カテゴリー別アーカイブ: 通りと坂

合羽坂|市谷片町

文学と神楽坂

 合羽坂という坂道は、時代によって大きく違った坂でした。

 横関英一氏の『続江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、昭和50年。中公文庫 昭和57年)の「市ヶ谷尾張屋敷に囲い込まれた六つの坂 」では

新五段坂と合羽坂 明和のころになると、五段長屋、五段坂、大隅町一帯の地が、尾張屋敷の中に完全に囲い込まれてしまったのである。『半日閑話』には、次のように、その年月日を詳しく書いている。「明和五年(一七六八)五月二十五日、尾州侯五段長屋御囲ひ出来る。五段坂大隅町辺皆御館の内に入る」。そして、この五段坂とその西のほうの合羽坂との中間に、新たに平行してできた坂が、新五段坂であった。
 それからもう一つ、『御府内備考』の別のところに、「合羽坂は新五段坂の西の方にあり」と書いている。五段坂と新五段坂と合羽坂とは、三つとも平行した、南から北へ登る坂みちであったとしか考えられない(下線は筆者)。(中略)
 ここで特に注意することは、合羽坂の説明で、「右坂下通西の方え登り」とあることで、右坂とは新五段坂のことであり、この坂下通りを西のほうへ登るのが合羽坂であるというのである。右の引用文は、五段坂の西に新五段坂があり、さらにその西に合羽坂があるということなのである。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』で合羽坂合羽坂(かっぱざか) 市谷本村町の自衛隊本部西わき、市谷仲之町の境を南へ下る坂で、坂下は靖国通りをまたぐ陸橋(曙橋)がかけられて四谷片町につらなっている。「新撰東京名所図会」は「合羽坂は四谷市谷片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池(はすいけ)と称する大池あり。雨夜など(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思ひしより坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来りしといふ。」と記している。もとは谷間に下る急坂であったが、睦橋を架して道幅をひろげ、河童の伝説とはかけ離れた自動車道路となった。

 戦前、大正~昭和では、合羽坂は大きな坂になります。大正と戦前昭和の合羽坂

 戦後、またまた位置が変わります。昭和56年は……昭和50年代の合羽坂

 なんと、左の坂を「合羽坂」に入れています。左の坂は明治20年にはなかったのに。

 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)では

1990年代の合羽坂

 現在の交差点を見ると、外苑東通りの交差点が「合羽坂」交差点、その右下の交差点が「合羽坂下」となっています。そして、「合羽坂」交差点と「合羽坂下」交差点をつなぐ坂が「合羽坂」です。

2010年代の合羽坂

備仲臣道氏「内田百聞文学散歩」(皓星社、2013)

 また、昭和58年3月、都は説明でこの合羽坂の頂上近くに、道標をたてています。下の図では元治元年(1864年)の「江戸切絵図」を紹介し、ここでは合羽坂は現在の合羽坂と全く同じ位置でした。

合羽坂の道標と地図。赤丸が合羽坂

合羽坂(かっぱざか)

 新撰東京名所図会によれば「合羽坂は四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜などかわうそしばしば出たりしを、里人誤りて河童かっぱと思いしより坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。 

   昭和58年3月       
東京都     

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神楽坂通り

文学と神楽坂

新宿区神楽(かぐら)(ざか)を貫く通り。神楽坂は山の手有数の繁華街・花街でしたが、戦災と付近の住宅地の変容でかつての面影はほとんどなくなりました。でも、1990年代後半になって再び繁華街に。
 
もとは毘沙門天などの門前町。表通りには今でも縁日が出ます。
 
付近に筑土八幡などの社寺も。
 
 
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ほかの坂

文学と神楽坂

神楽坂上の地図神楽坂周辺の地図

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浄瑠璃坂|砂土原町

文学と神楽坂

浄瑠璃坂n浄瑠璃坂の地図はここで。浄瑠璃坂はJR市ケ谷駅と飯田橋駅のちょうど中間に位置し、この付近は高額マンションが並び、比較的静かな地域です。ここでは名前の由来に限って話を進めます。つまり浄瑠璃坂の仇討については調べてはありません。

最初に夏目漱石の俳句で

雨がふる浄瑠璃坂の傀儡師(明治29年、「漱石全集」句番号662)

傀儡師とは新年に各戸を回る門付けの一種。門付けとは家の門口で雑芸を演じたり,経を読んだりして金品を乞うこと。

浄瑠璃坂の標柱は坂下にあります。

坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文十二年(一六七二)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。

あやつり浄瑠璃 操り浄瑠璃。三味線を伴奏とした浄瑠璃に合わせて、人形を操る芝居。
光円寺 浄瑠璃坂の仇討から200年が流れ、万延元年(1860年)の『礫川牛込小日向絵図』では当然ですがすでに光円寺はわからなくなっていました。しかし、横関英一氏はこの光円寺について調べています。あとで見ます。
浄瑠璃世界 [仏教]薬師如来の浄土。地は瑠璃から成り、建物・用具などがすべて七宝造りで、無数の菩薩が住んでいる世界。薬師浄土

横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)の「再考 浄瑠璃坂」では、標柱で書いた①②以外に③④があります。

1. 昔この坂の上に、操り浄瑠璃の芝居があったとするもの。(紫の一本)
2. この坂の近くに、天台宗の光円寺というお寺があって、その本尊は薬師瑠璃光如来で、須弥山の東方浄瑠璃国の教主であるということから、この坂を浄瑠璃坂と名づけたとするもの。(江戸砂子)
3. 水野土佐守の長屋が六段になっていたので、浄瑠璃になぞらえて、この坂を浄瑠璃坂と呼んだとするもの。(江戸鹿子)
4. 水野の屋敷が六段になっていたので、浄瑠璃坂と名づけたのだというが、水野家の屋敷がこの坂にできる前からこの名はあったのだ。水野家の屋敷がないころは、六段の長屋もなにのであるから、この六段の長屋によって、坂の名前ができたという説は疑わしいとするもの。(新編江戸志)

さらに、山野勝氏の『古地図で歩く江戸と東京の坂』(日本文芸社)では、これを詳しく説明し

浄瑠璃坂の坂名の由来には諸説ある。①昔、この坂上に操り人形浄瑠璃の芝居小屋があったからという説。②かつて、坂の近くに天台宗・光円寺という寺があり、その本尊は薬師如来だったが、この如来は須弥山にある東方浄瑠璃国の教主であることから浄瑠璃坂の名が生まれたという説。③切絵図に見えるように、坂の南東に和歌山藩付家老・水野土佐守(3・5万万石)の上屋敷があり、屋敷の長屋が坂に沿って6段になっていた。ここから浄瑠璃の6段にかけて浄瑠璃坂と呼んだという説。④いやいや、浄瑠璃坂という地名は水野家の屋敷ができる前からあって、実は坂そのものが6段に波うっていて、六段坂と呼ぶべきを浄瑠璃の段になぞらえて浄瑠隅坂といったとする説などがある。

大石学氏の『坂の町 江戸東京を歩く』(PHP研究所)では「坂名の由来に三つの説」があるとして

『東都紀行』には「(そもそも)此坂をかく云事は、紀州之御家司(けいし)(家臣)水野氏が、長屋の六段(ある)が故とかや、此浄瑠璃と云(きよく)(中略)六段宛に作り出す故、此坂の名も呼付けり」と、水野氏の長屋が六段あり、浄瑠璃が六段編成であることにかけたためとの説をあげている。
 しかし『紫の一本』によると、「浄瑠璃坂、おなじ片町の内、田町といふ町よりあがる坂をいふ、むかし此坂のうへにて(あやつり)浄瑠璃の芝居ありし故名とす、今水野土佐守の長屋六段あるゆゑ、浄瑠璃の六段によみかへて名付けたりといふ、嘘説なり」と『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃の芝居小屋があったことにちなむとする説をあげている。
 同様に『江戸砂子』では、「むかし此坂のうへに浄るり芝居ありしゆへの名也といふ。又水野家のやしき六段にたちしゆへにいふとも。しかし水野家のやしき此所になきまへよりの名なりと云」と、やはり『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃小屋の説をとっている。
 ただし時代が下って出された『続江戸砂子』では、「浄るり坂の事、前板の説とりがたし。考るに天台宗光円寺此所にちかし。かの寺の本尊薬師は、むかし諸人はなはだ信仰深かりし霊仏なりとかや。梅林坂より牛込へ寺をうつされしは元和(げんな)のはじめなりとあれば、東方浄瑠璃世界の主なるかゆへに薬師によりて浄るり坂といひたるかしらず」と、坂の近くにあった光円寺の本尊である薬師瑠璃光如来からの説をあげている。
 つまり浄瑠璃坂の由来には、①水野氏の長屋説、②浄瑠璃の芝居小屋説、③薬師瑠璃光如来説、これら三つの説があることになる。

さて、横関英一氏の「再考 浄瑠璃坂」によれば、丸の中に「水ノツシマ」と書いてあり、水野土佐守(3.5万石)の上屋敷を示し、その上の階段と矢印は浄瑠璃坂を示すといいます。

新板江戸外絵図

寛文12年(1672年)

また、横関英一氏は光円寺を探し当てます。

問題の光円寺というお寺を探すと、薬竜山正蔵院光円寺という寺があると思う。天台宗で正蔵院といったほうが有名で、本尊は草刈薬師である。しかも長禄年間千代田村に創建し、いまの地に移ってきたのは元和元年であったという。いまの地というのは、牛込は牛込だが、もとの牛込通寺町で、今日の新宿区神楽坂六丁目の正蔵院ということになるので、通寺町では距離からいっても、浄瑠璃坂からはあまりにも離れすぎている。

実は江戸時代では決して遠くはないと思います。これぐらいなら簡単に行って帰ってくると、当時の人は考えます。しかし、これから横関氏は正蔵院は関係はないとして、結論として第四の説が正しいとします。

 この4の説はいちばん正しいと思う。この坂の名は、水野屋敷が六段になっていたので、その六段から浄瑠璃坂の名ができたのではなく、水野屋敷がここにできる前から、浄瑠璃坂という名はあったのだというのである。してみると、六段は水野屋敷が六段になっていたということではなくて、坂そのものが六段になっていたのだということになるが、それは大事なことである。
 九段坂だの五段坂だのという坂の名は、決して坂のそばの屋敷の造りの段数によって、唱えられたものではない。少なくとも、初めは段坂そのものの段数によったものであって、それが坂の名になったのである。浄瑠璃坂の名前も、段坂の数によって、六段坂と呼ぶべきを、浄瑠璃坂としゃれたのではないだろうか。

 ちなみに、古浄瑠璃までは6段の構成が主流でした。現在は5段の構成です。日本芸術文化振興会の文章を簡単に書くと「初段は事件の発端を書き、二段目は善と悪との争いで、三段目は善の抵抗とその悲劇、四段目には雰囲気が変り、悪の末路を示し、五段目は、秩序の回復と大団円」で終わるようです。

袖摺坂、弁天坂、五味坂、蛇段々

文学と神楽坂

横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)では袖摺坂は大久保通りから南東へ上る坂、つまり改修した蛇段々だと考えています。

 江戸時代には、袖摺(そですり)坂、袖振坂、袖引坂という坂があったが、これらは、むしろ江戸に少なく、地方に多い坂の名であった。
 袖摺坂というのは、いずれも狭い坂のことで、人と人とが行き交う場合に、狭いので袖をすり合わせるようにしないと、お互いに行き過ぎることができない、というような狭い坂のことをいったのである。鐙摺(あぶすり)坂というのもあるが、これは坂が狭いので騎馬のままでは、行き交う場合、お互いに(あぶみ)をすり合わせるようにしないと通ることができないような狭い坂みちの形容である。現在東京には次の二個所だけに袖摺坂が残っている。両方とも昔は狭い坂であったのだが、今日ではいずれも広い坂みちになっているので、袖摺坂という感じではない。東京の坂である以上、やむをえないことである。
 新宿区岩戸町から、北町と袋町との境を、南へ上る坂が袖摺坂である。しかし、戦後はこの坂道もすっかり改修されて、大きな道幅の広い坂になってしまった。
 この坂について、『御府内備考』は、次のように記している。「坂、登凡十間程、右町内(御箪笥町)東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱中候、袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而(イタツテ)、せまく往来人通違之節、袖摺合候……」

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)でも同じです。

 袖摺坂(そですりざか) 岩戸町の旧都電通りから、北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路で、坂上に南部氏の邸宅があることから最近の住民は南部坂とよんでいる。

つまり、「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」を「袖摺坂」と呼んでいました。しかし、江戸時代も明治初期も、この「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」はなかったのです。1袖摺坂と年代
明治20年の地図が正しく、袖摺坂(乞食坂)は北に登る坂。五味坂は西に下がる坂。弁天坂は西に上がる大久保通りの坂でした。南東に上がる坂はありませんでした。明治20年の地図
蛇段々ができる明治29年に、ようやく南東に上がる坂ができています。現在のS状のカーブをえがいて南東に上る坂は「新蛇段々」と名付けたいと思っていますが、でもだめだろうな。
袖摺坂(上空)

芥坂|鷹匠町と砂土原町

文学と神楽坂

芥坂(ごみざか)です。都内には沢山の芥坂がありますが、ここでは新宿区の鷹匠町と砂土原町との間の芥坂を取り上げます。場所はここ

まず横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中央公論社、昭和56年)では

 芥坂と鉄砲坂とは、特別に関連はないのだが、ただともに坂路の崖下の特徴をつかんで、施設され、活用されているところが似ているのである。芥坂はその崖下に芥捨場ができていた。それから鉄砲坂は、崖下に特別な施設をした幕府の鉄砲練習所があった。坂を利用した施設と言えば、これら二つのもの以外にはなかったようである。もっとも、展望のよい坂の上などを利用して、火の見櫓を立てて、そこへ火消屋敷を施設したということはあるが、それが坂の名になったものは一つもない。小石川伝通院前の安藤坂の定火消屋敷、市ヶ谷左内坂上、駿河台紅梅坂上、溜池の霊南坂上などの火消屋敷が、この例である。

ただし、鷹匠町と砂土原町の芥坂はこの本ではありません。

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

芥坂(ごみざか) 鷹匠町二番と砂土原町一丁目二番の間を長延寺町へ南下する石段坂。芥坂という坂名は江戸の坂にすいぶん多く残っている。文字通り芥捨て場にした坂であろうが、痩嶺坂、蜀江坂というような漢学流に凝った坂名より、むしろ何気なくつけられたまま何百年もそれが呼名として現存しているのが、かえって親しみやすい気がするのである。今でもちょっと裏町の坂路には塵芥のポリバケツが坂下などに集積されていたり、小型トラック、中古自動車などが片側にならんで置かれてたりして、カメラの邪魔になって腹立しい気がすることもあるが、それは昔も今もさしたる変わりはなく、裏町の坂が芥捨ての場であったり、夜泣きそばの屋台車などがひっそりとおかれていたのであろう。
 この芥坂の下は大日本印刷の工場の片隅であるが、坂上は高級住宅のならぶ道である。鷹匠町という町名はここが江戸時代には御鷹匠組の組屋敷だったためで、「府内備考」に「鷹匠町 昔御鷹匠の組屋敷ありしといふ。」と記されている。

ごみ坂と歩道橋

ごみ坂

地図の芥坂

地図の芥坂

現在、芥坂の一部が残り、残りは「ごみ坂歩道橋」になっています。

道家剛三郎氏の「東京の坂風情」(東京図書出版社、2001年)では

 鰻坂の西はずれは浄瑠璃坂上でもある。もとは南西へ急落する段坂があって、崖地の藪や樹木のために別名のような坂名がふさわしかった。崖上の武家屋敷からのゴミも捨てられていたことであろう。ところが今ではこの坂の様子は一変している。崖下のこの辺り一帯は大日本印刷の工場構内であって、かつての公道でもうかつに歩いていようものなら、守衛がとんできて誰何(すいか)(あなたは誰ですか)されることになる。そのような環境であるから、芥坂を崖上から下りてきて、その辺りを関係者以外の方がうろうろされては、会社としましてはなはだ困るのであります。というわけで、市谷左内町、本村町の方へ往来なさるかたのために、石段坂上あたりから歩道橋となって構内の低いところを跨いでいるのである。つまり段坂は消えて、歩道橋の入口に芥坂の存在していたことを記した案内表示があることで、やっと捜しあてた安堵のあとに虚しさを感じたのは、非生産的な人間の身勝手さなのであろうか。もとの段坂ならば八五点くらいの評点であるのが、あまい六〇点となったのは、それでも坂上付近にわずかな面影が残っていたからである。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は
ほかに歌坂鼠坂鰻坂中根坂

階段の話|神楽坂

文学と神楽坂

 階段の話です。

 平成22年、新宿歴史博物館「新修 新宿区町名誌」によれば、神楽坂は

江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。……大正14年(1925)坂が舗装された。……舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、2年ほどして御影石に節を入れた舗装に変わった。

 また、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』で……

やはりむかしは相当な急坂であったのを明治になって改修したもの。明治13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。「牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。」

 また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……(なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主です。)

相川さん 古い資料を見ると、昔の神楽坂ってのは階段だったらしいね。
山下さん 牛込見附から上かってくる方ですね。
相川さん 商店街ができるからってんで階段を坂にしたら、えらい坂が急勾配になったんで、「車力も辛い神楽坂」っで歌ができたくらいなんです。それを天利さん(注)ショウジロウさんって区会議長をやった人が、ハンコを関係各機関からもらって、区のお金を使って坂を下げたんです。下げたら今度は下の方から苦情が来て。坂を下げて勾配をずうっと河合さんの方までもってくる予定で設計図はできていた。ところがあんまり喧喧囂囂(けんけんごうごう)で収まりがつかなくなって、それでピタッとやめたんで、天利さんの前のところだけグッと上がっちやった。あれが忘れ形見だ。注:菱屋さんの先代店主
佐藤さん そういえばそうですね。最後のいちばん登りきるところが基点(起点?)なんですね。
馬場さん 自分の家の前に来ちゃった。ヘヘヘ。
相川さん 「工事中止」ってんでね。ということは、坂下の方の店(本道?)は階段じゃないとお店へ入れない。階段の商店街になっちゃうのはまずいってんで、それであそこでピシッと切った。歩いていてもわかるでしよ? 上がりきったな、と思うと、またグッと上がる。それがちょうど天利さんの前へ来ていた(笑)。区会議長やってる時分に天利さんはお釈迦様(注)の後ろへうちを買い足して、ご隠居しちゃったんです。(注)弁天町にある宗相寺
馬場さん ああ、弁天町のね。
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。

 上州屋は5丁目の下駄屋で、以降は藪そば、ampm、最後はとんかつさくらに変わります。
 同じく2010年(平成22年)の西村和夫氏の『雑学 神楽坂』によれば…

江戸期は階段が作られるほど急な神楽坂だったが、明治になって何回となく改修され、工事の度ごとに緩やかになっていった。階段がいつなくなったのかわからないが、明治の初めと考えて間違いはなさそうだ。

 坂上は明治10年代に平坦にされたが、坂下は勾配をそのままにして先に商店街が出来てしまった。傾斜した道路の店があったのでは商売がやりづらいと、サークルKの先、当時糸屋を営んでいた菱屋が中心になって牛込区役所に働きかけ、坂を剃り勾配を緩くした。ところが、工事が進むにつれて坂上の商店ほど道との高低差が広がり、再び埋め直すという笑えぬ失敗があったという。こんな苦労を何度も繰り返し、神楽坂は今の勾配になったようである。

 芸者新道の入口の傾斜はそのままにされたので階段が作られて、手すりがないと上がれないような急坂が現在まで残り、昔の神楽坂の急勾配の様子をうかがわせる。

『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイの赤井義松氏は(この店はなくなりました)

 よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。

 中村武志氏も『神楽坂の今昔』()で同じ話を書いています。

 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった。
江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸名所図絵の牛込神楽坂

 江戸時代の(だん)(ざか)については『江戸名所』「牛込神楽坂」では10数段の階段になっています。
 なお、この画讃には『月毎の寅の日にハ参詣夥しく植木等の諸商人市をなして賑へり』と書いています。

 また平成14年(2002年)になってから電線もなくなりました。

神楽坂の通りと坂に戻る

文学と神楽坂

本多横丁の路地|神楽坂

文学と神楽坂

神楽坂通り(大通り)を入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地だと考えれば、全部路地になるのですが、ところがどっこい、違います。やはり路地は路面が狭くないとだめ。

本多横丁2

本多横丁から東側に行くのは2本の路地があります。神楽坂通りに近い路地から「芸者新路」、「かくれんぼ横丁」です。
最も近い道は「芸者新路」で、この路地から入っていきます。
本多-1


遠い道は「かくれんぼ横丁」で、この路地から入っていきます。
本多-2

西側には4本の路地があります。神楽坂通りに近い路地は「紅小路」で、その次の道は名前はなく、その次の袋小路の道は「見返し横丁」、最後の袋小路の道は「見返り横丁」です。この4本は非常に短い。なお、東側と西側の6本はすべて私道です。なお、本多横丁と神楽坂通りは区道です。

紅小路は神楽坂通りの「楽山」と「みずほ銀行」の間に入り、しばらくそのまま進み、それから右の直角に曲がって、本多横丁の「海老屋」とスペイン料理「エルプルポ」の間に出てきます。通りから離れていくと石畳がきれいです。神楽坂通りに入っていく場合、「楽山」も赤い色が使ってあるし、「みずほ銀行」も赤い壁の色で、ゆえに紅小路です。
本多1



なにもついていないのはここ↓。向こうに行くと左に曲がる狭い路地があり、その先は紅小路なので石畳はない紅小路なのかもしれません。
本多2

見返し横丁は本多横丁の「鳥静」と「がく屋」の間に入り、昔はわずかにSに曲がりました。見返し横丁は見返り横丁よりも新しく出来て、言葉のあやでこんな名前になりました。石畳もあるし、高層マンションを真正面に見て、やがて袋小路になります。昔は兵庫横丁にでていくこともできました。
本多3

見返り横丁は本多横丁の「ヘア ラ・パレット」と「はじめの一っぽ」の間に入り、高層マンションを横に見て、旅館「和可菜」の裏で袋小路になります。これも昔は兵庫横丁まででていくことができました。


路地5

 本多横丁の「地図」では「紅小路」や「見返し横丁」を堂々と書いています。ふーん、紅小路はいかにもそれらしいし、「見返し」も昔の名前のようです。いい名前をつけた『ここは牛込、神楽坂』の日本路地・横丁学会の坂崎、井上、阿久津先生とパウワウの林さんに大感謝。

神楽坂の通りと坂に戻る

文学と神楽坂

焼餅坂

焼餅坂やきもちざかは新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です。場所はここ
焼餅坂について区の標柱はなく、代わりに巨大な道標があります。ちょうど坂上にあがる直前です。大久保通りは都道(都道25号飯田橋石神井新座線)なので、区ではなく都が作ったものでしょう。そこにはあまりよく読めない説明も書いてあります。

焼餅坂の標識 この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また、「続江戸砂子」 「御付内備考」にも、 焼餅坂の名が述べられている。

石川悌二氏が書いた『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年、1971年)によれば

焼餅坂(やきもちざか)

 赤根坂ともいう。市谷山伏町と市谷甲良町の境、旧都電通りを東から西へ下る。「続江戸砂子」に「やき餅坂 本名赤根坂、此所にやき餅をひさぐ店あり」と記し、「府内備考」の町書上には「一坂 高凡四十間、巾四間程、右坂の儀は町内北の方往還にこれあり、焼餅坂と相唱候へ共、何故焼餅坂と申候哉、申伝等御座なく候」とある。坂辺に焼餅を売っていたのはよほどむかしのことらしい。明治時代中期における市区改正で、坂の道幅をひろげ傾斜をゆるくしたので現今のような道になったが、近年、都電が撤廃されて自動車の交通量が激増したために、坂下の柳町は排気ガス公害の多発地域として注目を集めるに至った。

旧都電通り 名前は大久保通りに
排気ガス公害の多発地域  牛込柳町鉛害事件のこと。昭和45年5月、民間の医療団体が新宿区牛込柳町の交差点付近の住民について健康診断を行い、多くが鉛中毒にかかっている疑いがあり、その鉛は排ガスに由来していると発表しました。その後、都の調査で、ほとんど心配はいらないと判明し、しかし、ここから、ガソリンの無鉛化、鉛の環境基準、大気汚染防止法の常時鉛排出の規制、自動車排出ガスの鉛の許容限度を設定。
柳町の交差点

かつてあった交差点上の信号機


また住宅地の中のそれほど広くない道路(大久保通りと外苑東通り)の交差点で、排気ガスが溜まりやすく、そのため信号機を大久保通りの南北の坂上に1台ずつ新たに配置。ウィキペディアでは「市谷柳町交差点へ向かう手前数百メートル離れた場所に信号機が設置されている。これは大気汚染を防ぐため、市谷柳町交差点で停止する自動車などを減らすために設置された、まれな信号機」で、近くに横断歩道はなく、信号機しかなかった。しかし、2015年9月、この信号機は廃止、翌月撤去。外苑東通りの拡張予定と、柳町交差点も大きくする予定があり、これに関係する可能性も。

昭和51(1976)年の都新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」では

市谷甲良町との境で、市谷柳町交差点に下る坂を俗に焼餅(やきもち)といった。焼きもちを売る店があったからである。「江戸砂子」には、もと赤根坂といったとある。赤根とはのことで、染料植物である。これを裁培していたので名づいたという。田山花袋は、その近くの市谷甲良町に住んでいたので、その作品「東京の三十年」の中には、このあたりのようすが出ている。
あかね。アカネ科のつる性多年生植物で、根は乾燥すると赤黄色から橙色となり、赤い根なのでアカネに。根を煮た汁にアリザリンがあり、これで古くから草木染め(茜染)を行っています。その色は茜色に。
東京の三十年 田山花袋の大正6年の作品。詳しくはここで。実はやきもち阪と麹坂についてあっさり書いているだけです。

歴史・文化のまちづくり研究会編『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)ではさらに細かく説明しています。

焼餅坂(やきもちざか、赤根坂)
(1)所在地
 この坂の形は少し変わっており、大ざっぱには「大久保通り」を柳町から、山伏町と甲良町の間を東に上がる。
 坂下は「大久保通り」と「外苑東通り」の交差点から「外苑東通り」を北へ数十歩のところにある。
 そこから「大久保通り」に向かい東に少し上がったところが坂上である。
(2)特徴
 坂上から、坂下の途中までは広い幅員の道路で、両側にはゆったりと歩ける歩道が設けられている。
 一般的には、「大久保通り」をそのまま素直に下りきって「外苑東通り」にぶっかるところが坂下になるのだろうが、どういう訳か途中から狭くて暗い路地のようなところを行かなければならない。
 なぜこのような形になってしまったのだろう?道路の拡幅などと関連があるのだろうか?
 昔は、もっと急な坂だったようで、明治の市区改正で坂の道幅を拡げ、傾斜を緩くしたそうだ。とはいえ、自転車を押しながら坂を上る人を見るにつけ、あなどれないぞと思ってしまう。
 大通りの歩道には、緑豊かな街路樹、特に坂の北側の歩道には石垣もあり、なんとなく由緒ある坂に思えてくるのが不思議である。また車が多いにもかかわらず心地よい坂である。
(3)由来
「続江戸砂子」には、「やき餅坂 本名赤根坂 此所にやき餅をひさぐ店あり。」と記されていることから、「焼き餅」が名前の由来らしい。
「府内備考」の町書上にも焼餅坂の名称は出てくるが、そのなかで名前の由来については「申伝等御座なく候」とあり、焼き餅屋さんがあったのは、かなり昔に遡るらしい。
 坂に名前がつくほど評判の店だったのか、辺りには何もなく焼き餅屋さんが、ランドマークの役割を果たしていたのかは定かではないが、当時の庶民の間では、よく知られていたのだろう。
(4)周辺の状況
 坂上にある「大蔵省柳町寮」の建物のデザインが、歴史を感じさせる。坂を少し下ると、擬洋風(明治や大正の時代に、西洋館のモチーフを模倣して建てられた建築を「擬洋風建築」と呼んでいる。)の建物が見えてくる。「新・浪漫亭」という居酒屋である。
 坂を挟んで両側にはマンションが立ち並んでいるが、そのなかにあってユニークな建物が、違和感なく町並みにとけ込んでいるところが実に良い。
【街路樹かオブジェか】歩道の街路樹は珍しい樹種で、案内板には「ウバメガシ」とあるが、緑の量に驚いてしまう。低木の茂みの間から、こんもりした高木が突き出るようにして、巨大な緑の固まりが一定間隔に配置されている。いっそのこと、ウサギや犬の形に剪定して、オブジェにしたらもっと楽しくなるのに。
 しかし、この街路樹が、夏には涼しい木陰を提供してくれる。
暗い路地 明治20年の東京実測図で以前の柳町の地図と、赤で描いた現在の柳町の地図を出しました。現在の柳町の交差点は新道なのです。暗い路地のほうが旧道でした。市電(都電)の「柳町」ができるときに新道になりました。 0321 では昭和5年の『牛込区全図』を見てください。市電(都電)が走っている新道(青)があり、その北に昔ながらの旧道(赤)があります。 0335-2
大蔵省柳町寮 大蔵省印刷局柳町寮。2005年秋ごろに取り壊され、一時は駐車場に。現在は建築中。
新浪漫 かがり火大正14年、第一信用金庫本店として建設したもの。現在は「かがり火」。『粋なまち 神楽坂の遺伝子』によれば

空襲を免れ、戦後は「柳町病院」として使用され、平成元(1989)年に飲食店に用途が変わった。店舗の入れ替わりはあるものの、80年以上にわたり商業施設として活用され続けているという、近傍では貴重な近代建築のひとつである。
 大久保通りと外苑東通りの交差点に近い斜面地に、南側短辺方向をファサードとして建つ。木造2階建て、一部地階である。1階は標記のレストランおよび同系列の菓子店が店舗と厨房を据え、2階は事務室・パントリー・店員控室等として利用されている。屋根は寄棟板金瓦棒葺きであるが、南・東・西面はパラペットを回し陸屋根様の意匠とする。特異なそのファサードには、房付きレリーフのある唐破風様のペディメントを頂点に、3本の半円形ピラスターが並ぶ。分割された壁面に縦長の窓が付く。非対称の塔部が内側に取り付き、5個のメダリヨンと花弁をあしらったレリーフが配される。窓の一部には、当初と思われる上げ下げ窓がそのまま残る。古典的な様式を大胆かつ自由に引用しながら、金融機関の旗艦店としての威厳と、大正ロマンを感じさせる美しさを醸し出した個性的な作品といえよう。
 室内は、水廻りや厨房に関連して大きく改装されているが、2階大食堂の型押しされた塗装鉄板天井や卵鏃飾りが彫り出された木製廻縁、数段に面取りがされた幅広の窓枠等、擬洋風の意匠が散見される。また2階事務室の天井は折り上げ格天井に竿縁網代張り合板を組み入れたユニークな造りとなっている。
 最初に飲食店に模様替えされた時に内外部ともに改変が加えられているが、外観の改修は西側のサイディング部が中心であり、文化財としての価値を減ずるものではないといえる。
 かがり火は、設計者は不詳ながら大正末明の自由な建築思潮を体現した貴重な遺構であるとともに、一貫して活用され続けてきた地域のランドマーク的な建築物のひとつということができる」
ファサード 建築物の正面
菓子店 Füssenです
パントリー 食料品や食器類を収納・貯蔵する小室。pantry
寄棟 よせむね。屋根の形式。四つの面から構成
板金 ばんこん。薄くのばした金属の板
瓦棒葺き かわらぼうぶき。金属板を用いて屋根を葺くときの1方法
パラペット 建物の屋上や吹抜廊下などの端の部分に立ち上げられた小壁や手摺壁
陸屋根 ろくやね。フラットな屋根
レリーフ 浮き彫り
唐破風 からはふ。曲線状の破風で、中央部は弓形で,左右両端が反りかえった形
ペディメント 切り妻屋根で、妻側屋根下部と水平材に囲まれた三角形の部分
ピラスター 壁面より浮き出した装飾用の柱
メダリヨン メダリオンとも。肖像や紋章、銘文などで浮き彫りがある大型のメダル
卵鏃飾り らんぞくかざり。卵とやじりを交互に連続させた模様
廻縁 まわりぶち。壁と天井の取り合い部に用いられる見切部材
擬洋風 明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたもの
竿縁 さおぶち。天井板を竿と称する部材で押さえて天井を張るやり方
網代張り あじろばり。縁を反り返らせた赤塗りの陣笠を張ること
サイディング 建物の外壁に使用する,耐水・耐天候性に富む板。下見板
ランドマーク 山や高層建築物など,ある特定地域の景観を特徴づける目印

瓢箪坂

文学と神楽坂

瓢箪坂は白銀(しろがね)公園の東南の角より東へ下る急傾斜の坂です。左の図は江戸時代、右の図は現在です。瓢箪坂の江戸時代と絵現代

しかし、「瓢箪坂」は実際よりも長く長くなっている場合もあります。たとえば、東京都新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』や新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では

白銀町と神楽坂六丁目との間を、西の赤城元町に上る坂を瓢箪坂(ひょうたんざか)という。長い坂で、途中でいったんくびれ、さらに盛り上っているので、その形をヒヨウタンの形にたとえたものである。

この言葉は長い長い坂です(青色)。しかし、水色で書いてある一部の坂は江戸時代にはありませんでした。
瓢箪坂の2
もうひとつは『ゼンリン住宅地図2010』などで、2つの坂があわさって、「瓢箪坂」がでてきることもあります。つまり右上の「瓢箪坂」と左上の「瓢箪坂」がありますね。

ゼンリン住宅地図の瓢箪坂

もう1つ、明治20年の内務省地理局の図です。今度は下から瓢箪坂は始まっています。

明治20年の内務省の瓢箪坂

標柱は

坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。

と、かなりいい加減な答えを書いています。現在形で「くびれている」という言い方はどれかがくびれているのかわかりません。過去にあった場合「くびれていた」と過去形にならないと、おかしい。

横関英一氏の『続 江戸の坂 東京の坂』では

瓢箪町は、街路がくねくね曲っていて、1小部分にくびれのある道路の町、または入り口が小さくて中が広い町をいうのだという。…
 池だとか湖だとか、山だの丘だのが、瓢箪の形をしているというは、ありうることで、これには問題はない。しかし、坂や道路が瓢箪の形をしているというのは、まずありえないことだと思う。「途中いったんくびれて、さらに盛り上っている形から瓢箪坂の名が起こった」と書いた人もあるが、「坂路がくびれていて、さらにそれが盛り上っている形」というのは、どんな形をいうのであろうか。…
 毎年夏になると、青い瓢箪が、いくつもぶらさがっているのがこの坂から見えたということから、瓢箪坂といったということは、ありそうなことである。
 昔は、子供の下駄に瓢箪の絵を描いたものを売っていた。『ころばずの下駄』といった。瓢箪をからだにつけていると転ぶことがない、というおまじないからきていることで、子供が転ばないようにと、心を配る親たちの思いやりからきたものである。…転ばないようにと、けわしい坂みちに、その安全を祈って瓢箪という名をつけたのではないだろうか」

横関英一氏の言葉も面白く、「ころばずの下駄」など新しい(古い?)言葉も増え、うきうきしますが、100%確実なものではありません。もう1つ昭和45年、新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』では、

今の神楽坂5丁目に面した側から三角形に飛出している道の突端、元盛高院の先には瓢箪(ひょうたん)というのがあった。これは津久戸から曲り曲り来ると、瓢箪の腹を横に這うように来るので、その地尻の丸い所からこの名がある。

「地尻の丸い所」は賛成です。しかし、「瓢箪の腹を横に這うように」には完全にはわかりませんが、やはり複数の坂を瓢箪坂といっているようで、英語ではHyoutan Slopeではなく、Hyoutan Slopesとなるのではないでしょうか。
結局、はっきり書いたものはないですが、『神楽坂界隈の変遷』に書いてあった説明が一番考えられる説明でしょう。

瓢箪坂(写真)
瓢箪坂(写真2)瓢箪坂(写真3)
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