加能作次郎|作家

文学と神楽坂

加能作次郎2 加能(かのう)作次郎(さくじろう)は1885年(明治18年)生まれ。 日本の小説家、評論家、翻訳家。石川県志賀町出身。
 早稲田大学文学部英文科を卒業した後、博文館に入社し、『文章世界』の主筆として翻訳や文芸時評を発表。1918年(大正7年)に私小説「世の中へ」で認められ、著作家として活躍。1940年(昭和15年)、「乳の匂ひ」を発表。1941年(昭和16年)、クループ性急性肺炎のために享年満56歳で死去。
 なんと言っても、氏の『早稲田神楽坂』で一部の人には有名です。一部の人というのは神楽坂や早稲田を色々読んでいる人のこと。『早稲田神楽坂』は、1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」の一部で、作者の年齢は42歳でした。

神楽坂矢来の辺り|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄氏が書く『学生物語』(1953年)で「神楽坂矢来の辺り」の一部です。これは(1)になります。
 氏は小説家で、生年は明治32年12月25日。没年は昭和58年3月31日。早大卒。志賀直哉に師事。昭和12年、「暢気眼鏡」で芥川賞。戦後は「虫のいろいろ」「まぼろしの記」など心境小説を発表。昭和50年、自伝的文壇史「あの日この日」で野間文芸賞受賞を受賞しました。

神楽坂矢来の辺り 学校の近くに下宿してゐた。早稲田界隈から最も手近な遊び場所と云へば、どうしても神楽坂である。そこには、寄席も活動小屋も飲み屋もカフェーも喫茶店も洋食屋もあった。牛込郵便局(当時の)あたりから肴町をつっ切り、見附に逹する繁華な遊歩街には、両側に鈴蘭燈がつき、夜店も出た。両側の商店も名の通った家が多かった。
 神楽坂が最も繁華を誇ったのは、例の関東大震災のあとだったらう。(略)
 十二年の九月一日に大震災である。(略)
 牛込区は大体無事だった。神楽坂にも被害は無かった。丸焼けの銀座方面から神楽坂へ進出する店があり、また客も神楽坂へ移ったやうであった。
牛込郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」となっています。右の「大正11年の東京市牛込区」の郵便局の記号は丸印の中に〒で、通寺町30番地でした。現在は神楽坂6-30で、会社「音楽の友社」がはいっています。

大正11年 東京市牛込区

大正11年 東京市牛込区

肴町 さかなまち。現在は神楽坂5丁目です。
見附 牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。これが原義ですが、しかし、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、神楽坂通りと外堀通りが交差する所を「牛込見附」と言ったりするのも正しいようで、ここでは交差点の「牛込見附」でしょうか。
鈴蘭燈 すずらんとう。鈴蘭はユリ科の高原の草地に生える多年草。高さ約30センチの花茎を出し、五、六月ごろ鐘形の白花を十数個下垂します。鈴蘭燈は鈴蘭の花をかたどった装飾電灯。左は昭和30年代の神楽坂の写真の1部ですが、こんな具合に見えたわけです。
鈴蘭燈

 それは、――私がこの神楽坂プランタンに出入りしてゐた時分、或る夜のこと、寺町通りを坂の方へ元気よく歩いてゆくと、向うから、背の高い長髪の人物が、手下を四五人引き連れて悠々とやって来るのを見つけたのである。――ははん、広津和郎だな、と思った。雑誌の口絵写真で見知ってゐるし、それに、学校へ講演で来たこともあったから、その時見覚えたに違ひないが、確かに広津氏である。は、すれ違ひざまに凝っと見て、それを確かめた。
 二三間行過ぎてから、心を決めて取って返し、
「失礼ですが、広津さんですか」
 さう声をかけた。
 長身の広津氏は、うん? といふふうにこっちの顔を見下して、立止まり、
「広津ですが――」お前は? といふ顔をした。その時私は、学生服に、学帽をつけてゐた。すでにどこかで少し飲んでゐたが、当時の私は二本や三本飲んでも、全然外見に変りはなかったから、広津氏の目には、普通の(大体真面目な)早稲田の学生とうつっただらう。
「私は、早稲田の文科の者で、尾崎と云ひます。実は、ちょっとお話をうかがひたいことがあるのですが――志賀さんについて」
「あ、さう、志賀さんのこと……」
 広津氏は、目をぎょろりとさせ、ちょっと考へるふうだったが、連れの人たちに向って、
「ぢやあ、先に行ってゐてくれたまへ、僕ちょっと――」
 四五人の、いづれも髮の長い連中が、うなづき合って歩き出した。広津氏は、来た方ヘ大跨に戻ってゆくので、私も大跨について歩いた。どこへ行くのかな、と思ってゐると、肴町の電車道をつっきると間もなく右手に折れて、神楽館といふ下宿へ入っていった。二階だったか階下だったか忘れたが、六畳位の部屋に通された。そこには、二十いくつといふ女の人がゐだ。夫人だなと思った。
寺町通りを… 神楽坂6丁目を交差点「神楽坂上」に向かって
 尾崎一雄です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。ここでは大久保通りのこと。
神楽館 昭和12年の地図の『火災保険特殊地図』ではっきりわかります。神楽坂2丁目21でした。細かくは神楽館で。

「早稲田の尾崎君」
 広津氏が云ふと、夫人はお叩頭をした。私もイガグリ頭を深く下げた。
 広津氏は、こまかい紺絣着流しで、きちんと坐ってゐた。私も制服の膝を正しく折ってゐた。
「あの、『志賀直哉論』といふのをお書きになりましたが……」と云って、ちよっとつまった。
「ええ、書きましたが――」
 大きな目をして、凝っとこっちを見てゐる。で、それが? とうながされる思ひで、私はうろたへて、
「あれを拝見したのですか、あれは、――良いと思ひました」
「あ、さう」
 この時、夫人が茶をすすめた。しかし、私はそれに手を出してゐる余裕がなかった。あれも云はう、これも云ひたい、と頭の中はいっぱいなのだが――いや、いっぱいな筈なのだが、まるでこんぐらかってしまって、焦れば焦るほど、言葉が見つからなくなった。私は、確かに寒い時だったにかかはらず、汗をじとじと感じた。
 広津氏が、言葉少なに何か云ったが、それがどういふことだったか覚えてゐない。私自身の云ったことも覚えてゐない。志賀さんの小説か大好きで、全部熟読してゐるし、志賀さんに関する批評も落ちなく読んでゐる――といふやうなことを、どもりどもり云ったぐらゐのところであらう。
 とにかく、広津氏を呼び留めた時の元気は更に無く、私は逃げ出すやうにいとまを告げたのである。
イガグリ頭 いがぐり(毬栗)とは、いがに包まれた栗。イガグリ頭は髪を短く、丸刈りにした頭。
イガグリ頭紺絣 こんがすり。紺地に絣(かすり)を白く染め抜いた文様。その織物や染め物。かすりは文様の輪郭部がかすれて見えるから
11_kasuri_image01
 「お対」とも。「つい」とは長着と羽織りを同じ布地で仕立てたもの。
着流し 男性の羽織、袴をつけない略式のきもの姿のこと。きものだけの楽な姿のこと。

 この一件は、思ひ出すたびに冷汗の種で、すでに三十年近い昔のことながら、実は私は誰にも話さなかった。先日、ある雑誌の記者にふと話して一と笑ひしたら、何となく気が済んだ思ひがした。勿論広津氏にも話さない。もっとも広津氏は当事者の一人、と云ふより被害者なのだから、(おぼ)えて居られるとすれば改めて苦笑されるかも知れない。しかし、公平に見て、広津氏としては、左ほどの大被毒ではないし、もともとさっぱりした人だから忘れて居られるかも知れない。だが、私は忘れることが出来なかった。広津氏には、再々お逢ひしてゐるくせに、私はどうもこの昔話を持ち出す気がしなかったのである。
 広津氏が、仮りにあの件を覚えてゐるとしても、あの無邪気な文科生が、この私だったとは思って居られぬだらう。私は、そんなことがあってから少くとも二年位経って、初めての同人雑誌を持ったのである。――茫々三十年。私も純真なる文学青年であった。
茫々 ぼうぼう。広々としてはるかな様子

初めて見た広津さん|尾崎一雄

文学と神楽坂

『群像』の「初めて見た広津さん」(68年12月号)で、実に15年後になりますが、続きを書いています。したがって(2)です。

 私としては志賀直哉の理解者たる広津和郎を相手に、思いきり志賀直哉について語りたかったのである。私には云いたいことがいっぱいあった。云いたいことか山ほどありながら、それを書いて発表する場をもたぬやるせなさを広津さんにぶちまけたかった。その意気込にかり立てられて、往来で未知の大先輩を呼び留めるという非礼を演じながら、いざというと舌が萎縮して何も云えなくなったのだ。
 私はそれから当分の間憂うつだった。多分ヤケ酒ばかり飲んだだろう。

 そんなことがあってから十何年のちには、広津さんともときどき会合などでお逢いするようになった。志賀先生のお宅で一緒になることもあった。それでも私は、文学青年時代にああいうことがあった、ということには絶対に触れないでいた。広津さんの方では疾うに忘れて居られるだろうが、こっちとしては、いつまで経ってもあの時の恥かしさが振り切れないのだ。
意気込 意気込み。いきごみ。さあやろうと勢いこんだ気持ち
往来 おうらい。人や乗り物が行き来する場所。道路。
疾うに とうに。ずっと前に。とっくに

 今から何年前になるか。どうも松川事件の裁判がうまくいったときだったように思うが、広津さんを囲んでお祝いの小集会があった折、私は初めてこのことをテープル・スピーチの形でしゃべった。その時記念品としてどこかから広津さんにテープ・レコーダーが贈られて、何人かの参会者のテーブル・スピーチが録音されたが、私の告白もそれに入っている。
 広津さんはやっぱり全然忘れて居られた。しかし私としては、広津さんの前でしゃべってしまったので、長年の重荷をおろしたような気持になった。

 初めてお逢いしたあの時の広津さんは、三十をいくらも出ていない年頃だったろうか。長身で、久留米絣がよく似合って、色白の顔に大きな目――あれで凝っと見つめられたときは手も足も出ない感じだった。大きな、澄んだ目だった。この人をつかまえて、自分は何を云う気だったのだろうか――私はほんとに恥かしかった。

 神楽館でお逢いした婦人は、はま夫人ではなかったように思う。筑摩書房版「現代文学大系『菊池寛・広津和郎集』」の年譜によると、大正十一年には「秘密」とか「ひとりの部屋」とか「隠れ家」とかいう作品が書かれている。次の十二年の項に「この年、松沢はまを知る」と記されている。彼れこれ思い合せると、私が神楽館に推参したのは、大正十一年のことかも知れない。だとすると広津さんは三十一歳である。
松川事件 1949年(昭和24)8月17日午前3時9分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。広津和郎は1953年秋、『中央公論』に「真実は訴える」、1954年春、「松川第二審判決批判」を発表、無罪を勝ち取るべく世論をリードしました。1963年9月12日、最高裁は検察側上告を棄却し、無罪が確定。
久留米絣 久留米地方で作られる木綿の紺絣
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
はま夫人 広津氏の内縁の妻。
彼れこれ かれこれ。いろいろな物事を漠然とまとめて示す意。あれやこれや。何やかや
推参 すいさん。自分の方から相手のところに押しかけて行くこと、または、人を訪問することを謙遜していう言葉

袋町の櫻

文学と神楽坂

CCF20140518_0000000.0 『牛込華街読本』(昭和12年)の最初の半分は芸者の心構えが書いてあります。後半は歴史やいわれが書いてあります。この「袋町の桜」は後半の一部で、全く聞いたこともない言葉や熟語がでてきます。でも、辞書を片手に読むと、袋町はなかなか綺麗だったとわかってきました。

 遠藤但馬守の館には桜が何十本も植えられて、築山、亭、茶園などを配する庭園があったのでした。現在は普通の家ばかりが並んでいますが、明治時代では、矢来町の酒井家の下屋敷と比べると、遠藤但馬守の下屋敷のほうが遥かによかったのではと思ってしまいます。

 実はこれより早く『新撰東京名所図会第42編』に同じ項が書いてありました。でも『牛込華街読本』を引用します。

袋町二十五番地は遠藤但馬守江州三上の藩主一萬三千石)の下屋敷の跡ですが、其地續き及び二十六番地の(ほとり)は光照寺の境内地と幕士宅址でした。明治以後、いたく荒れ果てゝ、人の顧みるものも無かつたのを、牧野(はたす)(故陸軍少將)が此一廓を買取り、修理して庭園といたしました。そして吉野の種を(ここ)に移して、櫻雲搖曳、盆地あり、假山(つきやま)あり、山上に(てい)ありといふ具合に風雅なものにいたしまして、北の方光照寺の墓地に接して()(ゑん)を作り、自ら娯んでゐられたのみか、但馬守の(ふるい)(やしき)に住んでゐられました。開花の候ともなりますと、林泉遊覧を一般に開放して、亭に、(みぎは)に、花を賞して逍遙自在だったといふことです。だか平時(ふだん)は園門を堅く鎖してありました。

遠藤但馬守 遠藤但馬守の敷地は青い場所です。邸宅は左下の赤で指した場所なのでしょう。

明治18-20年

明治18-20年

三上 三上藩。みかみはん。琵琶湖の南東部、滋賀県野洲市を領有した藩。
下屋敷 しもやしき。したやしき。郊外などに構えた控えの大名屋敷の別邸
地續き 地続き。じつづき。土地と土地とが、海や川で隔てられることなく続いていること。
幕士 幕府の武士の意味でしょう。
宅址 たくあと。住居の跡。建造物には「址」も使います。
江州 ごうしゅう。近江国(おうみのくに) と同じ。現在の滋賀県。
顧みる 心にとどめ考える。気にかける
一廓 いっかく。あるひと続きの地域
吉野 奈良県中部、吉野郡の地名。桜の名所。よしのざくらは、吉野桜で、吉野山に咲くヤマザクラやソメイヨシノの別名。ソメイヨシノの名前は江戸末期に染井(ソメイ)の植木屋が広めた吉野桜から
 ここ。現在の時点・場所を示す語。この時・この場所で。
櫻雲 桜雲。おううん。桜の花が一面に咲きつづいて、遠方からは白雲のように見えること。花の雲
搖曳 揺曳。ようえい。ゆらゆらとたなびくこと
假山 築山(つきやま)と同じ。人工的に作った山
 屋根だけで壁のない休息所。休憩したり、雨や日光を避けて涼んだり、景色や季節の移ろいを眺めたりする。東屋

尖亭

茶園 茶を栽培している畑。茶畑。 茶を売る店。茶舗。
makinoharadaityoenn娯んで 楽しい、愉しい、娯しい、たのしい。
林泉 りんせん。林や泉水を配して造った庭園
遊覧 ゆうらん。あちこち見物してまわること。
 みぎわ。海・湖などの水と、陸地と接している所。みずぎわ。なぎさ
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩
自在 自分の思うとおりにできること

明治二十年頃、始めて神樂町三丁目から中町に通する邸内を横貫する新道を開きましたので、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家が立て込みましたので、漸く其風致を損ひましたが、牧野氏が引拂つた後は子爵土井家(越前大野の藩主四萬石)この地所を購入され、叉但馬守の邸址に(やかた)を作られました。
 その頃土井家の後園、新道の邊及び近傍に散在した櫻の樹はみな牧野將軍の遺愛の名花で、殊に若宮町に面する土井家の石垣と黒板塀に添って列植せられてあつたものなどは、其數七八十本にも及び、連梢吉野のを呈して、春の眺めは一入だったとのことです。

新道 ここでしょう。

明治28年

明治28年の地図

開鑿 開削。かいさく。土地を切り開いて道路を作ること。明治28年には新道ができました。
伐去 伐。ばつ。きる。うつ。刃物で木などをきる。 去。きょ。さる。その場から離れていく。「うちさられ」と読むものでしょうか。
風致 ふうち。おもむき。あじわい。特に自然のおもむき。風趣
 旧。きゅう。古いこと
越前 ほぼ福井県中・北部に相当します
後園 こうえん。家のうしろにある庭園や畑
列植 れっしょく。植物を並べて植えること
連梢 連。れん。つれ、仲間、連中。 梢。しょう。こずえ。木の先端。これで「れんしょう」になるのでしょうか。こずえが何本も植わっていること
 えん。色あざやかな、あでやかな
一入 ひとしお。いっそう。ひときわ

かくてありけり①|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の「かくてありけり」で、神楽坂の土蔵づくりと絵はがきについて書いてあります。

 昭和四十五年三月発行の「新宿区立図書館資料室紀要」に、『古老の記憶による震災前の形』という副題をもつ、七十センチ近くもある横長な『神楽坂通りの図』というものが附載(ふさい)されている。大通りに面した商店はむろんのこと、裏通りに至るまで明細に詮索(せんさく)されている手書きの地図を恐らく縮写印刷したもので、それをみているとひとたびうしなわれた記憶が私のなかにもゆっくりよみがえってくるのだが、牛込見附のほうからいえば坂上の右側にあったパン屋の木村屋、毘沙門前の尾沢薬局や、それより先の相馬屋紙店などとともに黒い漆喰(しっくい)土蔵づくりであった。そのパン屋とせまい路地を一つへだてた先隣りが太白飴の宮城屋、それから筆屋、三味線屋で、その先が絵はがき屋であった。
 絵はがき屋も太白飴などとともに消え去った商売の一つで、今では私が知るかぎり浅草のマルベル堂などが都内唯一の生き残り専門店かとおもわれるが、時代のスターも幾度か交替して、芸者から映画俳優、そして歌手という経過をたどったとみて誤まりあるまい。新橋、柳橋、赤坂などの芸者が一世(いっせい)風靡(ふうび)した時代があって、ブロマイドになる以前の絵はがきが飛ぶように売れた。私の姉などは、それにあこがれた最後の世代に相当するのではなかろうか。

『神楽坂通りの図』 コピーはここでも手に入ることができます。
附載 本文に付け加えて掲載すること
詮索 細かい点まで調べ求めること
木村屋 酒種あんぱんなどパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。
尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています

相馬屋 創業は万治2年(1659年)。雑誌『ここは牛込、神楽坂』で相馬屋の主人、長妻靖和氏は「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買い物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」と話しています。
漆喰 しっくい。消石灰に繊維質(麻糸等)、膠着(こうちゃく)剤(フノリ、ツノマタなど)、時に砂や粘土も加えて水で練ったもの。壁の上塗りや石・煉瓦(れんが)の接合に使います。

昭和初期の神楽坂(「牛込区史」昭和5年) 全て土蔵づくり

土蔵づくり 土蔵のように家の四面を土や漆喰で塗った構造や家屋。江戸時代には江戸や大坂で町屋を土蔵造にすることが奨励されて、特に明暦の大火後には御触書( おふれがき)まで出ています。なお、外壁を大壁とし土や漆喰を厚く塗って耐火構造にした倉庫が土蔵。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖(太白砂糖)を練り固めて作ったあめ
筆屋 魁雲堂でした。
絵はがき 裏面に写真や絵などのある葉書。1870年ごろ、ドイツで創案し、日本への渡来は明治20年代。
一世 その時代。当代
風靡 風が草木をなびかせるように、広い範囲にわたってなびき従わせること。また、なびき従うこと 「一世を風靡する」とは、ある時代に大変広く知られて流行する。
最後の世代 野口冨士男氏は1911年生まれです。姉は2歳上。中学校にはいるのは氏が12歳で、大正12年(1923年)。おそらくこの最後の世代は大正10年ぐらいに思春期になった世代でしょうか。

4丁目南東部の歴史|神楽坂通り

文学と神楽坂

 神楽坂通りに面した紅小路と本多横丁との間の場所です。楽山茶舗があるのが一番有名でしょう。大正の終わりから、昭和、平成までこの場所を調べてみました。

 まず大正12年の関東大震災の以前の図を見ます。昭和45年新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。

楽山、本多横丁、紅小路

 ここでは「玩具橋本」「山本コーヒー」「竹川」「靴」が書いてあります。「竹川」「靴」は、昭和5年になると「竹川靴店」と書いていますから、これはおそらく一語だと思います。「山本コーヒー」には本多横丁と神楽坂通りの2店があり、中でつながっていたようです。メイセン屋(メイセン屋はおそらく銘仙屋?)は紅小路の左に書いてあります。なお、地元の方の情報を加えてメイセン屋もここに含有されると考えます。

 次は『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」にあった図ですが、原図ではなく、やはり地元の方の情報を加えて一部変更した図です。

『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)「神楽坂と縁日市」

 昭和5年頃の図は左に、平成8年の図は右です。メイセン屋は楽山茶輔と同じ位置にあり、紅小路通りの右にあったようです。どちらがいいのか? 神楽坂の住人によれば「昭和3年生まれの父によると、新宿区の『古老の記憶』が間違い」(通信欄)といいます。なるほど。また、同じ住民から、魚国鮮魚店は表通り側に、牛込花壇は裏道側にあるといいました。上図が正しいと推定させるものです。

 さて次は「火災保険特殊地図」で昭和12年版と昭和27年版の2つです。左の昭和12年版は「コーヒー」だけが見えます。一方、右の昭和27年版は「神楽坂郵便局」「空白」「みさこのみや」「近江やハキモノ」が見えます。

4丁目

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)でこんな写真がでています。

大東京写真案内

 もう1つ、昭和60年に神楽坂青年会がつくった「神楽坂まっぷ」です。

L

神楽坂まっぷ

 平成15年の神楽坂通り商店会の「神楽坂マップ」です。

平成15年

 さらに『神楽坂まちの手帖』第12号の「昭和三十年代とその周辺」から昭和35年の地図をもらいました。また昭和35年以上は国立図書館の地図をまとめています。以上、まとめると

坂上/西北の店舗① 店舗② 店舗③ 坂下/東南の店舗④
大震災前 メイセンヤ 玩具 橋本 山本コーヒー 竹川 靴
昭和5年 メイセンヤ 橋本オモチャ 山本喫茶店 竹川靴店
昭和12年 (建物) (建物) コーヒー (建物)
昭和27年 神楽坂郵便局 (空白) みさこのみや 近江や ハキモノ
昭和35年 神楽坂郵便局 仕出し 魚藤 近江屋
昭和35年頃 神楽坂郵便局 フランス菓子スゴオ 鮮魚 魚三 履物近江屋
昭和45年 (空白) スゴオ菓子店 魚三 近江屋ハキモノ
昭和51年 大佐和商店 スゴオ菓子店 魚三 近江屋
昭和55年 神楽坂楽山 栄和ビル コーヒースゴオ 魚三 近江屋ハキモノ
昭和60年 銘茶楽山 3F ラサール美容室
5F 栄和歯科
魚さん 近江屋ハキモノ
平成2年 神楽坂銘茶楽山 中坪ビル 魚さん 近江屋
平成8年 楽山茶舗 ゲームセンター 魚さん料理 近江屋履物
平成28年 楽山(①+②) うおさん 4丁目近江屋ビル
AGARIS、Poisson、野菜食堂サクラサク、つみき、神楽坂イカセンター 8.va 五十番。蓮、やまあい
La cuchara, 九蔵
楽山

楽山

楽山
『まちの手帖第11号』には楽山のこれまでの歴史があります。昭和34年に牛込北町の中央通りに店を開き、昭和43年に現在の場所に変わりました。『まちの手帖第11号』ではこんなことを書いてあります。

昭和39年のお茶審査競技会で5種5煎というきき茶部門で優勝。「その後何度も入賞したから、トロフィーや賞状がトラックいっぱいになったよ(笑)」

山本コーヒー
 「ここは牛込、神楽坂」第5号のイラスト「戦前の本多横丁」では

(本多横丁のコーヒー店は)表通り(神楽坂通り)のコーヒー店と裏でつながっていて、ここで名物のドーナツを作っていた。サトウハチローさんがここのドーナツのファンだった。

 サトウハチロー氏も『僕の東京地図』で書いていますが、ここは別紙に。

かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

山本コーヒー(喫茶店)
楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった。

 河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである
うおさん

昔の山本コーヒー店、現在のうおさん

 

山本コーヒー|神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 山本珈琲です。現在は「魚さん」。下の図では楽山ビルの隣りで、赤い四角で囲ってあります。また、「たつみや」はドーナツをつくる場所でした。地図の場所はここ

山本コーヒー

うおさん

 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』で「山本コーヒー」が出てきます。

中学へ行くようになっては、何と言っても山本のわずかしか穴のあいてないドーナツに一番心をひかれた。十銭あると山本へ行った。山本は川崎第百の前だ。いまでもある。五銭のコーヒーを飲み、五銭のドーナツを食べた。ドーナツは陽やけのしたサンチョパンザのようにこんがりとふくれていた。コカコラをはじめて飲んだのもこゝだ。ジンジャエールをはじめて飲んで、あゝあつらえなければよかツたと後悔したのもこゝだ。この間、まだあるかと思って、ドーナツを買いに這人ったら、店内の模様は昔と一寸変わったが、陽やけのしたサンチョパンザことドーナツ氏は昔と同じ顔だ。皿に乗って、僕の目の前にあらわれた、なつかしかった。

中学へ サトウハチロー氏は大正5年に早稲田中学に入りました。したがってこの話は関東大震災が起きた大正12年よりも昔です。
川崎第百 川崎第百銀行のことでした。それから、左の蕎麦「春月」を飲み込んで大きくなり、最終的には「三菱UFJ銀行」となりました。したがって「山本は川崎第百の前だ」は「魚さんは三菱UFJの前だ」になります。
いま この文章は昭和11年に書かれています。昭和12年に「火災保険特殊地図」に書いてあった「コーヒー」もこの「山本コーヒー」だったのでしょう。
サンチョパンザ 正しくはサンチョ・パンサ。スペインのセルバンテス(1547-1616)の小説「ドン・キホーテ」に登場する現実主義の従者。
コカコラ コカ・コーラ。ノンアルコールの炭酸飲料で、1886年米国ジョージア州アトランタで生産が開始しました。第2次世界大戦中、米軍とともに世界中に広まっていきましたが、日本には大正時代から出回っていました
ジンジャエール ノンアルコールの炭酸飲料で、ショウガ(ジンジャー)などの香りと味をつけ、カラメルで着色したもの。
あつらう あつらえるの文語形。注文して作らせること。

 博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年、再版は1990年)では

大東京写真案内。神楽坂。牛込見付から肴町に到る坂路さかみちが神樂坂、今や山手銀座の稱を新宿に奪はれたとは云ふものゝ、夜の神樂坂は、依然露天と學生とサラリーマンと、神樂坂藝妓の艶姿に賑々しい。

 右手で「うなぎの御飯」や「コーヒー」を売る店舗がありますが、見ると、小さく「山本」と書いています。この写真についてほかの情報はここに。

 河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』 第3号「肴町界隈のこと」について

三菱銀行前の『山本コーヒー店』のふっくらと厚みのあるドーナツのこげ茶色。すべてが懐かしく郷愁をさそうのである。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)は

喫茶山本――春月(しゅんげつ)の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です

 『ここは牛込、神楽坂』第5号(平成7年)「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では

●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。
うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳

 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。
 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。
 戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。
 ジョン・レノン?ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。

林原耕三|神楽坂今昔

文学と神楽坂

林原耕三

 林原(はやしばら)耕三(こうぞう)氏は自称最後の漱石門下生で、生年は1887年12月6日。没年は1975年4月23日。英文学者で俳人。1918年、東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介氏たちを漱石に紹介し、その後、法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授になりました。
 なかでも東京理科大学の教授歴が長く、その結果、非常に神楽坂のことについては詳しい…はずです。しかし、昭和48年(85歳)に書いた『神楽坂今昔』では、ここかしこに、かなり記録の抜け落ちや嘘が出てきているようです。これは終わりに近い部分です。正しい点もたくさんあるのですが、うっかり抜けた内容がやっぱり出てきます。

 同じ側の矢来町には森田のおたまさんが住んでおり、彼女が三田へ移った跡は素木しづ子君が住んでゐたから、私には随分思ひ出が豊富である。森田草平氏の家も少し先の反対側の路地の奥にあって、思ひ出は一層深まる。最初の夫人お稲さん藤間勘衛門の高弟で、家中(かちゆう)踊舞台があり、そのお弟子が沢山あった。おたまさんもその一人だが、東大国文科に在学中のロシア人エリセイフ君も熱心で、筋がよかったやうだ。その頃、踊りに来たのではないが、少女時代の水谷八重子の「やっちゃん」がよく遊びに来た。それから文学の方で「まあちゃん」(本名豊田正子――今、ゲラに臨んで思ひ出した)といふ少女のお弟子が出入して、その処女作「綴方教室」といふ本が好評嘖々で、未来を大に嘱望されたが、不幸な結婚をして、その後筆を絶って、慧星の如く消えてしまった。
 私は、森田さんが忙しいので、頼まれておしづさんと長男の亮一君に英語を教へた。後におしづさんの自宅へ通はされた。そして、言はれるまゝに、洗濯物を持って行って、(おしづさんは隻脚なので)洗ふのはお毋アさん、縫ふのはおしづさんがしてくれた。森田家では文士の誰彼とも顔を合せ、後年深く交はった佐藤春夫君と相知ったのもこの家であった。森田さんが岩波版第一回漱石全集の校正主任の頃もあの家だから、勢ひ、その方の用件でも屢々訪問した。(略)
 私が大正十四年に都落ちして、昭和五年に東京へ舞ひ戻る五年間以外は生活の舞台はこゝにあったやうなものである。

三田 矢来町から三田にいった時間はわかりませんでした。森田たま氏の年譜はすかすかで、特に20代前半になるとまったくわかりません。森田たま氏も素木氏も矢来町から南榎町にいったことはわかっています。本当は南榎町ではないのでしょうか。たぶんこれも抜け落ちた内容でした。
路地の奥 『漱石全集』と『神楽坂界隈の変遷』によれば、森田草平氏は明治43年12月から大正9年1月にかけて牛込区矢来町62番地に住んでいました。下図では赤い場所です。
お稲さん 草平の妻。踊りの師匠としての名前は藤間勘次(女性です)。ただし草平とっては最初の夫人ではありません。
藤間勘衛門 正しくは藤間勘右衛門(ふじま かんえもん)。生年は天保11.2.12。没年は1925(大正14年)1.23。藤間流勘右衛門の家元。
踊舞台 おどりぶたい。踊りをする舞台
嘖々 さくさく。人々が口々に言いはやすさま。例は「好評嘖々」「評判嘖々たりし当代の佳人」など
森田 これは森田草平氏のほう
亮一 森田草平氏の長男
隻脚 せっきゃく。片足がなくなること。結核のためでした

『素木しづ作品集』によると……

「大正四、五の読売の『よみうり抄』と時事の『文芸消息』の記事から清貢・しづ関係の項を列挙する。(略)
<上野山清貢氏 牛込矢来町一番地二二号へ転居せり。>(『読売新聞』大正5・5・5)
<素木しづ子 上野山清貢氏と共に牛込区南榎町一五に転居した。>(『読売新聞』大正5・6・10)

 これから素木しづは矢来町1番地22号にいたとわかりました。しかし、1番地は巨大で、その22号はどこなのか、現在探すものはなく、全くわかりません。できれば緑の場所ならいいのですが、残念ながら、不明です。なお、赤い場所は森田草平氏が住んでいた場所です。大正11年矢来町

文学と神楽坂

福島安正|矢来町

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた単騎でシベリアを横断した福島安正中佐が住んだ場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 これは泉鏡花さんに抱かれたよりも前のことと思うが、福島中佐がシベリヤ横断から帰って来て、馬に乗って自宅の門に入って行くところを、私は女中の背におぶわれて見たという記憶がある。
 福島安正中佐と云っても、今の多くの読者には知られていないことと思うが、日清戦争前に、シベリヤを馬に乗って単騎横断したというので、当時いわゆる「勇名」を天下に馳せた人であった。後には大将になった。
 矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。その後数年経って、私は中佐の息子たちと知合になって、よく屋敷に遊びに行ったが、あの頃は陸軍中佐があんな家に住むことができたのかと、今考えると不思議なほど、立派な広い屋敷であった。
 門の両側が堤になり、門は往来から少し引っ込んでいたが、その門前に近所の人々が人々を作っている前を、馬に乗った中佐が、軽く挙手の礼で人々の歓呼にこたえながら、しずかに門の内に入って行った光景を私は思えている…

福島中佐 福島安正。ふくしま やすまさ。生年は1852年10月27日(嘉永5年9月15日)。没年は1919年(大正8年)2月19日。陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
単騎横断 ただひとり馬に乗って横断すること。福島安正氏は1892年(明治25年)にシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、外蒙古、イルクーツク、東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査しています。この旅行が「シベリア単騎横断」と呼ばれています。
広い屋敷 豊田穣氏の『情報将校の先駆福島安正-ユーラシア大陸単騎横断』(1993年)では「明治九年、安正が石黒と同行して、アメリカから帰国して、安正が月四円の家賃の家に住んでいると聞くと、石黒は(安正が)神楽坂にある陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしてくれた」と書いてあります。ですから、この安正氏の家は軍医寮の1つで、たぶん広い屋敷だったのでしょう。なお、石黒忠悳(ただのり)は安正氏より七歳年上で、西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師になり、その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員になりました。
挙手の礼 右手を開いて指をそろえ、帽子のひさしの右端にあげて、相手に注目する敬礼。

福島中佐

新宿区地域文化部文化国際課『新宿文化絵図』(新宿区、2007年)

「矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。」を考えてみます。

 まず、広津和郎氏の家はこの濃青の四角の一部か全部です。「曲って」は、橙色の矢印を通って行き、「だらだら」は灰青色で書きました。

 なお、消防署が淡水色の場所にはありました。したがって、たぶん赤で書いた場所の1つが福島中佐の屋敷でしょう。

 また、明治37(1904)年の「新撰東京名所図会」によれば、福島中佐の住所は矢来町3丁目3の「中の丸24号」でした。

 以上おしまい……ではありません。福島中佐の屋敷を描いた地図が出てきました。これは地図資料編纂会編『地籍台帳・地籍地図』(東京市区調査会大正元年刊の複製、柏書房)です。これによれば、福島中佐の屋敷は矢来町8丁目で、その場所もはっきりと赤く書いてあります。なお、今までのここで推論したものは青色で書いてあります。矢来町1

 しかし、明治37年の「中の丸24号」は矢来町3丁目3にある(あざ)です。明治25年に単騎横断を行った時の住所は矢来町3丁目3(あざ)中の丸24号でした。矢来町8丁目ではありません。大正元年には福島中佐の住宅は矢来町8丁目に移りました。結局、広津和郎が覚えていることは正しかったと思います。以上これで本当に終わりです。

魁雲堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 久保たかし(大久保孝)氏は神楽坂のことを書き、平成2年から新宿区の図書館に自費出版の書籍を数冊寄付しています。過去のことを探すにはこれらの本は結構面白く、たとえばお店については、あっ、わかるね、となりますが、しかし、それでもわからない場面もあります。

 たとえば、この魁雲堂。昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ても、魁雲堂はでてきません。氏の『坂・神楽坂』(平成2年、1990年)では

 さて、木村屋の左に亀さんの家、「魁雲堂」があった。亀さんこと川村君は弱々しい子供だから皆でいたわった。オカッパの可愛いい子だから誰からも好かれた。それが今やフランス文学の大家で、酒は呑む、豪快な男に変身し、あれが亀さんかと云われてもビックリするような成長ぶり、あれは亀ではなく、(さか)(かめ)と云った方が良い。
 このお宅は古い木造の2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書いてあり、墨、筆、すずりの商いをしていた。亀さんの兄さんは私の兄と小学校同級生。
 この家の裏が待合で、亀さんは夜になるとはなやかな芸者の姿を見、踊りをながめ、唄を子守唄として育ったせいか、シャンソンが得意である。

川村 川村克己。かわむらかつみ。1922年 – 2007年。フランス文学者、立教大学名誉教授。東京神楽坂生まれ。1945年東京帝国大学仏文科卒、立教大学教授、88年定年、名誉教授。

 川村教授も東大出身でした。神楽坂には意外と東大出身の人が多いのです。特に色恋の町では多いなあと思っています。この川村氏が書いた文章もあります。雑誌『ここは牛込、神楽坂』第4号で

 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
魁雲堂→津久戸小

魁雲堂→津久戸小

パン屋 木村屋です。
飴屋 宮城屋です。
置屋 芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店。

 久保たかし氏の『ふるさと神楽坂』(平成6年、1994年)では

 「魁雲堂」
 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。
 ここの次男坊、川村克己君は小学校の同級生。アダナは亀さん。オカッパ姿の可愛いい子だった。しかし、60年たった今は、豪快な男に変身、立教大学でフランス文学を教え、今や新潟県の新しい大学の副学長となり、忙しく働いている。あれは亀ではない、酒(かめ)だと云った方が良い酒仙である。

新しい大学 新潟産業大学です。

「魁」について。 かしら、首領、堂々として大きいさま(例は魁偉・魁傑)を表し、音はカイ、訓はさきがけです。かいうんどう、と読むのでしょう。

「 さて、もう一度、「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、なんと「筆カイ雲堂」となっていました。初めからあったのですね。

魁雲堂

 右図では昭和12年の「火災保険特殊地図」ですが、すでに「加藤商店」に替わっています。魁雲堂1

 現在の建物です。「摩耶ビル」といい、美容室の摩耶などが入っています。摩耶

私のなかの東京|野口冨士男|路面③

文学と神楽坂

 昭和53年(1978年)、野口冨士男が書いた『私のなかの東京』③は、『神楽坂通りの図』と『牛込華街読本』の紹介があり、さらに神楽坂の路面はどう変化してきたかを書いています。最初は砂利、それから大正12年以降は木の煉瓦、そして昭和初期には石畳の場所もできたようです。

 私が神楽坂に住んでいたのは、小学校入学の前年に相当する大正六年秋から震災後の十三年春までで、その後も昭和三、四年ごろまでひっかかりを持っていたが、『神楽坂通りの図』には表通りの商店が軒なみ拾いあげられているばかりではない。路地奥の待合や芸者屋に至るまで詳細をきわめていて、私の家も図示されているからまことにありがたい。
 また、かつて東京新聞社政治部記者であった加藤裕正から贈られた、昭和十二年十ー月に牛込三業会から編纂発行された非売品の『牛込華街読本』には、巻末に『牛込華街附近の変遷史』というものが収載されていて、明治三十年代の写真や「風俗画報」の挿絵などが多数転載されているし、そうした有様は関東大震災前までさほどいちじるしい変化をみせていなかったので、それをひろげてみると回想のための援軍を送られたような気がする。震災前の神楽坂には砂利が敷かれていて、傾斜ももっと急であったから、坂下には九段坂下ほどではなかったが、荷車の後押しをして零細な駄賃をもらう立ちん棒がいたことまでが思い出される。

砂利 これははっきり出ています。昔は『牛込華街読本』にもあるように砂利でした。写真ではぶらぶらと坂に人相の悪そうに見える数人が立っていますが、次に説明する立ちん棒をやっていたのですね。
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立ちん棒 立ち続けている者。戦前では空巣ねらい、制服巡査。現在は売春する女性で、路上に立ち、直接交渉を行う者。明治から大正にかけて、立ちん棒は坂の下に立って大八車や荷車が通れば押すのを手伝って駄賃を貰う職業
神楽坂通り

 その砂利が取り払われて(もく)レンガとなったのは震災後のことだったはずで、坂の傾斜がゆるくなったのもそのときだったとおもうが、それがさらにサイコロ形の直方体の石を扇面状に置きならべたものに変ったのは昭和初年代のはずである。たしか昭和四年に中央公論社から出版された浅原六朗の『都会の点描派』というクリーム色のペーパーバックスの一冊に掲載されていた随筆の一つに、神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていたと私は記憶する。そして、『牛込華街読本』に掲載されている昭和十二年当時の写真をみると、ほぼ現状にちかいものに改まっている。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。
 が、それはただ路面だけのことで、両側の店舗の現状は激変している。最も顕著な変化は建物が比較にならぬほど立体化されたことだが、それとても他の繁華街ほど高層なものがあるわけではない。いちばん高いものでも、志満金の五階建てどまりである。まして、平面ともなれば、なんらの変化もみとめられないと言いきっても、恐らくまちがいではない。どこの横丁や路地を入っていってみても、他土地のばあいは道幅がひろげられたり、曲線が直線にちかく改変されている例がすくなくないのに、神楽坂周辺にはそういうことがない。都市開発からそれだけ取り残されているともいえるが、そういえば新宿区は町名変更も最もおくれている区の一つで、神楽坂周辺にはいまのところまだ旧町名をとどめているものがかなり多い。が、それももはや時間の問題であることは言うまでもない。

木レンガ 木で作ったレンガ。レンガ状の木。木材を輪切りやサイコロ状にして、木口を上に向けて敷き並べたもの。
震災 関東大震災のことで、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発震。
石畳サイコロ形… 石畳の1つ。ピンコロ(つまり、おおむね正方形の)石畳(敷き詰められた上面が平らな石)を使った鱗張り舗装(舗石張り技法の一つで、魚のうろこのように張ること)
都会の点描派 『都会の点描派』は1929年に中央公論社から出て、1993年、河出書房新社が再度出した当時の東京の随筆集です。最初に「神楽坂の路面は中央が高くて左右が低い――カマボコ状をなしていると記されていた」という点についてです。
 まず、この文章は『都会の点描派』のどこにも出ていません。つまり、河出書房新社の『浅原六朗選集 第3巻』(1993)には『都会の点描派』が完全に載っていますが、ここには同じ文章はどこにもありません。
 神楽坂は「弧を描く街から」という章にあり、「弧を描いている神楽坂の街路は、近代的な直線から離れて何処かなつかしいローマンスがあるので、人々はここを中心として夜にさかる」と「それらの物語を抜きにしても、神楽坂には曲線的都会情緒がある」だけです。「さかる(盛る)」とは「繁盛する。にぎわう。はやる」のこと。河出書房新社版ではこれ以上はわかりませんが、「弧を描いている」はどちらかというと「魚のうろこのように」、つまり石畳に似ています。
 さらに「路面は中央が高くて左右が低い」のは、道路全体について書いているのでしょう。道の中央が盛り上げられ、左右はどぶになり、前から下に割るとカマボコ形になっていた。(これから先に説明する道路を参照しましょう)。しかし、これも『都会の点描派』では書いていません。
当時の写真 『牛込華街読本』の昭和十二年当時の写真はこうなっています。詳細はここで

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神楽坂。『牛込華街読本』172頁から

志満金 しまきん。神楽坂下の2丁目の鰻屋のこと
時間の問題 ではなく、牛込では今でも古い町名をとどめています。

牛込華街読本が生きている|春木健吉

文学と神楽坂

牛込華街讀本、牛込華街読本

牛込華街読本

『牛込華街読本』(昭和12年、1937年)は主人と女中と芸妓の職責をまとめた本です。なるほどこんな本があるんだ。芸妓のいる家はこの本を相当大事に大事にしまってあり、1回は主人と女中と芸妓はこの本をよくよく読んでほしいと……。
 ところが『新宿 雑談』(昭和45年、1970年)という薄っぺらの本があり、その中で春木健吉氏が書いた「牛込華街読本が生きている――新宿周辺の華街」を読むとあっと驚く話が出ています。『牛込華街読本』は日本の図書館で数冊があるだけで(国立国会図書館、新宿歴史博物館、国際日本文化研究センター、法政大学図書館)、おそらく誰かが秘蔵している本を加えてみても、勝手に言えばおそらく十数冊もないだろう。うーむ。では「牛込華街読本が生きている」の一部です。

 上野駅前の本屋にはいって、書棚の題字を見ながら物色した。永井竜男著「わが切抜帖より」という随筆集が目にとまった。(略)
 酒徒交伝――石黒敬七旦那の酒癖からはじまって、芸者遊びの話題に「牛込華街読本」の要約が1頁半ほど書いてあった。
 この本が永井竜男氏の蔵書になっているというから、私は昔日の神楽坂華街の関係者ならばもっていると簡単に考えた。
 板室温泉の二泊の間、予定された原稿は未完のまま、私は「わが切抜帖より」を読み耽けてしまって、面白さに読み終えた。
 未稿のまま東京へ帰った私は、妙に「牛込華街読本」が気がかりになって、神楽坂華街の旧友に電話で依頼した。
 ところが、旧友から「牛込華街読本」の記憶がないというのである。後日、旧友が華街関係者に尋ねて誰も識らもないという返事が撥ね返ってきた。私はこの返事にいささか愕いたのである。旧友は戦前まで神楽坂の有名だった料亭の息子だからだ。それに三業会が出版して、一般の客が蔵書しているのに関係者が識らないというからである。
 それから、私は心当りの蔵書家連に「牛込華街読本」の有無を聴き歩いた。
 最近、私は新宿郷土研究家一瀬幸三氏がこの本を蔵書しているのを聴き、借入りを申出たところ心よく貸していただいた。
 さらに新宿区立図書館資料室へ資料探しに出かけた際、資料室員から「牛込華街読本」は神楽坂検番に一部だけ、それも客から贈られたのが残っているというのである。重ね重ねの愕きである。

 現在、牛込三業会が発行した蒔田耕著『牛込華街讀本』は新宿歴史博物館国立国会図書館に入っています。
 なお、『新宿 雑談』は新宿歴史博物館に入っていますが、国立国会図書館には入っていません。こちらは1冊しかないのかも……

夏目漱石と中村武羅夫

文学と神楽坂

 中村武羅夫(むらお)氏が書いた「文壇随筆」(感想小品叢書、第10編、新潮社、大正14年) の一節です。ちなみに中村氏(1886(明治19)/10/4~1949(昭和24年)/5/13)は明治から大正にかけて活躍した編集者、評論家で、『新潮』訪問記者を振り出しに「新潮」の中心的編集者となりました。大衆小説も量産しますが、現在はほとんど残っていません。

 私が、湯の中で小便して、漱石に顏をあらはせて、大いに漱石をおこらしたといふやうなゴシツプが、つたへられたことがある。が、これはまちがひである。私だつて、まさか自分の小便で、人に顏をあらはせるやうな、そんな人の惡いまねをする筈はない。
 それは多分、次ぎのやうな話しが、誤傳されたものだと思ふ。
 その當時、漱石の家に、湯殿があつたかどうかを、私は知らない。漱石の家は、やつぱり現在の、早稻田南町だつたが、今のやうな堂々たる邸宅ではなく、確に家賃は四十五圓とかと漱石自身の口から聞いたことがあると思ふが、借家だつた。勿論、湯殿はあつたことだらう。が、直き前の錢湯に、よく出かけて來た。大抵、一番()いた十時ごろから二時ごろまでの間だつた。私もよくその錢湯に行つたので、時々湯の中で出逢ふことがあつて、「やあ」「やあ」と、裸で挨拶するのであつた。
「先生、湯に入ると、自然に小便が出たくなりませんか?」
 或時、私が、風呂の中で聞いた。
「湯の中でか?」
 漱石は、やつぱり湯に浸りながら、斯う反問した。
「さうです。」
「ないね。――君は、そんなことがあるか?」
「ぢや、僕だけですかね。僕は湯に入ると、自然に小便がしたくなるんです。」
「汚いね。」漱石は口尻をしかめて苦笑したが、急に立ち上がつて、「そんなことをいつて、君は今、したんぢやないか?」と詰問した。
「そんなことがあるもんですか。」と私は笑つた。
「どうだか、怪しいものだ。君が小便したんだと、僕は、君の小便で顏をあらつたことになる。汚いね。」
 漱石は、もう一度顏をしかめて、苦笑した。
 そんなことが、私が、自分の小便で、漱石に顏をあらはせたなどゝいふゴシツプに、誤りつたへられたのであらう。お蔭で私は、その後時々、德田秋聲氏と一緒に旅行などして、風呂には入つたり、溫泉に浸つたりする度に、「君、小便をしはしまいね。」などゝ、念を押されるのである。「僕と一緒の時には、それつだけは、一つ勘辨してくれたまへ。」と秋聲は、私をからかふのである。

 ここで徳田秋声氏の話が入っているのがうまく、最後で笑ってしまいます。徳田秋声氏も自然主義の小説家で、1872年2月1日(明治4年12月23日)に生まれました。ちなみに漱石氏は、徳田秋声氏よりも5年早く生まれ、1867年2月9日(慶応3年1月5日)でした。中村武羅夫氏は漱石氏よりも約20年も若い人でした。



[硝子戸]

手の字|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた「手の字」の場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 が散歩から帰って来て、
「今手の字に寄ったら、尾崎が若い連中をつれて来ていた」など書生に話しているのを聞いたことがあった。
 手の字というのは、肴町の方から通寺町に入って直ぐ左手の路地に屋台を出していた寿司屋で、硯友社の人達はこの寿司屋を贔屓にしてよく出かけて行ったものらしい。
 この手の字はずっと後まであって、近松秋江氏などもよくそこに立寄って、おやじから紅葉の思い出話などを聞いたらしい。私が早稲田を卒業したのは大正二年であったが、その頃もその寿司屋はまだそこに出ていた。

肴町 現在の神楽坂五丁目です
通寺町 現在の神楽坂六丁目です
路地 ろじ。狭い道。「横丁」にも同じようなニュアンスがありますが、「路地」では更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道です。

手の字 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査

 これからは全くの空想ですが、次の場所が正しいと思っています。まず図を見てください。明治29年の東京市牛込区全図の1部です。赤い丸を見ると、ここに道路3本が集まっています。赤丸から西北西に出るのが「通寺町通り」、反対側の東南東にずっと行くと「神楽坂通り」になります。南西南に行くのは江戸時代では「川喜田屋横丁」と呼ばれ、明治時代には無名の路地でした。その中に寿司屋「手の字」(赤棒)があったのでしょう。

 ちなみに昭和6年、横井弘三氏が書いた『露店研究』を読むと、

 まづ牛込郵便局から出発して坂を下らう。右側に寿司、おでん、左側にある、古本、八百屋、ミカン、古本、表札、古本、XX、古着、眼鏡、電気、靴墨、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺刷り、古本、柳コリ(略。ここから愈々露店は両側になる)

 当時の牛込郵便局は現在の「音楽の友社」(神楽坂6-30)にありました。そこから下を向いて右側には露店2店、左側には19店が並びます。この左側の19店は恐らく等間隔に近い形で並んでいたのでしょう。では右側の2店はどう並んでいたのでしょう。しかも右側の1店は寿司が出てきます。これは「手の字」であったのか、違ったのでしょうか。
 明治時代には、この地図で見られるように赤丸から西北西に進む通寺町通りは急に狭くなりました。明治29年の上の東京市牛込区全図ではそうなっています。露店も同じです。赤城神社から出発しても、初めは道路は狭く、当然、露店用の面積も狭く、そのため、露店は一方向だけ、つまり北側だけにできたのではなかったのでしょうか。道路が広くなる赤丸を超えてから、初めて露店は両側にできたのです。つまり、赤城神社から神楽坂の方に来る場合、最初は北側の露店だけがあり、しかし、南側は何もなく、南側にできるのは川喜田屋横丁を超えた所からで、そこに寿司とおでんの2つがあったと考えます。この場合はこの寿司と「手の字」は同じでしょう。
 なお、邦枝完二作の「恋あやめ」(1953年、朝日新聞社)の「新世帯」には「郵便局前の屋台ずし『ての字』ののれんに首を突っ込んで」と書いています。これは少なくとも広津和郎氏が描いた「手の字」ではないと思います。

かくてありけり②|野口冨士夫

文学と神楽坂

 野口冨士夫氏の『かくてありけり』(昭和53年)は自伝ですが、子供の時、母親と父親は別々に住んでいました。では、冨士夫氏と一緒に住んだ母親は、神楽坂のどこにいたのでしょうか。最初に『かくてありけり』です。

金鱗堂版の江戸切絵図にも行願寺と記されている行元寺は明治三十九年に西大崎へ転移したが、「寺内」という呼び方だけはのこっていて、母の家は一軒の例外もなく待合と芸者屋だけになってしまっていた「寺内」の、ほそい路地を幾まがりかしたいちばんどんづまりの位置にあった。そして、数えでもまだ二十五歳でしかなかった母は、平池という姓から一字取った池本という芸者屋の主人でありながら、自分もふみという名で(ひだり)(づま)を取っていた。

金鱗堂 きんりんどう。金鱗堂板や尾張屋板とも。金鱗堂板の江戸切絵図はもっとも有名。江戸の市街や近郊地域を地図に分割して編纂した絵地図集。尾張屋(金鱗堂)板は、嘉永2年(1849年)刊行開始、同7年(1854)26枚揃、安政12年(1856年)28枚揃、文久3年(1863年)30枚揃を完成、作者は景山致恭と戸木昌訓。武家地が白、町家が灰、神社仏閣が赤、川や堀は青、道路が黄、土手や田畑や原が緑と色分けしています。
切絵図 きりえず。地域別に区切って作った絵図、つまり区分図。
行願寺 きょうがんじ。正しくは「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
寺内 じない。かつて行元寺があり牛込肴町と呼ばれた地域。現在の神楽坂5丁目。
待合 まちあい。貸席業。待ち合わせや会合のための場所を提供します。
左褄 ひだりづま。芸者の異名。左手で着物の褄を持って歩くことから

 では母の家は? 最初に昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」ではこうなっています。なにもわかりません。
古老の記憶
籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』(平成18年)では

大正六年より牛込区肴町53番地で、芸妓屋『池本』を営む母のもとで暮らすことになった

と書いてあります。また、東京都近代文学博物館の『野口冨士男と昭和の時代』(平成8年)でも

大正六年 牛込区肴町五十三番地に居住の生母のもとへ引き取られる

と記載しています。

 では肴町53番地はどこにあるのでしょう。昭和12年の「火災保険特殊地図」で53番地には2軒の家があるとわかります。行元寺
上の家は「山喜」で、待合なので、違います。下の家は(妓)と書いてあり、まずここでしょう。現在、この一帯はマンション「神楽坂アインスタワー」に完全に覆われてしまいました。

東京震災記|田山花袋

文学と神楽坂

 さまざまな筆者達が関東大震災にどう向き合っていたのでしょうか。当時の東京では沢山の問題が出てきて、たとえば、伊豆大島が海に沈下し見えなくなったというデマまでが出ました。
 しかし、こと神楽坂に限ると、大々問題は起こらなかったといえます。震災が激しくなる場所は下町でした。
 例えば、田山花袋氏では『東京震災記』で関東大震災を描きましたが、一般的に神楽坂の震災は極めて軽微で、花袋氏もそこには触れていません。以下は田山花袋氏の『東京震災記』で牛込の場合です。

 ぬけ弁天から若松町に出て、それから弁天町へと行った。榎町の通りもかなりに混雑していた。私は横町から横町へと入って行った。川上眉山の自殺した天神町の家のある傍を山吹町へと抜けて、それから赤城下町改代町の方へと行った。そこはひどかった。家は家と重り合って倒されていた。二階がペシヤンコに潰れているような家もあれば、一気にのめって、滅茶滅茶に倒れているような家もあった、山の手では、被害はここあたりが一番ひどくはないだろうかと思われた。
 石切橋をわたって小石川に入った。そこらはことに警戒が厳重であった。

震災

田山花袋氏の『東京震災記』(地図は大正11年)

ぬけ弁天 厳嶋(いつくしま)神社、通称抜弁天(ぬけべんてん)は新宿区余丁町にある神社。苦難を切り開くための神社から抜弁天。
若松町 わかまつちょう。当地の松が江戸城に正月用の門松として献上されたことから。
弁天町 べんてんちょう。町域のほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫。牛込弁財天(べんざいてん)(ちょう)などの数町から現在の1町に。
榎町 えのきちょう。早稲田通りが南部を横に。町内に大きな榎の大木があったと言われます。
天神町 てんじんちょう。町域内を東西方向に早稲田通りが通ります。寛永のころ(1628-44)キリシタン大名の孫、大友義延の屋敷、大友屋敷がありました。「天神」はキリシタンの天の神(デウス)に。
山吹町 やまぶきちょう。町域内を東西方向に早大通りが、南北方向には江戸川橋通りが。「山吹の里」はこの地だというので名前がつきました
赤城下町 あかぎしたまち。地域北部は改代町に接します。俗称は赤城明神下。
改代町 かいたいちょう。この土地を代地として与えたので、改代町という説が。江戸時代には古着屋が並び、したがて古着(だな)と言われてきました。
石切橋 いしきりばし。石切とは石工のことで、このあたりに石工職人が多数住んでいました。
小石川 こいしかわ。東京都文京区のおよそ西半分。東京都文京区の町名、または旧東京市小石川区を指す地域名

広津和郎の生家

文学と神楽坂

広津和郎 広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は大正・昭和の作家、文芸評論家、翻訳家です。代表作は『神経病時代』『昭和初年のインテリ作家』『松川裁判』『年月のあしおと』など。広津氏は生まれた時期から少年期にいたるまで矢来町で過ごしました。でも、この矢来町は巨大な町なのです。いったいどこで過ごしたのでしょうか。

 籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』では、

和郎の生家が現在の矢来町90番地辺にあったことがわかる。和郎は頻繁に訪れた泉鏡花に抱っこされたこと、尾崎紅葉の堂々たる風格についても述べている。

と出てきます。そうなのでしょうか。

『年月のあしおと』では次の文章が出てきます。(下線は当方で書いたもの。以下同じ)

私の生れたのは牛込矢来町で、丁度今の新潮社(その頃は無論新潮社はなかった)の東側の裏通の、新潮社とウラハラになったあたりであるが、私はこの文章を書くのに、何かの緒を引き出すよすがともなればと思って、昨夜その附近を歩いて見た。
 神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。子供時分の記憶ではそれは「横町」ではなく、ちゃんとした「道」であったが、矢来通や、新潮社前の通が拡げられた今日では、昔のままのそこは「道」という感じではなく、「横町」という感じになってしまった。私はその幅を足ではかって見たが、並の歩幅で五歩余しかなかった。して見ると二間幅もないわけである。子供の時分には普通の往来のつもりでいたが、二間幅もなかったのかと今更のようにその狭さに驚かされた。
 その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

 では確かめてみましょう。「新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れる」は①です。「少しだらだらとした登り」は確かにだらだら坂を上って②。150メートルはほぼ+の場所です。

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 新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の『出版おもいで話』(昭和11年)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。

 これは上図に書きました。新潮社はまだ表通りには出てきません。なお、新潮社の左には漱石邸、右には広津邸がありました。これは次の文章(同じく佐藤義亮氏の『出版おもいで話』)によっています。

新潮社新社屋

新潮社新社屋

社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。

 つまり、漱石邸や広津邸などを一緒くたになって買い上げたのです。全部が矢来町71番地か73番地でした。新潮社や新潮社とウラハラになったあたりです。下図は昭和12年の「火災保険特殊地図」で、赤い範囲は新潮社とその社長、佐藤義亮氏がまとめて買った場所です。

新潮社と佐藤義亮氏がまとめて買った土地

昭和5年、牛込区全図

昭和5年、牛込区全図

 籠谷かごたに典子氏は矢来町90番地だと書いていますが、これよりもさらに南方にあります。90番地ではないでしょう。また広津和郎氏が書いた『鶴巻町』では「新潮社の裏側の細い通に行き、新潮社の囲いの中を指さして、「それはその囲いの中だ」と説明するより仕方がない。」となっています。

 以上、広津和郎の生家は、新潮社とウラハラになった東側の裏通で、曲がり角を数十メートルほど行った右側で、 新潮社の社長はこの五、六軒を一緒に買い受けた場所でした。曲がり角から150メートルほど行った場所ではないですが、他は現在の番地によくあっています。新番地になった場合、おそらく矢来町73番地でした。90番地は間違いです。

神楽坂一平荘

文学と神楽坂

 一平荘2015年1月2日から12日まで日本橋高島屋で川瀬()(すい)展が開かれました。そこで「神楽坂一平荘」の木版画も出ていました。「神楽坂一平荘」が出るのはこんな展覧会では初めてだといいます。沢山の木版画の中で小さな画なのにちょっと胸を張って出品していました。日本の作品集にも出たことはないそうです。

 大体、こんなことが書いてありました。

「昭和東都 著名料亭百景」
昭和15年8月16日、加藤を仲介として多田に会い、牛込、両国、池之端、神楽坂の料亭「一平荘」を版画として製作した。これが「版元 多田鉄之介」、制作は加藤潤二と考えられる「昭和東都著名料亭百景」である。著名料亭百景とはいえ、実際に制作されたのは巴水の記録から両国、神楽坂、池之端の3図が可能性が高い。

<神楽坂一平荘> 一般初公開!
写真図版等により作品の存在自体は知られていたが、過去展覧会等に出展した記録はなく、今回の日本橋高島屋の展覧会が一般初公開。


 こちらは有名な「芝増上寺」です。芝増上寺

 実際にあった一平荘はここです。

里見弴|私の一日

文学と神楽坂

 里見弴氏の『私の一日』(中央公論社、昭和55年)の「泉鏡花」には、この泉鏡花と徳田秋声の曰く言いがたい関係がもっと細かく書いてあります。

 その話も詳しくさせられるのかい?……厄介だな。……改造の社長の山本実彦が、円本のうちに紅葉編も出したいんだが、お宅には未亡人やお子さんばかりで、細い相談にのつてもらひたいといふので、徳田秋声の所に出かけて行つたんだとさ。そしたら秋声が、「おれもなんか口をきくけれど、それはに話さなくちやだめだ」といふので、二人で泉家に乗りつけたわけだ。鏡花は、自分の紋に源氏五十四帖香の図のうちから「紅葉の賀」といふのにきめて、使つてゐたし、玄関のくもりガラスの掛あんどんにまで、そいつを透かしに摺り出させてゐるんだ。ちと頂きかねるがね。しかし、尾崎紅葉に対する気持は、「師匠」なんてもんぢやあない、正に「神様」だつたね。
 でまあ、二人を二階、八畳間の仕事部屋に通したんだね。鏡花のもの書き机は長さ二尺ほど、幅は一尺かそこらの存外小さなものなんだ。そこに小さな硯と筆とが置いてある。のちには、日本紙でなく、罫のある西洋紙にしたが、あれはたしか水上にすすめられたんだ。万年筆も買つてあげたかどうか、晩年にはペンで書くやうになつたがね。初めの頃は、まだ筆の時代でね、朱筆と墨のとがきちんと揃へてあつたな。ついでに言へば、床の間の違ひ棚には紅葉の、春陽堂で出した全集がずらつと並べてあつて、その前にキャビネ型の紅葉の写真が飾つてあり、毎朝、起きぬけにそれに向かつて礼拝するんださうだ。それから、下でお茶がはひると、必ず自分が持つてあがつて供へる。人にものをもらつても、お初穂といふやつで、まづ「神様」に供へるわけだね。
 机の左側に手あぶりの火鉢がある。木の根つ株を錮りぬいた「胴丸」つてやつで、寸法はほぼ机と同じくらゐ。赤や緑の漆で描いてある葉が、やつぱり紅葉、つまり楓の葉なんだ。これは、女流画家で、大変な鏡花崇拝だつた池田蕉園から贈られたんださうだ。蕉園は或る期間鏡花とこのすぢ向かひの有島家の長屋に住んでたこともあつたしね。

改造 大正8年(1919)4月、山本実彦創立の改造社が創刊。大正デモクラシーの思潮を背景に進歩的な編集方針をとり、文芸欄にも力をそそいだ。昭和30年(1955)廃刊。
円本 えんぽん。一冊一円の全集類の総称。1926年(大正15年)末から改造社が『現代日本文学全集』の刊行を始めた。各出版社からも続々と出版された。
源氏五十四帖 源氏物語は全体で五十四巻から構成する。紅葉賀(もみじのが)は第7帖で、光源氏の18歳の秋から19歳の秋までの1年の出来事を描いたもの。
香の図と紅葉の賀 illust_23-4源氏の香は香を使った遊び。5つの香りを聞いた後、同香だと思ったものを横線でつなぐ。たとえば「紅葉賀」では右のようになる。泉鏡花は式服の紋に紅葉賀を使っていた。
掛あんどん かけあんどん。家の入り口や店先の柱や廊下などにかける行灯
春陽堂 春陽堂が1890-91年に尾崎紅葉らの作品を収めた叢書『新作十二番』『文学世界』『聚芳十種』を出版し、以後明治期の文学出版をリードした。
初穂 はつほ。古来より神様に祈りを捧げる儀式の際には農作物が供物として奉納された。初穂とは、その年に最初に収穫した農作物。初穂料とは、この初穂(神様に捧げる農作物)の代わりとする金銭のこと
手あぶり 手をあぶるのに使う小形の火ばち
胴丸 火鉢胴丸ではなく、本当は胴丸火鉢のこと。丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。なお、胴丸は鎧の1形式で、着用者の胴体周囲を覆い、右脇で開閉(引合わせ)する形式のもの。
池田蕉園 いけだ しょうえん。1886年5月13日 – 1917年12月1日。明治、大正の女性浮世絵師、日本画家。
有島 有島武郎、有島生馬、里見弴の3人は横道の東側、麹町区下六番町(現・千代田区六番町三)の旗本屋敷に住み、横道の西側、下六番町11(現・六番町七)には二軒長屋で泉鏡花が住んでいました。
 さて、円本に紅葉を入れる相談を三人でしてゐるうちに……ここから先は、山本実彦の直話で、詳しく聞いたんだから、ほぼ間違ひはあるまいと信じてゐるんだが、その後いくたりかの人にも話してるかどうか……。紅葉が三十六歳の若死だつたといふ話の間に、秋声が「だけどほんといふと、あんなに早く死ななくてもすむのに、あの年で胃ガンなんぞになるなんてのも、甘いものを食ひすぎたせゐだよ。あの人ときたら、甘いものには目がなくて、餅菓子がそこに出れば、片つ端から食つちやつたからな」とかなんとか言つたらしいんだな。それはうそぢやなくて本当の話なんだらうけど、とにかく泉鏡花にとって氏は「神様」だ、朝晩拝んでるその方の写真の前で、そんなすつぱぬきみたいな口をきいたんだから、これはカーッとくるに違ひない。聞くが早いか、いまいつた胴丸火鉢をひとつ飛びに、ドスンと秋声の膝の上にのつかつてパッパッパッと殴つたんだとさ。その素早いことと言ったら……。
「泉さんつていふ人は手が早いですなあ」つて、山本がほとほと感心してゐだがね。どうにも収拾がつかないところを、まあまあと山本が割つてはひつて引きずるやうにして二階から徳田をつれおろして、外に待たせてあつた車に乗っけたんだけど、秋声は、ただもうワンワン声をあげて泣くばかり……。その時分、「水際の家」つていふのがよく秋声の作品に出てゐた、その浜町だか中洲だつたかの待合に連れて行つたんださうだ。下六番町から水際の家までいくら自動車だつて二十分か三十分はかかるよ。その間ずつと泣き続けてゐたさうだ。よほどくやしかつったんだらうし、びつくりもしたんだらう、可笑しいけど、……子供時分からのほんとの友達つて、こんなもんぢやないだらうかね。

すっぱ抜き 隠し事・秘密を不意に明るみに出すこと
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
浜町 中央区日本橋浜町
中洲 中央区日本橋中洲
待合 待合茶屋。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店
 あとになつて、こんな二人を仲直りさせるといふ水上の発案があつて、「どうかな」つて気もしたんだけど、お客様として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちから、やたらと酒ばかり飲んで、さも酔つたやうなふりをして寝ちまつてさ、……よくやる「たぬき寝入り」なんだよ。昔噺でもしようッて気で出て来た秋声だつて、どうにも手持ちぶさたで、いつの間にかスッと抜けて帰つちやう、といふ不首尾でね。にも拘らず、そのあとでも、秋声に会ふと、「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」つてね。実に素直な気持なんだよ。感動したけどね、心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」といつたんだ。それなのに鏡花の臨終の時に知らせが間に合はなかつた。陽のカンカン照つてる往来のまんなかで、ぼくは秋声にどなりつけられて、一言もなく頭を垂れたよ。
 とにかく、あの二人は生れつきの性分からして合はないんだね。ライバル意識なんてもんぢやない、紅葉以外はだあれも相手にしてゐない。当然のことだが、自分の仕事にそれくらゐの自信はもつてゐるからね。それからね、これは秋声が小説に書いてゐるけど、鏡花の実弟の斜汀が、秋声のやつてた本郷のアパートで死んだ時、葬式万端たいへん世話になつたといふんで、莫大なお礼をもって行ったんだね。その他人行儀なやり方にぐつと来たんだらうが、秋声流に、「またいつぱい食はされた」といつた風な、軽い結句でむすんでゐる。「神様」にだつて、どうしようもない、まあ、フェタルつてやつだな。別にさう珍しいことでもないしね。

九九九会 くうくうくうかい。九九九会は鏡花を囲む会で、1927年(昭和2年)、里見弴と水上瀧太郎が発起人、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集合。会の名は、会費百円を出すと一円おつりを出すというところから。
秋声が小説に書いている 昭和8年6月、随筆『和解』です。「てくてく牛込神楽坂」では『和解』で見られます。
結句 詩歌の終わりの句。実際には、この随筆は「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んでいた。
フェタル fatal、fatale。致命的な、運命の、運命を決する、宿命的な、免れがたい。Famme fatale(ファム・ファタール)で「宿命の女」

大東京繁昌記|早稲田神楽坂15|心のふるさと

文学と神楽坂


心のふるさと
 神楽坂附近の散歩が長くなり過ぎて、早稲田方面に費すべき予定の時間が殆ど無くなってしまった。早稲田は私の「心のふるさと」である。大学を中心として、あの附近一帯から戸塚落合の方にまでも、至る処に私は私の足跡を見ざることなく、見るものすべてなつかしい思い出の種ならざるはないが、今は一々その跡を尋ねて歩く暇のないのを惜しく思う。
  (都の西北、早稲田の森に……)
 今はそこらの幼稚園の生徒でも、何かというとすぐ口癖のように歌い出す程あまねくひろまったこのなつかしい「われ等が母校」の歌が、はじめて「早稲田の森」から歌い出されたのは、明治四十年の秋、大学創立二十五年記念祭の折のことだった。私はその年の春大学に入ったのであるが、いわばあの歌は、当時在学の私達によってはじめて歌われ出したのであった。亡くなった東儀鉄笛氏が、震災で倒れたというあの東京専門学校時代からの記念的建物だった当時の大講堂に、幾回も私達全校の学生を集め、あの巨体を前後左右に振り廻し、あの独特の大きな両眼をぎろつかせ、渾身こんしんこれ熱これ力といった有様で指揮棒を振り、私達にあの歌詞(相馬御風氏作)と曲譜とを教えたのであったが、記念祭の当日大隈故侯の銅像除幕式をはじめ色々の祝典が催され、夜には盛んな提灯行列が行われて、今の野球々場を振出しに、鶴巻町通りから矢来神楽坂を経、九段からお濠に沿うて宮城二重橋前まで、はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。

早稲田大学

心のふるさと『大東京繁昌記』。早稲田大学です

戸塚落合 以前の戸塚村と落合村。新宿区の全体は地図上では牛1頭によく似ています。で、戸塚村と落合村はこの頭と背中に当たります。高田馬場などになりました。
新宿区
大講堂 昭和2年に竣工した早稲田大学大隈記念講堂(大隈講堂)ではありません。その以前の講堂です。早稲田大学校友会の『早稲田大学八十年の歩み』(1962年)では赤で囲んだ校舎「へ」が当時の講堂になっています。
早稲田2
相馬御風 そうま ぎょふう。生年は1883年(明治16年)7月10日。享年は1950年(昭和25年)5月8日。詩人・歌人・評論家。早稲田大学文学部哲学科卒業。早稲田大学校歌「都の西北」をはじめ、多くの校歌や童謡の作詞者
大隈 大隈重信。おおくましげのぶ。生年は天保9年2月16日(1838年3月11日)。享年は大正11年(1922年)1月10日。政治家、教育者。政治家としては大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員など。早稲田大学の創設者で、初代総長。
野球々場 現在は早稲田大学総合学術情報センターです。
野球場
鶴巻町通り 現在の「早大通り」。昔は鶴巻(町)通りともいいました。鶴巻町通りの範囲は早大正門前から山吹町交差点まで。なお、提灯行列をしたのは以下の通り。ルートは早稲田大学から二重橋前までです。
早稲田32

彷彿 ありありと想像すること。よく似ているものを見て、そのものを思い浮かべること

 爾来星霜ここ二十年、大学それ自身の発展や拡張も、当時に比して実に隔世の感があるが、それにつれて附近一帯の変化発展も目ざましく、田甫の早稲田茗荷畑の早稲田は、今はただいたずらに其名を残すのみとなった。私が学校にいた頃には、今電車が走っている鶴巻町裏一帯の土地、即ち関口滝あたりからずっと先、遠く山吹の里なる面影橋附近まで一面の田野で、東電変圧所赤煉瓦あかれんがの建物が、その田圃の真中にただ一つぽつんと、あたりの田園的風光と不調和に、寂しくしかも物々しく立っているのみで、蛙の声が下宿屋の窓に手に取るように聞え、蛍の飛び交うのが見えたりしたものだったが、そうした旧時のおもかげなどはうの昔に跡方もなく、今は一面にぎっしり家が建て詰まり、すっかり見違えてしまった。殊に電車終点附近近来の発展は驚くべきで、戸塚方面から球場前を抜けてここへ出る道路が開けたのと相まって、やや場末的な感じながらもそこにまた一廓の繁華な盛り場を形造り、早稲田の中心鶴巻町通りの繁華を、次第にそこに移動せしめつつあるが如き観もないではない。

茗荷畑 江戸時代に早稲田村や中里村(現在の新宿区早稲田鶴巻町と山吹町)で生産しました。ここに生えるみょうがは赤みが美しく、大振りで晩生おくてのものでした。
鶴巻町 早稲田鶴巻町。早稲田村の鶴巻からとっています。元禄のころ、小石川村の放し飼いの鶴が早稲田村にも出没し、鶴巻町になりました。この中で真ん中を水平に通る道路は「早大通り」と呼び、以前は「鶴巻(町)通り」と呼びました。
早稲田鶴巻町
関口滝 明治43年の「牛込区の地形図」では下図で右の赤い四角です。
山吹の里 太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ると、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないという意味だと分かりました。この伝説の土地はいろいろありますが、その1つは都電荒川線面影橋の傍、豊島区高田1-18-1で、ここには「山吹の里の碑」があります。
面影橋 下図で左の赤い四角です。関口滝から面影橋まで周りは一面の「湿地」でした。
東電変圧所 下図で赤丸です。現在は、西早稲田1-13-17で、ここは東京電力早稲田家族寮がありました。この東電変圧所は赤レンガ造りで、明治の終わりに山梨県から高圧の電気を送っていました。下図を見ると、東電変圧所から南に大隈邸が見えます。これは大隈会館になり、現在は大隈庭園に変わっています。また中央左の運動場は早稲田大学運動場です。
関口滝から面影橋
道路 昭和4年の「戸塚町市街図」を見ると、運動場の南に新たな道路が生まれています。右図では右上から左下にかけての赤線の道路です。現在も同じ道路があります。
運動場1
 鶴巻町通りは、何といっても早稲田で唯一の目抜きの大通りである。だが私があすこを通る毎に思うことは、あの通りが大学前から一直線に山吹町羽衣館前まで、町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたりして、もっと感じのよい、品位にも富んだ、本当にいわゆる大学街といった風な、そして万余の学生諸君のためには、しっとりとした湿うるおいと温かい情味とに富んだ、心地よき散歩街ともなるようなものにならないだろうか、ということである。そうしたらどんなにいいだろう。又現に著々とその輪廓を整え、益々外観の美を増しつつある大学自身もどんなに引立って見えることだろう。穴八幡附近も、すぐ下に高等学院が出来たりしたためもあって、馬場下の通りでも、坂上の旧高田馬場跡下戸塚通りでも、見違えるほど明るい繁華な町になった。
 実は私は大学を中心として、それをめぐって近来異常な発展をなしつつあるいわゆる「早稲田」の名のもとにおける地方について、つぶさにその変遷推移の跡を尋ね、既往を回顧し現在を叙し学生々活の今昔をも物語るつもりであったが、与えられた回数がすでに尽きたので、一方にのみ偏して甚だ申し訳なき次第だが、止むなくこれを他日の機会に割愛し、ここにわが愛する「心のふるさと」なる母校並びに全早稲田のために万歳を三唱して、以てこの稿を終ることとする。(昭和二年六月)

山吹町羽衣館 赤城神社の氏子町の説明で「娯楽場として(一百九十三番地に明治四十二年四月建設)の常設活動写真羽衣館」があったと書いています。しかし、193番地はどこなのか、正確にはわかりません。昭和5年の『牛込区全図』では193番地がありません。
 また、『歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記』(http://blog.livedoor.jp/toden41/archives/21379053.html)では、「都電時代は早稲田の学生街に続く神楽坂の裏町としても賑わいを見せた一画で、電停跡地付近には「羽衣館」という映画館もありました。映画館は戦後も存続し、昭和末年頃にひっそりと姿を消しています」と書いています。
 1970年の「新宿区・1970年度版・渋木逸雄」(国立図書館)の地図では羽衣館はどこにもないのですが、「牛込文化劇場」がありました。「電停跡地付近」にあるので、ここでいいのでしょう。現在は「トヨタレンタリース東京山吹町店」です。

牛込文化劇場

散歩街 「大学前から一直線に町幅が今の二倍も広くなり家並もきちんと整い、両側にはさわやかな行路樹などを植えたり」した道路が筆者の希望でした。しかし、実際にそうなってしまいました。こんな学生街はまあほかにはないと思います。
穴八幡 穴八幡宮。あなはちまんぐう。新宿区の市街地にある神社。利益は蟲封じ、商売繁盛や出世、開運など。旧称は高田八幡宮。下の絵では水色の丸。「高田馬場の流鏑馬」の標板があります。
高等学院 早稲田高等学院のこと。しかし、この高等学院は練馬区上石神井に移動し、現在は早稲田大学戸山図書館になっています。下の図では青の四角。
馬場下の通り 馬場下町を通る道路は1つだけです。したがって、最下図の1つしかありません。
旧高田馬場跡 馬場は寛永13年(1636)に作り、旗本の馬術の練習場でした。上は緑色の四角で。下は嘉永5年と現在。

江戸大絵図・嘉永5年

江戸大絵図・嘉永5年

現在の場所

下戸塚通り 下戸塚村には道路が複数あります。しかし、旧高田馬場跡という名前から考えられる通りは2つ。1つは旧高田馬場跡の上(下の図では旧高田馬場の上方の細い青)、1つは旧高田馬場跡の下(下方の太い青)。しかし下の1つははるかに幅が広いので、この通りでしょう。昭和5年にはもう下の通りのほうが広がっていました。この下の赤の点に標板「旧高田馬場跡」があります。
昭和五年戸塚・落合の地形図
既往 過去

「山吹の里」の碑

文学と神楽坂

 「山吹の里」について、豊島区ではその碑とその由来を書いています。

山吹(やまぶきの里」の碑
所在地 高田1-18-1

 新宿区山吹(やまぶき)から西方の甘泉(かんせん)面影橋(おもかげばし)の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田(おおた)道灌(どうかん)鷹狩(たかが)りに出かけて雨にあい、農家の若い娘(みの)を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事(こじ)にちなんでいます。後日、「📘七重(ななえ)八重(やえ) 花は咲けども 山吹の ((実))の(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(御拾遺(ごしゅうい))の古歌に()けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会(ずえ)』(正徳(しょうとく)二・1712年)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦(むつうら)、埼玉県越生(おごせ)町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝(ようしょうち)であったことは注目されます。
 この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹()里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享(じょうきょう)三(1686)年に建立された()(よう)(とう)を転用したものであることがわかります。
         平成16(2004)年3月

豊島区教育委員会

📘七重八重に咲く山吹は、実の一つもなく、わが家には蓑一つもない。それがかなしい。

山吹町 新宿区の北東部にある町名。図の右方を。
甘泉園 かんせんえん。徳川御三卿の清水家の下屋敷跡。湧く泉水はお茶に適していたので甘泉園と呼ばれた。上図の左方を。
面影橋 神田川に架かる橋。上図の左上を。
太田道灌 室町時代中期の武将。長禄元年 (1457) 、江戸城を築いて居城とした。
若い娘 伝説では若い娘の名前は紅皿でした。
 かやすげなどの茎や葉や、わらなどを編んで作った雨具。肩からかけて身に着ける。
山吹 ヤマブキ。バラ科ヤマブキ属の落葉低木。八重ヤマブキの場合は雌しべが退化して花弁になり、実はつけない。日本のヤマブキでも多くは実をつけない八重咲き種。

故事 昔から伝わる話やいわれ
御拾遺 ごしゅういしゅう。勅撰和歌集で、完成は応徳三年十月(1087年11月)。
伝承 伝え聞くこと。人づてに聞くこと
和漢三才図会 わかんさんさいずえ。図入り百科事典。105巻。寺島良安著。1712年(正徳2)成立。中国の「三才図会」にならって、和漢の万物を図を掲げ、漢文で解説を付す。
下戸塚遺跡 1987年、早稲田大学安部球場跡地で埋蔵文化財の調査を行ったもの。弥生時代には竪穴住居跡を始め、江戸時代の遺物まで見つかっている。
鎌倉街道 鎌倉に幕府開設以来、各地から鎌倉へ向かう道筋の呼称。
要衝 ようしょう。軍事・交通・産業のうえで大切な地点。要所。
供養塔 死者や祖先の供養で建てた石塔。戦で命を失った者たちや、天災、戦争など多くの命を奪い、引き取り手のない遺骨を一体供養した。

「山吹の里」の碑

文学と神楽坂

高田馬場跡

文学と神楽坂

高田馬場跡

文化財愛護シンボルマーク旧跡
高田(たかだの)()()(あと)

      所在地 新宿区西早稲田三丁目一・二・十二・十四番
 西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。
 馬場は寛永十三年(一六三六)造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。
 また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。
 寛永年間(一七一六~一七五三)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
 また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑」が建っている。
   平成三年十一月
              東京都新宿区教育委員会

高田馬場跡

高田馬場跡

高田馬場跡

高田馬場の流鏑馬

文学と神楽坂

流鏑馬

穴八幡神社の入口

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定無形民俗文化財

高田(たかたの)馬場(ばば)(やぶ)鏑馬(さめ)
所在地 新宿区西早稲田二丁目一番十一号
(穴八幡神社内)
指定年月日 昭和六十三年三月四日
 享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平愈祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
 明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和39年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年10月10日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
 古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。
   平成4年8月
東京都新宿区教育委員会

文学と神楽坂

英国帰りの漱石|矢来町

文学と神楽坂

 英国から帰った明治36年1月24日(1903年、37歳)から3月3日まで、夏目漱石氏は妻の鏡子氏がいた牛込矢来町3番地中ノ丸の中根宅に滞在しました。

ここは牛込、神楽坂』の編集人だった立壁正子氏は第10号で「漱石夫人が悪妻だったなんて」を書き

旧姓中根キヨ(後に鏡子)。明治十年、中根重一の長女として福山に生まれる。中根家は代々福山藩の武士。明治維新後、父は藩の秀才として選抜され大学で経済学を学ぶことになり、それに必要なドイツ語を学ぶため医科へ。長女の鏡子さんが生まれる前後に、新潟の病院へ赴任。ドイツ人の院長の通訳を務め、後に副院長に。鏡子さんが五歳のときに帰京。牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地、いま新潮杜のあるところに住む。父上はその後官吏となり、鏡子さんが結婚する頃は貴族院の書記長をしていた。(『漱石の思い出』より)
 かくて鏡子さんは松山から上京した漱石と東京で見合。翌年、漱石の赴任先の熊本で結婚。そのとき鏡子さんは十九歳。
 以後、単子、恒子の二児をもうけ、漱石はイギリスヘ国費留学。鏡子さんは牛込矢来町の実家の離れで休職手当て二十五円で耐乏生活(実家も父上が相場で失敗、窮乏)。漱石が帰国した際は、衣類も夜具もぽろぽろという状態だった。

 矢来町について、夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』では極めて書いてあることは少なく、

そのころの中根の家は牛込矢来の、ちょうど今の新潮社のところで、あすこは私たち思い出の深い土地なのです。(略)
 それからすぐと矢来の、三年間畳替えもしなければ何の手入れもしない、ただ留守中雨露(うろ)(しの)いでいたというだけの荒れに荒れた家に入りました。

「漱石夫人が悪妻だったなんて」の話で出てきた「牛込矢来町二番地中の丸六十、現七十一番地」とありますが、二番地ではなく三番地でした。大正11年には、字「中の丸」は下の範囲でした。「六十、現七十一番地」は大正11年の地図ではわかりませんが、昭和5年の七十一番地はこうなっています。

 昭和5年の71番地と63番地の間を上下に続く道路は将来の「牛込中央通り」です。現代ではここの薄青の円が昔の71番地になります。

新潮社T11とS5と現代

 しかし漱石は「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根方」と書いたようです。また義父中根重一に対しても「牛込区矢来町三番地中ノ丸中根重一」と書いたようです。つまり、「六十、現七十一番地」は誰が書いたのでしょうか?

 同書の中根眞太郎氏の「大伯母鏡子のいるところは花が咲いたようでした」によれば

矢来町の中根家のことは、小学校4年の頃、父と近くを通った際、あそこだと教えられたことがあります。いま新潮社の本社のあるあたりでしょうか。(略)
 大伯母の鏡子は、すばらしいおばあちゃんでした。江戸っ子気質で、ウイットがあって。彼女がいるところは周り中に花が咲いたようでした。弟子たちにも人気があって、よく面倒を見ていたようです。岩波書店の創立の際には株券で3千円を融通していますし、たいした人でした。

 さらに新潮社の初代社長、佐藤義亮氏の「出版おもいで話」(昭和11(1936)年11月)では

大正二年(1913)七月に、はじめて現在の牛込区矢来町に家屋を買い求めて移った。(中略)
 牛込矢来の現在の地に移ったのである。現在の地といっても大通りでなく、細い路地をはいったところで、前の空地ヘ事務所を建てた。木造ペンキ塗りの小さなもので、二階は編集と応接の二間、下は営業部一間だけのものだった。それでも若い中村、加藤氏などは「こんな立派なところで仕事をするのかな」と、ひどく喜ばれた。(中略)
 社業次第に進展して、従来の家ではどうにも始末がつかぬようになり、いよいよ社屋新築ということに決した。
 まず近隣の地所を買うための交渉をはじめた。通りに面している家(今の新潮社の玄関のある辺り)はかつて漱石氏の岳父中根貴族院書記官長の住まいだったもので、漱石氏もしばらくいたことがある。横は広津柳浪氏が住み、中村吉蔵氏が玄関にいたという、これまた文学的由緒ある家だ。それらの五、六軒を買い受け、相当地所が広くなったので、四階の鉄筋コンクリートを建てることとなり、東洋コンクリート株式会社が工事に着手したのは大正十一年(1922)の八月。翌年の八月になって全く竣工した。そこで、九月一日の午後一時をもって新館開きの記念会を開き、文芸映画をはじめ各種の余興を揃え、御馳走も然るべく用意して、今やただ時間の来るのを待っている時に、待ち設けぬ大地震がやって来たのである。

中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。

漱石氏は1年強この矢来町にいました

 したがってこれから考えると、この赤く塗った場所が中根貴族院書記官長の住まいでしょう。漱石氏もしばらくいたことがある場所でした。(地図は新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』「明治」から)。大正になったころ番号が変わり、71番地でした。

新潮社と社長邸

 右に掲げた昭和12年の『火災保険特殊地図』では、当時の71番地には西方に新潮社、東方に住んだ新潮社の初代社長・佐藤義亮邸があり、東のほうが西の新潮社よりも大きかったようです。
 なお、これと違った地図もあります。新宿区の『漱石山房秋冬』です。しかし、⑥の場所は字「中の丸」ではなく「山里」になるので、違います。

漱石山房秋冬

 現在の71番地は3つに分かれています。写真は新潮社の本館です。漱石は「新潮社の本館」の北半分に住み、実際、新潮社本館の玄関の場所と、夏目漱石が使った玄関の場所は、よく似た場所にあったといえるでしょう。新潮社本館
新潮社の地図

 最後に寺田寅彦氏が書く「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年)の一節です。

 帰朝当座の先生は矢来町(やらいちやう)の奥さんの実家中根氏邸に仮寓して居た。自分の訪ねた時は大きな木函に書物の一杯つまつた荷が着いて、土屋君といふ人がそれを開けて本を取出して居た。そのとき英国の美術館にある名画の写真を色々見せられて、その中ですきなのを二三枚取れと云はれたので、レイノルヅの女の子の絵やムリリヨのマグダレナのマリアなどを貰つた。先生の手かばんの中から白薔薇の造花が一束出て来た。それは何ですかと聞いたら、人から貰つたんだと云はれた。たしか其時に(すし)の御馳走になつた。自分はちつとも気が附かなかつたが、あとで聞いたところによると、先生が海苔巻(のりまき)に箸をつけると自分も海苔巻を食ふ。先生が卵を食ふと自分も卵を取上げる。先生が海老(えび)を残したら、自分も海老を残したのださうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの喰ひ方」と覚書のしてあつたのは、比時のことらしい。

神楽坂の通りと坂に戻る

清風亭|赤城神社

文学と神楽坂

 神楽坂の「清風亭」という場所があります。具体的にはどこにあったのでしょうか。インターネットの「西村和夫の神楽坂」では

 赤城神社の境内の突き当たりにかって清風亭という貸し座敷があった。ここは坪内逍遥を中心に早稲田の学生らが脚本の朗読や舞台稽古に使った所で、後の「文芸協会」の基礎を作ったところである。その後清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に変わり、広津和郎など同時代(大正6年頃)の多くの早稲田の文士が住んでいた。広津和郎などはわざわざ神楽坂の銭湯まで来たという話が残っている。

 また加能作次郎氏の『早稲田神楽坂』では「赤城神社の清風亭」ではなく「江戸川の清風亭」について書かれています。別ですが、まあ参考までに。
 江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。
 もう1つ、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社)では「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」としてこう書いてあります。
(赤城神社)は、牛込氏が建てた神社である。ここから、江戸川低地や小日向台地の眺望がよい。この境内西の石段上の崖に面した空地に、明治のころ清風亭という貸座敷があった。
 そこは、明治文学史上重要なところで、坪内逍遥の芝居台本朗読会や実演の稽古、俗曲研究会か開かれたり、文学関係の会合が開かれたところである。
 この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になるが、そこに片山伸や近松秋江などが下宿していたことがある。
 また「48、芸術座発祥の清風亭跡(文京区水道町27)」では
 千代田商会前からさらに西に進むと神田川に架る石切橋がある。ここは文京区水道町であるが、この橋東寄りに明治末年から大正時代にかけて清風亭という貸し席があった。もと赤城神社境内にあった(28参照)ものである。
 ここは、島村抱月の芸術座の発祥地である。大正2年の秋、恩師坪内逍遥の文芸協会から分離した抱月を擁護する早稲田の同志7, 80名が集まり、主幹、幹事、評議員を選出し、新劇団名の芸術座が決定したのであった(27参照)。
〔参考〕 大東京繁昌記山手篇  随筆松井須磨子  早稲田の下宿屋
 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では
 ところで境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖を臨んで、明治のころ「清風亭」という貸席があった。明治38年(1905)に、早稲田大学で教えていた文学者坪内逍遥が芝居台本の朗読会と俗曲研究会の会合を開き、易風会と名付けて()(げき)妹背(いもせ)(やま)」という三大狂言にならぶ傑作の歌舞技に移行されたものを演じている。これがのちに文芸協会のいしずえを築いた由緒ある貸席であった。この清風亭が江戸川べりの石切橋へ移転する。そのあと「長生館」という下宿屋になり、作家たちが住むことになる。
「神楽坂まちの手帖」編集長の平松南氏が書いた『神楽坂の坂』では
 赤城神社宮司夫人であり、境内にある赤城幼稚園の園長先生でもある人にお話を伺った。
「もとは群馬県の赤城にあった社殿がまず早稲田に、それからここへ移されました。 戦災でこのあたりも焼け野原、今の社殿は戦後再建されたものですし、落雷で大きな穴のあいた大銀杏があったんですが、やはり戦火にやられました。 巨大なやけぼっくいになった大銀杏のずっとむこうに富士山が見えて、 それはきれいでした。戦前のことはよく知りませんが、今幼稚園があるあのあたりに清風亭という料亭があって、坪内逍遥が新劇運動の場に利用したとか。のち下宿屋になって、近松秋江や片上昇(たぶん片山伸の間違い)が寄宿したそうです」
「この境内西の石段上の崖に面した空地」の場所と、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」の場所と、「幼稚園があるあのあたり」の場所はちょっと(本当はかなり)違うような気がします。「この境内西の石段上の崖に面した空地」は現在も空き地が残り、一部に建物が建っています。
 さらに、もうひとつ、新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』ではまったく違う場所(丸い赤円)が清風亭になっています。この「江戸・明治・現代重ね地図」では「『内務省地理局東京実測全図』『東京郵便地図』『東京明覧』等の資料を基に、明治40年(1907)前後の明治地図を復元」して作ったものになっています。これではこの場所は昔の番号で赤城元町35になり、坂の中腹です。赤城神社本体は赤城元町16でないといけません。石切橋に移転する前にここにいたことがあるのでしょう。清風亭1
 でも、よく見てみると、この形で記念碑のそばの建物(赤の矢印)だけが清風亭だと思います。左隣記念碑は記念碑を表し、ここでは昭忠碑なのでしょう。昭忠碑とは日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫したもので、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去しました。したがって、「この境内西の石段上の崖に面した空地」の建物や、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」近くの建物はここしかありません。 さらに 野田宇太郎氏は「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)を書き、そこに清風亭の跡(写真)をだしてました。キャプションでは「赤城神社の丘より早稲田方面の展望。手前の空地が近松秋江などが下宿してゐた長生館の跡」となっています。やはり上の赤の矢印の建物が清風亭でした

戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)

 もうひとつ、赤城幼稚園ってどこなの? 赤城幼稚園は平成20年(2008年)まで残っていました。赤城神社の老朽化が進み、建て替えが必要で、その際、赤城幼稚園も閉園したのです。左図は2000年ころの図です。赤城幼稚園はきちんとありました。右は現在(2014年)です。なんと大きなマンションになっています。赤城幼稚園

田原屋[昔]|神楽坂5丁目

田原屋の写真

文学と神楽坂

 創業者は名古屋出身の高須宇平氏で、19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。場所はここです。2002年2月に閉店。

 岩動景爾著「東京風物名物誌」(昭和26年)では

 明治20年頃は牛鍋で名を売り、果物店になったのは明治40年頃、明治末年日本で始めてのフルーツパーラーを始めて、千疋屋万惣高野もこれに倣ってパーラーを兼営するようになった。当時アイスクリーム8銭の頃15銭で売る等すべて高級味覚本位で一貫し東京の代表的果実舗の一に算えられた。田原屋のフランス料理も有名でこれは大正3年に始め広く食通人を集めた。戦後は京橋東仲通り万珠堂の隣りで弟さんが昔の田原屋系コックを集めてレストラン田原屋を始めている。

千疋屋 せんびきや。本店は中央区日本橋室町2-1-2。創設は天保5年(1834年)。果物の輸入・販売を専門とする日本の小売業。現在も営業中。
万惣 まんそう。神田須田町の交差点のフルーツパーラー。創設は昭和2年(1927年)。閉店は2012年3月24日。
高野 タカノフルーツパーラー。新宿高野本店。新宿区新宿3-26-11。創業は明治18年(1885年)。現在も営業中。

田原屋ロゴ 夏目漱石菊池寛佐藤春夫永井荷風らが通いました。メニューにはなんとも懐かしい「田原屋」のレタリング。

昔の田原屋、田原屋跡

 田原屋は最初はおいしかったと思います。しかし後半はこのメニューのように、新しいものも新鮮なものもなく、あるのは旧弊だけとなり、うーん、どうもなあ、でした。

 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)の注として

 毘沙門の隣の静岡という魚やが、土地付で家を売りたいというので4000円で30坪、家付で買って、これで今の田原屋のめばえとなったのです。開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には、 観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目、先々代歌右ヱ門、松永和風、水谷八重子サトー・ハチロー、加藤ムラオ、永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生は京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅田清吉氏の“手紙”から)

 加藤ムラオという名前はないので、野口冨士男氏は註として「加藤武雄と中村武羅夫?」と書いています(『私のなかの東京』 文藝春秋)。2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では対談を行っています。ここで出てくる人は、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主。昭和十年に福井県から上京。「高須さん」はレストラン田原屋の店主。

馬場さん それでいよいよ隣りの「田原屋」(*)さんにいくわけね。田原屋さんていうのはどうなんですか?
相川さん これは昔「静岡屋」という魚屋さんだった。魚屋さんのあとを買ったんです。
馬場さん 静岡屋さんつてのは知ってる、頭?
相川さん 知らない。相当前だ。大正初期。あそこで牛肉屋をやったのね、あがり屋を。
高須さん 牛肉屋は潰れたはずですよね。それで屋号をさかさまにして田原屋にしたっていう話は聞いているんですけど。
相川さん 牛肉屋のあがり屋さんをやっていたときに女中さんできたのがおばあちゃんなんですよ。それでウヘイさんと見合いして一緒になって。
馬場さん 「原田屋」はウヘイさんのおとっつぁんなの?
相川さん お父さんは金魚屋だったの。それは赤城下にいた。
高須さん だけど、ウヘイさんは金魚屋やったり質屋に丁稚奉公したりしていた。
相川さん ああ、二丁目の質屋さんだね。山本さんの連れ合いの。
高須さん ウヘイさんのお父さんというのは下の弟さんのほうを可愛がっていて、ウヘイさんとはうまくいかなかったんですよ。
相川さん 水道町の高田さんに話を聞いたところでは、昭和四、五年のころ、要するに恐慌が来ていたときですね、ウヘイさんはいまの経済理論なんか知っている人じやないけれども、「不景気ってのは金持ちと貧乏人がますます差が開くことだ、これからの田原屋は貧乏人相手ではなくて金持ちだけを相手に商売をしよう」ということで、ガラッと商売を替えたんだという話を間きましだけどね。貧乏人を相手にしていてもダメだと。金持ちを相手にして、昭和五、六年の恐慌を乗り越えたという話があって。非常にわかりやすい(笑)。
高須さん あれ、質屋に勤めていて勉強したんじやないですか? 質屋の小僧がよく下のお堀で船に乗って京橋におつかいに行ったって。
馬場さん 質屋さんというのは一種の金融業者ですから、経済の動きってものがよくわかるんだ。
高須さん 質屋の小僧さんをやっていたんですよ。じいさんと一緒に金魚屋やって、そのあと質屋に丁稚奉公に行って、それから店をもった。
相川さん だけど、よくああいう商売をポッと考えたものですね。
高須さん じいさんが生きていたときはもう晩年でほとんど無口になっていますから、話を直接は聞いてないですけどね。よく聞いたのは、関東大震災のおかけで神楽坂はよくなったって。
相川さん そうそうそう。あれで下町は全部焼けたからね。

あがり屋 不明。「揚がり屋」は「浴場の衣服を脱いだり着たりする所。脱衣。江戸時代では「武士、僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋」。「あがる」には「御飯を食べる」という意味があります。
ウヘイ 宇平です。高須宇平でした。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第17号で二代目田原屋の奥田卯吉氏が書いた「おれも江戸っ子、神楽坂」では

創業時の田原屋のこと
 ここで田原屋とあたしのことを振り返ってみよう。
 先々代は水道町で金魚の卸をしていた。一坪くらいに区分けした浅い池がいっぱいあって、それぞれの種類の金魚が飼われていた。
 やがて神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。昔、牛の肉を食べるのは敬遠された時代から、ようやく醒めた頃で、大いに流行し繁盛したのである。昔は長男を除く子供は分家せねばならぬしきたりがあったらしく、皆、別姓を名乗っている。
 時代の先端をゆく父たちは、五丁日の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った昧で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になっだ中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波さんぱ石が据えられていた。これが親父の自慢で「千疋屋などどこ吹く風」だった。
 昭和初期の当時は、万惣(万世橋)、高野(新宿)、紀伊国屋(青山・スーパーのパイオニア)西村(渋谷)などが揃っていて、常に業界の先頭に立って親睦を
はかっていた。ちなみに「果物は健康の母」なる標語は、父の発案で、組合に協力していた。

 また、その中の「親父と二晩かけて考案したフルーツみつ豆」では

 いまどきフルーツぬきのみつ豆など考えられないくらいだが、これは親父と二晩がかりで考え出したもの。世に言う「フルーツみつ豆」の始まりで、後にあんこをのせて「あんみつ」ともなった。
 当時のお客さんは、フルーツみつ豆を珍しかって、なかなかの好評だった。変色の早い桃、林檎、梨、枇杷などは甘露煮をしてタップリと、そしてメロン、苺、バナナ、サクランボ、西瓜、オレンジなど季節の香りを彩りよくあしらって見事なものとなった。

 夏目純一氏は『父の横顔』でこう書いています。父は夏目漱石です。

 やはり、小学一、二年の頃だったと思う。父は私達をつれてよく散歩に行った。当時新宿はまだ今のように発展してはいなかったが、神楽坂はとてもにぎやかで、夏の夜なぞ、夕方から団扇(うちわ)をもった浴衣がけの人達が、夜店をひやかしたり、往来の金魚屋をのぞいたりして仲々風情があったものだ。そんな通りをぶらつきながら、毘沙門さまのあたりまで来ると田原屋という料理屋があった。表は果実屋だが中に入ると洋食を食べられるようになっていて、それが仲々美昧かった。父は私達をよく、この田原屋へつれて行ってくれたのだが、前にすわっていて、いちいち、がちゃがちゃ音を立ててはいかん、他所(よそ)見をしないで前を向いて食べろとか、口にほうばってべちゃべちゃ喋るなと、そのやかましい事といったら、何々するな、何しちゃいかんの連続で、せっかくの御馳走もさっぱり食べたような気がしなかった。後で考えるといちいちもっともな事ばかりなのだが、その時はおいしい物もいいが、こういちいち何か言われたんでは、田原屋も願いさげにしたいなと思った。父は父で、せっかく連れて行ってやった小供達が自分の顔色を見たり、何か自分を敬遠したりする私達を感じて、淋しい気がした時もあったろうと思う。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

 毘沙門の向ふ隣。果物屋として昔から名の知れた店ですが、同時に山の手一の美味な洋食を食べさせることも、既に永い歴史になってゐます。店先を見ただけでは、どこで洋食をたべるのか一寸判らぬ位ですが、果物の間を抜けて奥へ行くと食堂があり二階は更に落付いた上品な食堂になってゐます。

 安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)で、マカロニは少量、カレーライスも少量、スイカの匙は貧弱だといわれてしまいます。

M   「もうその邉で手つ取り早く食べ物の評に移らうぢやあないか。マカロニチーズ(三十錢)のチーズは却々よいのを使つてゐるが、マカロニは少し分量を儉約し過ぎてゐる」
H   「特別カレーライス(五十錢)お値段も相常だが、流石にうまく、第一カレーがいゝや、それに小皿に盛つてくる副菜の洒落てゐること、大いに推賞したいね。がたゞ僕の方も量を少々増して欲しいと思ふ。この一皿で一食分にはどうも少な過ぎるから」
S   「西瓜(三十錢)の味は無類、但しこの貧弱な匙はどうです、頸が折れ相で、その方に氣を取られる。この頃は百貨店でも大抵特別の匙を添へるのだから」
小が武 「アイスクリーム(二十錢)は餘りほめられません。どうも果物屋のクリームは千疋屋にしても美味くないし、こゝも感心しない」
M   「果物屋ではシャーベットをお食べと云ふ洒落かね」

 牛込倶楽部が発行する「ここは牛込、神楽坂」別冊『神楽坂宴会ガイド』(1999年)です。

 単品でのおすすめ料理は、ハヤシライス(1800円)ビーフクリームコロッケ(1200円)ビーフカツレツ(2400円)など。ちょっと贅沢にというときには「牛ヒレ肉田原屋ふう煮込み」であるところのビーフストロガノフ(6000円)が最高。

 ここでハヤシライス(1800円)が出ています。四半世紀を越えて、物価1800円は2000円以上です。しかし、本当に2000円以上に相当する味があったのでしょうか。ビーフストロガノフはなんと6000円。う~ん。
 美味しいものなら量は少なくても価格は高くてもいい。しかし、本当に美味しいの? 美味しくない場合には、やがて消えていくのでしょう。

 最後は大河内昭爾氏の氏の『かえらざるもの』から。氏は武蔵野大学名誉教授で文芸評論家です。やっぱり悲しい。

神楽坂「田原屋」が消えた

 神楽坂「田原屋」が昨年姿を消した。いつも愛想よく声をかけてくれていたおばあさんが店に出られなくなったせいであろう。店の前を通っても欠かさず愛想をいってくれた。
 昭和四十年。公団住宅に激烈な競争をくぐり抜けて当選したというだけで、あと先かまわず東京西郊のコンクリートばっかりの殺風景なところに引越した。そしてわずか半年で退散、こんどはうって変わって石畳の路地と黒板塀のある、あこがれの牛込神楽坂近くに引越しが出来た。友人の持ち家の古ぼけたしもた屋の、隣家からは三味線の音も聞こえてくるという路地裏であった。大学以来なじみの界隈であるが、郊外暮らしが性にあわなかった分だけ、まさに蘇生のおもいをした。それ故家族をひきつれて神楽坂「田原屋」へ出むくのが、当時の私の最高の贅沢だった。「この店のなつかしさ サトーハチロー」という大ぶりなマッチ箱にデザインされた文字がのびのびと躍っていて、見事に私の気持を代弁してくれていた。
 月の五の日には毘沙門さんの植木市を中心とした門前市が全盛の頃で、子供の手をひいて雑踏の神楽坂歩きはいっそう楽しかった。
「田原屋」は階下が華やかな果物屋で、二階がレストランだった。濃厚な風味を誇ったハヤシライスがあって、それがいかにも洋食屋といった風情にかなっていた。私はかねてレストランならぬ「洋食屋」を証明するものとしてハヤシライスの有無ということを言っていたか、「田原屋」を根拠にそれを口にしていたような気がする。鳥羽直送と壁に貼りだした生ガキの知らせは季節の風物詩だった。
(「東京人」平成16年1月号)

 現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。ふぐ


本多横丁の路地|神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂通り(大通り)を入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地だと考えれば、全部路地になるのですが、ところがどっこい、違います。やはり路地は路面が狭くないとだめ。

本多横丁2

 本多横丁から東側に行くのは2本の路地があります。神楽坂通りに近い路地から「芸者新路」、「かくれんぼ横丁」です。

 最も近い道は「芸者新路」で、この路地から入っていきます。1990年後半、芸者新路の石畳はなくなりました。

本多-1

 遠い道は「かくれんぼ横丁」で、この路地から入っていきます。

本多-2

 西側には4本の路地があります。神楽坂通りに近い路地は「紅小路」で、その次の道は名前はなく、石畳になっています。

 その次の袋小路の道は「見返し横丁」、最後の袋小路の道は「見返り横丁」です。この4本は非常に短い。なお、東側と西側の6本はすべて私道です。なお、本多横丁と神楽坂通りは区道です。

 紅小路は神楽坂通りの「楽山」と「みずほ銀行」の間に入り、しばらくそのまま進み、それから右の直角に曲がって、本多横丁の「海老屋」とスペイン料理「エルプルポ」の間に出てきます。通りから離れていくと石畳がきれいです。神楽坂通りに入っていく場合、「楽山」も赤い色が使ってあるし、「みずほ銀行」も赤い壁の色で、ゆえに紅小路です。
本多1

 しかし、楽山は立替で赤い色ではなくなりました。現在の写真は…。

 見返し横丁と紅小路の間に「名無し」がありました。このまま、本多横丁から東に行くと南に曲がる狭い路地があり、その先は紅小路になります。実際は2017年までには、ここも石畳で覆われましたので、とりあえず「裏紅小路」としておきます。ただの「紅小路」になる可能性もあります。まあ、商店街がどう判断するかですが。

 以前はコンクリートで覆ってありました。

本多2

 見返し横丁は本多横丁の「鳥静」と「本多鉄〇てつまる横丁」の間に入り、昔はわずかにSに曲がりました。見返し横丁は見返り横丁よりも新しく出来て、言葉のあやでこんな名前になりました。石畳もあるし、高層マンションを真正面に見て、やがて袋小路になります。昔は兵庫横丁にでていくこともできました。



本多3

 見返り横丁は本多横丁の「ヘア  ラ・パレット」と「はじめの一っぽ」の間に入り、高層マンションを横に見て、旅館「和可菜」の裏で袋小路になります。これも昔は兵庫横丁まででていくことができました。

路地5

 地域の方から大きな助言をいれて、昭和12年の火災保険特殊地図では

火災保険特殊地図。都市製図社。昭和12(1937)年。

火災保険特殊地図。都市製図社。昭和12(1937)年。

 本多横丁の「地図」では「紅小路」や「見返し横丁」を堂々と書いています。ふーん、紅小路はいかにもそれらしい。いい名前をつけた『ここは牛込、神楽坂』の日本路地・横丁学会の坂崎、井上、阿久津先生とバウワウの林さんに大感謝。






大東京繁昌記|早稲田神楽坂11|カッフエ其他

文学と神楽坂

 加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)です。

  カッフェ其他
 カッフェ其他これに類する食べ物屋や飲み物屋の数も実に多い。殊に震災後著しくふえて、どうかすると表通りだけでも殆ど門並だというような気がする。そしてそれらは皆それぞれのちがった特長を有し、それぞれちがった好みのひいき客によって栄えているので、一概にどこがいゝとか悪いとかいうよりなことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフェといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされているようだ。

カッフェ コーヒーなどを飲ませる飲食店。大正・昭和初期には飲食店もありますが、女給が酌をする洋風の酒場のことにも使いました。
震災後 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日に起こりました。神楽坂の被害はほとんど何もありませんでした。
門並 かどなみ。その一つ一つのすべて。一軒一軒。軒なみ。何軒もの家が並び続いている。以上は辞書の訳ですが、どれももうひとつはっきりしません。
オザワ 一階は女給がいるカフェ、二階は食堂です。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

 下の図は加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』の挿絵です。古い「田原屋」の絵がでています。 田原屋の絵

(左)牛込區全圖 市區改正番地入 三井乙藏 著 三英社大正10年2月(右)牛込区名鑑. 大正15年版 小林徳十郎 編 自治めざまし新報社 大正14年

 田原屋とオザワとは、単にその位置が真正面に向き合っているというばかりでなく、すべての点で両々相対しているような形になっている。年順でいうと田原屋の方が四、五年の先輩で料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態〻食事に来るものも多いそうだ。いつも食べるよりも飲む方が専門の私には、料理のことなど余り分らないが、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはこゝで飲んだり食べたりするようだ。五、六年前、いつもそこで顔を合せる定連たちの間で田原屋会なるものを発起して、料亭常盤で懇親会を開いたことなどあったが、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物が食べられるというのも、一つの有利の条件だ。だがその方面の客は多くは坂上の本店のフルーツ・パーラーの方へ行くらしい。
 薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。少し遅れてその筋向いにカッフェ・スターが出来、一頃は田原屋と三軒鼎立の姿をなしていたが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年になるそうだ。田原屋とはまたおのずから異なった特色を有し、二階の食堂には、時々文壇関係やその他の宴会が催されるが、去年の暮あたりから階下の方に女給を置くようになり、そのためだかどうだか知らぬが、近頃は又一段と繁昌しているようだ。田原屋の小ぢんまりとしているに反して、やゝ散漫の感じがないではないが、それだけ気楽は気楽だ。

 新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」を見ると震災前

態〻 わざわざ。特にそのために。故意に。「〻」は二の字点、ゆすり点で、訓読みを繰り返す場合に使う踊り字です。大抵「々」に置き換えらます。
料亭常盤 昭和25年に竣工した本多横丁の常盤家ではありません。当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、常盤と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。
上宮比町
薬屋の尾沢 尾沢薬局からカフェー・オザワが出てきました。神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
 カッフェ・スター 牛肉屋恵比寿に変わりました。カッフェ・スターというのはグランド・カフェーと同じではないでしょうか?別々の名前とも採れますが。
恵比寿亭 現在山せみに代わりました。場所はここ。
散漫 まとまりのない。集中力に欠ける。

 この外牛込会館下のグランドや、山田カフエーなどが知られているが、私はあまり行ったことがないのでよくその内容を知らない。又坂の中途に最近白十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の山本のあることを忘れてはなるまい。

グランド 新宿区郷土研究会の20周年記念号『神楽坂界隈』の中の「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエーグランド」は牛込会館の下か右、あるいは地下にあったようです。現在はサークルK神楽坂三丁目店です。
山田カフエー 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエ山田」は現在の助六履物の一部にありました。
白十字堂 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「白十字喫茶」は以前の大升寿司にありました。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
パウリスタ風 明治44年12月、東京銀座にカフェーパウリスタが誕生しました。この店はその後の喫茶店の原型となりますが、これは「一杯五銭、当時としては破格値だったため、カフェーパウリスタは開店と同時に誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれるようになりました」(銀座カフェーパウリスタのPR)からです。なお、パウリスタ(Paulista)の意味はサンパウロっ子のこと。
山本 『かぐらむら』の「今月の特集」「記憶の中の神楽坂」で、「『山本コーヒー』は楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった」と書いてありました。同じことは「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」でみられます。詳しくはここで
 震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部クラブとして文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社けんゆうしゃ一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。紅葉山人に俳句を教わったとかで幽郊という号なんか持っているが、発句よりも天ぷらの方がうまそうだ。泉鏡花さんや鏑木かぶらぎ清方さんなどは今でも贔屓ひいきにしておられるそうで、鏡花の句、清方の絵、両氏合作の暖簾のれんが室内屋台の上に吊るされている。

プランタン、婦人科医、明進軒 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』では以下の説明が出てきます。

「歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはしめた。めずらしさもあって料理の評刊も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった」

 しかし、困ったことにこの資料の名前は何なのか、わからないことです。この文献は何というのでしょうか。 この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
 渡辺功一氏の半ページほど前に笠原伸夫氏の『評伝泉鏡花』(白地杜)の引用があり、

 その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。

と言っています。昭和12年の「火災保険特殊地図」で岩戸町24番地はここです。
明進軒
 また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。
肴町
 さらに1970年の新宿区立図書館著の「神楽坂界隈の変遷」でも

紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は、岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。

 さらに『東京名所図会』を引用し

 明進軒は岩戸町二十四番地に在り。西洋料理,営業主野村定七。神楽坂の青陽楼と併び称せらる。以前区内の西洋料理店は,唯明進軒にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に転ず。其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに会合し、当年の逸話また少からずといふ。

 結論としては明進軒は岩戸町二十四番地でしょう。
硯友社 けんゆうしゃ。明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月、東京大学予備門在学中の尾崎紅葉、山田美妙(びみよう)、石橋思案(1867‐1927)らが創立。同年5月から機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊し、小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)など、さまざまな作品を採用。紅葉、美妙が筆写した回覧雑誌、のちに印刷しさらに公売。
勇幸 場所は上の地図を見て下さい。この場所は今でも料理屋さんがたくさん入っています。鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われ明進軒は紅葉一門が行きつけの洋食店で、半古先生も門人などをつれてよく行れた。後年私が牛込の矢来に住んで、この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居るのに邂逅(めぐりあ)って、いにしえの二人の先生に代わって私が贔負(ひいき)にするようになったのも奇縁というべきであった。泉君(鏡花)も昔の(よしみ)があるので、主人の需めるままに私と寄せがきをして、天ぷら屋台の前に掛ける麻の暖簾(のれん)を贈った。それから彼は旧知新知の文墨の士の間を廻ってのれんの寄進をねだり、かわるがわる掛けては自慢にしていた。武州金沢に在った私の別荘に来て、漁り立ての魚のピチピチ跳ねる材料を揚げて食べさしてくれた。気稟(きっぷ)のいい男であったが、戦前あっけなく病んで死んだ。

なお、「旧地の近くに」と書いてあり、これは「明進軒の近くに」あったと読めます。


大東京繁昌記|早稲田神楽坂14|矢来・江戸川

文学と神楽坂


矢来・江戸川
 その頃のことを追想すると、私は今でも心のときめくような深い感慨をもよおさずにいられない。芸術座創立前後における、私達島村先生の周囲に集まった者等の異常な感激と昂奮とは別としても、私自身も一度は舞台に立とうかなどと考えて、同好同志の数氏と毎日その清風亭に集まり、島村先生や須磨子について脚本の朗読を試みたり、ゴルキイ「夜の宿」などを実際に稽古をしたりしたものだった。私はルカ老人の役にふんし、最早大分稽古も積んで、もう少しで神楽坂の藁店高等演芸館で試演を催そうとしかけたのであった。その高等演芸館が今の牛込館になったのであるが、当時そこには藤沢浅二郎俳優学校が設けられていたり、度々創作試演会が催されたりしたもので、清風亭は別として、この藁店の牛込高等演芸館といい余丁町坪内先生の文芸協会といい、横寺町の島村先生の芸術座といい、由来わが牛込は日本の新劇運動に非常に縁故の深い所だ。

矢来交番

芸術座 第一次は島村抱月(ほうげつ)、松井須磨子(すまこ)を中心とした芸術座。1913年(大正2年)、島村抱月松井須磨子とのスキャンダルがあり、坪内逍遥の文芸協会を脱退し、2人は相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。1918年(大正7年)11月、島村がインフルエンザ(スペイン風邪)で急死、2か月後には松井が後を追って自殺。芸術座は解散。
清風亭 この頃の清風亭は、赤城神社内ではなく、石切橋に新築しています。
ゴルキイ マクシム・ゴーリキー(Максим Горький)。ロシアの作家。生年は1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)。享年は1936年6月18日。
夜の宿 劇は「どん底」と同じ。1902年作。帝制末期のモスクワの木賃宿に住むどん底の人々の生活を描きました。1910年(明治43)12月の自由劇場の公演名は「夜の宿」。1922年2月、1回だけ「どん底」に変更。1936年9月、新協劇団があらためて「どん底」と題し、 以後、その名で呼ばれることになります。
ルカ老人 「どん底」の登場人物ルカは60歳の巡礼者。途中から現れてどん底にいる住人たちを一人一人勇気づけ、未来への希望を願うといいます。
藁店 神楽坂通りに神楽坂五丁目の南に曲がる道を上に登る坂道のこと。標柱もあり、「この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた」と書いてあります。詳しくはここで
高等演芸館 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では「藁店わらだなに江戸期から和良わらだな亭という漱石も通った寄席がありました。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを自費で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設。
牛込館 藁店の中腹にあった映画館。以前は高等演芸館・東京俳優養成所。
藤沢浅二郎 ふじさわあさじろう。俳優、劇作家、ジャーナリスト。生年は慶応2年4月25日(グレゴリオ暦 1866年6月8日)。享年は1917年3月3日。
俳優学校 1908年(明治41年)11月11日、藤沢浅二郎は自費で牛込に東京俳優養成所を開設。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では「第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった」。詳しくはここで
余丁町 坪内逍遥が新劇活動を行った場所は余丁町7でした。「坪内逍遥旧居跡(文芸協会演劇研究所跡)」と書いた標識板もあります。
文芸協会 坪内逍遥、島村抱月を中心に結成された文化団体。新劇運動の母体になりました。
横寺町 新宿区の北東部の町。北部は神楽坂6丁目に接し、北東部は岩戸町、南東部は箪笥町、南部は北山伏町、西部は矢来町に接する。主に住宅地。

 矢来の通りは最近見違えるほどよくなった。神楽坂の繁華がいつか寺町の通りまで続いたが、やがてこの矢来の通りにまで延長して、更に江戸川の通りと連続すべき運命にあるように思われる。消防署附近に、矢来ビルディングなるハイカラな貸長屋が建ち、あたりも大変明るい感じになった。そしてカッフエその他の小飲食店も沢山軒を並べて、この辺はこの辺だけで又一廓の小盛り場をなすが如き観を呈しているが、ここまで来ると、その盛り場は最早純然たる早稲田の学生の領域である。私の同窓の友人で、かつてダヌンチオの戯曲フランチェスカの名訳を出し、後に冬夏社なる出版書肆しょしを経営した鷲尾浩君も、一昨年からそこに江戸屋というおでん屋を開いている。私も時偶ときたまそこへ白鷹を飲みに行くが、そののれんを外にくぐり出ると、真向の路地の入口にわが友水守亀之助君経営の人文会出版部標木が、闇にも白く浮出しているのが眼につくであろう。仰げば近く酒井邸前の矢来通りに、堂々たる新潮社の四層楼が、わが国現代文芸の興隆発達の功績の三分の一をその一身に背負っているとでもいいたげな様子に巍然ぎぜんとして空高く四方を圧し、経済雑誌界の権威たる天野博士の東洋経済新報社のビルディングが、やや離れて斜に之と相対しているが、やがてこの二大建築の中間に、丁度三角形の一角をなして、わが水守君の人文会の高層建築のそびえ立たん日のあるべきを期待することは甚だ愉快である。

矢来の通り 早稲田通りのうち牛込天神町交差点から矢来町の終わるまでの通り。
寺町の通り 早稲田通りのうち神楽坂6丁目(以前は通寺町)に入る通り。
江戸川の通り 牛込天神町交差点から江戸川橋交差点までの通り。現在は「江戸川橋通り」、あるいは「奥神楽坂」。ここには明治・大正の呼び方を書いておきます。
神楽坂・矢来・江戸川 消防署 矢来町104にありました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」です。
矢来ビル… 場所は不明
ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。丈の高い襟という意味の英語「high collar(ハイカラー)」に由来します。明治時代に、西洋帰りの人や西洋の文化や服装を好む人が、ハイカラーのワイシャツを着ていたことから。
一廓 いっかく。一郭。一廓。一つの囲いの中の地域。あるひと続きの地域
学生の領域 戦前、早稲田大学は神楽坂に大きな力を持っていました。しかし、戦後になると、多くの早稲田学生は高田馬場や新宿に流れていきます。
ダヌンチオ ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D’Annunzio)。イタリアの詩人、作家、劇作家。生年は1863年3月12日。享年は1938年3月1日。
フランチェスカ 戯曲Francesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)は劇作家ダンヌンツィオの作品。ほかにはLa Città morta(死都、1898年)など。
冬夏社 日本橋区本銀町2丁目8番地にありました。
書肆 書物を出版したり、また、売ったりする店。書店。本屋。江戸期初め民間で出版活動がはじまってから明治初期までは、板元はんもと(版元、書肆しょし、本屋)が編集から製作、卸、小売、古書の売買を一手におこなっていました。
鷲尾浩 早稲田大学文学士でした。冬夏社を営んだため、自宅は冬夏社の住所と同じ。鷲尾浩氏の翻訳は『マーテルリンク全集』以外は、ほぼ性愛、性欲、色情に関するものばかり。『性愛の技巧』『性欲研究名著文庫』『風俗問題』『性慾生活』『色情表徴』『男と女』『恋愛発達史の新研究』『人間の性的撰択』『純潔の職能と性的抑制』『性的感覺』『性的道徳と結婚』『姙娠の心的状態』『愛と苦痛』『性教育と性愛の価値』『売淫と花柳病』。
江戸屋 尾崎一雄氏の『学生物語』(1953年)の「神楽坂矢来の辺り」には「矢来通リの、新潮社へ曲る角の曲ひ角を少し坂寄りの辺に、江戸屋といふおでん屋があった。鷲尾(のちに雨工)氏夫妻が経営してゐた。」と書いてあります。正確な場所は牛込区矢来町22番地です。
白鷹 はくたか。灘の酒です。関東総代理店は神楽坂近くの升本酒店でした。
水守亀之助 みずもりかめのすけ。大阪の医専を中退して、1907年、田山花袋に入門。1919年、中村武羅夫の紹介で新潮社に入社し、『新潮』編集部に。編集者の傍ら、『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と共に新潮三羽烏といわれました。生年は1886年6月22日。没年は1958年12月15日。享年は72歳。
人文会出版部 国会図書館で調べると、人文会出版部の以前の住所は矢来町3番目。この3番目は大きすぎて、わかりません。しかし、新規の番号に再制定され、新しい番号は矢来町66番地でした。この図(火災保険特殊地図、昭和12年)では階段から上に登ったところが66番です。下の図では現在の66番ですが、ちょうど新潮社のLa Kaguの大きなテラスだけになっています。 人文会
標木 ひょうぼく。目印にする木
酒井邸 江戸時代は小浜藩酒井家。明治時代は酒井邸になります。
新潮社 昭和12年の「火災保険特殊地図」によれば、この当時の新潮社は矢来町71番地だけでした。(現在は膨大な場所です)。しかし下の図では下の青い四角。
巍然 ぎぜん。高くそびえ立つさま。抜きんでて偉大な様子。
天野 天野為之(あまの ためゆき)。明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士。衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任。生年は1861年2月6日(万延元年12月27日)。享年は 1938年(昭和13年)3月26日。
東洋経済新報社 1895年に創立し、『週刊東洋経済』や『会社四季報』などを手がけました。1907年から1931年までは牛込区天神町6番地に社屋がありました。下図では左上の青い四角です。中央の青い四角は人文会出版部、下の青い四角は新潮社です。

新潮社など

牛込区全図、昭和5年

 江戸川通りの発展こそは、わが牛込においては殆ど驚異的である。早稲田線の電車が来ない以前は、低湿穢小なる一細民窟に過ぎなかったが、交通機関の発展は、今やその地を神楽坂に次ぐの繁華な商店街となし、毎晩夜店が立って、その賑かさはむしろ神楽坂をしのぐの概がある。矢来交番前に立って、正面遠く久世山あたりまで一眸いちぼうに見渡した夜の光景も眼ざむるばかりに明るく活気に充ちているが、音羽護国寺前からここまで一直線に来るべき電車の開通も間があるまじくそれが完通の暁には、更に面目を一新して一層の繁華を増すことであろう。

低湿穢小 土地は低く、湿気は多く、きたなく、小さい
細民窟 貧しい人たちが集まり住んでいる地域。貧民窟
久世山 くぜやま。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』では「八幡坂(はちまんざか)は音羽一丁目と小日向二丁目の境界にあたる。この坂の上は通称久世山とよぶ。小日向の高台で、江戸時代は下総国関宿の藩主久世氏の広大な下屋敷があったので久世山の名が起った」。久世山は小日向台地の1部です。
音羽護国寺前 最北部は交差点「護国寺前」。目白通りから南方に向かってくると音羽になります。
電車 都電(市電)のことで、「矢来下」停留場まで来ていました。
あるまじく あってはならない。
繁華 人が多く集まってにぎやかなこと

 それにつけて思い出されるのは江戸川の桜衰微である。これは東京名所の一つがほろびたものとして、何といっても惜しいことである。あの川をはさんだ両側の夜桜の風情の如き外には一寸見られぬものであったが、墨堤ぼくていの桜が往年の大洪水以来次第に枯れ衰えたと同様に、ここもまた洪水の犠牲となったものか、あの川の改修工事以来駄目になってしまった。その代りというわけでもないが、数年前に江戸川公園が出来て、児童の遊園地としてのみならず、早稲田や目白あたりの学生の好個の遊歩地としていつも賑っている。時節柄関口の滝の下の緑蔭下に、小舟にさおし遊ぶ者もかなり多いが、あれが江戸川橋からずっと下流の方まで、両側の葉桜の下の流れを埋めて入り乱れ続いていた一頃の如き賑いは見られないようだ。行く川の流れは元のままにしてしかも元の水にあらずか?

江戸川の桜 文京区の「江戸川公園」では次のようになっています。

明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで、石切橋から大曲まで、約500メートルの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、河川改修に伴い、昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退
墨堤 隅田川の土手
江戸川公園 関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園

江戸川公園

関口の滝 神田上水は、関口大洗堰で左右に分かれ、左側は上水、右側は余水の江戸川となり、関口から飯田橋までは江戸川、飯田橋から浅草橋までは神田川と呼びました。1965年(昭和40年)の法改正で、両川とも神田川に。『江戸名所図会』ではこの大洗堰は「目白下大洗堰」として紹介されています。1937年(昭和12)、改修時、大洗堰はなくなり、跡には大滝橋が架けられています。
緑蔭 木の青葉が茂ってできるひかげ。こかげ。季語は夏
葉桜 花が散って、若葉の出はじめた桜。季語は夏

坪内逍遥旧居跡

.坪内逍遥旧居跡jpg


新宿区指定史跡
坪内(つぼうち)逍遥(しょうよう)旧居(きゅうきょ)(あと)
(文芸(ぶんげい)(きょう)会演劇研(かいえんげきけん)(きゅう)所跡(じょあと))

所 在 地  新宿区余丁町七先
指定年月日  平成二十一年三月六日

 坪内逍遥は、明治二十二年(一八八九)から熱海の双柿舎(そうししゃ)へ居を移す大正九年(一九二〇)まで、余丁町に居住した。
 この約三十年間に坪内逍遥は、早稲田大学で教鞭を執る傍ら、雑誌『早稲田文学』の発行、シェークスピア作品の研究・翻訳等を行なった。
 また、後期の文芸協会を主宰し、明治四十二年(一九〇九)には敷地内に文芸協会演劇研究所を設け、基礎理論のほか、実際の演技指導が行われ、後の日本の演劇界を担う多くの人材を養成した。
 現在、自宅として使用した建物や演劇研究所は滅失しているが、この地は、日本近代文学及び演劇史上重要な場所である。
   平成二十一年三月

新宿区教育委員会

大東京繁昌記|早稲田神楽坂13|追憶

文学と神楽坂

追憶

私は毘沙門前の都寿司の屋台ののれんをくぐり、三、四人の先客の間にはさまりながら、二つ三つ好きなまぐろをつまんだ。この都寿司も先代からの古い馴染なじみだが、今でも矢張り神楽坂の屋台寿司の中では最もうまいとされているようだ。
 寺町の郵便局下のヤマニ・バーでは、まだ盛んに客が出入りしていた。にぎやかな笑声も漏れ聞えた。カッフエというものが出来る以前、丁度その先駆者のように、このバーなるものが方々に出来た。そしてこのヤマニ・バーなどは、浅草の神谷バーは別として、この種のものの元祖のようなものだった。

都寿司

都寿司 織田一磨作の神楽阪(1917)(「東京風景」より )には都寿司は次の絵のように載っています。

織田一磨:「東京風景」より 神楽阪(1917)

また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では現在の「福屋せんべい」の前に寿司がありました。

神楽坂と縁日市

郵便局 神楽坂6丁目にあった「音楽之友社別館」が以前の郵便局でした。
ヤマニバー 菊池病院のすぐ右、現在「水越商事KK」で、衣料品を売る「7Day’s」と書いた建物が昔のヤマニバーでした。細かくはここで
神谷バー 創業明治13(1880)年。日本初のバー。ずっと浅草1丁目1番地で。2011年(平成23年)、神谷ビル本館は登録有形文化財に

その向いの、第一銀行支店の横を入った横寺町の通りは、ごみ/\した狭いきたない通りだがちょっと特色のある所だ。入るとすぐ右手に閻魔えんまがあり、続いて市営の公衆食堂があり、昔ながらの古風な縄のれんに、『官許にごり』の看板も古い牛込名代の飯塚酒場と、もう一軒何とかいう同じ酒場とが相対し、それから例の芸術座跡のアパートメントがあり、他に二、三の小さなカッフエや飲食店が、荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋といったような家がごちゃごちゃしている間にはさまり、更にまた朝夕とう/\とお題目の音の絶えない何とかいう日蓮宗のお寺があり、田川というかなり大きな草花屋があるといった風である。そして公衆食堂には、これを利用するもの毎日平均、朝昼夕の三度を延べて四千人の多数に上るという繁昌振りを示し、飯塚酒場などには昼となく晩となく、いつもその長い卓上に真白な徳利の林の立ち並んでいるのを見かけるが、私はいつもこの横町をば、自分勝手に大衆横町或はプロレタリア食傷新道などと名づけて、常に或親しみを感じている。

 新宿区横寺町交友会『よこてらまち今昔史』(00年)の「昭和10年頃の横寺町」を見ていきます。横寺町

第一銀行支店 現在は「スーパーキムラヤ」です。これは、まあちょっと高級なスーパーです。上の図では最も右で、青灰色です。
お閻魔様 正蔵院のこと。丸形で色は濃紺色。
市営の公衆食堂 「神楽坂公衆食堂」です。薄緑色で。
飯塚酒場 現在は普通の家ですが、長い間酒場をやっていました。薄茶色です。
同じ酒場 新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(2000年)の「昭和10年頃の横寺町」では「1. 米屋 2.パーマネント 3. 公証人役場 4.目覚し新聞 5.マッサージ業 6.靴修理店 7.歯医者 8.若松屋 9.大工職 10.洋服店」で、昭和10年頃で「同じ酒場」はありません。若松屋が何を指しているのか分かりませんが、酒場ではないようです。若松家であればテキヤの1つ。テキヤとは縁日など人出の多いところなどで、居合抜き、独楽回し、手品、曲芸などの見世物を演じ、各種の薬品,商品を売る者。なお、横寺町の「もきち」(居酒屋)はこの時はまだ生まれていません。この横寺町の「もきち」は「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」にでています。
芸術座跡 座長の島村抱月が大正7年12月、スペインかぜで死亡し、大正8年1月、1か月後に主演女優の松井須磨子氏は自殺し、2人を失った芸術座もこれでなくなり、松井須磨子氏の兄、小林さんのアパート(芸術倶楽部跡)になりました。紫色
荒物… 「荒物屋染物屋女髪結製本屋質屋」は「荒物屋、染物屋、女髪結、製本屋、質屋」のこと。荒物屋は「家庭用の雑貨類を売る商売や店」で、別名は「雑貨屋」。以下のイラストでは赤で書いてあります。横寺町はあらゆる店があり、なんでも売っていたようです。
日蓮宗のお寺 円福寺です。黄色で。現在も円福寺はあります。
田川 花屋の田川は青色で。現在はありません。

私は神楽坂への散歩の行きか帰りかには、大抵この横町を通るのを常としているが、その度毎に必ず思い出さずにいられないのは、かの芸術座の昔のことである。このせまい横町に、大正四年の秋はじめてあの緑色の木造の建物が建ち上った時や、トルストイの『闇の力』や有島武郎の『死とその前後』などの演ぜられた時の感激的な印銘は今もなおあざやかに胸に残っているが、それよりもかの島村抱月先生の寂しいいたましい死や、須磨子の悲劇的な最期やを思い、更に島村先生晩年の生活や事業やをしのんでは、常に追憶の涙を新たにせざるを得ないのだ。

芸術座 げいじゅつざ。島村抱月、松井須磨子を中心とした第一次芸術座と、水谷竹紫、水谷八重子を中心とした第二次芸術座があります。これは第一次芸術座のほう。
トルストイ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич ТолстойLev Nikolayevich Tolstoy)。帝政ロシアの小説家、思想家。生年は1828年9月9日(ユリウス暦8月28日)。没年は1910年11月20日(ユリウス暦11月7日)。
闇の力 愚かさにより父殺し・嬰児殺しへと転落する人間を描いた戯曲。須磨子はアニーシャ役で、裕福な百姓の妻です。
死とその前後 大正7年10月、須磨子は有島武郎の「死と其(その)前後」の妻役で好評を博しました。
印銘 いんめい。 公私の文書に押して特有の痕跡(印影・印痕)を残すこと。
傷しい死 島村抱月はスペインかぜ(新型インフルエンザ)で、大正7年11月5日に死亡し、翌8年1月5日、松井須磨子氏は自殺します。

私の追想は更に飛んで郵便局裏の赤城神社の境内に飛んで行く。あの境内の一番奥の突き当りに長生館という下宿屋があった。たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てて小石川の高台を望んだ静かな家だったが、片上伸先生なども一時そこに下宿していられた。大きなけやきの樹に窓をおおわれた暗い六畳の部屋だったが、その後私もその同じ部屋に宿を借り、そこから博文館へ通ったのであった。近松秋江氏が筑土の植木屋旅館からここの離れへ移って来て、近くの通寺町にいた楠山正雄君と私との三人で文壇独身会を発起し、永代橋都川でその第一回を開いたりしたのもその頃のことだった。

赤城神社 現在は赤城元町1-10。700年にわたり牛込総鎮守として鎮座しています。
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。しかし、清風亭はどこにあるのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
博文館 はくぶんかん。東京都の出版社。明治時代には富国強兵の時代風潮に乗り、数々の国粋主義的な雑誌を創刊。取次会社・印刷所・広告会社・洋紙会社などの関連企業を次々と創業し、戦前は日本最大の出版社に。
筑土の植木屋旅館 近松秋江がここに来る前は筑土の植木屋旅館だったといいます。場所は不明。筑土とは「津久戸」なのか、「筑土八幡町」なのか、合わせてそう呼んだのか、わかりません。
楠山正雄 くすやま まさお。1884年11月4日 – 1950年11月26日。演劇評論家、編集者、児童文学者
永代橋 都川えいたいばし。隅田川にかかる橋で、地上には永代通り、地下には東京メトロ東西線が通っています。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。実際は巨大な地図が東京紅團(東京紅団)
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ にあります。
都川 都川も上図で。

その長生館の建物は、その以前清風亭という貸席になっていて、坪内先生を中心に、東儀土肥水口などの諸氏が脚本の朗読や実演の稽古などをやって、後の文芸協会もとを作った由緒ゆいしょづきな家だったそうだ。そしてその清風亭が後に江戸川べりに移ったのだが、実際江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正二年の秋、島村先生が遂に恩師坪内先生の文芸協会から分離して、松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。

清風亭 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋になりました。しかし、赤城神社内で清風亭はどこあったのか、いろいろ説がありますが、細かくはここで
貸席 料金を取って貸す座敷
土肥 土肥春曙。どひしゅんしょ。明治2(1869).10.6.-1915.3.2。俳優。1890年東京専門学校 (現早稲田大学) 文科の第1期生として入学。卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、1901年川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、翌 06年文芸協会が設立されると技芸監督、中心俳優として活躍。
水口 水口薇陽。びよう。1873-1940。05年坪内逍遙の脚本朗読会に加わって易風会を興し、上演運動を行う。
文芸協会 1906年、坪内逍遥、島村抱月が中心で、演劇のみならず宗教・美術・文学など広範な文化運動を目的として発足。09年演劇研究所を設立して演劇団体に。1913年、解散。
江戸川の清風亭 清風亭は石切橋に転移しました。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」(三交社)では「この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になる」と書いてあります。石切橋は
石切橋
古蹟 こせき。古跡とも。歴史に残るような有名な事件や建物などのあと。遺跡。旧跡。古址こし

里見弴|二人の作家

文学と神楽坂

 まったくすごい殴打事件でした。たとえば

 殴打事件は紅葉の何回忌だったか、とにかく衆人環視の中で鏡花が興奮して無抵抗の秋声をぽかぽか殴り付けたそうです。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2478098.html

  ええー、うそでしょう。尾崎紅葉の問題で泉鏡花徳田秋声を殴るなんて。
  でも、ほかの例を見ても同じです。

 秋聲が紅葉先生の死因を茶化したとかいう理由で鏡花が秋聲を殴打する事件などなど、いろいろ確執があってふたりの仲はよくなかったそうです。それでも晩年和解しています。( http://d.hatena.ne.jp/cho0808/20121118/p1 )

 ほんとうなの。やがてわかってきます。嘘が少し大きくなっていくのは仕方ないし、「和解」も「和解」なんだ。それでは、昭和25年、里見弴氏が満58歳に書いた、泉鏡花氏が徳田秋声氏を殴る「二人の作家」の始まりです。

里見弴

里見弴

 二十歳(はたち)(だい)で「白樺(しらかば)」に幼稚な作品を載せ始めたころの私からすれば、徳田秋声も、泉鏡花も、ともにひと干支(まわり)以上年長(としうえ)の、はるか彼方(かなた)鬱然(うつぜん)と立っている大家だった。この二人は、明治初葉に二年違いで北陸の都会に生を()けて、同窓の幼な馴染(なじ)みでもあり、上京後は、当時の小説家の大半を糾合、結束したかの観ある硯友社(けんゆうしや)の頭領で、かつまた読書子の人気の焦点となっていた尾崎紅葉の門下に加わり、一つ(かま)の飯を(わか)ち合った仲でもあったが、作風も人成(ひととなり)も、まるッきり異なったもの、――正反対とも云えるもののように思われたし、そのせいか、永らく交わりが()たれているという(うわさ)にも間違いはなさそうだった。尾崎紅葉が、行年三十七歳という夭折(わかじに)をしたあと、次第に衰退の色を濃くしつつあった硯友社一派の口マンティシズムから、いち早く離脱して、轗軻不遇(かんかふぐう)(かこ)っていた秋声も、日露戦役後、自然主義勃興(ぼつこう)の気運に迎え()れられて、国木田独歩田山花袋(たやまかたい)島崎しまざき藤村(とうそん)らと肩を並べ、じみ(、、)ながら、文壇の主流に堅実な位置を築いてしまった。一方、尾崎紅葉の愛弟子(まなでし)ではあり、年少にしてつとに鬼才の名をほしいままにしながら、幾多の傑作を発表し、二つ年嵩(としかさ)の秋声などを、はるか後方(しりえ)瞠若(どうじやく)たらしめて来た鏡花は、依然一部の愛読者によって偶像化されるほどの人気は保っていたにもせよ、一種傍系的存在として、とかく文壇人からの蔑視(べつし)は免れなかった。――「スバル」第二次の「新思潮」「三田文学」それに私たちの「白樺」などが、そろそろ世人の注目を惹ひくようになったのが、ちょうどそういう時代だった。

鬱然 物事が勢いよく盛んな様子
北陸の都会 石川県金沢市です。
硯友社 1885(明治18)年、尾崎紅葉が山田美妙・石橋思案らと結成した文学結社。同年五月、機関紙「我楽多文庫」を発行。同人に巌谷(いわや)小波(さざなみ)、広津柳浪、川上眉山らが参加、紅葉門下に泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声らが加わり、明治20~30年代の文壇中心勢力となり、硯友社時代を作った。
轗軻不遇 世に受け入れられず行き悩む状態。事が思い通りにいかず行き悩み、ふさわしい地位や境遇に恵まれないこと
自然主義 文学で、理想化を排し人間の生の醜悪・瑣末な相までをも描出し、現実をありのままに描写しようとする立場。19世紀後半、フランスのゾラ、モーパッサンなどが代表。日本では明治30年代の島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥らが代表。
瞠若 どうじゃく。驚いて目をみはること
スバル 文芸雑誌。明治42年(1909)1月~大正2年(1913)12月まで。森鴎外を中心に石川啄木、木下杢太郎、吉井勇らが発刊。詩歌中心で、新浪漫主義思潮の拠点に。
新思潮 文芸雑誌。1907年(明治40)小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。第二次(1910年)以後は、東大文科の同人雑誌として継承さ。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
三田文学 文芸雑誌。明治43年(1910)5月、慶応義塾大学文学部の三田文学会の機関誌として、永井荷風らを中心に創刊。耽美的色彩が強く、自然主義文学系の「早稲田文学」と対立した。久保田万太郎・佐藤春夫・水上滝太郎・西脇順三郎らが輩出。断続しつつ現在に至る。
白樺 キリスト教、トルストイ主義などの影響を受け、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げ、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、有島武郎、有島生馬など学習院出身者

 とはいえ、この、同年輩、同郷、同窓、同門の、二大家の間に横たわる(みぞ)については、所詮(しよせん)、私には、埋まる望みがもてなかった。鏡花は、「師を敬うこと」文字通り「神のごとく」で、二階の八畳なる書斎の違い(だな)には、常に紅葉全集と、キャビネ型、七分身の写真が飾ってあり、香華(こうげ)や、時には到来の名菓とか、新鮮な果実(くだもの)とかの供えられているのを見かけることもあった。たぶん、朝夕の礼拝も欠かさなかったことだろう。みだりに話頭に登せず、語る場合は「横寺町の先生」と呼んだし、式服の紋には、(* )氏香の図のうち「紅葉(もみじ)()」を用いていた。目前(まのあたり)に見られる師弟の情誼(じようぎ)の、おそらくはこれが最後のものだろうと思われ、私の性分としては、批判を絶した敬虔(けいけん)の気に撃たれた。
 これに反して、秋声は、「紅葉さん」と呼び、少しの悪意も感じられはしないが、人間同士、飽くまで対等の口調で、――どうも、ひどい食いしんぼでね、好きな菓子なんかが出ると、一遍に五つも六つも平らげちまうんだもの、あれじゃア、君、胃癌(いがん)で死んでも仕様がないさ、などと、(あわ)れむとも、(あざけ)るともつかない、渋いような笑い顔をする。ここにも、しかし、決して反感の(いだ)けない、飄々(ひようひよう)たる(なご)やかさはあった。
 * 源氏香  「源氏物語」五十四帖にもとづいてつくられた組香のこと。それぞれの帖の題名に応じて縦ないし横に五線を画し、これによって図を作る。紅葉賀はその図柄の一つ。

香華 仏前に供える香と花
到来 他からの贈り物が届くことか、その物品
情誼 じょうぎ。真心のこもった、つきあい
飄々 考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子

 馬鹿正直者の私などは、いつごろ、どこでだったかは忘れたが、秋声から、――君たちはしょッちゅう泉と会ってるようだが、どうだろう、ひとつ、われわれが仲直りするような、うまい機会でもつくってもらえんもんかね、と云われ、一考の余地もないように、――それは、あなた方のどちらかが、もういけないとかなんとかいう時の、枕頭(まくらもと)ででもなければ、むずかしいんじやアないでしょうか、と、露骨な返答をしたことがある。――ずいぶんひどいことを云う人だね、と、秋声は、笑い顔ながらも、少しは(うら)めしそうだった。たぶんその後のことだったろう、某綜合(そうごう)雑誌社の社長から、こんな話を聞いたこともあった。何か新たな出版計画だったかに事寄せて、秋声と二人で鏡花を訪ね、たいそう(むつ)まじく懐旧談など(はず)んでいるうち、事たまたま紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、(なか)(はさ)んでいた径1尺あまりの(きり)(どう)丸火鉢(まる)()び越し、秋声を押し倒して、所嫌(ところきら)わずぶん(なぐ)ったのが、飛鳥のごとき早業(はやわざ)で、――泉さんって人は、文章ばかりかと思ったら、実に喧嘩(けんか)も名人ですなア、と、声はたてず、唇辺(くちもと)だけを笑った恰好(かつこう)にするいつもの癖を出して、――いやア、驚きましたよ。やっと引き分け、自動車に押し込んで、そのころ秋声の行きつけの「水際(みずぎわ)の家」というのへつれて行ったが、その道中も、先方へ着いてからも、見栄(みえ)も外聞もなく泣かれるので、ほとほともてあました、という話だった。この社長なる人は、豪放な見かけによらず、不思議なくらい芸術家に対する敬重の念が厚く、そんな話にも、少しも軽佻浮薄(けいちようふはく)の調子は感じられなかった。口止めはされないでも、めったな人には話せないという重味さえかかって来た。

一考の余地もない 少しも考えるに値しない、顧慮・検討する余地はまったくない
枕頭 まくらもと。寝ている人の枕のあたり。「死亡した場合には」と考えたい。
社長 改造社長の山本実彦です。
胴丸火鉢 丸太をくりぬいて、中に灰や炭火をいれ、手先を暖めたり湯茶を沸したりするもの。
飛鳥 ひちょう。空を飛ぶ鳥。非常に動作の速い様子
水際の家 水面が陸地と接している所に建てた家。ここでは実際に中洲にあった「水際の家」という名前の待合。
軽佻浮薄 けいちょうふはく。軽はずみでうわついている様子

 実際にあったのですね。また谷崎潤一郎氏も『文壇昔ばなし』で同じようなことを書いています。

 或る時秋聲老人が『紅葉なんてそんなに偉い作家ではない』と云ふと、座にあった鏡花が憤然として秋聲を擲りつけたと云ふ話を、その場に居合はせた元の改造社長山本實彦から聞いたことがあるが、なるほど鏡花ならそのくらゐなことはしかねない。私なんかももし紅葉の門下だったら、必ず鏡花から一本食はされてゐたであらう。

 では元の「二人の作家」にもどります。

 半年あまりして、秋声の発表した「和解」という短篇は、「お家の芸」ともいうべき、さらさらと身辺の瑣事(さじ)を書き流したような、得意の作風だったが、題材としては、(* )汀の死に(から)んでの、鏡花との交渉がとりあげられていた。その終りを、――鏡花が、弟のことでいろいろ世話になった礼に、たくさん土産物(みやげもの)を持ち込んで来て、自分が誰よりも紅葉に愛されていたこと、秋声は客分として誰よりも優遇されていたのだから、少しも不平を並べるところはないはずだということなど、独特の話術のうまさで一席弁じ立てて、そこそこに帰って行ったので……以下原文を()りると、「私はまた何か軽い当身を食ったような気がした」と結んであった。旧友の厚意を、そのまま()()()には受け取れないで、およその費用を()()ってみて、それ相応の礼物を持参し、綺麗(きれい)に決済をつけてしまわなければ気のすまないような、小心翼々たる鏡花の性分くらい、「苦労人」をもって自他ともに許す、しかも、何年か一つ(かま)の飯も食った仲の秋声に、わかっていないはずはないのだが、やはりその他人行儀には(かん)を立てさせられたのだろう、「軽く当身を食ったような気持」という、さも淡泊らしい言葉のなかにも、かなりの反感が(うかが)われないことはなかった。どういうつもりで「和解」という題を選んだのか、結末の一句が、その言葉のもつ和やかさを立派に踏み(にじ)っていた。
 何か少しでも金のかかりそうな話となると、――あなた方にお厭いはなかろうけれど、われわれは、とてもこのほうで、と、親指と人さし桁とを丸く(わが)ねてみせるような鏡花が、恩師に刃向う仇敵(きゆうてき)とも感じられている秋声に、弟の発病から思わぬ世話になったことを、心(ひそ)かに忌々(いまいま)しがり、右から左に物質で賠償し、毛ほども気持の上での負担など残すまいと焦慮(あせ)る、これは、ほかにどう変えようもない当然の帰趨(きすう)だった。森羅万象(しんらばんしよう)あるがままに観、そのあり形のままに写す、という、国産自然主義の極意に徹したように思われた秋声でも、生きているかぎり感情は殺せず、意識下はともあれ、意識するかぎりでは、重態に陥った旧友の弟のために出来るだけの親切を尽したつもりの、いい気持でいたところへ、手切金じみた返礼をされたのでは、さすがに、心平らかでなくなるのも、これまた当然の心理というべきだった。
 * 斜汀 泉斜汀(1880-1933)。泉鏡花の実弟。金沢に生まれ、兄とともに紅葉門下となった。代表作「深川染」。

当身 あてみ。古武術等の打撃技の総称
帰趨 帰着する。ゆきつくところ

 最後は鏡花が死亡する、その瞬間です。里見弴の文章もこれで終わりです。

 細君はもとよりのこと、国男、臨風、雪岱、万太郎、私の別宅に住む女、三角、私、それだけが、枕辺ちかく座を占めたと思う途端に、素人目(しろとめ)にもはっきりわかって、息が絶えた。(中略)
 午後三時少し前、目も眩むばかり照りつけた往来に出ると、むこうから、急ぎ足に秋声が来た。
「どう?」
「たった今……」
 キリキリと相好が変って、
「駄目じゃアないか、そんな時分に知らせてくれたって!」
 (むち)うつごとき(はげ)しさだった。
「どうも、すみませんでした」
 なんの思議するところもなく、私の頭はごく自然にさがった。

松井須磨子|長田幹彦『青春時代』

文学と神楽坂

長田幹彦 長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、旅役者になり、各所を放浪。小説「みお」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。この『青春時代』は昔を思い出して昭和27(1952)年に書いたものです。そこに女優の「須磨子の思い出」という1章がありました。

僕は今でもときどき、いつたい松井須磨子という女優は、ほんとのところどんな女だつたんだろうと、ひとりで首をひねることがある。今までに僕が逢った幾千幾百の女人のあるなかでとにもかくにも、どうしても忘れることの出来ないひとりであるというだけでも彼女が何かしらそれに価する何ものかをもつていたことは確実である。
 たしかにただの平凡な女じやなかつた。いかに事情がどうあろうと、あれだけの名声を博した人気女優が首をつツて死ぬなんていうことが、仇やおろそかに出来るものじやない。これは同じような死にかたをしたあの声楽家の関屋敏子と同様、大正昭和の芸術史に特筆大書さるべき存在であつたことは、私といえども是認しないわけにはいかない。
 人は須磨子を語る際に、必ず磨かれたる野性というようないいかたをする。野性ということは、とりもなおさず新鮮な田舎ものということである。これもたしかに一面のみかたには相違ないが、僕は決して磨かれたとは思わない。そんな妥協性のある女ではなかつた。彼女は初めて舞台をふんでから死ぬ日まで、生地のままの野性一本で通してきたのだ。舞台以外の生活では、それがむき出しに出ていた。およそ「女優」なんていう範ちゆうから遠くはなれた、洗練されない、素材のままの田舎ツペであつた。むしろその点に、敬意と魅力とを感じている。

松井須磨子 まついすまこ。1886(明治19)年3月8日-1919(大正8)年1月5日。新劇女優。
首をつる 松井須磨子氏の死亡は満33歳、死因は縊死です。河竹繁俊氏の「逍遙、抱月、須磨子の悲劇」では

 須磨子は明治座の舞台を、初日だけ大谷の好意で預かってくれたので休み、葬儀の日の二日めからは舞台をつとめ、観客の同情をひいた。でも、ともすれば舞台で泣いてしまうので、(二世)猿之助が「舞台ですよ」と一度たしなめたら、とめどもなく泣かなくなったとは、猿之助の直話である。
 当然ながら、芸術座は動揺した。須磨子自身の不安動揺はさらに大きかった。野性ぶりも影をひそめて、あるしおらしささえ、人々の目についた。が、松竹との提携という条件のためには、東京を打ち上げると、翌月は横浜伊勢崎町の横浜座と横須賀の横須賀座とで「生ける屍]と「帽子ピン」とを、翌年は一月一日から東京の有楽座で、中村吉蔵作の「肉店」とメリメ原作・川村花菱脚色の「カルメン」とを開演しなければならなかった。が、その月の五日の明け方須磨子は芸術クラブの舞台裏の小道具部屋で、縊死して抱月のあとを追ったのであった。

仇やおろそか あだおろそか。あだおろそか。他人の恩恵や物の価値を軽視するさま。いいかげん。
関屋敏子 せきやとしこ。生年1904年3月12日。享年1941年11月23日。声楽家、作曲家。自宅で睡眠薬により自殺した。
妥協性 対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること

 大正初期の夜11時、長田幹彦氏は京都の三島亭で松井須磨子氏と島村抱月氏を待っていました。1座の公演が終わって、やがて2人がやってきて、舞妓も加えて宴会が始まります。

そこへ例の大久保さんが、私の声がするといつて、先隣りの座敷から盃を持つて遊びにやつて来た。大久保さんは酔うと裸踊りをやる癖があつた。真白な餅肌なので、それが自慢であつた。(略)
 須磨子は大胆に大久保さんの裸体を検討しなから、
『ねえ、長田さん、私、あんなきれいな肌をした男の人、はじめて見たわ。さぞ芸妓さんにもてるでしようね。あんなことをして恥ずかしくないのかしら』
と、まんじりともせずに一物ばかり見入つている。女は二十四五になっても、あんな眼で男の体をみることはなかなか出来るもんじやなかつた。
『いや、大久保君という男は、有名な色事師でね。あすこに坐っている松菊つていう年増芸者がいるでしよう。あれとそうなんだよ。いつもこの手で女を参らせるのさ。』
 と、耳打ちをすると、須磨子は島村先生の方をみながら、
『そこへいくと先生なんか、とても貧弱ね。ごつごつしてるわ。干ものみたい。ほゝゝゝ』
 と、変に含み笑いをする。
 僕はまえからそう感じていたが、須磨子はその点ではいつも島村先生に不満を感じていたらしいのである。島村先生はああいつた寡默な、どつちかというと陰性な、内省的な人柄であつたが、しかしそれだけに発揚性でない情熱はずいぶん激しかつた。教授生活から開放されて、いうところの芝居ものになられたのだから、一時は失礼ながらかなり脱線もしていられた。
 酒数行に及ぶと、丁度春に眼覚めた中学生のような稚拙な態度で、われわれバツトボーイどものワイ談に口を入れられる。それが変にいじらしい感じだつた。私たちは人間が古風にできあがつているから、早稲田の講堂であの七むずかしい美学の講義を聴聞した先生に、いかに何んでも娼妓をとりもつなどという悪ふざけはいたしかねた。

先隣り さきどなり。隣のもう一つ先。
長田 長田幹彦のこと。この文章の作者
島村 島村抱月。しまむらほうげつ。生年1871年2月28日(明治4年1月10日)。没年1918年(大正7年)11月5日。文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人。
発揚 はつよう。精神や気分を高めること
芝居もの しばいもの。芝居者。役者。俳優。劇場で働く人。劇場関係者。
稚拙 ちせつ。幼稚で未熟なこと

 やがて午前2時を回り、このまま、みんなで雑魚寝をしようと話がまとまります。

須磨子は何と思つたか寝たまま、ついと手をのばして、そこの盆のうえへのせてあった林檎を鷲づかみにすると、皮もむかずにがじがじかじりだした。みるみるうちに芯ものこさずきれいに平げてしまう。
 舞妓や芸妓は眼をまるくしてみていたが、ひとりが、
『林檎おあがりやすのやつたら、むいてもろうてきまほか』
 と、いうと、須磨子は、不機嫌な調子で、そつぽを向いたまんま、
『私、歯が丈夫だから、皮ごとたべないと食べた気がしないのよ。長田さんのバカ。長田さんなんてダメよ。こんな窮屈な遊びをして、お金ばかりつかつて、何が面白いんだろう。大久保さん、私、好きよ。よつぽどあの方が自然でいいわ。ねえ、先生、誰が何んてつたつて、いいじやないの。さ、こつちを向いてよ』
 と、舞台のカルメンそつくりのわが儘いつぱいな声でずけずけいう。声の調子まできつくなつてくる。
 舞妓たちはすつかりおびえて、僕のそばへ寄つてきながら、
『長田はんのバカやいうてはりますえ。きついこといわはるえな。あんな女優はんてあるやろか』
 と、ひそひそささやきあつている。
『そうかてな、あて、こないだ大吉はんでしらしてもろた。その時には、須磨子はん男はんみたいに、あてを廊下でぎゆうツと抱きしめはつた。口臭いの。うち、あんなんいややわ』
『ほゝゝゝゝ。いやらしやの。先生とーしよに寝たりしてからに。行儀わるいな』
 もうさんざんである。(中略)
 須磨子はしまいにはあぐらをかいて、
『ねえ、長田さん。今夜あたし、京都の舞妓と二人つきりで雑魚寝したいんだけど、いくらお金がかかるでしよ。十円じや、だめかしら』
『いや、そういう風趣は、松井君にやわからんよ。ムダだからよしたまえ』
『ううん、分るわ。わかつてよ。ぜひそうさせて。舞妓を買うのよ。女だつて買えるでしよ』
『そりや君が寝たいといえば、どんないい舞妓だつて、寝てくれるよ。いまの君の人気だもの』
『そうかしら。ただで』
『金のことをいうなよ。ただし夜の十一時から先の問題は島村先生のお許しか出ないとうつかりしたことは出来ないからね。はゝゝゝゝ』
 島村先生もだいぶきこしめしたので、眼がうるんでいて、例のうすい鬚でふふと笑いながら、
『そりや松井君、長田君に頼んでおけば、上手にアレンジしてくれるさ。電話ひとりで解決がつくですよ』
 須磨子は、ヤマのはいつた雪輪か何かの帯の間から、の三つ折の紙幣入を出してみせながら、
『お金ならあるわよ』と、いこじになってまたビールを飮む。
 あんなにやたらと酢味噌をたべて、ビールを呷つちやきつとあとで気持が悪くなるだろうと思つてみていると、果たして船が下りにかかると、ゲコゲコやり出した。
 島村先生は心配して、
『どうだね。大丈夫かね』
 先生はやさしく介抱してやる。須磨子はまるで駄々ツ子のように酢味噌のはさまつた齒でイイツをして、
『あたし、先生きらいツ。ゲツ。醉ってなんかいやしないわよ。そんなにしつツこくしなくたりて行儀よくしてよ。ゲツ。長田さん、先生つたらね、とても行儀のことうるさくいうのよ。だって仕方がないじやないの。ゲツ。あたしやどうせ信州の田舎で育つたんだもの』
『そうだ。巴御前と戸籍が同じなんだからなあ』
 僕がひやかすと、とたんに、我慢が出来なくなつて、須磨子は肩をくツつけていた僕の膝へげろげろツと勢よくもどした。

大吉 料亭の1つ
雪輪雪輪 ゆきわ。文様の名前。六角形の雪の結晶を円形に表したもの
 しま。縞模様。何本もの線で構成された文様の総称
呷る あおる。酒や毒などを一気に飲む。仰向いてぐいぐいと飲む
巴御前 平安時代末期、信濃国(別名信州)の女性の武将で、信州で育ったという。須磨子も信州で育っている。

 結論はこうなります。

僕のみる限り須磨子という女優は、性格、容貌、肉体、教養、その他あらゆる角度からみて、正直のところ六点二分以上はやれない女だった。もとより生活態度にしたつて映画に出てくるような尤もらしい意義づけは噴飯の至りだし、島村先生とのいきさつだつて、断然あんな「文学」めいたもんじやなかった。
 ところがひと度舞台に立つとグラフはピンとはねあがつてくる。舞台一面に彼女ならではかもし得ぬ雰囲気がほうはくとしてきて、実に惚れぼれするような女になる。役柄の発散する情熱の霧が()()()()として観客を魅了してしまう。したがって下積になつた相手役の努力や、彼女を育成した人たちの苦労は大変なものであつた。まさに一将功成つて万骨枯るである。

噴飯 がまんできずに笑ってしまうこと。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄
ほうはく 磅礴、旁礴、旁魄。混じり合って一つになること
あいたい 靉靆。雲やかすみなどがたなびいているさま
一将功成つて万骨枯る いっしょうこうなってばんこつかる。曹松の詩『己亥の歳』に由来。一人の将軍が名を上げた影には、無名のまま犠牲となった一万人の兵士が骨と化して戦場にさらされているという意味から。

『詩人』|金子光晴

文学と神楽坂

金子光晴

 金子かねこ光晴みつはるは、詩人で、暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科も東京美術学校日本画科も慶應義塾大学文学部予科もすべて中退です。
 生年は1895年(明治28年)12月25日。没年は1975年(昭和50年)6月30日で79歳。

 大正10(1921)年1月末(満25歳)に欧州から日本に帰国しました。

 しかし、ぼつぼつと、友人達と再会の顔を合わせ、むかしの生活がまたじぶんのものとして戻ってくるような思いになっていった。送別会をやってくれた時の、ほぼおなじ連中が、歓迎会をしてくれた。その歓迎会は、やはり、神田の牛肉屋だった。福士幸次郎が、サトウ・ハチローをつれてきていた。ハチローはまだ十八歳の少年で、赤いジャケツを着て、神妙にひかえていた。メンバーは、惣之助富田佐佐木茂索平野威馬雄井上康文中条辰夫等で、その人たちの顔をみて僕は、はじめて、本当に日本へかえってきたなと納得した。

    処女詩集の頃

 歓迎会がすんでから、福士、富川、井上、サトウの四人といっしょに、神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた。二階の八畳で五人は、殆ど夜通ししゃべってから、ゴロ寝をした。彼らは僕がヨーロッパで、どんなしごとをしてきたかに、多少の興味があるらしかった。僕は、蒐集品でもこっそりみせるように、『こがね蟲』のノート、まだ推敲の余地のたくさんのこっている一冊を、富田にみせた。まだ『こがね蟲』という題名はなく、紺色の裏紙の二百枚位を綴ったノートだった。富田は、しばらくそれをみていたが、
「こりゃあ、君、アルベール・サマンじゃないか。福士君にみせた方がいい」
と言って福士にわたした。社会詩人の富川の心では、間男の子が生れたようなあて外れだったのだろう。『太陽の子』で社会詩人とも有縁(うえん)におもわれていた福士は、丁度、その頃から、フランス伝統派の批評家ブルンティエールに傾倒しはじめていて、僕の『赤土の家』には不満だったので、富田から渡された詩稿を、はじめは迷惑そうに手にとってめくっていたが、そのうち、一人、横の方へ行って熱心によみはじめた。
「金子君、これは、もう一度ゆっくりよませてもらいたいから、一日貸して……」(中略)
 一日おいて、福士は、ハチローをつれて、僕一人のところへまたあらわれた。
「この詩は、君、すばらしいよ。日本でははじめての試みだとおもう。富田君は、サマンと言ったが、サマンじゃない。手法は、パルナシアンだと思う」
 福士はさすがに目がたかかった。僕のパルナシアン巡歴の痕跡をみぬいていた。


送別会 1918(大正7)年12月、養父の友人とともに欧州遊学に旅立ちました。
歓迎会 大正10年1月末に欧州から帰国。
神田の牛肉屋 神田「今文」で開催。「今文」は小川町通りのすき焼料亭で、1990年頃までは店は続きますが、諸事情で閉店に
惣之助 佐藤惣之助(そうのすけ)。生年1890年12月3日。没年1942年5月15日。詩人、作詞家。古賀政男と組み、多くの楽曲も
富田 富田(とみた)砕花(さいか)。生年1890(明治23年)年11月15日。没年1984年10月17日。詩人、歌人。大正詩壇で社会主義に傾き民衆詩派の詩人として活躍
平野威馬雄 ひらのいまお。生年1900年(明治33年)5月5日。没年1986年(昭和61年)11月11日。詩人・フランス文学者。たジャン・アンリ・ファーブル関係の著作を翻訳
井上康文 いのうえやすぶみ。生年1897(明治30)年6月20日。没年1973年。詩人。大正7年、福田正夫の「民衆」に参加、主要同人として編集を担当。「新詩人」「詩集」「自由詩」を創刊。
中条辰夫 日比谷図書館児童部に勤務。生没年不明。
九段坂 くだんざか。九段下交差点から靖国神社の南側に上る坂
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附は江戸城の城門の1つを指しますが、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯の場所も牛込見附と呼びました。
神楽坂 東京都新宿区で早稲田通りの一部。外堀通りの「神楽坂下」交差点から、大久保通りの「神楽坂上」交差点を通って、神楽坂6丁目に至る坂
赤城元町 東京都新宿区の町名。

「神田の牛肉屋から、九段坂をあがって、牛込見附に出て、神楽坂から赤城元町の家まであるいた」。書いて見ました。40分ぐらいはかかりますが、地下鉄もタクシーもまだない明治時代の人はこれぐらいは簡単に歩けます。

神田から赤城元町に

神田から赤城元町に

こがね蟲 1922(大正11)年3月、ベルギーで書きためた詩を推敲し、翌年7月、詩集『こがね蟲』を出版。
アルベール・サマン Albert Samain。1858年、フランス生まれ。象徴派の詩人。繊細な詩風
有縁 互いに関係のあること
ブルンティエール ブリュンティエール。Ferdinand Brunetière。1849~1906。フランスの批評家・文学史家。自然主義・印象主義には否定的。
パルナシアン Parnassiens。高踏派。ロマン主義の自意識過剰な抒情性に対して、唯美主義的で形象美と技巧を重んずる



東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

焼餅坂

文学と神楽坂

 焼餅坂やきもちざかは新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です。場所はここ

 焼餅坂について区の標柱はなく、代わりに巨大な道標があります。ちょうど坂上にあがる直前です。大久保通りは都道(都道25号飯田橋石神井新座線)なので、区ではなく都が作ったものでしょう。そこにはあまりよく読めない説明も書いてあります。

焼餅坂の標識 この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また、「続江戸砂子」 「御付内備考」にも、 焼餅坂の名が述べられている。

 石川悌二氏が書いた『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年、1971年)によれば

焼餅坂(やきもちざか)

赤根坂ともいう。市谷山伏町と市谷甲良町の境、旧都電通りを東から西へ下る。「続江戸砂子」に「やき餅坂 本名赤根坂、此所にやき餅をひさぐ店あり」と記し、「府内備考」の町書上には「一坂 高凡四十間、巾四間程、右坂の儀は町内北の方往還にこれあり、焼餅坂と相唱候へ共、何故焼餅坂と申候哉、申伝等御座なく候」とある。坂辺に焼餅を売っていたのはよほどむかしのことらしい。明治時代中期における市区改正で、坂の道幅をひろげ傾斜をゆるくしたので現今のような道になったが、近年、都電が撤廃されて自動車の交通量が激増したために、坂下の柳町は排気ガス公害の多発地域として注目を集めるに至った。


旧都電通り 現在、名前は大久保通りに変わりました。
排気ガス公害の多発地域 牛込柳町鉛害事件のこと。昭和45年5月、民間の医療団体が新宿区牛込柳町の交差点付近の住民について健康診断を行い、多くが鉛中毒にかかっている疑いがあり、その鉛は排ガスに由来していると発表しました。その後、都の調査で、ほとんど心配はいらないと判明し、しかし、ここから、ガソリンの無鉛化、鉛の環境基準、大気汚染防止法の常時鉛排出の規制、自動車排出ガスの鉛の許容限度を設定。

柳町の交差点

かつてあった交差点上の信号機

 また住宅地の中のそれほど広くない道路(大久保通りと外苑東通り)の交差点で、排気ガスが溜まりやすく、そのため信号機を大久保通りの南北の坂上に1台ずつ新たに配置。ウィキペディアでは「市谷柳町交差点へ向かう手前数百メートル離れた場所に信号機が設置された。これは大気汚染を防ぐため、市谷柳町交差点で停止する自動車などを減らすために設置された、まれな信号機」で、近くに横断歩道はなく、信号機しかなかった。しかし、2015年9月、この信号機は廃止、翌月撤去。外苑東通りの拡張予定と、柳町交差点も大きくする予定があり、これに関係する可能性も。

 昭和51(1976)年の新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」では

 市谷甲良町との境で、市谷柳町交差点に下る坂を俗に焼餅(やきもち)といった。焼きもちを売る店があったからである。「江戸砂子」には、もと赤根坂といったとある。赤根とはのことで、染料植物である。これを裁培していたので名づいたという。田山花袋は、その近くの市谷甲良町に住んでいたので、その作品「東京の三十年」の中には、このあたりのようすが出ている。

 あかね。アカネ科のつる性多年生植物で、根は乾燥すると赤黄色から橙色となり、赤い根なのでアカネに。根を煮た汁にアリザリンがあり、これで古くから草木染め(茜染)を行っています。その色は茜色に。
東京の三十年 田山花袋の大正6年の作品。詳しくはここで。実はやきもち阪と麹坂についてあっさり書いているだけです。

 歴史・文化のまちづくり研究会編『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)ではさらに細かく説明しています。

焼餅坂(やきもちざか、赤根坂)
(1)所在地
 この坂の形は少し変わっており、大ざっぱには「大久保通り」を柳町から、山伏町と甲良町の間を東に上がる。
 坂下は「大久保通り」と「外苑東通り」の交差点から「外苑東通り」を北へ数十歩のところにある。
 そこから「大久保通り」に向かい東に少し上がったところが坂上である。
(2)特徴
 坂上から、坂下の途中までは広い幅員の道路で、両側にはゆったりと歩ける歩道が設けられている。
 一般的には、「大久保通り」をそのまま素直に下りきって「外苑東通り」にぶっかるところが坂下になるのだろうが、どういう訳か途中から狭くて暗い路地のようなところを行かなければならない。
 なぜこのような形になってしまったのだろう?道路の拡幅などと関連があるのだろうか?
 昔は、もっと急な坂だったようで、明治の市区改正で坂の道幅を拡げ、傾斜を緩くしたそうだ。とはいえ、自転車を押しながら坂を上る人を見るにつけ、あなどれないぞと思ってしまう。
 大通りの歩道には、緑豊かな街路樹、特に坂の北側の歩道には石垣もあり、なんとなく由緒ある坂に思えてくるのが不思議である。また車が多いにもかかわらず心地よい坂である。
(3)由来
「続江戸砂子」には、「やき餅坂 本名赤根坂 此所にやき餅をひさぐ店あり。」と記されていることから、「焼き餅」が名前の由来らしい。
「府内備考」の町書上にも焼餅坂の名称は出てくるが、そのなかで名前の由来については「…申伝等御座なく候」とあり、焼き餅屋さんがあったのは、かなり昔に遡るらしい。
 坂に名前がつくほど評判の店だったのか、辺りには何もなく焼き餅屋さんが、ランドマークの役割を果たしていたのかは定かではないが、当時の庶民の間では、よく知られていたのだろう。
(4)周辺の状況
 坂上にある「大蔵省柳町寮」の建物のデザインが、歴史を感じさせる。坂を少し下ると、擬洋風(明治や大正の時代に、西洋館のモチーフを模倣して建てられた建築を「擬洋風建築」と呼んでいる。)の建物が見えてくる。「新・浪漫亭」という居酒屋である。
 坂を挟んで両側にはマンションが立ち並んでいるが、そのなかにあってユニークな建物が、違和感なく町並みにとけ込んでいるところが実に良い。
【街路樹かオブジェか】歩道の街路樹は珍しい樹種で、案内板には「ウバメガシ」とあるが、緑の量に驚いてしまう。低木の茂みの間から、こんもりした高木が突き出るようにして、巨大な緑の固まりが一定間隔に配置されている。いっそのこと、ウサギや犬の形に剪定して、オブジェにしたらもっと楽しくなるのに。
 しかし、この街路樹が、夏には涼しい木陰を提供してくれる。

暗い路地 明治20年の東京実測図で以前の柳町の地図と、赤で描いた現在の柳町の地図を出しました。現在の柳町の交差点は新道なのです。暗い路地のほうが旧道でした。市電(都電)の「柳町」ができるときに新道になりました。 0321 では昭和5年の『牛込区全図』を見てください。市電(都電)が走っている新道(青)があり、その北に昔ながらの旧道(赤)があります。 0335-2
大蔵省柳町寮 大蔵省印刷局柳町寮。2005年秋ごろに取り壊され、一時は駐車場に。現在は建築中。
新浪漫亭 大正14年、第一信用金庫本店として建設したもの。居酒屋「新浪漫亭」から、「かがり火」(下図)。現在は「セブンイレブン」とマンションに。
かがり火

『粋なまち 神楽坂の遺伝子』では

かがり火
 空襲を免れ、戦後は「柳町病院」として使用され、平成元(1989)年に飲食店に用途が変わった。店舗の入れ替わりはあるものの、80年以上にわたり商業施設として活用され続けているという、近傍では貴重な近代建築のひとつである。
 大久保通りと外苑東通りの交差点に近い斜面地に、南側短辺方向をファサードとして建つ。木造2階建て、一部地階である。1階は標記のレストランおよび同系列の菓子店が店舗と厨房を据え、2階は事務室・パントリー・店員控室等として利用されている。屋根は寄棟板金瓦棒葺きであるが、南・東・西面はパラペットを回し陸屋根様の意匠とする。特異なそのファサードには、房付きレリーフのある唐破風様のペディメントを頂点に、3本の半円形ピラスターが並ぶ。分割された壁面に縦長の窓が付く。非対称の塔部が内側に取り付き、5個のメダリヨンと花弁をあしらったレリーフが配される。窓の一部には、当初と思われる上げ下げ窓がそのまま残る。古典的な様式を大胆かつ自由に引用しながら、金融機関の旗艦店としての威厳と、大正ロマンを感じさせる美しさを醸し出した個性的な作品といえよう。
 室内は、水廻りや厨房に関連して大きく改装されているが、2階大食堂の型押しされた塗装鉄板天井や卵鏃飾りが彫り出された木製廻縁、数段に面取りがされた幅広の窓枠等、擬洋風の意匠が散見される。また2階事務室の天井は折り上げ格天井に竿縁網代張り合板を組み入れたユニークな造りとなっている。
 最初に飲食店に模様替えされた時に内外部ともに改変が加えられているが、外観の改修は西側のサイディング部が中心であり、文化財としての価値を減ずるものではないといえる。
 かがり火は、設計者は不詳ながら大正末明の自由な建築思潮を体現した貴重な遺構であるとともに、一貫して活用され続けてきた地域のランドマーク的な建築物のひとつということができる」

ファサード 建築物の正面
菓子店 Füssenです
パントリー 食料品や食器類を収納・貯蔵する小室。pantry
寄棟 よせむね。屋根の形式。四つの面から構成
板金 ばんこん。薄くのばした金属の板
瓦棒葺き かわらぼうぶき。金属板を用いて屋根を葺くときの1方法
パラペット 建物の屋上や吹抜廊下などの端の部分に立ち上げられた小壁や手摺壁
陸屋根 ろくやね。フラットな屋根
レリーフ 浮き彫り
唐破風 からはふ。曲線状の破風で、中央部は弓形で,左右両端が反りかえった形
ペディメント 切り妻屋根で、妻側屋根下部と水平材に囲まれた三角形の部分
ピラスター 壁面より浮き出した装飾用の柱
メダリヨン メダリオンとも。肖像や紋章、銘文などで浮き彫りがある大型のメダル
卵鏃飾り らんぞくかざり。卵とやじりを交互に連続させた模様
廻縁 まわりぶち。壁と天井の取り合い部に用いられる見切部材
擬洋風 明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたもの
竿縁 さおぶち。天井板を竿と称する部材で押さえて天井を張るやり方
網代張り あじろばり。縁を反り返らせた赤塗りの陣笠を張ること
サイディング 建物の外壁に使用する,耐水・耐天候性に富む板。下見板
ランドマーク 山や高層建築物など,ある特定地域の景観を特徴づける目印

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06|蟻の京詣り

文学と神楽坂

蟻の京詣り

私が早稲田の大学に学んでいた頃、また卒業してからでも、それは明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門縁日になると、あすこの入口に特に大きな赤い(ふたはり)提灯ちょうちんが掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛かったのを覚えているが、外でもそうであるように、時勢と共にいつとはなしにその影をひそめてしまった。又、植木屋の多いことが、その頃の神楽坂の縁日の特色の一つで、坂の上から下までずっと両側一面に、各種の草花屋や盆栽屋が所狭く並び、植込の庭木を売る店などは、いつも外濠の電車通りの両側にまではみ出し、時とすると、向側の警察の前や濠端の土手際にまで出ていたものだった。そしていろ/\な草花や盆栽の鉢を、大切そうに小脇に抱えたり高く肩の上に捧げたり、又は大きな庭木を提げたりかついだりした人々が、例の芸者や雛妓すうぎやかみさんや奥さんや学生や紳士や、さま/″\の種類階級の人々のぞろ/\渦を巻いた、神楽坂独特の華やかに艶めいた雑踏ざっとうの中を掻き分けながら歩いていた光景は、今もなお眼に見えるような気がする。それもつい五、六年前、震災の前あたりまで残っていたように思うが、今はそうした特殊の縁日的の気分や光景はほとんど見られなくなった。定夜店が栄えるに従って、植木屋の方が次第にさびれて行ったらしい。

電話局

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
のぞきからくり のぞきからくりは、江戸期に発祥した伝統的な見世物芸能のひとつ。最初は数個ののぞき穴からからくりや浮絵をのぞく簡素なもの。それが明治・大正には20個もの覗き穴に細かい押し絵をほどこした豪勢なものも。各地の縁日の盛り場、社寺の境内によくあったが、活動写真の流行とともに衰退。
草花屋 現在は花屋です
電車通り 当時、電車は市電(都電)を指し、JR(国鉄)ではありません。「外堀(そとぼり)通り」のこと。
雛妓 すうぎ。まだ一人前にならぬ芸妓。半玉(はんぎよく)御酌(おしゃく)とも
定夜店 決まった場所にでる夜店

その代り近頃毘沙門の境内に、夜昼なしの常設植木屋が出来て、どこへでも迅速に配達植込までしてくれるという便利調法なことになっているので、毎日中々繁昌しているのも面白い。つい一、二年前からはじめられたことだが、毘沙門様御自身の経営か、或は地代を取って境内を貸しているのか、兎も角震災に潰れた何とか堂の跡の空地を利用してのこの新しい商売は、毘沙門様にとっては、あたかも前庭の植込同様、春夏秋冬緑葉青々たる一小樹林を繁らして、一方境内の風致を添えながら兼ねて金儲けになるという一挙両得の名案、毘沙門様もさて/\抜け目なく考えたものかな、その頭脳のよさに流石さすがは御ほとけなればこそと自然とこちらの頭も下る次第で、市内至る処の大小神社仏閣の諸神諸仏も、よろしく範をわが神楽坂毘沙門様に取っては如何いかにと、ちょっとすゝめても見たいところである。
 私はそんな今昔談を友達にしながら、電車待つ間のもどかしさに、むしろ徒歩にかずとそのまま焼餅坂を上り、市ヶ谷小学校の前からぶら/\と電車通りを歩いていたのだが、いつかあの白い海鼠餅なまこもちを組立てたような、牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ、気がつくともう肴町の停留場のそばへ来ていた。
「いよう! なるほどこりゃ大した人出だね」

調法 ちょうほう。重宝とも。便利で役に立つこと。便利なものとして常に使うこと。貴重なものとして大切にすること。
如かず 及ばない。かなわない
焼餅坂 昭和56年の「新宿区史跡地図」には焼餅坂ははっきりこの右図だと描いてます。残念ながらこの絵は間違いです。焼餅坂はここで書いている新道ではなく、正確には旧道が焼餅坂になります。でも、新道を焼餅坂だとしてももういいでしょう。旧道と新道はここに昭和56年「新宿区史跡地図」
市ヶ谷小学校 市谷山伏町9番地と10番地にありました。現在と変わらない場所でした
海鼠餅 つきたての餅をのさないでナマコのような半楕円形の形に成型してある餅。
豆なまこ餅
電話局 正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。
NTT牛込

友達は思わず角の交番の所に立ちどまって、左右を見廻しながら大袈裟に叫んだ。見ると今丁度人の出潮時らしい、電車線路をはさんで明るく灯にはえた一筋路を、一方は寺町の方から、一方は神楽坂本通りの方から、上下相うつ如くに入乱れて、無数の人の流れがぞろ/\と押し寄せていた。そして時々明るい顔を鈴のようにつらねた満員電車が、チン/\と緩やかにその流れをかつき且通し、自動車の警笛の音と共に交通巡査の手がくる/\と忙しく廻っていた。
「いつもこうなのかね」
「毎晩この通りだね」
「まるで大きな蟻の京詣りみたいだ」
 なるほどその形容は適切だと思った。そして私は、この短い、しかしてあまり広からぬ一筋の街を中心に、幾条となく前後左右にわかれている横町々々から、更にその又先の横町々々から、あたかも河の本流に注ぐ支流のそれのように、人々が皆おのがじしにこゝを目ざし、こゝの美しい灯をしたつどい寄って来る光景が眼に見えるような気がして、非常に愉快だった。

且堰き且通し 川の流れを堰き止めたり、通したりする
蟻の京詣り 蟻の熊野詣とも。社寺などの参詣さんけいで、蟻の行列する様に例えて群衆が集まってにぎやかになること
おのがじし 己がじし。各自がめいめいに。それぞれに
慕う したう。恋しく思う。懐かしく思う。
つどう 集う。人々がある目的をもってある場所に集まる。

神楽坂今昔(2)|正宗白鳥

文学と神楽坂

私がはじめて寄席へ行つたのは彼等に誘はれたゝめであった。神樂坂あたりには、和良店牛込亭との二軒の寄席があつたが、前者は落語を主とした色物席で、後者には義太夫がよくかゝつてゐた。朝太夫といふ本格的の語り手ではなくつても、大衆に人気のあつた太夫が一時よく出てゐたことがあつた。私は自分の寄席ばひりも可成り功を經た時分、或る夏の夜この牛込亭の一隅で安部磯雄先生の浴衣姿を發見したので、御人柄に似合ぬのを不思議に思つて、傍へ行つて訊ねると、先生は朝太夫の情緒ある語り囗を讚美され、樂んで聞いてゐると云はれた。先生の如きも、浄瑠璃に漂つてゐる封建的人情味に感動されるのか。
 あの頃の和良店は、東京の寄席のうちでも、名の聞えた、榮えた演藝場であつて、私のはじめて行つた頃は、圓遊の全盛時代であつた。これも圓朝系統では本格的の噺家ではなかつたさうだが、大衆には人気があった。私はよく聽きに行つた。落語家の東京言葉江戸言葉が、田舎出の私にも面白く聽かれたのだ。神樂坂區域の都曾情味だけでは次第に物足りなくなって、單獨行動で、下町の寄席へも出掛けた。

彼等 この文章の前に彼等とは早稲田の法科の学生だと書いてあります。
和良店 和良店亭の設立時期は判っていません。が、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が公演し、天保年間には「わら新」で義太夫が興行をしました。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席が中心になっていきます。(詳細は和良店を)
牛込亭 牛込亭の場所は6丁目でした。。
色物席 寄席において落語と講談以外の芸、特に音曲。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字で、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。これで色物と呼ぶようになりました。
義太夫 義太夫節。ぎだゆうぶし。江戸時代前期、大坂の竹本義太夫がはじめた浄瑠璃の一種。
朝太夫 竹本朝太夫。たけもとあさたゆう。1856-1933。明治-昭和時代前期の浄瑠璃太夫。
>寄席ばひり 寄席ばいり。寄席這入り。寄席にたびたび行くこと。
安部磯雄 あべ いそお。生まれは元治2年2月4日(1865年3月1日)。死亡は昭和24年(1949年)2月10日。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者。日本の野球の発展に貢献し「日本野球の父」。早稲田大学野球部創設者。
圓遊 2代目三遊亭 圓遊。生まれは慶応3年(1867年)7月、死亡は大正13年(1924年)5月31日。江戸出身の落語家
圓朝 初代三遊亭 圓朝、さんゆうてい えんちょう。生まれは天保10年4月1日(1839年5月13日)。死亡は明治33年(1900年)8月11日。江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した落語家。

私は、學校卒業後は、一年あまり學校の出版部に奉職してゐた。この出版の打ち合せの會を、をりをり神樂坂近邊で高級な西洋料理屋とされてゐた明進軒で催され、忘年會も神樂坂の日本料理屋で開かれてゐたので、私も、學生時代には外から仰ぎ見てゐただけの享樂所へはじめて足を入れた譯であつた。明進軒に於ける編輯曾議には、一度、高田早苗 坪内逍遙兩先生が出席された。私が學生生活を終つてはじめて世間へ出た時の集まりだから、爽やかな氣持でよく記憶してゐる。秋の夕であつた。たつぷりうまい洋食をたべたあとで、高田先生は漬物と茶漬とを所望され、西洋料理のあとではこれがうまいと、さもうまさうに掻込んでゐられた。

明進軒2

出版部 早稲田大学出版部。1886年の設立以来、多くの書籍を出版してきました。
明進軒 昭和12年の「火災保険特殊地図」では明進軒は岩戸町ニ十四番地です。なお後で出てくる求友亭は通寺町75番地でした。また神楽坂通りから明進軒や求友亭をつなぐ横丁を川喜田屋横丁と呼びます。
享樂所 快楽を味わう所

我々の部屋の外を横切った筒つ袖姿で、氣の利いた顏した男に、高田さんは會釋したが、坪内先生はふと振り返つて、「尾崎君ぢやなかつたか。」と云つた。
横寺町の先生は、この頃よくいらつしやるかね。」
と、高田さんは、そこにゐた給仕女に訊いた。この女は明進軒の身内の者で、文學好きの少女として噂されてゐた。私は、牛門の首領尾崎紅葉は、この界隈で名物男として知られてゐることに思ひを寄せた。紳樂坂のあたりは、紅葉一派の縄張り内であるとともに、早稲田一派の縄張り内でもあつたやうだ。
 私は學校卒業後には、川鐵相鴨のうまい事を教へられた。吉熊末よし笹川常盤屋求友亭といふ、料理屋の名を誰から聞かされるともなく、おのづから覺えたのであつた。記憶力の衰へた今日でもまだ覺えてゐるから不思議である。こんな家へは、一度か二度行った事があるか、ないかと云ふほどなのだが、東京に於ける故郷として、故郷のたべ物屋がおのづから心に感銘してゐると云ふ譯なのか。

tutusode筒つ袖 つつそで。和服の袖の形で、(たもと)が無いこと
横寺町の先生 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。尾崎紅葉の住所は横寺町でした。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門
相鴨 あいがも。合鴨。野性真鴨とアヒルを交配させたもの
吉熊 箪笥町三十五番「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では「吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。」箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左図。地図は現在の地図。
笹川 0328明治40年新宿区立図書館が『神楽坂界隈の変遷』を書き、それによれば 場所は3丁目1番地です(右図)。しかし、1番地の住所は大きすぎて、これ以上は分かりません。
常盤屋 場所は不明。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、4丁目の「料亭常盤」と書いてある店がありますが、「常盤屋」とは同じかどうか、わかりません。
求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
おのづから 自然に。いつのまにか。偶然に。たまたま。まれに

大東京繁昌記|早稲田神楽坂10|商店繁昌記

文学と神楽坂

商店繁昌記
商店繁昌記

どこかでビールでも飲んで別れようといって、私達は再び元の人込の中へ引返した。この頃神楽坂では、特にその繁栄策として、盆暮の連合大売出しの外に、毎月一回位ずつ定時の連合市なるものをはじめたが、その日も丁度それに当っていて、両側の各商店では、一様に揃いの赤旗を軒先に掲げて景気をつけていた。だがこの神楽坂では、これといって他に誇るべき特色を持った生え抜きの著名な老舗しにせとか大商店とかいうものがほとんどないようだ。いずれも似たり寄ったりの、区民相手の中以下の日用品店のみだといっても大したおしかりを受けることもないだろう。震災直後に三越の分店や日本橋の松屋の臨時売場などが出来たが、何れも一時的のもので間もなく引揚げたり閉鎖されたりしてしまった。そして今ではまた元の神楽坂に戻ったようだ。ただ震災後に新しく出来たやや著名な店としては、銀座の村松時計店資生堂との二支店位だが、これは何れも永久的のものらしく、場所も神楽坂での中心を選び、毘沙門の近くに軒を並べている。そしてこの二軒が出来たために、あの附近が以前よりは明るく綺麗に、かつ品よく引立ったことは事実だ。(ところが、この二店ともその後間もなく閉されて了った――後記)
酒屋の万長、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、糸屋の菱屋、菓子屋の紅谷、果物屋の田原屋、これらはしかし普通の商店として、私の知る限りでは古くから名の知れた老舗であろう。紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっと風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場にてている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではないようです。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは出していないとはっきりと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
尾沢 カフェー・オザワは神楽4丁目の「カフェ・ベローチェ」にありました。詳しくはここで

菓子屋ではまだこの外に二、三有名なのがある、坂上にある銀座木村屋の支店塩瀬の支店、それからやや二流的の感じだが寺町の船橋屋などがそれである。だが私には甘い物はあまり用がない。ただ家内が、子供用又は来客用としてその時々の気持次第で以上の諸店で用を足しているまでだが、相馬屋と、もう一軒坂下の山田という紙屋では、私は時々原稿紙の厄介になっている。それから私に一番関係の深い本屋では、盛文堂機山閣、寺町の南北社などが大きい方で、なおその外二、三軒あるが、兎に角あの狭い区域内で、新刊書を売る本屋が六、七軒もあって、それ/″\負けず劣らずの繁昌振りを見せているということは、流石さすがに早稲田大学を背景にして、学生や知識階級の人々が多く出る証拠だろう。古本屋は少く、今では岩戸町の電車通りにある竹中一軒位のものだ。以前古本専門で、原書類が多いので神田の堅木屋などと並び称せられていた武田芳進堂は、その後次第に様子が変って今ではすっかり新本屋になってしまった。
その代り夜の露店に古本屋が大変多くなった。これは近頃の神楽坂の夜店の特色の一つとして繁昌記の中に加えてもよかろう。もっともどれもこれも有りふれた棚ざらし物か蔵払い物ばかりで、いい掘り出し物なんかは滅多にないが、でも場所柄よく売れると見えて、私の知っている早稲田の或古本屋の番頭だった男が、夜店を専門にして毎晩ここへ出ていたが、それで大に儲けて、今は戸塚の早大裏に立派な一軒の店を構え、その道の成功者として知られるに至った。
ついでに夜店全体の感じについて一言するならば、総じて近頃は、その場限りの香具()的のものが段々減って、真面目な実用向きの定店が多くなったことは、ほかでは知らず、神楽坂などでは特に目につく現象である。

塩瀬 塩瀬菓子店はちょうど山田洋傘の対面になります。現在はナカノビルでしょうか。喫茶店「Broxx」などが入っています。
船橋屋 神楽坂6丁目です。詳しくはここで
盛文堂 昭和初期、盛文堂は現在の「元祖寿司」がある場所に建っていました。(昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」を参照)。しかし、盛文堂の場所はもっと色々な場所に建っていました。助六履物から下に行った場所も1つ。また野口冨士男氏の「私のなかの東京」の中で「ついでに『神楽坂通りの図』もみておくと、シャン・テのところには煙草屋と盛文堂書店があって、後者は昭和十年前後には書店としてよりも原稿用紙で知られていた。多くの作家が使用していて、武田麟太郎もその一人であった」と書いています。
元祖寿司
機山閣 昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」では神楽坂5丁目にありました。現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です。
ゴールドフォンテン
南北社 寺町は通寺町のことで、現在は神楽坂6丁目に変わりました。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』「大正期の牛込在住文筆家小伝」では筑土八幡町9番地の南北社はあり、さらに『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」に「通寺14に系列の南北社の南北書店があった」と書いてあります。その後、通寺町14を南北社にしています。赤い四角で書いてあります。『南洋を目的に』『悪太郎は如何にして矯正すべきか』『恋を賭くる女』など、かなり本を出版したようです。現在、通寺町14は神楽坂6-14の「センチュリーベストハウジング」に。昭和5年「牛込区全図」
竹中 『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。青い四角でした。現在は東京シティ信用金庫。
武田芳進堂 戦前の武田芳進堂は神楽坂5丁目の三つ角(神楽坂通りと藁店)から一軒左にありました。場所は「ISSA」と「ブラカイルン神楽坂」に挟まれて、以前は「ゑーもん」でしたが、2014年、閉店し、現在は神戸牛と和食の店「新泉」になっています。一方、戦後の武田芳進堂は三つ角にありました。『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では≪芳進堂。金刺兄弟出版部。肴町32。「最新東京学校案内」「初等英語独習自在」など。現在の芳進堂ラムラ店≫と出ています。現在では飯田橋駅のラムラに出しています。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂05|寅毘沙・午毘沙

文学と神楽坂

寅毘沙・午毘沙寅毘沙・午毘沙

 その時わが家の女の子供が三人仲よく手をつらねて玩具屋の前に立っているのに出会った。
「お父さん、風船買って頂戴」
 七つになる一番末の子が、逸早く私のたもとを捉えて甘えかかった。同行の友人の手前、私がこばみ得ないという弱点を、かの女は経験によってちゃんと知っているのだった。私は文句もいえずだまって十銭の白銅を一つ握らせた。
「お兄さんも来ているわよ」
 かの女はうれしさの余りにか、おせっかいにもなおそんなことを私に告げ知らせるのであった。なるほど少し行くと、長い巻紙にたらに沢山数字を書きつらねたのを高く頭上にさしあげて記憶術の秘訣ひけつとやらを滔々とうとう弁じている角帽の書生を取り巻いた人だかりの中に、私は長男の後姿を見かけた。が、つかまったら()()だと思って素知らぬ顔で通り過ぎた。
 あちらにもこちらにも小さな人の渦が出来波が流れて、この狭い場末の一角にも、ひなびた、ささやかな、むしろ可憐な感じのものながら、流石さすがに初夏の宵の縁日らしい長閑のどかな行楽的な気分が漂っていた。すぐ近くの河田町にある女子医専の若い女学生が、黒い洋服姿で、大抵三人ずつ一組になってぶら/\しているのが、こゝの縁日の特色のように目立った。漬物屋へ入って、つくだ煮や福神漬など買っているものもあった。

10sen-T9

つらねる 連ねる/列ねる。 1列に、または順番に並べる。
 和服の袖付けから下で袋のように垂れた部分
白銅 主体は銅、ニッケルは10~30%の合金。100円硬貨が代表的。10銭白銅貨幣は大正9年~昭和7年(1920~1932年)に流通し、1.00匁(3.750グラム)。割合は銅750とニッケル250。直径は22.121ミリ。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日のこと。神仏の(ゆかり)のある日を選び、祭祀や供養を行う日。縁日と東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

こゝで縁日と夜店との区別について一言しておきたい。縁日は地蔵なり不動なり稲荷さまなりの祭日で、神社では祭日であり仏では縁日である。夜店は毎日特定の場所に限り夕方から露店を出すもので、縁日の露店は昼間から店を出している。大抵境内には子供相手の安玩具や、喰べものやが出ている

女子医専 現在の女子医大。1900年12月5日、東京至誠医院の一室に東京女医学校創立。03年、牛込区市ヶ谷河田町の陸軍獣医学校跡地に移転し、08年、東京女医学校附属病院を設置。12年、東京女子医学専門学校、通称「東京女子医専」に昇格。20年、卒業生は無試験で医師免許取得ができるようになった。50年、 大学令で東京女子医科大学医学部を開設しました。

「どこの縁日でも同じだね」と友達はむしろつまらなさそうにいった。
「まあそうだね、殊にここなんか子供相手が主で、実に貧弱なものだが、それでも縁日だというと不思議に人が出るからね。そしてあたりの商店でも何でも段々と自然によくなって行くからね。だから土地の繁栄策としては、どうしても縁日というものが必要なんだね」と私がいった。「神楽坂にしたって、今日の繁栄を見るに至ったのは、そりゃ種々様々な条件や理由がそなわっていたからに違いないが、(ごく)最初は、矢張り毘沙門びしゃもんの縁日なんかゞ主としてあずかって力があったんじゃないかと思うんだ。現に、今ではもう普通の日も縁日の日も区別が付かないようになってしまったけれど、僕が知ってからでも、元はとらうまとの縁日の晩だけ特に沢山夜店が出て、従って人出も多く、その縁日の晩に限って、肴町から先が車止めになったような訳だったからね。その頃は僕なども、特に今日は寅毘沙だ午毘沙だといって、丁度今僕の子供等が手をつないで近所の縁日を見に行くように、友達を誘ったり誘われたりして早稲田の奥あたりから出て行ったものだった。夜店なんか見るよりも、ただ人込の中をぶら/\しながら若い異性の香を嗅いだり袖が触れ合ったりするのを楽しみにね、アハヽヽ」
「随分不良性を発揮したことだろうね」と友達は笑いながら半畳(はんじょう)を入れた
「いや、どうして/\、きわめて善良なものだったさ。今日のモダン・ボーイと違って、その頃の僕等ときたら、誰も彼もいわゆる『人生とは何ぞや』病にかかっていたので、そういう方面には全く意気地がなかったよ。それにこの頃のように、善くも悪くも簡単に女の見られるカッフエなんていうものはなしさ、精々三度に一度位、毘沙門隣の春月か通寺町の更科さらしなあたりで、三銭か五銭のザルそば一つ位で人生や文学を談じては、結局さびしく帰ったものだよ。それでその頃は、普通の日はそんなににぎやかでもなかった。夜店も寿司屋の屋台店位だったが、それがいつとはなしに、銀座あたりと同じく毎晩定夜店が出るようになり、人出も毎晩同じように多くなり、従ってあたりも益々発展して来たというわけだ。今ではもう特にいつが縁日だということも分らない位で、吾々も又いつが寅毘沙だ午毘沙だなどいうことを知る必要もなくなった。いつ出かけて行っても同じように賑やかで、華やかで享楽地的気分が益々濃厚になって来たね」

寅と牛 『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では

中でも神楽坂の毘沙門天の縁日は余り盛り場のない山の手の事であるから、付近の人が盛んにこの縁日に集まり、寅毘沙、牛毘沙といって十二日のうち二日は、特に陽気のよい時などは人出で賑わったが、寅の日は毘沙門の縁日で、牛毘沙は毘沙門天の縁日ではなく、境内の出世稲荷の縁日なのである。

ではどれぐらい前に始まったのでしょうか。東京理科大学理窓会埼玉支部の「西村和夫の神楽坂」ではこう書いています。

 さらに夜店が明るく華やいだのは電気とアセチレンランプが現れた20世紀以後からのことだ。夜店が明るくなるにつれ震災前後を境に「バナナの叩き売り」で代表されるような威勢のいい香具師の啖呵が聞こえるようになると、植木屋は次第に隅に追いやられることになった。
 そればかりかアセチレンランプからでる異様な臭いは夜店の臭いとも思われる時代に変わっていく。街路灯も少なく、ネオンもイルミネイションもない時代、日が暮れ神楽坂の夜店が一斉に明かりを灯すと、光の帯が明るく道路を歩く人を浮び上がらせた。そして時間がたつにつれて光に集まる虫のように人の数は次第に増えていった。
 寅の日だけの縁日がやがて午の日にも出るようになり、寅の日と午の日は寅毘沙、午毘沙と言って200軒以上の夜店が狭い道路の両側に2列に並んだ。やがてそれが連日になり、人の出盛りの時間になると坂が人間で埋めつくされ、坂下と坂上には[車馬通行止]の提灯が下げられ坂は歩行者天国にされた。これで通行人は安心して神楽坂の夜店見物を十分に楽しむことができたのである。夜店を訪れた客は坂を2~3時間かけて2~3回上下するのが普通だった。200軒もでる店を見て回るのには1日や2日で終わるものではなかった。
 夜店の範囲も通寺町から矢来町に達するいきおいでのび、大久保通りも人と店で溢れるようになったが、しかし、通行人は神楽坂の夜店のほうが格が上だと考えていたようだ。この状態は日中戦争が始まるころまでつづいたが、戦争が激しくなると急速に姿を消してしまった。敗戦後、米軍の空襲で焼土と化した街は復興したが再び夜店を見ることはなかった。

 寅の日に縁日がでたのは江戸時代でした。午の日に縁日が出たのは『新撰東京名所図会 第41編』(明治37年)によれば、「境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。」と書いてあります。つまり、明治37年よりは昔です。区の「新宿区史・史料編」(昭和31年)の「古老談話」によれば「明治中頃」です。
 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)では「東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治二十年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。」
「大江戸歴史散歩を楽しむ会」(https://wako226.exblog.jp/16086315/)によれば、「明治20年(1887)東京で初めて縁日に夜店が出て神楽坂通りは人波で溢れ、坂の上下に設けた車馬通行止めは歩行者天国のはしりとなった。」と書いています。原典がでるまでは、完全な引用にはなりません。

半畳を入れる 他人の言動を茶化したり、非難したり、野次ったりすること。半畳とは江戸時代の芝居小屋で敷く畳半分ほどの茣蓙(ござ)のこと、役者の演技が下手だとヤジを飛ばして、この茣蓙を投げ入れたという。
更科 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「更科」は左の図で赤い四角の色を使って書いてあります。

更科11

左は昭和12年の「火災保険特殊地図」。右は現在。右にある縦の道路や赤い更科の絵はあった場合の想像図

しかし岡崎弘氏と河合慶子氏が『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり」で「遊び場だった『寺内』」を書き、その「更しな」は神楽坂通りに直接面しています。以前の明治末期は直接面し、大正に大震災が起こり、昭和の初めでは奥に引っ込んだ場所になったのか、どうなのか不明です。
地図.11
享楽地 快楽を追求する場所。

あの日この日|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄は明治32(1899)年12月25日に生まれ、早稲田大学文学部国文科を卒業。志賀直哉の親戚の同級生に紹介を頼み、志賀に師事。昭和12(1937)年、37歳で、短篇集『暢気眼鏡』で第5回芥川賞を受賞。これで作家的地位を確立しました。貧乏ユーモア小説、心境小説などで有名。1983年3月31日、83歳、自宅にて死亡。
 これは『あの日この日』下巻で昭和6年の話です。ほかに『學生物語』の「神樂坂矢來の邊り」という短編があります。

 六年一月の、ひどい寒い曰の午後、勤めを終へて市電肴町停留場辺を見附の方へ歩いてゐると、うしろから声をかけられた。振り返ると、尾崎士郎精悍な顔があつた。
「やア」
「久しぶりだったな。奈良に居ると聞いたが……
「半年ほど前、舞戻つたんです」
「さうか。で、今、どうしてる?」
牛込区役所につとめてます」
「つとめてる? 区役所に?」
「それも税務課ですよ、面白いでせう」
「そ、そいつは――」と尾崎士郎が吃って、「ここぢや話ができない。ちよつといいだらう」連れ込まれたのは紅屋の二階だった。
士郎氏は、コーヒーを注文すると、私の顔を正面から見て、突如といつたふうに、囗を切った。
「尾崎一雄が不遇なのは――」
「いや」
ピシャリと音を立てる感じでそれをさへぎつて、
「僕は、何も書いてゐないのだから、遇も不遇もありませんよ」
士郎氏は、うッと咽喉がつまつたやうな顔をしてから、うろたへ気味に、
「そ、それはさうだ」と言った。
謂はば毒気を抜かれたかたちと見えた。あと彼は文学談めいたものには全く触れず、自分の近況を簡単に話すと、私の勤め工合など面白さうに聞いたのち、そのうちゆつくり飲まうと言つて別れ去つた。新潮社へ何かの用で行つた帰りだと言つてゐた。

肴町停留場 (さかな)(まち)の市電・都電の停留場。現在の大久保通りで、神楽坂5丁目にありました。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は千代田区富士見2丁目の地点にあり、江戸城の「江戸城三十六見附」のひとつです。寛永16年(1639年)に建設開始。ただし、見附にはこの江戸城の城門の意味以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を「見附」と呼ぶ場合や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
精悍 動作や顔つきが鋭く力強いこと
牛込区役所 牛込区役所は箪笥町15番地にあり、現在は牛込箪笥地域センターがあります。

毒気を抜かれる 相手をやり込めようと勢い込んでいた人が予想外の出方をされたために気勢をそがれ、おとなしくなる。

神楽坂今昔(1)|正宗白鳥

文学と神楽坂

 正宗白鳥正宗白鳥氏は小説家・劇作家・評論家。生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。「塵埃」で文壇に登場。「何処へ」「微光」「泥人形」を書き自然主義文学の代表的作家になりました。
 昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書いています。

 ふとした縁で江戸川べりのアパートの一室を滞京中の住居と極めるやうになつてから、昔馴染みの神樂坂に久し振りに親むやうになつた。朝晩の散歩として、筑土の方からか飯田橋の方からか、坂を上り下りして、表通裏通を、あてもなくたゞ歩きながら見てゐると、人通りが疎らで、商店喫茶店なども賑つてゐないらしい感じがするのである。をりをりの上京に、何處へ行つても人口過剰の日本の眞相を見せつけられてゐるやうなのに、昔は山の手第一の盛り場であった神樂坂がこんなにひつそりしてゐるのは不思議である。昔榮えて今さびれた町は趣味深きものである。榮華にほこつた人の落魄した姿を見るのも興味がある。どちらにも文學的味ひがあると云へる。詩が感ぜられるのである。それで、この頃の神樂坂散歩も、一度から二度と、たび重なるにつれて、馴染みの深かつた過去の記憶がこんこんと湧き出て、現在の寂寥たる光景を、詩味豐かにさせるのである。
 坂の大通を、大勢の人が歩いてゐないから町が衰微してゐるといふのは輕率な判斷だ。兩側の商家は一通り復興して、店先は小綺麗になつてゐる。左右の裏通には、昔を今に待合茶屋が居を占めてゐるが、薄汚なかつた昔のそれ等とちがつて、瀟洒たる趣を見せてゐる。入口に骨董品見たいな手水鉢を置いて、秋草がそれを色取つたりしてゐるなんか、下宿屋然たる昔の神樂坂待合情調ではないのである。昔よりも待合の家数は多いやうだが、まだところ/”\に新築までもしかけてゐる。
 それ故、大通の人の往來が乏しかつたり、果物屋菓子屋荒物屋などの店先が賑つてゐないのを見て、土地の盛衰の判斷は出來ないので、案外この地の待合商賣なんかは繁昌してゐるのかも知れない。
 さういふ風に心得てゐながら、私は、夕方になつても、昔はぞろぞろと出盛つてゐた散歩客なんかの全くなささうなひつそり閑としてゐるのを、人間社會の榮枯盛衰の一例ででもあるやうに見倣して、空想の餌食とするのである。
江戸川 神田川の中流域。都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
滞京中の住居 この時期、氏の本宅は長野県軽井沢町でした。
筑土 神楽坂に筑土(津久戸、つくど)から来るというのは、神楽坂坂上から来る場合です。
飯田橋 1881(明治14)年にできた橋で、飯田橋は牛込区下宮比町と麹町区飯田町とを結ぶ橋でした。また目白通りと外堀通りの交差点は「飯田橋交差点」と呼んでいます。飯田橋を起点にすると神楽坂の坂下から坂上に行く場合です。
賑っていない 第二次世界大戦の直後に神楽坂は全く繁昌していませんでした。
昔は山の手第一の盛り場 昭和初期には流行っていました。
落魄 らくはく。らくばく。衰えて惨めになる。落ちぶれること。零落
寂寥 せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと。
昔を今に 昔を今に戻すような。
瀟洒 しょうしゃ。すっきりとあか抜けしている。
手水鉢 手水を入れておく鉢。参拝前の身を清めるために寺社の境内に置きました。
手水鉢
 五十餘年前、二月の下旬の或る晩、不眠の疲勞でぼんやり新橋を下りた私は、未知の同縣人の學生に迎へられて、目鏡橋まで鐵道馬車に乘り、其處から歩いて、牛込見附を通つて、神樂坂を上つて、横寺町下宿屋に辿りついた。朧ろ月に照らされた見附あたりの眺めは、江戸の名残りを繪の如く見てゐるやうであつた。坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。 兔に角東京では、私は最初牛込區の住民となり、牛込の場末の學校に通つてゐたので、第二の故郷か第三の故郷か、故郷といふ言葉の持つてゐる感じを、神樂坂あたりを見るにつけ感ぜられるのである。五十年の昔は歴史的存在のやうで、私は今神樂坂についての遠い昔の歴史のページをひもといてゐるやうな氣持になつてゐる。
五十余年前 初めて早稲田に入学したのは明治29(1896)年です。この随筆が発表されたのは昭和27(1952)年です。したがって、56年の違いがあります。
目鏡橋 実際にここでは万世橋を指します。神田須田町一丁目にある駅を降り、歩いて神楽坂に行きました。なお、目鏡橋は橋の1種で、本来は石造2連アーチ橋を指し、橋自体と水面に映る橋とが合わさって眼鏡のように見えるためです。この時点では東京駅はまだなく、中央線もありませんでした。
鉄道馬車 鉄道上を走る乗り合い馬車。1882年(明治15年)に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として走り始めました。しかし、馬には糞尿をだすことが問題で、電車の運行がはじまると、多くの馬車鉄道はなくなっていきます。東京馬車鉄道も1903年(明治36年)に電化。東京電車鉄道となりました。

目鏡橋鉄道馬車停車場

目鏡橋鉄道馬車停車場

牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
横寺町 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。
下宿屋 何番地がわかればいいのですが、残念ながらこれ以上はわかりません。
朧ろ 現在は「朧」で「おぼろ」と読みます。ぼんやりとかすんでいること。はっきりしないさま。
国民之友 評論雑誌。徳富蘇峰の民友社が1887年(明治20)創刊しました。
学校 東京専門学校(現早稲田大学)です

 横寺町の私の下宿屋と目と鼻の間に紅葉山人が住んでゐた。誰に教へられたのでもなく、私は通り掛りに、尾崎德太郎といふ表札を見て知つたのだが、お粗末な家だなと、意外な感じに打たれただけであつた。紅葉の門下を牛門のなにがしと呼ぶ者もあつて、当時第一の流行作家であつた彼は、牛門の首領として仰がれてゐたのであらう。早稲田も牛込區内に屬してゐても、端つこにあつたので、私は、都會から田舎へ通學してゐるやうな氣持であつた。生れ故郷の地は溫かいためでもあつたが、私は體軀の鍛練を志して寒中足袋を穿かなかつたので、上京後もその習慣を守つてゐた。それで初春三月はじめの雪降る日にも裸足で學校通ひした。足はヒビが切れて、雪の染む痛さを覺えた。その頃の學校の教室には防寒設備はなかつたので、私などは身體を縮めて懷ろ手して講義を聽いてゐたのであつた。自分では無頓着であつたが、馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病状を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勧めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫師よりも信頼されさうな風貌を具へ、診察振りも威厳はあつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に(さかな)をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門です。
生れ故郷 正宗白鳥の出生地は岡山県でした。
曲り角 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。
文明振り 仕方・あり方。「枝ぶり」「勉強ぶり」。これが「歩きっぷり」「男っぷり」「飲みっぷり」のように「っぷり」となることも
 浅田宗伯老の藥はあまり利かなかったやうだが、「米の飯に魚をくらへ。」と云った田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。下宿屋の飯は、米は米でも、子供の時から食べ馴れた米の飯ではなかつた。下宿屋の魚は、子供の時から、食べ馴れたうまい魚ではなかつた。自分の村の沖で捕れた清鮮な魚介。自家所有の田地で實つた滋味ゆたかな米殻。私は、下宿の食膳を前にして、「これではおれの身體は、學問に堪へられないかも知れないな。」と悲觀することもあつた。だが、一歩外へ出ると、神樂坂を中心としたあちらこちらの商店には、見るからうまさうな物、食慾をそゝられる物が、これ見よがしに並べられてあつた。寺町の表通の青木堂の西洋食料品は私などの伺ひ知らない贅澤至極の飮料品であり食品であると思はれた。坂際の四つ辻の一角に屹立してゐるのは、「いろは」と云ふ牛肉屋であり、坂へかゝると、左に日本菓子屋の「べに屋」があり、右に「都ずし」あり、それからパン屋の木村屋があり、うどん屋の「春月」があつた。どれもみなうまさうだ。都會は誘惑に富んでゐたが、學資は一ヶ月に八圓か十圓に極められてゐたのだから、歩行の途上に見られる誘惑物のどれへも手は出せなかつた。さういふ覺悟をして、神樂坂といふ、生れてはじめて接觸した人世の大都會を、毎日のやうに見ながら、たゞ見るだけにしてゐたつもりであつたが、いつとなしに、自分の机の中に、木村屋の餡パンとか、(べに)()の大福餅とか、何とか屋の蓬萊豆、花林糖のたぐひが入つてゐることがあつた。蓬萊豆や花林糖をかじりながら、英語の教科書をぼりぼり讀みかじつて行くことに、云ひやうのない興味を感じてゐた。
 あの頃――日清戰爭直後――の神樂坂は、山の手第一の繁華街であつた。晩食後の散歩にも最も適した町であつた。寅の日の、毘沙門樣の緣日には、露店の植木屋の並ぶのが呼びものとなつてゐて、それを目當ての散歩は、お手軽な風流であつた。私など、この神樂坂地區の住民になつても、年少の身の、さういふ風流にはちつとも心を寄せられなかつたし、散歩のための散歩はあまりしなかつた。だけど、この緣日の夜の賑ひ、さま/”\な東京人が面白さうに歩いてゐる光景は、自分が幼少時代に幾年も、小説や新聞雜誌の記事でまぼろしに描いてゐたものよりも、陽氣で華やかで、都會人といふほこりを持つてゐる人々の群集であるやうに、私の目には映つてゐた。
滋味 じみ。栄養豊富でおいしい食べ物
青木堂 新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では「洋酒の青木堂」「洋酒と煙草の青木堂」と出ています。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)では通寺町(現在は神楽坂)51番地で、朝日坂から北西に3番目の地域でした。現在、51番地はありません。青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目を参照。

地籍台帳・地籍地図 東京

屹立 きつりつ。堂々とそそり立つこと。
都ずし 同じく「都ずし」もここで出てきます。しかし、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」ではもうありません。つまり、「都ずし」は関東大震災前になくなっていました。都ずしから玩具店、昭和27年のパチンコ店、最後におそらく「くすりセイジョー」に変わりました。なお、屋台の都寿司もあったようです。
木村屋 残念ながら絵ではもっと左の方向、神楽坂が下がるはじめにあります。詳細は木村屋
春月 春月も以下の図に書いてあります。詳細は春月で。神楽坂4~6丁目
餡パン あんパン。あずきあんを詰めた菓子パン。本店の木村屋創業者達が考案し、1874(明治7)年に銀座の店で売り出したところ大好評でした。
蓬萊豆 ほうらいまめ。源氏げんじまめ。小麦粉と砂糖で作った衣を煎った落花生の周りにまぶした豆菓子です。源平豆とも。蓬莱豆

  • 神楽坂今昔
  • 1
  • 2

瓢箪坂|白銀町

文学と神楽坂

瓢箪ひょうたんざか白銀(しろがね)公園の東南の角より東へ下る急傾斜の坂です。左の図は江戸時代、右の図は現在です。

瓢箪坂の江戸時代と絵現代 近江屋板切絵図(安政3年)の「小石川牛込小日向辺之絵図」では「ヒヤウタンサカ」と書いてあります。

別冊歴史読本60号「江戸切絵図の世界」新人物往来社。平成10年


 しかし、「瓢箪坂」は実際よりも長く長くなっている場合もあります。たとえば、東京都新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』や新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では
 白銀町と神楽坂六丁目との間を、西の赤城元町に上る坂を瓢箪坂(ひょうたんざか)という。長い坂で、途中でいったんくびれ、さらに盛り上っているので、その形をヒヨウタンの形にたとえたものである。
 この言葉は長い長い坂です(青色)。しかし、水色で書いてある一部の坂は江戸時代にはありませんでした。 もうひとつは『ゼンリン住宅地図2010』などで、2つの坂があわさって、「瓢箪坂」がでてきることもあります。つまり右上の「瓢箪坂」と左上の「瓢箪坂」がありますね。ゼンリン住宅地図の瓢箪坂 もう1つ、明治20年の内務省地理局の図です。今度は下から瓢箪坂は始まっています。明治20年の内務省の瓢箪坂 標柱は
坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。
と、かなりいい加減な答えを書いています。現在形で「くびれている」という言い方はどれかがくびれているのかわかりません。過去にあった場合「くびれていた」と過去形にならないと、おかしい。
 横関英一氏の『続 江戸の坂 東京の坂』では
 瓢箪町は、街路がくねくね曲っていて、1小部分にくびれのある道路の町、または入り口が小さくて中が広い町をいうのだという。…(中略)
 池だとか湖だとか、山だの丘だのが、瓢箪の形をしているというは、ありうることで、これには問題はない。しかし、坂や道路が瓢箪の形をしているというのは、まずありえないことだと思う。「途中いったんくびれて、さらに盛り上っている形から瓢箪坂の名が起こった」と書いた人もあるが、「坂路がくびれていて、さらにそれが盛り上っている形」というのは、どんな形をいうのであろうか。…
 毎年夏になると、青い瓢箪が、いくつもぶらさがっているのがこの坂から見えたということから、瓢箪坂といったということは、ありそうなことである。
 昔は、子供の下駄に瓢箪の絵を描いたものを売っていた。『ころばずの下駄』といった。瓢箪をからだにつけていると転ぶことがない、というおまじないからきていることで、子供が転ばないようにと、心を配る親たちの思いやりからきたものである。…転ばないようにと、けわしい坂みちに、その安全を祈って瓢箪という名をつけたのではないだろうか」
 横関英一氏の言葉も面白く、「ころばずの下駄」など新しい(古い?)言葉も増え、うきうきしますが、100%確実なものではありません。もう1つ昭和45年、新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』では、
 今の神楽坂5丁目に面した側から三角形に飛出している道の突端、元盛高院の先には瓢箪(ひょうたん)というのがあった。これは津久戸から曲り曲り来ると、瓢箪の腹を横に這うように来るので、その地尻の丸い所からこの名がある。
「地尻の丸い所」は賛成です。しかし、「瓢箪の腹を横に這うように」には完全にはわかりませんが、やはり複数の坂を瓢箪坂といっているようで、英語ではHyoutan Slopeではなく、Hyoutan Slopesとなるのではないでしょうか。瓢箪坂(写真)
瓢箪坂(写真2)瓢箪坂(写真3)

夜の矢來|武田仰天子

文学と神楽坂

 武田ぎょうてんは小説家で、小学教師から新聞の記者になり、上京し、明治30年、東京朝日新聞に入社。長編時代小説を30編ほど執筆し、大衆文学の先駆者に。生年は1854年8月19日(嘉永7年7月25日)、没年は大正15(1926)年4月10日。73歳。

夜の矢來(やらい)

武田仰天子

「文芸界」 明治35年9月定期増刊号

夜の矢來  (きみ)何方(どちら)ですと(ひと)()はれて、()(やい)ですと答へると、その問うた人が()の句には、矢來は(ひろ)(ところ)ですねえと必ず言ふ、されど()のみ廣い處ではないのです。たゞ本鄕の西片(にしかた)(まち)と同樣で、一()番地の中は中々廣い、家数(やかず)の百餘戸(よこ)もある番地があります。()いては、何番何番地(あざ)何第何十何(がう)と言つたやうな鹽梅(あんばい)に、番地の下に字、字の下に號と、(すこぶ)(わづら)はしく小區分が()てあります。()う區別を()て置かなければ、家の所在が容易に分らないからです。故に始めて我が矢來へ來る人が、外町(ほかまち)の心得で、ただ番地だけ聞いて來た日には、さあ分らない、兩側に(うゑ)(つら)ねられた杉垣根の間を、彼方(あちら)(まは)り、此方(こちら)へ囘り、同じ所へ何度となく返つて來て、つまり指す家を()()()さないで帰つて(しま)ひます。よしまた號までを聞いて來たに()ても、その號がさ、次第好く順々に付いてない處があるのですから、やはり、多少迷付(まごつ)かなければなりません、また迷付(まごつ)くのが規則のやうになつて居るので、(たと)へば始めて訪れて來た人があると、その訪れられた家の者から一番最初に言出(いひだ)す御挨拶が、あなた()く分りましたねえと()うです。呆れ返つたものでせう。()く分つたと言つて不思議がるのですもの。それもさうです。大抵の來人は、二度目でもまだ迷付(まごつ)くので、まづ三四度目から、同じ杉垣根の中だけれど、あの家の筋向うには井戸があったとか、(くるま)宿(やど)から左へ取つて右へ曲つて(つき)(あた)たつて右側だとか、何か思い出して()(じるし)にするやうになりますからどうやら()うやら、折好(をりよ)行逢(いきあ)つた酒屋の小僧に問う世話(せわ)もなく、思ふ家へ行けると言ふもので、ですから()んな人達が、同じ道を何度も()(めぐ)つた足數(あしかず)(のべ)勘定(かんじやう)()て、大層歩いた、矢來は廣い、と()う思ふのですが、なあに、(たか)若州(じやくしう)()(ばま)洒井(さかゐ)家の(やしき)(あと)ですもの、廣さが幾許(いくら)あるもんですか。猫の額ほどの狹い土地です。それゆゑ別に夜の矢來と題を置いて、(こと)(ごと)しく書立てるほどの亊はないのです。ざつと書いて見やうなら、晝間(ひるま)でもこの通りに分り()ねる土地だから、夜始めて來た人は、(まる)八幡の籔へ入ッたやうなものだ、(くらゐ)でも()む事で、一向(つま)りませんけれど、その詰らないのを話の種に、六年(かり)(ずまひ)の矢來通をば、一番揮舞(ふりま)はして見ませうよ。(しか)無論(むろん)夜の分だけ。

左のみ そうむやみに、たいして
西片町 東京都文京区の町名。東京大学が近隣にあり、多数の学者や文化人が住んだため、学者町として知られる。関東大震災や第二次世界大戦の被害はなく、明治時代の雰囲気を残している。
車宿 車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。車屋。
若州小浜藩 若州とは若狭の異称。江戸時代、若狭わかさ遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に藩庁をおいた。1871年(明治4)の廃藩置県で小浜県となり、敦賀県、81年福井県に編入
八幡の籔 八幡の藪知らずは、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。

さて矢來の(うち)にも、軒並(のきなみ)商家(あきんど)のある所もあります。されど場末の(さび)れ町で、電燈や瓦斯(がす)燈といふ物は更になく、店の灯光(あかり)洋燈(らんぷ)持切(もちき)つて居て、そして(ひと)(どほ)りと言つても、早稲田邊から神樂阪の夜店へ行く人位の事で、詰らないのを話の種にするとは言いながら、(あま)り詰らなさ過ぎますから、所謂八幡の藪の(やしき)町の事だけを…それも街燈ちらほらの()暗い所ですから、目に見る物は()して、ただ耳に聞く物だけを選抜(よりぬ)いて(かゝ)げませう。聞く物は、下町とは樣子の(ことな)つた物がある上に、見る物が少くつて、自ら聞く事に(せん)一ですから、種々の音色が耳に()るのです。
(らい)  樹木(じゆもく)の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。夜の矢來町を夜籟町と書換へた方が適當(てきたう)でせう。何しろ栗や杉の喬木(げうぼく)が夜風を受けで、ざァーざッと騒ぐ樣は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。どうしても山居(さんきよ)心地(こゝち)がするので、(よく)には流水の(ひゞき)があつたらと、餅の皮を()きたくなる(くらゐ)です。
かと思うと、また野趣(やしゆ) (おぼ)しで夜の矢来2
(むし)()  は自慢です。秋の夕暮になると、垣根や()の下や草の中、何所(どこ)と限つた事はなく、種々樣樣の蟲が鳴出します。それが夜に入って露(しげ)なるに從ひ、次第に()()へて來て、何時(いつ)までも止間(やみま)がなく、東の空が(しら)むまで鳴通します。或は枕を(そばた)て、或は窓を()して、深夜にこの蟲の音を聞く(あぢはひ)といったら、(じつ)(なん)とも()へません。落月(らくげつ)微茫(びばう)の時はなほ()し、(やみ)()もまた惡くはない。下町の狹い軒端(のきば)で、(かご)に飼はれて居る蟲の音を聞くのとは、あはれさが違ひます。
蛙聲(あせい)  夏の()(どぶ)の中で蛙が鳴立てます。眞の田甫(たんぼ)の蛙聲と來ては、(やかま)しくつてなりませんが、山川の水がないやうに山の(どぶ)で水がないから、蛙も澤山(たくさん)には居ないです。()いては丁度()(ほど)に鳴きますから、(この)んで聞く氣にもなるので、(これ)はまた田舍(でんしや)心持(こゝろも)()ます。
鶏聲(けいせい)   (これ)もやはり田舍(でんしゃ)の趣味があつて、朝の三四時頃になると、遠近(をちこち)で鳴く一番(どり)、寝坊の私も(たま)には聞く事がありますが、何となく(いさ)ましいものです。

軒並 並んでいる家の一軒一軒。家ごと。「刑事が軒並に聞いてまわる」
 風が物にあたって発する音。
喬木 きょうぼく。 高木(こうぼく)と同じ。反対は低木=灌木(かんぼく)
 ほしがる気持ち。
野趣 自然のおもむき。また、田舎らしい素朴な味わい
 有り余るほど多い。ゆたか
 湿の旧字体。しめる。しめりけ
落月微茫 沈もうとする月はかすかでぼんやりしている
田舎 発音はこの時は「でんしゃ」。現在は「いなか」

()う數え立てゝ見ると、全く山村の趣味のみのやうですが、場末にも()ろ、(みやこ)(うち)には相違(さうゐ)ないだけに、鳴物(なりもの)も聞こえます。けれど下町から()ると、(おのづ)と野暮で、また自と(いや)しくはありません。
雅樂(ががく)  其筋(そのすぢ)樂人(がくじん)(すま)つて居て、自分でも練習を()家人(かじん)に教へても居ます。(あるひ)(くわん)()り、或は(げん)(かきなら)す時など、聞いて心が()むやうです。(しか)しトラヽタリラの()暗誦(あんしよう)は、耳に(はい)ると肩が()ります。
薩摩(さつま)())  是は師匠の家があつて、書生(れん)が夜稽古にも行き、稽古(がへ)りに琵琶(うた)を唄つても通り、また矢來倶樂部に折々琵琶會がありまして、江戸(まへ)意氣(いき)な歌は聞かれない代りに、この勇壯(いうさう)音曲(おんきよく)幾許(いくら)でも聞けるのですが、また聞くに()へたものです。
〇琴  垣根を(へだ)(やぶ)を隔てゝ、蘭燈(らんとう)の光の()れる(あた)り、(しづか)にして(さはや)かな琴の()が聞える時は、どんな(うる)はしい令嬢だらうと、自然その(ぬし)(しの)ばれます。實際逢つて見たら二度(びつく)で、(あら)(がほ)の、(ちゞ)れつ()の、(ふと)つてうの娘かも知れませんけれど、不思議に美人のやうに(おも)はするのは髙尚(かうしやう)な音色の(とく)でせうか。
謠曲(ようきよく)  一(たん)の流行が今に(すた)らないで、夜中(やちう)()小路(こうぢ)を散歩して見ても、(うたひ)(こゑ)の聞えない所はない位です。(なか)には聞くに()るのもありますけれど、大方(おほかた)は初心の下手(へた)(ぼへ)官吏(くわんり)會社員(くわいしやゐん)(おも)てすが、中に(なに)學士ともあらう人が、泣聲(なにごゑ)棒讀(ぼうよみ)()ては、(おん)(いたは)しや、あれでも大學出の先生かと、肩書の貫目(くわんめ)が疑はれます。(もとよ)り學者は(ただ)でも覺えは好いという理屈はありませんけれど、(ある)()(つたな)いと、總體(そうたい)を拙く見せるのは事實ですから、()した方が無難(ぶなん)で、もし執心(しうしん)なら、晝間(ひるま)世間の(さわ)がしい(うち)()つて(もら)ひたいものです。(さひは)此邊(このへん)では、下手(へた)義太(ぎた)を聞かされる(うれひ)だけはありませんが、この(うたひ)では()てられます。
(そう)々しい足音(あしおと)  毎日曜(まいにちえう)()、寄席の打出(はね)とも謂ふやうな大勢の足音が、丁度寄席の打出の刻限(こくげん)に聞えます。それは耶蘇(やそ)の教會堂から歸る人々ですが、土地に慣れない(あひだ)(あや)しまれました。(ちなみ)に言ひますが、この矢來町には、古來、佛寺(ぶつじ)という物はないのです。たゞ庵室(あんしつ)さへ、地蔵堂さへないほどの狹い土地に、新輸入の耶蘇曾堂のあるのが(めう)です。それにまた墓地のあるのがなほ妙です。併しその墓地は共有ではなく、今は同町全體の地主酒井家の專有(せんいう)で、何々院殿何々(だい)居士(こじ)(おほ)石碑(せきひ)が並んで居て、(かまへ)は極く(ちいさ)いけれど、樹木(じゆもく)(しん)々と(しげ)つてゐますから、女子供は、その傍を夜通るのを嫌ひます。
〇時の鐘  目白とは近く互に向合(むきあ)つた高臺(たかだい)ですから、彼所(あすこ)のが聞えるのは言ふまでもありませんけれど、夜が()けると、上野のゝも淺草のも聞えます。そしてもう一つ遠くつて大きい時の鐘、芝のだらうと思はれるのが聞えますが、これはまだ(しか)とは突止(つきと)めません。

鳴物 一般的には打楽器を中心とした楽器一般
 管楽器。横笛などの笛類
 弦楽器。琵琶・琴などの(いと)
薩摩琵琶 晴眼者が書き起こしたもの
蘭燈 美しい灯籠。美しいともしび
謠曲 ようきょく。能の詞章だけを謡う芸事。役者の動き・囃子・間狂言は除外し、詞章全体を一人で謡う。謡(うたい)。
貫目 かんめ。身に備わった威厳。貫禄
打出 うちだし、はね。芝居や相撲などの終りに太鼓をどんどん打って観客を追ひ出すこと。
耶蘇 イエス・キリスト。イエス(Jesus)の近代中国音訳語は「耶蘇」。日本では広くキリスト教やキリスト教徒の意味で用いられた。
庵室 僧、尼、隠遁者の質素な住まい。いおり

〇汽車の(ひゞき)  甲武の市内線と赤羽線とのが、夜はことに手に取るやうに聞えます。
〇汽船の汽笛  この事は人には(ちよつ)と信じませんけれど、私は以前築地に(すま)つて居て、聞覚えがあるから分るのですが、東風(こち)の吹く()は、大川から芝浦へ出入する汽船の汽笛が、びっびっびーと鮮やかに聞こえます。
賣聲(うりごゑ)  (もとよ)り賣れる場所ではありませんから、毎晩(きま)つて呼賣(よびうり)に來る商人(あきんど)はありません。不圖(ふと)すると、花林糖(くわりんたう)()が來る位の事。過日(いつか)でしたか、どう途惑(とまど)つてか、大層美聲(びせい)の辻(うら)(うり)が、淡路しま通ふ千鳥(ちどり)(なが)して來た事がありましたけれど、果して賣れなかつた爲か、たゞ一()(ぎり)でした。
杜鵑(ほとゞぎす)  たゞ一度(ぎり)、思ひ出したんですが、六年以来たゞ一(こゑ)、月夜の杜鵑を聞きました。この(へん)は、昔は()く鳴渡つたところださうですのに。
門附(かどづけ)  (これ)賣聲(うりごゑ)と同様で、(すま)ふ人が門附を呼止(よびと)める柄ではありませんから、(めつ)たに()つては來ませんけれど、(たま)義太夫(ぎだいう)新内(しんない)が…それも素通(すどほ)りの(なが)(ぞん)
按摩(あんま)  これは毎夜入りさうな土地で居て、やはり賣聲(うりごゑ)と同様で、笛の()(たま)により聞こえません。
(たき)(おと)  何分(なにぶん)巡査(じゆんさ)巡囘(じゆんくわい)の少い邊鄙(へんぴ)の事ですから、是は折々ある事で、おや、垣根で(へん)な音がすると思ふと、それ、往來(わうらい)の人が立止(たちどま)つて…
あゝ、話が(した)()ちましたから、もうこの(へん)切上(きりあ)げせまう。

甲武の市内線 甲武鉄道は明治22年に開業した蒸気鉄道で、飯田町-中野間10.9キロの電化工事を起し、明治37年8月に完成した。
東風 東風(あゆ、こち、こちかぜ、とうふう、とんぷう、はるかぜ、ひがしかぜ)。東から吹いてくる風。
大川 通称で東京都を流れる隅田川の下流部
呼賣 行商人の一種。道々大きな声で客を呼びながら商う呼売がありました。江戸時代から都市で盛んになり、野菜や魚介類など少量の商品を扱っています。振売 (ふりうり) 、棒手振 (ぼてふり) とも呼び、大正期まで多くみられ、現在でも金魚売、豆腐売、焼芋売などが行商人。
花林糖 かりんとう。駄菓子の一種
門附 家の門口で雑芸(万歳・厄払い・人形回し・その他)を演じたり、経を読んで金品を乞う行為や人。
義太夫 義太夫節の略。浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派
新内 しんないぶし。新内節。 浄瑠璃の一流派

『露店研究』|神楽坂

文学と神楽坂

 著者・横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章で「牛込神楽坂の露店」を書いています。以下はそのコピーです。1つ、重要な事実があります。ここにはいろいろな露店はありますが、今川焼の一種である熊公焼はありません。

 ところが、色川武大氏は同じ本を使って『怪しい来客簿』を書き、「露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、(中略)、さびない針(錆ビヌ針)、万年筆、人形、熊公焼、花(ハナ)、(色川武大氏はミカンは書いていない)、玩具(オモチャ)(後略)」と説明します。この熊公焼は色川氏が加えたものでした。

露店1

大東京繁昌記|早稲田神楽坂09|牛込見附

文学と神楽坂


牛込見附

牛込見附

 私達は両側の夜店など見ながら、ぶら/\と坂の下まで下りて行った。そして外濠の電車線路を越えて見附の橋の所まで行った。丁度今省線電車線路増設停車場の位置変更などで、上の方も下の方も工事の最中でごった返していて、足元も危うい位の混乱を呈している。工事完成後はどんな風に面目を改められるか知らないが、この牛込見附から見た周囲の風景は、現在残っている幾つかの見附の中で最もすぐれたものだと私は常に思っている。夜四辺に灯がついてからの感じはことによく、夏の夜の納涼に出る者も多いが、昼の景色も悪くはない、上には柳の並木、下には桜の並木、そして濠の上にはボートが点々と浮んでいる。濠に架かった橋が、上と下との二重になっているのも、ちょっと変った景色で、以前にはよくあすこの水門の所を写生している画学生の姿を見かけたものだった。

外濠の電車線路 外濠線の都電線路のこと。都電3系統の路線で、第3系統は飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る路線です。
見附の橋 見附の牛込橋は千代田区富士見二丁目から神楽坂に通ずる早稲田通りに架かっていました。寛永13年(1636)阿波徳島藩主蜂須(はちす)()忠英(ただてる)が建造。当時千代田区側は番町方、新宿区側は牛込方と呼ばれ、旗本屋敷が並び、その間は深い谷だったのを、水を引いて堀としたものです。
省線電車 1920年から1949年の間、現在の「JR線」に相当する鉄道。明治41(1908)年から鉄道院「院電」、大正9(1920)年から鉄道省「省電」、昭和24(1949)年から日本国有鉄道「国電」、昭和62(1987)年から東日本旅客鉄道「JR」と変遷。
線路増設 昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で貨客分離を目的として、新宿-飯田町間で複々線化工事を完成しました。
停車場の位置変更 停車場はJR駅のことで、ここでは飯田橋駅ではなく、牛込駅のこと。牛込駅は牛込橋(現飯田橋駅西口に接する跨線橋)よりは四ツ谷寄りの位置です。出入口は2か所。ひとつは外堀通りに面した神楽坂下交差点のたもと。現在でも、牛込濠を埋め立てて作った連絡通路の遺構が残っています。下に詳しく書いています。もうひとつは濠の反対側、旧飯田橋郵便局の向かいで、改札口の位置を左右から挟むようにして、石積みの構造物が残っています。昭和3(1928)年11月15日、関東大震災復興で複々線化工事が新宿-飯田町間で完成。これで駅間が近い牛込駅と飯田町駅を統合し、飯田橋駅が開業しました。この3駅についての関係はここで
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁(土を盛りあげて堤防状か土手状にした防御施設)で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。以上は牛込見附ではまったくいいのですが、しかし、別の文脈では、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。詳しくは牛込見附跡を。
大正11年。東京市牛込区二重 大正11年の『東京市牛込区』の地図では牛込橋が2つにわかれています。また下の新宿歴史博物館の「神楽坂通りの図 古老の記憶による震災前の形」でも2つに分かれています。牛込橋の上の1つは千代田区に、下の1つは牛込駅につながっています。2つの牛込橋2
 いまでもこの連絡通路はあります。赤い色で描いた場所です。カナルカフェ写真ではこうなっています。先には行けません。。
カナルカフェ2
下は明治後期の小林清親氏の「牛込見附」です。きちんと牛込橋が2つ書かれています。

牛込見附の清朝

牛込見附

この下の橋は昭和42年になっても残っていました。飯田橋の遠景

 だがあすこの桜は震災後すっかり駄目になってしまった。橋を渡った停車場寄りの処のほんの二、三株が花をつけるのみで、他はどうしたわけか立枯れになってしまった。一頃は見附の桜といって、花時になると電車通りの所から停車場までの間が花のトンネルになり、停車場沿いの土手にも、ずっと新見附のあたりまで爛漫らんまんと咲きつらなり、お濠の水の上に紛々ふんぷんたる花ふゞきを散らしなどして、ちょっとした花見も出来そうな所だったのに、惜しいことだと思う。

停車場 「停車場」はJR駅について話す場合。これは牛込駅に相当します。ちなみに市電(都電)は「停留所」でした。
新見附 明治中頃、行き来の便宜のため、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて新しく橋を作りました。この橋を新見附橋といいます。また外濠は二つになり、牛込駅(飯田橋駅)寄りは牛込濠、市ヶ谷寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。
爛漫 花が咲き乱れているさま
紛々 入り乱れてまとまりのないさま
花ふぶき はなふぶき。花びらがまるで雪がふぶくように舞い散るさま
 貸ボートが浮ぶようになったのは、ごく近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てゝ市の公園にするとかいううわさも幾度か聞いたが、そのまゝお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。誰の計画か知らないがいろ/\の意味でいゝ思い付きだといわねばならぬ。今では牛込名物の一つとなった観があり、この頃は天気さえよければいつも押すな/\の盛況で、私も時々気まぐれに子供を連れて漕遊を試みることがあるが、罪がなくて甚だ面白く愉快である。主に小中学の生徒で占めているが、大人の群も相当に多く、若い夫婦の一家族が、水のまに/\舟を流しながら、パラソルの蔭に子供を遊ばせている団欒だんらん振りを見ることも屡々しばしばである。女学生の群も中々多く、時には芸者や雛妓おしゃくや又はカッフエの女給らしい艶めいた若い女性達が、真面目な顔付でオールを動かしていたりして、色彩をはなやかならしめている。聞くと女子の体育奨励のためとあって、特に女子のみの乗艇には料金を半額に優待しているのだそうだが、体育奨励もさることながら、むしろおとりにしているのでないかと笑ったことがあった。

貸ボート この東京水上倶楽部の創業は大正7年(1918年)です。東京で最初に出来たボート場でした。
水上公園 水のほとりや水辺にある公園
漕遊 遊びで漕ぐ
まにまに 随に。他人の意志や事態の成り行きにまかせて行動するさま
団欒振り 「振り」は物事の状態、ようす、ありかた。語調を強めるとき「っぷり」の形になる場合も。「枝―」「仕事―」「話し―」「男っぷり」「飲みっぷり」
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などとも呼びます。
 これは麹町区内に属するが、見附上の土手が、新見附に至るまでずっと公園として開放されるそうで、すでにその工事に取掛かり今月中には出来上るとの話である。それが実現された暁にはあのあたり一帯に水上陸上相まって、他と趣を異にした特殊の景情を現出すべく、公園や遊歩場というものを持たないわれ/\牛込区民や、麹町区一部の人々の好個の慰楽所となるであろう。そしてそれが又わが神楽坂の繁栄を一段と増すであろうことは疑いなきところである。今まであの土手が市民の遊歩場として開放されなかったということは実際不思議というべく、かつて五、六の人々と共に夜の散歩の途次あすこに登り、規則違反のかどを以て刑事巡査に引き立てられ九段の警察へ引張られて屈辱きわまる取調べを受けた馬鹿々々しいにがい経験を持っている私は、一日も早くあすこから『この土手に登るべからず』という時代遅れの制札が取除かれ、自由に愉快に逍遙しょうよう漫歩まんぽを楽しみ得るの日の来らんことを鶴首かくしゅしている次第である。

麹町区 こうじまちく。神田区と一緒になって千代田区
慰楽所 いらくしょ。慰みと楽しみ。「レクリエーション」のこと
あすこ あの土手。見附上の土手から新見附の土手に至るまでの土手です。
逍遙漫歩 逍遙しょうようとは気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。漫歩まんぽとは、あてもなくぶらぶら歩き回ること。そぞろあるき
鶴首 今か今かと待つこと。首が伸びるほど待ち焦がれること


大東京繁昌記|早稲田神楽坂01|床屋の壁鏡

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』です。

床屋の壁鏡床屋

 神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土(つくど)八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナヽ屋の露店が出て、パンパン戸板をたゝいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。

本多横町 「神楽坂最大の横丁」。神楽坂3丁目と4丁目の間にあり、飲食店などの店は50軒以上。
本多横丁2
筑土八幡 筑土八幡町は南端部を大久保通りが通っています。筑土八幡神社があり中心的な存在です。筑土八幡町
狭い横町 これは本多横丁のこと。本多横町は現在「神楽坂最大の横丁」です。
豊島 豊島理髪店。神楽坂通りと本多横町が交わる場所にありました。今までは中華料理と肉まんで有名な「五十番」でしたが、2016年からは「北のプレミアムフード館 キタプレ」になりました。「3丁目北側最西部の歴史」でもっと詳しく出ています。
バナナ屋 バナナの(たた)き売りは独特の口上を述べながらバナナを露天で売る手法です。やがてこのバナナ屋は神楽坂に一軒、巨大なビルを設けました。
戸板 雨戸の板。これを並べ、物を置いて販売しました。
手を打つ 感心したり、思い当たったり、感情が高ぶったりしたときに両手を打ち合わせて音をたてる。
口上 口頭で述べること、述べる内容

 私はその床屋へ、まだ早稲田の学生時代から今日までずっと行きつけにしている。特にそこが他よりすぐれていゝとかうまいとかいう訳でもないが、最初その辺に下宿していた関係で行き出したのが元で、何となく設備や何かの感じがよいので、その後どこへ引越して行っても、今だに矢張やはり散歩がてらにでもそこまで出掛けるような次第である。数えるともう十七、八年もの長い年月である。その間私は、旅行その他特別の事情のない限り、毎月必ず一度か二度位ずつ、そこの大きな壁鏡に私の顔をうつし続けて来たわけであるが、する(うち)いつか自分にも気のつかぬ間に、つやつやした若々しい青年だった私の顔が、皮膚のあれゆるんだ皺深しわぶかい老人じみたものに変り、自ら誇りとしていたほど濃く、且つ黒かった頭髪が、今はすでに見るもじゝむさい 胡魔塩ごましおに化してしまった。
「随分お白いのがふえましたね」
「うゝむ、この頃急に白くなっちゃった。まだそんな年でもないんだけれど……」
「矢張り白髪のたちなんですね、よくこういうお方がありますよ」
「何だか知らないが、実際悲観してしまうね」
 大分以前、まだそこの主人が職人達と同様にはさみを持っていた頃、ある日私の髪を刈り込んでいる時、二人はそんな会話を取りかわした。見るとしかしそういう主人自身の頭も、いつかしらその頂辺が薄く円くはげているのだった。
あれゆるむ 「あれてゆるむこと」。荒廃し、ゆるむこと。
じじむさい 若さや活気がなく、年寄りくさい。じじくさい。
胡魔塩 本来は胡魔塩とは焼き塩と炒りゴマを混ぜた調味料のこと。白と黒が混じったものの比喩として使って「胡麻塩頭」とは白髪が混ざった黒髪の頭髪
たち 質。生まれつきの体質。 「涙もろい-」

「君も随分変ったね」
 私はもう少しでそういおうとした。主人も今はもう五十に間もない年頃で、むしろ背の低い、まるまると肥えた、鷹揚おうような、見た眼にも温良そうな男であるが……変ったのはかれや私の頭髪ばかりではない、それの店の内部も外観も、ほとんど昔のおもかげを(とど)めない位に変ってしまった。何時(いつ)どこが()うなったということはいえないが、何度か普請ふしんをやり直して、外観もよくなったと同時に、内部もずっと広くなり綺麗にもなり、すべての設備も段々とよくなった。散髪料にしても、二十銭か二十五銭位であったのが、今はその三倍にも四倍にもなった。髪の刈り方ひげの立て方の流行にも、思うに幾度かの変遷を見たことであろう。わけてそこに立ち働く若い理髪師達の異動のはげしさはいわずもがな、そこの主人の細君でさえ、中頃から違った人になった。多分前の人が病気で亡くなりでもしたのであろう。又そこへ来る常客の人々の身の上にも、それこそどんなにか、色々の変化があったことだろう。単にその外貌がいぼうだけについていっても、例えば私のように、血気な青年だったものがいつかすでに半白の初老に変じたものもあろうし、中年の壮者が白髪の老者に化し、又白髪の老者がいつかその姿を見せなくなったということもあるだろう。更にまた昨日まで母親や女中に伴われて、クルクル坊主にされに来た幼児や少年が、今日はすでに立派なハイカラな若紳士姿で、そのふさふさした漆黒しっこくの髪に流行の波を打たせに来るといったようなことも多いだろう。私はそこのかぎ形になった二方の壁にはめ込まれた鏡に向い、最近急に、自分でも驚くほどに変った自分の顔貌をうつし眺めるごとに、いつでもそうした事など考えては、いろいろの感慨にふけるのが常である。

鷹揚 鷹が大空をゆうゆうと飛ぶように、ゆったりと振る舞うこと。
普請 家屋を建てたり修理したりすること
髯の立て方 「髯」は「ほおひげ」ですが、ここではあらゆるヒゲ(髭、鬚、髯)のことでしょう。
漆黒 つややかな純粋な黒色。
かぎ形 (かぎ)のように先端が直角に曲がった形

サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

 (さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。肴町から若松町のほうへ十二、三げん行った右側だ。竹中のおやじから金を受けとると、おゝ一、新(もう言わなくともよかろう)……木々高太郎博士の温顔おんがんを胸に浮かべつゝ、早稲田へと向かう。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
ロシア菓子ヴィクトリア どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。本文で出てくる「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」でしょう。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。
 また『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では

 洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました。

松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では

山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。

この六丁目の本屋さんは「文悠」(神楽坂6丁目8、「よしや」の東)です。これがロシア菓子ヴィクトリアだったのでしょうか。下の地図では「カンコーバ(文明館)」(現在は「よしや」)と「シャシン」(現在は「とんかつ大野」)との間に「ロシア菓子ヴィクトリア」が入ることになります。

神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。本文の「ロシア菓子の前に東電がある」からすると、東京電力はおそらく神楽坂通りの南側で、向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば

 矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。

となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。

昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院 昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図2葉もありました。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」から「Family Mart」になっています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

「マクドナルド 神楽坂駅前店」。現在は「Family Mart」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

 僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。

赤城元町11番地 この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂04|神楽坂気分

文学と神楽坂

神楽坂気分
 私は()めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。
「僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた/\していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら/\夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた/″\ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしや(の講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風なな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハヽヽ」

神楽坂気分

新開地 新しく開墾した土地。新しく開けた市街地やその地域
用足し場 用事を済ませること。大小便をすること
かたがた 「…をかねて」「…のついでに」などの意味があります。「…がてら」
見物場 見世物小屋。普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。例えば口上として「山から山、谷から谷を渡り歩いた姉妹が、何故、人が忌み嫌う長虫(蛇)を食わなければならなかったのか?これから。お目にかけまする姉妹は「サンカ」の子に生まれた因果で、哀れ、今もその悲しさを伝えてくれますよ。さあ、見てやってください。見てください」。実際に生きた蛇を引き裂いて食べる人もでたようです。
バナナのたたき売 「ここは牛込、神楽坂」第3号の「語らい広場」で友田康子氏の「三〇年前、毘沙門様で」という投稿が載っています。そして口上は「『さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百…、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!』威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり」と書いています。
蝮屋 商品になるのはニホンマムシの蒸し焼きかその粉末です。毒蛇の強靭な生命力にあやかり、食べると心身の強壮に効果があるとされていました。
標札 屋標札は戸籍法との関連性が高く、明治5~11年頃、各戸に標札を備えつける布達がなされたようです。当時は筆を使って書きました。
無我的 無心。我意がないこと

「あゝそれ/\」と友達も一緒に笑った。「ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね」
「よかろう」
 そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日(えんにち)で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。
「おや/\、こんな所に縁日があるんだね」
と友達は珍しそうにいった。
「あゝ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね」と私がいった。
「第二の神楽坂が出来るわけかね」
「アッハヽヽ前途遼遠りょうえん)だね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ」
「ここへ電車が敷けるのか?」
「そんな話なんだがね、音羽おとわ護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡(れんらく)する予定になっているそうだ」
「そしたら便利になるね」
「だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ」

柳町 やなぎちょう。南北に外苑東通り、東西に大久保通りがあり、ここ市谷柳町で交差しています。
車止め くるまどめ。停止すべき位置を越えて走行してきた自動車や鉄道を強制的に停止させるための構造物
前途遼遠 ぜんとりょうえん。目的達成までの道のりや時間がまだ長く残っている。今後の道のりがまだ遠くて困難。「途」は道のり。「遼遠」ははるかに遠い。「遼」は道が延々と長く続いているという意味です。
音羽 おとわ。これは音羽町という地名。最南端は神田川、以前の江戸川に接しています。
護国寺前 ごこくじまえ。「護国寺前」は交差点の名称で、東西に向かう不忍通りと、南に向かう音羽通りの交差点です。
江戸川 神田川の中流域で、「江戸川」というのは都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
矢来の交番 矢来の交番は現在、正しくは矢来町地域安全センターといいます。ここに3つの通りが交差点「牛込天神町」に集まっています。北から来る道路は江戸川橋通り、東から来る道路は神楽坂通り、西から来る道路は早稲田通りです。

榎町 えのきちょう。町の名称。ここで、交差点「牛込天神町」から交差点「弁天町」(早稲田通りと外苑東通りとが交わる)に至るまでが早稲田通りです。
弁天町 早稲田通りから交差点「弁天町」を左に曲がって、外苑東通りに入ると、弁天町になります。さらに南に行くと、交差点「市谷柳町」です。
塩町 しおちょう。「外苑東通り」の「合羽坂」で左に曲がり、「靖国通り」を東に行き、交差点「市谷本村町」で右に曲がり、「外堀通り」にはいるとそこは塩町。現在は「本塩町(ほんしおちょう)」になります。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」です。音羽4
① 護国寺前
ここがスタート

② この辺りが音羽

③ 江戸川
昔、神田川の中流を江戸川と呼びました

矢来交番

矢来の交番

④ 矢来の交番はここ  →
⑤ この辺りが榎町。ここを通って…
⑥ 早稲田通りから交差点「弁天町」にはいり、向きを左(下)に変え、外苑東通りに行き…

⑦ 交差点「市谷柳町」を通り…

⑧「外苑東通り」の交差点「合羽坂」で左に曲がり、

⑨ 交差点「市谷本村町」で右に曲がり、
⑩「外堀通り」にはいると塩町に。現在は「本塩町」。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」になります。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂03|山の手の銀座?

文学と神楽坂

山の手の銀座?
毘沙門

それに往年の大震災には、下町方面はほとんど全部灰塵かいじんに帰して、今やその跡に新たなる東京が建設されつゝあるので、その光景も気分も情調も、全く更生(こうせいてき)の変化を示しているが、わが神楽坂通りをはじめ牛込の全区は、(さいわい)にもかの大火災を免れたので、それ以前と比べて特に目立つほどのいちじるしい変化は見られない。路面がアスファルトになったり、表構えだけの薄っぺらな洋式建物が多くなったり、カッフェーやメリンス屋が多くなったりした位のもので、昔と比べて変ったといえば随分変ったといえるが、同じようだといえばまた同じようだといえないこともない。だがかく神楽坂は、私にとっては東京の中で最も好きな街の一つだ。こないだもの方に住んでいる友達が来て私にいった。

灰塵 かいじん。灰と塵
更生 生き返ること。よみがえること。蘇生すること
表構え おもてがまえ。外側から見た、家屋・塀・門扉などの造り。「表構えのりっぱな家」
メリンス メリノ種の羊毛で織った柔らかい毛織物
 以前の芝区。昭和22年3月、赤坂区、麻布区、芝区の3区が合併し、現在の「港区」が誕生。現在は港区芝地区。

「君は(おも)にどこへ散歩に出かけるかね」
「そりゃ勿論神楽坂だ。殆ど毎晩のように出かける」と私は立ち所に有りのまゝを答えた。
「そんなに神楽坂はいゝかね」
「そう大していゝということもないけれど、一寸ちょっといゝよ。それに昔からの馴染で、出るとつい自然に無意識に足が向いてしまうんだよ。銀座あたりまで出かければ兎に角、外にちょっと手頃な散歩場がないからね」
「銀座なんかと比べてどうかね」
「そりゃ勿論とても比較にも何にもならないさ。すべてがちっぽけで安っぽくて貧弱で、田舎臭くてね。どうしても第三流的な感じだよ。しかしその第三流的な田舎臭いところが僕には好きなんだ。親しみ易くてね」
「ふゝん」友達は(かす)かな冷笑をその鼻辺に浮べながらうなずいた。「併し僕には、神楽坂は山の手の銀座だとか、東京名所の一つだとかいわれるのがちょっと分らない。あれ位の所なら、外にも沢山、何処の区にでもあるじゃないか」
「そりゃそうだ、殊にあすこは夜だけの所で、間は実につまらないからね。だが夜になると全く感じが違ってしまう。何処だってそういえばそうだが、殊に神楽坂は昼と夜との違いがはげしい。昼間あんな平凡な殺風景な所が、夜になるとどうしてあんなにいゝ感じの所になるかと不思議な位だ」

立ち所に 時を移さず、その場ですぐに。たちまち。すぐさま
第三流的 二流よりもさらに劣った、程度が低いもの

山の手の銀座 銀座は下町なので、山の手の銀座は神楽坂だといっていました。「山の手の銀座」がいつごろからこう使ったのか、はっきりしません。たぶん関東大震災ごろからでしょうか。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた。

関東大震災後、神楽坂は3~4年繁栄しましたが、あっという間に繁栄の中心地は新宿になっていきます。『雑学神楽坂』の西村和夫氏は

市内で焼け出された多くの市民が山手線の外周、そこから延びる東横、小田急などの私鉄沿線に移り住んだことによるものだ。

と説明します。

「実際夜は随分賑かだそうだね」
「賑かだ。四季を通じてそうだが殊に今頃から真夏にかけてははなはだしい。場所が狭いからということもあるが、人の出盛り頃になると、殆ど身動きも出来ない位だからね」
「別にこれといって何一つ見る物もないし、ろくな店一つないようだがね。矢張り毘沙門びしゃもん様の御利益(ごりやく)かな、アハアハヽヽ」
「アハヽヽ、何だか知らないが、兎に角われも/\といったような感じでぞろ/\出て来るよ。牛込の人達ばかりでなく、近くの麹町こうじまち辺からも、又遠く小石川雑司ヶ谷ぞうしがやあたりからもね」
「どうしてあんな所があんな繁華な場所になったのかね、君なんか牛込通だからよく知ってるだろう」
「いや、知らない、又そんなことを知ろうという興味もない。それこそ元は毘沙門様の御利益だったのかも知れないが、兎に角昔から牛込の盛り場としてにぎやかなので、だから人が出る。人が出るからにぎやかなんだという現前の事実を認めさえすればいゝんだ。併し単ににぎやかだとか人出が多いとかいうだけならば、今君がいったように同じ山の手でも神楽坂なんかよりずっと優った所が少なくないよ。例えば近い所では四谷の通りなんかもそうだし、殊に最近の新宿付近の繁華さといったら素晴らしいものだ。すぐ隣の山吹町通り、つまり江戸川から矢来の交番下までの通りだって、人出の点からいえば神楽坂には劣らないだろう。けれどもそれらの所と神楽坂とではまるで感じが違ってるよ」

35区時代の東京市
麹町 旧区名。千代田区の一部で、近世は武家屋敷が多く、現在はビジネス街と高級住宅地です。
小石川 旧区名。文京区の一部。文教・住宅地区。
雑司ヶ谷 元来は北豊島郡雑司ヶ谷村。1889(明治22)年、東部が小石川区(現在の文京区)に、残部は巣鴨村に編入、小石川区雑司ヶ谷町と巣鴨村大字雑司ヶ谷に。1898(明治31)年、小石川区は東京市の一部に。1932(昭和7)年、西巣鴨町が東京市に編入され、豊島区雑司ヶ谷町1-7丁目に。
四谷の通り 1878(明治11)年11月、東京府四谷区が発足。1947(昭和22)年3月、本区、淀橋区、牛込区の3区が合併し、東京都新宿区に。四谷の通りは現在は「新宿通り」
山吹町通り 現在は「江戸川橋通り」
江戸川 現在は「江戸川橋交差点」。これは1971年3月まで都電の停留所名と同じでした。「江戸川」はかつての神田川中流(大滝橋付近から船河原橋までの約2.1 kmの区間)の名称。
矢来の交番下 矢来町交番(現在は矢来町地域安全センター)は矢来町27番にあります。ここで西からくる早稲田通りと、北からくる江戸川橋と、東からくる神楽坂通りの3つが一緒になって、交差点「牛込天神町」を作り、その南側に矢来町交番(地域安全センター)ができました。

熊公焼|神楽坂

文学と神楽坂

 熊公焼も夜店で売られる一種の今川焼、アンコ巻きです。三遊亭円生氏の「円生 江戸散歩」(集英社、1978年)では…

 坂をあがったところの左に、私の子供の時代には今川焼をうってる店があったんです。勿論、これは屋台店ですがたいへんにはやったもんで。子供時代にこの今川焼を買ってもらった事をおぼえているのですが、のちにその今川焼がなくなってしまったら、今度は“くまこうやき”てえのがはやったんです。うどん粉でこう平ったくしておきまして中へ餡をこうすーっと巻いたもんですが、まあいえば餡巻きですか、これにくまこうやき、という名前をつけた。これが大変繁昌をした。わざわざ遠いところからこれを買いに来たという人があるんですから、ふしぎなもんですね。
 今川焼とは草薙堂でした。さて、問題は熊公焼です。この夜店はどこにあったのでしょうか。

 最も古い記事は「製菓実験」昭和12年8月号に出ています。

新聞などにも度々出て、可成り有名な神樂坂の熊公と、その唯一の商品である都巻。鐵板の上に薬の利いた中華種を四角な口付のブリキ型で流し、中に棒にした飴を巻いたものです。生憎手許が見えないが、鐵板は四ッに仕切つてあつて廻轉式になつてゐる所は、如何にも屋臺向です。一個四十匁平均で、一個の値段は金五錢也。

 新宿区立図書館著『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「古老談話・あれこれ」では

「熊公焼」は永楽銀行の前にありました。(中略)
 これはやや高級品で品物はアンコ巻なんですが1本5銭、巻いてある皮にはほんとうの玉子がたっぷり入っていました、やっぱり屋台店でして売れることは今川焼やと同じに飛ぶように売れました。熊公焼は今川焼がなくなって、震災後しばらくしてから出たものです。(中略)このアンコ巻を焼いていたおやじさんの顔が又、その気になって顔にいっぱい髯をはやしてしまって、恐ろしい顔をますます恐ろしくして「熊公焼」の名を高からしめたってわけです。

「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」によれば昔の「永楽銀行」は現在青柳LKビルが入る場所でした。ちなみに青柳寿司は数年前になくなり、しかしビルは残り、代わって14年版「神楽坂」(神楽坂通り商店会)では「叶え」、「Mumbai」、「えちご」、「神楽道」が入っています。1階は平成26年9月で「沖縄麵屋、おいしいさあ」です。これはちょうど神楽坂通りを上にあがった場所です。

 同じように2005年『神楽坂まちの手帖』第8号で「石濱朗の神楽坂界隈思い出語り」というエッセイがあり、そこに「子供に大人気の熊公焼って?!」として書いてあります。

 それはまだ大東亜戦争の始まる前だった。
 神楽坂を上がり切った左側に「玩具屋」があった、その近くにその店は出ていた。
 何時頃から出るようになったのか、まだ小さかった僕にはわからない。
 厚い鉄板の上にうどん粉を溶かしたものをたらして焼き、小豆餡を上に載せてくるりと巻いたものを売っていた。
 菓子の名前は「熊公焼き」、売っている人の顔が熊に似ているからか、熊吉とか熊太郎と言う名前のせいか、その由来は判然としない。兎に角美味かったので良く売れていた。

 同じような場所で、坂上で、上を向いて左側でした。

 では色川武大氏の「怪しい来客簿」では

今、私の机の上に、昭和六年刊『露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。(中略)
……ここで肴町(さかなまち)の電車路(現在の大久保(おおくぼ)通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏(ざつとう)した。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆(なんきんまめ)、寿司、古道具、半衿(はんえり)、ドラ焼、(かなばさみ)(のこぎり)唐辛子(とうがらし)、焼物、足袋(たび)、文房具、化粧品(けしようひん)、シャツ、印判、ブラッシュ石膏細工(せつこうざいく)、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗(ちやわん)(かばん)玩具(がんぐ)煎餅(せんべい)、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、(くし)類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆(えんぴつ)、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子(ぼうし)洗い、焼物、植木、植木、寿司。(中略)
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗(しょうき)さまのような(ひげ)を生やしたおっさんが、あんこ(まき)を焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。

白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ ホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。

 右側は上から下に見ているので、西北西から東南東の方面を向いて流しています。新宿区郷土研究会二十周年記念号の『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」を参考にして(ただし、「神楽坂と縁日市」は道の右側と左側は逆)、これから読むと熊公焼は以前の喫茶パウワウ、現在はボルタ店のあたりにでてきたようです。

 一方、横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章「牛込神楽坂の露店」を書き……

ガマ口、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キヤラメル、本、表札、キリヌキ、眼鏡、古本、地圖、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホーズキ、古道具、壽司、焼鳥、おでん、オモチヤ、南京豆、壽司、古道具、xx、半衿、ドラ燒、カンナ、ノコギリ、唐辛子、焼物、足袋、文房具、化粧品、シヤツ、印判、ブラツシユ、石膏細工、ハモニカ、xx、メリヤス、古本、茶碗、カバン、オモチヤ、煎餅、xx、古本、大理石、錆ビヌ針、萬年筆、人形、ハナ、ミカン、オモチヤ、櫛(略)

 まったく熊公焼はどこにも書いてありません。人形とハナ(花)の間にはなにもありません。そのコピーもあります。

『神楽坂まちの手帖』第2号の『神楽坂の「マチの魅力」を考える』では

元木 クマコウ焼ってのがあったんだけど知ってますか? 今のパウワウの辺りで人形焼みたいのがあって。そのオヤジが、当時殺人犯で有名だった「熊公」に似てて、それでクマコウ焼っていうのが流行ったんだよ。

 次はサトウハチローの『僕の東京地図』です。神楽坂3丁目になると真っ先になると出てくる白木屋が熊公焼の後で紹介されているので、熊公焼はおそらく神楽坂2丁目です。

 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公というのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さが六寸、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たッて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。(後略)

 以上は白木屋よりも前なので坂下です。上を向いて左側にあったというものです。

 もう1つ。『ここは牛込、神楽坂』第18号で鵜澤紀伊子氏は「親子3代神楽坂(四)」を書き

坂下の左側に熊公焼きの夜店が出た。鉄板の上で小麦粉をといたのを長方形にのばし、飴をのせて一巻きしただけの単純な物だったが、結構お客がついていた。1組の親子のお父さんが焼いていた。美味しいよと言ったら、照れ笑いをしたことがあったっけ。戦時中粉や小豆が入手困難となってべっ甲飴を売るようになり、そのうち夜店も出なくなった。お父さんは軍需工場に入ったと聞いた。

 やはり、坂下の左側にその店は出ていたといいます。

 次は渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では

神楽坂が牛込一の繁華街と呼ばれていたころの縁日で、はじめは今川焼が坂上の左側の屋台で売られ繁盛していた。その今川焼に変わって、超人気の「熊公焼」が登場したのである。熊公焼はその当時の神楽坂の縁日を抽いた文学作品やエッセーにたびたび登場している。熊公焼の露店の場所は、神楽坂二丁目、割烹志満金のまえあたりが屋台の定位置のようだ。鉄板の上で、どら焼に似た玉子入りのうすい四角い皮に、あんこをのせて巻いたもの。今川焼が二銭で、このあんこ巻は一本五銭と高額であったが、いつも黒山の人だかりで、わざわざ遠くから買いにくるほどの人気だった。それは、この露店の店主岩木さんが、当時、日木中の注目をあつめた「鬼熊事件」の凶悪犯人に笑ってしまうほとよく似ていることを逆手にとり、「熊公焼」と名付けて売り出し、その犯人を一目見ようと押しかけた客で大繁昌してしまったのである。

 やはり坂下の左側で、「志満金のまえあたり」と、これから坂がまだ上に向かってもいない所で出ていたと言います。

 さらにもう1つ。都筑道夫氏が阿佐田哲也全集の第十三巻付録に書いた「神楽坂をはさんで」では

有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしよに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。

 これは熊公焼は毘沙門のそば、坂上にあったといいます。

 さらにもう1つ。水野正雄氏が「神楽坂を語る」(「神楽坂アーカイブズ 第1集」)では

その山本コーヒーの前に「熊公焼き」というあんこ巻きを売る夜店がありました。これは普通の人形巻きが二銭だったころ、八銭で売られていました。

 これも熊公焼は山本コーヒーのそば、現在の「うおさん」のそば、つまり坂上にあったといいます。

 次は坂下で、なんと右にありました。平成7年『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」です。

いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。

 結局20年以上も続くと常設夜店もその場所が変わるのでしょうか。ただし、草薙堂という今川焼き屋と混乱しているものもあるように思います。

神楽坂|椿屋 もう老舗に

文学と神楽坂

 さらに「神楽坂上」に向かって行きましょう。

 左側は「椿屋」です。お香と和雑貨の店。いつも香を焚いています。創業は平成14年(2002年)。なぜか老舗になってます。場所はここ

tubakiya

 以前は「宮坂金物店」でした。昭和5年ごろには「宮坂金物店」の前には縁日になると金魚すくいが出ていました(新宿区郷土研究会20周年記念号『神楽坂界隈』平成9年)。

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

大東京繁昌記|早稲田神楽坂02|私と神楽坂

文学と神楽坂

私と神楽坂牛込神楽坂

それにしても、私はこれまで幾度その鏡に私の顔を姿をうつして来たことだろう。思えばその鏡こそは、これまで十七年も八年もの長い年月の間、青年から中年に更にまた老年の域へと一歩々々近づいて行きつつある私の姿を、絶えずじっと凝視ぎょうしして来た無言の観察者であったのだ。どこの何者とも知れない一人の男が――私は性来無口で、そんなに長くその店へ行きつけているけれど、滅多に誰とも口をきくこともなく、いわんや私の名前や身分や職業などについては、未だかつて一言も漏らしたことがないので、そこの主人でもただ長い顔馴染かおなじみというだけで、恐らく私についてはほとんど何事も知らないだろう――そのどこの誰とも知れない一人の男が、十数年この方毎月ふらっとやって来ては、用が終えると又同じようにだまってふらっと帰って行く、その同じことを長の年月繰返している間に、気がつくといつもなしにその男の髪が白くなり、顔にはしわが深く寄せている。非情の鏡といえども恐らくは感慨の深いものがあるであろう。私はそれを思う毎に、いつもそこに或る小説的な興味をさえ感ずるのである。
 こういう変化は、いうまでもなく何人の上にも、又何物の上にも行われていることである。しかも、それは極めて徐々に時の経過と共に自然に行われるのであって、何時うして何うということなどのいえないようなものである。長い年月を経た後に、ふと何かの機会にそれと気がついて驚くことはあっても、ふだん始終見つけている者には、何か特別の事情のない限り殆ど眼に立たないのが常である。私は本紙に連載中の大東京繁昌記の一節として、これからその印象や思い出を語ろうとしている牛込うしごめ神楽坂かぐらざかのことに関しても、矢張り同様の感を抱かざるを得ない。

凝視 目を大きく見開いてじっと見つめること
本紙 東京日日新聞です。1927(昭和2)年6月の紙面に載りました。

私が東京へ出て来てから既に二十二、三年にもなるが、その間今日までずっと、常にこの神楽坂を中心にして生活して来たようなものである。最初の三、四年間は、故あって芝の高輪の方から早稲田大学へ通っていたが、その頃まだ今の早稲田線の電車が飯田橋までしか通じておらず、間もなく大曲まで延びたが、私は乗換えや何かの都合で、毎日外濠線の電車を神楽坂下で乗り降りしたものだった。その後学校附近に下宿するようになってからは、何度その下宿を転々しても、又一家を構えるようになって、何度引越して歩いても、まだかつて一度も牛込の土地を離れたことがない。郊外生活をして見ようとか、他区に住み換えて見ようとか思い立ったことも幾度かあったが、その度毎に住み馴れた土地に対する愛著あいちゃくと、未知の土地に対する不安とが、常に私の心を元の所に引止め、私の身体を縛りつけてしまうのであった。今や牛込は、私にとっては第二の故郷も同様であり、又どうやらこのまま永住の地になってしまうらしい。し今後何等かの事情で他に転住しなければならぬようなことがあるならば、私はあたかも父祖伝来の墳墓の地を捨てて、遠い異国に移住する者の如き大なる勇気を要すると同時に、またその者と同じい深い離愁を味わわねばならないだろう。しかしこうして、神楽坂を離れて牛込はなく、牛込に住んでいるといえば、それは神楽坂に住んでいるというも同然である。
 かくして私は多年神楽坂という所に親しみ、かつそこを愛する一人として、朝夕の散歩にも足自らそこに向うといった風で、その変遷推移の有様も絶えず眼にして来たわけであるが、そして一々こまかくしらべたならば、はじめて見た時と今とでは、四辺の光景も全く見違えるほどに一変してしまっているに違いないが、さて何時どこがどんな風に変ったかという段になると、丁度私の頭髪が何時どうして白くなったかと問われると同じく、はっきりしか/″\と答えることは困難である。長い間に、いつとはなく、又どことなく、自然に移り変って、久しく見なかった人の眼には驚くばかりの変化や発展を示しているに違いないが、毎日見馴れている私にとっては、大体において矢張り以前と同じようだといわざるを得ない。

東京へ出て 加能作次郎は、明治18年(1885年)石川県羽咋郡に生まれました。1905年(明治38年)、上京し、1907年(明治40年)4月、22歳で早稲田大学文学部文学科高等予科に入学しています。
芝の高輪 以前の芝区、現在の港区の高輪で、高輪南町、高輪北町、高輪台町などからなっていました。品川駅などがあります。
早稲田線 15系統の都電は、高田馬場駅前、戸塚二丁目、面影橋、早稲田、早稲田車庫、関口町、鶴巻町、江戸川橋、石切町、東五軒町、大曲、飯田橋、九段下、専修大学、神保町、駿河台下、小川町、美土代町、神田橋、大手町、丸ノ内一丁目、呉服橋、日本橋、茅場町でした。
大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
外濠線 飯田橋から皇居の外濠に沿い、赤坂見附に行き、溜池、虎ノ門から飯倉、札の辻、品川に至る都電3系統路線。はじめは東京電気鉄道会社の経営、後に東京市に移管。
墳墓の地 ふんぼのち。墓のある土地。特に、先祖代々の墓がある土地。故郷
離愁 りしゅう。別れの悲しみ。別離の寂しさ

大東京繁昌記|早稲田神楽坂12|花街神楽坂

文学と神楽坂


花街神楽坂

花街神楽坂

 川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。それに川鉄の鳥は、流石に古くから評判になっているだけであって、私達はいつもうまいと思いながら食べることが出来た。もう一軒矢張りあの位の格の家で、芸者が入らずに、そして一寸うまいものを食べさせて、家族連などで気楽に行けるような日本料理屋を、例えば銀座の竹葉の食堂のような家があったらと、私は神楽坂のために常に思うのである。
 この辺で私は少し神楽坂の料理屋を廻ってみる機会に達したと思う。そして花柳界としての神楽坂の繁昌振りをのぞいて見たい欲望をも感ずるのであるが、しかし惜しいことにはもう時間が遅くなった。まだ箪笥たんす町の区役所前に吉熊という名代の大きな料亭があり、通寺町に求友亭などいう家のあった頃から見ると、花街としての神楽坂に随分いちじるしい変化や発展があり、あたりの様子や気分もすっかり変って、私としても様々の思い出もなきにあらずだが、ここではただ現在、あの狭い一廓に無慮むりょ六百に近い大小の美妓が、旧検新検の二派に別れ、常盤末よしなど十余の料亭と百近い待合とに、互にしのぎを削りながら夜毎不景気知らずの活躍をなしつつあるとの人の(うわさ)をそのまま記すだけにとどめよう。思い起す約二十年の昔、私達がはじめて学校から世の中へ巣立して、ああいう社会の空気にも触れはじめた頃、ある学生とその恋人だったさる芸者との間に起った刃傷にんじょう事件から、どこの待合の玄関の壁にも学生諸君お断りの制札のはり出されてあったことを。今はそんなことも遠い昔の思い出話になってしまった。俗にいう温泉横町(今の牛込会館横)江戸源、その反対側の小路の赤びょうたんなどのおでん屋で時に痛飲乱酔の狂態を演じたりしたのも、最早古い記憶のページの奥に隠されてしまった。

区役所 現在は新宿区立牛込箪笥区民センターのこと
吉熊 大正9年、赤城神社の氏子町の1つとして、箪笥町が出ています。その町の説明で

牛込区役所は15,6,7番地に誇る石造二階建の洋館(明治26年10月竣工)である。41番地に貸席演芸場株式会社牛込倶楽部(大正10年11月25日竣工)があり、当町には吉熊と称せる区内有数の料理店があったが、先年廃業してしまった

と書いています。1970年、新宿区立教育委員会の作った「神楽坂界隈の変遷」では「新撰東京名所図会 第42編」(東陽堂、1906年)を引用し

吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

と書いてあります。場所は箪笥町35番でした。 箪笥町三十五番

牛込区役所と相対しています。地図は昭和5年の「牛込区全図」です。意外と小さい? いえいえ、結構大きい。現在35番は左側の「日米タイム24ビル」の一部です。

箪笥町35番 明進軒2求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。地図は昭和12年の「火災保険特殊地図」。
無慮 おおまかに数える様子。おおよそ。ざっと。
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は2派に分かれ、旧検は芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒、新検は芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。
末よし 末吉は2丁目13番地にあったので右のイラストで。地図は現在の地図。 末吉
温泉横町  牛込会館横で、現在は神楽坂仲通りのこと
江戸源 昭和8年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

白木屋横町。小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの『花の家』カフェー『東京亭』野球おでんを看板の『グランド』繩のれん式の小料理『江戸源』牛鳥鍋類の『笑鬼』等が軒をつらねています

と書いています。ここは「繩のれん式の小料理」なのでしょう。なお、白木屋横町は現在の神楽坂仲通りのこと。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 私は友達と別れ、独りそれらの昔をしのびながら、微酔ほろよいの快い気持で、ぶら/\と毘沙門附近を歩いていた。丁度十一時頃で、人通りもまばらになり、両側の夜店もそろ/\しまいかけていた折柄車止の提灯ちょうちんが引込められると、急に待ち構えていたように多くの自動車が入り込んで来て、忙しく上下に馳せ違い始めた。芸者の往来も目に立って繁くなった。お座敷から帰る者、これから出掛ける者、客を送って行く者、往来で立話している者、アスファルトの舗道の上をちょこちょこ歩きの高い下駄の音に交って「今程は」「左様なら」など呼び交す艶めかしい嬌音が方々から聞えた。座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかの拍子木の音が聞えて来たりした。地内の入口では勤め人らしい洋服姿の男が二、三人何かひそ/\いい合いながら、袖を引いて誘ったり拒んだりしていた。カッフェからでも出て来たらしい学生の一団が、高らかに「都の西北」を放吟しながら通り過ぎたかと思うと、ふら/\した千鳥足でそこらの細い小路の中へ影のように消えて行く男もあった。かくして午後十一時過ぎの神楽坂は、急にそれまでとは全然違った純然たる色街らしい艶めいた情景に一変するのであった。

額ずく ひたいを地面につけて拝むこと。
新内 浄瑠璃の一流派で、鶴賀新内が始めた。花街などの流しとして発展していった。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けた
声色使い 俳優や有名人などの、せりふ回しや声などをまねること。職業とする人
地内 現代では「寺内」と書きます。寺内の花柳界は極めて大きく、「袖を引く」(そでをとって人を誘う)という風習は花柳界から生まれました。
都の西北 もちろん早稲田大学の校歌。作詞は相馬御風氏、作曲は東儀鉄笛氏。「都の西北 早稲田の森に 聳ゆる甍は われらが母校」と始まっていきます。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂08|独特の魅力

文学と神楽坂

独特の魅力
独特の魅力

 そうはいっても、しかしその寺町の通り神楽坂プロパーとでは、流石さすがにその感じが大分違っている。何といっても後者の方が、全体としてすべての点に一段級が上だという事は、何人も認めずにおられないだろう。例えば老舗と新店という感じの相違のようなものであろうか、矢張り肴町電車路を越えてから、はじめて神楽坂に出たという気のするのは、私だけではあるまい。たった電車路一筋の違いで、町並も同じく、外観にもにぎやかさにも相違がなく、出る人も同じでありながら、全体の空気なり色彩なりが急に変るということは、地方色などといえば少し大げさだが、多少そういったようなものも感ぜられて興味あることだ。寺町の通りが今の神楽坂本通りと同じ感じになるには、まだ/\相当長い年数を経なければなるまい。

寺町の通り 神楽坂6丁目の通り
神楽坂プロパー 神楽坂1~5丁目の通り。この本では「神楽坂本通り」と書いています
肴町 神楽坂5丁目
電車路 大久保通りは昔は都電のチンチン電車が通っていました

 それにこちらの方は、その両側の横町や裏通りがことごとく、芸者家や待合の巣になっていることをも考慮に加えなければならない。座敷著姿の艶っぽい芸者や雛妓おしゃく等があの肩摩(けんま)轂撃こくげき的の人出の中を掻き分けながら、こちらの横町から向うの横町へと渡り歩いている光景は、今も昔と変りなくその善い悪いは別として、あれが余程神楽坂の空気や色彩を他と異なったものにしていることは争われない。そして一見純然たる山の手の街らしいあの通りを、一歩その横町に足を踏み入れると、たちまちそこは純然たる下町気分の狭斜(きようしや)のちまたであり、柳暗(りゆうあん)花明(かめい)の歓楽境に変じているのであるが、その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶かくぜつもなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合(ゆうごう)して、そこにいわゆる神楽坂情調なる独特の花やかな空気と艶めいた気分とをかもし出し、それがまた他に求められぬ魅力となっているのだ。よく田原屋オザワなどのカッフエで、堅気なお邸の夫人や令嬢風の家族連れの人達や、学生連や、芸者連れの人達やがテーブルを並べて隣合わせたり向い合ったりしている光景を見かけるが、こゝ神楽坂ではそれが左程不自然にも不調和にも思われず、又その何れもが、互に気が引けたり窮屈に感じたりするようなこともないという自由さは、私の知っている限り神楽坂をいて他にないと思う。

Road_hub

ウィキペディアから

こちらの方 神楽坂プロパー、つまり神楽坂1~5丁目の通りのこと。
雛妓 半人前の芸者、見習のこと。(はん)(ぎょく)()(しゃく)などと呼びます。
肩摩轂撃 けんまこくげき。人や車馬の往来が激しく、混雑している様子。都会の雑踏の形容。肩と肩が触れ合い、車の(こしき)と轂がぶつかるほど混雑している。轂はハブのことで、車両・自動車・オートバイ・自転車などの車輪を構成する部品で、車輪(円盤状の部品)の中心部のこと
狭斜のちまた きょうしゃのちまた。中国長安で、遊里のある道幅の狭い街の名から、遊里。色町。「狭斜の(ちまた)」も遊廓のこと
柳暗花明 りゅうあんかめい。春の野が花や緑に満ちて、美しい景色にあふれる。花柳界・遊郭のことを指す
その山の手式の気分 安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」で引用されています。
隔絶 かけ離れていること。遠くへだたっていること

 私はぶら/\歩きながらそんなことを友達に話した。友達はなるほどといった様子で一々私の説にうなずいた。そして山の手の銀座といわれるのも無理がないとか、下町気分もかなり濃厚だなどと批評した。
「それにこゝは電車や自動車も通らず、両側町だからなおさら綺麗でもあるしにぎやかでもあるんだね。ちょっと浅草の仲見世みたいに」とかれはいった。
「そう、それもある。それにも一つ、こゝでは人通りが大体において二重になるということもあるんだ。というのは、坂下の方から来る人達はずっと寺町の郵便局辺まで行って引返す、寺町の方から出て来た連中は坂上か坂下まで行って又同じ道を引返すというわけなんだ。丁度袋の中をあっち行きこっち行きしているようなものだ。だから僕なんか、こうしてぶら/\していると、何度も同じ人に出会わすよ、のみならず、こゝを歩いている人達はみんな顔なじみという気がするんだ」と私は、あの人もあの人もと、折りから通り合せたいつもよく見る散歩人を指した。
「なるほどみんな散歩に出て来たという感じだね」と友達がいった。
「それも他所よそ行き気分でなく、ちょっとゆかたがけといったような軽い気持でね。だから何となく気楽な悠長な気がするよ。そしてこの辺の商人も、外の土地に比べると正直で悠長で人気が穏やかだという話だよ。通り一ぺんの客は少ないんだから、店同士でお互に競争はしていても、客に対しては一ぺんこっきりの悪らつなことはしないそうだよ」と私は人から聞いた通りに話した。

仲見世 なかみせ。社寺の境内などにある店。東京浅草では雷門から宝蔵門に至る浅草寺参道の商店街のこと。
ゆかたがけ 浴衣を無造作に着ること。また、浴衣だけのくつろいだ姿。
人気 じんき。にんき。その土地の人々の気風。「―の荒い土地柄」
一ぺんこっきり いっぺん[一遍]こっきり。1回を強く限定する意を表す語。一度かぎり。

別れたる妻に送る手紙|近松秋江

文学と神楽坂

近松秋江 近松(ちかまつ)秋江(しゅうこう)は明治9(1876)年5月4日に生まれ、昭和19(1944)年4月23日に死亡し、死亡時は満67歳の作家でした。では、どんな作家でしょうか。

 名前以外には思いつかず、しかし、この「別れたる妻に送る手紙」の名前はなかなかよく、おそらく擬古文を使う明治時代の作家だと思っている。なるほど、残念ながら違います。

 あるいは、秋江を「あきえ」と呼んでしまって昔の男性ではなく女性作家だと思っている。あるいは、夏目漱石や森鴎外には及びもしないけど、それでも明治時代にはまあまあ知られていて、『別れたる妻に送る手紙』などはおそらく切々とした情感がある手紙だと思っている。これも間違いです。

 一言でまとめると、近松秋江の次女、徳田道子氏が、近松秋江著『黒髪、別れたる妻に送る手紙』(講談社文芸文庫)の「或る男の変身」で、こう書いています。

 収録されている作品はすべて情痴ストーリーで、美しいラブストーリーでもなければ純愛物語でもない。
 書いた本人自身が顔をおおいたくなるような小説。

 逆に近松秋江はこう書いています。

 『別れたる妻…』は、紅葉の『多情多恨』と『金色夜叉』のに棄てられた貫一の心とを合したものです。
「新潮」 明治43年9月1日、近松秋江全集第9巻429頁)

 う~ん。なんとまあ。『金色夜叉』に匹敵する小説と考えているんだ。さすがに昭和5年にはこの豪語はなくなります。

   文筆懺悔・ざんげの生活
 自分が、長い間に書いて来た物で、あんなことを書くのではなかったと、今日から回顧して、孔あらば、入りたい心地のするものが、私には数多くある。どれも是れも、そんな物ばかりである。
 一体自分は、以前から、既に筆を持って紙にのぞんでゐる時に、非常な懐疑的態度に襲はれてゐる方で、(こんな物を書いてゐて、それでも好いのかなあ)と、幾度となく反省してみる。その為に筆が鈍るのである。尤もそれは、専ら芸術的立場からの批判であったが。
(「中央公論」昭和5年1月。近松秋江全集第12巻112頁)

 本人の自画像がとてもかわいい。真剣なものをもっと書けば良かったのに。『別れたる妻』なども真剣ですが、真剣な方角を変えたものがもっとあれば良かったのに。晩年は歴史物に流れていきました。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂07|通寺町の発展

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に乗った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の一部、「通寺町の発展」です。

通寺町の発展

 普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家の(ひさし)が両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。
肴町 現在の神楽坂五丁目です。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といい、この名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。ここでは市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を示すと考えます。
通寺町 現在の神楽坂六丁目です。
長家建 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
 ひさし。窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す小さな屋根。出入り口や窓の上部に設けることで、日差しや雨から守ることができるようになる。
勧工場 かんこうば。現在「スーパーよしや」が建っています。明治20年5月、牛込勧工場のスタートでした。
 工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売しました。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さく、また、多くは民営で、商人達の貸し店舗の商店街でした。入口と出口は別々にするのが一般的ですが、牛込勧工場は入口と出口が同じでした
 明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。明治40年以後になると、百貨店の進出があり、「勧工場もの」という言葉が安物の代名詞として広がり始め、大正3年(1914)にはわずか5か所に減り、衰退していきます。
 辰ノ口勧工場は明治15年の松斎吟光氏の「辰之口勧工場庭中之図」(発売元は福田熊次郎)で見ることも可能です。

火事が起って 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などがあれば、出品者に分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままで、明治44年には拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青の色ガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑抑私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかゝるかと内心非常にびくくしながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭出してお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

安田銀行聖天様いろは 下図の「火災保険特殊地図」(昭和12年)を見てみましょう。最初に、上下の大きな道路は神楽坂通り、下の水平の道路は大久保通り、2つの道路が交わる交差点は神楽坂上交差点です。
「安田銀行」は左にあります。その右には「聖天様」、つまり安養寺があり、そして昔の「いろは」(牛肉料理店)があります。 これは「牛肉店『いろは』と木村荘平」で詳しく検討しています。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 現在の写真では「安田銀行」は「セイジョー」から薬販売の「ココカラファイン」に、安養寺は同じく安養寺で、「いろは」はなくなりました。

 それから少し行ったところの寄席の牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかゝっていつも廊下へ溢み出すほどに繁盛し、活動などの盛にならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さん円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助小土佐などの義太夫加賀太夫紫朝新内にはじめて聞きほれたのも、矢張りその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかゝらなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかゝるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることゝ思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんぱんの行燈が、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそゝったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立だなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

牛込亭 この地図では「寄席」と書いています。現在の地図は、牛込亭は消え、ど真ん中を新しい道路が通りました。なお、この道路の名前は特に付いていません。
小さん 1895年3月、3代目襲名。1928年(昭和3年)4月、引退。
円右 1882年に圓右、1883年真打昇進。1924年10月、2代目圓朝に。一般的に「初代圓右」として認識。
綾之助 女性。本名は石山薗。母から義太夫の芸を仕込まれ、1885年頃、浅草の寄席で男装し丁髷姿で出演。竹本綾瀬太夫に入門し竹本綾之助を名乗る。1886年頃に両国の寄席で真打昇進。端麗な容姿と美声で学生等に人気を呼び、写真(プロマイド)が大いに売れたといいます。
小土佐 女性。竹本(たけもと)小土佐(ことさ)。女義太夫の太夫。明治の娘義太夫全盛期から昭和末まで芸歴は長大。
義太夫 義太夫節、略して義太夫は江戸時代前期から始まる浄瑠璃の一種。国の重要無形文化財。
加賀太夫 男性。富士(ふじ)(まつ)加賀(かが)太夫(たゆう)は、新内節の太夫の名跡。7代目は美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる。明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物がいたため。
紫朝 富士松ふじまつ紫朝しちょう。男性。明治大正の浄瑠璃太夫。
新内 新内(しんない)(ぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けたといいます。
色物 寄席において落語と講談以外の芸。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。
八幡劇 大衆演劇の劇団でしょうか。よくわかりません。
安来節 やすぎぶし。島根県安来地方の民謡。

 そんな懐旧談をしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつゝあったわけであるが、震災以後殊に目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑を見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつゝある有様である。

兎に角 他の事柄は別問題として。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。
さらでだに 然らでだに。そうでなくてさえ。ただでさえ。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華

神楽館|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 神楽館とはどれでしょう。下図の左側には昭和12年の地図がありますが、ここの赤い4角が神楽館でした。まず神楽坂通りで神楽坂2丁目と3丁目が分かれる場所を北東に向かう「神楽坂仲通り」ではなく、反対側の南側に向かっていくと、下に行く坂になります。最初の4つ角は、左右は小栗横町ですが、ここはまっすぐ上に進み、上がったところが現在の駐車場で、ここを曲がると見えてきます。神楽館は広津和郎氏、宇野浩二氏、片岡鐵兵氏、横溝正史氏などの下宿でした。

神楽館

神楽館。火災保険特殊地図(昭和12年)と現在のGoogle

泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花

大正元年の泉鏡花

 いずみきょうか。明治・大正期の小説家・劇作家。本名は鏡太郎。1873(明治6年)年11月4日に生まれ、没年は1939(昭和14年)9月7日。65歳、癌性肺腫瘍のため死亡。

 明治23年(17歳)、牛込横寺町の当時23歳の尾崎紅葉氏を訪ね、最初の門下になります。明治28年(21歳)、『夜行巡査」『外科室』を発表し、出世作に。明治29年5月、郷里から七七歳の祖母と弟豊春を迎えて、小石川区大塚町57番地に同居。明治32年(26歳)、神楽坂の芸妓、桃太郎(本名伊藤すゞ、当時17歳)を知り、牛込南榎町に引っ越し。明治33年(27歳)、幻想譚『高野聖』を発表。
 明治36年(30歳)1月、神楽坂に転居し、すゞと同棲。3月、紅葉はこれを知り、叱責。すゞはいったん鏡花のもとを去り、同年10月、紅葉が死亡、晴れて夫婦に。

 明治38年(32歳)、逗子に転居。明治41年(35歳)、『婦系図』を出版し、帰京。明治42年(36歳)、後藤宙外らの文芸革新会に参加し、反自然主義を標榜。
 昭和14(1939)年、66歳の『縷紅新草』が最後の作。小説は300編以上。独特の文体、女性崇拝、幻想、怪奇、耽美主義、エロチシズム、ロマンチシズムなどの世界が生まれました。

宇野浩二|大正8年3月~9年4月

 宇野浩二氏は大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「(みやこ)館」から撤去します。これは「宇野浩二全集 第十二巻 年譜」でそう書かれています。つまり

大正八年(一九一九) 三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿
大正九年(一九二〇) 四月、牛込袋町の都館を去って、江口渙の紹介で、彼の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町一七番地に一軒の家を構えた。

 わずか1年で、下宿は2軒になるわけです。では「神楽館」から「都館」に移った時間関係はどうなるのでしょう。水上勉氏の書かれた『宇野浩二伝 上』によると、浩二は五月に「都館」に引越ししたと書き、また新宿区の「区内に在住した文学者たち」では 、大正8年3月~同年4月に神楽町【神楽館】、大正8年5月~大正9年4月に袋町【都館】としています。正しいのでしょうか。水上勉氏著の『宇野浩二伝 上』を横に置いて見てみましょう。

 七年の末から八年はじめまで、浩二は「蔵の中」が発表されるまで、このような仕事をして待機していたわけだが、その金で三月末、牛込神楽坂の「神楽館」の部屋を借りて、赤坂にいた母を呼び寄せていた。浩二は母のために、今度は一と部屋を別にとった。それは来客が多かったせいもあるが、いくばくかの収入があったからでもあろう。ところが間もなく、この下宿へ広津和郎氏がやってきた。広津氏もまた転々していたのである。浩二の母は、浩二と広津氏の下着をいつもいっしょに洗濯した。二人は、お互いの褌をあべこべに使ったりした。
(『宇野浩二伝 上』244頁)


蔵の中 大正8(1919)年、28歳で宇野浩二氏は『蔵の中』を書きました。質屋の蔵で着物の虫干しをした男が書いた女たちの思い出です。これは近松秋江の実話をもとに作った小説でした。
このような仕事 翻訳で下訳すること。下訳者が最初の翻訳を行い、それから翻訳者に渡って、チェックして必要があれば書き直します。
神楽館 神楽坂2丁目にある下宿

 これで「三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿」したんだとわかります。さらに12月に、水上勉氏はこう書いています。

 浩二はこの十二月、まだ牛込の「神楽館」にいた。キョウも別室にいた。広津氏も同宿していた。すでにきみ子の自殺(浩二はそのようにいう)が材料になっているので、この作品は死の報が入った後書かれたことが明らかである。浩二にとってきみ子は、ヒステリイ女で重荷ではあったが、物心両面に援けを受けた相手である。(中略)そのきみ子が、別れて二年たつかたたぬまに死んだのだ。しかも自殺である。浩二にとってこれは悲痛な事件である。すくなくとも、大和高田での祖母の死にあれほどの衝撃を受けている浩二にとっては、きみ子の死は他人の死とは思えようはずもない。
(『宇野浩二伝 上』251頁)

この十二月 この十二月は大正8年の12月しかありません。大正7年はまだ神楽坂に来ていませんし、大正9年では下谷区にでています。大正8年12月には、依然「神楽館」にいたというのです。
キョウ 宇野浩二の母。
きみ子 伊沢きみ子。宇野浩二氏を悩まします。しかし、横浜で西洋人の家の小間使をしていた時に、猫イラズ入りの団子を食べて死んでいます。

 水上勉氏は正月過ぎにこう書いています。

 正月過ぎに東京の「神楽館」へ差出人不明の投書がきて、「ゆめ子はお蔭様にて大評判に候」などとあった。浩二はその下諏訪かららしい投書をみると、また仕事を持って出かけて行くのである。ところが鮎子に会いたし会いにくしといった気持から、いつか鮎子に紹介され、演芸会でも会って話した小竹を呼ぶ。そして小竹が鮎子と違い看板持ちの自由な芸者であることも手つだって、急速に二人の仲は進展してしまうのだ。
(『宇野浩二伝 上』274頁)

正月過ぎ これは9年1月です。9年1月にも「神楽館」に連絡したわけです。どこに住んでいるかはわかりません。
ゆめ子 小説ではゆめ子。実生活では鮎子。宇野浩二氏の「山恋ひ」から引用すると『私は原稿を書き疲れると、土地の芸者なぞを呼んでにやにやしてゐたものだつた。その中の一人に、ゆめ子といふ、今年21歳になる、芸者屋の娘兼主人で、養母といふ実の叔母に当る者が別に一軒芸者屋を出してゐて、自分は自分で三人の抱へ子と一人のお酌とを就いて、そして自分も芸者をしてゐるといふ女だつた。何といふことなく私はその女が気に入つたのであつた』
鮎子 本名は原とみ。大正八年九月、浩二は下諏訪の芸者鮎子と初めて会っています。水上勉『宇野浩二伝 上』によれば「当時21歳で、芸妓屋の娘であった。しかし、娘といっても、実の母の妹にあたる叔母の養女となって芸者に出ていた。この芸妓屋には三人の抱え妓がいた。鮎子は当時旦那持で、当歳の子を叔母に預け、芸者はそう好きでもなかったのに座敷へ出なければならない事情にあった。容貌はさして美人というのではないが、かわいらしい受け唇のしゃくれた、小づくりな顔立ちでで、気立てのいい妓だったが、客の前へ出ても自分から喋るというようなことのない無口な性質だった」と書いています。
小竹 本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者。28歳。年齢は鮎子より7歳も上になっています。
看板持ち 芸者として置屋から独立して営業すること。置屋の看板を持つ事から俗称「看板持ち」といいました。「自前になる」

 5月、水上勉氏はこう書いています。5月は大正8年5月でしょうか? それとも9年5月でしょうか。残念ながら、9年5月は新しい場所に引っ越ししていますから8年5月しか残りません。

 この何度目かの諏訪旅行から浩二が帰って半月目の五月初旬、突然小竹は東京へ来る。浩二は小竹に押し切られて結婚してしまう。鮎子という恋人がありながら、その姐芸者と勢いにまかて結婚してしまう経緯は、「一と踊」(「中央公論」大正十年五月号)に詳しい。

 (略)五月、―――彼女は、彼女の家財道具をひきまとめて、彼女は、もと東京の者であつたが、十年(かん)その町に住んでゐたのである、彼女にとって、十年間の浮世の町、私は今日かぎりさらりと身をあらふのだ、さらば、さよなら、と、惜し気もなくその町をひきあげてきたのである。されば、その秋におこなはれた国の国勢調査の日、彼女は、けろりとした顏をして、生まれた時から私につれそうてゐたやうな顔をして、調査員にむかつて、戸籍にもありますとほり、私はなにがしの妻でございます、としやあしやあとして述べたことにちがひない。彼女は、私の家にきて以来、あんな山の中の町、鬼にくはれてしまへ、と思つて、更にふりむかないのである。

 村田キヌが東京へ押しかけてきた先は、牛込袋町の「都館」であった。浩二は神楽坂の「神楽館」からここへ越した矢先で、もちろん母のキョウもいっしょにいた。そこへ小竹は押しかけた。浩二は、それをまったく予測できなかったわけはない。下諏訪で、東京へ行ってもいいかと押されて許諾したか、それとも、押しかければ迎え入れそうな返事をしたかどちらかと判断される。小竹は袋町の下宿へ来て、そこに浩二の母がいるのを見て困ったにちがいない。浩二は、さっそく家さがしに廻る。江口渙氏の紹介で、氏の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町十七番地の一軒へ越していくのである。
(『宇野浩二伝 上』277頁)


5月初旬 五月初旬は今度は大正8年5月です。しかし、下谷区上野桜木町十七番地に移転するのは大正9年4月です。あわてて探したのに11か月も探している。どこか何かがおかしいと思いませんか。
彼女 小竹のこと。
その町 下諏訪のこと
村田キヌ 小竹の本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者にあたる。
牛込袋町の都館 牛込袋町は別名藁店わなだな。神楽坂5丁目から南に行くと袋町に行く。図を参照

牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、牛込館と都館支店はなくなっています。

江口渙 えぐちかん。本名は渙(きよし)。生年は明治20(1887)年7月20日、没年は昭和50(1975)年1月18日。87歳。東京帝大中退。大正、昭和時代の小説家、評論家。夏目漱石門にはいり、「労働者誘拐」で注目。マルクス主義に接近、日本プロレタリア作家同盟中央委員長。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に参加した。

結局、いつから神楽館から都館に入ったのか、私には正確ににわかりません。