井戸
◯走り井:泉や流水から飲み水を汲みとる井戸
◯山の井:山中にわき水がたまって、自然にできた井戸
◯飛鳥井:京都市上京区の白峯神宮か、奈良明日香村の飛鳥坐神社
◯千貫の井:東三条院の敷地内にあった?
◯少将の井:かつて京都市中に存在した名井
◯桜井:松ヶ崎(場所は不明)の湧水
◯后町(きさきまち)の井:后町とは宮中の常寧殿の別名

 それでは江戸名所記 巻六の堀兼井(1662)です。

牛込村のほりかねの井は、これ武蔵の名所なり、俊成卿の歌に、
 むさしにはほりかねの井もあるものを、うれしく水にちかつきにけり
とよめり、むかし継母のざんによりて、その父わが子に井をほらせけるが、いとけなかりければゑほらで死けるゆへに、堀かねの井と名づけて、今にこれあり。
 ほりかねの井にはつるへもなかりける、又のみかねの水といふへく
 事実にないことを言って他人をおとしいれる。悪口をいう。そしる。そこなう。かげぐち。
ゑほら 不明。「ほら」は「洞」や「堀」?
つるへ つるべ。釣瓶。縄や竿の先につけて井戸の水をくみ上げる桶。つるべおけ。
のみかねの水 飲み兼の水。飲みにくい水。

 さらに正徳4年(1714)の「紫の一本」では……。なお、「紫の一本」について流布本が多く、ここの底本は今和学講談所本で、参校は正徳本だそうです。

堀兼の井、牛込逢坂の下の井をいふといへり、、、、正本ナシ)此水は山より出る清水を請て井となす、よき水なるゆへ、遠き方よりも茶の水にくむ、よごれたる衣を洗へば、、ふに正本)あかよく落て白くなるといふ、いつがいふ、此ごろ方々あるきよごれたるまゝ、此水にて洗ひ、色白くよき入道になるべしとて、あらへども/\、生れつき(正本 )黒くやせおとろへたる坊主なれば、少しも白くなる事なし、、、、らず正本 )遺佚面をはらし、此水にて白くなるといふは偽成りとて、はらを立つ、陶々正本 )がいふ、いかに遺佚、南ゑん山に火浣布といふは、鼠の毛にて織る布なり、是は洗ひてはあかおちず、火の中へ入るればあかのある程はよくもえ、あか儘れば火消る、取て見れば白くいさきよき事氷雪の如しといへり、遺佚が黒きも、とかく水にても落つまじ、やがて死なれて後火に焼き(正本アリ)、又生れきたらん時白くなら給へと笑へば、遺佚はらを立て、つるべ竹を取て理不儘に陶々正本 )をたゝく、終に竹を打折る、つるべ主是を見て、いたづらなる入道 正本アリ)かな、竹の折れたるやうに、腰正本ナシ)ほねを打折てくれんと棒を持て出る、陶々正本 )南無三宝思ひ中へ入て、此入道は名誉の歌よみなり、歌をよみたらばゆるされよといふて、はやう/\とせむる、遺佚棒におぢてふるひ/\いひ出す、
 堀かねのゐづつにさげし釣べ竹をれにけらしな呑みみざるまに
といへば、、、、、、此歌にめんじて、、、、、、、たゝく事をゆるす、、、、、、、、正本ナシ

遺佚 いいつ。遺逸。有能な人が、世に用いられず、民間にうもれている。物事が散らばり、なくなること。
入道 仏門にはいること。

 1732年に成立した「江戸砂子」の「堀兼の井」では……

◯堀兼の井 逢坂のふもと
里諺ニ曰、継母の讒によりて、その父、子に井をほらすに、ほりゑずして死。よつて名とすと也。俊成郷、千載集むさしには堀かねの井もあるものをうれしや水にちかつきにけり
〔枕草子〕井はほりかねのゐ。 注ニ武蔵也ト有。又多磨郡中野の 先にもほりかねの井と云あり。
  あるものをうれしさ絞る片ぬくひ  北村東巴
北村東巴 喜多村東巴。きたむらとうは。江戸時代中期後期の俳人

 遅れて1829年に出た御府内備考では……

堀兼井は逢坂の上久保氏の屋敷のうちともいひ 富士見の 馬場也 又逢坂の下今も現にある路傍の井なりともいふ そのまさしき所をしらす 名所の堀兼の井は当国入間郡川越のうちにて古き諸記に露顕せり 此はおのつから別なることは勿論なり 改撰江 戸志 牛込村堀兼の井といへるはむかし継母の讒によりてその父わか子井をほらせけるかいとけなかりけれはえほらて死しけるゆへ堀かねの井と名付ていまにのこれり 江戸名 所記
久保氏の屋敷 下図を参照。

牛込市ヶ谷御門外原町辺絵。嘉永2年(1849)

 船河原町築土神社によれば…

この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられるが、昭和20年戦災で焼失し今はない。

 なお、平成21年、手前に「堀兼の井」(現代版)ができました。

掘兼の井

防災井戸 掘‵兼井戸

区の説明は、神社前の説明板の通りであるが、その後井戸は掘られ、共同井戸として長い間使われてきた。
 地下鉄工事等の影響で一時枯れたが、平成21年に市谷船河原町町会により、防災井戸として現在の形に整備されている。(ちなみに、船河原町の町名は江戸期から続く名称で、この牛込・箪笥地域には多数現存している)
        (写真)
    明治39年(1906年の「逢坂」と「堀兼の井戸」
    レンガ塀のあたりに現在の神社がある。
㊟ 水をだすときは、周囲に多量に流れ出さないようお気をつけください。 この水は飲めません。
令和2年1月  新宿区市谷船河原町町会

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では……

逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です。

正雪地蔵|新撰東京名所図会、新宿郷土研究、新宿の散歩道

文学と神楽坂

「正雪地蔵」あるいは「織部型灯籠」は矢来町日下が池」の崖下から見つかりました。でも、この灯籠は本当に「キリシタン灯籠」でしょうか? それともただの灯籠でしょうか? そもそもキリシタン灯籠といわれるものはあるのでしょうか?
 まず『風俗画報』の「新撰東京名所図会 第41編」(東陽堂、明治37年)では……

◇牛山書院
(中略)書院の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあり、日下が池崖地より堀出すと、同邸の正雪と曾て縁故あるなし、但し、近傍榎町正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚の地蔵ともいう。

書院 小浜藩酒井家がつくった牛山書院のこと。書院とは「書斎、寺院の僧侶の私室、書院造りの座敷」。「新撰東京名所図会 第41編」によれば、牛山書院は「旧庭園の風致を保存せむが為めに、酒井家にて設くる所なり、即ち伯爵家の別寮(茶室としてつくった小さな建物)にして、前記日下が池も岸の茶屋も皆な之に付属して凡そ千五百坪、一区割をなし、妄に入るを許さず矢来倶楽部にて取締居るなり。書院は茶屋の南にありて相隣れり、書院の側らに古樅老銀杏各一株あり、共に三代将軍時代の物なり、其他甃石、琴柱形の石燈籠等物の今に存するあり」
註:矢来倶楽部 「新撰東京名所図会」では、設立は明治25年頃。場所は山里5号地。明治37年の部員は約80人。客室6間、離れ座敷2間、茶室。割烹や宿泊はなく、料理は門前の吉田屋で。弁当は可。娯楽は囲碁、球技、謡曲など。

正雪 由井正雪。江戸前期の兵学者。3代将軍徳川家光の死を契機に牢人丸橋忠弥らと幕府転覆をはかった(慶安事件)が、駿府の宿屋で包囲され、自殺した。47歳。
地蔵 地蔵は土地を悪いものから守る仏教の菩薩。右手に錫杖しゃくじょう,左手に宝珠を持つ。その信仰は道祖神や庚申信仰などと結合し、広く民間に信仰された。
崖地 崖地とは宅地内にありながら傾斜が急で、宅地としては使用できない土地。正雪地蔵は「日下が池」に面している崖にあったのでしょう。

参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」 明治16年(複製は日本地図センター、2011年)

同邸 酒井邸の邸宅。
曾て かつて。過去のある一時期を表す語。以前。昔。
縁故 血縁・姻戚いんせきなどによるつながり。
正雪屋敷 榎町に由井正雪が張孔堂という邸宅を構え、門弟は4000〜5000人という。しかし、事件の6年後に生まれた新井白石はくせきは、正雪の道場は神田れんじゃく町のいつの裏店だと佐久間洞巌に宛てた手紙で書いています。(新井白石、今泉定介編『新井白石全集 第5巻』吉川半七、1906)

駿河の由井の紺屋の子と申し候さもあるべく候神田の連雀町と申す町のうらやに五間ほどのたなをかり候て三間は手習子を集め候所とし二間の所に住居候よし中々あさましき浪人朝不夕の體にて旗本衆又家中の歴々をその所へ引つけ高砂やのうたひの中にて軍法を伝授し候
正雪桜 由比正雪と丸橋忠弥が酒を酌み交わし叛乱の密談を行った場所。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 52. 慶安の変立役者由比正雪旧居跡」では……
横町を進むと右手(天神町)78番地の小野沢製本所のところには、「正雪桜」という桜の古木が昭和5年まであって天然記念物になっていた。その桜は、正雪の学問所の庭先だったという。慶安2年(1649)の春の夜、正雪はこの桜の下で花見の宴を張りながら、丸橋忠弥と謀略の誓いを立てたと伝えている。
附会 まとめる。追従する。こじつける。
尊容 そんよう。仏像や高貴な人で尊いお顔やお姿
徴す 証明する。照らし合わせる。取り立てる。徴収する。もとめる。要求する。
一里塚の地蔵 一里塚は1里(4km)ごとに土を高く盛り上げた盛土(塚)で、旅人の道しるべになった。地蔵は、この場合は土地を悪いものから守る神で、疫病が村に入り込まないよう魔よけをしたり、旅人の安全を願うなど、さまざまな役割があった。

 ここでは「正雪地蔵」は「由比正雪の像ではない」ということだけがわかりました。次に新宿郷土会『新宿郷土研究』第1号(新宿郷土会、昭和40年)を見てみます。一瀬幸三氏は調査して、「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」と報告しています。

正雪地蔵はキリタン灯籠なり

矢来キリシタン灯籠

1. 男根の形に疑問   一瀬幸三
 新宿区矢来町町会事務所前に『正雪地蔵尊』がある。むかしから眼病に効顕ありと知られているものである。この地蔵について、矢来町会の加藤嘉男氏は「この正雪地蔵は秋葉神社とともに酒井家(旧小浜藩主)が、移転に際し、同町会の守り本尊として、同町会にゆづられたものである」とその来歴を説明してくれた。また、「地蔵尊は男根の形をしている」ということも附け加えられた。そこで、近くにはキリシタン大名として知られている豊後の大友宗麟の長子義統(後に吉続)の住居したという『大友屋敷』などがあり、もしやすると、地方でいわれるヤソ地蔵ではなかろうかと、詳細に調査の結果ヤソ地蔵ともいわれるまごうなきキリシタン灯籠であることが判明した。
2.灯籠の復元
『正雪地蔵』すなわちキリシタン灯籠は高さははめこんだ台石から51cm、ヨコ巾最小15cm、最大で21cm、火熖をこうむって赤茶けておりしたがって、石質ははなはだもろいが御影石のようである。現在は欠損した竿石のみを残している。しかし、キリシタン灯籠としての特徴であるラテン十字形はみられないが、下部にはアーチ形に彫られた中に人物像をみることができる。(この人物像について学者の定説というものはないが、伴天連(Fa dere)ともいい、イエスキリストともいい、マリヤなどともいうが、明かでない。)いまここに矢来のキリシタン灯籠を図をもって、復元すると図のようになる。(斜線は欠損の個所)

矢来町町会事務所 不明。
秋葉神社 東京都神社名鑑では「当社は寛永年中(1624−44)まで牛込寺町(今の神楽坂六丁目付近)に鎮座され、火除の神として崇められていたが、同所住民の願いにより、矢来の酒井若狭守の下屋敷へ遷座され、爾来酒井家の邸内社として崇敬せられていた。明治になって門戸を開き一般の人も参詣できるようになった。昭和27年に酒井家より、矢来町秋葉神社奉賛会に無償にて贈与せられ、昭和49年9月より宗教法人として発足した」
酒井家(旧小浜藩主) わか国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に置かれた藩
守り本尊 いつも信仰し、自分を守る神社。
大友宗麟 おおともそうりん。戦国大名。天文19年(1550)父の跡を継ぎ、豊後、筑後、肥後、肥前、豊前の6ヵ国を領し、朝鮮貿易を行い、キリスト教に帰依。天正10年(1582)少年使節をローマへ派遣した。
義統(後に吉続) 戦国時代の武将。宗麟の長子。豊臣秀吉から「吉」を与えられて義統から吉統へと改名し、豊臣一家に。関ヶ原の戦いで敗れ、幽閉された。
大友屋敷 キリシタン大名の大友宗麟の孫・義延の屋敷。義延の孫、義親も1619(元和5)年に死亡し、大友家は断絶に。大友義延は敷地内に大宰府天満宮を勧請、この天神信仰は隠れキリシタンの天主(デウス)信仰に通じるという。
ヤソ地蔵 キリシタン地蔵。十字架地蔵。キリスト教を信仰していた人々が、キリストを抱くマリア像を仏像の姿に置き換え、その一部に十字架などを隠し刻んだ地蔵尊。
キリシタン灯籠 竿石(さおいし。胴の部分)に十字架や像が刻まれ、キリストの尊像だとして崇拝した。切支丹灯籠ともいう。
御影石 花崗岩のこと。当初は神戸市御影地方から生産した。硬く、耐久性があり建材や墓石などに用いる。
竿石 石灯籠で、台石の上にあって火袋を支える柱状の石
ラテン十字形 キリスト教で最も頻繁に用いられる十字の一つ。正十字の下方にのびている線が他の三つより長く,十字の中心がやや上方にある。ギリシャ十字は四枝の長さが等しい。
伴天連 バテレン。ポルトガル語(padre)。神父。転じて、キリシタン。キリスト教。

 一瀬幸三氏の「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」の続きです。

3.崖下から発堀
 このキリシタン灯籠はいまの新潮社の前あたりに三代将軍徳川家光が、酒井讃岐守忠勝の牛込下屋敷へ来た際に水泳などをしてたびたび興じた、「日たるが池」というのがあった。正雪地蔵すなわちキリシタン灯籠はこの崖下から掘り出されたものであるという。
 これについて、『風俗画報』「新撰東京名所図会」は次のように誌している。
  書院(著者註=牛山書院)の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあたり、日下が池の崖地より堀出すと、同邸(著者注=酒井邸)の正雪とて縁故あるなし、但し、近傍榎町に正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚地蔵ともいう。
 これが、正雪地蔵に関するすなわちキリシタン灯籠ただひとつの文献である。
 キリシタン灯籠の来歴についてはハッキリしてない。
1.江戸初期にキリシタンが、迫害を受けた際、纖部門下の教徒が、潜伏信仰の対象として創案したもの。
2.キリシタン信奉の茶人が好んで、茶室に用いたもの。
3.道祖神と並べ、迫害下のキリシタンの連絡用として用いたもの。
4.洗礼式に聖盤をのせ聖水を注ぐのに用いたるの。
などであるが、いずれのものが判然としていない。だがこの灯籠がキリシタンと深い関係にあることはいなめない。これが、江戸においてキリシタンの詮義だてのとくに厳しかった、元和(1615~1623)から寛永(1624~1643)にかけてのころ焼すてられ土中に埋められていたるのであろう。
 しかし、一般にはキリシタン灯籠の創案者といわれる、古田織部正重然(教名=フランスコ)が、大阪勢に通じたという理由で、慶長20年(1615)5〜6月一族が切腹を命ぜられたあと、一名織部灯籠ともいわれるキリシタン灯籠が、キリシタンと気脉を通じていることが、露見し、この灯籠の製作、所有の一切を禁じられた。そこで庭の植込みに隠したり、土中深く埋めたり墓地に運んだりして、為政者の目をくらましたものであるともいわれている。
 現に新宿区には二基のキリシタン灯籠がある。ひとつは河田町月桂寺、新宿2丁目の大宗寺のもので、いずれももとは墓地内にあったものであるというからカムフラージーの意味で置いたものだろう。
 こうしたキリシタンの遺物であるキリシタン灯籠が、区内から三基までも発見せられることは四谷にあったといわれる南蛮寺、それから牛込にあったキリシタン宗徒のアジトとに深いつながりがあり、今後の興味ある研究課題といわさるを得ない。ここでは矢来のキリシタン灯籠についてのみ紹介しておいたままである。

纖部 ふる重然しげなり。古田おり。古田おりのかみ。信長、秀吉、家康の三代に仕えた武将。茶道でのせんのきゅうの弟子で、織部流の開祖。大坂夏の陣では、豊臣家への内通を疑われて切腹。徳川秀忠に茶法を伝授し、陶芸で織部陶の名を後世に伝えた。
潜伏信仰 17~19世紀、ひそかにキリスト教信仰を続けていた形態
道祖神 村の境や道の分岐、山道の道端に祀られる石の彫像に宿る神道の神
詮義 評議して明らかにすること。その評議。罪人を取り調べること。
古田織部正重然 上の「纖部」を参照
織部灯籠 夜の茶会のため社寺の石灯籠。織部灯籠は四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。茶人・古田織部好みの灯籠ということで「織部」の名がある。
気脉 きみゃく。気脈。血液の通う道筋。仲間うちなどでの、考え・気持ちのつながり。
月桂寺 正覚山月桂寺。臨済宗円覚寺派。新宿区河田町2-5。寛永9年(1632)市谷に起立、寛永11年河田町に移る。
大宗寺 霞関山本覚院太宗寺。浄土宗。新宿区新宿2-9-2。慶長2年(1597)開山。
カムフラージー カムフラージュ。camouflage。敵の目をくらますために、軍艦・戦車・建造物・身体などに迷彩などを施す
南蛮寺 室町末期〜安土桃山時代のキリスト教の教会堂。
宗徒のアジト 宗徒とはある宗教・宗派の信徒、信者。アジトとは地下運動者の隠れ家。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵

 以上は一瀬幸三氏の思慮です。この「像」はキリスト像(かマリア像、宣教師像)にも似ていますが、本当?と考えてしまいます。
 ここで牧村史陽氏の『織部灯籠はキリシタン灯籠か』(史陽選集刊行会、昭和43年)の写真を4枚ほど上げておきます。

「織部灯籠はキリシタン灯籠か」

 次は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、昭和47年)「牛込地区 24. キリシタン灯籠だった正雪地蔵」で、賛否両論をまとって登場します。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵
      (矢来町三)
 旺文社業務局反対側にある町会事務所横の細道奥に秋葉神社がある。その入口左手に「正雪地蔵尊」を祭る祠がある。昔から眼病に効能があると信仰されていた。
 もと近くの崖下から掘り出され、酒井家屋敷内にあったものを、酒井家が移転する時に、町会の守り神として町会にゆずられたものである。
 これは、実はミカゲ石(火災を受けて赤くなっている)でつくられた頭部の欠けた織部型灯籠のキリシタン灯籠である。かくれキリシタン信徒の連絡用やひそかに信仰するためのものだろうというが、確実な証拠はない。しかし、たいてい地中から掘り出されるので、正常な姿で置かれることを好まれなかったか、世間からはばかれたものであるということができる。
 正雪地蔵と呼ばれたのは、この北方の天神町に、由比正雪の住んだ跡があるので結びつけられたものだろうという(52参照)。
 正雪地蔵はキリシタン灯籠であるとするのは、これが地中にかくされていたものを掘り出されたものであること、掘り出された所はキリシタン大名である小浜藩酒井家の屋敷内であること、天神町の北野天満宮あたりにキリシタン大名として知られていた豊後の大友宗麟の子孫、義乗が住んでいた大友屋敷であることなどから、それらと関係があるのではないかと推察するのである(53参照)。
 これが眼病に効験あるといわれたのは、かくれキリシタンが自分たちの信仰対象物をカムフラージュするために、「この灯籠を見ると眼がつぶれる」と、まことしやかにいいふらしたことが、後世になって眼病の守り神としての言仰に変ったのではないかという(市谷37・新宿21参照)。

旺文社業務局 昭和48年の住宅地図です。

昭和48年の住宅地図

キリシタン大名である小浜藩酒井家 小浜藩の藩主を務めた酒井家はキリシタンではありませんでした。
北野天満宮 北野神社。新宿区天神町63。創建年代等は不詳。

 松田重雄氏の「切支丹燈籠の信仰」(恒文社、昭和63年)はキリシタン灯籠であることは疑いはないと考えています。

▶︎ 一般の燈籠や織部燈籠には、病気と結んだ伝承はないが、切支丹燈籠にはいろいろの病気恢復信仰に習合したものがある。これは、この燈籠のみにある特異性である。
 東京都矢来町の燈籠の尊像を正雪地蔵と称し、「この地蔵様を信仰すると眼病が治る」との信仰が現在も続き、お花や満願の願開きの旗が供えられている。東京付近だけでなく、大阪市方面、その他の地方からの信仰が、今もって絶えない。小浜市雲浜地区蔵のものは、竿の型が男子の性器に似ていることから、性器に関する病気の守護地蔵として今も信仰が続き、水と花が供えられていた(中略)。このように二重信仰によって、彼等が熱祷の場を守り抜いた信念には、心に重圧を受けた。(103頁)
▶︎ 江戸牛込屋敷に、旧小浜藩主酒井讃岐守忠勝の屋敷があった。庭内に切支丹燈籠を祀っていたが、幕府の手前園内の、清らかな「ひたるが池」の崖下に沈め、聖地としていた。その後、池から拾い上げたと、酒井家では伝えている。小浜時代、切支丹大名であった酒井家が礼拝の対象とし、いつの頃か秋葉神社の境内に祀られた。
 新宿区矢来町に秋葉神社の小祠がある。その横に「正雪地蔵」が祀られている。『新撰東京名所図会』によると、近く榎町には正雪屋敷があり、その近くにあったので、正雪地蔵と呼んだ。これは擬装するため、表画上地蔵信仰に習合し、よく聖地を守り抜いたのである。(111頁)
▶︎ 切支丹燈籠の文様が風化のため見のがすこともあり、読み取りにくい場合がある。このようなとき拓本によって判明する場合が多い。東京都新宿区矢来町の正雪地蔵は、戦災を受けて焼けただれ、竿の上部半分が火によって破裂している。肉眼では文様がさだかではなかったが、拓本を取ったところ、創造時代型の印の一部が浮き出て、時代的考証の上に大いに役立ったことがある。(234頁)
習合 異なる教義などを折衷すること。「神仏習合」

 以上、正雪地蔵は「キリシタン灯籠」だったという賛成論を書きましたが、いえいえ、それで終わる話ではありません。最後に反対論を。
 まず小浜若狭藩では寛永11年(1634)11月に酒井忠勝が小浜町・敦賀町に条々を発し、キリシタンの信仰は厳禁していました。小浜若狭藩がキリシタンで「日下が池」にキリスト像(かマリア像、宣教師像)がある……なんてことはありえないのです。
 隠居お勉強帖ではこの地蔵を「こじつけが幾重にも重なった謎多き小祠」と書いています。
 武者小路千家の「卜深庵」ではブログの「織部灯篭」の中で……

大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まり、織部灯篭に彫られた長身像がマントを羽織った宣教師に似ているとして、織部灯篭の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。そして現在、地方自治体で文化財指定ものが全国で21基の織部灯篭が「キリシタン灯篭」として文化財指定されています。
 キリシタン灯篭の研究書として、美術史家の西村貞の『キリシタンと茶道』と松田重雄の『切支丹灯籠の研究』等があります。西村は織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めています。また松田重雄も曖昧な論述でキリシタン灯篭であると主張していますが、スペイン・ポルトガルの関係史を専門とし南蛮文化研究家で歴史学者の松田毅一は、『キリシタン 史実と美術』でこれらの説を完全に論破しています。また『潜キリシタンと切支丹灯籠』(松田重雄著、1966)の書評に日本のキリスト教・キリシタン史家の海老沢有道は、「一言にして云えばキリシタン研究が半世紀も逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各頁誤謬、曲解、こじつけにみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほど執筆せねばならない。(中略)従来の学問研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタンの教理、信仰についても理解に欠けており、とに角恐れ入った著作である」と手厳しく酷評しています。
 この書評は海老沢有道著「ゑぴすとら」(キリスト教史学会、1994)の「『切支丹灯籠』評」(203頁)でした。全部の評論を取り出すと……
 鳥取民族美術館長松田重雄氏が、永年のキリシタン燈篭の研究を公けにするから、推薦して欲しい旨、昨秋同地の永田牧師から再三の依頼を受けた。そして執筆意図と目次、その要点等を拝見したが、学間的に極めて不安なものがあるので強く御辞退し、刊行の暁には批評させて戴く旨お答えして置いた。それが、このたび愈々出版されたのであるが、一言にして云えばキリシタン研究が半世紀を逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各誤謬・曲解・こじつけにみちみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほどを執筆せねばならない。ただ全国各地に散在する130余の、いわゆるキリシタン燈籠を調査し、形態的整理をしたという点にとりえがある。また問題の謎の文字をPatri(父に)と解する新説を出している。が、参考文献が巻末に若干掲げられているものの、従来の学的研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタン教理・信仰についても理解を欠いており、とに角恐れ入った著述である。
 こうした書を、部外者の京大建築学の福山教授や元拓大総長矢部貞治氏が、学的研究として持ちあげた序を寄せているのは、まだしも、日本基教団総会議長大村勇氏が提灯もちをされていることは誠に遺憾の極みである。

 松田毅一氏の『キリシタン 史実と美術』(淡交社、昭和44年)では……
 わが国では上代から神社仏閣に石燈籠が安置され、近世初期からは茶庭にも、そして近代になっては広く庭園一般にも各種の石燈籠が普及するようになった。ここで取り扱ういわゆる「織部型燈籠」は、近世の初期から愛用され、茶庭のみならず、寺社、庭園、墓地その他全国各地に見受けられるものである。それは普通、竿石さおいしの上部が横に突き出し、下部に人像が刻まれている点が大きい特徴とされているのであるが、特に本書で問題とするゆえんは、大正末期から、それはキリシタン宗門と密接な関係があるという説が流布しているからである。そして今では、多くの人々が、織部型燈籠のことをたとえその一部にせよ「キリシタン燈籠」と称するに至った。
 しかしながらこのキリシタン燈籠説は、はなはだしく根拠に久け、キリシタン史の権威者と認められている人々は、すべて織部型燈籠とキリシタンは無関係である、あるいは少なくとも直接的には関係がないとして、問題にもしていない。それにもかかわらず、キリシタン燈籠説が今なお鳴りをひそめないのみか、これを誇示し流行させる風潮が見受けられるのである。けだし、わが史学界なり読書界における奇現象といわねばなるまい。だが、それには若干の理由がある。すなわち、その一は、優れた美術史家であった故西村貞氏が、事実上、初めてキリシタン燈籠説を学術書として公にした際、学界はあえて反駁しようとはせず、したがって同説はあたかも公認されているかのような印象を世人に与えたことにあると思われる。もとより今日までに、西村説、およびそれに類する説を「認められない」と主張した方は幾人もおられるが、西村氏が、その博覧強記と蘊蓄うんちく、ならびに情熱を傾け、数百枚にわたって筆されたのに対し、わずか数頁の反論ないし所感といったものに留まったので、キリシタン燈籠説を主張する人々をなお決定的に沈黙せしめるに至らぬのであろう。理由の第二は、キリシタン燈籠説と称するものにも異説があり、織部型燈籠そのものにも種々の形態があって、これについて問題を提起し、論争することは容易でないからである。それをあえて試みようとすれば、勢い相当な長文ないし一書を執筆する覚悟が必要となる。理由の第三は、織部型燈籠といっても、中台以上を欠いた竿石だけのものが多いので、それらは、もともと燈籠の形態であったのか、あるいは卒塔婆そとばか五輪塔に由来するような竿石の部分だけのものが先に存在し、それを利用して燈籠としたのであるかという基本的なことが明らかでない。もしその後者であるならば、織部燈籠の実体を究めるためには、種々の石造物や民間信仰の研究にまで拡大せしめねばならない。そのような次第で、私は今日まで執筆をちゅうちょして来たのであるが、「キリシタン燈籠」という誤った説が公然と流布し、甲論乙駁、混迷の状態にあることを、今にして秩序立てなければ、後世、キリシタン研究は収拾のつかない状態に陥るのではないかとさえ要点されるまでになった。

 また川島恂二氏の「古河藩領とその周辺の隠切支丹」(日本図書刊行会、1986)では……
 昭和44年松田毅一氏著『キリシタン—史実と美術』では、『切支丹灯籠なぞは推理小説の類で学問的根拠は絶無であり全くの作り話に過ぎない』と断定を下された。突如、一天忽かにかき曇り、雹が降って来て皆びっくりして押し黙ってしまった。
 今は松田毅一著「南蛮巡礼」昭和56年中央文庫に、同氏著昭和42年南蛮巡礼(朝日新聞社)も加えられていて名著である。
 松田毅一氏と共に日本の指折り数える切支丹権威者海老沢有道氏も「曲解の極である」として切支丹灯籠を否定している。松田毅一は正直な偉い人で正々堂々とその潜キリシタンでない理由を我々素人に書いて呉れている。

 つまり、この地蔵は「キリシタン燈籠」ではなく、そもそも「キリシタン燈籠」という燈籠はなく、普通の織部灯篭で、これを崇拝するのは大間違いだ……としています。
 研究の比較として、一方は一流の郷土研究家や美術史家たち、一方はキリシタンの権威者たち、さあ正しいのがどちらなの? 私は後者の方に軍配を上げます。

牛肉店『いろは』と木村荘平

文学と神楽坂

地元の方からです

 明治期に通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった牛肉店『いろは』について、このブログの記事を補完する目的で調べました。
『いろは』は今で言うチェーン店で、経営者は木村荘平でした。荘平は明治期に成功した経済人で、後に政治家になりました。彼の事業はヱビスビール(現・サッポロビール)や、都内の火葬場を取り仕切る東京博善として今に続いています。荘平は京都生まれ、家は三田にあり、必ずしも牛込と縁のあった人ではありません。
 明治37年12月22日、荘平は自らを代表社員とし、「牛馬魚料理および販売営業」を目的とした「いろは合資会社」を設立します。すでにある牛肉店を法人化したものです。官報告示の登記に以下が記されています。
   第十八支店 牛込区通寺町1番地
   金五百圓 有限(社員) 牛込区通寺町1番地 平林さわ
 荘平は愛人に店を経営させ、多くの子をなしたとされるので、そのひとりが牛込にいたのでしょう。
 では『第十八いろは』は、どこにあったのでしょうか。
 東京市及接続郡部地籍地図上卷(大正元年)の通寺町を見ると、左端に変則的な土地があり、「一ノ二」と読めます。「一ノ一」はありません。
「一ノ二」は、東京市及接続郡部地籍台帳 1によれば、わずか2.74坪です。とても建物の建つ広さには思えません。しかし、かつてはもう少し広かったのです。明治東京全図(明治9年)を見ると、肴町(現・神楽坂5丁目)に近い場所に三角形の通寺町1番地があります。

明治東京全図 明治9年(1876)

 ここが『第十八いろは』の場所でした。加能作次郎氏が「今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所」と書いていることとも符合します。
 土地が狭くなってしまったのは、明治の市区改正で現在の大久保通りが作られたためです。1番地の多くが、道路に変わってしまいました。
 明治37年の「風俗画報」新撰東京名所図会第41編(東陽堂)『第十八いろは』の写真は、現在の神楽坂5丁目から6丁目方向を撮影したものです。この写真は明治39年と説明がありますが、実際にはその2年以上の昔のようです。写真は左手から日が差して影を落としています。左の家並みの先、影のない場所が、明治26年に先行して「道幅八間」に拡幅した道と思われます。
 写真は奥に行くと通りの幅が狭くなっており、これも当時の地図に一致します。狭くなったあたりに屋台『手の字』があったでしょう。

第18いろは。明治39年は間違いで、正しくは明治37年。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 大久保通りの開通は明治40年ごろ。つまり写真のすぐ後に『第十八いろは』はなくなったと思われます。
『ここは牛込、神楽坂』第18号の「明治40年前後の記憶の地図」は、大久保通りを描いたために『いろは』の場所が分かりにくくなってしまったのでしょう。地図1
 経営者である木村荘平には『木村荘平君伝』(著者は松永敏太郎、錦蘭社、明治41年)という伝記があり、『第十八いろは』の写真もありますが不鮮明で見えません。
 この伝記によれば

世人はいろは四十八字に因み市内に四十八カ所の支店を設置せられるもくろみで命名されたるやに伝えているが、事実はさようではなくて君(荘平)はいろはの書を学び学をなすのはじめである。(中略)牛肉店の開始は畜産事業拡張の手始めである。深き意味ではないと言うていた。

とあります。
 荘平の死去は明治39年4月27日。「いろは合資会社」の代表には長男の木村荘蔵が就任しましたが、放漫経営で倒産に追い込まれたようです。
 また息子のひとり、木村荘八は思い出を記し、そこに第八支店(日本橋)のスケッチが残っています。

地蔵坂(写真)藁店 昭和28年 ID 7899

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7899を見ましょう。撮影は1953年(昭和28年)で、地蔵坂 (藁店)をねらっています。同年のID 5189では、すぐ近くの神楽坂通りに街灯が整備されています。しかし脇道である藁店には全くなく、日が沈むと家の灯りが頼りだったでしょう。舗装はかなり荒れていて、建物や塀が道にはみ出しているようにも見えます。手前には下水(側溝)があるようですが、坂の部分は分かりません。写真に写っている女性や子供は薄着です。軒にはお祭りの飾りが出ているので、秋と思われます。

 右手の最初は「富永 写真館」、続いてサンシェードがついた「配給所」(のちの八百 美喜)、ベニアで囲んだ家(のちのチャーリーブラウン)が見え、これ以上の数軒は見えず、最後に民家が見えます。
 右側の電柱1本に縞模様と看板があり、その看板は「割烹 山ぐち」と読めます。地図では坂の突き当たりを曲がった右側にあります。左側には理容室のサインポールも見られ、地図で「床ヤ モリワキ」(森脇)と書いてあります。森脇の後面は小林石工店(現在のWARADANA神楽坂)、前面の1階建てが「倉庫」(のちの安達ビル)で、さらに前の建物は「西沢菓子S」(のちの鮒忠、現在は駐車場)でしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ちなみに「床ヤ」は明治39年の「風俗画報」でも理髪師として見られます。ただ、これが現在の森脇ビルにつがるものかどうかは分かりません。

藁店

明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

 1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし5月、94歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(84)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正10年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ1回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……。
観客席

観客席

 帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が10年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……。

文士が住んだ街

 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、7銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は50銭だったが、牛込館は20銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちゃ研究家の斎藤良輔さんも昭和5、6年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和4年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和10年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治39年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館2軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

 現在の リバティハウスと神楽坂センタービル。この2館が旧牛込館の場所に立っている。360°カメラです。

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 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座