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愛がいない部屋|石田衣良

文学と神楽坂

 石田衣良氏の『愛がいない部屋』(集英社、2005年)です。始めに「おわりに」を紹介します。ここに本を書いた意図が書かれています。

 恋愛短篇集もついに三冊目になりました。
 これまでは二十代、三十代と年齢別に書いてきたけれど、今度はどうしよう。では人生のある時ではなく、場所を限定して書くことにしよう。それなら超高層の集合住宅がおもしろそうだな。東京では百を超えるガラスとコンクリートの塔が空をさしています。今の時代を映す背景としてぴったりだし、一棟のマンションに舞台を圧縮することで、さまざまな対比が鮮やかに描けるかもしれない。
 タワーマンションが建つ街は、以前住んでいた神楽坂にしよう。その名も「メゾン・リベルテ」。自由の家という名のマンションに住む、そう自由ではない人々の暮らしを、これまでよりすこしだけリアルに書いてみよう。この本はそんな気もちで始めた連作集です。

 では、最初の「空を分ける」から

「このマンションは二年まえに竣工しました。計画段階では、地元の住民から超高層への反対運動がありましたが、今では問題なく周辺住民とスムーズにいっています」
 扉が開くとエレベーターの奥は鏡張りだった。防犯対策だろうか。
「どうぞ」
 ボタンを押したまま成美がいった。階数表示がつぎつぎと点滅しながら、操作盤を駆けあがっていく。梨花は息をのんで、耳抜きをした。こんな贅沢なマンションに住めるのも、割安なルームシェアのおかげだ。梨花ひとりではとても手のでる物件ではなかった。建物の案内は続いている。
「当初の計画では地上四十三階建てでしたが、話しあいの結果、地上三十三階となり、公開緑地を多くすることで落ち着きました。最上階は展望室と来客用の宿泊施設などです。ほとんどは分譲ですが、賃貸物件もいくつかあります」
 エレベーターは十九階で停止した。中央の吹き抜けを内廊下が四角くかこんでいた。博人は手すりから顔をのぞかせ、したを見おろしてから、ガラスの屋根を見あげた。梨花も同じようにする。遥か下方に放射状に大理石の組まれた明るいロビーが落ちていた。博人はのんびりという。
「うえを見ても、したを見てもきりがない。なんだか、このマンションだけでひとつの街みたいだ。ぼくたちは中の上くらいのところに住むんだな」
 梨花はうなずいて博人の横顔をそっと見つめた。広告代理店のクリエイターがどんな仕事をするのかよくわからないが、ものをつくる人の細やかな神経を感じさせる横顔だった。廊下の先から成美が声をかけてくる。
「こちらです。どうぞ」
 部屋番号は1917号室だった。梨花は贅沢な共有部分から、ため息のでるような室内を想像していたが、ドアのなかは案外普通のつくりだった。ロビーと同じ大理石は張ってあるが玄関は狹く、まっすぐ奥に延びる廊下も余裕たっぷりというわけではなかった。不動産会社の女は、天井まで届くシューズクローゼットを開けて、配電盤のブレーカーをあげた。先に立って部屋にあがり廊下をすすんでいく。図面に目を落としていった。
「廊下の左右に個室がひとつずつあります。六畳と変形の七畳で、どちらも大容量のクローゼットがついています。全部で六十平米ちょっとの2LDKになります」
 博人と梨花はドアを開けて室内を確かめた。どちらの部屋も窓は吹き抜け側にあいているので、それほど明るくはなかった。天気の悪い日には昼間でも照明が必要だろう。

ルームシェア roomshare。ひとつの住居を他人同士が、共同で借りたり、共有して居住すること
公開緑地 地方公共団体の条例要綱等に基づき、土地所有者と地方公共団体などが契約を結び、緑地を一定期間住民の利用に供するために公開するもの。
クリエイター 創作家、制作者。広告クリエイターとは広告制作でコピーライトやCMプランニングを中心に行う人。
シューズクローゼット Shoe Closet。玄関で靴を入れるための収納箱。下駄箱
クローゼット 衣類を仕舞う洋風の空間。押入れ。
LDK リビングルーム(居間)とダイニング(食堂)とキッチン(台所)

アライバル社の広告から(https://www.arrival-net.co.jp/article/condominium/kagurazaka_einstower/)

 建物のモデルは「神楽坂アインスタワー(Eins Tower)」なのでしょう。これは神楽坂五丁目にあり、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションで、普通の分譲マンションではありません。2018年、67.37㎡の価格は6,180万円。なお、ドイツ語のeinsは「ひとつ、1」。
 東急リバブルの広告では……「タワーマンション特有の共用施設の充実、フロントサービス、24時間有人管理、24時間総合監視システム、オートロック、防犯カメラ、モニター付きインターホンと徹底した安全管理体制が設けられています。室内はバリアフリー、ディスポーザー、カウンター付きシステムキッチン、オートバスなど生活設備も充実しています」

 さて別の章「いばらの城」では

アライバル社の広告から


「なんて名前」
「メゾン・リベルテ神楽坂。ほらもうさっきから見えてるよ」
 茂人は美広の指さす空を見あげた。白く輝く積乱雲を背に、この街には似あわない巨大な超高層ビルが灰色の切り絵のように空を占めている。
「あんなところか。すごく高いんじゃないの」
「部屋によってはそうでもないみたい」
 その物件は神楽坂上の交差点近くに建っていた。周辺の公開緑地もかなりの広さがあリ、ちょっとした公園なみである。エントランスはホテルのように広々としていた。中央が巨大な吹き抜けになったロビー階には、ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋まである。休日のせいか オープンカフェの日傘のテーブルはほとんど埋まっていた。一番端の席に、妙に目立つ真紅のストールを巻いた小柄な老女が座って、こちらをじっと見つめていた。

オープンカフェ 道路側の壁を取払ったり店の前に客席を設けたり、開放的な演出を凝らしたカフェやレストラン。
ストール 婦人用の細長い肩掛け

 残念ながら、神楽坂アインスタワーには「ファミリーレストランやコンビニ、本屋や花屋」はありません。 

川柳江戸名所図会②|至文堂

文学と神楽坂

 つづいて軽子坂、船河原、とんど橋、猪牙ちょき舟を取り上げます。

軽 子 坂

江戸川合流してくる少し手前、左側を揚場町という。船着場で荷揚げをしたからである。この辺りから濠に直角に上る坂を軽子坂という。軽子は荷揚げの人足、軽籠あしかもっこ)で荷を運ぶ人夫のことである。それらの住居があったので坂の名となったという。
 今は飯田橋から新宿へ行く都電に大体平行になっている。
   楽になるまでお杖にかるこ坂     (一一三・34)
   忠義に重き士の住む軽子坂      (一〇三・17)
 これらの句は、この坂の左側に、大久保彦左衛門の邸があったのでそれを言ったものであろう。

船 河 原

船河原というのは、いま揚場町と言っている所で、国電飯田橋駅の濠を隔てた向う側である。
 昔はこの辺も河原のようになっていて、船が着いたものであろう。
   舟河原今家並さん瓦         (六六・37)
 昔は船河原と言ったが、今は人家が建てこめて、しかも瓦としては上等の桟瓦が使われているというので、荷揚げ等で繁昌し、住民の懐も楽になって行ったことを物語るのであろう。

 ごう。城を取り囲む、水のある堀。ほり。飯田橋~四谷の牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠は神田川に通じている。
江戸川 三鷹市の井の頭池を水源として、東京都の中央部を東西に流れて両国橋上手で隅田川に合流する川。上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川と呼んでいたが、1965年、河川法改正で全体を神田川と総称することになった。
合流 江戸川(神田川)と外堀が合流する。
揚場町、軽子坂 右の地図を参照。
軽籠 「軽籠」で「かるこ」と読みます。縄で編んだ目の粗い網の四隅に、棒を通す縄をつけた、土石運搬用の道具。もっこ。
あしか 不明。
お杖 つえであれば、杖を敬っていう語。「楽になるまでは、杖を頼って軽子坂を上ろう」でしょうか?
大久保彦左衛門  戦国時代から江戸時代前期の武将。幕臣。家康・秀忠・家光の三代に仕える。天下のご意見番。その子孫が神楽坂に住んでいたのでしょうか? 右図を参照。
家並み 家が続いて並んでいること。
船河原 揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原の意。
河原 川の流れに沿う平地で、ふだんは水の流れていない、石や砂の多い所
さん瓦 桟瓦。さんがわら。断面が波形で,一隅または二隅に切り込みのある瓦。

とんど橋

江戸川が、濠に入る所にかかる橋で、今は大久保通りを飯田橋から水道橋へ向う都電の渡る橋である。
 仙台侯が、お茶の水の堀割りをした時、かけたものといい、仙台橋という名もあったという。橋の下に水堰の捨石があって、水音が高いので、とんど橋という。また船河原橋ともいう。
   神楽坂付て廻ッてとんど橋       (一三五・31)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋     (重 出)
 さてこの第一句は、少し意味が分りにくいが、橋が神楽坂の直下にある訳ではないということと、神楽とその太鼓の音とを結んだものであろう。
 第二句は、神楽坂の坂上に岩戸町というのがあるところから、つらねて天鈿女命の天の岩戸の神楽とし、さきの句と同じく、太鼓の音との結びであろう。

牛込の猪牙

柳橋からの猪牙舟は、大川へ出て、上流へ山谷堀へ行くか、下って深川へ行くのが普通であるが、稀には、神田川をさかのぼって行ったものもあるらしく、次のような句がある。
   牛込へこいでくちよきのやぼらしさ   (天七・一〇・一五)
   牛込に悪所くるひを知らぬ猪牙    (一六七・25)
   牛込の舟蒲焼を不断かぎ        (五二・9)
 この最後の句は、猪牙に限らない、運び船でもあり得るが、水道橋のところに、うなぎやがあったという。そこを通る度に鰻香がただようのであろう。
   水戸ばし御びくにうなぎ丸でかい    (天三鶴1)
という句もある。

とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
仙台侯 「仙台藩主」のこと。しかし封地名に「侯」をつけるほうが多かった。例えば「仙台侯」など。
堀割り 地面を掘ってつくった水路。濠
つらねて 列になるように位置させる。一列に並べ、または、つなぐ。
天鈿女命 あまのうずめのみこと。記紀神話の女神。天照大神あまてらすおおみかみが天の岩屋に隠れた時、その前で踊った。
猪牙 「猪牙ちょきぶね」から。江戸時代、屋根のない舳先へさきのとがった細長い形の小舟。
大川 東京都を流れる隅田川の下流部における通称。
山谷堀 さんやぼり。隅田川の今戸から山谷に至る掘割。吉原の遊郭への水路として利用。現在は埋め立てされ「山谷堀公園」になった(左図を参照)。
深川 東京都江東区の町名。
ちよき 「猪牙」のこと
くるひ 「狂い」では物事の状態・調子が正常でないこと。悪所狂い(あくしょぐるい)とは、遊里に入りびたって酒色にふけること
不断 とだえないで続く。決断力に乏しい。「普段」と当てて、日常、平生へいぜい、いつも。
かぎ 「嗅ぎ」でしょう。鼻でにおいを感じとること。「牛込の舟は蒲焼の匂いをいつも嗅いでいる」
水戸ばし 東京都葛飾区小菅一丁目、綾瀬川に架かる橋(右上図を参照)
御びく 魚籠びく。とった魚を入れておく器。
丸でかい 完全で、欠けたところのないこと。まるごと。江戸の吉原遊郭で、遊女の揚代が倍額になる日

川柳江戸名所図会①|至文堂

文学と神楽坂

 実は川柳を調べる場合、どうやって調べればいいのか、わかりませんでした。例えば新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(平成9年、1997年)に、みずのまさを氏が書いた「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」があります。たくさんの川柳が出ていますが、いったいどこで調べたのでしょう。
 ようやくわかりました。まず「切絵図と川柳…」の出典は至文堂編集部の「川柳江戸名所図会」(昭和47年)でした。また川柳の原典は当然ながら江戸時代の「誹風はいふうやなぎ多留だる」167篇11万句です。では、最初に「川柳江戸名所図会」から「神楽坂」を取り上げます。
 しかし、みずのまさを氏の「切絵図と川柳…」について、この文献は「川柳江戸名所図会」を使ったものだとはっきりと書いてはいません。まったく。

神 楽 坂

牛込御門から濠を渡り、真直ぐに上りになる坂である。神楽坂という名については、いろいろと説があるようであるが、ここでは省略する。坂の上に岩戸町という名の町がある。
   神楽坂上に岩戸面白し         (四六・12
   神楽坂あるで近所に岩戸丁        (三四・28)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋      (六六・36)
   御百度で岩戸もねれる神楽坂       (六六・31)
 善国寺のお百度、岩戸は女陰をさす。
   岩戸町せなァ戸隠様だんべへ       (六六・31)
 信州から来た下男。
   諸国迄音にきこへた神楽坂        (六六・32)
   御やしろのあたりにかなう神楽坂     (安七智2)
   神楽坂ひどくころんで        (一四七・8)
 お神楽の面にたとえる。
   あふげ神垣近き神楽坂         (六六・34)

岩戸町 神楽坂上から西南にある町(右図)。あまの岩戸いわととは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟で、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台である。
四六・12 これは46篇12丁の意味です。江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この「川柳江戸名所図会」も「誹風柳多留」から取った句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇11万句をまとめました。
とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
御百度 願い事がかなうように社寺に100回お参りをする。お百度を上げる。
ねれる 寝ることができる。
だんべへ 「だろう」の意の近世東国語。だんべい。だんべえ。
やしろ  社。神をまつってある建物。神社。屋代やしろ。神が来臨する仮設の小屋や祭壇など
かなう 願望が実現する。叶う。適う。敵う
替り面 かわりめん。顔つきが以前と変わること
あふげ 「あふぐ」で、仰ぎ見る。尊敬する。
神垣 かみがき。神域を他と区別するための垣。神社の周囲の垣。玉垣たまがき瑞垣みずがき斎垣いがき

「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」では神楽坂という由来についていろいろ書き、それから川柳になります。「川柳江戸名所図会」で出た川柳がすべて出てきます。

 ○あふげ此神垣近き神楽坂
 ○御やしろのあたりにかなふ神楽坂
 この2句は前記の御やしろに囲まれた神楽坂をうたったものです。
 ○神楽坂ひどくころんで替わり面
 転ぶほど急坂であったこと、お神楽のヒョットコ面が想像されます。
 ○諸国迄音にきこへた神楽坂
 無論、音は神楽にかけたのでしょうが、それにしても、音から神楽坂は有名だったのですねえ!

 また岩戸町については、項を改め、

 善国寺も岩戸町内にあり、現神楽坂通りの眞中に岩戸町1丁目があります。現岩戸町(大久保通り東側)は明和4年(1767)から火除明地になって雑司ヶ谷の百姓の菜園拝借地となっています。(切絵図(3)参照)
 ○神楽坂上に岩戸は面白し
 ○神楽坂あるで近所に岩戸丁
 ○御百度で岩戸もねれる神楽坂
 最後の句は善国寺のお百度詣り、岩戸は女陰をさします。

東京を歌へる③|小林鶯里

文学と神楽坂

 今度は「東京を歌へる」(牛込編)③俳句です。

   牛   込
    牛込見附にて
 葉柳の風一陣や砂の渦         耕   石

   神  樂  坂
 神樂坂淸水流るるかな        紅   葉
 早稻田涙の忘年會や神樂坂       子   規
 露凉し植木屋並ぶ坂の下        耕   石
 夕凉し爪先上り神樂坂         鶯   里

   築土八幡津久戸明神
 茂り濃し地主地借りの二柱       耕   石
 この内に鳴け時鳥矢来町        紅   葉

   穴  八  幡
 寒き日を穴八幡に上りけり       子   規
 薄暗き穴八幡の寒さかな        子   規
 花淋しひる只中の鳩の聲         永   機

   若  松  町
 若松町老松町や松の花         風 蕩 之

   早  稻  田
 鳴子鳴らぬ早稻田となりぬ今年米    三   允

[現代語訳]
夏の柳の風が激しく吹いて、砂の渦になった
神楽坂では清水が流れている。全く詩の世界だ。
早稲田は涙の忘年会で、あったのは神楽坂。
つゆは凉しく、神楽坂下で植木屋は沢山並ぶ。
夕方は凉しい。少しずつ登りになった神楽坂。
  築土八幡と津久戸明神
草木は鬱蒼として、地主の土地を借りるために神は二柱。
矢来町の内で鳴け、ホトトギス。
寒い日を穴八幡に上がっていった。
薄暗い穴八幡はなんと寒いことか。
花は淋しい。昼の真ん中に鳩の声
若松町と老松町に松の花。
鳴子が鳴らない早稲田になった。その新米がここに。

耕石 不明。中西耕石だとすると幕末・明治の南画家。
葉柳 はやなぎ。緑の色を増した夏の柳のこと。
一陣 風や雨がひとしきり激しく吹いたり降ったりする
 ふ。詩や歌。詩歌を作る。みつぎもの。租税。年貢。わりあて。与える。さずける。天からさずかる。うまれつき。漢文の文体の一つ。
爪先上り つまさきあがり。少しずつ登りになっていること。
鶯里 梅阪鶯里だとすると大正・昭和時代の写真家。
築土八幡 筑土八幡神社。新宿区筑土八幡町にある神社
津久戸明神 元和2年(1616年)、筑土八幡神社の隣接地(新宿区筑土八幡町)へ移転、「築土明神」と呼ばれ、1945年、東京大空襲で全焼。1954年、九段中坂の途中にある世継稲荷境内地へ移転。
茂り 草木がたくさん育って、葉や枝が集まっている
濃し 密度が高い
地借り 家屋を建築するため土地を借りること。
 助数詞。神仏、高貴な人、遺骨などを数えるのに用いる。「二柱の神」
穴八幡 穴八幡宮。新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社
只中 ただなか。まんなか。真っ最中。
永機 えいき。永機。幕末・明治前半の俳人
若松町 新宿区のほぼ中央部の町名。
老松町 かつて小石川区(現、文京区)高田老松おいまつ町があった。現在は目白台一~三丁目に編入。
風蕩之 不明
鳴子 穀物を野鳥の食害から守るため、鳥を追い払う目的で使われてきた道具。
今年米 ことしごめ。今年の秋とれたばかりの米。新米。ことしまい
三允 さんいん。中野三允。明治・昭和期の俳人

神楽坂純愛|深井美野子

文学と神楽坂

 深井美野子氏の『神楽坂純愛――田中角栄と辻和子』(さくら舎、2018年)です。この本は田中角栄氏と辻和子氏の恋を書いたものですが、ここに取り上げた文章は主に戦前の神楽坂を書いています。
 深井氏は1938年に浅草で生まれ、ロスアンゼルスシティカレッジに留学。帰国後、公演「松岡計井子 日本語でビートルズをうたう」でビートルズ72曲の訳詞を担当しました。

 神楽坂名物といえば、熊の形をした「熊公焼き」だった。中にあんこの入っている、今のどら焼きだ。街のいたるところで売っていた。店先に宣伝用に、生きた子熊を繋いている店もあった。
 金満津の女将は、生涯独身を通した人だったが、和子さんを養女にしてからは、母親の真似ごとくらいはした。
 よく坂の上の角にある「紅や」へ連れていってくれた。ケーキ類か並べてある喫茶側と、ちょっとした軽食を食べさせる店舗が並んでいた。
 真ん中の扉が、クルクルまわる回転扉だった。その扉を手で押して入るのが嬉しくて、何度もクルクルまわして入り直したものだった。店の売りものは、当時としては西洋風でしゃれていた、現在の「ハムトースト」だった。焼いたパンを三角形に切って、真ん中にハムを入れただけだったが、とても美味しかったという。
 神楽坂には他にも美味しい店がたくさんあった。
田原屋」はもうない。2002年に閉店してしまった。戦前から、水菓子屋と洋食店が中庭を挟んで縱に分かれていた。
 水菓子といえば果物のことで、要するに店先に、林檎りんごとか、バナナ、ぶどうが並んで売られていた果物屋だった。けれどふつうの八百屋で見る果物より高級そうに見えた。実際、高級品だった。
「田原屋」は、いいばし駅側から神楽坂を上り、沙門しゃもんてん数軒先にあった。
 金満津の芸者衆の中に、藤山ふじやま愛一郎あいいちろうのお妾さんがいたが、
「田原屋のビフテキさえ与えておけば大丈夫」
 といった話を母から聞いたことがある。当時先生は、70をとうにすぎていたと思う。各花柳界に、七人のお妾さんがいたという噂だった。そこで海外へ出掛けると、いつもおなじハンドバッグを七個買い求めたという。
 その他「田原屋」には、永井ながい荷風かふう菊池きくちかん佐藤さとう春夫はるお。古くは、島村しまむら抱月ほうげつ松井まつい須磨子すまこといった有名人もよく訪れたという。
 戦後は、サトウー・ハチローが通った店として有名だった。私も会ったことがある。
 本多横丁の「若松」へも、よく連れていってくれた。化粧前の芸者衆が立ち寄る、甘味処だった。おでんに茶飯、鍋焼きうどんにお雑煮。女性が好む食べものばかりだった。
 変わったところでは、焼き芋に注射をして甘くして売っていた「春駒」。本職はお汁粉屋さんだった。
 それから「グリル三国軒」も美味しい洋食屋さんだった。

子熊を繋いている店 深井氏によれば、「街のいたるところ」に、実際に「生きた子熊」までも登場し、「熊の形」をした、どら焼きだったといいます。少なくとも「熊の形」ではありません。また、「街のいたるところ」ではなさそうです。子熊が本当に登場したのか、これも不明です。戦前の深井氏は小学校の低学年であり、子供が見た神楽坂は相当違っていてもしょうがないと思います。
金満津 深井氏の「金満津」と、辻和子の「新・金満津」は同じ場所であり、軽子坂に寄った神楽坂2丁目でした(左図)。もう1つ、新宿区教育委員会「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では、金満津は大正11年頃に神楽坂仲通りから1歩奥に隠れた「かくれんぼ横町」にありました(左図)。神楽坂通りの図も参照に。
   
紅や 紅谷のこと。
回転扉 右の写真は回転扉はありません。大正10年、3階建てに改築したので、その時に回転扉もつけたのでしょうか。
水菓子 果物のこと。しかし、現代の「水菓子」とは水ようかんやくずもちなどの総称で、甘くて水分の多い菓子に使うことが多いと思います。
数軒先 実際には隣でした。毘沙門天の門から離れているので、錯覚するのでしょう。
藤山愛一郎 財界出身の政治家。大日本製糖社長。1951年日本航空会長。1957年、岸首相の要請で外相に就任し、日米安全保障条約改定の当事者に。70年から日中友好を促進、超党派の「日中国交回復議員連盟」「日本国際貿易促進協会」の会長に。生年は明治30年5月22日。没年は昭和60年2月22日。享年は満87歳。
若松 春駒 雑誌『ここは牛込、神楽坂』第5号「本多横丁」に3軒がでていますが、「春駒」ではなく「春菊」では?

グリル三国軒 中屋金一郎編著「東京のたべものうまいもの」(北辰堂、1958)では

「三国軒」という出前専門といった式の西洋料理屋。白いエプロンのようなひだのあるのれんをかけた店で、中へはいると、コック場と仕切って白木のカウンターがあり、椅子がならんでいる。おくについたてをおき、四五人すわれる畳敷の間がある。出前が主になっているものの、そこでもカンタンに食べたり、一ぱいのんだりできるようになっている。少し古風な印象がおもしろい。給仕はそこのコックさんだったり、主人だったり、配達の少年だったりして女っ気がない。カレーライス、ハヤシライスが百円で、たっぷりあって味がいい。トンカツ、えびふらい、えびのマヨネーズ、ビフステーキ、二百円以上だが、実質的にやすい。出まえといってもだいたい料亭(待合)が客の注文をきいてあつらえてくるのが大部分であるときいた。飾りけはないが掃除が行きとどいて清潔なかんじ。

湯島の境内|泉鏡花

湯島の境内(婦系図―戯曲―一齣)

 泉鏡花氏の「婦系図」から湯島天神での一駒です。小説「婦系図」ではなく、戯曲「婦系図」の山場のひとつです。原本は岩波書店「鏡花全集 第26」(第一版は昭和17年)から。

早瀬 おれこれきりわかれるんだ。
お蔦 えゝ。
早瀬 思切おもひきつてわかれてくれ。
お蔦 早瀬はやせさん。
早瀬 …………
お蔦 串戯じょうだんぢや、――貴方あなたささうねえ。
早瀬 洒落しゃれ串戯じょうだんで、こ、こんなことが。おれゆめれとおもつてる。
 〽あとには二人ふたりさしあひも、なみだぬぐうて三千歳みちとせが、うらめしさうにかほて、
お蔦 真個ほんたうなのねえ。
早瀬 おれがあやまる、あたまげるよ。
お蔦 れるのわかれるのッて、そんなことは、芸者げいしやときふものよ。……わたしにやねとつてください。つたにはれろ、とおつしやいましな。
  ツンとしてそがひる。
早瀬 おつた、おつたおれけつして薄情はくじやうぢやない。
お蔦 えゝ、薄情はくじやうとはおもひません。
早瀬 ちかつておまへきはしない。
お蔦 えゝ、かれてたまるもんですか。

三千歳 みちとせ。歌舞伎舞踊で、片岡直次郎と遊女三千歳の雪夜の忍び逢いをうたう。
そがい 背向。後。後ろの方角。後方。

夏目漱石「それから」|神楽坂

「それから」は明治42年に夏目漱石氏が書いた小説です。
 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂、あるいは、藁店わらだなの上で、おそらく袋町に住んでいます。
 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。
 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。
 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。

一の一
 誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄

 これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。
 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。

八の一
 神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いてようやく安心した。
 家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略)
 その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

神楽坂 新宿区東部の地名。
日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。

ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では

 三月十四日 日[曜]
 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。
八の二
 仕舞にアンニュイを感じ出した。何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂から外濠そとぼりへ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近

十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。

十一の一
 新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。

十三の二
 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

電車 これも路面電車でしょう

十四の六
 津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういん焼跡の前へ出た。(中略)
 神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。
 ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨をいて又坂を上った。花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(右図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始
安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊」でしょうか?

十六の四
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。

門野 代助の書生です。

十六の七
平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門びしゃもんまえへ出た。(中略)
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。

「一七の三」で最後の文章です。

十七の三
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略)
 たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。(了)

飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと

待合「誰が袖」|夏目漱石

文学と神楽坂

 夏目漱石氏が描いた「誰が袖」は何だったのでしょうか? まず漱石氏が書いた「硝子戸の中」の「誰が袖」とその注釈を見てみます。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは。

「定本漱石全集 第12巻。小品」の注釈。誰が袖。匂袋においぶくろの名。「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(『古今和歌集』) にちなむ。

 本当にそうなのでしょうか? たかが匂袋を看板につけるのはおかしいと思いませんか。実際には「誰が袖」という名の待合がありました。

 横浜市図書館に富里長松氏の「芸妓細見記」(明治43年、富里昇進堂)があり、待合の部(119頁)として待合の「誰が袖」が出ています。
 また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「タガソデ」の絵が出ています。

 さらに同号の「夏目漱石と『寺内』」では、「誰が袖…待合。後に「三勝さんかつ」という名に。」と書いてあります。三勝は新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)でここです。

 また大正3年、夏目漱石作の俳句でも

誰袖や待合らしき春の雨
季=春の雨。*誰袖は匂袋。江戸時代に流行し、花街では暖簾につける習慣があった。この句、匂袋をつけた暖簾、そして折からの春雨を、いかにも待合茶屋の風情だと興じたものか。

 俳句は注釈通りではなく、「『誰が袖』は待合らしい。春の雨だ」と簡単に書いた方がいいのではないでしょうか。

 しかし、『定本漱石全集』の注釈が、全くがっかりで、落胆しました。

寺内 神楽坂四丁目の一部。江戸時代には行元寺があり「寺内」とよばれた。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行元寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です
誰が袖 たがそで。「誰が袖」は待合のこと。
東家 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・ふさの夫です。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

春の嵐|野田宇太郎氏『灰の季節』|東京大空襲

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『灰の季節』(修道社、昭和33年)は、第二次世界大戦中から大戦以降を綴った日記です。たとえば、1945年4月12日、昼食前にフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で死去し、これを受けて、野田氏は4月13日の日記で簡単に書き留めています。その翌日、神楽坂にとっては東京大空襲を受けた日でした。

四月十四日
単機あて帝都、関東東部、東北部等に侵入、主として帝都は爆弾焼夷弾取り混ぜの攻撃をうけた。熱を押して仕方なく起きる。都心の焼けのこりの部分を中心に空が東北へかけてまつかになつてゐる。そして中央線ぞひに爆発音が近まり、むくむくと黒煙が立ちのぼる。爆弾の無気味な落下音も幾度となくきこえ、敵機が撃墜されるのも数機みる。あとで機数約百七十、四十機位撃墜の発表あり。……眠る。
 中央線は荻窪までであとは不通のため帝都線で渋谷に出、地下鉄で神田に出る。下車しようとすると、どつと乗り込む避難者の群に押し返される。皆真青な顔をして相手が見えないやうなうろたへ方である。やつとの思ひで外に出て神田の河出書房仮事務所まで歩く。
 神田から飯田橋まで見透しに焼け落ちてゐる。飯田橋で不発弾の爆発にあふ。筑土八幡のあたりから新小川町 大曲もずらりと無残に焼けてゐる。神楽坂も家が大半なくなり、飯田橋交叉点から電車通を牛込肴町へ行く途には電線がばらばらに切れ落ち、まだごんごんと音を立てて燃えのこりの家が焔をあげてゐて、焦熱地獄のやうにあつい。そこら中形容し難い悪臭がむんと鼻をつく。人間の焼ける臭ひも混つてゐるやうだ。息をとめて一気に通りぬけようとするが駄目で、途中で立停り、叉熱気のなかを走つた。平時は賑やかな肴町交叉点通寺町側にトタン板が落ちてゐて、何気なく歩きながら蹴ると、下に屍体がかくしてあつた。防護団員の姿もみえず、地獄のなかでも歩いてゐる白昼夢のやうな気持。
 其儘足を早めて大日本印刷に行つた。近づくと今度は大日本印刷が一面の火焔に包まれて、盛んにまだ燃えつゞけてゐる。しまつた! と思ひ、第四中学の焼跡前から夢中で坂を下りて正面に出ると、焔の背後に印刷会社の建物はどうやら無事なやうである。燃えてゐるのは前庭に置かれた軍用の洋紙の山だけである。玄関にゆくと、防護団服を着た人が一人佇んでゐる。思はず「大丈夫ですか」と叫ぶやうに云うと、「ありがたうござゐました。工場の方は大丈夫です……」とその人は私に礼を云つた。あとで重役だつたと判る。消火する人手がなくて焼けるにまかせてゐるのだといふ。
 事務所に入ると、さすがに人はすくないが工場の方は動き続けてゐるやうなので、やつと安心した。これでまだ文藝は出せると思ひ、すぐに火野氏の「」を四月号の組版に廻してもらふ。
 まだ熱があつて、ふらふらとする。避難者の列に加り、やうやく渋谷に出て帝都線で夕暮に家にかへり着いた。
 この日は板橋、豊島、足立方面の被害がとくにひどく、明治神宮本殿も遂に焼失した。また宮城、大宮御所、赤坂離宮の一部にも火災が起つた。

単機 編隊を組まないで、単独で飛行する軍用機。単独飛行。
あて 配分する数量・割合を表す。あたり。送り先・差し出し先を示す。
焼夷弾 敵の建造物や陣地を焼く爆弾
帝都線 京王井の頭線のこと。渋谷と吉祥寺を結んだ。
河出書房 文芸書や思想書を中心に販売する出版社。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、千代田区神田小川町に移転する。
見透し さえぎるものがなく遠くまで見えること。その場所
飯田橋、筑土八幡、新小川町、大曲、牛込肴町、肴町交叉点、通寺町、大日本印刷 下図を参照。牛込肴町と肴町交叉点は現在「神楽坂上」交差点、通寺町は現在神楽坂六丁目
防護団 軍部の強い指導のもとで満州事変勃発ごろから地域住民の防空業務(灯火管制、警報、防火、防毒、交通整理、救護等)を行わせる防護団と称する組織が全国各地に設立された。
第四中学 現在は牛込第3中学校です。
文藝 1944年11月創刊。発行所を改造社から河出書房に移して継承した雑誌。第2次世界大戦下のほぼ唯一の文芸雑誌。戦後は戦後派の作家を起用。86年からは季刊誌。
火野 火野葦平。ひのあしへい。日中戦争で従軍前に「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞受賞。生年は明治39年12月3日、没年は昭和35年1月24日で自殺。享年は満53歳
 「海南島記」(改造社 1939年)。国立国会図書館デジタルコレクションとして入手可。

昭和22年の神楽坂

かぐらむら|サザンカンパニー

文学と神楽坂

 「かぐらむら」は、神楽坂界隈で配布している情報誌です。サザンカンパニーが発行中。「かぐらむら」の創刊は2002年4月1日ですが、2018年に100号になり、休刊する予定です。

 サザンカンパニーは続くと思います。同社は雑誌・新聞広告、カタログ・パンフレット・ポスターなど、あらゆるものの企画、編集、制作をしています。

 2018年2月、「かぐらむら」に「てくてく牛込神楽坂」が載ったので、連れ合いが「かぐらむら」を取りに行ってきました。場所は神楽坂上の花屋「花豊はなとよ」が入った三上ビルの8階です。以下はその報告です。

 郵便受けには「かぐらむら」はないけれど、かわりに「サザンカンパニー」を発見。1階の店の脇の通路を奥に進み、右側にあるエレベーターに乗って、8階で降りると、狭めのエレベーターホール。左側にドアが一つだけ。チャイムが壊れていてノックして下さいと書かれています。ノックすると代表の長岡弘志氏が出てきました。ドアの隙間から中を垣間見ると事務所で机がいくつか並び、一番奥に窓が見えていました。配布のため既に大量の雑誌「かぐらむら」が見えました。事務所は思ったより小さいのかな。

『東京生活』2005/4から