「拝啓、父上様」はウィキペディアによれば、2007年1月11日から3月22日までフジテレビ系列で毎週木曜22:00~22:54に放送されていたテレビドラマです。東京、神楽坂の老舗料亭「坂下」を舞台に、料亭に関わる人々と出来事を描きました。
2000年頃になると神楽坂に来る人は数倍に増えましたが、「拝啓、父上様」が放送されるとすぐにまたまた増えたといいます。
以前は「拝啓、父上様」は英語や韓国語の字幕付きで全巻YouTubeで簡単に出てきました。
袖摺坂です。新宿区の『地図で見る新宿区の移り変わり–牛込編』から取った地図です。新板江戸外絵図(寛文12年、1672年)では神楽坂の袖摺坂はここを示します。現在の袖摺坂と同じですね。
以下は年代と地図です。右図は簡単な段差があると示します。
延報7年(1679年)から明治12年(1879年)までは地図ではなく、簡単な絵です。現在の大久保通りから北に上る坂があり、ここは袖摺坂だというがよくわかります。
明治20年から28年も袖摺坂を示しますが、袖摺坂のほかに左に新たに道ができたのがわかります。この新しく作った坂は五味坂、ゴミ坂と呼んでいるようです。
さらに下の図は明治20年の絵です。袖摺坂は乞食坂ともいっているんですね。また大久保通りの一部の弁天坂もあります。
明治29年はさらに袖摺坂(青い矢印)の右下に新しい坂(赤い矢印)ができます。かなり急な坂だと思います。この坂は「蛇段々」と言われました。蛇段々が実は袖摺坂だという意見もあります。例えば鳥居秀敏さんの『袖摺坂って本当はどの坂?』(寺田弘、岩井美幸編「神楽坂アーカイブズチーム第3集」NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2009年)です。しかし蛇段々は明治20年以前にはなかったので、この説は難しいと思っています。
昭和5年はかわりませんが、昭和16年、さらにもう1つ坂がでます。名前はありません。昭和22年、終戦でもあまり変化がありません。一応、ここを「新蛇段々」と仮称します。
さらに進めていき、昭和56年は… まず、昔の急な坂「蛇段々」がなくなり、新しい坂だけが残ります。それから、あれれ、こまった、あれれ、こまった。袖摺坂の位置が違う。新しい坂が袖摺坂になっている。弁天坂も違う。
うーん。うーん、そこで、困った時は新宿歴史博物館。そこで聞きました。答えは
新宿区が袖摺坂としている根拠について 『御府内備考』御箪笥町の書き上げに 「坂、上り凡そ十間程、右町内(御箪笥町)東の方肴町境にこれ有り。里族袖摺坂または乞食坂とも唱え申し候。袖摺坂は片側高台片側垣根にして、両脇とも至ってせまく、往来人、通り違いの父子、袖摺合わせ候。」とあります。 江戸時代、肴町は、当時武家地を間に挟んで5か所に散在する町屋でしたが、明治5年に北部を残して、その大部分は武家地とともに岩戸町に編入され、一部は横寺町に編入されました。 『御府内備考』の示す肴町は、横寺町に編入され「横寺町65番地」となったところです。 袖摺坂の位置については、『御府内備考』の内容の解釈違いによるものと思われます。 以上が、新宿区が袖摺坂を特定している根拠です。 なお、坂の位置は新宿区教育委員会発行の『地図で見る新宿区の移り変わり』牛込編 で確認できます。 新宿歴史博物館 佐藤
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なるほど。これでまったくいいようです。新宿歴史博物館の佐藤氏に感謝します。でも、そうじゃないとおかしいよなあ。昔の絵図には現在の地図と全く違わない坂があるからなあ。以上、現在のほうが正しく、昭和56年の地図は間違いでした。
また『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』の矢代氏が書いた「土地に刻まれた歴史」で「袖摺坂」は「蛇段々」とそれを新しくした坂の間違いだと思います。
土地に刻まれた歴史 矢代和也
袋町の高台から現在の大久保通りに向って、急峻な段坂が屈折しながら下っていた。石段や敷石の部分を除くと、雨の時には足を滑らせそうな細々とした坂道で、両側には階段状に小さな家々が建っていた。「袖摺坂」である。(違います。じつは蛇段々の坂です。)この坂道は「安政絵図」にも、それ以後の絵図・地図にも表記されていず、一八九六(明治二九)年の「東京市牛込区全図」、「帝都復興東京市全図」(『新宿区地図集』)に道路拡張の予定地としてはじめて記されている。しかし、この程度の道幅の段坂でも、たとえば、柳町の通りの寿司屋の角から甲良町の方へぬける名もない段坂が、すでに「安政絵図」に表記されているので、きわめて不思議な坂道に思われる。 私の小学校の上級のころ、「袖摺坂」の道路拡張の工事がはじまった。家屡が立退かされ、赤土の高い崖が露出した。悪童たちの絶好の遊び場が一つ増えることとなった。学校の禁を犯して、急崖をすべり下り、また上る、泥のぶつけ合い。中腹に糾めに生えた木にのぼって、ユサユサとゆすって、下級生に悲鳴をあげさせたり、親の洗濯の苦労も知らずに、頭の天頂まで、泥まみれになって遊んだものである。 やがて、太平洋戦争もはじまろうというころ、砂利敷ではあるが、現況のような道路が姿をあらわし、一九四一(昭和一六)年の『牛込区詳細図』に、拡張道路として表記されることになった。(こちらはS状の新蛇段々の坂です) |
昭和29年(1954年)4月15日、著者ノエル・ヌエット(Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。この時、ヌエット氏は69歳でした。定価は430円。ヌエットの当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。
この本で神楽坂と関係があるのは2つだけです。しかし、それ以外にも懐かしい版画はたくさんあります。最初は「神楽坂」です。
水野正雄氏は、戦後、「建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました」と書いています(NPO法人粋なまつづくり倶楽部 神楽坂アーカイブチーム編『まちの思い出をたどって』第1集、2007年)。上図の倒れていない建物は三菱銀行(現在は三菱UFJ銀行)だったのです。戦後、一時的に「千代田銀行 神楽坂支店」という名前にかわっています。
次は日仏学院です。一時的に「アンスティチュ・フランセ 東京」と名前が変わり、また元に戻っていますが、これはフランス政府が管理・運営するフランス文化センターです。
あとは他の版画をいくつか。
なおノエル・ヌエット氏の『神楽坂』(昭和12年)は別の項で。
泉鏡花は大正14(1925)年に「文藝春秋」で「神楽坂の唄」を書いています。すずと所帯を持った思い出深い神楽坂を唄ったものです。町名、坂の名、名所を織り込みながら大正時代の神楽坂情緒を唄いこんでいます。
さらに昭和38(1963)年には杵屋勝東治師がこの唄に曲をつけ、花柳輔三朗師の振付で、神楽坂の曲として使っています。『ひと里』という曲で、ふだんは最初の2行と最後の5行の歌詞を抜粋して踊ります。
春から冬まで季節が順次出てきます。意味が分かるように訳しましたが、わからないところがまだまだ沢山あります。変なところ、あればどうか教えて下さい。掛詞が出るところ、五七調、七五調もたくさんあるようです。
一里は、神樂に明けて、岩戸町。 玉も、甍も、朝霞、 柳の軒端、梅の門。 桃と櫻が名を並べ、 江戸川近き春の水、山吹の里遠からず。 築土の松に藤咲けば、 ゆかりの君を仰ぐぞぇ。 |
現代語訳を書いておきます。五七調などの名調子はなくなりました。
神楽を演奏していると、ここ一帯や岩戸町も夜は終わり、明るくなっている。 きれいな宝石も醜い甍も、朝霞にかすんでいる。 軒のはしには柳が見え、門では梅が見える。 春は桃や桜が並ぶ。神田川中流にも遠くない春に、水が流れる。山吹の里も近い。 筑土地域の松もいいし、藤の花は満開で、 つながりがあるあなたに仰ごう。 |
一里 約4km。この一里を見ると
神楽 かぐら。神をまつる舞楽。
明けて 神楽を演奏していると、神楽坂では夜も終わり、明るくなってくる。
岩戸町 いわとちょう。北部は神楽坂に接し、都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の出入りがあります
玉 たま。丸い形の美しい石。宝石や真珠など
甍 いらか。屋根の頂上の部分。屋根に葺いた棟瓦。きれいなもの(玉)もそうでないもの(甍)も
朝霞 あさがすみ 。朝立つ霞。 季語は春。
軒端 のきば。軒のはし。軒口。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。東京都文京区水道・関口の江戸川橋の辺り。
山吹の里 室町時代の武将、太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ります。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつも持ち合わせがないと教わりました。新宿区内には山吹町という地名があり、この伝説の地ではないかといいます。
築土 筑土八幡町は、東京都新宿区の町名。
藤 ふじ、東京で藤の見ごろは4月下旬から5月上旬にかけて。
ゆかり なんらかのかかわりあいや、つながりがある。因縁。血縁関係のある者。親族。縁者
君 ここでは敬慕・親愛の情をこめていう語
仰ぐ 尊敬する。敬う
ぞえ 終助詞「ぞ」終助詞と「え」が付いてできる。仰ぐぞ→仰ぐぞえ→仰ぐぜ。注意を促したり念を押したりする。
牡丹屋敷の紅は、袂に褄にほのめきて、 戀には心あやめ草、 ちまき參らす玉ずさも、 いつそ人目の關口なれど、 漲るばかり瀧津瀬の、思を誰か妨げむ。 蚊帳にも通へ、飛ぶ螢、 荵に濡れよ、青簾。 |
牡丹屋敷にある牡丹の紅は、袂や裾の両端でもほのかに、香のにおいをしている。恋をするときは物事の道筋を見失うぐらいの恋をしてみたい。 5月、ちまきをあげている使者も、かえって他人の目を気にしているようだ。 あふれるばかりにいっぱいの滝のような急流のように、この思いを妨げる人はいない。 夏、飛ぶ螢は蚊帳の中まで入ってくる。 青竹を細く割って編んだ新しいすだれは、夏、軒下などにつるす忍玉(しのぶだま)と同じで、涼しさがある。 |
牡丹屋敷 八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門も一緒に紀伊国(現和歌山県)から出てきたが、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領しました。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷。牡丹の開花は4-5月です。
紅 くれない。鮮やかな赤色。ほたんの色です
褄 着物の裾(すそ)の左右両端の部分。
ほのめき ほのかに見える。香る。
あやめ草 あやめ草はサトイモ科の草で、池や溝の周辺に群をなして繁茂する。季語は夏。「文目」(あやめ)は物事の道理、筋道。物の区別。
ちまき 笹の葉で巻き、蒸して作った餠(もち)。端午の節句に食べる。季語は初夏
参らす 献上する。差し上げる
玉ずさ 使者。使
いっそ 予想に反した事を述べるときに用いる。かえって。反対に。
人目 他人の目。世間の人の見る目
関口 東京都文京区の町名で、牛込区(現在は新宿区)と接する
みなぎる 力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる
滝津瀬 たきつせ。滝。滝のような急流。
蚊帳 蚊帳の季語は三夏。陰暦で、4・5・6の夏の3か月。初夏・仲夏・晩夏
蛍 季語は仲夏。夏のなかば。陰暦5月の異称。中夏
荵 荵はシダ植物。岩や木に着生する。根茎は太く、長く、淡褐色の鱗片を基部に密生する。葉は長柄で根茎につく。根茎を丸めて忍玉(しのぶだま)を作り、夏、軒下などにつるして、その下に風鈴を下げたりし、水をやり涼しさをたのしむ。忍ぶ草。事無草(ことなしぐさ)。
青簾 青竹を細く割って編んだ新しいすだれ
あはぬ瞼に見る夢は、 いつも逢坂、軽子坂、 重荷も嬉し肴町。 その芝肴、意氣張は、 たとひ火の中、水の底。 船で首尾よく揚場から、 霧の灯に道行の、互いの姿しのべども、 靡きもつるゝ萩薄、 色に露添ふ御縁日。 |
ここで見た夢はいつも逢坂や軽子坂が出てくる。 肴町だと重荷は新鮮な魚なので嬉しい。 芝浦の海でとれた小魚は意地を張っている。たとえ火の中でも、水の底でも。 小魚を船で揚場から首尾よく手に入れた。霧の灯に旅行し、お互いを思い出す。 秋になり、萩や薄は、なびいているが、まだその場にいる。露がある御縁日になった。 |
あはぬ あわない。合っていない。どうしても瞼が開いてしまうが
逢坂 市谷船河原町にある急坂で、下から上に向かう神楽坂では左側
軽子坂 新宿区揚場町と神楽坂二丁目との比較的に緩徐な坂。下から上に向かう神楽坂では右側。
肴町 神楽坂5丁目の以前の名称
芝肴 しばざかな。芝魚。芝肴。江戸の芝浦あたりの海でとれた小魚で、新鮮で美味とされた。
意気張 遊女が意気地を張り通すこと
揚場 船荷を陸揚げする場所。揚場町もある。
灯 「ともし」と読む。意味は「ともしび」
道行 旅すること
しのぶ つらいことをがまんする。じっとこらえる。耐える
靡き なびくこと。「靡く」とは「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く。他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する。女性が男性に言い寄られて承知する。
つるる つるの連用形か。「吊る」は「物にかけて下げる。高くかけ渡す」。「釣る」は「釣り針で魚をとる。巧みに人を誘う」。 「攣る」は「筋肉がひきつって痛む」。
萩薄 萩(はぎ)と薄(すすき)。萩の季語は初秋、薄の季語は三秋(秋季の3か月で、初秋、仲秋、晩秋。陰暦の7、8、9月)
露 つゆ。空気中の水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。季語は三秋。陰暦の7、8、9月
添う そう。そばを離れずにいる。ぴったりつく
御縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すれば特に御利益があると信じられている
毘沙門様は守り神。 毘沙門様は守り神。 結ぼる胸の霜とけて、 空も小春の若宮に、 雁の翼のかげひなた、 比翼の紋こそ嬉しけれ。 |
毘沙門様は守り神。毘沙門様は守り神。 冬になると結んだ胸にある霜もとけてくる。 空も11月頃の小春で、若宮町に広がる。 雁の翼は、うらおもて。 比翼の紋(相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋)になるのは本当に嬉しい。 |
毘沙門 びしゃもん。「神楽坂の毘沙門さま」で親しまれている。福や財をもたらす開運厄除けのお寺
霜 しも。0℃以下に冷えた物体の表面水蒸気が固体化し、氷の結晶として堆積したもの
小春 こはる。陰暦10月のこと。現在の太陽暦では11月頃に相当し、この頃の陽気が春に似ているため、こう呼ばれるようになった
若宮 地域北部は神楽坂地域に接し、若宮八幡神社があります
かげひなた 日の当たらない所と日の当たる所。2人の見ている所と見ていない所とで言動が変わること。人の見る、見ないによって言葉や態度の変わること。うらおもて。
比翼の紋 ひよくのもん。比翼紋。相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋。二つ紋。
この路地裏が「かくれんぼ横丁」という名前になったのは2つの、まあいえる理由があります。
一つは、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(2007年、展望社)では、
この路地内には、東京都で初の五つ子の母の実家がある。この五つ子ちゃんが歩けるようになって、実家の路地内でかくれんぼ遊びをしていたことから「かくれんぼ横丁」と呼ぶようになった。 |
または、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』(けやき舎)で渡辺功一氏は
「かくれんぼ横丁」という名前の名づけ親は、この路地にお住まいだった森川安男さんです。お孫さんとかくれんぼをしたりして遊ぶということで、この名前をつけたそうです。 |
あるいは、2007年『神楽坂まちの手帖』15号「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」で田中ひとみ氏は
孫たちが遊んでいる姿を見て、石畳の路地に「かくれんぼ横丁」という名前を付けられたという森川安男さん。残念ながらご高齢のため数年前に亡くなられました。 |
もう1つは、山口則彦氏の案(お亡くなりになりました)で
やはり料亭街のこの名前は、子供たちがかくれんぼをして遊んだからという説もあるんですが、お忍びで遊びに来たような人を後ろからつけていても、横にちょっと入るといきなり目の前から消えてしまうから、というのが本当のようです。 |
というものです。
西村和夫氏は『雑学 神楽坂』では
入り組んだ街中で突然前方を歩く人が、家並に隠れて見えなくなるという町に遊び心から地域の住人が付けた愛称である。 |
「神楽坂まちの手帖」第15号の座談会「路地歩きAtoZ」では……。なお、持田氏はかくれんぼ横丁在住49年のアマチュア写真家。金原氏は法政大学教授。平松氏は手帖の編集長です。
持田 うちの路地をみんな「かくれんぼ横丁」って呼ぶんですけど、あれは住んでる人間が知らないうちに名前がついてたんですね。
金原 誰がつけたんでしょうね。
持田 二十四、五年前に、うちの奥の森川さんって家に五つ子ちゃんが生まれたんです。日本テレビがずっと追いかけて番組を作ったんですけど、その時に森川さんのおじいさんが名付けたそうです。孫たちとかくれんぼして遊ぶから、かくれんぼ横丁って。それがテレビで広まったんですね。
平松 勝手に名前がついちゃうっていうのは、そこに住んでる側としていやなものですか。
持田 べつに悪い名前じゃないですし、愛称があったほうが親しみやすいと思いますよ。
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やはり『森川さんが「かくれんぼ横丁」と呼んだ』ほうが正しいようです。
なお、『ここは牛込、神楽坂』では「寿司幸」のある路を『から傘横丁』と名前をつけています。理由は傘がほしてあったから。なるほど。なお、寿司幸は2018年一杯で閉店しました。
「牛込倶楽部」が作るタウン誌『ここは牛込、神楽坂』は1997年(平成9年)夏から2001年(平成13年)春まで第1~18号を出版しました。立壁正子さんがやっていましたが、癌で急死、18号で終わりました。残念です。
参考までに特集を掲げて起きます。古老、作家、地域の人、日本画、大学とあらゆるものを対象にして作っていました。ささいなことでもあるのかないのか調べるという姿勢が素晴らしい。どこか一歩が、先に行っている。ほかのものと比べると、360°よく見えていて、調査も行き届いている。
本編で『ここは牛込、神楽坂』から参照したものはいろいろありますが、「第13号。路地・横丁に愛称をつけてしまった」が一番多く、「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」や相馬屋などが次に続きます。
1号 神楽坂に寄せて。
2号 神楽坂古典芸能
3号 神楽坂でENJOYひとり暮らし。
4号 泉鏡花と牛込、神楽坂
6号 忠臣蔵と牛込、神楽坂。ラーメン、ラーメン
7号 藁店。地蔵坂界隈
8号 神楽坂粋すじ事情
9号 「まち」と大学の素敵な関係。東京理科大学
10号 漱石と神楽坂。
11号 神楽坂で昼食を
12号 電脳都市神楽坂
13号 神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった
14号 神楽坂を歩く。神楽坂の緑
15号 日本画の巨匠 鏑木清方と牛込
16号 拠点としての神楽坂
17号 「まち」と大学の素敵な関係。法政大学編
18号 「寺内」から、神楽坂・まちの文脈を再考する
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本編で『神楽坂まちの手帖』から参照したものは
神楽坂 長~い3丁目 みちくさ横丁 神楽小路 新女性大学 まだ一杯あります。
18号の特集をすべて書いておきます。
1号 神楽坂の路地の魅力・全解剖。神楽坂界わい らーめん徹底ガイド
2号 神楽坂でフランスを探す
3号 和が息づくまち・神楽坂
4号 坂を思いっきり楽しむ
5号 坂歩き名人の散歩術
6号 落語と神楽坂
7号 お江戸の歴史と神楽坂
8号 神楽坂の街を支える古建築
9号 街を元気にするクラッシックの音楽力
10号 復活! 神楽坂の水辺
11号 街を元気にする<アートパワー>
12号 昭和三十年代とその周辺 僕らの育った神楽坂
13号 街なかで学ぼう カルチャーで花盛り
14号 神楽坂と本
15号 神楽坂の路地・その魅力の全て
16号 江戸城と神楽坂
17号 漱石と早稲田・神楽坂
18号 「西歐的」小交差点を神楽坂に探す
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昔、小栗利右衛門屋敷があったため小栗横町という名前がつきました(新宿近世文書研究会「町方書上」平成8年)
町内西北之方、市ヶ谷田町四丁目代地境横町ヲ里俗ニ小栗横町ト唱申候、右者已前小栗利右衛門様御屋敷、右横町地尻ニ有之候故申習候(牛込牡丹屋舗) |
左下では小栗仁右衛門になっています。この屋敷は若宮八幡のそばに建っていました。しかし、入口に建っていた場合もありますし、両方に建っていた場合もあります。
明治16年頃、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、まだはっきりした横丁にはなっていません。
明治20年の地図になると、ちゃんと載るようになっています。また、同じく下記の明治20年の地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)でも同じです。
では、神楽坂通りから入ってみましょう。最初の路地は「鏡花横丁」という名前でも呼んでいたそうです。2つある田口屋生花店の真ん中の道が鏡花横丁です。
ほんの数メートルも行くと、2つに分かれます。右側は小栗横町です。路地は(私たちもそうですが)右に進んでいきます。 右側は「ポルタ神楽坂」です。ポルタ神楽坂も東京理科大学の土地になっています。
この左側は理科大です。
ここから先に「泉鏡花・北原白秋旧居跡」があります。
そこを通り過ぎると四つ角がでてきます。この右手に行くと、神楽坂通り、さらに神楽坂仲通りです。左手の方に上がる(下図)と、『ここは牛込、神楽坂』では「お堀が見下ろせた……で、『堀見坂』とした。」と書いています。残念ながら、今は反対側のほうをみても、建物が一杯で、お堀は見えません。
また500円のコーヒーがある画廊Pulse Galleryがあります。
もとにもどって小栗横町に帰り、またさらに西の奥に行きます。50年以上の昔、ノエル・ヌエット氏は絵画「若宮町」を書きました、その絵画は、その下の写真とよく似ていませんか?
さらに三差路がでてきます。ここを右に渡ると、熱海湯階段に行く小路になります。さらに熱海湯銭湯になり、すぐに左に曲がる三差路がでてきます。
この三差路を左に上がっていくと(下図)『ここは牛込、神楽坂』では「もともと蔵のようなものがあったところなんですよ」「じゃあ『お蔵坂』と」と書いています。なお、360°カメラで撮ったお蔵坂もあります。 また、この路地はアグネスホテルにつながっています。
小栗横町はなぜか飲み屋、日本料理、など沢山でてきます。昔はもっとそうで、芸妓屋や料亭が一倍あったところです。いまは割烹も普通の家も一緒に建っています。中には一見普通の家なのに本当は飲み屋をやっていたり、日本料理をだすところもあります。
あとは歩いてT字路に行くとこれでおしまい。このT字路の左は小栗利右衛門屋敷でした。ちょうど左の一帯が小栗屋敷でした。 また「出羽様下」とここには書いてあります。上に行く右側の通りを出羽様下というのでしょう。なお、この地図は明治20年の絵だそうです
かくれんぼ横丁はもっとも古い建物が残っている路地裏です。ただし第2次世界大戦で、ことごとく灰になり、すべてが戦後の建物です。しかし、戦後の花街として昭和30年代には繁栄しました。
かくれんぼ横丁のほどんどは料亭・待合・芸妓屋として残っておらず、割烹、料理店、懐石料理に変わっています。ここで06年9月、日本建築学会で水井氏が「花街建築」の外観的要素として20項目を挙げ、うち料亭・待合は14項目、芸妓屋は9項目が重要だと考えました。(水井七奈子「遺構調査に基づいた花街建築に関する研究(その1)」日本建築学会大会学術講演梗概集。2006)
○が重要な項目です。
項目 | 料亭・待合 | 芸妓屋 |
---|---|---|
庭・庭木あり | 〇 | 〇 |
庭に松・竹・梅のいずれかあり | 〇 | |
石畳か灯篭を配置 | 〇 | |
黒塀・木塀か刳貫があるモルタル塀 | 〇 | |
玄関や門構えが重厚 | 〇 | 〇 |
柱材が細い(3-4寸角) | ||
格子が開口部に設置 | ||
玄関戸上部や外壁等に扇や松の型の刳貫や竹材等の細工あり | 〇 | 〇 |
2階に縁がある場合、擬宝珠が付くか装飾的な浮彫がある[擬宝珠付きは1棟のみ] | 〇 | 〇 |
戸袋が装飾的 | 〇 | 〇 |
照明に装飾か屋号入りの照明 | 〇 | 〇 |
装飾的な青銅製の樋 | 〇 | |
開ロ部に深い庇[木製庇] | ||
前項に加えて庇裏が装飾的 | ||
階高が高いか総2階[2階建てがほとんど] | 〇 | 〇 |
建具が装飾的 | 〇 | 〇 |
その他、装飾的な細工あり | 〇 | 〇 |
屋根形状が入母屋や錣葺[切妻屋根がほとんど] | 〇 | |
軒の反り | ||
屋根のむくり(屋根を凸状に反らす) |
古い花街建築(大震災直後から昭和初期)ほど、より多くの装飾があったといいます。神楽坂は残った家屋がほぼない地域です。したがって戦後にできた新しい建物で、残念ながら装飾は少なくなっています。
ここは普通の建物ですが、それでも一番きれいです。左手には黒塀があり、奥の右手では路地と玄関の間に塀で囲まれた木戸を作っています。
青銅製の樋と入母屋造がはっきりと見えます。
格子状の意匠があり、左には黒塀があり…
玄関前の屋号の照明、戸の内部に竹材の細工が見られます。また入口は木戸からさらに奥です。山路は今は一軒家のホテルです。
ちなみに「拝啓、父上様」で第1話でこの(正確には仲通りの)料亭「千月」とかくれんぼ横丁がでてきました。
仲通り
を走って「千月」の前に立つ。
見廻すがテキがいない。
路地へとびこむ。
|
神楽坂の通りと坂に戻る場合は…
兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では……
神楽坂五丁目
神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込肴町が、神楽坂の北側に行元寺門前および寺地があった。
牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫町といったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌) |
つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。
ところが、兵庫横丁は、神楽坂五丁目ではなく、神楽坂四丁目なのです。四丁目なのに、どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが……
ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。
想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。
ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。なお、原図は新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、1987年)で、新宿区の図書館や国立国会図書館から借りることができます。
兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。
野口冨士夫『私のなかの東京』では
読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。 |
石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。
まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では
坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった |
と書いています。
特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。
見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。
「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。
「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?
さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。
また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。
格子戸は格子状の引き戸や扉で、採光や通風を得ることができます。打ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。盛り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。
関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。
簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。 |
黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。
万長酒店
弘化2年(1845年)に創業し、157年の歴史のある酒屋の「万長酒店」も2002年(平成14年)消えました。第一勧業信用組合がその後、やってきます。場所はここ。
新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗 牛込地区篇』では
「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「よくみそを買いにいったけど、その場で赤みそと白みそをまぜて秤売りしてくれてた 」と書いています。
伏目弘氏の『牛込改代町とその周辺』(発行者も氏、平成16年)では
先年、神楽坂の「万長酒店」の地下に数間にわたり間知石で構築されていた遺構を拝見した。牛込城の石垣ではないかといわれているが、中世城郭の地形的遺構としては、ここまで石垣が構築されたとは考えにくい。また、整いすぎた石組は技術的な点からみても、近世の跡は判然としていた。 万長酒店地下の石垣は、行元寺参道と門前町との境を土留めに造成をした石垣であると推定される。 |
09年、黒川鍾信氏の「神楽坂の親分猫」(講談社)では……
ボク(註:「ボク」は猫です)の家の近くでも古いお店が次々と店じまいしてゆきます。後継者がいなかったり、時代の変化についてゆけなかったりと事情はそれぞれ異なりますが、いずれにしてもご近所の閉店・閉館・廃業は寂しいです。 友だちがいたのでボクがよく遊びにいった「万長酒店」の場合は、1種の“連鎖反応”でした。ここは料亭や料理屋に酒類を納めていた老舗の酒店でしたが、料亭に店じまいが続き、経営が大変になったのだと思います。 |
なお、第一勧業信用組合については、大正10年7月、日本勧業銀行の職員を対象とした職域組合として千代田区内幸町1-1の日本勧業銀行本店内に置いたのが始まりで、昭和40年3月、地域組合に変わったと同時に、日本勧業信用組合に改称。昭和40年5月、本店を東京都新宿区神楽坂5-3に置き、地域信用組合としての業務を開始。昭和46年、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が誕生し、当行の名称も第一勧業信用組合に変更。昭和57年11月、東京都新宿区四谷2-13に新本店完成。おそらく2002年から2010年までに神楽坂5-3から神楽坂5-6に引っ越ししました。
神楽坂の通りと坂に戻る場合
ついになくなってしまいました。山下漆器店と同様に、河合陶器店もなくなってしまいました。大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、道路になるという流れは変えられず、閉店しました。詳しくは山下漆器店の項に。
これは以前の話ですが……、河合陶器店は、昔も今も「角のせともの屋」だったのです。陶磁器食器、金魚鉢、園芸用土、植木鉢、香取線香のぶた、招き猫、福助、狸の置物などを販売していました。下は昔の写真です。
将来は大久保通りの拡張があり、ここは道路になります。それでなくなったわけです。
神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。
相川さん それから河合(陶器店)さんですね。
馬場さん あれはまったく変わらないね。
山下さん 大きな樽かなんかを飾ってあったのを思い出すね。角のところへね。
相川さん 二階のベランダにずっと瀬戸物を飾ってあった。
山下さん そのときは天利さんが長屋を建てていたんだね。
相川さん そうそう。
山下さん だから、うちで家を建てるときに、河合さんが、あれは三階だったんかね、うちの上まで使っていたらしい。そのことをちょっと言われたことがあったんですよ。
|
五十鈴。和菓子。昭和21年(1946年)から。場所はここです。
牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第4号で金田理恵氏の「おいしいもの大好きおばさんの神楽坂ガイド」では
ちょっと塩気の効いた『五十鈴』の豆大福もいいし…(いけない、糖尿のこと忘れてた) |
また、岸朝子氏は「神楽坂饅頭」を「東京五つ星の手みやげ」として絶賛し
現在の主人は「自分の感性で新しい菓子をつくりたい…」と、伝統の小豆餡を西洋菓子のパイ生地で包んだ「神楽坂饅頭」を生み出した。餡に使う小豆は、皮が柔らかく調理が難しい北海道十勝産の「雅」を使用。丁寧に煮上げた小豆餡を独学で習得したパイ生地で包みオーブンで焼く。しっとりと香ばしい和と洋の美味しい二重奏。 |
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では
以前はここは太田屋という半衿店さんでした。半衿とは襦袢などの襟の上に縫いつけた替え襟です。
鏑木清方氏が書いた『続こしかたの記』の「夜蕾亭雑記(1)」では
前記田原屋に並んで太田屋といふ半襟店があつた。銀座には襟善、ゑり圓の專門店もあるが、この土地には太田屋が繁昌して、山川はそこの主人と心安く、圖案の相談にも乘つてゐたやうである。半襟に數奇を凝こらしたのは明治、大正を盛りとしてその後、だんだん影を消した。 |
河合慶子氏は『ここ牛込、神楽坂』第3号の『懐かしの神楽坂』で「肴町界隈のこと」を書き、
ワラ店の角の「太田半衿店」。箱にきれいに並んだ半衿の、赤・黄・緑と色とりどりの鮮やかさ。 |
相馬屋。創業は万治2年(1659年)。店舗はここに。
360°カメラでは
手漉き和紙の問屋、宮内省御用達の紙屋。相馬屋製の原稿用紙が人気を呼び、看板商品になりました。
『ここは牛込、神楽坂』でご主人の長妻靖和氏は「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買い物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」と話しています。
以下の2枚は昭和20年代の相馬屋です。
なお、『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷(江戸期から大正期まで)』「古老談話・あれこれ」の「古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋」では
先輩の話に、昔この先の藁店に蜀山人が住んでいて、毎日のように相馬屋の店先へ来てはなくなった大旦那とよもやま話をしていたそうです。真鍮の獅噛み火鉢へ突込んでおいてはお燗をして飲んでいたんですって。蜀山人の書いたものでいわば悪戯書(いたずらがき)とてもいうんですかね、ちゃんとした軸になったもんぢゃないんですけど、そばに鼻紙や、半紙なんかあると、ちょっと筆をとってサラサラ書きおろしたものが15枚もありました。 |
なお、獅噛み火鉢とは獅噛み(獅子の頭部を模様化したもの)を脚などに施した、金属製の丸火鉢。上図は神武天皇の獅噛のバックルです。
おなじく「古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋」では
忙しかったのは日露戦争(明治37~8年)の頃でしたね。手始めは慰問袋、恤兵品(じゅっぺいひん)なんてもいってましたがね。筆、墨、紙、それに仕入れの手ぬぐいなんかを一袋にしまして20銭か30銭で売り出したんです。売れましてね、飛ぶ様に売れました。そのうちほうぼうの紙屋さんでも売り出したんですがうちのが一番いいってんで、当時は町会なんてものは無かったんでせうがそういった団体、それも全国から相馬屋の慰問袋っていって註文が毎日どの位い来たかわかりません。それが囗火になったんですが、今度は軍隊に出入りする様になりました。そん時の忙しいの何のって目が回るようでした。紙ばかりぢゃないんです、筆といわず墨といわず、ローソクといわず、何でもかんでもでした。その代りこっちも大変です。きめられた時間にちゃんとその品物を納めなきゃならないんですから。品物を集めるのにはその苦労は大変なもんでした。 その次は大震災、何しろ下町の紙屋さんは皆んな焼けちまったでしよ、品物の在庫のあるのは相馬屋だけでしたからね。警視庁といわず、その他の役所といわず、10円札を束にして持ってきて店の中のものをあらいざらい皆んな持って行っちまったんです。 |
恤兵は、軍隊や軍人に対する献金や寄付、または送ること。戦地に直接届けられるものとしては慰問袋が有名でした。
また『拝啓、父上様』の第6話では
街
語「街には早くもクリスマスの音楽が流れ出し、神楽坂は師走の活気に溢れていた」
|
また、店には実際に使った原稿用紙もあります。
北西 | 南東 | ||||||
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大正11年前 | 相馬屋 | 宮尾仏具S | 額縁屋(ブロマイド) | 尾沢薬局 | |||
大正11年頃 | 東京貯蓄銀行 | 小谷野モスリン | 神楽屋メリンス | 大和屋漆器店 | 上州屋履物 | ||
戦後 | つくし堂(お菓子) | 藪そば | |||||
1930年 | 巴屋モスリン | 松葉屋メリンス | 山本コーヒー | ||||
1937年 | 3 | 2 | 2 | 2 | ソバヤ | ||
1952年 | 空ビル | 宮尾仏具 | 牛込水産 | 東莫会館パチンコ | サンエス洋装店 | ||
1960年 | 空地 | 喫茶浜村 | 魚金 | ||||
1963年 | 倉庫 | 洋菓子ハマムラ | 牛込水産 | ||||
1965年 | かやの木(玩具店) | 魚金 | |||||
1976年 | 第一勧業信用組合 | 第一勧業信用組合 駐車場 | 第一勧業信用組合 駐車場 |
||||
1980年 | サンエス洋装店 | ||||||
1984年 | (空地) | 寿司かなめ等 | |||||
1990年 | 駐車場 | 駐車場 | 郵便局 | ||||
1999年 | ナカノビル | コアビル(とんかつなど) | |||||
2010年 | 空き地 | ベローチェ | |||||
2020年 | 相馬屋 | 神楽坂TNヒルズ (焼肉、うを匠など) | 神楽坂テラス (Paulなど) | コアビル (とんかつ) |
伊勢藤の創業は昭和12年。しかし創業店は戦災で焼け、昭和23年に再度建築。町屋造りの酒亭です。場所はここ。
一代目はいい話だけでしか聞こえてきません。
二代目のモットーは…一、大声禁止。二、笑い声は微笑まで。三、ビールも焼酎もなく酒は燗酒のみ。四、女性の一人酒はご法度。五、感謝の気持ちで飲む。
現在は三代目。三代目はそこまでは厳しくないようですが、座敷から下品な笑い声があがるとやはり注意するそうです。
籐と藤。伊勢籐ではないか、という考えがあります。「たてかんむり」の籐 【トウ】はヤシ科のつる植物の総称。茎は強靭で、籐細工に使用。主に熱帯アジアやオーストラリア北部に分布。「くさかんむり」の藤【フジ】はつる性の落葉高木で、日本人には万葉の時代からなじみのある植物。しかし、どう考えても店の立て看板は伊勢藤だし、インターネットもほとんど全部伊勢藤と書いて「いせとう」とふりがながついています。藤という文字も「かずら(つる性植物の総称)」、「とう(木の名前)」という読み方もあります。
「毘沙門せんべい 福屋」の創業は昭和23年。
歌舞伎の名優、17代目中村勘三郎丈は「勘三郎せんべい」を好んだといいます。ほかに「山椒せんべい」や「げんこつ」など。「勘三郎せんべい」を除くとあとは結構おいしい。場所はここ。
東京平版株式会社のBLOGで「第1回 毘沙門せんべい福屋」(2017/5/31)では
ー花街の印象が強いからか、敷居が高いとか、一見さんは入れないお店だらけなんじゃないか?など、神楽坂にはちょっと手強いイメージを持つ方も多いようなのですがいかがでしょうか? 〈福井さん〉確かにちょっと特殊な街ではありますよね。あちこちに人間国宝級の方が住んでいますし、長唄や鼓や琴などの伝統芸能のお師匠さんたちがたくさん生活していますからね。神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。 |
「鳥茶屋」は「うどんすき」で有名。ほかにもやきとりや、あれこれ。
昭和30年代後半に創業しました。1984年には軽子坂、それが1990年は神楽坂4丁目に来ています。2020年10月末、本店は閉店しました。
場所はここ。
紅小路には小割烹「め乃惣」が入っています。「め乃惣」は『婦系図』で出てくる魚屋さんです。
ここでは、実際に泉鏡花氏と、魚屋から料亭「うを惣」を経営した父との関係は強く、この「うを惣」を継ぐのは長男で、この割烹「め乃惣」は次男。また「弥生」を三男がやっていたのですが、ここは終了です。
場所はここ。
また「拝啓、父上様」の1回目で田原一平が中川時夫に電話をかけた路地はここです。
「パティオ」・角
走ってくる一平。
だが、テキはいない。
「め乃惣」の看板。
一平、舌打ちしケイタイを出してボタンを押す。
一平「何だよお前、どこにいるンだよ! 云ったとこにお前いないじゃないか! エ?――天孝?――千月?――何でお前そんなとこ行っちゃったの。そこにいろ! いいか! 動くなよ!」
ケイタイ切って又走る。
|
ちなみに『婦系図』で出てくる「め乃惣」は、「め組の惣助」から「め乃惣」になりました。
ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄の可い島田の女中が、逆上せたような顔色で、 「奥様、魚屋が参りました。」 「大きな声をおしでないよ。」 とお蔦は振向いて低声で嗜め、お源が背後から通るように、身を開きながら、 「聞こえるじゃないか。」 目配せをすると、お源は莞爾して俯向いたが、ほんのり紅くした顔を勝手口から外へ出して路地の中を目迎える。 「奥様は?」 とその顔へ、打着けるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気を揉んで、手を振って圧えた処へ、盤台を肩にぬいと立った魚屋は、渾名を(め組)と称える、名代の芝ッ児。 |
「神楽坂上」に向かって左側の「丸岡陶苑」は和陶器を売る店です。
創業は明治24~25年(1891~92年)。場所はここ
渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年、和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」とあります。
牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には…
「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」
右側のショーウインドウは、陶器でつくった人形がテーマになっています。例えば、2月はお花祭りでした。これは12月です。価格は決して高くはありません。小さい人形は1000円から3000円までです。
神楽坂の通りと坂に戻る場合は
「上島珈琲館」から「神楽坂上」に向かって右側に少し奥に入ると、「二葉」になりました。ここは初めて「ばらちらし」が誕生した店です。昭和6年創業。地図はここ。
「二葉」の「ばらちらし」は、江戸前のちらし寿司はすし飯のうえにもみ海苔をふって魚を並べたもの。それに比べるとネタが細かくきざまれています。呉服商の依頼で、着物に醤油がとばないようにしたようです。ばらちらしは昼は1500円のみ、夜は2500円から。残念ながら、2015年に廃業しました。新しい店舗は2016年6月22日に開業した居酒屋「こんぶや」です。
あるブログには
奥で食券買ってくださいと、お帳場で。おばあちゃんから黄色い札をもらって着席すると、やがて、ばらちらしが運ばれてきます。ランチ時にはこの単品メニューだけなのに、なぜこういうシステムなのか? あらま、不思議 |
と書いてありました。
助六は神楽坂3丁目にある履物の店です。明治40年(1907年)、場所はここ。履物博覧会で1等賞を取り、創業は明治43年(1910年)です。
助六の前に若松亭という浪花節の定席があったようです。
牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第1号で『お店の履歴書 履物の老舗「助六」さん』では
先代である今は亡き父上の要氏は、若い頃、横山町の下駄屋さんで働いていた。でもその界隈で商売するだけでは埒があかないと、東京中の花柳界を回るように。 「それまでの駒下駄はもっと歯が厚かったんです。でもそれじゃ花柳界では不粋だからって、親父は歯を薄くして。いまのような駒下駄にしたわけです」 先代が考案した小粋な下駄が世に広まる契機となったのが、明治四十年、東京で開かれた履物博覧会だった。 「ええ、いいあんばいに一等賞をいただいて」 |
また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では
『助六』の創業は明治四三年、創業者は石井要氏である…… 当店は創業の頃から傘と下駄を扱ってきた。出来合いの傘だけではなく、注文に応じた品も作らせていた。下駄のサイズは一つしかなく、鼻緒のすげ方で二一cmから二五cmまで対応する。鼻緒をお客さんの足に合うように挿げるのは一番大切な仕事で、足を見ただけで文数がわかるようにならなければだめだ、と言われた。顧客のなかには与謝野晶子や宮城道雄、菊地寛、西条八十、川合玉堂などもいて、自宅に注文をとりに行き納品することもあった…… 草履にはふつう畳表をはるが、要氏が皮張りの草履を考案した。昭和の初め頃には、様々な色を使ったエナメルの草履なども作っていた。その頃、有楽町宝塚劇場のサロンのウィンドウに商品の見本を出せることになり、それを見て買いに来るお客さんが増えたこともある。また昭和二九年から昭和五六年頃まで、新宿伊勢丹の「さつき会」という催事(母の日を含む1ヵ月間)の際に出店していた。デパートの売り場の中でとてもよい場所とされる一階に店を出し、実際にたいへんよく売れた。 花柳界が近く、また一般のお客さんも多いため、現在の店には様々な好みに合わせられる珍しい希少商品や、オリジナル商品を置いている。 |
龍公亭は中華料理で四代目がやっています。創業は明治31年(1898年)。創業当時は「あやめ寿司」という寿司屋でした。大正13年の改装を機に2階で中華料理店「龍公亭」をスタート。初代の中華のシェフは楊澤林氏。本格的な中華料理店は山の手で初めての開店だといいます。じきに中華のみの営業に変わりました。かき氷の「あずきアイス」はここで生まれました。
開店時の看板メニュー、ラーメンの「あやめそば」や初代シェフが娘さんの名前を取って名付けた「桂春麺」もあります。
4代目のオーナーシェフは周富徳氏が料理長を務める赤坂璃宮で3年修業をしてきました。全面的な改装を行い、外がよく見えるようになっています。1代目から初めてのオーナーシェフです。
今からうん年前、3代目のシェフのときに食べに行き、2回ほど行き、うううんと。それからは行きませんでした。4代目のシェフになって、初めて行き、うまい。どれも古典的な中華ですが、ひとくち、いい点がある。なんとまあ。名前は同じでも中身はまったく違うものもある。デザートもちょっと違っています。絵葉書や本も売っています。すぐに人で一杯になるのもわかります。場所はここで。
この菱屋も歴史があります。創業は明治5年(1872)。場所はここ。
「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。店がよく栄えたのは二代目。肴町(現在の5丁目)では大家になっています。
現在は天利義一さんが社長。そして「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか?
「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業です。天利海によれば賃貸物件は
たとえば大久保通り角のビルもこの不動産の物件になっています。
1階は「ファミリーマート」、2階は「ロイヤルホスト」、それ以上はマンションです。
この範囲は江戸時代では土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で囲まれた本多屋敷がありました。その後「温泉山」という地域の銭湯「イソベ温泉」や歯医者になり、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の少し前には貸し座敷「牛込會館」に変わります。
同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
その後、牛込会館は白木屋デパートが営業しましたがほとんど客が入らず廃業になりました。
最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。
神楽坂3丁目に戻る場合
神楽坂仲通りに行くには
小栗横町に行くには
神楽坂の通りと坂に戻る場合は
神楽坂2丁目の「太陽堂」も本来は陶器店ですが、ブリキなどレトロなものを置いています。これは中国産のものが大半です。場所は左端のここ。
これも50年は古そうですが、よくはわかりません。
1952年の「火災保険特殊地図」(昭和27年)は加藤陶磁店と出ています。1960年頃の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)では「瀬戸物 太陽堂」です。加藤陶磁店と太陽堂とは同じ経営陣ではないかと思います。違う場合もありますが。
さらに昔に行き、1937年(昭和12年)の「火災保険特殊地図」は名前は書いていません。
昭和5年(1930年)は「甲斐屋布団」になっています(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」)。おそらく太陽堂は終戦後にできたものではないでしょうか。
昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
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甲斐屋布団 | 太陽堂陶器 | |
大川時計店 | 増田屋食肉 | |
八幡小間物 | 松屋 牛丼 | |
村田煙草店 | ||
山岸玩具店 | 安曇野食堂 | ポルタ神楽坂 |
伊沢袴店 | ||
盛光堂煎餅 | 十奈美化粧 | |
酒場ユリカ | ||
三好屋玩具 | 喫茶パウワウ | |
カフェ神養軒 | ||
三好質屋 | バーゲン場 |
紀の善は「令和4年9月30日をもちまして店舗を閉店させて頂きました」。理由は「店主の高齢化や諸般の事情」のためでした。あーあ… 閉店は「紀の善の閉店」で。
新しい店舗は「しんぱち食堂」。前書きに「炭火焼干物定食」。和食ファーストフードチェーンです。別に書くとして、今日は紀の善についてです。
「紀の善」は東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋でした。場所はここです。
渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では……
「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業 |
口入業とは職業周旋業者のこと。これと違って創業の年は嘉永年間(1848-1854)だとする報もあります。
創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前(「食行脚 東京の巻」協文館、大正14年) |
大正14年(1925年)から70余年前は嘉永年間(1848-1854)です。しかし、どちらも引用文献はなく、正確にはわかりません。
冨田冨江氏の「私が生まれ育つたまち」(「ここは牛込、神楽坂」第16号、平成12年)では……
戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。 |
同じく「紀の善と牡丹屋敷」(「ここは牛込、神楽坂」第17号、平成12年)では……
神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは三十人頼むとか、きょうは雨だから五人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂で代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。 その後、牡丹屋敷は町屋になりますが、ずっと牡丹屋敷と呼ばれていたようです。で、紀の善はご維新後、寿司屋に転向しましたが、そのときはこの絵柄から、花蝶寿司といっていました」 |
明治維新後は「紀の善・花蝶寿司」。それまで牛込壕端沿いに住んでいたのですが、大地主升本喜兵衛に薦められ、現在の場所に移りました。
宮内省の御用達になると、「御膳寿司紀の善」に変更。
なお新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、関東大震災前の当時、大正11(1922)年頃は「神楽小路」のことを「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。
明治41年1月、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎など七人はこの2階で新詩社の脱退を決めました。かわって『パンの会』を作ります。これは長田幹彦氏の「わが青春の記」に書いてあります。
また出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では
紀の善の店前には印絆纒を着た下足番が床几に腰かけて路行く人を眺めてゐる、上框には山の手式の書生下駄が四五足珠數繋にされてゐて、拭きこんだ板間に梯子段が見える。田舎者で通つた早稲田の學生も此處のやすけが戀しくなれば先づ江戸つ子の部としたもの |
西村和夫氏の『雑学神楽坂』では昭和11年2月26日、2・26事件の時に「神楽坂が鎮圧部隊の駐屯地にされた時、紀の善が鎮圧部隊の司令部になった」と書かれています。戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)なので別で、あくまでも「鎮圧部隊」の司令部でしょう。
建物は戦争で焼失し先々代の女将が中心となって今の甘味処「紀の善」に変わりました。刺青から甘味処に変わったのです。(内緒にしようっと。)最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。
赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、1970年)では
昔は早稲田の運動会は向島でやったものです。その時は学生達は思い思いのふん裝で会場へ乗り込むのですが、四十七士もいれば児島高徳を気取って鎧の上から蓑を着て来る学生もいました。弁当は学校から出るんですが、「紀の善」で一手にひき受けていたらしく、何でも3,000人分くらいだそうで洗い方煮方炊さ方詰め方と分業で手分けをして徹夜で戦争のような騒ぎでした。こんな騒ぎは大正の末頃まで続きました。今では近くにも大きな大学が沢山できましたが、昔の早大と神楽坂の様なつながりを持った学校は一つもありません。 |
地下鉄の出入り口の先には「不二家」のフランチャイズ店があります。昔は岩瀬糸店でしたが、小間物みどりや、パンの神楽堂になり、昭和42年(1967年)、ケーキ・洋菓子などの不二家になりました。場所はここです。
わずか105円の「ペコちゃん焼」が有名です。現在はここにしか残っていません。05年、鉄板を新しくしたのを機に「ポコちゃん焼」が登場しました。かわいいペコちゃん、りりしいポコちゃん、新しい鉄板、きれいな店構え、ペコちゃん「焼」もうっとりするほど可愛くなりました。(若干、うそです)。
決して甘すぎるものはないので大丈夫。なお、店の前のペコちゃんはしょっちゅう衣装が変わります。
この平松南社長は父がフランチャイズの社長で、本人は講談社の社員でした。祖父と兄はなくなり、本人がここの社長になりました。ここ神楽坂が大好きな社長として書籍の出版などもやっていました。現在はインターネットが中心です。
「のレン 神楽坂店」は、2016年12月に開店したスーベニアショップです。
その会社は株式会社コラゾンで、元々は海外在住経験のある創業チームが「人々をワクワクさせるようなまだ知られてない日本の魅力を国内外に伝えたい」と、2008年に京都市内に祇園店を開店しました。現在は、京都嵐山/四条通り、東京浅草、横浜赤レンガ倉庫、愛知中部国際空港など観光地やゲートウェイに10店舗を展開しています。
この半分は地下鉄の駅につながっています。
その前は「山田紙店」でした。この「紙店」とは文房具屋のことです。平成28(2016)年9月に閉店しました。
この「山田紙店」の創業は中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』(1955年、昭和30年)によれば、明治22年(1889年)。江戸時代は木版師ついで絵草紙屋でした。場所はここ。
その後、煙草の販売店と一緒になっていました。中には「原稿用紙」も売られていましたが、ほとんどの人は煙草を買う時に立ち寄り、煙草以外のものを売っているとわからないでしょう。実際、煙草はものすごく、ものすごーく売れていました。しかし、ここでのポイントはあくまでも「原稿用紙」。
はるか昔から「原稿用紙」が有名な二店のうち一店なのでした。夏目漱石、川端康成、吉行淳之介などの作家たちは山田紙店の原稿用紙を愛用したといわれています。
『拝啓、父上様』の第1話で
一平 神楽坂上ったとこに、相馬屋っていう有名な文房具の店があってな。そこの原稿用紙買って来て書くとすらすら文章が書けるって云うぞ
時夫 本当かよ
一平 夏目漱石とか、ア! 仲々書けない筆の遅い奴はな、坂下の山田屋の用紙がいいらしい。井上ひさしなンて人はそこらしいって云ってた
時夫 ――いい話聞いた
|
いつになるかはわかりませんが、遠い時間の先で「のレン」はなくなります。
靴のオザキヤ「オザキヤ靴店」について、ただただもう大量な靴があります。場所はここ。
西村和夫氏は『雑学 神楽坂』にこう書いています。
日本人が靴を履き始めた時代から100年にわたる靴屋だ。明治末、創業者が洋行帰りの人から履き潰した靴を貰い受けて、それをばらして構造を研究して製造販売から修理まで行った。まだ既製品の靴がない時代全てがオーダーメイドで、昭和の初め頃まで『銀座に劣らぬ職人がいる』と、神楽坂は山の手の政治家や文化人に贔屓にされた。 |
創業は明治33年(1900)。現在は3代目です。
昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
---|---|---|
はりまや喫茶 | 夏目写真館 | ポルタ神楽坂 |
白十字喫茶 | 大升寿司 | |
太田カバン | 神楽屋煎餅 | |
今井モスリン店 | カフェ・ルトゥール | チャイハネ インド服 |
樽平食堂 | ラーメン花の華 | 天下一品 中華そば |
大島屋畳表 | 田金果物店 | メガネスーパー |
尾崎屋靴店 | オザキヤ靴 | |
三好屋食品 | 志満金 鰻 | |
增屋足袋店 | ||
海老屋水菓子店 | ||
八木下洋服 | ||
田日屋生花店 |
志満金は昔は島金でした。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。場所はここ。
さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。
実は初めは神楽坂通りではなく、小栗横丁(鏡花横丁)にでていた時もあったのです。
新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では…
泉鏡花の『神樂坂七不思議』にこの話が出ていますが、仕立屋と書いてあるのは「洋服 ハ木下」に間違えて入っていったのでしょう。
島金の辻行燈。
家は小路へ引込んで通りの角に「蒲燒」と書いた行燈ばかりあり。氣の疾い奴がむやみと飛込むと仕立屋なりしぞ不思議なる。
|
実際にはこの頃は島金(志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)のほうに顔を出していたのです。
昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
---|---|---|
はりまや喫茶 | 夏目写真館 | ポルタ神楽坂 |
白十字喫茶 | 大升寿司 | |
太田カバン | 神楽屋煎餅 | |
今井モスリン店 | カフェ・ルトゥール | チャイハネ インド服 |
樽平食堂 | ラーメン花の華 | 天下一品 中華そば |
大島屋畳表 | 田金果物店 | メガネスーパー |
尾崎屋靴店 | オザキヤ靴 | |
三好屋食品 | 志満金 鰻 | |
增屋足袋店 | ||
海老屋水菓子店 | ||
八木下洋服 | ||
田日屋生花店 |
倉本聰は『拝啓、父上様』第9話でこう書いています。
道
歩く二人
語「新宿山の手七福神めぐりというのは、この界隈にある七福神を祭ったお寺や神社を、歩いて廻るという正月の習慣で」
地図
語「毘沙門様から歩き始めて、大黒様を祭った経王寺。
弁財天を祭った厳島神社。
寿老人を祭った法善寺。
福禄寿を祭った抜弁天の永福寺。
恵比寿様を祭った鬼王神社。
布袋様を祭った太宗寺。
と、七つの場所をお参りすることで」
|
ガイドブック「新宿区の文化財(9)民俗・考古」では
寺院・神社 | 住所 |
---|---|
善国寺(毘沙門天) | 神楽坂五丁目 |
経王寺(大黒天) | 原町一丁目 |
厳島神社(弁財天) | 東大久保二丁目 |
法善寺(寿老人) | 新宿六丁目 |
永福寺(福禄寿) | 新宿七丁目 |
稲荷鬼王神社(恵比須) | 新宿歌舞伎町 |
太宗寺(布袋) | 新宿二丁目 |
これは結構遠く離れています。大江戸線がない場合はバスを使っても相当疲れたと思います(バスを使うと1時間に1~3回)。タクシーを除いて、まず一般の人はやらないでしょう。
ここが「拝啓、父上様」1回目で出てきた駐車場です。
この階段の左下に車が止まっており、主役の「田原一平」役の二宮和也は車をスタートして、熱海湯の下まで先輩板前2人を向かえに行き、築地市場で魚を買いに行く。ここから熱海湯に行くのは……まあできるか。
「坂下」・駐車場
ワゴン車に乗り込み、バックさせる一平。
語「この町の料亭”坂下”で、板前の修業をずっとしており」 |
現在は食事を楽しむビルになっています。
もっと遠くから見ると寺内公園がみえてきます。(昔はこの地域を地内と呼ぶこともありました)
この案内板を読みましょう。
寺内公園の由来 この「寺内公園」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。) 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、昆沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王・柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。 いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出の場として大切に護り育てましょう。 平成15年3月吉日 新宿区
|
写真についは
「当時の寺内の風俗を描いたといわれる」
ノエル・ヌエット(仏)画『神楽坂』(昭和12年) 作品提供/クロスチャン・ポラック |
写真はクリックすると大きくなります。なおノエル・ヌエット氏の『東京のシルエット』については別の項で。
また、この上の版画『神楽坂』は下の写真とよく似ていませんか? 寺内横丁で詳しく書いています。
もう一つ、ノエル・ヌエット氏は木版画の前に必ずペン画を作っています。これは1937(昭和12)年1月30日に描いています。
ここで出てきた人物を簡単に紹介します。
柳家金語楼は落語家や喜劇俳優、 NHKテレビ『ジェスチャー』などで有名、1972年、死亡。
山下敬二郎は金語楼の息子でロカビリー歌手、2011年1月で胆管がんで死去。
花柳小菊は予定は神楽坂の芸者、しかしマキノ正博にスカウトされ、映画で主演し、テレビドラマ・舞台で活躍。2011年1月、死亡。しかし、神楽坂5丁目だという談もあります。
勝新太郎は日本の俳優。『座頭市物語』で主演。1997年6月、死亡。
神楽坂はん子は昭和の芸者歌手。『ゲイシャ・ワルツ』は大ヒット。1995年6月死亡。
本当は行元寺と芸者の路地だったのですが、その雰囲気はまったくありません。
三業 さんぎょう。料亭(料)・待合茶屋(待)・芸妓置屋(妓)の3業種。
二業 料亭と芸妓置屋
花街 かがい。はなまち。いろまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。遊郭。花柳街
花柳界 かりゅうかい。芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の巷。
料亭 主として日本料理を出す高級な料理屋
置屋 おきや。正確には女郎置屋や芸者置屋。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
待合 まちあい。待合茶屋。まちあいぢゃや。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。ウィキペディアによると、板場がないので料理の提供はなく、仕出し屋などから取り寄せる。収入源は席料と、料理などの手数料。客の宿泊用に寝具を備えた部屋があり、ここで芸妓や私娼と一夜を過ごす客も多かった(娼妓は遊郭以外で営業できない東京では不可)
芸妓 歌や三味線、舞踊など、芸の習得に厳しい稽古を積み、酒宴で披露して客をもてなす女性。遊女とは一線を画す。
見番 けんばん。検番、見番。三業組合の事務所。遊里で芸者の取り次ぎや送迎、玉代の精算などをした所。現在の例は見番横丁で。
箱屋 はこや。三味線などを持って客席に出る芸者に従って行く男衆。見番に属する。箱まわし。箱持ち
半玉 まだ一人前として扱われず、玉代も半人分の芸者。雛妓とも。踊りと太鼓を演じるが、三味線は弾かない。大半は16歳で芸者に
源氏名 遊女や芸者の妓名。バーのホステスなどの呼び名でも使う、
|
10 元禄で思い出したからついでに喋舌ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事で茸が飛んで来たり、御茶の味噌の女学校へ行ったり、恵比寿、台所と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺して見ると裏店と藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。 |
茸 正しくは「火の粉」。燃え上がる火から粉のように飛び散る火片のこと
御茶の味噌の女学校 正しくは「お茶の水の女学校」。本郷区湯島三丁目(現、文京区湯島一丁目)の女子高等師範学校附属高等女学校。戦後はお茶の水女子大学の母体。
台所 正しくは「恵比寿、大黒」。恵比寿と大黒は財福の神で、民家で並べてまつることが多かった。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。現在は固有名詞として使う場合も多く、新宿区袋町では「地蔵坂」の商店を指す。
裏店 裏通りにある家。商家の裏側や路地などにある粗末な家。
大抵は伝通院前から電車へ乗つて本郷迄買物に出るんだが、人に聞いて見ると、本郷の方は神楽坂に比べて、何うしても一割か二割物が高いと云ふので、此間から一二度此方の方へ出て来て見た。此前も寄る筈であつたが、つい遅くなつたので急いで帰つた。今日は其積で早く宅を出た。が、御息み中だつたので、又通り迄行つて買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。所が天気模様が悪くなつて、藁店を上がり掛けるとぽつ/\降り出した。傘を持つて来なかつたので、濡れまいと思つて、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体に障つて、息が苦しくなつて困つた。――「けれども、慣れつこに為てるんだから、驚ろきやしません」と云つて、代助を見て淋しい笑ひ方をした。「心臓の方は、まだ悉皆善くないんですか」と代助は気の毒さうな顔で尋ねた。 |
平岡が来たら、すぐ帰るからつて、少し待たして置いて呉れ」と門野に云ひ置いて表へ出た。強い日が正面から射竦める様な勢で、代助の顔を打つた。代助は歩きながら絶えず眼と眉を動かした。牛込見附を這入つて、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄つた古本屋迄来て、昨日不要の本を取りに来て呉れと頼んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余り酷かつたので、電車で飯田橋へ回つて、それから揚場を筋違に毘沙門前へ出た。 家の前には車が一台下りてゐた。玄関には靴が揃へてあつた。代助は門野の注意を待たないで、平岡の来てゐる事を悟つた。汗を拭いて、着物を洗ひ立ての浴衣に改めて、座敷へ出た。 |
毘沙門 毘沙門天。仏法を守護する天部の神。四天王の一人。
学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。 君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪るいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅の釣堀で鮒を三匹釣った事がある。それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜しいと云ったら、赤シャツは顋を前の方へ突き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣や猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽に極まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮している上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢な話だ。 |
百円を懐にして室のなかを二度三度廻る。気分も爽かに胸も涼しい。たちまち思い切ったように帽を取って師走の市に飛び出した。黄昏の神楽坂を上ると、もう五時に近い。気の早い店では、はや瓦斯を点じている。 毘沙門の提灯は年内に張りかえぬつもりか、色が褪めて暗いなかで揺れている。門前の屋台で職人が手拭を半襷にとって、しきりに寿司を握っている。露店の三馬は光るほどに色が寒い。黒足袋を往来へ並べて、頬被りに懐手をしたのがある。あれでも足袋は売れるかしらん。今川焼は一銭に三つで婆さんの自製にかかる。六銭五厘の万年筆は安過ぎると思う。 |
落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。 |
神楽坂の花柳界は幕末の安政4年(1857)行元寺の横丁を入ったあたりに神楽坂花街(牛込花街)として出現しました。しかし、本格的に発展したのは明治になってからです。11年後の明治元年(1868)、以降は町人の街となり商業の発展とともに花街も発展していきます。
しかし、明治の花街はいばらの道でありまして、最初は4流の場所でした。
夏目漱石の『硝子戸の中』(大正4年)ではこう書いています。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」 「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」 私は肴町を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋の角の細い小路の入口に、ごたごた掲げられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定して見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。 「なるほどそう云えば誰が袖なんて看板が通りから見えるようだね」 「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家ってね。ちょうどそら高田の旦那の真向でしたろう、東家の御神灯のぶら下がっていたのは」 |
この東家は寺内の吾妻家のことで、『ここは牛込、神楽坂』でここだと書いています。
さて西村和夫氏の『雑学神楽坂』によると
日清戦争の始まる前はわずか7~8軒だった待合は戦争の終わる頃には(わずか2年で)15~16軒と倍近くにまで増加した。さらに明治37、8年の日清戦争の景気は神楽坂の待合の数を一挙に50軒に増やし、芸者の数も増えていった。 |
大正12年の関東大震災は幸いに神楽坂は火災を免れ、さらに賑わいを増しました。
昭和初期は神楽坂の検番は旧検と新検との2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒であり、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。もっとも発展した時期です。
第2次世界戦争が始まり、昭和30年3月の『新宿区史』では
当然の事乍ら昭和19年に料理店、待合、芸妓置屋、カフエー、バー等に営業停止令が出された。神楽坂、荒木町、十二社の芸妓は女子挺身隊として、軍事工場を重点として各種重要産業部門に向けられた。…4月に入って、13日・14日に160機のB29攻撃を受けて、四谷、牛込、淀橋の大部を焼失した。…5月25日に絨毯爆撃によって、四谷、牛込、淀橋地区の残存の大部を焼失した。そして、29日にはその残りを失ってしまった。 |
しかし、戦争後、朝鮮戦争で再び花街のブームに火がつきました。また、1952年(昭和27年)、神楽坂はん子『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒット。(『ゲイシャ・ワルツ』は次の動画で聞くことが出来ます)
しかし、昭和33年、売春防止法以来、環境が急に変化していきます。
西村和夫氏の『雑学神楽坂』では
高度成長期、接待費がふんだんにある企業がお馴染みさんになって神楽坂の景気を導いた。だからバブルがはじけるとたちまちお馴染みさんとの関係は切れ客足は引いていった。 |
平成9年8月には料亭5軒と芸妓25名だけになりました。平成13年は料亭は4軒だけです。
各4軒について
「うを徳」は大正9年創業。25,000円(通常平均)、20,000円(宴会平均)、15,000円(ランチ平均)。
「千月」は昭和10年創業。コースは26,250円。
「牧」は21,000円、カウンターは10,500円。
「幸本」は昭和23年創業。10,500円。席料3,150円~(税込)(クレジットだと「一見さんお断りの料亭」でもOKです)。
四軒についてはhttp://www.kagurazaka-kumiai.net/ryotei.html
この神楽坂の由来は区の標柱では
がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。
江戸名所図会は次の通り。なお、割注は()で書いています。
同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975) |
望海毎談は、江戸時代中期に、江戸名所旧跡の伝説を描き、作者は不明。「燕石十種第3」5輯に出ています。以下は「望海毎談」です。
牛込行願寺 牛込通りの行願寺と云る天台宗は東叡山開闢よりはるか古よりの大寺にて今の牛込御堀端より西手は酒井空印の御屋敷邊まで此寺の境内なり神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよしも赤城明神は行願寺の地守なり今の社地は元の宮所にあらず尤行願寺の持を退たり此寺東叡山の末寺にして香衣の院家の地なり今以て二千餘坪の地面にて借地せし人多し |
江戸志(別名、新編江戸志)を引用した御府内備考では……
市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸志 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志 |
ほかにも
ここで御旅所とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿を鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789年
文政1818年
ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、まあ、どれでもいいですね。
内務省地理局(上図、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「神楽坂付近の地名」45頁。1970年)では「出羽様下」と書いています。『ここは牛込、神楽坂』の竹田真砂子の「振り返れば明日が見える」では同じようなことを書いていますが、違う点もあり、松平出羽守は宮坂金物店(今のお香の店「椿屋」)の横丁を入った所に屋敷を構えて、この辺りを「出羽様」といったそうです。
松平出羽守は明治7年の「東京大小區分絵図」(1874年、下図。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」298ページを参照)では本多家に並ぶ大きさがありました。
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側すべては本多家の邸地でした。旗本から最後は大名になり、藩知事になったのですが、廃藩置県にともなって免職となりました。一時「本多横丁」は「すずらん通り」となりますが、昭和50年ごろには元に戻っています。また「すり横丁」ともいわれました。作る料理人のほうが金をなくすというのです。
では、まずなくなった店…というのもおかしいのですが、「旧見(旧検)」がありました。「旧検番」の略で、民政党の一派が作る検番です。「新検」とライバル関係にありました。この芸者新道と本多横丁があう南側、今は「ほてや」の場所にありました。
呉服屋「ほてや」の開業は大正初期。いまのところにかわるまで、いろいろ変わってきたようです。最初は本多横丁、戦前は三菱銀行の隣、戦後は坂の交差点角の階段を上がったところ、しかし花柳界の反対があり、最後はここです。
次は「たつみや」です。昭和23年開業。うなぎ屋。ジョン・レノンとオノ・ヨーコも来たそうです。常盤新平が直木賞をとった場所もここ。
さらに進むと、美容院「ラ・パレット」の創業は大正11年。一時本多横丁には髪結いが4軒もあり、「髪結い横丁」とも呼ばれたそうです。創業者は中井よし氏。もともとは日本髪の職人でした。
「鳥せづ」は女将さんがやっています。道路側の神楽坂で80年続く鶏肉店鳥静商店の三代目です。鳥せづは2000年ごろからやっています。
さらに料亭「牧」は現在ここには4軒しかない料亭です。
以下はMATU(669)さんの「食べログ」の要約です。
神楽坂の芸妓渡辺和子さんが一代で築き上げた名料亭で、「牧」はいまだに一見さんお断りの店ですが、料亭の隣に割烹が近年併設し、こちらの店は初回でも予約が可能です。コースは一人12000円以上。カウンター割烹をクリアーすれば次はいよいよ料亭で、女将さんに名刺を渡しておけば、お座敷の予約は多分可能です。芸者は一人呼ぶと5万円ぐらい。後日請求書が来るので、銀行振り込みに支払います。2人で食べてちょっと飲んで5万円ぐらい |
本多横丁の由来になった旗本「本多家」のことです。まず標柱では
本多横丁 Honda-yokocho |
江戸中期から明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であった。 |
国立国会図書館の御府内沿革図第11巻切絵図のコマ番号180では、「本多修理屋敷脇横丁」とあります。
ここは西側にも武家屋敷の並ぶ道でした。
昭和24年頃、商店会は「スズラン横丁」に変更しました。しかし、旧名の本多横丁の復活を望む声が多く、昭和27年頃、本多横丁商店会に変えています。実際、明治20年も同じ本多横丁でした。
竹田真砂子氏の『ここは牛込、神楽坂』第2号の「振り返れば明日が見える2…銀杏は見ている」ではこう書いています。
本多横丁の由来になっている旗本の本多家は、幕末になって、大名の列に加えられた。知行地は三河国西端藩、現在の愛知県碧南市である。 維新直後、本多家当主は藩知事になったが、廃藩置県にともなって免職となり、東京と改称した江戸に戻った。 |
ご母堂の智氷子刀自は、今年83才。本多家最後の当主を見覚えている。「お目にかかったのは、多分、昭和の初め頃」であったという。 本多の屋敷跡は、明治十五、六年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正十年十月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。 |
神楽坂の本多家は、本家筋からは分家のそのまた分家の家筋に当たります。本家筋では、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が知られていますが、系譜をさかのぼれば、藤原兼通(六代関白925~979)につながります。 名家藤原の末裔の姓が本多に変わっていく経緯にまでは手が届きませんでしたが、いつの頃か、三河国宝飯郡伊奈郷に移り住んだという記録があります。分家の六代目本多康俊(元和九年1623没)が伊奈城主だったのも興味のあるところです。この康俊の二男忠相(修理 美作守 八千石 天和二年 1682没)が分家からまた分かれ、神楽坂の本多家の初代となります。 本家も分家も代々城持大名ですが、分家の分家は上級旗本として幕府に仕えていくことになります。 初代忠相は、慶長10年(1605)七才の時に三河國西尾より江戸に下向し、将軍秀忠に拝謁を許されます。元和元年(1615)父に従い大阪夏の陣で功をあげ小姓番となり碧海郡(現碧南市)に知行干石を給わり、84才で没する時には、ハ干石の旗本になっています。 以下、少し系図を追ってみますと、初代忠相→二代忠将(修理 対馬守備前守 御書院番頭 九千石 元禄四年1691没)→三代忠能(修理 因幡守 定火消 大番頭 延享元年1744没)→四代忠敞(修理 播磨守 定火消 御書院番頭 延享2年1745没)→五代忠栄(左京 対馬守 定火消 百人組頭 大番頭 伏見奉行 安永5年1776没)→略→忠鵬(明治2年頃、三河國碧海郡西端藩 1万500石 子爵)…となります。 |
元治元年(1864年)、9000石を知行していた本多忠寛が、江戸警備の功績などから1万500石に石直しを許され、ここに本多氏は諸侯に列して西端藩が立藩した。慶応3年(1867年)5月20日、忠寛は病気を理由に隠居し、嫡男の本多忠鵬が後を継いだ。忠鵬は明治元年(1868年)、新政府に与して陣屋を兵営として貸し与えた。 翌年6月、農民兵を募集して様式訓練を行うなどの藩政改革を行ない始めた。同年6月23日、版籍奉還で忠鵬は藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で西端藩は廃藩となった。その後、西端県を経て額田県、そして愛知県に編入されたのである。 |
神楽坂の本多家は、禄高も役職も、最上級旗本だったことが判ります。ここで注目したいのは、三代忠能から定火消の役を代々引き継いでいることで、この本多家が神楽坂に居を移してきた理由と時期に、関係があるのではないかと思えます。 |
本多家の始祖は徳川四天王の筆頭本多平八郎忠勝(1548~1610)と伝えられ、分家六代目の本多康俊の次男忠相(1598~1682)が旗本の身分と千石の知行を安堵されて分家した。やがて八千石を拝領した忠和が神楽坂の本多家初代になるが、神楽坂に50間四万の広大な屋敷地を賜ったのは、元禄五(1692)年に三代目を襲封した忠能(1744年歿)が定火消の役務を任じた後と目されている。忠能は江戸城の西北部、つまり神楽坂方面の防火と警備を担当した |
毘沙門天から先の神楽坂5丁目は昔は武器、兵器庫があり、このあたりは「兵庫町」と呼ばれていました。徳川3代将軍家光の鷹狩りの帰途のたびごとに、町民は魚を献上し、家光は酒井讃岐守忠勝に命じ「肴町」と地名変更をさせました。このため明治、大正、戦争前は肴町でした。たとえば明治20年の地図では肴町です。「神楽坂5丁目」に変わったのは昭和26年です。理由は文京区の肴町と誤認されやすいことなどが上げられています。
「玄品ふぐ神楽坂の関」の所にかつては「田原屋」が開いていました。「五十鈴」は現在もあります。
さらに行くと、左に高くなる「藁店」です。かつては上に行く途中で寄席の牛込亭や映画の牛込館がありました。これを藁店横町ともいいますが、藁店のほうが普通です。
「相馬屋」は現役。その隣にかつては酒屋の「万長」と「紅谷」が店を出していました。河合陶器店もなくなりました。
旧万長の横は寺内と呼ぶ地域があります。昔は地内とも呼びました。その場所はここ。ここからすこし向こうに寺内公園があり、その場所は巨大な高層マンションがあります。明治40年(1907)まで、高層マンションではなく、行元寺という寺があり、その跡地を「寺内」「地内」と呼んでいました。
ほかに近江屋、山せみ、キッコ、美濃屋かアジアンタワン、くるみ、本の武田芳進堂、マルゲリータなど。
最後に現在「神楽坂上」の交差点は当然昔は「肴町」の交差点になっていました。交叉点の名前は横の交通は「大久保通り」、縦の交通は「神楽坂」か「早稲田通り」です。標高14mほど。
坂上の信号機を渡り、つまり大久保通りを渡ると、右側は神楽坂6丁目ですが、左側の数軒はまだ神楽坂5丁目です。戦前にはデンキヤホールもここにありました。
善國寺です。正確には日蓮宗鎮護山善国寺。場所はここ。ほかに昭和60(1985)年の地図でも、明治20年(1887年)の地図でもほぼ同じ所にあります。
この前に標柱があります。
神楽坂 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。 |
となっています。詳しくはここで
では中に入ると……
善國寺毘沙門天です。別名を多聞天。開基は文禄4年(1595年)で、日本橋馬喰町に創建。寛文10年(1670)火災で麹町に移転。寛政4年(1792)、再度火災に会い、移転しました。また、よしず張りの店が9軒ほど門前に移転しました。芝金杉の正伝寺、浅草吉野町の正伝寺とあわせて江戸三毘沙門と呼ばれたといいます。
明治20年頃、初めて夜店が出でました。東京の縁日発祥の地です。夜店は夏目漱石を始め沢山の作家が書いています。
昭和20年5月25日夜半から26日の早朝にかけて大空襲で焼けましたが、昭和26年、木造の仮本堂と毘沙門堂を再建します。昭和46年に新しい本堂と庫裡、書院などを建てていて、落慶式を行いました。現在は新宿区の「山の手七福神」の1つ。
1、5、9月の寅の日に開帳します。ご利益は開運厄除け。
文化財についてはここに。4月頃、藤棚が開きます。
「絵馬」は寺社に奉納する絵が描かれた木の板。 『続日本紀』には神の乗り物、神馬を奉納したといいます。平安時代から板に描いた馬の絵に代り、室町時代では馬だけでなく様々な絵が描かれるようになりました。毘沙門天では寅が書かれています。
木柾を叩いて読経します。
「百足ひめこばん」については善国寺は「平成25年から開帳日に限り、100年ぶりに『百足ひめこばん』を頒布することとなりました。古来より百足は毘沙門様の眷族であるといわれ、そのたくさんの足で福をかき込むと考えられております。ひめこばんを持ってたくさんの福を得てください」として2013年から1つ1000円で配布しています。
中を読むと
往古より“むかで”は毘沙門さまのおつかいと言われ百の足で福をかきこむことから福百足と呼ばれ、開運、招福のご利益をもたらすことで知られています。 このたび当山では百年振りにひめ小判守を復刻致しました。 皆々様の福運向上をご祈念申し上げます。 |
小判は4.0 cm X 2.5 cm。表は「開運 ひめこばん」。裏は
神楽坂 令百由旬内無諸衰患 南無 開運・除厄 大毘沙門天守 受持法華名者福不可量 善国寺
と書いてあります。
さらにひめこばんについて、まとめてみました。
ロッキード事件で有名な故児玉誉士夫氏の名前があります。一つは山門の右側の柱で
昭和46年5月12日 児玉誉士夫建之
と書いてありました。
もう一つは境内のトイレのそばで
○○○○ 大東亜戦戦死病没 諸霊位追善供養 堂前児玉垣施入主
とかかれた慰霊塔の裏に
昭和46年11月毘沙門天善国寺〇〇施主児玉誉士夫
と書いてありました。
家畜慰霊碑は
東京都食肉環境衛生同業組合 牛込支部 |
と書いてあります。
本堂左に浄行菩薩があり、身代わり菩薩としても知られています。柄杓で水をかけてお願い事をします。
またその奥、出世稲荷に小さな社があります。
また書院では隔月で落語をやっています。
「拝啓、父上様」では善國寺は何度も出てきますが、第1話では
毘沙門前
通りをつっ切り境内へ入る一平。
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最後に下図は1993年の神楽坂。
いかにも私道に見えるほうに進みましょう。私たちの方角では左のほうで、見番横丁とは反対の方向です。この路地にはいっていきます。
下図について、矢印(手のアイコン)を叩くと地図は奥に進み、それ以外の場所をにぎって動かすと、360度回ります。
ととととと歩くと…
それで終わりです。この階段や路地は「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「フランスの坂」、「芸者小路」、「カラン坂」などと呼んでいます。
なぜ有名になったのか? やはりテレビ番組「拝啓、父上様」ではないでしょうか? それまではこの階段、まあ有名でも、ものすごく有名ではありませんでした。それが、階段を下りる「ナオミ」の持つ箱からりんごが何十個かこぼれて落ちて、主役の「田原一平」役の二宮和也はリンゴを何個も拾い上げて、 これで田原君は1目ぼれです。 なぜナオミはこの階段にいたの? りんごはどこで買ったの? りんごをどこにもっていくの? などとは聞かないこと。しかし、この階段、和可奈の兵庫横丁よりも沢山でてきます。
なお、2017年以前のいつかから、少し変わりました。テラスができたのです。
しかし、この階段が大好きな人もいます。たとえばパリジェンヌのドラ・トーザンです。『東京のプチ・パリですてきな街暮らし』の一節で
私は熱海湯のところから鳥茶屋別邸を横に見て上がっていく坂をフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。 |
当時「熱海湯」を上がった芸者はここを通って神楽坂に行ったといいます。この下に音声ガイドつきの「芸者小路」がありますが、行ったときは電話の相手は不通になっていました。なお、芸者はここで書いています。
さらに神楽坂通りを上がりますが、左に細い路地があります。ここを入ってみます。かのテレビドラマ「拝啓、父上様」でリンゴが20個ぐらい転がった階段がここにあるのです。
しかし、そこに行く前に……
最初は「高田穴八幡御旅所」について。下の絵では四角で囲んだ場所が3つあり、上は「毘沙門堂」、右は「こんぴら」、左下は「高田八まん御旅所」です。また、この画讃には『月毎の寅の日には参詣夥しく植木等の諸商人市をなして賑へり』と書かれています。
御旅所とは神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩や宿泊する場所です。
この「高田八まん御旅所」は、安政4年改「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では「穴八幡旅所」ときちんと書いてあります。西早稲田にある穴八幡宮からの神輿がこの御旅所にやって来て、神輿はよく奏し、これが神楽坂の名前になったという説があります。
この御旅所の場所はヤマダヤや丸岡陶苑などがある場所でした。
ちなみに1860年、御旅所はもうなくなっています。下に青色の代地の隣にあったはずです。いったいどうしたのでしょうか。不思議です。
しかし、「不思議です」と書いていながら、明治6年には御旅所はまだありました。小栗横丁を向いて、現在は「神楽坂かつのとうふ」などがあります。
昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年の神楽町三丁目はここ。
現在、3丁目は菱屋、龍公亭、助六、丸岡陶苑、ヤマダヤ、椿屋、五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。
2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。
また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉、神楽坂演芸場があったところです。
神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば
外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。 |
と書かれています。
明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では
最高点から神楽坂下を見たところは…
最高点から神楽坂上を見たところは…
左にはいると見番横丁です。
すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。これは寄席の1つで、柳家金語楼などが有名でした。
では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。
本多横丁です。
なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。
石川啄木はこう書いています。
明治41年10年29日 啄木の日記から。 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。 |
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家で、新詩社脱退事件の1人でした。
この「物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える」については、北原白秋氏は詩集『東京景物詩及其他』の「物理学校裏」でこう描いています。
物理学校裏Borum. Bromun. Calcium. |
Borumの1行 ラテン語で金属元素のホウ素。次は正しくはbromumで臭素。カルシウム。
Chromiumの1行 クロム、マンガン、カリウム、リン
Bariumの1行 バリウム、ヨード、プラチナ、水素
Sulphurの1行 硫黄、 塩素、ストロンチウム
日が暮れた、淡い銀と紫—— C2H2O2N2+NaOH=CH4+Na2CO3……… |
棕梠 シュロ。普通のヤシのこと。写真は…
花穂 かすい。穂のような形で咲く花のこと。ススキ、エノコログサ、ケイトウなど
聚団 しゅうだん。聚は「しゅう」か「じゅう」で、「多くのものを一所に集める」
黄 九州で「黄色」のことを「きな」と呼びます。黄粉もそう。
沃土ホルム ヨードホルム。殺菌剤などに使う。
亢奮 興奮/昂奮/亢奮は物事に感じて気持ちが高ぶること。 刺激によって神経の働きが活発になること
C2H2O2N2・ 正しくはCH3COONa(酢酸ナトリウム) +NaOH(水酸化ナトリウム)→CH4(メタン)+Na2CO3(炭酸ナトリウム)
ムウド ムード
くもりガラス すりガラス
メタン 燃料用のガスになります
東京物理学校 現在の東京理科大学
Tîn ……tîn……tîn. n. n. n……tîn.n …… 静かな悩ましい晩! |
Tînの1行 琴の音でしょうか
コルタア コールタール。トタン屋根の塗料として使う
Lamp ランプ
胡瓜と茄子 キュウリとナス
汽笛が鳴る……四谷を出た汽車のCadenceが近づく………… 暮れ悩む官能の棕梠 そのわかわかしい花穂の臭が暗みながら噎ぶ、 歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。 |
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な………… そこここの明るい角窻のなかから。 Sin……, Cosin…….Tan……,Cotan…….Sec……,Cosec……. etc …… Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton. Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花 摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc………… 棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、 無意味な琴の音の稚なびた Sentiment は 何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。 汽笛が鳴る……濠端の淡い銀と紫との空に 停車つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。 静かな三分間。 |
角窓 カクマド。四角形の窓
sinの一行 サイン、コサイン、タンジェント、コタンジェント、セカント、コセカントで三角関数です
ionの一行 イオン、発電機、レントゲン、ボイル、ニュートン
lensの一行 レンズ、サイホン、スペクトル、テスラ(磁束密度の単位)
Bunsenの一行 ブンゼン、電位、アルキメデス
Sentiment センチメント。情緒,情操
せうことなし しょうことなし。すべき手段がない。しかたない
悩ましい棕梠の花の官能に、今、 Neon. Flourum. Magnesium. |
メランコリイ メランコリー。落ち込んだ気分
Passion パッション。情念, 感情, 激情, 熱情
Neonの一行 ネオン、ラテン語のfluorumが正しくフッ素、マグネシウム
Natriumの一行 ナトリウム、ケイ素、酸素
Nitrogeniumの一行 窒素、カドミウム、スチビウム
神楽坂を神楽坂通りの向かい側から見ています。交差点は「神楽坂下」です。1980年代初頭までは「牛込見附」という名称の交差点でした。
南北(横)の道路は「外堀通り」です。 東西(縦)の道路は「神楽坂通り」、あるいは「早稲田通り」です。神楽坂下の標高は6m。ここを真っ直ぐに上がっていくのが「神楽坂」で、現在は「神楽坂1丁目」。かつては「神楽町一丁目」でした。
その前に左を見ると、スターバックスが見えます。(前にはパチンコ店でした)。さらに昔(江戸時代)のスターバックスは牛込「牡丹屋敷」でした。道路の右側に神楽坂の標柱があります。神楽坂のいわれを書いたものです。
神楽坂 | 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。 |
平成14年3月 新宿区教育委員会 |
これ以外にも諸説があります。
ほかには全部のお店を描いたものがあり、これはインターネットでもでています。http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2017.pdf
江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で
神楽坂1丁目 これは戦後の改称であって戦前は神楽町1丁目と称していた。現在では外濠の電車も取払われて,牛込橋を下って神楽坂を上る両側坂口が1丁目となっている。右端軽子坂より左は庾嶺坂まで1丁目である。江戸時代此の辺は片側町屋で、坂の右側は武家地であった。嘉永切図を見ても分る通り、右角松平祐之亟、その上近藤儀八郎、国領正太郎の屋敷があって、右へ曲って新小川町の通りとなる。軽子坂の上を新小川町へ下ると此処が三年坂又は三念坂という。だが1丁目は薄っぺらな町で三念坂の通りは今2丁目になっている。1丁目、坂の入口の左側の角には牡丹屋敷があった。そのあとに戦前は本所亀沢町で有名な最中を売っていた寿徳庵の支店があったが戦後はない。 |
石黒敬章氏が編集した『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)では
【牛込神楽坂】 |
平成14年(2002年)、電線はなくなりました。
神楽坂上を見て左側 昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
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陶仙亭中華 | 田口屋花屋 | |
東京堂洋品 | 炭火串焼やき龍 | 三経第22ビル |
須田町食堂 | 翁庵 そば | 會田ビル |
翁庵 そば | 清水貸衣裳 | モスバーガー 神楽坂下店 |
伊勢屋乾物 | ||
空き家 | エイブル 飯田橋店 | |
畔柳氷店 | ||
壽徳庵 | ニューパリー | スターバックス コーヒー |
神楽坂上を見て右側 昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
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紀の善寿司 | 紀の善甘味 | |
小間物 みどりや | 不二家洋菓子 | |
斎藤洋品店 | 地下鉄 | |
山田屋文具 | のレン | |
萩原傘店 | 薬ヒグチ | |
田中謄写堂 | カレーボナッ | |
赤井足袋店 | カフェベーカリー ル・レーブ | アパマンショップ |