ID 8267と8286は飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。正面の橋は牛込橋で、写真説明にある「飯田橋」は写っていません。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物については……
ID 652とID 12102は東口構内の写真です。現在は「東口コンコース階」といいます。 天井の電光パネルは「国鉄きっぷうりば/TICKETS/→」「ご案内/国鉄450円までのきっぷは/自動きっぷうりばでお求めください/520円以上のきっぷは窓口でお求めください」「自動/き(っぷうりば)」「定期券・回数券はこの先を/左に曲って5番窓口(へ)/(お回りください)↑」「450円/220円」 下部はポスターなどを貼った立て看板が構内を区切っています。「みどりの窓口/駿台電算専門学校」「(こんに)ちは幸せさん」「旅先でこまったら 旅行者援護所/いい旅。/東京YMCA国際ホテル学校」「青梅鉄道公園/経理専門学校4月生募集中 簿記 税理士 公認会計士/東京C.P.A.専門学院」「周遊指定地のご案内/安房白浜・外房海岸/鴨川加入者ホーム/旭簡易保険保養センター/潮来簡易保険保養センター」 左奥に「禁(煙)/タイ(ム)/朝8:00-9◯/夕17:00-18◯」
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12103 飯田橋駅 ガード下
ID 12103は飯田橋駅ガード下の写真です。ガードの向こうには千代田区飯田橋四丁目の南東部で「きそば」と「中村屋」の看板が見えます。ガード内には駅名板「飯田橋駅/IIDABASHI STATION」があり、右には東口の入り口があり、看板は「UC(C) コーヒ(ー)/空缶は空缶(入れに)/コーヒー」。
ID 118は自動車が遠くに走っています。T字路だと思われ、おそらく一方通行か、あるいは対面通行でもほとんど自動車は通らない場所でしょう。中の丸というのは明治時代に矢来町3番地は巨大な区域なので旧殿、中の丸、山里の3つの字に分けていました。中の丸は中の丸御殿の跡の意味で、北東部分(下図で橙枠)になります。 ここでT字路になる場所は9か所です。
番地でいうと左側はほとんど矢来町1番地です。1番地が広大なのは、矢来町の名の由来になった酒井家の矢来屋敷の主要部分が分筆されないまま、現在も団地(矢来町ハイツA棟~J棟)として一体で使われているからです。 右側は矢来町82番地が中心で、直行する道路を越えると、奥に行くときに81番地、79番地、78番地、77番地の順に並んでいます。現在は78番地と79番地を合わせて大きな78番地になりました。 ID 8311はID 107-112と同じ時の写真だと考えます。この数台のなかに車種も同じでナンバープレートも同じ車があり、他の車でも車種が同じものもあり、ID 8311も同じく「昭和45年3月」だと考えます。 ID 107~110で、左側のプレハブは「キュービクル式高圧受電設備」(高圧変電設備、キュービクル)でしょう。発電所からの電気は6,600Vですが、それを100Vや200Vの電気に変圧するため、機器一式を金属製の外箱(筐体)に収めたものです。
夏目漱石のお孫さんと結婚した 本当かどうか、わかりませんでした。 外国で宣伝した Margaret Price著「Classic Japanese Inns and Country Getaways(日本の宿)」(講談社、1999年)。全て英語で書いてあります。 日本の宿50選 国立国会図書館、新宿区立図書館、アマゾンで「日本の宿50選」は見つかりませんでした。
手水舎の裏に御供水が見えます。「ごくうすい」「おこうすい」と読むようです。御供水とは神仏に供える水のこと。八角形の石とフタからできていて、新宿文化観光資源案内サイトでは天保5年(1834)8月に奉納されたのこと。 ID 14157の陰刻とは文字や模様をくぼませた彫り方。ID 14157の真ん中に「川喜田新右ェ門」という陰刻があります。また文政10年(1827年)に提出した「牛込町方書上」では神楽坂5丁目と6丁目の間に川喜田屋横丁があって「川喜田屋久右ェ門」がそこに住んでいたといいます。この2件は7年しか離れていないし、2人はなにか関係があれば面白いと思います。また、ほかの氏名でも「〇〇屋」が多く、奉納する人は商人が多かったことがわかります。
ID 8255について、左手には神輿を格納する神輿庫。その奥には見えないが純米大吟醸「白鷹」の積み樽。明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛は倉庫に白鷹を発見し、神楽坂の料亭などで広く販売しました。 境内に駐車車両。筑土八幡の表参道は石の階段。しかし、正面左手の裏参道では車は通行可。 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。拝殿は昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和38年、氏子の浄財で再建。拝殿前には1810(文化7)年に奉納された狛犬2匹。左は口を閉じた吽形、右は口を開いた阿形の狛犬。 右には社務所。その前に見えませんが、神楽を奏する神楽殿。これも見えない宮比神社。注連縄をかけた銀杏が見え、前にある百度石は百度参りをする時に標識する石。またも見えない庚申塔。右で見切れている手水舎の一部。一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。 ID 8256は庚申塔。目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は、「庚申信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申の日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸と呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった」。この庚申塔では、猿1匹は桃の実を取り、別の1匹は手に持っており、下に男女名10人が刻まれていました。
ID 7169の「オーシャンウェーブ」について、地理院地図の航空写真では左にある丸い遊具でしょう。ある人は「かなりのデンジャラスなしろもので高速回転の遠心力に耐え切れず吹き飛ばされる者、わっかと支柱に挟まれる者などケガ人続出で、うちの学校では高学年しか使用できない玄人用の遊具でした」。したがって「石の山」が現在もあるのに「オーシャンウェーブ」は短命だったと思います。 また、「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年、新宿区役所)では、昭和36年、初めて地面を播く時に砂の代わりに砕石ダストを使っています。しかし時期は「昭和30年代後半」だけなので、写真を撮った時点で砕石ダストを使ったのか不明です。
ID 480とID 11455は、飯田橋交差点の西側からを東側を狙っています。左右方向が外堀通り。手前の横断歩道は大久保通り。左側の高架の下が目白通りです。 歩道橋の右、日除けテントの古い建物はこの当時、新宿区に属していました。後に区境変更で千代田区になります。 その右は取り壊されて空地になり、フェンスで囲まれています。フェンス越しに見えているのは外堀の向こう岸にある飯田橋駅駅舎の2階部分。その上にはホームの屋根が左右に続いています。駅舎の手前、右の平屋は東京燃料林産の建物でした。一番奥の数棟のビルも千代田区です。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 494 飯田橋駅ガード下
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11469 飯田橋駅高架下 目白通り
ID 490とID 11469は、ID 480の左側の歩道橋の上から飯田橋駅の高架ホームを撮影しています。JRの発足は1987年(昭和62年)4月なので、撮影当時は「国電」でした。高架橋の案内看板には「JNR(日本国有鉄道) 飯田橋駅→」と書かれています。駅前のタクシー乗り場は、今も同じ場所にあります。 飯田橋駅のホームは、この写真の右側に200メートルほど移転し、2020年7月12日に新しく開業しました。今も高架橋は変わっていませんが、すでに写真の部分はホームとしては使われていません。 撮影位置は新宿区の最も外れで、写っているのはすべて千代田区です。 なお、現在の飯田橋駅の出入口は、始めの一か所から、変遷の末、北東の出入口と南西の出入口になりました。北東の出入口を東口、南西は西口と呼び、さらに現在は無数の改札があります。