東京の橋」タグアーカイブ

石切橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「石切橋」からです。

石切橋(いしきりばし) 新宿区水道町から文京区水道二丁目に渡す江戸川の橋で、西江戸川橋古川橋のあいだにあり、古くは単に大橋とよび、寛文年間に架されたといわれ、新編江戸志に「大橋 俗に石切橋と云う。赤城下へゆく通りなり、馬場片町より水道丁へわたす。むかし此所に石切あるよりの名なり。」とあり、府内備考に、
 一、橋 長凡八間程 幅2間1尺
 右は江戸川相掛り候橋の儀は町内(小日向水道町)より牛込水道町の方へ渡り小橋御座候。江戸川大橋と相唱え申し候。又里俗石切橋とも唱え候えども、如何の訳にて唱え来り候や相知れ申さず候。御役所向に認め候節は、江戸川大橋と相認め申し候。右は武家方御組合橋にて、町内東側横町間口十九間の処、右入用差出し来り申し候。
 とあり、また新撰東京名所図会も諸書を引いて「石切橋 小日向水道町と西江戸川橋との間より牛込水道町に通ずる木橋にして江戸川に架せり、もと大橋といえり。続江戸砂子に云う。大橋、馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切はしというなり。(下略)」と記述している。明治19年橋架明細表ではこの橋は長8間半、幅3間の木橋で、江戸川にかかっていた諸橋のうちではもっとも幅員が広い。むかし大橋とよんだのもそういうことからであろうか。
  下りて石切橋をわたる。ここは神田上水の下流なる江戸川の流るる所なり。橋より下十町ばかりの間、両岸に桜樹ならびて新小金井の称あれど、それでは小金井があまりかわいそうなり。殊に近年水大いに減じて、川よりも寧ろのようになりて風致一層減じたり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
  江戸川の水かさまさりて春雨のけぶり
  煙れり岸の桜に    若山牧水

古川橋 ふるかわばし。文京区水道2丁目と文京区関口1丁目との間をつなぐ神田川の橋。神田川は古川ふるかわと呼ぶ時期があった。
大橋 大橋は他の大きな橋を比較検討することではなく、近隣の橋との対比で、大橋と呼ぶことが多い。
寛文年間 1661年から1673年まで。
新編江戸志 しんぺんえどし。別称江戸誌。近藤儀休編著・瀬名貞雄補。寛政年間。「江戸砂子」の体裁を意図して刊行。内容は江戸城を中心に東は葛飾、南は六郷、西が武蔵府中、北が豊島・川口方面の地誌を記す。
石切橋 いしきりばし。名前はこの周辺に石切りが住んでいたことからつけられた。石切りとは、石材に細工をする職業や職人。いし。石屋。
武家方 ぶけがた。武家の人々。武家衆。武家とは武士の総称で、公家くげはその反意語。
御組合 ある目的で、仲間をつくる、その人々。「御」は「庶民ではなく、武士がつくった組合」の意味。
馬場片町 新宿区西五軒町の一部。古く牛込村の沼地だったが、承応年中(1652-55)に埋立て、武家屋敷等を建築。町名の由来は、この時に小日こびなた馬場の隣接地だったことによる。
水道丁 東京都文京区の町名。「丁」は「市街の一区画」の意味もあったが、代わって明治期には「町」を使った。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
長凡八間程 幅2間1尺 長さ約1456cm、幅394cm
間口 正面からみた敷地・家屋などの幅。
十九間 3458cm
入用 いりよう。必要である。必要な費用。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
小日向水道町と…… 原文と引用の2つが違っています。「新撰東京名所図会」の本来の引用では「牛込水道町より小石川水道町に通ずる木橋にして、江戸川に架せん、古川橋と西江戸川橋との間の橋なり。府内備考、牛込水道町の書上に(略)と見ゆ。本名は江戸川大橋にして、石切橋は其俗称たりしてと比記に據て詳らかなるべし、橋の名は、蓋し側に石工の宅あろしに起因すべけれど、其證なければ容易に断定し難し、石切の俗称、最も著はれ、江戸川大橋の名は遂に世人の忘却する所となれり」
続江戸砂子 正しくは「続江戸砂子温故名跡志」。享保20年刊(1735)。江戸砂子の著者、菊岡沾涼による補遺。内容は五巻からなり、巻一は江戸の年中行事、巻二は江戸方角図・御役屋敷・高札場等、巻三は神社拾遺・名所古蹟拾遺として日本橋の南北辺・小日向・深川・渋谷・目黒・本所・亀戸など、巻四は浄土宗一八檀林と諸州宗役寺、巻五は名木。四季の遊覧場所なども紹介。
明治19年橋架明細表 石切橋では長さ8間半、巾3間、25.5坪、木造、明治7年12月架換。川名は江戸川。
長8間半、幅3間 長さ1547cm。幅546cm
幅員 ふくいん。道路・橋・船などの、はば
十町 1町は60間。メートル法換算で約109m。10町は約1090m
 みぞ。地を細長く掘って水を通す所。どぶ。下水。流し元の小溝
大町桂月 おおまちけいげつ。詩人、随筆家。東京大学国文学科卒業。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。また紀行文を多く書いた。生年は明治2年1月24日(1869.3.6)。没年は大正14年6月10日。57歳
水かさ みずかさ。水嵩。川・湖・池などの水の量。水量。
けぶり 煙。物が燃えるときに立ちのぼる、微粒子が混じた気体。けむり。
煙れり けぶる。煙る。煙が立ちのぼる。煙などでかすんで見える。

石切橋

西江戸川橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「西江戸川橋」についてです。

西江戸川橋(にしえどがわばし) 文京区水道二丁目から新宿区西五軒町江戸川に架され、石切橋中之橋の間にある。この間にはざくら橋(西江戸川の下手)もあるが、いずれも江戸時代にはなかった橋で、西江戸川町から西五軒町に渡されたので西江戸川橋と命名したもので、新撰東京名所図会はこれを「西江戸川橋 西江戸川町(小石川区)より牛込五軒町に通ずる木橋にして、江戸川に架せり、即ち石切橋と中之橋との中間に位し、前記の諸橋に比し最も後れて架設せられたる橋なり、万延元年秋改の小日向絵図に載せず、明治後の架橋なり、又前田橋ともいう。」としているが、東京府志料(明治7年編)にはこの橋の記載がないので、それ以後の創橋であろう。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰から船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、半分は水道一丁目、昭和41年4月1日、残る半分は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
西江戸川橋 不思議ですが、この文章で始まるものは「新撰東京名所図会」牛込区や小石川区に全くありません。
小日向絵図 嘉永5年(1852)、外題「小日向絵図」、内題「礫川牛込小日向絵図」が刊行され、それに手を加えて改訂された切絵図「小日向絵図全 礫川牛込小日向絵図」(万延元年、1860年、作者は戸松昌訓、金鱗堂 尾張屋清七)です。
前田橋 昭和28〜29年の間、初めて「前田橋」が架橋され、約25年後の大正11年になると「西江戸川橋」になっています。

1. 東京実測図(明治20年)2. 東京実測図(明治20年)3. 東京実測図(明治28年)4. 東京市牛込区全図(明治29年8月調査)5. 東京市牛込区全図(明治40年1月調査)6. 地籍台帳・地籍地図(大正元年)7. 東京市牛込区(東京逓信局編纂. 大正11年)

(1) 明治20年は中之橋と石切橋の間には何もありません。(2)同じ明治20年ですが、新しい架橋があり、しかし、橋の場所が違っています。(3) 28年もほぼ同じ絵ですが、(4)明治29年になって、初めて地図とほぼ同じ場所になりました。しかし、橋の名前は「前田橋」でした。(5)明治40年、(6)大正元年も「前田橋」ですが(7)大正11年となると「西江戸川橋」と変更、現在と同じ名前になりました。さらに新しく橋が1つ、「西江戸川橋」の東側で「小桜橋」と同じ場所に登場します。
 なお、(2)と同じ橋が下の図でも出ています。

西江戸川橋の由来

東京府志料 明治5年、陸軍省は各府県勢を把握するため、地図・地誌の編纂を企画し、これに応じて東京府が編纂した地誌。人口・車馬・物産等は明治5年、田畑数・貢租の額等は6年、区界町名の改正等は7年に基づいて編纂。

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

明治33年(1900年)、花見客で賑わう江戸川橋。この絵は江戸川小同窓会長 石川省吾氏

中之橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。今回のテーマは中之橋です。

中之橋(なかのはし) 新宿区新小川町二、三丁目のさかい文京区水道一丁目江戸川に渡された橋で、創架年月は不詳だが寛文図に無名ながら記されている。東京市史稿はこれについて、「橋 橋名なし 同川筋(江戸川)に架し、後の中の橋に当るべきものなれど、位置やや上流にあり。この橋の位置の変れるは元禄頃なり。中の橋は武江図説に『中の橋、同し川に渡す。立慶橋大橋の間、築土下へ行く通り、此辺りゅうヶ崎と云う、一名鯉ヶ崎とも云う。』とし、また府内備考には「中ノ橋は築戸下より江戸川ばたへゆく通りにかかる橋なり。立慶橋と石切橋の中なる橋なれば、かく名付くなるべし。」と記す。明治時代になってこの江戸川両岸に桜が植えられ、市民遊行の地となった。小石川区史はこれを、
  石切橋より下流隆慶橋に至る間の江戸川両岸一帯の地は、明治の末頃まで市内屈指の桜の名所として讃えられていた。此処の歴史は比較的新しく、明治17年頃、西江戸川町居住の大原某が自宅前の川縁に植樹せるに始まり、附近の地主町民が協力して互に両岸に植附けたので、数年にして桜花の名所となり、爾来樹齢を加えると共に花は益々美しく、名は愈々喧伝せられて、其景観が小金井に似たところからいつしか「新小金井」の名称を与えられ、観桜の最勝地たりし中の橋は小金井橋に比せられるようになった。
 そこで地元でも時には樹間に雪洞ぼんぼりを点じ、俳句の懸行燈かけあんどん、花の扁額、青竹のらちなど設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて花のトンネルを上下すれば、両岸の花影、燈影、水に映じて耀かがやき如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった
  はつ桜あけおぼめく江戸川や水も小橋も
うすがすみして              金子薫園
ほそぼそと雨降り止まぬ江戸川の橋に
たたずみ君をしぞ思う           小林 操

新撰東京名所図会。牛込区。東陽堂。明治37年。

新小川町二、三丁目 現在は「丁目」を付けません。昭和57年(1982)住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合され、単に「新小川町」といいます。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んでいました。
寛文図 寛文江戸大絵図。寛文10年12月に完成。絵図風の地図ではなく、実測図に従い、正確な方位を基準として、以後江戸図のもとになった。

武江図説 地誌。著者は大橋方長。安永2~寛政年間(1773~1799)に刊行し、寛政5年(1793年)に筆写。別名は「江戸名所集覧」
東京市史稿 明治34年から東京市が編纂を開始し、令和3年、終了した史料集。皇城篇、御墓地篇、変災篇、上水篇、救済篇、港湾篇、遊園篇、宗教篇、橋梁篇、市街篇、産業篇の全11篇184巻
大橋 石切橋と同じ
築土 つくど。江戸時代には「築土明神」も「築土」も正式な名前でした。なお「築土前」「築土下」はそれぞれ「築土の南側」「築土の北側」の意味。
築土下へ行く通り、此辺立ヶ崎を云う、一名鯉ヶ崎とも云う 「築土の北側に行く道路があるが、この周辺を立ヶ崎という。別名、鯉ヶ崎という」。「崎」は「岬 。みさき。海中に突き出た陸地」の意味です。文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)によれば「『新編江戸志』に、『中の橋、築土つくどへ行く通りなり、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(約一米)に及ぶなり。』とある。」。つまり「立ヶ崎」や「恋ヶ崎」よりも「鯉ヶ崎」の方が一歩も早く世に出た言葉だったのでしょう。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
築戸 「つくど」と読む方が正しいのでしょう。
ばた はた。端。傍。側。物のふち、へり。ある場所のほとり。そば。かたわら。そばにいる人。第三者。
江戸川両岸に桜

小石川区史」から

江戸川桜花満開『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』尚美堂 明治43年 国立国会図書館デジタルコレクション

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

遊行 ゆぎょう。出歩く。歩き回る。
小石川区史 昭和10年、小石川区役所が「小石川区史」を発行しました。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、1/3は水道一丁目に、昭和41年4月1日、残る2/3は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

川縁 かわべり。かわぶち。川のへり。川のふち。川ばた。川べ。
爾来 じらい。それからのち。それ以来。
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まる様子。ますます。より一層
小金井 元文2年(1737年)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門が吉野や桜川からヤマザクラの名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。
最勝地 これは誤植。正しくは「景勝地」。けいしょうち。景色がすぐれている土地。
 この文章は一般的な花ではなく、桜のことでしょう。「桜の時には樹間に雪洞を点じ、俳句の懸行燈、桜の花の扁額、青竹の埓など設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて桜のトンネルを上下すれば、両岸の桜影、燈影、水に映じて耀き如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった。」
雪洞 行灯。あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
懸行燈 掛行燈。屋号や商品名を書いて店先に掛けて看板代わりにするもの。俳句の懸行燈とは、屋号や商品名に加えて俳句もはいるもの。

扁額 建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(額とは書画などをおさめて、門・壁などに掲げておく)。
 周囲に設けた柵。
夜の観楽境であった この文章は「小石川区史」881頁に載っています。なお、このあとに続く文章があり「然るに其後江戸川の護岸工事の為め、漸次桜樹の数を減じて、大正の末年頃には当時の面影を全く失い、両岸は総てコンクリートの堅固な石垣と化して、忘れたように残る少数の桜樹に昔の名残を偲ぶのみとなった。已むを得ざる工作の結果とは云えあまりにも悲しき文化の侵略ではある」
はつ桜 はつざくら。その年になって最初に咲く桜の花。季語・春
 あけぼの。夜がほのぼのと明けはじめる頃。
おぼめく はっきりしない。あいまいである。ぼやける。
うすがすみ  薄くかかったかすみ。かすみが薄くかかる様子
金子薫園 かねこくんえん。歌人。和歌の革新運動に参加。明星派に対抗して白菊会を結成。近代都市風景を好んで歌った。生年は明治9年11月30日、没年は昭和26年3月30日。満75歳で死亡。
ほそぼそ 非常に細いさま。物がかろうじてつながっている様子。かろうじてその状態が続いている様子
思う 慕う。愛する。恋する。

白鳥橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。白鳥橋がテーマですが、もう1つ、大曲橋が出てきます。石川氏によれば、1代目は大曲橋、2代目で白鳥橋になったと主張します。しかし文献上では、大曲橋も西大曲橋も「大下水」を渡る橋で、江戸川(現在の神田川)の橋ではありません。
 現在の白鳥橋の竣工は昭和11年ですが、令和6年に架け替え工事が始まりました。

 白鳥橋(しらとりばし) 文京区後楽二丁目と水道一丁目のさかいを新宿区新小川町二丁目観世会館の前に渡した江戸川の橋で、この地点で川流が大きく屈曲しているため通称大曲おおまがりといわれて大曲橋が架されていたし、さらにその上流中之橋との間には西大曲橋とよぶ橋もあったが道路および河川改修によって撤去され、大曲橋のあとに架設された新橋白鳥橋と称する。大曲橋は明治19年橋梁明細表には「大曲り橋 江戸川町17番地に架す。長5尺5寸、幅26尺 石造」とあり、現在の白鳥橋は昭和11年の竣工で長29.8メートル、幅20メートルの鋼鈑橋である。橋名は白鳥池からとったもので、南向茶話に「江戸川中之橋の下水曲流の処は、往古大なる池にて白鳥池と号す。今埋れてその余池、南の方久永氏邸地内に残れり。」とあり、また新撰東京名所図会も「白鳥橋 江戸川中之橋の下流にて、隆慶橋の方に屈曲し居る淵を大曲おおまがりという。此処最も深く、かの有名なるむらさきこいは今なお此辺に残り居れり。又今の2丁目(新小川町)10番地内に池あり。これぞ白鳥池の名残りという。」と記す。

観世会館 観世能楽堂。1900年の観世会の創立時に建設。観世流の活動拠点。1972年、新宿区新小川町(大曲)から渋谷区松涛に移転。 さらに銀座に再移転。

1970年 住宅地図

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから飯田橋に近いふなわらばしまでの神田川を昭和40年以前に江戸川と呼びます。
白鳥橋 「新撰東京名所図会」が発行された明治37年には白鳥橋は全くありません。その後、新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)を調べると、白鳥橋は明治40年にはあり(328頁)、明治43年になくなり(330頁)、大正11年にまた出てきます(332頁)。 また、明治29年の東京郵便電信局編の東京市小石川区全図、明治40年の東京郵便局の番地入東京市小石川区全図、大正10年の東京逓信局編の東京市小石川区 です。この明治40年の地図は橋と電車線路が道路のない場所に描かれ、建設計画を先取りしたものでしょう。

 一方、小石川新聞社編『礫川要覧』(小石川新聞社、明治43年)で白鳥橋は「明治42年の落成にて電車線路たり」と記録しています。 また、東京市電・都電路線史年表でも、明治42年12月30日、(小石川)表町(のちの伝通院前)と大曲(旧・新小川町二丁目)との間で初めて電車がつながりました。
 また、古い白鳥橋の写真が2枚出て来ました。この2枚、かなり違っていて、一方は石橋、もう一方は木造橋で路面電車が渡っています。どちらかが間違えている可能性が大きいようです。

白鳥橋。東京市小石川区「小石川区史」(1935年)から

「江戸川」の「白鳥橋」と「大曲」三井住友トラスト不動産

大曲橋 昭和10年「小石川区史」によれば、昭和6年9月末日、小石川区内橋梁表(市土水局橋梁課調)では「橋名、大曲橋。河川名、大下水。架設位置、江戸川町17。橋種、石造。橋長、1,818米。巾員、20,909米。面積、8,93平米。工費・着手年月・竣功年月は不明」。つまり、大曲橋は1.8メートルしかない短い橋でした。下の地図で、左右の大下水が神田川に流れ込んでいます。大曲橋は江戸川(神田川)ではなく、この大下水に架かっていた橋です。また、江戸川町17に架設してあるようで、右側の青い円でしょう。

東京実測図。明治20年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年

西大曲橋 昭和10年「小石川区史」で、明治19年の橋梁明細調(東京府文献叢書乙集18)を調べてみると、この橋は「西江戸川町1番地先に架す」る橋。地先じさきとは所有地等と地続きの地で、反別や石高がなく、自由に使える土地。また、昭和6年の「小石川区内橋架表」(市土水局橋梁課調)では大下水に架かった橋でした(昭和10年「小石川区史」)。「西江戸川町1番地先」ということから、上の地図の楕円の左側部分の細い流れに架かっていた橋です。
大曲橋のあとに架設された新橋 大曲橋は大下水の橋、白鳥橋は神田川の橋です。大正10年の東京逓信局編の地図では、白鳥橋の開通後も大下水が江戸川に流れ込んでいる様子が描かれています。おそらく大曲橋も、道路の一部として働いていました。
橋梁明細表 昭和10年の「小石川区史」によれば、この表は東京府文献叢書乙集18にあります。
江戸川町十七番地 現在、江戸川町がありませんが、明治20年では江戸川町があり、17番地は上図の文字「川 17」にあたる範囲です。実際は「戸」と「川」の中間地点から江戸川に向かって流れています。これが大下水の一部です。
長五尺五寸、幅二十六尺 1尺は約30.3cm。したがって長1m66cm、幅8m18cm。
鋼鈑 こうはん。鋼板。圧延機で板状に延ばした鋼鉄。鉄板てっぱんとほぼ同じ。純粋な「鉄」に炭素やマンガン等の成分を加えて強度や靭性じんせいを増したものを「鋼」
南向茶話 なんこうちゃわ。酒井忠昌著。寛延四年(1749)~明和二年(1765)。江戸の地誌を問答形式で記したもの。
久永氏 小日向小石川牛込北辺絵図の「久永」氏は中央に

小日向小石川牛込北辺絵図 嘉永2年(1849)

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
紫鯉 十方庵敬順氏の「遊歴雑記初編」(嘉永4年)「紫鯉」では「中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しきゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根トネガワの鯉、これにツグべしとなん」(「中の橋」の大部分は深くて、鯉も数多くいる。橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ以上と思える緋鯉も見える。中の橋の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはみんな鯉だ。どれも肥えて太っている。一匹一匹は丸くて丈は短いようだ。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る
名残りという。 新撰東京名所図会では続けて「この久永の邸は即ち今の川田邸にて、此池現存し中島あり丹頂の鶴を飼へり」で終わっています。下図は大正11年の川田男爵邸です。

大正11年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年0

隆慶橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「隆慶橋」についてです。「隆慶橋」の名前は大橋龍慶氏に由来し、また、龍慶氏は書道の大橋流開祖の大橋重政氏の父になります。
 なお、父・大橋龍慶氏と息子・大橋重政氏の筆がしばしば似ていて混乱する原因になっています。

 隆慶橋(りゅうけいばし) 立慶橋、龍慶橋ともかかれている。新宿区新小川町一丁目より文京区後楽二丁目へ江戸川に架された橋で、創架年月は不詳だが、正保図にはなくて寛文図になって無名橋がこの位置に記されている。船河原橋の上流の橋で、むかし大橋龍慶なる者がこのあたりに屋敷を賜わって住んでいたのが橋名の起りで、龍慶は長左衛門、源重保といい、甲州の人で大奥側近の御祐筆で、いわゆる御家流書法の元祖だといわれている。
 府内備考は「立慶橋は中の橋の次なり、川のほとりにむかし大橋立慶の邸宅ありしゆえにかく橋の名となれりという。案ずるに正保年中(1644-1648)江戸図といえるものに、この橋のほとりに龍慶寺といえる寺見ゆ。恐らくはこの寺のほとりの橋なればかくいいしならん、されど今江戸の内にかかる寺あることをきかず、疑うべし。又『紫の一本』に、立慶橋というあり、されば町ありての名なりや。一説にりゅうけい橋と称す。」と記す。
 また、「新編若葉の梢」はこれを「(穴八幡)社地を寄進した大橋龍慶は長左衛門源重保といい甲斐の人で、大奥側近の御祐筆であった。老年に及び職を辞し、台命あって剃髪し、龍慶の号を賜った。式部卿法印に叙せられ、老体の采地として牛込の郷三十余町を賜り、その屋敷附近の江戸川に架された橋を龍慶橋と名附け、今にその名を残している。龍慶の書は徳川家の御家の書体として採択され、御家流と称して永く伝わるに至った。茶を小堀正一に学ぶ。寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」とする。
 なお、校合雑記、不聞秘録などの誌す伝説では、旗本水野十郎左衛門に殺害された侠客幡随院長兵衛の遺体が、この隆慶橋の下に流れついたという。そのころ水野の屋敷は小石川牛天神網干坂に在ったというが、しかし水野屋敷の位置については、牛込の築土下、麻布六本木、西神田一丁目などと諸説が多い。

   隆慶橋を衰る頃、空しきりに曇りければ、家路急ぎて橋をはしる、そも/\此橋の古えを聞くに、大橋長左衛門立慶と云いたる人、此所に家有りければ、此橋の名に呼付けり。
雪洞「東都紀行」

 明治十九年の調査だとこの橋は長さ十六間、幅十四尺五寸の木橋とあるが、現在は鋼鈑橋である。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
正保図 正保年中江戸絵図。正保元年か2年(1644-45)の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから。ただし、正保図でも隆慶橋はありそうだ。

正保年中江戸絵図

寛文図 寛文江戸大絵図。裏表紙題箋は、新板江戸外絵図。寛文12年6月に刊行。

大橋龍慶 江戸初期の能書家。通称長左衛門、いみな(死後にその人をたたえてつけられる称号)は重保。初め豊臣秀頼の右筆。1617年(元和3)能筆のゆえ、徳川秀忠の幕府右筆となり、采地500石を賜る。生没年は1582年〜1645年(天正10年〜正保2年)
甲州 甲斐国。現在の山梨県に相当する。
御祐筆 江戸幕府の職名。組頭の下で、機密の文書を作成、記録する役
御家流書法 おいえりゅう。小野道風、藤原行成の書法に宋風を加えた、穏和で、流麗な感じの書体。室町時代に盛んとなり、江戸時代には朝廷、幕府などの公用文書に用いられた。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
紫の一本 江戸時代の地誌。天和2年(1682)成立。2巻。戸田茂睡作。江戸の名所旧跡を山・坂・川・池などに分類し、遺世とんせい者と侍の二人が訪ね歩くという趣向で記述。
若葉の梢 「若葉の梢」は金子直徳著で、上下2巻(寛政10年、1798年)。新編が付いた「新編若葉の梢」では、昭和33年に刊行した「新編若葉の梢刊行会」の本。
台命 たいめい。だいめい。将軍などの命令。
式部卿法印 式部卿とは式部省の長官。法印は僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。大橋式部卿法印は戦国時代末期に右筆として活躍した大橋重保のこと。
小堀正一 安土桃山時代〜江戸時代前期の大名。生年は天正7年(1579年)。没年は正保4年2月6日(1647年3月12日)。約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及んだという。
寛文十一年 大橋龍慶の死亡は1645(正保2)年2月4日。子の大橋重政は1672(寛文12)年6月30日。
五十五歳 大橋龍慶は63歳で死亡。子の重政は55歳。どうも「寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」の少なくとも1文は、子の重政のことを間違えて書いたのでしょう。
築土下 築土(現在は筑土)の北側。ちなみに、築土前は築土の南側。
雪洞『東都紀行』 『燕石えんせき十種じっしゅ』は江戸末期の写本の叢書。明治40年、国書刊行会が三巻本を刊行。続編として『続燕石十種』(2巻)、『新燕石十種』(5巻)が新たに編集、刊行。辻雪洞氏の『東都紀行』は『新燕石十種』(明治45年)で刊行。
長さ十六間、幅十四尺五寸 長さは約29m。幅は約4.4m。

新坂しんざかばし|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋」(昭和52年、新人物往来社)の「新坂橋」によれば

 新宿区神楽坂一丁目船河原町のさかいを北西へ若宮八幡神社の方へ上る坂を新坂または幽霊坂というが、新坂橋はこの坂下の大下水に架されていたもので、明治28年版東京15区区分図によれば、この構渠は市谷御門橋の方から飯田橋へかけて外濠ぞいの道端に通じている。新撰東京名所図会は「新坂橋 市谷船河原町と牛込神楽町一丁目の間、大下水に架す。木橋、新坂下、若宮町に通ず。」と記している。
新坂または幽霊坂 現在は庾嶺ゆれいと呼んでいます。

神楽坂付近の地名。新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4』から

 現在、大下水はなく、当然、新坂橋もありません。下部の左はGoogleで、右は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)です。これから、左の緑の円は新坂橋はあったと思う場所です。
 おそらく横断歩道のあるところに新坂橋があったのでしょう。

Google