松井須磨子|黒柳徹子

文学と神楽坂

 黒柳徹子氏の『トットチャンネル』(1984年)です。松井須磨子さんのことが書いてあります。

 青山先生の授業は、実際の演技指導より、昔の新劇の話や、俳優の、心がまえ、などが多かった。先生は、トットたち若い人と話すのも、楽しくて好きだ、と、よく自由に会話をした。
 そんな、ある日、卜ッ卜は、前から知りたいと思ってたことを聞いた。
松井(まつい)須磨子(すまこ)って、どういう人でしたか?」
 山田(やまだ)五十鈴(いすず)が、松井須磨子になった「女優」という映画も見ていたし、日本最初の 近代劇をやった女優として、卜ッ卜は、興味を持っていた。日本で最初にイプセンの「人形の家」のノラをやり、トルストイの「復活」のカチューシャをやり、しかも恋人の島村(しまだ)抱月(ほうげつ)のあとを追って首をつって死んだ人。その人と一緒に芝居(しばい)をした人が、ここにいる! そんな人と話をすることがあるだろうなどと、(ゆめ)にも考えたことはなかったから、トットは、ワクワクしながら、聞いたのだった。青山先生は、いつも、とても物静かだった。しゃべるとき、いつも真直(まっす)ぐに首をのばし、ゆっくりとした、口調だった。トットの質問に、青山先生は、少し微笑(びしょう)すると、いった。

トット 黒柳徹子本人のこと
山田五十鈴 やまだ いすず。生まれは1917年2月5日。死亡は2012年7月9日。女優。戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優の1人
女優 1947年(昭和22年)公開の日本映画。主演は山田五十鈴。モノクロ、115分。松井須磨子と島村抱月の恋愛事件を題材にした作品
ノラ 『人形の家』の女性主人公。弁護士の妻ノラは人形のように愛玩され、安易な生活をおくるが、秘密にしていた借金のことで夫になじられ、一個の独立した人間として家を出る過程を描く作品。女性解放運動に大きな影響。
カチューシャ おじ夫婦の下女カチューシャは貴族ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵の子供を産んだあと、娼婦に身を落とし、ついに殺人に関与。カチューシャが殺意をもっていなかったことが明らかとなり、しかし手違いでシベリアへの徒刑に。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、彼女の更生に人生を捧げる決意を。
その人と これは「松井須磨子と青山杉作が一緒に舞台をやった」ということですが、ほんとうでしょうか。これは次の質問でも出てきます。
青山 青山杉作。あおやま すぎさく。生まれは1889(明治22)年7月22日。没年は1956(昭和31)年12月26日です。演出家、俳優。早稲田大学英文科中退。在学中より小劇場運動に参加。1917年(大正6年)2月17日、村田、関口存男、木村修吉郎、近藤伊与吉らと(とう)()(しゃ)を創立。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げ。

画家とその弟子

画家とその弟子

 一応、さらに伝記を読むと

1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を。映画芸術協会に参加。1924年(大正13)、築地小劇場の創立とともに参加。その後、昭和5~15年松竹少女歌劇団、昭和17~28年NHK放送劇団の指導に。この間、昭和19年俳優座同人、昭和24年俳優座養成所所長に。新劇、映画、放送劇、オペラなどの演出に幅広く活躍しました。

 あれ、どこにも松井須磨子の名前はでてきません。
 氏の生涯を描いた本『青山杉作』(昭和57年)があります。500冊の限定出版です。読んでみましたが、やはり松井須磨子氏はほとんどでません。
 ただし、2人は1か所、同じ場所に行ったことはあります。それはここ芸術倶楽部でした。ここで踏路社が旗揚げしたと書いてあります。
この芸術倶楽部は島村抱月氏がつくったものです。大正2年に島村抱月氏が芸術座を作り、大正4年に研究所兼劇場の芸術倶楽部を誕生させたのです。
 大正6年に、青山杉作氏は27歳、松井須磨子氏は31歳でした。
 松井須磨子氏とよく似たところを歩いていますが、完全に違う場所などです。この2人はやっていることは同じ芝居ですが、台本も違うし、師匠も違う。友人も違う。松井須磨子氏にとっては、年齢が4年も下の青山杉作氏については、おそらく紹介があれば名前はわかっていても、あとはなにも知らないのではなかったでしょうか。「一緒に芝居をした人が、ここにいる」といえなかったと思います。

「あなたが、あの時代に女優になってたら、もっと有名になってたかも知れませんよ。つまり、それまで、男の役者が女形として、やってた中に、女が入っていって、しかも西洋の芝居をやったんですから、新らしい、というか、変ってるというか、そういうことで、もてはやされたのであって、あなたのように、個性的じゃありませんでした。ふつうの人でしたよ」
……トットは、びっくりした。はじめは、卜ッ卜の元気がいい事を、皮肉って、先生がいったのか、と思ったくらいだった。でも先生の表情も話しかたも、そういう風には見えなかった。でも、映画の主人公になるような情熱的で、美しく、常人とは(ちが)う人、と思っていたそれか、ふつうの人だったなんて……。
「そう、本当に、ふつうの人でした」
 青山先生は、くり返した。それは、まるで、女優としては、すぐれてはいない、とでもいうように聞こえた。たしかに、ドットかその前にラジオで聞いた松井須磨子のカチューシャのセリフや、「羊さん/\」とかいう歌を思い出してみると、当時の録音技術のせいもあるかもしれないけど、女優らしいメリハリはなく、歌の音程も悪く、素人(しろうと)のようだった。でもやっぱり、(だれ)もやっていないことを始めたのだから、(えら)い人だ、と、ドットは考えた。

ふつうの人 松井須磨子が「ふつうの人」でしょうか。実際に同時代人は「ふつうの人」とはいわず、むしろ「我が儘」「傲慢」だと書いています。たとえば、秋田雨雀と仲木貞一合著の『愛の哀史 須磨子の一生』(大正8年)では
舞台に於いては飽くまでも華やかに、旅宿にあっては益々放縦に、そうして散歩などの時には何処までも自由な気分で、旅に於ける須磨子の生活は、実に/\我儘(わがまヽ)の仕通しであった。今では()う抱月氏の心をも支配し得た彼女は、其の(てつ)を以て多くの座員も、自分の意の(まヽ)だと思うようになった。

河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(昭和41年)では
いったい須磨子という人間は、のちに諸家が言うように野性的な自我性狂暴性を発抑するようになったのは、「故郷」(マグダ)の初演あたりからである。わたくしどもが「まアちゃん」の愛称で呼んでいたころは、飾りけのない、さっぱりとした丸顔で、バッチリとした眼の示しているとおりの女性であった。打ち前の勝気と捨て身の態度とを、舞台にも楽屋でもさらけ出すようにだったのはそれ以後のことで、抱月に()れ、甘え、わがままを張り通させたから、傲慢な女王気取りにもなったのであった。

 ではなぜ青山杉作は松井須磨子を「ふつうの人」と呼んだのでしょうか。結局女優ではなく、一つの女性としてみると「ふつうの人」になるのでしょう。傲慢、横柄、威圧といった性徴を全部剥ぎ取ってみると「ふつうの人」だけが残る。松井須磨子ではなく、本名の小林正子が残る。青山杉作氏にとっては女優の松井須磨子氏は美人でもなく、知的でもなく、いい点はつけられなかった。純粋で、無邪気で、ふつうの人で、いわゆる女優ではなかったのでしょう。
 しかし、開始日でも最終日でも全く同じ芝居を全く同じように見せるのは普通はできません。本当に「誰もやっていないことを始めたのだから、偉い人だ」と私も考えます。

大東京案内|神楽坂|今 和次郎(1/7)

文学と神楽坂

 (こん) 和次郎(わじろう)編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)で「神楽坂」です。

 今氏は早稲田大学理工学部建築学科助手から大正9年(1920年)には教授になった民家研究家、民俗学研究者でした。「考現学」を提唱し、服装研究家としても著名でした。

 山の手銀座-この言葉(ことば)も今は新宿(しんじゆく)お株(うば)はれたが發祥の地はこゝである。神樂坂は(ひる)よりも(よる)の盛り場だ。(しか)も市内名うての盛り場の多くが、電車(でんしや)自動車(じどうしや)殺人的(さつじんてき)往來によって脅威(けふゐ)されてゐるのにこゝばかりは()ともし頃から十時頃迄、車馬一切の通行止(つうかうどめ)、安全を保證(ほしよう)された享樂第一のプロムナードを現出する。
 (よる)神樂坂(かぐらざか)通は人の神樂坂だ。その(おびただ)しい人出の中を、なまめかしい 座敷着(ざしきぎ)の藝者が()つて歩く情景(じやうけい)は、この町通りの一大異色。云はずと柳暗花明(りゆうあんかめい)歓楽境(くわんらくきやう)が横町から横町に展開(てんかい)されてゐることがわかるだらう。
山の手銀座「山の手銀座」は関東大震災になってから使いました。昭和2年の『大東京繁昌記』では「山の手の銀座?」という章が出てきます。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」には
大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた。

と書いています。関東大震災後、神楽坂はそれから10年間ぐらいは繁栄しましたが、あっという間に繁栄の中心地は新宿になっていきます。1975年9月30日『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」では

 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。

と書かれています。『雑学神楽坂』の西村和夫氏は
市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。

と説明します。
 その仲間・社会で評価を得ていること。その評価。
名うて 有名な。評判が高い
脅威 強い力や勢いでおびやかすこと。また、おびやかされて感じる恐ろしさ
灯ともし頃 ひともしごろ。日が暮れて、明かりを点し始める頃。
享楽 きょうらく。快楽を味わうこと。
プロムナード 散策。散歩道。遊歩道。自動車を気にすることなく、ゆっくりと散策を楽しめる。 フランス語promenadeから。
夥しい おびただしい。非常に多い。
なまめかしい あでやかで美しい。色っぽい。女性の身振り、しぐさや表情に、性的な魅力がある。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
縫う ぬう。この場合は事物や人々の狭い間を抜けて進むこと。人々や事物の間を衝突しないように曲折しながら進むこと。 「仕事の合間を縫って来客と会う」「雑踏を縫って進む」
異色 普通とは異なり、目立った特色のあること
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
歓楽境 かんらくきょう。楽しく遊ばせてくれる所。花街や遊興の場所
 大震災(だいしんさい)直後(ちよくご)、幸運にも火災から免れたばかりに、三越の分店、松屋臨時賣場(りんじうりば)、銀座の村松時計店(むらまつとけいてん)資生堂(しせいだう)の出店さてはカフエ・プランタン等々、一夜に失はれた下町の繁華(はんくわ)が一手に押し寄せた觀があった。その後三年四年の間にこれらの大支店も次々に影をひそめ、今は從前(じうぜん)の神樂坂氣分に立ち返った。復興(ふくこう)市街地(しがいち)勃然(ぼつぜん)たる生氣と形態(けいたい)はなくとも、いつかは徐々にそここゝの店舗(てんぽ)が新時代風に變貌(へんぼう)する。なによりも誇るものは坂下から坂上までの立派な(しん)()石道アスフアルト道だ。坂の部分が洗濯板聯想(れんさう)させるのも愉快(ゆくわい)な滑稽である。

松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは、はっきりと本店、支店ともに出していないと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
カフエ・プランタン 最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店とその名前が変わりました。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。

明進軒

明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。図は昭和12年の火災保険特殊地図(都市製図社)です

勃然 ぼつぜん 急に、勢いよく起こるさま
鋪石道 ほせきみち。道路に敷いてある石。しきいし
アスファルト道 ニッポン「道路舗装」史では

アスファルトの利点は、①工事費が安く、②施工後、数時間で使える点でした。

さらに
コンクリは①寿命が長く、②轍ができない、さらに③原料の石灰石は国産可能というメリットもありました。

また、国交省の『道路統計年報2013』では
 現在の日本の道路総延長は1200万キロ。そのうち未舗装が19%で、コンクリート舗装はわずか4.5%。残りはすべてアスファルト舗装になっています。

洗濯板 衣類を洗うときに使う道具。水をつけてこすりつけるようにして洗います。
洗濯

[名所名店]

永井荷風氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』を読むと、ノヱル・ヌーエー氏に会ったと書いています。昭和八年のことです。ヌーエー氏はフランス読みで、英語読み、あるいは筆名ではノエル・ヌエット氏になります。このとき、堀口大学氏も加わり、永井荷風氏は52歳、ヌエット氏は48歳、堀口大学氏は41歳でした。実は3人が3人とも同じ挿話を書いているのです。では、最初に永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』です。

 三月十六日。夜来の風雨午後に至りて霽る。夕陽燦然たり。銀座オリンピク徃き飰する時、高橋君の来るに会ふ。街上にて堀口大学君及夫人に会ふ。又始めて仏蘭西人ノヱルヌーエー氏に会ふ。一同相携へて珈琲店耕一路に至りて憩ふ。ヌーヱ氏は仏蘭西の詩壇に名ある人の由。既に詩集二三巻を刊行すと云ふ。数年前日本に来り目下外国語学校教師なる由。氏はまた絵事を善くす。東京市街の景をペンにて描ける絵葉書二三十種を刊行すと云ふ。
霽る はる【晴る/霽る】は晴れるの文語
燦然 さんぜん。きらきらと光り輝く様子
オリンピク 銀座通り東にあった米国風洋食堂。 現在はティファニー。
徃き 往く(新字体)。どんどんと前進する。いってしまう
飰する はんする【飯する/飰する】。食事する
 適を辞書でみると「たまたま」と書いてありました。「(たまたま)」を「適適」とか「適々」と書くこともあるようです。
高橋君 高橋 邦太郎(たかはし くにたろう)。生年は1898年9月5日。没年は1984年2月25日。フランス文学の翻訳家、NHK職員、共立女子大学教授、日仏文化交流史の研究家。
耕一路 コウイチロ。創業70年の歴史あるカフェ。喫茶店とワインバー。東京都丸の内3-1-1国際ビルB1
憩ふ いこう。【憩う/息う】。ゆったりとくつろぐ。休息する。
絵事 かいじ。絵をかくこと。

 では、ヌエット氏は同じことを書くとどうなるのでしょう? 以下は『三田文学』1959年49巻5号「永井さんのこと」です。この4月30日、永井荷風氏がなくなり、この『三田文学』の5号は追悼文をあつめたものにかわってしまいました。

 私は、パリにいたころ、セルジュ・エリセイエフ氏の仏訳した「牡丹の客」によってはじめて永井荷風さんの名を知りました。永井さんの作品で仏訳されたものは、これがただひとつではないでしょうか。もっとも、その道の人の話によれば、永井さんの作品を完全に外国語に移すことは至難のわざであるということであります。
 日本に来てから、私はいろいろ同氏のことを耳にしました。しかし、永井さんについてのはっきりした印象を持ったのは、昭和十一年、同氏と銀座でお会いしてからのことと言えるでしょう。そのとき私は、堀口大学、高橋邦太郎の両氏と一しょでした。そして、両氏から永井さんに紹介され、みんなは連れ立って近くのカフェーへ行ったのでした。
  私はそのころ、東京のスケッチを思い立って、それを画葉書に作らせていました。永井さんは、すでにそれを買っておいでだったということで、それについてのお褒めの言葉をいただきました。その折のお話から、私は、永井さんがフランス文学を高く評価しておいでになること、また江戸時代をしのばせるあらゆるものに深い愛着をもっておいでになることを知ったのでした。
 その後、お目にかかったことがあるかどうか記憶しませんが、私の目には、そのときの永井さんのことが、今もありありと思い浮かびます。上ぜいのある、痩せぎすな、頭にはベレーをのせ、下唇の突きだし加減なところ、そこには肉感と同時に、世の中を冷眼に見下すといった感じが受けとれました。
牡丹の客 小品をまとめて明治44(1911)年に出した本です。この「牡丹の客」という小品では本所の牡丹を見にいくため芸者と一緒に両国から舟に乗り、行くと全然面白くない光景が目の前に広がります。で最後は「『本所の牡丹てたった此れだけの事なの。』『名物に甘いものなしさ。』『歸りませう。』『あゝ。歸らう』」で終わります。
昭和十一年 間違いで、正しくは昭和八年です。
東京のスケッチ 1928年、スケッチは白水社の月刊誌『フランス』に掲載され、次いで、絵葉書に。おそらく「東京のスケッチ」はこの部分でしょう。ちなみに、1931(昭和6)年、『ジャパンタイムス』にスケッチの連載を開始、1934(昭和9)年、ジャパンタイムス社は五〇枚を集め、『Tokyo vu par un etranger (東京-一外国人の見た印象)』として出版しています。
しのぶ 偲ぶ。過ぎ去った物事や遠く離れている人や所などを懐かしい気持ちで思い出す。

 では最後に堀口大学氏はどう書いているのでしょう。随想をまとめた『季節と詩心』のなかで『自画像』の「日記」でこう書いています。

1933年3月16日。(省略)
 再び銀座の通へ出る。「ゑり治」の角にて、荷風先生の御散歩姿を拝す。高橋邦太郎君を伴わる。先生は何時お目にかかっても若々し。「変な珈琲()があるからつきあい給へ」とのたまふままに、細君を引き合せなどして從う。途中佛国の詩人ノエル・ヌエット氏も加わり、「耕一路」という先生近頃御贔屓の店へ行く。珈琲うまし。ジイドはよろし、ヴァレリイは如何なぞ仰せらる。家大人はすこやかなりや、今年は幾歳にやなど、いとねんごろなり。エリセイフ氏の近い來朝のことより、「牡丹の客」の佛譯のこと、さては小生がかつてルウマニアよりお送りせしとかいふ先生を評論した巴里新聞の記事の切抜き、とんで二十年も前にポオランドの野を走る汽車の中より小生が差上げし繪はがきの事なぞ、先生の強記驚くべし。
ゑり治 岸田劉生氏の『新古細句銀座通』(青空文庫)では「ゑり治は、ゑりえんと共に私の姉などのよく親しんだ店の一つで東都の半襟の大頭の一つである」と書いてありました。半襟とは和服の下着の襦袢に縫い付ける替え衿のことです。
ジイド アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 – 1951年2月19日)は、フランスの小説家。
ヴァレリイ アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(仏: Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871年10月30日 – 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家
ねんごろ 親身であるさま。親しいさま。
強記 記憶力の強いこと

 ヌエット氏と永井荷風氏が会ったのいうことはもう出てきません。会ったのは1回だけなんでしょうね。以下は『断腸亭日乗』でヌエット氏のことを書かれた文章です。

 五月十二日。晴。高橋邦太郎氏よりNouet氏の詩集Le Parfum des Troènesを借りてよむ。

Parfum パルファン。香料。香水
Troènes トロエーヌ。イボタノキ属。生垣として使いました。

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昭和23年1月26日 陰。山内義雄氏ヌヱツト氏著宮城環景1巻を贈らる
昭和25年十月初八 日曜日。晴。陰。山内義雄氏よりヌヱツト氏著巴里寄贈
昭和26年4月27日 晴。山内義雄氏ヌヱツト氏新著眠れる蝶(Nouët: Papillons endormis)を贈らる。

山内義雄 やまのうち よしお。生年は1894年3月22日、没年は1973年12月17日。フランス文学者。30歳、アテネ・フランセ教授となり、34歳、早稲田大学の教職に


神楽坂|ノエル・ヌエット

文学と神楽坂

 ノエル・ヌエット氏は詩人、画家、教師ですが、「神楽坂」という木版画の前に1937(昭和12)年1月30日にペン画を書いています。『東京:古い都・現代都市』(1937年、日佛會館)に載っています。キャプションは日本語では「牛込神樂坂附近の横丁が軒なみ日本料理店が立並び、夜になるとそこから三味線の音、歌聲、笑聲、手を拍つ音が聞える」です。

神楽坂

安田武|天国に結ぶ恋1

文学と神楽坂

安田武安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(昭和57年、1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」の初めの部分です。

 氏の生年は大正11年11月14日。没年は昭和61年10月15日。上智大在学中の昭和18年、学徒出陣。戦後、戦争体験の継承を訴え、日本戦没学生記念会「わだつみ会」の再建につくして常任理事にも。著作に「戦争体験」「芸と美の伝承」など。

 冬場になると、神楽坂の「田原屋」へカキのコキールを食べに出掛ける。戦争前から往きつけの店というのは、もう数えるほどになったが、田原屋がその数少ない一軒だ。
 神楽坂は「その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶もなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合して」いる、と加能(かのう)作次郎(さくじろう)が書いたのは昭和のはじめだが、半世紀余を経た今も、やはりそのとおりだと思う。
 表通りには、昔ながらの(うま)いもの店や、乾物屋とか漬け物屋とか日用の便があって、一筋入ると柳暗花明の色めいた路地、そしてその奥が、がらりと変わって閑静で気品のある住宅街。巨万の富があって、どこにでも好きに住める身だったら、袋町若宮町でなければ、北町中町南町、あの辺りに小ぢんまりした家がもちたい。
Coquilleコキール フランス語のコキーユcoquilleの英語読み。本来は貝や貝殻のこと。エビ・カニ・魚などを下調理してクリームソースなどであえ、貝殻そのものや貝殻形の器に盛り、天火で表面を焼いた料理。
その山の手… 『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「独特の魅力」に書いてあります。ここで
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
袋町 牛込袋町、光照寺、近隣の旧武家地などが集まって袋町。昔は風光明媚なところでした。袋町の桜に書いてあります。
若宮町 武家地と町屋。『牛込神楽坂若宮町小史』(若宮会、若宮町自治会、1997年)には「かつて武家屋敷であった若松町は、時代の移り変わりとともに一般住宅、料亭、商店、飲食店などが入り混じって、独特な雰囲気があります」
北町、中町、南町 江戸時代には幕府徒町の大縄(おおなわ)地でした。大縄とは同じ組に属する武士がまとまって一区画の屋敷地をもらうこと。この屋敷地を大縄地といいました。この御徒組大縄地は牛込御徒町と呼ばれ、北御徒町・中御徒町・南御徒町に分かれ、組頭2名と(かち)、あるいは御徒(おかち)28名~30名が住んでいました。徒とは江戸城や将軍の護衛を行う騎馬を許されぬ軽輩の下級武士です。

昭和56年

昭和56年の地図から。今の目で見ると違うことになっている場所もあります。

ちなみに固定資産税路線価情報を使って、各価格を調べてみました。平成26年の袋町6番13の値段は550,000円/㎡、若宮町29番1は599,000円/㎡、中町32番1は539,000円/㎡です。まあ、関係はないんですが、神楽坂2丁目12番18は1,350,000円/㎡でした。
 で、80㎡の土地を買うと、袋町で4400万円、若宮町は4792万円、中町4312万円、神楽坂2丁目は1億800万円がかかります。実際には2倍かかるのではないでしょうか。


明進軒、プランタン|岩戸町

文学と神楽坂

 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)の142頁では以下の説明が出てきます。

プランタンまえの明進軒
 麻雀の歴史の証人となったプランタン神楽坂店は、いったいどこにあったのか。神楽坂六丁目の横丁であるが諸説があって今一つはっきりしない。「神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に医院の跡を買って開いた」と紹介した文献もあるが場所の特定に至らない。ところがその場所を明記した文献があったのだ。

その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。
『評伝泉鏡花』笠原信夫 白地社

 このように明確に記載されている。この場所は神楽坂通りに面した亀十パン店のあった横から路地を入った左側で、現亀十ビルの裏手にあたる。同書には「尾崎紅葉が近くてよく使った明進軒という洋食屋であった」という記述があるが、横寺町の紅葉宅から神楽坂上の交差点までは近いとはいいがたく、特定はできなかった。そこは日本料理の『求友亭』があった場所とも考えられていたので、この店と混同してしまったのではないかと推察していた。
 ところが歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはじめた。めずらしさもあって料理の評判も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった。

 しかし、困ったことにこの歴史資料の名前は何なのか、明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図はどこにあるのか、わからないのです。この文献は何というのでしょうか。あったのでしょうか。まさか昭和45年、新宿区教育委員会の「古老の記憶による関東大震災前の形」だとは思えません。これは神楽坂一丁目から五丁目までを描いたものです。
 この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
 昭和12年の「火災保険特殊地図」では岩戸町ニ十四番地はこの赤い多角形です。なお求友亭は通寺町75番地でした。またこの横丁は川喜田屋横丁です。明進軒
 また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。

明進軒

明進軒

 さらに1970年の新宿区立図書館が書いた「神楽坂界隈の変遷」では

 紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は,岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。
 この「左の小路」というのは川喜田屋横丁です。さらに「神楽坂界隈の変遷」は『東京名所図会』(監修宮尾しげを、睦書房、1969年、東陽堂の「新撰東京名所図会」明治29-44年刊の複製)を引用しています。ここでは「新撰東京名所図会」第42編を直接引用します。

明進軒

現代の明進軒。マンションです。

●明進軒
岩戸町(いはとちやう)二十四番地に在り、西洋料理(せいやうれうり)、營業主野村定七。電話番町一、二〇七。神楽坂(かぐらざか)青陽樓(せいやうろう)(なら)(しよう)せらる。以前區内の西洋料理店は、唯明進軒(めいしんけん)にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々(びゝ)たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に轉ず、其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに會合(くわいがふ)し、當年の逸話(いつわ)また少からずといふ。

 結論としては明進軒は以前の岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)なのです。