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七福神巡り|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 4.繁華街の核、毘沙門様」を見てみましょう。ここでは、主に参考書『郷土玩具大成』の中の“七福神”を扱います。つまり、8種(谷中、向島、芝、亀戸、東海、麻布稲荷、山の手、柴又)の七福神です。
 ここでどの七福神が何年に初めて参詣したのか、簡単にわかる表を作りました。
 谷中七福神   元文2年、1737年
 向島七福神   文化元年、1804年
 芝(港)七福神 明治末期、1900年以降か
 亀戸七福神   明治末期、1900年以降か
 東海七福神   昭和7年、1932年
 麻布稲荷七福神 昭和8年、1933年
 山の手七福神  昭和9年、1934年
 柴又七福神   昭和9年、1934年

繁華街の核、毘沙門様
     (神楽坂5-36)
 神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁華街だったが、その核をなすものが坂を上って左側の毘沙門様である。正式には善国寺である。文禄4年(1595)に、中央区馬喰町に建立され、寛政4年(1792)に類焼してここに移転してきたものである。本尊の毘沙門天像は新宿区の文化財になっている。
 元文2年(1737)から、江戸では七福神詣でという巡拝が谷中ではじまり、寛政初年(1789)から流行したが、文化13年(1816)の「遊歴雑記」中の、江戸七福神詣にはここを入れてあるから、そのころから有名になったのであろう。
 このにぎわいを背景にして、神楽坂に花街ができたのは明治初期で、「近代花街年表」には「明治7年1月24日、牛込肴町より出火、神楽坂花街全焼す」と出ている。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治20年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。
 だから、明治、大正時代の縁日のにぎわいは格別で、夜には表通りが人出で歩けないほどになり、坂下と坂上大久保通りの交差点には、車馬通行止めの札が出たほどである。
 なおここが山の手七福神の一つになったのは昭和9年からである。山の手七福神というのは、このほか原町の経王寺(市谷6参照)、東大久保の厳島神社(大久保27参照)、法善寺(大久保25参照)、永福寺(大久保29参照)、西大久保の鬼王神社(大久保2参照)、新宿二丁目の太宗寺(新宿22参照)である。
 七福神の発達は前にふれたが、明治末期には芝と亀戸に設置され、昭和7年には東海(品川)、8年には麻布、9年に山の手と柴又とに設けられたのである。
 山の手七福神は、大久保の旧家で中村正策という俳人(花秀という)が発案したものだが、はじめの候補に筑土八幡(恵比寿)と新宿布袋屋百貨店(布袋)が予定されていた(新宿72参照)。しかし、筑土八幡は氏子に反対されて鬼王神社にかわり、布袋屋は営業の宣伝に使われるおそれがある上に元旦から三日間は休業するので問題となり、太宗寺になったのであった。
〔参考〕 郷土玩具大成東京篇 新宿区文化財 新宿と伝説

善国寺の毘沙門天像

毘沙門天像 昭和60年7月5日、有形文化財(彫刻)で登録。
遊歴雑記 ゆうれきざっき。著者は江戸小日向廓然寺の住職・津田敬順。文化9年(1812)の隠居から文政12(1829)までの江戸、その近郊、房総から尾張地方に至るまでの名所・旧跡探訪の紀行文。
近代花街年表 おそらく『蒐集時代』の一部でしょう。『蒐集時代—近代花街年表・花街風俗展覽會目録・花街賣笑文献目録』2・3号合輯(粋古堂、1936年。再販は金沢文圃閣、2020年)

 では、有坂与太郎氏の「郷土玩具大成 第1巻(東京篇)」(建設社、昭和10年)317頁の「七福神」についてです。最初は谷中七福で、七福神が初めてこの地に設置されたのです。

 その七福神が江戸に於て初めて設置されたのは元文2年(1737)といわれているが、七福は、俗に谷中七福と呼ばれ、左の五寺院が挙げられている。即ち
  (弁財天)不忍弁天堂(毘沙門)谷中感応寺(寿老人)谷中長安寺(えびす大黒、布袋)日暮里青雲寺(福禄寿)田畑西行庵
 つまりこれを順々に巡って福を得ようというので、その中には多分に遊山気分が含まれている。特にこれが流行したのは寛政の初年(1789)あたりからであったとみえて、同じ五年には山東京伝の「花之笑七福参詣」を筆頭とし類似の青本が数冊上梓されている。

谷中 東京都台東区の地名。本郷台と上野台の谷間に位置する。
青本 江戸時代に出されていた草双紙の一種。人形浄瑠璃や歌舞伎といった演劇や浮世草子に取材したもの、勧化本や地誌、通俗演義ものや実録もの、一代記ものなどがある。

 これは写真の七福神です。高さは13.5糎(cm)しかありません。もう1つ、手に入るのはミニチュアの七福神です。スタンプを押す方がよかったかも。

七福神

 また「享和雑記」にも
  近頃正月初出に七福神参りといふ事始まりて遊人多く参詣する事となれり
とし、屠蘇機嫌で盛り立てた谷中の七福もどうやら本物になつてきたらしいが、好事魔多しとは神仏の方にもあったらしい。文化の初年[1804]、日暮里布袋堂の住職が強盗のために惨殺されたのが七福の挫折する初まりで、布袋の像は駒込の円通寺へ還され、七福が一福欠けて、さしもの初春絶好の遊山気分にひびが入ったのは是非もない盛衰である。

 住職が死亡し、挫折と衰退があり、そこで別の七福神、墨田区の向島七福神が登場します。時代は書いていませんが、おそらく文化元年(1804)頃以降でしょう。

 この機に乗じて興ったのが向島七福神であって、これは肝入りであり、土地開拓者の一人である梅屋鞠塢の宣伝よろしきを得たため加速度に売り出してしまった。
 梅屋鞠塢は仙台の産で、初め堺町の芝居茶屋和泉屋に住み込んでいたが、後、独立して骨董商を営んでいた。晩年、向島に梅屋敷を開いた事もまた七福神を創設した事もすべてこの骨董商時代に知遇を得た文人墨客の力に興って大なるものがあった。即ち、鞠塢が七福設置を企画するに当り、先づ喜多武清の宝船に、角田川七福遊びと憲斎が題をした一枚摺板行した。そして、抱ー蜀山を抱き込み通人雅客清遊地と云う折紙附の芝居を打ったので、「山師来て何やら裁えし角田川」と白猿に難じられながらも、半可な酢豆腐には迎合されるに十分なものがあった。鞠塢自身にして見れば、たただ向島に人がきて呉れればよかったので、どれほど売名的だと云われてもそんな事には亳しも頑着していなかった。文化元年に梅屋を開いた時も、千蔭春海などの歌人を利用して立派に宣伝効果を挙げていたので、七福の受り込みなどは鞠塢にとって寧ろ朝飯前の仕事であつたかも判らぬ。つまり、向島の七福は谷中のそれと相違し、創設の目的が江戸人の吸引策にあったので、七福神の如きも、寿老人の髯から思いついて対象物のない白髭神社を寿老人に見立てたり、前身の骨董商で既に経験済みの、なにやら得体の知れぬ福禄寿をさも有難そうに梅屋敷へ持ち込んだりしてみた。
 こんな具合に鞠塢の手際は頗る鮮やかだったので、終には谷中の七福という母屋を奪って、どっちが本家の如く思惟されるまでになったのは、考えように取っては鞠塢は向島発展の恩人であつたと云う事が出来る。
 天保四年(1833)に上梓された「春色梅兒誉美4編巻8には向島の変遷に就て次のやうな事が語られてある。
 由「イエ向島も自由は自由になりましたネ渡り越の舟が、今じゃア六人でかはり/”\に渡しますぜ
 藤「くわしく穿つの、船人の数まではおれも知らなんだ、昨今まで竹屋を呼に声を枯したもんだっけ、それだから故人になった白毛舎が歌に
◯   文々舎側にて当時のよみ人なりし万守が事なり
    須田堤立つゝ呼べど此雪に
     寝たか竹屋の音さたもなし
 藤「この歌も今すこし過ぐると、こんは山谷舟を土手より呼びて、堀へ乗切りし頃の風情を詠めりと、前書が無いとわからなくなりやす」
 天保頃の向島は既にこういった著るしい推移が見られた。これは勿論、鞠塢の売名的手段がその発展を急速に促したものであると共に、七福神の存続が向島に対する一般の認識を強めさせる一つの原動力となっていたという事は考えるまでもなかった。

おこった おこる。さかんになる。おこす。はじまる。ふるいたつ
肝入り 双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。鞠塢氏の百花園が中心となって七福神を立ち上げたのでしょう。
梅屋敷 正式名称は清香庵。伊勢屋喜右衛門の別荘内にあり、300本もの梅の木が植えられ、梅の名所として賑わった。
鞠塢 佐原鞠塢。きくう。江戸後期の文人、本草家。中村座の芝居茶屋に奉公し、骨董店をひらき、財をなし、文化元年、向島寺島村に3000坪の土地を使って花木や草花をあつめ、当初は「新梅屋敷」、後に「向島百花園」で開始。生年は宝暦12年。没年は天保2年8月29日。70歳。「向島百花園」は、昭和13年、全てを東京市に寄付し、現在、都立庭園の1つ。
喜多武清 きた ぶせい。1776-1857。江戸後期の画家
角田川 すみだがわ。隅田川の別表記
憲斎 中川憲斎。なかがわ けんさい。江戸後期の書家。
一枚摺 いちまいずり。紙一枚に印刷すること
板行 はんこう。書籍・文書などを版木で印刷して発行すること
抱ー 酒井抱一。さかい ほういつ。江戸後期の絵師、俳人。
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人・狂歌師
通人雅客 つうじん。あることに精通している人。がかく。風雅を理解し愛好する人。
清遊 せいゆう。世俗を離れて風流な遊びをすること
白猿 五代目市川団十郎白猿。芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」をもじって「山師来て 何やら裁えし 角田川」と詠んだ
半可な酢豆腐 知ったかぶりの若旦那が、腐って酸っぱくなった豆腐を食べさせられ、酢豆腐だと答える落語から。知ったかぶり。半可通。
亳しも こうも。「毫」は細い毛の意。少しも。ちっとも。おそらく「亳しも」と書いて「少しも」と読むのでしょう。
千蔭 加藤かげ。江戸中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。
春海 村田春海。むらたはるみ。江戸中期・後期の国学者・歌人。
福禄寿 ふくろくじゅ。七福神の一神。幸福・俸禄ほうろく・長寿命をさずける神
春色しゅんしょくうめ兒誉美ごよみ しゅんしょくうめごよみ。人情本。江戸深川の花柳界を背景に描いた、写実的風俗小説。
穿つ 穴をあける。押し分けて進む。人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。新奇で凝ったことをする。

 ここで、向島七福神の内訳を書いておきます。
角田川七福神(=隅田川七福神)
(夷大黒)東京市本所区向島二丁目 三囲神社
(布袋) 同  本所区須崎町   弘 福 寺
(弁財天)同  本所区須崎町   長 命 寺
(福禄寿)同  向島区寺島町   百 花 園
(寿老人)同  向島区寺島町   白鬚神社
(毘沙門)同  向島区隅田町   多 聞 寺
 では、谷中七福神がどうしているのでしょうか。文化13年(1816)には牛込岩戸町の善国寺がでてきます。善国寺は牛込肴町になったこともあります。明治12年(1879)、復活が企画されましたが、これも失敗。また、明治末期、芝と亀戸の七福神が出ましたが、人気は出なかったといいます。

 こうして、向島の七福は江戸人の春興として最早一つの常識とさえなるに至ったが、一方谷中の七福はどうなったかといえば、十方庵の「遊歴雑記」三編(文化13年、1816)には御府内七福神人方角詣として左の七ヶ所が挙げられている。
(毘沙門)牛込岩戸町   善国寺
(大黒) 小石川伝通院内 福聚院
(福禄寿)田畑村     西行庵
(布袋) 日暮村     妙了院
(寿老人)谷中      長安寺
(弁財天)しのぶ岡    弁天堂
(夷)  浅草寺境内   西の宮
これを一瞥して直ちに感ぜられるのは、創設時代とこれといろ/\な相違が見出される事である。即ち、創設時代から文化13年(1816)まで依然として変らないのは、不忍の弁財天と長安寺の寿老人と西行庵の福禄寿と僅かに三ヶ所で、他は凡て新らしい組織になっている事と、もう一つは、従来は上野の不忍から田畑迄という比較的短距離であったものが、これでは牛込から浅草まで延びている事である。何故こんな変動があったかといえば、これは、前記布袋堂住職の横死に起因しているものであって、この長距離(道程約三里)とこの組織では如何になんでも江戸人を吸収する事が出来ない。これでは急造の向島七福に圧倒されたのも無理からぬ事であり、谷中七福の声誉はこうして徐々に転落の一途を辿るのみとなってしまったのは誠に余儀ない結果であった。所が、明治12年(1879)、不図した事から高畠藍泉等の手により復活が企画され、山下の清凌亭施版で橋本周延画の道案内図が作られたり、清元仲太夫三遊亭金朝等の鳴物入りもあって、ここに華々しく谷中七福は毎度のお目見得をする段取にまで漕ぎつけたのであった。但し、この時組織された七福の顔触れがまた変わっている。
(弁財天)上野不忍    弁天堂
(毘沙門)谷中      感応寺
(寿老人)谷中      長安寺
(布袋) 日暮里     修性院
(大黒) 日幕里     経王院
(夷)  日暮里     青雲寺
(福禄寿)田畑      西行庵
と、こういう具合になっている。この復活は大体に於て当を得ていたが、無論これは一時的現象で殆どアトがつづかなかった。いうまでもなく、向島の七福にも盛衰があって安政の地震(1855年)後は、まさか雑煮腹を抱えて七福詣でもないので、自然閉塞の形となっていたが、これも亦、明治33年(1900)、小松宮殿下御徴行以来、漸く復活の曙光が見え出して来ている。尤も、同じ更生でもこの方は谷中と異り、鞠塢が組織したそのももの顔触れが揃って亳しも変動がなかった。現在、元旦より七日迄、七福の各社寺より尊像が授与される慣例は、この復活の機運が崩した小松宮殿下御徴行以来と云われ、大正12年(1923)の東京震災にも安政の轍を踏まず いよ/\増々盛大に行はれつつある現状に置かれている。
 この向島の七福に倣って、明治の末期、芝と亀戸との二ヶ所に七福神が設置されたが、これらは向島の如く地の利を得ていない事が第一の理由で、世間的には認められずにしまった。従って、七福神といえば、全く向島が独占した形であったが、俄然、昭和7年(1932)に東海七福神が出現するに及んで、七福の氾濫時代を惹起する事となった。こうなってみると、地下の鞠塢に先見の明ありと北叟笑まれても二の句がないかも判らない。
横死 不慮の死。非業の死。天命を全うしないで死ぬこと
声誉 せいよ。よい評判。ほまれ。名声。
高畠藍泉 たかばたけらんせん。明治初期の戯作者と近代ジャーナリスト。
清凌亭 上野の料亭。「佐多稲子の東京を歩く」で詳しい
橋本周延 はしもと ちかのぶ。江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などの浮世絵師。
清元仲太夫 江戸浄瑠璃。江戸浄瑠璃とは江戸で成立か発達した浄瑠璃のこと。
三遊亭金朝 2代目でしょう。落語家。
徴行 びこう。身分の高い人などが身をやつしてひそかに出歩くこと。
北叟笑む ほくそえむ。うまくいったことに満足して、一人ひそかに笑う。
二の句 二の句が継げない。次に言う言葉が出てこない。あきれたり驚いたりして、次に言うべき言葉を失う。

 小松宮殿下が徴行する明治33年(1900)からは、向島七福神が谷中七福などを打ち砕き、独占した形になりました。しかし、昭和7年(1932)には、新しい東海七福神が出現し、これで氾濫時代にはいりました。

 その七福氾濫時代のトップを切った東海七福の企画者はかくいう筆者であるが、生の動機は向島七福の創設当時と一致するもののあった事は断言し得られる。勿論これを企画した筆者は酒落でもなければ戯談でもなく、まして御信心の押売りをしようなどと大それた考えは毛頭持ってなかった。それではどんな所に動機があったかといえば、沈滞しつつある品川を昔の繁栄に引戻そうとした一つの手段に過ぎなかったので、これを設置すればたとえ短時日の間でも他区民が同所へ足を踏み入れるであろうし、それと同時に煙草一ヶ位は売れるに違ひない、そうすれば品川という土地がどれだけ潤うであろうと考えたのが本当であった。
 ほぼ。全部か完全にではないが、それに近い状態。
戯談 ぎだん。冗談。

 昭和8年(1933)には麻布の稲荷七福が出てきます。

 この東海七福の好評だった反響は直ちに昭和8年(1933)の麻布稲荷七福の創設によって現れて来ている。これは十番の末広稲荷の肝入りで、初めは麻布七福神として発表した所、七福が凡て対象のない稲荷を象っため、神社会から難じられ、已むを得ず稲荷の名を冠して麻布稲荷七福と看板を塗り代えたものであった。ここの宝船は皮付きの丸木舟で、尊像は悉く木彫であるが、別に恵比寿に象っている恵比寿稲荷から鯛と宝珠(いづれも土製)を吊した「女男登守」というものが出されている。
象る かたどる。物の形を写し取る。ある形に似せて作る。
悉く ことごとく。全部。残らず。すべて。みな。
宝珠 ほうじゅ。宝石。
女男登守 「男女ともにお守りを授かる」という意味?

 昭和9年(1934)、山の手七福神がついに登場し、柴又の七福神も開設されました。ここで、当時の山の手七福神を書いておきます。
山の手七福神
(昆沙門)東京市牛込区神楽坂上 善国寺内 毘沙門堂
(大黒) 同  牛込区原町        経王寺
(弁財天)同  淀橋区東大久保      巌島神社
(寿老人)同  淀橋区東大久保      法善寺
(福禄寿)同  淀橋区東大久保      豊香園
(夷)  同  淀橋区西大久保      鬼王神社
(布袋) 同  四谷区新宿二丁目     太宗寺

 つづいて昭和9年(1934)、山之手七福と呼ぶものが出現した。これは大久保の中村花秀という俳人の発願であったが、花秀氏の依頼で筆者もこれに関し、最初から七福編成の難局に当たる光栄に浴せしめられた。当初候補に充てられた恵比寿の筑土八幡と布袋の新宿百貨店布袋屋中、筑戸八幡は氏子に反対されて途中から脱したので鬼王神社を以てこれに代え、布袋屋は営業の宣伝に供される恐れがある事と、元旦から三日間休業するため他との統一がとれぬ事とで排除し、太宗寺に交渉して更めて諾を得たものであった。ここの尊像は土製着彩、東海七福の類型であるが、宝船は経木で製られた頗る瀟洒なものである。(尊像授期日、麻布、山之手共に例年元旦より七日迄)
 右の外、昭和9年から柴又七福と称するものが開設された。これは寺院ばかりで編成されたもので、福禄寿は葛飾区新宿町崇福寺、寿老人は同区高砂町観蔵寺、毘沙門は同区柴又題経寺、弁財天は同区柴又町真学院、布袋は同区金町良観寺、恵比寿は同区柴又町医王寺、大黒は同区柴又町宝生院、以上であって、出処からは仕入ものの七福の腰下げが出されている。但し、柴又に限り例月7日に修行されるので、一年に通算すると 12日間腰下げが授与されるという事になる。
 かくして七福の氾濫時代が到達したのである。右の内どれが残ってどれが廃れるかは、かかって将来に対する興味ある問題でなければならぬ。
経木 きょうぎ。杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの。
腰下げ 印籠いんろう・タバコ入れ・巾着きんちゃくなどのように、腰にさげて携帯するもの。ミニチュア七福神よりも実用性は高いのでは?

「郷土玩具大成」の本は昭和10年(1935)に上梓した約90年昔の本です。七福神が競争する、結構本気で真剣な張り合いでした。しかも、筆者自身が「東海七福神」や「山の手七福神」でダイレクトに出ている。山の手七福神ははるか昔から決めたものではなく、昭和9年に決まったものでした。

料亭「松ヶ枝」(写真)昭和20年代 ID 13791

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13791は「昭和20年代 神楽坂付近か」とあり、時代と場所を特定していません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13791 神楽坂付近か

 右手は毘沙門横丁の今はなき料亭「松ヶ枝」だと考えています。写真の道路の突き当たりは一段高く、手前に来るほどゆっくりと低くなっています。この地形は現在も同じで、奥の親子連れの向こうの塀は若宮町の料亭街です。
 都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年によれば、カメラはおそらく赤丸に置き、写真を撮ったのでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 さて、以下は地元の方の説明です。

 向かって左の奥の塀の木戸は人間には大きすぎて、自動車のための駐車場でしょう。手前の潜り戸は別の店の入り口で、花街らしい黒塀が続いています。これに対して右は土塀で、腰高まで貼り石の化粧があります。これが松ヶ枝の塀で、格式の高さが写真からも分かります。
新宿区史・昭和30年」の3枚目は、ちょうど反対側から撮った写真です。黒塀の潜り戸は同じですが、駐車場の木戸は4枚になっています。
 それ以外にも、いくつか違いがあります。ID 13791の松ヶ枝の塀から棒が飛び出し、そこに笠のついた電球が見えます。また左の駐車場の角にもボール状の灯りがあります。街灯が十分に整備されておらず、私設の外灯で来店客に便宜を図っていたと思われます。
 またID 13791の土塀はコンクリートで塗り固めたような外観ですが「新宿区史・昭和30年」では肩高より上を白い漆喰で塗っていて、貼り石との間に化粧していない壁が出ています。ここは後の時代のID 11841ではすっかり貼り石で覆われます。
 ID 13791の中央手前には、うっすらと丸い下水のマンホールが見えます。舗装はしているようですが、かなり荒れています。左手前には側溝のようなものがチラりと見えます。一方「新宿区史・昭和30年」では松ヶ枝の側に側溝を掘り、小さな石橋を架けていますが、これはID 13791には見えません。雨が降った時は、黒塀の前の少しくぼんだ部分を雨水が流れていたでしょう。
「新宿区史・昭和30年」の写真は同じ昭和20年代に撮影しているはずですが、ID 13791の方が古い時代と思われます。
潜り戸 門の扉や壁などに設けられた、背の低く幅のせまい小さな戸のこと
黒塀 黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。黒い塗装は渋墨しぶずみ塗といって、日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられた。
貼り石 建造物の壁に薄い石
化粧 建物の表面に、白など、見栄えのする色の塗料を塗ること

神楽坂「ほてや」広田氏談

文学と神楽坂

 東京神楽坂「ほてや」の広田初蔵氏は「神楽坂花街今昔談」(そめとおり、染繊新報本社、1974年)で「の着物」について書いています。「出の着物」とは芸者さんが着る正月用の着物です。まず聞いたことかない「出の着物」って今もあるんでしょうか。

 出のキモノの着付けも
  神楽坂花街今昔談
       東京神楽坂「ほてや」広田初蔵氏
 最的に売放し一方の呉服屋が多く、多店化して、後向きの仕事をマメにする呉服屋も少い折柄、店は家族だけで、従業員は一人もおらず、店を大きくする気もなく、また表面的な甲斐性もない代りに斜陽化している神楽坂花街を、中心的な対象として、コツコツ商いしている「ほてや」のような呉服屋もある。以前から聞いていたがここの広田氏は、神楽坂花街の筋の通った芸妓の「出のキモノ」の着付けにかけては、神楽坂花街ではタッタ1人の名人であって、正月の神楽坂花街は、広田氏の着付けによって、華やかになっていく。(中略)
 箱屋がする「出のキモノ着付けの第一人者」と云う方が、花街相手の呉服屋らしく徹底していて良い。多店化して企業家振っている呉服屋が、マスコミを賑わせている反面に、昔乍らのこう云う呉服屋もあると云う紹介である。(山口)

半衿小物屋の母屋「ほてや」
 私は初代でして、奉公に上っておりました主人のお店が「ほてや」と申しまして、店の前の蕎麦屋の所にありました。
「ほてや」と申しますのは、主人から聞いておりましたところでは、京都では七福神の「ほていさん」の事でして、そこから縁起をとりまして「ほてや」と云う屋号にしたと聞いております。
出の着物 芸者さんの礼装である黒の「」(裾を引いた着物)。お正月、初めてお座敷へ出るときに着る。裾模様、帯は厚板を柳に結ぶ、白襟、髪は島田に限る、紋日、約束等の座敷に用ゆる妓の大礼服。


秋田魁新報。時代を語る・浅利京子(16)「出の着物」彩る正月

花街 かがい。はなまち。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。いろまち。花柳街。
広田氏 「ほてや」の主人。
箱屋 箱に入れた三味線を持ち、芸者の共をする者

 日本髪全盛の頃には、重宝な店として、大勢のお客様に支持されていたものでした。
 栄えますと、兎角油断が出来るものでして、遊里でよく遊んで歩いていました主人は、遂いにやっていけなくなりまして、昭和6年一杯に、店を閉じて了いました。
 私なんかは数少い戦前派の呉服屋と云えましよう。現在、神楽坂には、呉服屋と云うのは、私の店がタッタ1軒しかありませんが戦前は私の店を入れまして、合計四軒の呉服屋が、競争していたものでした。
 今は伊勢丹に合併されて、姿を消して了いました「ほていや」も戦前は神楽坂の表通りで、店を張っていましたし、半衿小物屋もありましたし、神楽坂花街が全盛だったように商店街も栄えていたものでした。
半衿 和服用の下着である襦袢に縫い付ける替え衿

 出のキモノを着せる人なし
 箱屋も昔は、神楽坂に大勢いましたが、今は検番に二人いますだけでして、それも検番の事務をやっているだけの事ですし、芸妓の着付けをしようともしません。
 正月の出のキモノの着付けと云うものは、箱屋が少くなりましたし、置屋の主人が、着付けをしていたものでした。
検番 その土地の料理屋・芸者屋・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所
置屋 芸者や遊女を抱えている家

 アフターケアーで私が着付けを
 別に誰に、着付けを教えられたと云う訳でもありませんが、私としては、商いをしていく上に於いて出のキモノの着付けを、覚えざるを得ません。
 いつの間にか、出のキモノの着付けでは、私が第一人者だと、云われるようになりましたけれど、神楽坂と云う箱屋のいない花街相手の呉服屋である以上は、これも店の特色の一つだと思っています。
 花街がある限りは、出のキモノがあり、その着付けが、要求されますが、箱屋の仕事までやっています私のような呉服屋は、日本中に私一人かも知れませんね。

料亭「喜久川」(昔) 神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 地元の人の話です。松川二郎氏の「全国花街めぐ里」(誠文堂、1929年) によれば、喜久川きくがわと読むようです。

神楽坂を代表する大料亭と言えば「松ヶ枝」と「喜久川」。自分で入ったことはなくとも、地元ではそれが常識でした。

政財界の要人に愛された松ヶ枝が多くの人の記憶に残るのは当然でしょう。しかし喜久川が、このブログの記事にほとんど出てこないのは残念なように思います。

喜久川の場所は4丁目の北西部、5丁目との境です。入り口は北側(白銀町側)。松ヶ枝同様に戦前から店を構え、戦後に大きくなったことが各種の地図で分かります。花街らしい風情と風格を兼ね備えた立派な門構えでした。廃業後、跡地は「神楽坂プラザビル」というオフィスビルになりました。ビルの完成は1992年11月です。

喜久川がビルになって、玄関前の道(注・和泉屋横町)の風情がなくなりました。それで、再開発されなかった近くの「兵庫横丁」が注目されるようになったと思います。神楽坂の路地ブームは、おおよそ1990年以降です。例えば昭和51年(1976年)の読売新聞の特集のイラストや記事は、路地に興味を示していません。

さて、写真は知りませんが、今に残る痕跡はあります。3丁目の見番手前の伏見火防稲荷神社玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です。両者が奉加帳のトップとして、最も多額の寄進をしたことが分かります。

戦前から店を構え、戦後に大きくなった 実際に大きくなりました。1937年の地図では「御木(待)」と一緒になっています。

1937年火災保険特殊地図から1984年の住宅地図。

玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です 写真を参照。「㐂」は「喜」の異体字。

松ヶ枝と喜久川。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では「全国花街めぐ里」を引用して……

○旧券 芸妓屋121軒。芸妓数446名。内小妓52名。料理店11軒。待合97軒。
 主なる待合は由多加、梅林、玉の井(神楽町)、肴町の重の井、宮比町の喜久川、もみぢ、福仙、若宮町のおかめ、津久戸の中村家、その他かぐら,梅村などが名の通っている待合。
○新券の方はというと、
 芸妓屋45軒、芸妓数173名、内小妓15名、料理店4軒、待合32軒。
 主なる待合。若宮町の松ケ枝を代表として之に次ぐもの小松、住の江。幸楽、萬琴、あけぼの。

 松川二郎氏の別の本「三都花街めぐり」(誠文堂文庫、1932年)にも喜久川がでてきます。

 主なる待合 由多加、梅林、玉の井、楓月(以上神樂町)松ケ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川、もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久土町)。その他小松、住の江、幸樂、かぐら、梅村など。


山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。
 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸


神楽坂|江戸情趣、毘沙門天に残りけり

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「色街濡れた街」の「神楽坂」では…

「東京物語」辞典

「東京物語」辞典

 楽坂の町は、く開けた。いまあのを高く揃えた表通りの家並を見ては、薄暗い軒に、蛤の形を、江戸絵のはじめ頃のような三色に彩って、(なべ)と下にかいた小料理屋があったものだとは誰も思うまい。
 明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門の緑日になると、あそこの入口に特に大きな赤い二提灯が掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛ったのを覚えている。

 屋根の最も高い所。二つの屋根面が接合する部分。
家並 家が並んでいること。やなみ。
江戸絵 浮世絵版画の前身となった紅彩色の江戸役者絵。江戸中期から売り出され、2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵にしきえとして人気を博した。
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
提灯 ちょうちん。照明具。細い竹ひごの骨に紙や絹を張り、風を防ぎ、中にろうそくをともし、折り畳めるようにしたもの。
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
見世物小屋 見世物を興行するために設けた小屋。見世物とは寺社の境内、空地などに仮小屋を建てて演芸や珍しいものなどを見せて入場料を取った興行。

 鏡花夫人は神楽坂の芸者であったが、神楽坂といえばつくりの料亭と左棲の芸者を想起するのが常であった。
 下町とは趣き異にした山の手の代表的な花街として聞こえており、同時に早稲田の学生が闊歩した街でもあった。
 神楽坂のイメージは江戸情趣にあふれた街であるが、大正十三年頃から昭和十年頃にかけては、レストランやカフェー、三越や松屋などの百貨店も出来、繁華を極めた。夜の殷賑ぶりは銀座に勝るとも劣らず「牛込銀座」の異称で呼ばれもした。
 しかし終戦後の復興によっても昔の活気が思うように戻らなかった。

鏡花夫人 泉すず。芸者。泉鏡花(1873~1939)の妻。旧姓は伊藤。芸者時代の名前は「桃太郎」。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は69歳。
 気風、容姿、身なりなどがさっぱりとし、洗練されていて、しゃれた色気をもっていること。
つくり つくられたようす。つくりぐあい。よそおい。身なり。化粧。
左棲 ひだりづま。和服の左の褄。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
趣き おもむき。物事での感興。情趣。風情。おもしろみ。あじわい。趣味。
異にする ことにする。別にする。ちがえる。際立って特別である。
山の手 市街地のうち、高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西、すなわち、四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりをいう。
花街 はなまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。花柳街。いろまち。
闊歩 大またにゆっくり歩くこと。大いばりで勝手気ままに振る舞うこと
江戸情趣 江戸を真似するしみじみとした味わい。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華
牛込銀座 「山の手の銀座」のほうが正確。山の手随一の盛り場。

 昭和二十七年、神楽坂はん子がうたう「芸者ワルツ」がヒットした。その名のとおり、神楽坂の芸者だという、当時としては意表をついた話題性も手伝っての大ヒットであった。
 日頃、料亭とか芸者とかに縁のない庶民を耳で楽しませてくれたが、現実に足を運ぶ客の数が増えたというわけではなかった。
 しかし近年、再び神楽坂が脚光を浴びている。
 マガジンハウス系のビジュアルな雑誌などで紹介されたせいか、レトロブームの影響か、若者の間で関心が強い。
 坂の上には沙門天で知られる善国寺があり、縁日には若いカップルの姿も見られるようになった。

神楽坂はん子 芸者と歌手。本名は鈴木玉子。16歳から神楽坂で芸者に。作曲家・古賀政男の「こんな私じゃなかったに」で、昭和27年に歌手デビュー。同年、「ゲイシャ・ワルツ」もヒット、一世を風靡するが、わずか3年で引退。生年は1931年3月24日、没年は1995年6月10日。享年は満64歳。
意表をつく 意表を突く。相手の予期しないことをする。
マガジンハウス 出版社。1983年までの旧名は平凡出版株式会社。若者向け情報誌やグラビアを多用する女性誌の草分け。
レトロブーム ”retro” boom。懐古趣味。復古調スタイル
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。

①神楽坂は飯田橋駅から神楽坂三丁目へ上り、毘沙門天前を下る坂道である。
 坂の名の由来は、この坂の途中で神楽を奏したからだとも、筑土八幡市ヶ谷八幡など近隣の神楽の音が聞こえて来たからだともいう。
 町名はもちろん、この坂の名にちなむ。現在は六丁目あたりにまでを神楽坂通りと呼んでいる。

②明治十年代の後半、坂をなだらかにしてから、だんだん開けてきた。何よりも関東大震災の被害を殆んど蒙らなかったことが、大正末から昭和十年にかけての繁栄の原因であろう。

③現在でも黒板塀の料亭が立ち並ぶ一角は、昔の花街の佇いをそっくり残している。

山手(新宿)七福神の一つ。七福神のコースを列記すると、
畏沙門天(善国寺)→大黒天(経王寺)→弁財天(巌島神社)→寿老人(法善寺)→福録寿(永福寺)→恵比寿(稲荷鬼王神社)→布袋(太宗寺)
 である。

*鏡花の引用文の世界を垣間みたかったら、毘沙門天の露地を入った所にある居酒屋伊勢藤がある。
 仕舞屋風の店構えに縄のれんをさそう。
 うす暗い土間、夏は各自打扇の座敷。その上酒酔い厳禁で徳利は制限付き
 悪口ではなく風流を求めるならこれくらいのことは忍の一字。否、だからこそ、江戸情緒にもひたれるのだと、暮色あふれる居酒屋で一献かたむけてみてはいかが。

筑土八幡 東京都新宿区筑土八幡町にある神社
市ヶ谷八幡 現代は市谷亀岡八幡宮。東京都新宿区市谷八幡町15にある神社
蒙る こうむる。こうぶる。被害を受ける。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。防虫・防腐・防湿効果がある。
佇い たたずまい。その場所にある様子。あり方。そのものから醸し出されている雰囲気
仕舞屋 今までの商売をやめた家。廃業した家。しもたや。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。縄のれんを下げていることから、居酒屋、一膳飯屋などをいう語
 おもむき。味わい。面白み。
打扇 うちあおぐ。うちあおぎ。扇やうちわなどを動かしてさっと風を起こす。
徳利は制限付き 「徳利」はとっくり、とくり。どんなふうに「制限付き」なのか不明。現在は制限がない徳利です。
暮色 ぼしょく。夕暮れの薄暗い色合い。暮れかかったようす。
一献 いっこん。1杯の酒。お酒を飲むこと。酒をふるまうこと。

神楽坂通り

文学と神楽坂

 新宿区神楽(かぐら)(ざか)を貫く通り。神楽坂は山の手有数の繁華街・花街でしたが、第二次世界大戦の戦災と、付近の住宅地も高層化、かつての面影はほとんどなくなりました。でも、1990年代後半になって再び繁華街になってきます。

 もとは毘沙門天などの門前町。表通りには今でも縁日が出ます。神楽町1~3丁目、上宮比町、肴町、通寺町を、昭和26年、まとめて神楽坂1~6丁目と変更しました。

 付近に筑土八幡などの社寺も。

神楽坂通り

神楽坂通り

神楽坂通り


新版私説東京繁昌記|小林信彦

文学と神楽坂

 平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは

 山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。
 神楽坂の大通りをはさんで、その左右に幾筋となく入り乱れている横町という横町、路地という路地を大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏が痛くなるほどくたびれた。
 ――右の一行は、盗用である。すなわち、1928年(大正三年)の小説から盗用しても、さほど不自然ではないところに、神楽坂のユニークさがある。原文は左の如し。
〈神楽坂の大通を挟んで其の左右に幾筋となく入乱れてゐる横町といふ横町、路地といふ路地をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏の痛くなるほどくたぶれた。〉(永井荷風「夏すがた」)

 以下、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」(名前の紹介だけ)があり、続いて

 神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる…

「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしれません。さて、後半です。

 荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。
 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン・ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきん(、、、、、、)であり、良くない、と判定したためである。
 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気(、、、、、、)が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。
大久保通りを横切って、白銀(しろがね)公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。
「女の子の顔がきれいだ」
 と、荒木氏が断言した。
白銀坂 おかしいかもしれませんが、白銀坂っていったいどこなの? 瓢箪坂や相生坂なら知っています。白銀坂なんて、聞いたことはないのでした。と書いた後で明治20年の地図にありました。へー、こんなところを白銀坂っていうんだ。知りませんでした。ただし、この白銀坂は行きたい場所から垂直にずれています。
きれい 白銀公園を越えてそこで女の子がきれいだというのもちょっとおかしい。神楽坂5丁目ならわかるのですが。

 言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。
 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンク、、、レディ(、、、)の写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。
 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。
 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。
 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。
 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。
 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。
 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。

どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう。

 これで終わりです。なお、写真は1枚を出すと……(全部を出す場合には……神楽坂の写真

 これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。

1990年の神楽坂

1990年の神楽坂

東京気侭地図3|神吉拓郎

文学と神楽坂

 表通りと、一本東側にある軽子坂、この間に挾まれた、大久保通り寄りの一画、このあたりは、神楽坂の空気に、独特のうるおいと彩りを添える花街である。坂を上って行って毘沙門さまのちょっと手前の向い側、そこを右へ曲ると、昔からの本多横丁といわれる小路だが、そのあたりの北側、筑土八幡へ抜ける道から、大久保通りにかけては、入り組んだ石段と小路の続く、迷路のような地帯だ。
 道幅は、どれも狭い。来合せる人があれば、肩を斜めに、すれ違うのに気を遣うほどの細道だ。表通りの神楽坂は、今はもうコンクリートの舗装になってしまったけれど、このあたりの小路には、昔ながらの石畳、扇面状に小さな角石を敷きつめたそれが、まだ残っている。
 気の向くままに右に折れる。と、そこに数段の石段がある。それを下りると、先は行きどまりである。
 行きどまりと見えて、小路は左へ折れる。塀と塀の(あわい)の、まっすぐ向いては歩けないような細い道に、軒灯と、格子戸がある。
 小路は、ひんやりとしている。どこからか風が通ってくる。
 また石段。まんなかが磨りへっていて、靴が滑りそうになる。
 角を曲ると、華やかな色彩が目に入る。若い母親が、子供を遊ばせている。気がついてこっちを見る視線は、軽くいぶかしげだ。
 ぼくは、内心、知らぬ家の庭先に踏みこんでしまったかと、恐縮したいような気持になる。
 石段を上り下りし、右左と曲っているうちに、高低の感覚も、方角の感覚も、次第にあやふやになってくるのが心細く、また面白い。
 この一画の小路には、行きどまりは、あまりない。殆ど、「抜けられる」道だ。
 ひときわ狭く、趣きの深い小路を歩いていると、つい鼻の先の軒灯に、ぽっかりと灯がともった。暗い軒灯だけれど、墨で書かれた家号の字は、くっきりと読みとれた。
 その軒灯の上には、まだかすかに陽の色が残っている空があった。
 ぽくは、まるっきりの下戸だけれど、呑んべえが、酒をのみたいと思うのは、こういうときだろうな、と思う。

神楽坂の通り

表通り 神楽坂通りのこと
軽子坂 軽子とは軽籠持の略称で、船着き場などで荷物運搬を業とする人。軽子がこの辺りに多く住んでいたため、名前が付きました。
大久保通り 新宿区飯田橋交差点から、新宿区神楽坂上交差点を通り、杉並区大久保通り入り口交差点まで。
一画 土地などの、ひと区切り。一区画
花街 はなまち。花町とも。かがい。芸者屋・遊女屋などの集まっている町。色里。色町。
本多横丁 神楽坂通りの最大の横丁
筑土八幡 筑土八幡神社のこと。赤丸で書いてあります
地帯 ここをどう呼ぶのがいいのか、2005年になっても正式名称がありませんでした。水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁」を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その名の通り、現在、これは兵庫横丁と呼んでいます
行きどまり 兵庫横丁の一見行きどまりに見える路地。さらに先を左側に行くと抜けられる道があります。兵庫横丁の行き止まり
軒灯 けんとう。軒先につけるあかり
格子戸 こうしど。格子を組んで作った戸