新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18226は令和6年(2024年)、飯田橋駅ホームから見た外堀などを撮影しました。以下は地元の方の解説です。
写真下から順に見ていきます。
手すりの手前はJRの線路敷きです。小さな四角い石が並んでいるのは、鉄道の通信線などを収容するトレンチ(側溝)。手すりの間の大きな四角は、西口の旧駅舎を支えていたコンクリート脚を撤去した後です。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18226は令和6年(2024年)、飯田橋駅ホームから見た外堀などを撮影しました。以下は地元の方の解説です。
写真下から順に見ていきます。
手すりの手前はJRの線路敷きです。小さな四角い石が並んでいるのは、鉄道の通信線などを収容するトレンチ(側溝)。手すりの間の大きな四角は、西口の旧駅舎を支えていたコンクリート脚を撤去した後です。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 483とID 11459はほぼ同じ写真でしたが、ID 483の画角の方がやや大きくなっていました。ID 483は飯田橋駅東口でも出ています。撮影は飯田堀再開発前の1976年(昭和51年)でした。
中央に2階建ての「東京都水道局」の建物があります。その左側のテント状の屋根は「ごらくえん」の建物で、すでに閉店しています。2ヶ所の間にはコンクリートの床が見えますが、丸友パチンコの跡でした。右端も水道局の建物です。
その前にある道路が外堀通りで、その横断歩道を歩く人々がいます。道路標識は左から(歩行者横断禁止)、(駐車禁止)、(転回禁止)、(大型貨物自動車等通行止)、さらに都バス停留所「神楽河岸」です。
水道局の背面には外濠がありますが、水面は見えません。その背面には「東京燃料林産(株)飯田橋支店」があり、少し離れて反対側から見たネオンサイン「ミ(ツ)ウロコ」(?)があります。
さらには国鉄「飯田橋駅」の上部が見え、牛込橋も見えます。
最後は一段高くなった千代田区の建物で、左から「飯田橋外語学院 10月生受付中」「日本歯科大学」「日本歯科大学体育館」「東京警察病院」「飯田橋会館(1階は郵便局)」「前田建設工業別館(暗く見え、1階は「三井住友銀行」)」「石原産業東京ビル」「フジボウ会館(最上階は下よりも広い)」「前田建設工業」などと続きます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9488〜9491は、昭和20年代に旧江戸城の外堀、桜の花、釣り人などを撮影しました。
以下は地元の方からものです。
ピントがあっていない写真もありますが、ほぼ同じ場所からの撮影です。手前が新宿区側、濠を挟んだ対岸が千代田区側でしょう。 場所は「飯田橋付近」としています。ただし、この場所が飯田橋かどうかは疑問です。対岸には国鉄の中央・総武線の線路があるはずですが、奥に向かって下り坂です。飯田橋付近の牛込濠には、こんな坂はありません。 また写真奥には線路の高さに複数の三角屋根が見えます。当時の飯田橋駅は牛込橋の向こう側なので、この場所に駅施設はありません。昭和20—30年代の航空写真でも確認できません。 濠は濁っていて、浅く見えます。ゴミも浮いており、好適な釣り場とは言えなさそうです。釣り人は両岸にいますが、多くは小中学の男の子です。大人の男性や割烹着の女性は付き添いのようにも見えます。地域の子供サークルの活動で、手軽な遊びとして「釣りの会」などをした写真ではないでしょうか。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。
このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728−29は、カメラを千代田区側に置き、外濠を越え、新宿区牛込地域を遠望しました。撮影日は不明です。
あとは地元の人の文章です。こちらではわからない建物が多すぎるので、お願いしました。
先に結論を書けば、これは千代田区麹町の「日本テレビ塔」から牛込地域を見下ろした写真でしょう。 写真下側を斜めに横切るのが外濠と、外堀通りです。手前には法政大学の校舎はじめ千代田区側の建物が見えますが、今回は触れません。 写真中央、外堀通りに面した目立つ建物は家の光会館⑥。その少し向こうに見える丸い展望台は東京厚生年金病院⑩です。間にある神楽坂を飛び越して高い建物だけが見えています。 写真の左下端は新見附橋で、新宿区側のカーブした屋根は東京理科大学の体育館②です。 一方、右端は飯田橋交差点で、第一銀行飯田橋支店⑭の向こうに目白通りが走っています。 これらを撮影できる画角を考えると、地図に記したように麹町方向に収束します。また非常に高いところから撮影しないと、これほど遠くの建物は撮影できません。考えられるのは旧・日本テレビ本社の電波塔です。 遠くにいくほど画角が広がっており、建物の位置関係は必ずしも直線では結べません。レンズの歪みがあったと思われます。 写っている建物等は以下の通りです。色による違いはありません。
このうち家の光会館の落成は昭和34年(1959年)、銀鈴会館は昭和35年(1960年)です。一方、セントラルコーポラスはまだできていません(竣工は昭和37年、1962年)。撮影時期は昭和35-36年と推測されます。 |
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から牛込濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。
昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。
その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました。
写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。
これは『神楽坂まちの手帖』第12号(けやき舎、2006年)で「神楽坂からきえたもの」をまとめて書いています。
神楽坂からきえたもの
忘れもしないあの日を境に、或いはまた、通りがかりにふと気が付くと、どれもみな、今はもう写真や記憶の中にしか存在しないものたちです。
都電
昭和37年の最盛期には41路線が東京中を網羅しており、界隈では、外堀通りに3系統(飯田橋~品川駅前)、大久保通りに13系統(新宿駅前~水天宮前)、飯田橋交差点から早稲田に向かって15系統(茅場町~高田馬場駅前)の三路線が運行していた。
昭和42年12月、3系統廃止。次いで43年9月には15系統、45年3月には13系統が廃止となり、都電は神楽坂から姿を消した。
都電は神楽坂から姿を消した 都電の廃止について正確に述べると、3系統の廃止は昭和42年12月10日、15系統は昭和43年9月29日、13系統は昭和43年3月31日岩本町までに短縮し、昭和45年3月27日に廃止した。
⚫思い出語り⚫
一番覚えているのは15番ですね。中学・高校と神保町の方へ通っていたので、毎日(都電に)乗っていました。
ちょうど倍賞千恵子が売れてきた頃、雑誌に「お父さんは15番の運転手」って書いてあったんです。それで探したら「倍賞」ってプレートを掲げてる運転手さんがいて「ホントだ!」って。それ以来、倍賞千恵子のお父さんの電車に乗ったときは「アタリだ」って思ってました。あと、停留所が道路の真ん中なんですけど、待ってる間は暇なんですね。だから「走ってくる車の名前を全部覚えよう!」なんて事もやってました。そんなに種類も多くなかった頃ですから。だけど卒業までの間に車も随分増えましたね。どんどん電車が遅くなるなって感じていたのは覚えています、(ル・レーブ 赤井慶子さん)
15番 都電15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。 神保町 共立女子学園でしょうか? 倍賞千恵子 倍賞氏の「私の履歴書」(日本経済新聞、2023年12月2日)では……
ル・レーブ カフェベーカリー ル・レーブです。以前は足袋やYシャツで有名な赤井店。現在は不動産仲介のアパマンショップです。 |
⚫思い出語り⚫
都心のホームから水面が見渡せるところといえば、市ヶ谷駅とお茶の水駅だけになったが、二十数年前までは、飯田橋駅からも外濠が見えた。我が家にはわたしが少年のころ、神楽坂のほかに墨田区にも小さな店舗があり、数年間そこから九段の私立学校に通っていた。電車通学する生徒たちにとって、ホームから飯田濠を眺めるのが帰宅途中の楽しみだった。神楽河岸沿いに建っていた東京都清掃局から積み出されるごみを満載にした船、少年たちが「汚わいぶね」と呼んでいた平たい船などが始終行き来していて、どうということもない光景にも子供たちは興味津々だった。そんな船の中に時々水上生活者が混じっていた。洗濯物をたなびかせた船上からおなじ年格好の孤独そうな少年がホームの私たちを眺めていた。(平松南)
九段の私立学校 おそらく暁星学園 汚わいぶね 汚穢船。葛西船、屎尿処理船と同じ。江戸時代、糞尿を運ぶ船として発達。「保健婦雑誌」23巻5号(1967年5月)では
水上生活者 第二次世界大戦前後では艀の船頭は家族や所帯道具を積んでいて、日常生活を営んでいた。しかし、港湾施設の近代化があり、水上生活者は次第に港湾住宅等に移り住み、いなくなった。 |
⚫思い出語り⚫
私たちは出入りの業者ですから、正面からは入りませんよ。塀の右端のほうに勝手口があってね、そこから入ると庭に出るんです。そこで作業してると女中さんが出てくるから、花を渡して出てくる。それでも夕バコ銭ってくれるんですよ。懐紙にいくらか包んでね。あの頃の料亭さんはみんなそうだったけど、松ヶ枝は額も多かったからね。盆や正月になると更にはずむでしょう。仲間内で喧嘩になるんですよ。「俺が行く」「いや俺だ」ってね。(田口生花店・寺田司郎さん)
勝手口 2つ門があり、左の門は正門、右の門が勝手口です。
夕バコ銭 タバコを買う金。転じて、タバコ一箱分くらいのわずかな金。お駄賃。 |
⚫思い出語り⚫
大きなお風呂屋さんでね、深川とか浅草にも何軒か経営されてたみたいです。毎日子供を連れて行きましたよ。まだ出来て間もない頃でしたから、写真のような張り紙はなかったですね。大人用の湯船と、子供用のぬるめの湯船があって、脱衣所からはお庭が見えました。その頃はロッカーなんて少しで、みんな脱衣カゴなんです。桶と手拭いしか持ってませんもの。花柳界の方はお昼にお入りになるから、お風呂で会うことはなかったですね。そうそう、ここのお隣に三國連太郎が住んでたんです。お付の人が良く車を洗ってました。西村晃が遊びに来ているのを見かけたこともありますよ。(たつみや・高橋たまさん)
⚫思い出語り⚫
父が店の前でバナナの叩き売りをやっておりました。買いに来た人が風呂敷を投げてくれ、それを一枚一枚重ねいく時が一番楽しそうでしたね。口上も落語家はだしで、結構人だかりが出来ていましたよ。
皮のむき方まで教えたり、最前列の人にはただで食べせたりしてたみたいで、たくさん売れるとすごく嬉しそうな顔をしてました。だけど、ほんとは売れることよりも人が集まってくれることが嬉しかったみたいですね。(ジョウトーヤ・吉本時子さん)
店の前 神楽坂下交差点から上を見て登り、本多横丁が右側にある四つ角で、右手前の店舗の前でバナナの叩き売りを行っていました。 一枚一枚重ねいく あくまでも想像ですが、風呂敷の上にバナナを置き、風呂敷の4個ある角を一つずつ折り畳んでいき「はい、お買い上げありがとうさま」などと答える、そんな姿を考えています。 ジョウトーヤ 神楽坂3丁目にあった果物店のジョウトーヤ、現在はニュージョウトーヤビルです。 |
内田百閒氏の「百鬼園随筆」の「梟林漫筆」第2章(出版元不明、大正6年ごろ。再録は旺文社文庫、昭和55年)で、「梟林」は「きょうりん」か「ふくろ[う]ばやし」、「漫筆」は随筆のこと。
何時の事だつたか、又何処へ行つた帰りだつたか忘れてしまつたけれども、四谷見附から飯田橋の方へ行く外濠の電車に乗つてゐた。電車が新見附に止まつた時、片頬を片目へ掛けて繃帯した婆さんが一人乗つて来て、私の向う側へ腰を掛けた。私は濠の方へ向かつて腰を掛けてゐた。私はその婆さんの顔と風体とをただ何の気もなしに眺めてゐた。きたない丈けで繃帯が目立つ外別に変つたところもないから、婆さんが前にゐることなどは、まるで気にしてゐなかつた。それから電車が走つて牛込見附で止まると、又一人の婆さんが乗つて来た。前の方の入口から這入つて来るところをふと見たら、片頬から片目へかけて繃帯をしてゐる。おやと思つて前を見たら、もとの婆さんはもとの通りに腰をかけてゐた。さうして今はひつて来た婆さんは、もとの婆さんと一人置きに竝んで、私の前に腰を掛けてしまつた。風体も似よつて汚なかつた。さうして又電車が動き出した。私は不思議さうに二人を見てゐた。すると私の隣りにゐた商人風の若い男が、可笑しくて堪まらなさうな顔を私に向けた。その途端に、私も不意に堪まらない程の可笑しさが、腹の底からこみ上げて来た。しかし笑ふ事も出来ないから、顔を引き締めてゐると、その若い男にはまた私の妙な顔が可笑しくなつたらしかつた。その儘席を起つて、入口の所から外を向いてしまつた。 |
以上で終わりです。老婦人2人が共に片目に眼帯をつけていたという、まあ普通のお話です。
四谷見附 大正時代なので、路面電車の系統は、……ー四谷見附ー本村町ー市谷見附ー新見附ー逢坂下ー牛込見附ー飯田橋ー小石川橋ー……と、皇居の外濠に沿って一周します。当時は➈系統でした。
外濠の電車 外濠線の路面電車。東京で、皇居の外濠に沿って走っていた路面電車。明治37年、東京電気鉄道が敷設した御茶ノ水から土橋までの線路が最初。
新見附 新見附橋は明治26年に計画し、 27年にはなく、28年までに完成。当時無名の橋だったが、明治38年に、新しく路面電車が通り、駅を「新見附駅」と決めて、これから「新見附橋」と命名された。
繃帯 ほうたい。包帯。傷口などを保護するため巻く、ガーゼなどの細長い布x
丈 だけ。ちょうどその数量・程度・範囲である。「三つだけ残っている」。限界一杯。
牛込見附 「牛込見附」交差点は現在「神楽坂下」交差点と同じ。電車路面の「牛込見附」駅は神楽坂下交差点の付近にあった。
儘 まま。思いどおり。もとのまま。
都電15系統の飯田橋停留所付近の写真5枚をまとめました。15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
(1)昭和6年頃 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)
飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合する地点にあってその下流は神田川となる。写真の中央より少しく右によって前後に通ずる川が江戸川である。突きあたりの台地が小石川台で川を隔てて右は小石川区左は牛込区また飯田橋の橋手まえが麹町区。電車は5方面に通ずる。 |
(2)昭和31年(1956年)6月16日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)
戦前と戦後の風景が重なっていた昭和30年代初めの飯田橋駅前風景 低層の建造物ばかりだったので遠望がきいた。右に神田上水、直進する電車通りは目白通り。上流の大曲、江戸川橋にかけては沿道に中小の製造・加工工場、小出版社、印刷・製本業などが密集していた。神田川に架る外堀通りの橋は「船河原橋」。左奥が神楽坂・四谷見附方面、右奥が水道橋・御茶ノ水方面である。電車の姿は無いが、撮影当時の外堀通りには⑬系統(新宿駅前~万世橋)の都電が頻繁に往復していた。現在は高層のオフィス街に変り、頭上には首都高速5号池袋線が重くのしかかっている。 ◎飯田橋 1956(昭和31)年6月16日 撮影:小川峯生 |
東京都電は戦後再編され、江戸川線は高田馬場まで延長して15系統になりました。外濠線は飯田橋から南が3系統。飯田橋からお茶の水方向は大久保通りにつながり、本文のように13系統になりました。「電車の姿は無いが」という文章は本文通り。
写真は(1)の昭和6年頃と同様、中央線飯田橋駅ホームから目白通り方向を撮影しています。2枚の写真は同じ本に掲載されていますが、下は少し画角が狭くなっています。上の写真の右側の鉄骨のようなものと、空中を横切るケーブルのようなものは後の写真には見えず、防鳥対策を含めて何かの工事をしていたのでしょう。また右下には花柄らしい車が歩道に停まっています。移動販売の車でしょうか。
停留所の安全地帯(路面電車のホーム)ではゼブラ柄の台座から2mぐらいの高い柱があり、前面に「飯田橋」と読めます。
街灯は昭和6年と同じように照明3個が街灯1つにまとめてついています。
(3)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)
飯田橋交差点での出会い、⑮系統茅場町行きの3000形(右)と、⑬系統秋葉原駅前行きの4000形(左)飯田橋駅至近の飯田橋交差点は五差路になっていて、⑮系統の走る目白通りと、神楽坂から下ってきた⑬系統の走る大久保通り(飯田橋まで。当所から先の⑬は外堀通りを進む)が交差しており、さらに外堀通りを赤坂見附から走ってきた③系統(品川駅~飯田橋)の線路が、交差点手前で終点となっていた。信号や横断歩道も複雑なため、交差地点を取巻く井桁スタイルの歩道橋が巡らされ、歩行者が空中を歩く「大型交差点」として知られるようになった。写真はその建設開始の頃の模様で、正面のビルは東海銀行。JRの飯田橋駅には中央・総武緩行線しか停車しないが、現在は飯田橋駅周辺の道路地下や神田川の下には東京メトロ東西線・有楽町線・南北線、都営大江戸線の「飯田橋駅」が完成していて、巨大な地下鉄ジャンクションの1つとなっている。街の方も中小商工業の街から高層ビルが並ぶオフィス街に大変身している。 ◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生 |
手前に向かってくる15系統の都電は「茅場町」、マーク「15」と「週刊文春」、「3214」号、「乗降者優先」。一方、左奥から下ってきて13系統は「4041」号しかわかりません。
ゼブラ柄の交通信号機は交差点の中央にあり、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、その下にゼブラ柄の台座と脇に警察官。
歩道橋は手すりは完成しておらず、橋台や橋脚も足場やシートがかかっています。
歩道橋は最初は井桁スタイルではなく「士の字」形でした。井桁になるのは1978~79年です。
店舗は左から……
(4)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)
飯田橋交差点で信号待ちする目白通りの⑮系統高田馬場駅前行き2000形(右)と、大久保通りの⑬系統岩本町行きの8000形・4000形(左奥) 五差路の飯田橋交差点に見る都電風景である。撮影時には左側の信号の奥にここが終点の③系統品川駅行きの停留場もあった。鉄筋コンクリート仕様の本格的な歩道橋の工事が頭上で行われていた。国鉄飯田橋駅(当時)は画面の背後にあり。ホーム上からこのような展望が開けていた。 ◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生 |
目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2009」号と「15」「小説読売」。13系統岩本町行きは大久保通りで発車中。
店舗などは左から……
(5)昭和43年9月28日 運転最終日 諸河久氏の「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」
自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久 1968年9月28日) |
路面電車がみつめた50年前のTOKYO 諸河久 https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html 都電の背景に写っている横断歩道橋は1968年3月に設置されている。当時、総延長242mに及ぶ長大な歩道橋で、上野駅前や渋谷駅前の歩道橋と長さを競っていた。街の景観を阻害する歩道橋だが、撮影者にとっては都電撮影の格好の足場となった。筆者も歩道橋に上る階段の途中から、やや俯瞰した構図で都電を撮影することができた。 |
これまでの写真とは逆に飯田橋駅の方向を撮影しています。「士の字」の歩道橋の左の階段から撮影しました。
目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2502」号と「15」「小説読売」。イースタン観光のバスが併走中。また、15系統の路面電車と水平にある線面は13系統のもの。
本文では「横断歩道橋は1968年3月に設置」とありますが、(3)や(4)ではまだ工事中です。3月に歩道橋を架設し始め、9月に供用したというペースではなかったでしょうか。
標識などは左から……
誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。神楽坂五丁目と同じくこれも新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。
飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合流する地点でこれから下流は神田川と称す。写真は市電交叉点附近背景の小丘は富士見町一帯の台地で前は省線飯田橋駅。前面の橋は飯田橋でその下を流れるのが江戸川。この辺は四流八達の区域で市電はここを中心に五方面に通ずる。 |
手前の川は当時は江戸川(現在は神田川)で、船河原橋を超えて外濠(外堀)と一緒になって初めて神田川になりますが、外濠(外堀)と神田川はこのアングルでは見えません。船河原橋を越えるのは外堀通りで、また外堀通りと直交するのは目白通りです。五叉路の一つ、大久保通りは出てきません。
また目白通りの下には飯田橋という橋がかかり、さらに現在とあまり変わらない飯田橋駅が見えます。地元の方は「白文字『飯田橋駅』の『駅』の上にある階段状の建物は大松閣ですね」と言います。
小石川区には巡査派出所(現在は交番)と自働電話(現在は公衆電話)、自動車もあり、路面電車は小石川区と牛込区をつなぐ船河原橋を渡っています。
左隅の角丸四角の店舗には「◯◯◯◯品」と書かれ、右の角丸四角の中にはおそらくアルファベットの10字の看板、2灯が並んだ街灯、「◯◯◯京」、ロゴマークがあります。
また地元の方は「見直して気づきましたが、船河原橋のたもとの小さなアーチは『大下水』の出口ですね。『暗渠さんぽ』の写真と同じもののように見えます」と書いています。明治44年に東京市が敷設したヒューム製下水管も同じ開口部にあり、これは厳密には江戸時代の大下水ではなく、明治時代の下水管でしょう。大下水(横幅は約1.8m、御府内備考)の一部が下水管(卵形で短径約90cm)になりました。
この絵葉書は個人が所蔵するものですが、最初に雑誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」に出たときは低解像度で、もっと解像度が高くないと発表には向かないと思っていました。最近、石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)を見ていると、初めて大きな写真を発見し、さらに「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)でも発見しました。
まず何台かの電車が走っていますが、全て路面電車です。つまり道路上を走る市電や都電です。現在ではバスに代わり、なかには地下鉄に代わっています。JR(国鉄、省鉄)とは違います。路面電車の駅もバス停や地下鉄の駅に代わりました。
林順信氏の「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)は
飯田橋の変則交差点 大正8年頃 左に見える小さな鉄橋が飯田橋、右に見えるのは江戸川に架かる船河原橋である。江戸川がここで外濠に落ちるとき、どんどんという響きをたてていたので、通称「どんどん」と呼ばれていた。外濠に沿った左手を神楽河岸といい、目の前の町を揚屋町という。諸国の物資を陸掲げした頃の名前である。船河原橋上を渡るのは、外濠線の環状線の➈番と新宿と万世橋とを結ぶ③番の電車、それと交差するのは、江東橋から江戸川橋に通う⑩番である。飯田橋は、昔から変則的五差路で交通の難所である。 |
五差路と視線の方向です。
石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)の説明は……
【飯田橋と牛込区筑土方面遠望】 現在は飯田橋交差点になり面影はない。左の鉄橋が飯田橋。右は船河原橋で、電車は新宿―万世橋間の③番と環状線の⑨番で、左の飯田橋を渡る電車は江東橋―江戸川橋間を走る⑩番だそうだ(『東京・市電と街並み』による)。⑩番の電車の奥の道は大久保通り。堀に沿って左に行けば市谷方面。現在も飯田橋交差点は変則的な五叉路で複雑である。 |
最後は「かぐらむら」の文章です。「今月の特集 記憶の中の神楽坂」でおそらく2009年に出ています。
飯田橋界隈(大正時代/絵はがき、個人所蔵〉 複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。 左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期~後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年~44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。 |
吾妻医院 東京女子医科大学「東京女子医科大学80年史」(東京女子医科大学、昭和55年)では……
吾妻病院は、大正5年(1916)まで順天堂の産科部長をしていた吾妻勝剛が、そこを辞めて、下宮比町に開業したとき建てた病院である。当代一流の産科医であった吾妻は最新の設備を備えた産科病院を建て、隆盛を極めたが、好事魔多しの譬えどおり大震災の日、熱海の患家で家の下敷となり、圧死したのであった。 吾妻病院は火をかぶらなかったものの、地震で建物のあちこちが痛んでいた。しかし産科婦人科専門の弥生にとっては願ってもない病院であった。それを入手し、修理し、この年11月23日からここを第二東京至誠病院として再開した。この場所が牛込区下宮比町(現在の厚生年金病院の場所)であることからその後はここを学校のある“河田町”に対し“宮比町”と呼ぶのが内部での慣わしとなった。 |
昭和43年、地図協会の雑誌「地図の友」に松沢光雄氏の「神楽坂と神楽河岸」があります。その神楽河岸の中に東京都の清掃事務所があると言っていますが、これはかつての糞尿の集荷所でした。理由が不明ですが、近所から反対されて、この糞尿集荷所はなくなったと書いてあります。
国電飯田橋を出ると堀がある。この堀にかかっている橋が飯田橋で、これを渡ると揚場町である。揚場町というのは、舟から荷を揚げる場所という意味で、神楽河岸はそこにある。かつてはこの堀を舟が往来して海から荷を運んでいた。いまもお茶の水までは舟が来る。この神楽河岸は浅くなって舟が上れなくなったし、それにその必要もなくなっている。 神楽河岸には土砂や石や木材の材料の施設が集っている。これは江戸時代からの材料荷揚場の残象である。 もとは、各地から舟で材料が運ばれてきた。いまもつづいている材料屋の土万の主人にきくと、この主人の子供のじぶんには舟で浦安からシジミが運ばれてきたという。 舟で2杯も3杯ものシジミがきた。これを山手一帯の乾物屋が買出しに集った。こんなふうで、良種の物品が舟で揚げられた。 酒の白鷹の総本店の升本はいまもここにある。中央大学の総長になった升本氏の生家である。升本の酒倉は道をはさんで現在もいくつも並んでいる。これも河岸のものである。 いまの清掃事務所は、かつては糞尿の集荷所で、ここから舟で各地に運んでいた。都市化のすすむにつれて近所から反撃されて、ついに糞尿集荷を止めて事務所になったのである。新宿区役所の土木部の材料もここに置いてある。水道局の工事材料もここにある。各地からトラックで運ばれてくる。 土万のいまの主人は二代目で、ここに陣取って100年近い土砂材料屋である。この河岸に生まれてここに育ち、ここで河岸の変遷を見つめてきた。 神楽河岸に揚げられた材料は荷車と馬力車で神楽坂を引きあげられた。とにかく急な坂だからこれをあげるにはたいへんである。 当時は飯田橋の上に「たちんぼう」がたくさんいた。失業者で臨時の労働をまっている連中である。これが神楽坂をあがる車のあとをおして、5厘か一銭をもらっていた。 |
堀 外濠(外堀、そとぼり)のうち飯田濠。
神楽河岸 昭和63年に初めて神楽河岸という名前に。以前は揚場の一部だった。
江戸時代 これは「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」で。
荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。
残象 ただしくは残像。外部刺激がやんだあとにも残る感覚興奮のこと。
土万 図では土萬土砂置場。
乾物 かんぶつ。野菜、海藻、魚介類などを、保存できるように乾燥した食品。
白鷹 白鷹株式会社は兵庫県西宮市に本社を置く酒造会社。生粋の灘酒。
升本 ますもと。江戸時代に牛込揚場・神楽河岸で創業した酒類問屋。日本酒の銘酒「白鷹」で有名。
中央大学の総長 四代目の升本喜兵衛。養子。大正8年、中央大学法学部卒業。昭和37年、中央大学総長・理事長。昭和43年、学園紛争で中央大学理事長・総長・学長を退任。生年は明治30年、没年は昭和55年。享年は満83歳。
清掃事務所 神楽坂のある地元の人は「神楽河岸にゴミの積み替え拠点はなさそうです。砂利や土石(建築残土)は運んでいたかも知れません」といい、また、後楽橋のゴミについては、この「ゴミの詰め替え場は臭かったですよ。だって収集車のフタをあけて、中のゴミをハシケに移す(落とす)んですもの。そのハシケを夢の島の埋め立て地までタグボートで曳航するんです。そりゃ苦情も出ますよ。」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう。」といっています。さらに「資材倉庫や廃材置き場だった神楽河岸の開発が遅れた」と「古くは「糞尿」処理をしていた(らしい)」との2つを並べて「両者をないまぜにせず、きちんと区別しないと不正確になりそうです」。つまり、かつての飯田壕は臭くても、他の川と比べると同じ程度だと結論しています。
神楽坂を引きあげられた 神楽坂ではなく、軽子坂を引きあげられたのでしょう。
たちんぼう 坂の下に立って大八車などの荷車を押すのを手伝って駄賃を貰う職業。明治から大正にかけて多かった。
車 自動車ではなく、大八車だと思います。西山松之助氏「江戶の生活文化」(1983年)では江戸の山の手には急な坂道が多いと書きます。
出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で、その(1)です。
何處から何處へ流れるとなき外濠の流れは、一刷毛ごとに薄れゆく夕日影に暈されて、煤煙のやうに黝ずんでゆく、荷足舟が幾艘も繋つてゐて、河岸から小砂利や貨物や割石を積込む音が靜かな空氣を搖動かす。神樂坂にはもう懐かしい灯が、恰度芝居の遠見の書割を見るやうに美しく輝いてわれも人も吸ひよせられるやうに坂を上つて行く。紀の善の店前には印絆纒を着た下足番が床几に腰かけて路行く人を眺めてゐる、上框には山の手式の書生下駄が四五足珠數繋にされてゐて、拭きこんだ板間に梯子段が見える。田舎者で通つた早稲田の學生も此處のやすけが戀しくなれば先づ江戸つ子の部としたもの、その斜向ひの小路を入った處に島金といふ牛屋がある。専門學校時代から古い馴染みだ。坂を上り切ると左手の露路の突當りに洋食店の青陽軒があつて、早稲田界隈の高襟さんを一手に引受けてゐる。 何故恁うも人通りが多いのであろう、これが毎晩なのだ、寅午の緣日等と來ては海軍ならば夫れこそ舷々相摩すと公報に書く處だ。強ち道幅の狭隘が誇張的に見せる行為でもなかろう。誰れも彼れも暢氣さうな顔をしてゐる、兩側の露店のカンテラが一齊に空を赤めて、喧ましい呼聲が客足を止めさせる。特有のへら/\帽子を目深の飛白の書生が、昆沙門前で1人はヴァイオリンを弾き1人は本を口に当て唄つてゐるのが悲調を帯びて、願掛に行く脂粉の女の胸に淡い哀愁の種を蒔く。 |
書割 かきわり。芝居の大道具。木枠に布や紙を張り、建物や風景など舞台の背景を描いたもの。何枚かに分かれていることから書割といいました。
紀の善 現在は甘味処ですが、戦前は寿司屋でした。ここに詳しく。
印絆纒 しるしばんてん。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏。
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け。
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 高下駄。10センチ以上視線が高くなります。
珠數繋 数珠は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎ。糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋の名は弥助でした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした。
部 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか。
島金 現在は志満金です。
青陽軒 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)によれば、神楽町3丁目の「六番地に青陽楼(西洋料理店)」と書いてあります。青陽軒は青陽楼のことでしょうか。
高襟 はいから。西洋風なこと
舷々相摩す げんげんあいます。ふなばたが互いに擦れ合う。船と船とが接近して激しく戦うようすを表す言葉。
狭隘 きょうあい。面積などが狭くゆとりがないこと。
カンテラ オランダ語kandelaarから。手提げ用の石油ランプ。ブリキ・銅などで作った筒形の容器に石油を入れ、綿糸を芯にして火をともします
へらへら 紙や布などが薄く腰の弱いさま
目深 まぶか。めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
飛白 かすり。絣とも書きます。かすれたような部分を規則的に配した模様や、その模様のある織物です。
私達は両側の夜店など見ながら、ぶら/\と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車の線路増設や停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じは殊によく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。 |
だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫と咲きつらなり、お濠の水の上に紛々たる花ふゞきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。 |
貸ボートが浮ぶようになったのは、極近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てゝ市の公園にするとかいう噂も幾度か聞いたが、そのまゝお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ/\の意味でいゝ思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな/\の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに/\舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒振りを見ることも屡々である。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓や又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろ囮にしているのでないかと笑ったことがあった。 |
これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反の廉を以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙漫歩を楽しみ得るの日の来らんことを鶴首している次第である。 |