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文豪の素顔|森鴎外(3)

文学と神楽坂

 精養軒へあがると、玄関のホールのダイバンのところには、もうちやあんと秀雄と勇が一足先にやつてきて、ビールなんか飲んでゐる。秀雄の方は宿酔とみえ顔も何も土気色をしてゐたが、フラフフラたつてきて、杢さんと挨拶をかはしたあとで、駄々ッ子のやうに、「杢さん、ちよつと。」と、眼顔で合図をする。
 杢さんは秀雄と一しよに奥廊下の入口まで入つていつたが、頭をかきながら帰つてきて「あひにく、僕は余分なラルジャンをもつとらんのだよ。」と、赤い顔をしてゐる。
 ははア、こりや二人とも杢さんに会費をタカるつもりだなと気づくと、僕は恥かしくなつて、耳たぶが熱くなつてきた。
 早速帳場へいつて、僕は秀雄と自分のと二人分払つた。たしか三円だつたから六円払つたと思ふ。と、秀雄はそれをみてゐて、
「おい、幹さん、吉井のも払はなけやダメぢやないか。」と、口を尖らかして、そんなことは当りまへだといふやうにカサにかかつていふ。
 僕は忌々しいとは思つたが、年少の人のよさでいはれるとほり潔よく払つた。あと一円しか殘らない。外套をころして、人の分まで払はせられるとは、全く情けなかつた。そのオーバーも今入れたんぢや、今年の十二月まではむろん出せッこないのはわかつてゐる。

ダイバン ダイバンには大盤、台盤、台板などがあるようです。大盤は食物や水などを入れるための大きな器。台盤は、食卓の一種で、食物を盛った(さら)をのせる台のこと、台板は物や人をのせる板のこと。
土気色 つちけいろ。土のような色。生気を失った人の顔色
ラルジャン l’argent。銀貨のこと
たかる (たか)る。人に金品をせびる
かさにかかる 嵩にかかる 威圧的な態度でのぞむ
ころす 質屋の担保(質草)に入れる

 そこへあまり脊丈のたかくないひとりの軍人が、かちやかちや剣鞘をつきならしながら颯爽と入つてきた。鷗外先生であつた。声望隆々たる陸軍軍医局長であるから、昭和時代ならむろんピカピカした四万台の自動車で、威風堂々あたりを払つて御入来といふところであらう。しかし明治四十何年かのことであるから、電車でさへも珍らしい時代であつた。先生は山下の広小路まで市電でみえて、あれから人力車に乗られたんぢやないかと思ふ。上田敏先生も、夏目漱石先生も辻待ちの人力車であつた。鷗外先生はまつ先に杢さんをみつけて、片頬でにつこり笑つて、無雑作に会釈をされる。頭も軍人風のイガ栗ではなくうすい髮毛を分けてゐられるので、何んだかちつとも軍服がイタにつかない感じである。ただ少し右の肩がいかつてゐるのが、いかにもきかぬ気らしいヒョウ悍さをみせてゐる。その時分、雑誌ゴロか、暴力団か何かが、陸軍省の玄関先で先生に失礼なことをいひかけて、突き倒されたとか、殴られたとかいふデマが盛んにとんでゐた。とにかく日露戦争からずつとつなかつてゐる初期軍国主義的気分が社会にほうはくしてゐる時代であつた。
 杢さんは例の真赤な顔でいんぎんに挨拶をしたが、吉井勇はにやにやするばかりで、たちもしなかつた。それでゐて気嫌をとるでもなく、お愛想をするでもなく、にいッと唯笑うだけのそのかねあひが、実に勇の名演技中の名演技であつた。やはり伯爵の御曹子だけの貰祿はあつて、誰れでも勇のこの表情にはころりとまゐらせられたものである。薩摩人らしいおほらかな怜悧さである。
 鴎外先生もこつちへ歩いてみえて、
「吉井君、昨日與謝野君から手紙をもらつたよ。」と、笑ひながら煙草に火をつけられる。
 勇はコップをもつたまま、例のコツで、
「さうでしたか。僕もこの頃は御無沙汰してゐるんです。」
と、極めて素朴な青年らしさをみせる。
「與謝野君は晶子さんが歌集を出すさうだから、何かかいてくれといふんだが。」
「さうですか。何かかいてやつて下さい。お願ひします。」
「しかし僕は、今ひどく忙かしいんでね。もし君逢つたら、うまく断つといてくれないかね。」
 さういひながら鴎外先生は杢さんと二人で、食堂の控室の方へ入つていつてしまはれた。僕はていねいにお辞儀をしたが、一顧にも値しなかつたらしく、むろん黙殺である。
 寂しかつた。急にウイスキーががぶ飲みしたくなつた。

剣鞘 けんしょう。剣の刀身の部分を納めておく筒
颯爽 さっそう。姿や態度・行動がきりっとして、見る人にさわやかな印象を与える
四万台 4万円台と書き換える以外にいい方法はなさそうです。
辻待ち つじまち。人力車などが道ばたで客を待つこと
板につく 経験を積んで、動作や態度が地位・職業などにしっくり合う
きかぬ気 人に負けたり、人の言うなりになったりすることを激しく嫌う性質
ヒョウ悍 剽悍。ひょうかん。すばやい上に、荒々しく強いこと
雑誌ゴロ ゴロは「ごろつき」の略。無職・住所不定で人の弱点につけいる、ならずもの<
ほうはく 磅礴。広がり満ちること。満ちふさがること
怜悧 れいり。賢いこと。利口なこと
與謝野 与謝野寛晶子与謝野鉄幹。詩人・歌人。本名は(ひろし)。生年は1873年(明治6年)2月26日。没年は1935年(昭和10年)3月26日。新詩社を創立し、「明星」を創刊。妻晶子とともに明治浪漫主義に新時代を開きました。
晶子 与謝野晶子。よさの あきこ。歌人、作家、思想家。生年は1878年(明治11年)12月7日。没年は1942年(昭和17年)5月29日。
一顧 いっこ。ちょっと振り返って見ること。ちょっと心にとめてみること

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(9)

文学と神楽坂


 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パンの会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パンの会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあつた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたらあんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がない。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそつくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつてしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家までおぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、おれを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕がねこババきめてやつた。

反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅… 白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
   明治四一年五月作

胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力

 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊のやうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。その朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせに親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパリを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼイ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけである。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章をもらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることであらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもてはやされたであらうのに。

伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼 高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

 雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。
高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境

文豪の素顔|森鴎外

文豪の素顔|森鴎外(4)

文学と神楽坂

 さて食堂でどんなことかあつたか、さすがに今では一々記憶してゐないが、秀雄は二度立つてきて、底光りのする眼でおどかすやうに、
「おい、幹さん。金もつてないか。」と、酒くさい口でしつこくこだはつた。それからすぐ斜向ふで、上田先生が、自分の煙草の煙にむせながら、ルノアールの話をしてをられたのを、はつきり覚えてゐる。あの角刈りの頭を横にふつて、煙草のやにで黒くなつた歯を出してあッはッはッはッとあけッぱなしに笑はれる顔を思ひ出すと、今でもとてもなつかしい。上田先生はなかなかの男前であつた。
 夏目先生は、一番むッつりであつた。面白くなささうな白ばッくれた顔をして腕ぐみばかりしてをられた。『猫』のクシヤミ先生が鼻毛をぬいてゐるかつかうそつくりである。
 鷗外先生はお酒をあがると、つやつやしたお顔になつた。細い鬚をふるはして、感慨深さうに何かしきりに杢さんに話してをられる。
 ひよいとした拍子に、「センズリ」といふ言葉が、かなり高調子にはつきりと先生のお口から洩れたので、一座の人たちはぎよッとしたらしかつた。さうした露骨な下品な表現は、その時分の文壇では許されなかつたものである。あんまり唐突であり、しかも先生は笑ひもせずに話してをられるので、若いわれわれが聞き耳をたてたのはむりもあるまい。
 だんだん伺つてゐると、やつと話の経緯がわかつてきた。何んのきつかけからか性的事実の話題がもちあがつて、先生はつまりキンゼイ報告のやうなものを、平気でしやべつてをられるのであつた。或ひは軍医学上の観点から兵営に於ける兵士たちの性生活に関する()()()()を傾けてをられるらしくも思はれた。何にしろさながら試験管中の現象について語るごとくに、いかにも平静に、しかも科学的に、露骨な固有名詞を用いて滔々と諭じてをられるので、私たちはうつかり笑ふことも出来ない。みんな息をつめて、厳粛な顔をして傾聴してゐた。
 その中で今でも覚えてゐるのは、某師範学校の女子部の寄宿舎における夜中の自瀆行為の描写であつた。若い女教員の卵たちが性慾の悩みにたへかねて、いろんな不自然な行為をするのが、私たちの好奇心を極度にそそつた。深夜突如、非常呼集をやつて、女学生たちのベットを一々視察してみたら、実に意外な性器具を発見した。なかでも一番傑作だつたのは、宵のうちに校外から焼芋をかつてきて、さんざ食ひ散らかしたあげく、そのあまりをつぶして、克明にコンドームヘつめ、それを体温で温めて用いてゐたといふ実例である。
 夏目先生もその話の時はくすくす笑つてをられた。腕組が一層堅つくるしくなつた。
「どうも、手数のかかつた、浅間しいことをやるもんだなあ。」と、感嘆してをられたが、それは数の少い発言の中の一番出色のものであつた。その晩は夏目先生の、胆汁質な、対抗意識みたいなものばかり、僕はみせつけられた。

ルノアール ピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)。フランスの印象派の画家。生年は1841年2月25日。没年は1919年12月3日。
白ばッくれた しらばくれる。知っていて知らないさまを装う。しらばっくれる
センズリ 千摺り。 男性の自慰。手淫。
キンゼイ報告 米国の動物学者キンゼイ(A.C.Kinsey)が全米の男女を対象に行った性行動に関する調査の報告書。1948年に男性編、53年に女性編を発表。Sexual Behavior in the Human Male。キンゼイ報告はまだこの時代では発表されていないので、「ようなもの」なのです。
うんちく 蘊蓄。薀蓄。蓄えた深い学問や知識。
滔々 とうとう。次から次へとよどみなく話すさま
師範学校 旧制の小学校教員養成機関
自瀆 自慰。マスターベーション
堅苦しい かたくるしい。気楽なところがなくて窮屈
胆汁質 ヒポクラテスの体液説に基づく気質の4分類の一。激情的で怒りっぽく攻撃的な気質。胆液質。

 上田先生は知らん顔で、誰れかと巴里のオペラの話をしてをられた。先生のとこまでは聞えなかつたらしい。
 誰れだつたか、へうきんな調子で、
「ねえ、先生。僕がきいたところでは、電燈のグローブなんかも用ゐるさうですね。」
 鷗外先生は尢もらしく鬚をひねるかつかうをしながら、
「いや、それは何処でもやるらしいね。敬天堂病院の医員にきくと、一遍腟内で破裂して早速手術をしたんだが、手術が不成功に終つてたうとう死んだといふ実例もあるさうだよ。」
「いよいよもつて、浅間しき限りですね。」
「腟内で粉々に破裂したんぢや処置なしだよ。危いことをやるもんさ。」
 それから性病の話になつて、モウパッサン脳梅毒の話にまで発展していつた。勇はしかめッ面をして、わざと大向うめあてに、
「われわれも慎しむべきだなア。」なんて、場あたりめかしいことをのめのめといつて、わあッと皆を笑はせる。
 と鴎外先生は、
「ほんとに気をつけないといかんよ。吉井君なんざその方にかけちや猛者中の猛者だからなあ。長田秀雄君の『歓楽の鬼』のテーマもそれだからな。」
 秀雄は盃をふくみながらジロリと僕の方を睨んだ。
 小山内薫氏が自由劇場で演出した兄貴のあの有名な『歓楽の鬼』は、今だから白状するけれど、あれは実は僕がかいたものなのである。僕は一生懸命に苦心をして、脳梅毒の末期の患者を主題として、『暗い血の谿谷』といふひと幕ものの習作をかいてゐた。僕がそれを朗読して聞かせると、兄貴ドラマツルギーとしては成つてゐないなぞと、酔つぱらつてさんざんコキ下ろしたくせに、いつの間にかその原稿が僕の机の抽出からふつと姿を消してしまつた。
 兄貴の『歓楽の鬼』は、三田文学に掲載されたものである。兄貴は度はづれの怠けものなので、折角三田文学から執筆を頼まれてゐながら、どうしても締切に間に合はない。そこで苦しまぎれに僕の『暗い血の谿谷』を『歓楽の鬼』と改題して、僕に断りもしないで「三田文学」へ送つたわけである。むろん自己流にだいぶ手は入れてあつたが、台詞なんか、利きぜりふは僕のほとんどそのままそつくり使つてゐた。しかしさすがに兄貴だけあつて、幕切れなんかあの通り、実にうまく改作してあつた。
 後年小山内薫氏が僕のことを罵倒して秀さんは『歓楽の鬼』をかいてすぐれた芸術的純粋さを示したが、幹さんは依然としてセンチメンタルメロドラマチストだと面と向つて僕を批難したのには、まことに恐入つた。それ以来僕は批評家といふものを心から信じることか出来なくなつたのである。
 それからも秀雄は僕のものでしばしば原稿料をかせいだ。第二次世界大戦の初まる頃まで兄弟義絶して、十数年間遂にお互に仲直りをしなかつたのも、兄貴のあまりにも放埒な破廉恥な所業が原因をなしてゐるのである。兄貴は自分の債務のためにしばしば僕の家へまで執達吏をよこした。僕は肉親を超えた芸術家として兄貴の背徳行為を今でもいいことだとは思つてゐない。
 だから故久米正雄氏が、「新潮」にかかれた『文壇会合史』なるものをよんだ時には、ひそかに哄笑するより外はなかつた。世の中には裏の裏までみぬく人はないものである。僕は久米氏に「不徳のいたすところ」などとまるで筋遠ひなことをいはれても、いささかも俯仰天地恥ぢない。通俗作家が不道徳で純文芸の作家はみんな清節の士のやうにいつたあの時分のヘナチョコなヒロイズムほどあべこべに文壇を毒したものはあるまい。『会合史』は僕に関する限り相当出鱈目なものであることを、数々の資料によつて実証することが出来る。

巴里 パリ。フランス共和国の首都。パリ盆地の中心にあり、セーヌ川が貫流。川中島のシテ島を中心に同心円状に発展。
グローブ globe。電灯の光をやわらかく広く散らすための、ガラスなどで作った球状の覆い。
モーパッサン アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant)。フランスの自然主義の作家、劇作家、詩人。生年は1850年8月5日。没年は1893年7月6日。先天性と後天性梅毒があったと考えています。
脳梅毒 梅毒第三期に主として神経系がおかされた状態。
歓楽の鬼 明治43年、長田秀雄はイプセンの影響を受けて戯曲「歓楽の鬼」を発表、 翌年小山内薫の自由劇場で上演、新進劇作家として注目されました。「歓楽の鬼」の主人公は洋行したパリで性病になりますが、この時代では脳梅毒などが大きな原因でした。
自由劇場 2世市川左団次と小山内薫が主宰。 1909年11月イプセン作の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を有楽座で2日間試演。10年間に9回の公演と試演を断続的に行い、日本の新興脚本や新興演劇術のために一つの道を開いた。
ドラマツルギー 戯曲の創作や構成についての技法。作劇法。戯曲作法。演劇に関する理論・法則・批評などの総称。演劇論。
抽出 ひきだし。引き出し、引出し、抽き出し、抽斗。たんす・机などの物をしまっておく抜き差しできる箱。
三田文学 文芸雑誌。 1910年5月創刊。森鴎外、上田敏の斡旋で新帰朝の永井荷風を慶應義塾大学教授に迎え、同大学文科の発展を期して創刊された。
利きぜりふ 普通の会話の中に、金言や格言のようなセリフを入れること
センチメンタル 感じやすく涙もろい。感傷的
メロドラマチスト メロドラマとは音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇から、今日では、通俗的、感傷的な演劇、映画、テレビドラマなど。メロドラマチストはその作者、演者など
債務 借金を返すべき義務。
執達吏 執行官の旧称。国の代理人として、強制執行の具体的作業を取り仕切る人
久米正雄 久米正雄小説家・劇作家。生年は1891年(明治24年)11月23日。没年は1952年(昭和27年)3月1日。第三、四次「新思潮」同人。のち感傷的作風の通俗小説に転じ流行作家となりました。
新潮 佐藤義亮が新潮社を興し、1904年、『新潮』は創刊。100年以上も続いています。
文壇会合史 『微苦笑随筆』という本の「文士會合史」を読んでいますが、この「文士會合史」では「不徳のいたすところ」と話す場面はありません。おなじ通俗作家とレッテルを張られた人同士、久米正雄氏が長田幹彦について話すときに、あまり悪意は感じられません。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
俯仰天地… ふぎょうてんちにはじず。俯仰天地に愧じず。孟子の言葉で「かえりみて、自分の心や行動に少しもやましい点がない」

文豪の素顔|森鴎外

[漱石雑事]

絹もすりん|森田たま

文学と神楽坂

森田たま 森田たま氏の『もめん随筆』(中央公論社、1936年、昭和11年)の「絹もすりん」です。
区内に在住した文学者たち』によれば、昭和13年頃~19年頃、矢来町41に住んでいました。しかし、20代でもここに住んでいたようです。1970年(75歳)、死亡しました。
 この随筆は、書きたいことだけを書くので、清純で、また綺麗です。

 十八の時初めて上京して、ふとした機会からのお稽古に通ふやうな事になつた。御縁があつて牛込の藤間勘次さんに教へて頂いたのであるが、踊などといふものは三つ四つの頃近所に若いお妾さんがゐて、退屈しのぎに私を借りていつては深川だの奴さんだのを教へてくれた事があるきりで、手の出しかた足の踏みかたてんで見当のつけやうもなく、つるつると滑つこい舞台の上を、ただ辷るまいといふ一心で浮腰に歩き廻つた。爪先立つていまにも転びさうな私の足許へぢつと眼をそそいでゐたお師匠さんは、やがて一緒にお茶を飲みなからさり気なく云はれるのである。
「おたまさん、あなたの足袋は幾なの」きかれても私は知らなかつた。
「家から送つてきたのをそのまま穿いてゐるんですけど、……」
「さう。道理で変だと思つた。その足袋はきつとあなたには大き過ぎるんですよ、一ぺん足袋屋へいつて寸法をはかつてお貰ひなさいよ。足袋だけはきつちりしたのを穿かなくつちやね。……」
 私はお師匠さんに教はつた通り早速通寺町美濃屋へ行つて寸法をはかつて貰つた。八文の足袋がきつちりと合つた。あらためて家から送つてよこしたのを調べると、こはぜに九文と刻んであつた。
 神楽坂の夜店に金魚売りや虫屋が幅をきかす頃になると、女の人の姿が眼に立つて美しくなり、散歩に出る人の数が急にふえてゆくやうに思はれた。人間洪水といつていいやうな凄まじい群集の間をくぐりぬけて、矢来のお師匠さんのところまで辿りつき、黒つぽい縞もすりん単衣からたたんだ手巾を出して顔を拭いてゐると、二階から降りて来たお師匠さんが私を見て「暑いでせう」と声をかけた。
「おくにでは今頃でもやつぱりさういふ風にもすりんを着てらつしやるの」
「ええ、……」と私はをひいて自分の衿を見るやうにした。
「夜のお稽古は浴衣でいいんですよ。……昼間だつてお稽古の時はねえ、汗になりますからねえ」
 夜の神楽坂を歩く女の人が急に美しく見え出したのは、くつきりと鮮やかな浴衣のせゐであつた事にやつと私は気づいたのである。

 おどり。音楽などに合わせて踊ること。
藤間勘次 森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生です。遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」を書き
 勘次師は、二代目藤間勘右衛門(後の勘翁)の門弟で、三代目勘右衛門、後の初代勘斎(松本幸四郎)は先代市川團十郎、松本白鴎、尾上松緑三兄弟の父君です。勘次師は、また作家の森田草平先生の奥さまで、花柳界のお弟子は全く取らず、名門の子女が多く、お嬢さま方がそのころ珍しかった自家用車に乗り、ばあやさんをお供にお稽古に来ておられました。
 藤間のお三方のご兄弟ももちろんこの頃は若く、踊りの手ほどきを勘次師にしていただくためよく来られました。私はまだ小学生で、時々お稽古場で豊(松緑)さんと顔が会うと、住まいが同じ渋谷だったので、お稽古の後、付人のみどりさんという若い男の子と三人で神楽坂をぶらぶら歩いて、よく履物の助六の下にあった白十字でアイスクリームなどをごちそうになったものです。

浮腰 腰が不安定な姿勢。へっぴり腰
 1文は2.4cmです。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。
美濃屋 戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後は5丁目に移ってきました。中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』では1955年の美濃屋は創業から60年経った店でした。これが正しいと、1895年ごろに創業したのでしょう。上記の遠藤登喜子氏は
 肴町の交差点を渡って少し行くと、コーヒーを挽いているお店があり、よい香りが漂っていました。その先が足袋の美濃屋さんで、戦前は肴町を越したところにあったのです。広いお店は畳が敷き詰められ、小さいダンスの引出しが横にずうっと並び、大旦那がお客の足型を取ったり、店員さんが小さい台の上で足袋を裏返して、木槌でトントンとたたく音が聞こえていました。私の踊りの足袋も長い間、美濃屋さんのお世話になりました。

明治40年の5~6丁目

『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」で岡崎弘氏と河合慶子氏が書いた「遊び場だった『寺内』」の一部

 残念ながら、正確な神楽坂6丁目の地図も美濃屋の地図もありません。ただし、「タビヤ」の地図はあります。「茶ヤ」が「コーヒーを挽いているお店」でしょうか。

八文 19.2cmです。
こはぜ 小鉤。鞐。布に縫い付けられた爪型の小さな留め具
矢来 神楽坂上の台地にあり、以前は若狭小浜藩主の酒井讃岐守の敷地でした。矢来の名前は、この敷地の周囲を竹矢来で囲んでいたためです。北部に東西線の神楽坂駅があり、また新潮社もあります。
師匠 夏目漱石の手紙を読むと、森田草平氏と藤間勘次女史は矢来町62番地に住んでいました。

矢来町62番地

大正11年、東京市牛込区の地図

縞もすりん モスリンは羊毛等で織った毛織物。(しま)モスリンは2種以上の色糸を使って織り出した縦縞や横縞のモスリン
単衣 ひとえ。裏地のない和服。6月から9月までで着用しました。
 たもと。和服の袖付けから下で袋のように垂れたところ
くに 森田たま氏の故郷は北海道でした
 おとがい。下あご。あご。
浴衣 ゆかた。木綿の浴衣地でつくられた単衣の長着。家庭での湯上がりのくつろぎ着や、夏祭り、縁日、盆踊り、夕涼みなど夏の衣服として着用します


漱石先生の書き潰し原稿|内田百閒

文学と神楽坂


内田百閒

内田百閒氏

 内田百閒(ひゃっけん)氏の「漱石山房の記」(昭和29年、角川文庫)です。
 氏は小説家、随筆家で、生年は明治22年5月29日。没年は昭和46年4月20日。東京帝大独文科卒。夏目漱石に私淑し、在学中から俳句や写生文を発表。代表作は『贋作吾輩は猫である』『阿房列車』など。法政大教授でした。

 漱石先生が朝日新聞に「道草」を連載せられた當時、木曜日の晩に漱石山房へ行つて見ると、板敷の書齋の絨氈の上に、こつち向きに据ゑてある先生の黒檀の机の脚の外側に何か少し書いた原稿用紙が積み重ねてあつて、それが毎週見る毎に次第に高くなる樣であつた。あれは何ですかと尋ねて見たら、書き潰しが溜まつたのだよと云はれた。
 漱石先生に消したり直したりして汚くなつた原稿用紙は新聞社へ渡されなかつた樣で、その度に紙を新らしくして、初めから書き直されたらしい。先生の專用せられた原稿用紙は橋口五葉氏の考案した木版を刷つたものであつて、縁の額には竜の模樣があつた。判は大きかつたけれど、半切であつたから、書き直しをされても大した事はなかつたと思はれる。
 しかしその書き潰しが段段高くなつて、七八寸もある様に見えて来ると、私にはそれが気になり出した。先生は一枚一枚破いてそこいらに散らかすよりは、さうしてきちんと重ねておいた方が始末がいいと云ふだけの事でさうして居られるに違ひないが、もつと溜まつて、邪魔になり出したら、どうするのであらうかと云ふ事が心配になつた。先生が捨ててしまはない内に買ひたいものだと考へて、同じく漱石山房へ出入してゐた岡田耕三君と、も一人だれだつたか忘れたが、私と三人でその書き潰しの原稿用紙を頂戴したいと云ふ事を、恐る恐る先生に申し出たところが、そんな物がいるなら持つて行つてもいいよと先生が云つたので、早速三人で分けた。(中略)
 さうして貰つて来た書き漬しの原稿用紙を私は大切にしまつておいたが、長い間にその内の幾枚かを二三の知友に割愛した。近年になつて郷里岡山の恩師木畑竹三郎先生にも二三葉を差上げたところが大変にお喜びになつて巻物にして保存したいから、その由来書を私に書けと命ぜられたので、右の次第を拙文に綴つたのである。

 で、「新宿区夏目漱石記念施設整備基金」を出すと必ず新宿区から貰える『道草』の草稿、つまり書き潰しです。道草

橋口五葉 はしぐちごよう。版画家。橋本雅邦に師事。独自の近代浮世絵版画を完成。夏目漱石・泉鏡花・永井荷風らの本も装丁。生年は明治13年12月21日。没年は大正10年2月24日。享年は満42歳。
[漱石雑事]
[漱石の本]
[硝子戸]

安田武|天国に結ぶ恋2

文学と神楽坂


 亡くなった母は、私が巣鴨へいってきたというと、お地蔵様をお参りしてきたか、と(たず)ねるのを忘れなかったが、また神楽坂へいったといえば、毘沙門(びしゃもん)さんへお(まい)りしたかい、と念を押したものだった。神楽坂生まれの毋は、「寅毘沙」の縁日の賑わいのなかで育ったわけだ。
 神楽坂演芸場のあったのは、坂を登って、毘沙門天の少し手前、宮坂金物店の横丁を曲がった直ぐの処だったというが、ここで、月の晦日(みそか)に、柳家金語楼の独演会が開かれていた。祖父の安永舎の代から出入りだった小石川・戸崎町の色刷り印刷屋さん、この内儀が大変な金語楼贔屓(びいき)で、私のことを、一刻も早く金語楼にあずけろ、そうすれば、一生、左うちわで暮らせる、と口を酢にしていう。 「ナニ、師匠には、あたしから頼んだげます、って、石黒さンたら、演芸場へいくたンびに、真顔でいうンだから」と、母は憶い出しては笑った。
 金語楼は、毎回、新作を三席発表し、むろん、私の方は、例の小原沢先生の時間のネタ採りで懸命だったはずだが、それらの(はなし)は、一つも覚えていない。ただ「三原山」という外題で、「ほんとうに、どうして、こんなに沢山の人が三原山で死ぬンでしょうねえ」、「それがソレ、みんな、ミハラ出た錆です」というオチだけを記憶している。大島の三原山で投身自殺が流行したのだった。地元や警察の厳重な讐戒の目をかいくぐって、自殺者は跡を絶たず、大島通いの汽船会社が、片道切符を売らなくなったという話があった。自殺者の数は、男四〇八名、女一四〇名(昭和八年中)に及んだ、と記録されている。赤い椿に夢のせて、恋し懐かし三原山ァ――と、歌の声は甘かったけれど。

巣鴨 東京都豊島区の巣鴨(すがも)駅を中心とする街。とげぬき地蔵で有名な高岩寺がある。
地蔵様 高岩寺(こうがんじ)は曹洞宗の寺院。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)。一般にはとげぬき地蔵で有名。
毘沙門 善国寺(ぜんこくじ)は新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院。本尊は毘沙門天。開基は徳川家康。正式には善國寺。
寅毘沙 寅の日は毘沙門の縁日
縁日 神仏との有縁(うえん)の日のこと。神仏の(ゆかり)のある日を選び、祭祀や供養を行う日。
神楽坂演芸場 神楽坂下から来ると「椿屋」の直前から左手に曲がり、10メートルも行くと駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。寄席の1つで、柳家金語楼などが有名でした。
宮坂金物店 宮坂金物店は現在はお香と和雑貨の店「椿屋」です。
柳家金語楼
柳家金語楼 やなぎや きんごろう。喜劇俳優、落語家、発明家。生年は1901年2月28日。没年は1972年10月22日。エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として有名でした。
左うちわ 右手で必死に仰ぐ必要はなく、左手でゆっくりとあおげはいい。これから転じて、優雅な楽な暮らしぶり。
口を酢に 口酸っぱく。くちずっぱく。同じ言葉をなん度も繰り返して念を入れて言うこと
小原沢 安田武氏の小学校の担任の先生。
外題 巻子・冊子の表紙に書く書名・巻名
ミハラ出た錆 正しくは「身から出た錆」。「三原山」がかけたもの。「身から出た錆」は、刀の錆は刀身から生じるところから、自分の犯した悪行の結果として自分自身が苦しむこと。自業自得
赤い椿… 大島のイメージを変えるために、1933年、 西條八十作詞、中山晋平作曲の「燃える御神火」が作られました。3番までありますが、版権を考えると1番だけしか載せられません。

1 赤き椿の 夢のせて
  ゆきて帰らぬ 黒潮や
  ほのぼの燃ゆる 御神火に
  島の乙女の 唄悲し
  恋しなつかし 三原山
  山の煙よ いつまでも

学者町学生町(1)|出口競

文学と神楽坂

 出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(1)です。

 何處(どこ)から何處へ流れるとなき外濠(そとぼり)の流れは、一刷毛ごとに薄れゆく夕日影に(ぼか)されて、煤煙のやうに(くろ)ずんでゆく、荷足舟が幾艘(いくさう)も繋つてゐて、河岸から小砂利(こじやり)や貨物や割石を積込む音が靜かな空氣を搖動(うご)かす。神樂坂にはもう(なつ)かしい灯が、恰度芝居の遠見の書割(かきわり)を見るやうに(うつく)しく輝いてわれも人も()ひよせられるやうに坂を(あが)つて行く。紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數(じゆず)(つなぎ)にされてゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの、その斜向ひの小路を入った處に島金(しまきん)といふ牛屋がある。専門學校時代から古い馴染(なじ)みだ。坂を上り()ると左手の露路(ろぢ)の突當りに洋食店の青陽軒(せいやうけん)があつて、早稲田界隈の高襟さんを一()に引受けてゐる。
 何故(なぜ)()うも人通りが多いのであろう、これが毎晩(まいばん)なのだ、寅午(とらうま)の緣日等と來ては海軍ならば夫れこそ舷々(げん/\)(あひ)()と公報に書く處だ。強ち道幅の狭隘(けふあい)が誇張的に見せる行為(せゐ)でもなかろう。誰れも彼れも暢氣(のんき)さうな顔をしてゐる、兩側(りやうがは)の露店のカンテラが一(せい)に空を赤めて、(やか)ましい呼聲が客足を止めさせる。特有(とくいう)へら/\帽子を目深(まぶか)飛白(かすり)の書生が、昆沙門前で1人はヴァイオリンを()き1人は本を口に当て(うた)つてゐるのが悲調を帯びて、願掛(ぐわんがけ)に行く脂粉(おしろい)の女の胸に(あは)い哀愁の種を()く。

外濠 そとぼり。江戸城の外側の堀の総称。水路で江戸城を取り囲んでいました。
煤煙 ばいえん。物の燃焼で煙と(すす)がでたもの
 正しくは「あおぐろ」が正確。青みを帯びた黒。
割石 わりいし。石材を割って、形が不定で鋭い角や縁をもつ石。

割石1

割石

書割 かきわり。芝居の大道具。木枠に布や紙を張り、建物や風景など舞台の背景を描いたもの。何枚かに分かれていることから書割といいました。
紀の善 現在は甘味処ですが、戦前は寿司屋でした。ここに詳しく。
印絆纒 しるしばんてん。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏。

印絆纒

印絆纒

床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け。

床几。肘掛けのない坐具。

床几

上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 (たか)下駄(げた)。10センチ以上視線が高くなります。

高下駄

書生下駄

珠數繋 数珠じゅずは穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎ。糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋(すしや)の名は弥助(やすけ)でした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした。
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか。
島金 現在は志満金です。
青陽軒 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)によれば、神楽町3丁目の「六番地に青陽楼(西洋料理店)」と書いてあります。青陽軒は青陽楼のことでしょうか。
高襟 はいから。西洋風なこと
舷々相摩す げんげんあいます。ふなばたが互いに擦れ合う。船と船とが接近して激しく戦うようすを表す言葉。
狭隘 きょうあい。面積などが狭くゆとりがないこと。
カンテラ オランダ語kandelaarから。手提げ用の石油ランプ。ブリキ・銅などで作った筒形の容器に石油を入れ、綿糸を芯にして火をともします

カンテラ

カンテラ

へらへら 紙や布などが薄く腰の弱いさま
目深 まぶか。めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
飛白 かすり。絣とも書きます。かすれたような部分を規則的に配した模様や、その模様のある織物です。

Café jokyû no uraomote

文学と神楽坂

 小松直人氏が書いたCafé jokyû no uraomote(二松堂、昭和6年、『カフェー女給の裏表』と読むのでしょう)の一部ですが、しかしこの本では神楽坂はここだけです。

淋しい神樂坂

 山の手銀座(ぎんざ)の名をほしいま丶にして、神樂坂(かぐらざか)大震災(だいしんさい)以前(いぜん)までは、山の手における代表的な(さか)()であっだ。それが、震災(しんさい)()、新宿の異常(ゐじやう)發展(はつてん)けおされて、すっかり盛り場しての盛名(せいめい)をおとしてしまつた。
 その證據(しやうこ)には、時代の寵兒(ちやうじ)たるカフエが、こゝにはきはめてまぼらにしか、存在(そんざい)しない。それも、カフエオザワをのぞけば、外のカフエはぐつと()ちて、場末(ばすゑ)のそれと大差(たいさ)がない。
 省線(しやうせん)飯田橋(いひだばし)(えき)で下車して、電車道をのりこえ坂をのぼつて行けば、左側(ひだりがは)ユリカ神養亭(しんやうてい)の兩カフエが並んでゐる。ユリカは神樂坂(かぐらざか)界隈(かいわい)切つてのハイカラなカフエで、女給(ぢよきふ)の數は十人を()え、サービスも先づ申し分がない。それに隣る神養亭(しんやうてい)は、レストラン()みて面白(おもしろ)くない。


山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。大震災ごろから言い始めたようですが、昭和4年ごろから新宿のほうが大きくなりました。
ほしいまま 思いのままに振る舞う。自分のしたいようにする。
大震災 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、マグニチュード7.9の地震です。震源は神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)。
けおとす ()(おと)す。すでにその地位にある者や競争相手をおしのける。
盛名 りっぱな評判。盛んな名声
寵児 世にもてはやされる人。人気者
カフエ カフェーの始まりは、明治44年、銀座に開業したカフェー・プランタンです。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三。パリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場としてスタート、本場のCafeの店員は男性ですが、ここでは女給。美人女給を揃えたカフェー・ライオンなどの店が増えましたが、まだ料理、コーヒー、酒が主です。
カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後で、翌年(1924年)、銀座に開業したカフェータイガーは女給の化粧が派手で、体をすり付けて話をする、といったサービスで人気がでます。昭和に入り、女給は単なる給仕(ウエイトレス)ではなく、ホステスとして働き、昭和8年(1933年)には風俗営業の特殊喫茶として警察の管轄下に置かれました。
この本も昭和6年に書かれていますので、かなりホステス的な女給も多かったのでしょう。
カフエオザワ 神楽坂4丁目でした。オザワについてはここで。場所はここ
場末 繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所
電車道 路面電車の軌道が敷設された道路。電車通り。ここでは外堀通り
ユリカ、神養亭 いずれも神楽坂2丁目にありました。現在は全て理科大の「ポルタ神楽坂」です。図の左は神楽坂上、右は神楽坂下になります。なお、ユリカについてはここで書いています。

ユリカと神養亭

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」を元に作っています

ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。英語のhigh collar(高い襟)から。もともとは高い襟をつけ、進歩主義・欧米主義を主張した若い政治家のこと。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性

 オザワは、相變(あひかは)わらずだが何と云ても、神樂坂(かぐらざか)のカフエのピカ一である。細長(ほそなが)い建物は時代向ではないが、一(しゆ)(かほ)りを持つてゐて落ちつけるのは流石(さすが)である。女給(ぢよきふ)は十四五人も居ようか、そのサービスは上品(じやうひん)で、大向ふをうならせる(やう)エロサービスではないが、店とビツタリしてゐて申し分がない。(つよ)刺戟(しげき)を求めようとする客は失望(しつぼう)するであらうが、しんみりとしたカフエ氣分(きぶん)(あじは)はうとする(きやく)は、この店に來てゴールドンスリツパーをなめるもよし、黒松白鷹(くろまつはくたか)の一本をかたむけてみるもよからう。

ゴールデンスリッパー

大向こう 舞台から見て正面の後方にある一幕見の立見席 転じて,一般の見物人
大向こうを唸らせる おおむこうをうならせる。芝居などで大向こうの観客を感嘆させる。一般の人々に大いに受ける
エロサービス エロはエロティック、30~31年(昭和5~6)を頂点とする退廃的風俗。昨今のポルノ風俗に比べればその露出度はたわいもないといわれています
ゴールデン・スリッパー Golden Slipper Cocktail。リキュールをベースとするカクテル。リキュールの女王といわれるイエロー・シャルトリューズ(薬草のリキュール)と金粉の入ったゴールド・ワッサーを使った豪華なカクテル。卵黄を用いた濃厚な味はナイト・キャップに最適。
黒松白鷹 本醸造の日本酒。甘・辛・酸のバランスのとれたなめらかな味わい

 肴町(さかなまち)停留所(ていりゆうじよ)の近くに、震災直後プランタン支店(してん)が出來て、牛込一帯に()んでいた、文士連や畫家達(ぐわかたち)が盛に出没(しつぼつ)したが、今ははかない、神樂坂(かぐらざか)カフエロマンスの一頁をかざつてゐるにすぎない。
カフエハクセンは、地域(ちゐき)の關係上文壇(ぶんだん)切つての酒豪(しゆごう)水守龜之助をはじめとして、一時盛に新潮社(しんちようしや)關係(かんけい)お歴々出没(しゆつぼつ)したが、今はもうここへ立寄(たちよ)る人も少ない。
 この(ほか)に、神樂坂(かぐらざか)一帯にはミナミ、コーセイケン、ホマレ亭、ヴランド、シロバラ、ヤマダ、ホーライケン(とう)のカフエがあるが、いづれもあまり立派(りつぱ)な店ではない。

肴町停留所 現在は都電のほとんどはなくなりました。これは都バスの停留所「牛込神楽坂」になりました。
プランタン 明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店が変わりました。ここで詳しく。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。
画家達 鏑木清方氏、竹久夢二氏、梶田半古氏、川合玉堂氏、小杉小二郎氏、鍋井克之氏など
カフエロマンス カフェで起きた恋。恋愛小説
カフエハクセン 場所はわかりません。矢来町、横寺町、神楽坂6丁目などでしょうか。
水守亀之助 明治19年(1886年)6月22日~昭和33年(1958年)12月15日。明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏と言われました。
新潮社 しんちょうしゃ。出版社。文芸書の大手。
歴々 身分・地位などの高い人々。多く「お歴々」の形で用います。おえらがた
ミナミなど 場所はまずわかりません。ヴランドはどこだかわかりませんが、当時の3丁目の牛込会館の地下に「カフェーグランド」がありました。ここは現在「サークルKサンクス」です。また5丁目にも「グランドカフェ」がありました。現在は「手打ちそば山せみ」です。また「ヤマダ」は現在、3丁目のヤマダヤと同じ場所に「カフェ山田」がありました。

ロッパの悲食記|古川緑波

文学と神楽坂

 古川緑波古川(ふるかわ)ロッパ。1930年代の日本の代表的なコメディアンです。生年は1903年(明治36年)8月13日。没年は1961年(昭和36年) 1月16日。『ロッパの悲食記』で神楽坂を調べましたが、終わった後で「牛鍋からすき焼へ」という青空文庫として出ているのに気がつきました。神楽坂が『ロッパの悲食記』にでているのはここだけです。

 牛込神楽坂にも、島金という牛鍋屋があった。此処は、牛鍋専門ではなくて、色々な料理が出来た。
 子供の時、父に連れられて、幾度か、島金へも行ったが、牛鍋の他に、親子焼(鶏肉の入った卵焼)の美味かったことを覚えている。
 一昨年の冬だった。或る雑誌の座談会が、此の島金で催されて、何十年ぶりかで行った。なつかしかった。然し今は、牛鍋屋でなくて、普通の料理屋になっている。
 同じ神楽坂に、えびす亭がある。
 ここいらは、早稲田の学生頃に、よく行ったが、学生向きで安直なのが、よかった。
 安直ということになれば、米久の名が出る。米久は、一人前五十銭(?)から食わせた、大衆向の牛鍋屋で、而も、その五十銭の牛鍋の真ン中には、牛肉が塔の如く盛り上げてあったものである。
 米久は、いろはの如く、方々に支店があり、どの店も安いので流行っていた。
 そして、各店ともに、大広間にワリ込みで、大勢の客が食ったり、飲んだりしている。その間を、何人かの女中が、サーヴィスして廻る光景が、モノ凄かった。客の坐ってる前を、皿を持った姐さんが、パッと、またいで行く。うっかりしていると、蹴っとぱされそうだった。
牛屋(キュウヤ)の姐さんみたいに荒っぽい」という形容が、ここから生れたのである。

島金 神楽坂2丁目にあります。現在は志満金。昔は島金でした。鰻屋で、創業は明治2年(1869)。牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身します。しかし鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。細かくはここで
えびす亭 安井笛二著の『大東京うまいもの食べある記』(昭和10年)によれば
入口に下足番が頑張つてゐるあたり、昔風の牛鳥料理です

と書いてありました。またNPO法人 粋なまちづくり倶楽部の『まちの想い出をたどって』(第3集)「肴町よもやま話③」では

山下さん 次は恵比寿亭で間口か三間ぐらいありましたね。
馬場さん これは二階が全部座敷かあってね。恵比寿亭ってのは、いまの「三笠屋」(*)さんのところ? (*)現在は手打ちそば「山せみ」
相川さん そうです。裏玄関が私のうちのところまできていたんです。
馬場さん その恵比寿亭さんってのは何年ごろできたんですか?
相川さん 関東大震災の明くる年にできた。その普請中に関東大震災がグラグラっときて、もろに横丁の方ヘ倒れた。
馬場さん じやあ、恵比寿亭さんの前が「カフェ・グランド」つてカフェ屋さん?
相川さん そう。その代表の経営者が上田という履物屋さん。「カフェ・グランド」には自動ピアノのというのがありましてね、電気ピアノ。盛大でしたよ。それで、関東大震災のときに下を壊して尾根だけ残したものだから、全部片づけて。あそこへ東京の警備に高崎の十五連隊が来た。

山せみ

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会より

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会より

米久 米久(よねきゅう)本店は浅草ひさご通り商店街の牛鍋屋で、また千代田区富士見にもあるようです。しかし、神楽坂の中にあったのか、わかりませんが、おそらくないでしょう。



学者町学生町(2)|出口競

文学と神楽坂

 出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(2)です。神楽坂は(2)で終わりです。(1)はここに

 往來の六分強(ぶきやう)は男である。そして男の七分が早稲田(わせだ)の學生であるけれど
その服装(ふくさう)に至つては弊衣(へいい)破帽(はぼう)一見と知らるゝもあり、何處(どこ)の旦那かと(かひ)
(かぶ)らるゝあり、千姿萬態である。左に折れて中坂に洋館(やうくわん)の建物がある、
これぞ元の高等演藝館今は日活(にちくわつ)直營(ちよくえい)活動(くわつどう)寫眞(しやしん)牛込(うしごめ)(くわん)となって藁
店といった昔の面影(おもかげ)はない。土曜劇場創作試演會等は此処(ここ)に生れて所謂劇
壇に貢献(こうけん)(ゆた)かであつた。尚、此の(ちか)に藝術座の藝術(げいじゆつ)倶楽部(くらぶ)がある。
 肴町停留所前の鳥屋の河鐡かはてつ、とりや独特の「とり」といふ字に河鐡と崩し
た文字の掛行燈かけあんどんを潜ると、くらい細長いいしだたみがあつて直ぐ廊下になつてゐ
る。そとから見ると春雨はるさめの夜の遣瀬なさ土地柄れず絲に言はせる歌姫うたひめ
もがなと思はれるが、そこは可成堅いうちの事とて学生は安心して御自慢の
鳥がへるといつてゐる。區役所前の吉熊よしくまは今は無慘むざんや、代書所時計店等
にくはしてゐるが、區外の人々にもうなづかれる有名な料理屋でかつては一代の文
星紅葉山人が盛んに大盡めこんだことが彼の日記にもほのえる。此店
の營業中慣例のやうにひらかれた早稲田わせだ系統けいとうの諸會合も今は其株を吉新よししんにと
られてしまつた。電車通り飯田橋いひだばしの方へれて少し行くとそこに矢ばね
、、、
がある。こゝは学生の根城ねじろであるといつてよからう。
 赤い旗、あをはた、広告爺、音律をなさぬ楽隊、あくどい色彩のかんばん、そ して悪どい化粧の女案内人、文明館へははひる勇氣がない、さりとて牛込亭 鹿えず。

弊衣 破れてぼろぼろになった衣服
破帽 破れてぼろぼろになった帽子。身なりに気を使わず、粗野でむさくるしいこと。特に、旧制高校の学生が好んで身につけたバンカラ風な服装
 「ふ」と読んで成年に達した男子、一人前のおとこ。
千姿万態 さまざまに異なる姿や形のこと
洋館 西洋風の建物。実際にこの牛込館は洋館でした。牛込館
高等演芸館 藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設しました。
藁店 わらだな。藁店は「わら」を扱うお店のこと。すくなくとも1軒が車を引く馬や牛にやる藁を売っていたのでしょう。詳しくはここに
土曜劇場創作試演会 藤沢浅二郎の俳優学校「東京俳優養成所」が開設し、度々創作試演会を行っていました。
近く 私たちの感覚では近くではありません。大きな道、大久保通りの反対側にありましたが、大正時代の感覚では近くだったとも考えられます。牛込館は袋町2に、芸術倶楽部は横寺町9にありました。
芸術倶楽部 ここも二階建の白い洋館でした。詳しくはここを
肴町停留所 現在は都バスの「牛込神楽坂前」停留所になりました
川鉄 昔の肴町27にありました。現在は神楽坂5丁目です。詳しくはここで

昭和5年『牛込区全図』から

掛行燈 家の入り口・店先・廊下の柱などにかけておくあんどん
石甃 板石を敷き詰めたところ
遣瀬ない 遣瀬ない。遣る瀬無い。やるせない。意味は「つらくて悲しい」
土地柄 その土地に特有の風習
絲に言わせる これは恋(旧字体では戀)の意味を指しているのでしょう。つまり「絲に言はせる歌姫」は「戀する歌姫」に変わるのです。
もがな があればいいなあ。であってほしいなあ。以上をこの文をまとめて訳すと「春雨の夜でつらく悲しいので、この神楽坂に特有なやり方で恋を歌う歌手がでてくればいいのにと思う」
可成 かなり
安心して 川鉄は芸者を入れませんでした。それで安心できたのです。
吉熊 箪笥町三十五番地の区役所前にありました。ここで
代書所 本人に代わって書類や契約書などを作成する所
化す 「くわす」と書いて「かす」。 形状・性質などがかわる
文星 中国では北斗七星の主星「斗魁」を頂く星座[6星]を文昌星と言っています。古来より学問、文学の神として崇拝してきました。
紅葉山人 尾崎紅葉です。「山人」は文人や墨客(ぼっかく)(書画をよくする人) が雅号に添えて用いる言葉です。
大盡 大尽。 財産を多く持っている者。金持ち。金銭を湯水の如く使つて派手な遊びをする客
 ほの。かすかに、わずかに
吉新 おそらく肴町の42番にあったようです。昔は神楽坂から奥に入っていくこともできたのですが、今はできません。「ampm」から「ゆであげパスタ&ピザLaPausaラパウザ」から変わって「とんかつさくら」の奥にありました。
電車通り ここでは大久保通りです
矢ばね 場所はわかりません。実は大久保通りについてはほとんど資料はないのです。神楽坂通りについては色々書いてあります。しかし、大久保通りについては遙かに少なく、大正時代についてはまずありません。
根城 活動の根拠とする土地や建物
文明館 映画館です。このころはもう既に神楽坂通りに沿う通寺町11に移っていました。細かくはここを
牛込亭 通寺町八にある寄席でした。細かくはここを。吉田章一氏の『東京落語散歩』(角川文庫)では「大久保通りとの交差点近くに寄席『牛込亭』(神楽坂六ー8)と、『柳水亭』(神楽坂五-13)があった。『牛込亭』は、明治十年頃『岩田亭』で始まり、のち相撲の武蔵川が買って『三柳亭』改め『牛込亭』とした。六代目圓生か大正九年初めての独演会を開いた。昭和になると浪曲が主となり戦災まで続いた」と書いてあります。
鹿 寄席芸人用語で、咄家のこと。はなしかをしか(、、)に略し、鹿の字を当てました。

大東京繁昌記山手篇

『大東京繁昌記』山手篇の加能作次郎の「早稲田神楽坂」から

夜の神楽坂|西村酔夢2

文学と神楽坂

明治35年、西村酔夢氏が『文芸界』に書いた「夜の神楽坂」その2です。

服裝(ふくさう)  と()たらあはれ(、、、)(もの)で、新柳(しんりう)二橋(にけう)藝妓(げいしや)衣裳(いしやう)三井(みつゐ)大丸(だいまる)(あつら)へるのと(ちが)ひ、これは土地(とち)石川屋(いしかはや)ほていやなどで(こしら)えるのだが、()(やす)(かは)りに、(がら)(わる)ければ品物(しなもの)(わる)くて、まあ()()いた田舎的(ゐなかてき)だ、まだまだ(はなは)だしいのは古着(ふるぎ)(もち)ふる(もの)もあるし、澤山(たくさん)抱子(かゝへつこ)()(うち)では、(あね)藝妓(げいしや)のを(なほ)して()せる(くらゐ)だ、着物(きもの)(すで)()(とほ)りであるから、頭髪(あたま)結方(いひかた)つけもの(、、、、)下駄(げた)履物(はきもの)なども(おも)ひやられる、彼等(かれら)はかやうにして、(よる)(ちまた)(おほ)きな(つら)して(ある)くのだ。
豊島理髪店から宮城屋

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

あわれ 同情しないではいられない。かわいそう。気の毒。不憫と思う。他の意味はありませんでした。
石川屋 「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂3丁目、豊島理髪店の並び、中西薬局と塩瀬に挟まれた場所に石川呉服店があります。現在のセブンイレブンです。
甚だしい 程度が普通の状態をはるかにこえている
抱子 「(かか)え」は年季を決めて抱えておく芸者。同じ意味でしょう。
結方 髪の結い方。ヘアスタイル。
つけもの 付け物・付物。衣服につける飾り物

客筋(きやくすぢ)  は牛込(うしごめ)勿論(もちろん)四谷(よつや)小石川(こいしかは)本鄕(ほんがう)の一部分(ぶぶん)の、官吏(くわんり)軍人(ぐんじん)御用(ごよう)商人(しやうにん)書生(しよせい)下町(したまち)商人(しやうにん)などだが、金使(かねづかひ)奇麗(きれい)なのは商人(しやうにん)()る。()()
藝妓(げいしや)氣質(かたぎ)  に(いた)つては(かね)目當(めあて)商賣(しやうばい)だけに多少(たせう)變化(へんくわ)はあるが、客筋(きやくすぢ)軍人(ぐんじん)書生(しよせい)(おほ)いので、自然(しぜん)亂暴(らんぱう)(よく()へば活發(くわつぱつ)だ)になつて、言葉(ことば)(づかひ)荒々(あらあら)しい(やう)だ、けれども流石(さすが)(きやん)面影(おもかげ)もある。(れい)俳優(はいいう)との關係(くわんけい)について一寸(ちよい)(しる)して()やうなら、歌舞伎(かぶき)(あたり)一枚看板(いちまいかんばん)(おも)ひも()らぬ(こと)上等(じやうとう)なのが東京とうきやう三崎みさきなどを相手(あひて)にする、(また)()(もの)壯士(さうし)俳優(はいいう)()ふものもあるが、下等(かとう)なのは落語家(はなしか)なぞとちちッ繰合(くりあ)つて()(さう)だ。

若し夫れ もしそれ。改めて説き起こすときなどに、文頭に置く語。「さて」と訳すのでしょうか。
 男のようにきびきびした女。女の勇み肌。おてんば。おきゃん
一枚看板 一団の中の中心人物
東京座 神田三崎町にあった歌舞伎劇場
三崎座 神田区三崎町にあった劇場。三崎座は東京で唯一の女優が常に興行する劇場で明治24年(1891)の開設。大正4年(1915)に神田劇場と改称し、戦災により廃座となりました。

待合入(まちあひいり)  は(きは)めて(さか)んなもので、(おどろ)(ほか)はないが小夜(さよふ)けて神樂坂(かぐらざか)(ほとり)彷徨(さまよ)ひみよ、(いた)(ところ)待合(まちあひ)出入(でいり)するしや(、、)澤山(たくさん)ある、不見轉(みずてん)專門(せんもん)藝者屋(げいしやや)は十一時頃(じごろ)から(いそが)しく、箱丁(はこや)提燈影(てうちんかげ)ほの(くら)(おく)られる(もの)(おほ)く、ぐつすり(、、、、)(とま)()んで東雲(しのゝめ)ほがらほがら(、、、、、、)()ける頃家路(ころいへぢ)()くのだ。(朝早(あさはや)箱丁(はこや)着換(きがへ)着物(きもの)()れた風呂敷(ふろしき)(もつ)()くのは(めづら)しくない。)

小夜 よる。「さ」は接頭語
不見転 金次第でどんな相手とも肉体関係を結ぶこと
箱丁 芸妓のお供で、箱に入れた三味線などを持って行く男。
東雲 東の空がわずかに明るくなる頃。夜明け方。あけぼの。
ほがらほがら 朗ら朗ら。朝日がのぼろうとして明るくなるさま。

夜の神楽坂|西村酔夢1

文学と神楽坂

 明治35年、西村酔夢氏が『文芸界』に書いた「夜の神楽坂」です。そのうち花柳界を取り上げます。

夜の神樂阪

西村醉夢

 田舎(ゐなか)小説家(せうせつか)(ふで)()つて、()東京(とうきやう)()りる()に、何時(いつ)(かづ)()されるのは神樂阪(かぐらざか)だ。か(ほど)有名(いうめい)神樂阪(かぐらざか)は、全體(ぜんたい)何丈(どれだけ)範圍(はいゐ)と、()()組織(そしき)と、(どん)狀況(じやうきやう)とを()つて()るだらう()。これは研究(けんきう)()價値(かち)()ると(おも)はれる。で、前後(ぜんご)三囘(さんくわい)觀察(くわんさつ)出懸(でか)けて、(から)うじて、(さぐ)()(ところ)と、平生(へいぜい)()にも()(みゝ)にも()いた(ところ)とを()ぜて、此處(ここ)に『(よる)神樂阪(かぐらざか)』を(つゞ)(こと)にしたのだ。何故(なぜ)時到(とき)(よる)にしたかと()ふに、神樂阪(かぐらざか)神樂阪(かぐらざか)たる所以(ゆゑん)は、(まつた)(よる)()つて、晝間(ひる)(たゞ)徃来(ゆきかい)(しげ)普通(ふつう)市街(まち)たるに(とゞ)まればである。
區域くゐき はうでるか、あらかじめつて必要ひつえうがある。神樂かぐらざかふのは、勿論もちろん神樂かぐらちやうさかふのだらうけれども、れだけでは研究けんきう材料ざいれうとして、あまりに落寞らくばくたるのきらいるから、もうすこ區域くゐき擴張くわくてうして、所謂いはゆる神樂かぐらざか附近ふきんこと觀察くわんさつしたのだ。それは、牛込うしごめ御門ごもんところ自動じどう電話でんわへん起點きてんとして、ずつ、、さかのぼつた牛込うしごめ郵便いうびん電信でんしんきよくいたあひだ道路だうろ兩側りやうがはと、さらにその小路こうぢ横町よこちやう)のなか包含つゝまれたものをいつ區域くゐきとしたので、すなはち、揚場あげばちやう神樂かぐらちやう上宮比かみゝやびちやうふくろちやうさかなちやう通寺とほりてらまちへんを一まとめにして、くは『神樂かぐらざか』とつたのでる。

東京市牛込区全図。明治40年

右の赤丸は自動電話。左の赤丸は牛込郵便電信局。東京市牛込区全図。明治40年。(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)

落寞 一人だけで寂しい。寂れてひっそりとする。落漠。落莫。
自動電話 上の地図で右の赤丸。
牛込郵便電信局 上の地図で左の赤丸。

 必要な説明は一切ありません。明治35年だともう現代文なのです。

觀察くわんさつ事柄ことがら はうであるふに、くはしくればするほど材料ざいれうがあつて、多方面たほうめんわたるから、到底とても一てうせき目的もくてきたすことが出來できない。で、ただその市街まち狀況じやうきやうと、家々いへ/\職業しよくげふ通行人つうかうにんおこなはるゝ事情ことがらなどを調しらべることにした。けれどもここれすら却々なか/\多方面たほうめんであるから、くはしい觀察かんさつ出來できなかった。して内面ないめんひそんでゐる隱微いんぴ事柄ことがらは、容易やういさぐ得可うべきものはい、つとめてそれを觀察くわんさつしやうとはおもつたものゝ、どう表面うわつつらばかりになつて、れいの『皮相ひそうくわん』にをはつたのは殘念ざんねんだ。

 様々な商店の説明が中に入り、いよいよ花柳界です。

神樂阪(かぐらざか)達磨(だるま) と()へば『それしや』の(あひだ)には有名(いうめい)なもので、(しか)正眞(しやうしん)正銘(しやうめい)粹者(すゐしや)には極力(きよくりよく)排斥(はいせき)さられて()る。(さて)その()しかる振舞(ふるまひ)何處(どこ)()()工合(ぐあひ)(えん)ぜられるか、(あま)立入(たちい)つて研究(けんきう)すべきでもないから、爰處(こゝ)では(くは)しく()べないけれども、さる牛肉屋(ぎうにくや)樓上(ろうじやう)()るハイカラ(てき)業務(げふむ)(いとな)んてゐる(うち)では、(ひそ)かに(あや)しい(こと)(おこな)はれてゐるとの(こと)蕎麥屋(そばや)(いへ)ども(けつ)して油斷(ゆだん)出來(でき)ないとは、(あき)れても(あま)()(こと)だ。(もつ)とも()れは(れい)()()(べつ)にして()つたもので、()(ほう)格段(かくだん)觀察(くわんさつ)(えう)する。

達磨 売春婦。商売女。寝ては起き寝ては起きするところから。ここでは芸者ではないので、私設の商売女をさすのでしょう。
それしゃ その道に通じている人。専門家。くろうと。芸者。遊女。商売女。くろうとたる芸者なのでしょう。
粹者 花柳界の事情に通じた人。粋人。通人
楼上 高い建物の上。楼閣の上
餘り有る あまりある。十分である。十分に余裕がある。ここでは「呆れてもその通り」
しゃ それしゃのこと

 なんとなくわかります。「転び芸者」「転び」という言葉もあって、芸ではなくて、体を売ること。名句を1つ。「転びすぎましたと女 医者に言い」。場所は牛肉屋や蕎麦屋などもはいっていたのですね。

神樂(かぐら)芸者(げいしや)  は神樂(かぐら)(ざか)名産(めいさん)の一つである、が()(かず)(とき)()つて(ちが)ふけれど七十人乃至(にんないし)九十人位(にんぐらゐ)だ。
藝者(げいしや)(げい)  は(どう)だがと()ふに、(あが) (さが)(ぐらゐ)(わか)れば三味(さみ)(せん)はそれで()く、(をどり)(あめ)しよほかつぽれ(、、、、)(ぐらゐ)やれゝば、座敷(ざしき)()(すま)して()るとが出來(でき)るのだ、()新柳(しんりう)二橋(にけう)などに(およ)びもないのは、土地柄(とちがら)何樣(どう)詮方(しかた)()(こと)だらう。

二上り 三味線の調弦名。一の糸と二の糸が完全5度,二と三の糸が完全4度の調弦
三下り 三味線の調弦名。本調子の第3弦を長2度下げたもの
雨しょほ 小雨が降り続くようす。しとしと。まばらに降る。
かっぽれ 俗謡、俗曲にあわせておどる滑稽な踊り
新柳二橋 しんりゅうにきょう。新橋(しんばし)(中央区銀座、明治維新後)と柳橋(やなぎばし)(台東区南東部、江戸末期から存在)、この2つが人気の花街となりました。新橋が明治政府の高官たちに、柳橋は生粋の江戸っ子、問屋街の大旦那たちに贔屓にされました。

 三味線や踊りができなくても神楽坂は一流どころじゃない。仕方はないねと考えているようです。

神楽坂|大東京案内(7/7)

文学と神楽坂

一時左傾ものゝ出版で名を現はし、今は破産した南宋書院肴町通りにある。そこが最高点当選で市議堺利彦を出した選挙事務所だったかと思へば、いづれこれもこの界隈の語り草にならう。又、故有島武郎の親友足助素一叢文閣、今日ではたった一軒の古本屋竹中書店なども数へたい。文壇の中堅どころの諸作家で、これらの書店に厄介になったものが多い。新本屋の武田芳進堂盛文堂機山閣南北社等々、一口に享楽の神楽坂とはいひながら、僅か数丁の間に知識のカテをひさぐこれらの店々の繁昌は、他面にこの界隈に住む知識人の多いことをも示してゐる。
神楽坂風景は牛込見附の青松と石崖、蒼黒く沈黙した濠の水によって、一層その情緒を豊富にしてゐる。夏の間は濠に貸ボートがうかぶ。学生や商人。勤め人、モボモガの一組みなどが、夕闇の奥に仄見える。静かな灯のうつる水の公園は神楽坂を下りた人々の目にいかに爽かであらう。
貸ボート

今和次郎「大東京案内」から

左傾 思想が左翼的な立場に傾くこと
南宋書院 ゴールドフォンテン南宋書院の奥付を材料として国立図書館でインターネットを使って調べると、昭和2年で南宋書院の『恋愛揚棄』では麹町九段中山ビル、昭和3年の『無産者自由大学-日本農民運動小史』では肴町12(神楽坂通)、昭和4年の林芙美子氏(ちなみに林氏の住所は通寺町3)の『蒼馬を見たり』では、通寺町39となっていました。肴町12は現在、貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。

本屋3

肴町 神楽坂肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
足助素一 あすけそいち。明治から昭和期までの出版者。大正7年叢文閣を創立。「有島武郎著作集第6輯 生れ出る悩み」を処女出版、著作集をはじめ「水野仙子集」などを刊行。昭和に入ってからは左翼系の出版に。没後、叢文閣から「足助素一集」を刊行。
叢文閣 神楽坂2-11。有島武郎や水野仙子を除き、左翼系の出版として非常にたくさんの本を出版しています。『マルクス主義者の見たトルストイ』『経済評論』『貨幣と金融』『画家とその弟子』『国民主義経済学の基礎理論』『米国農業政策』『幸福者』『プーシュキン小説集』『時は来らん』などなど。場所は神楽坂通りに面するのではなく、一歩中に入ったところでしょうか。
竹中書店 シティ岩戸町3。古本を売る店ですが、それでも『醫藥獨文』『獨逸語讀本拾遺』『醫藥獨語教程』『音楽年鑑 : 楽壇名士録』などを作っていました。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 新泉肴町32。出版は少なく『最新東京学校案内』など。戦前の武田芳進堂は現在の神戸牛と和食の店「新泉」になっています。
盛文堂 元祖寿司神楽坂3-6。昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。ここ
機山閣 金プラチナ買い取り肴町12。出版は少なく『火山 : 詩集』『追憶』『書道講話』『石炭と花 : 詩集』『忠臣と孝子』。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
南北社 センチュリー『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地に南北社、通寺町14に南北社書店。その後、通寺町14を南北社にしています。かなり本を出版したようです。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。
享楽 キョウラク。思いのままに快楽を味わうこと
カテ 糧。食糧。食物。精神・生活の活力の源泉。豊かにし、また力づけるもの
モボモガ 「モダン・ボーイ」「モダン・ガール」。大正デモクラシー時代に流行った先端的な若い男女。

神楽坂|大東京案内(6/7)

文学と神楽坂

 ここでは主に横寺町を書いています。

書き落してならないのは、神楽坂本通り(プロパア)からすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町第一銀行について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾(なはのれん)で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客(とくゐ)が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級(かきふ)俸給(ほうきふ)生活者(せいくわつしや)、労働者、貧しい学生の連中にとって、十銭の朝食、十五銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「(やみ)(ちから)」を演じて識者(しきしや)(うな)らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死(いし)したことも一場の夢。今はいかゞはしい(やみ)の女などが室借りをするといふアパートになつた。変れば変る世の中。この通りの先きに明治文壇(めいぢぶんだん)を切つて廻した尾崎紅葉の住んだ家が残ってゐる。

横寺町 神楽坂5丁目から6丁目にはいると、南西に出ていく通りはいくつかあります。最初の小さな通りは川喜田屋横丁で、それから無名の通りが何本かあり、スーパーのキムラヤの前を左側にはいっていく通りが朝日坂(旭坂)です。この両側が横寺町(よこてらまち)です。
第一銀行 前身の第一国立銀行は、1873年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行。1896年に普通銀行の第一銀行に改組。1943年に三井銀行と合併して帝国銀行(通称・帝銀)に。
公衆食堂 1919年(大正9年)に東京市営の庶民の公営食堂として神楽坂に開設。大正12年3月には神田食堂、9月1日に関東大震災。これでますます必要性が強まり、大正13年九段食堂。昭和7年(1932年)の深川食堂まで、16か所ができました。
縄暖簾 なわのれん。縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。転じて居酒屋、一膳飯屋
飯塚 横寺町7。飯塚酒場はなくなって、代わりに現在は、家1軒と駐車場4台用になっています。飯塚酒場があったころは有名な居酒屋で、特に自家製のどぶろく「官許にごり」が有名でした。文士もこれを目当てに並んでいました。
一軒 火災保険特殊地図の昭和12年版では「床屋、タバコ、米ヤ、喫茶、ソバヤ」などがありましたが、居酒屋はありません。昭和10年の様子を書いた新宿区横寺町交友会、今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)では神楽坂通りから入ると左は「1.米屋、2.パーマネント、3.公証人役場、4.目覚し新聞、5.マッサージ業、6.靴修理店、7.歯医者、8.若松屋、9.大工職、10.洋服店、11.おでん屋、12.仕立屋、13.屋根屋、14.紙箱製造業、15.駄菓子店、16.大工職、17.米屋、18.下駄屋、19.駄菓子店、20.棒屋と芋の壺釣焼、21.ミルクホール、22.そば屋、23.髪結、24.お花の先生」。右は「68.救世軍、69.床屋、70.中華料理店、71.髪結師、72.パン屋、73.歯科医院、74、製本業、75.医院、76.質店、77.酒屋(にごり酒、ここが飯塚酒場です)、78.質店」となり、やはり、居酒屋はありません。しかし、ここで8.若松屋って。若松屋が酒店の可能性が大いにあります。
若松屋
十銭の朝食 東京都民生局の『外食券食堂事業の調査』(1949年)では、定食は朝10銭、昼15銭、タ15銭。うどんは種物15銭、普通10銭。牛乳一合7銭。ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭
芸術座 島村抱月が1913年に松井須磨子を中心俳優として結成した劇団
芸術クラブ 島村抱月の新劇運動の中心となった劇場兼研究所
大正博覧会 大正3(1914)年3月20日~7月31日、上野公園で東京大正博覧会が開催。目玉としてロープウェーとエスカレータ。
演芸館 松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(筑摩書房、1966年)では

演芸館

第一会場 演芸館 東京都立図書館

すでにたびたび述べたように大正三年七月十八日より二十四日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、五十銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年十月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、四年二月四日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町九番地に敷地を改めて、七ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到ったのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい七千円と推定される)。

闇の力 ロシアの作家L.トルストイの戯曲。愚かさにより父殺しと嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
識者 しきしゃ 物事の正しい判断力を持っている人。見識のある人。有識者
一昔半 一昔は10年前。一昔半は15年の昔
縊死 いし。首をくくって死ぬこと。首つり死。縊首(いしゅ)
いかがわしい 下品でよくない。風紀上よくない
暗の女 娼妓の仕事をする女性。私娼

神楽坂|大東京案内(5/7)

前は大東京案内(4/7)です。

あまり広くないこの界限(かいわい)で、娯楽(ごらく)機関(きくわん)は五つ六つある。昔、神市場といった現在の神樂坂演藝館牛込亭などは色もの席。手踊り浪花節席の柳水亭(りゆうすゐてい)は今の勝岡(かつをか)牛込(うしごめ)會館(くわいくわん)は最も立派な建物だが、震災直後には水谷八重子汐見洋などが新劇(しんげき)を演じた思ひ出を持ってゐる。
 映畫常設館の文明館(ぶんめいくわん)は三流どころの活動小屋らしい。そこへ行くと、(きう)藁店(わらだな)牛込館(うしごめくわん)は、所謂(いわゆる)山の手系統の流れを汲む説明者と、呼びもののレヴユーを以つて、一脉(みやく)新鮮(しんせん)な現代風を(かも)し出すところ。その客筋も新しい。

神楽坂演芸館 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。さらに解説
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。水谷八重子氏の『芸 ゆめ いのち』(1956年)では

(関東大震災が終わると、一か月後の)十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました」

色もの 寄席で、講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などのこと。
手踊り 寄席などで、端唄や俗曲・流行歌につれておどる踊り
浪花節 江戸末期、大坂で成立。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたもの。浪曲。
新劇 歌舞伎・新派劇などの旧劇に対抗して明治末期以降の新興演劇
文明館 文明館の地図は上の鶴扇亭と同じ地図に出ています。詳しくはここで
藁店 藁店(わらだな)は神楽坂5丁目と袋町とを結ぶ坂道です。
『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会を引用すると

小林さん (小林石工店)で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。

文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。
夏目漱石氏の『吾輩は猫である』で

この子供の言葉ちがいをやる事は(おびただ)しいもので、(中略)或る時などは「わたしゃ藁店(わらだな)の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き(ただ)して見ると裏店(うらだな)と藁店を混同していたりする。

裏店とは裏通りにある家で、商家の裏側や路地などにある粗末な家をいいました。
レビュー revue。フランス語です。音楽やコント踊り等で構成。時事風刺の効いた舞台娯楽ショー。19世紀末から20世紀にかけて各国で流行。
レビュー
一脉 一脈。ひとつづき。一連のつながりがあること。わずかに
客筋 きゃくすじ。その店に来る客の傾向・種類。客種

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

神楽坂|大東京案内(4/7)

文学と神楽坂


 蕎麦屋(そばや)でうまいのは春月、麻布支店の更科、といふところ。おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたんお披露目の芸者もこゝへは顔を出す。肴町停留場附近の神楽おでん。そこから半丁ほど先きにお座敷てんぷらやが二軒。芝居趣味のがくや、食味を自慢の勇幸。以前に幇間(ほうかん)をしてゐたとかいふ勇幸の主人は、尾崎紅葉の俳句の弟子とか。高いが、いゝ華客(とくゐ)のある一寸通りから()っ込んだ店。
 なんといっても夜の神楽坂はまだまだ花柳界(くわりうかい)に主体をおく。その全盛期(ぜんせいき)は震災直後で大小の美妓六百数十を数へたものだが、今は旧検(きうけん)の二百余、新検の百五十どころ、二派に分離して対峙(たいぢ)してゐるが、早晩旧通りに合併するとのこと。なにしろ有名な待合では(まつ)()(しげ)()もみぢ、等々。百軒あまりも軒をならべてゐる。

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和5年頃、肴町(現神楽坂5丁目)の田原屋(現「玄品ふぐ神楽坂の関」)の反対側に(やぶ)そば(現「ampm」から「ゆであげパスタ&ピザLaPausaラパウザ」からまた変わって「とんかつさくら」)がありました。
また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 店は小さいんです。店があって、後ろに調理場があって、離れに住まいがあるんです。三つの家が建っていました。すぐ隣の「大和屋」さんという漆器屋には蔵があった家なんですが、「大和屋」さんと薮蕎麦さんの間に路地をこしらえまして、それで住まいの方へ薮蕎麦さんは入っていった。もちろん、調理場からも行かれますけどね。表から来たお客さんはその横から入っていく。
藪そば

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」

赤びょうたん これは神楽坂仲通りで、神楽坂3丁目にあったようです。詳しくはここで
お披露目 芸者などがその土地で初めて出ること。あいさつ回り
がくや 芝居趣味なので「楽屋」なのでしょう。それ以外はわかりません。
勇幸 鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居る

と書いています。詳しくはここで。また、『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」でこう描いています。勇幸
幇間 ほうかん。太鼓持ち、末社で、男芸者のこと。酒席で遊客に座興を見せ遊興のとりもちをします。
華客 かかく。花客とも書く。ひいきの客。得意客。とくい。
花柳界 芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の(ちまた)
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は民政党、政友会の2派に分かれ、党員たちが集まり、豪遊し、戦術を練ったといわれています。旧検は民政党の一派が作る検番で、仲通りに店を開き、昭和初期には芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒を有していました。政友会が作るのは新検で、本多横丁に店を開き、芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。現在の見番は見番横丁にあります。

対峙 対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること
旧通り 元通りのことでしょう。もとどおり。以前の状態と同じ形や状態。
待合 待合茶屋とも。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
重の井 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば場所は5丁目。現在は巨大なマンション、神楽坂アインスタワーで完全に覆われてしまいました。重の井
もみぢ 待合「もみぢ」が「紅葉」だとすると、紅葉は「火災保険特殊地図」(昭和12年)で上宮比町にありました。現在は「Ristorante LASTRICATO」(ラストリカート)と同じ場所でしょうか。ちなみに、旅館和可菜の場所を書くと水色のここになると思います。

もみぢ

もみぢ

神楽坂|大東京案内(3/7)

文学と神楽坂


 通りで目貫(めぬ)の大店は、酒屋の万長(まんちよう)、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢(おざわ)、糸屋の菱屋(ひしや)、それらの老舗(しにせ)の間に割り込んで日蓮宗(にちれんしう)辻説法でその店(うた)はれるカグラ屋メリンス店。山の手一流の菓子屋紅谷は、今では楼上を喫茶部、家族づれの人達の上りいゝ店として評判が高い。

目貫き めぬき。目抜き。目立つこと。中心的。市街で最も人通りの多い、中心的な通り。
尾沢 尾沢薬局。現在は喫茶店の「Veloce神楽坂店」
菱屋 創業は明治3年(1870)。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが並んでいます。現在も営業中。
辻説法 道ばたに立ち、通行人を相手に説法すること。カグラ屋メリンス店については、インターネットの「西村和夫の神楽坂」(15)「田原屋そして紅屋の娘」はこう書いています。

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実」を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

 実はこの元がありました。大宅壮一氏が書いた「神楽坂通り」でした。なお、モスリンとは「唐縮緬とうちりめん」です。

カグラ屋メリンス店 5丁目で、神楽屋とも。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。メリンス店とは「メリノ種の羊毛で織ったところから薄く柔らかい毛織物」
楼上 階上。紅谷の場合、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホールでしたが、大震災後は喫茶店に。

4丁目と5丁目2

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年

 明治製菓白十字船橋屋はりまや等から、よく売り込んだ()(よし)()()鹿()()半玉(はんぎよく)(ねえ)さんなどになくてならない店。今は店がかりもみすぼらしい山本もこゝでの喫茶店の草分(くさわ)けだ。
 カフエ・オザワ、それから牛込演芸館下のグランド女給のゐるカフエの大どころ。田原屋は果実店の(かたは)らレストランをやつてゐるが、七面鳥とマカロニを名物に一流の洋食を喰はせるので通人間(つうじんかん)に響いてゐる。

明治製菓 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

明治製菓の神楽坂分店で相當に大きい構へです

と書いてありました。「明治食堂」の場所は5丁目の白十字の左隣で、現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」、さらには椿屋珈琲店になりました。
白十字 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で大正11年頃から昭和8年は5丁目にあったようです。「大東京うまいもの食べある記」では

白十字の神楽坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同様喫茶、菓子、輕い食事等

と出ています。現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和12年頃は2丁目でした。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
船橋屋 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。

今は「神楽坂FNビル」に変わりました。
はりまや 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば2丁目にあった喫茶店です。10年ぐらい前には「はりまや」のあった場所には「夏目写真館」でした。しかし夏目写真館も引っ越し、現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
緋鹿ノ子 ひがのこ。真っ赤な鹿()()絞り。鹿の子とは模様が子鹿の斑点に似ているところから来た言葉
緋鹿ノ子
山本 4丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

春月の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です。

現在は「魚さん」。楽山ビルを正面に向かって右隣りです。
カフエ・オザワ 4丁目。一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

牛込演芸館 現在は神楽坂3丁目のコンビニの「サークルK」に。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の頃は貸し座敷「牛込會館」に。同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
グランド 3丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

野球おでんを看板のグランド

と書いています。現在はコンビニの「サークルK」に。
女給 カフェやバーなどの飲食店で客の接待や給仕をする女性

 日本料理では芸者の入る末よし吉新吉熊橋本常盤指折(ゆびを)りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗(しにせ)で芸者も入る。さうでないのは鳥料理(とりれうり)川鉄、家族づれの客にはうつてつけの心持のいゝ家。

末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左のイラストで。地図は現在の地図。

吉新 よしん
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧銀(注)のところまでつながっているとこだ。
 (注) この勧銀は現在の百円パーキング

 百円パーキングは今ではなく、PAUL神楽坂店などに変わりました。

吉熊 「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では

箪笥町三十五番吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

 箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。

橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。

橋本

 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

常盤 当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」で、常磐と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。上宮比町
紀の善 東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋。
島金 現在は志満金。昔は島金。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

次は大東京案内(4/7)です。

神楽坂|大東京案内(2/7)

前は大東京案内(1/7)です。

神楽坂の表玄関は、省線飯田(いいだ)(ばし)駅。裏口に当るのが市電肴町(さかなまち)停留場。飯田橋駅を、牛込見附口へ出て、真正面にそそり立つやうな急坂から坂上までの四五丁の間が所謂(いわゆる)神楽坂(かぐらざか)の盛り場だが、もう少し詳しく云へば、神楽町上宮比(かみみやび)肴町岩戸町通寺町(とおりてらまち)等々で構成(こうせい)され、この最も繁華(はんくわ)な神楽坂本通り(プロパア)は神楽町、上宮比町、肴町の三町内。さうしてその中心は、(おと)にも高い毘沙門(びしやもん)さま。その御利益(ごりやく)もあらたかに、毎月寅と午の日に立つ縁日(えんにち)書き入れの賑ひ。

省線 現在のJR線。1920年から1949年までの間、当時の「鉄道」は政府の省、つまり鉄道省(か運輸通信省か運輸省)が運営していました。この『大東京案内』の発行も昭和4年(1929)で、「省線」と呼んでいました。

肴町

大正12年、牛込区の地形図。青丸が肴町停留場


市電 市営電車の略称で、市街を走る路面電車のこと。
肴町停留場 市営電車の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」四つ角)で、大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
神楽町 現在の神楽坂1~3丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
上宮比町 現在の神楽坂4丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
肴町 現在の神楽坂5丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
岩戸町 大久保に向かい飯田橋からは離れる大久保通り沿いの町。神楽坂通りは通りません。以上は神楽町は赤、上宮比町は橙、肴町はピンク、通寺町は黄色、岩戸町は青色に書いています。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。昭和26年に現在の名前に変わりました。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

プロパア proper。本来の。固有の。
善国寺 ぜんこくじ。善国寺は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の毘沙門天は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
書き入れ 帳簿の書き入れに忙しい時、商店などで売れ行きがよく、最も利益の上がる時。利益の多い時。

ショウウインドーの(まばゆ)さ、小間物店、メリンス店、(いき)な三味線屋、下駄傘屋、それよりも(うるさ)いほどの喫茶店、(うま)いもの屋、レストラン、和洋支那の料理店、牛屋(ぎゆうや)、おでんや、寿司屋等々、宵となれば更に露店(ろてん)數々(かずかず)、近頃評判の古本屋、十銭のジャズ笛屋、安全カミソリ、シヤツモヽ引、それらの店の中で、十年一夜のやうなバナナの叩き売り、それらの元締なる男が、また名だゝる 若松屋(わかまつや)近藤某(こんどうぼう)

小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの。
メリンス スペイン原産のメリノ種の羊毛で織った薄く柔らかい毛織物。同じ物をモスリン、muslin、唐縮緬とも。
牛屋 牛肉屋。牛鍋屋。
露店 ろてん。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
ジャズ笛屋 ジャズで吹く笛。トランペットなどでしょうか。
シヤツモヽ引 「シャツ・パンツ」の昔バージョン。
元締 もとじめ。仕事や集まった人の総括に当たる人。親分。
名だたる なだたる。名立たる。有名な。評判の高い。
若松家 「神楽坂アーカイブズチーム」編『まちの想い出をたどって』第4集(2011年)で岡崎公一氏が「神楽坂の夜店」を書き

神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私か振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家かあり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一冢)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

 若松家はテキヤの1つだったのでしょう。なお、テキヤとは的屋と書き、盛り場・縁日など人出の多い所に店を出し商売する露天商人のことです。

文学と神楽坂

盛り場文壇盛衰記|川崎備寛

文学と神楽坂

 川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。

 たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手ローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。

 と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。

坊っちゃん 夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
毘沙門 善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩 その季節の感じをよく表しているもの
藝者 宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
盛り場 人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街<
山ノ手 市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭 同じものがまとまっている地域

 ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。

 つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。

関東大震災 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模(さがみ)湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座 東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人 文化的教養を身につけている人
袋町 行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
都館 みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
三上於莵吉 『区内に在住した文学者たち』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。
赤城下町
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<

 もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。

 ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。

建長寺 鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請 あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人 大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子 大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。

 後は省略し、最後の結末を書いておきます。

 いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。
 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。

(了)

田原屋など 昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井(すし)、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。

P

不同調 大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社 1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路全集 武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災 戦争による災害。第2次世界大戦の後です。