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神楽坂|芸者新路

文学と神楽坂

 芸者新路は明治時代にできた路地で、仲通り本多横丁をつなぐ小道です。

芸者新路

芸者新路

 昔は「芸者屋新道」「芸者屋横丁」と書いていました。現在は「芸者新路」「芸者新道」と2つの表記が混在しています。

 昔は神楽坂通り(つまり表通り)では商店街が多く、一方、裏通り(つまり芸者新路)は三業界の店舗が多く、つまり、料亭・置屋・待合が多いわけです。芸者新路はお座敷に駆け付ける芸者さんたちで肩が触れ合うくらいに混雑して、お座敷の近道として利用しました。

「ロクハチ通り」と呼ばれたこともあります。「ロクハチ」というのは料亭の宴席の開始時間で、一回目が午後6時、二回目が8時です。西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では「神楽坂では芸者の座敷は2時間と決められている。8時を過ぎると次の座敷に移る」そうです。

 1930年ごろまでは非常に華やかな場所でしたが、戦争に入るとその華は次第に消えていきます。戦争が終わり、戦後の1950年代になると、一時、ほぼ昔の勢いを取り戻しましたが、それからは徐々に花柳界の色は減っていきます。

 1980年ごろには4、5軒の料理屋さんがあるだけでした。たとえば1990年2月、大久保孝氏は「坂・神楽坂」でこう書いています。

 石段を登り芸者新路に入って行った。
 同じこの道を昔は芸者屋新道と云っていたようである。それにしても、そういう名前をつける程の道ではない。僅か4、5軒の料理屋が点々とあるだけで、昔のように入口に検番があって、置屋が十軒、待合が十軒両側にならんでいた頃とは趣きが全く違う。入口にあった大きな料亭「末よし」も今はビルになっていて昔の面影はない。すぐ本多横丁にでるがその間話をすることもない。

 ところが、2000年に入る時期になって、逆に飲み屋や、和食、レストランはあっという間に増えてきました。基本的な料理は和食が多く… 芸者新路1
 イタリアンやフレンチなども出てきます。芸者新路JPG

 しかし、芸者新路は神楽坂通りと比べると、店舗の数はわずかです。あらゆる物がそろっている表通りの神楽坂通りとは異なり、飲食店しかありません。陶磁器も香も茶もなく、雑貨屋もコンビニもファッションも子供用品もありません。

 昔はここも石畳でした。1990年代に、当局から石畳は使えないといわれて現在のものに変えました。う~ん、なんかなあ。すべて私道です。
芸者

 この通りの東側の入口は急に傾斜がある坂で、階段が付いています。これは本来の神楽坂通りの傾斜だといいます。

階段の話
本多横丁の路地
神楽坂仲通り
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

2013年3月5日→2019年5月4日

石畳|神楽坂|紅小路

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。全部で9枚です。

紅小路の写真 裏紅小路という道路は以前は「無名の道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

G

神楽坂4丁目

大銀杏はどこに|神楽坂3丁目

 神楽坂3丁目の大銀杏いちょうはどこにあったのでしょう。江戸時代から昭和半ばまで、3丁目にこの大銀杏がありました。第2次大戦が終わる時でも、三菱銀行、津久戸小学校、さらにこの大銀杏だけが生き延びていました。戦後すぐに、大銀杏は伐採。もともとは旗本の本多宅の邸地にあった銀杏です。さあ、どこにあったのでしょう。

『ここは牛込、神楽坂』第1号(牛込倶楽部、平成6年)の「街の宝もの 第1回 丸島まるしま さん」で、この大銀杏は本人の家にあったといいます。インタビューと文は大谷峯子氏です。

 ここ神楽坂の芸者さんで、現役では一番年配の、おわ佳姐さん。
 明治42年のお生まれだそうで、お三味線の名手もでもいらっしゃます。小路を入ったところにある、お庭の美しいお家でお話をうかがいました。
家にあった大銀杏いちょう
 この土地が私に授かって住むことになった時(昭和23年)、ここのかしらに、「バカ野郎、こんなとこ住んだら、死んじまうよ」って言われたの。ここんところに銀杏があるから。ここは昔、本多さまのお屋敷だったの。それで、不義をした人の首を斬るとこがここだったの。それだから、後で、ここへ銀杏の木を置いたそうですよ。
 でもとにかく、もうここへ決まってからだったから。まあいいや、ここで死ぬ運命なんだと思って。でも、いまだに、こやって生きてますけどね。
 大きな木でしたよ。だって、飯田橋の駅のホームから見えたんだもの。空襲で焼け残ったものだからね。木の焼けたのって、やーね、オバケみたいで。
 それで、父が昔材木屋をしてましたから知りあいの木こりの人に来てもらって、矢来のお釈迦さま(宗柏寺そうはくじ)の住職さんに拝んでいただいて、切ったの。

 同じく『ここは牛込、神楽坂』第1号の竹田真砂子氏『銀杏は見ている』では…

 ところで、本多家の屋敷には、大きな銀杏の古木があった。
 銀杏は火をよけると伝えられ、火事の多い江戸ではよく見かける木である。今も随所にその名残を見ることができ、東京都のシンボルにもなっている。
 この大銀杏は長く生き延び、太平洋戦争の空襲で東京が焼け野原になるまで、佐藤さんというお宅の敷地内にあった。
 幹は、子供が五、六人手をつないでかこんでも足りないほど太く、家屋全体を包み込むように欝蒼と葉が茂っていた。そのせいなのだろう、佐藤さんのお宅は昼間でも暗く、お部屋にはいつも電気がついていた。そして、家が広く、子福者だったが、空き室がいくつもあって、隠れんぼをするには、もってこいだった。
 秋になると、ぎんなんが沢山なった。近所の子供たちは、佐藤さんのお庭にお邪魔してぎんなん拾いを楽しんだ。かぶれるといけない、ということで、みんな手袋をはめさせられたが、「かぶれるかもしれない」という小さな恐怖は、たちまち好奇心に変わり、子供たちはみんな冒険でもするように、わくわくしながらぎんなんを拾った。
 根は、旧本多屋敷いっぱいに広がっているという。だから、この辺一帯、地震が来てもびくともしないのだと、子供たちは聞かされていた。
 しかし、そんな大木も空襲には勝てず、1945年4月13日には、焼夷弾の直撃を受けて、焼木杭になった。焼木杭にはなったが、銀杏は、仁王立ちの形で、どこまでも続く焼け野原を悠然と見渡していた。

焼木杭 やけぼっくい。焼けた杭。燃えさしの切り株、木片。火が消えたように見えても、また燃えだすことがある。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

戦災の神楽坂を見る『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

 元々は本多家だったというので、これは3丁目一番地です。これは地図では青い範囲です。なお、地図の上は本多横丁、右は軽子坂、左は芸者新路、下は神楽坂仲通りです。このうちほとんどは料亭で、当時の普通の家は2軒しかありません。このどちらかが大銀杏の場所なのでしょうか。誰かもっとよく知っている人はいませんか。

住宅地図。新宿区西部。住宅協会。1960。

住宅地図。新宿区西部。住宅協会。1960。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。
田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

4.5丁目

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)


 麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。

観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。
六代目 六代目の中村歌右衛門でしょう。なかむらうたえもん。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日。没年は2001年3月31日。
歌右ヱ門 五代目の中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は1866年2月14日(慶応元年12月29日。没年は1940年(昭和15年)9月12日。
松永和風 まつながわふう。長唄の名跡。
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒 明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。

 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
駐車場 カフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わています。その左側の「第1勧信用組合駐車場」ではありません。

 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。
風俗画報 風俗画報の「新撰東京名所絵図」第42編(東陽堂、明治39年)では「袋町ふくろまちと肴町の間の通路を藁店わらだなと稱す。以前此邊にわらを賣る店ありしかば、俚俗りぞくの呼名とはなれり」と書き、「藁店」を出しています。
早川雪洲早川雪洲 はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日。87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日。87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑥

文学と神楽坂

 全長三百メートルといわれるのは、恐らく坂下から以前の電車通り――現在の大久保通りまでの距離で、坂自体はそのすこし先が頂上だが、四階建てのビルに変貌しているパン屋の🏠木村屋は、いまもその先のならびにある🏠尾沢薬局🏠相馬屋紙店とともに土蔵造りで、そこの小判形をした大ぶりな甘食はげんざい市販されている中央部の凸起した円形の甘食より固めで、少年期の私が好んだものの一つであった。
木村屋よりすこし先の反対側に、いまのところ店がしまっている婦人洋装店シャン・テがあって、そこと🏠宮坂金物店とのあいだの横丁を左折するとシャン・テの裏側に🏠駐車場があるが、かつてその場所には神楽坂演芸場という神楽坂最大の寄席があった。前記した「読売新聞」の「ストリート・ストーリー」にあるイラストマップには、その場所に『兵隊さん』の落語で鳴らした柳家金語楼似顔がえがかれていて≪私のフランチャイズだった≫と書き入れてあるが、私が出入りした時分にはまだ金語楼もかすんでいた。
ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった。
右角の宮坂金物店の先隣りはいまも洋品店の🏠サムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

距離。交差点「神楽坂下」から交差点「神楽坂上」までの距離
反物。大人用の着物を1着分仕立てるのに必要な布地

シャン・テ 国立図書館の住宅地図によれば、1976年、1978年には🏠カナン洋装店、1980年はシャンテでした。したがってシャンテで問題はないと思います。

3丁目(85)

木村 カナン シャンテ 宮坂金物店 駐車場 サムライ 三菱銀行 善国寺 本多横丁 近江屋 五十番 毘沙門横丁 裏つづき
イラストマップ 下図で、絵はもっと拡大できます。

読売新聞(76/08/16)

うを徳 金語楼
 現状でいえばその先が🏠三菱銀行で、横丁の先が毘沙門さまの🏠善国寺だが、サムライ堂の前あたりに出た草薙堂という夜店の今川焼は私も好物で、『神楽坂通りの図』には≪三個で二銭、大きくて味が評判だった≫と記されている。少年時代のことで記憶があやしいが、三個で二銭とは逆に二個で三銭ではなかったろうか。他の店よりとびきり高価だったはずだが、それだけの価値はあった。形が大きかっただけではなく、ツブシアンとコシアンの二種があって、後者には白インゲンが混入してあった。その後、私はそういうものに一度も行き遭ったことがない。
サムライ堂の向いにある横丁が筑土八幡前へぬけて行く🏠本多横丁――横関英一の『江戸の坂 東京の坂』や石川悌二の『東京の坂道』というような著書によると三年坂ということになるが、本多横丁の呼称は江戸切絵図をみると、そのあたりに本多修理の屋敷があったためだとわかる。いま左角は傘はきものの🏠近江屋で、右角が中国料理の🏠五十番だが、後者は加能作次郎が行きつけにしていたという豊島理髪店の跡で、その前に出たバナナの叩き売りは夜店の中で最も人気があった。最近テレビにショウとして出て来るバナナの叩き売りは関西系なのか、あんなゆっくり節をつけたお念仏みたいなものでは客が眠くなる。東京の夜店のバナナ売りの口上は、どこの土地にかぎらず、もっとずっと歯切れのいい早口の恐ろしく勇ましいものであった。
本多横丁のはずれの右角はいま熊谷組の本社になっているが、その手前の右側の石垣の上には、向島に撮影所があったころの初期の日活映画俳優であった関根達発の家があって、幼稚舎一年のとき寄宿舎にいた私は二年のときから三、四歳年長だった関根達発の長男大橋麟太郎に連れられて通学した。筑土八幡の石段は戦前には二つならんでいたような気がするが、いまは一つしかない。

筑土八幡:つくどはちまん。東京都新宿区筑土八幡町にある神社。

江戸の坂
東京の坂
東京の坂道
この横丁の坂は『江戸の坂 東京の坂』でも『東京の坂道』でも「三年坂」として書かれています。たとえば『東京の坂道』では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁日の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久土町へ抜ける長い坂。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久土町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし。」とし、また坂については「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁日の方へ下る。長さ五十七間、巾一間四尺より二間二尺に至る。」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りに結びつく商店街である。

「三年坂」と「本多横丁」を考えてみれば、かたや「坂」、かたや「街」なので、全く出所は違います。

本多修理 本多修理の邸地は本多横丁と接する場所にありました。本多修理は少なくとも本多家の二代から四代までが名乗っていました。

寛政四年

関根達発 セキネ タッパツ。生年は1883年1月17日。没年は1928年3月20日。俳優。日本映画草創期に活躍した二枚目俳優。新派俳優から日活向島撮影所、松竹蒲田撮影所に入社。退社後はマキノ・プロダクションの作品に出演。
筑土八幡の
石段
昭和5年牛込区全図から

筑土(つくど)八幡(はちまん)。新宿区筑土八幡町の神社。一時、神社の2社があったことがあります。元和2年(1616年)、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、北の「八幡」と比較して南の「津久戸明神社」と呼ばれてきました。その後、第二次世界大戦で2社はどちらも全焼。北の八幡神社は現在でも当地に鎮座しますが、津久戸明神社は千代田区九段北に移転します。戦前では地図でも明らかなように石段も2つありました。明治時代も同じように2社がありました。

 関根達発の家よりさらに手前の十字路は軽子坂上だが、その右側にある料亭🏠うを徳の初代が、泉鏡花の『(おんな)系図(けいず)』のめの惣のモデルだといわれている。
🏠善国寺本堂の右横へ行くと毘沙門ホール入口と標示されていて、「毎月五日・二十五日開演神楽坂毘沙門寄席」と濃褐色の地に白い文字を染めぬいた幟が立っているが、ニカ所ある善国寺の石の門柱にはそれぞれ「昭和四十六年五月十二日児玉誉士夫建之」と刻字されている。戦前の境内には見世物小屋が立ったり植木屋が夜店を出したが、少年時代の私にとって忘れがたいのは本堂の左手にあった駄菓子屋で、そこで買い食いした蜜パンは思い出してもぞっとする。店主は内髪の老婆で、ななめに包丁を入れて三角に切った食パンに糊刷毛のようなもので壺の中の蜜を塗って渡されたが、壺や刷毛は一年になんど洗われたか。大正時代の幼少年は、疫痢でよく死んだ。
三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが🏠毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷の(ばけ)横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから🏠裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

落籍:らくせき。抱え主への前借金などを払い、芸者や娼妓(しょうぎ)の稼業を止めること。身請け

うを徳 その写真は

うを徳

毘沙門寄席 現在も中身は変えながら続いています。たとえば毘沙門寄席

東京気侭地図3|神吉拓郎

文学と神楽坂

 表通りと、一本東側にある軽子坂、この間に挾まれた、大久保通り寄りの一画、このあたりは、神楽坂の空気に、独特のうるおいと彩りを添える花街である。坂を上って行って毘沙門さまのちょっと手前の向い側、そこを右へ曲ると、昔からの本多横丁といわれる小路だが、そのあたりの北側、筑土八幡へ抜ける道から、大久保通りにかけては、入り組んだ石段と小路の続く、迷路のような地帯だ。
 道幅は、どれも狭い。来合せる人があれば、肩を斜めに、すれ違うのに気を遣うほどの細道だ。表通りの神楽坂は、今はもうコンクリートの舗装になってしまったけれど、このあたりの小路には、昔ながらの石畳、扇面状に小さな角石を敷きつめたそれが、まだ残っている。
 気の向くままに右に折れる。と、そこに数段の石段がある。それを下りると、先は行きどまりである。
 行きどまりと見えて、小路は左へ折れる。塀と塀の(あわい)の、まっすぐ向いては歩けないような細い道に、軒灯と、格子戸がある。
 小路は、ひんやりとしている。どこからか風が通ってくる。
 また石段。まんなかが磨りへっていて、靴が滑りそうになる。
 角を曲ると、華やかな色彩が目に入る。若い母親が、子供を遊ばせている。気がついてこっちを見る視線は、軽くいぶかしげだ。
 ぼくは、内心、知らぬ家の庭先に踏みこんでしまったかと、恐縮したいような気持になる。
 石段を上り下りし、右左と曲っているうちに、高低の感覚も、方角の感覚も、次第にあやふやになってくるのが心細く、また面白い。
 この一画の小路には、行きどまりは、あまりない。殆ど、「抜けられる」道だ。
 ひときわ狭く、趣きの深い小路を歩いていると、つい鼻の先の軒灯に、ぽっかりと灯がともった。暗い軒灯だけれど、墨で書かれた家号の字は、くっきりと読みとれた。
 その軒灯の上には、まだかすかに陽の色が残っている空があった。
 ぽくは、まるっきりの下戸だけれど、呑んべえが、酒をのみたいと思うのは、こういうときだろうな、と思う。

神楽坂の通り

表通り 神楽坂通りのこと
軽子坂 軽子とは軽籠持の略称で、船着き場などで荷物運搬を業とする人。軽子がこの辺りに多く住んでいたため、名前が付きました。
大久保通り 新宿区飯田橋交差点から、新宿区神楽坂上交差点を通り、杉並区大久保通り入り口交差点まで。
一画 土地などの、ひと区切り。一区画
花街 はなまち。花町とも。かがい。芸者屋・遊女屋などの集まっている町。色里。色町。
本多横丁 神楽坂通りの最大の横丁
筑土八幡 筑土八幡神社のこと。赤丸で書いてあります
地帯 ここをどう呼ぶのがいいのか、2005年になっても正式名称がありませんでした。水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁」を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その名の通り、現在、これは兵庫横丁と呼んでいます
行きどまり 兵庫横丁の一見行きどまりに見える路地。さらに先を左側に行くと抜けられる道があります。兵庫横丁の行き止まり
軒灯 けんとう。軒先につけるあかり
格子戸 こうしど。格子を組んで作った戸