投稿者「yamamogura」のアーカイブ

サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

 (さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。肴町から若松町のほうへ十二、三げん行った右側だ。竹中のおやじから金を受けとると、おゝ一、新(もう言わなくともよかろう)……木々高太郎博士の温顔おんがんを胸に浮かべつゝ、早稲田へと向かう。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
ロシア菓子ヴィクトリア どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。本文で出てくる「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」でしょう。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。
 また『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では

 洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました。

松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では

山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。

この六丁目の本屋さんは「文悠」(神楽坂6丁目8、「よしや」の東)です。これがロシア菓子ヴィクトリアだったのでしょうか。下の地図では「カンコーバ(文明館)」(現在は「よしや」)と「シャシン」(現在は「とんかつ大野」)との間に「ロシア菓子ヴィクトリア」が入ることになります。

神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。本文の「ロシア菓子の前に東電がある」からすると、東京電力はおそらく神楽坂通りの南側で、向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば

 矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。

となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。

昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図2葉もありました。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」から「Family Mart」になっています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

「マクドナルド 神楽坂駅前店」。現在は「Family Mart」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

 僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。

赤城元町11番地 この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂04|神楽坂気分

文学と神楽坂

神楽坂気分
 私は()めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。
「僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた/\していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら/\夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた/″\ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしや(の講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風なな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハヽヽ」

神楽坂気分

新開地 新しく開墾した土地。新しく開けた市街地やその地域
用足し場 用事を済ませること。大小便をすること
かたがた 「…をかねて」「…のついでに」などの意味があります。「…がてら」
見物場 見世物小屋。普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。例えば口上として「山から山、谷から谷を渡り歩いた姉妹が、何故、人が忌み嫌う長虫(蛇)を食わなければならなかったのか?これから。お目にかけまする姉妹は「サンカ」の子に生まれた因果で、哀れ、今もその悲しさを伝えてくれますよ。さあ、見てやってください。見てください」。実際に生きた蛇を引き裂いて食べる人もでたようです。
バナナのたたき売 「ここは牛込、神楽坂」第3号の「語らい広場」で友田康子氏の「三〇年前、毘沙門様で」という投稿が載っています。そして口上は「『さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百…、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!』威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり」と書いています。
蝮屋 商品になるのはニホンマムシの蒸し焼きかその粉末です。毒蛇の強靭な生命力にあやかり、食べると心身の強壮に効果があるとされていました。
標札 屋標札は戸籍法との関連性が高く、明治5~11年頃、各戸に標札を備えつける布達がなされたようです。当時は筆を使って書きました。
無我的 無心。我意がないこと

「あゝそれ/\」と友達も一緒に笑った。「ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね」
「よかろう」
 そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日(えんにち)で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。
「おや/\、こんな所に縁日があるんだね」
と友達は珍しそうにいった。
「あゝ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね」と私がいった。
「第二の神楽坂が出来るわけかね」
「アッハヽヽ前途遼遠りょうえん)だね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ」
「ここへ電車が敷けるのか?」
「そんな話なんだがね、音羽おとわ護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡(れんらく)する予定になっているそうだ」
「そしたら便利になるね」
「だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ」

柳町 やなぎちょう。南北に外苑東通り、東西に大久保通りがあり、ここ市谷柳町で交差しています。
車止め くるまどめ。停止すべき位置を越えて走行してきた自動車や鉄道を強制的に停止させるための構造物
前途遼遠 ぜんとりょうえん。目的達成までの道のりや時間がまだ長く残っている。今後の道のりがまだ遠くて困難。「途」は道のり。「遼遠」ははるかに遠い。「遼」は道が延々と長く続いているという意味です。
音羽 おとわ。これは音羽町という地名。最南端は神田川、以前の江戸川に接しています。
護国寺前 ごこくじまえ。「護国寺前」は交差点の名称で、東西に向かう不忍通りと、南に向かう音羽通りの交差点です。
江戸川 神田川の中流域で、「江戸川」というのは都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
矢来の交番 矢来の交番は現在、正しくは矢来町地域安全センターといいます。ここに3つの通りが交差点「牛込天神町」に集まっています。北から来る道路は江戸川橋通り、東から来る道路は神楽坂通り、西から来る道路は早稲田通りです。

榎町 えのきちょう。町の名称。ここで、交差点「牛込天神町」から交差点「弁天町」(早稲田通りと外苑東通りとが交わる)に至るまでが早稲田通りです。
弁天町 早稲田通りから交差点「弁天町」を左に曲がって、外苑東通りに入ると、弁天町になります。さらに南に行くと、交差点「市谷柳町」です。
塩町 しおちょう。「外苑東通り」の「合羽坂」で左に曲がり、「靖国通り」を東に行き、交差点「市谷本村町」で右に曲がり、「外堀通り」にはいるとそこは塩町。現在は「本塩町(ほんしおちょう)」になります。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」です。音羽4
① 護国寺前
ここがスタート

② この辺りが音羽

③ 江戸川
昔、神田川の中流を江戸川と呼びました

矢来交番

矢来の交番

④ 矢来の交番はここ  →
⑤ この辺りが榎町。ここを通って…
⑥ 早稲田通りから交差点「弁天町」にはいり、向きを左(下)に変え、外苑東通りに行き…

⑦ 交差点「市谷柳町」を通り…

⑧「外苑東通り」の交差点「合羽坂」で左に曲がり、

⑨ 交差点「市谷本村町」で右に曲がり、
⑩「外堀通り」にはいると塩町に。現在は「本塩町」。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」になります。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂03|山の手の銀座?

文学と神楽坂

山の手の銀座?
毘沙門

それに往年の大震災には、下町方面はほとんど全部灰塵かいじんに帰して、今やその跡に新たなる東京が建設されつゝあるので、その光景も気分も情調も、全く更生(こうせいてき)の変化を示しているが、わが神楽坂通りをはじめ牛込の全区は、(さいわい)にもかの大火災を免れたので、それ以前と比べて特に目立つほどのいちじるしい変化は見られない。路面がアスファルトになったり、表構えだけの薄っぺらな洋式建物が多くなったり、カッフェーやメリンス屋が多くなったりした位のもので、昔と比べて変ったといえば随分変ったといえるが、同じようだといえばまた同じようだといえないこともない。だがかく神楽坂は、私にとっては東京の中で最も好きな街の一つだ。こないだもの方に住んでいる友達が来て私にいった。

灰塵 かいじん。灰と塵
更生 生き返ること。よみがえること。蘇生すること
表構え おもてがまえ。外側から見た、家屋・塀・門扉などの造り。「表構えのりっぱな家」
メリンス メリノ種の羊毛で織った柔らかい毛織物
 以前の芝区。昭和22年3月、赤坂区、麻布区、芝区の3区が合併し、現在の「港区」が誕生。現在は港区芝地区。

「君は(おも)にどこへ散歩に出かけるかね」
「そりゃ勿論神楽坂だ。殆ど毎晩のように出かける」と私は立ち所に有りのまゝを答えた。
「そんなに神楽坂はいゝかね」
「そう大していゝということもないけれど、一寸ちょっといゝよ。それに昔からの馴染で、出るとつい自然に無意識に足が向いてしまうんだよ。銀座あたりまで出かければ兎に角、外にちょっと手頃な散歩場がないからね」
「銀座なんかと比べてどうかね」
「そりゃ勿論とても比較にも何にもならないさ。すべてがちっぽけで安っぽくて貧弱で、田舎臭くてね。どうしても第三流的な感じだよ。しかしその第三流的な田舎臭いところが僕には好きなんだ。親しみ易くてね」
「ふゝん」友達は(かす)かな冷笑をその鼻辺に浮べながらうなずいた。「併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのがちょっと分らない。あれ位の所なら、外にも沢山、何処の区にでもあるじゃないか」
「そりゃそうだ、殊にあすこは夜だけの所で、間は実につまらないからね。だが夜になると全く感じが違ってしまう。何処だってそういえばそうだが、殊に神楽坂は昼と夜との違いがはげしい。昼間あんな平凡な殺風景な所が、夜になるとどうしてあんなにいゝ感じの所になるかと不思議な位だ」

立ち所に 時を移さず、その場ですぐに。たちまち。すぐさま
第三流的 二流よりもさらに劣った、程度が低いもの

山の手の銀座 銀座は下町なので、山の手の銀座は神楽坂だといっていました。「山の手の銀座」がいつごろからこう使ったのか、はっきりしません。たぶん関東大震災ごろからでしょうか。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた。

関東大震災後、神楽坂は3~4年繁栄しましたが、あっという間に繁栄の中心地は新宿になっていきます。『雑学神楽坂』の西村和夫氏は

市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。

と説明します。

「実際夜は随分賑かだそうだね」
「賑かだ。四季を通じてそうだが殊に今頃から真夏にかけてははなはだしい。場所が狭いからということもあるが、人の出盛り頃になると、殆ど身動きも出来ない位だからね」
「別にこれといって何一つ見る物もないし、ろくな店一つないようだがね。矢張り毘沙門びしゃもん様の御利益(ごりやく)かな、アハアハヽヽ」
「アハヽヽ、何だか知らないが、兎に角われも/\といったような感じでぞろ/\出て来るよ。牛込の人達ばかりでなく、近くの麹町こうじまち辺からも、又遠く小石川雑司ヶ谷ぞうしがやあたりからもね」
「どうしてあんな所があんな繁華な場所になったのかね、君なんか牛込通だからよく知ってるだろう」
「いや、知らない、又そんなことを知ろうという興味もない。それこそ元は毘沙門様の御利益だったのかも知れないが、兎に角昔から牛込の盛り場としてにぎやかなので、だから人が出る。人が出るからにぎやかなんだという現前の事実を認めさえすればいゝんだ。併し単ににぎやかだとか人出が多いとかいうだけならば、今君がいったように同じ山の手でも神楽坂なんかよりずっと優った所が少なくないよ。例えば近い所では四谷の通りなんかもそうだし、殊に最近の新宿付近の繁華さといったら素晴らしいものだ。すぐ隣の山吹町通り、つまり江戸川から矢来の交番下までの通りだって、人出の点からいえば神楽坂には劣らないだろう。けれどもそれらの所と神楽坂とではまるで感じが違ってるよ」

35区時代の東京市
麹町 旧区名。千代田区の一部で、近世は武家屋敷が多く、現在はビジネス街と高級住宅地です。
小石川 旧区名。文京区の一部。文教・住宅地区。
雑司ヶ谷 元来は北豊島郡雑司ヶ谷村。1889(明治22)年、東部が小石川区(現在の文京区)に、残部は巣鴨村に編入、小石川区雑司ヶ谷町と巣鴨村大字雑司ヶ谷に。1898(明治31)年、小石川区は東京市の一部に。1932(昭和7)年、西巣鴨町が東京市に編入され、豊島区雑司ヶ谷町1-7丁目に。
四谷の通り 1878(明治11)年11月、東京府四谷区が発足。1947(昭和22)年3月、本区、淀橋区、牛込区の3区が合併し、東京都新宿区に。四谷の通りは現在は「新宿通り」
山吹町通り 現在は「江戸川橋通り」
江戸川 現在は「江戸川橋交差点」。これは1971年3月まで都電の停留所名と同じでした。「江戸川」はかつての神田川中流(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1 kmの区間)の名称。
矢来の交番下 矢来町交番(現在は矢来町地域安全センター)は矢来町27番にあります。ここで西からくる早稲田通りと、北からくる江戸川橋と、東からくる神楽坂通りの3つが一緒になって、交差点「牛込天神町」を作り、その南側に矢来町交番(地域安全センター)ができました。

熊公焼|神楽坂

文学と神楽坂

 熊公焼も夜店で売られる一種の今川焼、アンコ巻きです。三遊亭円生氏の「円生 江戸散歩」(集英社、1978年)では…

 坂をあがったところの左に、私の子供の時代には今川焼をうってる店があったんです。勿論、これは屋台店ですがたいへんにはやったもんで。子供時代にこの今川焼を買ってもらった事をおぼえているのですが、のちにその今川焼がなくなってしまったら、今度は“くまこうやき”てえのがはやったんです。うどん粉でこう平ったくしておきまして中へ餡をこうすーっと巻いたもんですが、まあいえば餡巻きですか、これにくまこうやき、という名前をつけた。これが大変繁昌をした。わざわざ遠いところからこれを買いに来たという人があるんですから、ふしぎなもんですね。
 今川焼とは草薙堂でした。さて、問題は熊公焼です。この夜店はどこにあったのでしょうか。

 最も古い記事は「製菓実験」昭和12年8月号に出ています。

新聞などにも度々出て、可成り有名な神樂坂の熊公と、その唯一の商品である都巻。鐵板の上に薬の利いた中華種を四角な口付のブリキ型で流し、中に棒にした飴を巻いたものです。生憎手許が見えないが、鐵板は四ッに仕切つてあつて廻轉式になつてゐる所は、如何にも屋臺向です。一個四十匁平均で、一個の値段は金五錢也。

 新宿区立図書館著『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「古老談話・あれこれ」では

「熊公焼」は永楽銀行の前にありました。(中略)
 これはやや高級品で品物はアンコ巻なんですが1本5銭、巻いてある皮にはほんとうの玉子がたっぷり入っていました、やっぱり屋台店でして売れることは今川焼やと同じに飛ぶように売れました。熊公焼は今川焼がなくなって、震災後しばらくしてから出たものです。(中略)このアンコ巻を焼いていたおやじさんの顔が又、その気になって顔にいっぱい髯をはやしてしまって、恐ろしい顔をますます恐ろしくして「熊公焼」の名を高からしめたってわけです。

「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」によれば昔の「永楽銀行」は現在青柳LKビルが入る場所でした。ちなみに青柳寿司は数年前になくなり、しかしビルは残り、代わって14年版「神楽坂」(神楽坂通り商店会)では「叶え」、「Mumbai」、「えちご」、「神楽道」が入っています。1階は平成26年9月で「沖縄麵屋、おいしいさあ」です。これはちょうど神楽坂通りを上にあがった場所です。

 同じように2005年『神楽坂まちの手帖』第8号で「石濱朗の神楽坂界隈思い出語り」というエッセイがあり、そこに「子供に大人気の熊公焼って?!」として書いてあります。

 それはまだ大東亜戦争の始まる前だった。
 神楽坂を上がり切った左側に「玩具屋」があった、その近くにその店は出ていた。
 何時頃から出るようになったのか、まだ小さかった僕にはわからない。
 厚い鉄板の上にうどん粉を溶かしたものをたらして焼き、小豆餡を上に載せてくるりと巻いたものを売っていた。
 菓子の名前は「熊公焼き」、売っている人の顔が熊に似ているからか、熊吉とか熊太郎と言う名前のせいか、その由来は判然としない。兎に角美味かったので良く売れていた。

 同じような場所で、坂上で、上を向いて左側でした。

 では色川武大氏の「怪しい来客簿」では

今、私の机の上に、昭和六年刊『露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。(中略)
……ここで肴町(さかなまち)の電車路(現在の大久保(おおくぼ)通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏(ざつとう)した。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆(なんきんまめ)、寿司、古道具、半衿(はんえり)、ドラ焼、(かなばさみ)(のこぎり)唐辛子(とうがらし)、焼物、足袋(たび)、文房具、化粧品(けしようひん)、シャツ、印判、ブラッシュ石膏細工(せつこうざいく)、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗(ちやわん)(かばん)玩具(がんぐ)煎餅(せんべい)、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、(くし)類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆(えんぴつ)、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子(ぼうし)洗い、焼物、植木、植木、寿司。(中略)
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗(しょうき)さまのような(ひげ)を生やしたおっさんが、あんこ(まき)を焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。

白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ ホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。

 右側は上から下に見ているので、西北西から東南東の方面を向いて流しています。新宿区郷土研究会二十周年記念号の『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」を参考にして(ただし、「神楽坂と縁日市」は道の右側と左側は逆)、これから読むと熊公焼は以前の喫茶パウワウ、現在はボルタ店のあたりにでてきたようです。

 一方、横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章「牛込神楽坂の露店」を書き……

ガマ口、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キヤラメル、本、表札、キリヌキ、眼鏡、古本、地圖、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホーズキ、古道具、壽司、焼鳥、おでん、オモチヤ、南京豆、壽司、古道具、xx、半衿、ドラ燒、カンナ、ノコギリ、唐辛子、焼物、足袋、文房具、化粧品、シヤツ、印判、ブラツシユ、石膏細工、ハモニカ、xx、メリヤス、古本、茶碗、カバン、オモチヤ、煎餅、xx、古本、大理石、錆ビヌ針、萬年筆、人形、ハナ、ミカン、オモチヤ、櫛(略)

 まったく熊公焼はどこにも書いてありません。人形とハナ(花)の間にはなにもありません。そのコピーもあります。

『神楽坂まちの手帖』第2号の『神楽坂の「マチの魅力」を考える』では

元木 クマコウ焼ってのがあったんだけど知ってますか? 今のパウワウの辺りで人形焼みたいのがあって。そのオヤジが、当時殺人犯で有名だった「熊公」に似てて、それでクマコウ焼っていうのが流行ったんだよ。

 次はサトウハチローの『僕の東京地図』です。神楽坂3丁目になると真っ先になると出てくる白木屋が熊公焼の後で紹介されているので、熊公焼はおそらく神楽坂2丁目です。

 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公というのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さが六寸、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たッて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。(後略)

 以上は白木屋よりも前なので坂下です。上を向いて左側にあったというものです。

 もう1つ。『ここは牛込、神楽坂』第18号で鵜澤紀伊子氏は「親子3代神楽坂(四)」を書き

坂下の左側に熊公焼きの夜店が出た。鉄板の上で小麦粉をといたのを長方形にのばし、飴をのせて一巻きしただけの単純な物だったが、結構お客がついていた。1組の親子のお父さんが焼いていた。美味しいよと言ったら、照れ笑いをしたことがあったっけ。戦時中粉や小豆が入手困難となってべっ甲飴を売るようになり、そのうち夜店も出なくなった。お父さんは軍需工場に入ったと聞いた。

 やはり、坂下の左側にその店は出ていたといいます。

 次は渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では

神楽坂が牛込一の繁華街と呼ばれていたころの縁日で、はじめは今川焼が坂上の左側の屋台で売られ繁盛していた。その今川焼に変わって、超人気の「熊公焼」が登場したのである。熊公焼はその当時の神楽坂の縁日を抽いた文学作品やエッセーにたびたび登場している。熊公焼の露店の場所は、神楽坂二丁目、割烹志満金のまえあたりが屋台の定位置のようだ。鉄板の上で、どら焼に似た玉子入りのうすい四角い皮に、あんこをのせて巻いたもの。今川焼が二銭で、このあんこ巻は一本五銭と高額であったが、いつも黒山の人だかりで、わざわざ遠くから買いにくるほどの人気だった。それは、この露店の店主岩木さんが、当時、日木中の注目をあつめた「鬼熊事件」の凶悪犯人に笑ってしまうほとよく似ていることを逆手にとり、「熊公焼」と名付けて売り出し、その犯人を一目見ようと押しかけた客で大繁昌してしまったのである。

 やはり坂下の左側で、「志満金のまえあたり」と、これから坂がまだ上に向かってもいない所で出ていたと言います。

 さらにもう1つ。都筑道夫氏が阿佐田哲也全集の第十三巻付録に書いた「神楽坂をはさんで」では

有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしよに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。

 これは熊公焼は毘沙門のそば、坂上にあったといいます。

 さらにもう1つ。水野正雄氏が「神楽坂を語る」(「神楽坂アーカイブズ 第1集」)では

その山本コーヒーの前に「熊公焼き」というあんこ巻きを売る夜店がありました。これは普通の人形巻きが二銭だったころ、八銭で売られていました。

 これも熊公焼は山本コーヒーのそば、現在の「うおさん」のそば、つまり坂上にあったといいます。

 次は坂下で、なんと右にありました。平成7年『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」です。

いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。

 結局20年以上も続くと常設夜店もその場所が変わるのでしょうか。ただし、草薙堂という今川焼き屋と混乱しているものもあるように思います。

神楽坂|椿屋 もう老舗に

文学と神楽坂

 さらに「神楽坂上」に向かって行きましょう。

 左側は「椿屋」です。お香と和雑貨の店。いつも香を焚いています。創業は平成14年(2002年)。なぜか老舗になってます。場所はここ

tubakiya

 以前は「宮坂金物店」でした。昭和5年ごろには「宮坂金物店」の前には縁日になると金魚すくいが出ていました(新宿区郷土研究会20周年記念号『神楽坂界隈』平成9年)。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

大東京繁昌記|早稲田神楽坂02|私と神楽坂

文学と神楽坂

私と神楽坂牛込神楽坂

それにしても、私はこれまで幾度その鏡に私の顔を姿をうつして来たことだろう。思えばその鏡こそは、これまで十七年も八年もの長い年月の間、青年から中年に更にまた老年の域へと一歩々々近づいて行きつつある私の姿を、絶えずじっと凝視ぎょうしして来た無言の観察者であったのだ。どこの何者とも知れない一人の男が――私は性来無口で、そんなに長くその店へ行きつけているけれど、滅多に誰とも口をきくこともなく、いわんや私の名前や身分や職業などについては、未だかつて一言も漏らしたことがないので、そこの主人でもただ長い顔馴染かおなじみというだけで、恐らく私についてはほとんど何事も知らないだろう――そのどこの誰とも知れない一人の男が、十数年この方毎月ふらっとやって来ては、用が終えると又同じようにだまってふらっと帰って行く、その同じことを長の年月繰返している間に、気がつくといつもなしにその男の髪が白くなり、顔にはしわが深く寄せている。非情の鏡といえども恐らくは感慨の深いものがあるであろう。私はそれを思う毎に、いつもそこに或る小説的な興味をさえ感ずるのである。
 こういう変化は、いうまでもなく何人の上にも、又何物の上にも行われていることである。しかも、それは極めて徐々に時の経過と共に自然に行われるのであって、何時うして何うということなどのいえないようなものである。長い年月を経た後に、ふと何かの機会にそれと気がついて驚くことはあっても、ふだん始終見つけている者には、何か特別の事情のない限り殆ど眼に立たないのが常である。私は本紙に連載中の大東京繁昌記の一節として、これからその印象や思い出を語ろうとしている牛込うしごめ神楽坂かぐらざかのことに関しても、矢張り同様の感を抱かざるを得ない。

凝視 目を大きく見開いてじっと見つめること
本紙 東京日日新聞です。1927(昭和2)年6月の紙面に載りました。

私が東京へ出て来てから既に二十二、三年にもなるが、その間今日までずっと、常にこの神楽坂を中心にして生活して来たようなものである。最初の三、四年間は、故あって芝の高輪の方から早稲田大学へ通っていたが、その頃まだ今の早稲田線の電車が飯田橋までしか通じておらず、間もなく大曲まで延びたが、私は乗換えや何かの都合で、毎日外濠線の電車を神楽坂下で乗り降りしたものだった。その後学校附近に下宿するようになってからは、何度その下宿を転々しても、又一家を構えるようになって、何度引越して歩いても、まだかつて一度も牛込の土地を離れたことがない。郊外生活をして見ようとか、他区に住み換えて見ようとか思い立ったことも幾度かあったが、その度毎に住み馴れた土地に対する愛著あいちゃくと、未知の土地に対する不安とが、常に私の心を元の所に引止め、私の身体を縛りつけてしまうのであった。今や牛込は、私にとっては第二の故郷も同様であり、又どうやらこのまま永住の地になってしまうらしい。し今後何等かの事情で他に転住しなければならぬようなことがあるならば、私はあたかも父祖伝来の墳墓の地を捨てて、遠い異国に移住する者の如き大なる勇気を要すると同時に、またその者と同じい深い離愁を味わわねばならないだろう。しかしこうして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然である。
 かくして私は多年神楽坂という所に親しみ、かつそこを愛する一人として、朝夕の散歩にも足自らそこに向うといった風で、その変遷推移の有様も絶えず眼にして来たわけであるが、そして一々こまかくしらべたならば、はじめて見た時と今とでは、四辺の光景も全く見違えるほどに一変してしまっているに違いないが、さて何時どこがどんな風に変ったかという段になると、丁度私の頭髪が何時どうして白くなったかと問われると同じく、はっきりしか/″\と答えることは困難である。長い間に、いつとはなく、又どことなく、自然に移り変って、久しく見なかった人の眼には驚くばかりの変化や発展を示しているに違いないが、毎日見馴れている私にとっては、大体において矢張り以前と同じようだといわざるを得ない。

東京へ出て 加能作次郎は、明治18年(1885年)石川県羽咋郡に生まれました。1905年(明治38年)、上京し、1907年(明治40年)4月、22歳で早稲田大学文学部文学科高等予科に入学しています。
芝の高輪 以前の芝区、現在の港区の高輪で、高輪南町、高輪北町、高輪台町などからなっていました。品川駅などがあります。
早稲田線 15系統の都電は、高田馬場駅前、戸塚二丁目、面影橋、早稲田、早稲田車庫、関口町、鶴巻町、江戸川橋、石切町、東五軒町、大曲、飯田橋、九段下、専修大学、神保町、駿河台下、小川町、美土代町、神田橋、大手町、丸ノ内一丁目、呉服橋、日本橋、茅場町でした。
大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
外濠線 飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る都電3系統路線。はじめは東京電気鉄道会社の経営、後に東京市に移管。
墳墓の地 ふんぼのち。墓のある土地。特に、先祖代々の墓がある土地。故郷
離愁 りしゅう。別れの悲しみ。別離の寂しさ

大東京繁昌記|早稲田神楽坂12|花街神楽坂

文学と神楽坂


花街神楽坂

花街神楽坂

 川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
 この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の(うわさ)をそのまま記すだけにとどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

区役所 現在は新宿区立牛込箪笥区民センターのこと
吉熊 大正9年、赤城神社の氏子町の1つとして、箪笥町が出ています。その町の説明で

牛込区役所は15,6,7番地に誇る石造二階建の洋館(明治26年10月竣工)である。41番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正10年11月25日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった

と書いています。1970年、新宿区立教育委員会の作った「神楽坂界隈の変遷」では「新撰東京名所図会 第42編」(東陽堂、1906年)を引用し

吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

と書いてあります。場所は箪笥町35番でした。 箪笥町三十五番

牛込区役所と相対しています。地図は昭和5年の「牛込区全図」です。意外と小さい? いえいえ、結構大きい。現在35番は左側の「日米タイム24ビル」の一部です。

箪笥町35番 明進軒2求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。地図は昭和12年の「火災保険特殊地図」。
無慮 おおまかに数える様子。おおよそ。ざっと。
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。
末よし 末吉は2丁目13番地にあったので右のイラストで。地図は現在の地図。 末吉
温泉横町  牛込会館横で、現在は神楽坂仲通りのこと
江戸源 昭和8年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

白木屋横町。小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの『花の家』カフェー『東京亭』野球おでんを看板の『グランド』繩のれん式の小料理『江戸源』牛鳥鍋類の『笑鬼』等が軒をつらねています

と書いています。ここは「繩のれん式の小料理」なのでしょう。なお、白木屋横町は現在の神楽坂仲通りのこと。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら/\と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りもまばらになり、両側の夜店もそろ/\しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ/\いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフェからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら/\した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

額ずく ひたいを地面につけて拝むこと。
新内 浄瑠璃の一流派で、鶴賀新内が始めた。花街などの流しとして発展していった。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けた
声色使い 俳優や有名人などの、せりふ回しや声などをまねること。職業とする人
地内 現代では「寺内」と書きます。寺内の花柳界は極めて大きく、「袖を引く」(そでをとって人を誘う)という風習は花柳界から生まれました。
都の西北 もちろん早稲田大学の校歌。作詞は相馬御風氏、作曲は東儀鉄笛氏。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」と始まっていきます。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂08|独特の魅力

文学と神楽坂

独特の魅力
独特の魅力

 そうはいっても、しかしその寺町の通り神楽坂プロパーとでは、流石さすがにその感じが大分違っている。何といっても後者の方が、全体としてすべての点に一段級が上だという事は、何人も認めずにおられないだろう。例えば老舗と新店という感じの相違のようなものであろうか、矢張り肴町電車路を越えてから、はじめて神楽坂に出たという気のするのは、私だけではあるまい。たった電車路一筋の違いで、町並も同じく、外観にもにぎやかさにも相違がなく、出る人も同じでありながら、全体の空気なり色彩なりが急に変るということは、地方色などといえば少し大げさだが、多少そういったようなものも感ぜられて興味あることだ。寺町の通りが今の神楽坂本通りと同じ感じになるには、まだ/\相当長い年数を経なければなるまい。

寺町の通り 神楽坂6丁目の通り
神楽坂プロパー 神楽坂1~5丁目の通り。この本では「神楽坂本通り」と書いています
肴町 神楽坂5丁目
電車路 大久保通りは昔は都電のチンチン電車が通っていました

 それにこちらの方は、その両側の横町や裏通りがことごとく、芸者家や待合の巣になっていることをも考慮に加えなければならない。座敷著姿の艶っぽい芸者や雛妓おしゃく等があの肩摩(けんま)轂撃こくげき的の人出の中を掻き分けながら、こちらの横町から向うの横町へと渡り歩いている光景は、今も昔と変りなくその善い悪いは別として、あれが余程神楽坂の空気や色彩を他と異なったものにしていることは争われない。そして一見純然たる山の手の街らしいあの通りを、一歩その横町に足を踏み入れると、たちまちそこは純然たる下町気分の狭斜(きようしや)のちまたであり、柳暗(りゆうあん)花明(かめい)の歓楽境に変じているのであるが、その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶かくぜつもなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合(ゆうごう)して、そこにいわゆる神楽坂情調なる独特の花やかな空気と艶めいた気分とをかもし出し、それがまた他に求められぬ魅力となっているのだ。よく田原屋オザワなどのカッフエで、堅気なお邸の夫人や令嬢風の家族連れの人達や、学生連や、芸者連れの人達やがテーブルを並べて隣合わせたり向い合ったりしている光景を見かけるが、こゝ神楽坂ではそれが左程不自然にも不調和にも思われず、又その何れもが、互に気が引けたり窮屈に感じたりするようなこともないという自由さは、私の知っている限り神楽坂をいて他にないと思う。

Road_hub

ウィキペディアから

こちらの方 神楽坂プロパー、つまり神楽坂1~5丁目の通りのこと。
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などと呼びます。
肩摩轂撃 けんまこくげき。人や車馬の往来が激しく、混雑している様子。都会の雑踏の形容。肩と肩が触れ合い、車の(こしき)と轂がぶつかるほど混雑している。轂はハブのことで、車両・自動車・オートバイ・自転車などの車輪を構成する部品で、車輪(円盤状の部品)の中心部のこと
狭斜のちまた きょうしゃのちまた。中国長安で、遊里のある道幅の狭い街の名から、遊里。色町。「狭斜の(ちまた)」も遊廓のこと
柳暗花明 りゅうあんかめい。春の野が花や緑に満ちて、美しい景色にあふれる。花柳界・遊郭のことを指す
その山の手式の気分 安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」で引用されています。
隔絶 かけ離れていること。遠くへだたっていること

 私はぶら/\歩きながらそんなことを友達に話した。友達はなるほどといった様子で一々私の説にうなずいた。そして山の手の銀座といわれるのも無理がないとか、下町気分もかなり濃厚だなどと批評した。
「それにこゝは電車や自動車も通らず、両側町だからなおさら綺麗でもあるしにぎやかでもあるんだね。ちょっと浅草の仲見世みたいに」とかれはいった。
「そう、それもある。それにも一つ、こゝでは人通りが大体において二重になるということもあるんだ。というのは、坂下の方から来る人達はずっと寺町の郵便局辺まで行って引返す、寺町の方から出て来た連中は坂上か坂下まで行って又同じ道を引返すというわけなんだ。丁度袋の中をあっち行きこっち行きしているようなものだ。だから僕なんか、こうしてぶら/\していると、何度も同じ人に出会わすよ、のみならず、こゝを歩いている人達はみんな顔なじみという気がするんだ」と私は、あの人もあの人もと、折りから通り合せたいつもよく見る散歩人を指した。
「なるほどみんな散歩に出て来たという感じだね」と友達がいった。
「それも他所よそ行き気分でなく、ちょっとゆかたがけといったような軽い気持でね。だから何となく気楽な悠長な気がするよ。そしてこの辺の商人も、外の土地に比べると正直で悠長で人気が穏やかだという話だよ。通り一ぺんの客は少ないんだから、店同士でお互に競争はしていても、客に対しては一ぺんこっきりの悪らつなことはしないそうだよ」と私は人から聞いた通りに話した。

仲見世 なかみせ。社寺の境内などにある店。東京浅草では雷門から宝蔵門に至る浅草寺参道の商店街のこと。
ゆかたがけ 浴衣を無造作に着ること。また、浴衣だけのくつろいだ姿。
人気 じんき。にんき。その土地の人々の気風。「―の荒い土地柄」
一ぺんこっきり いっぺん[一遍]こっきり。1回を強く限定する意を表す語。一度かぎり。

別れたる妻に送る手紙|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江 近松(ちかまつ)秋江(しゅうこう)は明治9(1876)年5月4日に生まれ、昭和19(1944)年4月23日に死亡し、死亡時は満67歳の作家でした。では、どんな作家でしょうか。

 名前以外には思いつかず、しかし、この「別れたる妻に送る手紙」の名前はなかなかよく、おそらく擬古文を使う明治時代の作家だと思っている。なるほど、残念ながら違います。

 あるいは、秋江を「あきえ」と呼んでしまって昔の男性ではなく女性作家だと思っている。あるいは、夏目漱石や森鴎外には及びもしないけど、それでも明治時代にはまあまあ知られていて、『別れたる妻に送る手紙』などはおそらく切々とした情感がある手紙だと思っている。これも間違いです。

 一言でまとめると、近松秋江の次女、徳田道子氏が、近松秋江著『黒髪、別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫)の「或る男の変身」で、こう書いています。

 収録されている作品はすべて情痴ストーリーで、美しいラブストーリーでもなければ純愛物語でもない。
 書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。

 逆に近松秋江はこう書いています。

 『別れたる妻…』は、紅葉の『多情多恨』と『金色夜叉』のに棄てられた貫一の心とを合したものです。
「新潮」 明治43年9月1日、近松秋江全集第9巻429頁)

 う~ん。なんとまあ。『金色夜叉』に匹敵する小説と考えているんだ。さすがに昭和5年にはこの豪語はなくなります。

   文筆懺悔・ざんげの生活
 自分が、長い間に書いて来た物で、あんなことを書くのではなかったと、今日から回顧して、孔あらば、入りたい心地のするものが、私には数多くある。どれも是れも、そんな物ばかりである。
 一体自分は、以前から、既に筆を持って紙にのぞんでゐる時に、非常な懐疑的態度に襲はれてゐる方で、(こんな物を書いてゐて、それでも好いのかなあ)と、幾度となく反省してみる。その為に筆が鈍るのである。尤もそれは、専ら芸術的立場からの批判であったが。
(「中央公論」昭和5年1月。近松秋江全集第12巻112頁)

 本人の自画像がとてもかわいい。真剣なものをもっと書けば良かったのに。『別れたる妻』なども真剣ですが、真剣な方角を変えたものがもっとあれば良かったのに。晩年は歴史物に流れていきました。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂07|通寺町の発展

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に乗った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の一部、「通寺町の発展」です。

通寺町の発展

 普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家の(ひさし)が両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。
肴町 現在の神楽坂五丁目です。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といい、この名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。ここでは市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を示すと考えます。
通寺町 現在の神楽坂六丁目です。
長家建 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
 ひさし。窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す小さな屋根。出入り口や窓の上部に設けることで、日差しや雨から守ることができるようになる。
勧工場 かんこうば。現在「スーパーよしや」が建っています。明治20年5月、牛込勧工場のスタートでした。
 工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売しました。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さく、また、多くは民営で、商人達の貸し店舗の商店街でした。入口と出口は別々にするのが一般的ですが、牛込勧工場は入口と出口が同じでした
 明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。明治40年以後になると、百貨店の進出があり、「勧工場もの」という言葉が安物の代名詞として広がり始め、大正3年(1914)にはわずか5か所に減り、衰退していきます。
 辰ノ口勧工場は明治15年の松斎吟光氏の「辰之口勧工場庭中之図」(発売元は福田熊次郎)で見ることも可能です。

火事が起って 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などがあれば、出品者に分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままで、明治44年には拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青の色ガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑抑私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかゝるかと内心非常にびくくしながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭出してお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

安田銀行聖天様いろは 下図の「火災保険特殊地図」(昭和12年)を見てみましょう。最初に、上下の大きな道路は神楽坂通り、下の水平の道路は大久保通り、2つの道路が交わる交差点は神楽坂上交差点です。
「安田銀行」は左にあります。その右には「聖天様」、つまり安養寺があり、そして昔の「いろは」(牛肉料理店)があります。 これは「牛肉店『いろは』と木村荘平」で詳しく検討しています。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 現在の写真では「安田銀行」は「セイジョー」から薬販売の「ココカラファイン」に、安養寺は同じく安養寺で、「いろは」はなくなりました。

 それから少し行ったところの寄席の牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかゝっていつも廊下へ溢み出すほどに繁盛し、活動などの盛にならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さん円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助小土佐などの義太夫加賀太夫紫朝新内にはじめて聞きほれたのも、矢張りその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかゝらなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかゝるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることゝ思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんぱんの行燈が、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそゝったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立だなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

牛込亭 この地図では「寄席」と書いています。現在の地図は、牛込亭は消え、ど真ん中を新しい道路が通りました。なお、この道路の名前は特に付いていません。
小さん 1895年3月、3代目襲名。1928年(昭和3年)4月、引退。
円右 1882年に圓右、1883年真打昇進。1924年10月、2代目圓朝に。一般的に「初代圓右」として認識。
綾之助 女性。本名は石山薗。母から義太夫の芸を仕込まれ、1885年頃、浅草の寄席で男装し丁髷姿で出演。竹本綾瀬太夫に入門し竹本綾之助を名乗る。1886年頃に両国の寄席で真打昇進。端麗な容姿と美声で学生等に人気を呼び、写真(プロマイド)が大いに売れたといいます。
小土佐 女性。竹本(たけもと)小土佐(ことさ)。女義太夫の太夫。明治の娘義太夫全盛期から昭和末まで芸歴は長大。
義太夫 義太夫節、略して義太夫は江戸時代前期から始まる浄瑠璃の一種。国の重要無形文化財。
加賀太夫 男性。富士(ふじ)(まつ)加賀(かが)太夫(たゆう)は、新内節の太夫の名跡。7代目は美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる。明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物がいたため。
紫朝 富士松ふじまつ紫朝しちょう。男性。明治大正の浄瑠璃太夫。
新内 新内(しんない)(ぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けたといいます。
色物 寄席において落語と講談以外の芸。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。
八幡劇 大衆演劇の劇団でしょうか。よくわかりません。
安来節 やすぎぶし。島根県安来地方の民謡。

 そんな懐旧談をしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつゝあったわけであるが、震災以後殊に目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑を見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつゝある有様である。

兎に角 他の事柄は別問題として。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。
さらでだに 然らでだに。そうでなくてさえ。ただでさえ。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華

神楽館|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 神楽館とはどれでしょう。下図の左側には昭和12年の地図がありますが、ここの赤い4角が神楽館でした。まず神楽坂通りで神楽坂2丁目と3丁目が分かれる場所を北東に向かう「神楽坂仲通り」ではなく、反対側の南側に向かっていくと、下に行く坂になります。最初の4つ角は、左右は小栗横町ですが、ここはまっすぐ上に進み、上がったところが現在の駐車場で、ここを曲がると見えてきます。神楽館は広津和郎氏、宇野浩二氏、片岡鐵兵氏、横溝正史氏などの下宿でした。

神楽館

神楽館。火災保険特殊地図(昭和12年)と現在のGoogle

泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花

大正元年の泉鏡花

 いずみきょうか。明治・大正期の小説家・劇作家。本名は鏡太郎。1873(明治6年)年11月4日に生まれ、没年は1939(昭和14年)9月7日。65歳、癌性肺腫瘍のため死亡。

 明治23年(17歳)、牛込横寺町の当時23歳の尾崎紅葉氏を訪ね、最初の門下になります。明治28年(21歳)、『夜行巡査」『外科室』を発表し、出世作に。明治29年5月、郷里から七七歳の祖母と弟豊春を迎えて、小石川区大塚町57番地に同居。明治32年(26歳)、神楽坂の芸妓、桃太郎(本名伊藤すゞ、当時17歳)を知り、牛込南榎町に引っ越し。明治33年(27歳)、幻想譚『高野聖』を発表。
 明治36年(30歳)1月、神楽坂に転居し、すゞと同棲。3月、紅葉はこれを知り、叱責。すゞはいったん鏡花のもとを去り、同年10月、紅葉が死亡、晴れて夫婦に。

 明治38年(32歳)、逗子に転居。明治41年(35歳)、『婦系図』を出版し、帰京。明治42年(36歳)、後藤宙外らの文芸革新会に参加し、反自然主義を標榜。
 昭和14(1939)年、66歳の『縷紅新草』が最後の作。小説は300編以上。独特の文体、女性崇拝、幻想、怪奇、耽美主義、エロチシズム、ロマンチシズムなどの世界が生まれました。

宇野浩二|大正8年3月~9年4月

 宇野浩二氏は大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「(みやこ)館」から撤去します。これは「宇野浩二全集 第十二巻 年譜」でそう書かれています。つまり

大正八年(一九一九) 三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿
大正九年(一九二〇) 四月、牛込袋町の都館を去って、江口渙の紹介で、彼の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町一七番地に一軒の家を構えた。

 わずか1年で、下宿は2軒になるわけです。では「神楽館」から「都館」に移った時間関係はどうなるのでしょう。水上勉氏の書かれた『宇野浩二伝 上』によると、浩二は五月に「都館」に引越ししたと書き、また新宿区の「区内に在住した文学者たち」では 、大正8年3月~同年4月に神楽町【神楽館】、大正8年5月~大正9年4月に袋町【都館】としています。正しいのでしょうか。水上勉氏著の『宇野浩二伝 上』を横に置いて見てみましょう。

 七年の末から八年はじめまで、浩二は「蔵の中」が発表されるまで、このような仕事をして待機していたわけだが、その金で三月末、牛込神楽坂の「神楽館」の部屋を借りて、赤坂にいた母を呼び寄せていた。浩二は母のために、今度は一と部屋を別にとった。それは来客が多かったせいもあるが、いくばくかの収入があったからでもあろう。ところが間もなく、この下宿へ広津和郎氏がやってきた。広津氏もまた転々していたのである。浩二の母は、浩二と広津氏の下着をいつもいっしょに洗濯した。二人は、お互いの褌をあべこべに使ったりした。
(『宇野浩二伝 上』244頁)


蔵の中 大正8(1919)年、28歳で宇野浩二氏は『蔵の中』を書きました。質屋の蔵で着物の虫干しをした男が書いた女たちの思い出です。これは近松秋江の実話をもとに作った小説でした。
このような仕事 翻訳で下訳すること。下訳者が最初の翻訳を行い、それから翻訳者に渡って、チェックして必要があれば書き直します。
神楽館 神楽坂2丁目にある下宿

 これで「三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿」したんだとわかります。さらに12月に、水上勉氏はこう書いています。

 浩二はこの十二月、まだ牛込の「神楽館」にいた。キョウも別室にいた。広津氏も同宿していた。すでにきみ子の自殺(浩二はそのようにいう)が材料になっているので、この作品は死の報が入った後書かれたことが明らかである。浩二にとってきみ子は、ヒステリイ女で重荷ではあったが、物心両面に援けを受けた相手である。(中略)そのきみ子が、別れて二年たつかたたぬまに死んだのだ。しかも自殺である。浩二にとってこれは悲痛な事件である。すくなくとも、大和高田での祖母の死にあれほどの衝撃を受けている浩二にとっては、きみ子の死は他人の死とは思えようはずもない。
(『宇野浩二伝 上』251頁)

この十二月 この十二月は大正8年の12月しかありません。大正7年はまだ神楽坂に来ていませんし、大正9年では下谷区にでています。大正8年12月には、依然「神楽館」にいたというのです。
キョウ 宇野浩二の母。
きみ子 伊沢きみ子。宇野浩二氏を悩まします。しかし、横浜で西洋人の家の小間使をしていた時に、猫イラズ入りの団子を食べて死んでいます。

 水上勉氏は正月過ぎにこう書いています。

 正月過ぎに東京の「神楽館」へ差出人不明の投書がきて、「ゆめ子はお蔭様にて大評判に候」などとあった。浩二はその下諏訪かららしい投書をみると、また仕事を持って出かけて行くのである。ところが鮎子に会いたし会いにくしといった気持から、いつか鮎子に紹介され、演芸会でも会って話した小竹を呼ぶ。そして小竹が鮎子と違い看板持ちの自由な芸者であることも手つだって、急速に二人の仲は進展してしまうのだ。
(『宇野浩二伝 上』274頁)

正月過ぎ これは9年1月です。9年1月にも「神楽館」に連絡したわけです。どこに住んでいるかはわかりません。
ゆめ子 小説ではゆめ子。実生活では鮎子。宇野浩二氏の「山恋ひ」から引用すると『私は原稿を書き疲れると、土地の芸者なぞを呼んでにやにやしてゐたものだつた。その中の一人に、ゆめ子といふ、今年21歳になる、芸者屋の娘兼主人で、養母といふ実の叔母に当る者が別に一軒芸者屋を出してゐて、自分は自分で三人の抱へ子と一人のお酌とを就いて、そして自分も芸者をしてゐるといふ女だつた。何といふことなく私はその女が気に入つたのであつた』
鮎子 本名は原とみ。大正八年九月、浩二は下諏訪の芸者鮎子と初めて会っています。水上勉『宇野浩二伝 上』によれば「当時21歳で、芸妓屋の娘であった。しかし、娘といっても、実の母の妹にあたる叔母の養女となって芸者に出ていた。この芸妓屋には三人の抱え妓がいた。鮎子は当時旦那持で、当歳の子を叔母に預け、芸者はそう好きでもなかったのに座敷へ出なければならない事情にあった。容貌はさして美人というのではないが、かわいらしい受け唇のしゃくれた、小づくりな顔立ちでで、気立てのいい妓だったが、客の前へ出ても自分から喋るというようなことのない無口な性質だった」と書いています。
小竹 本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者。28歳。年齢は鮎子より7歳も上になっています。
看板持ち 芸者として置屋から独立して営業すること。置屋の看板を持つ事から俗称「看板持ち」といいました。「自前になる」

 5月、水上勉氏はこう書いています。5月は大正8年5月でしょうか? それとも9年5月でしょうか。残念ながら、9年5月は新しい場所に引っ越ししていますから8年5月しか残りません。

 この何度目かの諏訪旅行から浩二が帰って半月目の五月初旬、突然小竹は東京へ来る。浩二は小竹に押し切られて結婚してしまう。鮎子という恋人がありながら、その姐芸者と勢いにまかて結婚してしまう経緯は、「一と踊」(「中央公論」大正十年五月号)に詳しい。

 (略)五月、―――彼女は、彼女の家財道具をひきまとめて、彼女は、もと東京の者であつたが、十年(かん)その町に住んでゐたのである、彼女にとって、十年間の浮世の町、私は今日かぎりさらりと身をあらふのだ、さらば、さよなら、と、惜し気もなくその町をひきあげてきたのである。されば、その秋におこなはれた国の国勢調査の日、彼女は、けろりとした顏をして、生まれた時から私につれそうてゐたやうな顔をして、調査員にむかつて、戸籍にもありますとほり、私はなにがしの妻でございます、としやあしやあとして述べたことにちがひない。彼女は、私の家にきて以来、あんな山の中の町、鬼にくはれてしまへ、と思つて、更にふりむかないのである。

 村田キヌが東京へ押しかけてきた先は、牛込袋町の「都館」であった。浩二は神楽坂の「神楽館」からここへ越した矢先で、もちろん母のキョウもいっしょにいた。そこへ小竹は押しかけた。浩二は、それをまったく予測できなかったわけはない。下諏訪で、東京へ行ってもいいかと押されて許諾したか、それとも、押しかければ迎え入れそうな返事をしたかどちらかと判断される。小竹は袋町の下宿へ来て、そこに浩二の母がいるのを見て困ったにちがいない。浩二は、さっそく家さがしに廻る。江口渙氏の紹介で、氏の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町十七番地の一軒へ越していくのである。
(『宇野浩二伝 上』277頁)


5月初旬 五月初旬は今度は大正8年5月です。しかし、下谷区上野桜木町十七番地に移転するのは大正9年4月です。あわてて探したのに11か月も探している。どこか何かがおかしいと思いませんか。
彼女 小竹のこと。
その町 下諏訪のこと
村田キヌ 小竹の本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者にあたる。
牛込袋町の都館 牛込袋町は別名藁店わなだな。神楽坂5丁目から南に行くと袋町に行く。図を参照

牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、牛込館と都館支店はなくなっています。

江口渙 えぐちかん。本名は渙(きよし)。生年は明治20(1887)年7月20日、没年は昭和50(1975)年1月18日。87歳。東京帝大中退。大正、昭和時代の小説家、評論家。夏目漱石門にはいり、「労働者誘拐」で注目。マルクス主義に接近、日本プロレタリア作家同盟中央委員長。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に参加した。

結局、いつから神楽館から都館に入ったのか、私には正確ににわかりません。


泉鏡花|南榎町

文学と神楽坂

 泉鏡花(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。寺木定芳氏が書いた『人・泉鏡花』(昭和18年、再販は日本図書センター、1983年)では

大塚から牛込の南榎町に居を移したのは、たしか明治三十四年頃だったと思ふ。今は家が建てこんで到底其の面影もないが、その家は町の名の如き大榎が立ちこめて、是が東京市内の牛込區かと疑はれる程、樹木鬱蒼、野草蓬々、荒れに荒れた、猶暗い、古寺の荒庭のやうな土地に圍まれたすさみきつた淋しい二階家で、上下三間か四間の小い古びた家だつた。六疊の二階が先生の書斎で、下の六疊が令弟斜汀君の居間になつてゐた。
来客があまり多くて仕事の出來ない時なぞは、よく紅葉山人が、此の二階に來て仕事をしてゐた。又時に同門の面々や師匠も交つて、句會なぞを催した事も多く、壁に紅葉、鏡花、風葉春葉なぞの寄せ書きの樂書きなども殘つてゐた。此のおどろおどろした境地で、かの神韻渺茫たる『高野聖』や『袖屏風』『註文帳』などが物されたのだつた。同時に妖艶読む目もあやな『湯島詣』なども此時代の作物だつた。

大榎 おおえのき。ニレ科エノキ属の落葉高木
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
蓬々 ほうほう。草木の葉などが勢いよく茂っているさま。
 昼の旧字体。
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
神韻 しんいん。芸術作品などの人間の作ったものとは思われないようなすぐれた趣。
渺茫 びょうぼう。遠くはるかな。広く果てしないさま
高野聖 こうやひじり。泉鏡花の短編小説。泉鏡花の代表的作品の一つで幻想小説の名作。当時28歳の鏡花の小説家としての地歩を築いた出世作。高野山の旅僧が旅の途中に道連れとなった若者に、自分がかつて体験した不思議な怪奇譚を聞かせる物語。蛇と山蛭の山路を切り抜け、妖艶な美女の住む孤家にたどり着いた僧侶の体験した非現実的な幽玄世界が、豊かな語彙と鏡花独特の文体で綴られていました。
袖屏風 そでびょうぶ。泉鏡花の短編小説。占い師と観世物と娘の物語。
註文帳 泉鏡花の短編小説。無理心中を果たせず一人死んだ遊女の怨霊が、研ぎたての剃刀にとりついて起こる雪の夜の惨劇。
妖艶 あでやかで美しい。人を惑わすようなあやしい美しさ。
あや 物の表面に表れたいろいろの形・色合い、模様。言葉や文章の飾った言い回し。表面上は分かりにくい入り組んだ仕組み。
湯島詣 泉鏡花の小説。芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中するというお話。

泉鏡花。南榎町。

泉鏡花。南榎町。2014年7月

新宿区文化登録史跡も出ています。

新宿区登録史跡 (いずみ)鏡花(きょうか)(きゅう)(きょ)(あと)

所在地 新宿区南榎町二十二番地
登録年月日 平成七年二月三日


 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花が、明治三十二年(一八九九)から四年間住んでいたところである。
 鏡花は本名を鏡太郎といい、明治六年(一八七三)石川県金沢市に生れた。十六歳の頃より尾崎紅葉に傾倒し、翌年小説家を志し上京、紅葉宅(旧居跡は新宿区指定史跡・横寺町四十七)で玄関番をするなどして師事した。
 この地では、代表作『湯島詣』『高野聖』などが発表された。鏡花はこのあと明治三十六年(一九〇三)に神楽坂に転居するが、『湯島詣』はのちに夫人となった神楽坂の芸妓によって知った花街を題材としており、新宿とゆかりの深い作品である。
  平成七年三月

東京都新宿区教育委員会

ヌエットと泉鏡花

文学と神楽坂

『婦系図』などの作者、泉鏡花氏は明治32(1899)年秋から明治36(1903)年2月、(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。

 泉鏡花氏が南榎町22に住んだ約50年後、詩人兼画家のノエル・ヌエット氏は、1952年(67歳)、()(らい)町の小さな家に住み、1961年(76歳)、フランスに戻るまで住んでいました。ヌエット氏は神楽坂の寺内公園で一部の人に有名な版画『神楽坂』を作っています。

 えっ、どこにつながりがあるの。実はこの二人の家、非常に近いのです。

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

 左の小さい22番は泉鏡花氏の家で、右の大きい12番はヌエット氏などの数軒がありました。

 南榎町22は江戸時代には「御先手同心大縄地」と呼ばれていました。ここで「(ご )(せん)(て )」とは先頭を進む軍隊、先陣、先鋒のことで、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤め、平時は江戸城の各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めました。「同心」は江戸幕府の下級役人のこと。「(おお)(なわ)(ち )」とは与力や同心などの拝領地のことで、敷地内の細かい区分ではなく一括して一区画の屋敷を与え、大縄は同役仲間で分けることで、その屋敷地を大縄地と呼びました。今の公務員団地。これを明治政府はまた細分化したので、この場所には小さな小さな家がたくさん建っています。

 一方、矢来町12は明治時代では「矢来町3番地 (あざ) 山里」と呼ばれました。「山里」は庭園の跡があるという意味ですが、実際には江戸時代にはこの場所では酒井家の武士が住んでいました。



都館|文士が多し

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。現在は牛込館はLiberty houseと神楽坂センタービルに、都館支店はLog Salonに当たります。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

正覚坊|小笠原小品|北原白秋

文学と神楽坂

 正覚坊とはアオウミガメのことです。宮之浜で一匹、腹を上にして見つかりました。以下はこの一匹の物語です。なお、作者は北原白秋氏です。

 正 覚 坊
  (うら)らかな麗らかな、(なん)ともかともいへぬ麗らかな小笠原の初夏(しよか)の一日である。()()()の白い弓形(ゆみなり)から影の青いバナナ(はたけ)の方へ辷り上る小径(こみち)のそば、小灌木林の境界線に近く、一本の光り輝く護謨(ごむ)の大樹が高く高く(ゆら)めいてゐる。その下に正覚坊(しやうがくばう)が仰向けに(ころ)がされてゐるのである。たゞ其処(そこ)に何時から転がつてゐるともなく、転がされてゐるからたゞ転がつてゐるといふ風である。大きな大きな正覚坊(しやうがくばう)がゆつたりと、まん(まる)卵いろ(はら)甲羅(かうら)を仰向けて、ただ(ころ)がつてゐる。無論(むろん)四肢(てあし)は固く(ゆは)へられてゐるのでその(ひれ)を動かす事さへ自由でない、図体(づうたい)は大きいし、二(でう)(ふと)荒縄(あらなは)までがぐるぐる巻きに喰ひ込んでゐる。それでなくとも、一(たん)()ろがされたが最後(さいご)、一日かかつて起きかへるか二晩(ふたばん)かかつて起きられるか、この応揚(おうやう)なのろのろの海亀の身では何だか(すこ)ぶる怪しいものである。(うれ)しいのか、悲しいのか、(くる)しいのか、又は遂々(とうく)(あきら)めはてて了つたのか、それぞと云ふ気分(けぶり)も見えない。たゞ首を当前(あたりまへ)に出して当前(あたりまへ)に目を()けてゐる。而して何の事もなく(そら)を見入つてゐる。尤も、それも仰向(あふむ)いてゐるから目が空に()いてゐるといふだけである。澄みわたつた(あか)るい(そら)の景色を凝視(みつ)めてゐるのか、又は(うら)らかな雲のゆききや、風のながれに恍惚(うつとり)と思を凝らしてゐるといふのか、それとも(へき)瑠璃(るり)大海(たいかい)の響、檳榔(びんらう)、椰子、バナナ、(さま)()の熱帯の物の匂を(うつゝ)(ごゝろ)もなく嗅ぎわけて、懐かしい生れの(うみ)の波のまにまに霊魂(たましひ)を漂はしてゐるのか、何が(なん)とも(わけ)のわからぬ夢見るやうな()を開けてゐる。
 時は正午である。五月と云つても小笠原の五月は暑い。太陽は直射し、愈々護謨(ごむ)大樹(たいじゆ)の真上から強烈な光の嵐を浴びせかけると、燦爛たる護謨の厚葉が枝々に(かぎ)りもなく重なり合つて、真青(まつさを)な油ぎつた反射(はんしや)を影とともに空いつぱいに(ゆら)めかす。その葉をくぐつてくる光線は鋭い原色の五色である。それが幹に当り、(した)に寝てゐる正覚坊(しやうがくばう)の腹を()きつける。而して(いよ)()緑と黄の(てん)()に模樣づけられた綺麗な海亀(うみがめ)の頭が軟らかな雑草の上に更につやつやと光り出し、(うら)らかな麗らかな(なん)ともかとも云へぬ空のあたりで檳榔(びんらう)の葉がそよぎ、鶯の鳴く声がきこえてくる。
 十方無碍光、澄み輝く白金寂莫世界の一時(ひととき)である。
 正覚坊(しやうがくばう)(まぶ)しさうに目を開けたり、()ぢたりしてゐる。(うつゝ)(ごゝろ)もないらしい。ただゆつたりと(ころ)がされてゐるので(ころ)がつてゐる。(だい)安心(あんしん)のかたちである。恐らく自分が囚はれの身である事すら忘れてゐるに違ひない。

宮之浜 北部父島。兄島が正面に。ビーチには珊瑚があり魚も豊富なので、シュノーケリング二は最適。沖は潮の流れが複雑で早い兄島瀬戸なので、流されないよう黄色いブイより先には絶対に行かないこと。
 なぎさ。海の砂浜から波打ち際まで広い砂地。
灌木林 低木の林。 反対は喬木(きようぼく)
卵いろ 卵色。たまごいろ。16進法ではfcd575。日本の伝統色
荒縄 あらなわ。わらで作った太い縄。
応揚 正しくは鷹揚。応揚は間違い。おうよう。鷹(たか)が悠然と空を飛ぶように小さなことにこだわらずゆったりとしている。おっとりとして上品。
碧瑠璃 へきるり。1 青色の瑠璃。また、その色。2。青々と澄みとおった水や空のたとえ。
檳榔 びろう。ビンロウ。ヤシ科の1種
現心 うつつごころ。1.正気。気持ちがしっかりと確かな状態。2.夢うつつの心の意から夢見るような気持ち。うつろな心。
十方無碍光 じっぽうむげこう。「(じん)十方無碍光如来」は、阿弥陀如来のこと
白金 白金(はっきん)と読めばプラチナ。白金(しろがね)と読めば銀。
寂莫 せきばく。正しくは寂寞。1 ひっそりとして寂しいさま。2 心が満たされずにもの寂しいさま。
大安心 とても安心、悟り

 最初は鶏2羽が出てきます。

 微風(びふう)がをりをり護謨の(えだ)()をそよがして去つた。幹の中程(なかほど)一流(ひとながれ)ながれた海のうつくしさ。向うに兄島が見え、(うら)らかな麗らかなその瑠璃(るり)(いろ)の海峡を早瀬(はやせ)に乗つて、白い三角帆をあげた独木舟(カヌー)が走つてゆく。さりながら正覚坊にはその海が見えない。(あたま)を海の方に向けては()てゐるが。背後(うしろ)には護謨の樹の幹があり、海岸(かいがん)煙草(たばこ)の毛深い葉の(むらがり)がある。ただこの島の四方(しはう)八方(はつぱう)を取り囲んでゐる太平洋の波のうねりが何処(どこ)やらともなく緩るい調節(てうせつ)()のびに折り畳むでゐる、それだけは流石(さすが)正覚坊(しやうがくばう)癡鈍な感覚にも稍何らかの響を(つた)へるらしい、正覚坊(しやうがくばう)は目を(つぶ)つてまた目を開いた。
 コケツコツコ、コケツ・・・・・コケツコツコ、コケツ・・・・・物に驚いた鶏の鳴声が丘の下の農家(のうか)の方からきこえて来る。(はたけ)甘蔗(さたうきび)やバナナの葉かげをわけて此方(こちら)へ逃げてくるらしい、一()()、それが次第に近づくにつれて鳴声(なきごゑ)をひそめてくる、かと思ふと一羽の雄鶏(をんどり)がやがてロスタンシヤンテクレエのやうな雄姿を現した、鶏冠(とさか)の赤い、骨つ節の強さうな、()ばたきの真黒(まつくろ)い、はぢきれさうに(はづ)みかへつた驕慢雄鶏(をんどり)にひかされて白い舶来(はくらい)(だね)の雌鶏が何かを(つゝ)き乍ら()いてくる、ケケツと()(かへ)つて(はた)きつけるやうに(をす)(めす)の上に重なつた・・・・・と澄ましてまたケケツケツと(はね)(ひろ)げて(めす)の方へ()り寄つてゆくトタン、奇怪(けつたい)な大きい正覚坊(しやうがくばう)の図体がふいと前に(ころ)がつてゐるのが目についた、と、(たちま)(おどろ)きの叫びを立てゝ、ケケツコツ、ケケツ、ケケツコツケケツケケケケと逃げてゆく。而してまたひとしきり急忙(せは)さうな叫び声が甘蔗(さたうきび)の向うからきこえる。
 正覚坊(しやうがくばう)はそれでも(ゆつ)たりとしたものである。平気で大空(おほぞら)を見上げてゐる。温和(おとなし)さうな空色の(ひとみ)がつやつやと(うる)みを持つて、ただぢつと(うら)らかな(てん)の景色を見入つてゐる。恐らく傍らに何事が起つたかも知らないであらう。身動きひとつしやうともしない。

早瀬 流れのはやい瀬
海岸煙草 海岸近くに生えて タバコに似た葉を持つ。
 ソウ、くさむら、むら、むらがる。草が群がり生える。
癡鈍 ちどん。痴鈍。愚かで,頭の働きがにぶいこと
ロスタン エドモンド・ロスタン(Edmond Rostand. 1868-1918)はフランスのマルセイユ生まれの劇作家。1898年の演劇『シラノ・ド・ベルジュラック』が最も有名で、約1年半も上演。
シヤンテクレエ 1910年にはロスタンは鶏を始め様々な動物を登場させた寓喩劇「シャントクレール」Chanteclerも上演。
骨つ節 ほねっぷし① 骨の関節。ほねぶし。 ② 気骨。気概。 不屈の精神と決断力。ガッツ。肝ったま。
驕慢 きょうまん【驕慢/慢】 。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること
急忙しい 「せわしい」。現在は単に「忙しい」と書く。慌ただしい、せわしい、忙しい

 次は塗師が出てきます。この時期、小笠原にいた塗師は画家の倉田白羊氏が有名で、北原白秋氏と一緒に「パンの会」に出席していました。

 時が経つた。日射(ひざし)は愈強くなり、(おと)も絶えた空気の中を鶯の子が(くる)しさうにさゝ鳴きをしてはまた光つて消えた。ふと正覚坊(しやうがくばう)聴耳(きゝみゝ)を立つるやうに見えた。のつしのつしと人間の(ある)いて来る足音(あしおと)がしたからである。山から暑い盛りに下りて来た男は絵の具の垢染(しみ)だらけな仕事(しごと)()をつけ、真黒(まつくろ)な怪しい帽子をかぶつてゐた。まんまるい(かほ)のづんぐりむつくりした三十四五の男である。この小笠原では油絵(あぶらゑ)かきのことを(ぬり)()といふ。塗師も(いろ)()(なが)れて来たが今度(こんど)の塗師は(なか)()()らい塗師だといふ。その塗師が傲然とのさばりかへつて歩いてくるのである。正覚坊は恐れ入らざるを得ない筈である。それだのに正覚坊(しやうがくばう)は何にも感じないらしい。ただ恍惚(くわうこつ)と目を半眼(はんがん)に開けて見てゐる。塗師は正覚坊をちょいと()(おろ)して、フフンと云つた。而して腐れたバナナの裂葉(さけば)()(かへ)しながら、真黒(まつくろ)墓穴(はかあな)のやうな(いは)()いてある大きな大きな画布(カンパス)を楯のやうに振りかざして又づしりづしり。
 後はまた(うら)らかである。強烈な太陽(たいやう)(くわう)の下に、赤い(がけ)、青いバナナ、瑠璃(るり)代赭(たいしや)に朱の(まだら)、耀く黄、(そら)も木も、草もあらゆる()に入るもの(すべ)てなまなましい原色(げんしよく)ならざるはなしである。それが強烈に正覚坊(しやうがくばう)の目をきらきらと刺戟する。護謨(ごむ)の葉が徴風(びふう)がくれば五色になる。
 正覚坊は批評家ではない。だからこの美くしい自然とさきほどの塗師(ぬりし)真黒(まつくろ)()とどれほどの差異(さい)があらうとも平気なものである。何等の不思議とも感じないらしい。よし、何とか思つたにしたところで人間は人間、正覚坊(しやうがくばう)は正覚坊、どうにもならないのである。
 正覚坊は恍惚(うつとり)として大空のあなたを仰視(みあげ)てゐる。ゆつたりしたものである。
 幾時(いくとき)()つた。

ささ鳴き 笹鳴き。冬にウグイスが舌鼓を打つようにチチと鳴くこと。季語は冬。
油絵かき 北原白秋は大正3年2月、画家の倉田白羊は小説家の押川春浪と一緒に同年4月に小笠原に渡った。
傲然 おごり高ぶって尊大に振る舞うさま
 ガン、いわお、いわ。ごつごつした大きな石。岩
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で#2A5CAA
代赦 たいしゃ。黄土色がかった渋いレンガ色。16進表記で#B26235

 次は詩人です。北原白秋氏本人だと思われています。

 正覚坊はあまりの(うら)らかさに思はずうとうとしたが、うしろの海岸(かいがん)煙草(たばこ)の中から人間がぽいと飛ぴ出したのでハツと()をひらいた。真白(まつしろ)なホワイトシヤツの光耀(かゞやき)が見る目も(いた)(ほど)()みる。そのホワイトシヤツが声を立てゝ笑つた。まるで子供のやうな無邪気な笑声(わらひごゑ)である。
―――やあ、正覚坊(しやうがくばう)が転がつてゐる。面白いな。
 正覚坊(しやうがくばう)自身に取つては面白いどころの話ではあるまいが、のんきな正覚坊(しやうがくばう)、黙つてゐる。而して恍惚(うつとり)とその男を見てゐるのである。
 その男は(なん)と思つたか、コツコツと(つゑ)のさきで正覚坊(しやうがくばう)のまん円いお(なか)を敲いた。(いた)くも何ともないらしい。平気なものである、今度(こんど)はまた強くコツコツと頭を(たゝ)いた。ルコン・ド・リイルではないが、不感無覚寂莫世界と云つた風である。正覚坊はなかなか高踏派(パルナツシヤン)である。その男は ―――をかしいなあ。 と云つた。正覚坊(しやうがくばう)には別にをかしくも何ともないのである。その男はまた 一体、(をとこ)かしら(をんな)かしら。 と云つた。陰茎(いんけい)があるのかしら、あるとしたらどれがさうだらうと()つた(ふう)にその男はまた(つゑ)のさきでお(しり)のあたりをコツコツと(さが)して見た。一寸(ちよつと)云つて置く、その男は()つて醜い泥豚(どろぶた)に何ともかとも云へぬ薔薇(ばら)いろ繊細(せんさい)にして微妙(びめう)至極(しごく)な陰茎があるのを見て涙を流した詩人である。
 正覚坊の(ふた)つの後肢(あとあし)のまん中に小さな(さき)のするどい短い尻尾(しつぽ)見たやうなものがある、(つゑ)がその近くをふいと()()てたと思ふと、正覚坊(しやうがくばう)が不意にふふつと笑つた、(くち)をあけ、鼻孔(はな)をいつぱい(ふく)らまし、首を強くひと()()つてふふつふふつと笑った、よほど(くすぐ)つたと見える。青年は吃驚(びつくり)したが、これも声を出して笑つた。(はら)(かゝ)えてそこらの草つ原中笑ひころげた。  正覚坊(しやうがくばう)はまたけろりとして(そら)を無心に見あげてゐる。
―――のんきだなあ。をかしいなあ。 感嘆(きはま)ると云つた風で、流石(さすが)のんきな楽天家(らくてんか)も、この正覚坊(しやうがくばう)だけには叩頭(おじぎ)をしたやうだつた。
 正覚坊(しやうがくばう)はのんきだと云はれてものんきなのが何故(なぜ)わるいのか。それとも(なん)かをかしい事でもあったのかなあと云つた(ふう)に不思議さうな目つきをした。それで別に自分をのんきだとも思ってゐないらしい、当前(あたりまへ)であるといふ心もち。
 正覚坊(しやうがくばう)はまたうとうととした。微風(びふう)が海の方から吹いてくる。白い雲がぽうつと山の檳榔樹(びんらうじゅ)の上に浮ぶ。鶯が鳴く、世は太平である。その麗かさは限りがない。  その男は健康(ぢやうぶ)さうな元気の(あふ)るるやうな体格をしてゐた。こんな暑い日に素足(すあし)で、その上、帽子(ばうし)もなんにもかぶらないでゐる。暫時(しばらく)正覚坊(しやうがくばう)を見て感嘆してゐたが、(くる)しさうに()()()()ホワイトシヤツを()いで()(ぱだか)になった。玉のやうな(あせ)がだくだくその()りきつた胴や(たく)ましい両腕(りやううで)から流れ出るのである。拭くものがないので、ホワイトシヤツで、こきこき顔から身体(からだ)(ぢう)()き取つた。そして(なん)と思つたかフワリとそれを正覚坊(しやうがくばう)の頭に投げかけて置いて、自分もまた暑い天日(てんぴ)に全身を曝しながら、またごろりとかたばみ(なか)に寝ころんだ。大きなマドロスパイプを出して(いう)()と煙草を喫んでゐる。
 正覚坊(しやうがくばう)真白(まつしろ)なホワイトシヤツを(あたま)からスツポリと(かぶ)せられて、また恍惚(うつとり)とした。西洋新舶来のその匂は正覚坊(しやうがくばう)に取つては未だ()つて()いたことも嗅こともなかったに(ちが)ひない、それに人間の汗の臭気(しうき)甘酸(あまずゆ)さ、思はず、また恍惚(うつとり)となつて空を眺めた。空はこんどは自分の上に()ちて来てまつしろな光り耀くものとなつてゐた。日光が軟らかいシヤツを()てふりそゝぐ。
 正覚坊(しやうがくばう)は思はずぐつすりと熟睡したのである。

ルコン・ド・リイル シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール(Charles-Marie-René Leconte de Lisle、1818/10/22~1894/7/17)。フランスの高踏派の詩人で劇作家。ペンネームは姓だけのルコント・ド・リール。
不感無覚 何も感じなく、痛みもない
高踏派 19世紀、フランス詩の様式。上田敏の言で「高踏派」。パルナシアンは形象美と技巧を重んじた唯美主義の詩人たち。
泥豚 どろぶた。牧場で放し飼いされている豚のこと。放豚
薔薇いろ 薔薇色。日本の伝統色。     
かたばみ 乾燥した場所を好む多年野草で、古くから日本全国に分布する。
灑す 水をそそぐ、水を撒く、釣り針を投げる、散る、落ちる、洗う

 最後に天然老人が出てきます。

―――Kさん、何をして御座る。
 青年もうとうとしてゐたが、(みゝ)()れた老人(らうじん)の声にハツとして目をひらいた。大きなタコの葉の帽子をかぶつたきれいなS老人(らうじん)がにこにこと笑ひ乍ら正覚坊と彼とを等分(とうぶん)に見下してゐた。
―――裸でおゐででごわすか。この(あつ)いのに(はだか)は毒でごわすぞ。
 一寸(ちよつと)眉を(ひそ)たが、また莞爾(につこり)として、
―――Kさん、たいしたものがごわしたぞ。
とさもうれしさうにいふ。
 青年も立ち上つた。さうしてにこにことした。
―――ほうれ、これでごわす。
 老人(らうじん)は肩から掛けてゐた雑嚢(ざつのう)の中から人問の骸骨(がいこつ)下顎(したあご)()たやうな灰色の石を取り出した。
―――実に天然(てんねん)でごわすぞ。(めづ)らしうごわすな、ほうれ御覧(ごらう)じろ、こゝに白いものがポチポチイとごわせう。まるで雪が降つたやうでごわす。
 ポチポチイと云ふ(とき)さもかわいらしく老人(らうじん)は声を小さくした。如何(いか)にも白いものが(てん)()としてある。然し青年(せいねん)の見た白いポチポチは雪ではなくて骸骨(がいこつ)下顎(したあご)に残つてくつついてゐる人間の白い歯であった。老人(らうじん)はその石を大切さうに愛撫(あいぶ)しながら、
―――大したものでごわす、三百円ものが価値(ねうち)はごわす。
 この老人(らうじん)は名古屋の商人であるが、病気保養にこの島に来てゐるといふ、よく閑暇(ひま)にあかしては白檀(びやくだん)のひねくれた()(かぶ)や、モモタマの()無骨(ぶこつ)(こぶ)や、天然(てんねん)珍石(ちんせき)奇木(きぼく)を好きで集めては楽しんでゐる、快活(きさく)ないゝ老人である。口癖(くちぐせ)にしては天然(てんねん)々々()とばかし云ふので、Kさんたちはこの(ひと)天然(てんねん)老人(らうじん)と呼んでゐる。天然(てんねん)老人(らうじん)は然し商人である、どんな珍物(ちんぶつ)を見てもすぐに()ぶみをする、さうしてこれは利益(まう)かるなと胸算用(むなざんよう)して見る。Kがにこにこしてゐると、
―――(だい)雪景(せつけい)珍石(ちんせき)としたらどうでごわせうかな。面白いものでごわすぞ。売れますぞ。
と、天然(てんねん)老人(らうじん)正覚坊(しやうがくばう)の方をちらと見る。
 雪景(せつけい)珍石(ちんせき)が売れるか、売れないか、面白いものか面白いものでないか、百円の価値(ねうち)があるものか、それとも一銭五厘の価値(ねうち)しかないものか、正覚坊(しやうがくばう)は風流とといふ事を知らないから一(かう)御存(ごぞん)じがない。たゞホワイドシヤツを(かぶ)つて黙つてゐる。
 Kも正覚坊(しやうがくばう)をちらと見たが、如何(いか)にも気の毒相な顔をして、老人を振り返った。
―――正覚坊(しやうがくばう)はようく睡むつてゐます。

眉をひそめる 眉の辺りにしわをよせる。< 莞爾 読み方は「かんじ」。にっこりと笑う、ほほえむ様子。
雑嚢 雑多なものを入れる袋。肩から掛ける布製のかばん
モモタマの木 モモタマ(ジュズサンゴ)ではなく、小笠原ではモモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科)のことでしょう。巨大な葉が有名。
白檀 半寄生の熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴で、香木として利用されている

 天然てんねん老人らうじん談話はなしをしてる間もわかしい目をあげて見廻みまはしてゐた、何か珍物ちんもつはないかなと思つてさがしてゐるのだと思ふと無邪気むじやきな青年のKにはをかしくてならないといふふうだつた。天然てんねん老人らうじんはふいとお叩頭じぎをして、ついそばのモモタマの木の方へ行つたと思うと、突然いきなりおほきな大きな声を出して、さもさも一だい珍物ちんぼくを見つけたやうに叫んだ。
―――Kさん、(はや)く来て御覧(ごらう)じろ、大した珍木(ちんぼく)でごわすぞ、五百円がものはごわす。
 Kも(おどろ)いて飛んで行つたが、老人(らうじん)、モモタマの(こぶ)が飛んで()げでもするやうに(あは)てゝ、雑嚢(ざつのう)()けて二つ折の(のこぎり)を取り出し乍ら、
―――ほうれ、あの(こぶ)でごわす、(たい)したものでごわせう。陽物そつくりでごわす。
 流石に顔を(あか)めながら、
―――五百円がものは(たしか)にごわせう。 (たし)かにと云ふ言葉に力を入れて、鋸を(ひら)(なが)ら、下から(ぢつ)天然てんねん老人らうじんは見上げる。
 如何にも、(うら)らかな麗らかな(なん)ともかともいへぬ麗らかな空の(した)に、陽物そつくりのモモタマの()(こぶ)は手も届かぬ高い高い二(また)(えだ)の間に燦然と耀いてゐる。
 老人は一心に見上げながら、(した)からしきりに鋸を(うご)かす手つきをした。
 正覚坊はぐつすりとホワイトシヤツをかぶつて(ねむ)つてゐる。

陽物 ようぶつ。陰茎。男根。 
燦然 さんぜん。鮮やかに輝くさま。明らかなさま。

木下杢太郎氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 木下杢太郎氏は皮膚科医師で、さらに詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家でした。最終的には東大医学部の皮膚科教授になります。氏も与謝野寛氏、西條八十氏、内藤濯氏などと同じようにフランスに留学しています。大正10(1921)年5月、35歳、横浜を出発し、米国シアトル着、キューバ、ロンドンを経て10月にパリに到着します。そして「サン・シユルピスの廣場から」では

 ムツシユウN氏に就いてわたくしは佛語を習つてゐる。同氏がわざわざわたくしの客寓に來てくれるのである。この物靜かな、素養のある人から、この國の名家の講釋を聽いたことは、ずつと後になつても、わたくしに喜ばしい記憶となつて殘るであらう。
 その時窓の外には、弱い温さうな光が、くつきりと向側の家の廣い灰色の壁に當つでゐた。空はセリユウレオムの靑である。そして一瞬間わたくしは海邊に近き綠林の、夏早朝の日光のうひうひしさを想像した。

客寓 かくぐう、きゃくぐう。客となって滞在する。その家
セリユウレオム Cerulean。セルリアンブルー。16進表記で #007BA7。19世紀半ばに青い顔料が発明して付いた名称です。ラテン語で空色。JISの色彩規格では「あざやかな青」     

 ムッシュNは「ヌエット」なのか、ここではまだ判りません。次の1922年6月22日夜の「巴里の宿から(与謝野様御夫妻に)」では

 詩人のヌエトさんが貴方がたのことを時時噂します。この間ル・ジュルナルといふ新聞へ貴方かたのことを寄書しました。奥さんの寫眞は十幾年の前のものだつたらうと思ひますが、歌集の繪から複寫したやうでした。御惠贈の「旅の歌」はヌエトさんにお贈りしました。
 ヌエトさんがよくレシタシオンに件れて行つてくれます。マダム・マレユツクといふレシタシオンの先生のおさらひで、若い娘さんたちが歌唱し又吟詠します。そしてわたくしは佛蘭西語の發昔のいかに美しいものであるかと云ふことをつくづくと驚嘆します。紐育からの船中で或る老英国夫人の英詩の吟詠を聽いた時には少しも感動しませんでした。
 ヌエトさんの詩を讀んだ娘を、夫人がヌエトさんの處へ紹介しに來ました。むすめはおづおづ挨拶しましたが、かういふ臆病らしさをも佛蘭西のむすめは持つてゐるかと驚きました。

貴方がた 与謝野寛・晶子のこと。約10年前に与謝野夫婦はパリに来ています。
レシタシオン Recitation。朗読

 ここでヌエト氏と名前が出てきます。ヌエット氏です。ヌエット氏は詩人兼画家で、神楽坂の寺内公園で有名な版画『神楽坂』を作っています。ほとんどフランスにいたみんなが氏を知っていたようです。

晩年のノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

ノエル・ヌエット著「東京 一外人の見た印象」第2集、昭和10年

ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵

 1971年(昭和46年)、野田()太郎(たろう)氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。

 野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。

 一方、ノエル・ヌエット氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園にある版画『神楽坂』などを描いています。その死亡後、その版画は寺内公園の案内板に載りました。

     ヌエットと「濠にそひて」
 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデルの詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。

クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。

 野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。

 それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。
 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を()ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。
 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を(しやべ)らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど(くま)なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。

ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。

 昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。

 二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには(ぜい)を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。
 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。

   過ぎにし時のかげうつす
   ここの宮居の濠にそひ
   愛惜、のぞみ、()ひまぜて
   はこびし夢のかずかずよ!

 後の詩文は省略し

 この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重の錦絵版画「江戸百景」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの(こま)やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を()でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。
 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。

安藤広重 歌川広重と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『名所江戸百景』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。

数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。
 一方、西條(ふたば)()氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。
 その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。

 日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。

 去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。

 ヌエット氏の没年は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。

ノエル・ヌエット|矢来町12

文学と神楽坂

 ヌエットノエル・ヌエット氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園の説明で『神楽坂』という版画を描いています。

 Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。
 英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。
 日本に行くとそれが「ヌエット」となります。

 ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。

昭和22年の矢来町12。左上は現在。



与謝野寛とノエル・ヌエット

文学と神楽坂


与謝野寛晶子

 『巴里より』はパリのあれこれをまとめたもので、歌人の与謝野寛、与謝野昌子が共著で、大正3年、出版しています。1911年(明治44年)、寛はパリへ行き、明治45年5月、晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪し、晶子は10月に帰国、寛は大正2年に帰国します。
 この本のうち「飛行機」の章で、フレデリツク・ノエル・ヌエがでてきます。彼はフランス人の詩人でした。なお、この「飛行機」の章は初めて昭和45年、与謝野寛氏が単独で執筆しています。

 二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里(パリイ)の青年詩人を相手に仏蘭西(フランス)語の稽古をして()られる処であつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に(つい)てヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義(サンチマンタリズム)を脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週二度田舎の母親を()ふのを(たのし)みにして居る。ヌエ君と下宿の(かど)で別れて三人は自動車に乗つた。

サンチマンタリズム センチメンタリズム。sentimentalism。感情面を重んじ、知性よりも内的心情に支配される傾向。

 明治45年6月なので、与謝野氏は39歳、ヌエ氏は27歳です。2人が話をする場合もあります。
 しかし、この名前ヌエは鵺(ヌエ)と同じ日本語です。この鵺という言葉は妖怪のことで、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持っていました。これも変える必要もあったのでしょうか、15年後、ヌエ氏の日本の呼び名はノエル・ヌエット氏になっています。このヌエット氏は神楽坂の寺内公園の中では『神楽坂』という版画を作る詩人兼画家でした。
 次は大正元年12月。

     火曜日の()
 夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時(いつ)も服の畳目(たゝみめ)の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので「何かよい瞑想(めいさう)(ふけ)つて居たのを(さまた)げはしなかつたか」と問うたのも謙遜(けんそん)(この)詩人の問ひ相な事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電燈を()けた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼(こんな)(もの)を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。(つと)めて()れに新しい価値を見出さうとする。奇異(きい)を以て人を刺激する所があれば其れも新しい価値の種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の(しわ)(あらは)して「わたしには(わか)らない絵だ」と云つた。ヌエは内衣囊(うちがくし)から白耳義(ベルジツク)の雑誌に載つた自分の詩の六頁折の抄本を出して(これ)を読んで呉れと云つた。日本と(ちが)つて作物(さくぶつ)が印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況して其れで若干かの報酬を得ると云ふ事は殆ど不可能である。発行者の厚意から其掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬いられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解らない文字に()(くは)す度にヌエは傍から日本の辞書を引いて説明して呉れた。七篇の(うち)で「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相に微笑(ほゝゑ)んで頷いた。君が前年出した詩集の伊太利(イタリイ)に遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味(にがみ)が加はつて来た。其丈(それだけ)世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。

畳目 紙・布などをたたんだときにできる折り目
キュビスム 20世紀初頭、ピカソなどが始めた革新的な美術表現。ルネサンス以来の遠近法で現実を再現するのではなく、複数の視点から眺めた姿を平面上に合成して表現しようとしている
内衣囊 洋服の内側にあるポケット。内ポケット。
白耳義 ベルギー
圧迫 押さえつけること

 このころから既にノエル・ヌエット氏はフランス語の個人教師をしていたのです。


西條八十|払方町18

文学と神楽坂

 西条八十氏西條八十氏は、早稲田大学仏文学科教授を務め、詩人、作詞家で、さらに「唄を忘れた金絲雀かなりやは」で始まる「かなりや」など有名な童謡や流行歌を沢山つくっています。生年月日は明治25年(1892年)1月15日、没年月日は昭和45年(1970年)8月12日、享年は78歳でした。
 では、どこに住んでいたのでしょう。勿論いろいろな場所に住んでいましたが、では牛込区(新宿区の一部)では、どこに住んでいたのでしょう。西條八束著の『父・西條八十の横顔』では

 父は1892(明治25)年、東京牛込拂方(はらいかた)町に生まれた。私の祖父重兵衛は初めこの質屋の番頭を務めていたが、西條家の嫡男丑乃助が急死したため、その花嫁となるはずだった私の祖母と結婚して、家を継ぐこととなった。

 西條八十著の「青春の日記」を全集に掲載する際、娘の西條(ふたば)()の「解説」がついてきます。それを読むと、もう少し細かく判ってきます。

 父の生家は市ヶ谷と飯田橋の中ほどの濠端から北町へ抜ける、ちょうど3角に逸れる辺りにあった。現電話局の向い側からかなり奥に広がった大きな構えのようであった。

 うーん、かえって判りにくいか。新宿区の『区内に在住した文学者たち』を読むと、牛込払方町18 で生まれたと書いてあります。なるほど。
 下の番号がそれです。明治28年(左図)には、まだ下から上にあがる道(青の道路)はできていません。青に塗った上下をつなぐ坂道は明治42年にできました。昭和15年(右図)になると、道はきちんとできています。ほかに郵便局(〒)も出現しています。

明治15-28年

 ここで西條八十氏は明治44年(1911年)8月まで、つまり19歳まで、この同じ払方町で成長します。
 さらに、新婚の時、妻と一緒に初めて住んだ場所もここで、大正5年(1916年)6月から12月まで、住んでいました。
 ところが、牛込中央通り商店会が作った「西条八十家跡」(下図)は全く違っています。西條八十家跡は、左の図では下ではなく、左にあります。

牛込中央通り

牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年


 これは納戸(なんど)町の日々を描いているのでしょう。ここと大きく離れてはいない場所で(それでも、やはり間違えた場所で)昭和19年1月から20年4月まで住んでいたようです。西条八十著の『疎開日記』では

 そのあいだ、早稲田大学へは毎週2日間、フランス詩の講義にわりあい忠実に出かけた。娘たちが北京へ赴任したあとの牛込納戸町の家を仮寓に使っていたのだが、狭いながら日あたりのいい家で、そこへ行くと下館よりずっと暖かいので、落ち着いてつい長逗留してしまうのだった。(この家は昭和二十年四月十三日夜の空襲できれいに焼けてしまった。)(中略)
 牛込の仮寓には、よくバリ以来の友「ラ・ミューズ・フランセーズ」の詩人ヌエル・ヌエト氏が訪ねてきた。(ねずみ)(ざか)という細い暗い坂をのぽると、わたしの生まれた払方町へ出た。その想い山の町を深夜二人で肩を並べながら、氏の住む富士見町まで送って行ったものであった。(その後ヌエト氏の家はわたしの家よりもさきに焼けてしまった。)

 また、先の西條嫩子氏の「解説」によれば

 戦前、私が三井と結婚した新居は父の払方町の家から、現大日本印刷の方へ降る鼠坂という細い坂道の途中にあった。昔祖父の石鹸の乾し場であったと云う。かつては八十の伯父久七も住んでいた由であって、真向いに樹木の多い小高い家があり、「あそこが初恋の人、塩谷えんちゃんの庭だった」と父がなつかしそうに語っていた事がある。鼠坂から登りつめた所に戦前、払方町郵便局があった。郵便局の事務の娘さんが「この白壁の家は西條八十さんのお父さんのお蔵だったそうですよ」と私との関連を知ってか知らずか呟いていたことがある。

 昭和16年の地図で見ると、右の赤の四角は払方町での生家です。その直下に黒で郵便局(〒)も書いています。

西条八十・昭和16

 紫色は納戸町の全域です。納戸町のすべてはこの中に入っていなくてはいけません。牛込中央通り商店会の編者も確かに納戸町の場所は描いています。
 鼠坂は赤色で描きました。新宿区ではここだけが鼠坂なのです。
 家は「細い坂道の途中にあった」と書いています。「途中」の場所を薄い水色で描いてみました。ここいらが、おそらく仮寓の場所です。
 最後に最新の正しい「牛込中央通り」を描いてみました。新・牛込中央通り

西條八十とノエル・ヌエット

西条八十氏西條(さいじょう)()()氏は1892年(明治25年)1月15日に生まれ、詩人、作詞家、仏文学者で、大正12年(1923年)、フランスに留学しソルボンヌ大学で学び、帰国後早稲田大学仏文学科教授になりました。「唄を忘れた金絲雀(かなりや)は」で始まる「かなりや」は有名な童謡です。

 昭和36年(1961)、西日本新聞に西條八十氏は『我愛の記』という連載を書いています。これは『西條八十全集』第17巻、随想・雑纂の中で読むことができます。さて、その中の「リルケ」ではこう書かれています。

振返ってみてぼくのいちばん楽しかったのは、パリのカルティエ・ラタンの学生宿にいて、朝から晩までフランスの詩に読みふけった時代だ。ぽくは一五、六世紀から現代までの、あらゆる詩人の詩集を買いあさり、終日辞引片手に読みふけった。そして、どうしても意味の難解な詩句には、鉛筆でアンダーラインしておいて、いちいち知り合いのむこうの詩人をたずねて解釈してもらった。現在ずっと日本に住んでいる「ラ・ミューズ・フラソセーズ」の詩人ヌエル・ヌエット氏などは、その中でも、もっともぼくに協力してくれた人だ。冬になると、パリは午後三時ごろに日が暮れた。さむざむとした下宿の中庭に、黒つぐみの鳥が遊んでいた。そういう時、小さな電気スタンドをつけて、ヌエット氏から詩を学んでいた若い自分がしみじみなつかしい。近ごろあまり本を読まなくなったのは、きっと老眼鏡が重くてうるさいせいだ。
 そうだ、ことしは思いきって、きれいな声でぼくの代わりに好きな本を音読してくれる誰かを雇おう。そしてリルケの愛した図書室の高い澄んだ空気を孤独の身辺に築こう。

 現在、ヌエル・ヌエット氏というよりはノエル・ヌエットと書くようです。ノエル・ヌエット氏は寺内公園に版画の『神楽坂』を描いています。氏は当時パリにいた日本人をかなり知っていたようです。そして、その後、氏は日本にやってきます。

西条とノエル 1959年、NHKの「黄金(きん)の椅子」でヌエット氏を見ることもできます。前列左側からノエル・ヌエット氏、サトウ・ハチロー氏、佐伯孝夫氏、西條八十氏が出ています。これは西条八束著、西条八峯編『父・西條八十の横顔』にあった写真の一部です。本文では

一九九三年三月のことである。父と姉の蔵書を神奈川県立近代文学館が受け入れてくださることになり、それらを整理していると、姉が持っていたおびただしい数の写真が出てきた。その中に、一九五九年一月十六日から四回にわたってNHKテレビの「黄金(きん)の椅子」という番組の百回記念として放映された、「西條八十ショウ」の写真があった。その一枚には、堀口大學、サトウハチローなど多数の有名な方がたに交じって、ノエル・ヌエットさんも写っていた。パリに留学した父がフランス語を習っていた詩人である。

 最初は西條八十氏の家に宿泊したようです。

ヌエットさんは一九二六(大正十五)年、父が日本に帰国して間もなく、父の招きもあって来日し、晩年に帰国されるまで、親しくおつき合いしていた。ものしずかでやさしい人だったが、日本語はいつまでもうまくならなかった。
 ヌエットさんは初めて日本に来て、しばらくはわが家に滞在したらしいが、母をはじめ、欧米の生活をまったく知らぬ私の家族は、彼の食事その他にとても苦労したらしい。その頃父の家に身を寄せて家事を手伝ってくれていた叔母が、ヌエットさんのために新宿の中村屋までパンを買い行かなければならなかったことなど、よく話していた。

 内藤濯氏もノエル・ヌエット氏と一緒に働いていました。しかし、西條八十氏のほうがかなり一緒になって働いているといえそうです。

神楽館|広津和郎

文学と神楽坂

 広津和郎広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は作家、文芸評論家、翻訳家です。『年月のあしおと』(講談社、昭和44年、1969年)に大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災のことが書かれています。そのとき、広津氏は31歳、神楽坂の下宿にはいっていました。
 では、この神楽坂の下宿はどこなのでしょうか。 まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 私は牛込神楽坂に近い下宿屋社員を四人程置き、自分も鎌倉――当時鎌倉小町に私は両親と一緒に暮していたが、始終東京に出て、その同じ下宿にいることが多かった。その外に社員ではなかったが、片岡鉄兵が家からの仕送りがなくなったので、そこに置いておいた。それから後に麻雀で有名になった川崎備寛なども置いておいた。どうせ一人や二人、人数がふえたところで大した違いはないという気持で、これらの人達の下宿代を一緒に払ったわけであるが、銀行の手形交換の時刻の迫る前に原稿を書き、雑誌社にかけつけて、原稿料を受取ると、銀行にとんで行って、やっと手形を落すというようなことも、今思い出すと何か愉快な思い出になっている。(中略)
 関東の大震災も、私はその下宿屋の三階で出遭った。私はその前夜原稿を書いていたので、地震の時間の正午一寸前には、まだ寝ていた。ひどい震動で眼がさめたが、ふと見ると、部屋の隅の鴨居の合せ目がぱくぱくと拡がっては又つぽまり、拡がっては又つぼまりしている。あれが拡がり切ったら、天井が落ちるのではないかと思ったので、私は寝床から起き上って、箪笥の側に行き、箪笥が倒れないようにと、それを押えながら、その蔭に身を寄せた。

下宿屋 この下宿に入り、関東大震災の時もこの下宿に入っていました。場所は「牛込神楽坂に近」く、片岡鉄兵と川崎備寛も一緒に住んでいた場所だといいます。

 更に読んでいると『広津和郎全集 第13巻』の「先ずペエシェンスから」(初発は昭和3年10月。底本は『新潮』)にその下宿が出ていました。

 片岡鉄兵君とは暫く会わない。(省略)
 例の震災前及び震災後の牛込の神楽館時代には毎日互に顔を合わせていた。それから急に顔を合わせなくなって、そして彼が結婚するので彼から招待されたその時まで、約二年間位は、彼に対する記憶が殆んどない。どうも会う機会がなかったらしい。

 神楽館だという場所でした。場所はここです。 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)も同じことが出ています。

 二十一、二の時分に神楽館という下宿にいた。白木屋の前の横丁を這人ったところだ。片岡鐵兵ことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎備寛、間宮茂輔、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

白木屋 白木屋は百貨店で、神楽坂の中腹で、神楽坂2丁目が終わり、代わって3丁目に始まった場所にありました。現在、白木屋はなく、1階には「サークルK」,2階には「Royal Host」がはいっています。下から右に向かうと「神楽坂仲通り」に入っていきます。
間宮茂輔 小説家。まだこのころは広津和郎氏が社長だった渋谷の『藝術社』の一社員でした。
まげる 品物を質に入れる。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

 関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 間宮茂輔の親戚、間宮武氏が書いた『六頭目の馬・間宮茂輔の生涯』で関東大震災はこう書いています。

 神楽坂は矢来の新潮社に通じる道筋にあたっていたから、文士の往来も繁く、矢来に住んでいた谷崎精二加納作次郎、それに佐々木茂索といった人たちはよく神楽館に立ち寄っていった。
 その年の九月一日、関東大震災が起こる。
 その日出社していたのは、茂輔と番頭役の島田という男の二人だった。
 地鳴りを伴いながら、激しい振動が襲い、木造の社は音を立てて崩れ落ちた。
 縁先の太い樹木によじ登り、茂輔は辛うじて難を避けた。
 黒煙と土くれが巻き上る空の下を、めくリ上げるように続く余震に脅えながら神楽館に辿り着いた。建物は無事だったが、部屋の壁は崩れ、広津をはじめ同宿の片岡鉄兵の姿もみえなかった。
 夕方になって、広津たちが避難先から次々と帰って来た。

 以上、広津和郎氏が大震災にあった下宿は「神楽館」でした。

鼠坂|納戸町(360°カメラ)

文学と神楽坂

 牛込の(ねずみ)(ざか)という坂がありました。場所はここ。横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、初出は昭和45年)が詳しく

鼠坂 江戸には鼠坂という名の坂があった。それから鼠穴など呼ぶ地名もあった。ごれらは、細くて狭く長い坂または道を言ったのである。
『改選江戸志』は、「鼠坂は、至つてほそき坂なれば、鼠穴などいふ地名の類にて、かくいふなるべし」と解説している。
 とにかく、鼠坂も鼠穴も、ともに細長い狹い道を意味していることは確かなようだが、鼠穴のほうは行き止まりの袋町といったようなところもある。
 現在、東京の鼠坂は、つぎの三ヵ所である。
(1)文京区音羽一丁目(旧音羽町六丁目)から小日向二、三丁目境を東へ上る細くて長い坂。音羽町六丁目の丁亥(文政十年)の「書上」にはつぎのように記してある。「坂、幅壱間程、長凡五拾間程。右は鼠坂と里俗に相唱申侯」
(2)港区麻布永坂町と麻布狸穴町との間を、北の方麻布飯倉片町まで上る坂。
(3)新宿区納戸町と鷹匠町との境を、北のほうへ上る狭い坂。

 石川悌二氏の『江戸東京坂道事典』(新人物往来社)では

 納戸町と鷹匠町の境を北上する坂で、中根坂の北東にあたり、『東京案内』には「牛込納戸町と市谷鷹匠町の間より加賀町に下る坂路あり、鼠坂と呼ぶ」とある。狭い坂道で坂下が袋小路になっているようなものをむかしの人は鼠坂と袮し、『改撰江戸誌』に「鼠坂は至ってほそき坂なれば、鼠穴など地名の類にてかくいふなるべし」と書かれている。この坂の下も加賀町一丁目大日本印刷会社東辺の谷間で、その東に芥坂があり、西には中根坂が市谷本村町陸上自衛隊本部裏手へと南上していて、その道をさらに進めば左内坂上に至る。市谷台と牛込台のはざまである。

 山野勝氏の『古地図で歩く江戸と東京の坂』(日本文芸社)では

 その仇討跡からさらに進み、突きあたりを片折する。道は緩やかな下りになる。この古趣の漂う坂を鼠坂という。鼠のような小動物しか通れないような細い急坂で、坂下が袋小路になっているような所を、昔の人は鼠坂と称したようで、都内には同名の坂が、この他に文京区音羽一丁目と港区麻布永坂町にあるが、山地の坂も鼠の通路のイメージに近いと思われる。しかし、残念なことに坂の下部付近に、先の芥坂と同様の歩道橋が架けられたため、坂下は大日本印川の柵内にとり込まれてしまった。歩道橋を進んでいくと、前述した中根坂の上り囗に出ることになる。

 遠くでは昔と変わらない光景が出てきます。

現在の鼠坂
鼠坂と中根坂

 ここで昔の鼠坂は赤の坂道でした。しかし、中根坂に歩道橋ができて、そのためこの歩道橋につなぐピンク色の道もできました。鼠坂の下3分の1(ピンク色のうち南1/3の坂)は通行はできず、現在はあったことも判らなくなっています。以前の坂は…

ブログ「歩いて見ました東京の街」(田口政典)写真は2005年11月19日。

ブログ「歩いて見ました東京の街」(田口政典)写真は2005年11月19日。

 以前は標柱もあったようです。「細くて狭い坂だったから、まるで鼡がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう」と書かれていました。

ブログ「歩いて見ました東京の街」(田口政典)写真は2005年11月19日。


星の王子さまとノエル・ヌエット

文学と神楽坂

内藤濯 内藤(あろう)氏は『星の王子さま』を翻訳した人で、最後は一橋大学の教授になっています。生まれは明治16年(1883年)。明治40(1907)年、東京帝国大学文科大学フランス文学科へ進学。フランス近代詩の翻訳を発表します。
 この時こんなエピソードも残しています。なお、この筆者、内藤初穂氏は内藤濯氏の息子です。

(内藤濯は)大学二年にすすんだぱかりの分際で「印象主義の楽才」と題する一文を『音楽界』九月号に発表、ドビュッシーの存在を日本に初めて喧伝した。
「種本」のあることなど知らぬ顔をしていた。が、知る人は知る。第二高等学校の三年先輩に当たる太田正雄、医学の分野で業績をあげる一方、木下杢太郎の筆名で詩・劇作・美術史の分野でも名をあげた人物が、詩集『食後の唄』(大正八・一二)の序文で父の論説を容赦なく切り捨てた。
「まだ聴いたこともないDebussyを評論する、出過ぎた批評家」(1)
 この酷評から三年後、父はパリ遊学中に杢太郎と出会い、親交を得る。
 父自身は、杢太郎の謡を白秋以上のものと評価していた。父の話では、杢太郎は一徹にも、白秋が売名のために童謡を濫作しているといって、10年ほども交わりを絶っていたらしい。が、白秋が太平洋戦争二年目の秋に死去するその三年ほど前には、一切のこだわりを捨てて旧交を暖めたという。
 杢太郎は、戦後まもなく胃癌をわずらって他界したが、その詩を愛しつづけた父は、昭和31年10月21日、JR伊東駅に近い川畔の伊東公園でおこなわれた詩碑「ふるき仲間」の除幕式に出席、父が晩年に勤めた昭和女子大学や地元の西小学佼・伊東高等学校の女子学生たちに山田耕筰作曲のその詩を歌わせ、タクトをふった。
内藤初穂著『星の王子の影とかたちと』(筑摩書房) 2006年
以下引用文献は同一。

 話を元に戻します。内藤が大学を卒業したのは明治43(1910)年。フランス語教官として陸軍幼年学校に勤務。大正9年、母校・第一高等学校の教授になり、文部省在外研究員として、大正11-14(1922-25)年、パリに留学。
 パリに留学したのは38歳からです。留学中に内藤は日本人の友人を作ります。

 折竹がパリの見どころを案内する間、東京帝国大学の四年後輩で明年四月から同大学で教鞭をとるという辰野隆が初対面の挨拶にあらわれ、つづいて音楽エッセイを何度か投稿した雑誌『音楽界』の主幹、小松耕輔が姿を見せる。

 またフランス人の友人、ノエル・ヌエー氏も話し相手でした。ノエル・ヌエーは1885年に生まれており、内藤と2歳しか違いません。

 加えて辰野はノエル・ヌエーという物静かな詩人を父に引き合わせ、会話力の鍛錬かたがた文学講義の話し相手とした。

 このノエル・ヌエーって誰のことなのか、わかりますか? 結果はすぐ後で。1924年帰国後、内藤は東京商科大学(現在の一橋大学)教授となります。当時の教え子に伊藤整など。内藤が日本に帰って見ると、1926(昭和元)年、ノエル・ヌエーも日本にやってきました。

 ルナアルの文章は、単純なようでいながら間違いやすく、ひと癖あるようで最高に正しいフランス語だという定評がある。その翻訳に当たって、父は疑問の個所をノエル・ヌエーに質すことにした。ヌエーは静岡高等学校で三年の契約をすませたのち、いったんフランスに帰ったが、日本を忘れられぬまま東京外国語学校の要請に応じて一ツ橋の校舎に着任したばかりのところであった。日本ではヌエーの末尾サイレントを発音してヌエットと呼んでいたが、父はフランスいらいの「ムッシュー・ヌエー」を押し通した。
 大森の家によく姿を見せていたように覚えている。ほどよく髭をたくわえた四角の顔に眼鏡をかけ玄関の式台に座って靴をぬいだあと、さらに二重にはいた靴下の外側をぬいで靴に押しこんでから上がってくるのが珍しかった。父によれば「日本語を覚えようとしない日本贔屓のフランス人」で、二人の交わすフランス語が音楽のように書斎から流れていた。

 つまり、ノエル・ヌエー、フランス語ではNoël Nouëtで、この日本語名はノエル・ヌエットで、神楽坂の寺内公園案内板に彼が描いた絵が描いてありますが、その絵を描いた画家兼詩人がヌエットでした。ヌエットが日本に2回目に訪問した時は1930(昭和5)年です。
 1953(昭和28)年、内藤濯訳で「星の王子さま」を出版。ノエル・ヌエットは1962(昭和37)年、日本からフランスに帰国します。昭和44(1969)年、ヌエットは84歳で死亡。昭和52年(1977年)、内藤が死亡。94歳でした。

(1) 木下杢太郎の『食後の唄』の序(大正七年九月四日版)ではここはこうなっています。この批評家は本当に内藤濯だったのでしょうか。まあ、息子がそういっているので…そうするか。

 さう云ふ情緒も又無論同時の詩的氣稟から見逃されてはゐなかつた。新に西洋から歸つた洋畫家の中には、まだ人の瞳が靑く見える習慣のままで、お酌の踊を畫かうとするのもあったが、我我はその中でも、蒲原有明氏の「朝なり」から大なる感激を受けた。無論そんなしやれた心持は少しも分らないで、子どものおしめの心配や、下宿屋での月末の苦勞を記述する、牛込邊の文士團體もあるにはあつたが、然し一方にはまだ聽いたこともないDEBUSSYを評論する、出過ぎた批評家もあつたのである。
 街頭の張札(あふいつしゆ)を愛し、料理屋の色紙の印刷を愛し、モンマルトル畫家の漫畫(きやりきやちゆる)を愛し、隆達、弄齋、竹枝、山歌(しやんそんねつと)を愛するを知つた予が、こいつを一番小唄でやらうと考へたのは惡い思ひ付きであつた。當時小傳川町の廣重、淸親ばりの商家のまん中に、異樣な對照をなして「三州屋」と云ふ西洋料理屋があつたが、是れは我我の屢「パンの會」を催した會場であつた。その頃椅子に腰をかけて三味線をひいた五郎丸、ひさ菊、お松つさんなどいつた女たちは今はどこにどう四散してゐることやら。
木下杢太郎著『食後の唄』序



わが青春の記|紀の善|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が書いた「わが青春の記」(初発は『中央公論』昭和11年。日本図書センター『長田幹彦全集 別巻』1998年)には、明治41年1月、長田氏などの七人が新詩社から脱退する顛末が書かれています。この決定は神楽坂の「紀の善」で行いました。
 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。

 (しん)()(しや)(だつ)退(たい)()(けん)()れが(しゆ)(はう)(しや)であつたか、(いま)では()(おく)がはつきりしてゐない。とにかく(みんな)(うつ)(ぼつ)としてゐたのであるから、一人(ひとり)()をつければ(たちま)()(あが)るに(きま)つてゐる。(ちか)(ごろ)(りう)(かう)(しよく)(そく)(はつ)といふ(やつ)である。()んでも()(ぐら)(ざか)(した)()()(ぜん)といふ鮨屋(すしや)の二(かい)(あつま)つたのが、北原(きたはら)白秋(はくしう)吉井(よしゐ)(いさむ)木下(きのした)(もく)太郎(たらう)深井(ふかゐ)天川(てんせん)秋庭(あきば)俊彦(としひこ)秀雄(ひでを)(ぼく)この七(にん)で、新詩(しんし)(しや)脱退(だつたい)()(たちま)ちそこで一(けつ)してしまつた。その理由(りいう)は、とにかく()()()(くわん)()(たい)する()信任(しんにん)で、折角(せつかく)われわれが努力(どりよく)していい()をつくつても(みんな)()()()(くわん)()(きふ)(しう)されてしまふ。新詩社(しんししや)といふやうな團體(だんたい)結成(けつせい)してゐては、成長(せいちやう)()()みがない。だからこゝで分裂(ぶんれつ)して自由(じいう)天地(てんち)(およ)()ようといふやうなことだったと(おも)ふ。
 その翌晩よくばんぼくうちまたみんなあつまつて、仕出しだものかなにかとつて、おほいに氣焔きえんをあげたものである。そのくわはつたのが、蒲原かんばら有明ありあけ先生せんせい、それから瀧田たきた哲太郎てつたらうもゐた。瀧田たきたぼく親父おやじ患家くわんかだつた。で、それでんだのだつたとおもふ。むろんもうそのころには中央公論ちゆうわうこうろん編輯へんしふをやつてゐて、小栗風葉をぐりふうえう獨歩どつぽのものでおほいにつてゐた時代じだいであつた。


新詩社 明治32(1899)年、(かん)鉄幹てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
首謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家でした。
仕出し屋 注文に応じて料理を作って配達する店。出前をする店。
気焔 燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。

 えんたけなはに、みんな唐紙たうしがきをやつたが、それは非常ひじよう面白おもしろ記念品きねんひんである。一さがしてみてもしあつたら、是非ぜひ寫眞版しやしんばんにして掲載けいさいしてもらはふとおもつてゐる。
 蒲原かんばら先生せんせいりんり、、、たる醉筆すゐひつふるつて白秋はくしう似顔にがほをかき、「白秋はくしうたいをしき」とさんをされたのであつた。
 さて脱退だつたいけつした翌日よくじつわれわれはかほをそろへて、新詩社しんししやしかけた。新詩社しんししや丁度ちやうどいま神宮外苑じんぐうぐわいえん裏参道うらさんだうのところにあつて、家賃やちんにして二十圓位ゑんぐらゐの、板羽目いたはめどぎどぎしたちひさな貸家かしやであつた。しもどけのころにたると、みちがどろどろにぬかつて、垣根かきねには山茶花さざんくわさびしくいてゐるやうなまちであつた。
 與謝野氏よさのしもたゞならぬ氣勢けわひかんじたとみえて、眉宇びうあひだ不安ふあんいろみなぎらせながら、我々われ/\むかへた。脱退だつたいのことはたれさきくちをきつたか、わすれたが、とにかく口頭こうとうで、勇敢ゆうかん聲明せいめいをやつてのけた。だまつていてゐゐたが、そこへ長男ちやうなん息子むすこさんがはひつてきてなにかいふと、與謝野よさのはかツと激怒げきどして、眞鍮しんちゆう火箸ひばしぼつちやんへげつけた。往年わうねん朝鮮時代てうせんじだい鐵幹てつかんおもはしめるやうなそのかほじつおそろしかつた。ほくはそのときにもむろん味噌みそかすなので、すみほうへすツこんでちいさくなつてゐた。陣笠ぢんがさ悲哀ひあい何處どこまでもついてまはつた。與謝野氏よさのし居間ゐまには座敷ざしき半分はんぶんもあるやうなおほきな木製もくせい寢臺ねだいゑてあつたが、ぼくはそのかげすわつて、事件じけん推移すゐい固唾かたづをのんでてゐた。そのときぼくはいよいよ見限みきりをつける決心けつしんがついたのであつた。
(長田幹彦「わが青春の記」『中央公論』昭和11年4月)


りんり 淋漓。勢いなどが表面にあふれ出る様子。
酔筆 酒に酔って書画をかくこと。その作品。酔墨。
三位一体 さんみいったい。キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。三つのものが一つになること。また、三者が心を合わせること。
 さん。ほめたたえること。その言葉。
板羽目 板で張った壁や塀。板張りの壁や塀
どぎどぎ 刃物の鋭利なさま。うろたえ、あわてるさま。
気勢 きせい。何かをしようと意気込んでいる気持ち。気配と間違えたもの? 気配は、はっきりとは見えないが、漠然と感じられるようす。
眉宇 まゆのあたり。まゆ。「宇」はのき。眉を目の軒と見立てていう
往年 おうねん。過ぎ去った年。昔。
思わしめる 古語。思わせる。「しめる」は使役の意味。
味噌っ滓 みそっかす。味噌をこした滓。価値のないもの。一人前にみなされない子供。
陣笠 下級の武士がかぶとの代わりにかぶった笠。政党などで一般の議員。ひら議員。政党の幹部に追従し、自分の主義・主張をもたない議員
寝台 寝るとき用いる台。ベッド。
固唾 かたず。緊張した時に口中にたまるつば。

『スバル』第一巻第二号の消息|石川啄木

文学と神楽坂

小生とは石川木のことです。明治42年「スバル」の2月号、短歌は六号活字となりました。小さいのです。

スバル消息
◎本誌の編輯は各月当番一人宛にてやる事に相成、此号は小生編輯致し候。随つて此号編輯に関する一切の責任は小生の負ふ所に候。

『スバル』第一巻第二号を編集するのは石川木だけだといっています。さらに

締切までに小生の机上に堆積したる原稿意外に多く為めに会計担任者と合議の上、紙数を増す事予定より50頁の多きに達し、従つて定価を引上るの(やむ)なきに到り候ひしも、(なほ)(かつ)その原稿の全部を登載する(あた)はず、或は次号に廻し、或は寄稿家に御返却したるものあり。謹んで其等執筆諸家に御詫申上候。
◎また本号の短歌は総て之を六号活字にしたり。此事に関し、同人万里君の抗議別項(119頁)にあり。(ここ)に一応短歌作者諸君に御詫び申上候。
◎万里君の抗議に対しては小生は別に此紙上に於て弁解する所なし。つまらぬ事なればなり、唯その事が平出君と合議の上にやりたるに非ずして全く小生一人の独断なる事を告白致置候。平出君も或は紙致を倹約する都合上短歌を六号にする意見なりしならむ。然れども六号にすると否とは一に小生の自由に候ひき。何となれば、各号は其当番が勝手にやる事に決議しありたればなり。
◎活字を大にし小にする事の些事までが、ムキになって読者の前に苦情を言はれるものとすれば、小生も亦左の如き愚痴をならべるの自由を有するものなるべし。
◎小生は第一号に現はれたる如き、小世界の住人のみの雑誌の如き、時代と何も関係のない様な編輯法は嫌ひなり。その之を嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文芸に対する態度と覚悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作る如きは或意味に於て小生の遊戯なり。
◎小生は此第二号を小生の思ふ儘に編輯せむとしたり。小生は努めて前記の嫌ひなる臭味を此号より駆除せむとしたり。然れどもそは遂に大体に於て思つただけにやみぬ。雑録に於て、口語詩、現時の小説等に対する小生の意見を遠慮なく発表せむとしたれども、それすら紙数の都合にて遂に掲載する(あた)はざりき。遺憾この事に御座候。僅かに短歌を六号活字にしたる事によりて自ら慰めねばならぬなり。白状すれば、雑録を五号にしたるも、しまひに付ける筈なりし小生の『一隅より』を五号にするため、実は前の方のも同活字にしただけなり。(あへ)て六号にすれば遅れますよと活版屋が云つた為にあらず。それは一寸した口実なり。
◎愚痴は措く。兎も角も毎号編輯者が変る故、毎号違つた色が出て面白い事なるべく候。
◎末筆ながら、左の二氏より本誌の出版費中へ左の通り寄附ありたり。謹んで謝意を表しおき候。
一金五円也 上原政之助氏
一金一円也 相田蕗村氏
(校了の日 印刷所の二階にて 木生)

[『スバル』第一巻第二号 明治四十二年二月一日]


スバル 森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下(きのした)杢太郎(もくたろう)高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らが活躍しました。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
消息 人や物事の、その時々のありさま。動静。状況。事情
六号活字 横約3ミリで、英語の8ポイント活字と比べると、わずかに小さい
万里 平野万里。当時は24歳。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表しました。石川木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。
平出 平野の間違いでは。もう少し調べて見ます。

木下杢太郎「南蛮寺門前」

文学と神楽坂

木下杢太郎」 木下(きのした)(もく)()(ろう)に「南蛮寺門前」の中で石川啄木のことを書いている場面があります。昭和5年4月『冬柏』第2号に投稿したもので、木下杢太郎全集第14巻によっています。
 小さな6号活字がここでも問題になっています。
 1年前、北原白秋や木下杢太郎はこの小さな活字に怒ったことや、ほかの理由もあり、与謝野寛のもとから脱退し、『明星』も第100号で廃刊。以来、与謝野寛氏にとっては失意が続きます。また、木下杢太郎が石川啄木をどうやってみているかもわかります。
 明治42年(1909年)1月には、森鴎外は47歳、伊藤左千夫は44歳、与謝野鉄幹と上田敏は35歳、斎藤茂吉は26歳、平野万里と北原白秋は24歳、木下杢太郎氏と石川啄木は23歳、吉井勇と古泉千樫は22歳でした。

 今でも僕は殘念に思つてゐるのだが、それは僕の戲曲の第一作の「南蠻寺門前」をば、先生が校正の時添削して下さるといふのを、その時の第2號の編輯を引受けてゐた石川偏執からその機會を失したことである。此事は同じ名の僕の戲曲集のにも書いて置いたが、も一度回想して見る。
 時は明治42年の1月2月の頃である。その時分には「パンの會」と「觀潮樓歌會」とが屡〻有つた。たとへばその歳の1月の9日には午後からパンの會があり僕等は6時半にそれを濟まして、夜森先生の御宅の短歌會に出た。その時の出席者は昴の第2號に據ると、主人の他與謝野寛上田敏伊藤左千夫小泉千樫、石川木、斎藤茂吉平野萬里及び僕で、題は「舞」「清」「吝」「構」「或」であつた。僕の日記には「雲降る。10時過帰宅。」と書いてある。

 スバル。森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川啄木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下杢太郎、高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らの文芸雑誌。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点になった。。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
偏執 かたよった考えをかたくなに守って他の意見に耳をかさないこと。
 ばつ。書物や書画の終りに,その来歴や編著の感想・次第などを書き記す短文。あとがき。
パンの会 明治末期の青年文芸・美術家の懇談会。反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場。1908年(明治41年)12月、第1回会合は隅田川の右岸の両国橋に近い矢ノ倉河岸の西洋料理「第一やまと」で。高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会し、耽美派のメッカに。白秋の『東京景物詩』、杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。
観潮楼歌会 観潮楼かんちょうろうとは森鴎外が住む家のことで、森鴎外が『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著しました。観潮楼歌会はここでの歌会のこと。場所は文京区千駄木1-23-4。
屡〻 「しばしば」。何度も。たびたび。〻は二の字点、ゆすり点で、主に縦書きの文章に用い、上の字の訓を重ねて読むときに使います。現在は「々」で代用。
短歌会 観潮楼歌会と同じ。
古泉千樫 こいずみ ちかし。木下杢太郎氏は小泉と書いていますが、正しくは古泉。左千夫が脳溢血により50歳で急逝すると、千樫はアララギ派の中心的歌人として多くの秀歌を残しています。
平野万里 ひらの ばんり。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表。石川啄木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。

 1月13日の水曜日も雲であつた。午後4時から上野精養軒で「靑楊會」があつた。是れは第何回のものであつたか。靑楊會とは、上田敏先生の洋行送別會が上野の精養軒であつたのを第一の機曹としてその後その家で時々催されたものである。僕の日記には唯「上田氏怪氣焰。永井荷風。」と記してあるばかりである。然しかう云ふ斷片的のものから當時の文學的雰圍氣を通つて來たものには直ぐいろいろの聯想が附くことと思ふ。
 その1月の間に僕は南蠻寺門前の小戲曲に着手し、前半はわけもなく出來たが、後になるに從つて思想が纏めらなくて閉口した。
 當時の交友は新詩社を中心とした諸君で、1月17日の日曜日には午後2時本郷森川町の蓋平館本店といふ下宿に石川木を訪ねた。石川が昴二月號の編輯をやつてゐたことは既記の如くである。そこに吉井勇が居た。吉井と共に寓居に歸り、夜はまた南蠻寺にかかつた。あと五六枚のところで煩悶してゐたのである。
 1月18日も午後から雪となった。さんざ苦しんだ揚句豫期しなかつた着想を得て、膝を打ち、午後4時半に至つて到頭書き上げた。そして女中に糊入の美濃紙を買はして、大急ぎで淨書し、森先生の御宅へ電話をかけると、來てもよいといふ返事であつた。
 晩餐の後直ぐ家を出たが、その途中ふと追分なる島村盛助の宿へ立ち寄つて此原稿を見せた。
 談後島村が批評を始めて、中々言葉が切れない。こちらは氣が氣でなかつたなどといふことも思ひ出される。

青楊会 せいようかい。靑楊會の場所は上野(せい)(よう)(けん)で。食べながら話を聞いたり歌を詠んだりなどしたのでしょう。
新詩社 しんししゃ。正式には東京新詩社。1899(明治32)年、与謝野鉄幹を中心に創設。1900年創刊の機関誌《明星》は08年廃刊まで浪漫主義文学の拠点でした。妻晶子を始め、高村光太郎、平野万里、北原白秋、木下杢太郎、石川啄木、吉井勇ら新人が輩出しました。
美濃紙 岐阜県美濃市で()かれている和紙の総称
島村盛助 しまむら もりすけ。24歳。英文学者、翻訳家、教育者で、明治42年に東京帝国大学英文科を卒業しました。岩波の英和辞典の編纂者の一人です。

 森先生は直ぐ僕の原稿を讀み始められた。僕は傍から今どの邊が讀まれてゐるかを眺めた。
 森先生はそれを讀み了ると、はははははと笑つた。そしてだいぶいろんなものか並べてあるねと揶揄せられた。
 その時どう云ふ批評をされたか。餘り細くは批評せられなかつたやうに思ふ。今も覺えてゐることは、劇的のZuspitzung(これは獨逸語で言はれた)が足りない。それから修辭がまづいと斷ぜられたことである。森先生は當時ユリウス・バツブを讀んで居られ、その説に同感して居られるやうに見えた。それで僕はとに角校正の時は見てやらうと先生をして言はしむるまでに成功した。
 平野萬里君もあとから見えたので、一緒に森邸を辭した。その時は雪は已に息んでゐた。

Zuspitzung 激化、先鋭、先鋭化、尖鋭
修辞 しゅうじ。言葉を美しく巧みに用いて効果的に表現する技巧や技術。レトリック(rhetoric)。
ユリウス・バツブ Julius Bab。ドイツの劇作家と劇場批評家。『演劇社會學』の著者。

 1月19日。火曜日の朝は7時からのバツフさんの佛蘭西語の講義を一時間聽き、8時⒛分に石川木の宿に行き、その寐てゐるのを起して、疇昔の原稿の掲載方を頼んだ。そこに北原白秋も來り、二人で午食の振舞を受け、夜は與謝野さんの御宅に往き、原稿中の經文に振假名をして貰つた。この時は北原、石川も多分一緒であつたらう。「電車を四谷にて下り、天ぷら屋にて酒を飮み、藝術の事を談ず。」と日記に書いてある。
 1月22日、金曜日に石川の處に行くと、吉井君、平野君とも一人の人がそこに居た。當時石川は平野君に對して反感を有してゐた。その主な原因は昂をば短歌を主とすること明星の如くはせず、短歌をば六號活字で組まうと論じ、平野君の反對を受けたことにあるらしい。その不平をば三間ばかりの長い手紙に書いてよこした。その後この手紙を捜したが、どこかに行つてしまつて見つからなかつた。
 この頃僕に多大の感激を與へた本リヒヤルド・ムウテルの佛國印象晝派とゲオルグ・ブランデスの19世紀思潮論であつた。またアアサア・シモンズマアテルリンクが流行で僕も之を拾ひ讀んだ。
 1月23日の土曜日にはまたパンの會があつた。人が集まらないで、明治座の山崎紫紅の破戒曾我を立見をしたりなどした。その日のパンの會には石井柏亭、北原白秋、長田幹彦、平野萬里、栗山茂等が集まつた。
 島村抱月の洋行土産の欧洲近代繪畫論は面白いが、肝腎の畫そのものは少しも分つてゐないのだと皆が判定した。予はその批評を書く役になつて、翌日その原稿を石川の處に持つて行くと平野萬里君が来た。

疇昔 ちゅうせき.過去のある日。昔。疇は「以前」の意味
六號活字 六号活字。縦横約3ミリで、8ポイント活字と比べると、わずかに小さく、約7.5ポイント
リヒヤルド・ムウテル リヒャルト・ムーテル。Richard Muther。ドイツの批評家と芸術の歴史家
ゲオルグ・ブランデス ゲーオア・ブランデス。Georg Brandes. デンマークの評論家。ヨーロッパ文芸を痛烈に批評。
アアサア・シモンズ アーサー・シモンズ。Arthur William Symons. 英国の詩人、文芸批評家、雑誌編集者。
マアテルリンク モーリス・メーテルリンク。Maurice Maeterlinck。ベルギーの詩人、劇作家、随筆家
山崎紫紅 やまざき しこう。34歳。劇や歌舞伎の作家。主な作品は「破戒曾我」など
石井柏亭 いしい はくてい。 27歳。版画家、洋画家、美術評論家。東京美術学校洋画科を中退。
長田幹彦 ながた みきひこ。22歳。小説家、作詞家。早稲田大学英文科卒業。
栗山茂 くりやま しげる。23歳。東京帝国大学卒業。外務省入省。日本の元最高裁判所判事。

 2月になつて昴の第2號が出た。成程短歌は皆6號活字で組んであつた。そして早野君の「抗議」が插人してあり、「短歌を6號にした事に就ては僕は一言の相談も受けなかつた。組んで來たのを見て僕は驚いて了つた。云々」と書いてある。それに對して石川君がまた「消息」といふ處でむきになって應戰してゐる。「小生は第1號に現はれたるが如き、小世界の住人のみの如き雜誌は嫌ひなり。その嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文藝に對する態度と覺悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作るが如きは或意味に於て小生の遊戲なり。」云々。
 さう云ふ木が後來短歌によつて世評を得たのは、今考へると中々面白い。
 ところが僕の南蠻寺の原稿は少しも直つて居なかつた。あとで木を責めると、時日が切迫して森先生の處へ校正を廻すことが出來なかつたのだと言って辯解したが、僕は心の中ではそれは口實だと考へざるを得なかつた。木は何にでもかんにでも反感を持つ男で、自らは大家の添削を受けるなどといふことを好まなかつたので、僕の意を蹂躪したのであらう。その故に僕は千載一遇の機を失したのであつた。

蹂躪 じゅうりん。ふみにじること
千載一遇 せんざいいちぐう。千年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会


小笠原島夜話①|北原白秋

文学と神楽坂


      一

 (しま)自然(しぜん)(くわん)乃至(ないし)はその住民(ぢゆうみん)状態(じやうたい)()いて、(なに)(はな)せとお(つしや)るのですか。それなら差当(さしあた)()笠原(がさわら)(じま)のお(はなし)でもさしていただきませうか。
()いて極楽(ごくらく)()地獄(ぢごく)』と(まを)しますが、(けつ)してああいふ(はな)(じま)などに内地(ないち)(ひと)が、(なが)()めるものではありません。
 ()笠原(がさわら)(じま)(もと)随分(ずゐぶん)極楽島(ごくらくじま)だつたと、()(のこ)りの黒人(くろんぼ)(ぢい)などが、ある(ばん)(ばん)溜息(ためいき)()いて(わたし)(はな)して()れましたが、それは(あるひ)はさうだつたかも()れません。その(ころ)あの(しま)()もまた(わらべ)のやうな(うま)れた(まゝ)(しま)で、そこには(あか)(がけ)(りよく)(しよう)(しよく)岩壁(がんぺき)や、(たか)椰子(やし)や、林投樹(しんとうじゆ)や、モモタマ()(やぶ)などが、()(とほ)つた瑠璃(るり)(いろ)(そら)海水(かいすゐ)とに、強烈(きやうれつ)()熱帯(ねつたい)色彩(しきさい)耀(かゞ)やかしてゐる(ほか)には、あの、図抜(づぬ)けて阿呆(あはう)らしい信天翁(あはうどり)や、四()婉転(ゑんてん)として(うぐひす)瑠璃鳥(るりてう)()()れてゐるばかりで、毒虫(どくちう)一つゐず、太陽(たいやう)(おほ)きく耀(かゞ)やかしく、(つき)(おほ)きく(ほが)らかであり、(ほし)(おほ)きく光芒(くわうぼう)()いて、(ひる)()もただ燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)(さう)()(つゞ)けてゐたのでした。


林投樹 アダン(阿檀、Pandanus odoratissimus)は、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。小笠原なのでアダンではなく、タコノキなのでしょう。ただし、戦後大量に固有種の「タコノキ」が都道の周りに植えましたがすべて純正品かは判りません。
モモタマ モモタマのジュズサンゴではなく、モモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科 )のことでしょう。巨大な葉が有名です。
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で #2A5CAA 
信天翁 アホウドリ(信天翁、阿房鳥、阿呆鳥)はミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属です。
婉転 美しくまわり動いていること。
瑠璃鳥 オオルリ(大瑠璃、学名Cyanoptila cyanomelana)はヒタキ科オオルリ属です。青い小鳥です。
光芒 細長く伸びる一筋の光。尾を引くように見える光のすじ。
燦爛 光り輝いてあでやかなさま、まばゆくきらびやかなさま
 たまたま、天明(てんめい)(ねん)土州(としう)船頭(せんどう)(にん)(おな)じく八(ねん)肥前(ひぜん)(ぶね)の十一(にん)寛政(くわんせい)元年(ぐわんねん)日向(ひゆうが)志布志(しぶし)(うら)船頭(せんどう)(えい)右衛()(もん)とその船子(かこ)の四(にん)都合(つがふ)十七(にん)(おな)じ一つの無人島(むじんたう)漂流(へうりう)して、(なが)いのは十二(ねん)(みじ)かくて七八(ねん)(つぶ)さに漂人(へうじん)としての辛苦(しんく)艱難(かんなん)(とも)にする(うち)に、その(なか)幾人(いくにん)かは病死(びやうし)し、やつと(のこ)りの人数(にんず)だけで、覚束(おぼつか)ない小舟(こぶね)(つく)つて、やつとの(こと)でハ丈島(ぢやうしま)まで()ぎついたといふ(こと)もありました。その(しま)(いま)でいふ鳥島(とりじま)かと(おも)はれますが、ああいふ(かぎ)りの()麗光(れいくわう)(なか)()つても、人間(にんげん)(けつ)して人間(にんげん)社会(しやくわい)(はな)れて()きてゆけないと()大事(だいじ)痛切(つうせつ)(かん)じられたに(ちが)ひありません。

天明 天明五年は1785年。 杉田 玄白、伊能 忠敬、大田 南畝などがいた時代です。
土州 土佐(とさ)国の異称
肥州 現在の佐賀県と長崎県(ただし壱岐(いき)対馬(つしま)を除く)。
寛政 寛政元年は1789年。寛政の改革は1787(天明7)年から1793(寛政5)年にかけて松平(まつだいら)定信(さだのぶ)が老中になり、大規模な幕政改革を行いました。
日向志布志浦 日向(ひゅうが)国の志布志(しぶし)湾。現在は湾、以前は浦。違いは湾は単に地形。浦は「湾」のうち「磯」や「断崖」ではなく、浅瀬の砂浜のこと。
船子  水夫。船子(フナコ)船長(ふなおさ)の指揮下にある。
辛苦艱難 かんなんしんくのほうが普通。人生でぶつかる困難や苦労
鳥島 伊豆諸島の無人島。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名。
麗光 美しい光
 母島(はゝじま)伝説(でんせつ)()りますと、(かつ)てその(しま)漂流(へうりう)した内地(ないち)(じん)(うち)で、()(のこ)つたはただ船頭(せんどう)とその(つま)と、(わか)船子(かこ)との三(にん)でした。無人島(むじんたう)(をとこ)二人(ふたり)(をんな)一人(ひとり)です。1人(ひとり)(をんな)自然(しぜん)二人(ふたり)(つま)になつて(しま)ひました。其処(そこ)無人島(むじんたう)です。人間(にんげん)社会(しやくわい)(ほか)です。(かんが)へて(くだ)さい。その三(にん)にはその(とき)、ただ(ひと)つの共同(きようどう)()(まも)(こと)(なに)より神聖(しんせい)な、また痛切(つうせつ)緊要事(きんえうじ)でした。船頭(せんどう)とその(つま)とが洞窟(どうくつ)(よる)(ねむ)(とき)(わか)船子(かこ)は、一(ばん)(ぢう)その(そと)()つて、その()(まも)らなければなりませんでした。そしてまた、(わか)船子(かこ)自分(じぶん)(つま)とが(よる)(ねむ)(とき)船頭(せんどう)は、しよぼしよぼと()をしぱだたきながら、また一(ばん)(ぢう)洞窟(どうくつ)(そと)(かゞ)んで()(まも)らなければなりませんでした。船頭(せんどう)()いてゐる。船子(かこ)(わか)い。人間(にんげん)(つひ)人間(にんげん)です。船頭(せんどう)はある深夜(しんや)突然(とつぜん)激怒(げきど)嫉妬(しつと)()られて(おも)はず、自分(じぶん)(まも)つてゐた薪火(たきび)岩壁(がんぺき)にたたきつけて(しま)ひました。()()えて了ひました。その三(にん)生死(せいし)()が。

 (うずくま)る。(つくば)う。かがむ。しゃがむ。
 所謂(いはゆる)黒船(くろふね)提督(ていとく)ペルリ浦賀(うらが)()て、太平(たいへい)(たう)帝国(ていこく)(おびや)かして、一(たん)本国(ほんごく)(かへ)ると(しよう)して(みなみ)()つた(のち)再交渉(さいかうせふ)()北上(ほくじやう)したその(あひだ)は、(かれ)(かれ)艦隊(かんたい)()笠原(がさわら)(じま)父島(ちゝじま)(とゞ)めてゐたのだと()ひます。本国(ほんごく)へなぞは(かへ)つてゐなかつたらしいのです。(かれ)はその(しま)開墾(かいこん)し、石炭(せきたん)貯蔵庫(ちよざうこ)()て、部落(ぶらく)(つく)り、(のち)には整然(せいぜん)たる(とう)政治(せいぢ)()いたと申伝(まをしつた)へます。さういふ(ふう)にささやかでも人間(にんげん)同志(どうし)社会(しやくわい)組織(そしき)成立(せいりつ)すると、ただ絶海(ぜつかい)無人島(むじんたう)として、(ひと)をして(おそ)れしめ(すさ)まじがらせたその島々(しま〲)にも(はじ)めて(あたゝ)かな人間(にんげん)愛情(あいじやう)心音(しんおん)とが()()つて()ました。人間(にんげん)もまた、その燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)麗光(れいくわう)(はじ)めて、安心(あんしん)して()にし(みゝ)にし、()れ、()ぎ、(した)しみ()した(こと)も、非常(ひじやう)(かんが)ふべき(こと)だらうと(おも*)ひます。無論(むろん)人間(にんげん)はゐなかつた(とき)も、一人(ひとり)二人(ふたり)漂流(へいりう)した()(とき)も、部落(ぶらく)ができ一(せう)社会(しやくわい)(かたちづく)つた(のち)も、その自然(じぜん)本体(ほんたい)には(すこ)しの異動(いどう)があつた(はず)はありません。そこへゆくと(さび)しいのは人間(にんげん)です。大勢(おほぜい)(あつ)まつて、(あい)道義(だうぎ)礼節(れいせつ)相互(さうご)扶助(ふじよ)とで()()はねば()きてゆけないのです。(なに)ものの麗光(れいくわう)感知(かんち)する(だけ)余裕(よゆう)()ちあはせないのです。

ペルリ マシュー・ペリー。ペルリ提督。米国の海軍軍人。1794~1858。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結
石炭貯蔵庫 大正時代に大村にペリーの残した貯炭所があったといわれる。青野正男氏の『小笠原物語』によると、大正時代オガサワラビロウの古い屋根の下に炭が山積みになっていたという。昭和初期には屋根はなく石炭はただ野積みになっていた。
三頭政治 3人の実力者による政治体制
燦爛 華やかで美しいこと
 ペルリの艦隊(かんたい)()つた(のち)も、(のこ)るものは(のこ)つたし、それに(ふね)から()(あが)つた黒人(こくじん)奴隷(どれい)密猟(みつれふ)船員(せんゐん)家族(かぞく)などが相変(あひかは)らず共同的(きようどうてき)安楽(あんらく)生活(せいくわつ)(つゞ)けてゐました。大統領(だいとうりやう)もゐました。無論(むろん)共和(きようわ)政治(せいぢ)です。(しか)しただ部落(ぶらく)(ちひ)さな(ひと)つの部落(ぶらく)()ぎませんでした、それだけ山野(さんや)食物(しよくもつ)豊富(ほうふ)なり、(して)して開墾(かいこん)せずともバナナもあれば椰子(やし)()もあり、自然(しぜん)恩恵(おんけい)少数(せうすう)(ひと)()にとつては()()るほど充実(じうじつ)してゐました。それに外界(ぐわいかい)との小面倒(こめんだう)交渉(かうせふ)()し、不純(ふじゆん)権勢(けんせい)からも圧迫(あつぱく)されず、ただ自然(しぜん)(とゝの)つて()秩序(ちつじよ)無文律(むぶんりつ)道義的(だうきせき)制裁(せいさい)とが、その社会(しやくわい)をおのづからな(うつく)しいものに(そだ)ててゆきました。それで(ひと)()もしぜんと珍草(ちんさう)奇木(ぶらく)愛翫(あいぐわん)したり、(はたけ)(つく)つたり、(たがひ)遊楽(いうらく)したり、自由(じいう)恋慕(れんぼ)()つたりしたらしいのでした。空腹(ひも)じくなる(ころ)には、工合(ぐあひ)よくまたぺルリの(はな)して()いたのちに、しぜんと繁殖(はんしよく)した(ぶた)群集(ぐんしふ)(やま)()りては部落(ぶらく)檳榔(びんらう)(ぶき)小屋(こや)(ちか)くに()いて()たさうです。それを甘蔗(いも)焼酎(せうちう)()()(なが)ら、厨房(コツクば)から鉄砲(てつぱう)()つたものだと()ひます。正覚坊(しやうがくばう)にしてからが、その(ころ)随分(ずゐぶん)湾内(わんない)游泳(いうえい)してゐたものださうで、二時間(じかん)丸木舟(まるきぶね)()(まは)れば、三(とう)や四(とう)無雑作(むざふさ)手捕(てど)りにする(こと)ができたし、(まつた)くその(ころ)小笠原(をがさはら)(じま)は一(しゆ)極楽(ごくらく)(たう)だつたに(ちが)ひありません。

大統領 共和国の元首
共和政治 特定の個人ではなく、全構成員の利益のための政治体制
檳榔 ビンロウ。学名はAreca catechu。ヤシ科の植物、太平洋、アジア、東アフリカの一部に。
正覚坊 しょうがくぼう。アオウミガメのこと

小笠原島夜話②|北原白秋

文学と神楽坂

       二

 それが明治(めいぢ)になつて日本(にほん)版図(はんと)になると、すつかり根柢(こんてい)から破壊(はくわい)されて(しま)ひました。警察権(けいさつけん)行政権(ぎやうせいけん)とを一(しよ)()ねた王様(わうさま)のやうな島司(たうじ)()(もの)()る。サアベルがガチヤガチヤ()る、小面(こづら)(にく)驕慢(けうまん)小役人(こやくにん)がのさばる。こすつからい()いつめ(もの)小商人(こしやうにん)()()む、繁雑(はんざつ)文明(ぶんめい)余弊(よへい)と、官僚的(くわんれうてき)階級(かいきふ)思想(しさう)瀰漫(びまん)する、(しま)民主的(みんしゆてき)極楽境(ごくらくきやう)は一(ぱう)から()へぱ(ほとん)滅茶(めちや)々々()になって(しま)ひました。それで(いま)まで自由(じいう)開墾(かいこん)()土地(とち)制限(せいげん)され、あまつさへ花畑(はなばたけ)野菜(やさい)(ばたけ)()()げられ、()(ちゞ)められて、以前(いぜん)島民(たうみん)(つひ)には(しま)の一(ぱう)()ひつめられて、(から)うじて生命(せいめい)をつなぐ(だけ)生活(せいくわつ)しかできなくなつて(しま)ひました。以前(いぜん)はただ物々(ぶつ/″\)交換(かうくわん)だつたのが、一にも二にも(かね)()くてはならなくなる。遠海(ゑんかい)漁猟(ぎよれふ)厳禁(げんきん)される。さうなると、優越(いうゑつ)人種(じんしゆ)としての彼等(かれら)倨傲(きよがう)(しん)満足(まんぞく)さすべき、(なん)らの生活(せいくわつ)をも保持(ほぢ)する(だけ)自由(じいう)さが全然(ぜんぜん)(うしな)はれて(しま)つたのです。彼等(かれら)帰化(きくわ)せねばならなくなりましたが、彼等(かれら)帰化人(きくわじん)(ぐらゐ)みぢめなものはありますまい。

版図 はんと。一国の領域、領土
島司 とうし。明治以降の地方行政官。勅令で指定された島地を知事の指揮監督を受けて管轄した。大正15年(1926)廃止
驕慢 きょうまん。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること
余弊 よへい。何かに伴って生じる弊害
瀰漫 びまん。広がること。はびこること。蔓延(まんえん)すること
開墾 かいこん。山野を切り開いて農耕できる田畑にすること
倨傲 きょごう。 おごり高ぶること
帰化人 きかじん。海外から渡来して日本に住みついた人々

内地人(ないちじん)()()み、人口(じんこう)()えるとまた(しま)全般(ぜんぱん)(わた)つてもいよいよ繁雑(ややこ)しくなりました。遊女屋(いうぢよや)出来(でき)るし、警察(けいさつ)出来(でき)るし、裁判所(さいばんしよ)()てば監獄(かんごく)()つ、(したが)つて罪人(ざいにん)(しやう)ずる。
それでもまだ(はじ)めの(ころ)呑気(のんき)(ばん)なものだつたさうでした。たとへば、骨牌(かるた)など()いて監獄(かんごく)にぶち()まれた(もの)(ども)が、()になると()()して、(はま)()(たまご)()みに(あが)つた正覚坊(しやうがくばう)()つとらへ、それを()()ばして、その(かね)遊女(いうぢよ)(かひ)をして、夜明(よあけ)には()まして獄窓(ごくそう)(なか)(かへ)つてゐる。まるでお(はなし)のやうですが実際(じつさい)だつたさうです。流石(さすが)太平洋(たいえいやう)真中(まんなか)だからそこは内地(ないち)(ちが)ひます。
 (わたし)がその(しま)(わた)つたのは、それから四十(ねん)(のち)(こと)です。その(しま)(あが)ると、(わたし)(だい)一に()熱帯(ねつたい)強烈(きやうれつ)(ひかり)(ねつ)と、熾烈(しれつ)色彩(しきさい)と、(かつ)()(こと)()南洋(なんやう)植物(しよくぶつ)怪異(くわいい)形態(けいたい)とその豊満(ほうまん)薫香(くんかう)とで()卒倒(そつたう)しさうになりました。()いでは、南洋(なんやう)(しき)丸木(まるき)(ぶね)(おどろ)き、砂浜(すなはま)髪毛(かみのけ)(しらみ)をむしりつぶしてゐる肥満(ひまん)した黒人(こくじん)(ばゞ)(おどろ)き、(あか)豆畑(まめばた)(おほ)きな眼鏡(めがね)をかけ灰色(はひいろ)のジヤケツに(あか)いスカートを穿()いた白皙はくせき(じん)金髪(きんぱつ)(おどろ)き、以前(いぜん)(ひと)()つたといふ(ろう)黒奴(こくど)神妙(しんめう)奉仕(ほうし)してゐる魔法(まはふ)使(づか)ひのやうな西班牙(すぺいん)貴族(きぞく)癩病(らいびやう)(ばゞ)(おどろ)き、丸太(まるき)(ぶね)(おほ)きなお(しり)(ふた)つに()つたといふ山羊(やぎ)(かひ)黒坊(くろんばう)(むすめ)(おどろ)き、ヂョーヂ、ワシントンと()久留米(くるめ)(がすり)単衣(ひとへ)()(くろ)(ばう)青年(せいねん)(おどろ)きました。()いでは、また陽物(やうぶつ)(かたち)した白檀(びやくだん)()(かぶ)ばかり(ひろ)(あつ)めたり、珊瑚(さんご)信天翁(あはうどり)羽根(はね)と一(しよ)に、北斎(ほくさい)広重(ひろしげ)版画(はんぐわ)(なか)雑魚寝(ざこね)したりしてゐる伝説中(でんせつちう)太平(たいへい)(らう)逸民(いつみん)()(おどろ)き、(つい)ではまた(すた)()てた監獄(かんごく)(には)()(さか)つてゐるビーデビーデの(はな)(あか)(いかり)(ぐさ)仏草花(ぶつさうくわ)絵模様(ゑもやう)(おどろ)き、二三(ずん)(ほこり)がたまつて子供(こども)たちの芝居(しばゐ)舞台(ぶたい)になつてゐる裁判所(さいばんしよ)法廷(はふてい)()ては(おどろ)き、それからすばらしく瀟酒(せうしや)白尖塔(はくせんたふ)教会(けうくわい)()(おどろ)き、それからまた完美(くわんび)した植物園(しよくぶつゑん)と、(だう)()とした大理石(だいりせき)島司(たうじ)頌徳(しようとく)()(おどろ)き、役所(やくしよ)(うぐひす)()(あは)せをやつたり、午後(ごご)からは(はま)()(ぼら)ばかり()つてゐる呑気(のんき)至極(しごく)役人(やくにん)(たち)(おどろ)き、煙草(たばこ)だけは現金(げんきん)(ねが)ひます、()現金(げんきん)でお()(くだ)さる(かた)には二割引(わりびき)(いた)しますと()いた商家(しやうか)張札(はりふだ)(おどろ)き、質屋(しちや)乞食(こじき)見当(みあた)らず、(わか)(をんな)()つぱらひの()えぬのに(おどろ)き、(しま)全体(ぜんたい)共産(きようさん)(でき)なのにも(おどろ)きました。
 それにまた、(まむし)その()害虫(がいちう)もゐず、(かへる)もゐなければ蛞蝓(なめくぢ)もゐず、ただ油虫(あぶらむし)(あり)猛勢(まうせい)なのには(おどろ)きましたが、(すずめ)(からす)もゐず、(うぐひす)ばかりが内地(ないぢ)(すずめ)ほどに()(きそ)つてゐる麗明(れいめい)さにも(おどろ)きました。それに(けだもの)としては山奥(やまおく)にペルリの(はな)した鹿(しか)子孫(しそん)とかが二(ひき)ゐるばかり、あとは(うし)山羊(やぎ)(ねこ)(ねずみ)(せう)()だと()ふのにも(おどろ)きました。

獄窓 ごくそう。牢獄の窓。転じて、牢獄の中。獄中
熾烈 しれつ。勢いが盛んで激しいこと
薫香 よいかおり。芳香
丸木舟 1本の木の幹をくりぬいて造った舟
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
久留米絣 くるめがすり。筑後国(福岡県)久留米で作った。綿糸を絣染めにした特色のある織物
単衣 たんい。ひとえの着物。ひとえもの。 1枚の着物
白檀 びゃくだん。甘い芳香が特徴。香木として利用。小笠原諸島では固有種のムニンビャクダン( S. boninense)がある
太平 たいへい。世の中が平和に治まり穏やかなこと
逸民 いつみん。隠者。野に隠棲する人
ビーデビーデの花 ムニンデイゴ。語源はハワイ語。沖縄の「デイゴ」と同じ種類。
碇草 イカリソウ。花は赤紫色。春に咲く。4枚の花弁が距を突出し錨のような特異な形をしている
仏草花 ブッソウゲ。正しくは仏桑華。ハイビスカス
瀟酒 すっきりとあか抜けしている
頌徳碑 しょうとくひ。偉い人をほめたたえる碑
啼き競う メジロは良い声で鳴き、江戸時代からメジロを鳴き合わせる(競争)道楽の対象だった。まるで同じことがウグイスで起きたようだ

かう()へばまるで極楽(ごくらく)世界(せかい)のやうですが()()れて()ると、流石(さすが)(しま)(しま)でした。せせこましい(せう)地獄(ぢごく)
 (だい)一にみじめなのは帰化(きくわ)(じん)部落(ぶらく)で、(なに)もかもが幻滅(げんめつ)悲哀(ひあい)(そこ)()ちこんで、生気(せいき)()ければ(かね)()く、()うや()はずで南洋(なんやう)のグワム(たう)あたりに移住(いぢゆう)するのが相次(あひつ)有様(ありさま)でした。(のこ)つたものは(ほとん)日本(にほん)(くわ)して(しま)つて、日本(にほん)(じん)(むすめ)結婚(けつこん)する(こと)(なに)よりの光栄(くわうえい)として、その鼻息(びそく)ばかりを(うかゞ)つてゐました。監獄(かんごく)裁判所(さいばんじよ)とが荒廃(くわいはい)したのは東京(とうきやう)のそれらと合併(がつぺい)したので、罪人(ざいにん)一人(ひとり)()れば巡査(じゆんさ)遥々(はる〲)一人(ひとり)()いて上京(じやうきやう)するので、(たか)煙草(たばこ)()(まい)発見(はつけん)されても東京(とうきやう)地方(ちほう)裁判所(さいばんしよ)(まは)される。つまりは莫大(ばくだい)巡査(じゆんさ)旅費(りよひ)だけが()えて()るといふややこしい(こと)になって(しま)つてゐたのでした。それに島司(たうじ)頌徳碑(しようとくひ)島司(たうじ)自身(じしん)島民(たうみん)()ひて自身(じしん)(まつ)らせたので、いつぞやは巡検(じゆんけん)侍従(じじゆう)(まへ)赤恥(あかはぢ)()いたといふ(はなし)もあります。
 (しま)(わか)(むすめ)がゐないのは、たゞ一()虚栄(きよえい)(はし)つて都会(とくわい)(そら)(あこが)れて奉公(ほうこう)出払(ではら)つて(しま)つたので、()つぱらひがゐないのは(かね)()いので(さけ)()まれず、たまたま夫婦(ふうふ)喧嘩(けんくわ)でもした()役人(やくにん)が、その(ばん)すぐと(いう)(ぢよ)()()びこめば、とくの(むかし)にその喧嘩(けんくわ)次第(しだい)相手(あひて)(をんな)()れて()り、質屋(しちや)()いのは(しち)()れれば、たちまち(しま)(ぢう)()れわたる。乞食(こじき)になりかけると、直様(すぐさま)内地(ないち)()(ぱら)はれる。共産(きようさん)(てき)面白(おもしろ)いと(おも)へば、すべての利潤(りじゆん)(おほ)生産業(せいさんげふ)(ほとん)島庁(たうちう)事業(じげふ)で、うまい(しる)島司(たうじ)()つて、あとはたゞ(つら)奉公(ほうこう)といふだけだし、(なに)さま島中(たうちう)総現金(そうげんきん)が二千(ゑん)といふ(あは)れさで、そのせち(から)さは想像(さうざう)にもつかないだらうと(おも)ひます。

鼻息びそく(うかが)う  相手の意向・機嫌を気にしてさぐる。はないきをうかがう。

商店(しやうてん)現金(げんきん)割引(わりびき)もつまりは現金(げんきん)()いからです、(ほとん)どが(ぶつ)()交換(かうくわん)習慣(しふくわん)(のこ)つてゐるので、(なに)もかもカケで、現金(げんきん)(ふね)()(とき)(ばら)ひ。だから買人(かひて)()つてにも品物(しなもの)()つても、商人(しやうにん)はただ()りませんの一(てん)(ばり)、これでは繁昌(はんじやう)する目当(めあて)はありません。ですから(しよ)商売(しやうばい)(すべ)痺靡(ひび)して(ふる)ひつこは()いのです。
 漁師(れうし)にしても、どうせ人口(じんこう)には(かぎ)りがあるので、沢山(たくさん)()れば()(やす)くなる、それで(あは)てて(すくな)()つてすぐ()(かへ)す、(はや)いが()ちですから、漁業(ぎよげふ)(さか)んになるわけもありません。
(しやう)()悧巧(りかう)()るさとも頂上(ちやうじやう)です。(ふゆ)最中(さいちう)茄子(なす)南瓜(かぼちや)()つても、わざと(ちい)さいのを東京(とうきやう)高価(かうか)(おく)つて(しま)ふ。だから(しま)()はうと(おも)へば(すべ)東京(とうきやう)相場(さうば)で、()()()るほど(かた)いので、自分(じぶん)(はたけ)でも()たない(かぎ)りは、バナナーつでも容易(ようい)には(くち)(はひ)りません。
 正覚坊(しやうがくばう)にしてからがすぐに(ころ)して缶詰(くわんづめ)にして(おく)()す。(しま)(もの)漁師(れうし)()(かぎ)りお(すそ)わけはしてもらへません。(うし)を一ケ(げつ)に一(ぴき)(ころ)しても(ころ)した()()()つて(しま)ふので、(おそ)市場(いちば)()つたものは()(そこな)ふ。一ケ(げつ)に一()牛肉(ぎうにく)がこれだから、市場(いちば)はまるで餓鬼(がき)(だう)(さわ)ぎです。
 鶏卵(けいらん)()べようと(おも)へば(とり)からして東京(とうきやう)から()()せねばならず、豆腐(とうふ)()べようと(おも)へば、一週間(しうかん)(ぜん)約束(やくそく)して()く。ランプのホヤ(こは)れれば、(べつ)のランプを()はねば、()()(くら)でゐなくてはなりません。
 商人(しやうにん)狡猾(かうかつ)奸譎(かんきつ)とは、(ほとん)日本中(にほんぢう)(さが)しても、あれほどのところはありますまい。物価(ぶつか)東京(とうきやう)の三(だい)以上(いじやう)だし物資(ぶつし)欠乏(けつぼふ)してゐる。たまに予定(よてい)に三()(おく)れて内地(ないち)からの(ふね)()れば、その以前(いぜん)()や、(しま)には(こめ)()けれぱ味噌(みそ)醤油(しやうゆ)()く、菓子(くわし)()ければ(さけ)()い。島民(たうみん)半死(はんし)半生(はんしやう)です。

痺靡 しびれて衰える。萎靡(いび)
餓鬼道 がきどう。天、人、修羅(しゆら)畜生(ちくしよう)、餓鬼、地獄を六道と言い、行いの善悪によって六道の中で生死を繰り返すのが輪廻(りんね)。この人生で食物の欲望の強い人、むさぼりの心のつよい人は死後、餓鬼道に落ちる。生きながら餓鬼道に落ちると言い、子どもは普通食欲が旺盛で子どもを餓鬼と呼んだりする
ホヤ 火屋。火舎。ランプやガス灯などの火をおおうガラス製の筒
奸譎 かんけつ。かんきつ。姦譎。よこしまで、心にいつわりが多いこと

小笠原島夜話③|北原白秋

文学と神楽坂

       三
 だから(つき)に一()内地(ないち)からの定期(ていき)(せん)(はひ)つて()()(さわ)ぎと()つたらありません。その(ふね)新聞(しんぶん)雑誌(ざつし)書簡(しよかん)小荷物(こにもつ)流行唄(りうかうた)、あらゆる文明(ぶんめい)(しん)消息(せうそく)をもたらして、この無聊(ぶれう)倦怠(けんたい)しきつた(しま)をまるで戦場(せんぢやう)のやうに緊張(きんちやう)させ、亢奮(かうふん)させて(しま)ひます。島民(たうみん)物質的(ぶつしつてき)にも精神的(せいしんてき)にも()()つてゐるのです。(ふね)がいよいよ()くといふ()(あさ)などは海抜(かいばつ)一千(じやく)船見山(ふねみやま)絶巓(ぜつてん)(のぼ)つて、水天(すゐてん)のかなたに一(まつ)(けむり)(のぼ)つてから(ほとん)ど四五時間(じかん)といふのは(すわ)つたきりで凝視(ぎようし)してゐます。(ちか)づいた(ふね)がその(みさき)の一(かく)(まが)つて、いよいよその湾口(わんこう)(はひ)りかけて、ぽうと汽笛(きてき)()らす(とき)深厳(しんげん)さもありません。それをきくと、島中(たうちう)がまた、たゞ()()(こゑ)をあげる。

消息 しょうそく。その時々のありさま。動静。状況。事情
無聊 ぶりょう。退屈なこと
絶巓 ぜってん。山の絶頂。いただき
水天 すいてん。1.水と天。水と空。2 水に映る天
深厳 重々しく、威厳がある

島中(たうちう)(もの)が、白皙(はくせき)(じん)黒奴(くろんぼ)(かほ)黄色(きいろ)日本人(にほんじん)(すべ)てが波止場(はとば)(むらが)つて、巨大(きよだい)万年青(おもと)竜舌蘭(りうぜつらん)(かげ)から()しあひへしあひ、新来(しんらい)(きやく)覗見(のぞきみ)したり、批評(ひひやう)()つたりしてゐます。たゞ(わけ)もない憧憬(しようけい)好奇(かうき)(こゝろ)()つて、その(とき)はまるで島中(しまぢう)小娘(こむすめ)のやうにワクワクしてゐます。
 (ふね)()()つて(しま)ふと、(しま)はまたぐつたりと(つか)れて、()()えたやうです。さうして(せま)(はな)(じま)天地(てんち)が、それからはまた一(そう)(せま)(ちひ)さく(ちゞ)こまつて(しま)ひます。

白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
黒奴 こくど。黒人の奴隷。黒色人種を卑しめていう語
万年青 おもと。関東、沖縄、中国の暖地にはえるユリ科の常緑多年草。
竜舌蘭 りゅうぜつらん。リュウゼツラン科の常緑多年草。メキシコの原産。メキシコではテキーラを作る。

新来(しんらい)内地(ないち)(じん)(むか)つては、その(はじ)好奇(かうき)憧憬(しようけい)とを()せてゐた(こゝろ)が、()()理由(りいう)のない敵意(てきい)となり反感(はんかん)となり嫉妬(しつと)となり憎悪(ぞうを)となり迫害的(はくがいてき)推移(すゐい)して()るのも、一(しゆ)島人(たうじん)根性(こんじやう)です。(こと)(しま)官権(くわんけん)は、それらの(ひと)()(むか)つて、全然(ぜんぜん)(しま)平和(へいわ)(がい)する擾乱(ぜうらん)(しや)とし、侵入者(しんにふしや)とし、罪人視(ざいにんし)し、極端(きよくたん)(これ)拒避(きよひ)しようとかかる傾向(けいかう)があります。
 (わたし)(つれ)女性(ぢよせい)一人(ひとり)紫色(むらさきいろ)羽織(はおり)()てゐるといふので、(しま)(わか)(もの)性慾(せいよく)刺戟(しげき)する()しからぬとその(すぢ)(うつた)()(もの)もありました。

擾乱 じょうらん。入り乱れて騒ぐこと。秩序をかき乱すこと。騒乱
拒避 拒否と同じ

(こと)島民(たうみん)の『肺病(はいびやう)』を(おそ)るゝ(こと)極端(きよくたん)です。(さう)してその(おそ)るべき病毒(びやうどく)伝播(でんぱん)(しや)(すべ)てが内地(ないち)からのそれら旅人(りよじん)にあるとさへ(おも)()めてゐます。(もつと)肺病(はいびやう)患者(くわんじや)おほくが、南方なんぽう極楽島(ごくらくたう)とし、理想郷(りさうきやう)として、充分(じうぶん)保養(ほやう)目的(もくてき)に、その()小学(せうがく)教員(けうゐん)郵便(いうびん)局員(きよくゐん)などに転任(てんにん)させて(もら)つて()るのも(おほ)いのです。(しか)駄目(だめ)です。その肺病(はいびやう)患者(くわんじや)が八丈島(ぢやうしま)あたりに寄港(きかう)する(ころ)は、もう電報(でんぱう)小笠原(をがさはら)(じま)まで()んでゐます。
 ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ

極楽島 安楽で何の心配もない島。天国
ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ 肺病何人ゆく 注意せよ

だから(たま)りません。その(ひと)(しま)へ上る頃にはもう島中(しまぢう)()(わた)つてゐて、宿屋(やどや)でも(ことわ)れば飲食(いんしよく)(てん)でも(ことわ)る、理髪(りはつ)(てん)()つても『肺病(はいびやう)(ことわ)り』と()いてある。仕方(しかた)なく()きの(なみだ)磯浜(いそはま)や、洞穴(どうけつ)(なか)にバナナの()でも()いて()(あか)し、()()をあさり、(つひ)には三()とゐたたまれずに(かへ)りの(ふね)()(ぱら)はれて(しま)ふ。さういふ(とき)島中(しまぢう)()です。中には宿屋(やどや)から(ことわ)られ、(こま)つて、土地(とち)()(いへ)()つて、いざその(いへ)這入(はひ)らうとすると、周囲(しうゐ)から立退(たちのき)請求(せいきう)です。自分(じぶん)(うち)自分(じぶん)()さへ()くに()かれず、(くさ)()し、荒磯(あらいそ)()ね、やつと(つぎ)便船(びんせん)(かへ)るには(かへ)れたが、その途中(とちう)()()いて()んで()(ひと)もありました。さうなると島民(たうみん)惨酷(ざんこく)(せい)頂上(ちやうじやう)です。

惨酷 ざんこく。残酷(惨酷、残刻)はまともに見ていられないようなひどいやり方

(わたし)肺病(はいびやう)だった(わたし)(まへ)(つま)と、その友人(いうじん)(おな)じく肺病(はいびやう)だった女性(ぢよせい)と、その(いもうと)とを()れて、(ほとん)命懸(いのちが)けに()()()して、保養(ほやう)()(もと)めに()きました。ところがさういふ(ふう)です。(わたし)たちは(こゝろ)(そこ)から(ふる)(あが)つてただ(かほ)(かほ)とを見合(みあは)せました。秘密(ひみつ)! 秘密(ひみつ)! どうにでも極秘(ごくひ)にしなければ四(にん)とも()(じに)惨虐(ざんぎやく)()にあはねば()みません。その(あひだ)(わたし)心労(しんらう)といふものは()かつたのです。(わたし)(つま)ももう一人(ひとり)のも幾度(いくたび)()()きました。そのうちに健康(けんかう)だつたもう一人(ひとり)のも肋膜炎(ろくまくえん)になつて(しま)ひました。丈夫(ぢやうぶ)なのはたった(わたし)一人(ひとり)です。医者(いしや)にも()せられません。()(もら)つたら、すぐに(はい)患者(くわんじや)だと()(こと)島中(しまぢう)()れて(しま)ふのです。空気(くうき)乾燥(かんさう)する、島中(しまぢう)白眼(はくがん)(もつ)意地(いぢ)わるく追求(つゐきう)する。病人(びやうにん)はわるくなる、それを極秘(ごくひ)にしなければ(いのち)にかかはる。――この(あひだ)(わたし)たちはまた一(もん)なしになって(しま)ひました。(わたし)小笠原(をがさはら)渡海(とかい)をただ詩人(しじん)好奇的(かうきてき)遊楽(いうらく)(おも)つて、(いろ)()(わら)つてゐた(ひと)()内地(ないち)にはありましたが、(いま)だからすつかりお(はなし)します。そんな呑気(のんき)(こと)では()かつたのです。

顫える ふるえる。恐れや興奮から発作的に震える
白眼 冷たい目つき

そのうちに(おな)じく肺患(はいくわん)秘密(ひみつ)にしてゐた小学(せうがく)教員(けうゐん)が、その(やまひ)(おも)くなると一(しよ)露見(ろけん)して、()(ぱら)はれる。(おな)じやうな郵便(いうびん)局員(きよくゐん)()にかゝる。それを内地(ないち)から看護(かんご)(はる)()()母親(はゝおや)()ぬ。――()()てられぬ悲劇(ひげき)()()ぎに私達(わたしたち)周囲(しうゐ)には(おこ)ります。今日(けふ)(ひと)()明日(あす)自分(じぶん)()(うへ)といふ、その(おそ)ろしい絶望(ぜつぼう)(こく)()私達(わたしたち)(あを)くして()る。たまらなくなつて、やつと(かね)工面(くめん)をして二人(ふたり)だけは内地(ないち)(かへ)し、一(たん)(つま)居残(ゐのこ)りましたが、その(つま)をもまたニケ(げつ)(すゑ)(かへ)し、いよいよ最後(さいご)一人(ひとり)となつて()(とゞ)まつた(とき)(わたし)はそれこそ一(もん)なし。(ところ)絶海(ぜつかい)(はな)(じま)です。人情(にんじやう)冷酷(れいこく)(かね)()し、これからの(くる)しさは(まつた)くお(はなし)はできませぬ。そののち一と(つき)()つて(わたし)はまたやつとの(こと)帰航(きかう)(ふね)()(あが)りました。さうして(かへ)つて()ると、(つま)はもう貧乏(びんばふ)がいやになつたから(わか)れたいと()ひます。(なん)()めに(わたし)はその二三(ねん)(いのち)()()して(くる)しんだか。――その()(わたし)(まつた)く、一()(ぜん)世界(せかい)女性(ぢよせい)(のろ)つて(しま)ひました。
 この(こと)()つて、(わたし)()きます。

露見 秘密や悪事など隠していたことが表にでて、ばれること。

(わたし)(しま)()(ころ)に、その粟粒(あはつぶ)ほどの小天地(せうてんち)にも、(おそ)ろしい一騒動(さうどう)(おこ)りました。島司(たうじ)排斥(はいせき)爆発(ばくはつ)です。それが()めに(わたし)までがその渦中(くわちう)()きこまれて、(ほとん)どその煽動(せんどう)(しや)がの(ごと)島司(たうじ)()から(にく)まれました。暴虐(ばうぎやく)圧政(あつせい)自派(じは)擁護(ようご)と、それらを、(つゞみ)()らして駁撃(ばくげき)する所謂(いはゆる)正義派(せいぎは)なるものも、()()(はな)小島(こじま)正義派(せいぎは)です。佐倉(さくら)宗吾(そうご)気取(きど)りの(ぼう)()(ごと)きも結局(けつきよく)(あは)れな(せう)名誉(めいよ)(しん)傀儡(くわいらい)です。と(おも)ふと()(どく)でもあり、をかしくもあり、迷惑(めいわく)でもありました。
 (おそ)ろしい(こと)には、反対派(はんたいは)一人(ひとり)二人(ふたり)がたゞ何気(なにげ)なく山路(やまぢ)()()はして一言(ひとこと)二言(ふたこと)(なに)かささやいた、それさへ、その()には役所(やくしよ)へも島中(しまぢう)にも()(わた)つてゆく(こと)です。

島司排斥 小笠原の清瀬公園には古い石碑が建っています。この碑はほとんど文字が擦り切れて読めなくなっていますが、「小笠原島島司阿利君紀功碑」です。小笠原の島司だった阿利孝太郎を讃えています。在任期間は明治29年10月から大正5年4月までの20年6か月。この碑は、自分が在任中の明治39年6月に自分で建立したものです。この碑文を長谷川馨氏が翻訳しています。

 阿利君は、人柄明るく太っ腹でしかも切れ味鋭く、島や島民の利害損失についてはかなり敏感である。この島の行政を推進していくについては非常に勤勉意欲的で、徹夜をしても少しも疲れたふうがない。
 今、阿利君治頭十年の業績を上げてみるならば、教育機関を整備して島民の能力開発に努力したこと、小笠原航路について船舶の向上便数の増加等充実を図り、また島内の道路河川等の整備を行って産業振興の条件整備を行ったこと、民有地を整理して土地台帳を整備したこと、山方石之助に委託して『小笠原島志』を発刊し小笠原の発見から今日までを確り記録したこと、日露戦役を記念して荒蕪に帰していた島の各地に植林したこと、などなど枚挙にいとまない。
 考えてみるに阿利君の島司在任十年、その間彼は島民の幸福ということを第一に心掛け、そしてその考えは周到にして綿密であった。目前の効果に目を奪われず、島にとっての真の利益、長期的な利益について肺肝を摧いた。
 島の人々はその人徳に感服し、かつその功績に感謝して、碑を建てて阿利君の業績を後世に伝えようと相談ができあがり、代表者がきて私にその碑文を書くように依頼された。そこでこの文章を認め且つ阿利君を称える詩を作って言おう。
  公平無私の潔さ 古武士の如き阿利島司
  一所懸命その努力 この島のためひとのため
  島びとこぞって慕い寄る 君のお蔭の大いさよ
  嗚呼この詩よ栄えあれ 世の牧民の鑑なれ

この文章の通りなら高潔無私の大島司です。そうでなくても、自分を褒めちぎる巨大な碑を、池の中の築地に二見港を睥睨するかの如く建てたというのも相当な人物です。当然、大正時代になると、マスコミに追求され、刑事事件の告発もあって、ついに辞職しました。
以前はこの碑は東京電力家族寮の敷地にありましたが、移転してこの場所に移ってきます。
駁撃 ばくげき。他人の言論・所説を非難・攻撃すること
佐倉宗吾 下総国(千葉県)印旛郡の名主・佐倉宗吾が佐倉藩の重税に苦しむ農民を代表して将軍に直訴、租税は軽減したが、宗吾夫妻は磔になった。この話が正しいのかは不明。講釈師は講談「佐倉義民伝」を使って百姓一揆のさかんな土地で佐倉宗吾の伝記を語った。
傀儡 他者の手先となって思いのままに利用されている人物や組織の比喩

そればかりでなく、その(あさ)電報(でんぱう)為替(がはせ)何円(なんゑん)(たれ)それに(おく)つて()たと()(こと)もその(ひる)には(しま)商家(しやうか)にはチヤーンと()(わた)つてゐます。(わたし)もやつと(かね)(おく)つて(もら)つて一息(ひといき)つけるともう、(かた)(ぱし)からせびり()られて(しま)ひました。そしてまた(もと)の一(もん)なしで煙草(たばこ)(ひと)()へなくなりました。  (しま)浮世(うきよ)(はな)れてゐるやうで、(かへつ)て、浮世(うきよ)それ自身(じしん)を、縮図(しゆくづ)してゐます。
 (しま)自然(しぜん)麗色(れいしよく)など(いう)()鑑賞(くわんしやう)してゐられるものですか。かうなると自然(しぜん)人間(にんげん)から(おも)ふさま()みにじられて(しま)つて()ます。
 文明(ぶんめい)()ふのも中途(ちうと)半端(はんぱ)ではよしあしです。

麗色 れいしょく。美しくのどか

油虫|小笠原小品|北原白秋

文学と神楽坂

油虫
 ()(がさ)(はら)父島(ちゝじま)大村(おほむら)、牧師ヂョセ・ゴンザレスの旧宅(きうたく)、今は、内地から移住してゐる若い詩人Kが仮寓(かぐう)、その(コツク)()挿 話(ヱピソード)
         *
 (うら)らかな麗らかな何ともかとも云へぬ瑠璃(るり)(いろ)黄昏(たそがれ)である。
 (コツク)()のありとあらゆる静物(せいぶつ)は、今日はことに日が()れても安らかであつた。而して、ただ在りの(まゝ)に、暮れてゆくばかしである。
 (うす)(あかり)は流しの上の欄間(らんま)と、向つて食堂への通路(つうろ)と、同じく開けつ(ぱな)しになった庭の方の出口(でぐち)と、この三方から、何時(いつ)までも何時までも夢のやうに忍び込んで来た。
 殊に欄間(らんま)隙間(すきま)から青い縞目(しまめ)になって這入ってくる光のうつくしさ、俎板(まないた)の上の大きな()ぎたての甘藍(キヤベツ)や皿や肉刺(フオク)などはまるで生物(いきもの)のやうに青い縞をつけられて、今にも(をど)り出しさうに見えた。
 その上に幽霊の手首(てくび)のやうにいくつも(ゆは)へて吊るされてゐたのはまだ青い小さなバナナの房であつた。
 黒く焦げついたフライ鍋や、(ざる)や、()つ切り庖丁やがその隅つこにあつた。
 また向つて食堂(しよくだう)()りの隅の方にも棚がある、その棚に焜炉(こんろ)と、焜炉には華奢(きやしや)(ぎん)いろの湯沸(ゆわかし)が載つてゐた。その背後(うしろ)薬味(やくみ)や、酢、醤油の玻璃(がらす)(びん)はもうよほど暗くなつて薄い光の放射(ほうしや)だけしか認められない。
 出口の外は真白(まつしろ)い砂地である。井戸の白い流しも向うに見える。砂の白い反射(てりかへし)が、今出口を通して土間(どま)にどかりと(ほう)り出された大きな野菜巃を劃然(くつきり)と浮び上らせ、()ぢぎるゝばかり積め込まれた赤いトマトの山をまだ(あか)るく染め出してゐる。
 その土間には色々のものが散らばつてゐるやうだが、さだかでない。ただ云つて置きたいのは奥の(くら)いところに土竈(へつつい)があつて、それに不釣合(ふつりあひ)に大きな鉄鍋(てつなべ)がかゝり、鎬の中には驚くほど仰山に瀬戸物の食器や(さじ)やコップがごつたかへしてゐる事である。これは肺結核の黴菌を殺す為に、食前に必ず一度はくらくらと煮沸(しやふつ)さる可きものとしてある。
 それにまだひとつ(めう)なものがある。それは足の長い()(がさ)(はら)(たこ)(でつ)かいのがぬるりと一本その上の(はり)からぷら下つてゐる事である。死物(しにもの)ではあるしことに()熱帯(ねつたい)の暑い空気の中で、風も吹かねば、そよとも動くことではない。何の事はない、()げ損つた(よい)()盗賊(どろぼう)片足(かたあし)屋根(やね)から踏み破つて、その儘日が暮れたといふかたちである。
 何れも(せい)あるものではない。(たゞ)し、凡てが恍惚(うつとり)と暮れてゆく。ただ()りの儘に今しも(かす)かに暮れてゆきつゝある。
         *
 此家(こゝ)の家族は若い主人と内地(ないち)から一緒に来た若い三人の女性と、島で雇った女中が一人、都合(つがふ)五人である。
 こゝに(ちう)をして置く可き事は連の三人の女性は皆病人で、二人は肺結核の初期、一人は肋膜炎の徴候がある事である。女中は若いけれども白痴(はくち)である。真に健康なのは主人一人であるが、之が極めて快活で一番無邪気である。
 病気に対する予防は充分にしてゐる。真実で健康な主人は大丈夫伝染(うつ)りはしないと平気でゐるけれど、女達(をんなたち)がさうはさせない。先づ食前食後には必ず石炭酸で手を消毒する事、食前には(また)(かなら)ず一切の食器を一時間大鍋に入れて煮沸する事に(さだ)められてある。女中(ぢよちう)は白痴だし、ハイカラのお(ぢやう)さん(たち)脾弱(ひよわ)我儘(わがまゝ)だし、それに煩瑣(はんさ)なかういふ余計の仕事(しごと)があるので、三度の食事は中々に時間通りにゆかない、時には一()(ぐらゐ)は抜かす事がある、それは病人には何でもない事であるけれども、主人のやうに強壮な胃袋を持った青年には(なに)より(みぢ)めな事である。白痴(はくち)の女中もよく食ふ。或は主人以上に食慾は貪婪(どんらん)であるかも知れない。それで二人はいつも腹を()かしてゐる。
 主人は非常にトマトが好きだ。小笠原(をがさはら)のトマトは殊に新鮮でまるで鶏肉(かしは)のやうな味がする、主人はトマトに正覚坊(しやうがくばう)の肉さへあれば御飯(ごはん)なぞはどうでもいいと云ふ(くらゐ)である。だからトマトばかり買ひ込んで居る。八百屋もトマトばかり持つて来る。
         *
 今日も八百屋がトマトの極上(ごくじやう)といふところを沢山(どつさり)かつぎこんだ。八丈女の狡猾(わるごす)いあの手んぼうの内儀(をかみさん)まで、磨古木(すりこぎ)(やう)になった片方(かたつぽう)の肘でこりこり籠の黒い茄子やトマトを掻き廻はしては、無理強(むりし)ひにいくつもいくつも畳の上に(ころ)がして行つた。
 それで晩餐(ばんさん)存外(ぞんぐわい)簡単に済むだ。昼餐が(おそ)かつたので、女達は麺麭(パン)とパウリスタアの珈琲、主人は腸詰(ちやうづめ)にトマト、それ位にして、それから(めづ)らしく四人でうち連れて外出した。そのあとは森閑(しんかん)たるものである。留守(るす)(ばん)の女中までが()()けずに出て行つたまままだ帰つて見えない。(コツク)()の戸も(なに)()けっぱなしである、而して主人から早速貯蔵(しまつ)て置くやうにとあれほど命令(いひつ)かつた大切(たいせつ)のトマトも矢張(やは)り籠のまゝで土間に放り出された儘になってゐる。
 而して日が暮れた。
         *
 時は聖晩餐(せいばんさん)の夜である。
 日曜学校の若い先生アレキサンダア・ゼセ・アカマン・ツウクラブ君は軽い背広に夏帽子で(コツク)()の前の垣根の外を通つてゆく。而してお(となり)真白(まつしろ)な教会堂に赤や黄の(かざり)硝子(がらす)を透かしてパツと()(とも)るとバナナ畑を近景(きんけい)にした教会堂の(うす)(あかり)益々(ます〱)瀟洒(せうしや)な光景になる。先程まで裏の赤い畑に(くわ)()つてゐた牧師のヂョセ・ゴンザレスも今は黒い僧服に身を改めて、しづしづと椰子(やし)檳榔(びんらう)の葉ずれを(あふ)ぎながらその石段をのぼつてゆくのである。
 暫時(しばらく)あつて、お祈禱(いのり)の言葉がきこえ、静かに静かに讃美歌の合唱がはじまる。例のキンキン声を頭の尖端(てんぺん)から出してゐるのは帰化人上部(ウエブ)辺理(ヘンリ)の娘のモデの妹のセデのそのまた妹の悪戯(いたづら)(むすめ)のリデヤらしい。此家の三人の(をんな)たちの声もするやうである。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 その時、(コツク)()の屋根の暗い檳榔(びんらう)の葉裏に何かしら()いて出るやうな(かす)かな(かす)かな響がした。それが次第(しだい)次第()濃密(こまやか)になって蕭々と秋雨(あきさめ)のふるけはひとなり、響は響に重なり、密集してまた更に四方の羽目(はめ)にふり灑いでくる……と、(はり)にぶら下った大蛸の吸盤(きふばん)のひとつが薄暗(うすくら)い空の中でピカリと光つた。かと思ふとつるつるつると見る間にその光が()びてくる。(あと)から(あと)からと光りながら絶間(たへま)もなく光つてゆく……蛸が(かす)かに生きかへつて()()した。と又、俎板(まないた)の上の甘藍も庖丁も肉刺(フオク)も筒の中の赤いトマトもフライ鍋も何かしら色が(かは)つて来た、雨の音がそこにもここにもし出した。はては(いよ〱)驟雨(しうう)のやうな響となつて、異様な動物性の臭気(しうき)がそこら一面に満ちわたつた。
 何か異変(いへん)が起りさうである。
 隣ではヂョセさんの覚束(おぼつか)ない日本語のお説教が始まった。
         *
 一(たん)、暗く落ちついた瑠璃(るり)いろの空の光は暫らく()つと(ほん)のりとまた(あか)るくなってゆく様である。見る()に明るくなつてゆく。それは檳榔(びんらう)の葉ずれや鳳梨(ハイナツプル)の匂のする、砂糖焼酎や、乾草(ほしぐさ)や、腐れたバナナのにほひのする(つき)の出しほの(うす)あかりである。(には)のタマナの葉がてらてらと光り、白い砂地の明りが更に白く潤味(うるみ)を帯びて、風がさらさらとわたると、豆畑や赤い斜面の玉蜀黍(たうもろこし)の中で鶯がまたささ鳴きをはじめる。
 ――ヨウ――、月夜闇夜(つきよやみよ)と、ナ、云はずにおぢやれ、いいつもバナナのかあげはやあみい……。
 シヨメ、シヨメといふ八丈節(はつじやうぶし)の流しがきこえる、浜はいま太平洋の横雲が霽れて、大方(おおかた)昨夜(ゆふべ)のやうな麗らかな()(まる)い大きな大きな月が瑠璃(るり)や緑の浜桐や護謨(ごむ)の葉越しにゆらゆらとせり(あが)つてきたのであらう。リデヤの父親(ちゝおや)辺理(ヘンリー)が大きな独木舟(カヌー)の櫂をかついで今また垣根の外を通る、
 ――Good night
 ――今晩は。

 (コツク)()欄間(らんま)(そと)が水をうつたやうに静かになつた。これから昼のやうに明るくなるのである。
 ふと、カサカサといふ音がした。甘藍が動いたやうである。月光の下、(かさ)み合つた(あを)球菜(たまば)の間から褐色の大きな(ひか)るものが(すべ)り出した。その物は爽かな野菜の香気を(しみ)()嗅ぎ惚れてでもゐるやうに暫時(しばらく)、その水のやうな燐光(りんくわう)の中にぢつとしてゐたが、またするすると(くら)い影を曳いて辷り落ちた。油虫(あぶらむし)である。と見ると、見る間に、その油虫が一つまた一つ、二匹、三匹、四匹、五匹、はては(かず)(かぎ)りもなく、葉と葉の(あひだ)から(すべ)り出した。まるで()きた甘藍(キヤベツ)の心の心から()いてで出るやうだ、走り(まは)る、葉裏(はうら)へ乗り越す、蕭々とまた(コツク)()一杯に驟雨(しうう)の来るけはひがする、油虫が愈匍ひ廻るのだ。
 大きな、小笠原特有の油虫である。内地ののやうに(あや)しい(ひほい)こそ立てないが、居るわ居るわ、屋根裏、羽目(はめ)卓子(テーブル)の下、赤い詩集の表紙の上、男女の別ちもなく油さへ塗つてあれば(あたま)の髪の中へまでも、忍び込み、着物(きもの)は噛り菓子皿は嘗める、おしまひには(はね)を開いて飛び廻る、縦横無尽である。それが今(つき)()(しほ)の暗まぎれに時を得顔(えがお)に跳梁する。
 忽ち、甘藍(キヤベツ)褐色(かつしよく)の塊となった。つるつると光り、ゆらゆらと()れ、底の底から無数(むすう)の微かな音響(おんきよう)を立て、輝く光の塊となつて燃えあがつた。動く、動く、一(せい)に動く。油虫が動くのでない。生きた野菜が自分から(ゆら)めき出したのである。と、俎板(まないた)が動く。菜つ切り庖丁が動く。ナイフや肉刺(フオル)はまた豊麗な饗宴の夢でも見るやうに(をど)り出す、まるで貪り足らぬ人間の「食慾」が亡霊となって、肉を切り、マカロニを(すく)ひ上げるやうに、それをがつがつ(をど)らすのである。鍋の中の皿や茶碗は勿論、棚の上の薬味(やくみ)、ソースの(びん)まで生きかへつたやうに音を立て、手が出、足が出て、(それ)()一塊(ひとかたまり)の大きな大きな褐色の虫となつて燃え上る、自分達の重さに傾きかかつた籠の中のトマトは(るゐ)()と一つ一つに(はね)が生へて(ころ)がり出し、箭までが()ぢきれさうに(せい)一杯(いつぱい)の力を出して(ゆら)めき出した。月の光は(いよ〱)らぢゆうむのやうにそれらに新らしい生活力を与へ、露を()らし、素朴な風味と芬香とを(そゝ)ぎかける。欄間(らんま)から流れ込む青いその光が又俎板(まないた)にいつぱい(たか)つてゐる油虫の集団に美くしい幾条(いくすぢ)かの縞目(しまめ)(ゆら)めかした。その縞目が又()えず流動し、蠢動する。
 静物の世界が今色も(にほひ)も響も一緒に真実一念に燃え上がつたのである。
 ――Tonka John! Tonka John!
 甲高(かんだか)なキンキン声を出して、教会との隔ての垣根から誰やら呼ぶ。女の子の声である。リデヤだ。
 ――Tonka John! Tonka John! 居るかい。
 垣根を向うからどんどんと敲く。(たれ)家内(なか)から返事する者がない。油虫の運動がちよとたじろいた。野菜や食器がひたと静止する。
 (そと)は実に麗らかな良夜である。リデヤは垣根の上から真白な(あご)だけしやくつて延び上った。十二三の、鼻の高い、眼の迫つた、髪の赤い、如何(いか)にも悪戯者(いたづらもの)らしい顔付である。
 ――Tonka居ないか、いいもの見せやうか、Tonka!
 Tonka Johnとはこの家の若い主人の幼な名である。南国(なんごく)の生れで、郷里が長崎(ながさき)に近いだけ阿蘭陀(オランダ)なまりがあつて、日本人の名にしてはをかしいけれども、ここではその(はう)が調子よく唇く、それで自身もこのトンカジョンで通してゐる。この青年がこの島に()いて三日(みつか)()の朝、人間よりも大きい(はま)万年青(おもと)が並木のやうに続いて、(にく)の厚い竜舌蘭(マニヲ)(むらがり)が強烈な日光の中に滅法界(めつぱふかい)に大きい海蟹(うみかに)の足の如な()(えふ)を八方に(ひら)いてゐる傍で、砂浜に曳き上げられた黒い()()()の上に竝んで腰を掛けながら、初めて逢つたその娘は()いた、
 ――お前の名は何ていふの、
 ――Tonka John.
 ――Tonkaかい、(あたい)の名はRydia.
 さうして猫のやうに()()()を躍り()えながら、
 ――遊びにお出でよ、(あたい)んとこに白い()(ちやう)が居るよ。
 と云つた。而して手に持った貝殻を矢庭に砂の上に(たゝ)きつけて、()け去つた。それからこのリデヤとトンカジョンは、(だい)仲善(なかよ)しになった。
 今もTonka.Tonkaとキンキン(ごゑ)で呼んでるが、(だれ)も返事をしない。リデヤは(もど)かしくなつたか、ヒラリと垣根に()ぢ上つた。而して片足を掛けながら、乱暴にも乗り越して来る。髪をお下げに()らして、ツンツルテンの浴衣(ゆかた)を着てゐる、而して赤ちやんのやうに桃色の三尺を(うしろ)にダラリと(むす)んでゐるのである。それが片手(かたて)(ちひ)さな亀の子を糸に(つる)して下げてゐる。
 そのまま、()けて来て、(コツク)()(のぞ)いたが、(だれ)もゐない。食堂の硝子窓を覗いたが(だれ)も居ない。今度(こんど)は庭を廻つて(うしろ)から応接間の方を覗きに行つたやうである。
 (あか)るいバナナの向うから、
 ――Tonka.Tonkaの馬鹿やい、ヂヨネの伯父(をぢ)さんが南洋から帰つたの知つてるかい、()つちやな玳瑁(たいまい)()を見せてあげるから()てお出で、正覚坊(しやうがくばう)の児なんかとまるで違ふんだよ、ホーラ。
 リデヤ()、中々のお悪戯(いた)さんだ。今度は裏庭(うらには)のバナナのかげから、
 ――ヂヨセ、油虫の化物、教会に亀の子持つてたつて、(なに)がいけないんだい、たゞの(かめ)の子ぢやないんだぞ、玳瑁(たいまい)の子なんだぜ、馬鹿(ばか)肺病(はいびやう)やみ、見てゐろ、お前の(とんが)り鼻に今に()みつかせてやるから、イヒ……
 リデヤ()(なか)()のお悪戯(いた)さんだ。油虫の化物と云つたので、(コツク)()の油虫は一(せい)にヒヤリとしてカサカサ、カサカサと影にかくれた。
 リデヤが()つて了ふと再び(コツク)()の活劇がはじまる。
         *
 野菜や食器の感覚は常に新鮮である。(さかん)に貪婪な油虫にその葉や肉心(にくしん)を蚕食されながら、甘藍(キヤベツ)とトマトは愈フレツシユな滴汁(しづく)滴吹(しぶ)き、香ひを放ち、愈清く(かな)しくなつてゆく。食器は盛んに()められ乍ら、西洋皿は又た盛んに(こうし)や雲雀やアスパロガスの(しゆ)()の豊満な献立(こんだて)を愈白い瀬戸の光沢の(うへ)()り上げ、ナイフは(をど)つて腸詰(ちやうつめ)を切り、フオクは盛んに幻想界にそれを突き刺し乍ら、(いよ〱)光りに光つてゆく。
 月光は愈(コツク)()いつぱいに円弧燈(アークライト)のやうな水々(みづ〲)しい紫色を浴ぴせかけた。新鮮と素朴(たと)ふるものなしである、静かなこの夜の光の(なか)(のこ)るところなく照らされて油虫は一斉に全身を極めて神経過敏に顫はし乍ら、活動し、蠢勤し、集散し、反撥し、時に鏡のやうに反射(てりかへ)し、雪のやうに湧き、焼酎(せうちう)のやうに沸騰し、雨のやうに蕭々(せう〱)と音を降らしつつある。而して見る間に死んだ大蛸の片足を甦らしめ、又見る()
査古体(チヨコレート)(いろ)の甘藍を俎板(まないた)の上に躍らし、トマトをつやつやと(ころ)げさせ、脂じみた食器を微細に光らせ、愈光らせ舞踏(ぶたふ)させ輪舞させつつある。而してロには盛んに大牢(たいらう)の滋昧に(した)(づゝみ)をうち乍ら、霊魂(たましひ)は幽かに法悦三昧境に入りつつある。
 かくてまた一時間が過ぎる……
         *
 ばたばたと窓の外に足音がした。
 油虫はぱつと八方に散乱しながら逃げ走る。ほんの一瞬時である。半は夢のやうに半は感傷的に躍動しつつあつた凡ての静物ははたと静止した。
 油虫が消えて了へば、幻想も消える。澄みに澄む月の光に照らさるる静物は矢張り元の静物である。ただトマトと甘藍(キヤベツ)は全く哀れであつた。散々(さん〲)に食ひ荒らされたトマトは新しい傷口(きずぐち)の痛みから光沢(くわうたく)を失ひ、()半分(はんぶん)になり三角になり、或は(はち)の巣のやうに吸ひ()ぶされ、ギザギザとなり、今は籠の中から躍り出づる力もなく、染々(しみ〲)と残りのセンチメンタルな漿液(しやうえき)()らしつつある。甘藍(キヤベツ)はなほさら、葉をむしられ、(しん)()み破られ、色も風味(ふうみ)もなく、悄然(せうぜん)と欄間の青い影と光の縞目(しまめ)に縞づけられて僅かに()めたい残りの葉で胸を掻き合はしてゐる。そして、()面から湧き上つた真青(まつさを)な初一念も何処(どこ)へやら今は白く(ころ)がり放しである。
 足音がぱつたり(とま)つたと思ふと、ふいとその欄間(らんま)のところに、思ひがけない真黒(まつくろ)な顔が現はれた。奥村(おくむら)(此処から十町ほど離れた帰化人の部落)の黒人娘(くろんぼむすめ)のベネの(かほ)である。何で差し(のぞ)くのか暫く閴寂(ひつそり)とした家内の様子(やうす)を窺つてゐたが、ただそつと首肯(うなづ)いて、欄間(らんま)の隙から燃え立つばかりの真紅(まつか)なアマリリスの花を一(ぽん)差入(さしい)れて、又そつと消えて行った。しとしとと砂を踏む足音がする……、而してまたその足音も(かす)かに幽かに消えて行つた。
 油虫はたちまちにその赤い花に密集した。花が又忽ち真黒(まつくろ)になつた。而して苦痛に(をど)り出す……。
         *
 さあて、(いよ〱)油虫の世界である。
 屋根裏(やねうら)の檳榔の葉を伝ふ(かず)(かぎ)りもない油虫が一時に驟雨(しうう)の走るやうな音を立てる。羽目(はめ)の隅から隅まで駈け廻る。焜炉(こんろ)(へり)を辷り上る、(ぎん)いろの湯沸をまつくろくする。コップの(なか)の腐つた牛乳を()める。フライ(なべ)(あぶら)(たか)る。野菜には飽いたか()つたらかして、今度は愈結核菌(けつかくきん)煮沸用(しやふつよう)の大鍋の中に一斉襲撃をする。油虫、油虫、恐ろしい肺病の黴菌がそこにはうぢやうぢや繁殖してゐる真最中(まつさいちう)だぞ、()めたら大変(たいへん)、みんな肺病になって了うぞよ。
 油虫は考へない。ありとあらゆる(もの)に対してただ無闇(むやみ)に密集する。見る間に(コツク)()一杯油虫となるまで満月の光を飽迄も悪用する、人さへゐなければ縦横無尽である。
 油虫は、月に光つては(さゞなみ)の寄せる如く屋根裏(やねうら)から羽目の隅々(すみ〲)、窓、棚、あらゆる静物の上にまた一としきり驟雨(しうう)のやうに走り廻る。誇張すればシネマトグラフの西洋の化物(ばけもの)ホテルのやうに窓の硝子がくるくる廻り、流しが歩行(ある)き、土間が天上(てんじやう)し、はてはくるくると(コツク)()全体(ぜんたい)が廻り出す。さながらさういふ光景である。
 トマトも甘藍(キヤベツ)も今はあったものかは。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 教会では愈おしまひの祈祷(いのり)が済むだと見えて、また平和な讃美歌の合唱がはじまつた。
 今、(コツク)()は全く油虫の世界である。家がゆらゆら動く……
        *
 程もあらせず、(そと)にガヤガヤペチヤペチヤと人間の声がする。(とほ)り過ぎるかと思ふと、さうでなし。ばたぱたぱたぱたと()()むで玄関の戸の把手(とりて)(ねぢ)るが早く、パツとマツチを()る、応接間(おうせつま)にはラムプが(とも)される。人の影が障子にちらつく、やがてガチヤンと(ゆれ)椅子(いす)に腰を(おろ)した(おと)がして、元気な男の声で、
――お(なか)()いた、早くトマトを()つといで。

1915(大正4)年4月1日「ARS」創刊号に発表。

三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。

 石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。

石畳

石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。

見返しとかくれんぼ

 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

宮城道雄記念館|中町

文学と神楽坂

 昭和53年(1978)12月6日、宮城道雄氏が晩年まで住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館です。目で見る展示のほか、耳で聴く設備などがあります。
 まず右手の奥に「宮城道雄氏略伝」があります。

 宮城道雄氏略伝

宮城道雄氏略伝

 宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る 生後二百日にして悪質の眼病あり九歳遂に失明し2代目神戸中嶋検校の門に入る その芸術的天分は夙に音楽に発現し十六歳にして処女作「水の変態」を成し 爾来「春の海」「秋の調」「落葉の踊」「桜変奏曲」等幾多の名曲あり独自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音楽と称せらる
 昭和五年東京音楽学校に迎えられて講師となり同十二年には同校教授たり 十九年高等官三等正五位に任せられ 昭和24年には東京芸術大学講師たり 三十一年六月正四位勲四等に叙せられ 旭日小綬章の授興を受く その間芸術院会員の拝命放送文化賞の受賞 世界民族音楽舞踏祭に日本代表として渡欧などの栄譽ありしを 昭和三十一年六月二十四日関西交響楽団との競演のため大阪市に向う途上列車銀河より東海道刈谷駅付近の鉄路に転落せるを発見 手当中翌二十五日光輝ある六十二年の生涯を終りぬ
 口述及び点字写字機に依る「雨の念仏」「騒音」「垣隣」の詩趣多き随筆の類を收めたる全集三巻の遺著あり 亦その詞藻を見るに足る

  右  七周忌に当り属により
       遺友 佐藤春夫 撰


宮城道雄記念館

 入場料は400円、入って上がった所が1階になっています。1階の第一展示室は箏などの楽器などを中心にまとめ、第二展示室はDVDの映像資料です。左側に行き、部屋の外からスロープを下に行くと「検校の間」にでます。これは国登録有形文化財になっています。

文化財愛護シンボルマーク国登録有形文化財(建造物)
宮城(みやぎ)道雄(みちお)記念館(きねんかん)   (けん)(ぎょう)()

所 在 地 新宿区中町三十五番地  
登録年月日 平成二十三年七月二十五日

 検校の間は、昭和二十三年(一九四八)、宮城道雄が戦災で焼失した中町の住宅を再建する際に建てた書斎である。木造平屋建て、(かわら)()き、内部は(とこ)()床脇(とこわき)を備えた六畳の和室と二畳弱の次の二間からなる。
 宮城の希望で茶室風の意匠(いしょう)をもち、庭に面した丸窓の曲線を多用した竹の格子(こうし)など、随所(ずいしょ)に高度な大工技術が()らされている。昭和二十五年(一九五〇)と昭和三十年(一九五五)に敷地内で()()を行い、現在の位置に固定した。
平成二十五年三月

新宿区教育委員会


検校の間

 また「検校の間」「録音室」「石の達磨大師」についても説明があります。

 宮城道雄の書斎。昭和23年(1948)12月に完成し、「(けん)(ぎょう)()」と名づけられた。最後の7年間はほとんどここで作曲された。はじめは、自宅母屋から廊下づたいの離れとして、現在の録音室の東寄りに建てられたが、録音室建築のために現在地に移され、独立の一棟となった。間口3杯、奥行2間。南に6畳、襖を隔てて北に2畳。6畳には向かって右から床棚・床・付書院が設けられ、床柱は竹の角が用いられている。天井は、付書院側の1.5畳分が簾張、他の4.5畳分が竿縁。全体として茶室風の趣になっている。

 録音室
 鉄筋コンクリート平屋造り、防音設備を施した一室。目の不自由な宮城が自宅で録音することを目的として、昭和30年(1955)に着工されたが、翌年の竣工の直前に彼は不帰の客となり、自身はこの録音室を用いずに終った。

 石の達磨大師
 ちょうどこの春早々でありましたが、いつも来る植木屋さんが、石の達磨(だるま)大師(だいし)を持ってまいりました。私はその顔を撫でてみましたところが、これは石屋さんが彫ったんで、別に有名な方の作ではないんでありますが、なかなかデコボコした手触りが非常に面白いと思いました。ことに、この石像の顔を撫でるときに、いちばんに眼を撫でてみます。ところが、眼が彫ってありまして、眼がなかなかよく出来ているように思いました。 宮城道雄談・昭和30年(1955)2月ラジオ

 さらに宮城道雄記念館の別館、宮城喜代子記念室もあります。検校3

宮城道雄|箏曲家

文学と神楽坂

 宮城道雄宮城(みやぎ)道雄(みちお)は作曲家・箏曲(そうきょく)家で、生まれは1894(明治27)年4月7日、兵庫県神戸市。8歳で失明。13歳、一家で韓国の仁川に渡り、箏と尺八を教えて家計を助けました。1917年4月(23歳)、帰国しますが、妻が急死し、翌年再婚。最後は1956(昭和31)年6月25日で62歳で死亡しました。
 宮城道雄記念館は新宿区中町にたっていますが、ここに来るまであちこちを転居しています。ただし、ほとんど牛込区(新宿区)です。 昭和5年。宮城道雄
 内田百閒(ひゃっけん)氏の「東海道刈谷駅」(昭和33年)では

 宮城が今出て来た牛込中町[1]の家は、もとの構えを戦火に焼かれた後に建て直した屋敷で、後に隣地に立派な演奏場を建て増しして相当に広い構えである。焼ける前の庭にあった梅の古木を宮城は懐しがり、「古巣の侮」と題する彼の文集を遺している。牛込中町の今の家[1]は借家ではないが、それから前に彼が転転と移り住んだ家はみな借家であった。牛込中町の前は牛込納戸町[2]。門構えの大きな家であった。

「今の家」[1]というのは中町35番地で、これは昭和5年7月から死亡するまで26年も使っています。現在ここは宮城道雄記念館になっています。
 中町の前は納戸町40番地[2]。昭和4年4月から転居し、1年半、ここ納戸町に住みました。この間新しく80絃を使い、東京音楽学校の箏曲科の教師になっています。

 納戸町の前は同じく牛込の市ヶ谷加賀町[3]。彼はここで大正十二年の大地震に会った。9月1日の後2、3日目に私は小石川雑司ケ谷町の私の家から彼の安否を尋ねに出掛けた。加賀町界隈には余り倒壊した家もなく、大丈夫だろうと思って行ったが、その家の前の道幅の広い横町へ曲がると、向い側の屋敷の(へい)の中から枝を張った大樹の木陰に籐椅子を置き、人通りのない道ばたで晏如(あんじょ)としている宮城を認めてまあよかったと思った。お互に無事をよろこび合ったのを思い出す。

晏如 安らかで落ち着いているさま

 大正12年4月ごろ市ケ谷加賀町2−1[3]に転居。この家が広く、門がある家で、電話も来てから通っています。

 市ケ谷加賀町の前は牛込払方町[4]市ケ谷新見附のお濠端から上がって来る幅の広い坂道を、上がり切って右へ行けば牛込北町の電車道に出る、その坂を鰻坂と云う、鰻坂を上がり切った左側の二階建の借家で、門などはない。馳け込みの小さな家で、二階一間(ひとま)に下が一間(ひとま)、それに小さな部屋がもう一つか二つついていたかも知れない。
 棟続きの横腹に向かって左手の借家には、時代を異にしてその昔石川啄木が住んでいたと云う。二階建の棟割(むねわり)長屋(ながや)と云う事になるが、その同じ棟の下に二人の天才か伴んだ事になる。その家は戦火で焼けて今は跡方もない。(略)
 夜は宮城がその坂の上の借家の二階で寝ているのを知っているから、私は下の往来から竹竿の先にステッキを括くくりつけて継ぎ足して、長くなった棒の先で二階の雨戸をこつこつ叩いておどかした。後で宮城がくやしがるのが面白かった。彼も若かったが私も若かった。
 払方は何年から何年までであったか、(ちゅう)でははっきりしないが、大正十年よりは前である。私が宮城を知ったのはこの時代である。

市ケ谷新見附 以前の都電の駅で、JR市ヶ谷駅と飯田橋駅の中間地点にあります。
 そらで覚えていること。暗記していること。

 大正8年5月ごろ、牛込払方町25番地[4]に借家。これは広い坂を上りきった左側にあった家で、もと、石川啄木が住んだ大和館という下宿のあとだといいます。(実は吉川英史氏の『この人なり 宮城道雄伝』新潮社、昭和37年では大正館と間違えて書いています)。2軒つづきの家で、表通りに面しているので、荷車や人の通る足音などがうるさかったといいます。

 この場所は現代では25番地の日本左官会館(現在はマンション)、あるいは、その南側の25番地のアーバンネットです。

払方町

 これは明治や大正でも同じようです。「広い坂を()()()()()左側にあった家」だとすると、日本左官会館でしょうか。明治大正「アーバンネット」は坂の途中だと思います。

 払方の前は日本橋浜町にいたそうだが、その時分の事は私は知らない。余り長くはいなかった様で、半年ぐらいだったかも知れないと云う。
 その前は矢張り牛込の市ケ谷田町[5]。一度日本橋へ出たきりで後はずっと牛込の中で転転している。その市ケ谷田町に家を構えた前は、町内の田町の琴屋の二階に間借りしていた。それが大正六年の五月朝鮮から出て来た時の住いであった。

 大正7年に移ったこの田町の家[5]は、市ヶ谷田町2丁目23番地。3間くらいの部屋数の、古ぼけた家でした。入口に「宮城大検校」という大きな看板をかかえて、内弟子をとり、まだ人力車に乗るだけの余裕はなく、質屋にも通ったといいます。


『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』

文学と神楽坂

『新宿区町名誌』は昭和51(1976)年、新宿区教育委員会が発行し、『新修新宿区町名誌』は平成22(2010)年、新宿歴史博物館が発行したものです。『新修新宿区町名誌』によれば、2つの違いは

一、本書は、昭和51年(1976)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区町名誌』の内容を再調査し、全面改訂を行ったものである。
一、地域区分は『新宿区町名誌』を踏襲し、古い村を単位とした十区域(①牛込東部、②牛込西部、③牛込北部、④市谷、⑤四谷、⑥新宿と周囲、⑦大久保・百人町、⑧西早稲田・高田馬場、⑨落合・中井、⑩北新宿・西新宿)に分けた。項目は原則として現在の町名を立項し、その町域内にあった過去の町名は小項目として立項している。項目の配列も原則として前書を踏襲したが、読みやすさを考慮し、広域の地名解説を各章の最初に記述した部分もある。

 たとえば、神楽坂1丁目を『新宿区町名誌』では

 神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保14年(1729)11月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。
 宝暦11年(1761)9月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌12月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥(あすか)井、花園等の受領地となって町屋ができた。

『新修新宿区町名誌』では

 牛込御門に近い外堀端沿いの地域で、江戸時代には武家地と、牛込(うしごめ)牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)という拝領町屋があった。
牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24目に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)。

 一番正確な町名誌でしょうか。

北原白秋の転居|神楽坂

文学と神楽坂

北原白秋

 北原白秋は千駄ヶ谷から移り、1907(明治40)年12月から翌08(明治41)年10月まで牛込区北山伏町33番地、翌09 (明治42)年8月までは牛込区神楽坂2丁目22番地に住んでいました。8月からは本郷区ですが、再び10(明治43)年2月、牛込区新小川町3丁目14番地に、9月、青山原宿に転居します。

 地図はここに。赤い3つが住んでいた場所です。

昭和5年の牛込神楽坂の地図(赤は北原白秋の住居)

 この「パンの会」は、雑誌『スバル』の詩人、北原白秋木下杢太郎長田秀雄吉井勇たちと、美術同人誌『方寸』に集まっていた画家、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊たちが、反自然主義、耽美的傾向、浪漫派の新芸術を語り合う目的で作りました。

 木下(きのした)杢太郎(もくたろう)氏の『パンの会の回想』(1926年)によると

何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
「木下杢太郎全集 第一三巻」岩波書店 1982(昭和57)年
北原白秋『東京景物詩』

北原白秋『東京景物詩』口絵 木下杢太郎画

 高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会しました。長田秀雄、吉井勇、小山内薫、さらに俳優の市川左団次、市川猿之助らも顔を出しています。

 月に数回、東京をパリに、大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まりました。1908年末から1913年頃まで続きました。

 白秋の『東京景物詩及其他』や木下杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。

『東京景物詩及其他』については「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」がこう解説しています。

処女詩集『邪宗門』(明治42年刊)、『思ひ出』(明治44年刊)、『東京景物詩』(大正2年刊)には、「パンの会」時代に書かれた東京を中心とした官能的、唯美的傾向の詩が収められている。
 第2詩集『思ひ出』が、郷土や幼少への愛着が基底となっていたのに対し、『東京景物詩』は、表題どおりに都会や青春に対する情緒が中心となっており、享楽的な面も多い。しかし、その享楽は『邪宗門』ほどには濃厚でもどぎつくもなくて、よりやわらかく軽く、ダンディなものである。近代的な東京風物をモチーフとしたり、一時代前の江戸情緒的要素を加味して下町的な気分を表現したりすることにより生まれたもので、白秋が多用した新俗謡体は、民謡、歌謡のスタイルでより情緒的に都会を描写するのに適していた。(中略)
 白秋自身、<この詩集は種々雑多の異風の綜合詩集であり、何ら統一はない>と言っている。しかしそこには白秋の東京への深い思い入れが感じられる。


スーパーよしや|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

「スーパーよしや」について、最初は文明館の勧工場、次に文明館の映画館になり、それから映画館の武蔵野館から短期的に百貨店アカカンバンになり、1977年(昭和52年)からは柳町店と神楽坂店を同時開店した「スーパーよしや」です。場所はここ
 初めは1945年(昭和20年)、創業者、小泉長三氏が中板橋15番地に「よしや」の屋号で食料品店を開業しました。

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(「文学界」昭和53年、岩波現代文庫)によれば

 船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ松本訓導』などという映画ー当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしばった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違って、お涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズムの顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

勧工場 多くの商店が規約を作り、組合制度を設けて一つの建物の中に種々の商品を陳列し、即売した所。詳しくは別のところに。
紅涙 こうるい。(美しい)女性の流す涙。血の涙。血涙。
顕現 けんげん。はっきりと姿を現すこと。はっきりとした形で現れること
ニコニコ大会 戦前~昭和30年代、短編喜劇映画の上映会は「ニコニコ大会」という慣わしがあった。

よしや

よしや

石川啄木|砂土原町

文学と神楽坂


石川啄木

 石川(たくぼく)は明治19年2月20日、岩手県に生まれました。東京には5回上京しています。
 最初の上京は明治32年(13歳)夏。上野駅勤務の義兄を頼っての上京です。上野の杜と品川の海を見て帰ります。
 2回目の上京は明治35年(16歳)。10月、「明星」に歌1首が載り、そこで10月31日、盛岡中学を中退し、上野行きの列車に乗りました。11月1日、東京に着き、2回目の上京で、1回目の長期の上京です。小石川区小日向台町に住み、新詩社に出ていますが、何せ金はなく、翌36年1月『下宿を着のみのままで逐出され』、神田錦町の見も知らぬ佐山という人の安下宿に入り、紋付きを質屋に入れたりして金を作り、一膳飯屋で1日に1度か2度食いつないでいました。年が明け、2月、病気になり、郷里から来た父と一緒に帰郷します。
 3回目の上京は明治37年10月31日(18歳)。2回目の長期の上京です。向ヶ岡弥生町三に止宿。元気はいっぱい、屈託はなく、勝ち気で、明るく、飄然として、木の妹光子の話によれば、ここでも「いつも大きな法螺を吹いて」いたようでした。
 11月8日、神田駿河台袋町八に転居、11月28日、牛込区砂土原(さどはら)町3丁目22、井田芳太郎方に転居。砂土原町3丁目22は現在「朝霞荘」になっています。

朝霞荘

 金田一京助全集の第13巻「石川啄木」(三省堂)では、

 12月の初めに(或は11月分の宿料が出ない為めに、屈託をしてではなかったとも思う)、『今度の日曜に、お逢いしたい、こんな所だから』と地図まで書いたハガキを貰ったようだった。それを片手に、小石川の砂土原町を尋ねて行った。坂を上った角が、埼玉学舎で、その隣の井田という家だった。
 玄関へ入った瞬間に、何か、私を待ちながら、その私の噂を、相宿の男へでもしていた様な石川君の声(と私は睨んだが)で、『文科大学生ですよ、ええ』というのが聞えて、すぐ沈黙した。女中に通されて、その室へ入ると、石川君は、床を敷いていて、その中から、立ち上って迎えてくれたのはよいが、袴をつけて紋付羽織を着たまま寝ていたもので、羽織は、くしゃくしゃ。それよりも驚いたのは、仙台平がもう、折目がすっかり無くなって、袋を穿()いているよう。恐らくは、寝ても起きても、どこへ行くにも、朝から晩まで、この袴をつけていたものでもあろうか、1ヶ月にしかならないのに、縞なりに、もう切れて、裾からは、ぼろが下がっていたのである。
 その云うことが、振っている。一々の言葉の端は覚えていないけれど、大体こういうことだった。
 感冒(かぜ)をひいて、寝てしまって、退屈でつまらないから、蟇口を出して、倒にして振って見たら、バラッと落ちたのは、全財産、大枚十銭五厘。女中を呼んで、これで、みんな葉書を買って来いと云いつけて、葉書を買ってもらって、みんなへ手紙を書いた。一枚余った葉書を、誰へ出そうと考えた。ムム大隈伯へ出して見ようと考えついて、
『あなたのような世界の大政治家と、私のような無名の(陋巷の?)一小詩人と、一堂に会してお話をして見たら、どんなに愉快でしょう』
と書いてやったという。
 私も、呀っとばかり、開いた口が塞らなかったが、この人にしては、有りそうなことだと、興味に釣られて、『そしたら?』と聞くと、『返事が来ましたよ』『え? 大隈さんから?』と私が驚くと、『大隈さんの字ではないんでしょう。自分で書かれないそうだから、やはり代筆でしょうけれど……』『何て云って来たの?』『面白い、兎に角逢おう、やって来い、と来ましたよ』『それでは行くの?』『だってもう、電車賃も無いんですもの』。
 先程からの話で、当然すぎる程、それは当然だった。『一文も無い、それァ困るなあ』と云いながら、私は蟇口を出して、畳の上へボロンボロンと揮って、月末の勘定の残りが3円なにがしがころころ転がったのを切半して帰って来た。
 前後、幾年、凡そ私が石川君に用立てた金は、どうやら此の様な行きさつで私の手から渡るもののようだった。

仙台平 せんだいひら。宮城県仙台市特産の絹の高級袴地「精好仙台平」の通称。
大隈伯 大隈重信。おおくま しげのぶ。政治家としては参議、大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任し、早稲田大学の初代総長。

 この上京では長詩をたくさん作っています。詩人として名前は高くなりますが、生活は全くできない。3月10日、牛込区払方町25の大和館に転宿。5月10日、詩集『あこがれ』をだし、上田敏氏の序詩、与謝野氏の(ばつ)(後書き)。しかし、これが売れない。印税で家族を養うはずだったのに。金はなく、縁故もなく、スポンサーもパトロンもない。5月20日、帰郷の途に就きます。
 ここで牛込区砂土原町3丁目22と牛込区払方町25の場所を見ておきます。青で書いてある場所です。現在も変わっていません。牛込区払方町25についてはここに詳しく書いてあります。

啄木の場所

 なお、右の青の隣り、薄緑の場所は現在はマンション数棟ですが、以前は埼玉学生誘掖会埼玉寮でした。100人を超える寮生が生活していました。「誘掖」とは、導き助けるという意味だそうです。
 四回目の上京は明治39年6月。第2詩集を相談するため、また、父の問題で東京の宗務局に行きますが、宗務局の運動はだめ。よかったのは「俺だって書ける」と考えて帰ったこと。これが四回目の東京行きです。
 五回目は明治41年(22歳)。長期の上京としては三回目。北海道を離れ、4月28日、東京に到着。4月29日、金田一京助氏を訪ね、金田一氏の下宿に住んでいます。
 石川木と金田一京助の住所は文京区ですが、しかし(しん)()(しゃ)の友人、1歳上の北原白秋氏は北山伏町33番と神楽坂2丁目に住んでいました。木はここを訪れています。なお、新詩社とは明治32(1899)年、()()()鉄幹(てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体しています。

 明治41年7月27日 木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍って、耳が-左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴ってゐた。
いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言ってゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなってから辞した。途中まで送って、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。

 もうすこし駅に近い場所がよかったのでしょうか。北原白秋氏は物理学校のそばに転居します。

 明治41年10年29日 木の日記から。

 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一曰の談話につかれてゐてすぐ床についた。

 物理学校は現在の東京理科大学です。私立大学で本部は新宿区神楽坂1-3。北原氏は明治41年10月にここ神楽坂2丁目に転居し、一年後の明治42年10月、本郷動坂に転居します。北原氏はここで「物理学校裏」という詩をつくっています。

 また木は、相馬屋の原稿用紙を買っています。これから2か月半後の4月13日、死亡しました。

 明治45年1月30日。木27歳の日記から。

 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのって神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひ出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかった。
 本、紙、帳面、俥代すべてゞ恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送ってゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。

ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン Пётр Алексе́евич Кропо́ткин (1842/12/9-1921/2/8)。ロシアの革命家、政治思想家、地理学者、社会学者、生物学者。近代アナキズムの発展に尽くした人物で、無政府共産主義を唱えた。

 これについては金田一京助氏は『啄木の美点』でこう書いています。

死ぬ直前、金も米もつきたところへ、朝日新聞社から編集長の好意の見舞金が届いた。何を買うかと思ったら、人力車に乗って神楽坂の本屋にいって本をあさり、結局、彼が人間性の可能の限界をきわめる最高の哲学だとするクロポトキンを買って帰った。この熱度、この真剣さ、妥協を拝する一本気と貧苦にめげない強気と、それに恩愛にすら束縛を感じ、童貞にも圧迫をおぼえる鋭い内省、ついに病の小康とともに天才主義から民衆主義へ、百八十度の転換を完成して、しばらくぶりに長詩ができた6月下旬、やはりしばらくぶりに、二人の間の久しい難問解決の喜びを分かちに来てくれたあの最後の訪問、恩讐(おんしゅう)をこえた、二人の交遊の総決算のような美しい訪問、啄木のこんな真実性に目をふさいで、伝記学者、地下の啄木にそれですむか。



ヤマニバー[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 神楽坂6丁目に「ヤマニバー」があるとわかったのは、「西村和夫の神楽坂」の「神楽坂界隈」連載13号でした。2004/7/15にかいてありました。神楽坂6丁目の情景で……

広げられた道路にはすき焼屋を初め飲食店が多くカフェの前身というか当時はやりのバーなる洋式の飲み屋が縄のれんに仲間入りしてきた時代だ。とりわけ肴町の電停付近は夜遅くまで人通りが絶えなかった。
 ヤマニバーは現代のチエン店で、当時市内の何処にでもあり、国産の安ウイスキーが売り出されて間もない頃で、新しもの好きの客でかなり繁盛していた。

 ふーん、何かのバーだな、ぐらいの感じでした。でも、どこにあるの? 肴町は現在の神楽坂5丁目のことです。電停は、昔あった都電の停車場で、「神楽坂上」にありました。なんとなく、ヤマニバーはこの肴町の電停付近だなと思っていました。
 しかし、これはまったく違いました。加能作次郎氏の『早稲田神楽坂』では

寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。
 その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみごみした狭いきたない通りだが…

 どうもヤマニバーは「寺町の郵便局下」(神楽坂6丁目にある旧郵便局の下)で、その向いには第一銀行支店があるとわかってきました。
 サトウハチロー著の『僕の東京地図』では同じように……

長じて、おふくろと住むようになってからは、…ヤマニバーにもっぱら通うようになった。ヤマニバーは御存知もあろう、文明館の先の右側だ。ヤマニバーの前にいま第一銀行がある。
ヤマニバー 昭和12年と現在

ヤマニバー 昭和12年と現在

 さらに昭和12年の「火災保険特殊地図」を見るとスーパーのキムラの反対側で、直線ではなく左の斜線にあるようです。
 つまり、道路から北を向いて菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物がヤマニバーでした。立ち飲みだけなのでしょうね。結局、人がすぐ満杯になるのも無理ないなあ。
 なお、都内には現在も営業を続けるヤマニバーもあります。なお、ヤマニは「仐」の「十」を「二」に変えたものなんですね。

いろは[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 牛肉「いろは」は6丁目にありました。
 森銑三氏の「明治東京逸聞史1」(平凡社、昭和44年)によれば……

牛肉店いろは  「読売新聞」明治24年12月25日から
 牛肉店のいろはは、すべて48の支店を作ることを目標としていた。その第18支店いろはが、牛込神楽坂上に出来て、新しく開店することを広告している。48作ることは、一つの夢として終ったが、当時のまだ狭かった東京に、18の店を持つたというだけでも、その盛んだったことが思い遣られる。

 また、泉鏡花氏が書いた「神楽坂七不思議」で「いろは」のことがでています。

神樂坂七不思議

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
(いろは)のことなり、()れば大廈たいか嵬然(くわいぜん)としてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
        明治二十八年三月

 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。

 島崎藤村ほかの『大東京繁昌記 山手篇』(講談社)で加能作次郎氏の「早稲田神楽坂」ではこう書きます。

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく/\しながら(はし)を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

 では、どこにあったのでしょうか。まず 間違えていた論点を見てみます。『ここは牛込、神楽坂』第18号の『遊び場だった「寺内」』では、

岡崎(丸岡陶苑) でも、ほんとうに遊ぶのは、安養寺の方で、狭いとこに駄菓子屋が二軒あったんで、そっちの方がわりあいにぎやかだった。安養寺の境内の往来に面したところに街灯があって、あそこはクルマ(人力車)がいつも二、三台、年中たむろしていたから。そこに「いろは」があった。牛鍋屋の。

地図1

「岡崎さんがお話ししながら描いてくださった明治40年前後の記憶の地図を描きおこしました」と書いてあり、図のような神楽坂の6丁目(昔の通寺町)の絵が書いてあります。図の左端の半分に「トケイ」や「安養寺」と書いてあり、その下に「いろは」が書いてあります。

 昭和12年の「火災保険特殊地図」を見てみるとかなり今とは違います。

神楽坂上2

「いろは」は昭和12年「火災保険特殊地図」の「精進寮」と同じ場所です。よく見ると三角形で、ここで名残をとどめています。このほかの建物はここにでています。

 しかし、まったく違ったように見える写真が出てきました。下右端の建物は「第十八いろは」(牛込区寺町)です。(「第六いろは」は神田区連雀町なので、違います)。

 最初は、上の写真でいうと、建物「3」と思っていました。困っていましたが、よくよく見ると、写真の左側には道路はありません。つまり、上図の右中央から見た写真、つまり「精進寮」の方から見た写真だと思っています。

 以上は間違えていた議論です。正しくは牛肉店『いろは』と木村荘平を見てください。


尾崎紅葉|十千万堂

文学と神楽坂

 日本の小説家、尾崎紅葉(こうよう)は結婚して明治24(1891)年3月から横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。別名、()万堂まんどうです。十千万堂は彼の号の1つです。これから没する(明治36年10月30日)まで、12年半をこの家で過ごしました。有名な「金色夜叉」もここで書いています。門下生は泉鏡花小栗風葉徳田秋声柳川春葉などが有名で、「葉門四天王」と呼ばれていました。

 行き方はまず地図で。赤い丸が十千万堂があった場所です。
十千万堂の地図

全国地価マップ

 この場所は北から南に向かって入っていきます。

 何もないので写真を付けておきます。左側、南側が行く方向です。
十千万堂の入口

 現在でも極めて寂しい場所です。その前に行くと、簡単な説明があります。平成28年、新しく説明文が変わっています。これは旧時代のもの。新しい説明文はここに
紅葉旧居跡

 では実際に住んでいた(今も住んでいるけれど)時にはこんな場所でした。

尾崎紅葉の家

伊藤整著「日本文壇史4」講談社

横寺町の尾崎紅葉の家

写真は泉鏡花記念館の「泉名月氏旧蔵 泉鏡花遺品展」から

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、昭和29年)では……

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年。1954年)。当時のキャプション。「十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町その崖下に紅葉の文学塾があった」。第二次世界大戦後、この地域はすべて灰燼と化しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代頃

 ここを舞台にいろいろなことが起こりました。

門人 泉鏡花・小栗風葉  談話
○泉鏡花曰 …モウ田舎に帰らうと思ひましたが、それにしても、せめてお顔だけと存じましたに、お逢い下さいまして私は本望でございます。といひましたが、何だか胸がせまつてうつむいて了ひました。然うすると、まるで夢のやうです。、といつてお笑ひなすつて、具合が出来たら内においてやつてもよい兎に角に世話はしやう、(うち)に置くか、下宿屋に置くか、あした()な、それまでにきめて置くからと、おつしやツたのです。
明治36年11月「明星」


 明治文壇回顧録 昭和11年 後藤宙外

  六、丁酉文社時代(中略)
 紅葉氏の横寺町の邸と云つても餘り立派なものではなかつた。當時の氏の社會上の地位や文名の高い割合から見れば、寧ろ氣の毒な程のもので、古ぼけた二階建の假屋に過ぎなかつた。それが横寺町の通りから少し南側へひつこんだところに極めて簡單な門があり、その右側の4寸角程の柱に尾崎德太郎の自筆の標札が見られ、突當りの左右が狭い板塀になつて、ほんの四坪ばかりの場所を圍み、門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。「十千萬堂日祿」の三月廿三日の條に、「門前の柳眼漸く開く。淺々の真眞可愛。」とあるのがそれだ。左へ直角に折れて玄關になるのである。格子戸を入ると、半坪程の土間につづく取次の間は、確か二疊であつたと思ふ。西向の極めて薄暗い陰氣な室であつた。この二疊の室で、鏡花、風葉、秋聲、春葉その他、明治大正の文壇を飾つた諸君が育成されたことを思ふと、実に尊い玄關であつたのである。
 紅葉氏の書齋は二階八疊二室を通したもので、南を開いた緣側があり、上段の間ともいふべき、西寄の室の南西の隅に、緣側に對して氏は机を据ゑて居られた。

 戦前は47番地に行くのには一直線に邸宅に入れたと思います。この47番地では一軒だけが建ったのか、数軒が建ったのか、わかりません。新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年に出ている鳥居秀敏著「横寺町と近代文芸」では「この地図(参謀本部発行の五千分の一地図)にある家は家主の鳥居家が慶応三年(1867年)にここへ移って来た時建っていた古い家で、紅葉の住んでいた家とは位置も形も違います。紅葉は明治24年(1891年)に横寺町へ来たのですから、明治20年前後に建てられた比較的新しい家だったのです」

1883年 明治十六年(1883年)測量の参謀本部発行の五千分の一地図

明治四十年一月調査東京市牛込區全圖

 戦後は数軒の邸宅がこの番地上に建っています。

よこてらまちの尾崎邸

新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会「よこてらまち今昔史」

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13神楽坂」編集:真珠書院。発行:明治書院

十千万堂日録。尾崎紅葉。左久良書房。明治41年10月。国会図書館

島村抱月(1/2)

文学と神楽坂

島村抱月
 島村抱月について書こうと思います。抱月は明治4(1871)年1月10月、誕生し、明治24(1891)年10月、東京専門学校文学科(現在の早稲田大学)に入学し、明治27(1894)年7月卒業。明治28(1895)(いち)子と結婚(数えで抱月は25歳、市子は21歳でした)。
 明治31(1898)年、26歳の時に読売新聞や早稲田中学などで働いています。
 明治35(1902)年3月8日、32歳で、英国に出発し、5月7日、ロンドン着、オックスフォードに行き、明治37(1904)年、ドイツに渡り、明治38(1905)年9月12日、3年半で帰国しました。10月、35歳で早稲田大学英文科講師になります。

 明治39(1906)年1月「早稲田文学」再刊。「囚はれたる文芸」などの評論を書いています。3月島崎藤村が「破戒」を刊行します。

 明治40(1907)年、37歳になり、英文学科教務主任になります。現在の教授です。
 抱月の論評は英文科のいくつかの分野を対象にしています。
 しかしここでは抱月が重要だと思ったものを見ていきます。最初は美学です。美学は哲学の1分野で、美しいものを研究する……だけではありません。

◇美学(哲学の1分野)抱月 説明2
 知識ある批評(右図も)
 今の文壇に奇異なる現象の一つは、創作界が却つて知識に少なからぬ尊敬を拂ふに反して、批評界が甚しく知識の権威を蔑視せんとするの事実である。
(明治40年『早稲田文学』)

『早稲田文学』の論評は主幹自ら(つまり抱月が)行っているものもあります。たとえば、書評では……

◇書評
 『破戒』はたしかに我が文壇に於ける近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪えぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に傅はった生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといってよい。十九世紀末式ヴヱルトシュメルツの香ひも出てゐる。
(明治40年『早稲田文学』)

 また自然主義の文学については、陣頭にたって、かつ理論的に行いました。

◇自然主義
 今の文壇と新自然主義
 技巧無用論は、言ふまでもなく一の自然主義である。自然を忠実に写さんがため、技巧を人為不自然として斥ける。此の点からいへば自然主義の対照は技巧主義である。但し吾人は更に他に1つの対照を有する、それは情緒主義である。
(明治49年『早稲田文学』)

 演劇の評論も盛んに行っています。

◇演劇
 演芸雑談
 目下欧州の文芸全体の範囲で尤も活動して居るのは演劇であらうと思ふ。…
 が要するに国民音楽の尤も特色あつて且つ尤も近代的であるのは独逸である。
(明治39年『新小説』)

 抱月が文学者として一番熱心に行ったものは美学や自然主義ではなく、もちろん、抱月自分のあくびで有名な大学の講義でもなく、やはり演劇だと考えられます。逍遥もそうではないでしょうか。早稲田大学では演劇は今でも文学科の1コースとして行われています(文学部文学科演劇映像コース)。
 しかし、演劇を鑑賞するだけではなく、総監督として演出し、さらには劇場をつくり、劇中歌の作曲も行い、しかも大ヒットとなり、最後に多額のお金まで儲かったというのは、周りはあーあ、こけるよ、としか見てなかったようなので、ただただ驚きです。

島村抱月(2/2)

文学と神楽坂

 明治42(1909)年、坪内逍遥は大隅重信が作った文芸協会を再開し、また、俳優養成を目的にして演劇研究所を設立します。そして、島村抱月氏はその指導講師になります。
 4月18日、演劇研究科の入学試験。合格者は男子12人、女子2人。松井須磨子も1期生でした。
 大学の講義は抱月自身あくびがでるようなつまらない講義でも、演劇研究科の講義になると、抱月の熱意があったといいます。
 大学の講義について、広津和郎氏の『同時代の作家たち』のなかで抱月の講義がいかにもつまらなかったと書いています。

 私は島村抱月(ほうげつ)さんから早稲田で美学の講義を聞いたが、その美学の講義はお座なりで、月並で、そう独創のあるものとは思えなかった。
 島村さんはそれ以前にはもっと勤勉な先生だった時代があるのかも知れないが、私が早稲田で講義を聞いた明治四十三、四年頃には、それは氏の教授としての末期に近い頃であったが、ちょいと類のないほど怠けものの先生であった。学校には休講掲示場なるものがあって先生たちが講義を休む場合には、前以てその旨休講掲示場に掲示するのであるが、島村教授に限って、その休講掲示場に出講掲示がはり出されるのである。つまり何の掲示もない時には島村教授の講義は常に休みであり、たまにめずらしく出講する時には、それが余りに例外な事なので、出講掲示が張り出されるのである。
 私の学生の頃、島村さんは文芸評論家の第一人者の如くいわれていたので、私は島村さんの評論集を読んだ事があったが、たしか「人生観上の自然主義を論ず」という一文には、島村さんの生活の裏側が出ていて、個人から家族、社会と拡がって行く生の重荷に対する憂鬱な溜息を聞く思いがして惹き入れられたが、それ以外は余りにお座なりなので意外な気がした。恐らく島村さんは他人の文学などをこつこつと読み、それを批評するような熱は、文芸批評家としても持っていなかったのであろうと思う。
 島村さんにはまた幾つかの脚本の試作があるが、それも器用にテーマの上をかい撫でた程度のもので、人を打つような創作的熱情は少しも示していない。
 このように講義の美学は中途半端なものであり、評論にも創作にも心を打たれるものはないのに、私は僅かばかり氏の講義に出席して、氏の風貌や述懐から受けた印象が深く心に刻まれ、いまだに忘れられないのである。――それは一つの孤独な生活者、人生の積極面をでなく、その消極面をまじまじと見まもり、その行手に虚無の洞穴(ほらあな)が待っている事を知っていながら、どうしてもそこに向って足をはこんで行かなければならない運命の人の姿を氏に感じたからである。

 自分でも同じことを書いています。

書卓の上
 今朝もテーブルに向つて腰かけたまゝ懐手をして二時間以上ぼんやりしてゐた。何をする気も出ない。かたはらの台の上に取り散してある新刊の雑誌や書籍を、1つ2つ抽き出して明けて見たが、一向に面白くない。
(明治44年)

 何が起こっていたのか。翌年になるとはっきりします。
 大正1(1912)年8月2日、抱月の妻と長女は島村抱月と松井須磨子の関係はどうもおかしいと気がついて、松井須磨子の家を見張っていました。やがで、彼女の家から盛装した須磨子が出てきます。後を追っていくと、新宿駅から高田馬場まで行き、抱月と逢っていました。妻は抱月の「襟元をふんづかまえ」ると、須磨子は「申しわけないことをしました。死んでお詫びします」といい、抱月は須磨子を自宅に帰し、抱月は妻に「死なしてくれ」という、まあ事件が起こります。
 翌日、抱月が前夜に書いた恋文を妻が発見します。「抱きしめて抱きしめて、セップンして、セップンして。死ぬまで接吻してる気持になりたい。まァちゃんへ、キッス、キッス」(妻が中山晋平に命じて写し取らせたもの。河竹繁俊著『逍遥、抱月、須磨子の悲劇』)
 11月、抱月は奈良京都に旅行します。本人がそうしたかったのではなく、頭を冷やせという大学の命令でした。しかし、抱月は途中で東京に帰ってしまいます。
 大正2(1913)年5月31日、須磨子は26歳で演劇研究所の論旨退会になり、抱月も42歳で早稲田大学に辞表を提出。6月4日 抱月と須磨子で結婚を誓う誓紙を交わします。6月9日、坪内と島村などを交えた会見をします。
 事情を完全にはわからないため、早稲田のOBは島村のほうを応援します。結構マスコミも騒いでいたようです。7月3日、抱月と須磨子を中心に「芸術座」の旗揚げが決まります。
 11月、早稲田大学は正式に抱月の辞表を受理します。
 大正4(1915)年8月、芸術倶楽部が完成します。

24時間と僕の生き方
 私も書物に遠ざかつてから、もう三年まぢかになる。其頃の私は、毎日必ず少くとも一度づゝは書斎に閉ぢ籠つて何某教授の何哲學の系統といふやうな厳めしい洋書を引くりかへすのが職業であつた。どちらを向いても削り落としたやうな岩石の谷底に石子責になった心地で論理神経を痛めながら其間を拾って歩く。可なり強かった私の知識慾も後には疲れ切って了つた。私がまだ學校にゐた頃は、此等先哲の蹤を慕ふて、宇宙を包括するやうな高大な哲學系統を、自分の手で建てゝ見たり、壊して見たりして、其事に衷心の敬慕を棒けることが出来た。あの頃の心持も今から考へて憎いものではない。併し私は、段々其『系統』といふものに不快を感することを禁じ得なくなった。學者が最も苦心し努力した所は其『系統』をもとめた點にある。けれどもその結果は決して凡人の到り難いものでも何でもない、剋明に年月を累ねて統理してさへ行けば、私にでも出来る。機織女が、細い絲目を並べて尺を成し丈を成すのと大した相違は無い。
(大正5年『時事新報』)


石子責 罪人を穴に落としてその上に石を載せ続けて殺す、中世、近世の日本の刑罰。

 大正7(1918)年11月5日、抱月はスペイン風邪、インフルエンザで死亡します。47歳でした。

神楽坂の半襟|水野仙子

水野仙子 菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)から

菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)

文学と神楽坂

 水野仙子(せんこ)氏は肺結核で死んだ女流作家です。

 『神樂阪の半襟(はんえり)』は大正2年(1913)、25歳に書いています。神楽坂で夫と一緒に、髢屋、半襟屋、履物屋に行き、しかし、半襟屋では何も買ってくれません。でも、本当は、本当は買ってくれるだ……本当に? と心は乱れます。

生年は明治21年12月3日。没年は大正8年5月31日。結核のため32歳で死亡しました。

 お里は爪先あがりにを登りながら數へたてゝゐたが、ふと屋の店が目につくと、『あ、さうさう、私すき毛を一つ買はう。』と、思ひ出したやうに小ばしりにその店に寄つて行つた。
 髢屋の主人が背のびをして瓦斯にマッチを擦ると、急に靑白い光がぱつとして薄暗い店先を照した。氣がつくと、阪下阪上の全體に燈がはひつてゐた。
『下駄はどこで買ひませう。』と、そこから出て来たお里は、夫と並んで歩き出しながら言つた。
『さあ。』

 「坂」と同じで、神楽坂のこと。
 かもじ。日本髪を結うとき、地毛の足りない部分を補って添える髪。
すき毛 毛の束で、結髪の形を整えるために髪の中央に入れたり、頭髪の汚れをとるため梳き櫛に挟んで髪をけずったりすること
 お里はふと立ち止つて、とある半襟店の小さなショウウインドウを眺めてゐた。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。しかし、夫は半襟を買いません。
 お里はちぷりと油に水をさされたやうな氣がした。黑地に赤糸の麻の葉を總模様にしたその半襟をかけた自分の白い襟元と、着物の配合とが忽ちにして消えた。…
 あんなけちな安物1つ思のまゝに買ふことができないのだと思ふと、何やらうらめしいやうな氣がしてならない。…
『あの家に入つて見ませう。』と、お里はずんずん夫の先に立つて、昆沙門前の下駄屋にはひつて行つた。

下駄屋 下駄屋、半襟屋、髢屋はここにありました。(新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)
神楽坂の半襟
現在の下駄屋は煎餅の「福屋」です。半襟屋は「味扇」や「わしょくや」などに変わりました。
下駄屋と半襟屋
髢屋は「俺流らーめん塩」になりました。
ラーメン

 さて、その後の行動は、ひょっとして、買うつもりではとお里は考えしまいます。ここがいい。
 実際はやっぱり買ってくれません。簡単な小説ですが、男女の相克は別として、結構、お話と心理はよくって、うまいと思います。

『さうかも知れない、あの人のことだもの。』と考へた時は、嬉しさに胸が早鐘のやうに鼓動を打つてゐた。
 お里は夫が黙つて、そつとあの半襟を買ひに行つたのだと思つたのである。さう信じてしまふと、嬉しいやうな、有り難いやうな、先刻の不平だの、味氣なさだのは泡のやうに消えてしまつて、さうまでして自分を劬つてくれる夫の心持が氣の毒にもなつて来る。

劬る いたわる。思いやること

田山花袋|転居

文学と神楽坂

新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

 花袋は牛込で二十年間を過ごした。明治十九年、十六歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年三九年まで、十一回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の三十年――山の手の空気」を書いている。「」内は原文。

 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」(明治19年に)、という頃に上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
 日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明 正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治28年、東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正二年―三年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を二戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907年)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

 すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。

蒲団|田山花袋

文学と神楽坂

田山花袋 明治40年(1907年)、田山花袋氏が書いた『蒲団』の1節です。

『蒲団』は口語体、文言一致体で書かれています。こんな重大ではない、なんでもない話で、セックスをしたいけれどできないという話で、本当に当時の人は大変だったなあと思いました。

 ちなみに今から60年も前、正宗白鳥氏は『文壇50年』を書き、そのなかでこう書いています。なるほど。

「蒲団」は、清新な作品として敬意を持って読まれるよりも、嘲笑冷罵されるにふさわしいものであったが、それでもそれが、文学史上画期的の作品となったのだ。私はこのごろ回顧して特にそう思うようになった。
 何でもないような事が、フランス革命の動機となった。日本の文学も何とかしなければならぬという気運が漠然と起こりかけているとこへ「蒲団」がその気運に火をつける事になったのである。今読むと「こんな小説が何だ」と思われるような、つまらない小説であるが、このつまらない小説の巻き起した1つの傾向が、綿々と盡くるところなき有様である。

 では本文で神楽坂について書いている場所にいきましょう。

 夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来酒井の森にはからすの声がやかましく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭どじょうひげの紳士が庇髪ひさしがみの若い細君をれて、神楽坂かぐらざかに散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅でっくわした。時雄は激昂げっこうした心と泥酔した身体とにはげしく漂わされて、四辺あたりに見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上におおかぶさるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇むやみにぐいぐいとあおったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜ロシア賤民せんみんの酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだからえらい、惑溺わくできするならあくまで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。

矢来 矢来町です。江戸時代は小浜藩酒井家の牛込矢来やらい屋敷とよぶ下屋敷がありました。明治になって矢来町ができました。矢来屋敷は大きな場所を占めていました。
酒井 小浜藩酒井(さかい)家のこと
鰌髭 伸びた薄い口ひげ
庇髪 髪形の1つ、つめ物を入れて前髪を大きく膨らませ、ひさしのように前方へ突き出して結いました。日本髪よりも簡単に結うことができます。
激昂 身体は酔っているが、感情は逆に高ぶること
惑溺 夢中になって正常な判断ができなくなること。
 中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣ゆかたがぞろぞろと通る。煙草屋たばこやの前に若い細君が出ている。氷見世(こおりみせ)暖簾のれんが涼しそうに夕風になびく。時雄はこの夏の夜景をおぼろげに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅いみぞに落ちて膝頭ひざがしらをついたり、職工ていの男に、「酔漢奴よっぱらいめ! しっかり歩け!」とののしられたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞ひっそりとしていた。大きい古いけやきの樹と松の樹とが蔽い冠さって、左のすみ珊瑚樹さんごじゅの大きいのがしげっていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如いきなりその珊瑚樹の蔭に身をかくして、その根本の地上に身をよこたえた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬しっとの念にられながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。

中根坂 なかねざか。市谷加賀町と納戸町の境、大日本印刷会社の東を北または南に上がる坂道。中根坂は「左内坂町と加賀町1丁目の間に坂あり、中根坂といふ、以前坂の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる」(『新撰東京名所図会』)。場所はここ。

1857年と1849年の地図 江戸時代では北に上がる坂道(1849年)か南に上がる坂道(1857年)なのか、2つの考え方がありました。田山花袋の『蒲団』では南に上がる坂道だととらえています。区では北に上がる坂道だとしています。写真は北から南に見たもので、北に上がる坂道、逆に言うと南に下がる坂道です。中根坂道標では

(なか)()(ざか)  昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。


と書いてあります。いずれにしても、かつてはVの字のように下って、再び上がる急坂でした。それが現在のようにVの字はなくなり、最下部には橋が架かっています。一見では橋だとはわかりませんが、橋なのです。すべて区道です。
士官学校 江戸時代は名古屋藩徳川家の上屋敷でした。明治に入って陸軍士官学校になり、現在は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地になっています。1970年(昭和45年)11月25日、ここで三島事件が起こりました。日本の作家、三島由紀夫が自衛隊のクーデターを呼びかけ、割腹自殺をしました。
()(ない) 市谷左内町を市ケ谷見附の外濠通りから西北に上る急坂。場所はここ。坂名は「左内坂 市谷田町一丁目の濠端より左内坂町に上る坂あり、左内坂の名に呼ぶ。紫の一本云ふ。おなじく片町のうちなり、此所の名主島田左内といふ。坂の中に屋敷あり、此故に左内坂といふ」(『新撰東京名所図会』)。名主の島田左内氏から左内坂がでたようです。
 この島田左内重次は寛永3年(1626)に外堀端の田地を埋め立てて、市谷田町各町(1丁目から四丁目)に割り、同時に坂上にも町屋をつくり、初めは市谷坂町、後に市谷左内坂町と呼ばれるようになりました。1月3日には江戸城に登城して、年頭御礼の儀に参上しました。明治に至るまで市谷田町、同船河原町、左内坂町、寺町、牛込揚場町の五ヵ町の名主でした。
氷見世 かき氷を食べさせる店
右に折れて 左内坂上の南側に市谷八幡宮の裏参道があります。今では駿台の入口として使っていますが、裏を通り、佐内坂から市谷八幡宮に行く参道があります。下の左側の写真は駿台予備校が見えますが、本来は裏参道です。右側の写真を行くと裏参道です。
八幡宮
入口3
市ヶ谷八幡 市谷亀岡八幡宮です。下からだとすごく高い所にあると思いますが、でも小さいのでびっくりします。八幡宮
常夜燈 一晩中つけておく明かりのこと。街灯として街道の道しるべとして設置するものが多いようです。
珊瑚樹 サンゴジュ。スイカズラ科の常緑高木。庭木になります。千葉県以西まで野生します。市谷亀岡八幡宮で取った写真です。さんごじゅ

松井須磨子|神楽坂

文学と神楽坂


松井須磨子

 松井須磨子氏は最初の明治・大正の女優です。それまでは女形が女性を演じていました。最後は神楽坂の側の横寺町の『芸術倶楽部』で自殺しました。実は1ヶ月前、元早稲田教授で劇作家の島村抱月氏が、同じ『芸術倶楽部』でインフルエンザにかかって死亡しました。後追い心中でした。
 ふーん、なるほど、そうなんだと考えていると、甘い。まだ本当は何が起こったのか、まだまだ、わかっていません。
 松井須磨子氏は田舎生まれで気が強く、美人では……うーん、いろいろありますが、はい、なく、しかし、しかし、真の女優です。島村抱月氏は気が弱く、現在の早稲田大学を卒業し、文芸評論家で、英国に行きたくさんの舞台を見た劇作家で、恋に悩む考えはここまで外に出さなくてもいいのにと思ってしまいます。
 河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(毎日新聞社)で中山晋平氏の手記を引用し、抱月氏の思いを書いています。

 大正元年の三月大阪ヘノラをやりに行ったとき、東儀(鉄笛)が誘惑しようとしたんだ。けれども女(=松井須磨子氏)はそれをきらってぼくの所へのがれてきた。ぼくはそれを救ってやったんだが、それをしおに女は僕におちいった訳たんだ……ノラにしてもマグダにしても、ぼくの芝居であの女は成功したんだ。あの女もぼくを悪くなく思ったろうし、ぼくも女が可愛いかった。……あの女の芸術は、ぼくがあの女になり変ってやったようなものなんだ。ねえ中山君、まったくぼくのノラで、ぼくのマグダなんだ。

『人形の家』でノラ、『故郷』のマグダは2人とも松井須磨子氏が演じた女性です。
 同じく抱月が須磨子に書いたラブレターの1節では

 あなたはかわいい人、うれしい人、恋しい人、そして悪人、ぼくをこんなにまよわせて、此上はただもうどうかして実際の妻になってもらう外、ぼくの心の安まる道はありません。

 これ以外にも沢山書いてありますが、おなじです。
 これも『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』にでていますが、本来は田辺若男氏の『俳優』(春秋社、昭和35年)から引用してあるようです。

 鹿児島で「復活」をやった千秋楽の夜。宿へ引き上げてきてタ食の膳にむかった時、抱月と須磨子の室から、突然経営部の小村光雄の室へけたたましく電話がかかった。小村が取るものも取りあえず飛んで行くと、まじめで生一本な抱月は、やや青ざめて腕ぐみをしなから、「もう芸術座を解散しなければならない」と沈痛にいう。小村がけげんな顔をして、そのわけをたずねると、事情がおおよそわかった。顔なじみの土地の文学芸者から、羽織の裏へ抱月に揮が依頼された。そこで「わか胸の燃ゆる思いにくらぶれば、けむりは薄し桜島山」と書いた。書きおわるやいなや、それを見ていた須磨子は、抱月のタ食の膳を蹴とばし、行李の中から羽織や着物を投げ出して、びりびりと引き裂き、はては抱月に組みついてきたのであった。「お前が日本一の文士なら、私も日本一の女優だ」「なに、この成り上り者、誰れのおかげでそうなれたと思う」と、売りことばに買いことば、「お前こそ成り上り者だ。憚りなから、私は武士の家の血統に生れてる人間だ――」と、須磨子は引っこもうとしない。「度しがたい女だ。もう芸術座は解散する」というので、小村の室に電話かとんだわけだった。小村にしてみれば、二人のいさかいは珍らしいことでもないので、まアまアとその場をおさめて引きとった。
 ところが――その翌朝、鹿児島駅の待合室で、小村の話を聞いて、不安そうな一座の俳優たちの視線を受けた二人は、テレクサイ顔をしている抱月のそばへ「先生――」と須磨子が寄り添って行って、何やらひそひそと笑いながらささやきかわしている。「――天真爛漫。そこがいいのだ」と、抱月は小村に語ってすましていたという。夫婦喧嘩は犬も喰わないという標本を見せつけられて、一座も呆然としてうなずいたという。

竹久夢二|神楽坂

文学と神楽坂

筒井筒直言
 1905年(明治38年)6月18日(20歳)、夢二の最初の絵「勝利の悲哀」が「直言」(「平民新聞」の後継)に掲載されました。世に出た夢二の最初の作品のコマ絵です。白衣の骸骨と泣いている丸髷の女が寄り添う姿で、日露戦争の勝利の悲哀を描いています(左図)。 一方、「中学世界」増刊号には竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が出ます(右図)。1905年10月(21歳)、竹久夢二は『神楽坂おとなの散歩マップ』によると、神楽坂3丁目6番地の上野方に住んだといいます。『竹久夢二 子供の世界』(龍星閣 1970)の『夢二とこども』で長田幹彦氏は

 “東京の街から櫟林の多い武蔵野の郊外にうつらうと云ふ、大塚の或淋しい町で”と、いうのは、当時、明治三十八年十一月号の『ハガキ文学』に、絵葉書図案が一等で当選して居り、その図版の傍に印刷されて″小石川区大塚仲町竹久夢二″というのがあるから、明治三十八年頃大塚にいたことのあるのはたしかである。掲載の前月の十月には、“神楽坂町三ノ六上野方ゆめ二”という手紙を出しており、翌々月の十二月の『ヘナブリ倶楽部』二号には“詩的エハガキ交換希望”として名前が出ているが、その住所は“東京淀橋柏木一二八竹久夢二”となっている。まことにめまぐるしい転々さである

 江戸時代、3丁目6番地はもともとは松平家の敷地で、大きさは他の敷地(1番地など)と比べて10倍以上もありました。しかし、翌月はもう場所が変わっています。実際に下宿はこれから何回も変えています。

 1907年(明治40年)1月(22歳)、竹久夢二はたまき(戸籍上は他満喜)24歳と結婚して「牛込区宮比(みやび)(ちょう)4に住んだ」と書いている本が多いようです。しかし、明治、大正時代には宮比町はありません。(今もありません。全くありません)。

 あるのは(かみ)宮比町と(しも)宮比町の2つです。台地上を上宮比町、台地下を下宮比町と呼んでいました。昭和26年、上宮比町は神楽坂4丁目になります。下宮比町は変わらず同じです。

 新宿区の『区内に在住した文学者たち』では「上宮比町であるか下宮比町であるかは不詳」と書いています。一方、けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』では「竹久夢二がたまきと結婚し下宮比町に住む」と書いています。三田英彬氏の 『〈評伝〉竹久夢二 時代に逆らった詩人画家』(芸術新聞社、2000年)では

 二人は二ヶ月余り後に結婚する。夢二が彼女の兄夫婦を訪ね、結婚の申し込みをし、許しを得たのは明治四十年一月。牛込区宮比町4に住んだ。たまきによると「神楽坂の横丁下宮比町の金さん」という職工の家の2階の6畳を借りたのだ。

 実際に岸たまきも「夢二の想出」(『書窓』 昭和16年7月)でこう書いています。

 当時夢二は神楽坂の横町下宮比町の金さんという造弊の職工に通い居る息子のある頭の家でした。二階の六畳に一閑張の机が一つあるきりの室でした。

 では、上宮比町四はないのでしょうか。明治40年4月7日、夢二氏は「府下荏原郡 下目黒三六六 上司延貴様」に葉書をだして(二玄社『竹久夢二の絵手紙』2008年)

四月七日 さきほどは突然御じゃま いたし御馳走に相成候 奥様へもよろしく御伝へ 下され度候  上宮比町四   幽冥路

 と書いています。 神楽坂3丁目6番地と上宮比町四と下宮比町四については、下図を。結局、上宮比町がいいのか、下宮比町がいいのか、どちらもよさそうで、本人は上宮比町、妻は下宮比町と書いています。わからないと書くのがよさそうです。

 明治41年(1908)2月(23歳)、長男虹之助が生まれます。 明治42年5月(24歳)、たまきと戸籍上離婚。12月15日(25歳)には、「夢二画集」春の巻を出版。これがベストセラーになります。

 明治43年6月(25歳)、大逆事件関係者の検挙が続く中で、夢二は2日間、警察に拘束。警察から帰るとすぐに有り金を持って、九十九里方面に逃避します。 明治44年1月(26歳)、大逆事件で幸徳秋水らが処刑され、夢二はあちこち引越しをくりかえしています。そのころ自宅兼事務所兼仕事場として牛込東五軒町に住んだこともあります。竹久夢二自書の『砂がき』では

 その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの寫眞屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な繪をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた。夢に出て來る「青い家」は、たしか東五軒町の家らしい。その家は恐らく今もあるだらう。夢の中の橋は、大曲の白鳥橋だと思はれる。

明治40年夢二がいた場所 一番上の赤い四角が東五軒町の一部です。江戸川添なので、川のそばにあったのでしょう。

 その下は下宮比町4です。

 その下で最小の長四角は上宮比町4です。

 最後の赤い多角形は神楽坂3丁目目6番地で、ここは巨大です。

初代・水谷八重子|芸術座

文学と神楽坂

 水谷八重子は、1905年8月、東京市牛込区神楽坂で時計商の松野豊蔵・とめの次女として生まれ、5歳のときに父親が死亡、母とともに名妓だった姉と義兄、編集者の水谷(みずたに)竹紫(ちくし)のもとに住みこんでいます。竹紫氏(本名は武)は島村抱月氏が芸術座をつくる際に中心的な役割を果たしていました。

水谷八重子 芸術座の園遊会

 1914年(大正3年、9歳)、芸術座に『内部』で出演、1916年(大正5年、11歳)には帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で松井須磨子氏演じるアンナ役の息子役で出演しました。

 自書の『芸 ゆめ いのち』(1956年、白水社)では

芸術座の旗上げ公演は、この年の九月、有楽座で行われました。出し物はメーテルリンクの『内部』と『モンナ・ヴァンナ』がとりあげられることとなりました。そして、この『内部』が、意外にも私の舞台出演のキッカケとなりました。
『内部』は、舞台の正面に窓を飾りつけ、外の群衆の動きや表情で、部屋の中の出来ごとを見せるという酒落れた芝居でしたが、その群衆の子役をやらされたのです。
 もちろん、義兄がその話をもちかけてきました時は、「嫌よ」と、かぶりをふったのですが、いろいろなだめすかされ、とどのつまりは、黙って抱かれているだけでよいからということで、やっとうなずきました。もっとも、子供の泣き声をきくと、とたんに不機嫌になる義兄だけに、これまで殆んど口をきいたことのない仲でしたが、その義兄が笑顔をみせて私に話しかけるのが珍しくもあり、つい興味も手つだって、出ることを約束したようにも思われます。しかし、二、三度お稽古につれて行かれるうち、私にどうしてもセリフをいわせて、舞台の効果をだそうとしたらしく、初日の舞台があく前になって、「見えないから、どいてよ!」というセリフを大声で言うように申し渡されました。恥かしかったせいもありましょうが、子供心にも約束が違うといって、とうとう楽の日まで言わずじまいでした。相当の強情ッぱりでもあったようです。
 私の初舞台は、正式には大正五年九月、帝劇で『アンナ・カレニナ』のセルジーをやったことになっていますが、実際はこの『内部』でした。この芝居で、松井須磨子さんや沢田正二郎さんにお目にかかりましたが、お二人とも毎日、奪いあうようにして私の顔の拵えをして下さいました。また群衆の一人に秋田雨雀先生が出演なさっていたのを記憶しております。先生は『内部』の翻訳者で、文芸部に席をおいておられましたが、人手が足りないため、出演なされたそうです。みるからにお優しそうな、小柄な方でした。

有楽座 明治41年12月1日に開場し、大正12年9月1日の関東大震災で焼亡。日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。坪内逍遥らの文芸協会、小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる。

 1970年の『私の履歴書』(日本経済新聞社)では

「内郎」のけいこ中、室内のベッドで、他の恐怖を待つ屋外に、村人が集まってくるシーンがある。群衆の一人に子供かほしい、との希望が出た。結局、近くで遊んでいた私がかり出された。もちろん台詞はない。かわいそうとあって、「見えないからどいてよ」のひとことを与えられたのを思い起こす。
 これが私の舞台へ出た最初である。が、初舞台は、二年後、芸術座の帝劇公演、トルストイ作「アンナ・カレーニナ」の子役セルジーということにしている。というのは、「内部」の場合、役の名とてなく、その場に居合わせてのを場だったのだか、セルジーは違う。脚色の松居松葉(のち松翁)先生が私の出演を祝って、母親アンナとかれんな子供との別離場面を、特に一景書きたしてくれたのであった。

 平成7年『ここは牛込、神楽坂』の第5号で、娘・水谷良重氏と聞き手・竹田真砂子氏は『神楽坂談話室。水谷良重』による座談会を載せています。

水谷 その抱月、須磨子一座の「アンナ・カレーニナ」のアンナの息子役のセルジーというのが(水谷八重子氏の)正式な初舞台だったようです。そのときは竹久夢二さんがお人形の絵を書いてくださって、それを手拭に染めて配ったとか。

 残念ながら竹久夢二氏の「お人形の絵」はどんなものなのか分かりません。そこで、氏の「人形の絵」を調べました。参考までにこんな絵があるそうです。

 1923年(大正12年、18歳)9月1日の関東大震災を迎えます。

 かれこれ一ト月もたったでしょうか。九月一日のお昼ころです。裏庭に近い墓地の蝉の声をきくともなくききいっていますと、だしぬけに、ガラガラと屋鳴りがおこりました。思わずおフトンを頭からかぶりましたが、屋鳴りはやまず、その上にこんどは上下にゆれて、まるで船の難破を思わせるように激しくなってきます。余りのこわさに「お母さーん」「アーちゃま!(姉の愛称)」と叫びましたが、実は大きな声も出ず、ハネおきて柱や障子づたいに台所から裏庭へとびだしました。病床に長く寝ていましたので起き上れなかったのですが、驚いて立ち上ったわけです。墓地のそばに寝間着のままで、ちぢこまっておりますところに、母と姉が「よく起き上がれたね」といいながら血の気のひいた姿で、家からとびだしてきました。二人ともおびえながらも、私をかばうようにして、成行をぼう然と見守っておりましたが、ここで過ごした数刻は、本当にこの世の最後の阿修羅場かと思われました。幸いに私の家は無事でしたが、私の寝床にはいつのまに落ちましたか、屋根を打ちぬいて、一抱えもある墓石が落ちていました。これには二度びっくりしてしまいました。こうした騒ぎのなかを、友田さんがご自分の小石川のお家が焼け落ちたのにもかまわず、私がどうしているだろうと、お見舞に来て下さいました。(『芸 ゆめ いのち』)

 数日後、牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。

 義兄が私をつれて、神楽坂中腹、牛込会館の屋上にあがったのはいつだったろうか。日数のたっていなかったことだけは確かである。神田、日本橋、下谷にかけて、見わたすかぎり、蕭条とした焼け野原、痛ましいながめに、胸が熱く締められた。感情の激しい義兄竹紫は「日本はどうなるだろう」と、ひとこともらしたあとで「八重子、しっかりしよう。この会館が残っているかぎり、芝居はやれるよ」と言った。その目に涙のにじんでいたことを忘れない。(『私の履歴書』)

『ここは牛込、神楽坂』第5号で水谷八重子氏の「神楽坂の思い出」では、編集者註として

 古老の話などによると水谷八重子さんは、もと通寺町35(現神楽坂6丁目)、駿河屋さん(昔は油屋でいまは模型の店)の横を入ったところとのことなので、横寺町は記憶違いでしょうか。

大正11年東京市牛込区

 大正11年の地図では通寺町35は赤の場所です。地図上では確かにここが通寺町35になるのですが、しかし「現神楽坂6丁目の駿河屋さん」は通寺町64(緑色)になります。通寺町35か、通寺町64か、どちらかが間違えています。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項によれば、氏の住所は大正6年頃~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年頃~15年頃は通寺町61(上図で青色)になっています。

 大正12年に関東大震災が起こっていますから、通寺町35ではなく、水谷竹紫氏は実際には通寺町61にいたのでしょう。現在も住所としては同じでです。「現神楽坂6丁目の駿河屋さんの横を入ったところ」が正しいと、住所も通寺町61が正しいのでしょう。

 それからは、義兄は文字通りに日夜奔走しまして、十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。出演者は花柳章太郎、小堀誠、石川新水、藤村秀夫さん等、新派の“新劇座”の方たちが中心で、そのなかに私も加えて頂きました。
 牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました。私は『ドモ又の死』と『夕顔の巻』の雛妓に出演いたしました。衣裳など何一つありませんので、私や義兄の着物はもちろん、神楽坂の芸者さんからもいろいろお借りして問にあわせました。
 楽屋で顔をつくりながら、ふと窓の外をながめますと、入口から遙か牛込見付まで延々と坂に行列をつくったお客さんが、たちつくしておられました。開場後、はみでたお客さんのなかには、「横浜から歩いてきたのだからみせてよ」と、入口で嘆願している方もあり、いまさら芝居とお客さんの結びつきの深さを感じさせられました。
 一方、この公演の成功で自信を得ました義兄は、私を中心に“芸術座”再興の肚をきめて、一路その準備をすすめて行きました。(『芸 ゆめ いのち』)

 ここでは「牛込見付」ですから神楽坂下に人が流れています。神楽坂上に流れたような日もありました。下では「肴町」、これは「神楽坂上」に流れて行っています。

 牛込会館での初日を待ちかねて集まってきた観衆は、中腹から坂上の昆沙門様前を越し、肴町の電車通り近くまで列を作った。会場は、高級寄席のような建物だったので、収容人員も、すしづめにしで、五百人も入れたらギリギリだったろう。(『私の履歴書』)

 1924年(大正13年)、義兄の水谷竹紫が第二次芸術座を創立し、その中心メンバーとして活躍します。


「ゴンドラの唄」と芸術座|神楽坂

文学と神楽坂

「ゴンドラの(うた)」は、1915年(大正4年)芸術座第5回帝劇公演に発表した流行(はやり)(うた)です。吉井勇作詞。中山晋平作曲。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を劇にした『その前夜』の劇中歌です。大正4年に35回も松井須磨子が歌いました。

『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。

『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。ゴンドラの唄。セノオ新小唄。大正5年(1916)

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(あか)(くちびる)()せぬ()に、
(あつ)血液(ちしほ)()えぬ()に、
明日(あす)月日(つきひ)のないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ()()りて()(ふね)に、
いざ()ゆる()(きみ)()に、
ここには(たれ)れも()ぬものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(なみ)にたゞよひ(なみ)()に、
(きみ)柔手(やはて)()(かた)に、
ここには人目(ひとめ)ないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)黒髪(くろかみ)(いろ)()せぬ()に、
(こころ)のほのほ()えぬ()に、
今日(けふ)はふたゝび()ぬものを。

 1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
 実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。

私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。
    命短し、恋せよ乙女……
 だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。
「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」
「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」
 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。
「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」
「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」
 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。
 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。
「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」
 私は短兵急に訊いた。
「あんた、命短しって唄、知ってる?」
「あ、ゴンドラの唄ですね」
「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」
「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……
「じゃ、ちょっと歌ってよ」
 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。
   命短し、恋せよ乙女
   赤い唇 あせぬまに
   熱き血潮の 冷えぬまに
   明日の月日は ないものを……
 その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。

 この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
 さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。

  • 売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』で書き、
  • 『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
  • 森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
  • 『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
  • NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、
  • コーラス、独唱、合唱でも出ました。

 まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。

小林アパート(旧芸術倶楽部)|横寺町

 この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。

 高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。

 さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して

 大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。

 なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。

 しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは

 その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。
「松井須磨子の幽霊がいますよ」
と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。

 この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では

 そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」
「芸術倶楽部の跡はそこです」
と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略)
 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。
    カチューシャ可愛や別れのつらさ
    せめて淡雪とけぬまに
    神に誓いをララかけましょか
 そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。

 戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では

 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。


私の東京地図|佐多稲子②

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「坂」②です。

 この道に、あんなに商店の灯が輝やき、人々が群れて通ったのであろうか。この辺りなどは、地上に密集して建っている家並みでもって盛り上っている、といったところだっただけに、それの消えてしまった跡は、一層空漠としてしまったのであろう。全く此処は、電車通りをのぞいて言えば、家の軒の下を小さな路地が曲りくねり、坂をなして、あちらへこちらへと抜けている、そんなところであった。今、丘の起伏にそって弧を描いて一本通っている神楽坂、この表通りを左右ヘー歩這入れば、待合芸者屋とそれにともなうこまごました店で埋まってしまっていたものだ。紅谷(べにや)の前の相馬屋紙店の横を、家壁に袖をふれるようにして入ってゆけば、吸い込まれるように先きへ先きへと、小さな石段があったり、突き当りかと見ればまたその家の玄関の横へ抜けていたり、おもいがけない奥まったところに汁粉屋があったり、髪結の看板が出ていたりなどして、そのまわりは入口と入口の喰っつき合った、あるいははすかいに玄関の反れた、小さな待合ばかりであった。狭い石段は家の軒の下に陽の光りもとどかぬふうで、おもいがけなく別世界へ迷い込んだ気分に誘う。どこからかまた坂の表どおりへ出ると、店の奥では洋食を食べさせる果物屋の田原屋や、そのはすむかいの何とかいうレストランなど、ハイカラな洋食を食べさせる家もあり、毘沙門(びしゃもん)さまの石垣についてそばやとの間を入ると、そこはまた花柳界で、この次の横町には、神楽坂演芸場が、芸人の名を筆太に書いた看板を表通りからも見えるように出して、昼間はひっそりと、厚い屋根瓦の(ひさし)を展げていた。

この道 神楽坂通りでしょう。
消えてしまった跡 これは第2次世界大戦のため神楽坂の大半が消えたことをいっています。
待合 待ち合わせのための場所を提供する貸席業のこと。
芸者屋 芸者置屋ともいい、芸者などを抱える業態。プロダクションに当たります。
入ってゆけば 相馬屋紙店の横は寺内横丁と呼んでいます。
石段 石段で一番最初に出てくるのはここ。

クランク

玄関の横 上を見ると一見行き止まりに見えますよね。でも玄関の横がら右に入っていけます。

 以下は新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』を参考にします。

神楽坂。古老の大震災の前
汁粉屋と髪結 この時代(『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)ではここが汁粉屋と髪結です。時代は違っているので、これも違っていることも充分ありえます。でも、本多横丁にあるのを指しているのではないでしょうか。
はすかい 斜交い。ななめ。はす。ななめに交わること。

神楽坂。古老の大震災の前

レストラン カフェー・オザワでしょうか?
毘沙門 ご存じ善國寺毘沙門天
そばや 「そば春月」のこと。関東大震災前の昭和12年ではそうでした。昭和27年では「春月のみや」に変わっています。
 建物の出入り口・縁側などの上部にでる片流れの小屋根。

 大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮らしをしていた。芸者屋などにすぐ喰っついてゆるゆると高くなる方はもう静かな住宅が並んでいる。いつも門の戸をたてたままというような邸もあり、洋風の窓にレースのカーテンが塀越しにのぞける家もあり、道路のすぐそばから、がらがらと戸の開く格子づくりの二軒長屋などもある。この近くに住んでいる人のほかは通りてもないような狭い坂道が幾条も上から流れてみんな神楽坂へ出る。だから、この上の納戸町(なんどまち)にあった私の間借りの家は、このどの坂を通ってもいい。牛込見附から省線電車に乗って東京駅へ通う私は、朝夕この坂のひとつを通って往き来するのであった。

大地震 関東大地震は大正12年(1923年)9月1日でした。したがって、大正12年に佐多稲子と母は神楽坂周辺に移転し、この章も大正12年が中心になっています。
寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町。納戸町
この近く 「私」の住所は新宿区納戸町でした。
納戸町 右図の通り。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附も江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。
省線電車 鉄道省の管轄下にある電車。JRに相当。

籠谷典子編著『東京10000歩ウォーキング』

文学と神楽坂

 籠谷氏の「籠谷」は恐らく「かごたに」、「かこたに」、「かごや」、あるいは「こもりや」と読みますが、明治書院の読み方によれば「かごたに」です。氏は明治書院の 『東京10000歩ウォーキング 』(2006年)の編集者で、1冊目の「千代田区」から30冊目の「三鷹市」にいたるまで読者は1冊わずか800円+税で購入できます。ほとんどの区立図書館にその区のことを書いた1冊はあると思います。これは同じような傾向が好きな人は絶対買うべき本です。問題は、何をしている人なの? ほかの本はあるの?

 探しました。東京都高等学校国語教育研究会編の『東京文学散歩』(平成4年)の編集責任者に「籠谷典子」と書いてありました。おそらく高校の国語の先生だったんだ。明治書院も「高等学校の国語の教科書・副教材を扱っている出版社です」と書いてありました。

 調べていくと、本の内容が違っている場合もあります。「神楽坂・弁天町コース」では大田南畝の住居跡は北町ではなく、現在は中町だと考えられています。他にも間違いかなと思える点がありますが、それでもすごくすごく優秀な本です。

芸術倶楽部館|神楽坂

文学と神楽坂

 芸術倶楽部の館は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』(明治書院、昭和55年)では……

『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正3年3月22日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜11時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町9番地に決り、2階建の白い洋館。一階には間口7間に奥行4間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は300。総工費7000円。建築費の大口寄附者(500円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。
 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正4年8月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。

 芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。

芸術倶楽部の2プラン

 また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)では

日本新劇史186頁

牛込芸術倶楽部

日本新劇史200頁

 次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)にある図です。

芸術倶楽部の場所

 また今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)に書いてある図ではこうなっています。

芸術倶楽部2

 高橋春人氏の「ここは牛込、神楽坂」第6号の『牛込さんぽみち』では想像図と地図が載っています。

芸術倶楽部の想像図 芸術倶楽部の想像図

高橋春人氏の芸術倶楽部

 高橋春人氏は…

芸術倶楽部 これを描くときに参考にしたのが印刷物の写真版である。これは、芸術座・芸術倶楽部用の封筒の裏に刷られたもので(宣伝用?)、ここにあげたものは、抱月(滝太郎)が、大正6年12月に使ったものである(早大、演劇博物館、蔵。なお、筆者が見た芸術倶楽部の写真はこのワンカットだけ)

 昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では

小林アパート(芸術倶楽部)

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。これはどこだか正確にはわかりません。おそらく上図の「小林 9」と上から2番目の「11」の間にカメラを置いて撮影したのでしょう。

芸術倶楽部の跡。1954年

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

1984-09-01。写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

 毘沙門せんべい福屋の福井 清一郎氏は「商売人どうし協力して 街を盛り上げていきたいよね。」(東京平版株式会社)の中で

 神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。

魚浅 一水寮 矢来町 朝日坂の名前 朝日坂 Caffè Triestino 新内横丁

色川武大|矢来町

文学と神楽坂

 小説家、色川(いろかわ)武大(ぶだい)(あるいは麻雀作家、阿佐田(あさだ)哲也(てつや)、本名は色川武大(たけひろ))。生まれは1929(昭和4)年3月28日。逝去は1989(平成元)年4月10日。ここ矢来町で生まれ大きくなりました。
 本人の『寄せ書き帖』によれば

 私が生まれ育った牛込矢来町というところは、戦前の典型的住宅地であると同時に、色街の神楽坂に近かったせいか、昔、芸人さんがたくさん住んでいた。
 私の生家の隣ぐらいが曲独楽の三升紋弥(先代)一家で、横町ひとつ先が昔々亭桃太郎、後年、花島三郎、松旭斎スミエ夫妻が住んでいた家がある。ここいらには小桜京子も居て、ずっと以前に桃太郎グループに属して寄席に出ていたことがあるが、おシャマなかわいい娘だった。
 戦時中には左ト全が松葉杖をついて瓢々と歩いていたし、柳家金語楼も町内に大きな邸があった。柱三木助が居て、坂下には春風亭柳橋が居て、反対側の市ヶ谷寄りには現三遊亭小円馬がガキ大将で居た。ちなみに私たちは小円馬を森山さんのお兄さんと呼んでいた。現三升紋弥は細野さんのお兄さんである。

 以下は『生家へ』からの引用です。

 私は生家でうまれて生家で育った。それはもちろんだが、生家そのものがただの一度も、焼失も移転もしなかったから、私は三十八歳になるまで、ひとつ家に、ひとつ土地に居たことになる。日本人というようないいかたは、身体に訊いてみてぴんとした反応は返ってこないけれど、牛込の矢来町八〇という名称は、私にとって特別な響きをもっている。

 生家と隣り合って一軒の家作があった。二軒合わせてほぼ正方形の角地だったが、家作はその東北部の四分の1を占めていた。いずれも平家である。
 何代か住み手は変ったが、戦争がはじまってから、Tさん一家が来て、以降ずっと住みついた。未亡人の婆さんと、もう1人前に育った子供たちの1家だった。

 では牛込の矢来町80番はここです。左側は昭和15年の図、右側は現代の地図です。

矢来町の地図。色川武大氏

 また色川武大氏にはナルコレプシーという病気があります。『風と()とけむりたち』で

 私は“ナルコレプシー”という奇妙な持病があって、これは一言でいうと睡眠(すいみん)のリズムが(くる)ってしまう病気である。私の場合、持続睡眠が二三時間しかとれず、そのかわり1日に何度も暴力的な睡眠発作に(おそ)われる。生命を失なう危険はないようだが、疲労感(ひろうかん)が常人の四倍といわれ、集中力を欠き、また症状(しょうじょう)の1つとして幻視(げんし)幻覚(げんかく)を見る。なぜそうなるかまだ原因がわからない。しかし医者にいわせると、発病期はおおむね十(さい)前後だという。

 もうひとつ。『寄席放浪記』「ショボショボの小柳枝」の1節で「私は駄目な男だから」と書いてあります。「駄目な男だから」時間通りに起きられない、大変なことろで猛烈な眠気で眠ってしまう。これが10代に起こるので、次第次第にソフトで本人は物腰が柔らかくなってきます。色川武大氏も物腰は柔らかくなっていました。ぎすぎすしていたり、神経質になるのはナルコレプシーではないと考えてもいいでしょう。

柳家金語楼|矢来町

文学と神楽坂

 柳家金語楼(きんごろう)は、生まれは1901(明治34)年2月28日、本名は山下(やました)敬太郎(けいたろうで、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人でありました。戦前の吉本興業では最高給取りでした。戦時中になると、上からの圧力で落語家を廃業し、喜劇俳優になり、1940年、金語楼劇団を旗揚げします。戦後では、1953~68年のNHKテレビ『ジェスチャー』で白組キャプテン、1956年、TBSテレビとテレビ朝日『おトラさん』で主役。1968年、日本喜劇人協会会長に就任し、1972(昭和47)年10月22日、死去します。

 さて戦前に住んでいたところが矢来町です。山下武氏の『父・柳家金語楼』によれば

 四谷から牛込へ越すことになった原因が変わっています。吉本興業から借金して車を買うことになったものの、それまで住んでいた四谷伝馬町の家では車が置けません。そこでガレージを作れるほど庭の広い借家をさがした結果、牛込の矢来町に大きな古い借家を見つけたのでした。人間が住むほうは屋根さえあればどうでもよく、車を置くために借りた家ですから、こういうところにも享楽的な父の性格がのぞけます。凝り性といえばそうともいえますけれども、もともと父にはマイ・ホーム主義など破片(かけら)もありません。また、そんな雰囲気に浸るほどの時間的余裕(ゆとり)もないのです。なにせ、当時の父は目が回るほどの忙しさでしたから。
 矢来町の家は三百坪ほどもあったでしょうか。ガレージを作ってもなお大きな庭が余るのはいいのですが、家が古く、しかも暗くて陰気なのです。建坪(たてつぼ)だけでも百坪以上はあったでしょう。古い邸で、一部が二階になっているほかはあらかた平屋です。この二階建ての部分はあとで継ぎ足したものらしく、俗に“おかぐら”といって家相がよくないのは父も知っていたはずですが、ガレージが欲しいばかりに急いで越してしまったのです。怪異とまではいかないにせよ、この家に怪しい影がついて回ったのもそのせいではなかったかと思います。

 なお、“おかぐら”とは「御神楽」で、平屋だったものを、あとから2階を継ぎ足したもので、一階と二階には別々に作り、通し柱はありません。

 金語楼社の住所は矢来町34番地でした。ここが自宅の住所だとすると、

金語楼の屋敷(矢来)

 色川武大氏の『寄席書き帖』によれば

 私の生家のある牛込矢来町では、金語楼は特別な意味あいで有名人だった。というのは彼の本宅が町内にあったから。刑務所のように背の高い黒板塀で囲まれた大邸宅で、私どもは学校の行き帰りに山下敬太郎という表札をみてはクスクス笑い合ったものだ。たしか息子さんが一級上ぐらいに居たと思う。
 そうして、彼の妾宅が、附近に点在しているのを町の人々は皆知っていた。そのころの噂によると、金語楼は妾宅では、明治の元勲のようにいかめしい顔つきで口もきかずに酒を呑んでいたという。(略)
 私が感心したのは、酒が手に入った夜に必ず現れる、ということだ。
 Yさんの所ばかりではなく、町内の誰彼のところにも現れるらしい。当時、酒は貴重品で、やたらに誰のところでもあるわけではなかった。あっても他人に呑ませる的交際があったわけではあるまい。金語楼なら突然入ってきても歓待するということだったのだろう。
 同級生からもこういう話をきいた。
「不思議なんだよ。今夜、二合あるとするだろ。誰も二合なんてしゃべらないのに、金語楼さんが来て、わァッと家じゅうをわかしてさ、二合が出たなッと思うと、すうっと元の顔に戻って、帰っていくんだ」
「呼んだわけでもないのに来るのかい」
「そうだよ。夕方、町をぶらついて気配を見てるんじゃないかい」
 実にどうも、偉い。空襲でどこもかしこも焼けて、むろん自分の家も焼けて、日本が負けるかどうかというときにお酒一筋に気を凝らして、狙い定めてすうッと入っていく。
 偉いともなんともいいようがない。兵隊落語や映画で感じていた俗な顔つきはあれは営業用のもので、本人は俗どころか、超俗的なものを持っている。

 昭和20年5月25日、東京最後の大空襲でこの家は灰になりました。

数学体験館|東京理科大学

文学と神楽坂

「数学体験館」は東京理科大が近代科学資料館の地下一階に作った数学の理論を体験するもの。人も少なく、しーんと静まった一階と比べて、地下一階の「数学体験館」には土曜には子供が非常に多く、家族連れが沢山います。将来的にはこちらを一階にする方がいいのではと思ってしまいます。入口
 同館の館長は秋山仁氏。開設の目的は、いろいろありますが、要は教具・教材等を開発すること…といってしまうと、身も蓋もありません。他には高校までの理解を補う補習教育の強化、大学で数学の初年次教育を充実し、学内外に発信すること。でも楽しいのが多い。

区分

 同館は「数学体験プラーザ」が95%を占めています。「数学体験プラーザ」では小学校から大学の概念や定理、公式を学べる作品を常設展示。たとえばほかにはあまり見かけないものとして「区分求積法」。このアイデアを使った模型で面積を求めます。ただし、あまり面白くないようで、あまりやってはいませんでした。
2項分布パチンコ よくあるものとして「2項分布パチンコ」。絶対に2項分布の通りには並びません。それを実体験します。(そうですよね)。また無数の球を上に持って行くのはあなたで、ほかの人はやってくれず、自分で綺麗にするのもあなた以外にありません。
らせん木琴「らせん木琴」は途中で球が止まると音も止まることや、音程が乱れることを除けば、綺麗な名曲…迷ではないぞ…が流れてきます。これはドアの外にそっと置いてあります。しかし、部屋の中では子供たちはわーわーと大喜び。土曜に行ったのがよかった。月曜から金曜ではこれだけの子供はいないと思う。

 ほかには「数学工房」。これは数学的作品や教具、教材などを制作し開発する場所で、その成果を授業で活用します。「数学授業アーカイブス」は、DVDなどを視聴する場所。算数・数学の講義を、大型ディスプレイやオーディオ機器で学習できます。

 こんな博物館はアメリカや香港では何十年も昔からやっていました。でも日本で国立博物館ではできないものでした。それが、ようやくできた。しかも100個ある。パチパチパチと拍手を送ります。