カテゴリー別アーカイブ: 通りと坂

東京のプチ・バリ|ドラ・トーザン

文学と神楽坂

 ドラ・トーザン氏が書いた『東京のプチ・バリですてきな街暮らし』(青萠堂、2009年)の一節です。この本は感じたことを気持ちを込めて書いた随筆と、友達や店舗とのインタビューが主。残念ながら情報は少ないけれど、情緒は一杯あると思います。

  なぜ神楽坂プチ・パリなのか?
      坂・石畳、路地、運河……の魅力

パリを思わせるミステリアスな坂
 神楽坂はとてもパリに似ています。なんといっても共通点は坂。特にパリのムフタール通りモンマルトルは坂の多いところですが、神楽坂はその名の通り、坂の種類には事欠きません。朝日坂袖摺坂軽子坂地蔵坂赤城坂と、主な坂だけでもこんなにあります。私は熱海湯のところから鳥茶屋別亭を横に見て上がっていくフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。
 神楽坂には、他に三年坂逢坂弁天坂、なども、それぞれ表情の違う坂が面白い。

かくれんぼのような細い路地
 そして細い路地のある点。私のパリでの住まい、ムフタール通りと同じで、坂が多く小さな商店街の通りがあって、街のサイズがコンパクトなところです。神楽坂の大好きな三大横丁といえば、毘沙門の向かいから旅館和可菜へ抜ける兵庫横丁本多横丁からさらに入ったかくれんぼ横丁、そして、同じく肉まんで有名な五十番の脇から、本多横丁を右に曲がった芸者新道も、なかなか風情があります。少しアヴァンギャルドみちくさ横丁もいいですね。

迷宮入り(⁉)の石段
 神楽坂の曲がりくねった石段も面白い。
 兵庫横丁の石段の道は途中にもっと細い横道もあって迷子になりそうです。また私の大好きなフランス坂は、小栗通りの熱海湯のところから、S字型に昇っていく石段です。
 まるでモンマルトルのよう。曲がりくねった石段はミステリアス。石段の次に何かあるかわからない楽しみがあります。
 遠くまで見えないから突然未知のものがあらわれる。それが面白い。パリと同じで、新しい発見をする楽しみ。パリもそうだけど一つ場所を決めてスポットを発見するのも、散歩・プロムナードの楽しみです。

運河 日本ではお濠(お堀)
ムフタール通り Rue Mouffetard。パリ5区でレストラン、カフェ、市場などがあり、下町的に混雑して繁栄する地域
モンマルトル この丘を含む一帯の名前。セーヌ川右岸のパリ18区を構成。パリ有数の観光名所。鳥茶屋別亭 フランス坂(熱海湯階段、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実はこの鳥茶屋別亭の玄関でした。
フランス坂 ほかに「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「芸者小路」、「カラン坂」等という言い方があります。
アバンギャルド avant-garde。フランス語で、軍隊用語の「前衛」から。革新的、前衛的な芸術や芸術家たち。前衛派とも。
プロムナード promenade。散策。散歩道。遊歩道

筑土八幡神社|坂と山④

文学と神楽坂

 御殿坂、御殿山、芥坂、筑土山がでてきます。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

御殿坂(ごてんざか) 新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社の裏手、埃坂の上から東に向い、途中右にカーブして旧都電通りへ下る短い坂路で、御殿坂の名は慶安年間三代将軍家光のころ、ここに大納言家綱(世子)の御殿が造られてこのあたりの台地を御殿山と称したことによる。「東京市史稿市街篇第六」には「慶安三年十月十八日、牛込筑土御殿御普請これあるに付……」とある。また「新撰東京名所図会」には「御殿山とは今筑土山の西、万昌院の辺より旧中山備前守の邸地をいふ。寛永頃迄は御鷹野のとき御仮屋ありしなり。」と記されている。
夕暮るる筑土八幡渡り鳥             瓊音

旧都電通り 大久保通りです
東京市史稿 明治44(1911)年以来、現在も刊行が続く江戸から東京への歴史で資料を年代順にまとめた史料集
新撰東京名所図会 『風俗画報』の臨時増刊として、明治29年から明治42年まで刊行。テーマは公園、東京総説、区、博覧会、祝典、災害、戦争など。全64編。
筑土山 現在の筑土八幡神社がある高台
万昌院 筑土八幡町34にありましたが、大正3年に中野区上高田へ移動しました。
中山備前守 現在は東京都看護協会のビルなどです。右図は「礫川牛込小日向絵図」(万延元年)から。ただし、中山備前守ではなく、地図によれば「中山備後守」です。

芥坂(ごみざか) 埃坂とも書く。御殿坂上から反対に北方東五軒町へ下る筑土八幡社裹の坂路で、坂下西側に東京都牛込専修職業学校がある。筑土八幡は往古は江戸城の平川門へんにあったのを、天正七年、二の丸普請のために現在地へ移したものといい、また田安門のあたりにあって田安明神と呼ばれていたとも伝えられる。「南向亭茶話」には「筑戸 旧は次戸と書す。往古は江戸明神とて江戸城の鎮守たり。江と次と字形相似たる故にいづれの頃よりか誤り来りしなるべし。」とある。祭神は素戔嗚尊であるが、後代に平将門を合祀したという。社殿は戦火で焼けて戦後再建された鉄筋建築である。

東京都牛込専修職業学校 現在は筑土八幡町4-27で、東京都看護協会のビルです。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔
素戔嗚尊 すさのおのみこと。須佐之男命。日本神話の神。天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐やまたの大蛇おろちを退治し、奇稲田姫くしなだひめを救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣あまのむらくものつるぎを天照大神に献じた。

 また、横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

御前坂 新宿区筑土八幡町、八幡社裏手、芥坂の頂上から、さらに南のほう、もと都電の通りへ下る坂。慶安五年のころ、徳川家綱の大納言時代、ここに牛込御殿ができた
芥坂  新宿区筑土八幡町から東五軒町へ下る坂。筑土八幡社の西わきを北へ下る坂

新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では

内田宗治著「明治大正凸凹地図」実業之日本社、2015年

筑土八幡町
(中略)津久戸八幡の西に続く高台を御殿山という。太田道濯の別館があったという説(江戸往古図説)もあるが、寛永の頃、三代将軍家光の鷹狩時の休息所として仮御殿があったという説もある(南向茶話・江戸図説)。明暦四年(一六五八)安藤対馬守が奉行となってこの山を崩し、その土でこの北の東けんちょう、西五軒町、水道すいどうちょうなどの低地を埋め立てた(町名誌)。
 筑土八幡西に上る坂を御殿坂ごてんざかという。御殿山に上る坂から名付いた。その坂を上りきり、北方の東五軒町に下る坂をごみ坂(芥坂、埃坂)という。ごみ捨て場があったので名付いた(町名誌)。

弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。

市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
 その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。

銀杏坂と銀杏坂通り|薬王寺町~加賀町

文学と神楽坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

銀杏坂(いちょうざか)
 市谷薬王寺町の中央部の七二と七五番の間を、市谷加賀町二丁目のほうから西へ下る坂で、坂下は通称薬王寺通りである。昔この坂の北側にあった久貝囚幡守の邸内には銀杏稲荷とよばれた稲荷社があり、御神木の銀杏の大木があったのが坂名のおこりだと伝えられている。

 横関英一著の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年)では

ちょう坂  新宿区市谷薬王寺町の中央七二、七五番の間を東から西に下る坂。昔、坂の北側に久貝因幡守の屋敷があって、この邸中に銀杏稲荷の社があった

『新宿区町名誌』(新宿区教育委員会、昭和51年)で

◎市谷薬王寺町
 町の東北を、バス通りに向って下る坂を銀杏いちょうといった。その横町北側に久貝くがい因幡いなばのかみの屋敷があり、その屋敷内に銀杏稲荷があったからである。

また『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)では

 外苑東通りから市谷薬王寺前町の北側を東に入る坂を銀杏坂という。坂の北側にある久貝甚三郎屋敷内に古くから銀杏稲荷という社があることに由来する。

 2009年、新宿区が道路通称名を公募、67路線で決定。「銀杏坂通り」もその1つで、標柱をつくっています。

 現在、茶色の「銀杏坂」で2つ、青色の「銀杏坂通り」は3つ、合計5つの標柱があります。

 当然ですが、「銀杏坂」のほうが「銀杏坂通り」よりも短いことがよくわかります。

 また銀杏坂は、坂として比べると、神楽坂よりも、また焼餅坂よりも、緩やかになっています。

 茶色の標柱は

この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)。

 青色の標柱は

銀杏坂通り
Ichozaka-dori
坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。

合羽坂|市谷片町

文学と神楽坂

 合羽坂という坂道は、時代によって大きく違った坂でした。

 横関英一氏の『続江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、昭和50年。中公文庫 昭和57年)の「市ヶ谷尾張屋敷に囲い込まれた六つの坂 」では……。なお、下線は横関氏ではなく、私です。

新五段坂と合羽坂 明和のころになると、五段長屋、五段坂、大隅町一帯の地が、尾張屋敷の中に完全に囲い込まれてしまったのである。『半日閑話』には、次のように、その年月日を詳しく書いている。「明和五年(一七六八)五月二十五日、尾州侯五段長屋御囲ひ出来る。五段坂大隅町辺皆御館の内に入る」。そして、この五段坂とその西のほうの合羽坂との中間に、新たに平行してできた坂が、新五段坂であった。(中略)
 それからもう一つ、『御府内備考』の別のところに、「合羽坂は新五段坂の西の方にあり」と書いている。五段坂と新五段坂と合羽坂とは、三つとも平行した、南から北へ登る坂みちであったとしか考えられない。(中略)
 ここで特に注意することは、合羽坂の説明で、「右坂下通西の方え登り」とあることで、右坂とは新五段坂のことであり、この坂下通りを西のほうへ登るのが合羽坂であるというのである。右の引用文は、五段坂の西に新五段坂があり、さらにその西に合羽坂があるということなのである。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』で合羽坂合羽坂(かっぱざか) 市谷本村町の自衛隊本部西わき、市谷仲之町の境を南へ下る坂で、坂下は靖国通りをまたぐ陸橋(曙橋)がかけられて四谷片町につらなっている。「新撰東京名所図会」は「合羽坂は四谷市谷片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池(はすいけ)と称する大池あり。雨夜など(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思ひしより坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来りしといふ。」と記している。もとは谷間に下る急坂であったが、睦橋を架して道幅をひろげ、河童の伝説とはかけ離れた自動車道路となった。

 戦前、大正~昭和では、合羽坂は大きな坂になります。大正と戦前昭和の合羽坂

 戦後、またまた位置が変わります。昭和56年は……昭和50年代の合羽坂

 なんと、左の坂を「合羽坂」に入れています。左の坂は明治20年にはなかったのに。

 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)では

1990年代の合羽坂

 現在の交差点を見ると、外苑東通りの交差点が「合羽坂」交差点、その右下の交差点が「合羽坂下」となっています。そして、「合羽坂」交差点と「合羽坂下」交差点をつなぐ坂が「合羽坂」です。

2010年代の合羽坂

備仲臣道氏「内田百聞文学散歩」(皓星社、2013)

 また、昭和58年3月、都は説明でこの合羽坂の頂上近くに、道標をたてています。下の図では元治元年(1864年)の「江戸切絵図」を紹介し、ここでは合羽坂は現在の合羽坂と全く同じ位置でした。

合羽坂の道標と地図。赤丸が合羽坂

合羽坂(かっぱざか)

 新撰東京名所図会によれば「合羽坂は四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜などかわうそしばしば出たりしを、里人誤りて河童かっぱと思いしより坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。 
   昭和58年3月       
東京都     

神楽坂通り

文学と神楽坂

新宿区神楽(かぐら)(ざか)を貫く通り。神楽坂は山の手有数の繁華街・花街でしたが、戦災と付近の住宅地の変容でかつての面影はほとんどなくなりました。でも、1990年代後半になって再び繁華街に。
 
もとは毘沙門天などの門前町。表通りには今でも縁日が出ます。
 
付近に筑土八幡などの社寺も。
 
 

ほかの坂

文学と神楽坂

神楽坂上の地図神楽坂周辺の地図

浄瑠璃坂|砂土原町

文学と神楽坂

浄瑠璃坂n浄瑠璃坂の地図はここで。浄瑠璃坂はJR市ケ谷駅と飯田橋駅のちょうど中間に位置し、この付近は高額マンションが並び、比較的静かな地域です。ここでは名前の由来に限って話を進めます。つまり浄瑠璃坂の仇討については調べてはありません。

最初に夏目漱石の俳句で

雨がふる浄瑠璃坂の傀儡師(明治29年、「漱石全集」句番号662)

傀儡師とは新年に各戸を回る門付けの一種。門付けとは家の門口で雑芸を演じたり,経を読んだりして金品を乞うこと。

浄瑠璃坂の標柱は坂下にあります。

坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文十二年(一六七二)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。

あやつり浄瑠璃 操り浄瑠璃。三味線を伴奏とした浄瑠璃に合わせて、人形を操る芝居。
光円寺 浄瑠璃坂の仇討から200年が流れ、万延元年(1860年)の『礫川牛込小日向絵図』では当然ですがすでに光円寺はわからなくなっていました。しかし、横関英一氏はこの光円寺について調べています。あとで見ます。
浄瑠璃世界 [仏教]薬師如来の浄土。地は瑠璃から成り、建物・用具などがすべて七宝造りで、無数の菩薩が住んでいる世界。薬師浄土

横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)の「再考 浄瑠璃坂」では、標柱で書いた①②以外に③④があります。

1. 昔この坂の上に、操り浄瑠璃の芝居があったとするもの。(紫の一本)
2. この坂の近くに、天台宗の光円寺というお寺があって、その本尊は薬師瑠璃光如来で、須弥山の東方浄瑠璃国の教主であるということから、この坂を浄瑠璃坂と名づけたとするもの。(江戸砂子
3. 水野土佐守の長屋が六段になっていたので、浄瑠璃になぞらえて、この坂を浄瑠璃坂と呼んだとするもの。(江戸鹿子)
4. 水野の屋敷が六段になっていたので、浄瑠璃坂と名づけたのだというが、水野家の屋敷がこの坂にできる前からこの名はあったのだ。水野家の屋敷がないころは、六段の長屋もなにのであるから、この六段の長屋によって、坂の名前ができたという説は疑わしいとするもの。(新編江戸志)

さらに、山野勝氏の『古地図で歩く江戸と東京の坂』(日本文芸社)では、これを詳しく説明し

浄瑠璃坂の坂名の由来には諸説ある。①昔、この坂上に操り人形浄瑠璃の芝居小屋があったからという説。②かつて、坂の近くに天台宗・光円寺という寺があり、その本尊は薬師如来だったが、この如来は須弥山にある東方浄瑠璃国の教主であることから浄瑠璃坂の名が生まれたという説。③切絵図に見えるように、坂の南東に和歌山藩付家老・水野土佐守(3・5万万石)の上屋敷があり、屋敷の長屋が坂に沿って6段になっていた。ここから浄瑠璃の6段にかけて浄瑠璃坂と呼んだという説。④いやいや、浄瑠璃坂という地名は水野家の屋敷ができる前からあって、実は坂そのものが6段に波うっていて、六段坂と呼ぶべきを浄瑠璃の段になぞらえて浄瑠隅坂といったとする説などがある。

大石学氏の『坂の町 江戸東京を歩く』(PHP研究所)では「坂名の由来に三つの説」があるとして

『東都紀行』には「(そもそも)此坂をかく云事は、紀州之御家司(けいし)(家臣)水野氏が、長屋の六段(ある)が故とかや、此浄瑠璃と云(きよく)(中略)六段宛に作り出す故、此坂の名も呼付けり」と、水野氏の長屋が六段あり、浄瑠璃が六段編成であることにかけたためとの説をあげている。
 しかし『紫の一本』によると、「浄瑠璃坂、おなじ片町の内、田町といふ町よりあがる坂をいふ、むかし此坂のうへにて(あやつり)浄瑠璃の芝居ありし故名とす、今水野土佐守の長屋六段あるゆゑ、浄瑠璃の六段によみかへて名付けたりといふ、嘘説なり」と『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃の芝居小屋があったことにちなむとする説をあげている。
 同様に『江戸砂子』では、「むかし此坂のうへに浄るり芝居ありしゆへの名也といふ。又水野家のやしき六段にたちしゆへにいふとも。しかし水野家のやしき此所になきまへよりの名なりと云」と、やはり『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃小屋の説をとっている。
 ただし時代が下って出された『続江戸砂子』では、「浄るり坂の事、前板の説とりがたし。考るに天台宗光円寺此所にちかし。かの寺の本尊薬師は、むかし諸人はなはだ信仰深かりし霊仏なりとかや。梅林坂より牛込へ寺をうつされしは元和(げんな)のはじめなりとあれば、東方浄瑠璃世界の主なるかゆへに薬師によりて浄るり坂といひたるかしらず」と、坂の近くにあった光円寺の本尊である薬師瑠璃光如来からの説をあげている。
 つまり浄瑠璃坂の由来には、①水野氏の長屋説、②浄瑠璃の芝居小屋説、③薬師瑠璃光如来説、これら三つの説があることになる。

さて、横関英一氏の「再考 浄瑠璃坂」によれば、丸の中に「水ノツシマ」と書いてあり、水野土佐守(3.5万石)の上屋敷を示し、その上の階段と矢印は浄瑠璃坂を示すといいます。

新板江戸外絵図

寛文12年(1672年)

また、横関英一氏は光円寺を探し当てます。

問題の光円寺というお寺を探すと、薬竜山正蔵院光円寺という寺があると思う。天台宗で正蔵院といったほうが有名で、本尊は草刈薬師である。しかも長禄年間千代田村に創建し、いまの地に移ってきたのは元和元年であったという。いまの地というのは、牛込は牛込だが、もとの牛込通寺町で、今日の新宿区神楽坂六丁目の正蔵院ということになるので、通寺町では距離からいっても、浄瑠璃坂からはあまりにも離れすぎている。

実は江戸時代では決して遠くはないと思います。これぐらいなら簡単に行って帰ってくると、当時の人は考えます。しかし、これから横関氏は正蔵院は関係はないとして、結論として第四の説が正しいとします。

 この4の説はいちばん正しいと思う。この坂の名は、水野屋敷が六段になっていたので、その六段から浄瑠璃坂の名ができたのではなく、水野屋敷がここにできる前から、浄瑠璃坂という名はあったのだというのである。してみると、六段は水野屋敷が六段になっていたということではなくて、坂そのものが六段になっていたのだということになるが、それは大事なことである。
 九段坂だの五段坂だのという坂の名は、決して坂のそばの屋敷の造りの段数によって、唱えられたものではない。少なくとも、初めは段坂そのものの段数によったものであって、それが坂の名になったのである。浄瑠璃坂の名前も、段坂の数によって、六段坂と呼ぶべきを、浄瑠璃坂としゃれたのではないだろうか。

 ちなみに、古浄瑠璃までは6段の構成が主流でした。現在は5段の構成です。日本芸術文化振興会の文章を簡単に書くと「初段は事件の発端を書き、二段目は善と悪との争いで、三段目は善の抵抗とその悲劇、四段目には雰囲気が変り、悪の末路を示し、五段目は、秩序の回復と大団円」で終わるようです。

袖摺坂、弁天坂、五味坂、蛇段々

文学と神楽坂

横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)では袖摺坂は大久保通りから南東へ上る坂、つまり改修した蛇段々だと考えています。

 江戸時代には、袖摺(そですり)坂、袖振坂、袖引坂という坂があったが、これらは、むしろ江戸に少なく、地方に多い坂の名であった。
 袖摺坂というのは、いずれも狭い坂のことで、人と人とが行き交う場合に、狭いので袖をすり合わせるようにしないと、お互いに行き過ぎることができない、というような狭い坂のことをいったのである。鐙摺(あぶすり)坂というのもあるが、これは坂が狭いので騎馬のままでは、行き交う場合、お互いに(あぶみ)をすり合わせるようにしないと通ることができないような狭い坂みちの形容である。現在東京には次の二個所だけに袖摺坂が残っている。両方とも昔は狭い坂であったのだが、今日ではいずれも広い坂みちになっているので、袖摺坂という感じではない。東京の坂である以上、やむをえないことである。
 新宿区岩戸町から、北町と袋町との境を、南へ上る坂が袖摺坂である。しかし、戦後はこの坂道もすっかり改修されて、大きな道幅の広い坂になってしまった。
 この坂について、『御府内備考』は、次のように記している。「坂、登凡十間程、右町内(御箪笥町)東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱中候、袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而(イタツテ)、せまく往来人通違之節、袖摺合候……」

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)でも同じです。

 袖摺坂(そですりざか) 岩戸町の旧都電通りから、北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路で、坂上に南部氏の邸宅があることから最近の住民は南部坂とよんでいる。

つまり、「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」を「袖摺坂」と呼んでいました。しかし、江戸時代も明治初期も、この「北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路」はなかったのです。1袖摺坂と年代
明治20年の地図が正しく、袖摺坂(乞食坂)は北に登る坂。五味坂は西に下がる坂。弁天坂は西に上がる大久保通りの坂でした。南東に上がる坂はありませんでした。明治20年の地図
蛇段々ができる明治29年に、ようやく南東に上がる坂ができています。現在のS状のカーブをえがいて南東に上る坂は「新蛇段々」と名付けたいと思っていますが、でもだめだろうな。
袖摺坂(上空)

芥坂|鷹匠町と砂土原町

文学と神楽坂

芥坂(ごみざか)です。都内には沢山の芥坂がありますが、ここでは新宿区の鷹匠町と砂土原町との間の芥坂を取り上げます。場所はここ

まず横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中央公論社、昭和56年)では

 芥坂と鉄砲坂とは、特別に関連はないのだが、ただともに坂路の崖下の特徴をつかんで、施設され、活用されているところが似ているのである。芥坂はその崖下に芥捨場ができていた。それから鉄砲坂は、崖下に特別な施設をした幕府の鉄砲練習所があった。坂を利用した施設と言えば、これら二つのもの以外にはなかったようである。もっとも、展望のよい坂の上などを利用して、火の見櫓を立てて、そこへ火消屋敷を施設したということはあるが、それが坂の名になったものは一つもない。小石川伝通院前の安藤坂の定火消屋敷、市ヶ谷左内坂上、駿河台紅梅坂上、溜池の霊南坂上などの火消屋敷が、この例である。

ただし、鷹匠町と砂土原町の芥坂はこの本ではありません。

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

芥坂(ごみざか) 鷹匠町二番と砂土原町一丁目二番の間を長延寺町へ南下する石段坂。芥坂という坂名は江戸の坂にすいぶん多く残っている。文字通り芥捨て場にした坂であろうが、痩嶺坂、蜀江坂というような漢学流に凝った坂名より、むしろ何気なくつけられたまま何百年もそれが呼名として現存しているのが、かえって親しみやすい気がするのである。今でもちょっと裏町の坂路には塵芥のポリバケツが坂下などに集積されていたり、小型トラック、中古自動車などが片側にならんで置かれてたりして、カメラの邪魔になって腹立しい気がすることもあるが、それは昔も今もさしたる変わりはなく、裏町の坂が芥捨ての場であったり、夜泣きそばの屋台車などがひっそりとおかれていたのであろう。
 この芥坂の下は大日本印刷の工場の片隅であるが、坂上は高級住宅のならぶ道である。鷹匠町という町名はここが江戸時代には御鷹匠組の組屋敷だったためで、「府内備考」に「鷹匠町 昔御鷹匠の組屋敷ありしといふ。」と記されている。

ごみ坂と歩道橋

ごみ坂

地図の芥坂

地図の芥坂

現在、芥坂の一部が残り、残りは「ごみ坂歩道橋」になっています。

道家剛三郎氏の「東京の坂風情」(東京図書出版社、2001年)では

 鰻坂の西はずれは浄瑠璃坂上でもある。もとは南西へ急落する段坂があって、崖地の藪や樹木のために別名のような坂名がふさわしかった。崖上の武家屋敷からのゴミも捨てられていたことであろう。ところが今ではこの坂の様子は一変している。崖下のこの辺り一帯は大日本印刷の工場構内であって、かつての公道でもうかつに歩いていようものなら、守衛がとんできて誰何(すいか)(あなたは誰ですか)されることになる。そのような環境であるから、芥坂を崖上から下りてきて、その辺りを関係者以外の方がうろうろされては、会社としましてはなはだ困るのであります。というわけで、市谷左内町、本村町の方へ往来なさるかたのために、石段坂上あたりから歩道橋となって構内の低いところを跨いでいるのである。つまり段坂は消えて、歩道橋の入口に芥坂の存在していたことを記した案内表示があることで、やっと捜しあてた安堵のあとに虚しさを感じたのは、非生産的な人間の身勝手さなのであろうか。もとの段坂ならば八五点くらいの評点であるのが、あまい六〇点となったのは、それでも坂上付近にわずかな面影が残っていたからである。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は
ほかに歌坂鼠坂鰻坂中根坂