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終の棲家の神楽坂|冨士眞奈美

文学と神楽坂

昔の冨士眞奈美氏

 冨士眞奈美氏は女優、俳人、随筆家。1956年、『この瞳』で主役デビュー。1957年、NHKの専属第一号になり、1970年、日本テレビ系列の『細うで繁盛記』の憎まれ役は大ヒット。生年は昭和13年(1938年)1月15日。
 本稿は『てのひらに落花らっか』(本阿弥書店、平成20年)の「終の棲家の神楽坂」から。実はこれより前の2005年秋、「神楽坂まちの手帖」第9号で書かれたものでした。連載が始まった初回に出ています。

ついの棲家の神楽坂
 神楽坂近くの街に棲んですでに十七年になる。十八歳で静岡の伊豆半島を後にし上京してから、数えれば十回目の引越しで、どうやら終の棲家となりそうである。
 それまでは、新宿区信濃町に十六年棲み、なんだか同じ所に長い間いるなあ、と思い始めた頃、マンションの大家さんが土地を売ることになって立ち退かざるを得ず、大至急探してバタバタやって来たのが現在の住居だったのである。ちょうどバブルの頃で、マンションも高く売れたが、引越しのため建てた家もびっくりするほど高かった。
 信濃町の部屋は、いながらにして神宮外苑の対巨人戦の歓声などが風に乗って流れてきて、野球好きの私としてはけっこう気に入っていた。権田原を通り、東宮御所沿いに散歩する日常はなかなか優雅で、小さな子供の手を引いていつまでもどこまでも歩いていきたい気分であった。近所付き合いもない静かな環境で、来客の多い暮らしだった。
 現在は全く趣きが違った生活である。
 近くにスーパーコンビニェンス・ストアがあり、和洋中華、レストランや食べ物屋さんもたくさん並んでいる。十分も歩けば、神楽坂の賑やかな通りを散策したり、気ままな買い物を楽しんだりもできる。
 五月になり六月になり、夏も盛りの頃になると、外濠通りから入った神楽坂の通りの街路樹が、どんどん色を増し枝を伸ばして空を覆うように緑を繁茂させている風景が好きだ。
 神楽坂が、坂の街だということを樹々が美しく特徴づけてくれる。夜の街灯が点った様子も好きである。そこに人々の暮らしがしっかり根付き、江戸の昔から誇り高く街の格調を守ってきた、という印象を持つ。
 越してきたばかりの頃、街の人々は新参者の私を用心深く眺めているような感じを持った。長い生活になるのだから、早く馴染まなければと、少しばかり焦った。買い物は一切、近くの店で、と決め、お金の出し入れも歩いて数分ほどの金融機関を利用することにした。一週間に三、四回は近所で外食をし、帰りに飲み屋さんでイッパイ、という日々を送った。おかげで昼日中、通りを歩いていても顔が合えば笑顔を見せてくれるようになり、声をかけてくれるようにもなった。
 馴染めばあったかい人情の町だと思った。こんなことは東京に来て初めてのことである。近所付き合いが楽しくなるなどとは、思いもしなかった暮らしの中に入っていったのだ。
 お隣さんは、窓越しにおかずをお裾わけしてくれるし、家を留守にするときなど頼めば夜中に見回ってくれたりもする。ネズミやゴキブリが突如発生して恐怖に駆られた時も、電話一本で午前二時頃ホウキ片手に駆けつけてくれた。本当に有難い。表通りの花屋の奥さんは、上手に漬かったから食べてみて、と胡瓜のぬか漬をわけてくれたし、和菓子屋さんの御夫婦もオカラや切干し大根の煮物を届けてくれたりする。私も到来物の筍や干魚などを配り歩くことがあり、そんなときの気分は何だか嬉しくてとても高揚している。プロ野球談義をする仲間(おやじさん)もいるし、通りを歩けば、人生寂しいことなんかちっともないぞ、という気分になれる。
 友達の吉行和子に「私の辞書にはね、孤独という字はないの」と或る時言ってしまった。本当にそう思うのである。和子嬢は呆れたような不思議な顔をして「へえ⁉」といったきりであった。
 以前、立壁正子さんという女性と知り合い「ここは牛込、神楽坂」というタウン誌の「俳句横丁」という欄を任せてもらったことがある。投句数も多く、そうか神楽坂には俳人もたくさんいるのだ、ととても嬉しかった。残念なことに立壁さんが亡くなりそのタウン誌も廃刊になった。
 このたび「私は神楽坂の、ペコちゃんの不二家の主人です」と早々に正体を明かされた平松さんから、主宰する雑誌に俳句棚を設けたいのですが、と相談があった。あ、この街にどんどん馴染んでる、と私は嬉しく「もちろん仲間に入れてください」と返事をした。この街にいれば、一人遊びも出来るし、集まって座を持つことも出来るのだと思った。それこそ、俳句の本質なのである。

現在の住居 新宿区納戸町で、中町と同じ通りにあります。
近くに おそらく牛込中央通りです。
スーパー 細工町15にスーパーの村田ストアがありました。現在はスーパーの「神楽坂KIMURAYA北町店」です。
コンビニェンス・ストア 牛込北町交差点の近く、箪笥町28にセブンイレブンがあり、これは現在も同じ店舗です。
金融機関 細工町18に帝都信用金庫がありました。現在は薬屋「クリエイトエス・ディー新宿牛込北町店」に。下の「牛込中央通り商店会」の地図ではとりあえず「西川ビル」などと同じ場所です。
表通りの花屋 納戸町12に「フローリスト番場」がありました。現在は閉店。
和菓子屋 納戸町15の船橋屋か、納戸町4の岡埜栄泉でしょう。
吉行和子 女優。兄は吉行淳之介。劇団民芸。昭和32年「アンネの日記」で主演。昭和44年、唐十郎「少女仮面」出演でフリーに。生年は昭和10年8月9日。
主宰する雑誌 2003年4月から2007年12月まで出版された『神楽坂まちの手帖』です。

牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年から。ダブルクリックで拡大。

矢来町|江戸、明治、現在

文学と神楽坂

 矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。

 矢来(やらい)という言葉は、竹や丸太を組み、人が通れない程度に粗く作った柵のことです。江戸城本丸が火災になり、家光がこの下屋敷に逃げ出すと、御家人衆が抜き身の槍を持って昼夜警護しました。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにします。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。

 江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。なお、酒井家屋敷北の早稲田通りから天神町に下る一帯を、俗に矢来下(やらいした)といっています。

矢来屋敷

 明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。その時代が下の絵で、明治18年ごろの同じ場所です。池はあるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。

矢来町 明治

 明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。

矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。11番地は矢来倶楽部の庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。

 最後に現代です。

矢来町 現在

矢来屋敷 矢来公園 矢来町と漱石 一水寮 相生坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭

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酒井家矢来屋敷|矢来町

文学と神楽坂

 寛永5年(1628)、小浜藩酒井家は牛込矢来屋敷を拝領しました。安政4年(1857)から幕末までの矢来屋敷は下図の通りでした。北側が上です。この時代、小浜藩の上屋敷(右下の御上屋敷)と(しも)屋敷(それ以外)が接近して建っています。

黄色で書いた場所は御殿表向(おもてむき)(政務や公式行事を行う場所)、赤は奥向(おくむき)(藩主の私的な場所)です。他の茶色で書いた場所は家臣や武士の長屋が多く、ほかにもいろいろなことを行いました(たとえば学問所)。
矢来屋敷

この図は新宿歴史博物館の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』(2010年)を参考にして作ったものです。博物館のものは無断転載ができませんので、この文書を参考にして新たに自分で作りました。間違いと思われる場所はなおしています。ダブルクリックするとpdfでも簡単に手に入ります。どうぞ使って下さい。

また竹矢来も×で書きました。ただし正確に書くのは『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』31頁の「竹矢来絵」よりも、35頁「往古之図」や37頁「下屋敷図」の竹矢来を拡大するほうがいいと思います。

「新撰東京名所図会」では酒井家矢来屋敷について「藩邸の坂 三条あり、辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂」があるといっています。この辻井つじいの坂、鍋割なべわり坂、赤見あかみの坂がどこにあるのか、その所在はわからなくなっています。

中央やや右寄りで上下の道路は「牛込中央通り」とほとんど一緒です。

芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)では

酒井邸の庭園は、築山山水式の優れたものであったが、戦後なくなった。旧庭園の様子は「名園五十種」にでている。

この「名園五十種」は自宅のインターネットを使って国立図書館から無料で見ることができます。「酒井伯爵邸の庭」で123頁、コマ数で68になります。発行は1910年(明治43年)、編集は近藤正一氏です。ごく一部を紹介すると

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。
 弥生の朝の風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。唯見る門内は一面の花で、わづかにその破風はふ作りの母屋の屋妻やづまが雲と靉靆たなびく桜の梢に見ゆる所は土佐の絵巻物にでも有りさうな樣で如何にも美い………(中略)
 如何にも心地の好い庭である。陽気な…晴れ晴れとした庭である。庭というものは樹木じゅもく鬱蒼うつさうとして深山しんざん幽谷いうこくの様を移すものとのみ考えている人には是非この庭を見せてやりたく思うた。

では『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』に戻ります。

酒井讃岐守忠勝が、三代将軍家光から牛込村に下屋敷を貰ったのは、寛永五年(一六二八)三月であった。周囲に土手を築き、表門の石垣から東の方四二間(約八十三メートル)、西の方二六三間(約五一〇メートル)を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになった。これは寛永十六年(一六三九)江戸城本丸の火災で、家光がこの下屋敷に難を避けた時に、まわりに竹矢来をつくり、御家人衆は抜身のやりをもって昼夜警護したことによるのである。
 それ以後酒井讃岐守忠勝は、これを永久に記念するために垣を造らず、塀を設けないで竹矢来にしたのである。その結び放した繩も、紫の紐、朱のふさ、やりとを交差した最初の名残りであるといわれ、江戸の名物の一つとなっていた。なお家光が、初めて酒井邸に立ち寄られたのは寛永十二年八月二十二日で、以来数回訪問されたことがある。
 矢来町七十一番地あたり一帯は、明治末期まで、ひょうたん形の深くよどんだ池であった。これを「日下が池」とか「日足が池」とも書いて「ひたるがいけ」と読ませていた。長さが約百八メートル、幅約三六メートル、面積八百坪(二六・四アール)であった。池の周りには、沢桔梗、芦葦などが繁茂していた。これに長さ約十二・六メートルの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられたのである。

いまではひたるが池は干上がり、池があったと分かりません。残るのは階段だけですが、確かに深くよどんだ池だったのでしょう。
ひたるが池
 明治になると、この巨大な酒井家の屋敷の敷地は縮小、南側だけになっていきます。最後の庭も戦後には日本興業銀行の社宅になり、統合のため、みずほ銀行社宅「矢来町ハイツ」になりました。コメントの指摘により、日本興業銀行の社宅になったのは昭和24年以前だと思えます。矢来町ハイツの門の場所には「造庭記念碑」が建っています。
造園碑

『名園五十種』にかかれた明治43年の酒井邸の庭園は遠州流で、武家茶道の代表です。茶室は江戸中期の書院造りで、幕末に水屋・手前席などを増築したものです。茶室は林丘亭として杉並区立柏の宮公園にあり、牛込屋敷が日本興行銀行の社宅となった時に当時の頭取がここに移築しました。名園1
駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 魚浅 漱石と『硝子戸の中』  矢来公園
神楽坂5丁目 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁
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文学と神楽坂

歌坂|牛込中央通り

牛込中央通り(昔の火之番町)の中ほどから北へ行く坂を(うた)と呼びます。場所はここ

なぜこの坂を「歌坂」になったのでしょうか? 2つの説があります。1つは、石川梯二の『東京の坂道』や横関英一の『江戸の坂 東京の坂』に書いてあるもので、古くは船河原は大きな池で、歌坂はその他の岸に臨む坂であり、歌坂は突端・出崎の意味のアイヌ語ウタに由来したというものです。
二つ目は新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』に書いてあります。江戸時代初期に酒井雅楽頭(うたのかみ)屋敷があったためです(「明暦江戸大絵図」)。
標柱は

雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂道の東側には酒井雅楽頭(後の姫路酒井家)の屋敷があった(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのであろう。

なんとなく由来は雅楽頭だというほうがよさそうに感じます。横関英一の説ははっきりなるほどと頷くのは難しい。
歌坂 歴史 江戸時代
歌坂 現在

歌坂 写真
歌坂 写真1

鰻坂 逢坂 新坂
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鰻坂|牛込中央通り

文学と神楽坂

 鰻坂は市谷砂土原三丁目と払方町の境を西から東へ向け曲折して上る細い坂道です。場所はここ

鰻坂(うなぎざか)
 坂が曲がりくねっているため、こう呼ばれた。『御府内備考』によると、幅2間(約3.6m)、長さ約20間(約36.6m)にわたり曲がり登っているため、鰻坂と呼ばれたという。

 さて、鰻坂には2つあるのです。1つは。図の左、(A)です。これは昭和56年の区が出した地図です。坂は最初は下降し、最低点は「牛込中央通り」で、一番下を通り、それからまた上に曲がるのです。
 もう一方の(B)は図の右のほうで、下から上に上るだけのものです。つまり最低が牛込中央通りです。

鰻坂a
 区の標柱も微妙です。つまり、東上の標柱は最高点でいいのですが、西下の標柱は牛込中央通りを超えて、上がる一歩手前に標柱はでています。なんとも微妙です。
鰻坂00
 横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』によれば、普通はこのような下がって上がる地形(A)については「坂」ではなく、「谷」を使う事が多いようだと書いています。「鰻谷」ですね。
 一方、「坂」というのは、一方は最低点で、一方は最高点で、上がるだけ(か下がるだけ)(B)です。ここは鰻坂なので、上がる(か下がる)だけでしょう。

 しかし、これ以外に複雑な方法は沢山あるのでこれだけに限ると実際は何も分かりません。

 昔の地図を見てみましょう。「牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図」では「火之番丁」は2つ(△と▽)に分かれます。ウナギザカは△にしかついていません。鰻6
 「市ヶ谷牛込絵図」でも「ヤナギサカ」(ウナギサカではないと思う)は右の半分についています。鰻5
 新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』は

この境を北に上る坂はくねくねと曲がっているため、鰻坂(うなぎざか)といった

と書いています。「北に上る坂」といえるのは(B)です。
 さらに昔の『東京地理沿革志』は

此町(払方町)と砂土原町三丁目の間に坂あり、其坂路屈曲せるがため鰻鱺(うなぎ)坂の名あり

としています。これは(A)とも(B)ともどっちでもいいですね。
 以上、牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図を信じて(B)に一票入れます。この坂は結構気に入っています。クランクが2つはいっているし。鰻坂1
鰻坂2

 明治のほかの道路はどうなっているのでしょうか。まず、「フクロ丁」は袋小路にはならず、歌坂につながります。さらに「火之番丁」は「牛込中央通り」に名前が変わり、払方町の真ん中に一本の道路が通っています。

地図1
 ついでにひとつ上の「富士見馬場」です。ここは富士山がよく見えた場所だといいます。富士山はちょうど西西南に見えるので、道のずっと先に見えたのでしょう。
 ここをさらに東に行くと最高裁判所長官公邸が見えてきます。

 海老沢泰久氏の「夜のタクシー」では

「お客さん。いま通ったところね、右へ登る細い坂があったでしょう」
「ええ」
「矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」

逢坂 歌坂
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