芸術倶楽部跡|横寺町

文学と神楽坂

芸術倶楽部跡横寺町2

 標柱を朝日坂を上に向かって(地図では南西方向ですが)行くと、飯塚酒場、さらに内野医院がそのあとにあり、さらに「ビニール工業所」とアパートを越えると、坂はほとんど終わっている場所ですが、この奥に芸術倶楽部があります。

 平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。正しくは、9-10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。以下に述べました。

新宿区指定史跡

芸術げいじゅつ倶楽部くらぶあと島村しまむら抱月ほうげつしゅうえん
         所 在 地 新宿区横寺町9・10・11番地
         指定年月日 平成3年11月6日
 この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.
 抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。
 明治39年(1906)には、坪内つぼうち逍遙しょうようの文芸協会に参加し、西欧せいおう演劇えんげきの移植に努めたが、大正2年(1913)内紛ないふんから同協会を脱会し、芸術座を結成した。
 その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。
 平成28年3月25日
新宿区教育委員会

スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)

島村抱月

島村抱月の終焉

これは旧史跡です。

文化財愛護シンボルマーク

史跡
(げい)(じゅつ)()()()(あと)(しま)(むら)(ほう)(げつ)終焉(しゅうえん)()
所在地 新宿区横寺町九・十・十一番地

 演出家島村抱月(1871~1918)が女優松井須磨子(1886~1919)とともに、近代劇の普及のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点芸術倶楽部の跡である。
 抱月は本名を滝太郎といい、島根県に生れ、東京専門学校(現早稲田大学)文学部を卒業した。その後同校講師となりイギリス・ドイツに留学、帰国後は評論家・演出家として活躍した。
 明治39年(1906)には、坪内逍遥の文芸協会に参加し、西欧演劇の移植に努めたが、大正2年内紛から同協会を脱会し、芸術座を組織した。その拠点芸術倶楽部は、木造2階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 抱月は大正7年11月15日、流行性感冒から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で死去した。享年は47歳であった。傷心の須磨子は翌8年1月5日この倶楽部で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散された。
  平成三年十一月
       東京都新宿区教育委員会

新宿区文化財
  旧跡 芸術倶楽部くらぶ
 島村抱月、松井須麿子らは坪内逍遙の文芸協会から離れて、大正2年7月新たに芸術座を結成して近代劇を広めた。とくにトルストイ―原作の「復活」は通俗的人気を集めた。
 芸術倶楽部はその根拠地で、建物は木造2階建、大正4年秋の建築である。所在地は横寺町9・10番地、この前あたりである。
 大正7年11月5日、抱月は流行性感冒から肺炎を併発し、倶楽部の1室で没した。47歳であった。傷心の須麿子は翌8年1月5日、倶楽部で抱月のあとを追った。34歳であった。これにより芸術座は解散した。
 なお抱月の墓は雑司ケ谷墓地、須麿子は弁天町100多聞院たもんいんにある。
   昭和53年3月
      東京都新宿区教育委員会

場所はどこ?

 では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
 住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
  ❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
  ❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
  ❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
  ❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
  ❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
  ❍平成3年、新宿区指定史跡
  ❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。

 最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
 高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。

 8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
 ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
 つまり、芸術倶楽部は9、10番地の2筆を株式会社東銀行から買って、土地登録は(9、10番地を合わせて)9番地という1筆だけで、8番地と11番地は無関係だったと思います。

 次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。

芸術倶楽部の方角。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)

昭和12年の地図

 昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり、橙色は芸術倶楽部の想像図で約180坪(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が現在の図(下図)になりました。

 以上をまとめると、芸術倶楽部は横寺町9+10の一部を東銀行から買って、全体を横寺町9として登録した。横寺町9も10も1部分は別の人の資産として残っている。例えば、横寺町9の1部は加藤商店として残ったはず。建物は(B)しかありえない。

 坪内祐三氏の「極私的東京名所案内増補版」にはこんな一文が載っています。

 古書展に行くと時おり、戦前に刊行された『世界演劇史』全六巻(平凡社)や『歌舞伎細見』(1926年・第一書房)といった本を目にすることがある。実は飯塚酒場は、それらの本の著者飯塚友一郎の生家だった。飯塚にはまた、斎藤昌三の書物展望社から出した『腰越帖』(昭和12年)という随筆集があって、そこに収められた「松井須磨子の臨終」という一文で彼は、こういう秘話を披露している。先にも書いたように飯塚の生家は芸術倶楽部に隣接していた。それは飯塚が東京帝大法学部に通っていたころ、松井須磨子が首つり自殺をした大正8年1月5日の未明のことだった。
私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段気にも止めず、又、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞込んでくる。
「物置で椅子卓子を踏台にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した」
 自殺を決意した須磨子は三通の遺書を(したた)めた。その内一通は坪内逍遥宛のものだった。須磨子の兄が牛込余丁町(よちょうまち)の坪内家へ持参すると、逍遙夫妻は熱海の別宅双柿舎(そうししゃ)に出掛けて不在で、代わりに養女のくに(鹿島清兵衛の二女)がその遺書を受け取った。のちに彼女は、不思議な運命のめぐり合わせで、飯塚友一郎の妻となる(この文章が『彷書月刊』に載った直後、何と飯塚くに——95歳——の回想集が中央公論社から刊行され、それを私が『週刊朝日』で書評したことが縁となって文庫化の際には解説を書かせていただいた)。

 また今和次郎氏の『新版 大東京案内』(ちくま学芸文庫、元は昭和四年の刊)では

 書き落してならないのは、神楽坂本通りからすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町、第一銀行(現在のキムラヤ)について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級俸給生活者、労働者、貧しい学生の連中にとって、10銭の朝食、15銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会の演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「闇の力」を演じて識者を唸らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死したことも一場の夢。今はいかゞはしい(やみ)の女などが室借りをするといふアパートになった。変れば変る世の中。


私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

文学と神楽坂

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

4.5丁目

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)


 麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。


観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。
六代目 六代目の中村歌右衛門でしょう。なかむらうたえもん。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日。没年は2001年3月31日。
歌右ヱ門 五代目の中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は1866年2月14日(慶応元年12月29日。没年は1940年(昭和15年)9月12日。
松永和風 まつながわふう。長唄の名跡。
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒 明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。
 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
駐車場 カフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わています。その左側の「第1勧信用組合駐車場」ではありません。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。
風俗画報 風俗画報の「新撰東京名所絵図」第42編(東陽堂、明治39年)では「袋町ふくろまちと肴町の間の通路を藁店わらだなと稱す。以前此邊にわらを賣る店ありしかば、俚俗りぞくの呼名とはなれり」と書き、「藁店」を出しています。
早川雪洲早川雪洲 はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日。87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日。87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

横寺町|由来

文学と神楽坂

 横寺町は「町方書上」で

町名之起り通寺町之横町候間、横寺町唱候

と書かれています。新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』ではこれを受け

横寺よこでらまち
 牛込横寺町 町名は(とおり)(てら)町の横町であったことに由来する。

と、「横でら町」は通てら町の横町だとしています。

『新修 新宿区町名誌』によれば、明治44年に横(でら)町になりました。ここでは「よこ()らまち」とふりがながついています。

 一方、2000年、町の「よこてらまち今昔史」の編集会議で、

 過日、編集会議の席で横でら町か、横てら町かの話が突然だされました。その後、調査のため区役所等へ問い合せをした結果、横てらまちが正しいことが判りました。今まで使い慣れていた言葉、読み方が誤っていたことが解かり、変な気持ちです。よって表紙の題字を平仮名で大きく印した次第です。

 ウィキペディア、マピオン、日本郵便では「よこてらまち」が正しいと考えています。
 一方、消防署と新宿区歴史博物館は「よこでらまち」が正しいと考えています。
 警察署、新宿区は漢字の「横寺町」しか使っていないようです。

 以上、横寺町をどう読むのか……困っています。「横寺町」と漢字だけしか使わないようにしようっと。

 まあ、北町、中町、南町を昭和52年の新宿区教育委員会の『新宿区町名誌-地名の由来と変遷』では北町、中町、南町と漢字だけを書いています。平成22年の新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では(きた)(まち)(なか)(ちょう)(みなみ)(ちょう)と、「まち」と「ちょう」に分けています。なぜ分けるの。理由は? 明治20年の地図でも漢字だけなのに。

光を追うて|徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏が「光を追うて」(1938年)で書いた新宿区(牛込区)の十千万堂塾に入ったいきさつです。

 その時分は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていたが、彼も等などの行き方と違って、遣ってつけの仕事はしなかったから、書きたいと思う材料や筋立(すじだて)に軽々しく筆をつけず、懐ろに温めつゝ百方工夫を凝し、(おもむ)ろに練りあげた上、彫心(ちようしん)鏤刻(るこく)の文章で織りあげるのだったが、等は筋を立てず、いきなりに書く方だったので、折角の小栗の話も馬の耳に念仏のような形になってしまった。小栗はその時今日は少し相談があるから乗ってくれないかというので等は傾聴した。
「僕も柳川も先生んとこの玄関じゃ、落著いて書けないんです。第一狭くもあるし、来客は多いし、お嬢さんがちょろちょろと出て来て目障りだし、是からみっちり仕事をしようというには、何とかしなくちゃなるまいと、色々考えた結果、玄関番は交替でやることにして、先生の近所に一軒家を借りようかと思いましてね、それにはちょうど打ってつけの家が一軒、先生の家の裏にあるんです。先生んとこの垣根の一方に囗をつければ、直ぐお庭から降りて行けるような工合になっているんですがね。差当り上の家の女中に手伝いに来てもらって、柳川と僕とで自炊生活をはじめようという話なんですか、君も()うでしよう、加ってもらえませんか知ら。そうしてお互に先生の傍でみっちり勉強しようじやありませんか。」

 この文章を書いている筆者のこと。
肴町 現在の神楽坂五丁目
結構 けっこう。全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
遣ってつけ いいかげんにやってしまう
懐ろ ふところ。外界から隔てられた安心できる場所
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面にわたって
彫心 ちょうしん。心に刻み込む。
鏤刻 ろうこく。るこく。文章や詩句を推敲すること。
馬の耳に念仏 馬にありがたい念仏を聞かせても無駄。いくら意見をしても全く効き目のないことのたとえ。

 そこは箪笥町の一区画で、通りから石段を上つて横寺町の先生の家の二階から見下されるお寺の墓地の横へ出る、ちよつと高台に蕎麦屋や馬具屋や大工などの立てこんだ人家の路地の奥になつており、風流な枝折(しおり)(もん)と竹で(ゆわ)えた(かなめ)の垣根の外に総井戸があり、赤松やなどの枝をひろげた前庭があり、濡縁のある四畳半が、板戸を締めたまゝに、町中の静かな隠居所といった風で、飛石や下草にも風情があつた。小栗は台所口から上り、崖下の裏庭に面した座敷や、四畳の中の間なども見せ、三畳の玄関から上るようになつている、物置同様の二階へも案内したが、高窓をあけると、真面(まとも)に先生の書斎が見えるのだつた。古いだけに趣があり、健康には悪いが感じは好かった。
「これは借家に建てたものじゃないんですが、間取りが面白いから、借りることにしたんですがね。」
 小栗はそう言って、戸閉めをして外へ出た。小栗は先生のところへ来るまでの、暫くの学生生活のあと、早熟であったゞけに少しぐれていたとみえて、二の腕に女の首の入墨があり、後にそれを消すのに骨折っていたが、生い立ったのは半田(はんだ)堅気(かたぎ)な旧家であり、等から見ると、一廉(ひとかど)の生活者のように見え、細いところに頭脳も能く働いたが、実は底ぬけのロオマンティストであった。

一区画 十千万堂塾はどこにあったのでしょうか。まず徳田秋声氏の年表から

明治二十九年(一八九六) 二十六歳
 十一月、博文館を退社。十二月、小栗風葉の誘いを受け十千万堂塾(詩星堂とも、紅葉宅と裏つづきの家)に入り、柳川春葉を加えた三人で共同生活。やがて田中凉葉、中山白峰、泉斜汀らが加わる。

明治29年 明治29年の『牛込区全図』で、赤丸は十千万堂(詩星堂)の場所です。したがって、十千万堂塾は箪笥町4から7ぐらいのいずれかでしょう。
 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997)で飯野二郎氏が書いた「神楽坂と文学」の「横寺町四七番地と箪笥町五番地のこと」を読むと、「ここ(箪笥町五番地)は神楽坂とは離れているが、紅葉宅と筆笥町の方は紅葉の庭から崖を下りて続きになったところで『紅葉塾』があったところである。塾の盟主小栗風葉徳田秋声外数人(前述)が同宿し、文学修業と若い文士の育成の場であった。ここに関係した文人たち皆の記録に当れば必ずや神楽坂界隈のことや明治文学の動向を知る資料があろうと思われるが、これは未調査であり後日にしたい」と述べています。しかし、文献はなく、どうして五番地になるのか、私にはわかりません。大家さんの言葉なのでしょうか。
 現在は4番地か5番地がよさそうに見えます。しかし当時の状況は全くわかりません。十千万堂
枝折門 しおりど。折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸。多く庭の出入り口などに設ける
 要。カナメ。カナメモチの別称。バラ科の常緑小高木、園芸植物
 カエデ科カエデ属の木の総称
濡縁 ぬれえん。外側に雨戸のない縁側。常に雨露にさらされる
飛石 とびいし。日本庭園などで少しずつ離して据えた表面の平らな石
一廉 ひとかど。ひときわすぐれている。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑥

文学と神楽坂


 全長三百メートルといわれるのは、恐らく坂下から以前の電車通り――現在の大久保通りまでの距離で、坂自体はそのすこし先が頂上だが、四階建てのビルに変貌しているパン屋の🏠木村屋は、いまもその先のならびにある🏠尾沢薬局🏠相馬屋紙店とともに土蔵造りで、そこの小判形をした大ぶりな甘食はげんざい市販されている中央部の凸起した円形の甘食より固めで、少年期の私が好んだものの一つであった。
 木村屋よりすこし先の反対側に、いまのところ店がしまっている婦人洋装店シャン・テがあって、そこと🏠宮坂金物店とのあいだの横丁を左折するとシャン・テの裏側に🏠駐車場があるが、かつてその場所には神楽坂演芸場という神楽坂最大の寄席があった。前記した「読売新聞」の「ストリート・ストーリー」にあるイラストマップには、その場所に『兵隊さん』の落語で鳴らした柳家金語楼似顔がえがかれていて≪私のフランチャイズだった≫と書き入れてあるが、私が出入りした時分にはまだ金語楼もかすんでいた。
 ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった。
 右角の宮坂金物店の先隣りはいまも洋品店の🏠サムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

距離 交差点「神楽坂下」から交差点「神楽坂上」までの距離
反物 大人用の着物を1着分仕立てるのに必要な布地
シャン・テ  国立図書館の住宅地図によれば、1976年、1978年には🏠カナン洋装店、1980年はシャンテでした。したがってシャンテで問題はないと思います。
3丁目(85)

木村 カナン シャンテ 宮坂金物店 駐車場 サムライ 三菱銀行 善国寺 本多横丁 近江屋 五十番 毘沙門横丁 裏つづき

イラストマップ 昭和51年(1976年)8月16日の読売新聞「都民版」から。絵はもっと拡大できます。
読売新聞(76/08/16)

うを徳 金語楼

 現状でいえばその先が🏠三菱銀行で、横丁の先が毘沙門さまの🏠善国寺だが、サムライ堂の前あたりに出た草薙堂という夜店の今川焼は私も好物で、『神楽坂通りの図』には≪三個で二銭、大きくて味が評判だった≫と記されている。少年時代のことで記憶があやしいが、三個で二銭とは逆に二個で三銭ではなかったろうか。他の店よりとびきり高価だったはずだが、それだけの価値はあった。形が大きかっただけではなく、ツブシアンとコシアンの二種があって、後者には白インゲンが混入してあった。その後、私はそういうものに一度も行き遭ったことがない。
 サムライ堂の向いにある横丁が筑土八幡前へぬけて行く🏠本多横丁――横関英一の『江戸の坂 東京の坂』や石川悌二の『東京の坂道』というような著書によると三年坂ということになるが、本多横丁の呼称は江戸切絵図をみると、そのあたりに本多修理の屋敷があったためだとわかる。いま左角は傘はきものの🏠近江屋で、右角が中国料理の🏠五十番だが、後者は加能作次郎が行きつけにしていたという豊島理髪店の跡で、その前に出たバナナの叩き売りは夜店の中で最も人気があった。最近テレビにショウとして出て来るバナナの叩き売りは関西系なのか、あんなゆっくり節をつけたお念仏みたいなものでは客が眠くなる。東京の夜店のバナナ売りの口上は、どこの土地にかぎらず、もっとずっと歯切れのいい早口の恐ろしく勇ましいものであった。
 本多横丁のはずれの右角はいま熊谷組の本社になっているが、その手前の右側の石垣の上には、向島に撮影所があったころの初期の日活映画俳優であった関根達発の家があって、幼稚舎一年のとき寄宿舎にいた私は二年のときから三、四歳年長だった関根達発の長男大橋麟太郎に連れられて通学した。筑土八幡の石段は戦前には二つならんでいたような気がするが、いまは一つしかない。

筑土八幡 つくどはちまん。東京都新宿区筑土八幡町にある神社。
江戸の坂 東京の坂東京の坂道 この横丁の坂は『江戸の坂 東京の坂』でも『東京の坂道』でも「三年坂」として書かれています。たとえば『東京の坂道』では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁日の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久土町へ抜ける長い坂。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久土町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし。」とし、また坂については「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁日の方へ下る。長さ五十七間、巾一間四尺より二間二尺に至る。」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りに結びつく商店街である。

「三年坂」と「本多横丁」を考えてみれば、かたや「坂」、かたや「街」なので、全く出所は違います。
本多修理 本多修理の邸地は本多横丁と接する場所にありました。本多修理は少なくとも本多家の二代から四代までが名乗っていました。
寛政四年

関根達発 セキネ タッパツ。生年は1883年1月17日。没年は1928年3月20日。俳優。日本映画草創期に活躍した二枚目俳優。新派俳優から日活向島撮影所、松竹蒲田撮影所に入社。退社後はマキノ・プロダクションの作品に出演。
筑土八幡の石段 筑土(つくど)八幡(はちまん)。新宿区筑土八幡町の神社。一時、神社の2社があったことがあります。元和2年(1616年)、江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、北の「八幡」と比較して南の「津久戸明神社」と呼ばれてきました。その後、第二次世界大戦で2社はどちらも全焼。北の八幡神社は現在でも当地に鎮座しますが、津久戸明神社は千代田区九段北に移転します。戦前では地図でも明らかなように石段も2つありました。明治時代も同じように2社がありました。
昭和5年牛込区全図から

津久戸明神(筑土八幡神社)、現在の新宿区筑土八幡町。 小沢健志、鈴木理生監修「古写真で見る江戸から東京へ」世界文化社、2001

 関根達発の家よりさらに手前の十字路は軽子坂上だが、その右側にある料亭🏠うを徳の初代が、泉鏡花の『(おんな)系図(けいず)』のめの惣のモデルだといわれている。
 🏠善国寺本堂の右横へ行くと毘沙門ホール入口と標示されていて、「毎月五日・二十五日開演神楽坂毘沙門寄席」と濃褐色の地に白い文字を染めぬいた幟が立っているが、ニカ所ある善国寺の石の門柱にはそれぞれ「昭和四十六年五月十二日児玉誉士夫建之」と刻字されている。戦前の境内には見世物小屋が立ったり植木屋が夜店を出したが、少年時代の私にとって忘れがたいのは本堂の左手にあった駄菓子屋で、そこで買い食いした蜜パンは思い出してもぞっとする。店主は内髪の老婆で、ななめに包丁を入れて三角に切った食パンに糊刷毛のようなもので壺の中の蜜を塗って渡されたが、壺や刷毛は一年になんど洗われたか。大正時代の幼少年は、疫痢でよく死んだ。
 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが🏠毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶三が下谷の(ばけ)横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちがいないが、ここから🏠裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

落籍 らくせき。抱え主への前借金などを払い、芸者や娼妓(しょうぎ)の稼業を止めること。身請け
うを徳 その写真は

うを徳
毘沙門寄席 現在も中身は変えながら続いています。たとえば毘沙門寄席

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

 1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし5月、94歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(84)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正10年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ1回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……。
観客席

観客席

 帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が10年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……。

文士が住んだ街

 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、7銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は50銭だったが、牛込館は20銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちゃ研究家の斎藤良輔さんも昭和5、6年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和4年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和10年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治39年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館2軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

 現在の リバティハウスと神楽坂センタービル。この2館が旧牛込館の場所に立っている。360°カメラです。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座


私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑤

文学と神楽坂


 第一章で屋号だけ挙げておいた鰻屋の🏠志満金は紀の善の筋向いにあって、五階建てのビルの地階は中華料理店になっているが、戦前には現在地よりすこし坂下に寄った、現状でいえば東京理大のほうへ入っていく道の両角にある花屋のうち、向って右側の花屋の位置にあって、玄関もその横丁の右側にあった。そして、私がまだ学生であった昭和初年代に学友とそこで小集会を催したときには、幹事の裁量で芸者がよばれた。私の記憶にあやまりがなければ、🏠紀の善にも芸者が入ったのではなかったか。絃歌がきこえたようなおぼえがある。
 いずれにしろ、戦前の神楽坂の花柳界は鰻屋やすし屋へ芸者がよべるような、気楽に遊べる一面をもっていた土地であった。むろん、どこの土地でも一流の料亭、芸者となれば話は別だが、駆け出しのころの田村泰次郎十返肇が神楽坂で遊べたのもそのせいである。

忘れがたき24日夜、神楽坂クラブに於て茶話会を催す。ご来会下さらば幸甚、会費10銭。発起人・堺利彦、藤田四郎。参会者・堺枯川大杉栄荒畑寒村ら21名神崎清、革命伝説より)。24日とは、明治44年3月24日のこと、この年の1月24日、幸徳秋水らの絞首刑が執行された。

 コーヒー店の🏠パウワウは志満金よりすこし坂上にあるが、荒正人恵与の『神楽坂通りの図』の余白部に横書きで右のように記入されている貸席の神楽坂倶楽部(?)は、パウワウよりさらに坂上の筋向い――とんかつ屋の🏠和加奈に触れたとき、その横丁の右角にあると書いた化粧品店🏠さわや(当時は袋物商の佐和屋)より三軒坂下にあった🏠靴屋と印判屋の浅い路地奥にあった様子である。木造の横羽目に白いペンキを塗った学校の寄宿舎のような建物で、路地の入口にも白地に黒で屋号を記したペンキ塗の看板が横にかけ渡されてあったような記憶が、私にもかすかにのこっている。


花屋 田口屋生花店です。田口屋生花店
芸者が入った 1927(昭和2)年、『大東京繁昌記』のうち加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「花街神楽坂」では「寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった」と書いてあります。
絃歌 げんか。弦歌。琵琶・箏・三味線などの弦楽器を弾きながらうたう歌。特に三味線声曲をさす。
路地奥 神楽坂倶楽部は1961年以前に旅館「かぐら苑」に変わり、さらに膨らんで現在は「ラインビルド神楽坂」になりました。また戦前の路地はおそらく「ラインビルド神楽坂」の向かって左側にありました。その後、戦後は一時右側になりますが、現在はこの路地はありません。細かくは神楽坂通り(2丁目北西部)で。

ヴェラハイツ神楽坂

2-3丁目の地図(1985年神楽坂まっぷ)

map志満金 田口 パウワウ 和加奈 さわや 路地 マーサ美容室 ジョンブル 坂
 昭和四十九年四月号の「群像」に私が『神楽坂考』という短文を書くために踏査した時点では、いま和加奈のある横丁の左角にあたる婦人服店の位置には🏠マーサ美容室があった。それほど新旧の交替は激しいが、震災前のたたずまいを復原した『神楽坂通りの図』をみると、その場所には ≪牛込三業会(旧検)≫とあって、≪旧検≫とは牛込三業会に対する神楽坂三業会の意をあらわす≪神検≫すなわち新検番に対する呼称だが、さらにその下部には≪歯医者 浴場≫とも書きこまれている。そして、神楽坂倶楽部の場合と同様に、地図の余白部には次のような註記がみられる。
石垣の上に浴場と歯医者があって、通称温泉山と云った。震災直後牛込会館となった。大正12年12月17日震災後、初めての演劇公演「ドモ又の死」「大尉の娘」「夕顔の巻」あり入場者は電車どおりまで並び、満員札止めとなる。のち会館は白木屋となる。

 白木屋は日本橋交差点の角にあった百貨店――現在の東急百貨店の前身で、神楽坂店はそこの支店であったが、舟橋聖一は『わが女人抄』中の『水谷八重子』の章で、彼女に最初に会ったのは≪大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古の日≫であったと記している。半自伝小説『真贋の記』ほかによれば、舟橋の母方の叔父が八重子の劇に出演していた俳優の東屋三郎と慶応の理財科で同級だったために、叔父の案内で東屋を訪問して彼女に紹介されたというのが実相らしいが、私も演目はなんであったか、神楽坂の検番をも兼ねていた牛込会館で八重子の舞台をみている。その折の記憶によれば、客席は畳敷きであったから、演劇興行のない日には芸者たちの日本舞踊の稽古場になっていた様子である。会館の入口は石段になっていたが、白木屋にかわると、その部分が足場をよくするために傾斜のある板張りになった。会館や白木屋は『神楽坂通りの図』にあるように高い石垣の上にあって、昭和年代に入ってから石垣は取り払われたが、その敷地は現状でいえば角の婦人服店から🏠ジョンブルというスナックのあたりまでだったようにおもう。


神楽坂考 この随筆は『断崖のはての空』に載っています。林原耕三氏の『神楽坂今昔』の間違いを直し、神楽坂を坂下から坂上まで歩くものです。
婦人服店 この場所にはマーサ美容室が昭和27年以前から1990年代まで続いていました。これからも20年もマーサ美容室が続いています。婦人服店はランジェリーシャンテと間違えていたのでしょうか。
実相  舟橋聖一の『真贋の記』(1967年)では
或る日、東京の築地小劇場から、手紙が来た。よく見ると、例の葡萄のマークはついているが、差出人は俳優の東屋三郎だった。東屋は慶応理財科の出で、慶吉の母方の叔父とクラスメートだった関係で、彼が汐見洋と共に、水谷八重子の芸術座に出演した頃から、楽屋をたずねたり、舞台稽古を見せてもらったりしていたのである。

ジョンブル ジョンブルは上の地図でも見えますが、白木屋の左端とジョンブルの左端が同じなのか。厳密に言うと違うと思います。

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)とジョンブル

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)

 なお、ジョンブルは相当長くまで生き残っていました。1992年、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出て、右側にはジョンブルの看板です。
神楽坂の写真

mapジョンブル

水谷八重子|舟橋聖一

文学と神楽坂

舟橋聖一氏の『わが女人抄』(朝日新聞社、1965年)の一節『水谷八重子』です。

 水谷八重子のことは四十年昔にさかのぼる。はじめて会ったのが、大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古(げいこ)の日だが、八重ちゃんの書いた「舞台ぐらし五十年」(「潮」四月号)によると、初舞台は大正二年とあるから、私の会う前が、まだ十年ほどあるのである。
 当時私は旧制高校時代だったが、私より一つ若い八重ちゃんのほうが、はるかに年上で、舞台ずれ、世間ずれしていたように思った。それもそのはず、初舞台以来、「闇の力」のアニューシヤ、「アンナ・カレーニナ」のセルジー、「人形の家」のノラ、「青い鳥」のチルチル、チェーホフ「かもめ」のニーナ、「野鴨」のヘドイッヒなどの舞台経験をして、すでに水谷八重子の名は天下に鳴りひびいていたのである。
 が、それにしても、なんという我がままで横暴で、人を食った女優だろうと、内心おどろいたものだ。「殴られるあいつ」の脚色は、吉田甲子太郎氏で、演出は小山内薫氏、あいつの役は、汐見洋だった。
 舞台稽古だから、客席は関係者ばかりで、どこへでも自由に(すわ)れる。この会館は寄席風で、花道はついているが、客席は(ます)になっていた。私は舞台ばなの、ごく近い桝に陣取って一日がかりで見物した。
 あのころの八重子は、大ぜいの男・男・男の中にまじって、汗まみれになったものの、どんな男をも傍へ近寄せない誇りがあって、それがひどく驕慢(きょうまん)に見えたのだろう。しかし。驕り高き女というものは、若い男にはすばらしく魅力的である。八重子の人気が、沸騰するのも無理ではなかった。
 やがて初日があき、私は一度ならず見物に行った。三度目には、紀伊国屋書店田辺茂一をさそって行った。彼はまだ慶応ボーイだったが、一目で八重ちゃんに()れて、さっそく結婚を申込んで、ことわられたという話がある。このとき、求婚の使者に立ったのが、田辺の姉さんであったことは、最近まで知らなかった。昭和三十九年三月末、新宿に紀伊国屋ビルが竣工(しゆんこう)し、その五階にある紀伊国屋ホールの初開場に、水谷が「島の千歳」を踊った時、はからずも楽屋でその話が出て、姉さんが昔話を披露したことから、表面化した。八重ちゃんも思わず微苦笑して、
 「こういう証人に出て来られては、アウトですね」
 と、四十年の昔を思い出す風であった。しかし、大正末期における水谷の存在と一慶応ボーイ田辺とでは、いわゆる吊鐘(つりがね)に提灯の感なきにしもあらずで、私は彼の求愛を、およそ大それた注文で、振られるのが当り前と思っていた記憶がある。が、その(かん)四十年相たち候のち、自分の店の自家用のホールに、その人を招いて、一卜幕踊らせた彼は、やっと長い心の欝屈(うつくつ)を晴らすことが出来たろう。

一つ若い 舟橋氏は19歳、水谷は18歳
 ます。劇場・相撲場などで、方形に仕切った観客席
驕慢 きょうまん。おごりたかぶって相手をあなどり,勝手気ままにふるまうこと
紀伊国屋書店 1927年(昭和2年)1月22日創業。創業者の田辺茂一は、書店業界の実力者で文化人。
竣工 工事が完了して建物できあがること。竣成。
島の千歳 しまのせんざい。おめでたい時に舞う長唄
吊鐘に提灯 形は似ていても重さに格段の開きがあり、外見はどうあれ、中身が似ても似つかないものの喩え
相たち候 あいたちそうろう。「時が立ちました」の古風な表現
一卜幕 ひとまく。幕を上げてから下ろすまでに舞台で演じる一区切り
欝屈 うっくつ。気分が晴れ晴れしない。心がふさぐこと

矢田津世子|神楽坂

文学と神楽坂

矢田津世子矢田(やだ)津世子(つせこ)氏の「神楽坂」です。1936(昭和11)年3月号の『人民文庫』に初めて上梓し、第3回芥川賞候補になりました。これは真っ先の、つまり一番の初めの一節ですが、花街が出てきます。問題は花街をどう曲がったのか、です。

 夕飯をすませておいて、馬淵の爺さんは家を出た。いつもの用ありげなせかせかした足どりが通寺町の露路をぬけ出て神楽坂通りへかかる頃には大部のろくなっている。どうやらここいらへんまでくれば寛いだ気分が出てきて、これが家を出る時からの妙に気づまりな思いを少しずつ払いのけてくれる。爺さんは帯にさしこんであった扇子をとって片手で単衣をちょいとつまんで歩きながら懐へ大きく風をいれている。こうすると衿元のゆるみで猫背のつん出た頸のあたりが全で抜きえもんでもしているようにみえる。肴町の電車通りを突っきって真っすぐに歩いて行く。爺さんの頭からはもう、こだわりが影をひそめている。何かしらゆったりとした余裕のある心もちである。灯がはいったばかりの明るい店並へ眼をやったり、顔馴染の尾沢の番頭へ会釈をくれたりする。それから行きあう人の顔を眺めて何んの気もなしにそのうしろ姿を振りかえってみたりする。毘沙門の前を通る時、爺さんは扇子の手を停めてちょっと頭をこごめた。そして袂へいれた手で懐中をさぐって財布をたしかめながら若宮町の横丁へと折れて行く。軒を並べた待合の中には今時小女が門口へ持ち出した火鉢の灰を(ふる)うているのがある。喫い残しのが灰の固りといっしょに惜気もなく打遣られるのをみて爺さんは心底から勿体ないなあ、という顔をしている。そんなことに気をとられていると、すれちがいになった雛妓に危くぶつかりそうになった。笑いながら木履(ぽっくり)の鈴を鳴らして小走り出して行くうしろ姿を振りかえってみていた爺さんは思い出したように扇子を動かして、何んとなくいい気分で煙草屋の角から袋町の方へのぼって行く。閑かな家並に挟まれた坂をのぼりつめて袋町の通りへ出たところに最近改築になった鶴の湯というのがある。その向う隣りの「美登利屋」と小さな看板の出た小間物屋へ爺さんは、
「ごめんよ」と声をかけて入って行った。
昭和5年「牛込区全図」矢田津世子
順路 通寺町の露路→神楽坂通り→肴町の電車通り→毘沙門の前→若宮町の横丁→袋町。赤色は「爺さん」が実際に歩いた場所です。橙色で囲んだ所は花街です。「若宮町の横丁へ」回らないと花街もないのです。たとえば青色の藁店(わらだな)を通っても花街はまったくありません。この歩き方は花街を歩く歩き方なのです。
単衣 ひとえ。裏地のない和服のこと。6月から9月までの間にしか着られない
 えり。首を取り囲む所の部分
抜きえもん 抜衣紋。和服の着付け方。後襟を引き下げて、襟足が現われ出るように着ること
尾沢 尾沢薬局がありました
こごめる こごむ。屈める。からだを折り曲げる。こごむようにする。かがめる
待合 男女の密会、客と芸妓の遊興などで席を貸し、酒食を供する店
 たばこ
雛妓 すうぎ。まだ一人前ではない芸妓。半玉(はんぎょく)
木履 ぽっくり。少女用の下駄の一種。祝い事の盛装や祇園の舞妓の装いに用いる。
ぽっくり小間物屋 日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐などを売る店
鶴の湯 火災保険特殊地図(都市製図社、昭和12年)によれば、袋町24に「衣湯」がありました。

藁店(わらだな)を横切って袋町にいく順路もありますが、しかしこの場合、花街はどこにもありません。花街がない神楽坂なんて考えられません。若宮町の横丁を通って初めて花街にいける。小説では最初の一節で花街の色香がでてくる。この場合にOKなのです。

神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形1

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。

場所は赤井寿徳庵山田紙店紀の善神楽小路琴富貴茶話会志満金神楽坂倶楽部温泉山浴場旧検靴屋と印判屋佐和屋軽子坂紀の善横町末よし田原屋

田原屋 金満津 赤井 寿徳庵 山田紙店 紀の善 神楽小路 紀の善横町 琴富貴 茶話会 志満金 神楽坂倶楽部 旧検 浴場 温泉山 佐和屋 靴屋と印判屋 軽子坂 末よし

古老の震災前1
牛垣雄矢氏の「東京の都心周辺地域における土地利用の変遷と建物の中高層化」(地理学評論。2006。79:527-41、https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/79/10/79_10_527/_pdf)では、「同資料の『震災前』の時期については、記載されている商店名と、東京市役所(1929)『東京市商工名鑑』に記載されている商店名と開業年を照らし合わせた結果、おおむね1922年頃であると考えられる」と書いています。1922年は大正11年です。

神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形2

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。
古老の大震災の前2

春月 ほていや 木村屋 尾沢薬局 相馬屋紙店 煙草屋 盛文堂書店 宮坂金物店 婦人洋装店 サムライ堂 味が評判 本多横丁 豊島理髪店 善国寺 うを徳 毘沙門横丁 裏つづき 草薙堂 田原 田原屋 東京貯蓄銀行 カフェー・オザワ 地蔵坂 光照寺 増田屋 浅井 路地奥 川鉄 八百文 恵比寿亭 文士 丸屋 機山閣 河合陶器店 尾張屋銀行 鶴亀亭 柳水亭 牛込館 神楽おでん 武田芳進堂 誰が袖 大久保通り 裏側一帯

木村屋 尾沢薬局 相馬屋紙店 煙草屋 盛文堂書店 宮坂金物店 婦人洋装店 サムライ堂 本多横丁 豊島理髪店 善国寺 草薙堂 うを徳 毘沙門横丁 裏つづき 田原屋 田原コメント 裏側一帯 東京貯蓄銀行 カフェー・オザワ 地蔵坂 光照寺 路地奥 川鉄 八百文 恵比寿亭 川鉄の解説 丸屋 機山閣 河合陶器店 尾張屋銀行 鶴亀亭 柳水亭 牛込館 神楽おでん 武田芳進堂 大久保通り

私のなかの東京|野口冨士男|1978年④

文学と神楽坂

         *
 牛込見附神楽坂下といったかつての市電停留所から神楽坂をのぼる右角には 赤井という足袋屋があって、ずんぐりした足袋の形をした白地の看板には黒い文字で山形の下に赤井と記されていた。そのため幼少期の私は赤い富士山とおぼえていたもので、足袋の専門店であったその店は、げんざい屋号も🏠アカイと改称してネクタイやワイシャツを商品とする洋品店に変更しているが、左角の土蔵造りの 寿徳庵という和菓子舗の跡は🏠パチンコ店になっている。土蔵造りに腰高のガラス戸がはまっていた店構えは昭和年代まで残っていたものだし、現在でも府中とか川越などへ行ってみるとそんな店舗を見かけるが、東京に生まれ育った私は、そんな小都市へ行って、少年として自身がすごした大正時代へのノスタルジーをおぼえさせられる。
パチンコ店 パチンコニューパリーでした。

なお、🏠は1978年で当時の建物か、1985年の「神楽坂マップ」で当時の建物、☞は新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)で関東震災前の建物や説明です。
 また下の『神楽坂まっぷ』(神楽坂青年会、1985)は文章と比較的に同じ時期に作成された地図です。🏠アカイと🏠パチンコ店はここに出ています。

坂下の地図(1985年神楽坂まっぷ)

アカイ パチンコ 山田紙店 地下鉄 紀の善 神楽小路 佳作座

 右側の三軒目にある🏠山田紙店は文房具屋になっていて、私はそこへ原稿用紙を買いに入ったとき、大学生の行列が出来ているのをみて何事かとおもったが、期末試験にちかい時期で、コピイサービスとよばれている複写のためにならんで順番を待っているのだとわかった。他人のノートを借りて自分で筆写もせずにコピイをとるところに現代学生気質があらわれているのかもしれないが、それを慨歎しない私も現代の風潮に染まってしまっているといわねばなるまい。二十名ほどの人数だったとおもうが、不思議なことに、女子学生は一人もいなかった。女子はマメなのか、ケチなのか、そういうことになると私にはわからない。
 山田紙店のむかって左側が🏠地下鉄有楽町線飯田橋駅への通路になっているが、その一軒おいた先隣りにあるしるこ屋の 🏠紀の善は、もと二階座敷まであった神楽坂では名代のすし屋であった。そして、その横丁はいま 🏠神楽小路と名づけられた飲食店街になっているが、突き当りは神楽坂と平行している軽子坂の登り口で、右角に特選名画の上映館🏠ギンレイがあって、横丁の側に入口のある地階の🏠シネマサロンくららではピンク映画が上映されている。映画館はそのほかにも至近距離にもう一軒外濠通りの🏠佳作座があって、日曜日に前を通ったら観客が行列していた。不振といわれる映画興行にも、フィルムによっては行列が出来る。
 神楽坂界隈の興行ものとしては、以上三館のほか毘沙門さまの本堂半地下で毎月二日間だけ催される定期寄席があるきりで、のちにのべる震災前後の神楽坂全盛期にあった一つの劇場と、五軒の寄席と、二つの映画館と、和菓子舗の寿徳庵のならび――外濠通りの市ケ谷寄りにあった娘義太夫の定席琴富貴などは、跡形もなく消え去ってしまった。ほかには、いまのところデパートもないので、神楽坂には他土地から客を吸引できる力があるわけはない。年に何回かはかならず出かける私のような人間は、恐らく例外中の例外だろう。そんな神楽坂がなぜ日曜日には歩行者天国になるのか、結果論としては不思議なほどである。

1985年「神楽坂まっぷ」の神楽小路

ギンレイ ギンレイホールは、1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら 地下の成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。劇場 横寺町の芸術倶楽部は関東大震災の時にはアパートになっていたので、これではなく、牛込会館でしょう。
寄席 牛込演芸館(神楽坂演芸場)牛込亭柳水亭(勝岡演芸場)がすぐにでてきますが、ほかの2軒はわかりません。わら店(和良店)は色ものですが、大正3年から映画館の牛込館になっていました。『風俗画報』の統計(明治35年)には寄席五軒となっていますが、普通は戦前で三軒と数えます。
映画館 文明館牛込館です。

神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

ギンレイホール くらら 軽子坂

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
琴富貴 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」では
 手前ども(赤井屋商店)の向い側に『琴富貴』という小さな貸席がございました。経営者は高原さんという人でタレギタ、即ち娘義太夫の常打ちの席でした。席は夜はじまりますので昼間あいておりますから、ここも近所の子供達の遊び場所になっていました。高座に御簾(ミス)が掛っていますので、面白がって上げ下げして留守番の人にえらく叱られたこともあります。ここではよく雨戸をしめて幻燈をやって遊びました。2階は貸席ですが1階は飯屋と甘酒屋になっていました。然しなんといっても子供達が集る中心は毘沙門様の境内でした。

なお、琴富貴は「ことぶき」と読むようです。タレギタとは噺家などが使う隠語で、女義太夫と同じ意味です。また、「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」にも出ています。

逆転式一方通行

文学と神楽坂

 神楽坂通りの逆転式一方通行はいつ始まったのでしょうか。まず逆転式一方通行についてですが、『神楽坂 まちの手帖』第7号(2005年1~3月)を読むと

 角栄伝説は生きている!
出田竜祐 
明治大学政治経済学部経済学科4年

 神楽坂通りには伝説が生きている。
 一方通行がある。午前中は早稲田から飯田橋方面に車が流れる。だが午後になると、車の流れが逆になる。
「こんな交通規制の道路は、他に聞いたことがない」と誰もが言う。両幅は約5メートル、車2台が通れる道路の両脇には商店が軒並み並んでいる。
 神楽坂通りには、ある大物政治家との噂がある。その政治家の名は故田中角栄元内閣総理大臣だ。
 この通りは、田中氏が目白の自宅から国会に登壇する時の通勤ルートにあたり、田中氏が幹事長時代に、目白からの出勤時には下りの、退勤時には上りの一方通行にしたという根強い噂がある。
 讐視庁牛込署交通課の方に話を訊いた。
「通行は自動制御で正午に切り替わるが、午後1時までの一時間は歩行者専用道路になる。なので、自動車同士の正面衝突はまず起こらない」
 ここ数年は交通事故も起こっていないとのことだ。
「神楽坂下」交差点付近に店を構える写真屋の方とも話してみた。
「それが当然で特に不満もありません。運転する方くらいは困っているのではないのでしょうか」
 まったく気にしていないようだ。前出の交通課の方は、
「歴史溢れる細い通りが幾つもある商店街を、街の人々と守っていくのです」
 神楽坂通は、この街と舞妓を愛した田中角栄の伝説とともにずっと在り続けていくのだろう。

 ウィキメディアでは

 実際の理由としては、急激な交通量の増加で規制を求める声が上がり、その最中に通り沿いの陶器店に車が突っ込む交通事故が発生、これが元で規制が行われたものの周辺で大渋滞が発生したことから、1956年(昭和31年)に都心から西側の住宅地に向けた一方通行となり、1958年(昭和33年)に現在の逆転式一方通行になった。
◆東京新聞 2012年6月6日朝刊最終面
東京トリビア「時間帯で一方通行が逆転 神楽坂に角栄伝説」

 朝日新聞では逆転式になったのは1961年5月になっています。(朝日新聞、2016年11月3日朝刊)。

 2007年、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、

 このころの神楽坂通りは対向通行であり、車道を狭くするため歩道がつくれなかった。いまのように安心して歩道を歩ける状況ではなかった。昭和38年(1963年)ごろ、町では一方通行と歩道をつくる運動を始めている、安心して買い物のできる歩道づくりのために、神楽坂通り商店会による新宿区役所や本庁交通二課への陳情をおこなった。市会議員の中村俊二の尽力で、歩道工事着工が決まった。通りの側溝の上にあった段差のある御影石を取り除き、歩きやすい歩道かできあがったのである。昭和二年から石に滑り止めの筋を入れて舗装に使われていた御影石は、側溝のふたに使われた。
 そんなおりに、神楽坂二丁目の陶器店「陶柿園」で、一方通行下りの車の突入事故が起きたのである。その結果下りは危険だということで、車は上りの一方通行になった。それからの飯田橋の五差路や大久保通りが渋滞するのは、神楽坂が一方通行にしたためであると大手新聞社の投書欄に大きく掲載された。このように狭い道路での渋滞は深刻さを増し、交通公害も問題になりはじめて、道路にもそれぞれの規制をもうけるようになった。
 神楽坂通りは、午前は坂を下り、正午から一時間のランチタイムは歩行者天国。そして午後は坂を上る。これは逆転一方通行という全国でもまれな通りになった。また日曜、祭日は、正午から午後八時まで歩行者天国となった。だが、この決定は通り商店会や町会になんの相談もなく警察署から通達されただけだという。これは陶柿園への突入事故が上下通りの入れ替えのきっかけとなり、渋滞解消も合わせた妙案として検討されて決定された事項ではないだろうか。
 この方式は、昭和54年(1979)4月1日より、九段から神楽坂通りを経て、神楽坂駅矢来出囗の矢来町126番地まで延長され現在にいたる。これが決まったのは、神楽坂をこよなく愛した故田中角栄元首相の影響力ではないかと噂されていた。この件でテレビ番組の取材も神楽坂商店街の数軒にあった。日白にある田中邸から毎朝、神楽坂通りをぬけ永田町へ行くのが最短で大変都合が良い。また永田町からの帰りに上りの一方通行になればなお結構であると、角栄元首相の鶴の一声で決定されたのではないかというのである。
 このまことしやかな話が一人歩きするのも、当時の角栄の実力を象徴していて説得力がありそうにみえる。だが、この方式がスタートした昭和五十四年は、当時角栄はロッキード事件の渦中にあったし、また渋滞の苦情は新聞投書で大きく報じられ、ただちに午前と午後の逆転通行に決定されている。とても角栄先生におうかがいをたてるような状況下でも案件でもなかったのである。全国でもめずらしいこの一方通行は、午前中は、都心に向かう通勤車両が多いので九段方向への一方通行となり、午後は、とうぜん逆転となったことか理由のようである。

車の突入事故 昭和31年に起こりました。

 また2011年、市ケ谷経済新聞では

「神楽坂がまるごとわかる本」の著書がある渡辺功一さんは「以前の神楽坂通りは対面通行だったが、歩道を作るにあたり車道が狭くなることから一方通行に変わった」と話す。しかし、一方通行にしたことで大久保通りなどは渋滞。当時、朝日新聞の投書欄には大々的に「神楽坂通りの一方通行は不便で困る」との声が寄せられた。これにより、「逆転式一方通行」が誕生。「このような通りは都内では唯一、日本でも唯一と言っていいだろう」と渡辺さん(「田中角栄」説は本当?-神楽坂「逆転式一方通行」誕生の経緯。2011年02月12日)

 ウィキメディアによれば、昭和31年(1956年)に一方通行、1958年に現在の逆転式一方通行になり、朝日新聞では逆転式は1961年5月になっています。一方、渡辺功一氏は昭和54年(1979)4月1日に、広範囲の逆転式が始まったと書かれていますが、一方通行や狭い逆転式一方通行はいつ起こったか、時期は全く触れてはいません。また、K氏によれば「逆転式の導入は昭和35年(1960)から1962年の間、遅くとも昭和42年(1967年)までと推測できます」(下の投稿欄)といっています。
逆転式一方通行の延長
逆転式一方通行・再考(写真)

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

私のなかの東京|野口冨士男|1978年①

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』「神楽坂から早稲田まで」は昭和53年(1978年)に「文學界」に書かれています。やはり「神楽坂」から「早稲田」までを描いています。

神楽坂から早稲田まで

 神楽坂もまた戦災によっていったん亡滅したのち、戦後に再生した市街の一つである。東京の繁華街では、もっとも復興のおくれた街路の一つといったほうがより正確だろう。が、よしんば戦後いちはやく立ち直ったとしても、あるいはまた戦災をまぬがれたとしても、神楽坂の繁華街としての命運は、いまからいえばすでに半世紀前に尽きていた。

 私達は両側の夜店など見ながら、ぶらくと坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車の線路増設や停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。

『大東京繁昌記=山手篇』におさめられている、加能作次郎の『早稲田神楽坂』の一節である。文中の≪坂≫は神楽坂で、≪見附≫は牛込見附だから、≪停車場≫が現在の国電飯田橋駅であることは言うまでもない。
昭和二年に書かれたこの文章には、その工事中のありさまが写し取られているわけで、≪位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中≫と記されているように、現在の千代田区側からいえば左手の直下にみおろされる濠ぞいの位置にあった牛込駅が廃されて、千代田区と新宿区とをむすんでいる牛込橋の右手前にあたる現在の場所に飯田橋駅が開業したのは、昭和三年の十一月五日であった。
江戸期まで、両側が武家屋敷と寺院によって占められていた神楽坂通りが商店街となったのは維新後で、毘沙門さまとしてしたしまれている坂上の善国寺の縁日に夜店が出るようになったのは明治二十年以後だが、≪東京で縁日に夜店を出すようになったのはここがはじまり≫だと、昭文社版エアリアマップ『東京みてあるき地図』には記されている。その後、夜店は縁日にかぎらず夜ごと通りの両側を埋めるに至ったが、下町一帯を焼きつくした大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれたのは、飯田橋駅の開業に前後している。
飯田橋駅ホーム下の飯田堀がわずかな水路をのこして埋め立てられたことは、第一章でも触れておいた。そこには高層ビルの建設が予定されているとのことだから、ビルの収容人員いかんによっては神楽坂に昔日の繁栄がもどる日もないとは断じきれないが、たとえば霞が関ビルほか多くのビルを擁する虎ノ門一帯にしろ、日没後の人通りは絶える。神楽坂の場合は、どうであろうか。
関東大震災後のきわめて短い数年間を頂点に、繁華街としての神楽坂という大輪の花はあえなくしおれたが、いまも山ノ手の花の一つであることには変りがない。そのへんが、毘沙門さまをもつ神楽坂に対して金毘羅さまをもつ虎ノ門あたりとの相違で、小なりといえども花は花といったところが、現在の神楽坂だといえるのではなかろうか。
開けっぴろげな原宿の若々しい明るさに対して、どこか古風なうるおいとかすかな陰翳とをただよわせている神楽坂は、ほぼ対極的な存在といってまちがいないとおもうが、将来はいざ知らず、現状に関するかぎり、その両極のゆえに私の好きな街の双璧といってよい。この両者の対置関係は六本木と人形町についてもほぼ同様にいえるかもしれないが、裏側に花街があるというだけの理由で神楽坂に下町情緒をみとめる人に、私は同意しかねる。本郷台をあいだにはさんで近接している下谷池之端と白山の花柳界には、下町と山ノ手の明らかな相違がある。神楽坂は山ノ手でしかないし、私はそれでいいとおもう。

亡滅 ぼうめつ。滅亡と同じ
半世紀前 関東大震災が終わって数年後の昭和初年ごろに終わったと考えます
東京みてあるき地図 昭和59年に発行。毘沙門天については

毘沙門天 国電飯田橋、地下鉄東西線神楽坂下車
神楽坂に繁華街ができるもととなった社で、正しくは善国寺毘沙門堂という。この寺は文禄4年(1595)に池上本門寺の日惺土人によって麹町に屹立されたが寛政4年(1792)火災にあって、神楽坂に移転してきた。本尊は高さ約30センチの木彫の毘沙門天。東京で縁日に夜店を出すようになったのはここがはじまりという。

劫火 こうか。ごうか。世界が壊滅する時に、この世を焼き尽くしてしまう大火
飯田堀 第一章の「外濠線にそって」では「反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある」と書いてあります。

飯田橋 夢あたらし

東京都の『飯田橋 夢あたらし』。外堀通りの水辺に家が沢山建っていました。

高層ビル ラムラ(RAMLA)が飯田堀にできました。住宅棟と事務棟の2棟からできており、事務棟は20階です。
金毘羅 金刀比羅宮。ことひらぐう。ここでは東京都港区虎ノ門一丁目にある神社
虎ノ門 虎の門に花街はなさそうです
六本木と人形町 六本木と原宿は若々しい明るい繁華街、人形町と神楽坂は古風な情緒にあふれる花街にあたりそうです。
下谷池之端と白山の花柳界 池之端は下町、白山は山の手です。2つの花街の気っ風がやはり違います。

城跡と色町

文学と神楽坂

 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)で、新宿のいろいろな事柄を書いています。この文章は色町たる神楽坂を描いています。

城跡と色町(昭和47年1月)

 「お元日ね、そりゃ忙しかった。ご祝儀は背中に入れてもらうんです。家に帰ってね帯をほどくとバサって落ちるほど」
 神楽坂の待合のおかみ(元芸者・60歳)は全盛時代を振り返る。三業地待合、料理屋、芸者屋の三種の営業が許可された区域)といえば、新宿区内ではまずここがあげられる。だが戦後、町の賑わいは昔日のそれと比すべきもない。三業地そのものが、バー、キャバレーに押されたのも原因だろう。
 もっとも、牛込警察署は、45年秋の交通安全運動で、安全PR用冊子をドライバーへ手渡すのを芸者さんに頼んだほどだから、同署ではまだ、その色気の及ばす効果について、深い関心を寄せているに違いない。
 ここは明治中期から盛んになった所だが、当時その道の案内書のランク付では、一等地は柳橋、新橋で、神楽坂は四等地。が、善国寺(俗に毘沙門さま)の縁日もあって、山の手随一の景況だった。
 昭和初期に至り、その隆盛を新宿駅周辺に奪われ、また、関東大震災の被害を受けなかったので「空襲も大丈夫とタカをくくった」(町の古老)結果、焦土と化し復興も遅れた。ちなみに、昭和4年の芸者の数619、44年12月調べでは171。
 ところで、ここは新宿区内で古い歴史を持つ。およそ400年前には、小田原・北条氏の家臣牛込氏がおり、神楽坂通り北側高台には牛込城があったという。神楽坂5丁目の一部は、家康江戸入国前から町屋があった。北条氏滅亡後、牛込氏は徳川氏に従い、城も廃されたのであろう。
 洋の東西を問わず、城には怨念が漂い、色町は脂粉にまつわる人間模様の舞台となる。その命運において、城跡と色町は何か因縁めくのである。


北側高台 袋町にありました。北側ではないと思う。
脂粉 べにとおしろい。転じて、化粧。

 さて、この文章は簡素なものですが、問題は同時に付く写真です。下の「大正時代の神楽坂通り」はどこなのでしょうか。左手の前方には「琴三味線洋楽器」が見えます。続いて「正確なメガネ」が見え、さらに後方には「ほていや」が見えます。新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば「ほていや呉服店」はかつて肴町(現、神楽坂5丁目)にありました。しかし、これ以外はなにもわかりません。

大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます

 では、岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」の肴町(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)を見てみると、

L

 昭和五年頃、「ほていや」は同じように出てきますが、他に昭和5年頃に「菊岡三味線」が出てきます。写真に出てくる「琴三味線洋楽器」はこれではないでしょうか。しかも、店舗には「岡」の文字が浮かんでいます。その右側に「菊」もすこしだけ写っています。
 さらに逆さまの「岡菊」の隣の店舗は「本」を売っているのではないでしょうか。これは上の写真で店舗には機山閣(KIZAN-KAKU)と書いていると思います。

拡大図(本と三角堂)

 また、神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「三角堂」というめがね屋もありました。右端に「三角」が出ています。店舗の上にも「堂角三」と書いてあるようです。
 もう一つ、虫眼鏡を使って見ていきます。左側から「ほていや」の一軒隣は濱田メリヤス。その次が上田屋履物店。巨大な矢印は? ほかには何もないので不明。〇に翼の生えたようなマークは有名なブランドか、と地元の方。その川崎第百銀行があり、キリンビールがあるのは田原屋でしょう。望楼、つまり遠くを見るための高いやぐらがある建物は不明ですが、白十字か恵比寿亭かも、と地元の方。

大正時代の神楽坂通り

 以上、この写真は肴町(現、神楽坂5丁目)から坂下の方向を見た写真だと思っています。

浄瑠璃坂|砂土原町(360°カメラ)

文学と神楽坂

 浄瑠璃坂の地図はここで。浄瑠璃坂はJR市ケ谷駅と飯田橋駅のちょうど中間に位置し、この付近は高額マンションが並び、比較的静かな地域です。ここでは名前の由来に限って話を進めます。つまり浄瑠璃坂の仇討については別に。

 最初に夏目漱石の俳句で

雨がふる浄瑠璃坂の傀儡師(明治29年、「漱石全集」句番号662)

傀儡師 人形を使って諸国を回った漂泊芸人のこと。特に江戸時代、首に人形の箱を掛け、その上で人形を操った門付け芸人。
門付け 人家の門前に立って音曲を奏するなどの芸をし、金品をもらい受ける事や人。

 浄瑠璃坂の標柱は坂下にあります。

じょう  坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文12年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。


あやつり浄瑠璃 操り浄瑠璃。三味線を伴奏とした浄瑠璃に合わせて、人形を操る芝居。
光円寺 浄瑠璃坂の仇討から200年が流れ、万延元年(1860年)の『礫川牛込小日向絵図』では当然ですがすでに光円寺はわからなくなっていました。しかし、横関英一氏はこの光円寺について調べています。あとで見ます。
浄瑠璃世界 [仏教]薬師如来の浄土。地は瑠璃から成り、建物・用具などがすべて七宝造りで、無数の菩薩が住んでいる世界。薬師浄土

横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)の「再考 浄瑠璃坂」では、標柱で書いた①②以外に③④があります。

1. 昔この坂の上に、操り浄瑠璃の芝居があったとするもの。(紫の一本)
2. この坂の近くに、天台宗の光円寺というお寺があって、その本尊は薬師瑠璃光如来で、須弥山の東方浄瑠璃国の教主であるということから、この坂を浄瑠璃坂と名づけたとするもの。(江戸砂子
3. 水野土佐守の長屋が六段になっていたので、浄瑠璃になぞらえて、この坂を浄瑠璃坂と呼んだとするもの。(江戸鹿子)
4. 水野の屋敷が六段になっていたので、浄瑠璃坂と名づけたのだというが、水野家の屋敷がこの坂にできる前からこの名はあったのだ。水野家の屋敷がないころは、六段の長屋もなにのであるから、この六段の長屋によって、坂の名前ができたという説は疑わしいとするもの。(新編江戸志)

 さらに、山野勝氏の『古地図で歩く江戸と東京の坂』(日本文芸社)では、これを詳しく説明し

 浄瑠璃坂の坂名の由来には諸説ある。①昔、この坂上に操り人形浄瑠璃の芝居小屋があったからという説。②かつて、坂の近くに天台宗・光円寺という寺があり、その本尊は薬師如来だったが、この如来は須弥山にある東方浄瑠璃国の教主であることから浄瑠璃坂の名が生まれたという説。③切絵図に見えるように、坂の南東に和歌山藩付家老・水野土佐守(3・5万万石)の上屋敷があり、屋敷の長屋が坂に沿って6段になっていた。ここから浄瑠璃の6段にかけて浄瑠璃坂と呼んだという説。④いやいや、浄瑠璃坂という地名は水野家の屋敷ができる前からあって、実は坂そのものが6段に波うっていて、六段坂と呼ぶべきを浄瑠璃の段になぞらえて浄瑠隅坂といったとする説などがある。

 大石学氏の『坂の町 江戸東京を歩く』(PHP研究所)では「坂名の由来に三つの説」があるとして

『東都紀行』には「(そもそも)此坂をかく云事は、紀州之御家司(けいし)(家臣)水野氏が、長屋の六段(ある)が故とかや、此浄瑠璃と云(きよく)(中略)六段宛に作り出す故、此坂の名も呼付けり」と、水野氏の長屋が六段あり、浄瑠璃が六段編成であることにかけたためとの説をあげている。
 しかし『紫の一本』によると、「浄瑠璃坂、おなじ片町の内、田町といふ町よりあがる坂をいふ、むかし此坂のうへにて(あやつり)浄瑠璃の芝居ありし故名とす、今水野土佐守の長屋六段あるゆゑ、浄瑠璃の六段によみかへて名付けたりといふ、嘘説なり」と『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃の芝居小屋があったことにちなむとする説をあげている。
 同様に『江戸砂子』では、「むかし此坂のうへに浄るり芝居ありしゆへの名也といふ。又水野家のやしき六段にたちしゆへにいふとも。しかし水野家のやしき此所になきまへよりの名なりと云」と、やはり『東都紀行』の説を否定し、浄瑠璃小屋の説をとっている。
 ただし時代が下って出された『続江戸砂子』では、「浄るり坂の事、前板の説とりがたし。考るに天台宗光円寺此所にちかし。かの寺の本尊薬師は、むかし諸人はなはだ信仰深かりし霊仏なりとかや。梅林坂より牛込へ寺をうつされしは元和(げんな)のはじめなりとあれば、東方浄瑠璃世界の主なるかゆへに薬師によりて浄るり坂といひたるかしらず」と、坂の近くにあった光円寺の本尊である薬師瑠璃光如来からの説をあげている。
 つまり浄瑠璃坂の由来には、①水野氏の長屋説、②浄瑠璃の芝居小屋説、③薬師瑠璃光如来説、これら三つの説があることになる。

 さて、横関英一氏の「再考 浄瑠璃坂」によれば、丸の中に「水ノツシマ」と書いてあり、水野土佐守(3.5万石)の上屋敷を示し、その上の階段と矢印は浄瑠璃坂を示すといいます。

新板江戸外絵図

寛文12年(1672年)

 また、横関英一氏は光円寺を探し当てます。

問題の光円寺というお寺を探すと、薬竜山正蔵院光円寺という寺があると思う。天台宗で正蔵院といったほうが有名で、本尊は草刈薬師である。しかも長禄年間千代田村に創建し、いまの地に移ってきたのは元和元年であったという。いまの地というのは、牛込は牛込だが、もとの牛込通寺町で、今日の新宿区神楽坂六丁目の正蔵院ということになるので、通寺町では距離からいっても、浄瑠璃坂からはあまりにも離れすぎている。

 実は江戸時代では決して遠くはないと思います。これぐらいなら簡単に行って帰ってくると、当時の人は考えます。しかし、これから横関氏は正蔵院は関係はないとして、結論として第四の説が正しいとします。

 この4の説はいちばん正しいと思う。この坂の名は、水野屋敷が六段になっていたので、その六段から浄瑠璃坂の名ができたのではなく、水野屋敷がここにできる前から、浄瑠璃坂という名はあったのだというのである。してみると、六段は水野屋敷が六段になっていたということではなくて、坂そのものが六段になっていたのだということになるが、それは大事なことである。
 九段坂だの五段坂だのという坂の名は、決して坂のそばの屋敷の造りの段数によって、唱えられたものではない。少なくとも、初めは段坂そのものの段数によったものであって、それが坂の名になったのである。浄瑠璃坂の名前も、段坂の数によって、六段坂と呼ぶべきを、浄瑠璃坂としゃれたのではないだろうか。

 ちなみに、古浄瑠璃までは6段の構成が主流でした。現在は5段の構成です。日本芸術文化振興会の文章を簡単に書くと「初段は事件の発端を書き、二段目は善と悪との争いで、三段目は善の抵抗とその悲劇、四段目には雰囲気が変り、悪の末路を示し、五段目は、秩序の回復と大団円」で終わるようです。


芥坂|鷹匠町と砂土原町

文学と神楽坂

 芥坂(ごみざか)です。都内には沢山の芥坂がありますが、ここでは新宿区の鷹匠町と砂土原町との間の芥坂を取り上げます。場所はここ

 まず横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中央公論社、昭和56年)では

 芥坂と鉄砲坂とは、特別に関連はないのだが、ただともに坂路の崖下の特徴をつかんで、施設され、活用されているところが似ているのである。芥坂はその崖下に芥捨場ができていた。それから鉄砲坂は、崖下に特別な施設をした幕府の鉄砲練習所があった。坂を利用した施設と言えば、これら二つのもの以外にはなかったようである。もっとも、展望のよい坂の上などを利用して、火の見櫓を立てて、そこへ火消屋敷を施設したということはあるが、それが坂の名になったものは一つもない。小石川伝通院前の安藤坂の定火消屋敷、市ヶ谷左内坂上、駿河台紅梅坂上、溜池の霊南坂上などの火消屋敷が、この例である。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

芥坂(ごみざか) 鷹匠町二番と砂土原町一丁目二番の間を長延寺町へ南下する石段坂。芥坂という坂名は江戸の坂にすいぶん多く残っている。文字通り芥捨て場にした坂であろうが、痩嶺坂、蜀江坂というような漢学流に凝った坂名より、むしろ何気なくつけられたまま何百年もそれが呼名として現存しているのが、かえって親しみやすい気がするのである。今でもちょっと裏町の坂路には塵芥のポリバケツが坂下などに集積されていたり、小型トラック、中古自動車などが片側にならんで置かれてたりして、カメラの邪魔になって腹立しい気がすることもあるが、それは昔も今もさしたる変わりはなく、裏町の坂が芥捨ての場であったり、夜泣きそばの屋台車などがひっそりとおかれていたのであろう。
 この芥坂の下は大日本印刷の工場の片隅であるが、坂上は高級住宅のならぶ道である。鷹匠町という町名はここが江戸時代には御鷹匠組の組屋敷だったためで、「府内備考」に「鷹匠町 昔御鷹匠の組屋敷ありしといふ。」と記されている。

地図の芥坂

地図の芥坂


 現在、芥坂の一部が残り、残りは「ごみ坂歩道橋」になっています。

 道家剛三郎氏の「東京の坂風情」(東京図書出版社、2001年)では

 鰻坂の西はずれは浄瑠璃坂上でもある。もとは南西へ急落する段坂があって、崖地の藪や樹木のために別名のような坂名がふさわしかった。崖上の武家屋敷からのゴミも捨てられていたことであろう。ところが今ではこの坂の様子は一変している。崖下のこの辺り一帯は大日本印刷の工場構内であって、かつての公道でもうかつに歩いていようものなら、守衛がとんできて誰何(すいか)(あなたは誰ですか)されることになる。そのような環境であるから、芥坂を崖上から下りてきて、その辺りを関係者以外の方がうろうろされては、会社としましてはなはだ困るのであります。というわけで、市谷左内町、本村町の方へ往来なさるかたのために、石段坂上あたりから歩道橋となって構内の低いところを跨いでいるのである。つまり段坂は消えて、歩道橋の入口に芥坂の存在していたことを記した案内表示があることで、やっと捜しあてた安堵のあとに虚しさを感じたのは、非生産的な人間の身勝手さなのであろうか。もとの段坂ならば八五点くらいの評点であるのが、あまい六〇点となったのは、それでも坂上付近にわずかな面影が残っていたからである。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は
ほかに歌坂鼠坂鰻坂中根坂

紅葉の葬儀①

文学と神楽坂

 国友温太氏は『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)で、新宿のいろいろな事柄を書き、その1つが尾崎紅葉の死についてでした。表題は「紅葉は秋」(昭和48年11月)です。

金色夜叉」で有名な作家尾崎紅葉が、横寺町四十七番地で三十七歳の生涯を閉じたのは七十年前の明治三十六年十月三十日である。
 葬儀は十一月二日、秋晴れであった。当時一流の人気作家の死である。会葬者は千名をこし、横寺町の通りは人、車、馬、花で埋まって歩くこともできなかった。出棺は午前八時。位牌を弟子の泉鏡花が捧げ、葬儀の列は神楽坂を抜け、市谷四谷見附の濠端を過ぎ、青山墓地に至った。死因は胃ガンだが、明治三十年一月から三十二年四月まで読売新聞に連載した「金色夜叉」の執筆の疲労、が遠因といわれる。紅葉の死により文壇は、子弟制度など古い形骸から脱皮してゆく。辞世は、
    死なば秋 露の干ぬ間も面白き
 紅葉が横寺町に住まったのは明治二十四年からで、場所は新宿生活館の東裏側にあたる。旧居は戦災で焼滅したが、旧居跡には先代が紅葉宅の家主だった鳥居さん一家が住んでいる。ここは交通の輻輳する生活館前の大久保通りにひきかえ、静かな住宅地。町名の示すとおり寺も多い。鳥居家の主婦は「土地の雰囲気でしょうか。秋の日曜日など文学散歩で訪れる方が多うございますの。四、五十人になる日もあるんですよ。でも私はできるだけ多くの皆さんにご説明申し上げるんです。郷土愛っていうのかしら」とおっしゃる。
 晩秋の一日を、地図を片手に文学散歩としゃれこむのも一興であろう。

金色夜叉 こんじきやしゃ。尾崎紅葉の長編小説。 1897年1月から1902年5月まで『読売新聞』に連載。未完。富豪の富山唯継に見そめられた鴫沢(しぎさわ) 宮は、いいなずけの(はざま)貫一を捨てました。
明治36年 西暦1903年で、110年以上も昔の話です。
市谷 東京都新宿区東部の地名。地図は最下部の赤い輪。
四谷見附 東京都千代田区西部の地区。同じく赤い輪。
青山墓地 東京都港区にある都営の共同墓地。政治家・軍人・作家など著名人の墓が多いようです。右の赤丸が尾崎紅葉の葬儀があったところ。左下は青山墓地。市谷と四谷見附は赤い輪で描いています。
新宿生活館 東京都は昭和26年から「新宿生活館」を設置し、結婚相談所と同時に結婚式も行ないました。館長が司会を務める簡素なものでしたが、一時は行列を作るほどの盛況でした。現在は「牛込箪笥区民ホール」です。

中央は尾崎紅葉の住居、左は箪笥区民ホール

中央の丸は尾崎紅葉の住居、左の楕円は現在の牛込箪笥区民ホール。

横寺町から青山墓地までの行路。かなりの距離を歩きました。

青山墓地


大久保通りを越えた神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂5丁目は神楽坂の坂上を越えて、神楽坂6丁目にはいっていく場所があります。
 眼は神楽坂6丁目に向け、背中は飯田橋駅の方面に向けると、前の左側は6丁目ではなく、5丁目なのです。

坂上で6丁目を向くと左側は5丁目

  神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」ではこの5丁目の店舗を調べたもの(「MISS・URBANさんからタイヨウ堂さんまで(交差点の上)」)を書いています。

交差点上の5丁目[昔]

 また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』(明治40年)」では同じ五丁目を上下を変えて描くとこうなります。

明治40年「遊び場だった『寺内』」

 ほかに、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)ではこうなります。「食」、「タバコ」、「安田銀行」が見えます。 都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

 さらに1960年の国会図書館の「住宅地図」では1960年

 もう1つ、1970年の国会図書館の「住宅地図」では
1970年の極西部の神楽坂5丁目

 直近の地図は2014年の「神6なび」です。

神楽坂6丁目

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」の文章は

相川さん それであとは、亀十さんの方だな。①タイヨウ堂さんはね、昔の安田銀行の前にね、清水っていう洋酒屋さんがあった。そのあとを明治商業銀行が買って、それで銀行の合併で安田銀行牛込支店があそこにできた。 ②その銀行の隣りが「カツイ」さんという小間物屋さんで、タバコ屋をやっている。カツイソウタロウさんといってね。③その隣りが、タバコのねじめだとか袋物、財布なんかを売っていた店があった。
[私の注] ①の一階は洋酒・清水から安田銀行牛込支店、駐車場、宝石のタイヨウ、薬のセイジョー、最終的に合併で、薬のココカラファインに変わりました。場所はここ。なお、5階のタイヨウ時計店は令和4年(2022年)8月31日に閉店しています。

ココカラファイン

②+③は最終的に神楽坂商事支店に変わりました。場所はここ

神楽坂商事

山下さん キクヤさんとは違うの?
相川さん 違うの、すぐ隣り。間口が小さいんですよ。
山下さん キクヤさんといまのタイヨウ堂さんの間にあったんですか?
相川さん いえ、こっち、亀十さん寄りに。いまの大辻さんのところですね。④「電気屋ホール」って、やっぱり小さいんだけど喫茶でね。お汁粉屋みたいなことやって、なかなか流行っていたんですよ。
[当方の注]④も最終的に神楽坂商事支店になったと思います。場所はここ
馬場さん あれはいまの三好弥さんみたいな食べ物屋だよね。そんなものもあったんでしよ?
相川さん いや、ないです。電気屋ホールは食べ物はない。
馬場さん 入ってはみなかったけど、電気屋ホールなんていい名前ですよね。
[注 デンキヤホールについて] 丸山軍二氏の『ここは牛込、神楽坂』第2号「思い出の店のことなど」で

●デンキヤホール(通寺町) 硝子のコップに盛ったゆであずきが名物で五銭

とあります。デンキヤホールのあった肴町は、現在は神楽坂5丁目です。なお、浅草にあるデンキヤホールは、1903年に開店し、現在も営業中です。そのホームページでは

創業100年 変わらぬこだわり デンキヤホールは開店当時から、厳選したあずきの素材を生かした「ゆであずき」をご提供し、大変ご好評頂いております。

本店と支店といった何らかの関係があるのでしょうか? と思ったら神楽坂はその支店でした。はるか下のコメントをどうぞ。

相川さん ⑤その隣りに、肥田さんという刃物屋がありまして。肥田さんが交代になって「美好屋」といって、ダブツ(駄物?)屋さん。おもちのアレしたのなんかね。その人が輪島にいるんですよ。もう中河さん(注)のおじいちゃんが亡くなってから二年か三年経って東京へ来て、中河さんのところに寄っていったそうですよ。びっくりしてたもん。(注)中河電気の店主。現「ゑーもん」のところにあった。
[当方の注]⑤一階は最終的に三味亭に。変わっていません。上の写真を。場所はここ
馬場さん このころはもう戦後ですか?
相川さん 戦後。それから、美好屋ってお汁粉屋の隣りに⑥「京屋」っていう絵草子屋さんがあって、昔は双六とかね。それで本屋さんをやっているの。月刊誌を入れていた。そこのうちも子どもさんがいなくてね。⑦すぐその隣りが宮内さんという足袋屋さん。本店がいまの室町の宮内って足袋屋さんですよ。そこの分かれですね。⑧その隣りが亀十さん。

『ここは牛込、神楽坂』第6号の「丸岡陶苑 岡崎弘さん」では

通りの向こうのいまタイヨウがある先のところには牛乳屋とか絵草紙屋があって。絵草紙屋は日清戦争の絵とか美人画とか、きれいな折紙なんか売ってて、ここのおばさんが美人でね。それからそばの煙草屋さんに看板娘がいて、みんな大騒ぎしたもんですよ。
[当方の注]⑥+⑦の一階は最終的に三好弥から神楽坂菓宴に。場所はここ

神楽坂菓宴

馬場さん その絵草子屋さんと足袋屋さん(⑥+⑦)がいまの「三好弥」さんになってきたの?
相川さん そうそう。足袋屋さんを三好弥さんが買ったんです。
馬場さん 買ったのは戦前? 戦前ですよね。
相川さん いや、戦後ですよ。なぜそうかっていうと、町内の俳句をやったときに私か手助けにそこの娘さんを借りたから。
馬場さん じゃあ、三好弥さんが来たのは戦後?
相川さん 三好弥さんは戦前なんですよ。戦前といっても、あそこへ来てからじきに戦争になった。だから戦争のはじまりですから、昭和十四、五年ですよ。江戸川橋からここへ来た。 亀十さんの前が「日の丸食堂」っていったかな。食堂だったのを亀十さんのお父さんが買ってあそこへ来たわけ。その食堂になる前が、安井さんって荒物屋さん。あの通りでは安井さんが幹事をやっていてね。それとカツイソウタロウさんが幹事をやっていた。あの当時は役員さんが二人いた。
[当方の注]⑧の一階は亀十パンから最終的に「おかしのまちおか」に。場所はここ

⑧おかしのまちおか

馬場さん 亀十さんは何年ぐらいに出てこられたの?
相川さん あれは七年だと思う。
山下さん 私がいちばん記憶があるのはね、ほら、田舎から出てきたでしょう。おたくのお菓子が珍しくってね。おたくで買い物したことをいまでも覚えているの。
馬場さん いまの店とほぼおんなじような店でしたね。
一同   同じだよね。
相川さん 真ん中に座敷があってね。亀十さんの今あそこは工場(こうば)になったから、あそこから汲み収り屋さんがみんな入ったの。
馬場さん 戦前も、あの回転の扇風機がなかったですか?
佐藤さん 戦後ですよ。
馬場さん 戦前はなかった?
相川さん どうだったかねえ。

求友亭|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 求友亭はきゅうゆうていと読み、通寺町75番地(今は神楽坂6丁目)にあった料亭です。現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って横丁の右側にありました。
 夏目漱石氏が『硝子戸の中』の16章

 彼(床屋)はそれからこの死んだ従兄(いとこ)について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日(きのう)の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭(きゅうゆうてい)の横町にいらしってね…」と亭主はまた言葉を継つぎ足した。
「うん、あの二階のある(うち)だろう」
「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様(ほうぼうさま)から御祝い物なんかあって、大変御盛(ごさかん)でしたがね。それから(あと)でしたっけか、行願寺(ぎょうがんじ)寺内(じない)へ御引越なすったのは」
 ここで「しっきゃ」について。「しっきゃ」は「しか」と同じで「昨日の事と『しか』思われないのに」です。江戸なまりですね。

   川喜田屋横丁と求友亭川喜田屋横丁と求友亭(75番)
 この「求友亭の横町」はかつて「川喜田屋横丁」と読んでいました。赤の四角で書いたものは求友亭、青で書いたものは川喜田屋横丁です。地図は昭和5年(1930年)の「牛込区全図」です。

 現在は相当狭い場所です。(図は「全国地価マップ」から)
 行ってみると瀟洒な一軒家がありました。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では

 当時待合で大きな所といえば重の井、由多加、松ケ枝、神楽、梅林、喜久川といったところか? 料理屋では末よし、ときわ亭、求友亭だろう。末よしといえば、ここは芸者に大へん厳しくするお出先だ。
 正宗白鳥氏の『神楽坂今昔』では
 私は學校卒業後には、川鐵の相鴨のうまい事を教へられた。吉熊、末よし、笹川、常盤屋、求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。
 江見水蔭氏の「自己中心明治文壇史」(博文館、昭和2年)では
求友亭の女將は、相川傳次といふ消防夫の頭の實妹で、藝妓にも出てゐた、所謂女傑型の女で有つた。市川小團次とは深い間であつたが、それと知つてか知らずか、谷干城將軍が特別に贔屓にされてゐたのであつた。
 以上、求友亭でした。

軽い心|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 昭和42年までには神楽坂二丁目に「メトロ映画館」がありましたが、この年、この「メトロ映画館」と「バーみなみ」「麻雀」はなくなり、「CLUB 軽い心」が開店します。
 この地図は国立国会図書館の住宅地図(発行は住宅協会地図部)から取っています。軽い心(S42とS45)
 さらに昭和44年には「喫茶 軽い心」と「パブ・ハッピージャック」に変わります。インターネットで熊谷興業の歴史を読むと、昭和43年(1968年)、レストラン「ハッピージャック」開店、昭和44年(1969年)、純喫茶「軽い心」を開店と書いてあります。そして、昭和57年(1982年)には「カグラヒルズ」に変わり、「軽い心」はなくなりました。
 新修新宿区史編集委員会『新修新宿区史』(新宿区役所、昭和42年)を見ると、昭和42年、この写真が出ています。新修新宿区史(昭和42年)。飯田橋駅の方から見た神楽坂
「神楽坂まちの手帖」の第1号で講談社の小田島雅和氏は

 club軽い心。遠景九時頃に句会が終わると、まだまだ話し足りなくて、坂下近くにあった「軽い心」という喫茶店に流れることが多かった。この店はかつてキャバレーだったそうで、格別珈琲がおいしいわけでもなかったが、キャバレーの造りそのままで、ボックスごとの仕切りがやたらに高く、隣のボックスが見えないようになっている。喫茶店としては何とも妙で、それが気に入って、私は個人的にもよく利用した。

「神楽坂まちの手帖」第4号の「神楽坂まちかど画廊」で
 最近でこそ奇想天外な店名に驚かなくなったが、「軽い心」の看板は当時はずいぶんと人目を引いた。ではいったいなんの店か。知っている人は、神楽坂の古いなじみである。クラブとあるが、平たくいって、いまはほとんど死語となったキャバレーである。昭和30年代前半のある日の風景である。
「神楽坂まちの手帖」第5号の「読者のページ」で高瀬進氏は
 「軽い心」、キャバレー時代、1度覗いたことがあります。爆笑王林家三平さんが、本当に面白く、腹を抱えて笑ったものです。「軽い心」はその後、喫茶店になり、よく昼寝したのを覚えています。場内が広く、そして暗かったので妙に落ち着けました。
「神楽坂まちの手帖」第7号の「神楽坂、坂と路地の変化40年」で三沢浩氏は
 1980年1月の日曜日。歩行者天国の終わる5時前。今の「カグラヒルズ」の位置には、キャバレー「軽い心」の大きな間口があった。一度だけ誘われて入ったが、天井の高い巨大な空間で、美女が各テーブルに坐り、ある客たちは音楽に合わせて踊っていた。脂粉の香り、酒の匂いが満ちて、神楽坂の栄華がそこにあった。それは夜の世界、神楽坂の路地には料亭が並び、芸者の数も多かった。
 また神吉拓郎氏の『東京気侭地図』に随筆「神楽坂の灯」があります。
 喫茶店の名前にもいろいろあるけれど、「軽い心」というのをご存じだろうか。
 中央線の電車が、飯田橋の駅にかかるとき、神楽坂の見当を一瞥すると、丁度そのあたりに「軽い心」と大きな看板が上っている。
 昭和47年、加藤倉吉氏がつくった銅版画「神楽坂」もここに掲載します。このころは「喫茶 軽い心」になっています。

銅版画の『神楽坂』。写真ではありません。版画です。

銅版画の『神楽坂』

「カグラヒルズ」に変わった時、壁面看板「各階 名店ぞろいの! カグラヒルズへどうぞ」と売り込み、また、1階はハンバーガーの「ウェンディーズ」になり、しかし、「ウェンディーズ」は日本で撤退し、かわって平成26年(2014年)には「マクドナルド」に、さらに平成28年(2016年)からはドラッグストア「マツモトキヨシ」に変わっています。

漱石山房の推移1

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」の一部です。

早稲田界隈の盛り場

 そういう世相だったので、一方では景気がよくて学生が俄かにふえたのだろう、さて早稲田に入って下宿屋探ししてみると、早稲田界限から牛込の神楽坂にかけては、これはという下宿屋は満員で非常に払底していた。辛うじて下戸塚法栄館という小さな下宿屋の一室か空いていたので、ひとまずそこへ下宿した。大正末期に川崎長太郎が小説が売れだしたので、のちに夜逃げするに到ったが、偶然とぐろを巻いていた下宿屋である。朝夕を戸山ヶ原練兵場を往復する兵隊が軍歌を歌って通り、またその頃の学生には尺八を吹く者が多く、神戸の町なかに育ったぼくは、当座、なんだか田舎の旅宿に泊っているような心細さを覚えたものだ。

払底 ふってい。すっかりなくなること。乏しくなること。
下戸塚  豊多摩郡戸塚町大字下戸塚は淀橋区になるときは戸塚町1丁目になりますが、新宿区ができる時に戸塚町1丁目はばらばらになってしまいます。そのまま戸塚1丁目として残った部分①と、西早稲田1、2、3丁目②~⑤になった部分です。

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

新宿区教育委員会。「地図で見る新宿区の移り変わり 戸塚・落合編」昭和57年

法栄館 東京旅館組合本部編の『東京旅館下宿名簿』(大正11年)ではわかりませんでした。
とぐろを巻く 蛇などがからだを渦巻き状に巻く。何人かが特に何をするでもなく、ある場所に集まる。ある場所に腰をすえて、動かない。
戸山ヶ原 とやまがはら。江戸時代には尾張徳川家の下屋敷で、今も残る箱根山は当時の築山で東京市内で最高地の44.6メートル。箱根山に見立てて、庭内を旅する趣向にしていました。明治以降は陸軍戸山学校や陸軍の射撃場・練兵場に。現在は住宅・文教地区。
練兵場 れんぺいじょう。兵隊を訓練する場所。陸軍戸山学校の練兵場は下図に。

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

現在と明治43年の戸山学校練兵場。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』

 当時は早稲田界隈の盛り場というと神楽坂で、新宿はまだ寂しい場末町だった。新宿が賑やかになりだしたのは、大正十二年の関東大震災以後である。新学期が始まるとぼつぼつ学生が下宿屋の移動をはじめ、まもなくぼくは神楽坂界隈の下宿屋に引越した。その下宿屋は赤城神社の境内にあって、長生館といった。下宿してから知ったのだが、正宗白鳥近松秋江などの坪内逍遙門下がよく会合を開いていた貸席の跡で、下宿屋になってからも、秋江は下宿していたことがあるということだった。出世作「別れた妻に送る手紙」に書かれている、最初の夫人と別れた後のどん底の貧乏時代だったらしく、夏など、着た切り雀の浴衣まで質屋へいれてしまって、猿股一つで暮らしていたこともあるという、本当か嘘か知らぬがそんなエピソードまで残っていた。それから少し遅れて、片上伸加能作次郎なども下宿していた。のち、太平洋戦争の頃、「新潮」の編集者だった楢崎勤を所用あって訪ねたら、長生館がいつかなくなってしまっていて、その跡に建った借家の一軒に住んでいて意外な気がした。楢崎君はそこで戦災を蒙ったのである。

赤城神社 新宿区赤城元町にある神社
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷
別れた妻に送る手紙 正しくは「別れたる妻に送る手紙」。情痴におぼれる自己を赤裸々に描く作品。もっと詳しくはここで。

漱石山房の推移2

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」のその2です。

下宿屋と早稲田派
 こんなことを書きだしたのは、その頃は好況時代で、従ってインフレで、下宿代など、一、二年のうちに倍近くあがったものの、とにかく下宿屋全盛時代で、古い下宿屋がまだたくさん残っていて、神楽坂界隈の古い下宿屋には、文士たちのエピソードじみたものが少なからず語り伝えられたり、近所にその旧居がそのまま原型をとどめていたりしたことを指楠したかったからである。ぼくは神楽坂を中心に随分下宿屋を転々したが、牛込矢来にあった若松館という、会津藩の家老の娘あがりの婆さんが経営していた古ぼけた下宿屋には鏡花斜汀の泉兄弟がかつて下宿していたというし、くだっては外語仏語科時代の大杉栄がここから外語へ通っていたというので、ぼくが下宿した時にも外語の連中が大勢下宿していた。そこへは下宿しなかったが、松井須磨子が首をくくった横寺町にあった芸術座倶楽部が、やはり下宿屋になっていた。出版を始めて武者小路全集を出していた広津和郎氏も、神楽坂の横丁の三階建ての下宿屋に、大勢の社員たちと一緒にたむろしていた。
 下宿屋文学の代表的なものは、芝公園で野垂れ死にした藤沢清造の「根津権現裏」である。また、芥川竜之介などは、早稲田派の文士は下宿屋で煮豆ばかり食っているから、唯美的な作品が生まれないのだと皮肉を飛ばしていた。それほど、大正末期までは、下宿屋というものが天下を風靡していた。ところが、やがて世界不況が襲来するに及んで、アパートや貸し間、引いては食堂の氾濫となり、下宿屋は慌ててどんどん下宿代をさげだしたか、しだいに衰微を辿るに到った。
若松館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』によれば、井上まさ氏が経営するこの下宿は矢来町3大字山里55号にありました。しかし、この場合、山里のうち55号がどこにあるのかわかりません。
外語仏語科 旧外語の校地は一ツ橋通町1番地(現千代田区一ツ橋2丁目)に置かれました(一ツ橋校舎)。下図の右下、赤い四角は当時の外語を示します。左側は矢来町なので、市電がないと大変です。

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

芸術座倶楽部 正しくは芸術倶楽部です。
下宿屋 神楽館です。
下宿屋で煮豆 志賀直哉氏の「沓掛にて―芥川君のこと」では

 早稲田の或る作家に就て芥川君が「煮豆ばかり食つて居やがつて」と云つたと云ふ。これは谷崎君に聞いた話だが一寸面白かつた。多少でも貧乏つたらしい感じは嫌ひだつたに違ひない。

 この「ある作家」について、琉球大学の教育学部教育実践総合センター紀要15号で小澤保博氏は

 芥川龍之介は、「MENSURAZOILI」(「新思潮」大正六年一月)で文学作品判定器械なる装置を登場させる事で、坪内道遥退職後に自然主義文学、社会主義文学の牙城となった「早稲田文学」を槍玉に挙げている。
「しかし、その測定器の評価が、確だと云ふ事は、どうして、決めるのです。」
「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパツサンの『女の一生』でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。」
 これは、当時早稲田系の代表的な同時代作家、広津和郎「女の一生」(「植竹書院」大正二年十月)に対する芥川龍之介の皮肉である。志賀直哉「沓掛にて」(「中央公論」昭和二年九月)で回想されている芥川龍之介の発言で「煮豆ばかり食つて居やがつて」と潮笑されれている早稲田派の作家というのは、言うまでも無く広津和郎の事である。

 早稲田派の単数の「ある作家」では広津和郎なのでしょう。一方、水守亀之助氏の『わが文壇紀行』では「連中」と複数です。

「早稲田の連中は下宿屋で煮豆とガンモドキばかり食わされていたんだからね」と、芥川が冷嘲したのは、当時知れわたった話だ。

 どちらにしても自然主義を標榜する早稲田グループに対する皮肉でした。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退

漱石山房の推移3

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」のその3です。

漱石山房の名残り

 ところで、この一文の本当の目的は、この前芥川のことを書いたので、そのころ瞥見した漱石山房の推移をちょっとしるして置きたかったのである。というのは、たまたま漱石山房より数軒しか離れていない牛込弁天町の豊陽館という下宿屋に、ぼくは割りに長く下宿していて、始終その前を通っていたからである。
 “矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方へ折れ、少し行くと右に曲って弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、七番地のである”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
 ぼくが豊陽館に下宿したのは大正十一年頃で、その時はもう改築されていたが、早稲田に入った大正八年に初めてその前を通った時には、まだ大正五年に亡くなった漱石の在世の時の儘だった。狭い坂道に面して高く地盛りした上に、赤い新芽を持った青々としたカナメモチの低い生垣がつづき、その生垣越しに、芭蕉など植わっているちょっとした庭を隔てて書斎のガラス戸か光って見えた。が、さして広くない古ぼけたひら家で、その質素振りに驚いたものだった。


豊陽館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』では豊陽館は弁天町8にありました。下図で赤い丸が弁天町8に当たります
漱石の家 緑色の右端は矢来の坂下です。左の緑の丸は漱石の家です。青い色は川を示し、そこに弁天橋がかかっていました。

地図。昭和5年の牛込区全図。緑色は矢来の坂下から漱石山房の行き方。赤色は弁天町の豊陽館。ピンクは床屋。

昭和5年の牛込区全図の一部。

瞥見 べっけん。ちらっと見ること。
カナメモチ バラ科の常緑小高木。樹高は3~5m。
芭蕉 バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナ。高さは2~3m。花や果実はバナナとよく似ています。耐寒性にあり、関東地方以南では露地植えも可能。主に観賞用。種子が大きく、タンニン分を多く含み、多くは食用には不適。

カナメモチとバショウ

カナメモチとバショウ

 ところか、改築されたものは、カナメモチの生垣は屋根を持った高い土塀にかわり、大きな冠木門の奥には、洋館もある宏壮な二階家がそびえ、すっかり見違えるように立派になっていた。ぼくはいささかがっかりしたものの、しかし、あたりの風物は、漱石在世当時とたいして変わっていないふうだったので、せめてそれを満足に思った。「硝子戸の中」に書かれている小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていたし、漱石がそこの人力車によく乗ったという、薄汚い車宿も門のまん前に健在だった。ただ、この車宿の連中は改築に反感をもったのだろう、漱石未亡人のことを余りよくいわなかった。そのほか、「三四郎」を思いついた田中三四郎(石垣綾子さんのお父さんだという)いう家も、「彼岸過まで」の中の須永を思いついた須永という産婆の家も、まだ近所にあった。
 が、終戦後である。じつに久し振りでその小路を辿ったら、漱石山房はすっかり戦災で焼けうせ、白い安手の都営アパートがその跡に建っていて驚いた。片隅にコスモスがさき乱れていたが、そこに漱石の出世作「吾輩は猫である」の五輪塔の猫の墓が焼けただれて残っており、それが碌かに漱石山房の名残りをとどめているに過ぎなかった。

床屋 夏目漱石は『硝子戸の中』16で、

(うち)の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈かって貰った事がある。
と書いています。この文章の「床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた」と一緒に考えると、前の図で桃色の四角の範囲に床屋はあったと考えます。
田中三四郎 石垣綾子氏の『わが愛の木に花みてり』(婦人画報社、昭和62年)では
 わたし、生まれたのは市谷ですけれど、二歳になったとき、早稲田南町に移って、それから長く住むことになります。この町名はまだ残っていますね。あの頃はまだ庭にホタルが見られたくらいでしたけど、その辺は中産階級の住宅地として開けつつあった頃でした。ほんの三軒か四軒か先に夏目漱石のお宅があって、聞くところによると漱石は、わたしの父の“田中三四郎”という表札を見て、『三四郎』の主人公の名前にされたんだそうです。たぶん散歩姿なんかも目にしているんでしょうけれど、今みたいにマスコミで顔を知られる世の中じゃありませんから、わたし全然記憶はありませんね。ただ、お嬢さんの愛子さんとは早稲田小学校でど一緒でしたけど、あちらは背が小さかったし、わたしは高い方で席も離れてましたから、そう親しくはしていませんでした。でも、長女の筆子さんてかたは、わたしの姉と仲よしで、よく家にも遊びにいらしてたようですよ。
 で、この早稲田南町の家は、広い芝生の庭にひょうたん池があったんです。その辺りで姉とわたしは鬼ごっこするんですけど、姉は身軽に、その池のくぴれた辺りにある中島から向こうへ飛び移るんです。わたしはできないんですよ。立ち止まっちゃう。そうすると姉は、向こうの築山からわたしを見おろして、「のろまさん、捕まえてごらん」ってはやし立てるの。悔しかったものですよ。

早稲田南町の一部

早稲田南町の一部

 早稲田南町は漱石公園を含む広大な敷地です。ひょうたん池はまったくわかりません。また、同氏の『いのちは燃える』(偕成社、1973年)では

 早稲田(わせだ)南町のわが家から数軒(すうけん)さきに、夏目(なつめ)漱石(そうせき)(1867~1916年)のお宅があった。()(がき)をめぐらした屋敷で木の(しげ)る広い庭にとりかこまれていた。三百(つぼ)(約1000平方メートル)の、家賃三十五円の借家(しやくや)だということだが、うっそうとしていて暗く、神秘的(しんぴてき)(かん)じであった。(略)
 私の父は田中三四郎といって、漱石の『三四郎』という小説とおなじ名前である。漱石は散歩のとき、父の標札に目をとめて、『三四郎』の題名を思いついたということである。
 父は科学者で教育家であった。軍人の士官(しかん)を養成する幼年(ようねん)学校をふりだしに、岡山と山形の旧制高校で物理を教え、晩年は中央大学につとめた。八十七才で亡くなる直前まで、教壇を離れようとしなかった。
 家庭では五百坪(約1650平方メートル)の早稲田の家を支配する絶対の権威者(けんいしや)であった。私は父を尊敬はしても、厳格なその前ではびくびくした。言葉使いも、よそゆきのていねいさで話しかけなければならない。

昭和5年の牛込区全図。緑色は漱石が住んだ場所。青色はおそらく田中三四郎の場所

牛込区全図、昭和5年

 田中三四郎氏の建物は500坪で、漱石(緑色の場所)は300坪。これからすると、田中氏はたぶん青色で囲った場所(の一部)でしょう。

 一方、『ここは牛込、神楽坂』第10号(平成9年、1997年)で、河合正氏が「魚屋などが申し上げることではあるませんので……」では

 うちは創業が亨保十七年で、はじめは三河屋三四郎でしたが、その後肴屋三四郎を名乗るようになり、代々当主がその名を継いできました。
 漱石先生の『三四郎』とのことは昭和の終わり頃、毎日新聞にも出たことがありますが、そのときは肴屋風情が何をというようなお叱りがあちこちからきて。漱石先生には熱心な読者や研究者がいますからね。もうそのことには触れないことにしているんですよ。」

これについて『ここは牛込、神楽坂』の編集部は
 ご主人はいかにも江戸っ子という感じの方で、お店は榎町交差点そば榎町児童館の隣。念のため毎日新聞で調べてもらいましたが10年以上前のことらしくわかりませんでした。『三四郎』の名は漱石の家の近くにいた田中三四郎(石垣綾子さんの父上とか)から思いついたという説がありますが、地方出の若者にご近所のご主人の名を?という疑問もあり、やはり近くの江戸前の肴屋三四郎さんに親近感をもって付けたというほうが妥当な気がします。

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

現在の地図。漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)

 で、漱石公園(左下)と肴屋三四郎(右上)です。かなり離れています。
 もし近所で名前をつける場合、私は単に近所で肴屋三四郎よりも田中三四郎のほうに軍配を上げてしまいます。
 また、漱石氏の卒業生に堀川三四郎という人もいました。これは明治38年4月10日の漱石氏から大谷繞石宛の手紙に出ています。三四郎のモデルはわからないといった方が正しいのでしょう。
都営アパート 都営アパートは区営の早稲田南町第3アパートになりましたが、29年7月に予定する「漱石山房記念館」の建設のため、解体されてしまいました。
冠木門 冠木を渡した、屋根のない門
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。

[夏目漱石]

三孫質店[昔]|神楽坂二丁目

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目に質屋の三孫がありました。お店の地図はここ。『まちの手帳』第3号の水野正雄氏の『新宿・神楽坂暮らし80年』で

一家で神楽坂に越してきて、祖父は神楽坂2丁目の「三孫(さんまご)」という質屋の通い番頭、長男は質屋に奉公、次男は質屋に婿養子、三男は着物の整理屋へ奉公に出ていたのを、三男だった親父を呼び戻して39年「湯のし屋」を始めた。

「さんまご」と読み、「さんそん」とは読まないようです。

 邦枝完治氏が書いた「恋あやめ」(朝日新聞、1953年)には……

 牛込見附の石垣に弁慶蟹が這って、飯田町駅を出た甲武鉄道の汽車の煙が、夕焼空に吸われて行った六時近く、神楽坂裏の質屋三孫ののれんをくぐったのは、ふろしき包を小脇に抱えた、四十がらみの肥ったおかみさん。
弁慶蟹 弁慶蟹はイワガニ科で海岸の湿地にすみ、約3センチ。本州中部以南に分布。今では蟹はこのあたりにはいません。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
質屋三孫 質屋「三孫」(さんまご)の場所は下図で。現在はポルタ神楽坂になりました。

三猿(さんまご)質店

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

階段の話|神楽坂

文学と神楽坂


 神楽坂の坂に江戸時代には階段があったが、明治になると普通の坂になったという話です。
 平成22年、新宿歴史博物館「新修 新宿区町名誌」によれば、神楽坂は
神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。
 明治四年(一八七一)六月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽かぐらちょうとしたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正一四年(一九二五)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、二年ほどして御影石に筋を入れた舗装に変わった。
 また、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』で……
 やはりむかしは相当な急坂であったのを明治になって改修したもの。明治13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。

  牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。

 また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……(なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主です。)

相川さん 古い資料を見ると、昔の神楽坂ってのは階段だったらしいね。
山下さん 牛込見附から上かってくる方ですね。
相川さん 商店街ができるからってんで階段を坂にしたら、えらい坂が急勾配になったんで、「車力も辛い神楽坂」っで歌ができたくらいなんです。それを天利さん(注)ショウジロウさんって区会議長をやった人が、ハンコを関係各機関からもらって、区のお金を使って坂を下げたんです。下げたら今度は下の方から苦情が来て。坂を下げて勾配をずうっと河合さんの方までもってくる予定で設計図はできていた。ところがあんまり喧喧囂囂(けんけんごうごう)で収まりがつかなくなって、それでピタッとやめたんで、天利さんの前のところだけグッと上がっちやった。あれが忘れ形見だ。注:菱屋さんの先代店主
佐藤さん そういえばそうですね。最後のいちばん登りきるところが基点(起点?)なんですね。
馬場さん 自分の家の前に来ちゃった。ヘヘヘ。
相川さん 「工事中止」ってんでね。ということは、坂下の方の店(本道?)は階段じゃないとお店へ入れない。階段の商店街になっちゃうのはまずいってんで、それであそこでピシッと切った。歩いていてもわかるでしよ? 上がりきったな、と思うと、またグッと上がる。それがちょうど天利さんの前へ来ていた(笑)。区会議長やってる時分に天利さんはお釈迦様(注)の後ろへうちを買い足して、ご隠居しちゃったんです。
(注)弁天町にある宗相寺
馬場さん ああ、弁天町のね。
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。

車力も辛い神楽坂 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌は「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
 上州屋は5丁目の下駄屋で、以降は藪そば、ampm、最後はとんかつさくらに変わります。
 同じく2010年(平成22年)の西村和夫氏の『雑学 神楽坂』によれば…

 江戸期は階段が作られるほど急な神楽坂だったが、明治になって何回となく改修され、工事の度ごとに緩やかになっていった。階段がいつなくなったのかわからないが、明治の初めと考えて間違いはなさそうだ。
 坂上は明治10年代に平坦にされたが、坂下は勾配をそのままにして先に商店街が出来てしまった。傾斜した道路の店があったのでは商売がやりづらいと、サークルKの先、当時糸屋を営んでいた菱屋が中心になって牛込区役所に働きかけ、坂を剃り勾配を緩くした。ところが、工事が進むにつれて坂上の商店ほど道との高低差が広がり、再び埋め直すという笑えぬ失敗があったという。こんな苦労を何度も繰り返し、神楽坂は今の勾配になったようである。
 芸者新道の入口の傾斜はそのままにされたので階段が作られて、手すりがないと上がれないような急坂が現在まで残り、昔の神楽坂の急勾配の様子をうかがわせる。

『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイの赤井義松氏は(この店はなくなりました)
 よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 中村武志氏も『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で同じ話を書いています。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった

段があった 陶柿園と「さわや」の前にある縁石を比べます。

陶柿園とさわやの縁石

江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸名所図絵の牛込神楽坂

 江戸時代の(だん)(ざか)については、天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した『江戸名所』「牛込神楽坂」では10数段の階段になっています。
 なお、この画讃の上には『月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり』と書いています。
 また平成14年(2002年)になってから電線もなくなりました。

川鉄|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 川鉄は肴町27番地にありました。場所はここ。以前は万世庵というソバ屋でした。

『ここは牛込、神楽坂』第10号の「漱石と神楽坂」21頁には編集部の言として「なお川鐵は左の場所が正しいとご指摘をいただきました」と書いてあり、下の絵もありました。確かに正しい場所です。しかし、もう少し大久保通りに近い場所でした。

川鉄

「かしわ料理」については、『かしわ(黄鶏)』とは日本在来種のニワトリで、本来褐色の羽色があり、鶏肉一般の名称になったようです。

川鉄(昭和12年と現在)

川鉄(昭和12年と現在)

川鉄

川鉄があったところ

徳田秋声氏の『光を追うて』では

その時分等は後の鳥屋の川鉄、その頃はまだ蕎麦屋であった肴町(さかなまち)の万世庵で、猪口(ちよく)を手にしながら、小栗の小説の結構を聴いていた……

 加能作次郎氏の『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「花街」では

川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。

 出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

肴町停留所前の鳥屋の河鐡かはてつ、とりや独特の「とり」といふ字に河鐡と崩した文字の掛行燈かけあんどんを潜ると、くらい細長いいしだたみがあつて直ぐ廊下になつてゐる。そとから見ると春雨はるさめの夜の遣瀬なさ土地柄れず絲に言はせる歌姫うたひめもがなと思はれるが、そこは可成堅いうちの事とて学生は安心して御自慢の鳥がへるといつてゐる。

肴町停留所 現在は都バスの「牛込神楽坂前」停留所になりました
掛行燈 家の入り口・店先・廊下の柱などにかけておくあんどん
石甃 板石を敷き詰めたところ
遣瀬ない 遣る瀬無い。やるせない。意味は「つらくて悲しい」
土地柄 その土地に特有の風習
絲に言わせる これは恋(旧字体では戀)の意味を指しているのでしょう。つまり「絲に言はせる歌姫」は「戀される歌姫」(恋をさせる歌姫)に変わるのです。
もがな があればいいなあ。であってほしいなあ。以上をこの文をまとめて訳すと「春雨の夜でつらく悲しいので、この神楽坂に特有なやり方で恋を歌う歌手があればいいなあと思う」
可成 かなり
安心して 川鉄は芸者を入れませんでした。それで安心できたのです。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

肴町の電車通りを左へ、僅かに引込んで古くからある山手一流の鳥料理屋。特にこゝの鳥鍋は美味しいので有名で、一時は文壇の有名人が盛んに出入して痛飲したものです

 野口冨士男氏の「私のなかの東京」(1978年)では

路地奥に鳥料理の川鉄があって、そこの蓋のついた正方形の塗りものの箱に入っていた親子は美味で、私の家でもよく出前させていたが、それもその後めぐり合ったことのないものの一つである。ひとくちに言えば、細かく切った鶏肉がよく煮こまれていて、()り玉子と程よくまぜ合わせてあった。

つくば商事、すし好、マルゲリータ

文学と神楽坂

 神楽坂上の南側には、交番がありました。左図は岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」です。明治40年ごろですが、「交バン」がわかります。右図は昭和27年の都市製図社「火災保険特殊地図」です。赤い矢印で示しますが、戦後になってもしばらくの間、交番はそこにありました。

s12 交番

都市製図社「火災保険特殊地図」 昭和12年

 建物としては、尾張屋銀行がありました。昭和2年、尾張屋銀行は昭和銀行に買収され、左図は昭和12年の都市製図社「火災保険特殊地図」ですが、昭和銀行支店になっています。

 場所は尾張屋銀行空き地益美屋を示します。

「遊び場だった『寺内』」の中で、岡崎弘氏は

それから神楽坂上のこの角が「尾張屋銀行」。隣の「東屋洋傘店」には三人兄弟がいて、一緒に戸山ヶ原まで遊びに行ったりしてましたよ。そして、「益美屋」、袴屋、乾物の「近江屋」、「紅谷」が並んでいました。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……。なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業していた)

つくばとすし好

尾張屋銀行はつくば商事に、空き地はすし好に

マルゲリータ

益美屋はピザのマルゲリータパリアッチョに。

相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。それで角は交番があって、尾張屋銀行があって、これが関東大震災で潰れたあとに復旧して。レンガでできていたんですね。関東大震災で一メートルぐらいレンガのクズが河合さんの方ヘダーツといっちゃってね。神楽坂をふさいじゃったんです。三尺ぐらいしか通路がなくて。尾張屋銀行が交番を潰したっていうんで、鉄筋で今度は交番を作った。
山下さん あの丸いのね。
相川さん その前は木でできたボックスだったんです。
佐藤さん それであの丸い交番がずっと戦後も残っていたわけですか。
馬場さん 袋町の交番は木ですよね。
相川さん 木でしたね。
佐藤さん 昔のトーチカじやないけど、すごい(木が)厚いですよね。その記憶はあります。
相川さん 夏は西陽があたるでしよ。お巡りさんが立っていて、一日中西陽で気の毒だってんで、町内で六月になると日よけを寄付するんです。町内から金もらって、その仕事はうちでやった。窓のところヘ上げ下げの葦簾を下げて、夜になると上げる。鉄筋だもんだから、焼けちゃうと暑くて中にいられないんです。天井が低いでしよ。あの上に葦簾を広げて周りに垂らす。カラカラっと巻き上げのね。
山下さん 終戦後は交番はあったけどお巡りさんはいなかったことがあったね。
相川さん ええ、そうなんです。
山下さん そのころ天利さんの仮小屋のところへ泥棒が入ってね。よく覚えてるけど、交番にお巡りさんがいなかったんだよね。目と鼻の先なのに。
相川さん この戦争後に交番もずいぶんなくなったんですよ。厚生年金病院にも交番があったし、袋町にあったし。大曲のところはいまだに残っていますね。
馬場さん ああ、ありますね。場所はちょっと移動したけどね。
相川さん あそこは寒いんですってさ。川の風が吹き上げてくるから。あそこは苦手だ、島流しだってね(笑)。確かに寒いや。それでこの隣はトウグ(陶具?)屋さんがあったんですが、そこを担保に取られて空き地になったんです。
馬場さん ここのところはあんまりはっきりしなかったんですよ。相川さんがいちばんよく知っているんだ。なんで空き地だったの?
相川さん 昭和銀行が建てるんで、担保に取った家だから、空き地にしといた。塀が二間ぐらいあって。だからお祭りやるときに、いつもその塀を壊してお神酒所にした。奥深いでしよ、だから表にお神輿をおいて、後ろがたまり場になっている。独立でできたんですよ。

東京区分職業土地便覧. 牛込区之部。大日本都市調査会。大正4年

新版私説東京繁昌記|小林信彦

文学と神楽坂

 平成4年(1992年)、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出ています。いろいろな場所を紹介して、神楽坂の初めは

 山の手の街で、心を惹かれるとまではいわぬものの、気になる通りがあるとしたら、神楽坂である。それに、横寺町には荒木氏のオフィスがある。
 神楽坂の大通りをはさんで、その左右に幾筋となく入り乱れている横町という横町、路地という路地を大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏が痛くなるほどくたびれた。
 ――右の一行は、盗用である。すなわち、1928年(大正三年)の小説から盗用しても、さほど不自然ではないところに、神楽坂のユニークさがある。原文は左の如し。
〈神楽坂の大通を挟んで其の左右に幾筋となく入乱れてゐる横町といふ横町、路地といふ路地をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の裏の痛くなるほどくたぶれた。〉(永井荷風「夏すがた」)

 以下、加能作次郎「大東京繁昌記」山手篇の〈早稲田神楽坂〉からの引用、サトウ・ハチロー「僕の東京地図」からの引用、野ロ冨士男氏「私のなかの東京」(名前の紹介だけ)があり、続いて

 神楽坂について古い書物をめくっていると、しばしば、〈神楽坂気分〉という表現を眼にする。いわゆる、とか、ご存じの、という感じで使われており、私にはほぼわかる…

「山の手銀座」はよく聞きますが、「神楽坂気分」という言葉は加能作次郎氏が作った文章を別として、初めて聞いた言葉です。少なくとも神楽坂気分という表現はなく、国立図書館にもありません。しかし、新聞、雑誌などでよく耳に聞いた言葉なのかもしれません。さて、後半です。

 荒木氏のオフイスは新潮社の左側の横町を入った所にあり、いわば早稲田寄りになるので、いったん、飯田橋駅に近い濠端に出てしまうことに決めた。
 そして、神楽坂通りより一つ東側の道、軽子坂を上ることにした。神楽坂のメイン・ストリートは、 いまや、あまりにも、きんきらきん(、、、、、、)であり、良くない、と判定したためである。
 軽子坂は、ポルノ映画館などがあるものの、私の考えるある種の空気(、、、、、、)が残っている部分で、本多横町 (毘沙門さまの斜め向いを右に入る道の俗称)を覗いてから、あちこちの路地に足を踏み入れる。同じ山の手の花街である四谷荒木町の裏通りに似たところがあるが、こちらのほうが、オリンピック以前の東京が息づいている。黒塀が多いのも、花街の名残りらしく、しかも、いずれは殺風景な建物に変るのが眼に見えている。
大久保通りを横切って、白銀(しろがね)公園まえを抜け、白銀坂にかかる。神楽坂歩きをとっくに逸脱してい るのだが、荒木氏も私も、〈原東京〉の匂いのする方向に暴走する癖があるから仕方がない。路地、日蔭、妖しい看板、時代錯誤な人々、うねるような狭い道、谷間のある方へ身体が動いてしまうのである。
「女の子の顔がきれいだ」
 と、荒木氏が断言した。
白銀坂 おかしいかもしれませんが、白銀坂っていったいどこなの? 瓢箪坂や相生坂なら知っています。白銀坂なんて、聞いたことはないのでした。と書いた後で明治20年の地図にありました。へー、こんなところを白銀坂っていうんだ。知りませんでした。ただし、この白銀坂は行きたい場所から垂直にずれています。
きれい 白銀公園を越えてそこで女の子がきれいだというのもちょっとおかしい。神楽坂5丁目ならわかるのですが。

 言うまでもないことだが、花街の近くの幼女は奇妙におとなびた顔をしている。吉原の近くで生れた荒木氏と柳橋の近くで生れた私は、どうしてそうなるのかを、幼時体験として知っているのだ。
 赤城神社のある赤城元町、赤城下町と、道は行きどまるかに見えて、どこまでも続く。昭和三十年代ではないかと錯覚させる玩具と駄菓子と雑貨の店(ピンク、、、レディ(、、、)の写真が売られているのが凄い)があり、物を買いに入ってゆく女の子がいる。〈陽の当る表通り〉と隔絶した人間の営みがこの谷間にあり、 荒木氏も私も、こちらが本当の東京の姿だと心の中で眩きながら、言葉にすることができない。
 なぜなら、言葉にしたとたんに、それは白々しくなり、しかも、ブーメランのように私たちを襲うのが確実だからだ。私たちは——いや、少くとも、私は、そうした生活から遁走しおおせたかに見える贋の山の手人種であり、〈陽の当る表通り〉を離れることができぬ日常を送っている。そうしたうさん臭い人間は、早々に、谷間を立ち去らなければならない。
 若い女を男が追いかけてゆき、争っている。「つきまとわないでください」と、セーターにスラックス姿の女が叫ぶ。ちかごろ、めったに見かけぬ光景である。
 男はしつこくつきまとい、女が逃げる。一本道だから、私たちを追い抜いて走るしかない。
 やがて、諦めたのか、男は昂奮した様子で戻ってきた。
 少し歩くと、女が公衆電話をかけているのが見えた。
 私たちは、やがて、悪趣味なビルが見える表通りに出た。

どこまでも続く う~ん、かなり先に歩いてきたのではないでしょうか。神楽坂ではないと断言できないのですが。そうか、最近の言葉でいうと、裏神楽坂なんだ。
表通り おそらく牛込天神町のど真ん中から西の早稲田通りに出たのでしょう。

 これで終わりです。なお、写真は1枚を出すと……(全部を出す場合には……神楽坂の写真

 これは神楽坂通りそのものの写真です。場所は神楽坂3丁目で、この万平ビルは現在、クレール神楽坂になりました。

1990年の神楽坂

1990年の神楽坂

紅谷|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 菓子屋「紅谷」の2つの図を出します。左は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)です。ここで、仐とは第四水準の漢字で「サン」「かさ」と読みます。右は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」の一部で、それを書き直ししたものです。

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神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」を読むと……(なお、「相川さん」は大正二年生まれで、棟梁で街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。)

馬場さん ここのところはあんまりはっきりしなかったんですよ。相川さんがいちばんよく知っているんだ。なんて空き地だったの?
相川さん 昭和銀行が建てるんで、担保に取った家だから、空き地にしといた。塀が二間ぐらいあって。だからお祭りやるときに、いつもその塀を壊してお神酒所にした。奥深いでしよ、だから表にお神輿をおいて、後ろがたまり場になっている。独立でできたんですよ。
馬場さん お祭りのときに、寺内のところでもお賽銭をもってきたっていうのは?
相川さん それはもっと前だね、これができない前だね。またぎでね、いまの万長さんと恵比寿亭との間(注)に、下を人が通れるようにって橋をこしらえて、お祭りのときにお囃子をやったんだ。
(注)現在の第一勧信とauショップの間の道
馬場さん 安藤さんと「東京靴下」の社長の北沢さんところの二軒、買ったんだね、ここから。
相川さん いや、これはマスミヤさんのものなの。東京靴下もみんな同級生なの。この半襟屋さんのうちで、傘屋さんのあったうちを。
馬場さん 「高橋洋傘店」?
相川さん そう、これを「紅谷」さんが間口を広げるというので、ここに空き家があったでしょ。ここは「伊藤はかま店」だった。ここが空き家になったんで、マスミヤさんもどけるとちょうど一角(いっかく)になるからって、こっちを買ってマスミヤさんにどいてもらった。これも三階建ての木造でね。ここの紅谷さんの二軒分は喫茶店にした。店はそのまんま。

またぎ 「またぎき」でしょう。又聞き。伝え聞く。間接的に聞くこと。ちなみに、またぎは、東北地方などの山間部に住む古い猟法を守って狩りを行う狩猟者のこと。

 なにかよくわかりませんが、紅谷については全てです。紅谷店では、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)を見る限り、大正10年に3階建てに改築し、以降は改装はなく、これで終わりです。紅谷がこれ以上変更なく、その後、空襲でなくなりました。

なお、「空き地」は上の右図に出てくるものでしょう。「昭和銀行」は昭和2年に尾張屋銀行を買収しました

さて、マスミヤの推移です。上の2図では「益見屋」と「益みや」。上の対談では「マスミヤ」です。益見屋から土地を少しもらったのでしょうか。

別の地図で、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では次の図が出ています。「益見屋洋店 半襟店」が再び登場しています。

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さらに都市製図社制の火災保険特殊地図の 昭和12年(左)と昭和27年(右)は下の絵です。ちなみに益()屋は昭和12年の地図に出ています。

s12+s27

結局、「益見屋」「益みや」「マスミヤ」「益見屋洋品 半襟店」「益(屋」さんはどうなったのでしょう? 紅谷に売って、隣に新しい益見屋を買ったのでしょうか? それとも店舗は昔から変わらず、紅谷はハカマ屋だけを買ったのでしょうか。正確にはわかりません。

なぜ、小説家の収入は大正八年に劇的に急増したのか

山本芳明

文学と神楽坂

 山本芳明氏が書いた『カネと文学 日本近代文学の経済史』です。

 氏は学習院大学教授で近代文学研究者。生年は1955年です。

 第一章 大正八年、文壇の黄金時代のはじまり

 一、あがる原稿料
 なぜ、岩野泡鳴の収入は、大正八年に劇的に急増したのだろうか。
 その原因として、第一にあげるべきなのは、原稿料の高騰である。大正八年四月に総合雑誌「改造」、六月に「解放」が創刊されたのを契機として、コンテンツを確保するために、原稿料が上昇したのである。
 小説家の広津和郎の回想によれば、「『改造』『解放』等が原稿料を余計出したので、どこの雑誌も原稿料を急激に値上げし始めた。これもこの年の特徴であった。参考のために自分の原稿料の上り方を書いて見ると、大正六年に『中央公論』にはじめて書いた時は一円であり、その後『文章世界』に書いたら六十銭、『新潮』は七十銭、『太陽』が八〇銭、そんな工合合で大正七年まで来たのに、大正八年になって、『改心』が一円八〇銭、『解放』が二円出したので、次ぎに『中央公論』に書いたら、『改造はいくら出しましたか』と滝田氏(注:号は樗陰。「中央公論」編集長)は訊ねた上で、今までの一円を二円にした。それまでは原稿料の値上げは、十銭とか、二十銭とか宛であったのに、それからは五十銭、一円の値上げとなり、大正十二年の震災前に五円になった。その後、少しずつ値上りして、八円という時代が十年以上続き、大東亜戦争の始まる少し前頃、十円になった。これは私の貰った原稿料で、他の人気作家は、もっとずっと払って貰っていたかも知れないと思う。」(「六十二 大正八年という年」『年月のあしおと』昭38・8刊 引川は平1・5刊の中央公論社普及版全集第12巻による)ということになる。

 つまり、原稿料は40枚で400円になりました。年に10作をつくると、4000円です。さらに近松秋江氏がこう書いていると山本芳明氏はいいます。

碌々(ろくろく)学校もやらない島田清次郎が僅かに二十二か三歳で、一挙にして数万円の印税を()得たなどは、漸く十八九歳の前垂れ掛けの小僧でも(うま)く一つ当れば一夜にして、(たちま)ち、巨富を成すことの出来る相場師仲間以外にはとても見られぬ図である」(「年の暮文士貧富論」「時事新報」大11・12・21)。
 近松が、浅薄な「文運の降盛」の代表者として言及した島田清次郎は、「本年二十三歳の島田君の預金が川崎銀行に五万円◇尚続々その『地上』第一部乃至第三部から上って来る月々の印税千円を下らず」(「書架の前」「読売新聞」大10・11・20)といったゴシップが流れるほどの流行作家だった。島田については、後に詳しく述べるが、黄金時代を代表する作家の一人といっていいだろう。大正文学の代表的な作家といえば、芥川龍之介志賀直哉のような短編小説を得意とする作家たちが思い浮かぶ。しかし、実際のところ、黄金時代を支えた重要な文学作品=商品は、島田清次郎の『地上』シリーズを代表とする書き下ろし長編小説だったのである。
 近松は、島田のような若造に『巨富』を得させる「文運の隆盛」の浅薄さを、昔気質の文士らしく嘆いているかのようだ。しかし、彼の本当の悩みは別のところにあった。彼を困らせていたのは、「初めて税務署から決定書をさし付けて来た」ことだった。貧乏で売っていた近松も「文運の降盛」のおかげを被っていたのである。こうした税金をめぐるトラブル(?)はこの時期の重要な文壇ゴシップだった。
 たとえば、上司小剣は「著作物に対する不定の報酬は課税の目的物となるべきや」(「読売新聞」大9・11・30)という文章で、[従来六百円]だったのに、「先月末品川税務署から三千円の決定書を送られ」「再審査を請求しても間に合わんので」、税金を「其のまま二回納め」たという体験と、税務署の関心が作家に突然向けられたことの困惑を語っていた。
 ちなみに、大正九年の内閣総理大臣の月給は千円、東京府知事の年俸は六千円、国会議員の年額報酬は三千円、第一銀行の大卒の初任給は四五円から五〇円、小学校教員の初任給(諸手当を含まない基本給)は四〇円から五五円だった。そばは八から一〇銭、味噌は二八銭、醤油は八四銭である。
 まさに、作家たちは成金となったのである。

贏つ かつ。勝つ。克つ。相手より優位な立場を占める。競争相手を負かす。勝利を得る。

 小説家の年収は10作で、四千円。国会議員の年額報酬は三千円。小説家たちは成金になりました。


 もうひとつ、出版ジャーナリズムが出てきたものも別の理由です。杉森久英氏の「天才と狂人の間」(河出文庫)の解説で川村湊氏は

 しかし、杉森久英氏が指摘しているもう一つの、〈島田清次郎現象〉すなわち『地上』ブームの要因がある。それはほかでもなく、この頃に出版社主導型の大衆ジャーナリズムが拡大したということである。二十歳の無名青年の長篇小説が、いくら生田長江の強力な推輓があったとしても、当時すでに文芸物の出版社として定評を得ていた新潮社から大々的に出版されることは、おそらく数年前にはほとんど考えられなかったことだ。社内の賛否両論を抑え、出版を決裁したのは社長の佐藤義亮だったという。彼は出版人としての商売人的なカンによって、この小説は売れると踏んだのだろう。無名であり、新人であり、若いからこそ、「現代」にアッピールする。新聞に大きく広告を出し、自社系出版物にも大きく広告を打ち「堂々二千枚の大長篇ということ」「著者がまだ二一歳の年少作家だということ」を強調し、「島田清次郎」という名前を一般読者、大衆層に向けて記憶させ、浸透させようとしたのである。(もっとも成功しなかった場合のことも考え、第一部「地に潜むもの」の印税はなしというように、細心な商売人根性も見せている。)
 つまり、島田清次郎は「新潮社」という出版ジャーナリズムによって作られた「文壇の寵児」なのであって、それは尾崎紅葉の門下から泉鏡花小栗風葉が、漱石門下から芥川龍之介森田草平が新進作家として登場してくるといった、明治・大正文壇の新人作家の登場の仕方とは異質であり、異端的なものであったのである。

推輓 すいばん。車を()したり引いたりすること。転じて人を推挙すること

新潮社社長の佐藤義亮氏が書いた『出版おもいで話』(1936年)では

島田清次郎氏の『地上』
「多少ながらいいものをもっているようです。会ってやって下さい」
 という意味の生田長江氏の紹介状を持って、きわめて謙譲で、無口な青年が、私を訪ねて来た。それが島田清次郎氏であった。大正八年の春のことである。
 持って来た原稿を、社の二、三の人たちに読んでもらった。相当見られるというのと、いや、大したもんじゃないという、二様の意見だった。結局冒険して出すこともなかろうとの説に帰したが、私が読んでみると、なるほど稚拙な点は否めないが、しかもどこか不思議な迫力があり、いい意味の大衆性をもっているので、未練があって棄てかねる。で、初めの方を二、三度読みかえして見てから、とうとう出すことに決め、郵便で出版承諾の旨を言ってやると、彼は飛んで来た。非常な喜び方だったことはいうまでもない。
 この時の素朴な感謝に溢れた彼と、後の傲岸(ごうがん)無比な彼とが同一人であったということは、今考えても不思議なくらいである。
 かくして、『地上』第一巻が生まれた(大正八年六月)。
 初版は三千部刷ったが、初めの売行きは普通だった。それが二十日ばかり経ってから俄然売れ出し、徳富蘇峰翁や堺枯川氏などの激賞をきっかけに、各新聞雑誌における評判は、文字どおり嘖々(さくさく)たるものであった。十版、二十版と増刷して、発売高は三万部に達した。
 つづいて『地上』第二巻を出したが、これも初版一万部が、たった二日間で売れ尽す盛況であった。
 この奇蹟以上の売行きに、あの謙虚寡黙だった青年が私に向かって、
「自分の小説が、これほど世に迎えられようとは実際思っていなかった。それにしても、第二巻などはあまり売れ過ぎるように思う。これは恐らく、政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者は、政友会出身の内相原敬であるが、今や新しく一世の人気を贏ち得ようとする者に小説家島田清次郎がある。これは政友会の堪え得るところでない。で、政友会はこの上、島田清次郎を民衆に知らしめないために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない……。」
と語った。これには私も、すこしヘンだぞと思わざるを得なかった。
 第三巻は、本が出来てから初めて読んで、その支離滅裂さに驚き、すこしへんだぞと思った予感が、まさに的中して来たことを情けなく思った。それでも初版の三万部は事なく消化されてしまった。
 第四巻の出版にはかなり躊躇されたが、騎虎の勢どうにもならないで出した。やはり相当に売れた。
「日本の若き文豪が、民意を代表して欧米各国を訪れるのである」と豪語して、海外漫遊に出かけたのはその頃であるが、あちらで奇矯な振舞いをして、在留の同胞に殴られたという噂をしばしば耳にした。
 帰ってからは、あの「島清事件」だ。一遍にぴしゃんと凹まされてしまって、彼は再び起つことが出来なかった。
 盛名を馳せた人で悲惨な末路を見せるものは珍しくないが、彗星のように突如現われて四辺を眩惑し、わずか両三年にして、また、たちまち彗星のように消え去った、島田清次郎の如きは、恐らく空前にして、絶後というべきであろう。

嘖々 ほめること
政友会 立憲政友会。明治33年(1900)伊藤博文が旧自由党系の憲政党を吸収して結成し、5・15事件の後に衰退し、昭和15年(1940)解党。
内相 ないしょう。内務大臣のこと
贏ち得る かちえる。努力の結果として得る。
騎虎の勢 きこのいきおい。虎に乗った者は、降りると虎に食べられてしまうので、乗り続けるしかない。一度勢いがついてしまうと、途中でやめることが出来ないたとえ

メトロ映画[昔]

文学と神楽坂

メトロ映画劇場

 昭和27年(1952年)1月元日を期して神楽坂2丁目に開場しました。場所はここです。

http://towa33.com/?eid=8195

 神楽坂アーカイブズチームが書いた『まちの想い出をたどって 第4集』(2011年)では、「坂の右側に見える映画の看板はかつてあった神楽坂メトロのもの」と出て、写真2枚をだしています。
 1つは新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58にもありますが、写真の北西方向に「トリスバー」「コーヒーリオン」が見えます。映画のメーン作品は「修羅しゅら八荒はっこう」で、公開は昭和33年11月11日。「神州天馬侠 完結篇」は昭和33年9月23日。「裸の太陽」は昭和33年10月1日。どれも昭和33年の映画です。

昭和30年後半の神楽坂通り(新宿歴史博物館提供)

昭和30年後半の神楽坂通り(新宿歴史博物館提供)新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 58

 別の写真はこれで、修道社の『東京都-県別・写真・観光日本案内』(1961年)からとったものです。遠くにこの映画館が見えます。近くに見える神楽堂は現在の不二家飯田橋店です。

 毎日新聞社の本『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』では下のような写真が出ています。昭和37年(1962年)の写真です。またコーヒーリオンは「BAR みなみ」に変わっています。
映画館

 山本祥三氏の『東京風物画集 PARTⅡ』(雪華社、昭和38年)では本の前半(109)にイラストとメモ、後半(23)には文章が出ています。イラストとメモには映画館はありませんが、文章に出ています。しのだ寿司

109 神 楽 坂
Kagurazaka
繁栄を誇った神楽坂も今は新宿に押されて小
ぢんまりした小盛り場になってしまいました。
それでも街に流れている空気は山の手らしい
上品さです。
東京風物画集

東京風物画集

シネマスコープ(神楽坂メトロ)大人120 同伴95 学生55 学生科金が普通料金の半値なのはこの街らしい
ジャズ喫茶、トリスバー、ダンス教室、気のきいた喫茶店などが目に付く
山手でも下町でもない神楽坂の雰囲気
戦前に繁栄した盛り場のカンロクが残っている
戦災ですっかりイタメつけられたこの街も、昔日のおもかげはないにしても軒を並べた商店は皆小綺麗で感じがいい 山手の上品さと下町の気安さとを持つこの街
街の中程はこぢんまりした毘沙門天の境内に子供の遊び場。

 1967年当初、「メトロ神楽坂」と「バーみなみ」などはありますが、同年になくなり、より巨大なパブ「ハッピージャック」と喫茶「軽い心」に代わっています。

三好野|神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 三好野(みよしの)は、おしるこなどの甘味屋でした。神楽坂4丁目で、現在はレディースファッションAWAYAです。場所はここ

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

毘沙門の向ふ側に以前からある、例の三好野式の大衆甘味ホールで、お汁粉、おはぎ等のほかに稲荷ずし、喫茶の類も揃つてゐますが、他に類似の店が尠いので、婦人子供達にも評判がよろしく、毘沙門參詣者の休み場所のやうな形になつてゐます

 三好野は1952年までにはなくなっています。「家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられた」とある私信。

 1960年頃までは「洋品マケヌ屋」、1978年頃までは「阿質屋洋品」、1980年頃からはレディースファッション「あわや」になっています。

「あわや」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」。最も狭い路地で、しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。神楽坂通りに出る方の路地はわずか91cm、四つ角にぶつかる方は122cmでした。(詳細はここで)

「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」


ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持って「ごくぼその路地」を抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会う

春月[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

春月。飯田公子。かぐらむら。67号。

 春月はそば屋さんでした。明治より古くから営業し、終戦後も、しばらくは営業して、たとえば、昭和27年、都市製図社の火災保険特殊地図ではやっていますが、昭和30年代には隣の三菱銀行の駐車場になり、昭和35年には合併しています。場所は三菱UFJ銀行の一部です。地図はここです。
 地元の話では「3丁目の三菱銀行は、戦後しばらくして隣地を買い取りました。石造りの旧店舗は、周辺への通知と道路の通行止めをした上で爆破して取り壊しました。ちょっとしたイベントでした。現店舗は駐車場を地下にして建て直したものです」

春月

現在は三菱UFJ銀行の一部

 歌舞伎役者の三代目中村仲蔵氏が書いた『手前味噌』(昭和19年)で、弘化4(1847)年9月には

 挑灯の用意すれど蝋燭を買ふ家なく、四辺は屋敷町ゆゑ、探らぬばかりにして、牛込山伏町より神楽坂の通りへ出る。ヤレ嬉しやと春月庵といふ蕎麦屋へ這入り、蕎麦を喰ふ。それより堀端へ出で、順路猿若町の自宅へ帰る時に、四ツなりし。お千賀、お紋も留守中の難渋さぞかしと、互ひに難儀話に時を移し、我れ土産は少しだがといって金十両出す。女ども涙を飜して大悦び、その夜は足を延ばして緩々旅の労れを休めけり。
 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では
春月――毘沙門並びの角店。二階に座敷もある立派なそば屋ですが、時勢は喫茶を一諸にさせてゐます。

 子母沢寛氏の『味覚極楽』(昭和32年、インタビューは昭和2年、他も同じ)「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」では
牛込神楽坂の「春月」もいい。もり、ざるそば、何んでもいいが、あのうちの下地に特徴がある。この方の通人にいわせると、そばは下地をちょっぴりとつけて、するすると吸い込むものだというけれども、私は矢張り下地を適当につけて、囗八分目に入れて行くのがいいと思っている。

 以上は竹内薫兵氏の話ですが、これを受けて子母沢寛自身も「寸刻の味」を書いています。
 神楽坂の「春月」は書生の頃から久しく通った。はじめ何んの気なしに入ったらうまい。通っている中に気がついたのだが、よく天ぷらだの何んだの、吸タネでお酒をのんでいる人が大変多い。大抵行く度にこういう人を見る。天ぷら、五目、鴨なん(、、)というようなものの下地だけをとって酒をのんでいる。後ちに酒のみの先輩にこれを話したら「酒というものは蕎麦でのむと大層うま味が減るものだ、だから蕎麦屋では大抵飛切り上等のものを置く、酒のみは酒をのむためにここへ入る。蕎麦をとっても酒をのみ終えてから御愛想に食う位のものだ。吸タネで酒をのむなどはところがら粋な奴が多いのだろうし、酒も余っ程いいのを出しているな」といった。

 また、子母沢寛氏の『味覚極楽』の「四谷馬方蕎麦 彫刻家 高村光雲翁の話」の高村光雲氏は
 麻布永坂の「更科」、池の端の「蓮玉座」、団子坂の「薮そば」はその頃から有名で、神楽坂の「春月」は二八そば随一のうまさだなどといわれたものだ。

 二八そばとは2x8=16銭で食べさせたそばのこと。あるいは、うどん粉とそば粉の割合を2対8でつくったそば。また、そば粉2、うどん粉8の割合でつくった下等なそば。この二八そばの語源はほかにもいろいろあります。
 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第4号の「語らい広場」では
『手前味噌』の中に見つけた神楽坂のこと

 昆沙門様の隣、三菱銀行の角地に銀行ができるまで「春月」といふそばやさんがありました。戦前からあったお店だったと思ひますが、その頃のことはおぼえてゐません。昭和二十年代、まだ麺類外食券なんてものが必要だった時代(そんなこともあったのです)に、随分よく通ったものです。きりっとした、いはゆる小股の切れ上がったといふお内儀さんがいかにも江戸前といふ感じで、いつも和服で店内を切り廻してゐました。銀行の進出で消えてしまひ残念な思ひがしたことをおぼえてゐます。はやった店だったのに。
田邊孝治

船橋屋[昔]

文学と神楽坂

 和菓子「船橋屋」はかつて神楽坂6丁目67にあった店舗で、現在は名前は変わり、「神楽坂FNビル」に変わりました。これは、1984年竣工、10階建ての賃貸オフィスビルです。なぜかシャッターはいつも閉まったままです。場所はここ

FNビル

FNビル

 昭和13年4月号の「製菓実験」では

      船橋屋
倉本
 入口のアイランド・ケース[鳥型欄]は、客の出入に邪魔になる。どうせ、この店の構えでは、このケースの品は賣れることが少いので、經營者は大したものと考へてはゐないのであろうけれど、商賣の上から行くと、この入口の二本のケースのある場所は一番大切なところなので、氣の利いた店ならばここにオトリ(、、、)ワナ(、、)を、しかけることになつてゐるのである。かゝる最上の場所をイヽカゲンにすることは許されない。陳列窻の中も、これではよくない。見たところ、相當大きな店らしいのに、如何にも殘念なこととおもふ。

 取り立てゝいゝ處も無い代りに、大きな缺點も無い店である。
 欄間の構造をも少し軽快に造つたならば、上から壓迫されるやうな感じが無くなつて、もつと入りよい店になるであらう。入口の二箇のシヨーケースは目立つて相當効果はあると思はれるが、場合に依つてはこの爲に入りにくゝいてゐるとも考へられる。このまゝではガラス戸は是非全部開放して置かないと中との連結が斷たれる恐れがあらう。

 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

私は肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけると、そこに入って行った。これは私の子供の時分から知っている店で、よくオヤツの菓子を買いに来たものである。私はそこまで来る間にも、昔知っていた店が残っているかと思って、町の両側の店々を注意して眺めて来たが、どこも記憶にない店名ばかりであった。そこに船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。
 私は店番をしている店員に訊いた。
「ここは昔の船橋屋か知ら」
「はい、昔の船橋屋でございます」と店員は答えた。
「代替りはしていないの」
「はい、代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます」
 私は店員に大福を包んで貰った。

 野口冨士男著の『私のなかの東京』「神楽坂から早稲田まで」(昭和53年)では

現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

かぐらむら』によれば

 船橋屋(通寺町『製菓実験』昭和13年4月号/国立国会図書館蔵)
 創業明治3年の和菓子と喫茶の店である。船橋屋本店として相当に繁盛していたことが、3階建ての店舗から伺える。ひさしの上に植木が並べられているのが、いかにも「昔」の風景だ。1階、向かって右の階段(植物の蔭)が、喫茶の入口だったのだろう。春先らしく、桜もち、草もちと大書きされた紙が貼られている。
 船橋屋は、通寺町67番地にあった。戦後も営業が続けられていたが、今は「FNビル」というオフィスビルになっている。

牛込駅から飯田橋駅

文学と神楽坂

 牛込駅の開業は明治27年(1894)10月9日。廃業は昭和3年(1928)11月15日。風俗画報臨時増刊「新撰東京名所図会」の「牛込区之部 上」は明治37年に発行したもので、その「牛込停車場」です。

●牛込停車場
牛込停車場は。牛込濠の東畔を埋めて設備したる甲武鐵道線の驛にて。飯田町の次に在る停車場なり。其の結構四谷停車場と大差なし。但當所の閣道は驛の西側に在りて。直ちに牛込門南の乗車券賣場に行くべく。右に下れば四谷、新宿行のブラットホームに至るべし。飯田町行は改札所前にて。閣道を攀るの煩なし。
當所の土手には。四谷の如く多くの躑躅花なきも。秋夜叢露の中に宿りし蟲の聲ゆかしく聞ゆ。
今や電車の準備中なれば。長蛇の黒煙を噴て走るの異觀はなきに至るべきか。但隄松には電車の方よろしきか。

[現代語訳]牛込停車場は、牛込堀の東側を埋めて設備した甲武鉄道線の駅であり、飯田町の次に来る停車場だ。その構成は四谷停車場と大差はない。ただし、当所の階上の廊下は、駅の西側にあり、直ちに旧牛込門の南口の乗車券売り場に行く場合、右の下に行けばよく、四谷や新宿に行くブラットホームになる。飯田町行は改札所の前で、跨線橋を登るわずらわしさはない。
 当所の土手には四谷と違って多くのつつじの花はないが、秋の夜、草むらのつゆのなかで、虫の音は心がひかれる。
 現在は電車の準備中で、長い黒煙を吹いて走る奇観はないといえよう。なお、土手の松では電車のほうがよくはないか。

甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
飯田町 牛込駅の建設が終わると、下の橋も利用可。飯田町の場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

結構 全体の構造や組み立てを考えること。その構造や組み立て。構成。
閣道 かくどう。地上高くしつらえられた廊下
 旧
攀る よじる。よじ登る。
躑躅 つつじ。

 明治初期(おそらく明治10年以前)、まだ牛込橋は1つだけです。

 明治後期になって、小林清親氏が描いた「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 牛込見附の桜花について、石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)は

明治34年、牛込御門の前に明治34年架橋の牛込橋。右手にあった牛込御門は明治5年に渡櫓が撤去され、明治35年には門構えも収り壊された。左手は神楽坂になる。右に甲武鉄道が走るが飯田橋駅(明治3年11年15日開業)はまだなかった。この写真で右後方に牛込停車場があった。ルーペで覗くと右橋脚の中程に線路が見える。橋上の人は桜見物を演出するためのサクラのようだ。

 同じく石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」で

これと同じ牛込橋だ。現JR中央線飯田橋駅西口付近である。赤坂溜池からの水(南側)と江戸川から導いた水(北側)の境目で、堀の水位に高低差があった。今も観察すると水に高低があることが分かる。

 関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、1928年(昭和3年)11月15日、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 新光社「日本地理風俗大系 II」(昭和6年)では……

牛込見附

 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が繞らされている。濠の内側には要所要所に幾多の関門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾が大方跡形もないが山手方面には当時が偲れる石堰や陸橋が残っている。写真は牛込見附で石垣が完全に保存されている。

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「首都圏の鉄道と駅の写真」には

 山高登氏の「東京昭和百景」(星雲社、2014)では 昭和48年(1973年)頃の牛込橋の絵画です。

山高登「東京昭和百景」星雲社。2014。「牛込見附夕景」は1973年

 牛込見附夕景(1973年)
JR飯田橋駅のホームから描いた。市ヶ谷堀から来た水が落ちるところが揚場町の堀だった。此の河岸は文字通り建築材料や材木を陸揚げする岸で、外堀は飯田橋で神田川に合流していた。右手の灰色の建物は近くの警察病院の病棟の分室。正面の神楽坂口を出ると左にはいくつか学校があって学生の乗降が多かった。

警察病院の病棟の分室 正しくは警察官の牛込寮でした。

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

 以前の飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

 また、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。

新飯田橋駅

20/7/12から http://blog.livedoor.jp/schulze/archives/52256026.html

 新しい西口駅舎

善國寺の文化財

文学と神楽坂

では本堂に走る前に、文化財の説明を見てみましょう。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定有形文化財 彫刻
善國寺(ぜんこくじ)毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 昭和60年7月5日
「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30センチ、右手に鉾、左手に宝塔(ほうとう)を持ち、磐座(いわざ)に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の(まもり)本尊(ほんぞん)だったとも、土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)徳川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は、別名を多聞(たもん)天と称し、持国(じこく)天・増長(ぞうちょう)天・広目(こうもく)天と共に四天王の1つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は、江戸の3毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。

平成21年12月    新宿区教育委員会

毘沙門天の生まれは寅の年、寅の日、寅の刻といわれ、化身である寅の石像は1対境内に向かい合って鎮座しています。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財
善國寺の石虎(いしとら)
所在地 新宿区神楽坂5丁目36番地
指定年月日 平成21年11月6日
G 安山岩製の虎の石像で、像高は阿形あぎょう(右)が82センチ、吽形うんぎょう(左)は85センチで、台石、基壇部も含めた総高は、両像ともに2メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店わらだな」「神楽坂」「肴町さかなまち」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者は善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳村長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。まら、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号きごう水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
平成21年12月  新宿区教育委員会

この刻印は「几」と書いて「キ」と読むもので、高低几号または几号高低標とも漢字の「不」に似ているので不号水準点ともいわれるようです。

「大江戸歴史散歩を楽しむ会」(https://wako226.exblog.jp/16086315/)によれば

明治7年(1874)に開始した几号高低測量で刻まれた標高は18m76㎝44㎜であった。その後、大正12年(1923)関東大震災(-86㎜)、平成23年3月11日東北大震災(-24㎜)の地盤沈下(国会議事堂前の日本水準原点)を参考にすると虎石像台座の標高は現在18m65㎝44㎜となる。

神楽坂|東京繁昌記

文学と神楽坂

 木村荘八氏が書いた『東京繁昌記』という本があり、私は区の図書館で借りて読みました。A4判で、厚さは2.5cm。重さは1.6kgもあります。おっきい。全体で246頁なので、1頁1頁が相当に重たい。区の本は昭和33年に発行した演劇出版社の複製で、昭和62年に国書刊行会が再発行しています。
 氏は洋画家であり、生家は牛鍋屋いろは。岸田劉生氏とフューザン会・草土社を結成。小説の挿絵で有名で、『東京繁昌記』の画文は芸術院恩賜賞を受けました。生年は明治26年8月21日。没年は昭和33年11月18日。享年は満65歳でした。
 で、これほどの重い本だと「神楽坂」の文章も多いのではと思いましたが、文字は1頁以下でした。昭和30年、読売新聞の「師走風景帖」の文章で神楽坂を描いています。

東京繁昌記 尾崎紅葉の句に「寒参り闇にちんちん千鳥かな」。その白装束の寒参りを点景として神楽坂を描いた絵を見たことがあるが、九段坂には車のあと押しの「立ちんぼ」を配するなど、明治の人の風景描写は叙情細やかだった。上五を忘れたけれども「――つらりと酔ふて花の春」これも紅葉の句で、その注解に、一夜明けると、紅葉は門下生に羽織と着ものの「おしきせ」を出し、それを着つれた連中がほろ酔いで肩をそろえ、目白押しに神楽坂に行くところ、とあった。
 明治の神楽坂は硯友社の勢力範囲だった。今の神楽坂は早稲田と法政のなわ張りだろう――山の手の地形はここ(牛込)も麻布と同じく、到底後からの人工では出来ない(あが)り・(さが)りに豊富で、坂の名は、昔市ヶ谷八幡の祭礼にこの坂の近くで神楽を奏したからこの名があるといわれ、あるいは若宮八幡の神楽がこの坂まで聞えたからともいわれる。

 12月9日

寒参り闇にちんちん千鳥かな 岩波書店の『紅葉全集』第九巻を調べましたが、「寒詣翔るちん/\千鳥哉」だけが全集にはありました。
――つらりと酔ふて花の春 『紅葉全集』第九巻にはなさそうです。
目白押し めじろおし。メジロが樹上に押し合うように並んでとまるところから。多人数が込み合って並ぶこと。

 反対側の頁にはA4判全てを使って白黒の絵を描いています。パチンコマリーは現在のゲームセンター「セガ神楽坂」(場所はここ)に当たります。

木村荘八氏の「神楽坂」

木村荘八氏の「神楽坂」


毘沙門児童遊園

文学と神楽坂

 毘沙門天の一角に児童遊園がありました。新宿区のマークも付いているので、公的なのですが、あるのは椅子2つとトイレ。せめてスイング遊具にしてもいいのにね。場所はここです。

児童遊園

 山本祥三氏の『東京風物画集 PARTⅡ』(雪華社、昭和56年)では「街の中程はこぢんまりした毘沙門天の境内に子供の遊び場。」と書かれています。

 なお「神楽のさくら」という標柱が毘沙門児童遊園の奥にあります。なぜ「神楽のさくら」がたったのか不明です。「神楽のさくら」は筑土八幡神社にもあるのですが、これは理由がはっきりしています。

美濃屋[昔]とアジアンタワン

文学と神楽坂

美濃屋

 神楽坂5丁目30番で昔は菱屋分店、戦後は足袋の美濃屋に変わりましたが、1990年代に消え、今ではアジアンタワンなどに変わっています。
アジアンタワン

 場所はここ

 昭和45年新宿区教育委員会が書いた「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」では「糸・菱屋」になっています。

 右の下図は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」からで、絵は読みにくくなっているので、書き直ししました。
古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会より美濃屋1
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」の本文では

相川さん すぐ隣が菱屋さんの。これも天利さんと同じだけど、三丁目のと親戚でね。
馬場さん そういえば「菱屋分店」って書いてあった。

 天利氏は菱屋の店主です。戦後は神楽坂6丁目から美濃屋がはいってきました。

 大島歌織氏の『ここは牛込、神楽坂』第8号の「神楽坂で見つけた」(平成8年9月)では

足袋について

 美濃屋さんの前は、何度となく通っていて、入ってみたいと思いつつ、なかなか果せないでいました。足袋屋さんて、目的が限定される分、ほかの店のように「ちょっと見せてください」って軽く言えないんだな。
 でも、そろそろ足袋を買おうと思ってたとこでもあり、このページのことを囗実にして…と、ついに敷居をまたいだのでした。ドキドキ。(略)
 明治初期から続く美濃屋さんのご主人(三代目)は、六年前に「六十四歳になる手前で」亡くなられて。いまは外の職人さんに頼んでいるとのこと。その職人さんがやって来るのは、金曜日の夜七時。誂えたい人は、その時分に型をとってもらわなればなりませぬ。

美濃屋。神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、1995年)

 平成8年12月、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では美濃屋はなくなっています。その後、ビデオレンタルなどに変わり、現在は二階のタイ料理「Asian Tawan」や地下一階の「魚がしどまん中神楽坂店」などがはいっています。

資生堂[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、関東大震災後の資生堂は、今の椿屋珈琲店にあったようです。地図はここに

椿屋珈琲店2

 今ではこの地に立っていた建物をまとめると……
① 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃で、荒物屋と白十字
② 「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後の一定時間に、資生堂がはいります。
③ 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)で岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃、蒲焼こめや
④ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和12年で、明治食堂と白十字堂
⑤ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和27年で、堀田肉店
⑥ 1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)でレストラン神楽坂と神楽坂フードセンター
⑦ 国立図書館で住宅協会の新宿区西部[1960]では神楽坂フードセンター
⑧ 1964年(昭和39年)におおとりパチンコになりました。

「肴町よもやま話③」の絵のほうが簡単にわかりやすく、でています。資生堂は白十字になり、明治食堂と一緒になって、堀田肉店になり、これはパチンコおおとり、パチンコ・スロットのゴードンになって、現在は椿屋珈琲店です。

Gold-On

今はないGold-On

 安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

○白十字――(はく)()の神樂坂分店で、以前は(さか)(あが)(ぐち)にあったものです。他の白十字同樣(どうやう)喫茶、菓子、(かる)い食事等。
サラリーマン、學生が多く、二階は(しづ)かに落ちつけますので御同伴(ごどうはん)や、商談客に()に入られてゐます。(なん)となく、クラシツクな氣分(きぶん)の家。
○こめや――蒲焼料理、一寸(ちよつと)氣のきいた日本風の構へですが、蒲焼(かばやき)、うな丼、柳川各(卅錢)と、大衆をそらさぬやり方です。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。
馬場さん そうです。白十字はありました。
山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。そうすると、荒物屋さんは明治食堂に変わって、堀田さんになった。
相川さん そうそう。
馬場さん それから、大田さんの半分の方が「亀沢菓子店」?
相川さん いや、この明治製菓のところが亀沢の菓子屋。
相川さん(ママ) だから、大田さんは半分ずつでしょう。広くないんだから。亀沢の菓子屋のあとは資生堂が来たわけ?
相川さん そうそう。
馬場さん 資生堂が来て、明治製菓になって、白十字になった、と。で、白十字のときには、隣はまだ明治食堂じゃなかった?
相川さん 明治食堂。
馬場さん だから、白十字と明治食堂がいまのオオトリさんのところにあって、それで戦災にあっているわけだ。終戦後は、「メイカ」が来てたよ。
相川さん メイカって明治製菓じゃないですよ。食堂、食堂。権利が残っていだからでしょ。
馬場さん それで「神楽坂食品」が出たけど失敗したりして。
相川さん それで、そのあとへ堀田さんが来た。堀田の肉屋がね。
馬場さん そのあとに堀田さんか来たの? ふーん、それで失敗して。
相川さん そのあとへパチンコ屋さん。
馬場さん それでオオトリさん。
相川さん オオトリさんだって、いまのオオトリさんの前が二つぐらい違うのがあるものね。同じパチンコ屋でも。
高須さん ああ、そうですか。
相川さん うちの中が違ってもね。

村松時計店[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後、村松時計店は現在の鮒忠にあったようです。地図はここに。鮒忠はここに。今ではこの地に立っていた建物をまとめると……

➀ 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃、小間物・浅井。

➁ 「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」で、関東大震災後の一定時間に、村松時計店がはいります。

➂ 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)で岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃、船橋屋本店。これはお汁粉屋でした。

➃ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和12年で、クスリヤ。薬屋です。

➄ 都市製図社の「火災保険特殊地図」で、昭和27年で、西川菓子店(チョコレート屋)

➅ 以降は 昭和30年頃から、鮒忠です

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では

鮒忠

鮒忠

馬場さん それで通りを一つ隔てて、いまの「鮒忠」さんのところ。これがたいへんなんですよね。何やってもうまくいかないんだ
山下さん 西沢さんだ。チョコレート屋さんだったね。
馬場さん 何やってもうまくいかないところでね。
相川さん ここは浅井平八郎さんという小間物屋さんで。
山下さん あの大きなところを全部使っていたの?
相川さん 全部使っていた。
馬場さん 昔、酒屋があったって話を聞いたけど。
相川さん いや、酒屋はない。あんまり昔じゃ私もわからないけど。
馬場さん これは大きい酒屋だったって。万長なんかとは比べ物にならないんだって。それで潰れているんだって。
相川さん この「船橋屋」というのはお汁粉屋。これは、戦争中に「シンセイ堂」つていう薬局があったんです。船橋屋のあとに。そのあとが小間物屋。小間物屋さんが店を閉めるについて、一時、銀座の「村松時計店」が大きくあそこに入っていた。これも銀座の方に新しく(店舗が)できたからってんで引き上げた。そのあとに船橋屋が来た。
馬場さん それから薬屋で、戦災で焼けたときにはなんだったんですか?
相川さん 薬屋でおしまいになったんでしよ。
馬場さん 嘘だよ、薬屋じゃないよ。焼けるときは薬屋じゃなかったよ、ここは。
山下さん それで、戦後はどうですか? いちばん最初は「ノーブル」?
相川さん 「ノーブル」。喫茶をやっていた。
馬場さん ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?
相川さん そうですね。


鮒忠

くるみ|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂5丁目に「伊勢屋」がありました。現在は「広島お好み焼き・くるみ」です。その場所はここ。

① 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では、おそらく大正11年頃で、鰹節・伊勢屋。
② 昭和27年、都市製図社の「火災保険特殊地図」で、伊勢屋食品。
③ 1995年に「イセヤビル」になり、平成14年(2002年)、広島市出身の永川まり氏が店長の「広島お好み焼き・くるみ」になっています。しかし、その前の八百屋は同じ経営陣なのでしょうか。

くるみ

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

くるみ

くるみ

相川さん その隣が「伊勢屋」さんね。伊勢屋さん(注)は坂下のうちにおじいさんが奉公していてこっちが分店になった。(注。神楽坂の2丁目に店があった乾物屋さん)
馬場さん 下って、二丁目かどこかの?
相川さん そう、二丁目。
馬場さん ああ、それでこちらへ。これは昭和の何年ごろのこと?
相川さん 私か覚えているより前からあったから、大正の初期にあそこへ店を開いたんじやないですか。伊勢屋さんの娘さんをもらってあのおじいさんとご夫婦にして。

「ここは牛込、神楽坂」第4号の長澤美智代氏の「神楽坂ガイド」では

『伊勢屋』さんは江戸時代から続く老舗で、乾物類がずらり。ふだんの買物のほか黒豆、昆布などお正月のお節の材料はこのお店で揃えます。ここで見つけた羅臼(らうす)昆布は身が厚くおいしくて。お値段は少々張りますがこれで作る昆布巻きは抜群。

田原屋[昔]

田原屋の写真 田原屋は神楽坂を代表する洋食屋でした。現在は玄品ふぐの店。

 その場所はここ。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では対談を行っています。ここで出てくる人は、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「高須さん」はレストラン田原屋の店主。

馬場さん それでいよいよ隣りの「田原屋」(*)さんにいくわけね。田原屋さんていうのはどうなんですか?
相川さん これは昔「静岡屋」という魚屋さんだった。魚屋さんのあとを買ったんです。
馬場さん 静岡屋さんつてのは知ってる、頭?
相川さん 知らない。相当前だ。大正初期。あそこで牛肉屋をやったのね、あがり屋を。
高須さん 牛肉屋は潰れたはずですよね。それで屋号をさかさまにして田原屋にしたっていう話は聞いているんですけど。
相川さん 牛肉屋のあがり屋さんをやっていたときに女中さんできたのがおばあちゃんなんですよ。それでウヘイさんと見合いして一緒になって。
馬場さん 「原田屋」はウヘイさんのおとっつぁんなの?
相川さん お父さんは金魚屋だったの。それは赤城下にいた。
高須さん だけど、ウヘイさんは金魚屋やったり質屋に丁稚奉公したりしていた。
相川さん ああ、二丁目の質屋さんだね。山本さんの連れ合いの。
高須さん ウヘイさんのお父さんというのは下の弟さんのほうを可愛がっていて、ウヘイさんとはうまくいかなかったんですよ。
相川さん 水道町の高田さんに話を聞いたところでは、昭和四、五年のころ、要するに恐慌が来ていたときですね、ウヘイさんはいまの経済理論なんか知っている人じやないけれども、「不景気ってのは金持ちと貧乏人がますます差が開くことだ、これからの田原屋は貧乏人相手ではなくて金持ちだけを相手に商売をしよう」ということで、ガラッと商売を替えたんだという話を間きましだけどね。貧乏人を相手にしていてもダメだと。金持ちを相手にして、昭和五、六年の恐慌を乗り越えたという話があって。非常にわかりやすい(笑)。
高須さん あれ、質屋に勤めていて勉強したんじやないですか? 質屋の小僧がよく下のお堀で船に乗って京橋におつかいに行ったって。
馬場さん 質屋さんというのは一種の金融業者ですから、経済の動きってものがよくわかるんだ。
高須さん 質屋の小僧さんをやっていたんですよ。じいさんと一緒に金魚屋やって、そのあと質屋に丁稚奉公に行って、それから店をもった。
相川さん だけど、よくああいう商売をポッと考えたものですね。
高須さん じいさんが生きていたときはもう晩年でほとんど無口になっていますから、話を直接は聞いてないですけどね。よく聞いたのは、関東大震災のおかけで神楽坂はよくなったって。
相川さん そうそうそう。あれで下町は全部焼けたからね。

あがり屋 不明。「揚がり屋」は「浴場の衣服を脱いだり着たりする所。脱衣。江戸時代では「武士、僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋」。「あがる」には「御飯を食べる」という意味があります。
ウヘイ 宇平です。高須宇平でした。

 美味しいものなら量は少なくても価格は高くてもいい。しかし、本当に美味しいの? 美味しくない場合には残念ながら閉店です。

 安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で、マカロニは少量、カレーライスも少量、スイカの匙は貧弱だといわれてしまいます。

M   「もうその邉で手つ取り早く食べ物の評に移らうぢやあないか。マカロニチーズ(三十錢)のチーズは却々よいのを使つてゐるが、マカロニは少し分量を儉約し過ぎてゐる」
H   「特別カレーライス(五十錢)お値段も相常だが、流石にうまく、第一カレーがいゝや、それに小皿に盛つてくる副菜の洒落てゐること、大いに推賞したいね。がたゞ僕の方も量を少々増して欲しいと思ふ。この一皿で一食分にはどうも少な過ぎるから」
S   「西瓜(三十錢)の味は無類、但しこの貧弱な匙はどうです、頸が折れ相で、その方に氣を取られる。この頃は百貨店でも大抵特別の匙を添へるのだから」
小が武 「アイスクリーム(二十錢)は餘りほめられません。どうも果物屋のクリームは千疋屋にしても美味くないし、こゝも感心しない」
M   「果物屋ではシャーベットをお食べと云ふ洒落かね」

 牛込倶楽部が発行する「ここは牛込、神楽坂」別冊『神楽坂宴会ガイド』(1999年)です。

 単品でのおすすめ料理は、ハヤシライス(1800円)ビーフクリームコロッケ(1200円)ビーフカツレツ(2400円)など。ちょっと贅沢にというときには「牛ヒレ肉田原屋ふう煮込み」であるところのビーフストロガノフ(6000円)が最高。

 ここでハヤシライス(1800円)が出ています。四半世紀を越えて、物価1800円は2000円以上です。しかし、本当に2000円以上に相当する味があったのでしょうか。ビーフストロガノフはなんと6000円。結局、コックの力量です。

 最後は大河内昭爾氏の氏の『かえらざるもの』から。氏は武蔵野大学名誉教授で文芸評論家です。やっぱり悲しい。

神楽坂「田原屋」が消えた

 神楽坂「田原屋」が昨年姿を消した。いつも愛想よく声をかけてくれていたおばあさんが店に出られなくなったせいであろう。店の前を通っても欠かさず愛想をいってくれた。
 昭和四十年。公団住宅に激烈な競争をくぐり抜けて当選したというだけで、あと先かまわず東京西郊のコンクリートばっかりの殺風景なところに引越した。そしてわずか半年で退散、こんどはうって変わって石畳の路地と黒板塀のある、あこがれの牛込神楽坂近くに引越しが出来た。友人の持ち家の古ぼけたしもた屋の、隣家からは三味線の音も聞こえてくるという路地裏であった。大学以来なじみの界隈であるが、郊外暮らしが性にあわなかった分だけ、まさに蘇生のおもいをした。それ故家族をひきつれて神楽坂「田原屋」へ出むくのが、当時の私の最高の贅沢だった。「この店のなつかしさ サトーハチロー」という大ぶりなマッチ箱にデザインされた文字がのびのびと躍っていて、見事に私の気持を代弁してくれていた。
 月の五の日には毘沙門さんの植木市を中心とした門前市が全盛の頃で、子供の手をひいて雑踏の神楽坂歩きはいっそう楽しかった。
「田原屋」は階下が華やかな果物屋で、二階がレストランだった。濃厚な風味を誇ったハヤシライスがあって、それがいかにも洋食屋といった風情にかなっていた。私はかねてレストランならぬ「洋食屋」を証明するものとしてハヤシライスの有無ということを言っていたか、「田原屋」を根拠にそれを口にしていたような気がする。鳥羽直送と壁に貼りだした生ガキの知らせは季節の風物詩だった。

(「東京人」平成16年1月号)