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東京妓情(2)|神楽坂

文学と神楽坂

001[大まかな現代語訳]

   ○風俗
東京は広い。関東道を通って120kmの大きさだ。東京を2つに分割し、下町と山ノ手に分ける。その気だても風俗も少々違い、同様に芸者も違っている。ここの芸者の客筋は、陸軍武人、あるいは官僚の使用人、書生などの田舎者が多く、そのため気力も競争も習い事もない。ただ首をおしろいで白く塗り、ふしだらで、客がべろべろになれば、芸者としてはもう十分だ。音曲などの芸能についてはカッポレや民謡ができれば客も大喜びで、1円も祝儀をもらえる。芸能がうまいというのは、ここでは聞いたことはない。でも神楽坂に芸者がなくなれば、山ノ手に歌う芸者がいなくなったといいたい。思うに時折、みめかたちがいいのもいるからだ。
  神楽坂辺りの芸者はいい声をだす。牛込御門の外から来た客は(よだれ)を流す。道を休める時に山園では豊かな産物は少ない。野生の鶯は自分で春の美しい姿をほめたたえている。
   ○風俗(ふうぞく)
洛陽(らくやう)(ひろ)関東道(くわんとうみち)にして三十() その洛陽(らくやう) 城前(じやうぜん)下町(したまち)(とな)へ その(うしろ)(やま)()といふ (しか)して意気(いき)風俗(ふうぞく)(やゝ)(こと)なり ()()けるも(また)(しか)り 本地(ほんち)芸者(げいしや)陸軍(りくゞン)武人(ぶじん) (あるい)鯰公(ねんこう)執事(しつじ) 書生等(しよせいとう)田舎漢(いなかもの)(おほ)きに()(ゆゑ)に 意気地(いきぢ)立引(たてひ)(なら)いなく (たゞ)その(くび)(しろ)くし その(しり)(かる)くし (きやく)をして沈湎(ちんめん)(どろ)(ごと)くならしむるの(じゆつ)あれば ()(やく)()むを(もつ)て 技芸(ぎげい)(ごと)きはペコシヤカと 猾惚(かっぽれ)甚句(じんく)(さう)すれば 客意(きやくい)(たつ)じ 円助祝儀(しうぎ)頂戴(てうざい)(いた)(ゆゑ)に ()ちを()()らんとするものは (かつ)見聞(けんもん)せざるなり (しか)れども ()神楽坂(かぐらざか)芸者(げいしや)なくんば ()断然(だんぜん)山の()に 歌妓(かぎ)なしと()はんのみ (けだ)()りに姿色(ししよく)()るべきもの()づればな里
  神楽坂ノ辺妓弄シ。牛籠門外客涎ヲ流ス。道ヲ休メテ山園物華薄シト。野鶯亦自ラ春頌ス

関東洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。
関東道 律令制下では、「関東道」は、相模国、武蔵国、常陸国、下総国、上総国、安房国と6国がらできていました。現在の南関東です。
三十里 近世では一里は36町(3.6~4.2㎞)。明治24年に一里は3.9272727…㎞と定めて、30里は約117㎞。大体、東京駅から日光までです。相模国の最西端から常陸国の最東端まで約30里だったのでしょう。
城前 皇居の前
意気 事をやりとげようとする積極的な気持ち。
 やや。すこし。いくらか。
本地 ほんち この土地。当地
鯰公 明治の元勲の多くは侍といっても、足軽なみの出。劣等意識の裏返しか髭をたくわえ鯰公といわれました
執事 屋敷における最高位の使用人
意気地 事をやりとげようとする気力
立引き ある目的のために競い合うこと
習い 学ぶこと。学んだこと
尻が軽い 女が浮気である
沈湎 ちんめん。酒色にふけってすさんだ生活を送ること
 じゅつ。わざ。技能
技芸 ぎげい。美術・工芸などの技術
猾惚 俗曲の曲名「カッポレ カッポレ」。俗曲とは幕末から明治にかけて流行した俗謡と滑稽な踊り
甚句 じんく。民謡の一群。参加者が順番に唄い踊る形式。
客意 客の意向
円助 えんすけ。1円のこと。明治・大正期、花柳界での隠語
頂戴 ちょうだい。チヤウダイ。もらうこと
断然 態度のきっぱりとしているさま
姿色 美しい容貌
な里 なり
 のど
弄シ いじる〔いぢる〕
物華 中国の言葉で「物華天宝、人傑地霊」とは「豊かな産物は天の恵みであり、優れた人間はその土地の霊気が育む」という意味。(はい、東京理科大学からとりました。 (https://www.tus.ac.jp/search/?q=物華天宝
 けん。優美なこと。美しいこと
頌ス しょう。人の徳や物の美などをほめたたえること

恋あやめ|邦枝完二

文学と神楽坂

 邦枝完二邦枝完二氏が書いた『恋あやめ』(1953年)の1章「神楽坂」です。『恋あやめ』は主に泉鏡花と尾崎紅葉がでてくる小説で、ここは55頁にあたり、明治29年ごろを書いています。
 邦枝氏は小説家で、慶応義塾予科に入学、永井荷風に師事し、『三田文学』の編集に従事。1917年(大正6)、時事新報入社。文芸部長に就任、帝劇文芸部に移り、脚本を執筆。23年以後、作家専業。江戸情緒豊かに官能美を描出。生年は明治25年12月28日。没年は昭和31年8月2日で、享年は満63歳。

 ここは毘沙門横町に在る芸者屋相模家の二階の一間。今しも太っちょのおてるが、質屋の三孫から受け出して来た衣裳を、手早やに着た一二三、おちょこの二人が、求友亭の座敷へ出て行ったあとに、小ゑんはただ一人、鏡台の前に坐ったまま、黙って考え込んで居た。
 ついこの間まで、坂下了願寺山門があったという土地だけに、神楽坂の花街は、これときまった古い歴史なんぞあるわけがなく、蔦永楽松葉家、相模家と、大小合せて八軒の家に、芸者の数は大妓が十八人、小妓が五人という。これがいったん、茶屋から口がかかったとなると、大妓は三味線、小妓は太鼓を、自ら提げて乗込むのであるから、下町の連中にいわせれば、すし屋やそば屋で三味線を弾く芸者なんざ、可笑しくってと、相手にされなかったのも無理ではなかった。

毘沙門横町 「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地。「毘沙門横丁」も「おびしゃ様の横丁」もついこの間まで呼んでいた名前です。これ以上簡単なものはありません。
相模家 神楽坂3丁目8番地。地図は明治28年の地図です。この赤い地図のうち、相模家はどこかなのですが、これ以上はわかりません。

相模屋

相模屋。明治28年。

東陽堂「新撰東京名所図会第41編」1904年。6頁

三孫 場所はここ。『まちの手帳』第3号の水野正雄氏の『新宿・神楽坂暮らし80年』で質屋「三孫」は「さんまご」と読むようです。図は都市製図社製の「火災保険特殊地図」(昭和12年)
三猿 求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
小ゑん 紅葉には神楽坂の芸者で毘沙門横丁の芸妓置屋相模屋村上ヨネの養女、小ゑんという愛人がいました。
坂下 神楽坂下のことです。神楽坂1丁目から部分的に2丁目にあたる場所。『江戸砂子』には「行元寺-往古は大寺にて惣門は牛込御門の内、かくら坂は中門の内にて、左右に南天の並木ありし俗に南天でらと云しと也」と書いてあります。「かくら坂は中門の内」と「坂下に山門があった」とは同じものではありませんが、「昔は坂下に寺の中門があった」といえます。行元寺は巨大な寺だったのです。図は明治28年、東京実測図。明治28年、東京実測図
了願寺 小説なので「りょうがんじ」。実際は行元(きょうがん)()、正確には「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。肴町(現在は神楽坂5丁目)にありました。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
山門 寺院は本来山に建てられ山号を付けて呼びました。平地でも山門といったのです。
蔦永楽 つたえいらく。神楽坂3丁目2番地。橙色のどこかですが、正確なものはなく、これ以上は不明です。地図は大正11年の「東京市牛込区」大正11年東京市牛込区
松葉家 神楽坂3丁目6番地。上の青色のどこかですが、正確なものはなくわかりません。
大妓 だいぎ。一人前の芸妓のこと
小妓 しょうぎ。年が若く、まだ一人前でない芸妓。半玉(はんぎょく)雛妓(すうぎ)と同じ
茶屋 ちゃや。この場合は待合(まちあい)茶屋(ぢゃや)。花街における貸席業。客と芸者に席を貸して酒食を供する店。
すし屋や… これからすると、初めのころはほとんど全員がアルバイト感覚だったのでしょう。


手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎 広津ひろつ和郎かずお氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

 氏は生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。

 氏は先輩作家の近松秋江氏の質草の話を新潮社の社長から聞き、まだ売れていない宇野浩二氏に書かせると面白いと考えます。

 が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。
 広津和郎氏です。
新潮社 文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
新潮社
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
本多横丁戦前
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。清風亭1
 それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。
 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。
著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

日本歓楽郷案内(1/5)

文学と神楽坂

 酒井潔氏の『日本歓楽郷案内』(昭和6年、竹酔書房)の一部です。氏は大正末期から昭和初期にかけてのエログロナンセンス文化の火付け役でした。

寂びれ行く神樂坂
 神樂坂と云へば、新宿が今日の地位を得るまではダンゼン山之手第一の繁華な街であつた。あの急な坂道を挟んで、新舊とりどりの老舗がいかにも和洋折衷といふ感を抱かしめる。夜になると自動車の通行も止められ、老人も子供も安心して散策する。
 坂を上り切ると毘沙門天があり、その後ろ側には神樂坂の落ち着いた花街(いろまち)の灯が流れてゐる。
 この土地は昔から多くの文士と因緣淺からぬものあつて、尾崎紅葉以來、實にいろんな作家が艶聞を流したので有名である。
 それに、晝でも夜でも艷つぽい藝妓の姿が眼にとまり、壽司屋へ入つてゐる藝妓、シューマイを買つて歸る半玉半衿の柄を品定めしてゐる年増――さう云つた工合に、喰ひしんぼうと、出歩きしたがる藝妓の多いことだけは一見してその内幕が見透かされる。
 だから藝妓と稱するものゝうちにも、ずゐぶんいかがはしいのがあつて
「なにかお前の得意なものを一つやれよ。」と云へば
妾し何も出來ないわよ!色氣だけの御目見得よ!」
などと酒々として澄してゐる。
 それかあらぬか、晝間湯歸りの妓など、顏色は何となく蒼味を帶びて、芳ばしからぬ病狀持と見なされる向の多いのも情けない。

新旧とりどり 新しいものと古いものがひとつひとつ違っていること。まちまち
和洋折衷 日本風と西洋風の様式を、程よく取り混ぜること。
毘沙門天 善国ぜんこくは新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。毘沙門天
花街 いろまち。かがい。はなまち。遊女屋や芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。
因縁浅からぬ 普通ではない深い間柄のこと
艶聞 異性と関係があるといううわさ
艷っぽい つやっぽい。色気がある。なまめかしい
芸妓 げいぎ。舞踊や音曲、鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。右の写真は昭和30年ごろの神楽坂です。普通の女性と芸妓の女性が混ざっています。芸妓
半玉 はんぎょく。玉代(ぎょくだい)が芸者の半額の、まだ一人前でない芸者。
半衿 はんえり。装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢(じゅばん)などの(えり)の上に縫いつけた替え襟。
半襟
喰ひしんぼうと、出歩きしたがる藝妓 本来ならば芸妓は客をもてなす女性です。しかし神楽坂の芸妓は食事と外出のほうが重要だと書かれてしまいました。
内幕 外からは見えない内輪の事情。内情。内実。
いかがわしい 物事の内容、人の正体などが、あやしげで信用できない。下品でよくない。風紀上よくない
妾し わたし。あたし。昭和初期に女性では「私」ではなく「妾」の字も使われていました。
御目見得 おめみえ。御目見、御目見得。新たに人の前に姿を現すこと。つまり「色気だけが売り物」
酒々 しゃあしゃあ。厚かましくて、恥を恥とも思わないで平気でいる様子
それかあらぬか はたしてそうか、それともそうでないのか。本当はわからないけれど。
芳ばしからぬ いい話ではない。当時一番問題なのは結核でした。

 結構、昔(昭和6年)の神楽坂は叩かれています。</p >


日本歓楽郷案内(2/5)

文学と神楽坂


 おまけに、多くの待合が他所に比べていやに勘定高いといふ悪評などもあつて、蕩兒らしい蕩兒はこの街の空気はいやだといふ。
 然し、待合側に云はせれば、勘定のことをキチキチ催促する代りに、ほか樣よりずつと勉強してゐるといふのである。
 金解禁以来、この街にも不景気風は風速二十メートル以上に吹きまくつて、お銚子二本、料理四品、藝妓付五圓などと、例の特遊とかいう奴を新聞の案内欄などに廣告して器量を下げたが、特遊七圓萬事解決などいふ變挺な廣告を出してお灸を据えられたのがあつて以来、流石に気恥しくなったものか止めてしまった。それでも、郊外の藝妓みたいに、カフェーやソバ屋にまで行かないのがせめてもの取柄である。
 薄ぎたないカフエーに出張して、陳腐な恰好の女給と一緒に
スツチヨイ、スツチヨイ、スツチヨイナ」
と手を叩いてゐるのを見ると、そゞろに物の哀れを催してくる。
 人通りの多い割に昨今の神樂坂は潑溂たる色彩がない。洋食と果物では山手随一と折紙をつけられてゐる田原屋にも、往時の頻繁な客脚はなくなつたし、一時は銀座のカフエーを悠々と端睨してゐたカフエー・オザワなども、何となく時代に取り殘されたものゝやうな感じがする。それは、強ちこの二三の店に限らず、神樂坂という街そのものゝ感じがさうだから止むを得ない。

勘定高い 金銭の計算が細かくて損得に敏感。打算的
蕩児 トウジ。正業を忘れて、酒色にふける者。放蕩むすこ。遊蕩児。蕩子
キチキチ 正確に規則正しく物事をする。きちんきちん。
勉強 ここでは「商人が商品を値引きして安く売ること」
金解禁 昭和五年(1930)年、浜口内閣は金本位制に復帰し、金解禁を行いました。ところが、株価や物価は下落し、中小企業は次々と倒産、不況はますます深刻化しました。
風速二十メートル 小枝が折れる。風に向かっては歩けない。人家にわずかの損害がおこる。煙突が倒れ、瓦がはがれる。
5円 五円は現在なら幾らなのか。高くて1930年(昭和5年)で5万円。低くて1931年(昭和6年)の5円は1万8000円。せいぜい2-3万ではないでしょうか。
特遊 特別の遊楽。特に遊び楽しむこと
器量 その人の才徳に対して世間が与える評価。面目
特遊七円 7円は現在の2万5000円~7万円。藝妓付で5円ですから、プラス2円は「枕金」です。同じく神楽坂で、昭和5年の「1夜の歓をかわす枕金は5円から10円」といわれていました。つまり、神楽坂の芸者と比べても相当安いのでしょう。
變挺 ヘンテコ。奇妙。変な様子
陳腐 古くさいこと。ありふれていて、つまらないこと
スッチョイ スッチョイ、スッチョイ、スッチョイナ。会津磐梯山のはやし言葉。唄の合間、一節ごとに「スッチョイ、スッチョイ、スッチョイナ」とお囃子がはいる。
そぞろに なんとなく 何とはなしに
潑溂 はつらつ。溌剌・潑剌・溌溂・潑溂 きびきびとして元気のよい。生き生きとしている。
田原屋 現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」。昔は「田原屋」。1階が高級フルーツ店、2階がレストランでした。
客脚 客が店に入ること
端睨 たんげい。推測すること。おしはかること。 推し測る。ここでは単純に「見ていた」ぐらいではないのでしょうか。
カフエー・オザワ 現在は「cafe Veloce ベローチェ」に。昔は「カフエー・オザワ」で、一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。

日本歓楽郷案内(3/5)

文学と神楽坂

 獨りこの街で肩で風を切つて歩いてゐるのは、早稲田法政の學生たちである。
 撞球場でも、マージヤン・クラブでも、いたる所で學生が幅を利かしてゐる。
 肴町の角にある紅谷(ベニヤ)のコーヒーと云べば、トロリとしたクリームを浮べて抒情派の詩人や女學生の巣窟のやうになつてゐたが、詩人なんてものがすつかり俗悪化した今日では、詩人のお顔拜見と出かける文学少女も尠くなつたやうだ。それよりも、絵葉書屋の前でスポーツマンのプロマイドでも見る方がいゝらしい。
 只、一坪の土間と、一貫の屋臺店に頑張つて凌々たる氣骨を見せてゐる神樂おでんの爺さんだけが昔も今も變らず繁昌してゐる。陪審裁判の陪審に選ばれたといつて「區役所は得手勝手だ」と怒鳴り時間が五分間早いと云つて煮ゑたおでんも喰はして呉れぬ變り者の爺、時代の後端を歩む彼の氣慨こそ神樂坂唯一の名物であらう。

肩で風を切る 肩をそびやかして、得意そうに歩く
早稲田 1882(明治15)年、早稲田に「東京専門学校」が発足。1902年9月2日付で「早稲田大学」と改称撞球場。
法政 1880(明治13)年東京駿河台に発足。1921(大正10)年 麹町区富士見町4丁目(現在の市ケ谷キャンパス) に校舎を新築し移転。
撞球場 どうきゅうじょう。ビリヤード場
幅を利かす はばをきかせる。勢力をふるう。
抒情派 作者の感情や情緒を表現したもの
巣窟 居住する場所。すみか
俗悪化 低級で下品なこと
屋台店 屋根のある台を設け、やきとりやおでんなど簡単な飲食物を供する大衆的な店
凌々 リョウリョウ。澄みきっているさま
気骨 自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気
得手勝手 他人に構わず自分の都合ばかりを考えて、わがまま放題にする様子
後端 こうたん。うしろのはし
氣慨 きがい。困難にくじけない強い意志・気性

絵葉書屋 私製絵葉書は1900年(明治33年)から。風景や美人絵葉書などあらゆる絵葉書がでてきて、1905年(明治38年)には日露戦争に勝った絵葉書が大ブーム。全国に絵葉書専門店が次々と開店し庶民に浸透しました。手彩色絵葉書、木版デザイン、透かし絵葉書、夜光塗料絵葉書、子供向け絵葉書などなど。
プロマイド プロマイドとは、俳優やアイドルなどのスターの写真を販売目的で撮影したもの。ちなみにブロマイドは本来、印画紙を指す言葉。これはプロマイドと書いてあります。
神楽おでん

『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」では

岡崎 寺内の入口には、「かぐらおでん」もあってね。
河合 「かぐらおでん」は、すごくおいしかったから、お鍋持って買いに行きましたよ。

と出ています。場所は左図では『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」。右図では昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」からの「古老の記憶による関東大震災前の形」。上下ちょうど180°方角が変わっています。

神楽おでん1

陪審裁判 刑事事件で市民から選ばれた12人の陪審員が有罪・無罪を裁判官に答申する仕組み。1928年から15年間実施、対象は484件。陪審員は30歳以上で一定額以上の納税をし、読み書きができる男性。無罪率は約17%。1943年、戦争時に陪審法は停止された

日本歓楽郷案内(4/5)

文学と神楽坂

それと、うまい物では川鐵の鳥料理と小鉢もので、白木屋横町江戸源、こゝの女将のキビキビした傳法肌と、お酌をして呉れるお幸ちやんの美貌。その愛くるしい黠に於てダンゼン牛込一の小町嬢である。嘘だと思へば敬愛する先輩齊藤昌三 氏に訊いて頂きたい。
 「お幸ちやんは幾つだい。」といふと、
 「妾し、妾し十九よ!」
 これは一昨年の會話である。
 「お幸ちやんは幾つになつたのだい!」
 「あたし、あたし十九になつたのよ!」
 これは今年の會話である。
 もし、來年になって、誰かゞ彼女の年を訊ねても
 「妾し、妾しは今年十九になったのよ!」
 とかう答へるであらう。
 彼女が、いつ、誰と結婚するかに就て、まるで自分のことのやらに氣にしてゐる人間が、上は五十四歳の爺さんから、下は二十代のニキビ青年に至るまで、無慮百人を算すといふから、一應は見てをいてもいゝ代物であらう。

小鉢 こばち。小形の鉢。そのような器に盛られた料理。
白木屋横町 神楽坂仲通りのこと
江戸源 安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では「白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」カフェー「東京亭」野球(やきう)おでんを看板(かんばん)の「グランド」縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。」
伝法 でんぼう、でんぽう。勇み肌、いなせなこと。多く女がいきがって、男のような言動をすることをいう
小町 小野(おのの)小町(こまち)のこと。転じて美人。
齊藤昌三 斎藤昌三氏。大正・昭和期の書物研究家、編集者、随筆家、装丁家、発禁本研究では「書痴」。茅ケ崎市立図書館の初代館長
妾し わたし。あたし。昭和初期に女性では「私」ではなく「妾」の字が使われていました。
一昨年 おととし。2年前。本の出版は1932年なので、1930年頃でしょう。
無慮 むりょ。おおよそ。ざっと
算す かぞえる。計算する。ある数に達する。
代物 しろもの。物や人。低く評価したり,卑しみや皮肉を込めていうことが多い。

日本歓楽郷案内(5/5)

文学と神楽坂

 歡樂郷としての神樂坂は花街の外に、牛込館神樂坂日活館といふ二つの映畫館があるだけで、數年前までは山手第一の高級映畫館だつた牛込館も、現在では三流どころに叩き落されて了つた。尚ほ寄席の神樂坂演藝場だけが落語の一流どころを集めて人氣を呼ぶが、これとて昔日のそれと比較すればお話しにならない。
 只、夏の夕べに最も喜ばれるのは外堀の一廓を占領した貸ボートである。
 朝の一漕は健康の基――なんて、考へやうによっては甚だ變に解釋できるスローガン掲げて旺んに若い男女を惹きつけてゐる。
 暗い隅つこの方ヘボートを寄せて、なにか甘い囁き耽つてゐる戀の男女に、わざと水を放ねかけて通る岡燒逹の悪戯も、夏の夕暮の状景としてはまことにふさわしい。
 ボートに乗る女學生――彼女たちの尻を追ふ中學生の多いのも、神樂坂景物の見迯し帰ない一つであらう。

歓楽郷 喜び楽しむ土地
牛込館 牛込館は神楽坂5丁目から藁店を上がる途中の袋町にありました。昭和12年の地図(左)と現在の地図(右)とを加えると、リバティハウスと神楽坂センタービル2つを加えて「牛込館」になるのでしょう。なお、牛込館の南側にある(みやこ)館は明治、大正、昭和初期の下宿で、名前だけは聞いたことがある文士たちがたくさん住んでいました。

牛込館

左は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和12年).右は現在の地図(Google)


神楽坂日活館 『かぐらむら』に出た『記憶の中の神楽坂』「神楽坂6丁目辺り」には

武蔵野館は現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。

と書いてあります。なお、毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。神楽坂武蔵野間館

花街 芸者屋・遊女屋などの集まっている町。色里。色町。かがい。
昔日 せきじつ。過去の日々。往時。いにしえ
一廓 いっかく。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
一漕 いっそう。船を1回こぐ。
旺ん さかん。 盛んとも。勢いがいい様子
囁き ささやき。私語。ささやくこと。また、その声や言葉
耽る ふける。一つの物事に熱中する。夢中になる
岡焼 おかやき。自分と直接関係がないのに、他人の仲がいいのをねたむこと
見迯し みのがす。迯は逃の俗字。見ていながら気づかないでそのままにする

私のなかの東京|野口冨士男|美観街②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年、1978年)の②です。
 魚肉ぎらいの私は肉食しかできないが、近年はスナックばやりで、そんな私ですらうっかりコーヒーをのみに入ると店内に肉料理の臭気が充満しているために、コーヒーの香気をそがれて辟易する場合がある。つとめて専門店へ入るようにしているのはそのためで、神楽坂へ出ると私が立ち寄るコーヒー店は二軒ある。坂の登りかけの左側にあるパウワウ(伝票には「巴有吾有」とある)には法政大学や東京理大の学生が集まるらしく、時によってびっくりするほど美しい女子学生が、セブンスターなどを指にはさみながら一人で文庫本を読んでいることがあるが、不思議なほどジーンズ姿を見かけない。
 地下鉄東西線の神楽坂駅で乗降するとき立ち寄る赤城神社前の珈琲園という店には、学生よりOLのほうが多いせいもあるが、そこでもジーンズには出くわさない。
 神楽坂は、そんな街である。
 余談ながら、昨年(昭和五十二年)築地の新喜楽で催された文藝春秋の忘年会に出席したとき、酌をしてくれた新橋の若い芸者さんは生家が神楽坂の芸者屋だということであったから、自宅へ帰るときにはどんな服装をするのかと訊いたら、ジーパンだと応えていた。現在では新橋芸者のジーパン、相撲のトレパンがすこしも奇異ではない。むかしは、着物の着こなしで商売女か素人娘かすぐわかったものだが、いい時代になった。また、それだけ現代小説が書きにくくもなった。
 東京地図出版株式会社版のミリオン・レジャーガイド『東京のみどころ』によれば、≪通り(早稲田通り)は午前、午後で一方通行が逆になるという都内でも珍しい逆転方式一方通行路になっている≫とのことで、朝寝坊の私は午前中の様子を知らなかった。午前中は坂上から坂下へ、午後はそれが逆になるわけで、さいきん坂下から行けば中腹の右側にある化粧品店さわやと、Lサイズの婦人服店L・シャン・テのあいだを入った左側にある和風とんかつの和加奈という店で夕食をしながらたずねたところによれば、正午から午後一時までは歩行者天国になるということである。はじめて入った店で、こってりした味の好きな人にはむかないかもしれないが、小さなスリ鉢に小さなスリゴギがついていて、すったゴマにソースを注いで、それをつけて食べるとんかつは、あっさりしていて私の囗に合った。

珈琲園 1975年、東西線の神楽坂駅の近傍で、赤城神社前のコーヒー店は三軒ありました。珈琲園はありませんでしたが、珈琲館はありました。しかし、珈琲館は珈琲園と同じだということはできません。誤植ではありません。
新喜楽新喜楽 新喜楽は東京都中央区築地四丁目にある老舗の料亭。芥川賞・直木賞の選考を行う場所でもあります。
東京のみどころ 『東京みどころ』(東京地図出版、1991年)から引用すると
東京のみどころ 飯田橋駅の新宿寄り出口(神楽坂口)を出て、右へ行くと神楽坂である。明治の頃からの古い繁華街で、坂を登りきった左側にある毘沙門さまの信仰とともに発展してきた。坂は相当な急勾配で、通り(早稲田通り)は午前、午後で一方通行が逆になるという都内でも珍らしい逆転式一方通行路になっている。
 花街はこの通りの裏側にあり、外堀通りと大久保通りに囲まれた一角は飲食店街になっている。
 これで神楽坂は終わりです。量の少なさ。次の「早稲田周辺」の方が書いた量も多いし。1990年ごろの神楽坂を表しているようです。
逆転式一方通行 市ケ谷経済新聞では
「神楽坂がまるごとわかる本」の著書がある渡辺功一さんは「以前の神楽坂通りは対面通行だったが、歩道を作るにあたり車道が狭くなることから一方通行に変わった」と話す。しかし、一方通行にしたことで大久保通りなどは渋滞。当時、朝日新聞の投書欄には大々的に「神楽坂通りの一方通行は不便で困る」との声が寄せられた。これにより、「逆転式一方通行」が誕生。「このような通りは都内では唯一、日本でも唯一と言っていいだろう」と渡辺さん。(「田中角栄」説は本当?-神楽坂「逆転式一方通行」誕生の経緯。市ケ谷経済新聞。2011年02月12日)

さわさ 下の地図では「化粧品さわさ」です。さわや
L・シャン・テ 下の地図では「ランジェリーシャンテ」と書いてあります。ランジェリーは「女性用の下着・肌着・部屋着」「装飾性がある高価な下着類」。「シャンテ」は「歌う」こと。L・シャン・テは左右のビルと後ろの数店舗と一緒になってマンション「ヴァンテ・アン神楽坂」に変わっています。
和加奈 「和風とんかつ和加奈」は、現在は中華の「味角苑」です。味角苑
神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』(1985年)です。美観街
 マダムらしい人に、私がガキのころ神楽坂に住んでいたことがあると告げると、神楽坂には古い店ものこっていてあまり変っていないでしょうと言われたが、戦前どころか震災前の神楽坂すら知っている私には、やはり変ったというおもいのほうが強い。殊に、坂下にも、坂上の以前の都電通り――現在の大久保通りのちかくにも「神楽坂通り=美観街」などという標識が立っているのには、どうしても違和感をおぼえさせられる。美観街などというのは文字面も悪いし、音もきたない。いっそミカンマチとでも読ませたらどうでしょうと、皮肉の一つも言いたくなるほどきたない。

現在の神楽坂通りの道幅は、歩道も合めて十ニメートル弱。これは神楽坂が最も繁栄した大正、昭和初期のころと変っていない。

 これは昭和五十一年八月十六日付「読売新聞」朝刊「都民版」の「ストリート・ストーリー」に掲載された『神楽坂』の一節である。なんのことはない、≪都内でも珍しい逆転式一方通行路≫の理由もその道幅のせいだし、戦前には歩道もなかったから両側に夜店が出たわけで、現状からは往年の神楽坂通りがかなり回想しづらくなっている。が、さいわい私は三、四年前に、昭和四十五年三月三十一日発行の新宿区立図書館資料室紀要『神楽坂界限の変遷』の附録として刊行された『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形-』という、縦二十五センチ、横六十五センチ弱の横に長い地図の複写を荒正人から贈られて保存している。そのため、それをみると、いったんうしなわれた記憶が身うちから立ちのぼってくるのを感じる。

美観街 植村峻氏は『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』(2010年)を書き、その中に加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』を紹介しています。まるで写真と間違えてしましますが、一種の版画、神楽坂の銅版画なのです。ここで「神楽坂通り」からその下の「美観街」、さらにその下に4角の看板が付いています。この1番下の看板、夜になると、ネオンや発光ダイオード(赤色はできていました)が見えるのでしょうか? 加藤倉吉氏は印刷局に勤め、紙幣や切手を中心にした凹版彫刻者でした。詳細はここで。

銅版画の『神楽坂』

神楽坂通りの図 現在の神楽坂です。『神楽坂通り』「美観街」の看板がない点、街灯の形が違う点、ケヤキの街路樹が生えている点、電柱はなくなっている点などに違いがあります。神楽坂登り1神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』は、新宿区立図書館資料室紀要『神楽坂界限の変遷』の附録として昭和45年(1970年)に刊行し、以来、このコピーは何度も何度も繰り返し、ここでも同様で、いろいろな本で再発行されています。たとえば新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇(2001年、1500円)などです。

懐かしの神楽坂|小菅孝一郎

文学と神楽坂

 平成7年(1995年)『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」を取り上げます。小菅孝一郎氏は大正4年に生まれ、伊勢丹に入社、常務取締役、監査役、相談役を経て平成6年に退任した人です。「遠政」と「寿徳庵」はどこにあったのかという問題です。

 お袋に頼まれて、本多横丁の「遠政」へ紅白のはんぺんや、煮凝りを買いに行ったこともある。遠政の前の路地を入ったところに芸妓置屋があって、ここが家の家作だった。そこへ地代を取りに行かされて、生まれて初めて芸者屋の敷居をまたいだ時は、こちこちでろくに口もきけないほどだった。
 長じてからは、神楽坂の花柳界にもよく出入りするようになったが、その頃はまったく純真なものだった。

遠政 新宿区教育委員会が書いた『古老の記憶による関東大震災前の形』(神楽坂界隈の変遷、昭和45年)では「カマボコ・遠政」と出てきます(左図)。また『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」では「2間間口の大きく古風な店。煮こごりで有名だった」と書いています(右図)。なお、煮こごりとは煮魚などの煮汁が冷えて凝固したもの。
L
 これから場所は、昭和12年の『火災保険特殊地図』(都市製図社、左図)では「遠政?」と書いておきました(左図)。現在は「おでん せつ」です(右図)。
せつ1
 戦後は鳥静商店のはすかいにありました。

住宅地図。1984年

住宅地図。1984年

はんぺん 半片、半平。 魚のすり身にヤマノイモなどを加えて 成形し、ゆでたもの。
煮凝り にこごり。魚などの煮汁が 冷えて固まったもの
路地 「前の路地」となっているので、ここでは「紅小路」でしょう
芸妓置屋 げいぎおきや。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋
家作 かさく。人に貸して収入を得るため持っている家。貸し家。下の絵で、青で書いた(妓)のどれかなのでしょう
地代 じだい。他人の土地を借りた者がその地主に支払う借地料
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳界の巷(ちまた)

 坂下の、坂に向かって左側に「寿徳庵」という古くからの菓子屋があって、素甘とか茶通など、東京の昔ながらの菓子を売っていて、そこの女将さんが無愛想だったという印象もなぜか未だに忘れられない。
 いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。
素甘 すあま。餅菓子の一種。蒸した粳(うるち)に白砂糖を入れて作った餅菓子
茶通 ちゃつう。砂糖と卵白とをすりまぜ、小麦粉と片栗粉を入れてこねた皮でゴマ入りのあんを包み、その上に茶の葉をつけて焼いた菓子

素甘(すあま)と茶通(ちゃつう)
すあま 茶通


大東京案内|神楽坂|今 和次郎(1/7)

文学と神楽坂

 (こん) 和次郎(わじろう)編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)で「神楽坂」です。

 今氏は早稲田大学理工学部建築学科助手から大正9年(1920年)には教授になった民家研究家、民俗学研究者でした。「考現学」を提唱し、服装研究家としても著名でした。

 山の手銀座-この言葉(ことば)も今は新宿(しんじゆく)お株(うば)はれたが發祥の地はこゝである。神樂坂は(ひる)よりも(よる)の盛り場だ。(しか)も市内名うての盛り場の多くが、電車(でんしや)自動車(じどうしや)殺人的(さつじんてき)往來によって脅威(けふゐ)されてゐるのにこゝばかりは()ともし頃から十時頃迄、車馬一切の通行止(つうかうどめ)、安全を保證(ほしよう)された享樂第一のプロムナードを現出する。
 (よる)神樂坂(かぐらざか)通は人の神樂坂だ。その(おびただ)しい人出の中を、なまめかしい 座敷着(ざしきぎ)の藝者が()つて歩く情景(じやうけい)は、この町通りの一大異色。云はずと柳暗花明(りゆうあんかめい)歓楽境(くわんらくきやう)が横町から横町に展開(てんかい)されてゐることがわかるだらう。
山の手銀座「山の手銀座」は関東大震災になってから使いました。昭和2年の『大東京繁昌記』では「山の手の銀座?」という章が出てきます。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」には
大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた。

と書いています。関東大震災後、神楽坂はそれから10年間ぐらいは繁栄しましたが、あっという間に繁栄の中心地は新宿になっていきます。1975年9月30日『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」では

 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。

と書かれています。『雑学神楽坂』の西村和夫氏は
市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。

と説明します。
 その仲間・社会で評価を得ていること。その評価。
名うて 有名な。評判が高い
脅威 強い力や勢いでおびやかすこと。また、おびやかされて感じる恐ろしさ
灯ともし頃 ひともしごろ。日が暮れて、明かりを点し始める頃。
享楽 きょうらく。快楽を味わうこと。
プロムナード 散策。散歩道。遊歩道。自動車を気にすることなく、ゆっくりと散策を楽しめる。 フランス語promenadeから。
夥しい おびただしい。非常に多い。
なまめかしい あでやかで美しい。色っぽい。女性の身振り、しぐさや表情に、性的な魅力がある。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
縫う ぬう。この場合は事物や人々の狭い間を抜けて進むこと。人々や事物の間を衝突しないように曲折しながら進むこと。 「仕事の合間を縫って来客と会う」「雑踏を縫って進む」
異色 普通とは異なり、目立った特色のあること
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
歓楽境 かんらくきょう。楽しく遊ばせてくれる所。花街や遊興の場所
 大震災(だいしんさい)直後(ちよくご)、幸運にも火災から免れたばかりに、三越の分店、松屋臨時賣場(りんじうりば)、銀座の村松時計店(むらまつとけいてん)資生堂(しせいだう)の出店さてはカフエ・プランタン等々、一夜に失はれた下町の繁華(はんくわ)が一手に押し寄せた觀があった。その後三年四年の間にこれらの大支店も次々に影をひそめ、今は從前(じうぜん)の神樂坂氣分に立ち返った。復興(ふくこう)市街地(しがいち)勃然(ぼつぜん)たる生氣と形態(けいたい)はなくとも、いつかは徐々にそここゝの店舗(てんぽ)が新時代風に變貌(へんぼう)する。なによりも誇るものは坂下から坂上までの立派な(しん)()石道アスフアルト道だ。坂の部分が洗濯板聯想(れんさう)させるのも愉快(ゆくわい)な滑稽である。

松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは、はっきりと本店、支店ともに出していないと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
カフエ・プランタン 最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店とその名前が変わりました。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。

明進軒

明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。図は昭和12年の火災保険特殊地図(都市製図社)です

勃然 ぼつぜん 急に、勢いよく起こるさま
鋪石道 ほせきみち。道路に敷いてある石。しきいし
アスファルト道 ニッポン「道路舗装」史では

アスファルトの利点は、①工事費が安く、②施工後、数時間で使える点でした。

さらに
コンクリは①寿命が長く、②轍ができない、さらに③原料の石灰石は国産可能というメリットもありました。

また、国交省の『道路統計年報2013』では
 現在の日本の道路総延長は1200万キロ。そのうち未舗装が19%で、コンクリート舗装はわずか4.5%。残りはすべてアスファルト舗装になっています。

洗濯板 衣類を洗うときに使う道具。水をつけてこすりつけるようにして洗います。
洗濯

[名所名店]

永井荷風氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』を読むと、ノヱル・ヌーエー氏に会ったと書いています。昭和八年のことです。ヌーエー氏はフランス読みで、英語読み、あるいは筆名ではノエル・ヌエット氏になります。このとき、堀口大学氏も加わり、永井荷風氏は52歳、ヌエット氏は48歳、堀口大学氏は41歳でした。実は3人が3人とも同じ挿話を書いているのです。では、最初に永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』です。

 三月十六日。夜来の風雨午後に至りて霽る。夕陽燦然たり。銀座オリンピク徃き飰する時、高橋君の来るに会ふ。街上にて堀口大学君及夫人に会ふ。又始めて仏蘭西人ノヱルヌーエー氏に会ふ。一同相携へて珈琲店耕一路に至りて憩ふ。ヌーヱ氏は仏蘭西の詩壇に名ある人の由。既に詩集二三巻を刊行すと云ふ。数年前日本に来り目下外国語学校教師なる由。氏はまた絵事を善くす。東京市街の景をペンにて描ける絵葉書二三十種を刊行すと云ふ。
霽る はる【晴る/霽る】は晴れるの文語
燦然 さんぜん。きらきらと光り輝く様子
オリンピク 銀座通り東にあった米国風洋食堂。 現在はティファニー。
徃き 往く(新字体)。どんどんと前進する。いってしまう
飰する はんする【飯する/飰する】。食事する
 適を辞書でみると「たまたま」と書いてありました。「(たまたま)」を「適適」とか「適々」と書くこともあるようです。
高橋君 高橋 邦太郎(たかはし くにたろう)。生年は1898年9月5日。没年は1984年2月25日。フランス文学の翻訳家、NHK職員、共立女子大学教授、日仏文化交流史の研究家。
耕一路 コウイチロ。創業70年の歴史あるカフェ。喫茶店とワインバー。東京都丸の内3-1-1国際ビルB1
憩ふ いこう。【憩う/息う】。ゆったりとくつろぐ。休息する。
絵事 かいじ。絵をかくこと。

 では、ヌエット氏は同じことを書くとどうなるのでしょう? 以下は『三田文学』1959年49巻5号「永井さんのこと」です。この4月30日、永井荷風氏がなくなり、この『三田文学』の5号は追悼文をあつめたものにかわってしまいました。

 私は、パリにいたころ、セルジュ・エリセイエフ氏の仏訳した「牡丹の客」によってはじめて永井荷風さんの名を知りました。永井さんの作品で仏訳されたものは、これがただひとつではないでしょうか。もっとも、その道の人の話によれば、永井さんの作品を完全に外国語に移すことは至難のわざであるということであります。
 日本に来てから、私はいろいろ同氏のことを耳にしました。しかし、永井さんについてのはっきりした印象を持ったのは、昭和十一年、同氏と銀座でお会いしてからのことと言えるでしょう。そのとき私は、堀口大学、高橋邦太郎の両氏と一しょでした。そして、両氏から永井さんに紹介され、みんなは連れ立って近くのカフェーへ行ったのでした。
  私はそのころ、東京のスケッチを思い立って、それを画葉書に作らせていました。永井さんは、すでにそれを買っておいでだったということで、それについてのお褒めの言葉をいただきました。その折のお話から、私は、永井さんがフランス文学を高く評価しておいでになること、また江戸時代をしのばせるあらゆるものに深い愛着をもっておいでになることを知ったのでした。
 その後、お目にかかったことがあるかどうか記憶しませんが、私の目には、そのときの永井さんのことが、今もありありと思い浮かびます。上ぜいのある、痩せぎすな、頭にはベレーをのせ、下唇の突きだし加減なところ、そこには肉感と同時に、世の中を冷眼に見下すといった感じが受けとれました。
牡丹の客 小品をまとめて明治44(1911)年に出した本です。この「牡丹の客」という小品では本所の牡丹を見にいくため芸者と一緒に両国から舟に乗り、行くと全然面白くない光景が目の前に広がります。で最後は「『本所の牡丹てたった此れだけの事なの。』『名物に甘いものなしさ。』『歸りませう。』『あゝ。歸らう』」で終わります。
昭和十一年 間違いで、正しくは昭和八年です。
東京のスケッチ 1928年、スケッチは白水社の月刊誌『フランス』に掲載され、次いで、絵葉書に。おそらく「東京のスケッチ」はこの部分でしょう。ちなみに、1931(昭和6)年、『ジャパンタイムス』にスケッチの連載を開始、1934(昭和9)年、ジャパンタイムス社は五〇枚を集め、『Tokyo vu par un etranger (東京-一外国人の見た印象)』として出版しています。
しのぶ 偲ぶ。過ぎ去った物事や遠く離れている人や所などを懐かしい気持ちで思い出す。

 では最後に堀口大学氏はどう書いているのでしょう。随想をまとめた『季節と詩心』のなかで『自画像』の「日記」でこう書いています。

1933年3月16日。(省略)
 再び銀座の通へ出る。「ゑり治」の角にて、荷風先生の御散歩姿を拝す。高橋邦太郎君を伴わる。先生は何時お目にかかっても若々し。「変な珈琲()があるからつきあい給へ」とのたまふままに、細君を引き合せなどして從う。途中佛国の詩人ノエル・ヌエット氏も加わり、「耕一路」という先生近頃御贔屓の店へ行く。珈琲うまし。ジイドはよろし、ヴァレリイは如何なぞ仰せらる。家大人はすこやかなりや、今年は幾歳にやなど、いとねんごろなり。エリセイフ氏の近い來朝のことより、「牡丹の客」の佛譯のこと、さては小生がかつてルウマニアよりお送りせしとかいふ先生を評論した巴里新聞の記事の切抜き、とんで二十年も前にポオランドの野を走る汽車の中より小生が差上げし繪はがきの事なぞ、先生の強記驚くべし。
ゑり治 岸田劉生氏の『新古細句銀座通』(青空文庫)では「ゑり治は、ゑりえんと共に私の姉などのよく親しんだ店の一つで東都の半襟の大頭の一つである」と書いてありました。半襟とは和服の下着の襦袢に縫い付ける替え衿のことです。
ジイド アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 – 1951年2月19日)は、フランスの小説家。
ヴァレリイ アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(仏: Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871年10月30日 – 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家
ねんごろ 親身であるさま。親しいさま。
強記 記憶力の強いこと

 ヌエット氏と永井荷風氏が会ったのいうことはもう出てきません。会ったのは1回だけなんでしょうね。以下は『断腸亭日乗』でヌエット氏のことを書かれた文章です。

 五月十二日。晴。高橋邦太郎氏よりNouet氏の詩集Le Parfum des Troènesを借りてよむ。

Parfum パルファン。香料。香水
Troènes トロエーヌ。イボタノキ属。生垣として使いました。

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昭和23年1月26日 陰。山内義雄氏ヌヱツト氏著宮城環景1巻を贈らる
昭和25年十月初八 日曜日。晴。陰。山内義雄氏よりヌヱツト氏著巴里寄贈
昭和26年4月27日 晴。山内義雄氏ヌヱツト氏新著眠れる蝶(Nouët: Papillons endormis)を贈らる。

山内義雄 やまのうち よしお。生年は1894年3月22日、没年は1973年12月17日。フランス文学者。30歳、アテネ・フランセ教授となり、34歳、早稲田大学の教職に


神楽坂|ノエル・ヌエット

文学と神楽坂

 ノエル・ヌエット氏は詩人、画家、教師ですが、「神楽坂」という木版画の前に1937(昭和12)年1月30日にペン画を書いています。『東京:古い都・現代都市』(1937年、日佛會館)に載っています。キャプションは日本語では「牛込神樂坂附近の横丁が軒なみ日本料理店が立並び、夜になるとそこから三味線の音、歌聲、笑聲、手を拍つ音が聞える」です。

神楽坂

安田武|天国に結ぶ恋1

文学と神楽坂

安田武安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(昭和57年、1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」の初めの部分です。

 氏の生年は大正11年11月14日。没年は昭和61年10月15日。上智大在学中の昭和18年、学徒出陣。戦後、戦争体験の継承を訴え、日本戦没学生記念会「わだつみ会」の再建につくして常任理事にも。著作に「戦争体験」「芸と美の伝承」など。

 冬場になると、神楽坂の「田原屋」へカキのコキールを食べに出掛ける。戦争前から往きつけの店というのは、もう数えるほどになったが、田原屋がその数少ない一軒だ。
 神楽坂は「その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶もなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合して」いる、と加能(かのう)作次郎(さくじろう)が書いたのは昭和のはじめだが、半世紀余を経た今も、やはりそのとおりだと思う。
 表通りには、昔ながらの(うま)いもの店や、乾物屋とか漬け物屋とか日用の便があって、一筋入ると柳暗花明の色めいた路地、そしてその奥が、がらりと変わって閑静で気品のある住宅街。巨万の富があって、どこにでも好きに住める身だったら、袋町若宮町でなければ、北町中町南町、あの辺りに小ぢんまりした家がもちたい。
Coquilleコキール フランス語のコキーユcoquilleの英語読み。本来は貝や貝殻のこと。エビ・カニ・魚などを下調理してクリームソースなどであえ、貝殻そのものや貝殻形の器に盛り、天火で表面を焼いた料理。
その山の手… 『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「独特の魅力」に書いてあります。ここで
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
袋町 牛込袋町、光照寺、近隣の旧武家地などが集まって袋町。昔は風光明媚なところでした。袋町の桜に書いてあります。
若宮町 武家地と町屋。『牛込神楽坂若宮町小史』(若宮会、若宮町自治会、1997年)には「かつて武家屋敷であった若松町は、時代の移り変わりとともに一般住宅、料亭、商店、飲食店などが入り混じって、独特な雰囲気があります」
北町、中町、南町 江戸時代には幕府徒町の大縄(おおなわ)地でした。大縄とは同じ組に属する武士がまとまって一区画の屋敷地をもらうこと。この屋敷地を大縄地といいました。この御徒組大縄地は牛込御徒町と呼ばれ、北御徒町・中御徒町・南御徒町に分かれ、組頭2名と(かち)、あるいは御徒(おかち)28名~30名が住んでいました。徒とは江戸城や将軍の護衛を行う騎馬を許されぬ軽輩の下級武士です。

昭和56年

昭和56年の地図から。今の目で見ると違うことになっている場所もあります。

ちなみに固定資産税路線価情報を使って、各価格を調べてみました。平成26年の袋町6番13の値段は550,000円/㎡、若宮町29番1は599,000円/㎡、中町32番1は539,000円/㎡です。まあ、関係はないんですが、神楽坂2丁目12番18は1,350,000円/㎡でした。
 で、80㎡の土地を買うと、袋町で4400万円、若宮町は4792万円、中町4312万円、神楽坂2丁目は1億800万円がかかります。実際には2倍かかるのではないでしょうか。


加能作次郎|作家

文学と神楽坂

加能作次郎2 のうさくろうは1885年(明治18年)生まれ。 日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県志賀町出身。
 早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍。1940年(昭和15年)、「乳の匂ひ」を発表。1941年(昭和16年)、クループ性急性肺炎のために享年満56歳で死去。
 なんと言っても、氏の『早稲田神楽坂』で一部の人には有名です。一部の人というのは神楽坂や早稲田を色々読んでいる人。『早稲田神楽坂』は、1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」の一部で、作者の年齢は42歳でした。

神楽坂矢来の辺り|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄氏が書く『学生物語』(1953年)で「神楽坂矢来の辺り」の一部です。これは(1)になります。
 氏は小説家で、生年は明治32年12月25日。没年は昭和58年3月31日。早大卒。志賀直哉に師事。昭和12年、「暢気眼鏡」で芥川賞。戦後は「虫のいろいろ」「まぼろしの記」など心境小説を発表。昭和50年、自伝的文壇史「あの日この日」で野間文芸賞受賞を受賞しました。

神楽坂矢来の辺り 学校の近くに下宿してゐた。早稲田界隈から最も手近な遊び場所と云へば、どうしても神楽坂である。そこには、寄席も活動小屋も飲み屋もカフェーも喫茶店も洋食屋もあった。牛込郵便局(当時の)あたりから肴町をつっ切り、見附に逹する繁華な遊歩街には、両側に鈴蘭燈がつき、夜店も出た。両側の商店も名の通った家が多かった。
 神楽坂が最も繁華を誇ったのは、例の関東大震災のあとだったらう。(略)
 十二年の九月一日に大震災である。(略)
 牛込区は大体無事だった。神楽坂にも被害は無かった。丸焼けの銀座方面から神楽坂へ進出する店があり、また客も神楽坂へ移ったやうであった。
牛込郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」となっています。右の「大正11年の東京市牛込区」の郵便局の記号は丸印の中に〒で、通寺町30番地でした。現在は神楽坂6-30で、会社「音楽の友社」がはいっています。

大正11年 東京市牛込区

大正11年 東京市牛込区

肴町 さかなまち。現在は神楽坂5丁目です。
見附 牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。これが原義ですが、しかし、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、神楽坂通りと外堀通りが交差する所を「牛込見附」と言ったりするのも正しいようで、ここでは交差点の「牛込見附」でしょうか。
鈴蘭燈 すずらんとう。鈴蘭はユリ科の高原の草地に生える多年草。高さ約30センチの花茎を出し、五、六月ごろ鐘形の白花を十数個下垂します。鈴蘭燈は鈴蘭の花をかたどった装飾電灯。左は昭和30年代の神楽坂の写真の1部ですが、こんな具合に見えたわけです。
鈴蘭燈

 それは、――私がこの神楽坂プランタンに出入りしてゐた時分、或る夜のこと、寺町通りを坂の方へ元気よく歩いてゆくと、向うから、背の高い長髪の人物が、手下を四五人引き連れて悠々とやって来るのを見つけたのである。――ははん、広津和郎だな、と思った。雑誌の口絵写真で見知ってゐるし、それに、学校へ講演で来たこともあったから、その時見覚えたに違ひないが、確かに広津氏である。は、すれ違ひざまに凝っと見て、それを確かめた。
 二三間行過ぎてから、心を決めて取って返し、
「失礼ですが、広津さんですか」
 さう声をかけた。
 長身の広津氏は、うん? といふふうにこっちの顔を見下して、立止まり、
「広津ですが――」お前は? といふ顔をした。その時私は、学生服に、学帽をつけてゐた。すでにどこかで少し飲んでゐたが、当時の私は二本や三本飲んでも、全然外見に変りはなかったから、広津氏の目には、普通の(大体真面目な)早稲田の学生とうつっただらう。
「私は、早稲田の文科の者で、尾崎と云ひます。実は、ちょっとお話をうかがひたいことがあるのですが――志賀さんについて」
「あ、さう、志賀さんのこと……」
 広津氏は、目をぎょろりとさせ、ちょっと考へるふうだったが、連れの人たちに向って、
「ぢやあ、先に行ってゐてくれたまへ、僕ちょっと――」
 四五人の、いづれも髮の長い連中が、うなづき合って歩き出した。広津氏は、来た方ヘ大跨に戻ってゆくので、私も大跨について歩いた。どこへ行くのかな、と思ってゐると、肴町の電車道をつっきると間もなく右手に折れて、神楽館といふ下宿へ入っていった。二階だったか階下だったか忘れたが、六畳位の部屋に通された。そこには、二十いくつといふ女の人がゐだ。夫人だなと思った。
寺町通りを… 神楽坂6丁目を交差点「神楽坂上」に向かって
 尾崎一雄です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。ここでは大久保通りのこと。
神楽館 昭和12年の地図の『火災保険特殊地図』ではっきりわかります。神楽坂2丁目21でした。細かくは神楽館で。

「早稲田の尾崎君」
 広津氏が云ふと、夫人はお叩頭をした。私もイガグリ頭を深く下げた。
 広津氏は、こまかい紺絣着流しで、きちんと坐ってゐた。私も制服の膝を正しく折ってゐた。
「あの、『志賀直哉論』といふのをお書きになりましたが……」と云って、ちよっとつまった。
「ええ、書きましたが――」
 大きな目をして、凝っとこっちを見てゐる。で、それが? とうながされる思ひで、私はうろたへて、
「あれを拝見したのですか、あれは、――良いと思ひました」
「あ、さう」
 この時、夫人が茶をすすめた。しかし、私はそれに手を出してゐる余裕がなかった。あれも云はう、これも云ひたい、と頭の中はいっぱいなのだが――いや、いっぱいな筈なのだが、まるでこんぐらかってしまって、焦れば焦るほど、言葉が見つからなくなった。私は、確かに寒い時だったにかかはらず、汗をじとじと感じた。
 広津氏が、言葉少なに何か云ったが、それがどういふことだったか覚えてゐない。私自身の云ったことも覚えてゐない。志賀さんの小説か大好きで、全部熟読してゐるし、志賀さんに関する批評も落ちなく読んでゐる――といふやうなことを、どもりどもり云ったぐらゐのところであらう。
 とにかく、広津氏を呼び留めた時の元気は更に無く、私は逃げ出すやうにいとまを告げたのである。
イガグリ頭 いがぐり(毬栗)とは、いがに包まれた栗。イガグリ頭は髪を短く、丸刈りにした頭。
イガグリ頭紺絣 こんがすり。紺地に絣(かすり)を白く染め抜いた文様。その織物や染め物。かすりは文様の輪郭部がかすれて見えるから
11_kasuri_image01
 「お対」とも。「つい」とは長着と羽織りを同じ布地で仕立てたもの。
着流し 男性の羽織、袴をつけない略式のきもの姿のこと。きものだけの楽な姿のこと。

 この一件は、思ひ出すたびに冷汗の種で、すでに三十年近い昔のことながら、実は私は誰にも話さなかった。先日、ある雑誌の記者にふと話して一と笑ひしたら、何となく気が済んだ思ひがした。勿論広津氏にも話さない。もっとも広津氏は当事者の一人、と云ふより被害者なのだから、(おぼ)えて居られるとすれば改めて苦笑されるかも知れない。しかし、公平に見て、広津氏としては、左ほどの大被毒ではないし、もともとさっぱりした人だから忘れて居られるかも知れない。だが、私は忘れることが出来なかった。広津氏には、再々お逢ひしてゐるくせに、私はどうもこの昔話を持ち出す気がしなかったのである。
 広津氏が、仮りにあの件を覚えてゐるとしても、あの無邪気な文科生が、この私だったとは思って居られぬだらう。私は、そんなことがあってから少くとも二年位経って、初めての同人雑誌を持ったのである。――茫々三十年。私も純真なる文学青年であった。
茫々 ぼうぼう。広々としてはるかな様子

初めて見た広津さん|尾崎一雄

文学と神楽坂

『群像』の「初めて見た広津さん」(68年12月号)で、実に15年後になりますが、続きを書いています。したがって(2)です。

 私としては志賀直哉の理解者たる広津和郎を相手に、思いきり志賀直哉について語りたかったのである。私には云いたいことがいっぱいあった。云いたいことか山ほどありながら、それを書いて発表する場をもたぬやるせなさを広津さんにぶちまけたかった。その意気込にかり立てられて、往来で未知の大先輩を呼び留めるという非礼を演じながら、いざというと舌が萎縮して何も云えなくなったのだ。
 私はそれから当分の間憂うつだった。多分ヤケ酒ばかり飲んだだろう。

 そんなことがあってから十何年のちには、広津さんともときどき会合などでお逢いするようになった。志賀先生のお宅で一緒になることもあった。それでも私は、文学青年時代にああいうことがあった、ということには絶対に触れないでいた。広津さんの方では疾うに忘れて居られるだろうが、こっちとしては、いつまで経ってもあの時の恥かしさが振り切れないのだ。
意気込 意気込み。いきごみ。さあやろうと勢いこんだ気持ち
往来 おうらい。人や乗り物が行き来する場所。道路。
疾うに とうに。ずっと前に。とっくに

 今から何年前になるか。どうも松川事件の裁判がうまくいったときだったように思うが、広津さんを囲んでお祝いの小集会があった折、私は初めてこのことをテープル・スピーチの形でしゃべった。その時記念品としてどこかから広津さんにテープ・レコーダーが贈られて、何人かの参会者のテーブル・スピーチが録音されたが、私の告白もそれに入っている。
 広津さんはやっぱり全然忘れて居られた。しかし私としては、広津さんの前でしゃべってしまったので、長年の重荷をおろしたような気持になった。

 初めてお逢いしたあの時の広津さんは、三十をいくらも出ていない年頃だったろうか。長身で、久留米絣がよく似合って、色白の顔に大きな目――あれで凝っと見つめられたときは手も足も出ない感じだった。大きな、澄んだ目だった。この人をつかまえて、自分は何を云う気だったのだろうか――私はほんとに恥かしかった。

 神楽館でお逢いした婦人は、はま夫人ではなかったように思う。筑摩書房版「現代文学大系『菊池寛・広津和郎集』」の年譜によると、大正十一年には「秘密」とか「ひとりの部屋」とか「隠れ家」とかいう作品が書かれている。次の十二年の項に「この年、松沢はまを知る」と記されている。彼れこれ思い合せると、私が神楽館に推参したのは、大正十一年のことかも知れない。だとすると広津さんは三十一歳である。
松川事件 1949年(昭和24)8月17日午前3時9分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。広津和郎は1953年秋、『中央公論』に「真実は訴える」、1954年春、「松川第二審判決批判」を発表、無罪を勝ち取るべく世論をリードしました。1963年9月12日、最高裁は検察側上告を棄却し、無罪が確定。
久留米絣 久留米地方で作られる木綿の紺絣
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
はま夫人 広津氏の内縁の妻。
彼れこれ かれこれ。いろいろな物事を漠然とまとめて示す意。あれやこれや。何やかや
推参 すいさん。自分の方から相手のところに押しかけて行くこと、または、人を訪問することを謙遜していう言葉

かくてありけり①|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の「かくてありけり」で、神楽坂の土蔵づくりと絵はがきについて書いてあります。

 昭和四十五年三月発行の「新宿区立図書館資料室紀要」に、『古老の記憶による震災前の形』という副題をもつ、七十センチ近くもある横長な『神楽坂通りの図』というものが附載(ふさい)されている。大通りに面した商店はむろんのこと、裏通りに至るまで明細に詮索(せんさく)されている手書きの地図を恐らく縮写印刷したもので、それをみているとひとたびうしなわれた記憶が私のなかにもゆっくりよみがえってくるのだが、牛込見附のほうからいえば坂上の右側にあったパン屋の木村屋、毘沙門前の尾沢薬局や、それより先の相馬屋紙店などとともに黒い漆喰(しっくい)土蔵づくりであった。そのパン屋とせまい路地を一つへだてた先隣りが太白飴の宮城屋、それから筆屋、三味線屋で、その先が絵はがき屋であった。
 絵はがき屋も太白飴などとともに消え去った商売の一つで、今では私が知るかぎり浅草のマルベル堂などが都内唯一の生き残り専門店かとおもわれるが、時代のスターも幾度か交替して、芸者から映画俳優、そして歌手という経過をたどったとみて誤まりあるまい。新橋、柳橋、赤坂などの芸者が一世(いっせい)風靡(ふうび)した時代があって、ブロマイドになる以前の絵はがきが飛ぶように売れた。私の姉などは、それにあこがれた最後の世代に相当するのではなかろうか。

『神楽坂通りの図』 コピーはここでも手に入ることができます。
附載 本文に付け加えて掲載すること
詮索 細かい点まで調べ求めること
木村屋 酒種あんぱんなどパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。
尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています

相馬屋 創業は万治2年(1659年)。雑誌『ここは牛込、神楽坂』で相馬屋の主人、長妻靖和氏は「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買い物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」と話しています。
漆喰 しっくい。消石灰に繊維質(麻糸等)、膠着(こうちゃく)剤(フノリ、ツノマタなど)、時に砂や粘土も加えて水で練ったもの。壁の上塗りや石・煉瓦(れんが)の接合に使います。

昭和初期の神楽坂(「牛込区史」昭和5年) 全て土蔵づくり

土蔵づくり 土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った構造や家屋。江戸時代には江戸や大坂で町屋を土蔵造にすることが奨励されて、特に明暦の大火後には御触書( おふれがき)まで出ています。なお、外壁を大壁とし土や漆喰を厚く塗って耐火構造にした倉庫が土蔵。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖(太白砂糖)を練り固めて作ったあめ
筆屋 魁雲堂でした。
絵はがき 裏面に写真や絵などのある葉書。1870年ごろ、ドイツで創案し、日本への渡来は明治20年代。
一世 その時代。当代
風靡 風が草木をなびかせるように、広い範囲にわたってなびき従わせること。また、なびき従うこと 「一世を風靡する」とは、ある時代に大変広く知られて流行する。
最後の世代 野口冨士男氏は1911年生まれです。姉は2歳上。中学校にはいるのは氏が12歳で、大正12年(1923年)。おそらくこの最後の世代は大正10年ぐらいに思春期になった世代でしょうか。

私のなかの東京|野口冨士男|路面③

文学と神楽坂

 昭和53年(1978年)、野口冨士男が書いた『私のなかの東京』③は、『神楽坂通りの図』と『牛込華街読本』の紹介があり、さらに神楽坂の路面はどう変化してきたかを書いています。最初は砂利、それから大正12年以降は木の煉瓦、そして昭和初期には石畳の場所もできたようです。

 私が神楽坂に住んでいたのは、小学校入学の前年に相当する大正六年秋から震災後の十三年春までで、その後も昭和三、四年ごろまでひっかかりを持っていたが、『神楽坂通りの図』には表通りの商店が軒なみ拾いあげられているばかりではない。路地奥の待合や芸者屋に至るまで詳細をきわめていて、私の家も図示されているからまことにありがたい。
 また、かつて東京新聞社政治部記者であった加藤裕正から贈られた、昭和十二年十ー月に牛込三業会から編纂発行された非売品の『牛込華街読本』には、巻末に『牛込華街附近の変遷史』というものが収載されていて、明治三十年代の写真や「風俗画報」の挿絵などが多数転載されているし、そうした有様は関東大震災前までさほどいちじるしい変化をみせていなかったので、それをひろげてみると回想のための援軍を送られたような気がする。震災前の神楽坂には砂利が敷かれていて、傾斜ももっと急であったから、坂下には九段坂下ほどではなかったが、荷車の後押しをして零細な駄賃をもらう立ちん棒がいたことまでが思い出される。

砂利 これははっきり出ています。昔は『牛込華街読本』にもあるように砂利でした。写真ではぶらぶらと坂に人相の悪そうに見える数人が立っていますが、次に説明する立ちん棒をやっていたのですね。
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立ちん棒 立ち続けている者。戦前では空巣ねらい、制服巡査。現在は売春する女性で、路上に立ち、直接交渉を行う者。明治から大正にかけて、立ちん棒は坂の下に立って大八車や荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業
神楽坂通り

 その砂利が取り払われて(もく)レンガとなったのは震災後のことだったはずで、坂の傾斜がゆるくなったのもそのときだったとおもうが、それがさらにサイコロ形の直方体の石を扇面状に置きならべたものに変ったのは昭和初年代のはずである。たしか昭和四年に中央公論社から出版された浅原六朗の『都会の点描派』というクリーム色のペーパーバックスの一冊に掲載されていた随筆の一つに、神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていたと私は記憶する。そして、『牛込華街読本』に掲載されている昭和十二年当時の写真をみると、ほぼ現状にちかいものに改まっている。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。まして、平面ともなれば、なんらの変化もみとめられないと言いきっても、恐らくまちがいではない。どこの横丁や路地を入っていってみても、他土地のばあいは道幅がひろげられたり、曲線が直線にちかく改変されている例がすくなくないのに、神楽坂周辺にはそういうことがない。都市開発からそれだけ取り残されているともいえるが、そういえば新宿区は町名変更も最もおくれている区の一つで、神楽坂周辺にはいまのところまだ旧町名をとどめているものがかなり多い。が、それももはや時間の問題であることは言うまでもない。

木レンガ 木で作ったレンガ。レンガ状の木。木材を輪切りやサイコロ状にして、木口を上に向けて敷き並べたもの。
震災 関東大震災のことで、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発震。
石畳サイコロ形… 石畳の1つ。ピンコロ(つまり、おおむね正方形の)石畳(敷き詰められた上面が平らな石)を使った鱗張り舗装(舗石張り技法の一つで、魚のうろこのように張ること)
都会の点描派 『都会の点描派』は1929年に中央公論社から出て、1993年、河出書房新社が再度出した当時の東京の随筆集です。最初に「神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていた」という点についてです。
 まず、この文章は『都会の点描派』のどこにも出ていません。つまり、河出書房新社の『浅原六朗選集 第3巻』(1993)には『都会の点描派』が完全に載っていますが、ここには同じ文章はどこにもありません。
 神楽坂は「弧を描く街から」という章にあり、「弧を描いている神楽坂の街路は、近代的な直線から離れて何処かなつかしいローマンスがあるので、人々はここを中心として夜にさかる」と「それらの物語を抜きにしても、神楽坂には曲線的都会情緒がある」だけです。「さかる(盛る)」とは「繁盛する。にぎわう。はやる」のこと。河出書房新社版ではこれ以上はわかりませんが、「弧を描いている」はどちらかというと「魚のうろこのように」、つまり石畳に似ています。
 さらに「路面は中央が高くて左右が低い」のは、道路全体について書いているのでしょう。道の中央が盛り上げられ、左右はどぶになり、前から下に割るとカマボコ形になっていた。(これから先に説明する道路を参照しましょう)。しかし、これも『都会の点描派』では書いていません。
当時の写真 『牛込華街読本』の昭和十二年当時の写真はこうなっています。詳細はここで

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神楽坂。『牛込華街読本』172頁から

志満金 しまきん。神楽坂下の2丁目の鰻屋のこと
時間の問題 ではなく、牛込では今でも古い町名をとどめています。

夏目漱石と中村武羅夫

文学と神楽坂

 中村武羅夫(むらお)氏が書いた「文壇随筆」(感想小品叢書、第10編、新潮社、大正14年) の一節です。ちなみに中村氏(1886(明治19)/10/4~1949(昭和24年)/5/13)は明治から大正にかけて活躍した編集者、評論家で、『新潮』訪問記者を振り出しに「新潮」の中心的編集者となりました。大衆小説も量産しますが、現在はほとんど残っていません。

 私が、湯の中で小便して、漱石に顏をあらはせて、大いに漱石をおこらしたといふやうなゴシツプが、つたへられたことがある。が、これはまちがひである。私だつて、まさか自分の小便で、人に顏をあらはせるやうな、そんな人の惡いまねをする筈はない。
 それは多分、次ぎのやうな話しが、誤傳されたものだと思ふ。
 その當時、漱石の家に、湯殿があつたかどうかを、私は知らない。漱石の家は、やつぱり現在の、早稻田南町だつたが、今のやうな堂々たる邸宅ではなく、確に家賃は四十五圓とかと漱石自身の口から聞いたことがあると思ふが、借家だつた。勿論、湯殿はあつたことだらう。が、直き前の錢湯に、よく出かけて來た。大抵、一番()いた十時ごろから二時ごろまでの間だつた。私もよくその錢湯に行つたので、時々湯の中で出逢ふことがあつて、「やあ」「やあ」と、裸で挨拶するのであつた。
「先生、湯に入ると、自然に小便が出たくなりませんか?」
 或時、私が、風呂の中で聞いた。
「湯の中でか?」
 漱石は、やつぱり湯に浸りながら、斯う反問した。
「さうです。」
「ないね。――君は、そんなことがあるか?」
「ぢや、僕だけですかね。僕は湯に入ると、自然に小便がしたくなるんです。」
「汚いね。」漱石は口尻をしかめて苦笑したが、急に立ち上がつて、「そんなことをいつて、君は今、したんぢやないか?」と詰問した。
「そんなことがあるもんですか。」と私は笑つた。
「どうだか、怪しいものだ。君が小便したんだと、僕は、君の小便で顏をあらつたことになる。汚いね。」
 漱石は、もう一度顏をしかめて、苦笑した。
 そんなことが、私が、自分の小便で、漱石に顏をあらはせたなどゝいふゴシツプに、誤りつたへられたのであらう。お蔭で私は、その後時々、德田秋聲氏と一緒に旅行などして、風呂には入つたり、溫泉に浸つたりする度に、「君、小便をしはしまいね。」などゝ、念を押されるのである。「僕と一緒の時には、それつだけは、一つ勘辨してくれたまへ。」と秋聲は、私をからかふのである。

 ここで徳田秋声氏の話が入っているのがうまく、最後で笑ってしまいます。徳田秋声氏も自然主義の小説家で、1872年2月1日(明治4年12月23日)に生まれました。ちなみに漱石氏は、徳田秋声氏よりも5年早く生まれ、1867年2月9日(慶応3年1月5日)でした。中村武羅夫氏は漱石氏よりも約20年も若い人でした。

[漱石雑事]
[漱石の本]
[硝子戸]

かくてありけり②|野口冨士夫

文学と神楽坂

 野口冨士夫氏の『かくてありけり』(昭和53年)は自伝ですが、子供の時、母親と父親は別々に住んでいました。では、冨士夫氏と一緒に住んだ母親は、神楽坂のどこにいたのでしょうか。最初に『かくてありけり』です。

金鱗堂版の江戸切絵図にも行願寺と記されている行元寺は明治三十九年に西大崎へ転移したが、「寺内」という呼び方だけはのこっていて、母の家は一軒の例外もなく待合と芸者屋だけになってしまっていた「寺内」の、ほそい路地を幾まがりかしたいちばんどんづまりの位置にあった。そして、数えでもまだ二十五歳でしかなかった母は、平池という姓から一字取った池本という芸者屋の主人でありながら、自分もふみという名で(ひだり)(づま)を取っていた。

金鱗堂 きんりんどう。金鱗堂板や尾張屋板とも。金鱗堂板の江戸切絵図はもっとも有名。江戸の市街や近郊地域を地図に分割して編纂した絵地図集。尾張屋(金鱗堂)板は、嘉永2年(1849年)刊行開始、同7年(1854)26枚揃、安政12年(1856年)28枚揃、文久3年(1863年)30枚揃を完成、作者は景山致恭と戸木昌訓。武家地が白、町家が灰、神社仏閣が赤、川や堀は青、道路が黄、土手や田畑や原が緑と色分けしています。
切絵図 きりえず。地域別に区切って作った絵図、つまり区分図。
行願寺 きょうがんじ。正しくは「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
寺内 じない。かつて行元寺があり牛込肴町と呼ばれた地域。現在の神楽坂5丁目。
待合 まちあい。貸席業。待ち合わせや会合のための場所を提供します。
左褄 ひだりづま。芸者の異名。左手で着物の褄を持って歩くことから

 では母の家は? 最初に昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」ではこうなっています。なにもわかりません。
古老の記憶
籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』(平成18年)では

大正六年より牛込区肴町53番地で、芸妓屋『池本』を営む母のもとで暮らすことになった

と書いてあります。また、東京都近代文学博物館の『野口冨士男と昭和の時代』(平成8年)でも

大正六年 牛込区肴町五十三番地に居住の生母のもとへ引き取られる

と記載しています。

 では肴町53番地はどこにあるのでしょう。昭和12年の「火災保険特殊地図」で53番地には2軒の家があるとわかります。行元寺
上の家は「山喜」で、待合なので、違います。下の家は(妓)と書いてあり、まずここでしょう。現在、この一帯はマンション「神楽坂アインスタワー」に完全に覆われてしまいました。

東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名

里見弴|私の一日

文学と神楽坂

 里見弴氏の『私の一日』(中央公論社、昭和55年)の「泉鏡花」には、この泉鏡花と徳田秋声の曰く言いがたい関係がもっと細かく書いてあります。

 その話も詳しくさせられるのかい?……厄介だな。……改造の社長の山本実彦が、円本のうちに紅葉編も出したいんだが、お宅には未亡人やお子さんばかりで、細い相談にのつてもらひたいといふので、徳田秋声の所に出かけて行つたんだとさ。そしたら秋声が、「おれもなんか口をきくけれど、それはに話さなくちやだめだ」といふので、二人で泉家に乗りつけたわけだ。鏡花は、自分の紋に源氏五十四帖香の図のうちから「紅葉の賀」といふのにきめて、使つてゐたし、玄関のくもりガラスの掛あんどんにまで、そいつを透かしに摺り出させてゐるんだ。ちと頂きかねるがね。しかし、尾崎紅葉に対する気持は、「師匠」なんてもんぢやあない、正に「神様」だつたね。
 でまあ、二人を二階、八畳間の仕事部屋に通したんだね。鏡花のもの書き机は長さ二尺ほど、幅は一尺かそこらの存外小さなものなんだ。そこに小さな硯と筆とが置いてある。のちには、日本紙でなく、罫のある西洋紙にしたが、あれはたしか水上にすすめられたんだ。万年筆も買つてあげたかどうか、晩年にはペンで書くやうになつたがね。初めの頃は、まだ筆の時代でね、朱筆と墨のとがきちんと揃へてあつたな。ついでに言へば、床の間の違ひ棚には紅葉の、春陽堂で出した全集がずらつと並べてあつて、その前にキャビネ型の紅葉の写真が飾つてあり、毎朝、起きぬけにそれに向かつて礼拝するんださうだ。それから、下でお茶がはひると、必ず自分が持つてあがつて供へる。人にものをもらつても、お初穂といふやつで、まづ「神様」に供へるわけだね。
 机の左側に手あぶりの火鉢がある。木の根つ株を錮りぬいた「胴丸」つてやつで、寸法はほぼ机と同じくらゐ。赤や緑の漆で描いてある葉が、やつぱり紅葉、つまり楓の葉なんだ。これは、女流画家で、大変な鏡花崇拝だつた池田蕉園から贈られたんださうだ。蕉園は或る期間鏡花とこのすぢ向かひの有島家の長屋に住んでたこともあつたしね。

改造 大正8年(1919)4月、山本実彦創立の改造社が創刊。大正デモクラシーの思潮を背景に進歩的な編集方針をとり、文芸欄にも力をそそいだ。昭和30年(1955)廃刊。
円本 えんぽん。一冊一円の全集類の総称。1926年(大正15年)末から改造社が『現代日本文学全集』の刊行を始めた。各出版社からも続々と出版された。
源氏五十四帖 源氏物語は全体で五十四巻から構成する。紅葉賀(もみじのが)は第7帖で、光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いたもの。
香の図と紅葉の賀 illust_23-4源氏の香は香を使った遊び。5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものを横線でつなぐ。たとえば「紅葉賀」では右のようになる。泉鏡花は式服の紋に紅葉賀を使っていた。
掛あんどん かけあんどん。家の入り口や店先の柱や廊下などにかける行灯
春陽堂 春陽堂が1890-91年に尾崎紅葉らの作品を収めた叢書『新作十二番』『文学世界』『聚芳十種』を出版し、以後明治期の文学出版をリードした。
初穂 はつほ。古来より神様に祈りを捧げる儀式の際には農作物が供物として奉納された。初穂とは、その年に最初に収穫した農作物。初穂料とは、この初穂(神様に捧げる農作物)の代わりとする金銭のこと
手あぶり 手をあぶるのに使う小形の火ばち
胴丸 火鉢胴丸ではなく、本当は胴丸火鉢のこと。丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。なお、胴丸は鎧の1形式で、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉(引合わせ)する形式のもの。
池田蕉園 いけだ しょうえん。1886年5月13日 – 1917年12月1日。明治、大正の女性浮世絵師、日本画家。
有島 有島武郎、有島生馬、里見弴の3人は横道の東側、麹町区下六番町(現・千代田区六番町三)の旗本屋敷に住み、横道の西側、下六番町11(現・六番町七)には二軒長屋で泉鏡花が住んでいました。
 さて、円本に紅葉を入れる相談を三人でしてゐるうちに……ここから先は、山本実彦の直話で、詳しく聞いたんだから、ほぼ間違ひはあるまいと信じてゐるんだが、その後いくたりかの人にも話してるかどうか……。紅葉が三十六歳の若死だつたといふ話の間に、秋声が「だけどほんといふと、あんなに早く死ななくてもすむのに、あの年で胃ガンなんぞになるなんてのも、甘いものを食ひすぎたせゐだよ。あの人ときたら、甘いものには目がなくて、餅菓子がそこに出れば、片つ端から食つちやつたからな」とかなんとか言つたらしいんだな。それはうそぢやなくて本当の話なんだらうけど、とにかく泉鏡花にとって氏は「神様」だ、朝晩拝んでるその方の写真の前で、そんなすつぱぬきみたいな口をきいたんだから、これはカーッとくるに違ひない。聞くが早いか、いまいつた胴丸火鉢をひとつ飛びに、ドスンと秋声の膝の上にのつかつてパッパッパッと殴つたんだとさ。その素早いことと言ったら……。
「泉さんつていふ人は手が早いですなあ」つて、山本がほとほと感心してゐだがね。どうにも収拾がつかないところを、まあまあと山本が割つてはひつて引きずるやうにして二階から徳田をつれおろして、外に待たせてあつた車に乗っけたんだけど、秋声は、ただもうワンワン声をあげて泣くばかり……。その時分、「水際の家」つていふのがよく秋声の作品に出てゐた、その浜町だか中洲だつたかの待合に連れて行つたんださうだ。下六番町から水際の家までいくら自動車だつて二十分か三十分はかかるよ。その間ずつと泣き続けてゐたさうだ。よほどくやしかつったんだらうし、びつくりもしたんだらう、可笑しいけど、……子供時分からのほんとの友達つて、こんなもんぢやないだらうかね。

すっぱ抜き 隠し事・秘密を不意に明るみに出すこと
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
浜町 中央区日本橋浜町
中洲 中央区日本橋中洲
待合 待合茶屋。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店
 あとになつて、こんな二人を仲直りさせるといふ水上の発案があつて、「どうかな」つて気もしたんだけど、お客様として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちから、やたらと酒ばかり飲んで、さも酔つたやうなふりをして寝ちまつてさ、……よくやる「たぬき寝入り」なんだよ。昔噺でもしようッて気で出て来た秋声だつて、どうにも手持ちぶさたで、いつの間にかスッと抜けて帰つちやう、といふ不首尾でね。にも拘らず、そのあとでも、秋声に会ふと、「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」つてね。実に素直な気持なんだよ。感動したけどね、心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」といつたんだ。それなのに鏡花の臨終の時に知らせが間に合はなかつた。陽のカンカン照つてる往来のまんなかで、ぼくは秋声にどなりつけられて、一言もなく頭を垂れたよ。
 とにかく、あの二人は生れつきの性分からして合はないんだね。ライバル意識なんてもんぢやない、紅葉以外はだあれも相手にしてゐない。当然のことだが、自分の仕事にそれくらゐの自信はもつてゐるからね。それからね、これは秋声が小説に書いてゐるけど、鏡花の実弟の斜汀が、秋声のやつてた本郷のアパートで死んだ時、葬式万端たいへん世話になつたといふんで、莫大なお礼をもって行ったんだね。その他人行儀なやり方にぐつと来たんだらうが、秋声流に、「またいつぱい食はされた」といつた風な、軽い結句でむすんでゐる。「神様」にだつて、どうしようもない、まあ、フェタルつてやつだな。別にさう珍しいことでもないしね。

九九九会 くうくうくうかい。九九九会は鏡花を囲む会で、1927年(昭和2年)、里見弴と水上瀧太郎が発起人、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集合。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。
秋声が小説に書いている 昭和8年6月、随筆『和解』です。「てくてく牛込神楽坂」では『和解』で見られます。
結句 詩歌の終わりの句。実際には、この随筆は「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んでいた。
フェタル fatal、fatale。致命的な、運命の、運命を決する、宿命的な、免れがたい。Famme fatale(ファム・ファタール)で「宿命の女」

大東京繁昌記|早稲田神楽坂15|心のふるさと

文学と神楽坂


心のふるさと
 神楽坂附近の散歩が長くなり過ぎて、早稲田方面に費すべき予定の時間が殆ど無くなってしまった。早稲田は私の「心のふるさと」である。大学を中心として、あの附近一帯から戸塚落合の方にまでも、至る処に私は私の足跡を見ざることなく、見るものすべてなつかしい思い出の種ならざるはないが、今は一々その跡を尋ねて歩く暇のないのを惜しく思う。
  (都の西北、早稲田の森に……)
 今はそこらの幼稚園の生徒でも、何かというとすぐ口癖のように歌い出す程あまねくひろまったこのなつかしい「われ等が母校」の歌が、はじめて「早稲田の森」から歌い出されたのは、明治四十年の秋、大学創立二十五年記念祭の折のことだった。私はその年の春大学に入ったのであるが、いわばあの歌は、当時在学の私達によってはじめて歌われ出したのであった。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達全校の学生を集め、あの巨体を前後左右に振り廻し、あの独特の大きな両眼をぎろつかせ、渾身こんしんこれ熱これ力といった有様で指揮棒を振り、私達にあの歌詞(相馬御風氏作)と曲譜とを教えたのであったが、記念祭の当日大隈故侯の銅像除幕式をはじめ色々の祝典が催され、夜には盛んな提灯行列が行われて、今の野球々場を振出しに、鶴巻町通りから矢来神楽坂を経、九段からお濠に沿うて宮城二重橋前まで、はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。

早稲田大学

心のふるさと『大東京繁昌記』。早稲田大学です

戸塚落合 以前の戸塚村と落合村。新宿区の全体は地図上では牛1頭によく似ています。で、戸塚村と落合村はこの頭と背中に当たります。高田馬場などになりました。
新宿区
大講堂 昭和2年に竣工した早稲田大学大隈記念講堂(大隈講堂)ではありません。その以前の講堂です。早稲田大学校友会の『早稲田大学八十年の歩み』(1962年)では赤で囲んだ校舎「へ」が当時の講堂になっています。
早稲田2
相馬御風 そうま ぎょふう。生年は1883年(明治16年)7月10日。享年は1950年(昭和25年)5月8日。詩人・歌人・評論家。早稲田大学文学部哲学科卒業。早稲田大学校歌「都の西北」をはじめ、多くの校歌や童謡の作詞者
大隈 大隈重信。おおくましげのぶ。生年は天保9年2月16日(1838年3月11日)。享年は大正11年(1922年)1月10日。政治家、教育者。政治家としては大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員など。早稲田大学の創設者で、初代総長。
野球々場 現在は早稲田大学総合学術情報センターです。
野球場
鶴巻町通り 現在の「早大通り」。昔は鶴巻(町)通りともいいました。鶴巻町通りの範囲は早大正門前から山吹町交差点まで。なお、提灯行列をしたのは以下の通り。ルートは早稲田大学から二重橋前までです。
早稲田32

彷彿 ありありと想像すること。よく似ているものを見て、そのものを思い浮かべること

 爾来星霜ここ二十年、大学それ自身の発展や拡張も、当時に比して実に隔世の感があるが、それにつれて附近一帯の変化発展も目ざましく、田甫の早稲田茗荷畑の早稲田は、今はただいたずらに其名を残すのみとなった。私が学校にいた頃には、今電車が走っている鶴巻町裏一帯の土地、即ち関口滝あたりからずっと先、遠く山吹の里なる面影橋附近まで一面の田野で、東電変圧所赤煉瓦あかれんがの建物が、その田圃の真中にただ一つぽつんと、あたりの田園的風光と不調和に、寂しくしかも物々しく立っているのみで、蛙の声が下宿屋の窓に手に取るように聞え、蛍の飛び交うのが見えたりしたものだったが、そうした旧時のおもかげなどはうの昔に跡方もなく、今は一面にぎっしり家が建て詰まり、すっかり見違えてしまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや場末的な感じながらもそこにまた一廓の繁華な盛り場を形造り、早稲田の中心鶴巻町通りの繁華を、次第にそこに移動せしめつつあるが如き観もないではない。

茗荷畑 江戸時代に早稲田村や中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町と山吹町)で生産しました。ここに生えるみょうがは赤みが美しく、大振りで晩生おくてのものでした。
鶴巻町 早稲田鶴巻町。早稲田村の鶴巻からとっています。元禄のころ、小石川村の放し飼いの鶴が早稲田村にも出没し、鶴巻町になりました。この中で真ん中を水平に通る道路は「早大通り」と呼び、以前は「鶴巻(町)通り」と呼びました。
早稲田鶴巻町
関口滝 明治43年の「牛込区の地形図」では下図で右の赤い四角です。
山吹の里 太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ると、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないという意味だと分かりました。この伝説の土地はいろいろありますが、その1つは都電荒川線面影橋の傍、豊島区高田1-18-1で、ここには「山吹の里の碑」があります。
面影橋 下図で左の赤い四角です。関口滝から面影橋まで周りは一面の「湿地」でした。
東電変圧所 下図で赤丸です。現在は、西早稲田1-13-17で、ここは東京電力早稲田家族寮がありました。この東電変圧所は赤レンガ造りで、明治の終わりに山梨県から高圧の電気を送っていました。下図を見ると、東電変圧所から南に大隈邸が見えます。これは大隈会館になり、現在は大隈庭園に変わっています。また中央左の運動場は早稲田大学運動場です。
関口滝から面影橋
道路 昭和4年の「戸塚町市街図」を見ると、運動場の南に新たな道路が生まれています。右図では右上から左下にかけての赤線の道路です。現在も同じ道路があります。
運動場1
 鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うことは、あの通りが大学前から一直線に山吹町羽衣館前まで、町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたりして、もっと感じのよい、品位にも富んだ、本当にいわゆる大学街といった風な、そして万余の学生諸君のためには、しっとりとした湿うるおいと温かい情味とに富んだ、心地よき散歩街ともなるようなものにならないだろうか、ということである。そうしたらどんなにいいだろう。又現に著々とその輪廓を整え、益々外観の美を増しつつある大学自身もどんなに引立って見えることだろう。穴八幡附近も、すぐ下に高等学院が出来たりしたためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。
 実は私は大学を中心として、それをめぐって近来異常な発展をなしつつあるいわゆる「早稲田」の名のもとにおける地方について、つぶさにその変遷推移の跡を尋ね、既往を回顧し現在を叙し学生々活の今昔をも物語るつもりであったが、与えられた回数がすでに尽きたので、一方にのみ偏して甚だ申し訳なき次第だが、止むなくこれを他日の機会に割愛し、ここにわが愛する「心のふるさと」なる母校並びに全早稲田のために万歳を三唱して、以てこの稿を終ることとする。(昭和二年六月)

山吹町羽衣館 赤城神社の氏子町の説明で「娯楽場として(一百九十三番地に明治四十二年四月建設)の常設活動写真羽衣館」があったと書いています。しかし、193番地はどこなのか、正確にはわかりません。昭和5年の『牛込区全図』では193番地がありません。
 また、『歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記』(http://blog.livedoor.jp/toden41/archives/21379053.html)では、「都電時代は早稲田の学生街に続く神楽坂の裏町としても賑わいを見せた一画で、電停跡地付近には「羽衣館」という映画館もありました。映画館は戦後も存続し、昭和末年頃にひっそりと姿を消しています」と書いています。
 1970年の「新宿区・1970年度版・渋木逸雄」(国立図書館)の地図では羽衣館はどこにもないのですが、「牛込文化劇場」がありました。「電停跡地付近」にあるので、ここでいいのでしょう。現在は「トヨタレンタリース東京山吹町店」です。

牛込文化劇場

散歩街 「大学前から一直線に町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたり」した道路が筆者の希望でした。しかし、実際にそうなってしまいました。こんな学生街はまあほかにはないと思います。
穴八幡 穴八幡宮。あなはちまんぐう。新宿区の市街地にある神社。利益は蟲封じ、商売繁盛や出世、開運など。旧称は高田八幡宮。下の絵では水色の丸。「高田馬場の流鏑馬」の標板があります。
高等学院 早稲田高等学院のこと。しかし、この高等学院は練馬区上石神井に移動し、現在は早稲田大学戸山図書館になっています。下の図では青の四角。
馬場下の通り 馬場下町を通る道路は1つだけです。したがって、最下図の1つしかありません。
旧高田馬場跡 馬場は寛永13年(1636)に作り、旗本の馬術の練習場でした。上は緑色の四角で。下は嘉永5年と現在。

江戸大絵図・嘉永5年

江戸大絵図・嘉永5年

現在の場所

下戸塚通り 下戸塚村には道路が複数あります。しかし、旧高田馬場跡という名前から考えられる通りは2つ。1つは旧高田馬場跡の上(下の図では旧高田馬場の上方の細い青)、1つは旧高田馬場跡の下(下方の太い青)。しかし下の1つははるかに幅が広いので、この通りでしょう。昭和5年にはもう下の通りのほうが広がっていました。この下の赤の点に標板「旧高田馬場跡」があります。
昭和五年戸塚・落合の地形図
既往 過去

英国帰りの漱石|矢来町

文学と神楽坂

 英国から帰った明治36年1月24日(1903年、37歳)から3月3日まで、夏目漱石氏は妻の鏡子氏がいた牛込矢来町3番地中ノ丸の中根宅に滞在しました。

ここは牛込、神楽坂』の編集人だった立壁正子氏は第10号で「漱石夫人が悪妻だったなんて」を書き

旧姓中根キヨ(後に鏡子)。明治十年、中根重一の長女として福山に生まれる。中根家は代々福山藩の武士。明治維新後、父は藩の秀才として選抜され大学で経済学を学ぶことになり、それに必要なドイツ語を学ぶため医科へ。長女の鏡子さんが生まれる前後に、新潟の病院へ赴任。ドイツ人の院長の通訳を務め、後に副院長に。鏡子さんが五歳のときに帰京。牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地、いま新潮杜のあるところに住む。父上はその後官吏となり、鏡子さんが結婚する頃は貴族院の書記長をしていた。(『漱石の思い出』より)
 かくて鏡子さんは松山から上京した漱石と東京で見合。翌年、漱石の赴任先の熊本で結婚。そのとき鏡子さんは十九歳。
 以後、単子、恒子の二児をもうけ、漱石はイギリスヘ国費留学。鏡子さんは牛込矢来町の実家の離れで休職手当て二十五円で耐乏生活(実家も父上が相場で失敗、窮乏)。漱石が帰国した際は、衣類も夜具もぽろぽろという状態だった。

 矢来町について、夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』では極めて書いてあることは少なく、

そのころの中根の家は牛込矢来の、ちょうど今の新潮社のところで、あすこは私たち思い出の深い土地なのです。(略)
 それからすぐと矢来の、三年間畳替えもしなければ何の手入れもしない、ただ留守中雨露(うろ)(しの)いでいたというだけの荒れに荒れた家に入りました。

「漱石夫人が悪妻だったなんて」の話で出てきた「牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地」とありますが、二番地ではなく三番地でした。大正11年には、字「中の丸」は下の範囲でした。「六十、現七十一番地」は大正11年の地図ではわかりませんが、昭和5年の七十一番地はこうなっています。

 昭和5年の71番地と63番地の間を上下に続く道路は将来の「牛込中央通り」です。現代ではここの薄青の円が昔の71番地になります。

新潮社T11とS5と現代

 しかし漱石は「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根方」と書いたようです。また義父中根重一に対しても「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根重一」と書いたようです。つまり、「六十、現七十一番地」は誰が書いたのでしょうか?

 同書の中根眞太郎氏の「大伯母鏡子のいるところは花が咲いたようでした」によれば

矢来町の中根家のことは、小学校4年の頃、父と近くを通った際、あそこだと教えられたことがあります。いま新潮社の本社のあるあたりでしょうか。(略)
 大伯母の鏡子は、すばらしいおばあちゃんでした。江戸っ子気質で、ウイットがあって。彼女がいるところは周り中に花が咲いたようでした。弟子たちにも人気があって、よく面倒を見ていたようです。岩波書店の創立の際には株券で3千円を融通していますし、たいした人でした。

 さらに新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の「出版おもいで話」(昭和11(1936)年11月)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村、加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。(中略)
 社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。そこで、九月一日の午後一時をもって新館開きの記念会を開き、文芸映画をはじめ各種の余興を揃え、御馳走も然るべく用意して、今やただ時間の来るのを待っている時に、待ち設けぬ大地震がやって来たのである。

中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。

漱石氏は1年強この矢来町にいました

 したがってこれから考えると、この赤く塗った場所が中根貴族院書記官長の住まいでしょう。漱石氏もしばらくいたことがある場所でした。(地図は新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』「明治」から)。大正になったころ番号が変わり、71番地でした。

新潮社と社長邸

 右に掲げた昭和12年の『火災保険特殊地図』では、当時の71番地には西方に新潮社、東方に住んだ新潮社の初代社長・佐藤義亮邸があり、東のほうが西の新潮社よりも大きかったようです。
 なお、これと違った地図もあります。新宿区の『漱石山房秋冬』です。しかし、⑥の場所は字「中の丸」ではなく「山里」になるので、違います。

漱石山房秋冬

 現在の71番地は3つに分かれています。写真は新潮社の本館です。漱石は「新潮社の本館」の北半分に住み、実際、新潮社本館の玄関の場所と、夏目漱石が使った玄関の場所は、よく似た場所にあったといえるでしょう。新潮社本館
新潮社の地図

 最後に寺田寅彦氏が書く「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年)の一節です。

 帰朝当座の先生は矢来町(やらいちやう)の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。自分の訪ねた時は大きな木函に書物の一杯つまつた荷が着いて、土屋君といふ人がそれを開けて本を取出して居た。そのとき英国の美術館にある名画の写真を色々見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと云はれたので、レイノルヅの女の子の絵やムリリヨのマグダレナのマリアなどを貰つた。先生の手かばんの中から白薔薇の造花が一束出て来た。それは何ですかと聞いたら、人から貰つたんだと云はれた。たしか其時に(すし)の御馳走になつた。自分はちつとも気が附かなかつたが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻(のりまき)に箸をつけると自分も海苔巻を食ふ。先生が卵を食ふと自分も卵を取上げる。先生が海老(えび)を残したら、自分も海老を残したのださうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの喰ひ方」と覚書のしてあつたのは、比時のことらしい。

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大東京繁昌記|早稲田神楽坂11|カッフエ其他

文学と神楽坂

 加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)です。

  カッフェ其他
 カッフェ其他これに類する食べ物屋や飲み物屋の数も実に多い。殊に震災後著しくふえて、どうかすると表通りだけでも殆ど門並だというような気がする。そしてそれらは皆それぞれのちがった特長を有し、それぞれちがった好みのひいき客によって栄えているので、一概にどこがいゝとか悪いとかいうよりなことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフェといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされているようだ。

カッフェ コーヒーなどを飲ませる飲食店。大正・昭和初期には飲食店もありますが、女給が酌をする洋風の酒場のことにも使いました。
震災後 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日に起こりました。神楽坂の被害はほとんど何もありませんでした。
門並 かどなみ。その一つ一つのすべて。一軒一軒。軒なみ。何軒もの家が並び続いている。以上は辞書の訳ですが、どれももうひとつはっきりしません。
オザワ 一階は女給がいるカフェ、二階は食堂です。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

 下の図は加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』の挿絵です。古い「田原屋」の絵がでています。 田原屋の絵

(左)牛込區全圖 市區改正番地入 三井乙藏 著 三英社大正10年2月(右)牛込区名鑑. 大正15年版 小林徳十郎 編 自治めざまし新報社 大正14年

 田原屋とオザワとは、単にその位置が真正面に向き合っているというばかりでなく、すべての点で両々相対しているような形になっている。年順でいうと田原屋の方が四、五年の先輩で料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態〻食事に来るものも多いそうだ。いつも食べるよりも飲む方が専門の私には、料理のことなど余り分らないが、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはこゝで飲んだり食べたりするようだ。五、六年前、いつもそこで顔を合せる定連たちの間で田原屋会なるものを発起して、料亭常盤で懇親会を開いたことなどあったが、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物が食べられるというのも、一つの有利の条件だ。だがその方面の客は多くは坂上の本店のフルーツ・パーラーの方へ行くらしい。
 薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。少し遅れてその筋向いにカッフェ・スターが出来、一頃は田原屋と三軒鼎立の姿をなしていたが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年になるそうだ。田原屋とはまたおのずから異なった特色を有し、二階の食堂には、時々文壇関係やその他の宴会が催されるが、去年の暮あたりから階下の方に女給を置くようになり、そのためだかどうだか知らぬが、近頃は又一段と繁昌しているようだ。田原屋の小ぢんまりとしているに反して、やゝ散漫の感じがないではないが、それだけ気楽は気楽だ。

 新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」を見ると震災前

態〻 わざわざ。特にそのために。故意に。「〻」は二の字点、ゆすり点で、訓読みを繰り返す場合に使う踊り字です。大抵「々」に置き換えらます。
料亭常盤 昭和25年に竣工した本多横丁の常盤家ではありません。当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、常盤と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。
上宮比町
薬屋の尾沢 尾沢薬局からカフェー・オザワが出てきました。神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
 カッフェ・スター 牛肉屋恵比寿に変わりました。カッフェ・スターというのはグランド・カフェーと同じではないでしょうか?別々の名前とも採れますが。
恵比寿亭 現在山せみに代わりました。場所はここ。
散漫 まとまりのない。集中力に欠ける。

 この外牛込会館下のグランドや、山田カフエーなどが知られているが、私はあまり行ったことがないのでよくその内容を知らない。又坂の中途に最近白十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の山本のあることを忘れてはなるまい。

グランド 新宿区郷土研究会の20周年記念号『神楽坂界隈』の中の「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエーグランド」は牛込会館の下か右、あるいは地下にあったようです。現在はサークルK神楽坂三丁目店です。
山田カフエー 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエ山田」は現在の助六履物の一部にありました。
白十字堂 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「白十字喫茶」は以前の大升寿司にありました。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
パウリスタ風 明治44年12月、東京銀座にカフェーパウリスタが誕生しました。この店はその後の喫茶店の原型となりますが、これは「一杯五銭、当時としては破格値だったため、カフェーパウリスタは開店と同時に誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれるようになりました」(銀座カフェーパウリスタのPR)からです。なお、パウリスタ(Paulista)の意味はサンパウロっ子のこと。
山本 『かぐらむら』の「今月の特集」「記憶の中の神楽坂」で、「『山本コーヒー』は楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった」と書いてありました。同じことは「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」でみられます。詳しくはここで
 震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部クラブとして文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社けんゆうしゃ一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。紅葉山人に俳句を教わったとかで幽郊という号なんか持っているが、発句よりも天ぷらの方がうまそうだ。泉鏡花さんや鏑木かぶらぎ清方さんなどは今でも贔屓ひいきにしておられるそうで、鏡花の句、清方の絵、両氏合作の暖簾のれんが室内屋台の上に吊るされている。

プランタン、婦人科医、明進軒 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』では以下の説明が出てきます。

「歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはしめた。めずらしさもあって料理の評刊も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった」

 しかし、困ったことにこの資料の名前は何なのか、わからないことです。この文献は何というのでしょうか。 この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
 渡辺功一氏の半ページほど前に笠原伸夫氏の『評伝泉鏡花』(白地杜)の引用があり、

 その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。

と言っています。昭和12年の「火災保険特殊地図」で岩戸町24番地はここです。
明進軒
 また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。
肴町
 さらに1970年の新宿区立図書館著の「神楽坂界隈の変遷」でも

紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は、岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。

 さらに『東京名所図会』を引用し

 明進軒は岩戸町二十四番地に在り。西洋料理,営業主野村定七。神楽坂の青陽楼と併び称せらる。以前区内の西洋料理店は,唯明進軒にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に転ず。其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに会合し、当年の逸話また少からずといふ。

 結論としては明進軒は岩戸町二十四番地でしょう。
硯友社 けんゆうしゃ。明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月、東京大学予備門在学中の尾崎紅葉、山田美妙(びみよう)、石橋思案(1867‐1927)らが創立。同年5月から機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊し、小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)など、さまざまな作品を採用。紅葉、美妙が筆写した回覧雑誌、のちに印刷しさらに公売。
勇幸 場所は上の地図を見て下さい。この場所は今でも料理屋さんがたくさん入っています。鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われ明進軒は紅葉一門が行きつけの洋食店で、半古先生も門人などをつれてよく行れた。後年私が牛込の矢来に住んで、この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居るのに邂逅(めぐりあ)って、いにしえの二人の先生に代わって私が贔負(ひいき)にするようになったのも奇縁というべきであった。泉君(鏡花)も昔の(よしみ)があるので、主人の需めるままに私と寄せがきをして、天ぷら屋台の前に掛ける麻の暖簾(のれん)を贈った。それから彼は旧知新知の文墨の士の間を廻ってのれんの寄進をねだり、かわるがわる掛けては自慢にしていた。武州金沢に在った私の別荘に来て、漁り立ての魚のピチピチ跳ねる材料を揚げて食べさしてくれた。気稟(きっぷ)のいい男であったが、戦前あっけなく病んで死んだ。

なお、「旧地の近くに」と書いてあり、これは「明進軒の近くに」あったと読めます。


大東京繁昌記|早稲田神楽坂14|矢来・江戸川

文学と神楽坂


矢来・江戸川
 その頃のことを追想すると、私は今でも心のときめくような深い感慨をもよおさずにいられない。芸術座創立前後における、私達島村先生の周囲に集まった者等の異常な感激と昂奮とは別としても、私自身も一度は舞台に立とうかなどと考えて、同好同志の数氏と毎日その清風亭に集まり、島村先生や須磨子について脚本の朗読を試みたり、ゴルキイ「夜の宿」などを実際に稽古をしたりしたものだった。私はルカ老人の役にふんし、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その高等演芸館が今の牛込館になったのであるが、当時そこには藤沢浅二郎俳優学校が設けられていたり、度々創作試演会が催されたりしたもので、清風亭は別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。

矢来交番

芸術座 第一次は島村抱月(ほうげつ)、松井須磨子(すまこ)を中心とした芸術座。1913年(大正2年)、島村抱月松井須磨子とのスキャンダルがあり、坪内逍遥の文芸協会を脱退し、2人は相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。1918年(大正7年)11月、島村がインフルエンザ(スペイン風邪)で急死、2か月後には松井が後を追って自殺。芸術座は解散。
清風亭 この頃の清風亭は、赤城神社内ではなく、石切橋に新築しています。
ゴルキイ マクシム・ゴーリキー(Максим Горький)。ロシアの作家。生年は1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)。享年は1936年6月18日。
夜の宿 劇は「どん底」と同じ。1902年作。帝制末期のモスクワの木賃宿に住むどん底の人々の生活を描きました。1910年(明治43)12月の自由劇場の公演名は「夜の宿」。1922年2月、1回だけ「どん底」に変更。1936年9月、新協劇団があらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。
ルカ老人 「どん底」の登場人物ルカは60歳の巡礼者。途中から現れてどん底にいる住人たちを一人一人勇気づけ、未来への希望を願うといいます。
藁店 神楽坂通りに神楽坂五丁目の南に曲がる道を上に登る坂道のこと。標柱もあり、「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた」と書いてあります。詳しくはここで
高等演芸館 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では「藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設。
牛込館 藁店の中腹にあった映画館。以前は高等演芸館・東京俳優養成所。
藤沢浅二郎 ふじさわあさじろう。俳優、劇作家、ジャーナリスト。生年は慶応2年4月25日(グレゴリオ暦 1866年6月8日)。享年は1917年3月3日。
俳優学校 1908年(明治41年)11月11日、藤沢浅二郎は自費で牛込に東京俳優養成所を開設。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では「第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった」。詳しくはここで
余丁町 坪内逍遥が新劇活動を行った場所は余丁町7でした。「坪内逍遥旧居跡(文芸協会演劇研究所跡)」と書いた標識板もあります。
文芸協会 坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体。新劇運動の母体になりました。
横寺町 新宿区の北東部の町。北部は神楽坂6丁目に接し、北東部は岩戸町、南東部は箪笥町、南部は北山伏町、西部は矢来町に接する。主に住宅地。

 矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで延長して、更に江戸川の通りと連続すべき運命にあるように思われる。消防署附近に、矢来ビルディングなるハイカラな貸長屋が建ち、あたりも大変明るい感じになった。そしてカッフエその他の小飲食店も沢山軒を並べて、この辺はこの辺だけで又一廓の小盛り場をなすが如き観を呈しているが、ここまで来ると、その盛り場は最早純然たる早稲田の学生の領域である。私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行くが、そののれんを外にくぐり出ると、真向の路地の入口にわが友水守亀之助君経営の人文会出版部標木が、闇にも白く浮出しているのが眼につくであろう。仰げば近く酒井邸前の矢来通りに、堂々たる新潮社の四層楼が、わが国現代文芸の興隆発達の功績の三分の一をその一身に背負っているとでもいいたげな様子に巍然ぎぜんとして空高く四方を圧し、経済雑誌界の権威たる天野博士の東洋経済新報社のビルディングが、やや離れて斜に之と相対しているが、やがてこの二大建築の中間に、丁度三角形の一角をなして、わが水守君の人文会の高層建築のそびえ立たん日のあるべきを期待することは甚だ愉快である。

矢来の通り 早稲田通りのうち牛込天神町交差点から矢来町の終わるまでの通り。
寺町の通り 早稲田通りのうち神楽坂6丁目(以前は通寺町)に入る通り。
江戸川の通り 牛込天神町交差点から江戸川橋交差点までの通り。現在は「江戸川橋通り」、あるいは「奥神楽坂」。ここには明治・大正の呼び方を書いておきます。
神楽坂・矢来・江戸川 消防署 矢来町104にありました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」です。
矢来ビル… 場所は不明
ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。丈の高い襟という意味の英語「high collar(ハイカラー)」に由来します。明治時代に、西洋帰りの人や西洋の文化や服装を好む人が、ハイカラーのワイシャツを着ていたことから。
一廓 いっかく。一郭。一廓。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
学生の領域 戦前、早稲田大学は神楽坂に大きな力を持っていました。しかし、戦後になると、多くの早稲田学生は高田馬場や新宿に流れていきます。
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日。
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。ほかにはLa Città morta(死都、1898年)など。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、また、売ったりする店。書店。本屋。江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、板元はんもと(版元、書肆しょし、本屋)が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていました。
鷲尾浩 早稲田大学文学士でした。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。鷲尾浩氏の翻訳は『マーテルリンク全集』以外は、ほぼ性愛、性欲、色情に関するものばかり。『性愛の技巧』『性欲研究名著文庫』『風俗問題』『性慾生活』『色情表徴』『男と女』『恋愛発達史の新研究』『人間の性的撰択』『純潔の職能と性的抑制』『性的感覺』『性的道徳と結婚』『姙娠の心的状態』『愛と苦痛』『性教育と性愛の価値』『売淫と花柳病』。
江戸屋 尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には「矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾(のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。」と書いてあります。正確な場所は牛込区矢来町22番地です。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。
水守亀之助 みずもりかめのすけ。大阪の医専を中退して、1907年、田山花袋に入門。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社し、『新潮』編集部に。編集者の傍ら、『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏といわれました。生年は1886年6月22日。没年は1958年12月15日。享年は72歳。
人文会出版部 国会図書館で調べると、人文会出版部の以前の住所は矢来町3番目。この3番目は大きすぎて、わかりません。しかし、新規の番号に再制定され、新しい番号は矢来町66番地でした。この図(火災保険特殊地図、昭和12年)では階段から上に登ったところが66番です。下の図では現在の66番ですが、ちょうど新潮社のLa Kaguの大きなテラスだけになっています。 人文会
標木 ひょうぼく。目印にする木
酒井邸 江戸時代は小浜藩酒井家。明治時代は酒井邸になります。
新潮社 昭和12年の「火災保険特殊地図」によれば、この当時の新潮社は矢来町71番地だけでした。(現在は膨大な場所です)。しかし下の図では下の青い四角。
巍然 ぎぜん。高くそびえ立つさま。抜きんでて偉大な様子。
天野 天野為之(あまの ためゆき)。明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任。生年は1861年2月6日(万延元年12月27日)。享年は 1938年(昭和13年)3月26日。
東洋経済新報社 1895年に創立し、『週刊東洋経済』や『会社四季報』などを手がけました。1907年から1931年までは牛込区天神町6番地に社屋がありました。下図では左上の青い四角です。中央の青い四角は人文会出版部、下の青い四角は新潮社です。

新潮社など

牛込区全図、昭和5年

 江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿穢小なる一細民窟に過ぎなかったが、交通機関の発展は、今やその地を神楽坂に次ぐの繁華な商店街となし、毎晩夜店が立って、その賑かさはむしろ神楽坂をしのぐの概がある。矢来交番前に立って、正面遠く久世山あたりまで一眸いちぼうに見渡した夜の光景も眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完通の暁には、更に面目を一新して一層の繁華を増すことであろう。

低湿穢小 土地は低く、湿気は多く、きたなく、小さい
細民窟 貧しい人たちが集まり住んでいる地域。貧民窟
久世山 くぜやま。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では「八幡坂(はちまんざか)は音羽一丁目と小日向二丁目の境界にあたる。この坂の上は通称久世山とよぶ。小日向の高台で、江戸時代は下総国関宿の藩主久世氏の広大な下屋敷があったので久世山の名が起った」。久世山は小日向台地の1部です。
音羽護国寺前 最北部は交差点「護国寺前」。目白通りから南方に向かってくると音羽になります。
電車 都電(市電)のことで、「矢来下」停留場まで来ていました。
あるまじく あってはならない。
繁華 人が多く集まってにぎやかなこと

 それにつけて思い出されるのは江戸川の桜衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいことである。あの川をはさんだ両側の夜桜の風情の如き外には一寸見られぬものであったが、墨堤ぼくていの桜が往年の大洪水以来次第に枯れ衰えたと同様に、ここもまた洪水の犠牲となったものか、あの川の改修工事以来駄目になってしまった。その代りというわけでもないが、数年前に江戸川公園が出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の滝の下の緑蔭下に、小舟にさおし遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続いていた一頃の如き賑いは見られないようだ。行く川の流れは元のままにしてしかも元の水にあらずか?

江戸川の桜 文京区の「江戸川公園」では次のようになっています。

明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで、石切橋から大曲まで、約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、河川改修に伴い、昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退
墨堤 隅田川の土手
江戸川公園 関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園

江戸川公園

関口の滝 神田上水は、関口大洗堰で左右に分かれ、左側は上水、右側は余水の江戸川となり、関口から飯田橋までは江戸川、飯田橋から浅草橋までは神田川と呼びました。1965年(昭和40年)の法改正で、両川とも神田川に。『江戸名所図会』ではこの大洗堰は「目白下大洗堰」として紹介されています。1937年(昭和12)、改修時、大洗堰はなくなり、跡には大滝橋が架けられています。
緑蔭 木の青葉が茂ってできるひかげ。こかげ。季語は夏
葉桜 花が散って、若葉の出はじめた桜。季語は夏

大東京繁昌記|早稲田神楽坂13|追憶

文学と神楽坂

追憶

私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染なじみだが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。
 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。

都寿司

都寿司 織田一磨作の神楽阪(1917)(「東京風景」より )には都寿司は次の絵のように載っています。

織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では現在の「福屋せんべい」の前に寿司がありました。

神楽坂と縁日市

郵便局 神楽坂6丁目にあった「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
ヤマニバー 菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物が昔のヤマニバーでした。細かくはここで
神谷バー 創業明治13(1880)年。日本初のバー。ずっと浅草1丁目1番地で。2011年(平成23年)、神谷ビル本館は登録有形文化財に

その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ/\した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手に閻魔えんまがあり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう/\とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。

 新宿区横寺町交友会『よこてらまち今昔史』(00年)の「昭和10年頃の横寺町」を見ていきます。横寺町

第一銀行支店 現在は「スーパーキムラヤ」です。これは、まあちょっと高級なスーパーです。上の図では最も右で、青灰色です。
お閻魔様 正蔵院のこと。丸形で色は濃紺色。
市営の公衆食堂 「神楽坂公衆食堂」です。薄緑色で。
飯塚酒場 現在は普通の家ですが、長い間酒場をやっていました。薄茶色です。
同じ酒場 新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)の「昭和10年頃の横寺町」では「1. 米屋 2.パーマネント 3. 公証人役場 4.目覚し新聞 5.マッサージ業 6.靴修理店 7.歯医者 8.若松屋 9.大工職 10.洋服店」で、昭和10年頃で「同じ酒場」はありません。若松屋が何を指しているのか分かりませんが、酒場ではないようです。若松家であればテキヤの1つ。テキヤとは縁日など人出の多いところなどで、居合抜き、独楽回し、手品、曲芸などの見世物を演じ、各種の薬品,商品を売る者。なお、横寺町の「もきち」(居酒屋)はこの時はまだ生まれていません。この横寺町の「もきち」は「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」にでています。
芸術座跡 座長の島村抱月が大正7年12月、スペインかぜで死亡し、大正8年1月、1か月後に主演女優の松井須磨子氏は自殺し、2人を失った芸術座もこれでなくなり、松井須磨子氏の兄、小林さんのアパート(芸術倶楽部跡)になりました。紫色
荒物… 「荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋」は「荒物屋、染物屋、女髪結、製本屋、質屋」のこと。荒物屋は「家庭用の雑貨類を売る商売や店」で、別名は「雑貨屋」。以下のイラストでは赤で書いてあります。横寺町はあらゆる店があり、なんでも売っていたようです。
日蓮宗のお寺 円福寺です。黄色で。現在も円福寺はあります。
田川 花屋の田川は青色で。現在はありません。

私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しいいたましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。

芸術座 げいじゅつざ。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。これは第一次芸術座のほう。
トルストイ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич ТолстойLev Nikolayevich Tolstoy)。帝政ロシアの小説家、思想家。生年は1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)。没年は1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)。
闇の力 愚かさにより父殺し・嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
死とその前後 大正7年10月、須磨子は有島武郎の「死と其(その)前後」の妻役で好評を博しました。
印銘 いんめい。 公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すこと。
傷しい死 島村抱月はスペインかぜ(新型インフルエンザ)で、大正7年11月5日に死亡し、翌8年1月5日、松井須磨子氏は自殺します。

私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。

赤城神社 現在は赤城元町1-10。700年にわたり牛込総鎮守として鎮座しています。
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。しかし、清風亭はどこにあるのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
博文館 はくぶんかん。東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊。取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、戦前は日本最大の出版社に。
筑土の植木屋旅館 近松秋江がここに来る前は筑土の植木屋旅館だったといいます。場所は不明。筑土とは「津久戸」なのか、「筑土八幡町」なのか、合わせてそう呼んだのか、わかりません。
楠山正雄 くすやま まさお。1884年11月4日 – 1950年11月26日。演劇評論家、編集者、児童文学者
永代橋 都川えいたいばし。隅田川にかかる橋で、地上には永代通り、地下には東京メトロ東西線が通っています。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。実際は巨大な地図が東京紅團(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ にあります。
都川 都川も上図で。

その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀土肥水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会もとを作った由緒ゆいしょづきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。

清風亭 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋になりました。しかし、赤城神社内で清風亭はどこあったのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
貸席 料金を取って貸す座敷
土肥 土肥春曙。どひしゅんしょ。明治2(1869).10.6.-1915.3.2。俳優。1890年東京専門学校 (現早稲田大学) 文科の第1期生として入学。卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、1901年川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、翌 06年文芸協会が設立されると技芸監督、中心俳優として活躍。
水口 水口薇陽。びよう。1873-1940。05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、上演運動を行う。
文芸協会 1906年、坪内逍遥、島村抱月が中心で、演劇のみならず宗教・美術・文学など広範な文化運動を目的として発足。09年演劇研究所を設立して演劇団体に。1913年、解散。
江戸川の清風亭 清風亭は石切橋の近郊に転移しました。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」(三交社)では「この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になる」と書いてあります。石切橋は
石切橋
古蹟 こせき。古跡とも。歴史に残るような有名な事件や建物などのあと。遺跡。旧跡。古址こし

里見弴|二人の作家

文学と神楽坂

 まったくすごい殴打事件でした。たとえば

 殴打事件は紅葉の何回忌だったか、とにかく衆人環視の中で鏡花が興奮して無抵抗の秋声をぽかぽか殴り付けたそうです。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2478098.html

  ええー、うそでしょう。尾崎紅葉の問題で泉鏡花徳田秋声を殴るなんて。
  でも、ほかの例を見ても同じです。

 秋聲が紅葉先生の死因を茶化したとかいう理由で鏡花が秋聲を殴打する事件などなど、いろいろ確執があってふたりの仲はよくなかったそうです。それでも晩年和解しています。( http://d.hatena.ne.jp/cho0808/20121118/p1 )

 ほんとうなの。やがてわかってきます。嘘が少し大きくなっていくのは仕方ないし、「和解」も「和解」なんだ。それでは、昭和25年、里見弴氏が満58歳に書いた、泉鏡花氏が徳田秋声氏を殴る「二人の作家」の始まりです。

里見弴

里見弴

 二十歳(はたち)(だい)で「白樺(しらかば)」に幼稚な作品を載せ始めたころの私からすれば、徳田秋声も、泉鏡花も、ともにひと干支(まわり)以上年長(としうえ)の、はるか彼方(かなた)鬱然(うつぜん)と立っている大家だった。この二人は、明治初葉に二年違いで北陸の都会に生を()けて、同窓の幼な馴染(なじ)みでもあり、上京後は、当時の小説家の大半を糾合、結束したかの観ある硯友社(けんゆうしや)の頭領で、かつまた読書子の人気の焦点となっていた尾崎紅葉の門下に加わり、一つ(かま)の飯を(わか)ち合った仲でもあったが、作風も人成(ひととなり)も、まるッきり異なったもの、――正反対とも云えるもののように思われたし、そのせいか、永らく交わりが()たれているという(うわさ)にも間違いはなさそうだった。尾崎紅葉が、行年三十七歳という夭折(わかじに)をしたあと、次第に衰退の色を濃くしつつあった硯友社一派の口マンティシズムから、いち早く離脱して、轗軻不遇(かんかふぐう)(かこ)っていた秋声も、日露戦役後、自然主義勃興(ぼつこう)の気運に迎え()れられて、国木田独歩田山花袋(たやまかたい)島崎しまざき藤村(とうそん)らと肩を並べ、じみ(、、)ながら、文壇の主流に堅実な位置を築いてしまった。一方、尾崎紅葉の愛弟子(まなでし)ではあり、年少にしてつとに鬼才の名をほしいままにしながら、幾多の傑作を発表し、二つ年嵩(としかさ)の秋声などを、はるか後方(しりえ)瞠若(どうじやく)たらしめて来た鏡花は、依然一部の愛読者によって偶像化されるほどの人気は保っていたにもせよ、一種傍系的存在として、とかく文壇人からの蔑視(べつし)は免れなかった。――「スバル」第二次の「新思潮」「三田文学」それに私たちの「白樺」などが、そろそろ世人の注目を惹ひくようになったのが、ちょうどそういう時代だった。

鬱然 物事が勢いよく盛んな様子
北陸の都会 石川県金沢市です。
硯友社 1885(明治18)年、尾崎紅葉が山田美妙・石橋思案らと結成した文学結社。同年五月、機関紙「我楽多文庫」を発行。同人に巌谷(いわや)小波(さざなみ)、広津柳浪、川上眉山らが参加、紅葉門下に泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声らが加わり、明治20~30年代の文壇中心勢力となり、硯友社時代を作った。
轗軻不遇 世に受け入れられず行き悩む状態。事が思い通りにいかず行き悩み、ふさわしい地位や境遇に恵まれないこと
自然主義 文学で、理想化を排し人間の生の醜悪・瑣末な相までをも描出し、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、フランスのゾラ、モーパッサンなどが代表。日本では明治30年代の島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥らが代表。
瞠若 どうじゃく。驚いて目をみはること
スバル 文芸雑誌。明治42年(1909)1月~大正2年(1913)12月まで。森鴎外を中心に石川啄木、木下杢太郎、吉井勇らが発刊。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点に。
新思潮 文芸雑誌。1907年(明治40)小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。第二次(1910年)以後は、東大文科の同人雑誌として継承さ。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
三田文学 文芸雑誌。明治43年(1910)5月、慶応義塾大学文学部の三田文学会の機関誌として、永井荷風らを中心に創刊。耽美的色彩が強く、自然主義文学系の「早稲田文学」と対立した。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
白樺 キリスト教、トルストイ主義などの影響を受け、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げ、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、有島武郎、有島生馬など学習院出身者

 とはいえ、この、同年輩、同郷、同窓、同門の、二大家の間に横たわる(みぞ)については、所詮(しよせん)、私には、埋まる望みがもてなかった。鏡花は、「師を敬うこと」文字通り「神のごとく」で、二階の八畳なる書斎の違い(だな)には、常に紅葉全集と、キャビネ型、七分身の写真が飾ってあり、香華(こうげ)や、時には到来の名菓とか、新鮮な果実(くだもの)とかの供えられているのを見かけることもあった。たぶん、朝夕の礼拝も欠かさなかったことだろう。みだりに話頭に登せず、語る場合は「横寺町の先生」と呼んだし、式服の紋には、(* )氏香の図のうち「紅葉(もみじ)()」を用いていた。目前(まのあたり)に見られる師弟の情誼(じようぎ)の、おそらくはこれが最後のものだろうと思われ、私の性分としては、批判を絶した敬虔(けいけん)の気に撃たれた。
 これに反して、秋声は、「紅葉さん」と呼び、少しの悪意も感じられはしないが、人間同士、飽くまで対等の口調で、――どうも、ひどい食いしんぼでね、好きな菓子なんかが出ると、一遍に五つも六つも平らげちまうんだもの、あれじゃア、君、胃癌(いがん)で死んでも仕様がないさ、などと、(あわ)れむとも、(あざけ)るともつかない、渋いような笑い顔をする。ここにも、しかし、決して反感の(いだ)けない、飄々(ひようひよう)たる(なご)やかさはあった。
 * 源氏香  「源氏物語」五十四帖にもとづいてつくられた組香のこと。それぞれの帖の題名に応じて縦ないし横に五線を画し、これによって図を作る。紅葉賀はその図柄の一つ。

香華 仏前に供える香と花
到来 他からの贈り物が届くことか、その物品
情誼 じょうぎ。真心のこもった、つきあい
飄々 考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子

 馬鹿正直者の私などは、いつごろ、どこでだったかは忘れたが、秋声から、――君たちはしょッちゅう泉と会ってるようだが、どうだろう、ひとつ、われわれが仲直りするような、うまい機会でもつくってもらえんもんかね、と云われ、一考の余地もないように、――それは、あなた方のどちらかが、もういけないとかなんとかいう時の、枕頭(まくらもと)ででもなければ、むずかしいんじやアないでしょうか、と、露骨な返答をしたことがある。――ずいぶんひどいことを云う人だね、と、秋声は、笑い顔ながらも、少しは(うら)めしそうだった。たぶんその後のことだったろう、某綜合(そうごう)雑誌社の社長から、こんな話を聞いたこともあった。何か新たな出版計画だったかに事寄せて、秋声と二人で鏡花を訪ね、たいそう(むつ)まじく懐旧談など(はず)んでいるうち、事たまたま紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、(なか)(はさ)んでいた径1尺あまりの(きり)(どう)丸火鉢(まる)()び越し、秋声を押し倒して、所嫌(ところきら)わずぶん(なぐ)ったのが、飛鳥のごとき早業(はやわざ)で、――泉さんって人は、文章ばかりかと思ったら、実に喧嘩(けんか)も名人ですなア、と、声はたてず、唇辺(くちもと)だけを笑った恰好(かつこう)にするいつもの癖を出して、――いやア、驚きましたよ。やっと引き分け、自動車に押し込んで、そのころ秋声の行きつけの「水際(みずぎわ)の家」というのへつれて行ったが、その道中も、先方へ着いてからも、見栄(みえ)も外聞もなく泣かれるので、ほとほともてあました、という話だった。この社長なる人は、豪放な見かけによらず、不思議なくらい芸術家に対する敬重の念が厚く、そんな話にも、少しも軽佻浮薄(けいちようふはく)の調子は感じられなかった。口止めはされないでも、めったな人には話せないという重味さえかかって来た。

一考の余地もない 少しも考えるに値しない、顧慮・検討する余地はまったくない
枕頭 まくらもと。寝ている人の枕のあたり。「死亡した場合には」と考えたい。
社長 改造社長の山本実彦です。
胴丸火鉢 丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。
飛鳥 ひちょう。空を飛ぶ鳥。非常に動作の速い様子
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは実際に中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
軽佻浮薄 けいちょうふはく。軽はずみでうわついている様子

 実際にあったのですね。また谷崎潤一郎氏も『文壇昔ばなし』で同じようなことを書いています。

 或る時秋聲老人が『紅葉なんてそんなに偉い作家ではない』と云ふと、座にあった鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社長山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。

 では元の「二人の作家」にもどります。

 半年あまりして、秋声の発表した「和解」という短篇は、「お家の芸」ともいうべき、さらさらと身辺の瑣事(さじ)を書き流したような、得意の作風だったが、題材としては、(* )汀の死に(から)んでの、鏡花との交渉がとりあげられていた。その終りを、――鏡花が、弟のことでいろいろ世話になった礼に、たくさん土産物(みやげもの)を持ち込んで来て、自分が誰よりも紅葉に愛されていたこと、秋声は客分として誰よりも優遇されていたのだから、少しも不平を並べるところはないはずだということなど、独特の話術のうまさで一席弁じ立てて、そこそこに帰って行ったので……以下原文を()りると、「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んであった。旧友の厚意を、そのまま()()()には受け取れないで、およその費用を()()ってみて、それ相応の礼物を持参し、綺麗(きれい)に決済をつけてしまわなければ気のすまないような、小心翼々たる鏡花の性分くらい、「苦労人」をもって自他ともに許す、しかも、何年か一つ(かま)の飯も食った仲の秋声に、わかっていないはずはないのだが、やはりその他人行儀には(かん)を立てさせられたのだろう、「軽く当身を食ったような気持」という、さも淡泊らしい言葉のなかにも、かなりの反感が(うかが)われないことはなかった。どういうつもりで「和解」という題を選んだのか、結末の一句が、その言葉のもつ和やかさを立派に踏み(にじ)っていた。
 何か少しでも金のかかりそうな話となると、――あなた方にお厭いはなかろうけれど、われわれは、とてもこのほうで、と、親指と人さし桁とを丸く(わが)ねてみせるような鏡花が、恩師に刃向う仇敵(きゆうてき)とも感じられている秋声に、弟の発病から思わぬ世話になったことを、心(ひそ)かに忌々(いまいま)しがり、右から左に物質で賠償し、毛ほども気持の上での負担など残すまいと焦慮(あせ)る、これは、ほかにどう変えようもない当然の帰趨(きすう)だった。森羅万象(しんらばんしよう)あるがままに観、そのあり形のままに写す、という、国産自然主義の極意に徹したように思われた秋声でも、生きているかぎり感情は殺せず、意識下はともあれ、意識するかぎりでは、重態に陥った旧友の弟のために出来るだけの親切を尽したつもりの、いい気持でいたところへ、手切金じみた返礼をされたのでは、さすがに、心平らかでなくなるのも、これまた当然の心理というべきだった。
 * 斜汀 泉斜汀(1880-1933)。泉鏡花の実弟。金沢に生まれ、兄とともに紅葉門下となった。代表作「深川染」。

当身 あてみ。古武術等の打撃技の総称
帰趨 帰着する。ゆきつくところ

 最後は鏡花が死亡する、その瞬間です。里見弴の文章もこれで終わりです。

 細君はもとよりのこと、国男、臨風、雪岱、万太郎、私の別宅に住む女、三角、私、それだけが、枕辺ちかく座を占めたと思う途端に、素人目(しろとめ)にもはっきりわかって、息が絶えた。(中略)
 午後三時少し前、目も眩むばかり照りつけた往来に出ると、むこうから、急ぎ足に秋声が来た。
「どう?」
「たった今……」
 キリキリと相好が変って、
「駄目じゃアないか、そんな時分に知らせてくれたって!」
 (むち)うつごとき(はげ)しさだった。
「どうも、すみませんでした」
 なんの思議するところもなく、私の頭はごく自然にさがった。

東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06|蟻の京詣り

文学と神楽坂

蟻の京詣り

私が早稲田の大学に学んでいた頃、また卒業してからでも、それは明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門縁日になると、あすこの入口に特に大きな赤い(ふたはり)提灯ちょうちんが掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛かったのを覚えているが、外でもそうであるように、時勢と共にいつとはなしにその影をひそめてしまった。又、植木屋の多いことが、その頃の神楽坂の縁日の特色の一つで、坂の上から下までずっと両側一面に、各種の草花屋や盆栽屋が所狭く並び、植込の庭木を売る店などは、いつも外濠の電車通りの両側にまではみ出し、時とすると、向側の警察の前や濠端の土手際にまで出ていたものだった。そしていろ/\な草花や盆栽の鉢を、大切そうに小脇に抱えたり高く肩の上に捧げたり、又は大きな庭木を提げたりかついだりした人々が、例の芸者や雛妓すうぎやかみさんや奥さんや学生や紳士や、さま/″\の種類階級の人々のぞろ/\渦を巻いた、神楽坂独特の華やかに艶めいた雑踏ざっとうの中を掻き分けながら歩いていた光景は、今もなお眼に見えるような気がする。それもつい五、六年前、震災の前あたりまで残っていたように思うが、今はそうした特殊の縁日的の気分や光景はほとんど見られなくなった。定夜店が栄えるに従って、植木屋の方が次第にさびれて行ったらしい。

電話局

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
のぞきからくり のぞきからくりは、江戸期に発祥した伝統的な見世物芸能のひとつ。最初は数個ののぞき穴からからくりや浮絵をのぞく簡素なもの。それが明治・大正には20個もの覗き穴に細かい押し絵をほどこした豪勢なものも。各地の縁日の盛り場、社寺の境内によくあったが、活動写真の流行とともに衰退。
草花屋 現在は花屋です
電車通り 当時、電車は市電(都電)を指し、JR(国鉄)ではありません。「外堀(そとぼり)通り」のこと。
雛妓 すうぎ。まだ一人前にならぬ芸妓。半玉(はんぎよく)御酌(おしゃく)とも
定夜店 決まった場所にでる夜店

その代り近頃毘沙門の境内に、夜昼なしの常設植木屋が出来て、どこへでも迅速に配達植込までしてくれるという便利調法なことになっているので、毎日中々繁昌しているのも面白い。つい一、二年前からはじめられたことだが、毘沙門様御自身の経営か、或は地代を取って境内を貸しているのか、兎も角震災に潰れた何とか堂の跡の空地を利用してのこの新しい商売は、毘沙門様にとっては、あたかも前庭の植込同様、春夏秋冬緑葉青々たる一小樹林を繁らして、一方境内の風致を添えながら兼ねて金儲けになるという一挙両得の名案、毘沙門様もさて/\抜け目なく考えたものかな、その頭脳のよさに流石さすがは御ほとけなればこそと自然とこちらの頭も下る次第で、市内至る処の大小神社仏閣の諸神諸仏も、よろしく範をわが神楽坂毘沙門様に取っては如何いかにと、ちょっとすゝめても見たいところである。
 私はそんな今昔談を友達にしながら、電車待つ間のもどかしさに、むしろ徒歩にかずとそのまま焼餅坂を上り、市ヶ谷小学校の前からぶら/\と電車通りを歩いていたのだが、いつかあの白い海鼠餅なまこもちを組立てたような、牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ、気がつくともう肴町の停留場のそばへ来ていた。
「いよう! なるほどこりゃ大した人出だね」

調法 ちょうほう。重宝とも。便利で役に立つこと。便利なものとして常に使うこと。貴重なものとして大切にすること。
如かず 及ばない。かなわない
焼餅坂 昭和56年の「新宿区史跡地図」には焼餅坂ははっきりこの右図だと描いてます。残念ながらこの絵は間違いです。焼餅坂はここで書いている新道ではなく、正確には旧道が焼餅坂になります。でも、新道を焼餅坂だとしてももういいでしょう。旧道と新道はここに昭和56年「新宿区史跡地図」
市ヶ谷小学校 市谷山伏町9番地と10番地にありました。現在と変わらない場所でした
海鼠餅 つきたての餅をのさないでナマコのような半楕円形の形に成型してある餅。
豆なまこ餅
電話局 正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。
NTT牛込

友達は思わず角の交番の所に立ちどまって、左右を見廻しながら大袈裟に叫んだ。見ると今丁度人の出潮時らしい、電車線路をはさんで明るく灯にはえた一筋路を、一方は寺町の方から、一方は神楽坂本通りの方から、上下相うつ如くに入乱れて、無数の人の流れがぞろ/\と押し寄せていた。そして時々明るい顔を鈴のようにつらねた満員電車が、チン/\と緩やかにその流れをかつき且通し、自動車の警笛の音と共に交通巡査の手がくる/\と忙しく廻っていた。
「いつもこうなのかね」
「毎晩この通りだね」
「まるで大きな蟻の京詣りみたいだ」
 なるほどその形容は適切だと思った。そして私は、この短い、しかしてあまり広からぬ一筋の街を中心に、幾条となく前後左右にわかれている横町々々から、更にその又先の横町々々から、あたかも河の本流に注ぐ支流のそれのように、人々が皆おのがじしにこゝを目ざし、こゝの美しい灯をしたつどい寄って来る光景が眼に見えるような気がして、非常に愉快だった。

且堰き且通し 川の流れを堰き止めたり、通したりする
蟻の京詣り 蟻の熊野詣とも。社寺などの参詣さんけいで、蟻の行列する様に例えて群衆が集まってにぎやかになること
おのがじし 己がじし。各自がめいめいに。それぞれに
慕う したう。恋しく思う。懐かしく思う。
つどう 集う。人々がある目的をもってある場所に集まる。

神楽坂今昔(2)|正宗白鳥

文学と神楽坂

私がはじめて寄席へ行つたのは彼等に誘はれたゝめであった。神樂坂あたりには、和良店牛込亭との二軒の寄席があつたが、前者は落語を主とした色物席で、後者には義太夫がよくかゝつてゐた。朝太夫といふ本格的の語り手ではなくつても、大衆に人気のあつた太夫が一時よく出てゐたことがあつた。私は自分の寄席ばひりも可成り功を經た時分、或る夏の夜この牛込亭の一隅で安部磯雄先生の浴衣姿を發見したので、御人柄に似合ぬのを不思議に思つて、傍へ行つて訊ねると、先生は朝太夫の情緒ある語り囗を讚美され、樂んで聞いてゐると云はれた。先生の如きも、浄瑠璃に漂つてゐる封建的人情味に感動されるのか。
 あの頃の和良店は、東京の寄席のうちでも、名の聞えた、榮えた演藝場であつて、私のはじめて行つた頃は、圓遊の全盛時代であつた。これも圓朝系統では本格的の噺家ではなかつたさうだが、大衆には人気があった。私はよく聽きに行つた。落語家の東京言葉江戸言葉が、田舎出の私にも面白く聽かれたのだ。神樂坂區域の都曾情味だけでは次第に物足りなくなって、單獨行動で、下町の寄席へも出掛けた。

彼等 この文章の前に彼等とは早稲田の法科の学生だと書いてあります。
和良店 和良店亭の設立時期は判っていません。が、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が公演し、天保年間には「わら新」で義太夫が興行をしました。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席が中心になっていきます。(詳細は和良店を)
牛込亭 牛込亭の場所は6丁目でした。。
色物席 寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。これで色物と呼ぶようになりました。
義太夫 義太夫節。ぎだゆうぶし。江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。
朝太夫 竹本朝太夫。たけもとあさたゆう。1856-1933。明治-昭和時代前期の浄瑠璃太夫。
>寄席ばひり 寄席ばいり。寄席這入り。寄席にたびたび行くこと。
安部磯雄 あべ いそお。生まれは元治2年2月4日(1865年3月1日)。死亡は昭和24年(1949年)2月10日。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者。日本の野球の発展に貢献し「日本野球の父」。早稲田大学野球部創設者。
圓遊 2代目三遊亭 圓遊。生まれは慶応3年(1867年)7月、死亡は大正13年(1924年)5月31日。江戸出身の落語家
圓朝 初代三遊亭 圓朝、さんゆうてい えんちょう。生まれは天保10年4月1日(1839年5月13日)。死亡は明治33年(1900年)8月11日。江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した落語家。

私は、學校卒業後は、一年あまり學校の出版部に奉職してゐた。この出版の打ち合せの會を、をりをり神樂坂近邊で高級な西洋料理屋とされてゐた明進軒で催され、忘年會も神樂坂の日本料理屋で開かれてゐたので、私も、學生時代には外から仰ぎ見てゐただけの享樂所へはじめて足を入れた譯であつた。明進軒に於ける編輯曾議には、一度、高田早苗 坪内逍遙兩先生が出席された。私が學生生活を終つてはじめて世間へ出た時の集まりだから、爽やかな氣持でよく記憶してゐる。秋の夕であつた。たつぷりうまい洋食をたべたあとで、高田先生は漬物と茶漬とを所望され、西洋料理のあとではこれがうまいと、さもうまさうに掻込んでゐられた。

明進軒2

出版部 早稲田大学出版部。1886年の設立以来、多くの書籍を出版してきました。
明進軒 昭和12年の「火災保険特殊地図」では明進軒は岩戸町ニ十四番地です。なお後で出てくる求友亭は通寺町75番地でした。また神楽坂通りから明進軒や求友亭をつなぐ横丁を川喜田屋横丁と呼びます。
享樂所 快楽を味わう所

我々の部屋の外を横切った筒つ袖姿で、氣の利いた顏した男に、高田さんは會釋したが、坪内先生はふと振り返つて、「尾崎君ぢやなかつたか。」と云つた。
横寺町の先生は、この頃よくいらつしやるかね。」
と、高田さんは、そこにゐた給仕女に訊いた。この女は明進軒の身内の者で、文學好きの少女として噂されてゐた。私は、牛門の首領尾崎紅葉は、この界隈で名物男として知られてゐることに思ひを寄せた。紳樂坂のあたりは、紅葉一派の縄張り内であるとともに、早稲田一派の縄張り内でもあつたやうだ。
 私は學校卒業後には、川鐵相鴨のうまい事を教へられた。吉熊末よし笹川常盤屋求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。記憶力の衰へた今日でもまだ覺えてゐるから不思議である。こんな家へは、一度か二度行った事があるか、ないかと云ふほどなのだが、東京に於ける故郷として、故郷のたべ物屋がおのづから心に感銘してゐると云ふ譯なのか。

tutusode筒つ袖 つつそで。和服の袖の形で、(たもと)が無いこと
横寺町の先生 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。尾崎紅葉の住所は横寺町でした。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門
相鴨 あいがも。合鴨。野性真鴨とアヒルを交配させたもの
吉熊 箪笥町三十五番「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では「吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。」箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左図。地図は現在の地図。
笹川 0328明治40年新宿区立図書館が『神楽坂界隈の変遷』を書き、それによれば 場所は3丁目1番地です(右図)。しかし、1番地の住所は大きすぎて、これ以上は分かりません。
常盤屋 場所は不明。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、4丁目の「料亭常盤」と書いてある店がありますが、「常盤屋」とは同じかどうか、わかりません。
求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
おのづから 自然に。いつのまにか。偶然に。たまたま。まれに

大東京繁昌記|早稲田神楽坂10|商店繁昌記

文学と神楽坂

商店繁昌記
商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗しにせとか大商店とかいうものがほとんどないようだ。いずれも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)
酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらはしかし普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではないようです。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは出していないとはっきりと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
尾沢 カフェー・オザワは神楽4丁目の「カフェ・ベローチェ」にありました。詳しくはここで

菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。
その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。
ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具()的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。

塩瀬 塩瀬菓子店はちょうど山田洋傘の対面になります。現在はナカノビルでしょうか。喫茶店「Broxx」などが入っています。
船橋屋 神楽坂6丁目です。詳しくはここで
盛文堂 昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。(昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」を参照)。しかし、盛文堂の場所はもっと色々な場所に建っていました。助六履物から下に行った場所も1つ。また野口冨士男氏の「私のなかの東京」の中で「ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった」と書いています。
元祖寿司
機山閣 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂5丁目にありました。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
ゴールドフォンテン
南北社 寺町は通寺町のことで、現在は神楽坂6丁目に変わりました。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地の南北社はあり、さらに『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」に「通寺14に系列の南北社の南北書店があった」と書いてあります。その後、通寺町14を南北社にしています。赤い四角で書いてあります。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など、かなり本を出版したようです。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。昭和5年「牛込区全図」
竹中 『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。青い四角でした。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 戦前の武田芳進堂は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通りと藁店)から一軒左にありました。場所は「ISSA」と「ブラカイルン神楽坂」に挟まれて、以前は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。一方、戦後の武田芳進堂は三つ角にありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では≪芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。「最新東京学校案内」「初等英語独習自在」など。現在の芳進堂ラムラ店≫と出ています。現在では飯田橋駅のラムラに出しています。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂05|寅毘沙・午毘沙

文学と神楽坂

寅毘沙・午毘沙寅毘沙・午毘沙

 その時わが家の女の子供が三人仲よく手をつらねて玩具屋の前に立っているのに出会った。
「お父さん、風船買って頂戴」
 七つになる一番末の子が、逸早く私のたもとを捉えて甘えかかった。同行の友人の手前、私がこばみ得ないという弱点を、かの女は経験によってちゃんと知っているのだった。私は文句もいえずだまって十銭の白銅を一つ握らせた。
「お兄さんも来ているわよ」
 かの女はうれしさの余りにか、おせっかいにもなおそんなことを私に告げ知らせるのであった。なるほど少し行くと、長い巻紙にたらに沢山数字を書きつらねたのを高く頭上にさしあげて記憶術の秘訣ひけつとやらを滔々とうとう弁じている角帽の書生を取り巻いた人だかりの中に、私は長男の後姿を見かけた。が、つかまったら()()だと思って素知らぬ顔で通り過ぎた。
 あちらにもこちらにも小さな人の渦が出来波が流れて、この狭い場末の一角にも、ひなびた、ささやかな、むしろ可憐な感じのものながら、流石さすがに初夏の宵の縁日らしい長閑のどかな行楽的な気分が漂っていた。すぐ近くの河田町にある女子医専の若い女学生が、黒い洋服姿で、大抵三人ずつ一組になってぶら/\しているのが、こゝの縁日の特色のように目立った。漬物屋へ入って、つくだ煮や福神漬など買っているものもあった。

10sen-T9

つらねる 連ねる/列ねる。 1列に、または順番に並べる。
 和服の袖付けから下で袋のように垂れた部分
白銅 主体は銅、ニッケルは10~30%の合金。100円硬貨が代表的。10銭白銅貨幣は大正9年~昭和7年(1920~1932年)に流通し、1.00匁(3.750グラム)。割合は銅750とニッケル250。直径は22.121ミリ。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日のこと。神仏の(ゆかり)のある日を選び、祭祀や供養を行う日。縁日と東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

こゝで縁日と夜店との区別について一言しておきたい。縁日は地蔵なり不動なり稲荷さまなりの祭日で、神社では祭日であり仏では縁日である。夜店は毎日特定の場所に限り夕方から露店を出すもので、縁日の露店は昼間から店を出している。大抵境内には子供相手の安玩具や、喰べものやが出ている

女子医専 現在の女子医大。1900年12月5日、東京至誠医院の一室に東京女医学校創立。03年、牛込区市ヶ谷河田町の陸軍獣医学校跡地に移転し、08年、東京女医学校附属病院を設置。12年、東京女子医学専門学校、通称「東京女子医専」に昇格。20年、卒業生は無試験で医師免許取得ができるようになった。50年、 大学令で東京女子医科大学医学部を開設しました。

「どこの縁日でも同じだね」と友達はむしろつまらなさそうにいった。
「まあそうだね、殊にここなんか子供相手が主で、実に貧弱なものだが、それでも縁日だというと不思議に人が出るからね。そしてあたりの商店でも何でも段々と自然によくなって行くからね。だから土地の繁栄策としては、どうしても縁日というものが必要なんだね」と私がいった。「神楽坂にしたって、今日の繁栄を見るに至ったのは、そりゃ種々様々な条件や理由がそなわっていたからに違いないが、(ごく)最初は、矢張り毘沙門びしゃもんの縁日なんかゞ主としてあずかって力があったんじゃないかと思うんだ。現に、今ではもう普通の日も縁日の日も区別が付かないようになってしまったけれど、僕が知ってからでも、元はとらうまとの縁日の晩だけ特に沢山夜店が出て、従って人出も多く、その縁日の晩に限って、肴町から先が車止めになったような訳だったからね。その頃は僕なども、特に今日は寅毘沙だ午毘沙だといって、丁度今僕の子供等が手をつないで近所の縁日を見に行くように、友達を誘ったり誘われたりして早稲田の奥あたりから出て行ったものだった。夜店なんか見るよりも、ただ人込の中をぶら/\しながら若い異性の香を嗅いだり袖が触れ合ったりするのを楽しみにね、アハヽヽ」
「随分不良性を発揮したことだろうね」と友達は笑いながら半畳(はんじょう)を入れた
「いや、どうして/\、きわめて善良なものだったさ。今日のモダン・ボーイと違って、その頃の僕等ときたら、誰も彼もいわゆる『人生とは何ぞや』病にかかっていたので、そういう方面には全く意気地がなかったよ。それにこの頃のように、善くも悪くも簡単に女の見られるカッフエなんていうものはなしさ、精々三度に一度位、毘沙門隣の春月か通寺町の更科さらしなあたりで、三銭か五銭のザルそば一つ位で人生や文学を談じては、結局さびしく帰ったものだよ。それでその頃は、普通の日はそんなににぎやかでもなかった。夜店も寿司屋の屋台店位だったが、それがいつとはなしに、銀座あたりと同じく毎晩定夜店が出るようになり、人出も毎晩同じように多くなり、従ってあたりも益々発展して来たというわけだ。今ではもう特にいつが縁日だということも分らない位で、吾々も又いつが寅毘沙だ午毘沙だなどいうことを知る必要もなくなった。いつ出かけて行っても同じように賑やかで、華やかで享楽地的気分が益々濃厚になって来たね」

寅と牛 『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

中でも神楽坂の毘沙門天の縁日は余り盛り場のない山の手の事であるから、付近の人が盛んにこの縁日に集まり、寅毘沙、牛毘沙といって十二日のうち二日は、特に陽気のよい時などは人出で賑わったが、寅の日は毘沙門の縁日で、牛毘沙は毘沙門天の縁日ではなく、境内の出世稲荷の縁日なのである。

ではどれぐらい前に始まったのでしょうか。東京理科大学理窓会埼玉支部の「西村和夫の神楽坂」ではこう書いています。

 さらに夜店が明るく華やいだのは電気とアセチレンランプが現れた20世紀以後からのことだ。夜店が明るくなるにつれ震災前後を境に「バナナの叩き売り」で代表されるような威勢のいい香具師の啖呵が聞こえるようになると、植木屋は次第に隅に追いやられることになった。
 そればかりかアセチレンランプからでる異様な臭いは夜店の臭いとも思われる時代に変わっていく。街路灯も少なく、ネオンもイルミネイションもない時代、日が暮れ神楽坂の夜店が一斉に明かりを灯すと、光の帯が明るく道路を歩く人を浮び上がらせた。そして時間がたつにつれて光に集まる虫のように人の数は次第に増えていった。
 寅の日だけの縁日がやがて午の日にも出るようになり、寅の日と午の日は寅毘沙、午毘沙と言って200軒以上の夜店が狭い道路の両側に2列に並んだ。やがてそれが連日になり、人の出盛りの時間になると坂が人間で埋めつくされ、坂下と坂上には[車馬通行止]の提灯が下げられ坂は歩行者天国にされた。これで通行人は安心して神楽坂の夜店見物を十分に楽しむことができたのである。夜店を訪れた客は坂を2~3時間かけて2~3回上下するのが普通だった。200軒もでる店を見て回るのには1日や2日で終わるものではなかった。
 夜店の範囲も通寺町から矢来町に達するいきおいでのび、大久保通りも人と店で溢れるようになったが、しかし、通行人は神楽坂の夜店のほうが格が上だと考えていたようだ。この状態は日中戦争が始まるころまでつづいたが、戦争が激しくなると急速に姿を消してしまった。敗戦後、米軍の空襲で焼土と化した街は復興したが再び夜店を見ることはなかった。

 寅の日に縁日がでたのは江戸時代でした。午の日に縁日が出たのは『新撰東京名所図会 第41編』(明治37年)によれば、「境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。」と書いてあります。つまり、明治37年よりは昔です。区の「新宿区史・史料編」(昭和31年)の「古老談話」によれば「明治中頃」です。
 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)では「東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治二十年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。」
「大江戸歴史散歩を楽しむ会」(https://wako226.exblog.jp/16086315/)によれば、「明治20年(1887)東京で初めて縁日に夜店が出て神楽坂通りは人波で溢れ、坂の上下に設けた車馬通行止めは歩行者天国のはしりとなった。」と書いています。原典がでるまでは、完全な引用にはなりません。

半畳を入れる 他人の言動を茶化したり、非難したり、野次ったりすること。半畳とは江戸時代の芝居小屋で敷く畳半分ほどの茣蓙(ござ)のこと、役者の演技が下手だとヤジを飛ばして、この茣蓙を投げ入れたという。
更科 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「更科」は左の図で赤い四角の色を使って書いてあります。

更科11

左は昭和12年の「火災保険特殊地図」。右は現在。右にある縦の道路や赤い更科の絵はあった場合の想像図

しかし岡崎弘氏と河合慶子氏が『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり」で「遊び場だった『寺内』」を書き、その「更しな」は神楽坂通りに直接面しています。以前の明治末期は直接面し、大正に大震災が起こり、昭和の初めでは奥に引っ込んだ場所になったのか、どうなのか不明です。
地図.11
享楽地 快楽を追求する場所。

あの日この日|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄は明治32(1899)年12月25日に生まれ、早稲田大学文学部国文科を卒業。志賀直哉の親戚の同級生に紹介を頼み、志賀に師事。昭和12(1937)年、37歳で、短篇集『暢気眼鏡』で第5回芥川賞を受賞。これで作家的地位を確立しました。貧乏ユーモア小説、心境小説などで有名。1983年3月31日、83歳、自宅にて死亡。
 これは『あの日この日』下巻で昭和6年の話です。ほかに『學生物語』の「神樂坂矢來の邊り」という短編があります。

 六年一月の、ひどい寒い曰の午後、勤めを終へて市電肴町停留場辺を見附の方へ歩いてゐると、うしろから声をかけられた。振り返ると、尾崎士郎精悍な顔があつた。
「やア」
「久しぶりだったな。奈良に居ると聞いたが……
「半年ほど前、舞戻つたんです」
「さうか。で、今、どうしてる?」
牛込区役所につとめてます」
「つとめてる? 区役所に?」
「それも税務課ですよ、面白いでせう」
「そ、そいつは――」と尾崎士郎が吃って、「ここぢや話ができない。ちよつといいだらう」連れ込まれたのは紅屋の二階だった。
士郎氏は、コーヒーを注文すると、私の顔を正面から見て、突如といつたふうに、囗を切った。
「尾崎一雄が不遇なのは――」
「いや」
ピシャリと音を立てる感じでそれをさへぎつて、
「僕は、何も書いてゐないのだから、遇も不遇もありませんよ」
士郎氏は、うッと咽喉がつまつたやうな顔をしてから、うろたへ気味に、
「そ、それはさうだ」と言った。
謂はば毒気を抜かれたかたちと見えた。あと彼は文学談めいたものには全く触れず、自分の近況を簡単に話すと、私の勤め工合など面白さうに聞いたのち、そのうちゆつくり飲まうと言つて別れ去つた。新潮社へ何かの用で行つた帰りだと言つてゐた。

肴町停留場 (さかな)(まち)の市電・都電の停留場。現在の大久保通りで、神楽坂5丁目にありました。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は千代田区富士見2丁目の地点にあり、江戸城の「江戸城三十六見附」のひとつです。寛永16年(1639年)に建設開始。ただし、見附にはこの江戸城の城門の意味以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を「見附」と呼ぶ場合や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
精悍 動作や顔つきが鋭く力強いこと
牛込区役所 牛込区役所は箪笥町15番地にあり、現在は牛込箪笥地域センターがあります。

毒気を抜かれる 相手をやり込めようと勢い込んでいた人が予想外の出方をされたために気勢をそがれ、おとなしくなる。

神楽坂今昔(1)|正宗白鳥

文学と神楽坂

 正宗白鳥正宗白鳥氏は小説家・劇作家・評論家。生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。「塵埃」で文壇に登場。「何処へ」「微光」「泥人形」を書き自然主義文学の代表的作家になりました。
 昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書いています。

 ふとした縁で江戸川べりのアパートの一室を滞京中の住居と極めるやうになつてから、昔馴染みの神樂坂に久し振りに親むやうになつた。朝晩の散歩として、筑土の方からか飯田橋の方からか、坂を上り下りして、表通裏通を、あてもなくたゞ歩きながら見てゐると、人通りが疎らで、商店喫茶店なども賑つてゐないらしい感じがするのである。をりをりの上京に、何處へ行つても人口過剰の日本の眞相を見せつけられてゐるやうなのに、昔は山の手第一の盛り場であった神樂坂がこんなにひつそりしてゐるのは不思議である。昔榮えて今さびれた町は趣味深きものである。榮華にほこつた人の落魄した姿を見るのも興味がある。どちらにも文學的味ひがあると云へる。詩が感ぜられるのである。それで、この頃の神樂坂散歩も、一度から二度と、たび重なるにつれて、馴染みの深かつた過去の記憶がこんこんと湧き出て、現在の寂寥たる光景を、詩味豐かにさせるのである。
 坂の大通を、大勢の人が歩いてゐないから町が衰微してゐるといふのは輕率な判斷だ。兩側の商家は一通り復興して、店先は小綺麗になつてゐる。左右の裏通には、昔を今に待合茶屋が居を占めてゐるが、薄汚なかつた昔のそれ等とちがつて、瀟洒たる趣を見せてゐる。入口に骨董品見たいな手水鉢を置いて、秋草がそれを色取つたりしてゐるなんか、下宿屋然たる昔の神樂坂待合情調ではないのである。昔よりも待合の家数は多いやうだが、まだところ/”\に新築までもしかけてゐる。
 それ故、大通の人の往來が乏しかつたり、果物屋菓子屋荒物屋などの店先が賑つてゐないのを見て、土地の盛衰の判斷は出來ないので、案外この地の待合商賣なんかは繁昌してゐるのかも知れない。
 さういふ風に心得てゐながら、私は、夕方になつても、昔はぞろぞろと出盛つてゐた散歩客なんかの全くなささうなひつそり閑としてゐるのを、人間社會の榮枯盛衰の一例ででもあるやうに見倣して、空想の餌食とするのである。
江戸川 神田川の中流域。都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
滞京中の住居 この時期、氏の本宅は長野県軽井沢町でした。
筑土 神楽坂に筑土(津久戸、つくど)から来るというのは、神楽坂坂上から来る場合です。
飯田橋 1881(明治14)年にできた橋で、飯田橋は牛込区下宮比町と麹町区飯田町とを結ぶ橋でした。また目白通りと外堀通りの交差点は「飯田橋交差点」と呼んでいます。飯田橋を起点にすると神楽坂の坂下から坂上に行く場合です。
賑っていない 第二次世界大戦の直後に神楽坂は全く繁昌していませんでした。
昔は山の手第一の盛り場 昭和初期には流行っていました。
落魄 らくはく。らくばく。衰えて惨めになる。落ちぶれること。零落
寂寥 せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと。
昔を今に 昔を今に戻すような。
瀟洒 しょうしゃ。すっきりとあか抜けしている。
手水鉢 手水を入れておく鉢。参拝前の身を清めるために寺社の境内に置きました。
手水鉢
 五十餘年前、二月の下旬の或る晩、不眠の疲勞でぼんやり新橋を下りた私は、未知の同縣人の學生に迎へられて、目鏡橋まで鐵道馬車に乘り、其處から歩いて、牛込見附を通つて、神樂坂を上つて、横寺町下宿屋に辿りついた。朧ろ月に照らされた見附あたりの眺めは、江戸の名残りを繪の如く見てゐるやうであつた。坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。 兔に角東京では、私は最初牛込區の住民となり、牛込の場末の學校に通つてゐたので、第二の故郷か第三の故郷か、故郷といふ言葉の持つてゐる感じを、神樂坂あたりを見るにつけ感ぜられるのである。五十年の昔は歴史的存在のやうで、私は今神樂坂についての遠い昔の歴史のページをひもといてゐるやうな氣持になつてゐる。
五十余年前 初めて早稲田に入学したのは明治29(1896)年です。この随筆が発表されたのは昭和27(1952)年です。したがって、56年の違いがあります。
目鏡橋 実際にここでは万世橋を指します。神田須田町一丁目にある駅を降り、歩いて神楽坂に行きました。なお、目鏡橋は橋の1種で、本来は石造2連アーチ橋を指し、橋自体と水面に映る橋とが合わさって眼鏡のように見えるためです。この時点では東京駅はまだなく、中央線もありませんでした。
鉄道馬車 鉄道上を走る乗り合い馬車。1882年(明治15年)に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として走り始めました。しかし、馬には糞尿をだすことが問題で、電車の運行がはじまると、多くの馬車鉄道はなくなっていきます。東京馬車鉄道も1903年(明治36年)に電化。東京電車鉄道となりました。

目鏡橋鉄道馬車停車場

目鏡橋鉄道馬車停車場

牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
横寺町 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。
下宿屋 何番地がわかればいいのですが、残念ながらこれ以上はわかりません。
朧ろ 現在は「朧」で「おぼろ」と読みます。ぼんやりとかすんでいること。はっきりしないさま。
国民之友 評論雑誌。徳富蘇峰の民友社が1887年(明治20)創刊しました。
学校 東京専門学校(現早稲田大学)です

 横寺町の私の下宿屋と目と鼻の間に紅葉山人が住んでゐた。誰に教へられたのでもなく、私は通り掛りに、尾崎德太郎といふ表札を見て知つたのだが、お粗末な家だなと、意外な感じに打たれただけであつた。紅葉の門下を牛門のなにがしと呼ぶ者もあつて、当時第一の流行作家であつた彼は、牛門の首領として仰がれてゐたのであらう。早稲田も牛込區内に屬してゐても、端つこにあつたので、私は、都會から田舎へ通學してゐるやうな氣持であつた。生れ故郷の地は溫かいためでもあつたが、私は體軀の鍛練を志して寒中足袋を穿かなかつたので、上京後もその習慣を守つてゐた。それで初春三月はじめの雪降る日にも裸足で學校通ひした。足はヒビが切れて、雪の染む痛さを覺えた。その頃の學校の教室には防寒設備はなかつたので、私などは身體を縮めて懷ろ手して講義を聽いてゐたのであつた。自分では無頓着であつたが、馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病状を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勧めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫師よりも信頼されさうな風貌を具へ、診察振りも威厳はあつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に(さかな)をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門です。
生れ故郷 正宗白鳥の出生地は岡山県でした。
曲り角 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。
文明振り 仕方・あり方。「枝ぶり」「勉強ぶり」。これが「歩きっぷり」「男っぷり」「飲みっぷり」のように「っぷり」となることも
 浅田宗伯老の藥はあまり利かなかったやうだが、「米の飯に魚をくらへ。」と云った田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。下宿屋の飯は、米は米でも、子供の時から食べ馴れた米の飯ではなかつた。下宿屋の魚は、子供の時から、食べ馴れたうまい魚ではなかつた。自分の村の沖で捕れた清鮮な魚介。自家所有の田地で實つた滋味ゆたかな米殻。私は、下宿の食膳を前にして、「これではおれの身體は、學問に堪へられないかも知れないな。」と悲觀することもあつた。だが、一歩外へ出ると、神樂坂を中心としたあちらこちらの商店には、見るからうまさうな物、食慾をそゝられる物が、これ見よがしに並べられてあつた。寺町の表通の青木堂の西洋食料品は私などの伺ひ知らない贅澤至極の飮料品であり食品であると思はれた。坂際の四つ辻の一角に屹立してゐるのは、「いろは」と云ふ牛肉屋であり、坂へかゝると、左に日本菓子屋の「べに屋」があり、右に「都ずし」あり、それからパン屋の木村屋があり、うどん屋の「春月」があつた。どれもみなうまさうだ。都會は誘惑に富んでゐたが、學資は一ヶ月に八圓か十圓に極められてゐたのだから、歩行の途上に見られる誘惑物のどれへも手は出せなかつた。さういふ覺悟をして、神樂坂といふ、生れてはじめて接觸した人世の大都會を、毎日のやうに見ながら、たゞ見るだけにしてゐたつもりであつたが、いつとなしに、自分の机の中に、木村屋の餡パンとか、(べに)()の大福餅とか、何とか屋の蓬萊豆、花林糖のたぐひが入つてゐることがあつた。蓬萊豆や花林糖をかじりながら、英語の教科書をぼりぼり讀みかじつて行くことに、云ひやうのない興味を感じてゐた。
 あの頃――日清戰爭直後――の神樂坂は、山の手第一の繁華街であつた。晩食後の散歩にも最も適した町であつた。寅の日の、毘沙門樣の緣日には、露店の植木屋の並ぶのが呼びものとなつてゐて、それを目當ての散歩は、お手軽な風流であつた。私など、この神樂坂地區の住民になつても、年少の身の、さういふ風流にはちつとも心を寄せられなかつたし、散歩のための散歩はあまりしなかつた。だけど、この緣日の夜の賑ひ、さま/”\な東京人が面白さうに歩いてゐる光景は、自分が幼少時代に幾年も、小説や新聞雜誌の記事でまぼろしに描いてゐたものよりも、陽氣で華やかで、都會人といふほこりを持つてゐる人々の群集であるやうに、私の目には映つてゐた。
滋味 じみ。栄養豊富でおいしい食べ物
青木堂 新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では「洋酒の青木堂」「洋酒と煙草の青木堂」と出ています。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)では通寺町(現在は神楽坂)51番地で、朝日坂から北西に3番目の地域でした。現在、51番地はありません。青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目を参照。

地籍台帳・地籍地図 東京

屹立 きつりつ。堂々とそそり立つこと。
都ずし 同じく「都ずし」もここで出てきます。しかし、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」ではもうありません。つまり、「都ずし」は関東大震災前になくなっていました。都ずしから玩具店、昭和27年のパチンコ店、最後におそらく「くすりセイジョー」に変わりました。なお、屋台の都寿司もあったようです。
木村屋 残念ながら絵ではもっと左の方向、神楽坂が下がるはじめにあります。詳細は木村屋
春月 春月も以下の図に書いてあります。詳細は春月で。神楽坂4~6丁目
餡パン あんパン。あずきあんを詰めた菓子パン。本店の木村屋創業者達が考案し、1874(明治7)年に銀座の店で売り出したところ大好評でした。
蓬萊豆 ほうらいまめ。源氏げんじまめ。小麦粉と砂糖で作った衣を煎った落花生の周りにまぶした豆菓子です。源平豆とも。蓬莱豆

  • 神楽坂今昔
  • 1
  • 2

夜の矢來|武田仰天子

文学と神楽坂

 武田ぎょうてんは小説家で、小学教師から新聞の記者になり、上京し、明治30年、東京朝日新聞に入社。長編時代小説を30編ほど執筆し、大衆文学の先駆者に。生年は1854年8月19日(嘉永7年7月25日)、没年は大正15(1926)年4月10日。73歳。

夜の矢來(やらい)

武田仰天子

「文芸界」 明治35年9月定期増刊号

夜の矢來  (きみ)何方(どちら)ですと(ひと)()はれて、()(やい)ですと答へると、その問うた人が()の句には、矢來は(ひろ)(ところ)ですねえと必ず言ふ、されど()のみ廣い處ではないのです。たゞ本鄕の西片(にしかた)(まち)と同樣で、一()番地の中は中々廣い、家数(やかず)の百餘戸(よこ)もある番地があります。()いては、何番何番地(あざ)何第何十何(がう)と言つたやうな鹽梅(あんばい)に、番地の下に字、字の下に號と、(すこぶ)(わづら)はしく小區分が()てあります。()う區別を()て置かなければ、家の所在が容易に分らないからです。故に始めて我が矢來へ來る人が、外町(ほかまち)の心得で、ただ番地だけ聞いて來た日には、さあ分らない、兩側に(うゑ)(つら)ねられた杉垣根の間を、彼方(あちら)(まは)り、此方(こちら)へ囘り、同じ所へ何度となく返つて來て、つまり指す家を()()()さないで帰つて(しま)ひます。よしまた號までを聞いて來たに()ても、その號がさ、次第好く順々に付いてない處があるのですから、やはり、多少迷付(まごつ)かなければなりません、また迷付(まごつ)くのが規則のやうになつて居るので、(たと)へば始めて訪れて來た人があると、その訪れられた家の者から一番最初に言出(いひだ)す御挨拶が、あなた()く分りましたねえと()うです。呆れ返つたものでせう。()く分つたと言つて不思議がるのですもの。それもさうです。大抵の來人は、二度目でもまだ迷付(まごつ)くので、まづ三四度目から、同じ杉垣根の中だけれど、あの家の筋向うには井戸があったとか、(くるま)宿(やど)から左へ取つて右へ曲つて(つき)(あた)たつて右側だとか、何か思い出して()(じるし)にするやうになりますからどうやら()うやら、折好(をりよ)行逢(いきあ)つた酒屋の小僧に問う世話(せわ)もなく、思ふ家へ行けると言ふもので、ですから()んな人達が、同じ道を何度も()(めぐ)つた足數(あしかず)(のべ)勘定(かんじやう)()て、大層歩いた、矢來は廣い、と()う思ふのですが、なあに、(たか)若州(じやくしう)()(ばま)洒井(さかゐ)家の(やしき)(あと)ですもの、廣さが幾許(いくら)あるもんですか。猫の額ほどの狹い土地です。それゆゑ別に夜の矢來と題を置いて、(こと)(ごと)しく書立てるほどの亊はないのです。ざつと書いて見やうなら、晝間(ひるま)でもこの通りに分り()ねる土地だから、夜始めて來た人は、(まる)八幡の籔へ入ッたやうなものだ、(くらゐ)でも()む事で、一向(つま)りませんけれど、その詰らないのを話の種に、六年(かり)(ずまひ)の矢來通をば、一番揮舞(ふりま)はして見ませうよ。(しか)無論(むろん)夜の分だけ。

左のみ そうむやみに、たいして
西片町 東京都文京区の町名。東京大学が近隣にあり、多数の学者や文化人が住んだため、学者町として知られる。関東大震災や第二次世界大戦の被害はなく、明治時代の雰囲気を残している。
車宿 車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。
若州小浜藩 若州とは若狭の異称。江戸時代、若狭わかさ遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に藩庁をおいた。1871年(明治4)の廃藩置県で小浜県となり、敦賀県、81年福井県に編入
八幡の籔 八幡の藪知らずは、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。

さて矢來の(うち)にも、軒並(のきなみ)商家(あきんど)のある所もあります。されど場末の(さび)れ町で、電燈や瓦斯(がす)燈といふ物は更になく、店の灯光(あかり)洋燈(らんぷ)持切(もちき)つて居て、そして(ひと)(どほ)りと言つても、早稲田邊から神樂阪の夜店へ行く人位の事で、詰らないのを話の種にするとは言いながら、(あま)り詰らなさ過ぎますから、所謂八幡の藪の(やしき)町の事だけを…それも街燈ちらほらの()暗い所ですから、目に見る物は()して、ただ耳に聞く物だけを選抜(よりぬ)いて(かゝ)げませう。聞く物は、下町とは樣子の(ことな)つた物がある上に、見る物が少くつて、自ら聞く事に(せん)一ですから、種々の音色が耳に()るのです。
(らい)  樹木(じゆもく)の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。夜の矢來町を夜籟町と書換へた方が適當(てきたう)でせう。何しろ栗や杉の喬木(げうぼく)が夜風を受けで、ざァーざッと騒ぐ樣は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。どうしても山居(さんきよ)心地(こゝち)がするので、(よく)には流水の(ひゞき)があつたらと、餅の皮を()きたくなる(くらゐ)です。
かと思うと、また野趣(やしゆ) (おぼ)しで夜の矢来2
(むし)()  は自慢です。秋の夕暮になると、垣根や()の下や草の中、何所(どこ)と限つた事はなく、種々樣樣の蟲が鳴出します。それが夜に入って露(しげ)なるに從ひ、次第に()()へて來て、何時(いつ)までも止間(やみま)がなく、東の空が(しら)むまで鳴通します。或は枕を(そばた)て、或は窓を()して、深夜にこの蟲の音を聞く(あぢはひ)といったら、(じつ)(なん)とも()へません。落月(らくげつ)微茫(びばう)の時はなほ()し、(やみ)()もまた惡くはない。下町の狹い軒端(のきば)で、(かご)に飼はれて居る蟲の音を聞くのとは、あはれさが違ひます。
蛙聲(あせい)  夏の()(どぶ)の中で蛙が鳴立てます。眞の田甫(たんぼ)の蛙聲と來ては、(やかま)しくつてなりませんが、山川の水がないやうに山の(どぶ)で水がないから、蛙も澤山(たくさん)には居ないです。()いては丁度()(ほど)に鳴きますから、(この)んで聞く氣にもなるので、(これ)はまた田舍(でんしや)心持(こゝろも)()ます。
鶏聲(けいせい)   (これ)もやはり田舍(でんしゃ)の趣味があつて、朝の三四時頃になると、遠近(をちこち)で鳴く一番(どり)、寝坊の私も(たま)には聞く事がありますが、何となく(いさ)ましいものです。

軒並 並んでいる家の一軒一軒。家ごと。「刑事が軒並に聞いてまわる」
 風が物にあたって発する音。
喬木 きょうぼく。 高木(こうぼく)と同じ。反対は低木=灌木(かんぼく)
 ほしがる気持ち。
野趣 自然のおもむき。また、田舎らしい素朴な味わい
 有り余るほど多い。ゆたか
 湿の旧字体。しめる。しめりけ
落月微茫 沈もうとする月はかすかでぼんやりしている
田舎 この時は「でんしゃ」。「でんしゃ」や「でんじゃ」は古語にあたる。一般的には熟字訓の「いなか」

()う數え立てゝ見ると、全く山村の趣味のみのやうですが、場末にも()ろ、(みやこ)(うち)には相違(さうゐ)ないだけに、鳴物(なりもの)も聞こえます。けれど下町から()ると、(おのづ)と野暮で、また自と(いや)しくはありません。
雅樂(ががく)  其筋(そのすぢ)樂人(がくじん)(すま)つて居て、自分でも練習を()家人(かじん)に教へても居ます。(あるひ)(くわん)()り、或は(げん)(かきなら)す時など、聞いて心が()むやうです。(しか)しトラヽタリラの()暗誦(あんしよう)は、耳に(はい)ると肩が()ります。
薩摩(さつま)())  是は師匠の家があつて、書生(れん)が夜稽古にも行き、稽古(がへ)りに琵琶(うた)を唄つても通り、また矢來倶樂部に折々琵琶會がありまして、江戸(まへ)意氣(いき)な歌は聞かれない代りに、この勇壯(いうさう)音曲(おんきよく)幾許(いくら)でも聞けるのですが、また聞くに()へたものです。
〇琴  垣根を(へだ)(やぶ)を隔てゝ、蘭燈(らんとう)の光の()れる(あた)り、(しづか)にして(さはや)かな琴の()が聞える時は、どんな(うる)はしい令嬢だらうと、自然その(ぬし)(しの)ばれます。實際逢つて見たら二度(びつく)で、(あら)(がほ)の、(ちゞ)れつ()の、(ふと)つてうの娘かも知れませんけれど、不思議に美人のやうに(おも)はするのは髙尚(かうしやう)な音色の(とく)でせうか。
謠曲(ようきよく)  一(たん)の流行が今に(すた)らないで、夜中(やちう)()小路(こうぢ)を散歩して見ても、(うたひ)(こゑ)の聞えない所はない位です。(なか)には聞くに()るのもありますけれど、大方(おほかた)は初心の下手(へた)(ぼへ)官吏(くわんり)會社員(くわいしやゐん)(おも)てすが、中に(なに)學士ともあらう人が、泣聲(なにごゑ)棒讀(ぼうよみ)()ては、(おん)(いたは)しや、あれでも大學出の先生かと、肩書の貫目(くわんめ)が疑はれます。(もとよ)り學者は(ただ)でも覺えは好いという理屈はありませんけれど、(ある)()(つたな)いと、總體(そうたい)を拙く見せるのは事實ですから、()した方が無難(ぶなん)で、もし執心(しうしん)なら、晝間(ひるま)世間の(さわ)がしい(うち)()つて(もら)ひたいものです。(さひは)此邊(このへん)では、下手(へた)義太(ぎた)を聞かされる(うれひ)だけはありませんが、この(うたひ)では()てられます。
(そう)々しい足音(あしおと)  毎日曜(まいにちえう)()、寄席の打出(はね)とも謂ふやうな大勢の足音が、丁度寄席の打出の刻限(こくげん)に聞えます。それは耶蘇(やそ)の教會堂から歸る人々ですが、土地に慣れない(あひだ)(あや)しまれました。(ちなみ)に言ひますが、この矢來町には、古來、佛寺(ぶつじ)という物はないのです。たゞ庵室(あんしつ)さへ、地蔵堂さへないほどの狹い土地に、新輸入の耶蘇曾堂のあるのが(めう)です。それにまた墓地のあるのがなほ妙です。併しその墓地は共有ではなく、今は同町全體の地主酒井家の專有(せんいう)で、何々院殿何々(だい)居士(こじ)(おほ)石碑(せきひ)が並んで居て、(かまへ)は極く(ちいさ)いけれど、樹木(じゆもく)(しん)々と(しげ)つてゐますから、女子供は、その傍を夜通るのを嫌ひます。
〇時の鐘  目白とは近く互に向合(むきあ)つた高臺(たかだい)ですから、彼所(あすこ)のが聞えるのは言ふまでもありませんけれど、夜が()けると、上野のゝも淺草のも聞えます。そしてもう一つ遠くつて大きい時の鐘、芝のだらうと思はれるのが聞えますが、これはまだ(しか)とは突止(つきと)めません。

鳴物 一般的には打楽器を中心とした楽器一般
 管楽器。横笛などの笛類
 弦楽器。琵琶・琴などの(いと)
薩摩琵琶 晴眼者が書き起こしたもの
蘭燈 美しい灯籠。美しいともしび
謠曲 ようきょく。能の詞章だけを謡う芸事。役者の動き・囃子・間狂言は除外し、詞章全体を一人で謡う。謡(うたい)。
貫目 かんめ。身に備わった威厳。貫禄
打出 うちだし、はね。芝居や相撲などの終りに太鼓をどんどん打って観客を追ひ出すこと。
耶蘇 イエス・キリスト。イエス(Jesus)の近代中国音訳語は「耶蘇」。日本では広くキリスト教やキリスト教徒の意味で用いられた。
庵室 僧、尼、隠遁者の質素な住まい。いおり

〇汽車の(ひゞき)  甲武の市内線と赤羽線とのが、夜はことに手に取るやうに聞えます。
〇汽船の汽笛  この事は人には(ちよつ)と信じませんけれど、私は以前築地に(すま)つて居て、聞覚えがあるから分るのですが、東風(こち)の吹く()は、大川から芝浦へ出入する汽船の汽笛が、びっびっびーと鮮やかに聞こえます。
賣聲(うりごゑ)  (もとよ)り賣れる場所ではありませんから、毎晩(きま)つて呼賣(よびうり)に來る商人(あきんど)はありません。不圖(ふと)すると、花林糖(くわりんたう)()が來る位の事。過日(いつか)でしたか、どう途惑(とまど)つてか、大層美聲(びせい)の辻(うら)(うり)が、淡路しま通ふ千鳥(ちどり)(なが)して來た事がありましたけれど、果して賣れなかつた爲か、たゞ一()(ぎり)でした。
杜鵑(ほとゞぎす)  たゞ一度(ぎり)、思ひ出したんですが、六年以来たゞ一(こゑ)、月夜の杜鵑を聞きました。この(へん)は、昔は()く鳴渡つたところださうですのに。
門附(かどづけ)  (これ)賣聲(うりごゑ)と同様で、(すま)ふ人が門附を呼止(よびと)める柄ではありませんから、(めつ)たに()つては來ませんけれど、(たま)義太夫(ぎだいう)新内(しんない)が…それも素通(すどほ)りの(なが)(ぞん)
按摩(あんま)  これは毎夜入りさうな土地で居て、やはり賣聲(うりごゑ)と同様で、笛の()(たま)により聞こえません。
(たき)(おと)  何分(なにぶん)巡査(じゆんさ)巡囘(じゆんくわい)の少い邊鄙(へんぴ)の事ですから、是は折々ある事で、おや、垣根で(へん)な音がすると思ふと、それ、往來(わうらい)の人が立止(たちどま)つて…
あゝ、話が(した)()ちましたから、もうこの(へん)切上(きりあ)げせまう。

甲武の市内線 甲武鉄道は明治22年に開業した蒸気鉄道で、飯田町-中野間10.9キロの電化工事を起し、明治37年8月に完成した。
東風 東風(あゆ、こち、こちかぜ、とうふう、とんぷう、はるかぜ、ひがしかぜ)。東から吹いてくる風。
大川 通称で東京都を流れる隅田川の下流部
呼賣 行商人の一種。道々大きな声で客を呼びながら商う呼売がありました。江戸時代から都市で盛んになり、野菜や魚介類など少量の商品を扱っています。振売 (ふりうり) 、棒手振 (ぼてふり) とも呼び、大正期まで多くみられ、現在でも金魚売、豆腐売、焼芋売などが行商人。
花林糖 かりんとう。駄菓子の一種
門附 家の門口で雑芸(万歳・厄払い・人形回し・その他)を演じたり、経を読んで金品を乞う行為や人。
義太夫 義太夫節の略。浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派
新内 しんないぶし。新内節。 浄瑠璃の一流派

大東京繁昌記|早稲田神楽坂09|牛込見附

文学と神楽坂


牛込見附

牛込見附

 私達は両側の夜店など見ながら、ぶら/\と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車線路増設停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じはことによく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。

外濠の電車線路 外濠線の都電線路のこと。都電3系統の路線で、第3系統は飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る路線です。
見附の橋 見附の牛込橋は千代田区富士見二丁目から神楽坂に通ずる早稲田通りに架かっていました。寛永13年(1636)阿波徳島藩主蜂須(はちす)()忠英(ただてる)が建造。当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、旗本屋敷が並び、その間は深い谷だったのを、水を引いて堀としたものです。
省線電車 1920年から1949年の間、現在の「JR線」に相当する鉄道。明治41(1908)年から鉄道院「院電」、大正9(1920)年から鉄道省「省電」、昭和24(1949)年から日本国有鉄道「国電」、昭和62(1987)年から東日本旅客鉄道「JR」と変遷。
線路増設 昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で貨客分離を目的として、新宿-飯田町間で複々線化工事を完成しました。
停車場の位置変更 停車場はJR駅のことで、ここでは飯田橋駅ではなく、牛込駅のこと。牛込駅は牛込橋(現飯田橋駅西口に接する跨線橋)よりは四ツ谷寄りの位置です。出入口は2か所。ひとつは外堀通りに面した神楽坂下交差点のたもと。現在でも、牛込濠を埋め立てて作った連絡通路の遺構が残っています。下に詳しく書いています。もうひとつは濠の反対側、旧飯田橋郵便局の向かいで、改札口の位置を左右から挟むようにして、石積みの構造物が残っています。昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で複々線化工事が新宿-飯田町間で完成。これで駅間が近い牛込駅と飯田町駅を統合し、飯田橋駅が開業しました。この3駅についての関係はここで
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。以上は牛込見附ではまったくいいのですが、しかし、別の文脈では、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。詳しくは牛込見附跡を。
大正11年。東京市牛込区二重 大正11年の『東京市牛込区』の地図では牛込橋が2つにわかれています。また下の新宿歴史博物館の「神楽坂通りの図 古老の記憶による震災前の形」でも2つに分かれています。牛込橋の上の1つは千代田区に、下の1つは牛込駅につながっています。2つの牛込橋2
 いまでもこの連絡通路はあります。赤い色で描いた場所です。カナルカフェ写真ではこうなっています。先には行けません。。
カナルカフェ2
下は明治後期の小林清親氏の「牛込見附」です。きちんと牛込橋が2つ書かれています。

牛込見附の清朝

牛込見附

この下の橋は昭和42年になっても残っていました。飯田橋の遠景

 だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫らんまんと咲きつらなり、お濠の水の上に紛々ふんぷんたる花ふゞきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。

停車場 「停車場」はJR駅について話す場合。これは牛込駅に相当します。ちなみに市電(都電)は「停留所」でした。
新見附 明治中頃、行き来の便宜のため、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて新しく橋を作りました。この橋を新見附橋といいます。また外濠は二つになり、牛込駅(飯田橋駅)寄りは牛込濠、市ヶ谷寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。
爛漫 花が咲き乱れているさま
紛々 入り乱れてまとまりのないさま
花ふぶき はなふぶき。花びらがまるで雪がふぶくように舞い散るさま
 貸ボートが浮ぶようになったのは、ごく近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てゝ市の公園にするとかいううわさも幾度か聞いたが、そのまゝお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ/\の意味でいゝ思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな/\の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに/\舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒だんらん振りを見ることも屡々しばしばである。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓おしゃくや又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろおとりにしているのでないかと笑ったことがあった。

貸ボート この東京水上倶楽部の創業は大正7年(1918年)です。東京で最初に出来たボート場でした。
水上公園 水のほとりや水辺にある公園
漕遊 遊びで漕ぐ
まにまに 随に。他人の意志や事態の成り行きにまかせて行動するさま
団欒振り 「振り」は物事の状態、ようす、ありかた。語調を強めるとき「っぷり」の形になる場合も。「枝―」「仕事―」「話し―」「男っぷり」「飲みっぷり」
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などとも呼びます。
 これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反のかどを以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙しょうよう漫歩まんぽを楽しみ得るの日の来らんことを鶴首かくしゅしている次第である。

麹町区 こうじまちく。神田区と一緒になって千代田区
慰楽所 いらくしょ。慰みと楽しみ。「レクリエーション」のこと
あすこ あの土手。見附上の土手から新見附の土手に至るまでの土手です。
逍遙漫歩 逍遙しょうようとは気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。漫歩まんぽとは、あてもなくぶらぶら歩き回ること。そぞろあるき
鶴首 今か今かと待つこと。首が伸びるほど待ち焦がれること


大東京繁昌記|早稲田神楽坂01|床屋の壁鏡

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』です。

床屋の壁鏡床屋

 神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土(つくど)八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナヽ屋の露店が出て、パンパン戸板をたゝいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

本多横町 「神楽坂最大の横丁」。神楽坂3丁目と4丁目の間にあり、飲食店などの店は50軒以上。
本多横丁2
筑土八幡 筑土八幡町は南端部を大久保通りが通っています。筑土八幡神社があり中心的な存在です。筑土八幡町
狭い横町 これは本多横丁のこと。本多横町は現在「神楽坂最大の横丁」です。
豊島 豊島理髪店。神楽坂通りと本多横町が交わる場所にありました。今までは中華料理と肉まんで有名な「五十番」でしたが、2016年からは「北のプレミアムフード館 キタプレ」になりました。「3丁目北側最西部の歴史」でもっと詳しく出ています。
バナナ屋 バナナの(たた)き売りは独特の口上を述べながらバナナを露天で売る手法です。やがてこのバナナ屋は神楽坂に一軒、巨大なビルを設けました。
戸板 雨戸の板。これを並べ、物を置いて販売しました。
手を打つ 感心したり、思い当たったり、感情が高ぶったりしたときに両手を打ち合わせて音をたてる。
口上 口頭で述べること、述べる内容

 私はその床屋へ、まだ早稲田の学生時代から今日までずっと行きつけにしている。特にそこが他よりすぐれていゝとかうまいとかいう訳でもないが、最初その辺に下宿していた関係で行き出したのが元で、何となく設備や何かの感じがよいので、その後どこへ引越して行っても、今だに矢張やはり散歩がてらにでもそこまで出掛けるような次第である。数えるともう十七、八年もの長い年月である。その間私は、旅行その他特別の事情のない限り、毎月必ず一度か二度位ずつ、そこの大きな壁鏡に私の顔をうつし続けて来たわけであるが、する(うち)いつか自分にも気のつかぬ間に、つやつやした若々しい青年だった私の顔が、皮膚のあれゆるんだ皺深しわぶかい老人じみたものに変り、自ら誇りとしていたほど濃く、且つ黒かった頭髪が、今はすでに見るもじゝむさい 胡魔塩ごましおに化してしまった。
「随分お白いのがふえましたね」
「うゝむ、この頃急に白くなっちゃった。まだそんな年でもないんだけれど……」
「矢張り白髪のたちなんですね、よくこういうお方がありますよ」
「何だか知らないが、実際悲観してしまうね」
 大分以前、まだそこの主人が職人達と同様にはさみを持っていた頃、ある日私の髪を刈り込んでいる時、二人はそんな会話を取りかわした。見るとしかしそういう主人自身の頭も、いつかしらその頂辺が薄く円くはげているのだった。
あれゆるむ 「あれてゆるむこと」。荒廃し、ゆるむこと。
じじむさい 若さや活気がなく、年寄りくさい。じじくさい。
胡魔塩 本来は胡魔塩とは焼き塩と炒りゴマを混ぜた調味料のこと。白と黒が混じったものの比喩として使って「胡麻塩頭」とは白髪が混ざった黒髪の頭髪
たち 質。生まれつきの体質。 「涙もろい-」

「君も随分変ったね」
 私はもう少しでそういおうとした。主人も今はもう五十に間もない年頃で、むしろ背の低い、まるまると肥えた、鷹揚おうような、見た眼にも温良そうな男であるが……変ったのはかれや私の頭髪ばかりではない、それの店の内部も外観も、ほとんど昔のおもかげを(とど)めない位に変ってしまった。何時(いつ)どこが()うなったということはいえないが、何度か普請ふしんをやり直して、外観もよくなったと同時に、内部もずっと広くなり綺麗にもなり、すべての設備も段々とよくなった。散髪料にしても、二十銭か二十五銭位であったのが、今はその三倍にも四倍にもなった。髪の刈り方ひげの立て方の流行にも、思うに幾度かの変遷を見たことであろう。わけてそこに立ち働く若い理髪師達の異動のはげしさはいわずもがな、そこの主人の細君でさえ、中頃から違った人になった。多分前の人が病気で亡くなりでもしたのであろう。又そこへ来る常客の人々の身の上にも、それこそどんなにか、色々の変化があったことだろう。単にその外貌がいぼうだけについていっても、例えば私のように、血気な青年だったものがいつかすでに半白の初老に変じたものもあろうし、中年の壮者が白髪の老者に化し、又白髪の老者がいつかその姿を見せなくなったということもあるだろう。更にまた昨日まで母親や女中に伴われて、クルクル坊主にされに来た幼児や少年が、今日はすでに立派なハイカラな若紳士姿で、そのふさふさした漆黒しっこくの髪に流行の波を打たせに来るといったようなことも多いだろう。私はそこのかぎ形になった二方の壁にはめ込まれた鏡に向い、最近急に、自分でも驚くほどに変った自分の顔貌をうつし眺めるごとに、いつでもそうした事など考えては、いろいろの感慨にふけるのが常である。

鷹揚 鷹が大空をゆうゆうと飛ぶように、ゆったりと振る舞うこと。
普請 家屋を建てたり修理したりすること
髯の立て方 「髯」は「ほおひげ」ですが、ここではあらゆるヒゲ(髭、鬚、髯)のことでしょう。
漆黒 つややかな純粋な黒色。
かぎ形 (かぎ)のように先端が直角に曲がった形

サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

 (さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。肴町から若松町のほうへ十二、三げん行った右側だ。竹中のおやじから金を受けとると、おゝ一、新(もう言わなくともよかろう)……木々高太郎博士の温顔おんがんを胸に浮かべつゝ、早稲田へと向かう。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
ロシア菓子ヴィクトリア どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。本文で出てくる「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」でしょう。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。
 また『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では

 洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました。

松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では

山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。

この六丁目の本屋さんは「文悠」(神楽坂6丁目8、「よしや」の東)です。これがロシア菓子ヴィクトリアだったのでしょうか。下の地図では「カンコーバ(文明館)」(現在は「よしや」)と「シャシン」(現在は「とんかつ大野」)との間に「ロシア菓子ヴィクトリア」が入ることになります。

神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。本文の「ロシア菓子の前に東電がある」からすると、東京電力はおそらく神楽坂通りの南側で、向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば

 矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。

となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。

昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図2葉もありました。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」から「Family Mart」になっています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

「マクドナルド 神楽坂駅前店」。現在は「Family Mart」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

 僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。

赤城元町11番地 この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂04|神楽坂気分

文学と神楽坂

神楽坂気分
 私は()めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。
「僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた/\していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら/\夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた/″\ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしや(の講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風なな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハヽヽ」

神楽坂気分

新開地 新しく開墾した土地。新しく開けた市街地やその地域
用足し場 用事を済ませること。大小便をすること
かたがた 「…をかねて」「…のついでに」などの意味があります。「…がてら」
見物場 見世物小屋。普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。例えば口上として「山から山、谷から谷を渡り歩いた姉妹が、何故、人が忌み嫌う長虫(蛇)を食わなければならなかったのか?これから。お目にかけまする姉妹は「サンカ」の子に生まれた因果で、哀れ、今もその悲しさを伝えてくれますよ。さあ、見てやってください。見てください」。実際に生きた蛇を引き裂いて食べる人もでたようです。
バナナのたたき売 「ここは牛込、神楽坂」第3号の「語らい広場」で友田康子氏の「三〇年前、毘沙門様で」という投稿が載っています。そして口上は「『さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百…、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!』威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり」と書いています。
蝮屋 商品になるのはニホンマムシの蒸し焼きかその粉末です。毒蛇の強靭な生命力にあやかり、食べると心身の強壮に効果があるとされていました。
標札 屋標札は戸籍法との関連性が高く、明治5~11年頃、各戸に標札を備えつける布達がなされたようです。当時は筆を使って書きました。
無我的 無心。我意がないこと

「あゝそれ/\」と友達も一緒に笑った。「ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね」
「よかろう」
 そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日(えんにち)で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。
「おや/\、こんな所に縁日があるんだね」
と友達は珍しそうにいった。
「あゝ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね」と私がいった。
「第二の神楽坂が出来るわけかね」
「アッハヽヽ前途遼遠りょうえん)だね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ」
「ここへ電車が敷けるのか?」
「そんな話なんだがね、音羽おとわ護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡(れんらく)する予定になっているそうだ」
「そしたら便利になるね」
「だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ」

柳町 やなぎちょう。南北に外苑東通り、東西に大久保通りがあり、ここ市谷柳町で交差しています。
車止め くるまどめ。停止すべき位置を越えて走行してきた自動車や鉄道を強制的に停止させるための構造物
前途遼遠 ぜんとりょうえん。目的達成までの道のりや時間がまだ長く残っている。今後の道のりがまだ遠くて困難。「途」は道のり。「遼遠」ははるかに遠い。「遼」は道が延々と長く続いているという意味です。
音羽 おとわ。これは音羽町という地名。最南端は神田川、以前の江戸川に接しています。
護国寺前 ごこくじまえ。「護国寺前」は交差点の名称で、東西に向かう不忍通りと、南に向かう音羽通りの交差点です。
江戸川 神田川の中流域で、「江戸川」というのは都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
矢来の交番 矢来の交番は現在、正しくは矢来町地域安全センターといいます。ここに3つの通りが交差点「牛込天神町」に集まっています。北から来る道路は江戸川橋通り、東から来る道路は神楽坂通り、西から来る道路は早稲田通りです。

榎町 えのきちょう。町の名称。ここで、交差点「牛込天神町」から交差点「弁天町」(早稲田通りと外苑東通りとが交わる)に至るまでが早稲田通りです。
弁天町 早稲田通りから交差点「弁天町」を左に曲がって、外苑東通りに入ると、弁天町になります。さらに南に行くと、交差点「市谷柳町」です。
塩町 しおちょう。「外苑東通り」の「合羽坂」で左に曲がり、「靖国通り」を東に行き、交差点「市谷本村町」で右に曲がり、「外堀通り」にはいるとそこは塩町。現在は「本塩町(ほんしおちょう)」になります。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」です。音羽4
① 護国寺前
ここがスタート

② この辺りが音羽

③ 江戸川
昔、神田川の中流を江戸川と呼びました

矢来交番

矢来の交番

④ 矢来の交番はここ  →
⑤ この辺りが榎町。ここを通って…
⑥ 早稲田通りから交差点「弁天町」にはいり、向きを左(下)に変え、外苑東通りに行き…

⑦ 交差点「市谷柳町」を通り…

⑧「外苑東通り」の交差点「合羽坂」で左に曲がり、

⑨ 交差点「市谷本村町」で右に曲がり、
⑩「外堀通り」にはいると塩町に。現在は「本塩町」。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」になります。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂03|山の手の銀座?

文学と神楽坂

山の手の銀座?
毘沙門

それに往年の大震災には、下町方面はほとんど全部灰塵かいじんに帰して、今やその跡に新たなる東京が建設されつゝあるので、その光景も気分も情調も、全く更生(こうせいてき)の変化を示しているが、わが神楽坂通りをはじめ牛込の全区は、(さいわい)にもかの大火災を免れたので、それ以前と比べて特に目立つほどのいちじるしい変化は見られない。路面がアスファルトになったり、表構えだけの薄っぺらな洋式建物が多くなったり、カッフェーやメリンス屋が多くなったりした位のもので、昔と比べて変ったといえば随分変ったといえるが、同じようだといえばまた同じようだといえないこともない。だがかく神楽坂は、私にとっては東京の中で最も好きな街の一つだ。こないだもの方に住んでいる友達が来て私にいった。

灰塵 かいじん。灰と塵
更生 生き返ること。よみがえること。蘇生すること
表構え おもてがまえ。外側から見た、家屋・塀・門扉などの造り。「表構えのりっぱな家」
メリンス メリノ種の羊毛で織った柔らかい毛織物
 以前の芝区。昭和22年3月、赤坂区、麻布区、芝区の3区が合併し、現在の「港区」が誕生。現在は港区芝地区。

「君は(おも)にどこへ散歩に出かけるかね」
「そりゃ勿論神楽坂だ。殆ど毎晩のように出かける」と私は立ち所に有りのまゝを答えた。
「そんなに神楽坂はいゝかね」
「そう大していゝということもないけれど、一寸ちょっといゝよ。それに昔からの馴染で、出るとつい自然に無意識に足が向いてしまうんだよ。銀座あたりまで出かければ兎に角、外にちょっと手頃な散歩場がないからね」
「銀座なんかと比べてどうかね」
「そりゃ勿論とても比較にも何にもならないさ。すべてがちっぽけで安っぽくて貧弱で、田舎臭くてね。どうしても第三流的な感じだよ。しかしその第三流的な田舎臭いところが僕には好きなんだ。親しみ易くてね」
「ふゝん」友達は(かす)かな冷笑をその鼻辺に浮べながらうなずいた。「併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのがちょっと分らない。あれ位の所なら、外にも沢山、何処の区にでもあるじゃないか」
「そりゃそうだ、殊にあすこは夜だけの所で、間は実につまらないからね。だが夜になると全く感じが違ってしまう。何処だってそういえばそうだが、殊に神楽坂は昼と夜との違いがはげしい。昼間あんな平凡な殺風景な所が、夜になるとどうしてあんなにいゝ感じの所になるかと不思議な位だ」

立ち所に 時を移さず、その場ですぐに。たちまち。すぐさま
第三流的 二流よりもさらに劣った、程度が低いもの

山の手の銀座 銀座は下町なので、山の手の銀座は神楽坂だといっていました。「山の手の銀座」がいつごろからこう使ったのか、はっきりしません。たぶん関東大震災ごろからでしょうか。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた。

関東大震災後、神楽坂は3~4年繁栄しましたが、あっという間に繁栄の中心地は新宿になっていきます。『雑学神楽坂』の西村和夫氏は

市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。

と説明します。

「実際夜は随分賑かだそうだね」
「賑かだ。四季を通じてそうだが殊に今頃から真夏にかけてははなはだしい。場所が狭いからということもあるが、人の出盛り頃になると、殆ど身動きも出来ない位だからね」
「別にこれといって何一つ見る物もないし、ろくな店一つないようだがね。矢張り毘沙門びしゃもん様の御利益(ごりやく)かな、アハアハヽヽ」
「アハヽヽ、何だか知らないが、兎に角われも/\といったような感じでぞろ/\出て来るよ。牛込の人達ばかりでなく、近くの麹町こうじまち辺からも、又遠く小石川雑司ヶ谷ぞうしがやあたりからもね」
「どうしてあんな所があんな繁華な場所になったのかね、君なんか牛込通だからよく知ってるだろう」
「いや、知らない、又そんなことを知ろうという興味もない。それこそ元は毘沙門様の御利益だったのかも知れないが、兎に角昔から牛込の盛り場としてにぎやかなので、だから人が出る。人が出るからにぎやかなんだという現前の事実を認めさえすればいゝんだ。併し単ににぎやかだとか人出が多いとかいうだけならば、今君がいったように同じ山の手でも神楽坂なんかよりずっと優った所が少なくないよ。例えば近い所では四谷の通りなんかもそうだし、殊に最近の新宿付近の繁華さといったら素晴らしいものだ。すぐ隣の山吹町通り、つまり江戸川から矢来の交番下までの通りだって、人出の点からいえば神楽坂には劣らないだろう。けれどもそれらの所と神楽坂とではまるで感じが違ってるよ」

35区時代の東京市
麹町 旧区名。千代田区の一部で、近世は武家屋敷が多く、現在はビジネス街と高級住宅地です。
小石川 旧区名。文京区の一部。文教・住宅地区。
雑司ヶ谷 元来は北豊島郡雑司ヶ谷村。1889(明治22)年、東部が小石川区(現在の文京区)に、残部は巣鴨村に編入、小石川区雑司ヶ谷町と巣鴨村大字雑司ヶ谷に。1898(明治31)年、小石川区は東京市の一部に。1932(昭和7)年、西巣鴨町が東京市に編入され、豊島区雑司ヶ谷町1-7丁目に。
四谷の通り 1878(明治11)年11月、東京府四谷区が発足。1947(昭和22)年3月、本区、淀橋区、牛込区の3区が合併し、東京都新宿区に。四谷の通りは現在は「新宿通り」
山吹町通り 現在は「江戸川橋通り」
江戸川 現在は「江戸川橋交差点」。これは1971年3月まで都電の停留所名と同じでした。「江戸川」はかつての神田川中流(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1 kmの区間)の名称。
矢来の交番下 矢来町交番(現在は矢来町地域安全センター)は矢来町27番にあります。ここで西からくる早稲田通りと、北からくる江戸川橋と、東からくる神楽坂通りの3つが一緒になって、交差点「牛込天神町」を作り、その南側に矢来町交番(地域安全センター)ができました。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂02|私と神楽坂

文学と神楽坂

私と神楽坂牛込神楽坂

それにしても、私はこれまで幾度その鏡に私の顔を姿をうつして来たことだろう。思えばその鏡こそは、これまで十七年も八年もの長い年月の間、青年から中年に更にまた老年の域へと一歩々々近づいて行きつつある私の姿を、絶えずじっと凝視ぎょうしして来た無言の観察者であったのだ。どこの何者とも知れない一人の男が――私は性来無口で、そんなに長くその店へ行きつけているけれど、滅多に誰とも口をきくこともなく、いわんや私の名前や身分や職業などについては、未だかつて一言も漏らしたことがないので、そこの主人でもただ長い顔馴染かおなじみというだけで、恐らく私についてはほとんど何事も知らないだろう――そのどこの誰とも知れない一人の男が、十数年この方毎月ふらっとやって来ては、用が終えると又同じようにだまってふらっと帰って行く、その同じことを長の年月繰返している間に、気がつくといつもなしにその男の髪が白くなり、顔にはしわが深く寄せている。非情の鏡といえども恐らくは感慨の深いものがあるであろう。私はそれを思う毎に、いつもそこに或る小説的な興味をさえ感ずるのである。
 こういう変化は、いうまでもなく何人の上にも、又何物の上にも行われていることである。しかも、それは極めて徐々に時の経過と共に自然に行われるのであって、何時うして何うということなどのいえないようなものである。長い年月を経た後に、ふと何かの機会にそれと気がついて驚くことはあっても、ふだん始終見つけている者には、何か特別の事情のない限り殆ど眼に立たないのが常である。私は本紙に連載中の大東京繁昌記の一節として、これからその印象や思い出を語ろうとしている牛込うしごめ神楽坂かぐらざかのことに関しても、矢張り同様の感を抱かざるを得ない。

凝視 目を大きく見開いてじっと見つめること
本紙 東京日日新聞です。1927(昭和2)年6月の紙面に載りました。

私が東京へ出て来てから既に二十二、三年にもなるが、その間今日までずっと、常にこの神楽坂を中心にして生活して来たようなものである。最初の三、四年間は、故あって芝の高輪の方から早稲田大学へ通っていたが、その頃まだ今の早稲田線の電車が飯田橋までしか通じておらず、間もなく大曲まで延びたが、私は乗換えや何かの都合で、毎日外濠線の電車を神楽坂下で乗り降りしたものだった。その後学校附近に下宿するようになってからは、何度その下宿を転々しても、又一家を構えるようになって、何度引越して歩いても、まだかつて一度も牛込の土地を離れたことがない。郊外生活をして見ようとか、他区に住み換えて見ようとか思い立ったことも幾度かあったが、その度毎に住み馴れた土地に対する愛著あいちゃくと、未知の土地に対する不安とが、常に私の心を元の所に引止め、私の身体を縛りつけてしまうのであった。今や牛込は、私にとっては第二の故郷も同様であり、又どうやらこのまま永住の地になってしまうらしい。し今後何等かの事情で他に転住しなければならぬようなことがあるならば、私はあたかも父祖伝来の墳墓の地を捨てて、遠い異国に移住する者の如き大なる勇気を要すると同時に、またその者と同じい深い離愁を味わわねばならないだろう。しかしこうして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然である。
 かくして私は多年神楽坂という所に親しみ、かつそこを愛する一人として、朝夕の散歩にも足自らそこに向うといった風で、その変遷推移の有様も絶えず眼にして来たわけであるが、そして一々こまかくしらべたならば、はじめて見た時と今とでは、四辺の光景も全く見違えるほどに一変してしまっているに違いないが、さて何時どこがどんな風に変ったかという段になると、丁度私の頭髪が何時どうして白くなったかと問われると同じく、はっきりしか/″\と答えることは困難である。長い間に、いつとはなく、又どことなく、自然に移り変って、久しく見なかった人の眼には驚くばかりの変化や発展を示しているに違いないが、毎日見馴れている私にとっては、大体において矢張り以前と同じようだといわざるを得ない。

東京へ出て 加能作次郎は、明治18年(1885年)石川県羽咋郡に生まれました。1905年(明治38年)、上京し、1907年(明治40年)4月、22歳で早稲田大学文学部文学科高等予科に入学しています。
芝の高輪 以前の芝区、現在の港区の高輪で、高輪南町、高輪北町、高輪台町などからなっていました。品川駅などがあります。
早稲田線 15系統の都電は、高田馬場駅前、戸塚二丁目、面影橋、早稲田、早稲田車庫、関口町、鶴巻町、江戸川橋、石切町、東五軒町、大曲、飯田橋、九段下、専修大学、神保町、駿河台下、小川町、美土代町、神田橋、大手町、丸ノ内一丁目、呉服橋、日本橋、茅場町でした。
大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
外濠線 飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る都電3系統路線。はじめは東京電気鉄道会社の経営、後に東京市に移管。
墳墓の地 ふんぼのち。墓のある土地。特に、先祖代々の墓がある土地。故郷
離愁 りしゅう。別れの悲しみ。別離の寂しさ

大東京繁昌記|早稲田神楽坂12|花街神楽坂

文学と神楽坂


花街神楽坂

花街神楽坂

 川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
 この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の(うわさ)をそのまま記すだけにとどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

区役所 現在は新宿区立牛込箪笥区民センターのこと
吉熊 大正9年、赤城神社の氏子町の1つとして、箪笥町が出ています。その町の説明で

牛込区役所は15,6,7番地に誇る石造二階建の洋館(明治26年10月竣工)である。41番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正10年11月25日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった

と書いています。1970年、新宿区立教育委員会の作った「神楽坂界隈の変遷」では「新撰東京名所図会 第42編」(東陽堂、1906年)を引用し

吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

と書いてあります。場所は箪笥町35番でした。 箪笥町三十五番

牛込区役所と相対しています。地図は昭和5年の「牛込区全図」です。意外と小さい? いえいえ、結構大きい。現在35番は左側の「日米タイム24ビル」の一部です。

箪笥町35番 明進軒2求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。地図は昭和12年の「火災保険特殊地図」。
無慮 おおまかに数える様子。おおよそ。ざっと。
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。
末よし 末吉は2丁目13番地にあったので右のイラストで。地図は現在の地図。 末吉
温泉横町  牛込会館横で、現在は神楽坂仲通りのこと
江戸源 昭和8年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

白木屋横町。小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの『花の家』カフェー『東京亭』野球おでんを看板の『グランド』繩のれん式の小料理『江戸源』牛鳥鍋類の『笑鬼』等が軒をつらねています

と書いています。ここは「繩のれん式の小料理」なのでしょう。なお、白木屋横町は現在の神楽坂仲通りのこと。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら/\と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りもまばらになり、両側の夜店もそろ/\しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ/\いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフェからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら/\した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

額ずく ひたいを地面につけて拝むこと。
新内 浄瑠璃の一流派で、鶴賀新内が始めた。花街などの流しとして発展していった。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けた
声色使い 俳優や有名人などの、せりふ回しや声などをまねること。職業とする人
地内 現代では「寺内」と書きます。寺内の花柳界は極めて大きく、「袖を引く」(そでをとって人を誘う)という風習は花柳界から生まれました。
都の西北 もちろん早稲田大学の校歌。作詞は相馬御風氏、作曲は東儀鉄笛氏。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」と始まっていきます。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂08|独特の魅力

文学と神楽坂

独特の魅力
独特の魅力

 そうはいっても、しかしその寺町の通り神楽坂プロパーとでは、流石さすがにその感じが大分違っている。何といっても後者の方が、全体としてすべての点に一段級が上だという事は、何人も認めずにおられないだろう。例えば老舗と新店という感じの相違のようなものであろうか、矢張り肴町電車路を越えてから、はじめて神楽坂に出たという気のするのは、私だけではあるまい。たった電車路一筋の違いで、町並も同じく、外観にもにぎやかさにも相違がなく、出る人も同じでありながら、全体の空気なり色彩なりが急に変るということは、地方色などといえば少し大げさだが、多少そういったようなものも感ぜられて興味あることだ。寺町の通りが今の神楽坂本通りと同じ感じになるには、まだ/\相当長い年数を経なければなるまい。

寺町の通り 神楽坂6丁目の通り
神楽坂プロパー 神楽坂1~5丁目の通り。この本では「神楽坂本通り」と書いています
肴町 神楽坂5丁目
電車路 大久保通りは昔は都電のチンチン電車が通っていました

 それにこちらの方は、その両側の横町や裏通りがことごとく、芸者家や待合の巣になっていることをも考慮に加えなければならない。座敷著姿の艶っぽい芸者や雛妓おしゃく等があの肩摩(けんま)轂撃こくげき的の人出の中を掻き分けながら、こちらの横町から向うの横町へと渡り歩いている光景は、今も昔と変りなくその善い悪いは別として、あれが余程神楽坂の空気や色彩を他と異なったものにしていることは争われない。そして一見純然たる山の手の街らしいあの通りを、一歩その横町に足を踏み入れると、たちまちそこは純然たる下町気分の狭斜(きようしや)のちまたであり、柳暗(りゆうあん)花明(かめい)の歓楽境に変じているのであるが、その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶かくぜつもなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合(ゆうごう)して、そこにいわゆる神楽坂情調なる独特の花やかな空気と艶めいた気分とをかもし出し、それがまた他に求められぬ魅力となっているのだ。よく田原屋オザワなどのカッフエで、堅気なお邸の夫人や令嬢風の家族連れの人達や、学生連や、芸者連れの人達やがテーブルを並べて隣合わせたり向い合ったりしている光景を見かけるが、こゝ神楽坂ではそれが左程不自然にも不調和にも思われず、又その何れもが、互に気が引けたり窮屈に感じたりするようなこともないという自由さは、私の知っている限り神楽坂をいて他にないと思う。

Road_hub

ウィキペディアから

こちらの方 神楽坂プロパー、つまり神楽坂1~5丁目の通りのこと。
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などと呼びます。
肩摩轂撃 けんまこくげき。人や車馬の往来が激しく、混雑している様子。都会の雑踏の形容。肩と肩が触れ合い、車の(こしき)と轂がぶつかるほど混雑している。轂はハブのことで、車両・自動車・オートバイ・自転車などの車輪を構成する部品で、車輪(円盤状の部品)の中心部のこと
狭斜のちまた きょうしゃのちまた。中国長安で、遊里のある道幅の狭い街の名から、遊里。色町。「狭斜の(ちまた)」も遊廓のこと
柳暗花明 りゅうあんかめい。春の野が花や緑に満ちて、美しい景色にあふれる。花柳界・遊郭のことを指す
その山の手式の気分 安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」で引用されています。
隔絶 かけ離れていること。遠くへだたっていること

 私はぶら/\歩きながらそんなことを友達に話した。友達はなるほどといった様子で一々私の説にうなずいた。そして山の手の銀座といわれるのも無理がないとか、下町気分もかなり濃厚だなどと批評した。
「それにこゝは電車や自動車も通らず、両側町だからなおさら綺麗でもあるしにぎやかでもあるんだね。ちょっと浅草の仲見世みたいに」とかれはいった。
「そう、それもある。それにも一つ、こゝでは人通りが大体において二重になるということもあるんだ。というのは、坂下の方から来る人達はずっと寺町の郵便局辺まで行って引返す、寺町の方から出て来た連中は坂上か坂下まで行って又同じ道を引返すというわけなんだ。丁度袋の中をあっち行きこっち行きしているようなものだ。だから僕なんか、こうしてぶら/\していると、何度も同じ人に出会わすよ、のみならず、こゝを歩いている人達はみんな顔なじみという気がするんだ」と私は、あの人もあの人もと、折りから通り合せたいつもよく見る散歩人を指した。
「なるほどみんな散歩に出て来たという感じだね」と友達がいった。
「それも他所よそ行き気分でなく、ちょっとゆかたがけといったような軽い気持でね。だから何となく気楽な悠長な気がするよ。そしてこの辺の商人も、外の土地に比べると正直で悠長で人気が穏やかだという話だよ。通り一ぺんの客は少ないんだから、店同士でお互に競争はしていても、客に対しては一ぺんこっきりの悪らつなことはしないそうだよ」と私は人から聞いた通りに話した。

仲見世 なかみせ。社寺の境内などにある店。東京浅草では雷門から宝蔵門に至る浅草寺参道の商店街のこと。
ゆかたがけ 浴衣を無造作に着ること。また、浴衣だけのくつろいだ姿。
人気 じんき。にんき。その土地の人々の気風。「―の荒い土地柄」
一ぺんこっきり いっぺん[一遍]こっきり。1回を強く限定する意を表す語。一度かぎり。

別れたる妻に送る手紙|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江 近松ちかまつ秋江しゅうこうは明治9(1876)年5月4日に生まれ、昭和19(1944)年4月23日に死亡し、死亡時は67歳の作家でした。では、どんな作家でしょうか。

 名前以外には思いつかず、しかし、この「別れたる妻に送る手紙」の名前はなかなかよく、おそらく擬古文を使う明治時代の作家だと思っている。なるほど、残念ながら違います。

 あるいは、秋江を「あきえ」と呼んでしまって昔の男性ではなく女性作家だと思っている。あるいは、夏目漱石や森鴎外には及びもしないけど、それでも明治時代にはまあまあ知られていて、『別れたる妻に送る手紙』などはおそらく切々とした情感がある手紙だと思っている。これも間違いです。

 一言でまとめると、近松秋江の次女、徳田道子氏が、近松秋江著『黒髪、別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫)の「或る男の変身」で、こう書いています。

 収録されている作品はすべて情痴ストーリーで、美しいラブストーリーでもなければ純愛物語でもない。
 書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。

 逆に近松秋江はこう書いています。

 『別れたる妻…』は、紅葉の『多情多恨』と『金色夜叉』のに棄てられた貫一の心とを合したものです。
「新潮」 明治43年9月1日、近松秋江全集第9巻429頁)

 う~ん。なんとまあ。『金色夜叉』に匹敵する小説と考えているんだ。さすがに昭和5年にはこの豪語はなくなります。

   文筆懺悔・ざんげの生活
 自分が、長い間に書いて来た物で、あんなことを書くのではなかったと、今日から回顧して、孔あらば、入りたい心地のするものが、私には数多くある。どれも是れも、そんな物ばかりである。
 一体自分は、以前から、既に筆を持って紙にのぞんでゐる時に、非常な懐疑的態度に襲はれてゐる方で、(こんな物を書いてゐて、それでも好いのかなあ)と、幾度となく反省してみる。その為に筆が鈍るのである。尤もそれは、専ら芸術的立場からの批判であったが。
(「中央公論」昭和5年1月。近松秋江全集第12巻112頁)

 本人の自画像がとてもかわいい。真剣なものをもっと書けば良かったのに。『別れたる妻』なども真剣ですが、真剣な方角を変えたものがもっとあれば良かったのに。晩年は歴史物に流れていきました。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂07|通寺町の発展

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に乗った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の一部、「通寺町の発展」です。

通寺町の発展

 普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家の(ひさし)が両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。
肴町 現在の神楽坂五丁目です。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といい、この名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。ここでは市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を示すと考えます。
通寺町 現在の神楽坂六丁目です。
長家建 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
 ひさし。窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す小さな屋根。出入り口や窓の上部に設けることで、日差しや雨から守ることができるようになる。
勧工場 かんこうば。現在「スーパーよしや」が建っています。明治20年5月、牛込勧工場のスタートでした。
 工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売しました。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さく、また、多くは民営で、商人達の貸し店舗の商店街でした。入口と出口は別々にするのが一般的ですが、牛込勧工場は入口と出口が同じでした
 明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。明治40年以後になると、百貨店の進出があり、「勧工場もの」という言葉が安物の代名詞として広がり始め、大正3年(1914)にはわずか5か所に減り、衰退していきます。
 辰ノ口勧工場は明治15年の松斎吟光氏の「辰之口勧工場庭中之図」(発売元は福田熊次郎)で見ることも可能です。

火事が起って 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などがあれば、出品者に分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままで、明治44年には拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青の色ガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑抑私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかゝるかと内心非常にびくくしながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭出してお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

安田銀行聖天様いろは 下図の「火災保険特殊地図」(昭和12年)を見てみましょう。最初に、上下の大きな道路は神楽坂通り、下の水平の道路は大久保通り、2つの道路が交わる交差点は神楽坂上交差点です。
「安田銀行」は左にあります。その右には「聖天様」、つまり安養寺があり、そして昔の「いろは」(牛肉料理店)があります。 これは「牛肉店『いろは』と木村荘平」で詳しく検討しています。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 現在の写真では「安田銀行」は「セイジョー」から薬販売の「ココカラファイン」に、安養寺は同じく安養寺で、「いろは」はなくなりました。

 それから少し行ったところの寄席の牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかゝっていつも廊下へ溢み出すほどに繁盛し、活動などの盛にならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さん円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助小土佐などの義太夫加賀太夫紫朝新内にはじめて聞きほれたのも、矢張りその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかゝらなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかゝるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることゝ思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんぱんの行燈が、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそゝったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立だなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

牛込亭 この地図では「寄席」と書いています。現在の地図は、牛込亭は消え、ど真ん中を新しい道路が通りました。なお、この道路の名前は特に付いていません。
小さん 1895年3月、3代目襲名。1928年(昭和3年)4月、引退。
円右 1882年に圓右、1883年真打昇進。1924年10月、2代目圓朝に。一般的に「初代圓右」として認識。
綾之助 女性。本名は石山薗。母から義太夫の芸を仕込まれ、1885年頃、浅草の寄席で男装し丁髷姿で出演。竹本綾瀬太夫に入門し竹本綾之助を名乗る。1886年頃に両国の寄席で真打昇進。端麗な容姿と美声で学生等に人気を呼び、写真(プロマイド)が大いに売れたといいます。
小土佐 女性。竹本(たけもと)小土佐(ことさ)。女義太夫の太夫。明治の娘義太夫全盛期から昭和末まで芸歴は長大。
義太夫 義太夫節、略して義太夫は江戸時代前期から始まる浄瑠璃の一種。国の重要無形文化財。
加賀太夫 男性。富士(ふじ)(まつ)加賀(かが)太夫(たゆう)は、新内節の太夫の名跡。7代目は美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる。明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物がいたため。
紫朝 富士松ふじまつ紫朝しちょう。男性。明治大正の浄瑠璃太夫。
新内 新内(しんない)(ぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けたといいます。
色物 寄席において落語と講談以外の芸。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。
八幡劇 大衆演劇の劇団でしょうか。よくわかりません。
安来節 やすぎぶし。島根県安来地方の民謡。

 そんな懐旧談をしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつゝあったわけであるが、震災以後殊に目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑を見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつゝある有様である。

兎に角 他の事柄は別問題として。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。
さらでだに 然らでだに。そうでなくてさえ。ただでさえ。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華

泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花

大正元年の泉鏡花

 いずみきょうか。明治・大正期の小説家・劇作家。本名は鏡太郎。1873(明治6年)年11月4日に生まれ、没年は1939(昭和14年)9月7日。65歳、癌性肺腫瘍のため死亡。

 明治23年(17歳)、牛込横寺町の当時23歳の尾崎紅葉氏を訪ね、最初の門下になります。明治28年(21歳)、『夜行巡査」『外科室』を発表し、出世作に。明治29年5月、郷里から七七歳の祖母と弟豊春を迎えて、小石川区大塚町57番地に同居。明治32年(26歳)、神楽坂の芸妓、桃太郎(本名伊藤すゞ、当時17歳)を知り、牛込南榎町に引っ越し。明治33年(27歳)、幻想譚『高野聖』を発表。
 明治36年(30歳)1月、神楽坂に転居し、すゞと同棲。3月、紅葉はこれを知り、叱責。すゞはいったん鏡花のもとを去り、同年10月、紅葉が死亡、晴れて夫婦に。

 明治38年(32歳)、逗子に転居。明治41年(35歳)、『婦系図』を出版し、帰京。明治42年(36歳)、後藤宙外らの文芸革新会に参加し、反自然主義を標榜。
 昭和14(1939)年、66歳の『縷紅新草』が最後の作。小説は300編以上。独特の文体、女性崇拝、幻想、怪奇、耽美主義、エロチシズム、ロマンチシズムなどの世界が生まれました。

宇野浩二|大正8年3月~9年4月

 宇野浩二氏は大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「(みやこ)館」から撤去します。これは「宇野浩二全集 第十二巻 年譜」でそう書かれています。つまり

大正八年(一九一九) 三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿
大正九年(一九二〇) 四月、牛込袋町の都館を去って、江口渙の紹介で、彼の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町一七番地に一軒の家を構えた。

 わずか1年で、下宿は2軒になるわけです。では「神楽館」から「都館」に移った時間関係はどうなるのでしょう。水上勉氏の書かれた『宇野浩二伝 上』によると、浩二は五月に「都館」に引越ししたと書き、また新宿区の「区内に在住した文学者たち」では 、大正8年3月~同年4月に神楽町【神楽館】、大正8年5月~大正9年4月に袋町【都館】としています。正しいのでしょうか。水上勉氏著の『宇野浩二伝 上』を横に置いて見てみましょう。

 七年の末から八年はじめまで、浩二は「蔵の中」が発表されるまで、このような仕事をして待機していたわけだが、その金で三月末、牛込神楽坂の「神楽館」の部屋を借りて、赤坂にいた母を呼び寄せていた。浩二は母のために、今度は一と部屋を別にとった。それは来客が多かったせいもあるが、いくばくかの収入があったからでもあろう。ところが間もなく、この下宿へ広津和郎氏がやってきた。広津氏もまた転々していたのである。浩二の母は、浩二と広津氏の下着をいつもいっしょに洗濯した。二人は、お互いの褌をあべこべに使ったりした。
(『宇野浩二伝 上』244頁)


蔵の中 大正8(1919)年、28歳で宇野浩二氏は『蔵の中』を書きました。質屋の蔵で着物の虫干しをした男が書いた女たちの思い出です。これは近松秋江の実話をもとに作った小説でした。
このような仕事 翻訳で下訳すること。下訳者が最初の翻訳を行い、それから翻訳者に渡って、チェックして必要があれば書き直します。
神楽館 神楽坂2丁目にある下宿

 これで「三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿」したんだとわかります。さらに12月に、水上勉氏はこう書いています。

 浩二はこの十二月、まだ牛込の「神楽館」にいた。キョウも別室にいた。広津氏も同宿していた。すでにきみ子の自殺(浩二はそのようにいう)が材料になっているので、この作品は死の報が入った後書かれたことが明らかである。浩二にとってきみ子は、ヒステリイ女で重荷ではあったが、物心両面に援けを受けた相手である。(中略)そのきみ子が、別れて二年たつかたたぬまに死んだのだ。しかも自殺である。浩二にとってこれは悲痛な事件である。すくなくとも、大和高田での祖母の死にあれほどの衝撃を受けている浩二にとっては、きみ子の死は他人の死とは思えようはずもない。
(『宇野浩二伝 上』251頁)

この十二月 この十二月は大正8年の12月しかありません。大正7年はまだ神楽坂に来ていませんし、大正9年では下谷区にでています。大正8年12月には、依然「神楽館」にいたというのです。
キョウ 宇野浩二の母。
きみ子 伊沢きみ子。宇野浩二氏を悩まします。しかし、横浜で西洋人の家の小間使をしていた時に、猫イラズ入りの団子を食べて死んでいます。

 水上勉氏は正月過ぎにこう書いています。

 正月過ぎに東京の「神楽館」へ差出人不明の投書がきて、「ゆめ子はお蔭様にて大評判に候」などとあった。浩二はその下諏訪かららしい投書をみると、また仕事を持って出かけて行くのである。ところが鮎子に会いたし会いにくしといった気持から、いつか鮎子に紹介され、演芸会でも会って話した小竹を呼ぶ。そして小竹が鮎子と違い看板持ちの自由な芸者であることも手つだって、急速に二人の仲は進展してしまうのだ。
(『宇野浩二伝 上』274頁)

正月過ぎ これは9年1月です。9年1月にも「神楽館」に連絡したわけです。どこに住んでいるかはわかりません。
ゆめ子 小説ではゆめ子。実生活では鮎子。宇野浩二氏の「山恋ひ」から引用すると『私は原稿を書き疲れると、土地の芸者なぞを呼んでにやにやしてゐたものだつた。その中の一人に、ゆめ子といふ、今年21歳になる、芸者屋の娘兼主人で、養母といふ実の叔母に当る者が別に一軒芸者屋を出してゐて、自分は自分で三人の抱へ子と一人のお酌とを就いて、そして自分も芸者をしてゐるといふ女だつた。何といふことなく私はその女が気に入つたのであつた』
鮎子 本名は原とみ。大正八年九月、浩二は下諏訪の芸者鮎子と初めて会っています。水上勉『宇野浩二伝 上』によれば「当時21歳で、芸妓屋の娘であった。しかし、娘といっても、実の母の妹にあたる叔母の養女となって芸者に出ていた。この芸妓屋には三人の抱え妓がいた。鮎子は当時旦那持で、当歳の子を叔母に預け、芸者はそう好きでもなかったのに座敷へ出なければならない事情にあった。容貌はさして美人というのではないが、かわいらしい受け唇のしゃくれた、小づくりな顔立ちでで、気立てのいい妓だったが、客の前へ出ても自分から喋るというようなことのない無口な性質だった」と書いています。
小竹 本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者。28歳。年齢は鮎子より7歳も上になっています。
看板持ち 芸者として置屋から独立して営業すること。置屋の看板を持つ事から俗称「看板持ち」といいました。「自前になる」

 5月、水上勉氏はこう書いています。5月は大正8年5月でしょうか? それとも9年5月でしょうか。残念ながら、9年5月は新しい場所に引っ越ししていますから8年5月しか残りません。

 この何度目かの諏訪旅行から浩二が帰って半月目の五月初旬、突然小竹は東京へ来る。浩二は小竹に押し切られて結婚してしまう。鮎子という恋人がありながら、その姐芸者と勢いにまかて結婚してしまう経緯は、「一と踊」(「中央公論」大正十年五月号)に詳しい。

 (略)五月、―――彼女は、彼女の家財道具をひきまとめて、彼女は、もと東京の者であつたが、十年(かん)その町に住んでゐたのである、彼女にとって、十年間の浮世の町、私は今日かぎりさらりと身をあらふのだ、さらば、さよなら、と、惜し気もなくその町をひきあげてきたのである。されば、その秋におこなはれた国の国勢調査の日、彼女は、けろりとした顏をして、生まれた時から私につれそうてゐたやうな顔をして、調査員にむかつて、戸籍にもありますとほり、私はなにがしの妻でございます、としやあしやあとして述べたことにちがひない。彼女は、私の家にきて以来、あんな山の中の町、鬼にくはれてしまへ、と思つて、更にふりむかないのである。

 村田キヌが東京へ押しかけてきた先は、牛込袋町の「都館」であった。浩二は神楽坂の「神楽館」からここへ越した矢先で、もちろん母のキョウもいっしょにいた。そこへ小竹は押しかけた。浩二は、それをまったく予測できなかったわけはない。下諏訪で、東京へ行ってもいいかと押されて許諾したか、それとも、押しかければ迎え入れそうな返事をしたかどちらかと判断される。小竹は袋町の下宿へ来て、そこに浩二の母がいるのを見て困ったにちがいない。浩二は、さっそく家さがしに廻る。江口渙氏の紹介で、氏の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町十七番地の一軒へ越していくのである。
(『宇野浩二伝 上』277頁)


5月初旬 五月初旬は今度は大正8年5月です。しかし、下谷区上野桜木町十七番地に移転するのは大正9年4月です。あわてて探したのに11か月も探している。どこか何かがおかしいと思いませんか。
彼女 小竹のこと。
その町 下諏訪のこと
村田キヌ 小竹の本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者にあたる。
牛込袋町の都館 牛込袋町は別名藁店わなだな。神楽坂5丁目から南に行くと袋町に行く。図を参照

牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、牛込館と都館支店はなくなっています。

江口渙 えぐちかん。本名は渙(きよし)。生年は明治20(1887)年7月20日、没年は昭和50(1975)年1月18日。87歳。東京帝大中退。大正、昭和時代の小説家、評論家。夏目漱石門にはいり、「労働者誘拐」で注目。マルクス主義に接近、日本プロレタリア作家同盟中央委員長。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に参加した。

結局、いつから神楽館から都館に入ったのか、私には正確ににわかりません。


泉鏡花|南榎町

文学と神楽坂

 泉鏡花(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。寺木定芳氏が書いた『人・泉鏡花』(昭和18年、再販は日本図書センター、1983年)では

大塚から牛込の南榎町に居を移したのは、たしか明治三十四年頃だったと思ふ。今は家が建てこんで到底其の面影もないが、その家は町の名の如き大榎が立ちこめて、是が東京市内の牛込區かと疑はれる程、樹木鬱蒼、野草蓬々、荒れに荒れた、猶暗い、古寺の荒庭のやうな土地に圍まれたすさみきつた淋しい二階家で、上下三間か四間の小い古びた家だつた。六疊の二階が先生の書斎で、下の六疊が令弟斜汀君の居間になつてゐた。
来客があまり多くて仕事の出來ない時なぞは、よく紅葉山人が、此の二階に來て仕事をしてゐた。又時に同門の面々や師匠も交つて、句會なぞを催した事も多く、壁に紅葉、鏡花、風葉春葉なぞの寄せ書きの樂書きなども殘つてゐた。此のおどろおどろした境地で、かの神韻渺茫たる『高野聖』や『袖屏風』『註文帳』などが物されたのだつた。同時に妖艶読む目もあやな『湯島詣』なども此時代の作物だつた。

大榎 おおえのき。ニレ科エノキ属の落葉高木
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
蓬々 ほうほう。草木の葉などが勢いよく茂っているさま。
 昼の旧字体。
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗いさま。
神韻 しんいん。芸術作品などの人間の作ったものとは思われないようなすぐれた趣。
渺茫 びょうぼう。遠くはるかな。広く果てしないさま
高野聖 こうやひじり。泉鏡花の短編小説。泉鏡花の代表的作品の一つで幻想小説の名作。当時28歳の鏡花の小説家としての地歩を築いた出世作。高野山の旅僧が旅の途中に道連れとなった若者に、自分がかつて体験した不思議な怪奇譚を聞かせる物語。蛇と山蛭の山路を切り抜け、妖艶な美女の住む孤家にたどり着いた僧侶の体験した非現実的な幽玄世界が、豊かな語彙と鏡花独特の文体で綴られていました。
袖屏風 そでびょうぶ。泉鏡花の短編小説。占い師と観世物と娘の物語。
註文帳 泉鏡花の短編小説。無理心中を果たせず一人死んだ遊女の怨霊が、研ぎたての剃刀にとりついて起こる雪の夜の惨劇。
妖艶 あでやかで美しい。人を惑わすようなあやしい美しさ。
あや 物の表面に表れたいろいろの形・色合い、模様。言葉や文章の飾った言い回し。表面上は分かりにくい入り組んだ仕組み。
湯島詣 泉鏡花の小説。芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中するというお話。

泉鏡花。南榎町。

泉鏡花。南榎町。2014年7月

新宿区文化登録史跡も出ています。

新宿区登録史跡 (いずみ)鏡花(きょうか)(きゅう)(きょ)(あと)

所在地 新宿区南榎町二十二番地
登録年月日 平成七年二月三日


 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花が、明治三十二年(一八九九)から四年間住んでいたところである。
 鏡花は本名を鏡太郎といい、明治六年(一八七三)石川県金沢市に生れた。十六歳の頃より尾崎紅葉に傾倒し、翌年小説家を志し上京、紅葉宅(旧居跡は新宿区指定史跡・横寺町四十七)で玄関番をするなどして師事した。
 この地では、代表作『湯島詣』『高野聖』などが発表された。鏡花はこのあと明治三十六年(一九〇三)に神楽坂に転居するが、『湯島詣』はのちに夫人となった神楽坂の芸妓によって知った花街を題材としており、新宿とゆかりの深い作品である。
  平成七年三月

東京都新宿区教育委員会

ヌエットと泉鏡花

文学と神楽坂

『婦系図』などの作者、泉鏡花氏は明治32(1899)年秋から明治36(1903)年2月、(みなみ)(えのき)(ちょう)に住んでいたことがあります。

 泉鏡花氏が南榎町22に住んだ約50年後、詩人兼画家のノエル・ヌエット氏は、1952年(67歳)、()(らい)町の小さな家に住み、1961年(76歳)、フランスに戻るまで住んでいました。ヌエット氏は神楽坂の寺内公園で一部の人に有名な版画『神楽坂』を作っています。

 えっ、どこにつながりがあるの。実はこの二人の家、非常に近いのです。

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

ヌエットと泉鏡花 地図は昭和5年「牛込區全圖」から

 左の小さい22番は泉鏡花氏の家で、右の大きい12番はヌエット氏などの数軒がありました。

 南榎町22は江戸時代には「御先手同心大縄地」と呼ばれていました。ここで「(ご )(せん)(て )」とは先頭を進む軍隊、先陣、先鋒のことで、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤め、平時は江戸城の各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めました。「同心」は江戸幕府の下級役人のこと。「(おお)(なわ)(ち )」とは与力や同心などの拝領地のことで、敷地内の細かい区分ではなく一括して一区画の屋敷を与え、大縄は同役仲間で分けることで、その屋敷地を大縄地と呼びました。今の公務員団地。これを明治政府はまた細分化したので、この場所には小さな小さな家がたくさん建っています。

 一方、矢来町12は明治時代では「矢来町3番地 (あざ) 山里」と呼ばれました。「山里」は庭園の跡があるという意味ですが、実際には江戸時代にはこの場所では酒井家の武士が住んでいました。



正覚坊|小笠原小品|北原白秋

文学と神楽坂

 正覚坊とはアオウミガメのことです。宮之浜で一匹、腹を上にして見つかりました。以下はこの一匹の物語です。なお、作者は北原白秋氏です。

 正 覚 坊
  (うら)らかな麗らかな、(なん)ともかともいへぬ麗らかな小笠原の初夏(しよか)の一日である。()()()の白い弓形(ゆみなり)から影の青いバナナ(はたけ)の方へ辷り上る小径(こみち)のそば、小灌木林の境界線に近く、一本の光り輝く護謨(ごむ)の大樹が高く高く(ゆら)めいてゐる。その下に正覚坊(しやうがくばう)が仰向けに(ころ)がされてゐるのである。たゞ其処(そこ)に何時から転がつてゐるともなく、転がされてゐるからたゞ転がつてゐるといふ風である。大きな大きな正覚坊(しやうがくばう)がゆつたりと、まん(まる)卵いろ(はら)甲羅(かうら)を仰向けて、ただ(ころ)がつてゐる。無論(むろん)四肢(てあし)は固く(ゆは)へられてゐるのでその(ひれ)を動かす事さへ自由でない、図体(づうたい)は大きいし、二(でう)(ふと)荒縄(あらなは)までがぐるぐる巻きに喰ひ込んでゐる。それでなくとも、一(たん)()ろがされたが最後(さいご)、一日かかつて起きかへるか二晩(ふたばん)かかつて起きられるか、この応揚(おうやう)なのろのろの海亀の身では何だか(すこ)ぶる怪しいものである。(うれ)しいのか、悲しいのか、(くる)しいのか、又は遂々(とうく)(あきら)めはてて了つたのか、それぞと云ふ気分(けぶり)も見えない。たゞ首を当前(あたりまへ)に出して当前(あたりまへ)に目を()けてゐる。而して何の事もなく(そら)を見入つてゐる。尤も、それも仰向(あふむ)いてゐるから目が空に()いてゐるといふだけである。澄みわたつた(あか)るい(そら)の景色を凝視(みつ)めてゐるのか、又は(うら)らかな雲のゆききや、風のながれに恍惚(うつとり)と思を凝らしてゐるといふのか、それとも(へき)瑠璃(るり)大海(たいかい)の響、檳榔(びんらう)、椰子、バナナ、(さま)()の熱帯の物の匂を(うつゝ)(ごゝろ)もなく嗅ぎわけて、懐かしい生れの(うみ)の波のまにまに霊魂(たましひ)を漂はしてゐるのか、何が(なん)とも(わけ)のわからぬ夢見るやうな()を開けてゐる。
 時は正午である。五月と云つても小笠原の五月は暑い。太陽は直射し、愈々護謨(ごむ)大樹(たいじゆ)の真上から強烈な光の嵐を浴びせかけると、燦爛たる護謨の厚葉が枝々に(かぎ)りもなく重なり合つて、真青(まつさを)な油ぎつた反射(はんしや)を影とともに空いつぱいに(ゆら)めかす。その葉をくぐつてくる光線は鋭い原色の五色である。それが幹に当り、(した)に寝てゐる正覚坊(しやうがくばう)の腹を()きつける。而して(いよ)()緑と黄の(てん)()に模樣づけられた綺麗な海亀(うみがめ)の頭が軟らかな雑草の上に更につやつやと光り出し、(うら)らかな麗らかな(なん)ともかとも云へぬ空のあたりで檳榔(びんらう)の葉がそよぎ、鶯の鳴く声がきこえてくる。
 十方無碍光、澄み輝く白金寂莫世界の一時(ひととき)である。
 正覚坊(しやうがくばう)(まぶ)しさうに目を開けたり、()ぢたりしてゐる。(うつゝ)(ごゝろ)もないらしい。ただゆつたりと(ころ)がされてゐるので(ころ)がつてゐる。(だい)安心(あんしん)のかたちである。恐らく自分が囚はれの身である事すら忘れてゐるに違ひない。

宮之浜 北部父島。兄島が正面に。ビーチには珊瑚があり魚も豊富なので、シュノーケリング二は最適。沖は潮の流れが複雑で早い兄島瀬戸なので、流されないよう黄色いブイより先には絶対に行かないこと。
 なぎさ。海の砂浜から波打ち際まで広い砂地。
灌木林 低木の林。 反対は喬木(きようぼく)
卵いろ 卵色。たまごいろ。16進法ではfcd575。日本の伝統色
荒縄 あらなわ。わらで作った太い縄。
応揚 正しくは鷹揚。応揚は間違い。おうよう。鷹(たか)が悠然と空を飛ぶように小さなことにこだわらずゆったりとしている。おっとりとして上品。
碧瑠璃 へきるり。1 青色の瑠璃。また、その色。2。青々と澄みとおった水や空のたとえ。
檳榔 びろう。ビンロウ。ヤシ科の1種
現心 うつつごころ。1.正気。気持ちがしっかりと確かな状態。2.夢うつつの心の意から夢見るような気持ち。うつろな心。
十方無碍光 じっぽうむげこう。「(じん)十方無碍光如来」は、阿弥陀如来のこと
白金 白金(はっきん)と読めばプラチナ。白金(しろがね)と読めば銀。
寂莫 せきばく。正しくは寂寞。1 ひっそりとして寂しいさま。2 心が満たされずにもの寂しいさま。
大安心 とても安心、悟り

 最初は鶏2羽が出てきます。

 微風(びふう)がをりをり護謨の(えだ)()をそよがして去つた。幹の中程(なかほど)一流(ひとながれ)ながれた海のうつくしさ。向うに兄島が見え、(うら)らかな麗らかなその瑠璃(るり)(いろ)の海峡を早瀬(はやせ)に乗つて、白い三角帆をあげた独木舟(カヌー)が走つてゆく。さりながら正覚坊にはその海が見えない。(あたま)を海の方に向けては()てゐるが。背後(うしろ)には護謨の樹の幹があり、海岸(かいがん)煙草(たばこ)の毛深い葉の(むらがり)がある。ただこの島の四方(しはう)八方(はつぱう)を取り囲んでゐる太平洋の波のうねりが何処(どこ)やらともなく緩るい調節(てうせつ)()のびに折り畳むでゐる、それだけは流石(さすが)正覚坊(しやうがくばう)癡鈍な感覚にも稍何らかの響を(つた)へるらしい、正覚坊(しやうがくばう)は目を(つぶ)つてまた目を開いた。
 コケツコツコ、コケツ・・・・・コケツコツコ、コケツ・・・・・物に驚いた鶏の鳴声が丘の下の農家(のうか)の方からきこえて来る。(はたけ)甘蔗(さたうきび)やバナナの葉かげをわけて此方(こちら)へ逃げてくるらしい、一()()、それが次第に近づくにつれて鳴声(なきごゑ)をひそめてくる、かと思ふと一羽の雄鶏(をんどり)がやがてロスタンシヤンテクレエのやうな雄姿を現した、鶏冠(とさか)の赤い、骨つ節の強さうな、()ばたきの真黒(まつくろ)い、はぢきれさうに(はづ)みかへつた驕慢雄鶏(をんどり)にひかされて白い舶来(はくらい)(だね)の雌鶏が何かを(つゝ)き乍ら()いてくる、ケケツと()(かへ)つて(はた)きつけるやうに(をす)(めす)の上に重なつた・・・・・と澄ましてまたケケツケツと(はね)(ひろ)げて(めす)の方へ()り寄つてゆくトタン、奇怪(けつたい)な大きい正覚坊(しやうがくばう)の図体がふいと前に(ころ)がつてゐるのが目についた、と、(たちま)(おどろ)きの叫びを立てゝ、ケケツコツ、ケケツ、ケケツコツケケツケケケケと逃げてゆく。而してまたひとしきり急忙(せは)さうな叫び声が甘蔗(さたうきび)の向うからきこえる。
 正覚坊(しやうがくばう)はそれでも(ゆつ)たりとしたものである。平気で大空(おほぞら)を見上げてゐる。温和(おとなし)さうな空色の(ひとみ)がつやつやと(うる)みを持つて、ただぢつと(うら)らかな(てん)の景色を見入つてゐる。恐らく傍らに何事が起つたかも知らないであらう。身動きひとつしやうともしない。

早瀬 流れのはやい瀬
海岸煙草 海岸近くに生えて タバコに似た葉を持つ。
 ソウ、くさむら、むら、むらがる。草が群がり生える。
癡鈍 ちどん。痴鈍。愚かで,頭の働きがにぶいこと
ロスタン エドモンド・ロスタン(Edmond Rostand. 1868-1918)はフランスのマルセイユ生まれの劇作家。1898年の演劇『シラノ・ド・ベルジュラック』が最も有名で、約1年半も上演。
シヤンテクレエ 1910年にはロスタンは鶏を始め様々な動物を登場させた寓喩劇「シャントクレール」Chanteclerも上演。
骨つ節 ほねっぷし① 骨の関節。ほねぶし。 ② 気骨。気概。 不屈の精神と決断力。ガッツ。肝ったま。
驕慢 きょうまん【驕慢/慢】 。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること
急忙しい 「せわしい」。現在は単に「忙しい」と書く。慌ただしい、せわしい、忙しい

 次は塗師が出てきます。この時期、小笠原にいた塗師は画家の倉田白羊氏が有名で、北原白秋氏と一緒に「パンの会」に出席していました。

 時が経つた。日射(ひざし)は愈強くなり、(おと)も絶えた空気の中を鶯の子が(くる)しさうにさゝ鳴きをしてはまた光つて消えた。ふと正覚坊(しやうがくばう)聴耳(きゝみゝ)を立つるやうに見えた。のつしのつしと人間の(ある)いて来る足音(あしおと)がしたからである。山から暑い盛りに下りて来た男は絵の具の垢染(しみ)だらけな仕事(しごと)()をつけ、真黒(まつくろ)な怪しい帽子をかぶつてゐた。まんまるい(かほ)のづんぐりむつくりした三十四五の男である。この小笠原では油絵(あぶらゑ)かきのことを(ぬり)()といふ。塗師も(いろ)()(なが)れて来たが今度(こんど)の塗師は(なか)()()らい塗師だといふ。その塗師が傲然とのさばりかへつて歩いてくるのである。正覚坊は恐れ入らざるを得ない筈である。それだのに正覚坊(しやうがくばう)は何にも感じないらしい。ただ恍惚(くわうこつ)と目を半眼(はんがん)に開けて見てゐる。塗師は正覚坊をちょいと()(おろ)して、フフンと云つた。而して腐れたバナナの裂葉(さけば)()(かへ)しながら、真黒(まつくろ)墓穴(はかあな)のやうな(いは)()いてある大きな大きな画布(カンパス)を楯のやうに振りかざして又づしりづしり。
 後はまた(うら)らかである。強烈な太陽(たいやう)(くわう)の下に、赤い(がけ)、青いバナナ、瑠璃(るり)代赭(たいしや)に朱の(まだら)、耀く黄、(そら)も木も、草もあらゆる()に入るもの(すべ)てなまなましい原色(げんしよく)ならざるはなしである。それが強烈に正覚坊(しやうがくばう)の目をきらきらと刺戟する。護謨(ごむ)の葉が徴風(びふう)がくれば五色になる。
 正覚坊は批評家ではない。だからこの美くしい自然とさきほどの塗師(ぬりし)真黒(まつくろ)()とどれほどの差異(さい)があらうとも平気なものである。何等の不思議とも感じないらしい。よし、何とか思つたにしたところで人間は人間、正覚坊(しやうがくばう)は正覚坊、どうにもならないのである。
 正覚坊は恍惚(うつとり)として大空のあなたを仰視(みあげ)てゐる。ゆつたりしたものである。
 幾時(いくとき)()つた。

ささ鳴き 笹鳴き。冬にウグイスが舌鼓を打つようにチチと鳴くこと。季語は冬。
油絵かき 北原白秋は大正3年2月、画家の倉田白羊は小説家の押川春浪と一緒に同年4月に小笠原に渡った。
傲然 おごり高ぶって尊大に振る舞うさま
 ガン、いわお、いわ。ごつごつした大きな石。岩
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で#2A5CAA
代赦 たいしゃ。黄土色がかった渋いレンガ色。16進表記で#B26235

 次は詩人です。北原白秋氏本人だと思われています。

 正覚坊はあまりの(うら)らかさに思はずうとうとしたが、うしろの海岸(かいがん)煙草(たばこ)の中から人間がぽいと飛ぴ出したのでハツと()をひらいた。真白(まつしろ)なホワイトシヤツの光耀(かゞやき)が見る目も(いた)(ほど)()みる。そのホワイトシヤツが声を立てゝ笑つた。まるで子供のやうな無邪気な笑声(わらひごゑ)である。
―――やあ、正覚坊(しやうがくばう)が転がつてゐる。面白いな。
 正覚坊(しやうがくばう)自身に取つては面白いどころの話ではあるまいが、のんきな正覚坊(しやうがくばう)、黙つてゐる。而して恍惚(うつとり)とその男を見てゐるのである。
 その男は(なん)と思つたか、コツコツと(つゑ)のさきで正覚坊(しやうがくばう)のまん円いお(なか)を敲いた。(いた)くも何ともないらしい。平気なものである、今度(こんど)はまた強くコツコツと頭を(たゝ)いた。ルコン・ド・リイルではないが、不感無覚寂莫世界と云つた風である。正覚坊はなかなか高踏派(パルナツシヤン)である。その男は ―――をかしいなあ。 と云つた。正覚坊(しやうがくばう)には別にをかしくも何ともないのである。その男はまた 一体、(をとこ)かしら(をんな)かしら。 と云つた。陰茎(いんけい)があるのかしら、あるとしたらどれがさうだらうと()つた(ふう)にその男はまた(つゑ)のさきでお(しり)のあたりをコツコツと(さが)して見た。一寸(ちよつと)云つて置く、その男は()つて醜い泥豚(どろぶた)に何ともかとも云へぬ薔薇(ばら)いろ繊細(せんさい)にして微妙(びめう)至極(しごく)な陰茎があるのを見て涙を流した詩人である。
 正覚坊の(ふた)つの後肢(あとあし)のまん中に小さな(さき)のするどい短い尻尾(しつぽ)見たやうなものがある、(つゑ)がその近くをふいと()()てたと思ふと、正覚坊(しやうがくばう)が不意にふふつと笑つた、(くち)をあけ、鼻孔(はな)をいつぱい(ふく)らまし、首を強くひと()()つてふふつふふつと笑った、よほど(くすぐ)つたと見える。青年は吃驚(びつくり)したが、これも声を出して笑つた。(はら)(かゝ)えてそこらの草つ原中笑ひころげた。  正覚坊(しやうがくばう)はまたけろりとして(そら)を無心に見あげてゐる。
―――のんきだなあ。をかしいなあ。 感嘆(きはま)ると云つた風で、流石(さすが)のんきな楽天家(らくてんか)も、この正覚坊(しやうがくばう)だけには叩頭(おじぎ)をしたやうだつた。
 正覚坊(しやうがくばう)はのんきだと云はれてものんきなのが何故(なぜ)わるいのか。それとも(なん)かをかしい事でもあったのかなあと云つた(ふう)に不思議さうな目つきをした。それで別に自分をのんきだとも思ってゐないらしい、当前(あたりまへ)であるといふ心もち。
 正覚坊(しやうがくばう)はまたうとうととした。微風(びふう)が海の方から吹いてくる。白い雲がぽうつと山の檳榔樹(びんらうじゅ)の上に浮ぶ。鶯が鳴く、世は太平である。その麗かさは限りがない。  その男は健康(ぢやうぶ)さうな元気の(あふ)るるやうな体格をしてゐた。こんな暑い日に素足(すあし)で、その上、帽子(ばうし)もなんにもかぶらないでゐる。暫時(しばらく)正覚坊(しやうがくばう)を見て感嘆してゐたが、(くる)しさうに()()()()ホワイトシヤツを()いで()(ぱだか)になった。玉のやうな(あせ)がだくだくその()りきつた胴や(たく)ましい両腕(りやううで)から流れ出るのである。拭くものがないので、ホワイトシヤツで、こきこき顔から身体(からだ)(ぢう)()き取つた。そして(なん)と思つたかフワリとそれを正覚坊(しやうがくばう)の頭に投げかけて置いて、自分もまた暑い天日(てんぴ)に全身を曝しながら、またごろりとかたばみ(なか)に寝ころんだ。大きなマドロスパイプを出して(いう)()と煙草を喫んでゐる。
 正覚坊(しやうがくばう)真白(まつしろ)なホワイトシヤツを(あたま)からスツポリと(かぶ)せられて、また恍惚(うつとり)とした。西洋新舶来のその匂は正覚坊(しやうがくばう)に取つては未だ()つて()いたことも嗅こともなかったに(ちが)ひない、それに人間の汗の臭気(しうき)甘酸(あまずゆ)さ、思はず、また恍惚(うつとり)となつて空を眺めた。空はこんどは自分の上に()ちて来てまつしろな光り耀くものとなつてゐた。日光が軟らかいシヤツを()てふりそゝぐ。
 正覚坊(しやうがくばう)は思はずぐつすりと熟睡したのである。

ルコン・ド・リイル シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リール(Charles-Marie-René Leconte de Lisle、1818/10/22~1894/7/17)。フランスの高踏派の詩人で劇作家。ペンネームは姓だけのルコント・ド・リール。
不感無覚 何も感じなく、痛みもない
高踏派 19世紀、フランス詩の様式。上田敏の言で「高踏派」。パルナシアンは形象美と技巧を重んじた唯美主義の詩人たち。
泥豚 どろぶた。牧場で放し飼いされている豚のこと。放豚
薔薇いろ 薔薇色。日本の伝統色。     
かたばみ 乾燥した場所を好む多年野草で、古くから日本全国に分布する。
灑す 水をそそぐ、水を撒く、釣り針を投げる、散る、落ちる、洗う

 最後に天然老人が出てきます。

―――Kさん、何をして御座る。
 青年もうとうとしてゐたが、(みゝ)()れた老人(らうじん)の声にハツとして目をひらいた。大きなタコの葉の帽子をかぶつたきれいなS老人(らうじん)がにこにこと笑ひ乍ら正覚坊と彼とを等分(とうぶん)に見下してゐた。
―――裸でおゐででごわすか。この(あつ)いのに(はだか)は毒でごわすぞ。
 一寸(ちよつと)眉を(ひそ)たが、また莞爾(につこり)として、
―――Kさん、たいしたものがごわしたぞ。
とさもうれしさうにいふ。
 青年も立ち上つた。さうしてにこにことした。
―――ほうれ、これでごわす。
 老人(らうじん)は肩から掛けてゐた雑嚢(ざつのう)の中から人問の骸骨(がいこつ)下顎(したあご)()たやうな灰色の石を取り出した。
―――実に天然(てんねん)でごわすぞ。(めづ)らしうごわすな、ほうれ御覧(ごらう)じろ、こゝに白いものがポチポチイとごわせう。まるで雪が降つたやうでごわす。
 ポチポチイと云ふ(とき)さもかわいらしく老人(らうじん)は声を小さくした。如何(いか)にも白いものが(てん)()としてある。然し青年(せいねん)の見た白いポチポチは雪ではなくて骸骨(がいこつ)下顎(したあご)に残つてくつついてゐる人間の白い歯であった。老人(らうじん)はその石を大切さうに愛撫(あいぶ)しながら、
―――大したものでごわす、三百円ものが価値(ねうち)はごわす。
 この老人(らうじん)は名古屋の商人であるが、病気保養にこの島に来てゐるといふ、よく閑暇(ひま)にあかしては白檀(びやくだん)のひねくれた()(かぶ)や、モモタマの()無骨(ぶこつ)(こぶ)や、天然(てんねん)珍石(ちんせき)奇木(きぼく)を好きで集めては楽しんでゐる、快活(きさく)ないゝ老人である。口癖(くちぐせ)にしては天然(てんねん)々々()とばかし云ふので、Kさんたちはこの(ひと)天然(てんねん)老人(らうじん)と呼んでゐる。天然(てんねん)老人(らうじん)は然し商人である、どんな珍物(ちんぶつ)を見てもすぐに()ぶみをする、さうしてこれは利益(まう)かるなと胸算用(むなざんよう)して見る。Kがにこにこしてゐると、
―――(だい)雪景(せつけい)珍石(ちんせき)としたらどうでごわせうかな。面白いものでごわすぞ。売れますぞ。
と、天然(てんねん)老人(らうじん)正覚坊(しやうがくばう)の方をちらと見る。
 雪景(せつけい)珍石(ちんせき)が売れるか、売れないか、面白いものか面白いものでないか、百円の価値(ねうち)があるものか、それとも一銭五厘の価値(ねうち)しかないものか、正覚坊(しやうがくばう)は風流とといふ事を知らないから一(かう)御存(ごぞん)じがない。たゞホワイドシヤツを(かぶ)つて黙つてゐる。
 Kも正覚坊(しやうがくばう)をちらと見たが、如何(いか)にも気の毒相な顔をして、老人を振り返った。
―――正覚坊(しやうがくばう)はようく睡むつてゐます。

眉をひそめる 眉の辺りにしわをよせる。< 莞爾 読み方は「かんじ」。にっこりと笑う、ほほえむ様子。
雑嚢 雑多なものを入れる袋。肩から掛ける布製のかばん
モモタマの木 モモタマ(ジュズサンゴ)ではなく、小笠原ではモモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科)のことでしょう。巨大な葉が有名。
白檀 半寄生の熱帯性常緑樹。爽やかな甘い芳香が特徴で、香木として利用されている

 天然てんねん老人らうじん談話はなしをしてる間もわかしい目をあげて見廻みまはしてゐた、何か珍物ちんもつはないかなと思つてさがしてゐるのだと思ふと無邪気むじやきな青年のKにはをかしくてならないといふふうだつた。天然てんねん老人らうじんはふいとお叩頭じぎをして、ついそばのモモタマの木の方へ行つたと思うと、突然いきなりおほきな大きな声を出して、さもさも一だい珍物ちんぼくを見つけたやうに叫んだ。
―――Kさん、(はや)く来て御覧(ごらう)じろ、大した珍木(ちんぼく)でごわすぞ、五百円がものはごわす。
 Kも(おどろ)いて飛んで行つたが、老人(らうじん)、モモタマの(こぶ)が飛んで()げでもするやうに(あは)てゝ、雑嚢(ざつのう)()けて二つ折の(のこぎり)を取り出し乍ら、
―――ほうれ、あの(こぶ)でごわす、(たい)したものでごわせう。陽物そつくりでごわす。
 流石に顔を(あか)めながら、
―――五百円がものは(たしか)にごわせう。 (たし)かにと云ふ言葉に力を入れて、鋸を(ひら)(なが)ら、下から(ぢつ)天然てんねん老人らうじんは見上げる。
 如何にも、(うら)らかな麗らかな(なん)ともかともいへぬ麗らかな空の(した)に、陽物そつくりのモモタマの()(こぶ)は手も届かぬ高い高い二(また)(えだ)の間に燦然と耀いてゐる。
 老人は一心に見上げながら、(した)からしきりに鋸を(うご)かす手つきをした。
 正覚坊はぐつすりとホワイトシヤツをかぶつて(ねむ)つてゐる。

陽物 ようぶつ。陰茎。男根。 
燦然 さんぜん。鮮やかに輝くさま。明らかなさま。

木下杢太郎氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 木下杢太郎氏は皮膚科医師で、さらに詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家でした。最終的には東大医学部の皮膚科教授になります。氏も与謝野寛氏、西條八十氏、内藤濯氏などと同じようにフランスに留学しています。大正10(1921)年5月、35歳、横浜を出発し、米国シアトル着、キューバ、ロンドンを経て10月にパリに到着します。そして「サン・シユルピスの廣場から」では

 ムツシユウN氏に就いてわたくしは佛語を習つてゐる。同氏がわざわざわたくしの客寓に來てくれるのである。この物靜かな、素養のある人から、この國の名家の講釋を聽いたことは、ずつと後になつても、わたくしに喜ばしい記憶となつて殘るであらう。
 その時窓の外には、弱い温さうな光が、くつきりと向側の家の廣い灰色の壁に當つでゐた。空はセリユウレオムの靑である。そして一瞬間わたくしは海邊に近き綠林の、夏早朝の日光のうひうひしさを想像した。

客寓 かくぐう、きゃくぐう。客となって滞在する。その家
セリユウレオム Cerulean。セルリアンブルー。16進表記で #007BA7。19世紀半ばに青い顔料が発明して付いた名称です。ラテン語で空色。JISの色彩規格では「あざやかな青」     

 ムッシュNは「ヌエット」なのか、ここではまだ判りません。次の1922年6月22日夜の「巴里の宿から(与謝野様御夫妻に)」では

 詩人のヌエトさんが貴方がたのことを時時噂します。この間ル・ジュルナルといふ新聞へ貴方かたのことを寄書しました。奥さんの寫眞は十幾年の前のものだつたらうと思ひますが、歌集の繪から複寫したやうでした。御惠贈の「旅の歌」はヌエトさんにお贈りしました。
 ヌエトさんがよくレシタシオンに件れて行つてくれます。マダム・マレユツクといふレシタシオンの先生のおさらひで、若い娘さんたちが歌唱し又吟詠します。そしてわたくしは佛蘭西語の發昔のいかに美しいものであるかと云ふことをつくづくと驚嘆します。紐育からの船中で或る老英国夫人の英詩の吟詠を聽いた時には少しも感動しませんでした。
 ヌエトさんの詩を讀んだ娘を、夫人がヌエトさんの處へ紹介しに來ました。むすめはおづおづ挨拶しましたが、かういふ臆病らしさをも佛蘭西のむすめは持つてゐるかと驚きました。

貴方がた 与謝野寛・晶子のこと。約10年前に与謝野夫婦はパリに来ています。
レシタシオン Recitation。朗読

 ここでヌエト氏と名前が出てきます。ヌエット氏です。ヌエット氏は詩人兼画家で、神楽坂の寺内公園で有名な版画『神楽坂』を作っています。ほとんどフランスにいたみんなが氏を知っていたようです。

晩年のノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

ノエル・ヌエット著「東京 一外人の見た印象」第2集、昭和10年

ノエル・ヌエット著「東京一外人の見た印象」第2集、昭和10年、表紙の挿絵

 1971年(昭和46年)、野田()太郎(たろう)氏の「改稿東京文學散歩」でも詩人で画家のノエル・ヌエット氏がでてきます。

 野田氏は1909年10月に生まれ、詩集を作り、1951年、日本読書新聞に「新東京文學散歩」を連載します。「文學散歩」は実際に文学で起こった場所を調べています。

 一方、ノエル・ヌエット氏はフランスで1885年3月30日に生まれています。ヌエット氏は寺内公園にある版画『神楽坂』などを描いています。その死亡後、その版画は寺内公園の案内板に載りました。

     ヌエットと「濠にそひて」
 フランスの詩人でもあるヌエットさんにはじめて会ったのは、昭和二十一年だった。その頃は出版社勤めだったわたくしは、ヌエットさんが皇居周辺の江戸城の面影を丹念にスケッチしたものと、江戸城に関する解説及びクローデルの詩や自分の詩をあつめて『Autour du Palais Impérial』と題した画文集を『宮城環景』と訳して出版した。それにはヌエットさんともっとも親しい山内義雄氏が美しい和訳文をつけられた。――実はわたくしがクローデルの「江戸城内濠に寄せて」(註・初訳は「江戸城の石垣」)につよい関心を抱きはじめたのも、この本の出版からと云ってよい。

クローデル Paul Claudel。フランスの詩人・劇作家・外交官。 1890年外交官試験に首席合格。日本、アメリカ、ベルギー駐在大使。大正10年駐日フランス大使として着任。昭和2年離任。生年は1868年8月6日。没年は1955年2月23日。享年は満86歳。
山内義雄 大正昭和のフランス文学者。早大教授。日仏文化交流に貢献して昭和16年レジオン-ドヌール勲章。生年は明治27年3月22日。没年は昭和48年12月17日。享年は満79歳。

 野田宇太郎氏はヌエット氏と初めて会ったのは、昭和21年なので、1946年です。野田氏は37歳、ヌエット氏は61歳でした。

 それからもヌエットさんとは時折会っていたが、すでに日本にフランス文学の教師として二十数年間をすごし、戦争中のきびしい外人圧迫にも耐えて日本を愛しつづけたヌエットさんも老齢には勝てず、ゴンクール兄弟と日本美術の研究で東大から博士号を贈られると、祖国フランスへ、肉親たちの待つパリヘ帰ることになった。
 それを人伝てに知ったわたくしは、まだ江戸城址の内部を見ていなかったので、宮内廳に見学許可を申し込み、ついでにヌエットさんを誘うた。ヌエットさんは日本を去る前に皇居の内苑を()ることをよろこばれるに違いないと思ったからであった。
 ヌエットさんは、わたくしが江戸城と皇居について書くことにしていたサンケイ新聞社の車ですぐにやって来た。
「コンニチワ、ノダサン、イカガデスカ」位しか日本語を(しやべ)らないヌエットさんと連れ立って、わたくしがはじめて皇居内に入り、本丸跡から天皇のお住居のある吹上御苑以外の場所を半日がかりで殆んど(くま)なく歩いたのは、昭和三十四年二月十二日のことである。

ゴンクール兄弟 Frères Goncourt。フランス・パリの自然主義作家。エドモン(Edmond Louis Antoine de Goncourt)(1822‐96)とジュール(Jules Alfred Huot de G.)(1830‐70)は、つねに一体となって制作した。

 昭和34年は1959年で、この時の野田氏は50歳、ヌエット氏は73歳でした。

 二重橋も新らしく架け替えられ、その奥の江戸城西ノ丸に当るところには(ぜい)を尽くした新宮殿も四十三年暮に完成した。あいかわらず見物客の群がる二重橋前をすぎ、桜田門を内側から潜ると、左手は凱旋濠と土手の石垣の向うに日比谷交叉点が見える。右手は広々とした辨慶濠だが、わたくしの持参した最近の地図には桜田濠と記されている。水鳥が点々とのどかに浮遊している光景も昔のままだが、白い軍艦のように胸を張った大白鳥が二羽、ゆうゆうと水を滑っているのは、まさに戦後からの光景である。
 警視廳本館の陰気な色の建物の前からお濠沿いに西へ歩きはじめると、もうそのあたりのお濠の対岸は高い芝生の崖で、クローデルの「右手、つねに石垣あり」の光景は消える。それに替ってヌエットの「濠にそひて」の山内義雄訳が思い浮んでくる。

   過ぎにし時のかげうつす
   ここの宮居の濠にそひ
   愛惜、のぞみ、()ひまぜて
   はこびし夢のかずかずよ!

 後の詩文は省略し

 この詩は作者の心を心としたすぐれた詩人の訳者にしてはじめて成し得た名訳である。ヌエットさんがいかに江戸文化の、とくに安藤廣重の錦絵版画「江戸百景」などの美術に心を傾けていたかは、先の『宮城環景』の絵でもわたくしは理解したが、この詩を読むと、江戸城周辺の歴史的自然美に対するヌエットさんの(こま)やかな愛情が、ひしひしと伝わってくる。その頬や肩を()でたお濠端の柳の糸、雪のように音もなく水面をとび立つゆりかもめの群、大内山に面した江戸城西側のお濠の斜面で、小さい彭のように毎年きまった季節に草刈る人々の姿まで、見逃かしてはいない。
 ヌエットさんは東京が戦災に打ちのめされ、ようやくたたかいが収まったとき、帰国を思い立っていた。この詩は、そのときに書いた詩である。しかし、その後、ヌエットさんのやるべき仕事が出来て、又しばらく帰国をのばすことになった。十年がたち、わたくしがヌエットさんと二人で皇居内をめぐり歩くことが出来たのも、その留任のためであった。しかし、すでに八十歳になったヌエットさんは、その翌年、ついに東京に別れを措しみながら去って行った。東京都はヌエットさんに名誉都民の称号を贈り、ヌエットさんは再び永久にパリ人となったのである。「濠にそひて」の詩をのこして。

安藤広重 歌川広重と同一。江戸後期の浮世絵師。代表作は「東海道五十三次」
江戸百景 『名所江戸百景』は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

「すでに八十歳になったヌエット」と書かれていますが、正確には東京からフランスに向かった日は1962年(昭和37年)5月12日で、77歳でした。

数日後、また偶然にお濠端を通ってみると、その土手にはもうあざやかな朱色はなく、一面淡緑に被われていた。その間に雨が降り、花を落したあとに、 緑の茎だけがすくすくとのび立っていたのである。生き地獄のようにさえ思われた東京にも、本当の自然かあることを知っただけでも、そのときのわたくしは幸福を感じた。ヌエットさんにも、そう云って見せたかった光景だと、今にして思うが、あるいはもう江戸城西側の季節のうつろいのはかなさを知っていたのかも知れない。
 一方、西條(ふたば)()氏は『父西條八十』(中央公論社、昭和50年)の「英文学から仏文学へ」でこう書いています。
 その頃、偶然の機会にのちに東京で著名な仏語教授、さわやかな筆致のペン画で東京風景をスケッチして有名であった詩人ノエル・ヌエッ卜氏と親交を結んで沢山のフランス詩人を知った。彼は父の帰朝後まもなく日本を慕って東京へきて幼い私の玩具遊びの相手をしてくれたこともあったが、後年、四十年近く滞在した日本を離れる時、見送りに横浜の船まで行った父や私の顔も見わけられないほど呆然自失したような深刻な無表情が痛々しく私たちの胸にのこった。

 日本を離れる時は77歳。どうして呆然自失したのでしょうか。痴呆があったのでしょうか。しかし、高橋邦太郎氏は「本の手帖」(第61号、1967年2月号73頁)で、1966年、81歳のパリのヌエット氏を書いています。

 去年四月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、『もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい』
といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。

 ヌエット氏の没年は1969(昭和44)年9月30日、84歳でした。

ノエル・ヌエット|矢来町12

文学と神楽坂

 ヌエットノエル・ヌエット氏(Noël Nouët、1885年3月30日生まれ)は、フランス、ブルターニュ出身の詩人、画家、版画家で、40歳から75歳までの約36年間、日本でフランス語教師として諸学校で教えました。戦後になって、1952年(67歳)、牛込に小さな家を買い、教師の傍ら執筆活動を行っています。1961年(76歳)、フランスに戻り、1969年10月2日(85歳)、死亡しました。氏は神楽坂5丁目の寺内公園の説明で『神楽坂』という版画を描いています。

 Nouëtのtは多くは無音なので、フランス語で本来は「ヌエ」と読みます。実際に与謝野寛氏は、フランスで覚えてきたそのままで「ヌエ」を使っています。
 英語には「ヌエト」「ヌエット」などの発音があり、日本でも英語風になすと「ヌエト」「ヌエット」になります。さらに「ヌエ」には妖怪「鵺」の言葉があります。与謝野寛から12年後、フランス語教授兼友人の西條八十氏や木下杢太郎氏は「ヌエト」しか使っていません。
 日本に行くとそれが「ヌエット」となります。

 ヌエット氏は矢来町12に住んでいました。これは昭和22年の地図です。どこでもある普通の町でした。また左上は現在の地図で、同じ矢来町12に10軒内外が住んでいます。この地域のうち、ヌエット氏の家もあったはずです。

昭和22年の矢来町12。左上は現在。



与謝野寛とノエル・ヌエット

文学と神楽坂


与謝野寛晶子

 『巴里より』はパリのあれこれをまとめたもので、歌人の与謝野寛、与謝野昌子が共著で、大正3年、出版しています。1911年(明治44年)、寛はパリへ行き、明治45年5月、晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪し、晶子は10月に帰国、寛は大正2年に帰国します。
 この本のうち「飛行機」の章で、フレデリツク・ノエル・ヌエがでてきます。彼はフランス人の詩人でした。なお、この「飛行機」の章は初めて昭和45年、与謝野寛氏が単独で執筆しています。

 二人でリユクサンブル公園の裏の下宿へ和田垣博士を誘ひに寄ると、博士はフレデリツク・ノエル・ヌエ君と云ふ巴里(パリイ)の青年詩人を相手に仏蘭西(フランス)語の稽古をして()られる処であつた。僕はヌエ君の新しい処女詩集に(つい)てヌエ君と語つた。詩はまだ感得主義(サンチマンタリズム)を脱して居ないが、ひどく純粋な所がある。甚だ孝心深い男で、巴里の下宿の屋根裏に住んで語学教師や其外の内職で自活し乍ら毎週二度田舎の母親を()ふのを(たのし)みにして居る。ヌエ君と下宿の(かど)で別れて三人は自動車に乗つた。

サンチマンタリズム センチメンタリズム。sentimentalism。感情面を重んじ、知性よりも内的心情に支配される傾向。

 明治45年6月なので、与謝野氏は39歳、ヌエ氏は27歳です。2人が話をする場合もあります。
 しかし、この名前ヌエは鵺(ヌエ)と同じ日本語です。この鵺という言葉は妖怪のことで、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足、ヘビの尾を持っていました。これも変える必要もあったのでしょうか、15年後、ヌエ氏の日本の呼び名はノエル・ヌエット氏になっています。このヌエット氏は神楽坂の寺内公園の中では『神楽坂』という版画を作る詩人兼画家でした。
 次は大正元年12月。

     火曜日の()
 夕方ノエル・ヌエ君が訪ねて来た。貧乏な若い詩人に似合はず何時(いつ)も服の畳目(たゝみめ)の乱れて居ないのは感心だ。僕が薄暗い部屋の中に居たので「何かよい瞑想(めいさう)(ふけ)つて居たのを(さまた)げはしなかつたか」と問うたのも謙遜(けんそん)(この)詩人の問ひ相な事だ。「いや、絵具箱を掃除して居たのだ」と僕は云つて電燈を()けた。壁に掛けて置いたキユビストの絵を見附けて「あなたは這麼(こんな)(もの)を好くか」と云ふから、「好きでは無いが、僕は何でも新しく発生した物には多少の同情を持つて居る。(つと)めて()れに新しい価値を見出さうとする。奇異(きい)を以て人を刺激する所があれば其れも新しい価値の種でないか」と僕が答へたら、ヌエは苦痛を額の(しわ)(あらは)して「わたしには(わか)らない絵だ」と云つた。ヌエは内衣囊(うちがくし)から白耳義(ベルジツク)の雑誌に載つた自分の詩の六頁折の抄本を出して(これ)を読んで呉れと云つた。日本と(ちが)つて作物(さくぶつ)が印刷されると云ふ事は欧洲の若い文人に取つて容易で無い。況して其れで若干かの報酬を得ると云ふ事は殆ど不可能である。発行者の厚意から其掲載された雑誌を幾冊か貰ふのが普通で、其雑誌の中の自分の詩の部分の抄本を幾十部か恵まれるのが最も好く酬いられた物だとヌエは語つた。僕は其れを読んだ。解らない文字に()(くは)す度にヌエは傍から日本の辞書を引いて説明して呉れた。七篇の(うち)で「新しい建物に」と云ふ詩は近頃の君の象徴だらうと云つたら、ヌエは淋し相に微笑(ほゝゑ)んで頷いた。君が前年出した詩集の伊太利(イタリイ)に遊んだ時の諸作に比べると近頃の詩は苦味(にがみ)が加はつて来た。其丈(それだけ)世間の圧迫を君が感ずる様に成つたのだらうと僕は云つた。

畳目 紙・布などをたたんだときにできる折り目
キュビスム 20世紀初頭、ピカソなどが始めた革新的な美術表現。ルネサンス以来の遠近法で現実を再現するのではなく、複数の視点から眺めた姿を平面上に合成して表現しようとしている
内衣囊 洋服の内側にあるポケット。内ポケット。
白耳義 ベルギー
圧迫 押さえつけること

 このころから既にノエル・ヌエット氏はフランス語の個人教師をしていたのです。


西條八十とノエル・ヌエット

西条八十氏西條(さいじょう)()()氏は1892年(明治25年)1月15日に生まれ、詩人、作詞家、仏文学者で、大正12年(1923年)、フランスに留学しソルボンヌ大学で学び、帰国後早稲田大学仏文学科教授になりました。「唄を忘れた金絲雀(かなりや)は」で始まる「かなりや」は有名な童謡です。

 昭和36年(1961)、西日本新聞に西條八十氏は『我愛の記』という連載を書いています。これは『西條八十全集』第17巻、随想・雑纂の中で読むことができます。さて、その中の「リルケ」ではこう書かれています。

振返ってみてぼくのいちばん楽しかったのは、パリのカルティエ・ラタンの学生宿にいて、朝から晩までフランスの詩に読みふけった時代だ。ぽくは一五、六世紀から現代までの、あらゆる詩人の詩集を買いあさり、終日辞引片手に読みふけった。そして、どうしても意味の難解な詩句には、鉛筆でアンダーラインしておいて、いちいち知り合いのむこうの詩人をたずねて解釈してもらった。現在ずっと日本に住んでいる「ラ・ミューズ・フラソセーズ」の詩人ヌエル・ヌエット氏などは、その中でも、もっともぼくに協力してくれた人だ。冬になると、パリは午後三時ごろに日が暮れた。さむざむとした下宿の中庭に、黒つぐみの鳥が遊んでいた。そういう時、小さな電気スタンドをつけて、ヌエット氏から詩を学んでいた若い自分がしみじみなつかしい。近ごろあまり本を読まなくなったのは、きっと老眼鏡が重くてうるさいせいだ。
 そうだ、ことしは思いきって、きれいな声でぼくの代わりに好きな本を音読してくれる誰かを雇おう。そしてリルケの愛した図書室の高い澄んだ空気を孤独の身辺に築こう。

 現在、ヌエル・ヌエット氏というよりはノエル・ヌエットと書くようです。ノエル・ヌエット氏は寺内公園に版画の『神楽坂』を描いています。氏は当時パリにいた日本人をかなり知っていたようです。そして、その後、氏は日本にやってきます。

西条とノエル 1959年、NHKの「黄金(きん)の椅子」でヌエット氏を見ることもできます。前列左側からノエル・ヌエット氏、サトウ・ハチロー氏、佐伯孝夫氏、西條八十氏が出ています。これは西条八束著、西条八峯編『父・西條八十の横顔』にあった写真の一部です。本文では

一九九三年三月のことである。父と姉の蔵書を神奈川県立近代文学館が受け入れてくださることになり、それらを整理していると、姉が持っていたおびただしい数の写真が出てきた。その中に、一九五九年一月十六日から四回にわたってNHKテレビの「黄金(きん)の椅子」という番組の百回記念として放映された、「西條八十ショウ」の写真があった。その一枚には、堀口大學、サトウハチローなど多数の有名な方がたに交じって、ノエル・ヌエットさんも写っていた。パリに留学した父がフランス語を習っていた詩人である。

 最初は西條八十氏の家に宿泊したようです。

ヌエットさんは一九二六(大正十五)年、父が日本に帰国して間もなく、父の招きもあって来日し、晩年に帰国されるまで、親しくおつき合いしていた。ものしずかでやさしい人だったが、日本語はいつまでもうまくならなかった。
 ヌエットさんは初めて日本に来て、しばらくはわが家に滞在したらしいが、母をはじめ、欧米の生活をまったく知らぬ私の家族は、彼の食事その他にとても苦労したらしい。その頃父の家に身を寄せて家事を手伝ってくれていた叔母が、ヌエットさんのために新宿の中村屋までパンを買い行かなければならなかったことなど、よく話していた。

 内藤濯氏もノエル・ヌエット氏と一緒に働いていました。しかし、西條八十氏のほうがかなり一緒になって働いているといえそうです。

神楽館|広津和郎

文学と神楽坂

 広津和郎広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は作家、文芸評論家、翻訳家です。『年月のあしおと』(講談社、昭和44年、1969年)に大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災のことが書かれています。そのとき、広津氏は31歳、神楽坂の下宿にはいっていました。
 では、この神楽坂の下宿はどこなのでしょうか。 まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 私は牛込神楽坂に近い下宿屋社員を四人程置き、自分も鎌倉――当時鎌倉小町に私は両親と一緒に暮していたが、始終東京に出て、その同じ下宿にいることが多かった。その外に社員ではなかったが、片岡鉄兵が家からの仕送りがなくなったので、そこに置いておいた。それから後に麻雀で有名になった川崎備寛なども置いておいた。どうせ一人や二人、人数がふえたところで大した違いはないという気持で、これらの人達の下宿代を一緒に払ったわけであるが、銀行の手形交換の時刻の迫る前に原稿を書き、雑誌社にかけつけて、原稿料を受取ると、銀行にとんで行って、やっと手形を落すというようなことも、今思い出すと何か愉快な思い出になっている。(中略)
 関東の大震災も、私はその下宿屋の三階で出遭った。私はその前夜原稿を書いていたので、地震の時間の正午一寸前には、まだ寝ていた。ひどい震動で眼がさめたが、ふと見ると、部屋の隅の鴨居の合せ目がぱくぱくと拡がっては又つぽまり、拡がっては又つぼまりしている。あれが拡がり切ったら、天井が落ちるのではないかと思ったので、私は寝床から起き上って、箪笥の側に行き、箪笥が倒れないようにと、それを押えながら、その蔭に身を寄せた。

下宿屋 この下宿に入り、関東大震災の時もこの下宿に入っていました。場所は「牛込神楽坂に近」く、片岡鉄兵と川崎備寛も一緒に住んでいた場所だといいます。

 更に読んでいると『広津和郎全集 第13巻』の「先ずペエシェンスから」(初発は昭和3年10月。底本は『新潮』)にその下宿が出ていました。

 片岡鉄兵君とは暫く会わない。(省略)
 例の震災前及び震災後の牛込の神楽館時代には毎日互に顔を合わせていた。それから急に顔を合わせなくなって、そして彼が結婚するので彼から招待されたその時まで、約二年間位は、彼に対する記憶が殆んどない。どうも会う機会がなかったらしい。

 神楽館だという場所でした。場所はここです。 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)も同じことが出ています。

 二十一、二の時分に神楽館という下宿にいた。白木屋の前の横丁を這人ったところだ。片岡鐵兵ことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎備寛、間宮茂輔、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

白木屋 白木屋は百貨店で、神楽坂の中腹で、神楽坂2丁目が終わり、代わって3丁目に始まった場所にありました。現在、白木屋はなく、1階には「サークルK」,2階には「Royal Host」がはいっています。下から右に向かうと「神楽坂仲通り」に入っていきます。
間宮茂輔 小説家。まだこのころは広津和郎氏が社長だった渋谷の『藝術社』の一社員でした。
まげる 品物を質に入れる。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

 関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 間宮茂輔の親戚、間宮武氏が書いた『六頭目の馬・間宮茂輔の生涯』で関東大震災はこう書いています。

 神楽坂は矢来の新潮社に通じる道筋にあたっていたから、文士の往来も繁く、矢来に住んでいた谷崎精二加納作次郎、それに佐々木茂索といった人たちはよく神楽館に立ち寄っていった。
 その年の九月一日、関東大震災が起こる。
 その日出社していたのは、茂輔と番頭役の島田という男の二人だった。
 地鳴りを伴いながら、激しい振動が襲い、木造の社は音を立てて崩れ落ちた。
 縁先の太い樹木によじ登り、茂輔は辛うじて難を避けた。
 黒煙と土くれが巻き上る空の下を、めくリ上げるように続く余震に脅えながら神楽館に辿り着いた。建物は無事だったが、部屋の壁は崩れ、広津をはじめ同宿の片岡鉄兵の姿もみえなかった。
 夕方になって、広津たちが避難先から次々と帰って来た。

 以上、広津和郎氏が大震災にあった下宿は「神楽館」でした。

星の王子さまとノエル・ヌエット

文学と神楽坂

内藤濯 内藤(あろう)氏は『星の王子さま』を翻訳した人で、最後は一橋大学の教授になっています。生まれは明治16年(1883年)。明治40(1907)年、東京帝国大学文科大学フランス文学科へ進学。フランス近代詩の翻訳を発表します。
 この時こんなエピソードも残しています。なお、この筆者、内藤初穂氏は内藤濯氏の息子です。

(内藤濯は)大学二年にすすんだぱかりの分際で「印象主義の楽才」と題する一文を『音楽界』九月号に発表、ドビュッシーの存在を日本に初めて喧伝した。
「種本」のあることなど知らぬ顔をしていた。が、知る人は知る。第二高等学校の三年先輩に当たる太田正雄、医学の分野で業績をあげる一方、木下杢太郎の筆名で詩・劇作・美術史の分野でも名をあげた人物が、詩集『食後の唄』(大正八・一二)の序文で父の論説を容赦なく切り捨てた。
「まだ聴いたこともないDebussyを評論する、出過ぎた批評家」(1)
 この酷評から三年後、父はパリ遊学中に杢太郎と出会い、親交を得る。
 父自身は、杢太郎の謡を白秋以上のものと評価していた。父の話では、杢太郎は一徹にも、白秋が売名のために童謡を濫作しているといって、10年ほども交わりを絶っていたらしい。が、白秋が太平洋戦争二年目の秋に死去するその三年ほど前には、一切のこだわりを捨てて旧交を暖めたという。
 杢太郎は、戦後まもなく胃癌をわずらって他界したが、その詩を愛しつづけた父は、昭和31年10月21日、JR伊東駅に近い川畔の伊東公園でおこなわれた詩碑「ふるき仲間」の除幕式に出席、父が晩年に勤めた昭和女子大学や地元の西小学佼・伊東高等学校の女子学生たちに山田耕筰作曲のその詩を歌わせ、タクトをふった。
内藤初穂著『星の王子の影とかたちと』(筑摩書房) 2006年
以下引用文献は同一。

 話を元に戻します。内藤が大学を卒業したのは明治43(1910)年。フランス語教官として陸軍幼年学校に勤務。大正9年、母校・第一高等学校の教授になり、文部省在外研究員として、大正11-14(1922-25)年、パリに留学。
 パリに留学したのは38歳からです。留学中に内藤は日本人の友人を作ります。

 折竹がパリの見どころを案内する間、東京帝国大学の四年後輩で明年四月から同大学で教鞭をとるという辰野隆が初対面の挨拶にあらわれ、つづいて音楽エッセイを何度か投稿した雑誌『音楽界』の主幹、小松耕輔が姿を見せる。

 またフランス人の友人、ノエル・ヌエー氏も話し相手でした。ノエル・ヌエーは1885年に生まれており、内藤と2歳しか違いません。

 加えて辰野はノエル・ヌエーという物静かな詩人を父に引き合わせ、会話力の鍛錬かたがた文学講義の話し相手とした。

 このノエル・ヌエーって誰のことなのか、わかりますか? 結果はすぐ後で。1924年帰国後、内藤は東京商科大学(現在の一橋大学)教授となります。当時の教え子に伊藤整など。内藤が日本に帰って見ると、1926(昭和元)年、ノエル・ヌエーも日本にやってきました。

 ルナアルの文章は、単純なようでいながら間違いやすく、ひと癖あるようで最高に正しいフランス語だという定評がある。その翻訳に当たって、父は疑問の個所をノエル・ヌエーに質すことにした。ヌエーは静岡高等学校で三年の契約をすませたのち、いったんフランスに帰ったが、日本を忘れられぬまま東京外国語学校の要請に応じて一ツ橋の校舎に着任したばかりのところであった。日本ではヌエーの末尾サイレントを発音してヌエットと呼んでいたが、父はフランスいらいの「ムッシュー・ヌエー」を押し通した。
 大森の家によく姿を見せていたように覚えている。ほどよく髭をたくわえた四角の顔に眼鏡をかけ玄関の式台に座って靴をぬいだあと、さらに二重にはいた靴下の外側をぬいで靴に押しこんでから上がってくるのが珍しかった。父によれば「日本語を覚えようとしない日本贔屓のフランス人」で、二人の交わすフランス語が音楽のように書斎から流れていた。

 つまり、ノエル・ヌエー、フランス語ではNoël Nouëtで、この日本語名はノエル・ヌエットで、神楽坂の寺内公園案内板に彼が描いた絵が描いてありますが、その絵を描いた画家兼詩人がヌエットでした。ヌエットが日本に2回目に訪問した時は1930(昭和5)年です。
 1953(昭和28)年、内藤濯訳で「星の王子さま」を出版。ノエル・ヌエットは1962(昭和37)年、日本からフランスに帰国します。昭和44(1969)年、ヌエットは84歳で死亡。昭和52年(1977年)、内藤が死亡。94歳でした。

(1) 木下杢太郎の『食後の唄』の序(大正七年九月四日版)ではここはこうなっています。この批評家は本当に内藤濯だったのでしょうか。まあ、息子がそういっているので…そうするか。

 さう云ふ情緒も又無論同時の詩的氣稟から見逃されてはゐなかつた。新に西洋から歸つた洋畫家の中には、まだ人の瞳が靑く見える習慣のままで、お酌の踊を畫かうとするのもあったが、我我はその中でも、蒲原有明氏の「朝なり」から大なる感激を受けた。無論そんなしやれた心持は少しも分らないで、子どものおしめの心配や、下宿屋での月末の苦勞を記述する、牛込邊の文士團體もあるにはあつたが、然し一方にはまだ聽いたこともないDEBUSSYを評論する、出過ぎた批評家もあつたのである。
 街頭の張札(あふいつしゆ)を愛し、料理屋の色紙の印刷を愛し、モンマルトル畫家の漫畫(きやりきやちゆる)を愛し、隆達、弄齋、竹枝、山歌(しやんそんねつと)を愛するを知つた予が、こいつを一番小唄でやらうと考へたのは惡い思ひ付きであつた。當時小傳川町の廣重、淸親ばりの商家のまん中に、異樣な對照をなして「三州屋」と云ふ西洋料理屋があつたが、是れは我我の屢「パンの會」を催した會場であつた。その頃椅子に腰をかけて三味線をひいた五郎丸、ひさ菊、お松つさんなどいつた女たちは今はどこにどう四散してゐることやら。
木下杢太郎著『食後の唄』序



わが青春の記|紀の善|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が書いた「わが青春の記」(初発は『中央公論』昭和11年。日本図書センター『長田幹彦全集 別巻』1998年)には、明治41年1月、長田氏などの七人が新詩社から脱退する顛末が書かれています。この決定は神楽坂の「紀の善」で行いました。
 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、或いは旅役者の一座に身を投ずるなどして各所を放浪。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。

 (しん)()(しや)(だつ)退(たい)()(けん)()れが(しゆ)(はう)(しや)であつたか、(いま)では()(おく)がはつきりしてゐない。とにかく(みんな)(うつ)(ぼつ)としてゐたのであるから、一人(ひとり)()をつければ(たちま)()(あが)るに(きま)つてゐる。(ちか)(ごろ)(りう)(かう)(しよく)(そく)(はつ)といふ(やつ)である。()んでも()(ぐら)(ざか)(した)()()(ぜん)といふ鮨屋(すしや)の二(かい)(あつま)つたのが、北原(きたはら)白秋(はくしう)吉井(よしゐ)(いさむ)木下(きのした)(もく)太郎(たらう)深井(ふかゐ)天川(てんせん)秋庭(あきば)俊彦(としひこ)秀雄(ひでを)(ぼく)この七(にん)で、新詩(しんし)(しや)脱退(だつたい)()(たちま)ちそこで一(けつ)してしまつた。その理由(りいう)は、とにかく()()()(くわん)()(たい)する()信任(しんにん)で、折角(せつかく)われわれが努力(どりよく)していい()をつくつても(みんな)()()()(くわん)()(きふ)(しう)されてしまふ。新詩社(しんししや)といふやうな團體(だんたい)結成(けつせい)してゐては、成長(せいちやう)()()みがない。だからこゝで分裂(ぶんれつ)して自由(じいう)天地(てんち)(およ)()ようといふやうなことだったと(おも)ふ。
 その翌晩よくばんぼくうちまたみんなあつまつて、仕出しだものかなにかとつて、おほいに氣焔きえんをあげたものである。そのくわはつたのが、蒲原かんばら有明ありあけ先生せんせい、それから瀧田たきた哲太郎てつたらうもゐた。瀧田たきたぼく親父おやじ患家くわんかだつた。で、それでんだのだつたとおもふ。むろんもうそのころには中央公論ちゆうわうこうろん編輯へんしふをやつてゐて、小栗風葉をぐりふうえう獨歩どつぽのものでおほいにつてゐた時代じだいであつた。


新詩社 明治32(1899)年、(かん)鉄幹てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
首謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態
深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家でした。
仕出し屋 注文に応じて料理を作って配達する店。出前をする店。
気焔 燃え上がるように盛んな意気。議論などの場で見せる威勢のよさ。

 えんたけなはに、みんな唐紙たうしがきをやつたが、それは非常ひじよう面白おもしろ記念品きねんひんである。一さがしてみてもしあつたら、是非ぜひ寫眞版しやしんばんにして掲載けいさいしてもらはふとおもつてゐる。
 蒲原かんばら先生せんせいりんり、、、たる醉筆すゐひつふるつて白秋はくしう似顔にがほをかき、「白秋はくしうたいをしき」とさんをされたのであつた。
 さて脱退だつたいけつした翌日よくじつわれわれはかほをそろへて、新詩社しんししやしかけた。新詩社しんししや丁度ちやうどいま神宮外苑じんぐうぐわいえん裏参道うらさんだうのところにあつて、家賃やちんにして二十圓位ゑんぐらゐの、板羽目いたはめどぎどぎしたちひさな貸家かしやであつた。しもどけのころにたると、みちがどろどろにぬかつて、垣根かきねには山茶花さざんくわさびしくいてゐるやうなまちであつた。
 與謝野氏よさのしもたゞならぬ氣勢けわひかんじたとみえて、眉宇びうあひだ不安ふあんいろみなぎらせながら、我々われ/\むかへた。脱退だつたいのことはたれさきくちをきつたか、わすれたが、とにかく口頭こうとうで、勇敢ゆうかん聲明せいめいをやつてのけた。だまつていてゐゐたが、そこへ長男ちやうなん息子むすこさんがはひつてきてなにかいふと、與謝野よさのはかツと激怒げきどして、眞鍮しんちゆう火箸ひばしぼつちやんへげつけた。往年わうねん朝鮮時代てうせんじだい鐵幹てつかんおもはしめるやうなそのかほじつおそろしかつた。ほくはそのときにもむろん味噌みそかすなので、すみほうへすツこんでちいさくなつてゐた。陣笠ぢんがさ悲哀ひあい何處どこまでもついてまはつた。與謝野氏よさのし居間ゐまには座敷ざしき半分はんぶんもあるやうなおほきな木製もくせい寢臺ねだいゑてあつたが、ぼくはそのかげすわつて、事件じけん推移すゐい固唾かたづをのんでてゐた。そのときぼくはいよいよ見限みきりをつける決心けつしんがついたのであつた。
(長田幹彦「わが青春の記」『中央公論』昭和11年4月)


りんり 淋漓。勢いなどが表面にあふれ出る様子。
酔筆 酒に酔って書画をかくこと。その作品。酔墨。
三位一体 さんみいったい。キリスト教で、父(神)・子(キリスト)・聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿となって現れたもので、元来は一体であるとする教理。三つのものが一つになること。また、三者が心を合わせること。
 さん。ほめたたえること。その言葉。
板羽目 板で張った壁や塀。板張りの壁や塀
どぎどぎ 刃物の鋭利なさま。うろたえ、あわてるさま。
気勢 きせい。何かをしようと意気込んでいる気持ち。気配と間違えたもの? 気配は、はっきりとは見えないが、漠然と感じられるようす。
眉宇 まゆのあたり。まゆ。「宇」はのき。眉を目の軒と見立てていう
往年 おうねん。過ぎ去った年。昔。
思わしめる 古語。思わせる。「しめる」は使役の意味。
味噌っ滓 みそっかす。味噌をこした滓。価値のないもの。一人前にみなされない子供。
陣笠 下級の武士がかぶとの代わりにかぶった笠。政党などで一般の議員。ひら議員。政党の幹部に追従し、自分の主義・主張をもたない議員
寝台 寝るとき用いる台。ベッド。
固唾 かたず。緊張した時に口中にたまるつば。

『スバル』第一巻第二号の消息|石川啄木

文学と神楽坂

小生とは石川木のことです。明治42年「スバル」の2月号、短歌は六号活字となりました。小さいのです。

スバル消息
◎本誌の編輯は各月当番一人宛にてやる事に相成、此号は小生編輯致し候。随つて此号編輯に関する一切の責任は小生の負ふ所に候。

『スバル』第一巻第二号を編集するのは石川木だけだといっています。さらに

締切までに小生の机上に堆積したる原稿意外に多く為めに会計担任者と合議の上、紙数を増す事予定より50頁の多きに達し、従つて定価を引上るの(やむ)なきに到り候ひしも、(なほ)(かつ)その原稿の全部を登載する(あた)はず、或は次号に廻し、或は寄稿家に御返却したるものあり。謹んで其等執筆諸家に御詫申上候。
◎また本号の短歌は総て之を六号活字にしたり。此事に関し、同人万里君の抗議別項(119頁)にあり。(ここ)に一応短歌作者諸君に御詫び申上候。
◎万里君の抗議に対しては小生は別に此紙上に於て弁解する所なし。つまらぬ事なればなり、唯その事が平出君と合議の上にやりたるに非ずして全く小生一人の独断なる事を告白致置候。平出君も或は紙致を倹約する都合上短歌を六号にする意見なりしならむ。然れども六号にすると否とは一に小生の自由に候ひき。何となれば、各号は其当番が勝手にやる事に決議しありたればなり。
◎活字を大にし小にする事の些事までが、ムキになって読者の前に苦情を言はれるものとすれば、小生も亦左の如き愚痴をならべるの自由を有するものなるべし。
◎小生は第一号に現はれたる如き、小世界の住人のみの雑誌の如き、時代と何も関係のない様な編輯法は嫌ひなり。その之を嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文芸に対する態度と覚悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作る如きは或意味に於て小生の遊戯なり。
◎小生は此第二号を小生の思ふ儘に編輯せむとしたり。小生は努めて前記の嫌ひなる臭味を此号より駆除せむとしたり。然れどもそは遂に大体に於て思つただけにやみぬ。雑録に於て、口語詩、現時の小説等に対する小生の意見を遠慮なく発表せむとしたれども、それすら紙数の都合にて遂に掲載する(あた)はざりき。遺憾この事に御座候。僅かに短歌を六号活字にしたる事によりて自ら慰めねばならぬなり。白状すれば、雑録を五号にしたるも、しまひに付ける筈なりし小生の『一隅より』を五号にするため、実は前の方のも同活字にしただけなり。(あへ)て六号にすれば遅れますよと活版屋が云つた為にあらず。それは一寸した口実なり。
◎愚痴は措く。兎も角も毎号編輯者が変る故、毎号違つた色が出て面白い事なるべく候。
◎末筆ながら、左の二氏より本誌の出版費中へ左の通り寄附ありたり。謹んで謝意を表しおき候。
一金五円也 上原政之助氏
一金一円也 相田蕗村氏
(校了の日 印刷所の二階にて 木生)

[『スバル』第一巻第二号 明治四十二年二月一日]


スバル 森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下(きのした)杢太郎(もくたろう)高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らが活躍しました。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
消息 人や物事の、その時々のありさま。動静。状況。事情
六号活字 横約3ミリで、英語の8ポイント活字と比べると、わずかに小さい
万里 平野万里。当時は24歳。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表しました。石川木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。
平出 平野の間違いでは。もう少し調べて見ます。

木下杢太郎「南蛮寺門前」

文学と神楽坂

木下杢太郎」 木下(きのした)(もく)()(ろう)に「南蛮寺門前」の中で石川啄木のことを書いている場面があります。昭和5年4月『冬柏』第2号に投稿したもので、木下杢太郎全集第14巻によっています。
 小さな6号活字がここでも問題になっています。
 1年前、北原白秋や木下杢太郎はこの小さな活字に怒ったことや、ほかの理由もあり、与謝野寛のもとから脱退し、『明星』も第100号で廃刊。以来、与謝野寛氏にとっては失意が続きます。また、木下杢太郎が石川啄木をどうやってみているかもわかります。
 明治42年(1909年)1月には、森鴎外は47歳、伊藤左千夫は44歳、与謝野鉄幹と上田敏は35歳、斎藤茂吉は26歳、平野万里と北原白秋は24歳、木下杢太郎氏と石川啄木は23歳、吉井勇と古泉千樫は22歳でした。

 今でも僕は殘念に思つてゐるのだが、それは僕の戲曲の第一作の「南蠻寺門前」をば、先生が校正の時添削して下さるといふのを、その時の第2號の編輯を引受けてゐた石川偏執からその機會を失したことである。此事は同じ名の僕の戲曲集のにも書いて置いたが、も一度回想して見る。
 時は明治42年の1月2月の頃である。その時分には「パンの會」と「觀潮樓歌會」とが屡〻有つた。たとへばその歳の1月の9日には午後からパンの會があり僕等は6時半にそれを濟まして、夜森先生の御宅の短歌會に出た。その時の出席者は昴の第2號に據ると、主人の他與謝野寛上田敏伊藤左千夫小泉千樫、石川木、斎藤茂吉平野萬里及び僕で、題は「舞」「清」「吝」「構」「或」であつた。僕の日記には「雲降る。10時過帰宅。」と書いてある。

 スバル。森鴎外、()()()(ひろし)鉄幹(てっかん))、与謝野晶子(あきこ)が協力して発行し、石川啄木、平野(ひらの)万里(ばんり)吉井(よしい)(いさむ)が編集し、この3人に加えて、木下杢太郎、高村(たかむら)光太郎(こうたろう)北原(きたはら)白秋(はくしゅう)らの文芸雑誌。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点になった。。反自然主義的、ロマン主義的な作品が多く、同人はスバル派と呼びました。創刊号の発行人は石川啄木で、創刊時から1年間、発行名義人です。スバルは1913年まで続きました。
偏執 かたよった考えをかたくなに守って他の意見に耳をかさないこと。
 ばつ。書物や書画の終りに,その来歴や編著の感想・次第などを書き記す短文。あとがき。
パンの会 明治末期の青年文芸・美術家の懇談会。反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場。1908年(明治41年)12月、第1回会合は隅田川の右岸の両国橋に近い矢ノ倉河岸の西洋料理「第一やまと」で。高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会し、耽美派のメッカに。白秋の『東京景物詩』、杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。
観潮楼歌会 観潮楼かんちょうろうとは森鴎外が住む家のことで、森鴎外が『青年』『雁』『高瀬舟』など数々の名作を著しました。観潮楼歌会はここでの歌会のこと。場所は文京区千駄木1-23-4。
屡〻 「しばしば」。何度も。たびたび。〻は二の字点、ゆすり点で、主に縦書きの文章に用い、上の字の訓を重ねて読むときに使います。現在は「々」で代用。
短歌会 観潮楼歌会と同じ。
古泉千樫 こいずみ ちかし。木下杢太郎氏は小泉と書いていますが、正しくは古泉。左千夫が脳溢血により50歳で急逝すると、千樫はアララギ派の中心的歌人として多くの秀歌を残しています。
平野万里 ひらの ばんり。1905年東京帝大工科大学に進み、「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表。石川啄木、吉井勇の三人で交替に『スバル』の編集に当たりました。

 1月13日の水曜日も雲であつた。午後4時から上野精養軒で「靑楊會」があつた。是れは第何回のものであつたか。靑楊會とは、上田敏先生の洋行送別會が上野の精養軒であつたのを第一の機曹としてその後その家で時々催されたものである。僕の日記には唯「上田氏怪氣焰。永井荷風。」と記してあるばかりである。然しかう云ふ斷片的のものから當時の文學的雰圍氣を通つて來たものには直ぐいろいろの聯想が附くことと思ふ。
 その1月の間に僕は南蠻寺門前の小戲曲に着手し、前半はわけもなく出來たが、後になるに從つて思想が纏めらなくて閉口した。
 當時の交友は新詩社を中心とした諸君で、1月17日の日曜日には午後2時本郷森川町の蓋平館本店といふ下宿に石川木を訪ねた。石川が昴二月號の編輯をやつてゐたことは既記の如くである。そこに吉井勇が居た。吉井と共に寓居に歸り、夜はまた南蠻寺にかかつた。あと五六枚のところで煩悶してゐたのである。
 1月18日も午後から雪となった。さんざ苦しんだ揚句豫期しなかつた着想を得て、膝を打ち、午後4時半に至つて到頭書き上げた。そして女中に糊入の美濃紙を買はして、大急ぎで淨書し、森先生の御宅へ電話をかけると、來てもよいといふ返事であつた。
 晩餐の後直ぐ家を出たが、その途中ふと追分なる島村盛助の宿へ立ち寄つて此原稿を見せた。
 談後島村が批評を始めて、中々言葉が切れない。こちらは氣が氣でなかつたなどといふことも思ひ出される。

青楊会 せいようかい。靑楊會の場所は上野(せい)(よう)(けん)で。食べながら話を聞いたり歌を詠んだりなどしたのでしょう。
新詩社 しんししゃ。正式には東京新詩社。1899(明治32)年、与謝野鉄幹を中心に創設。1900年創刊の機関誌《明星》は08年廃刊まで浪漫主義文学の拠点でした。妻晶子を始め、高村光太郎、平野万里、北原白秋、木下杢太郎、石川啄木、吉井勇ら新人が輩出しました。
美濃紙 岐阜県美濃市で()かれている和紙の総称
島村盛助 しまむら もりすけ。24歳。英文学者、翻訳家、教育者で、明治42年に東京帝国大学英文科を卒業しました。岩波の英和辞典の編纂者の一人です。

 森先生は直ぐ僕の原稿を讀み始められた。僕は傍から今どの邊が讀まれてゐるかを眺めた。
 森先生はそれを讀み了ると、はははははと笑つた。そしてだいぶいろんなものか並べてあるねと揶揄せられた。
 その時どう云ふ批評をされたか。餘り細くは批評せられなかつたやうに思ふ。今も覺えてゐることは、劇的のZuspitzung(これは獨逸語で言はれた)が足りない。それから修辭がまづいと斷ぜられたことである。森先生は當時ユリウス・バツブを讀んで居られ、その説に同感して居られるやうに見えた。それで僕はとに角校正の時は見てやらうと先生をして言はしむるまでに成功した。
 平野萬里君もあとから見えたので、一緒に森邸を辭した。その時は雪は已に息んでゐた。

Zuspitzung 激化、先鋭、先鋭化、尖鋭
修辞 しゅうじ。言葉を美しく巧みに用いて効果的に表現する技巧や技術。レトリック(rhetoric)。
ユリウス・バツブ Julius Bab。ドイツの劇作家と劇場批評家。『演劇社會學』の著者。

 1月19日。火曜日の朝は7時からのバツフさんの佛蘭西語の講義を一時間聽き、8時⒛分に石川木の宿に行き、その寐てゐるのを起して、疇昔の原稿の掲載方を頼んだ。そこに北原白秋も來り、二人で午食の振舞を受け、夜は與謝野さんの御宅に往き、原稿中の經文に振假名をして貰つた。この時は北原、石川も多分一緒であつたらう。「電車を四谷にて下り、天ぷら屋にて酒を飮み、藝術の事を談ず。」と日記に書いてある。
 1月22日、金曜日に石川の處に行くと、吉井君、平野君とも一人の人がそこに居た。當時石川は平野君に對して反感を有してゐた。その主な原因は昂をば短歌を主とすること明星の如くはせず、短歌をば六號活字で組まうと論じ、平野君の反對を受けたことにあるらしい。その不平をば三間ばかりの長い手紙に書いてよこした。その後この手紙を捜したが、どこかに行つてしまつて見つからなかつた。
 この頃僕に多大の感激を與へた本リヒヤルド・ムウテルの佛國印象晝派とゲオルグ・ブランデスの19世紀思潮論であつた。またアアサア・シモンズマアテルリンクが流行で僕も之を拾ひ讀んだ。
 1月23日の土曜日にはまたパンの會があつた。人が集まらないで、明治座の山崎紫紅の破戒曾我を立見をしたりなどした。その日のパンの會には石井柏亭、北原白秋、長田幹彦、平野萬里、栗山茂等が集まつた。
 島村抱月の洋行土産の欧洲近代繪畫論は面白いが、肝腎の畫そのものは少しも分つてゐないのだと皆が判定した。予はその批評を書く役になつて、翌日その原稿を石川の處に持つて行くと平野萬里君が来た。

疇昔 ちゅうせき.過去のある日。昔。疇は「以前」の意味
六號活字 六号活字。縦横約3ミリで、8ポイント活字と比べると、わずかに小さく、約7.5ポイント
リヒヤルド・ムウテル リヒャルト・ムーテル。Richard Muther。ドイツの批評家と芸術の歴史家
ゲオルグ・ブランデス ゲーオア・ブランデス。Georg Brandes. デンマークの評論家。ヨーロッパ文芸を痛烈に批評。
アアサア・シモンズ アーサー・シモンズ。Arthur William Symons. 英国の詩人、文芸批評家、雑誌編集者。
マアテルリンク モーリス・メーテルリンク。Maurice Maeterlinck。ベルギーの詩人、劇作家、随筆家
山崎紫紅 やまざき しこう。34歳。劇や歌舞伎の作家。主な作品は「破戒曾我」など
石井柏亭 いしい はくてい。 27歳。版画家、洋画家、美術評論家。東京美術学校洋画科を中退。
長田幹彦 ながた みきひこ。22歳。小説家、作詞家。早稲田大学英文科卒業。
栗山茂 くりやま しげる。23歳。東京帝国大学卒業。外務省入省。日本の元最高裁判所判事。

 2月になつて昴の第2號が出た。成程短歌は皆6號活字で組んであつた。そして早野君の「抗議」が插人してあり、「短歌を6號にした事に就ては僕は一言の相談も受けなかつた。組んで來たのを見て僕は驚いて了つた。云々」と書いてある。それに對して石川君がまた「消息」といふ處でむきになって應戰してゐる。「小生は第1號に現はれたるが如き、小世界の住人のみの如き雜誌は嫌ひなり。その嫌ひなるは主として小生の性格に由る、趣味による、文藝に對する態度と覺悟と主義とに由る。小生の時々短歌を作るが如きは或意味に於て小生の遊戲なり。」云々。
 さう云ふ木が後來短歌によつて世評を得たのは、今考へると中々面白い。
 ところが僕の南蠻寺の原稿は少しも直つて居なかつた。あとで木を責めると、時日が切迫して森先生の處へ校正を廻すことが出來なかつたのだと言って辯解したが、僕は心の中ではそれは口實だと考へざるを得なかつた。木は何にでもかんにでも反感を持つ男で、自らは大家の添削を受けるなどといふことを好まなかつたので、僕の意を蹂躪したのであらう。その故に僕は千載一遇の機を失したのであつた。

蹂躪 じゅうりん。ふみにじること
千載一遇 せんざいいちぐう。千年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会


小笠原島夜話①|北原白秋

文学と神楽坂


      一

 (しま)自然(しぜん)(くわん)乃至(ないし)はその住民(ぢゆうみん)状態(じやうたい)()いて、(なに)(はな)せとお(つしや)るのですか。それなら差当(さしあた)()笠原(がさわら)(じま)のお(はなし)でもさしていただきませうか。
()いて極楽(ごくらく)()地獄(ぢごく)』と(まを)しますが、(けつ)してああいふ(はな)(じま)などに内地(ないち)(ひと)が、(なが)()めるものではありません。
 ()笠原(がさわら)(じま)(もと)随分(ずゐぶん)極楽島(ごくらくじま)だつたと、()(のこ)りの黒人(くろんぼ)(ぢい)などが、ある(ばん)(ばん)溜息(ためいき)()いて(わたし)(はな)して()れましたが、それは(あるひ)はさうだつたかも()れません。その(ころ)あの(しま)()もまた(わらべ)のやうな(うま)れた(まゝ)(しま)で、そこには(あか)(がけ)(りよく)(しよう)(しよく)岩壁(がんぺき)や、(たか)椰子(やし)や、林投樹(しんとうじゆ)や、モモタマ()(やぶ)などが、()(とほ)つた瑠璃(るり)(いろ)(そら)海水(かいすゐ)とに、強烈(きやうれつ)()熱帯(ねつたい)色彩(しきさい)耀(かゞ)やかしてゐる(ほか)には、あの、図抜(づぬ)けて阿呆(あはう)らしい信天翁(あはうどり)や、四()婉転(ゑんてん)として(うぐひす)瑠璃鳥(るりてう)()()れてゐるばかりで、毒虫(どくちう)一つゐず、太陽(たいやう)(おほ)きく耀(かゞ)やかしく、(つき)(おほ)きく(ほが)らかであり、(ほし)(おほ)きく光芒(くわうぼう)()いて、(ひる)()もただ燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)(さう)()(つゞ)けてゐたのでした。


林投樹 アダン(阿檀、Pandanus odoratissimus)は、タコノキ科タコノキ属の常緑小高木。小笠原なのでアダンではなく、タコノキなのでしょう。ただし、戦後大量に固有種の「タコノキ」が都道の周りに植えましたがすべて純正品かは判りません。
モモタマ モモタマのジュズサンゴではなく、モモタマナ(桃玉菜。Terminalia catappa Linn、別名:コバテイシ、シクンシ科 )のことでしょう。巨大な葉が有名です。
瑠璃 やや紫みを帯びた鮮やかな青。16進表記で #2A5CAA 
信天翁 アホウドリ(信天翁、阿房鳥、阿呆鳥)はミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属です。
婉転 美しくまわり動いていること。
瑠璃鳥 オオルリ(大瑠璃、学名Cyanoptila cyanomelana)はヒタキ科オオルリ属です。青い小鳥です。
光芒 細長く伸びる一筋の光。尾を引くように見える光のすじ。
燦爛 光り輝いてあでやかなさま、まばゆくきらびやかなさま
 たまたま、天明(てんめい)(ねん)土州(としう)船頭(せんどう)(にん)(おな)じく八(ねん)肥前(ひぜん)(ぶね)の十一(にん)寛政(くわんせい)元年(ぐわんねん)日向(ひゆうが)志布志(しぶし)(うら)船頭(せんどう)(えい)右衛()(もん)とその船子(かこ)の四(にん)都合(つがふ)十七(にん)(おな)じ一つの無人島(むじんたう)漂流(へうりう)して、(なが)いのは十二(ねん)(みじ)かくて七八(ねん)(つぶ)さに漂人(へうじん)としての辛苦(しんく)艱難(かんなん)(とも)にする(うち)に、その(なか)幾人(いくにん)かは病死(びやうし)し、やつと(のこ)りの人数(にんず)だけで、覚束(おぼつか)ない小舟(こぶね)(つく)つて、やつとの(こと)でハ丈島(ぢやうしま)まで()ぎついたといふ(こと)もありました。その(しま)(いま)でいふ鳥島(とりじま)かと(おも)はれますが、ああいふ(かぎ)りの()麗光(れいくわう)(なか)()つても、人間(にんげん)(けつ)して人間(にんげん)社会(しやくわい)(はな)れて()きてゆけないと()大事(だいじ)痛切(つうせつ)(かん)じられたに(ちが)ひありません。

天明 天明五年は1785年。 杉田 玄白、伊能 忠敬、大田 南畝などがいた時代です。
土州 土佐(とさ)国の異称
肥州 現在の佐賀県と長崎県(ただし壱岐(いき)対馬(つしま)を除く)。
寛政 寛政元年は1789年。寛政の改革は1787(天明7)年から1793(寛政5)年にかけて松平(まつだいら)定信(さだのぶ)が老中になり、大規模な幕政改革を行いました。
日向志布志浦 日向(ひゅうが)国の志布志(しぶし)湾。現在は湾、以前は浦。違いは湾は単に地形。浦は「湾」のうち「磯」や「断崖」ではなく、浅瀬の砂浜のこと。
船子  水夫。船子(フナコ)船長(ふなおさ)の指揮下にある。
辛苦艱難 かんなんしんくのほうが普通。人生でぶつかる困難や苦労
鳥島 伊豆諸島の無人島。特別天然記念物アホウドリの生息地としても有名。
麗光 美しい光
 母島(はゝじま)伝説(でんせつ)()りますと、(かつ)てその(しま)漂流(へうりう)した内地(ないち)(じん)(うち)で、()(のこ)つたはただ船頭(せんどう)とその(つま)と、(わか)船子(かこ)との三(にん)でした。無人島(むじんたう)(をとこ)二人(ふたり)(をんな)一人(ひとり)です。1人(ひとり)(をんな)自然(しぜん)二人(ふたり)(つま)になつて(しま)ひました。其処(そこ)無人島(むじんたう)です。人間(にんげん)社会(しやくわい)(ほか)です。(かんが)へて(くだ)さい。その三(にん)にはその(とき)、ただ(ひと)つの共同(きようどう)()(まも)(こと)(なに)より神聖(しんせい)な、また痛切(つうせつ)緊要事(きんえうじ)でした。船頭(せんどう)とその(つま)とが洞窟(どうくつ)(よる)(ねむ)(とき)(わか)船子(かこ)は、一(ばん)(ぢう)その(そと)()つて、その()(まも)らなければなりませんでした。そしてまた、(わか)船子(かこ)自分(じぶん)(つま)とが(よる)(ねむ)(とき)船頭(せんどう)は、しよぼしよぼと()をしぱだたきながら、また一(ばん)(ぢう)洞窟(どうくつ)(そと)(かゞ)んで()(まも)らなければなりませんでした。船頭(せんどう)()いてゐる。船子(かこ)(わか)い。人間(にんげん)(つひ)人間(にんげん)です。船頭(せんどう)はある深夜(しんや)突然(とつぜん)激怒(げきど)嫉妬(しつと)()られて(おも)はず、自分(じぶん)(まも)つてゐた薪火(たきび)岩壁(がんぺき)にたたきつけて(しま)ひました。()()えて了ひました。その三(にん)生死(せいし)()が。

 (うずくま)る。(つくば)う。かがむ。しゃがむ。
 所謂(いはゆる)黒船(くろふね)提督(ていとく)ペルリ浦賀(うらが)()て、太平(たいへい)(たう)帝国(ていこく)(おびや)かして、一(たん)本国(ほんごく)(かへ)ると(しよう)して(みなみ)()つた(のち)再交渉(さいかうせふ)()北上(ほくじやう)したその(あひだ)は、(かれ)(かれ)艦隊(かんたい)()笠原(がさわら)(じま)父島(ちゝじま)(とゞ)めてゐたのだと()ひます。本国(ほんごく)へなぞは(かへ)つてゐなかつたらしいのです。(かれ)はその(しま)開墾(かいこん)し、石炭(せきたん)貯蔵庫(ちよざうこ)()て、部落(ぶらく)(つく)り、(のち)には整然(せいぜん)たる(とう)政治(せいぢ)()いたと申伝(まをしつた)へます。さういふ(ふう)にささやかでも人間(にんげん)同志(どうし)社会(しやくわい)組織(そしき)成立(せいりつ)すると、ただ絶海(ぜつかい)無人島(むじんたう)として、(ひと)をして(おそ)れしめ(すさ)まじがらせたその島々(しま〲)にも(はじ)めて(あたゝ)かな人間(にんげん)愛情(あいじやう)心音(しんおん)とが()()つて()ました。人間(にんげん)もまた、その燦爛(さんらん)とした自然(しぜん)麗光(れいくわう)(はじ)めて、安心(あんしん)して()にし(みゝ)にし、()れ、()ぎ、(した)しみ()した(こと)も、非常(ひじやう)(かんが)ふべき(こと)だらうと(おも*)ひます。無論(むろん)人間(にんげん)はゐなかつた(とき)も、一人(ひとり)二人(ふたり)漂流(へいりう)した()(とき)も、部落(ぶらく)ができ一(せう)社会(しやくわい)(かたちづく)つた(のち)も、その自然(じぜん)本体(ほんたい)には(すこ)しの異動(いどう)があつた(はず)はありません。そこへゆくと(さび)しいのは人間(にんげん)です。大勢(おほぜい)(あつ)まつて、(あい)道義(だうぎ)礼節(れいせつ)相互(さうご)扶助(ふじよ)とで()()はねば()きてゆけないのです。(なに)ものの麗光(れいくわう)感知(かんち)する(だけ)余裕(よゆう)()ちあはせないのです。

ペルリ マシュー・ペリー。ペルリ提督。米国の海軍軍人。1794~1858。東インド艦隊司令長官として、嘉永6年(1853)軍艦4隻を率いて浦賀に来航。日本に開国をせまり、翌年再び来航、日米和親条約を締結
石炭貯蔵庫 大正時代に大村にペリーの残した貯炭所があったといわれる。青野正男氏の『小笠原物語』によると、大正時代オガサワラビロウの古い屋根の下に炭が山積みになっていたという。昭和初期には屋根はなく石炭はただ野積みになっていた。
三頭政治 3人の実力者による政治体制
燦爛 華やかで美しいこと
 ペルリの艦隊(かんたい)()つた(のち)も、(のこ)るものは(のこ)つたし、それに(ふね)から()(あが)つた黒人(こくじん)奴隷(どれい)密猟(みつれふ)船員(せんゐん)家族(かぞく)などが相変(あひかは)らず共同的(きようどうてき)安楽(あんらく)生活(せいくわつ)(つゞ)けてゐました。大統領(だいとうりやう)もゐました。無論(むろん)共和(きようわ)政治(せいぢ)です。(しか)しただ部落(ぶらく)(ちひ)さな(ひと)つの部落(ぶらく)()ぎませんでした、それだけ山野(さんや)食物(しよくもつ)豊富(ほうふ)なり、(して)して開墾(かいこん)せずともバナナもあれば椰子(やし)()もあり、自然(しぜん)恩恵(おんけい)少数(せうすう)(ひと)()にとつては()()るほど充実(じうじつ)してゐました。それに外界(ぐわいかい)との小面倒(こめんだう)交渉(かうせふ)()し、不純(ふじゆん)権勢(けんせい)からも圧迫(あつぱく)されず、ただ自然(しぜん)(とゝの)つて()秩序(ちつじよ)無文律(むぶんりつ)道義的(だうきせき)制裁(せいさい)とが、その社会(しやくわい)をおのづからな(うつく)しいものに(そだ)ててゆきました。それで(ひと)()もしぜんと珍草(ちんさう)奇木(ぶらく)愛翫(あいぐわん)したり、(はたけ)(つく)つたり、(たがひ)遊楽(いうらく)したり、自由(じいう)恋慕(れんぼ)()つたりしたらしいのでした。空腹(ひも)じくなる(ころ)には、工合(ぐあひ)よくまたぺルリの(はな)して()いたのちに、しぜんと繁殖(はんしよく)した(ぶた)群集(ぐんしふ)(やま)()りては部落(ぶらく)檳榔(びんらう)(ぶき)小屋(こや)(ちか)くに()いて()たさうです。それを甘蔗(いも)焼酎(せうちう)()()(なが)ら、厨房(コツクば)から鉄砲(てつぱう)()つたものだと()ひます。正覚坊(しやうがくばう)にしてからが、その(ころ)随分(ずゐぶん)湾内(わんない)游泳(いうえい)してゐたものださうで、二時間(じかん)丸木舟(まるきぶね)()(まは)れば、三(とう)や四(とう)無雑作(むざふさ)手捕(てど)りにする(こと)ができたし、(まつた)くその(ころ)小笠原(をがさはら)(じま)は一(しゆ)極楽(ごくらく)(たう)だつたに(ちが)ひありません。

大統領 共和国の元首
共和政治 特定の個人ではなく、全構成員の利益のための政治体制
檳榔 ビンロウ。学名はAreca catechu。ヤシ科の植物、太平洋、アジア、東アフリカの一部に。
正覚坊 しょうがくぼう。アオウミガメのこと

小笠原島夜話②|北原白秋

文学と神楽坂

       二

 それが明治(めいぢ)になつて日本(にほん)版図(はんと)になると、すつかり根柢(こんてい)から破壊(はくわい)されて(しま)ひました。警察権(けいさつけん)行政権(ぎやうせいけん)とを一(しよ)()ねた王様(わうさま)のやうな島司(たうじ)()(もの)()る。サアベルがガチヤガチヤ()る、小面(こづら)(にく)驕慢(けうまん)小役人(こやくにん)がのさばる。こすつからい()いつめ(もの)小商人(こしやうにん)()()む、繁雑(はんざつ)文明(ぶんめい)余弊(よへい)と、官僚的(くわんれうてき)階級(かいきふ)思想(しさう)瀰漫(びまん)する、(しま)民主的(みんしゆてき)極楽境(ごくらくきやう)は一(ぱう)から()へぱ(ほとん)滅茶(めちや)々々()になって(しま)ひました。それで(いま)まで自由(じいう)開墾(かいこん)()土地(とち)制限(せいげん)され、あまつさへ花畑(はなばたけ)野菜(やさい)(ばたけ)()()げられ、()(ちゞ)められて、以前(いぜん)島民(たうみん)(つひ)には(しま)の一(ぱう)()ひつめられて、(から)うじて生命(せいめい)をつなぐ(だけ)生活(せいくわつ)しかできなくなつて(しま)ひました。以前(いぜん)はただ物々(ぶつ/″\)交換(かうくわん)だつたのが、一にも二にも(かね)()くてはならなくなる。遠海(ゑんかい)漁猟(ぎよれふ)厳禁(げんきん)される。さうなると、優越(いうゑつ)人種(じんしゆ)としての彼等(かれら)倨傲(きよがう)(しん)満足(まんぞく)さすべき、(なん)らの生活(せいくわつ)をも保持(ほぢ)する(だけ)自由(じいう)さが全然(ぜんぜん)(うしな)はれて(しま)つたのです。彼等(かれら)帰化(きくわ)せねばならなくなりましたが、彼等(かれら)帰化人(きくわじん)(ぐらゐ)みぢめなものはありますまい。

版図 はんと。一国の領域、領土
島司 とうし。明治以降の地方行政官。勅令で指定された島地を知事の指揮監督を受けて管轄した。大正15年(1926)廃止
驕慢 きょうまん。おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること
余弊 よへい。何かに伴って生じる弊害
瀰漫 びまん。広がること。はびこること。蔓延(まんえん)すること
開墾 かいこん。山野を切り開いて農耕できる田畑にすること
倨傲 きょごう。 おごり高ぶること
帰化人 きかじん。海外から渡来して日本に住みついた人々

内地人(ないちじん)()()み、人口(じんこう)()えるとまた(しま)全般(ぜんぱん)(わた)つてもいよいよ繁雑(ややこ)しくなりました。遊女屋(いうぢよや)出来(でき)るし、警察(けいさつ)出来(でき)るし、裁判所(さいばんしよ)()てば監獄(かんごく)()つ、(したが)つて罪人(ざいにん)(しやう)ずる。
それでもまだ(はじ)めの(ころ)呑気(のんき)(ばん)なものだつたさうでした。たとへば、骨牌(かるた)など()いて監獄(かんごく)にぶち()まれた(もの)(ども)が、()になると()()して、(はま)()(たまご)()みに(あが)つた正覚坊(しやうがくばう)()つとらへ、それを()()ばして、その(かね)遊女(いうぢよ)(かひ)をして、夜明(よあけ)には()まして獄窓(ごくそう)(なか)(かへ)つてゐる。まるでお(はなし)のやうですが実際(じつさい)だつたさうです。流石(さすが)太平洋(たいえいやう)真中(まんなか)だからそこは内地(ないち)(ちが)ひます。
 (わたし)がその(しま)(わた)つたのは、それから四十(ねん)(のち)(こと)です。その(しま)(あが)ると、(わたし)(だい)一に()熱帯(ねつたい)強烈(きやうれつ)(ひかり)(ねつ)と、熾烈(しれつ)色彩(しきさい)と、(かつ)()(こと)()南洋(なんやう)植物(しよくぶつ)怪異(くわいい)形態(けいたい)とその豊満(ほうまん)薫香(くんかう)とで()卒倒(そつたう)しさうになりました。()いでは、南洋(なんやう)(しき)丸木(まるき)(ぶね)(おどろ)き、砂浜(すなはま)髪毛(かみのけ)(しらみ)をむしりつぶしてゐる肥満(ひまん)した黒人(こくじん)(ばゞ)(おどろ)き、(あか)豆畑(まめばた)(おほ)きな眼鏡(めがね)をかけ灰色(はひいろ)のジヤケツに(あか)いスカートを穿()いた白皙はくせき(じん)金髪(きんぱつ)(おどろ)き、以前(いぜん)(ひと)()つたといふ(ろう)黒奴(こくど)神妙(しんめう)奉仕(ほうし)してゐる魔法(まはふ)使(づか)ひのやうな西班牙(すぺいん)貴族(きぞく)癩病(らいびやう)(ばゞ)(おどろ)き、丸太(まるき)(ぶね)(おほ)きなお(しり)(ふた)つに()つたといふ山羊(やぎ)(かひ)黒坊(くろんばう)(むすめ)(おどろ)き、ヂョーヂ、ワシントンと()久留米(くるめ)(がすり)単衣(ひとへ)()(くろ)(ばう)青年(せいねん)(おどろ)きました。()いでは、また陽物(やうぶつ)(かたち)した白檀(びやくだん)()(かぶ)ばかり(ひろ)(あつ)めたり、珊瑚(さんご)信天翁(あはうどり)羽根(はね)と一(しよ)に、北斎(ほくさい)広重(ひろしげ)版画(はんぐわ)(なか)雑魚寝(ざこね)したりしてゐる伝説中(でんせつちう)太平(たいへい)(らう)逸民(いつみん)()(おどろ)き、(つい)ではまた(すた)()てた監獄(かんごく)(には)()(さか)つてゐるビーデビーデの(はな)(あか)(いかり)(ぐさ)仏草花(ぶつさうくわ)絵模様(ゑもやう)(おどろ)き、二三(ずん)(ほこり)がたまつて子供(こども)たちの芝居(しばゐ)舞台(ぶたい)になつてゐる裁判所(さいばんしよ)法廷(はふてい)()ては(おどろ)き、それからすばらしく瀟酒(せうしや)白尖塔(はくせんたふ)教会(けうくわい)()(おどろ)き、それからまた完美(くわんび)した植物園(しよくぶつゑん)と、(だう)()とした大理石(だいりせき)島司(たうじ)頌徳(しようとく)()(おどろ)き、役所(やくしよ)(うぐひす)()(あは)せをやつたり、午後(ごご)からは(はま)()(ぼら)ばかり()つてゐる呑気(のんき)至極(しごく)役人(やくにん)(たち)(おどろ)き、煙草(たばこ)だけは現金(げんきん)(ねが)ひます、()現金(げんきん)でお()(くだ)さる(かた)には二割引(わりびき)(いた)しますと()いた商家(しやうか)張札(はりふだ)(おどろ)き、質屋(しちや)乞食(こじき)見当(みあた)らず、(わか)(をんな)()つぱらひの()えぬのに(おどろ)き、(しま)全体(ぜんたい)共産(きようさん)(でき)なのにも(おどろ)きました。
 それにまた、(まむし)その()害虫(がいちう)もゐず、(かへる)もゐなければ蛞蝓(なめくぢ)もゐず、ただ油虫(あぶらむし)(あり)猛勢(まうせい)なのには(おどろ)きましたが、(すずめ)(からす)もゐず、(うぐひす)ばかりが内地(ないぢ)(すずめ)ほどに()(きそ)つてゐる麗明(れいめい)さにも(おどろ)きました。それに(けだもの)としては山奥(やまおく)にペルリの(はな)した鹿(しか)子孫(しそん)とかが二(ひき)ゐるばかり、あとは(うし)山羊(やぎ)(ねこ)(ねずみ)(せう)()だと()ふのにも(おどろ)きました。

獄窓 ごくそう。牢獄の窓。転じて、牢獄の中。獄中
熾烈 しれつ。勢いが盛んで激しいこと
薫香 よいかおり。芳香
丸木舟 1本の木の幹をくりぬいて造った舟
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
久留米絣 くるめがすり。筑後国(福岡県)久留米で作った。綿糸を絣染めにした特色のある織物
単衣 たんい。ひとえの着物。ひとえもの。 1枚の着物
白檀 びゃくだん。甘い芳香が特徴。香木として利用。小笠原諸島では固有種のムニンビャクダン( S. boninense)がある
太平 たいへい。世の中が平和に治まり穏やかなこと
逸民 いつみん。隠者。野に隠棲する人
ビーデビーデの花 ムニンデイゴ。語源はハワイ語。沖縄の「デイゴ」と同じ種類。
碇草 イカリソウ。花は赤紫色。春に咲く。4枚の花弁が距を突出し錨のような特異な形をしている
仏草花 ブッソウゲ。正しくは仏桑華。ハイビスカス
瀟酒 すっきりとあか抜けしている
頌徳碑 しょうとくひ。偉い人をほめたたえる碑
啼き競う メジロは良い声で鳴き、江戸時代からメジロを鳴き合わせる(競争)道楽の対象だった。まるで同じことがウグイスで起きたようだ

かう()へばまるで極楽(ごくらく)世界(せかい)のやうですが()()れて()ると、流石(さすが)(しま)(しま)でした。せせこましい(せう)地獄(ぢごく)
 (だい)一にみじめなのは帰化(きくわ)(じん)部落(ぶらく)で、(なに)もかもが幻滅(げんめつ)悲哀(ひあい)(そこ)()ちこんで、生気(せいき)()ければ(かね)()く、()うや()はずで南洋(なんやう)のグワム(たう)あたりに移住(いぢゆう)するのが相次(あひつ)有様(ありさま)でした。(のこ)つたものは(ほとん)日本(にほん)(くわ)して(しま)つて、日本(にほん)(じん)(むすめ)結婚(けつこん)する(こと)(なに)よりの光栄(くわうえい)として、その鼻息(びそく)ばかりを(うかゞ)つてゐました。監獄(かんごく)裁判所(さいばんじよ)とが荒廃(くわいはい)したのは東京(とうきやう)のそれらと合併(がつぺい)したので、罪人(ざいにん)一人(ひとり)()れば巡査(じゆんさ)遥々(はる〲)一人(ひとり)()いて上京(じやうきやう)するので、(たか)煙草(たばこ)()(まい)発見(はつけん)されても東京(とうきやう)地方(ちほう)裁判所(さいばんしよ)(まは)される。つまりは莫大(ばくだい)巡査(じゆんさ)旅費(りよひ)だけが()えて()るといふややこしい(こと)になって(しま)つてゐたのでした。それに島司(たうじ)頌徳碑(しようとくひ)島司(たうじ)自身(じしん)島民(たうみん)()ひて自身(じしん)(まつ)らせたので、いつぞやは巡検(じゆんけん)侍従(じじゆう)(まへ)赤恥(あかはぢ)()いたといふ(はなし)もあります。
 (しま)(わか)(むすめ)がゐないのは、たゞ一()虚栄(きよえい)(はし)つて都会(とくわい)(そら)(あこが)れて奉公(ほうこう)出払(ではら)つて(しま)つたので、()つぱらひがゐないのは(かね)()いので(さけ)()まれず、たまたま夫婦(ふうふ)喧嘩(けんくわ)でもした()役人(やくにん)が、その(ばん)すぐと(いう)(ぢよ)()()びこめば、とくの(むかし)にその喧嘩(けんくわ)次第(しだい)相手(あひて)(をんな)()れて()り、質屋(しちや)()いのは(しち)()れれば、たちまち(しま)(ぢう)()れわたる。乞食(こじき)になりかけると、直様(すぐさま)内地(ないち)()(ぱら)はれる。共産(きようさん)(てき)面白(おもしろ)いと(おも)へば、すべての利潤(りじゆん)(おほ)生産業(せいさんげふ)(ほとん)島庁(たうちう)事業(じげふ)で、うまい(しる)島司(たうじ)()つて、あとはたゞ(つら)奉公(ほうこう)といふだけだし、(なに)さま島中(たうちう)総現金(そうげんきん)が二千(ゑん)といふ(あは)れさで、そのせち(から)さは想像(さうざう)にもつかないだらうと(おも)ひます。

鼻息びそく(うかが)う  相手の意向・機嫌を気にしてさぐる。はないきをうかがう。

商店(しやうてん)現金(げんきん)割引(わりびき)もつまりは現金(げんきん)()いからです、(ほとん)どが(ぶつ)()交換(かうくわん)習慣(しふくわん)(のこ)つてゐるので、(なに)もかもカケで、現金(げんきん)(ふね)()(とき)(ばら)ひ。だから買人(かひて)()つてにも品物(しなもの)()つても、商人(しやうにん)はただ()りませんの一(てん)(ばり)、これでは繁昌(はんじやう)する目当(めあて)はありません。ですから(しよ)商売(しやうばい)(すべ)痺靡(ひび)して(ふる)ひつこは()いのです。
 漁師(れうし)にしても、どうせ人口(じんこう)には(かぎ)りがあるので、沢山(たくさん)()れば()(やす)くなる、それで(あは)てて(すくな)()つてすぐ()(かへ)す、(はや)いが()ちですから、漁業(ぎよげふ)(さか)んになるわけもありません。
(しやう)()悧巧(りかう)()るさとも頂上(ちやうじやう)です。(ふゆ)最中(さいちう)茄子(なす)南瓜(かぼちや)()つても、わざと(ちい)さいのを東京(とうきやう)高価(かうか)(おく)つて(しま)ふ。だから(しま)()はうと(おも)へば(すべ)東京(とうきやう)相場(さうば)で、()()()るほど(かた)いので、自分(じぶん)(はたけ)でも()たない(かぎ)りは、バナナーつでも容易(ようい)には(くち)(はひ)りません。
 正覚坊(しやうがくばう)にしてからがすぐに(ころ)して缶詰(くわんづめ)にして(おく)()す。(しま)(もの)漁師(れうし)()(かぎ)りお(すそ)わけはしてもらへません。(うし)を一ケ(げつ)に一(ぴき)(ころ)しても(ころ)した()()()つて(しま)ふので、(おそ)市場(いちば)()つたものは()(そこな)ふ。一ケ(げつ)に一()牛肉(ぎうにく)がこれだから、市場(いちば)はまるで餓鬼(がき)(だう)(さわ)ぎです。
 鶏卵(けいらん)()べようと(おも)へば(とり)からして東京(とうきやう)から()()せねばならず、豆腐(とうふ)()べようと(おも)へば、一週間(しうかん)(ぜん)約束(やくそく)して()く。ランプのホヤ(こは)れれば、(べつ)のランプを()はねば、()()(くら)でゐなくてはなりません。
 商人(しやうにん)狡猾(かうかつ)奸譎(かんきつ)とは、(ほとん)日本中(にほんぢう)(さが)しても、あれほどのところはありますまい。物価(ぶつか)東京(とうきやう)の三(だい)以上(いじやう)だし物資(ぶつし)欠乏(けつぼふ)してゐる。たまに予定(よてい)に三()(おく)れて内地(ないち)からの(ふね)()れば、その以前(いぜん)()や、(しま)には(こめ)()けれぱ味噌(みそ)醤油(しやうゆ)()く、菓子(くわし)()ければ(さけ)()い。島民(たうみん)半死(はんし)半生(はんしやう)です。

痺靡 しびれて衰える。萎靡(いび)
餓鬼道 がきどう。天、人、修羅(しゆら)畜生(ちくしよう)、餓鬼、地獄を六道と言い、行いの善悪によって六道の中で生死を繰り返すのが輪廻(りんね)。この人生で食物の欲望の強い人、むさぼりの心のつよい人は死後、餓鬼道に落ちる。生きながら餓鬼道に落ちると言い、子どもは普通食欲が旺盛で子どもを餓鬼と呼んだりする
ホヤ 火屋。火舎。ランプやガス灯などの火をおおうガラス製の筒
奸譎 かんけつ。かんきつ。姦譎。よこしまで、心にいつわりが多いこと

小笠原島夜話③|北原白秋

文学と神楽坂

       三
 だから(つき)に一()内地(ないち)からの定期(ていき)(せん)(はひ)つて()()(さわ)ぎと()つたらありません。その(ふね)新聞(しんぶん)雑誌(ざつし)書簡(しよかん)小荷物(こにもつ)流行唄(りうかうた)、あらゆる文明(ぶんめい)(しん)消息(せうそく)をもたらして、この無聊(ぶれう)倦怠(けんたい)しきつた(しま)をまるで戦場(せんぢやう)のやうに緊張(きんちやう)させ、亢奮(かうふん)させて(しま)ひます。島民(たうみん)物質的(ぶつしつてき)にも精神的(せいしんてき)にも()()つてゐるのです。(ふね)がいよいよ()くといふ()(あさ)などは海抜(かいばつ)一千(じやく)船見山(ふねみやま)絶巓(ぜつてん)(のぼ)つて、水天(すゐてん)のかなたに一(まつ)(けむり)(のぼ)つてから(ほとん)ど四五時間(じかん)といふのは(すわ)つたきりで凝視(ぎようし)してゐます。(ちか)づいた(ふね)がその(みさき)の一(かく)(まが)つて、いよいよその湾口(わんこう)(はひ)りかけて、ぽうと汽笛(きてき)()らす(とき)深厳(しんげん)さもありません。それをきくと、島中(たうちう)がまた、たゞ()()(こゑ)をあげる。

消息 しょうそく。その時々のありさま。動静。状況。事情
無聊 ぶりょう。退屈なこと
絶巓 ぜってん。山の絶頂。いただき
水天 すいてん。1.水と天。水と空。2 水に映る天
深厳 重々しく、威厳がある

島中(たうちう)(もの)が、白皙(はくせき)(じん)黒奴(くろんぼ)(かほ)黄色(きいろ)日本人(にほんじん)(すべ)てが波止場(はとば)(むらが)つて、巨大(きよだい)万年青(おもと)竜舌蘭(りうぜつらん)(かげ)から()しあひへしあひ、新来(しんらい)(きやく)覗見(のぞきみ)したり、批評(ひひやう)()つたりしてゐます。たゞ(わけ)もない憧憬(しようけい)好奇(かうき)(こゝろ)()つて、その(とき)はまるで島中(しまぢう)小娘(こむすめ)のやうにワクワクしてゐます。
 (ふね)()()つて(しま)ふと、(しま)はまたぐつたりと(つか)れて、()()えたやうです。さうして(せま)(はな)(じま)天地(てんち)が、それからはまた一(そう)(せま)(ちひ)さく(ちゞ)こまつて(しま)ひます。

白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
黒奴 こくど。黒人の奴隷。黒色人種を卑しめていう語
万年青 おもと。関東、沖縄、中国の暖地にはえるユリ科の常緑多年草。
竜舌蘭 りゅうぜつらん。リュウゼツラン科の常緑多年草。メキシコの原産。メキシコではテキーラを作る。

新来(しんらい)内地(ないち)(じん)(むか)つては、その(はじ)好奇(かうき)憧憬(しようけい)とを()せてゐた(こゝろ)が、()()理由(りいう)のない敵意(てきい)となり反感(はんかん)となり嫉妬(しつと)となり憎悪(ぞうを)となり迫害的(はくがいてき)推移(すゐい)して()るのも、一(しゆ)島人(たうじん)根性(こんじやう)です。(こと)(しま)官権(くわんけん)は、それらの(ひと)()(むか)つて、全然(ぜんぜん)(しま)平和(へいわ)(がい)する擾乱(ぜうらん)(しや)とし、侵入者(しんにふしや)とし、罪人視(ざいにんし)し、極端(きよくたん)(これ)拒避(きよひ)しようとかかる傾向(けいかう)があります。
 (わたし)(つれ)女性(ぢよせい)一人(ひとり)紫色(むらさきいろ)羽織(はおり)()てゐるといふので、(しま)(わか)(もの)性慾(せいよく)刺戟(しげき)する()しからぬとその(すぢ)(うつた)()(もの)もありました。

擾乱 じょうらん。入り乱れて騒ぐこと。秩序をかき乱すこと。騒乱
拒避 拒否と同じ

(こと)島民(たうみん)の『肺病(はいびやう)』を(おそ)るゝ(こと)極端(きよくたん)です。(さう)してその(おそ)るべき病毒(びやうどく)伝播(でんぱん)(しや)(すべ)てが内地(ないち)からのそれら旅人(りよじん)にあるとさへ(おも)()めてゐます。(もつと)肺病(はいびやう)患者(くわんじや)おほくが、南方なんぽう極楽島(ごくらくたう)とし、理想郷(りさうきやう)として、充分(じうぶん)保養(ほやう)目的(もくてき)に、その()小学(せうがく)教員(けうゐん)郵便(いうびん)局員(きよくゐん)などに転任(てんにん)させて(もら)つて()るのも(おほ)いのです。(しか)駄目(だめ)です。その肺病(はいびやう)患者(くわんじや)が八丈島(ぢやうしま)あたりに寄港(きかう)する(ころ)は、もう電報(でんぱう)小笠原(をがさはら)(じま)まで()んでゐます。
 ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ

極楽島 安楽で何の心配もない島。天国
ハイビヤウナンニンユクチウイセヨ 肺病何人ゆく 注意せよ

だから(たま)りません。その(ひと)(しま)へ上る頃にはもう島中(しまぢう)()(わた)つてゐて、宿屋(やどや)でも(ことわ)れば飲食(いんしよく)(てん)でも(ことわ)る、理髪(りはつ)(てん)()つても『肺病(はいびやう)(ことわ)り』と()いてある。仕方(しかた)なく()きの(なみだ)磯浜(いそはま)や、洞穴(どうけつ)(なか)にバナナの()でも()いて()(あか)し、()()をあさり、(つひ)には三()とゐたたまれずに(かへ)りの(ふね)()(ぱら)はれて(しま)ふ。さういふ(とき)島中(しまぢう)()です。中には宿屋(やどや)から(ことわ)られ、(こま)つて、土地(とち)()(いへ)()つて、いざその(いへ)這入(はひ)らうとすると、周囲(しうゐ)から立退(たちのき)請求(せいきう)です。自分(じぶん)(うち)自分(じぶん)()さへ()くに()かれず、(くさ)()し、荒磯(あらいそ)()ね、やつと(つぎ)便船(びんせん)(かへ)るには(かへ)れたが、その途中(とちう)()()いて()んで()(ひと)もありました。さうなると島民(たうみん)惨酷(ざんこく)(せい)頂上(ちやうじやう)です。

惨酷 ざんこく。残酷(惨酷、残刻)はまともに見ていられないようなひどいやり方

(わたし)肺病(はいびやう)だった(わたし)(まへ)(つま)と、その友人(いうじん)(おな)じく肺病(はいびやう)だった女性(ぢよせい)と、その(いもうと)とを()れて、(ほとん)命懸(いのちが)けに()()()して、保養(ほやう)()(もと)めに()きました。ところがさういふ(ふう)です。(わたし)たちは(こゝろ)(そこ)から(ふる)(あが)つてただ(かほ)(かほ)とを見合(みあは)せました。秘密(ひみつ)! 秘密(ひみつ)! どうにでも極秘(ごくひ)にしなければ四(にん)とも()(じに)惨虐(ざんぎやく)()にあはねば()みません。その(あひだ)(わたし)心労(しんらう)といふものは()かつたのです。(わたし)(つま)ももう一人(ひとり)のも幾度(いくたび)()()きました。そのうちに健康(けんかう)だつたもう一人(ひとり)のも肋膜炎(ろくまくえん)になつて(しま)ひました。丈夫(ぢやうぶ)なのはたった(わたし)一人(ひとり)です。医者(いしや)にも()せられません。()(もら)つたら、すぐに(はい)患者(くわんじや)だと()(こと)島中(しまぢう)()れて(しま)ふのです。空気(くうき)乾燥(かんさう)する、島中(しまぢう)白眼(はくがん)(もつ)意地(いぢ)わるく追求(つゐきう)する。病人(びやうにん)はわるくなる、それを極秘(ごくひ)にしなければ(いのち)にかかはる。――この(あひだ)(わたし)たちはまた一(もん)なしになって(しま)ひました。(わたし)小笠原(をがさはら)渡海(とかい)をただ詩人(しじん)好奇的(かうきてき)遊楽(いうらく)(おも)つて、(いろ)()(わら)つてゐた(ひと)()内地(ないち)にはありましたが、(いま)だからすつかりお(はなし)します。そんな呑気(のんき)(こと)では()かつたのです。

顫える ふるえる。恐れや興奮から発作的に震える
白眼 冷たい目つき

そのうちに(おな)じく肺患(はいくわん)秘密(ひみつ)にしてゐた小学(せうがく)教員(けうゐん)が、その(やまひ)(おも)くなると一(しよ)露見(ろけん)して、()(ぱら)はれる。(おな)じやうな郵便(いうびん)局員(きよくゐん)()にかゝる。それを内地(ないち)から看護(かんご)(はる)()()母親(はゝおや)()ぬ。――()()てられぬ悲劇(ひげき)()()ぎに私達(わたしたち)周囲(しうゐ)には(おこ)ります。今日(けふ)(ひと)()明日(あす)自分(じぶん)()(うへ)といふ、その(おそ)ろしい絶望(ぜつぼう)(こく)()私達(わたしたち)(あを)くして()る。たまらなくなつて、やつと(かね)工面(くめん)をして二人(ふたり)だけは内地(ないち)(かへ)し、一(たん)(つま)居残(ゐのこ)りましたが、その(つま)をもまたニケ(げつ)(すゑ)(かへ)し、いよいよ最後(さいご)一人(ひとり)となつて()(とゞ)まつた(とき)(わたし)はそれこそ一(もん)なし。(ところ)絶海(ぜつかい)(はな)(じま)です。人情(にんじやう)冷酷(れいこく)(かね)()し、これからの(くる)しさは(まつた)くお(はなし)はできませぬ。そののち一と(つき)()つて(わたし)はまたやつとの(こと)帰航(きかう)(ふね)()(あが)りました。さうして(かへ)つて()ると、(つま)はもう貧乏(びんばふ)がいやになつたから(わか)れたいと()ひます。(なん)()めに(わたし)はその二三(ねん)(いのち)()()して(くる)しんだか。――その()(わたし)(まつた)く、一()(ぜん)世界(せかい)女性(ぢよせい)(のろ)つて(しま)ひました。
 この(こと)()つて、(わたし)()きます。

露見 秘密や悪事など隠していたことが表にでて、ばれること。

(わたし)(しま)()(ころ)に、その粟粒(あはつぶ)ほどの小天地(せうてんち)にも、(おそ)ろしい一騒動(さうどう)(おこ)りました。島司(たうじ)排斥(はいせき)爆発(ばくはつ)です。それが()めに(わたし)までがその渦中(くわちう)()きこまれて、(ほとん)どその煽動(せんどう)(しや)がの(ごと)島司(たうじ)()から(にく)まれました。暴虐(ばうぎやく)圧政(あつせい)自派(じは)擁護(ようご)と、それらを、(つゞみ)()らして駁撃(ばくげき)する所謂(いはゆる)正義派(せいぎは)なるものも、()()(はな)小島(こじま)正義派(せいぎは)です。佐倉(さくら)宗吾(そうご)気取(きど)りの(ぼう)()(ごと)きも結局(けつきよく)(あは)れな(せう)名誉(めいよ)(しん)傀儡(くわいらい)です。と(おも)ふと()(どく)でもあり、をかしくもあり、迷惑(めいわく)でもありました。
 (おそ)ろしい(こと)には、反対派(はんたいは)一人(ひとり)二人(ふたり)がたゞ何気(なにげ)なく山路(やまぢ)()()はして一言(ひとこと)二言(ふたこと)(なに)かささやいた、それさへ、その()には役所(やくしよ)へも島中(しまぢう)にも()(わた)つてゆく(こと)です。

島司排斥 小笠原の清瀬公園には古い石碑が建っています。この碑はほとんど文字が擦り切れて読めなくなっていますが、「小笠原島島司阿利君紀功碑」です。小笠原の島司だった阿利孝太郎を讃えています。在任期間は明治29年10月から大正5年4月までの20年6か月。この碑は、自分が在任中の明治39年6月に自分で建立したものです。この碑文を長谷川馨氏が翻訳しています。

 阿利君は、人柄明るく太っ腹でしかも切れ味鋭く、島や島民の利害損失についてはかなり敏感である。この島の行政を推進していくについては非常に勤勉意欲的で、徹夜をしても少しも疲れたふうがない。
 今、阿利君治頭十年の業績を上げてみるならば、教育機関を整備して島民の能力開発に努力したこと、小笠原航路について船舶の向上便数の増加等充実を図り、また島内の道路河川等の整備を行って産業振興の条件整備を行ったこと、民有地を整理して土地台帳を整備したこと、山方石之助に委託して『小笠原島志』を発刊し小笠原の発見から今日までを確り記録したこと、日露戦役を記念して荒蕪に帰していた島の各地に植林したこと、などなど枚挙にいとまない。
 考えてみるに阿利君の島司在任十年、その間彼は島民の幸福ということを第一に心掛け、そしてその考えは周到にして綿密であった。目前の効果に目を奪われず、島にとっての真の利益、長期的な利益について肺肝を摧いた。
 島の人々はその人徳に感服し、かつその功績に感謝して、碑を建てて阿利君の業績を後世に伝えようと相談ができあがり、代表者がきて私にその碑文を書くように依頼された。そこでこの文章を認め且つ阿利君を称える詩を作って言おう。
  公平無私の潔さ 古武士の如き阿利島司
  一所懸命その努力 この島のためひとのため
  島びとこぞって慕い寄る 君のお蔭の大いさよ
  嗚呼この詩よ栄えあれ 世の牧民の鑑なれ

この文章の通りなら高潔無私の大島司です。そうでなくても、自分を褒めちぎる巨大な碑を、池の中の築地に二見港を睥睨するかの如く建てたというのも相当な人物です。当然、大正時代になると、マスコミに追求され、刑事事件の告発もあって、ついに辞職しました。
以前はこの碑は東京電力家族寮の敷地にありましたが、移転してこの場所に移ってきます。
駁撃 ばくげき。他人の言論・所説を非難・攻撃すること
佐倉宗吾 下総国(千葉県)印旛郡の名主・佐倉宗吾が佐倉藩の重税に苦しむ農民を代表して将軍に直訴、租税は軽減したが、宗吾夫妻は磔になった。この話が正しいのかは不明。講釈師は講談「佐倉義民伝」を使って百姓一揆のさかんな土地で佐倉宗吾の伝記を語った。
傀儡 他者の手先となって思いのままに利用されている人物や組織の比喩

そればかりでなく、その(あさ)電報(でんぱう)為替(がはせ)何円(なんゑん)(たれ)それに(おく)つて()たと()(こと)もその(ひる)には(しま)商家(しやうか)にはチヤーンと()(わた)つてゐます。(わたし)もやつと(かね)(おく)つて(もら)つて一息(ひといき)つけるともう、(かた)(ぱし)からせびり()られて(しま)ひました。そしてまた(もと)の一(もん)なしで煙草(たばこ)(ひと)()へなくなりました。  (しま)浮世(うきよ)(はな)れてゐるやうで、(かへつ)て、浮世(うきよ)それ自身(じしん)を、縮図(しゆくづ)してゐます。
 (しま)自然(しぜん)麗色(れいしよく)など(いう)()鑑賞(くわんしやう)してゐられるものですか。かうなると自然(しぜん)人間(にんげん)から(おも)ふさま()みにじられて(しま)つて()ます。
 文明(ぶんめい)()ふのも中途(ちうと)半端(はんぱ)ではよしあしです。

麗色 れいしょく。美しくのどか

油虫|小笠原小品|北原白秋

文学と神楽坂

油虫
 ()(がさ)(はら)父島(ちゝじま)大村(おほむら)、牧師ヂョセ・ゴンザレスの旧宅(きうたく)、今は、内地から移住してゐる若い詩人Kが仮寓(かぐう)、その(コツク)()挿 話(ヱピソード)
         *
 (うら)らかな麗らかな何ともかとも云へぬ瑠璃(るり)(いろ)黄昏(たそがれ)である。
 (コツク)()のありとあらゆる静物(せいぶつ)は、今日はことに日が()れても安らかであつた。而して、ただ在りの(まゝ)に、暮れてゆくばかしである。
 (うす)(あかり)は流しの上の欄間(らんま)と、向つて食堂への通路(つうろ)と、同じく開けつ(ぱな)しになった庭の方の出口(でぐち)と、この三方から、何時(いつ)までも何時までも夢のやうに忍び込んで来た。
 殊に欄間(らんま)隙間(すきま)から青い縞目(しまめ)になって這入ってくる光のうつくしさ、俎板(まないた)の上の大きな()ぎたての甘藍(キヤベツ)や皿や肉刺(フオク)などはまるで生物(いきもの)のやうに青い縞をつけられて、今にも(をど)り出しさうに見えた。
 その上に幽霊の手首(てくび)のやうにいくつも(ゆは)へて吊るされてゐたのはまだ青い小さなバナナの房であつた。
 黒く焦げついたフライ鍋や、(ざる)や、()つ切り庖丁やがその隅つこにあつた。
 また向つて食堂(しよくだう)()りの隅の方にも棚がある、その棚に焜炉(こんろ)と、焜炉には華奢(きやしや)(ぎん)いろの湯沸(ゆわかし)が載つてゐた。その背後(うしろ)薬味(やくみ)や、酢、醤油の玻璃(がらす)(びん)はもうよほど暗くなつて薄い光の放射(ほうしや)だけしか認められない。
 出口の外は真白(まつしろ)い砂地である。井戸の白い流しも向うに見える。砂の白い反射(てりかへし)が、今出口を通して土間(どま)にどかりと(ほう)り出された大きな野菜巃を劃然(くつきり)と浮び上らせ、()ぢぎるゝばかり積め込まれた赤いトマトの山をまだ(あか)るく染め出してゐる。
 その土間には色々のものが散らばつてゐるやうだが、さだかでない。ただ云つて置きたいのは奥の(くら)いところに土竈(へつつい)があつて、それに不釣合(ふつりあひ)に大きな鉄鍋(てつなべ)がかゝり、鎬の中には驚くほど仰山に瀬戸物の食器や(さじ)やコップがごつたかへしてゐる事である。これは肺結核の黴菌を殺す為に、食前に必ず一度はくらくらと煮沸(しやふつ)さる可きものとしてある。
 それにまだひとつ(めう)なものがある。それは足の長い()(がさ)(はら)(たこ)(でつ)かいのがぬるりと一本その上の(はり)からぷら下つてゐる事である。死物(しにもの)ではあるしことに()熱帯(ねつたい)の暑い空気の中で、風も吹かねば、そよとも動くことではない。何の事はない、()げ損つた(よい)()盗賊(どろぼう)片足(かたあし)屋根(やね)から踏み破つて、その儘日が暮れたといふかたちである。
 何れも(せい)あるものではない。(たゞ)し、凡てが恍惚(うつとり)と暮れてゆく。ただ()りの儘に今しも(かす)かに暮れてゆきつゝある。
         *
 此家(こゝ)の家族は若い主人と内地(ないち)から一緒に来た若い三人の女性と、島で雇った女中が一人、都合(つがふ)五人である。
 こゝに(ちう)をして置く可き事は連の三人の女性は皆病人で、二人は肺結核の初期、一人は肋膜炎の徴候がある事である。女中は若いけれども白痴(はくち)である。真に健康なのは主人一人であるが、之が極めて快活で一番無邪気である。
 病気に対する予防は充分にしてゐる。真実で健康な主人は大丈夫伝染(うつ)りはしないと平気でゐるけれど、女達(をんなたち)がさうはさせない。先づ食前食後には必ず石炭酸で手を消毒する事、食前には(また)(かなら)ず一切の食器を一時間大鍋に入れて煮沸する事に(さだ)められてある。女中(ぢよちう)は白痴だし、ハイカラのお(ぢやう)さん(たち)脾弱(ひよわ)我儘(わがまゝ)だし、それに煩瑣(はんさ)なかういふ余計の仕事(しごと)があるので、三度の食事は中々に時間通りにゆかない、時には一()(ぐらゐ)は抜かす事がある、それは病人には何でもない事であるけれども、主人のやうに強壮な胃袋を持った青年には(なに)より(みぢ)めな事である。白痴(はくち)の女中もよく食ふ。或は主人以上に食慾は貪婪(どんらん)であるかも知れない。それで二人はいつも腹を()かしてゐる。
 主人は非常にトマトが好きだ。小笠原(をがさはら)のトマトは殊に新鮮でまるで鶏肉(かしは)のやうな味がする、主人はトマトに正覚坊(しやうがくばう)の肉さへあれば御飯(ごはん)なぞはどうでもいいと云ふ(くらゐ)である。だからトマトばかり買ひ込んで居る。八百屋もトマトばかり持つて来る。
         *
 今日も八百屋がトマトの極上(ごくじやう)といふところを沢山(どつさり)かつぎこんだ。八丈女の狡猾(わるごす)いあの手んぼうの内儀(をかみさん)まで、磨古木(すりこぎ)(やう)になった片方(かたつぽう)の肘でこりこり籠の黒い茄子やトマトを掻き廻はしては、無理強(むりし)ひにいくつもいくつも畳の上に(ころ)がして行つた。
 それで晩餐(ばんさん)存外(ぞんぐわい)簡単に済むだ。昼餐が(おそ)かつたので、女達は麺麭(パン)とパウリスタアの珈琲、主人は腸詰(ちやうづめ)にトマト、それ位にして、それから(めづ)らしく四人でうち連れて外出した。そのあとは森閑(しんかん)たるものである。留守(るす)(ばん)の女中までが()()けずに出て行つたまままだ帰つて見えない。(コツク)()の戸も(なに)()けっぱなしである、而して主人から早速貯蔵(しまつ)て置くやうにとあれほど命令(いひつ)かつた大切(たいせつ)のトマトも矢張(やは)り籠のまゝで土間に放り出された儘になってゐる。
 而して日が暮れた。
         *
 時は聖晩餐(せいばんさん)の夜である。
 日曜学校の若い先生アレキサンダア・ゼセ・アカマン・ツウクラブ君は軽い背広に夏帽子で(コツク)()の前の垣根の外を通つてゆく。而してお(となり)真白(まつしろ)な教会堂に赤や黄の(かざり)硝子(がらす)を透かしてパツと()(とも)るとバナナ畑を近景(きんけい)にした教会堂の(うす)(あかり)益々(ます〱)瀟洒(せうしや)な光景になる。先程まで裏の赤い畑に(くわ)()つてゐた牧師のヂョセ・ゴンザレスも今は黒い僧服に身を改めて、しづしづと椰子(やし)檳榔(びんらう)の葉ずれを(あふ)ぎながらその石段をのぼつてゆくのである。
 暫時(しばらく)あつて、お祈禱(いのり)の言葉がきこえ、静かに静かに讃美歌の合唱がはじまる。例のキンキン声を頭の尖端(てんぺん)から出してゐるのは帰化人上部(ウエブ)辺理(ヘンリ)の娘のモデの妹のセデのそのまた妹の悪戯(いたづら)(むすめ)のリデヤらしい。此家の三人の(をんな)たちの声もするやうである。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 その時、(コツク)()の屋根の暗い檳榔(びんらう)の葉裏に何かしら()いて出るやうな(かす)かな(かす)かな響がした。それが次第(しだい)次第()濃密(こまやか)になって蕭々と秋雨(あきさめ)のふるけはひとなり、響は響に重なり、密集してまた更に四方の羽目(はめ)にふり灑いでくる……と、(はり)にぶら下った大蛸の吸盤(きふばん)のひとつが薄暗(うすくら)い空の中でピカリと光つた。かと思ふとつるつるつると見る間にその光が()びてくる。(あと)から(あと)からと光りながら絶間(たへま)もなく光つてゆく……蛸が(かす)かに生きかへつて()()した。と又、俎板(まないた)の上の甘藍も庖丁も肉刺(フオク)も筒の中の赤いトマトもフライ鍋も何かしら色が(かは)つて来た、雨の音がそこにもここにもし出した。はては(いよ〱)驟雨(しうう)のやうな響となつて、異様な動物性の臭気(しうき)がそこら一面に満ちわたつた。
 何か異変(いへん)が起りさうである。
 隣ではヂョセさんの覚束(おぼつか)ない日本語のお説教が始まった。
         *
 一(たん)、暗く落ちついた瑠璃(るり)いろの空の光は暫らく()つと(ほん)のりとまた(あか)るくなってゆく様である。見る()に明るくなつてゆく。それは檳榔(びんらう)の葉ずれや鳳梨(ハイナツプル)の匂のする、砂糖焼酎や、乾草(ほしぐさ)や、腐れたバナナのにほひのする(つき)の出しほの(うす)あかりである。(には)のタマナの葉がてらてらと光り、白い砂地の明りが更に白く潤味(うるみ)を帯びて、風がさらさらとわたると、豆畑や赤い斜面の玉蜀黍(たうもろこし)の中で鶯がまたささ鳴きをはじめる。
 ――ヨウ――、月夜闇夜(つきよやみよ)と、ナ、云はずにおぢやれ、いいつもバナナのかあげはやあみい……。
 シヨメ、シヨメといふ八丈節(はつじやうぶし)の流しがきこえる、浜はいま太平洋の横雲が霽れて、大方(おおかた)昨夜(ゆふべ)のやうな麗らかな()(まる)い大きな大きな月が瑠璃(るり)や緑の浜桐や護謨(ごむ)の葉越しにゆらゆらとせり(あが)つてきたのであらう。リデヤの父親(ちゝおや)辺理(ヘンリー)が大きな独木舟(カヌー)の櫂をかついで今また垣根の外を通る、
 ――Good night
 ――今晩は。

 (コツク)()欄間(らんま)(そと)が水をうつたやうに静かになつた。これから昼のやうに明るくなるのである。
 ふと、カサカサといふ音がした。甘藍が動いたやうである。月光の下、(かさ)み合つた(あを)球菜(たまば)の間から褐色の大きな(ひか)るものが(すべ)り出した。その物は爽かな野菜の香気を(しみ)()嗅ぎ惚れてでもゐるやうに暫時(しばらく)、その水のやうな燐光(りんくわう)の中にぢつとしてゐたが、またするすると(くら)い影を曳いて辷り落ちた。油虫(あぶらむし)である。と見ると、見る間に、その油虫が一つまた一つ、二匹、三匹、四匹、五匹、はては(かず)(かぎ)りもなく、葉と葉の(あひだ)から(すべ)り出した。まるで()きた甘藍(キヤベツ)の心の心から()いてで出るやうだ、走り(まは)る、葉裏(はうら)へ乗り越す、蕭々とまた(コツク)()一杯に驟雨(しうう)の来るけはひがする、油虫が愈匍ひ廻るのだ。
 大きな、小笠原特有の油虫である。内地ののやうに(あや)しい(ひほい)こそ立てないが、居るわ居るわ、屋根裏、羽目(はめ)卓子(テーブル)の下、赤い詩集の表紙の上、男女の別ちもなく油さへ塗つてあれば(あたま)の髪の中へまでも、忍び込み、着物(きもの)は噛り菓子皿は嘗める、おしまひには(はね)を開いて飛び廻る、縦横無尽である。それが今(つき)()(しほ)の暗まぎれに時を得顔(えがお)に跳梁する。
 忽ち、甘藍(キヤベツ)褐色(かつしよく)の塊となった。つるつると光り、ゆらゆらと()れ、底の底から無数(むすう)の微かな音響(おんきよう)を立て、輝く光の塊となつて燃えあがつた。動く、動く、一(せい)に動く。油虫が動くのでない。生きた野菜が自分から(ゆら)めき出したのである。と、俎板(まないた)が動く。菜つ切り庖丁が動く。ナイフや肉刺(フオル)はまた豊麗な饗宴の夢でも見るやうに(をど)り出す、まるで貪り足らぬ人間の「食慾」が亡霊となって、肉を切り、マカロニを(すく)ひ上げるやうに、それをがつがつ(をど)らすのである。鍋の中の皿や茶碗は勿論、棚の上の薬味(やくみ)、ソースの(びん)まで生きかへつたやうに音を立て、手が出、足が出て、(それ)()一塊(ひとかたまり)の大きな大きな褐色の虫となつて燃え上る、自分達の重さに傾きかかつた籠の中のトマトは(るゐ)()と一つ一つに(はね)が生へて(ころ)がり出し、箭までが()ぢきれさうに(せい)一杯(いつぱい)の力を出して(ゆら)めき出した。月の光は(いよ〱)らぢゆうむのやうにそれらに新らしい生活力を与へ、露を()らし、素朴な風味と芬香とを(そゝ)ぎかける。欄間(らんま)から流れ込む青いその光が又俎板(まないた)にいつぱい(たか)つてゐる油虫の集団に美くしい幾条(いくすぢ)かの縞目(しまめ)(ゆら)めかした。その縞目が又()えず流動し、蠢動する。
 静物の世界が今色も(にほひ)も響も一緒に真実一念に燃え上がつたのである。
 ――Tonka John! Tonka John!
 甲高(かんだか)なキンキン声を出して、教会との隔ての垣根から誰やら呼ぶ。女の子の声である。リデヤだ。
 ――Tonka John! Tonka John! 居るかい。
 垣根を向うからどんどんと敲く。(たれ)家内(なか)から返事する者がない。油虫の運動がちよとたじろいた。野菜や食器がひたと静止する。
 (そと)は実に麗らかな良夜である。リデヤは垣根の上から真白な(あご)だけしやくつて延び上った。十二三の、鼻の高い、眼の迫つた、髪の赤い、如何(いか)にも悪戯者(いたづらもの)らしい顔付である。
 ――Tonka居ないか、いいもの見せやうか、Tonka!
 Tonka Johnとはこの家の若い主人の幼な名である。南国(なんごく)の生れで、郷里が長崎(ながさき)に近いだけ阿蘭陀(オランダ)なまりがあつて、日本人の名にしてはをかしいけれども、ここではその(はう)が調子よく唇く、それで自身もこのトンカジョンで通してゐる。この青年がこの島に()いて三日(みつか)()の朝、人間よりも大きい(はま)万年青(おもと)が並木のやうに続いて、(にく)の厚い竜舌蘭(マニヲ)(むらがり)が強烈な日光の中に滅法界(めつぱふかい)に大きい海蟹(うみかに)の足の如な()(えふ)を八方に(ひら)いてゐる傍で、砂浜に曳き上げられた黒い()()()の上に竝んで腰を掛けながら、初めて逢つたその娘は()いた、
 ――お前の名は何ていふの、
 ――Tonka John.
 ――Tonkaかい、(あたい)の名はRydia.
 さうして猫のやうに()()()を躍り()えながら、
 ――遊びにお出でよ、(あたい)んとこに白い()(ちやう)が居るよ。
 と云つた。而して手に持った貝殻を矢庭に砂の上に(たゝ)きつけて、()け去つた。それからこのリデヤとトンカジョンは、(だい)仲善(なかよ)しになった。
 今もTonka.Tonkaとキンキン(ごゑ)で呼んでるが、(だれ)も返事をしない。リデヤは(もど)かしくなつたか、ヒラリと垣根に()ぢ上つた。而して片足を掛けながら、乱暴にも乗り越して来る。髪をお下げに()らして、ツンツルテンの浴衣(ゆかた)を着てゐる、而して赤ちやんのやうに桃色の三尺を(うしろ)にダラリと(むす)んでゐるのである。それが片手(かたて)(ちひ)さな亀の子を糸に(つる)して下げてゐる。
 そのまま、()けて来て、(コツク)()(のぞ)いたが、(だれ)もゐない。食堂の硝子窓を覗いたが(だれ)も居ない。今度(こんど)は庭を廻つて(うしろ)から応接間の方を覗きに行つたやうである。
 (あか)るいバナナの向うから、
 ――Tonka.Tonkaの馬鹿やい、ヂヨネの伯父(をぢ)さんが南洋から帰つたの知つてるかい、()つちやな玳瑁(たいまい)()を見せてあげるから()てお出で、正覚坊(しやうがくばう)の児なんかとまるで違ふんだよ、ホーラ。
 リデヤ()、中々のお悪戯(いた)さんだ。今度は裏庭(うらには)のバナナのかげから、
 ――ヂヨセ、油虫の化物、教会に亀の子持つてたつて、(なに)がいけないんだい、たゞの(かめ)の子ぢやないんだぞ、玳瑁(たいまい)の子なんだぜ、馬鹿(ばか)肺病(はいびやう)やみ、見てゐろ、お前の(とんが)り鼻に今に()みつかせてやるから、イヒ……
 リデヤ()(なか)()のお悪戯(いた)さんだ。油虫の化物と云つたので、(コツク)()の油虫は一(せい)にヒヤリとしてカサカサ、カサカサと影にかくれた。
 リデヤが()つて了ふと再び(コツク)()の活劇がはじまる。
         *
 野菜や食器の感覚は常に新鮮である。(さかん)に貪婪な油虫にその葉や肉心(にくしん)を蚕食されながら、甘藍(キヤベツ)とトマトは愈フレツシユな滴汁(しづく)滴吹(しぶ)き、香ひを放ち、愈清く(かな)しくなつてゆく。食器は盛んに()められ乍ら、西洋皿は又た盛んに(こうし)や雲雀やアスパロガスの(しゆ)()の豊満な献立(こんだて)を愈白い瀬戸の光沢の(うへ)()り上げ、ナイフは(をど)つて腸詰(ちやうつめ)を切り、フオクは盛んに幻想界にそれを突き刺し乍ら、(いよ〱)光りに光つてゆく。
 月光は愈(コツク)()いつぱいに円弧燈(アークライト)のやうな水々(みづ〲)しい紫色を浴ぴせかけた。新鮮と素朴(たと)ふるものなしである、静かなこの夜の光の(なか)(のこ)るところなく照らされて油虫は一斉に全身を極めて神経過敏に顫はし乍ら、活動し、蠢勤し、集散し、反撥し、時に鏡のやうに反射(てりかへ)し、雪のやうに湧き、焼酎(せうちう)のやうに沸騰し、雨のやうに蕭々(せう〱)と音を降らしつつある。而して見る間に死んだ大蛸の片足を甦らしめ、又見る()
査古体(チヨコレート)(いろ)の甘藍を俎板(まないた)の上に躍らし、トマトをつやつやと(ころ)げさせ、脂じみた食器を微細に光らせ、愈光らせ舞踏(ぶたふ)させ輪舞させつつある。而してロには盛んに大牢(たいらう)の滋昧に(した)(づゝみ)をうち乍ら、霊魂(たましひ)は幽かに法悦三昧境に入りつつある。
 かくてまた一時間が過ぎる……
         *
 ばたばたと窓の外に足音がした。
 油虫はぱつと八方に散乱しながら逃げ走る。ほんの一瞬時である。半は夢のやうに半は感傷的に躍動しつつあつた凡ての静物ははたと静止した。
 油虫が消えて了へば、幻想も消える。澄みに澄む月の光に照らさるる静物は矢張り元の静物である。ただトマトと甘藍(キヤベツ)は全く哀れであつた。散々(さん〲)に食ひ荒らされたトマトは新しい傷口(きずぐち)の痛みから光沢(くわうたく)を失ひ、()半分(はんぶん)になり三角になり、或は(はち)の巣のやうに吸ひ()ぶされ、ギザギザとなり、今は籠の中から躍り出づる力もなく、染々(しみ〲)と残りのセンチメンタルな漿液(しやうえき)()らしつつある。甘藍(キヤベツ)はなほさら、葉をむしられ、(しん)()み破られ、色も風味(ふうみ)もなく、悄然(せうぜん)と欄間の青い影と光の縞目(しまめ)に縞づけられて僅かに()めたい残りの葉で胸を掻き合はしてゐる。そして、()面から湧き上つた真青(まつさを)な初一念も何処(どこ)へやら今は白く(ころ)がり放しである。
 足音がぱつたり(とま)つたと思ふと、ふいとその欄間(らんま)のところに、思ひがけない真黒(まつくろ)な顔が現はれた。奥村(おくむら)(此処から十町ほど離れた帰化人の部落)の黒人娘(くろんぼむすめ)のベネの(かほ)である。何で差し(のぞ)くのか暫く閴寂(ひつそり)とした家内の様子(やうす)を窺つてゐたが、ただそつと首肯(うなづ)いて、欄間(らんま)の隙から燃え立つばかりの真紅(まつか)なアマリリスの花を一(ぽん)差入(さしい)れて、又そつと消えて行った。しとしとと砂を踏む足音がする……、而してまたその足音も(かす)かに幽かに消えて行つた。
 油虫はたちまちにその赤い花に密集した。花が又忽ち真黒(まつくろ)になつた。而して苦痛に(をど)り出す……。
         *
 さあて、(いよ〱)油虫の世界である。
 屋根裏(やねうら)の檳榔の葉を伝ふ(かず)(かぎ)りもない油虫が一時に驟雨(しうう)の走るやうな音を立てる。羽目(はめ)の隅から隅まで駈け廻る。焜炉(こんろ)(へり)を辷り上る、(ぎん)いろの湯沸をまつくろくする。コップの(なか)の腐つた牛乳を()める。フライ(なべ)(あぶら)(たか)る。野菜には飽いたか()つたらかして、今度は愈結核菌(けつかくきん)煮沸用(しやふつよう)の大鍋の中に一斉襲撃をする。油虫、油虫、恐ろしい肺病の黴菌がそこにはうぢやうぢや繁殖してゐる真最中(まつさいちう)だぞ、()めたら大変(たいへん)、みんな肺病になって了うぞよ。
 油虫は考へない。ありとあらゆる(もの)に対してただ無闇(むやみ)に密集する。見る間に(コツク)()一杯油虫となるまで満月の光を飽迄も悪用する、人さへゐなければ縦横無尽である。
 油虫は、月に光つては(さゞなみ)の寄せる如く屋根裏(やねうら)から羽目の隅々(すみ〲)、窓、棚、あらゆる静物の上にまた一としきり驟雨(しうう)のやうに走り廻る。誇張すればシネマトグラフの西洋の化物(ばけもの)ホテルのやうに窓の硝子がくるくる廻り、流しが歩行(ある)き、土間が天上(てんじやう)し、はてはくるくると(コツク)()全体(ぜんたい)が廻り出す。さながらさういふ光景である。
 トマトも甘藍(キヤベツ)も今はあったものかは。
 ハレルヤ……ハレルヤ……
 教会では愈おしまひの祈祷(いのり)が済むだと見えて、また平和な讃美歌の合唱がはじまつた。
 今、(コツク)()は全く油虫の世界である。家がゆらゆら動く……
        *
 程もあらせず、(そと)にガヤガヤペチヤペチヤと人間の声がする。(とほ)り過ぎるかと思ふと、さうでなし。ばたぱたぱたぱたと()()むで玄関の戸の把手(とりて)(ねぢ)るが早く、パツとマツチを()る、応接間(おうせつま)にはラムプが(とも)される。人の影が障子にちらつく、やがてガチヤンと(ゆれ)椅子(いす)に腰を(おろ)した(おと)がして、元気な男の声で、
――お(なか)()いた、早くトマトを()つといで。

1915(大正4)年4月1日「ARS」創刊号に発表。

三浦しをん『舟を編む』|神楽坂

文学と神楽坂

 三浦しをん著の『舟を編む』(光文社、2011年)では神楽坂の『月の裏』という料理屋が出てきます。主人公の馬締(まじめ)光也の妻、()()()が営む料理屋です。さて、ここはどこにあるのでしょう。本の163頁では

 神楽坂の入り組んだ細い道を行き、たどりついたのは、狭い石畳の路地のどんづまりにある、古くて小さな一軒家だった。軒下(のきした)に四角い外灯がついている。オレンジ色のやわらかな光を投げかける外灯には、『月の裏』と書かれていた。
 格子戸を開けると、板前の恰好をした青年が折り目正しく迎えてくれた。たたきで靴を脱ぐ。
 上がってすぐに、板張りの一間がある。広さは十五畳ほどだろうか。左手に白木のカウンターがあり、そのまえに五脚ほど木の椅子が置かれている。ほかに、四人がけのテーブル席が四つ。席は八割がた埋まっていた。接侍中のサラリーマンもいれば、自由業ふうの若い男女もいた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのなかから声をかけてきたのは、女性の板前だった。四十になるかならないかぐらいに見える。黒い髪をうしろでひとつにまとめた、すごくきれいなひとだ。
 青年に案内され、辞書編集部一行は玄関の右手にある階段を上った。二階は八畳の和室で、簡素な床の間にウツギの花枝がいけてあった。あとは廊下を隔てて、お手洗いの戸と店員の控え室らしき戸が並んでいるだけだ。
(中略)
「『月の裏』を営んでおります、(はやし)()()()です。今後もどうぞごひいきに」

210頁では

 神楽坂の夜の闇は、いつも濡れたような輝きを帯びている。
 石畳の小道をたどり、片辺は『月の裏』へ宮本を案内した。格子戸を開けると、「いらっしゃいませ」と香具矢がカウンターの向こうから挨拶を寄越す。精一杯、愛想よくしようと心がけているようだが、実際にはなめらかな頬の皮膚がちょっと動いただけだ。これ以上ないほど繊細に包丁を操るくせに、あいかわらず生きることに不器用そうなひとだ。

 つまり、『月の裏』は神楽坂の「狭い石畳の路地のどんづまりに」あり、「古くて小さな一軒家」で、「石畳の小道をたどり、格子戸を開け」、さらに「たたきで靴を脱」ぎ、「板前」がでてくる。「板前」なので「日本料理」で、フランス料理屋やイタリア料理屋、中国料理屋ではありません。

 石畳は神楽坂中にあるというのではありません。意外と少ないのです。赤い道がピンコロの石畳です。

石畳

石畳

 これで「路地のどんづまりに」ある、つまり、袋小路にある場合は1つだけで、「見返し横丁」だけです。ほかは袋小路ではなく、一方が入り口、別の1方が出口です。では、見返し横丁でいいのでしょうか。困ったことがあり、それは「格子戸を開け」て、「たたきで靴を脱ぎ」「板前がでる」ことはできないのです。「見返し横丁」のどんづまりには海鮮居酒屋『ろばた肴町五合』と最近できたイタリアンレストラン『Artigiano(アルティジャーノ)』があります。アルティジャーノは小さな店舗ですが、イタリアンだし、ろばた肴町五合はろばた焼きで、『月の裏』とは違う場所の気がします。

 それでは「かくれんぼ横丁」ではどうでしょうか。石畳の小道をたどり、格子戸を開け、たたきで靴を脱ぐ。ぜんぶ出来ます。しかし、ここにも問題が。場所は『レストランかみくら』が一番いいのですが、これはフランス料理屋なのです。それでは最近できた和食の『千』や割烹の『越野』でしょうか。しかし、どれも「どんづまり」ではなさそうです。

見返しとかくれんぼ

 まあ、結局、小説だからなあ。「路地のどんづまり」、「古くて小さな一軒家」、「格子戸を開け」、「たたきで靴を脱ぐ」のひとつやふたつがちゃんとあっても、全部はありえない。嘘で空想だし。でも、こんな料理屋があると、本当にはいいのになと思います。

『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』

文学と神楽坂

『新宿区町名誌』は昭和51(1976)年、新宿区教育委員会が発行し、『新修新宿区町名誌』は平成22(2010)年、新宿歴史博物館が発行したものです。『新修新宿区町名誌』によれば、2つの違いは

一、本書は、昭和51年(1976)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区町名誌』の内容を再調査し、全面改訂を行ったものである。
一、地域区分は『新宿区町名誌』を踏襲し、古い村を単位とした十区域(①牛込東部、②牛込西部、③牛込北部、④市谷、⑤四谷、⑥新宿と周囲、⑦大久保・百人町、⑧西早稲田・高田馬場、⑨落合・中井、⑩北新宿・西新宿)に分けた。項目は原則として現在の町名を立項し、その町域内にあった過去の町名は小項目として立項している。項目の配列も原則として前書を踏襲したが、読みやすさを考慮し、広域の地名解説を各章の最初に記述した部分もある。

 たとえば、神楽坂1丁目を『新宿区町名誌』では

 神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保14年(1729)11月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。
 宝暦11年(1761)9月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌12月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥(あすか)井、花園等の受領地となって町屋ができた。

『新修新宿区町名誌』では

 牛込御門に近い外堀端沿いの地域で、江戸時代には武家地と、牛込(うしごめ)牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)という拝領町屋があった。
牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24目に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)。

 一番正確な町名誌でしょうか。

北原白秋の転居|神楽坂

文学と神楽坂

北原白秋

 北原白秋は千駄ヶ谷から移り、1907(明治40)年12月から翌08(明治41)年10月まで牛込区北山伏町33番地、翌09 (明治42)年8月までは牛込区神楽坂2丁目22番地に住んでいました。8月からは本郷区ですが、再び10(明治43)年2月、牛込区新小川町3丁目14番地に、9月、青山原宿に転居します。

 地図はここに。赤い3つが住んでいた場所です。

昭和5年の牛込神楽坂の地図(赤は北原白秋の住居)

 この「パンの会」は、雑誌『スバル』の詩人、北原白秋木下杢太郎長田秀雄吉井勇たちと、美術同人誌『方寸』に集まっていた画家、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊たちが、反自然主義、耽美的傾向、浪漫派の新芸術を語り合う目的で作りました。

 木下(きのした)杢太郎(もくたろう)氏の『パンの会の回想』(1926年)によると

何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
「木下杢太郎全集 第一三巻」岩波書店 1982(昭和57)年
北原白秋『東京景物詩』

北原白秋『東京景物詩』口絵 木下杢太郎画

 高村光太郎はやや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会しました。長田秀雄、吉井勇、小山内薫、さらに俳優の市川左団次、市川猿之助らも顔を出しています。

 月に数回、東京をパリに、大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まりました。1908年末から1913年頃まで続きました。

 白秋の『東京景物詩及其他』や木下杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品です。

『東京景物詩及其他』については「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」がこう解説しています。

処女詩集『邪宗門』(明治42年刊)、『思ひ出』(明治44年刊)、『東京景物詩』(大正2年刊)には、「パンの会」時代に書かれた東京を中心とした官能的、唯美的傾向の詩が収められている。
 第2詩集『思ひ出』が、郷土や幼少への愛着が基底となっていたのに対し、『東京景物詩』は、表題どおりに都会や青春に対する情緒が中心となっており、享楽的な面も多い。しかし、その享楽は『邪宗門』ほどには濃厚でもどぎつくもなくて、よりやわらかく軽く、ダンディなものである。近代的な東京風物をモチーフとしたり、一時代前の江戸情緒的要素を加味して下町的な気分を表現したりすることにより生まれたもので、白秋が多用した新俗謡体は、民謡、歌謡のスタイルでより情緒的に都会を描写するのに適していた。(中略)
 白秋自身、<この詩集は種々雑多の異風の綜合詩集であり、何ら統一はない>と言っている。しかしそこには白秋の東京への深い思い入れが感じられる。


石川啄木|砂土原町

文学と神楽坂


石川啄木

 石川(たくぼく)は明治19年2月20日、岩手県に生まれました。東京には5回上京しています。
 最初の上京は明治32年(13歳)夏。上野駅勤務の義兄を頼っての上京です。上野の杜と品川の海を見て帰ります。
 2回目の上京は明治35年(16歳)。10月、「明星」に歌1首が載り、そこで10月31日、盛岡中学を中退し、上野行きの列車に乗りました。11月1日、東京に着き、2回目の上京で、1回目の長期の上京です。小石川区小日向台町に住み、新詩社に出ていますが、何せ金はなく、翌36年1月『下宿を着のみのままで逐出され』、神田錦町の見も知らぬ佐山という人の安下宿に入り、紋付きを質屋に入れたりして金を作り、一膳飯屋で1日に1度か2度食いつないでいました。年が明け、2月、病気になり、郷里から来た父と一緒に帰郷します。
 3回目の上京は明治37年10月31日(18歳)。2回目の長期の上京です。向ヶ岡弥生町三に止宿。元気はいっぱい、屈託はなく、勝ち気で、明るく、飄然として、木の妹光子の話によれば、ここでも「いつも大きな法螺を吹いて」いたようでした。
 11月8日、神田駿河台袋町八に転居、11月28日、牛込区砂土原(さどはら)町3丁目22、井田芳太郎方に転居。砂土原町3丁目22は現在「朝霞荘」になっています。

朝霞荘

 金田一京助全集の第13巻「石川啄木」(三省堂)では、

 12月の初めに(或は11月分の宿料が出ない為めに、屈託をしてではなかったとも思う)、『今度の日曜に、お逢いしたい、こんな所だから』と地図まで書いたハガキを貰ったようだった。それを片手に、小石川の砂土原町を尋ねて行った。坂を上った角が、埼玉学舎で、その隣の井田という家だった。
 玄関へ入った瞬間に、何か、私を待ちながら、その私の噂を、相宿の男へでもしていた様な石川君の声(と私は睨んだが)で、『文科大学生ですよ、ええ』というのが聞えて、すぐ沈黙した。女中に通されて、その室へ入ると、石川君は、床を敷いていて、その中から、立ち上って迎えてくれたのはよいが、袴をつけて紋付羽織を着たまま寝ていたもので、羽織は、くしゃくしゃ。それよりも驚いたのは、仙台平がもう、折目がすっかり無くなって、袋を穿()いているよう。恐らくは、寝ても起きても、どこへ行くにも、朝から晩まで、この袴をつけていたものでもあろうか、1ヶ月にしかならないのに、縞なりに、もう切れて、裾からは、ぼろが下がっていたのである。
 その云うことが、振っている。一々の言葉の端は覚えていないけれど、大体こういうことだった。
 感冒(かぜ)をひいて、寝てしまって、退屈でつまらないから、蟇口を出して、倒にして振って見たら、バラッと落ちたのは、全財産、大枚十銭五厘。女中を呼んで、これで、みんな葉書を買って来いと云いつけて、葉書を買ってもらって、みんなへ手紙を書いた。一枚余った葉書を、誰へ出そうと考えた。ムム大隈伯へ出して見ようと考えついて、
『あなたのような世界の大政治家と、私のような無名の(陋巷の?)一小詩人と、一堂に会してお話をして見たら、どんなに愉快でしょう』
と書いてやったという。
 私も、呀っとばかり、開いた口が塞らなかったが、この人にしては、有りそうなことだと、興味に釣られて、『そしたら?』と聞くと、『返事が来ましたよ』『え? 大隈さんから?』と私が驚くと、『大隈さんの字ではないんでしょう。自分で書かれないそうだから、やはり代筆でしょうけれど……』『何て云って来たの?』『面白い、兎に角逢おう、やって来い、と来ましたよ』『それでは行くの?』『だってもう、電車賃も無いんですもの』。
 先程からの話で、当然すぎる程、それは当然だった。『一文も無い、それァ困るなあ』と云いながら、私は蟇口を出して、畳の上へボロンボロンと揮って、月末の勘定の残りが3円なにがしがころころ転がったのを切半して帰って来た。
 前後、幾年、凡そ私が石川君に用立てた金は、どうやら此の様な行きさつで私の手から渡るもののようだった。

仙台平 せんだいひら。宮城県仙台市特産の絹の高級袴地「精好仙台平」の通称。
大隈伯 大隈重信。おおくま しげのぶ。政治家としては参議、大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任し、早稲田大学の初代総長。

 この上京では長詩をたくさん作っています。詩人として名前は高くなりますが、生活は全くできない。3月10日、牛込区払方町25の大和館に転宿。5月10日、詩集『あこがれ』をだし、上田敏氏の序詩、与謝野氏の(ばつ)(後書き)。しかし、これが売れない。印税で家族を養うはずだったのに。金はなく、縁故もなく、スポンサーもパトロンもない。5月20日、帰郷の途に就きます。
 ここで牛込区砂土原町3丁目22と牛込区払方町25の場所を見ておきます。青で書いてある場所です。現在も変わっていません。牛込区払方町25についてはここに詳しく書いてあります。

啄木の場所

 なお、右の青の隣り、薄緑の場所は現在はマンション数棟ですが、以前は埼玉学生誘掖会埼玉寮でした。100人を超える寮生が生活していました。「誘掖」とは、導き助けるという意味だそうです。
 四回目の上京は明治39年6月。第2詩集を相談するため、また、父の問題で東京の宗務局に行きますが、宗務局の運動はだめ。よかったのは「俺だって書ける」と考えて帰ったこと。これが四回目の東京行きです。
 五回目は明治41年(22歳)。長期の上京としては三回目。北海道を離れ、4月28日、東京に到着。4月29日、金田一京助氏を訪ね、金田一氏の下宿に住んでいます。
 石川木と金田一京助の住所は文京区ですが、しかし(しん)()(しゃ)の友人、1歳上の北原白秋氏は北山伏町33番と神楽坂2丁目に住んでいました。木はここを訪れています。なお、新詩社とは明治32(1899)年、()()()鉄幹(てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体しています。

 明治41年7月27日 木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍って、耳が-左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴ってゐた。
いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言ってゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなってから辞した。途中まで送って、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。

 もうすこし駅に近い場所がよかったのでしょうか。北原白秋氏は物理学校のそばに転居します。

 明治41年10年29日 木の日記から。

 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一曰の談話につかれてゐてすぐ床についた。

 物理学校は現在の東京理科大学です。私立大学で本部は新宿区神楽坂1-3。北原氏は明治41年10月にここ神楽坂2丁目に転居し、一年後の明治42年10月、本郷動坂に転居します。北原氏はここで「物理学校裏」という詩をつくっています。

 また木は、相馬屋の原稿用紙を買っています。これから2か月半後の4月13日、死亡しました。

 明治45年1月30日。木27歳の日記から。

 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのって神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひ出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかった。
 本、紙、帳面、俥代すべてゞ恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送ってゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。

ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン Пётр Алексе́евич Кропо́ткин (1842/12/9-1921/2/8)。ロシアの革命家、政治思想家、地理学者、社会学者、生物学者。近代アナキズムの発展に尽くした人物で、無政府共産主義を唱えた。

 これについては金田一京助氏は『啄木の美点』でこう書いています。

死ぬ直前、金も米もつきたところへ、朝日新聞社から編集長の好意の見舞金が届いた。何を買うかと思ったら、人力車に乗って神楽坂の本屋にいって本をあさり、結局、彼が人間性の可能の限界をきわめる最高の哲学だとするクロポトキンを買って帰った。この熱度、この真剣さ、妥協を拝する一本気と貧苦にめげない強気と、それに恩愛にすら束縛を感じ、童貞にも圧迫をおぼえる鋭い内省、ついに病の小康とともに天才主義から民衆主義へ、百八十度の転換を完成して、しばらくぶりに長詩ができた6月下旬、やはりしばらくぶりに、二人の間の久しい難問解決の喜びを分かちに来てくれたあの最後の訪問、恩讐(おんしゅう)をこえた、二人の交遊の総決算のような美しい訪問、啄木のこんな真実性に目をふさいで、伝記学者、地下の啄木にそれですむか。



尾崎紅葉|十千万堂

文学と神楽坂

 日本の小説家、尾崎紅葉(こうよう)は結婚して明治24(1891)年3月から横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。別名、()万堂まんどうです。十千万堂は彼の号の1つです。これから没する(明治36年10月30日)まで、12年半をこの家で過ごしました。有名な「金色夜叉」もここで書いています。門下生は泉鏡花小栗風葉徳田秋声柳川春葉などが有名で、「葉門四天王」と呼ばれていました。

 行き方はまず地図で。赤い丸が十千万堂があった場所です。
十千万堂の地図

全国地価マップ

 この場所は北から南に向かって入っていきます。

 何もないので写真を付けておきます。左側、南側が行く方向です。
十千万堂の入口

 現在でも極めて寂しい場所です。その前に行くと、簡単な説明があります。平成28年、新しく説明文が変わっています。これは旧時代のもの。新しい説明文はここに
紅葉旧居跡

 では実際に住んでいた(今も住んでいるけれど)時にはこんな場所でした。

尾崎紅葉の家

伊藤整著「日本文壇史4」講談社

横寺町の尾崎紅葉の家

写真は泉鏡花記念館の「泉名月氏旧蔵 泉鏡花遺品展」から

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、昭和29年)では……

野田宇太郎「アルバム東京文學散歩」(創元社、昭和29年。1954年)。当時のキャプション。「十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町その崖下に紅葉の文学塾があった」。第二次世界大戦後、この地域はすべて灰燼と化しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13520 尾崎紅葉旧居跡 昭和30年代頃

 ここを舞台にいろいろなことが起こりました。

門人 泉鏡花・小栗風葉  談話
○泉鏡花曰 …モウ田舎に帰らうと思ひましたが、それにしても、せめてお顔だけと存じましたに、お逢い下さいまして私は本望でございます。といひましたが、何だか胸がせまつてうつむいて了ひました。然うすると、まるで夢のやうです。、といつてお笑ひなすつて、具合が出来たら内においてやつてもよい兎に角に世話はしやう、(うち)に置くか、下宿屋に置くか、あした()な、それまでにきめて置くからと、おつしやツたのです。
明治36年11月「明星」


 明治文壇回顧録 昭和11年 後藤宙外

  六、丁酉文社時代(中略)
 紅葉氏の横寺町の邸と云つても餘り立派なものではなかつた。當時の氏の社會上の地位や文名の高い割合から見れば、寧ろ氣の毒な程のもので、古ぼけた二階建の假屋に過ぎなかつた。それが横寺町の通りから少し南側へひつこんだところに極めて簡單な門があり、その右側の4寸角程の柱に尾崎德太郎の自筆の標札が見られ、突當りの左右が狭い板塀になつて、ほんの四坪ばかりの場所を圍み、門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。「十千萬堂日祿」の三月廿三日の條に、「門前の柳眼漸く開く。淺々の真眞可愛。」とあるのがそれだ。左へ直角に折れて玄關になるのである。格子戸を入ると、半坪程の土間につづく取次の間は、確か二疊であつたと思ふ。西向の極めて薄暗い陰氣な室であつた。この二疊の室で、鏡花、風葉、秋聲、春葉その他、明治大正の文壇を飾つた諸君が育成されたことを思ふと、実に尊い玄關であつたのである。
 紅葉氏の書齋は二階八疊二室を通したもので、南を開いた緣側があり、上段の間ともいふべき、西寄の室の南西の隅に、緣側に對して氏は机を据ゑて居られた。

 戦前は47番地に行くのには一直線に邸宅に入れたと思います。この47番地では一軒だけが建ったのか、数軒が建ったのか、わかりません。新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年に出ている鳥居秀敏著「横寺町と近代文芸」では「この地図(参謀本部発行の五千分の一地図)にある家は家主の鳥居家が慶応三年(1867年)にここへ移って来た時建っていた古い家で、紅葉の住んでいた家とは位置も形も違います。紅葉は明治24年(1891年)に横寺町へ来たのですから、明治20年前後に建てられた比較的新しい家だったのです」

1883年 明治十六年(1883年)測量の参謀本部発行の五千分の一地図

明治四十年一月調査東京市牛込區全圖

 戦後は数軒の邸宅がこの番地上に建っています。

よこてらまちの尾崎邸

新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会「よこてらまち今昔史」

籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング No.13神楽坂」編集:真珠書院。発行:明治書院

十千万堂日録。尾崎紅葉。左久良書房。明治41年10月。国会図書館

神楽坂の半襟|水野仙子

水野仙子 菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)から

菅野俊之処著『ふくしまと文豪たち』(歴史春秋社)

文学と神楽坂

 水野仙子(せんこ)氏は肺結核で死んだ女流作家です。

 『神樂阪の半襟(はんえり)』は大正2年(1913)、25歳に書いています。神楽坂で夫と一緒に、髢屋、半襟屋、履物屋に行き、しかし、半襟屋では何も買ってくれません。でも、本当は、本当は買ってくれるだ……本当に? と心は乱れます。

生年は明治21年12月3日。没年は大正8年5月31日。結核のため32歳で死亡しました。

 お里は爪先あがりにを登りながら數へたてゝゐたが、ふと屋の店が目につくと、『あ、さうさう、私すき毛を一つ買はう。』と、思ひ出したやうに小ばしりにその店に寄つて行つた。
 髢屋の主人が背のびをして瓦斯にマッチを擦ると、急に靑白い光がぱつとして薄暗い店先を照した。氣がつくと、阪下阪上の全體に燈がはひつてゐた。
『下駄はどこで買ひませう。』と、そこから出て来たお里は、夫と並んで歩き出しながら言つた。
『さあ。』

 「坂」と同じで、神楽坂のこと。
 かもじ。日本髪を結うとき、地毛の足りない部分を補って添える髪。
すき毛 毛の束で、結髪の形を整えるために髪の中央に入れたり、頭髪の汚れをとるため梳き櫛に挟んで髪をけずったりすること
 お里はふと立ち止つて、とある半襟店の小さなショウウインドウを眺めてゐた。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。しかし、夫は半襟を買いません。
 お里はちぷりと油に水をさされたやうな氣がした。黑地に赤糸の麻の葉を總模様にしたその半襟をかけた自分の白い襟元と、着物の配合とが忽ちにして消えた。…
 あんなけちな安物1つ思のまゝに買ふことができないのだと思ふと、何やらうらめしいやうな氣がしてならない。…
『あの家に入つて見ませう。』と、お里はずんずん夫の先に立つて、昆沙門前の下駄屋にはひつて行つた。

下駄屋 下駄屋、半襟屋、髢屋はここにありました。(新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)
神楽坂の半襟
現在の下駄屋は煎餅の「福屋」です。半襟屋は「味扇」や「わしょくや」などに変わりました。
下駄屋と半襟屋
髢屋は「俺流らーめん塩」になりました。
ラーメン

 さて、その後の行動は、ひょっとして、買うつもりではとお里は考えしまいます。ここがいい。
 実際はやっぱり買ってくれません。簡単な小説ですが、男女の相克は別として、結構、お話と心理はよくって、うまいと思います。

『さうかも知れない、あの人のことだもの。』と考へた時は、嬉しさに胸が早鐘のやうに鼓動を打つてゐた。
 お里は夫が黙つて、そつとあの半襟を買ひに行つたのだと思つたのである。さう信じてしまふと、嬉しいやうな、有り難いやうな、先刻の不平だの、味氣なさだのは泡のやうに消えてしまつて、さうまでして自分を劬つてくれる夫の心持が氣の毒にもなつて来る。

劬る いたわる。思いやること

田山花袋|転居

文学と神楽坂

新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

 花袋は牛込で二十年間を過ごした。明治十九年、十六歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年三九年まで、十一回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の三十年――山の手の空気」を書いている。「」内は原文。

 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」(明治19年に)、という頃に上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
 日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明 正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治28年、東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正二年―三年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を二戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907年)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

 すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。

蒲団|田山花袋

文学と神楽坂

田山花袋 明治40年(1907年)、田山花袋氏が書いた『蒲団』の1節です。

『蒲団』は口語体、文言一致体で書かれています。こんな重大ではない、なんでもない話で、セックスをしたいけれどできないという話で、本当に当時の人は大変だったなあと思いました。

 ちなみに今から60年も前、正宗白鳥氏は『文壇50年』を書き、そのなかでこう書いています。なるほど。

「蒲団」は、清新な作品として敬意を持って読まれるよりも、嘲笑冷罵されるにふさわしいものであったが、それでもそれが、文学史上画期的の作品となったのだ。私はこのごろ回顧して特にそう思うようになった。
 何でもないような事が、フランス革命の動機となった。日本の文学も何とかしなければならぬという気運が漠然と起こりかけているとこへ「蒲団」がその気運に火をつける事になったのである。今読むと「こんな小説が何だ」と思われるような、つまらない小説であるが、このつまらない小説の巻き起した1つの傾向が、綿々と盡くるところなき有様である。

 では本文で神楽坂について書いている場所にいきましょう。

 夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来酒井の森にはからすの声がやかましく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭どじょうひげの紳士が庇髪ひさしがみの若い細君をれて、神楽坂かぐらざかに散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅でっくわした。時雄は激昂げっこうした心と泥酔した身体とにはげしく漂わされて、四辺あたりに見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上におおかぶさるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇むやみにぐいぐいとあおったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜ロシア賤民せんみんの酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだからえらい、惑溺わくできするならあくまで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。

矢来 矢来町です。江戸時代は小浜藩酒井家の牛込矢来やらい屋敷とよぶ下屋敷がありました。明治になって矢来町ができました。矢来屋敷は大きな場所を占めていました。
酒井 小浜藩酒井(さかい)家のこと
鰌髭 伸びた薄い口ひげ
庇髪 髪形の1つ、つめ物を入れて前髪を大きく膨らませ、ひさしのように前方へ突き出して結いました。日本髪よりも簡単に結うことができます。
激昂 身体は酔っているが、感情は逆に高ぶること
惑溺 夢中になって正常な判断ができなくなること。
 中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣ゆかたがぞろぞろと通る。煙草屋たばこやの前に若い細君が出ている。氷見世(こおりみせ)暖簾のれんが涼しそうに夕風になびく。時雄はこの夏の夜景をおぼろげに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅いみぞに落ちて膝頭ひざがしらをついたり、職工ていの男に、「酔漢奴よっぱらいめ! しっかり歩け!」とののしられたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞ひっそりとしていた。大きい古いけやきの樹と松の樹とが蔽い冠さって、左のすみ珊瑚樹さんごじゅの大きいのがしげっていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如いきなりその珊瑚樹の蔭に身をかくして、その根本の地上に身をよこたえた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬しっとの念にられながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。

中根坂 なかねざか。市谷加賀町と納戸町の境、大日本印刷会社の東を北または南に上がる坂道。中根坂は「左内坂町と加賀町1丁目の間に坂あり、中根坂といふ、以前坂の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる」(『新撰東京名所図会』)。場所はここ。

1857年と1849年の地図 江戸時代では北に上がる坂道(1849年)か南に上がる坂道(1857年)なのか、2つの考え方がありました。田山花袋の『蒲団』では南に上がる坂道だととらえています。区では北に上がる坂道だとしています。写真は北から南に見たもので、北に上がる坂道、逆に言うと南に下がる坂道です。中根坂道標では

(なか)()(ざか)  昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。


と書いてあります。いずれにしても、かつてはVの字のように下って、再び上がる急坂でした。それが現在のようにVの字はなくなり、最下部には橋が架かっています。一見では橋だとはわかりませんが、橋なのです。すべて区道です。
士官学校 江戸時代は名古屋藩徳川家の上屋敷でした。明治に入って陸軍士官学校になり、現在は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地になっています。1970年(昭和45年)11月25日、ここで三島事件が起こりました。日本の作家、三島由紀夫が自衛隊のクーデターを呼びかけ、割腹自殺をしました。
()(ない) 市谷左内町を市ケ谷見附の外濠通りから西北に上る急坂。場所はここ。坂名は「左内坂 市谷田町一丁目の濠端より左内坂町に上る坂あり、左内坂の名に呼ぶ。紫の一本云ふ。おなじく片町のうちなり、此所の名主島田左内といふ。坂の中に屋敷あり、此故に左内坂といふ」(『新撰東京名所図会』)。名主の島田左内氏から左内坂がでたようです。
 この島田左内重次は寛永3年(1626)に外堀端の田地を埋め立てて、市谷田町各町(1丁目から四丁目)に割り、同時に坂上にも町屋をつくり、初めは市谷坂町、後に市谷左内坂町と呼ばれるようになりました。1月3日には江戸城に登城して、年頭御礼の儀に参上しました。明治に至るまで市谷田町、同船河原町、左内坂町、寺町、牛込揚場町の五ヵ町の名主でした。
氷見世 かき氷を食べさせる店
右に折れて 左内坂上の南側に市谷八幡宮の裏参道があります。今では駿台の入口として使っていますが、裏を通り、佐内坂から市谷八幡宮に行く参道があります。下の左側の写真は駿台予備校が見えますが、本来は裏参道です。右側の写真を行くと裏参道です。
八幡宮
入口3
市ヶ谷八幡 市谷亀岡八幡宮です。下からだとすごく高い所にあると思いますが、でも小さいのでびっくりします。八幡宮
常夜燈 一晩中つけておく明かりのこと。街灯として街道の道しるべとして設置するものが多いようです。
珊瑚樹 サンゴジュ。スイカズラ科の常緑高木。庭木になります。千葉県以西まで野生します。市谷亀岡八幡宮で取った写真です。さんごじゅ

私の東京地図|佐多稲子②

文学と神楽坂

 佐多稲子氏の『私の東京地図』の「坂」②です。

 この道に、あんなに商店の灯が輝やき、人々が群れて通ったのであろうか。この辺りなどは、地上に密集して建っている家並みでもって盛り上っている、といったところだっただけに、それの消えてしまった跡は、一層空漠としてしまったのであろう。全く此処は、電車通りをのぞいて言えば、家の軒の下を小さな路地が曲りくねり、坂をなして、あちらへこちらへと抜けている、そんなところであった。今、丘の起伏にそって弧を描いて一本通っている神楽坂、この表通りを左右ヘー歩這入れば、待合芸者屋とそれにともなうこまごました店で埋まってしまっていたものだ。紅谷(べにや)の前の相馬屋紙店の横を、家壁に袖をふれるようにして入ってゆけば、吸い込まれるように先きへ先きへと、小さな石段があったり、突き当りかと見ればまたその家の玄関の横へ抜けていたり、おもいがけない奥まったところに汁粉屋があったり、髪結の看板が出ていたりなどして、そのまわりは入口と入口の喰っつき合った、あるいははすかいに玄関の反れた、小さな待合ばかりであった。狭い石段は家の軒の下に陽の光りもとどかぬふうで、おもいがけなく別世界へ迷い込んだ気分に誘う。どこからかまた坂の表どおりへ出ると、店の奥では洋食を食べさせる果物屋の田原屋や、そのはすむかいの何とかいうレストランなど、ハイカラな洋食を食べさせる家もあり、毘沙門(びしゃもん)さまの石垣についてそばやとの間を入ると、そこはまた花柳界で、この次の横町には、神楽坂演芸場が、芸人の名を筆太に書いた看板を表通りからも見えるように出して、昼間はひっそりと、厚い屋根瓦の(ひさし)を展げていた。

この道 神楽坂通りでしょう。
消えてしまった跡 これは第2次世界大戦のため神楽坂の大半が消えたことをいっています。
待合 待ち合わせのための場所を提供する貸席業のこと。
芸者屋 芸者置屋ともいい、芸者などを抱える業態。プロダクションに当たります。
入ってゆけば 相馬屋紙店の横は寺内横丁と呼んでいます。
石段 石段で一番最初に出てくるのはここ。

クランク

玄関の横 上を見ると一見行き止まりに見えますよね。でも玄関の横がら右に入っていけます。

 以下は新宿区図書館「神楽坂界隈の変遷」の『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』を参考にします。

神楽坂。古老の大震災の前
汁粉屋と髪結 この時代(『神楽坂通りの図-古老の記憶による震災前の形』)ではここが汁粉屋と髪結です。時代は違っているので、これも違っていることも充分ありえます。でも、本多横丁にあるのを指しているのではないでしょうか。
はすかい 斜交い。ななめ。はす。ななめに交わること。

神楽坂。古老の大震災の前

レストラン カフェー・オザワでしょうか?
毘沙門 ご存じ善國寺毘沙門天
そばや 「そば春月」のこと。関東大震災前の昭和12年ではそうでした。昭和27年では「春月のみや」に変わっています。
 建物の出入り口・縁側などの上部にでる片流れの小屋根。

 大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮らしをしていた。芸者屋などにすぐ喰っついてゆるゆると高くなる方はもう静かな住宅が並んでいる。いつも門の戸をたてたままというような邸もあり、洋風の窓にレースのカーテンが塀越しにのぞける家もあり、道路のすぐそばから、がらがらと戸の開く格子づくりの二軒長屋などもある。この近くに住んでいる人のほかは通りてもないような狭い坂道が幾条も上から流れてみんな神楽坂へ出る。だから、この上の納戸町(なんどまち)にあった私の間借りの家は、このどの坂を通ってもいい。牛込見附から省線電車に乗って東京駅へ通う私は、朝夕この坂のひとつを通って往き来するのであった。

大地震 関東大地震は大正12年(1923年)9月1日でした。したがって、大正12年に佐多稲子と母は神楽坂周辺に移転し、この章も大正12年が中心になっています。
寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町。納戸町
この近く 「私」の住所は新宿区納戸町でした。
納戸町 右図の通り。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附も江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。
省線電車 鉄道省の管轄下にある電車。JRに相当。

籠谷典子編著『東京10000歩ウォーキング』

文学と神楽坂

 籠谷氏の「籠谷」は恐らく「かごたに」、「かこたに」、「かごや」、あるいは「こもりや」と読みますが、明治書院の読み方によれば「かごたに」です。氏は明治書院の 『東京10000歩ウォーキング 』(2006年)の編集者で、1冊目の「千代田区」から30冊目の「三鷹市」にいたるまで読者は1冊わずか800円+税で購入できます。ほとんどの区立図書館にその区のことを書いた1冊はあると思います。これは同じような傾向が好きな人は絶対買うべき本です。問題は、何をしている人なの? ほかの本はあるの?

 探しました。東京都高等学校国語教育研究会編の『東京文学散歩』(平成4年)の編集責任者に「籠谷典子」と書いてありました。おそらく高校の国語の先生だったんだ。明治書院も「高等学校の国語の教科書・副教材を扱っている出版社です」と書いてありました。

 調べていくと、本の内容が違っている場合もあります。「神楽坂・弁天町コース」では大田南畝の住居跡は北町ではなく、現在は中町だと考えられています。他にも間違いかなと思える点がありますが、それでもすごくすごく優秀な本です。

色川武大|矢来町

文学と神楽坂

 小説家、色川(いろかわ)武大(ぶだい)(あるいは麻雀作家、阿佐田(あさだ)哲也(てつや)、本名は色川武大(たけひろ))。生まれは1929(昭和4)年3月28日。逝去は1989(平成元)年4月10日。ここ矢来町で生まれ大きくなりました。
 本人の『寄せ書き帖』によれば

 私が生まれ育った牛込矢来町というところは、戦前の典型的住宅地であると同時に、色街の神楽坂に近かったせいか、昔、芸人さんがたくさん住んでいた。
 私の生家の隣ぐらいが曲独楽の三升紋弥(先代)一家で、横町ひとつ先が昔々亭桃太郎、後年、花島三郎、松旭斎スミエ夫妻が住んでいた家がある。ここいらには小桜京子も居て、ずっと以前に桃太郎グループに属して寄席に出ていたことがあるが、おシャマなかわいい娘だった。
 戦時中には左ト全が松葉杖をついて瓢々と歩いていたし、柳家金語楼も町内に大きな邸があった。柱三木助が居て、坂下には春風亭柳橋が居て、反対側の市ヶ谷寄りには現三遊亭小円馬がガキ大将で居た。ちなみに私たちは小円馬を森山さんのお兄さんと呼んでいた。現三升紋弥は細野さんのお兄さんである。

 以下は『生家へ』からの引用です。

 私は生家でうまれて生家で育った。それはもちろんだが、生家そのものがただの一度も、焼失も移転もしなかったから、私は三十八歳になるまで、ひとつ家に、ひとつ土地に居たことになる。日本人というようないいかたは、身体に訊いてみてぴんとした反応は返ってこないけれど、牛込の矢来町八〇という名称は、私にとって特別な響きをもっている。

 生家と隣り合って一軒の家作があった。二軒合わせてほぼ正方形の角地だったが、家作はその東北部の四分の1を占めていた。いずれも平家である。
 何代か住み手は変ったが、戦争がはじまってから、Tさん一家が来て、以降ずっと住みついた。未亡人の婆さんと、もう1人前に育った子供たちの1家だった。

 では牛込の矢来町80番はここです。左側は昭和15年の図、右側は現代の地図です。

矢来町の地図。色川武大氏

 また色川武大氏にはナルコレプシーという病気があります。『風と()とけむりたち』で

 私は“ナルコレプシー”という奇妙な持病があって、これは一言でいうと睡眠(すいみん)のリズムが(くる)ってしまう病気である。私の場合、持続睡眠が二三時間しかとれず、そのかわり1日に何度も暴力的な睡眠発作に(おそ)われる。生命を失なう危険はないようだが、疲労感(ひろうかん)が常人の四倍といわれ、集中力を欠き、また症状(しょうじょう)の1つとして幻視(げんし)幻覚(げんかく)を見る。なぜそうなるかまだ原因がわからない。しかし医者にいわせると、発病期はおおむね十(さい)前後だという。

 もうひとつ。『寄席放浪記』「ショボショボの小柳枝」の1節で「私は駄目な男だから」と書いてあります。「駄目な男だから」時間通りに起きられない、大変なことろで猛烈な眠気で眠ってしまう。これが10代に起こるので、次第次第にソフトで本人は物腰が柔らかくなってきます。色川武大氏も物腰は柔らかくなっていました。ぎすぎすしていたり、神経質になるのはナルコレプシーではないと考えてもいいでしょう。

漱石と『硝子戸の中』14

文学と神楽坂

『硝子戸の中』は大正4年1月13日に発表し、ほとんど毎日続き(1月31日、2月5日、12日は休載)、2月23日に終了した随筆です。

十四
 ついこの間むかし私のうちへ泥棒の入った時の話を比較的くわしく聞いた。
 姉がまだ二人ともかたづかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行はやったやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中よなか小用こように起きたあと、手を洗うために、潜戸くぐりどを開けると、狭い中庭のすみに、壁をしつけるようないきおいで立っている梅の古木の根方ねがたが、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらすいとまもないうちに、すぐ潜戸をめてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらいあざやかである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時縁側えんがわに立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確はっきりした輪廓りんかくを具えている鼻、人並ひとなみより大きい二重瞼ふたえまぶちの眼、それから御沢おさわという優しい名、――私はただこれらを綜合そうごうして、その場合における姉の姿を想像するだけである。


潜戸

勤王 江戸末期、佐幕派に対し、天皇親政を実現しようとした一派
佐幕 幕末、江戸幕府を支持した一派
一番目の姉 漱石の兄弟は、先妻「こと」の子供として「(さわ)」「(ふさ)」の漱石の姉2人と、後妻の「千枝」の子供として、大一(大助)、栄之助(直則)、和三郎(直短)の兄3人がいました。一番目の姉なので「沢」です。「沢」と漱石とは21歳も違っていました。房は17歳年上でした。
潜戸 門の扉などに設けた、くぐって出入りする小さい戸口。 切り戸。くぐり
根方 木の根もと。下部
歯を染めた 歯を黒く染める習俗。お歯黒ともいいます。鉄くずを焼いて濃い茶に浸し、酒などを加えて発酵させた液で歯を染めること。江戸時代には既婚婦人のしるしでした。
娘盛り 若い女性として最も美しい年ごろ。
御沢 姉は「さわ」です。

 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念けねんが起った。それで彼女は思い切ってまた切戸きりどを開けて外をのぞこうとする途端とたんに、一本の光る抜身ぬきみが、やみの中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身をあと退いた。そのひまに、覆面をした、龕灯提灯がんどうぢょうちんげた男が、抜刀のまま、さい潜戸から大勢うちの中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数にんずはたしか八人とか聞いた。

龕灯提灯切戸 潜戸と同じです。
抜身 鞘(さや)から抜いた刀
龕灯提灯 強盗(がんどう)提灯とも書き、銅やブリキで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転できるろうそく立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えません。
抜刀 刀を鞘から抜くこと。その刀

 彼らは、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
 その事があって以来、私の家では柱をくみにして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束くろそうぞくを着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組きりくみにしてある柱かまるで分らなくなっていた。

軍用金 軍事上の目的で使う金銭。軍資金。幕末期に軍用金調達のための強盗や強迫事件は多かったといいます
小倉屋 酒屋。生け垣を隔てたお隣同士でした
不精無性 いやいやながら。現在は「不承不承」と書く
小判 江戸時代における金貨。
切り組 材木を切り組むこと。材木などを切って組み合わせる仕組み

 泥棒が出て行く時、「このうちは大変しまりの好いうちだ」と云ってめたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。
 私はこの話をさいから聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話ちゃうけばなしに聞いたのである。

締りの好い 倹約家。しまつや。
茶受話 茶飲み話

漱石公園と猫塚|早稲田

文学と神楽坂

 最初は昭和3年(1928)に立てられた一代目の猫塚です。まず夏目漱石氏が詠んだ句は

 此の下に稲妻起る宵あらん(句番号2085。猫塚の裏に書いた句)
 ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚(句番号2380)
 吾猫も虎にやならん秋の風(句番号2518)

 猫塚「吾猫も…」の猫は「吾輩は猫である」の猫と同じ猫かはわかりません。

 夏目伸六氏の『父・夏目漱石』で「猫の墓」についてこう書いています。

 一代目の猫塚 漱石公園確かに、この石塔は、私の母が、初代の猫を弔うために建てたのだけれど、実際を云うと、この猫だけを供養する積りで建てた訳ではないのである。というのも、今でこそ、戦火に焼かれて、その石面は、見分けのつかぬほどに焼けただれてはいるけれども、以前は、台石の表面に、猫をはさんで、犬と文鳥の3つの像が、仲良く刻み込まれていたのである。

 一番目の塔は3つの像はあったといいますが、下のほうが何かがあったのでしょうか、何も見えないように見えます。ただし、いまあるものよりも立派な9重の塔で、屋根のむくりもあります。より荘重で、より墓らしい場所なのでしょうか。

 母が、猫と犬と文鳥の遺骨を、1つにまとめて、すでに朽ちかけた墓標の代りに、九重の石塔を建てたのは、丁度、初代名無しの十三回忌にあたる年で、その台石の正面には、津田青楓さんの筆で、猫と犬と文鳥の像が、三尊式に、並んで彫りつけられていたのである。

 ところが第2次世界戦争で大空襲になり、どこを見ても塵や灰だという状態になります。このとき、猫の塔は

(第2次世界大戦の跡で)その眼に、空襲当夜のすさまじい火焔と熱気を、まざまざと石面に刻んで、すっかりぼろぼろに、周囲の欠け落ちた猫の塔だけが、未だに倒れもせず、夕日を浴びて、隅の方に立っているのが眺められた。

 現在の猫塚は二代目です。25年後の昭和28年、再度建立しています。

現在の猫塚 漱石公園

 これで、荘重さはどこにもなく、墓らしくない場所になりました。新宿区の職員がつくったものでしょうか。

 では1代目の猫塚の重要性といえば…1代目の猫の13回忌で夏目鏡子氏がつくったもの。不要性は…「吾輩は猫である」で有名な猫の死体がないこと。

 本来の猫塚では困る点は…まあそうだよね、どうせ嘘だからと、しらけた気分になる。本来の猫塚で困らない点は…まあそうだよね、どうせ嘘だし、それもいいんじゃないの。

 これまではほかを見るといっても他に見る物はなかったのが問題でした。2017年には張りぼての書斎と客間ができてきます。でも心の奥深くに猫塚は嘘だという叫びも実際ありますね。

 まあ、「今回は」嘘の猫塚でもいいんじゃないの。「将来は」変更の可能性を探る。と、これはいかにも大人で、まあこれも嘘だな。

[硝子戸]
[漱石雑事]

漱石と『硝子戸の中』16

文学と神楽坂

 十六

うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたつた一度そこで髪をつて貰った事がある。
 平生は白い金巾かなきんの幕で、硝子ガラスの奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立つて、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入つてくるのを見ると、手に持った新聞紙をほうしてすぐ挨拶あいさつをした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私のうしろへ廻つて、はさみをちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼はむか寺町郵便局そばに店を持つて、今と同じように、散髪を渡世とせいとしていた事が解った。
高田の旦那だんななどにもだいぶ御世話になりました」
その高田というのは私の従兄いとこなのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知つてるどころじゃございません。始終しじゅうとくとく、つて贔屓ひいきにして下すったもんです」
 彼の言葉づかいはこういう職人にしてはむしろ丁寧ていねいな方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚びっくりした調子で「へッ」と声をげた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつごろ御亡おなくなりになりました」
「なに、つい此間こないださ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄いとこについて、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日きのうの事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。

宅の前 うちはこのころは漱石山房でした。下の地図は明治40年のものです。青い丸で囲んだ場所が漱石山房です。小川は同じく青で書いてあります。「一間ばかり」は1.8メートルぐらいです。赤い丸は橋の候補です。2つあり、下の赤い丸は漱石山房に近く、『ここは牛込神楽坂』第10号に書いてある場所です。もう1つは上の赤い丸で、弁天町に近く、北野豊氏の『漱石と歩く東京』(雪嶺叢書)ででてくる場所です。2つの説があるわけです。
M40

 一番の説は『ここが牛込、神楽坂』第10号の「金之助少年の歩いた道を行く」で書いています。編集発行人の立壁正子氏と、先生、というのは「牛込のさんぽみち」の筆者高橋春人氏のことですが、2人の話があり、区立漱石公園が始まります。

 その先の坂を下りかけた左手が区立漱石公園。ここは「漱石山房」…漱石が最後に住んだ住居跡で(家は貸家だった)、中央に、漱石の胸像、右手後ろに石を積み重ねた猫の墓がある。これは漱石の死後、鏡子夫人が『吾輩は猫である』の主人公や犬、文鳥などを供養するために建て、戦災で焼けたのを修復したもの。これだけが当時をしのぶよすがとなっている。
 ここで漱石は『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』などを次々執筆した。木曜日には弟子たちが集まって山房は文学サロンとなった。でも、園内はひと気もなくそんな面影はない。「漱石終えんの地」という文字ももの悲しい。本来なら漱石記念館などあってしかるべきなのに。
 門を出、左へ坂を下ると小さな十字路に出る。「ほら、ここが例の小川だよ」という先生の説明に、え!と『硝子戸の中』を開く。
“宅の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度其処で髪を刈ってもらった事がある。”
 見逃すところだった。先生は「ここは暗渠になっているはず」と、そばのマンホールを覗きこむ。坂を横切る道の曲がり具合からもなるほどと納得。そして左角の印刷屋さんの先が「そう、床屋があったとこだね」

 第2の説は北野豊氏の『漱石と歩く東京』にあり

 当時、漱石山房の東側に弁天堂の裏手を流れてくる小川があり、宗参寺の東側で鍵の手に曲って、早稲田田圃の方へ流れ下りていた。その鍵の手に曲った辺りに、南北に轟橋という小橋が架けられ、この床屋はその向こう側にあった。

 第1の説と第2の説と、どちらがいいのでしょう。ここで、浅見潤氏が書いた『昭和文壇側面史』を読むと

“矢来の坂下から榎町通りを真直ぐいって、初めての十字路を左に柳町の電車の停留所の方に折れ、少し行くと右に曲がって弁天橋を渡る狭い路がある。これを少し行って、だらだら坂の途中の右手にあるのが、漱石の晩年に住んでいた、早稲田南町7番地の家である”
 小宮豊隆の言っているこの家だ。
(中略)
 小さな床屋も、弁天橋の袂にその儘残っていた。

と書かれています。これで第1の説が正しいとわかります。現在は暗渠になっていて、橋はなくなっていた場所が弁天橋の場所でした。

小川 名前がついています。「加二かに川」です。

金巾(かなきん) 平織りの綿。生地は薄く、のぼりの綿はほとんどこの金巾で作成しています。チェーン店の暖簾などでも多く使われています。
金巾
寺町 神楽坂6丁目は以前は通寺とおりてら町と呼びました。これと昔から名前は変わらない横寺よこてら町を併せて寺町と呼んでいました。
郵便局 図は大正11年の地図です。郵便局は〒で書かれ、神楽坂6丁目で今でいう新内横丁の西側に建っていました。現在は音楽之友社別館です。
T11郵便局
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・(ふさ)の夫です。
しっきゃ 「しか」。昨日の事と「しか」思われないのに。江戸なまりです。

「あのそら求友亭きゅうゆうていの横町にいらしってね……」と亭主はまた言葉をぎ足した。
「うん、あの二階のあるうちだろう」
「えゝ御二階がありましたつけ。あすこへ御移りになつた時なんか、方々様ほうぼうさまから御祝ひ物なんかあつて、大変御盛ごさかんでしたがね。それからあとでしたつけか、行願寺ぎょうがんじ寺内じないへ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那の真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは」

求友亭 きゅうゆうてい。昔は通寺町、今は神楽坂6丁目にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。求友亭の横町は「川喜田屋横丁」のことです。
成金横丁
行願寺 ぎょうがんじ。昔はここあたり一帯は正しくは行元寺(行願寺は誤り)の土地でしたが、ここは行願寺で書いておきます。行願寺は明治40年に品川区に引越ししています。
古老の地図 寺内(じない)へ引っ越し 図は新宿歴史博物館『新宿区の民俗』(5)牛込地区篇から。寺内というのは寺の境内で、ここでは行願寺の境内です。一種の自治集落でした。この高田氏の家は万長酒店の貸し家(家作(かさく))でした。住んだ場所は下の絵に。これは『ここは牛込、神楽坂』の第10号で出ています。今では神楽坂アインスタワーの一角になりました。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行願寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋(たび)屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です。
誰が袖 たがそで。誰袖とは「匂い袋」のこと。しかし、ここでは、待合「誰が袖」のこと。後に「三勝さんかつ」という名になります。さらに現在は神楽坂アインスタワーの一角に。これを詠んだ漱石氏の俳句…

誰袖や待合らしき春の雨
(岩波書店『漱石全集 第17番』、句番号2344。)

東屋 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

道草庵|漱石公園

文学と神楽坂

道草庵(みちくさあん)は漱石や山房の資料を展示しています。
正面には漱石の書籍が復刻本で7冊並んでいます。
復刻本
7冊について「春陽堂刊行『複製品』 夏目漱石著  橋口五葉 装丁」は全部同じです。

1.(うずら)(かご)   明治40年(1907)1月
『坊っちゃん』『草枕』『二百十日』の三篇を収めています
2.(くさ)(あわせ)   明治41年(1908)9月
朝日新聞に連載された『坑夫』と、「ホトトギス」に発表した『野分』の二篇を収めています
3.()()(じん)(そう) 明治41年(1908)1月
朝日新聞社に入社して最初に書いた作品です。連載中に、ここ漱石山房に転居して来ました。
4.(さん)()(ろう)  明治42年(1909)5月
『それから』『門』へと続く三部作の第一作。一人の青年を通じて当時の欧化主義を批判して注目されました。
5.()(へん)   明治43年(1910)5月
『文鳥』『夢十夜』『永日小品』『満韓ところヾ』という四篇の短篇や紀行文を収めています。
6.(もん)    明治44年(1911)1月
親友の妻を奪った主人公・宗助は、易者に過去の罪を指摘され驚きます。人の心の中に内在する罪の意識を描いた作品で、題名は小宮豊隆が命名しました。
7.()(がん)(すぎ)(まで) 大正元年(1912)9月
明治43年8月の修善寺の大患(胃潰瘍)を克服し、療養生活から復帰した漱石が、約2年ぶりに執筆した長篇小説。春陽堂からは最後の出版となりました。

橋口はしくち五葉ごようは版画家・装丁家で、明治14年(1881)~大正10年(1921)。 本名 橋口清。鹿児島市生まれ。鹿児島中学卒業後上京し、橋本雅邦に入門します。黒田清輝の白馬会研究所で洋画を学び、東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二らに師事しました。明治37年10月から、熊本で漱石に師事した実兄・橋口貢の推薦で「ホトトギス」に口絵・挿絵を掲載。翌年2月に『我輩は猫である』続編で挿絵を担当して漱石から賞賛され、単行本や「漱石山房」の原稿用紙のデザインを手掛けました。

また、壁のボードの正面は5枚並んでいます。左から
1.新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
2.主な作品
3.夏目漱石の生涯
4.漱石山房に集った人々
5.漱石山房に集った人々

新宿ゆかりの明治の文豪 夏目漱石
日本を代表する文豪「夏目漱石」は、慶応3年(1867)に牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)に名主の末子として生まれました。松山・熊本、英国留学など経て、大正5年に現在の新宿区早稲田南町の「漱石山房」で生涯をとじました。
英国留学を終えて帰国後、「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などを発表し、山房に移ってから「三四郎」や「それから」「門」「こころ」、そして最後の作品となる「明暗」(未完)など多数の作品を執筆しました。
山房は空襲で全焼し、現在、その跡の一部が漱石公園となっており、猫塚や漱石の胸像などがあります。
2007年に夏目漱石の生誕140年を迎えるにあたり、新宿ゆかりの文豪「夏目漱石」と、住まいとなった「漱石山房」を皆様にご紹介したします。
主な作品
発表年  執筆年齢     作品
1905年   37歳     『我輩は猫である』
      37歳     『倫敦塔』
1906年      39歳     『草枕』
      39歳     『坊っちゃん』 
       39歳     『二百十日』
1907年   39歳     『野分』
漱石山房で執筆した作品 
*漱石が早稲田南町の家(のちの漱石山房)に引越したのは、1907年9月。
       40歳     『虞美人草』  
 1908年   40歳     『坑夫』    
        41歳     『夢十夜』   
        41歳     『文鳥』    
        41歳     『三四郎』   
 1909年    42歳     『それから』  
 1910年   43歳     『門』     
 1912年   44歳     『彼岸過迄』  
          45歳     『行人』    
 1914年   47歳     『こころ』   
 1915年   47歳     『硝子戸の中』 
       48歳     『道草』    
 1916年   49歳     『明暗』(未完)

夏目漱石の生涯。ここにはいろいろな活動を書いていますが、ここは写真だけ。(ダブルクリックで拡大)。テキストは別のHTMLで。

「漱石山房に集った人々」は2つに分けてリストされます。

高浜虚子  たかはま きょし   明治7年~昭和34年(1874~1959)
俳人・小説家     愛媛県松山市出身
伊予尋常中学校で級友の河東碧梧桐を介して正岡子規に師事し、虚子の号を与えられる。明治30年、松山で創刊された俳句雑誌『ホトトギス』の経営を引き継ぎ、翌年東京に移る。漱石との親交は続き、神経衰弱に悩む漱石に小説を書くことを勧めたのも虚子であった。こうして「吾輩は猫である」と「坊っちゃん」は、『ホトトギス』に発表された。
寺田寅彦  てらだ とらひこ   明治11~昭和10年(1878~1935)
物理学者・随筆家   東京市麹町区(現、千代田区)出身
熊本の第五高等学校時代の教え子で、漱石の新婚家庭を訪ねて俳句の手ほどきを受けている。明治32年、上京し東京帝国大学物理学科に入学。卒業後は物理学者として活動するかたわら、科学と文学を調和させた随筆を数多く発表している。漱石の最古参の弟子であり、『吾輩は猫である』の寒月のモデルにもなっている。
小宮豊隆  こみや とよたか   明治17~昭和41年(1884~1966)
評論家・ドイツ文学者 福岡県京都郡犀川村(現、みやこ町)出身
明治38年、東京帝国大学独文科入学時に、従兄の紹介で漱石を訪ね、以後親交を結ぶ。卒業後は漱石の紹介で、森田草平らとともに朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。漱石没後は全集の編纂に携わり、また、東北大学教授・附属図書館長として漱石文庫の受入れに尽力した。これにより漱石の蔵書は戦災を免れることができた。
森田草平  もりた そうへい   明治14~24年(1881~1940)
小説家        岐阜県稲葉郡鷺山村(現、岐阜市)出身
東京帝国大学英文科卒業。明治38年に発表した処女作『病葉』の感想を漱石に求めたのをきっかけに漱石門下となる。明治41年3月、草平は平塚明子(雷鳥)と塩原で心中未遂を起こした際、漱石は草平を自宅に迎え、醜聞の渦中から彼を守った。この体験を書いた小説『煤煙』は、朝日新聞の「文芸欄」第一回に掲載された。

鈴木三重吉  すずき みえきち  明治15~昭和11年(1882~1936年)
小説家・児童文学者 広島県広島市出身
東京帝国大学英文科卒業。在学中に自作「千鳥」を漱石に送り、その推薦により『ホトトギス』に掲載されたことを機に漱石門下となる。多忙な漱石に「木曜会」を提案したのは彼であった。大正7年、児童文学誌『赤い鳥』を創刊、児童文学運動をリードした。
安部能成   あべ よししげ   明治16~昭和41年(1883~1966年)
評論家・哲学者   愛媛県松山市出身
第一高等学校で漱石に師事し、東京帝国大学哲学科卒業後、森田草平・小宮豊隆らと朝日新聞の「文芸欄」で活躍する。後に第一高等学校校長、文部大臣、学習院院長を務める。喜久井町の漱石生誕の地の記念碑の題字は、能成の筆によるものである。
内田百閒   うちだ ひゃっけん 明治22~昭和46年(1889~1971年)
小説家・随筆家   岡山県岡山市出身
第六高等学校在学中に『老猫』という作品を漱石に送り、評価される。東京帝国大学独文科在学中、長与胃腸病院に入院中の漱石を訪ね、木曜会への出席を許される。
和辻哲郎   わつじ てつろう  明治22~昭和35年(1889~1960年)
哲学者・文化史家  兵庫県神崎郡仁豊野(現、姫路市)出身
第一高等学校時代には、教室の窓の外から授業を聞くほど漱石に心酔した。東京帝国大学哲学科卒業後、漱石門下となる。『古都巡礼』『風土』などの著作で知られる。
芥川龍之介  あくたがわ りゅうのすけ 明治25~昭和2年(1892~1927年)
小説家       東京市京橋区(現、中央区)出身
大正4年、漱石の死の前年に、東京帝国大学英文科の同級生である久米正雄と共に漱石山房を訪れる。漱石は『鼻』を絶賛し、龍之介を感動させた。

高浜虚子を除き、全員東京帝国大学の生徒です。安部能成は文部大臣(これは驚き)や学習院院長を勤めあげています。 右側の壁には「猫塚」と「漱石山房」、「『漱石山房』に関する新宿区の取組み」が出てきます。

猫塚(ねこづか)
漱石没後の大正8年(1919)、『吾輩(わがはい)は猫である』のモデルとなった猫の十三(じゅうさん)(かい)()にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔(くようとう)。『文鳥』という作品で、その死が描かれた文鳥など、夏目家のペットの合同供養塔であった。
九重の層塔(そうとう)で、意匠(いしょう)は漱石作品の装丁(そうてい)も手がけた画家の津田(つだ)青楓(せいふう)による。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元(ふくげん)されたものである。
猫塚を清掃する早稲田小学校の児童たち(昭和42年12月9日)
「猫塚」復元除幕式
この写真は、昭和28年(1953)12月9日、漱石山房跡(現在の漱石公園)で行われた「猫塚」復元除幕式の様子を撮影したフィルムから構成したものです。戦災で倒壊した猫塚が、漱石の37回目の命日に再建されたもので、式典には鏡子夫人や長男の純一氏、弟子の小宮豊隆・安部能成らが出席しており、その姿がフィルムに収められています。
夏目(なつめ) 鏡子(きょうこ) 明治10~昭和38年(1877~1963)
夏目漱石の妻。戸籍(こせき)名はキヨ。貴族院書記官長・中根(なかね)重一(じゅういち)の長女として広島県に生まれる。
明治28年(1895)漱石と見合いをし、翌年熊本の第五高等学校に赴任(ふにん)していた漱石と結婚した。2男5女(筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子)をもうける。漱石の没後、夫との生活ぶりを口述(こうじゅつ)し、長女・筆子の夫で漱石の弟子でもあった松岡(まつおか)(ゆずる)筆録(ひつろく)した『漱石の思い出』が出版されている。
漱石山房
夏目漱石は、明治40年(1907年)、早稲田南町に引越してきました。漱石は、この場で多くの有名な作品を生み、大正5年、49歳で「明暗」執筆中に亡くなるまで住み続けました。この、漱石が晩年を過ごした家と地を「漱石山房」といいます。
「漱石山房」の家はベランダ式の回廊のある広い家で、奥に板敷きの洋間がありました。漱石は、この洋間に絨毯を敷き紫壇の机と座布団をしつらえて書斎としていました。
漱石は面会者がとても多かったので、面会日を木曜日と決め、その日は午後から応接間を開放し、訪問者を受け入れました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、近代日本では珍しい文豪サロンとして、若い文学者たちの集いの場所となり、漱石没後も彼らの精神的な砦となりました。
「漱石山房」の変遷と漱石公園の整備

 

3.「猫塚」復元除幕式の映像。ビデオです。見たい場合は頼んでみましょう。約20分。漱石号
漱石山房の小冊子4.小冊子。「漱石山房秋冬」と「漱石山房の思い出」はただでもらえます。ただし、残りは僅かだと聞いています。

神楽坂の通りと坂に戻る

漱石と『硝子戸の中』19

文学と神楽坂

十九

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、そのじつ小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、さびってかつさむしく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引しゅびきうちか朱引外か分らない辺鄙へんぴすみの方にあったに違ないのである。

馬場下 馬場下町で、東京都新宿区の町名です
宿場 江戸時代、街道の要所要所にあり、旅行者の宿泊・休息で宿屋・茶屋や、人馬の継ぎ立てをする設備をもった所。
高田の馬場 東京都新宿区の町名
朱引 江戸の図面に朱線を引いて、府内(江戸市内)と府外(郡部)を分けたもの。朱引内は江戸の管轄内、朱引外は管轄外です。馬場下はかろうじて朱引内(江戸市内)になっています(図)。一方、高田の馬場は朱引外です。

馬場下

それでも内蔵くらづくりうちが狭い町内に三四軒はあつたろう。坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛おうみやでんべえという薬種屋やくしゅやなどはその一つであった。それから坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北おきたさんの長唄ながうたは何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私のうちの玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ひるすぎなどに、私はよく恍惚うっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、御北さんの御浚おさらいを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をたせて、佇立たたずんでいた事がある。その御蔭おかげで私はとうとう「旅のころも篠懸すずかけの」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
近江屋 『吾輩は猫である』第7章でも「近江屋」は登場します。『猫』に出てくる爺さんの言葉を引用すると…

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした」
御北さん 『草枕』では「御倉さん」として登場します。

小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

内蔵造 土蔵づくりの家。土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った家屋。倉のように四面を壁で作った家屋。
薬種屋 薬を調合・販売する店。平成21年施行の改正薬事法で登録販売者制度が創設し、薬種商制度は廃止に。
小倉屋 延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下の辻で開業。元禄7年(1694年)、二代目半右衛門の頃、堀部安兵衛は高田馬場の決闘の前に、小倉屋に立ち寄り升酒を飲みました。
渡辺翠氏の「高田馬場の仇討」では、江戸時代、米の酒は奈良でしか作られず、江戸では1升3万円かかったそうで(若松地域センター「地域誌 このまちに暮らして」平成9年)、芋酒を飲んだといいます。またこの升は現在まで帛紗に包まれて貸金庫に保管されているそうです。
倉造り 土蔵づくりの家。内蔵造と同じ。
堀部安兵衛 赤穂事件四十七士のひとり。
枡酒 枡に盛って売る酒
長唄 古典的な三味線歌曲
篠懸 修験者(しゅげんじゃ)が衣服の上に着る麻の法衣。この文言は長唄「勧進帳」の歌い出しです。

このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋かじやも一軒あった。少し八幡坂はちまんざかの方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃもあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋とんやの仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際つきあいからいうと、まるで疎濶そかつであった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄あいだがらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水ていすいと好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞ひとぎきに聞いて覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立やたてと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にげて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ、、、だのがれん、、、だのという符徴ふちょうを、ののしるように呼び上げるうちに、しょうが茄子なすとう茄子のかごが、それらの節太ふしぶとの手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。

八幡坂

棒屋 樫材の木工品を作る家。臼、まな板のみならず、大型水車や荷車も作りました。木工品ならなんでもつくったようです。
鍛冶屋 金属を打ち鍛え、諸種の器具をつくることを仕事とする人
八幡坂 高田町の坂。馬場下町から西北に向かいます。西に穴八幡神社があります。下は馬場下町と穴八幡幡神社を地下鉄早稲田駅前から見たものです。八幡坂
やっちゃ場 青物市場のこと。「大言海」(昭和7-10年)によれば「やっちゃば」は「やさいいちば」から訛ったものではないかという。
貞水 講釈師真龍斎貞水のこと
矢立 矢立(すずり)と筆を一つの容器におさめた筆記用具。
ろんじ 六の合い言葉
がれん 五の合い言葉

 どんな田舎いなかへ行ってもありがちな豆腐屋とうふやは無論あった。その豆腐屋には油のにおいんだ縄暖簾なわのれんがかかっていて門口かどぐちを流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗きれいだった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺せいかんじという寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門のうしろは、深い竹藪たけやぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤おつとめかねは、今でも私の耳に残っている。ことにきりの多い秋から木枯こがらしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくてつめたい或物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。
豆腐屋 『二百十日』では圭さんの幼時の経験として出てきます。

「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒豆腐屋とうふやがあってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」(中略)
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆をうすく音がする。ざあざあと豆腐の水をえる音がする」
しょう 鉦中国・日本・東南アジアなどで用いられる打楽器。銅や銅合金製の平たい円盤状で、撞木しゅもくばちで打ちます。カンカンと鳴るようです。

ふたたび『二百十日』の圭さんの幼時の経験です。

「豆腐屋があって、その豆腐屋のかどから一丁ばかり爪先上つまさきあがりに上がると寒磬寺かんけいじと云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪おおたけやぶばかり見えて、本堂も庫裏くりもないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だかかねたたく」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんとかすかに敲くのさ。冬の朝なんぞ、しもが強く降って、布団ふとんのなかで世の中の寒さを一二寸の厚さにさえぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃いしだたみと、倒れかかった山門さんもんと、山門をうずめ尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかをのぞいた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具のうち海老えびのようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」

縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。転じて、居酒屋・一膳飯屋などのこと。
門口 家や門の出入り口
西閑寺 喜久井町にある誓閑寺のこと。今では小さな小さな寺になっています。誓閑寺の梵鐘は天和2年(1682)製作。区内最古の梵鐘です。文化財は2つあります。
御勤 おつとめ。御勤め。仏前で読経すること。勤行ごんぎよう

誓閑寺

漱石と小倉屋|牛込馬場下

文学と神楽坂

 牛込馬場下の()(くら)()は酒店で、延宝4年(1678年)、初代小倉屋半右衛門が牛込馬場下のつじで開業しました。
堀部安兵衛の酒升

 元禄7年(1694年)、小倉屋は2代目で、堀部安兵衛は小倉屋に立ち寄り、升酒を飲み、高田馬場の決闘に急ぎました。米の酒は奈良でしか作られない江戸時代、1升は今の金額で3万円。そこで芋酒を飲んだといいます(平成9年、渡辺翠氏『高田馬場の仇討』、若松地域センター『地域誌 このまちに暮らして』)。また堀部安兵衛の升は現在まで帛紗ふくさに包まれて貸金庫に保管されているそうです。
 う~ん、升に残った芋焼酎も金庫にねむっているわけで、なにか立派になった気がします。

 四つ辻。十字路
帛紗 方形の絹布。進物の上にかけたり物を包んだりする。茶の湯では、道具をぬぐったり盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。

 さて『吾輩は猫である』第7章では「近江屋」が登場します。

「ゆうべ、近江屋おうみやへ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸のくぐりの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずにんだげな。御巡おまわりさんか夜番でも見えたものであろう」とおおいに泥棒の無謀を憫笑びんしょうした

 また、1907年(明治40年)の『僕の昔』では「小倉屋」がでています。

父親おやじは馬場下町の名主なぬしで小兵衛といった。別に何も商売はしていなかったのだ。何でもあの名主なんかいうものは庄屋と同じくゴタゴタして、収入などもかなりあったものとみえる。ちょうど、今、あの交番――喜久井町きくいちょうを降りてきた所に――の向かいに小倉屋おぐらやという、それ高田馬場の敵討あだうちの堀部武庸たけつねかね、あの男が、あすこで酒を立ち飲みをしたとかいうますを持ってる酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家いえがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。

 1915年(大正4年)の『硝子戸の中』14でも「小倉屋」がでています。

(泥棒)は、ひとあやめるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金をせと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今かど小倉屋こくらやという酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性ふしょうぶしょうに、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
(略)その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日からかすきずがいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしてもうちにはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文もられずにしまった。

『硝子戸の中』19でも小倉屋は登場します。

坂をった所に、間口の広い小倉屋こくらやという酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛ほりべやすべえが高田の馬場でかたきを打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒ますざけを飲んで行ったという履歴のある家柄いえがらであった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるといううわさの安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。

吟醸酒

 なお、小倉屋にはこれ以外のほかのアルコールもはいっています。特筆するものは、ここの商店会連合会の「地ビール早稲田」、早稲田大学・京都大学の「ホワイトナイル」ビール、「ブルーナイル」ビール、吟醸酒「夏目坂」と吟醸酒「高田馬場 堀部安兵衛」などです。

神楽坂の通りと坂に戻る

小倉屋

文学と神楽坂

漱石と『硝子戸の中』20|矢来町

文学と神楽坂

      二十

この豆腐屋の隣に寄席よせが一軒あったのを、私は夢幻ゆめうつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場ひとよせばのあろうはずがないというのが、私の記憶にかすみをかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人あるじというのは、町内の鳶頭とびがしらで、時々目暗縞めくらじまの腹掛に赤いすじの入った印袢纏しるしばんてんを着て、突っかけ草履ぞうりか何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤おふじさんという娘があって、その人の容色きりょうがよくうちのものの口にのぼった事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子を貰ったが、それが口髭くちひげやした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席よせもやめて、しもうたになっていたようであるが、私はそこのうちの軒先にまだ薄暗い看板がさむしそうにかかっていた頃、よく母から小遣こづかいを貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟なんりんとかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男のうちはどこにあったか知らないが、どの見当けんとうから歩いて来るにしても、道普請みちぶしんができて、家並いえなみそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし 花魁おいらんえ、と云われてはしなんざますえとふり返る、途端とたんに切り込むやいばの光」という変な文句は、私がその時分南麟からおすわったのか、それともあとになって落語家はなしかのやる講釈師真似まねから覚えたのか、今では混雑してよく分らない。

人寄場 日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。
鳶頭 土木・建築工事に従事する人の長、かしらです。明治以降も消防職員の俗称として使われました。
目暗縞 経糸緯糸とも紺染めにした最も細かい綿糸で織った無地の木綿の織物です。
印袢纏 襟・背などに,家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から,職人などが着用しました。
めくらじまと半纏
突っかけ草履 草履を足の指先にひっかけるようにして無造作に履くこと。
しもうた屋 仕舞た屋 (シモタヤ)と同じ。商店でない、普通の家。
南麟 講釈師の田辺南麟
見当 大体の方向・方角
道普請 道路を直したり、建設したりすること。道路工事
家並 立ち並んでいる家。その並び方。家ごと。どの家もみな。軒並み。よその家と同じ程度。世間なみ。
もうし 申し申し。もうしもうし。人に呼びかける時に用いる語。もしもし。
花魁 吉原遊廓の遊女で最高妓。広く遊女一般を指して花魁ということもある。
八ツ橋 元禄年間(1688~1704)百姓次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を殺した事件があった。多くの講談や戯曲になった。岩波書店の漱石全集によれば、「野州(栃木県)佐野の百姓次郎左衛門が江戸吉原大兵庫屋の花魁ハツ橋を殺害した江戸享保頃の事件は、『佐野八ツ橋』と称されて多くの小説や戯曲に作られた。ここで述べられているのは、その話を講談に仕組んだもの。歌舞伎脚本『籠釣瓶(かごつるべ)花街(さとの)酔醒(ゑひざめ)』(三世河竹新七作。明治二十一年初演)が有名。」
講釈師 軍談や講談の講釈を職業とする人。講談師。軍談師。小さな机の前に座り、張り扇でそれを叩いて調子を取りつつ、主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げること

当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠ちゃばたけとか、竹藪たけやぶとかまたは長い田圃路たんぼみちとかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂かぐらざかまで出る例になっていたので、そうした必要にらされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来やらいの坂あがって酒井様の見櫓みやぐらを通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森いんしんとして、大空が曇ったように始終しじゅう薄暗かった。

矢来の坂  もちろん、牛込天神町交差点から東に上がって南に牛込中央通りがでるまでの通りですが、ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では違ったことが書いてあります。

滝の坂(たきのさか) 早稲田通から榎町四〇と四一番の間を南に上る坂で、坂上東に浄土宗大願寺がある。現矢来町一帯は、江戸時代は小浜藩主酒井氏の邸地で、明治維新後に分譲されて住宅地帯となった。……矢来の坂というのは現早稲田通りのことではなく、この滝の坂のことであったといわれ、酒井邸がまだ分譲されない明治初年のこのあたりの情景であった。

 しかし、子供の漱石が「矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出よう」とする場合、滝の坂だとすると方向は全く違います。やはり矢来の坂というのは現早稲田通り、交差点「牛込天神町」の坂のことでしょう。これから上に行って酒井様の火の見櫓を通るのでしょう。
矢来町 歴史 江戸時代
交差点「牛込天神町」
酒井様の火の見櫓 どこにあったのでしょうか。江戸時代の地図(上を見て下さい)を見ると、まず穴あき四角で書いたものは「自身番屋」です。自身番は町内警備と火の番を主な役割としています。火の見櫓もここに建てました。その後の文章で「町の曲り角に高い梯子が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった」を読んでも、ここ「自身番屋」でしかありません。自身番屋は末寺横丁と矢来下の交叉するところにありました。
寺町 「とおり寺町」と「横寺町」の2つをまとめて呼びます。ただし、通寺町を簡易にして寺町と書く場合もあったようです。自身番屋を越えると、まっすぐだと通寺町から神楽坂に行き、右に曲がると横寺町です。漱石の時代では通寺町ですが、今では通寺町は神楽坂6丁目に名前が変わっています。なお、自身番屋の左側は「矢来町」、右側は「通寺町」です。
五六町の一筋道 5町は545メートル、6町は655メートルです。交差点「牛込天神町」から真っ直ぐ行って曲がるまで、つまり音楽の友ホールの前で曲がるまで、約470メートルです。現在は早稲田通りの道幅は大きくなって、さんさんと太陽が照り、陰惨ではないでしょう。しかし、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社)ではこう書いています。

酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったか、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治三十五年九月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “樹木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。”

矢来町 漱石 現代

あの土手の上に二抱ふたかかえ三抱みかかえもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間すきま隙間をまた大きな竹藪でふさいでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄ひよりげたなどを穿いて出ようものなら、きっと非道ひどい目にあうにきまっていた。あすこの霜融しもどけは雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭にんでいる。
 そのくらい不便な所でも火事のおそれはあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子はしごが立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋いちぜんめしやもおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾なわのれんの隙間からあたたかそうな煮〆にしめにおいけむりと共に往来へ流れ出して、それが夕暮のもやけ込んで行くおもむきなども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かなという句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

HinomiYagura_06g4599sx日和下駄 もとは平足駄ひらあしだと呼んで、歯が低い足駄。晴天に使用された。
半鐘 火の見櫓ではよく見られる小型の釣り鐘。
一膳飯屋 一膳飯(盛り切りの飯)を食べさせる簡易食堂。
縄暖簾 縄をいく筋も垂らして、すだれとしたもの。なわのれん。店先に縄暖簾を下げたところから、居酒屋や一膳飯屋などのこと
煮〆 にしめ。煮染め。根菜・いも類・干ししいたけ・鶏肉・高野豆腐・こんにゃくなどに、しょうゆを主に砂糖・みりんなどで味つけした煮汁をしみ込ませ、煮汁の色がつくまで時間をかけて煮た、味の濃い煮物。おせちにも使う。
 おもむき。風情(ふぜい)のある様子
半鐘と並んで高き冬木哉 明治29年(1896)の作。

漱石と『硝子戸の中』21

文学と神楽坂

二十一

私の家に関する私の記憶は、そうじてこういう風にひなびている。そうしてどこかに薄ら寒いあわれな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間こないだ、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出はでな暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
 その頃の芝居小屋はみんな猿若町さるわかちょうにあった。電車もくるまもない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半よなかに起きて支度したくをした。途中が物騒ぶっそうだというので、用心のため、下男がきっとともをして行ったそうである。
 彼らは筑土つくどを下りて、柿の木横町から揚場あげばへ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期にちた心をもって、のろのろ砲兵工厰ほうへいこうしょうの前から御茶の水を通り越して柳橋までがれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。

猿若町 江戸末期の芝居町。現在の東京都台東区浅草6丁目。ここには江戸三座(中村座、市村座、森田座)を初めとして常設の芝居小屋がありました。しかし明治政府は三座に移転を勧告し、関東大震災でほぼなくなります。
浅草の観音様 東京都台東区にある浅草寺(せんそうじ)の通称
きっと 屹度、急度。話し手の決意や強い要望などを表す。確かに。必ず。
明治8年の揚場 筑土 東京都新宿区にある地名。津久戸(つくど)町なのか、または筑土(つくど)八幡町なのか、明治8年の地図のように「つく土前丁」なのか、はたまた、大まかにここいら全体を指すのでしょうか。おそらく全体を指すのでしょう。
柿の木横町 『新宿区町名誌』では「(揚場町と)下宮比町との間を俗に柿の木横町といった。この横町の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があった。幹の周囲一メートル、高さ十メートルの巨木で、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞讃したので有名になり、そのことから名づいた」
揚場 船荷を陸揚げする場所。以上を明治8年の地図を使って書いています。
砲兵工厰 陸軍造兵廠の旧称。陸軍の兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した軍需工場。東京砲兵工厰は広大な土地を所有し、高速道路の飯田橋を越えたところから、白山通りの水道橋交差点まで川から見えるものはすべて砲兵工厰でした。このなかには小石川後楽園もはいっていました。しかし一般には公開されず、国家的な慶事の場合や、公的な園遊会の場合にのみ使っていました。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は後楽園球場となりました。 砲兵工厰
御茶の水 東京都千代田区北部(神田駿河台)から文京区南東部(湯島)にかけての地名。行政名ではありません
柳橋 東京都台東区南東部の地名。柳橋はAで書いてあります。ようやく船の中間地点になったのです。柳橋は船宿があり、芸者町でもありました。
全行程

大川へ出た船は、流をさかのぼって吾妻橋あずまばしを通り抜けて、今戸いまど有明楼ゆうめいろうそばに着けたものだという。姉達はそこからあがって芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間たかどまに限られていた。これは彼らの服装なりなり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。

大川 東京都を流れる隅田川で吾妻橋から下流の通称
吾妻橋 隅田川に架かる橋のひとつ
今戸 東京都台東区北東部の地名。隅田川西岸の船着き場として栄えました。
浅草猿若町有明楼 今戸橋のたもとにありました。成島柳北『柳橋新誌』(刊行は1940年)では

 江戸の開府以来、都下の名妓で容色は絶倫、技芸にも通ぜざるなく、名を草紙紙に伝え、跡を芝居に残すものは数知れぬほど多い。しかし、現今はしからず、一統みな拮抗して、一人として群を越えて抜きんでた女人がいない。 強いて一人を挙げてみれば、両国橋東のお菊といえようか。かれに傾国の容色、絶世の技芸があるわけではない。かよわい女手で隅田川の西に宏大な料亭を営み、扁額をあげて有明楼という。有明楼の名は都下に鳴り響いている。豪興の士も風流の客も、この楼閣に遊ばぬものはない。

芝居茶屋 江戸から明治・大正期まで劇場付近で観劇客に各種の便宜を供した施設。江戸の芝居見物は早朝から夜までかかり幕間も長く、快適な観劇を望む客は多く茶屋を利用しました。また桟敷などで観劇するためには茶屋を通すほかなかったといいます。芝居茶屋の構造は2階建て。軒にのれん,提灯がかかり,内部の座敷が表から見える造りになっています。観劇のため早朝芝居茶屋に到着した客は休憩後茶屋の草履をはき劇場の桟敷席に案内しました。
高土間 観客席が(ます)形式の時代の劇場では1階の東西桟敷の前通りに、土間より一段高く設けられた席。

幕の間には役者にいている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬ちりめんの模様のある着物の上にはかま穿いた男のあといて、田之助たのすけとか訥升とっしょうとかいう贔屓ひいきの役者の部屋へ行って、扇子せんすなどをいて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄みえだったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
 帰りにはもと来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心ぶようじんだからと云って、下男がまた提灯ちょうちんけてむかえに行く。うちへ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半よなかから夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
 こんな華麗はなやかな話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
 もっとも私の家も侍分さむらいぶんではなかった。派出はで付合つきあいをしなければならない名主なぬしという町人であった。私の知っている父は、禿頭はげあたまじいさんであったが、若い時分には、一中節いっちゅうぶしを習ったり、馴染なじみの女に縮緬ちりめん積夜具つみやぐをしてやったりしたのだそうである。青山に田地でんちがあって、そこから上って来る米だけでも、うちのものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米をく音を始終しじゅう聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関げんか玄関ととなえていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒つくぼうや、袖搦そでがらみ刺股さつまたや、また古ぼけた馬上ばじょう提灯などが、並んでけてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

ちりめん田之助 三代目沢村田之助。歌舞伎俳優。1845~78年。人気役者でした。
訥升 三代目沢村訥升。歌舞伎俳優。1838~86年。
侍分 武士階級
名主 領主の下で村政を担当した村の長。身分は百姓だが、在地有力者が多い
一中節 三味線の一流派。浄瑠璃節の一種。
縮緬 表面に細かいしぼ(凹凸)のある絹織物
式台1積夜具 遊郭で、馴染(なじみ)客から遊女に贈られた新調の夜具を店先に積んで飾ったもの
三番目の兄 直矩(なおたか)です。9歳年上。捕具
式台 玄関先に設けた板敷きの部分
玄関付の家 江戸時代、町人階級では名主だけが玄関を作ることを許されていた。
突棒、袖搦、刺股 捕手(とりて)が下手人を捕らえるために使った3つ道具。捕具
馬上提灯上提灯 乗馬で使う提灯。丸形で、腰に差すように長い柄がある

矢来屋敷 矢来公園 石畳と赤城坂[昔] 駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 魚浅 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 寺内公園 神楽坂5丁目 4丁目 3丁目
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漱石と『硝子戸の中』23

文学と神楽坂

二十三

 今私の住んでいる近所に喜久井町きくいちょうという町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪ひょうろうして帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来ねごろの方まで延びていた。

喜久井町 東京都新宿区の町名。新宿区ではかなり大きな町で、早稲田から柳町に行く場所のほぼ半分を占めています。昭和22年の地図で見れば、右下は「市谷柳町」で、それから左上に行くと、「原町」の「1丁目」、「辨天町」(現在は弁天町)があり、その上に「喜久井町」、夏目坂を通り、「馬場下町」、それから「高田町」に行きます。なお、現在は「高田町」はありません。
喜久井町
私の生れた所 酒店・小倉屋を南東に向かって歩くとすぐに「夏目漱石誕生之地」の石碑があります。
漂浪 さまよいあるくこと。放浪
根来 江戸時代には弁天町と原町1丁目の代わりに根来町があり、そこには根来組という先手組屋敷があり幕府の鉄砲隊の1つでした。現在は新宿区弁天町と原町1丁目の一部で、南東部にあります。これは江戸末期の牛込弁財町絵図です。
根来町

 私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出すなつかしい響を私に与えてくれない。しかし書斎にひとり坐って、頬杖ほおづえを突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想れんそうが、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく彽徊(ていかい)し始める事がある。

縁故 えんこ。血縁や姻戚などによるつながり。人と人とのつながり。よしみ。縁
彽徊 一つの事をつきつめて考えずに、余裕のある態度でいろいろと思考すること。

 この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父がこしらえたものに相違ないのである。
 私の家の定紋じょうもん井桁いげたに菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものからおすわったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主なぬしがなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由もいたかも知れないが、それをほこりにした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、いやな心持はくに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。

定紋 家で定まった正式の紋
井桁に菊 図を井桁に菊

 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。

夏目坂 坂の下は早稲田通りと交わる点です。早稲田通りは都道なので、区道はそこで終わりです。
夏目坂通り

 では、坂の上は? まず区はどういっているのでしょうか。残念ながら区は「夏目坂通り」についてしかいっておらず、「夏目坂」についてはなにもいっていません。ちなみに「夏目坂通り」はここから南の若松町交差点にいたる坂道をいっています。しかし、昔の「夏目坂通り」を見ると通りの幅は狭く、途中で90度も曲がっています。

 結局、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』の122頁の図が最もいいのでしょう。これは、夏目坂通りが南に流れを変えるその地点、三叉点までを夏目坂とするものです。はい。

石川悌二書『東京の坂道-生きている江戸の歴史』122頁

 しかし、まあ、夏目坂の上をはっきり言うなんて困難なのです。坂は正確にどこで、どうやって終わるのか、わかりません。なお、夏目坂について標柱があり、説明もあります。

 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになった。

夏目坂

 私が早稲田わせだに帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居すまいに移る前、うちを探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦ふるがわらが少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表からのぞくと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板がかかっていた。私は昔の早稲田田圃たんぼが見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来ねごろ茶畠ちゃばたけ竹藪たけやぶ一目ひとめ眺めたかった。しかしその痕迹こんせきはどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当けんとうは、当っているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。

早稲田田圃 早稲田は昔田んぼが広がっていました。神田川がよく洪水をおこすので早く収穫できる早稲種を植えたといいます。この写真は早稲田の田圃と東京専門学校(のちの早稲田大学)の校舎です。

早稲田の田圃

https://www.waseda.jp/top/news/61287

茶畠 茶の木を植えた畑。茶園

 私は茫然ぼうぜんとして佇立ちょりつした。なぜ私の家だけが過去の残骸ざんがいのごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれがくずれてしまえば好いのにと思った。
「時」は力であった。去年私は高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗きれいに取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。そのそばには質屋もできていた。質屋の前にまばらなかこいをして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児きけいじのようになっていたが、どこか見覚みおぼえのあるような心持を私に起させた。むかし「(かげ)参差しんし松三本の月夜かな」とうたったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。

高田 高田町は馬場下町に接してその西北部でした。 穴八幡神社があるので有名です。 先ほど見た地図は、昭和22年に製作したので、 この地図に高田町はちゃんと載っています。 1975年(昭和50年)6月、新しい住居表示の ため消滅し、現在は西早稲田二丁目の一部に なっています。
三本の松 『草枕』の第七章にでてきます。

 小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。

影参差松三本の月夜かな 漱石自身の俳句です。明治28年の作
参差 参差とは長短・高低入り混じり、ふぞろいな様子

夏目漱石誕生の地|早稲田

文学と神楽坂

 三角形の大きな石碑には「夏目漱石誕生之地」、その左側に小さく「遺弟子安倍能成書」と書いてあります。

漱石生誕の地

 また、石碑の下部には

夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者文豪として不滅の業績を残し大正5年(1916)12月9日新宿区早稲田南町七において没す 生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ

 また右側には

昭和41年2月9日
夏目漱石生誕百年記念
     新宿区建之

 また説明板もあります。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定史跡
(なつ)()漱石(そうせき)誕生(たんじょう)()
所 在 地 新宿区喜久井町一番地
指定年月日 昭和六十一年十月三日
 文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の5男3女の末子としてこの地に生れた。
 夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
 漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。
 なお、この地での幼少時代のことは大正四年に書かれた随筆『硝子戸の中』に詳述されている。
 また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
  平成3年11月
東京都新宿区教育委員会
[漱石雑事]

喜久井町|夏目漱石

文学と神楽坂

 明治20年の喜久井町の地図を見ていきましょう。相当に広く、しかも原っぱなども多くなっています。番地は1番地から36番地までが右側で、下に行くほどその番号は大きくなり、それから、道の反対側に行き、上って、37番地から67番地まで行きます。
 この番号は少なくとも東京ではありふれた付け方です。アメリカでも同じような順番です。
 喜久井町の名主は夏目家です。夏目家は1番地に住んでいました。この地図で1番地はピンクで書いてあります。

喜久井町

『まちの手帳』17号の「生家跡在住 加藤利雄さんに聞く。早稲田・喜久井町と夏目家」で谷口典子氏はこう書いています。

明治三十年に漱石の父が亡くなると、兄直矩(なおかた)は家作百五十坪を、永田町に住む天谷(あまや)永孝氏に八千二百五十円あまりで売却、神楽坂の寺内に移り住み、喜久井町と夏目家の関わりはここで途絶えた。その後、旧夏目家の母屋は下宿屋(明月館)となった。大正初年頃、その母屋が取り壊され、下宿が建て替えられつつあるのを偶然目にした漱石は、夏目家の三本の松が、変な形に刈り込まれていることに気がつき、感慨を深くしている。(中略)
昭和二十一年、国語の先生から喜久井町のどこかに漱石の生家があったことを教わり探索をはじめたのが、現在生家跡に住み、地域と漱石の絆を深める活動を続けておられる加藤利雄さんである。当時早稲田中学四年だった加藤少年は、同じ町内の友人とその場所を探すうちに、加藤家のはす向かいで代々大工を営む大倉(だいくら)老人と知りあい、「それは、今、あんたんちがある場所だよ」と教わる。
「あんたんちの裏にレンガ造りの壁があるだろう。あれは、夏目さんちの土蔵跡だよ。夏目さんの後に住んだ人が住居に改造して使っていたんだ。金之助(漱石)さんは私より五~六歳年上だったが、子供の頃よく遊んでもらったもんだ。大変ハイカラな人で、またガキ大将で近所の子供を集めては当時、珍しかった野球道具をそろえて戸山ケ原で野球をやったもんだ。白絣に紺の袴、高下駄をはいて本郷の帝大まで歩いて通っていたのが今でも目に浮かぶ。絵が得意だったようで、よく写生なんかしていたが、帝大に通っていたころ私を描いてくれた肖像画を大事に保存していたが、この戦災で焼いてしまったよ」(中略)
夏目坂に沿って1軒ずつ割り振ってつけた番地がいまも使われている。千坪のお屋敷跡に、五十軒近くの家が建てられているのだから、漱石は知ったら「気が利かぬ」と笑うことだろう。昭和四十一年、喜久井町1番地、すなわち「漱石生家跡」の1画を加藤氏が提供、そこに新宿区による石碑が建てられ、除幕式には漱石の長男次男夫婦と弟子の安部能成が出席した。

 江戸時代、喜久井町の屋敷には松平越後守が住み、また、普通の町もありました。明治になると、屋敷は野原に変わりましたが、普通のお店や酒店は江戸時代同様栄えていきます。
 一方、漱石は1907年(明治40年)の『僕の昔』で……

ちょうど、今、あの交番――喜久井町きくいちょうを降りてきた所に――の向かいに小倉屋おぐらやという…酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家いえがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。

 この「そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった」というのは、1番地ではない感じです。何か違っているような気がしますが、しかし、これ以上なにもいえません。
 また、『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)では、実際の地図が出ていますが、あくまでも想像図でしょう。やはり『僕の昔』とは違っています。右下の地図には「同馬場下横丁」と出ているだけです。

夏目漱石博物館

夏目漱石博物館

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文学と神楽坂

夏目漱石

漱石公園|早稲田

文学と神楽坂

 まず全体を示します。建物の南側しか入ることは出来ません。漱石山房
 東西線の早稲田駅か大江戸線の牛込柳町駅から歩いていくことになります。南側正面の漱石公園の写真は下に。①は「新宿区立 漱石公園」です。漱石山房外観
漱石山房

②漱石の胸像。中央は「夏目漱石」。右は「則天去私」。意味は、天地の法則に従い、私心を捨て去ること。夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉。「そくてんきょし」と音読するか「(てん)に則(のっとり)(わたくし)()る」と訓読するようです。漱石の胸像
 左は読めませんが、後ろに回ると解説があり、

肩に来て人なつかしや赤蜻蛉 漱石は慶応3年(一八六七)二月九日、この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)に生まれた。明治四十年九月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、大正五年(一九一六)十二月九日、数え年五十歳で死去した。
この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。
なお、表の漱石直筆の俳句は
「ひとよりも空 語よりも黙
肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
と読む。

③漱石の横顔と注意書き。漱石の横顔

この公園は文豪夏目漱石の終焉地です。
誰もが、快適に過ごせるように、先のことは禁止しています。
車輌の乗入れ     花火・爆竹        夜闇に騒ぐ
寝泊り たき火    飲酒に伴う迷惑      タバコを吸う
動物へえさやり    犬を入れる 糞の放置   球技

④「漱石の散歩道」漱石の散歩道

漱石の散歩道

明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?

 誕生の地 新宿区指定史跡 新宿区喜久井町1(当寺:牛込馬場下横町) 漱石は慶応3年(1867)、当時の牛込馬場下横町に生まれました。現在その地には、生誕100年を記念した石碑が建てられています。石碑の題字は弟子の安部能成の筆によるものです。

 夏目坂 (なつめざか)
夏目家は、江戸時代には町方名主を務める名家でした。夏目坂は、馬場下から南東へ上る坂で、漱石の父・直克が命名したといいます。

 小倉屋(こくらや) 新宿区馬場下町3
延宝6年(1678)に創業したと伝えられる酒屋で、漱石の生家はこの裏手にありました。漱石自身が幼少期について書いた随筆『硝子戸の中』では、「間口の広い小倉屋という酒屋もあった」と登場します。

 誓閑寺(せいかんじ) 新宿区喜久井町61
『硝子戸の中』で「西閑寺」として出てくるお寺。この寺の「梵鐘」は天和2年(1682)に作られた区内最古のもので、区指定有形文化財となっています。

<現在地> 終焉(しゅうえん)の地 新宿区指定史跡 新宿区早稲田南町7
漱石が、明治40年(1907)9月から大正5年(1916)に亡くなるまで過ごした場所です。ここは「漱石山房」と呼ばれ、毎年木曜日の「木曜会」には多くの弟子たちが集まりました。

 漱石旧居跡 *現在はありません
漱石が、英国からの帰国直後、明治36年(1903)1月から翌年3月まで住んだ場所です。留守宅の困窮ぶりはひどく、漱石を驚かせたといいます。

 神楽坂(かくらざか) 新宿区神楽坂1~6丁目
江戸時代より、「神楽坂の毘沙門天」と呼ばれ信仰されていた「善国寺」の門前町として栄えました。明治20年(1887)頃から縁日に夜店がたちはじめ、山の手随一の繁華街となりました。漱石もよく神楽坂の寄席や文房具屋を訪れていました。

 和良(わら)店亭(だなてい)  *現在はありません
藁店(わらだな)と呼ばれた通り(地蔵坂の別名)にあったことからその名のついた寄席で、漱石が足繁く通っていました。神楽坂は当時5つの寄席が並び、浅草などと並び東京の演芸の中心でした。

 田原屋(たわらや)  *現在はありません
漱石が通っていた牛鍋屋。日露戦争のときに果物屋となり、大正時代初めには洋食屋となりましたが、平成14年(2002)に惜しまれながら閉店しました。

 善国寺(ぜんこくじ)毘沙門天(びしゃもんてん))新宿区神楽坂5-36
「毘沙門天像」(区指定有形文化財)が有名です。文政4年(1595)に創建され、寛政5年(1793)に神楽坂に移されました。門前町は繁華街として発展し、寅の日に開かれた縁日は『坊ちゃん』の中にも書かれています。

 相馬(そうま)()
万治2年(1659)に創業したという文房具店。創業当時は和紙をすいて江戸城に納めていました。明治中期から和半紙だった原稿用紙を洋紙に印刷して売り出しました。漱石はここの原稿用紙を愛用していました。

 東京理科大学 (旧)東京物理大学 新宿区神楽坂1-3
明治14年(1881)、東京物理学講習所が創設され、2年後には3代目校長中村恭平は漱石と懇意で『我輩は猫である』のモデルとも言われています。『坊ちゃん』は、東京物理学校の出身という設定です。

⑤ 漱石山房の記憶。入ってすぐの場所です。山房の記憶

夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を「漱石山房」といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが「木曜会」の始まりです。「木曜会」、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。

新宿ゆかりの明治の文豪
夏目漱石
◎古ぼけた格子戸のまわりは蔦におおわれていました。
◎家主は医者で、ベランダ式の回廊や洋間がある広い家でした。
◎ベランダでくつろぐ漱石
◎奥の洋間に絨毯を敷き、机と座布団を置いて書斎として使いました。

漱石の書斎の様子
・大きな書棚  ・赤い絨毯
・紫檀の机   ・瀬戸火鉢
漱石はこの書斎で多くの有名な作品を執筆しました。
◎この書斎で書かれた主な作品
『坑夫』『夢十夜』『三四郎』『それから』『門』
『彼岸過迄』『こゝろ』『道草』『明暗』(未完)

⑥ベランダ。ただの張りぼてです。なんかなあ。

テラス

⑦「道草庵」。遠くに猫塚も見えます。「道草庵」は別にここで。小冊子2冊をタダでもらえます。

道草庵

猫塚(ねこづか)と漱石終焉の地

猫塚

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定史跡
夏目(なつめ)漱石(そうせき)終焉(しゅうえん)()

所 在 地  新宿区早稲田南町七番地
指定年月日   昭和六十一年十月三日


 この漱石公園一帯は、文豪夏目漱石が晩年の明治四十年九月二十九日から大正五年十二月九日に死去するまで住んだところで「漱石山房」と呼んでいた。
 漱石はここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作を発表し、「明暗」執筆の半ばに世を去った。漱石死去当日の様子は内田百閒の「漱石先生臨終記」に詳述されている。
 また、漱石山房の様子は、漱石の「文士の生活」や、芥川龍之介の「漱石山房の秋」「漱石山房の冬」(ともに『東京小品』の中)などに克明に書かれている。
 この石塔は俗称「猫塚」と呼ばれているが、これは「我輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養のため建てたもので、昭和二十八年の漱石の命日に、ここに復元されたものである。
   平成三年十一月

東京都新宿区教育委員会

猫塚(ねこづか)について。これは漱石没後の大正8年(1919年)、『我輩は猫である』のモデルとなった猫の13回忌にあたり、漱石山房の庭に建てられた供養塔です。残念ながら『我輩は猫である』の猫ははいってはいませんが、夏目家のペットの合同供養塔です。九重の層塔そうとうです。層塔とは屋根が幾層にも重なっている塔で、三重の塔や五重の塔などで有名。なお、現在の供養塔は、昭和28年(1953)12月に復元されたもので、九重の塔としては昔の方がよかった。

⑨ トイレです。

 なお、この公園を前に行く道路は「漱石山房通り」といいます。漱石公園には2つの出入り口があり、西からの出入り口に標柱があります。

漱石山房通り漱石山房通り

逢坂|市谷船河原町(360°)

文学と神楽坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

逢坂(おうさか) 大坂ともかき、美男坂とも称した。新坂(痩嶺坂)南を市谷船河原町から西方に上る急坂で坂側に日仏学院がある。「新撰東京名所図会」は「市谷船河原町の濠端より西北へ払方町と若宮町の間に上る坂あり、逢坂といふ。即ち痩嶺坂の西の坂なり。」と記す。
 場所はここ。明治20年でも逢坂(おうさか)がでてきます。その周辺をみてみましょう。坂上から坂下に見ていきます。
 最初は最高裁判所長官公邸です。約1200坪の敷地に、約980平方メートル(約300坪)の木造2階建て。
 1928年(昭和3年)に馬場家の牛込邸として建築し、第2次世界大戦でも焼けなかった家ですが、財産税で物納され、1947年(昭和22年)から最高裁判所長官公邸として使用していました。
 伝統的な数寄屋造りや書院造り、庭園も広く、年に数回、海外の司法関係者らをもてなす場でした。
 近年は老朽化で雨漏りや漏電が頻発し、耐震診断でも「大規模地震が起きれば倒壊の可能性が高い」といわれ、現在、人間は住んでいません。
最高裁判所長官長官
 空中写真は長官邸 この建築物は26年5月16日に、重要文化財に指定されました。
①都心に残された希少な大規模和風建築(近代/住居)
 旧馬場家牛込邸 1棟
  土地
      東京都新宿区
        国(最高裁判所)
 旧馬場家牛込邸は,富山で海運業を営んだ馬場家の東京における拠点として、昭和3年に牛込台地の高台に建てられた。昭和22年以降は最高裁判所長官公邸となっている。
 設計は逓信省営繕技師であった吉田鉄郎(てつろう)である。南の庭園に面して和洋の客間や居間などを雁行形(がんこうがた)に連ね、和洋の意匠や空間の機能を巧妙な組合せと合理的な平面構成でまとめており、入母屋屋根や下屋庇を駆使した外観も絶妙に庭園と調和している。旧馬場家牛込邸は、東京に残された希少な大規模和風建築である。洗練された比例や精緻な造形,装飾的な細部を押さえつつ上質の良材を効果的に演出した設計手法など,昭和初期を代表する和風建築として高い価値を有している。
 さて、道は十字路になります。ここで道路を右に曲がって進むと、超豪華な和風住宅が現れます。「朝霞荘」です。地下1階、地上2階、塔屋1階、建築家は黒川紀章。昭和62年(1987)12月に竣工しました。中庭は桂離宮の紅葉山からの引用で、(くすのき)の大木は保存しています。駐車場の床は障子の組子、花、鳥、風、月の各パターンを御影石にて表現し、外壁はベンガラ色。現在は損害保険ジャパンが所有する厚生施設です。
 ベンガラ色は土から取れる成分(酸化鉄、三酸化二鉄Fe2O3)で紅殻、弁柄とも書き、インド・ベンガル地方から来ています。無害なので天然素材として使っても平気です。朝霞荘

 さてここは砂土原町三丁目22番地ですが、ここに明治37年11月から翌年3月まで石川啄木が下宿しています。彼の書簡では

11月28日牛込より 金田一京助宛
本日左記へ転ず
牛込区砂土原町三丁目廿一番地 井田芳太郎方 石川啄木
堀合兄御同道にて近日中に御来遊如何。
金田一花明様
 翌日は
廿一番地は廿二、の誤なり、兄がたづねたる埼玉学生誘掖会の隣り、大名屋敷の様な大きい門のある家は乃ち我今の宿也。一字の誤りにて大に兄を労せしめたる、罪万死に当る、多謝。明二日、日没頃より在宅。
 さて元の道路に戻って、真ん中の急坂は逢坂(おうさか)です。永井荷風の『日和下駄』の中で、
もしそれ明月皎々こうこうたる夜、牛込神楽坂うしごめかぐらざか浄瑠璃坂じょうるりざか左内坂さないざかまた逢坂おうさかなぞのほとりにたたずんで御濠おほりの土手のつづく限り老松の婆娑ばさたる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい
と絶賛しています。

 実は理科大学も階段を持っているので、安全を考えると、ここは階段を使おうとなりますが、まあ、ここは急坂を使って下に行きましょう。ちなみに階段はここ↓です。

逢坂 階段

渋沢篤二 著「瞬間の累積」(渋沢敬三、1963)明治41年の写真

 道路の側に標柱があります。逢坂の標柱

 上から見ると

逢坂(おうさか)
 下から
昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。
 奈良時代の昔、都から小野(おのの)美作吾(みさご)という人が武蔵国の国司として赴任しました。そこで、美しいさねかずらという名の娘と出合い、二人は相愛の仲に。美作吾に帰還の命令が出て、やむなく都に帰って、死亡しています。さねかずらは美作吾の霊とこの逢坂の上で再会しましたが、生き甲斐を失い、坂下の池に身を投げて死んだといいます。

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は

 「江戸名所図会」にも書いているが、好事家のつくった話である。「後撰」の中に、三条右大臣が
  名にし負はば逢坂山のさねかづら
   人に知られで来るよしもがな
とうたっている。この歌の「逢坂」と「さねかづら」をとって悲恋ものに創作したものだろうといわれている。

 大坂といわれていた坂を逢坂と書くようになり、またモクレン科の常緑蔓性低木、サネカズラはビナンカズラともいうので、この坂を美男坂と呼ぶ別称もあります。

さねかずら

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では「逢坂は六坂とも書き、美男坂ともいいました。奈良時代の「小野美佐吾」と「さねかづら」との悲恋物語から名が付きました」と書いています。

 切絵図をみると、逢坂の坂上から北側に、楕円形の湾曲した道筋があり、「ナベツルト云」の文字が書かれています。ナベツルは鍋鉉(なべつる)、あるいは鍋釣(なべつり)のことで、鍋に取り付けてある取っ手(正確な漢字を使えば、(つる))のことです。

鍋鉉

 道の場合は鍋やヤカンの取っ手のように湾曲する道ですが、この道は現在1部を除いてありません。

逢坂 地図 江戸時代

 さらに下に行くと、日仏学院を通り越します。日仏学院にも石畳があります。

 そして築土神社にやってきます。築土神社

文化財愛護シンボルマーク文化財愛護シンボルマーク
史   跡
掘兼(ほりかね)()
所在地  新宿区市谷船河原町九番地
 掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。
   平成三年十一月
東京都新宿区教育委員会

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は

「掘兼の井」とは、井戸を掘ろうとしても水が出ない井戸とか、水が出ても掘るのに苦労した井戸という意味である。中でも有名なのは、埼玉県狭山市入曽の「掘兼の井」である。有名な俊成卿の歌に
  むさしには掘かねの井もあるものを
    うれしく水にちかづきにけり
とある。「御府内備考」によると船河原町には、“その井戸はない”と書いてある。しかし逢坂下の井戸はそれだとも云い伝えられ、後世そこを掘り下げて井戸にした。それは昭和10年ころまでは写真のとおりであった。戦時中はポンプ井戸になり、昭和20年5月24日の空襲のあと、使用しなくなった。今は、わずかにポンプの鉄管の穴がガードレール下に残っている。
堀兼の井戸-new

 なお「堀ねの井」と「が」を使っていますが、船河原町築土神社によれば…

この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられるが、昭和20年戦災で焼失し今はない。
 上は昭和初期の「堀兼(ほりかね)の井戸」(牛込区役所 『牛込区史』)、下は『風俗画報』です。堀兼の井 なお、平成21年、手前に「堀兼の井」(現代版)ができました。

掘兼の井

防災井戸 掘‵兼井戸

 区の説明は、神社前の説明板の通りであるが、その後井戸は掘られ、共同井戸として長い間使われてきた。
 地下鉄工事等の影響で一時枯れたが、平成21年に市谷船河原町町会により、防災井戸として現在の形に整備されている。(ちなみに、船河原町の町名は江戸期から続く名称で、この牛込・箪笥地域には多数現存している)
        (写真)

    明治39年(1906年の「逢坂」と「堀兼の井戸」
    レンガ塀のあたりに現在の神社がある。
㊟ 水をだすときは、周囲に多量に流れ出さないようお気をつけください。 この水は飲めません。
令和2年1月  新宿区市谷船河原町町会

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では

逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です。
 また『紫の一本』には
堀兼の井 牛込逢坂の下の井をいふといへり。此水は山より出る清水を請けて井となす。よき水なるゆへ遠き方よりも茶の水にくむ。よごれたる衣を洗へばあかよく落て白くなるといふ。
 なお、『拝啓、父上様』の第5話で

脇道
  とびこんだ2人、走り出す。
  叉、角を曲がる。
坂道
  2人、坂道をかけ上がる。
日仏学院
  その構内にかけこむ2人。

 この坂道は逢坂で、ここですね。逢坂 下から
 また『拝啓、父上様』第一話が始まってから30秒ほど経ってからこれも逢坂が登場します。
逢坂 拝啓父上様

 なお、前にも言ったことですが、ここを左手に行くと、理科大学11号館の裏、5号館(化学系研究棟・体育館)の手前を通って上下をつなぐ階段があります。

逢坂 階段日仏学院 新坂 庾嶺坂


ヌエット「東京のシルエット」…特に神楽坂について

文学と神楽坂

ヌエット

「東京を愛した文人画家 ノエル・ヌエット」。『東京人』2011年4月号から

 昭和29年(1954年)4月15日、著者ノエル・ヌエット(Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。この時、ヌエット氏は69歳でした。定価は430円。ヌエットの当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。

 この本で神楽坂と関係があるのは2つだけです。しかし、それ以外にも懐かしい版画はたくさんあります。最初は「神楽坂」です。

東京のシルエット 神楽坂 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 水野正雄氏は、戦後、「建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました」と書いています(NPO法人粋なまつづくり倶楽部 神楽坂アーカイブチーム編『まちの思い出をたどって』第1集、2007年)。上図の倒れていない建物は三菱銀行(現在は三菱UFJ銀行)だったのです。戦後、一時的に「千代田銀行 神楽坂支店」という名前にかわっています。

 次は日仏学院です。一時的に「アンスティチュ・フランセ 東京」と名前が変わり、また元に戻っていますが、これはフランス政府が管理・運営するフランス文化センターです。
東京のシルエット日仏学院 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 あとは他の版画をいくつか。

東京のシルエット 芝の大門 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 和田倉門 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 三宅坂のお濠 ノエル・ヌエット Noël Nouët 東京のシルエット 半蔵門のお濠 ノエル・ヌエット Noël Nouët

 なおノエル・ヌエット氏の『神楽坂』(昭和12年)は別の項で。

泉鏡花『神楽坂の唄』

文学と神楽坂

 泉鏡花は大正14(1925)年に「文藝春秋」で「神楽坂の唄」を書いています。すずと所帯を持った思い出深い神楽坂を唄ったものです。町名、坂の名、名所を織り込みながら大正時代の神楽坂情緒を唄いこんでいます。
 さらに昭和38(1963)年には杵屋勝東治師がこの唄に曲をつけ、花柳輔三朗師の振付で、神楽坂の曲として使っています。『ひと里』という曲で、ふだんは最初の2行と最後の5行の歌詞を抜粋して踊ります。
 春から冬まで季節が順次出てきます。意味が分かるように訳しましたが、わからないところがまだまだ沢山あります。変なところ、あればどうか教えて下さい。掛詞が出るところ、五七調、七五調もたくさんあるようです。

(ひと)(さと)は、神樂(かぐら)()けて岩戸町
(たま)も、(いらか)も、(あさ)(がすみ)
(やなぎ)(のき)()(うめ)(かど)
(もゝ)(さくら)()(なら)べ、
江戸川(えどがは)(ちか)(はる)(みづ)山吹(やまぶき)(さと)(とほ)からず。
(つく)()(まつ)(ふぢ)()けば、
ゆかり(きみ)(あふ)ぞぇ

 現代語訳を書いておきます。五七調などの名調子はなくなりました。

神楽を演奏していると、ここ一帯や岩戸町も夜は終わり、明るくなっている。
きれいな宝石も醜い甍も、朝霞にかすんでいる。
軒のはしには柳が見え、門では梅が見える。
春は桃や桜が並ぶ。神田川中流にも遠くない春に、水が流れる。山吹の里も近い。
筑土地域の松もいいし、藤の花は満開で、
つながりがあるあなたに仰ごう。

一里 約4km。この一里を見ると
神楽 かぐら。神をまつる舞楽。
明けて 神楽を演奏していると、神楽坂では夜も終わり、明るくなってくる。
岩戸町 いわとちょう。北部は神楽坂に接し、都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の出入りがあります
 たま。丸い形の美しい石。宝石や真珠など
 いらか。屋根の頂上の部分。屋根に葺いた棟瓦。きれいなもの(玉)もそうでないもの(甍)も
朝霞 あさがすみ 。朝立つ霞。 季語は春。
軒端 のきば。軒のはし。軒口。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。東京都文京区水道・関口の江戸川橋の辺り。
山吹の里 室町時代の武将、太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ります。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつも持ち合わせがないと教わりました。新宿区内には山吹町という地名があり、この伝説の地ではないかといいます。
築土 筑土(つくど)八幡町(はちまんちょう)は、東京都新宿区の町名。
 ふじ、東京で藤の見ごろは4月下旬から5月上旬にかけて。
ゆかり なんらかのかかわりあいや、つながりがある。因縁。血縁関係のある者。親族。縁者
 ここでは敬慕・親愛の情をこめていう語
仰ぐ 尊敬する。敬う
ぞえ 終助詞「ぞ」終助詞と「え」が付いてできる。仰ぐぞ→仰ぐぞえ→仰ぐぜ。注意を促したり念を押したりする。

牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)(くれなゐ)は、(たもと)(つま)ほのめきて、 (こひ)には(こゝろ)あやめ(ぐさ)
ちまき(まゐ)らす(たま)ずさも、
いつそ人目(ひとめ)關口(せきぐち)なれど、
(みなぎ)ばかり(たき)津瀬(つせ)の、(おもひ)(たれ)(さまた)げむ。
蚊帳(かや)にも(かよ)へ、()(ほたる)
(しのぶ)()れよ、(あお)(すだれ)

牡丹屋敷にある牡丹の紅は、袂や裾の両端でもほのかに、香のにおいをしている。恋をするときは物事の道筋を見失うぐらいの恋をしてみたい。
5月、ちまきをあげている使者も、かえって他人の目を気にしているようだ。
あふれるばかりにいっぱいの滝のような急流のように、この思いを妨げる人はいない。
夏、飛ぶ螢は蚊帳の中まで入ってくる。
青竹を細く割って編んだ新しいすだれは、夏、軒下などにつるす忍玉(しのぶだま)と同じで、涼しさがある。
つりしのぶ

荵の忍玉

牡丹屋敷 八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門も一緒に紀伊国(現和歌山県)から出てきたが、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領しました。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷。牡丹の開花は4-5月です。
 くれない。鮮やかな赤色。ほたんの色です
 着物の裾(すそ)の左右両端の部分。
ほのめき ほのかに見える。香る。
あやめ草 あやめ草はサトイモ科の草で、池や溝の周辺に群をなして繁茂する。季語は夏。「文目」(あやめ)は物事の道理、筋道。物の区別。
ちまき 笹の葉で巻き、蒸して作った餠(もち)。端午の節句に食べる。季語は初夏
参らす 献上する。差し上げる
玉ずさ 使者。使
いっそ 予想に反した事を述べるときに用いる。かえって。反対に。
人目 他人の目。世間の人の見る目
関口 東京都文京区の町名で、牛込区(現在は新宿区)と接する
みなぎる 力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる
滝津瀬 たきつせ。滝。滝のような急流。
蚊帳 蚊帳の季語は三夏。陰暦で、4・5・6の夏の3か月。初夏・仲夏・晩夏
 季語は仲夏。夏のなかば。陰暦5月の異称。中夏
 荵はシダ植物。岩や木に着生する。根茎は太く、長く、淡褐色の鱗片を基部に密生する。葉は長柄で根茎につく。根茎を丸めて忍玉(しのぶだま)を作り、夏、軒下などにつるして、その下に風鈴を下げたりし、水をやり涼しさをたのしむ。忍ぶ草。事無草(ことなしぐさ)。
青簾 青竹を細く割って編んだ新しいすだれ

あはぬ(まぶた)()(ゆめ)は、 いつも逢坂(おふさか)軽子坂(かるこざか)
重荷(おもに)(うれ)肴町(さかなまち)
その芝肴(しばざかな)意氣(いき)(はり)は、
たとひ()(なか)(みづ)(そこ)
(ふね)首尾(しゆび)よく揚場(あげば)から、
(きり)(ともし)道行(みちゆき)の、(たがひ)いの姿(すがた)しのべども、
(なび)つるゝ(はぎ)(すすき)
(いろ)(つゆ)()御縁日(ごえんにち)

ここで見た夢はいつも逢坂や軽子坂が出てくる。
肴町だと重荷は新鮮な魚なので嬉しい。
芝浦の海でとれた小魚は意地を張っている。たとえ火の中でも、水の底でも。
小魚を船で揚場から首尾よく手に入れた。霧の灯に旅行し、お互いを思い出す。
秋になり、萩や薄は、なびいているが、まだその場にいる。露がある御縁日になった。

あはぬ あわない。合っていない。どうしても瞼が開いてしまうが
逢坂 市谷船河原町にある急坂で、下から上に向かう神楽坂では左側
軽子坂 新宿区揚場町と神楽坂二丁目との比較的に緩徐な坂。下から上に向かう神楽坂では右側。
肴町 神楽坂5丁目の以前の名称
芝肴 しばざかな。芝魚。芝肴。江戸の芝浦あたりの海でとれた小魚で、新鮮で美味とされた。
意気張 遊女が意気地を張り通すこと
揚場 船荷を陸揚げする場所。揚場町もある。
 「ともし」と読む。意味は「ともしび」
道行 旅すること
しのぶ つらいことをがまんする。じっとこらえる。耐える
靡き なびくこと。「靡く」とは「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く。他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する。女性が男性に言い寄られて承知する。
つるる つるの連用形か。「吊る」は「物にかけて下げる。高くかけ渡す」。「釣る」は「釣り針で魚をとる。巧みに人を誘う」。 「攣る」は「筋肉がひきつって痛む」。
萩薄 萩(はぎ)と薄(すすき)。萩の季語は初秋、薄の季語は三秋(秋季の3か月で、初秋、仲秋、晩秋。陰暦の7、8、9月)
 つゆ。空気中の水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。季語は三秋。陰暦の7、8、9月
添う そう。そばを離れずにいる。ぴったりつく
御縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すれば特に御利益があると信じられている

毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
毘沙門(びしやもん)(さま)(まも)(がみ)
(むす)ぼる(むね)(しも)とけて、
(そら)小春(こはる)若宮(わかみや)に、
(かり)(つばさ)かげひなた
比翼(ひよく)(もん)こそ(うれ)しけれ。

毘沙門様は守り神。毘沙門様は守り神。
冬になると結んだ胸にある霜もとけてくる。
空も11月頃の小春で、若宮町に広がる。
雁の翼は、うらおもて。
比翼の紋(相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋)になるのは本当に嬉しい。

毘沙門 びしゃもん。「神楽坂の毘沙門さま」で親しまれている。福や財をもたらす開運厄除けのお寺
 しも。0℃以下に冷えた物体の表面水蒸気が固体化し、氷の結晶として堆積したもの
小春 こはる。陰暦10月のこと。現在の太陽暦では11月頃に相当し、この頃の陽気が春に似ているため、こう呼ばれるようになった
若宮 地域北部は神楽坂地域に接し、若宮八幡神社があります
かげひなた 日の当たらない所と日の当たる所。2人の見ている所と見ていない所とで言動が変わること。人の見る、見ないによって言葉や態度の変わること。うらおもて。
比翼の紋 ひよくのもん。比翼紋。相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋。二つ紋。

『神楽坂がまるごとわかる本』…著者は渡辺功一氏

文学と神楽坂

『神楽坂がまるごとわかる本』(けやき舎)は2007年の優れた一冊です。第一章から第五章に分かれています。あえていうと第一章は、商店会、花柳界、老舗。第二章は男優、女優、麻雀、映画。第三章は、江戸。第四章は、江戸その2。第五章は現代に至る。

 ある出来事が起こったのは01年、それとも02年、本当にこっちなのと思っても、ああ、これはこっちとばさっと切られると、まあ、そうかなあとなってしまいます。たくさんの事柄がいっぱいにつまっていて、すこしユーモアや面白みはない。歴史書だと考えると文献の扱いが不十分。でも、全体的にはすごーくよくできた本です。

 内容は……

一章 神楽坂通り商店会の変遷、神楽坂の縁日、江戸っ子芸者の歴史、神楽坂の花柳界、神楽坂まつり・阿波踊り、老舗伝説、紅谷菓子店、老舗伝説 田原屋最古の老舗 相馬屋紀の善と牡丹屋敷
二章 神楽坂の寄席演芸場、喜劇王 柳家金語楼、女優 松井須磨子女優 水谷八重子叙情画家 竹久夢二、麻雀伝説 カフェ・プランタン、映画伝説 黒澤明と神楽坂
三章 神楽坂地名の由来、牛込の地名、江戸城外濠 牛込壕、牛込御門、毘沙門天 善國寺、定火消本多家と本多横丁、岡田寒泉と寒泉精舎、行元寺寺内公園筑土八幡神社
四章 光照寺と藁店の由来、由比正雪と袋町・榎町 旗本水野屋敷伝説 牛込の総鎮守 赤城神社、日本出版クラブと天文台、江戸里神楽の由来、だらだら長者の埋蔵金伝説
五章 甲府鉄道 牛込駅、江戸川の夜桜と江戸小紋 東京理科大学の歩み、桜の校章 津久戸小学校、神楽坂警察署宮城道雄記念館、田中角栄と神楽坂、飯田壕埋め立てと駅ビル再開発

『ここは牛込、神楽坂』…牛込倶楽部、立壁正子さんが編集長

文学と神楽坂


「牛込倶楽部」が作るタウン誌『ここは牛込、神楽坂』は1997年(平成9年)夏から2001年(平成13年)春まで第1~18号を出版しました。立壁正子さんがやっていましたが、癌で急死、18号で終わりました。残念です。
 参考までに特集を掲げて起きます。古老、作家、地域の人、日本画、大学とあらゆるものを対象にして作っていました。ささいなことでもあるのかないのか調べるという姿勢が素晴らしい。どこか一歩が、先に行っている。ほかのものと比べると、360°よく見えていて、調査も行き届いている。
 本編で『ここは牛込、神楽坂』から参照したものはいろいろありますが、「第13号。路地・横丁に愛称をつけてしまった」が一番多く、「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」や相馬屋などが次に続きます。

 1号 神楽坂に寄せて。
 2号 神楽坂古典芸能
 3号 神楽坂でENJOYひとり暮らし。
 4号 泉鏡花と牛込、神楽坂
 6号 忠臣蔵と牛込、神楽坂。ラーメン、ラーメン
 7号 藁店。地蔵坂界隈
 8号 神楽坂粋すじ事情
 9号 「まち」と大学の素敵な関係。東京理科大学
10号 漱石と神楽坂。
11号 神楽坂で昼食を
12号 電脳都市神楽坂
13号 神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった
14号 神楽坂を歩く。神楽坂の緑
15号 日本画の巨匠 鏑木清方と牛込
16号 拠点としての神楽坂
17号 「まち」と大学の素敵な関係。法政大学編
18号 「寺内」から、神楽坂・まちの文脈を再考する

『神楽坂まちの手帖』…けやき舎、平松南さんが編集長

文学と神楽坂

『神楽坂まちの手帖』はけやき舎が編集・発行する季刊誌です。03年4月から07年12月まで続きました。第18号が最後です。編集長の平松南氏が体調を崩し入院しました。現在はインターネット用の『週刊 神楽坂ニュース』に変わっています。
「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は本当にプロが書いた文章です。
http://blog.livedoor.jp/m-00_33187/

本編で『神楽坂まちの手帖』から参照したものは
神楽坂 長~い3丁目 みちくさ横丁 神楽小路 新女性大学 まだ一杯あります。

 18号の特集をすべて書いておきます。

 1号 神楽坂の路地の魅力・全解剖。神楽坂界わい らーめん徹底ガイド
 2号 神楽坂でフランスを探す
 3号 和が息づくまち・神楽坂
 4号 坂を思いっきり楽しむ
 5号 坂歩き名人の散歩術
 6号 落語と神楽坂
 7号 お江戸の歴史と神楽坂
 8号 神楽坂の街を支える古建築
 9号 街を元気にするクラッシックの音楽力
10号 復活! 神楽坂の水辺
11号 街を元気にする<アートパワー>
12号 昭和三十年代とその周辺 僕らの育った神楽坂
13号 街なかで学ぼう カルチャーで花盛り
14号 神楽坂と本
15号 神楽坂の路地・その魅力の全て
16号 江戸城と神楽坂
17号 漱石と早稲田・神楽坂
18号 「西歐的」小交差点を神楽坂に探す


『西村和夫の神楽坂』と『雑学 神楽坂』…著者は西村和夫氏

文学と神楽坂

『西村和夫の神楽坂』は最初はインターネットに出てきたものです。
『雑学 神楽坂』は2010年(平成22年)10月に角川グループパブリッシングで出版されました。この間、西村氏は09年3月になくなっています。
 どちらも取り上げているのは、江戸から明治、現代ですが、特に、江戸屋敷、毘沙門堂、泉鏡花花と桃太郎、芸者、なくなった名店、夜店について細かく書いています。なぜかもっと触れてもいいのにと考えてしまうものもあります。
 本編で『西村和夫の神楽坂』と『雑学 神楽坂』から参照した一部は

階段の話
芸妓と料亭
和良店と牛込高等演芸館
ワラダナは1軒それとも100軒

『西村和夫の神楽坂…神楽坂界隈』


『雑学 神楽坂』は

はしがき 清水英夫氏の「西村和夫さんと私と神楽坂」
1 神楽坂今昔
2 神楽坂と武将たち
3 神楽坂と外濠
4 泉鏡花と桃太郎
5 毘沙門天と夜店
6 横寺町と松井須磨子
7 神楽坂を上がる
あとがき 参考文献


夏目漱石と神楽坂

文学と神楽坂

『吾輩は猫である』

      10
 元禄で思い出したからついでに喋舌しゃべってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事はおびただしいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事できのこが飛んで来たり、御茶おちゃ味噌みその女学校へ行ったり、恵比寿えびす台所だいどこと並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店わらだなの子じゃないわ」と云うから、よくよく聞きただして見ると裏店うらだなと藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬ごびゅうを真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。

 正しくは「火の粉」。燃え上がる火から粉のように飛び散る火片のこと
御茶の味噌の女学校 正しくは「お茶の水の女学校」。本郷区湯島三丁目(現、文京区湯島一丁目)の女子高等師範学校附属高等女学校。戦後はお茶の水女子大学の母体。
台所 正しくは「恵比寿、大黒だいこく」。恵比寿と大黒は財福の神で、民家で並べてまつることが多かった。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。現在は固有名詞として使う場合も多く、新宿区袋町では「地蔵坂」の商店を指す。
裏店 裏通りにある家。商家の裏側や路地などにある粗末な家。

『それから』

 大抵は伝通院前から電車へつて本郷迄買物かひものるんだが、ひとに聞いて見ると、本郷の方は神楽坂かぐらざかくらべて、うしても一割か二割ものたかいと云ふので、此間このあひだから一二度此方こつちの方へて見た。此前このまへはづであつたが、ついおそくなつたのでいそいでかへつた。今日けふは其つもりはやうちた。が、御息おやすちうだつたので、又とほり迄行つて買物かひものましてかへけにる事にした。ところが天気模様がわるくなつて、藁店わらだながりけるとぽつ/\した。かさつてなかつたので、れまいと思つて、ついいそぎたものだから、すぐ身体からださわつて、いきくるしくなつて困つた。――「けれども、れつこになつてるんだから、おどろきやしません」と云つて、代助を見てさみしいわらかたをした。「心臓のほうは、まだ悉皆すつかりくないんですか」と代助は気の毒さうなかほで尋ねた。
平岡がたら、すぐかへるからつて、すこたして置いて呉れ」と門野かどのに云ひいて表へた。強い日が正面から射竦ゐすくめる様な勢で、代助のかほつた。代助はあるきながらえずまゆうごかした。牛込見附を這入つて、飯田町をけて、九段坂下ざかしたて、昨日きのふつた古本屋ふるほんやて、昨日きのふ不要のほんを取りにて呉れとたのんで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余りひどかつたので、電車で飯田橋へまはつて、それから揚場あげば筋違すぢかひ毘沙門びしやもんまへた。
 うちの前には車が一台いちだいりてゐた。玄関にはくつが揃へてあつた。代助は門野かどのの注意を待たないで、平岡のてゐる事を悟つた。あせいて、着物きものあらての浴衣ゆかたに改めて、座敷へた。

毘沙門 毘沙門天。仏法を守護する天部の神。四天王の一人。

『坊っちゃん』

 学問は生来しょうらいどれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平まっぴらめんだ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲からおこった失策だ。
 君りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味のるいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だかわかりゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅こうめ釣堀つりぼりふなを三びき釣った事がある。それから神楽坂かぐらざか毘沙門びしゃもん縁日えんにちで八寸ばかりのこいを針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えてもしいとったら、赤シャツはあごを前の方へき出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣やりょうをする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生せっしょうをして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽にまってる。釣や猟をしなくっちゃ活計かっけいがたたないなら格別だが、何不足なくくらしている上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢ぜいたくな話だ。

『野分』

百円をふところにしてへやのなかを二度三度廻る。気分もさわやかに胸も涼しい。たちまち思い切ったように帽を取って師走しわすいちに飛び出した。黄昏たそがれ神楽坂かぐらざかあがると、もう五時に近い。気の早い店では、はや瓦斯ガスを点じている。
 毘沙門びしゃもん提灯ちょうちんは年内に張りかえぬつもりか、色がめて暗いなかで揺れている。門前の屋台で職人が手拭てぬぐい半襷はんだすきにとって、しきりに寿司すしを握っている。露店の三馬さんまは光るほどに色が寒い。黒足袋くろたびを往来へ並べて、頬被ほおかぶりに懐手ふところでをしたのがある。あれでも足袋は売れるかしらん。今川焼は一銭に三つで婆さんの自製にかかる。六銭五厘の万年筆まんねんふでは安過ぎると思う。

『僕の昔』

落語はなしか。落語はすきで、よく牛込の肴町さかなまち和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席よせはたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。

北原白秋|物理学校裏

文学と神楽坂

 石川啄木はこう書いています。

明治41年10年29日 啄木の日記から。
北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。

深井天川 ほとんどわかりません。詩人、小説家で、新詩社脱退事件の1人でした。

 この「物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える」については、北原白秋氏は詩集『東京景物詩及其他』の「物理学校裏」でこう描いています。

物理学校裏

Borum. Bromun. Calcium.
Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor.
Barium. Iodium. Platinum. Hydrogenium.
Sulphur. Chlorum. Strontium……….
(寂しい声がきこえる、そして不可思議な……)

Borumの1行 ラテン語で金属元素のホウ素。次は正しくはbromumで臭素。カルシウム。
Chromiumの1行 クロム、マンガン、カリウム、リン
Bariumの1行 バリウム、ヨード、プラチナ、水素
Sulphurの1行 硫黄、 塩素、ストロンチウム

日が暮れた、うすい銀と紫——
蒸し暑い六月の空に
暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。
黄色い、新しい花穂ふさ聚団あつまり
暗い裂けた葉の陰影かげからせるやうに光る。
さうして深い吐息といき腋臭わきがとを放つ
歯痛しつうの色のきな沃土ホルムきな、粉つぽい亢奮きな

C2H2O2N2+NaOH=CH4+Na2CO3………
蒼白い白熱瓦斯の情調ムウド曇硝子を透して流れる。
角窓のそのひとつの内 部インテリオル
光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。
肺病院のやう東京物理学校うす青 灰 色せいくわいしよくの壁に
いつしかあるかなきかの月光がしたるる。

棕梠 シュロ。普通のヤシのこと。写真は…シュロ
花穂 かすい。穂のような形で咲く花のこと。ススキ、エノコログサ、ケイトウなど
聚団 しゅうだん。聚は「しゅう」か「じゅう」で、「多くのものを一所に集める」
 九州で「黄色」のことを「きな」と呼びます。(きな)()もそう。
沃土ホルム ヨードホルム。殺菌剤などに使う。
亢奮 興奮/昂奮/亢奮は物事に感じて気持ちが高ぶること。 刺激によって神経の働きが活発になること
C2H2O2N2・ 正しくはCH3COONa(酢酸ナトリウム) +NaOH(水酸化ナトリウム)→CH4(メタン)+Na2CO3(炭酸ナトリウム)
ムウド ムード
くもりガラス すりガラス
メタン 燃料用のガスになります
東京物理学校 現在の東京理科大学

Tîn ……tîn……tîn. n. n. n……tîn.n ……
tire……tire……tîn. n. n. n. …… syn ……
t……t……t……t……tote……tsn. n.……
syn.n.n.n.n………

静かな悩ましい晩!
何処かにお稽古けいこの琴の音がきこえて、
崖下の小さい平家ひらやの亜鉛屋根に
コルタアが青く光り、
やはらかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。
その上の、見よ、すこしばかりの空地あきちには
湿しめつた胡瓜と茄子の鄙びた新らしいにほひ
あわただしい市街生活の哀 愁あいしゆうに縺れる…………

Tînの1行 琴の音でしょうか
コルタア コールタール。トタン屋根の塗料として使う
Lamp ランプ
胡瓜と茄子 キュウリとナス

汽笛が鳴る……四谷を出た汽車のCadence(カダンス)が近づく…………
暮れ悩む官能の棕梠
そのわかわかしい花穂ふさにほひが暗みながらむせぶ、
歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。

Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。

寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な…………
そこここのあかるい角窻のなかから。
Sin……, Cosin…….Tan……,Cotan…….Sec……,Cosec……. etc ……
Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton.
Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花
摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc…………
棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、
無意味な琴の音のをさなびた Sentiment
何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。
汽笛が鳴る……濠端ほりばたうすい銀と紫との空に
停車とまつた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。
静かな三分間。

角窓 カクマド。四角形の窓
sinの一行 サイン、コサイン、タンジェント、コタンジェント、セカント、コセカントで三角関数です
ionの一行 イオン、発電機、レントゲン、ボイル、ニュートン
lensの一行 レンズ、サイホン、スペクトル、テスラ(磁束密度の単位)
Bunsenの一行 ブンゼン、電位、アルキメデス
Sentiment センチメント。情緒,情操
せうことなし しょうことなし。すべき手段がない。しかたない

悩ましい棕梠の花の官能に、今、
蒸し暑い魔睡がもつれ、
暗い裂けた葉のふちから銀の憂 欝メランコリイがしたたる。
その陰影かげ捕捉とらへがたき Passion の色、
歯痛の色のきな、沃土ホルムのきな、粉つぽい亢奮のきな

Neon. Flourum. Magnesium.
Natrium. Silicium. Oxygenium.
Nitrogenium. Cadimium. or, Stibium.
etc., etc.………… 四十三年三月

メランコリイ メランコリー。落ち込んだ気分
Passion パッション。情念, 感情, 激情, 熱情
Neonの一行 ネオン、ラテン語のfluorumが正しくフッ素、マグネシウム
Natriumの一行 ナトリウム、ケイ素、酸素
Nitrogeniumの一行 窒素、カドミウム、スチビウム

泉鏡花・北原白秋旧居跡|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 ここでで「千年こうじや」のすこし先をみてみます。場所はここ

泉鏡花・北原白秋旧居跡

 この背後も東京理科大学の施設ですが、先の方を少しあるくと、「泉鏡花北原白秋旧居跡」が出てきます。みえますか?

泉鏡花・北原白秋旧居跡

 360°カメラでも撮ってみました。

 現在の言葉は…

       新宿区指定史跡

いずみ鏡花きょうか旧居きゅうきょあと  所在地 神楽坂2丁目22番地

 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花の旧居跡である。
 明治32年、硯友社の新年会で神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず)と親しくなり友人から借金をして明治36年3月、ここの借家に彼女と同棲するようになった。しかし師である尾崎紅葉に同棲が知られると厳しく叱責を受け、すずは一時鏡花のもとを去る。
 この体験は「婦系図」に大きく生かされ、このすずがお蔦のモデルでもある。同年10月紅葉が没すると、すずを正式に妻として迎え明治39年7月までこの地に住んだ。

 硯友社(けんゆうしゃ)は文学結社で、明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉山田美妙石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多がらくた文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社になりました。

 泉鏡花氏の「婦系図」の山場の一つは別のブログで。なお『てくてく牛込神楽坂』には、泉鏡花氏の略歴南榎町にいた話ヌエットと泉鏡花の話があり、大正14年に結構、難しい『神楽坂の唄』(補注もあります)、うを徳の開店披露の話(補注付き)、『神楽坂七不思議』(補注付き)、小品『草あやめ』(補注付き)、『春着』(補注付き)、『龍膽と撫子』(補注付き)をだしています。泉鏡花氏と絡んだ他の作者の作品として、『てくてく牛込神楽坂』では、柳田国男氏の故郷七十年、谷崎潤一郎氏の文壇昔ばなし、里見弴氏の私の一日二人の作家もあります。

北原きたはら白秋はくしゅう旧居(きゅうきょ)(あと)  所在地 神楽坂2丁目22番地

 泉鏡花の旧居地であるこの場所は、北原白秋の旧居地でもある。
 白秋は鏡花より遅れて明治41年10月から翌年10月に本郷動坂に転居するまでの約1年間をここで過ごしたが、その間の活動も素晴らしいものがあった。
 当地に在学中の同42年5月に短歌「もののあはれ」63首を発表しており、このころから歌作にも力をそぞぐようになった。なおこの辺りは物理学校(現・東京理科大学)の裏手にあたることから、「物理学校裏」(大正2年7月刊「東京景物詩及其他」)という詩も残している。

 北原白秋の詩として「物理学校裏」という詩も有名です。

 なお、泉鏡花氏と北原白秋氏が同じ家に住んでいたとは限りません。「神楽坂2丁目22番地」が示す場所は相当大きいのです。

神楽坂2丁目22番地