カテゴリー別アーカイブ: 文学

わが青春の記|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦全集別巻にある「わが青春の記」(中央公論、昭和11年)です。氏がこれを書いたのは49歳。「スバル」の発行は22歳、明治42年です。ある出版社では、ボツになった氏の原稿をトイレットペーパーとして使用したという話です。

 新詩社しんししゃは中堅詩人の脱退によつて、それから間もなく崩壊してしまつた。それは與謝野氏の力が足りなかつたゝめでも何んでもない。時代は刻々こく/\轉換てんくわんして、詩そのものが既に貧困時代に入つてきたためであつた。
 脱退組はそれから辯護士だつた平出修氏の盡力じんりよくによつて、森鷗外先生を盟主にあをいで、「スバル」を發行はつかうし、それを牙城がじやうとして、更に一段の躍進をげた。僕も今度こそは出直でなほして、いよいよ小説を書かうと思ひ立ち、一生懸命になつて、「うみまち」といふものを仕上げた。明星時代と違つて、今度は僕もいくらか認めてもらへるだらうと自惚うぬぼれて、その「海邉の街」を「スバル」へもつていくと、これは編輯へんしふ委貫の吉井よしゐ君の手にひつかゝつてまんまと没書ぼつしよになつてしまつた。あんまり腹が立つたから、後年新進作家になつてから、そのまゝそつくり「太陽」へ出してやつた。これは相當さうとう評判のよかつた作品であつた。
 もうひとつほかに「へびつかひ」といふものをかいて某誌へ持ち込んだが、この作品位悲慘な最期をとげたものはない。持ち込んでから三つきたつても、四つきたつても、うんだともつぶれたともいつて來ないので、おそる恐る催促にいつてみると、編輯當事者とうじしやは、そんな原稿は受け取つた覺えはないと、劍もほろゝな挨拶である。そこで仕方がなしに、すごすご歸つてきたが、その時便所をかりくなつたので、その店の便所へ入つてみると、どうだらう、僕がずにかいた作品が無慘にも四ツりにされて尻を拭く紙になつてゐるではないか。僕はこゑをあげて號泣がうきふしたいほど無名作家のなさけなさを感じて、全くほねきざまれるやうな思ひがした。で、殘つてゐる分を切り取つてもつてかへり、そのまゝ今でも保存してゐるが、心のゆるむ時には、それを取出して今だに發奮はつぷんよすがとしてゐるのである。尤もその時分は改良半紙手刷でずけいをおいた原稿用紙だつたから、尻を拭くにはもつて來いだつたかも知れない。
 それから何年かの後、僕がいよ/\新進作家としてはなやかに文壇にデビユーすると、その雜誌からもむろんれいあつうして原稿を依賴してきたので、それに似た作品をかいて、一枚きん圓也えんなりで賣つてやつた。無名作家と有名作家の對照たいせうはかくの如くに浮世の裏表うらおもてである。滿天下まんてんかの無名作家諸氏よ、原稿がぼつをくつたとて、ゆめいかたまふな。今は西洋紙の原稿用紙であるから諸君の鏤心るしんてうたく、、の名作品が、尻を拭く紙にされないだけでもまだしもである。

新詩社 詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月に創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。
転換 別のものに変える。特に、傾向・方針などを違った方向に変える。
尽力 ある事をなすために、力をつくすこと。努力すること。ほねおり。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。
牙城 城中で主将のいる所。本丸。組織や勢力の中心となる所。本拠。
明星 詩歌雑誌。与謝野鉄幹主宰の新詩社の機関誌。明治33年(1900)4月創刊、明治41年(1908)11月廃刊。
没書 新聞・雑誌などに送った原稿が採用されないでしまうこと。没。
太陽 月刊総合雑誌。博文館発行。1895年1月―1928年2月。臨時増刊号86冊を含め全531冊。日清戦争時の国威高揚に呼応し、刊行中の雑誌を統合して創刊。
けんもほろろ 「けん」と「ほろろ」はきじの鳴き声。人の頼み事や相談事などを無愛想に拒絶するさま。取りつくしまもないさま。
夜の目も寝ない よのめもねない。一晩じゅう眠らない。
号泣 大声をあげて泣き叫ぶこと。
発奮 気持ちをふるい起こすこと。
よすが 物事をするのに、たよりとなること。よりどころ。てがかり。
改良半紙 駿河半紙を漂白して作った半紙。明治以降、水酸化ナトリウムの煮熟、さらし粉の漂白で、すぐれた半紙がつくられるようになり、改良半紙とよんだ。
手刷り 木版などを1枚1枚手で刷ること。軽便な印刷機を手で動かして印刷すること。
 文字をそろえて書くために、紙上に一定の間隔で引いた線。罫線。
裏表 物の表面と裏面。表面と内情。
満天下 天下全体。国中。世界中。
鏤心彫たく るしんちょうたく。非常に苦心して詩文などを作り上げること。鏤はちりばめる。鏤めるとは、金銀・宝石などを一面に散らすようにはめこむ。比喩的に、文章のところどころに美しい言葉などを交える。彫心鏤骨とは、ちょうしんるこつ、心に彫りつけ骨に刻み込む。彫琢は、ちょうたく、宝石などを加工研磨すること。

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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
 「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)

41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。
同年10月29日 石川啄木の日記から。

 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。
本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。

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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈②

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)②は、泉鏡花の話です。

   鏡花新婚の地

 牛込横寺町の恩師尾崎紅葉の門を出た鏡花は、博文館大橋乙羽の家や、小石川大塚町、牛込南榎町などを転々としたあと、明治三十六年(一九〇三)三月にはかねて相愛の伊藤すずと結婚して神楽坂町一丁目の裏通りにひそかな新居を持ち、まもなくその年十月には紅葉を喪ったが、明治三十九年二月に健康を(そこな)って逗子に転地するまで、そこに住んでいた。
 神楽坂は表通りから一歩横丁に入ると、今でも料亭や待合などが多い。昔から山の手の花柳街としで知られていた。鏡花夫人のすずはもと神楽坂で藝名を桃太郎という、まだあまり世馴れせぬ藝者であった。明治三十二年一月のこと、そこのとある料亭で紅葉を盟主とする硯友社の新年会が催されたとき、紅葉に従って席に連なった鏡花は藝名桃太郎のすずと親しむようになった。それには鏡花の亡母の名もまたすずで、その偶然が二人を強く結ぶ原因だったと、いかにも鏡花らしい説も伝えられている。だがまだ若く文学者としての前途も険しい鏡花が、神楽坂の藝者を身受けしてまで結婚することに反対した紅葉は、二人の仲を認めようとしなかった。恩師の眼をおそながらも、鏡花とすずの逢う瀬はひそかにつづけられ、ようやくすずが前借などを返して苦界から足を洗うことになったとき、二人はついに同棲した。それが神楽坂裏通りの家である。(この章は以下略)

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

博文館 1887年、大橋佐平が東京本郷で創業した出版社。高山樗牛を主幹とする「太陽」、巌谷小波編集の「少年世界」、硯友社と結んだ「文芸倶楽部」、田山花袋編集の「文章世界」などの雑誌を刊行。「帝国百科全書」全200巻(1898‐1909)は10年の歳月をかけている。大正から昭和初頭にかけて、新たな出版社も台頭し、出版王国もしだいに退潮していった。
大塚町 小石川区大塚町57番地で、右図です。寺木定芳氏の『人・泉鏡花』(昭和18年、武蔵書房)では「小石川大塚町に居を卜されたのは明治廿九年の五月だつた。有名な火藥庫のすぐ側で、未だ血氣盛んだつたのと、懷工合で致方なかつた爲なので、其の後の先生なら火藥庫ときいたゞけで、おぞ毛をふるつて逃げだしたらうが、其の時は平氣だつた」と書いてあります。
伊藤すず 明治32年1月、硯友社の新年宴会で、泉鏡花(満25歳)は神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず、生年は明治14年9月24日。この年齢は17歳)を初めて知ります。
神楽坂町一丁目 新居は一丁目ではなく、二丁目でした。ここです。
喪う うしなう。大切な人に死なれる。
害う そこなう。がいす。成長をとめる。傷つける。
とある料亭 神楽坂の常盤という料亭です。
惧れ うまくいかないのではないかと,あやぶむこと。もとは「懼れ」の俗字。
逢う瀬 おうせ。会う時。特に、愛し合う男女がひそかに会う機会。
苦界 苦しみの多い世界。人間界。遊女のつらい境遇。公界

 以下の文章はここで省略。それでも注釈はつけてあります。
 

寺木定芳 歯科医。鏡花の門人。鏡花の親睦会九九九会の幹事。生年は明治16年2月16日。没年は昭和47年11月3日。享年は満89歳。
思い出 昭和十五年の思い出はわかりませんでした。昭和18年、寺木定芳氏の『人・泉鏡花』では「此の家は、新宅といふにふさはしい、ほんとの新築の二階家だつた。牛込見附から神樂坂へだら/\と五、六間登ると、すぐ左手に細い横町かある。其處を左へ折れて又五六間、表通の坂と平行に右手へ曲つて少し登ると、すぐ左手にあつた、小さいが、誠に瀟洒とした一構で、横手に堀井戸があつて其處からすぐ、臺所や勝手口になつてゐる」と書いてあります。右図は籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る。No. 13 新宿区 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)の図ですが、現在はこの建物もなくなり、すべてが東京理科大学に変わりました。
仮普請 かりぶしん。一時しのぎの簡単な建築。
掘井戸 地面を掘って作った井戸
物理学校 東京物理学校。1881年に東京府に設立。私立の物理学校(旧制専門学校)。略称は「物理学校」。現在の東京理科大学の前身。
因縁 前々からの関係。縁。 由来。来歴。いわれ。

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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
 「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂
 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

富士見二丁目

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900276 の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。
警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。
最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

上田敏|『海潮音』

文学と神楽坂

 この詩は聞いたことはありますか。30代以下の人はまず知らないでしょう。

  やまのあなた
やまのあなたのそらとほ
さいはひむとひとのいふ。
あゝ、われひととめゆきて、
なみださしぐみ、かへりきぬ。
やまのあなたになほとほ
さいはひむとひとのいふ。

 もとはドイツ語からやって来ました。原文は

Über den Bergen,weit zu wandern,
sagen die Leute,wohnt das Glück.
Ach, und ich ging,im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen,weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.

 一応、英語の翻訳もあります。

Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.

 有名な人が翻訳していますが、その人の姓名は知っていますか? 

 次も同じ人が訳した有名な文章です。

「秋の日の」の次は「ヸオロンの」が縦書きとして続き、それから「ためいきの」と続きます。「うら悲し」の後、一行空き、「てくてく牛込神楽坂」では改行も行い、「鐘のおとに」になります。
 すいません。あくまでも空白をつくらないと考えて、途中で改行するように決めています。

 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦の時に、BBCのフランス語放送で流れた詩でもあります。各地のレジスタンスに命令を出す暗号なのです。

 フランス語の原文、英語の翻訳も出しておきます。

 翻訳者は上田びん氏です。夏目漱石氏と比べると、年齢は8歳若く、東大には明治27年、21歳で入学しています。1905年(明治38年)、数え32歳になってから訳詞集『海潮音かいちょうおん』は発行しました。どちらの訳詞も『海潮音』からとってあります。

 では、他の『海潮音』の訳詩を知っている人は? 残念ながら、私はこれ以外の訳詩はなにも知りません。他の人も同じでは?

 ちょうど1987年、俵万智氏の『サラダ記念日』は大ブームになり、中学校の教科書にも取り上げられましたが、1句あげてといわれると、うーんというのと同じです。まあ、これが詩の生き方。『海潮音』は青空文庫で全部が載っています。

 上田敏氏は東京高等師範学校教授、東大講師、京大教授を歴任し、死亡は数え43歳、満41歳で、萎縮腎と尿毒症でした。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。

 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

明治二十年(十四歳)四月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治二十一年(十五歳)、父は四十三歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町五十八番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶二十二年(十六歳)九月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。

長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎①

文学と神楽坂

長田幹彦氏

 長田幹彦氏の『文豪の素顔』(要書房、昭和28年)で有島武郎の卷です。長田氏の生まれは明治20年で、北海道に渡ったのは、おそらく明治42年ごろ。2年間位、北海道にいて、帰った後の明治45年に発表した小説「みお」で有名になりました。

 有島武郎氏の生まれは明治11年。北海道で以下の出来事が起こったのは明治42年だとすると、長田幹彦氏は22歳、有島武郎氏は31歳でした。

 ひよいとみると、窓に近いテーブルには、農科大学の制服をきた青年が十人ばかり腰をかけて、しきりにわいわい騒いでゐる。昔の札幌農学校が大学と改称したばつかりの時代のことであるから、学生の風もまるで一高の学生のやうに素朴そのものであつた。
 その正面のところに、先生らしい三十がらみの男が、これはハイカラなの背広をきて、片手で顎へつッかい捧をしながらにこにこ笑つてゐる。どつちかといふと痩せぎすの、短い口鬚のはえた、理性の勝つたやうな、それでゐてちょいと不敵なところもあるやうな顔つきの男であつた。何にしろスッキリした背広の着つきがばかに眼にたつた

札幌農学校 北海道大学の前身。明治5年、東京芝に開拓使仮学校として開校。明治8年、札幌に移転、翌年札幌農学校となる。アメリカのマサチューセッツ農科大学学長ウィリアム・スミス・クラークを教頭として招き、北海道開拓に必要な人材を養成し、内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾ら多くの人材を出した。
 しま。2種以上の色糸を使って織り出した縦や横の筋か、織物。
つっかえ棒 物と物との間に差し挟んで、倒れたり不要に近づいたりしないように支えるための棒
不敵 敵を敵とも思わないこと。大胆でおそれを知らないこと。
着つき 「着付け」と同じか? 「着付け」は着なれていること
目に立つ 人の目を引く。目立つ

      2
 僕は、学生たちのグループが、先生を中心に何か談話会でも開いてゐるのだらうと思つた。カギヤではよくそういつた会合に出ッくはした。僕は別に気にもとめずに、隅の方でぼんやりコーヒーをすすりながら菓子をたべてゐた。とてもストーブが熱つすぎた。
 こつちはたつた一人ッきりである。あんまり所在がないもんだから、ついやつぱり学生たちの話に注意がむく。はじめのうちは何が話題になつてゐるのだか、ちよいとつかめなかつたが、だんだん聞いてゐると、それは米国の詩人ホイットマンのことである。正面に坐つた先生は、眼を生々させながら、英語で詩の一章を、朗吟してきかせる。ずつと暗記してゐるのであらう。抑揚がいかにも自然でよどみがない。発音もアメリカ風である。
 学生たちはだんだん話題をさらはれた形で、制服の両腕をくみ、深刻な顔をして、先生の口のところばかり凝視してゐる。その時の話の内容はむろん記憶してゐないが、かなり調子の高い話しかたであつた。尤もホイットマンであるから、ロマンテイックな、色彩の豊かな感しはしなかつた。われわれは、ベルレーヌや、ユイズマンで熱をあげてゐた時代であるから、そんなアメリカの百姓詩人なんかには少しも関心がなかつた。
 それから偶然にもツルゲネーフゴルキーの話になつて、ロシアの農奴開放問題に及ぶ。先生の口調はますます熱をおぴて、学生たちはワクワクしてゐるらしかつた。能弁ではなかつたが声には幅があつて、魅力があつた。
 一時間ばかりすると、先生はひよいッと立ちあがつて、藪から捧に、
「じや諸君、時間がきたから、今夜はこれで散会しよう。この次の研究題目はマコーレイの『コンペンセーション』、永松君が原書をもつてるからみんなで回読してもらふんだな。尤も図書館にはあるだらうから、誰れか索引を調べてみて下さい。今井君、君がいいだらう。一番マメだから。はゝゝゝゝ。」
 学生たちはどやどやとたちあがつて、みんなポケットに手を突ッ込んで、銅貨や銀貨をかぞへながら会費を払つてゐる。彼らもやつぱり僕同様、三十銭そこいらの割り当てらしかつた。
 学生たちがお互に、がやがやいいながら出ていつてしまふと、先生は何んと思つたか、オーバーへ片手をつッ込みながら、だしぬけにつかつかッと僕のところへやつてきた。例の不敵な眼つきで、
「失礼ですが、あなた長田さんぢやありませんか。」と、声をかける。笑ひもしない。
 僕はあんまり意外だつたので、いささか面食つて、坐つたまま、
「そうです。」と、ぶつきらぼうにこたへる。

カギヤ 長田幹彦氏が少し前の部分でこう書いています。

 三丁目の角のところに、明るい灯のともつたカギヤといふ菓子ホールがある。それは札幌独特の店で、その時分は珍しいショートケーキを焼いて売つてゐた。店の横手がホールになつてゐる。そこでカッフエみたいなサービスもしてゐた。酒は出さなかつたが、焼豆くさい甘いコーヒーを飲ましてくれた。

所在がない 手持ちぶさたである。することがなく退屈だ。
ホイットマン 米国の詩人。Walter Whitman。1819年―1892年。大工を兼業とする農家に生れ、1841年から新聞記者。以後ほぼ20年に及ぶジャーナリスト生活が始まる。奴隷制問題などをめぐって激しい抗争の渦中にあった当時のアメリカ社会の中で、ホイットマンは一貫して民主党進歩派の立場を守った。自由な形式で、強烈な自我意識、民主主義精神、同胞愛、肉体の賛美をうたった。
ベルレーヌ フランスの詩人。Paul Verlaine。1844年―1896年。放蕩無頼の生活の中から不安と憂いを抒情味豊かにうたう。象徴派の始祖。
ユイズマン ジョリス=カルル・ユイスマンス。Joris-Karl Huysmans。1848年―1907年。フランスの19世紀末の作家。イギリスのオスカー・ワイルドとともに、代表的なデカダン派作家。
ツルゲネーフ ツルゲーネフ。Ivan Sergeevich Turgenev。Ива́н Серге́евич Турге́нев。1818年―1883年。ロシアの小説家。社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描いた。
ゴルキー ゴーリキー。Maksim Gorkiy。Максим Горький。1868年―1936年。ロシア・ソ連の小説家、劇作家、社会活動家。
農奴解放 農民を農奴の地位から解放し、自由民とすること。封建社会から近代社会への転換期に、各国で行われた。
マコーレイ Rose Macaulayでしょうか。不明。
コンペンセーション compensation。償い、賠償、代償

長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎②

有島武郎氏


「あの、僕は、あなたを知つてゐるんですよ。あなた與謝野さんの新詩社のメンバーでせう。『明星』にかいとられたですね。」
と、あんまり好意をもつてゐない、眼の輝きである。
 僕は相手が誰れだか一向に見当がつかないので、もじもじしてゐると、
「僕はね、ここの農大の教師をしてゐるんですが、毎月一回か二回、ここで文学の研究会をやつてゐるんですよ。かう雪が深くなると寂しいもんですからね。」
「さうですか。道理でホイットマンが……」といひかけると、先生は眼だけで笑つて、
「長田さんはどんな詩をお好きなんですか。」
 僕が新詩社のメンバーなら、大がい傾向は知れてゐるだらうに、わざと冷評かすやうにいふのが、かちんときた。今更ベルレーヌなどといふのを業腹なので、僕はいつもの臍曲りを発揮して、
「さあ、僕は口ングフェローがすきですね。」と、そつぽをむくと、先生はこいつといふやうな皮肉な笑ひかたをして、
「たとへば、ロングフェローのどんな詩ですか。」
 僕は言下に、
「僕はルーシー・グレイが一番好きです。アンデルセンの「リットル・マッチ・ガール」みたいに、深い雪のなかでルーシーが凍え死ぬところはいいですね。北海道へきてから、この雪をみて、一層感じが深いです。」
 先生は口鬚をふるはしながら、
「はゝゝゝッ、あなたは、さういふ観方で北海道をみとられるんですか。はゝゝ。」といかにも甘いなといふやうな露骨な軽蔑である。
 僕もその前々年に一度札幌へやつてきて親友の穂積貞三(穂積重遠氏の弟)と二人で、ひと夏農学校の農場で、あの輓馬つきのモウナークローバー刈りをやつた経験があるので、北海道の自然と生産の問題ぐらゐは些少なりと心得てゐた。僕は、しかし、そんなことはおくびにもだしたくなかつた。
 先生は本を包んだ風呂敷包みを小脇にかかへながら、せかせかして、
「長田さん、僕は、実はあなたのゐる家の先隣のT教授の家に仮寓してゐるんですがね。あなたがみえてから、Tの家ぢや非常によろこんでゐるんですよ。あなたが夜おそくまで電燈をつけてかいてをられるでせう。だから物騒でなくて、ほんとにいい。細君なんか安心して寝られるつていつてるんです。あなたは三条界隈じや有名ですよ、はゝゝゝ。」さういひながら先生は帽子をかぶつて、それなり外へ出ていつてしまつた。

明星 明治33(1900)年、新詩社は機関誌「明星」を創刊
冷評かす おそらく「ひやかす」でしょう。「冷やかす」。冷淡な態度で批評すること。
業腹 非常に腹が立つこと。しゃくにさわること
臍曲り へそまがり。ひねくれていて素直でないことや人。偏屈。
ロングフェロー ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー。Henry Wadsworth Longfellow。1807年―1882年。米国の詩人。ヨーロッパ文学をアメリカに紹介し、教授詩人として並々ならぬ名声を確立した。
ルーシー・グレイ Lucy Gray。全文はここに
アンデルセン デンマークの童話作家・小説家・詩人。Hans Christian Andersen。1805年―1875年。小説「即興詩人」「絵のない絵本」、童話「親指姫」「マッチ売りの少女」などで世界的に有名。
リットル・マッチ・ガール マッチ売りの少女。アンデルセンの童話。1848年発表。大みそかの夜、貧しいマッチ売りの少女が寒さに耐えかねてマッチを擦ると、さまざまな美しい幻が現れる。最後に亡き祖母が現れ、少女を天国へと導く。
穂積重遠 ほづみしげとお。民法学者。穂積陳重のぶしげの子供。東京大学教授、貴族院議員、最高裁判所判事を歴任。生年は明治16年4月11日。没年は昭和26年7月29日。享年は満68歳。
輓馬 ばんば。車やそりを引かせる馬。
モウナー mower。草刈り機、芝刈り機
クローバー シロツメクサの別名。右図を。
仮寓 一時的に住むこと。その家。かりずまい
それなり その状態のまま。そのまま。それきり。

 長田氏はむかむかしますが、宿に戻っています。

「ねえ、小林さん。この先隣りにTつて家ありますか。」と、たうとう口をきつた。主人には黙つてゐようと思つてゐたが、ついやつぱりさつきのことがむしやくしや胸につかへてたらしい。
「え、Tつて、大学の先生のお宅でせう。ありますとも。」
「そこから、僕のかりてゐるこの部屋の灯がめえますかね。」
「そりや夜になりやめえるでせう。尢もかう雪が深くなつちやむりですかな。どうしてですか。」
「いや、別に何んでもないんだが……そのTさんの家には、大学の先生たちが合宿でもしてるんですかね。」
「べつに合宿じやないですがね。ひとりやつぱり若い先生が同居してゐますよ。何んでも東京の大金持の息子さんとかで、長いことヨーロッパやアメリカへ留学してた方で、よく出来る先生なんださうですよ。あなたと同じやうにやつぱり文学をなさる方ださうです。」
「何んていふ名前ですか。」
有島武郎。武郎とかいて、タケオとよむんださうです。」
 僕はそんな名の作家や評論家は一人もしらなかつた。一躰どこの馬の骨なんだらう。じゃきつと奴さんも我々同様、やつぱり文学青年の三下奴なんだな、と、僕はすつかり気をよくしてしまつた。文学青年だけがもつあの一種の反撥である。
「その有島つてのは、大学で何を教へてゐるんですか。」
「私もよくは知りませんが、なんでも予科で英語と、倫理を教へてゐるらしいですね。英語がよく読めるんで、小説でも何んでもペラペラなんださうです。」
「さうですか、倫理でも教へさうな、変に思ひあがつた男ですね。実は、さつきカギヤで逢つたんですよ。あなた、ひよつとしたら、私のことをTさんの家の人にでも話したことありませんか。」
 気のいい、小林さんは頭をかいて、てれたやうに笑ひながら、
「あります。実は、こないだあなたの為替をとりに郵便局へいつたでせう。あの時局でT先生の奥さんに出ッくはしちやつたんですよ。さうしたらね、奥さんがね、お宅じやこの頃、夜半の二時までも、三時までも電燈をつけていらつしやいますねつておつしやるから、私もつい口が滑つちやつて、実は東京からこれこれで、文士の方がみえてるんです。夜どほしかきものをなさるんでつて、うつかりしやべつちやつたんですよ。実はこの為替も、原稿料らしいんで……」と、小林さんはむしろ得意さうな顔つきである。

小林 宿の主人です
三下奴 さんしたやっこ。博打打ちの仲間で、最も下位の者。三下。
夜どほし よどおし。夜通し。夜の間ずうっとすること。一晩中。

神楽坂をはさんで|都筑道夫①

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房で「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を勤め、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年には「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報から取っています。

   神楽坂をはさんで
都筑道夫
 色川武大さんとは、深いつきあいはなかった。けれど、共有していることがあって、尊敬のまなざしで、遠くから眺めていた。共有していたのは、場所と時間の記憶である。
 東京の新宿区と文京区のさかい目、矢来の坂の上のほうで、色川さんは生れた。私は坂の下のほうで、生れた年もおなじだった。近くの神楽坂の夜店を歩き、はるばる浅草へ遊びにいって、成長してから、おなじように小説家になった。
 もの書きになったのは、私のほうが早く、はじめて顔をあわせたのは、ある推理小説雑誌の編集部でだった。こんど入った色川君、と編集長から紹介されたのだが、私の担当にはならなかったので、ほとんど話はしなかった。したがって、おなじ台地の上と下とで、育ったことは、知らずじまいだった。
 私は麻雀をしないから、阿佐田哲也の小説とは、縁がなかった。色川武大の小説がではじめて、雑誌に写真がのったときに、名前に聞きおぼえがあり、顔に見おぼえがあって、ひょっとすると、と思った。やがてパーティであって、やはり推理小説雑誌の編集者だった色川さんだ、と確認できた。
 印刷会社のひと部屋を借りた編集室で、はじめて顔をあわせてから、二十年はたっていたろう。作品を読んで、牛込矢来の生れらしい、とわかっていたから、そのことが話題になった。以来、色川さんの名前を見ると、江戸川橋から矢来、矢来から飯田橋へかけて、のぼりおりする坂の家なみが、目に浮かんでくる。大学通りの夜店、赤城神社の縁日、神楽坂の夜店、飯田橋をわたって、靖国神社例大祭の露店までが、ひとつひとつ思い出される。

色川さんは生れた 色川氏の誕生は矢来町です。
坂の下のほう 都筑道夫氏によると、誕生は小石川区関口水道町62番地(現在は文京区関口1丁目)でした。
生れた年 2人とも昭和4年(1929年)でした。
もの書きになった 都筑氏がもの書きになったのは昭和24年、色川氏は昭和30年でした。
ある推理小説雑誌の編集部 桃園書房の『小説倶楽部』誌の編集者でしょう
台地 豊島台地です。
阿佐田哲也 阿佐田氏は色川武大氏が麻雀を書くときのペンネーム。
江戸川橋、矢来、飯田橋、大学通り、赤城神社、神楽坂 地図を参照
靖国神社 1859(明治2)年、戊辰戦争による官軍側の死者を弔うため、明治政府が「東京招魂社しょうこんしゃ」を創建。1879年に「靖国神社」と改称
例大祭 その神社の、毎年定まった日に行う大祭。

 私は往時をなつかしんで、言葉による絵として、思い出を書こうとするだけだが、色川さんは過去の記憶、現在の観察のなかに、自分の生きかた、自分のであった人びとの生きかたを、考えようとしていた。逃げ腰にならずに、小説を書いている。だから、傍観者である私は、尊敬のまなざしを、遠くから投げていたのである。
 色川さんは、『怪しい来客簿』のなかの一篇、「名なしのごんべえ」で、神楽坂の夜店を書いている。昭和六年にでた『露店研究』という、横井弘三の著書を援用して、昭和ひとけたの神楽坂に、どんな夜店がならんでいたかを列挙し、自分のみた昭和十年代の店、ひとの記憶を書いている。
 もっと古い資料としては、尾崎紅葉が『紅白毒饅頭』という明治ニ十四年の作品に、毘沙門びしゃもんさまの縁日の露店を記録している。色川さんは利用していないが、参考のために、品物のいくつかを、解説つきで抄録しよう。
 太白飴、これは白い棒餡だと思う。文字焼、お好み焼の一種で、近年、もんじや、、、、という小児なまりの名で、復活した。椎実しいのみ、これは椎の実を炒ったものだろう。説明不要の丹波ほうずき海ほうずき智恵の智恵の板、これはタングラムで、いまは夜店の商品ではない。化物ばけもの蝋燭ろうそく、青い火がとろとろ燃えて、幽霊の影がうつる花火の一種で、神楽坂の夜店では、昭和十年代にも売っていた。現に私が買っている。玻璃がらすふで、これは森村誠一さんが愛用しているガラスペンにちがいない。私が見たのは、たいがい細いガラス棒とバーナーをつかって、実演販売していた。たけ甘露かんろ、砂糖を煮つめて、ゆるい寒天状に冷やしたものを、細い竹筒につめて、穴をあけて吸う。銀流し、銅製品につけて磨くと、銀のように見える液体だ。早継はやつぎ、割れた陶器をつける接着剤である。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
丹波ほうずき 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほうずき うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
智恵の環 いろいろな形の金属の輪を組み合わせ、解く玩具。
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。
タングラム tangram。正方形の板を三角形や四角形など七つの図形に切り分け、さまざまな形を作って楽しむパズル。

http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの
硝子筆 ガラス製のペン
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。
銀流し 水銀に砥粉とのこを混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継の粉 割れた陶器をつける接着剤
 

神楽坂をはさんで|都筑道夫②

 この月報の読者は、すでにでた第一巻に、『怪しい来客簿』が入っているから、お読みになっているだろう。だから、昭和ひとけたの夜店明細表は、ここに引用はしない。赤城神社あたりから、夜店がはじまって、大久保通りを越してからは、両側になる、と書いてある。それが、昭和十年代になると、大久保通りから、飯田橋の手前まで、右がわだけになっていたように、私はおぼえている。
 リストのなかの帽子洗いは、私の好きな店だった。古ぼけたパナマ帽ソフト帽が、きれいになるのを、うっとりと眺めていた。そのくせ、洗う手順はわすれているのだから、記憶はおかしなものだ。口絵とあるのは、雑誌の色刷の口絵だけを切りとって、売っていたのだろう。風景画、美人画と分類して、茣蓙の上にならべていた。
 有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしょに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。音譜売りが、舌の裏に入れていた笛というのは、小さなブリ片を、ふたつ折りにしたものだろう。あいだに、薄いかんな屑かなにかを挾んで、ブリキ片の上から、いくえにも糸を巻きつける。それを、舌の裏に入れたのでは、吹きようがない。舌の先にのせて、上顎に押しつけながら、口笛の要領で吹くのである。
 食べあわせの薬売り、というのは、見たことがない。台などはおかずに、立つたまわりに人をあつめて、口上を長ながとのべる薬売り、睡眠術や記憶術の本をうる連中は、じめ、、という。靖国神社の例祭には、いつも二、三人、これが出ていた。明治の大盗、官員小僧のなれのはて、と称して、防犯心得の本をうる老人もいた。稽古着に袴という恰好で、八の字髭をはやして、気合術の本をうる男もいた。
 そうした露天商の紹介につづいて、色川さんは戦後、その人びとがどうなったかを、書こうとする。安田銀行のすじむこうの映画館の焼跡から、南京豆売りのお婆さんが、出てくるのを書く。
 私はその映画館が、神楽坂東宝ではなかろうか、と考える。同時に神楽坂を書いて、牛込館田原屋に筆がおよばないのに、ひそかな不満を持つ。色川さんは戦後、三十年もたってから、当時の無名の人びとを回想して、書こうとする。人びとのその後を、知ろうとする。
 色川さんのえがく神楽坂を読んで、私が尊敬のまなざしをむけるようになったわけは、わかっていただけるだろう。矢来の通りと神楽坂をはさんで、おなじ少年期を送った色川さんを、私はいまも、なつかしく思う。色川さんは、からだが大きく、私は小さい。子どものころ、青瓢箪と呼ばれた虚弱児だった。どうして、大きな色川さんが、先に死んでしまったのだろう。

リストのなかの帽子洗い 『露店研究』では「帽子洗ひ」、『怪しい来客簿』では「帽子洗い」で出ています。
パナマ帽 パナマ草の若葉を細く裂いて編んだひもで作った夏帽子。
ソフト帽 フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
茣蓙 ござ。イグサを編んだ敷物。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
食べあわせの薬売り たとえば「鰻と梅干を同時に食べると消化不良になる」と食材の取り合わせが悪いといい、薬を売る人。
官員小僧 講談師、落語が語る登場人物。懺悔談のあと、高座から盗犯防止のリーフレットを売った。
大じめ 広い場所を占領して、黒山の如き群衆を集めて長口舌を振い、商品を売る人
安田銀行  大久保通りの西側でも5丁目があります。昔の5丁目の安田銀行は大久保通りの西側で、現在の薬のココカラファインです。
映画館の焼跡 鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館は同じ場所を占めていた建物で、現在はおそらく神楽坂5丁目13です。しかし、大久保通りに拡張計画があり、すべては巨大な大久保通りの下になる予定です。
南京豆売り 南京豆とはピーナッツのこと
神楽坂東宝 はい、そうです。