本多横丁」タグアーカイブ

本多横丁|近江屋ビル~宮崎ビル

 本多横丁の近江屋ビルから宮崎ビルまでを眺めてみます。

(左)Google地図(右)商店街マップ

(左)Google地図(右)商店街マップ

 最初は新宿区教育委員会から『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(新宿区教育委員会、昭和45年)➊です。

➊古老の記憶による関東大震災前の形
本多横丁

 ここでは神楽坂通りから本多横丁に入って、左側(北側)の店舗をみていきます。「竹川靴」から「豆フ・米沢」までの8店舗あります。

 次は戦前の形➋です。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「戦前の本多横丁」(平成7年)では神楽坂通りから紅小路までの店舗は4店舗(竹川靴店、山本コーヒー、中村屋、そば・海老屋)でした。ここで➊で「朋月堂」は紅小路の下に、➋で「せんべい明月堂」は紅小路の上になっています。また「豆フ・米沢」と「豆腐屋」も同じです。

➋戦前の本多横丁

 ❸も戦前で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)です。紅小路を見てみると、その直下に「ソバヤ」があります。この上➋でも同様で、「そば・海老屋」があります。「ソバヤ」から3店舗離れて「床ヤ」がありますが、❶では「大内トコヤ」は紅小路のすぐ上にあります。どうも、この❶の「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)ではないか、と考えています。

➌戦前

 次は戦後で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和27年)➍です。「海老屋そば」は同じですが、その上は「松月堂菓子」となり、➋の「明月堂」や➊の「朋月堂」とも違っています。どれが正しいのでしょうか。「ここは牛込、神楽坂」第5号のインタービューで女将は「明月堂」だと答えましたので、正しくは「明月堂」でしょう。
「たつみや」は戦後に出てきたものです。さらに、紅小路はこの時期、通れないようになっています。

➍戦後

 次は「住宅地図」の昭和35年➎です。「たつみや」と「竜見」は同じ店舗を指しているのでしょう。海老そば、明月堂パンも出てきます。

➎1960年

 では、1990年➏に飛びます。近江屋だけは近くの一軒を飲み込み、大きくなりましたが、その他は何も変化しません。宮崎氏の宮崎ビルは「明月堂」と同様に、氏が創設し、今でもオーナーとして子孫が働いています。1世紀以上に渡ってこの地域では同じオーナーたちが同じ場所を占めているのです。(まあ、普通)。ただし、テナントの多くは新しいものになっていますが。

➏1990年

 まとめ。「古老の記憶による関東大震災前の形」に大きく違いはなかった。しかし2つだけは間違いで、1つ目は「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)でした。2つ目。松月堂菓子や朋月堂ではなく、明月堂でした。

 なお、コロナウイルスのために飲食店に路上利用を緩和するという動きが始まっています。これって、神楽坂ではできるのでしょうか。

 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では

●竹内小学校は結構な学校でした。
おせんべの「明月堂」宮崎なおさん96歳
  私はここで生まれたんです。明月堂つていうおせんべ屋の一人娘で。学校は竹内小学校というところに通ってました。うなぎの志満金さんの横を入りまして、ちょっと行きますと結構な校舎がございましてね。幼稚園もありました。運動会や遠足も盛んで、鎌倉に行ったのを覚えています。でも、そのうちさびれてしまって、津久戸小学校と一緒になりました。
 若い頃はあらゆるお稽古をしたものです。お友達もたくさんいて、神楽坂に何か食ぺに行ったり。とくに本多横丁の「若松」はこじんまりしたいいお店で、お友達と「若松」行こう、行こうって。
 昔は、いまの「ほてや」さんとこが検番で、それは賑やかでした。夕方になると検番は忙しくなって。芸者衆はみんな縁起をかついでお水を汲んだりしてお座敷を待つんです。待合や料亭さんは、なめつけたようにきれいに掃除して。このへんは芸者屋さんや料亭さんも多くてそれはたいへんなものでした。
 もっといろいろ覚えているといいんですけど、もう96ですからね。みんな忘れてしまって、お返ししちゃったことが多いんですよ。
●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。
うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳
 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。
 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。
 ジョン・レノン? ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。
 週刊誌に書いてくださったのは作家の森敦さんで、以前は近くの印刷会社で経理をなさっていました。お父さんを聶厦にしてくださって、芥川賞をとられた後もよく来てくださいました。
 それから常盤新平さんが直木賞をとられたときは、うちで報せを待ってたんですよ。大勢の方とご一緒に。
 写真家の荒木(経惟)さん、山田洋二さん、久米宏さんなどもご聶厦にしてくださって。松平健さんが見えたときはサインをいただきました。お父さんも私も「暴れん坊将軍」のファンなものですから。お父さんは軽い脳卒中をやりましたが、ええ、もういいんですよ。


兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

現在と古老の記憶による関東大震災前の形。4丁目。

現在と古老の記憶による関東大震災前の形。4丁目。

道路通称名

文学と神楽坂

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り、外堀通りでしょう。

都道(https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000006191.pdf)

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。


山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。

 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸

見返り横丁|由来(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

「見返り横丁」は、どうしてこの名前になったのでしょうか?

 もうひとつの「見返し横丁」はわかっています。平成10年(1998年)の雑誌「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で……

井上 さて、それで本多横丁に出て、すでに名前がついている「見返り横丁」。これはいい。で、その先の「鳥静」の脇の横丁も何か名前をつけてあげたい。敷石がゆるやかなS字を描いていて「見返り横丁」よりも長い。そこで『見返し横丁』ではいかが。
林  昔はあそこは抜けられた。道らしい道じゃなかったけど。
註  井上元氏はインタラクション社長
   林功幸氏は「巴有吾有」オーナー

 林氏の「昔はあそこは抜けられた」は、見返し横丁のことですね。
 では、もとに戻って「見返横丁」はいつ、どこで、とんな理由で決まったのでしょうか? 上の1998年には「すでに名前がついている」ということなので、1998年以前からありました。

 まず地図はあるのでしょうか? 1994年の「神楽坂輿地全図」では「本多横丁」は確かに書かれていますが、「見返り横丁」はありません。「かくれんぼ横丁」もありません。また毎年でる「ゼンリン住宅地図 新宿区」、2013~6年の神楽坂通り商店会「神楽坂マップ」、1985年神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』には「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありません。他にも例外が一つある以外を除き、「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありませんでした。

 一つだけが例外で、それは1994年の「神楽坂・楽楽散歩」(編集は神楽坂地区まちづくりの会、編集協力は東京理科大学建築学科沖塩研究室、発行は新宿区都市整備管理課)で、ここには「本多横丁」以外に「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」がでてきます。

 では書籍では? 1997年の「まちづくりキーワード集」(著者と出版は神楽坂地区まちづくりの会)には、「かくれんぼ横丁と「見返り横丁」がでてきます(下図)。一方、渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007)では「かくれんぼ横丁」はありますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はありません。西村和夫氏の「雑学 神楽坂」(角川学芸出版、2010年)ではこの「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」「見返し横丁」は全てでていません。

まちづくりキーワード集

まちづくりキーワード集(1997年、神楽坂地区まちづくりの会)

 雑誌は? 「ここは牛込、神楽坂」では「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で「名前がついている『見返り横丁』」とでてきます。また、2007年「神楽坂まちの手帖」15号「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」では「かくれんぼ横丁」はでますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はでてきていません。

 つまり「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」は、1994年の地図「神楽坂・楽楽散歩」と1997年の本「まちづくりキーワード集」以外にありません。見返り横丁になったのか、その由来もわかりません。

 これからは、まあ、でたらめですが、「神楽坂地区まちづくりの会」 などが横丁や坂をまとめることになって、誰かが「これは個人的な(か昔からの)横丁だけど、見返り横丁というものも使っている」といい、ほかの人たちも「へぇー、なるほど」と答え、あっという間に定着したのではないでしょうか。

 この「神楽坂地区まちづくりの会」のメンバーは、山下修、立壁正子、江口素子、上田邦彦、坂本二朗、荘司雅彦、寺田 弘、保坂公人、渡辺行将、渡邊義孝、矢野貞子、山口幸二などの、そうそうな人物で、「かくれんぼ横丁」の名付け親、森川安雄氏もその一員でした。おそらく「かくれんぼ横丁」と同じ頃に、こんな会合で、森川さんなどのだれかが「見返り横丁」を推したか、知っているといったのでしょう。

ポールスタンド看板|本多横丁

文学と神楽坂

 本多横丁の串カツなどの店舗「本多鉄〇てつまる横丁」の前に「本多横丁」について書かれたものがあります。

本多横丁について

本多横丁について

      本 多 横 丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地てあったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、禄高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したか、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
    昭和60年7月
本多横丁商店会

御府内沿革図書 ごふないえんかくずしょ。江戸の延宝年間から幕末までの地図集。1808年に収集を開始。
本多修理 本多家の三代目の本多修理忠能が神楽坂に移動してきた。元禄五(1692)年以降である。
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。関東大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
旧名復活 本多横丁は昭和24年頃「スズラン横丁」に変更し、昭和27年頃、本多横丁に戻した。

神楽坂|芸者新路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 芸者新路は明治時代にできた路地で、仲通り本多横丁をつなぐ小道です。


 昔は「芸者屋新道」「芸者屋横丁」と書いていました。現在は「芸者新路」「芸者新道」と2つの表記が混在しています。

 昔は神楽坂通り(つまり表通り)では商店街が多く、一方、裏通り(つまり芸者新路)は三業界の店舗が多く、つまり、料亭・置屋・待合が多いわけです。芸者新路はお座敷に駆け付ける芸者さんたちで肩が触れ合うくらいに混雑して、お座敷の近道として利用しました。

「ロクハチ通り」と呼ばれたこともあります。「ロクハチ」というのは料亭の宴席の開始時間で、一回目が午後6時、二回目が8時です。西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では「神楽坂では芸者の座敷は2時間と決められている。8時を過ぎると次の座敷に移る」そうです。

 1930年ごろまでは非常に華やかな場所でしたが、戦争に入るとその華は次第に消えていきます。戦争が終わり、戦後の1950年代になると、一時、ほぼ昔の勢いを取り戻しましたが、それからは徐々に花柳界の色は減っていきます。

 1980年ごろには4、5軒の料理屋さんがあるだけでした。たとえば1990年2月、大久保孝氏は「坂・神楽坂」でこう書いています。

 石段を登り芸者新路に入って行った。
 同じこの道を昔は芸者屋新道と云っていたようである。それにしても、そういう名前をつける程の道ではない。僅か4、5軒の料理屋が点々とあるだけで、昔のように入口に検番があって、置屋が十軒、待合が十軒両側にならんでいた頃とは趣きが全く違う。入口にあった大きな料亭「末よし」も今はビルになっていて昔の面影はない。すぐ本多横丁にでるがその間話をすることもない。

 ところが、2000年に入る時期になって、逆に飲み屋や、和食、レストランはあっという間に増えてきました。基本的な料理は和食が多く… 芸者新路1
 イタリアンやフレンチなども出てきます。芸者新路JPG

 しかし、芸者新路は神楽坂通りと比べると、店舗の数はわずかです。あらゆる物がそろっている表通りの神楽坂通りとは異なり、飲食店しかありません。陶磁器も香も茶もなく、雑貨屋もコンビニもファッションも子供用品もありません。

 昔はここも石畳でした。1977年、テレビ放送された「気まぐれ本格派」(日本テレビ系列)の舞台は神楽坂で、その当時の「芸者新路」は確かに石畳でした。1990年代に、当局から石畳は使えないといわれて現在の舗装に変えたとのこと。う~ん、なんかなあ。すべて私道です。

 この通りの東側の入口は急に傾斜がある坂で、階段が付いています。これは本来の神楽坂通りの傾斜だといいます。

階段の話
本多横丁の路地
神楽坂仲通り
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

2013年3月5日→2019年5月4日

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。



 石畳とマンホール

2013年5月2日→2019年4月27日

大銀杏はどこに|神楽坂3丁目

 神楽坂3丁目の大銀杏いちょうはどこにあったのでしょう。江戸時代から昭和半ばまで、3丁目にこの大銀杏がありました。第2次大戦が終わる時でも、三菱銀行、津久戸小学校、さらにこの大銀杏だけが生き延びていました。戦後すぐに、大銀杏は伐採。もともとは旗本の本多宅の邸地にあった銀杏です。さあ、どこにあったのでしょう。

『ここは牛込、神楽坂』第1号(牛込倶楽部、平成6年)の「街の宝もの 第1回 丸島まるしま さん」で、この大銀杏は本人の家にあったといいます。インタビューと文は大谷峯子氏です。

 ここ神楽坂の芸者さんで、現役では一番年配の、おわ佳姐さん。
 明治42年のお生まれだそうで、お三味線の名手もでもいらっしゃます。小路を入ったところにある、お庭の美しいお家でお話をうかがいました。
家にあった大銀杏いちょう
 この土地が私に授かって住むことになった時(昭和23年)、ここのかしらに、「バカ野郎、こんなとこ住んだら、死んじまうよ」って言われたの。ここんところに銀杏があるから。ここは昔、本多さまのお屋敷だったの。それで、不義をした人の首を斬るとこがここだったの。それだから、後で、ここへ銀杏の木を置いたそうですよ。
 でもとにかく、もうここへ決まってからだったから。まあいいや、ここで死ぬ運命なんだと思って。でも、いまだに、こやって生きてますけどね。
 大きな木でしたよ。だって、飯田橋の駅のホームから見えたんだもの。空襲で焼け残ったものだからね。木の焼けたのって、やーね、オバケみたいで。
 それで、父が昔材木屋をしてましたから知りあいの木こりの人に来てもらって、矢来のお釈迦さま(宗柏寺そうはくじ)の住職さんに拝んでいただいて、切ったの。

 同じく『ここは牛込、神楽坂』第1号の竹田真砂子氏『銀杏は見ている』では…

 ところで、本多家の屋敷には、大きな銀杏の古木があった。
 銀杏は火をよけると伝えられ、火事の多い江戸ではよく見かける木である。今も随所にその名残を見ることができ、東京都のシンボルにもなっている。
 この大銀杏は長く生き延び、太平洋戦争の空襲で東京が焼け野原になるまで、佐藤さんというお宅の敷地内にあった。
 幹は、子供が五、六人手をつないでかこんでも足りないほど太く、家屋全体を包み込むように欝蒼と葉が茂っていた。そのせいなのだろう、佐藤さんのお宅は昼間でも暗く、お部屋にはいつも電気がついていた。そして、家が広く、子福者だったが、空き室がいくつもあって、隠れんぼをするには、もってこいだった。
 秋になると、ぎんなんが沢山なった。近所の子供たちは、佐藤さんのお庭にお邪魔してぎんなん拾いを楽しんだ。かぶれるといけない、ということで、みんな手袋をはめさせられたが、「かぶれるかもしれない」という小さな恐怖は、たちまち好奇心に変わり、子供たちはみんな冒険でもするように、わくわくしながらぎんなんを拾った。
 根は、旧本多屋敷いっぱいに広がっているという。だから、この辺一帯、地震が来てもびくともしないのだと、子供たちは聞かされていた。
 しかし、そんな大木も空襲には勝てず、1945年4月13日には、焼夷弾の直撃を受けて、焼木杭になった。焼木杭にはなったが、銀杏は、仁王立ちの形で、どこまでも続く焼け野原を悠然と見渡していた。

焼木杭 やけぼっくい。焼けた杭。燃えさしの切り株、木片。火が消えたように見えても、また燃えだすことがある。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

戦災の神楽坂を見る『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

 元々は本多家だったというので、これは3丁目一番地です。これは地図では青い範囲です。なお、地図の上は本多横丁、右は軽子坂、左は芸者新路、下は神楽坂仲通りです。このうちほとんどは料亭で、当時の普通の家は2軒しかありません。

 2007年、「神楽坂まちの手帖」15号「かくれんぼ横丁」で、渡辺功一氏は

お和佳姐さんのお宅と、お隣の持田さんのあいだに、戦後まで立派なイチョウの本がありました。これは、本多様の屋敷にあったものなんです。実は、イチョウというのは、火災でも燃えにくく、火消しのシンボルだったんです。空襲でこのあたり一帯が焼けたとき、焼け跡でまた新しい芽を吹いてで感動的だった、という話を、この横丁で生まれ育った作家の竹田真砂子さんが書いておられます。

 実は住宅地図で見ると「料亭松島」がその後の「丸島わ桂」の家でした。「わ佳」の間違いでしょうか。

住宅地図。2000年ごろ

住宅地図。2000年ごろ

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。
田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

4.5丁目

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)


 麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。

観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。
六代目 六代目の中村歌右衛門でしょう。なかむらうたえもん。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日。没年は2001年3月31日。
歌右ヱ門 五代目の中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は1866年2月14日(慶応元年12月29日。没年は1940年(昭和15年)9月12日。
松永和風 まつながわふう。長唄の名跡。
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒 明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。

 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
駐車場 カフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わています。その左側の「第1勧信用組合駐車場」ではありません。

 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。
風俗画報 風俗画報の「新撰東京名所絵図」第42編(東陽堂、明治39年)では「袋町ふくろまちと肴町の間の通路を藁店わらだなと稱す。以前此邊にわらを賣る店ありしかば、俚俗りぞくの呼名とはなれり」と書き、「藁店」を出しています。
早川雪洲早川雪洲 はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日。87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日。87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画