文学と神楽坂
昭和23年、稲垣足穂氏は「方南 かたなみ の人」を発表しました。 この主役は「俺」とヤマニバーで働いていた女性トシちゃんです。彼女は神楽坂をやめると、しばらくの間、杉並区方南に住んでいました。
ヤマニバー の、ヒビ割れの上に草花をペンキで描いた鏡の傍に、褐色を主調にした油絵の小さな風景画が懸かっている。「これはあたしのお父さんの友達が描いたのよ」と彼女は教えた。それは清水銀太郎 と云って、俺の二十歳頃に聞えていたオペラ役者 である。「あれは分家 の弟だ」とは、縄暖簾 のおかみさんの言葉である。「縄暖簾」というのは、彼女らが本店と呼んでいる横寺町 のどぶろく 屋のことである。この古い酒造家と表通りのヤマニバーとは同姓 であるが、そうかと云って、常連が知ったか振りに吹聴しているような繋り は別にないらしい。其処がどうなっているのか見当が付かぬけれど、然し何にせよ、彼女の家庭を今のように想像してみると、俺の眼前には下げ髪 姿の少女が浮ぶ。立込んだ低い家並 の向うの茜 の夕空。縄飛び。千代紙。ビイ玉。そしてまた〽勘平さまも時折は ……。 横寺片隅 の孤りぼっちの起臥 は、昔馴染の曲々のおさらいをさせた。俺の口から知らず知らずに、〽千鳥の声も我袖も涙にしおるる磯枕 ………が出ていたらしい。トシちゃんが近付いてきて、「あら、謡曲 ね」と云った。彼女は「うたい」とも「お能」とも云わなかった。「謡曲ね」と云ったのである。また彼女は何時だって「酔払ったのね」とは云わない。「ご酪酊 ね」である。
方南 東京都杉並区南東部の地名。方南一丁目と方南二丁目。地名は「ほうなん」ですが、この小説では「かたなみ」と読みます。
それ 「清水銀太郎」は「お父さん」か「友達」ですが、全体を見ると、おそらくこのお父さんが清水銀太郎なのでしょう。なお、このオペラ役者の詳細は不明です。
オペラ役者 歌って、演技する声楽家。現在は「オペラ歌手」のほうがより普通です。
分家 家族員がこれまで属した家から分離し、新たにつくった家。なお、元の家は本家。
縄暖簾 飯塚酒場 のこと。横寺町にありました。
どぶろく 日本酒と同じく米
麹こうじ 、蒸し米と水で仕込み、発酵したもろみを濾過はなくそのまま飲む。
同姓 どちらも「飯塚」だったのでしょう。
繋り 現在は「繋がり」。つながり。結びつき。関係があること。
下げ髪 さげがみ。髪をそのまま、あるいは
髻もとどり で束ねて後方に垂れ下げた女性の髪形。
家並 いえなみ。家が続いて並んでいること。
茜 あかね。黄みを帯びた沈んだ赤色。暗赤色。
〽勘平さまも… おそらく「仮名手本忠臣蔵」から。
謡曲ようきょく の一種でしょう。
横寺片隅 稲垣足穂氏の住所は「横寺町37番地 東京高等数学塾気付」でした。
起臥 きが。起きることと寝ること。生活すること。
〽千鳥の声も… 能楽「
敦盛あつもり 」の一節。源平の合戦から数年後、源氏の武将、熊谷直実は平敦盛の菩提を弔うため、須磨の浦に行き、敦盛の霊に出会う。正しくは「千鳥の声も我が袖も波に
凋しお るる磯枕」
謡曲 能の脚本部分。声楽部分、つまり
謡うたい をさすことも。
酩酊 めいてい。非常に酔うこと。
白銀町 から赤城神社境内へ抜ける鈎の手 が続いた通路。紅い蔦 に絡まれた箱形洋館の脇からはいって行く小径。幾重にも折れ曲っだ落葉の道。何時だって人影が無い。トシちゃんはいまどんな用事をしているであろう? 「洗濯物なんか神楽坂の姐さんが控えているじゃないか」と銀座裏の社長 が云った。 「それにはお白粉が入用なんだ」 「おしろいまで買わせるのか」ちょび髭の森谷氏はそう云って、別に札を一枚出し、これで向いの店で適当なのを買ってこい、と校正係の若者に命じた。白粉はトシちゃん行きではない。沖縄乙女のヨッちゃんの為にである。 縄暖簾を潜ると、武田麟太郎 が白馬 を飲んでいた。約束の金を持ってきてくれたのである。五、六本明けてからヤマニ ヘ引張って行く。 「師匠から女の子を見せられようとは、これはおどろいた!」 そう云いながら、彼は濁り酒 を四本明けた。いっしょに日活館 の前まで来たが、此処で彼の姿は児雷也 のように、急に何処かへ消え失せてしまった。
鉤の手 かぎのて。
鉤かぎ (鈎)の形に曲がっていること。ほぼ直角に曲がっていること。
蔦 つた。ブドウ科のつる性落葉木本。
社長 森谷均。1897~1969。編集者。昭森社を創業。神保町に喫茶店や画廊を開き、出版社を二階に移転。思潮社の小田久郎氏やユリイカの伊達得夫氏は同社の出身。
白馬 しろうま。どぶろくと同じ。ほかに、濁り酒、濁酒、もろみ酒も。
濁り酒 にごりざけ。これもどぶろくと同じ。
日活館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地にあった映画館。日活館。現在はスーパーの「よしや」
児雷也 じらいや。江戸時代の読本・草双紙・歌舞伎などに現れる怪盗。中国明代の小説で門扉に「自来也」と書き残す盗賊の我来也があり、翻案による人物。
蟇がま の妖術を使う。
そのトシちゃんがヤマニバーをやめ、神楽坂からも消えてしまいます。
トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂上を去った。きょうも時刻が来て、酒呑連の行列がどッとヤマニヘなだれこんだ時、何処かのおっさんが、混乱の渦の真中で、「背の高い女中が居ないと駄目だあ!」と呶鳴った けれど、その、客捌き の鮮かな、優い、背の高い女中は最早このバーヘは帰ってこないのである。足掛六年の月日だった。俺には未だよく思い出せない数々のことが、今となってよく手繰り 出せない事共がひと餅 になっている。暑い日も寒い日も変りなく立働いていたトシちゃん。「おひたし? おしたじ ? いったいどっちなの?」と甲高い声でたずねてくれるトシちゃん。俺が痩せ細った寒鴉 になり、金具の取れた布バンドを巻くようになっても態度の変らなかった唯一の人。何時だって、あの突当りに前田医院 の青銅円蓋が見える所へ帰ってきた時に、俺の心を明るくした女性。朋輩が次々に入れ変っても一人居残って、永久に此処に居そうに見えた彼女は、とうとう神楽坂を去った。
都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)
呶鳴る どなる。激しく言葉をだす。
客捌き きゃくさばき。客に対応して手際よく処理する。
手繰り てぐり。工夫して都合をつけること。やり繰り。
ひと餅 不明。「一緒になって」でしょうか。
おしたじ 御下地。醬油のこと。
寒鴉 かんあ。冬の
烏からす 。かんがらす。
前田医院 神楽坂6丁目32にありました。現在は菊池医院に変わっています。
昭和20(1945)年4月13日午後8時頃から、米軍による東京大空襲がありました。
正面に緑青 の吹いた鹿鳴館 風の円屋根 が見える神楽坂上の書割 は、いまは荒涼としていた。これも永くは続かなかった。俺がトシちゃんへご機嫌奉仕をし、合せて電車通 の天使的富美子さんの上に、郵便局横丁 のみどりさんの上に、そのすじ向いの菊代嬢に、日活会館 前のギー坊に、肴町 のヨッちゃんの上に、さては「矢来小町」の喜美江さんを繞って 、それぞれに明暗物語が進捗 していた時、旧神楽坂はその周辺なる親しき誰彼にいまはの別れを告げていたのだ。電車道の東側から始まった取壊し作業の鳶口 が、既に無住のヤマニバーまで届かぬうちに、四月半ばの生暖い深更 に、牛込一帯は天降った火竜群 の舌々によって砥め尽されてしまった。お湯屋 の煙突と、消防本部 の格子塔と、そして新潮社 のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜 の煙に。そして起伏した一望の焼野原。ヤマニの前に敷詰められた鱗形の割栗 ばかりが昔なりけり――になってしまった。
鹿鳴館
緑青 ろくしょう。金属の銅から出た緑色の錆。腐食の進行を妨げる働きがある。
鹿鳴館 ろくめいかん。明治16年(1883)、英国人コンドルの設計で完成した洋館。煉瓦造り、二階建て。高官や華族の夜会や舞踏会を開催。
円屋根 稲垣足穂氏は「世界の巌」(昭和31年)で「彼らの思い出の神楽坂、正面にM医院の鹿鳴館式の青銅の円蓋が見える書割は、――あの1935年の秋、霧立ちこめる神戸沖の幻影ファントム 艦隊フリート と共に――いまはどこに求めるよすがも無い。」と書いています。したがって、これも前田医院の描写なのでしょう。
書割 かきわり。芝居の大道具。木製の枠に紙や布を張り、建物や風景などを描き、背景にする。
繞る めぐる。まわりをぐるりと回る。とりまく。
進捗 物事が進みはかどること。
電車通 現「大久保通り」のこと。
郵便局横丁 郵便局は通寺町(現神楽坂6丁目)30番地でした。前の図で右側の横丁を指すのでしょう。
日活会館 通寺町(現神楽坂6丁目)11番地。
肴町 現「神楽坂5丁目」
鳶口 とびぐち。竹や木製の棒の先端に鉄製の鉤かぎ をつけ、破壊消防、木材の積立・搬出・流送などを行う道具。
深更 しんこう。夜ふけ。深夜。
天降った火竜群 航空機B29による無差別爆撃と、焼夷弾による爆発と炎上がありました。
牛込区詳細図。昭和16年
お湯屋 「藤乃湯」が横寺町13にありました。
消防本部 消防本部は矢来町108にありました。
新潮社 新潮社は矢来町71にありました。
半夜 まよなか。夜半。
割栗 割栗石。わりぐりいし。岩石や玉石を割った砕石。直径は10〜20cm。基礎工事の地盤改良などで利用した。
それから戦後数年たって、トシちゃんの話が出てきます。
武蔵野館 の前を曲りながら、近頃休みがちの店が本日も閉っていることを願わずに居られなかった。タール 塗の小屋の表には然し暖簾 が出ていた。俺は横丁へ逸れて、通り過ぎながら、勝手口から奥を窺った。俯いて何かやっている小柄な、痩ぎすの姿があった。 「奥さん」と俺は声を掛げた。「表は未だなのですか?」 顔を上げて、それからおかみは戸口まで出てきた。 持前のちょっと皮肉な笑みを浮べると、 「まだ氷がはいらないので、お午からです」 五、六秒の間があった。 「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」 「それはお目出度い……」と俺は受け継いでいた。このおかみの肌の木目 が細かいこと、物を云いかけるたびに、揃いの金歯がよく光ることに今更ながら気が付いた。 「東京ですか」と自動的に俺は口に出した。 「いいえ田舎で――」 その田舎は……? とは、はずみに もせよ口には出なかった。この上は何時かひょっくり逢えばよいのだ。逢わなくてもよいのである。 その代り接穂 は次のようになった。 「姉さんの方はどちらに?」 「千葉とか聞いています」 「こちらは相変らずの宿無しで」と、俺は吃り気味に、此場から離れる為に言葉を引張り出した。 「――いま、戸塚の旅館にいるんですよ」それはまあ! という風におかみは頷いた。 「ではまた」と云って、俺は歩き出した。
武蔵野館 前後の流れを読むと、神楽坂6丁目にあった日活館で、それが戦後になって「武蔵野館」に変わったものではなく、新宿の「武蔵野館」でしょう。
タール コールタール。石炭の高温乾留で得られる黒色の油状液体。そのまま防腐塗料として使う。
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。部屋の入り口や仕切りにたらす短い布。
木目 皮膚や物の表面の細かいあや。また、それに触れたときの感じ。
はずみに そのときの思いがけない勢い。その場のなりゆき。
接穂 つぎほ。話を続けて行くきっかけ。言葉をつぐ機会。
次で小説は終わりです。
「涙が零れた のよ」釣革 を持った婦人同士の会話中に、こんな言葉が洩れ聞えた。僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年 八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々 終ったことを知るのだった。 電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。
零れる こぼれる。液体が容器から出て外へ落ちる。抑え切れなくて、外に表れる。
釣革 つり革。吊革。吊り手。つりて。電車・バスなどの中で、乗客が体を支えるためにつかまる、上から吊り下げられた輪。
1947年 足穂氏は46歳でした。なお、終戦の日は1945年8月15日です。
愈々 いよいよ。待望していた物事が成立したり実現したりするさま。とうとう。ついに。
文学と神楽坂
『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会・今昔史編集委員会、2000年)の「横寺町と近代文芸」で、鳥居秀敏氏が稲垣足穂 氏の作品を取り上げています。足穂氏は戦前に横寺町にいた異質の小説家です。また、鳥居氏は横寺町の、まあ言ってみればこの時代の長老格で、『よこてらまち今昔史』の編集顧問であり、さらに鳥居一家は小説家の尾崎紅葉氏の大家でもありました。
足穂が横寺町へ越して来たのは昭和12年の5月で、戦災で焼け出される昭和20年4月までの8年間、37番地の東京高等数学塾 に暮らしていました。岩戸町の法正寺 とは背中合せで、牛込幼稚園 と棟続きだったようです。足穂38才から46才のことでした。 「横寺日記 」によれば、足穂は思い出したように神楽坂の盛文堂 へ出掛けて、野尻抱影 の「星座巡礼 」を買い求め、南蔵院 と向い合せの崖の上(石段わき)から、牽牛 や織女 や白鳥 やカシオペア やペガサス を見たり、また家の裏手でオリオン や双子 を見ながら用をたしたりしています。それは決して自然科学の眼ではなく、月を見れば月面から月美人の横顔を追い求めるような足穂独得の眼で、星を愛するには天文学はいらないとも言っています。プラネタリウムは幻燈仕掛けの錯覚に過ぎず、星に通ずるものを持っていない、と言いながら、毎日会館 のプラネタリウムへ何度も足を運んでいたようです。 この「横寺日記」にはほとんど星のことばかり書いており、足穂の生活ぶりを十分読み取ることが出来ませんが、眼鏡を質に入れたり出したりする話が出て来ます。借りる額は50銭か1円ですが、緊急の際には1円50銭も借りられたそうです。飯塚酒店 にしろその質屋にしろ、足穂にはどこか助けてやりたくなるようなものがあったのかも知れません。足穂の半自伝的小説といわれる「弥勒 」の中から、横寺町の出て来る部分を抜萃してみましょう。
都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)から
黄色は東京高等数学塾だった現在の建物。
東京高等数学塾 上図で青色の建物。その左に「東京高等数学塾」と書いてあります。
法正寺 上図で右の赤い建物です。
牛込幼稚園 上図で青色の建物。建物の中央部に「牛込幼稚園」
横寺日記 昭和23年、「文潮」に「きらきら日誌」として発表。当時の住所は横寺町。星座を中心にまとめたもの。
野尻抱影 のじりほうえい。ジャーナリスト。随筆家。1906年、早稲田大学英文科卒業。主に星のロマンチシズムを語った。生年は1885年11月15日、没年は1977年10月30日。享年は満91歳。
星座巡礼 1925年『星座巡禮』(研究社)として発売。現在も『新星座巡礼』として販売中。四季の夜空をめぐる星座の数々を月を追って紹介。
南蔵院 箪笥町にある真言宗豊山派の寺院。図では下の赤丸。
牽牛 わし座のアルファ星。アルタイル。『新星座巡礼』では8月に。
織女 こと座のアルファ星。ベガ。『新星座巡礼』では8月。
白鳥 はくちょう座。アルファ星はデネブ。『新星座巡礼』では8月。
カシオペア カシオペア座。「W」形の星座。北極星を発見する方法の1つ。『新星座巡礼』では9月。
ペガサス 正しくはペガスス座。胴体部分は「ぺガススの大四辺形」。『新星座巡礼』では9月。
オリオン オリオン座。アルファ星はベテルギウス。ベータ星はリゲル。真ん中に三ツ星。『新星座巡礼』では1月。
双子 ふたご座。アルファ星カストル。ベータ星ポルックス。『新星座巡礼』では1月。
会館 『横寺日記』では丸ノ内のプラネタリウムに行ったことが書かれていますが、「毎日」ではありません。
弥勒 昭和14年から部分的に発表し、昭和21年、最終的に小山書店から『彌勒』を発行。
行全体だけが下げる場合は稲垣足穂氏の書いている部分です。
このたび上京してから、牛込の片辺りの崖上の旧館に部屋を借りるまでには、約五ヵ月を要した。この樹木の多い旧旗本屋敷町の一廓 は、或る日その近くの出版社 からの帰途に、抜け道をしようとして通りかかったのだが、なんとなく好きになれそうであった。近辺には蜀山人 の旧跡があったし、当座の住いに定めた青蔓 のアパート の前には、お寺の墓地を距てて、尾崎紅葉 の家があった。明治末から大正初めにかけて名を謳われた新劇女優 が自ら縊れた 所だという樺色の芸術倶楽部 も、そのままに残っていた。このならびに、年毎に紙を張り重ねて、今は大きな長方形に膨れ上がった掲け看板に、「官許せうちう 」と大書した旧い酒造 家 があって、その表側が濁り酒 や焼酎を飲ませる店になっていた。この縄暖簾 へ四十年間通い続けたという老詩人 の話を、彼は耳にした。その人はいまは板橋の養老院 へはいっていたが、少年時代の彼には懐かしい名前であった。閉じ込められている往年の情熱詩人からの便りが、殆んど数日置きに酒屋の主人並びにその愛孫宛に届けられていたが、破れ袴の書生の頃、月下の神楽坂を太いステッキを打ち振って歩いた日々を想い浮べて、詩人が最近に葉書にしたためて寄越したという歌を、彼は縄暖簾の奥の帳場で見せて貰った。「神楽坂めぐれば恋し横寺に鳴らせる下駄は男なりけり」――巴里のカルチエ・ラタン とはこんな所であろうかと、彼は思ってみるのだった。実際、この高台の一角には夢が滞っていた。そしてお湯屋も床屋も煙草屋も一種の余裕を備えていた。ちょっと断わりさえすれば、いつでもよいから、と云って快よく貸売 してくれるのだった。
その日の食べる物にも困る貧しい生活をしながら、足穂は横寺町が大変気に入っていたようです。ここに出て来る老詩人は兒玉花外 でしょうか。今でいえばアルコール依存症という状態だったと思いますが、足穂は晩年まで創作をつづけ、昭和52年、数え年78才で京都で亡くなりました。
河出書房新社『新文芸読本 稲垣足穂』(1993年)
一廓 一つの囲いの中の地域。
出版社 新潮社でしょう。
蜀山人 しょくさんじん。大田おおた 南畝なんぽ の別号。江戸後期の狂歌師・戯作者。
青蔓 あおずる。薬用植物。ツズラフジ科の落葉つる性植物。あるいは単に緑色のつる。
アパート 上図では最左端の黒丸が「最初のアパート」でした。昭和12年、都市製図社の『火災保険特殊地図』ではここは「旺山荘」でした。
縊れた くびれた。縊れる。首をくくって自殺する。
官許せうちう 「官許かんきょ 」とは「政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと」。「せうちう」とは「しょうちゅう、焼酎」で、日本の代表的な蒸留酒。焼酎の製造を特に許すこと。
酒造 酒をつくること。造酒。
酒造家 ここに飯塚酒場 がありました。上の地図を参照。
濁り酒 発酵は行うが、糟かす を漉こ していないため、白くにごった酒。どぶろく。
縄暖簾 なわのれん。縄を幾筋も結び垂らしたのれん。店先に縄暖簾を下げたことから、居酒屋・一膳飯屋
老詩人 兒玉花外 のこと。
板橋の養老院 東京府養育院でしょう。現在は東京都健康長寿医療センターに変わりました。
カルチエ・ラタン Quartier latin。直訳では「ラテン街」。ソルボンヌ大学を始めとする各種大学や図書館があり、学生街としても有名。
貸売 かしうり。掛か け売りと同じ。一定期間後に代金を受け取る約束で品物を売ること。
横寺町
文学と神楽坂
昭和15年、稲垣足穂 氏の書いた「弥勒みろく 」です。氏は異質の新感覚派の小説家で、昭和12年から昭和20年まで、牛込区(現新宿区)横寺町の東京高等数学塾で暮らしていました。
結局要求は容れられ、その日の正午まえには、再び元の横寺町 へ帰ることができた。青い一廓 、青い焔の爆発のようにあちらこちらに噴出した樹々の他に、家の廂 も、内科医院の建物も、用水樽も、申し合わしたようにに青ペンキが塗られていた。只江美留 には、人に貰った青い背広がすでに失くなり 、これはもう戻ってこない という事情があった。この時にもヒルティー 紳土 が助勢 を買って出て、青甍 アパートの横の小路の突当りにある、古い、巨きな空箱のような建物へ話をつけてくれた。私立幼稚園だったが、反対側には「東京高等数学塾」という札が懸かっていた。二方に窓が付いている二階六畳のすぐ下が墓地で、朱塗の山門 と本堂が向うにあって、木魚 の音が聞えていた。朝になると、子供たちが先生お早うございますと云いながら集つてきて、裏庭でブランコが軋り出す。やがてピアノの音につれて、足踏み と合唱が始まる。階上広間の机と椅子が積上げてある所では、絶えずチョークの音がしていた。同宿の物理学校の学生や受験準備中の者が、黒板に図形を引いているのだった。幼稚園を経営している中年婦人のお父さんが塾長で、もう八十歳だということであったが、見たところは六十にもなっていないようだった。「とにかく俗人じゃないね」と最初の日にその姿を見た友人が洩らしたが、この言葉はいろいろな機会において江美留の前に立証され出した。このK先生は毎朝五時に起きると、水を満した大形バケツを両手にさげて、幾回も廊下づたいに洗面所まで運ぶ。それから教室脇の私室のテーブルに倚りかかって、見台 に載せた独逸語の原書に向っているが、その足許の火鉢には年じゅう炭は認められない。夜の九時頃、この老数学者が勝手元 でひとりで食事をしているのを、薬罐 の水を汲みに行ったついでに見た者があった。「それが煮焚きした、つまり湯気を立てているようなものじゃないんだ」と報告者は先生のおかずについて告げた。「冷たい煮豆のような、それが何であるか判らぬような皿が前に置いてあった」
東京高等数学塾はここにありました。
都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。東京高等数学塾は赤色で
黄色は東京高等数学塾だった現在の建物。
一廓 いっかく。ひと続きの地域。
廂 ひさし。家屋の開口部の上にあり、日除けや雨除け用の小型屋根。
江美留 えみる。主人公の名前
すでに失くなり 質草として取られ
もう戻ってこない 質草の所有権がなくなる。流れた。
ヒルティー カール・ヒルティ(Carl Hilty)。1833年-1909年。スイスの下院議員。著名な文筆家。敬虔なキリスト教徒。著者は『幸福論』『眠られぬ夜のために』など。
ヒルティー紳士 ヒルティが大好きな男性。『弥勒』によれば「ヒルティー愛読家には、彼の方から初めて話しかけたのであるが、その紳士は以前、江美留の学校とは隣り合せの神戸高商に籍を置いて、ボートの選手だったのだそうである。それは江美留が中学初年生であった頃に当る。そしてこの時分、紳士の念頭には、元町の「三つ輪」の鋤焼の厚いヒレ肉と「福原」の芸者遊びしかなかったが、その後は本を読むことと仕事の上に向けられた。仕事とは曖昧であるが、それはまたそれでよい、そんなふうなものだと紳士は云った。それで昔の仲間は今日では殆ど重役級にあるらしかったが、本人は別に何をやってきたわけでもなく、今はこの縄暖簾で上酒の徳利を煩けているのだった。」この「縄暖簾」は飯塚酒場 のことで、横寺町にありました。
助勢 手助けすること。加勢。
甍 いらか。屋根の頂上の部分。屋根やね 瓦がわら 。
山門 寺院の門。かつての寺は多く山上にあったから。
木魚 もくぎょ。経を読む時にたたく木製の仏具。禅寺で合図に打ち鳴らす魚板ぎょばん から変化したもの。
足踏み 立ち止まったまま両足で交互に地面や床の同じ所を踏むこと
見台 けんだい。書物をのせて読む台。書見台の略。
勝手元 かってもと。台所。台所のほう。
薬罐 やかん。薬缶。中に水を入れ湯を沸かす調理器具。右図を。
文学と神楽坂
サトウハチロー 著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ 郷愁ノスタルジヤ 」です。話は牛込区の都( みやこ ) 館支店という下宿屋で、起きました。
なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。
牛込牛込館 の向こう隣に、都館( みやこかん ) 支店 という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈 ( けんとう ) がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論( もちろん ) 原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「之( これ ) を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二 さんがいた。葛西( かさい ) 善蔵( ぜんぞう ) さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎( たにざき ) 精二( せいじ ) さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬( そうま ) 泰三( たいぞう ) さんは、襟足( えりあし ) へいつも毛をはやしていた、廣津( ひろつ ) さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイ していた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家 がいた。落語にあんないゝセンチメント があるかと僕は木槌( こづち ) を腰へぶらさげて 、その批評家の家( うち ) のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎 先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽( かぐら ) 坂( ざか ) の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ這( は ) 入( い ) って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。肴 さかな は何やならんと横目で見たら、おそば、、、 だった。しかも、かけ、、 だった。かけ、、 のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月 しゅんげつ と書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん 様と横町よこちょう を隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。
牛込牛込館 、都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。
左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。
軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「張( は ) り扇( せん ) 」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
肴 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。
こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま 屋や ! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ 虎男とらお (獨歩どっぽ の長男)と、平野威馬雄いまお (ヘンリイビイブイ というアメリカ人で日本の勲章を持っている人の倅せがれ )と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさ に僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり 、昔の友達は意気があい すぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイ じゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋 の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが 酒店 の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちん をつけた自転車が三台、続いて文明館 のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえ をよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。 まだある。二十一、二の時分に神楽館 かぐらかん という下宿にいた。白木屋 の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺい ことアイアンソルジャー 、麻雀八段川崎かわさき 備寛びかん 、間宮まみや 茂輔もすけ 、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげて しまったので)たもと をひるがえして赤びょうたん へ行く、田原屋 でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。
国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは
万長酒店 です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。
田原屋
文学と神楽坂
佐藤隆三氏の『江戸の口碑と伝説』(郷土研究社、昭和6年)に書かれた「紅皿塚」です。この本を書いた昭和6年には、氏は東京市主事でした。
紅 皿 塚 附 山吹の乙女 紅皿の墓と云ふのが89年前 東大久保天神前24番地 大聖院 の境内で發見せられた。墓は本堂の北手にあって、高さ三尺四寸 幅二尺七寸 厚さ三寸 許り の板碑 で、幾春秋の雨風で、表面の文字は殆ど摩滅し、僅に碑面の梵字 の形が、朧げに見える許りである。この紅皿と云ふのは、太田道灌 に山吹 の花を示した彼の山吹の乙女のことで、之れにはこんな傳説がある。 應仁 元年細川勝元 、山名宗企 京師 に兵を舉げ、兩軍相戰ふこと五年に及んだ。之れが爲京 の洛中洛外 兵火 を蒙り、社寺・邸宅・民家殆ど全き ものなく、兩軍の軍勢27萬と稱し、古今未曾有の大亂であった。之れが卽ち應仁の亂 で「📘 汝なれ や知る都は野邊の夕雲雀、あがるを見ても落つる涙は」とは、當時京都の荒廢を詠んだ歌 である。この亂が全く鎭定 する迄には11年を要し、京の疲弊その極に達した。公家町人を始め多くの人が、この亂を厭うて他國に逃れし者のうちに、武蔵國 高田の里 に、妻と娘を連れ、難を避け佗住居 して居る侍があつた。妻が病死したので、彼は娘を相手に淋しく暮して居つたが、世話する者があつて、附近の農家の後家さんの所へ娘を連れて、入夫 の身となった。スルト間もなく女の兒が生れたので、彼の妻は自分の生みの子を愛し、連れ子を虐待する事が多かつた。二人の娘が成長するにつれ、姉は頗る美人で、京生れの優美なるに、妹の方は夫れに反して貌形醜くかつたので、里人は姉を紅皿 、妹を缺皿 と呼びならはしてゐた。紅皿は何事も人並優れてゐたが、畑うつ 業が出来ぬと云ふので、母は何かにつけ継子扱ひにした。然し紅皿は母に逆ふ事なくよく働くので、村の評判娘であり、また都雅 たる美貌の持主であつた。 ある春の末頃、太田道灌は家來を建れて、高田の邊りに狩に出かけ、彼方此方 を狩をしてゐると、俄雨 が降つて來たので、蓑 を借りようと近くの百姓家に行つた。其の時美はしき乙女が、庭先の山吹の花を一枝折つて、恥しさうに差出したのが、この紅皿であつた。道灌はその意を悟り得ずして、乙女の顔をつく/”\と打眺め、狂人ではないかと考へた。間もなく雨も止んだので、城に歸り、老臣にその話をした。老臣の内に中村治部少輔重頼 といふ和歌に堪能な者があつて、夫れは兼明親王 が、小倉 の山荘で詠まれた歌で、後拾遺集 に「📘 七重八重花は咲けども山吹の、みの一つだになきぞ悲しき」と云ふのがある。蓑のなき事を古歌の意を假りて示したものだと云ふのであつた。それを聞いて道灌はいたく 恥らひ、早速歌道に志し、逡に歌人としても名を知らるるに至うた。 道灌は、物言はぬ 一枝の山吹に心動かされ、紅皿を呼出して、遂に物言ふ花 となし、歌の友として深く之を愛した。道灌を文武兩道を具備 せしめたのは、實にこの紅皿の援助に依る處が多つた。文明十八年七月 説に依り、道灌相州糟ヶ谷 に於て歿し、共の後紅皿は剃髪して浄照清月比丘尼 と稱し、道灌の菩提 を懇に弔つてゐたが、明應二年七月 二十一日遂に遺灌の後を追つて、永き眠りについた。
📘 君はわかるのか。都は焼け野原になった。夕ひばりよ。舞い上がるこの姿を眺めているが、涙はこぼれるばかりだ。
📘 七重八重と咲く山吹は、実の一つもなく、わが家でも蓑一つもない。それがかなしい。
紅皿 べにざら。継子で美しい娘紅皿を、継母とその実子の醜い欠皿がいじめるが、結局、紅皿は高貴な人と結婚して幸福になる。
89年前 1842年のこと。天保13年。11代目の徳川家慶将軍。
大聖院 旧番地は東大久保天神前24番地。新番地は場所は変わらず、その名称だけが変わり、新宿区新宿6-21-11(右図)に。天台寺の寺院で、梅松山大聖院五大尊寺という。
三尺四寸 約129cm
二尺七寸 約102cm
三寸 約9cm
許り ばかり。おおよその程度や分量を表す。ほど。くらい。
板碑 いたび。平板石を用いた石いし 塔婆とうば 。室町時代に関東で多く建立こんりゅう 。
梵字 ぼんじ。インドで用いられたブラーフミー文字の漢訳名。
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
山吹 ヤマブキ。バラ科ヤマブキ属の落葉低木。八重咲きのものは実がならない。
應仁 応仁。室町(戦国)時代で、1467年から1469年まで。
細川勝元 ほそかわかつもと。1430年~1473年。応仁の乱の東軍総大将
山名宗企 やまなそうぜん。1404~1473年。応仁の乱で西軍総大将。
京師 けいし。みやこ。帝都。「京」は大、「師」は衆で、多くの人が集まる場所
爲京 不明。「いきょう」と読み、意味は「京のため」でしょうか?
洛中洛外 京都の市街(洛中)と郊外(洛外)
兵火 へいか。戦争によって起こる火災。戦火。戦争。
全き まったき。完全で欠けたところのないこと。
應仁の亂 応仁の乱。おうにんのらん。応仁元年~文明9年(1467~1477)、細川勝元と山名宗全の対立に将軍継嗣問題や畠山・斯波しば 両家の家督争いが絡んで争われた内乱。
荒廢を詠んだ歌 歌人は飯尾常房。いのおつねふさ。通称は彦六左衛門。細川成之に仕え、8代将軍・足利義政の右筆(公私の文書作成にあたる人物)。武将で、仏教に通じ、和歌を尭孝(ぎょうこう)法師に学んだ。出生は応永29(1422)年3月19日。没年は文明17年(1485)閏3月24日。享年は64歳。
鎭定 ちんてい。鎮定。力によって乱をしずめ、世の中を安定させること。
武蔵國 むさしのくに。日本の地方行政区分。令制国。場所は旧中葛飾郡を除く埼玉県、島嶼部を除く東京都、川崎市と横浜市。
高田の里 おそらく東京府北豊島郡高田村でしょう。右図に高田村を。 http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/13B0100004.html
佗住居 わびずまい。閑静な住居。貧しい家。貧乏な暮らし
入夫 にゅうふ。旧民法で、戸主の女性と結婚してその夫となること。婿として家に入ること。
紅皿 べにざら
缺皿 かけざら
畑うつ 畑打つ。はたうつ。種まきの用意のため畑を打ち返すこと
都雅 とが。みやびやかなこと。都会風で上品なこと。
彼方此方 あちこち。あちらこちら。あっちこっち。
俄雨 にわかあめ。急に降りだしてまもなくやんでしまう雨。驟雨しゅうう 。
蓑 みの。雨具の一種。スゲ、わら、シュロなどの茎や葉を編んで作る。
中村治部少輔重頼 なかむらじぶのしょうゆしげより。扇谷上杉氏の家来とも。
兼明親王 かねあきらしんのう。平安前期の醍醐天皇の皇子で公卿。
小倉 京都市右京区嵯峨小倉山町の小倉山
後拾遺集 後拾遺和歌集。ごしゅういわかしゅう。平安時代後期の第4勅撰和歌集。
いたく 甚く。程度がはなはだしい。非常に。ひどく。
物言わぬ花 普通の花。草木の花。美人は「物言う花」に対して使う
物言う花 美人。美女。
具備 ぐび。必要な物や事柄を十分に備えていること
文明十八年七月 文明18年7月26日は1486年8月25日。この日に太田道灌の暗殺がありました。
相州糟ヶ谷 相州は相模国で、神奈川県の大部分。「糟ヶ谷」はありませんでしたが、「糟屋」はありました。糟屋氏は相模国大住郡糟屋荘(現神奈川県伊勢原市一帯)を本拠とした豪族です。道灌は伊勢原市の糟屋館に招かれ、ここで暗殺されました。
比丘尼 びくに。パーリ語 bhikkhunī、サンスクリット語 bhikṣuṇīの音写。仏教に帰依し出家した女性。尼。尼僧。
菩提 ぼだい。死後の冥福
明應二年七月 1493年8月12日からの一か月
江戸以前
文学と神楽坂
早稲田とミョウガについて。
神田上水 の流域の低地は、農地となっていたものであろう。 押合 て目白 の茶屋 で見る早稲田 (四六・32)
目白の高台にある不動 参詣者が、田圃を見下ろす。 この辺りは茗荷 の名産地であった。 早稲田の畑槃特 が墓のやう (八九・38) はんどく の墓所目白の近所也 (四二・12) 槃特は周利槃特 といい、釈迦 の弟子の一人。魯鈍 な男で、この男の死後、墓から生えたのが茗荷 で、茗荷 を食うと物忘れするとか、馬鹿になるとかいう。 関口 は馬鹿になる程作るとこ (三七・3) 関口辺りも作ったらしい。 鎌倉の波 に早稲田の付ヶ合せ (一二九・28) 鰹の刺身に茗荷の付け合わせ。 馬鹿な子の出来る早稲田の野良 出合 (一一八・21) 馬鹿で芽をふく ハ 早稲田の育 也 (一〇二・22) はんどくハ 袴文珠 は尻からげ (宝十松3) 前句は「さま/”\な事」。諺に「槃特が愚痴も文珠の智恵」という。愚者も智者も等しく仏果 を得るということであるが、さて此句は、槃特は悠々としていて、文珠は獅子に乗ったりして忙しく走り廻るようすを言ったものか、または植物の若荷に対し、何か文珠にたとえられる植物があって、諺をふまえての対比をねらったものか、よくわからない。
神田上水 徳川家康が開削した日本最古の上水道。水源は井の頭池、善福寺池、妙正寺池の湧水。この水を大洗堰 (文京区関口) によりせき止め、小石川後楽園を経てお茶の水堀の上を木樋で渡し、神田、日本橋方面に供給。1898年淀橋浄水場開設に伴い、1901年一般への給水を停止。
押合 押し合う。押合う。両方から互いに押す。
目白 ここは文京区目白台でしょう。図を。
文京区目白台
茶屋 ちゃや。旅人が立ち寄って休息する店。掛け茶屋。茶屋小屋。茶店
不動 かつて目白不動で有名な新長谷はせ 寺でら が現在の関口二丁目にあり、 徳川家光がこの地を訪れた際に、城南の目黒に対して「目白とよぶべし」といわれたという。
茗荷 ミョウガ。ショウガ科の多年草。食用。園芸用。薬用
槃特 、はんどく 、周利槃特 しゅりはんどく。釈迦の弟子の一人で、自分の名前も覚えられないほど愚かな人間だった。
釈迦 しゃか。仏教の開祖。現在のネパール南部で生まれた。生年は紀元前463~383年から同560~480年など諸説ある。
魯鈍 ろどん。愚かで頭の働きが鈍いこと。
関口 文京区西部の住宅商業地区。山手台地に属する目白台と神田川の低地にまたがる。
鎌倉の波 「鎌倉の波」がどうして「鰹の刺身」になるのか、わかりません。代表的な一品をあげたのでしょうか。
野良 田や畑
出合 であい。男女がしめし合わせて会うこと。密会。出合い者は、出合い宿で売春をする女。
芽をふく 芽め を吹く。草木が芽をふく。物事が成長・発展するきざしを見せる。
育 イク。そだつ。そだてる。はぐくむ。そだてる。成長する。
文珠 文殊。文珠。もんじゅ。大乗仏教で菩薩の1人。釈尊の入滅後に生れた人物で、南インドで布教活動。普通には普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍として左脇に侍し、獅子に乗る形にも造られる。
尻からげ 尻絡げ。着物の後ろの裾をまくり上げて、その端を帯に挟むこと。尻はしょり。尻端折り。
仏果 仏道修行の結果として得られる、成仏という結果。
和歌 俳句 川柳
文学と神楽坂
次は高田 から戸山 方面へいって見る。
新宿区の戸塚一丁目 から、豊島区の高田一丁目 へ、神田上水 を渡る〈面影橋 〉の北詰 、オリジン電気会社 の門前に「山吹の里」と刻んだ碑 がある。 この碑には「貞享三丙寅歳 十一月六日」という文字がある。 貞享3年は、西暦1686年、五代将軍綱吉 の時代で、この伝説が、今から300年ぐらい前には、このような碑 が建てられる程に確立していたようである。 この辺りは神田上水に沿い、家も散在していたのであろう。もちろん山吹 のみならず、いろいろな野草もあったに違いない。大体が原っぱで狩猟地でもあったろうし、この伝説の地としては格好の場所である。 ただし実は山吹の里とはかなり広く、東南一帯のやや高い方まで指していたのではないかという。「江戸名所図会 」では、太田道濯 が「一日戸塚 の金川 辺に放鷹 す」と記されている。金川は戸山屋敷 から出て、穴八幡 の前を流れ、曲折して、遂には神田上水に入っていた小川であるから、そうするとずっと東南に当る。 さて道濯、太田持資は、永享四年(1432)~文明十八年(1486)という人物で、江戸の開祖 であるから、東京都庁の前に狩姿の銅像 が建てられている。 持資がある日狩に出て、鷹がそれた ので追ってこの辺りまで来たところ、急雨にあい、生憎雨具の用意がなかったので、傍の農家をおとずれ、簑 を所望した。この時一人の少女が、花盛りの山吹の一枝を折取って無言のまま持資にさし出した。持資はその意味が分らず、腹を立てて帰り、近臣にその話をすると中に一人心利きたる 者が進み出て、これは簑がなくてご用立てできないことの断りの意味でしょうと言った。
後拾遺和歌集 第十九雑五 中務卿 兼明親王 📘 小倉 の家に住み侍り ける頃、雨の降りける日、簑かる人侍りければ、山吹の枝を折りてとらせて侍りけり。心もえで まかり 過ぎて、又の日山吹の心もえざりしよし いひおこせて 侍りける、返事にいひ遺しける。 📘 七重八重花は咲けども山吹の みの一つだになきぞかなしき
📘この詞書は「京都の小倉の家に住んでいたが、雨の日に蓑を借りに来た人がいる。山吹の枝を折って渡したが、理解できず、退出したが、別の日、その訳を尋ねてきたので、この返事を送った」
📘あでやかに七重八重に咲く山吹は、実の一つもなく、それがかなしい。わが家には蓑一つもない。
高田 東京都豊島区の町名。右図を参照。ちなみに、のぞき坂は都内でも急な坂である。
戸山 東京都新宿区の町名。新宿区の地理的中央部にあたる。右図を参照
山吹の里 「山吹の里」は「山吹の里」伝説からでたもので、武将・太田道灌は農家の娘に蓑を借りようとして、代わりに一枝の山吹を渡されたという挿話です。本当にその場所はどこなのか、そもそも伝説は正しいのか、わかりません。
新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編」昭和60年
戸塚一丁目 新宿区の町名。この本『川柳江戸名所図会』は昭和47年に書かれた本です。昭和50年に、新しい住所表示に変わりました。右の地図では①が現在の戸塚一丁目ですが、昭和50年以前には①から⑤まですべてを含めて戸塚一丁目と呼びました。この戸塚一丁目(①~⑤)は戸塚地区では東端に当たります。
高田一丁目 豊島区の町名。一丁目~三丁目に分かれて、一丁目はその南端。山吹の里もここにあります。
神田上水 かんだじょうすい。日本最古の上水道で、水源は武蔵野市井の頭公園の井の頭池。神田・日本橋・京橋などに給水した。明治36年(1903)廃止。
面影橋 おもかげばし。「俤おもかげ 橋」とも。神田川に架かる橋。面影橋の西には曙橋、東には三島橋がかかる。
北詰 北側と同じ。
オリジン電気会社 オリジン電気会社は現在移転した。何かを建築中 。
碑 記念で文字を刻んだ石。いしぶみ。
貞享三丙寅歳 貞享三年は1686年。丙寅はひのえとら。
綱吉 とくがわつなよし。徳川綱吉。江戸幕府の第五代将軍。在職は1680年から1709年まで。生類憐みの令を施行し、元禄文化が花開いた。
山吹 バラ科ヤマブキ属の落葉低木。八重咲きのものは実がならない。
江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主の斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代が、名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪の絵を加えて解説。
太田道濯 室町時代中期の武将。長禄元年 (1457) 、江戸城を築いて居城とした。
戸塚 以前は戸塚村で、町になり、昭和7年、淀橋区になると、戸塚村は戸塚一丁目から四丁目までと諏訪町に変わりました。
金川 蟹かに 川とも。現在は暗渠化。水源は都保健医療公社大久保病院の付近の池。日清食品前、新宿文化センター通り、職安通り下、戸山ハイツ、馬場下町、穴八幡宮、早稲田鶴巻町を流れ、西早稲田の豊橋付近で神田川に合流。写真は落合道人(Ohiai-Dojin)の「金川(カニ川)の流域を概観してみる。」https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2015-10-21 から
放鷹 ほうよう。放鷹。鷹狩たかが りをすること。
戸山屋敷 尾張藩徳川家の下屋敷だった。現在は戸山公園、都営戸山ハイムアパート、戸山高校、東戸山小学区、早稲田大学文学部、国際医療研究センター、国立感染症研究所などに。左図は東陽堂の『新撰東京名所図会 』第42編(1906)から。
東陽堂『新撰東京名所図会』第42編
穴八幡 東京都新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。1728年(享保13年)、八代将軍徳川吉宗は疱瘡祈願で流鏑馬を奉納した。右図では赤い四角。なお、楕円は戸山屋敷にある湖「大泉水」。
開祖 初めて一派を開いた人。
狩姿の銅像 現在は東京国際フォーラムにある銅像
それた 逸れる。予想とは別の方向へ進む。
簑 みの。茅かや ・菅すげ などの茎や葉や、わらなどを編んで作った雨具。肩からかけて身に着ける。
心利く こころきく。気がきく。才覚がある。
後拾遺和歌集 ごしゅういわかしゅう。第四番目の勅撰和歌集。20巻。白河法皇下命、藤原通俊撰。1086年成立、翌年改訂。
中務卿 なかつかさきょう。中務省の長官。朝廷に関する職務の全般を担当。
兼明親王 かねあきらしんのう。醍醐天皇の第十六皇子。
小倉 京都嵯峨の小倉山付近
侍り はべり。「いる」の謙譲語
心もえ 心も得ず。理解できない。よくわからない。
まかる 地方や他所へ行く。許可を得て、宮廷や貴人の所から離れる。退出する。
よし 文節末に付いて、詠嘆の意を表す。
いひおこす 言ひ遣す。言ってよこす。
このように武将が少女にやり込められたというようなことは、川柳子の興を惹き、多くの句が作られている。 姿見 のあたり道濯雨やどり (四一・34) 一説に〈姿見橋 〉というのがやや北にあったとし「江戸名所図会」もそれに従っているが、実は、面影橋の別名 と考えた方がよいらしいという。 どふれ と言て山吹折て来る (三九・14) 少々ハ こも でも能イ と太田いゝ (明六宮3) 御返事に出す山吹ハ 無言也 (三八・23甲) 武蔵野て賤 山吹を客へ出し (五一・27) やさしさハ 簑なひ 花を折て出し (三七・6) 傘の断 山吹くんで 出し (五一・29) 騎射 笠 へいやしからざる 申訳ヶ (一二七・89) 賤心 有て山吹見せるなり (四三・9) 小倉百人一首、紀友則 の歌「久かたの光のどけき春の日にしづ心なく 花の散るらむ」をふまえている。 娘山吹キ の花を出してなあに (天二雀2) 謎仕立。 太田わけ 是が雨具かヤイ女 (七五・8) 気のきかぬ人と山吹おいてにげ (二五・3) 山ぶきの花だがなぜと太田いゝ (二二・17) どふ 考へても山吹初手解せず (二九・8) 道濯の紋 、桔梗と結んで、 山吹キ ヘ濡レ て欠ケ 込ム 桔梗傘 (一五三・4) ぬれた桔梗へ山吹の花を出し (二七・7) 山吹を桔梗へ出したにわか雨 (三三・7) その他には、 山吹を出す頃傘をかつぎ出し (二六・24) 簑壱ツ 有るとやさしい名ハ 立たず (二八・33) 成程これは理屈だ。 どうくわん ハ 見づしらず故かさぬなり (明五仁3) 成程これももっとも、雨具を借りて返さぬ奴も多い。 簑よりハ 山吹 のないつらい事 (三五・40) この山吹は金のことである。 後拾遺の古歌を道濯後にしり (八二・31) さて山吹が気に成ると御帰館後 (一三八・29)
姿見 、
姿見橋 、
面影橋 面影橋と姿見橋は別なのか。下の新宿区の説明では、左の「江戸名所図会」の挿絵のように別々の橋である可能性があるが、おそらく同じ橋だとしています。
一方、広重が書いた「高田姿見のはし俤の橋砂利場」(安政四年)では、別の橋が中央右に架かっています。
どふれ 「どうれ」と同じ。「どふれ」とはならず、正しくはないのですが、これ以外はなさそうです。
こも 薦。菰。マコモを粗く編んだむしろ。多くは
藁わら を用いる。
賤 せん。身分が低い。いやしい。さげすむ。いやしむ。あるいは、自分を謙遜していう語。
なひ なし。無し。
断 だん。決定する。決断。
くんで くむ。汲む。水などをすくい取る。系統・流れを受け継ぐ。
騎射 きしゃ。うまゆみ。馬上で行う弓矢の競技。
騎射笠 きしゃがさ。武士が騎射や馬の遠行で使った竹製の
網代あじろ 編みの笠。
いやしからず 「いやしい」は「身分・階層が低い。下賤だ」
賤心 しずこころ。品が悪い心。洗練されていない心。下品な心。
紀友則 きのとものり。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。
しづ心 「しづ心」は「
静しづ 心こころ 。落ち着いた心」。「しづ心なく」は「落ち着いた心がなく」
太田わけ 「訳」「分け」では意味が通りません。不明ですが、もし「太田わけ」から「田わけ」だとすると、この言葉は「江戸時代に農民が田畑を分割相続したこと」、これから「
戯たわ け」が出てきて、つまり「愚か者」になります。
どふ これも「どう」ではないでしょうか?
道濯の紋 「丸に細桔梗」です。
欠け込む 不明です。建築用語では「部材を接合するために、部材の一部を欠き取ること」。家相学では「家の一部が無い状態」。防水用語では「立上り防水層の納まりを良くするために、下地面にVカットを入れたり、段差を付けたりすること」。「欠く」は「一部分をこわす、備えていない」。「欠けていたが、桔梗の傘をはめ込んだ」。あるいは「駆け込む」(走って中に入る)の意味でしょうか。
どうくわん どうかん。太田道灌と同じ。
山吹 大判・小判の金貨。黄金。色がヤマブキの花の色に似ているから
さてこのような話には、とかく後日話が尾ひれをつけてつづくものである。そもそもこの草深い地に、このような気の利いた娘がどうしていたかということであるが、一説に、応仁の乱 を東国に落ちのびた武士の娘であろうという。その後、道濯は、その才を愛でてこの娘を召し出して妾としたともいう。 またこの娘には母親がなく、父が迎えた後妻の腹に妹が生れた。そこで母親が、この娘の名であった「紅皿 」というのを妹の名とし、この娘には「欠皿 」という名を与えたという。またこの紅皿の碑が大久保の大聖院(西向天神) にあり、古文書も見出されたそうで、道濯の死後尼となり余生を送ったことになっているそうである。 さて、その後の道濯は、 山吹の己後 簑箱 を持せられ (五四・14) と用意周到となる。 大体道濯はそもそも一介の武弁ではなく風流の道も心得ていたのだが、一般にはこの山吹の一件で開眼されたということになっている。 づぶぬれに成てかへると哥書 ヲかい (一七・3) 風流の道を鷹野の雨で知り (七五・35) 雨やどりまでハ ぶこつ な男なり (二〇・16) 雨舎りから両道 な武士となり (筥二 ・39)
というような句もある。
応仁の乱 おうにんのらん。室町時代末期、継嗣問題に端を発し、東西両軍に分れ、応仁1年から文明9年(1467~77) までの11年間、京都のみならず、ほぼ全国で争った内乱。
紅皿 べにざら。紅皿欠皿は昔話で、継子いじめの話。先妻の娘を紅皿、後妻の娘を欠皿といい、紅皿は奥方になる。
欠皿 かけざら
大聖院 西向天にしむきてん 神社。新宿区新宿6-21-1。以前は新宿区東大久保2-240と書いていた。碑は中央部がえぐられていて詳細は不明
己後 いご。以後。これから先。今後。
簑箱 「みのはこ」と読むのでしょう。簑を入れる箱。
哥書 かしょ。「哥」は「歌」の原字。和歌の本でしょう。
ぶこつ 無骨。武骨。洗練されていない。無作法。
両道 りょうどう。二つの方面。二道。「文武両道」
筥二 柳書「筥柳」の二(天明4年) の略
道濯の歌として伝えられるものに、 📘 露 置かぬもありけり夕立の 空より広き武蔵野の原 📘 わが庵 は松原つゞき海近く 富士の高嶺を軒端 にぞ見る 📘 急がずば濡れまじものを旅人の あとより晴るゝ野路の村雨 この最後の歌をもじって、 山吹の後チ ハ 濡れまじものとよみ (三八・2) 黒路 の村雨山吹ののちにはれ (四一・33) 夕立にぬれぬハ 古歌を知たやつ (三六・35) 晴間を待ツ ハ 古歌を知る雨舎リ (四一・36) また後世、対比の面白さをねらった句が出て来るが 和漢の雨舎リ 持資 と始皇 (筥二・27) 松ハ ぬらさず山吹ハ ずぶぬらし (二九・13) 松はしのがせ 山吹はぬらす也 (三七・6) 秦の始皇帝が泰山 を下った時、風雨に襲われ、松の木蔭に避け、其徳により、松に五太夫の位を与えたという故事がある。 文武の雨舎リ 資朝 持資 (二八・12) 徒然草第一五四段、日野資朝が東寺の門に雨を避け、片輪者を見て帰り、庭の盆栽の類いを取り捨てたという。 夕顔ハ 官女 山吹ハ おしやらく (二九・4) 夕顔 は源氏物語夕顔巻で、直接ではないが、花が扇にのせてさし出される。この夕顔という女を官女というのはちとおかしいようでもある。 梅山吹は文と武に手を取らせ (二六・10) 梅は安倍宗任 のことであろうか。
📘雨が降っていないところもある。夕立の空よりも武蔵の野は広大だから。
📘私の小さな家は松林が続き、海の近くで、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる。なお、「わが庵」は江戸城ではないでしょうか。
📘急がなければ、濡れなかったのに。野原の道でにわか雨は旅人のあとを追って晴れていく。
露 晴れた朝に草の上などにみられる水滴。
村雨 むらさめ。強く降ってすぐ止む雨。にわか雨。降り方が激しかったり、弱くなったりする雨。
軒端 のきば。軒の端。軒の先端。
黒路 不明。「こくろ」「くろろ」で検索しましたが、ありません。
持資 太田左衛門大夫持資もちすけ で、太田道灌どうかん と同じ。
始皇 始皇帝。しこうてい。中国、秦の初代皇帝。前221年、中国を統一して絶対王制を敷いた。郡県制の実施、度量衡・貨幣の統一、焚書坑儒による思想統一、万里の長城の修築、など事績が多い。しかし、急激な拡大と強圧政治に対する反動のため、死後数年で帝国は崩壊。
しのがせ 凌がせる。「凌ぐ」は苦痛や困難に屈しないで、耐えしのぶ。苦難を乗り越える。
泰山 たいざん。中国山東省済南市の名山。五岳の一つ。
資朝 日野資朝。ひのすけとも。鎌倉末期の公卿。後醍醐天皇に登用、討幕計画を進めたが、幕府側にもれて、佐渡に流罪、のち斬首。
官女 宮中や将軍家などに仕える女
おしやらく おしゃらく。御洒落。おしゃれ。おめかし。
夕顔 源氏物語の作中人物。三位中将の娘で、頭中将の側室。若い光源氏の愛人となるが、互いに素性を明かさぬまま、幼い娘を残して19歳で若死。佳人薄命の典型例
安倍宗任 あべのむねとう。平安時代中期の武将。奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤。貴族が梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」(私の故郷にもあるこの花は、我が故郷では梅の花だと言うのだが、都人は何と呼ぶのだろう)と見事な歌で答えました。
和歌 俳句 川柳
和歌 俳句 川柳
文学と神楽坂
「藁店」と書いてありますが、由井正雪のことが中心です。由井正雪は榎町に軍学塾「張孔堂」を開き、門弟は一時4000人以上でした。由井正雪は藁店にも住んだことがあるようです。
牛込に榎町 という町がある。
本郷ハ 春木 うしこみ夏木なり (三二・42) 本郷に春木町というところがあるのに対比させた句である。牛込を昔は<うしこみ>ともよんだ。 この榎町に由井正雪 が張孔堂 という邸宅 を構え、門弟四千人を擁していたという。 うし込のがつそう きものふとい やつ (天二・三・二七) この句、一七・39には「うしこみの」となっている。がっそうとは、総髪、なでつけ髪で、正雪の風采を語っている。ッ 牛込先生とんだ事 をたくらみ (傍三・33) 神楽坂を上り、善国寺を通り越してすぐの左への横丁を袋町 という。もと行き止まりになっていたからだという。またこの辺りに藁を扱う店があったので〈藁店 〉ともいう。 わらだなでよベバ 逃げてくなまこうり (五七・29) 藁でなまこをくくると溶けるという俗信による句である。もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという。
静岡市菩提樹院の由比正雪像
榎町 えのきちょう。新宿区の北東部にある。
春木 現在は本郷3丁目の大部分。
由井正雪 ゆいしょうせつ。江戸初期の兵法家。軍学塾「張孔堂」を開き、クーデターを画策。出生は1605年。享年は1651年。
張孔堂 楠木流軍学の教授所、軍学塾「
張孔堂ちょうこうどう 」を。塾名は、中国の名軍師2人、張子房と諸葛孔明に由来する。この道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱えたという。諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。
邸宅 場所は牛込榎町の広大な道場でした。しかし、事件の6年後に生まれた
新井あらい 白石はくせき は、正雪の弟子から聞いた話として、正雪の道場は神田
連雀れんじゃく 町の
五間いつま の裏店であったと書いています。
がっそう 兀僧。江戸時代の男の髪形。成人男子は前額部から頭上にかけて髪をそり上げた(
月代さかやき を剃らした)が、剃らず、のばした髪を頭上で束ねたもの。
きものふとい 肝の太い。物に動じない。大胆である。
とんだ事 幕府転覆を企てたこと。事前に発覚し、由井正雪は自刃した。これが慶安事件です。
袋町 現在の袋町は大きい(右図の紫の場所)のですが、江戸時代では小さい場所(藁店の一部で赤の場所)でした。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。
なまこうり 海鼠売り。ナマコを売る人。季語は冬
さて、正雪が藁店に住んだ とも考えられていたようで、 御弓丁 からわら店へ度々かよひ (天三松2) 御弓丁は、後の本郷弓町で、丸橋忠弥 の住んでいた所である。 藁店は今も雲気 を見る所 (桜・12) この句は今と昔とを対比させているわけであるが、今の方は、幕府の天文台 のことで、はじめ神田佐久間町にあったものを、明和二年、吉田四郎三郎 によって、この藁店へ移した。しかし西南方の遠望に障りがあるというので。その子の吉田靱負 の時、天明二年に浅草堀田原 へ引越した。此句は明和四年であるから此句の作られた時はまだ藁店にあった。 もう一方、昔の方は、正雪のことで、慶安四年四月二十日の晩、道灌山 に同志と集って手筈を定めたが、丸橋忠弥の軽率から露見し、忠弥は二十四日召捕られた。正雪は駿府 にいたが、26日早朝、旅館梅屋方を立出て、東の方の空を仰いで天文を占ったところ、陰謀の露見を知り、自決したという。 この句の作者は、正雪が牛込にいて雲気を見たと誤解して、昔、正雪が雲気を見、今は天文台で雲気を見ると対比させたわけである。
藁店に住んだ 昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』13.「由比正雪の抜け穴」では「神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた
楠くすのき 不伝ふでん の道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた」と書いてあります。
御弓丁 おゆみちょう。明治時代は弓町。現在は 東京都文京区本郷2丁目の1部です。
丸橋忠弥 まるばしちゅうや。宝蔵院流槍術の達人。江戸時代前期、慶安4 (1651) 年、由井正雪らとともに江戸幕府倒壊を計画したが、事前に発覚。町奉行に逮捕され、品川で磔刑に処した。
雲気 うんき。空中に立ち上る異様の気。昔、天文家や兵術家が天候・吉凶などを判断する根拠にした。
吉田四郎三郎 1703-1787年、江戸時代中期の暦算家。明和元年、幕府天文方となり、宝暦暦の修正案をまとめた。佐々木文次郎の名で知られたが、晩年吉田四郎三郎に改名。
吉田靱負 吉田四郎三郎の子
浅草堀田原 現在は台東区蔵前の「国際通り」の「寿3丁目」交差点から「蔵前小学校」交差点までの地域です。
道灌山 どうかんやま。荒川区西日暮里付近の高台。そばに開成中学校・高等学校がある。
駿府 現在の静岡県静岡市。
しかし駿府にいたという句もあって 悪人ハ するがと江戸でおつとらへ (安八松4) ふとひやつするがと江戸でとらへられ (安六松3) ふてゑ奴ッ江戸と駿河でとらへられ (筥初・37) 十能 に達し久能 で雪ハ 消へ (一三四・3) 不屈 な雪駿州へ来て消る (五四・33)
と言っている。また正雪が天文に達していたことについては、 正雪ハ にわか雨にハ あわぬなり (安六義5) という句もある。また、朝食の膳に向い、飯の上に立つ湯気によって露見を悟ったともいうので、 冷飯を喰ふと正雪知れぬとこ (五九・29) 大望もすへる 駿河の飯の湯気 (一四八・3) 飯の饐える にかけて言っている。
十能 じゅうのう。点火している炭火を運んだり,かき落したりする道具
久能 くのう。久能村で、静岡県の中部にある。
不屈 どんな困難にぶつかっても、意志を貫くこと。
すえる。饐える すえる。飲食物が腐ってすっぱくなる。
和歌 俳句 川柳
袋町
文学と神楽坂
水谷八重子 氏は明治38年8月1日に神楽坂で生まれました。この文章は氏の『松葉ぼたん』(鶴書房、昭和41年)から取ったものです。 氏が5歳(昭和43年)のとき、父は死亡し、母は、長女と一緒に住むことになりました。長女は既に劇作家・演出家の水谷竹紫 氏と結婚しています。つまり、竹紫氏は氏の義兄です。「区内に在住した文学者たち 」の水谷竹紫の項では、大正2年(8歳)頃から4年頃までは矢来町17 、大正5年頃(11歳)は矢来町11、大正6年頃(12歳)~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年(18歳)から大正15年頃は通寺町に住んでいました。氏が小学生だった時はこの矢来町に住んでいたのです。
神楽坂の思い出 ――かにかくに 渋民村 は恋しかりおもひでの山おもひでの川――啄木 の歌だが、私は東京牛込生まれの牛込育ち、ふるさとへの追慕 は神楽坂界わいにつながる。思い出の坂、思い出の濠(ほり)に郷愁 がわくのだ。先だっての晩も、おさげ で日傘をさし、長い袖の衣物で舞扇 を持ち、毘沙門 様の裏手にある踊りのお師匠さんの所へ通う夢をみた。 義兄竹紫 (ちくし)の母校が早稲田だったからでもあろう。水谷の家 は矢来町 、横寺町 と居をえても牛込を離れなかった。学び舎は郵便局 の横を赤城神社 の方ヘはいった赤城小学校 ……千田是也 さんも同窓だったのだが、年配が違わないのに覚えていない。滝沢修 さんから「私も赤城出ですよ」といわれた時は、懐かしくなった。
かにかくに あれこれと。何かにつけて。
渋民村 石川啄木の故郷。現在は岩手県盛岡市の一部。
追慕 ついぼ。死者や遠く離れて会えない人などをなつかしく思うこと。
郷愁 きょうしゅう。故郷を懐かしく思う気持ち。
おさげ 御下げ。少女の髪形。髪を左右に分けて編んで下げる。
舞扇 まいおうぎ。舞を舞うときに用いる扇。多くは、色彩の美しい大形の扇。
水谷の家 区編集の「区内に在住した文学者たち」では大正2年頃~4年頃まで矢来町17(左の赤い四角)、大正5年頃は矢来町11(中央の赤い多角形)、大正12頃~15年頃は通寺町61(右の赤い多角形)でした。
郵便局 青丸で書かれています。
赤城神社 緑の四角で。
赤城小学校 青の四角で。
千田是也 せんだこれや。演出家。俳優。1923年、築地小劇場の第1回研究生。44年、青山杉作らと俳優座を結成。戦後新劇のリーダーとして活躍。生年は明治37年7月15日。没年は平成6年12月21日。享年は満90歳。
滝沢修 たきざわおさむ。俳優、演出家。築地小劇場の第1回研究生。昭和25年、宇野重吉らと劇団民芸を結成。生年は明治39年11月13日、没年は平成12年6月22日。享年は満93歳。
学校が終えると、矢来 の家へ帰って着物をきかえ、肴(さかな)町 から神楽坂へ出て、踊りのけいこへ……。お師匠さんは沢村流 だった。藁店 (わらだな)の『芸術俱楽部 』が近いので松井須磨子 さんもよくけいこに見えていた。それから私は坂を下り、『田原屋 』のならび『赤瓢箪 』(あかびょうたん・小料理屋)の横町 を右に折れて、先々代富士田音蔵 さんのお弟子さんのもとへ長唄 の勉強に通うのが日課であった。神楽坂には本屋が多い。帰りは二、二軒寄っで立ち読みをする。あまり長く読みふけって追いたてられたことがある。その時は本気で、大きくなったら本屋の売り子になりたいと思った。乙女ごころはほほえましい。
沢村流 踊りの流派は現在200以上。「五大流派」は花柳流・藤間流・若柳流・西川流・坂東流。沢村流はその他の流派です。
田原屋 坂上にあった田原屋ではありません。戦前、神楽坂中腹にあった果実店です。右図では左から三番目の店舗です。現在は2店ともありません。
横町 おそらく神楽坂仲通りでしょう。
富士田音蔵 長唄唄方の
名跡みょうせき 。名跡とは代々継承される個人名。
長唄 三味線を伴奏楽器とする歌曲。
藁店といえば、『芸術座 』を連想する。島村抱月 先生の『芸術倶楽部 』はいまの『文学座』でアトリエ 公演を特つけいこ場ぐらいの広さでばなかったろうか? そこで“闇の力 ”を上演したのは確か大正五年……小学生の私はアニュートカの役に借りられた。沢田正二郎 さんの二キイタ、須磨子さんのアニィシャ。初日に楽屋で赤い鼻緒 (はなお)のぞうりをはいて遊んでいたら、出(で)がきた。そのまま舞台へとびだして、はたと弱った 。そっとぞうりを積みわらの陰にかくし、はだしになったが、あとで島村先生からほめられた記憶がある。
芸術座 新劇の劇団。大正2年、島村抱月・松井須磨子たちが結成。
芸術座 は藁店ではなく、横寺町にありました。
芸術倶楽部 東京牛込区横寺町にあった小劇場
アトリエ 画家、彫刻家、工芸家などの美術家の仕事場
鼻緒 下駄などの履物のひも(緒)で、足の指ではさむ部分。足にかけるひも
はたと弱った ロシアの少女が草履を履くのはおかしいでしょう。
私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り煬だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋 』のお菓子と紅茶、『山本 』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。『わかもの座 』のころ私は双葉女学園 に学ぶようになっていたが、麹町元園町 の伴田邸が仲間の勉強室……友田恭助 さんの兄さんのところへ集まっては野外劇、試演会のけいこをしたものである。帰路、外濠の土手へ出ては神楽坂をめざす。青山杉作 先生も当時は矢来に住んでおられた。牛込見附の貸しボート……夏がくるたびに、あの葉桜を渡る緑の風を思い出す。 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門 びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の二階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ページになるであろう。 神楽坂の追憶が夏に結びつくのはどうしたわけだろう。やはり毘沙門様の縁日のせいだろうか? 風鈴屋の音色、走馬燈の影絵がいまだに私の目に残っている。
わかもの座 水谷八重子氏は民衆座『青い鳥』のチルチル役で注目され、共演した友田恭助と「わかもの座」を創立しました。
双葉女学園 現在の雙葉中学校・高等学校。設立母体は女子修道会「幼きイエス会」。住所は東京都千代田区六番町。
麹町元園町 現在の一番町・麹町1~4の一部。
麹町元園町
友田恭助 新劇俳優。本名伴田五郎。大正8年、新劇協会で初舞台。翌年、水谷八重子らとわかもの座を創立。1924年、築地小劇場に創立同人。1932年、妻の田村秋子と築地座を創立。昭和12年、文学座の創立に加わったが、上海郊外で戦没。生年は明治32年10月30日、没年は昭和12年10月6日。享年は満39歳。
青山杉作 演出家、俳優。俳優座養成所所長。1920年(大正9年)、友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」では演出家。
稲門 とうもん。早稲田大学卒業生の同窓会。
赤城
文学と神楽坂
関係はないけれど、昔の冨士眞奈美氏
冨士眞奈美 氏は女優、俳人、随筆家。1956年、『この瞳』で主役デビュー。1957年、NHKの専属第一号になり、1970年、日本テレビ系列の『細うで繁盛記』の憎まれ役は大ヒット。生年は昭和13年(1938年)1月15日。 本稿は『てのひらに落花らっか 』(本阿弥書店、平成20年)の「終の棲家の神楽坂」から。実はこれより前の2005年秋、「神楽坂まちの手帖」第9号に書かれたものでした。「神楽坂俳句散布」という連載が始まった初回に出ています。この随筆は、牛込中央通りの風景を加えて、なぜ俳句に惹かれたのかを、書いています。
終つい の棲家 の神楽坂 神楽坂近くの街に棲んですでに十七年になる。十八歳で静岡の伊豆半島を後にし上京してから、数えれば十回目の引越しで、どうやら終の棲家となりそうである。 それまでは、新宿区信濃町に十六年棲み、なんだか同じ所に長い間いるなあ、と思い始めた頃、マンションの大家さんが土地を売ることになって立ち退かざるを得ず、大至急探してバタバタやって来たのが現在の住居 だったのである。ちょうどバブルの頃で、マンションも高く売れたが、引越しのため建てた家もびっくりするほど高かった。 信濃町の部屋は、いながらにして神宮外苑の対巨人戦の歓声などが風に乗って流れてきて、野球好きの私としてはけっこう気に入っていた。権田原を通り、東宮御所沿いに散歩する日常はなかなか優雅で、小さな子供の手を引いていつまでもどこまでも歩いていきたい気分であった。近所付き合いもない静かな環境で、来客の多い暮らしだった。 現在は全く趣きが違った生活である。 近くに スーパー やコンビニェンス・ストア があり、和洋中華、レストランや食べ物屋さんもたくさん並んでいる。十分も歩けば、神楽坂の賑やかな通りを散策したり、気ままな買い物を楽しんだりもできる。 五月になり六月になり、夏も盛りの頃になると、外濠通りから入った神楽坂の通りの街路樹が、どんどん色を増し枝を伸ばして空を覆うように緑を繁茂させている風景が好きだ。 神楽坂が、坂の街だということを樹々が美しく特徴づけてくれる。夜の街灯が点った様子も好きである。そこに人々の暮らしがしっかり根付き、江戸の昔から誇り高く街の格調を守ってきた、という印象を持つ。 越してきたばかりの頃、街の人々は新参者の私を用心深く眺めているような感じを持った。長い生活になるのだから、早く馴染まなければと、少しばかり焦った。買い物は一切、近くの店で、と決め、お金の出し入れも歩いて数分ほどの金融機関 を利用することにした。一週間に三、四回は近所で外食をし、帰りに飲み屋さんでイッパイ、という日々を送った。おかげで昼日中、通りを歩いていても顔が合えば笑顔を見せてくれるようになり、声をかけてくれるようにもなった。 馴染めばあったかい人情の町だと思った。こんなことは東京に来て初めてのことである。近所付き合いが楽しくなるなどとは、思いもしなかった暮らしの中に入っていったのだ。 お隣さんは、窓越しにおかずをお裾わけしてくれるし、家を留守にするときなど頼めば夜中に見回ってくれたりもする。ネズミやゴキブリが突如発生して恐怖に駆られた時も、電話一本で午前二時頃ホウキ片手に駆けつけてくれた。本当に有難い。表通りの花屋 の奥さんは、上手に漬かったから食べてみて、と胡瓜のぬか漬をわけてくれたし、和菓子屋 さんの御夫婦もオカラや切干し大根の煮物を届けてくれたりする。私も到来物 の筍や干魚などを配り歩くことがあり、そんなときの気分は何だか嬉しくてとても高揚している。プロ野球談義をする仲間(おやじさん)もいるし、通りを歩けば、人生寂しいことなんかちっともないぞ、という気分になれる。 友達の吉行和子 に「私の辞書にはね、孤独という字はないの」と或る時言ってしまった。本当にそう思うのである。和子嬢は呆れたような不思議な顔をして「へえ⁉」といったきりであった。 以前、立壁正子 さんという女性と知り合い「ここは牛込、神楽坂 」というタウン誌の「俳句横丁」という欄を任せてもらったことがある。投句数も多く、そうか神楽坂には俳人もたくさんいるのだ、ととても嬉しかった。残念なことに立壁さんが亡くなりそのタウン誌も廃刊になった。 このたび「私は神楽坂の、ペコちゃんの不二家 の主人です」と早々に正体を明かされた平松 さんから、主宰する雑誌 に俳句棚を設けたいのですが、と相談があった。あ、この街にどんどん馴染んでる、と私は嬉しく「もちろん仲間に入れてください」と返事をした。この街にいれば、一人遊びも出来るし、集まって座を持つことも出来るのだと思った。それこそ、俳句の本質なのである。
終の棲家 ついのすみか。これから死を迎えるまで生活する住まい
現在の住居 新宿区納戸町で、中町と同じ通りにあります。
近くに おそらく牛込中央通りです。
牛込中央通り商店会「お散歩MAP」平成20年から。ダブルクリックで拡大。
スーパー 細工町15にスーパーの村田ストアがありました。これはスーパーの「神楽坂KIMURAYA北町店」に変わり、さらに2019年4月、スーパーの「SANTOKU牛込神楽坂店」にかわりました。
コンビニェンス・ストア 牛込北町交差点の近く、箪笥町28にセブンイレブンがあり、これは現在も同じ店舗です。
金融機関 細工町18に帝都信用金庫がありました。現在は薬屋「クリエイトエス・ディー新宿牛込北町店」に。上の「牛込中央通り商店会」の地図ではとりあえず「西川ビル」などと同じ場所です。
表通りの花屋 納戸町12に「フローリスト番場」がありました。閉店し、現在は「コインランドリー/ピエロ納戸町店」。
和菓子屋 納戸町15の船橋屋か、納戸町4の岡埜栄泉でしょう。
到来物 とうらいもの。よそからのもらい物。いただき物
吉行和子 女優。兄は吉行淳之介。劇団民芸。昭和32年「アンネの日記」で主演。昭和44年、唐十郎「少女仮面」出演でフリーに。生年は昭和10年8月9日。
主宰する雑誌 2003年4月から2007年12月まで出版された『神楽坂まちの手帖』です。
納戸町
北中南町・細工町
文学と神楽坂
揚場町と下官比町との間を柿の木横町と呼んでいました。その南角、つまり、おそらくブックオフがある所(下図)に、柿が一本立っていました。市電ができる時に、つまり明治38年(1905年)以前に、この柿は伐採されましたが、ほかの蜂屋柿の写真を見ても、この柿の実は、かぞえ切れないほどの量だったと思います。
蜂屋柿(現在はこの写真は出ていない)
Google
新撰東京名所図会 柿の木横丁
東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では
●柿の木横町
柿かき の木き 横町は揚場町と下官比町との境なる横町をいふ。其の南角に一株の柿樹あるを以て名く。現今其の下に天ぷらを鬻げる 小店あり。柿の木●●● と稱す此柿の樹は色殊に黒く。幹の固り三尺餘高さ三間半。常に注連縄 を張りあり。
柿の木横町一に澁柿横町●●●● ともいふ。この樹澁柿を結ぶを以てなり。相傳へて 云ふ。徳川三代の將軍家光公。この柿の枝に結びたる實の赤く色づきて麗しきを。遠くより眺望せられ。賞美し給ひしより。世に名高くなりたりと。但この樹のある處は舊幕臣蜂屋●● 何某の邸にて。何某いたくこの樹を愛したり。後世此樹に結ぶ實と。同種類の柿の實を蜂屋柿 ●●● といふとあり。因て嘉永五年の江戸の切繪圖を檢するに。蜂屋半次郎と見ゆ。即ち其の邸宅の跡なりしこと明かなり。
昭和5年「牛込区全図」
[現代語訳]柿の木横町は揚場町と下官比町との境の横町である。その南角に一株の柿の木があり、これが名前の由来である。現在、この下に天ぷらを揚げる小さな店ができている。この柿の木は色は殊に黒く、幹の周りが1メートル以上、高さは6.4メートル。絶えずしめ縄を張っている。 柿の木横町一番地は渋柿横町ともいう。この木は渋柿を作るためだ。言い伝えられてきた話だが、徳川家光三代将軍が、この柿の枝になった実が赤く色づき麗しいと、遠くから眺めて賞美し、これで世の中に名高くなったという。この木の生えた場所は、かつての幕臣蜂屋氏の邸で、氏はいたくこの樹を愛したという。後世にこの木に結ぶ実と同種類の柿の実を蜂屋柿といっている。そこで嘉永五年の江戸切絵図を調べると、蜂屋半次郎という名前が見えた。すなわち、その邸宅の跡とは明らかだったという。
鬻ぐ ひさぐ。
販ひさ ぐ。売る。商いをする。
注連縄 一般的には聖域を外界から隔てる結界として使う縄
相伝 代々受継ぐこと。代々受伝えること。
蜂屋柿 はちやがき。柿の一品種。岐阜県美濃加茂市蜂屋町原産の渋柿。果実は長楕円形で頂部がとがる。干し柿にする。
芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 39. 蜂屋柿の発祥地」では……
蜂屋柿の発祥地 (揚場町8) 石黒邸跡前をさらに進み、十字路を左に行くと外堀通りに出る。そとを飯田橋交差点に向い、左手の揚場町と下宮比町との境の道に出合う手前角に明治時代まで柿の大樹があった。幹の周囲1メートル、高さ3メートルの巨木で、神木としてしめ縄が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからご覧になり、賞讃されてから有名になったという。 この柿は、旗本蜂屋半次郎の屋敷内にあったので、蜂屋柿ともいったので、ここが峰屋柿名前発祥地といえよう。 下宮比町と場場町との境の横町は、昔「渋柿横町」とか「柿の木横町」とかと呼ばれた横町で、明治37, 8年ごろに、この柿の木の下に「柿の木」という天ぷら屋があった。 喜久井町に住んでいた夏目漱石は、「稲子戸の中」に、姉たちがこの柿の木横町を通って揚場の船宿から屋根船に乗り、前項でのべた神田川を隅田川に出て、猿若町の芝居見物に行く様子を 書いている(21章)。 この柿の木は、おそらく外堀通りに旧市内電車が敷設される時道路拡張が行なわれ、そのとき取り払われたものであろう。
〔参考〕東京名所図会 新宿の伝説と口碑
新宿歴史博物館の「新修新宿区町名誌」(平成22年)でも同様な説明があります。
揚場町 (中略) また、下宮比町との間を俗に柿の木横丁といった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ縄が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る実が美しいのを遠くから見て、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという。この柿は旗本蜂屋半次郎の敷地内にあったもので、蜂屋柿ともいったが、ここが蜂屋柿の名称発祥地 といえる。蜂屋柿は渋柿なので、渋柿横丁ともいった。この柿の木は、外堀通りに市電(のちの都電)が敷設 される時に道路拡張が行われ、伐り払われたという(町名誌)。
蜂屋柿の名称発祥地 現在の名前は岐阜県の蜂屋町から来たもので、違うといいます。
外堀通りに市電(のちの都電)が敷設 Wikipedia によれば、明治38年(1905年)に、外濠線東竹町(竹町)から神楽坂(神楽坂下)までが開業。
夏目漱石 氏の『硝子戸の中』21 では、「柿の木横町」が出てきます。
彼等は築土つくど ) を下お りて、柿かき の木き 横よこ 町から揚場( あげば ) へ出で て、かねて其所そこ の船宿ふなやど にあつらへて置いた屋根やね 船ぶね に乗るのである。
屋根船 屋根板が
葺ふ いてある小船。大型の
屋形やかた 船ぶね と区別した江戸での呼称。やねぶ。
また『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』では、こうなります。これは江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
この横町は明治になって下宮比町1番地と揚場町8番地の境となる。明治29年東京郵便図 をみると女子裁縫専門学校の左側の横丁で、切図をみると蜂屋半次郎とある。今の水道局神楽河岸営業所 の前の横丁に当る。東京名所図会に、この樹に結ぶ実と同種類の柿の実を蜂屋柿という、とあるがここの柿は屋敷名が偶然蜂屋氏に当るだけで、蜂屋柿の産地はここではなく、美濃国各務郡蜂屋村に産する柿をいう。渋柿ではあるが皮を剥き、つるし柿として絶品である。
東京郵便図 略して郵便地図や逓信地図、正確には「東京市牛込区全図」。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」(326頁)でも載っており…
水道局神楽河岸営業所 下記を参照
揚場町
下宮比町
江戸以前
新宿の散歩道
「それから」は明治42年に夏目漱石 氏が書いた小説です。 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂 、あるいは、藁店 わらだな の上で、おそらく袋町 に住んでいます。 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。
一の一 誰か慌あわ ただしく門前を馳か けて行く足音がした時、代助だいすけ の頭の中には、大きな俎下駄 まないたげた が空くう から、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおの くに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。
一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄
これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。
八の一 神楽坂 かぐらざか へかかると、寂ひっ りとした路みち が左右の二階家に挟まれて、細長く前を塞ふさ いでいた。中途まで上のぼ って来たら、それが急に鳴り出した。代助は風が家や の棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、忽たちま ち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラス の打ち合う音が、見る見る烈はげ しくなって、ああ地震だと 気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ば竦すく んでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側の潜くぐ り戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いて漸ようや く安心した。 家へ着いたら、婆ばあ さんも門野も大いに地震の噂うわさ をした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略) その明日あくるひ の新聞に始めて日糖事件 なるものがあらわれた。
神楽坂 初めて神楽坂が出てきます。新宿区東部の地名。
ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では
三月十四日 日[曜] 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂 を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震 だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。
日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。
八の二 仕舞にアンニュイ を感じ出した。何処どこ か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂 から外濠そとぼり 線 へ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町 にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師は厭いや だから文学を職業とすると云い出して、他ほか のものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未いま だに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。
アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近
十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと 神楽坂 に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五 三千代の頬に漸よう やく色が出て来た。袂たもと から手帛ハンケチ を取り出して、口の辺あたり を拭ふ きながら話を始めた。――大抵は伝通院 前から電車 へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷 の方は神楽坂 に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっち の方へ出て来てみた。この前も寄る筈はず であったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早く宅うち を出た。が、御息おやす み中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店 わらだな を上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からだ に障さわ って、息が苦しくなって困った。――
伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。
十一の一 新見付 へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車 が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社 の横から番町 へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民 せんみん だと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂 へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かして いた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭に応こた えた。
新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。
十三の二 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿は いて馳か け出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂 を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車 に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、札さつ の数を調べてみた。
電車 これも路面電車でしょう
十四の六 津守 つのかみ を下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校 の前を真直に濠端ほりばた へ出て、二三町来ると砂土原町 さどはらちょう へ曲がるべき所を、代助はわざと電車 路みち に付いて歩いた。彼は例の如くに宅うち へ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。濠ほり を隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レール の上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわ に、軽快の感じを得た。その代り自分と同じ路みち を容赦なく往来ゆきき する外濠線の車を、常よりは騒々しく悪にく んだ。牛込見附 うしごめみつけ まで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげ を認めた。代助は夕飯ゆうめし を食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。 約二十分の後、彼は安藤坂 を上って、伝通院でんずういん の焼跡 の前へ出た。(中略) 神楽坂 上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店 わらだな を上あが った。 午ひる 少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめし を済ますや否いな や、護謨ゴム の合羽かっぱ を引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂 下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっち から行ゆ く積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっ ての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベル を鳴らして 談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨を衝つ いて又坂を上った。花屋 へ這入って、大きな白百合しろゆり の花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花は濡ぬ れたまま、二つの花瓶かへい に分けて挿さ した。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。
津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(下図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始
安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊 」でしょうか?
十六の四 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足を拭ふ いて上った。烟草たばこ を吹いて、縁側に休んでいると、門野 がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からか った。 晩には門野を連れて、神楽坂 の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。夜よ は深く空は高かった。星の色は濃く繁しげ く光った。
門野 代助の書生です。
十六の七
「平岡 が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすく める様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼と眉まゆ を動かした。牛込見附 うしごめみつけ を這入って、飯田町 を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余り酷ひど かったので、電車で飯田橋 へ回って、それから揚場 あげば を筋違すじかい に毘沙門 前びしゃもんまえ へ出た。(中略) この前暑い盛りに、神楽坂 へ買物に出た序ついで に、代助の所へ寄った明日あくるひ の朝、三千代 は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾 えりかざり を持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。
平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ 。
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。
「一七の三」で最後の文章です。
十七の三 飯田橋 へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略) 忽たちま ち赤い郵便筒 ゆうびんづつ が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさ を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけ て来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺す れ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや の暖簾のれん が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと燄ほのお の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行ゆ こうと決心した。(了)
飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと
漱石
文学と神楽坂
赤城の丘
昨年秋、パリのモンマルトル の丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院 あたりからのパリ市街の展望 なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台 、そして牛込の赤城神社境内 などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。
モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
パリ市街の展望 右の写真は「
サクレクール寺院を眺めよう!(3) 」から。サクレクール寺院からパリを眺たもの。
神田駿河台 御茶ノ水駅南方の地区。標高約17mの台地がある。由来は駿府の武士を住まわせたこと。江戸時代は旗本屋敷が多く、見晴らしがよかった。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。左の写真は戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)から。
パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮 の裏から横寺町 に向うために白銀町 の高台 に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園 の前を通ったときであった。 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町 から矢来町 に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社 脇から、嘗ては廣津柳浪 が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風 などもしばしば通ったに違いない小路 にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目 に出て、その北側の赤城神社 へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町 の名が今も残っている。
白銀町の高台 右図は筑土八幡宮から白銀公園までの道路。白銀公園の周りを高台といったのでしょう。
小路 広津柳浪氏や永井荷風氏は左図のように通ったはずです。青丸はおそらく
広津柳浪氏の家 。しかし、現在は右図で真ん中の道路はなくなってしまいました。そこで、道路をまず北に進み、それから東に入っていきます。
戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリ の絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスム は藝術的で日本的だと思つた。」
ダリ スペインの画家。シュルレアリスムの最も著名な画家の一人。生年は1904年5月11日、没年は1989年1月23日。享年は満88歳。
シュルレアリスム 超現実主義。芸術作品から合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代りに無意識の表現を定着すること。
無惨に折れていた赤城神社の大さな標石 が新らしくなっているほかは、石灯籠 も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
標石 目印の石。道標に立てた石。測量で、三角点や水準点に埋設される石。多く花崗岩の角柱が用いられる。
石灯籠 日本の戸外照明用具。石の枠に、中に火をともしたもの。
それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役 を記念する昭忠碑 の前からは急な石段が丘の下の赤城下町 につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙 が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭 という貸席 のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫 」の「新体詩 同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎 が昭和三年刊の『大東京繁昌記 』山手篇に書いた「早稲田神楽坂 」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館 という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷 を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸 や、近松秋江 や、加能作次郎 自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べり に新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙 の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月 や松井須磨子 が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座 を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎 の「早稲田神楽坂」に書かれている。
日露戦役 明治37年2月から翌年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって戦った戦争。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷。それを業とする家。
文庫 明治28年(1895年)、河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊。伊良子清白、横瀬夜雨などが活動。
新体詩 明治時代の文語定型詩。多くは七五調。
江戸川の谷 江戸川橋周辺から江戸川橋通りにかけての低地。
江戸川べり 江戸川は現在神田川と呼びますが、その神田川で石切橋の近く(文京区水道町27)に清風亭跡があります。
清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町 へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路 に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って 矢来町 ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町 がひろがっている。崖下の小路の銭湯 から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋こわき に抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。
坂道の十字路 正確には十字路ではないはず(図)。ここに「赤城坂」という標柱があります。
左の上り坂を辿って… 下図を参照
銭湯 1967年の住宅地図によれば、中里町の金成湯でしょう。北側の小路には銭湯はなく、中里町13番地にありました。
赤城
文学と神楽坂
紅葉十千万堂跡
飯塚酒店 や藝術倶楽部 の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町 を歩くと、左に箪笥町 への道が岐わか れ、その先は都電通り に出る。その道の右側に大信寺 という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど 尾崎紅葉 の終焉の家 となった十千万堂 の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年 の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識 がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。 明冶二十二年の新著百種 第一冊『二人比丘尼色懺悔 』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社 を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。
都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくは
ここに
終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくは
ここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。
泉鏡花 が紅葉門人第一号として入門したのもその年十月で、鏡花は先ず尾崎家の書生として同居し、明治二十七年には父の死を迎えて金沢に帰郷し、貧苦の中に「義血侠血 」などを書いた期間もあったが、大凡 二十八年二月まで、約四年間を紅葉の許で薫陶 を受けた。鏡花につづいて柳川春葉 、小栗風葉 、徳田秋聲 などが硯友社 の門を潜って紅葉に師事し、やがて鏡花、秋聲、風葉は次代の文壇に新風を捲き起すと共に、紅葉門の三羽烏とも呼ばれるようになった。そのうちの小栗風葉が中心となって、十千万堂裏の、少し低くなった箪笥町 の一角に文学塾 が開かれたのは明治三十年十二月からである。 紅葉は入門者があると一時この文学塾に入れるのが常であった。その塾では秋聲も明治三十二年二月に筑土八幡 下に移るまで梁山泊 のような生活をしたことがある。 明治三十年一月から三十五年五月に亙り読売新聞に継続連載し、三十六年一月から三月までは「新小説」にその続篇を書きつづけた『金色夜叉 』を最後に、紅葉が胃癌のために歿したのは明治三十六年十月三十日で、まだ三十七歳の若さであった。だがその死は悟りに徹したともいえる大往生で、「死なば秋露のひぬ 間ぞ面白き」という辞世の句をのこしている。
義血侠血 旅芸人の女性がある青年を金銭的に援助する。その女性がある男性を過失で殺し、検事になった青年が断罪する。最後は2人ともに自殺で終わる。「瀧の白糸」の原作。
大凡 おおよそ。細部にこだわらず概略を判断する。だいたい。大ざっぱに。およそ。
薫陶 人徳・品位などで人を感化し、よい方に導くこと。香をたいて薫りを染み込ませ、陶器を作り上げる意から。
文学塾 十千万堂塾、または詩星堂。詳しくは徳田秋声の「
光を追うて 」で
梁山泊 りょうざんぱく。中国山東省済寧市梁山県の沼。『水滸伝』ではここに住む人々を主人公とした小説。転じて、豪傑や野心家の集まる場所。
金色夜叉 『読売新聞』連載。未完。
鴫沢しぎさわ 宮はいいなずけである一高生の
間はざま 貫一を捨てて富豪の富山と結婚する。貫一は復讐のために高利貸の手代となる。
ひぬ 干ぬ。乾く。
わたくしが昭和二十六年にはじめて紅葉住居跡をたずねたときは、秋聾が昭和八年に書いた「和解 」という小説に、K(鏡花)と共にその附近を久しぶりに歩いたことがほぼ事実通りに書かれているので、それを頼りに焼け跡の大信寺で横寺町四十七番地の紅葉住居跡を尋ねると、中年の婦人が紅葉の大家でもあったという寺の裏の鳥居という家を教えてくれた。 鳥居家は焼け跡に建てられたばかりの、まだ新らしい家であったが、紅葉歿後の十千万堂のことを知る老婦人がいて、昔の玄関や母家の在り方まで詳しく語った。紅葉遺著の『十千万堂目録』の扉に描かれている玄関口の簡単なスケッチなどを記憶して訪れたわたくしに、玄関前の木はモチの木で、その木は戦災で焼けたが、根株 だけはまだ掘らずに残しているからと、わざわざ上土 を取り除けてその黒い根株を見せてくれたりもした。 そして十千万堂の襖の下張り から出て来たという、よれよれに痛んだ鳥の子紙の一枚には、「初冬や髭もそりたてのをとこぶり 十千万」、もう一枚には「はしたもの ゝいはひ すきたる雑煮かな 十千万堂紅葉」と、紅葉の癖のある書体でまだ下書きらしい句が一つずつ書かれていた。それをやっとのことで読むと、紅葉葬儀の写貞や「尾崎德太郎」と印刷した細長い洒落た名刺一枚なども奥から出して見せてくれた。…… あれから十八年が過ぎていると思うと歳月のへだたり はすでにはるかだが、十千万堂跡が新宿区の旧跡に指定されて見学者が多くなっているほかは、鳥居家の容子 もあまり変らず、老婦人もさすがに頭髪はうすくなり白いものもふえているが、依然として元気で、久しぶりに訪れたわたくしをよく覚えていて、快く迎えてくれた。
根株 ねかぶ。木の切り株。
上土 うわつち。表面の土。
下張り したばり。
襖ふすま ・
屏風びょうぶ などの下地。
初冬や髭もそりたてのをとこぶり 初冬や髭剃りたての男ぶり
はしたもの 端者。半者。召使いで、身分は中程度。それほど身分の低くない召使いの女。
いはひ 祝い。めでたい出来事を喜ぶこと。
芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)
へだたり 隔たること。その度合い。
容子 様子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。身なり。態度。そぶり。
尾崎紅葉
文学と神楽坂
牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会 』では
赤城明神社 同所北の裏通とおり にあり。牛込の鎮守にして、別当 は天台宗東覚とうかく 寺 と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。往その 古かみ 、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請して近ちか 戸と 明神と称す。その子孫重しげ 泰やす 当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら 店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐち 領りょう の田の中にあり 今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり
江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。
東覚寺 神仏分離で廃寺。当時、神職はなく、別当坊だけが神務を執行中だった。
重泰 牛込村へ移住して牛込姓に改めたのは宮内少輔重行(江戸氏牛込氏文書)か、重行の子勝行(寛政重修諸家譜 )の時で、家系では重泰の名前はない。
赤城神社
[現代語訳]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。先に話した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。(始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる)
正安2 年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。 『新撰東京名所図会 』牛込区(明治37年)では
赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石 一條、左に茶亭あり、赤城亭 と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇 あり(中略)
本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす 、慶応二丙寅年 十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たる樅 なり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭 あり。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
赤城亭 最近は2005年7月、
神饌しんせん (お供え物)料理店が開店。2008年3月、閉店。
甃石 しきいし。道路・庭などに敷き並べた平らな石
祠宇 しう。やしろ。神社。
繞らす めぐる。周りを回る。とりまく。
慶応二丙寅年 1866年です。
樅 もみ。マツ科の常緑大高木。
清風亭は貸座敷で、江戸川(現、神田川)の文京区水道町27(芳賀善次郎著『新宿の散歩道』三光社、昭和47年)に移ります。そのあとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行し、また、大正2年10月から長生館に下宿しています。
赤城
文学と神楽坂
横寺町
筑土八幡宮 裏から白銀町 に出て、白銀公園 の前を南へゆくと、もうそこは以前の通寺町 、現在は神楽坂六丁目 である。神楽坂通りを横切って、その南側の横寺町 に入った。 横寺町は尾崎紅葉 や島村抱月 、抱月の後を追った松井須磨子 の劇的な終焉しゆうえん の町で、昭和八年頃わたくしもしばらく間借生活をしたことがあり、とくに『新東京文学散歩』執筆以来はしばしば訪れるようになった馴染み深い町と云ってよい。戦災が酷ひど く、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店 が、戦前の官許にごり の店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。 戦前の飯塚酒店は貧乏な文士や画家などが、労働者に混って安心して酒にひたった店で、酒豪を以て自ら任じ、やがては板橋の養老院で孤独な老死をとげた、日本のヴェルレーヌ ともいえそうな詩人の兒玉花外 も、その店の常連であった。それに飯塚家は坪内逍遙 の弟子筋に当る演劇研究家、飯塚友一郎 の生家で、牛込の旧家でもあったから、官許にごりの酒店と共に、脇には質屋と米店も営んでいて、貧乏な藝術家などに重宝がられた。その飯塚家の裏側に、坪内逍遙 の文藝協会 を離れ早稲田大学教授を辞職した島村抱月と、女優松井須磨子との藝術座の本拠として藝術倶楽部 が出現したのは大正四年秋であった。藝術座はそれより先大正二年(一九一三)九月の有楽座 に於お ける「モンナ・ワンナ 」の旗揚げ興業と共に松井須磨子をプリマ・ドンナ としてスタートし、オペラ形式 をとった新演劇として全国津々浦々にその名声をひろめていった。(中略)中でも須磨子の演じた「復活 」で抱月が作詞した「カチューシャ唱歌 」や、北原白秋 作詞による「さすらひの唄」「にくいあん畜生」「こんど生れたら」などの「生ける屍 」の唄、「煙草のめのめ」「酒場の唄」「恋の鳥」などの「カルメン 」の唄は、抱月の書生をしていた中山晋平 の作曲で、流行歌としても全国を風靡ふうび した。九州の田舎に生れたわたくしなども、幼い時分に横井須磨子のうたった「カチューシャ唱歌」のレコードから「カチューシャ可愛や別れのつらさ……」などと、つい覚え込んでしまったほどである。(後略)
劇的な終焉 島村抱月氏はインフルエンザで大正7年7月7日に死亡し、大正8年1月5日、松井須磨子氏は後を追うように縊死で自殺。
にごり 発酵した米を酒袋の中にしぼって抽出し、
澱おり を取り除き、さらにろ過するが、にごり酒は澱を残したままにするもの。
文芸協会 1909年、劇界の刷新をはかり新芸術を振興する文化団体として発足。会長は坪内逍遥。11年第1回公演として『ハムレット』などを上演。13年、松井須磨子、島村抱月が退会し、その後、解散。芸術座、無名会、舞台協会、新国劇などに分れた。
プリマ・ドンナ prima donna(第一の女性)。オペラの主役女性歌手。ソプラノ歌手が多い。オペラ以外でも使う。
オペラ形式 歌手が扮装して演技をしつつ管弦楽と共に歌う音楽劇。芸術座は確かに一部はオペラ形式でしたが、全部が全部ではなかったと思います。
風靡 風が草木をなびかせるように、多くの者をなびき従わせること。
去り難い気持であったが、わたくしはそのまま崖沿いの道を西へ歩いた。するとすぐに若宮町 の一角の若宮八幡宮 の境内に入る。戦災後昔の面影を失い、境内は附近の児童の遊園地になっている。そこを横切って道路に出るとそのまま右へ辿ることにした。その先は寅( とら ) の日 や午( うま ) の日 の縁日 でも知られた神楽坂毘沙( びしや ) 門天( もんてん ) の脇から神楽坂通りに出るからである。 毘沙門天の境内は、折から桜の花の真盛りで、子供連れの女のお詣り姿も見える。しかし境内でどうやら戦前からの面彫を残しているのは、表通りに面したコンクリートの玉垣 位である。玉垣には寄進者の名が刻まれて 、そのまま貴重な街の記録となっているが、正面入口の玉垣を見ると「カフエー田原屋 」の文字がある。カフエーという名は大正時代からの記録で、戦前の神楽坂をわたくしに思い出させた。 毘沙門天の向い側には相馬屋 という文房具屋が昔のところにある。戦前にはこの店でもしばしば原稿用紙などを買った記憶がある。 大通りから南へ分れた登り坂の通は、以前は江戸以来の通称で藁店 と呼ばれていた。その坂の右側にも神楽坂キネマ というセカンド・ラン の洋画専門の映画館があったのも昭和はじめのなつかしい思い出である。その上はもう袋町の台地で、牛込氏居城の跡でもあったらしいことは前にも書いた。 牛込肴町 の名は消えて、まだ取払われずに残って南北に走りつづけている都電の停留場の名も、神楽坂に変っている。以前は電車の中で「牛込肴町、お降りの方はありませんか」と車掌の呼び声をきいた。今の地図では大久保通りとなっている電車通りと神楽坂通りの交叉点に立ちながら、わたくしは、このあたりの古社として有名な筑土八幡宮 に久しく行かないことを思い出した。そこは交叉点から電車通りをそのまま北へ歩いて東へ折れたその道路の北側で、地図を見ると、そのあたりだけは八幡宮のある筑土八幡町も、その両隣りの津久上町や白銀町も、どうやら昔のままである。 高い石段のある筑土八幡宮はその左側の筑土神社 並んでいたが、今は筑土神社は少し離れた西側の白銀町に移り 、八幡宮だけがどうやら昔の面影をのこLている。面影と云ってもそれは正面の高い石段だけで、それを登った境内は大きな銀杏( いちょう ) の根株と、その前の猿の絵を浮彫りした古碑 や、鉄の用水鉢以外は、本堂も社務所も戦後の再建である。その東側には津久土町の厚生年金病院 のビルが、八幡宮を威圧するように高く聳( そび ) えている。 久しぶりに筑土八幡宮の石段を登りながら、わたくしはこの八幡宮下の柿ノ木横丁 にあった薙城( なぎしろ ) 館 という下宿屋に、尾崎紅葉 の文学塾 を出て読売新聞に勤めることになった徳田秋聲 が、明治三十二年(一八九九)二月からしばらく下宿したことなど思い出していた。しかし柿ノ木横丁という小路など、もう今では夢物語にすぎない。ようやく登り着いた境内の片側に小学唱歌の「金太郎」その他のいわゆる言文一致唱歌の作詞作曲家だった「田村虎藏 先生をたゝえる碑」がある。花崗かこう 岩の表には「まさかりかついできんたろう」の五線譜が刻まれ、またその下に「田村先生(一八七三~一九四三)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職、言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と碑文がある。田村と筑土八幡のゆかりがわからないので、折から社務所から出て来た宮司 らしい老人に訊( たず ) ねると、田村虎蔵は晩年八幡宮の裏側高台 に住んでいたから、有志によって四年前の昭和四十年に、この碑がここに建てられたのだとわかった。
寅の日 十二支の寅の日。12日ごとに巡ってくる吉日で、特に最も金運に縁がある日
午の日 十二支の
丑うし にあたる日。
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。
玉垣 たまがき。皇居・神社の周囲に巡らした垣。垣が二重にあるときは外側のもの。
寄進者の名が刻まれて 現在はありません。昔はありました。写真は池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)から。玉垣には寄進者の名前が載っていました。昭和46年に今の本堂を建て、そこでなくなったのでしょう。
玉垣には寄進者の名前でしょうか、何かが載っていました。しかし、下の現在、左右の玉垣ではなにもなくなっています。写真では左の玉垣を示します。
カフエー田原屋 5丁目の田原屋(1階は果物屋、2階はレストラン)か、三丁目にあった「果物 田原屋」のどちかでしょう。
神楽坂キネマ 牛込館のことでしょう。神楽坂キネマはわかりません。
セカンド・ラン 二番館とも。一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館
牛込肴町 現在は神楽坂五丁目
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。
白銀町に移り その事実はなさそうです。
厚生年金病院 新宿区津久戸町5−1にあります。現在は東京新宿メディカルセンターと改称。図で右側のビル。左は筑土八幡神社。
柿ノ木横丁 新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』「揚場町」(平成22年)では「(揚場町と)下宮比町との間を俗に
柿かき の木き 横丁よこちょう といった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという」
薙城館 不明です。東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正十一年)ではありません。
文学塾 詩星堂とか十千万堂塾と呼ばれました。
宮司 神社に仕え、祭祀、造営、庶務などをつかさどる者の長。
八幡宮の裏側高台 筑土八幡町31番地に
田村虎蔵旧居跡 があります。
筑土八幡町
文学と神楽坂
御殿坂、御殿山、芥坂、筑土山がでてきます。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では
御殿坂 (ごてんざか) 新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社の裏手、埃坂の上から東に向い、途中右にカーブして旧都電通り へ下る短い坂路で、御殿坂の名は慶安年間三代将軍家光のころ、ここに大納言家綱(世子)の御殿が造られてこのあたりの台地を御殿山と称したことによる。「東京市史稿 市街篇第六」には「慶安三年十月十八日、牛込筑土御殿御普請これあるに付……」とある。また「新撰東京名所図会 」には「御殿山とは今筑土山 の西、万昌院 の辺より旧中山備前守 の邸地をいふ。寛永頃迄は御鷹野のとき御仮屋ありしなり。」と記されている。 夕暮るる筑土八幡渡り鳥 瓊音
旧都電通り 大久保通りです
東京市史稿 明治44(1911)年以来、現在も刊行が続く江戸から東京への歴史で資料を年代順にまとめた史料集
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
筑土山 現在の筑土八幡神社がある高台
万昌院 筑土八幡町34にありましたが、大正3年に中野区上高田へ移動しました。
中山備前守 現在は東京都看護協会のビルなどです。右図は「礫川牛込小日向絵図」(万延元年)から。ただし、中山備前守ではなく、地図によれば「中山備後守」です。
芥坂 (ごみざか) 埃坂とも書く。御殿坂上から反対に北方東五軒町へ下る筑土八幡社裹の坂路で、坂下西側に東京都牛込専修職業学校 がある。筑土八幡は往古 は江戸城の平川門へんにあったのを、天正七年、二の丸普請のために現在地へ移したものといい、また田安門のあたりにあって田安明神と呼ばれていたとも伝えられる。「南向亭茶話」には「筑戸 旧は次戸と書す。往古は江戸明神とて江戸城の鎮守たり。江と次と字形相似たる故にいづれの頃よりか誤り来りしなるべし。」とある。祭神は素戔嗚尊 であるが、後代に平将門を合祀したという。社殿は戦火で焼けて戦後再建された鉄筋建築である。
東京都牛込専修職業学校 現在は筑土八幡町4-27で、東京都看護協会のビルです。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔
素戔嗚尊 すさのおのみこと。須佐之男命。日本神話の神。天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、
八岐やまたの 大蛇おろち を退治し、
奇稲田姫くしなだひめ を救い、大蛇の尾から得た
天叢雲剣あまのむらくものつるぎ を天照大神に献じた。
また、横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では
御前坂 新宿区筑土八幡町、八幡社裏手、芥坂の頂上から、さらに南のほう、もと都電の通りへ下る坂。慶安五年のころ、徳川家綱の大納言時代、ここに牛込御殿ができた
芥坂 新宿区筑土八幡町から東五軒町へ下る坂。筑土八幡社の西わきを北へ下る坂
新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では
内田宗治著「明治大正凸凹地図」実業之日本社、2015年
筑土八幡町 (中略)津久戸八幡の西に続く高台を御殿山 という。太田道濯の別館があったという説(江戸往古図説)もあるが、寛永の頃、三代将軍家光の鷹狩時の休息所として仮御殿があったという説もある(南向茶話・江戸図説)。明暦四年(一六五八)安藤対馬守が奉行となってこの山を崩し、その土でこの北の東五ご 軒けん 町ちょう 、西五軒町、水道すいどう 町ちょう などの低地を埋め立てた(町名誌)。 筑土八幡西に上る坂を御殿坂 ごてんざか という。御殿山に上る坂から名付いた。その坂を上りきり、北方の東五軒町に下る坂をごみ坂 (芥坂、埃坂)という。ごみ捨て場があったので名付いた(町名誌)。
筑土八幡町
坂
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