漱石の東京|武田勝彦

文学と神楽坂


武田勝彦

武田勝彦

  武田勝彦氏の『漱石の東京』(早稲田大学出版部、1997年)です。この伝記はかなりほかの本とは違ったところがあります。つまり、細かいことが重要なのです。特に「それから」の中心は市電です。東京市には市電が市内に縦横に張り巡られていて、したがって、市電を知らないと、この本の問題もよくわからないとなってしまいます。
 武田勝彦氏の生年は1929年5月4日、没年は2016年11月25日。享年は満87歳でした。

   和良店の坂道

 小説「それから」は、明治42年6月27日から10月14日まで、110回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された。初版は春陽堂(明治43年1月1日)から刊行された。この作品の主要な舞台は、牛込台、小石川台、そしてその間を流れる江戸川べりである。また、赤坂台の青山もこの作品の主大公の実家があるので見逃せない。下町では、銀座、木挽町、神田が登場する。また、当時は汐留の新橋停車場が東京の中央駅であったので、主人公もここに足を運ぶことがある。
 主人公長井代助は30歳の高等遊民である。学校を卒業しても定職を持たない。父、得の庇護を受けて生活している。牛込区袋町5番地あたりに家を借りて住んでいる。婆さんを傭い、書生を置く結構な身分である。
 代助の家を袋町と推定したのは、「ところ天氣てんき模樣もやうわるくなって、藁店わらだながりけるとぽつ/\した」との描写があるからだ。江戸から明治にかけて、東京には二つの藁店があった。一つは、金杉の方で、一つは、神楽坂であった。この名称は金杉の場合も、神楽坂の場合も、いわゆる通りの通称であって、地名辞典の類に公式に書き記され、現行町名の丁目や番地を与えられているわけではない。そのために、とかく曖昧である。
 漱石は「僕の昔」と題する談話の中でも、「落語はなしか。落語はなしはすきで、よく牛込の肴町の和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ」といっている。正確には和良店亭で、これが牛込館となり、大正、昭和を通して、牛込、小石川の山の手族に洋画を提供する場となった。場所は袋町三番地と四番地にまたがっていた。


江戸川 神田川中流。昭和40年以前には、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
高等遊民 こうとうゆうみん。明治末期から昭和初期にかけて、世俗的な労苦を嫌い、定職につかず、自由に暮らしている人。
牛込区袋町五番地 地図を参照。

昭和5年 牛込区全図

昭和5年 牛込区全図

書生 学問を身につけるために勉強をしている人。他家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する人。
藁店 原義は「わらを売る店」。槌田満文編「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)では「藁店は牛込区袋町(新宿区袋町)と肴町(新宿区神楽坂五丁目)のあいだ、地蔵坂(藁坂)下の狸俗名」
金杉 東京都台東区金杉でしょうか。不明です。なお、至文堂編集部の『川柳江戸名所図会』(至文堂、昭和47年)では「もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという」。筋違橋は神田川にかかる万世橋の前身です。
袋町三番地と四番地 正確に言えば、牛込館(現在はリバティハウスと神楽坂センタービル)が建っていた場所は袋町3番地だけでした。

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)


 代助の借家は藁坂の上の袋町に、三千代の借家は金剛寺坂、または安藤坂を昇り詰めた小石川表町の高台に設定されている。この設定の仕方に注意してみたい。単に漱石が自分の住んだことのある地域を無雑作に選んだと見倣してよいだろうか。現在でも、この二つの地域を結ぶ便利な交通機関は発達していない。山水の形状が、それを阻害している。
 漱石は代助と三千代を両方の高台に住まわせることで、二人の逢う瀬の難しさを高めようとしたのではなかろうか。これは無意識な操作であったかもしれない。特に、心臓の悪い三千代に急坂を登り降りさせ、それで躰に変調を招くことで、代助の同情を深める。
 「それから」の執筆された明治42年の夏から秋にかけて、いわゆる東京鉄道時代の市電は、延長につぐ延長で、市内は刻一刻と便利になっていった。しかし、三千代が代助の家に行く電車は、それほど便利ではなかった。一つは小石川表町から春日町に出る。ここで乗り換え、水道橋まで行く。さらに、外濠線に乗り換え、牛込見附で下車する。ここから神楽坂を昇り、さらに一息ついで、地蔵坂を昇る。か弱い三千代には、かなりの強行軍だ、もう一つの道は、往路だけには便利だと思う。金剛寺坂か安藤坂を降り、大曲まで歩く。ここから市電で飯田橋に行き、乗り換えて牛込見附に出る。あとは徒歩である。戦前の牛込肴町を知っている読者だと、三千代が水道橋か飯田橋から角筈行に乗って、牛込肴町で下車すれば、神楽坂の急坂を避けることができたと思われるかもしれない。ところが、飯田橋-牛込柳町間の市電が開通するのは、大正元年暮のことであって、三千代の頃には工事中であった。

金剛寺坂 本田労働会館わきを通って地下鉄丸ノ内線を越え、巻石通り交差点近くに出る狭い道(下図の橙色の坂道)
安藤坂 安藤坂交差点から伝通院前交差点までの道(下図の紫色の坂道)
伝通院、金剛寺坂と安藤坂
小石川表町 伝通院や善光寺あたり一帯を表町と呼んだ。以前は伝通院前表町。

表町

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」(1981年)から

一つ 以下は図を書いていますから、それを参考してください。黒の実線や点線は当時何本があった市電の線路、黄色は徒歩で、赤色の実線は市電で動いた距離。青はそれぞれの借家です。

江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

原図は明治44年の市電。一部を変更。江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

牛込見附 市電の駅です。国鉄(現在のJR)の駅は牛込駅でしたが、1928年(昭和3年)から飯田橋駅にかわりました。
牛込肴町角筈牛込柳町 下図を参照。

日本鉄道旅行地図帳

昭和7年の市電系統図。今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」新潮社。2008年

[硝子戸]
[漱石の本]
[漱石雑事]

鏡花幻想|竹田真砂子

文学と神楽坂

竹田真砂子

竹田真砂子

『鏡花幻想』は1989年に竹田真砂子氏が書いた、泉鏡花ではなくその妻、すずを中心にした小説です。
 竹田真砂子氏は小説家で、出身は神楽坂。時代小説を中心に活躍し、また、神楽坂を題材にした小説も沢山あります。作品は「十六夜に」「白春」「あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生」など。生年は昭和13年3月21日です。
 これは泉鏡花が将来の妻すずと同棲を始めてそれを知った尾崎紅葉が激怒した部分です。実際にはこの激怒した時間は、昼下りではなく、夜中に起こりました。

 一応の体裁が整って、すゞは神楽町二丁目の家から毎日蔦永楽に通って、一日四、五時間ほど座敷を勤め、家事にも馴れてきた四月の中頃、鏡太郎は突然、横寺町尾崎紅葉からの呼び出しを受けた。豊春も同行せよとの伝言である。二人は衣服を改めて横寺町へ出かけた。
 四月十四日。昼下りである。
 十二、十三日と二日続けて昼間の遠出のお座敷があって、すゞは伯爵家の広大な庭園に設えられた仮設舞台清元を歌ってきた。踊る立方たちかたと違って、地方じかたは地味な存在だけれど、先年の硯友社の新年会で『保名』をひとくさり歌って以来、本格的に鍛えた咽喉が重宝がられて、大事なお座敷の地方というと、よく声がかかるようになった。(略)
 わずか二時間後に、思いもかけぬ残酷な宣告を鏡太郎の口から聞こうとは。すゞにも祖母にも露ほどの予感もなかった。
体裁 ていさい。外から見た様子。外見。外観。
四月十四日 明治36年の4月でした。
昼下り 正午をやや過ぎた頃。
仮設舞台 必要に応じて仮に設ける舞台。
清元 きよもと。清元節。江戸浄瑠璃の一派。
立方 立ち方。たちかた。歌舞伎・日本舞踊で、立って舞い踊る者。
地方 じかた。日本舞踊で、伴奏音楽を演奏する人々。唄・浄瑠璃・三味線・囃子などの演奏者をまとめていう。
保名 やすな。歌舞伎舞踊。清元節の曲名。篠田金治作詞、清沢万吉作曲。『深山みやまのはな及兼とどかぬ樹振えだぶり』の一節
ひとくさり 一齣。一闋。謡いもの、語りもの、また話などのまとまった一区切り。

 横寺町から帰って来た時の、鏡太郎の顔には表情がなかった。豊春はうつむいたまま、
「お帰りなさい」
 すゞが声をかけても返事もせず、上りかけた足を下駄に戻して、また外へ出て行ってしまった。
 鏡太郎も、ひとことも口をきかずに二階へ上る。下から後姿を見上げてすゞは首をひねった。
「どうしなすったんでしょうねえ」
 祖母も眼窟の落窪んだ目を見開いて、きょとんとしている。お茶をいれて二階へ持って行こうとしたが、祖母が手を振って止めた。尋常でない鏡太郎の様子に祖母もすゞも、階下でただ座って、息を殺しているより他になすすべがなかった。
 だから二階で手が鳴った時、用をいいつけられるのを待ち兼ていたすゞは、
「はあい」
 元気よく返事をして、祖母に笑いかけてから跳びはねるように立上った。
「御用でしょうか」
 座ってをあけて、敷居の外から声をかける。鏡太郎は机に背を向けて正座していた。敷いている友禅の座布団は、祖母に綿の入れ方を習いながらすゞが拵えたものである。
「ここへ来てお座り」
 鏡太郎は静かに自分の前の座を手で示した。
 すゞは前掛けをはずしてに入れてから中へ入って襖を閉め、示された場所に座った。
 鏡太郎はすゞを見ない。視線は畳に落ちたままだ。
「心を静めて聞いてもらいたい。折入っての頼みだ。無理を承知の酷い頼みだ」
 聞きとりにくいほど小さな声である。
 ふすま。和室の仕切りに使う建具。木などの骨組みの両面に紙や布を張ったもの。
敷居 しきい。襖や障子などの建具を立て込むために開口部の下部に取り付ける、溝やレールがついた水平材。
友禅 ゆうぜん。江戸時代に現れた多彩な模様染め。
前掛け 衣服をよごさないようにきものの上に着ける布。
 たもと。和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。

 すゞには鏡太郎が苦しんでいるのが分った。その苦しみがすゞの肌に伝わって、ちくちくと絹針の先で突かれるように痛かった。
 ――早くおっしやいましな。そんなにお苦しみになるとお体にさわります。
 どんな酷い頼みか知らないが、いえば少しは鏡太郎の苦しみが減るだろう。すゞも半分、鏡太郎と同じ苦労が味わえる。すゞは、口をつぐんでしまった鏡太郎の顔を、首をかしげて見上げた。
 鏡太郎はほとんど口を動かさずにいった。
「この家から出て行ってもらいたい」
 すゞには鏡太郎のいっていることが、よく分らなかった。手を膝において、首をかしげた姿勢のまま、なお鏡太郎の顔を見つめて次の言葉を待った。が、鏡太郎は黙っていた。
 見えない渦が二人を取り囲み、深い深い、暗い暗い沈黙の底に引きずりこんでいった。
 どれほどそうしていただろうか。すゞの頭の中は空っぽになり、手足にもまるで感覚がなくなっていた。起きているのか、眠っているのか、それさえ判然としなかった。
「あなた、ね、あなたですわね」
 声が出ているか、口が動いていか、自分でもよく分らなかったけれど、すゞは鏡太郎に語りかけてみた。
 鏡太郎の姿勢もさっきから少しも変っていない。外出着のまま、羽織もぬがずにきちんと布団の上に座っている。畳に置いた視線も動いていない。
「先生の御意だ。女と暮らすなら破門すると」
 このひとことを鏡太郎はどんな思いでいっているのだろう。いいたくない、これだけは生命に代えてもいいたくない。それでも、どうしてもいわなければならない仕儀になって、今、鏡太郎はすゞの前に魂ぐるみ生命を投げ出したのだ。(中略)「お前にだけは教えておく。紅葉先生は重い胃病で、お生命いのちはもう永くないんだ」
 先月、紅葉が入院していたことは、すゞも知っていた。今は自宅に戻っているから、すゞは全快したものと思っていたのだが、死期が近いなんて。これでは鏡太郎もすゞも、無理難題を吹きかける紅葉を恨むこともできやしない。
 鏡太郎の腕に力がこもった。その腕の中ですゞは何度も何度も頷いた。

 尾崎紅葉は、1903年(明治36年)3月、胃癌と診断され、4月、ここに書いてあるように泉鏡花を叱責し、10月30日、自宅で死亡しました。享年は37歳でした。

 実際のすずはもっと気が強いような気がします。「鏡花幻想」では話してはいるんですが、ひよわく、気が強くはない。一方「婦系図」でも「湯島の境内」でも、鏡花が描くすずはもっと話しているし、芯も強い。

絹針 きぬばり。絹布や薄手木綿を縫うときに用いる細い針。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
仕儀 しぎ。物事の成り行き。事の次第。特に、思わしくない結果や事態。
頷く うなずく。首肯く。肯く。肯定・同意・承諾などの気持ちを表して首をたてに振る。

十千万堂日録|尾崎紅葉

文学と神楽坂

尾崎紅葉

尾崎紅葉

 尾崎紅葉氏は自分の日記を書き、特に明治34年1月から36年10月までを『十千万堂日録』として発表しています。
 この泉鏡花氏の事件は1903年(明治36年)4月に起こりました。鏡花氏が将来妻になる芸者すずを落籍し、同棲します。しかし、この件で紅葉氏は鏡花氏を叱責し、すずとの訣別を要求しました。紅葉氏から見たこの事件は『十千万堂日録』に書かれています。

明治36年4月14日
風葉を招き、デチケエシヨンの編輯に就いて問ふ所あり。相率て鏡花を訪ふ。(妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折檻す。十二時頃放ち還す。
疲労甚しく怒罵の元気薄し。
夜、小栗風葉を招いたが、口述の編集について聞いてきたい所があったからだ。2人ともに連れ会って、泉鏡花を訪ねた。愛する芸者を家に入れたとを知ったからだ、鏡花の過ちをいさめ、同意させたいと思ったが、知らないと言い張り、真実を吐かなかった。私は怒って帰った。十時になって、風葉もやってきた。右の件につき、再度、鏡花の兄弟を枕頭に招き、厳しく諫言した。十二時頃、放ち還す。疲労は甚しく、怒りののしる元気は薄い。

 紅葉氏は訣別を要求したのでしょう。さて、泉氏はどうするのか、本文を読む限り、はいといったとは書いていません。

十千万 とちまん。非常に数や量の多いこと。巨万
明治36年 1903年
デチケエシヨン dictation、口述。門弟たちが紅葉氏を慰めるため企画した短篇集「換菓篇」のこと。
 親愛な、親密な、愛する。
異見 自分の思うところを述べて、人の過ちをいさめること。他の人とは違った考え。異議。異論。
趣く 従う。同意する。同意させる。
折檻 強くいさめること。厳しく諫言かんげんすること。
怒罵 どば。怒りののしること。

明治36年4月15日
風葉秋声来訪。鏡花の事件に付き、之より趣き直諌せん為也。夜に入り春葉風葉来訪、十一時迄談ず。
直諌 ちょっかん。遠慮することなく率直に目上の人を、いさめること。遠慮なく相手の非を指摘して忠告すること。

 読む限り、紅葉氏は部下の風葉氏や秋声氏からも再考してほしいといわれたようです。その後、夜の11時頃までかかって、あれこれを話し合ったようです。

明治36年4月16日
夜鏡花来る。相率て其家に到り、明日家を去るといへる桃太郎に会ひ、小使十円を遣す。

 二日後、桃太郎(すず、将来の鏡花の妻)は家から離れることになったようです。別れるとははっきり書いていません。

桃太郎 日本の芸者。桃太郎は芸者時代の名前。泉鏡花の妻、泉すず。旧姓は伊藤。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は満68歳。
十円 明治38年ごろ、小学校の先生の初任給は10~13円、大銀行の大卒の初任給は35円でした。当時の10円は今でいう10万円ぐらいだと、このホームページで。

銀の急須

銀の急須

時々、この銀の急須をとり出してきては磨いています。手前は、宝瓶(ほうひん)という玉露のためのもので、温度の低いお湯を入れるため、持ち手が必要ないそうです。

これは私が譲り受けた、華やかかりし頃の思い出の品です。今から100年前、私の曾祖父は神楽坂で青木堂という店をやっていたそうです。(当時の、本郷の青木堂との関係は全くないそうです)

フランスから食料品などを輸入、販売する宮内庁御用達の店で、そこには明治の文豪たちが訪れていたとか。田山花袋の小説にも、短い文章ですが登場しています。

東京で五本の指に入るほどの財産を一代で築き、そして、すべてを失ってしまったそうです。子供の頃から何度も同じ話を聞かされていたので、私自身、遠いフランスという国に憧れを持つようになったのだと思います。

ずっとお店があって、お金持ちのままでいたら、今頃は・・・。磨き終えればまた、ため息とともにしまい込むのです。

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夏目坂|坂の途中に天去私

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「夏目坂」では……
 なお、表題に書いてある「天去私」は間違いです。正しくは「天去私」。音読では「そくてんきょし」。訓読では「てんにのっとり わたくしをさる」。漱石自身の造語で、天地の法則に従い、私心を捨て去ること。つまり、私事にとらわれず、自然にゆだねて生きること。夏目漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地でした。

夏目坂

 父はまだ其上そのうえに自宅の前から南へ行く時に是非とも登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名を付けた。不幸にしてこれ喜久井町程有名にならずに、ただの坂として残っている。

長い坂 夏目坂です。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば「馬場下町から若松町に向かって上る坂を夏目坂という。これもまた漱石の父、夏目小兵衛直克が名付けたという。このことは夏目漱石の随筆『硝子戸の中』で、『父はまたその上に自宅の前から南へ行くときに是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目といふ名をつけた』と記している」。実は「夏目坂」の南端ははっきりしません。「夏目坂通り」は馬場下町交差点と若松町交差点を結ぶ坂道です。
喜久井町 きくいちょう。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば「明治二年(一八六九)四月、牛込馬場下横町、牛込誓閑寺門前、牛込西方寺門前、牛込来迎寺門前、牛込浄泉寺門前、牛込供養塚町を合併し、牛込喜久井町とする(己巳布令)。この地域の旧家で名主の夏目小兵衛の家紋が、井桁の中に菊の花であることから名付けられた」と書かれていました。

 その名のごとく、夏目漱石の生家に因んだ坂である。
 漱石が生まれたとき、彼の家は牛込区場下横町にあった。現在の新宿区久井町である。ここから馬場下に下る坂道を豊島坂といったが、この一帯の名主であった漱石の父が、夏目坂と自ら命名したという。喜久井町という名も、夏目家の家紋、井桁に菊の花に由来するという。
 町名や地名は、誰いうともなく呼び慣わしたものが定着するというのが一般的であり、夏目坂や喜久井町のようなケースは珍しい。
 漱石の記述によれば、父親はかなり御満悦でよく自慢していたそうである。「即天去私」を唱えた文豪の父が、素朴な野心を抱いた俗人であるところがほほえましい。

牛込区馬場下横町 村町の変遷図です(新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』平成22年、新宿歴史博物館56頁から改変)

江戸後期明治2年明治5・7年明治末
尾張藩主徳川家屋敷など3地 市ヶ谷河田町河田町
牛込馬場下横町など6町牛込喜久井町牛込喜久井町喜久井町
武家地
牛込馬場下町など3地牛込馬場下町馬場下町

豊島坂 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば「夏目坂を別名豊島坂というと明治四十年東京市編『東京案内』にあるが、『新編武蔵風土記稿』には出ていない。由来は不明(町名誌)」と書いてあります。「東京案内」では「坂になつざかあり、元としまざかと云ふ。」と書いてあります。

①現在も、喜久井町に接して馬場下町という町名がある。
 馬場下とは高田馬場の下という意味である。
②当時とは区分が違うが、やはり喜久井町という町名があった。喜久井町は久井町とも表記した。

馬場下町 下図を参照。

喜久井町と馬場下町

喜久井町と馬場下町

高田馬場 高田馬場駅や現在の高田馬場ではありません。西早稲田三丁目一・二・十二・十四番にあった高田の馬場の名前でした。

高田馬場跡

高田馬場跡

区分が違う 何を区分というのかは不明。喜久井町は明治2年と明治5・7年と違うのでしょうか。
 キ。よろこ(ぶ)。異体字は喜と歖


[漱石雑事]

神楽坂|江戸情趣、毘沙門天に残りけり

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「色街濡れた街」の「神楽坂」では…

「東京物語」辞典

「東京物語」辞典

 楽坂の町は、く開けた。いまあのを高く揃えた表通りの家並を見ては、薄暗い軒に、蛤の形を、江戸絵のはじめ頃のような三色に彩って、(なべ)と下にかいた小料理屋があったものだとは誰も思うまい。
 明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門の緑日になると、あそこの入口に特に大きな赤い二提灯が掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛ったのを覚えている。

 屋根の最も高い所。二つの屋根面が接合する部分。
家並 家が並んでいること。やなみ。
江戸絵 浮世絵版画の前身となった紅彩色の江戸役者絵。江戸中期から売り出され、2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵にしきえとして人気を博した。
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
提灯 ちょうちん。照明具。細い竹ひごの骨に紙や絹を張り、風を防ぎ、中にろうそくをともし、折り畳めるようにしたもの。
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
見世物小屋 見世物を興行するために設けた小屋。見世物とは寺社の境内、空地などに仮小屋を建てて演芸や珍しいものなどを見せて入場料を取った興行。

 鏡花夫人は神楽坂の芸者であったが、神楽坂といえばつくりの料亭と左棲の芸者を想起するのが常であった。
 下町とは趣き異にした山の手の代表的な花街として聞こえており、同時に早稲田の学生が闊歩した街でもあった。
 神楽坂のイメージは江戸情趣にあふれた街であるが、大正十三年頃から昭和十年頃にかけては、レストランやカフェー、三越や松屋などの百貨店も出来、繁華を極めた。夜の殷賑ぶりは銀座に勝るとも劣らず「牛込銀座」の異称で呼ばれもした。
 しかし終戦後の復興によっても昔の活気が思うように戻らなかった。

鏡花夫人 泉すず。芸者。泉鏡花(1873~1939)の妻。旧姓は伊藤。芸者時代の名前は「桃太郎」。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は69歳。
 気風、容姿、身なりなどがさっぱりとし、洗練されていて、しゃれた色気をもっていること。
つくり つくられたようす。つくりぐあい。よそおい。身なり。化粧。
左棲 ひだりづま。和服の左の褄。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
趣き おもむき。物事での感興。情趣。風情。おもしろみ。あじわい。趣味。
異にする ことにする。別にする。ちがえる。際立って特別である。
山の手 市街地のうち、高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西、すなわち、四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりをいう。
花街 はなまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。花柳街。いろまち。
闊歩 大またにゆっくり歩くこと。大いばりで勝手気ままに振る舞うこと
江戸情趣 江戸を真似するしみじみとした味わい。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華
牛込銀座 「山の手の銀座」のほうが正確。山の手随一の盛り場。

 昭和二十七年、神楽坂はん子がうたう「芸者ワルツ」がヒットした。その名のとおり、神楽坂の芸者だという、当時としては意表をついた話題性も手伝っての大ヒットであった。
 日頃、料亭とか芸者とかに縁のない庶民を耳で楽しませてくれたが、現実に足を運ぶ客の数が増えたというわけではなかった。
 しかし近年、再び神楽坂が脚光を浴びている。
 マガジンハウス系のビジュアルな雑誌などで紹介されたせいか、レトロブームの影響か、若者の間で関心が強い。
 坂の上には沙門天で知られる善国寺があり、縁日には若いカップルの姿も見られるようになった。

神楽坂はん子 芸者と歌手。本名は鈴木玉子。16歳から神楽坂で芸者に。作曲家・古賀政男の「こんな私じゃなかったに」で、昭和27年に歌手デビュー。同年、「ゲイシャ・ワルツ」もヒット、一世を風靡するが、わずか3年で引退。生年は1931年3月24日、没年は1995年6月10日。享年は満64歳。
意表をつく 意表を突く。相手の予期しないことをする。
マガジンハウス 出版社。1983年までの旧名は平凡出版株式会社。若者向け情報誌やグラビアを多用する女性誌の草分け。
レトロブーム ”retro” boom。懐古趣味。復古調スタイル
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。

①神楽坂は飯田橋駅から神楽坂三丁目へ上り、毘沙門天前を下る坂道である。
 坂の名の由来は、この坂の途中で神楽を奏したからだとも、筑土八幡市ヶ谷八幡など近隣の神楽の音が聞こえて来たからだともいう。
 町名はもちろん、この坂の名にちなむ。現在は六丁目あたりにまでを神楽坂通りと呼んでいる。

②明治十年代の後半、坂をなだらかにしてから、だんだん開けてきた。何よりも関東大震災の被害を殆んど蒙らなかったことが、大正末から昭和十年にかけての繁栄の原因であろう。

③現在でも黒板塀の料亭が立ち並ぶ一角は、昔の花街の佇いをそっくり残している。

山手(新宿)七福神の一つ。七福神のコースを列記すると、
畏沙門天(善国寺)→大黒天(経王寺)→弁財天(巌島神社)→寿老人(法善寺)→福録寿(永福寺)→恵比寿(稲荷鬼王神社)→布袋(太宗寺)
 である。

*鏡花の引用文の世界を垣間みたかったら、毘沙門天の露地を入った所にある居酒屋伊勢藤がある。
 仕舞屋風の店構えに縄のれんをさそう。
 うす暗い土間、夏は各自打扇の座敷。その上酒酔い厳禁で徳利は制限付き
 悪口ではなく風流を求めるならこれくらいのことは忍の一字。否、だからこそ、江戸情緒にもひたれるのだと、暮色あふれる居酒屋で一献かたむけてみてはいかが。

筑土八幡 東京都新宿区筑土八幡町にある神社
市ヶ谷八幡 現代は市谷亀岡八幡宮。東京都新宿区市谷八幡町15にある神社
蒙る こうむる。こうぶる。被害を受ける。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。防虫・防腐・防湿効果がある。
佇い たたずまい。その場所にある様子。あり方。そのものから醸し出されている雰囲気
仕舞屋 今までの商売をやめた家。廃業した家。しもたや。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。縄のれんを下げていることから、居酒屋、一膳飯屋などをいう語
 おもむき。味わい。面白み。
打扇 うちあおぐ。うちあおぎ。扇やうちわなどを動かしてさっと風を起こす。
徳利は制限付き 「徳利」はとっくり、とくり。どんなふうに「制限付き」なのか不明。現在は制限がない徳利です。
暮色 ぼしょく。夕暮れの薄暗い色合い。暮れかかったようす。
一献 いっこん。1杯の酒。お酒を飲むこと。酒をふるまうこと。

行元寺の仇討ち

文学と神楽坂

 鈴木貞夫氏は「行天寺の仇討とその周辺」(歴史研究。平成9年9月)で、行天寺の仇討について詳しく論評しています。

   行天寺の仇討とその周辺

         鈴木貞夫

 天明三年(1783)十月八日午前十時頃、牛込神楽坂上の行元寺境内で敵討があり、冨吉は父の仇甚内を討ち取って本懐を遂げた。
 この事件について、『視聴草』は「牛込復讐」として、行元寺門前の町役人たちが奉行所に報告した文章を記載している。……


行元寺 ぎょうがんじ。神楽坂5丁目にあった寺。明治40年、品川区西五反田に移転。神楽坂アインスタワーの場所にあった。
本懐 ほんかい。もとから抱いている願い。本来の希望。本意。本望。
視聴草 みききぐさ。江戸後期の幕臣、宮崎成身が文政13年(1830)頃から30年以上にわたって、手もとにある資料や記録から作成した雑録。
         牛込行元寺内門前
          月行事 権九郎申口
一 今昼四時分.私店前にて年来二十七八歳罷り成り候百姓体の者、年来五十歳計りに相見え候体の男を親の敵と申し打懸り、脇差にて首を切り落し候に付き、右切り候者は留置き、名・住所相尋ね候へば、松平内匠知行下総国相馬郡早尾村百姓甚内と申す者の由申し聞き候に付き、五人組名主一同御訴え申し上げ候へば御検使下し置かれ候、御役知れず

松平内匠知行所      
下総国相馬郡早尾村   
百姓平蔵兄にて
当時小普請組門名孫市郎家来
戸ヶ崎熊太郎召使    
初太郎事


[現代語訳]今日、午前10時ごろ、私の店の前で、おおむね27,8歳になる百姓と思える者が、約50歳ぐらいの者に対して、親の敵だといってから、攻めかかり、脇差で首を切り落しました。この者を留置して、氏名、住所を尋ねましたところ、松平内匠が領知する地域で、下総国の相馬郡早尾村の百姓である甚内だと言いました。五人組名主は一同訴え、調べをしないと、わからないと考えます。

月行事 月々交替で組合などの事務を取る役
申口 もうしぐち。言い分。申し立て。幕府の訴訟制度で、当人が幼少や女子などの場合に当人に代わって問答した者。
昼四 ひるよつ。今の午前10時か午後10時ころ。よつどき。
年来 としごろ。ねんらい。見た目や声の調子などから大体の年齢。
打懸 うちかかる。武器などで相手に攻めかかる。攻撃する。
留置 りゅうち。家へ帰さないでとめておくこと。
内匠 たくみ。宮廷の工匠。
知行 幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支給したこと。土地の支配権を与えること。
下総国相馬郡 しもうさのくにそうまこおり。明治11年の相馬郡は茨城県北相馬郡利根町、守谷市、我孫子市、取手市・常総市・龍ケ崎市・つくばみらい市・千葉県柏市の一部。
早尾村 茨城県結城郡八千代町。 Yahoo!マップ
五人組 江戸時代に近隣の5家が1組に編成された連帯責任の組織。
検使 江戸時代、殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
御役 おやく。役目の丁寧語。義務としてやむをえずやる仕事。役として果たさねばならないつとめ。
知れず わからない。勤めは終わったのか、わからない。
小普請 こぶしん。江戸時代、禄高三千石未満の旗本・御家人のうち、非役の者の称。

 以下は冨吉の言い分です。

冨吉申口(中略)

四五日以前所用これ有り、牛込赤城辺へ罷り越し候節、甚内をふと見掛け候処、私幼年の時分見候儘聢と見極め候内見失い候に付き.いづれこの辺に罷り有るべく存じ奉り、今昼四時分、当町内罷り越し候処、甚内を見掛け侯に付き、元同村甚内にてはこれ無きやと相尋ね候へば、その方は何者の由申すに付き、庄蔵伜冨吉の旨申し聞け、甚内御当地の居所相尋ね候上御願い申し上ぐべきと存じ、甚内へ相尋ね侯へども一向聞き申さず、帯び候刀を抜き候て威し、逃げ去り申すべき見請け侯に付き、取逃がし候てはまたぞろ尋ね当たり候も計り難く、止むことをえず私も帯び仕り候脇差を抜き、親の敵覚えこれ有るべき旨申し、甚内と打合い、右刀を打落とし候へば、甚内内門前の方へ逃げ入り候に付き、引き続き追かけ候処、脇差を抜き候に付き、手首へ打掛け恢へば脇差を捨て、うつぶしに相成り候に付き、首打落とし、私懐中より親の戒名取出し、右へ手向け候節、町役人ども立合い相尋ね侯間、右始末申し聞け候儀に御座候、親庄蔵口論の節は内済に及び候儀故、いずれへも御訴え申し上げず候、私敵打御願い申し上げ候上にて打留め中すべき処、その儀これ無く、右申し上げ候通り甚内居所相糾し候上御願い申し上ぐべく存じ奉り候処、差掛かり止むことをえず、右体に及び候段、甚だ恐れ入り存じ奉り候、何分御慈悲願い上げ奉り候、右体達し候上は何様御咎を蒙り奉り候とも後悔は仕らず候


[意訳]四、五日前に、所用があって、牛込赤城周辺に行きましたが、思いがけずに甚内を見かけました。私は幼年の時に甚内を見ただけで、もっとはっきりと見極めようとしましたが、見失いました。どうせあの辺りにでてくると思っていましたが、今日の午前10時ごろになって、甚内はこの町内に顔を出し、見かけたので「昔、同じ村に住んでいた甚内ではないのか」と尋ね、「その方は誰だ」といわれ、「庄蔵の倅の冨吉だ。よく聞け。おまえの居所はどこか」と、甚内に尋ねましたが、一向に聞く耳を持たず、かわりに帯刀を抜き、おどして、逃げる体勢になったので、ここで逃がしてはまた同じだと思い、やむなく私も脇差を抜き「親の敵だ、覚えていろ」といい、甚内と打合い、甚内の刀を打ち落とし、内門の前の方へ逃げていきました。追いかけ、脇差を抜き、手首をたたくと、甚内は脇差を捨て、うつぶせになったので、首を取り、ふところから親の戒名を取り出し、甚内のほうに向けました。町役人も立ち会って聞いていましたが、このいきさつを言いきかせました。親の庄蔵は口論の時に内々で事をすませ、訴状もなく、私の敵は殺すべきだといいましたが、これ以上のことは何もなかったのです。甚内の居所をただしてほしいといっていました。この件があり、やむをえず、殺した次第です。はなはだ恐れ入りますが、なにぶんともお慈悲をお願いたく、どんな処罰でも受ける覚悟ですが、後悔はありません。

罷る まかる。「行く」の謙譲語。
聢と しかと。確と。しっかりと。確かであるさま。
 縦書きの文章でそれより前の部分。それより前に記してある事柄。
これ無きや これしかないのでは。
申し聞かせる もうしきかせる。よくわかるように教えさとす。説教するす。話して聞かせる。
帯びる 身に着ける。腰に下げたり巻いたりする。
威す おどす。脅す。嚇す。相手を恐れさせる。脅迫する。おどかす。
 てい。体。態。外から見た物事のありさま。ようす。
見請ける みうける。見受ける。見かける。目にとまる。見てとる。見て判断する。
 ぎ。道理。条理。
脇差 わきざし。近世、町民などが道中のときに護身用に腰に差した刀。武士の大刀と小刀の中間の長さ。道中差し。
 人名や人代名詞などに付いて「に関しては」の意味を表す。
打掛ける うちかける。相手に向けて銃砲などを発射する。
うつぶし 「うつぶせ」に同じ。顔を下向きにして横たわること。
懐中 かいちゅう。ふところやポケットの中。そこに入れること。
戒名 仏式で、死者に僧侶がつける名前。
始末 いきさつ。顛末てんまつ
内済 ないさい。表沙汰にしないで内々で事をすませること。
打留む うちとどむ。戦って殺す。しとめる。
糾す ただす。物事の理非を明らかにする。罪過の有無を追及する。
差掛かる さしかける。他のものを覆うように差し出す。
達す たっする。ある場所に行き至る。到達する。物事を成しとげる。達成する。
何様  なにさま。だれかわからないが、偉い人。高貴な人。
御咎 おとがめ。江戸幕府の刑罰体系上、手鎖、叱などの身分の動かない軽微な犯罪に対する刑。

「夏目君、君のボートの腕前は…」伊集院静氏

文学と神楽坂

 伊集院静氏の「『夏目君、君のボートの腕前はどんなもんぞな?』(子規)」(シグネチャー、2020年)です。

昨秋から新聞小説を執筆していて、主人公が明治、大正期に活躍した夏目漱石ということもあり、漱石の生まれ育った牛込や、浅草界隈を散策することが多くなった。
 丁度、長く仕事場にしていたお茶の水のホテルから、神楽坂の丘の上にあるホテルに移ってしばらくして、連載小説の執筆がはじまった。
 漱石の誕生、幼少、少年時代から書きはじめることになったのだが、百五十年前の話であるから、遠い時間を想像するのだが、さしてそれが遠い日のことではないのは、七、八年前、漱石と同時代に生きた正岡子規のことを書いた経験で、幕末、明治はつい昨日のことでもあるという考え方ができるようになっていた。

新聞 日本経済新聞
小説 2019年9月11日から伊集院静氏の「ミチクサ先生」が始まりました。
お茶の水のホテル おそらく「山の上ホテル」
神楽坂の丘の上にあるホテル おそらく「アグネス ホテル アンド アパートメンツ東京」
連載小説 伊集院静氏の「ミチクサ先生」が『日本経済新聞』で始まりました。
書いた経験 伊集院静氏の「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社、2013)です。

 新しい仕事場になった神楽坂から、漱石の誕生した牛込坂下すぐ近くである。
 漱石記念館も静かで、思惟するには良い所であった。
 散策する場所を、物語の主人公が歩いていたり、赤ん坊の時なら、泣いていたりしていたのだろう、と想像するのは楽しいものだ。
 漱石は生まれてすぐ実母が高齢だったので、乳を貰わねばならず、里子に出された。里子に出されたが古道具屋だった。が心配になって夕刻見に行くと、夜店の商売道具を陳列した坂の隅に寵に入れられた弟がいたというので、あわてて抱いて帰ったという。その夜店のあった内藤新宿にも、夕刻行ってみたが、今はマンションになっていた。同じく乳を与えたのが、今、毘沙門天のある大通りの前の煎餅屋隣りの二階に髪結いの店があり、そこの女房であったらしい。昼間出かけた折、今は焼鳥屋になっている二階をしばらく眺めていた。
 どんな目をした、どんな赤児が、乳母の乳を飲み、満腹になるとどんな顔で眠っていたのだろうか、と想像した。

牛込坂下 「牛込坂」という坂はありません。漱石が誕生した場所は「早稲田前交差点」から「夏目坂」をのぼりかけた所です。また、誕生した坂は夏目坂です。『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)の想像図を使うと夏目家は赤色で囲まれた場所でした。

夏目漱石博物館

夏目漱石博物館

すぐ近く 「夏目漱石誕生の地」(新宿区喜久井町1番地)から「神楽坂下交差点」までは徒歩で約28分もかかります。また「夏目漱石誕生の地」から「アグネスホテル」までは徒歩で同じく約28分です。
漱石記念館 正しくは「新宿区立漱石山房記念館」です。
実母 母ちゑは数え年42歳でした。
 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 二月中旬、または下旬(不確かな推定)、母乳不足も原因となり、生後ただちに四っ谷の古道具屋に里子にやられる。源兵衛村(豊多摩郡戸塚村宇源兵衛村、現・新宿区戸塚)の八百屋ともいわれる。里子にやられる前後に、神楽坂の平野理髪店の主婦から貰い乳をする。

 夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』(角川書店、1966年)では

(四っ谷の古道具屋は)毎夜お天気がいいと四谷の大通りへ夜店を張る大道商人だったのです。
 ある晩高田の姉さんが四谷の通りを歩いていますと、大道の古道具店のそばに、おはちいれ、、、、、に入れられた赤ん坊が、暗いランプに顔を照らしだされて、かわいらしく眠っております。近よってみるとまごう方なくそれが先ごろ里子にやった弟の「金ちゃん」なのです。何がなんでもおはちいれ、、、、、に入れられて大道の野天の下に寝せられているのはひどい。姉さんはむしようにかわいそうになつて、いきなり抱きかかえて家へかえつて参りました。が一時の気の毒さで連れ帰って来てはみたものの、もともと家には乳がありません。そこでお乳欲しさに一晩じゆう泣きどおしに泣き明かす始末に、連れて来た姉さんは父からさんざん叱られて、しかたなしにまたその古道具屋へかえしてしまいました。こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。
高田の姉 「高田の姉」とは漱石の腹違いの二番目の姉にあたり、ふさです。

その夜店 漱石が夜店に関係したのは、四谷で里子になった時だけです。生まれたときからすぐに里子になり、実家に戻った年月は不明ですが、一年ぐらいでしょうか。続いて内藤新宿北裏町の塩原昌之助の養子になりましたが、時期は明治元年ごろからでした(他の説もあり)。「内藤新宿に夜台があった」と「四谷に夜台があった」とは同一ではありません。「内藤新宿に養父母が住んでいた」のほうが正しいと思います。
内藤新宿 江戸時代に設けられた宿場の一つで、新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯。荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)の中に梅沢彦太郎氏の「夏目漱石の遺墨」『日本医事新報』(第929号、発行は昭和15年6月15日)によれば

漱石さんは五歳の頃、古道具屋へ里子に遣られた。それは自分が母親に連れられて神樂坂の毘沙門さんの緣日に遊びに行つたら、金ちやんが籠に入って、がらくた、、、、道具と一緒に緣日に出てゐたといふので、それは先生が末子で、除りに母親が年をとってから出来たので世間體を恥ぢて里子にやられたもので、その古道具屋は、先生を連れては、淺草、四谷、神樂坂と轉々として夜店を出してをつたものらしく、それでがらくた、、、、道具を列べた傍の籠の中に先生を蒲團にくるんで置いてをつたものであります。
 それで、金ちゃんが笊に入つてゐると言つてをつたので、廣森の母親は漱石先生一家とも交際があったものだから、早速、これを先生の御両親にも傅へた。それで、先生の御一家でも驚かれて、寒いのに、夜店にがらくた、、、、道具と一緒に並べておかれてはといふので、遂に引取つて、實家から小學校にも上り、それで小學校時代から先生とずつと友達だつたと廣森は私に話してゐました
浅草、四谷、神楽坂 この3か所には夜店が出ています。

同じく乳を与えた 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 母親は乳が出なかったので、神楽坂の毘沙門天(日蓮宗鎮護山護国寺、現・新宿区神楽坂五丁目三十六番)前の平野という床屋(髪結かみゆい)の先代(または先々代)の主婦から乳を貰う。(鏡・昭和三年)これは、森田草平が漱石から直接聞いている。漱石は直矩から聞いたものと思われる。里子に出される前後らしいが、後であったとも想像される。

「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』(新宿区教育委員会、昭和45年)では「床ヤ・平の」と書いてあります。

平野という床屋

平野という床屋。「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』昭和45年新宿区教育委員会。

煎餅屋 「毘沙門せんべい 福屋」です。以前は「履物・三河屋」でした。
隣りの二階 「神楽坂界隈の変遷」によれば、居酒屋「伊勢藤」の方が正しいでしょう。「隣りの二階」ではなく「向こう隣りの家で1階」でした。
焼鳥屋 「神楽坂 鳥茶屋」です。当時は「魚國」でした。

 その髪結いのあった場所から五分も歩いた所に地蔵坂という坂があり、その坂の途中に、『和良わらだなてい』という寄席小屋があり、漱石は四、五歳から姉や兄に連れられて寄席へ行っていた。
 子供が寄席へ? と思われようが、江戸中期に全盛を迎えた寄席小屋は、町内にひとつの割合いで店を出していた。子供も父親や家の贔屓の役者、噺家はなしかの楽屋へ遊びに行き、菓子等をもらっていた。その『和良店亭』のあった坂道に立つと、一高の学生になった漱石が子規と二人で寄席見物に出かけた姿を思い、何やら楽しい気分になった。

地蔵坂 神楽坂通り5丁目から光照寺に行く坂。地域名は藁店わらだな
和良店亭 江戸時代からの牛込で一番の寄席。寄席は閉店し、明治39年に「牛込高等演芸館」が新築されました。
四、五歳 矢野誠一氏の『文人たちの寄席』(文春文庫)では

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。


 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治2年、数え年3歳で、

12月20日(陰暦11月18日)(推定)、『桃山譚』の「地震の場」の初日を養父昌之助に連れられて観に行く。(最初の記憶)(小森隆吉)

と書かれています。
姉や兄に連れられて 八歳になる前の漱石は養子で、養父母のもと、一人っ子として生活しました(荒正人著『漱石研究年表 増補改訂版』集英社、昭和59年)。漱石が四、五歳の時に「姉や兄に連れられ」たという経験はおそらくありません。
[漱石雑事]
[漱石の本]
[硝子戸]

東京の横丁

文学と神楽坂

永井龍男

永井龍男

 永井龍男氏の『東京の横丁』(講談社、1991年)です。名前が“東京の横丁”なので、神楽坂も相当書かれているはずと期待は満々で、手に取ってみました。ところが、神楽坂が出てくる場面は関東大震災だけ。ここのひとつしかない。
 永井龍男氏は昭和14年に「文芸春秋」編集長になり、戦後は創作が中心になり、短編の名手と呼ばれました。生年は明治37年5月20日。没年は平成2年10月12日。享年は満86歳です。

 大正12年(1923)9月1日、関東大震災の凶日であるが、すでに60年を経過した。昔ばなしとして、なるべく繰ごとにならぬよう筆を進めたい。60年前のその日に、あんな大きな災害に襲われるとは誰一人として知らなかったが、今日(昭和59年8月25日)の各紙朝刊には昨夕のテレビ放送に続いて「東海地震発生の可能性が高くなると首相が発する警戒宣言について、該当地域の住民の六割強は、(地震はくるだろうが、まだ時間的に余裕がある)(くるかどうか疑わしい)と、のんびり構え」と市民に警告する記事が大きく掲載された。60年間の官民の努力が、とにかくここまで到達したのである。
「――私は前日大正12年8月31日、房州の海から帰り、下痢のため二階の一間に臥ていた。午前11時50何分という地震突発時から数十秒、あるいは数分間は、前後の判断を失って床の中にいた。すごい地鳴りと共に、幾度びか体の盛り上るのを感じたが、これは地鳴りではなく、木造の家々がゆれ動くと同時に発した音響からであったかも知れない。地震と察してよろめきつつ立ち上り、私が窓一杯に見たものは、もうもうとした土煙りであった。ふるわれた家々の壁土が、一時に空へ舞い立ったのである。

繰ごと 繰り言。繰言。同じこと、特に愚痴ぐちなどを何度も繰り返して言うこと。
房州 安房あわ国と同じ。現在の千葉県南部。
幾度び いくたび。多くの回数。いくど。
土煙り つちけむり。土煙。土や砂が煙のように立ちのぼったもの。
壁土 かべつち。壁を塗るのに使う、粘りけのある土。壁に塗った土。

 中野駅の奥に当る、野方村の姉夫婦の家へとにかく身を寄せるほかはなかった。牛込へ出て新宿を目指すのが近道であった。
 神楽坂下まで来て、私達はみんな思わず声を挙げた。
 坂にかかるところから、ここは一切今朝までの火災とは無関係であった。潰れた家も焼けた店もなく、私達は呆然と立ちすくんだ。このまま坂を上って、町へ入って行ってもよいものか疑われた位であった。
 乳呑み児を抱えた義姉の姿が目につくらしく、『ごらん、可哀相に』と指をさし、おしめにせよと、古浴衣をくれる人もあった。
 私は私で、そこで初めて、下痢気味で臥たままの自分の寝巻姿に気がついた。
 矢来下を抜け馬場下までくると、土蔵造りの古風な酒屋があった。兄二人はどちらからともなく店へ入って五十銭玉を帳場に置き、ビールを買った。一本を分けて呑んだか二本だったか、私にも一杯注いでくれた。ビールとは、こんなにうまいものかと思った。総身に染みわたった味を、私は生涯忘れることはあるまい。

野方村 東京府豊多摩郡にあった村。現在の東京都中野区北部に当たる。
立ちすくむ 立ったまま動けなくなること。
矢来下 やらいした。矢来町の北部にあたり、早稲田(神楽坂)通りから天神町にいたる一帯。
馬場下 東京都新宿区馬場下町をカバーし、交差点「馬場下町」に至るまでの早稲田通りの一部。

東馬場下町

馬場下町

土蔵造り どぞうづくり。家の四面を土や漆喰で塗った構造。木を骨材とし、その上に厚く土塗りを施した耐火建築物構造。
酒屋 小倉屋酒店だといいなあと思います。

伊集院静氏「糖蜜、みっつ」

文学と神楽坂

 伊集院静氏は以前は電通やCMディレクター。再婚で女優・夏目雅子氏と結婚したが、妻は死亡。1992年『受け月』で直木賞。女優の篠ひろ子と再々婚。代表作に『機関車先生』など。誕生日は昭和25年2月9日。
 これは氏が三井住友トラストクラブの「シグネチャー」2019年11月号で神楽坂について書いたエッセイです。吉田博氏の木版画「東京拾二題 神楽坂通 雨後の夜」(昭和4年)も付いていました。

和可菜 初めて神楽坂に足を踏み入れたのは、30歳代半ばであったと思う。
 ベテランの編集者に連れられて、タクシーを毘沙門天の前で降り、煎餅屋の脇の細い路地に入り、ちいさな階段を降りて行くと、黒塀の旅館があり、編集者に、ここです、ここでしばらくあなたは頑張るんです、と笑って言われた。
 そこが今月号の扉ページの写真にある『和可菜』という旅館だった。
 木戸を開けて玄関に入ると、老婆が奥の暗がりからあらわれて、あら△×さんいらっしゃい、と言った。こちらが厄介になる伊集院君です。と私を紹介した。私は老婆の顔をじっと見ていた。百歳はとうに越えているのではと思った。
「先生、じゃ部屋にご案内しましょう」
――先生とは誰のことだ?
 どうやら私らしかった。私は子供と老人をあまり好まないので、ちいさく吐息を吐いた。
 初印象と違って、老婆はいい人だった。
 三和土たたきを上がって階段を先に上がる老婆の背中を見ていると、階上から、ミャーオと声がした。見ると黒っぽい猫が一匹、私たちを見下ろしていた。
 三十数年前のことだから猫の名前も、老婆の名前も失念したが、どちらかがトラという名前だった気がする。

百歳はとうに越えている 筆者が35歳と仮定すると、当年は1985年です。「和可菜」の女将、和田敏子氏は1922年に誕生したので(黒川鍾信『神楽坂ホン書き旅館』日本放送出版協会、2002年)、この時は63歳でした。
三和土 土やコンクリートで仕上げた土間。古くは、たたき土と石灰とにがりを混ぜて練ったものを土間に塗り、たたき固めた床仕上げ。

 先月、今はなくなった、その旅館『和可菜』の路地を歩くと、看板は残っていた。
 この塀を飛び越えると、ちいさな池のある小庭があった。水のない池に、あの猫が入って日向ぼこをしていた。
「何やってんだ、おまえ」
 猫は返答しなかったが、気分は良さそうだった。一度、小鳥をくわえて廊下を自慢気に歩いている姿も見た。
 あの夜、連れて行かれた鮨屋とは三十年余りつき合ったが、去年、暖簾を下ろした。
 神楽坂は色川武大さんの生家が近く、先生と二人で競輪の帰りに坂下にある甘み処に入った夕暮れがあった。
 先生は店の人に「餡蜜みっつ」と言った。
 目の前に私のひとつと先生のふたつが並んでいた。ひとつ食べてから、もうひとつ注文すればいいのではと思う人があろうが。
 私は先生のこういうところが好きだった。
「美味しいでしょう? 伊集院君」「はい」

今はなくなった 以前は娘が和可菜を継いでいたようですが、2015年末に閉店
鮨屋 『和可菜』から近くて、現在閉店した寿司屋には「青柳寿司」と「二葉」があります。「青柳寿司」は2013年に閉店、「二葉」は2015年に閉店。ほかに2018年に閉店した寿司屋があるのか、わかりませんでした。
甘み処 あまみどころ。甘い味の菓子を出す飲食店。おそらく「ぜん」のこと。
餡蜜 あんみつ。あんをのせた蜜豆みつまめ。蜜豆とはゆでた赤豌豆えんどう、賽の目に切った寒天、果物などを容器に盛り、蜜をかけて食べるもの。

堀見坂(360°カメラ)

文学と神楽坂

「堀見坂」ってどこにあるのでしょう。神楽坂通りから神楽坂仲通りの反対の坂を小栗横丁に向かって下り(この坂の仮称は神楽坂仲坂)、四つ角に立ちます。この四つ角を起点として、南に上る神楽坂2丁目の坂道です。

堀見坂

堀見坂

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「堀見坂」が始めて出てきます。なお、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。

坂崎 この「小栗横丁」の「渡津海」の先を左に曲がって……。
井上 あれは意外な発見でした。「若宮八幡」に向かうところですが。
林  あの坂の途中から、昔はお堀が見下ろせた。土手公園や電車が走っているのも見えましたから。
坂崎 で、『堀見坂』とした。
井上 ちょっと安易だったんじゃないですか。今は見えないし。
坂崎 いや、今は見えなくても昔の地形を思い出すためにもいいじゃないですか。
井上 富士見坂というのはいっぱいある。今では富士山は見えないけれど、昔はここから富士山が見えたということで。その伝ですな。

渡津海 わたつみ。小料理を食べる割烹でした。2000年にはあったのですが、2010年までには閉店しました。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。

 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。

明治28年、東京実測図

 ここで青色の坂にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。神楽坂仲坂はどうでしょうか。

 明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、堀見坂と一部のお蔵坂がありました。

明治29年、神楽坂二丁目

明治29年、東京市牛込区全図



お蔵坂(360°カメラ)

文学と神楽坂

「お蔵坂」ってどこにあるのでしょう。これは神楽坂通りから小栗横丁を通り、銭湯「熱海湯」から南に上がる神楽坂二丁目の坂道のことです。

お蔵坂

小栗横丁、堀見坂、お蔵坂。大正元年

 この大正元年の東京市区調査会(上図。1917。複製は「地籍台帳・地籍地図」東京、第6巻、地図編2、地図資料編纂会、柏書房、1989年)を見ると、小栗横丁、堀見坂、お蔵坂はすでにあります。

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「お蔵坂」が始めて出てきます。なお、阿久津信芳氏は環境緑化新聞社編集部、林功幸氏は「巴有吾有」オーナー、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表でした。

阿久津 それから若宮八幡を前に見て、小栗横丁の、「熱海湯」の前に下りるまでの小路。
林   あそこは今度、ビジネスホテルが建つとかで。
坂崎  あの坂の細い道は残るのかしら。
林   残るでしょう。残さないと人が通れない。もともと蔵のようなものがあったところなんですよ。
坂崎  じゃあ『お蔵坂』と。マンションが建つと日陰で暗くなるかもしれないけど。暗い細道というのもいいものなんです。

ビジネスホテル アグネスホテルです。
蔵のようなもの 本当の蔵はなかったようです。1962年の住宅地図以降では住宅街とアパートです。1952年、火災保険特殊地図でも住宅街とアパートでした。今でもそうですが、窓は少なく壁だけが見えたので、蔵のようにみえただけでしょう。

 明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、お蔵坂だけが途中でなくなっています。でも、お蔵坂そのものはあります。

明治29年、神楽坂二丁目

明治29年、東京市牛込区全図

 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。

お蔵坂3

お蔵坂3

 つまり明治28年には2つの坂はまだなく、明治28年ごろに着工し、明治29年、一部分が完成したのです。

 もうひとつ、上の図で真ん中の坂(青色)にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。昭和57年、新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」の412頁から仮に「ほりたんざか」と付けておきます。あるいは「堀見坂」と対照的な「不見ふけん坂」はどうでしょうか。ほかに「堀不見坂」「堀聞坂」「堀闇坂」などは? あるいは「神楽坂前通り」では?


新坂|袋町と若宮町の間に(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 「新坂」は横関栄一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)によれば18か所もあるといいます。新宿区では2か所で、ここでは袋町と若宮町の間を西に上がる坂です。さて、左側は元禄12年(1699)です。右側は享保(1716年)・元文(1736)の年に当たります。大きな違いは?

新坂2

新坂2

 まず巨大な戸田左門の屋敷があるかないかが違います。左図にはありますが、右図にはなくなりました。かわりに左上から中央に下がる道路(茶色の矢印)ができています。これが新坂です。

新坂

新坂

 明治時代も現在もあまり変わってはいません。上は袋町で下は若宮町です。これらの町の間をこの坂は通過します。

 昭和51年、新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂という。江戸中期に新しく聞かれた坂だから名づいた

と書き、平成22年、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂(しんさか)という。江戸中期に武家屋敷地の中に新しく開かれた坂であるために名付けられた。若宮八幡からの坂なので若宮坂ともいう

 横関英一の『江戸の坂東京の坂』では

 江戸時代では、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ。もしくは、坂の形態が切通し型になっている場合は、切通坂(きりどおしざか)と呼ぶ。既設二坂の中間に新坂ができた場合は、これを中坂(なかざか)と呼ぶ。であるから、中坂も切通坂も等しく新坂なのである。新坂と言うべきところを、その坂の関係位置から中坂、その坂の態様から切通坂と呼んだのにすぎないのである。中坂は、左右二つの坂よりも新しい坂であるということは、まず原則といってよい。

 新宿区の標柱では

 新坂(しんざか)
『御府内沿革図書』によると、享保十六年(一七三一)四月に諏紡安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

 美濃大垣藩(岐阜)戸田左門(10万石)の屋敷でしたが、享保10年(1725)の古地図では信濃高島藩(長野)諏訪安芸守(3万石)の屋敷になっています。享保16年4月に新坂が開かれました。

 ひっそりと新坂の標柱は立っています。周りのほとんどは4階ぐらいの小規模マンションで、一戸建てはあっても少なくなりました。一方通行で、車は上(西)から下(東)に向かいます。
標柱

幡随院長兵衛 光照寺の切支丹の仏像 由比正雪の抜け穴 地蔵坂の由来 一平荘 光照寺 袋町の由来 逢坂 庾嶺坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園 お蔵坂

2013年6月23日→2019年10月24日

大逆事件|明治43年

文学と神楽坂

幸徳秋水

 明治43年(1910年)「たいぎゃく事件」が起こりました。明治天皇暗殺を計画したとして、明治43年5月、長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件をきっかけに、明治政府は数百人の社会主義者や無政府主義者を検挙し、明治44年(1911年)1月18日、死刑24人、有期懲役刑2人の刑が決まった思想弾圧事件です。ただし、同日夜、半数は無期懲役に減刑されています。
 明治44年1月24日、幸徳秋水,宮下太吉など11人、1月25日、管野スガ1人が絞首刑になりました。秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と述べています。
 宮下太吉,新村忠雄,古河力作,管野スガの4人が明治天皇暗殺を謀議したと推定できますが、秋水は実行計画には関与せず著作に専念し、他の22人もまったく無関係でした。
 赤旗事件で有罪となり獄中にいた大杉栄堺利彦、山川均、荒畑寒村は連座を免れました。
 それから1か月後、明治44年(1911年)2月のことです。

 なお、この一節は神崎清氏の『大逆事件 幸徳秋水と明治天皇』(あゆみ出版、1976ー77年)の再版で、同氏の「革命伝説 大逆事件」(子供の未来社、2010年)として出版しています。

 運動再建に対する主体的努力は、堺枯川・藤田四郎が共催する各派の合同茶話会となって実現された。明治44年2月21日、牛込の神楽坂倶楽部で第一回の会合をひらき、社会民主党の結党以来の堺枯川・石川三四郎・片山潜・木下尚江をはじめ、片山派の松崎源吉・池田兵右衛門、旧西川派の吉川守圀・半田一郎・愛人社の川田倉吉・添田平吉、堺真柄ら27名が顔をあわせた。会合は顔あわせの程度に終り、格別の話題もなかったらしいが、費用は堺枯川のあずかる『基督抹殺論』の印税のなかから支払われた。
 だが、大逆事件死刑囚の処刑のおこなわれた1月24日を記念して、明治44年3月24日同じ神楽坂倶楽部でひらいた第二回合同茶話会に、堺枯川の意図がハッキリあらわれていた。古河文書にのこる案内状の文面は、つぎのとおりであった。宛元は、古河力作の実父で牛込築地町三福島方古河慎一。消印は、「発送局渋谷・44・3・19・前8-9、配達局牛込44・3・20・前0ー5」。

 忘れがたき廿四日夜、神楽坂倶楽部に於て茶話会を催す。ご来会下さらば幸甚。会費10銭。
発起人 堺 利彦 
    藤田四郎

 当日の出席者は、遺族の古河慎一、師岡千代子を中心にして、堺枯川・大杉栄・堀保子・荒畑寒村・岡野辰之助・半田一郎・斎藤兼次郎・吉川守圀・藤田貞治・藤田四郎・松崎源吉・原子基・加藤重太郎・添田平吉・幸内久太郎・笠原伊之助・本間勝作・安成次郎・西川光二郎ら、21名をかぞえた。
 茶話会であるから、決議事項もなく、雜談をかわして散会したようだ…

大逆事件で合同茶話会

「革命伝説 大逆事件」から

神楽坂倶楽部 牛込町誌 第1巻(大正10年)

茶話会 さわかい。お茶とお菓子程度を供し,打ち解けて話し合う集まり。ティーパーティー。

 1960年,事件関係生存者の坂本清馬により東京高裁に事件の再審請求が提出し、しかし、請求は棄却、最高裁への特別抗告も棄却されました。

360度VRカメラ(4)

牛込中央通り


毘沙門横丁

紅小路

ごくぼその路地

銀杏坂通り

見番横丁

新坂

360度VRカメラ(3)

クランク坂


藁店

袖摺坂

鰻坂

熱海湯


泉鏡花・北原白秋旧居跡

芸者新路

360度VRカメラ(2)

かくれんぼ横丁


兵庫横丁

見返り横丁

見返し横丁

浅田宗伯医院跡

酔石横丁

島村抱月の終焉

尾崎紅葉と十千万堂

寺内に入る横丁(寺内横丁)(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 「寺内横丁」という言葉は実はありません。ただし、嘘というほど間違いだったとは思っていません。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では「寺内に入る横丁」と書いてあります。それを私が簡単に「寺内横丁」と書いたもの。横丁ほどに人はいませんが、それでも何軒の店は十分、流行っています。

相川さん 階段を下りると、下と二階があって、小粋なうちでしたね。寺内に入ってからすぐ右のところに裏木戸がありましたね。土間は玉石だったですね。
馬場さん それで寺内に入る横丁になるんですよね。
相川さん はい、そうです。寺内に入る横丁です。
馬場さん そして、隣がいまの遊馬さんのところで「ウエダ履物店」。

 「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務、「山下さん」は山下漆器店店主です。



 なお、番号9は変な場所です。実際に番号9に行って、振り返ってから神楽坂通りを見て、写真を撮ると…

 何か非常に似ていませんか。そう、ノエル・ヌエットの「神楽坂」 1937年です。

東京のシルエット「神楽坂」 1937年

 2020年7月6日、こう書いた地元の方がいます。

もうひとつのノエル・ヌエット「神楽坂」の画についても、これが「寺内」のどこなのか、地図を見て考えていました。可能性があるのは「寺内横丁」の上り坂です。
「寺内横丁」を描いたという仮設を否定する要素も、決め手もない。いちおう私の妄想を添付しておきますので、ご笑覧下さい

 実際にその方は木版画にイラストをつけてくれました。

 うん、私もヌエットの「神楽坂」は寺内横丁だと思っています。


寺内公園(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 寺内じない公園は神楽坂通りの北側の石畳の一つです。2003年、北側に超高層マンション「神楽坂アインスタワー」ができたとき、開発業者は区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」を区に提供しました。

 を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンをつかんで動かすと、360度回ります。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。は案内板の説明で、ここで詳しく出ています。

寺内公園

寺内公園

 この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装で、黄色で書いてあります。もう1つは大きな板を置いた舗装で、南方の木の中にあります。最後はアスファルトで覆った舗装です(淡紫色)。

 点字ブロックは正確には「視覚障害者誘導用ブロック」です。ほかに、車止めポールと街灯、椅子、防災施設などがあります。

[1-6]


神楽小路の池

文学と神楽坂

「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏号(1998年)で、林功幸氏(今はない「巴有吾有」オーナー)は

 昔は、いまのギンレイホールの隣のビルのあるあたりは湿地帯で、きれいな湧水の池があった。

と簡単に書いています。
 同じく『神楽坂まちの手帖』第4号「軽子坂」で米倉智子氏は
 戦争で、神楽坂は丸焼けになる。そのころ、このあたりは、野っ原であった。キンレイホールのビルもその先のビル群も当然になく、代りに池があったのである。それは、こどもらのかっこうの遊び場たった。私はこの池でカエルをとり、やごをつかまえ、みずかまきり、げんごろう、たいこうちなどの水生昆虫に夢中になった。ぎんやんまもおにやんまも、この池をかすめとんでいた。
 平成18年(2006年)『神楽坂まちの手帖』12号「津久戸小学校(昭和31年度、佐藤学級)ミニ同窓会」では

平松 神楽小路に池がありましたよね。
土屋 ありましたね。池の左側が細長い崖みたいになってて。
上田 あの辺り、二、三年生の頃は原っぱでね。
平松 それで真ん中に池があって、よくそこでザリガニ釣ったのを覚えてますよ。
上田 釣りはやりましたね。
平松 あれは、どのくらい広い池でした?
上田 子供の頃は随分大きいような気がしたけどね。あれは佐久間さんのお屋敷(注)にあった池じやないかな。湧き水かなにかで、小川みたいにギンレイホールの方まで流れて行ってて。
平松 飯田壕まで流れてたんですか?
土屋 外堀通りには流れてなかったですね。あそこはもう車が通ってたから。
上田 どうだったかな。五、六年生の頃はもう、神楽小路になってて、トリスバーとか小柳ダンス教室とかあって。
平松 ありましたね、小柳ダンス教室。
上田 俺、大学生の頃にちょっと通ってた(笑)。

注。軽子坂を上がった左手。現在中央ビルになっている所にあったお屋敷

神楽坂30年代地図

神楽坂30年代地図

 たしかに池はありそうです。では、年代ごとに見ていきましょう。 最初は、江戸時代です。嘉永5年(1852年)の「当時の形」では桃色の線が将来の「神楽小路」です。でも「神楽小路」はなく、あっても垣根ぐらいでしょう。池もなく、「佐久間さんのお屋敷」には「塩谷大四郎」が住んでいました。

1852年の当時之形

1852年の当時之形。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

 次は昭和12年「火災保険特殊地図」です。昭和初期で、戦前です。将来の「佐久間さんのお屋敷」を見ると、普通の家が並んでいます。この時も、池はありそうではありません。

昭和12年「火災保険特殊地図」

昭和12年「火災保険特殊地図」

 次は昭和27年の「火災保険特殊地図」です。これは戦後で、2丁目の18番地と17番地には何も建っていません。原っぱなのでしょう。これは上の対談者たちが小学校2年生になっていた時期です。この場所で、おそらく低くなった真ん中に、池があったのでしょう。「神楽小路」の名称もこの時期からつくようになりました。 昭和38年(1963年)の住宅地図になると「佐久間さんのお屋敷」がでてきます。上の対談者たちは19歳になり、当然ながら、池はなくなっています。

 最後に1990年の住宅地図です。まだ「佐久間さんのお屋敷」は残っていますが、その後、2000年以前に中央ビルになりました。

1990住宅地図

1990住宅地図

 ここで名前の「佐久間裕三」が出てきます。これは平成16年、81歳で亡くなった方で、昭和28(1953)年、学習院大学法学部正治科卒業。大日本図書に入社し、昭和45(1970)年に社長。また、祖父は佐久間貞一氏で、秀英舎を創立し、大日本図書と大日本印刷の創業者です。2代目の佐久間長吉郎氏も大日本図書と大日本印刷社長。地元の大地主でした。


神楽坂仲通り(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂通りを背後に見て「仲通り」をこれから北に登っていきましょう。

 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。2番目の写真では解像度を上げたもので、ここをたたくと『環境にやさしい商店街 』などが出てきます。

仲通り標柱

 上を見ると「神楽坂仲通り」と巨大な看板が見えたのですが、2017年にこの看板はなくなり、かわって日本語「神楽坂仲通り」と英語の”KAGURAZAKA CENTRAL St.”がある街灯、その下に『環境にやさしい商店街 東京都政策課題対応型 商店街事業 を利用しています 平成29年 神楽坂仲通り商店会』と変わりました。

現在と過去の仲通り

現在と過去の仲通り

 左に芸者新路がでてきますが、写真ではまだ出てきません。階段が付いているのもまだ見えません。その後は右に入る路地があり、フランス料理が2軒ほど並んでいます。手前で左は「ル・クロ・モンマルトル」、後ろはフレンチカフェレストラン「ル・コキヤージュ」です。後者はそば粉のクレープを出してくれます。

 さらに左に入るかくれんぼ横丁がでてきて、そこからすぐのところに料亭「千月(ちげつ)」があります。写真は「千月」です。

 千月

 さらに赤い屋根のイタリア料理店がでると、おしまいです。

仲通り

 昔は料理店や芸妓屋だけでした。現在はフランス料理、イタリア料理、上海料理、寿司などに変わっています。場所は小さいのにあらゆる料理が出てくる。もうどんな場所にいっても大丈夫。

2013/3/26→2019/8/21

神楽小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽小路こうじです。平成10(1998)年『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では…

阿久津 スタートして、まず「神楽小路」に向かいましたね。
井上  これは神楽坂としては少し異質じゃないですか。粋というより、戦後のエネルギーを感じるというか。
林   あそこは昔からあまり変わっていない。


 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、図の上で手のアイコンは360度動きます。

平成15年「神楽坂まちの手帖」第2号「神楽小路に今宵も集う」56頁から

 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、震災前の当時、大正11(1922)年頃は「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

 おそらく戦後になってから「神楽小路」と名前が変わります。昭和30年代にはもう神楽小路と呼んだようです。小路(しょうじ、こうじ)とは道幅の狭い通路。戦前の内務省では、道幅が大路に次ぐ街路で、一等と二等に分け、一等小路は幅四間(約7.3メートル)以上、二等小路は一間半(約2.7メートル)以上で四間未満の道路。

 最初は頭上のアーチ看板でしたが、それが標石に変わったのは平成18年です。平成18(2006)年、「神楽坂まちの手帖」第13号「独自に生み出した”老舗”の味」では

 2006年3月末、「神楽小路」の名を刻んだ石柱が完成した。「紀の膳」さんの脇の小路に一歩足を踏み入れる時、丸みを帯びたその石柱を無意識に撫でていたとしても不思議はない。つるんと気持ちの良い触感だ。
「さっきね、石柱にもたれて立ってる人がいたんですよ」。そんなことを、殊更嬉しそうに言うのが、ラーメン屋「黒兵衛」店主であり、神楽小路親交会の会長でもある大野雄一さん(50歳)だ。彼の店は、その神楽小路を入ってすぐのところにある。
 もともと頭上にあった神楽小路の名を示す看板が古びて、いよいよ危険になってきた去年、それに変わるものを作ろうと中心となって奔走してきた。(神楽小路)の字体は、平野甲賀さんにお願いしたというこだわりようだ。

平野甲賀 ひらのこうが。ブックデザイナー。1964年から1992年まで晶文社の本の装丁を一手に担ってきた。生年は1938年。

 西村和夫氏の「雑学神楽坂」第7章「神楽坂を上がる」(角川学芸出版、平成22年)では

 紀の善の角を入ると神楽小路である。軽子坂に抜けるこの道は以前「紀の善横町」と呼ばれていたが、いつしか大衆的な飲み屋、中華料理、飲食店が雑然と並び、夜は人通りが多くなり神楽小路と名を変えた。紀の善前に「神楽小路」の石碑が建っている。

 ここに入ってから、「みちくさ横丁」がでてきます。また「東京ワンタン本舗」の看板はギンレイホールの屋上にあります。さらに2018年には新しく石畳と黒塀の横丁もできました。

 2019年9月16日、神楽小路親交会を行い、解散したと思います。


2018年3月19日→2019年8月16日→2020年1月12日

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

見返り横丁|由来(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

「見返り横丁」は、どうしてこの名前になったのでしょうか?

 もうひとつの「見返し横丁」はわかっています。平成10年(1998年)の雑誌「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で……

井上 さて、それで本多横丁に出て、すでに名前がついている「見返り横丁」。これはいい。で、その先の「鳥静」の脇の横丁も何か名前をつけてあげたい。敷石がゆるやかなS字を描いていて「見返り横丁」よりも長い。そこで『見返し横丁』ではいかが。
林  昔はあそこは抜けられた。道らしい道じゃなかったけど。
註  井上元氏はインタラクション社長
   林功幸氏は「巴有吾有」オーナー

 林氏の「昔はあそこは抜けられた」は、見返し横丁のことですね。
 では、もとに戻って「見返横丁」はいつ、どこで、とんな理由で決まったのでしょうか? 上の1998年には「すでに名前がついている」ということなので、1998年以前からありました。

 まず地図はあるのでしょうか? 1994年の「神楽坂輿地全図」では「本多横丁」は確かに書かれていますが、「見返り横丁」はありません。「かくれんぼ横丁」もありません。また毎年でる「ゼンリン住宅地図 新宿区」、2013~6年の神楽坂通り商店会「神楽坂マップ」、1985年神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』には「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありません。他にも例外が一つある以外を除き、「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありませんでした。

 一つだけが例外で、それは1994年の「神楽坂・楽楽散歩」(編集は神楽坂地区まちづくりの会、編集協力は東京理科大学建築学科沖塩研究室、発行は新宿区都市整備管理課)で、ここには「本多横丁」以外に「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」がでてきます。

 では書籍では? 1997年の「まちづくりキーワード集」(著者と出版は神楽坂地区まちづくりの会)には、「かくれんぼ横丁と「見返り横丁」がでてきます(下図)。一方、渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007)では「かくれんぼ横丁」はありますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はありません。西村和夫氏の「雑学 神楽坂」(角川学芸出版、2010年)ではこの「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」「見返し横丁」は全てでていません。

まちづくりキーワード集

まちづくりキーワード集(1997年、神楽坂地区まちづくりの会)

 雑誌は? 「ここは牛込、神楽坂」では「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で「名前がついている『見返り横丁』」とでてきます。また、2007年「神楽坂まちの手帖」15号「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」では「かくれんぼ横丁」はでますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はでてきていません。

 つまり「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」は、1994年の地図「神楽坂・楽楽散歩」と1997年の本「まちづくりキーワード集」以外にありません。見返り横丁になったのか、その由来もわかりません。

 これからは、まあ、でたらめですが、「神楽坂地区まちづくりの会」 などが横丁や坂をまとめることになって、誰かが「これは個人的な(か昔からの)横丁だけど、見返り横丁というものも使っている」といい、ほかの人たちも「へぇー、なるほど」と答え、あっという間に定着したのではないでしょうか。

 この「神楽坂地区まちづくりの会」のメンバーは、山下修、立壁正子、江口素子、上田邦彦、坂本二朗、荘司雅彦、寺田 弘、保坂公人、渡辺行将、渡邊義孝、矢野貞子、山口幸二などの、そうそうな人物で、「かくれんぼ横丁」の名付け親、森川安雄氏もその一員でした。おそらく「かくれんぼ横丁」と同じ頃に、こんな会合で、森川さんなどのだれかが「見返り横丁」を推したか、知っているといったのでしょう。

芸術倶楽部跡と島村抱月終焉の地(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。9、10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。正しくは以下に掲載しました。

新宿区指定史跡

芸術げいじゅつ倶楽部くらぶあと島村しまむら抱月ほうげつしゅうえん
         所 在 地 新宿区横寺町9・10・11番地
         指定年月日 平成三年11月6日
 この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.
 抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。
 明治39年(1906)には、坪内つぼうち逍遙しょうようの文芸協会に参加し、西欧せいおう演劇えんげきの移植に努めたが、大正2年(1913)内紛ないふんから同協会を脱会し、芸術座を結成した。
 その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。
 平成28年3月25日
新宿区教育委員会

スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)

島村抱月

島村抱月の終焉

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

いつ「本多横丁」になったのか|スタンド看板

文学と神楽坂

 本多横丁の串カツなどの店舗「本多てつまる横丁」の前に「本多横丁」について書かれたものがあります。

本多横丁について

本多横丁について

      本 多 横 丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地てあったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、禄高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したか、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
    昭和60年7月
本多横丁商店会


御府内沿革図書 ごふないえんかくずしょ。江戸の延宝年間から幕末までの地図集。1808年に収集を開始。
本多修理 本多家の三代目の本多修理忠能が神楽坂に移動。元禄五(1692)年以降である。
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。関東大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
旧名復活 本多横丁は昭和24年頃「スズラン横丁」に変更し、昭和27年頃、本多横丁に戻しました。

 問題は、この旧名復活です。「スズラン横丁」から「本多横丁」に戻したのですが、それはいつでしょうか。上の「昭和27年ごろ、本多横丁に戻した」というのは、本当でしょうか。

 新宿ルーペでは

昭和24年頃、戦災で焼け残ったスズラン型の街灯にちなみ、「スズラン横丁商店会」として発足。その後、旧名の本多横丁の復活を望む声が多くなり、27年頃「本多横丁商店会」に改名。

と書いてあります。昭和27年に商店会としては「本多横丁商店会」に変えたとしても、「すずらん通り」という大きな街灯看板も残っていました。その街灯看板を変更したのは昭和50年ごろです。たとえば「神楽坂を良く知る教科書」(2015年)では

本多横丁
 名称はこの横丁の東側にあつた徳川家家老「本多対馬守」屋敷に由来する。一時「すずらん通り」と呼ばれたが、昭和50年ごろに戻された。両側に寿司屋、鰻屋、居酒屋等が並び「芸者新道」、「かくれんぼ横丁」などの路地にもつながる賑やかな坂である。

 町をよく知る人は「憶測ですが、街灯には区の補助が出るので正式な名前を変えにくかったのかも知れません。『本多横丁の旧名復活を期して商店会発足』し、その記念にスタンド看板を立てたのが「昭和60年7月」というのが自然に思えます」といっています。

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻したその時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。


石畳とマンホール

浅田宗伯|夏目漱石と正宗白鳥

文学と神楽坂


asada-b

 新宿区立図書館資料室紀要の『神楽坂界隈の変遷』(新宿区立図書館、1970)の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」には牛込横寺町に住んでいた漢方の名医、浅田宗伯あさだそうはく氏のことが出ています。まず、生年は文化12年5月22日(1815年6月29日)。享年は明治27年(1894年)3月16日でした。

 この『神楽坂界隈の変遷』では「明治になっても依然として慈姑くわい(あたま)に道服を着て、長棒の桐の駕籠(かご)に乗って診療廻りをして歩いた」そうです。この慈姑頭は、束髪ともいい、髪はクワイの芽に似ていることから付きました。江戸時代、医者などの髪の結い方で、頭髪を剃らず、すべて後頭部に束ねたものです。道服(どうふく)とは道士の着る衣服、袈裟(けさ)、僧衣で、先生は礼服である十徳という上着を着用していました。

 また、幕末には浅田宗伯は横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功します。

 宗伯はロッシュを詳しく診察します。
 そして、左足背動脈に渋滞があるのを発見する。その渋滞は、脊柱左側に傷が原因と見極めます。
 傷の原因をロッシュに問うと、18年前に戦場で何回も落馬したことがあるという。
 で、脊椎を詳しく診ると、脊椎の陥没が2か所あるとわかった。
 この診断に基づき、宗伯が薬を調合し治療を行うと、なんと、ロッシュを苦しめたあの腰痛が、たった1週間でピタリと治ってしまったのです。

(ねずさんのひとりごと。「漢方医学と浅田宗伯」)

浅田宗伯は、徳川将軍家の典医となり、維新後には、皇室の侍医として漢方をもって診療にあたっています。漢方医の侍医は最後の医者だといいいます。
 また、浅田飴も浅田宗伯の名前から来ています。浅田飴を作った人は堀内伊三郎氏ですが、「よこてらまち今昔史」では氏は浅田宗伯の駕篭かき(浅田飴によると書生)をしていたそうです。浅田から水飴の処方を譲り受けて、浅田飴を売り出しました。
「よこてらまち今昔史」(新宿区横寺町交友会 今昔史編集委員会、2000年)でも浅田宗伯のことは半ページだけですが出ています。

 横寺町には明治四年(一八七一年)から大正十三年頃まで、現在の英検(旧旺文社本社)敷地の東端付近、五十三番地に住んでいた。
 宗伯は容貌魁偉で酒好きであったが、医業の傍ら医学医史、史学、詩文等数多くの書を著わしたが、浅田家ではその散佚を恐れ、一括して東大図書館に寄贈した。また宗伯は幕府時代から千両医者としての名声があり、明治四年(一八七一年)五十七歳のとき、牛込横寺町に移って以来診察治療を請負う者が引きも切らず、浅田邸付近は順番待ちの患者が休む掛け茶屋が幾軒もできたとのことである。漢洋医競合の時勢のなかで宗伯は塾を開いて門弟の養成にも力を尽くした。
 ところで浅田宗伯と浅田飴とのことであるが、浅田飴の製造元の堀内家は、長野県上伊那郡青島村の出身で、明治十九年四代伊三郎のとき家は破産し、夫婦で上京、伊三郎は浅田家の駕篭かきとなり、妻は青物売りをしていたが、宗伯はこれを励まして金と三種類の薬の処方を与えて独立させた。その処方のひとつが「御薬さらし飴」である。夫婦は水飴製造販売に全力を注ぎ、明治二十二年神田鍋町に浅田飴本舗を構えたのが起こりである。

散佚 さんいつ。散逸。まとまっていた書物・収集物などが、ばらばらになって行方がわからなくなること。散失。
掛け茶屋 道端などに、よしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。

 この「御薬さらし飴」こそが後の「浅田飴」になっていきます。
 夏目漱石氏は「吾輩は猫である」の中でこう書いています。

 主人の小供のときに牛込の山伏町浅田宗伯あさだそうはくと云う漢法の名医があったが、この老人が病家を見舞うときには必ずに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老が亡くなられてその養子の代になったら、がたちまち人力車に変じた。だから養子が死んでそのまた養子が跡をいだら葛根湯かっこんとうアンチピリンに化けるかも知れない。に乗って東京市中を練りあるくのは宗伯老の当時ですらあまり見っともいいものでは無かった。こんな真似をしてすましていたものは旧弊亡者もうじゃと、汽車へ積み込まれる豚と、宗伯老とのみであった。
 主人のもその振わざる事においては宗伯老のと一般で、はたから見ると気の毒なくらいだが、漢法医にも劣らざる頑固がんこな主人は依然として孤城落日を天下に曝露ばくろしつつ毎日登校してリードルを教えている。

山伏町 新宿区の東部に位置する町名。全体としては主に住宅地として利用する。浅田宗伯は山伏町に住んではいない。
葛根湯 かっこんとう。主要な活性成分は、エフェドリンとプソイドエフェドリン。発汗作用を強め、また鎮痛作用があるという
アンチピリン 最初のすぐれた合成解熱薬。 内服でアンチピリンしん(ピリン疹)という皮膚疹を起こすことがあり、現在は使わない。
旧弊 古い考え方やしきたりにとらわれている状態
亡者 金銭や色欲などの執念にとりつかれている人
孤城落日 こじょうらくじつ。孤立無援の城と、西に傾く落日。勢いが衰えて、頼りないこと
リードル reader。リーダー。読本。アルファベットの習得と単語の発音から、さらに初等教育課程・中等教育課程を教えた。

 かごについては、薬箱を持たせた供を連れて歩く医者と、より格式があり、駕籠を使用する乗物医者に分けられたようです。駕籠は町奉行から許可を得た御免駕籠でした。
 正宗白鳥氏が書いた「神楽坂今昔」には、氏が大学生になって、初めての春、こんな体験をしています。

 馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病狀を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勸めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫者よりも信賴されさうな風貌を具え、診察振りも威厳があつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に魚をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
 淺田宗伯老の藥はあまり利かなかつたようだが、「米の飯に魚をくらへ」と云つた田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。

 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。昭和12年の「火災保険特殊地図」で赤い中央は「浅田医院」になっています。左上は52で、つまり横寺町52番地では、といぶかるのも当然ですが、いつの間に変わったのか、分かりません。それとも、となりの家(桃色)が53なので、53は外来だったのでしょうか。あるいは、『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち』が単に間違ったのでしょうか。明治20年の地図も浅田宗伯邸がでていますが、番号はわかりません。

浅田医院
「よこてらまち今昔史」では「浅田医院」は現「あさひ児童遊園」だと描いています。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、ここは赤色の横寺町52番地でした。CCF20130810_000305


2014/11/18→2019/7/1


[漱石雑事]

尾崎紅葉旧居跡(360°VRカメラ)

 平成28年、新しく説明文がでました。これは新しいものです。なお「十千萬堂」は、この説明文では「とちまどう」となっていますが、やはり「とちまんどう」でしょう。ここだけは「とちまんどう」としています。

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定史跡
 ざき こう よう きゅう きょ あと
所 在 地 新宿区横寺町47番地
指定年月日 昭和60年3月1日


 この地は、小説家の尾崎紅葉(1867~1903)が、明治24年(1891)から明治36年(1903)10月30日に亡くなるまで12年間暮らし、代表作「金色こんじきしゃ」など多くの作品を執筆した場所である。
 紅葉は、本名を徳太郎といい、江戸の芝中門前町(現在の港区浜松町)に生まれた。東京府第二中学や三田英学校で学び、明治16年(1883)大学予備門に入学、同18年にはやまみょうらと硯友社けんゆうしゃを結成、回覧雑誌『らくぶん』を発行した。同21年には帝国大学法科大学(現在の東京大学)政治科に入学、翌年には文科大学国文科に移るが同23年に退学した。在学中から読売新聞社に入社し、「きゃまくら」「三人妻」などを連載して人気作家となり、やがて明治めいじ文壇ぶんだん重鎮じゅうちんとして幸田こうだ露伴ろはんとともに紅露こうろ時代じだいを築いた。
 紅葉は鳥居家の母屋を借りて居住したが、自らの号でもある「まんどう」と称した。二階の八畳と六畳を書斎と応接間にし、一階にはいずみきょうら弟子が起居したこともあった。当時の家屋は戦災により焼失したが、鳥居家には今も紅葉がふすまの下張りにした俳句の遺筆が保存されている。
 平成28年3月25日

新宿区教育委員会


神楽坂・楽楽散歩と新楽楽散歩

文学と神楽坂


 善國寺の正面の歩道には「神楽坂・楽楽散歩」という地図がありました。下は2013年に撮った地図。おそらく1994年(平成6年)ごろに作成されたと思います。

神楽坂楽楽散歩

神楽坂楽楽散歩。2013年1月。

 以来、特別に見ていなかったのですが、2019年6月、360°パノラマ写真の関係でもう一度見てみると…

楽楽散歩。2019年6月

楽楽散歩。2019年6月

 絵が薄れ、コンクリートにひび割れがはいり、文字も読めない。「神楽坂・楽楽散歩」はまるで見えません。
 しかし、令和2年(2020年)7月、再度新しい神楽坂・新楽楽散歩ができました。下図は大きく拡大できます。

神楽坂・新楽楽散歩

 さらに、以下の地図は、神楽坂地区まちづくりの会の「神楽坂・楽楽散歩」(新宿区都市整備部管理課、平成6年、1994年、新宿区図書館)でした。

神楽坂・楽楽散歩

神楽坂・楽楽散歩

 結局、地図は3個ありました。1つは風雨にさらされ、読めない「神楽坂・楽楽散歩」。2つ目は「神楽坂・楽楽散歩」で、平成6年、神楽坂地区まちづくりの会が作成、新宿区図書館に寄贈したもの。3つ目は令和2年の「神楽坂・新楽楽散歩」です。
 1つ目と2つ目は、よく似ているのですが、大胆にもまた微妙にも違っています(この写真は巨大に拡大することも可能)。だれか原図をもっていないでしょうか? 25年前のものなので、難しい? まあ、だからこそ、令和2年の「神楽坂・楽楽散歩」になったのですね。
 山下さんが描いた別の「楽楽散歩」も見つかりました。ですが、これも神楽坂地区まちづくりの会の「神楽坂・楽楽散歩」と同じものです。
 2つ目の「神楽坂・楽楽散歩」の文章は次の通り。これも1つ目の地図とは少し違っている。

<この地図の使い方>
 この『神楽坂・楽楽散歩』は、神楽坂地区(神楽坂1~6丁目)とその周辺で、歴史的な社寺・特徴的な坂・趣のある横丁など、私たちの暮らしている神楽坂の「まちの魅力」を集めてみました。
 この地図を片手に、まちの魅力の再認識や新たな発見をしてください。

 この地図では、2つの散策コースを設けました。
 「石畳・料亭コース」は、神楽坂通りの北側を歩くコース。石畳の路地や横丁などを巡ります。
 「歴史・文化コース」は、神楽坂通りの南側を歩くコース。歴史的な寺社などを巡ります。
 2つのコースとも、JR飯田橋駅と地下鉄東西線神楽坂駅を結んでいます。どちらの駅から歩き始めてもかまいません。ゆっくり歩いて1時間程で歩けるコースです。
 神楽坂の魅力を味わいながら散策してみてください。コース以外の横丁を歩いてみると、また違った魅力が隠れているかもしれません……。

クランク坂|神楽坂4丁目(360°VRカメラ)

文学と神楽坂


 平成10年(1998年)『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では

井上 じゃ、大久保通りをこちらに戻って、読売新聞の販売所がある横丁を通る。
 カギ形だから『クランク坂』
坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
  カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。

読売新聞の販売所 神楽坂5丁目38にあり、2017年からは「Le petit Bistro RACLER」に変わり、さらに焼き鳥屋「酉刻」に変わりました。

ラクレに

読売新聞販売所→ラクレ→酉刻


 なお、クランク (crank、道路)とは「直角の狭いカーブが二つ交互に繋がっている道路のこと」(ウィキペディア)。カギ形(鉤形・鍵形)とは先端が直角に曲がった形。

クランク

クランク

 この坂も微妙にS字に曲がっていますが、上の道路がクランク状に曲がっているからこの名前が付いたものでしょう。

クランク道路

クランク道路

 途中で出てくる「神楽坂レトロなホテル」は2019年3月にできたものです。

 松本泰生氏の「東京の階段」(日本文芸社、平成19年)では

踏み面と蹴上

踏み面と蹴上(松本泰生「東京の階段」から)

神楽坂・小さなS字階段
所在地/新宿区神楽坂4-1
●規模:16段 ●幅員:1.4~1.9m ●高低差:2.5m
●長さ:約6m ●蹴上:14~16cm
●踏み面:35~38cm● 傾斜:22°
評価
●疲労感★☆☆☆☆
●景 観★★★☆☆
●スリル★☆☆☆☆
●立 地★★★☆☆
 神楽坂の路地や料亭街がある地区の北側で、北向きに下りる小さな階段。以前は階段を下りると傍らに料亭があり、その先も木造家屋が建ち並ぶ路地空間だった。下から見ると料亭の玄関の奥に隠れるように階段があり、それが奥行き感のある小路のある神楽坂という街らしく、絵になる景色となっていた。だが90年代に木造家屋群は解体されて超高層マンションと小公園になり、さらに最近、階段下の料理屋もなくなって、ここは単なる小さなS字階段になってしまった。きれいにカーブしたコンクリート擁壁は、もちろん今でも印象的なのだが、以前の周辺景観が素晴らしかっただけに、現在の姿は残念である。


石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21

石畳1

石畳

神楽小路横 かくれんぼ 毘沙門横丁 紅小路 見返し横丁 兵庫横丁 クランク 寺内公園 酔石横丁

 明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。

復興土地住宅協会著 東京都市計画図

毘沙門天(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 毘沙門天を360°全天球カメラで撮りました。時間は2019年4~6月まで。

 全体をみたもの。

ごくぼその路地(360°パノラマVRカメラ)

「鮨・酒・肴 杉玉すぎだま」(以前は「あわや」)と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。神楽坂では最も狭い路地で、しかし、先の狭い路面には居酒屋も数軒あります。

 正式にはこの路地の名前は付いていません。たとえば中村友香氏、梅崎修氏の「景観としての路地維持の可能性」(地域イノベーション第3号、法政大学地域研究センター、2010年)では「毘沙門向かいの細い路地」と書いてあります。

 もちろん、何かあった方がいいと考える人もいて、たとえば、平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』(けやき舎、2007年)では

ごくぼその路地…神楽坂4丁目
神楽坂ではもっとも狭い路地。表通りから身を隠すのに便利。狭い路に面して居酒屋もあり、路地の多彩さを感じさせる。

 牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年(1998年)夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」でした。

井上 で、この最後の難所で、しのび坂(註:現在は「兵庫横丁」が普通)と交わる伊勢藤の近くの、「みさか」のところを抜けて帰りたいが。あの、ほんの狭い小道を。
  デブは通れないから『デブ止め小路』にとか(笑い)。逆に『細身小路』とか。
井上 「みさか」のママは秋田美人だが、細身とはいえないなあ。名もなきままの小路を一つぐらい残しておくのも愛敬あいきょう

 西側の店舗4軒がここ「ごくぼその路地」で開店し、2019年はさけことぶき、ちょいしてっぺい、バー ソルト、シゲ テイです。一方、東側の店舗はどれも裏側でして、たとえば「ル・ブルターニュ」。これは東は酔石横丁に接して堂々と開き、一方、西は「ごくぼその路地」で、勝手口だけです。

 しかし、戦後のしばらくの昭和27年、「ごくぼその路地」は酔石横丁よりも大きい時代がありました。(☞一番狭く細い路地

 この路地の神楽坂通りに出る南端はわずか91cm、四つ角にぶつかる北端は122cmでした。

ごくぼそ10

ごくぼそ10

ごくぼその路地。2013年

ごくぼその路地。2013年

見番横丁|神楽坂3丁目(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 見番横丁を見ておきたいと思います。下の写真では中央の灰色の道路が見番けんばん横丁です。その下の青い色の道路はここで登場する場所。さらに、右側に熱海湯階段があります。➀から⑫までは「見番横丁」で、㉑は「熱海湯階段」です。

 当然、全てが上下左右に360度、動きます。矢印をたたくと、前に進みます。

 写真は2019年6月2日です。この食堂たちは、5年後にどれだけが残っているのでしょうか。一応「食べログ」では「中むら」が最高点で4.07、次は「蕎楽亭」で3.88でした。

見番横丁

見番横丁


➁ 伏見火防稲荷神社標柱
➂ 神楽坂組合(芸者の組合)、バル「hajimenoippo 2」、ビアバー「スリジエ
➃ フレンチ「メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ
➅ 神楽坂3丁目テラス(鉄板焼き「中むら」、イタリアン「コグスダイニング」、神楽坂鮨 りんシマダカフェ
➆ 串焼き「串 358
⑩ 焼き鳥「文ちゃん
⑫ 生ビール「ザロイヤルスコッツマン」、イタリアン「Ristorante FIORE」、和食「ほそ川
⑬ 石臼挽き手打蕎楽亭

地蔵坂|散歩(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 地蔵坂(別名、藁坂(わらさか)藁店(わらだな))を下から上まで散歩しましょう。場所はここです。最初は神楽坂5丁目が出発点です。
 下の写真はどこに触れても自由に動きます。上向きの矢は一つ写真を前に進めます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。左下の数字は現在の写真です。
現在は「串カツ田中」。以前は「かぐらちゃか餃子庵」。その前は和カフェ「かぐらちゃか」。さらに前は「もん」で、店長のお父さんが神楽坂2丁目のペコちゃんの店主。さらに前は「あかつき」でした。

餃子庵

餃子庵

なんと神楽坂5丁目の右側はこれで終わりです。代わりに右側は「袋町」になります。
 では、神楽坂5丁目の左側は? 「上海ピーマン」は安いと有名。店舗が小さいのも有名。

さらに散髪屋と懐石料理店「真名井(まない)」があります。残念ながら閉店。16年2月に「神楽坂 鳥伸」に。
G

石鐵ビルの前身は小林石工店。
 かつての小林石工店。安政時代からやっていましたが、閉店。

小林石工店1

以上、神楽坂5丁目の左側です。これからは「袋町」です。袋町は豊嶋郡野方領牛込村と呼びました。この地の寄席「和良店」には江戸後期、写し絵の都楽や、都々逸坊扇歌が進出しています。寄席文化が花開いた場所なのです。

最初は「肉寿司」。肉寿司

以前は八百屋「丸喜屋」でした。いつも野菜や果物でいっぱいになった店舗でした。
丸喜屋2
 続いて、イタリア料理店のAlberini。Alberini

鳥竹とりたけの魚河岸料理・鳥料理、そのマンションの奥には「インタレスト」や「temame」など3軒。
temame
 ブティック・ケイズは婦人服の店兼白髪ファッション。へー、NHKの「ためしてガッテン」にも出ていたんだ。平成12年の「着やせ術」についてでています。

keys
 このブティック・ケイズが入るリバティハウスと、フランス料理のカーヴ・ド・コンマ(これも閉店)が入る隣の神楽坂センタービルは昔は1つの建物でした。昔は和良店(わらだな)から、藁店・笑楽亭、牛込高等演芸館、牛込館に変わりました。別に項を変えて書きます。
カーヴ・ド・コンマ
 坂本歯科も今も続き、「ギャルリー(ファン)」はギャラリーブティックでしたが、閉店に。現在は彫刻家具「良工房」になりました。
良工房
 また、反対側にはヘアーの専門店「ログサロン」。昔は(みやこ)館支店と呼び、明治、大正、昭和初期の下宿で、たくさんの名前だけは聞いたことがある文士達が住んでいました。ログサロン

標柱もたたっています。

地蔵坂(じぞうざか)
 この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。そこにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、(わら)を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

ここで標柱の上と下をみておきます。
坂2

上には手焼き煎餅の「地蔵屋」も見えます。
坂1

さらに上に上がって光照寺、反対側には同じ標柱があります。

2013年6月7日→2019年5月23日


神楽坂文芸地図|中町

文学と神楽坂

中町の最東部に手作り肉まん「フル オン ザ ヒル」があります。肉まんの大きさは五十番の半分弱ですが、実は神楽坂一番の美味しさ。そこの壁に「神楽坂文芸地図」があります。小さい文章で、一枚にぎっしり書き込んであります。

では、文芸地図をどうぞ。拡大できます。十分、読めます。

文芸地図

神楽坂文芸地図


神楽坂通り(360度カメラ)

 2019年5月5-6日、360度カメラで神楽坂通りを撮影しました。

 さらに藁店でも

袖摺坂|散歩しよう(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

袖摺坂(そですりざか)に行くのは?

 袖摺坂は新宿区横寺町と箪笥町の間にあります。地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」東出口近くです。

 図で「A」なので、地下鉄の「牛込神楽坂駅」からは一番近いのですが、ほかはかなり離れています。「牛込神楽坂駅」からはA2の出口を使います。なお、袖摺坂は乞食坂ともいいます。

袖摺坂の地図

 これから袖摺坂に行くには大久保通りの反対側にでます。

袖摺坂の地下鉄
袖摺坂と牛込神楽坂駅

 では到着です。

袖摺坂の標柱

 標柱の説明文は

袖摺坂(そですりざか)
俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(『御府内備考』)。

御府内備考』「御箪笥町」では……

坂 登凡十間程
右町内東之方肴町境に有之里俗袖摺坂叉は乞食坂共唱申候袖摺坂は片側高臺片側垣根ニ而兩脇共至而セまく往來人通違之節袖摺合候乞食は五六十年以前迄は右坂ニ無宿非人之類休泊致候樣子ニ而右樣申傅候哉ニ御座候

袖摺坂と入り口

 右側は黒塀になっています。これは12年、地元のNPO法人「粋なまちづくり倶楽部くらぶ」が、袖摺坂に黒塀を設置したためです。

『拝啓、父上様』では第7話に出てきます。

  歩く2人。
  路地へと曲る。
 り「俺の気持ちは浮き浮き弾んでおり。
  特にナオミさんのその家の方角が、今度俺の住む横寺町のアパートと同じ方角だと判明した時、俺は殆ど叫びそうになった」
  音楽――消えてゆく。


袖摺坂と「拝啓、父上様」

 昔の袖摺坂が出ていますね。上に行くと

袖摺坂の上

 上でも同じ文言が書いてあります。

袖摺坂の上2

 これから右に曲がっていくと「五味坂」です。

 最後に「弁天坂」は平成22年の新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』によれば、「南蔵院前脇から町内入り口への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)」と書かれています。

袖摺坂と坂

 なお、地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」から南側のS状の坂を上に上っていくと(反対側ですね)そこにも「そですり坂パーク」がでてきます。理由は? 袖摺坂 北向き、南向き?で答えがわかります。つまり、S状の坂を「そですり坂」と呼んだ時代もあるのです。

アサヒグラフ.。昭和62年6月3日。朝日新聞社

2013/6/2→2019/5/17


神楽坂|ル・ブルターニュ 高いけど

文学と神楽坂

 ル・ブルターニュの創業は平成8年(1996)です。ブルターニュ地方の伝統料理、そば粉のクレープ『ガレット』を提供します。このソバのクレープがブルターニュ地方の飢饉を何度も救い、ソバは何世紀もの間「主食」でした。場所はここ

 ちなみにイギリスではほとんどソバは使っていません。ソバはイギリス海峡を超えられなかったのです。

 しかし日本で食べるとほんとに高い。多分値段はフランスの数倍はする。でもソバのクレープは今まではなかったからなあ。
クレープ

伊勢藤福屋鳥茶屋大門湯[昔]

兵庫横丁に戻る
神楽坂通りに戻る
石畳について
神楽坂の通りと坂に戻る
2013年3月17日→2019年5月16日

鰻坂|牛込中央通り(360°カメラ)

文学と神楽坂

 鰻坂は市谷砂土原三丁目と払方町の境を西から東へ向け曲折して上る細い坂道です。場所はここ

 2013年ごろの標柱は下のようになっていましたが…

鰻坂(うなぎざか)
坂が曲がりくねっているため、こう呼ばれた。『御府内備考』によると、幅2間(約3.6m)、長さ約20間(約36.6m)にわたり曲がり登っているため、鰻坂と呼ばれたという。

 2019年にはこう言葉が変わっていました。

うなぎさか 坂が曲がりくねっており、鰻のような坂だという意味から鰻坂と呼ばれた。
『御府内備考』の払方町の項に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々…」と記されている。
平成二十九年三月 新宿区

 実際に『御府内備考』「払方町」(大日本地誌大系、雄山閣、昭和6年)では……。

一坂 弐ヶ所。
右1ヶ所は町内西より東え登り坂道拾間程巾三程1ヶ所は東南之間裏通ニ有之里俗鰻坂と唱候坂道入曲登り凡貳十間巾貳間程尤不同有之候

[現代語訳]坂は2ヶ所。
1ヶ所は町内の西から東へ登り、坂道は長さは2間ぐらいで幅は3間。1ヶ所は東南の間で裏通にある。地方の風習では鰻坂という。坂道は曲り登り、長さはおよそ20間、幅2間であり、そろっていない部分もある。


 さて、鰻坂には2つあるのです。1つは、下図の左、(A)です。これは昭和56年の区が出した地図です。坂は最初は下降し、最低点は「牛込中央通り」で、一番下を通り、それからまた上に曲がるのです。

 もう一方の(B)は図の右のほうで、下から上に上るだけのものです。これは、歴史・文化のまちづくり研究会が編集した『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)に出ていたものです。

鰻坂a

 区の標柱も微妙です。つまり、東上の標柱は最高点でいいのですが、西下の標柱は牛込中央通りを超えて、上がる一歩手前に標柱はでています。なんとも微妙です。
鰻坂00

 

 横関英一氏の『江戸の坂東京の坂』によれば、普通はこのような下がって上がる地形(A)については「坂」ではなく、「谷」を使う事が多いようだと書いています。「鰻谷」ですね。

 一方、「坂」というのは、一方は最低点で、一方は最高点で、上がるだけ(か下がるだけ)(B)です。ここは鰻坂なので、上がる(か下がる)だけでしょう。

 しかし、これ以外に複雑な方法は沢山あるのでこれだけに限ると実際は何も分かりません。

 昔の地図を見てみましょう。「牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図」では右下から来る「火之番丁」は2つ(△と▽)に分かれます。ウナギサカは△にしかついていません。

「市ヶ谷牛込絵図」でも「ヤナギサカ」(ウナギザカではないと思う)は右の半分についています。

 新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』は

この境を北に上る坂はくねくねと曲がっているため、鰻坂(うなぎざか)といった

と書いています。「北に上る坂」といえるのは(B)です。

 さらに昔の『東京地理沿革志』(明治29年。編著者、村田峰次郎。発行者、稲垣常三郎)は

此町(払方町)と砂土原町三町目の間に坂あり 其坂路屈曲せるため鰻鱺(うなぎ)名あり

鰻鱺 ばんれい。まんれい。うなぎ。

としています。これは(A)とも(B)ともどっちでもいいですね。

 以上、反対はあるけど、牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図を信じて(B)に一票入れます。この坂は結構気に入っています。クランクが2つはいっているし。鰻坂1
鰻坂2

 明治のほかの道路はどうなっているのでしょうか。まず、「フクロ丁」は袋小路にはならず、歌坂につながります。さらに「火之番丁」は「牛込中央通り」に名前が変わり、払方町の真ん中に一本の道路が通っています。

地図1

 ついでにひとつ上の「富士見馬場」です。ここは富士山がよく見えた場所だといいます。富士山はちょうど西西南に見えるので、道のずっと先に見えたのでしょう。

 ここをさらに東に行くと最高裁判所長官公邸が見えてきます。

 海老沢泰久氏の「夜のタクシー」(「青春と読書」、集英社、昭和60年。文藝春秋、平成9年)では

「お客さん。いま通ったところね、右へ登る細い坂があったでしょう」
「ええ」
「矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」

逢坂 歌坂
投稿日。2019年5月11日→2020年10月10日(カメラを変更)

神楽坂|芸者新路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 芸者新路は明治時代にできた路地で、仲通り本多横丁をつなぐ小道です。


 昔は「芸者屋新道」「芸者屋横丁」と書いていました。現在は「芸者新路」「芸者新道」と2つの表記が混在しています。

 昔は神楽坂通り(つまり表通り)では商店街が多く、一方、裏通り(つまり芸者新路)は三業界の店舗が多く、つまり、料亭・置屋・待合が多いわけです。芸者新路はお座敷に駆け付ける芸者さんたちで肩が触れ合うくらいに混雑して、お座敷の近道として利用しました。

「ロクハチ通り」と呼ばれたこともあります。「ロクハチ」というのは料亭の宴席の開始時間で、一回目が午後6時、二回目が8時です。西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では「神楽坂では芸者の座敷は2時間と決められている。8時を過ぎると次の座敷に移る」そうです。

 1930年ごろまでは非常に華やかな場所でしたが、戦争に入るとその華は次第に消えていきます。戦争が終わり、戦後の1950年代になると、一時、ほぼ昔の勢いを取り戻しましたが、それからは徐々に花柳界の色は減っていきます。

 1980年ごろには4、5軒の料理屋さんがあるだけでした。たとえば1990年2月、大久保孝氏は「坂・神楽坂」でこう書いています。

 石段を登り芸者新路に入って行った。
 同じこの道を昔は芸者屋新道と云っていたようである。それにしても、そういう名前をつける程の道ではない。僅か4、5軒の料理屋が点々とあるだけで、昔のように入口に検番があって、置屋が十軒、待合が十軒両側にならんでいた頃とは趣きが全く違う。入口にあった大きな料亭「末よし」も今はビルになっていて昔の面影はない。すぐ本多横丁にでるがその間話をすることもない。

 ところが、2000年に入る時期になって、逆に飲み屋や、和食、レストランはあっという間に増えてきました。基本的な料理は和食が多く… 芸者新路1
 イタリアンやフレンチなども出てきます。芸者新路JPG

 しかし、芸者新路は神楽坂通りと比べると、店舗の数はわずかです。あらゆる物がそろっている表通りの神楽坂通りとは異なり、飲食店しかありません。陶磁器も香も茶もなく、雑貨屋もコンビニもファッションも子供用品もありません。

 昔はここも石畳でした。1977年、テレビ放送された「気まぐれ本格派」(日本テレビ系列)の舞台は神楽坂で、その当時の「芸者新路」は確かに石畳でした。

芸者新道 1977年のテレビ「気まぐれ本格派」から

芸者新道 1977年のテレビ「気まぐれ本格派」から

 1990年代に、当局から石畳は使えないといわれて現在の舗装に変えたとのこと。う~ん、なんかなあ。すべて私道です。

 この通りの東側の入口は急に傾斜がある坂で、階段が付いています。これは本来の神楽坂通りの傾斜だといいます。

階段の話
本多横丁の路地
神楽坂の通りと坂に戻る場合は


2013年3月5日→2019年5月4日

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。




2013年5月2日→2019年4月27日

大銀杏はどこに|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目の大銀杏いちょうはどこにあったのでしょう。江戸時代から昭和半ばまで、3丁目にこの大銀杏がありました。第2次大戦が終わる時でも、三菱銀行、津久戸小学校、さらにこの大銀杏だけが生き延びていました。戦後すぐに、大銀杏は伐採。もともとは旗本の本多宅の邸地にあった銀杏です。さあ、どこにあったのでしょう。

『ここは牛込、神楽坂』第1号(牛込倶楽部、平成6年)の「街の宝もの 第1回 丸島まるしま さん」で、この大銀杏は本人の家にあったといいます。インタビューと文は大谷峯子氏です。

 ここ神楽坂の芸者さんで、現役では一番年配の、おわ佳姐さん。
 明治42年のお生まれだそうで、お三味線の名手もでもいらっしゃます。小路を入ったところにある、お庭の美しいお家でお話をうかがいました。
家にあった大銀杏いちょう
 この土地が私に授かって住むことになった時(昭和23年)、ここのかしらに、「バカ野郎、こんなとこ住んだら、死んじまうよ」って言われたの。ここんところに銀杏があるから。ここは昔、本多さまのお屋敷だったの。それで、不義をした人の首を斬るとこがここだったの。それだから、後で、ここへ銀杏の木を置いたそうですよ。
 でもとにかく、もうここへ決まってからだったから。まあいいや、ここで死ぬ運命なんだと思って。でも、いまだに、こやって生きてますけどね。
 大きな木でしたよ。だって、飯田橋の駅のホームから見えたんだもの。空襲で焼け残ったものだからね。木の焼けたのって、やーね、オバケみたいで。
 それで、父が昔材木屋をしてましたから知りあいの木こりの人に来てもらって、矢来のお釈迦さま(宗柏寺そうはくじ)の住職さんに拝んでいただいて、切ったの。

 同じく『ここは牛込、神楽坂』第1号の竹田真砂子氏『銀杏は見ている』では…

 ところで、本多家の屋敷には、大きな銀杏の古木があった。
 銀杏は火をよけると伝えられ、火事の多い江戸ではよく見かける木である。今も随所にその名残を見ることができ、東京都のシンボルにもなっている。
 この大銀杏は長く生き延び、太平洋戦争の空襲で東京が焼け野原になるまで、佐藤さんというお宅の敷地内にあった。
 幹は、子供が五、六人手をつないでかこんでも足りないほど太く、家屋全体を包み込むように欝蒼と葉が茂っていた。そのせいなのだろう、佐藤さんのお宅は昼間でも暗く、お部屋にはいつも電気がついていた。そして、家が広く、子福者だったが、空き室がいくつもあって、隠れんぼをするには、もってこいだった。
 秋になると、ぎんなんが沢山なった。近所の子供たちは、佐藤さんのお庭にお邪魔してぎんなん拾いを楽しんだ。かぶれるといけない、ということで、みんな手袋をはめさせられたが、「かぶれるかもしれない」という小さな恐怖は、たちまち好奇心に変わり、子供たちはみんな冒険でもするように、わくわくしながらぎんなんを拾った。
 根は、旧本多屋敷いっぱいに広がっているという。だから、この辺一帯、地震が来てもびくともしないのだと、子供たちは聞かされていた。
 しかし、そんな大木も空襲には勝てず、1945年4月13日には、焼夷弾の直撃を受けて、焼木杭になった。焼木杭にはなったが、銀杏は、仁王立ちの形で、どこまでも続く焼け野原を悠然と見渡していた。

焼木杭 やけぼっくい。焼けた杭。燃えさしの切り株、木片。火が消えたように見えても、また燃えだすことがある。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった大銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

高橋春人「ほろびの街」PHPエディータ―ズ・クループ。2019年

 元々は本多家だったというので、これは3丁目一番地です。これは地図では青い範囲です。なお、地図の上は本多横丁、右は軽子坂、左は芸者新路、下は神楽坂仲通りです。このうちほとんどは料亭で、当時の普通の家は2軒しかありません。

 2007年、「神楽坂まちの手帖」15号「かくれんぼ横丁」で、渡辺功一氏は

お和佳姐さんのお宅と、お隣の持田さんのあいだに、戦後まで立派なイチョウの本がありました。これは、本多様の屋敷にあったものなんです。実は、イチョウというのは、火災でも燃えにくく、火消しのシンボルだったんです。空襲でこのあたり一帯が焼けたとき、焼け跡でまた新しい芽を吹いてで感動的だった、という話を、この横丁で生まれ育った作家の竹田真砂子さんが書いておられます。

 実は住宅地図で見ると「料亭松島」がその後の「丸島わ桂」の家でした。「わ佳」の間違いでしょうか。

住宅地図。2000年ごろ

住宅地図。1999年

石畳|神楽坂|駒坂(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

 駒坂は『ここは牛込、神楽坂』で

井上  それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎  あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上  あの階段のあるところですね。

 ほかに玉の湯階段という名前も付いています。

 一応、地図で同じことを見ておきます。小さな小さな赤点は石畳がある駒坂です。長くて赤い路地も区道です。地図では立派に見えますが、う~ん噓です。
駒坂3

 これが駒坂です。区道です。
石畳|駒坂1

  この階段は小さくて、2.7メートル。この石畳は1.96メートルでした。

石畳|駒坂2石畳|駒坂3

 下から見るとこうなっています。

石畳|駒坂4

 ちなみにもうひとつ、区道?を上げておきます。前の右側に書いてあったところです。東側はここで、幅はたったの91センチ。

区道東

 西側はここで、幅は1.55cm。

区道西

 幅1メートルもないので、これは本当に区道でしょうか。



矢来町|江戸、明治、現在(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。

 矢来(やらい)という言葉は、竹や丸太を組み、人が通れない程度に粗く作った柵のことです。正保元年(1644年)、江戸城本丸が火災になったときに、第3代江戸将軍の家光はこの下屋敷に逃げだし、御家人衆は抜き身の槍を持って昼夜警護したといいます。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにしておきます。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。

 江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。なお、酒井家屋敷の右上端から左上端(牛込天神町交差点)までを、俗に矢来下(やらいした)といっています。

矢来屋敷

 明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。下図は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年。インターネットでは農研機構)。酒井累代墓なども細かく書いています。

五千分一東京図測量原図(農研機構)
https://www.arcgis.com/home/item.html?id=c864ac7332e1423f81b154bc56105c23

 明治18年ごろは下図。池があるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。なお、以下の地図は『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)を使っています。

矢来町 明治

 明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。

矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。

矢来町の3個の字

矢来町の3個の字

 11番地は庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。

矢来倶楽部。東陽堂編『東京名所図会』第41編(1904、明治37年)

 最後に現代です。矢来町ハイツは日本興業銀行の寮からみずほ銀行社宅になっていきます。

矢来町 現在

 牛込中央通りを見た360°写真。上下左右を自由に動かすこともできます。正面が矢来ハイツ。

大〆|神楽坂6丁目[昔]

文学と神楽坂

 成金横丁の大〆おおじめは明治43年(1910年)創業の大阪寿司の老舗でした。押し寿司と蒸し寿司のセットなどが有名でしたが、平成29年(2017年)7月に閉店。代わって蕎麦の「かね田 宝庵」が開店しました。

大〆 食べログから

大〆 食べログから


 昭和59年(1984年)「東京みてあるき地図」(昭文社)では

その先の神楽坂六丁目八の大〆は宮内庁御用の由緒ある店で、凝った大阪寿司を出す。洋風の落着いた店構えでクラシック音楽が流れてくるという異色篇。

 倉持公一の「宮内庁御用達カタログ」(東京人。160号。2000年)では

 このお店のことは、三十年ほど前に知った。亡くなった三宅艶子さんに教えていただいたのである。三宅さんのお宅は、「大〆おおじめ」のある神楽坂のすぐそばにあった。
 大阪鮨の店だが、蒸し鮨があるのが珍しかったし、「宮内庁御用達」というのも気になって、通い始めた。
 そのころはまだ今のようにそこで食べられる大きな店ではなかったが、白木の、いかにも頑固な鮨職人が守っているという感じの店だった。いまは三代目当主の趣味なのか、レストラン風の大きな店になっている。
 宮内省の大膳寮に寿司部ができたとき、大阪から招かれてやってきた内海清吉さんが、のちに大正六年、独立して店を開いたのが始まりだ。それからもずっと「御用達」をつとめてきている。
 ここの蒸し鮨についてくる陶器のどんぶりが、我が家にはもうずいぶんたまった。

 けやき舎の『神楽坂まちの手帳』第9号(2005年)では

 バロックの流れるクラシックな洋館。ここが大阪寿司専門店「大〆」である。ゆったりと間隔をとって配置されたテーブルで食事をすれば、優雅な気分に浸れそう。
 三代目店主である加藤さんは、二十年前から店のある一角をイタリアの田舎町のイメージにプロデュースしてきた。大阪寿司に合わせるのはイタリアワイン。壁に掛かるイタリアの風景画まで加藤さんの作品というほど、イタリアヘの愛は徹底している。
 しかしそんな加藤さんも、大阪寿司の製法は伝統的な作り方を忠実に守り続けているという。しいたけは八時間煮てから一日以上落ち着かせる。魚はおろしてから酢でしめて、二、三日ならす。大阪寿司には、広い厨房と人手が必要で、「鮨は四、五人前を一人の職人が握るが、大阪寿司は一人前作るのに四、五人の職人がいると言われています」。大〆では加藤さんが一人で作っているので、ランチのみの営業なのだそうだ。
 いただいてみるとふわっと酢の香りが立ち上る。品のいい味だった。しっかりと煮含められたしいたけのおいしさは、一度食べると忘れられないはずだ。

 でも、とにかく値段が高い。神楽坂の中でも特に高い。でも、大阪寿司というものが全体的に高いからなあ。江戸前の握りは普通はできないが、大阪寿司の箱寿司なら箱さえあればできる。まあ一種のオマージュですね、はい。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第13号の「路地・横丁に愛称をつけてしまった」の駒坂で、

井上 それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎 あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上 あの階段のあるところですね。

大〆

 関係ないことでも、ひょうたん坂に向かって西北に曲がるのではなく、そのまま南に進むと駒坂にでてくる。なんで南に進まないのか不思議です。大〆のせいでしょうか。

神楽坂演芸場(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂演芸場(えんげいじょう)は神楽坂3丁目にありました。

牛込町誌 第1巻(大正10年)「神楽坂演芸場」

 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。

駐車場

駐車場

 360°カメラでは…

 この駐車場は「神楽坂演芸場」があったところです。場所はここです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。戦後まで営業したという噂(『新宿区の民俗』、新宿歴史博物館、平成13年)もありますが、戦災で終わったという説(吉田章一『東京落語散歩』平成9年、メディカピーシー、吉田章一『神楽坂まちの手帖』第13号)の方が有力でしょう。昭和20年4月13日、空襲でなくなり、1952年、『火災保険特殊地図』では何も残らず、1960年、住宅協会の『新宿区西部』では、夜警員詰所になっています。

 講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演ずる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色ものが有名でした。

『新宿区の民俗』によれば、「二階建ての建物で一五〇席ほどあった。他の二館は木戸銭が三〇から五〇銭であったのに対し、演芸場は七〇銭とった。他の館よりきれいで芸者衆もよくきていた」と書いてあります。
 写真も残っています。柳家金語楼(きんごろう)などが有名人でした。

 なお、新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)には

 大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
 後年好きになった、桂文楽、三遊亭円生、古今亭志ん生は落語協会の所属なので、聞いていない。
 金語楼はもっぱら兵隊もの。貞山は義士外伝。貞山の息子が府立四中にいたので、中学でも彼の談を聞いたものである。柳好はまだ「がまの油」くらいで、得意の「野ざらし」をやったのは、四十過ぎであったろう。三平の父親の林家正蔵は頭のてっぺんから声を出して、「相撲見物」とか「源平盛衰記」をやった。春風亭柳橋の養子さんは兄の友人で、赤城さんの近くに住んでいたが、この人は「時そば」を脚色した「支那そばや」をやっていた。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。
 正月になると、木戸銭は一円になり、惣出は良いが、まくらもそこそこにひっこんでしまうのは、いただけなかった。でもやっと稼ぎ時になったのだから仕方あるまい。

 中村武志氏が「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)に書き、

 坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸場があって、講談、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

神楽坂の通りと坂に戻る場合


伏見火防稲荷神社 神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 現在路地の右手に小さな稲荷神社があります。場所はここ
三叉路

 これが伏見ふしみ火防ひぶせ稲荷いなり神社です。

組合神社

 神社人(日本を楽しむ神社ファン・コミュニティサイト)によると総本社は伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)。ご祭神は、御魂みたま神。生産の神/五穀豊穣の神。商売繁盛、五穀豊穣などを祈願。参拝形式は、二拝二拍一拝。 つまり火の手から守ることです。
 もう少し近くに行ってみましょう。

神楽坂組合

 こうすると東京神楽坂組合(芸者の組合)や料亭松ケ枝などの名前が出ています。
 実際に芸者さんが稽古に行ったりお座敷を行き帰りにお参りをしていくこともあるようです。

 赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、1970年)では……

 今の検番のところにお稲荷さんがあるでしょう、あれは古いんです。昔出羽様のお邸の中にあったんですから。今でいうと木村屋さんの前の小跡を入った右側のところ、昔の永楽銀行の裏にあたるところです。火防のお稲荷さんなんてすが、それをある待合のおかみさんが家を普請する時、邪魔だって訳でもないんでしょうかとに角邪魔にならないところに持っていったりなんかしたんですね、そうしたらその家にろくなことがなかったんだそうです。おかみさんはすっかりおじけ付いて、きっとお稲荷様のたたりだろうっていうんで又、もとのところへまつりかえたんだそうです。そうしたら商売も順調に行く様になったそうです。こういう土地柄ですからとかくかつぐ人が多いようですね。とにかく因縁つきのお社です。
出羽様 出雲松江藩の最後の藩主、松平定安氏が明治4年、神楽坂3丁目の邸地を購入しました。官位は出羽守でした。下図は巨大な邸宅と赤い色の稲荷社など。
木村屋 現在は上島珈琲店

稲荷社など 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

神楽坂|見番横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

神楽坂の見番(けんばん)横丁の東端はここです。見番(検番、券番)というのは芸妓組合の事務局のことです。
 正面に「神楽坂組合稽古場」が見えています。場所はここ

神楽坂組合 神楽坂組合

 また「見番けんばん横丁」の標柱があります。この標柱には

見番横丁
Kenban-yokocho
芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる

と書いてあります。
 時々ここ2階から三味線が聞こえてきます。嘘ではなく本当にです。下図は伏見火防稲荷神社と見番横丁の標識、神楽坂組合稽古場です。

見番横丁

 実はこれはT字路です。360°カメラでは、伏見火防稲荷神社から、見番横丁、神楽坂組合稽古場、メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ、熱海湯階段です。
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 また下の写真は360°のカメラでとったものです。上下左右に動き、また矢印をたたくとその方向に移動して別の写真になります。

 三差路で、左手に行くと熱海湯階段です。

熱海湯温泉

 ここから右に曲がって進むと左手はフランス料理の「メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ」が見えます。場所はここブルゴーニュ さらに右に進むと、地下に有名な鉄板焼き「中むら」が入るビル「神楽坂三丁目テラス」があります。千本せんぼん格子ごうし(店さきなどで見られる縦の目の細かい格子)があります。「中むら」のシェフは帝国ホテルの鉄板焼「嘉門」で勤めていました。場所はここ

中むら

 さらに行くと、焼鳥の「文ちゃん」が地下1階に出てきます。お任せ8本で4300円。昔の「伊勢籐」と似ていると、思います。場所は地下一階のここ文ちゃん

ここで見番横丁は終わりですが…
 最近、「Vietnam Alice」ができました。神楽坂では初めてのベトナム料理店です。日本的なベトナム料理店ですが、それでもできるのは嬉しい。(しかし、2019年春、閉店)

拝啓、父上様」で田原一平が坂下夢子から携帯で呼び出されたY字の路地はここ(↓)です。3叉
 なおY字の右手は見番横丁ですが、Y字の左手は「三つ叉通り」だと『ここは牛込、神楽坂』第13号の座談会でいっています。三つ叉通りの一角で割烹「弥生」は終了し、2018年5月に日本料理「ほそ川」に変わりました。
 ここから地図の右手は元の見番横丁から伏見火防稲荷神社に戻ります。
 左手は五十番や昔の神楽坂演芸場に出る場所です。



中根坂(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 中根坂は市谷加賀町一丁目と市谷左内町の間を北に、納戸町まで上がる坂です。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では…

中根坂(『東京の坂道-生きている江戸の歴史』から)

中根坂(なかねざか) 市谷加賀町と長延寺町の境、大日本印刷会社の東わきを納戸町へ上る坂路。「新撰東京名所図会」には「中根坂 左内坂町と加賀町一丁目の間に坂あり、中根坂といふ、以前坂の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる。」とかかれている。またこの坂下の大日本印刷会社の前身の秀英舎についても「秀英舎工場は市谷加賀町一丁目、中根坂下にあり、即ち中根恵三郎の屋敷跡なり。明治十八年京橋区西紺屋町なる秀英舎の分舎として、此地に創設せらる。」とかいている。この坂下にはむかし拝み石(石橋)があり、これを拝めば子供の咳がかおるものと信心されていたことが「求涼雑記」にみえている。

 横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、昭和45年)では

中根坂  新宿区市谷加賀町大日本印刷会社の前を北へ上る坂

 昭和56年の「新宿区史跡地図」(『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)では中根坂は中央の谷から北と南の2方向に上る坂でした。

 江戸時代でも中央の谷から北と南に上がる坂道でした。
1857年と1849年の地図中根坂

 360°カメラでは、中根坂と鼠坂を撮ってあります。中根坂、左に行くと鼠坂です。

 道標では

(なか)()(ざか)  昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。

と書いてあります。

 歴史・文化のまちづくり研究会編『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、平成10年)では

   中根坂(なかねさか)
(1)所在地
 市谷加賀町一丁目と市谷左内町の間を北に、納戸町まで上がる。
(2)特  徴
 この坂は、坂の中間あたりまで下がって、そこからは上がるという、上り下り「逆への字型」の坂である。傾斜は、納戸町側がきつい。
 市谷左内町側は、工場などが多く建物もシンメトリーであまり面白くはない。納戸町側は住宅街で、いわゆるお屋敷から、こじんまりした住宅までさまざまな建物が目に入る。緑も多い。
(3)由  来
「新撰東京名所図会」には、「…以前左の西側に旧幕府の旗本中根恵三郎の屋敷ありしかば、遂に坂名となる。」と記されている。昔、坂下には「拝み石」(石橋)があって、子供の咳止めの御利益があるらしく、信心されていたそうだ。
(4)周辺の状況
 市谷左内町側の坂上周辺は、市谷加賀町に「大日本印刷」の工場、市谷本村町に陸上自衛隊の駐屯地などがある。工場やビルが多く、規模もヒューマンスケールではないので、殺風景な感じである。
 納戸町側の坂上周辺は、中学校、住宅街となっている。市谷左内町側に比べ、緑も多く歩いていても殺伐感はない。坂上から東に歩を進めると、古びた蔵が見える。塀も同じくらい古そうだ。奥に見える建物も、年代物のようだ。

中根坂(昭和)

中根坂(『歩いてみたい東京の坂』から)

 いずれにしても、かつてはVの字のように下って、再び上がる急坂でした。それが現在のようにはっきりしたVはなくなり、一見では橋だとはわかりませんが、橋で、しかもすべて区道です。

明治の子供|新宿区役所

文学と神楽坂

 新宿区役所編「新宿区史・史料編」(昭和31年)で佐久間徳太郎氏が話した「古老談話」です。

  佐久間 德太郎      中町三六
 佐久間さんは明治21年生れであるから、かれこれ5,60年に亘って神樂坂を知つておられる。佐久間さんのお母さんが、坂の近くで「末吉」という料亭を開いていたので、其處で子供の時代を過したわけである。
 神樂坂の特徴と云うべきものに、毘沙門天緣日があつた。最初は寅の日だけであつたが、明治中頃から午の日も緣日になった。境内にはそんなに大掛りな芝居などかゝらなかったが、源氏節などやる小屋掛が建つた。芝居を見に行こうとすれば、水道橋の東京齒科醫科大學の辺にあつた三崎座というのへ出掛けた。こゝは女役者で、近邊の女連が見物に行った。木戸錢は五錢であった。神樂坂の芸者屋はかたまつてあつたのではなく、其處此處に離れてあつた。芸者が店から客の所へ行き帰りするのに、着飾つた着物のつまをとつて坂を行く姿が、商店の内から坐つて眺められたし、歩行者の眼を樂しませてくれた。これは一寸他の所では見られぬ光景で、神樂坂の情緒ともいうべきものであった。
縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
源氏節 明治時代、名古屋を中心に流行した浄瑠璃の一派。明治期末は衰退。
小屋掛 こやがけ。芝居や見世物のための小屋をつくることや、その小屋。
三崎座 東京神田三崎町にあった。一般の劇場で女性だけの歌舞伎(女芝居)を興行した。
東京歯科医科大學 東京歯科医学院でしょう。明治34年、校舎を神田三崎町に移転。昭和21年、東京歯科大学(旧制)設置を認可。
木戸銭 興行を見物するために払う入場料。見物料。
褄を取る 裾の長い着物のつまを手で持ち上げて歩く。褄とは着物のすその左右両端の部分。

 又神樂坂の坂も特別なものだった。「車力はつらいね」と唄われた如く、坂の登り降りに車力は苦労をした。車というのは、くね/\と折れ曲るようにして登るのが樂なのだが、神樂坂はそれが出來ない。かまぼこ型に真中がふくれ上つていたからだ。その為に車を店の中を突込んでしまう恐れがある。其頃の車は荷車か人力車であったが、坂の下に「立ちん棒」というのが立つていて、頼まれて荷車の後を押した。「立ちん棒」というのはれつきとした商売で車が上つてくると「旦那押しましようか」と後押しをして登りつめると一錢か二錢頂戴する。此の商賣は日露戰争頃まで見られたという。又人力車で坂の下まで來た人は一旦降りて、車が坂を登り切るまで一緒に歩かねばならなかった。こういうのは東京で珍しく、九段坂はそうであつたが他には知らないという。
車力 しゃりき。大八車などをひいて荷物の運搬に従事する人。
唄われた如く 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
かまぼこ形かまぼこ型に真中がふくれ上つていた 昔は道路全体が上を凸に曲げられ、かまぼこ形でしたが、昭和12年には、それほどのたるみはなく、道路の左右にはどぶ板が置かれるようになり、かまぼこ形ではなくなりました。

 経済的に豐かでない人々の子供達は、小學校を出た位で働かねばならなかつた。働き場所というのは、加賀町にある秀英舎(大日本印刷株式會社)とか、後樂園にあつた砲兵工廠であった。雜用に雇われて賃金を貰い、自分で働いて家計の足しにすると共に、小使も少し持つていた。
 子供達の通う學校は、市立の赤城小學校、愛日小學校でもう一つ私立の竹内尋常高等小學校というのがあり、文部省の補助金を受けていたので、校名の上に代用の字がついていた。此の學校の生徒には亂暴者が多く、赤城小學校や愛日小學校の生徒との闘いには絶對に強く、集團的に喧嘩をしかけたりした。佐久間さんは此の學校に通つた。生徒は總數八百名位で、此處の生徒は袴なぞはいてなく、皆つくしんぼみたいな恰好で、風呂敷包で通學した。袴をはくのは元旦とか天長節の祭日位だけであった。神樂坂六丁目にあった勸工場で、袴は四十五錢から五十錢位で買えた。
 昔は簡單にお酌になれたし、今みたいに許可など必要なかった。それに場所が神樂坂に近いとあつて、生徒の中にはお酌になっている者がいた。彼女は學校に来て勉強しているのだが、習字の時間になると御太鼓に墨をつけられるといつて、白い紙をかぶせていた。綺麗にしているから誰も墨をつけて汚す者はいないのだが、きまつてそうしていた。所で彼女は小學校の生徒であるが、お酌でもあるから何時お客があるか分らないので、箱屋が教室の外で待つている。そして知らせがあると生徒ではなくなつて、お酌として授業を止めて歸つて行く。今からでは一寸考えられないのだが、當時はそれがり前のように思われていた。
加賀町 市谷加賀町。新宿区の町名。牛込第三中学校や大日本印刷などが見られる。

市谷加賀町

市谷加賀町

秀英舎 1876年、日本で最初の本格的印刷企業。個人経営。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。
工廠 こうしょう。旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・修理した工場。
竹内尋常高等小学校 尋常高等小学校とは旧制小学校で、尋常小学校と高等小学校の課程を併置した学校。修業年限は、初め尋常4年、高等2~4年。その後、尋常6年、高等2年。竹内小学校はここ
代用 明治40年(1907)3月以前に、公立小学校にすべての児童を就学させられない特別な事情のあるとき、市町村内か町村学校組合内につくられた私立の尋常小学校。代用私立小学校。
つくしんぼみたいな恰好 「つくしの形の恰好」。わかりませんが、「刈上げの髪は目立ち、あとはやせている」でしょうか。
天長節 第二次大戦前の天皇誕生日。大戦後は「天皇誕生日」と改称
勧工場 百貨店やマーケットの前身。一つの建物で、日用雑貨、衣類などの多種の商品を陳列し、定価で販売した。
お酌 東京では半玉はんぎょくの異称。まだ一人前として扱われず、玉代ぎょくだいも半人分である芸者。
箱屋 客席に出る芸者の供をして、三味線などを持って行く男。はこまわし。はこもち。箱丁。
箱屋 「当」の旧字体

 神樂坂近邊には寄席が幾つかあつた。坂の中途、助六という下駄屋のある邊に若松亭というのがあつた。これは浪花節の定席で雲右術門とか虎丸など一流の者が來て居り、丸太で仕切った特別席には常連が多かつた。それより少し上に娘義太夫石本亭があつた。娘義太夫は大流行で東京専門學校のフアン連中が、娘義太夫の人力車にくつついて寄席のはしごをした程だった。色物では藁店にあつた藁店亭で、仲々の新感覺をみせていた。お盆には圓朝牡丹燈龍も聞けた。通寺町の細い道の突當りには、男義太夫の牛込亭があり、淺太郎とか三味線松太郎というのがいた。
 坂の中途にはまだ石垣などがあり、其の上にイソベ溫泉という風呂屋があった。櫻の木が植えてあってその下に赤い毛氈を敷いた緣臺が置かれて、そこに坐つて茄小豆をたべ甘酒を飲む事も出来た。そういう悠長さが佐久間さんの子供の時分にはあつた。だから花柳界ものんびりしていた。後立てで金を出すだけの旦那もいた。帳場は女が主體になつてやつており、金錢の淸算も無頓着な所があった。横寺町には明治三十六年まで尾崎紅葉が住んで居り、神樂坂は多く文士連中の遊び場であった。
若松亭 知りませんでした。
浪花節 浪曲。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたものが多い。
娘義太夫 女性の語る義太夫節。義太夫節とは浄瑠璃の一流派で、原則として1場を1人の太夫が語り、1人の三味線弾きが伴奏する。
石本亭 まったく知りませんでした。
東京専門学校 早稲田大学の前身。明治15(1882)年、創立。35(1902)年、早稲田大学と改称。
藁店亭 おそらく袋町の和良店亭でしょう。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」と呼びました。
円朝 幕末~明治時代の落語家。怪談噺、芝居噺を得意として創作噺で人気をえた。生年は天保10年4月1日、没年は明治33年8月11日。享年は満62歳。
牡丹燈龍 牡丹灯籠。ぼたんどうろう。三遊亭円朝作の人情噺「怪談牡丹灯籠」の略称。お露の幽霊が牡丹灯籠の光に導かれ、カランコロンと下駄の音を響かせて恋しい男のもとへ通う。
牛込亭 神楽坂6丁目の落語と講談の専門館。詳しくは牛込亭について。
イソベ温泉 野口冨士男氏は温泉山と呼んでいたようです。
茄小豆 ゆであずき。茹でた小豆。砂糖などをかけて食べる。
後立て 「後ろ盾」は「陰にあって力を貸し、助ける事や人」。「後立て」は「かぶと立物たてもののうち、後方につけたもの。」

 佐久間さんは神樂坂で旦那・先生・兄さん等と呼ばれた人だったが、若い頃は家の商賣を嫌って世帶を持ち始めた頃は、袋町で下宿生活をしていた。淸榮館という下宿屋で隣の部屋には、小説家の宇野浩二氏が母親と共に暮して居り、時々彼の彈く三味線の音が聞えて来た。それでやはりこれも小説家の廣津和郎氏が時々顏を見せていた。
 其の頃の新宿は「新宿まぐその上に朝の露」と川柳に唄われる程で、新宿驛も貧弱なものであり、驛前に掛茶屋が三、四軒あった。神樂坂が明治の頃は、山の手隨一の繁榮を誇つた街であった。
 佐久間さんは大正十五年に、牛込區議會議員となり、現在は新宿區の名誉職待遇者となつている。
清栄館 宇野浩二氏は白銀町の都築、神楽坂の神楽館、袋町の都館にいたことはわかっています。清栄館にいたというのは知りませんでした。本当でしょうか。
新宿まぐその上に朝の露 至文堂編集部の「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年)にはでていません。江戸時代の古川柳「誹風柳多留」を索引で調べても、ありませんでした。「朝の露」は「朝、草葉に置いた露」で、はかない人生のたとえに用いる場合も。
掛茶屋 道端などによしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。
 「当」の旧字体。

羽衣館の優勝旗|都筑道夫

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房が発行する「エラリイ・クイーンズ・ミス テリ・マガジン」の編集長を勤めた後、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年(2001年)に「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この『推理作家の出来るまで』は『ミステリマガジン』に連載したものですが、ここではフリースタイル刊(上巻、2000年)から取っています。新宿区山吹町の羽衣館という映画館の思い出を描いたものです。

羽衣館の優勝旗

 江戸川橋の交叉点から、矢来へのぼるだらだら坂の八合目あたりに、玉沢という運動具店が、昭和五十年の現在もある。私の子どものころには、居まわりにビルディングがなかったから、四階建だか、五階建だかのこの玉沢運動具店は、ひときわ目立ったものだった。
 その玉沢のすじむかいに、ピンク映画をやっている小屋が、いまでもあるはずだけれど、たしか牛込文化とかいったその映画館は、敗戦後まもなく、松竹系封切館として出来たもので、私たちは羽衣館の復活とうけとっていた。昭和20年5月25日の空襲で焼けるまで、そのあたりに羽衣館という、わりあい有名な松竹系の封切映画館があったのである。
 わりあい有名な、といういいかたをしたのは、映画興行界では知られた小屋だったらしい、ということで、この羽衣館のもぎりの横あたりには、いつも数本の旗が飾ってあった。昭和十年代にかかるころ、松竹では市内の直営館に、一種の売りあげ競争をさせていたらしく、たぶん月間の入場者数で判定したのだろう。一位になった小屋には、旗を贈って表彰したという。そのいわば優勝旗が、羽衣館には何本も飾ってあって、それほど入りのよかった小屋なのだ。
 小学生になるかならないかのころに聞いた話だから、むろん正確とはいえない。東京市内で一位ではなく、市内をいくっかのブロックにおけたなかでの、一位だったのかも知れないが、とにかく有名な映画館だと聞かされていた。この羽衣館が、私の記憶のなかでは、作品とそれを見た小屋とが、はっきり結びついている最初の映画館なのである。
 前に書いたように、片岡千恵蔵の「刺青奇偶」と「気まぐれ冠者」は、早稲田の富士館神楽坂日活と、どちらの小屋で見たのか、判然としない。昭和9年3月封切の「丹下左膳剣戟篇」、伊藤大輔大河内伝次郎のコンビによるトーキー二本目の左膳は、鼓の与吉を山本礼三郎がやっていたことと、左膳が馬で日光街道を走っていくラストシーンを、はっきりおぼえていて、これは神楽坂日活で見たような気が、かすかにするのだけれど、確信は持てないでいる。
 そこへいくと、松竹映画のほうは、近所に羽衣館しかなかったから、はっきりしているわけだ。ここで見た松竹映画の記憶は、私が数え年七つだった昭和十年から始っていて、小学校へあがる一年前だから、かなり鮮明になってきている。高田浩吉がはじめて主題歌をうたった「大江戸出世小唄」、小笠原章二郎の落語シリーズの「らくだの馬」、衣笠貞之助の「雪之丞変化」三部作。やはり時代物のほうを記憶していて、併映の現代物はおぼえていない。キネマ旬報の「日本映画作品大鑑」で、題名と出演俳優を見ても、なにひとつ思い出せないものがある。

八合目 地理院地図電子国土webを使い、1合目を江戸川橋交差点(標高5.6m)、10合目は神楽坂通りの赤城神社に行く場所(標高24.9m)と考えると、玉沢運動具の標高は6.6m。2合目にも足りない場所です。10合目を牛込天神町交差点の入口(標高13m)としても、やはり2合目以下。合目の数はいい加減でもいいのですが、それでもおかしい。
運動具店 下の地図を参照。
昭和40年の山吹町交差点

昭和40年の山吹町交差点。右の赤色は牛込文化劇場、左の赤色は玉沢運動具。(全住宅案内地図帳。新宿区。昭和45年版。公共施設地図)

居回り 自分がいる所の周囲。辺り。近辺
すじむかい 筋向。少し隔たった斜め向こう。
ピンク映画 きわどい性描写を売り物にする成人向き中編劇映画。
牛込文化 上の地図を参照。
松竹系 松竹株式会社が製作か配給した映画を上映する映画館。
封切館 新作映画を初めて上映する映画館。
羽衣館 牛込区山吹町293にあった映画館
もぎり 「もぎる」とは「ちぎって取る」こと。名詞化して、劇場・映画館などの入口で、入場券の半片をもぎり取ること。
入り いり。収入。あがり。みいり
片岡千恵蔵 映画俳優。歌舞伎から映画に転じ、時代劇を中心に長く第一線のスターとして活躍。生年1903年。没年1983年
富士館 日活系の映画館。「戸塚町誌」(昭和6年、戸塚町誌刊行会、非売品)によれば市電(現、都電)早稲田終点にあったといいます。
神楽坂日活 現在のスーパー「よしや」の場所にあった神楽坂6丁目の映画館。
伊藤大輔  映画監督。愛媛県生まれ。戦前戦後を通じての時代劇の巨匠。
大河内伝次郎 映画俳優。新国劇の俳優から1926年日活に入社。時代劇スターとして活躍。生年1898年。没年1962年、
山本礼三郎 映画俳優。マキノプロを経て、昭和5年日活に入社。侍ニッポン、人生劇場、酔いどれ天使に出演。生年1902年。没年1964年。
高田浩吉 昭和10年主演の「大江戸出世小唄」で主題歌をうたい歌う映画スターに。戦後「伝七捕物帖」シリーズで人気復活。生年1911年。没年1998年。
小笠原章二郎 俳優。映画監督。喜劇的時代劇が得意。生年1902年。没年1974年。
衣笠貞之助  映画監督。「雪之丞変化」「地獄門」など時代劇を中心に戦後まで活躍。生年1896年。没年1982年。
併映 主な作品と併せて映画を上映すること
キネマ旬報 キネマ旬報社が発行する映画雑誌。1919年7月創刊。毎月5日・20日刊行。

神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

神樂坂町二丁目 享保中、士地官収くわんしうして、よけとなし、延享えんきやう二年放生寺ほうしやうじ借地しやくちとし、文政五年田町四丁目代地だいちとなる。明治二年神樂坂のとりて牛込神樂かぐらちやう改稱し、明治四年六月附近ふきん士地しち開墾地かいこんちを合し、南隣に一丁目をつるを以て其の二丁目となす。坂に神樂かぐらざかあるを以て里俗此邊このへんすべて神樂坂と稱す。
享保 1716~36年
士地 武士の土地ではないでしょうか?
官収 官庁がとりあげること。没収。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
延享 1744~48年
放生寺 東京都新宿区西早稲田にある高田八幡宮の別当寺。別当寺とは江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺
文政 1818~31年
田町四丁目 現在の新宿区市谷本村町1丁目。
代地 江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。
改稱 名称や称号を改めること。改名。
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では

神楽坂2丁目
 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷いちがや田町たまち四丁目代地があった。
市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政5年(1822)2月8日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年6月9日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。
 明治2年(1869)5月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治2年町鑑)、同4年6月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇53)。昭和26年5月1日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第347号)
 ここで神楽坂通りを横切る右側と左側がそれぞれ別の横町につながっています。

 まず明治20年の地図2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。

 右側は「神楽小路(こうじ)」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ
 神楽小路

 左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。小栗横丁

 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。

 志満しまきんと田口屋生花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がってからの道は小栗横丁といいます。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町で。二丁目のアグネスホテルはここから行くこともできます。
ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。
 左側には「志満金」と「オザキヤ靴店」が見えます。

 さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい9階の建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド千年こうじや梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。ポルタ神楽坂

Porta神楽坂(写真)ポルタ

赤はポルタ神楽坂に

 ではまた神楽坂通りを上に向いて歩いてみましょう。陶柿園神楽坂写真館さわや肉のますだや太陽堂などがでてきます。
 ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 さらに上に行くと、神楽坂の2丁目と3丁目の境にやってきます。3丁目の右側には1階はサークルK、2階はロイヤルホストが見えます。昔は牛込會館でした。
 その下には牛込神楽坂の図もあります。
2丁目と3丁目
 このあたりが一番急な坂になり、最大勾配は12%、角度は4.5度です。(『ここは牛込、神楽坂』14号42頁)

 ここから上を向いて行くと神楽坂3丁目に、右側は神楽坂仲通りになり、左側は下向きの神楽坂仲坂から小栗横丁に入ります。

昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店