メイセンヤの変遷

文学と神楽坂

 メイセンヤについて、地元の方がエッセイを書いてくれました。

 このブログには「メイセンヤ」という、現代では聞き慣れない店が何カ所か出てきます。とくに「古老の記憶による震災前の形」の地図には、神楽坂2丁目に「銘仙屋」があり、混乱しがちです。

メイセン屋。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

「銘仙」は織物の種類だそうです。ソバを食べさせる店を「ソバ屋」と呼ぶように、単に「生地屋」という意味なのでしょうか。
 国立国会図書館デジタルコレクションで、大正から昭和初期の東京近郊の職業別電話帳が公開されています。この中に「銘仙屋」が出てきます。
 電話帳の右側は「東京特選電話名簿」(三友協会、大正11年)。それによると「銘仙屋平本合資会社」が正式名称で、本社は神田区鍋町13(現・千代田区神田鍛冶町付近)にありました。「第一支店」が牛込区神楽町2-10(現・神楽坂2丁目)、四谷支店が四谷区傳馬町3-18(四谷伝馬町、現・四谷付近)にあったことが分かります。

銘仙屋の比較・昭和10年と大正11年

 左側は13年後の「職業別電話名簿. 第25版」(日本商工通信社、昭和10年)です。銘仙屋平本合資会社の社名は同じで、電話番号478番のままですが、本社は四谷区傳馬町に移っています。また第一支店は「牛込支店」と名を変え、牛込区上宮比町2(現・神楽坂4丁目)に移転したことが分かります。電話番号3143番は神楽町2-10の時と同じです。

 つまり「古老の記憶」は、別の時代の「銘仙屋」の支店を同じ地図上に記載してしまっていると思われます。屋号は商品名そのままの「銘仙屋」で正しく、メイセンを扱う代表的な店だったのかも知れません。
「銘仙屋」は戦後の地図には書かれていません。戦時中になくなったと想像されます。

 メモですが、岡崎公一氏は「神楽坂と縁日市」(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)で、昭和5年頃は、神楽坂2丁目の銘仙屋は大木堂パンに変わり、一方、神楽坂4丁目はメイセンヤのままだとしています。
 また、銘仙という絹織物は優しい色、お嬢様学校の柄、洋風の普段着として、昭和初期に全盛期になりました。
 最後に、漢字の銘仙屋から片仮名のメイセンヤに変わった理由は、おそらくメイセンヤのほうが綺麗で、おしゃれで、粋だったためでしょう。

神楽坂1丁目(写真)平成23年 ID 16075, 16710, 16711

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16075, 16710, 16711は、平成23年(2011)、牛込橋と神楽坂下交差点から、坂上に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16075 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16710 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16711 神楽坂入口

 四つ角は「神楽坂下」交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。平成7年(1995)のID 16074と比べると整備が進みました。
 交差点名は信号機とは別に上に表示されています。「牛込見附交差点」の表示は信号機にくっついていました。
 牛込橋の土橋部分には街路樹と、その足元の植栽ができました。街路樹は落葉樹で、葉を落としています。ID 16075の右側の大きく茂っている木々は街路樹ではなく、隣接する飯田橋セントラルプラザの緑地です。
 街灯は6角形の2灯用ランタンから逆正4角錐の街灯に変わりました。この街灯は平成15年(2003)に完成したものです。
 さらに大きな違いは、ID 16074に見られる架空の電線が地中化されたことです。これに伴い、地中線を管理する地上機器(ID 16075の左側歩道の2個の緑色の小型ボックス)が設置されています。分かりにくいですが、神楽坂通りの電柱も地中化されています。
 歩道はブロック(インターロッキング)で舗装されています。歩行者の衣服はどれも冬用でした。
 ID 16074で外堀通りの角にあったマクドナルドは、カグラヒルズに移転しています。また、道路標識はここでは省略します。

神楽坂1丁目(平成23年)
  1. アパート・マンション Mini Mini
  2. はんこ屋さん21 (事務所向けサービス)
  3. アパート・マンション(ニューハウス)
  4. 親子丼・うどん な(か卯)
  5. (メガネドラッグ)
  6. (カナルカフェ)
  7. (外堀通り)
  8. New Paris スロット 新台 入替「新台 アントニオ猪木が 元気にする パチスロ後」
    (→左)(サカイ書店)
    (→左)三河屋酒店
  9. エイブル
  10. モスバーガー「MOS BURGER この下すぐ モスバーガー神楽坂下店」
  11. 15 いちご ナビ 高収入  検索
  12. 神楽坂 翁庵「24時間営業 まんが喫茶 ゲラゲラ 4階」「神楽坂 吉 5F|まんが喫茶 4F|リーチ麻〇 ふじ 3F|きそば 神楽坂 翁庵 1・2F|〇B1」
  13. 駅前留学 NOVA こども駅前留学 NOVA KIDS
  14. 志満金
  1. (都のシンボルマーク)と  (東京都飯田橋庁舎の案内看板)
  2. (外堀通り)
  3. アパマンショップ(不動産仲介業)
  4. ボナ(カレーショップ)
  5. 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 不二家 ドトールコーヒー Doutor 「J Soul Brothers 12.01 デビュー第2弾シングル」「BOOK OFF 250m」
  7. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  8. カグラヒルズ 「Tokyo Walker 角川文庫」各階 カグ「カラオケの鉄人 AM/11:00~AM/6:00」「McDonald’s|にんにく 鶏 おでん まんま|(カラオケ)の鉄人 3F」

住宅地図。2010年

神楽坂1丁目(写真)平成7年 ID 16074

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16074は、平成7年(1995)、牛込橋から神楽坂に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16074 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下(旧・牛込見附)交差点ですが、信号機に交差点名の表示はありません。左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通り(早稲田通り)です。
 最初に写真の手前から見ていきます。左右の歩道には植木やガードレールはなく、工事用の柵で車道と仕切っています。交差点に最も近い場所に街灯(2灯用ランタン、上向きの6角形の外灯と歩道に近く下向きのやや小さい6角形の外灯、正面から見ると卍に似てる)があり、腕木に緑色の「神楽坂」の文字が見えます。一方、手前の左側には仮設の照明と電気盤でした。
 撮影位置の背中側には牛込橋があり、戦前から使っていた石橋を現在の鉄橋に架け替え、平成8年(1996年)に完成しました。写真では橋は工事中でした。
 次に外堀通り。街路樹は葉を落としています。高所から左右を照らす街路灯が車道の中央に建っています。商店街の街灯ではありません。
 最後に神楽坂通りの奥。神楽坂通りは歩行者天国中で、車道は注意喚起のギラギラ塗装で赤くなっています。ここの街路樹も裸木です。
 信号の奥には緑色の「神楽坂」の標識ポールがあり、その向こうには信号手前と同じ2灯用ランタンの街灯が続いています。道路標識も沢山ありますが、ここでは省略します。
 現在は晩秋から早春です。

神楽坂1丁目(平成7年)
  1. 名代 うどんそば
  2. 白鷹 特製とんかつ 森川
  3. メガネドラッグ ホントにホントに安い!
  4. マクドナルド ハンバーガー
  5. 外堀通り
  6. (パチ)ンコ ニューバリー
  7. 神楽坂 翁庵 ジャンプ
  8. 5Fカラオケ

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 1年間保険付 ホントにホントに安い!
  2. 地下鉄 SUBWAY 飯田橋駅
  3. 外堀通り
  4. AKAI
  5. 薬 ヒグチ
  6. 紙店
  7. 不二家
  8. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  9. カグラヒルズ 各階名店ぞろい 英会話ECC 飯田橋校
  10. TWIN STAR Disco &

神楽坂1丁目(写真)令和2年 ID 14799, 14915, 14917

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14799, 14915, 14917は、令和2年(2020)、牛込橋から神楽坂下交差点、さらに神楽坂の坂上まで写真を撮ったものです。撮影した日はID 14799は3月21日、ID 14915とID 14917は5月24日でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14799 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14915神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14917 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」。
 街路樹は、3月はまだ裸木だけですが、5月に若葉や青葉が一杯になっています。
 左右の歩道の縁石側に、神楽坂通りと同じ上を向いて逆正4角錐の街灯(アイ ツインアークが光源)があります。ここはちょうど千代田区との区境で、手前右上の下向きの正六角体の街灯は千代田区側で、3月の写真では街灯の時計が見えていて、午前9時27分でした。
 左側にある2個の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。左右の街路樹の下には植え込みがあり、歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。
 歩く人はほぼ全員がマスクを付けています。この年の1月末にクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で新型コロナウイルス感染が流行し、4月に初の緊急事態宣言が発せられました。このため外出時のマスク着用が定着しています。

神楽坂1丁目(令和2年)
  1. アパート・マンション Mini Mini
  2. ▶消火栓 Fire Hydrant パチンコ店スロット PRESAS プレサス「お部屋探しは/ミニミニへ」「大学生協指定店」
  3. はんこ屋さん 21 激安 「実は、はんこ/以外も〇〇/名刺 〇 〇/ご予定と〇〇を教えてください 〇〇通りさせて頂きます!」
  4. 〇貸・売買(ニューハウス 不動産会社)
  5. (不明)
  6. ▶街灯に旗「神楽坂」
  7. 名代 富士そば。のぼり旗「生蕎麦」
  8. ⓘ(カナルカフェ)
  9. (歩行者横断禁止)
  10. 最高速度30km (駐車禁止)
  11. 外堀通り
  12. ▶警告(道路に関する立て看板)
  13. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  14. (STARBUCKS COFFEEのトレードマーク)(喫茶店)
  15. エイブル(不動産会社)
  16. モスバーガー
  17. 屋上広告「インターネット まんが喫茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  18. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  19. (志)満金(うなぎ店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 警告 この道路は駐車禁止です。運転者が乗車中でも取締りを行います。牛込警察署 新宿区
  2. 神楽坂
  3. 東京都飯田橋庁舎
  4. Free WiFi 公衆電話ボックス
  5. 千代田区の街灯と時計
  6. 神楽坂の絵
  7. アパマンショップ(不動産会社)
  8. (一方通行)「自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」
  9. のレン NOREN MURO 室(生活用品店)
  10. (一方通行入口)「12-24」
  11. ▶消(火栓) Fi(re Hydrant)
  12. ▶地下鉄のマーク(入口)
  13. Fujiya GINZA ペコちゃん焼
  14. 「ドトールコーヒー」「300m ホットヨガ/カルド神楽坂」「未〇〇」
  15. 右に「神楽坂 あんみつ」「紀の善」
  16. カグラヒルズ デジタルサイネージ「女性の顔 〇〇〇」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」(薬屋)「ミライザカ」(唐揚)

善国寺(写真)昭和44年頃 ID 14126-28

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126~28は、善国寺の写真を撮ったものです。撮影の年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
 この時期、善国寺には昭和45年 ID 8299-ID 8300昭和44年 ID 8271-ID 8272などがあり、これらを元として解説します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126 善国寺

 境内の隅から斜めに撮影しています。手前右側の四角い石はおそらく建物の基礎で、戦前にはこの場所には建物があり、東京名所絵図(明治37年)の挿絵には賽銭箱なども描かれています。その奥の建物は基礎がない仮設の小屋と思われ、商店街のセールの福引所などに使われました。
 T字に並んだ敷石は参道です。戦前のものと思われ、凹凸が目立ちます。左手間は毘沙門横丁側の門につながり、左側は本堂(毘沙門堂)に、右は正門に続いています。
 参道の向こうに四角い石があります。このあたりも戦前は建物があったので、礎石の一部かもしれません。左には屋外灯と旗の掲揚塔。さらに左は石虎で、土台に「奉」の一文字が掘られています。
 その奥の手すりは、写真には写っていない石造滑り台から降りてくる子どものための安全柵です。黒っぼい角柱は日よけの支柱で、その足元は砂場。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。いずれも区立毘沙門児童遊園の施設です。
 最も左奥の建物には「易占えきせん/毘沙門天/易断所」という看板がかかり、そこで易者が占っていました。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14127 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14128 善国寺

 ID 14127とID 14128は、いずれも北側の正門の外から本堂を見ています。左側にはベンチと、わずかに見えるくじ引き用の抽選器。その上には「餅花もちばな」を模した小さな正月向けの飾り。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習でした。軒下には提灯が並びます。
 中央の5列の敷石は参道。右は門柱で、大きく欠けているようにも見えます。いずれも戦前から残存したものでしょう、
 屋外灯、石虎、中央奥には本堂と鈴紐すずのお、賽銭箱には右書きで「奉納」と「神楽坂振興会」。石虎の右奥は、背もたれが独特なベンチでしょう。
 参拝者はコートを着ています、時期は年末で「陽差しから見ても、ID 8299と同時撮影でしょう。本堂は昭和46年に再建されるので、その建築前、おそらく昭和44年の年末でしょう」と地元の方。

善國寺。住宅地図。1970年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

地蔵坂|天神町

文学と神楽坂

 新宿区の地蔵坂には神楽坂5丁目と袋町の坂と、矢来町や天神町に近い坂という二つの坂があります。天神町に近い地蔵坂は正確にはどうなっているのでしょうか。まず標柱は……

地 蔵 坂
(じぞうざか)
江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『すな残月ざんげつ』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 しかし、ここから100mも離れていない北方に渡邊坂があります。この渡邊坂については別の場所に書いています。ここでは地蔵坂について書いていきます。
 横関英一氏の「続江戸の坂 東京の坂」(有峰書店、昭和50年)では……

都内における古今の坂名、橋名の同じものを一括して揚げると、次のようになる。(中略)
地蔵坂(牛込、王子、志村、向島)
地蔵橋(築地川)

とほとんど何も書いてありません。
 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社、昭和46年)では……

地蔵坂(じぞうざか)
 矢来町交番の前の道(江戸川橋通り)を北に下る坂で、坂下は山吹町を通って江戸川橋に至る。坂上は通称矢来下とむかしからよばれた。『異本武江披抄』には「地蔵坂 酒井修理大夫下屋敷脇、天神町へ下る坂也。今此坂を地蔵坂といへど、むかし楠ふでんが害せられたるは、酒井の屋敷と御先手組屋敷の間なり、由井正雪が宅地は榎町済松寺脇、西丸御先手組の所なりといふ」とあり、袋町の地蔵坂の楠不伝暗殺の伝えを否定している。
「新撰束京名所図会」にはこのあたりのことを「昔の酒井邸は土手を築き、矢来を結び、老樹陰森として昼なほ暗く、夜は辻斬、迫剥出没せり、されば臆病者の武士は門前夜行なりがたく、帯刀の柄に手をかけて、一目散に駆け披けたりとの談柄あり」と述べ、また地蔵坂については「同町(矢来町)と東榎町の間を南に上る坂あり、地蔵坂といふ」とし、『異本武江披抄』が「天神町へ下る」としているのとは少しくい違いがあるようだ。

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では……

地蔵坂(天神町、矢来町交番前を西北へ東榎町へ下る坂)
  〈別名〉 三年坂
「長十三間巾二間」(東京府志料)
 交番前を左にカーブして下る早稲田通りの坂。三年坂の別名をもつのは、転べば三年の後には命を失うというほどの急坂であったと思われる。いまも、交番前は、どすんと落ちる急勾配である。
 坂下で早稲田通りの南側から奥の裏通りに入ると、露地を挾んで家がびっしりと並んでいる。向かい合った家の軒が、くっつかんばかりだ。
「矢来の坂を下りた所、天神町の裏通りには、結婚当時に住つてゐた。長屋住ひ見たいで、子供の泣声、台所のにほひ、便所通ひの気色まで此方へ通じるので、明窓浄几と云つたやうな、文人の生活趣味は、その借家では感ぜられなかった。」(正宗白鳥『心の焼跡』)(中略)
 明治は暗く、そして、泥ンこであった。
明窓浄几 めいそうじょうき。明るい窓と清潔な机。明るく清らかな書斎をいう。

『今昔東京の坂』に出てくる別名「三年坂」は、神楽坂の本多横丁とほぼ同じ名です。さて、天神町の地蔵坂に戻って、この場所は3冊とも本質的に同じ場所を指します。つまり坂が始まる牛込天神町交差点から坂が終わる(下図)までの地域です。
 ただし坂の始まりと終わりは現在と江戸時代で違うのが普通です。また、明治時代には、地蔵坂と渡邊坂が真っ直ぐな1本の道(江戸川橋通り)に改修しました。つまり江戸時代から明治時代まで2つの坂を少しずつ、凸凹は直し、クランクは止めて、なだらかな坂1つに替えました。また、現在の渡邊坂には、高低差は感じません。江戸時代は坂らしい坂ばずだ…と思います。

礫川牛込小日向絵図。嘉永2年~文久3年(1849-1863)これは蔓延元年(1860)の図

 なお、文京区の礫川牛込小日向絵図(嘉永5年、1852年)では天神町の道に階段がありました。すぐに階段はなくなりますが、この階段があると、坂下の天神町と坂上の矢来下で、2つの坂は別々になっても、一本には普通はできないと思います。

小日向絵図礫川牛込小日向絵図 尾張屋板 嘉永5年(1852)

 最後に現在の地蔵坂と渡邊坂、江戸川橋通りの地図です。江戸時代の絵図とは南北が逆で、天神町交差点は一番下になります。

若宮八幡神社(写真)昭和44年 ID 14124~25

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14124と14125は、若宮公園(若宮八幡神社と境内)の写真を撮ったものです。写真と撮った年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14124 若宮公園(若宮八幡神社)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14125 若宮公園、若宮八幡神社境内

 以下について地元の人は……

 同時期の昭和44年秋に若宮八幡神社を撮ったID 8245~ID 8252があります。全体の雰囲気はよく似ていますが、以下の点が違います。
 ・陽差しが違う。ID 14124-25は曇天らしく影がない。
 ・稲荷社の神前幕、内陣を仕切る木柵、三宝の供物や御幣などが細かく違う。
 これから撮影時期は異なると推測できます。
ID 14124
 写真の正面左は流造ながれづくり拝殿。左はおそらく松の木で、右は裸木。左に見える「自動車 駐車禁止」の看板は道路を挟んで向こう側の家のブロック塀にあるもの。つまり神社と公園には塀も柵もない。写真の右手前にはブランコ、奥にすべり台。数人の子どもが冬服を着ている。中央に1本の屋外灯があり、ランプは下がやや狭い直円錐で丸い傘がある。
拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。

ID 14125
 左にブランコとすべり台。正面には摂社の「正1位稲荷大神」の稲荷神社。奥に丸紅(株)若宮寮。右側に社務所。針葉樹と広葉樹が混ざっている。
摂社 せっしゃ。神社の格式の一つ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。本殿に祀られている神様がメインの神様(主祭神)。境内にあるほこら、つまり小さな社殿にあるのはサブの神様。サブの神様を祀る小規模の社殿を「摂社」または「末社まっしゃ」と呼ぶ。

五軒町(写真)平成31年 ID 14059-62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14059から14062までとID 14196は、平成31年(2019)東五軒町と西五軒町から、相生坂の方面の写真を撮ったものです。道路の右側は西五軒町、左側は東五軒町です。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14059 西五軒町 西五軒町6-12から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14060 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14196 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14061 西五軒町 真清浄寺から相生坂を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14062西五軒町 東五軒町から西五軒町を望む

 5枚の写真をID 14059は➀、ID 14060とID 14196は②、ID 14061は③、ID 14062は➃として地図に撮影した場所を書き込むと、以下のようになります。➃の道路の右側は「ラ・トゥール神楽坂」という地上24階、地下2階建の賃貸マンションです。

 新宿区は、何を目的にこの場所を撮影したのでしょうか。
 この界隈は印刷製本の町でした。昭和39年(1964年)の東京オリンピックや、昭和44年(1969年)の首都高速5号池袋線の共用開始の頃から、小さな印刷工場が店じまいしてマンションを建てる動きが目立ち始めました。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、1972)牛込地区「46. 印刷製本工業地帯」では……

印刷製本工業地帯
      (神田川ぞい)
 新小川町から神田川にそった両岸一帯は、上流の戸塚まで、印刷製本の盛んな地域である。東京における四大印刷工業地帯の一で、文京区の小石川低地一帯、神田神保町一帯、中央区京橋裏通り一帯とともに有名である。
 これは、神田の本屋街に近いためであるが、牛込にも代表的な印刷、出版会社がある。これと関連して見のがすことのできないものに、その印刷した紙をたたむ仕事や内職をする「折り子」が多かったことである。しかし、製本の機械化がしだいに進み、さらに昭和四十四年神田川にそった道路上に高速道路ができると、道路拡張が行なわれ、会社が高層ビル化するとともに近代化が促進されて手工業の姿は姿を消した。
 地理学者田中啓爾は、つぎのよういっている。「小石川地区や牛込地区の印刷工場の周囲は、谷間も完全に住宅地や商店街となってしまっている。それでもこの印刷工場は、住宅地や商店街と両立しないことはない。
 この印刷工場のようなものは、周囲にめいわくをかけない文化工業であるからである。こんな文化工業は、山の手方面にいつまでも残ることができる。」
 〔参考〕東京都新誌

 現在では、すっかり住宅街に変わっています。歴史上の価値がある何かが写っているのか、定点観測か、それとも単に「相生坂」を撮影したのか、目的がよくわかりません。
 なお、新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)は、相生坂は一つだけと読めそうです。

 白銀町から東五軒町と西五軒町の間を下る坂を俗に相生坂あいおいざかという。また別名鼓坂つづみざかともいう。赤城元町の赤城神社西側の赤城坂と相対しているので、相生坂と一対にして鼓の両側になるという意味で鼓坂と名付けたという(町名誌)

 つまり、西五軒町と東五軒町の間だけを相生坂だとしているようです。ただ東側に並行するもう一本の坂も相生坂と呼ばれており、教育委員会による標柱は二つあります。

渡邊坂(写真)平成31年 ID 14057-58

文学と神楽坂

  神楽坂通りを上り切ってそのまま西へ進み、地下鉄神楽坂駅を過ぎると「逆転式一方通行」の区間が終わり、ゆるやかな下り坂の対面式になります。その道が突き当たるような三角形の変則交差点が「牛込天神町交差点」です。
 この交差点を右折し、北に下る坂に標柱「地蔵坂」が建っています。さらに100mほど進むと標柱「渡邊坂」にやってきます。「マティーニバーガー」の前です。

わた なべ ざか  江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年(一六六七)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。

渡邊坂。北から望む。

御書院番 江戸幕府の職名のひとつ。若年寄の下で、営内を警備、 将軍外出の際には行列に従い警護にあたるほか、遠国出張や交替で駿府在番などを務める。

 でもおかしな問題があります。「地蔵坂」と「渡邊坂」、どこが違うの? 東京の坂について書いてある3冊を調べました。
 まず、横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、1970年)によれば……

渡辺坂 新宿区天神町と中里町の境を南へ矢来のほうへ上る坂。昔、坂のふもと東側、中里町に「渡部源蔵」の屋敷があった(万延元年図)

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)の本とほとんど同じで……

渡辺わたなべ(天神町、中里町の境)
 矢来町二七、矢来町派出所前を、早稲田通りと分かれて、北に下る広い道。なだらかに下る。この道をそのまま進むと、山吹町を経て、江戸川橋にいたる。
 むかし、坂下東側、中里町に渡辺源蔵の屋敷があった。『江戸切絵図』(尾張屋版)に、中里町から矢来下に向かう道の東側に、渡辺源蔵の名が見える。道に、坂のマークはついていない。現在、坂の東側に、「渡辺歯科」がある。源蔵さんの家系か。

 これは岡崎清記氏の図ですが、渡邊坂は大きな場所を占め、地蔵坂はここではなく右側の場所が正しいと書かれています。

岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)

 では、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)によると……

渡辺坂(わたなべざか)
 中里町と天神町の境を南へ、天神町三四番と三五番の間を入って南に上る。坂上は同町二六番と二七番の間に出て、東西に延びる崖下の狭い道につき当たる。裏町の露地という感じの道である。坂名の起りは、むかし、この坂のふもとに旗本渡辺源蔵の屋敷があったことによる。『諸家系譜』によると、渡辺源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年に市谷鷹匠町の屋敷と引き替えに通称天神下の御書院番組屋敷の内を賜った。

 こんどは渡邊坂と地蔵坂、180°正反対です。

石川悌二氏『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)

 これは歴史から調べないとだめ。万延元年では旗本渡部源蔵はここにありました。

万延元年

 上と左の辺が道路になり、上辺はほぼ水平なので、坂をつくるのには左辺しかありません。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

 明治20年の地図は下のようになっています。なるほど二つのT字型交差点の間を結んで「渡邊坂」があったんですね。つまり、天神町から「渡邊坂」はクランク状で、まっすぐの道ではないのでした。

明治20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 ところが明治29年、このクランクが改修されます。「渡邊坂」の西、地図で言うと左側に新たな道の建設が始まったのです。

 明治40年の地図では完成しており、この道路が令和になるまでそのままです。

明治40年地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 つまり、渡邊坂は今ではありません。

 最後に2019年、新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の渡邊坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14057 渡邊坂 「山吹町」交差点から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14058 渡邊坂 新宿天神局前から北方面を望む


神楽坂5丁目(写真)平成31年 ID 14056

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14056は、平成31年(2019)神楽坂5丁目から神楽坂上交差点をはさんで神楽坂6丁目方面の写真を撮ったものです。交差点の向こうは左側が5丁目、右側が6丁目になります。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14056 神楽坂上交差点から神楽坂六丁目方面を望む

 四つ角は神楽坂上交差点、左右の道路は大久保通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、上を向いて逆正4角錐の街灯(光源はアイ ツインアーク)があります。横木には「神楽坂」を染め抜いた紫の旗が下がっています。
 神楽坂上交差点を越えると、左の5丁目も右の6丁目も同じ街灯(やじろべえ型)になります。やはり「神楽坂」の旗が見えますが、違うデザインで、色も赤く変わります。
 電灯はなく、左側の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。
 大久保通りの拡幅計画のため、交差点の右前にあった河合陶器店山下漆器店はなくなり、2019年にみんなの買い取りプラザがなくなり、2020年にはアマリージュもなくなりました。
 ケヤキは裸木で、人々は厚い上着を掛け、おそらく季節は晩秋から冬。買い取りプラザは2019年4月のストリートビューでは取り壊されているので、2019年1~2月の撮影と推定されます。

神楽坂5丁目→6丁目(平成31年)
  1. (くすりの福太郎)。垂れ幕「24時間年中無休のフィットネスジム ANYTIME FITNESS 2階」「FITNESS」
  2. (駐車禁止)
  3. マルゲリータパリアッチョ(Margherita Pagliaccio)神楽坂店。PAZZERIA & TRATTORIA。薪の数束。
  4. TSUKIJI 築地すし(好)SUSHIKO
  5. (つくば商事)
  6. ▶神楽坂通り
  7. 大久保通り。
  8. 神楽坂上交差点。
  9. 信号機。
  10. ココカラファイン(薬)。JOY FIT(2階)
  11. (神楽坂)商事
  12. ( 歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. みんなの買い取りプラザ「お売りください 高価買取 無料査(定)/かしこい 生前整理 遺品整理 ご予約受付中/貴金属・ダイヤ・色石・ブランド品・時計/骨董品・美術(品) 中国骨董(・刀剣) 掛け軸(・絵画) 茶道具・書道具 象牙・珊瑚(・翡翠) 着物・帯・(毛皮)」
  2. アマリージュ
  3. 仮設のパイプ柵と緑色のネット(店舗の撤去跡)
  4. 大久保通り。
  5. 「↑ 280m  地下鉄駅 神楽坂駅」「← 100m 地下鉄駅 牛込神楽坂駅」「牛込消防署→ 160m」
  6. 安養寺
  7. 五十番
  8. (一方通行)12-24
  9. 株式会社アドバリュー2・3F(広告代理店)。株式会社ケイ・トゥー・ワン2F(デザイン会社)。証明写真(55 Station)。
  10. (Panasonic しのはらでんき)

住宅地図。平成27年。

牛込神楽坂駅(写真)平成31年 ID 14053-55

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14053~55は、平成31年(2019)1月、大江戸線の牛込神楽坂駅付近の地上の写真を撮ったものです。牛込神楽坂駅は、平成12年(2000年)12月12日開業し、大久保通りに沿って3つの出口があります。
 A3出口は神楽坂上交差点、神楽坂、岩戸町が最も近い場所です。A3出口は右手です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14053 牛込神楽坂駅

 A2出口は袖摺坂、南蔵院、「新蛇段々」などが最も近く、A2出口はこの写真では見えない場所です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14054 牛込神楽坂駅 A2出口と神楽坂上方面を望む

 つまり、交差点から右側に渡り、南蔵院事務所の影に入って、A2出口は現れます、

 A1出口は牛込北町の交差点寄りで、牛込箪笥区民センター(旧牛込区役所)にあります。横寺町、矢来町などに最も近く、A1も見えません。遠くに見える信号と横断歩道の手前、あるいは左の軽自動車バン付近で、視点から100メートルほど向こうに離れた場所です。なお、左のガラスの壁はタリーズコーヒージャパン本社です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14055 牛込神楽坂駅 箪笥町から牛込神楽坂駅を望む

[箪笥町]

兵庫横丁(写真)平成31年 ID 14052

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14052は、平成31年(2019)1月、兵庫横丁の北の入り口から南方を見て写真を撮ったものです。影が長いので夕方の撮影のようです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14052 神楽坂から南方面を望む

 前方の石畳が兵庫横丁、手前のアスファルトが公道で名前はありません。左側のゆるやかな上りは2番目の四つ角から下り坂になり、この坂は軽子坂です。右側の先、曲がり角からは和泉屋横町です。斜め後方は材木横丁。兵庫横丁と材木横丁の大部分は私有地です。

道路台帳平面図

 兵庫横丁の石畳には歩行者用の白線はなく、車を想定していません。ただ荷運びなどで例外的に車が入ることはあるようで、この写真でもバンが停まっています。
 石畳の中央部は扇形に並んでいますが、左右は少し違っています。これについて地元の人の解説は……

 石畳は路地の歴史を色濃く残します。この写真の右側には雨水を流す側溝があり、境石を挟んでモザイクのような石敷になっています。石畳とアスファルトの境に正方形の金属製プレートがあり、おそらく土地の境界標です。建物を建てる時に路地を広げて側溝を作ったと想像できます。
 左の家の前は、幅40センチくらいにわたって石畳が直線的に敷かれています。よく見ると赤い三角ポール(駐車禁止)の左側に窪みがあります。この窪みは別の写真で見ると排水溝です。昔はこの位置が路地の端で、今の建物を建てたときに後退して石畳を追加したことが分かります。
 私有地では、こうした側溝や上下水道は路地に面した家が費用を負担して整備します。おそらく下水管は路地の中央にあり、公道に出たところのマンホールにつながっています。
 工事で石畳を部分的に掘削した時は、そこを石畳に戻すのがルールです。従って時代を経るにつれて石畳は傷んでいきます。ちなみに神楽坂通りの歩道のインターロッキングは公道ですが、工事した店が掘削部分を同じ材料で復旧する義務を負っています。
 私有地である路地でも、住人が区に共同で申請すれば上下水道や石畳の整備に補助がもらえます。住人の意見がまとまらない場所では、徐々に石畳を維持できなくなっていくようです。
境石 きょうせき。境界石。きょうかいせき。隣の敷地や道路との境界ライン。素材はコンクリート、金属、プラスチック、鋲など。境界標と同じ
石敷 平たい石を敷き詰めて舗装した所。ピンコロ石より大きい。
境界標 目に見えない境界点を現地で示す標識

https://to-ki.jp/center/useful/kiso010.asp

 左の家1軒目はイタリア料理店ラストリカート(意味は石畳)で、2軒目は「おいしんぼ」です。中央部には旅館「和可菜」があります。ここで終わりに見えても右側に小路があり、さらに奥にはいっています。上の絵(ID 14052)も電柱があり、やはり奥にはいけないという幻想があります。ここから心理的には昭和初期、ちょっと怖くて、わくわくする世界が始まります。

兵庫横丁 住宅地図 2017年

 遠景のビルは左は島田ビル(地上6階、1階はワヰン酒場)、右はオザワビル(地上7階と地下1階、1階は郵便局とカフェ・ベローチェ)です。どちらも神楽坂通りに接しますが、縦横高さの大きさでもオザワビルのほうが巨大です。

赤城神社(写真)平成31年 ID 14051

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14051は、平成31年(2019)1月、赤城神社駐車場から写真を撮ったものです。なお「データベース」には「赤城神社から早稲田方面を望む」と書いてありました。また平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14051 赤城神社から早稲田方面を望む

赤城神社と豊島区のビル

 はい、早稲田はもっと左側なので、方向が違っています。
 近くの赤い建物は「ライオンズマンション神楽坂第三」です。遠くの高いビルは左から豊島区役所などの「としまエコミューゼタウン」(地上49階)、ライズシティ池袋の「エアライズタワー」(地上42階)、最も高いのが「サンシャイン60」(地上60階)、重なって見えるのが「アウルタワー」(地上52階)と池袋周辺のビルです。最も右は少し手前で、音羽の講談社(地上26階)のようです。

14051b 赤城神社から池袋方向を望む

 ではなぜこの場所を撮ったのでしょうか。野田宇太郎氏の『文学散歩』「牛込界隈」「赤城の丘」(初稿は昭和44年)を読むと分かってきます。

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。(中略)
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。

モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社の3神社を建立。

TV「気まぐれ本格派」 29 神社の恋の物語、1977年

若宮町(写真)平成31年 ID 14050

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14050は、平成31年(2019)1月、若宮町から善国寺方面を望んで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む

 新宿区の「新宿区史・昭和30年」「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています。この3枚目(下図)が、実は同じ場所です。時間は65年ほど離れています。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

 中央の「毘沙門横丁」は石畳からアスファルト舗装に変わっています。右側は神楽坂3丁目、左側は若宮町で、町のかつての料亭「松ヶ枝」はクレアシティ神楽坂若宮町というマンションになりました。
 この写真の少し後、2019年(令和元年)7月7日にメロン専門工房「果房 メロンとロマン」が開店しました。場所は右から2軒目(地図のジャスバー「もりのいえ」の隣)です。

若宮町 住宅地図 2017年

神楽坂1丁目(写真)平成31年 ID 14049

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14049は、平成31年(2019)1月、牛込橋から神楽坂通りをのぞんで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14049 牛込橋から神楽坂通りをのぞむ

 四つ角は神楽坂下交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、神楽坂通りと同じ上を向いて逆正4角錐の街灯(アイ ツインアークが光源)があります。ここはちょうど千代田区との区境で、手前右上の下向きの正六角体の街灯は千代田区側でしょう。左側にある2個の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。左右に背の低いお花畑があり、歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。

神楽坂1丁目(平成31年)
  1. ニューハウス(不動産会社)か?
  2. 神楽坂バル Lasana
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. 名代 富士そば。のぼり旗「生蕎麦」
  5. (カナルカフェ)
  6. (歩行者横断禁止)
  7. 最高速度30km (駐車禁止)
  8. 外堀通り
  9. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  10. (STARBUCKS COFFEEのトレードマーク)(喫茶店)
  11. エイブル(不動産会社)
  12. 屋上広告「(インター)ネット (まん)が喫茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  13. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  14. (志満)金(うなぎ店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 千代田区の街灯
  2. 神楽坂の絵
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. ▶消火栓
  5. アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. その右に「りそな銀行」、さらに「リアット」(靴修理)
  7. (一方通行)「自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  8. のレン(生活用品店)
  9. 「ドトールコーヒー」「 ホットヨガ/カルド神楽坂」 ONE DX BOCX
  10. 右に「神楽坂 あんみつ」「紀の善」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「盾の勇者の成り上がり シリーズ〇〇1~20巻 絶賛発売中 ファンタシー 2019年1月〇日よりTV アニメ放映」「カラオケの鉄人 11:00~AM/6:00」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」(薬屋)「ミライザカ」(唐揚)

神楽坂下のガス灯

文学と神楽坂

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」の赤井儀平氏のガス灯です。赤井足袋店は外堀通りにあった神楽坂1丁目の角で、専門は足袋、戦後にはシャツも行いました。現在は閉店し、表札は今も「赤井」ですが、店はアパマンショップ(不動産会社)に変わりました。

 見附のつき当りは石垣ですからまっ暗でした。手前共の2代目がガス灯をつけました。橋の向いがわとこちらがわにです。そうすれば麹町のお屋敷の女中さん達も淋しがらずに出て来られるだらうというわけです。その頃はまだ電灯のない時代です。皆ランプでした。ガス灯は古い写真をごらんになるとおわかりになりますが、ひさしヘガラス張りの箱形の軒先灯がつけてありまして、点灯人夫が夕方になると脚立をかついで火をつけに来るんです。日本点灯会社というのが肴町にありまして点火、掃除、油差しを請け負っていました。勿論軒先灯だけではなく街灯もありましたが、照明が暗いだけでなく夜になると通りの店はみんな「あげ戸」を下してしまうものですから通りは暗くて、宅などは上の1枚だけを障子にしておきまして、窓をつけてございましたから、遅くいらっしゃるお客様にはその窓越しにあきないをいたしておりました。街灯といっても何本もありませんでしたので、そこだけは幾分か明うございましたがそれ以外の所はまっくらでした。それがだんだん電灯がつく様になりますと表にガラス障子がはまり、屋内の明りが外に出るようになりまして通りも大変あかるくなりました。それまで神楽坂もひどうございました。
あげ戸  揚げ戸。揚戸。縦溝に沿って上下に開閉する戸。戸の上端に蝶番ちょうつがいなどを取り付け、つり上げて開ける戸。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7641 赤井足袋店

 私はこれこそがガス灯で、神楽坂唯一で最古のものだったと考えました。しかし、地元の1人は、これがガス灯かも知れないと、言い方は微妙に違っています。つまり…

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7640-41に赤井足袋店と街灯が写っています。独特の形状で、これがガス灯かも知れません。撮影時期は『明治中期以降(推定)』としていますが、電柱と電線も写っており、撮影したのは大正初期の可能性もあります。

赤井足袋 ID 7640-7641

神楽坂1丁目(写真)昭和29年 ID 14048

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14048を見ましょう。撮影時期は1953年(昭和28年)頃と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14048 神楽坂

 本当に28年に撮影したのでしょうか。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年ですので、昭和28年というのはありえません。この写真は「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)でも出ています。また「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。おそらく昭和29年が正しいのでしょう。
 写真はプリントではなく、「新宿区史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)から複写したものでしょう。また、ID 5190ID 21は昭和28年、ID 23はさらに昔です。

新宿区史・昭和30年

新宿區史(昭和30年)784頁

神楽坂1~2丁目(昭和29年)
  1. 外堀通りと都電の軌道
  2. 標識ポール「神楽坂」
  3. ゼブラ柄の背面板の信号機
  4. 街灯は鈴蘭灯
  5. (伊藤菓子店)
  6. (植木洋服店)
  7. 清(水衣)裳店
  1. 信号機の裏側。
  2. 看板「水野外科」
  3. 看板「産婦人科 加藤医院
  4. 外堀通りと都電の軌道
  5. フチを2色縞で強調した看板
  6. 赤井商店)(下の菓子屋は多分間違い。足袋が専門で、シャツは戦後)
  7. (その右側)「さ(くらや靴店)」
  8. 看板「茶」(東京円茶)
  9. 屋上看板「メトロ映画(燃える上海と謎の黄金島)」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

若宮八幡神社(写真)昭和36年 ID 13987, 88, 90

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 13987、ID 13988、ID 13990を見ましょう。撮影時期は1961年(昭和36年)の秋です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13987 神楽坂若宮八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13988 神楽坂若宮八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13990 神楽坂若宮八幡神社

 8年後の1969年(昭和44年)秋のID 8248と比較します。正面に流造(ながれづくり)の簡素な拝殿、狛犬と石灯籠が左右に1対ずつ。3列の敷石の参道。向かって右には笠をかぶった境内灯と、滑り台とブランコの遊具。敷地の奥には丸紅(株)若宮寮など、ほとんど同じです。
 昭和36年の場合は、区の「若宮児童遊園」の看板が右側の狛犬の向こうにあること。参道の左右に柳らしい木が見えますが、8年後にはなくなっていて別の木が大きく育っています。

神楽坂?(写真)昭和20年代 「祭風景」 ID 13794-99

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13794からID 13799までの写真を見ましょう。撮影時期は昭和20年代で、題名は「祭風景」です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13794 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13795 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13796 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13797 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13798 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13799 祭風景

 私には難しいので、地元の方はどう見ているのでしょうか。

 紅白幕のテントの中に、たくさんの僧侶が座っています。僧侶を取り囲む人々は肩袈裟をして「団扇太鼓」(「法華の太鼓」)を手にしているので、日蓮宗のイベントでしょう。地面はおそらく舗装されておらず、後方は隣家との間に木塀があります。大きなフラッシュのカメラで祭を記録しています。ID 13794の賽銭箱を拡大すると「日光ホテル」の墨書があります。
 別のテントには烏帽子や天冠をかぶった子どもらが稚児行列の出番を待っているようです。秋のイベントである日蓮宗の「お会式」と思われます。
 この写真が神楽坂と結びつくかどうか。毘沙門天善國寺は日蓮宗で「お会式」を挙行しますが、ID 13794の賽銭箱と木塀の位置関係やID 13799の本堂は違うようです。
 地下鉄神楽坂駅から少し離れた榎町の宗柏寺(矢来のお釈迦さま)も日蓮宗で、秋に「お会式」があります。民家に囲まれて奥まった場所に本堂があります。こちらのイベントだった可能性があります。

団扇太鼓 うちわだいこ。円形の枠に1枚の膜を張った太鼓。日蓮宗・法華宗などが多く、通称「法華ほっけの太鼓」

お会式 おえしき。日蓮門下の諸派で日蓮の命日の10月13日等にあわせて行われる法要

神楽坂(写真)昭和20年代 ID 13793

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」に「神楽坂付近か」として写真ID 13793があります。撮影時期は昭和20年代です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13793 神楽坂付近か

 奥には家があり、屋根の左側はあまり長くはなく、下がり棟が始まっています。前の2軒とはほぼ直角になり、10段内外で奥の家のほうが高くなっています(高さで2~3m)。前の2軒同士の間隔は30cmもないようですが、しかし、ゼロではなさそうです。一番前の家にはひょうたんの絵が型抜きされています。
 ではこれとよく似た場所を探しましょう。都市製図社の『火災保険特殊地図』しか残っていません。探していくとクランク坂だと……と書いてきましたが、実は『火災保険特殊地図』は正しいのですが、昭和27年ではなく、昭和12年を探していました。大間違いです、はい。クランク坂も大間違いで、改めて探しています。では、地元の方はどう考えるのかは……。

 ID 13793の場所は分かりません。ただ360度VRカメラで「クランク坂」を数えると15段あります。1段は16-18cm(20cmだと急すぎる)ので、「クランク坂」の高低差は2.5mくらい。この写真の段差は人の背丈や軒より低いので「クランク坂」とは違うように思います。
 階段を上がったところに門灯(裸電球)がついています。この路地は袋地で、階段は突き当たりの家のもののように感じます。同時代と思われるID 1379113792に比べて路地が未舗装で雨水用の側溝がないのも、路地が行き止まりで整備されていないためかも知れません。
 地形的には「かくれんぼ横丁」の突き当たりなど、裏道の袋地の奥が1mくらい高くなっている場所がいくつかあります。特定は出来ませんが、そうした路地の写真ではないかと思います。

神楽坂1丁目(写真)昭和33年頃? ID 13505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13505は、神楽坂通りの入口の夜景を撮ったものです。撮影は昭和33年(1958)10月だといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13505 神楽坂通り入口 夜景

 これと非常によく似たID 59から63までの夜景の写真があります。とくにID 62はそっくりです。新宿歴史博物館は昭和37年(1962)頃だといいます。地域ごとのファイルは「1962年頃」、フィルムごとのファイルには「昭和33年10年」と書いてありました。
 この5枚は詳細に検討していて、昭和34年の撮影だろうと結論しています。とくに左方の標識ポールの柱(下図)は昭和34年(1959)のID 47(ID 5510)ID 50(ID 7002)では見えないので、それより早く写真を撮ったはずです。

 ではID 13505が昭和33年10月というのは正しいのでしょうか? 判断材料はID 59-63と同じで、ネオンサインの見えている大島毛糸のビルが完成したのは昭和34年(1959年)5月です。まだ建築中なのにネオンだけ点灯したという特別な理由でも無い限り(たとえば店舗の1、2階の完成は早く終わった、あるいはネオンだけが終わったなど)、昭和33年10月はおかしいと思います。
 ID 31-35(夜景)ID 36-39(夜景)と同じようにID 59から63まで(夜景、昭和37年?)とID 13505(夜景、昭和33年?)は実は昭和34年に撮影したと考えると、全てはっきりします。

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13318は、令和元年(2019)6月、牛込橋あたりから神楽坂入口を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13318 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下交差点、左右に流れる道路は外堀通り、前後に流れる道路は神楽坂通りです。手前の舗装が違う部分は牛込橋です。戦前からの石橋を、平成8年(1996年)に鉄橋に掛け替えました。道路との間に黒いゴムを挟んでいて、小さな段差があるように見えます。おそらくコンクリートで舗装しています。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、意味は「駐車禁止」。
 縁石に近い歩道から左右で上を向いて茶色に塗った街灯があります。新宿区の街灯とは違うので、千代田区の街灯でしょう。

街灯。Google

 次に「神楽坂通り」がここから始まり、さらに道路標識が続きます。

高 田 馬 場
Takadanobaba
市 谷
Ichigaya

飯田橋
Iidabashi
◀━   外堀通り  ━▶
牛込橋→神楽坂1丁目(令和元年)
  1. ▶街灯
  2. ▶神楽坂通り
  3. ▶道路標識
  4. 部屋探し/(mini) mini/xx9-x532(賃貸物件仲介)
  5. ▶消火栓
  6. 名刺 印鑑(「はんこ屋さん」)
    ――神楽坂下交差点
  7. (STARBUCKS COFFEE)
  8. (エイブル)
  9. モスバーガー
  10. 屋上広告「いちごナビ 「ねぇ 15pay 知ってる?」「いちごナビ求人」(風俗求人情報)「(インターネッ)ト (まんが喫)茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  11. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  12. 志満金(うなぎ)

▶がある場合は歩道上で車道寄りに、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. ――神楽坂下交差点
  2. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  3. (車両進入禁止)が2つ
  4. カグラヒル(ズ)「ひとりぼっちの まる まる生活 TVアニメ NOW ON AIR」「カラオケ(の鉄人)」「インター(ネット) まんが(喫茶 自遊空間)」「マツモト(キヨシ)」
  5. 遠くの高層ビルは「ヴァンテ・アン神楽坂」(3丁目・マーサ美容室跡/10階建て、1998年完成)と「神楽坂アインスタワー」(5丁目・寺内地区再開発/26階建て、2003年完成)

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13298

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13298は、令和元年(2019)5月、「神楽坂入口」を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13298 神楽坂入口

 交差点名は「神楽坂下」。信号機にはゼブラ柄の背面板はありません、車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、「駐車禁止」の意味です。街灯の柱は灰色で、光源はアイ ツインアーク(水銀ランプと高圧ナトリウムランプ)で、逆さまの正四角錐で包まれています。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。
 横断歩道の奥の車道が赤く舗装されています。通称「ギラギラ舗装」で、交差点付近の駐停車禁止の注意喚起を目的に東京都が平成13年頃から導入しています。ただし交通標識や路面標示のような全国一律のルールではないので、道路管理者が判断しているようです。この部分は新宿区道です。
 左右に走る外堀通りは、いつか都市計画で拡幅されます。このため写真手前の建物は2階建てで、少し奥の建物から高くなっています。左側の建物が斜めに切れたようになっているのは、その部分まで道路が広がることを意味しています。

神楽坂1丁目→坂上(令和元年)
  1. ▶看板「交通事故多発 取締強化路線」
  2. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)パチンコニューバリー跡
  3. ▶交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  4. エイブル(不動産会社)田原屋フルーツパーラー跡
  5. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  6. モスバーガー(ハンバーガー屋)清水衣裳店跡
  7. 翁庵1・2F。梨々苑(焼肉)B1。「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」「Darts bar」
  8. 屋上広告「インターネット まんが喫茶 自遊空間」(向かいのカグラヒルズに入居)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 情報満載お部屋探し♪ Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店(不動産仲介会社)赤井足袋店跡
  2. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  3. カレーショップ ボナッ
  4. ▶消火栓
  5. ▶神楽坂通り
  6. ▶標柱、三角コーン
  7. のレン 室(米麹食品専門店)白十字診療所跡
  8. ▶街灯。横断幕・「神楽坂」
  9. のレン(生活用品店)山田紙店跡
  10. ▶地下鉄 神楽坂駅
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 「ドトールコーヒー Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」「300m ホットカルドカルド神楽坂」「パク・ボゴム」「ペ(コちゃん)」突き出し看板「ペコちゃん」「ペコ(ちゃん焼)日本で(ここだけ!)」
  13. カグラヒル。屋上にあるのはKADOKAWAのデジタルサイネージ広告で、この時に表示されていたのは…「とんび」の重松清x堤真一が贈る感動作 泣くな赤鬼。6.14 FRI ROADSHOW 堤真一/柳楽優弥/川栄李奈。原作:重松清「せ(んせい。)」「(カラオケの)鉄人」「地域最〇 SEG(A)神楽坂」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」

デジタルサイネージ広告 デジタル技術を活用し、平面ディスプレイやプロジェクタなどで映像や文字を表す情報・広告媒体。英語でDigital Signage(電子看板)

料亭「松ヶ枝」(写真)昭和20年代 ID 13791

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13791は「昭和20年代 神楽坂付近か」とあり、時代と場所を特定していません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13791 神楽坂付近か

 右手は毘沙門横丁の今はなき料亭「松ヶ枝」だと考えています。写真の道路の突き当たりは一段高く、手前に来るほどゆっくりと低くなっています。この地形は現在も同じで、奥の親子連れの向こうの塀は若宮町の料亭街です。
 都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年によれば、カメラはおそらく赤丸に置き、写真を撮ったのでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 さて、以下は地元の方の説明です。

 向かって左の奥の塀の木戸は人間には大きすぎて、自動車のための駐車場でしょう。手前の潜り戸は別の店の入り口で、花街らしい黒塀が続いています。これに対して右は土塀で、腰高まで貼り石の化粧があります。これが松ヶ枝の塀で、格式の高さが写真からも分かります。
新宿区史・昭和30年」の3枚目は、ちょうど反対側から撮った写真です。黒塀の潜り戸は同じですが、駐車場の木戸は4枚になっています。
 それ以外にも、いくつか違いがあります。ID 13791の松ヶ枝の塀から棒が飛び出し、そこに笠のついた電球が見えます。また左の駐車場の角にもボール状の灯りがあります。街灯が十分に整備されておらず、私設の外灯で来店客に便宜を図っていたと思われます。
 またID 13791の土塀はコンクリートで塗り固めたような外観ですが「新宿区史・昭和30年」では肩高より上を白い漆喰で塗っていて、貼り石との間に化粧していない壁が出ています。ここは後の時代のID 11841ではすっかり貼り石で覆われます。
 ID 13791の中央手前には、うっすらと丸い下水のマンホールが見えます。舗装はしているようですが、かなり荒れています。左手前には側溝のようなものがチラりと見えます。一方「新宿区史・昭和30年」では松ヶ枝の側に側溝を掘り、小さな石橋を架けていますが、これはID 13791には見えません。雨が降った時は、黒塀の前の少しくぼんだ部分を雨水が流れていたでしょう。
「新宿区史・昭和30年」の写真は同じ昭和20年代に撮影しているはずですが、ID 13791の方が古い時代と思われます。
潜り戸 門の扉や壁などに設けられた、背の低く幅のせまい小さな戸のこと
黒塀 黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。黒い塗装は渋墨しぶずみ塗といって、日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられた。
貼り石 建造物の壁に薄い石
化粧 建物の表面に、白など、見栄えのする色の塗料を塗ること

善国寺(写真)平成22年 ID 13351

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13351は平成22年(2010年)3月に、神楽坂4丁目にあるちんざんしゃもんてんぜんこくを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13351 神楽坂毘沙門天

 車道はアスファルト舗装、側溝はL型で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色で意味は「駐車禁止」。歩道もアスファルトのインターロッキング(interlocking)ブロック舗装。
 街灯は戦後4代目で、水銀と高圧ナトリウムの2つのランプ。この街灯は令和4年に更新され、古い街灯が本堂前の境内灯として再利用されました。続いて三角コーンがあり、次の標柱の内容はここで解説しています。
 石囲いは無地で、左端に「毘沙門寄席」の看板があります。ちなみに神楽坂毘沙門寄席の第一回は2005(平成17)年11月、22年7月では50回以上だそうです。看板は「七日の出演者」、<昼席 十三時半開場 十四時開演>は五街道彌助、三遊亭遊雀、柳家喜多八、<仲入り>、松旭斉 美智 美登、柳家花緑。<夜席 十八時開場 十八時半開演>古今亭菊六、金原亭馬遊、柳家さん喬、<仲入り>、三遊亭小円歌、林家たい平。下に行って<十三日の出演者 出演順>春風亭一之輔、入船亭扇辰、柳亭市馬、林家正楽、古今亭菊之丞、立川らく次、三遊亭白鳥、古今亭志ん輔、柳亭小菊、立川志らく、<十四日の出演者 出演順>柳家三之助、桃月庵白酒、林屋正雀。その右側に白と青のポスターが2枚、「墓地売出中」と読めます。門前を歩く人は背広、ダウンジャケット、上着を手に持った人などで、肌寒かったと想像します。
 赤い山門は平成6年(1994)に作られたものです。梁の間に「毘沙門天」「善國寺」の提灯が多数。左側の門柱には「毘沙門天」、右側の門柱は「善國寺」と銘板「神楽坂興隆会」。
 山門を潜り、境内にはいると 左の青銅色の屋根は浄行菩薩。境内灯は街灯とは違い、傘と円筒形の照明でした。本堂前の2体の石虎(右は阿形あぎょう、左は吽形うんぎょう)。その右に読めない看板、さらに右には石虎を描いた絵馬やおみくじを結ぶ棚があり、さらにその上は藤棚で、境内はアスファルト舗装されています。さらに右、門脇の石囲いの中はしだれ桜ですが、こちらもシーズン前です。
 最後は本堂(左、おみく[じ]と読める)と庫裏くり(右、住職や家族の住む場所)です。本堂と庫裏とは渡り廊下でつながっています。また庫裏の受付でおみくじが買えます。

和可菜|新宿歴史博物館

文学と神楽坂

 旅館「和可菜わかな」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き旅館」として有名でした。2015年末に一時閉店、隈研吾設計事務所の手を借りて、2022年、再出発、営業再開予定ですが、22年7月。再開はまだのようです。
 和可菜は路地の小さなクランクに印象的な看板を出しています。ここは曲がり角というより、兵庫横丁が狭くなっている場所です。
 路地の石畳は水道工事などで部分的に掘り返すことがあります。ID 13350の左下の石畳が少し新しく見えるのは、そうした工事のせいかもしれません。
 ここでは新宿歴史博物館がカメラで撮った写真を4枚(2008年、2010年、2014年、2017年)収録します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13350 旅館和可菜 平成20年(2008)3月

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13691 旅館 和可菜 平成22年(2010)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13255 旅館 和可菜 平成26年(2014)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13984 旅館和可菜 平成29年(2017)

 なお、平成29年のID 13984では前半分が他の建物です。

和可菜 住宅地図 2017年

 では現在の和可菜の写真です。少し化粧直しをして看板を新しくした以外は、変わっていないようです。

和可菜 2022/7/8

和可菜 2022/7/8

神楽坂6丁目(写真)昭和47-49年 ID13227

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13227は神楽坂6丁目から5丁目や3丁目の方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

 横の大通りは大久保通り、縦の大通りは神楽坂通りです。中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。全体にID 7430(昭和45年)と似ていますが、「車両進入禁止」の回転標識は角が丸くなっており、これはID 13174-13180(昭和47年秋~48年春)と同じものです。
 交差点名は「神楽坂」で、信号機にゼブラ柄の背面板はありません。横断歩道は白線のみで、路面のゼブラゾーンは描かれていません。
 交差点の奥と手前右側は神楽坂5丁目で、右側だけが電柱になり、上には大きな柱上変圧器があります。一方、交差点の手前左側は神楽坂6丁目で、左側に電柱があります。
 車道はアスファルト舗装。巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、右側は丸い蛍光灯、左側は蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあります。街灯の主柱は左側は白く、右側は黒く写っています。
 歩行者の1人が普通の背広で、外套等は着ていません。
 いくつかの手かがりから、撮影年代を推定してみましょう。まず三菱銀行神楽坂支店が3丁目の新ビルに戻り、仮店舗の後に「パチンコ山水林」ができました。これは昭和47年(1972年)以降です。
 回転標識の近くに歩行者天国を示す交通標識(歩行者専用)や(自転車及び歩行者専用)はありません。一方、ID 11824(昭和54年)には出てきます。なお、ID 11824の正面の高いビルは、昭和53年(1978年)3月に完成した相馬屋ビルです。しかし、ID 13227には建築中の様子も見えません。
 歩行者天国の交通標識について調べると、坂下の牛込見附の交差点でもID 13158(昭和47年秋~48年春)、ID 8800(昭和48年)にはの標識がありません。しかし田口氏05-10-32-01(昭和49年12月)(下図)には登場します。坂上でも同時期に交通標識が整備されたと考えれば、撮影時期は昭和47-49年と推測できます。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街神楽坂 05-10-32-1 牛込見附交差点から 1974-12-21

神楽坂6丁目→5丁目(昭和47-50年)
  1. ▶街灯。「神楽坂商栄会」「0-12 (駐車禁止)」「(区間内)」
  2. 「ナショナル ナショナル 店会の店」「JCB」(篠原電気店)
  3. 「喫茶室 ▲2階 HAKUSA」「(Coca) Cola (白砂)」「喫茶室 白砂 HAKUSA」
  4. 回転標識の背面
    ――神楽坂交差点
  5. 回転標識(車両進入禁止)
  6. 「(角)のせ(ともの)屋 (河)合(陶)器店
  7. 山下漆器店
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田
  9. 洋品 タカミ
  10. 中国料理 東(花飯店)
  11. 神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告があり、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. コーセー化粧品 桔梗店
  2. 宝石 メガネ 時計 (株)タイヨウ
    ――神楽坂交差点
  3. 営業案内/土地建物売買管(理)/賃貸借周(旋)/電話買取及(販売)/不動産一般(代理)(つくば商事
  4. 東電のサー(ビスステーション)
  5. サントリーバー スローン
  6. 薬ヒグチ
  7. (季)川
  8. タイヨウ メガネセンター メガネ
  9. パチ(ンコ)(山水林
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. やき(とり殿堂)鮒忠
  12. 五十鈴
  13. パチンコ おおとり
  14. 突き出し看板「田原屋
  15. 三菱銀行

住宅地図。昭和52年。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

飯田橋駅|原民喜

文学と神楽坂

 はらたみ氏は詩人で小説家。広島県広島市で生まれ、慶応義塾大学英文科卒業。昭和19年に妻が結核で死亡し、昭和20年春、広島市の兄のもとに疎開し、8月6日、原爆で被災。この体験は『夏の花』『鎮魂歌』などの作品に。昭和26年3月、吉祥寺・西荻窪間で鉄道自殺。生年は明治38年11月15日、没年は昭和26年3月13日。享年は満45歳。
「飯田橋駅」(昭和10年)は自費出版の『焰』(白水社、昭和10年)に収録し「飯田橋駅が持つ独特の開放的な明るさを的確に捉えている」と長山靖生氏(『文豪と東京』中公文書、2018年)。

 飯田橋のプラットホームは何と云う快い彎曲なのだろう。省線電車がお腹を摩りつけて其処に停まると、なかから三人の青年紳士が現れた。彼等は一様に肩の怒ったオーバーを着て三人が三人ステッキを持って、あの長いコンクリートの廊下を神楽坂方面の出口へと歩いて行く。ガランコロンとステッキが鳴る、歩調が揃い過ぎてる、身長がほぼ同じだ、ロボットのように揃い過ぎてる。何しろ今夜は正月元旦の晩だ。
 さて、またここには、その三人の後姿に対って思わず嬉しそうに笑声を洩らした一組がある。何がそのように嬉しいのか、もとよりはっきりしない事柄だが、若い夫妻はこれも今夜は世間並に長閑な気分になりきっていたにちがいない。つまりこの妻を連れたサラリーマンは四五日前忘年会の二次会で、一友と語り合って、僕達は到頭男になったね、と頻りに男らしい感慨に耽ったものだが、今夜も彼は自分が男であることを自覚してそれはとてもいい気持になっていた。男が男であることは、まさに正月が正月であることと同様に平凡なことだが、彼はその平凡に今やと物足りた世間並の気持を味う年輩なのだった。
 とは云え彼等の生活は何処でも何時でも重苦しいものではあったのだが、……今、彼は比較的塵の少ない空気を胸一杯吸って、三年連添うた妻と新婚の如き気持で歩けるのだった。正月の馬鹿! 微笑が神楽坂を登る彼の頬に浮かぶ。を摘んでしゃなりと歩く芸妓は笑わない。そしてさっきのロボットのような三人連れは何処へ消えたのだろう、そんなことは誰も知らない。今、夫妻は閑静軒並をショー・ウインドーなど眺めながら、ネオンサインのぐるぐる廻るバーの前を素通りして電車道まで来ると型の如く後戻りする。その間横町から芸妓がついと現れては消える。瞰下せば牛込見附の堀はまことに寒そうなのであるが、何処か春らしい潤いがないとも云えない。彼は立止ってそっと熱っぽい吐息を吐いてみようとした。が、それもめんどくさかったので、妻を促して再び飯田橋駅に帰った。
 と、ここでもまた正月らしい風景が待構えていた。今、ホームには電気ブランで足をとられた中年の紳士が二人、これはぜんまいの狂ったロボットのようにガクリガクリと今にも線路へ堕こちそうである。が、腰がふらついている癖に不思議に滑り込まない。彼は痛ましい人生の縮図を見てるような気がしないでもなかった。もしかすると、この酔ぱらい達も彼と同じように今夜男になったと云う感慨で以て泡盛をひっかけたのかも知れない。二人の酔ぱらいはお互に励まし合って明日からの生活を祝福したのかも知れない。だから一方が水道の栓を捻ると、一方が屈み難い腰を無理に屈めて水道の栓に噛りついた。あっ、水が散るじゃないか! 丁度電車が来た。
 電車に乗った夫妻はじっと澄ましていた。夫妻の前に腰掛けている燕尾服の紳士は実に謹厳そうな顔つきであった。その表情は電車の揺れるに従っていよいよ難しそうになって行く。と、到頭来た、紳士は口を開けてべえっと床の上にへどを吐いた。

彎曲 わんきょく。弓なりにまがる。昭和3年(1928)に牛込駅と飯田町駅が廃業になり、中間のカーブ部分に新たにホームを設けて飯田橋駅が開業した。「中央線水道橋東中野間改築停車場見取図」(昭和6年)では牛込見附への出口は階段のように描かれている。このホームは令和2年(2020年)7月に旧牛込駅ホーム跡に移転し、カーブ部分はホームまでの開放的な通路になった。
省線電車 鉄道省・運輸省の電車や路線の通称。省線。現在のJR。
長閑 のどか。静かで落ち着いている様子。
到頭 とうとう。物事が最終的にそうなる様子。ついに。結局。
頻り しきり。同じことが何度も引き続き起こる様子。ひっきりなし。程度・度合いが著しい様子。むやみ。やたら。
 フン。くちびる、くちさき。くちぶり。ことばつき。
褄を取る 褄は「つま」で、長着の裾の左右両端の部分。「褄を取る」は着物のたて褄を手で持ち上げる。褄をとる。転じて、芸者になる。
閑静 かんせい。もの静かな様子
軒並 のきなみ。多くの家が軒を接して建ち並んでいること
電車道 路面電車が走る道のことで、ここでは大久保通り。
電気ブラン ブランデーの一種。東京・浅草の酒店主の神谷伝兵衛は、明治15~19年頃、速成ブランデーを製造・販売し、浅草の神谷バーの名物に。甘く強い酒で、飲みすぎると足をとられ、店ではカップ三杯以上は売らなかったという。
男になる 一人前の男になる。初めて女性と肉体関係をもつ。
泡盛 沖縄特産の蒸留酒、焼酎
謹厳 きんげん。まじめで、いかめしい

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13167~13170

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13167-70はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目などを東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13167 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13170 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。車道もアスファルト舗装でしたが、コンクリート舗装があるという意見もあります、
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色です。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (テーラー)島(田)
  2. アワヤ(オシャレ洋品 阿波屋)
  3. ▶たばこ
  4. 「福屋不動産 」「毘沙門せんべい」「福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」。無数の字がある。ID 101の説明1の「〇〇〇〇銘茶研究会〇〇」と同じ(大佐和)
  7. 仐とは(きもの)(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 五十(番) 中華料理
  11. 日邦工〇(宮坂ビル)
  12. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 ロッテ商事 おおとり(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂3丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13183~86

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13183~86 はカメラを神楽坂3丁目の坂上付近に置き、坂下を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13183 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13184 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13185 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13186 神楽坂歩行者天国

 坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装です。Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。車道の中央には舗装の継ぎ目があります。ここで地元の方は

舗装の継ぎ目はOリングの部分から坂上までずっと続いています。この当時の舗装はアスファルトではなく、コンクリートであったと思われます。少し前の時代のといっています。しかし、アスファルトのほうが道路の継ぎ目や接合点は多いし、色合いが決め手だといっても、はっきりはしません。ID 13185では道路の照り返しがOリングがあるほうが強いと思います。
 縁石は黄色と無彩色との2色で(現在もよく見ると2色)、意味は「駐車禁止」。歩道はアスファルト舗装。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。神楽坂通りの中央にはローラースケートを履いた男の子。中央の上空には
(横断歩道)の道路標識。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱はモノクロ写真では薄い色でしたが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。「神楽坂通り」が街灯に光っています。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→坂下(昭和48年)
  1. (駐車禁止)(区間内)
  2. (車両進入禁止)
  3. (横断歩道)
    ――神楽坂仲通り
  4. 化粧品さわや
  5. (ビク)ター(リード商会)
  6. 純喫茶クラウン
  7. 喫茶(坂)
  8. 看板「パチンコは(マリーで)」
  9. クスリ 山一薬品
  10. ハ(ッピー)ジャック

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. (ヒデ)美容室 HIDE HEALTH SALON。突き出し看板「ueta エダ」(看板は、おそらく化粧品)
  2. 道路標識(裏面)
  3. くすりは 山本薬局 純良医薬
  4. BAR まき
    ――神楽坂仲坂
  5. BARBER よね(ざわ)
  6. 臼井歯
  7. せともの 太陽堂
  8. ニッポンハム 肉のますだや
  9. ▶電柱看板「歯 石川」「 大久保
  10. UC(大川時計店)かつ一(2階)
  11. ESUYA
  12. コーセー化粧品 十奈美
  13. 夏目写真館 夏目写真館
  14. カブト虫(純喫茶)
  15. ▶電柱看板「石川
  16. 麻雀 サンコール(松本商店)

住宅地図。1974年

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180はカメラを神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)付近に置き、東向き(神楽坂下方向)に撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13174 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13176 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13178 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13180 神楽坂歩行者天国

「神楽坂」交差点(現「神楽坂上」交差点)があり、その交差点の上に信号機があり、信号機には背面板はないようです。神楽坂通りを横断する横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」が、左端の標識ポール「神楽坂」につながっています。この標識ポールは昭和20年代に坂上と坂下につくられたもので、坂下は昭和35年頃までに撤去されましたが、坂上はこの写真の時点でもまだ健在でした。寺内横丁の先には「神楽坂通り/美観街」が見えます。さらに遠くの「神楽坂通り/美観街」も見えます。
 交差点に面して「車両通行止 日曜・祝日の 12ー18 牛込警察署長」というバリケード看板が出ています。これは現在の歩行者天国の実施時間(12:00-19:00)とは異なります。当時は夏季と冬季で実施時間を変えていました。よく見るとバリケード看板の「18」のところに貼り紙の跡がみえます。
 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。昭和50年のID 9781など、他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

「神楽坂」交差点・神楽坂5丁目→3丁目(昭和48年)
  1. (車両進入禁止)
  2. ▶道路標識(駐車禁止)0-12 (区間内)
  3. 標識ポール「神楽坂」と横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」
  4. (歩行者横断禁止)
  5. 店舗(菊岡三味線店
  6. 店舗(明治牛乳販売所)。店頭に「明治」と書かれた牛乳ビンのコンテナが山積み
  7. 突き出し看板「(大)和田」 壁面看板「大和田」鰻焼(割烹)
  8. 店舗(リード商会)
  9. タカミ(洋品店
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. (東洋)飯店
  12. (恵比寿精肉)
    ――寺内横丁
  13. 日本盛 ニホンザカリ 特約店 万長 Bireley’s(酒店)
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 「メガネ」の看板 (タイヨウ)
  2. カーブした矢印らしき照明広告 (「木」偏 パチンコ山水林)
  3. 東電(の)サービスステーション  新宿区神楽坂 
  4. 道路標識の反対側
  5. 神楽坂通り/美観街
  6. 中河電気
  7. 丸越(下図)
  8. 日本酒まつり 鮒(忠)
  9. (パチン)コおおとり。花輪
  10. 善國寺
  11. ▶公衆電話ボックス
  12. 三菱銀行

丸越質店。神楽坂6丁目8。1974年

住宅地図。1974年

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13165~66, ID13171

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13165-66とID 13171-73はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目など東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13171 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13165 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13166 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13172 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13173 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。
 ID 13166の写真では花輪が少なくとも7輪ほど出ています。「祝開店 おおとり 〇〇」と読めます。パチンコ「おおとり」の開店祝いに見えます。
「おおとり」を経営する鳳企業株式会社の会社沿革では

1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン
1969年(昭和44年) 鳳企業株式会社設立
1970年(昭和45年) 新宿西口にパチンコ店『アラジン』オープン
アラジン新宿店2階に焼肉店オープン
1971年(昭和46年) 『北京料理 西口飯店』オープン
1977年(昭和52年) 『アラジン池袋店』オープン
1980年(昭和55年) NASA ビル建設

 地元の方によれば

「1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン」とあります。昭和41年のID 12280にも「おおとり」の看板が写っています。
 パチンコ店では新台入れ替えなどを機に「新装開店」で出玉サービスをうたうことがあったので、この花輪はその種のものと想像されます。5丁目に新たに開店した「山水林」に対抗したものかも知れません。

 ID 12280の写真と住宅地図とは全く違います。住宅地図では昭和47年までは「おおとり」はなく、あるのは「フードセンター」です。しかし、地元の方によれば

ID 12272-73, 75-7612280、12282の縁日(夜店)の写真について念のため撮影年代を再検討しました。
・毘沙門堂の石囲いは再建前のもので、昭和45年以前
・易占の看板は池田信「1960年代の東京」(昭和40年)に酷似
・歩道は文様のない角石で昭和45年より前(ID 8299など)
・「オバケのQ太郎」などのブーム
昭和41年(1966年)という記録に無理はないと思います。

 では、どうして「フードセンター」が住宅地図に昭和39年から昭和47年まで、何年も残ったのでしょう。多分、今のように精密さや正確さは求めていなかったのでしょうか? でも住宅地図の最後に「航空写真一図化一測量修正一調査-トレス一筆耕一仕上。氏名・番地・職種すべて実態調査(足で調べる)。年一回現行維持」と書いてある。う~ん。わかりません。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (カネボ)ウ化粧(品)。尾沢薬局「化粧品/カメラ・材料 尾沢」「
    ――ごくぼその路地
  2. オシャレ洋品(阿波屋アワヤ
  3. ▶たばこ
  4. 福屋不動産 毘沙門せんべい 福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」
  7. 仐(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 おおとり ロッテ商事(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. (ジャウ)トーヤ(果物店)
  11. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

地下鉄工事とその後

文学と神楽坂

 加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)です。加藤氏は大阪寿司「大〆おおじめ」を経営する娘で、父は大正6年(1917年)4月、通寺町(現、神楽坂6丁目)に大〆を開店。100年後の平成29年(2017年)7月、息子が閉店しています。これは、昭和39年12月、神楽坂に地下鉄の東西線が開通して、その前後の状況です。

 前にも一寸述べたように、鉄筋店舗を新築して3年目には既に地下鉄工事が始まった
 最近では、沿線の住民も慎重になって、先々の被害もその補償も事前に十分研究して、団結の力も強くなりそう安々と承諾しないと云う話である。
 この営団地下鉄との交渉では、何しろ経験のない事ではあり、公共事業ではあるし、不本意ながら承諾の判を押したような事であった。
 飯田橋から矢来町へかけて通る予定の路線工事の為、店に隣接する貸地二軒と、向い側の二軒の家はそれぞれ取り壊しとなり、仮住居へ移転した。
 大〆の店は幸か、不幸か取り壊されずに済んだ。当時は、仮店舗等の面倒もなくそのまま営業を続けていられると喜んでいた。
 処が、いざ工事が始まると思わぬ被害が出始めた。工事の際の建物の下受けの不備が原因か、とにかく鉄筋の建物の一部が二十糎余りも沈下して傾いた。
 この為の外壁、内壁の亀裂や傾斜等の被害を営団側では手直しと云う名目で修理はすると云う。
 店舗だけでなく、店舗の裏と横に面して建っている木造家屋も土台がずれて、この方がむしろ危険な状態になった。
 これも手直しはすると云うだけでは、実際に修理した家屋がこの先何年保つか不安である。
 この際、思い切って費用のかかるのは覚悟の上で、アパート併用の木造住宅を建てたのが、地下鉄工事が終って二年目の昭和40年であった。
 店舗の補修については、それ以上に被害も出ないだろうと手直しで我慢する事にした。
 その翌年、店の隣りに車庫と仕込場を作ってやっと一段落ついた。
 この地下鉄工事では、不安と焦燥の中で予期しなかった建物の被害のために、修理や普請が引き続き、こんなに疲れた事はなかった。
 考えて見るのに、如何に無駄な家屋の取り壊しや、建て直しを何度もやって来た事であろう。
 私達の代になってから今までに費した建築の費用をもってすれば、優に何階建てかの高層建築が出来ていた事であろう――
 しかし、此の地下鉄東西線が開通し、その後に有楽町線が通るようになって、益々交通の便がよくなって神楽坂近辺は地価も上昇するばかりのようである。
鉄筋店舗を新築 昭和35年1月でした。
地下鉄工事が始まった 「東京地下鉄道東西線建設史」(帝都高速度交通営団、昭和53年)によれば「昭和35年8月東西線中野・東陽町間の建設計画を決定し、昭和37年10月19日建設工事に着手した」
路線工事 昭和40年の住宅地図は下図。赤い線で書かれた店舗が大〆。

昭和40年 住宅地図。

工事が始まる 東西線はありませんが、有楽町で次の写真があります。

有楽町線 飯田橋-市ヶ谷間工事「有楽町線建設史」(平成8年)東京メトロアーカイブより

下受け 下請。したうけ。元請業者や元請負人の引き受けた仕事の全部や一部を、さらに請け負うこと。反意語は元請け。
営団 公共的事業経営のため特殊な非営利的な企業。第2次世界大戦中に多くの営団が設置。戦後、廃止か公団に改組、平成16年(2004)4月に、最後に残った帝都高速度交通営団は東京地下鉄株式会社(東京メトロ)に改組・民営化し、営団はなくなった。
地下鉄工事が終って 「東京地下鉄道東西線建設史」では「高田馬場・九段下は昭和39年12月23日に…運輸営業を開始した」と書いてあります。
普請 ふしん。道・橋などの土木工事。のち、建築工事一般もいう

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13161~13164

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13161、ID 13162、ID 13163、ID 13164はカメラを神楽坂5丁目に置き、東の方向(3、4丁目)に向けて撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13161 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13162 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13163 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13164 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。写真の左端、テントの脇の太い鉄柱は「神楽坂通り/美観街」の標識です。
 そのすぐ右の「寺内横丁」に横看板が見えますが、読めません。横丁を入ったところに、住宅地図によって異同がありますが「米枡」「割烹椿」「クラブパリジェンヌ」「末っ子」などの店名が見えます。「(米)桝」と「(割)烹 椿」と見れなくもないと思います。こうした店が横丁の入り口に共同看板を出していた可能性が高いでしょう。横丁の共同看板は毘沙門横丁のID 11833にも見られます。なお「寺内」ばかりではなく「地内」という名前もありました。

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. 店舗
  2. (車両通行止め)「〇〇〇」「(日曜日)祝日の(12)ー18」
  3. 横看板(寺内横丁
  4. 「(日本)盛 ニホンザカリ 特約店 万長」「Coca -Cola」「Bireley’s バャリース 万長酒店」「キリンビール」UC
  5. 日本法令のロゴマーク 届け用紙 相馬屋
  6. 第一勧業信(用)組(合)(昭和46年10月、日本勧業信用組合から改称)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 電柱の足元に段ボール箱(家電品か)
  2. ▶電柱看板「内科 小児科 産婦人科 放射線科 阿部医院」「 加藤質店」
  3. 中河電(気) SONY (ト)リニトロン ボタ(ン)でん(わ)
  4. 週刊新潮(芳進堂)
  5. 電柱看板「川島歯科」「加藤産婦人科」
    ――地蔵坂(藁店)
  6. 「やきとり殿堂 鮒忠」「鳥の王様」「鮒忠 宴会場 2F 」「鮒」
  7. ▶「日本酒まつり 鮒忠」
  8. パチンコ おおとり 花輪
  9. 田原屋(果物と洋食屋)
  10. ▶電柱看板「斉藤医院
  11. ▶電柱看板「 丸越質店
  12. ▶公衆電話ボックス
  13. 三菱銀行
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

住宅地図。1973年

神楽坂1丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13158

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13158は、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13158 神楽坂歩行者天国

 外堀通りを走行中の車の窓越しに、バリケード看板が立っていて神楽坂通りへの進入を禁じているのが分かります。
 一方、中央やや右寄りの左向きの矢印は坂下から坂上までの「一方通行」を示しています。この標識は逆転式一方通行のための回転式です。後に歩行者天国実施中は「自転車及び歩行者専用」が表示されるようになりますが、この時代はまだ「一方通行」のままでした。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。
 大きな標識「神楽坂通り/美観街」が左右に1本ずつできています。よく見ると坂上の同じ標識も見えます。
 ここでは「牛込見附」交差点より手前のものを扱います。後ろ(奥)はID 65-66ID 8799-8800などを見て下さい。

  1. 独特 とんかつ 森川 神楽坂1-9
  2. 電柱看板「富士(見 東京)大神宮通り)」(英会話タイプ学院)
  3. (歩行者横断禁止)
  4. ROO(M)セ(ブ)ン (喫茶セブンセブン)
  5. 2F 山菜料理 おふくろ。小さく突き出し看板も 「おふくろ」
  6. 東山 東山酒蔵直営 東山酒蔵
  7. 反対向けの道路標識

 なお、右側の佳作座のポスターは何だかわかりませんでした。

神楽坂3丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13154~ID13157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13154、ID 13155、ID 13156、ID 13157は神楽坂3丁目から4~5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13154 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13155 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13156 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13157 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、一方、車道で坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。それ以上の車道舗装についてはここに。縁石は黄色と無彩色との2色で、意味は「駐車禁止」。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったのでしょう。
 電柱は左側だけで、その上に大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施中。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂3丁目→4、5丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. (レストラン)花菱
    ――見番横丁に
  2. 麻雀 一発
  3. ▶「違法駐車はレッカーで移動〇/牛込警察(署)」
  4. (最高速度)高中速度
  5. ▶電柱看板「外科 小児科 斉藤医院」「加(藤)産婦人科
  6. (菊)正宗 青柳寿司 ★サッポ(ロビール) し青柳寿
  7. (そ)ばところ 神楽坂 丸屋 生蕎麦
  8. 丸岡陶苑 DC UC
  9. (消火栓)丸岡陶苑
  10. タイヘイゴルフ
  11. ▶電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ」。
  12. (ヤマ)ダヤ
  13. フルーツ パーラー ジャウト(ー)ヤ
  14. 神楽坂通り/美観街
    ――三つ叉通り
  15. 宮坂金物店
  16. ▶電柱看板「 フクヤ」
  17. 三菱銀行
  18. 遠くに「協和銀行」
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 縞模様のテント(赤と黄色 神楽坂青果店)
  3. (消火栓)火災警報器
    ――芸者新道へ続く路地
  4. 鮨どころ(二葉
  5. カバーマーク(美容品)(ニューマヤ美容室)
  6. 積まれた布団(フトン関商店)
    (数店おいて)
  7. 清酒〇〇〇 鳥忠
  8. 日邦工〇(宮坂ビル)
    ――本多横丁へ
  9. 仐(近江屋履物店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1976年

神楽坂3, 4, 5丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13152-53,13159-60

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13152とID 13153、ID 13159、ID 13160は神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13152 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13153 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13159 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13160 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、おそらく黄色と無彩色に塗り分けていたでしょう。道路標示「駐車禁止」が立っています。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったでしょう。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。例外としてID 13160では右側にも電柱があり、路地の奥に電線をつなぐためのものでしょう。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節と思われます。歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施なので、銀行をはじめ営業していない店が目立ちます。
 ID 13152-13153の三菱銀行は昭和47年(1972)ごろ5丁目の仮店舗から建て直した新店舗に移りました。仮店舗の後に「パチンコ山水林」(現在はシュエット神楽坂)が開業しています。ところが昭和47年や昭和48年の住宅地図では「パチンコ山水林」はまだありません。
 一方、ID 13159-13160の「毘沙門せんべい 福屋本舗」は写真では2階屋ですが、昭和48年(1973)9月に5階建ての現ビルに建て替えられました。従ってこの写真の撮影時期は昭和47年の秋から、遅くとも昭和48年の春先と推定されます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. 電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  2. ジャウトーヤ (喫)茶 フルーツ。手前が果物店、奥がフルーツパーラーでした。
  3. (店舗)
  4. 神楽坂通り/美観街
  5. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  6. 宮坂金物店
  7. (歩行者横断禁止)
  8. フクヤ。電柱看板「川島歯科
  9. 街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  10. DC JCB。サムライ堂洋品店 ばぁ侍(2階)
  11. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  12. FIRE HY(DRANT) 消火栓。広告「カメラのミヨシ」本多横丁にあった。角から4軒目くらい(下の右図)
  13. 電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  14. 毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  15. 善國寺。子どもが石囲いに登っている。本堂再建時に石囲いは一新したので滑り台はなく、この写真はただのワンパク坊主。
  16. (駐車禁止)
  17. 立て看板「こどもの飛び出し多し/徐行」
  18. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  19. 電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  20. おおとり(パチンコ)
  21. やきとり殿堂 鮒忠
  22. 中河電気
  23. パチンコ(山水林)。現在はシュエット神楽坂、築年月は2007年6月
  24. タイヨウ(時計・メガネ)
  25. 神楽坂通り/美観街
  26. 薬ヒグチ
  27. 遠くに協和銀行
  1. 京都。看板「オープン 浪費させない店 コンパ 〇〇プレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. (一方通行入口)。本多横丁へ(ここから4丁目)
    (数店おいて)
  3. (大佐和)神楽坂店(現・楽山
  4. (バー)鼓 この先突き当たり右 (「紅小路」へ)(下図)
  5. 電柱看板「 フクヤ」「旅館 宝楽」
  6. (店舗としもた屋)
  7. 毘沙門せんべい 福屋本舗 福屋不動産
  8. (店舗)
  9. オシャレ洋品 アワヤ
    ―――「ごくぼそ」へ
  10. 紳士服 テーラー 島田
  11. 尾沢薬局 (くす)り尾崎 カネボウ化(粧品)
  12. (店舗) (ここから5丁目)
  13. 第一勧業信用組合(駐車場)
  14. (店舗)
  15. かやの木(玩具店)
  16. (消火栓)
  17. 第一勧業信用(組合)。昭和46年(1971年)10月に改称

住宅地図。1980年。つづみとミヨシ

住宅地図。1976年。

神楽坂1丁目(写真)昭和45年、ID 13126、ID 13128とID 13130

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 13126、ID 13128とID 13130を見ていきましょう。3つとも昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。ID13117、ID13118、ID13121-22、ID13124と同様の画角ですが、より左側に寄った場所から撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13126 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13128 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13130 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋と右側の外堀通りの車道にはあって、おそらく左側の外堀通りもあったでしょう。また、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 富士見 〇〇入学随時☎ 英会話タイプ学院 この手前
  2. 電柱看板「独特 とんかつ 森川
  3. 東山酒蔵
  4. 電柱看板「 大久保
  5. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  6. 交通標識の裏面
    ――「牛込見附」交差点
  7. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  8. 電柱看板「東電のトレードマーク 中〇」
  9. (車両通行止め)
  10. 電柱看板「八千代鮨
  1. (歩行者通行止め)
  2. 萩の宮
  3. ファサード看板「加藤医院
  4. 貸間 アパート 学生会
  5. 映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ――「牛込見附」交差点
  6. 株式会社 さく(らや)(靴)
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. (白十字医院)
  11. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  12. (車両進入禁止)
  13. 不二家洋菓子
  14. (消火栓)
  15. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」「今宵楽(しく軽い心で)」
  16. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  17. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  18. 看板「パチンコはマリーで」
  19. ニュ(ーイト)ウ(靴店)
  20. 純喫茶 クラウン(喫茶店)
  21. MAX FACTOR(化粧品)
  22. 資生堂(化粧品)(さわや
  23. ナショナルのマーク(竹谷電気工事)
  24. 東京電力(サービスステーション)
  25. 鮨どころ 二葉(寿司)

住宅地図。1970年

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID13117-18, 21-22, 24

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID13117-18, 13121-22, 13124を見ていきましょう。全ては、昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13117 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13118 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13121 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13122 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13124 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋はあり、おそらく外堀通りもありでした。
 歩道もアスファルト舗装ですが、カメラの足元の牛込橋部分は石敷でした。ID 13117の右下のガードレールの切れ目あたりで、アスファルトの歩道が縁石で終わっているのが分かります。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。ただし、牛込橋の最も手前に逆円錐形の街灯があり、これは千代田区のものと思われます。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 登録商標東山 東山酒蔵〇会 東山酒蔵
  2. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  3. ▶電柱看板「 大久保」「東電のトレードマーク 中〇」
  4. 交通標識の裏面
    ーー「牛込見附」交差点
  5. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  6. (車両通行止め)
  7. (パチン)コ Pachinko(ニューバリーパチンコ)
  8. (駐車禁止)(区間内)
  9. 田原屋(フルーツパーラー)
  10. 田口屋生花店。五階建て
  11. 「ダイヤモン(ド毛糸)」(大島糸店)
  12. (喫茶)五(条)(五条ビル)
  13. 遠くに「協和銀行」

▶は車道寄りの歩道上に広告があり、ない場合は直接店舗に

  1. 立て看板「アルバイト 下宿 アパート 貸間 日本学生会
  2. ▶立て看板「盛況 酒ビール飲放題確定サービス 8時迄〇〇一五〇〇円」
  3. 電柱広告「洋装店 ナカノ」
  4. 萩の宮
  5. ファサード看板「入院設備あり 産婦人科 加藤医院
  6. ▶映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ーー「牛込見附」交差点
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  11. (消火栓)
  12. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」
  13. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  14. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  15. クラウン(喫茶店)
  16. 資生堂(化粧品)(さわや)

住宅地図。1970年

神楽坂で「毘沙門寄席」を旗揚げ|三遊亭金翁

文学と神楽坂

 三遊亭金馬(4代目)氏が「金馬のいななき」(朝日新聞。2006年)の中で、昭和46年、毘沙門寄席という落語会を立ち上げたと書いています。金馬(現在は三遊亭金翁きんおう)氏は令和で唯一の戦中入門の落語家です。1970年『淀五郎』で芸術祭賞優秀賞受賞。ほかに古典落語の演目では『薮入り』『茶の湯』、正月しか口演しない『七草』など。生年は昭和4年(1929年)3月19日、没年は令和4年8月27日。

 昭和46年(1971)10月に神楽坂の「毘沙門寄席」を旗揚げしました。
 神楽坂をあがっていったところの左側にあります毘沙門天、ご縁日で有名なお寺さんで、正確には鎮護山善国寺と言います。文禄4年(1595)に創建された大変に歴史のあるお寺で、神楽坂のシンボル的存在ともいえます。
 この毘沙門さまの本堂が昭和46年に再建されまして、建物の半地下の部分に40畳ほどのホールができたのです。地元の商店街のみなさんが、ここのホールを利用して、寄席を開いてみたら、と発案されまして、私のところへ話がきたのです。
 商店街のみなさんとは以前から親しくしていましたので、すぐに実行することにしました。
 神楽坂は、毎月、五の付く日が毘沙門さまの御縁日で人出があります。
 そこで、5日、15日、25日の三日間、定期的に落語会を開くことにしたのです。名付けて「毘沙門寄席」。
 ところが、お寺のホールであろうと、定期的な興行をするとなると、消防署や保健所の許可が必要になります。その手続き――申請や運営管理――がなかなか煩雑でしてね。ご住職を煩わせるのは申し訳ないので、私か責任者になって興行をはじめることにしました。
 商店街の皆さんは、座布団、引き幕、のぼりなどを用意してくれまして、準備はととのいました。
建物の半地下の部分 「神楽坂伝統芸能―神楽坂落語まつり」から

 のぼり。旗の一種。長辺の一方と上辺を竿にくくりつけるもの

 5の付く日は毎月3回ありますから、まず5日は本牧亭で続けていた創作落語会をここに引っ越して、開くことにしました。
 15日は、若手中心の勉強会。
 25日は、私の独演会「金馬いななく会」をネタ下ろし中心に開くことにしました。
 私はこの3回の興行の責任者、プロデューサーでもあり、しかも会は10日おきにやってくるのです。まったく若かったからできたのでしょうね。
 毘沙門寄席の運営に関しては、家族にもいろいろ助けてもらいました。
 かみさんが、収支一切を管理してくれまして、出演料の支払いから、入場税の納付などを受け持ってくれました。当時の入場税の制度というのは大変に面倒で、あらかじめ官許の切符を購入して、それが何枚売れました、何枚残りました、と事後に届けなくてはならないのです。かみさんはよくやってくれました。
 また、簡単な売店を設けまして、そこで煎餅や飴なんかを売りました。これは娘の役で、いい小遣い稼ぎになったようです。
本牧亭 1857年(安政4年)、江戸上野広小路に軍談席(=講釈場)本牧亭を開場。1876年(明治9年)に閉場し、代わりに鈴本亭(後の鈴本演芸場)が同じ上野に作られた。1950年(昭和25年)、鈴本演芸場の裏に、本牧亭は再建。日本で唯一の講談専門の席で「講談バス」を走らせたり、「講談若い人の会」を開くなどして、多くの講談師や愛好家を育て、講談の普及発展に大いに貢献した。2011年9月24日閉場。
官許 かんきょ。政府から民間の団体または個人に与える許可。落語などについては、現在興行場法で決められています。港区みなと保健所の「興行場法の手引」では

 昭和48年のお正月には初席を6日間、毘沙門さまでやりました。初席に関しては落語協会に協力してもらいまして、なるべく賑やかなメンバーを揃え、私がトリをとりました。
 ただ、お客様の動員に関しては苦戦しましたね。先に人形町末広のときにもお話ししましたが、神楽坂も夜間人口が少なくなってしまい、夜に町をぶらぶらしているような人があまりいないのです。
 元日など、昔の商店街は夜明かしで商売をしていたものですが、いまは店を閉めて、どこかに行ってしまう。商店もビルになり、主人が通いでやってくる――。小地域での寄席というものが成り立ちにくくなっているのですね。
 私は神楽坂をスピーカーを持って歩きまして、
「今晩は毘沙門寄席があります。どうぞいらしてください」
 なんて宣伝をして回りましたが、効果があったかどうか。
 興行の赤字分に関しては、私か背負いました。必要経費と、出演者にたいする最低限の出演料を用意しました。
 定例の会の中では、私の独演会「金馬いななく会」が比較的、安定した動員をしていました。毎回、2席のネタ下ろしを原則にしていましたので、軽めのものと、どっしりした噺と、1席ずつ。人情噺や世話噺もやりまして、圓生師匠から「髪結かみゆい新三しんざ」を教わって上演したこともあります。
初席 正月、元日から10日まで行なわれる興行
トリ 寄席で最後に出演する人。出演料は、最後に出る主任格の真打が全て受け取り、芸人達に分けていた。演者の最後を取る(真を打つ)ことや、出演料を取るところから、最後に出演する人を「トリ」と呼ぶようになった。
人形町末広 東京都中央区日本橋人形町三丁目の寄席。1970年(昭和45年)1月、日本芸術協会(現:落語芸術協会)の定席興行である正月二之席(11日から20日まで)をもって閉場。
髪結新三 かみゆいしんざ。人情噺。日本橋に材木商の白子屋があり、娘のお熊は婿を迎えたが、実は別の男性と良い仲になっていた。そこで店に出入りする髪結いの新三は一計を謀り、お熊をだまし、誘拐して、白子屋から金を奪い取ろうとする。新三の家主の長兵衛が白子屋のため、その折衝を引き受ける。長兵衛は30両を白子屋からもらい、お熊を送り返し、15両を新三の前に置いた。新三は不満を言うと「わからねぇやつだ。鰹は半分もらったよ」と再び同じことを繰り返す。新三は気が付いて「鰹だけではないんですか」、「当たり前だろう。これだけ口利きしたんだ」。おまけに滞った店賃5両を取り上げる強欲ぶりに、さすがの新三もぐうの音も出ない。20両と片身の鰹を下げて帰る長兵衛を黙って見送るしかない新三であった。

 昭和50年代のいつごろだったか……「創作落語会」をやめまして「なかよし会」と改称、金馬・円歌三平柳昇といったメンバーで各人がやりたい噺をする会にしました。
 それにしても、「創作落語会」は昭和37年の発足から20年弱は続いたわけです。
 毘沙門寄席は、昭和56年に終わりました。
 ちょうど10年続けたわけで、まあ、切りもよいところでした。
円歌 三遊亭圓歌(3代目)。生年は1932年1月10日、没年は2017年4月23日。出身地は東京都向島
三平 林家三平(初代)。生年は1925年11月30日、没年は1980年9月20日。出身地は東京都台東区根岸。
柳昇 春風亭柳昇(5代目)。生年は1920年10月18日、没年は2003年6月16日。出身地は東京都武蔵野市

始てアドレエキ カメラを 携ふる記

文学と神楽坂

 尾崎紅葉氏は「草もみぢ」(冨山房、明治36年)に「始てアドレエキ カメラを 携ふる記」というエッセイを出しています。「始て」は現在「はじめて」か「初めて」と書きます。

拝呈然者本日の上天気。端居春心酔ふ堪へず。加ふるに。数日來散歩を癈し居候事とて。遊意頻に動き候に。一昨日持帰り候アドレエキ カメラの未だ一着手をも経ざる有りて。かた/”\此日をあだに過し難く。或は課題途上●●所見●●好圖様を得る事もあらん乎と。遂に思立ちて。早稲田辺までと志し候は。午後一時頃に有之候。 鶴巻町より田圃に出づれば。すぐに一面の榛木はんのきが林にて。此のわたり「冬の朝日の最も憐なる」處。前年小生が銃猟を始め候日。下駄掛にてもずひよなどをおん廻し候も此辺にて。其頃所持の廿八番形村田銃と其の手腕と。今日の手提てさげカメラと其の技倆とは。何ぞ相似たるの甚き。と心私かに可笑く存侯。

拝啓。さて本日の天気はよく、縁先にいるとのどかだが、ただ陶酔しているのは我慢できないし、加えて、数日来、散歩をやめて、じっと家にいるので、ああなんとしても動きたいと考えた。一昨日持ち帰ったアドレーキ・カメラはまだ一度も使ったことはなく、いずれにしてもこの日をむだに過ごすのはできない。課題の途上で好事を得ることもあろうと、急に思いたち、早稲田ごろまでと決めて、午後一時頃、鶴巻町から田んぼに出た。すぐに一面の榛木の林にでていた。このあたりは「冬の朝日が最もきれいな」所である。前年小生が銃猟を始めたが、下駄ばきでモズやヒヨドリなど取ったものもここだ。そのときは所持していた28番形の村田銃とこの手腕、対して今日の手提げカメラとこの技量、どこが似ているか、片腹痛いと、密かにおかしかった。
拝呈 手紙の書き始めに書いて、相手への敬意を表す語。拝啓
然者 しかれば。しからば。それならば。そうであるからには
端居 はしい。家の端近くにすわっていること。特に、夏、暑さを避け、風通しのいい縁先や縁台などにいること。
春心 はるごころ。春の頃ののどかな心もち。春ごこち。
酔う 心を奪われてうっとりする。自制心を失う。
堪えず たえず。がまんできない。もちこたえない。こらえられない
居候 他人の家に世話になり食べさせてもらうことや、その人。食客。
遊意 ゆうい。遊歴したい考え。各地をめぐり歩たいとの考え
アドレエキ カメラ 不明。「アドレーキ・カメラ」と書いていたものも
一着手 「着手」とは「ある仕事に手をつけること。とりかかること」
 かたがた。方方。いろいろのことを考え合わせると。いずれにしても。どっちみち。あれこれと。なにやかやと。さまざまに
 徒。あだ。空虚な。むだな。実を結ばない
好圖 好事。かわった物を好むこと。ものずき。
榛木 カバノキ科の落葉高木。各地の山野の湿った所に生え、水田の畔に植えて稲掛け用としたり、護岸用に川岸に植えたりする。
 もず。スズメ目モズ科の鳥の総称。この科の鳥は全長18~35cm。先端がかぎ状になった強いくちばしと鋭いつめのあるがっしりした脚をもち、頭は大きく、丸みを帯びた体つきをしている。
 ひよどり。ヒヨドリ科の鳥。大きさは全長約27センチメートルで、ツグミぐらい。背面は灰褐色で、腹は淡く、胸は灰色で白斑がある。頭頂の羽毛は灰色で長く、やや羽冠状を呈する。ピーヨピーヨと大きな声で鳴く。
村田銃 薩摩藩・日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃の国産化を図る過程で開発し、1880年(明治13年)に日本軍が採用した最初の国産小銃。
おん廻し 回す。人や物を必要とする場所へ移す。物事をとどこおりなく進める。その立場に置く。配慮などを行き渡らせる。
甚い 心に苦痛を感じるさま。精神的につらい。「欠損続きで頭がいたい」。弱点を攻撃されたり打撃や損害をこうむったりして、閉口するさま。「いたいところに触れられる」「いたい目にあう」「この時期に出費はいたい」。俗に、さも得意そうな言動がひどく場違いで、見るに堪えないさま。また、状況や立場・年齢にふさわしくない言動が周囲をあきれさせるさま。 (甚い)程度のはなはだしいさま。多く、連用形を用いる。→甚(いた)く。動詞の連用形に付いて、その動詞の表す状態がはなはだしい意味を示す形容詞をつくる。「あまえいたし」「うもれいたし」など。

「きらく会館」の謎?

文学と神楽坂

 地元の方から神楽坂3丁目にあった「きらく会館」という話を送ってくれました。

 商店や住人の名を個別に記した住宅地図は情報量が多く、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」などの撮影時期の特定に役立ちます。一方、その記載は必ずしも正確でなく、逆に謎を生んでしまうこともあります。昭和30年代に短期間だけ神楽坂3丁目にあった「きらく会館」も、そのひとつです。このブログの「神楽坂通り(3丁目南東部)」で詳細に検討しているエリアですが、記事には名前も出てきません。
 場所は神楽坂を登り切る直前、通りの南側の「龍公亭飯店」と「ヒデ美容室」の間です。老舗の多い一角で、戦前はここに「助六はきもの店」がありました。
 第2次大戦で焼け野原になった後、店が戻ってきた様子が昭和27年(1952)の写真ID 4794です。「龍公亭」は平屋。「助六」は「龍公亭」を挟んで反対側に移りました。「龍公亭」の向こう隣、建築中または改装中の建物が、のちに「きらく会館」になる場所です。さらに坂下よりの2階屋が「ヒデパーマ」で、壁面に大きく「パー〇〇」の字が見えます。
 アルバム 東京文学散歩(創元社、1954年)掲載の写真では店は開業しています。昭和28年(1953)のID 9504は凸型の「龍公亭」の向こうに、昭和32年(1957)のID 4943では「ヒデ美容室」の手前に建物があることが分かります。いずれも業種も店名も分かりません。『神楽坂まちの手帖』第12号の「神楽坂30年代地図」では「蘇家成」の名があります。
 この時期の住宅地図を見ると
●人文社
1960 → 1962 → 1964
空家 → 空家 → きらく会館
●住宅協会
1962 → 1963 →1964→ 1965 → 1968
()→()→ きらく会館 → 同→ 同
とあり、昭和39年(1964)ごろに店ができたように見えます。
 しかし写真と照合すると矛盾が出てきます。
 ID 14-15は昭和37年(1962)-昭和40年(1965)と推測される写真です。「ヒデ美容室」の手前は取り壊されています。同様にID 12903-12905でも「龍公亭飯店」と「ヒデ美容室」の間は空地です。これも昭和37年(1962)-昭和39年(1964)と思われる写真です。
 一方、住宅地図の「きらく会館」の場所には、すぐ後に「五条ビル」が建ちます。完成は昭和42年(1967)で、住宅地図では昭和45年(1970)から「コーヒー五番(五条?)」が出てきます。ただ昭和41年(1966)のID 7658や「メトロアーカイブ 坂のある街 昭和41年」には、外観的には完成している「五条ビル」が写っています。5階建てのビルですから、前年の昭和40年(1965)には建築を始めていたでしょう。
 では「きらく会館」は、いつあったのか。ID 14-15の空地に建築して、すぐ壊してビルにするのは不自然です。それ以前の空き家だったところに昭和30年代半ばに店を出し、数年で閉店したのではないでしょうか。だとすればID 14-15ID 12903-12905は、「きらく会館」取り壊し後の撮影として時期を絞り込みやすくなります。
 確たる証拠はありません。ひとつだけ手がかりらしきものはID 18(下図)です。昭和37年(1962)頃と思われる写真ですが、拡大するとはるか坂上に「ヒデ美容室」の看板と、その向こうに洋酒のボトルのような看板が見えます。並びの店(山本薬局、龍公亭飯店、助六はきもの店)ではなさそうなので、これが業種不明の「きらく会館」かもしれません。
 なお「きらく会館」の場所は「五条ビル」が建った後、平成19年(2007)に隣の「ヒデ美容室」と一体で「神楽坂センタービル」になりました。「ヒデ美容室」は日本髪、着付けなど和装を主体とする美容院で、今も同ビル内にあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18の拡大図 神楽坂下から坂上方向

神楽坂2丁目(写真)昭和37~39年 ID 4とID 12914

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 4とID 12914を見ていきましょう。ID 12903からID12914までは雨の日の神楽坂通りの写真で、昭和37~39年(1962-64)頃と思われます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4 神楽坂途中から坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12914 神楽坂

 撮影の方向は、神楽坂2丁目から坂下に向いています。雨は現在上がっています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道は石敷いしじき、石だたみでした。歩道の表面には文様があります。電柱は向かって右側だけで、その上には大きな柱上変圧器があります。
 パチンコマリーとニューイトウの間に横丁の入口があり、奥のレストラン京屋や神楽坂ビリヤードの看板が出ています。横丁に入る部分には歩道と車道の段差を解消する小さなスロープがあります。スロープの脇に街灯とは別に四角張った柱が立ち、上部に「火災〇〇〇」の表紙が突きだしています。街頭型の火災報知器で、柱の下寄りの丸い部分に消防への通報スイッチがあったと思われます。
 横丁に沿ったパチンコマリーの壁面には佳作座の上映案内があります。読みにくいですが、3段のうち上段は「非情の町」(日本公開1962年1月27日)、中段は「ボーイハント」(同1961年5月2日)か「ガールハント」(同1961年12月26日)ではないでしょうか。左端も「(上)映中!」で、こちらはメトロ映画と思われます。マリー、佳作座、メトロ映画とも熊谷興業の経営でした。
 ニューイトウの前の車道は穴を補修してあります。石敷の補修は手間がかかるので、アスファルトで応急処置をしたような感じです。この穴は同時代のID 17-19では確認できません。また横丁へのスロープはID 17にはありません。ID 12903-12914の方が少し後の写真と思われます。

神楽坂2丁目→坂下(昭和37-39年頃)
  1. 陶柿園
  2. (珈琲 音楽 坂)
  3. この辺りで道路に修復後の穴
  4. 「靴はニューイトウ」「洋食 レストラン 京屋」「ビリヤード 神楽坂
  5. 佳作座「非情の町」「〇・ハント」「男の罠・女〇〇」
  6. 袖看板「パチンコはマリーで」
  7. 街灯。「火災〇〇〇」。掲示「神楽坂」
  8. 志乃多寿し
  9. (メトロ映画)
  10. 床屋のサインポール(理容バンコック)
  1. 街灯
  2. ダイヤモンド毛糸 株式会社 大島糸店
  3. (食品 丸八)
  4. たばこ ☎(果実 田金)
  5. オザキヤ(靴)
  6. 電柱「 大久保
  7. 御料理 蒲焼 うなぎ 志満金

住宅地図。1963年

神楽坂2丁目(写真)昭和37~39年 ID 13, 12912

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 13とID 12912を見ていきましょう。ID 12903からID12914までは雨の日の神楽坂通りの写真で、昭和37~39年(1962-64)頃と思われます。

新宿歴史博物館 ID 13 神楽坂途中、さわや付近から坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12912 神楽坂

 撮影の方向は、神楽坂2丁目から坂下に向いています。雨は現在上がり、ワイシャツの人も見えます。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道には凸凹が目立ち、石敷いしじき、石だたみでした。歩道の表面には文様があります。電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。またニューイトウの傍には穴の跡が残っています。

神楽坂2丁目(坂上→坂下)
  1. ポーラ化粧品。リカ(美容室)。ID 4943(昭和32年)やID 57(昭和33年)では「ルナ美容室」の看板が見えます。この写真では「リカ」に変わっています。昭和44年に「神楽坂ビル」になる場所です。
  2. 駐車禁止 「午前AM000ー正午NOON 」「午前1000ー正午迄/〇〇〇〇〇〇を除く」「東京都公安委員会」
  3. 喫茶クラウン Crown
  4. 乃木(は「」の変体仮名)
  5. 陶柿園
  6. (珈琲 音楽 坂)
  7. この辺りで道路に修復後の穴
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 袖看板「パチンコはマリーで」
  1. 資生堂化粧品  資生堂ビューティケイク 東京〇〇〇 十奈美(十奈美)
  2. 街灯と標示「神楽坂」
  3. 洋装生地 林屋
  4. 電柱看板「石川歯科」「 倉庫完備 大久保
  5. クスリ(神楽坂薬局)
  6. 夏目写真館
  7. 電柱看板「石川歯科」「 倉庫完備 大久保」
  8. 神楽堂(せんぺい)
  9. ダイヤモンド毛糸 株式会社 大島糸店(ビル4階。完成は昭和34年)
  10. (食品 丸八)
  11. たばこと☎(果実 田金)
  12. オザキヤ(靴店)

住宅地図。1963年

神楽坂2丁目(写真)昭和37-39年 ID 12911

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12911は、神楽坂2丁目から坂下を見て撮ったものです。ID 12903からID12914までは雨の日の神楽坂通りの写真で、昭和37~39年(1962-64)頃と思われます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12911 神楽坂

 今は雨は降らず、街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。2丁目が終わって3丁目が始まる少し前から、車道にOリングのくぼみがありました。それより下はくぼみはなく、石敷いしじき、石だたみでした。また傘の尖端上部に穴の跡があり、また歩道の表面には文様があります。電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂2丁目→坂下(昭和37-39年頃)
  1. 資生堂  のぼり「資生堂化粧品」(さわや
  2. 亀井鮨
  3. 街灯。「神楽坂」の標示
  4. ポーラ化粧品。リカ(美容室)。ID 4943(昭和32年)やID 57(昭和33年)では「ルナ美容室」の看板が見えます。この写真では「リカ」に変わっています。昭和44年に「神楽坂ビル」になる場所です。
  5. 交通標識 (駐車禁止)
  6. 喫茶クラウン
  7. 乃木(は「」の変体仮名)
  8. 陶柿園
  9. (珈琲 音楽 坂)
  10. この辺りで道路に修復後の穴
  11. ニューイトウ(靴)
  12. 袖看板「パチンコはマリーで」
  1. 資生堂化粧品  資生堂ビューティ(ケイク)東京〇〇〇 十奈美(十奈美)
  2. 洋装生地 林屋
  3. クスリ(神楽坂薬局)
  4. 電柱看板「石川歯科」「 大久保
  5. 4階のビル。完成は昭和34年。(大島ビル)
  6. 電柱看板「石川歯科
  7. オザ(キヤ)(靴)

神楽坂5丁目(写真)昭和37-39年頃 標識ポール ID 3、ID 12906、ID 12907

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 3、ID 12906、ID 12907を見ていきましょう。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありませんが、歩道は痛んで、ぼろぼろです。降雨があるけれど、男性は半袖です。撮影の方向は、神楽坂5丁目から神楽坂上交差点に向いています。

宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 3 神楽坂上から早稲田方向

宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12906 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12907 神楽坂

神楽坂5丁目→6丁目(昭和37-39年頃)
  1. 街灯「神楽坂」
  2. 道路標識(駐車禁止)
  3. 東電トレードマークと東電(サービスステーション)
  4. 尺八神楽坂教室
  5. 大久保通り。背面板(ゼブラ柄)がある信号機
  6. 道路標識(横断歩道)
  7. 電柱看板「歯科 川畑
  8. 協和銀行
  1. 山下漆器店 割写漆器 漆藝(品)食卓 5月人形
  2. 河合のせともの
  3. 標識ポール「神楽坂」
  4. 大久保通り。
  5. 電柱看板「ナカノ」
  6. 田中店(お菓子)
  7. 道路標識(駐車禁止)
  8. 電柱看板「洋装店 ナカノ」。現在は3丁目のナカノビル
  9. ナショナルショップ(篠原電材店)

 右側に瀬戸物の河合陶器店、上に山下漆器店が並んでいます。2店は平成29年(2017年)、道路の拡幅があり、なくなりました。河合陶器店の向こう側、都電ごしに見える6丁目の右手は果物の「田中屋」。左側の上には協和銀行の看板があります。
 右手の上に標識ポール「神楽坂」が立っています。なにか「神楽坂」ではなさそうですが、表裏の二方向が必要なので、こうなっています。
「神楽坂」交差点では、昭和35年頃までには標識ポール「神楽坂」がなくなっています(新宿歴史博物館 ID 5510)。つまり街灯の「鈴蘭灯」はあるが、標識ポール「神楽坂」はなくなっています。

昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 以下は地元の方が発見したことですが、新宿歴史博物館 ID 7430(撮影は昭和45年11月14日)では、標識ポールはまだ残っている。写真の左側の矢印が「神楽」を隠しているけれど、標識ポールがある。

s新宿歴史博物館 ID 7430 神楽坂 坂上風景 昭和45年11月14日

 地元の方の考えでは「この標識ポールは、まだ信号機がなかった時代(ID 23)からありました。信号機が出来る時、坂下はすぐ側にあって視認性が悪くなってしまうので向きを変えた(ID 21)のでしょう。すると角家の前に突き出すことになる。『パチンコ・ニューパリー』を建てる工事の時に苦情が出て、早い時期に撤去されたと想像します。一方、坂上の標識は信号機とは反対側にあるので、長くそのままだったのではないでしょうか」
 では、元に戻って、ID 3やID 12907はいつ撮ったのか? 電柱1本は 街灯1つで、これは昭和36(1961)年以降しかわからない。車道は平坦で、歩道はでこぼこが多い。ID3はおそらくID 17と似た時期(昭和37年~39年頃)でしょう。
 ID 12903からID12914までは、すべて雨の日の神楽坂通りの写真です。これらが同じ日に撮ったとしたら、ID 12904ID 12910で検討したように、昭和37~39年(1962-64)頃ではないでしょうか。

新宿歴史博物館 ID 17 神楽坂下から坂上方向 昭和37年頃

神楽坂6丁目(写真)昭和45年 路面電車 13系統 加藤嶺夫氏

文学と神楽坂

 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)で「神楽坂通り 新宿区神楽坂6-4先から東方」は昭和45年3月15日、神楽坂6丁目から神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)を通り、神楽坂5丁目などを撮ったものです。左右に走るのは都電13系統で、この年の3月27日に廃止されました。その12日前の撮影です。

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石、歩造があります。ゆるやかな坂が大久保通り。信号の向こうは神楽坂通り(神楽坂5丁目)で、こちら向きの一方通行になっています。
 中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。この奥に黒の標識があり、不明ですが、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430を見ると、表裏に2枚張り合われた「神楽坂」だったと分かります。さらに奥には「神楽坂通り/美観街」があります。
 では信号の手前の神楽坂通りはどうでしょうか。センターラインがあるので一見、対面通行に見えます。しかし左側にある「駐車禁止」の標識には0-12(午前中)の時間表示があります。午前中の車の向きに対する標識と考えられ、逆側には12-24(午後)の標識があったはずです。これはID 9909と同じです。つまり手前の神楽坂通りも一方通行だったのです。

神楽坂6丁目→5丁目(昭和45年)
  1. 喫茶室 2階 COFFEE 白砂(田中屋)
  2. 大久保通り
  3. 山下漆器店
  4. 割烹 うなぎ (大和田
  1. 街灯標識「神楽坂通り」 この場所は神楽坂5丁目なので、信号の向こうと同じ円盤形の街灯でした。左側の街灯にはありません。
  2. 電柱看板「歯科 川畑
  3. SEIKO(タイヨウ時計店)
  4. 大久保通り。背面板(ゼブラ柄)がある信号機
  5. 「宅地建物取引 有限会社 つくば商事」 「営業案内/土地・建物・売買・管理/賃貸借・周旋/電話買取及販売/不動産一般代理」 突き出し看板「たばこ/DPE つくば」(つくば商事)
  6. COFFEE&SNACK カレッセ サントリーバー(つくば商事の2階)
  7. 電柱看板「 東電のサービスステーション」
  8. 薬ヒグチ
  9. 季川
  10. 三菱銀行(仮店舗)
  11. 麻雀
  12. 大きな建物(中河電気) 現・八潮ビル 昭和43年(1968年)9月竣工
  13. 遠くに煙突(改築予定の三菱銀行旧店舗)

住宅地図。1973年

神楽坂青年会「神楽坂まっぷ」(神楽坂青年会、1985年)

神楽坂5丁目(写真)縁日 昭和41年 ID 12280と12282

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12280と12282では、 昭和41年(1966年)毘沙門天の縁日を撮っています。「縁日」は神社仏閣と縁のある日で、普段以上に御利益があるとされました。毘沙門天の縁日は、戦前は寅(寅毘沙)と午の日の10日に2度でしたが、戦後の昭和29年7月から毎月5日の夜店が出店し、やがて3度になり、屋台の夜店で賑わいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12280 神楽坂毘沙門天の縁日

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12282 神楽坂毘沙門天の縁日[/captio

 なお、ID 12272と73、75と76と同日の撮影と思われ、やや西側の5丁目、毘沙門天善国寺の門前です。図示した位置の屋台を狙っています。

[caption id="attachment_68285" align="aligncenter" width="1600"] 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8300 善国寺

 屋台の客は長袖で、コートを着ている人もいます。電柱にはクリスマスらしき飾りがあります。石囲いの上には小屋根を仮設し、提灯を2段に並べています。これは善国寺のイベントと思われるので、日蓮宗のお会式(10-11月ごろ)に近い日の縁日でしょうか。

善国寺(昭和41年)ID 12280と12282 左から
  1. 石囲い。戦前のもので、角柱には寄進者の紋と掘り文字(弁松?)が見える。おそらく昔の芸者屋。
  2. 小屋根と並び提灯。上段は「食料品 丸〇」。下段は「足袋 ワイシャツ 赤井商店」「山田紙店」が確認できる。
  3. 門脇には大きい字で書かれた看板「易占 毘沙門天 藤墳蕙秀 電話 269 2769番」との6本線(こう)。ここで易占えきせんとは算木さんぎ筮竹ぜいちくを用いてする易の占い。
  4. 切り花と桶。花は菊か。ここは庫裏くり(住職や家族の住む場所)に続く脇門で、日中に花屋が出ていた。この日は夜も営業していたようです。
  5. レストラン フルーツ 田原屋
  6. パチンコ おおとり
  7. 電柱 「毘沙門横 入る 料亭 松ヶ枝」「質 (大久保)」
  8. 日本勧業(信用組合)
  9. 美味栄養 七色唐がらし 江戸名物 背後に商品をしまう「茶」箱
  10. おもちゃ屋。戦車、戦闘機、ダイヤル式電話 公衆電話、鉄道の列車、オバケのQ太郎(漫画。略してオバQ)、ミニカー類(パトカー、救急車、タクシー、ミキサー車)が確認できる。オバQの前にあるのは大魔神か。電話の向こうの操作卓のようなものは分かりません。
  11. 街灯に突き出し看板「神楽坂」。星、クリスマスの飾り
  12. (駐車禁止)12-24
  13. 富士フイルム(尾沢写真材料)

神楽坂1丁目(写真)昭和54年牛込見附→飯田橋駅西口 ID 11874とID 11876

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874とID 11876は、昭和54年(1979年)の神楽坂1丁目の牛込見附から飯田橋駅西口に向かって撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874飯田橋駅前 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11876飯田橋駅前 牛込見附

 右側の歩道が狭くなっている部分が牛込橋です。この少し手前から向こうは千代田区富士見になります。右側の自動車のフロントグリルには正月飾りがついています。ID 94、ID 11873と同時の1月17日の撮影でしょう。
 車道はアスファルト舗装で、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装です。飯田橋駅の前の橋の部分はおそらく戦前から続く石畳でしだが、ここでは見えません。
 右の商店の前には、神楽坂通りと同じ円盤型の街灯が2つあり、「神楽坂1丁目」で、店は神楽坂通りの商店会の会員。一方、左側は水銀灯のようで、同じ新宿区でも「神楽河岸」という別の町でした。さらに奥の牛込橋のあたりには別の街灯があり、これは千代田区の管轄でしょう。
 交差点名の「牛込見附」は、現在は「神楽坂下」に変わりました。交通標識は「逆転式一方通行の延長」の写真と同じで、「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」「スプーン・フォーク・スープの標識」。「30」は最高速度が30km/h。右側で、上には「調整中」「自転車を除く」、下には「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」です。さらに「立喰そば 飯田橋」の道路側に「歩行者通行止め」があります。

神楽坂1丁目(昭和54年)牛込見附→飯田橋駅西口
  1. 波板の囲い(旧・神楽坂警察跡地、再開発準備中)
  2. 看板「神楽坂 ナカノ」(中野洋装店)
    (ここから千代田区)
  3. 飯田橋駅西口駅舎
  4. 巨大な日本歯科大学体育館
  5. ビリヤードニッポン(濃い灰色にみえるビル)
  6. ホテルグランドパレス(遠くかすんでいるビル)
  7. 看板「麻雀 ビリヤード」
  1. 東山(酒蔵)
  2. 麻雀 COFFEE SHOP
  3. 電柱看板「質 大久保
  4. (白)鷹 とんかつ 森川
  5. 金鷹 〇〇〇/ラーメン(二鶴)
  6. 立喰そば 飯田橋<
  7. 電柱看板「とんかつ 森(川)」
    (ここから千代田区)
  8. 富士見町教会(黒い低い建物)
  9. 東京警察病院(大きな白いビル)

住宅地図。1976年

神楽坂1丁目(写真)外堀通り 昭和54年 ID 94とID 11873

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 94とID 11873は、昭和54年(1979年)1月17日、神楽坂1丁目で、外堀通りに沿って撮ったものです。

94 風景 昭和54年1月17日

11873神楽坂 外堀通り

 ID 94については地元の人の解説があります。

 写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。
 写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。
 懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

 もう一つ、佳作座の「作」と「座」の間に出ているものはなあに? 「部」はわかります。ほかはわかりません、ものぐさ親父「いまさら鉄ちゃん!?」の品川駅前暮色~都電3番線に乗って~昭和42年には、かすかに全体が写っています。どうやら「婦人倶楽部」と読めます。後の時代には「週刊現代」になるので、講談社の広告スペースだったでしょう。

牛込見附から飯田橋方向(昭和42年)

 神楽坂飯店の下「ば/うどん」は「そばうどん」(立ち食い店)です。
 また、転回禁止()と自転車及び歩行者専用()があります。転回禁止とは進む方向を180°変える行為で、Uターンやスイッチターンのこと。自転車及び歩行者専用とは、この標識より先、普通自転車と歩行者に限って通行できることです。

志満金(写真)昭和54年 ID 11871

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11871は、昭和54年(1979年)1月、神楽坂2丁目の志満金を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11871 神楽坂 志満金、

 左から順に見ていくと、敷地内に外灯(歩道の外灯とは別)、志満金と食品サンプルケース、壁面に「志満金」と正月飾り、のれんの「かぐら坂 志満金」、玄関扉に「賀正 志満金」の貼り紙。
 右側の入り口には蛍光灯の看板「中国料理 B1 志満金」、中国料理らしい食品サンプルケース、ビル名表示「SHIMAKIN (BUILDING)」、おそらくB1の店内写真。
 写真が切れている右には上階へのエレベーターがあり、3-5階に「キッチンジロー」が入っていたことがID 11869で分かります。

当時のジロー店内 「気まぐれ本格派(1977年)」16話


 後にジローは4-5階に店舗を縮小。その後もジロー系列の別ブランドの飲食店が合計45年間にわたって入っていましたが、コロナ禍で2022年3月に閉店しました、と地元の方。

神楽坂青年会「神楽坂まっぷ」(神楽坂青年会、1985年)

 

新規街灯と古い街灯

文学と神楽坂

 地元の方が「新規街灯と古い街灯」という記事を書いてくれました。新規街灯といっても普通の街灯もありますが、ユニークな街灯もあるんです。

神楽坂通1-5丁目の街灯が2022年2月に更新されたことは、このブログの記事の通りです。しかし例外的に、古い街灯が残っている場所があります。

【1】神楽坂上交差点

神楽坂通りの最も角になる位置に、古い街灯が一本だけ残っています。ここは遠からず大久保通りの拡幅で道路になる場所なので、更新しても無駄になると考えたのでしょう。

神楽坂上 新旧の街灯

なお神楽坂通りの入り口(坂下)と出口(坂上)の街灯は、他とは違って高い位置に照明があります。また照明の下の横木(神楽坂の旗)がなく、代わりに丸いリング上の金物が上下にあります。これは左右の街灯の間に横断幕をはることを想定したものです。

神楽坂上街灯

大久保通りの拡幅がすめば、神楽坂の出口は高い街灯の場所まで後退し、角の店はコンビニになるのです。

【2】毘沙門天の境内灯

毘沙門天善国寺の本堂の前には、石虎と並んで一対の境内灯があります。この境内灯が、通りの古い街灯に置き換わっています。

毘沙門天境内と街灯2022

毘沙門天境内灯2022

時期は分かりません。ただ2021年6月のストリートビューでは別の境内灯(下図)が写っています。おそらく通りの街灯を取り外したものを再利用したのでしょう。

毘沙門天境内灯2021

善国寺はID 8271-8272では、街灯が円盤形になった後に旧式のスズラン灯を境内灯として使っています。この境内灯は気まぐれ本格派(1977年)(下図)や、ID 9909-9911ID 11481(1986年)では街灯と同じ円盤形に変わっていますが、この時は街灯も円盤形でした。必ずしも街灯を再利用するわけではなさそうです。

気まぐれ本格派 第13話(1977年)

8272b善国寺


ID 8271-8272 境内灯(12)は3つありますが、旧式の鈴蘭灯は中央の青い6角形です。

神楽坂2丁目(写真)昭和54年 神楽坂通り ID 11869

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11869は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂2丁目を坂上から坂下に向かって撮ったものです。なお、ID 88とID 11868はほぼ同じ時刻に神楽坂3丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11869 神楽坂

 車道はΟリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、側溝と縁石があり、歩道はアスファルト舗装です。街灯は昭和36年(1961)以降の巨大な円盤形で、「神楽坂通り」を覆うように木と人工葉があり、正月の飾りとして、足元には細長い竹と松が結びつけられています。さらに奥には標識「神楽坂通り/美観街」があります。

神楽坂2丁目(昭和54年)
  1. (ビ)クターレゴ―ド リード商会。チャコ。でんでんむし。(神楽坂)ビル
  2. やっ(「」は変体仮名の「こ」)
  3. 音楽 坂(珈琲)
  1. TONAMI(十奈美化粧品)
  2. 巴有吾有」(おそらくシャッターの貼り紙は年賀で、正月休みでしょう)
  3. 地図によれば「仲門堂」(閉鎖中)
  4. 西川みゆき
  5. 電柱看板「 大久保」「歯 石川
  6. 夏目鍼灸治療/夏目写真館 夏目写真館。PHOTOGRAPH
  7. (消火栓標識)と消火栓広告「(神楽坂)針灸院
  8. 「麻雀」
  9. 電柱看板「 大久保」「歯 石川」
  10. 「純喫茶 カ(ブト虫)」
  11. 大(島歯科)
  12. 「(ジロ)ー 5F 4F 3F う」(志満金)(下の写真を)
  13. 丸和(証券)
  14. 神楽坂通り/美観街
中央に(横断歩道)2つ

住宅地図。1976年

気まぐれ本格派 25話 赤字は[ジロー」(志満金)

善國寺(写真)昭和54年 ID 11865

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。これは[A]とします。

[A]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11865 善国寺

 同じく昭和54年1月に善國寺を撮ったもの[B]があり、それが下のID 11830です。2つとも昭和54年1月の撮影ですが、いくつか違いがあります。

[B]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 また、ID 9909は昭和50~51年に撮ったもので、これを[C]として3つを比較します。

[C]新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

 立て看板[A]は「歳旦祝祷祈願会」、[B]は「歳旦初寅祈願会」です。
 歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。
 祝祷しゅくとうとは宗教行事の終りに会衆や人物に祝福を求める祈り。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。祈願きがんとは神仏などに祈り願うこと。
「毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったことから、寅毘沙と呼ばれる」(善国寺公式サイト)とされ、寅の日を大事にしました。
 昭和54年(1979年)の初寅は1/11(木)でした。[B]は11日以前、[A]はそれ以降の撮影と想像できます。
[A]と[C]には、のぼり旗「奉献開運大毘沙門天」があがっています。添え書きとして[A]は「神楽坂興隆会」、[C]は「神楽坂」しか見えませんが同じものでしょう。「神楽坂興隆会」は地元の方によると「善国寺の応援を主目的にした地元の団体。後に、この団体が中心になって現在の赤い山門を寄進した」とのこと。確かに今の山門には「神楽坂興隆会」の銘板があります。

神楽坂興隆会

[B]にのぼり旗がないのは正月休み中の撮影だったからかも知れません。
[A][B]とも賽銭箱には「志納」とあります。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
[A]は階段脇に一対の提灯があって、「毘沙 善國寺」と書かれています。本堂の長押なげしの中央は正月飾りがあります。その奥の内陣には山号の「鎮護山」。ガラスケースに入っているのは、日蓮宗の祭礼で使うまといでしょうか。ガラスケースの前にも賽銭箱があり、「浄心」と筆書で書かれているようです。

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 鮒忠 五十鈴 ID 11864

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864は、昭和54年(1979年)1月、神楽坂5丁目で鮒忠や五十鈴などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864 神楽坂 鮒忠、五十鈴前

 車道はアスファルト舗装。街灯は円盤形の時代ですが画角から外れていて、下部の「神楽坂通り」の標識しか写っていません。斜めに出ている造花は常設の飾りで、立っている竹は正月用と思われます。逆転式一方通行の向きから午後1時以降に撮ったのでしょう。
 大きく「初荷」と書いたトラックが走っています。初荷とは「年が明けて、最初に工場や倉庫など物流拠点から販売店へ向けて商品や製品が出荷されること。元々は、初売と同じく1月2日に行われていたが、今日では官公庁や多くの企業で業務が開始される1月4日に、新年の初出荷が行われることが多い。その際、昔は『初荷』と書かれた旗やのぼりをつけたトラックが走っていたが、高速道路などでの安全性の点から、現在ではほとんどなくなっている」(ウィキペディア)

神楽坂5丁目(昭和54年)(右→左)
  1. 近江屋(乾物店)
  2. ライトバン。GOLF GOODS WESTERN。自家用。この「WESTERN」のマークはスポーツバッグなどでよくありました。
  3. 中河電気(電気店)(テ)レビ/(神楽)坂店、ボタンでんわ特約店 ナショナル、Lo-D(日立製作所のオーディオブランド)
  4. トラック 「初荷」 フロントグリルに正月飾り
  5. 「文藝春秋 ロゴマーク 文春文(庫)」 芳進堂 TEL(28〇)2978、(週刊)新潮 芳進堂、宣伝用のぼり(おそらく「日立ソリッドステート キドカラー」とCMキャラクターの巨人軍・王貞治選手 少年誌の付録か)
  6. 街灯標識「神楽坂通り」。造花の飾りと竹の飾り
  7. 電柱看板「川島歯科
  8. 地蔵坂(藁店)
  9. 鮒忠、神楽坂店。「やきとり殿堂 鮒忠 神楽坂店 TEL 280-」「忘年会・新年会ご予約承ります。280-6223」「肉まん あんまん」
  10. トラック。
  11. (甘なっ)と。御菓子司。五十鈴。
  12. (パ)チンコ おおとり

神楽坂6丁目(写真)昭和54年 乾海苔問屋 ID 11862-11863

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11862とID 11863は、昭和54年(1979年)1月、神楽坂6丁目で乾海苔問屋を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11862 [神楽坂上] 乾海苔問屋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11863 [神楽坂上] 乾海苔問屋の正月飾り

ID 11862の拡大図

 ID 11862について、左端の街灯の下には「神楽坂商栄会」があります。この会は神楽坂6丁目の商店会のことで、現在の神楽坂商店街振興組合(昭和58年設立)の前身です。次の電柱にはポスター「6.25/左翼連合結成/全国総決起集会」が少なくとも4枚、その下に「日本電信電話公社」(NTTグループの前身)のロゴマークがあります。
 店舗は乾海苔問屋です。店内に「新海苔」、ガラス戸の左右に「賀正」「地方発送承ります」のポスター。右端のポスターは内容不明ですが「〇〇堂」らしく読めます。
 右から左にかけて、ゆるやかな上り坂です。店の床と、歩道の段差が少しずつ狭くなっているのが分かります。ダラダラした上りは神楽坂6丁目商店街の特徴です。
 ID 11863は店内の正月飾りを狙っています。上端で見切れている半円は何かの組合員証のようなものと思われますが、残念ながら店の手がかりはありません。
 では、この乾海苔問屋はどこでしょうか。普通に考えれば折井海苔店(神楽坂6-15)です。同店は1986年11月に「折井ビル」になっていて、それ以前の姿はよく分かりません。
 一方、1970年の地図には「小松海苔店」(神楽坂6-24)もあり、1973年10月に「小松ビル」になりました。この店である可能性もあります。ただ現在もある小松ビルの1階は歩道から少し後退していて、段差はなくスロープです。この写真とは様子が違うので、折井海苔店でしょう。
 現在は折井ビル、小松ビルとも1階は別の店舗になっています。

折井海苔店

小松海苔店

海苔店2軒。店舗の傾きと道路の傾き

神楽坂商店街振興組合「神6なび」2014年

善国寺参道の石畳

文学と神楽坂

 地元の方が善国寺参道の石畳という随筆を送ってくれました。「毘沙門さまの写真を見ていて発見があったので、まとめました」と、地元の方。

 かつての善国寺の境内は未舗装で、大きな敷石を並べて参道にしていました。全体の様子は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の ID 8271-ID 8272(昭和44年頃)が分かりやすいようです。正門から本堂に続く参道と、西側の脇門から庫裏に続く道、あとは境内各所を結ぶ敷石です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

『牛込区史』(臨川書店、昭和5年)と、中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社、昭和46年)に掲載されている戦前の写真は、正門から本堂までずっと5列の石が敷かれています。

東京都旧区史叢刊「牛込区史」臨川書店。昭和5年、昭和60年復刻版。

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

 この敷石は戦後も使われたと想像されます。ID 9503(昭和20年代後半)には、昭和26年(1951年)に再建された木造の毘沙門堂(本堂)が写っています。参道の石畳が、途中でよじれたようになっている部分があります。良く見ると手前から途中までの石敷は5列。よじれたような部分から先は石のサイスが大きくなり、本堂との間は4列です。再建本堂が戦前より小規模で、堂前まで石畳を伸ばしたのかも知れません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 昭和44年(1969年)頃、ID 8245も同様に本堂手前の敷石は4列です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 本堂は、昭和46年(1971年)にコンクリート造で建て替えられ、規模も大きくなりました。この時に敷石を改めたと思われます。昭和54年1月のID 11830では幅の異なる石が左右対称に敷かれ、さらに境石に挟まれている様子が分かります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 同時期のID 11833では、毘沙門横丁の石囲いに立てかけるように石材が写っています。これが撤去した古い敷石である可能性が高いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 その後、参道の石畳は敷石6列に改められ、少し全体の幅も広くなったようです。また境内は北西側の側の遊園部分を除いて舗装されて現在に至ります。いつ舗装されたかは分かりませんが、境内にあった駐車場を毘沙門横丁側に移した時か、正門を今の赤い山門に変更した平成6年(1994)かもしれません。

舗装 アスファルト舗装です。

善国寺の舗装


神楽坂落語まつり

三遊亭金翁

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂落語まつり」について送ってくれました。ここで出てくる三遊亭さんゆうてい金翁きんおう氏は、落語界最古参で、唯一の戦中入門の落語家です。1970年『淀五郎』で芸術祭賞優秀賞受賞。ほかに古典落語の演目では『薮入り』『茶の湯』、正月しか口演しない『七草』など。生年は昭和4年(1929年)3月19日。

神楽坂落語まつり」というイベントが毎年、開かれています。第1回は2009年。2020年は新型コロナウイルスの影響で中止。21年に復活し、22年で第13回になります。
株式会社粋まち」が事務局となり、新宿区が共催しています。
「粋まち」のサイトには次のように書かれています。
「昭和40年代の三遊亭小金馬(現金馬)の勉強会を皮切りに、毘沙門天善國寺書院では落語会が続々開催され、人気・実力兼ね備えた多くの噺家たちが羽ばたいていった街でもあります。その伝統を受け継ぎ、神楽坂ならではの新たな話芸の魅力も加えて発信していきたいと、『神楽坂落語まつり』は地元の方々の協力を得て、2009年に始まりました」
 興業情報サイト「カンフェティ」に、第10回の「神楽坂落語まつり」の記事があります。プロデューサーである古今亭菊之丞師匠と、その時に襲名披露した二代目立花家橘之助師匠(前名・三遊亭小円歌)のインタビューです。
 この中で菊之丞師匠は
「1970年代、今の毘沙門天善国寺の舞台が新設された時に落語の会を始められたのが金馬師匠の勉強会『金馬いななく会』でした。神楽坂落語の原点が金馬師匠なんです」と話しています。
 話の主役である四代目三遊亭金馬師匠(現二代目三遊亭金翁)は、前名の三遊亭小金馬時代にNHKのコメディ番組「お笑い三人組」で大スターになりました。
 番組終了後、タレントではなく落語家として精進するために始めたのが「金馬いななく会」だそうです。新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829には、毘沙門寄席として「金馬いななく会」の案内が写っています。四代目三遊亭金馬師匠は2020年に二代目三遊亭金翁を襲名しています。
「カンフェティ」のインタビューに出てくる立花家橘之助師匠も神楽坂と縁のある人です。学生時代に神楽坂にあった俳優養成所に通っていて、講師にきた三代目三遊亭円歌師匠にスカウトされ、芸の道に入ったことを話しています。
 立花家橘之助の初代は、女優・山田五十鈴の代表作である舞台『たぬき』の主人公です。明治から大正にかけて女流音曲師として圧倒的な人気だったと語り継がれています。その墓所である清隆寺赤城元町1-27にあることも何かの縁でしょう。
 再開後の「神楽坂落語まつり」は善国寺の毘沙門ホールではなく他の会場で開かれています。ホールが狭くて換気に問題があるからと思われますが、「毘沙門寄席」ではなくなってしまったのが残念です。
金馬いななく会 「先代金馬の家の電話番号が1779番でイナナクと読ませていたことによるものだろう」と、大西信行氏の『落語無頼語録』
清隆寺 日蓮宗。本光山清隆寺。

清隆寺。赤城元町1-27にある、全国地価マップから

善国寺(写真)昭和54年 ちんござん ID 11834

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11834は、昭和54年1月、毘沙門天 善国寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11834 善国寺

 この写真は毘沙門横丁側に今もありますと、地元の方。以下は地元の方の解説です。

 昭和46年に再建した善国寺本堂は、2階に回廊を巡らし、正面の階段の他、向かって左側にも階段を設け、毘沙門横丁にでるようになっていました。内陣から回廊に出る扉もあり、その上に「びしゃもんぐち ちんござん」という仮名の額があります。
 ID 11832の右側に、毘沙門横丁に面した門柱と階段の手すりが見えます。
 この階段は後に撤去し、「石囲い」も壊して毘沙門横丁側を駐車場にしました。境内の一部にあった駐車場を移し、貸せる台数を増やしたと言います。「月極有料駐車場」の看板のあるところが、かつての階段です。擬宝珠の間に階段がありました。回廊の床の形が、そこだけ変わっています。
 また、この工事の時に境内にある出世稲荷と菩薩像の位置も動かしたようです。

びしゃもんぐち ちんござん 平仮名から漢字になおすと「毘沙門口 鎮護山」でしょう

毘沙門天 1984年と2010年

毘沙門横丁(写真)昭和54年 ID 11832, 11833

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11832とID 11833は、昭和54年1月、毘沙門横丁を撮ったものです。 この2枚とID 76ID 78ID 83は同一の撮影でしょう。季節は冬で、ID 72、73ID 74。75、77もおそらく同じ時期です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11832 神楽坂5-37 善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 ここは以前から毘沙門横丁といっていました。道路はアスファルト舗装で、両側に下水溝(側溝)と縁石があり、車道と歩道の区別はなく、街灯はID 9779と同じ水銀灯に見えます。また、電柱の上には柱上変圧器があります。

神楽坂4~5丁目(昭和54年1月)
  1. 三菱銀行の側面と夜間通用口
  2. 菊正宗 すき焼 割烹 牛もん
  3. 寿し処 寿し作
  4. 一條
  5. 黒い塀(松ヶ枝駐車場)
  1. 石焼いも
  2. (消火栓)
  3. 毘沙門天のコンクリートフェンスと石材数枚
  4. 電柱看板「宮城道雄記念館」「十字路右折」「神楽坂5-37」
  5. 取り外した看板「所」「会」。おそらくID 8299のような「福引所/神楽坂通り商店会」が、歳末の売り出し時に毘沙門天境内に設けられていたのでしょう。
  6. 藤間高寿
  7. 看板「藤間高寿/小勝 /はやま
  8. 電柱看板「あまなっと 五十鈴」「麻雀クラブ 三功」
  9. 料亭「松ヶ枝

善國寺(写真)昭和54年 ID 11829-11831

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829~11831は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11831 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿  b」ID 11829 善国寺毘沙門寄席

 善国寺の境内の石囲いには複数の門があります。当時(昭和54年)は神楽坂通りに三門が開いていました。向かって左側が他の店舗などの門(たとえばスゴオ洋菓子店)、中央は本堂に続く正門(ID 11830「神楽坂」とID 11831「毘沙門天」)、右側は庫裏に続く門(ID 11829「善國寺」)です。ちなみに、毘沙門横丁の側、出世稲荷の奥にも別の通用門があります。今は石囲いの一部を壊して駐車場にしていて、アルミの扉になっています。
「神楽坂」の門には「昭和四十六年五月十二日 児玉誉士夫建(之)」と書いてあります。また、本堂の柱には「来る十一日 歳旦初寅祈願会」の告知看板が出ています。なお、歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。賽銭箱には「志納」が書いています。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
 ID 11829 の門柱脇には、蛍光灯のついた常設の「神楽坂毘沙門寄席 月例興行」の案内があります。昭和46年に完成した本堂の1階部分(内陣の下)は「毘沙門ホール」になっています。戦前にもあった寄席の復活の意味で、このホールで定期的に落語の興業がありました。
 撮影時の顔ぶれは「五日六時開演 千円 創作落語会 桂米丸 三遊亭金馬 三遊亭圓歌 林家三平 春風亭柳昇 都合で当分の間 圓右休演」と「廿五日 六時開演 七百圓 金馬いななく会 三遊亭金馬二席他 落語漫才多数助演」でした。
 落語ブームの今では考えられない、かなり豪華な顔ぶれです。なお、林家三平(初代)は1979年(昭和54年)正月に脳溢血で倒れ、翌年にがんで亡くなっています。この落語会に出られたかどうか分かりません。

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 ID11824 神楽坂上交差点

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824は、昭和54年1月、当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)から神楽坂5丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824 大久保通りから神楽坂通り(早稲田通り)を見る

 車道はアスファルト舗装で、平坦で、凸凹もなく、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装で、平坦です。街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」、さらにその下に木と人工葉があります。標識(一方通行)が大きく描かれて、その奥には大きなサイン「神楽坂」があり、さらに奥には標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 ID 7430(昭和45年)とよく似た写真ですが、10年の間に違いが生じました。
・信号機に交差点名の標識がついた。
・ロール型の方向指示標識の矢印が横から縦に変わった。
・横断歩道が「はしご型」に描かれている。
・大久保通りの路面電車13系統がなくなった(廃止は昭和45年3月)。
 変わっていないのは、電柱が向かって右側だけにあること、標識「神楽坂通り/美観街」があること、それに一方通行の矢印の陰になって「神楽坂」の標識ポールがあることです。この標識ポールは昭和20年代後半に坂下(ID 23)と坂上(ID 9495)に設置した古いものです。坂下は昭和30年代に取り外されましたが、坂上はまだ残っています。
 矢印の下の「自転車を除く」は坂下のロール型の方向指示標識にも見えます(ID 9109など)。しかしID 65(昭和48年)にはありません。自転車は一方通行に従わなくていいことを明確にしたのでしょう。
 店の並びはあまり大きく変わっていませんが、正面の大きなビルは相馬屋ビルで、1978年(昭和53年)3月築です。
 DPE(Development, printing, enlargement)は現像・焼き付け・引き伸ばしの略で、ID 7430(昭和45年)にはつくば商事が行っていたようです。今回の昭和54年では、DPEは2つあります。右側の「DP(E)気軽に海外旅(行)」はそのすぐ下に鳩のトレードマークと「ヒ」があり、ヒグチのDPEだと思います。左側の「DPE 37円」はつくば商事かヒグチか、はっきりしませんが、つくば商事の一部を借りてヒグチが業務を始めたとすると、つくば商事からすれば、ヒグチに全てあげた方がいいでしょう。

ID 11824 DPE

神楽坂5丁目(昭和54年)
  1. 裏向きのスタンド看板(歩行者天国時に車道に出す)
  2. 標識(一方通行)「自転車を除く」。標識(自転車及び歩行者専用)。「歩行者専用道路/12-13/日曜 休日は/4月-10月/12-20/11月-3月/12-18」。標識(駐車禁止)0-12。「ランチタイム・プロムナード」のマーク
  3. 古い標識ポール「神楽坂」
  4. 河合陶器店 陶磁器 ガラス食器 陶芸用品
  5. 山下漆器店
  6. 菊岡三味線店
  7. 明治ゴールド牛乳(田口牛乳店)。2階はBoss ルネ
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田。歩道に出前用と思われるバイク数台。
  9. 立て看板「英会話」
  10. リード商会)ビクター レコード
  11. タカミ洋品店
  12. 中国料理 東花飯店
  13. 標識「神楽坂通り/美観街
  1. 電柱。「神楽坂」交差点。電柱看板(牛込犬猫病院)。貼り紙
  2. 営業案内/土地・建物・売買・管理/賃貸借・周旋/電話買取及販売/不動産一般代理(つくば商事)
  3. DPE 37円。
  4. 看板は「貸出の物件」。あるいは読めない
  5. 薬ヒグチ。DP(E)気軽に海外旅(行)。
  6. 田原屋 フルー(ツ)
  7. 三菱銀行

住宅地図。1980年

坂上の風景

研究社(写真)昭和51年 ID11484-11486

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11484~11486は、昭和51年(1976年)、神楽坂1丁目の外堀通り沿いにあった研究社の印刷部を撮った写真です。
 1927年(昭和2年)12月、研究社の神楽坂印刷工場(地下1階、地上4階)として完成し、第2次世界大戦は生き延びて、昭和59年にもありましたが、同年、新座市野火止にあった工場に印刷部門の本社が移転。解体され(ただし解体の正確な時期は不明)、昭和61年2月に隣の社屋と一体で「研究社英語センタービル」として新しく完成、現在に至っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11484 神楽坂 研究社

 上のID 11484では建物の北東方から撮影した印刷工場です。そばの道路に「駐車禁止」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11485 神楽坂 研究社

 ID 11485は入り口のアップです。社名は戦前の右書きで「社究研」。向かって右の門灯は失われています。その下の銘板は読めませんが、戦前の写真には見えないものです。前の路上の会社員風2人はネクタイがなく、半袖らしいワイシャツを着ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11486 神楽坂 研究社

 ID 11485は向かって左に、戦後に建てられた研究社の新館があり、旧館との間に渡り廊下のような屋根が見えます。新館には垂れ幕「建国200年アメリカの核心を衝く! 総合 アメリカ 全7巻 絶賛刊行中! 研究社」があります。旧館の右奥の建物は東京理科大学です。
 電柱広告は「〇〇部医院」と読めます。外堀通りを照らす道路灯はあかあかと光っていますが、歩道の街灯は消灯して、撮影したのは夕方でしょう。
 ID 12201~12203のカラー写真も同じなので、同時期の撮影と思われます。

神楽坂4丁目、5丁目(写真)昭和51年 ID 11482

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482は、昭和51年、神楽坂4丁目から当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)方向を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482 神楽坂

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石があり、車の渋滞はかなり長くなっています。歩道もアスファルト舗装で、看板「まず徐行 あそこに子どもとお年より 牛込警察署」が見えます。街灯は大きな円盤形で、下に「神楽坂通り」、さらにその下に数本の木と人工的な葉があり、また電柱の上には柱上変圧器があります。半袖の人が多いので夏、逆転式一方通行の向きから午後1時以降でしょう。

神楽坂4~5丁目(昭和51年)
  1. 善国寺。4角柱?などが見える部分は児童遊園
  2. レストラン フル(ーツ) 田原屋
  3. パチンコ おおとり
  4. 甘なっと 五十鈴
  5. やきとり(殿)堂 鮒忠
  6. 藁店に入る道のカーブミラー
  7. (中)河電(気)
    ここまで5丁目。ここから6丁目
  8. 遠くに協和銀(行)
  1. 福屋不動産
  2. (毘沙門)せんべい(福屋
  3. 神占 思召し/(福屋ビルテナント「神楽大国」)
  4. (事務用)品(福田屋文具店)
  5. 紳士服(テーラー島田)
  6. 尾)沢薬(品)(ク)ス(リ)尾沢
    ここまで4丁目。ここから5丁目
  7. 工事中(神楽坂コアビル 1978年4月竣工)
  8. 路上に積み荷(魚金鮮魚店)
  9. (か)やの木
  10. (第一勧業信用)組合
  11. (消火栓)

神楽坂まっぷ。1985年

住宅地図。1976年

善國寺(写真)昭和51年 ID 11481

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481は、昭和51年、毘沙門天善國寺やスゴオ洋菓子店仮営業所などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481 神楽坂 善国寺前 スゴオ洋菓子店仮営業所

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建し、昭和46年に今の本堂を建てています。したがって、昭和51年には現在の本堂ができてから5年目になりました。
 左奥には毘沙門横丁という道路があります。車道はアスファルト舗装で、歩道はありません。続けて、側溝、縁石です。
 毘沙門横丁に面して善国寺の脇門があり、大きな鉄枠の門扉が横に開く構造になっています。ここは境内をイベント会場や臨時の駐車場に使う時の入り口です。現在も同じ場所に脇門がありますが、この写真当時より幅が広くなっています。
 境内のスゴオ洋菓子店仮営業所は、ID 9911の竹谷電気工事の仮店舗と同じ建物のようです。続けて利用したのかも知れません。
 スゴオ洋菓子店は4丁目、三菱銀行前にありました。ID 6338(1958年)には古い店舗の看板「純フランス菓子ス(ゴオ)」が見えます。また1977年のTVドラマ「気まぐれ本格派」第10話には新築したビルの1階店舗「洋(菓子) ス(ゴオ) COFFEE」が映っています。この写真の1976年頃は新ビルが完成間近だったと思われます。

楽山旧店舗とスゴオ洋菓子店(後の英和ビル)(TVドラマ「気まぐれ本格派」第10話から。1977年)

 ID 89(1979年)でもスゴオが確認できます。現在はこのビルも取り壊され、隣の楽山と一緒の「楽山ビル」の一部になりました。

神楽坂5丁目(昭和51年)左→右
  1. 電柱1本。上から電柱看板「料亭 松ヶ枝」、蛍光灯、看板「 大久保」、「神楽坂3-7」
  2. 掲示板。上に横書き5文字(ID 8247によれば「新宿区役所」) 、脇に縦書き8文字(「箪笥町特別出張所」か)
  3. 奥に善國寺
  4. 善国寺の脇門。模様はない。
  5. 車両進入禁止マーク。「自転車を除く」
  6. 女性の顔に一見みえるが、多分違う。電気の盤かな?
  7. 石囲いはここで終わり…
  8. 毘沙門天の境内で、スゴオ洋菓子店 仮営業所 洋菓子のスゴオ。店内にはショーケースと化粧箱、右端に人影
  9. 「ゴ」の上に円盤形の境内灯

善國寺(写真)昭和50~51年頃 ID 9909-9911

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909-9911は、昭和50~51年頃、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9910 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9911 善国寺

「昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と善國寺
 戦後の最初の再建は仮堂扱いで毘沙門堂と称し、本格的な再建で本堂が出来たと考えているようです。善国寺は江戸期から「神楽坂の毘沙門様」として知られており、「毘沙門堂」とした方が一般に理解されやすい面もあるでしょう。どちらにせよに本尊は毘沙門天像です。
 1代昔の毘沙門堂は木造でしたが、現在の本堂はコンクリート造です。規模は大きくなり、本尊を安置する内陣は2階になりました。1階は「毘沙門ホール」として会合やイベントに使われます。

毘沙門堂 毘沙門天(多聞天)をまつる堂
本堂 寺院で本尊仏を安置する建物
内陣 本尊仏を安置してある中央部

 本堂の再建と同時期に、境内を囲んでいた石囲いも一新されました。それまでは戦前のもので、1本ずつ寄進者の名が刻まれていました。新しい石囲いは写真でも分かるように、何も刻んでいません。
 境内の本堂前に円盤形の灯りが2灯あります。この時期の神楽坂通りの街灯ととそっくりですが、下部の「神楽坂通り」の四角い照明はありません。ID 8271-8272の建て替え前の境内では、通りの街灯が円盤形になっているのに、本堂前の左右には古い街灯と同じ鈴蘭灯があります。この鈴蘭灯を新しくしたもののようです。現在の境内の灯りは街灯とは違う形になっています。
 ID 9909とID 9911では道路標識の「12-24 駐車禁止」と「歩行者横断禁止」が見えます。これには神楽坂の逆転式一方通行が関係していると思われます。坂下から坂上に向かう12-24は善国寺のある左側に駐車禁止の標識で、0-12は逆側に標識がないといけません。田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02(1984年10月02日)で、反対側の楽山前にある駐車禁止標識が確認できます。
 写真を見ると、のぼり旗「奉献開運大毘沙門 神楽坂」は2つ立っています。さらに「本日 開店 麻雀」もでています。「神楽坂通り」の下には数本の木と竹や笹に似せた人工葉があります。
 ID 9910とID 9911では正門に「神楽坂」と「毘沙門天」、のぼり旗の向こうに石虎が見え、さらに右側に藤棚も見えます。ID 9910のさらに右側に石造りの灯籠(石灯籠)がありますが、現在はなくなっています。
 ID 9911の左側はキリンビールやサッポロビールを積んだトラック、次に電柱広告で「割烹〇〇」「自慢のうぐいす巻 八千代鮨」と読めます。八千代鮨は本多横丁の老舗です。 その奥の「営業所 (竹)谷電気工事 260-682X」は毘沙門天境内にあった仮店舗でしょう。ガラス戸の中には人影も見えます。竹谷電気は神楽坂3丁目にあり、ID 8805-8806(昭和48年)では2階建ての店舗、ID 88(昭和54年)ではビルになっています。現在はファミリーマートやロイヤルホストの入ったビルの一部です。

椿|田山花袋

文学と神楽坂


 読賣よみうり新聞しんぶんで、露伴ろはんの『ひげをとこ』と紅葉こうえふの『伽羅きやらまくら』とを同時どうじ掲載けいさいする計畫けうくわくてたのは、あれはたしか二十三ねん春頃はるごろだつたとおもう。りやう花形はながたうでくらべをするといふので、それは非常ひじやう評判ひやうばんであつた。何方どちらうまいか、何方どちら成功せいこうするか、かうしたこゑいたところきこえた。わたしなども、まちかどおほきくてゐる看板かんばんて、その名聲めいせいにあこがれたまづしい文學ぶんがく書生しよせいの一にんであつた。
 紅葉こうえふは『伽羅きやらまくら』を牛込うしごめ北町きたまちうちいた。太田おほた南畝なんぼ屋敷やしきなかだとかいふおくまつたちひさなうちで、うらにはおほきなかしかさのやうになつてしげつてゐた。八でふまへにはには、木戸きどがついてゐて、そこから、硯友社けんいうしや人達ひとたちは『るかい』などとつてはひつてた。
 北町きたまちとほりわたしその時分じぶんよくとほつた。そのちひさなもんに、尾崎をざきいた表札へうさつがかけてあつて、郵便箱いうびんばこには硯友社けんいうしやいてあつたのをいまでもはつきりと記憶きおくしてゐる。やがて讀賣よみうりふたつのさくは、何方どちら人達ひとたちこゝろいた。『ひげをとこ』はこと評判ひやうばんがよかつた。『流石さすが露伴ろはんだ!』といふこゑ彼方此方あつちこつちからきこえた。それにもかゝはらず、露伴ろはんは五六くわいふでつて、瓢然へうぜんとして、赤城あかぎ山中さんちうかくれた。『伽羅きやらまくら』は百くわいぢかつゞいた。
ひげ男 「ひげ男」は国立国会図書館デジタルコレクションにあります。
伽羅枕 祇園に生まれ島原に売られ,江戸の吉原に艶名をうたわれた一代女の物語。この『伽羅枕』も国立国会図書館デジタルコレクションにあります。伽羅枕とは「引き出しをとりつけて、その中で香をたくように作った木枕。遊女などが用いた」
絵看板 劇場、映画館などの表に、人物や場面の一部を極彩色の絵にして掲げる看板。
北町 明治23年1月から24年2月まで、住所は牛込北町41番地でした。

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

全国地価マップ。現在。北町41番地

北町41番地

木戸 庭などの出入り口に設けた簡単な開き戸。屋根はなく、木の門
瓢然 ひょうぜん。用事や目的もなくふらりと来たり、ふらりと立ち去ったりする様子
赤城 関東平野の北西部、群馬県の赤城山は二重式火山で、前橋市、桐生市などに広がる。山頂には大沼と呼ばれるカルデラ湖がある。

花袋と紅葉(2)

 花袋は意を決して、当時の流行作家尾崎紅葉横寺町へ訪ねてみたのは、21才の明治24年(1891)5月24日の日であった。それは、泉鏡花に先立つこと、4ヵ月はやい。その当時の出合いを花袋は、『東京の三十年』にこう書いている。
キャラコ三絞の黒の羽織か何かを着て、すり減した下駄を穿いていた。顔のイヤに蒼白い神経性の私は訪問すると、すぐ玄関の二畳――鏡花春葉など後にいた――のすぐ隣りの八畳の座敷へと案内されて通った。その室はやや低い、下にゴタゴタした家屋を見るような小さな庭に面していた。私を導いて通して呉れたのは50位の品の好い老婦人であった、私の胸はドキドキした。(中略)“何うぞ二階へ”こうさっきの老婦人が、やがて入ってきて言った。5月24日新緑が爽やかに日の光にかがやく頃なので、家は皆障子が明け放しされてある。で立って、廊下に出ると、座敷の隣りの長鉢の置いてある六畳の間に、その若い美しい花のような菊子夫人が、白粉を真白につけて、ぱっちりした眼をして此方を向いているのに出会した。私は慌ててお時宜をした。その光景は今でもはっきり、私の目に見える。階悌を上ると、二階は八畳に六畳、明るく初夏の日影の光線が、さし込んで、一六居士(巌谷小波厳父)の書いた新婚の祝の寿という幅物がかかっていたり、ソファが置いてあったり、書籍が、散かっていたり、座蒲団が置いてあったりする向うに、彼のいる机が置いてあって、その前の長火鉢のところに紅葉は坐っていた。
“此方に来給へ”で私は其の長火鉢の前の赤い模様のあるメリンスの派手な座蒲団に坐った。しかし、その座蒲団は噂にきいた菊と紅葉の模様ではなかった。傍には茶器、茶碗、薬綴、そういうものが、本やら雑誌やら新刊書やらと一諸にごたごた散らばっていたが、案内して来た老婦人は茶器を洗うべく、それをかれの手から取っで、下りていった。かれについての最初の印象は好い感じであった。いかにも江戸っ子らしい快活な城府を設けない話し振り、若い文学書生をも別に侮りもしない態度、尠くも私の動揺する心を静めるに十分であった。(中略)一時間ほど、私は話したが、それは大抵忘れて了ったけれど、かれの贅沢な生活、何不足ない生活、いかにも大家らしい応揚な生活。ことに美しい菊子夫人が私の眼と心を強く刺戟した。話をしている最中、その菊子夫人は、めずらしいはしりそら豆の茄でたのを皿に入れて持って来たりした。」

キャラコ インド産の平織りの綿布。丈夫で実用的な布地。白衣、シャツ、足袋などに用いられる。
三絞 不明です。「三絞」とは京都呉服卸の三絞株式会社のこと。「絞りの羽織」とは絵柄部分だけが絞り染めの羽織のこと。
羽織 防寒、礼服、おしゃれなどを目的の長着の上に着る和服の短衣。
お時宜 何かを行うのにちょうどよい時機。中世ではちょうどよい状況・対処。転じて、適当な挨拶。さらに頭を下げる挨拶動作。お辞儀
メリンス 細番手のウールを平織りにした、薄く柔らかい毛織物。メリノ羊の毛で織ったから。
菊と紅葉の模様 菊と紅葉の模様のお揃いの湯飲茶碗の話は有名だといいます。これは尾崎紅葉と菊子の夫婦だからこそ面白かったのでしょう。
城府を設けない じょうふをもうけない。相手に対して、へだてなくうちとける。
尠くも すくなくも。すくなくとも。とにかく
はしり 魚菜などのそれぞれの季節より早めに出るもの
そら豆 マメ目マメ科ソラマメ属。しゅんは4~6月。早熟栽培もあり、収穫は12月から。

 花袋はよっぽどその優雅な生活を羨ましく思ったのであろう。自分の生活は、貧しく、明るい二階もなければメリンスの蒲団もない、そら豆もないと自嘲した。前述の随筆集『椿』には、「紅葉山人を始めて、訪問して帰って来た時には自分の家が此上もない汚ないみじめなものに見えて、情けなかった。畳のデコボコしたのも佗しければ、障子の紙も黒くよごれているのも不愉快であった。私は着物を着換えずに長い間、机の前に坐って、黙って考えていた。(勉強する外仕方がない)こう思って、私は下唇を噛んだ」と、書いているのは、まさに真情であろう。紅葉の門下に迎えられた花袋は、硯友社の機関誌『千紫方紅』に「瓜畑」を載せてもらったし、親切にしてもらったのにかかわらず、反発的な精神があったのは紅葉の優雅な私生活への抵抗がその基因をなしていたものであろう。
 花袋はその後もしばしば、紅葉を訪ねた。新聞の連載物を書いているときは居留守もつかわれたようである。でも気さくな紅葉は、途中で出会うと、「ぼくの家に来たのかえ、これから弓に行くんだ、一諸に行きたまえ」と、誘ったということだ。当時行きつけの道弓場は、俗称獅子寺といわれた、横寺町法善寺境内にあった。この獅子寺の由来は、徳川家光が、酒井邸から帰途獅子の置物を置いていったことからそれ以後こう呼ぶようになったもの。
 それはともかく、間もなく花袋と紅葉は疎縁の仲になっていく、それはある日花袋が紅葉に向って「尾崎君」と不意に口をついて出た言葉に弟子に対して厳格そのものの「我意の人」といわれた紅葉の逆鱗に触れたのであろう。
 紅葉はいわゆる江戸っ子気服のよい人間であっだらしく、後輩の面倒をよく見たようであるが、「3尺さがって師の影を踏まず」といった、厳しい一面があった。紅葉の小品「青葡萄」の中の師弟観はまさしくそれである。
千紫方紅 せんしばんこう。色とりどりの花が咲きみだれること。雑誌は、成春社。1号(明24.6)から9号(明25.4)まで。以降廃刊。
瓜畑 うりばたけ。うりの植えてある畑。瓜田かでん
気さく 性質や人がらが、さっぱりしてこだわらないさま。
獅子寺の由来 保善寺によると「徳川三代将軍家光公との因縁によるもので、家光公が当寺に来た折、獅子に似た猛犬を下賜され、以来『獅子寺』と呼ばれるようになった」
疎縁 疎遠。遠ざかって関係が薄いこと。音信や訪問が久しく途絶えていること。
我意 がい。自分一人の考え。自分の思うままにしようとする心持ち。わがまま。
逆鱗 げきりん。はげしく怒ること。ふつう、目上の人が怒る場合に用いる。
江戸っ子 生粋きっすいの江戸市民。特徴はいきで勇み肌、さっぱりとした態度、歯切れのよさ、金銭への執着のなさ、浅慮でけんかっ早いなど。
 気質。気性。「研究者肌」「肌が合わない友達」
気服のよい 正しくは「気風きっぷが良い」。性格や心意気が男らしくで清々しい
3尺さがって師の影を踏まず 弟子は、師に敬意を払い、師の前では控えめにふるまい、同行する場合は影を踏まないように離れて礼節を尽くすべきである。

花袋と紅葉(1)

文学と神楽坂

 昭和41年、新宿郷土会「新宿郷土研究」第4号に「花袋紅葉」という一文が書かれています。この「新宿郷土研究」は新宿区立図書館で借りられますが、誰が作者「わたくし」になるのか不明です。この編集兼発行人は一瀬幸三氏なので、おそらく一瀬氏でしょう。

 わたくしは、横寺町を通るたび田山花袋椿』(大正15年版)という随筆集におさめられている文章の一節を思い出すのだ。
「横寺町の通りは、山の手で名高い旨いどぶろくを売る居酒屋、墓地を隔てて紅葉山人の二階…。明治23、4年頃から34、5年まで、私はこの通りを何んなに歩いたかも知れなかった。恋にあこがれたり、富貴にあこがれたりして、時には失望の心遺るに場所がない為めわざわざ其処に出て来たりした」は、田山花袋の面目躍如たるものがある。
 紅葉の住まっている横寺町の二階の窓を見ては、当時の流行作家である紅葉を羨やむ一方憎しみともなっていたのだろう。花袋の『東京の三十年』には、「自分より4つか5つの年上のー青年、それでいて、日本の文壇の権威、こう思うと、こうして、じっとしてはいられないような気がする。羨ましいと共に妬ましいという気が起る。」と、いっているのは、ほんとうの気持だったろう。
 花袋が、群馬県館山林町から二度目の出郷をこころみたのは、兄が内務省修史局へ勤務するようになったので、牛込富久町の旧会津侯の邸宅の中にあった。
 花袋はここから神田の英語学校に通ったのである。そこへいくまでの道程を、「牛込の監獄署の裏から士官学校の前を通って、市ヵ谷見附へ出て、九段招魂社の中をぬけて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った」と、『東京の三十年』に書いているが、昔の人はよく歩いたものである。また、同書に「その時分(明治20年頃)は、大通りに馬車鉄道があるばかりで、交通が、不便であったため私達は東京市中は何処でもてくてく歩かなければならなかった」と、あるのをみてもよくわかる。
 それから花袋が、19才の明治22年(1889)納戸町の家賃の高い家から甲良町へ移った。たぶんこの家のことだろう。前述の『椿』という随筆集にこう書いている。
「貧しい私の家は、その頃間数の多い家に住むことはできなかった。私は三間しかない汚ない家の中にいた。私は、机を座敷の八畳の一隅に置いた。机の前が硝子障子になつているので、そこから猫のような小さな庭が常に見えた。投ったままにして置いた万年青の鉢だの丈の低い痩せこけた芭蕉だのボケだの、バラだのが見えた。時には明るい日影が射したり、雨がしめやかに降っていたりした。私はいつもそこで日を暮した」と、いう一節がある。
 甲良町は、甲良屋敷のあとと、その附近の開墾地をあわせて、甲良町としたところで、花袋の住んでいたというのは、開墾地に建てた借家と見られるからいまの25番地附近と推定できる。
 それはともかく、この文章を読むと明治時代の借家の間取りや環境がよくわかる。花袋はここで、小説、文学の勉強に専念していた。「いつまでも遊んでいるんだが、宅の“録”にも何処へでも5円でも10円でも取って呉れればよいに…」という母親の愚痴もいちどならずいくたびか聞いたことであろう。“録”というのは、花袋の実名録弥のことである。
「自分もきっと、文壇の寵児になってみせる」といつも興奮していたし、外国文学の知識の吸収を怠らなかった。
椿 国立国会図書館オンラインに載っています。
どぶろく にござけ。発酵してできたもろみを濾過することなくそのまま飲む。
富貴 ふっき。ふうき。富んで尊いこと。財産が豊かで位の高いこと。
心遺る こころやる。心に滞るものを他におしやる。心のうさを晴らす。心を慰める
東京の三十年 田山花袋の回想集。1917年(大正6年)、博文館から出版。
群馬県館山林町 現在は群馬県館林市城町14です。
内務省修史局 太政官正院地誌課は、1874年(明治7年)に内務省地理寮に合併、75年には修史局(77年修史館)に合併されました。
邸宅 下図で赤い図。
神田の英語学校 仲猿楽町(今の神保町二丁目周辺)だとインターネット「おさんぽ神保町
監獄署 下図の中央

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

士官学校 陸軍士官学校。下図の左手。
市ヵ谷見附 下図の中央部
九段 東京都千代田区西部の地区。麹町こうじまち台から神田方面へ下る坂(九段坂)に、江戸時代、9層の石段を築き、幕府の御用屋敷を建て九段屋敷と称したから。
招魂社 東京招魂社。現在の靖国神社。下図の右手

東京実測図。明治28年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

神田 神田区。千代田区の旧神田区地域。北に神田川が、南東に日本橋川が流れ、東京都電車が区の全域を走る。
馬車鉄道 鉄道馬車。軌道上を走る馬車の輸送機関。1882年(明治15年)6月、東京馬車鉄道会社により新橋―日本橋間に開通し、10月には日本橋―上野―浅草―浅草橋―日本橋間が開通した。
万年青 おもと。ユリ科の常緑多年草。

オモト

甲良町 明治二年(1869)市谷甲良屋敷を市谷甲良町と改称(己已布令)し、同五年には付近の武家地、開墾地を併合した。なお、江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町の一部で、甲良町にはない。
甲良屋敷 現在の市谷柳町の一部。徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前(4代相員)に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷というようになった。(甲良家は江戸時代どこに住んでいたか。東京都立図書館)
開墾地 開墾地(山林や原野を切り開いた土地)はどこを指し示すのか、わかりません。江戸時代、甲良町はすべて人が住んでいました。したがって明治初期になってから一部の家はなくなり、原っぱができたのでしょう。
25番地附近 「新宿郷土研究」では25番地附近を、別の研究は甲良町12を指しています。ちなみに明治19-20年に発行した参謀本部陸軍部測量局の「東京五千分ー東京図家量原図」(日本地図センター発行。2011年)では甲良町12は桐、甲良町13は原と家、甲良町25は普通の家が描かれています。

東京実測図。明治28年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

東京五千分ー東京図測量原図。参謀本部陸軍部測量局。明治19-20年。日本地図センター発行。2011年

街灯(2003年~2022年)

文学と神楽坂

「神楽坂通り商店会では…オリジナルデザインの街路灯を2003年に設置…戦後4代目となるもので…光源にはアイ ツインアークを採用し…春・夏は水銀ランプ、秋・冬は高圧ナトリウムランプ…温もりのある通りをやさしく照らし出しています」と岩崎電気株式会社

光源にアイ ツインアーク

 ところが、水銀に関する水俣条約(水銀条約)の発効のため、2021年以降、水銀を使った製品は、全て製造・輸出・輸入が禁止されました。これは神楽坂通り商店会にとっても大慌てだったと、想像します。2022年2月頃までには、新しい街灯に変わりました。

神楽坂6丁目(写真)昭和51年 ID 9907-9908

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9907~ 9908は、昭和50年(1975年)か昭和51年(1976年)に神楽坂6丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9907 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9908 神楽坂

 車道はアスファルト舗装で、続けて、側溝、縁石、ガードパイプが付いた柵、歩道は無地のアスファルト舗装です。電柱の上には柱上変圧器があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあり、さらに下に「神楽坂 商栄会」があります。神楽坂商栄会は6丁目の商店会で、神楽坂商店街振興組合(昭和58年設立)の前身です。
 街灯からは枝1本が出て、数本の枝に変わり、最後に沢山の紅葉の造花になります。また、おそらく都道の街路灯でしょうか、ナトリウム灯と思えるものが、より高い場所にあります。
 さらに、道沿いに、ほかの街灯よりは低く、しかし人間の頭よりは高い、神社の参道をイメージした春日灯籠もあります。

神楽坂6丁目(昭和51年)
  1. ブリヂストン エバーソフト UC (丸藤フトン店)
  2. 中華料理 宝竜
  3. (カネボウ化粧品のマーク)
  4. 〇〇用品
  5. 神楽坂武蔵(野館)
  1. かのこ美容室
  2. ルサール靴店 JCB 日本(信販)
  3. ニットコレクション マリーノ
  4. 閉店中 コカコーラの路上看板
  5. 白鷹 木(村)屋 木村屋
  6. ドライクリーニング せんせい舎
  7. 白鷹
  8. (消火栓)
  9. 協和銀行

住宅地図。1976年

新規街灯(令和4年)

文学と神楽坂

 この前の街灯は2001年に作られました。現在は新しい街灯に変わっています。ただし、設置には2003年のほうが正しいと、岩崎電気株式会社は考えています。また、「新歩道・新街路灯完成パレード」も2003年に行っています。

 昨年(令和3年、2021年)の古い街灯は……

2021/12/21

 令和4年(2022年)2月13日、新しい街灯(左)と古い街灯(右)。古い街灯は残っていましたが、夜になると古い街灯は点灯しませんでした。

街灯

2022/2/13

 2日後、古い街灯は抜去され……

2022/2/15

 2月23日、全部の街灯が新しいものに……

2022/2/23

 下の写真は動きます。

 交換は最初に坂下でテストし、坂上に向けて片側ずつ、約1カ月をかけて工事しました。工事区間では夜間は片側の新規街灯だけが点灯していました。

 神楽坂通り商店会は

2022/01/31
 2001年から親しまれてきた街路灯に変わって新しい街路灯工事が進められています。……新進気鋭のデザイナー株式会社Tetor(テトー)山田 裕貴氏構想段階から2年半の時を経て2022年3月 完成を迎えます。……山田先生の言葉で……「新規街路灯は『新旧が交錯する街・神楽坂』を体現するような伝統と新規性のあるオリジナルのデザインを採用しています。支柱は鋳鉄製とすることで、強度の高さと自由な造形を可能とし、かんざしのような支柱デザインとしています。また灯具は3灯タイプを採用し、従来の照度(明るさ)の2倍となり、まちに彩りを添えます」

神楽坂6丁目(写真)赤城神社入口 昭和51年 ID 9905-9906

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9905~ 9906は、昭和50年(1975年)か昭和51年(1976年)に神楽坂赤城神社入口を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9905 神楽坂赤城神社入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9906 神楽坂赤城神社入口

 車道はアスファルト舗装で、続けて、側溝、縁石、ガードパイプが付いた柵、歩道は無地のアスファルト舗装です。電柱の上には柱上変圧器があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯ですが、蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあり、「神楽坂 商栄会」とあります。神楽坂商栄会は6丁目の商店会で、神楽坂商店街振興組合(昭和58年設立)の前身です。
 街灯からは紅葉の造花が沢山ついた枝が斜めに出ています。街灯とは別に、高い場所にナトリウム灯と思える、おそらく都道の街路灯があります。
 さらに、道沿いには、ほかの街灯よりは低く、しかし人間の頭よりは高い、神社の参道をイメージした春日灯籠が並んでいます。
 写真の右、建物の階段を下から見ています。音楽之友社の本社で、階段の上が入り口でした。階段の様子はID 90で分かります。

神楽坂6丁目(昭和51年)
  1. ぶてっくちよ
  2. 神楽坂専売所 サンケイ新聞 日本工業新聞 中  佳作座(上映作品のポスター)
  3. 珈琲専門店 珈琲館 珈琲館の古い◷マーク
  4. (でんわ)☎でんぽう たばこ 内容不明の吊り看板
  5. 直輸入 木彫工芸品 人形ケース
  6. 電柱看板「岡本衣裳店」
  7. 耳鼻咽(喉科)
  1. 赤城神社入口
  2. (消火栓)と看板「〇〇徽章」
  3. →(ベルモンド)
  4. 東京都教育会館→ (赤城神社となり 現・東京都教育庁神楽坂庁舎)
  5. 提灯4つが高く
  6. フォルテーヌ(珈琲)
  7. (地)下鉄 (神楽坂)駅
  8. 〇〇センター

住宅地図。1976年

文華幼稚園(写真)昭和27年以降 ID 9843-9844

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9843~ 9844は、昭和27年以降(1952年)に文華幼稚園を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9843 文華幼稚園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9844 文華幼稚園

 まず文華幼稚園はどこにあるのでしょうか。昔の地図を探さなければダメです。結構探して、わかりました。北町34番地でした。都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和27年)の北町のこの部分では個人名がでていますので、設立はおそらく昭和27年以降でしょう。

住宅地図。1963年

 ここは神楽坂霊園の裏側に当たります。写真でも幼稚園の園舎の右側に、墓標や卒塔婆らしきものが見えます。
 地元の人は「なぜこの写真が撮影されたかはまったく分かりませんが、新宿区の道路台帳を調べると、大久保通りから北町34番地まで細い区道が設定されています。実際には墓地の通路になっているようです。こうした路地はたいてい私道で、区道は珍しいケースです。区道が設定された時に、何らかの管理の必要があって撮影したのではないでしょうか。考えすぎかな」

南蔵院付近 道路台帳

 では、今はどうなっているの? はい、下の通りでした。

文華幼稚園があった場所

文華幼稚園があった場所


矢来能楽堂(写真)昭和27年以降 ID 9842

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9842は、昭和27年(1952年)以降に矢来能楽堂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9842 矢来能楽堂

 ホームページでは「昭和27年再建 神楽坂の地で伝統を受け継ぐ矢来能楽堂」と堂々と書いてありました。矢来能楽堂は新宿区矢来町60-1にあり、矢来観世家・観世九皐会の本拠地です。
 この写真は西側から撮ったもので、前面道路は荒れています。右手の建物は隣地です。能楽堂は現在の写真と比べても、建具(扉)の変更やエアコン追加などを除いてほとんど違いがありません。2022年は築70年にあたりますが、手入れをして大事に使われていることが分かります。
 文化庁の説明によれば「市街地に所在する能楽堂。木造平屋1部地下1階建、建築面積432㎡。棟の高い切妻造桟瓦葺を中心に、玄関やロビー他を周囲に付設する。外壁モルタル仕上げ。舞台や橋掛のほか、楽屋や地下通路、客席を設け、風格のある内部空間を創出する。近代能楽堂の好例」だそうです。

能楽堂1。南口

能楽堂2。西口

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9780

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9780は、昭和50年(1975年)頃、外堀通りを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9780 外堀通り 飯田橋駅付近

 神楽坂下の角のパチンコニューパリーから外堀通りを渡った千代田区側の店々です。飯田橋駅の手前までは神楽坂1丁目です。

外堀通り

住宅地図。1976年

  1. 東山酒造
  2. スナックコルヌ
  3. とんかつ森川
  4. 北海道ラーメン
  5. 立喰そば+やなぎ(もつやき)
  6. 飯田橋駅西口駅舎
  7. ボートハウス
  8. 旧牛込駅のプラットフォームに行く

 さらに遠くをみると……

外堀通り②

  1. 日本歯科大学体育館(1970年竣工)
  2. ビリヤードニッポン
  3. 富士見町教会(鐘楼がわずかに見える)
  4. 飯田橋会館(1階に飯田橋郵便局)
  5. 東京警察病院(1970年竣工)
  6. 土手公園

住宅地図。1984年


[牛込橋]

若宮町(写真)昭和55年以降 ID 9779

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9779は、昭和50年(1975年)頃、若宮町を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9779 若宮町

 道路は左側から雨水ます等からの下水を流す側溝、車道、側溝で、歩道はありません。街灯は右側だけですが、添付写真を見る限り水銀灯のように思えます。電柱の上には柱上変圧器があります。
 写真の女性が行くとすぐに四つ角にでて、さらに直進すると2つに分かれ、右側は見番横丁に、左側は三つ叉通りになっていきます。

住宅地図。1980年


 右側の電柱に「お茶とのり 老舗 大佐和 |ここは若(宮)町 11」と書かれ、つまり、右側の住所は若宮町11でした。

東京実測図。明治28年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 写真でやや遠く、木の葉に隠れていますが「割烹 〇〇荘」と読めます。一平荘は地図で「アパート 一平荘」と書かれていましたが、実際には割烹で、アパートではありません。その左、電柱広告は「料亭鷹乃羽」(鷹の羽)です。さらに左下の電柱広告は読める人が読むと「波ま野」です。

現在

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9808- ID 9809

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9808~9809は、昭和50年(1975年)頃、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9808 牛込見附、神楽坂通り 入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9809 牛込見附、神楽坂通り 入口

 交差点は「牛込見附」、道路は車道、側溝、縁石、歩道の順に並んでいて、歩道と平らな車道はアスファルト舗装、やや淡い色に見える車道は急勾配があり、すべり止め用のOリングを一時的に埋め込んだコンクリート舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その下に小さな看板「神楽坂通り」があります。電柱は向かって道路の左側だけで、その上には大きな柱上変圧器。標識「神楽坂通り/美観街」や各種の道路標識も出ています。左のフォーク、スプーン、ティーカップの道路標識は、平日12:00-13:00の歩行者天国「ランチタイム・プロムナード」の実施を示しています。
 半袖の人が多いようです。また、ID 68(昭和48年5月22日)と比べると、かなり高い位置から遠くを見通しているようです。また坂の途中にID 9778と同じ大型クレーン車が停まっており、同時期の撮影と思われます。

神楽坂1丁目(昭和50年頃)
  1. (パチンコニューパリー)
  2. (田原屋)
  3. 元祖 貸衣装 清水本店。
  4. 生そば。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。(翁庵
  5. 中華料理 信華園
  6. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 大島糸(店)」
  7. とんかつ
  8. 電柱看板「歯 (石川)」
  9. 話し方教室
  10. 遠くに「ジャノメミシン」
  11. さらに遠くに「協和銀行」
  1. 足袋 ワイシャツ 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. (消火栓)消火栓看板「福屋 神楽坂 不動産」
  4. (山)田紙店
  5. 地下鉄 飯田橋駅→
  6. FUJIYA 不二家洋菓子
  7. 離れて「喫茶 軽い心

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9782

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782は、昭和50年頃(1975年)、神楽坂2丁目から坂下を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782 神楽坂

 車道のすべり止めでOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 外堀通りを越して千代田区側、最も遠い大きなビルはホテルグランドパレスでした(1972年開業-2021年営業終了)

神楽坂2丁目→坂下(昭和50年頃)
  1. 化粧品さわや (MAX) FACTOR 資生堂
  2. 停車中の「ニッポンハム」納品車。
  3. 空き店舗(元の亀井鮨)
  4. ビクターレコード リード商会
    名人荘(麻雀店)
    雪ぐに/ちゃこ/でんでんむし
    (すべて神楽坂ビルのテナント)
  5. 純喫茶クラウン
  6. (陶磁器 陶柿園)昭和47年(1972年)3月に完成。
  7. 珈琲 音楽 (坂)
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 袖看板「パチンコはマリーで」
  10. 山(一薬)品
  11. 屋上看板「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  1. せともの太陽堂
  2. ニッポンハム 肉のますだや
  3. 日本信販 UC シャッターで閉店中(大川時計店)
  4. 電柱看板「 大久保  」「歯 健康保険医 石川 このうら  
  5. とんかつ(かつ一)
  6. 資生堂化粧品 コーセー 十奈美
  7. 夏目写真館
  8. カブト虫(純喫茶)

1976年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9781

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781は、昭和50年頃、神楽坂1~2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781 神楽坂

 車道はアスファルト舗装、そばに側溝、縁石、歩道もアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」、さらに「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。電柱は道路の左側にしかありません。また電柱には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和50年頃)
  1. 「12-23 (駐車禁止)「レッカー移動 牛込警察署長」
  2. 電柱看板「 大久保
  1. ✚ 診療〇〇 皮膚泌尿科 婦人科 外科 内科(白十字診療所)
  2. (消火栓) 消火栓広告「三菱銀行前 福屋 神楽坂 不(動)産」
  3. 「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店」「」「事務用品」「文具」「原稿用紙」「Canon  NP コピーサービス」「Kodak」「さくら  さくらカラー」
  4. 地下鉄 飯田橋駅
  5. 不二家。不二家洋菓子
  6. 紀の善
  7. 床屋のサインポール
  8. 屋上看板「(ハッピ)ージャック」袖看板「喫茶 軽(い)心 」
  9. (山一)薬品
  10. 袖看板「パチンコはマリーで」
  11. (ニュー)イトウ(靴)
  12. (珈琲 音楽 坂)
  13. 純喫茶 クラウン

1976年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9778

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778は、昭和50年(1975年)頃、神楽坂2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778 神楽坂

 車道のOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。電柱は道路の左側にしかなく、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 坂の途中に非常に大きなクレーン車が出ていますが、該当しそうな新築ビルはありません。

神楽坂2丁目(昭和48年)
  1. (横断禁止)
  2. たばこ 経済新聞
  3. 「大島歯科」「オリジナルボタン」 「(株)オオシマ」「ᘂ ハマナカ手芸糸」「マジックバック」「カネボウ毛糸 ハマナカ手芸糸」
  4. 神楽家(せんべい)
  5. 純喫茶 カブト虫 Coca Cola
  6. 看板「通学路」
  7. 電柱看板「石川  」「 大(久保)」
  8. 麻雀
  9. 夏目写真館
  10. 西川 みゆき
  11. 地図によれば「仲門堂」
  12. (消火栓)「歯科 石川  ここ」
  13. 電柱看板「歯 石川  」「 大久保」
  14. 地図によれば「巴有吾有」
  15. 地図によれば「十奈美」
  16. とんかつ(かつ一)
  17. ニッポンハム(肉のますだや)
  18. ヒデ美容(室)
  19. 屋上看板「話し方教室」袖看板「旭図書」「話し方教室」(五条ビル)
  20. (遠くに)三菱銀行
  1. 「D/SL気分を/満喫して下さい」「サービス中!!」「マ〇ー/祝/さ・」造花(パチンコマリー)
  2. ニューイトウ(靴):
  3. 珈琲 音楽 坂
  4. 陶柿園。昭和47年(1972年)3月に完成。
  5. 純喫茶 クラウン
  6. 資生堂化粧品(さわや

1976年。住宅地図。

 

神楽坂仲通り(写真)昭和28年頃 ID 9509

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9509は、昭和20年代後半、神楽坂附近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9509 神楽坂付近

 道路は左側に行くと少し下っています。歩道はなく、家との間にL字の縁石はありますが側溝はなさそうです。街灯も見当たりません。白いエプロンの女性は半袖で、右側の家は黒塀です。ヒントは昭和20年代に撮影した「川田」です。では「川田」はどこにあったのでしょう。
 この時代、人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)を使って(簡単ではないですが)家や店舗を探求できます。調べると、3丁目の「旅館 川田」しか浮かんできませんでした。「旅館 川田」の下の道路は神楽坂仲通りで、左の道路は芸者新路です。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

 
 では都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和27年)はどう書かれているのでしょうか。残念なことに当時は空地でした。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 では「左側に行くと少し下がって」いる、これはどうでしょう? 復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)は……

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

 赤の四角は「旅館 川田」で、青の直線は「神楽坂仲通り」です。「川田」は神楽坂仲通りという小さな山の頂上にありました。
 また黒塀については、神楽坂は「粋」な店舗と関係していました。写真の 黒塀は昭和27年、喜泉という芸妓置屋が持っていたものです。
 最後に現在の写真です。路地の向こう側の石垣はすっかりなくなり、ビルになっています。

2022/2/15

「旅館 川田」は「美空ひばりの育ての親」としても知られるコメディアンの川田晴久(川田義雄)の経営でした。しかし写真には何のキャプションも残されていません。撮影者は「新宿時物語」(2007年)掲載の柳家金語楼の家(正しくはお妾さんの家)と同様に、こっそり有名人ゆかりの場所を狙ったのかも知れません。

神楽坂5丁目(写真)昭和28年以降 ID 9507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507は、昭和28年(1953年)以降の神楽坂4~5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9507 神楽坂 角松

 歩道はコンクリートブロックで3列。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はなかったようです。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。
 紅白幕とのぼり旗「全店 大売出し」、松のような飾りがあり、ID 9495と同時期の撮影でしょう。人々は長袖で、冬服を着ています。正月に門松1対があることから、年末セールの時期と推測できます。

神楽坂4、5丁目(昭和28年以降)
  1. 尾澤薬(局)
  2. 紅白幕
  3. マケヌ屋洋品店(ID 6340参照)
  1. 門松(五十鈴?)
  2. 紅白幕

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3丁目(写真)昭和28年 ID 9506

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9506は、昭和28年以降、おそらく神楽坂3丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9506 神楽坂

 車道は凹凸が目立ち始め、将来できるOリングはなく、急峻な坂は石敷でした。歩道の構成は車道の側から縁石、外コンクリート3列、細い石、内コンクリート2列です。縁石はかなり薄く、隣の店舗同士では階段のような差がありました。中央に雨水を流すへこみがあり、側溝はありません。
 竹か笹が各店舗から1本ずつ、車道に向かって斜めに立っています。リボンや紐状の飾り、小さな提灯が下がっています。「全店大賣出し 神楽坂」ののぼり旗もあります。
 人々は半袖で、明るい色の夏服を着ています。おそらく七夕シーズンの7月ごろ、商店街の中元セールの写真でしょう。
 中央には街灯の基礎だけがあります。その向こうはポールも立っています。これは昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯の下部です。しかし上の照明(花の部分)はついていません。一方、道路の反対側には坂下に向けて簡素で背の低い丸い電球1灯の街灯(ID 30ID 4792等)が立っています。
 おそらくこの時に、街灯を交換しました。街灯の基礎やポールが黒いのはさび止めの状態で、まだ塗装していないからと思われます。ID 12125~12127の貴重なカラー写真では鈴蘭灯は白っぽく塗られています。実際にはライトグレーか銀色だったでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3→2丁目(昭和28年以降)
  1. パーマネント。マーサ美容室。二階建て
  2. 神楽坂仲通り
  3. 電柱看板「旅館 碧運」「 大久保質店」
  4. さわや。二階建て
  5. 亀井鮨。平屋
  6. 壁面一杯に「ニューイトウ」
  1. 岡田印房(地図では岡田印章)。「表札 看板 名刺」「星名刺」
  2. 助六 二階建て
  3. 龍公亭 平屋
  4. (建築中)
  5. 看板「新しいカット コールド〇 パーマネント」(ビデパーマ)
  6. (山本薬局)
  7. 神楽坂仲坂
  8. 自立看板「みい〇」
  9. 電柱看板「 大久保質店」
  10. 電柱看板。床屋のサインポール(管理髪館)

神楽坂3丁目(写真)昭和28年 ID 9504-9505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504~9505は、昭和28年以降の神楽坂3丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9505 神楽坂

 車道は凹凸が目立ち始め、将来できるOリングはまだありません。歩道は正方形コンクリートの数列と縁石からつくられて、車道と縁石の段差はほとんどないようです。下水は縁石の側にはないと思います。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯で、向かって左側は歩道の端の縁石近くに、右側は逆に建屋の近くに立っています。右端に完成寸前の建物があります。見番横丁の角で、後に「レストラン花菱」として開業します。昭和28年(1953年)撮影のID 99では看板が出ているので、この写真はその少し前の撮影と思われます。
 ID 9505で右側の白い上下の女性は半袖ですが、他は長袖で、しかしコートを羽織るほどの寒さではありません。

神楽坂3丁目(昭和28年以降)
  1. のぼり旗「うし込神楽坂 呉服/〇 丸富呉服店」
  2. .店の前に土盛りと植木のような植物(菱屋)二階建て
  3. 吊り広告「鮨」(万平)平屋
  4. ピアノ。広告「ピアノ。オルガン」(福島ピアノ)二階建て
  5. 電柱広告「龍公亭」
  6. マツダ眞空管。Toshibaの丸い看板(竹谷電気工事)平屋
  7. パーマネント(マーサ美容室)二階建て
  8. 神楽坂仲通り
  9. 電柱看板「旅館 碧運」
  1. 建築中(後のレイトラン花菱)
  2. (わずかに見える岡田印房)
  3. 助六 二階建て
  4. 龍公亭 平屋
  5. (ビデパーマ)
  6. (山本薬局)
  7. (空地または建築中)
  8. 神楽坂仲坂
  9. せともの。太陽堂
  10. 牛豚肉(ますだ肉店
  11. 電柱看板。床屋のサインポール(管理髪館)

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

善国寺(写真)昭和20年代後半 ID 9503

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503は、昭和20年代後半、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建されました。昭和46年に今の本堂を建てています。
 ID 8245は昭和44年(1969年)頃の写真ですが、違いは確かにあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 前の写真(ID 9503)では鴨居の高さを神前幕で覆っています。賽銭箱は同じ場所にありますが、ID 9503では中央に文様がひとつです。
 向かって左側には礎石の上に防火用と思われる水盤があります。屋根の雨樋の降水を受ける位置にあるようです。また「毘沙門天」の石碑の右側は柵で若木を保護しているように見えます。
 ID 8245では賽銭箱は別のもので「奉納 神楽坂振興会」と書いてあります。鈴紐すずのおが垂れ、本坪鈴ほんつぼすずを鳴らすようになっています。
 正面左右には一対の境内灯が立ち、向かって右側に文化財の木札があります。水盤はなくなり、境内灯の足元に撤去した礎石や壊れた石囲いらしきものがまとめて置いてあります。「毘沙門天」の石碑の右側は藤棚になっています。

光照寺(写真)昭和27年頃 ID 9496

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496は、昭和20年代後半、こうしょうを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496 光照寺

 光照寺は、新宿区袋町の浄土宗の寺院で、増上寺の末寺。正式には樹王山正覚院光照寺といいます。
 手前の車道の舗装、参道の敷石はいずれもかなり荒れています。
 左手に文化財の木札があります。残念ながら本文は読めません。

新宿区文化財
史跡
 牛込城址
(不明)
昭和二十七年

新宿区役所

 ちなみに1972年(昭和47年)9月21日に田口重久氏は「歩いて見ました東京の街」のなかで写真を撮っています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-1

 20年を経ていますが塀や敷石、門柱は同じもののようです。新宿区の木札はより詳細な説明になりました。現在は、すべて一新されています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-2

旧跡 牛込城
 牛込氏の居城地は袋町北部の大部分であるが、大切な部分は光照寺境内である。
 戦国時代の天文6年(1537)前後のころ、小田原の北条氏は群馬県赤城山ろくの大胡城主大胡重行を招き、牛込に住わせた。大胡氏はここに牛込城をつくって住むことになったが、城といっても大勢の家来と住む平山城の居館地であったろう。
 その規模は西は南蔵院に通じる道、北は都電通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は境内南の崖で、舌状半島の台地の尖端部である。大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる道にあった。牛込家の居館は光照寺境内北部にあったようである。
 大胡重行の子勝行は、天文24年(1555)正月6日に姓を牛込と改め、小田原氏の重要家臣となり、赤坂、桜田、日比谷あたりまで領していたが、北条氏が滅亡したあとは、徳川家の家臣となり、館は廃止された。今の光照寺は正保2年(1645)神田から移転したものである。
  昭和43年1月
新宿区

神楽坂5丁目(写真)昭和20年代後半 ID 9495

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9495は、昭和20年代後半に神楽坂5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9495 神楽坂

 よく似た写真としてはID 24-27ID 5189が挙げられます。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。車道は平坦で、歩道はありますが現在よりかなり狭いようです。右側は家のすぐ前に街灯が立っていてます。自転車に隠れているので正確な形状は不明です。衣服は冬用で、全員が長袖で、大人男性はオーバーコートを着ています。大売出ののぼりと風に吹かれたような紅白幕、松の木のような飾りがあります。また左端には門松が1対、写っています。年末の売り出し時期でしょうか。門松があるのはID 9507も同様で、同じ時期に写真を撮ったのでしょう。

神楽坂5丁目(坂上→神楽坂上交差点)
  1. 「ノーブル 西澤商店」(菓子)
  2. 小路(地蔵坂、藁店
  3. 看板に隠れた店。地図によれば書店の「武田芳進堂」で、庇の上の切り文字はなんとなくそう読めます。
  4. 楕円形の突き出し看板。地図によれば「中河電機」。看板は「ナショナルラジオ」のようです。
  5. 電柱看板「川島歯科 入口」「加藤(産婦)人科 医院」(袋町7番地)
  6. 電柱看板「耳鼻咽喉科 鷹〇医院」。「山ぐち」は袋町に(下図)。
  7. 通りを越えて「協和銀行」
  1. 紙(相馬屋)。(全店) 大売出。神(楽坂)
  2. 空地
  3. 万長酒店
  4. スピーカー。つっかえ棒
  5. 中(華)料理 源〇
  6. 全店 大売出。
  7. 巨大な標識ポール「神楽坂」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂5丁目(写真)昭和20年代後半 ID 9493とID 9494

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9493~9494は、昭和20年代後半、神楽坂5丁目と都電13系統の神楽坂停留所を撮影しました。昭和26年10月20日、同栄信用組合から同栄信用金庫に改組し、ID 9492から時間がかなり経過し、金庫は完成しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9493 都電 神楽坂停留場前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9494都電 神楽坂停留場前

神楽坂5丁目→岩戸町(昭和20年代後半)
  1. 「SAKANAMACHI POLICE BOX/OF/KAGURAZAKA  POLICE STATION/神楽坂警察署 肴町巡査派出所」「青少年相談所 神楽坂警察署派出所」
  2. 同榮信用金庫牛込支店 同栄信用金庫
  3. 架設柱 小さな電灯「神楽坂肴町医師 松村孝市」 築土八幡町←神楽坂→牛込北町 資生堂石鹸
  4. 小路(ここから岩戸町)
  5. 一五屋米店
  6. 西勘左官道具
  7. 電柱看板「江畠不動産」
  8. 建築材料

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年。

大久保通り(写真)昭和20年代後半 ID 9492

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492は、昭和20年代後半、神楽坂5丁目(昭和26年までは肴町)や大久保通りを撮影しました。左側の同栄信用金庫は神楽坂5丁目に、右側の帝都信用金庫は岩戸町にあり、どちらも建築中。現在、同栄信金は合併で「さわやか信用金庫」となり、支店は神楽坂6丁目の東西線神楽坂駅の隣に移転。帝都信金は合併で「東京シティ信用金庫」となり、同じ場所に支店があります。
 都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)とは違う会社が多く、昭和27年以降になって撮影をしたのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492 大久保通り 神楽坂五丁目付近(現牛込神楽坂駅付近)

 歩道は大きく、車道は自転車やリアカーが走り、中央では路面電車が出て、新宿と飯田橋をつないでいます。電柱からは街灯として笠のついた電球が出ています。柱上変圧器もあり、パンタグラフ用の架線も沢山あります。江畠不動産は岩戸町7にありました。

神楽坂5丁目と岩戸町(昭和27年以降)
  1. 看板「(神楽)坂警察署/(肴町)巡査派出所」
  2. (同)榮信用金庫牛込支店建築場
    (「不」か「現」)在 箪笥町新宿生活館ー◯◯◯営業中 電話は◯◯◯ ◯◯51番
  3. 架設柱 小さな電灯「神楽坂肴町医師 松村孝市
  4. 電柱看板「江畠不動産」
  5. 建築材料
  6. 袖看板「きそ(ば)」
  7. 電柱看板「江畠不動産」
  1. 店の前に自転車が一杯
  2. 高級 注文洋服 大野
  3. 帝都信(用)金庫本店建築場
  4. 電柱看板「宮本産婦人科」
  5. 電柱看板「神楽坂大場医院」「川島歯科」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年1月。

神楽坂1丁目(写真)昭和5年頃 ID 9378

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378は、昭和5年頃「牛込見附(現在は神楽坂下)」交差点近くから神楽坂1丁目などをねらい、また、この写真は東京市牛込区役所蔵版「牛込区史」(昭和5年3月31日、590-1頁)に出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378 神楽坂

 写真のキャプションでは……

  神樂坂の今昔 現在
 近時矢來より牛込見附の處、道路整備し就中見附より肴町に至るあたり、獨り毘沙門の縁日と云はず四時散策の人が絶へない。兩側店舗の家並みは落付きを見せ、そこに一鮎の情味さへ漂はせ神樂坂特有の氣分のみなぎつてゐる處、山の手方面には他にその類例がない。

牛込見附 これは「牛込見附」(現在の神楽坂下)交差点。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
肴町 現在の神楽坂5丁目

 紅白テープで巻かれた柱が坂下から坂上まで覆い、これは昭和10年に撮られた別の写真でも見られます。また、右2本目の柱に道路を照らす電灯もあると思います。「神楽坂通 善國寺」とも無理して読めるのぼり旗も沢山でています。
 電柱(電信電話柱)1本に数十本の架線がでています。多重通信はまだなく、1回線で電線1つが必要だったからです。
 前面に路面電車が走り、さらに左側には電力を供給する架線柱が見え、下を向いておそらく電灯が2つです。
 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」(平成9年)によれば、昭和5年、交差点「牛込見附」から上に向かって右手は「赤井足袋店、田中謄写堂、萩原傘店、山田屋文具、斉藤洋品店、みどりや、紀の善寿司」、左手は「寿徳庵菓子、畔柳氷店、伊勢屋乾物、翁庵そば、須田町食堂、東京堂洋品、陶仙亭中華」があったといいます。はっきり分かるのは右の角の赤井足袋店(足袋形の白地看板)、左の角の寿徳庵菓子(「大福」の看板)だけです。
 電柱の間から見える「名〇」の看板はID 7641と比べると赤井の隣と思われます。また寿徳庵の左には「古老の記憶」「私のなかの東京|野口冨士男」などによれば「娘義太夫の定席『琴富貴』」があったとありますが、残念ながら分かりません。寿徳庵前の電柱には「西條医院」(若宮町)と別の病院の広告が見えます。
 また右側の坂の中腹、ひときわ大きい入母屋屋根の3階建ては「場所的に佐和屋ではないか」と地元の人。

神楽坂1丁目(昭和5年頃)
  1. 電柱看板「西條醫院」「醫院」
  2. 寿徳庵(大きな看板「大福」)
  1. 赤井足袋店。足袋形の白地看板と看板「名」

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 465、ID 8820-8823、ID 8826

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 465、ID 8820~8823、ID 8826は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 465 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8821 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8820 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8822 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8823 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8826 神楽坂六丁目

 ID 8813-8819と異なり、左にあった自動車はなくなり、はるか遠くに停車した自動車は動かず、前の八百政は変わりないですが、奥の八百政はこの時点で開店しました。さらに、これは昭和44年(ID 8273~8276)、昭和45年(ID 8316)と同じ場所ですが、昭和47年12月、荒井精肉店は荒井ビルと変わり、昭和48年にはスーパーアライになっています。なお、ID 8823はID 467と同じ写真です。
 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉は枯れ、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器もあります。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「(フラワー 一)紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

1976年。住宅地図。

横寺町と神楽坂6丁目(写真)昭和48年 ID 8812

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8812は、昭和48年(1973年)2月、横寺町から見た朝日坂神楽坂6丁目を扱ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8812 横寺町

 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器もあります。左側の自動車はID 8807からID 8811まで遠くにある自動車と同じでしょう。

横寺町と神楽坂6丁目(昭和48年)
  1. 木に隠れて「内野医院」
  2. 突き出し看板「( 澤)之鶴 飯塚 酒店」Cokeの自動販売機
  3. 多分「寺島巧芸社」。「 ▽ 寺島巧芸社 」(看板・標識製作の会社)。前に自動車。段ボールか書類の山
  4. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  1. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 右門の和菓子 ここ➡」「 買入 丸越」。
  2. 看板「ヤマハ エレクトーン スクール」
  3. 「曹洞宗 龍門禅寺」
  4. 道路反射鏡
  5. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「歯科 川畑」「〇〇堂」
  6. 突き出し看板「歯科 川畑」
  7. (パーマ)スミレ
  8. 突き出し看板「白鷹 寿司清」
  9. 床屋のサインポール
  10. 「フラワー 一紀」
  11. 「ドライクリーニング」

1976年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 8813-8819, ID 466

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8813~8819は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。またID 466はID 8817と同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8813 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8814 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8815 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8816 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8817 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 466 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8818 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8819 神楽坂六丁目

 左にある自動車はバックドアを開き、はるか遠くにある自動車はID 8807からID 8820以上まで同じように停車し、さらにID 8815から見える自動車は、おそらく数十分後になると、なくなり、かわって八百政が店を開くはずです。
 さらに、この撮影は昭和44年(ID 8273~8276)や、昭和45年(ID 8316)と同じ場所ですが、昭和47年12月、荒井精肉店は荒井ビルに変わり、昭和48年にはスーパーアライになっています。
 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉は枯れ、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器はかなり立派でした。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「(フラワー 一)紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. パーマ スミレ
  6. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  7. 突き出し看板「川畑」
  8. 道路反射鏡
  1. 盆栽と盆栽鉢。キャベツ、国光(リンゴ)、愛媛ミカン(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 未開店(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

1976年。住宅地図。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和45年 ID 8316, ID 463

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8316とID 463を見ましょう。ID 8316の撮影時期は1970年(昭和45年)頃、ID 463は1970年3月です。撮影は神楽坂6丁目から朝日坂横寺町までです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8316 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 463 横寺町入口附近

 立木の葉は枯れ落ち、歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯で、柱上変圧器はかなり立派でした。女子高校生は長袖か半袖。和装の女性はショールを羽織り、右手前の男性はYシャツに薄手のカーディガン。左側にはコンクリート製の\電柱が並んでいます。右側にも電柱があり、最初の1本は神楽坂6丁目でコンクリート製ですが、2本目からは横寺町で木製になります。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和45年)
  1. 看板「(一)紀」「のし 中〇」花輪。開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. 突き出し看板「 (川)畑」
  1. 右下隅、男性の足元の野菜が「青果丸大商事」
  2. 男性が直方体の箱を持っている。葬式?
  3. 「天台宗 光圓寺/伝教大師(御真)作/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「古流 松村崇〇 於 当寺内」
  4. 正面の平屋の八百屋が「広瀬」。「Bonita Banana」「サニー」「西浦みかん」。道路でキュウリの箱。「いちご一山200エン」「「最高品 一山200エン」(みかん)。バナナ。甘夏、玉ネギ、長ネギ、葉物野菜など。出荷時期はたぶん春先の3月と地元の方
  5. 「肉のアライ」「お砂糖はカップ印」「セルフサービスの店 アライ」
  6. 「第一パン」「SELF-SERVICE」「雪印バター」。電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 
  7. 「寺島巧芸社」(看板・標識製作の会社)脚立か鉄枠みたいなものがいくつも立てかけてある。
  8. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  9. 内野医院
  10. (消火栓)

1970年。住宅地図。

かくてありけり③|野口冨士男

文学と神楽坂


 野口冨士男氏の『かくてありけり』(講談社、昭和52年)は、読売文学賞を受賞した自伝的小説です。講談社文芸文庫の解説によれば「幼時や少年時に住んだ土地を訪ね」「時代を写し自らの来しかたを凝視」したもの。作者は芸妓置屋で育ち、母も芸者で、子どもから見た、芸妓置屋の家具や、諸肌ぬぎする芸妓、切り火などを述べています。

 私が母方の祖父母の家から人力車で池本へ連れて行かれたとき、どうも姉はいなかったようにもおもわれる。
 第一次世界大戦の終結は大正7年の11月11日だから、私の静岡からの帰京はちょうどその一年前にあたる。いわゆる成金が続出した大戦景気のさなかであったし、花柳界は景気の好不況をもっとも敏感に反映する社会の一つであったから、母も芸者屋の主人として自立することができたのだろうし、私を引き取ったばかりか、父からもとめられればなにがしかの金も融通できたのだろう。大変な売れっ子だったときく母が座敷へ出ていってしまうと、私は泣きさけんでまわりの者をてこずらせたということだが、それまでとはまったく環境のちがう、見知らぬ者ばかりのなかに取り残されて心ぼそかったからであったに相違あるまい。姉がいたら、そんなこともなかっただろうとおもわれるのである。
 実際、それまでとは見るもの、聞くもののすべてが違っていた。
 まず、一般家庭にないものとしては、縁起棚簿記台と三味線掛けとを挙げねばなるまい。さらに銭湯からもどった芸者たちが、乳房と乳房との二つの隆起のあいだにあるくぼみがはっきり見えるあたりまで着物の襟の部分をひきさげた諸肌ぬぎになって、襟白粉をぬるための鏡台が、窓にむかって幾つもならんでいる。夏になるとその窓が明けはなされるから、ただ道を通るだけで半裸の姿が眼にはいる。それをめあてに路地へ入って来て物蔭で自慰をする男は「かき」と呼ばれていて、みつかると水をひっかけられていた。また、座敷がかった場合に着つけの全身像を映すための、縦に長い姿見とよばれる大きな鏡がある。そして、芸者がお出先といわれる待合へ出て行くときには、そのつど火打石切り火がされる。一日に何度も打たれるから、矩形の火打金は中央部の左右がすっかりくびれていた。
池本 母親の家。赤で囲んだ場所、詳細はここに。

昭和12年の神楽坂花街における花街建築の分布。松井大輔、窪田亜矢「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」日本建築学会計画系論文集。77巻第680号。2012年

縁起棚 えんぎだな。芸人の家・料理屋・商店などで、縁起をいわう神だな。
簿記台 ぼきだい。簿記とは経済活動を一定の方法により組織的・継続的に記録・計算する技術。企業が毎日の活動等を帳簿に記録し役立てること,
襟白粉 えりおしろい、襟首から肩にかけてつける濃いおしろい。江戸中期から、上方風の厚化粧をまねて流行した。牡丹ぼたん刷毛はけを使って塗る。
お出先 おでさき。芸者の呼ばれる料亭や待合など。
待合 客と芸者に席を貸して遊興させる所。
火打石 ヒノキ・モミなどの堅い材に細い丸棒をもみこみ、その摩擦熱でおこす火。
切り火 旅立ちや外出などの際、火打ち石で身に打ちかける清めの火。
火打金 ひうちがね。火打ち石と打ち合わせて発火させる鋼鉄片

 さらに、花柳界には水商売という点で相場師や博突打ちに通じるところがあったし、そういう客種もすくなくなかったから、縁起をかついで、たとえばスルというような言葉は絶対に禁句とされていた。味噌のスリ鉢はあたり鉢、スリコギはあたり棒、するめはあたりめ、硯箱はあたり箱、猿はエテ、果物の梨はありのみ、座敷のかからぬことをお茶をひくというので、お茶のことは芸者屋の場合お出、待合の場合はあがりといった。また、博突打ちが一網打尽をおそれるためか網目の図柄の徳利や湯呑みもきらわれていたが、そのほかにも塩は浪の花、爪楊枝は黒文字、金はおたから、蛇は長虫などとよばれて、私は踏み台や階段に腰掛けることを禁じられた。待ち人が来なくなるためだといわれたが、通行の邪魔になったからだろう。
 事実、芸者屋の生活は、第三者がおもうほど呑気なものではない。ひとくちに拭き掃除といっても、火鉢、箪笥、茶箪笥、鏡台の類には艶布巾がかけられる。廊下や階段なども、雑巾がけのあと、卯の花といわれる豆腐のおからを布で包んだもので艶出しされる。前夜の玉代は、朝のうちに出先へさげに行く。三味線や舞踊の稽古、結髪のあとは「いまほどね」とひいき筋の待合へ自身を売りこみに歩く。そして、入浴、化粧と時間に追われて、お座敷のかかりはじめる宵の口からは戦場のような騒ぎになる。踏み台などに腰掛けられていては、たしかに邪魔になった。
エテ 猿。サルが「去る」に通じることから、忌み言葉の言い換えで「得る」を用いた。
ありのみ 梨。ナシが「無し」に通じることから忌み言葉の言い換え。
お茶をひく 暇で用事がない。特に、芸者・遊女などが、客がなくて暇である。茶は暇な日の仕事とした。
あがり 江戸時代の遊郭(花柳界)で使われる言葉で、お茶のことを「上がり花」、転じて「あがり」になったという。
網目の図柄 網のように編まれた模様や形。

網目の図柄

浪の花 塩。一説ではシオは「しおれる」に通じ、忌み言葉の言い換え
黒文字 クロモジの木で作られたものが多かったため、黒文字ともいう
長虫 ヘビ類の俗称。なお、マムシは強毒で、真の虫から「真虫」マムシとなった
艶布巾 イボタろうの液などをしみ込ませた布巾。木製の家具や廊下などをふいて、つやを出すのに使う。イボタ蝋はモクセイ科の植物である「イボタノキ」に寄生するイボタカイガラムシが分泌する蝋で、高級なロウソクの原料のほか、桐タンス・桐箱など桐材の艶出しや、ふすま・障子など建具敷居のすべり剤として用いられる。
卯の花 豆腐のしぼりかす。おから。
玉代 ぎょくだい。芸者や娼妓しょうぎなどを呼んで遊ぶための代金。花代。はな。ぎょく。
さげ 目上から渡されること。官府から支給されること。
いまほど つい先ほど。芸者同志が「今ほど」などと挨拶をかわす。「今日こんにちは」とか「今晩は」に当たる。「会いましょう」と同じ。
ひいき筋 芝居や芸人などを特に目をかけて可愛がってくれる人を、芸人の側から呼ぶことば。

神楽坂6丁目(写真)朝日坂 昭和48年 ID 8807-8811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807-8811は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂6丁目から横寺町までの朝日坂を撮ったものです。なお、ID 467も同じく昭和48年2月、朝日坂を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8807 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8808 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8809 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8810 神楽坂六丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8811 神楽坂六丁目

 歩道はなく、車道にオーリングで施工したこともなく、立木の葉はなく、下水は道路の側溝を流れ、街灯は長い蛍光灯でした。立派な柱上変圧器もありました。

神楽坂6丁目と横寺町(昭和48年)
  1. 看板「フラワー 一紀」
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 街灯(蛍光灯)。電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る この手前」。その下に張り紙
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. パーマ スミレ
  6. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  7. 突き出し看板「川畑」
  8. 道路反射鏡
  1. ビル
  2. 電柱看板「(川)畑 入口 すぐそこ」
  3. キャベツ 国光(リンゴ)愛媛ミカン(八百政)
  4. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師(御真)作 草(刈)薬師如来 閻魔大王尊 安置」「宗顕流 古流 いけ花 松村崇〇 於 当寺内」
  5. 未開店か閉店(八百政)
  6. 「Super ARAI」
  7. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ
  8. 「寺島巧芸社」(看板・標識製作の会社)
  9. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  10. 内野医院
  11. (消火栓)

1976年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和48年 ID 8805, ID 8806

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805とID 8806は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂2丁目から坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂

 休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。一方、車道について、急勾配のコンクリート坂は滑り止めが必要ですが、これは道路表面に円形のオーリングを埋め込み、一定時間後にそれを取り除く方法をとっています。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があり、電柱看板も見られます。また遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えています。

神楽坂2丁目(昭和44年)
  1. 化粧品 おしゃれの店 十奈美 ブラバス・スタッフ/BR  KOJI/コージーアイラッシュ MG5
  2. 電柱の剥がされたビラ「ベトナム革(命)」
  3. おしゃれの(S)PO(T)T ESUTA(洋品店)
  4. とんかつ かん一(2階)
  5. (高い位置に マルマン)ガスライター メガネのオオカワ Nikon メガネレンズ
  6. 街灯看板「神楽坂通り」
  7. 電柱看板「歯 石川」「 大久保
  8. ヒデ美容室
  9. (音楽)長崎(五条ビル)
  10. 菊正宗 青柳寿司
  11. そばどころ 神楽坂 丸屋
  12. 三菱銀行
  1. ビクター音楽 リ(ード商会)(レコード店) 2階 (名)人荘 (麻雀店)
  2. 山田紙店 仮営業所(以前の亀井寿司)
  3. 資生堂化粧品 さわや  カネボウ化粧品
  4. 喫茶 馬
  5. マーサ美容室(窓からウインドウ型のエアコンが飛び出している。昭和40年(1965)頃の写真ID 15にはないもの。店舗の冷房が普及していった時期でしょう)
  6. アザミ
  7. ナショナル クレジット ナショナル カラーテレビ(竹谷電気工事)
  8. 小料理 万平
  9. 東洋紡カーテン(菱屋
  10. 東京電力(サービスステーション)
  11. 鮨どころ 二葉
  12. 酒酒 鳥忠
  13. 五十(番)

1973年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8801~ID 8804

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801からID 8804は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂1丁目から坂上を撮ったものです。ID 8803はID 66と同じ写真です。休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8802 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8803 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8804 神楽坂

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)も左右に1本ずつできています。その一方は中華料理「信華園」がある歩道にできました。また遠くに同じ「神楽坂通り/美観街」が見えています。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 看板「中華料理 信華園」と6角形の竜形
  2. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  3. 電柱看板「川島歯科
  4. 小栗横丁への道
  5. 半分だけの標示「御料理 志満金
  6. 電柱看板の「 大久保
  7. 「靴 オザキヤ
  8. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸」(大島糸店)
  1. 突き出し看板「喫茶室 軽い心」。一階で 洋酒とお食事 ハッピージャック
  2. 麻雀 桜(桜別館)
  3. 山一薬品(工事中)
  4. 看板「パチンコはマリーで」
  5. ニューイトウ(靴)
  6. 坂(喫茶)
  7. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  8. 喫茶  クラウン
  9. 「神楽坂ビル」。1969年2月完成。
  10. MAX FACTOR(化粧品)
  11. 資生堂化粧品(さわや
  12. 菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か
  13. 東京電力

1973年。住宅地図。