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石切橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「石切橋」からです。

石切橋(いしきりばし) 新宿区水道町から文京区水道二丁目に渡す江戸川の橋で、西江戸川橋古川橋のあいだにあり、古くは単に大橋とよび、寛文年間に架されたといわれ、新編江戸志に「大橋 俗に石切橋と云う。赤城下へゆく通りなり、馬場片町より水道丁へわたす。むかし此所に石切あるよりの名なり。」とあり、府内備考に、
 一、橋 長凡八間程 幅2間1尺
 右は江戸川相掛り候橋の儀は町内(小日向水道町)より牛込水道町の方へ渡り小橋御座候。江戸川大橋と相唱え申し候。又里俗石切橋とも唱え候えども、如何の訳にて唱え来り候や相知れ申さず候。御役所向に認め候節は、江戸川大橋と相認め申し候。右は武家方御組合橋にて、町内東側横町間口十九間の処、右入用差出し来り申し候。
 とあり、また新撰東京名所図会も諸書を引いて「石切橋 小日向水道町と西江戸川橋との間より牛込水道町に通ずる木橋にして江戸川に架せり、もと大橋といえり。続江戸砂子に云う。大橋、馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切はしというなり。(下略)」と記述している。明治19年橋架明細表ではこの橋は長8間半、幅3間の木橋で、江戸川にかかっていた諸橋のうちではもっとも幅員が広い。むかし大橋とよんだのもそういうことからであろうか。
  下りて石切橋をわたる。ここは神田上水の下流なる江戸川の流るる所なり。橋より下十町ばかりの間、両岸に桜樹ならびて新小金井の称あれど、それでは小金井があまりかわいそうなり。殊に近年水大いに減じて、川よりも寧ろのようになりて風致一層減じたり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
  江戸川の水かさまさりて春雨のけぶり
  煙れり岸の桜に    若山牧水

古川橋 ふるかわばし。文京区水道2丁目と文京区関口1丁目との間をつなぐ神田川の橋。神田川は古川ふるかわと呼ぶ時期があった。
大橋 大橋は他の大きな橋を比較検討することではなく、近隣の橋との対比で、大橋と呼ぶことが多い。
寛文年間 1661年から1673年まで。
新編江戸志 しんぺんえどし。別称江戸誌。近藤儀休編著・瀬名貞雄補。寛政年間。「江戸砂子」の体裁を意図して刊行。内容は江戸城を中心に東は葛飾、南は六郷、西が武蔵府中、北が豊島・川口方面の地誌を記す。
石切橋 いしきりばし。名前はこの周辺に石切りが住んでいたことからつけられた。石切りとは、石材に細工をする職業や職人。いし。石屋。
武家方 ぶけがた。武家の人々。武家衆。武家とは武士の総称で、公家くげはその反意語。
御組合 ある目的で、仲間をつくる、その人々。「御」は「庶民ではなく、武士がつくった組合」の意味。
馬場片町 新宿区西五軒町の一部。古く牛込村の沼地だったが、承応年中(1652-55)に埋立て、武家屋敷等を建築。町名の由来は、この時に小日こびなた馬場の隣接地だったことによる。
水道丁 東京都文京区の町名。「丁」は「市街の一区画」の意味もあったが、代わって明治期には「町」を使った。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
長凡八間程 幅2間1尺 長さ約1456cm、幅394cm
間口 正面からみた敷地・家屋などの幅。
十九間 3458cm
入用 いりよう。必要である。必要な費用。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
小日向水道町と…… 原文と引用の2つが違っています。「新撰東京名所図会」の本来の引用では「牛込水道町より小石川水道町に通ずる木橋にして、江戸川に架せん、古川橋と西江戸川橋との間の橋なり。府内備考、牛込水道町の書上に(略)と見ゆ。本名は江戸川大橋にして、石切橋は其俗称たりしてと比記に據て詳らかなるべし、橋の名は、蓋し側に石工の宅あろしに起因すべけれど、其證なければ容易に断定し難し、石切の俗称、最も著はれ、江戸川大橋の名は遂に世人の忘却する所となれり」
続江戸砂子 正しくは「続江戸砂子温故名跡志」。享保20年刊(1735)。江戸砂子の著者、菊岡沾涼による補遺。内容は五巻からなり、巻一は江戸の年中行事、巻二は江戸方角図・御役屋敷・高札場等、巻三は神社拾遺・名所古蹟拾遺として日本橋の南北辺・小日向・深川・渋谷・目黒・本所・亀戸など、巻四は浄土宗一八檀林と諸州宗役寺、巻五は名木。四季の遊覧場所なども紹介。
明治19年橋架明細表 石切橋では長さ8間半、巾3間、25.5坪、木造、明治7年12月架換。川名は江戸川。
長8間半、幅3間 長さ1547cm。幅546cm
幅員 ふくいん。道路・橋・船などの、はば
十町 1町は60間。メートル法換算で約109m。10町は約1090m
 みぞ。地を細長く掘って水を通す所。どぶ。下水。流し元の小溝
大町桂月 おおまちけいげつ。詩人、随筆家。東京大学国文学科卒業。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。また紀行文を多く書いた。生年は明治2年1月24日(1869.3.6)。没年は大正14年6月10日。57歳
水かさ みずかさ。水嵩。川・湖・池などの水の量。水量。
けぶり 煙。物が燃えるときに立ちのぼる、微粒子が混じた気体。けむり。
煙れり けぶる。煙る。煙が立ちのぼる。煙などでかすんで見える。

石切橋

瞬間の累積|渋沢篤二写真集

 最初は芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)の52頁にこんな写真とキャプションがありました。

 これは渋沢篤二氏の「瞬間の累積 渋沢篤二明治後期撮影写真集」(出版者は渋沢敬三、1963)の再録でした。

446 江戸川電車通り 42年8月

 当然、キャプションは違っています。つまり、芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」のキャプションは「明治42年8月の飯田橋交差点(渋沢氏の”瞬間の累積”)」。渋沢篤二氏の「瞬間の累積」では「446 江戸川電車通り42年8月」と2つあるのです。

 昭和40年以前では「江戸川」が「神田川中流」を指します。より正確には、当時の「江戸川」は文京区水道関口のおおあらいぜきから飯田橋(正しくは船河原橋)までの神田川のことです。また「電車通り」が「路面電車の道」に書き換えられます。つまり渋沢氏の「江戸川電車通り」の書き換えは「神田川中流の路面電車の道」になるのです。

 もう1つ、問題があります。写真で見ると、路面電車が2方向に分かれています。この分かれる理由は? 実際に路面電車の行き先が2つ以上ある以外に考えられません。
 では、明治42年8月にはどんな線路があるのでしょうか。皇居の外濠を走った外濠線は土橋—新橋間を除いて38年11月全て開通しました(東京市電・都電路線史年表)。さらに明治39年9月27日、「飯田橋」から「新小川町二丁目」(のちの「大曲」)への線路も通っていました。この2つの線路があり、しかも、向きは90度位違っています。
 なお4か月後の明治42年12月3日、「小石川表町」(後の「伝通院前」)から「大曲」(旧「新小川町二丁目」)までの線路ができ上がります。さらに大正元年に「飯田橋」から「牛込柳町」まで開通します。
 以上「江戸川電車通り」は「飯田橋交差点」と意味はほぼ同じです。
 道路は大きく、空間も広く、中央には法被はっぴと帽子を着た人がいます。路面電車は四輪単車で、外濠線は821以上の番号が与えられました。しかし、ここではこの番号は見えません。

[江戸川]

西江戸川橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「西江戸川橋」についてです。

西江戸川橋(にしえどがわばし) 文京区水道二丁目から新宿区西五軒町江戸川に架され、石切橋中之橋の間にある。この間にはざくら橋(西江戸川の下手)もあるが、いずれも江戸時代にはなかった橋で、西江戸川町から西五軒町に渡されたので西江戸川橋と命名したもので、新撰東京名所図会はこれを「西江戸川橋 西江戸川町(小石川区)より牛込五軒町に通ずる木橋にして、江戸川に架せり、即ち石切橋と中之橋との中間に位し、前記の諸橋に比し最も後れて架設せられたる橋なり、万延元年秋改の小日向絵図に載せず、明治後の架橋なり、又前田橋ともいう。」としているが、東京府志料(明治7年編)にはこの橋の記載がないので、それ以後の創橋であろう。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰から船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、半分は水道一丁目、昭和41年4月1日、残る半分は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
西江戸川橋 不思議ですが、この文章で始まるものは「新撰東京名所図会」牛込区や小石川区に全くありません。
小日向絵図 嘉永5年(1852)、外題「小日向絵図」、内題「礫川牛込小日向絵図」が刊行され、それに手を加えて改訂された切絵図「小日向絵図全 礫川牛込小日向絵図」(万延元年、1860年、作者は戸松昌訓、金鱗堂 尾張屋清七)です。
前田橋 昭和28〜29年の間、初めて「前田橋」が架橋され、約25年後の大正11年になると「西江戸川橋」になっています。

1. 東京実測図(明治20年)2. 東京実測図(明治20年)3. 東京実測図(明治28年)4. 東京市牛込区全図(明治29年8月調査)5. 東京市牛込区全図(明治40年1月調査)6. 地籍台帳・地籍地図(大正元年)7. 東京市牛込区(東京逓信局編纂. 大正11年)

(1) 明治20年は中之橋と石切橋の間には何もありません。(2)同じ明治20年ですが、新しい架橋があり、しかし、橋の場所が違っています。(3) 28年もほぼ同じ絵ですが、(4)明治29年になって、初めて地図とほぼ同じ場所になりました。しかし、橋の名前は「前田橋」でした。(5)明治40年、(6)大正元年も「前田橋」ですが(7)大正11年となると「西江戸川橋」と変更、現在と同じ名前になりました。さらに新しく橋が1つ、「西江戸川橋」の東側で「小桜橋」と同じ場所に登場します。
 なお、(2)と同じ橋が下の図でも出ています。

西江戸川橋の由来

東京府志料 明治5年、陸軍省は各府県勢を把握するため、地図・地誌の編纂を企画し、これに応じて東京府が編纂した地誌。人口・車馬・物産等は明治5年、田畑数・貢租の額等は6年、区界町名の改正等は7年に基づいて編纂。

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

明治33年(1900年)、花見客で賑わう江戸川橋。この絵は江戸川小同窓会長 石川省吾氏

中之橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。今回のテーマは中之橋です。

中之橋(なかのはし) 新宿区新小川町二、三丁目のさかい文京区水道一丁目江戸川に渡された橋で、創架年月は不詳だが寛文図に無名ながら記されている。東京市史稿はこれについて、「橋 橋名なし 同川筋(江戸川)に架し、後の中の橋に当るべきものなれど、位置やや上流にあり。この橋の位置の変れるは元禄頃なり。中の橋は武江図説に『中の橋、同し川に渡す。立慶橋大橋の間、築土下へ行く通り、此辺りゅうヶ崎と云う、一名鯉ヶ崎とも云う。』とし、また府内備考には「中ノ橋は築戸下より江戸川ばたへゆく通りにかかる橋なり。立慶橋と石切橋の中なる橋なれば、かく名付くなるべし。」と記す。明治時代になってこの江戸川両岸に桜が植えられ、市民遊行の地となった。小石川区史はこれを、
  石切橋より下流隆慶橋に至る間の江戸川両岸一帯の地は、明治の末頃まで市内屈指の桜の名所として讃えられていた。此処の歴史は比較的新しく、明治17年頃、西江戸川町居住の大原某が自宅前の川縁に植樹せるに始まり、附近の地主町民が協力して互に両岸に植附けたので、数年にして桜花の名所となり、爾来樹齢を加えると共に花は益々美しく、名は愈々喧伝せられて、其景観が小金井に似たところからいつしか「新小金井」の名称を与えられ、観桜の最勝地たりし中の橋は小金井橋に比せられるようになった。
 そこで地元でも時には樹間に雪洞ぼんぼりを点じ、俳句の懸行燈かけあんどん、花の扁額、青竹のらちなど設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて花のトンネルを上下すれば、両岸の花影、燈影、水に映じて耀かがやき如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった
  はつ桜あけおぼめく江戸川や水も小橋も
うすがすみして              金子薫園
ほそぼそと雨降り止まぬ江戸川の橋に
たたずみ君をしぞ思う           小林 操

新撰東京名所図会。牛込区。東陽堂。明治37年。

新小川町二、三丁目 現在は「丁目」を付けません。昭和57年(1982)住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合され、単に「新小川町」といいます。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んでいました。
寛文図 寛文江戸大絵図。寛文10年12月に完成。絵図風の地図ではなく、実測図に従い、正確な方位を基準として、以後江戸図のもとになった。

武江図説 地誌。著者は大橋方長。安永2~寛政年間(1773~1799)に刊行し、寛政5年(1793年)に筆写。別名は「江戸名所集覧」
東京市史稿 明治34年から東京市が編纂を開始し、令和3年、終了した史料集。皇城篇、御墓地篇、変災篇、上水篇、救済篇、港湾篇、遊園篇、宗教篇、橋梁篇、市街篇、産業篇の全11篇184巻
大橋 石切橋と同じ
築土 つくど。江戸時代には「築土明神」も「築土」も正式な名前でした。なお「築土前」「築土下」はそれぞれ「築土の南側」「築土の北側」の意味。
築土下へ行く通り、此辺立ヶ崎を云う、一名鯉ヶ崎とも云う 「築土の北側に行く道路があるが、この周辺を立ヶ崎という。別名、鯉ヶ崎という」。「崎」は「岬 。みさき。海中に突き出た陸地」の意味です。文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)によれば「『新編江戸志』に、『中の橋、築土つくどへ行く通りなり、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(約一米)に及ぶなり。』とある。」。つまり「立ヶ崎」や「恋ヶ崎」よりも「鯉ヶ崎」の方が一歩も早く世に出た言葉だったのでしょう。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
築戸 「つくど」と読む方が正しいのでしょう。
ばた はた。端。傍。側。物のふち、へり。ある場所のほとり。そば。かたわら。そばにいる人。第三者。
江戸川両岸に桜

小石川区史」から

江戸川桜花満開『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』尚美堂 明治43年 国立国会図書館デジタルコレクション

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

遊行 ゆぎょう。出歩く。歩き回る。
小石川区史 昭和10年、小石川区役所が「小石川区史」を発行しました。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、1/3は水道一丁目に、昭和41年4月1日、残る2/3は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

川縁 かわべり。かわぶち。川のへり。川のふち。川ばた。川べ。
爾来 じらい。それからのち。それ以来。
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まる様子。ますます。より一層
小金井 元文2年(1737年)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門が吉野や桜川からヤマザクラの名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。
最勝地 これは誤植。正しくは「景勝地」。けいしょうち。景色がすぐれている土地。
 この文章は一般的な花ではなく、桜のことでしょう。「桜の時には樹間に雪洞を点じ、俳句の懸行燈、桜の花の扁額、青竹の埓など設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて桜のトンネルを上下すれば、両岸の桜影、燈影、水に映じて耀き如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった。」
雪洞 行灯。あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
懸行燈 掛行燈。屋号や商品名を書いて店先に掛けて看板代わりにするもの。俳句の懸行燈とは、屋号や商品名に加えて俳句もはいるもの。

扁額 建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(額とは書画などをおさめて、門・壁などに掲げておく)。
 周囲に設けた柵。
夜の観楽境であった この文章は「小石川区史」881頁に載っています。なお、このあとに続く文章があり「然るに其後江戸川の護岸工事の為め、漸次桜樹の数を減じて、大正の末年頃には当時の面影を全く失い、両岸は総てコンクリートの堅固な石垣と化して、忘れたように残る少数の桜樹に昔の名残を偲ぶのみとなった。已むを得ざる工作の結果とは云えあまりにも悲しき文化の侵略ではある」
はつ桜 はつざくら。その年になって最初に咲く桜の花。季語・春
 あけぼの。夜がほのぼのと明けはじめる頃。
おぼめく はっきりしない。あいまいである。ぼやける。
うすがすみ  薄くかかったかすみ。かすみが薄くかかる様子
金子薫園 かねこくんえん。歌人。和歌の革新運動に参加。明星派に対抗して白菊会を結成。近代都市風景を好んで歌った。生年は明治9年11月30日、没年は昭和26年3月30日。満75歳で死亡。
ほそぼそ 非常に細いさま。物がかろうじてつながっている様子。かろうじてその状態が続いている様子
思う 慕う。愛する。恋する。

隆慶橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「隆慶橋」についてです。「隆慶橋」の名前は大橋龍慶氏に由来し、また、龍慶氏は書道の大橋流開祖の大橋重政氏の父になります。
 なお、父・大橋龍慶氏と息子・大橋重政氏の筆がしばしば似ていて混乱する原因になっています。

 隆慶橋(りゅうけいばし) 立慶橋、龍慶橋ともかかれている。新宿区新小川町一丁目より文京区後楽二丁目へ江戸川に架された橋で、創架年月は不詳だが、正保図にはなくて寛文図になって無名橋がこの位置に記されている。船河原橋の上流の橋で、むかし大橋龍慶なる者がこのあたりに屋敷を賜わって住んでいたのが橋名の起りで、龍慶は長左衛門、源重保といい、甲州の人で大奥側近の御祐筆で、いわゆる御家流書法の元祖だといわれている。
 府内備考は「立慶橋は中の橋の次なり、川のほとりにむかし大橋立慶の邸宅ありしゆえにかく橋の名となれりという。案ずるに正保年中(1644-1648)江戸図といえるものに、この橋のほとりに龍慶寺といえる寺見ゆ。恐らくはこの寺のほとりの橋なればかくいいしならん、されど今江戸の内にかかる寺あることをきかず、疑うべし。又『紫の一本』に、立慶橋というあり、されば町ありての名なりや。一説にりゅうけい橋と称す。」と記す。
 また、「新編若葉の梢」はこれを「(穴八幡)社地を寄進した大橋龍慶は長左衛門源重保といい甲斐の人で、大奥側近の御祐筆であった。老年に及び職を辞し、台命あって剃髪し、龍慶の号を賜った。式部卿法印に叙せられ、老体の采地として牛込の郷三十余町を賜り、その屋敷附近の江戸川に架された橋を龍慶橋と名附け、今にその名を残している。龍慶の書は徳川家の御家の書体として採択され、御家流と称して永く伝わるに至った。茶を小堀正一に学ぶ。寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」とする。
 なお、校合雑記、不聞秘録などの誌す伝説では、旗本水野十郎左衛門に殺害された侠客幡随院長兵衛の遺体が、この隆慶橋の下に流れついたという。そのころ水野の屋敷は小石川牛天神網干坂に在ったというが、しかし水野屋敷の位置については、牛込の築土下、麻布六本木、西神田一丁目などと諸説が多い。

   隆慶橋を衰る頃、空しきりに曇りければ、家路急ぎて橋をはしる、そも/\此橋の古えを聞くに、大橋長左衛門立慶と云いたる人、此所に家有りければ、此橋の名に呼付けり。
雪洞「東都紀行」

 明治十九年の調査だとこの橋は長さ十六間、幅十四尺五寸の木橋とあるが、現在は鋼鈑橋である。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
正保図 正保年中江戸絵図。正保元年か2年(1644-45)の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから。ただし、正保図でも隆慶橋はありそうだ。

正保年中江戸絵図

寛文図 寛文江戸大絵図。裏表紙題箋は、新板江戸外絵図。寛文12年6月に刊行。

大橋龍慶 江戸初期の能書家。通称長左衛門、いみな(死後にその人をたたえてつけられる称号)は重保。初め豊臣秀頼の右筆。1617年(元和3)能筆のゆえ、徳川秀忠の幕府右筆となり、采地500石を賜る。生没年は1582年〜1645年(天正10年〜正保2年)
甲州 甲斐国。現在の山梨県に相当する。
御祐筆 江戸幕府の職名。組頭の下で、機密の文書を作成、記録する役
御家流書法 おいえりゅう。小野道風、藤原行成の書法に宋風を加えた、穏和で、流麗な感じの書体。室町時代に盛んとなり、江戸時代には朝廷、幕府などの公用文書に用いられた。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
紫の一本 江戸時代の地誌。天和2年(1682)成立。2巻。戸田茂睡作。江戸の名所旧跡を山・坂・川・池などに分類し、遺世とんせい者と侍の二人が訪ね歩くという趣向で記述。
若葉の梢 「若葉の梢」は金子直徳著で、上下2巻(寛政10年、1798年)。新編が付いた「新編若葉の梢」では、昭和33年に刊行した「新編若葉の梢刊行会」の本。
台命 たいめい。だいめい。将軍などの命令。
式部卿法印 式部卿とは式部省の長官。法印は僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。大橋式部卿法印は戦国時代末期に右筆として活躍した大橋重保のこと。
小堀正一 安土桃山時代〜江戸時代前期の大名。生年は天正7年(1579年)。没年は正保4年2月6日(1647年3月12日)。約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及んだという。
寛文十一年 大橋龍慶の死亡は1645(正保2)年2月4日。子の大橋重政は1672(寛文12)年6月30日。
五十五歳 大橋龍慶は63歳で死亡。子の重政は55歳。どうも「寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」の少なくとも1文は、子の重政のことを間違えて書いたのでしょう。
築土下 築土(現在は筑土)の北側。ちなみに、築土前は築土の南側。
雪洞『東都紀行』 『燕石えんせき十種じっしゅ』は江戸末期の写本の叢書。明治40年、国書刊行会が三巻本を刊行。続編として『続燕石十種』(2巻)、『新燕石十種』(5巻)が新たに編集、刊行。辻雪洞氏の『東都紀行』は『新燕石十種』(明治45年)で刊行。
長さ十六間、幅十四尺五寸 長さは約29m。幅は約4.4m。

神田川(写真)船河原橋 昭和39年 ID 551

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 551は昭和39年頃に江戸川(現在は神田川)の上流から船河原橋方向や下宮比町などを撮影しました。撮影時期について新宿歴史博物館では「1964年?」としています。

 昭和40年以前には、神田川の中流部は江戸川と呼びました。川面にはゴミがたくさん浮かんでいます。小舟が3艘見え、うち2艘はバラ積みの船倉をテントのようなもので覆っています。廃材等の運搬に使われたものでしょう。
 向かって右の岸が目白通りで新宿区、左岸が文京区です。1969年(昭和44年)には川の上に首都高速道路5号線が建設されますが、まだありません。
 新宿区側、トラス構造の鉄塔に電飾看板「ホテル」が見えます。これは同年代の写真で「つるやホテル」です。川沿いの電柱には「ナショナル」の広告が並んでいます。その他の広告もあるようですが、よく読めません。
 左から船河原橋を渡っているのは都電13系統(新宿駅前-水天宮前)。目白通りから奥にかけて15系統(高田馬場駅前ー茅場町)が2台見えます。都電の廃止は13系統が昭和45年3月27日、15系統は昭和43年9月28日でした。
 遠くかすんだように国電(現、JR東日本)の飯田橋駅の高架ホームと屋根が確認できます。その向こう側の建物は千代田区です。

昭和43年 住宅地図。

西五軒町(写真)神田川 昭和33年 ID 8430-32

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。

S38 大曲付近(地理院地図に加筆)

神田川の橋

 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。
 目白通りの中央には都電の軌道があります。首都高速道路は建設されていません。通り沿いの建物は低層が主体です。
 神田川の護岸は、手すりが埋もれるような形でコンクリートでかさ上げされています。大雨のたびに、この地域が洪水に悩まされていたことを物語ります。
 地図や空中写真と照合すると、左側で見切れている建物が凸版印刷の工場、右側の端が同潤会江戸川アパートです。江戸川アパートの前の通り沿いの低いビルは日本交通大曲営業所で、横看板も無理に読めば読めそうです。その奥のビルは、日本専売公社ではないでしょうか。

ID 8430 西五軒町(一部を拡大)

 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8431 西五軒町(目白通り、江戸川)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8432 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。
 西江戸川橋は石切橋とは違って鋼板をそのまま壁高欄かべこうらん(特に丈夫な欄干らんかん)に使っています。
 右側には電柱看板「質 新客歓迎 小森」「質 長島」「ナショナル」などが付いた電柱が沢山見えます。左側の電柱看板は「活字母型製造」「」(駐車禁止。これは昭和20年代に見られた英文と和文を混合した標識)です。ID 8432では路面電車が走行中。左側には店舗が並び、「文化印刷◯」、三軒あけて「カタログ社」、また数軒あけて三菱のロゴマークがあります。
 30年代の自動車がいかにも昔々しています。当時、昭和35年のサラリーマンの平均月収は約4.2万円でしたが、一方、昭和33年「スバル360」は42.5万円でした。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

死者を嗤う|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛は大正7年6月に小説「死者をわら」(中央文学)を発表しています。29歳でした。

 二、三日降り続いた秋雨が止んで、カラリと晴れ渡ったこころよい朝であった。
 江戸えどがわべりに住んでいる啓吉は、平常いつものように十時頃家を出て、ひがしけんちょうの停留場へ急いだ。彼は雨天の日が致命的フェータルに嫌であった。従って、こうした秋晴の朝は、今日のうちに何かよいことが自分を待っているような気がして、なんとなく心がときめくのを覚えるのであった。
 彼はすぐ江戸川に差しかかった。そして、ざくらばしという小さい橋を渡ろうとした時、ふと上流の方を見た。すると、石切橋いしきりばしと小桜橋との中間に、架せられているを中心として、そこに、常には見馴れない異常な情景が、展開されているのに気がついた。橋の上にも人が一杯である。堤防にも人が一杯である。そしてすべての群衆は、川中に行われつつある何事かを、一心に注視しているのであった。
 啓吉は、日常生活においては、興味中心の男である。彼はこの光景を見ると、すぐ足を転じて、群衆の方へ急いだのである。その群衆は、普通、路上に形作らるるものに比べては、かなり大きいものであった。しかも、それが岸にあっては堤防に、橋の上では欄杆らんかんへとギシギシと押しつめられている。そしてその数が、刻々に増加して行きつつあるのだ。
 群衆に近づいてみると、彼らは黙っているのではない。銘々に何かわめいているのである。
「そら! また見えた、橋桁はしげたに引っかかったよ」と欄杆に手を掛けて、自由に川中を俯瞰みおろし得る御用聴らしい小憎が、自分の形勝けいしょうの位置を誇るかのように、得意になって後方に押し掛けている群衆に報告している。
「なんですか」と啓吉は、自分の横に居合せた年増の女に聴いた。
土左衛門ですよ」と、その女はちょっと眉をしかめるようにして答えた。啓吉は、初めからその答を予期していたので、その答から、なんらの感動も受けなかった。水死人は社会的の現象としては、ごく有り触れたことである。新聞社にいる啓吉はよく、溺死人に関する通信が、反古ほご同様に一瞥を与えられると、すぐ屑籠に投ぜられるのを知っている。が実際死人が、自分と数間の、距離内にあるということは、まったく別な感情であった。その上啓吉は、かなり物見高い男である。彼もまた死人を見たいという、人間に特有な奇妙な、好奇心に囚われてしまった。
嗤う 相手を見下したように、笑う。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
東五軒町の停留場 路面電車の停留場です。現在はバス停留所(バス停)に代わりました。

東五軒町のバス停 Google

フェータル fatal。命にかかわる。破滅をもたらす
小桜橋石切橋 図を参照
 西江戸川橋です。

神田川の橋

欄杆 欄干。らんかん。橋や建物の縁側、廊下、階段などの側辺に縦横に材を渡して墜落を防ぐもの。
喚く わめく。叫く。怒ったり興奮したりして大声で叫ぶ。大声をあげて騒ぐ
橋桁 はしげた。川を横断する道路の橋脚の上に架け渡して橋板を支える材。
御用聴 ごようきき。御用聞き。商店などで、得意先の用事・注文などを聞いて回る人
形勝 地勢や風景などがすぐれていること、その様子や土地
土左衛門 どざえもん。溺死者の死体。江戸の力士成瀬川土左衛門の色白の肥満体に見立てて言ったもの。
眉を顰める まゆをひそめる。不快や不満などのために、眉のあたりにしわを寄せる。顔をしかめる。
反古 反故。書きそこなったりして不要になった紙。
一瞥 いちべつ。ちらっと見ること。流し目に一たび見ること
屑籠 くずかご。紙屑など、廃物を入れる籠。
数間 1間は1.818…メートル。数間は約7〜8メートル。

 と、啓吉のすぐ横にいる洋服を着た男と、啓吉の前に、川中を覗き込んでいる男とが、話している。
 すると突然、橋の上の群衆や、岸に近い群衆が、
「わあ!」と、大声を揚げた。
「ああとうとう、引っ掛けやがった」と所々で同じような声が起った。人夫が、先にかぎの付いた竿で、屍体の衣類をでも、引っ掛けたらしい。
「やあ! 女だ」とまた群衆は叫んだ。橋桁はしげたに、足溜あしだまりを得た人夫は、屍体を手際よく水上に持ち上げようとしているらしい。
 群衆は、自分たちの好奇心が、満足し得る域境に達したと見え、以前よりも、大声をたてながら騒いでいる。が、啓吉には、水面に上っている屍体は、まだ少しも見えなかった。
足溜 足を掛ける所。足がかり。

 すると、突然「パシャッ」と、水音がしたかと思うと、群衆は一時に「どっ」と大声をたてて笑った。啓吉は、最初その場所はずれの笑いの意味が、わがらなかった。いかに好奇心のみの、群衆とはいえ屍体の上るのを見て、笑うとはあまりに、残酷であった。が、その意味は周囲の群衆が発する言葉ですぐ判った。一度水面を離れかけた屍体が、鈎のずれたため、ふたたび水中に落ちたからであった。
「しっかりしろ! 馬鹿!」と、哄笑から静まった群衆は、また人夫にこうした激励の言葉を投げている。
 そのうちに、また人夫は屍体に、鈎を掛けることに、成功したらしい。群衆は、
「今度こそしっかりやれ」と、叫んでいる。啓吉は、また押しつまされるような、気持になった。彼は屍体が群集の見物から、一刻も早く、逃れることを、望んでいた。すると、また突然水音がしたかと思うと、以前にも倍したような、笑い声が起った。無論、屍体が、再び水面に落ちたのである。啓吉は、当局者の冷淡な、事務的な手配と、軽佻な群衆とのために、屍体が不当に、曝し物にされていることを思うと、前より一層の悲憤を感じた。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
倍する 倍になる。倍にする。大いにふえる。大いに増す。
軽佻 けいちょう。考えが浅く、調子にのって行動する様子

 三度目に屍体が、とうとう正確に鈎に掛ったらしい。
「そんな所で、引き揚げたって、仕様がないじゃないか、石段の方へ引いて行けよ」と、群衆の一人が叫んだ。これはいかにも時宜タイムリイな助言であった。人夫は屍体を竿にかけたまま、橋桁はしげたから石崖の方へ渡り、石段の方へ、水中の屍体を引いて来た。
 石段は啓吉から、一間と離れぬ所にあった。岸の上にいた巡査は、屍体を引き揚げる準備として、石段の近くにいた群衆を追い払った。そのために、啓吉の前にいた人々が払い除けられて啓吉は見物人として、絶好の位置を得たのである。
 気がつくと、人夫は屍体に、繩を掛けたらしく、その繩の一端をつかんで、屍体を引きずり上げている。啓吉はその屍体を一目見ると、悲痛な心持にならざるを得なかった。希臘ギリシャの彫刻で見た、ある姿態ポーゼのように、髪を後ざまに垂れ、白蠟のように白い手を、後へ真直にらしながら、石段を引きずり上げられる屍体は、確かに悲壮な見物であった。ことに啓吉は、その女が死後のたしなみとして、男用の股引を穿うがっているのを見た時に悲劇の第五幕目を見たような、深い感銘を受けずにはいなかった。それは明らかに覚悟の自殺であった。女の一生の悲劇の大団円カターストロフであった。啓吉は暗然として、滲む涙を押えながらおもてそむけてそこを去った。さすがに屍体をマザマザと見た見物人は、もう自分たちの好奇心を充分満たしたと見え、思い思いにその場を去りかかっていた。
 啓吉も、来合せた電車に乗った。が、その場面シーンは、なかなかに、啓吉の頭を去らなかった。啓吉は、こういう場合に、屍体収容の手配が、はなはだ不完全で、そのために人生における、最も不幸なる人々が、死後においても、なおさらし物の侮辱を受けることをいきどおらずにはおられなかった。それと同時に啓吉は死者を前にして哄笑する野卑な群衆に対する反感を感じた。
 そのうちフト啓吉は、今日見た場面を基礎として、短篇の小説を書こうかと思い付いた。それは橋の上の群衆が、死者を前にして、盛んに哄笑しているうちに、あまり多くの人々を載せていた橋は、その重みに堪えずして墜落し、今まで死者をわらっていた人たちの多くが、溺死をするという筋で、作者の群衆に対する道徳的批判を、そのうちに匂わせる積りであった。が、よく考えてみると、啓吉自身も、群衆が持っていたような、浮いた好奇心を、全然持っていなかったとは、いわれなかったのである。
時宜 じぎ。その時々に応じた。ちょうど良い頃合。適時。タイミング。
タイムリイ タイムリー。ちょうどよい折に行われる。時機を得ている
後ざま うしろざま。その人や物の、後ろのほう
白蠟 はくろう。白い蝋燭ろうそく。黄蝋を日光にさらして製した純白色の蝋。
穿う うがつ。穴を開ける。人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。衣類やはきものを身につける。
カターストロフ  カタストロフ。ギリシア語のkatastrophēに由来。悲劇的結末。破局。
滲む にじむ。涙・血・汗などがうっすらと出る。
 おもて。顔。顔面。

路面電車(写真)飯田橋駅 第15系統 昭和6年 昭和31年 昭和43年

文学と神楽坂

 都電15系統の飯田橋停留所付近の写真5枚をまとめました。15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
(1)昭和6年頃 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)

飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合する地点にあってその下流は神田川となる。写真の中央より少しく右によって前後に通ずる川が江戸川である。突きあたりの台地が小石川台で川を隔てて右は小石川区左は牛込区また飯田橋の橋手まえが麹町区。電車は5方面に通ずる。
 大正3年、市電に系統番号が採用され、電車の側面に大きく取り付けられるようになり、三田は1番、時計回りに8番まで番号をつけていました
 写真は昭和3年(1928年)に開業したばかりの中央線飯田橋駅のホームから目白通り方向を撮影しました。手前の幅の広い橋が「飯田橋」で、右に通じるのが「船河原橋」です。
 船河原橋は欄干の四隅が高い柱になっていて、その上に丸い大きな擬宝珠が乗っています。
 ここから写真奥に向けてが江戸川と呼ばれ、上流の「隆慶橋」が見えています。おそらく国鉄飯田橋駅のホームから写真を撮ったのでしょう。
 なお戦後、江戸川の名称はなくなり、神田川に統一しました。小石川区は文京区、牛込区は新宿区、麹町区は千代田区になりました。また、戦後の名称ではありますが、前後の通りは「目白通り」、左右の通りは「外堀通り」で、左奥にある「大久保通り」は見えません。
 では写真を左側から見ていきます。

  1. 小さな建物の一部。自働電話(公衆電話)でしょう。交番は船河原橋に派出所があり、不自然です。
  2. 外濠の水面は見えませんが、対岸に石垣と手すり。江戸期のものではなく、昭和4年(1929年)の飯田橋の掛け替え時に整備したものでしょう。
  3. 掲示板(裏から)。
  4. 電柱と電柱広告「耳鼻咽喉科」
  5. 交差点の向こうに店舗。看板が読めるのは「エ[ビス]ビール」と「春日堂」。
  6. 早稲田方向に向かう電車は停車中で、電停に乗降客多数。13系統は交差点を横断中。
  7. 降雪後らしく、路面は白く、車道は黒くなっている。
  8. 右前に電柱広告「魚喜」? 電柱の上にあるのは擬宝珠でしょうか。

(2)昭和31年(1956年)6月16日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

戦前と戦後の風景が重なっていた昭和30年代初めの飯田橋駅前風景
低層の建造物ばかりだったので遠望がきいた。右に神田上水、直進する電車通りは目白通り。上流の大曲、江戸川橋にかけては沿道に中小の製造・加工工場、小出版社、印刷・製本業などが密集していた。神田川に架る外堀通りの橋は「船河原橋」。左奥が神楽坂・四谷見附方面、右奥が水道橋・御茶ノ水方面である。電車の姿は無いが、撮影当時の外堀通りには⑬系統(新宿駅前~万世橋)の都電が頻繁に往復していた。現在は高層のオフィス街に変り、頭上には首都高速5号池袋線が重くのしかかっている。
◎飯田橋 1956(昭和31)年6月16日 撮影:小川峯生

 東京都電は戦後再編され、江戸川線は高田馬場まで延長して15系統になりました。外濠線は飯田橋から南が3系統。飯田橋からお茶の水方向は大久保通りにつながり、本文のように13系統になりました。「電車の姿は無いが」という文章は本文通り。
 写真は(1)の昭和6年頃と同様、中央線飯田橋駅ホームから目白通り方向を撮影しています。2枚の写真は同じ本に掲載されていますが、下は少し画角が狭くなっています。上の写真の右側の鉄骨のようなものと、空中を横切るケーブルのようなものは後の写真には見えず、防鳥対策を含めて何かの工事をしていたのでしょう。また右下には花柄らしい車が歩道に停まっています。移動販売の車でしょうか。
 停留所の安全地帯(路面電車のホーム)ではゼブラ柄の台座から2mぐらいの高い柱があり、前面に「飯田橋」と読めます。
 街灯は昭和6年と同じように照明3個が街灯1つにまとめてついています。

  1. 交差点の向こうに商店街。看板は「つるや」が縦横2つと読めない「▢口▢▢▢▢」。
  2. 飯田橋のたもとに「光」
  3. 13系統(茅場町行)は「15」と「612」

(3)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点での出会い、⑮系統茅場町行きの3000形(右)と、⑬系統秋葉原駅前行きの4000形(左)飯田橋駅至近の飯田橋交差点は五差路になっていて、⑮系統の走る目白通りと、神楽坂から下ってきた⑬系統の走る大久保通り(飯田橋まで。当所から先の⑬は外堀通りを進む)が交差しており、さらに外堀通りを赤坂見附から走ってきた③系統(品川駅~飯田橋)の線路が、交差点手前で終点となっていた。信号や横断歩道も複雑なため、交差地点を取巻く井桁スタイルの歩道橋が巡らされ、歩行者が空中を歩く「大型交差点」として知られるようになった。写真はその建設開始の頃の模様で、正面のビルは東海銀行。JRの飯田橋駅には中央・総武緩行線しか停車しないが、現在は飯田橋駅周辺の道路地下や神田川の下には東京メトロ東西線・有楽町線・南北線、都営大江戸線の「飯田橋駅」が完成していて、巨大な地下鉄ジャンクションの1つとなっている。街の方も中小商工業の街から高層ビルが並ぶオフィス街に大変身している。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 手前に向かってくる15系統の都電は「茅場町」、マーク「15」と「週刊文春」、「3214」号、「乗降者優先」。一方、左奥から下ってきて13系統は「4041」号しかわかりません。
 ゼブラ柄の交通信号機は交差点の中央にあり、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、その下にゼブラ柄の台座と脇に警察官。
 歩道橋は手すりは完成しておらず、橋台や橋脚も足場やシートがかかっています。
 歩道橋は最初は井桁スタイルではなく「士の字」形でした。井桁になるのは1978~79年です。

昭和44年 住宅地図

 店舗は左から……

  1. 東海銀行(時計と東海銀行、東[海]銀行、[T]OKAI BANK)
  2. 電柱看板「多加良」(旅館)
  3. [三平]酒造 商金
  4. パーマレディー。LADY
  5. サロンパス。[か]っぱ家
  6. 「銀行」
  7. [ミカワ薬品] アリナミン

(4)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点で信号待ちする目白通りの⑮系統高田馬場駅前行き2000形(右)と、大久保通りの⑬系統岩本町行きの8000形・4000形(左奥)
五差路の飯田橋交差点に見る都電風景である。撮影時には左側の信号の奥にここが終点の③系統品川駅行きの停留場もあった。鉄筋コンクリート仕様の本格的な歩道橋の工事が頭上で行われていた。国鉄飯田橋駅(当時)は画面の背後にあり。ホーム上からこのような展望が開けていた。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2009」号と「15」「小説読売」。13系統岩本町行きは大久保通りで発車中。

 店舗などは左から……

  1. きんし正宗◯
  2. [ご]らくえん
  3. 日本精[鉱]
  4. 三割安い
  5. (速度制限解除)(転回禁止)(駐車禁止)
  6. 電柱看板「飯田橋」「飯田橋」「多聞」
  7. (歩行者横断禁止)
  8. 電柱と(指定方向外進行禁止)
  9. 「科学と美味」
  10. 「話し方」「ス」
  11. 東海銀行(時計、東海銀行、TOKAI BANK)
  12. ゼブラ柄の交通信号機、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、警察官
  13. 電柱広告「フクヤ」

(5)昭和43年9月28日 運転最終日 諸河久氏の「路面電車がみつめた50年前のTOKYO

自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久 1968年9月28日)

路面電車がみつめた50年前のTOKYO  諸河久
https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html
 都電の背景に写っている横断歩道橋は1968年3月に設置されている。当時、総延長242mに及ぶ長大な歩道橋で、上野駅前や渋谷駅前の歩道橋と長さを競っていた。街の景観を阻害する歩道橋だが、撮影者にとっては都電撮影の格好の足場となった。筆者も歩道橋に上る階段の途中から、やや俯瞰した構図で都電を撮影することができた。

 これまでの写真とは逆に飯田橋駅の方向を撮影しています。「士の字」の歩道橋の左の階段から撮影しました。
 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2502」号と「15」「小説読売」。イースタン観光のバスが併走中。また、15系統の路面電車と水平にある線面は13系統のもの。
 本文では「横断歩道橋は1968年3月に設置」とありますが、(3)や(4)ではまだ工事中です。3月に歩道橋を架設し始め、9月に供用したというペースではなかったでしょうか。

 標識などは左から……

  1. (指定方向外進行禁止)8-20
  2. (帝都高速度交通営団)
  3. ガード下に「最高速度」
  4. (転回禁止)
  5. 「飯田橋駅」
  6. 奥の千代田区のビルに「ジ◯ース味」「林◯會◯」
  7. 右隅に「飯田橋」2枚

飯田橋付近(写真)地理風俗大系 昭和12年

文学と神楽坂

 誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。神楽坂五丁目と同じくこれも新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。

飯田橋駅附近

飯田橋附近
飯田橋は江戸川と外濠との合流する地点でこれから下流は神田川と称す。写真は市電交叉点附近背景の小丘は富士見町一帯の台地で前は省線飯田橋駅。前面の橋は飯田橋でその下を流れるのが江戸川。この辺は四流八達の区域で市電はここを中心に五方面に通ずる。

四流八達 しつうはったつ。道路が四方八方に通じ、とても便利な交通。往来が多く、にぎやかな場所。

昭和16年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 手前の川は当時は江戸川(現在は神田川)で、ふなわらばしを超えて外濠そとぼり(外堀)と一緒になって初めて神田川になりますが、外濠(外堀)と神田川はこのアングルでは見えません。船河原橋を越えるのは外堀通りで、また外堀通りと直交するのは目白通りです。五叉路の一つ、大久保通りは出てきません。
 また目白通りの下には飯田橋という橋がかかり、さらに現在とあまり変わらない飯田橋駅が見えます。地元の方は「白文字『飯田橋駅』の『駅』の上にある階段状の建物は大松閣ですね」と言います。
 小石川区には巡査派出所(現在は交番)と自働電話(現在は公衆電話)、自動車もあり、路面電車は小石川区と牛込区をつなぐ船河原橋を渡っています。
 左隅の角丸四角の店舗には「◯◯◯◯品」と書かれ、右の角丸四角の中にはおそらくアルファベットの10字の看板、2灯が並んだ街灯、「◯◯◯京」、ロゴマークがあります。

 また地元の方は「見直して気づきましたが、船河原橋のたもとの小さなアーチは『大下水』の出口ですね。『暗渠さんぽ』の写真と同じもののように見えます」と書いています。明治44年に東京市が敷設したヒューム製下水管も同じ開口部にあり、これは厳密には江戸時代の大下水ではなく、明治時代の下水管でしょう。大下水(横幅は約1.8m、御府内備考)の一部が下水管(卵形で短径約90cm)になりました。

洋泉社MOOKの「東京ぶらり暗渠探検」(洋泉社、2010年)

船河原橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「船河原橋」についてです。氏は東京都公文書館主任調査員として勤務し、昭和48年に「近代作家の基礎的研究」を刊行し、「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆。生年は1916年8月24日 、没年は1987年。享年は70歳か71歳です。「船河原橋」では……

 船河原橋(ふながわらばし) 新宿区下宮比町から東へ文京区後楽二丁目に渡されている鉄筋コンクリート橋。旧橋はやや上手に江戸川へ架されていて、寛文の江戸図では「どんどばし」と記されており、正保の絵図にはないので神田川開さくのあとほどなく創架されたと思われる。

やや上手に 江戸時代の船河原橋を2枚、明治早期は3枚、明治後期と大正時代2枚。さらに昭和51年と現在の地図。
牛込橋と船河原橋

台紙に「東京小石川遠景」と墨書きがある。牛込見附より小石川(現飯田橋)方面を望んだ写真らしい。明治5年頃で、江戸時代と殆ど変化がないように思える。遠くに見える橋は俗称「どんと橋」と呼ばれた船河原橋であろう。堰があり手前に水が落ちている。しかし水 位は奥の方が低く、水は奥へと流れているらしい。堀は外堀である飯田堀で、昭和47年、市街地再開発事業として埋め立てられ、ビルが建った。内川九一の撮影。六切大。(石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

大正8年頃。飯田橋と牛込区筑土方面遠望。右は船河原橋。左は飯田橋

昭和56年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。386頁

Yahoo!地図

寛文の江戸図 新板江戸外絵図。寛文五枚図の外周部にあたる4舗。寛文11-13(1671-1673)刊

新板江戸外絵図。

正保の絵図 正保年中江戸絵図。正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
創架 新たに上にかけ渡す。架橋

新撰東京名所図会には「船河原橋は牛込下宮比町の角より小石川旧水戸邸、即ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいう。俗にドンド橋あるいは単にドンドンともいう。江戸川落口にて、もとあり、水勢常に捨石激してそうの音あるにる。此橋を仙台橋とかきしものあれど非なり。仙台橋は旧水戸邸前の石橋の称なるよし武江図説に見えたり。旧松平陸奥守御茶の水開さくの時かけられしに相違なしという。」と述べ、この橋下を蚊屋かやが淵と称したことを「蚊屋が淵は船河原橋の下をいう。江戸川の落口にて水勢急なり。あるいは中之橋隆慶橋の間にて今大曲おおまがという処なりと。江戸砂子に云う。むかしはげしきしゅうとめ、嫁に此川にて蚊屋を洗わせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」と伝えている。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙台橋 明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図を使うと、下図の小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう。

武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。

「どんど」「どんどん」などは水音の形容からきたもので、同じ江戸川の関口大洗堰おおあらいぜきのことも「どんど」と呼んでいたし、また大田区の道々橋は「どうどう橋」が本来の呼び方でこれも水音から起った名であろう。江戸川は上流の大洗堰からこの船河原橋までが、旧幕時代のお留め川(禁漁区)で有名な紫鯉が放流されていたが、どんどんから下へ落ちた魚は漁猟を許したので、ここの深瀬は釣人でにぎわったと伝えられる。

関口 文京区西部の住宅商業地区。山手台地に属する目白台と神田川の低地にまたがる。
大洗堰 神田上水の取水口のこと。せきとは水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。目白台側の神田上水に取水され、余った水が落ちて流れて江戸川(神田川)となっていた。
お留め川 おとめかわ。河川,湖などの内水面における領主専用の漁場
紫鯉 頭から尾鰭までが濃い紫の色をした鯉

 いざ給へと小車の牛込を跡になしつつ、舟河原橋はいにしえのさののふな橋ならで、板おおくとりはなして、むかしながらの橋ばしらゆるぎとりて、あらたにたてわたしてなんとすなる。(ひともと草
 関口のより落つるどんど橋(諧謔)
 船河原橋にて、電車を下りて築土八幡に至る。せせこましき処に築土八幡と築土神社との二祠並び立ち、人家もあり、樹木も高くなり過ぎて矚望しょくぼうを遮りたるが、これらの障害なくば、ここは牛込台の最端、一寸孤立したる形になりて四方の眺望よかるべき処なり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
 現橋は昭和45年竣工のコンクリート橋で橋長21.1メートル、幅24.1メートル。

いざ給へ 「さあ、いらっしゃい」「さあ、おいでなさい。」の意味。相手を誘い、行動を促す。
さののふな橋 佐野の舟橋。群馬県高崎市佐野を流れる烏川にあった橋。「舟橋」は、舟を横に並べ、板をわたしたもの。
橋ばしら 橋柱。橋桁(はしげた)を支える台。 橋脚。 橋杭。
ゆるぎ 揺(る)ぎ。ゆるぐこと。動揺。不安定。
たてわたす 立て渡す。一面に立てる。立て並べる。
すなる するという、すると聞いている
ひともと草 寛政11年(1799年)、大田南畝などの25人の和文をまとめたもの。
 みね。峰、峯。嶺。山のいただき。山の頂上のとがったところ。物の高くなっている部分。
せせこましい 場所が狭くてひどく窮屈な感じ。
矚望 「矚」(しょく)はみる、注視する。「望」(ぼう)は、遠く見る。国立国会図書館デジタルコレクションの「東京遊行記」では460頁

飯田橋と牛込区筑土方面遠望(写真)大正8年頃

文学と神楽坂

 この絵葉書は個人が所蔵するものですが、最初に雑誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」に出たときは低解像度で、もっと解像度が高くないと発表には向かないと思っていました。最近、石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)を見ていると、初めて大きな写真を発見し、さらに「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)でも発見しました。
 まず何台かの電車が走っていますが、全て路面電車です。つまり道路上を走る市電や都電です。現在ではバスに代わり、なかには地下鉄に代わっています。JR(国鉄、省鉄)とは違います。路面電車の駅もバス停や地下鉄の駅に代わりました。

 林順信氏の「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)は

飯田橋の変則交差点 大正8年頃
 左に見える小さな鉄橋が飯田橋、右に見えるのは江戸川に架かる船河原橋である。江戸川がここで外濠に落ちるとき、どんどんという響きをたてていたので、通称「どんどん」と呼ばれていた。外濠に沿った左手を神楽かぐら河岸がしといい、目の前の町をあげちょうという。諸国の物資を陸掲げした頃の名前である。船河原橋上を渡るのは、外濠線の環状線の➈番と新宿と万世橋とを結ぶ③番の電車、それと交差するのは、江東橋から江戸川橋に通う⑩番である。飯田橋は、昔から変則的五差路で交通の難所である。
飯田橋 東京都千代田区の地名
江戸川 ここでは神田川中流のこと。昭和40年以前に、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
揚屋町 正しくはあげ町です。
環状線の➈番 あっという間に市電の線路番号は変わります。これは大正4年に市電の系統でしょう。
万世橋 千代田区の神田川に架かる橋。秋葉原電気街の南端にある。
江東橋 墨田区の地名。墨田区で大横川に架かる橋
江戸川橋 目白通りにあって神田川を架かる橋。東京メトロ有楽町線江戸川橋駅前にある。

 五差路と視線の方向です。

牛込区の地形図。大正5年第一回修正測図。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年)

 石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)の説明は……

【飯田橋と牛込区筑土方面遠望】
現在は飯田橋交差点になり面影はない。左の鉄橋が飯田橋。右は船河原橋で、電車は新宿―万世橋間の③番と環状線の⑨番で、左の飯田橋を渡る電車は江東橋―江戸川橋間を走る⑩番だそうだ(『東京・市電と街並み』による)。⑩番の電車の奥の道は大久保通り。堀に沿って左に行けば市谷方面。現在も飯田橋交差点は変則的な五叉路で複雑である。

 最後は「かぐらむら」の文章です。「今月の特集 記憶の中の神楽坂」でおそらく2009年に出ています。

飯田橋界隈(大正時代/絵はがき、個人所蔵〉
複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。
左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期~後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年~44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。

吾妻医院 東京女子医科大学「東京女子医科大学80年史」(東京女子医科大学、昭和55年)では……

 吾妻病院は、大正5年(1916)まで順天堂の産科部長をしていた吾妻勝剛が、そこを辞めて、下宮比町に開業したとき建てた病院である。当代一流の産科医であった吾妻は最新の設備を備えた産科病院を建て、隆盛を極めたが、好事魔多しの譬えどおり大震災の日、熱海の患家で家の下敷となり、圧死したのであった。
 吾妻病院は火をかぶらなかったものの、地震で建物のあちこちが痛んでいた。しかし産科婦人科専門の弥生にとっては願ってもない病院であった。それを入手し、修理し、この年11月23日からここを第二東京至誠病院として再開した。この場所が牛込区下宮比町(現在の厚生年金病院の場所)であることからその後はここを学校のある“河田町”に対し“宮比町”と呼ぶのが内部での慣わしとなった。
 現在は名前は変わり、東京新宿メディカルセンターです。
吉岡弥生 医者。済生学舎(現日本医科大学)を卒業、東京で開業。明治33年(1900)東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創立。昭和27年、東京女子医科大学の学頭に就任。生年は明治4年3月10日(1871年4月29日)、没年は昭和34年5月22日。享年は満88歳
デッキ deck、vestibule(USA)。車内への出入口があり、客室との間に仕切戸が設けてある車端部の空間。鉄道車両で客室への出入口の部分。

大下水|市谷~牛込

文学と神楽坂

 江戸時代、市ヶ谷から飯田橋にかけて「大下水」がありました。
 この時、下水には3種類があったのです。自宅の前にある小下水、小下水を集める横切下水、横切下水を集めて最終的に落口から川にもっていく大下水です(新宿区教育委員会『紅葉堀遺跡』平成2年)。大下水は石垣で構築され、その普請修復は公的資金で行いました。
 この大下水は、昭和初期にあんきょ、つまり、地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路になっていきます(本田創編著「東京『暗渠』散歩」洋泉社、平成24年)。それ以前にはかいきょ、つまり、ふたはない水路になっていたのです。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4。神楽坂界隈の変遷』(1970年)から

 まぁ、昔の下水のほんどは、雨水でした。屎尿は汲み取り式なので、下水に便や尿が混入することはなく、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、最後は植木にまくわけです(ミツカン。水の文化。排水の歴史)。
 では、牛込の大下水について、『御府内備考』はどう見えていたのでしょう? この『御府内備考』は江戸幕府が編集した江戸の資料集です。これを編纂した『御府内風土記』は、1872年(明治5年)、皇居火災で焼失しましたが、『備考』は残っています。

大下水

大下水

大下水と外濠。正保年中江戸絵図から。正保元年(1644)頃。垂直に川が2本流れるように見えるが、左側は大下水の水、右側が外濠の水で、どちらも本当の川ではない。

大下水は市ヶ谷田町より牛込揚場町を歴て船河原橋脇にて江戸川に合す。此下水の成し年代等詳ならざれと寛永十八年堀千之助御手傅にて石垣を築きしよし傅ふれば古き下水なら事なし。此下水の上流尾州表門より外を柳川と唱へそれより上を拾川と唱ふるよし。よりて下流まてを通して紅葉川など書しものあり。その実は無名の大下水なり。改撰江戸志云紅葉堀の名は市谷左内坂の名主 草名の名主といふ 家に蔵するふるき帳にも見へしといふ。坂光淳の説に四谷御門をそのかみ紅葉御門といひにといふによれはそれらの名よりおこりしや。此御門にはその比よき紅葉のありしかはかくいひしにやと


[現代語訳]大下水は市ヶ谷田町から牛込揚場町を経て、船河原橋脇にて神田川に合流する。この下水が成立した年代などはわからないが、寛永18年(1641年)、堀千之助は土木工事を行い、石垣を築いたという。古い下水なので議論しても仕方がない。この下水の上流は尾張国上屋敷の表門からの外に流した部分を柳川といい、それより上を拾川という。下流までを通して紅葉川など書いたものもあるが、その実は、無名の大下水である。改撰江戸志によれば、紅葉堀の名は市谷左内坂の名主(草体の署名が有名な名主)の家にあった古い帳簿でも見える。18世紀の歌人・坂光淳の説によれば、四谷御門をその昔、紅葉御門といったので、その名から名前がついたという。その時分、この御門には美しい紅葉があったので、そう名前がついたのではないか。

 正保年中江戸絵図(上図、1644年頃)には、大下水を越えて市谷と牛込を渡る橋は市谷御門だけです。牛込御門から神楽坂までは大下水のため直接渡れませんでした。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川なども大下水と同じ意味で、図では外濠の上に大下水がありました。

正保年間の大下水。拾川、柳川、紅葉川は大下水と同じ意味。

 一方、明暦江戸大絵図(下図、1658年頃)では、市谷御門と牛込御門2つになっています。また、大下水の幅は、正保年中江戸絵図で神楽坂1丁目と同じぐらいと考えると約30m、一方、明暦江戸大絵図では一部に家などができているのか、幅は少なくなっていますが、それでも一間、つまり、約1.8mもあったと、『御府内備考』「揚場町」は述べています。

明暦江戸大絵図。http://collegio.jp/?page_id=154 (明暦は1655~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

明暦江戸大絵図(明暦3~4年頃、1657~8年)。大下水と外濠の距離が遠くなり、あいだには家もありそうだ。

『新修新宿区町名誌』から

『新修新宿区町名誌』から

市ヶ谷田町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、「豊島郡市谷領布田ふた新田と称す場所に、元和六年(1620)頃から百姓町屋を立てていた。同九年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧址が堀になってしまったため、旧地近くの堀端に町屋取立てを願い出たが、既に武家屋敷となったために願いは却下され、替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂御門前の二か所を提案された。しかし両所ともに馴れ住んだ場所から離れた所だったので佐渡殿原の土を引きならして武家地に仕立てることを願い出、また堀端通りの田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋立てた。寛永三年(1626)にこの埋立地を町割りし、南から順に市谷田町一丁目、上二丁目、下二丁目、三丁目とし、四丁目のみ市谷御門の南西側、現在の外堀通りと靖国通りとの分岐点にあたる場所に作られた。この地を開発した草創名主は島田左内である」。また、『新修新宿区町名誌』の絵(右図)では、南端は左内坂だと描いています。
牛込揚場町 新宿区北東部の町名。北は下宮比町に、東は神楽河岸に、南は神楽坂二丁目に、西は津久戸町にそれぞれ接する。江戸時代では神楽河岸の一部を含む。
船河原橋 旧江戸川(現神田川の上流)の橋。現在は、さらに外濠のお堀、さらに神田川も結ぶ橋(ここに最近の図)。
江戸川 現在は神田川。昔は堀と合流する上流を江戸川と呼びました。
寛永十八年 1641年
堀千之助 越後村上藩の堀干介直定。寛永15年(1638)、父直次が25歳で死亡し、寛永18年(1641)、幕府の命令で、6歳で御手伝普請を行い、家臣に市谷水道石垣の普請浚工したため賜物を与えた。翌年、死亡し、そのため後継者はなく、断家した。
御手伝 御手伝普請。おてつだいぶしん。豊臣政権や江戸幕府が大名を動員して行った土木工事。
 ゆ。さとす。相手の不明点や疑問点をといて教える。
尾州 びしゅう。尾張おわり国の異称。
柳川 「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から下流部分を指すという。名前は川沿いに柳が植えられていたため。
拾川 同じく「暗渠さんぽ」では、尾張国上屋敷(現、防衛省)から上流部分を指す。
紅葉川 「暗渠さんぽ」では、『全体をさす名称として、「紅葉川」「楓川」「長延寺川」「外濠川」などがみられます』
紅葉堀 「暗渠さんぽ」では、大下水のこと。
左内坂の名主 名主は島田左内です。
草名 そうみょう。そうな。草体の署名。特に、二字を合わせて一字のように書いたもの。その傾向が進むと、字を変形あるいは合体させて特殊な形をつくる花押かおうとなる。
坂光淳 18世紀の歌人。自書は『用心私記』
四谷御門 四谷見附門。千代田区麹町6丁目。現在のJR四ッ谷駅麹町口付近。初代長州藩主の毛利秀就が普請した

むらさき鯉|半七捕物帳

文学と神楽坂

 岡本綺堂氏の「半七捕物帳」の「むらさき鯉」の出だしの文章です。この小説が実際に起こったとすると文久3年(1863年)ですが、では綺堂氏はいつ書いたのか、これがわかりません。大正5年、年齢は44歳から半七捕物帳を書き始め、大正14年に前半5巻の47篇を書き終わり、その後、昭和9年から11年までに、後半23篇を書いています。多くの場合、その初出の年月は不明です。

        一
「むかし者のお話はとかく前置が長いので、今の若い方たちには小焦こじれったいかも知れませんが、話す方の身になると、やはり詳しく説明してかからないと何だか自分の気が済まないと云うわけですから、何も因果、まあ我慢してお聴きください」
 半七老人は例の調子で笑いながら話し出した。それは明治三十一年の十月、秋の雨が昼間からさびしく降りつづいて、かつてこの老人から聴かされた『津の国屋』の怪談が思い出されるような宵のことであった。(中略)
「そこで、このお話の舞台は江戸川です。遠い葛飾かつしか江戸川じゃあない、江戸の小石川牛込のあいだを流れている江戸川で……。このごろはどてに桜を植え付けて、行灯をかけたり、雪洞ぼんぼりをつけたりして、新小金井などという一つの名所になってしまいました。わたくしも今年の春はじめて、その夜桜を見物に行きましたが、川には船が出る、岸には大勢の人が押し合って歩いている。なるほど賑やかいので驚きました。しかし江戸時代には、あの辺はみな武家屋敷で、夜桜どころの話じゃあない、日が落ちると女一人などでは通れないくらいに寂しい所でした。それに昔はあの川が今よりもずっと深かった。というのは、船河原橋の下でき止めてあったからです。なぜ堰き止めたかというと、むかしは御留川おとめがわとなっていて、ここでは殺生せっしょう禁断、網を入れることも釣りをすることもできないので、鯉のたぐいがたくさんに棲んでいる。その魚類を保護するために水をたくわえてあったのです。勿論、すっかり堰いてしまっては、上から落ちて来る水が両方の岸へ溢れ出しますから、せきは低く出来ていて、水はそれを越して神田川へ落ち込むようになっているが、なにしろあれだけの長い川が一旦ここで堰かれて落ちるのですから、水の音は夜も昼もはげしいので、あの辺を俗にどんどんと云っていました。水の音がどんどんと響くからどんどんというので、江戸の絵図には船河原橋と書かずにどんど橋と書いてあるのもある位です。今でもそうですが、むかしは猶さら流れが急で、どんどんのあたりを蚊帳かやふちとも云いました。いつの頃か知りませんが、ある家の嫁さんが堤を降りて蚊帳を洗っていると、急流にその蚊帳をさらって行かれるはずみに、嫁も一緒にころげ落ちて、蚊帳にまき込まれて死んでしまったというので、そのあたりを蚊帳ヶ淵と云って恐れていたんです」
「そんなことは知りませんが、わたし達が子どもの時分にもまだあの辺をどんどんと云っていて、山の手の者はよく釣りに行ったものです。しかし滅多めったに鯉なんぞは釣れませんでした」
「そりゃあ失礼ながら、あなたが下手だからでしょう」と、老人はまた笑った。「近年まではなかなか大きいのが釣れましたよ。まして江戸時代は前にも申したような次第で、殺生禁断の御留川になっていたんですから、さかなは大きいのがたくさんいる。殊にこの川に棲んでいる鯉は紫鯉というので、頭から尾鰭までが濃い紫の色をしているというのが評判でした。わたくしも通りがかりにその泳いでいるのを二、三度見たことがありますが、普通の鯉のように黒くありませんでした。そういう鯉のたくさん泳いでいるのを見ていながら、御留川だから誰もどうすることも出来ない。しかしいつの代にも横着者は絶えないもので、その禁断を承知しながら時々に阿漕あこぎ平次のへいじをきめる奴がある。この話もそれから起ったのです」

小焦れったい こじれったい。もどかしくていらいらする。じれったい。
因果 原因と結果。その関係。
津の国屋 半七捕物帳の1つ。酒屋「津の国屋」で幽霊が出るという。半七は犯人を捉える。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
葛飾 東京都葛飾区のこと。区の左側に利根川の支流、江戸川がある。
江戸川 利根川の支流。千葉県北西端の野田市関宿で分流し、東京湾に注ぐ。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
行灯 あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
雪洞 ぼんぼり。紙・布などをはった火袋を取りつけた手燭てしよくか燭台。右図を参照。
新小金井 東京都小金井市東町。桜が有名な町で、西武鉄道の新小金井駅がある。小石川区(現、文京区)と牛込区(現、新宿区)から見ると、小金井はかなり遠い。
船河原橋 旧江戸川、外濠のお堀、さらに神田川を結ぶ橋。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。
堰き止める せきとめる。塞き止める。堰き止める。流れなどをさえぎりとめる。
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
殺生 せっしょう。生き物を殺すこと。仏教では十悪の一つ。
堰く せく。堰く。塞く。流れをさえぎってとめる。せき止める。
堰かれる せかれる。流れをさえぎってとめられる。
どんどん 江戸川落とし口にかかる船河原橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。解説とは違い、近くに船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。

蚊帳ヶ淵 かやがふち。船河原橋の下を流れる水がよどんで深くなった所。『東京名所図会』第41編(東陽堂、1904年)では「蚊屋が淵は船河原橋の下をいふ。むかしはげしき姑、嫁に此川にて蚊屋を洗はせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」
攫う。 さらう。攫う。掠う。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。関心を一人占めにする。
紫鯉 むらさきこい。江戸志では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひはなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる」
阿漕 あこぎ。禁漁地の阿漕ヶ浦で、ある漁師が密漁をして捕らえられたとの伝説から。しつこく、ずうずうしい。義理人情に欠け、あくどい。特に、無慈悲に金品をむさぼること
阿漕の平次 あこぎのへいじ。阿漕ヶ浦で、母の病のために禁断を破って魚をとり、簀巻すまきにされたという伝説上の漁師。

紫鯉|遊歴雑記

文学と神楽坂

 十方庵敬順氏が書いた「遊歴雑記初編」(嘉永4年、1851年)です。これは1989年、朝倉治彦の校訂で平凡社が復刻した部分から取りました。江戸川(現神田川)の「中の橋」で「むらさき鯉」があったといいます。最初は現代語訳です。

[現代語訳] 武蔵国江戸川の最上部は牛込区と小日向区との間にある目白下大洗堰で、ここで白堀上水を分け、あまった水は下流にながす。一方、江戸川の最下部は船河原橋であり、これで終わる(訳注。昔の神田川を神田上水、江戸川、神田川と3つに分けていました。現在は全て神田川です)。川の長さはおよそ2000mで、この間を江戸川という。しかし、誠実に呼ぶと、小日向の「中の橋」の上流220m、下流220m、前後440mをあわせた流れを江戸川という。
 その理由は、「中の橋」の流れが大部分は深く、鯉も数多く、橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはどれも鯉だ。どれも肥えて太っていて、あるいは、丸く短い。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る。これを紫鯉というのは、江戸川という名前からきたもので、逆に、数千万匹の紫鯉があるからこそ、江戸川という名前がついた。以上が、江戸むらさきの由縁である。
 この清流の鯉は、むかし、五代将軍徳川綱吉がここに御放流し、この鯉は成長し、さらに、八代将軍徳川吉宗も同じくここに放流してこの鯉も成長したので、「中の橋」の前後、川の中央部では550mほどの間は、「御留川」として、釣魚は厳禁である。また鯉は「中の橋」前後でだけ動き、外には行かない。ただし、大雨が降りつづき、満水する場合は違い、鯉は川下の竜慶橋の辺りにまで下がることもある。逆に水上の石切橋の辺りに上る場合もある。石切橋からの川上では、まれに網や釣りをして、鯉をとらえる場合もあるという。例年1~2度、2,3艘の御用船はならべて乗り入れ、鯉を採ることもある。

神田上水と旧江戸川

 東武江戸川(現神田川)といふは、牛込小日向の間にハサまりて、カミ目白下ヲゝ洗堰アライゼキに於て白堀シタホリ上水をワケ余水の下流にして、末はフナ河原ガワラバシまでの間、川丈カワタケ長き事拾八九町、此間を惣名ソウメウ江戸川といひ来れり、しかれども誠の江戸川とサスところは、小日向ナカハシ水上ミヅカミ弐町、橋よりシモ弐町、前後四町が間のナガレを江戸川といえり、
 その故は、中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しき緋鯉ヒゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川トネガワの鯉、これにツグべしとなん、是を紫鯉といふ事は、江戸川といふ名によりて名付、又此処に紫鯉数千万スセンマンあるが故に、江戸川とは称す、江戸むらさき由縁ユカリによりてなりとぞ、
 此清流の鯉は、むかし、常憲尊君五代将軍徳川綱吉へ御放しありて、生立ソダテしめ給ひ、後又有徳尊君(八代将軍徳川吉宗)同じく此処へ放して生立ソダテしめ給ふによりて、中の橋前後、河中五町程の間は、御止川ヲントメガワと成て、釣するを堅く禁じ給ふ、此鯉魚中の橋前後にのみ住て、更に外へ動かず、但し、大雨降つゞき満水する時は、川下カワシモ竜慶橋辺へさがるもあり、又水上ミヅカミ石切橋イシキリバシ辺へ登るもありけり、石きり橋より上にては、マレアミツリして、鯉魚を得る事もありとなん、例年壱両度づゝ御用船弐三艘ならべ乗イレ、鯉魚をトラしめ給ふ、

東武 武蔵国の異称。江戸の異称。
牛込 旧牛込区のこと。昭和22年以降は四谷区、淀橋区と合併し、新宿区に。
小日向 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
目白下 目白下は文京区目白台よりも標高は低く、江戸川橋の周辺で、場所は関口一丁目、水道二丁目、水道一丁目など。
洗堰 あらいぜき。常時水が堰の上を溢れて流れるように作った堰。
白堀 しらほり。開渠。蓋のない地上の水路のこと。
余水 よすい。余分の水
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。文京区後楽2丁目、新宿区下宮比町と千代田区飯田橋3丁目をつなぐ橋。
川丈 川の長さ。
 およそ。おおかた。だいたい。約。
拾八九町 長さの単位で、1963~2072メートル
惣名 そうみょう。総名。いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。呼び名。
中の橋 なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けた橋。
水上 みずかみ。「みなかみ」で「流れの源のほう。上流。川上」
弐町 二町。約220メートル
 ほとんど。大多数。大部分
鯉魚 りぎょ。鯉(こい)
邂逅 「わくらば」と読み、「まれに。偶然に」
たまさか 偶さか。適さか。偶然。たまたま。
弐尺四五寸 2尺4~5寸。約91~95センチ
三尺 114センチ
緋鯉 ひごい。赤や白の体色の鯉の総称。普通、橙赤色。観賞用。
豊嶋 豊島郡。武蔵国と東京府の郡。おおむね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、大部分の練馬区。江戸時代以降、江戸市中は豊島郡から分離。
江戸むらさき 色名の一つ。濃い青みの紫。16進法では#745399     
常憲 第5代将軍徳川綱吉つなよしの戒名は常憲院殿贈正一位大相国公。
尊君 男性が、相手の男性を敬っていう敬称
 ここ。現在の時点・場所を示す語
生立 おいたち。生い立ち。育ってゆくこと。成長すること。
有徳 徳川吉宗の戒名は有徳院殿贈正一位大相国
御止川 御留川。おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所
 と。いっしょに事をする仲間。
竜慶橋 隆慶橋。りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。上図を
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」。上図を
壱両度 いちりょうど。一回か二回。1~2回
御用船 江戸時代、幕府・諸藩が荷物運送などを委託した民間の船舶。

川柳江戸名所図会③|至文堂

文学と神楽坂

 次は「江戸川」です。「神田川」は、東京都の井の頭池を泉源にして、中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川ですが、そのうち中流部、つまり、関口大洗おおあらいぜきからスタートし、外堀と合流するふな河原かわら橋の川までを、1965年(昭和40年)以前には「江戸川」と呼んでいました。ちなみに当時の上流部は神田上水、下流部は神田川と呼んでいました。1965年(昭和40年)、河川法が改正され、神田上水、江戸川、神田川3つをあわせて「神田川」と呼ぶようになりました。

江 戸 川

ここで江戸川をさかのぼってみる事にする。井の頭に発する上水が、関口で分れ、一方は神田上水としてやや上を流れて、後楽園を過ぎ、神田川水道橋の所でで渡って神田に入るが、他方は落ちてこの江戸川となり、東へ流れ、大曲と称する辺から南流して、お濠へ合流して神田川となる。
 橋は関口橋江戸川橋華水橋掃部橋古川橋石切橋大橋ともいう)・中の橋、曲ってから隆慶橋とんど橋である。
 中の橋の辺りは、白鳥が池といったという。後に、大曲のところにかけられた橋を白鳥橋というのはその故であろう。

神田上水と旧江戸川

江戸川 ここでは神田川中流のこと。神田上水の余水を文京区関口台の江戸川橋付近で受け、飯田橋付近で外堀の水を併せて神田川となる。現在、神田上水、江戸川、神田川はすべて神田川になる。
井の頭 いのかしら。東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる地区。中央に武蔵野最大の湧水池である井の頭池がある。神田川の源流。
上水 飲料などで管や溝を通して供給する水。水道水。汚物の除去や殺菌が行われている。
関口 文京区西部の目白台と神田川にまたがる地域。地名の起源は、江戸最初の上水道、神田上水の取入口、大洗おおあらいぜきがあったため。
神田上水 江戸初期、徳川家康が開削した日本最古の上水道。上図を。現在は廃止。
後楽園 文京区にある旧水戸藩江戸上屋敷の庭園。中心に池を設け、その周囲を巡りながら観賞する。上図を。
神田川 東京都の中心部をほぼ東西に流れて隅田川に注ぐ川。昔は上流部を神田上水、中流部を江戸川、下流部を神田川といった。
水道橋 千代田と文京両区境の神田川にかかる橋。地名は江戸時代に神田上水からの導水管を渡す橋があったため。
 とい。水を送り流すため、竹・木などで作った溝や管。神田上水の水道橋では上空をわたす管、掛樋かけひがありました。
神田に入る 神田上水は小石川後楽園を超えると、水道橋駅の先の懸樋(上図の右下を参照)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。橋は白鳥橋と呼ぶ。

延宝7年(1679年)「江戸大絵図」

関口橋 関口の由来には、奥州街道の関所とする説と神田上水の大洗ぜきとする二説がある。せきとは「河川の開水路を横断し流水の上を越流させる工作物」。
江戸川橋 「江戸川」とはかつて神田川中流部分(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1km)の名称。江戸川橋は中流域で最初の橋梁
華水橋 はなみずばし。江戸川の桜並木と関係があるのか、わかりません。
掃部橋 かもんばし。江戸時代、橋のそばに吉岡掃部という紺屋があったことから。
古川橋 昔、神田川は古川ふるかわと称した時期があり、橋の南詰側には昭和42年まで西古川町、東古川町の地名があった。
石切橋 いしきりばし。付近に石工が多かったため。別名は「江戸川大橋」
大橋 おおはし。石切橋のこと。
中の橋 中ノ橋。なかのはし。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
とんど橋 現在は船河原ふなかわらばし。船河原とは揚場河岸(揚場町)で荷揚げした空舟の船溜りの河原から。船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちる水音がして、ほかに「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていた。
白鳥が池 大曲から飯田橋に至る少し手前まで、大昔には「白鳥池」という大きな池があったようですが、延宝7年(1679年)の「増補江戸大絵図絵入」(上図参照)ではもうありません。
白鳥橋 しらとりばし。湿地帯で、神田川の大きな池があったという。

 さて、この川には紫色を帯びた大きな鯉が多くいて美味であったところから、幕府御用として漁獲禁断の場〈お留川〉となっていた。
    鯉までも紫に成江戸の水        (明三信1)
    お上りの鯉紫の水に住み         (三七・25)
 江戸は紫染のよいところであった。
    こくせうになぞとほしがる御留川     (二七・28)
 こくせうは〈濃汁(こくしょう)〉、鯉を濃い味噌汁でよく煮たもの、いま〈鯉こく〉という。
    奪人の無いむらさきの御留川      (一三五・33)
    紫を人の奪ぬ御留川          (六〇・2)
論語に「子日、紫之奪朱也。」とあり、意味は間色が正色を乱すことであるという。その語を借りたしゃれである。

 紫色を帯びた大きな鯉が多かったというおそらく事実は、岡本綺堂氏が小説「むらさき鯉」でも書いています。

お留川 おとめかわ。御留川。河川や湖沼で、領主の漁場として一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
紫染 紫根染。しこんぞめ。ムラサキ(紫)の根から抽出した染料を使った染色。灰汁を媒染とする。
こくせう 濃漿。こくしょう。魚や野菜などを煮込んだ濃い味噌汁。鯉こくなど。
鯉こく こいこく。鯉濃。鯉を筒切りにして、味噌汁で時間をかけて煮込んだ料理。「鯉の濃漿」から
奪人 人から奪う、獲得するなどの意味。
論語 孔子の書とされる儒教の経典。四書五経の一つ。20編からなる。
悪紫之奪朱也 紫の朱を奪うをにくむ。朱が正色なのに、今では間色の紫が朱に代って用いられることがあるが、これには警戒したい。「奪」は地位を奪う、取って代わる、圧倒する。

    江戸川小松川鶴の御場      (一一二・34)
 葛飾の小松川は幕府の鶴の猟場であった。
    車胤王祥江戸川の名所なり      (一ニー・21)
 鯉のほか、螢も名物であった。昔、支那の晋の車胤という者、家が貧しくて油が買えず、螢を集めて本を読んだという故事は、「螢の光」という歌で知られている。
 王祥は、二十四孝の一人で、冬に継母が鯉が食べたいというので、川の氷の上に寝ころんでいると、氷がとけて鯉が躍り出、捕えて母に供したという話がある。
 螢について「絵本風俗往来」には「螢の名所は、落合姿見橋の辺・王子谷中螢沢目白下江戸川のほとり……」とある。姿見橋や、目白下はこの川のすぐ上流であるから、この川一帯にも見られたのであろう。
 橋の内、石切橋のしも、大曲のかみにかかる橋が〈中の橋〉である。この辺りを〈鯉ヶ崎〉とも言った。
    中の橋一本ほしひと言所         (明二仁5)
    むらさきの鯉濁らぬ橋の下        (二八・5)
 橋の名は、日本橋・新橋のように、連声で「ばし」と濁音になることが多いが、中の橋は濁らず清んで訓むということと、濁らぬ水ということもかけているのであろう。

小松川 東京府南葛飾郡小松川村は「つる御成おなり」と呼ぶ鶴の猟場でした。
御場 普通は「御場」は幕府の御鷹場おたかばのこと。鷹場は鷹狩りを行う場所。
猟場 りょうば。狩りをするのに適している場所。かりば
車胤 しゃいん(不明~400)。中国東晋の官吏、学者、政治家。灯油を買うことができず、蛍の光で勉強した話で有名。
王祥 おうしょう(185~269)。継母にも孝行を尽くし、生魚を食べたいというので、真冬に凍った池に行き、服を脱ぎ氷の上に横になった。氷が溶けて割れ、大きな鯉が二匹躍り出た。王祥は捕まえて継母に捧げ、継母も王祥をかわいがったという。
故事 昔あった事柄。古い事。昔から伝わってきている、いわれのある事柄。古くからの由緒のあること。
二十四孝 にじゅうしこう。中国古来の代表的な親孝行の24人。虞舜、漢の文帝、曽参・閔損・仲由・董永・剡子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁・老萊子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅。
絵本風俗往来 正しくは「江戸府内 絵本風俗往来」。明治38年、江戸の好事家が江戸の町の移り変わりや町家・武家の行事のさまざまを300枚以上の大判挿絵を添えて描いた本。蛍については「中編巻之参」5月で出ています。
姿見橋 おちあいすがたみばし。姿見の橋と面影橋は別々の橋なのか、同じ橋なのか、私には不明です、新宿区がだした「俤の橋・姿見の橋」を参考までに。
王子 東京都北区中部の地名。桜で有名な飛鳥あすか山公園がある。
谷中螢沢 やなかほたるさわ。近くの宗林寺周辺は江戸時代には蛍の名所「蛍沢」がありました。
目白下江戸川 めじろしたえどがわ。目白台下にある江戸川(神田川)に大洗堰があり、また桜で有名でした。
鯉ヶ崎 「江戸志」では「此川に生ずる鯉は世の常の魚とことにして、味ひははなはだ美なり、されどみだりに取ことを禁ぜらる、此川の内中の橋の邉を鯉か崎といへりといふ」と書いています。
むらさきの鯉 紫色を帯びた鯉が多かったため。

織田一磨|武蔵野の記録

文学と神楽坂

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。

       一四 牛込神樂坂の夜景
 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。
 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

牛込、小石川、麹町 代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。
夜更 よふけ。深夜。
大戸 おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。
散乱 さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。
五色 5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。
下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。
 おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影
流露 気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。
浪花 大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。
東山 ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。
都大路 みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。
屋台 やたい。屋形のついた移動できる台。
牛飯 ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。
遊人 ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。
お店者 おたなもの。商家の奉公人。
湯歸り 風呂からの帰り。
東都名所 国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。
傳坊肌 でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。
舊態 きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。
電燈 でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。

 卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。
 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡赤城神社築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。

卑賤 ひせん。地位・身分が低い。人としての品位が低い。
都ずし 江戸前鮨(寿司)は握り寿司を中心にした江戸郷土料理。古くは「江戸ずし」「東京ずし」とも。新鮮な魚介類を材料とした寿司職人が作る寿司。
遊野郎 ゆうやろう。酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者
お神樂藝者 おかぐらげいしゃ。牛込神楽坂に住む芸妓。
廃堂 廃墟と化した神仏を祭る建物。
軒燈 けんとう。家の軒先につけるあかり
画趣 がしゅ。絵の題材になるようなよい風景
早稲田矢来 地図を参照。
俗趣味 低俗な趣味。俗っぽいようす
穴八幡、赤城神社、築土八幡 地図を参照。

穴八幡、赤城神社、築土八幡

江戸川 神田川中流の呼称。ここでは文京区水道・関口の江戸川橋の辺り
石切橋 神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。

外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂04|神楽坂気分

文学と神楽坂

神楽坂気分
 私は()めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。
「僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた/\していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら/\夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた/″\ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしや(の講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風なな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハヽヽ」

神楽坂気分

新開地 新しく開墾した土地。新しく開けた市街地やその地域
用足し場 用事を済ませること。大小便をすること
かたがた 「…をかねて」「…のついでに」などの意味があります。「…がてら」
見物場 見世物小屋。普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。例えば口上として「山から山、谷から谷を渡り歩いた姉妹が、何故、人が忌み嫌う長虫(蛇)を食わなければならなかったのか?これから。お目にかけまする姉妹は「サンカ」の子に生まれた因果で、哀れ、今もその悲しさを伝えてくれますよ。さあ、見てやってください。見てください」。実際に生きた蛇を引き裂いて食べる人もでたようです。
バナナのたたき売 「ここは牛込、神楽坂」第3号の「語らい広場」で友田康子氏の「三〇年前、毘沙門様で」という投稿が載っています。そして口上は「『さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百…、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!』威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり」と書いています。
蝮屋 商品になるのはニホンマムシの蒸し焼きかその粉末です。毒蛇の強靭な生命力にあやかり、食べると心身の強壮に効果があるとされていました。
標札 屋標札は戸籍法との関連性が高く、明治5~11年頃、各戸に標札を備えつける布達がなされたようです。当時は筆を使って書きました。
無我的 無心。我意がないこと

「あゝそれ/\」と友達も一緒に笑った。「ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね」
「よかろう」
 そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日(えんにち)で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。
「おや/\、こんな所に縁日があるんだね」
と友達は珍しそうにいった。
「あゝ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね」と私がいった。
「第二の神楽坂が出来るわけかね」
「アッハヽヽ前途遼遠りょうえん)だね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ」
「ここへ電車が敷けるのか?」
「そんな話なんだがね、音羽おとわ護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡(れんらく)する予定になっているそうだ」
「そしたら便利になるね」
「だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ」

柳町 やなぎちょう。南北に外苑東通り、東西に大久保通りがあり、ここ市谷柳町で交差しています。
車止め くるまどめ。停止すべき位置を越えて走行してきた自動車や鉄道を強制的に停止させるための構造物
前途遼遠 ぜんとりょうえん。目的達成までの道のりや時間がまだ長く残っている。今後の道のりがまだ遠くて困難。「途」は道のり。「遼遠」ははるかに遠い。「遼」は道が延々と長く続いているという意味です。
音羽 おとわ。これは音羽町という地名。最南端は神田川、以前の江戸川に接しています。
護国寺前 ごこくじまえ。「護国寺前」は交差点の名称で、東西に向かう不忍通りと、南に向かう音羽通りの交差点です。
江戸川 神田川の中流域で、「江戸川」というのは都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
矢来の交番 矢来の交番は現在、正しくは矢来町地域安全センターといいます。ここに3つの通りが交差点「牛込天神町」に集まっています。北から来る道路は江戸川橋通り、東から来る道路は神楽坂通り、西から来る道路は早稲田通りです。

榎町 えのきちょう。町の名称。ここで、交差点「牛込天神町」から交差点「弁天町」(早稲田通りと外苑東通りとが交わる)に至るまでが早稲田通りです。
弁天町 早稲田通りから交差点「弁天町」を左に曲がって、外苑東通りに入ると、弁天町になります。さらに南に行くと、交差点「市谷柳町」です。
塩町 しおちょう。「外苑東通り」の「合羽坂」で左に曲がり、「靖国通り」を東に行き、交差点「市谷本村町」で右に曲がり、「外堀通り」にはいるとそこは塩町。現在は「本塩町(ほんしおちょう)」になります。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」です。音羽4
① 護国寺前
ここがスタート

② この辺りが音羽

③ 江戸川
昔、神田川の中流を江戸川と呼びました

矢来交番

矢来の交番

④ 矢来の交番はここ  →
⑤ この辺りが榎町。ここを通って…
⑥ 早稲田通りから交差点「弁天町」にはいり、向きを左(下)に変え、外苑東通りに行き…

⑦ 交差点「市谷柳町」を通り…

⑧「外苑東通り」の交差点「合羽坂」で左に曲がり、

⑨ 交差点「市谷本村町」で右に曲がり、
⑩「外堀通り」にはいると塩町に。現在は「本塩町」。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」になります。