新宿郷土会」タグアーカイブ

一瀬幸三氏はすごい人だった!

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏は新宿区の郷土研究家として力を発揮していたのですが、では、その前の仕事は何をしていたのでしょうか? 調べてみました。
 まず一瀬幸三氏が書かれた本で、新宿区と国会の図書館に入っているものです。他にもあるはずですが、ここでは図書館の本に限定しています。

新宿区立図書館と新宿歴史博物館の収集本
新宿郷土研究 第1号~第5号 1965〜66年
新宿区史跡の会々報 1966.06
円朝考文集 第1 窪田孝司/編 円朝考文集刊行会 1969.06
円朝考文集 第4 窪田孝司/編 円朝考文集刊行会 1972.06
新宿の石仏 1970.08
新宿のキリシタン 1972.05
新宿郷土研究史料叢書 第1冊 右衛門桜古跡石文 全 1972.09
新宿郷土研究史料叢書 第2冊 新宿のキリシタン 1973.07
新宿生物文化史 1978
霊場源流考 府内八十八ケ所 1983.05
新宿遊郭史 1983.10
新宿の四季 野草;新宿区ビデオ広報 一瀬幸三監修 読売映画社 1988 DVD
新宿の牧場昔むかし 新宿郷土研究史料叢書 第6冊 1990.03
牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断 新宿郷土研究史料叢書 第7冊 1990
牛込藁店亭と都々逸坊扇歌 新宿郷土研究史料叢書 第8冊 1991.03
太田道灌と山吹の里新考 新宿郷土研究史料叢書 第9冊 1991.07
歌人前田夕暮と西大久保 新宿郷土研究史料叢書 第10冊 1992.01
石原和三郎と田村虎蔵 言文一致唱歌の創始者 第 11冊 1992.07
太田道灌と山吹の里新考 続 新宿郷土研究史料叢書 第12冊 1992.11
大和田建樹の作歌活動と東榎木町 新宿郷土研究史料叢書 第13冊 1993.05
四谷笹寺勧進相撲興行新考 新宿郷土研究史料叢書 第14冊 1993.11
浄瑠璃坂の敵討は牛込土橋 新宿郷土研究史料叢書 第15冊 1994.02
国会図書館の収集本 214件
こどもクラブ、僕らの幼稚園、小学館の幼稚園、よいこ 一年生、小学一年生、小学二年生、小学三年生、小学四年生、小学五年生、小学六年生、中学生の友 1年、中学生の友、女学生の友、日本詩謡曲集 1982など
新宿区郷土研究会が著書の本
新宿郷土研究 1978
牛込氏と牛込城 10周年記念号 1987
郷土新宿 第21号 簡易製本 1989
新宿追分の研究 15周年記念号 1992
神楽坂界隈 20周年記念号 1997


 最古の著作は昭和5年(1930)です。この時は東京帝国大学農学部の板垣四郎氏と一ノ瀬幸三氏は「馬の頸靱帯に寄生する頸部オンコセルカ」(中央獣医会雑誌)を寄稿しています。昭和6年(1931年)には「犬の急性腎炎」(応用獣医学雑誌)を書いています。なお、大正15年の東京帝大の入学者数は2,363人で、令和6年の東大は3,060人。現在の方は大正に比べて30%ほど合格数は多くなっています。
 昭和14年(1939)になると、一ノ瀬幸三氏は瀬戸川氏と一緒に満洲国の新京動植物園から動物収集で、牡丹江省(現在の黒竜江省東南部)に出張しています。「新京動植物園」は満洲国首都の新京特別市(現在の吉林省長春市)の中にありました。この時は一ノ瀬幸三氏は新京動植物園に勤務していましたが、昭和17年には元勤務となり、おそらく日本に帰ったのでしょう。また「満洲の冬と動物」の筆名は「一ノ瀬幸三」ではなく、「一瀬幸三」でした。他にも「一の瀬幸三」や「K・I」という筆名も出てきますが、別々の人物ではなく、同一の人でしょう。
 ちなみに、昭和20年(1945)、ソビエト連邦の満洲侵攻が起こり、満洲国は滅亡、新京動植物園も消滅します。園長の中俣充志氏は日本に帰ってから、北海道に最初で戦後最北となる札幌市円山動物園の園長に就任します(1950年9月~1964年7月)
 では、一瀬幸三氏は日本に帰ってから何をやっていたのでしょうか。国立国会図書館で調べてみると「良い子の友」「たのしい一年生」「小学二年生」「小学三年生」「中学生の友1年」(全て小学館)「僕らの幼稚園」(森の子供社)「5年の学習」(学習研究社)といった雑誌に動物の逸話などを沢山書いています。「小学二年生」では「一ノ瀬幸三」と「一の瀬幸三」のどちらも出ています。また輪投げなどの作詞をしています。しかし、これだけでは収入は不十分で、また、職業もわかりません。
 昭和30年(1955)舩木枳郎氏と一ノ瀬幸三氏は『小二教育技術』(小学館)に「現行初級用教科書の内容を批判する」と題して(K・I)が書いています。

「こうまの太郎」に、子馬が母馬から離れて、汽車の走るほうに走っていき、かえり道がわからないとあるが、馬、牛は、道をよく覚えている習性があるので、このとりあげ方はぎもんである。
「ピピピピ、ピンピン」を女のことばでつぐみの声としているが、これはおかしい。なぜならばつぐみとはにてもにつかぬものである。つぐみの声は川村博士によれば三通り分類している。
 ⑴ ぐす音=グシュグッシュ。またはクスクスクス。
 ⑵ ひょう音=キョーキョー。またはチョーチョーチョー。
 ⑶ ひしぎ音=シャッシャッ。
であるが、ご一考をわずらわしたい。また、前節では「ひばりのうた」と言い、後節では声としているのはどういうわけか、統一してほしかった。
 気になることでは「めじろ」で、「めじろが、山で チチ、チチないています。ほくのめじろも、かごの中で、チチ、チチないています。きっと、山へ いって なきたいのでしょう」というのがあるが、山でめじろが鳴いたということは距離的におかしい。カッコウ、ツツドリ、キジバトなどならまだしも、めじろの声は山で鳴いたぐらいではきこえない。やはりこの場合、裏山とか庭先とかとすべきであろう。

 また、武田尚子氏(中公新書『ミルクと日本人』2017)は、インタービューに答えて「ミルクの関連資料を求めて、あちこちのアーカイブや個人所蔵の資料を見に足を運びました。札幌の雪印メグミルク酪農と乳の歴史館で、特別のはからいで一瀬幸三寄贈資料を見せていただき、色とりどりの鮮やかな牛乳の引き札(チラシ)を目にしたときは驚きました。多くの方に紹介したいと思い、先人の努力の賜物を受け継いで、この本(『ミルクと日本人』)が出来ました」
 そこで雪印メグミルク株式会社にメールで聞いてみましたが「弊社『酪農と乳の歴史館』に、一瀬幸三氏より資料を寄贈いただいていることは事実でございます。ただし一瀬幸三氏についての詳細はわかりかねます。せっかくお問い合わせをいただいたにもかかわらず、お役に立てず申し訳ございません」とのこと。
 「隅猪太郎氏の鶴印練乳所」「大宝律令・厩牧令」という文書も一瀬幸三氏のものです。
 また、農林省畜産局編「畜産発達史」(中央公論、1966)では一瀬幸三氏は戦前の酪農業の進展を描いています。この時はデーリーマン社(北海道協同組合通信社)に働いていました。この「畜産発達史」は東大教授、日大教授、常務理事など錚々たる顔ぶれが執筆しています。おそらく北海道の通信社に働くのは退職後の仕事だったのでしょう。
 ここまでは獣医らしい言質でした。一時、畜産コンサルタントになり、引っ越して、新宿区市谷山伏町に住み始めます。
 『にっぽんの教師3』(サンケイ新聞出版局、昭和41年)「BTA」(ボスと教師の会、ボスが牛耳るPTAのこと)には……

 “BTA”の弊害に気づいて、PTAの改革に成功した先生に登場してもらおう。東京・新宿区立牛込第一中学校の福本菊雄先生。
 福本先生が、牛込一中に赴任したときは、この学校のPTAも一部の役員によってきりまわされていた。赴任早々、PTAの役員選挙が行なわれた。定連の役員たちが校長室に集まり、サッサと会長、副会長の候補をきめるのをみて、福本先生はあぜんとした。
 こういうPTAを改革するには、PTAの規約を改め、新しいルールをつくりだすほかはない。先生はそう判断した。PTAの一人、一瀬幸三さんが、こういうPTAのありかたに疑問をもっていることを知ると、一瀬さんにPTAの庶務係になってもらった。そして、二人で全国各地のPTA規約を取り寄せて勉強し、三年がかりで、規約を全面的につくりなおした。
 この時はPTAの一員でした。
 さて新宿区では郷土研究家になっていきます。昭和40年頃から新宿郷土会の主宰になり、昭和40年(1965)から41年に第1号から5号までの「新宿郷土研究」を出版し、昭和47年(1972)から平成6年(1994)まで「新宿郷土研究史料叢書」15冊を出しています。また、一瀬幸三氏は新宿区の文化財調査員(昭和43~48年度)にもなっています。さらに、古文書を収集し、これは新宿区文化財総合調査報告書(2)にまとめて報告してあります。平成10年(1998)に死亡したようです。
「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」を出版した1990年に自分は「80歳を越えた老人」だといっています。すると、昭和6年(1931年)では「21歳を越え」、敗戦時(1945)に「35歳を越え」、昭和40年(1965)に「55歳を越え」ていたようです。当時、50~55歳で退職をする人もいました。
 では、50~55歳以前の職業は何だったのでしょうか。最も一般的な就職は、氏の獣医免許から見て、民間の獣医師ですが、普通は民間で働く獣医には退職はないですし、氏のようにある年齢になって(退職して?)堰を切ったように大量の文章を書き上げるのも、少し違うようです。大学や研究機関で働くのは論文が全くないので、まず違いますが、動物園で働く場合、公務員として食肉衛生や家畜衛生に関係する場合、民間企業で動物用医薬品の開発や販売する場合などは、十分あり得ます。さらに、獣医師の免許があれば高等学校の理科・農業と中学校の理科についてはそのまま教諭になれます。
  最終的には次の書籍でわかりました。つまり「海燕」第14巻第11号(1995)の松本健一氏の「こうしいて青山に入る」242頁では……
『新宿の牧場昔むかし』(新宿郷土研究史料叢書第6冊、1990年刊)をよんでいたら、広沢牧場の場所がかんたんにわかったのである。この著者の一瀬幸三さんというひとは、新宿歴史博物館の鈴木靖さんによれば、ながく雪印乳業につとめていたので酪農業や牛乳の歴史などにくわしい、ということだった。現在まだ健在である。
 なるほど、雪印乳業に勤めていたのですね。

一瀬幸三


 また、氏の書籍の中表紙には蔵書印(「一瀬文庫」)が押してあります。相当大量の書籍があり、しかも史料としても重要な古書もあったようです。一例は日蓮上人の『宗門先師略年代記』(現存するのは世界に1冊だけ。古本屋の希望価格は約54億円)です。
 考えてみると、新宿区の神楽坂に近いところに引っ越した後は、一人では考えられない量の文献を読み、全く違う分野で、つまり郷土研究家として第一線の成果を上げる。信じられない、と思います。

太田運八|大田南畝ではない狂歌(3)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。これも大田南畝ではない狂歌です。

 あるとき牛込赤城下を通りかかった。ところが、太田運八という武士が、駕先を横切ったといって、烈火のごとく怒り、無理難題をふっかけて来た。「何者ぞ名をなのれ」と、詰めよった。蜀山人はおくすることなく、懐紙をとり出して、すらすらと一首をしたためた。
  やれまてと、いわれて、顔も赤城下
     とんだところで、太田運八
くだんの武士これを読み破顔一笑きびすをかえすと立ち去った。

 半仙散人「ねぼけ先生」(福井春芳堂、明治34年)では……

   ◎顔も赤城下
 牛込赤城下にて、太田運八といえる駕籠先を切て、いたく咎められたる時、蜀山がわびの狂歌は
   やれまてと云はれて顔も赤城下
       とんだところでたほ運八うんはち

 ねぼけ庵主人氏の「頓智頓才蜀山人」(山口屋、大正3年)では……

   ◎五郎べ二人で十郎兵衛
 ある時、八丁堀の太田主水もんどという与力が、手先五郎兵衛を連れ、何か調べ物があって牛込赤城下を通りかかると、南瓜かぼちゃ五郎兵衛が前方から来たのを見かけた。太田主水は突加
「五郎兵衛得てっ」
と声を掛けると、五郎兵衛失敗しまったと思うと、その途端に真赤になった。
「それ取押えろ」
 太田主水が手先五郎兵衛に烈しく下知げじを下すと南瓜五郎兵衛ひらりと身をかわし、元の来た道へ疾風の如く逃げ出した。(略)赤城下は大変な騒ぎで人の黒山が築かれた。その中に交じった蜀山先生は、かねて主水とは知り合いの中なので、人を押し分けて進み出て
「太田氏お役目ご苦労」
「これはこれは蜀山先生でござったか、誠にしばらくでござる」
「それはお互いじゃ。しかしお変わりがなくて結構」
「有難うござる」
「時に只今の賊はなんという奴でござる」
「いや、あれは——先生なぞ名をご存知もござるまいが——おにあざみ清吉の子分南瓜五郎兵衛という大賊でござる」
「ははあ、あれが今お尋ね者の南瓜五郎兵衛でござったか、あいつ、今尊公に呼び留められて赤くなりましたな」
おおせの通り」
「そこで太田氏、
    やれ待てといはれて顔を赤城下
         飛んだ所でおほたもんど◯◯◯◯◯◯
いかがでござる」
「これはどうも即吟そくぎん、しかし、かような中で恐れ入りました」
下知 げじ。下に対して命令を伝える文書

 西郊散史氏の「頓智三名人:一休和尚・曽呂利・蜀山人」(盛陽堂、大正13年)では……

   ◎蜀山の赤面
 蜀山人は、常に狂歌三昧で、浮世を茶にして渡ったので、とかくに家政は困難で、ややとすれば、借金には、苦しんだことである。
 ここに、太田雲平というものがあったが、蜀山人は、このものから、金を借りたところ、急に返済ができぬので、大分に困却せられておった。
 ある時のことであったが、蜀山人は、牛込赤城下を通られますと、いやはや、廻るの神の引き合わせ、このところにて、ひたりと太田雲平に、出会わなれた。雲平は、これは、よい所で遭ったと、たちまち声をかけて、
「おいおい、蜀山先生、例の一件は。」
と言いかけましたので、蜀山は、もうたまらずなりましたので、
  やれ待て云はれてと顔も赤城下
      とんだところで太田雲平
と即吟したので、さすがの債鬼も、思わず、くすくすと笑ってそのまま別れたということでありますが、狂歌の徳は、いよいよ、驚きに感ずることでありまする。

 最初は咎められて1首、2番目は大泥棒を傍で見ていて1首、最後は蜀山人が借金取りから避けて1首です。最初の1首の「駕籠先を切て」は一体誰が何をしているのか私にはわかりません。意味は「道や列などを横切って通る」でしょうか。

浄溜璃坂は?|大田南畝ではない狂歌(2)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 南畝は前にも述べたように狂歌師として、名高いだけに江戸の庶民に親しまれていた。したがって封間に伝わる逸話も多い。牛込に関するものをひろってみよう。
 例によって、飄々乎として、市が谷御門の辺りを散策していたときのことである。向うからひとりの武士がやって来て、浄溜璃坂は、どの辺であるかと問うた。蜀山人はその道を懇切丁寧に教えてやったところが、その武士は撥髪(横側を深く刷りこんだ髪の形)頭であったのと、身なりも異様であったため、思わず吹き出してしまった。武士は大いに怒って「そちは何者であるか」とつっかかって来た。蜀山人はその無礼を謝した。そこで
  ばち髪で浄溜璃坂を尋ねるは
     三味線堀の人にやあるらん
と詠んだ。で、武士も刀をおさめて立ち去っていった。
(注)下谷三味線堀には、佐竹公(秋田藩)の上屋敷があったのでそこの武士をいったものだろう。
飄々乎 ひょうひょうこ。考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。
撥髪 ばちびん。鬢の形が三味線のバチの形になっているもの。

三味線堀 江戸下谷、不忍池から東南方に流れ、隅田川に合流していた忍川の下流の通称。現在の台東区小島町二丁目のあたり。大田南畝の純正の狂歌もあり……
   三階に 三味線堀を 三下り 二上り見れど あきたらぬ景

「ばち髪」の一首は大田南畝の狂歌ではなさそうです。では、その出典は? 飄禅散人氏の「滑稽洒落 三博士」(盛陽堂、明治39年)という噺か、さらに昔の笑い話でした。

 ある時のことでありました。蜀山人が、外出して、牛込御門の辺を通りましたるに、おりふし、向こうから、一人の、いかめしき武士が来て、蜀山に向かい、「浄溜璃坂は、いずこにてごきるか」と問われた。
 蜀山は、道を尋ねられて、「はい浄溜璃坂ですか。それは、これこれ、こう行けばよろしいのです」と指さし示して、別れたところ、この武士の頭が、撥髪にて、その風体が、いかにも可笑しきさまであったれば、蜀山は、別れる途端に、クスクスと笑われた。
 この武士は、この笑い声を聞いて、大にいきどおり、「その方なにものであるか、人の風体を笑うこと、はなはだ無礼である。そのままには、なしおかれまい」とだけだかに言われた。
 蜀山は、ギョッとして、「これは、はなはだ申し訳もないことをいたしました。拙者ことは、狂歌師にてござる。なにぶん、御寛大の処置にて、御免し下され」とわびられた。
 かのいかめしき武士は、これを聞いて、「ははあ、狂歌師にてあるか、これは面白いことである。さらば、今このところにて狂歌一首詠まれよ。それにて、無礼を免すである」と言う。
 蜀山は、狂歌の註文と聞いて、即座に、
  はち鬢で浄溜璃坂をたずぬるは
      三味線堀の人にやあるらん
とかくなん詠まれたので、いかめしき武士も、思わずくすくすと笑って、そのまま行かれたといいますが、狂歌の徳ならではこの危難は、なかなかに、免れぬことでありまする。

蜀山人伝説|新宿郷土研究(1)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 赤城明神の境内の掛茶屋に赤城小町という評判のお軽という娘がいた。ある日誤って足軽の足もとに打ち水をかけてしまった、足軽は怒ってお軽を打擲におよぼうとした時に、参拝を終えて通りかかった、蜀山人は、「待たれい」と大声で、
  差しかかる来かかる足へ水かかる
       あしがる怒るおかる恐がる
と詠んだめで、見物人の中からどっと笑声が起った。足軽は強そうな武士と蜀山人を見たのか、そのまま逃げるように消えるのであった。
 この……狂歌は、寡聞にして知らないが、蜀山人の狂歌集の中にもない。しかし、本居宣長の有名な「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が本居宣長の歌集におさめられていないと同じように即興のために他の記録に遺されたものであろう。いずれにしてもこんな文芸は俗説で意味がないと、いわれるかも知れないが、牛込の住人にとっては拾てがたい挿話である。
打擲 ちょうちゃく。打ちたたく。なぐる。
蜀山人 しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。

 色々調べてみると、この出典が出て来ました。明治33年の「文芸倶楽部」(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編「明治大正落語集成」講談社、昭和55年)でした。

赤坂の溜池ためいけから葵坂を過ぎ芝の久保町の通りより、ちょうど土橋のところへかかりますると人込みで、ドヤドヤ騒いで居りまする。今十七八のしんを足軽ていの男が切ろうとして居る。酔っては何いでなさるが蜀山も人の難儀は横に見てはいられません……どいたどいたと人を押分けて中にいり
蜀「あいや、お武家御立腹はさることながら、相手は採るに足らん女のことで、どういう義かはぞんぜんが、拙者仲裁をつかまつる。いよぅ……貴公は雲州家の御足軽、田口源吾どのじゃな」
足「先生お捨ておき下さい」
蜀「これさ、そう腹を立っては困るというのに、腹を立ちすぎると腹なりが悪くなる、ハハハハハ。時に女中、この場合に至った事情を話しやれ」
女「御親切によく御たづね下さいまする。妾はこの向う側の商売あきんどの娘にござりまするが、今日こんにち往来に砂ほこり立ち通行をなさいます方が御難儀とぞんじまして、水をまいておりました。するとこのお武家さまの袖のすそに少しかかりましたところから、御わびを申し上げましたけれど、なかなか御承知下さいません。武士の袖の裾を悪水をもってけがせし段、不届ふとどき至極につきうちに致すとの御腹立ち、殺されまするこの身はいといませんけれど、親共の歎きも思いやられます。どうぞ共々御わびあそばして下さいますやう、ひとえにねがい上げまするっ」
蜀「むーそれは飛んだことだったのう。して、その名は何んと申す」
女「与平娘かるでござります」
蜀「女じゃからの字がついておかるか、そりや詫びるところが違う」
女「どこへ出ましたらよろしう御座りまするっ」
蜀「そちの父が与平という、一つふやすと一平いちべいとなるそのむすめのおかるなら、忠臣蔵の七段目が相当じゃ」
女「戯言じょうだんおっしゃっちゃいけません」
蜀「戯言じょうだんじゃぁない。忠臣蔵の七段目はやはり田口うじ見た様な足軽で、寺岡平右衛門というがある。これが軽を殺さうとする、そこへ酒に酔っても本心さらに違わぬ国家老大星由良之助という蜀山同様なのが出て、そちを助命して取らするのじゃ」
田口「何んだ人、馬鹿馬鹿しい。自分ばかり家老気取りで、飽くまで俺を足軽にたとへやぁがる」
 独りごとふくれ顔をしておりました。
蜀「あいや田口うじ、拙者は風流に世を送るもの、別にお詫のいたしょうもない。どうかこの一詠で御勘弁を」
とさしいだしましたのを不承ふしょう不承で見ました。見る見るうちに苦い顔にえみを含みました。流石さすがは名人で有ります。
  きかかる来かかる足に水かかる
    足軽あしがるいかるおかるこわがる
とうとう腹立ちを笑いにまぎらしましたのも歌の徳でありまする。

 新演芸会編の「滑稽十八番」(堀田航盛館、大正3年)では……

 蜀山人は駕籠が嫌いですから、出羽様から、足軽が一人付いて宅まで送り届ける。
 蜀山人はのん気のもので、大層酔払いながら、ブラブラヒョロヒョロやって来る。足軽も後から付いて参りましたが、丁度堀江町の新道を通ると、ある家の表で、女中が格子の掃除をしていて、汚い水を向こう見ずに往来へ撒いたのが、通り合せた蜀山人には掛らなかつたが、供をして来た足軽の頭がら着物へ、ぐしゃと掛った。いやはや足軽は怒るまいことか。
「不埒の奴だ」と刀の柄へ手を掛けた。その当時は武士が刀の柄へ手を掛けたかと思うと、町人の首は向うへ飛んでいるという位で、こういう事は度々ありますから、さあ女中は驚いて蒼白になって、家の中に逃げ込む。
 家の中からは40格好の婦人が恐る恐る出て来て参りまして、「誠に飛んだことを致しましてどうも相済みません、万望御勘なさつて下さいまし」と詫びますと、足軽は「これこれ勘弁しろもないものだ、見ろこの通り、頭から着物まで、ぐしょ濡れだ。不埒の奴だ。只今の女をここへ出せ。」婦人「ではございませうが、万望そこを一つ御勘弁下さいませ……お前ここへきてお詫びなさい」といわれて女中はぶるぶる慌いながらそこへ出まして両手をつかえ、「どうか勘弁下さいまし」という声さえ、口の内にて、歯の根も合はず、ぶるぶる振えております。
 それこも知らず行過ぎたる蜀山人、跡をふり返って、づかづかと帰って来て蜀山「どうしたどうした」足軽「先生只今かくかくの次第で」蜀山「まあ、そんなに怒っては仕方がない、勘弁さっしゃい、これこれ御女中、お前は何という名だ」女中「はい、お軽と申します」蜀山「お軽か、うむ、おかるにしちぁちょっと受け取り難いが、まあまあ心配なさるな、拙者がお詫びをして上げるから」と持っていた扇を取り出し、ひらりと開いて、腰の墨斗の筆を染めて、サラサラと書いて、足軽の前へ差出し、濁山「これで勘弁さっしゃい」言われて足軽も怒つてはいたものの、是非なく、先生が何んなことを書いたか取上げて見ると、
    行きかかる、、、来かかる、、、足に水かかる、、
      足軽いかる、、、おかるこわがる、、
 取り上げて見て足軽も吹き出し、足軽「先生有難うございます、これを頂戴したうございます」蜀山「あげるから勘弁さっしゃい」足軽「勘弁も何もありません、どうも先生ありがとございます。」そこで家の者を始め、女中のお軽も、大層喜んで厚くお礼を申し述べたと、いうことです。

 現実に起こった事実ではなく、落語だったんですね。実際の逸話ではなく、面白い咄でした。
 岩波書店の「大田南畝(第1次)月報」19「蜀山人伝説を追う(18)」(2000年)では……

 思えば、明治の中頃から大正時代へかけて、蜀山人説話はまさに花ざかりであった。概算であるが、明治に12冊、大正に17冊、合わせて30冊近い書物がかくも繰返して出版されたことに感嘆に似た気持すらおぼえる。もっとも、それらの大半以上が、読物としては巧妙でおもしろく出来上っていても、蜀山人その人の実像とはかけ離れた、根も葉もない虚譚に富む、ほとんどが他愛のないものばかりだといってよいのであるが、しかし、庶民の誰にでも親しまれる蜀山人像を思いきり描いてみせた熱意、それに対しての感銘は深い。言葉は悪いが、蜀山人という名前が商品として通用した時期、もちろん、読者の側にも、出版者の側にも、蜀山人に対する熱烈なる敬募の思いがあったればこその結果であるが、みんなで、蜀山人を伝説の主人公に仕立てあげようとする、強烈な時代風潮が脈々としてあったとすべきである。
 実像とは別に、その生涯が伝説と説話で彩られた人物に、西行と芭蕉がある。「撰集抄」「西行物語」「芭蕉翁行脚物語」「蕉門頭陀物語」などは西行と芭蕉の伝説面を流布する大きな役目を果してきた。一休禅師と會呂利新左衛門もまたそうで、「一休諸国物語」「一休ばなし」「會呂利咄」などの書物が長い間多くの人びとに親しまれた。濁山人を含めた、日本文学史上の大人物たちが、私たちの心の中に身近な姿で生き続けてきたのは、麗わしくもまた心強い伝統だというてよい。
 それにしても、こんなにまでもてはやされた蜀山人説話のあまりにも著しい衰退ぶりはどうであろう。逸話、風聞、伝承、狂歌説話など、虚の蜀山人像を形成してきたもろもろの要素一切を含め、本稿でそれを蜀山人伝説と総称してきたが、まさに、いま蜀山伝説は滅びんとしているといって過言でない。虚の蜀山人像を支持してきた土壌がもはや崩壊せんとしている。私たちが少年時代に愛読した少年講談の「蜀山人」を掉尾に、昭和の後半に蜀山人伝説が全く影をひそめてしまったのは淋しい限りだといわねばならぬのである。
 今後、蜀山人の実像は「大田南畝全集」の完結によってますますその全容が明らかにされて行くにちがいない。それに呼応して、先人たちがはぐくんで来た虚の蜀山人像もまた幾久しく生き残って行ってほしいことが願われる。そのためには、少年講談の「蜀山人」が岩波文庫に編入され、知識人層に新たに数多い読者を獲得するといったくらいの思い切った荒療治が必要なのではあるまいか。
掉尾 ちょうび。とうび。最後に来て勢いの盛んになること。単に「最後に」。

福島中佐と単騎シベリヤ横断

文学と神楽坂

福島安正中佐

 一瀬幸三氏は「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」(新宿郷土会、新宿郷土研究史料叢書、平成2年)を書き、氏は高年になって郷土史家として発揮しています。
 一方、福島中佐は明治・大正の陸軍軍人で、維新後、大学南校に入学して英語を習い、明治7年、陸軍省に入り、明治15年に朝鮮に派遣、翌年北京公使館付武官となり、満州とモンゴル方面を踏査。明治20年、駐独武官としてバルカン半島を視察、帰国の際、ロシアのシベリア鉄道建設の状況視察のため、明治25年2月からベルリンからウラジオストクへと、1年4カ月かけて単騎横断を行いました。
 では、一瀬氏の記載に行きましょう。

     はじめに
 私は最早や80歳を越えた老人であるが、少年の頃は、単騎シベリヤ横断の快挙をなし遂げた、福島中佐(安正・後の大将)を英雄として崇拝していたものである。
 それというのも小学生当時は寄るとさわると、「偉い人だったんだってねえ」と、話合ったものである。そんなことから私の蒐集癖は福島中佐に関するものを手当りしだいに集めてきた。今ここにそれらを整理して置こうと小冊子を出すことにした。
 私の小学校入学は、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)の谷村町高等尋常小学校で入学したのは、大正7年(1918年)4月であった。体操の時間や運動会には、必ずといっていいほど、福島中佐の作歌『波蘭(ポーランド)懐古』が、歌われこれに遊戯がついていて、いやでも自然に口遊むようになった。
 ところが、奇縁といおうか、福島中佐の居住地であった矢来町に近い山伏町に住むようになって、一層その念を強くして、ここにもはや忘れられた英雄の足跡を改めて記録しておこうと思ったことに外ならない。
都留市 地図参照
波蘭懐古 ポーランド懐古。明治の軍歌。作詞、落合直文。作曲、不詳。その1番は「ひと日ふた日は晴れたれど 三日四日五日は雨に風 道の悪しきに乗る駒も 踏みわづらひぬ野路山路」

 この勇姿はいろいろな形ででてきたという。著者蔵の例では……

雪の広野を行く福島中佐

壮挙を終え帰国した福島中佐

 福島中佐の快挙 明治25年(1892)2月11日ベルリンを出発して、単騎シベリヤ横断をおこなって、勇名を馳せた。福島安正陸軍中佐は、当時、牛込矢来三番地中の丸24号に居住していた。これについては後述する。
 中佐はドイツ駐在武官をしていた頃、陸軍省に対し、「中央アジアの政治・経済・国情の調査をして行かないと、国家百年の計は樹てられない」旨の上申を行い、これが軍部の容るところとなって、駐在武官の任期満了を機会に、明治25年2月11日を期して、単騎ベルリンを出発した。
 苦難の多いコース そして、ドイツ、ポーランド、欧露を横切って、オムスクに出て、それより馬をアルタイに向け、峻嶮をこえコブトウイヤスクタイウランバートルキヤクタイを経て、バイカル湖畔に出て、更にイルツクから再び引き返して、バイカル湖畔を東へと進み、ウェルフネウーヂンスクを通り、ブラゴエシチェンスクに至り、対岸の黒河より興安嶺山脈を横切って、チチハルに出て、ズンガリー(松花江)に沿って、キチリン(吉林)ニンクタコンジュン(琿春)を過ぎて、ボシエツト地方より、ウラジオストックに到着、ここでのその長途の騎馬旅行を終わっている。時に翌26年(1893年)6月であった。
オムスク ロシア連邦中南部の都市。カザフスタンとロシアにまたがるエルティシ川を通ってアルタイに向かう。
アルタイ 中央アジアの一地域
コブト ホブト。モンゴル西部ホブド県の県都。
ウイヤスクタイ ウリャスクタイ。モンゴル・ザブハン県の県都。
ウランバートル モンゴル国の首都。中国語ではクーロン(庫倫)。
キヤクタイ ロシア南部ブリヤート共和国のキャフタ市。
バイカル湖畔 ロシア南東部のシベリア連邦管区の三日月型の湖
イルツク イルクーツク。バイカル湖の西岸。
ウェルフネウーヂンスク 現在はウラン・ウデ。ヴェルフネウジンスク。東シベリアのロシア・ブリヤート共和国の首都。バイカル湖の南東約100km。
ブラゴエシチェンスク シベリア南部のアムール州の州都。対岸には中国黒河市がある。
黒河 中国黒竜江省の地級市。黒竜江右岸の河港都市。対岸にはシベリア南部ブラゴベシチェンスクがある。
興安嶺 こうあんれい。中国北東部にあるターシンアンリン(大興安嶺)山脈とシヤオシンアンリン(小興安嶺)山脈の総称。
チチハル 中国黒竜江省の直轄市。
キチリン(吉林) 中国東北部の省。省都は長春市。
ズンガリー(松花江) ソンホワチアン。松花江。しょうかこう。アムール川最大の支流。
ニンクタ 正しくはニングタ。寧古塔。現在は黒竜江省牡丹江市寧安市。
コンジュン(琿春) 中国吉林省の県級市
ボシエツト地方 クラスキノ町など。北朝鮮国境に近いポシェト湾岸に位置する。
ウラジオストック ロシアの極東部沿海地方の州都。
翌26年6月 全行程は1年4ヶ月かかったという。

アルタイ山脈の踏破。島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

島貫重節「福島安正と単騎シベリア横断」(原書房、昭和54年)

福島中佐単騎旅行図絵

 それはそれとして、矢来町に住まわれるようになったのは、いつ頃からか不明であるが、単騎シベリヤ横断をなし遂げた頃は、すでに牛込区矢来町三番地に居住していた。
 ところが、この三番地というのは広範囲で現在の地図と比較すると、87番地から106番地までの広い区域である。
 しかし、中佐の居住を明細に記したものに明治43年(1910)10月の刊行になる中央電話局の「電話番号簿」には、
  番町 二四六 福島安正 牛、矢来三、中ノ丸24号
とある。そこで明治44年(1911)6月逓信協会の発行にかかわる「東京市牛込区」の地図を見ると矢来町中ノ丸は、現在の地名番地では、75番地に当たると見てよいだろう。ちょうど、新潮社のやや南横に当たるところである。
逓信協会「東京市牛込区」 これは新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』(昭和57年)326-7頁と同じ。「75番地に当たると見てよい」とはいえません。https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/search/uploads/2_ippanntizu.pdf