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牛込氏についての一考察|⑧牛込氏と行元寺

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑧「牛込氏と行元寺」です。

 牛込氏のあった袋町の北方、神楽坂五丁目に前述の行元寺があった。『江戸名所図会』によれば、相当な大寺で総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。またその門の両側に南天の木があったので南天寺と呼ばれていたという。
 源頼朝石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣営を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたという(『御府内備考』続編、天台宗の部、行元寺)。
 頼朝が江戸入りほをしてから鎌倉まで、どのようなコースを通ったかはまだ解明されない。現在、新宿区内随一の古大寺だったこの寺に、このような頼朝立ち寄り伝説があることは、一笑することなく大切に残しておきたい話である。
 また太田道灌が江戸城を築いた時は、当寺を祈願寺にしたという(『続御府内備考』)。
行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。場所は下の通り。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

牛込氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国おおを領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
相当な大寺で…… 行元寺を参照。
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府初代将軍。治承4年(1180)挙兵したが、石橋山の戦に敗れ、安房あわにのがれた。間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権の基礎を樹立。建久3年(1192)征夷大将軍。
武蔵 武蔵国。武州。現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む。
千手観世音 観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿
石橋山 頼朝は300余騎を従えて、鎌倉に向かったが、途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれて、10倍を越える平氏の軍勢に頼朝方は破れ、箱根山中から、真鶴から海路で千葉県安房に逃れた。
『御府内備考』続編 「御府内備考」の続編として寺社の沿革をまとめたもの。文政12年(1829)成立。147冊、附録1冊、別に総目録2冊。第35冊に行元寺。
頼朝えりかけの尊像 東京都社寺備考 寺院部 (天台宗之部)では
略縁起云、抑千手の尊像は、恵心僧那の作なり。往古右大将朝頼石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給ふ折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きしと霊夢を蒙り給ひしより、東八ヶ国の諸待頼朝の幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。依之俗にゑりかみの尊像といふとかや 江戸志
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
当寺を祈願寺 祈願寺とは祈願のために建立した社寺で、天皇、将軍、大名などが建立したものが多い。『御府内備考』続編は東京都公文書でコピー可能です。また、これは島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じです。「中頃太田備中守入道道灌はしめて江戸城を築きし時、当寺を祈願所となすへしとて」

御府内備考続編

 以上のようなことは、単に当寺が古刹の如く見せるために作ったものであると片づけることなく、もう一度見直してみたい。この行元寺は、前述の兵庫町の人たちの菩提寺であったろうし、最初でも述べたように古くから赤城神社の別当寺にもなっていたのであるから、大胡氏の特別の保護下にあったものと思われる。太田道灌時のように、牛込氏の祈願寺だったことはもちろんであるが、宗参寺建立以前の菩提寺だったのではあるまいか。
 天正18年(1590)7月5日、小田原は落城したが、秀吉が牛込の村々に出した禁制には18年4月とある(『牛込文書』)から、そのころすでに牛込城は落城していたのであろぅ。
 一方、小田原の落城時、北条氏直(氏政の子で家康の女婿、助命されて高野山に追放)の「北の方」が行元寺に逃亡してきたのである。寺はこの時に応接した人の不慮の失火で焼失したということである(『続御府内備考』)。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像されよう。
古刹 こさつ。由緒ある古い寺。古寺。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり寺院が家の菩提寺といわれるようになった。
別当寺 べっとうじ。神社に付属して置かれた寺院。明治元年(1868)の神仏分離で終わった。
秀吉が牛込の村々に出した禁制 天正18年4月、豊臣秀吉禁制写です。矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)では「豊臣秀吉より『武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村』に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない」
牛込文書 室町時代の古文書から、戦国時代江戸幕府までの古文書で21通。直系の子孫である武蔵市の牛込家が所蔵している。
北条氏直 ほうじょううじなお。戦国時代の武将。後北条氏第5代。徳川家康と対立したが和睦。1583年8月家康の娘督姫と結婚して家康と同盟を結ぶ。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、降伏して高野山に追放し、後北条氏は滅亡。
北の方 大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
続御府内備考 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで「天正年中に小田原北條没落の時、氏直の北の方当寺に来らる 按するに当寺の前地蔵坂の上に牛込宮内少輔勝行の城ありしと此人 北條の家人なれはそれらをたより氏直の北の方こゝに来りしにや 時に饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」

御府内備考続編


牛込氏についての一考察|⑥牛込城築城

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑥「大胡氏の牛込城築城」です。

  6 大胡氏の牛込城築城
 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は江戸城主扇谷朝興と戦い、江戸城を攻略して遠山直景城代とした。この時前述の神楽坂にあった行元寺破壊された(『江戸名所図会』)というから、牛込はその時戦場になったものと思われる。
 この動乱の時、大胡重行弁天町から袋町の高台に牛込城を築いて移り、氏綱から認められるようになったものであろう。『新宿区史』には「牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う」といっている。『牛込文書』によれば、すでに大永6年には日比谷に警備のため陣夫を出している。
北条氏綱 ほうじょう うじつな。戦国時代の武将。小田原城主。上杉朝興ともおきの江戸城、上杉朝定の松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明・里見義堯を破って関東一帯を制圧。小田原城下の商業発展を図った。
扇谷朝興 戦国時代の武将。上杉朝興ともおき。扇谷上杉氏の当主。北条早雲によって相模を奪われ、大永4年(1524)、その子北条氏綱に武蔵江戸城を奪取された。
遠山直景 戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
破壊された 江戸名所図会では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
牛込氏が… 「新宿区史」は
牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う。そうでなければ、牛込氏は扇谷家の大きな勢力の近くにあって孤立状態になってしまうからである。北条氏は大永4年朝興を敗って、江戸城をとり、遠山氏をここに置いてから後も、朝興との争いは絶えず、大永6年12月には里見義弘の鎌倉侵入にあたり、氏綱は鶴岡に邀え戦ってこれを破っており、享禄3年6月(1530)には朝興と戦ってこれを破っている。
陣夫 じんぷ。じんぶ。戦争に必要な食糧などの物資を運ぶため領内から徴用した人夫。

 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はない。『江戸名所図会』と『御府内備考』に書かれているだけであるし、城全体の規模も不明である。しかし、伝説によれば、西は南蔵院から船河原町に通じる道、北は大久保通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は光照寺境内南の崖(崖下は空堀)で、舌状半島形をした台地の先端部分である。
 城内の構造も不明だが、大胡氏の居館は光照寺境内で、大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる十字路あたりにあったという。
江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では
牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり
御府内備考 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々
(註:いかさま:1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき)
伝説によれば 新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)の牛込要図が最も詳細にできています。ここで中央の が牛込城跡です。

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(色は当方の追加)

大手門 城の正面。正門。追手おうて

 大胡氏はなぜこの場所を選定したかは不明である。地形上からみれば、この付近で城を築くに格好の場所は、この北方のつく八幡の高台である。そこは戦国時代すでに上杉管領とりでを築いたことがある(『日本城郭全集』)ほどである。
 筑土八幡の高台では、台地突出部が狭少だから広く縄張りする必要があり、規模を大きくすると短期間では築城できなかったこと、当時の古道はだいたい今の早稲田通りだったろうから、主要道を背後にするという不つごうさがあったものと思われる。その上、神楽坂の方には部落も多く、すでに行元寺も建っていたことが引きつける理由になったものであろう。
筑土八幡の高台 上図の牛込要図では右上のC㋬です。
上杉管領 関東管領とは室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉うえすぎ憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
とりで 築土城です。
縄張り 縄を張って境界を決めること。建築予定の敷地に縄を張って、建物の位置を定めること

 大胡重行は、前述のよう天文12年に死去し、弁天町宗参寺に葬られた。重行の子勝行は、北条氏康の重要家臣となり、天文24年(1555)正月6日には、宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏と改めた。これはすでに呼び名となっていたものを公的に認めて貰ったものであろう。そして牛込から赤坂、桜田、日比谷あたりまで領することになった。
 牛込勝行は、弘治元年(1555)9月19日に、牛込御門に移されてあった赤城神社を現在地の赤城元町遷座した。また勝行の子勝重の妻に、江戸城の遠山綱景(直景の子)の娘を迎えたのである(児玉、杉山共著『東京の歴史』)。
牛込勝行 北條氏康につかえ、弘治元年(1555年)姓の大胡氏はやめ、牛込氏に変える。牛込、今井、桜田、日比谷、下総国堀切、千葉等の地を領有した。天正15年(1587年)死亡。年85。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱うじつなの嫡子。永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」を作成。永禄4 年、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築く。
宮内少輔 くないしょうゆう。令制の第二等官である次官すけのうちで下位のもの。従五位。
遷座 神体、仏像などをよそへ移すこと。
遠山綱景 とおやま つなかげ。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。
児玉、杉山共著『東京の歴史』 児玉幸多と杉山博の共著で「東京都の歴史」(山川出版社、1977年)でしょう。その135頁は……
 江戸城代の遠山氏の次代は、丹波守綱景である。かれは隼人佑・藤九郎・甲斐守ともいった。かれは、氏綱・氏康にしたがって、府台うのだい攻撃に参加したり(天文7年)、鶴岡八峰宮の造営に協力したり(天文8~10年)、妙国寺の濁酒醸造の免除を命じたり(天文17年)、六所明神の本地仏の釈迦像を修理したり(天文21年)、浅草の総泉寺や品川の本光寺に禁制をだしたり(天文23年)している。またかれは、連歌師の宗長とも交際があった。また綱景の娘は、江戸の名族の牛込勝重・島津主水・猿渡盛正らのもとに嫁している。
 こうして綱景は、婚姻政策によっても、自家の勢力を江戸とその周辺にのばしていったが、永禄7年正月4日、国府台合戦で戦して戦死した。

註:丹波守綱景 遠山綱景。永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣である遠山直景の子(長男とも)。天文2年(1533年)、父に引き続き江戸城代となる。
国府台攻撃 国府台合戦。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回、下総国国府台(現 千葉県市川市)で房総勢と後北条氏の間に行われた合戦。後北条氏が勝利し、覇権は安泰になった。
天文7年 1538年。
永禄7年 1564年。

牛込氏についての一考察|⑤供養塚
牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 まず芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑤「供養塚」です。

 宗参寺の西南方350メートルほどの、喜久井町14〜20番地には江戸時代に供養塚があり、町名も供養塚町といっていた。
御府内備考』によると、この地は宗参寺の飛地境内で、古くから百姓家があり、奥州街道一里塚として庚申供養塚があったという。『江戸名所図会』の誓閑寺の絵には、その庚申塔と塚が画かれてある。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内として認められていたことは、それだけ宗参寺との特殊な関係が認められていたことで、この塚が奥州街道の一里塚だったのではなく、宗参寺に関係ある塚であったということである。とすれば、それは宗参寺の所に移住してきた大胡氏の牛込初代者を葬った塚だったのではあるまいか。
宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗の寺院。天文13年(1544)、牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため嫡男の牛込勝行が建立。
喜久井町14〜20番 赤線の「喜久井町14〜20番」の方が、実際の供養塚町よりも範囲は大きいようです。緑線で描かれていた場所は供養塚町ではないでしょうか?

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

大久保絵図(1857年、尾張屋)。左は供養塚町、右が宗参寺。

供養塚 大飢饉などの災害で亡くなった人々を供養する塚。「塚」は必ずしも遺骸が含まれず、無生物を含む。
供養塚町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌 : 地名の由来と変遷』(2010)では……

牛込供養塚町 当地一帯は寛永年中(1624-44)に宗参寺の飛地となった。往古より百姓家があったが、次第に家が造られ、町並となった。正徳元年(1711)寺社奉行に永家作を願って認められ、延享2年(1745)町奉行支配となる。町名は、地内に庚申供養塚があったことに由来する(町方書上)。この塚については、古来奥州街道の一里塚であった(町方書上)とか、大胡氏が移住した際の初代の墓や中野長者鈴木九郎の墓とする説(町名誌)、太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を立て傍らに石碑を建てたとする説(寺社備考)などがある。
 明治2年(1869)4月、牛込馬場下横町、牛込誓開寺門前、牛込西方寺門前、牛込来迎寺門前、牛込浄泉寺門前、牛込供養塚町を合併し、牛込喜久井町とする(己巳布)。この地域の旧家で名主の夏目小兵衛の家紋が、井桁の中に菊の花であることから名付けられた。

註:永家作 「家作」は家をつくること、貸家。「永家作」とは不明だが、長く住み続ける家か?
庚申供養塚 庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。


 また、岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)では……

 供養塚町(くようづかまち)
 1857年の安政改板の大久保絵図をみると、宗参寺の西方、馬場下横町の東どなりに牛込供養塚町としてある。南側は往来を距てて感通寺、本松寺、松泉寺、来迎寺、西方寺、誓閑寺などが並んでいる。
 寛永年中(1624~43年)宗参寺の境内4千坪の場所が御用地となって替地を下された時に当地が飛び地になっていた。ここは古くから百姓家があって、おいおいと家作が建って、奥州街道の一里塚として庚申供養塚があった。そのことから牛込供養塚町と唱えた。
 正徳元年(1711年)2月に寺社方へ家作のゆるしを得て、延享2年(1745年)に町方の支配となった。
 町内は、南北35間、東西20間余。(註:64mと37m)
 自身番屋・牛込馬場下横町と組合。
 町の裏に庚申堂がある。
 庚申塚・町の裏にあって、高さ5尺、幅1間4方〔備考〕

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 供養塚町については……
当町起立之儀 寬永年中宗参寺境內四千坪余之場所御用地に相成 当所え替地被仰付候ニ付 飛地ニ而同寺境內ニ有之候 右地所之内往古より百姓家有之候所 追々家作相増 其後町並ニ相成 往古当所奧州海道之節 一里塚之由ニ而 庚申供養塚有之候ニ付 牛込供養塚町相唱申候 尤宗参寺境内には有之候得共 地頭宗参寺え年貢差出し古券ヲ以譲渡仕来申候……
飛地 江戸時代、大名の城付きの領地に対して遠隔地に分散している領地
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から宇都宮を経て奥州白河へ至る街道。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。

庚申供養塚 こうしんくようづか。庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。庚申の夜に眠ると命が縮まるので、眠らずにいると災難から逃れられる。そこで神酒・神饌を供え、飲食を共にして1夜を明かす風習がある。娯楽を求めて、各地で多く行われた。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
誓閑寺 江戸名所図会では 

鶴山かくざん誓閑せいかん 同じ北に隣る。ぎょういんと号す。浄土宗にして霊巌れいがんに属す。本尊五智如来の像は(各長八尺)開山木食もくじきほん上人しゅうふう誓閑せいかん和尚の作なり。じょう念仏ねんぶつの道場にして清浄無塵の仏域なり。当寺昔は少しの庵室にして、その前に松四株を植えて、方位を定めてほうしょうあんといひけるとぞ。今四五十歩南の方、道を隔てて向らの側に庚申堂あり。これち昔の方松庵の地なり。
稲荷の祠(境内にあり。開山誓閑和尚はすべて仏像を作る事を得て、常にふいをもって種々の細工をなせり。この故に境内に稲荷を勧請し、11月8日には吹革まつりをなせしとなり。今もその余風にて年々としどしその事あり。)
庚申塔と塚 道の反対側に庚申塔と塚、絵図では札「庚申」もあり、赤丸です。

誓閑寺


大胡氏の牛込初代者 そう考える理由はどこにもありません。一つの考え方、想像です。当時の風習は全く知りませんが、豪族だった大胡氏が塚に入るのではなく、せめて墓ぐらいに入らないとおかしいと考えます。

 なお『御府内備考』にあるこの地の奥州街道については、同じように『江戸名所図会』の感通寺の項に「この地は往古鎌倉海道の旧跡なりといへり」とある。また『東京名所図会』(明治37年、東陽堂刊)の牛込矢来町の項に「沓懸くつかけざくら」がある。往時の街道を旅する人が切れた草履を梢にかけて立ち去る者が多かったので名づけられた名木の彼岸桜であった。
 これらを考えると、牛込台地の北端を当時の古道が、神楽坂から矢来町、宗参寺、供養塚と東西に通って戸塚一丁目に向い、そこを南北に通っていた鎌倉街道に合流するのである。この鎌倉街道を通って、戸塚から宗参寺の所に大胡氏は移住してきたのであろう。
感通寺 新宿区喜久井町39にある日蓮宗の寺です。江戸名所図会では……
本妙寺感通寺 (中略)摩利まりてんの像は松樹の下にあり。頼朝卿の勧請にして、頼義朝臣の念持仏といひ伝ふ。この地は往古そのかみの鎌倉海道の旧跡なりといへり。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち
東京名所図会 新撰東京名所図絵。明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。

 供養塚の由来は……

《町方書上》往古ゟ百姓家有之候所、追々家作相増、其後町並相成、往古当所奧州海道之節一里塚之由て庚申供養塚有之候付、牛込供養塚町相唱申候
《新宿区町名誌》大胡氏の牛込移住初代者の墓とする。供養塚町が宗参寺の飛地として所有していたということは、宗参寺に関係深い塚だったということになる。とすれば、群馬県大胡から牛込に移ってきた初代大胡氏を葬った塚であろうと。
《新宿区町名誌》中野長者鈴木九郎の墓とする。「江戸名所図会」に、その問題を提示しているが、「大久保町誌稿」につぎのようにある。「鈴木九郎は牛込供養塚町に住し、生涯優婆うばそく塞(西新宿一丁目参照)を勧行して、遂に永享12年(1440)終歿せり」と(淀橋誌稿)。
 中野長者鈴木九郎は、中野区本郷のじょうがんや西新宿二丁目の熊野神社を建立したといわれる人である。しかし、この塚を鈴木九郎の塚とするのは、あまりにも作為的である。鈴木九郎の伝説は、戸山町内の旧みょう村にもある(戸山町参照)。
《寺社備考=御府内備考続編》文明年中(1469〜87)に太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を建て傍らに石碑を建てた。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972)「牛込地域 75.牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」では……

牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚
      (喜久井町14から20)
 来迎寺から若松町に行く。右手に感通寺がある。その左手一帯は、昔「供養塚町」といった。
 「御府内備考」によると、この地は前に案内した宗参寺の飛地で、境内になっていたという。そしてこのあたりは古くから百姓家があり、鎌倉海道一里塚の庚申供養塚があったといい、「江戸名所図会」の誓閑寺の項に、その鎌倉海道のことと庚申塔や塚の絵が出ている。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内にしていたということは、宗参寺に関係深い塚であったということであろう。とすれば、それは宗参寺でものべたように、大胡氏の初代牛込移住者を葬った塚だったのではあるまいか(60参照)。
 徳川家康の関東入国により、それ以前の土着武士の旧跡・事蹟は消されていったようである。
 牛込氏について不明の点が多いのは、牛込氏が徳川氏に対する遠慮から史料を処分したろうと思われるばかりではなく、為政者も黙殺していったのではなかろうか。宗参寺(60参照)でものべたように、官撰の「御府内備考」では、宗参寺の位置を大胡氏の居住地とすることを否定しているし、袋町の牛込城跡には一言もふれていないのである。
〔参考〕  牛込氏についての一考察
来迎寺 らいこうじ。新宿区喜久井町46の浄土宗の寺院。寛永8年(1631)に建立。
60参照 「新宿の散歩道」の「60」は「牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」でした。

牛込氏についての一考察|④赤城神社の旧地「田島森」

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の④「赤城神社の旧地『田島森』」です。

 宗参寺北方400メートル、早稲田鶴巻町185番地に、大胡氏が赤城山ろくにあった赤城神社をはじめて勧請した旧地「田島森」があり、小さい祠がある。ここにあった神社は、寛正元年(1460)に太田道灌によって牛込御門の所に移され、さらに牛込勝行が弘治元年(1555)9月19日に現在地に遷座したものという(「神社縁起」)。これは境内にあった正安3年5月25日の銘がある板碑が神社に保存されてあった(戦災で消失)ことから想定したものであろうと思う。というのは、正安2年は、まだ大胡氏が上州大胡に居住していたと思われる年代である。
宗参寺 そうさんじ。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)に重行の嫡男牛込勝行が建立。牛込氏や赤穂義士の師・山鹿素行の菩提寺などがある。
早稲田鶴巻町185番地 現在は新宿区早稲田鶴巻町568-13です。
田島森 江戸名所図会では
赤城明神旧地 同所田の畔、小川に傍ふてあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は、神輿を此地に渡しまいらす。
 この「小川」はかに川でしょう。新撰東京名所図会第41編では
   ◯元赤城神社
早稲田村(185番地)にあり、今鶴巻町に編入す、祭神石筒雄命、正安3年草創、牛込郷社赤城神社の古跡なり、古来より赤城神の持なりしが、明治6年1月更に赤城神社附属社となれり。
本社石祠、高さ2尺巾1尺5寸、境内35坪立木3本あり。

元赤城神社。鳥居の左側は記念碑「田島森碑」。後ろに神社。コンクリートの建物は「元赤城神社 社務所」

元赤城神社。中央右に「元赤城神社新築資金寄附者御芳名」の板。

元赤城神社。説明板「神崎の牛牧」がある。

小さい祠 「ほこら」は「やしろ。おたまや。先祖の霊をまつる所」。海老沢了之介 著「新編若葉の梢 : 江戸西北郊郷土誌」(新編若葉の梢刊行、1958)は、金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)を底本しており、「牛込氏と赤城神社」を書いています。

元赤城神社仮殿(昭和31年)

牛込氏と赤城神社
 牛込忠左衛門の屋敷は、胸突坂上の番所の前に在る。この牛込家の遠祖は、大胡太郎重俊なる者であった。子孫の大胡重行の代に及んで、この牛込に移住した。その嫡男を牛込宮内少輔藤原勝行といい、父の菩堤を弔わんがために、雲居山宗参寺を開基した。
 昔その祖先の大胡常陸なる者が、上野国赤城山の三夜沢の神を敬信し、その領地の赤城山麓大胡の地に勧請し、それを近戸明神と呼んで今もある。
 大胡常陸の末孫牛込忠左衛門の先祖、即ち大胡重行が、大胡氏の氏神である上州赤城の神を、牛込惣領守として、早稲田の田の中の小森に勧請したが更に今の赤城神社の所に遷座した。よって最初の地を元赤城といっている。
 日光山の記にいう。下野国二荒山、今の日光山の神と、上野国赤城山の神とが中禅寺の湖水のことで争った。その時、二荒山の神はうわばみとなり、赤城山の神は蜈蚣むかでとなって戦ったという。
 私(直徳)が先頃旅をした時、新町と倉賀野との間の田の中において、忽ち疾風起こり、黒雲が覆い来たって、日中暗闇となった。雨は水をあびるが如く、雹は槌をもって打つが如くであったが、三時ばかりして拭うが如く晴れた。それからというものは一寸した風が直にあたっても、恐ろしくなって病気になる程であった。
 元赤城は正安二年(1300)早稲田に鎮座との説がある。これによると、大胡氏の牛込に来るより230余年前からあることとなる。なお赤城神社には、文安元年(1444)の奥書納経(大般若経)がある。これも大胡氏より百年前のものである。
菩提 ぼだい。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達すること。
 うわばみ。巨大な蛇、大蛇、おろち
蜈蚣 ごこう。「むかで(百足)」の異名。
 また、鳥居の左側に「田島森碑」が立っています。「温故知しん!じゅく散歩」は
概要
赤城神社の由来と「田島の森」と呼ばれた当地の歴史を伝える記念碑である。当地は、牛込早稲田村の「田島の森」と呼ばれる沼地であったところへ、正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移り住んだ大胡氏(後に牛込氏に改姓)が故郷の赤城明神を祀ったと伝えられる。碑文には、赤城神社が寛正元年(1460)太田道灌によって牛込に移され、弘治元年(1555)に現在地へ遷座した後も、元赤城神社として崇敬者の手によって維持されてきたことが刻まれている(※ 実際に大胡氏が牛込に移り住んだのは15世紀末頃と推定されている)。

田島森碑

神社縁起 赤城大明神縁起がありますが、天暦2年(948年)に書いた縁起なので、これは使えません。赤城神社の【御由緒】では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。
 新撰東京名所図会第41編では……
〇由緒
正安2年牛込早稲田村田島の森中に小祠を奉祠す、其後160余年を経て寛正元年太田持資、田島の小祠を牛込台に遷座す、後ち上野国大胡の城主大胡宮内少輔重行、神威を尊敬し、赤城姫命を合殿に祀り、弘治元乙卯年9月19日、方今の地に移し、赤城神社と称せり。別当は天台宗赤耀山等覚寺なり。

田島森碑

正安3年5月25日の銘がある板碑 正安3年は1301年の昔ですと、まず一言断わっておき、群馬県地域文化研究協議会編「群馬文化」(1967)では……

 神社で大切に保存してきたものに一枚の板碑があった。昭和20年に戦災で失ったが、神社誌に写真が載っており、その説明に高さ4尺、巾1尺余で、阿弥陀如来三尊の種子がそれぞれ蓮台上にあり、銘文は
   池中蓮華 大如車輪
  正安三年辛丑五月二十五日
   青色青光 黄色黄光
とあったという。出土地は早稲田鶴巻町185番地にあった田島の森という赤城神社の旧地で別当等覚寺所蔵のものであった。正安3年は板碑として写真をみた限りではよいようだが、神社との関係はわからないし、むしろ偶然に板碑が発見され所蔵していたとするのが正しいであろう。神社では何時ごろからかわからないが、祭日が9月19日なので、この日を創建の月日にあて、板碑の年月日が正安3年5月25日だから神社草創はそれ以前の9月19日、即ち正安2年9月19日としたのであろう。
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註:写真は東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)から。「神社誌」がさす文書は不明。

 田島森あたりは、想像するに、戸山町から北流してくる金川(一名かに川)が早稲田大学の大隈講堂あたりで東流してくるのと、南方市谷薬王寺町から牛込柳町、弁天町を通って北流してくる川(加二川)とが合流する所であり、そこが沼地になり、島状の地もあったので金川以北から神田川までは、田島森と呼ばれたものと思われる。
 大胡氏が宗参寺の所に移住してくると、この田島森に上州の赤城神社を勧請して鎮守にしたものである。なぜそこを鎮守の森にしたのであろうか。上州の赤城神社は、大胡町の北方にあり、赤城山頂の大沼のほとりにある沼(水)神である。一方この地は弁天町の大胡氏居住地の北方にあたる沼地である。こうみてくるとここに故郷の赤城神社を勧請するには好適の地であったためであろう。
金川(一名蟹川) 水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。
加二川 水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する

江戸川小の歴史散歩③ 牛込地区に坂が多いのはなぜ①

東京実測図。明治18-20年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

鎮守 ちんじゅ。辺境に軍隊を派遣駐屯させ、原地民の反乱などからその地をまもること。奈良・平安時代では、鎮守府にあって蝦夷を鎮衛する。一国や村落など一定の地域で、地霊をしずめ、その地を守護する神。また、その神社。霊的な疫災から守護する神や神社。
上州の赤城神社 御祭神は「赤城神社は、赤城山の麓に佇む、自然と歴史が交差する聖地です。この神社は崇高な赤城山の神と水源を司る沼の神を崇拝し、農業と産業の神として、そして東国開拓の神として崇められています」

 鶴巻町は、『新編武蔵風土記稿』によると、鶏を放し飼いし、鶴番人がいたことから名づけられた町名といっているが、これは後世の意味づけである。「鶴巻」の本義は、世田谷区の「弦巻」も同様であるが、朝鮮語からきたツル(荒野・原野)のマキ(牧)の意であるという(中島利一郎著『日本地名学研究』)。
 牛込という地名は、牛の牧場という意味で、『延喜式』にある「神崎牛牧」は牛込の地に擬されているが(『南向茶話』、『御府内備考』)、それもこの辺だったのではなかろうか。
 神田川にかかる駒留橋というのも牧場に関係あるものだろう。
 大胡氏は、高田八幡(穴八幡)の高台下と、宗参寺東との二つの谷間に柵をつくれば、前述したように、戸山町からの金川、柳町からの加二川に囲まれた 形の地域内は立派な牧場になる。牧場はその北の神田川まで広げて考えてもよい。その牧場を南の高台である宗参寺の所に居館を建てて管理し、前述の田島森に鎮守の赤城神社を建てたということになろう。
鶴巻町 新編武蔵風土記稿東京都区部編 第1巻では
早稲田ノ二所ニオリシ由其頃当村ニモ鶴番人アリシコト或書ニ見コ鶴巻ノ名ハ恐クハ是ヨリ起リシナラン
新編武蔵風土記稿 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
中島利一郎 東洋比較言語学者。国士舘大学教授。生年は明治17年1月2日、没年は昭和34年1月6日
日本地名学研究 「日本地名学研究」で
この地方は弦巻に連接し、一帯の曠野で、農作に適せぬので、牧場として発達したわけ。荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、「つるまき」は「曠野ツルまき」という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである。ここに駒留橋あり、世田谷に駒留八幡神社あり。由来は牧場からである。
延喜式 経済雑誌社「国史大系第13巻」(明治33年)の「延喜式」では「諸国馬牛牧」として武蔵国は檜前馬牧と神崎牛牧2種を上げています。
神崎牛牧 かんざきのうしまき。兵部省所管の武蔵国の牛牧。「東京市史稿」では新宿区牛込のあたりだと推定。
南向茶話 これ以外にいい問答がなさそうです。
  問曰、牛込小日向筋御聞承及も候哉。
答曰、此地は数年居住仕候故、幼年より承り伝へ候儀も有之候。先牛込の名目は、風土記に相見へ不申候得共、古き名と被存候。凡当国は往古曠野の地なれば、駒込馬込(目黒辺)何れも牧の名にて、込は和字にて多く集る意なり。(南向茶話
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 大日本地誌大系 第3巻 御府内備考によれば、
此所は往古武蔵野の牧の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に馬込村あり  等の名もしかなりと 南向茶話 さもありしならん江戸古図にも牛込村見へたり
この辺だった 実は元赤城神社には「神崎の牛牧」という説明板があります。

江戸・東京の農業 神崎かんざき牛牧うしまき
 もん天皇の時代(701〜704)、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
 大宝元年(701年)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするために天皇の意思により32ヶ所の牧場(ちょくまき)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、『牛が多く集まる』という意味の牛込と呼ばれるようになりました。
 牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で『生類憐みの令』が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
平成9年度JA東京グループ    
農業協同組合法施行五十周年記念事業

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kanzaki Dairy Farm
  In the era of the Emperor Monmu (701-704), government-operated stock farms were established here and there in the center of the present metropolis. The area from Waseda to Toyama thronged with roaming cows and, therefore, called ‘Ushigome’ (cow throngs). The area of this shrine was also cow ranches.
  In the dairy farm, there was established a dispensary where cows were reared on the floor for a period and unproductive old cows or sick cows were sorted out.

駒留橋 こまどめばし。丸太橋で放牧された馬がここまで来ても先には行けないので名付けたという(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年)。現在は駒塚こまつかばしです。文京区の神田上水に架かって、文京区目白台1・関口2と文京区関口1丁目を結ぶ小橋。創架時期は不明。

牛込氏についての一考察|③最初の移住地

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の③「最初の移住地」です。

  3 最初の移住地
 まず、大胡氏の牛込移住は、重行の時といわれているが(「牛込氏系図」)、重行の出生は寛正元年(1460)であるから、それよりも前のことになる。『南向茶話』には、重行の父大胡彦太郎重治とあるが、この人物は「牛込氏系図」にはない。
 ところで新宿区弁天町9番地に宗参寺がある。宗参寺は、大胡勝行が天文12年(1543)83才で死去した父重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。そこには牛込氏の墓地があり、大胡重行、勝行父子の墓があり、都の文化財に指定されている。
 思うに、この地が大胡氏の牛込移住の最初の土地ではないかと思う。『江戸砂子』には「……此の地に来り牛込城主となり」とある。
 菩提寺を建立するにはそれだけの場所選定の理由があるし、家族の居住地に寺院が建つ例が多い。『御府内備考』では、宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのはだといっているが、『東京案内』(明治40年、東京市編)は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 なぜここに居住したかについては、大胡氏勧請の赤城神社の旧地を考察する必要がある。
南向茶話 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)と『南向茶話附追考』(明和2年、1765年)はともに江戸の地誌
重治 南向茶話附追考では、「大湖重治」氏が所在地を大胡から牛込に変更し、「勝行」氏は名前を牛込家に変えたとしています。ここでも「重治」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

 なお「新撰東京名所図会 牛込区之部 中」(東陽堂、明治39年)の場合は……。

牛込の称は。北條分限帳に見えて。大胡常陸守領とあり。牛込氏家伝に。大胡宮内少輔重行。法名は宗參。其の子従五位下勝行。北條氏康に属す。勝行は武蔵国牛込並今井、桜田、日尾谷、其の外下総の堀切。千葉を領し。牛込に居住す。因て天文14年正月6日。大胡を改め牛込とすとあれば。牛込の称は。それより以前在りしてと明かなり。牛込氏居住して始て牛込の称起れるにはあらざるなり。
(新撰東京名所図会)

宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗雲居山の寺院。

都の文化財 宗参寺の「牛込氏墓」が文化財になっています。

   牛込氏墓
 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会
江戸氏牛込氏文書 江戸幕府の旗本・牛込家の古文書群21通

江戸砂子  享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り牛込城主となり 同じ言葉ではないですが、続江戸砂子温故名跡志巻之四が埋まっていました。

雲居山宗参寺 寺産十石 吉祥寺末 牛込弁天丁
開山看栄禅師、牛込氏勝行、父の重行菩提のため、天文13甲辰建立しでん四十こくす。雲居院殿前大胡大守実翁宗参大菴主。天文12年に卒す。是おほ重行しげゆきの法名也。これをとりて山寺の号とす。此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょう嫡男ちゃくなん勝行天文24乙卯従五位下ににんず。于時ときに本名大胡をあらため牛込氏とごうす、御幕下牛込氏の也。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
旧蹟 有名な建物や事件が昔にあった所。
 「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのは誤だといっている」と書かれています。実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。

牛込城蹟
牛込家の傳へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(中略)
彦太郎藤原重治は武蔵守秀卿の後胤もと上野国大胡の住人なり、重治が世に至て武蔵国豊島郡牛込の城にうつり住す この城をいふなるべし その子宮内少輔重行天文12年9月27日卒す78歳、その子宮内少輔勝行北條左京大太氏康の麾下に属す、天文13年牛込の地に於て一寺を建て雲居山宗参寺と号す是父の法名によつてなり、寺領十石を寄進す 按に宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし

いかさま (1) なるほど。いかにも。(2) いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき。不正。
麾下 きか。将軍に直属する家来。ある人の指揮下にある。その者。

東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では
牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方がありそうです。1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 また、大胡家から牛込家に名前を変えた時期は、移住した時よりも遅く、勝行氏が牛込家に変えたと、多くの人が考えているようです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

坂道の独特の景観と“遊び方”|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏が書いた「女50歳からの東京ぐらし」(産経新聞出版、2008年)から「坂道が作る独特の景観」「坂道の“遊び方”」(2006年秋)です。氏は産経新聞記者で、初の女性編集長になりました。
 まえがきでは「実際に暮らしてみての東京。それも酸いも甘いもかみ分けた(はずの)、大人の五十代が感じた等身大の大都会。大阪の新聞社で長く生活面の記者をしてきたから、衣食住は取材の基本だ。見て聞いて食べて住んで、心に残る東京を語ってみよう」 はい、難しいけれど、できればそうしたい。

坂道の独特の景観

坂道が作る独特の景観 東京には坂道が多い。名前がついているものだけでも600とも1000とも言われる。東京を語るのに坂道は欠かせないが、さすが東京、「そうですか」で済まない人が多いのは、坂道を語る本が多いことでも知られる。だから、町歩きが好きな知人がたまたま新宿区の戸山公園を散策していて、声をかけた男性が坂道ウォッチャーであったのも、さほど珍しい偶然というわけではないのかもしれない。で、「面白い人に出会ったのよ」と紹介され、話を聞くことになったのも。
 お名前を山崎浩さん(72)という。大手企業をリタイアし、5、6年前から坂道ウオッチングを楽しんでいる。その日に歩いていた戸山公園は尾張徳川家下屋敷があったところで、なんと園内に箱根山を模した40メートルを超す築山もあり、そこで知人に出くわした。「何しているのですか」とお互い話が弾み、メールを交換する仲になった。都会にはそんな出会いもあるらしい。知人も相当町歩きの達人だが、その彼女が興味をかきたてられるほど、山崎さんの「坂道熱」は高かった。まず持ち物が違う。並みの案内書だけでなく、江戸切り絵図、過去と現在とを比べた重ね地図のコピーをたずさえ、そこをマーキングしつつ歩くという徹底ぶり。すでに600の坂を踏破したという。600といえば主だった坂ほぼすべてじゃないですか。「まあ、そうなりましょうか。いまはかつてあった坂道がどう変貌したか、あるいはしていないか。そちらの方に興味が移り、同じ道を歩き直しているところです」
 確かに東京の坂道を歩いていると、道の上と下では日当たりもがらりと違って階層というものを見せつけられる気がするし、六本木の裏道あたりのしゃれたレストランは決まって坂道の途中にあり雰囲気を増す。坂道は東京の街に独特の景観を作り出しているんだな、という感想は持つけど、それっきり。山崎さんをそこまで駆り立てるものは何なのか。「若いころはどこに行くにも徒歩で、なんで東京ってところはこんなにでこぼこしているんだ、と体に疑問がしみこんだ。それを解読しているわけですが」。もちろんそれだけじゃあない。


戸山公園 戸山公園は新宿区戸山一・二・三丁目、新宿区大久保三丁目からなり、箱根山地区(箱根山を中心とした地区)と、大久保地区(明治通りを隔てた地区)に分かれる。かつて箱根山地区の一帯は江戸随一の大名庭園と称された尾張徳川家下屋敷「戸山莊」があった。6代藩主宗春の頃には「東海道」を模して宿場町や渡船、山道などが再現され、人間がいない点以外はまるでテーマパークのようだった。
坂道ウォッチャー 坂道の観察者、観測者、見張り人、番人。
尾張徳川家 徳川御三家のひとつ。徳川家康の第9子義直を始祖。名古屋に居城に、石高は61万9千石。尾張家。尾張徳川家。
下屋敷 したやしき。江戸時代、本邸以外に江戸近郊に設けられた大名屋敷。

東陽堂『新撰東京名所図会』第42編

箱根山 神奈川県南西部、富士火山帯に属する三重式火山。
築山 つきやま。日本庭園に人工的に土砂を用いて築いた山。
江戸切り絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。分割して詳細を示した。江戸市街図刊本にこの例が早くからみられる。
重ね地図 東京と江戸時代の地図を、重ね合わせて表示する地図。
マーキング しるしを付ける。目印を付ける

坂道の“遊び方”

 坂道ウォッチャーの山崎浩さん(72)はこれまで東京の坂道600本を踏破した。しかし、まだ坂道を登りきった気がしない。「次から次に知りたいことが出てくるのです」
 そもそもの疑問は東京になぜ坂道が多いかだった。「地理的にいえば、東京は多摩川扇状地。そこに流れ込む無数の小さな流れが関東ローム層を削り、凹凸の多い地形になった。それを江戸幕府は町づくりに利用したといわれますね」。坂道の名前はどうやって決めたのか。「江戸以来の名前が多いですが、歩いてみてよくわかりました。実に単純。見たまま、それらしい名前をつけています」。例えば、富士山が見えるから富士見坂。うねうね曲がっているのでへび坂。狭いところなのでねずみ坂。「昔は地図なんてものがないわけですから川や橋、そして坂道が目印になった。いわば住所地がわりだったのです」。なるほどなるほど。「あっ、これらはもちろんすべて受け売りです」
 坂道案内の指南書はたくさんあるが、山崎さんが基本図書にしているのは横関英一著『江戸の坂東京の坂』、明治以降の坂が詳しい『江戸東京坂道事典』、わかりやすい『歩いてみたい東京の坂』など。そして江戸時代との比較で『江戸明治東京重ね地図』、江戸の地誌が詳しい『新編武蔵風土記稿』 『御府内備考』などが必需品だという。
 江戸から現代にいたるまで東京は大災害にあい、都市開発が続き大きく変遷した。坂道の運命もそれに伴い消滅したり、平らになったりしたのだが、それらを確認しながら坂道を歩くと、東京歴史散歩をすることになる。「鉄道、都電、オリンピック、この三つが東京の顔つきを大きく変えたことがよくわかりました」。こうなるともはや都市研究家。
 2006年の江戸川乱歩賞を受賞した早瀬乱さんの『三年坂 火の夢』(講談社)は、江戸の華・火事と坂道とをモチーフにした力作だ。「三年坂で転んでね」。謎の言葉を残して急死した兄の足跡を追ううち、文明開化の東京の陰影があぶり出される。あれ、読まれしたかと山崎さんに聞いたら、「三年坂は東京にはいくつもあり、名前が変わっているものもありましてね」と、たちまち解説が始まった。まさに作品の謎にかかわるところ。坂道ひとつでこれだけ都市を一人遊びできる。そこがすごい。

ウォッチャー watcher。ある対象を定期的、継続的に観察、監視する人。多くは他の語と複合して用いる。「政界ウォッチャー」
多摩川 東京都を北西から南東に貫流し、下流部では神奈川県との境界をなす川
扇状地 川が山地から平地へ流れ出る所にできた、扇形の堆積たいせき地形
関東ローム層 関東平野をおおっている火山灰層。ローム(loam)とは砂、シルト、粘土からなる土壌の組成名で、国際土壌学会法ではシルト・粘土の合量35%以上、粘土(<0.002mm)15%以下、シルト45%以下と定義される。
富士見坂 新宿区では旧尾張藩邸に元々あった坂。現在は自衛隊市ヶ谷駐屯地内。その場所は不明。
へび坂 蛇坂。港区では三田4丁目1番、4丁目2番の間で、付近の藪から蛇の出ることがあったため。
ねずみ坂 鼠坂。新宿区の鼠坂とは納戸町と鷹匠町との境を、北のほうへ上る狭い坂だった。現在は歩道橋に取って変えられた。
横関英一著『江戸の坂東京の坂』 昭和45年に有峰書店から出ている。続は昭和50年。ほぼ全ての坂が書いてある。
『江戸東京坂道事典』 石川悌二著。出版社は新人物往来社。平成10年。同じ作者の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)のほうが早い。この2冊、内容もほぼ同じで、ほぼ全ての坂が書いてある。
『歩いてみたい東京の坂』 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)。限られた坂について微細に書いてある。
『江戸明治東京重ね地図』 江戸時代・明治時代の東京と、現代の東京の地図を重ねて表示できるアプリ。16500円。しかし、2020年3月31日から、サービス提供は終了。「一般社団法人 地歴考査技術協会」で後継サービス提供を計画中。
『新編武蔵風土記稿』 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
『御府内備考』 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
早瀬乱 はやせ らん、小説家、ホラー小説作家、推理作家。法政大学文学部を卒業。生年は昭和38年。
『三年坂 火の夢』 2006年、第52回江戸川乱歩賞受賞作。兄が残した言葉の謎を追う実之。東京に7つある三年坂の存在に辿り着いたとき、さらなる謎が明らかになってくる。
三年坂 三年坂で転ぶと三年以内に死亡するか、転べば三年の寿命が縮まるという俗信がある。本来は寂しい坂道だから気をつけろという言い伝え。詳しくは三年坂・由来で。

「どんどん橋」は一般名詞? 固有名詞?

文学と神楽坂

 神楽坂に住む地元の人がこんな異議を送ってくれました。 神田川(昔の用法では江戸川)にある「どんどん橋」についてです。
 まずその内容です。
「どんどん」は2つ?
 こちらのサイトで、神田川の「どんどん」を知りました。ただ、どうにも分かりにくいところがあります。
 歌川広重団扇絵「どんどん」の記事には「船河原橋は『どんど橋』『どんどんノ橋』『船河原のどんどん』などと呼ばれていた」とあります。一方で団扇絵に描かれた「どんどん」については「牛込御門で、その向かいは神楽坂」と説明しています。
 別の記事の船河原橋と蚊屋が淵では「船河原橋は(中略)俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。」
 牛込橋では「この『どんどん』と呼ぶ牛込御門下の堰」と書かれています。
 同じものかと錯覚してしまうのですが、牛込御門のある牛込橋と、船河原橋は別の橋です。
 おかしいなと思って改めて地図(明治20年 東京実測図)を見たら、船河原橋のすぐ下に堰と思われるものが書かれています。

 つまり「船河原のどんどん」と、広重団扇絵の「どんどん」は別モノなんですね。
「どんどん」と呼ばれるものが2つあったのでしょうか。それとも何かの間違いでしょうか。

 まず「どんどん橋」を考えてみます。辞書を見ると「踏むとどんどんと音のする木造の太鼓橋(反り橋、全体が弓なりに造ってある橋)」。また「どんどん」は「物を続けざまに強く打ったり大きく鳴らしたりする音を表す」ことだといいます。なるほど、太鼓橋だったんだ。つまり、これは固有名詞ではなく、あくまでも一般名詞なのです。そして、船河原橋でも、牛込橋でも、一般名詞の「太鼓橋」や「どんどん橋」と呼んでもいいのです。
 赤坂の溜池では堰をつくって、やはり「赤坂のどんどん」と呼ばれていたようです。この「どんどん」は「どんどんと音のする橋」なのでしょう。

「溜池葵坂 溜池は、江戸時代初期に広島藩主浅野幸長が赤坂見附御門とともに築造した江戸城外堀を兼ねる上水源で、虎ノ門から赤坂見附まで南北に長さおよそ1,400m、幅45~190mの規模を持つダムである。写真はその南端部の堰の部分で、堅牢な石垣の間から滝のように流れ出ている水が溜池の水である。どうどうと流れ落ちる水量の多さから、その落とし口は「赤坂のどんどん」と呼ばれ、江戸の名所の一つとして錦絵にも数多く描かれている。葵坂は写真左手を緩やかに登る坂で、高い樹本のあたりが坂の頂上となる。溜池は明治10年(1877)にこの堰の石を60cmほど取り除いたところ、瞬く間に干上がってしまったという.またこの付近は大正から昭和にかけての大幅な道路改正が行われ、葵坂は削平され、溜池も埋め立てられて外堀通りとなった」マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 御府内備考(府内備考の完成は1829年)の「揚場町」には船河原橋、つまり「どんどん橋」がありました。


 右は町内東北の方御武家方脇小石川邊えの往來江戸川落口に掛有之船河原橋と相唱候譯旦里俗どん/\橋と相唱候得共

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製。日本地図センター、2011年)

 解説とは違い、中景に船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。
 町方書上(書上の完成は1825-28年)の「揚場町」も同じです。

船河原橋之義町内東北之方御武家方脇小石川辺之往來、江戸川落口掛有之、船河原橋相唱候訳、且里俗どんどん橋相唱候得共
 なお、御府内備考の牛込御門の外にある「牛込橋」では「どんどん橋」だと書いてはありません。おそらく時間が経ち「どんどん橋」から、普通の橋になったのでしょう。御府内備考の「牛込御門」は……
    牛込御門
【正保御國繪図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英寛永十三年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が隨筆】に昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血槍・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といひ、牛込方は小栗牛左衛門・間富七郎兵衛・都筑叉右衛門などの並びを牛込方といふ。其間道はゞ百間にあまりしゆへ。牛込と番町の間ことの外廣く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。
 さて、この「どんどんノ図」はどちらなのでしょうか。牛込揚場町にある茗荷屋は右岸にあり、この位置から、おそらく、牛込橋だろうと思っています。

神楽坂|牡丹屋敷のいわれ

文学と神楽坂

「牡丹屋敷」は明治20年の地図でも出てきますが、江戸時代にすでに三分割し、この屋敷自体はまったくありません。この典雅な名前「牡丹屋敷」のいわれですが、東京市企画局都市計画課編「東京市町名沿革史 上巻」(昭和13年)ては……

亨保14年11月岡本某この地を借り牡丹を植えこれを将軍吉宗に呈す、よって牡丹屋敷の称あり

 亨保14年11月は1729年12月から1730年1月までです。
 また新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』でこう書いています。

牡丹

牡丹

牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24曰に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)

上り屋敷 江戸時代の狩猟地における休憩所
拝領町屋 江戸で下級の幕臣に与えられた拝領屋敷内に長屋を建て、町方の者を居住、賃貸料を取ることを認められたもの。

 江戸幕府が編集した江戸の地誌「御府内備考」(大日本地誌大系。第3巻。雄山閣。1931年)では

    牡丹屋舗
 町之儀往古は武州豊島郡野方領牛込村の内に有之其御武家方御屋舗に相成候處 有德院樣御代岡本彦右衛門と申者紀州御供仕武家に御取立之蒙臺命候得共御免相願町家望のよし奉申上候に付當町拝領仕致住居候而  御傳法の熱湯散と申藥相弘大鷲壹羽御預被爲遊屋敷内にて牡丹花を作御て致献上候よし依之町名を牡丹屋舗と唱家號牡丹屋彦右衛門と申寵在侯處其後賓暦年中有て蒙御咎を家財被召上上地上り屋舗に相成候…
 「当」の旧字。
往古 遠い過去。大昔
有徳院 江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗のこと。有徳院は戒名。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた平仮名。合略仮名。
台命 将軍や皇族などの命令。
拝領 目上の人、身分の高い人から物をいただくこと。
伝法 でんぽう。師が弟子に仏法を授け伝えること。秘伝
大鷲 おおわし。タカ目タカ科の猛鳥。
家號 やごう。商店の呼び名。店名。
 ゆえ。事の起こるわけ。理由。原因。

 江戸時代の『御府内風土記』編纂で、江戸の町の由来について町名主に提出させた書類「町方書上」(新宿近世文書研究会、1996年)でも中身は同じです。

 當町之義、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之、其後武家方御屋鋪相成候處、 有徳院様御代、岡本彦右衛門申者紀州ゟ御供仕、武家御取立之蒙 台命候得共御免相願、町家望之由奉申上候付、當町拝領仕致住居候 御傅法熱湯散申薬相弘、大鷲壱羽御預被為遊、屋敷内而牡丹花作候献上致候由、依之町名ヲ牡丹屋舗卜唱、屋号牡丹屋彦右衛門申罷在候処其後、宝暦年中故有蒙御咎、家財被召上、地面上り屋敷相成候趣申傅候、其後右上り屋鋪…
 平仮名「は」と同じ。漢字「者」から派生。

 岡本彦右衛門は家伝の薬「熱湯散」をつくっていましたが、宝暦11年(1761)、岡本彦右衛門が故あって咎めをこうむり、このため屋敷を没収、屋敷は上り屋敷になりました。翌12年、地所は3つにわけられ、大奥女中方御年寄飛鳥井(かすがい)、同花園(はなぞの)、御表使三坂(みさか)の3人の女性が拝領することになりました。
 明治2年(1869)に玉咲(たまさき)町と改称、明治4年には神楽町1丁目と改称、明治26年になってから神楽坂1丁目になります。
 なお他の牡丹屋敷と区別するため新宿歴史博物館は牛込牡丹屋敷と書いています。現在はスターバックスコーヒーなどが林立しています。

揚場町|町方書上と御府内備考

文学と神楽坂

揚場町・現代

揚場町・現代

 揚場あげばちょうは新宿区北東部にある町名で、飯田濠に面した荷揚げ場があったので、この名前になりました。
 文政9年(1826年)の「町方書上」の揚場町です。「相」という言葉が出てきますが、「相成る」「相変わらず」と同じで、意味は「語勢や語調を整える。意味を強める」ものです。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。非売品。新宿区立図書館。

牛込揚場町
一 御城之方り、弐拾七町
一 町方起立之年代、草分人之名書留無御座分り不申候得共、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、年月不知武家方御屋鋪相成、其後追々拝領町屋相渡、神田川附而山之手諸色運送之揚場相成候付、町名揚場町相唱申候
[現代語訳]牛込揚場町
一 江戸城からは北西の方角で、およそ3kmぐらい
一 町成立の年代や成立時の人々の名前は書きとめはなく、不明ですが、昔は武蔵国豊島郡野方領牛込村の中にありました。年月はわかりませんが、初めに武家方の御屋敷がでてきて、その後、だんだんと拝領町屋もでできました。神田川の側であり、山の手で種々の品物を運送するのが揚場になりました。町名も揚場町といいます。

書上 かきあげ。特定の事項を調査して、下位から上位の者や機関に上申すること。その文書。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)
 い。北西よりやや北寄り。北西微北。北から東回りで330°
 新字体は「当」
 おおよそ。ほぼ。大体。
弐拾七町 27町。約3km。
起立 きりつ。都市などを建設すること
草分人 くさわけにん。草分は、江戸時代、荒れ地を開拓して新しく町村を設立すること。従事した者や設立当時からの住民を草分町人や草分百姓という。
書留 書き終える。書きとめる。
無御座 ござなく。ありません。ございません。「無し」の尊敬語、丁寧語。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。意味を強める。
不申候 〜と言いませんでした。
候得共 そうらへども。ではありますが
武州 武蔵国の別称。
豊島郡 武蔵国と東京府にあった郡。概ね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、練馬区の区域
野方領 地名に武蔵野のように野がつくところが多く、まとめて野方と読んでいた。豊島郡のうち牛込村から吉祥寺村までの広範な部分。
屋鋪 やしき。屋敷。
追々 おいおい。これから徐々に。時間が経つにつれて。だんだんと。
諸色 諸式。いろいろな品物。いろいろな品物の値段。物価。
 しこうして。しかして。そして。順接を表す語。しかも。しかるに。それでも。逆接を表す語。

 次は文政12年(1829年)の「御府内備考」の揚場町です。ほとんど同一なので、訳はしません。

揚場町

(左図)御府内備考。第53~55巻。牛込1~3。揚場町。(右図)大日本地誌大系。第3巻。御府内備考巻54。どちらも国会図書館。

一 町方起立の年代草分人の名書留等無御座相分不申候得共往古武州富島郡野方領牛込村の内に有之候處年月不知武家方御屋鋪に相成共後追々拝領町屋に相渡神田川附に而山の手諸色運送の揚場に相成候に付町名揚場町と相唱申候

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

大下水|市谷~牛込

文学と神楽坂

 江戸時代、市ヶ谷から飯田橋にかけて「大下水」がありました。
 この時、下水には3種類があったのです。自宅の前にある小下水、小下水を集める横切下水、横切下水を集めて最終的に落口から川にもっていく大下水です(新宿区教育委員会『紅葉堀遺跡』平成2年)。大下水は石垣で構築され、その普請修復は公的資金で行いました。
 この大下水は、昭和初期にあんきょ、つまり、地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路になっていきます(本田創編著「東京『暗渠』散歩」洋泉社、平成24年)。それ以前にはかいきょ、つまり、ふたはない水路になっていたのです。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4。神楽坂界隈の変遷』(1970年)から

 まぁ、昔の下水のほんどは、雨水でした。屎尿は汲み取り式なので、下水に便や尿が混入することはなく、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、最後は植木にまくわけです(ミツカン。水の文化。排水の歴史)。
 では、牛込の大下水について、『御府内備考』はどう見えていたのでしょう? この『御府内備考』は江戸幕府が編集した江戸の資料集です。これを編纂した『御府内風土記』は、1872年(明治5年)、皇居火災で焼失しましたが、『備考』は残っています。

大下水

大下水

大下水と外濠。正保年中江戸絵図から。正保元年(1644)頃。垂直に川が2本流れるように見えるが、左側は大下水の水、右側が外濠の水で、どちらも本当の川ではない。

大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す。此下水の成し年代等詳ならざれと寛永十八年堀千之助御手傅にて石垣を築きしよし傅ふれば古き下水なら事なし。此下水の上流尾州表門より外を柳川と唱へそれより上を拾川と唱ふるよし。よりて下流まてを通して紅葉川など書しものあり。その実は無名の大下水なり。改撰江戸志云紅葉堀の名は市谷左内坂の名主 草名の名主といふ 家に蔵するふるき帳にも見へしといふ。坂光淳の説に四谷御門をそのかみ紅葉御門といひにといふによれはそれらの名よりおこりしや。此御門にはその比よき紅葉のありしかはかくいひしにやと


[現代語訳]大下水は市ヶ谷田町から牛込揚場町を経て、船河原橋脇にて神田川に合流する。この下水が成立した年代などはわからないが、寛永18年(1641年)、堀千之助は土木工事を行い、石垣を築いたという。古い下水なので議論しても仕方がない。この下水の上流は尾張国上屋敷の表門からの外に流した部分を柳川といい、それより上を拾川という。下流までを通して紅葉川など書いたものもあるが、その実は、無名の大下水である。改撰江戸志によれば、紅葉堀の名は市谷左内坂の名主(草体の署名が有名な名主)の家にあった古い帳簿でも見える。18世紀の歌人・坂光淳の説によれば、四谷御門をその昔、紅葉御門といったので、その名から名前がついたという。その時分、この御門には美しい紅葉があったので、そう名前がついたのではないか。

 正保年中江戸絵図(上図、1644年頃)には、大下水を越えて市谷と牛込を渡る橋は市谷御門だけです。牛込御門から神楽坂までは大下水のため直接渡れませんでした。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川なども大下水と同じ意味で、図では外濠の上に大下水がありました。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川は大下水と同じ意味。

 一方、明暦江戸大絵図(下図、1658年頃)では、市谷御門と牛込御門2つになっています。また、大下水の幅は、正保年中江戸絵図で神楽坂1丁目と同じぐらいと考えると約30m、一方、明暦江戸大絵図では一部に家などができているのか、幅は少なくなっていますが、それでも一間、つまり、約1.8mもあったと、『御府内備考』「揚場町」は述べています。

明暦江戸大絵図。http://collegio.jp/?page_id=154 (明暦は1655~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

明暦江戸大絵図(明暦3~4年頃、1657~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

『新修新宿区町名誌』から

『新修新宿区町名誌』から

市ヶ谷田町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、「豊島郡市谷領布田ふた新田と称す場所に、元和六年(1620)頃から百姓町屋を立てていた。同九年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧址が堀になってしまったため、旧地近くの堀端に町屋取立てを願い出たが、既に武家屋敷となったために願いは却下され、替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂御門前の二か所を提案された。しかし両所ともに馴れ住んだ場所から離れた所だったので佐渡殿原の土を引きならして武家地に仕立てることを願い出、また堀端通りの田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋立てた。寛永三年(1626)にこの埋立地を町割りし、南から順に市谷田町一丁目、上二丁目、下二丁目、三丁目とし、四丁目のみ市谷御門の南西側、現在の外堀通りと靖国通りとの分岐点にあたる場所に作られた。この地を開発した草創名主は島田左内である」。また、『新修新宿区町名誌』の絵(右図)では、南端は左内坂だと描いています。
牛込揚場町 新宿区北東部の町名。北は下宮比町に、東は神楽河岸に、南は神楽坂二丁目に、西は津久戸町にそれぞれ接する。江戸時代では神楽河岸の一部を含む。
船河原橋 旧江戸川(現神田川の上流)の橋。現在は、さらに外濠のお堀、さらに神田川も結ぶ橋(ここに最近の図)。
江戸川 現在は神田川。昔は堀と合流する上流を江戸川と呼びました。
寛永十八年 1641年
堀千之助 越後村上藩の堀干介直定。寛永15年(1638)、父直次が25歳で死亡し、寛永18年(1641)、幕府の命令で、6歳で御手伝普請を行い、家臣に市谷水道石垣の普請浚工したため賜物を与えた。翌年、死亡し、そのため後継者はなく、断家した。
御手伝 御手伝普請。おてつだいぶしん。豊臣政権や江戸幕府が大名を動員して行った土木工事。
 ゆ。さとす。相手の不明点や疑問点をといて教える。
尾州 びしゅう。尾張おわり国の異称。
柳川 「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から下流部分を指すという。名前は川沿いに柳が植えられていたため。
拾川 同じく「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から上流部分を指す。
紅葉川 「暗渠さんぽ」では、『全体をさす名称として、「紅葉川」「楓川」「長延寺川」「外濠川」などがみられます』
紅葉堀 「暗渠さんぽ」では、大下水のこと。
左内坂の名主 名主は島田左内です。
草名 そうみょう。そうな。草体の署名。特に、二字を合わせて一字のように書いたもの。その傾向が進むと、字を変形あるいは合体させて特殊な形をつくる花押かおうとなる。
坂光淳 18世紀の歌人。自書は『用心私記』
四谷御門 四谷見附門。千代田区麹町6丁目。現在のJR四ッ谷駅麹町口付近。初代長州藩主の毛利秀就が普請した

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考2

文学と神楽坂

 この「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 また、磯部鎮雄氏が「御府内備考」「総説」から直接取った引用がありますが、ここは1字下げ・11ポイントで表しています。同じ11ポイントの引用で、濁音、句読点、さらに()の補修などは氏が直接書いた部分です。
 牛込御門、さらに牛込という名前がどうして付いたのか、説明しています。

白い矢印が昔の外濠

白い矢印が当時の神楽坂から牛込御門までの間隔。外濠と大下水があり、人間は住めなかった。

 牛込御門が出来たのは寛永13年(1636年)である。これは番町と牛込台が陸続きであるから城の擁護のために今の外濠を開削したのであって、その広さは土手際から田町の往還までで相当広かった。明治になって中央線の鉄道を引くために、堤の裾を崩して濠を埋め、線路敷にした。だから今の外濠の幅は大分縮められていることになる。
 御府内備考によれば「正保絵図に牛込御門は牛込口と記す。又寛永十三年蜂須賀阿波守忠英、命を受けて牛込御門石垣升形を作るとあり。この時始めて建てられしならん」とある。今でもその石垣の一部は残っているが、明治30年牛込停車場が出来てもまだ升形は残っていた。

 されば牛込への船入などいへるものもなかりしに、万治の頃、松平陸奥守綱宗、仰せをうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へ(吉祥寺は駒込に移転する。今も駒込にあり。この頃は水道橋の辺りにあった)かけてほりぬき、水戸家の前(今の後楽園のある所)を過ぎ、牛込御門の際まで掘しかば、はじめて牛込へ船入もいできし。この掘り上たる土を以て小日向築地小川町の築地(この辺往時は湿地帯なりしという)なり、武士の居やしきもたてり。この築地ならざる前は、赤城の明神より目白の不動まで家居一軒もあらで、畑ばかりなりしが、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり。この比(ころ)の堀普請は三年を歴たり、その間昼夜を分たずその功をなせしと云。水道橋のくづれ橋、その時の木戸門ありし所也。改撰江戸志に云、に御討入(家康入国をいう)の前牛込のさまをおもふに牛込宮内少輔勝行が館(やかた)あり、又恒岡弾正忠の所領もありしかば、ここに家居ありしにや。(此の説には疑問あり、恒岡は稲毛高田村か)

 とにかく、牛込は番町の一部にも喰い込んでいて、お濠が出来る以前の牛込の地域はとこからとこまでであったということは定め卸い。牛込はいわゆる惣名であって、神楽坂を中心として惣名で区切ると、市ヶ谷、落合、番町、小日向、早稲田に挾まれた地域が牛込であるといえよう。
升形

升形。二つの城門と城壁とでつくった四角い空き地

開削 開鑿とも。山野を切りひらいて道や運河を作ること。
往還 おうかん。道を行き来すること。往復。
御府内備考 ごふないびこう。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
正保絵図 国立公文書館デジタルアーカイブによれば「正保年中江戸絵図」でしょうか。
蜂須賀阿波守忠英 はちすか あわのくにの ただてる。阿波徳島藩(現、徳島県)の第2代藩主。
升形 枡形。ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
万治 1658年から1661年まで。万治3年(1660年)、幕府は江戸城小石川堀(神田川濠)の工事をするように命じ、船の通行を企図した。
松平陸奥守綱宗 伊達綱宗。仙台藩第3代藩主。
浅草川 隅田川の別称。
柳原 足立区南部の千住地域東部の地名。
御茶ノ水 文京区湯島から千代田区神田に至る、神田駿河台を中心とした一帯の地名。

正保年中江戸絵図

吉祥寺が見える(正保年中江戸絵図から)

吉祥寺 長禄2年(1458年)、太田道灌が和田倉門に創建。徳川家康の入府に伴い天正19年(1591年)、水道橋(現在の都立工芸高校、文京区本郷1-3−9あたり)に移動。明暦3年(1657年)明暦の大火で焼失し、文京区本駒込に移転。
水戸家 水戸徳川家の江戸上屋敷。現在は小石川後楽園。場所は文京区後楽一丁目。
小日向 文京区の町名で、小日向一丁目から小日向四丁目まで。
築地 海や沼などを埋めてつくった陸地。埋め立て地。
小川町 おそらく新宿区新小川町でしょう。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「明暦四年(1658)3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して(新小川町を)埋め立てた。また、万治年中(1658ー61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ」
赤城の明神 現在、赤城明神は赤城神社に。
目白の不動 文京区関口二丁目にあった新長谷寺のこと。1945年(昭和20年)、廃寺に。
堀普請 土地を掘って水を通した堀について建築や修理などの土木工事。
功を成す こうをなす。人が成果をだすこと
くづれ橋 崩落・崩壊・落橋事故の橋。神田のくづれ橋は箱崎橋のこと。水道橋のくづれ橋はわかりませんでした。
木戸門 きどもん。2本の柱を冠木かぶきでつなぎ、屋根をのせた、木戸の門。
改撰江戸志 改正新編江戸志でしょうか。東武懐山子編著。天保3年(1832)
 物事を押さえて調べる。よく考える。
牛込宮内少輔勝行 牛込勝行は戦国時代の武将。牛込城は天文年間(1532-55年)に勝行が築城した城。
恒岡弾正忠 天正十八年、江戸城が落城するまでは新宿区内は北条氏の支配下で、戸塚は恒岡弾正忠の知行地だった。
牛込は番町の一部にも喰い込んでいて おそらく違います。神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1を読んでください。
惣名 そうみょう。ひとかたまりのものを一つに総括していう名称。総称。

新風土記”を要略すると、
 牛込村は古へ広き地界篭めたり、今の府内なる牛込の町々、及び早稲田、中里、戸塚辺、総て当村の地域なりしが、御打入の後、年を追ひて武家及び寺社の拝領地、又町屋となりし故、耕種の田甚だ少し、当村は往古曠野の地にして、駒込、馬込など云ふ者と同じく、皆ありし処と見ゆ、は和字にて多く集る意なり、も牛の多く居りし処と見ゆ。北條役帳に「江戸牛込、六十四貫四百三十文」大胡が知行なる由記せり。
 牛込家譜に、上野国大胡住人、彦太郎重治、当国牛込に移り、北条氏康に属し、重治の孫宮内少輔勝行が時、天文二十四年(1555年)氏を牛込と改め、当村及び今井(赤坂)桜田、其余若干の所領ありけりと。
 又天正十八年の制札に武蔵国荏原郡江戸の内、牛込七村とあり、荏原郡と記せしは早卒の間、たまたま誤り記せしなるべし。
 牛込台というは、此地西南は高地にして今御徒町(北町、中町、南町)、納戸町、山伏町、二十騎町、甲良町、箪笥町、岩戸町辺り。東は低地長延寺谷より市谷田町、水道町、新小川町辺なり。高低一ならず、谷地、懸崖あり。津久土、赤城は台地、北の方江戸川沿いは低地なり。中央、早稲田、弁天町、榎町、柳町、薬王寺辺亦低地に属す。この区は川らしき川なく、懸崖、傾斜地、いたる処に幅湊するゆえ、坂亦多くあり。今日地形大いに改修せられ、急坂少くなりしも、未だ坂多し。

新風土記 おそらく『御府内風土記』でしょう。1872年(明治5年)の皇居火災で焼失しました。しかし、ここで要略した「新風土記」は、どこから引用したのか、わかりません。
地界 土地の境界。土地。
篭める ひとまとめにする。一括する。
府内 御府内。江戸時代、江戸の市域とされた地域。
御打入 天正18(1590)年、徳川家康は江戸城に入り、根拠地としたが、これを「江戸御打入り」と呼ぶ。
耕種 こうしゅ。土地をたがやして、種や苗を植えること。
曠野 広野。こうや。ひろびろとした野原。ひろの
 ぼく。牛や馬などを放し飼いにする場所。まき。まきば。牧場。
 国字。中に入る。中で詰まる
 ここに。先行の事柄の当然の結果として、後行の事柄が起こる。それで。そこで。それゆえ。
知行 中世・近世、領地や財産を直接支配すること。近世、幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支給したこと。その土地。
制札 禁制きんぜい・禁札・制符とも。禁令の個条を記し,路傍や寺社の門前・境内などに立てる札。
早卒 そうそつ。急なこと。突然なこと
懸崖 けんがい。きりたったがけ。がけ。断崖。絶壁。
幅湊 ふくそう。輻湊。輻輳。四方から寄り集まること。物事がひとところに集中すること。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1

文学と神楽坂

「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 はい、間違いがあるのです。最初は極めて正しいのですが……

 神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考
 往古の牛込の地域とは、どこからどこまでであったという事は定め難い。
 武蔵の国の、その中の一地域が牛込村で、強いていえば小石川と四谷の間の高陵、もっと縮めていえば江戸川流域に沿った小日向と市ヶ谷台との間の地域が、つまり牛込氏(大胡氏)が砦らしき館を築いた光照寺あるいは行願寺の辺り、つまり牛込御門内外(まだ江戸城の外濠は開さくされない時分から)と神楽坂を中心として早稲田、戸塚辺までが牛込であるといえる。
 小田原北条氏麾下に、大胡氏が牛込氏となって牛込城を築いた神楽坂上が、牛込氏の本拠であった事は確かなる事実といえる。この事は前掲牛込城址の項にと述しておいたので、ここでは重記することになるのであえて記述しない。この牛込について“御府内備考”の総説を摘記しておくと、

武蔵国 むさしのくに。東京都、埼玉県、神奈川県の一部
牛込氏 淵名兼行の孫・重俊が上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、大胡氏と称した。戦国時代、重俊から十代の孫・大胡重行の子勝行にいたって、小田原北条氏三代の氏康に招かれ、江戸牛込に移り住み、以後牛込氏と称した。
開さく おそらく「開鑿」でしょう。土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。
麾下 きか。将軍じきじきの家来。旗本。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

 これからは国立国会図書館デジタルコレクションの御府内備考を直接使います。ただし、「が」や「ど」などの濁音や、「、」「。」などの句読点は補っていて、また割注という一行の中に二段構えで表示する補注も補っています。
 まず牛込の「込」は、「牧」の和字で、牛が「多く集まる」という意味。次は16世紀で、大胡氏を牛込氏に変更したことが書かれています。これも全く正しいのですが。以下は「御府内備考」を直接引用します。

御府内備考

御府内備考

 総説
此所は往古武蔵野の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり。駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に 馬込村あり 等の名もしかなりと 南向茶話 。さもありしならん。江戸古圖にも牛込村みへたり。中古上野國大胡の住人大胡彦太郎重治といひし人當國にうつり 年時を 詳にせず 此豊島郡牛込村にすみ小田原の北條に属せり。その子宮内少輔亜行天文十二癸卯年の秋七十八歳にして卒す。その子宮内少輔勝行が時に至り天文廿四乙卯年 弘治元年なり 五月六日、北條氏康に告て大胡を改めて牛込氏となれり。此時氏康より判物を賜ひ江戸の内牛込村今井村 今赤坂にあり 櫻田村日尾村 今の日比谷なり  を領せり 他国の領地は略せり  勝行天正十五丁亥年七月廿五日卒すとし八十五歳 牛込系図北條分限帳を見るに江戸牛込六十四貫四百三十文の地を大胡某領せしよし載す。


往古 おうこ。おうご。過ぎ去った昔。いにしえ。
武蔵野 武蔵野台地。荒川と多摩川に挟まれた関東平野南西部の洪積台地の通称。

125,000デジタル標高地形図

125,000デジタル標高地形図 http://www.gsi.go.jp/kanto/kanto41001.html

 まき。馬や牛を放し飼うために区画された地域。
南向茶話 国立国会図書館デジタルコレクション「戯作六家撰」を引くと、 岩本佐七「燕石十種」(国書刊行会、明治40年、国立国会図書館オンライン)が出てきます。この354コマのうち254コマに「南向茶話」左下に「牛込之名目は風土記に相見え不申候へども舊き名と被存候凡て當国は往古嚝野の地なれば駒込馬込(目黒邊)何れも牧の名にて込は和字にて多く集る意なり」と書いてあります。
上野国 現在の群馬県。
大胡彦太郎重治 新宿区赤城元町にある赤城神社については、鎌倉時代の上野国(群馬県)赤城山麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治は、正安2年(1300年)、牛込早稲田田島村に赤城神社の分霊を祀ったといいます。
宮内少輔 くないしょうゆう。従五位下の官位。宮内長官は1人、宮内大輔は1人、宮内少輔は1人で、宮廷の修繕、食事、掃除、医療など庶務を務めた。
天文十二癸卯年 1543年
卒す しゅっす。死ぬ。特に皇親や四位・五位の人の死で。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代相模国の戦国大名。1515~71年。
北条分限帳 相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の役高を記した分限帳。

「牛込方」の一部は麹町にはいっているのではと、磯部鎮雄氏は指摘します。しかし、そうではなく、単に神楽坂一丁目と二丁目の発展を描いているだけです。個人の名前が出ていますが、全員、神楽坂の南に出ている名前です。

正保年中江戸絵図

正保年中江戸絵図。正保元年(1644)頃の図

 新見隨筆に云、昔は牛込の御堀もあらで、四番町にて長坂血槍、須田久左衛門なとの並びの屋敷をさして番町方といひ、牛込かたは小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門などのならびを牛込といへり[1]。その間の道幅百間に餘りし故。牛込かたと四番町の間、ことの外廣く草茂りて夜ことに辻切など云ことあり[2]、その後丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛などいへる小十人をつとめし人、小栗、間宮を屋鋪の前の方に居宅を給ひ、鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門などおしならびて市が谷の田町へつゞきし故、道幅もおのづとせばまり七十四間といふになれり。そのころ牛込の御門もいできしなり。

小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門 名は違いますが、姓は同じものが、下図で青色で描いた居宅にあります。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間は1673~81年。

[1] 磯部鎮雄氏の註は「今千代田区富士見町1丁目、日本歯科大あたりか? この辺も牛込のうちに入るらしい」と書いていますが、残念ながら、入りません。延宝年間の地図で、神楽坂より南の方を見ればよかったのにと考えてしまいます。現在、小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門の並びは、牛込神楽坂二丁目にはいります。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
四番町 現在は千代田区の町名の九段北3丁目と4丁目。
辻切 ➀ みちり。村の入り口で行われる民俗習慣のひとつ。注連縄しめなわを張ったり、大草鞋わらじを掛けたりして、悪霊や悪疫の侵入を防ぐ。➁ 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。この場合は➁でしょう。
[2] 同じく磯部鎮雄氏の註は「このあたり切図の番町図をみると御用地で広く、里俗蛙ヶ原(かわずがはら)という所で,左手に牛込御門がある。この御門内も牛込の内であったのであろう」。[1]と同じで、残念ながら違い、御門内は千代田区です。
丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛 右図で水色で描いた居宅でしょう。
小十人 こじゅうにん。江戸幕府の職名で、将軍出行の際に先駆として供奉した足軽の組。
鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門 右図で緑色で描いた居宅
七十四間 135.42mです。どこからどこまで測ったのか不明ですが、神楽坂下のスターバックスから麹町警察署飯田橋前交番までの距離でも正しいと思います。下図を参照。
牛込御門 寛永16年(1639年)に建築しました。

外堀通り

外堀通り(グランマップ Mapnet Corp. 2001で作成)