神楽坂2丁目」カテゴリーアーカイブ

神楽小路の池

文学と神楽坂

「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏号(1998年)で、林功幸氏(今はない「巴有吾有」オーナー)は

 昔は、いまのギンレイホールの隣のビルのあるあたりは湿地帯で、きれいな湧水の池があった。

と簡単に書いています。
 平成18年(2006年)『神楽坂まちの手帖』12号「津久戸小学校(昭和31年度、佐藤学級)ミニ同窓会」では

平松 神楽小路に池がありましたよね。
土屋 ありましたね。池の左側が細長い崖みたいになってて。
上田 あの辺り、二、三年生の頃は原っぱでね。
平松 それで真ん中に池があって、よくそこでザリガニ釣ったのを覚えてますよ。
上田 釣りはやりましたね。
平松 あれは、どのくらい広い池でした?
上田 子供の頃は随分大きいような気がしたけどね。あれは佐久間さんのお屋敷(注)にあった池じやないかな。湧き水かなにかで、小川みたいにギンレイホールの方まで流れて行ってて。
平松 飯田壕まで流れてたんですか?
土屋 外堀通りには流れてなかったですね。あそこはもう車が通ってたから。
上田 どうだったかな。五、六年生の頃はもう、神楽小路になってて、トリスバーとか小柳ダンス教室とかあって。
平松 ありましたね、小柳ダンス教室。
上田 俺、大学生の頃にちょっと通ってた(笑)。

注。軽子坂を上がった左手。現在中央ビルになっている所にあったお屋敷

 同じく同書同号の「神楽坂三〇年代地図」には

神楽坂30年代地図

神楽坂30年代地図

 たしかに池はありそうです。では、年代ごとに見ていきましょう。

 最初は、江戸時代です。嘉永5年(1852年)の「当時の形」では桃色の線が将来の「神楽小路」です。でも「神楽小路」はなく、あっても垣根ぐらいでしょう。池もなく、「佐久間さんのお屋敷」には「塩谷大四郎」が住んでいました。

1852年の当時之形

1852年の当時之形。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

 次は昭和12年「火災保険特殊地図」です。昭和初期で、戦前です。将来の「佐久間さんのお屋敷」を見ると、普通の家が並んでいます。この時も、池はありそうではありません。

昭和12年「火災保険特殊地図」

昭和12年「火災保険特殊地図」

 次は昭和27年の「火災保険特殊地図」です。これは戦後で、2丁目の18番地と17番地には何も建っていません。原っぱなのでしょう。これは上の対談者たちが小学校2年生になっていた時期です。この場所で、おそらく低くなった真ん中に、池があったのでしょう。「神楽小路」の名称もこの時期からつくようになりました。

 昭和38年(1963年)の住宅地図になると「佐久間さんのお屋敷」がでてきます。上の対談者たちは19歳になり、当然ながら、池はなくなっています。

 最後に1990年の住宅地図です。まだ「佐久間さんのお屋敷」は残っていますが、その後、2000年以前に中央ビルになりました。

1990住宅地図

1990住宅地図

神楽坂仲通り(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂通りを背後に見て「仲通り」をこれから北に登っていきましょう。

 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。2番目の写真では解像度を上げたもので、ここをたたくと『環境にやさしい商店街 』などが出てきます。

仲通り標柱

 上を見ると「神楽坂仲通り」と巨大な看板が見えたのですが、2017年にこの看板はなくなり、かわって日本語「神楽坂仲通り」と英語の”KAGURAZAKA CENTRAL St.”がある街灯、その下に『環境にやさしい商店街 東京都政策課題対応型 商店街事業 を利用しています 平成29年 神楽坂仲通り商店会』と変わりました。

現在と過去の仲通り

現在と過去の仲通り

 左に芸者新路がでてきますが、写真ではまだ出てきません。階段が付いているのもまだ見えません。その後は右に入る路地があり、フランス料理が2軒ほど並んでいます。手前で左は「ル・クロ・モンマルトル」、後ろはフレンチカフェレストラン「ル・コキヤージュ」です。後者はそば粉のクレープを出してくれます。

 さらに左に入るかくれんぼ横丁がでてきて、そこからすぐのところに料亭「千月(ちげつ)」があります。写真は「千月」です。

 千月

 さらに赤い屋根のイタリア料理店がでると、おしまいです。

仲通り

 昔は料理店や芸妓屋だけでした。現在はフランス料理、イタリア料理、上海料理、寿司などに変わっています。場所は小さいのにあらゆる料理が出てくる。もうどんな場所にいっても大丈夫。

2013/3/26→2019/8/21

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

神楽小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成10(1998)年『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では…

阿久津 スタートして、まず「神楽小路」に向かいましたね。
井上  これは神楽坂としては少し異質じゃないですか。粋というより、戦後のエネルギーを感じるというか。
林   あそこは昔からあまり変わっていない。

 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、図の上で手のアイコンは360度動きます。

 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、震災前の当時、大正11(1922)年頃は「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

 おそらく戦後になってから「神楽小路」と名前が変わります。昭和30年代にはもう神楽小路と呼んだようです。最初は頭上のアーチ看板でしたが、それが標石に変わったのは平成18年です。

 平成18(2006)年、「神楽坂まちの手帖」第13号「独自に生み出した”老舗”の味」では

 2006年3月末、「神楽小路」の名を刻んだ石柱が完成した。「紀の膳」さんの脇の小路に一歩足を踏み入れる時、丸みを帯びたその石柱を無意識に撫でていたとしても不思議はない。つるんと気持ちの良い触感だ。
「さっきね、石柱にもたれて立ってる人がいたんですよ」。そんなことを、殊更嬉しそうに言うのが、ラーメン屋「黒兵衛」店主であり、神楽小路親交会の会長でもある大野雄一さん(50歳)だ。彼の店は、その神楽小路を入ってすぐのところにある。
 もともと頭上にあった神楽小路の名を示す看板が古びて、いよいよ危険になってきた去年、それに変わるものを作ろうと中心となって奔走してきた。(神楽小路)の字体は、平野甲賀さんにお願いしたというこだわりようだ。

平野甲賀 ひらのこうが。ブックデザイナー。1964年から1992年まで晶文社の本の装丁を一手に担ってきた。生年は1938年。

 西村和夫氏の「雑学神楽坂」第7章「神楽坂を上がる」(角川学芸出版、平成22年)では

 紀の善の角を入ると神楽小路である。軽子坂に抜けるこの道は以前「紀の善横町」と呼ばれていたが、いつしか大衆的な飲み屋、中華料理、飲食店が雑然と並び、夜は人通りが多くなり神楽小路と名を変えた。紀の善前に「神楽小路」の石碑が建っている。

 ここに入ってから、「みちくさ横丁」がでてきます。また「東京ワンタン本舗」の看板はギンレイホールの屋上にあります。さらに2018年には新しく石畳と黒塀の横丁もできました。

2018年3月19日→2019年8月16日

神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

神樂坂町二丁目 享保中、士地官収くわんしうして、よけとなし、延享えんきやう二年放生寺ほうしやうじ借地しやくちとし、文政五年田町四丁目代地だいちとなる。明治二年神樂坂のとりて牛込神樂かぐらちやう改稱し、明治四年六月附近ふきん士地しち開墾地かいこんちを合し、南隣に一丁目をつるを以て其の二丁目となす。坂に神樂かぐらざかあるを以て里俗此邊このへんすべて神樂坂と稱す。

享保 1716~36年
士地 武士の土地ではないでしょうか?
官収 官庁がとりあげること。没収。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
延享 1744~48年
放生寺 東京都新宿区西早稲田にある高田八幡宮の別当寺。別当寺とは江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺
文政 1818~31年
田町四丁目 現在の新宿区市谷本村町1丁目。
代地 江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。
改稱 名称や称号を改めること。改名。
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では

神楽坂2丁目
 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷いちがや田町たまち四丁目代地があった。
市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政五年二八二二)二月八日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年六月九日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。
 明治二年(一八六九)五月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治二年町鑑)、同四年六月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇五三)。昭和二六年五月一日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第三四七号)

 ここで神楽坂通りを横切る右側と左側がそれぞれ別の横町につながっています。

神楽坂2丁目

神楽坂2丁目

 まず明治20年の地図2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。

 右側は「神楽小路(こうじ)」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ

 神楽小路

 左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。小栗横丁

 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。

 志満金と田口花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がるのは小栗横丁です。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町でアグネスホテルはここから行くこともできます。

ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。

 左側には「志満金しまきん」と「オザキヤ靴店」が見えます。

 さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド千年こうじや梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。ポルタ神楽坂

 ではまた神楽坂通りの上を向いて歩いてみましょう。陶柿園神楽坂写真館さわや肉のますだや太陽堂などがでてきます。

 ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。

 さらに上に行くと、神楽坂の2丁目と3丁目の境にやってきます。3丁目の右側には1階はサークルK、2階はロイヤルホストが見えます。昔は牛込會館でした。

 その下には牛込神楽坂の図もあります。
2丁目と3丁目

 このあたりが一番急な坂になり、最大勾配は12%、角度は4.5度です。(『ここは牛込、神楽坂』14号42頁)

 ここから上を向いて右側は神楽坂仲通りになり、左側は下に向き小栗横丁に入り、上は神楽坂3丁目に行きます。ほかに神楽坂1丁目神楽坂4丁目神楽坂5丁目神楽坂6丁目もあります。

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牛込御門の建築以前

文学と神楽坂

『東京名所図会』「牛込区之部」(東陽堂、第41編、1904)の「牛込御門建築以前の景況」を読むと、神楽坂一丁目は実は空き地だったとわかります。さらに江戸初期の地図を見てみると、神楽坂一丁目そのものがなく、代わりに紅葉川、実は大下水が流れていました。

正保年中江戸絵図

正保年中江戸絵図。正保元年(1644)頃

牛込御門建築以前の景況
武江圖説に云。牛込に御堀なき頃、四番町に長阪血槍、須田九左衛門屋敷並び、番町方と云。叉小西半左衛門、間宮七郎兵衛、都築叉右衛門並び、牛込方と云。其間の道幅百間餘ありて、草茂し。夜中は辻切等あり。故に日暮より往來なし。其後丸茂五郎兵衛、中根九郎兵衛屋敷を、小栗と間宮の前にて拝領。鈴木治右衛門、松平所左衛門、小林吉太夫抔一ト通りに、市谷田町迄績きし故に、七十四間の道幅に成りたりとぞ。夫より牛込市谷御門建たり。」以て當時の景況を知るべし。右の文中に辻切等ありと見ゆ。當時は戰國の餘習未だ去らず。人々武勇に誇りし時代なれぱ、かゝる乱暴のこともありしなり。されば寛永十年辻々番所を設けて、之を監制するに至れり。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

[現代語訳]
○牛込御門が建築する前の様子
『武江図説』は次のように述べる。「牛込にお堀がなかった時代、四番町では長阪血槍、須田九左衛門などの屋敷をさして番町方と呼び、さらに、小西半左衛門、間宮七郎兵衛、都築叉右衛門(青色)などは牛込方といっていた。その時の道幅はおよそ180メートルぐらい。草はぼうぼうだし、夜中には辻斬も出てきた。したがって日暮になると家の外にはでないのが普通だった。その後、丸茂五郎兵衛や中根九郎兵衛の屋敷(水色)を小栗と間宮の前に拝領した。鈴木治右衛門、松平所左衛門、小林吉太夫(緑色)などの屋敷も加わって、道路は市谷田町まで続き、道幅は130メートルになった。その後、牛込市谷御門を建築した」と。当時の様子がわかるだろう。文中では、辻斬などもあったという。当時、戦国の習慣はまだあり、人々は武勇を誇った時代なので、こういう乱暴さがあったのだ。それで1633年には辻ごとに番所を設けて、監制すると決めたという。

景況 時間の経過とともに次第に変わってゆく、ある場所、世の中などのありさま。様子。
武江図説 江戸図説や江戸往古図説とも。江戸時代の地誌。大橋方長著。寛政12年(1800)。
 など。ある事物を特に取りあげて例示する。「杯」ではなく「抔」です。
 およそ。正確ではないがそれに近いところ。おおまかなところ。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
辻切 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。
一ト通り 「一ト」は「ひと」と読みます。「一ト通り」は「ひととおり」。だいたい。ふつう程度に、ずーっと。
七十四間 134mです。神楽坂下から飯田橋駅近くにある麹町警察署飯田橋前交番までは約130mです。
余習 よしゅう。残っている昔の習慣
寛永十年 1633年
辻々 「辻」は十字路。「辻辻」では「辻ごとに」の意味
番所 江戸時代、幕府や諸藩が交通の要所などに設置した監視所。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1

文学と神楽坂

「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 はい、間違いがあるのです。最初は極めて正しいのですが……

 神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考
 往古の牛込の地域とは、どこからどこまでであったという事は定め難い。
 武蔵の国の、その中の一地域が牛込村で、強いていえば小石川と四谷の間の高陵、もっと縮めていえば江戸川流域に沿った小日向と市ヶ谷台との間の地域が、つまり牛込氏(大胡氏)が砦らしき館を築いた光照寺あるいは行願寺の辺り、つまり牛込御門内外(まだ江戸城の外濠は開さくされない時分から)と神楽坂を中心として早稲田、戸塚辺までが牛込であるといえる。
 小田原北条氏麾下に、大胡氏が牛込氏となって牛込城を築いた神楽坂上が、牛込氏の本拠であった事は確かなる事実といえる。この事は前掲牛込城址の項にと述しておいたので、ここでは重記することになるのであえて記述しない。この牛込について“御府内備考”の総説を摘記しておくと、

武蔵国 むさしのくに。東京都、埼玉県、神奈川県の一部
牛込氏 淵名兼行の孫・重俊が上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、大胡氏と称した。戦国時代、重俊から十代の孫・大胡重行の子勝行にいたって、小田原北条氏三代の氏康に招かれ、江戸牛込に移り住み、以後牛込氏と称した。
開さく おそらく「開鑿」でしょう。土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。
麾下 きか。将軍じきじきの家来。旗本。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、文政12年(1829年)に成稿。ところが、これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。

 これからは国立国会図書館デジタルコレクションの御府内備考を直接使います。ただし、「が」や「ど」などの濁音や、「、」「。」などの句読点は補っています。また≪≫は割注で、本来は一行の中に二段構えで表示する補注です。
 まず牛込の「込」は、「牧」の和字で、牛が「多く集まる」という意味。次は16世紀で、大胡氏を牛込氏に変更したことが書かれています。これも全く正しいのですが……

御府内備考

御府内備考

御府内備考巻ノ五十三
  総説
此所は往古武蔵野の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり。駒込村≪初に出≫馬込村≪荏原郡に馬込村あり≫等の名もしかなりと≪南向茶話≫。さもありしならん。江戸古圖にも牛込村みへたり。中古上野國大胡の住人大胡彦太郎重治といひし人當國にうつり≪年時を詳にせず≫此豊島郡牛込村にすみ小田原の北條に属せり。その子宮内少輔亜行天文十二癸卯年の秋七十八歳にして卒す。その子宮内少輔勝行が時に至り天文廿四乙卯年≪弘治元年なり≫五月六日、北條氏康に告て大胡を改めて牛込氏となれり。此時氏康より判物を賜ひ江戸の内牛込村今井村≪今赤坂にあり≫櫻田村日尾村≪今の日比谷なり≫を領せり≪他国の領地は略せり≫勝行天正十五丁亥年七月廿五日卒すとし八十五歳≪牛込系図≫叉北條分限帳を見るに江戸牛込六十四貫四百三十文の地を大胡某領せしよし載す。
125,000デジタル標高地形図

125,000デジタル標高地形図 http://www.gsi.go.jp/kanto/kanto41001.html

往古 おうこ。おうご。過ぎ去った昔。いにしえ。
武蔵野 武蔵野台地。荒川と多摩川に挟まれた関東平野南西部の洪積台地の通称。
 まき。馬や牛を放し飼うために区画された地域。
南向茶話 国立国会図書館デジタルコレクション「戯作六家撰」を引くと、 岩本佐七「燕石十種」(国書刊行会、明治40年、国立国会図書館オンライン)が出てきます。この354コマのうち254コマに「南向茶話」がでていて、「牛込之名目は風土記に相見え不申候へども舊き名と被存候凡て當国は往古嚝野の地なれば駒込馬込(目黒邊)何れも牧の名にて込は和字にて多く集る意なり」と書いてあります。
上野国 現在の群馬県。
大胡彦太郎重治 新宿区赤城元町にある赤城神社については、鎌倉時代の上野国(群馬県)赤城山麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治は、正安2年(1300年)、牛込早稲田田島村に赤城神社の分霊を祀ったといいます。
宮内少輔 くないしょうゆう。従五位下の官位。宮内長官は1人、宮内大輔は1人、宮内少輔は1人で、宮廷の修繕、食事、掃除、医療など庶務を務めた。
天文十二癸卯年 1543年
卒す しゅっす。死ぬ。特に皇親や四位・五位の人の死で。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代相模国の戦国大名。1515~71年。
北条分限帳 相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の役高を記した分限帳。

「牛込方」の一部は麹町にはいっているのではと、磯部鎮雄氏は指摘します。しかし、そうではなく、単に神楽坂一丁目と二丁目の発展を描いているだけです。個人の名前が出ていますが、全員、神楽坂の南に出ている名前です。

正保年中江戸絵図

正保年中江戸絵図。正保元年(1644)頃の図

新見隨筆に云、昔は牛込の御堀もあらで、四番町にて長坂血槍、須田久左衛門なとの並びの屋敷をさして番町方といひ、牛込かたは小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門などのならびを牛込といへり[1]。その間の道幅百間に餘りし故。牛込かたと四番町の間、ことの外廣く草茂りて夜ことに辻切など云ことあり[2]、その後丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛などいへる小十人をつとめし人、小栗、間宮を屋鋪の前の方に居宅を給ひ、鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門などおしならびて市が谷の田町へつゞきし故、道幅もおのづとせばまり七十四間といふになれり。そのころ牛込の御門もいできしなり。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門 名は違いますが、姓は同じものが、右図で青色で描いた居宅にあります。
[1] 磯部鎮雄氏の註は「今千代田区富士見町1丁目、日本歯科大あたりか? この辺も牛込のうちに入るらしい」と書いていますが、残念ながら、入ることはありません。延宝年間の地図で、神楽坂より南の方を見ればよかったのにと考えてしまいます。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
辻切 ➀ みちり。村の入り口で行われる民俗習慣のひとつ。注連縄しめなわを張ったり、大草鞋わらじを掛けたりして、悪霊や悪疫の侵入を防ぐ。➁ 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。この場合は➁でしょう。
[2] 同じく磯部鎮雄氏の註は「このあたり切図の番町図をみると御用地で広く、里俗蛙ヶ原(かわずがはら)という所で,左手に牛込御門がある。この御門内も牛込の内であったのであろう」。[1]と同じで、残念ながら違います。
丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛 右図で水色で描いた居宅でしょう。
小十人 こじゅうにん。江戸幕府の職名で、将軍出行の際に先駆として供奉した足軽の組。
鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門 右図で緑色で描いた居宅
七十四間 135.42mです。どこからどこまで測ったのか不明ですが、神楽坂下のスターバックスから麹町警察署飯田橋前交番までの距離でも正しいと思います。下図を参照。
牛込御門 寛永16年(1639年)に建築しました。

外堀通り

外堀通り(グランマップ Mapnet Corp. 2001で作成)

神楽小路からの石畳横道

文学と神楽坂

 2018年にできたのがこの神楽小路から横に入っていく道の石畳。店舗は2018年11月9日にできました。


 神楽坂ビストロ&カフェ フロマティックといい、ラリアンスグループがつくっています。パンとワインとラクレットチーズが得意です。

 昔はここには石畳はなく、アスファルトでした(下図)。

以前の神楽小路からの横道。Googleから。

 ここは神楽坂1丁目ではなく、2丁目に当たります。石畳は私道です。

 以前はまったく変哲もない道でした。それが変わります。少し変わったときにGoogleでは写真を撮っています(360度のGoogleの写真。右図はその一部)。左側には薄朱色の壁がありますが、石畳はまだありません。昔の店舗は「神楽小町」でした。

 現在(2018年11月)は、こんな道と右側に新店舗ができています。

 また、突き当たりから入口にむけて撮ると、反対側は立派な黒塀に変わっています。

牛込郷愁

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ郷愁ノスタルジヤ」です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、起きました。

 なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。

 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈(けんとう)がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ虎男とらお獨歩どっぽの長男)と、平野威馬雄いまおヘンリイビイブイというアメリカ人で日本の勲章を持っている人のせがれ)と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさに僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり、昔の友達は意気があいすぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイじゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが酒店の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちんをつけた自転車が三台、続いて文明館のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえをよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。
 まだある。二十一、二の時分に神楽館かぐらかんという下宿にいた。白木屋の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺいことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎かわさき備寛びかん間宮まみや茂輔もすけ、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは万長酒店です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。

小品『草あやめ』①|泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花作「草あやめ」(明治36年)の最初の1節です。当時の神楽坂2丁目の様子がわかります。まだこの辺りは華街にはなっていなかったのですね。

二丁目にちやうめ借家しやくや地主ぢぬし江戸兒えどつこにて露地ろぢとざさず裏町うらまち木戸きどには無用むようものるべからずとかたごとしるしたれど、表門おもてもんにはとびらさへなく、けても通行勝手つうかうかつてなり。たゞ知己ちかづきひととほけ、世話せわもを素通すどほ無用むようたること、おもひかはらずりながら附合つきあひ五六けん美人びじんなきにしもあらずといへどみだり垣間見かいまみゆるさず、のき御神燈ごしんとうかげなく、おく三味さみきこゆるたぐひにあらざるもつて、頬被ほゝかぶり懐手ふところで湯上ゆあがりのかた置手拭おきてぬぐひなどの如何いかゞはしき姿すがたみとめず、華主とくいまはりの豆府屋とうふや八百屋やほや魚屋さかなや油屋あぶらや出入しゆつにふするのみ。
[現代語訳] 二丁目の私の借家の地主は、江戸っ子であり、門などは閉めない。裏町の木戸には無用の者は入ってはいけないと型どおりに書いている。しかし、表門を見ると、扉はなく、夜が更けても誰でも勝手に通行できる。ただし、近くの人の通り抜けはよくない。一般的な言葉を使うと、素通り、つまり、立ち寄らずに通り過ぎる人は、いらないと私は考えている。
お付き合いした五六軒を見ると、美人もいるが、やはり、みだりにのぞき見はいけない。待合のように提灯はかかっておらず、奥には三味線の音も聞こえてこない。さらに、ほおかぶり、懐手、湯上りの肩に置手拭といったいかがわしい姿もない。あるのは、得意客を回る豆腐屋、八百屋、魚屋、油屋が出入する音だけだ。

二丁目 神楽坂2丁目22番地のこと。泉鏡花は明治36年から39年まで、ここを借りていました。
露地を鎖さず 「ろじをとざさず」。露地は覆いがない土地。これを戸・門などでしめない。
通行勝手 勝手に通行できる。
素通り 立ち寄らずに通り過ぎる。
かはらず 変わらず。変わることないが。そう考えているが。
お附合 「お付き合い」。人と交際すること
美人なきにしもあらず 「なきにしもあらず」とは「無きにしも非ず」。ないわけではない。美人ではないわけではないが
垣間見 間からからこっそり見ること。のぞき見。
御神燈 芸者屋などで縁起をかついで戸口につるした提灯。
三味の音 芸者さんは午前中から三味線の練習をしました。
類にあらざる 同類ではない。似ていない。芸者さんとかは来ていない。
頬被 手ぬぐいなどで頭から頰にかけて包み、顎のあたりで結ぶこと。
懐手 手を袖から出さずに懐に入れていること。傍観者の立場という感じでしょうか
置手拭 手ぬぐいを畳んで、頭や肩にのせること
如何はしき いかがわしい。怪しげだ。疑わしい
豆府屋 行商の豆腐屋はラッパを鳴いて売り歩いていました。行商の八百屋、魚屋、油屋もありました。

あさまだき納豆賣なつとううり近所きんじよ小學せうがくかよをさなが、近路ちかみちなればいつたもとつらねてとほる。おはなやおはな撫子なでしこはな矢車やぐるま花賣はなうりつき朔日ついたち十五日じふごにちには二人ふたり三人さんにんくなり。やがて足駄あしだ齒入はいれ鋏磨はさみとぎ紅梅こうばい井戸端ゐどばた砥石といしゑ、木槿むくげ垣根かきね天秤てんびんろす。目黑めぐろ(たけのこ)うりあめみの若柳わかやなぎ臺所だいどころのぞくもゆかや。
[現代語訳] 早朝、納豆を売る人が出てくる。近所の小学校に通う幼児も近道をとおり、五人や六人、一緒に歩いている。お花を売る姿も見える。撫子の花や矢車の花を売り、月の一日や十五日になると、二人三人呼びあって、皆で買うようだ。やがて行商の足駄の歯入やハサミ研ぎが出てくる。紅梅の井戸端に砥石をそろえ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売屋は雨の日に蓑を着て、若い女性が台所にいるのを見ている。これもいい感じだ。
小学 竹内小学校です。場所はここ。明治20年の地図ではここ。平成9年の『ここは牛込、神楽坂』第4号16頁によれば、「『近所の小学』というのは、現在、東京理科大学の一部になっている所にあった私立竹内小学校のことで、公立の津久戸小学校が創立されるまで、付近の子供たちはほとんど、ここに通っていたと聞きました」と書いてあります。実は津久戸小学校ができてもただちに竹内小学校が消えたのではなさそうです。津久戸小学校が作られたのは明治37(1904)年4月。ほぼ20年後の大正11(1922)年になっても、東京逓信局編纂『東京市牛込区』では、この2つの小学校は依然同時にあります。大正12年、関東大震災が起こり、それから、ようやく昭和5(1930)年には竹内小学校は消えています。また、昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、私立竹内小学校はかなり大きな敷地を占めていました(下図)。

竹内小学校

上は津久戸小学校。下は竹内小学校。

古老の記憶による関東大震災前の形
現在は理科大のキャンパスです。竹内小学校

朝まだき 早朝
幼き おさなき。年齢がごく若い。未熟だ。
袂を連ねて 袂とは和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。袂を連ねる人と行動を共にする。
撫子 なでしこ。ナデシコ科の多年草。
矢車 やぐるまぎく。キク科の一年草。
足駄 あしだ。下駄の一種。東日本では歯の高い差歯(さしば)の下駄をアシダと呼んでいる。
歯入 はいれ。下駄の歯を入れ換えること。その職業。
鋏磨 ハサミ研ぎ。
紅梅 こうばい。ウメのこと。
木槿 ムクゲ。アオイ科の落葉低木。写真は左からなでしこ、やぐるまぎく、むくげ 藁(わら)を編んで作られた雨具の一種。
若柳 若い柳。ここは美人のことだと思います。たとえば、柳眉とは柳の葉のように細く美しい美人の眉をさします。同じではないでしょうか。
床し 気品・情趣などがある。

小品『草あやめ』⑤|泉鏡花

文学と神楽坂

 翌朝あくるあさ(れい)(あき)さん、二階(にかい)駈上(かけあが)跫音高(あしおとたか)く、朝寢(あさね)(まくら)(たゝ)きて、()きよ、(こゝろ)なき(ひと)人心(ひとこゝろ)なく(はな)かへつて(じやう)あり、さく(ひやゝ)かにいひおとしめし()ぢたりけん、シヽデンの(はな)(ひら)くこと、今朝(けさ)一時いつときに十一と、あわたゞしく起出(おきい)でて(はち)いだけば花菫はなすみれ野山(のやま)滿()ちたるよそほひなり。()つゝ(おも)はず悚然ぞつとして、いしくも()いたり、可愛かはゆき花、あざみ鬼百合おにゆりたけんば、()ことば(いきどほ)りもせめ姿形(すがたかたち)のしをらしさにつけ、(なんぢ)(やさ)しき(こゝろ)より、百年もゝとせよはひ(さゝ)げて、一朝(いつてう)(さかり)()するならずや、いかばかり、(われ)(うら)なんと、あはれ()ふべくもあらず。くちそゝ()てつ、書齋(しよさい)なる小机(こづくゑ)()て、(ひと)なき(とき)端然(たんぜん)として、失言(しつげん)(しや)す。しかゆふべにはしをれんもの、(ねがは)くば、()(いのち)だに(ひさ)しかれ、(あら)(かぜ)にも()べきか。なほ心安(こゝろやす)らず、みづから()(こゝろ)なかりしを()いたりしに、(つぎ)(あさ)(いた)りて(さら)に十三の(はな)()けり、(うれ)しさいふべからず、やよや人々(ひと/”\)(また)シヽデンといふことなかれ、()(いへ)ものいふ(はな)ぞと、いとせめてであへりし、()()日曜(にちえう)にて宙外ちうぐわい(くん)(たち)()らる。
 巻莨まきたばこ()(ひか)たなそこ()()て、なん主人(しゆじん)むくつけき(なん)()(はな)のしをらしきと。主人(しゆじん)(おほ)いに恐縮(きようしゆく)して假名(かな)()()けば()()らずと()はる。(わす)れたり、斯道しだう曙山しよざん(くん)ありけるを、(はな)(ひと)()りて(ふところ)にせんもをしく、よく(いろ)()()(おぼ)え、あくる()四丁目(よんちやうめ)編輯局(へんしふきよく)にて、しか/″\の(くさ)はと()へば、同氏(どうし)(うなづ)きて、(かみ)()して(これ)ならん、それよ、草菖蒲くさあやめ女扇(をんなあふぎ)(たけ)(あを)きに(むらさき)(たま)(ちりば)たらん姿(すがた)して、()()よそほひまさる、草菖蒲(くさあやめ)といふなりとぞ。よし(なに)にてもあれ、()いとほしのものかな。
[現代語訳] 翌朝、例の秋さんが、その足音は高く、二階へ掛け上ってきた。朝、枕を叩いて、「起きてみてよ。冷徹な奴だな。人間には思いやりはないが、花には情がある。昨日は君に冷ややかにいわれ、軽蔑され、恥をかきました。でもシシデンの花は大きく開いている。今朝、一回の開花でなんと11輪」。私は慌ただしく起きだして、鉢を抱いてみた。花スミレは野山にいっぱいのよそおいだ。見ていると思わず感動した。「見事に咲いた、可愛い花。アザミ、オニユリなどの勇ましい植物は、私の言葉に腹立ちもあろう。しかし、シシデンの姿形はしおらしく、心は優しい。百年の年齢を献げても、一日の朝には最盛時を見ない場合もある。私に対する怨みをどれほどもっているのか。まして、あわれさでは、言っても言い切れない」と。私は口の中を洗い終えて、花を書斎の小机の上に置き、人がいない時に、姿勢を正し、失言だったと、あやまった。シシデンは夕方になると、しおれるので、願わくは、葉の命だけでも永久に、また、荒い風にも当てるべきではない。しかし、これで安心はまだできない。私は真に心なき人だったと悔んでいた。次の朝、さらに花は十三輪ほど咲いた。その嬉しさはいいきれない。さあさあ、人々が再びシシデンということはもうない。わが家の美人よ、せめてその美しさを味わおう。その日は日曜であり、後藤宙外君も立ち寄った。
 巻タバコの手を控え、葉を手のひらでさすった。どうして大家は無風流であり、どうしてこの花はしおらしいのか。その大家は大いに恐縮し、「俗称の名前をなんでしょう」と聞くと、氏もわからないときっぱり答えた。忘れていたのが、この分野で有名な人に前田曙山君がいる。花一輪を取り、懐中にいれる方法は、おしい。そこで、よく色を見て、葉を覚えて、翌日、四丁目の春陽堂編集局に行き「こんな草は」と質問すると、曙山君はうなづいて紙に絵をかき「これでしょう」といったのである。「そう、これ、これ」というと、「草アヤメです」と答えた。青い竹でつくった女性用の扇で紫の珠をちりばめたような姿があり、日に日に風情が増し、草アヤメだという。なるほど、何はともあれ、私にとっては、この花はかわいいものよ。
草菖蒲  昔の「あやめ」「あやめぐさ」はともに現在の「ショウブ」でショウブ目ショウブ科ショウブ属。この花は花らしくはないので違います。残るのはアヤメ、ハナショウブ、カキツバタの3種。違いは竹田寛氏の「6月 《アヤメ》 ― いずれアヤメかカキツバタ 」によれば

 外花被片の基部の模様、すなわち密標の模様の違いです。アヤメは文目模様、花ショウブは黄色の筋、カキツバタは白い筋です。私は「文目(あやめ)、黄しょうぶ、白つばた(アヤメ、キショウブ、シロツバタ)」と覚えることにしています。これだけ覚えておけば十分です。またアヤメは乾地、カキツバタは湿地、花ショウブはその中間の地帯に育ちます。

 草あやめはアヤメ、ハナショウブ、カキツバタ、あるいはその変種のうち何なのでしょうか。文章を読む限り、どれもありそうで、はっきりしません。そこで前田曙山氏が書いた「和洋草花趣味の栽培」(116コマから)「草木栽培書」「高山植物叢書」も調べてみました。アヤメ、ハナショウブ、カキツバタの3種類の中で、山菖蒲(ハナショウブの原種)、水菖蒲(ショウブの別名)はありましたが、草あやめという名前はなく、さらに種や変種でもありませんでした。さらに後藤宙外氏には『草あやめ』という小冊子もありましたが、この中には無関係の小説数点がはいっているだけでした。では、草あやめは何なのでしょうか。私は単に草本の「アヤメ」と同じだと考えています。花菖蒲、山菖蒲や水菖蒲、菖蒲草と同じように草菖蒲もあり、これは現在のアヤメなのです。しかし、他の考え方もあり、昔は「草あやめ」の名前はあっても、やがて、何をさしていたのか、わからなくなった場合や、あるいは、草あやめという植物をこの小説のため創作したなどです。また、森脇伸平氏によれば、庭の花写真でニワゼキショウ(庭石菖)、別名南京なんきん文目あやめやシシリンチウムというアヤメ科の俗名が草あやめだといいます(下を参照)。一応、草あやめは不明のままとしておきます。

心なし 思慮分別のない。思いやりのない。そんな人。
 過ぎ去った日。むかし。きのう。
おとしめる 貶める。おとしむ。劣ったものと軽蔑する。さげすむ。見下す。
 そう。よそおい。外観をととのえる。
悚然 しょうぜん。恐れて立ちすくむさま。慄然。寒さや恐怖など、また、強い感動を受けて、からだが震え上がるさま。
いしくも 美しくも。見事に。殊勝にも。形容詞「い(美)し」の連用形と係助詞「も」。
 キク科アザミ属の多年草の総称。葉に多くの切れ込みやとげがある。
鬼百合 ユリ科ユリ属の多年草。山野に自生し、高さ約1メートル。
猛し 勇猛な。勇ましい。勢いが盛ん。激しい。
せむ 責む。とがめる。なじる。責める。
一朝 いっちょう。わずかな間。
 力や勢いがさかん。さかえる。
ずや …ではないだろうか。…ではないか。
なん 完了の助動詞「ぬ」の未然形と、推量の助動詞「む(ん)」でしょうか。きっと…だろう。…にちがいない。
あわれ 不憫と思う気持ち。無惨な姿。
漱ぐ くちそそぐ。水などで口の中を洗い清める。うがいをする。
すえる 据える。物を一定の場所に動かないように置く。
端然 姿勢などが乱れないできちんとしているさま。礼儀にかなっているさま。
当てる 光・雨・風などの作用を受けさせる。
心安い 安心である。心配がない。
やよや 呼びかける時に発する語。さあさあ。おいおい。
ものいう花 ことばを発する。口をきく。力を発揮する。「物言う花」で美人。
撫す ぶす。ぶする。手のひらでさする。なでる。いたわる。かわいがる。
むくつけし 無骨でむさくるしい。無風流だ。
仮名 実名を秘して仮につけた名前。変名。俗称。通称。
斯道 学問や技芸などで、この道、この分野。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
編輯局 日本橋区通四丁目にあった春陽堂の編集室です。ここで一時編集者として前田曙山氏が働いていました。
女扇 おんなおうぎ。女持ちの小形の扇。
鏤める ちりばめる。金銀・宝石などを、一面に散らすようにはめこむ。
 よそおい。装い。粧い。外観の様子。おもむき。風情。
いとほし 気の毒だ。かわいそうだ。かわいい。