神楽坂」カテゴリーアーカイブ

矢来下

 「矢来下」ははるか江戸時代から使っている言葉です。万延元年の「市ヶ谷牛込絵図」では「矢来下ト云」と、「小日向絵図」では「矢来下」と書かれています。場所ははっきりとしませんが、「さとし歯科クリニック」「hurakoko」や「肉和食居酒屋 からり」の三叉路の西側から、「牛込天神町交差点」まで、あるいは「牛込警察署 矢来町地域安全センター」まででしょう。なお「牛込中央通り」は江戸時代にまだできていません。
 「牛込天神町交差点」から北の道路は現在「江戸川橋通り」と呼んでいます。
 しかし、「矢来下」の通りは別の観点から見たものもあります。佐多稲子氏の「私の東京地図」の「坂」(新日本文学会、1949年)では、

戦災風景

戦災風景 牛込榎町から神楽坂方面。堀潔 作

高台という言葉は、人がここに住み始めて、平地の町との対照で言われたというふうにすでにその言葉が人の営みをにおわせているが、今、丸出しになった地形は、そういう人の気を含まない、ただ大地の上での大きな丘である。このあたりの地形はこんなにはっきりと、近い過去に誰が見ただろうか。丘の姿というものは、人間が土地を見つけてそこに住み始めた、もっとも初期の、人と大地との結びつく時を連想させる。それほど、矢来下から登ってゆく高台一帯のむき出された地肌は、それ自身の起伏を太陽にさらしていた。

 この「矢来下」は文字通り「矢来の下」あるいは「矢来町の下」から「高台」に登っていく状況を描いています。まあ「矢来町の下」と「矢来下」とはその意味が違っています。
 さらに昭和5年の「牛込区全図」を見てみると……

昭和5年 牛込区全図

と、路面電車の停留所「矢来下」はまさに「矢来町の下」の意味で使っています。つまり「矢来下」は「矢来町の下」の意味に変わりました。ちょうど「牛込見附」が本来の意味から「駅」や「駅の周辺」という意味に付け変わっていくように。
 しかし、本来の「矢来下」は「牛込天神町交差点」から「さとし歯科クリニック」などの「三叉路」までの道路を指し示すものでした。

船つき場のあった船河原|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 16.船つき場のあった船河原」についてです。

船つき場のあった船河原
      (市谷船河原町)
 堀兼の井戸跡の先は外堀通りである。外掘がまだできていない江戸時代初期までは、外堀のところは富久町住吉町田町と続く谷間で、この谷間には川があり大沼などもあって飯田橋の方に流れていた。
 この川には日本橋の方に通じている船が通っていて、その船つき場がこのへんにあったので、このあたりの町名が船河原町と名づけられたのである(牛込11参照)。

「江戸砂子」は簡単に「むかしは大川の川原にて、船をつなぎし所也。市谷に大池あり、そのはき水のながれ也といふ。逢坂の下片町なり」と書いています。下片町しもかたまちは道の片側が川で反対側が民家だったことから。

富久町住吉町田町 図を参照。ここには旧紅葉川が流れていて(以下は新宿区地盤地形(3)各論 旧紅葉川沿いによる)田安家の下屋敷(四谷4丁目)辺りの湧水や富久町の満頭谷の湧水を合わせて東に向かい、現在の靖国通りの南側に沿って流れ、曙橋付近でジク谷(河田町、住吉町)の流れを合わせ、その後、市谷八幡町で四谷見附方面からの流れと長延寺谷の小流をあわせて、市谷から飯田橋へ外堀通りに沿って流れて、船河原橋際で神田川に合流した。上流は「桜川」、尾張徳川家上屋敷(現在の防衛省)正門から下流は「大下水」「柳川」「長延寺川」とも呼ばれた。紅葉川は、現在埋め立てられて道路になっている。

大沼 小石川大沼のことでしょう。

飯田橋の方 当時の小石川大沼の流れは、平川に合流し、河口付近の常磐橋では架橋し、江戸湾にそそぎ込む。現在、この流れの多くは日本橋川である。
船河原町 市谷船河原町。いちがやふながわらまち。新宿区北東部に位置し、北で若宮町、北東部で神楽坂、東で外濠、南で市谷田町、西で市谷砂土原町と接する。

日本地理風俗大系|昭和6年

文学と神楽坂

 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)です。

牛込見附 江戸開府以来江戸城の防備には非常な考慮が続らされている。濠の内側には要所要所に幾多の關門を設けて厳重を極めた。今やその遺趾は大方跡形もないが山手方面にはなほ当時が偲れる石垣や陸橋が残っている。写真が牛込見附で石垣が完全に保存されている
牛込見附 この「牛込見附」は「牛込御門」と全く同じ意味で使っています。
關門 かんもん。関所。目的を達するのに突破しなければならない難所。
跡形 あとかた。何かがあったというしるし。形跡。痕跡
偲れる しのぶ。偲ばれる。しのばれる。過去の事や遠く離れた人や、亡くなった人などを、しみじみと思い出す。
石垣が完全に保存されている 見附はもともと、石垣で囲まれた四角い空間(枡形)でした。明治中期までは完全に残っていたようです。その後、邪魔な部分は撤去され、この写真の時期には外堀に面したごく一部しかありません。

 写真の右手、外堀沿いに旧国鉄(当時は鉄道省)の中央線が走っています(O)。中央線は昭和3年(1928年)に複々線化され、同時に牛込駅が廃止、代わって飯田橋駅が誕生しました。写真中央のコンクリート製の牛込橋も、この時に改修したのかもしれません。
 つまり、この写真は、飯田橋駅の開業(昭和3年11月15日)から間もない時期に撮影したものです。
 旧牛込駅の駅舎も関東大震災で倒壊し、その後に建て直されました。写真右手の濠沿いの建物(M)は、廃止後に残った旧駅の施設でしょう。
 牛込橋の左奥、方形屋根(E)が新設した飯田橋駅西口です。この建物は戦災を免れ、令和2年(2020年)7月に新駅舎になるまで使われたようです。
 震災前の大正11−12年(1922−23年)ごろの写真と比べると、わずか10年で牛込見附付近の様子が大きく変わっていることが分かります。
 写真の左手、濠に面した複数の建物は、もともと牛込駅に通じる道があった場所に建てられたものです。右側には駅に渡る橋(G)が残っています。
 家の裏手には、土砂崩れを防ぐ擁壁(C)があるようです。ガケ上の道には石の手すりが整備されています。

牛込濠 ボート乗り場

牛込濠 ボート乗り場 外堀風景 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5102

 この場所は第二次大戦後、牛込橋につながる土堤(早稲田通り)に面した部分を1階とするいくつかの店になりました。これらの店は、今も地下に下りるような形で土堤の下を使っています。一方、土堤の下から濠の上に張り出す形でボート乗り場などが出来ました。これが今のカナルカフェです。
 昭和30年代前半のボート乗り場の写真(ID 5102)や、昭和42年ごろの牛込見附全景(加藤嶺夫写真全集)を見ると、かつての牛込駅に続く道が時代を経て別の利用方法になっていることが分かります。

 左から
A. ボート乗り場(濠の上にせり出している)
B. 旧牛込駅への道に建った建物
C. 擁壁
D. 旧牛込駅への道に建った建物
E. 飯田橋駅西口
F. 牛込橋
G. 旧牛込駅に渡る橋
H. 牛込濠と飯田濠をつなぐ水路。飯田濠側に落差(どんどん)がありましたが、この頃はただの水路です。ボートが遊覧中。
J. 旧牛込駅の施設
K. 石垣(牛込御門の一部)
L. 長大化した電柱。電線の条数も多い
M. 旧牛込駅の施設
N. おそらく富士見町教会の鐘楼。その右は煙突
O. 省線の中央線

 人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)ではAは「大明建設」、Bはボート乗り場、Cは古川氏の自宅でした。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

5つ子の父としての1年間

文学と神楽坂

 山下頼充氏の「5つ子の父としての1年間」(文春EーBook、2015、原本は昭和52年)です。

その夜、冷えきった寮の部屋から鹿児島へかけた電話で初めて生まれた子供が五人であることを知った。
 もはや躊躇ちゅうちょは許されない。
「しばらく胸に秘めておいてほしい」と前置きして上司に五人の子供が生まれたことを報告した。
 何とかメドがつくまで外部へ漏れなければよいがという私の願いは半日ももたなかった。ウィスキーの水割りを四~五杯流し込み、しばらくまどろんだかと思うと先輩記者からの電話でおこされる。
「通信社の友人から鹿児島のNHK記者の家で五人の子供が生まれたらしいと聞いてきたんだが、君のところの奥さん、出産で帰っておられたのではなかったかい」
 しばらくそっとしておいてほしいという気持ちだけは伝えたが、通信社の動きをキャッチしたNHK社会部の泊りの記者からの電話がかかり、私は翌朝直ちに鹿児島に帰ることを決意しなければならなかった。
 NHKの朝六時のニュースは、
「我が国初の五つ子誕生。母子とも順調」とトップで伝え、体ひとつで駆け込んだ鹿児島市立病院では、あとは父親の談話をとるだけといった感じで大勢の報道陣が待ち構えていた。

    重い〝皆様のNHK〟

 ニュースというのはとかく第一報でその流れが方向づけられることが多い。最初、けしからんと判断した事象には、情報量が少なければなおのこと、そういう目で材料を集めることが、ままおこりがちである。
 一度に五人誕生という出来事が好奇の目にさらされることはやむを得ないと覚悟はしたものの、興味本位で書かれることだけは耐えられなかった。そのためには、ありのままを話す以外にない。取材の申し込みがある限り、これに応えねばならないと思った。
 そうは言ってもふだんの取材する側から取材される立場にまわっただけに、何となくぎこちない。地方支局詰めを始めたばかりという若い記者には、もっと聞きたいことがあるのではと逆に促すこともあったし、夫婦の間のことを敢えて聞き出そうとする意地悪い質問が出ても、ムッとした顔も出来ず苦笑いで誤魔化すことも多かった。
 覚悟していたとはいえ、一旦火のついた取材攻勢はとどまることがない。
メドがつく 目処が付く。将来うまくやって行ける見通しがはっきりする。めどが立つ。

 平日でも夜まわりを終え、午前零時過ぎ寮に帰るとドアの前で週刊誌の記者が待っている。
「今夜中に取材しないと締め切りに間に合わない」
 寒風の吹きつけるなかで二時間も立っていたという。
 ある時は週刊誌のグラビアでひとり住いのわびしいところを写したいとの要望。何日か前に食べ残して腐りかけのインスタント料理にをつけるポーズをとったり、水割りを飲んだり、さすがに入浴シーンをとりたいという申し出だけは勘弁してもらったが……。
 もし、報道機関に身を置く人間でなかったら、もし職場がNHKでなかったら断わることが出来たろうにと思うことも多かった。気負い過ぎといわれるかもしれないが、〝皆様のNHK〟という言葉は私には重すぎた。
気負い過ぎ 気負いとは自分こそはといった態度や気持ち。「気負い過ぎ」は必要以上に緊張し、プレッシャーを感じること。

    砂糖に群がる蟻のように
 子供たちの誕生以来、世間が狭くなった様な気がする。買い物籠を持った主婦らしい二人連れが、道ですれ違いざま、
「アラ、五つ子のお父さん!」
 と叫んだかと思うと、何かこわいものでも見たかのように足で地面を踏み鳴らす。
 たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんには、
「女房の出産が近いので縁起のためにも」
 と名刺をまきあげられる。
 先輩と一緒に出かけたダービーの日の競馬場では、通信社の記者に、
「何を買ったのか」
 と取材され、売り場のおばさんは「こんなことやってていいの」と言わんばかりに顔を見返す。それでも初めて夜まわり取材に訪れた政治家の家で、果たして会ってくれるだろうかと名刺を手におそるおそるベルを押すと、ドアを開けた夫人が、
「アラ、山下さん。いらっしゃい」
 と、挨拶する間もなく座敷へ通してくれる。家を出たらプライベートな問題と仕事は峻別している積りだが、取材先で話題が跡切れると、
「ところで、子供さんは元気かい」
 と否応なしに五人の父親であるという現実に引き戻されることも多い。
こわいものでも見たか むしろ「有名人でも見たように」でしょう。

 排卵誘導剤のリスクが現実のものになった時代です。まず、当時は超音波(エコー)検査がありませんでした。米国産のエコーが出てくるのは80年代になってからです。子供の心音だけが唯一の検査法でした。また、エコー検査で卵5個も見つかる場合、普通はセックスは行いません。さらに当時ゴナドトロピン由来の薬しかありませんでした。この場合、多胎率は約15〜20%でした。さらに体外受精という別の方法もありませんでした。
 この方法に敬意を払いずつ、現在、5つ子の発生率は0%になりました。

白鳥橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。白鳥橋がテーマですが、もう1つ、大曲橋が出てきます。石川氏によれば、1代目は大曲橋、2代目で白鳥橋になったと主張します。しかし文献上では、大曲橋も西大曲橋も「大下水」を渡る橋で、江戸川(現在の神田川)の橋ではありません。
 現在の白鳥橋の竣工は昭和11年ですが、令和6年に架け替え工事が始まりました。

 白鳥橋(しらとりばし) 文京区後楽二丁目と水道一丁目のさかいを新宿区新小川町二丁目観世会館の前に渡した江戸川の橋で、この地点で川流が大きく屈曲しているため通称大曲おおまがりといわれて大曲橋が架されていたし、さらにその上流中之橋との間には西大曲橋とよぶ橋もあったが道路および河川改修によって撤去され、大曲橋のあとに架設された新橋白鳥橋と称する。大曲橋は明治19年橋梁明細表には「大曲り橋 江戸川町17番地に架す。長5尺5寸、幅26尺 石造」とあり、現在の白鳥橋は昭和11年の竣工で長29.8メートル、幅20メートルの鋼鈑橋である。橋名は白鳥池からとったもので、南向茶話に「江戸川中之橋の下水曲流の処は、往古大なる池にて白鳥池と号す。今埋れてその余池、南の方久永氏邸地内に残れり。」とあり、また新撰東京名所図会も「白鳥橋 江戸川中之橋の下流にて、隆慶橋の方に屈曲し居る淵を大曲おおまがりという。此処最も深く、かの有名なるむらさきこいは今なお此辺に残り居れり。又今の2丁目(新小川町)10番地内に池あり。これぞ白鳥池の名残りという。」と記す。

観世会館 観世能楽堂。1900年の観世会の創立時に建設。観世流の活動拠点。1972年、新宿区新小川町(大曲)から渋谷区松涛に移転。 さらに銀座に再移転。

1970年 住宅地図

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから飯田橋に近いふなわらばしまでの神田川を昭和40年以前に江戸川と呼びます。
白鳥橋 「新撰東京名所図会」が発行された明治37年には白鳥橋は全くありません。その後、新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)を調べると、白鳥橋は明治40年にはあり(328頁)、明治43年になくなり(330頁)、大正11年にまた出てきます(332頁)。 また、明治29年の東京郵便電信局編の東京市小石川区全図、明治40年の東京郵便局の番地入東京市小石川区全図、大正10年の東京逓信局編の東京市小石川区 です。この明治40年の地図は橋と電車線路が道路のない場所に描かれ、建設計画を先取りしたものでしょう。

 一方、小石川新聞社編『礫川要覧』(小石川新聞社、明治43年)で白鳥橋は「明治42年の落成にて電車線路たり」と記録しています。 また、東京市電・都電路線史年表でも、明治42年12月30日、(小石川)表町(のちの伝通院前)と大曲(旧・新小川町二丁目)との間で初めて電車がつながりました。
 また、古い白鳥橋の写真が2枚出て来ました。この2枚、かなり違っていて、一方は石橋、もう一方は木造橋で路面電車が渡っています。どちらかが間違えている可能性が大きいようです。

白鳥橋。東京市小石川区「小石川区史」(1935年)から

「江戸川」の「白鳥橋」と「大曲」三井住友トラスト不動産

大曲橋 昭和10年「小石川区史」によれば、昭和6年9月末日、小石川区内橋梁表(市土水局橋梁課調)では「橋名、大曲橋。河川名、大下水。架設位置、江戸川町17。橋種、石造。橋長、1,818米。巾員、20,909米。面積、8,93平米。工費・着手年月・竣功年月は不明」。つまり、大曲橋は1.8メートルしかない短い橋でした。下の地図で、左右の大下水が神田川に流れ込んでいます。大曲橋は江戸川(神田川)ではなく、この大下水に架かっていた橋です。また、江戸川町17に架設してあるようで、右側の青い円でしょう。

東京実測図。明治20年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年

西大曲橋 昭和10年「小石川区史」で、明治19年の橋梁明細調(東京府文献叢書乙集18)を調べてみると、この橋は「西江戸川町1番地先に架す」る橋。地先じさきとは所有地等と地続きの地で、反別や石高がなく、自由に使える土地。また、昭和6年の「小石川区内橋架表」(市土水局橋梁課調)では大下水に架かった橋でした(昭和10年「小石川区史」)。「西江戸川町1番地先」ということから、上の地図の楕円の左側部分の細い流れに架かっていた橋です。
大曲橋のあとに架設された新橋 大曲橋は大下水の橋、白鳥橋は神田川の橋です。大正10年の東京逓信局編の地図では、白鳥橋の開通後も大下水が江戸川に流れ込んでいる様子が描かれています。おそらく大曲橋も、道路の一部として働いていました。
橋梁明細表 昭和10年の「小石川区史」によれば、この表は東京府文献叢書乙集18にあります。
江戸川町十七番地 現在、江戸川町がありませんが、明治20年では江戸川町があり、17番地は上図の文字「川 17」にあたる範囲です。実際は「戸」と「川」の中間地点から江戸川に向かって流れています。これが大下水の一部です。
長五尺五寸、幅二十六尺 1尺は約30.3cm。したがって長1m66cm、幅8m18cm。
鋼鈑 こうはん。鋼板。圧延機で板状に延ばした鋼鉄。鉄板てっぱんとほぼ同じ。純粋な「鉄」に炭素やマンガン等の成分を加えて強度や靭性じんせいを増したものを「鋼」
南向茶話 なんこうちゃわ。酒井忠昌著。寛延四年(1749)~明和二年(1765)。江戸の地誌を問答形式で記したもの。
久永氏 小日向小石川牛込北辺絵図の「久永」氏は中央に

小日向小石川牛込北辺絵図 嘉永2年(1849)

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
紫鯉 十方庵敬順氏の「遊歴雑記初編」(嘉永4年)「紫鯉」では「中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しきゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根トネガワの鯉、これにツグべしとなん」(「中の橋」の大部分は深くて、鯉も数多くいる。橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ以上と思える緋鯉も見える。中の橋の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはみんな鯉だ。どれも肥えて太っている。一匹一匹は丸くて丈は短いようだ。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る
名残りという。 新撰東京名所図会では続けて「この久永の邸は即ち今の川田邸にて、此池現存し中島あり丹頂の鶴を飼へり」で終わっています。下図は大正11年の川田男爵邸です。

大正11年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年0

私説東京繁盛記(写真)

文学と神楽坂

 小林信彦氏と荒木経惟氏の「私説東京繁盛記」(筑摩書房、2002年)は「新版私説東京繁盛記」(筑摩書房、1992年)の文庫版です。この中で神楽坂の写真が5枚撮っています。

 神楽坂にあるという「パーマ 那美の店」は実際どこにあるのか、まったくわかりません。ただし、本来の神楽坂ではないと思っています。

神楽坂の裏手(1983年)私説東京繁盛記

 おさむさんから場所がわかったと連絡が来ました。場所は矢来町160-1のサクラハウスの裏でした。おさむさんのメールでも拡大すると「パーマ 那美の店」が出てきます。

 ここは神楽小路が軽子坂に出る出口です。看板などは「シ□マサロンくらら」「3時間で全部を御覧になれます」「上映中」「変態レイプ大全 3本立 女高生集団レイプ 人妻変態レイプ 少女密室レイプ」

神楽坂の路地(1983年)私説東京繁盛記

 これは赤城下町の山中商店でしょう。

神楽坂の裏通り(1983年)私説東京繁盛記

 津久戸町の神楽坂浴場はなくなりました。再開発されて「神楽坂AKビル」が建ったのは1995年9月。右手には「世界人類の平和でありますように」と書いています。

神楽坂の公衆浴場(1983年)私説東京繁盛記

 はじめて本来の神楽坂にでました。左からで、すこし顔が出ている菱屋、真ん中の酒場の万平、右のコーヒーのジョンブルです。万平もジョンブルもなくなりましたが、しかし、明治以来の菱屋はなくなっていません。Oリングは万平に接する道路の下にありますが、菱屋の下にはありません。右手の丸い道路標識はおそらく「駐停車禁止」ではないかと思います。万平の看板などは「小座敷 すきやき おでん 茶めし」「酒場」。ジョンブルの2階は「ジョンブル」、1階は「コーヒー豆・コーヒー器具 」「お食事のできるコ」「珈琲豆 John Bull UCCコーヒー」「ピザ」「コーヒー豆」「週末 の」「珈琲 ンブル」「珈琲専門店」「(2行)コーヒー」「珈琲豆」

神楽坂(1983年)私説東京繁盛記

神樂坂風景|小坂たき子

 新知社の「婦人文芸」からさかたき子氏の「神楽坂風景」(昭和12年2月)です。
「婦人文芸」は昭和9年6月から昭和12年8月までの約3年間(全37号)、主宰者の神近市子氏と鈴木厚氏が刊行した婦人文芸誌です。
 小坂たき子氏は明治42年1月27日に生まれ、没年は平成6年。「神楽坂風景」は28歳の作品でした。氏は初めはプロレタリア文学運動の一翼を担い、続く49年間は主婦、その後、ある文芸同人誌に参加しています。
 作品としては戦前の「日華製粉神戸工場」(雑誌『プロレタリア文学』に発表。白揚社、昭和7年)、本名の小坂多喜子氏の「女体」(永田書房、昭和53年)「わたしの神戸 わたしの青春 わたしの逢った作家たち」(三信図書、昭和61年)などです。

 牛込砂土原町へ移り住んでもう半ヶ年近くなる。一週間に二度位の割合で神樂坂へ散歩かたがた買物に出るのだが、ついぞこれはすばらしいと目をそばだてるやうな女性に出會つたことがない。銀座などのやうに歩けば何時も出會ふといふやうな特殊な顏ぶれもなく、何時も異つた顏が歩いてゐる。この近辺のプチ・ブルジョアのモダンお嬢さんや奥さんは買物や、散歩にはおほかた銀座へ出るのであらう。神樂坂に現はれる人は七八拾圓程度の月給をやりくりしてゐるらしいそのへんの世帯やつれのしたお内儀さんや商店の女房や田舎出の女學生などで、銀座へ出るには交通費が惜しいといつた種類の如何にも田舎くさい雜然とした女性ばかりである。商店もそういふ女性相手の特長のない平凡な店ばかりである。けれども神樂坂をいろどる女性に神樂坂藝者がある。咋日牛込館で「ジークフェルト」の割引をぼんやり待つてゐたら、あの坂道をひきもきらず棲を取つて帯をだらりと後にたらした晴衣姿の藝妓が、子供に三味線を持たして、通つて行つた。そのときはどうしたわけか妙におばあちゃん藝者ばかりで、とそ、、機嫌で顔を染めて通つて行つた。なかには田舎の茶屋などで見かける牛の首のやうな黒い肥つたえり、、を突出した女もゐた。みんな黒いこはまちりめん、、、、、、、の幾度も染め返したやうな古くさい晴衣などが足許から伝つてくる底冷えする寒気を一そうさむざむと感じさせた。
 しかし通りを歩いてゐる若い妓のなかにはときたま目をそばだゝせるやうな綺麗な妓がゐる。紅屋などでもぢり、、、外套の若旦那風の男に連れられ、紫の繻子コートなど着た堅氣造りの女のなかには、肌のすきとほるほど蒼い、そのくせぼて/\と肉のついた、おつとりとした美しい女を見かける。深水 の絵などにあるやうな日本の女、、、、の美しさといふやうなものを感じさせる。
 神樂坂をいろどるこれらの藝妓の姿を取りのぞいたら、何んと殺風景な風俗であらう。私などは藝者の姿を見るのが樂しみで、神樂坂を歩くのである。こゝの藝妓は二流か三流どころなのであらうがそれでも楽しい。けち/\と世帯やつれのした女なぞ見たくないなどと云つたら叱られるかしら。しかしかういふ奥様のなかでもとき/”\新婚らしい若い女には紫のしぼり銘仙など着て山手のインテリマダムといつた女にも出會ふが、気をつけて見ると學生は別として髪を切つた女などには出會はない。断髪に和服といふ姿で歩いてゐるのは私ぐらひのものである。かう書いてくると神樂坂には特殊な表情がない。純粋な山の手といふ感じもしないし、さればと言つて下町でもない平凡な何處にでも居るやうな女が歩き、平べつたい店が並んでゐる。
 暮に坂の途中でかなり高級な古着のたゝき賣りがあつた。昔流行つた縞銘仙の着物を着、たぼを入れて髪を結つたお内儀さんや、セルのコートを着たお婆さんや日本髪の若い娘などが、三十分も一時間も風に吹かれて熱心に立つて見てゐたが、誰も買はない。私と一緒に居た神樂坂には古い馴味の友達が、われ/\と同様で、懐中に十圓と纒つた金を持つて歩いてゐる奴はないんだよ、と云つてゐたが、そうかも知れない。少し登つた床屋の前の露店では一圓五十銭の金ぴかの人絹の帯が飛ぶやうに売れてゐた。
牛込砂土原町 小坂たき子氏の次女、堀江朋子氏の「夢前川」(図書新聞、2007年)によれば、昭和11年6月~12年、小坂たき子氏は砂土原町二丁目7にいました。

昭和5年 牛込区全図

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年 砂土原町二丁目7

そばだてる 欹てる。物の一端を高く持ち上げる。注意力を集中する。
内儀 他人の妻を敬っていう語。多くは町家の妻。
ジークフェルト ジーグフェルドか。アメリカ映画「巨星ジーグフェルド(The Great Ziegfeld)」。米国の公開日は昭和11年11月。
ひきもきらず 引きも切らず。絶え間なく。ひっきりなしに。「いきもきらす」では「激しく動いたりして、せわしい呼吸をする。あえぐ」
棲を取る 歩くときに引きずらないように、手で裾をつまみ上げること。芸者や舞妓、花嫁に多い。「左褄を取る」とは芸者勤めをすること。
帯をだらりと後にたらした 帯の結び方の一つ。だらりの帯。江戸時代の婦人の間に流行し、後には京都祇園の舞妓が用いた。(芸者はお太鼓結び)

だらりの帯

晴衣 はれぎぬ。表立った場面で着る晴れやかな衣服。晴れ衣装。正月の晴衣を着たのでしょう。
とそ機嫌 屠蘇機嫌きげん。正月、屠蘇を飲んでちょっと酔った、よい気持ち。
えり首 くびのうしろの部分。うなじ。くびすじ。
こはまちりめん 小浜縮緬。絹織物縮緬の一つ。経糸たていと緯糸よこいとの割合が、普通縮緬と金紗縮緬との中間のもの。婦人衣料に用いる。金紗縮緬とはさらに細い生糸を用いて薄く織った絹織
もぢり外套 もじり外套。男性が着物の上に着る、筒袖つつそで角袖かくそでの外套
繻子 しゅす。経糸・緯糸五本以上から構成する。密度が高く地は厚く、柔軟性に長け、光沢が強い。

平織り、綾織り、繻子織り

コート 防寒、防塵、雨よけなどで、普通の衣服の上に着るもの。オーバーコート、レインコートなど
堅気造り まじめな職業についている人のような地味な身なり
ぼてぼて 厚ぼったくて重そうな感じのする様子
深水 伊東深水。出生は1898年(明治31年)2月4日。没年は1972年(昭和47年)5月8日。新版画運動を牽引した美人画の3人の1人。残る2人は川瀬巴水と吉田博。
しぼり銘仙 「絞り」とは人類で1番古い染色法。染料が浸入しないように、布地の所どころを糸で固く縛り、染料の中に浸して白い染め残しをつくる染色法。「銘仙」とは平織した絣かすりの絹織物で、普段着やお洒落着で着用する。
断髪に和服 当時は束髪(髪を一まとめにして束ねる)と和装が大半。一方、断髪(ショートヘアやボブ)と洋装は時代の最先端。断髪に和服も時代の最先端だと言えそうです。ポーラ文化研究所では「大正末期の日本で…モガ(モダンガール)のよそおいを見てみると、断髪や耳隠しに、洋服に身を包みハンドバッグを持ったり、断髪姿に着物をあわせたり…」と書いています。
神楽坂には特殊な表情がない 普通の女性ばかりで、モダンガールなどはいない。
縞銘仙 縞模様の銘仙。「銘仙」とは平織した絣かすりの絹織物で、普段着やお洒落着で着用する。
たぼ 日本髪の後方にはり出た部分
セル 梳毛そもう糸を使った平織りか綾織りの和服用毛織物。セル地。
床屋の前の露店 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(1997年)では昭和5年頃、宮坂金物店前の露店は半襟でした。
人絹 人造絹糸の略。天然の絹糸をまねてつくった化学繊維。レーヨン・アセテートの長繊維

小坂多喜子 昭和11年 牛込砂土原町

文学と神楽坂

 さか多喜子たきこ氏の「わたしの神戸、わたしの青春ーわたしの逢った作家たち」(昭和61年、三信図書)では、1年程、住んだ牛込砂土原町について簡単に書いています。

 牛込砂土原町の家に引越していったのは昭和11年頃のことで、それは二・二六事件に遭遇した上高田の家から引越していったことだけは確かであった。牛込矢来町から新見付にぬけるバス通りを一寸はいったところの崖下にある薄暗い陰気な家で、六畳に玄関三畳台所と二間ほどの小さな家だった。『日暦』同人の古我菊治が日暦の編集所兼住居として、かなり永い間住んでいた家で、そのすぐあとを私達が借りたのだった。
二・二六事件 昭和11年2月26~29日、皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデター
上高田 東京都中野区の地名。
新見附 新見附交差点。新宿区市谷田町二丁目にある交差点
バス通り 現在は牛込中央通り
日暦 ひごよみ。創刊号は昭和8年9月。出版元は春陽堂。編集発行人は古我菊治氏。昭和16年まで続き、第2次世界大戦のため休刊。昭和26年9月の22号は復刊1号。出版元は日暦社、編集発行人は石光葆氏。終刊は84号で平成元年12月。1933年から1989年まで56年に渡って続いた。
古我菊治 こがきくじ。当時は無職。昭和25年から東京書籍。「日暦」の同人は渋川驍、荒木巍、高見順、新田潤、大谷藤子、石光葆、白川渥、甲田正夫、古我菊治。

 小坂たき子氏の次女、堀江朋子氏の本「夢前川」(図書新聞、2007年)では……

 昭和11年6月、上高田の家から牛込砂土原町2ー7へ引っ越した。牛込矢来町から新見附にぬけるバス通り(鰻坂)を少し入ったところの崖下にある薄暗い陰気な家たった。六畳に三畳、それに玄関、台所の付いた小さな家で、せまい前庭があった。裏表同じ間取りの二間長屋であった。「日暦」同人の古我菊治が編集所兼住まいとして使っていたところだった。古我菊治は同じ路地の二軒先の家に移り、上高田で隣に住んでいた古澤元真喜夫妻も近くに越してきた。武田麟太郎・留女夫妻は長男文章を連れて日本橋茅場町会館から砂土原町から道ひとつ隔てた麹町下二番町へ越して来ていた。多喜子は、買い物がてら、しばしば神楽坂を散歩した。女たちや神楽坂芸者を観察するのが、多喜子の楽しみのひとつ。
鰻坂 バス通り(牛込中央通り)と、上向きに曲がって現れる鰻坂は別々の通りです。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

古澤元 ふるさわげん。同人誌「人民文庫」の同人。「戦旗社」編集部員。昭和20年、軍兵に。22年5月、戦後、シベリアで栄養失調死。
真喜 まき。作家を志し、古澤元と結婚。昭和47年、脳血栓で寝たきり。昭和49年~52年、同人誌「星霜」に自伝小説「蒼き湖は彼方」を発表。10年後、死亡。昭和57年、夫婦の遺稿集「びしやもんだて夜話」
武田麟太郎 たけだりんたろう。小説家。東京帝国大学仏文科を卒業し、プロレタリア文学だったが、転向し『日本三文オペラ』などの「市井事もの」で有名に。死亡。生年は明治37年5月9日、没年は昭和21年3月31日。42歳、肝硬変で死亡
麹町下二番町 麹町区下二番町の起立は1872年(明治5年)、廃止は1938年(昭和13年)7月31日。

 川端要壽氏の「昭和文学の胎動 ー 同人雑誌『日暦』初期ノート」(福武書店、1991)では、同じ古我菊治氏の住所が出ています。

7年3月には砂土原町へと移った。牛込区砂土原町2ノ7番地である。
 市ヶ谷新見付から飯田橋に向かって濠端を行き、砂土原坂を左折し、牛込北町に向かって納戸町にいたる切石を放射状に敷きつめたゆるやかな坂道を、市ヶ谷駅から十二、三分ぐらい歩いていくと、左側の角に炭屋があり、その炭屋の裏側に古我の家はあった。
 その頃、この砂土原坂には市営の黄バスが通っていた。新橋駅から市ヶ谷駅前を通って、この砂土原坂を抜けて牛込北町、新潮社前から江戸川を下り、音羽から女子大横を通って目白駅に達する路線であった。
 半坪ほどの玄関を上がると、とっつきが三畳間、その左手に六畳と四畳半が続き、その六畳と四畳半を抱えるように小さな庭がついていて、三畳間の押入れの裏側が台所になっており、台所と六畳間と連なって、隣家がちょうど古我の家を裏返したようにくっついている二軒長屋であった。家賃は十五円だった。
砂土原坂 現在は「牛込中央通り」
切石 正方形や長方形に切り出した石を積んで作る
目白駅に達する路線 [橋68]は新橋駅前ー虎ノ門ー溜池ー赤坂見附ー四谷駅西口ー市ヶ谷駅ー矢来町ー江戸川橋ー護国寺前ー目白駅前の路線だった。
二軒長屋 3件の長屋のどれかでしょう。引っ越しは終わった後で、1方は小坂たき子氏、他方は古我菊治氏です。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

牛込御門(写真)ID 8791 ID 8794 昭和48年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8791と ID 8794は、昭和48年2月、牛込橋の手前から千代田区側の東京警察病院や牛込御門跡などを撮影しました。
 江戸城の城門の見張り台を、橋や門も含めて「見附みつけ/見付」と呼びます。主要な三十六見附のうち牛込方向に開いていたのが「牛込見附/牛込御門」です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8791 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8794 牛込見附

 写真中央の石垣は、旧牛込御門の渡櫓わたりやぐらの土台が残ったものです。明治中期までは、四角く石垣で囲った枡形がありました。
 石垣の手前に公衆トイレが写っています。現在はありません。
 ID 8791の手前側、アスファルトの路面が土橋部分。その向こうの石畳部分が戦前に架けられた牛込橋です。これは平成8年に架け換えられました。
 牛込御門跡の石垣の奥、小さな塔のある黒い建物が富士見町教会。右の屋外階段の見える建物が飯田橋会館です。旧逓信省の同窓会の施設で、1階には郵便局もありました。
 その奥の高い建物は東京警察病院です。道路は早稲田通りで、奥に行くと九段坂に突き当たります。

住宅地図1973年

神楽河岸(写真)飯田濠 ID 8285 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、ID 8285は「昭和44年頃か」として、飯田橋駅から神楽河岸を撮影しました。牛込橋の桜は葉が落ちて裸木になっていて、晩秋から早春にかけての時期でしょう。また、ID 8285とID 8267と8269は桜の枝ぶり、濠の干上がり具会までそっくりで、同じ時の撮影でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8285 神楽河岸

 飯田橋駅のホームの市ヶ谷側、西口に向かうスロープの下から撮った写真です。線路は中央・総武線1番線で、新宿駅方面から御茶ノ水駅方面に乗客を運びます。
 右下は飯田濠ですが、この頃、悪臭に悩んでいて、アオコもありました。また建物についてはID 8267と8269ID 8265を参照してください。

AーD 神楽坂警察署跡地の警視庁の施設。第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所、寮などに使われた。 E 新宿区役所土木課 F 大郷木材店(倉庫) G 大郷木材店(倉庫)
1 とんかつ森川旧店舗(立喰そば? 早稲田通り) 2 二鶴(早稲田通り) 3 佳作座(外堀通り) 4 三和計器製作所(外堀通り) 5 城北ガレージ(外堀通り) 6 パチンコジャイアンツ(外堀通り)
ⅰ 家の光会館 ⅱ 理科大 ⅲ 双葉ビル ⅳ 理科大 ⅴ 田口屋ビル(神楽坂通り) vi 喫茶軽い心(神楽坂通り)vii 五条ビル(神楽坂通り)viii 神楽坂ビルディング(神楽坂通り)

神楽坂一丁目(写真)牛込橋 ID 8283 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 8283は飯田橋駅西口近くから神楽坂や神楽河岸などを撮影しました。年代は「昭和44年頃か」で、桜の葉はなく、男女はコートを着ているので、晩秋から早春にかけてでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8283 飯田橋手前

 写真中央は「牛込見附」交差点で、現在は「神楽坂下」交差点に名前が変わりました。左右が外堀通り、前後が神楽坂通り(早稲田通り)です。外堀通りを走る都電3系統は昭和42年12月に廃止になり、すでに軌道はありません。
 信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、交差点名の表示はありません。逆転式一方を示す回転式の(一方通行)の標識が見えます。神楽坂通りを入った場所には標識「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯には左手前に見えている円盤形の大型蛍光灯があり、「神楽坂通り」の標識と一緒に坂上まで続いています。
 田口重久氏の05-14-37-1(1967-02-08、昭和42年、 牛込見附から神楽坂下)とよく似た画角ですが、ID 8283のほうが少し後の時代です。比べると
・「クラブ軽い心」が「喫茶 軽い心」に変わった
・軽い心の向こうに神楽坂ビルティングが出来て菱屋ビルが見えにくくなった
・左手前の「とんかつ森川」が、少し奥に(つまり「牛込見附」交差点にはより近くに)店を建てて新たな看板を出した
などの違いがあります。

牛込橋→神楽坂(昭和44年)
  1. 袖看板「もつやき 本場沖縄産 琉球 泡盛 ◯雲 ◯正宗 やなぎ」
    (食)事 中華そば やなぎ
  2. 大きく「とんかつ」、消した看板、「食通の店」(森川の旧店舗)
  3. 二(鶴)
  4. 電柱看板「タイプ学院」「独特 とんかつ 森川」
  5. 白鷹 特製とんかつ 森川 白いのれん(森川の新店舗)
  6. 77(喫茶店セブンセブン)
  7. 天下の名酒。富士錦。三富酒蔵
  8. 電柱看板「大久保
  9. (12-24 駐車禁止)
    ――「牛込見附」交差点
  10. 田口屋生花店(5階のビル)
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 広告「産婦人科 加藤医院」
     ――「牛込見附」交差点
  3. さ(くら)や(靴店)
  4. 佳作座の上映作品(赤井商店
  5. 山田紙店
  6. 不二家洋菓子
  7. 塔屋広告「喫茶 軽い心」ファサード広告「喫茶 軽い心」「ハッピージャック」
  8. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。昭和44年(1969年)2月に完成。
  9. 菱屋もビルに。メトロアーカイブの「坂のある街」でもビル。

神楽河岸(写真)ID 8763-66, 68 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は、昭和44年頃か、ID 8263-66とID 8768は国鉄(現、JR)飯田橋駅から神楽河岸、神楽坂などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8263 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8264 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8265 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8266 神楽河岸

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8268 神楽河岸

5図のまとめ

ID 8265から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
A.警視庁(第2機動捜査隊)a.東京理科大学1.佳作座
B.警視庁b.週刊大衆(双葉ビル)2.トウホウビル(バラエティスタンド飲食街)
C.警視庁(神楽坂巡査派出所)c.東京理科大学3.三和計器製作所
D.新宿区役所土木課d.田口屋生花店(神楽坂通り)4.広告「エアーホット」(神楽小路)
E.大郷木材店(倉庫)e.喫茶軽い心(神楽坂通り)5.城北ガレージ
F.大郷木材店(倉庫)f.五条ビル(神楽坂通り6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸g.神楽坂ビルディング(神楽坂通り)
 ※間に遠く文英堂ビル(岩戸町)
h.丸金ビル(仲通り)
i.銀嶺会館(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル

ID 8266から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
F.大郷木材店(倉庫)h.丸金ビル(仲通り)6.パチンコジャイアンツ
G.大郷邸i.銀嶺会館
(広告) HiFi サンスイ stereo/ホテル観◯荘/八丈パークサイドホテル
7.東京トラベルセンター
H.大郷木材店
一般建築材・ベニア・新建材各種 株式会社
j.岡本ビル(軽子坂)8.牧書店
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k.セントラルコーポラス9.東京都左官工業協同組合
10.厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)

ID 8268から

神楽河岸高層ビル外堀通り(北)
I.自動車修理場・喫茶ボルボ(階上)k セントラルコーポラス10 厚和寮(厚生年金病院職員寮)(裏通り)
J.土萬商店資材置場l 東京厚生年金病院本館

※手前に津久戸小学校
11 倉庫(升本総本店)
K.東京都新宿東清掃事務所m 東京厚生年金病院本館東棟の工事か12 京英自動車
L.東京都水道局n 東京厚生年金病院別館13 キッチンアキラ
M.東京都水道局営業所(上に首都高速が見える)o 第一銀行飯田橋支店14 中升酒店
p 稲垣ビル15 堀上工業
q 広告「週刊現代」(稲垣ビル)16 丸吉百貨店
r 飯田橋東海ビル(東海銀行、下宮比町)

 手前の飯田濠は土砂が堆積して、かなり干上がっています。Iの自動車修理場のターンテーブルやJの資材置場の廃材は濠に飛び出しています。
 また、Kの清掃事務所の下には四角い横穴があり、おそらくはしけが入って上からゴミを落としていたのでしょう。
 後年の地下鉄工事や埋め立て工事は、まだ始まっていません。
 撮影時期は
  昭和44年(1969年)2月 神楽坂ビルディング完成
  昭和44年(1969年)「軽い心」がクラブから喫茶に転換
  昭和44年(1969年)6月 首都高速道路5号線供用開始
から
  ID 13226 昭和45年頃
の間と推測されます。

※ 自動車工場や喫茶ボルボは升本の事業です。
※ 年金病院東棟の増築は昭和50年ごろです。それ以前にも何か工事をしていたのでしょう。
※ 稲垣ビルは奥に建て増しされているようです。(昭和38年 航空写真)

住宅地図。昭和44年

画角の検討 S50(1975-01-19)地理院地図

神楽河岸(写真)ID 8017 昭和43年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8017は、昭和43年10月、神楽坂下の牛込見附(現在の神楽坂下)交差点から千代田区方向を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8017 外堀通りより飯田橋をのぞむ

 左右が外堀通り、手前から奥が早稲田通りです。写真左は神楽河岸、右側は神楽坂1丁目にあたり、奥にむかう坂の途中から千代田区になります。
 信号機にゼブラ柄の背面板。写真正面の早稲田通りの歩道に桜が数本生えていて、風に枝が揺れているようです。奥には国鉄飯田橋駅の西口があり、写真説明の「外堀通りより飯田橋をのぞむ」はこのことでしょう。地名としては富士見町です。
 街灯は神楽坂通りと同じ、大型円盤形の蛍光灯が見えています。
 田口重久氏05-14-37-2「神楽坂下から牛込見附を」(1967-02-08)より少し後の時代で、外堀通りの都電がなくなっています。

05-14-37-2神楽坂下から牛込見附を 1967-02-08

神楽河岸と神楽坂1丁目(昭和43年)
  1. 電柱看板「斉藤医院」
  2. 道沿いに警察の建物が数棟、軒を連ねている。
  3. 坂の上の軒を長く出しているのが飯田橋駅西口。その奥は千代田区側の建物。
  4. 小さな小屋に「産婦人科 加藤医院」
  5. 電柱広告は市谷船河原町にある旅館「保志乃」
  6. 道路標識 (最高速度30キロ)
  1. 袖看板「天下の銘酒 酒は富士錦 三富酒蔵」
    テント「大◯ 富士◯ 三富酒◯」
    小型看板「大衆酒蔵 酒は富士錦 三富」
    のれん「◯富酒◯」
  2. 標識「外堀通り」
  3. 道路標識 (車両進入禁止)(一方通行)この区間で逆転式一方通行を実施中
  4. 電柱広告「大久保」

隆慶橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「隆慶橋」についてです。「隆慶橋」の名前は大橋龍慶氏に由来し、また、龍慶氏は書道の大橋流開祖の大橋重政氏の父になります。
 なお、父・大橋龍慶氏と息子・大橋重政氏の筆がしばしば似ていて混乱する原因になっています。

 隆慶橋(りゅうけいばし) 立慶橋、龍慶橋ともかかれている。新宿区新小川町一丁目より文京区後楽二丁目へ江戸川に架された橋で、創架年月は不詳だが、正保図にはなくて寛文図になって無名橋がこの位置に記されている。船河原橋の上流の橋で、むかし大橋龍慶なる者がこのあたりに屋敷を賜わって住んでいたのが橋名の起りで、龍慶は長左衛門、源重保といい、甲州の人で大奥側近の御祐筆で、いわゆる御家流書法の元祖だといわれている。
 府内備考は「立慶橋は中の橋の次なり、川のほとりにむかし大橋立慶の邸宅ありしゆえにかく橋の名となれりという。案ずるに正保年中(1644-1648)江戸図といえるものに、この橋のほとりに龍慶寺といえる寺見ゆ。恐らくはこの寺のほとりの橋なればかくいいしならん、されど今江戸の内にかかる寺あることをきかず、疑うべし。又『紫の一本』に、立慶橋というあり、されば町ありての名なりや。一説にりゅうけい橋と称す。」と記す。
 また、「新編若葉の梢」はこれを「(穴八幡)社地を寄進した大橋龍慶は長左衛門源重保といい甲斐の人で、大奥側近の御祐筆であった。老年に及び職を辞し、台命あって剃髪し、龍慶の号を賜った。式部卿法印に叙せられ、老体の采地として牛込の郷三十余町を賜り、その屋敷附近の江戸川に架された橋を龍慶橋と名附け、今にその名を残している。龍慶の書は徳川家の御家の書体として採択され、御家流と称して永く伝わるに至った。茶を小堀正一に学ぶ。寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」とする。
 なお、校合雑記、不聞秘録などの誌す伝説では、旗本水野十郎左衛門に殺害された侠客幡随院長兵衛の遺体が、この隆慶橋の下に流れついたという。そのころ水野の屋敷は小石川牛天神網干坂に在ったというが、しかし水野屋敷の位置については、牛込の築土下、麻布六本木、西神田一丁目などと諸説が多い。

   隆慶橋を衰る頃、空しきりに曇りければ、家路急ぎて橋をはしる、そも/\此橋の古えを聞くに、大橋長左衛門立慶と云いたる人、此所に家有りければ、此橋の名に呼付けり。
雪洞「東都紀行」

 明治十九年の調査だとこの橋は長さ十六間、幅十四尺五寸の木橋とあるが、現在は鋼鈑橋である。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
正保図 正保年中江戸絵図。正保元年か2年(1644-45)の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから。ただし、正保図でも隆慶橋はありそうだ。

正保年中江戸絵図

寛文図 寛文江戸大絵図。裏表紙題箋は、新板江戸外絵図。寛文12年6月に刊行。

大橋龍慶 江戸初期の能書家。通称長左衛門、いみな(死後にその人をたたえてつけられる称号)は重保。初め豊臣秀頼の右筆。1617年(元和3)能筆のゆえ、徳川秀忠の幕府右筆となり、采地500石を賜る。生没年は1582年〜1645年(天正10年〜正保2年)
甲州 甲斐国。現在の山梨県に相当する。
御祐筆 江戸幕府の職名。組頭の下で、機密の文書を作成、記録する役
御家流書法 おいえりゅう。小野道風、藤原行成の書法に宋風を加えた、穏和で、流麗な感じの書体。室町時代に盛んとなり、江戸時代には朝廷、幕府などの公用文書に用いられた。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
紫の一本 江戸時代の地誌。天和2年(1682)成立。2巻。戸田茂睡作。江戸の名所旧跡を山・坂・川・池などに分類し、遺世とんせい者と侍の二人が訪ね歩くという趣向で記述。
若葉の梢 「若葉の梢」は金子直徳著で、上下2巻(寛政10年、1798年)。新編が付いた「新編若葉の梢」では、昭和33年に刊行した「新編若葉の梢刊行会」の本。
台命 たいめい。だいめい。将軍などの命令。
式部卿法印 式部卿とは式部省の長官。法印は僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。大橋式部卿法印は戦国時代末期に右筆として活躍した大橋重保のこと。
小堀正一 安土桃山時代〜江戸時代前期の大名。生年は天正7年(1579年)。没年は正保4年2月6日(1647年3月12日)。約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及んだという。
寛文十一年 大橋龍慶の死亡は1645(正保2)年2月4日。子の大橋重政は1672(寛文12)年6月30日。
五十五歳 大橋龍慶は63歳で死亡。子の重政は55歳。どうも「寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」の少なくとも1文は、子の重政のことを間違えて書いたのでしょう。
築土下 築土(現在は筑土)の北側。ちなみに、築土前は築土の南側。
雪洞『東都紀行』 『燕石えんせき十種じっしゅ』は江戸末期の写本の叢書。明治40年、国書刊行会が三巻本を刊行。続編として『続燕石十種』(2巻)、『新燕石十種』(5巻)が新たに編集、刊行。辻雪洞氏の『東都紀行』は『新燕石十種』(明治45年)で刊行。
長さ十六間、幅十四尺五寸 長さは約29m。幅は約4.4m。

都電が走った昭和の東京

文学と神楽坂

 荻原二郎氏の「都電が走った昭和の東京」(東京生活情報センター、2006年)です。場所は神楽坂上交差点から大久保通りにかけての一帯、時は昭和45年3月14日。なお、都電13系統の廃止は約2週間後の昭和45年3月27日でした。

昭和45年3月14日 萩原二郎氏

昭和45年 住宅地図

 右から左に……

  1. 看板「神楽坂」(石川燃料店)
  2. 路面電車停留場。看板「神楽坂」。駅名「神楽坂」
  3. 千代田工業株式会社。前面「建築資材」。側面「建築資材」
  4. 坂本歯科。看板「南光社」。スタンド看板「坂本」
  5. 路面電車。4051/13/新宿駅/週刊文春
  6. 切妻屋根(西勘金物)
  7. おそ(ば)(増田屋そば)(下記の写真で「おそば」と記載)
  8. 路地
  9. 黒い屋根。麻雀(ひよこ)。「む」か「変体仮名」?
  10. 店舗2軒(灰屋根と白屋根)
  11. 神楽坂派出所
  12. 神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)
  13. 河合陶(器店)

逢坂下-新見附(写真)第3系統 都電 昭和42年など

文学と神楽坂

 新宿区の外堀通りに逢坂などが交差する付近を撮影した写真が3枚あります。でも、[1]のように、写真は「牛込見附」だと名前をつけると、とんでもない!と叱られそうです。
 戦前には「逢坂下停留所」という路面電車の停留所がありました。その廃止はおそらく昭和15年で、戦後、再開はありませんでした。しかし、もし「逢坂下停留所」が今もあれば、[2][3]の地点がまさにそうですし、[1]は「新見附停留所に近い場所」でしょうか。

[1]東京都電アーカイブ③

 写真[1]にはバスの「新見附」停も見えます。新見附橋のわずか先にあったようです。なお、写真の位置は逢坂下よりも新見附に近い場所です。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

 右手にある楕円のマークは「ピノキオ」(子供服の店舗)。(写真と地図はページの最下部で。写真は「ピ」で、地図は「子供服/ピノキオ」)

[2]東京都交通局「わが街わが都電」

東京都交通局「わが街わが都電」平成3年 撮影日時は不明

[3]都電15番の鉄道趣味

1967年7月某日
東京都新宿区東端の牛込濠脇、東京日仏学院付近
2017品川行(飯田橋行だけどもうすぐ折返しという事で)よく見るとお客がいないらしく車掌さんが運転台に来てる。
都電3系統は品川から都心を泉岳寺、三田、神谷町、虎ノ門、溜池と抜けて赤坂見附から市ヶ谷見附、飯田橋へと走っていました。一等地を走っているようですが赤坂から飯田橋はなにやらローカルな雰囲気で運転数もとても少なかった。飯田橋停留所も他路線につながってない尻切れとんぼ。僕も乗ったことないし。
撮影した年の12月10日に静かに廃止になりました。

 写真左側は牛込濠と新見附橋、左寄りに防護柵と架線柱、電柱広告「大日本印刷」、歩道。中央には外堀通りと路面電車、その路線。写真[1]~[3]は全て「飯田橋」行き(下り)の路線です。[3]の路面電車に「品川駅」と「2017」と書いてありますが、一足早く方向板だけが「品川駅」に変わったもの。
 写真[2]と[3]の右側から左側に(参考にはID 13108を)……

  1. 逢坂があり、写真[2]に運転中の自動車。町は「市谷船河原町」
  2. 色◯ ◯◯ 写真◯◯◯◯ 尾形伊之助商店
  3. (教育図書)
  4. (軽自動車工業)
  5. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  6. (神田印刷)
  7. (2)~(3)で、新見附橋の反対側にある高いビル。昭和51年「サンエール」などが入っていた

【参考】東京都電アーカイブ③

住宅地図。1976年

庾嶺坂下(写真)昭和43年 ID 8016

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016では、昭和43年10月に外堀通りの「逢坂下」を撮影したとのこと。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016 飯田橋付近 外堀通り(逢坂下)

 左手前で道が外堀通りにつながっています。歩道に沿って店がいくつかあります。手前から

  1. 看板「〇〇店」看板
  2. 「麻雀 大三元」
  3. コカコーラと読めない店名看板
  4. 看板「研究社」

 歩道には公衆電話ボックス。「丹頂形」と呼ばれる古い形です。手前の消火栓標識は「東京消防庁/Fire Hydrant/消火栓/火事は119」。
 右側の外堀の向こうには千代田区の東京警察病院といくつかのビルが見えています。警察病院の左に顔を出しているのは富士見町教会です。
 では本当にここは「逢坂下」でしょうか。もし逢坂下なら、少し先に「家の光会館」の高いビルが見えているはずです。
 「逢坂下」の北側の三叉路は「笹尾」と「〇〇〇〇〇」「〇木三史」です。1本北側の「庾嶺坂下」は、昭和43年の地図では「事務所」「〇業KK」「研究社」です。写真の3軒目の建物は「研究社」です。よく見ると、その向こうの石造りの建物も研究社の旧社屋のように見えます。
 東京警察病院の距離感も庾嶺坂のほうがいいのではないでしょうか。

昭和43年 地図 逢坂+庾嶺坂

路面電車(写真)抜弁天交差点 昭和45年 ID 7435

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7435では、昭和45年1月、抜弁天交差点で飯田橋行きの都電13系統を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7435 都電13系統 飯田橋行き

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」は昭和45年1月30日「東大久保(現 抜弁天付近)を走る都電飯田橋行き」と書いています。
 都電13系統は、この場所で大久保通りを外れて専用軌道に入ります。軌道内は通行禁止ですが、子供1人が歩いています。
 廃線後の軌道跡は「文化センター通り」に変わりました。都電の向こうの車が走っているのが「大久保通り」です。

抜弁天。赤い「抜弁天」は現在のバス停。

 広告は左から右に……。

  1. 立て看板「家土地電話/物件豊富一度ご来店下さい/大松商事☎︎•••」
  2. ブランド「TOTO」
  3. ブランド「タイ◯◯」
  4. 立て看板「新宿警察署/軌道内通行禁止/東京都交通局」
  5. 路面電車「乗降者優先」「飯田橋」「400」「13/週刊文春」
  6. 電柱広告「この坂下/質/最高◯用り/石川」
  7. 店舗「PM 6:00-AM 5:00/スナック25時/さくら/◯ハラーサービ(ス)」

牛込濠(写真)新見附橋から ID 6898 昭和27年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898 外堀飯田橋付近 日仏学院、東京理科大学

 このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
 国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
 おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
 建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
 さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
 写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。

外濠(写真)牛込地域 ID 5728-29 昭和35-36年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728−29は、カメラを千代田区側に置き、外濠を越え、新宿区牛込地域を遠望しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5729 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

 あとは地元の人の文章です。こちらではわからない建物が多すぎるので、お願いしました。

ID 5728 を改変

 先に結論を書けば、これは千代田区麹町の「日本テレビ塔」から牛込地域を見下ろした写真でしょう。
 写真下側を斜めに横切るのが外濠と、外堀通りです。手前には法政大学の校舎はじめ千代田区側の建物が見えますが、今回は触れません。
 写真中央、外堀通りに面した目立つ建物は家の光会館⑥。その少し向こうに見える丸い展望台は東京厚生年金病院⑩です。間にある神楽坂を飛び越して高い建物だけが見えています。
 写真の左下端は新見附橋で、新宿区側のカーブした屋根は東京理科大学の体育館②です。
 一方、右端は飯田橋交差点で、第一銀行飯田橋支店⑭の向こうに目白通りが走っています。
 これらを撮影できる画角を考えると、地図に記したように麹町方向に収束します。また非常に高いところから撮影しないと、これほど遠くの建物は撮影できません。考えられるのは旧・日本テレビ本社の電波塔です。
 遠くにいくほど画角が広がっており、建物の位置関係は必ずしも直線では結べません。レンズの歪みがあったと思われます。
 写っている建物等は以下の通りです。色による違いはありません。

  1. 新見附橋
  2. 理科大5号館・体育館(市谷船河原町)
  3. 日仏学院(市谷船河原町)
  4. 丸紅若宮荘(若宮町)
  5. 国鉄白銀アパート(白銀町)
  6. 家の光会館(市谷船河原町)
  7. 研究社旧社屋(神楽坂1丁目)
  8. 理科大(神楽坂1丁目)
  9. 通称「お化け屋敷」(神楽坂2丁目)
  10. 厚生年金病院本館(津久戸町)
  11. 厚生年金病院別館(下宮比町)
  12. 同潤会江戸川アパート(新小川町)
  13. 銀鈴会館(神楽坂2丁目)
  14. 第一銀行飯田橋支店(下宮比町)
  15. 稲垣ビル(下宮比町)

 このうち家の光会館の落成は昭和34年(1959年)、銀鈴会館は昭和35年(1960年)です。一方、セントラルコーポラスはまだできていません(竣工は昭和37年、1962年)。撮影時期は昭和35-36年と推測されます。

住宅地図。1973年

推定画角(昭和38年6月 地理院画像MKT636を加工)

牛込濠(写真)日仏学院、昭和27年 ID 14743, 14744

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から牛込濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4795 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4796 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

 昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
 昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
 写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
 濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。

 その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました

 写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
 右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。

新丸ノ内ビルヂング(写真) 昭和27年 ID 4743

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743は、昭和27年9月、東京逓信病院を撮影したといっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743 飯田橋 東京逓信病院

三井住友トラスト不動産」によれば

1929(昭和4)年まで「陸軍軍医学校」があった富士見町の土地には、1938(昭和13)年に「東京逓信病院」が開院した。病院の建物は、山田守の設計によるモダニズム建築で、「太平洋戦争」中の空襲で被災するも、改修の上、1972(昭和47)年まで使用された。」 【画像は1938(昭和13)年】

 設計した山田守氏の写真も2葉残っています。

 したがって、昭和13年の病院は4~5階建てで、ID 4743と全く違っています。では病院・病棟が昭和27年までに変化したのでしょうか。
 以下は「病院の沿革・歴史」によれば

年月歴史
昭和12年10月建物竣工(本館、第一病棟、第二病棟)
昭和13年2月診療開始(内科、小児科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科、産婦人科、皮膚泌尿器科、物療科)
昭和13年4月看護婦養成業務開始
昭和20年5月戦災により本館外来の一部及び院内郵便局焼失
昭和20年12月東京逓信病院看護婦養成所の承認受ける
昭和22年9月結核科設置
昭和22年12月皮膚泌尿器科を皮膚科と泌尿器科に分科
昭和23年4月東京逓信病院高等看護学院を開設
昭和24年6月逓信省が郵政省に改正
昭和24年6月副院長、健康管理科、臨床検査科設置
昭和27年7月中央手術室、中央材料室設置

 大きな病棟の変更はなさそうです。つまりID 4743はおそらく当時の東京逓信病院ではないといえます。
 これ以上は私は何もできません。しかし、地元の人はその先に行きました。以下はその考えです。

 違う角度で分析してみます。ID 4743の左のビルは7-8階建てで、かなり大きなものです。右手の鉄道の奥にも4ー5階建て以上のビルが多数あります。終戦間もない時代ということを考えると、場所は東京都心でしょう。
 昭和27年に竣工した都心のビルを調べると『新丸ノ内ビルヂング』が出てきます。当時の写真は、ID 4743に非常によく似ています。

 新丸ビルを鉄道を背景に写真に収めるには、通りの向かいの丸ビルからの撮影が好適です。この角度の写真は、鉄道の向こうが日本橋になります。写真中央の華やかなビルは、塔屋の形状からしても日本橋の三越百貨店のようです。

日本橋の三越百貨店

1961年(昭和36)東京駅付近(今昔マップ)

 なぜID 4743が誤認されたのかは分かりません。建築家の山田守の代表作のひとつである新宿区津久戸町の東京厚生年金病院は昭和27年10月の開設で、新丸ビルと同時期です。何かの取り違えがあったことも考えられます。
 なお、ID 4743では建物の右手を列車が走っていますが、堀端の国鉄中央線は土手のやや下にあります。仮に列車が東京逓信病院のそばを走る場合、この角度では列車は全く見えません。


首都高(写真)石切橋 平成元年 ID 509, 510

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」では、平成元年(1989年)9月、ID 509のタイトルは「石切橋から大曲」、ID 510のタイトルは「大曲から石切橋」を撮影したといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 509 石切橋から大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 510 大曲から石切橋

神田川の橋

 ID 509では石切橋の上から大曲方面を撮影しました。神田川の向かって左側(北側)は文京区です。
 西江戸川橋と小桜橋がはっきりと見え、その先の中ノ橋は川面に影が落ちています。新宿区のある右岸(南側)に台のようなものが等間隔に並んでいます。護岸の石組みの色が変わっており、工事の足場のようなものかもしれません。
 この付近は出版・印刷の街です。左岸に見える「太洋社」は中堅の出版取次(書籍問屋)でしたが、2016年(平成28年)に経営破たんしました。現在はマンション「ブリリア文京江戸川橋」です。少し先には(TOP)PAN(凸版印刷)が見えています。
 右岸には首都高速道路5号線(池袋線)が建ち、ふくらんだ「非常駐車帯」があります。高い柱の上に非常電話のピクトグラムと「非常電話 SOS」が併記されています。

 ID 510の写真説明の「大曲から石切橋」は誤りで、目白通りの石切橋付近から大曲方向を撮影しています。右寄りの信号機の表示3文字は読めませんが、少し先に首都高の非常駐車帯があることから、ここが石切橋交差点であることが分かります。交差点の左の橋が石切橋で、この橋からID 509を撮影しています。石切橋の文京区側のたもとの2階家は江戸期から続く鰻の「はし本」です。
 また信号機の右奥に8階建てのビルがあります。これは2009年Googleにあった石切橋の8階建てのビルとよく似ています。1989年、写真のビルの2階と3階の窓がなく、ここは違っていますが、4階以上の窓は4枚に分かれ、非常階段は酷似しています。これは2017-18年に取り壊されて、2019年に三晃ビル(マルエツ 江戸川橋店)になりました。

神楽坂からきえたもの(2)

文学と神楽坂

—–★かしら★—–
町ごとに町鳶ていうのがいて、みんなの面倒見てくれるんだ。火事のときに駆けつけてくれたりね。それを「かしら」って呼ぶの。

かしら とびしょく・大工・左官など職人の親方。
町鳶 鳶頭かしらかしら。梁から梁へ文字通り飛んだので鳶。鳶職は「町鳶」と「ちょう鳶(高所作業者・橋梁、ゼネコンで働く鳶職人)」に分けられる。「町鳶」とは地元密着型の鳶職人。
 東京街人によれば、享保3年(1718)、南町奉行大岡越前守の令を受け、町人から成る町火消組合が誕生した。町火消し(町鳶)は、道路や家屋の普請、祭礼の設営や警固、祝い事や催事の運営、橋、井戸の屋根、つるべや上水道の枡、木管や下水道のどぶ板といった町内下部構造の作成、保守、神社などの祭礼では神酒所やお仮屋を製作したりしている。
 明治維新と共に町火消しは東京府に移管し、明治5年(1872)「市部消防組」と改称され、現在の「江戸消防記念会」に至る。ここでは東京23区を11区に分け、その下に87の組を設け、正会員(各組の三役=組頭・副組頭・小頭)と準会員(筒先・纏持ち・梯子持ち・若衆)合わせて約800人の鳶が所属する。「鳶頭」と呼ばれるのは三役だけだ。
 とび職もかしらも今に続いている。神楽坂では商店会に加盟していて、建築工事だけでなくお祭りの提灯や正月の松飾り、冠婚葬祭の手伝いなどをしている。
 ただし、町鳶は東京に特有の職人ではないか。

—–★獅子舞★—–
お獅子がね、正月と二月三日に来てたんですね。頭をかんでもらったりしましたよ。あれもかしらがやってたんだよね。でも正月の三ヵ日に来ても何処も店が開いてないなんて時代になって、それで来なくなっちゃったね。
—–★寺内★—–
アインスタワーになってるあたりね、寺内っていって迷路みたいな路地になってたんだ。そこでカン蹴りやったりしてたな。

アインスタワー 26階地下1階建の五丁目のタワーマンション。2003年1月竣工。
寺内 じない。明治40年以前は行元寺という寺があった地域。

—-★焚き火★—–
昔はね、商品をわらで包んで持ってくるんだ。だから荷物を解いたあと、そのわらでよく焚き火をしたよ。そしたら近所の人が集まってきてさ。仲が良かったよね、みんな。
—–★自慢焼き★—–
コパンは昔、自慢焼きっていうのをやってたんだ。大判焼きみたいなやつ。あれはいつやめちゃったんだっけ。

コパン 6丁目のキムラヤの隣にある喫茶店。昔はタバコで臭かったけど、現在は禁煙です。シュークリームが最も有名。
自慢焼き 「大判焼き」も「自慢焼き」も全部「今川焼」と同じお菓子。小麦粉の皮で餡を包み、銅板で焼き上げる。ニチレイによれば「じまん焼き」は日本で5番目に多い「今川焼」でした。

—–★若宮八幡の境内★—–
若宮八幡は、今は境内がないですけど、昔はあったんです。そこでこま回しも凧揚げも出来たんですね。

昔はあった 江戸時代、若宮八幡神社は巨大でした。江戸名所図会の若宮八幡 これは昭和44年の若宮八幡神社です。「こま回しも凧揚げもできた」という巨大さがありました。

神楽坂若宮八幡神社(1973年)

—–★金語楼プロ★—–
白銀町の読売新聞の所に柳家金語楼が住んでて、金語楼プロダクションっていうのをやってたんだ。あそこは少年野球のチームも持ってて、山下敬二郎(金語楼の息子)もそこでプレーしてたよ。

白銀町の読売新聞 読売新聞は以前は肴町、現在は神楽坂5丁目です。

1990年と1963年。住宅地図。

柳家金語楼 喜劇俳優、落語家。新作落語は千以上。エノケン、ロッパと並ぶ三大喜劇人。本名は山下敬太郎。生年は1901年2月28日。没年は1972年10月22日。71歳で死亡。
山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。柳家金語楼の非嫡出子。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。死亡は満72歳。

—–★新内流し★—–
ろくさんっていう、有名な新内の流しがいたよ。
—–★喧嘩★—–
喧嘩もよくあったね。口で言い合うんじゃなくて、掴み合いの。でも今みたいに危ないもんじゃないんだ。
—–★地蔵坂の駄菓子屋★—–
地蔵坂にあった牛込館っていう映画館が火事で燃えた後、映写室だけがポツンと残ってたんだ。そこに老夫婦が住んで駄菓子屋をやってたね。毘沙門様にもお店を出してたんじゃないかな。

地蔵坂 藁店わらだなとも。神楽坂5丁目と袋町とをつなぐ坂道。
火事 火事が起こったという話は不明です。戦災の話はあります。牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第7号で山下武氏が書いた「神楽坂藁店界隈」では「露き出しになったコンクリートの映写室の残骸が焦土の中に立つ牛込館の焼け跡を眼にしたときは、ハッと胸を衝かれ、その場に呆然と立ち尽くしてしまったのを憶えている。昭和20年4月13日の夜、二百数十機にもおよぶB29の投下した火箭ひやによって、山の手銀座と謳われた神楽坂一帯はことごとく灰燼に帰してしまったのだ。もちろん、牛込館とてその例外であろうはずはなかったが、自分の眼で見るまでは信じたくない気持だった。」
牛込館 活動写真館の一つ。大正3年、完成。戦時中は「神楽坂松竹」。戦災のため完全に閉館。
毘沙門様 神楽坂5丁目36にある日蓮宗鎮護山善国寺です。毘沙門堂の毘沙門天は、加藤清正の守本尊で、新宿山之手七福神の一つです。

—–★貸本屋★—–
6丁目の、百円ショップになってる所に貸本屋があったよ。赤胴鈴の助とか鉄腕アトムを借りたな。

百円ショップ 神楽坂6-17に百円ショップ「The 100 Stores」があります。(2024年3月に閉店予定)
なってる所 住宅地図では昭和37年、別の家が建っていましたが、昭和38年に「神楽坂書店」になり、この店で扱っていたのでしょう。昭和62年も同じ書店ですが、昭和63年は空地になり、隣の店「チキータ」と一体化して今の百円ショップが建ちました。

貸本屋 保証金をとって漫画本、大衆小説を貸本として貸す店。紙芝居は昭和28年、テレビ放送の開始以後数年後に衰え、紙芝居の作者は多くは貸本屋むけ長編漫画本の制作に移る。昭和34年頃をピークにして貸本屋は全国的に流行したが、その後、減少した。
赤胴鈴之助 赤い胴の少年剣士の活躍を描く。昭和29年8月号の『少年画報』に第1話が出たが、漫画家の福井英一氏が死亡し、新人漫画家の武内つなよし氏が急遽後を継ぎ、昭和35年12月号まで続いた。
鉄腕アトム 21世紀、原子力で動き、ロボットのアトムの活躍を描く。原作は手塚治虫氏。

—–★日本テレビの電波塔★—–
麹町の日本テレビ、あそこにもテレビ塔があったんだ。エレベーターがついてて、行くと登らせてくれるんだよね。そこからは神楽坂も全部見えたよ。

テレビ塔 千代田区二番町の旧・日本テレビ本社にあった「日本電波塔」は、東京タワー完成後も使われ、1980年(昭和55年)、解体された。https://dl.ndl.go.jp/pid/8557566

万平の柳

文学と神楽坂

地元の方からです

 万平は神楽坂の頂上近く、3丁目にあった小料理屋です。戦後に建てた古い切妻の平屋のままで、入り口脇に歩道に傾いた柳の木がありました。

現在の万平で「クレール神楽坂」。吊り看板は「あまくさ」

 けやき舎の「神楽坂 まちの手帖」第12号(2006年、平成18年)の「あの頃の神楽坂」では
>>万平の柳は風流だったなあ。つい釣られて入っちゃうんだよね。
と回顧しています。これを少し掘り下げてみます。
 昭和27年ごろ、「東京文学散歩」の写真では、すでに切妻の店が建っています。吊り看板は「鮨」で、後年のすき焼きとは違う名物だったようです。店頭には木が生えていますが種類は分かりません。

 同じ昭和27年、ID 4793-4794でも確認できます。枝垂れているので柳のように思われます。

 昭和28年、ID 99では木が歩道側に傾いている様子が確認できます。

 昭和39年ごろ、ID 11では、すでに柳が屋根より高くなっています。

 昭和52年、テレビ「気まぐれ本格派」では幹が太くなり、青々と茂った柳が確認できます。

万平の柳。1977。気まぐれ本格派。 01話

 ただ、この状態では歩行者の通行に支障が出かねません。おそらく定期的に枝打ちをしていたでしょう。同じドラマの中で、枝のない様子が確認できます。

万平の柳 気まぐれ本格派(1977)10話

 少し前の昭和48年、ID 8806でも冬場の裸木になった柳が見て取れます。

 昭和59年、『私説東京繁盛記』の写真では木が途中で切られています。苦情対策や、歩道を管理する区の指導であったかも知れません。

 しかし写真を見ると、この時代の木は万平に限らなかったことが分かります。そのひとつが坂下の「紀の善の柳」です。
 昭和28年頃、ID 5190では神楽小路から通り側に枝が伸びていることが確認できます。

 昭和46年、『神楽坂の今昔』の写真では、2階屋根に届くほど育っています。

 昭和52年、テレビ「気まぐれ本格派」でも、たびたび映っています。

紀の善の柳 気まぐれ本格派(1977)4話

 万平の柳が印象的だったのは、古風な店構えや吊り行灯風の店名看板とよくマッチしていたからでしょう。でも、枝が伸びても手入れが十分でなく、幹が太くて邪魔だったから記憶に残ったのかも知れません。

神楽坂からきえたもの

文学と神楽坂

 これは『神楽坂まちの手帖』第12号(けやき舎、2006年)で「神楽坂からきえたもの」をまとめて書いています。

神楽坂からきえたもの
忘れもしないあの日を境に、或いはまた、通りがかりにふと気が付くと、どれもみな、今はもう写真や記憶の中にしか存在しないものたちです。
都電
 昭和37年の最盛期には41路線が東京中を網羅しており、界隈では、外堀通りに3系統(飯田橋~品川駅前)、大久保通りに13系統(新宿駅前~水天宮前)、飯田橋交差点から早稲田に向かって15系統(茅場町~高田馬場駅前)の三路線が運行していた。
 昭和42年12月、3系統廃止。次いで43年9月には15系統、45年3月には13系統が廃止となり、都電は神楽坂から姿を消した

都電は神楽坂から姿を消した 都電の廃止について正確に述べると、3系統の廃止は昭和42年12月10日、15系統は昭和43年9月29日、13系統は昭和43年3月31日岩本町までに短縮し、昭和45年3月27日に廃止した。

 ⚫思い出語り⚫ 

 一番覚えているのは15番ですね。中学・高校と神保町の方へ通っていたので、毎日(都電に)乗っていました。
 ちょうど倍賞千恵子が売れてきた頃、雑誌に「お父さんは15番の運転手」って書いてあったんです。それで探したら「倍賞」ってプレートを掲げてる運転手さんがいて「ホントだ!」って。それ以来、倍賞千恵子のお父さんの電車に乗ったときは「アタリだ」って思ってました。あと、停留所が道路の真ん中なんですけど、待ってる間は暇なんですね。だから「走ってくる車の名前を全部覚えよう!」なんて事もやってました。そんなに種類も多くなかった頃ですから。だけど卒業までの間に車も随分増えましたね。どんどん電車が遅くなるなって感じていたのは覚えています、(ル・レーブ 赤井慶子さん)

15番 都電15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
神保町 共立女子学園でしょうか?
倍賞千恵子 倍賞氏の「私の履歴書」(日本経済新聞、2023年12月2日)では……
父美悦(みえつ)によると、先祖は秋田の豪族、佐竹氏に仕えた足軽で特別な武功を上げた際、2倍の恩賞を受けたことから「倍賞」姓を名乗るようになったそうだ。
 父は故郷の秋田から上京し、市電(都電)の運転士として働き始めた。そこで市バス(都バス)の車掌をする母はなと出会い、職場結婚する。茨城出身の母は社内でも評判の美人だった
走ってくる車の名前を全部覚えよう 都電15系統の電車は2500型です。廃車の2503を除く2501〜2508形。しかし、これでは優しすぎる。自動車ですね。セドリックとかグロリアとか。
ル・レーブ カフェベーカリー ル・レーブです。以前は足袋やYシャツで有名な赤井店。現在は不動産仲介のアパマンショップです。


飯田壕

 ⚫思い出語り⚫ 

 都心のホームから水面が見渡せるところといえば、市ヶ谷駅とお茶の水駅だけになったが、二十数年前までは、飯田橋駅からも外濠が見えた。我が家にはわたしが少年のころ、神楽坂のほかに墨田区にも小さな店舗があり、数年間そこから九段の私立学校に通っていた。電車通学する生徒たちにとって、ホームから飯田濠を眺めるのが帰宅途中の楽しみだった。神楽河岸沿いに建っていた東京都清掃局から積み出されるごみを満載にした船、少年たちが「汚わいぶね」と呼んでいた平たい船などが始終行き来していて、どうということもない光景にも子供たちは興味津々だった。そんな船の中に時々水上生活者が混じっていた。洗濯物をたなびかせた船上からおなじ年格好の孤独そうな少年がホームの私たちを眺めていた。(平松南)

九段の私立学校 おそらく暁星学園
汚わいぶね 汚穢船。西さい船、尿処理船と同じ。江戸時代、糞尿を運ぶ船として発達。「保健婦雑誌」23巻5号(1967年5月)では
都内9ヵ所の清掃作業所にバキュームカーが集まると、川を渡ってし尿処理船(通称おわい船)が東京湾に運ぶ。それをタンクにつめて、太平洋上に投棄するのが海洋投棄船である
 なお、この海洋投棄は平成11年度で終了し、平成11年1月22日からは、東京都唯一の「し尿処理施設」である「品川清掃作業所」は、し尿を脱水ろ液(液体)と汚泥ケーキ(固形分)に分け、汚泥ケーキは清掃工場に、脱水ろ液は下水道の放流基準以下に希釈(薄める)して下水道に投入します。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

水上生活者 第二次世界大戦前後でははしけの船頭は家族や所帯道具を積んでいて、日常生活を営んでいた。しかし、港湾施設の近代化があり、水上生活者は次第に港湾住宅等に移り住み、いなくなった。


松ヶ枝

 ⚫思い出語り⚫ 

 私たちは出入りの業者ですから、正面からは入りませんよ。塀の右端のほうに勝手口があってね、そこから入ると庭に出るんです。そこで作業してると女中さんが出てくるから、花を渡して出てくる。それでも夕バコ銭ってくれるんですよ。懐紙にいくらか包んでね。あの頃の料亭さんはみんなそうだったけど、松ヶ枝は額も多かったからね。盆や正月になると更にはずむでしょう。仲間内で喧嘩になるんですよ。「俺が行く」「いや俺だ」ってね。(田口生花店・寺田司郎さん)

勝手口 2つ門があり、左の門は正門、右の門が勝手口です。

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

夕バコ銭 タバコを買う金。転じて、タバコ一箱分くらいのわずかな金。お駄賃。
懐紙 かいし。ふところがみ。たたんで懐に入れておく紙。


神楽坂浴場

 ⚫思い出語り⚫ 

 大きなお風呂屋さんでね、深川とか浅草にも何軒か経営されてたみたいです。毎日子供を連れて行きましたよ。まだ出来て間もない頃でしたから、写真のような張り紙はなかったですね。大人用の湯船と、子供用のぬるめの湯船があって、脱衣所からはお庭が見えました。その頃はロッカーなんて少しで、みんな脱衣カゴなんです。桶と手拭いしか持ってませんもの。花柳界の方はお昼にお入りになるから、お風呂で会うことはなかったですね。そうそう、ここのお隣に三國連太郎が住んでたんです。お付の人が良く車を洗ってました。西村晃が遊びに来ているのを見かけたこともありますよ。(たつみや・高橋たまさん)

神楽坂浴場 津久戸町にあった神楽坂浴場。

写真のような張り紙 『神楽坂まちの手帖』第12号の写真のコピーを載せます。

神楽坂浴場の貼り紙

三國連太郎 みくにれんたろう。俳優。27歳、映画界へ。昭和を代表する実力派スターに。生年は大正12年1月20日。没年は平成25年4月14日。地図で青い四角が三國氏の住宅だった。
西村晃  にしむらこう。俳優。昭和26年「風雪二十年」で映画初出演。性格俳優として幅広く活躍。生年は大正12年1月25日。没年は平成9年4月15日。
たつみや 本多横丁の鰻屋。店主が高齢のため休店。令和5年7月31日、閉店。店舗の前に張り紙があって……

たつみや閉店のお知らせ

令和5年7月31日を持って閉店させて頂きます
ここ神楽坂でうなぎ一筋七十余年営業して参りました
うなぎの高騰、備長炭の高騰にその他諸物価高騰
閉店の寂しさから赤字覚悟で頑張って参りましたが先の見落
しの明るさも無く今が限界と閉店することと致しました。
長い間ご愛顧頂きました皆様に心よりお礼申し上げます
 ありがとうございました
               たつみや店主


縁日

 ⚫思い出語り⚫ 

 父が店の前でバナナの叩き売りをやっておりました。買いに来た人が風呂敷を投げてくれ、それを一枚一枚重ねいく時が一番楽しそうでしたね。口上も落語家はだしで、結構人だかりが出来ていましたよ。
 皮のむき方まで教えたり、最前列の人にはただで食べせたりしてたみたいで、たくさん売れるとすごく嬉しそうな顔をしてました。だけど、ほんとは売れることよりも人が集まってくれることが嬉しかったみたいですね。(ジョウトーヤ・吉本時子さん)

店の前 神楽坂下交差点から上を見て登り、本多横丁が右側にある四つ角で、右手前の店舗の前でバナナの叩き売りを行っていました。
一枚一枚重ねいく あくまでも想像ですが、風呂敷の上にバナナを置き、風呂敷の4個ある角を一つずつ折り畳んでいき「はい、お買い上げありがとうさま」などと答える、そんな姿を考えています。
ジョウトーヤ 神楽坂3丁目にあった果物店のジョウトーヤ、現在はニュージョウトーヤビルです。

あの頃の神楽坂

文学と神楽坂

 けやき舎の「神楽坂 まちの手帖」第12号(2006年、平成18年)の「あの頃の神楽坂」を読み直しています。今は2024年なので、18年もの昔ですが、この思い出はさらに昔で、つまり、昔のまた昔でした。

 それぞれの思いで 

●外濠でね、マッカチンっていう真っ赤なアメリカザリガニを釣ったよ。

マッカチン マッカチンとはアメリカザリガニそのもの。「色が真っ赤」からきた言葉。牛込濠は飯田濠に比べて浅いので、地元の方は「大きな魚はいなくて、釣れるのはクチボソやザリガニばかり。手すりも低く、濠に下りるのは容易でした」。カナルカフェができたあたりから牛込濠で釣りができなくなりました。

神楽坂警察で剣道を教えてたよ。よく竹刀の音が聞こえたね。

神楽坂警察 神楽警察署が早稲田警察署と合併して移転したのは昭和35年(1960年)。その後は地図のように警視庁の他の組織が入っていました。それでも地元では長く「警察署」と呼ばれていました。神楽坂警視庁は図の右下に。

 他の1〜2丁目の店舗(神楽坂メトロ、清水衣裳店、ブックスサカイ、ドミニカ、赤井Yシャツ店、警視庁)もこの図に書いてあります。

図1。1962年。住宅地図。西から神楽坂メトロ、清水衣裳店、将来のブックスサカイ、ドミニカ、赤井Yシャツ店、警視庁

●外堀通りも商店街だったんだ。今はビルばっかりになってるけど。

商店街 住宅地図による昭和62年と昭和63年の揚場町の様子です。昭和62年には小さな店が沢山あります。昭和63年には再開発が一気に進んでビルばかりになりました。

昭和62年と63年。揚場町。住宅地図。

メトロの前を山下敬二郎が散歩してたな。

メトロ メトロとは映画館の神楽坂メトロ(最初の図)。昭和27年元日から昭和42年まで営業。
山下敬二郎 氏はロカビリー歌手で、落語家の柳家金語楼の非嫡出子。山下氏は1939年2月22日ー2011年1月5日、72歳で死亡。

ブックスサカイのお父さんが酒井抱州っていう有名な易者さんだった。

ブックスサカイ ブックスサカイとは神楽坂下交差点から南西に向けて1軒隣の本屋さん(最初の図と下図)。昭和62年はカメラサカイ、昭和63年はブックサカイ、平成22年もサカイ書店、平成27年には「中華食堂日高屋 神楽坂外堀通店」に。

昭和62年はカメラサカイ。昭和63年はブックサカイ。

●鉄の釘を国電の線路においてね、轢かせると刀みたいな形になって…危ないことやってたよね。
●警察の前の柳は、大正時代に赤井さんが植えたんだ。

赤井さん 赤井さんとは神楽坂下交差点の西北にあった足袋とYシャツの店主最初の図)。住宅地図では、平成7年(1995年)まではアカイ洋品店。平成8年はカフェベーカリー「ル・レーブ」。Le Reveはフランス語で「夢」。現在は不動産仲介の「アパマンショップ飯田橋店」。「赤井さんが柳を植えた」は以下の「古老談話 桜と柳のこと」に出てきます。

●神楽坂警察の主導で、神楽坂ジャガースっていう少年野球のチームを作ったんだ。

古老談話。神楽坂ところどころ
神楽坂一丁目12番地 赤井儀平氏
 桜と柳のこと
 とに角、堀は昔、ずっとそこまであったんです。今のそのポート屋のところも堀だったんですよ、それを埋め立てたんです。ここはそれに桜がありましてネ。お堀端にはずうっと桜が植えてあったんですが、それが中央線の複線工事で全部切っちまったんです。あれぽっちでも植えておけばよかったんですが。大したものになっていたんですがね。
 柳は、そうですね、大震災頃までは有ったんですが、みんなが根を踏みつけるんで枯れちまったんです。それで今度都で全部植え替えたんです。昔は桜と柳で葉が落ちるし、それがごみになるというので、毎朝目が覚めるとそれを掃きに行ったものです。これがなかなかの大仕事で、うちの爺さんは朝4時に起きて橋の脇まで掃きに行く、6時頃ひととおり終って帰って来ると、あっちこっちにごみの溜まりができてるでしょ、そいつを集めに行ったものです。
 桜も柳も随分ありましたが、すっかり枯れたり切ってしまって、都で植え替える前は1本残った柳の木の脇にできた飲食店が柳屋という名をつけています。別に昔の来歴を知って付けた名前ではないんでしょうがね。又むこうの枡形、橋の際にも柳がありましてね。私が覚えてからも毎年植木やさんを入れて、手入れをしていました。柳が伸びちまうんで刈り込みをしなきゃならないんです。あんまり手が掛るというんで何時頃でしたか献木しちまったんです。
 だんだん街に緑が少なくなって来ますが、枯れるんなら止むを得ないとしてもただ邪魔だから切っちまえというんぢゃったまらないです。何んにも知らない人達が何んだか向うが見えないから切っちまえ、切っちまえとやたらに切ってしまったらしいんです。でも、その木は私達が植えたんだから切らないでくれともいえませんでしたネ。
新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年


お堀端にはずうっと桜が植えてあった 市ヶ谷見附付近を描いた絵はがきを見ると、線路と壕の間にも桜が植えてあります。牛込堀も同じような景色だったのでしょう。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)

中央線の複線工事 正しくは昭和初期の中央線の複々線化でしょう。
私が覚えてからも毎年植木やさんを入れて、手入れをしていました。
その木は私達が植えたんだから この2つをまとめると「自分たちの植えた木なので、手入れをしたが、大正12年の大震災をうけて都に献木し、それからは都が植え替えをすることになった」。つまり「赤井さんが柳を植えた」のは正しいでしょう。

坂下

●神楽小路にドミニカっていうバーがあってね、すごいキレイな女の人がいたのを覚えてる。

ドミニカ ドミニカは神楽小路にあった店舗(最初の図

清水衣装店のおじさん、顔は怖いけど面白い人だったよ。

清水衣装店 清水衣装店(最初の図)は千代田区飯田橋3-2-12タキザワビル2Fに移転。
 けやき舎の「神楽坂 まちの手帖」第12号(2006年、平成18年)『座談会・昭和45年生まれが見つけた「昭和30年」』では、
嶋田(毘沙門天・善国寺 住職) 清水衣装店の清水さんに聞いたんだけど、清水さんのお父さんがね、夕方になるとお座敷に行っちゃうんだって。家のものが「駄目だ」っていうと、清水さんに「ちょっと散歩に行こう」っていってね、子供の面倒をみるフリをしてお座敷に行っちゃう。清水さんは奥のほうで仲居さんに遊んで貰ってたそうですよ。
平松(「神楽坂まちの手帖」編集長) それじゃあ、戦前の神楽坂は、商店主たちが結構ふところ豊かで、花柳界にも通ってたわけですか。
岡崎(元神楽坂通り商店会会長補佐) ええ。

清水衣裳店。TV「気まぐれ本格派」第7話。昭和52年

●赤井さんのYシャツは有名だったわよ、お洒落な人はみんな買いに来るのよ。

坂上

万平の柳は風流だったなあ。つい釣られて入っちゃうんだよね。

万平 新宿歴史博物館の写真で柳はID 6, 7, 11, 14, 16, 46, 99, 8806, 12903-12905に出ています。困ったことに小料理屋の万平が確認できるのはID 46ID 99だけです。また、小林信彦氏と荒木経惟氏の「私説東京繁盛記」(中央公論、昭和59年)(下図)では万平は写っていますが、柳は途中でバッサリ切られています。

神楽坂(昭和58年に撮影)私説東京繁盛記

 昭和62年の住宅地図は「小料理屋 万平」、昭和63年には何もなく、平成元年に「万平ビル」がでています。
 また『神楽坂 居酒屋「あまくさ」』では……

 外堀通りから神楽坂を150メートルほど登った右側に〈万平ビル〉はある。この場所には戦後、「万平」というすき焼きを食べさせる店が建った。入口に柳の木が立っており、とても風情のある店で、私も二十数年前に何度か入ったことがあった。小さな古い木のカウンターがあり、そこにおばあさまが一人いて客の相手をしてくれる。あの有名政治家故田中角栄氏が常連であったそうで、国会の帰りにここで軽く呑んでから裏手の神楽坂の料亭街に向かったとのこと。
「その席に角さんがいつも座っていたのよ」と、おばあさまがカウンターの端の席を指さして言っていた。
(2008 01 30 居酒屋探偵DAITENの生活)

万平の柳 気まぐれ本格派(昭和52年)10話。「すき焼」が万平の一番美味しい料理とか

毘沙門様に街頭テレビがあってさ。もう塀の上まで人が鈴なりになってた。
●テレビは日テレが置いたんだ。確か、最初は日テレしか写らなかったかな。

毘沙門様に街頭テレビ 昭和28年8月20日に日本テレビ放送網(NTV)が放送を開始。その直前にNTVの「街頭テレビ」を設置。

●大きな滑り台と砂場があったね。滑り台から砂場に飛び降りた記憶がある。

滑り台と砂場 これも毘沙門の境内の思い出。区に一部を貸すと、神社などは補助を受けられる。写真は「毘沙門さま あれこれ」や「ID 8271-ID 8272」から。図は『ここは牛込、神楽坂』第3号から。

用水池があってさ。2B弾っていう先っぽをマッチみたいにこするとシューって飛んでいく花火を池の上に滑らせて遊んでた。

用水池 用水池がどこにあるのかわかりません。
2B弾 2B弾(にービーだん)とは愛知県の花火業者が開発した花火の一種。昭和30年代の「男子の危険な遊び」。事故が多発して、製造中止命令に。1966年(昭和41年)まで製造。

●毘沙門さんに行くと誰か遊び相手がいるっていう感じだったよ。

坂上・6丁目

リード商会の息子さんは、坂下の白十字の大沼先生なんだ、有名な産婦人科・性病科の先生でね、雑誌にも出てたよ。

リード商会 リード商会は神楽坂5丁目のレコード店。2丁目(ID 9782ID 11869)に支店があった。5丁目は本店ながら三角の変則敷地の小さな店で、隣のうなぎ「大和田」とまとまって建て直し、ドラッグストア「セイジョー」になりました。2020年に都の大久保通り拡幅事業で全て閉店し、2021年1月に「神楽坂5丁目ビル」ができました。
時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

住宅地図(2017年)と航空地図(Google, 2023年)

白十字 白十字診療所は神楽坂1丁目にあった産婦人科・性病科の診療所。現在は「のレン 室」(米麹食品専門店)に。ID 9781が一番明瞭にわかる。

りそな銀行の角を入った先に、巨人の千葉茂が弟と一緒に居候してたんだ。

りそな銀行 りそな銀行神楽坂支店は神楽坂6丁目にある銀行。以前は協和銀行からあさひ銀行になり、さらに大和銀行グループと一緒になって、2002年3月、りそな銀行に統合。
千葉茂 生年は1919年5月10日。没年は2002年12月9日。読売ジャイアンツの名二塁手。愛称は「猛牛」。
居候 りそな銀行の先に左に曲がる路地があり、その路地の世帯数は相当に多く、どこに住んでいたのか不明。

●街灯もね、今みたいにタイマーがないから暗くなったら自分でつけるんだ。付け忘れたら暗いままだし、逆に明るくなってもつけっぱなしだったりね。

路地
石畳は雨が降るとすべるのよね。あそこで鬼ごっこなんかしたら面白かったわよ。だけど塩を盛る頃になると帰らなきゃ怒られちゃう。

石畳 摩擦係数が低い石畳は雨や雪で滑りやすくなります。
塩を盛る頃 盛り塩は塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く縁起物。幸運を招き千客万来を願うとされ、商家では朝、玄関脇に盛る。花柳界では開店する夕方前に盛り塩をしたのでしょう。

津久戸小学校
●むかし、つくど小学校に、てんのうへいかとこうごうへいかがいらっしゃいました。そう、お父さんがいっていました。だから、わたしたちの学校はいまではもう大ゆうめいです。つくど小学校がいっぱいになったしまいましたので、あいじつ(愛日)というがっこうをたててあげました。つくどとあいじつをくらべては、つくどはまけています。どうしてかというと、あいじつはエレベータがあるのでいいのです。
(昭和35年 三年生女子)

つくど小学校 あいじつ 歴史的には愛日小学校は明治13年7月31日開校、津久戸小学校の開校は明治37年4月10日です。(『新宿区史 資料編 区成立50周年記念』)

新宿区史 資料編 区成立50周年記念

 ただし愛日(当時は愛日国民学校)は昭和20年に全焼し、昭和21年に廃校。生徒は津久戸小などに移りました。昭和27年に愛日の再設置が決まり、新校舎第一期工事が完成して生徒が移ったのは昭和32年でした(愛日小学校の歴史)。このことを言っているのでしょう。
 昭和35年の住宅地図には、まだ津久戸小と一緒に愛日小が書いてあります。

昭和35年。住宅地図。津久戸小と愛日小


矢来町(写真)図書館資料室紀要 1970年

文学と神楽坂

 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の138頁には次の写真が載っています。

大正期の面影を残す矢来町中の丸

 今までは写真は全く不明で、これ以上は何もわからない。さわらないように、そーっと置いておこう、と考えていました。「中の丸」だけでも巨大で、矢来町の5分の1を占めています。下図では矢来町は赤、中の丸は青です。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)

 しかし、このID 118〜120と見比べると、これも一連の写真のひとつだと判明します。つまり、これはID 119ID 120との間にあるべき写真なのでした。場所は上図か下図のが正しい位置なのです。
 郵便の宛先は大正11年には「矢来町3番地あざ旧殿」、昭和5年には「矢来町78番地」か「矢来町81番地」が正しく、以降も変化はありませんでした。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)。住宅地図。昭和5年

しんぱち食堂|鰻重と焼干魚定食

文学と神楽坂

 2022年10月に「紀の善」は閉店し、代わって、2023年10月に和食ファーストフードチェーン「しんぱち食堂」が出店しました。重要なものは「炭火焼干物定食」と「鰻重」。注文は朝7時から夜11時まで。鰻は11時から22時まで。タブレットで注文します。
 炭火の焼干魚は税込950円以上。一方、鰻重は「特選国産鰻使用」で、松は1匹4700円(税込5170円)、竹は4分の3匹で3400円(税込3740円)、梅は2分の1匹で2500円(税込2750円)、桜は3分の1匹で1750円(税込1925円)。
 大阪天満の「創業百年 鰻仲卸」の「じん田」から「直送」する「炭焼」の「鰻」です。
 関東風に蒸すのはここではやらずに、代わって関西風に白焼をそのまま焼き上げます(地焼き)。特徴はパリッとした皮の食感と香ばしい風味、さらに身の柔らかい鰻です。

首都高(写真)新小川町~石切橋 昭和52年 ID 501-505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501-05は、昭和52年(1977)5月、新小川町から東五軒町、さらに石切橋までの首都高速道路5号線(池袋線)のカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 501 飯田橋インターチェンジ

 この写真はID 12208(2)とほぼ同じです。ただID 501は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 502 飯田橋インターチェンジ

 場所について遠くの首都高には膨らんだ「非常駐車帯」があり、首都高は標識(最高速度60キロ)、橋脚は「T型」で「飯田橋ランブ」は見えません。目白通りの左側の建物は半世紀前とは多くが違っていますが、左端で見切れているのは2021年頃に解体されたトーハンの旧本社でしょう。横断歩道を右側に越えていくと、架橋があり、信号機は3つ。また、歩道の先では左に行く小さな道路も。建物は半世紀昔に建てられて、どれも名前は全くわかりません。
 ここは「小桜橋南」交差点でしょう。
 この区間の目白通りの地下に、昭和52年度末に「江戸川橋分水路」ができる予定で、バリケードや三角コーンも沢山あります。これは完成直前の様子を撮影したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 503 石切橋附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 504 石切橋附近

 左の信号機に「石切橋」の交差点表示があり、これは「石切橋」の東側から撮影したものです。さらに行くと昭和45年に架設した「古川歩道橋」があります。標識は(転回禁止)(区間内)ですが、ID 504では(車両進入禁止)が加わっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 505 江戸川橋分水工事看板

 工事の看板は見えませんが、この写真はID 12216(4)とほぼ同じです。ただID 505は周囲を少しカットして、画角を狭めています。

街頭テレビ 昭和28年8月

文学と神楽坂

 「街頭テレビ」って知っていましたか?  昭和28年2月に日本放送協会(NHK)が、8月には日本テレビ(NTV)が開局し、同時にNTVは「街頭テレビ」を繁華街、駅頭などに設置していきます。
 サラリーマンの初任給が1万円に対してアメリカ製のテレビは30万円近く(NHKアーカイブス)なので、高価なテレビを買えない庶民が娯楽を楽しむのは、これ以外に方法がありませんでした。
 翌年2月には、東京蔵前国技館で行われた力道山・木村政彦対シャープ兄弟のプロレスをNHKとNTVが同時に中継して、新橋駅の街頭テレビには2万人の群衆が押し寄せました。

 神楽坂では毘沙門天に街頭テレビが設置されました。

「神楽坂まちの手帖」12号「神楽坂30年代地図」から

 けやき舎の「神楽坂まちの手帖」12号「あの頃の神楽坂」では……
●毘沙門様に街頭テレビがあってさ。もう塀の上まで人が鈴なりになってた。
●テレビは日テレが置いたんだ。確か、最初は日テレしか写らなかったかな。

10年後、テレビの世帯普及率は90%を越えると、街頭テレビもなくなっていきます。

NTVテレビ・スタンド
 夕涼み客の人気独占
    第一陣日比谷・ 42カ所に常設

日本テレビ放送網(NTV)では20日から試験放送を開始するが、これに先立って御自慢のテレビ・スタンドの備付けを18日から始めた。これは42台の大型受像機(27、21インチ)を東京ならびに近県の繁華街、駅頭などに備え付けるほかテレビ・カー2台に各27インチの受像機をのせていたるところに進出、映像をふりまこうという、いわばテレビ機動部隊のシステム。第一陣は東京日比谷公園公会堂前広場のプラタナスの木がけにすえつけられ、同日午後2時から都民に初のお目見得をした。
 高さ3メートル、幅1.5メートルのスマー卜な白色の塔で、上部に27インチのゼニス・テレビ受像機が納められ、わきには高さ4メートルのアンテナが立っている。この日はまたNTVの電波は出ていないからNHKのをかりての試験だが、もちろん映像は鮮明。
この夜今夏の最高気温に押し出されて公園に夕涼に出かけた人々の群れが『これは便利なものが出来た』とイスまで持ち出して去りやらぬ人気ぶり。なおこの大型受像機の設置場所は次のとおり決った。(カッコ内インチ数)

街頭テレビ

 東京都内=東京新名店街内(27)銀座尾張町日本堂前(27)日比谷公園公会堂前(27)新橋駅西口広場(27)水天宮境内(21)江東楽天地内(27)浅草雷門(27)渋谷駅前(27)新宿駅前青木靴店(27)神田神保町富士屋(27)巣鴨とげぬき地蔵前(27)上野公園池の端(27)神楽坂毘沙門天境内(21)戸山アパート中央広語(21)恵比寿駅前(27)五反田駅前紅谷(21)麻布十番日活館前電気店(21)高円寺駅前(27)中野駅前(21)大井町駅前(27)朝日新聞本社前(27)毎日新聞本社前(27)読売新聞本社前(21)▷東浜急行=品川駅内(27)同川崎駅前(27)同浜松駅内(21)同横須賀中央駅内(21)▷東武電車=池袋駅内(21)同浅草駅前(21)▷京成電車=上野駅(27)日暮里駅(27)成田駅(21)千葉駅(21)▷その他=横浜桜木町駅前読売ビル(21)逗子駅前小公園内(21)八王子繁華街(27)前橋市明治食品前(27)浦和市繁華街(21)水戸市繁華街(21)宇都宮市明治商事前(21)鎌倉駅前浅草食堂(21)

1953年8月19日 読売新聞


今夏の最高気温 1953年8月18日、最高気温が9年ぶりの高値で、36.9℃

神楽坂の歩道はいつできたの?

文学と神楽坂

 歩道です。いつから歩道はできたの?
 昔ははっきりした歩道はありませんでした。写真は昭和27年頃の神楽坂3丁目です。これを「歩道ができた」と考えられてもいい写真です。ただし、縁石は低いままです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792 神楽坂通り マスダヤ前

 神楽坂2丁目のID 28も昭和27年で、「歩道はどぶ板しかない」と書いています。この時、メトロ映画館では「情無用の街」をやっていました。その下には、縁石があってもいいようにも見えます。

新宿歴史博物館 ID 28 神楽坂途中、2丁目付近

 昭和20年代後半、神楽坂5丁目は歩道には濃淡の2色があり、縁石があっても歩道と車道はほぼ同じ高さです。

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 24

「色つき歩道」の写真もあります(新宿区「新宿区15年のあゆみ」新宿区、昭和37年)。

 昭和28年以降の神楽坂3丁目はあまり変わっていないようです。歩道の縁石はここでは高くなっていません。しかし、これは縁石が部分的に低い歩道なのかもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9506 神楽坂

 昭和29年、神楽坂1丁目に縁石は高いようです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14048 神楽坂

 昭和32年にも縁石が高くない歩道が出ています。しかし、向かって左側の歩道の縁石は高そうです。縁石が部分的に低い歩道でしょうか?

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4943 大東京祭 花自動車パレード 神楽坂

 昭和33年には縁石が高い歩道が出てきます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 57 神楽坂入口付近から坂上方向

 2006年、けやき舎「神楽坂まちの手帖」第12号の「津久戸小学校(昭和31年度・佐藤学級)ミニ同窓会」では昭和29年に歩道はできたと、2丁目の上田さん(十奈美社長)は確定します。この場合には「歩道には濃淡の2色があって、縁石も十分高い」場合に「この歩道ができた」といえるのではないでしょうか。

上瀧 20年代の後半頃だと思うんだけど、雨の日に坂上の方を走ってた自動車のブレーキが突然壊れちゃって、そのまま落ちてきたんですよ。それがたまたま私にぶつかって。
平松 えっ!
上瀧 それがきっかけで歩道が出来たって、この間チラッと聞いたんですけど。
上田 いや、あの頃はね、そういう事故が沢山あったんですよ。うちも一回、タクシーが飛びこんで来たんです。運転手がおしっこしようと思って路地に行ったんだけど、サイドブレーキがちゃんとかかってなかったから動いちゃって、それがショーウィンドウにドカーンって。人の被害はなかったですけどね。坂の店は大抵被害を受けてますよ。それで、なんとかしてくれという事で陳情したりして。夏目さんに色々と苦労話を聞きました。
平松 歩道が出来たのは何年でしたっけ?
上田 昭和29年です。最初はね、ちょっと洒落たレンガ色の石が敷きつめてあってなかなか良かったんだけど、学生がはがして投げるからっていうんで、アスファルトに変えられちゃった。味気ないよね。
平松 そういえば、毘沙門様の縁日も盛大でしたよね。
上田 助六さんのあたりまで屋台が並んでね。戦後ずっとやってなかったのが、小学校の頃に復活したのかな。
上瀧 お祭りも盛んだったよね。佐康先生が「お祭りの地区の人はお掃除しなくて帰ってもいい」なんて言ってたくらいだから。
上田 そうそう。
土屋 思い出したけど、校門の前に行商人が来てたね。
平松 津久戸小学校の?
土屋 ええ。
上田 カタ屋さん
土屋 そう、それで二週間くらいいて、売れなくなるといなくなっちゃう。あと、エックス線で骨が見えるのぞき眼鏡とか。
上田 手品のトランプとか、がまの油。面白かったよね、みんないんちきだったけど(笑)。

「歩道が出来たのは何年でしたっけ?」と聞かれて、十奈美社長の上田邦彦さんは「昭和29年です」とはっきり、くっきり答えました。以来「神楽坂まちの手帖」も歩道は昭和29年にできたと答えるようになりました。この返答こそが最大の武器だったのです。

上瀧 上瀧日出子さん。旧姓・山本、主婦
平松 平松南。本誌編集長。
夏目さん 夏目写真館、夏目正衛氏。
上田 上田邦彦さん(十奈美社長)
洒落たレンガ色の石 これが「色つき歩道」でしょう。
助六さん 助六履物店。毘沙門天より120メートルほど坂下。
土屋 土屋唯之さん(旧姓・森林、東京理科大学教授)
カタ屋さん 粘土、カタ、色を売る露天商。子供はこの三点を買い、粘土をカタ(金魚、船など)にはめ込み、カタからはずしてそれをきれいに彩色する。上手く出来るとカタ屋さんが点数をくれ、この点数を集めると粘土やカタと交換してくれる。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

目白通り工事(写真)新小川町 昭和45年 ID 473, 13055, 13081-85

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473、13055、13081-85は、昭和45年1月に目白通り、神田川、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。資料名は「新小川町二丁目大曲付近」です。しかし、住居表示が変わり、2丁目はなくなってただの「新小川町」になりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13055 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13084 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13085 新小川町二丁目大曲付近

 ID 13055、13084-85は南側から北側の大曲までを撮影しています。目白通りは2車線ずつの対面通行で、神田川の上に首都高があり、その下で川を渡るのは白鳥橋です。目白通りを通るとT字型の「大曲交差点」となります。信号機は一見すると確認できませんが、カバーなどで覆われているだけでしょう。
 白鳥橋の上、首都高が途切れたようになっていてるのは、後に飯田橋料金所を作る場所です。
 首都高の下、向かって右側の歩道はおそらく利用ができず、バリケードやブロック、チェーンスタンド、コンクリートの土管らしきもの、大きな円環3つなどが並んでいます。作業小屋もあります。歩道の縁石をまたいで何台かの車が止まっています。おそらく工事のためでしょう。
 左手前から奥に向けて、ヘルメット姿の作業員達は目白通りを大きく掘削しています。鉄骨や、穴を掘るための鉄板が並んでいます。
 目白通りの地下には神田川の洪水対策として江戸川橋分水路があります。しかし東京都の資料によれば建設年は昭和47ー52年で、写真と時期があいません。また平面図で見ると、分水路が作られたのは神田川寄りで、写真とは反対側です。
 文京区関口一丁目南部会は「昭和44年頃より江戸川橋ー下水管一本埋設」としています。現在の都の下水道台帳を調べると、江戸川橋分水路に沿って「早稲田幹線」があるのが分かります。工事は、この下水管に関係したものでしょう。

下水道台帳 大曲付近

 少し前の昭和44年9月のID 12776-79では、大曲付近の掘削はまだ着手していないように見えます。まず下水管を整備し、そのあとで分水路の建設に着手したのでしょう。
 ID 13085では、目白通りを「東京タワー」と書いたバスが北進中。また、トレードマーク「フクスケ」の広告塔は、福助株式会社でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 473 飯田橋大曲

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13081 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13082 新小川町二丁目大曲付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13083 新小川町二丁目大曲付近

 ID 473、ID 13081-83は、南向きの撮影で、遠くに飯田橋交差点の歩道橋が見えます。首都高の下の橋は隆慶橋です。
 写真右の掘削工事は飯田橋交差点方向に続いています。手前に「工事許可要件」の告知看板が立てかけられていますが、詳細は確認していません。
 右側の歩道は、工事によってやや狭くなっているように見えます。掘削部は一定間隔で鉄板を敷き、車道に出られるようにしています。歩道の回りにはトレードマーク「/出光」「日産サービス」の看板があり、これは昭和52年のID 12216に写っているものと同じです。その隣奥の少し引っ込んだビルは東京電力新小川町変電所。やや離れて「モリサワ」「(東海)銀行」の屋上看板が見えます。ほかに電柱広告「印刷ローラー 博文社」「歯科 田◯」「質 長島」などが確認できます。
 写真左上、首都高の上には「↖飯田橋出口/本線↑」の標識があり、本線の向こうに飯田橋出口のランプが見えます。その上には屋上広告「鹿島をひらく 鶴屋産業」があります。

神楽坂五丁目(写真) 令和4年 ID 17078-80

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17078-80は、令和4年3月、神楽坂五丁目から西向きに神楽坂上交差点や神楽坂六丁目方面を撮影した写真3枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17078「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17079「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17080「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

 中央の前後の通りは「神楽坂通り」、その先に出てくる南北(写真では左右)の通りは「大久保通り」、2つの交差点は「神楽坂上」交差点です。
 神楽坂通りは0時から12時までは東向きで神楽坂を下り、12〜24時は西向きで、上がります。ランチタイムの12〜13時は歩行者専用道路です。
 車道と歩道はアスファルト舗装ですが、歩道はインターロッキングという小型ブロックのかみ合わせです。
 灯具は令和4年2月から3灯タイプですが、将来道路になる場所では旧来の街灯を使っています。街灯柱は淡灰色で、下半分にビニール製の保護材と思われるものがあります。
 外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。

神楽坂5丁目(令和4年)
  1. 1階は「(くすりの福太郎 神)楽坂店」2階は「(ANYTIME FITNESS) 2F」「(ANY)TIME FITNESS」「24時間年中無休の/フィットネスジム/2F」(シュエット神楽坂)
  2. 壁面「PIZZERIA TRATTORIA」。旗「PIZZERIA &/TRATTORIA」。店名「Margherita Pagliaccio」(マルゲリータパリアッチョ 神楽坂店)(ピザ店)
  3. 突き出し看板「築地すし好/Girl’s Bar Lounge ♥ Belle」「BAR(イラスト) 鴨 社」店名「築地すし好」
  4. 株式会社 つくば商事(不動産会社)
  5. 「神楽坂上(Kagurazaka ue)」交差点、信号機
  6. 大久保通り
  7. 「くすり/ポイント5倍デー(ココカラファイン)」「JOYFIT」巨大な時計(タイヨウビル)
  8. 「神楽坂上(Kagurazaka ue)」交差点、信号機、 「自転車を除く/日曜・休日は12-19」、(駐車禁止)
  9. 街灯(六丁目用の灯具、2灯)
  10. 遠くに神楽坂FNビル(6-67)、三上ビル(6-64)、パークリュクス神楽坂(6–59)
  1. 空地(将来は道路になる)
  2. 旧来の街灯が1つ
  3. 案内看板「牛込消防署→」
  4. 12-24
  5. 「江戸三十三観音十六番札所」「厄除・除病 大佛薬師如来」「開運・繁昌 大聖歓喜天」「大聖歡喜天王 安養寺」
  6. 「(神楽坂 穂禮)上海」(中華料理店)(響ビル)
  7. 街灯(六丁目用の灯具)

インターロッキング インターロッキング(interlocking)とは、コンクリートブロックをレンガ調に組み合せて敷き詰める舗装方法で、翻訳は「つなぎ合わせた」「連結した」など。荷重がかかると、ブロック間の目地に充填した砂が働き、かみ合わせ(荷重分散効果)が得られる。

神楽坂1丁目(写真)令和4年 ID 17576

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576は、令和4年10月、神楽坂下交差点から坂上方向を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576 神楽坂入口

 中央の信号の上に交差点名が「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」と表示されています。よく見ると英字はシール状のものを貼っています。かつては読み通りに「Kagurazaka shita」としていましたが、外国の人々に分かりやすいように修正したのでしょう。
 左右は外堀通りで、前後が神楽坂通り。信号機にはゼブラ柄の背面板はなく、車道と歩道はアスファルト舗装。街灯柱は淡灰色で、街灯は3灯をまとめ、夜には明るく光っています。外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。

神楽坂1丁目→坂上(令和4年)
  1. (歩行者横断禁止)(区間内)
  2. 看板「交通事故多発」
  3. 「ル」「BRITISH COUNCIL 英会話スクール」「この先 約150m」(研究社研究社英語センタービル
  4. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)
  5. 広告看板「カラオケの鉄人 KARATEZ~ ここから歩いて1分‼︎」「カラオケの鉄人 神楽坂通り沿い
  6. 飯田橋ともじり皮ふ科/行きたい皮膚科がココにある。/Tel 03-6265-00xx/ 当ビル5F
  7. 交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  8. (エイ)ブル(不動産会社)
  9. モスバーガー(ハンバーガー屋)
  10. 「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「飯田橋ともじり皮ふ科 5F」「Darts bar」「(神楽坂) 翁庵」「HIRO GINZA/BARBER SHOP」
  11. 「駅前留学 NOVA」「も駅前留学 NOVA KIDS」
  1. (駐停車禁止)警告 交差点・横断歩道は駐停車禁止です。運転者が乗車中でも取締りを行います。牛込警察署 新宿区」。「信号機」。交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」
  2. 郵便ポスト
  3. (駐車禁止)
  4. Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店/広告「オーナー様募集/空室にお困り/建物管理にお困り/アパマンショップなら/グループ全体で/サポートできます」広告「新宿区・文京区/千代田区・豊島区/お部屋探しは/アパマンショップ/飯田橋店に/お任せください!」広告「お部屋探しは アパマンショップ 飯田橋店へ おまかせください!/下記QRコードから友だち追加を/していただくことで お客様のご条件にピッタリのお部屋を/ご紹介できます!」Apamanshop(不動産会社)
  5. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」「(歩行者専用)」「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  6. (カレーショップ ボナッ)
  7. 消(火栓)
  8. のレン NOREN MURO 室(米麹食品専門店)
  9. のレン(生活用品店)
  10. 案内看板「地下鉄 神楽坂駅」
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  13. 「自然エネルギーのアドバンス」「自然エネルギーのアドバンス」「広告募集中」「ドトールコーヒー 神楽坂店 Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」突き出し看板「FUJIYA」
  14. カグラヒル。屋上にKADOKAWAのデジタルサイネージ広告。「新世代のフィギュア原型師、創出ブロジェクト」「電撃文庫 KDcolle 造形大賞」「4F ス(シロー)」「マツ(モトキヨシ)」
  15. 「ゲー(ムのオアシスに飛び込め!)G(iGO)

牛込濠(写真)遠景 令和4年 ID 16993

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 16993は、令和4年(2022)2月、法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目などを撮影したものです。タイトルの「市谷船河原町を望む」は残念ながら間違いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16993 法政大学前から市谷船河原町を望む

 カメラが少しだけ左を向けば「新見附橋」や「新見附交差点」が見える場所でした。
 外堀通り沿いが低層になっているのは、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。
 少し下がった場所からは高い建物になります。
 主にGoogle Mapを調べて、これらのビルは以下の通りでした。なお、写真で2/B、9/Fは同じ建物です。

市谷田町3丁目(令和4年)
  1. アヴェニュー市ヶ谷(マンション)
  2. 進学塾 臨海セミナー/eisu/1ヶ月無料体験受付中/進学塾 臨海セミナー 中学受験科(eisuビル市ヶ谷)
  3. 屈指の合格実績 eisu 小・中・高(eisuビル市谷新館)
  4. 華記茶餐応(中華料理)と1店舗(トゥービル)
  5. 酒井商店(酒などの店舗)
  6. 長谷川豪建築設計事務所
  7. DUNLOP FALKEN (株)タイヤ突進舎 Bridgestone (株)タイヤ突進舎 DUNLOP(タイヤショップ)
  8. The Gate Ichigaya(賃貸事務所)、前に駐車場
  9. Tomas Gymnastics(トーマス体操スクール市ヶ谷校)
  10. 用心棒(ラーメン店)
  11. システム桐葉外語 日本語学校
  1. 第2市ヶ谷マンション
  2. 塾を超えたジム eisu / 小1・2・3 脳力開発ジム イルカ/小4・5・6 名門中合格ジム プライム/中1〜高3 飛び級速習ジム ニュートン(eisuビル市ヶ谷)
  3. DNP(DNP市谷加賀町ビル)
  4. グランベスタージュ市ヶ谷(マンション)
  5. レジディア市ヶ谷(マンション)
  6. 東京理科大学 TOKYO UNIVERSITY OF SCIENCE
  7. Tokyo Institute of Tourism(東京観光専門学校

住宅地図。令和2年

「あをば」 大崎省吾 昭和16年

文学と神楽坂

「随筆 めばえ」「随筆 かをり」「随筆 あをば」「随筆 もみぢ」「随筆 あらし」「随筆 みのり」は全て著作者と発行者は大崎省吾氏、発行所は修省書院で、発行年は昭和15〜17年です。
「随筆 めばえ」の最初の「序」 を読んでみましょう。

    序
 この齢になり、はじめて筆を執って原稿紙に親しむ。素より、文豪を以て天地を震撼させよう、そんな野望は毛頭ない。ただ、今日やっと此處まで辿って來た飛石づたひの一つ一つを、心のまに/\に拾ひあげ、昭和拾五年一月から書き始めた。それがはや、幾千枚と重つて來た。この秘めごと、人に見すべく語るべきものではない。そつと、筐底藏くしておいた。處が、妻子どもの見つけて、その湮滅をおそれてにや、上梓をと、切に勸めるので、つい、世に公にすることにした。
この齢 「随筆 あをば」の「瑞光周屋」から、おそらく75歳くらい
素より もとより。はじめから。元来。
震撼 しんかん。強いショックで震え動く。震え動かす
飛石づたひ とびいしづたい。飛び石の上を順に伝っていくこと
筐底 きょうてい。箱の底。 箱の中。
蔵くし かくす。かくれる。「蔵匿」「埋蔵」
湮滅 いんめつ。隠滅。跡形もなく消えてしまうこと。
上梓 じょうし。図書を出版すること。

 どうもこの書き方、自費出版でしょうか。
「神楽坂」は「随筆 あをば」の一章で昭和15年10月15日に書いています。

   神樂坂
 人の往き來も、そはそはする十二月の< title=”すえつかた。末のころ”>末つ方、牛込の神樂坂の夜店を見に行つた。神樂坂といふと、東京名物の夜店市として、毎夜續々と押掛けたもので、また、どんな品物でも廉價多賣主義であつた。其の上に、神樂坂の長袖が群をなして練り歩く。それが一異彩を添へてゐたからでもあらう。また學生の一群が「牛込の神樂坂、車力はつらい……」という、當時流行の歌を高らかにうたつて通つてゐたのを覺えてゐる。そして、何方から行くにしても、行きづらい馬の脊のやうな所であるのに、それに、潮のやうに澤山の人が押し寄せる。昭和の世となつても相變らず、繁盛の土地である。
末つ方 すえつかた。末のころ
廉價多賣 廉価多売。品物一つ当たりの利益を少なくし、たくさん売ることで、全体の利益を多くすること。
長袖 長袖は通気性があって半袖より涼しいし、労働階層と違って貧乏ではない。
牛込の神樂坂、車力はつらい 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
當時 当時

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和41年 ID 14112

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112は、市谷船河原町の逢坂おうさかを西向きに撮影しました。なお撮影時期は「昭和41年頃か?」となっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14112 市谷船河原町 逢坂

 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 男性2人が逢坂を下り、男性3人と女性1人が立ち止まって話を交わし、男性1人が上っていきます。1人だけは長袖シャツとベスト、残りの男性は全て背広。木々は茂っていて、夏前か秋口でしょう。

逢坂(昭和41年頃)
  1. 民家
  2. 電柱。ポスター ?(学園祭のイベント?)
  1. 竹柵と竹垣(築土神社)
  2. 石垣と日仏会館の入口
  3. 民家。段差スロープ。石垣

牛込濠(写真)遠景 平成31年 ID 14063

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14063は、平成31年(2019)2月、千代田区の法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目市谷船河原町を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14063 法政大学前から市谷船河原町を望む

住宅地図 令和2年

 地図とGoogle Mapを調べて、これらのビルは……

  1. 神楽ビル
  2. Luft Garten
  3. Skip Boat Neo Gate
  4. 双葉ビル。看板は「週刊大衆(漫画)アクション 小説推理」「orange 双葉社 発売中」一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」(倉庫)。
  5. 市ヶ谷エスワンビル。看板は「2018年度 合格実績 小石川中 68名 都立中 785名」「ena」「日比谷高 2名 西高 4名 国立高 6名」。一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」
  6. やまと運輸市谷砂土原町センター
  7. 油井工業所。2階の看板は「護國園」とイラスト「将棋の駒」
  8. パークハウス市谷田町(マンション)
  9. 龍生会館
  10. メゾン・ド・コリーヌ市ケ谷(マンション)
  11. 東京理科大学5号館
  12. マノワール古河(マンション)
  13. 船河原マウントロイヤル(マンション)

牛込濠(写真)昭和45年 ID13108-15

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13108 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13109 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13110 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13111 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13112 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13113外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13114外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13115 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

 この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。

外堀通り・解説

 写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
 この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
 外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。

美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。

http://toeibus.com/wp-content/uploads/2017/01/da658f58c676c090be7454023a3ba4ef.jpg

  1. 双葉ビル(双葉社)か?
  2. 東京理科大学7号館
  3. 東京理科大学3号館
  4. 東京理科大学1号館
    ーーーー若宮公園に上がる坂
  5. 研究社旧館
  6. 研究社新館
  7. 菱屋ビルか?
  8. 三幸工業
  9. 三幸工業
    ーーーー庾嶺坂。ここから船河原町
  10. 塩原ホテル 寿苑 東京
  11. 家の光会館
  12. スナックベルなど
  13. 個人宅
    ーーーーここは逢坂
  14. 丸谷石油(ガソリンスタンド)
  15. 尾形伊之助商店
  16. 日仏学院
  17. 教育図書
  18. 軽自動車工業
  19. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  20. 神田印刷
  21. 東京理科大学体育館

住宅地図。1973年

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和50~51年 ID 9921

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921は昭和50~51年頃、市谷船河原町の逢坂おうさかを坂下の東向きに撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921 市谷船河原町 逢坂

 遠くに千代田区のビル群や日本国有鉄道の中央・総武線があります。
 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 女性が10人ほど坂を登ってきます。全員が若く見えて長袖で、コートやセーターを着ています。中央線の奥の土手のサクラが落葉していないので、季節は秋でしょう。全員日仏学院に行く場合もありますが、左端の女性が左手に靴を持っているので、理科大の柔道館に行く場合も考えられます。

逢坂(昭和50-51年頃)
  1. 丸石自転車。看板(自転車に乗っている人)
  2. 柵。その左の築土神社は見えない
  3. 日仏学院の石垣
  4. 民家と段差スロープ
  1. (右・指定方向外進行禁)。自転車を除く/一方通行路。 (始まり)
  2. 垣根と民家

昭和51年 住宅地図

足立屋と岡田常次郎氏、東京シティ信用金庫

文学と神楽坂

地元の方からです

 足立屋は岩戸町2番地にあった呉服商です。経営者は岡田常次郎氏でした。常次郎氏の名は、日本紳士録(交詢社、明治25年)や高額納税者番付『栄誉鑑』(有得社、明治23年)などに出てきます。
 人事興信録(大正4年、再録は名古屋大学)でプロファイルを見ると

  •  安政元年(1854) 埼玉県生まれ 東京府平民岡田德兵衛の養子
  •  明治十八年六月分家 呉服太物商を營み屋號を足立屋と呼ふ

 1901年(明治34年)発行の『日本之名勝』3版に記事と店の写真があります。それによると…

初代徳兵衛は…万延元年(注・1860)、地を今の所に卜して商店を開きしが、当時牛込は都下にありても最も辺僻の域に属し…ことに維新の革命に際し、御家人、徒士ら皆去って顧客の大半を奪わるるに至りしも…百難を排除し 今日の盛運を見る。
二代はすなわち今の常次郎にして…ますます業務を拡張して今は区内有数の店舗なり。
(新字新かなで適宜省略)

 つまり初代徳兵衛が苦労して店を軌道に乗せ、養子である常次郎氏が大きくしたのでしょう。
 牛込区史(昭和5年)によれば、常次郎氏は明治25年から大正2年にかけ、3度にわたって区議会議員を務めました。
 また東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)によれば、常次郎氏は牛込区内に25筆・3781.68坪(約12,400㎡)の宅地を所有していました。商売が順調だったことが想像できます。

東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)

 常次郎氏は大正9年(1920)に隠居し、家督を長男に譲ります。長男は襲名して2代目常次郎となりました。足立屋呉服店としては3代目です。

 その後、2代目常次郎氏の事業に変化が起きます。大正14年、牛込柳町に本店のある「有限責任信用組合第一金庫」の常務理事に名を連ねます。

 また昭和2年、日本紳士録31版には「足立電話店/岩戸町3番地」として登録されます。
 ちょうど関東大震災後の東京の復興期で、洋装化も進み、旧来の呉服商以外に多角化を図ったのかも知れません。
 さらに昭和4年、日本紳士録33版では「足立屋両替店・債権売買業/岩戸町2番地」になります。この頃に初代から続いた呉服商を廃業したと思われます。
 昭和5年、大衆人事録 第3版(帝国秘密探偵社、昭和5年)には「つとに呉服商を営みしが、現時足立屋と称し両替並びに債券売買業を営む」とあります。
 以後、2代目常次郎氏は岩戸町2番地で金融業に従事します。昭和9年、帝国信用録 第27版では「証券売買・貸地業」。昭和11年、日本紳士録 40版では「信用組合第一金庫常務理事・足立屋両替店・債券売買」。昭和16年2月、足立屋証券株式会社を設立し代表取締役に就任します。
 一方、信用組合第一金庫は政府主導の戦時統合で「帝都信用組合」に改組されます。本店は相変わらず牛込柳町で、組合長も信用組合第一金庫と同じです。2代目常次郎氏は理事のひとりでした。
 市谷柳町の帝都信用組合旧本店は焼け残り、平成時代まで使われました。

帝都信用組合旧本店。「かがり火」から現在はセブンイレブンとマンション

 しかし組合を改組した「帝都信用金庫」の本店は、岩戸町2番地の足立証券本社・2代目常次郎の屋敷の跡地に建設されました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492 大久保通り 神楽坂五丁目付近(現牛込神楽坂駅付近)

 帝都信金は2000年(平成12年)に再編されて東京シティ信用金庫になりました。現在も、かつて足立屋のあった岩戸町2番地に神楽坂支店があります。

分水嶺「神楽坂界隈」|吹田順助

文学と神楽坂

吹田順助

 すいじゅんすけ氏の「分水嶺」(精興社、昭和37年)の「神楽坂界隈」を読んでみました。氏はドイツ文学者で、東京帝国大学独文科を卒業し、東京商大、中央大学などの教授を歴任。札幌で有島武郎と交遊。文芸思想史を研究し、ヘッベル、ヘルダーリンなどの作品を翻訳。
 生年は明治16年12月24日、没年は昭和38年7月20日、死亡は79歳。

神楽坂界隈
 私の少年時代はいわゆる日清戦争の前後で、戦争は別として、今から考えると、どこか大まかな、いい時代——ドイツ語でいうと、eine gute alte Zeit——で、殺人強盗というような殺伐な事件も、戦後のアプレ時代とははんたいに、数えるほどしか起らず、おこの殺しばかりでなく、野口男三郎——有名な漢詩寧斎のむこ——ので、、ん肉斬取り事件にせよ、クリスチアンの染井一郎——私の生れた二十騎町に住んでいた——の女房殺しにせよ、わりにはっきりと記憶に残っている。雨後の筍のように続出したいわゆるアプレ時代の、その種の犯罪、礼会悪ときたら、とても覚え切れるものではない。
 神楽坂は震災後、とりわけ戦災でやられてからというもの、銀座や新宿街にすっかりお株を奪われた形であるが、私の少年時代は、老舗の立ち並んだ具合といい、毘沙門の縁日の夜の賑いといい、一方、山の手らしい、どことなくおっとりした気分のたたずまいといい、私たち、牛込ッ子にとっては、ただただなつかしい思い出の町である。
 今の神楽坂停留所の近くにあった牛鍋やのいろは、、、、古い講釈席で、むかしは例の「ぼたん燈籠」の円朝なども出たらしい鶴扇亭肴町の角のたこ市という玩具や、その一、二軒先きの菓子舗の紅屋相馬屋という大きな紙問屋、和良店亭という寄席のあった坂道の降り口の武田芳信(?)堂という古本店、そこから一、二軒向うの浅岡という大きな洋品店、その筋向うの尾沢薬舗、毘沙門天の向って右どなりにあった田原屋という果物店、その店の奥がその後のいわゆるグリル・ルームで、文士なども一時よく出人りした。毘沙門から先へ行くと、洋品店のサムライ堂宮坂金物店盛文堂という新刊書店——あのころの出版書肆というと、何といって博文館が筆頭で、私はよくそこで、『少年世界』や、小波(巌谷)山人の『二人椋助』、『黄金丸』、『近江聖人』というような本を買ったものだが、その店の後を廻ると、立ちならんだ待合の先に、青陽楼とかいった西洋料理屋……こう書いてくると、どうもきりがないようなものだが、坂下を右へまがってとっつき島金——ときどき父に連れてってもらった、この古風な鰻やの名も、ぜひここに付け加えて置かねばならないであろう。
 私たちはその時分、今の神楽坂通りのことを寺町と呼んでいたが、今もあると思う郵便局寄りの通りは、むかしは通寺町と呼ばれ、そこから左へ曲ったところに、飯塚というどぶろくやがあり、紅葉山人浅田宗伯という当時有名な漢法医の住んでいた横寺町、その横寺町の通寺町寄りの左手に、大正五、六年ごろだったか、芸術倶楽部のけいこ場のような建物があって、そこは島村抱月のあとを追った松井須磨子縊死したところである。郵便局の方から神楽坂の方へ向かってダラダラと降りてゆくと、右手に獅子寺(?)があり、その境内ではいわゆるお盆の十六日におえ、、んま、、さま、、開帳され、そこで私は子供のころ佐倉宗五郎のぞき、、、からくり、、、、などを見たものである。その寺の先きにひところ、牛込勧工場というのがあり、それはその後のデパートの前身ともいうべきか、両側にいろいろの商店の並んでいる細い廊下のような路をグルグルと廻ると、また外へ出られるというしくみになっていた。そのはいり口の隣りあたりの路地をはいると、明進軒という西洋料理店があり、紅葉山人の日記をみると、訪客の誰彼を連れてときどきその店を訪れたことが書いてある。もう大正になってからであろうか、松山省三さんがその店の跡に、一時カフェー・プランタンを開店したことがある。通寺町をまがった岩戸町には、足立屋という大きな呉服屋と糸屋とが両側に向かい合い、そこの路地には川鉄という鳥料理店があり、箪笥町(まち)の区役所の前には、吉熊という牛込一の料理やの堂々たる二階建てが、あたりを圧してそびえていた。
 毘沙門の縁日(寅の日)の寺町の賑いはまた格別で、とりわけ夏の晩方などは、夕涼みがてらの男と女や、子供づれが、浴衣がけでゾロゾロと練り歩き、まるで肩と肩とが擦れあうよう、通りにはそのころはやりだしたアセチレンガスをともした夜店が、両側に立ち並び、境内にはときどき江川一座の玉乗りの一座や、田舎廻りの女相撲の小屋がかかったり、坂下へ近づくと、虫や朝顔の鉢や植木を売る店が見付の方へかけて並んでいた。そういう人込みをかきわけるようにして左棲(づま)を取った芸者や、高木履を穿いた雛妓が、提灯をぶらさげた男衆に伴われ、横丁の路地へ消えてゆく光景なども、神楽坂という町のアクセサリーであったであろう。
日清戦争 明治27年7月25日~明治28年4月17日、日本と清国(中国)での戦争。
eine gute alte Zeit 訳すと「古き良き時代」
殺伐 人を殺すこと。人を殺そうとするような荒々しさが満ちている様子
アプレ時代 アプレゲール(après-guerre)の略。戦後派。第二次大戦後、従来の思想・道徳に拘束されずに行動できる若い人
おこの殺し 明治30年4月27日、金貸しの松平紀義(39歳)が内縁の妻・御代みようめこの(40歳)を牛込区若宮町にある四軒長屋の自宅で絞殺し、お茶の水まで運んで遺棄した。死体は全裸だった。
漢詩 漢詩は本来は日本人の作で、漢字を用い、中国詩の形式に従った詩。
寧斎 野口寧斎。ねいさい。明治時代の漢詩人。
のでん肉斬取り事件 臀肉でんにく事件。明治35年3月27日、東京市麹町区下二番町(現在の東京都千代田区二番町)で、少年が何者かに殺され尻の肉を切り取られた殺人事件。なお、傍点は「ので、、ん」ではなく「のでん、、」が正しく、「斬取り」は「きりとり」「切り取り」です。
雨後の筍 うごのたけのこ。雨が降ったあと、たけのこが次々に出てくるところから、物事が相次いで現れること”>
山の手 東京23区では本郷・小石川・牛込・四谷・赤坂・青山・麻布などの台地の地域
神楽坂停留所 現在の都バスでは「牛込神楽坂駅前」です。
ぼたん燈籠 「怪談牡丹燈籠」です。お露の幽霊が牡丹灯籠の光に導かれ、カランコロンと下駄の音を響かせて恋しい男のもとへ通う話。
円朝 幕末~明治時代の落語家。怪談噺、芝居噺を得意として創作噺で人気をえた。生年は天保10年4月1日、没年は明治33年8月11日。死亡は満62歳。
肴町 現在、神楽坂4丁目に代わりました。
武田芳信(?)堂 正しくは武田芳進堂です。
少年世界 博文館が明治28年1月に創刊、昭和8年頃まで出版した、少年向けの総合雑誌。主筆は巖谷小波。
二人椋助 ふたりむくすけ。元々は『アンデルセン童話全集』の「大クラウス小クラウス」で、設定が日本に置き換えたもの。尾崎紅葉氏が翻案し、明治24年3月、博文館刊『少年文学』第2編に所収。
黄金丸 こがね丸。日本で最初の創作児童文学。巌谷漣(小波)氏の童話。明治24年、博文館刊『少年文学』第1編に所収。犬の黄金丸が牛、犬、鼠などの仲間と一緒に仇討ちを成し遂げる。
近江聖人 江戸時代前期の陽明学派の開祖である中江藤樹氏の伝記を、明治25年、村井弦斎氏が博文館刊『少年文学』第14編に載せたもの
とっつき いくつかあるうちのいちばん手前
神楽坂通り 神楽坂1丁目から5丁目までが本当の神楽坂通りで、6丁目については通寺町でした。
浅岡 藁店の入り口にある小間物の浅井でしょうか? ここに以前は「鮒忠」がありました。
書肆 しょし。書店や本屋のこと
郵便局 神楽坂6丁目にある「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
どぶろく 清酒の醸造過程でできるもろみから、かすはそのままにして出てくる日本酒。白濁しているので「にごりざけ」ともいう。
縊死 いし。くびをくくって死ぬこと。
その境内 獅子寺は保善寺のこと。一方「おえんまさま」は正蔵院の脇本尊のこと。
おえんまさま お閻魔様。本尊は正蔵院の「草刈薬師」。明治44年7月、合併した養善院の本尊(脇本尊)は「閻魔大王尊」。
開帳 厨子ずしのとびらを開いて、安置する本尊秘仏などを拝観させること
佐倉宗五郎 正しくは佐倉惣五郎。江戸前期、下総佐倉領の印旛郡公津村の名主。領主の重税を将軍に直訴して処刑。江戸後期、実録本・講釈などで有名
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
松山省三 まつやましょうぞう。洋画家、明治43年からカフェー・プランタンの経営者。生年は明治17年9月8日。没年は昭和45年2月2日。
区役所 新宿区箪笥町15番地の昔の区役所です。現在は新宿区箪笥町特別出張所や牛込箪笥区民ホールなど。
左棲を取る 芸者の勤めをする。
高木履 たかぼくり。歯の高い足駄あしだ。高下駄。高足駄
雛妓 すうぎ。まだ一人前になっていない芸妓。半玉はんぎょく
男衆 おとこしゅう。花柳界で芸者などの身のまわりの世話をする男

牛込濠(写真)俯瞰 昭和36年

文学と神楽坂

 石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」(修道社、昭和36年)に下の写真が載っています。


飯田橋近くの外濠のあたり  このあたりは濠を境に千代田区と新宿区が高台をなして相対している。写真は千代田区側の外濠公園から新宿区の対岸をみたところで、このへんには理科大学、日仏学院、研究社、家の光などの立派な建物が丘の中腹に集中していて、お濠をふくめての眺望はなかなかに趣きがある。

 下から中央線・総武線の線路、牛込濠と貸ボート、外堀通りが見えます。さらに写真を左右の2つに分け、それぞれの建物の名前を見ていきます。最初は左側です。

 参考は日本分県地図地名総覧(昭和35年、下図)、全住宅案内地図帳(昭和43年、2番目の図)、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス整理番号 MKT636、昭和38年)、昭和45年のID 13108と昭和56年頃のID 486です。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

全住宅案内地図帳 昭和43年

  1. 日仏学院
  2. 渋谷ガラス(ペイント)
  3. 東宝自動車修理場
  4. 森会計学院
  5. 尾形(昭和45年では尾形伊之助商店)
  6. 旅館 保志乃
  7. 逢坂。⭕️は出動中の自動車
  8. 笹尾
  9. 川崎釣具店
  10. 家の光会館(JAグループの出版文化団体)

国土地理院。地図・空中写真閲覧サービス。整理番号 MKT636 コース番号 C7 写真番号 18 撮影年月日 1963/06/26(昭38)

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

  1. 家の光会館
  2. 家の光協会(3の前に庾嶺坂
  3. 三幸工業
  4. 三幸工業
  5. 神楽坂印刷工場(研究社
  6. 神楽坂印刷工場(研究社
  7. 東京理科大学
  8. 東京理科大学

神田川(写真)船河原橋 昭和39年 ID 551

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 551は昭和39年頃に江戸川(現在は神田川)の上流から船河原橋方向や下宮比町などを撮影しました。撮影時期について新宿歴史博物館では「1964年?」としています。

 昭和40年以前には、神田川の中流部は江戸川と呼びました。川面にはゴミがたくさん浮かんでいます。小舟が3艘見え、うち2艘はバラ積みの船倉をテントのようなもので覆っています。廃材等の運搬に使われたものでしょう。
 向かって右の岸が目白通りで新宿区、左岸が文京区です。1969年(昭和44年)には川の上に首都高速道路5号線が建設されますが、まだありません。
 新宿区側、トラス構造の鉄塔に電飾看板「ホテル」が見えます。これは同年代の写真で「つるやホテル」です。川沿いの電柱には「ナショナル」の広告が並んでいます。その他の広告もあるようですが、よく読めません。
 左から船河原橋を渡っているのは都電13系統(新宿駅前-水天宮前)。目白通りから奥にかけて15系統(高田馬場駅前ー茅場町)が2台見えます。都電の廃止は13系統が昭和45年3月27日、15系統は昭和43年9月28日でした。
 遠くかすんだように国電(現、JR東日本)の飯田橋駅の高架ホームと屋根が確認できます。その向こう側の建物は千代田区です。

昭和43年 住宅地図。

寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡

すっかり観光地な神楽坂

日本の特別地域⑤新宿区

文学と神楽坂

 昼間たかし氏と佐藤圭亮氏の「日本の特別地域⑤ 副都心編 東京都新宿区」(マイクロマガジン、平成20年、2008年)で、表題「すっかり観光地な/神楽坂だが/その裏は極小住宅集合地帯」、「注目されればいいってもんでもない」とした上で、こう書いています。

神楽坂ブームに
地元民は大迷惑

 2007年に放映されたTVドラマ『拝啓、父上様』。このドラマの放映と前後して、世間には「神楽坂ブーム」なるものが発生した。
 この地域に残っていた築数十年の民家は次々と和風のカフェに改築され、「隠れ家的なカフェ」として話題を集めた(行列ができて、まったく隠れていないけど)。『産経新聞』の2007年3月15日・東京朝刊にも高校生や女性客が殺到していることが記されている。この記事では、ランチタイムの回転率が2倍になったなどホクホク顔の飲食店の声が数多く取り上げられている。だが、これ以降、現在も続いている神楽坂ブームは近隣住民にとっては、それほど歓迎すべきものではなかった。住民のカンに触った第一はブームにあてこんだ商店街が『拝啓、父上様』のテーマソングを流し続けたこと。朝から晩まで森山良子の歌声が流れ続けるのは、新手の拷問。おまけに、土日は、ゾロゾロと観光客がうろついているものだから、サンダル履きでうろつくのも躊躇するくらい。2008年になり、多少は落ち着いた感じのするブーム。観光客は住民にとって、ありがたいものではない。
カンに触れる 癇にさわる。癇にれる。腹だたしく思う。気に入らない。しゃくにさわる。
森山良子 渋谷区出身の歌手。19歳でレコードデビュー「この広い野原いっぱい」。「禁じられた恋」「遠い遠いあの野原」「涙そうそう」の歌詞など。生年は1948年1月18日

スーパー戦争の謎
激安スーパーが敗北

 さて、ブームの御蔭で観光客を当て込んだ店が増加した神楽坂だが、本来は庶民のための店が建ち並ぶ地域。通りには、ちょっと高級めのチェーン「よしや」と、地元スーパー「きむらや」が店を構える。大江戸線の開通以降、増加する人口を当て込んで2003年には、近隣の大久保通り沿いに「京王ストア」がオープン、これに対抗する形で「きむらや」は牛込北町に2号店を出店。これ以降、現在まで苛烈な集客合戦は続いている。
 このスーパー戦争の最大の特徴は、どれも高級店であることだ。通常、このようなスーパー戦争になると、それぞれの店が値下げを繰り返し、消費者には嬉しい結果となると思うのだが、そんなことはまったくない。多少は値下げをしているかもしれないが基本的に、あらゆる商品は「神楽坂価格」、すなわち「モノはよいけど、ちょっと高い」という状態(「京王ストア」なんて、あわびを売ってる……。誰が買うの?)。
 どうも、神楽坂住民の特徴として、「値段よりも品質」を求めていることが挙げられるようだ。その証拠には、2007年に起きたある出来事がある。
 実は、2007年まで神楽坂通りには、もう一軒のスーパー「丸正」が店を構えていた。都内の人ならわかると思うが、肉や魚などの生鮮食品を非常にお手ごろ価格で提供してくれている、懐に優しいスーパーである。
 この3店舗が並んでいれば通例「よしや」か「きむらや」が先に撤退するのでは……、と思っていたら「丸正」がいの一番に「今後は江戸川橋店をご利用下さい」と撤退してしまったのである。「まさか!」と驚くだろうが事実である。
 こうして残った店舗には、今日も買っただけで美味い料理がつくれたような気分にさせてくれる高級食材やらが並び、繁盛している。
スーパー「丸正」 以前は神楽坂6丁目68にありました。現在は「美容室イグレックパリ(IGREK PARIS)」です。

神楽坂駅なのに
神楽坂にはない

 神楽坂駅が神楽坂にないことを知る者は少ない。
「ああ、駅のあるのは矢来町だもんねえ…」
と、鉄道マニアなら言い出すだろうが、それはまだ甘い。
 本来の神楽坂は一般に、神楽坂と認識されている範囲の半分程度にすぎないのだ。
 正確な神楽坂は、文字どおり坂のある部分だけ。つまりJR飯田橋駅側の外堀通り沿いの坂の終端から、大久保通りを交差する、神楽坂上の信号までの範囲だ。現在では、住居表示によって「神楽坂六丁目」という地名がつくられているが、ここはもとは「通寺町」と呼ばれ、神楽坂とは別の地域とされていた。ほかにも神楽の名を冠した地名として、飯田橋駅の駅ビルの建つところが「神楽河岸」と名付けられている。ここは、高度成長期に外堀が悪臭を放つようになったのをきっかけに埋め立てられた結果の新しい地名
 と、厳密に範囲を区切ってしまえば非常に狭い神楽坂の範囲だが、通常は北は文京区、東と南は千代田区との境まで、西も外苑東通りあたりまでは、「神楽坂だ!」と主張しても古くからの住民以外は納得してくれるだろう。
 さて、この神楽坂の裏手には、白銀町下宮比町という、これまた歴史を感じさせる地名のエリアが存在する。ここには、数年前までは、何軒かの「これぞ金持ち」という雰囲気を漂わせた屋敷が建っていたが、それらも気がつけばマンションに姿を変えてしまった。神楽坂は、都心の住宅地として、ひとつのステータスを確立しつつあり、あちこちでマンションやビルの建設が始まろうとしている。本当の町の変化はこれから発生するようだ。
新しい地名 間違えています。神楽河岸は土地名としては明治期に、町名としては大正期に既に出ています。詳しくは「神楽河岸|町名はいつから」で。

神楽河岸|町名はいつから

文学と神楽坂

 神楽河岸はいつから単なる「土地名」ではなく「町名」になったのでしょうか? 現在は人口0人の「町」ですが、いつから「町」になったのでしょうか。
 ウィキペディア(Wikipedia)では……

神楽河岸(かぐらがし)は、東京都新宿区の町名。住居表示実施済み地域であり、丁目の設定がない単独町名である。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では……

神楽かぐら河岸かし
 牛込御門から船河原橋間の外堀沿いの河岸地。当地域はかつての江戸城の外堀である飯田濠の場所にあたり、現在は埋め立てられ、千代田区と新宿区の両区にまたかって駅ビルが建っている。ビルの上層部には東京都飯田橋庁舎と住宅棟があり、このうち事務棟は新宿区、住宅棟は千代田区に属している。
 江戸時代に河岸地だったのは牛込揚場町に付属する河岸のみで、揚場と呼ばれていた。近代になって揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。昭和六三年住居表示実施。

 また、コトバンクの「日本歴史地名大系」(平凡社)では

牛込御門―ふな河原かわら橋間の外堀沿いの河岸地。江戸時代に河岸地であったのは牛込うしごめ揚場あげば町に付属する河岸(物揚場)のみで、揚場河岸とよばれていた。近代に入って揚場河岸を含めた一帯の堀端の地を神楽河岸と総称するようになった。

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷』(1970年)49頁では

 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸と唱えられていた。だが明治末年にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木(雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに困る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年東京地名字引」(江戸町づくし)にも小石川街門外と記されてある。

 つまり、「神楽河岸」の土地名は「近代に入って」「明治末年」からだと書いてありますが、「神楽河岸」が「町」になった時点は不明なのです。

 高道昌志氏の「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集第80巻。2015年)では「このような状態から、神楽河岸は明治26年に市区改正事業によって、土地の区分としての『河岸地』から一端削除されていく。……一部を隣接する揚場町に編入し、残りを神楽坂警察署用地と水道局神楽河岸出張所、更にその残りが神楽河岸一・二号地として分配され……」
 つまり、神楽河岸は揚場町、神楽坂警察署と水道局神楽河岸出張所、神楽河岸一・二号の6つに分かれました。「神楽河岸町」の記載はありませんが「神楽河岸」は出ています。

日本建築学会計画系論文集第80巻。明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程

 同じく明治26年11月、牛込警察署が初めて神楽河岸に移転します(昭和5年『牛込区史』491頁)。注目すべきことは、所在地が「現在の神楽坂一丁目地先神楽河岸に移転し」となっていることです。地先(じさき、ちさき)とは「居住地・所有地・耕作地と地続きの地で、反別も石高もなく、自由に使える土地」「その土地から先へつながっている場所」だそうです。
 明治41年「神楽河岸」は「|」で表しています(『牛込区史』332頁、昭和5年)。つまり、世帯もなく、住民もいない所でした。
 大正元年、東京市区調査会の東京市及接続郡部地籍地図 上卷では、神楽河岸は神楽町一丁目の一部として描かれています。この時代の神楽河岸は、神楽町一丁目につながった「無番地/番外地」(土地公簿で地番ちばんのついていない土地)だったのです。

 大正9年に変化が出ます。この年、10世帯41人と初めて人口が増え、大正13年には14世帯85人になっています。大正9年12月、警察署の庁舎がここに新築されたことが関係していて、この時に区が認める町名として成立したと考えられます。
 大正10年の牛込町誌 第1巻の地図には「神楽河岸」の地名が見えます。また「区分及び人口」でも「神楽町を左の4区に区分す」として、神楽町1-3丁目と並んで神楽河岸、番地ナシ、8戸41人の記載があります。
 一方、同書記載の土地所有者には神楽河岸がなく、全域が公有地だったと考えられます。牛込町誌は「牛込区史編纂会」が手がけており、信頼性の高い資料です。
 さらに『牛込区史』(492頁)には現在の警察の管轄区域として「神楽坂一、二、三丁目」にはじまる町名の列挙の最後に「神楽河岸」が出てきます。原文では「現在当署の管轄区域は神楽町1、2、3丁目・(中略)・神楽河岸の諸町である」と書かれ、神楽河岸は確実に町の1つになったのです。おそらく新しい町名なので、最後になったのでしょう。
 さらに時代が変わり、人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)によれば既に「神楽河岸町」とついています。

人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)

 昭和45年の住宅地図では、再び「神楽河岸町」はなくなり、代わって「神楽河岸」があります。新宿区の町は「神楽河岸」、たたえる水は「飯田濠」、東半分で千代田区の町は飯田町でした。ちなみに、町としての「飯田河岸」は昭和8年7月1日になくなっています

住宅地図。1970年

 もっと新しい文献で、新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では、まったく無視し、「神楽河岸」は載っていません。一方「新修新宿区町名誌」(平成22年)では再び町の扱いになりました。
 おそらく、神楽河岸は大正9年の牛込警察署の庁舎建築から確実に「町」になったのでしょう。以来「神楽坂」と同じように「神楽河岸」も「町」の1つです。あとは当時の公報で確認できればいいのですが。
 なお「新宿区町名誌」(昭和51年)のように完全に無視したのは、まずかったのです。

看護婦養成の苦心と賞牌

文学と神楽坂

 石黒いしぐろ忠悳ただのり氏の「懐旧九十年」(東京博文館、昭和11年。再録は岩波文庫、昭和58年)です。女の看病人をつけたらという発想から看護婦(現、看護師)が生まれ、また、日本赤十字社から今の国際的な開発協力事業が発生しました。
 氏は陸軍軍医。江戸の医学所に学び、西洋医学の移入、陸軍軍医制度や日本赤十字社の設立に尽くしました。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。97歳で死去。
 住所は牛込袋町26番地から明治13年、牛込区揚場町17番地に転居。

第5期 兵部省出仕より日清まで
  21 看護婦養成の苦心と賞牌
 我が国での看護婦の沿革を述べると、その始りともいうべきものは、維新の際、東北戦争の傷病者を神田かんだ和泉いずみばし病院へ収容した時です。この傷病者は官軍諸藩の武士ですからなかなか気が荒く、ややもすれば小使や看病人に茶碗や煙草タバコぼんを投げ付ける騒ぎが毎々のことで、当局ももて余し、一層のことにこれは女の看病人を附けたらよかろうというので、これを実行してみると案外の好成績を得たのです。
 その後、明治12, 3年頃海軍々医大監高木たかぎ兼寛かねひろ氏が、東京病院で看護婦養成を始めました。
 これが我が国看護婦養成の最初です。越えて明治19年、我が国の国際赤十字条約加入、日本赤十字社の創立となり、万国赤十字社に聯合すべき順序となりました.その結果、明治21年5月に篤志看護婦人会が組織せられ、有栖川ありすがわのみや熾仁たるひと親王董子ただこ殿下を総裁に推載し、鍋島侯爵夫人を会長と仰ぎました。これから看護婦養成事業がちょに就いて大いに発達して参ったのです。
 前にも述べた通り、私は最初陸軍々医方面に身を投じた際、自分の職分は兵隊の母たる重要任務であるとさとりました。さて、その兵隊の母として考えてみると、傷病者が重態になった時はこれを婦人の柔かき手で看護するのでなけれぱ親切な用意周到の看護は出来ない。ところが陸軍官軍では、看護婦を養成したり使用したりすることはまだ出来ない。そこで戦時に軍隊医事衛生の援助を主眼とする日本赤十字社においてこれを養成し、戦時にこれを使用することとし、世が進むと平時には重病者には看護婦を付けるようにするというのが、私の年来の計画であったのと、今一つには幸いにしてこの看護婦がその業務に熟達して来たならば、皇族におかせられてもぜひ看護婦を御使用ありたいというのが希望でした。また、そうなると皇族方の御看護をしたる手を以て傷病者の看護をさせることになる訳です。それで日本赤十字社の看護婦は看護は勿論、平素人格ということに注意しなくてはならぬという主張を持ったのです。
 そもそもやまいの治療に十の力を要するとすれば、医師の力が五、薬剤と食物が三、看護婦の力が二といったように三つの力が揃わなくてはならぬと思います。

 えき。(人民を徴発する意味から)戦争
賞牌 しょうはい。競技の入賞者などに賞として与える記章。メダル。
神田和泉橋 神田川に架かり昭和通りにある橋。
病院 明治元年、横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転、大病院と称していたが、明治10年、東京大学医学部附属病院と改称。
高木兼寛 鹿児島医学校に入学し、聖トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。臨床第一の英国医学を広め、脚気の原因について蛋白質を多く摂り、また麦飯がいいと判断。最終的には海軍軍医総監。東京慈恵会医科大学の創設者。生年は嘉永2年9月15日(1849年10月30日)。没年は大正9年(1920年)4月13日。
東京病院 明治14年、有志共立東京病院を設立。現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身。
日本赤十字社 明治10年(1877)の西南戦争時に、佐野さの常民つねたみ大給おぎゅうゆずるらが中心となり、傷病者救護を目的として組織した団体を「博愛社」と呼び、明治20年(1887)日本赤十字社と改称。
有栖川宮熾仁親王 江戸時代後期から明治時代の皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁たかひと親王の第1王子。反幕府・尊王攘夷派で、戊辰戦争では江戸城を無血開城。
董子 有栖川ありすがわの宮妃みやひ董子。有栖川宮熾仁親王の妃。博愛社(現、日本赤十字社)創設。10年間、東京慈恵医院幹事長。
鍋島侯爵夫人 鍋島なべしま榮子ながこ。イタリア公使であった侯爵鍋島直大とローマで結婚。明治20年、日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任。
緒に就く しょにつく。見通しがつく。いとぐちが開ける。

牛肉店『いろは』と木村荘平

文学と神楽坂

地元の方からです

 明治期に通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった牛肉店『いろは』について、このブログの記事を補完する目的で調べました。
『いろは』は今で言うチェーン店で、経営者は木村荘平でした。荘平は明治期に成功した経済人で、後に政治家になりました。彼の事業はヱビスビール(現・サッポロビール)や、都内の火葬場を取り仕切る東京博善として今に続いています。荘平は京都生まれ、家は三田にあり、必ずしも牛込と縁のあった人ではありません。
 明治37年12月22日、荘平は自らを代表社員とし、「牛馬魚料理および販売営業」を目的とした「いろは合資会社」を設立します。すでにある牛肉店を法人化したものです。官報告示の登記に以下が記されています。
   第十八支店 牛込区通寺町1番地
   金五百圓 有限(社員) 牛込区通寺町1番地 平林さわ
 荘平は愛人に店を経営させ、多くの子をなしたとされるので、そのひとりが牛込にいたのでしょう。
 では『第十八いろは』は、どこにあったのでしょうか。
 東京市及接続郡部地籍地図上卷(大正元年)の通寺町を見ると、左端に変則的な土地があり、「一ノ二」と読めます。「一ノ一」はありません。
「一ノ二」は、東京市及接続郡部地籍台帳 1によれば、わずか2.74坪です。とても建物の建つ広さには思えません。しかし、かつてはもう少し広かったのです。明治東京全図(明治9年)を見ると、肴町(現・神楽坂5丁目)に近い場所に三角形の通寺町1番地があります。

明治東京全図 明治9年(1876)

 ここが『第十八いろは』の場所でした。加能作次郎氏が「今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所」と書いていることとも符合します。
 土地が狭くなってしまったのは、明治の市区改正で現在の大久保通りが作られたためです。1番地の多くが、道路に変わってしまいました。
 明治37年の「風俗画報」新撰東京名所図会第41編(東陽堂)『第十八いろは』の写真は、現在の神楽坂5丁目から6丁目方向を撮影したものです。この写真は明治39年と説明がありますが、実際にはその2年以上の昔のようです。写真は左手から日が差して影を落としています。左の家並みの先、影のない場所が、明治26年に先行して「道幅八間」に拡幅した道と思われます。
 写真は奥に行くと通りの幅が狭くなっており、これも当時の地図に一致します。狭くなったあたりに屋台『手の字』があったでしょう。

第18いろは。明治39年は間違いで、正しくは明治37年。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 大久保通りの開通は明治40年ごろ。つまり写真のすぐ後に『第十八いろは』はなくなったと思われます。
『ここは牛込、神楽坂』第18号の「明治40年前後の記憶の地図」は、大久保通りを描いたために『いろは』の場所が分かりにくくなってしまったのでしょう。地図1
 経営者である木村荘平には『木村荘平君伝』(著者は松永敏太郎、錦蘭社、明治41年)という伝記があり、『第十八いろは』の写真もありますが不鮮明で見えません。
 この伝記によれば

世人はいろは四十八字に因み市内に四十八カ所の支店を設置せられるもくろみで命名されたるやに伝えているが、事実はさようではなくて君(荘平)はいろはの書を学び学をなすのはじめである。(中略)牛肉店の開始は畜産事業拡張の手始めである。深き意味ではないと言うていた。

とあります。
 荘平の死去は明治39年4月27日。「いろは合資会社」の代表には長男の木村荘蔵が就任しましたが、放漫経営で倒産に追い込まれたようです。
 また息子のひとり、木村荘八は思い出を記し、そこに第八支店(日本橋)のスケッチが残っています。

つゆのあとさき|永井荷風(3)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座で働く君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは出獄してまだ間がない「おじさん」です。そして「つゆのあとさき」はこれでおしまいです。

 君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通りすぎる女にからかう学生もいないのは、大方おおかた日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静なかいの音にまじって若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとににぎやかになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川こいしかわの家へ同居した当時の事をおもい出す。京子と二人で、岸のあかりのとどかない水の真中までボートをぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣いんしな生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前によこたわっている飯田橋いいだばしから市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。
 火取虫ひとりむしつぶてのように顔をかすめて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見納みおさめになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消失きえうせないように、く見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進寄すすみよろうとした。その時、影のようにふらふらと樹蔭こかげから現れ出た男にあやうく突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、
「や、君子さん。」
「おじさん。どうなすって。」と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受してうし天神てんじんしたかこっていた旦那だんなの事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といってある会社の株式係をしていたがつかい込みの悪事があらわれて懲役に行ったのである。その時分は結城ゆうきずくめった身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらし手拭地てぬぐいじ浴衣ゆかた兵児帯へこおびをしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。
見附 新見附でしょう
四番町 現在の四番町とは違います。九段北四丁目の北部です。近くに新見附橋があります。旧麹町区の新旧町名対照図 震災復興前後

旧麹町区の一部
電車 大正時代、電車といえば路線電車=チンチン電車のことです。
京子 君江の小学校の友達で、牛込の芸者になり、さらに、ある会社の株式係の川島金之助のめかけに。君江と京子と川島の三人で一夜を共にしたことも。しかし川島は横領の咎で収監。しかし、川島は仮釈放中か満期釈放で、自由の身になっていました。
小石川の家 小石川は小石川区です。家は小石川区諏訪町にあると後でわかります。
淫恣 いんし。みだらで、だらしがない。
活劇 劇の展開を思わせるような波乱。激しく派手な格闘。乱闘
市ヶ谷見附 市ヶ谷見附は江戸時代に江戸城の外堀に作られた枡形の城門ですが、その見附は今はなくなり、「市谷見附」交差点だけが残っています。
火取虫 夏、灯火に集まるヒトリガなどの蛾の類
 れき。小さい石。こいし。いしころ。つぶて。
牛込 牛込区、特に神楽坂を中心にする地域
牛天神下 後で「諏訪町で御厄介になっていた」と君江が言っています。「牛天神下」とは「牛天神=北野神社の下」という意味なのでしょう。
結城ずくめ 結城紬は茨城県結城市の周辺で織られる、奈良時代から続く高級絹織物。「ずくめ」は「そればかりだ」
洗ざらし 衣服などの、幾度も洗って、色は薄れる状態。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

「君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。」
「いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。」
「そうか。女給さんか。」
 話しながら歩いて行くうち、川島は木蔭こかげのベンチには若い男女の寄添っているほかには、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、「いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。」
「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」
「なるほど小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、あかるいところが神楽かぐらざかだな。そうすると、あすこが安藤阪あんどうざかで、の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似まねをしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たらあきらめをつけなくっちゃいけない。」
「ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。
定めし さだめし。あとに推量の語を伴って、おそらく。きっと。さぞかし。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
有合う ありあう。ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。
諏訪町 現在は文京区後楽二丁目の一部。

小石川区諏訪町

心づいて こころづく。心付く。気がつく。考えが回る。失っていた意識を取り返す。正気づく。
 「阪」のこざと偏から土偏に変えると「坂」になります。「阪」は「大阪」など地名・人名にしか使われていません。それ以外には「坂」を使います。

昭和17年(標準漢字表)
昭和21年(当用漢字表)
昭和23年(戸籍法)人名用漢字に阪は使えない
昭和56年(常用漢字表)
平成16年(常用漢字表)人名用漢字に阪は使える

安藤坂 春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。

安藤坂

 突然土手の下から汽車の響と共に石炭のけむりが向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなくたもとに顔をおおいながら立上った。川島もつづいて立上り、
「そろそろ出掛けよう。差閊さしつかえがなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。」
「市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正午おひる時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。」
「おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。」
 公園の小径こみち一筋ひとすじしかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程みちのりなので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車がとまっても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一歩一歩ひとあしひとあし市ヶ谷見附が近くなって来る。
「おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。」と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心さびしい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。
「さしつかえは無いのか。」
「いやなおじさんねえ。大丈夫よ。」
「間借をしているんだろう。」
「ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。」
「それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。」
 たもと。和服の袖の下の袋状の所。
市ヶ谷本村町 戦前の市ヶ谷本村町は、陸軍士官学校を除くと、小さかったようです。

大正11年 東京市牛込区

電車通 路面電車が通る道

 君江さんは「おじさん」と一緒に下宿の2階にやってきます。

「日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。」と咽喉のどの焼けるのをうるおすために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きくいきをしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔いんぽんだといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘きむすめらしい様子が残っていたのが、今ではほおからおとがいへかけて面長おもながの横顔がすっかり垢抜あかぬして、肩と頸筋くびすじとはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐ったもものあたりの肉づきはあくまで豊艶ゆたかになって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶ようやな趣が目につくようになった。この趣はたとえば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客けんかくの身体には如何いかにくつろいでいる時にもすきがないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。
「おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。」と君江は横坐りにひざを崩して窓の敷居に片肱かたひじをつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此方こなたから眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。
 君江はなかばをつぶってサムライ日本何とやらと、鼻唄はなうたをうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手酌てじゃくで一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。
     *     *     *     *

 何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーのびんはそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏隣うらどなりの時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見るとまくらもとに書簡箋しょかんせんが一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳出ひきだしに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、
 「何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出逢であいました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深切しんせつを嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。」
 君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた。
昭和六年辛未かのとひつじ三月九日病中起筆至五月念二夜半脱初稿荷風散人

淫奔 いんぽん。性関係にだらしのないこと。みだらなこと。
生娘 うぶな娘。男性との性体験のない娘。処女。
 おとがい。下あご。あご。下顎の正中部、下唇の下に、横走する溝をへだてて突出する部分。英語でchinと呼ぶ部分だが、日本語には「おとがい」という古びた言葉しかない。
垢抜け 洗練した。素敵に見せられるように外見を変化させること。
豊艶 ほうえん。ふくよかで美しい。
正業 せいぎょう。正当な職業。かたぎの職業。
妖冶 ようや。なまめかしくあでやかな。妖艷
平生 へいぜい。ごく普通の状態。状況の中で生活している時。ふだん。平素。
サムライ日本 昭和6年「サムライ日本」は西条八十が作詞、松平信作が作曲して、「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ/のびた月代寂しく撫でて/新納にいろうつる千代ちよ にがわらひ/昨日勤王 明日は佐幕/その日その日の出来ごころ/どうせおいらは裏切者よ/野暮な大小落し差し」と続きます。新納鶴千代は主人公で、大老井伊直弼の隠し子です。
思置く おもいおく。気にかける。あとに心を残す。思い残す。
念二 「念」は漢数字「廿」の大字だいじで、二十。したがって、「念二」は「22」になります。
夜半 よはん。よなか。0時の前後それぞれ30分間くらいを合わせた1時間くらい
 サイ。わず-か。わずかに。すこし。やっと。
散人 さんじん。役に立たない人。俗世間を離れて気ままに暮らす人。官途につかない人。閑人。文人などが雅号の下に添えて用いる語。散士。

つゆのあとさき|永井荷風(2)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。今回は「荷風全集第八巻」(岩波書店)から直接とりました。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人の矢さんを中心にしています。

「神樂。五十錢。」と矢田は君江の手を取つて、車に乗り、「阪の下で降りやう。それから少し歩かうぢやないか。」
「さうねえ。」
「今夜は何となく夜通し歩きたいやうな氣がするんだよ。」と矢田は腕をまはして輕く君江を抱き寄せると、君江は其のまゝ寄りかゝつて、何も彼も承知してゐながら、わざと、
「矢さん。一軆どこへ行くの。」ときいた。
 矢田の方でも隨分白ばツくれた女だとは思ひながら、其の經歴については何事も知らないので、表面は摺れてゐても、其の實案外それ程ではないのかと云ふ氣もするので、此の場合は女の仕向けるがまゝ至極おとなしい女給さんとして取扱つてゐれば聞違ひはないと、君江の耳元へ口を寄せて、
待合だよ。」と囁き聞かせ、「差しつかへはないだらう。今夜は晩いからね。僕の知つてる處がいいだらう。それとも君江さん。どこか知つてゐるなら、そこへ行かう。」
 思ひがけない矢田の仕返しに、流石の君江も返事に困り、「いゝえ。何處だつてかまはないわ。」
「ぢゃ、阪下で降りやう。尾澤カツフヱーの裏で、静な家を知つてゐるから。」
 君江はうなづいたまゝの外へ目を移したので、會話はなしはそのまゝ杜絶とだえる間もなく車は神樂阪の下に停つた。商店は殘らず戸を閉め、宵の中賑な露店も今は道端にや紙屑を散らして立去つた後、ふけ渡つた阪道には屋臺の飲食店がところ/”\に殘つてゐるばかり。酔つた人達のふら/\とよろめき歩む間を自動車の馳過る外には、藝者の姿が街をよこぎつて横町から横町へと出没するばかりである。毘沙門のの前あたりまで來て、矢田は立止つて、向側の路地口を眺め、
「たしかこの裏だ。君江さん。草履だらう。水溜りがあるぜ。」
 石を敷いた路地は、二人並んでは歩けない程せまいのを、矢田は今だに一人先に立つて行つたら君江に逃げられはせぬかと心配するらしく、ハメ板や肩先が觸るのもかまはず、身をにしながら並んで行くと、突當りに稻荷らしい小さなやしろがあつて、低い石垣の前で路地は十文字にわかれ、その一筋はすぐさま石段になつて降り行くあたりから、其時靜な下駄の音と共に褄を取つた藝者の姿が現れた。二人はいよ/\身を斜にして道を譲りながら、ふと見れば、乱れた島田のたぼに怪し氣な癖のついたのもかまはず、歩くのさへ退儀らしい女の様子。矢口は勿論の事。君江の目にも寐静つた路地裏の情景が一段艶しく、いかにも深け渡つた色町の夜らしく思ひなされて來たと見え、言合したやうに立止つて、その後姿を見送つた。それとも心づかぬ藝者は、稻荷の前から左手へ曲る角の待合の勝手口をあけて這入るが否や、疲れ果てた様子とは忽ち變つた威勢のいゝ聲で、「かアさん。もう間に合はなくつて。」
 君江は耳をすましながら、「矢さん。わたしも藝者にならうと思つたことがあるのよ。ほんとうなのよ。」
「さうか。君江さんが。」と矢田はいかにもびつくりしたらしく、其の事情わけをきかうとした時、早くも目指した待合の門口へ來た。内にはまだ人の氣勢けはひがしてゐたが、門の扉の閉めてあるのを、矢田は「おい/\」と呼びながら敲くと、すぐに硝子戸の音と、下駄をはく音がして、
「どなたさま。」と女の聲。
「僕。矢さんだよ。」
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
 坂と阪は異体字で、同じ意味の漢字です。通常では大阪などの特別な地名や人名では「阪」。それ以外には「坂」を使います。
しらばくれた 知らない振りをする。知っていながら知らないふりをする。
摺れる すれる。いろいろの経験をして、純粋な気持ちがなくなる。世間ずれがする。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
尾沢カフェー カフェー・オザワ。大東京繁昌記に詳しい。
 窓の旧字体。
賑な にぎやかな。富み栄えて繁盛する。にぎわう。
 あくた。腐ったりして捨てられているもの。ごみ。くず
ふけ渡つた 更け渡る。ふけわたる。夜がすっかりける。深夜になる。夜が深まる。
馳過る かけすぎる。はせすぎる。走って過ぎる。馬を急ぎ走らせて通る。またたく間に過ぎてしまう。
 ほこら。神を祭った小さなやしろ
向側の路地口 平松南氏によれば、ごくぼその路地です。
草履 ぞうり。歯がなく、底が平らで、鼻緒がある。

女物の草履

ハメ板 壁や天井に連続して張る板
 ひじ。肘。上腕と前腕とをつなぐ関節部の外側。
觸る さわる。軽くさわる。ふれる。
 ななめ。なのめ。傾いている。
稲荷 いなり。稲荷神社。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が総本社。
 やしろ。神の来臨するところ。神をまつる殿舎。神社。
路地は十文字に 地図は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)から取りました。ここで稲荷と四つ角を赤い四角()で、石段を赤丸()で表すと、行った待合は「松月」「よろづ」などになるでしょう。なお、赤丸()から、右につながる道は現在ありません。新しい道は左にできています(兵庫横丁は1960年代から

新宿区教育委員会「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

褄を取る つまをとる。すその長い着物の褄を手でつまみあげて歩く。芸者になる。左褄をとる。
 たぼ。日本髪の部分名で、後頭部から耳裏の部分

日本髪

寝静った ね-しずまる。夜がふけ、人々が寝入ってあたりが静かになる。
艶めかしい なまめかしい。姿やしぐさが色っぽい。あだっぽい。
思いなす 思い做す。心に受け取る。思い込む。推定して、それと決める。
言合す いいあわす。前もって話し合う。口をそろえて言う。同じことを言う。相談する
心づかぬ 心遣(こころづかい)とは「いろいろと、細かく気をつかうこと」。「心づかぬ」は反対語
忽ち たちまち。すぐ。即刻
敲く たたく。叩く。手や道具を用いて打つ。続けて、あるいは何度も打つ。

 君江はおぼえず口の端に微笑を浮べたのを、矢田は何事も知らないので、笑顏を見ると共に唯嬉しさのあまり、力一ぱい抱きしめて、
「君さん、よく承知してくれたねえ。僕は到底駄目だろうと思つて絶望していたんだよ。」
「そんな事ないわ。わたしだつて女ですもの。だけれど男の人はすぐ外の人に話をするから、それでわたし逃げてゐたのよ。」と君江は男の胸の上に抱かれたまゝ、羽織の下に片手を廻し、帶の掛けを抜いて引き出したので、薄い金紗捻れながら肩先から滑り落ちて、だんだら染長襦袢の胸もはだけた艶しさ。男はます/\激した調子になり、
「こう見えたつて、僕も信用が大事さ。誰にもしやべるもんかね。」
「カツフヱーは實に口がうるさいわねえ。人が何をしたつて餘計なお世話ぢやないの。」と言ひながら、端折りしごきを解き棄てひざの上に抱かれたまゝ身をそらすやうにして仰向あおむきに打倒れて、「みんな取つて頂戴、足袋もよ。」
 君江はかういう場合、初めて逢つた男に對しては、度々馴染を重ねた男に對する時よりも却って一倍の興味を覺え、思ふさま男を惱殺して見なければ、氣がすまなくなる。いつから斯う云う癖がついたのかと、君江は口説かれてゐる最中にも時々自分ながら心付いて、中途で止めやうと思ひながら、さうなると却て止められなくなるのである。美男子に對する時よりも、醜い老人や又は最初いやだと思つた男を相手にして、こういう場合に立到ると、君江は猶更烈はげしくいつもの癖が增長して、後になつて我ながら淺間しいと身顫ひする事も幾度だか知れない。
 この夜、平素氣障きざな奴だと思つてゐた矢田に迫まられて、君江は途中から急に其の言うがまゝになり出したのも、知らず/\いつもの惡い癖を出したまでの事である。
帯の掛け 帯掛。おびかけ。大名の奥女中などが使った帯留の一種。女性の帯の上を、おさえしめるひもで、両端に金具があってかみ合わせるようになっている
金紗 きんしゃ。紗の地に金糸などを織り込んで模様を表した絹織物。
 あわせ。裏地のついている衣服
捻る ねじる。捩る。捻る。拗る。細長いものの両端に力を加えて、互いに逆の方向に回す。ひねって回す。
だんだら染 だんだんぞめ。段だら染。布帛ふはくや糸を種々の色で横段に染めること
長襦袢 ながじゅばん。長着の下に重ねて着用する下着
艶しさ なまめかしい。艷めかしい。性的魅力を表現して、色っぽい。つやっぽい。
激する げきする。怒りなどで興奮する。いきりたつ。
端折り はしょり。着物のすそをはしょること。ある部分を省いて短く縮めること
しごき 志古貴。帯の下に巻いて斜め後ろに垂らす飾り帯
棄て すてる。捨てる。いらないか、価値がないものとして投げ出す。
馴染 なじみ。同じ遊女のもとに通いなれること。
却って かえって。予想とは反対になる。反対に。逆に。
口説く くどく。自分の意志に従わせようと、あれこれ言い迫る。こちらの意向を相手に承知してもらおうとして、熱心に説いたり頼んだりする。説得する
止める やめる。継続しているものを続かなくさせる。
立到る たちいたる。ある状態になる。とうとうそのような事態になる。
猶更 なおさら、いちだんと。ますます。
烈しい はげしい。烈い。激い。勢いが強い。あらあらしい。
身顫い みぶるい。寒さや恐ろしさなどのために体がふるえ動く
気障 服装、態度、言葉などが気取っていて、いやみ。

つゆのあとさき|永井荷風(1)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人のヤアさんを中心にしています。

 表梯子おもてばしごの方から蝶子ちょうこという三十越したでっぷりした大年増おおどしま拾円じゅうえん紙幣を手にして、「お会計を願います。」と帳場の前へ立ち、壁の鏡にうつる自分の姿を見て半襟はんえりを合せ直しながら、
「君江さん。二階にヤアさんがいてよ。行っておあげなさいよ。うるさいから。」
「さっき見掛けたけれど、わたしの番じゃないから降りて来たのよ。あの人、せん辰子たつこさんのパトロンだって、ほんとうなの。」
「そうよ。日活にっかつヨウさんに取られてしまったのよ。」とはなし出した時会計の女が伝票と剰銭つりせんとを出す。その時この店の持主池田何某なにがしという男に事務員の竹下というのが附きしたがい、コック場へ通う帳場のわきの戸口から出て来る姿が、酒場の鏡に映った。蝶子と君江とは挨拶あいさつするのが面倒なので、さっさと知らぬふりで二階の方へ行く。池田というのは五十年配の歯の出た貧相ひんそうな男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカッフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。
 表梯子から二階へ上った蝶子は壁際のボックスにすわっている二人連れの客のところへ剰銭を持って行き、君江は銀座通を見下みおろす窓際のテーブルを占めたヤアさんというお客の方へと歩みを運びながら、
「いらっしゃいまし。この頃はすっかりお見かぎりね。」
「そう先廻りをしちゃアずるいよ。先日はどうも、すっかり見せつけられまして。あんなひどい目にった事は御在ございません。」
ヤアさん。たまにゃア仕方がないことよ。」と愛嬌あいきょうを作って君江は膝頭ひざがしらの触れ合うほどに椅子を引寄せて男のそばに坐り、いかにも懇意らしく卓テーブルの上に置いてある敷島しきしまの袋から一本抜取って口にくわえた。
 ヤアさんというのは赤阪あかさか溜池ためいけの自動車輸入商会の支配人だという触込ふれこみで、一時ひとしきりは毎日のように女給のひまな昼過ぎを目掛けて遊びに来たばかりか、折々店員四、五人をつれて晩餐ばんさん振舞ふるまう。時々これ見よがしに芸者をつれて来る事もある。年は四十前後、二ツはめているダイヤの指環ゆびわを抜いて見せて、女たちに品質の鑑定法や相場などを長々と説明するというような、万事思切って歯の浮くような事をする男であるが、相応に金をつかうので女給れんは寄ってたかって下にも置かないようにしている。君江は既に二、三度芝居の切符を買ってもらったこともあるし、休暇時間に松屋へ行って羽織と半襟を買ってもらったこともあるので、この次どこかへ御飯ごはんでも食べに行こうと誘われれば、その先は何を言われても、そうすげなく振切ってしまうわけにも行かない位の義理合いにはなっている。それ故ヤアさんからひやかされたのを、なまじ胡麻化ごまかすよりもあからさまに打明けてしまった方が、結句面倒でなくてよいと思ったのである。
「とにかくうらやましかったな。罪なことをするやつだよ。」とテーブルの周囲に集っているおたみ、春江、定子さだこなど三、四人の女給へわざとらしく冗談に事寄せて、「お二人でおそろいのところをうしろからすっかり話をきいてしまったんだからな。人中なのに手も握っていた。」
「あら。まさか。そんなにいちゃいちゃしたければ芝居なんぞ見に行きゃアしないわ。わきへ行くわよ。」
「こいつ。ひどいぞ。」とヤアさんはつまねをするはずみにテーブルのふちにあったサイダアのびんを倒す。四、五人の女給は一度に声を揚げて椅子から飛び退き、長いたもとをかかえるばかりか、テーブルからゆかしたた飛沫とばしりをよける用心にとすそまでつまみ上げるものもある。君江は自分の事から起った騒ぎに拠所よんどころなく雑巾ぞうきんを持って来て袂の先を口にくわえながら、テーブルを拭いているうち、新しく上って来た二、三人連づれの客。いらっしゃいましと大年増の蝶子が出迎えて「番先ばんさきはどなた。」と客の注文をきくより先に当番の女給を呼ぶ金切声かなきりごえ。「君江さんでしょう。」と誰やらの返事に君江は雑巾を植木鉢の土の上に投付けて「はアい。」と言いながら、新来のお客の方へと小走りにかけて行った。
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
表梯子 表に面した方にある階段。玄関の近くにある梯子段。
大年増 年増の中でも年のいった中年の婦人。40歳ぐらいの婦人。今日では芸者などについていうことが多い。古くは娘盛りをかなり過ぎた年頃の女性で、30歳前後からいったか。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。
 せん。時間的に早い方。ある時点より前。最初
先廻り 相手より先に物事をしたり、考えたりすること。「先回りした言い方」
懇意 親しく交際している。仲よくつきあう
敷島 巻きたばこの銘柄。大蔵省専売局が明治37年6月29日から昭和18年12月下旬まで製造・販売していた。
赤阪溜池 赤坂溜池町。大きな溜池があったから。明治21年から昭和41年6月30日まで、港区赤坂一丁目1~5、9番の一部、二丁目1~5番。
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
思切って おもいきって。かたく心を決めて、大胆に。極端に。非常に。
歯の浮く 軽はずみで気障きざな言行を見たり聞いたりして、不快な気持になる。
羽織 和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
義理合い  義理にからんだつきあい。交際上の関係。
わき 目ざすものからずれた方向。よそ。横。すぐそば。かたわら。
 和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。
 衣服の下方のふち
拠所ない よんどころない。そうするよりしかたがない。やむをえない。
番先 先にする順番になる。また、その順番

 下記のあいりょうそう氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)で「つゆのあとさき」について昭和31年にこう書いています。

 昭和6年1月15日、短篇小説「紫陽花」を脱稿した先生は、中一週間置いて1月22日、この小説「つゆのあとさき」を起稿された。爾来熱心に執筆を続けられ、3月に入って感興著しく起り、執筆五更に至ると言う日が幾日も続いた。4月、世間はお花見気分に浮立ったが、依然家に引龍って執筆の日が多く「5月22日、遂に小説の稿を脱す、仮に夏の草と題す。」と「断腸亭日乗」に記載された。5月26日、小説「夏の草」を改めて「つゆのあとさき」と改題された。大正6年、新橋の花柳界を背景に芸者の風俗を描いた小説「腕くらべ」の名作を世に問い、江湖絶讃を博した先生は、今度は昭和の特異な産物女給の生態を描写しようと大正の末年頃から銀座のカフェータイガーに足繁く通い始めた。大正15年12月25日、改元されて昭和となったが、明けて昭和2年の正月、元旦から早々はやばやとタイガーの楼上に在り、「二更の後帰る」と日乗に記され、その熱心の程が窺われる。
 タイガーに行かれた帰りには、必ず四、五人の女給を連れて、しるこ屋、すし屋、小料理屋等で彼女等の御機嫌をとり結び、たわいのない馬鹿話に打興じながら、半面作家として犀利な観察眼を働かせ彼女等の生態を完膚なきまで研究し尽した。尤も此間いささ研究の度が過ぎてタイガーの女給お久と言う莫連ばくれんに引っ掛り、果ては偏奇館に坐り込まれ「女房にするか、財産を半分よこすか、二つに一つの返答しろ」と凄まれて、びっくり仰天、交番の巡査を頼んで鳥居坂警察の厄介となり、女は豚箱へ、先生は大眼玉を喰うと言う飛んだ余興の一幕を演じたこともあった。或る時、私は先生に小説のモデルに就いて伺ったことがあった。其時先生のお話では、「小説の主人公とするモデルには、決してI人の特定の人物は使わない。四人とか五人とか色々な人から各々その人の特徴を剔出して一つにまとめ一人の人間を創り上げる」とのことであった。「つゆのあとさき」の主人公女給君江も先生が永い年月としつきをかけて、大勢の女給の中から苦心惨憺、遂に一人の君江と言う意中の人物を創り上げたものと見える。この小説が昭和6年10月1日発行の「中央公論」第46年第10号に発表されるや、俄然、文壇注目の的となり、各方面に異常な反響を与えた。谷崎潤一郎氏は翌11月「改造」誌上に「永井荷風氏の近業」と題して「つゆのあとさき」に対する長い評論を掲載した。
爾来 じらい。それより後。それ以後
五更 ごこう。古代中国の時刻制度で、ほぼ午後七時から二時間ずつに区分した。五更は春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。
江湖 こうこ。川と湖。特に、揚子江と洞庭湖。世の中。世間。天下
絶讃 ぜっさん。絶賛。口をきわめてほめること。この上ない称賛。
カフェータイガー かつて銀座にあった飲食店。カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業。ライオンは品行が悪い女給はすぐクビにしていたため、タイガーはライオンをクビになった女給をどんどん雇用。
楼上 ろうじょう。高い建物の上。二階。階上
二更 にこう。昔の時間の単位で、五更の一つ。二更は大体午後9時から11時頃。
聊か いささか。ほんの少し。わずか。
莫連 主として女についていい、世間ずれしていて悪がしこいこと。すれっからし。ばくれんおんな。
偏奇館 麻布にあった永井荷風の住居。木造2階建ての洋館。大正9年から居住。昭和20年、東京大空襲で焼失。
鳥居坂警察 明治14年、麻布警察署として開設。明治43年、麻布鳥居坂警察署と改称。大正二年以降、麻布区は同署と霞町警察署(大正四年以降は麻布六本木警察署)の所轄に分割。
豚箱 俗称で、警察署の留置場を指す
剔出 てきしゅつ。ほじくり出す。あばき出す。
俄然 がぜん。にわかに。だしぬけに。突然に。
長い評論 これは「『つゆのあとさき』を読む」に変わっています。一部を抜粋します。
今度の「つゆのあとさき」にも、古めかしいところは可なり眼につく。否、文章の体裁、場面々々の変化配置の工合など、古いと云へば此れが一番古いかも知れない。たとへば篇中至る所に偶然の出會ひがあり、その出會ひを利用して筋を運んで行くやり方など、一と昔前の小説や戯曲に慣用された手段である。しかしそれにも拘はらず、その古い形式が題材の持つ近代的色彩と微妙なコントラストを成して、一種の風韻を添へてゐる。作者は表面緊張した素振りを現はさず、いかにも大儀さうに古めかしさうにかいてゐながら、その無愛想な筆の跡が最後迄辿って読んで行くと、女主人公の君江と云ふ女性があざやかに浮き上って来るのに気がつく。のみならず、こゝには夜の銀座を中心とする昭和時代の風俗史がある。震災後に於ける東京人の慌しく浅ましい生活の種々相がある。これはたしかに紅葉山人の世界でも為永春水の世界でもない。「腕くらべ」は作者の過去の業績の總決算に過ぎなかったが、「つゆのあとさき」は齢五十を越えてからの作者の飛躍を示してゐる。私は何よりも先づ我が敬愛する荷風先生の健在を喜びたい。
為永春水 ためながしゅんすい。江戸時代後期の戯作者。人情本で有名。生年は寛政2年。死亡は天保14年12月23日。享年54。

飯田橋交差点(写真)目白通り 昭和54年 ID 498-500, 12107-08, 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498-500, 12107-08, 12111は昭和54年3月に飯田橋交差点、飯田橋歩道橋、目白通り、外堀通り、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しています。資料名は「下宮比町交差点」で、地元ではそう呼ばれることが多かったようですが、正しい名称は「飯田橋交差点」です。また、 ID 12107はID 499と、ID 12108はID 500と、ID 12111はID 498とほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋に横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとりを◯◯て東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」。その下を左右に横切るように車が走るのは外濠通りです。左端に特徴的なカーブした歩道橋の階段が見えます。
 たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。奥には首都高速道路と橋脚があります。高速の直下は神田川ですが、昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。
 撮影位置は図のでしょう。

撮影位置(1978年下宮比町付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 499 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12107 飯田橋歩道橋

 ID 498より、やや左よりを撮影しています。歩道橋の横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとり◯◯◯で東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」の左に、交通信号機と、小さく「飯田橋」交差点名表示があります。道路標識としては(指定方向外進行禁止)(大型貨物自動車等通行止め)とおそらく(駐車禁止)と(区間内)があります。撮影位置は図のです。
 右奥に伸びる片側2車線の道は目白通り。左右は外濠通りです。手前に信号機と、歩道橋が影を落としているので撮影位置が分かります。
 歩道橋の下にある建物は左から「LADY」「焼肉」「肉」「歯科」「麻雀」「土井建材」「近畿日本ツーリスト」「(フィニッシュワークス)クール」「サワ◯◯」。歩道橋の上は「ビューティープラザ/レディ」「ステッカー/も/つくります」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」「(モリ)サワ」「M」。


新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 500 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12108 飯田橋歩道柵

 ID 498とほぼ同じ場所から、右よりを撮影しています。左で見切れているのが目白通り。左右に車が走るのは外濠通りです。右手前の車は信号待ちで、頭上にある歩道橋の影が映っています。撮影位置は図のオレンジです。
 歩道橋の地名表示は「外堀通り/新宿区下宮比町」、また手すりには「飯田橋/Iidabashi」の交差点名表示があります。写真の中央から右の大部分は神田川にかかる船河原橋で、歩道橋の少し奥は文京区になります。飯田橋は千代田区の地名ですが、この写真には写っていません。
 歩道橋の角に信号機と標識(指定方向外進行禁止)とおそらく標識(直進以外進行禁止)があり、これは中央分離帯でしょう。
 建物は「ばな」「万」「5階」「◯クト」ですが、遠くの袖看板は文字が小さくて確認できません。「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」は露出のせいで読みにくくなっています。

西五軒町(写真)東五軒町 令和4年 ID 17086-87

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17086とID 17087では、令和4年1月に西五軒町や東五軒町を撮影しました。資料名は「西五軒町6-12から南方面を望む」と「西五軒町6-19から南方面を望む」でした。ただ向かって左側は東五軒町です。ID 17086のENEOSは東五軒町4-12、ID 17087のセブンイレブンは東五軒町3-5です。ちなみに、右側は西五軒町6-12と西五軒町6-1です。撮影位置がわずかに西五軒町よりなので、この資料名になったのでしょう。
 また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14059ID 14060ID 14196です。
 遠く上向きの坂がありますが、東西2つある相生あいおいざかの西側の坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17086 西五軒町6-12から南方面を望む

西五軒町6-12と東五軒町4-12

西と東五軒町(令和4年)
  1. 横断歩道
  2. 電柱看板「株式会社 大川商店 64-◯ 東◯」
  3. (E)NEOS(共栄石油)
    営業時間 平 日 7:00-20:00
         土曜日 7:00-20:00
         日曜祭日8:00-18:00
    ◯ことなら◯ 大型リフトを備えた当店へ
    KeePer
    透明感の ある艶
    ご予約受付中!!
    レギュラー
  4. まわり道
    ◯工事の◯ 通行止
  5. 三角コーン
  6. (大型貨物自動車等通行止め)
  7. ご迷惑をおかけします
    水道管◯
    行っています
  8. マストクレリアン神楽坂(サービス付き高齢者向け住宅)
  9. 警備員や技術者など。
  10. (消火栓)(最高速度30キロ)
  11. 遠くに相生坂
  1. 横断歩道
  2. カーブミラー
  3. 西五軒町6
  4. (ハート株式会)社 新宿支店
    ハート株式(会社)新宿支(店)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17087 西五軒町6-19から南方面を望む

西五軒町6-12と東五軒町4-12

西と東五軒町(令和4年)
  1. SEVEN & i HOLDINGS 7i ATM 酒 たばこ(セブンイレブン 新宿東五軒町店)自転車 樹脂パレット 多数の掲示物やビラ
  2. 2階はマンション
  3. 電柱看板「H 八洋」
  4. 八洋 新宿営業所(容器入り飲料水製造業者)
  5. 横断歩道と標識 (横断歩道)
  6. カーブミラー
  7. トラック1台
  8. 八洋
  9. 遠くに相生坂
  1. 段差スロープ
  2. 歩行者用道路 牛込警察署 新宿区 道路
  3. (自転車及び歩行者専用)[自転車を除く] (指定方向外進行禁止)[自転車を除く 一方通行 (一方通行入口)]
  4. 駐車場
  5. 電柱看板「イシカワデンタルクリニック 一般〇〇 手前〇〇 西五軒町6−1」
  6. コイン P 時間貸 P  2,600 1,300 400
  7. マンション
  8. 横断歩道(横)
  9. 横断歩道(縦)T字路

メタノワール|筒井康隆

文学と神楽坂

筒井康隆

「メタノワール」は2012年に筒井康隆氏が「新潮」12月号に発表し、2014年には「繁栄の昭和」という本の短編になっています。
 メタノワールの「メタ」は「変化して」「超」「高次」の意味、「ノワール」(noir)はフランス語の「黒」からアメリカの映画用語となり、意味は犯罪映画(crime movie)やハードボイルド映画(hardboiled‐detective film)など。
 氏は小説家、劇作家、ホリプロ所属の俳優。兵庫県神戸市に在住。生年は1934年9月24日。
 この小説は作家兼俳優が映画を中継する小説で、最初の書き出しの部分では…

 実年齢よりもかなり若い役で出演しているらしい。もうほとんどのシーンは撮り終えてあとは数シーンを残すだけだ。遠くの窓からの陽光と間接的な照明でほの暗い廊下。秘書室の前を通りかかると室長の深田恭子が出てきて呼びとめ、科白通りに社長からの伝言を告げ、彼についての気がかりを洩らす。いささか悪がかったキャリア・ウーマンの雰囲気を出しているので、おれは少し驚いた。彼女とは十年以上前にアイドル映画で共演し、それ以来のつきあいである。
「深キョン。お前さんずいぶん芝居うまくなったなあ」思った通りのことをいささかの感慨を寵めて言うと彼女はああ、と何かを思い出すような様子で天井を見あげる。おれの口調が昔のことを思い出させるようなものであったらしい。「あれは『死者の学園祭』。わたしの映画初主演で十八歳のとき。先生は犯人役。それからも『富豪刑事』とか、先生とはいろいろ」
「先生はまずいよ」おれは背後を気にしながら言う。「今おれは役者だ」
「あら。制約があるのね」彼女は笑い、本来の科白に戻る。「とにかく一度社長室へ行ってあげて。なんだか、だいぶ落ち込んでいるみたいだから」
「はいはい」
 深田恭子と廊下で別れて、社長室へ行く前におれはいったん控室へ行き、煙草を一本喫う。控室というのは楽屋ではなく、会社の会議室だ。いや。会議室にもなるセットだ。社長室のシーンを撮るまでに廊下の深田恭子をあと二カッ卜撮るらしく、少し待たねばならない。」
かなり若い役 この時に深田恭子氏は30歳でした。あくまでも虚構の深田氏の話ですが…
深田恭子 女優。第21回ホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプリを受賞し芸能界入り。1999年、フジテレビ『鬼の棲家』でドラマ初主演。2000年8月に映画「死者の学園祭」で映画初主演。2005年、主演した筒井康隆原作の朝日放送ドラマ「富豪刑事」で神戸美和子役が当たり役となった。生年は昭和57年11月2日。
科白 せりふ。俳優が劇中で話す言葉。かはく。舞台における俳優のしぐさや、せりふ。
おれ 筒井康隆氏は2012年で77歳。ただし、虚構の筒井氏の話です。
死者の学園祭 赤川次郎の小説。2000年8月、深田恭子の初映画主演作品。
富豪刑事 筒井康隆の小説。2005年、朝日放送のドラマ。

「どう。今夜はスタッフ連中、明日の北村総ちゃんと裏社会の連中同士がからむシーンの準備でロケ現場へ行ってしまって、わたしゃ用なしになるから、晩飯を一緒に食いに行かない」
 この監督が晩飯を食うというなら、行く先はわかっている。「また『梅が枝』ですね」神楽坂にある寿司屋だ。
「そうだけど」
 台所へ行き、立ち話をしている宮崎美子と本物の妻のふたりの妻に、夕食はいらないと言い、おれはまたロケバスで監督と神楽坂に向かう。
 まだ早いので「梅が枝」は空いていた。男三人でやっている六坪ほどの店だ。顔馴染みの板長と向かい合い、おれたちはカウンターに掛ける。焼酎をロックでちびちびやりながら次つぎと寿司をつまみ、おれと監督は今度の映画について話しあった。いつも他のスタッフや役者だちと一緒だったから、ふたりきりで話すのはこれが初めてだ。
「やはり役者として扱ってほしいんですよ、ぼくは」と、少し酔ってきたままでおれは言った。「こいつは作家だから演技は下手な筈だと決めてかかって、学芸会の指導みたいなことをする監督がいるけど、あれはやる気をなくしますなあ。突っ込んだ芝居もやらせて貰えない。その点あなたは信頼してくれているから安心だ」
「いやいや。今度のこの映画は、あんたが一枚かんでくれているから助かってるんだよ。ただ無茶苦茶なだけの映画じゃないんだとわかってくれている役者もいなけりゃね」監督はいい演技をした時の役者を見るような細い眼をした。「あんたのお蔭で、不思議なことにこんな映画ながら、スタイルが整いはじめた」
「いやいや。それはやっぱり監督がメタフィクションの何たるかを心得ているからでしょう。文学のわかる監督はたくさんいるけど、ここまで前衛的になれる人は少ないから」おれはちょっと笑った。「滅茶苦茶だという評価も当然、あるだろうけど」
「すみません」店の隅で声がしたので振り向くと撮影助手だった。「フィルムの交換をしたいんですけど」
「えーっ。こんなとこまで撮ってるの。なんだか板長さんがいつになく緊張してるなと思ってたら」おれはちょっと非難の眼で監督を見た。

北村総 北村総一朗。俳優。1961年、文学座の研究生。生年は1935年9月25日。2012年では77歳。
梅が枝 「梅が枝」という寿司屋はありません。やはり料亭「松ヶ枝」でしょう。創業は明治38年。平成2年(1990)頃まで営業し、平成4年以前に駐車場になり、平成14年、マンションになりました。なお「寿し作」も《いい常連客がついていた店であり、「梅が枝」と呼んだと見る方が洒落ている》と、地元の方。
宮崎美子 女優、タレント、「週刊朝日」1980年1月25日号の表紙を飾り、ミノルタカメラのTVCMで一躍有名に。生年は1958年12月11日。2012年では53歳。
メタフィクション フィクション(fiction)とは小説のことで、メタフィクションとはある小説(A)が同じ小説(A)に言及する小説のこと。「虚構の世界」に、読者や筆者がいる「現実の世界」を巻き込んで展開する。

新見附付近|山内義雄随筆集

文学と神楽坂

山内義雄

 山内やまのうち義雄氏は東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏語科を卒業し、京都帝国大学に入学し、上田敏に師事。フランスの劇作家で外交官のポール・クローデル大使が来日することを知り、東京帝国大学仏文科専科に転身。大正12年、東京帝国大学を退学。昭和2年、早稲田大学に転じ、13年、教授。昭和39年、退職まで後進の育成に力を注いだ。生年は1894年3月22日、没年は1973年12月17日、死亡は79歳。

新見附付近

「新見附」というのは電車の停留所ができてからの名前で、むかしはべつに何とも呼んでいなかった。牛込見附と市谷見附のあいだに新しくできたから新見附。濠をへだてた向うが麹町。こちら側が市谷田町。いわゆる新見附からはいる細い往来をへだてて田町二丁目三丁目にわかれていた。今も変っていないだろう。わたしは、その二丁目で生まれ、そして育った。
 新見附から市谷見附寄り、ちょうど砂土原町から北町へぬけるひろい道路の角までが二丁目の表通りで、その二丁目のへ向かって、けん間口まぐちもあろうかと思われる山の手きっての老舗「あまざけ屋」という呉服屋があった。広重の描いた日本橋三越の前身越後屋そっくり店がまえで、名前入りの紺のれん、、、をずらりとつらねたうしろが、一めん畳敷き、もうせんを敷きつめた店になっていた。行きずりの客は、上りかまちに腰をおろして用を足したが、常とくい、、、の客ともなると、店にあがり、番頭から茶菓子や煙草盆の接待をうけながら、正面の蔵の戸口から丁稚でっちのはこびだしてくる呉服物をあれやこれやと品さだめしたものだった。その情景を今もはっきりおぼえているから、おそらく明治の末ごろまでそのままだったろう。
 ところで、あまざけ屋の地所は、濠に面した表通りから裏通りまでぬけていた。そして、わたしの家は、その裏通り一つをへだてて、あまざけ屋の蔵のひとつと向いあっていた。裏通りには、八百屋、足袋屋、茶屋、お仕立物所といった町家まちやがならんでいたが、わたしの家は一段高く石垣をきずき、前に庭をひかえた奥まった構えて、その裏通りでのたった一軒、「官員さん」の家といった感じだった。その庭には、空が見えないほど庭一ぱいにひろがっている見事なしだれ、、、の老木があった。花どきには、それがいつもすばらしい花をつけた。そして、道行く人が、思わずその匂に上を見あげたものだった。それほど人の心にゆとりのある、いい時代でもあったわけだ。二階にあがると、あまざけ屋の蔵や人家の屋根を越して、濠の向うの土手が見わたされた。
 ところが、その田町二丁目の家も、たしか大正の終りごろに売ってしまった。「赤字になりかけたら、へんな見栄なんか棄てて、まず家蔵を売ってしまえ」という、父の遺言を実行してのことだった。
電車の停留所 路面電車の停留所のことです。実は「逢坂下」停留所もありましたが、昭和15年になくなっています

大正11年の路面電車

 ほり。城を取り囲む堀。水がある
麹町 東京都千代田区の地名。以前は旧東京市35区の麹町区。1947年神田区と合併、千代田区となった。
往来 人や乗り物が行き来する道。道路。街道
10間 約18メーメル
間口 まぐち。家屋や地所などの前方に面している部分の幅。正面の幅。表口。
きって 場所・グループを表す名詞に付いて、その範囲の中で最もすぐれていることを表す。…の中でいちばん。
そっくり 歌川広重『名所江戸百景』の「するかてふ」(するちょう)です。道の両側に並ぶ店は呉服屋三井越後屋でした。

名所江戸百景「するかてふ」の一部

店がまえ みせ構え。店の構え方。店の造作。店の大きさや規模。越後屋に似ていると書いてあるので、あまざけ屋は下図で右端の店舗でしょう。

緋もうせん 緋毛氈。緋色の和風カーペットで、敷物や、書画をかく場合の下敷きなど。
上り枢 玄関の上り口に縁にわたしてある化粧横木。

丁稚 職人・商家などに年季奉公をする少年。雑用や使い走りをしていました。
わたしの家 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏「大正期の牛込在住文筆家小伝」を調べると、大正11~13年の山内義雄氏の住所は市谷田町二丁目24番地でした。現在はカトリック・イエズス会の援助修道院修練院が建っています。

官員 かんいん。官吏。役人。明治時代、現在の公務員にあたる用語。
しだれ梅 枝垂れ梅。枝が柳のように優雅にしだれ、淡いピンク色の花が咲く。

花どき 2月初旬~中旬です。

 これを書こうと思って、久しぶりで田町二丁目の旧居のあたりを訪ねてみたところ、かつてのわたしの地所のあったところに、カトリック煉獄修道会の堂々たる建物がたっている。これはいい。パチンコ屋かナイト・クラブにでもなっていたら、とんだ親不孝をするところだった。子供のころ、町っ子どものガキ大将になってその境内を荒しまわった愛敬あいきょう稲荷も、ほんの形ばかりではあるが残っていた。そのすぐ先、北町への広い道路から向うが一丁目だが、そのとっつきのちょっとダラダラ上りの石だたみの路次の奥に、ロシヤ文学の昇曙夢さんの家があり、さらに先へ行って御納戸おなんどをおりきった角に英文学の馬場孤蝶先生の二階家があった。美しいひげ、、をたくわえ、ヴァロットンの描いたフランスの詩人アルベール・サマンそっくりの先生だった。わたしは、この先生から、壱岐いきざか教会の文芸講演会で、はじめてアナトール・フランスの面白さを教えられた。話のうまい先生だった。
 ところで新見附界隈、わたしの住んでいたころのおもかげはまったくなくなってしまっている。あまざけ屋もすがたを消し、そのそばにあった有名な雇人口入所えびや、、、もなくなり、父の気に入りの「箱鶴はこつる」という指物師の家も、「くに」という出入り人力車くるま宿やどもなくなってしまっている。そして、今ではまぼろし、、、、の田町二丁目に、たった一軒、新見附の角の「こばやし」というそばや、、、だけがのこっている。
「色食は人の性なり」、色のほうには縁のないヤボな田町二丁目だったが、この1軒のそばやの存在だけが、「食」の強さをほこっているといった感じだ。
(一九六七・二)

カトリック煉獄修道会 現在はカトリック・イエズス会の援助修道院修練院です。しかし、戦前の地図と戦後を比べると、変化が巨大でした。昔の「市谷田町二丁目24番地」は全く見えません。おそらく25番地にのまれたのでしょう。なお、「こばやし」の住所は赤で書いておきました。注:現在の援助修道会の場所は新宿区市谷田町2-24でした。

昭和43年 市谷田町二丁目

愛嬌稲荷 「市ヶ谷牛込絵図」(1857年)では巨大な「愛嬌稲荷社」が出ています。同じ頃「御府内沿革図書」の「当時之形」(1852年頃)では「教蔵院」になっています。以降は教蔵院です。愛嬌稲荷は教蔵院の鎮守社でした(新撰東京名所図会の市谷田町2丁目)。
とっつき 取っ付き。最初。手初め。
昇曙夢 のぼり しょむ。ロシア文学者。明治36年、ニコライ正教神学校卒業。神学校講師、陸軍士官学校教授、早大、日大などの講師を歴任。生年は明治11年7月17日。没年は昭和33年11月22日。80歳。新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏「大正期の牛込在住文筆家小伝」を調べると、明治42年2月から明治43年2月まで、氏の住所は市谷田町二丁目39番地でした。
御納戸坂 現在は「牛込中央通り」です。
馬場孤蝶 ばば こちょう。英文学者。翻訳家。同じ文献で、明治42年2月から大正7年1月まで、氏の住所は市谷田町二丁目1番地でした。
ヴァロットン Félix Edouard Vallotton。フェリックス・バロットン。フランスの画家、版画家。スイスのローザンヌ生れ。ナビ派に参加。木版画にもすぐれていました。生年は1865年2月28日、没年は1925年12日29日。
アルベール・サマン Albert Samain。フランス・フランドル出身の世紀末期の詩人で「秋と黄昏たそがれの詩人」と呼ばれました。生年は1858。没年は1900年。
壱岐坂教会 現在は日本基督教団本郷中央教会です。
アナトール・フランス Anatole France。フランスの作家。格調のある文体と皮肉や風刺が特色。生年は1844年4月16日にパリで生まれ、没年は1924年10月12日。
雇人 やといにん。人に雇われて働く人。使用人。
口入所 くちいれどころ。奉公人などを周旋する家。
指物師 さしものし。たんす、長持、机、箱火鉢など木工品の専門職人。
出入り でいり、ではいり。その家を得意先としてよく出はいりすること
人力車宿 くるまやど。車宿で客の依頼を待つ人力車か車夫。

夏すがた|永井荷風(1)

文学と神楽坂

永井荷風 永井荷風氏の「夏すがた」です。書き下ろし小説で、大正4年に籾山書店で出版され、戦前には風俗紊乱の罪で発禁となりました。これは永井荷風選集第1巻の「夏すがた」(東都書房、1956)からです。

 日頃(ひごろ)懇意(こんい)仲買(なかがひ)にすゝめられて()はゞ義理(ぎり)づく半口(はんくち)()つた地所(ぢしよ)賣買(ばいばい)意外(いぐわい)大當(おほあた)り、慶三(けいざう)はその(もうけ)半分(はんぶん)手堅(てがた)會社(くわいしや)株券(かぶけん)()ひ、(のこ)半分(はんぶん)馴染(なじみ)藝者(げいしや)()かした
 慶三(けいざう)(ふる)くから小川町(をがわまち)へん()()られた唐物屋(たうぶつや)の二代目(だいめ)主人(しゆじん)(とし)はもう四十に(ちか)い。商業(しやうげふ)學校(がくかう)出身(しゆつしん)(ちゝ)()きてゐた時分(じぶん)には(うち)にばかり()るよりも(すこ)しは世間(せけん)()るが肝腎(かんじん)と一()横濱(よこはま)外國(ぐわいこく)商館(しやうくわん)月給(げつきふ)多寡(たくわ)()はず實地(じつち)見習(みならひ)にと使(つか)はれてゐた(こと)もある。そのせいか(いま)だに處嫌(ところきら)はず西洋料理(せいようれうり)(つう)振廻(ふりまわ)し、二言目(ことめ)には英語(えいご)會話(くわいわ)(はな)にかけるハイカラであるが、(さけ)もさしては()まず、(あそ)びも(おほ)()景氣(けいき)よく(さわ)ぐよりは、こつそり一人(ひとり)不見點(みずてん)()ひでもする(ほう)結句(けつく)物費(ものい)(すくな)世間(せけん)體裁(ていさい)もよいと()流義(りうぎ)萬事(ばんじ)(はなは)抜目(ぬけめ)のない當世風(たうせいふう)(をとこ)であつた。
 されば藝者げいしやかしてめかけにするといふのも、慶三けいざう自分じぶんをんな見掛みかけこそ二十一二のハイカラふうつているが、じつはもう二十四五の年増としまで、三四も「わけ」でかせいでゐることつてゐるところから、さしたる借金しやくきんがあるといふでもあるまい。それゆゑあそ度々たび/\玉祝儀ぎよくしうぎ待合まちあひ席料せきれうから盆暮ぼんくれ物入ものいりまでを算盤そろばんにかけてて、このさき何箇月間なんかげつかん勘定かんぢやうを一支拂しはらふと見れば、まづ月幾分つきいくぶ利金りきんてるくらゐのものでたいしたそんはあるまいと立派りつぱにバランスをつてうへ、さて表立おもてだつての落籍らくせきなぞは世間せけんきこえをはばかるからと待合まちあひ内儀おかみにも極内ごくないで、萬事ばんじ當人たうにん同志どうし對談たいだんに、物入ものいりなしの親元おやもと身受みうけはなしをつけたのであった。
 そこで慶三けいざう買馴染かひなじみ藝者げいしや、その千代香ちよか女學生ちよがくせい看護婦かんごふ引越ひつこし同様どうやうやなぎ行李がうり風呂ふろしきづつみ、それに鏡臺きやうだい1つを人力じんりきませ、多年たねんかせいでゐた下谷したやばけ横町よこちやうから一まづ小石川こいしかは餌差ゑさしまちへん親元おやもと立退たちのく。あし午後ひるすぎの二をばまへからの約束やくそくどほりり、富坂とみざかした春日町かすがまち電車でんしや乗換場のりかへば慶三けいさう待合まちあはせ、早速さつそく二人ひたりして妾宅せふたくをさがしてあるくというはこびになった。
仲買 問屋と小売商の、あるいは生産者・荷主と問屋の間で仲立ちをして営利をはかる業
義理づく どこまでも義理を立て通す。道理を尽くす。筋を通す。
半口 企てや出資の分担の半人分。
引かされる 雑学・廓では芸者を廃業することを「引く」。やめさせるのは「引かす」、やめさせられるのが「引かされる」。芸者の籍を抜くことを「落籍す」と書き「ひかす」と読む。
小川町 千代田区神田小川町。書籍、スポーツ用品店、楽器店、飲食店等の商業施設や出版関係、大学・専門学校等の教育機関などが集積中
唐物屋 からものや。とうぶつや。中国からの輸入品を売買していた店や商人。19世紀後半からは、西洋小間物店
商業学校 1887年(明治20年)10月、東京高等商業学校が設立。一橋大学の前身
ハイカラ (洋行帰りの人がたけの高いえりを着用したため)西洋風で目新しいこと。欧米風や都会風を気取ったり、追求したりする人。
大一座 おおいちざ。多人数の集まり
不見転 みずてん。芸者などが、相手を選ばず、金をくれる人ならだれとでも情を通ずること
結句 結局。挙句に。
物費り ものいり。消耗品費や雑費
 わけ。訳。芸娼妓などが、そのかせぎ高を抱え主と半々に分けること
玉祝儀 玉代。ぎょくだい。花代。芸者や娼妓などを呼んで遊ぶための代金。
物入 ものいり。出費がかさむこと。
利金 利息の金銭。利益となった金銭。もうけた金
落籍 らくせき。身代金を払って芸者などをやめさせ、籍から名前を抜くこと。身請け。
柳行李 やなぎごうり。コリヤナギの、皮をはいだ枝を編んで作った行李こうり。衣類などを入れるのに用いる。行李は衣類などを納める直方体の入れ物。

柳行李

人力 人力車のこと
お化横丁 おばけ横丁。春日通りの南側に並行する裏路地の飲み屋街。住所は文京区湯島3丁目。かつて芸者の置き屋が数多くあり、化粧をしていない従業員が化粧で化けて出ていったから
餌差町 えさしちょう。現在は文京区小石川一・二丁目
富坂 文京区春日一丁目と小石川二丁目の間。春日通りの後楽園(富坂下)交差点から富坂上交差点まで
春日町 春日一丁目と春日二丁目
妾宅 しょうたく。めかけを住まわせておく家

 二人ふたり大曲おおまがり電車でんしゃり、江戸川えどがはばたからあしほう横町よこちやうへとぶら/\まが つてつたが、するうちにいつか築土つくど明神みやうじんしたひろとほりた。鳥居とりゐまえ電車でんしやみちよこぎるとむかうのほそ横町よこちやうかど待合まちあひあかりが三ツも四ツも一たばになつてつているのがえて、へん立並たちならんだあたらしい二階家かいや様子やうす。どうやら頃合ころあひ妾宅せふたくきの貸家かしやがありそうにおもわれた。土地とち藝者げいしや浴衣ゆかたかさねた素袷すあはせ袢纏はんてん引掛ひつかけてぶら/\あるいている。なかには島田しまだがつくりさせ細帶ほそおびのまゝで小走こばしりくものもある。箱屋はこやらしいをとことほる。稽古けいこ味線みせんきこえる。たがひに手を引合ひきあつた二人ふたり自然しぜんひろ表通おもてどほりよりもこの横町よこちやうはうあゆみをうつしたが、するとべつ相談さうだんをきめたわけでもないのに、二人ふたりとも、いま熱心ねつしんにあたりの貸家かしやふだをつけはじめた。
 神樂坂(かぐらざか)大通(おほどほり)(はさ)んで()左右(さいう)幾筋(いくすぢ)となく入亂(いりみだ)れてゐる横町(よこちやう)といふ横町(よこちやう)路地(ろぢ)といふ路地(ろぢ)をば大方(おほから)(ある)(まは)つてしまつたので、二人(ふたり)(あし)(うら)(いた)くなるほどくたぶれた。(しか)しそのかひあつて、毘沙門(びしやもんさま)裏門前(うらもんまへ)から奧深(おくふか)(まが)つて()横町(よこちやう)()ある片側(かたかは)(あた)つて、()入口(いりぐち)左右(さいう)から建込(たてこ)待合(まちあひ)竹垣(たけがき)にかくされた()(しづか)人目(ひとめ)にかゝらぬ路地(ろぢ)突當(つきあた)に、(あつらへ)(むき)の二階家(かいや)をさがし()てた。おもて戸袋とぶくろななめつた貸家かしやふだ書出かきだしで差配さはいはすぐ筋向すぢむかう待合まちあひ松風まつかぜれているところから、その小女こをんな案内あんないちの間取まどりるやいなやすぐ手付金てつけきんいた。とき千代香ちよか便所はゞかりりにと松風まつかぜ座敷ざしきあがつたが、すると二人ふたりつかれきってゐるので、もう何処どこへも元氣げんきがなくそのままこの松風まつかぜおくかい蒲團ふとんいてもらうことにした。

大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 ばた。そのものの端の部分やその近辺の意味
築土明神 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(牛込警察署「牛込警察署の歩み」(牛込警察署、1976年))

広い通 大久保通りです。
電車道 路面電車です。戦前の系統➂は、新宿と万世橋を結びました。
頃合 ころあい。ちょうどよい程度。似つかわしいほど。てごろ。
素袷 下に肌着類を着けないで、あわせだけを着ること。袷とは裏地のついている衣服。
袢纏 半纏。長着の上にはおる衣服。羽織に似ているがまち(袴の内股や羽織の脇間などに入れる布)も胸紐むなひももなく、えりも折り返らない。
島田 島田まげ。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
がっくり 折れるように、いきなり首が前に傾くさまを表わす語
細帯 帯幅が11~13㎝の帶。普通の帯幅の半分の半幅帯よりもさらに細い
箱屋 箱に入れた三味線を持ち、芸者の共をする者
貸家札 貸家であることを表示する札。多くは斜めに貼る。

美章園の貸家札(西山夘三撮影) https://www.osaka-angenet.jp/ange/ange94/260000604

路地の突き当たり 「突き当たり」とは「道や廊下などの行きづまった場所」。戦前の地図としては「古老の記憶による震災前の形」(新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年)があります。考えられる場所では5つです。

古老の記憶による震災前の形」(新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年)矢印は土地の高低を表す

戸袋 雨戸や引き戸を複数枚収納しておく場所
差配 所有主にかわって貸家・貸地などを管理すること
間取 家の中の部屋のとり方。部屋の配置。
奥二階 表二階とは表通りに面した二階座敷。奥二階は表通りに面しない二階座敷。

夏すがた|永井荷風(2)

 二十ねん此方このかたないあつさだというおそろしいあつがこのうへもなく慶三けいぞうよろこばばした理由りいうは、お千代ちよ裸躰らたいあはせてお千代ちよ妾宅せふたく周圍しうゐ情景じやうけいであつた。
 神樂坂上かぐらざかうへ横町よこちやうは、地盤ちばん全軆ぜんたいさがになつてゐるので、妾宅せふたくの二かいからそとると、大抵たいてい待合まちあひ藝者げいしやになつている貸家かしやがだん/\にひくく、はこでもかさねたように建込たてこんでゐて、裏側うらがは此方こなたけてゐる。なつにならないうちは一かうかずにゐたので、此頃このごろあつさにいづこのいへまどはず、勝手かつて戸口とぐちはず、いさゝかでもかぜ這入はいりさうなところみなけられるだけはなつてあるので、よるになつて燈火あかりがつくと、島田しまだかげ障子しやうじにうつるくらゐことではない。藝者げいしや兩肌もろはだ化粧けしやうしてゐるところや、おきやくさわいでゐる有樣ありさままでが、垣根かきね板塀いたべいあるい植込うゑこみあひだすがして圓見得まるみえ見通みとほされる。或晩あるばん慶三けいぞう或晩あるばんそよとのかぜさへないあつさに二かい電燈でんとうしておもて緣側えんがは勿論もちろんうら下地窓したぢまどをも明放あけはなちお千代ちよ蚊帳かやなかてゐたときとなりいへ――それは幾代いくよといふ待合まちあひになつてゐる二かい座敷さしき話聲はなしごゑるやうにきこえてるのに、ふとみみかたむけた。兩方りやうはううへ狭間ひあはいかよかぜなんともへないほどすゞしいのでとなりの二かいでも裏窓うらまど障子しやうじはなつてゐるにちがひない。喃々なん/\してつゞ話声はなしごゑうち突然とつぜん
「あなた、それぢや屹度きつとよくつて。屹度きつとつて頂戴ちやうだいよ。約束やくそくしたのよ。」
といふをんなこゑ一際ひときはつよくはつきりきこえて、それを快諾くわいだくしたらしいをとここゑとつゞいて如何いかにもうれしさうな二人ふたり笑聲わらひごゑがした。お千代ちよ先刻せんこくからくともなしにみゝをすましてゐたとえ、突然いきなり慶三けいぞう横腹よこはらかるいて、
「どうもおやすくないのね。」
馬鹿ばかにしてやがるなア。」
待合 男女の密会や、芸妓と客との遊興のため、席を貸す家
勝手 かって。台所。「勝手道具」
両肌を抜ぐ 衣の上半身全部を脱いで、両肌を現す
円見得 丸見え。見られたくないものなども全部見える
そよ (多く「と」を伴って)しずかに風の吹く音。物が触れあってたてるかすかな音。
縁側 和風住宅で、座敷の外部に面した側につける板敷きの部分。雨戸・ガラス戸などの内側に設けるものを縁側、外側に設けるものを濡れ縁という。
下地窓 したじまど。壁の一部を塗り残し、下地の木舞こまい(壁の下地で、縦横に組んだ竹や細木)を見せた窓。茶室に多く用いられる。

狭間 ざま。はざま。すきま。せまいあいだ。ひま。
ひあはひ ひあわい。廂間。ひさしが両方から突き出ている場所。家と家との間の小路。
喃々と 「喃」はしゃべる音。小声でいつまでもしゃべっている

 慶三けいぞうはどんな藝者げいしやとおきやくだかえるものならてやらうと、何心なにごころなく立上たちあがつてまどそとかほすと、はなさきとなり裏窓うらまど目隠めかくし突出つきでてゐたが、此方こちら真暗まつくらむかうにはあかりがついてゐるので、目隠めかくしいた拇指おやゆびほどのおおきさの節穴ふしあな丁度ちやうど二ツあいてゐるのがよくつた。慶三けいぞうはこれ屈強くつきやうと、覗機關のぞきからくりでもるように片目かため押當おしあてたが、するとたちまこゑてるほどにびつくりして慌忙あわてゝくちおほひ、
「お千代ちよ/\大變たいへんだぜ。鳥渡ちよつとろ。」
四邊あたりはゞか小声こごゑに、お千代ちよ何事なにごとかとをしえられた目隠めがくし節穴ふしあなからおなじやうに片目かためをつぶつてとなりの二かいのぞいた。
 となりはなしごゑ先刻さつきからぱつたりと途絶とだえたまゝいまひとなきごとしんとしてゐるのである。お千代ちよしばらのぞいてゐたが次第しだい息使いきづかせはしくむねをはずませてて、
「あなた。つみだからもうしましようよ。」
まゝだまつて隙見すきみをするのはもうどくたまらないといふやうに、そつと慶三けいぞういたが、慶三けいぞうはもうそんなことにはみゝをもさず節穴ふしあなへぴつたりかほ押當おしあてたまゝいきこらして身動みうごき一ツしない。お千代ちよ仕方しかたなしに一ツの節穴ふしあなふたゝかほ押付おしつけたが、兎角とかくするうち慶三けいぞうもお千代ちよ何方どつちからがすともれず、二人ふたり真暗まつくらなかたがひをさぐりふかとおもふと、相方そうはうともに狂氣きやうきのように猛烈まうれつちから抱合だきあつた。
 かくのごと慶三けいぞうはわが妾宅せふたくうちのみならず、周圍しうゐたいなつのありさまから、えずいままでおぼえたことのない刺戟しげきけるのであつた。

何心なく 何の深い意図・配慮もない。なにげない。
目隠 布などで目をおおって見えないようにする事。おおうもの。
屈強 頑強で人に屈しない。
覗機関 のぞきからくり。のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
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隙見 透見。すきみ。物のすきまからのぞき見る。のぞきみ。

 下記の相磯凌霜氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)では「夏すがた」の発売禁止について昭和31年にこう書いています。

 「夏すがた」は大正三年八月に書下ろされたもので、翌四年一月籾山もみやま書店から発行されたが、直ちに発売禁止の憂目にあってしまった。猥雑淫卑な今の出版物に比べて、いったい何処がいけないのか、どうして発売禁止になったのか、今の読者は恐らく疑問を抱かれるであろう。当時、内務省警保局と言うお役所はややともすれば発売禁止と言う所謂伝家の宝刀を振りかぎして作家や出版社を震え上らせておった。従って出版社側でもお役所対策には万善を期し如何にしたら無難に検閲が済されるか、可なり苦心の存する所であったらしい。この「夏すがた」の時は、特に金曜日を選び警保局へ検閲の納本をするや電光石火、土曜日中に販売店に新刊「夏すがた」を配布して日曜一日で一千部近い冊数を売り尽してしまった。月曜日になると、果してお役所から風俗をみだものとの極印が付いて発売配布を禁止する通達があったが、時既に遅く版元にはいくらの残本も無かった。いや怒ったのは警視庁で、即刻主人に出頭せよと厳しいお達しだ。警察官が押収に来た時「一冊もございません」では到底無事には済されまいと一同額を集めての大評定、とにかく警視庁へは当時その方面に顔のきく小山内薫氏を頼んで代りに行ってもらい、百方哀訴嘆願する一方眼にも止らぬ早業はやわざで四、五十冊を作り上げてしまった。幸い小山内氏の顔と幾度となく足を運んだお蔭で、どうやら大事に到らず作者も出版元もホットー息つくことが出来た。
猥雑 わいざつ。みだりがわしく下品な様子
淫卑 性的に乱れたさま。みだらな様子
紊す 乱す。秩序をなくする。
極印 金銀貨や器物などの品質を保証するために打つ印形
評定 ひょうじょう。評議して取捨、よしあしなどを決定する。相談する
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面。種々の方法。多く副詞的に用いる。
哀訴 あいそ。同情をひくように、強く嘆き訴えること。哀願。
嘆願 たんがん。事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。

首都高速(写真)東五軒町 水道町 昭和44年 ID 12781-84

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781-84は、昭和44年9月、目白通りと首都高速道路5号線(池袋線)を撮影しました。資料名には「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12782 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12783 新小川町付近高速道路下

 実際には北部の東五軒町から、目白通りを東に向けて撮影しています。
 通りは2車線ずつの対面通行です。左の神田川との境に橋脚が立ち、その上を首都高速が走っています。写真奥で首都高が膨らんだ場所が見えますが、これは「飯田橋料金所」です。2車線のランプが入り口につながった場所は4車線の幅があり、それが2車線に合流します。
 中央に見える信号機の下に、神田川を渡るざくらばしがかかっています。こちらを向いた信号機2機はゼブラ柄が確認できます。
 目白通りの向かって右側は縁石で高くなった歩道ですが、左側の首都高直下は歩道ではなく、車道と段差がない路側帯になっています。この部分にはバリケードやブロックなどが置いていてあり、神田川の洪水対策となる「放水路」ができる予定です(関口一丁目南部会)。
 ID 12781では都営バスが行き交っています。手前に向かってくるバスは「515」「小滝橋車庫ー茅場町」「ワンマン」の表示があり、逆台形のヘッドマークの中に「代替15」(「その他のヘッドマーク」の項)の字が確認できます。前年の昭和43年に廃止された都電15系統の代替バスです。また、対向車線を遠ざかるバスには同じ逆台形に「39」とあるようです。15系統と同時に廃止された都電39系統の代替バスです。
 ID 12783に見えるのは都バスではなく「KKK」(国際興業)で、「常盤台駅」「ワンマン」の表示、「ISUZU」のエンブレムが確認できます。
 電柱広告には「質 福山」「印刷ローラー 博文社」、川の対岸の文京区には「(TOP)PAN」(凸版印刷)の看板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12784 新小川町付近高速道路下

 ID 12784は、ID 12781-839より背後(西側)に移動した新宿区水道町付近から、東方向に撮影しています。神田川に架かる橋は西江戸川橋。遠くの信号がある場所が小桜橋です。路側帯はやはりバリケードで仕切られ、小型トラックが何台か停まっています。