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石切橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「石切橋」からです。

石切橋(いしきりばし) 新宿区水道町から文京区水道二丁目に渡す江戸川の橋で、西江戸川橋古川橋のあいだにあり、古くは単に大橋とよび、寛文年間に架されたといわれ、新編江戸志に「大橋 俗に石切橋と云う。赤城下へゆく通りなり、馬場片町より水道丁へわたす。むかし此所に石切あるよりの名なり。」とあり、府内備考に、
 一、橋 長凡八間程 幅2間1尺
 右は江戸川相掛り候橋の儀は町内(小日向水道町)より牛込水道町の方へ渡り小橋御座候。江戸川大橋と相唱え申し候。又里俗石切橋とも唱え候えども、如何の訳にて唱え来り候や相知れ申さず候。御役所向に認め候節は、江戸川大橋と相認め申し候。右は武家方御組合橋にて、町内東側横町間口十九間の処、右入用差出し来り申し候。
 とあり、また新撰東京名所図会も諸書を引いて「石切橋 小日向水道町と西江戸川橋との間より牛込水道町に通ずる木橋にして江戸川に架せり、もと大橋といえり。続江戸砂子に云う。大橋、馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切はしというなり。(下略)」と記述している。明治19年橋架明細表ではこの橋は長8間半、幅3間の木橋で、江戸川にかかっていた諸橋のうちではもっとも幅員が広い。むかし大橋とよんだのもそういうことからであろうか。
  下りて石切橋をわたる。ここは神田上水の下流なる江戸川の流るる所なり。橋より下十町ばかりの間、両岸に桜樹ならびて新小金井の称あれど、それでは小金井があまりかわいそうなり。殊に近年水大いに減じて、川よりも寧ろのようになりて風致一層減じたり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
  江戸川の水かさまさりて春雨のけぶり
  煙れり岸の桜に    若山牧水

古川橋 ふるかわばし。文京区水道2丁目と文京区関口1丁目との間をつなぐ神田川の橋。神田川は古川ふるかわと呼ぶ時期があった。
大橋 大橋は他の大きな橋を比較検討することではなく、近隣の橋との対比で、大橋と呼ぶことが多い。
寛文年間 1661年から1673年まで。
新編江戸志 しんぺんえどし。別称江戸誌。近藤儀休編著・瀬名貞雄補。寛政年間。「江戸砂子」の体裁を意図して刊行。内容は江戸城を中心に東は葛飾、南は六郷、西が武蔵府中、北が豊島・川口方面の地誌を記す。
石切橋 いしきりばし。名前はこの周辺に石切りが住んでいたことからつけられた。石切りとは、石材に細工をする職業や職人。いし。石屋。
武家方 ぶけがた。武家の人々。武家衆。武家とは武士の総称で、公家くげはその反意語。
御組合 ある目的で、仲間をつくる、その人々。「御」は「庶民ではなく、武士がつくった組合」の意味。
馬場片町 新宿区西五軒町の一部。古く牛込村の沼地だったが、承応年中(1652-55)に埋立て、武家屋敷等を建築。町名の由来は、この時に小日こびなた馬場の隣接地だったことによる。
水道丁 東京都文京区の町名。「丁」は「市街の一区画」の意味もあったが、代わって明治期には「町」を使った。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
長凡八間程 幅2間1尺 長さ約1456cm、幅394cm
間口 正面からみた敷地・家屋などの幅。
十九間 3458cm
入用 いりよう。必要である。必要な費用。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
小日向水道町と…… 原文と引用の2つが違っています。「新撰東京名所図会」の本来の引用では「牛込水道町より小石川水道町に通ずる木橋にして、江戸川に架せん、古川橋と西江戸川橋との間の橋なり。府内備考、牛込水道町の書上に(略)と見ゆ。本名は江戸川大橋にして、石切橋は其俗称たりしてと比記に據て詳らかなるべし、橋の名は、蓋し側に石工の宅あろしに起因すべけれど、其證なければ容易に断定し難し、石切の俗称、最も著はれ、江戸川大橋の名は遂に世人の忘却する所となれり」
続江戸砂子 正しくは「続江戸砂子温故名跡志」。享保20年刊(1735)。江戸砂子の著者、菊岡沾涼による補遺。内容は五巻からなり、巻一は江戸の年中行事、巻二は江戸方角図・御役屋敷・高札場等、巻三は神社拾遺・名所古蹟拾遺として日本橋の南北辺・小日向・深川・渋谷・目黒・本所・亀戸など、巻四は浄土宗一八檀林と諸州宗役寺、巻五は名木。四季の遊覧場所なども紹介。
明治19年橋架明細表 石切橋では長さ8間半、巾3間、25.5坪、木造、明治7年12月架換。川名は江戸川。
長8間半、幅3間 長さ1547cm。幅546cm
幅員 ふくいん。道路・橋・船などの、はば
十町 1町は60間。メートル法換算で約109m。10町は約1090m
 みぞ。地を細長く掘って水を通す所。どぶ。下水。流し元の小溝
大町桂月 おおまちけいげつ。詩人、随筆家。東京大学国文学科卒業。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。また紀行文を多く書いた。生年は明治2年1月24日(1869.3.6)。没年は大正14年6月10日。57歳
水かさ みずかさ。水嵩。川・湖・池などの水の量。水量。
けぶり 煙。物が燃えるときに立ちのぼる、微粒子が混じた気体。けむり。
煙れり けぶる。煙る。煙が立ちのぼる。煙などでかすんで見える。

石切橋

首都高速5号線(写真)水道町 東五軒町 新小川町 昭和52年 ID 12205、12208、12215-16

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205、12208、12215-16は、昭和52年(1977)5月、首都高速道路5号線(池袋線)の飯田橋から江戸川橋までの写真です。
 5号線は1969年(昭和44年)6月27日、西神田出入口から護国寺出入口までを供用開始しました。飯田橋-江戸川橋間は新宿区と文京区の区境にあたり、神田川の中を通っています。
 さらにID 12205、12215-16は備考として「新小川町一丁目付近 隆慶橋」、ID 12208は「水道一丁目 新小川町三丁目」をあげています。昭和57年の住居表示実施に伴い、丁目を廃止し、新小川町だけとなりました。また「水道一丁目」は「文京区水道一丁目」が普通ですが、「文京区水道二丁目」「新宿区水道町」もありえます。

(1)新宿区水道町。西向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12205 首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋

 高速道路は右奥へと曲がっています。神田川のこの付近には、江戸期から「大曲おおまがり」と呼ばれた急カーブがありました。
 しかしこの写真は大曲ではありません。首都高の大曲付近の橋脚は、川を挟むように2本の足を持つ「門形」で、写真の1本足の「T型」とは違います。また左側に見える歩道橋も大曲と飯田橋交差点の間にはありません。
 該当する場所は目白通りの新宿区水道町から西向きに石切いしきりばし方向を撮影したものです。橋脚の形や歩道橋、首都高がふくらんだ「非常駐車帯」の位置、高速の下の道が(三角コーンで仕切られて)対面通行になっている様子なども合致します。

現在の新宿区水道町 Google

 なお、ID 12205の備考の説明は「新小川町一丁目付近 隆慶橋」ですが、「新宿区水道町 石切橋付近」としておきます。
 歩道橋の手前が石切橋交差点です。田口政典氏の「歩いて見ました東京の街」の1976年(昭和51)12月2日の写真06-09-54-2「下流から石切橋を」では古くて狭い石切橋が写っています。ID 12205でも、かろうじて確認できます。

 ID 12205の「安」「全」「+」の工事柵の向こうの小さな橋は、おそらく工事時の架設の橋でしょう。

(2)新宿区東五軒町。東向き。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12208 首都高速道路5号線 水道一丁目 新小川町三丁目

 東五軒町の北、目白通りを東向きに撮影しています。(1)のID 12205から飯田橋側に寄ったところで、位置としてはざくらばしのたもとです。
 首都高の柱の左側を神田川が流れます。川の小さななかはしも写っています。文京区側につながる斜めの橋が見えています。この橋は中ノ橋と白鳥橋しらとりばしの間にあり、「新白鳥橋」と命名されました。また「(TOP)PAN」(凸版印刷)の印刷工場は川の北側で、この場所は文京区水道一丁目にあたります。
 写真の正面奥、首都高が右に丸く膨らんでいるのが飯田橋料金所です。広がった部分を支える大きな門形の橋脚が分かります。料金所付近から右に「大曲」のカーブになります。写真右端の(共同石油)のガソリンスタンドから先は新小川町(昔の新小川町3丁目)です。
 また、地上を走る上り車線は正面の柵の奥、信号の場所で左右2本に分かれます。高速に出入り口を設置すると、どうしても道幅が狭くなってしまいます。そこで目白通りの一部を左の文京区側に通すことで交通渋滞を減らすことを狙いました。
 地上でまっすぐ奥につながる道は飯田橋に向かう目白通りの上り車線です。工事のため車が走っていません。
 以下の上り車線と下り車線はどちらも地上の車線です。

昭和54年 新白鳥橋付近(地理院地図 整理番号 CKT794 コース番号 C10 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14)に加筆。

整理番号 CKT794 コース番号 C10B 写真番号 12 撮影年月日1979/11/14(昭54

現在の目白通り

 この区間の目白通りの地下には、神田川の洪水対策のための「江戸川橋分水路」があります。この分水路は昭和52年に完成しました。写真は完成直前の様子を撮影したものでしょう。高速の柱の下には、地下に降りるオレンジ色の階段入り口があります。

神田川と目白通り地下(分水路・地下鉄)の断面図(東京都建設局市料)

 新小川町付近は大雨のたびに神田川の洪水が繰り返されてきましたが、分水路の完成によってリスクは小さくなりました。


(3)新小川町(かつての一丁目)付近。北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12215 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 新小川町の東側の目白通りから、首都高の飯田橋料金所の建設風景を撮影しています。首都高の下は神田川。正面が大曲の急カーブ。背中側に隆慶橋や飯田橋交差点があります。
 首都高では出入口を「ランプ(ramp、高低差のある場所を連結する傾斜路)」と呼びます。インターチェンジ(interchange、IC、複数の道路を相互に接続する施設)やジャンクション(junction、接合点、合流点)と違い、特定方向にしか行けないからです。写真の飯田橋ランプは、目白通りから首都高5号線の北池袋方面に進入するためだけの入り口です。
 冒頭に記したように、5号線のこの区間は1969年(昭和44年)6月に開業していますが、この写真を撮影した1977年(昭和52年)でも、まだ飯田橋ランブは建設中でした。
 もう1点、特徴的なのは、三角コーンを境に対面通行になり、車が手前向きに走っていることです。この状態では、北に向かう車がランプの坂を上れません。
 撮影当時、高速道路の真下はID 12208と同様に神田川の「江戸川橋分水路」を建設していました。このため下り車線を狭めて、対向車の通るスペースを確保したのでしょう。目白通りの整備は高速道路だけでなく、地下の分水路、その下の地下鉄有楽町線の建設を含めて、非常に長期にわたりました。
 この写真の撮影場所は後に大々的に区画整理され、平成28年に放射25号線が開通。「新隆慶橋」という新しい橋が架けられました。

 ID 12215の左には「国際航空輸(送)」(かつては新小川町一丁目5)の看板がありますが、今は何も残っていません。高速道路の向こうの「日本信販」の広告は文京区です。

(4)新小川町(一丁目)付近 北向き

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12216 工事中の首都高速道路5号線 新小川町一丁目付近 隆慶橋付近

 ID 12215とほぼ同じ場所で、道を渡った高速の真下から道沿いの建物を撮影したものです。
 建設中の坂道が、飯田橋料金所に上がる首都高のランプ。その手前の坂のように見えるのは目白通りの上り車線です。一番右にガードレールが見えます。
 この区間は神田川の「江戸川橋分水路」建設のため通行止めになっています。一番、奥に工事車両が見えます。その先は新白鳥橋に分岐する交差点があります。
 道路脇の建物は新小川町で、出光とロゴマーク()と看板「全軽和」、ナショナル(現、パナソニック)のロゴマーク()などが見えます。「全軽印」の看板のビルの左は東京電力新小川町変電所で、現在も変わりません。その左側の消火栓広告は「きもの英」です。

赤城神社(写真)神輿蔵 眺め ID 14133, 14159-60 昭和44年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。

(1)神輿蔵

あ 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133 赤城神社 神輿蔵

 神輿みこしぐらは下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左どもえ紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
 ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
 冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。

赤城神社 住宅地図 2000年

(2)赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14159 赤城神社からの眺め

 左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。

住宅地図 昭和42年

(3)赤城神社境内
 石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14160 赤城神社境内

 左から……

  1. 東宮殿下碑
  2. 北参道の鳥居と門柱
  3. しょうちゅう。大山巌碑。初代の陸軍大臣大山巌が揮毫
  4. 手前に裸電球のような境内灯。石の土台から長い旗竿。
  5. 赤城会館(結婚式場)
  6. 赤城神社の社殿(拝殿)
  7. 出世稲荷神社(摂社)の鳥居

1948年1月18日(昭23)赤城神社付近(地理院地図)

神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年、1971年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり

 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

 神楽坂通り(昭和46年)

神楽坂通り(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗

 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。



とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店

 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。


白十字 神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では
◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。
三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱UFJ銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。
 なお、写真の説明としては下の三菱銀行は正しいと言われました。加藤さんが書いていたものを再度引用すると「あと気になったのは「神楽坂の今昔1」で、毎日新聞掲載の三菱銀行の写真がありますが、これは現店舗の建て直し中の仮店舗です。現在の福太郎のある場所ですから、当時の記事は間違っていません」と『4丁目北側最東部の歴史』(https://kagurazaka.yamamogura.com/歴史2/)の欄外に書かれています。
 国会図書館の「住宅地図」には1970年と1773年の2つしかありません。わかりませんでした。もっといろいろ教えてください。ありがとうございました。

ライオネル・チャモレー日記|矢来町

文学と神楽坂

『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記①(1888年ー1900年)』(日本聖公会文書保管委員会編集。聖公会出版。2015年)が出版されています。ちなみに、現在は「聖公会」といいますが、昔は「英国教会」「英国国教会」「イングランド国教会」などと呼んでいました。その最初の本文ページは……

ライオネル・チャモレー日記 1888 (明治21)年

 1888 (明治21)年1月1日(日曜日)
 ガンジツ 正月。良く晴れた朝。7時。月が明るく輝き、富士がくっきりと聳えていた。9時、エドワード・ビカステス主教*と私は牛込*の礼拝に向った。出席者は20人ほど。主教が短い説教をした。
 街は年始回りに出てきた兵士、高官、山高帽の紳士たちで賑わっていた。どこでも子供たちが凧を揚げていた。
 我々は英語礼拝*には遅刻したが、説教には間に合った。ロイド師*が説教し、主教がローブを着けて司式した。
 日本標準時が採用されたので、今朝、時間を修正した。時計を20分遅らせた。

(注)
 ビカステス主教(Edward Bickersteth 1850-1897 東京地方南部伝道区主教)
 牛込(昇天教会)
 英語礼拝(英国人信徒の礼拝)
 ロイド(Arthur Lloyd 1852-1911 英宣教師)

ライオネル・チャモレー Lionel Berners Cholmondeleyです。
牛込 牛込とは昇天教会のこと

この牛込の昇天教会はいったい どこにあったのでしょうか。現在だと簡単で、新宿区矢来町65番地(右図)です。でも、明治や大正では、どこだったのでしょうか。

インターネットで調べると、「新刊紹介 牛込宣教120周年記念特別号『光の矢』 日本聖公会 東京教区 牛込聖公会聖バルナバ教会」という記事が見つかりました。

 1873(明治6)年、英国の宣教団体SPG(福音宣布協会)のショーとライトの二宣教師が日本の地を踏んだ。ライト師は明治8年、牛込区四谷①箪笥町22番地に仮会堂を組織し、平日は普通教育、夜は伝道活動の拠点とした。これが聖十字仮会堂で、1878(明治11)年②市ヶ谷本村町に移転して市ヶ谷会堂と呼ばれた。ライト師によって洗礼を受けた牛込区居住者が同区古川町に講義所を設けて、これが同区③水道町2番地の会堂となっていく。聖バルナバ教会の前身となる「牛込昇天教会」である。
 1878(明治11)年5月に献堂式を挙げている。翌年、市ヶ谷会堂が暴風によって倒壊し、この会衆が牛込昇天教会に合流して同教会は大いに興隆した。1897(明治30)年、昇天教会が老朽化したため、牛込④赤城坂下に新会堂を建築、6月12日に「捧堂式」を行い、同時に名称を「聖バルナバ教会」と改めた。
 1945年(昭和20)、教会は空襲による戦火をうけて消失、跡地に建てられた牧師宅で礼拝が行われた。
 52年(昭和27)、現在の新宿区⑤矢来町65番地の地に、木造平屋建ての仮聖堂が建設され、以後約40年間にわたり礼拝が捧げられた。
 1982年(昭和57)、教会の将来計画を検討する「バルナバ特別委員会」が東京教区に設置されて構想を練り、聖バルナバ教会の土地に日本聖公会センターと聖バルナバ教会を共に建設することとなった。90年(平成2)約6億円の予算で建築工事が始まって2年後の92年2月15日に日本聖公会センターの落成式が、3月1日に聖バルナバ教会の献堂式が相次いで行われた。
(広報主事・鈴木 一)

どうも水道町2番地が牛込昇天教会の場所のようです。下図では赤い四角。

牛込区四谷箪笥町 牛込区四谷箪笥町22番地はなく、牛込区箪笥町22番地の間違いでしょう。
同区古川町 古川町なので、牛込区にはなく、小石川区小日向東古川町か、小日向西古川町なのでしょう。右図で青枠の場所。現在は文京区関口一丁目。
同区水道町2番地 右図で赤い四角。
牛込赤城坂下 聖バルナバ教会の場所はよくわからないのですが、仮に赤城下町とすると④です