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泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花

大正元年の泉鏡花

 いずみきょうか。明治・大正期の小説家・劇作家。本名は鏡太郎。1873(明治6年)年11月4日に生まれ、没年は1939(昭和14年)9月7日。65歳、癌性肺腫瘍のため死亡。

 明治23年(17歳)、牛込横寺町の当時23歳の尾崎紅葉氏を訪ね、最初の門下になります。明治28年(21歳)、『夜行巡査」『外科室』を発表し、出世作に。明治29年5月、郷里から七七歳の祖母と弟豊春を迎えて、小石川区大塚町57番地に同居。明治32年(26歳)、神楽坂の芸妓、桃太郎(本名伊藤すゞ、当時17歳)を知り、牛込南榎町に引っ越し。明治33年(27歳)、幻想譚『高野聖』を発表。
 明治36年(30歳)1月、神楽坂に転居し、すゞと同棲。3月、紅葉はこれを知り、叱責。すゞはいったん鏡花のもとを去り、同年10月、紅葉が死亡、晴れて夫婦に。

 明治38年(32歳)、逗子に転居。明治41年(35歳)、『婦系図』を出版し、帰京。明治42年(36歳)、後藤宙外らの文芸革新会に参加し、反自然主義を標榜。
 昭和14(1939)年、66歳の『縷紅新草』が最後の作。小説は300編以上。独特の文体、女性崇拝、幻想、怪奇、耽美主義、エロチシズム、ロマンチシズムなどの世界が生まれました。

都館|文士が多し

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。現在は牛込館はLiberty houseと神楽坂センタービルに、都館支店はLog Salonに当たります。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

木下杢太郎氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 木下杢太郎氏は皮膚科医師で、さらに詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家でした。最終的には東大医学部の皮膚科教授になります。氏も与謝野寛氏、西條八十氏、内藤濯氏などと同じようにフランスに留学しています。大正10(1921)年5月、35歳、横浜を出発し、米国シアトル着、キューバ、ロンドンを経て10月にパリに到着します。そして「サン・シユルピスの廣場から」では

 ムツシユウN氏に就いてわたくしは佛語を習つてゐる。同氏がわざわざわたくしの客寓に來てくれるのである。この物靜かな、素養のある人から、この國の名家の講釋を聽いたことは、ずつと後になつても、わたくしに喜ばしい記憶となつて殘るであらう。
 その時窓の外には、弱い温さうな光が、くつきりと向側の家の廣い灰色の壁に當つでゐた。空はセリユウレオムの靑である。そして一瞬間わたくしは海邊に近き綠林の、夏早朝の日光のうひうひしさを想像した。

客寓 かくぐう、きゃくぐう。客となって滞在する。その家
セリユウレオム Cerulean。セルリアンブルー。16進表記で #007BA7。19世紀半ばに青い顔料が発明して付いた名称です。ラテン語で空色。JISの色彩規格では「あざやかな青」     

 ムッシュNは「ヌエット」なのか、ここではまだ判りません。次の1922年6月22日夜の「巴里の宿から(与謝野様御夫妻に)」では

 詩人のヌエトさんが貴方がたのことを時時噂します。この間ル・ジュルナルといふ新聞へ貴方かたのことを寄書しました。奥さんの寫眞は十幾年の前のものだつたらうと思ひますが、歌集の繪から複寫したやうでした。御惠贈の「旅の歌」はヌエトさんにお贈りしました。
 ヌエトさんがよくレシタシオンに件れて行つてくれます。マダム・マレユツクといふレシタシオンの先生のおさらひで、若い娘さんたちが歌唱し又吟詠します。そしてわたくしは佛蘭西語の發昔のいかに美しいものであるかと云ふことをつくづくと驚嘆します。紐育からの船中で或る老英国夫人の英詩の吟詠を聽いた時には少しも感動しませんでした。
 ヌエトさんの詩を讀んだ娘を、夫人がヌエトさんの處へ紹介しに來ました。むすめはおづおづ挨拶しましたが、かういふ臆病らしさをも佛蘭西のむすめは持つてゐるかと驚きました。

貴方がた 与謝野寛・晶子のこと。約10年前に与謝野夫婦はパリに来ています。
レシタシオン Recitation。朗読

 ここでヌエト氏と名前が出てきます。ヌエット氏です。ヌエット氏は詩人兼画家で、神楽坂の寺内公園で有名な版画『神楽坂』を作っています。ほとんどフランスにいたみんなが氏を知っていたようです。

晩年のノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

ノエル・ヌエット著「東京 一外人の見た印象」第2集、昭和10年

ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵

 1971年(昭和46年)、野田()太郎(たろう)氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。

 野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。

 一方、ノエル・ヌエット氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園にある版画『神楽坂』などを描いています。その死亡後、その版画は寺内公園の案内板に載りました。

     ヌエットと「濠にそひて」
 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデルの詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。

クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。

 野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。

 それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。
 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を()ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。
 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を(しやべ)らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど(くま)なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。

ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。

 昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。

 二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには(ぜい)を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。
 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。

   過ぎにし時のかげうつす
   ここの宮居の濠にそひ
   愛惜、のぞみ、()ひまぜて
   はこびし夢のかずかずよ!

 後の詩文は省略し

 この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重の錦絵版画「江戸百景」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの(こま)やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を()でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。
 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。

安藤広重 歌川広重と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『名所江戸百景』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。

数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。
 一方、西條(ふたば)()氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。
 その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。

 日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。

 去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。

 ヌエット氏の没年は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。

西條八十とノエル・ヌエット

西条八十氏西條(さいじょう)()()氏は1892年(明治25年)1月15日に生まれ、詩人、作詞家、仏文学者で、大正12年(1923年)、フランスに留学しソルボンヌ大学で学び、帰国後早稲田大学仏文学科教授になりました。「唄を忘れた金絲雀(かなりや)は」で始まる「かなりや」は有名な童謡です。

 昭和36年(1961)、西日本新聞に西條八十氏は『我愛の記』という連載を書いています。これは『西條八十全集』第17巻、随想・雑纂の中で読むことができます。さて、その中の「リルケ」ではこう書かれています。

振返ってみてぼくのいちばん楽しかったのは、パリのカルティエ・ラタンの学生宿にいて、朝から晩までフランスの詩に読みふけった時代だ。ぽくは一五、六世紀から現代までの、あらゆる詩人の詩集を買いあさり、終日辞引片手に読みふけった。そして、どうしても意味の難解な詩句には、鉛筆でアンダーラインしておいて、いちいち知り合いのむこうの詩人をたずねて解釈してもらった。現在ずっと日本に住んでいる「ラ・ミューズ・フラソセーズ」の詩人ヌエル・ヌエット氏などは、その中でも、もっともぼくに協力してくれた人だ。冬になると、パリは午後三時ごろに日が暮れた。さむざむとした下宿の中庭に、黒つぐみの鳥が遊んでいた。そういう時、小さな電気スタンドをつけて、ヌエット氏から詩を学んでいた若い自分がしみじみなつかしい。近ごろあまり本を読まなくなったのは、きっと老眼鏡が重くてうるさいせいだ。
 そうだ、ことしは思いきって、きれいな声でぼくの代わりに好きな本を音読してくれる誰かを雇おう。そしてリルケの愛した図書室の高い澄んだ空気を孤独の身辺に築こう。

 現在、ヌエル・ヌエット氏というよりはノエル・ヌエットと書くようです。ノエル・ヌエット氏は寺内公園に版画の『神楽坂』を描いています。氏は当時パリにいた日本人をかなり知っていたようです。そして、その後、氏は日本にやってきます。

西条とノエル 1959年、NHKの「黄金(きん)の椅子」でヌエット氏を見ることもできます。前列左側からノエル・ヌエット氏、サトウ・ハチロー氏、佐伯孝夫氏、西條八十氏が出ています。これは西条八束著、西条八峯編『父・西條八十の横顔』にあった写真の一部です。本文では

一九九三年三月のことである。父と姉の蔵書を神奈川県立近代文学館が受け入れてくださることになり、それらを整理していると、姉が持っていたおびただしい数の写真が出てきた。その中に、一九五九年一月十六日から四回にわたってNHKテレビの「黄金(きん)の椅子」という番組の百回記念として放映された、「西條八十ショウ」の写真があった。その一枚には、堀口大學、サトウハチローなど多数の有名な方がたに交じって、ノエル・ヌエットさんも写っていた。パリに留学した父がフランス語を習っていた詩人である。

 最初は西條八十氏の家に宿泊したようです。

ヌエットさんは一九二六(大正十五)年、父が日本に帰国して間もなく、父の招きもあって来日し、晩年に帰国されるまで、親しくおつき合いしていた。ものしずかでやさしい人だったが、日本語はいつまでもうまくならなかった。
 ヌエットさんは初めて日本に来て、しばらくはわが家に滞在したらしいが、母をはじめ、欧米の生活をまったく知らぬ私の家族は、彼の食事その他にとても苦労したらしい。その頃父の家に身を寄せて家事を手伝ってくれていた叔母が、ヌエットさんのために新宿の中村屋までパンを買い行かなければならなかったことなど、よく話していた。

 内藤濯氏もノエル・ヌエット氏と一緒に働いていました。しかし、西條八十氏のほうがかなり一緒になって働いているといえそうです。

神楽館|広津和郎

文学と神楽坂

 広津和郎広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は作家、文芸評論家、翻訳家です。『年月のあしおと』(講談社、昭和44年、1969年)に大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災のことが書かれています。そのとき、広津氏は31歳、神楽坂の下宿にはいっていました。
 では、この神楽坂の下宿はどこなのでしょうか。 まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 私は牛込神楽坂に近い下宿屋社員を四人程置き、自分も鎌倉――当時鎌倉小町に私は両親と一緒に暮していたが、始終東京に出て、その同じ下宿にいることが多かった。その外に社員ではなかったが、片岡鉄兵が家からの仕送りがなくなったので、そこに置いておいた。それから後に麻雀で有名になった川崎備寛なども置いておいた。どうせ一人や二人、人数がふえたところで大した違いはないという気持で、これらの人達の下宿代を一緒に払ったわけであるが、銀行の手形交換の時刻の迫る前に原稿を書き、雑誌社にかけつけて、原稿料を受取ると、銀行にとんで行って、やっと手形を落すというようなことも、今思い出すと何か愉快な思い出になっている。(中略)
 関東の大震災も、私はその下宿屋の三階で出遭った。私はその前夜原稿を書いていたので、地震の時間の正午一寸前には、まだ寝ていた。ひどい震動で眼がさめたが、ふと見ると、部屋の隅の鴨居の合せ目がぱくぱくと拡がっては又つぽまり、拡がっては又つぼまりしている。あれが拡がり切ったら、天井が落ちるのではないかと思ったので、私は寝床から起き上って、箪笥の側に行き、箪笥が倒れないようにと、それを押えながら、その蔭に身を寄せた。

下宿屋 この下宿に入り、関東大震災の時もこの下宿に入っていました。場所は「牛込神楽坂に近」く、片岡鉄兵と川崎備寛も一緒に住んでいた場所だといいます。

 更に読んでいると『広津和郎全集 第13巻』の「先ずペエシェンスから」(初発は昭和3年10月。底本は『新潮』)にその下宿が出ていました。

 片岡鉄兵君とは暫く会わない。(省略)
 例の震災前及び震災後の牛込の神楽館時代には毎日互に顔を合わせていた。それから急に顔を合わせなくなって、そして彼が結婚するので彼から招待されたその時まで、約二年間位は、彼に対する記憶が殆んどない。どうも会う機会がなかったらしい。

 神楽館だという場所でした。場所はここです。 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)も同じことが出ています。

 二十一、二の時分に神楽館という下宿にいた。白木屋の前の横丁を這人ったところだ。片岡鐵兵ことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎備寛、間宮茂輔、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

白木屋 白木屋は百貨店で、神楽坂の中腹で、神楽坂2丁目が終わり、代わって3丁目に始まった場所にありました。現在、白木屋はなく、1階には「サークルK」,2階には「Royal Host」がはいっています。下から右に向かうと「神楽坂仲通り」に入っていきます。
間宮茂輔 小説家。まだこのころは広津和郎氏が社長だった渋谷の『藝術社』の一社員でした。
まげる 品物を質に入れる。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

 関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 間宮茂輔の親戚、間宮武氏が書いた『六頭目の馬・間宮茂輔の生涯』で関東大震災はこう書いています。

 神楽坂は矢来の新潮社に通じる道筋にあたっていたから、文士の往来も繁く、矢来に住んでいた谷崎精二加納作次郎、それに佐々木茂索といった人たちはよく神楽館に立ち寄っていった。
 その年の九月一日、関東大震災が起こる。
 その日出社していたのは、茂輔と番頭役の島田という男の二人だった。
 地鳴りを伴いながら、激しい振動が襲い、木造の社は音を立てて崩れ落ちた。
 縁先の太い樹木によじ登り、茂輔は辛うじて難を避けた。
 黒煙と土くれが巻き上る空の下を、めくリ上げるように続く余震に脅えながら神楽館に辿り着いた。建物は無事だったが、部屋の壁は崩れ、広津をはじめ同宿の片岡鉄兵の姿もみえなかった。
 夕方になって、広津たちが避難先から次々と帰って来た。

 以上、広津和郎氏が大震災にあった下宿は「神楽館」でした。

三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。

 石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。

石畳

石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。

見返しとかくれんぼ

 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

北原白秋の転居|神楽坂

文学と神楽坂

北原白秋

 北原白秋は千駄ヶ谷から移り、1907(明治40)年12月から翌08(明治41)年10月まで牛込区北山伏町33番地、翌09 (明治42)年8月までは牛込区神楽坂2丁目22番地に住んでいました。8月からは本郷区ですが、再び10(明治43)年2月、牛込区新小川町3丁目14番地に、9月、青山原宿に転居します。

 地図はここに。赤い3つが住んでいた場所です。

昭和5年の牛込神楽坂の地図(赤は北原白秋の住居)

 この「パンの会」は、雑誌『スバル』の詩人、北原白秋木下杢太郎長田秀雄吉井勇たちと、美術同人誌『方寸』に集まっていた画家、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊たちが、反自然主義、耽美的傾向、浪漫派の新芸術を語り合う目的で作りました。

 木下(きのした)杢太郎(もくたろう)氏の『パンの会の回想』(1926年)によると

何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
「木下杢太郎全集 第一三巻」岩波書店 1982(昭和57)年
北原白秋『東京景物詩』

北原白秋『東京景物詩』口絵 木下杢太郎画

 高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会しました。長田秀雄、吉井勇、小山内薫、さらに俳優の市川左団次、市川猿之助らも顔を出しています。

 月に数回、東京をパリに、大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まりました。1908年末から1913年頃まで続きました。

 白秋の『東京景物詩及其他』や木下杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。

『東京景物詩及其他』については「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」がこう解説しています。

処女詩集『邪宗門』(明治42年刊)、『思ひ出』(明治44年刊)、『東京景物詩』(大正2年刊)には、「パンの会」時代に書かれた東京を中心とした官能的、唯美的傾向の詩が収められている。
 第2詩集『思ひ出』が、郷土や幼少への愛着が基底となっていたのに対し、『東京景物詩』は、表題どおりに都会や青春に対する情緒が中心となっており、享楽的な面も多い。しかし、その享楽は『邪宗門』ほどには濃厚でもどぎつくもなくて、よりやわらかく軽く、ダンディなものである。近代的な東京風物をモチーフとしたり、一時代前の江戸情緒的要素を加味して下町的な気分を表現したりすることにより生まれたもので、白秋が多用した新俗謡体は、民謡、歌謡のスタイルでより情緒的に都会を描写するのに適していた。(中略)
 白秋自身、<この詩集は種々雑多の異風の綜合詩集であり、何ら統一はない>と言っている。しかしそこには白秋の東京への深い思い入れが感じられる。


いろは[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 牛肉「いろは」は6丁目にありました。
 森銑三氏の「明治東京逸聞史1」(平凡社、昭和44年)によれば……

牛肉店いろは  「読売新聞」明治24年12月25日から
 牛肉店のいろはは、すべて48の支店を作ることを目標としていた。その第18支店いろはが、牛込神楽坂上に出来て、新しく開店することを広告している。48作ることは、一つの夢として終ったが、当時のまだ狭かった東京に、18の店を持つたというだけでも、その盛んだったことが思い遣られる。

 また、泉鏡花氏が書いた「神楽坂七不思議」で「いろは」のことがでています。

神樂坂七不思議

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
(いろは)のことなり、()れば大廈たいか嵬然(くわいぜん)としてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
        明治二十八年三月

 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。

 島崎藤村ほかの『大東京繁昌記 山手篇』(講談社)で加能作次郎氏の「早稲田神楽坂」ではこう書きます。

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく/\しながら(はし)を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

 では、どこにあったのでしょうか。まず 間違えていた論点を見てみます。『ここは牛込、神楽坂』第18号の『遊び場だった「寺内」』では、

岡崎(丸岡陶苑) でも、ほんとうに遊ぶのは、安養寺の方で、狭いとこに駄菓子屋が二軒あったんで、そっちの方がわりあいにぎやかだった。安養寺の境内の往来に面したところに街灯があって、あそこはクルマ(人力車)がいつも二、三台、年中たむろしていたから。そこに「いろは」があった。牛鍋屋の。

地図1

「岡崎さんがお話ししながら描いてくださった明治40年前後の記憶の地図を描きおこしました」と書いてあり、図のような神楽坂の6丁目(昔の通寺町)の絵が書いてあります。図の左端の半分に「トケイ」や「安養寺」と書いてあり、その下に「いろは」が書いてあります。

 昭和12年の「火災保険特殊地図」を見てみるとかなり今とは違います。

神楽坂上2

「いろは」は昭和12年「火災保険特殊地図」の「精進寮」と同じ場所です。よく見ると三角形で、ここで名残をとどめています。このほかの建物はここにでています。

 しかし、まったく違ったように見える写真が出てきました。下右端の建物は「第十八いろは」(牛込区寺町)です。(「第六いろは」は神田区連雀町なので、違います)。

 最初は、上の写真でいうと、建物「3」と思っていました。困っていましたが、よくよく見ると、写真の左側には道路はありません。つまり、上図の右中央から見た写真、つまり「精進寮」の方から見た写真だと思っています。

 以上は間違えていた議論です。正しくは牛肉店『いろは』と木村荘平を見てください。


「ゴンドラの唄」と芸術座|神楽坂

文学と神楽坂

「ゴンドラの(うた)」は、1915年(大正4年)芸術座第5回帝劇公演に発表した流行(はやり)(うた)です。吉井勇作詞。中山晋平作曲。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を劇にした『その前夜』の劇中歌です。大正4年に35回も松井須磨子が歌いました。

『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。

『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。ゴンドラの唄。セノオ新小唄。大正5年(1916)

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(あか)(くちびる)()せぬ()に、
(あつ)血液(ちしほ)()えぬ()に、
明日(あす)月日(つきひ)のないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ()()りて()(ふね)に、
いざ()ゆる()(きみ)()に、
ここには(たれ)れも()ぬものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(なみ)にたゞよひ(なみ)()に、
(きみ)柔手(やはて)()(かた)に、
ここには人目(ひとめ)ないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)黒髪(くろかみ)(いろ)()せぬ()に、
(こころ)のほのほ()えぬ()に、
今日(けふ)はふたゝび()ぬものを。

 1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
 実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。

私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。
    命短し、恋せよ乙女……
 だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。
「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」
「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」
 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。
「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」
「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」
 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。
 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。
「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」
 私は短兵急に訊いた。
「あんた、命短しって唄、知ってる?」
「あ、ゴンドラの唄ですね」
「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」
「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……
「じゃ、ちょっと歌ってよ」
 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。
   命短し、恋せよ乙女
   赤い唇 あせぬまに
   熱き血潮の 冷えぬまに
   明日の月日は ないものを……
 その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。

 この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
 さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。

  • 売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』で書き、
  • 『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
  • 森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
  • 『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
  • NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、
  • コーラス、独唱、合唱でも出ました。

 まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。

小林アパート(旧芸術倶楽部)|横寺町

 この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。

 高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。

 さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して

 大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。

 なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。

 しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは

 その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。
「松井須磨子の幽霊がいますよ」
と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。

 この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では

 そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」
「芸術倶楽部の跡はそこです」
と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略)
 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。
    カチューシャ可愛や別れのつらさ
    せめて淡雪とけぬまに
    神に誓いをララかけましょか
 そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。

 戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では

 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。


私の東京地図|佐多稲子②

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「坂」②です。

 この道に、あんなに商店の灯が輝やき、人々が群れて通ったのであろうか。この辺りなどは、地上に密集して建っている家並みでもって盛り上っている、といったところだっただけに、それの消えてしまった跡は、一層空漠としてしまったのであろう。全く此処は、電車通りをのぞいて言えば、家の軒の下を小さな路地が曲りくねり、坂をなして、あちらへこちらへと抜けている、そんなところであった。今、丘の起伏にそって弧を描いて一本通っている神楽坂、この表通りを左右ヘー歩這入れば、待合芸者屋とそれにともなうこまごました店で埋まってしまっていたものだ。紅谷(べにや)の前の相馬屋紙店の横を、家壁に袖をふれるようにして入ってゆけば、吸い込まれるように先きへ先きへと、小さな石段があったり、突き当りかと見ればまたその家の玄関の横へ抜けていたり、おもいがけない奥まったところに汁粉屋があったり、髪結の看板が出ていたりなどして、そのまわりは入口と入口の喰っつき合った、あるいははすかいに玄関の反れた、小さな待合ばかりであった。狭い石段は家の軒の下に陽の光りもとどかぬふうで、おもいがけなく別世界へ迷い込んだ気分に誘う。どこからかまた坂の表どおりへ出ると、店の奥では洋食を食べさせる果物屋の田原屋や、そのはすむかいの何とかいうレストランなど、ハイカラな洋食を食べさせる家もあり、毘沙門(びしゃもん)さまの石垣についてそばやとの間を入ると、そこはまた花柳界で、この次の横町には、神楽坂演芸場が、芸人の名を筆太に書いた看板を表通りからも見えるように出して、昼間はひっそりと、厚い屋根瓦の(ひさし)を展げていた。

この道 神楽坂通りでしょう。
消えてしまった跡 これは第2次世界大戦のため神楽坂の大半が消えたことをいっています。
待合 待ち合わせのための場所を提供する貸席業のこと。
芸者屋 芸者置屋ともいい、芸者などを抱える業態。プロダクションに当たります。
入ってゆけば 相馬屋紙店の横は寺内横丁と呼んでいます。
石段 石段で一番最初に出てくるのはここ。

クランク

玄関の横 上を見ると一見行き止まりに見えますよね。でも玄関の横がら右に入っていけます。

 以下は新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』を参考にします。

神楽坂。古老の大震災の前
汁粉屋と髪結 この時代(『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)ではここが汁粉屋と髪結です。時代は違っているので、これも違っていることも充分ありえます。でも、本多横丁にあるのを指しているのではないでしょうか。
はすかい 斜交い。ななめ。はす。ななめに交わること。

神楽坂。古老の大震災の前

レストラン カフェー・オザワでしょうか?
毘沙門 ご存じ善國寺毘沙門天
そばや 「そば春月」のこと。関東大震災前の昭和12年ではそうでした。昭和27年では「春月のみや」に変わっています。
 建物の出入り口・縁側などの上部にでる片流れの小屋根。

 大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮らしをしていた。芸者屋などにすぐ喰っついてゆるゆると高くなる方はもう静かな住宅が並んでいる。いつも門の戸をたてたままというような邸もあり、洋風の窓にレースのカーテンが塀越しにのぞける家もあり、道路のすぐそばから、がらがらと戸の開く格子づくりの二軒長屋などもある。この近くに住んでいる人のほかは通りてもないような狭い坂道が幾条も上から流れてみんな神楽坂へ出る。だから、この上の納戸町(なんどまち)にあった私の間借りの家は、このどの坂を通ってもいい。牛込見附から省線電車に乗って東京駅へ通う私は、朝夕この坂のひとつを通って往き来するのであった。

大地震 関東大地震は大正12年(1923年)9月1日でした。したがって、大正12年に佐多稲子と母は神楽坂周辺に移転し、この章も大正12年が中心になっています。
寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町。納戸町
この近く 「私」の住所は新宿区納戸町でした。
納戸町 右図の通り。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附も江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。
省線電車 鉄道省の管轄下にある電車。JRに相当。

神楽坂|翁庵 なんたってかつそばだ

文学と神楽坂

 蕎麦の「翁庵(おきなあん)」は神楽坂上を見で左側にあります。明治17年(1884)、関東大震災以前から商売を続けています。場所はここ

翁庵

 朝間義隆氏は映画監督の山田洋次との共著『シナリオをつくる』(筑摩書院、1994年)でこう書いています。

「和可菜」は夕食は出さないので、神楽坂下の山田さんのお気に入りのそば屋「翁」に大体は出かける。近くの理科大学の学生でいつも賑わっている店で、おかみさんたちがすっかり山田ファンになりいつも特別の惣菜をこしらえてもてなしてくれる。主役級の俳優さんとの顔合わせの場所にも、たびたびなっている。

 黒川鍾信氏の『神楽坂ホン書き旅館』(日本放送出版協会、2002年)では

 神楽坂を下って外堀通りにぶつかるちょっと手前に、「(おきな)(あん)」というそば屋がある。午後は東京理科大の学生たちで賑にぎわっている。ここの「カツ(どん)ライス」を知らない者は理科大生でないといわれるほど、卵でとじたカツの皿と大盛り(どんぶり)(めし)は有名である。
 ある晩、山田(洋次氏)たちはこの店に入った。注文を取りにきたアルバイトの店員は、寅さん映画のファンだった。客のひとりが山田洋次だということに気づいた店員は、女将に耳打ちした。それでは奥の座敷に上がってもらいなさいとなり、注文した料理の他に、「これは自家用の惣菜ですがよろしかったら召し上がってください」と、小松菜をそえた厚揚げの煮物と大根のあら()きが出てきた。
 これが決め手となった。山田たちはここをすっかり気に入り、また、店の人たちも山田組のファンになった。和可菜でカズさんがやったように、翁庵の女将さんは、徐々に山田や朝間の嗜好(しこう)を覚えていった。(たい)や松坂牛は必要ない。季節の食材を惣菜風にして出せば喜ばれるのだから、親戚(しんせき)縁者が遊びにきたというあんばいで気楽に調理することができた。

 また「拝啓、父上様」でも登場します。第7話で板前と仲居さんで翁庵(台本では「まるそば」)を舞台に集会があり、料亭「坂下」が廃業してしまうのでは、どうしようというものでした。

まるそば
  客で賑わっている.

まるそば
 昭和56年(1981年)、神吉(かんき)拓郎(たくろう)氏の『東京気侭地図』の一節です。氏は小説家、俳人、随筆家で、昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がけ、昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞を受賞しました。『東京気侭地図』の神楽坂は別に書いています。

 坂の上り口から、ほんの二三軒先の左側に「おきな庵」という蕎麦屋があるが、この店は好きだ。学生にとりわけ人気のある店で、見かけも値段も、まったく並の蕎麦屋だが、今どきには珍しいほど、ちゃんとしたものを出す店だと思う。
  法政大学を出た男に教えられて入って以来、たびたびこのノレンをくぐるようになった。
 お目当ては、カツそば、という珍味なのである。
 カツそば、などというと、眉をひそめられそうだが、どうして、どうして、これが悪くない。かけそばの上に、庖丁を入れた薄いトンカツが一枚のっている。普通の感覚でいうと、どうもギラギラとして、シツコくて、とても喰えないと思うだろうが、これが淡々として軽い味わいなのである。
  食べてみて、あまりにも意外だったので、教えてくれた男に早速報告すると、その男は、しまった、と額を叩いた。
「忘れてました。温かいのを食べちゃったんでしょう」
「そうだ」
「いうのを忘れたけれど、冷たいのを喰わなくちゃ話になりません。カツそばは、冷しに限るんです」
 ますます奇妙である。冷したカツそばなんて喰えるのかしらんと思ったけれど、次に行ったとき、その、冷し、というのを註文した。食べてみて、へえ、と感心した。
 温かいのもウマかったけれど、冷し、は一段とウマい。世のなかには不思議な取合せがあるものだと、目をぱちくりして帰ってきた。
 ここのカツそばの味は保証してもいいけれど、喰いものの評価は、まったく独断と偏見によるものなので、口に合わないということだってあり得る。でも、大人が食べてみて、損をしたような気にならないことは承け合える。

 ここの「かつそば」は「かつ」と「そば」をあわせたもの。かつそばってはじめてだと思った人はだめだめ。食べログによれば「全国にあるカツそばに関連するお店62件を一般ユーザーの口コミをもとに集計した様々なランキングから探すことができます」とでてきます。 すごい。62件もあるんだ。ただし、「カツカレーのカツ そば大盛り」など、「カツ そば」もいれて62店なのですが。入れない場合はとても怖くって調べていません。
 かつそばは毎月5日、15日、25日は限定100食まで500円で食べることができます。さらに、毎月8日、18日、28日はいなりずし1個を無料でサービス。
  でかつそばを食べてみるとなんと美味しい。かつは厚くはなくて、普通のかつの70%の厚さ。しかも油っこくはない。そばとあっている。おどろきでした。
 かつそばには、温かいかつそばと冷たいかつそばがあり、どちらも880円です。確かに「冷しかつそば」の方があっさりしていいと思いますが、それほど違いはあると思えません。

温冷かつそば

かつそばの2種。左は温かいかつそば。右は冷やしかつそば




漱石と『硝子戸の中』20|矢来町

文学と神楽坂

      二十

この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤いすじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男のうちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし 花魁おいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込むやいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになって落語家はなしかのやる講釈師真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

人寄場 日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。
鳶頭 土木・建築工事に従事する人の長、かしらです。明治以降も消防職員の俗称として使われました。
目暗縞 経糸緯糸とも紺染めにした最も細かい綿糸で織った無地の木綿の織物です。
印袢纏 襟・背などに,家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から,職人などが着用しました。
めくらじまと半纏
突っかけ草履 草履を足の指先にひっかけるようにして無造作に履くこと。
しもうた屋 仕舞た屋 (シモタヤ)と同じ。商店でない、普通の家。
南麟 講釈師の田辺南麟
見当 大体の方向・方角
道普請 道路を直したり、建設したりすること。道路工事
家並 立ち並んでいる家。その並び方。家ごと。どの家もみな。軒並み。よその家と同じ程度。世間なみ。
もうし 申し申し。もうしもうし。人に呼びかける時に用いる語。もしもし。
花魁 吉原遊廓の遊女で最高妓。広く遊女一般を指して花魁ということもある。
八ツ橋 元禄年間(1688~1704)百姓次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を殺した事件があった。多くの講談や戯曲になった。岩波書店の漱石全集によれば、「野州(栃木県)佐野の百姓次郎左衛門が江戸吉原大兵庫屋の花魁ハツ橋を殺害した江戸享保頃の事件は、『佐野八ツ橋』と称されて多くの小説や戯曲に作られた。ここで述べられているのは、その話を講談に仕組んだもの。歌舞伎脚本『籠釣瓶(かごつるべ)花街(さとの)酔醒(ゑひざめ)』(三世河竹新七作。明治二十一年初演)が有名。」
講釈師 軍談や講談の講釈を職業とする人。講談師。軍談師。小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げること

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂あがって酒井様の見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。

矢来の坂  もちろん、牛込天神町交差点から東に上がって南に牛込中央通りがでるまでの通りですが、ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では違ったことが書いてあります。

滝の坂(たきのさか) 早稲田通から榎町四〇と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。現矢来町一帯は、江戸時代は小浜藩主酒井氏の邸地で、明治維新後に分譲されて住宅地帯となった。……矢来の坂というのは現早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。

 しかし、子供の漱石が「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出よう」とする場合、滝の坂だとすると方向は全く違います。やはり矢来の坂というのは現早稲田通り、交差点「牛込天神町」の坂のことでしょう。これから上に行って酒井様の火の見櫓を通るのでしょう。
矢来町 歴史 江戸時代
交差点「牛込天神町」
酒井様の火の見櫓 どこにあったのでしょうか。江戸時代の地図(上を見て下さい)を見ると、まず穴あき四角で書いたものは「自身番屋」です。自身番は町内警備と火の番を主な役割としています。火の見櫓もここに建てました。その後の文章で「町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった」を読んでも、ここ「自身番屋」でしかありません。自身番屋は末寺横丁と矢来下の交叉するところにありました。
寺町 「とおり寺町」と「横寺町」の2つをまとめて呼びます。ただし、通寺町を簡易にして寺町と書く場合もあったようです。自身番屋を越えると、まっすぐだと通寺町から神楽坂に行き、右に曲がると横寺町です。漱石の時代では通寺町ですが、今では通寺町は神楽坂6丁目に名前が変わっています。なお、自身番屋の左側は「矢来町」、右側は「通寺町」です。
五六町の一筋道 5町は545メートル、6町は655メートルです。交差点「牛込天神町」から真っ直ぐ行って曲がるまで、つまり音楽の友ホールの前で曲がるまで、約470メートルです。現在は早稲田通りの道幅は大きくなって、さんさんと太陽が照り、陰惨ではないでしょう。しかし、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)ではこう書いています。

酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったか、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治三十五年九月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。”

矢来町 漱石 現代

あの土手の上に二抱ふたかかえ三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿いて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。
 そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かなという句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

HinomiYagura_06g4599sx日和下駄 もとは平足駄ひらあしだと呼んで、歯が低い足駄。晴天に使用された。
半鐘 火の見櫓ではよく見られる小型の釣り鐘。
一膳飯屋 一膳飯(盛り切りの飯)を食べさせる簡易食堂。
縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。なわのれん。店先に縄暖簾を下げたところから、居酒屋や一膳飯屋などのこと
煮〆 にしめ。煮染め。根菜・いも類・干ししいたけ・鶏肉・高野豆腐・こんにゃくなどに、しょうゆを主に砂糖・みりんなどで味つけした煮汁をしみ込ませ、煮汁の色がつくまで時間をかけて煮た、味の濃い煮物。おせちにも使う。
 おもむき。風情(ふぜい)のある様子
半鐘と並んで高き冬木哉 明治29年(1896)の作。

明治20年の神楽坂の地図

 1970年、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』45頁に「神楽坂付近の地名」として出ています。

明治20年の地図

神楽坂上交差点 神楽坂下交差点 外堀通り 大久保通り 和泉長屋横丁 善国寺 若宮小路 竹内小学校 毘沙門横丁 毘沙門横丁 軽子坂 揚場町 牡丹屋敷 小栗横丁 小栗横丁 一丁目 鏡花仮宅 二丁目 三丁目 本多横丁 四丁目 庾嶺坂 逢坂 新坂 地蔵坂 地蔵坂 わら店横町 わら店 光照寺 大田南畝故宅は中町 寺内 肴町 瓢箪坂 安養寺 川喜田屋横丁 川喜田屋横丁 袖摺坂 袖摺坂 弁天坂 朝日坂 筑土八幡 浅田宗伯 尾崎紅葉址 白銀坂 赤城坂 山里 六丁目 横寺町 北町 北町中町南町

若宮小路竹内小学校毘沙門横丁軽子坂神楽坂1丁目牡丹屋敷鏡花仮宅小栗横丁神楽坂2丁目神楽坂3丁目本多横丁四丁目庾嶺坂逢坂善国寺新坂藁店光照寺大田南畝故宅(正しくは中町)肴町コノ辺 地内ト云瓢箪坂安養寺川喜田屋横丁袖摺坂弁天坂五味坂朝日坂筑土八幡浅田宗伯尾崎紅葉址白銀坂赤城坂山里六丁目横寺町

酒井家矢来屋敷|矢来町

文学と神楽坂

 矢来町については別に書き、ここでは矢来屋敷を書いています。寛永5年(1628)、徳川将軍家より小浜藩酒井家は牛込矢来屋敷を拝領しました。

小浜藩 若狭わかさ)国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜に置いた藩。

小浜藩

 安政4年(1857)から幕末までの矢来屋敷は下図の通りでした。北側が上です。この時代、小浜藩の上屋敷(右下の御上屋敷)としも屋敷(それ以外)が接近して建っています。黄色で書いた場所は御殿表向(おもてむき)(政務や公式行事を行う場所)、赤は奥向(おくむき)(藩主の私的な場所)です。他の茶色で書いた場所は家臣や武士の長屋が多く、ほかにもいろいろなことを行いました(たとえば学問所)。
矢来屋敷

 この図は新宿歴史博物館の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』(2010年)を参考にして作ったものです。博物館のものは無断転載ができませんので、この文書を参考にして新たに自分で作りました。間違いと思われる場所はなおしています。ダブルクリックするとpdfでも簡単に手に入ります。どうぞ使って下さい。

 また竹矢来も×で書きました。ただし、この「竹矢来」は37頁の「下屋敷図」(1697年)の竹矢来を拡大したものです。

竹矢来1

竹矢来

『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』31頁の「竹矢来図」(1837年)(↓)は、約140年も月日がたったため、全く普通の竹垣や門が描かれています。

竹矢来

竹矢来

新撰東京名所図会」では酒井家矢来屋敷について「藩邸の坂 三条あり、辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂」があるといっています。この辻井つじいの坂、鍋割なべわり坂、赤見あかみの坂がどこにあるのか、その所在はわからなくなっています。

 中央やや右寄りで上下の道路は「牛込中央通り」とほとんど一緒です。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)では

 酒井邸の庭園は、築山山水式の優れたものであったが、戦後なくなった。旧庭園の様子は「名園五十種」にでている。

 この「名園五十種」は自宅のインターネットを使って国立図書館から無料で見ることができます。発行は1910年(明治43年)、編集は近藤正一氏です。ごく一部を紹介すると

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。
 弥生の朝の風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。唯見る門内は一面の花で、わづかにその破風はふ作りの母屋の屋妻やづまが雲と靉靆たなびく桜の梢に見ゆる所は土佐の絵巻物にでも有りさうな樣で如何にも美い………(中略)
 如何にも心地の好い庭である。陽気な…晴れ晴れとした庭である。庭というものは樹木じゅもく鬱蒼うつさうとして深山しんざん幽谷いうこくの様を移すものとのみ考えている人には是非この庭を見せてやりたく思うた。

 では『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』に戻ります。

 酒井讃岐守忠勝が、三代将軍家光から牛込村に下屋敷を貰ったのは、寛永5年(1628)3月であった。周囲に土手を築き、表門の石垣から東の方42間(約83メートル)、西の方263間(約510メートル)を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになった。これは寛永16年(1639)江戸城本丸の火災で、家光がこの下屋敷に難を避けた時に、まわりに竹矢来をつくり、御家人衆は抜身のやりをもって昼夜警護したことによるのである。
 それ以後酒井讃岐守忠勝は、これを永久に記念するために垣を造らず、塀を設けないで竹矢来にしたのである。その結び放した繩も、紫の紐、朱のふさ、やりとを交差した最初の名残りであるといわれ、江戸の名物の一つとなっていた。なお家光が、初めて酒井邸に立ち寄られたのは寛永12年8月22日で、以来数回訪問されたことがある。
 矢来町71番地あたり一帯は、明治末期まで、ひょうたん形の深くよどんだ池であった。これを「日下が池」とか「日足が池」とも書いて「ひたるがいけ」と読ませていた。長さが約108メートル、幅約36メートル、面積80坪(26.4アール)であった。池の周りには、沢桔梗、芦葦などが繁茂していた。これに長さ約12.6メートルの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられたのである。

 いまではひたるが池は干上がり、池があったと分かりません。残るのは階段だけですが、確かに深くよどんだ池だったのでしょう。

ひたるが池

 明治になると、この巨大な酒井家の屋敷の敷地は縮小、南側だけになっていきます。最後の庭も戦後には日本興業銀行の社宅になり、統合のため、みずほ銀行社宅「矢来町ハイツ」になりました。コメントの指摘により、日本興業銀行の社宅になったのは昭和24年以前だと思えます。矢来町ハイツの門の場所には「造庭記念碑」が建っています。

造園碑

『名園五十種』にかかれた明治43年の酒井邸の庭園は遠州流で、武家茶道の代表です。茶室は江戸中期の書院造りで、幕末に水屋・手前席などを増築したものです。茶室は林丘亭として杉並区立柏の宮公園にあり、牛込屋敷が日本興行銀行の社宅となった時に当時の頭取がここに移築しました。名園1


Caffè Triestino(閉店)|神楽坂6丁目

 カフェトリエスティーノはイタリアのエスプレッソを安く(特にここを強調したい)出してくれます。言葉はフリウリ州トリエステ市からきています。

 エスプレッソ

 一番安いのがエスプレッソ(ネロ)で200円、フォームドミルクとネロのゴッチャートで220円、高くても380円。25種類もあります。朝ここに入ってコーヒーの一口飲むと、キーンと音が聞こえそうで、たちまち「やるぞ」という気になる。コーヒーでこれほど覚醒効果があるのは他にはありません。

 夜は軽いイタリアの食事がでます。しかし、12時以降は人が込む。10時に開くと入って、11時までにはでるようにするとまだすいている。実はここはマクドナルドのコーヒー100円、ベローチェのコーヒー180円に続いて安くて、しかも、驚いたことに、おいしいのです。

 残念ながら2014年2月16日に閉店しました。

成金横丁 牛込亭 白銀公園 瓢箪坂 駒坂 川喜田屋横丁 神楽坂上 神楽坂5丁目 清閑院

清閑院|成金横丁|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

清閑院は神楽坂通りと成金横丁の交差点にありましたが、閉店し、現在は京菓子處「鼓月」です。

清閑院は羊羹やくずきりの普通のものもありますが、「庭清水」、「花火咲く」、「茶々みどり」、「風鈴」など聞いただけてはわからない、だけど美味しそうにみえるものもたくさんありました。たとえば「茶々みどり」は求肥と抹茶の羊羹。実際おいしい。でも、なぜか人は少ない。で、ここも閉鎖してしまいました。

清閑院清閑院1

成金横丁 牛込亭 白銀公園 瓢箪坂 駒坂 川喜田屋横丁 神楽坂上 神楽坂5丁目 Caffe Triestino

川喜田屋横丁|神楽坂5丁目と6丁目

文学と神楽坂

 神楽坂の西側に大久保通りがあります。その西側に神楽坂六丁目(以前の牛込通寺町)があります。しかし、神楽坂五丁目(以前の肴町)もあるのです。(☞大久保通りを越えた神楽坂5丁目

肴町(現在の神楽坂五丁目)の大半は大久保通りから見ると東側ですが、実は西側にも広がっています。牛込三光院門前(現・通寺町)と肴町の間にある横丁は、大久保通りから見ると西側に位置し、川喜田(かわきた)()横丁と呼ばれていました。現在もその他の名称はなく、使ってもいいはずです。

これは横丁角に川喜田久右衛門という町人が住んでいたといわれます(町方書上「牛込三光院門前」)。

横町有之、通はゞ九尺程、俗川喜田屋横丁と唱申候、右横丁角町内川喜田屋久右衛門と申町人住居仕候故申習候

明治時代もあまり大きな変化がありません。江戸時代と現在で神楽坂と大久保通りと朝日坂と川喜田屋横丁の関係を示します。

川喜田屋横丁と神楽坂と大久保通りと朝日坂

現在は

川喜田屋横丁

では、川喜田屋横丁を見ていきたいと思います。最初は入った所。なんとなく登りに入っています。右は「はり鍼灸院」やマンションです。

なお、明進軒、次にプランタン、婦人科の医者、マンションになった場所や、求友亭もここにありました。

川喜田屋横丁1

下の写真(↓)は「ハピネス神楽坂」です。ええ、これで1階はファッションビルなのです。でも、会社の社員が一杯いることはまずありません。創業は1974年12月。本物の手づくりにこだわり、「山の幸染め」「グラスアート」「押し花」などを作っています。13年9月28日、4チャンネルの「ぶらり途中下車の旅」でこの「山の幸染め」をやっていました。葉脈も綺麗に見えます。体験受講は1000円+教材費実費。

川喜田屋横丁2

本来の川喜田屋横丁はこれで終わりです。しかし、この坂をさらに上に登ると、右の小さな路地があります。こんなこざっぱりして清潔で綺麗な路地は、はい、ないと思います。右手の路地は1.4mしかありません。やはりほとんど人は入ってこないためだと思います。で、てっぺんの法正寺です。さらに下がる途中にある繁栄稲荷神社です。

川喜田屋横丁3

一番頂上から下に望むと、ららら、おどきですが、相当高い。幅は3.7mです。川喜田屋横丁4
三光院と養善院の横丁 白銀公園 瓢箪坂 駒坂 成金横丁 神楽坂5丁目 牛込亭
神楽坂の通りと坂に戻る

文学と神楽坂

拝啓、父上様

文学と神楽坂

「拝啓、父上様」はウィキペディアによれば、2007年1月11日から3月22日までフジテレビ系列で毎週木曜22:00~22:54に放送されていたテレビドラマです。東京、神楽坂の老舗料亭「坂下」を舞台に、料亭に関わる人々と出来事を描きました。


 2000年頃になると神楽坂に来る人は数倍に増えましたが、「拝啓、父上様」が放送されるとすぐにまたまた増えたといいます。
 以前は「拝啓、父上様」は英語や韓国語の字幕付きで全巻YouTubeで簡単に出てきました。

拝啓、父上様



袖摺坂|北向き、南向き?

 袖摺坂(そですりざか)です。新宿区の『地図で見る新宿区の移り変わり–牛込編』から取った地図です。新板江戸外絵図(寛文12年、1672年)では神楽坂の袖摺坂はここを示します。現在の袖摺坂と同じですね。

1672年の袖摺坂

 以下は年代と地図です。右図は簡単な段差があると示します。 段差がある地図

 延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までは地図ではなく、簡単な絵です。現在の大久保通りから北に上る坂があり、ここは袖摺坂だというがよくわかります。

延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までの袖摺坂

 明治20年から28年も袖摺坂を示しますが、袖摺坂のほかに左に新たに道ができたのがわかります。この新しく作った坂は五味坂、ゴミ坂と呼んでいるようです。

明治20年と28年までの袖摺坂

 さらに下の図は明治20年の絵です。袖摺坂は乞食坂ともいっているんですね。また大久保通りの一部の弁天坂もあります。

明治20年の袖摺坂

 明治29年はさらに袖摺坂(青い矢印)の右下に新しい坂(赤い矢印)ができます。かなり急な坂だと思います。この坂は「蛇段々」と言われました。蛇段々が実は袖摺坂だという意見もあります。例えば鳥居秀敏さんの『袖摺坂って本当はどの坂?』(寺田弘、岩井美幸編「神楽坂アーカイブズチーム第3集」NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2009年)です。しかし蛇段々は明治20年以前にはなかったので、この説は難しいと思っています。

明治29年と40年の袖摺坂

 昭和5年はかわりませんが、昭和16年、さらにもう1つ坂がでます。名前はありません。昭和22年、終戦でもあまり変化がありません。一応、ここを「新蛇段々」と仮称します。

 さらに進めていき、昭和56年は…昭和56年の袖摺坂 まず、昔の急な坂「蛇段々」がなくなり、新しい坂だけが残ります。それから、あれれ、こまった、あれれ、こまった。袖摺坂の位置が違う。新しい坂が袖摺坂になっている。弁天坂も違う。
 うーん。うーん、そこで、困った時は新宿歴史博物館。そこで聞きました。答えは

新宿区が袖摺坂としている根拠について
『御府内備考』御箪笥町の書き上げに
「坂、上り凡そ十間程、右町内(御箪笥町)東の方肴町境にこれ有り。里族袖摺坂または乞食坂とも唱え申し候。袖摺坂は片側高台片側垣根にして、両脇とも至ってせまく、往来人、通り違いの父子、袖摺合わせ候。」とあります。
 江戸時代、肴町は、当時武家地を間に挟んで5か所に散在する町屋でしたが、明治5年に北部を残して、その大部分は武家地とともに岩戸町に編入され、一部は横寺町に編入されました。
『御府内備考』の示す肴町は、横寺町に編入され「横寺町65番地」となったところです。
 袖摺坂の位置については、『御府内備考』の内容の解釈違いによるものと思われます。
 以上が、新宿区が袖摺坂を特定している根拠です。
 なお、坂の位置は新宿区教育委員会発行の『地図で見る新宿区の移り変わり』牛込編 で確認できます。

新宿歴史博物館 佐藤

 なるほど。これでまったくいいようです。新宿歴史博物館の佐藤氏に感謝します。でも、そうじゃないとおかしいよなあ。昔の絵図には現在の地図と全く違わない坂があるからなあ。以上、現在のほうが正しく、昭和56年の地図は間違いでした。
 また『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』の矢代氏が書いた「土地に刻まれた歴史」で「袖摺坂」は「蛇段々」とそれを新しくした坂の間違いだと思います。

土地に刻まれた歴史   矢代和也

袋町の高台から現在の大久保通りに向って、急峻な段坂が屈折しながら下っていた。石段や敷石の部分を除くと、雨の時には足を滑らせそうな細々とした坂道で、両側には階段状に小さな家々が建っていた。「袖摺坂」である。(違います。じつは蛇段々の坂です。)この坂道は「安政絵図」にも、それ以後の絵図・地図にも表記されていず、一八九六(明治二九)年の「東京市牛込区全図」、「帝都復興東京市全図」(『新宿区地図集』)に道路拡張の予定地としてはじめて記されている。しかし、この程度の道幅の段坂でも、たとえば、柳町の通りの寿司屋の角から甲良町の方へぬける名もない段坂が、すでに「安政絵図」に表記されているので、きわめて不思議な坂道に思われる。 私の小学校の上級のころ、「袖摺坂」の道路拡張の工事がはじまった。家屡が立退かされ、赤土の高い崖が露出した。悪童たちの絶好の遊び場が一つ増えることとなった。学校の禁を犯して、急崖をすべり下り、また上る、泥のぶつけ合い。中腹に糾めに生えた木にのぼって、ユサユサとゆすって、下級生に悲鳴をあげさせたり、親の洗濯の苦労も知らずに、頭の天頂まで、泥まみれになって遊んだものである。 やがて、太平洋戦争もはじまろうというころ、砂利敷ではあるが、現況のような道路が姿をあらわし、一九四一(昭和一六)年の『牛込区詳細図』に、拡張道路として表記されることになった。(こちらはS状の新蛇段々の坂です)


ヌエット「東京のシルエット」…特に神楽坂について

文学と神楽坂

ヌエット

「東京を愛した文人画家 ノエル・ヌエット」。『東京人』2011年4月号から

 昭和29年(1954年)4月15日、著者ノエル・ヌエット(Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。この時、ヌエット氏は69歳でした。定価は430円。ヌエットの当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。

 この本で神楽坂と関係があるのは2つだけです。しかし、それ以外にも懐かしい版画はたくさんあります。最初は「神楽坂」です。

東京のシルエット 神楽坂 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 水野正雄氏は、戦後、「建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました」と書いています(NPO法人粋なまつづくり倶楽部 神楽坂アーカイブチーム編『まちの思い出をたどって』第1集、2007年)。上図の倒れていない建物は三菱銀行(現在は三菱UFJ銀行)だったのです。戦後、一時的に「千代田銀行 神楽坂支店」という名前にかわっています。

 次は日仏学院です。一時的に「アンスティチュ・フランセ 東京」と名前が変わり、また元に戻っていますが、これはフランス政府が管理・運営するフランス文化センターです。
東京のシルエット日仏学院 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 あとは他の版画をいくつか。

東京のシルエット 芝の大門 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 和田倉門 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 三宅坂のお濠 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 半蔵門のお濠 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 なおノエル・ヌエット氏の『神楽坂』(昭和12年)は別の項で。

泉鏡花『神楽坂の唄』

文学と神楽坂

 泉鏡花は大正14(1925)年に「文藝春秋」で「神楽坂の唄」を書いています。すずと所帯を持った思い出深い神楽坂を唄ったものです。町名、坂の名、名所を織り込みながら大正時代の神楽坂情緒を唄いこんでいます。
 さらに昭和38(1963)年には杵屋勝東治師がこの唄に曲をつけ、花柳輔三朗師の振付で、神楽坂の曲として使っています。『ひと里』という曲で、ふだんは最初の2行と最後の5行の歌詞を抜粋して踊ります。
 春から冬まで季節が順次出てきます。意味が分かるように訳しましたが、わからないところがまだまだ沢山あります。変なところ、あればどうか教えて下さい。掛詞が出るところ、五七調、七五調もたくさんあるようです。

(ひと)(さと)は、神樂(かぐら)()けて岩戸町
(たま)も、(いらか)も、(あさ)(がすみ)
(やなぎ)(のき)()(うめ)(かど)
(もゝ)(さくら)()(なら)べ、
江戸川(えどがは)(ちか)(はる)(みづ)山吹(やまぶき)(さと)(とほ)からず。
(つく)()(まつ)(ふぢ)()けば、
ゆかり(きみ)(あふ)ぞぇ

 現代語訳を書いておきます。五七調などの名調子はなくなりました。

神楽を演奏していると、ここ一帯や岩戸町も夜は終わり、明るくなっている。
きれいな宝石も醜い甍も、朝霞にかすんでいる。
軒のはしには柳が見え、門では梅が見える。
春は桃や桜が並ぶ。神田川中流にも遠くない春に、水が流れる。山吹の里も近い。
筑土地域の松もいいし、藤の花は満開で、
つながりがあるあなたに仰ごう。

一里 約4km。この一里を見ると
神楽 かぐら。神をまつる舞楽。
明けて 神楽を演奏していると、神楽坂では夜も終わり、明るくなってくる。
岩戸町 いわとちょう。北部は神楽坂に接し、都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の出入りがあります
 たま。丸い形の美しい石。宝石や真珠など
 いらか。屋根の頂上の部分。屋根に葺いた棟瓦。きれいなもの(玉)もそうでないもの(甍)も
朝霞 あさがすみ 。朝立つ霞。 季語は春。
軒端 のきば。軒のはし。軒口。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。東京都文京区水道・関口の江戸川橋の辺り。
山吹の里 室町時代の武将、太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ります。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつも持ち合わせがないと教わりました。新宿区内には山吹町という地名があり、この伝説の地ではないかといいます。
築土 筑土(つくど)八幡町(はちまんちょう)は、東京都新宿区の町名。
 ふじ、東京で藤の見ごろは4月下旬から5月上旬にかけて。
ゆかり なんらかのかかわりあいや、つながりがある。因縁。血縁関係のある者。親族。縁者
 ここでは敬慕・親愛の情をこめていう語
仰ぐ 尊敬する。敬う
ぞえ 終助詞「ぞ」終助詞と「え」が付いてできる。仰ぐぞ→仰ぐぞえ→仰ぐぜ。注意を促したり念を押したりする。

牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)(くれなゐ)は、(たもと)(つま)ほのめきて、 (こひ)には(こゝろ)あやめ(ぐさ)
ちまき(まゐ)らす(たま)ずさも、
いつそ人目(ひとめ)關口(せきぐち)なれど、
(みなぎ)ばかり(たき)津瀬(つせ)の、(おもひ)(たれ)(さまた)げむ。
蚊帳(かや)にも(かよ)へ、()(ほたる)
(しのぶ)()れよ、(あお)(すだれ)

牡丹屋敷にある牡丹の紅は、袂や裾の両端でもほのかに、香のにおいをしている。恋をするときは物事の道筋を見失うぐらいの恋をしてみたい。
5月、ちまきをあげている使者も、かえって他人の目を気にしているようだ。
あふれるばかりにいっぱいの滝のような急流のように、この思いを妨げる人はいない。
夏、飛ぶ螢は蚊帳の中まで入ってくる。
青竹を細く割って編んだ新しいすだれは、夏、軒下などにつるす忍玉(しのぶだま)と同じで、涼しさがある。
つりしのぶ

荵の忍玉

牡丹屋敷 八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門も一緒に紀伊国(現和歌山県)から出てきたが、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領しました。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷。牡丹の開花は4-5月です。
 くれない。鮮やかな赤色。ほたんの色です
 着物の裾(すそ)の左右両端の部分。
ほのめき ほのかに見える。香る。
あやめ草 あやめ草はサトイモ科の草で、池や溝の周辺に群をなして繁茂する。季語は夏。「文目」(あやめ)は物事の道理、筋道。物の区別。
ちまき 笹の葉で巻き、蒸して作った餠(もち)。端午の節句に食べる。季語は初夏
参らす 献上する。差し上げる
玉ずさ 使者。使
いっそ 予想に反した事を述べるときに用いる。かえって。反対に。
人目 他人の目。世間の人の見る目
関口 東京都文京区の町名で、牛込区(現在は新宿区)と接する
みなぎる 力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる
滝津瀬 たきつせ。滝。滝のような急流。
蚊帳 蚊帳の季語は三夏。陰暦で、4・5・6の夏の3か月。初夏・仲夏・晩夏
 季語は仲夏。夏のなかば。陰暦5月の異称。中夏
 荵はシダ植物。岩や木に着生する。根茎は太く、長く、淡褐色の鱗片を基部に密生する。葉は長柄で根茎につく。根茎を丸めて忍玉(しのぶだま)を作り、夏、軒下などにつるして、その下に風鈴を下げたりし、水をやり涼しさをたのしむ。忍ぶ草。事無草(ことなしぐさ)。
青簾 青竹を細く割って編んだ新しいすだれ

あはぬ(まぶた)()(ゆめ)は、 いつも逢坂(おふさか)軽子坂(かるこざか)
重荷(おもに)(うれ)肴町(さかなまち)
その芝肴(しばざかな)意氣(いき)(はり)は、
たとひ()(なか)(みづ)(そこ)
(ふね)首尾(しゆび)よく揚場(あげば)から、
(きり)(ともし)道行(みちゆき)の、(たがひ)いの姿(すがた)しのべども、
(なび)つるゝ(はぎ)(すすき)
(いろ)(つゆ)()御縁日(ごえんにち)

ここで見た夢はいつも逢坂や軽子坂が出てくる。
肴町だと重荷は新鮮な魚なので嬉しい。
芝浦の海でとれた小魚は意地を張っている。たとえ火の中でも、水の底でも。
小魚を船で揚場から首尾よく手に入れた。霧の灯に旅行し、お互いを思い出す。
秋になり、萩や薄は、なびいているが、まだその場にいる。露がある御縁日になった。

あはぬ あわない。合っていない。どうしても瞼が開いてしまうが
逢坂 市谷船河原町にある急坂で、下から上に向かう神楽坂では左側
軽子坂 新宿区揚場町と神楽坂二丁目との比較的に緩徐な坂。下から上に向かう神楽坂では右側。
肴町 神楽坂5丁目の以前の名称
芝肴 しばざかな。芝魚。芝肴。江戸の芝浦あたりの海でとれた小魚で、新鮮で美味とされた。
意気張 遊女が意気地を張り通すこと
揚場 船荷を陸揚げする場所。揚場町もある。
 「ともし」と読む。意味は「ともしび」
道行 旅すること
しのぶ つらいことをがまんする。じっとこらえる。耐える
靡き なびくこと。「靡く」とは「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く。他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する。女性が男性に言い寄られて承知する。
つるる つるの連用形か。「吊る」は「物にかけて下げる。高くかけ渡す」。「釣る」は「釣り針で魚をとる。巧みに人を誘う」。 「攣る」は「筋肉がひきつって痛む」。
萩薄 萩(はぎ)と薄(すすき)。萩の季語は初秋、薄の季語は三秋(秋季の3か月で、初秋、仲秋、晩秋。陰暦の7、8、9月)
 つゆ。空気中の水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。季語は三秋。陰暦の7、8、9月
添う そう。そばを離れずにいる。ぴったりつく
御縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すれば特に御利益があると信じられている

毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
(むす)ぼる(むね)(しも)とけて、
(そら)小春(こはる)若宮(わかみや)に、
(かり)(つばさ)かげひなた
比翼(ひよく)(もん)こそ(うれ)しけれ。

毘沙門様は守り神。毘沙門様は守り神。
冬になると結んだ胸にある霜もとけてくる。
空も11月頃の小春で、若宮町に広がる。
雁の翼は、うらおもて。
比翼の紋(相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋)になるのは本当に嬉しい。

毘沙門 びしゃもん。「神楽坂の毘沙門さま」で親しまれている。福や財をもたらす開運厄除けのお寺
 しも。0℃以下に冷えた物体の表面水蒸気が固体化し、氷の結晶として堆積したもの
小春 こはる。陰暦10月のこと。現在の太陽暦では11月頃に相当し、この頃の陽気が春に似ているため、こう呼ばれるようになった
若宮 地域北部は神楽坂地域に接し、若宮八幡神社があります
かげひなた 日の当たらない所と日の当たる所。2人の見ている所と見ていない所とで言動が変わること。人の見る、見ないによって言葉や態度の変わること。うらおもて。
比翼の紋 ひよくのもん。比翼紋。相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋。二つ紋。

かくれんぼ横丁・から傘横丁|由来

文学と神楽坂

 この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは2つの、まあいえる理由があります。

 一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(2007年、展望社)では、

 この路地内には、東京都で初の五つ子の母の実家がある。この五つ子ちゃんが歩けるようになって、実家の路地内でかくれんぼ遊びをしていたことから「かくれんぼ横丁」と呼ぶようになった。

 または、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』(けやき舎)で渡辺功一氏は

「かくれんぼ横丁」という名前の名づけ親は、この路地にお住まいだった森川安男さんです。お孫さんとかくれんぼをしたりして遊ぶということで、この名前をつけたそうです。

 あるいは、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最版神楽坂の路地その魅力のすべて」で田中ひとみ氏は

孫たちが遊んでいる姿を見て、石畳の路地に「かくれんぼ横丁」という名前を付けられたという森川安男さん。残念ながらご高齢のため数年前に亡くなられました。

 もう1つは、山口則彦氏の案(お亡くなりになりました)で

 やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。

というものです。

 西村和夫氏は『雑学 神楽坂』では

入り組んだ街中で突然前方を歩く人が、家並に隠れて見えなくなるという町に遊び心から地域の住人が付けた愛称である。

「神楽坂まちの手帖」第15号の座談会「路地歩きAtoZ」では……。なお、持田氏はかくれんぼ横丁在住49年のアマチュア写真家。金原氏は法政大学教授。平松氏は手帖の編集長です。

持田 うちの路地をみんな「かくれんぼ横丁」って呼ぶんですけど、あれは住んでる人間が知らないうちに名前がついてたんですね。
金原 誰がつけたんでしょうね。
持田 二十四、五年前に、うちの奥の森川さんって家に五つ子ちゃんが生まれたんです。日本テレビがずっと追いかけて番組を作ったんですけど、その時に森川さんのおじいさんが名付けたそうです。孫たちとかくれんぼして遊ぶから、かくれんぼ横丁って。それがテレビで広まったんですね。
平松 勝手に名前がついちゃうっていうのは、そこに住んでる側としていやなものですか。
持田 べつに悪い名前じゃないですし、愛称があったほうが親しみやすいと思いますよ。

 やはり『森川さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ』ほうが正しいようです。

 なお、『ここは牛込、神楽坂』では「寿司幸」のある路を『から傘横丁』と名前をつけています。理由は傘がほしてあったから。なるほど。なお、寿司幸は2018年一杯で閉店しました。

かくれんぼnew

『ここは牛込、神楽坂』…牛込倶楽部、立壁正子さんが編集長

文学と神楽坂


「牛込倶楽部」が作るタウン誌『ここは牛込、神楽坂』は1997年(平成9年)夏から2001年(平成13年)春まで第1~18号を出版しました。立壁正子さんがやっていましたが、癌で急死、18号で終わりました。残念です。
 参考までに特集を掲げて起きます。古老、作家、地域の人、日本画、大学とあらゆるものを対象にして作っていました。ささいなことでもあるのかないのか調べるという姿勢が素晴らしい。どこか一歩が、先に行っている。ほかのものと比べると、360°よく見えていて、調査も行き届いている。
 本編で『ここは牛込、神楽坂』から参照したものはいろいろありますが、「第13号。路地・横丁に愛称をつけてしまった」が一番多く、「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」や相馬屋などが次に続きます。

 1号 神楽坂に寄せて。
 2号 神楽坂古典芸能
 3号 神楽坂でENJOYひとり暮らし。
 4号 泉鏡花と牛込、神楽坂
 6号 忠臣蔵と牛込、神楽坂。ラーメン、ラーメン
 7号 藁店。地蔵坂界隈
 8号 神楽坂粋すじ事情
 9号 「まち」と大学の素敵な関係。東京理科大学
10号 漱石と神楽坂。
11号 神楽坂で昼食を
12号 電脳都市神楽坂
13号 神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった
14号 神楽坂を歩く。神楽坂の緑
15号 日本画の巨匠 鏑木清方と牛込
16号 拠点としての神楽坂
17号 「まち」と大学の素敵な関係。法政大学編
18号 「寺内」から、神楽坂・まちの文脈を再考する

『神楽坂まちの手帖』…けやき舎、平松南さんが編集長

文学と神楽坂

『神楽坂まちの手帖』はけやき舎が編集・発行する季刊誌です。03年4月から07年12月まで続きました。第18号が最後です。編集長の平松南氏が体調を崩し入院しました。現在はインターネット用の『週刊 神楽坂ニュース』に変わっています。
「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は本当にプロが書いた文章です。
http://blog.livedoor.jp/m-00_33187/

本編で『神楽坂まちの手帖』から参照したものは
神楽坂 長~い3丁目 みちくさ横丁 神楽小路 新女性大学 まだ一杯あります。

 18号の特集をすべて書いておきます。

 1号 神楽坂の路地の魅力・全解剖。神楽坂界わい らーめん徹底ガイド
 2号 神楽坂でフランスを探す
 3号 和が息づくまち・神楽坂
 4号 坂を思いっきり楽しむ
 5号 坂歩き名人の散歩術
 6号 落語と神楽坂
 7号 お江戸の歴史と神楽坂
 8号 神楽坂の街を支える古建築
 9号 街を元気にするクラッシックの音楽力
10号 復活! 神楽坂の水辺
11号 街を元気にする<アートパワー>
12号 昭和三十年代とその周辺 僕らの育った神楽坂
13号 街なかで学ぼう カルチャーで花盛り
14号 神楽坂と本
15号 神楽坂の路地・その魅力の全て
16号 江戸城と神楽坂
17号 漱石と早稲田・神楽坂
18号 「西歐的」小交差点を神楽坂に探す


小栗横丁|神楽坂

文学と神楽坂

 昔、ぐり利右衛門屋敷があったため小栗横町という名前がつきました(新宿近世文書研究会「町方書上」平成8年)

町内西北之方、市ヶ谷田町四丁目代地境横町里俗小栗横町唱申候、右已前小栗利右衛門様御屋敷、右横町地尻有之候故申習候(牛込牡丹屋舗)

 左下では小栗仁右衛門になっています。この屋敷は若宮八幡のそばに建っていました。しかし、入口に建っていた場合もありますし、両方に建っていた場合もあります。

小栗横丁の由来

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 明治16年頃、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、まだはっきりした横丁にはなっていません。

 明治20年の地図になると、ちゃんと載るようになっています。また、同じく下記の明治20年の地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)でも同じです。

 では、神楽坂通りから入ってみましょう。最初の路地は「鏡花横丁」という名前でも呼んでいたそうです。2つある田口屋生花店の真ん中の道が鏡花横丁です。
小栗横丁1

 ほんの数メートルも行くと、2つに分かれます。右側は小栗横町です。路地は(私たちもそうですが)右に進んでいきます。 右側は「ポルタ神楽坂」です。ポルタ神楽坂も東京理科大学の土地になっています。

ポルタ

左は理科大学、右はポルタ

 この左側は理科大です。理科大学
 ここから先に「泉鏡花・北原白秋旧居跡」があります。

 そこを通り過ぎると四つ角がでてきます。この右手に行くと、神楽坂通り、さらに神楽坂仲通りです。左手の方に上がる(下図)と、『ここは牛込、神楽坂』では「お堀が見下ろせた……で、『堀見坂』とした。」と書いています。残念ながら、今は反対側のほうをみても、建物が一杯で、お堀は見えません。堀見坂

 また500円のコーヒーがある画廊Pulse Galleryがあります。 パルス

 もとにもどって小栗横町に帰り、またさらに西の奥に行きます。50年以上の昔、ノエル・ヌエット氏は絵画「若宮町」を書きました、その絵画は、その下の写真とよく似ていませんか?

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

 さらに三差路がでてきます。ここを右に渡ると、熱海湯階段に行く小路になります。さらに熱海湯銭湯になり、すぐに左に曲がる三差路がでてきます。

 この三差路を左に上がっていくと(下図)『ここは牛込、神楽坂』では「もともと蔵のようなものがあったところなんですよ」「じゃあ『お蔵坂』と」と書いています。なお、360°カメラで撮ったお蔵坂もあります。お蔵坂 また、この路地はアグネスホテルにつながっています。
 小栗横町はなぜか飲み屋、日本料理、など沢山でてきます。昔はもっとそうで、芸妓屋や料亭が一倍あったところです。いまは割烹も普通の家も一緒に建っています。中には一見普通の家なのに本当は飲み屋をやっていたり、日本料理をだすところもあります。 小栗横丁2
 あとは歩いてT字路に行くとこれでおしまい。このT字路の左は小栗利右衛門屋敷でした。ちょうど左の一帯が小栗屋敷でした。 また「出羽様下」とここには書いてあります。上に行く右側の通りを出羽様下というのでしょう。なお、この地図は明治20年の絵だそうです

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

明治の神楽坂の小栗横町。復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)







神楽坂|かくれんぼ横丁

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁はもっとも古い建物が残っている路地裏です。ただし第2次世界大戦で、ことごとく灰になり、すべてが戦後の建物です。しかし、戦後の花街として昭和30年代には繁栄しました。
 かくれんぼ横丁のほどんどは料亭・待合・芸妓屋として残っておらず、割烹、料理店、懐石料理に変わっています。ここで06年9月、日本建築学会で水井氏が「花街建築」の外観的要素として20項目を挙げ、うち料亭・待合は14項目、芸妓屋は9項目が重要だと考えました。(水井七奈子「遺構調査に基づいた花街建築に関する研究(その1)」日本建築学会大会学術講演梗概集。2006)
 が重要な項目です。

項目料亭・待合芸妓屋
庭・庭木あり
庭に松・竹・梅のいずれかあり
石畳か灯篭とうろうを配置
黒塀・木塀か刳貫くりぬきがあるモルタル塀
玄関や門構えが重厚
柱材が細い(3-4寸角)
格子こうしが開口部に設置
玄関戸上部や外壁等に扇や松の型の刳貫や竹材等の細工あり
2階に縁がある場合、擬宝珠ぎぼしが付くか装飾的な浮彫うきぼりがある[擬宝珠付きは1棟のみ]
戸袋とぶくろが装飾的
照明に装飾か屋号入りの照明
装飾的な青銅製のとい
開ロ部に深いひさし[木製庇]
前項に加えて庇裏が装飾的
階高が高いか総2階[2階建てがほとんど]
建具が装飾的
その他、装飾的な細工あり
屋根形状が入母屋いりもや錣葺しころぶき[切妻屋根がほとんど]
のき
屋根のむくり(屋根を凸状に反らす)

 古い花街建築(大震災直後から昭和初期)ほど、より多くの装飾があったといいます。神楽坂は残った家屋がほぼない地域です。したがって戦後にできた新しい建物で、残念ながら装飾は少なくなっています。

かく5

 ここは普通の建物ですが、それでも一番きれいです。左手には黒塀があり、奥の右手では路地と玄関の間に塀で囲まれた木戸を作っています。
 青銅製の樋と入母屋造がはっきりと見えます。かくれんぼ1
かく6

 格子状の意匠があり、左には黒塀があり…
かく4 玄関前の屋号の照明、戸の内部に竹材の細工が見られます。また入口は木戸からさらに奥です。山路は今は一軒家のホテルです。
 ちなみに「拝啓、父上様」で第1話でこの(正確には仲通りの)料亭「千月」とかくれんぼ横丁がでてきました。

仲通り
  を走って「千月」の前に立つ。
  見廻すがテキがいない。
  路地へとびこむ。


千月2かく7

神楽坂の通りと坂に戻る場合は…



神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

 兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では……

神楽坂五丁目

 神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込うしごめ肴町さかなまちが、神楽坂の北側に行元ぎょうがん門前もんぜんおよび寺地があった。

牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫ひょうごといったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に

安政4年(1857)『市谷牛込絵図』(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)から

 つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

 ところが、兵庫横丁は、神楽坂五丁目ではなく、神楽坂四丁目なのです。四丁目なのに、どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが……

 ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。

 想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。

 ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。なお、原図は新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、1987年)で、新宿区の図書館や国立国会図書館から借りることができます。牛込城の想像図

文学と神楽坂

 兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。

兵庫

 野口冨士夫『私のなかの東京』では

 読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

 石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。

 まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では

 坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった

と書いています。

 特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。

 見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。

「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。

「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?

 さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。

 また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。

 格子戸は格子状の引き戸や扉で、採光や通風を得ることができます。()ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。()り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。

 関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。

 簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。

kurobeip02

 黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。


神楽坂の通りと坂に戻る