芳賀善次郎」タグアーカイブ

七福神巡り|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 4.繁華街の核、毘沙門様」を見てみましょう。ここでは、主に参考書『郷土玩具大成』の中の“七福神”を扱います。つまり、8種(谷中、向島、芝、亀戸、東海、麻布稲荷、山の手、柴又)の七福神です。
 ここでどの七福神が何年に参詣したのか、簡単に表を作りました。
 谷中七福神   元文2年、1737年
 向島七福神   文化元年、1804年
 芝七福神    明治末期、1900年以降か
 亀戸七福神   明治末期、1900年以降か
 東海七福神   昭和7年、1932年
 麻布稲荷七福神 昭和8年、1933年
 山の手七福神  昭和9年、1934年
 柴又七福神   昭和9年、1934年

繁華街の核、毘沙門様
     (神楽坂5ー36)
 神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁華街だったが、その核をなすものが坂を上って左側の毘沙門様である。正式には善国寺である。文禄4年(1595)に、中央区馬喰町に建立され、寛政4年(1792)に類焼してここに移転してきたものである。本尊の毘沙門天像は新宿区の文化財になっている。
 元文2年(1737)から、江戸では七福神詣でという巡拝が谷中ではじまり、寛政初年(1789)から流行したが、文化13年(1816)の「遊歴雑記」中の、江戸七福神詣にはここを入れてあるから、そのころから有名になったのであろう。
 このにぎわいを背景にして、神楽坂に花街ができたのは明治初期で、「近代花街年表」には「明治7年1月24日、牛込肴町より出火、神楽坂花街全焼す」と出ている。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治20年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。
 だから、明治、大正時代の縁日のにぎわいは格別で、夜には表通りが人出で歩けないほどになり、坂下と坂上大久保通りの交差点には、車馬通行止めの札が出たほどである。
 なおここが山の手七福神の一つになったのは昭和9年からである。山の手七福神というのは、このほか原町の経王寺(市谷6参照)、東大久保の厳島神社(大久保27参照)、法善寺(大久保25参照)、永福寺(大久保29参照)、西大久保の鬼王神社(大久保2参照)、新宿二丁目の太宗寺(新宿22参照)である。
 七福神の発達は前にふれたが、明治末期には芝と亀戸に設置され、昭和7年には東海(品川)、8年には麻布、9年に山の手と柴又とに設けられたのである。
 山の手七福神は、大久保の旧家で中村正策という俳人(花秀という)が発案したものだが、はじめの候補に筑土八幡(恵比寿)と新宿布袋屋百貨店(布袋)が予定されていた(新宿72参照)。しかし、筑土八幡は氏子に反対されて鬼王神社にかわり、布袋屋は営業の宣伝に使われるおそれがある上に元旦から三日間は休業するので問題となり、太宗寺になったのであった。
〔参考〕 郷土玩具大成東京篇 新宿区文化財 新宿と伝説

善国寺の毘沙門天像

毘沙門天像 昭和60年7月5日、有形文化財(彫刻)で登録。
遊歴雑記 ゆうれきざっき。著者は江戸小日向廓然寺の住職・津田敬順。文化9年(1812)の隠居から文政12(1829)までの江戸、その近郊、房総から尾張地方に至るまでの名所・旧跡探訪の紀行文。
近代花街年表 おそらく『蒐集時代』の一部でしょう。『蒐集時代—近代花街年表・花街風俗展覽會目録・花街賣笑文献目録』2・3号合輯(粋古堂、1936年。再販は金沢文圃閣、2020年)

 では、有坂与太郎氏の「郷土玩具大成 第1巻(東京篇)」(建設社、昭和10年)317頁の「七福神」についてです。最初は谷中七福で、七福神が初めてこの地に設置されたのです。

 その七福神が江戸に於て初めて設置されたのは元文2年[1737]といわれているが、七福は、俗に谷中七福と呼ばれ、左の五寺院が挙げられている。即ち
  (弁財天)不忍弁天堂(毘沙門)谷中感応寺(寿老人)谷中長安寺(えびす大黒、布袋)日暮里青雲寺(福禄寿)田畑西行庵
 つまりこれを順々に巡って福を得ようというので、その中には多分に遊山気分が含まれている。特にこれが流行したのは寛政の初年[1789]あたりからであったとみえて、同じ五年には山東京伝の「花之笑七福参詣」を筆頭とし類似の青本が数冊上梓されている。

谷中 東京都台東区の地名。本郷台と上野台の谷間に位置する。
青本 江戸時代に出されていた草双紙の一種。人形浄瑠璃や歌舞伎といった演劇や浮世草子に取材したもの、勧化本や地誌、通俗演義ものや実録もの、一代記ものなどがある。

 これは写真の七福神です。高さは13.5糎(cm)しかありません。もう1つ、手に入るのはミニチュアの七福神です。スタンプを押す方がよかったかも。

七福神

 また「享和雑記」にも
  近頃正月初出に七福神参りといふ事始まりて遊人多く参詣する事となれり
とし、屠蘇機嫌で盛り立てた谷中の七福もどうやら本物になつてきたらしいが、好事魔多しとは神仏の方にもあったらしい。文化の初年[1804]、日暮里布袋堂の住職が強盗のために惨殺されたのが七福の挫折する初まりで、布袋の像は駒込の円通寺へ還され、七福が一福欠けて、さしもの初春絶好の遊山気分にひびが入ったのは是非もない盛衰である。

 住職が死亡し、挫折と衰退があり、そこで別の七福神、墨田区の向島七福神が登場します。時代は書いていませんが、おそらく文化元年[1804]以降でしょう。

 この機に乗じて興ったのが向島七福神であって、これは肝入りであり、土地開拓者の一人である梅屋鞠塢の宣伝よろしきを得たため加速度に売り出してしまった。
 梅屋鞠塢は仙台の産で、初め堺町の芝居茶屋和泉屋に住み込んでいたが、後、独立して骨董商を営んでいた。晩年、向島に梅屋敷を開いた事もまた七福神を創設した事もすべてこの骨董商時代に知遇を得た文人墨客の力に興って大なるものがあった。即ち、鞠塢が七福設置を企画するに当り、先づ喜多武清の宝船に、角田川七福遊びと憲斎が題をした一枚摺板行した。そして、抱ー蜀山を抱き込み通人雅客清遊地と云う折紙附の芝居を打ったので、「山師来て何やら裁えし角田川」と白猿に難じられながらも、半可な酢豆腐には迎合されるに十分なものがあった。鞠塢自身にして見れば、たただ向島に人がきて呉れればよかったので、どれほど売名的だと云われてもそんな事には亳しも頑着していなかった。文化元年に梅屋を開いた時も、千蔭春海などの歌人を利用して立派に宣伝効果を挙げていたので、七福の受り込みなどは鞠塢にとって寧ろ朝飯前の仕事であつたかも判らぬ。つまり、向島の七福は谷中のそれと相違し、創設の目的が江戸人の吸引策にあったので、七福神の如きも、寿老人の髯から思いついて対象物のない白髭神社を寿老人に見立てたり、前身の骨董商で既に経験済みの、なにやら得体の知れぬ福禄寿をさも有難そうに梅屋敷へ持ち込んだりしてみた。
 こんな具合に鞠塢の手際は頗る鮮やかだったので、終には谷中の七福という母屋を奪って、どっちが本家の如く思惟されるまでになったのは、考えように取っては鞠塢は向島発展の恩人であつたと云う事が出来る。
 天保四年[1833]に上梓された「春色梅兒誉美4編巻8には向島の変遷に就て次のやうな事が語られてある。
 由「イエ向島も自由は自由になりましたネ渡り越の舟が、今じゃア六人でかはり/”\に渡しますぜ
 藤「くわしく穿つの、船人の数まではおれも知らなんだ、昨今まで竹屋を呼に声を枯したもんだっけ、それだから故人になった白毛舎が歌に◯   文々舎側にて当時のよみ人なりし万守が事なり
  須田堤立つゝ呼べど此雪に
   寝たか竹屋の音さたもなし
 藤「この歌も今すこし過ぐると、こんは山谷舟を土手より呼びて、堀へ乗切りし頃の風情を詠めりと、前書が無いとわからなくなりやす」
 天保頃の向島は既にこういった著るしい推移が見られた。これは勿論、鞠塢の売名的手段がその発展を急速に促したものであると共に、七福神の存続が向島に対する一般の認識を強めさせる一つの原動力となっていたという事は考えるまでもなかった。

おこった おこる。さかんになる。おこす。はじまる。ふるいたつ
肝入り 双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。鞠塢氏の百花園が中心となって七福神を立ち上げたのでしょう。
梅屋敷 正式名称は清香庵。伊勢屋喜右衛門の別荘内にあり、300本もの梅の木が植えられ、梅の名所として賑わった。
鞠塢 佐原鞠塢。きくう。江戸後期の文人、本草家。中村座の芝居茶屋に奉公し、骨董店をひらき、財をなし、文化元年、向島寺島村に3000坪の土地を使って花木や草花をあつめ、当初は「新梅屋敷」、後に「向島百花園」で開始。生年は宝暦12年。没年は天保2年8月29日。70歳。「向島百花園」は、昭和13年、全てを東京市に寄付し、現在、都立庭園の1つ。
喜多武清 きた ぶせい。1776-1857。江戸後期の画家
角田川 すみだがわ。隅田川の別表記
憲斎 中川憲斎。なかがわ けんさい。江戸後期の書家。
一枚摺 いちまいずり。紙一枚に印刷すること
板行 はんこう。書籍・文書などを版木で印刷して発行すること
抱ー 酒井抱一。さかい ほういつ。江戸後期の絵師、俳人。
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人・狂歌師
通人雅客 つうじん。あることに精通している人。がかく。風雅を理解し愛好する人。
清遊 せいゆう。世俗を離れて風流な遊びをすること
白猿 五代目市川団十郎白猿。芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」をもじって「山師来て 何やら裁えし 角田川」と詠んだ
半可な酢豆腐 知ったかぶりの若旦那が、腐って酸っぱくなった豆腐を食べさせられ、酢豆腐だと答える落語から。知ったかぶり。半可通。
亳しも こうも。「毫」は細い毛の意。少しも。ちっとも。おそらく「亳しも」と書いて「少しも」と読むのでしょう。
千蔭 加藤かげ。江戸中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。
春海 村田春海。むらたはるみ。江戸中期・後期の国学者・歌人。
福禄寿 ふくろくじゅ。七福神の一神。幸福・俸禄ほうろく・長寿命をさずける神
春色しゅんしょくうめ兒誉美ごよみ しゅんしょくうめごよみ。人情本。江戸深川の花柳界を背景に描いた、写実的風俗小説。
穿つ 穴をあける。押し分けて進む。人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。新奇で凝ったことをする。

 ここで、向島七福神の内訳を書いておきます。
角田川七福神(=隅田川七福神)
(夷大黒)東京市本所区向島二丁目 三囲神社
(布袋) 同  本所区須崎町   弘 福 寺
(弁財天)同  本所区須崎町   長 命 寺
(福禄寿)同  向島区寺島町   百 花 園
(寿老人)同  向島区寺島町   白鬚神社
(毘沙門)同  向島区隅田町   多 聞 寺
 では、谷中七福神がどうしているのでしょうか。文化13年[1816]には牛込岩戸町の善国寺がでてきます。善国寺は牛込肴町になったこともあります。明治12年[1879]、復活が企画されましたが、これも失敗。また、明治末期、芝と亀戸の七福神が出ましたが、人気は出なかったといいます。

 こうして、向島の七福は江戸人の春興として最早一つの常識とさえなるに至ったが、一方谷中の七福はどうなったかといえば、十方庵の「遊歴雑記」三編(文化13年[1816])には御府内七福神人方角詣として左の七ヶ所が挙げられている。
(毘沙門)牛込岩戸町   善国寺
(大黒) 小石川伝通院内 福聚院
(福禄寿)田畑村     西行庵
(布袋) 日暮村     妙了院
(寿老人)谷中      長安寺
(弁財天)しのぶ岡    弁天堂
(夷)  浅草寺境内   西の宮
これを一瞥して直ちに感ぜられるのは、創設時代とこれといろ/\な相違が見出される事である。即ち、創設時代から文化13年[1816]まで依然として変らないのは、不忍の弁財天と長安寺の寿老人と西行庵の福禄寿と僅かに三ヶ所で、他は凡て新らしい組織になっている事と、もう一つは、従来は上野の不忍から田畑迄という比較的短距離であったものが、これでは牛込から浅草まで延びている事である。何故こんな変動があったかといえば、これは、前記布袋堂住職の横死に起因しているものであって、この長距離(道程約三里)とこの組織では如何になんでも江戸人を吸収する事が出来ない。これでは急造の向島七福に圧倒されたのも無理からぬ事であり、谷中七福の声誉はこうして徐々に転落の一途を辿るのみとなってしまったのは誠に余儀ない結果であった。所が、明治12年[1879]、不図した事から高畠藍泉等の手により復活が企画され、山下の清凌亭施版で橋本周延画の道案内図が作られたり、清元仲太夫三遊亭金朝等の鳴物入りもあって、ここに華々しく谷中七福は毎度のお目見得をする段取にまで漕ぎつけたのであった。但し、この時組織された七福の顔触れがまた変わっている。
(弁財天)上野不忍    弁天堂
(毘沙門)谷中      感応寺
(寿老人)谷中      長安寺
(布袋) 日暮里     修性院
(大黒) 日幕里     経王院
(夷)  日暮里     青雲寺
(福禄寿)田畑      西行庵
と、こういう具合になっている。この復活は大体に於て当を得ていたが、無論これは一時的現象で殆どアトがつづかなかった。いうまでもなく、向島の七福にも盛衰があって安政の地震[1855年]後は、まさか雑煮腹を抱えて七福詣でもないので、自然閉塞の形となっていたが、これも亦、明治33年[1900]、小松宮殿下御徴行以来、漸く復活の曙光が見え出して来ている。尤も、同じ更生でもこの方は谷中と異り、鞠塢が組織したそのももの顔触れが揃って亳しも変動がなかった。現在、元旦より七日迄、七福の各社寺より尊像が授与される慣例は、この復活の機運が崩した小松宮殿下御徴行以来と云われ、大正12年[1923]の東京震災にも安政の轍を踏まず いよ/\増々盛大に行はれつつある現状に置かれている。
 この向島の七福に倣って、明治の末期、芝と亀戸との二ヶ所に七福神が設置されたが、これらは向島の如く地の利を得ていない事が第一の理由で、世間的には認められずにしまった。従って、七福神といえば、全く向島が独占した形であったが、俄然、昭和7年[1932]に東海七福神が出現するに及んで、七福の氾濫時代を惹起する事となった。こうなってみると、地下の鞠塢に先見の明ありと北叟笑まれても二の句がないかも判らない。
横死 不慮の死。非業の死。天命を全うしないで死ぬこと
声誉 せいよ。よい評判。ほまれ。名声。
高畠藍泉 たかばたけらんせん。明治初期の戯作者と近代ジャーナリスト。
清凌亭 上野の料亭。「佐多稲子の東京を歩く」で詳しい
橋本周延 はしもと ちかのぶ。江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などの浮世絵師。
清元仲太夫 江戸浄瑠璃。江戸浄瑠璃とは江戸で成立か発達した浄瑠璃のこと。
三遊亭金朝 2代目でしょう。落語家。
徴行 びこう。身分の高い人などが身をやつしてひそかに出歩くこと。
北叟笑む ほくそえむ。うまくいったことに満足して、一人ひそかに笑う。
二の句 二の句が継げない。次に言う言葉が出てこない。あきれたり驚いたりして、次に言うべき言葉を失う。

 小松宮殿下が徴行する明治33年[1900]からは、向島七福神が谷中七福などを打ち砕き、独占した形になりました。しかし、昭和7年[1932]には、新しい東海七福神が出現し、これで氾濫時代にはいりました。

 その七福氾濫時代のトップを切った東海七福の企画者はかくいう筆者であるが、生の動機は向島七福の創設当時と一致するもののあった事は断言し得られる。勿論これを企画した筆者は酒落でもなければ戯談でもなく、まして御信心の押売りをしようなどと大それた考えは毛頭持ってなかった。それではどんな所に動機があったかといえば、沈滞しつつある品川を昔の繁栄に引戻そうとした一つの手段に過ぎなかったので、これを設置すればたとえ短時日の間でも他区民が同所へ足を踏み入れるであろうし、それと同時に煙草一ヶ位は売れるに違ひない、そうすれば品川という土地がどれだけ潤うであろうと考えたのが本当であった。
 ほぼ。全部か完全にではないが、それに近い状態。
戯談 ぎだん。冗談。

 昭和8年[1933]には麻布の稲荷七福が出てきます。

 この東海七福の好評だった反響は直ちに昭和8年[1933]の麻布稲荷七福の創設によって現れて来ている。これは十番の末広稲荷の肝入りで、初めは麻布七福神として発表した所、七福が凡て対象のない稲荷を象っため、神社会から難じられ、已むを得ず稲荷の名を冠して麻布稲荷七福と看板を塗り代えたものであった。ここの宝船は皮付きの丸木舟で、尊像は悉く木彫であるが、別に恵比寿に象っている恵比寿稲荷から鯛と宝珠(いづれも土製)を吊した「女男登守」というものが出されている。
象る かたどる。物の形を写し取る。ある形に似せて作る。
悉く ことごとく。全部。残らず。すべて。みな。
宝珠 ほうじゅ。宝石。
女男登守 「男女ともにお守りを授かる」という意味?

 昭和9年[1934]、山の手七福神がついに登場し、柴又の七福神も開設されました。ここで、当時の山の手七福神を書いておきます。
山の手七福神
(昆沙門)東京市牛込区神楽坂上 善国寺内 毘沙門堂
(大黒) 同  牛込区原町        経王寺
(弁財天)同  淀橋区東大久保      巌島神社
(寿老人)同  淀橋区東大久保      法善寺
(福禄寿)同  淀橋区東大久保      豊香園
(夷)  同  淀橋区西大久保      鬼王神社
(布袋) 同  四谷区新宿二丁目     太宗寺

 つづいて昭和9年[1934]、山之手七福と呼ぶものが出現した。これは大久保の中村花秀という俳人の発願であったが、花秀氏の依頼で筆者もこれに関し、最初から七福編成の難局に当たる光栄に浴せしめられた。当初候補に充てられた恵比寿の筑土八幡と布袋の新宿百貨店布袋屋中、筑戸八幡は氏子に反対されて途中から脱したので鬼王神社を以てこれに代え、布袋屋は営業の宣伝に供される恐れがある事と、元旦から三日間休業するため他との統一がとれぬ事とで排除し、太宗寺に交渉して更めて諾を得たものであった。ここの尊像は土製着彩、東海七福の類型であるが、宝船は経木で製られた頗る瀟洒なものである。(尊像授期日、麻布、山之手共に例年元旦より七日迄)
 右の外、昭和9年から柴又七福と称するものが開設された。これは寺院ばかりで編成されたもので、福禄寿は葛飾区新宿町崇福寺、寿老人は同区高砂町観蔵寺、毘沙門は同区柴又題経寺、弁財天は同区柴又町真学院、布袋は同区金町良観寺、恵比寿は同区柴又町医王寺、大黒は同区柴又町宝生院、以上であって、出処からは仕入ものの七福の腰下げが出されている。但し、柴又に限り例月7日に修行されるので、一年に通算すると 12日間腰下げが授与されるという事になる。
 かくして七福の氾濫時代が到達したのである。右の内どれが残ってどれが廃れるかは、かかって将来に対する興味ある問題でなければならぬ。
経木 きょうぎ。杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの。
腰下げ 印籠いんろう・タバコ入れ・巾着きんちゃくなどのように、腰にさげて携帯するもの。ミニチュア七福神よりも実用性は高いのでは?

「郷土玩具大成」の本は昭和10年(1935)に上梓した約90年昔の本です。七福神が競争する、結構本気で真剣な張り合いでした。しかも、筆者自身が「東海七福神」や「山の手七福神」でダイレクトに出ている。山の手七福神ははるか昔から決めたものではなく、昭和9年に決まったものでした。

桜並木だった神田川土手|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 43.桜並木だった神田川土手」についてです。

桜並木だった神田川土手
      (新小川町)
 大曲から石切橋までの間は、明治から大正にかけて両岸が桜並木で、花時には人出でにぎわったものである。島崎藤村の詩集「若菜集」(明治30年)には「水静かなる江戸川の、ながれの岸にうまれいで、岸の桜の花影に、われは処女となりにけり」という一節がある。
 武蔵野をこよなく愛した織田一磨の「武蔵野の記録」には、大正6年の石切橋あたりの絵と説明があるが、それによると清流が豊富で、桜並木では、春は灯火をつけ、土手には青草が茂って摘草もできたということである。
 大正12年以後昭和8年にかけて神田川改修工事が行なわれると、その姿はなくなった。
 〔参考〕 新宿と文学

若菜集 明治中期、島崎藤村の第一詩集。1897年に春陽堂から刊行。詩51編。ロマン主義文学の代表的な新体詩。
水静かなる江戸川の これは「二 六人の処女をとめ おえふ」の項で出ています。他に「おきぬ」「おさよ」など。
処女 詩には「おとめ」と読み方がついています。「おとめ」は「おとこ」の反意語で、年の若い女。未婚の女性。むすめ。しょうじょ。処女。
大正6年の石切橋 「第16図 江戸川石切橋附近」と「第18図 江戸川河岸」です。

江戸川石切橋附近

第16図 江戸川石切橋附近 (素描)大正6年作 四ツ切大
 江戸川の護岸工事が始まるというので、その前に廃滅の詩趣とでもいうのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思って、可成精密な素描を作つた。
 崩潰しようとする石垣に、雑草が茂り合った趣き、民家の柳が水面にたれ下った調子、すべて旧文化の崩れようとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折ったものだ。
 20図、21図も同様の目的で、同時代の作品であるが、記録といる目的が相当に豊富だったために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失われている。芸術としては、牛込見附の方に素描らしい味覚がある。
 記録としてはこの図なぞ絶好のもので、これ以上にはなれないし、それなら写真でもいいということになってしまう。

江戸川河岸

第18図 江戸川河岸 (素描) 大正6年作 四ツ切大
 この作も前記二図と同じ意図の下に描写した記録作品で、江戸川に香る廃滅する詩趣を写さんと志したものだ。河の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。
 石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れている。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来ていないし、橋梁もまだ旧態を存していた。
 この下流へ行けば大曲までは桜の並木があって、春は燈火をつけ、土手には青草が茂っていて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代って、殺風景というか、近代化というか、とにかく破滅した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思わせる。

牛込城の城下町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)「牛込地区 11.牛込城の城下町」では

牛込城の城下町
      (神楽坂五丁目)
 毘沙門様の先に左折するがあるが、そのあたり一帯は、肴(さかな)町といっていた。家康入国以前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった。江戸初期には牛込に七つの村があったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落であって、特に肴町はあとで案内する牛込城13参照)の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて、西部に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀がまだ造られなかったころ、その谷間には川が流れていた。そして飯田橋あたりは大沼という沼地で、その川はこの大沼に流れていた。大沼には、神田川も流れこんでいた。大沼からは、九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。太田道灌のころは、常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町としてにぎわったものである。
 牛込城時代にも、舟がこの川をさかのぼって大沼まで来ていたことであろう。揚場町は荷物の揚場であるが古くは船河原であり、今でも南に町名が残っており、船のとまる場所から名づけられたものである(市谷16参照)。
 この城下町には、この水運によって海産物はじめ諸物資が運び込まれてきたのであろう。その上ここは戸塚に通じている古い交通路の通っていた所である(戸塚28参照)。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人がいたので名づけられた町だったのではあるまいか。
 前にのべた行元寺は、この城下町の人たちの菩提寺でもあったのであろう。
 家康の江戸入城時には、牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向いたものである。
 三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである。昭和26年5月1日神楽坂五丁目となった。
〔参考〕御府内備考 五百年前の東京 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

 藁店わらだな、あるいは地蔵坂
七つの村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とありました。「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向きました」とあるので、肴町(現在の神楽町5丁目)は牛込7村のうち1つに入っていない場合はおかしいとなります。
城下町 室町時代以降、武将・大名の城郭を中心に発達し、武士団や商工業者が集住した町
大沼 小石川大沼です。下図では(すいとうばし)の下に池が書かれています。

江戸図「千代田区史 上」千代田区役所。昭和35年

 菊池山哉氏の「500年前の東京」(批評社、1992)は

「後楽園の南半部から三崎町の西へかけて余り深くはないが20尺程度の池がある。後楽園の台地と神楽坂方面の台地とは飯田橋と大曲りの橋の間で陸続きになっている。其の上流小日向の台地と牛込の台地との間の一大盆地が白鳥池である。
 江戸川が流れ込み、末はドン/”\橋で小石川の大沼へ入り小石川の流れを合せて再び平川となつて、一ツ橋から常磐橋へ流れ、末は日本橋川となって江戸橋で東京湾へそぞく」

500年以前江戸城 菊池山哉「500年前の東京」(批評社、1992)

上平川 下平川 15世紀には、現在の江戸城平川門周辺に、上平川村と下平川村の2村があり、推測の域から出ないのですが、上平川村は平川門の北側付近、下平川村は江戸城大手門から東京駅周辺とされます。また、平川門の上下に分けて、平川は上平川と下平川に分かれました。
常盤橋 常盤橋公園から日本銀行までの日本橋川に架かる橋

太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
高橋 平川の河口には大きな橋(「高き橋」「高橋」)がかかり、港町として大賑わいでした。ちなみに、江戸という地名も平川に由来します。「江」とは大きな川、つまり平川で、「戸」とは戸口、河口のこと。平川の河口が江戸になりました。
戸塚 大正3年(1914年)1月1日に町制施行し、戸塚町になり、昭和7年(1932年)10月1日、東京市編入時に大字下戸塚は戸塚町一丁目になり、大字源兵衛は戸塚町二丁目、大字戸塚は戸塚町三丁目と四丁目、大字諏訪は諏訪町になりました。1975年(昭和50年)まで変わりませんでした。

兵庫町 兵庫は兵器の倉庫(武器庫)に由来。
武器製造職人 刀の製作では鉄師、とうしょう(刀鍛冶、刀工)、研ぎ師、彫師や研磨師、鞘師といった複数の職人が必要でした。
菩提寺 ボダイジ。先祖代々の墓や位牌をおき、葬式や法事を行う寺。檀那だんな寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
家康の江戸入城 駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました。
牛込七ヵ村の住民…… 「牛込町方書上」肴町の項で、村から町に変わったと延べ、つづいて「御入国之砌、牛込七ヶ村之者共、武州川崎村と申所迄御迎二罷出候由申傅候」と書いてきます。つまり「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」

牛込町方書上 肴町

兵庫町を肴町と 同じく「牛込町方書上」肴町の項で、「大猷院様御代、御成之都度々々御肴奉献上候、仍之向後肴町と相改候様、酒井讃岐守様被仰渡候二付、夫ゟ町名肴町と相唱申候」と書かれ、大猷院様とは徳川家光のこと、ゟは合字の「より」。「徳川家光様は御治世の外出について、しばしば魚を差し上げたところ、今後は肴町と改名するといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」

瞬間の累積|渋沢篤二写真集

 最初は芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)の52頁にこんな写真とキャプションがありました。

 これは渋沢篤二氏の「瞬間の累積 渋沢篤二明治後期撮影写真集」(出版者は渋沢敬三、1963)の再録でした。

446 江戸川電車通り 42年8月

 当然、キャプションは違っています。つまり、芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」のキャプションは「明治42年8月の飯田橋交差点(渋沢氏の”瞬間の累積”)」。渋沢篤二氏の「瞬間の累積」では「446 江戸川電車通り42年8月」と2つあるのです。

 昭和40年以前では「江戸川」が「神田川中流」を指します。より正確には、当時の「江戸川」は文京区水道関口のおおあらいぜきから飯田橋(正しくは船河原橋)までの神田川のことです。また「電車通り」が「路面電車の道」に書き換えられます。つまり渋沢氏の「江戸川電車通り」の書き換えは「神田川中流の路面電車の道」になるのです。

 もう1つ、問題があります。写真で見ると、路面電車が2方向に分かれています。この分かれる理由は? 実際に路面電車の行き先が2つ以上ある以外に考えられません。
 では、明治42年8月にはどんな線路があるのでしょうか。皇居の外濠を走った外濠線は土橋—新橋間を除いて38年11月全て開通しました(東京市電・都電路線史年表)。さらに明治39年9月27日、「飯田橋」から「新小川町二丁目」(のちの「大曲」)への線路も通っていました。この2つの線路があり、しかも、向きは90度位違っています。
 なお4か月後の明治42年12月3日、「小石川表町」(後の「伝通院前」)から「大曲」(旧「新小川町二丁目」)までの線路ができ上がります。さらに大正元年に「飯田橋」から「牛込柳町」まで開通します。
 以上「江戸川電車通り」は「飯田橋交差点」と意味はほぼ同じです。
 道路は大きく、空間も広く、中央には法被はっぴと帽子を着た人がいます。路面電車は四輪単車で、外濠線は821以上の番号が与えられました。しかし、ここではこの番号は見えません。

奥州街道と鎌倉海道|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「戸塚地区 28.奥州街道と鎌倉海道」では……

奥州街道と鎌倉海道
     (戸塚一丁目)
 西北診療所前をさらに西に行くと、右折する細道の西角に五角柱の高さ約40センチほどの道しるべがある。その細道が奥州街道鎌倉海道ともいう)といわれる古道の名残りである。古道は早稲田通りの南に続き、戸塚一丁目と二丁目の境をなしている。それがさらに南の学習院女子部内から戸山ハイツに通じ、西向天神下、新宿二丁目、千駄ヶ谷、霞岳町と続く(四谷45参照)。北は豊島区の宿坂、雑司谷と続くのである。
 その古道を北に行くとすぐ茶屋町通りと出合う。この茶屋町通りが、東からくる鎌倉海道といわれる古道の名残りである。鎌倉海道については、「新編若葉の梢」によると、船で芝付近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本永川から番町を横切り牛込矢来町の酒井家下屋敷にくる。その邸内には沓掛け桜牛込22参照)があり、その下通りの小笹坂下が渡船場でそこから船で戸塚の毘沙門山下の船繋ぎ松(5参照)に着き、早大正門、観音寺前、松原通り(20参照)、早大構内、茶屋町通りと続くと推定している。
 なお「南向茶話追考」には、榎町とは榎の大木があったことから名づけられた町名(牛込55参照)で、その木は古来の鎌倉海道にあったものだと書いているから、室町時代以後は、九段から神楽坂—矢来町酒井邸内沓掛桜—榎町—供養塚—茶屋町通りと、牛込台地端をやや直線的に、続いていたものと思われ、これが現在の早稲田通りの前身だったと考えられる。
 この鎌倉海道はさらに、落合台地下の妙正寺にそって西にのびたのであろう(落合7参照)。
〔参考〕武蔵野の交通路 新編若葉の梢 新宿と伝説

西北診療所 専門は内科、胃腸科、循環器科、外科、整形外科、皮膚科です。
道しるべ 残念ながら道しるべはなくなりました。

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

西北診療所、道しるべ、戸塚1・2丁目

奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩みんまやに至る街道。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち

 ここで江戸時代の奥州街道と、鎌倉時代の鎌倉海道(鎌倉街道)が同じ意味で出てくるのは納得できません。奥州街道の現在の出発地は千住で、普通の意味ではこの街道を奥州街道とは呼びません。鎌倉街道の出発地は鎌倉で、しかも、鎌倉と各地を結ぶ全ての道を総称して鎌倉街道と呼びます。この古道は鎌倉街道の1つといえますが、奥州街道とはいえません。

戸塚一丁目と二丁目 昭和50年に、新しい住所表示に変わり、戸塚1丁目以外はなくなりました。しかし、この本は昭和47年に出版したので、 2丁目は消えません。
南の学習院女子部内から……

古道。雑司が谷から霞ヶ丘町

茶屋町通り 江戸時代、流鏑馬などの馬場練習場中の旗本や、雑司ヶ谷に鬼子母神参拝人のため、松並木の下に地元の農家8軒がそれぞれ茶屋を開店。明治初年、8軒全てが廃業し、他の職種に変更。下は歌川広重作『絵本江戸土産』4編「高田馬場」で、茶屋は右下に。

 たか馬場ばば
穴八幡あなはちまんかたはらにあり このところにて弓馬きうばの 稽古けいこありまた
神事じんじ流鏑馬やぶさめ興行こうぎやう せらるゝことあり東西とうざいへ六丁
東南とうなんのぞめば堤塘つゝみつらなり 南北なんぼく三十余間よけん
むかし頼朝よりともきやう隅田すみだがはより このいたせいぞろいありしと いひつた

この茶屋町通りが…… 茶屋町通りは高田馬場跡の並行2本のうち北の1本です(↓)。「新編若葉の梢」では「古來の街道がその儘あって、尾州公戸山御屋敷に入り、高田馬場の中程の所に御門の見える所に出て、馬場を横切り、嘉兵衛の屋敷の西が古來の舊道(鎌倉街道)であって、理十郎の家の東南の隅、清水公御屋敷車門の前で、松原通りからの海道と落合う。」となっています。

正保年中江戸絵図

新編若葉の梢 金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)が底本。内容を整備、訂正し、口語体に書き改めたもの。著者は海老澤了之介。新編若葉の梢刊行会。昭和33年。
船で芝付近に…… 「新編若葉の梢」を引用すると「水路鎌倉街道は、船で芝附近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本氷川から番町を横切り牛込の酒井修理大輔(若狭小浜藩主、113千石)の下屋敷にかかるのであった。この酒井家の庭に三抱えもある山桜の大木があり、沓掛桜と呼ばれていた。その下通りの小笹坂という所は、楠不伝が斬られたというので、六十六部の笠の形をした石塔が立っている。ここの泉水の下が渡船場であった。この渡船場から船にのり、入江を渡って、金川の落合、毘沙門山下に着船したのである」
 この「本氷川」がわかりません。まあ「霞ヶ関」と「番町」との間にある土地だと考えていればいいでしょう。
 酒井修理大輔と若狭小浜藩主は同じ人物で、沓掛桜もわかっています。
 ざさざかは、辞書を引けば、文京区と豊島区を分ける坂で、これは違いますね。「楠不伝が斬られた」場所は『新撰東京名所図会』によれば、弁天町らしい。次の文章が弁天町の項に出ています。
「○楠不伝の斬られし地
高田ひばり云、楠不伝が切られし所、榎町宗柏寺向まきかみゆいとこの間なるべし、むかしはざさざかという」

 ここに小笹坂が出てきました。弁天町と宗柏寺の地図は……

弁天町と宗柏寺

 くすのき不伝ふでんとは江戸時代前期の兵法家。由比正雪に楠流軍学を教え、養子にしたという俗説があるそうです。
 次の渡船場もわからない。最古の江戸絵図である「寛永江戸全図」(臼杵市教育委員会、寛永19~20年、1642−43年)を使っても、神田川は遠く、あるのは田圃です。これより古い古い地図がないと本当にわかりません。まあ、あったと考えて「寛永江戸全図」田圃上に青色で航路を書いてみます。

寛永江戸全図(寛永19~20年)

毘沙門山 「新宿の散歩道」の戸山地区5では「商店街を北に行くと、まもなく左手に永田運動具店がある。この店とその奥一帯は昔毘沙門山であったが、昭和8年に道路拡張のため切り崩され、傾斜地になった。藤原秀郷が、天慶四年(941)に平将門を亡ぼして上京する時、秀卿の念持仏で慈覚大師作の毘沙門天像を納めるため毘沙門堂を建てたので毘沙門山と呼ばれたという。毘沙門堂は維新後まもなくとり払われた」

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

左が毘沙門山。「新宿の散歩道」から

船繋ぎ松 『新編若葉の梢』を引用すると「この松は毘沙門堂の後方の山腹にあった。大歓院殿(三代将軍家光)が、この古松は幾年程の樹齢かとお尋ねがあった時に、寺僧がおよそ千年にもなるでしょうと申上げたので、千歳ちとせの松というよい名を賜った。むかし藤原の秀郷が船をこの松に繋いだというので船つなぎ松と呼ばれた。この寺の垣外の田面がみな入海で、金川落口の所が着船場になっていたのである。
「この松は直徳の時代すでに枯れてしまっていたが、その後にまた植えられたものか、やはり船繋の松として伝えられる老松が残っていた。これも、昭和の初年、毘沙門山が切りくずされて分譲地となったとき伐られてしまった。いま法輪寺境内に俵藤太秀郷御紹松造跡という、大きな標示杭が建っているが、ここは全然別の山で、船繫松と何等関係ない所である」

【註】藤原秀郷 ふじわら の ひでさと。栃木の武将。平将門を朝廷の命により倒し、乱を平定。
   入(り)海 いりうみ。陸地にはいり込んだ海や湖。湾。入り江。cf. 汐入、潮入:低地や海とつながる池・沼・川などに海水が流入すること、その場所。
   金川 現在は「蟹川」。かにがわ。水源は新宿区戸山公園の池。新宿区馬場下町から早稲田鶴巻町を経て新宿区西早稲田の豊橋付近で神田川に合流する。沢蟹がたくさんいた。
   落口 水の流れが落下する所

船つなぎ松(『新編若葉の梢』から)

 また『新宿の散歩道』(戸塚地区5)では「この毘沙門山には船繋ぎ松という古木があった。藤原秀郷が軍船をこの松につないだので名づけられたものという。また千歳松ともいった。家光が鷹狩りの時ここにきて、この松の樹令を開かれた時、この辺一帯を領していた宝泉寺の寺僧が、およそ千年近いだろうと答えたので名づけられたという」
観音寺 真言宗豊山派の慈雲山大悲院観音寺。早稲田大学の大隈講堂に至近。
松原通り 戸塚地区20に「観音寺と早大構内との間の細道(松原通り)を行くとつき当り左手が早大の戸塚球場である」。戸塚球場とは安部球場のことです。

戸塚地域(「新宿の散歩道」から)

南向茶話追考 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)は江戸の地誌。『南向茶話追考』(明和2年、1765年)も江戸の地誌。この『追考』では「◯牛込榎町 古老云、昔は大木の榎有。依て号する由、是木は古来鎌倉海道の由申伝」
九段から神楽坂—……

九段下駅から茶屋町通りまで

供養塚 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」牛込地区75「牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」(喜久井町14から20)でしょう。延享2年(1745)から明治2年(1869)に至るまで喜久井町14〜20を「牛込供養塚町」と呼んだこともあります。

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

牛込台地 落合台地 写真を参照

牛込台地と落合台地 (地理院地図 / GSI Maps|国土地理院)

妙正寺 杉並区清水3丁目にある日蓮宗の法光山妙正寺。妙正寺川の水源となる妙正寺池を中心とした妙正寺公園もあります。妙正寺川は中野区を流れて江古田川を合わせ、新宿区下落合で神田川に合流します。

横寺町と通寺町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 30. 寺町だった横寺町と通寺町」についてです。

寺町だった横寺町と通寺町
 旺文社から神楽坂通りに来た通りの両側が横寺町で、早稲田通り神楽坂六丁目はもと通寺町といった。付近一帯が寺町であり、通寺町というのは、牛込御門に通ずる寺町のいみであり、横寺町は文字どおり寺町の横町から名づけられたものである。いまでも横寺町には四寺院が残っている。
 作家加納作次郎は、「大東京繁昌記」の中で、明治中ごろの神楽坂六丁目のようすを書いている。それによると狭い陰気な通りで、低い長屋建ての家のひさしが両側からぶつかり合うように突き出ていて、雨の日など傘をさすと二人並んで歩けないほどだったという。映画館のところが勧工場だったが、そのあたりから火事が出てあの辺一帯が焼け、それ以後道路が拡張されたのであった。
 夏目漱石は、「硝子戸の中」に、明治時代喜久井町から神楽坂へ来る道、今の早稲田通りは、さびしい道だったことを書いているが、「昼でも陰森として、大空が会ったやうに始終薄暗かった」といっている。
      ✕     ✕      ✕
 ここで江戸時代の話題を拾ってみよう。「武江年表」(平凡社東洋文庫)の嘉永三年(1850)につぎのようにある。
 “六月、牛込横寺町長五郎店清吉妻きんの連れるまつ11歳、食物振舞ひ猫に異ならずとの噂あり、見物に行く者多し。”
 同書の文政六年(1823)には、場所不詳だがつぎのようにある。
 “十月八日夜、牛込辺へ大さ一間半程なる石落つ。昼雷鳴あり。夜に入り光り物通る。先年も王子辺へ石落ちたる事ありといふ。”
通寺町 とおりてらまち。昭和26年5月1日、神楽坂6丁目と改称。
旺文社 おおぶんしゃ。教育・情報をメインとした総合出版と事業。
四寺院 実際には5寺院で、竜門寺、円福寺、正定院宝国寺、長源寺、大信寺です。なお、法正寺は横寺町ではなく、岩戸町でした。

横寺町の5寺

それによると 「大東京繁昌記」の本文は「その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家のひさしが両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった」
長屋建て 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
映画館 明治時代には牛込勧工場が建ち、大正時代になると映画館の文明館に変わり、戦前は神楽坂日活、戦後は東映系映画館の武蔵野館、スーパーのアカカンバン、1970年代から現在まではスーパーの「よしや」です。
勧工場 かんこうば。工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売した。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さい。多くは民営で、複数商人への貸し店舗形式の連合商店街だった。明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治40年以後になると、百貨店の進出により衰退した。例は松斎吟光の「辰之口勧工場庭中之図」(福田熊次郎、明治15年)

辰之口勧工場庭中之図

火事が出て 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などの場合、出品者に危険を分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままだが、明治44年になると拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
振舞ひ ふるまい。動作。行動。もてなし。饗応(きようおう)
異ならず 「なり」は「違っている。 変わっている。 別だ」。「異ならず」は「全く同じ。全く同一の。寸分違わぬ」。つまり、「もてなしは猫も同じだ、という噂がたっている。見物に行く客が多い」
一間半 一間半は約270cm

鎌倉海道すじにあった沓掛桜|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 22.鎌倉海道すじにあった沓掛桜」では

鎌倉海道すじにあった掛桜
      (矢来町1から11
 酒井家屋敷内(場所不明)には、沓掛桜(くつかけざくら)という彼岸桜の古木があった。昔はこの屋敷内を奥州街道鎌倉海道ともいう)が通っていて、旅人がこの桜の下で休み、すり切れたわらじを掛けていく風習があったために名づけたものだという(戸塚28参照)。
〔参考〕 東京名所図会
 音は「くつ。トウ」。意味は「くつ。はきもの」
矢来町1から11 これは大正時代の住所。昭和5年には、酒井家屋敷は矢来町1から111までと細分化され、番号は増えています。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩みんまやに至る街道。現在の「奥州街道」は江戸千住が出発点なので、この屋敷を通りません。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち。「この屋敷内を鎌倉街道が通っていて」は、ありえます。

 では、この原本である東陽堂編『新撰東京名所図会』第41編(1904、明治37年)を見てみます。

     〇沓懸桜
彼岸桜なり、花特に美なり、古木なり、沓懸の異名は往時街道の時、旅人木陰に憩ひ、切れたる草履に懸けて立ち去る者多し、故に名とすと、一里塚の目印なりき、此桜近年まで、花を発きたりしも、富士見台撤壊せらるゝに及び、可惜、名木を失ひぬ。
草履 ぞうり。わらや竹皮などで足に当たる部分を編み、鼻緒をすげたもの。
 こずえ。木の幹や枝の先。木の先端。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。

発く 音は「ひらく」。意味は「でる。生じる。起こす」
富士見台 これは「沓懸桜」の前項で出ています。(下を)
撤壊 てつかい。とり壊す。
可惜 あたら。惜しくも。残念なことに。あったら。

     〇富士見台
日下が池の西にありき、高さ、二間余、昔此所に二階建の茶屋ありしが、享保年間、火災に類焼し、再建せず、此台より富士山の眺望、殊に優れたり、因て名とす、遠く八王子秩父の連山、近く目白関口の田畑民家見ゆ、台に紅葉多し、高雄の種を移し栽う、晩秋を織る、往年比辺甲州街道にて一里塚の跡とも云ひ伝へたり。
二間 約3.6メートル
茶屋 ちゃや。旅人などに茶や和菓子を提供し、休息させる店。甘味処としても発達した。茶店ちゃみせ
享保年間 1716年から1736年まで
目白関口 文京区の関口・目白台エリアで、神田川沿いに位置し、歴史ある庭園等を多数有する、水と緑があふれる所。

 にしき。にしきのように美しい。「にしき」は「金糸や色糸などで模様を織り出した絹織物」
甲州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸城半蔵門から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場がある。

 沓懸桜は酒井家の屋敷の中にあったと判断しても、まず間違ってはいないでしょう。酒井家屋敷は江戸時代ではおそらく一般庶民には立入禁止になっていて、「往時街道の時」というのは、それ以前の戦国時代の時で、まだ原っぱや水田、あるいは町屋があっても自由に動ける環境でした。また、ここには沓懸桜(ヒガンザクラ)もあったはずです。奥州街道や甲州街道については戦国時代なので、これら街道はまだ不完全でした。ただし、鎌倉時代に成立した鎌倉海道=鎌倉街道はあったといえそうです。
 そして、酒井家の屋敷ができると、竹矢来の塀をこえて満開の沓懸桜や富士見台は外の人々にも見えていたはずです。それが1716〜1736年に、火災が起こり、富士見台がなくなった時に、一緒に沓懸桜もなくなりました。また「三抱えもある桜の大木があり、沓懸桜と呼ばれていた」と『新編若葉の梢』(海老沢了之介、新編若葉の梢刊行会、昭和33年)。
 この『新撰東京名所図会』第41編は1904年に出ていますから、この沓懸桜が消えたのは『図会』よりも170〜190年もの昔でした。
 富士見台は一里塚に似た丘の上で、しかも「日下が池」の西にあったようです。下図は明治16年の参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」ですが、そんな場所は2か所ありました。

参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」明治16年

だらだら長者の埋蔵金|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「牛込地区 35. だらだら長者の埋蔵金」です。これは普通の埋宝まいほうの話ですが、〔参考〕の「東京埋蔵金考」を読んでみると、それと全く違った話があると判明します。

だらだら長者の埋蔵金
      (筑土八幡周辺)
 筑土八幡あたりに屋敷をもっていた長者がいた。安政6年(1859)、この長者生井屋久太郎、通称「だらだら長者」は死んだ。この長者は、巨万の財宝をかくしていたというので、その夏ごろ、土地の有志が先達となり、与力同心の見回りのうちに堀ったところ、油タルにはいっていた小判1200枚が発見された。
 しかし、これが全部ではなかったので、明治以後何回もあたりを堀られたが、屋敷跡がはっきりしなくなったので出なかったという。
〔参考〕 東京埋蔵金考
長者 ちょうじゃ、ちょうしゃ。年上の人。金持ち。富豪。
安政6年(1859) 黒船来航(嘉永6年、1853年)があり、わずか6年後の話です。さらに8年後には明治元年(1868年)になっています。
先達 せんだつ。道などを案内すること。案内人。指導者。せんだち
与力 江戸時代、諸奉行・大番頭・書院番頭などの支配下でこれを補佐する役の者。その配下にそれぞれ数人の同心をもっていた。警察、庶務、裁判事務などを担当。町奉行支配下の町方与力が有名で、町与力は八丁堀に組屋敷を与えられていた。
同心 江戸時代、所司代・諸奉行などに属し、与力の下にあって庶務・警察事務を分掌した下級の役人
小判1200枚 小判1枚は4万円くらい。1200枚で約4800万円。

 この〔参考〕の「東京埋蔵金考」は、昭和37年、雄山閣出版から出版し、その後、昭和55年、中央公論社から同じ内容で出版しています。著者の角田喜久雄氏は作家で、もっぱら探偵小説や時代小説を書いていたようです。
「東京埋蔵金考」には埋蔵金の8話があり、うち「筑土八幡の埋宝」の話は「だらだら長者の埋蔵金」の原本です。この原本で話が右に行ったり左に行ったりしますが、ここでは「だらだら長者」、与力の「鈴木藤吉郎」、妾の「お今」の話を中心にしていきます。

筑土八幡の埋宝
 だらだら長者屋敷の境界は、今たずねてもわからない。新宿区牛込の筑土八幡の境内の一部は屋敷内にふくまれていたことは事実らしいが、その広さが幾千坪で、またどの方角に延びていたのか、江戸時代の地図にあてはめてみても正確な解答は生れて来ないのである。(略)
 与力の鈴木藤吉郎とくんで、お蔵米の買占めで儲けたことはたしかだが、儲けるにしても、その元手(資本)をどこからもって来たかを考えると、第一の土佐分藩の家老の子説よりも、大阪の富豪の分家説が有力となる。本名は生井屋久太郎だが「だらだら長者」の異名で呼ばれたごとく、年中よだれをだらだらたらしていたというから、今日の脳膜炎か脳性小児マヒを患ったものではないかと思う。(略)
「白痴で年中だらだらよだれをたらしてから、金を与えて親子の縁を切り江戸に住ませることにした」とあるが、生涯独身を通して金儲けに専念し、しかも、金銭に関する限り、間違っても損をするようなへまをやらなかったという言い伝えが本当とすれば、決して白痴などではなかったものと考えられる。
筑土八幡の境内 ここでは筑土八幡神社境内けいだいでしょう。

 一方、長者と同じ買占めで大金を稼いだ与力の「鈴木藤吉郎」については……

 江戸へ出た(渡辺)源三郎は(略)鈴木藤吉郎と名を改めると、養父五郎右衛門の手づるで池田播磨守に接近し、与力の株を買い取った。そして池田の口添えで(略)たちまちとんとん拍子に出世して与力上席20人扶持となり、市中潤沢係に、抜擢されたのである。市中潤沢係は、道路や溝架の改修を始め、市民の利益をはかる役目だから、一般市民とのつながりも多い。「だらだら長者」との結びつきも、おそらくこの頃から始まったものではないかと思われる。
与力の株 御家人には譜代・二半場・抱入(抱席)の三つの家格があり、抱入は一代限りの奉公で、株として売買できた。幕末では与力で千両、同心で二百両が相場だった。(新人物往来社編『江戸役人役職大事典』新人物往来社、1995年)つまり、鈴木藤吉郎は武士ではありませんでしたが、千両払って、武士の身分を手に入れたのです。
扶持 ふち。主君から家臣に給与した俸禄。江戸時代には、一人1日玄米5合(約0.9リットル)を標準とし、この1年分を米または金で給与した。
市中潤沢係 しちゅうじゅんたくかがり。江戸幕府は物価の騰貴を警戒し、値段の引下げに腐心した。「諸色潤沢掛」は(「諸色しょしき」とは、諸種の商品と物価を意味する語)恐らく物価が高騰しないよう「豊富な商品を求める係」でしょうか。「市中潤沢掛」と「諸色潤沢掛」とは同じ意味、それとも別の意味でしょうか、わかりません。

 鈴木藤吉郎は「だらだら長者」と一緒になってお蔵米の買占めで儲けました。しかし、安政5年の暮(あるいは安政6年の春)、町奉行の播磨守は藤吉郎について一つの疑念を抱いていました。

 播磨守も、藤吉郎の手腕は買いすぎるほど買っていたから、特に目をかけていたが、それにしても内々疑問ももっていた。その疑問は、余人に真似の出来ない藤吉郎の豪奢な生活で、本妻の他にを四、五人ももち、山谷堀を始め、市内数ヵ所にそれぞれ妾宅を置いている。もともと市中潤沢係は、役徳の多い職務で、収入も他の与力にくらべると二倍も三倍もあるが、それにしても金に糸目をつけぬ源三郎の贅沢は尋常でない。(略)
 播磨守は、藤吉郎とはあまり仲のよくない与力を使って、そっと身辺を内偵させることにしたのである。(略)
 内偵を命じておいた与力から、藤吉郎の商人名義による、お蔵米買占めの事実のあることを告げて来た。
 めかけ。婚姻後の男性が妻以外に経済的援助がある愛人。「目を掛ける」の意味
山谷堀 江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、今戸から山谷に至る水路をつくった。新吉原の遊郭へ通う山谷船の水路として利用された。
蔵米 くらまい。江戸幕府と諸藩が家臣の俸祿として支給した貯蔵米。諸藩の蔵屋敷を通じて商品化される米。米価の値上がりを見込んで米商人などが隠匿しておく米。

 これは大問題です。藤吉郎も買占めはこの世の見納めになると映ったようです。

 いよいよ最後の時が来たと感じた彼は、ただちに妾たちにそれぞれ金品を与えて暇を出す一方、かねて、お蔵米の買占めで利益をわかち合った町人たちにも通達し、静かに奉行所からの差紙を待ったのである。
 藤吉郎が迎えをうけて伝馬町牢屋敷揚屋入りをしたのが、それから3日後。名目は「商人名義によるお蔵米買占め一件」だったが、実際は身分をいつわって武士の仲間入りしたという方が罪科としては重かった。(略)
 藤吉郎は入獄後間もなく毒を盛られて殺され、事件は、うやむやのうちに葬り去られることになったのである。
差紙 江戸時代、尋問や命令の伝達のため、役所から日時を指定して特定の個人を呼び出す召喚状。
伝馬町 てんまちょう。江戸時代、伝馬役や伝馬を業とする者が住んでいたところから、東京都中央区日本橋の地名。小伝馬町と大伝馬町に分かれ、また、江戸屈指の問屋街だった。なお小伝馬町には牢屋敷が置かれていた。
牢屋敷 ろうやしき。江戸時代、未決囚を拘留した場所。江戸小伝馬町牢屋敷は町奉行支配に属し、囚獄しゆうごく(牢屋奉行)のいし帯刀たてわきが管理した。これは世襲で、石出家が代々「帯刀」と名乗っていた。
揚屋 あがりや。江戸時代法制用語。大名や旗本の臣、武士、僧侶など身分のある未決囚を入れた場所。
罪科 ざいか。法律や道徳、宗教などのおきてに背いた罪。

 では「お今」です。

 藤吉郎のお気に入りだった妾に「お今」という女がいた。小田原の漁師の娘で、元はだらだら長者屋敷で働いていたのだが、いつの頃から藤吉郎に囲われる身となったのである。このお今が長者の妾でなかったことは、長者の死後に屍体を調べた結果、長者は局部の欠け落ちた不具者で、男性としては全く用をなさない身体であったことがみても知れるのである。
 長者が急死したのは、藤吉郎に差紙があって伝馬町入りした日の夜更け。お今は、この夜も長者屋敷に泊り込んでいたが、長者の死が使用人によって発見された時には、すでにその姿は屋敷内から消えていた。後でわかったことだが、だらだら長者屋敷から道路1つを隔てた向かい側の町家には地下道が掘られてあって、そこから抜け出したものであろうと思われる。

 さて、だらだら長者の埋蔵金についてです。

 長者の死後、枕許にあった手文庫の二重底の下から、一葉の絵図らしいものが出たことに始まる。その絵図の隅に「たいちにおくおくこのたから、みにためならすよのためならす」と2行に書かれ、さらにもう一方の隅には「大判  枚 小判  枚」と書かれてあった。その歌のような文句には「大地に億置く此の宝、身の為めなさず世の為めなさず」の解釈が与えられ、大判、小判の数量を示したと思える。遺産は巨額にのぼると推定されるのに、長者の死後、屋敷内にあったものといえば、手文庫の二百両の金だけにすぎなかったということだ。(略)
 長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、文政6年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活から見ても、それが埋宝の全部でなことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
手文庫 てぶんこ。手もとに置いて、文具や手紙などを入れておく小箱
二百両 金1両の価値は、幕末で約4000円~1万円ほどになります。200両は80万~200万。平均すると約140万円です。

 それから、明治18年、会津若松に「古奈家」という小さな飲み屋があり、その女将の名前は「お今」、牛込の長者屋敷に奉公し、江戸町奉行所の与力の妻になったこともあるといいます。

 お今の患いついたのは明治17年の9月末からで、10月、11月と次第に病いが重るにつれ「死にたくない、死にたくない」と口癖のように言いだした。(略)
 「私はもう駄目。いつ死ぬかもわからないんだから」と心細い声で言いながら、初めてうち明けたのが、だらだら長者の埋宝に関する一件であったという。
 そのお今の話によると、だらだら長者の埋めた宝の量は、三万両や五万両の少額ではなかった。お今がどんな無茶な金遣いをしても、生涯かかって費いきれないほどの額で、長者は千両まとまるごとに、埋蔵していたという。埋蔵場所は二ヵ所に分かれていて、一ヵ所は屋敷内。もう一ヵ所は秘密の地下道を抜け出た町家の庭の、から井戸の途中に横穴があって、その中にかくされている。から井戸の方の埋蔵は、いつも「権」という男があたっていた。(略)
 権と長者の関係は、全く他人のごとく見せていたが、実際は親密そのもので(略)おそらく兄弟ではあるまいかと思える。(また)長者のお今に対する態度は、二人っきりの時には別人かと思える親しさで、今考えてみると、自分の父ではなかったかと思う。長者が、局所を切りとられて男性としての機能を失ったのも、壮年時代に、ある高貴な婦人との関係を疑われて、処刑をうけたためであるというようなことを、長者がふともらしたことがあったから、恐らく自分がその処刑をうける前に、長者の子として生れ、事情があって小田原の方に預けられていたものではあるまいか。また、宝をとり出すために相当の費用もかかるので、長者は秘密の地下道の中へ、千両箱を埋めておいてくれた。
 この絵図が、つまりその井戸の位置を示したものだから、もし自分に万一のことがあったならば、きっと東京へ行って地下道を探し、まず千両箱を掘って、それを費用にから井戸の宝を掘り出してもらいたい。
 ——というのがお今の話だったのである。
患いつく わずらいつく。病気になる。病みつく。
重る おもる。病気が重くなる。
から井戸 空井戸。水のかれた井戸。

 さて、この話を聞いたお今の夫、田島が、牛込に行くことで決まりました。

 田島が現われた頃は、長者の死からまだ25, 6年より経っていなかったし、すでに長者屋敷の地形は相当変わっていたというものの、当時なら徹底的にたずねれば、あるいは埋宝の発見も可能であったかも知れない。田島から話をきいて協力を約束した経師屋の久保などは、もちろんそのつもりでいたが、その計画も田島がつまらない事件を起したためにお流れとなった。
 というのは、田島が(略)ほとんど毎夜、女に接していたらしい。それも金を出して女買いのうちはまだよかった。ところが、ある時、町で見染めた近所の囲い者に目をつけ、湯帰りの途中を要して暴行したのである。(略)これが問題となったため、警察が動きだした。早くもそれと知った田島、あわてて行方をくらましてしまい、(略)折角の宝探しも沙汰止みとなってしまったのである。
 その後、この埋宝の記録と絵図なるものを持ち廻るものがあって、その絵図をもとに幾度か捜索がこころみられたが、今となっては長者屋敷の位置はもちろん、町家の場所をも正確に知ることが出来ないので、その都度失敗に終わった。
経師屋 きょうじや。巻物、掛物、和本、屛風、ふすまなどの表装をする職人。
囲い者 かこいもの。こっそり別宅などに住まわせておく情婦。めかけ
沙汰止み さたやみ。官府からの命令などが中止やたちぎえになってしまうこと

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)に「牛込地区 40. 幡随院長兵衛の死体が流れついた橋」として「隆慶橋」に焦点を当てています。

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋
           (新小川町一丁目)
 飯田橋から高速道路添いを大曲に向うと、右手に神田川にかかる隆慶橋がある。
 町奴幡随院長兵衛は、旗本奴の総領水野十郎左衛門の誘いを受け、単身小石川牛天神網干坂にある水野屋敷を訪れた。
 十郎左術門は酒宴を張ったが、長兵衛が酒に酔うと、十郎左衛門の家中の者一人が長兵衛の顔めがけて酒を盛った燗徳利を投げつけた。それを合図に三人の者が斬りつけた。そこへしばらく身を隠していた十郎左衛門は、左の頬から顎にかけて一太刀で斬りつけた。さすがの長兵衛も、この欺し討ちにあってあえない最後をとげたのであった。
 その死体はこもに包んで仲間(ちゅうげん)二人が神田川に投げ捨てた。その死体がここの隆慶橋に流れついたのである。
 死体を発見した者が、浅草舟川戸の留守宅へ知らせると、三人の子分が馳けつけてきて死体を駕寵で浅草の源空寺に巡んで葬った。時に慶安3年(1650)4月13日、36才の男盛りであった。
 なお幡随院長兵衛、水野十郎左衛門については伝説の人で、はっきりしたことは分らない
 〔参考〕 江戸ルポルタージュ  新宿と伝説
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていることや、その場所。新宿区では新小川町で道路や神田川が曲がっている場所を大曲と呼ぶ。

大曲

隆慶橋 新宿区新小川町と文京区後楽2丁目を結び、神田川に架かる橋。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

町奴 江戸初期、はでな服装で江戸市中を横行した町人出身の侠客きょうかくおとこ伊達だて。「侠客」とは弱い者を助け強い者をくじき、市井無頼の「やくざ者」に対する美称として使う。
幡随院長兵衛 ばんずいいん ちょうべえ。江戸初期の侠客。大名・旗本へ奉公人を斡旋する貸元業を始めたが、腕と度胸、強い統率力が役だち、侠気を売り物とする男伊達としても成功。水野十郎左衛門の率いる旗本奴との対立が高じ、水野邸で殺された。生年は1622年か、没年は1650年(慶安3年)か1657年(明暦3年)。
旗本奴 はたもとやっこ。旗本や御家人のうち異装をし、徒党を組み、無頼ぶらいの生活を送った者。奴とは武家奉公人。しだいに奉公人だけではなく主人の側(旗本)にもその風俗が拡大していった。無頼とは正業に就かず、無法な行いをする「やくざ者」のこと
水野十郎左衛門 みずの じゅうろうざえもん。3000石の幕臣で、大小神祇じんぎ組首領。幡随院長兵衛と争って殺害した。のち幕府に所業をとがめられて寛文4年3月27日切腹。家は断絶。
小石川 東京府東京市(後に東京都)にかつて存在した区。明治11年から昭和22年までの期間(東京15区及び35区の時代)に存在した。現在の文京区の西部。
牛天神 うしてんじん。天満宮の異称。東京都文京区の北野神社の俗称
網干坂 あみほしざか。東大付属小石川植物園の西縁に沿って北に向かう。坂下で湯立坂と接続する。坂下の谷は入江で、舟の出入りがあり、漁師が網を干したのが名前の由来。
燗徳利 かんど(っ)くり。燗酒かんざけを飲むのに適した徳利と(っ)くり。燗酒とは加熱した酒で、おかんともいう。徳利とは細長くて口の狭い、酒などの液体を入れる容器。
こも わらの編み物のなかでも薄く、木などに巻きつける物

仲間 ちゅうげん。中間。江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者。
舟川戸 現在の花川戸。台東区東部で、墨田区(吾妻橋・向島)との区境に当たる。
源空寺 台東区東上野にある浄土宗の仏教寺院。号は五台山文殊院。
はっきりしたことは分らない 東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」について「水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容です」。つまり、これ以上のことはわからないし、屋敷の宴会も、風呂も、死体も、橋も、坂も、あるかないか、全て不明です。しかし、歌舞伎では、これを元にして「幡随院ばんずい長兵衛ちょうべえ精進しょうじん俎板まないた」や「極付きわめつき幡随ばんずい長兵衛ちょうべえ」などを作り出しました。

 ここで網干坂あみほしざかが問題になります。網干坂は神田川の大曲から歩いて約30分かかります。一方、牛天神は約5分でつきます。牛天神に最も近い坂は牛坂、別名は鮫干坂で、北野神社(牛天神)の北側の坂です。あみ干坂ではなく、さめ干坂だったのでないでしょうか。

網干坂と牛坂

「小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改、地図は下図)では「水野右近」という名前がでかでかと書かれています。しかもその下の「牛天神社」、これも大きい。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

 しかし、幡随院長兵衛がでてくるこの事件は「小日向小石川牛込北辺絵図」よりも約200年も昔に起こったもので、さらに寛文4年(1664)には、「年来の不行跡」のため、水野十郎左衛門には切腹を命じ、家は断絶されました。
 一方、この「小日向」の絵図に出てくる「水野右近」は静岡県伊東市宇佐美の一部を所管する旗本でした。つまり「水野右近」と「水野十郎左衛門」とは全く違った人物なのです。
 虚構で固めた物語でも、わかっていることがあります。実際に水野十郎左衛門がいたこと、さらに、その屋敷がどこにあったのかも判明しています。おそらく西神田2丁目でした。

国産飛行機の発祥地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 47.国産飛行機の発祥地」についてです。

国産飛行機の発祥地
      (西五軒町34前道路)
 大曲から東五軒町バス停に向い、その先の横町を左折する角に千代田商会がある。この前の道路(道路拡張で道路になる)に明治末ごろ、林田という精麦精米の工場があった。ここは、明治42年12月から翌年3月までの間に国産の飛行機が誕生したところである。
 日本ではじめて発動機 (二衛程空冷式8馬力)を設計製作に着手したのは、日野熊蔵という歩兵科の将校である。
 米国のライト兄弟が飛行機をつくってから欧米各国では長足の進歩をしているのをみた日野大尉は、その将来性に着目し、英米独仏の雑誌や図書を研究し、自力でその製作に着手したのであった。
 全く独力で発動機の構造研究に没頭し、苦心惨胆のすえ、明治42年にまず自分で設計した二つの発動機の製作にとりかかった。
 ついに完成した発動機を、飛行機関係者多数参観の下に試運転をしたが好調だった。そこで今度は飛行機の製作にとり込んだのである。これも全く独力であった。そして43年2月までに完成した。
 一層式で巾8メートル、長さ3メートル、発動機は8馬力、製作費は1900円、今からみればおもちゃほどのものであったが、無から有を生んだ日野大尉の功積は偉大なものであった。
 大尉は、この飛行機に自ら搭乗して戸山ヶ原で試験飛行を実施するのである(大久保18参照)。
〔参考〕日本航空事始 東京科学散歩

国産飛行機 左が日野熊蔵氏。徳川好敏著、航空同人会編「日本航空事始」(出版協同社、1964)

林田という精麦精米の工場 西五軒町の赤枠。林田式流米器製造株式会社でした。

西五軒町 林田式流米器製造株式会社 東京市及接続郡部地籍地図。https://dl.ndl.go.jp/pid/966079/1/454

二衛程 two-stroke cycle。「衛」は「エイ」「まわる」で、例は「衛星」。集落の周囲をめぐって警戒する。「程」は「テイ」「一定の分量」で、例は「工程」。現在は「2ストローク機関」と訳します。1往復で1周期を完結するエンジン。1往復は行程換算で2回(=2 stroke)になる。
馬力 元々は馬一頭が発揮する仕事率を1馬力としたが、現在、正確に1馬力は735.5ワットと定義している。
苦心惨胆 くしんさんたん。非常に苦しんで工夫すること。
一層式 現在は「単葉機」という言葉を使います。揚力がつく主翼が1枚だけの飛行機。反対語は「複葉機」

グラーデ式は、飛行機を研究自作(飛翔せず)していた日野氏が研究を中断して訪欧の任をうけ、予定通りに購入したもの。形状説明に「一層式」とあって、単葉とは呼称していない。(<日本航空史> グラーデ式と日野熊蔵氏

 以下は、徳川好敏著、航空同人会編「日本航空事始」(出版協同社、1964)からの引用です。

 日野氏は歩兵科将校であるが、英、仏、独各国語に通じ、数学、理学にも長じ、且つ技術に秀いでていた。かつて日野式拳銃を発明するなど、発明の天才で、陸軍部内では珍らしい卓抜なる才幹の技術者であった。ライト兄弟によって飛行機が出現し、欧米諸国においてたちまち長足の進歩を遂げつつあるのを見て、日野氏は、その将来性を洞察し、広く英、米、独、仏の雑誌や図書を漁って、その該博な知識の上に独創的な考案を組み立てて、全く独力、個人で発動機および飛行機の設計、製作に着手していたのである。
 当時は、飛行機も発動機も我国には全く皆無で、これに関心を持つ人々でも僅かに外国雑誌などでこれを知見するに過ぎなかったのである。ましてや当時は飛行機用発動機の仔細な構造を知ることなどは殆んど不可能に近いことだったが、日野氏は敢然この困難と取り組み、苦心惨憺、研究を進め、明治42年、東京市内を流れる江戸川筋、俗称大曲の西南に当たる東京市牛込区東五軒町(現在は東京都新宿区東五軒町)の林田工場で、まず自分で設計した二衝程空冷式8馬力発動機の製作に着手したのである。
 とはいうものの、全く前例のないことなので、日野氏は、各部の金質、成分の配合、鋳造等すべて外国の雑誌や図書によって研究し、自ら製作に当たったのだが、その努力が酬いられて遂に完成、試運転を実施するまでに漕ぎつけたのである。
 この日は、飛行機関係者が多数参観し、私(徳川)も列席したが、成績良好で、参観者一同は大いにその成功を祝福したのである。
「二衝程発動機は最も簡単であって、飛行機用としては良好です。また空気冷却式は水冷式に比べて重量も軽減し得るから、飛行機用としては好適です」と、そのとき説明した日野氏の言葉が、今もなお耳に残っている。
 この成功により、日野式飛行機は正式に研究会の事業として製作されることになり、この年の12月から着手、翌43年の2月に完成した。一層式で幅8メートル、長さ3メートル、発動機は8馬力(これも日野氏が設計、製作したもの)であった。そして製作費用は発動機を除いて1,9000円であった。
 そこで、いよいよその出来あがった飛行機を日野氏みずから搭乗して滑走試験することになったが、当日の「研究会記録」には次のように書かれている。
「3月、戸山ヶ原射撃場に於て試験を行いたる結果、機の安定及び各部の機能概ね良好なりしと難も、未だ以て飛場するに至らざりき」
 私(徳川)も見学したが、何分にも僅か200メートルばかりの狭い射撃場に大勢の人が出て混雑していたので、思うような滑走もできなかったのである。

〔註〕日野氏は、一種の天才児であった。歩兵科将校でありながら、飛行機の発明その他技術面に熱中するのあまり、当時の軍の空気としては軍律を紊ると考えられるような行動もないわけではなかった。例えば所沢へ尊貴の方がおいでになったとき、自動車の点検に熱中していてお出迎えに出なかったというようなことがあったのである。そういうことが軍上層部の忌諱に触れ、日本における初飛行者という栄誉ある身にもかかわらず、福岡歩兵聯隊の大隊長に転職させられるという非運に遭遇したのである。発明の天才児、航空機の研究者たる日野大尉が、兵の教練のみを主任務とする歩兵の大隊長というような職務が勤まる筈がない。快々としてたのしまないままに、自然、勤務にも身が入らなかったのであろう。そのため、今度は成績が挙がらないという理由で、遂に軍職を追われてしまったのである。時勢の違いとはいえ、まことに残念なことであった。


才幹 さいかん。物事を成し遂げる知恵や能力。
金質 「金属の性質」との意味でしょうか。
1,9000円 『新宿の散歩道』では1,900円です。また同じ時期に奈良原氏が製作した飛行機は1,843円でした。これも1,900円が正しいのでしょう。
紊る みだる。乱る。紊る。整っているものを崩す。ばらばらにする。散乱させる。平静さをなくすようにする。
尊貴 そんき。きわめてとうとい。その人。その様子。
忌諱 きき。いやがって嫌う。忌みはばかる。遠慮して口にすべからざる事柄

 また「新宿区指定史跡」になっています。

 新宿区指定史跡
国産こくさん飛行機ひこうき発祥はっしょう
        所 在 地 新宿区西5軒町12番10号
        指定年月日 昭和60年12月6日
 明治42年(1909)から翌43年(1910)にかけて、陸軍りくぐんたい日野ひの熊蔵くまぞう(1878~1946)により初の国産飛行機「日野式1号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)のあった場所である。
 日野大尉は、明治時代末、飛行機が欧米各国で急速な進歩をとげている様子を見て、その将来性に着目した。イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの文献を参考にして飛行機用発動機と機体の製作に着手し、明治43年2月に、初の国産飛行機「日野式1号機」がこの地で完成した。
 日野大尉はこの飛行機に自ら搭乗し、明治43年3月18日、戸山ヶ原において、日本で初めての国産飛行機の実地飛行試験を行った
 令和5年2月28日
新宿区教育委員会

船つき場のあった船河原|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 16.船つき場のあった船河原」についてです。

船つき場のあった船河原
      (市谷船河原町)
 堀兼の井戸跡の先は外堀通りである。外掘がまだできていない江戸時代初期までは、外堀のところは富久町住吉町田町と続く谷間で、この谷間には川があり大沼などもあって飯田橋の方に流れていた。
 この川には日本橋の方に通じている船が通っていて、その船つき場がこのへんにあったので、このあたりの町名が船河原町と名づけられたのである(牛込11参照)。

「江戸砂子」は簡単に「むかしは大川の川原にて、船をつなぎし所也。市谷に大池あり、そのはき水のながれ也といふ。逢坂の下片町なり」と書いています。下片町しもかたまちは道の片側が川で反対側が民家だったことから。

富久町住吉町田町 図を参照。ここには旧紅葉川が流れていて(以下は新宿区地盤地形(3)各論 旧紅葉川沿いによる)田安家の下屋敷(四谷4丁目)辺りの湧水や富久町の満頭谷の湧水を合わせて東に向かい、現在の靖国通りの南側に沿って流れ、曙橋付近でジク谷(河田町、住吉町)の流れを合わせ、その後、市谷八幡町で四谷見附方面からの流れと長延寺谷の小流をあわせて、市谷から飯田橋へ外堀通りに沿って流れて、船河原橋際で神田川に合流した。上流は「桜川」、尾張徳川家上屋敷(現在の防衛省)正門から下流は「大下水」「柳川」「長延寺川」とも呼ばれた。紅葉川は、現在埋め立てられて道路になっている。

大沼 小石川大沼のことでしょう。

飯田橋の方 当時の小石川大沼の流れは、平川に合流し、河口付近の常磐橋では架橋し、江戸湾にそそぎ込む。現在、この流れの多くは日本橋川である。
船河原町 市谷船河原町。いちがやふながわらまち。新宿区北東部に位置し、北で若宮町、北東部で神楽坂、東で外濠、南で市谷田町、西で市谷砂土原町と接する。

タイのピプン首相亡命地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 13.タイのピプン首相亡命地」についてです。

タイのピプン首相亡命地
      (南町2)
 加賀町から約五百メートル先の中町の東端十字路を右折する。右側の南町2番地は、タイ国のピプン首相の亡命地であった。
 ピプンは、第二次世界大戦中に日本に協力したので戦犯に問われたが、昭和23年にクーデターを起して政権をにぎった。しかし32年に再びクーデターが起きて失脚し、日本に亡命してここに住んだのであった。
ピプン首相 現在は「ピブーン」と表記。正確にはプレーク・ピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, タイ語 แปลก พิบูลสงคราม)。タイの軍人・政治家。1924年(26歳)から3年間、フランスの砲兵学校に留学。帰国後、人民党に入党し、1932年に立憲革命、さらに立憲君主制を樹立。1938年、41歳で首相に就任。国名をシャムからタイに改変。日本タイ同盟条約を締結したが、戦局の悪化とともに日本と距離を置き、1944年、独裁ぶりに反感もあり、ピブーンは辞表を提出。終戦を迎えて、英印進駐軍により戦犯容疑者としてタイ国内で拘置。1946年、無罪で釈放。1948年、クーデターで政権に復帰。1957年、新たなクーデターで政権の座を追われ、1958年、東京で亡命生活を送る。後にインドへ渡り出家。還俗後、1964年、神奈川県相模原市で一生を終えた。生年は1897年7月14日。没年は1964年6月11日、66歳没
南町2番地 南町2番地ではなく、払方町9番地では? 払方町9番地は「ビブンソングラム」氏の家でした。

ピブーン。人文社「日本分県地図地名総覧 1960年版」(人文社編集部。1960年)

払方町9番地のうちで、ここがピブーン宅か?

五軒町(写真)平成31年 ID 14059-62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14059から14062までとID 14196は、平成31年(2019)東五軒町と西五軒町から、相生坂の方面の写真を撮ったものです。道路の右側は西五軒町、左側は東五軒町です。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14059 西五軒町 西五軒町6-12から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14060 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14196 西五軒町 西五軒町6-19から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14061 西五軒町 真清浄寺から相生坂を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14062西五軒町 東五軒町から西五軒町を望む

 5枚の写真をID 14059は➀、ID 14060とID 14196は②、ID 14061は③、ID 14062は➃として地図に撮影した場所を書き込むと、以下のようになります。➃の道路の右側は「ラ・トゥール神楽坂」という地上24階、地下2階建の賃貸マンションです。

 新宿区は、何を目的にこの場所を撮影したのでしょうか。
 この界隈は印刷製本の町でした。昭和39年(1964年)の東京オリンピックや、昭和44年(1969年)の首都高速5号池袋線の共用開始の頃から、小さな印刷工場が店じまいしてマンションを建てる動きが目立ち始めました。芳賀善次郎著『新宿の散歩道』(三交社、1972)では……

印刷製本工業地帯          (神田川ぞい)
 新小川町から神田川にそった両岸一帯は、上流の戸塚まで、印刷製本の盛んな地域である。東京における四大印刷工業地帯の一で、文京区の小石川低地一帯、神田神保町一帯、中央区京橋裏通り一帯とともに有名である。
 これは、神田の本屋街に近いためであるが、牛込にも代表的な印刷、出版会社がある。これと関連して見のがすことのできないものに、その印刷した紙をたたむ仕事や内職をする「折り子」が多かったことである。しかし、製本の機械化がしだいに進み、さらに昭和四十四年神田川にそった道路上に高速道路ができると、道路拡張が行なわれ、会社が高層ビル化するとともに近代化が促進されて手工業の姿は姿を消した。
 地理学者田中啓爾は、つぎのよういっている。「小石川地区や牛込地区の印刷工場の周囲は、谷間も完全に住宅地や商店街となってしまっている。それでもこの印刷工場は、住宅地や商店街と両立しないことはない。
 この印刷工場のようなものは、周囲にめいわくをかけない文化工業であるからである。こんな文化工業は、山の手方面にいつまでも残ることができる。」
 〔参考〕東京都新誌

 現在では、すっかり住宅街に変わっています。歴史上の価値がある何かが写っているのか、定点観測か、それとも単に「相生坂」を撮影したのか、目的がよくわかりません。
 なお、新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)は、相生坂は一つだけと読めそうです。

 白銀町から東五軒町と西五軒町の間を下る坂を俗に相生坂あいおいざかという。また別名鼓坂つづみざかともいう。赤城元町の赤城神社西側の赤城坂と相対しているので、相生坂と一対にして鼓の両側になるという意味で鼓坂と名付けたという(町名誌)

 つまり、西五軒町と東五軒町の間だけを相生坂だとしているようです。ただ東側に並行するもう一本の坂も相生坂と呼ばれており、教育委員会による標柱は二つあります。

泉鏡花旧居跡|芳賀善次郎氏と石川悌二氏

文学と神楽坂

 泉鏡花氏は明治36年3月から3年間、「神楽坂2丁目22番地」に住んでいました。しかし、これは広大な場所です。正確な位置はどこにあるのでしょうか。

神楽坂2丁目22

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では……

2、作家泉鏡花旧居跡         (神楽坂2―22)
 神楽坂の途中左手、瀬戸物屋の横を行くと坂道に出る。そこを越したところ、理科大学の裏手にあたる崖上は、泉鏡花が明治36年3月から39年7月まで住んだところである。
 泉鏡花の師、尾崎紅葉は、横寺町に住んでいて、多くの弟子を指導していた。その中で一番早く文壇に認められたのは鏡花である。鏡花は、小栗風葉徳田秋声などとともに紅葉門下の硯友社の一員であるが、硯友社の人々は明治32年の新年宴会を、神楽坂の料亭常盤家で行なった。この夜、鏡花は桃太郎(本名、伊藤すず)という若い芸妓を見知ったのである。それ以来、鏡花と桃太郎との交際は続くのであるが、このことを知った紅葉は不快に思っていた。
 そのうち、36年3月、鏡花が神楽坂のここに一軒借りて桃太郎と同棲していることをきき、紅葉の怒りは爆発した。彼は小栗風葉に案内させて鏡花の家へ乗り込んだが、鏡花はす早く桃太郎を裏口から逃してその場をつくろった。紅葉は鏡花を強く叱りつけて帰ったが、その後彼女は涙をのんで鏡花のもとを去ったのである。
 しかしほどなく紅葉は、その年の10月30日に他界した。紅葉の死によって、生木を割かれるように別れた鏡花と桃太郎の仲は、またもとに戻った。それでも亡師に遠慮して鏡花は籍を入れなかった。正式に結婚式を挙げたのは大正15年になってからである。この両人の住んだのもここであった。
 鏡花の“婦系図”は、半自叙伝小説といわれる。発表された翌年、新富座喜多村緑郎伊藤蓉峰らによって上演されてから有名になった。その時新たに書き加えられた湯島境内の場で、早瀬とお蔦が清く別れる一場が特に観客の涙をさそったものであった。このお蔦は桃太郎であり、早瀬主税は鏡花自身であり、酒井先生というのは紅葉のことである。
 鏡花は、神楽坂を忘れられない思い出の地としていたらしく、“神楽坂の唄”と題した詩を書いている。

生木を割かれる 生木なまきを裂く。相愛の夫婦・恋人などをむりやり別れさせる。
新富座 しんとみざ。歌舞伎劇場名。江戸三座の一つで、明治5年、猿若町から京橋区(中央区)新富町へ進出。明治8年、新富座と改称。ガス灯を設備した近代建築だが、大正12年、関東大震災で焼失した。
喜多村緑郎 新派俳優。女形。素人芝居から俳優の道に入る。道頓堀角座を本拠に「成美団」を結成、のち東京でも活躍し、新派三頭目時代をつくる。人間国宝。生年は明治4年、没年は昭和36年。享年は満89才。
伊藤蓉峰 正しくは伊井蓉峰。新派俳優。新派大合同劇の座長格。端麗な容姿と都会的な芸風で、新派の代表的な俳優として活躍した。生年は明治4年、没年は昭和7年。享年は満60歳。

 住所はわかりますが、その他はわからない。そのまましばらく放っておきました。数年後、石川悌二氏が書いた「近代作家の基礎的研究」(明治書院、昭和48年)があると知りました。鏡花の邸宅の写真もあったのです。

 師尾崎紅葉の死去によって、生木を裂かれたような鏡花と桃太郎の仲はふたたび元に返った。鏡花の戸籍面は、この年12月、小石川大塚町から牛込区神楽町2丁目22番地に送籍されているので、紅葉の没後まもなく両人はまた一緒になったのであろう。しかし鏡花は亡師にはばかり、すずの戸籍を長く妻として入れなかった。それが二十数年を経過した大正15年になって、水上滝太郎の切なるすすめにより、改めて結婚式をあげたのであった。
 鏡花、桃太郎が住んだ神楽町二丁目の家宅はすでにないが、そこは神楽坂を上ってまもなく、左側の瀬戸物屋薬屋の間を左折し、その小路がまたにつき当たる左手あたり(現神楽坂2丁目の東京理科大学裏手)にあった。
 新派劇の「婦系図」はその序幕が主税とお蔦の新世帯であって、瀟洒なつくりのその家は、横手に堀井戸があって、すぐ勝手口や台所が続いているが、これは鏡花の実際の住居を模写したもので、桃太郎も芝居のお蔦さながらの生活をしたものと伝えられている。(村松梢風「現代作家伝・泉鏡花」参照)
 ついでながらに加えると、婦系図のヒロインのお蔦は、桃太郎が抱えられていた芸者屋「蔦永楽」にちなんだ名で、酒井先生は紅葉の住んでいた近くの牛込矢来町一帯が、旧小浜藩酒井氏の下屋敷跡だったことから、「酒井先生」としたのであろう。またこの作中に登場するひどく威勢のいい魚屋「めの惣」のモデルは魚徳という人で、現在神楽坂の北側三丁目にある料亭「魚徳」はその人の孫が経営している。この魚徳の姪は、又平という妓名で桃太郎と同じ蔦永楽から左棲をとっていたが、その人もすでに亡い。紅葉の愛妓だった小えん、すなわち婦系図の小吉のモデルは、相模屋の女将村上ヨネの養女に入籍され(戸籍名、村上えん)ていたが、紅葉の死後5年ほどして北海道函館の網元ひかされて妻となった。
この年 明治36年です。
送籍 民法の旧規定で、婚姻や養子縁組などで、1人の戸籍を他家の戸籍に送り移すこと。
瀬戸物屋 太陽堂です。
薬屋 当時は山本薬局。現在は神楽坂山本ビルで、1階はデンタルクリニック神楽坂です。
小路 神楽坂仲坂と名前をつけました。
 堀見坂です。
左手 地図では東側です。

1976年。住宅地図。

あたり 上の写真を見てください。写真に加えて「神楽坂うら鏡花旧居跡(電柱の左方)」と書いています。写真は昭和48年(1973年)頃に撮ったものです。下の写真は平成18年(2006年)頃に撮られたものです。なぜが2本の電柱はそっくりです。また「泉鏡花旧居跡」の場所も正確に同じ場所だとわかりました。「北原白秋旧居跡」の場所はまだ不明。

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)


婦系図 おんなけいず。1907年(明治40年)、泉鏡花の小説や、原作とした演劇・映画
蔦永楽 つたえいらく。神楽坂3丁目2番地。地図は大正元年の地図です。正確なものはなく、これ以上は不明です。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

左棲 ひだりづま。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
相模屋 神楽坂3丁目8番地。地図は大正元年の地図です。相模家はこの赤い地図で、問題は何軒があるのか、です。

相模屋

相模屋。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、どうも1軒だけでした。ただし、数軒をまとめて地図上だけ1軒にしたと考えることもできますが。

網元 漁網・漁船などを所有し、網子あみこ(漁師)を雇って漁業を営む者。網主あみぬし
ひかされて じょうなどにひきつけられる。ほだされる。