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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

材木横丁 和泉屋横町 から傘横丁 三年坂 神楽小路横 みちくさ横丁 神楽小路 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 神楽坂仲坂 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁

 

 その名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 寂しい坂道だから転ぶと三年以内に死ぬという迷信から。
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から



16/3/13⇒20/8/6⇒21/6/16⇒21/9/23

神楽坂の変遷|神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事

文学と神楽坂

神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「神楽坂演芸場と落語切り絵図を検証した民俗学者坂本要さん」(2004年3月11日)を引用し、神楽坂の変遷についてちょっと触れてみます。なお、地元の人から多大な情報を頂きました。感謝します。

神楽坂演芸場と落語切り絵図を検証した民俗学者坂本要さん
新宿区の民俗」は新宿区立博物館の刊行物だ。民俗学者5人が参加して神楽坂、大久保、市ヶ谷などをしらべてまわって報告書をかいた。出版は5年くらい前だが、調査とまとめに3年かかったので、着手してから8年たつ。
「いやあ、変わりましたね」
 調査のリーダー坂本先生はしみじみと語った。当時は川崎の定時制高校の教師だったが、現在は東京家政学院筑波女子大学教授である。
「どこがかわりましたか」
「商店がどんどんかわっていますね」
 たしかにかわった。わたしが父の店をついで不二家神楽坂店の経営をはじめたのは6年前。その間わたしの店のある神楽坂1丁目だけでも、清水衣装店が廃業してモスバーガーになり、となりの元田原屋は不動産屋に、赤井衣装店はカフェに、まえのテナントビルは、ビルオーナーがかわって、すべてのテナントがいれかわわった。
 2丁目では、山一薬局がゲームセンターに、パラパラを産んだディスコのツインスターはフレンチに、うどんやがラーメン屋に、ポルノ本屋がラーメン屋に、カフェがマッサージに、——。きりがないが、5丁目は特に劇的なのでふれておきたい。芳進堂という古い書店がブティックに、漱石がかよった田原屋が廃業、江戸時代から営業していた万長も廃業——。
 神楽坂商店街は本当に変わっていく。そしてまだまだ変わる。
 この波はどこまでつづくのだろうか。
「チェーン店が増えていてわたしら中高年はさびしいけれど、わかいひとはこの方がいいんでしょうね」
 わたしの店舗は、不二家とドトールだ。両方ともナショナルチェーンである。ただ神楽坂の不二家はぺコちゃん焼という日本でここでしか買えないレア商品をもっている。ドトールも、理科大学のジャズ研究会に3階を無料で貸しだして定期ジャズコンサートをやっているし、神楽坂編集者の学校もそこで開校してきた。他のドトールにはないユニークな運営をしていている。
新宿区の民俗 6冊が知られていて、1(民俗芸能篇)は1992年3月、 5(牛込地区篇)は2001年3月、6(淀橋地区篇)は2003年3月でした。1〜4の著者は「新宿歴史博物館」、5〜6は「新宿生涯学習財団」でした。
坂本先生 坂本かなめ。筑波学院大学名誉教授。埼玉大学教養学部を卒業後、東京教育大学大学院で日本民俗学を学び、東方学院で仏教学を学ぶ。2005年、筑波学院大学情報コミュニケーション学部の教授。生年は1947年。

2000年の1〜2丁目 住宅地図

不二家神楽坂店 ⓪昭和42年(1967)に開店。ペコちゃん焼は昭和44年から。ペコちゃん焼は結局大判焼きなので、手間がかかり、不二家の中でもこの店舗だけが販売中。
清水衣装店 ①千代田区飯田橋3-2-12タキザワビル2Fに移転。清水衣装店の場所は現在「モスバーガー」に。
田原屋 ②田原屋フルーツパーラー。トレードマークが「TAWARAYA」と黒い看板と白の球。現在は不動産会社「エイブル」。
赤井衣装店 ③カフェやベーカリーの「ル・レーブ」に変わり、さらに現在は不動産仲介業「アパマンショップ」に。
まえのテナントビル ④「神楽坂スカイビル」から現在は「三経22ビル」に。中は「GIRL’S DINING BAR Canan(カナン) 神楽坂店」や「Girls Bar Luna 神楽坂 Luna」など。
山一薬局 ⑤「山一薬局」からゲームセンター「オアシススロットクラブ」に。現在はフランス生まれの冷凍食品専門店「ピカール 神楽坂店」に。
ツインスター ⑥ディスコの「ツインスター」からフランス料理「ラリアンス」に。
うどん ⑦うどんや(店名は不明)からラーメン「天下一品 神楽坂店」に。
ポルノ本屋 ⑧本屋「ブックスローラン」は成人向け書籍が主体。だが普通の本も。神楽坂の他に新宿にも店舗があった。

ブックスローラン 神楽坂(ブックカバー)

現在は「うまい中華そば 日高屋」から「俺流塩らーめん 神楽坂店」に。
カフェ ⑨喫茶「坂」からマッサージ「PrimeTreat Body & Foot」に。現在は居酒屋「食道楽」に。
芳進堂 飯田橋駅の芳進堂ラムラ店で営業中。5丁目の旧芳進堂は婦人服「イッサ」ISSAに。
田原屋 5丁目の旧田原屋は「玄品ふぐ神楽坂の関」に。
万長 酒店の「万長」から現在は「第一勧業信用組合」に。
ドトール 正確には「ドトールコーヒーショップ飯田橋神楽坂店」。地下階は不二家神楽坂店。営業時間は平日7時から22時まで。土日と祝日は8時から20時まで。
理科大学のジャズ研究会 現在は「神楽坂キャンパス3号館地下防音室」で。
神楽坂編集者の学校 現在は廃止。平松南氏は講談社のOBなので、多分これを元手に講習会を行っていたもの。

正雪地蔵|新撰東京名所図会、新宿郷土研究、新宿の散歩道

文学と神楽坂

 「正雪地蔵」あるいは「織部型灯籠」は矢来町日下が池」の崖下から見つかりました。『風俗画報』の「新撰東京名所図会 第41編」(東陽堂、明治37年)では……

◇牛山書院
(中略)書院の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあり、日下が池崖地より堀出すと、同邸の正雪と曾て縁故あるなし、但し、近傍榎町正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚の地蔵ともいう。

書院 小浜藩酒井家がつくった牛山書院のこと。書院とは「書斎、寺院の僧侶の私室、書院造りの座敷」。「新撰東京名所図会 第41編」によれば、牛山書院は「旧庭園の風致を保存せむが為めに、酒井家にて設くる所なり、即ち伯爵家の別寮(茶室としてつくった小さな建物)にして、前記日下が池も岸の茶屋も皆な之に付属して凡そ千五百坪、一区割をなし、妄に入るを許さず矢来倶楽部にて取締居るなり。書院は茶屋の南にありて相隣れり、書院の側らに古樅老銀杏各一株あり、共に三代将軍時代の物なり、其他甃石、琴柱形の石燈籠等物の今に存するあり」
註:矢来倶楽部 「新撰東京名所図会」では、設立は明治25年頃。場所は山里5号地。明治37年の部員は約80人。客室6間、離れ座敷2間、茶室。割烹や宿泊はなく、料理は門前の吉田屋で。弁当は可。娯楽は囲碁、球技、謡曲など。

正雪 由井正雪。江戸前期の兵学者。3代将軍徳川家光の死を契機に牢人丸橋忠弥らと幕府転覆をはかった(慶安事件)が、駿府の宿屋で包囲され、自殺した。47歳。
地蔵 地蔵は土地を悪いものから守る仏教の菩薩。右手に錫杖しゃくじょう,左手に宝珠を持つ。その信仰は道祖神や庚申信仰などと結合し、広く民間に信仰された。
崖地 崖地とは宅地内にありながら傾斜が急で、宅地としては使用できない土地。正雪地蔵は「日下が池」に面している崖にあったのでしょう。

参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」 明治16年(複製は日本地図センター、2011年)

同邸 酒井邸の邸宅。
曾て かつて。過去のある一時期を表す語。以前。昔。
縁故 血縁・姻戚いんせきなどによるつながり。
正雪屋敷 榎町に由井正雪が張孔堂という邸宅を構え、門弟は4000〜5000人という。しかし、事件の6年後に生まれた新井白石はくせきは、正雪の道場は神田れんじゃく町のいつの裏店だと佐久間洞巌に宛てた手紙で書いています。(新井白石、今泉定介編『新井白石全集 第5巻』吉川半七、1906)

駿河の由井の紺屋の子と申し候さもあるべく候神田の連雀町と申す町のうらやに五間ほどのたなをかり候て三間は手習子を集め候所とし二間の所に住居候よし中々あさましき浪人朝不夕の體にて旗本衆又家中の歴々をその所へ引つけ高砂やのうたひの中にて軍法を伝授し候
正雪桜 由比正雪と丸橋忠弥が酒を酌み交わし叛乱の密談を行った場所。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 52. 慶安の変立役者由比正雪旧居跡」では……
横町を進むと右手(天神町)78番地の小野沢製本所のところには、「正雪桜」という桜の古木が昭和5年まであって天然記念物になっていた。その桜は、正雪の学問所の庭先だったという。慶安2年(1649)の春の夜、正雪はこの桜の下で花見の宴を張りながら、丸橋忠弥と謀略の誓いを立てたと伝えている。
附会 まとめる。追従する。こじつける。
尊容 そんよう。仏像や高貴な人で尊いお顔やお姿
徴す 証明する。照らし合わせる。取り立てる。徴収する。もとめる。要求する。
一里塚の地蔵 一里塚は1里(4km)ごとに土を高く盛り上げた盛土(塚)で、旅人の道しるべになった。地蔵は、この場合は土地を悪いものから守る神で、疫病が村に入り込まないよう魔よけをしたり、旅人の安全を願うなど、さまざまな役割があった。

 ここでは「正雪地蔵」は「由比正雪の像ではない」ということだけがわかりました。次に新宿郷土会『新宿郷土研究』第1号(新宿郷土会、昭和40年)を見てみます。一瀬幸三氏は調査して、「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」と報告しています。

正雪地蔵はキリタン灯籠なり

矢来キリシタン灯籠

1. 男根の形に疑問   一瀬幸三
 新宿区矢来町町会事務所前に『正雪地蔵尊』がある。むかしから眼病に効顕ありと知られているものである。この地蔵について、矢来町会の加藤嘉男氏は「この正雪地蔵は秋葉神社とともに酒井家(旧小浜藩主)が、移転に際し、同町会の守り本尊として、同町会にゆづられたものである」とその来歴を説明してくれた。また、「地蔵尊は男根の形をしている」ということも附け加えられた。そこで、近くにはキリシタン大名として知られている豊後の大友宗麟の長子義統(後に吉続)の住居したという『大友屋敷』などがあり、もしやすると、地方でいわれるヤソ地蔵ではなかろうかと、詳細に調査の結果ヤソ地蔵ともいわれるまごうなきキリシタン灯籠であることが判明した。
2.灯籠の復元
『正雪地蔵』すなわちキリシタン灯籠は高さははめこんだ台石から51cm、ヨコ巾最小15cm、最大で21cm、火熖をこうむって赤茶けておりしたがって、石質ははなはだもろいが御影石のようである。現在は欠損した竿石のみを残している。しかし、キリシタン灯籠としての特徴であるラテン十字形はみられないが、下部にはアーチ形に彫られた中に人物像をみることができる。(この人物像について学者の定説というものはないが、伴天連(Fa dere)ともいい、イエスキリストともいい、マリヤなどともいうが、明かでない。)いまここに矢来のキリシタン灯籠を図をもって、復元すると図のようになる。(斜線は欠損の個所)

矢来町町会事務所 不明。
秋葉神社 東京都神社名鑑では「当社は寛永年中(1624−44)まで牛込寺町(今の神楽坂六丁目付近)に鎮座され、火除の神として崇められていたが、同所住民の願いにより、矢来の酒井若狭守の下屋敷へ遷座され、爾来酒井家の邸内社として崇敬せられていた。明治になって門戸を開き一般の人も参詣できるようになった。昭和27年に酒井家より、矢来町秋葉神社奉賛会に無償にて贈与せられ、昭和49年9月より宗教法人として発足した」
酒井家(旧小浜藩主) わか国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜(現、福井県小浜市)に置かれた藩
守り本尊 いつも信仰し、自分を守る神社。
大友宗麟 おおともそうりん。戦国大名。天文19年(1550)父の跡を継ぎ、豊後、筑後、肥後、肥前、豊前の6ヵ国を領し、朝鮮貿易を行い、キリスト教に帰依。天正10年(1582)少年使節をローマへ派遣した。
義統(後に吉続) 戦国時代の武将。宗麟の長子。豊臣秀吉から「吉」を与えられて義統から吉統へと改名し、豊臣一家に。関ヶ原の戦いで敗れ、幽閉された。
大友屋敷 キリシタン大名の大友宗麟の孫・義延の屋敷。義延の孫、義親も1619(元和5)年に死亡し、大友家は断絶に。大友義延は敷地内に大宰府天満宮を勧請、この天神信仰は隠れキリシタンの天主(デウス)信仰に通じるという。
ヤソ地蔵 キリシタン地蔵。十字架地蔵。キリスト教を信仰していた人々が、キリストを抱くマリア像を仏像の姿に置き換え、その一部に十字架などを隠し刻んだ地蔵尊。
キリシタン灯籠 竿石(さおいし。胴の部分)に十字架や像が刻まれ、キリストの尊像だとして崇拝した。切支丹灯籠ともいう。
御影石 花崗岩のこと。当初は神戸市御影地方から生産した。硬く、耐久性があり建材や墓石などに用いる。
竿石 石灯籠で、台石の上にあって火袋を支える柱状の石
ラテン十字形 キリスト教で最も頻繁に用いられる十字の一つ。正十字の下方にのびている線が他の三つより長く,十字の中心がやや上方にある。ギリシャ十字は四枝の長さが等しい。
伴天連 バテレン。ポルトガル語(padre)。神父。転じて、キリシタン。キリスト教。

 一瀬幸三氏の「正雪地蔵は切支丹灯籠なり」の続きです。

3.崖下から発堀
 このキリシタン灯籠はいまの新潮社の前あたりに三代将軍徳川家光が、酒井讃岐守忠勝の牛込下屋敷へ来た際に水泳などをしてたびたび興じた、「日たるが池」というのがあった。正雪地蔵すなわちキリシタン灯籠はこの崖下から掘り出されたものであるという。
 これについて、『風俗画報』「新撰東京名所図会」は次のように誌している。
  書院(著者註=牛山書院)の東南、園の一隅に正雪地蔵といへるあたり、日下が池の崖地より堀出すと、同邸(著者注=酒井邸)の正雪とて縁故あるなし、但し、近傍榎町に正雪屋敷の跡ありて、正雪桜など著名なるより附会したるにはあらざるか、粗造なる石の面に微かに地蔵の尊容を刻めるのみ、文字の徴すべきなし。一説に一里塚地蔵ともいう。
 これが、正雪地蔵に関するすなわちキリシタン灯籠ただひとつの文献である。
 キリシタン灯籠の来歴についてはハッキリしてない。
1.江戸初期にキリシタンが、迫害を受けた際、纖部門下の教徒が、潜伏信仰の対象として創案したもの。
2.キリシタン信奉の茶人が好んで、茶室に用いたもの。
3.道祖神と並べ、迫害下のキリシタンの連絡用として用いたもの。
4.洗礼式に聖盤をのせ聖水を注ぐのに用いたるの。
などであるが、いずれのものが判然としていない。だがこの灯籠がキリシタンと深い関係にあることはいなめない。これが、江戸においてキリシタンの詮義だてのとくに厳しかった、元和(1615~1623)から寛永(1624~1643)にかけてのころ焼すてられ土中に埋められていたるのであろう。
 しかし、一般にはキリシタン灯籠の創案者といわれる、古田織部正重然(教名=フランスコ)が、大阪勢に通じたという理由で、慶長20年(1615)5〜6月一族が切腹を命ぜられたあと、一名織部灯籠ともいわれるキリシタン灯籠が、キリシタンと気脉を通じていることが、露見し、この灯籠の製作、所有の一切を禁じられた。そこで庭の植込みに隠したり、土中深く埋めたり墓地に運んだりして、為政者の目をくらましたものであるともいわれている。
 現に新宿区には二基のキリシタン灯籠がある。ひとつは河田町月桂寺、新宿2丁目の大宗寺のもので、いずれももとは墓地内にあったものであるというからカムフラージーの意味で置いたものだろう。
 こうしたキリシタンの遺物であるキリシタン灯籠が、区内から三基までも発見せられることは四谷にあったといわれる南蛮寺、それから牛込にあったキリシタン宗徒のアジトとに深いつながりがあり、今後の興味ある研究課題といわさるを得ない。ここでは矢来のキリシタン灯籠についてのみ紹介しておいたままである。

纖部 ふる重然しげなり。古田おり。古田おりのかみ。信長、秀吉、家康の三代に仕えた武将。茶道でのせんのきゅうの弟子で、織部流の開祖。大坂夏の陣では、豊臣家への内通を疑われて切腹。徳川秀忠に茶法を伝授し、陶芸で織部陶の名を後世に伝えた。
潜伏信仰 17~19世紀、ひそかにキリスト教信仰を続けていた形態
道祖神 村の境や道の分岐、山道の道端に祀られる石の彫像に宿る神道の神
詮義 評議して明らかにすること。その評議。罪人を取り調べること。
古田織部正重然 上の「纖部」を参照
織部灯籠 夜の茶会のため社寺の石灯籠。織部灯籠は四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。茶人・古田織部好みの灯籠ということで「織部」の名がある。
気脉 きみゃく。気脈。血液の通う道筋。仲間うちなどでの、考え・気持ちのつながり。
月桂寺 正覚山月桂寺。臨済宗円覚寺派。新宿区河田町2-5。寛永9年(1632)市谷に起立、寛永11年河田町に移る。
大宗寺 霞関山本覚院太宗寺。浄土宗。新宿区新宿2-9-2。慶長2年(1597)開山。
カムフラージー カムフラージュ。camouflage。敵の目をくらますために、軍艦・戦車・建造物・身体などに迷彩などを施す
南蛮寺 室町末期〜安土桃山時代のキリスト教の教会堂。
宗徒のアジト 宗徒とはある宗教・宗派の信徒、信者。アジトとは地下運動者の隠れ家。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵

 以上は一瀬幸三氏の思慮です。この「像」はキリスト像(かマリア像、宣教師像)にも似ていますが、本当?と考えてしまいます。
 ここで牧村史陽氏の『織部灯籠はキリシタン灯籠か』(史陽選集刊行会、昭和43年)の写真を4枚ほど上げておきます。

「織部灯籠はキリシタン灯籠か」

 次は芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、昭和47年)「牛込地区 24. キリシタン灯籠だった正雪地蔵」で、賛否両論をまとって登場します。

キリシタン灯籠だった正雪地蔵
      (矢来町三)
 旺文社業務局反対側にある町会事務所横の細道奥に秋葉神社がある。その入口左手に「正雪地蔵尊」を祭る祠がある。昔から眼病に効能があると信仰されていた。
 もと近くの崖下から掘り出され、酒井家屋敷内にあったものを、酒井家が移転する時に、町会の守り神として町会にゆずられたものである。
 これは、実はミカゲ石(火災を受けて赤くなっている)でつくられた頭部の欠けた織部型灯籠のキリシタン灯籠である。かくれキリシタン信徒の連絡用やひそかに信仰するためのものだろうというが、確実な証拠はない。しかし、たいてい地中から掘り出されるので、正常な姿で置かれることを好まれなかったか、世間からはばかれたものであるということができる。
 正雪地蔵と呼ばれたのは、この北方の天神町に、由比正雪の住んだ跡があるので結びつけられたものだろうという(52参照)。
 正雪地蔵はキリシタン灯籠であるとするのは、これが地中にかくされていたものを掘り出されたものであること、掘り出された所はキリシタン大名である小浜藩酒井家の屋敷内であること、天神町の北野天満宮あたりにキリシタン大名として知られていた豊後の大友宗麟の子孫、義乗が住んでいた大友屋敷であることなどから、それらと関係があるのではないかと推察するのである(53参照)。
 これが眼病に効験あるといわれたのは、かくれキリシタンが自分たちの信仰対象物をカムフラージュするために、「この灯籠を見ると眼がつぶれる」と、まことしやかにいいふらしたことが、後世になって眼病の守り神としての言仰に変ったのではないかという(市谷37・新宿21参照)。

旺文社業務局 昭和48年の住宅地図です。

昭和48年の住宅地図

キリシタン大名である小浜藩酒井家 小浜藩の藩主を務めた酒井家はキリシタンではありませんでした。
北野天満宮 北野神社。新宿区天神町63。創建年代等は不詳。

 松田重雄氏の「切支丹燈籠の信仰」(恒文社、昭和63年)はキリシタン灯籠であることは疑いはないと考えています。

▶︎ 一般の燈籠や織部燈籠には、病気と結んだ伝承はないが、切支丹燈籠にはいろいろの病気恢復信仰に習合したものがある。これは、この燈籠のみにある特異性である。
 東京都矢来町の燈籠の尊像を正雪地蔵と称し、「この地蔵様を信仰すると眼病が治る」との信仰が現在も続き、お花や満願の願開きの旗が供えられている。東京付近だけでなく、大阪市方面、その他の地方からの信仰が、今もって絶えない。小浜市雲浜地区蔵のものは、竿の型が男子の性器に似ていることから、性器に関する病気の守護地蔵として今も信仰が続き、水と花が供えられていた(中略)。このように二重信仰によって、彼等が熱祷の場を守り抜いた信念には、心に重圧を受けた。(103頁)
▶︎ 江戸牛込屋敷に、旧小浜藩主酒井讃岐守忠勝の屋敷があった。庭内に切支丹燈籠を祀っていたが、幕府の手前園内の、清らかな「ひたるが池」の崖下に沈め、聖地としていた。その後、池から拾い上げたと、酒井家では伝えている。小浜時代、切支丹大名であった酒井家が礼拝の対象とし、いつの頃か秋葉神社の境内に祀られた。
 新宿区矢来町に秋葉神社の小祠がある。その横に「正雪地蔵」が祀られている。『新撰東京名所図会』によると、近く榎町には正雪屋敷があり、その近くにあったので、正雪地蔵と呼んだ。これは擬装するため、表画上地蔵信仰に習合し、よく聖地を守り抜いたのである。(111頁)
▶︎ 切支丹燈籠の文様が風化のため見のがすこともあり、読み取りにくい場合がある。このようなとき拓本によって判明する場合が多い。東京都新宿区矢来町の正雪地蔵は、戦災を受けて焼けただれ、竿の上部半分が火によって破裂している。肉眼では文様がさだかではなかったが、拓本を取ったところ、創造時代型の印の一部が浮き出て、時代的考証の上に大いに役立ったことがある。(234頁)
習合 異なる教義などを折衷すること。「神仏習合」

 以上、正雪地蔵は「キリシタン灯籠」だったという賛成論を書きましたが、いえいえ、それで終わる話ではありません。最後に反対論を。
 まず小浜若狭藩では寛永11年(1634)11月に酒井忠勝が小浜町・敦賀町に条々を発し、キリシタンの信仰は厳禁していました。小浜若狭藩がキリシタンで「日下が池」にキリスト像(かマリア像、宣教師像)がある……なんてことはありえないのです。
 隠居お勉強帖ではこの地蔵を「こじつけが幾重にも重なった謎多き小祠」と書いています。
 武者小路千家の「卜深庵」ではブログの「織部灯篭」の中で……

大正末期から昭和の初期にかけて、一部の研究者や郷土史家によるキリシタン遺物の研究熱が高まり、織部灯篭に彫られた長身像がマントを羽織った宣教師に似ているとして、織部灯篭の一部を「キリシタン燈籠」と称するようになりました。そして現在、地方自治体で文化財指定ものが全国で21基の織部灯篭が「キリシタン灯篭」として文化財指定されています。
 キリシタン灯篭の研究書として、美術史家の西村貞の『キリシタンと茶道』と松田重雄の『切支丹灯籠の研究』等があります。西村は織部灯篭の一部をキリシタン宗門と関係づけようと論証に努めています。また松田重雄も曖昧な論述でキリシタン灯篭であると主張していますが、スペイン・ポルトガルの関係史を専門とし南蛮文化研究家で歴史学者の松田毅一は、『キリシタン 史実と美術』でこれらの説を完全に論破しています。また『潜キリシタンと切支丹灯籠』(松田重雄著、1966)の書評に日本のキリスト教・キリシタン史家の海老沢有道は、「一言にして云えばキリシタン研究が半世紀も逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各頁誤謬、曲解、こじつけにみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほど執筆せねばならない。(中略)従来の学問研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタンの教理、信仰についても理解に欠けており、とに角恐れ入った著作である」と手厳しく酷評しています。
 この書評は海老沢有道著「ゑぴすとら」(キリスト教史学会、1994)の「『切支丹灯籠』評」(203頁)でした。全部の評論を取り出すと……
 鳥取民族美術館長松田重雄氏が、永年のキリシタン燈篭の研究を公けにするから、推薦して欲しい旨、昨秋同地の永田牧師から再三の依頼を受けた。そして執筆意図と目次、その要点等を拝見したが、学間的に極めて不安なものがあるので強く御辞退し、刊行の暁には批評させて戴く旨お答えして置いた。それが、このたび愈々出版されたのであるが、一言にして云えばキリシタン研究が半世紀を逆行した観がある。全くひどい本が公刊されたものである。各誤謬・曲解・こじつけにみちみちており、それを指摘するだけで、逆に一冊の本ほどを執筆せねばならない。ただ全国各地に散在する130余の、いわゆるキリシタン燈籠を調査し、形態的整理をしたという点にとりえがある。また問題の謎の文字をPatri(父に)と解する新説を出している。が、参考文献が巻末に若干掲げられているものの、従来の学的研究を理解し、吟味した形跡もなく、キリシタン教理・信仰についても理解を欠いており、とに角恐れ入った著述である。
 こうした書を、部外者の京大建築学の福山教授や元拓大総長矢部貞治氏が、学的研究として持ちあげた序を寄せているのは、まだしも、日本基教団総会議長大村勇氏が提灯もちをされていることは誠に遺憾の極みである。

 松田毅一氏の『キリシタン 史実と美術』(淡交社、昭和44年)では……
 わが国では上代から神社仏閣に石燈籠が安置され、近世初期からは茶庭にも、そして近代になっては広く庭園一般にも各種の石燈籠が普及するようになった。ここで取り扱ういわゆる「織部型燈籠」は、近世の初期から愛用され、茶庭のみならず、寺社、庭園、墓地その他全国各地に見受けられるものである。それは普通、竿石さおいしの上部が横に突き出し、下部に人像が刻まれている点が大きい特徴とされているのであるが、特に本書で問題とするゆえんは、大正末期から、それはキリシタン宗門と密接な関係があるという説が流布しているからである。そして今では、多くの人々が、織部型燈籠のことをたとえその一部にせよ「キリシタン燈籠」と称するに至った。
 しかしながらこのキリシタン燈籠説は、はなはだしく根拠に久け、キリシタン史の権威者と認められている人々は、すべて織部型燈籠とキリシタンは無関係である、あるいは少なくとも直接的には関係がないとして、問題にもしていない。それにもかかわらず、キリシタン燈籠説が今なお鳴りをひそめないのみか、これを誇示し流行させる風潮が見受けられるのである。けだし、わが史学界なり読書界における奇現象といわねばなるまい。だが、それには若干の理由がある。すなわち、その一は、優れた美術史家であった故西村貞氏が、事実上、初めてキリシタン燈籠説を学術書として公にした際、学界はあえて反駁しようとはせず、したがって同説はあたかも公認されているかのような印象を世人に与えたことにあると思われる。もとより今日までに、西村説、およびそれに類する説を「認められない」と主張した方は幾人もおられるが、西村氏が、その博覧強記と蘊蓄うんちく、ならびに情熱を傾け、数百枚にわたって筆されたのに対し、わずか数頁の反論ないし所感といったものに留まったので、キリシタン燈籠説を主張する人々をなお決定的に沈黙せしめるに至らぬのであろう。理由の第二は、キリシタン燈籠説と称するものにも異説があり、織部型燈籠そのものにも種々の形態があって、これについて問題を提起し、論争することは容易でないからである。それをあえて試みようとすれば、勢い相当な長文ないし一書を執筆する覚悟が必要となる。理由の第三は、織部型燈籠といっても、中台以上を欠いた竿石だけのものが多いので、それらは、もともと燈籠の形態であったのか、あるいは卒塔婆そとばか五輪塔に由来するような竿石の部分だけのものが先に存在し、それを利用して燈籠としたのであるかという基本的なことが明らかでない。もしその後者であるならば、織部燈籠の実体を究めるためには、種々の石造物や民間信仰の研究にまで拡大せしめねばならない。そのような次第で、私は今日まで執筆をちゅうちょして来たのであるが、「キリシタン燈籠」という誤った説が公然と流布し、甲論乙駁、混迷の状態にあることを、今にして秩序立てなければ、後世、キリシタン研究は収拾のつかない状態に陥るのではないかとさえ要点されるまでになった。

 また川島恂二氏の「古河藩領とその周辺の隠切支丹」(日本図書刊行会、1986)では……
 昭和44年松田毅一氏著『キリシタン—史実と美術』では、『切支丹灯籠なぞは推理小説の類で学問的根拠は絶無であり全くの作り話に過ぎない』と断定を下された。突如、一天忽かにかき曇り、雹が降って来て皆びっくりして押し黙ってしまった。
 今は松田毅一著「南蛮巡礼」昭和56年中央文庫に、同氏著昭和42年南蛮巡礼(朝日新聞社)も加えられていて名著である。
 松田毅一氏と共に日本の指折り数える切支丹権威者海老沢有道氏も「曲解の極である」として切支丹灯籠を否定している。松田毅一は正直な偉い人で正々堂々とその潜キリシタンでない理由を我々素人に書いて呉れている。

 つまり、この地蔵は「キリシタン燈籠」ではなく、そもそも「キリシタン燈籠」という燈籠はなく、普通の織部灯篭で、これを崇拝するのは大間違いだ……としています。
 研究の比較として、一方は一流の郷土研究家や美術史家たち、一方はキリシタンの権威者たち、さあ正しいのがどちらなの? 私は後者の方に軍配を上げます。

松山藩酒井家の光照寺墓石43基|神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事

文学と神楽坂

 「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「山形県松山町との市民交流に秘められた『神楽坂光照寺酒井家墓石群43基のナゾ』」(2004年6月4日)を引用します。

 松山町は山形県庄内平野にある町である。地理に詳しくなければ、この町がいづこにあるか、まずピンとこない。地理音痴のわたしは、もちろんピンとこなかった。7年前までは。
 松山町が神楽坂と深く結びついていることは、いまでもほとんどの人が知らない。そのナゾから、神楽坂と松山町の市民交流ははじまっていった。今回はそのショートストーリーである。
 神楽坂一帯は、戦前まで牛込といった。いまの新宿区は、牛込区、四谷区、淀橋区が合併してできている。
 牛込区の歴史は、中世の牛込城に溯る。
 赤城山山麓地方の大胡氏が神楽坂に進出して、いまは光照寺になっている袋町に城をかまえたのが、牛込城の始まりである。
 平城で格別の城郭があったわけではないので、光照寺を牛込城の跡というには少少の気恥ずかしさを感じてしまうが、歴史家はそういっているのでそれに倣おう。
 大胡氏がきたころの牛込台地は広々として、武蔵野台地の端に位置しているので海も近く、草原も形成されていたのだろう。牛の放牧に適していたようである。牛込つまり牛の牧場もあった。
 そんな土地柄なので、ここらは人呼んで牛込といっていた。
 大胡氏は、やがて自らも牛込氏を名乗るようになった。
 牛込氏は、北条方についていたので、徳川幕府開府とともに、この城も取り潰されて、その跡地に神田から光照寺がやってきた。1645年のことである。
 さてその光照寺である。
 ご住職はいかにも住職住職している方である。こういう言い方は変なのだが、むかしのご住職はみな光照寺さんのように住職住職されていた。浮世離れしているといったら怒られるかもしれないが、お寺は浮世から離れているのが本来だから、その点古典的つまり本来の神職の風情により近いお方である。おなじ神楽坂のお寺に善国寺がある。毘紗門さまとしてよく知られ親しまれている。このご住職は、人当たりもよく街に溶け込んでいる。犬の散歩などされている時に会うと、一見普通人然としたまま気さくに声をかけてくれる。
 神楽坂商店街のど真ん中にある所為で、精神的に街との距離も近い。商店会の新年会にもかならず御参加になる。
 さて先の光照寺さんには、異様な墓石群がある。異様なというのは、怪奇なという意味ではない。
 普通人の墓はみな一様につつましい。それにくらべてあまりにも目立ち過ぎ、数も多い。
 じつはこれが、旧松山藩酒井家の一族の墓なのである。
 新宿区の教育委員会は、この墓については文化財と位置づけていないが、区内で江戸時代から残っていて手付かずの墓石は、ここ光照寺の酒井家の墓石群と弁天町の寺のものだけである。
 では酒井家はなぜ光照寺に歴代の墓を築いたのだろうか。
 地元の郷土史家によれば、酒井家初代の奥方が利口だったかららしい。
 江戸初期の酒井家の最初の墓は芝増上寺であった。当時寛永寺、増上寺は幕府の菩提寺であるため、ここに墓を持つことは相当な経費を覚悟しなければならない。
 その財政負担から逃れるため、光照寺が神田から神楽坂へ移ってきたのときにいち早く墓を移転したというのだ。
 二代を除いて、藩主、奥方、側室、子供の墓がなんと43基も揃っている。門構えのある墓などもあり、形容矛盾な言い方だが、豪華絢爛なのである。
 そこに立つと、耳なし芳一になって霊界からの死者と対している気分になるほどだ。
 その武士一族の墓場は、しかし一方では、別の問題で光照寺を苦しめているのである(続く)。
松山町 山形県飽海郡の町で、昭和30年(1955)1月1日発足したが、50年後の平成17年(2005年)11月1日、酒田市、飽海郡八幡町、平田町と合併し、新たに酒田市が発足。江戸時代では正保4年(1647年)、庄内藩主酒井忠勝が三男忠恒に松山の領地を分地し、松山藩が始まっている。
庄内平野 山形県北西部で最上川流域に広がり、南北約50km、東西約40kmの平野。穀倉地帯で有名。

庄内平野の地形図

牛込区、四谷区、淀橋区 昭和22年(1947)3月15日に3区が合併。新宿区になった。
牛込城 新宿区の牛込藁店わらだな(地蔵坂)の坂上、袋町の光照寺付近の台地にあった。牛込城の廃城は1590年ごろ。築城は不明だが、1510〜1520年か?
赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
大胡氏 上野国(群馬県)勢多せたおお郷を基盤とする領主で、武士の一族。
光照寺 新宿区袋町にある浄土宗の寺院。慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開祖。正保2年(1645)に現在地へ移転。
平城 平地に築かれた城。
牛込台地 早稲田通り以南は、牛込台地と本村台地の2つの台地からなっています。

牛込氏を名乗る 牛込氏は牛込に移り住んで、初めは大胡姓を使ってきました。北条氏康に申請して許可を得てから、天文24年(1555)以降は牛込姓を使ってきました。
善国寺 日蓮宗の鎮護山善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、文禄4年(1595)日惺上人が麹町六丁目に創建、寛政5年(1793)当地へ移転。
松山藩酒井家 出羽松山藩(山形県酒田市)の酒井家です。矢来町の矢来屋敷が有名な小浜藩(福井県)の酒井家とは違います。同じ姓名が2人いるのも(若狭小浜藩酒井讃岐守忠勝と松山藩酒井忠勝)混乱します。
弁天町の寺 弁天町には宗参寺、浄輪寺、南春寺、照臨山多聞院があり、江戸時代の墓石はどの寺でも持っています。
芝増上寺 港区芝公園四丁目の浄土宗の三縁さんえんこうぞうじょう寺。徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正18年、1590年)。
寛永寺 かんえいじ。天台宗の東叡山寛永寺円頓院。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
耳なし芳一 盲目の琵琶法師、芳一は、霊に取りつかれる。寺の和尚は芳一の体中にお経を書くのだが、耳には書き忘れた。芳一は耳を怨霊に引きちぎられてしまう。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。
 現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。
 そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。
 酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。
 通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。
 しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。
 もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 ご住職はいま風の方ではないので、多分そうは考えなかったと思うが、傍から見ている下々は、そんなことを考えかねない。
 新宿区は、江戸時代からある43基の大型墓石群は、区内の貴重な史跡であると思っている。事実史跡調査もかけている。
 かといって、財政逼迫のおりからそうそう金銭的援助もできかねる。宗教問題も絡んできて、ややっこしい。
 こうして光照寺の苦悩はますます深まっていった。
 このはなしを耳にした神楽坂まちづくりの衆の何人かが奮い立った。
「なら、おらほで、山形の酒井家と光照寺さんの仲をとりもつべえ」
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
「おせっかいな」
と思われる御仁もいるとおもうが、まちづくりというものは、基本的にはお節介焼きなのだ。
 むかし、町には必ずお節介な世話好きがいたものだ。
「なんだなんだい、おらにまかせておけ」
 じぶんのことはさて置いて、困っている人がいると聞けば東奔西走。困っていない人がいても
「どうしたどうしたい」
と首を突っ込む。
 戦後、行政というものの範囲が広がり、個人の確立、個の自由、権利と義務などスマートで西欧的なルールが導入されて以降、こうした世話好きは他人の生活への闖入者と忌み嫌われ、疎まれた。
 社会の諸制度も確立し、個人主義も蔓延した結果、町の世話好きはもはや絶滅危惧種であった。
 しかし行政は公平主義、手続き主義、機会均等の原則、すべったころんだで縛られるため、現実には町の要望にこたえられない。
 こうして世話好きたちは、ありあまるおのれたちの情熱に捌け口を、まちづくりというあたらしい市民活動のなかに求めてきた。
 だからまちづくり活動は別に新しいことではなく、かつてのまちの世話好きさんがあたらしい装いの出店をしたに過ぎない。
 神楽坂のまちづくりの会のみんなは、光照寺さん応援の意気に燃えた。
 もしこれが上手くまとまれば、光照寺さんはもちろん、新宿区にとっても、また江戸からの貴重な墓石群一式が保存されることでの町おこしのためにも、万万歳、めでたしめでたしということになる。一石三鳥である。
 まちづくりの会の人たちは、功名心というものに無縁の人がほとんどだ。みんなはこのことを純粋に考えて、酒井家を訪ねる庄内旅行に出発することになった。
 この旅は、また大いなる珍道中だった(続く)。
神楽坂まちづくりの会 平成3年、結成。代表者は坂本二朗。神楽坂まちづくり推進計画、神楽坂まちづくり憲章、神楽坂まちづくり協定、神楽坂キーワード表等を作成。平成30年(2018)を最後に休眠中。
致道博物館 ちどうはくぶつかん。庄内藩主酒井家の御用屋敷地だった。貴重な歴史的建築物(旧西田川郡役所、旧庄内藩主御隠殿、民具の蔵、旧渋谷家住宅、旧鶴岡警察署庁舎)、酒井氏庭園、重要有形民俗文化財収蔵庫などが移築。
おらほ 東北弁などで「私たち」

 庄内旅行は、松山町と隣接する櫛引町も訪問することになった。
 まちづくりの会に所属するFさんの事務所の共同使用者が、櫛引町の東京代表を務めていたからである。
 この旅行はFさん中心で企画されていった。
 Fさんはエコロジーに強い下水道などの設計者で、設計事務所を経営しているのだが、わたしなどが見ていても、どこまでが本業でどこからがボランテイアか判然としない。
 まちづくりの会にはそんな人が多いのでだれも気にしないが、社長業のかたわら庄内旅行を遂行するのは大変だったろう。
 バスを借りることになったので30人は集めようということになり、旅行には3つの会が参加した。神楽坂まちづくりの会、わたしが主催する川を歩く会、Fさんの関係の山方面の会である。
 わたしの会では、時間がなかったため趣旨の伝達が不充分で、課題をはっきり把握していない参加者が混じってしまったが、この混成部隊はいずれにしても目的がバラバラだったことは否めない。
 光照寺さん支援がメインだったが、黒川能鑑賞にひかれたもの、最上川歩きに好奇心を募らせたものなど、観光目的の人々がいたことは事実であった。
 町の歓迎会の席上、松山町、櫛引町がどこかわからないまま参加したという発言を平気でする無邪気なものも出て、わたしたち主催者者側をひやひやさせた。
 町側の歓迎は驚くべきものであった。
 町長以下、助役、総務部長、観光課長、商工課長、農協役員など、総勢20名近くが、わたしたち30名を歓待してくれた。
 その熱意にはほとほと感謝したが、私たちの団体がなにを目的としてきているかを誤解しているのではないかと心配になったほどである。
 わたしたちは、新宿区の行政ではないし、神楽坂の商店会でもない。任意のまちづくり団体である。
 結成して数年が経っているが、それほど力量があるとも思っていない。
 それなのに、この歓迎である。松山町に限らず、櫛引町でもである。
 ありがたいと思う反面申し訳ないとも思い複雑であったが、地方の町が東京と地域交流して、商工でも農産物でも、販売や開発の切っ掛けになればと真剣に思っていることは、手にとるように実感した。
 やがてこの庄内旅行から一定の成果がうまれたのであるが、このときは、多彩な歓迎にただただ恐縮するのみであった。
 ところで、光照寺さんは、致道博物館館長である松山藩のお殿様の末裔と面会した。私たちも同行した。
 博物館は町の中心にある名建築を使用していて、収蔵品も漁具や民具がそろっていて、たいへん優れた博物館であった。
 その応接室で、お二人は対面した。いずれもやんごとなきかたなので、会見はとても不思議であった(続く)
櫛引町 くしびきまち。旧山形県東田川郡の町。2005年10月1日、鶴岡市、藤島町、羽黒町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市に。
黒川能 くろかわのう。山形県鶴岡市黒川の春日神社に奉納された能。氏子で農民の能役者はほぼ世襲で、およそ160名。伝承の規模の大きさ、組織の強固さは、他の民俗芸能に類を見ない。
やんごとなき 家柄や身分がひじょうに高い。高貴だ。止む事無し。「終わりを迎えることは決してない」との表現。転じて「捨て置けない」「とても大事だ」「尊ぶべきだ・高貴だ」の意味が派生。

 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。
 末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。
 随行の人間はこのはなしには加われるはずもないから、ひたすらふたりのはなしに耳を傾けた。
 光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。
 光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。
 いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。
 末裔さんは恬淡として静寂であった。
 こうして光照寺さんと末裔さんは、一期一会の限りであった。
 ふたりはご年配である。今生で再会することはまずあるまい。
 わたしたちは神楽坂から山形に大勢で出かけてきた。そして、酒井家一族の43の墓石を維持管理している光照寺さんと、キリスト教に改宗されて神楽坂とは無縁になられた酒井のお殿様の末裔との歴史的会見を実現した。
 1600年代に芝の増上寺から牛込神楽坂にお墓を移したことから始まった酒井のお殿様と光照寺の祖先の延延350年ものお付き合いがこうして物別れになったことに、わたしは一抹の感慨と不安を抱いた。そしてわたしがそこに立ち会っている不思議さに改めて思い致した。
 この会見を限りに、あるいは光照寺と酒井家との関係は断絶するかもしれない。光照寺は、都心の一等地を占める酒井家の無縁墓地を改修して、一基うん百万円で分譲するかもしれない。
 43の墓については、新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一さんが丹念に調べているが、それは停止した歴史の調査であり、こうした血肉をもって現存する人間の歴史的関係は、時代のある瞬間に突然消滅する。
 神楽坂まちづくりの会の参加者たちは、あと10年もすれば年老いていき、記憶も薄らいでいく。そして単なる団体旅行の思い出話になっていくに違いない。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。
 わたしは、川が好きである。四半世紀、都市河川の環境問題に関わったこともあり、全国の川を歩くのを楽しみにしてきた。
 山形は何といっても「五月雨を——」の芭蕉最上川である。
 旅の一日、わたしたちは、松山町の町長やお偉方に招待されほろ酔いになった夜、小高い丘に投宿した。
 翌朝目覚めて見渡すと、丘の眼前に、大蛇がたゆたうように流れ行く最上川があった。左に出羽三山、右に鳥海山、最上の流れの遥かさきには日本海が広がっていた。
 松山の人たちは、遠くにあってふるさとを思うとき、この丘の上からの眺望を思い描くという。
 これが庄内平野かと、わたしはこの風景を目に焼き付けるためひとときまぶたを閉じた。
 そしていまこれを書いているときも、ひとときまぶたを閉じてみた。
 するとあのときとまったく同じ光景がまぶたの奥に立ちあがってきた。
 あの日この光景に接したとき、わたしの妻が隣にいてくれたのが幸運だった。
 こんなすばらしい風景というものは、めったにあるものではないからだ。
 この丘を眺海の森と、地元では呼んでいる。
 このことが縁で、松山町と神楽坂まちづくりの会は、いまでもずっと細細ながら市民交流を続けているのである。
 ことしもその季節がやってきた。
末裔 まつえい。子孫。後裔。
忖度 そんたく。他人の心中をおしはかること。自分なりに考えて、他人の気持ちをおしはかること。
恬淡 てんたん。あっさりしていて物事に執着しないこと。心やすらかで欲のないこと。
一期一会 いちごいちえ。一生に一度限りの機会。生涯に一度限りであること
一抹 いちまつ。ほんのわずか。わずかにある。かすか。
無縁墓地 墓の継承者や縁故者がいなくなったり、管理費が一定期間支払われなかったりした墓。官報に記載し、該当する墓地の見やすい場所に札を立て1年間公告し、この期間に申し出がなかったら無縁墓と認定できる。
新宿区歴史博物館 新宿歴史博物館。新宿区四谷三栄町にある、新宿区の郷土資料を扱う博物館。
五月雨を—— 五月雨を集めてはやし最上川。さみだれを あつめてはやし もがみがわ。季語は初夏。梅雨の雨が最上川へと流れ込んで流れが早くなっている。
芭蕉 松尾芭蕉。まつおばしょう。江戸前期の俳人。深川の芭蕉庵に住み、蕉風俳諧の頂点をきわめた。紀行文は「奥の細道」など。生年は寛永21年(1644)。没年は元禄7年10月12日(1694年11月28日)
最上川 山形県を流れる一級河川。流れが大きく激しいことで有名。
出羽三山 磐梯朝日国立公園の最北部を占める山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称
鳥海山 ちょうかいさん。出羽富士とも。山形県と秋田県の県境で日本海に面し、標高2236メートル。
眺海の森 ちょうかいのもり。県民の森。アウトドア施設(スキー場、キャンプ場、ピクニックランド)、学習施設(森林学習展示館、天体観測館)がある。

出羽三山と鳥海山、眺海の森、松山城

天文台の発祥地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 19.天文台の発祥地」についてです。

天文台の発祥地
      (袋町16)
 光照寺の西隣は、江戸時代に天文屋敷(天文台)があった所である。
 明和元年(1764)11月19日、御徒組頭の佐々木文次郎が天文術に長じていたので、幕府から召し出され、ここに天文屋敷を建てて天体を観測したのである。ここは、牛込台地の最高所だったからであろう。
 しかし、その子の吉田靱負(ゆきえ)の時、この地は西南の遠望がきかないからというので、天明2年(1782)7月、今の浅草鳥越町へ移転した。
〔参考〕 御府内備考

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁

地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁。

佐々木文次郎 明和元年に幕府天文方。同6年(1769)、宝暦13年の日食予報に失敗した「宝暦甲戌暦」を改訂し、12月、幕府に修正宝暦甲戌暦法10冊、同解義2冊、暦法新書読録2冊を進呈。安永8年(1779)御書物奉行を兼任。同9年、吉田四郎三郎と改名。生年は元禄16年(1703)。没年は天明7年(1787)9月16日。85歳。
吉田靱負 吉田四郎三郎の子。安永8年に幕府天文方。同2年5月、付近の樹木が邪魔になり、換地を願い、10月、浅草片町裏通の明地に移転。没年は享和2年(1802)。幕府天文方は吉田・渋川両家が世襲で勤めていた。
浅草鳥越町へ移転 現在の台東区浅草橋3丁目に移転。この天文台は天明2年に業務を開始、明治2年に業務を停止。

浅草鳥越堀田原図

 江戸時代後期の宝暦13年(1763)、使っているほうりゃくれきに日蝕が無く、不備がわかり、そこで幕府は明和元年(1764)11月、佐々木もんろう天文方てんもんがたに任命します。翌2年6月、光照寺門前の火除明地に「新暦調御用屋敷」(天文屋敷)が起工、8月、築造が終わり_、天測を開始。そして、明和6年(1769)に「修正宝暦甲戌暦」が完成し、幕府に修正宝暦甲戌暦法10冊、同解義2冊、同暦法新書続録2冊を進呈。明和7年12月27日(西暦1771年2月11日)に使用を開始。
 その間の事情は、東京市編「東京市史稿 市街篇第27」(昭和11年)に「新暦調所」(コマ番号131〜)に細かく描かれています。

新暦調所 幕府ノ天文台ハ、初牛込藁店ニ設ケ、延享中神田佐久町ニ移シ、後之ヲ廃スルコト、既ニ之ラ記ス。是ニ至テ再ヒ之ヲ牛込藁店ニ置キ、新暦調ヲ開始ス。前々年暦面日蝕ヲ載セサル如キコト有リ。之ヲ改訂セムトスル也。
 図 略
   牛込藁店 新暦調御用屋 坪数 干拾五坪。
     東北 明地。    西南 山田茂平(南角 新道)掛帋。
     東南 牛込藁店通り。西北 明地。
    東北 弍十間。   西南 弍十壹間三尺。
    東南 五十間弍尺。 西北 四十七間三尺。
 此度牛込藁店明地之內二而、新暦調御用屋鋪地面被御渡、四方間數坪數,右御繪図之面、御定杭之通、相違無御座請取申候。為後日仍如件。
  明和二乙酉年七月三日   御作事方御徒假役
                 浜田三次郎 印
此時ノ新暦修補ハ、浪人佐々木文治郎ヲ徴用シテ之ヲ主任セシメシ者ノ如ク、相傅へテ左ノ如ク見ユ。
 十九日 ◯明和元年 十一月◯中略
 御右筆部屋緣頰
   天文方被 仰付 並之通 武百俵被下置           浪 人    佐々木文次郎
右之通被仰付候旨、老中列座、同人 ◯松平 躍高。渡之
——明和元錄
多賀外記組御徒     
佐々木文次郎    
後改吉田四郎三郎
寬延三庚午年二月二日渋川六蔵西川忠次郎在京中、只今迄之通自宅ゟ測量所江通ひ候而、忠次郎忰西川要人曆作手手伝手勤候様被仰渡、宝曆二壬申年八月十五日向後御用も無之候間、測量所江罷出候二不及旨被仰渡、明和元甲甲年十一月十九日被召出、天文被仰付、新規御切米弐百俵被下置旨、於御右筆部屋緣頬御老中御列座、松平右京大夫殿被仰渡同 ◯明 和。 二乙酉年二月廿二日補曆御用二付京都江御暇被下、拝領物被仰付旨、於躑躅之間被仰渡、白銀拾枚時服弍頂戴仕、同年 ◯明和二年。 三月御当地出立、上京仕、御用向相済、同年 ◯明和二年。 五月帰府仕、同月 ◯明和二年五月。十五日帰府御目見被仰付、同年 ◯明和二年 六月廿八日牛込光照寺鬥前火除地江新暦御用所御取建被仰付、同年 ◯明和二年 七月朔日新暦調御用相勤候內、御役扶持七人扶持被下置,手附手伝五人下役四人被仰渡、同年 ◯明和二年 八月御普請出来、右御用相勤、明和六已丑年暦法修正成就二付、修正宝暦甲戌元暦法全部拾卷壱帙、同解儀弍卷壱帙、同曆法新書続錄弍卷壱帙、各都而拾四卷三帙、同年 ◯明和七年。 十二月廿七日差上候、同 ◯明和。 七庚寅年四月今般新暦調御用相勤候二付、拝領物被仰付旨被仰渡、金三枚頂戴仕,右新暦御用相済候得共、引続測量御用相勤可申旨被仰渡
天文方代々記

 伏見弘氏の「牛込改代町とその周辺」(非売品、平成16年)182頁では……

 牛込中御徒町に居住したかち佐々木文次郎(のち吉田四郎三郎秀長と改名、御書物奉行)は天文の術に優れ、天文方となり、司天台(天文屋敷)を創設したとある。ともかく、天明2年(1782)7月に浅草鳥越に移転するまでの18年間、牛込司天台があったことが洒落た素材となった訳である。

 佐々木文次郎は初めは浪人であり、その後、多賀外記組の御徒となっています。伏見氏の「牛込中御徒町に居住した」はおそらく「定住した」ではなかったのでしょう。

 さて、この「修正宝暦暦」も出来が良いとは言えず、別の改暦の機運が高まりました。そこで、幕府は天文学者の高橋至時を登用し、寛政10年(1798)寛政暦が作成されました。

 これから日本の暦について考えてみます。江戸期以前は中国のせんみょう暦を使ってきました。平安時代前期のじょうがん4年(西暦862年)からの暦で、日蝕や月蝕などの動きが合わないことが問題でした。使用年数は823年と長かったのです。
 江戸時代の改暦は4回ありました。
(1)じょうきょう暦は貞享2年(1685)、五代将軍徳川綱吉の時代で、日本人である渋川春海が初めて「大和暦」を考案し、初代天文方に任命。使用年数は70年。
(2)次のほうりゃくれきは宝れき5年(1755)、八代将軍徳川吉宗の時代に使い、西洋天文学の知識を取り入れた暦で「宝暦こうじゅつ元暦」と名づけました。しかし、宝暦13年9月の日蝕予報に失敗し、第十代徳川家治は、明和元年(1764)佐々木ぶんろうに補暦御用を命じ、明和8年(1771)「修正宝暦暦」と改暦。しかし、貞享暦の暦元の値を少し変えただけの新味のない暦法でした。なお、天明2年(1782)に天文方の施設は浅草鳥越町に移転しています。
(3)次の寛政かんせい暦は寛政10年(1798)、中国に渡っていた西洋暦を研究したもので、ケプラーの楕円軌道論などが入っています。第11代将軍の徳川家斉の時代で、使用年数は46年でした。
(4)最後の天保てんぽう暦は高橋至時がフランス人ラランド著『Astronomie』の蘭訳書を完訳し、天文方がその研究を継続します。天保15年1月1日(1844年2月18日)に寛政暦から天保暦に変わりました。第12代将軍の時です。
 その間、1867年(慶応3年)15代将軍は江戸時代最後の将軍であり、慶応4年/明治元年(1868年)に明治維新、明治5年(1872)に太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦があり、現在まで続いています。

芸術座発祥の清風亭跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 48.芸術座発祥の清風亭跡」では……

芸術座発祥の清風亭跡
      (文京区水道町27
 千代田商会前からさらに西に進むと神田川に架る石切橋がある。ここは文京区水道町であるが、この橋東寄りに明治末年から大正時代にかけて清風亭という貸し席があった。もと赤城神社境内にあった(28参照)ものである。
 ここは、島村抱月芸術座の発祥地である。大正2年の秋、恩師坪内逍遥文芸協会から分離した抱月を擁護する早稲田の同志7, 80名が集まり、主幹、幹事、評議員を選出し、新劇団名の芸術座が決定したのであった(27参照)。
 〔参考〕大東京繁昌記山手篇 随筆松井須磨子 早稲田の下宿屋
文京区水道町27 文京区水道町に清風亭があったと書いていますが、正しくは新宿区西五軒町でした。
千代田商会 西五軒町12番10号にあり、現在は事務所「ESCALIER神楽坂」(地上5階)です。下図の「小石川橋」の名前は変更し、現在は「西江戸川橋」です。

西五軒町 林田式流米器製造株式会社()と清風亭() 東京市及接続郡部地籍地図

貸し席 貸座敷。料金を取って貸す座敷。
文芸協会 明治39年(1906)、坪内逍遥・島村抱月を中心に、文化団体。同42年に演劇団体として改組、新劇運動の母体となった。大正2年(1913)解散。

 では、川村花菱氏の「随筆・松井須磨子:芸術座盛衰記」(青蛙房、1968)を見てみます。

 私が(島村抱月)先生の仕事をお手伝いすることになってから、着着と実際方面に進んで行った。第一に、先生を擁護する早稲田の若い人々の会合が先生を中心にして催された。場所は江戸川の清風亭で、6, 70の人々が集まったが、私はその時はじめて、中村吉蔵氏がこのたびの仕事に先生の片腕として居られたことを知ったのだ。そのときは、集まる人々には、橋本の親子丼が出たが、その数はたしか5, 60人前だと覚えている。橋本というのは、江戸川橋の袂のうなぎ屋で、幕末から明治のはじめには、川添いの所に、さし出した座敷ができていて、その下にいけがあったと老人が話してくれたが、山の手では評判のうなぎ屋で、その頃は、護岸工事の結果、川岸に添って道が出来て、橋本は道の反対のあたりのところに二階建ての店を出していた。
 その会合は、きわめて活気のあるもので、いずれも新劇団に対する遠大な理想や抱負を堂々とのべられたが、あいかわらず先生は黙々と人の意見を聴いていた。
 ——こうあってほしい。
 ——そうでなければならない。
 その議論はそれぞれに理屈はあったが、あるものはあまりにも理想にすぎ、あるものはあまりにも誇大的、妄想であったりした。だいたいの意見が出そろうと、先生は、静かに自分の考えを述べられ、一同の強大な援助を希望されると同時に、いろいろの具体的計画を話された。しかし、その席では、新劇団に参加する俳優のことは言われなかったし、脚本のことも言われなかったが、いわば、その会合は、劇団のブレイン・トラストを作るというのにあったらしく、新らしく生まれ出る劇団の幹事を選出することになり、その方法は先生が5, 60——すなわちそこに集まった人々を劇団の評議員に指名し、その中から20数人の幹事が選ばれることになって、前に言った、相馬御風片上天絃中村星湖吉江孤雁楠山正雄秋田雨雀人見東明本間久雄安成貞雄等々の人々が幹事に選ばれ、中村吉蔵氏・水谷竹紫氏は当然この一員であり、も幹事の一人になった。
橋本 天保6年(1835)に創業した鰻屋。

はし本 Google

ブレイン・トラスト brain trust。〔通例非公式な〕政府顧問団。専門解答グループ。元々は米国ルーズベルト大統領がニューディール政策を行い、政策の立案・遂行にあたった顧問団の通称。
楠山正雄 児童文学者、演劇評論家。早大英文科卒。早稲田文学社を経て冨山房に入社,戯曲の翻訳や創作、演劇評論、児童文学の翻訳、創作にも活躍。母校で西洋演劇史や近代劇を講じた。生年は明治17年11月4日、没年は昭和25年11月26日。66歳。
人見東明 詩人、教育者。早大英文科卒。自然主義風文語詩から口語自由詩にかわり、明治44年、詩集「夜の舞踏」を出版。大正9年、日本女子高等学院(現昭和女子大)を設立し、理事長。生年は明治16年1月16日。没年は昭和49年2月4日。
本間久雄 評論家、英文学者、国文学者。早大英文科卒。1918年「早稲田文学」編集主任となり「明治文学研究」7冊を編集。英国留学を経て昭和6年(1931年)早大教授。
安成貞雄 評論家。早大英文科卒。平民社に出入りし、犀利な批評家、翻訳家で、旺盛な読書力と優れた英語力があったが、脳溢血のため39歳没。生年は明治18年4月2日。没年は大正13年7月23日

戦前最初の団地同潤会アパート|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 41.戦前最初の団地同潤会アパート」についてです。

戦前最初の団地同潤会アパート
      (新小川町2、3丁目
 さらに大曲へ進み、手前の道を左折すると、関東大震災後つくられた 同潤会アパート群がある。団地の戦前派、団地のはしりである。日本の近代的な集団住宅地の歴史をたどると、そのはしりは明治の中期から始まる。しかしそれは、繊維工場の女工さんの寮や鉱山労務者の集団住宅であった。
 大正12年の関東大震災で、東京周辺の46万5000戸が焼失したので、救援金1000万円をもとにして内務大臣を会長とする財団法人同潤会が設立した。アパート、小住宅、分護住宅などをつくるための機関で、農災後の急場しのぎに、大正13年までに木造住宅約5000戸を建設した。
 その後は昭和のはじめにかけて、渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などにアパートをつくったのである。公益法人が建設したはじめての不燃集団住宅群である。同潤会は、16年に住宅営団となって解散した。
 新宿区には、この戦前派団地のはしりと、戦後派団地のはしりの西戸山アパート群をもつことは誇ってよいことである。
新小川町2、3丁目 過去に同潤会江戸川アパートは新小川町2丁目だけで、3丁目は無関係でした。現在は「丁」もなくなり、新小川町だけです。

昭和42年 住宅地図

大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
関東大震災後つくられた 内務省の外郭団体として財団法人同潤会が設立され、大正15年から同潤会が解散する昭和16年までのアパートは総計16ヶ所。
 うち同潤会江戸川アパートは昭和5年に土地を買収、着工は昭和6年11月、完成は9年(1934)8月。総戸数は260戸。
 ちなみに平成15年に建て替えを決議。平成17年(2005)、アトラス江戸川アパートメントが竣功し、総戸数は232戸。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年

同潤会アパート群 同潤会江戸川アパートは1号館(北側)6階建(地下1階)と2号館(南側)4階建の2棟で、260戸(うち世帯向けは126戸、独身向けは131戸、事務室1戸、理髪店1戸、食堂附属住宅1戸)(橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社、2003)。1号館の5〜6階は独身向けでした。一般的には同潤会アパートは震災復興の応急住宅ですが、江戸川アパートは「集大成」した「東洋一」の「理想的」なアパートを目指しました。

建設広報協議会編「建設月報」建設広報協議会。1981年5月。

 

橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社、2003

 中庭(児童遊園、遊歩道、噴水)があり、1階に食堂、地階に浴場と理髪店、2階に社交室・娯楽室がありました。住戸には和式水洗トイレ(日本初)、ダストシュート、戦後しばらくの期間使用したエレベータ(1号棟、2基のうち食堂近くの1基だけが稼働)、蒸気暖房によるセントラルヒーティング等も完備。住戸の大きさは39〜76 ㎡で、家族向け和式住戸は50〜70㎡、最多の部屋は約60㎡。

 平成8年(1996)4月27日の都市徘徊blogから

中庭と遊具(鉄棒、ブランコ、ジャングルジム、滑り台)

1号棟屋上塔屋と屋上階(階段室・EVホール・流し)。左方がエレベーター。屋上で物干し、屋階は洗濯用の流し

食堂とテーブルと椅子

バーカウンターと地階の理髪店入口

 次は同潤会 江戸川アパートメントのブログです。

左は表札。中央は125号室で、構造家・横山不学氏の邸宅。右は室内。

屋上は共同の物干し場と共同の洗濯場。

食堂の入り口と内部

 江戸川アパートメント研究会「江戸川アパートメント案内」(平成15年)では……

同潤会江戸川アパートメント案内
1 西側通りより1号館事務所付近を望む
2 都市計画道路完成時の正面を意識した2号館のバルコニー
3 ステンドグラスの丸窓がある2号館11階段
4 各部屋の窓下にはラジエターと組み合わされた大型の換気口がある
5 奥にはステンドグラスで飾られたカウンターが見える食堂
6 家族向け住戸の洗面と汽車式のフラッシュバルブ和風便所
7 人研ぎの流しが並ぶ2階段屋上の洗濯場
註:人研ぎ じんとぎ。人造石。人造大理石。セメントに天然石を細かく砕いたものと顔料を混ぜて固め、研磨して仕上げたもの。


同潤会江戸川アパートメント案内

社交室ステンドグラス 撮影●斎部功


1 突出しの欄間がついた住戸の引違い鋼製サッシ
2 階段踊り場の鋼製バランスサッシ
3 戦争を潜り抜けたエレベーターは、戦後しばらくの間使用された
4 住戸玄関脇の照明
5 様々なデザインの独身室面格子
同潤会江戸川アパートメント案内


6 2号館に残る避難用縄梯子
7 採光と通風が配慮された鋼製玄関扉
8 点検口としても利用された一部開閉式の1階の床下換気口
9 メーカー指定が行なわれた社交室腰のベニア張り
10 現在でも健在の2階段上に残る人研ぎの洗濯用流し
11 名札固定用の板バネがついた集合案内板
12 エイジングとクリーニング効果をもった外壁「リソイド」仕上
13 同潤会のマークが残る蓋
撮影 ●1~4.6.7.9~12 加藤雅久 8.13 旭化成株式会社 5 斉部功

1階は食堂、配膳室、調理室、物置、便所、食堂附属住宅、エレベータ

2階は社交室、娯楽室、露台(テラス)、エレベータ

1〜4階(世帯用)と5〜6階(独身用)(1号館)

 橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」(河出書房新社、2003)から一部を……



同潤会江戸川アパートメント同潤会江戸川アパートメント

集団住宅地の歴史 日本初の集合住宅は東京下谷の上野倶楽部(1910年)で、木造5階建てで60戸。鉄筋コンクリートの集合住宅は長崎県の端島(通称:軍艦島)に三菱鉱業が建てた9階建ての社宅(1915年)で300世帯5000人。続いて、同潤会は大正15年から昭和9年までで、東京や横浜に耐震耐火の集合住宅を建設しました。
繊維工場の女工さんの寮 平井直樹等「明治後期から昭和初期における職工寄宿舎に関する評価」(日本建築学計画系論文集、2013)では各種の寄宿舎を調べ、一部屋当たり定員5〜8人で、小規模の寄宿舎(50-60人)が最も利便性や防火性がいいと判断しています。また集会所、浴場などを設けていました。
大正13年までに木造住宅約5000戸 大正13年までに5580戸。昭和16年までに10,864戸でした。
渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などに 同潤会アパートの概要は以下の通り。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年

不燃集団住宅 鉄筋コンクリート造りで、戸毎に不燃質の障壁と防火戸、堅固の建具などがありました。「アパートの構造は、基本的にはラーメン構造(垂直方向の「柱」と、水平方向で柱をつなぐ「梁」によって建物全体を支える構造)であり、しかも住戸間のRC造界壁も厚く、RC柱が無くとも壁式構造として通用しそうなほど、誠に頑丈なものであった」(大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年)また「同潤会アパートは、一見外国で作られた建物に似ているが典型的な日本の現代建築である」(Marc Bourdier著「日本建築史における同潤会アパートの役割の研究」。東京大学工学博士論文、1991年)という。
16年に住宅営団 昭和16年(1941)、戦時中に住宅営団が発足、同潤会は解散。

狂歌師 大田南畝旧居跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 20. 狂歌師 大田南畝旧居跡」を見ていきます。

狂歌師 大田南畝旧居跡
     (北町41
 光照寺前通りを西に進み十字路の先は、狂歌師として有名な大田蜀山人(南畝)の居住地跡である。
 蜀山人は、幕府の儒者であり学者であるが、狂歌師としても有名で当時江戸第一人者であった。蜀山人は、寛延2年(1749)3月2日、吉衛門の長男としてここに生まれ、文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住していたのである。
 このあたりはいまでも閑静な住宅地であるが、田山花袋の「東京の三十年」(大正6年)にも、明治22年ごろの中町のようすを書いている。その中に、
“中町が一番私に印象が深かった。他の通に比べて、邸の大きなのがあったり、栽込の綺麗なのがあったりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。”
 と書いている。
 またこの通りには若い美しい娘が多かったという。きれいな二階屋があり、そこからは玉を転がしたように琴の音が聞えて、それをひいている美しい白い手も見えたし、運がよいと、表でその娘たちの姿も見られたといっている。
〔参考〕東京名所図会 大田南畝 森銑三著作集
狂歌師 狂歌を詠み、教えることを業とする人。狂歌とは短歌と同じく、五・七・五・七・七の5句31音の歌だが、しゃれ、風刺、俗語などが入っている。
太田蜀山(南畝) 正しくは「大田」と書きます。また、Wikipediaによれば「名はふかし、字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、しょく山人さんじん、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手やまのての馬鹿ばかひとも別名とする説がある。狂名、四方よものあか。また狂詩には寝惚ねとぼけ先生と称した」。生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。74歳
北町41 実際は中町でした。なぜ北町は間違いだったのか、詳しくは「大田南畝の住居跡」で。ちなみに、森銑三著作集第1巻「南畝の日記」(中央公論社、1970)201頁には「南畝は34歳の新春を、その牛込中御徒町の家にめでたく迎えたのである」となっています。

全国地価マップ | 地図表示

光照寺前通り 光照寺の前の通りで、東側には地蔵坂(藁店)がありますが、西側には通称名も含めて何もなさそうです。
幕府の儒者 儒者は江戸幕府の職名で、将軍に儒学の経典を進講し、文学をつかさどる人。しかし、南畝が儒者だったという事実はありません。
文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住 「大田南畝の住居跡」によれば「文化元年(1804)小日向に転居するまでの56年間」でしょう。

No名称種別坪数住所現在地期間備考(数え年)
息偃館借地200坪牛込中御徒町新宿区中町37・38寛延2年(1749)~?1歳〜
借地210坪牛込中御徒町新宿区中町36?~文化元年(1804)〜56歳 書斎「巴人亭」
遷喬楼買得93坪小日向金剛寺坂上文京区春日2-16文化元年(1804)~同6年56歳〜 年賦購入。2階建て
拝領139坪余牛込若松町新宿区大久保文化6年(1809)~同9年61歳〜
緇林楼拝領150坪余駿河台淡路坂上千代田区神田駿河台4-6文化9年(1812)~文政6年(1823)64歳〜 大久保と交換

東京の三十年 岩波書店の内容では「明治14年、花袋が11歳で出京してからほぼ30年の東京という街の変遷と、その中にあって文学に青春を燃焼させた藤村・独歩・国男ら若い文学者の群像を描く。紅葉・露伴・鴎外ら先輩作家との交流にも触れ、花袋の自伝であるとともに明治文壇史でもある」

 中町の通——そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込うゑこみれいなのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒せうしやな二階屋、其處から玲瓏れいろうと玉をまろばしたやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。
轉ぶ まろぶ。転ぶ。ころがる。ころぶ。倒れる。

森銑三 もりせんぞう。書誌学者、随筆家。戦前は東京帝大史料編纂所勤務。戦後は早稲田大学で書誌学を講義。近世の人物の伝記などを研究し、資料を探索して埋もれた人物を発掘した。生年は明治28年9月11日。没年は昭和60年3月7日。89歳

牛込氏の最初の居住地だった宗参寺|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 60. 牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」についてです。

牛込氏の最初の居住地だった宗参寺
      (弁天町9)
 漱石山房跡の西、日本銀行早稲田寮前を右折して北方の宗参寺に行く。
 宗参寺は、袋町の牛込城(13参照)の城主大胡勝行が、天文12年(1543)9月に78才で死去した父大胡重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。
 思うにこの地は、大胡氏最初の居住地であったのではなかろうか。牛込城跡でものべたが、大胡氏の牛込移住年代は不明であるが、室町時代の初期にはこの地に移り鶴巻町の牧場を管理していたのであろう(63参照)。また喜久井町供養塚は、牛込氏初代移住者を葬る塚だったのではあるまいか(75参照)。
 この地は大胡氏の居館地だったらしく、「江戸砂子」には「……此の地に来り、牛込城主となり」とある。菩提寺を建立するには、それだけの場所選定の理由があるし、豪族の居住地に寺院が建つ例が多い。「御府内備考」では、「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てた寺だというが誤だ」といっているけれども明治40年の東京市編「東京案内」は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 この墓地南隅の牛込氏墓地には、大胡重行、勝行父子の墓があって、都の文化財に指定されている。(牛込氏の子孫は、武蔵野市西窪三谷274に続いている)(75参照)。
 〔参考〕 南向茶話追考 牛込氏についての一考察

宗参寺の牛込氏墓地

宗参寺 曹洞宗の照臨山宗参寺で、牛込勝正が父勝行と祖父重行の菩提を弔うため、吉祥寺四世勅特賜天海禅師看榮稟閲大和尚を開山に迎えて、天文13年(1544)創建しました。
漱石山房 明治40年9月、早稲田南町に引っ越し、大正5年、49歳でここで死亡。晩年を過ごした家と土地を「漱石山房」という。
日本銀行早稲田寮 漱石山房の西側にある寮。

漱石山房→宗参寺

大胡勝行 大胡氏は武蔵に移り、赤城神社を勧請・創建し、後北条家に仕え、新撰東京名所図会によれば、天文14年(1545)、大胡勝行は北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏としている。
大胡重行 大胡勝行の父。
翌年に建てた 「寛政重修諸家譜」では「天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし……」
大胡氏最初の居住地 最初の居住地はどこなのか不明です。
この地に移り 南向茶話附追考では

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

鶴巻町の牧場を管理 大宝元年(701)、国営の牛馬牧場(官牧)が全国39ヶ所で認め、牛込にも官牧の乳牛院という牛舎が設置された。
喜久井町の供養塚 供養塚を参照
江戸砂子 享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り、牛込城主となり 続江戸砂子温故名跡志巻之四では「此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょうす」
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てた寺だというが誤だ 実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。
東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では

牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

牛込氏墓地 牛込氏墓地は墓地の南にあります。

宗参寺と牛込氏墓地

牛込重行勝行父子墓。左は東京市公園課「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」大正12年。オプションは「牛込重行勝行父子墓(牛込区弁天町宗参寺内)重行は上州大胡城主であつたが、此に移り牛込城主となり、子勝行になつて牛込氏と改めた。小田原北條氏の麾下である。重行は天文12年9月78歳で没し、勝行は宮内少輔と云ひ天正15年7月85歳で歿し、墓は父子一基になつて居る。」右は 温故知しん!じゅく散歩

牛込氏墓 宗参寺

牛込氏墓 宗参寺

牛込氏墓 宗参寺

記憶の中の神楽坂(3)

神楽坂6丁目辺り

記憶の中の神楽坂(3)6丁目

神祗会館・社殿(神社?)
おばあさんが教祖で、息子が神主さんで、とても趣味が多彩な人だった。
✅ 一代だけの教祖でしょう。

京屋(染物・洗い張り)
神楽坂の名案内人として知られる水野正雄さんのお店。奇しくも神楽坂の名料亭「松が枝」と同じ明治38年の創業。花柳界をはじめたくさんの顧客に惜しまれつつ2003年の大晦日に閉店。
✅ 水野正雄さんは大正9年、神楽坂の染物屋に生まれ、旧制中学を卒業後、昭和15年に中国へ出征。帰国後は染め物洗張りの「神楽坂 京屋」として仕事に励み、その後、新宿区郷土研究会の二代目会長になり、さらに公認タウンガイドの第1号になりました。

戸塚医院(医院)
昭和初期の話だけど、『トツカッピン』いう薬をこの医院でわけてもらって大人たちが服用していた。これを飲むと、あそこがピンと元気になるというのだ。いわゆる精力剤だったのだろう。
✅ 戦後の昭和35年にはなくなっている。それより古い地図では、ありました。下図を。

水野正雄『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)「新宿・神楽坂暮らし80年②」

白砂(純喫茶)
インベーダーゲーム機が喫茶店にずらりと並んだ頃、よく100円で遊びました。
✅ 2階の喫茶室 白砂 HAKUSAでした。写真左の看板に「日砂 ◯KUSA」と読めます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

水文(会席料理)
天丼なら、ここだったね。
✅ 帝都信用金庫よりも神楽坂上交差点に近い場所だったらしい。

田中屋(駄菓子)
あっ、あのころは駄菓子屋って言わない。百日菓子屋って言うの。スコップみたいなので測って百日分入れてくれるの。
✅ 地図から田中屋は昭和47年の「宝石タイヨウ」の場所。現在は薬屋の「ココカラファイン」。時計と宝飾品のタイヨウはビルの上で営業を継続、しかし、令和4年8月31日に閉店

桔梗屋(小間物屋)
女性が使う、つげの櫛やピンどめ。ろうそくなどをご夫婦で売っていた。ご主人は、神楽坂で人気者の幇間だった。
✅ 現在は不動産の「神楽坂商事」。ID 13227の右側には袖看板。下はTVの「気まぐれ本格派」から。

桔梗屋。気まぐれ本格派。1977年。19話

亀十パン(パン・洋菓子)
1960年代、私が小学生だった頃、亀十のサンドイッチを遠足へ持って行けるのが自慢だった。白い紙箱に入っていたハムサンド、ミックスサンドの味が今も思い出せる。コッペパンにピーナッツバターをぬったのもおいしかった。
✅ 現在は「おかしのまちおか 神楽坂」。当時の「亀十」についてはここを

ビストロtaga(フレンチレストラン)
玄関で靴を脱いであがるフレンチの店だった。日差しが差し込むリビングのような空間、カウンターになっていて、出来立てのフレンチをいただくひとときは、幸せだったなあ。誰かのうちでおもてなしされてるような、温かな気持ちになったっけ。
✅ 不明です。

武蔵屋(呉服屋)
店員がたくさんいて、野球のチームをもっていた。
✅ 現在は寝具店の「うらしま」。

武蔵屋呉服店。 気まぐれ本格派。19話。1977年

成金(駄菓子)
「成金横丁」の名前のもとになった、小さな駄菓子屋さん。カタヌキやソースせんべい、親指と人差し指でネチネチと練り合わせて煙を出す昔風の駄菓子があった。
✅ 不明です。「成金横丁」の名前には、加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)では

成金横丁の謂われとは、聞くところに依ると、余りに逼塞した連中が成金にあやかるように景気のよい名を付けたとか、真偽の程は定かでないが…。

 また、加藤さんの発言を元に地図を作っても「成金横丁」は出てこない。成金はもっと昔?

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。大弓場から俥屋まではあくまでも想像図。正確な地図は不明。

神楽坂・武蔵野館(映画館)
現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。
✅ 毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。さらに詳しくはここに

神楽坂武蔵野間館

越後屋(呉服屋)
「有明」のところにあった呉服屋。
✅ 6丁目の越後屋は、新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」(64頁)では「缶詰の越後屋」。3丁目の越後屋は「呉服」なので、3丁目と混乱している?
 上の写真の左側に佃煮の「有明家」。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007)によれば、昭和4年、有明家が開店。中屋金一郎氏の『東京のたべものうまいもの』(昭和33年)では

まっすぐあるいて6丁目、映画の武蔵野館のさきに、佃煮の…
『有明家』がある。昭和4年開店。四谷一丁目が本店で、ここの鉄火みそ、こんぶ、うなぎの佃煮をたべてみたが、やっぱりAクラスで、うす塩味の鮒佐とはまたちがったおもむきがある。店がよく掃き清められ、整頓しているかんじ。食べもの屋として当然のことながら、好感が持てる。ここの佃煮をいくら買ってもいいわけだけれど、まあ、鉄火みそ、こんぶだったらそれぞれ50円以上、うなぎは200円ぐらいから、買うのが妥当のようである。

 野口冨士男氏は『私のなかの東京』の中で

老舗のつくだ煮の有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。

カフェー・ダイマツ(カフェー)
昭和12、13年頃、今の100円ショップを曲った路地の右側に、とてもおシャレなカフェーがありましね。いつも中には、キラキラしたようなイブニングドレス姿のきれいな女給さんが7、8人いました。
✅ 不明。100円ストアは最初の地図で橙色で描かれています。

駿河屋(模型・プラモデル)
古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。
神楽坂6丁目64番地。以前は蝋燭ろうそく屋だった。蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。

6丁目。地東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

体内から針を出す女|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 18.体内から針を出す女」についてです。実はこの話は「袋町」で起こったものではなく「牛込袋町代地」 で起こって、現在の「千代田区外神田一丁目・神田花岡町」にあたります。

体内から針を出す女
      (袋町
 袋町で文政4年(1821)5月のこと、ささやかな商売をしている友次郎の14才になる妹むめが、急に体が痛み出し、乳の下や首すじから、縫針14本がとび出して大騒ぎとなった。
 むめは、前年に台東区小島町のある薬種屋に勤めていたことがあったが、その時わけもなくしばしば座敷に小便をもらすことがあった。また毎晩夜中に便所にいくと、イタチが出てきてふとんの下へはいり、小便をして汚したことがあったという。しかしこのごろは普段何の異状もなく暮していたのである。
 体内から針が出たということは、中国にもある話で、「史記」に出ている。
〔参考〕 武江年表
袋町 「武江年表」によれば、実はこの話は袋町ではなく、「袋町代地」でした。ここは現在の千代田区の一部です。牛込袋町は享保16年(1731)火事で類焼し火除地となり、幕府は代わって「袋町代地」として外神田一丁目・神田花岡町を与えました。
台東区小島町 現在は台東区小島一丁目と小島二丁目。台東区の南部です。北部の春日通り下に「新御徒町駅」があります。
薬種屋 生薬を調剤して漢方薬を販売する店舗
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。正編8巻は天正18年から嘉永元年までで嘉永3年(1850年)に出版。続編4巻は嘉永2年から明治6年までで明治15年(1882年)に出版。火事・地震などの天災や気象情報、町の存廃、著名人の死去、催事や流行り物、その他の時勢を網羅。随所に考証の跡をうかがうことができる。

 統合失調症などの病気があると、患者は隠した針をまるで魔術師のように「身体から」取り出していきます。手品以外では普通は統合失調症などを考えます。イタチも本当に毎晩出たのか、幻視ではなかったのか、不明です。
 なお、本当に身体の内部から針が出てくるのは針生検や穿刺細胞診などの針が折れる場合です。
 逆に「針の誤飲」は普通の症状で、この針や釘は小児に多く、40歳以上になると魚や鶏の骨が多いと言われています。
 では、「武江年表」の後追記録です。

 五月、筋違御門の外、牛込袋町代地友次郎が妹むめ、身内より針を出す(友二郎は家主金次郎が店をかりて、かすかなる暮しをなす者なり。むめはことし14歳になりけるが、身内痛みて、乳の下・膝、或襟の辺より縫針14本を出す。去年、下谷小島町なる薬種屋に逗留してありし時、かの家の座鋪、又は二階へ、何とも知れず度々小便にて濡したる跡あり。又、かの薬種屋、新右衛門町へ引移し時も、ともにかしこへ行。夜中寝たる時、そばいたちのかけ行、又は蒲団の下へ入、小便にて汚しける事、毎夜の事なりし。其外にはかはりし事を覚えずとぞいひける。こくにも、また古くかゝるためし有)
筋違御門 すじかいもん。現在の内神田と外神田と間の千代田区神田須田町1丁目。枡形は寛永13年(1636)に完成、門は寛永16年に完成。明治5年(1872)、撤去された。
座鋪 ざしき。座敷。畳を敷きつめた部屋、特に客間
 いたち。

 次に「武江年表」では史記(紀元前1世紀頃、中国前漢時代に司馬遷が編纂した歴史書)と稽神録(10世紀の短編小説集)から二人の症状が書かれています。Google翻訳を使ってみると、「史記」では、家の中でうめき声を聞き、老婦人が体の痛みと無数の暗黒の色を訴え、病気は深刻で、そこで豆湯を作ってあげると、痛みはかえって悪化、直ちに黒点から1寸の針を抜き、傷口に軟膏を塗ると3日後によくなり、この病気を針疸と名付けたという。「稽神録」では、額に瘤があり、医師が解剖し、黒い碁石を見つけ、巨大な斧で打ったが、傷には変化はなく、最後に、すねに瘤ができたが、これは犬​​が瘤を噛んだためで、その中に100本以上の針があり、これを使って、病気は治ったという。はい、この翻訳が正しいかどうかは不明で、症状所見も正しいかも不明、診断は全くもって不明です。

  史記曰、張嗣伯、嘗屋中呻吟、嗣伯曰、此病甚、及、見老姥体痛、而処々有ルヲ黯黒 無数、嗣伯、送、服訖痛勢愈甚、跳スル者無数、須臾ヨリ皆抜針長寸許ナルヲ、以瘡口、三日ニシテ而復スト云、此針疸也。
 稽神録云、処士蒯亮言、其所知額角患、医為、得タリ一黒石碁子、巨斧擊テドモ、終傷レ欠、復有足脛生スル瘤者、因至ルニ親家、為猘犬ヤマヒイヌ、正其瘤、其中為タリ針百余枚、皆可、疾亦愈

呻吟 しんぎん。苦しみうめく。
老姥 年老いた女。老婆。
 となえる。名づける。
黯黒 暗黒。くらやみ
 かえる。かえす。ひきかえす。もとへもどる。
 食べ物が十分ある。必要以上に、また期限をこえて、物がある。
 飲む。服用する。
 おわる。おえる。とまる。やむ。
須臾 しゅゆ。しばらくの間。わずかの間
寸許 すんきよ。少々。
瘡口 そうこう。傷口
稽神録 古今の小説伝奇類。作者は徐鉉で、10世紀の人
処士 民間にあって仕官しない人。在野の人。浪士。浪人。
額角 こめかみ
 切り開く。割る
碁子 碁石。
 かむ。
 かじる

 なお、この稽神録のエピソードには和訳がありました。再録します。

蒯亮
処士蒯亮が言うには、かれの知人が額に瘤を患ったので、医者が切ってやると、一つの黒い碁石が見つかった。巨斧で撃ったが、結局壊れなかった。さらに脛に瘤を生じたものがおり、親戚の家にゆき、猛犬に咬まれ、まさにその瘤を齧られたが、中から針百余本が見つかった。すべて用いられ、病も癒えた。(稽神録/補遺

天下泰平文壇与太物語

文学と神楽坂

 高山辰三氏の「天下泰平文壇与太物語」(牧民社、大正4年)です。高山氏は早稲田大学を多分卒業し、「美術と趣味社」の編集長でした。生年は1892年、没年は1956年。
 この本を開けると文人10人が「序」を書いています。「自序」を加えて総計11人。まず「序」のうち2人を取り上げて見てみましょう。


 高山君が初めてやって来て、私にも序文を書けと言う。
 私は前に高山君に会った事がない。従ってそのとなり、、、をも知らない。一見したところでは高山君と言うよりは横山よこやま君と呼びたいような気がする。容も声もまるまるとして如何にも横に広いという感じがする。
 文壇与太物語は如何なる書物か、私は全くその内容を知らない。もし文字通りのヨタ話ならば、これまた丸々とした感じを与えるものであろうが、見ては正に横山君と呼びたい人の、その名は意外にも高山君である如く、このヨタ話も案外ヨタではなくして辛辣なものかも知れない。出版された後で見るとオヤオヤと恐れ入るようなものかも知れない。うっかり不見転で序文を書くのは冒険かも知れないが……。
 お題から見ても、この内容は我々文士仲間の噂話と思われる。それ人の噂をする事は人生快楽の尤なるものである。下は裏長屋の女房連より上は大臣議員の晩餐会に至るまで、その最も賑わうものは人の噂である。面白い事これ上なけれども、余り品のよいものには非ず。要するに75日位にて綺麗に忘れてしまうべきものだ。之を紙に記して世に公けにするは多少罪たるの感なき能わずと難も、本書に限り天下、、泰平、、とのお断りさえある事なれは、吾々序文書きの者共も全く無罪放免たるよしと信ず。
  大正四年御即位御大典の月
生 方 敏 郎

不見転 みずてん。後先を考えずに事を行うこと。芸者などが、金しだいで見さかいなく誰にでもすぐに身をまかせること。
生方敏郎 うぶかたとしろう。随筆家、評論家。早稲田大学英文科卒。「東京朝日新聞」の記者から文筆家に。『明治大正見聞史』が有名。軍国主義の世相を批判した。生年は明治15年8月24日、没年は昭和44年8月6日。86歳。


 与太物語序文、先日唐突の間によく話も承らずに場合によっては書いて宜しいというような事をいいましたが、あの時はあとから改めて御話のある事と思ったからでした。またそれが当り前の事だと信じます。ところが今日明後日までに是非書けとの御催促に接し少々驚きました。その内容については少しも知らない書物——わけてもそれが自分達と一緒に生活している現実の人々の実生活に関したゴシップであるという——そういった書物の序文を空想で書くというような無責任な事がどうして出来ましょうか。この義は平におことわり致します。
 これは小生自分の良心に対してどうしても出来ない事です。どんな人のどんなゴシップが書いてあるかわけもわからぬのに、どうして序文の書きようがありましょう。それを貶するにしても、また推奨するにしても影も形もないものに対しては神ならぬ僕の不可能の事として平におことわり致します。
 貴兄も一寸考えてくだされば、僕の心持がよく御了解出来ることと思います。
  11月16日
 高 山 辰 三 兄

 と、まあ、こういった文章が11個もあります。相馬御風では「文壇与太物語」の序文は書かないとはっきり拒否しています。それがそのまま序文として登場しています。いったい著作権はどうなっているの? 大正の世は穏やかでした。
 では本来の「文壇与太物語」に行ってみましょう。

   近松秋江となめくじと女
■蛇のような未練 『別れたる妻に與ふる手紙』というだらしない小説を書いて、間男と逃げられた妻にながながと蛇のやうな未練をのべた秋江の話が、たまたま、ある夜のカフェーで、文壇の毒舌家A氏の口から滑り出た。
 「秋江は色情狂だよ。あいつはね、ええと妻君に逃げられた当時だから、だいぶん前のことだが、ある日、蒼白な顔で僕の室へ飛び込んで来て、がたがたふるえているんだ。いったいどうしたんだ? ときくと、襲われるようにきょ・・とき・・ょと・・しながら、『いや、君、僕は怖ろしくてしょうがないんだ!  気違になりそうだ!  実はね、僕は先刻昼寝をしていたんだがね、丁度眼のまえで、妻が間男と寝ている夢を見たんだ。はっと・・・思って眼が醒めると、僕は裸足で戸外へとび出して、手にナイフを握っているんだ! その瞬間、僕はもう怖ろしくて怖ろしくて、どうしょうもないんで、君のところへ飛び込んだんだ!』って、それでなくてさえ、いやに蒼白い顔を、胸が悪くなるほど蒼くしてがたがたふるえているんだ。」
■秋江と女の足袋 同じA氏の話「秋江がね、いつか田中王堂のところへ遊びに行ったんだね。二人共、ひるまなかから、自慰をやっているような奴らだろう。二人で夢中になって、わけのわからん哲学を喋っていたんだね。そこへ、突然往来から、気違が飛び込んで来て、いきなり後から秋江の首をしめたんだそうだ。秋江きゃ・・と一声悶掻き出すと、あのちっぽけな王堂、一世一代の勇をふるって、気狂の後から、しっかと抱き止めたものだ。而してその気狂を戸外に引きずり出して、室へ帰って見ると、肝心の秋江がいない!!! そのはずさ、当の秋江は、あまりの急な変事に顛動して、足袋裸足のまま、往来へ飛び出して、田中の家から近い、千葉掬香の邸へ飛び込んで行った。千葉の殿様の邸みたいな玄関に立つて、葡萄酒! 葡萄酒と怒鳴っている。千葉の妻君が、その声に驚いて、飛び出して見ると、汚ない服装みなりをした乞食みたいな男が蒼くふるえて、ドラマティックな声を出してしきりに葡萄酒! 葡萄酒! とどなっている。それがよく見ると秋江だとわかって、何のことか、わからんが、とにかく上げて、床をのべて寝かして、葡萄酒をのましたんだね。而して、暫らくすると、正気にかえったから、様子をきくと、こうこうだというので、妻は枕元で笑をしのんで坐っていた。すると、秋江、そろりそろりと、千葉の妻君の方へすり寄ってくるので千葉の妻、ついにたまらなくなって逃げだしてしまった。それでも、帰るときには、泥まみれになった足袋の代りに自分の白い足袋をくれて、下駄をかしてやった。ところが、秋江のやつ、自分の小さい足によくあう、その貰った足袋に随喜してよろこんで、それからというものは、白いのが真黒になるまで、はいていて、誰にも彼にも、君、これは千葉の妻君に貰ったんだよ! と足袋に接物もしかねない様子なんだ。一方千葉は、それからというものは、徳田という男は色きちがいだ。あんな奴以後決して寄せつけはしないと憤慨してるそうだ。」
別れたる妻に與ふる手紙 小説は「別れたる妻に送る手紙」です。
田中王堂 たなか おうどう。哲学者・評論家。京都の同志社などからシカゴ大学卒。デューイの思想を学び、日本にプラグマティズム哲学を紹介。東京工業学校の哲学担当教授、東京専門学校(現、早稲田大学)教授、立大教授を歴任。生年は慶応3年12月30日(1868)、没年は昭和7年5月9日(1932)
悶掻く 「もがく」でしょう。踠く。藻掻く。もだえ苦しんで手足をやたらに動かす。あがく。
しっかと 確と。聢と。しっかりと。かたく。
而して 「しこうして」そうして。それに加えて。「しかして」そして。それから。
千葉掬香 ちばきくこう。青山学院卒、エール大学卒。早稲田大学で教鞭を執った。生年は明治3年6月26日、没年は昭和13年12月27日。69歳。
随喜 ずいき。他人が善いことをするのをみて、これに従い、喜ぶこと。
   谷崎潤一郎氏の変態性欲
 女装して浅草を歩いて見たり、女の鼻汁をべロべロなめたりする潤一郎氏の変態性欲は誰でも知っている有名な事実だが、これも一種の色情狂さ!。
■変態性欲という変った研究も面白いが、読者をして、笑わせるような態度がいけないと誰かがいったと思う、全くのことだ。潤一郎氏の態度は不真面目でいけない。どうせディレッタントだから仕方がないやうなものの。
三木露風氏と並べられて、麗々しく、本郷下宿業組合の未払者の貼出しの中に、氏の名前を見たのは、大分古くからのことだ。
■しかし、文章は実にうまいものだ、その雅かな、すらすらとした、而して豊艶さにはいつも敬服する。
■創作としては、このほど、萬朝報をひいたという弟精二君の方が、この頃しっかりしたいいものを書くようになったと思う。
ディレッタント dilettante。専門家ではないが、文学・芸術を愛好し、趣味生活にあこがれる人。こう家。半可通。
新講談 講談は張り扇で釈台を叩きパパンという音を響かせて調子良く語る芸。新講談は書き講談ともいい、調子良く書いたもの。
雅か 雅びか。みやびか。雅びやか。みやびやか。上品で優雅な。風流な。
萬朝報をひいた この場合の「ひく」は不明。「引き寄せ操って目ざす所に伴う」でしょうか?
精二 谷崎精二。小説家・英文学者。萬朝報記者。文芸同人雑誌「奇蹟」、のち「早稲田文学」に作品を発表する。昭和23年から35年まで早大文学部部長。生年は明治23(1890)年12月19日。没年は昭和46(1971)年12月14日。80歳。

   昇曙夢氏と松井須磨子
■曙夢氏を訪ねて、談たまたま芝居に及んだ。と、氏は急に語調をかえて、「君、すま子の住所を知りませんかねえ?」ときかれる。「さあ、嶋村さんと一しょに、何でも水道町あたりだとききましたが、しっかり覚えておりませんが……一体何ですか」とむらむらと起る好奇心を、強いて押えて答をまつと、「いや、……実は、先達、博多の興行先から、博多の女帯を贈っくれたのだが、住所が解らんので、つい礼状も出さずにいたから……。」とはて、面妖な、昇さんにすま子が、女帯を贈る、わが厳粛な昇氏(正教神学校及び陸軍中央幼年学校講師)……どうも変だ、しかし、これは、解って見れば何でもないことだ、曙夢氏は、二葉亭の死後、いまの日本で、ロシヤ文学のオーソリティとしての氏は、よくつねに劇のことについて相談をうける、その御礼として、近来ますます商売気を起して、一生・・懸命・・愛嬌をふりまくすま子から、女帯は奥様への贈物となったとて驚くほどのことはない。
■氏は今年から、早稲田の文科にロシヤ文学を講じているが、まことに悦ぶべきことである。しかし、いまや氏の実に見事な長い八字ひげは、短かく刈られてない。直ちに表象し得るの故を以て、珍重してみたところの漫画家とともに、あの美髭を痛切に惜しむ。
昇曙夢 のぼり しょむ。ロシア文学者。明治36年、ニコライ正教神学校卒業。神学校講師、陸軍士官学校教授、早大、日大などの講師を歴任。生年は明治11年7月17日。没年は昭和33年11月22日。80歳。

   相馬御風氏と昔の恋人
評壇の寵児御風氏 いまの日本の評壇を一人で背負って立っているかの如き御風氏はたしかに幸運児である。勿論その幸運は氏の頭のいいのと、利巧なのとの贈物である。氏はまたかなりな精力家なのも気もちがいい。而して、氏の主義主張はその著『自我生活と文学』『毒薬の盛』『御風論集』『個人主義思潮』に於て、とにかくに終始一貫した雄々しい態度がある。たとえ大杉氏に何といわれようとも、武者小路実篤氏に『軽薄なヒョットコ』といわれようとも、私は氏を尊敬する。
むかしの恋人小口みち子 さる年、御風氏の子どもが病気で、歌舞伎座の近くの某病院に入院させた。氏は毎日病院で看護していたが、夕方にさえなれば、ちょっと散歩に出かける。どこへ行くのかと思うと、銀座の灯の下をさまようのである、しかも、あの優しいしっとりした舗石の上を歩くのかというと大違いだ。毎晩毎晩銀座の町のうす暗い露地の闇へ消える。そしてまたひょっこり外の露地から出てくる。いつたい何をしているのか思えば、むかしの恋人、今の青柳有美先生の『畏敬せんとしつつある』古くして而して新らしい女丈夫小口みち子の家を探していたのだという。
■その小口みち子は、今、あたりで、美顔術の先生をしているそうな。しかし、今になってはもう御風氏が、その家を探す心配もあるまい。この女、かつて、青柳有美の中央公論に書いた『かくあるべき女』を見て憤慨し有美を扶桑新聞社に訪ねて、『私は今日青柳有美を殺しに来たんだ!』と、その権幕に恐れて流石の有美先生も隠れてしまい、記者の松本青峰に会わせた。あの美しい顔で、……恐ろしいことだという古い噂がある。
衆望 しゅうぼう。多くの人々から寄せられる期待・人望
小口みち子 歌人、婦人運動家、美顔術研究家。平民社、売文社に参加し、短歌、俳句、小説を「へちまの花」などに寄稿。
青柳有美 あおやぎゆうび。ジャーナリスト、随筆家。明治26年から「女学雑誌」にかかわり、のち主幹。大正では「女の世界」の主筆
松本青峰 ジャーナリスト、小説家。

   加能作ちゃんと北海道の女優
文章世界の加能の作ちゃん 風邪と称して一週間ばかり家に引籠っている。親友の某氏奇怪なことだと訪ねて見ると、どこも悪そうにもない、「どうしたんだ?」ときいて見ると実は女優にふられた恋かぜ、、だとわかった。なあんのこった、柄にもない——その相手というのは北海道の産××××子。知ってる人は知ってる筈、芸術産の第一回公演の際に、北海道から女優志願とあって、はるばる上京して、めでたく舞台を踏んだ二人の姉妹のことさ。即ちこの話も、その折のことだから、まあ三年ほど前のことだ。
加能の作ちゃん 加能作次郎です。
文章世界 博文館の文芸雑誌。1906年(明治39)3月~20年(大正9)12月。全204冊。その後、翌21年1月『新文学』と改題したが、12月廃刊。12冊。編集長は田山たい、長谷川天渓てんけい、加能作次郎。国木田どっtの『二老人』(1908)、島崎藤村 とうそん の『桜の実の熟する時』(1914)などを載せ、自然主義全盛の時期にはその推進の拠点となった。
三年ほど前 大正元年でしょう。

   森鴎外博士のケーヤレス・ミステーク
■博士のドイツ語の力は、実に堂々たるものだが、あまり堂々すぎるので、時々 Careless mistake.があるそうだ。それは註解なんかあっても、てんで、そんなものは見ないのだという。
 ハウブトマンの『寂しき人々』の中で、「春の鳥」という言葉がある。註解に「春の鳥とは蝶をいう」とあるのを注意せずに、平気で「春の鳥」と訳しているのは、可愛らしいと誰かがいっていた。
森鴎外博士の糞 ある日、森さんが折柄の来客に向っての話に「僕は近来、糞というものについて、非常な興味を持っている。で、糞の話を三つばかし書いて見ようと思う。まあきいてくれたまえ。その一つはこんな筋なんだ。まず京都に、富豪の道楽息子がいることにする。その息子はもう散々遊びつくして、所謂アブノーマルな遊び方でなくてはどうしても興味が無くなり、満足が出来なくなっていて、何か人間をあっ、、と驚かしてやろうと考え込んでいる中、ある晩、ふと夜店で、何ともつかつぬ太い銅の筒を、つい買わされる。すると彼はそれを持て祇園の茶屋に行って、界隈のならず者を全部狩り出して、酒を呑ましてどんどん騒ぐ。その揚句に深更、そこを出て往来に立つと、糞をひれという。而してやがて、各々に先きの太い筒にひらせて、それを上から押し出しては、ごろり、、、と大道のまん中へ置き、都大路に落して歩き帰ってしまう。それが翌朝になると大変だ、京都市中は大騒きになる。『よんべ天狗はんが町をお歩きやして、大きなうんこ、、、をおとしやしたんえ!』人々は大通りの、人造の大きな糞の周囲に集って眼を丸くして、中には恐怖の眉を震わすものが随分ある。道楽息子は手を打って喜ぶ。というんだ。これに類似した話は支那にもあるが、どうです面白いでしょう。ハァハハハ。も一つはねえ……」話はまだ続くが、あんまり芳しい話でもないからこれ丈にして置く。これは支那の俚話のやき直しらしい。
つかつぬ 「つかぬ」だとすると「思いがけない、考えもしない、全く期待や希望に反している、とっぴな、だしぬけな」
ひれ ひる。放る。体外へ出す。ひりだす。
俚話 「りわ」か? げんは、昔から人々の生活の中で言い慣わされてきた、知恵や教訓や風刺の意を込めた短い言葉

   夏目漱石氏の電話
■漱石氏の家の電話は、いつも受話器をはずして置くという。ある人これを主人漱石氏に叩けば、
「電話はこっちからかける時にだけ必要なんだ!」となるほど受話器をはずして置けばいくら先方が、かけようたって、通じないわけだ。ここらが例の漱石流というのだろう。

一瀬幸三氏はすごい人だった!

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏は新宿区の郷土研究家として力を発揮していたのですが、では、その前の仕事は何をしていたのでしょうか? 調べてみました。
 まず一瀬幸三氏が書かれた本で、新宿区と国会の図書館に入っているものです。他にもあるはずですが、ここでは図書館の本に限定しています。

新宿区立図書館と新宿歴史博物館の収集本
新宿郷土研究 第1号~第5号 1965〜66年
新宿区史跡の会々報 1966.06
円朝考文集 第1 窪田孝司/編 円朝考文集刊行会 1969.06
円朝考文集 第4 窪田孝司/編 円朝考文集刊行会 1972.06
新宿の石仏 1970.08
新宿のキリシタン 1972.05
新宿郷土研究史料叢書 第1冊 右衛門桜古跡石文 全 1972.09
新宿郷土研究史料叢書 第2冊 新宿のキリシタン 1973.07
新宿生物文化史 1978
霊場源流考 府内八十八ケ所 1983.05
新宿遊郭史 1983.10
新宿の四季 野草;新宿区ビデオ広報 一瀬幸三監修 読売映画社 1988 DVD
新宿の牧場昔むかし 新宿郷土研究史料叢書 第6冊 1990.03
牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断 新宿郷土研究史料叢書 第7冊 1990
牛込藁店亭と都々逸坊扇歌 新宿郷土研究史料叢書 第8冊 1991.03
太田道灌と山吹の里新考 新宿郷土研究史料叢書 第9冊 1991.07
歌人前田夕暮と西大久保 新宿郷土研究史料叢書 第10冊 1992.01
石原和三郎と田村虎蔵 言文一致唱歌の創始者 第 11冊 1992.07
太田道灌と山吹の里新考 続 新宿郷土研究史料叢書 第12冊 1992.11
大和田建樹の作歌活動と東榎木町 新宿郷土研究史料叢書 第13冊 1993.05
四谷笹寺勧進相撲興行新考 新宿郷土研究史料叢書 第14冊 1993.11
浄瑠璃坂の敵討は牛込土橋 新宿郷土研究史料叢書 第15冊 1994.02
国会図書館の収集本 214件
こどもクラブ、僕らの幼稚園、小学館の幼稚園、よいこ 一年生、小学一年生、小学二年生、小学三年生、小学四年生、小学五年生、小学六年生、中学生の友 1年、中学生の友、女学生の友、日本詩謡曲集 1982など
新宿区郷土研究会が著書の本
新宿郷土研究 1978
牛込氏と牛込城 10周年記念号 1987
郷土新宿 第21号 簡易製本 1989
新宿追分の研究 15周年記念号 1992
神楽坂界隈 20周年記念号 1997


 最古の著作は昭和5年(1930)です。この時は東京帝国大学農学部の板垣四郎氏と一ノ瀬幸三氏は「馬の頸靱帯に寄生する頸部オンコセルカ」(中央獣医会雑誌)を寄稿しています。昭和6年(1931年)には「犬の急性腎炎」(応用獣医学雑誌)を書いています。なお、大正15年の東京帝大の入学者数は2,363人で、令和6年の東大は3,060人。現在の方は大正に比べて30%ほど合格数は多くなっています。
 昭和14年(1939)になると、一ノ瀬幸三氏は瀬戸川氏と一緒に満洲国の新京動植物園から動物収集で、牡丹江省(現在の黒竜江省東南部)に出張しています。「新京動植物園」は満洲国首都の新京特別市(現在の吉林省長春市)の中にありました。この時は一ノ瀬幸三氏は新京動植物園に勤務していましたが、昭和17年には元勤務となり、おそらく日本に帰ったのでしょう。また「満洲の冬と動物」の筆名は「一ノ瀬幸三」ではなく、「一瀬幸三」でした。他にも「一の瀬幸三」や「K・I」という筆名も出てきますが、別々の人物ではなく、同一の人でしょう。
 ちなみに、昭和20年(1945)、ソビエト連邦の満洲侵攻が起こり、満洲国は滅亡、新京動植物園も消滅します。園長の中俣充志氏は日本に帰ってから、北海道に最初で戦後最北となる札幌市円山動物園の園長に就任します(1950年9月~1964年7月)
 では、一瀬幸三氏は日本に帰ってから何をやっていたのでしょうか。国立国会図書館で調べてみると「良い子の友」「たのしい一年生」「小学二年生」「小学三年生」「中学生の友1年」(全て小学館)「僕らの幼稚園」(森の子供社)「5年の学習」(学習研究社)といった雑誌に動物の逸話などを沢山書いています。「小学二年生」では「一ノ瀬幸三」と「一の瀬幸三」のどちらも出ています。また輪投げなどの作詞をしています。しかし、これだけでは収入は不十分で、また、職業もわかりません。
 昭和30年(1955)舩木枳郎氏と一ノ瀬幸三氏は『小二教育技術』(小学館)に「現行初級用教科書の内容を批判する」と題して(K・I)が書いています。

「こうまの太郎」に、子馬が母馬から離れて、汽車の走るほうに走っていき、かえり道がわからないとあるが、馬、牛は、道をよく覚えている習性があるので、このとりあげ方はぎもんである。
「ピピピピ、ピンピン」を女のことばでつぐみの声としているが、これはおかしい。なぜならばつぐみとはにてもにつかぬものである。つぐみの声は川村博士によれば三通り分類している。
 ⑴ ぐす音=グシュグッシュ。またはクスクスクス。
 ⑵ ひょう音=キョーキョー。またはチョーチョーチョー。
 ⑶ ひしぎ音=シャッシャッ。
であるが、ご一考をわずらわしたい。また、前節では「ひばりのうた」と言い、後節では声としているのはどういうわけか、統一してほしかった。
 気になることでは「めじろ」で、「めじろが、山で チチ、チチないています。ほくのめじろも、かごの中で、チチ、チチないています。きっと、山へ いって なきたいのでしょう」というのがあるが、山でめじろが鳴いたということは距離的におかしい。カッコウ、ツツドリ、キジバトなどならまだしも、めじろの声は山で鳴いたぐらいではきこえない。やはりこの場合、裏山とか庭先とかとすべきであろう。

 また、武田尚子氏(中公新書『ミルクと日本人』2017)は、インタービューに答えて「ミルクの関連資料を求めて、あちこちのアーカイブや個人所蔵の資料を見に足を運びました。札幌の雪印メグミルク酪農と乳の歴史館で、特別のはからいで一瀬幸三寄贈資料を見せていただき、色とりどりの鮮やかな牛乳の引き札(チラシ)を目にしたときは驚きました。多くの方に紹介したいと思い、先人の努力の賜物を受け継いで、この本(『ミルクと日本人』)が出来ました」
 そこで雪印メグミルク株式会社にメールで聞いてみましたが「弊社『酪農と乳の歴史館』に、一瀬幸三氏より資料を寄贈いただいていることは事実でございます。ただし一瀬幸三氏についての詳細はわかりかねます。せっかくお問い合わせをいただいたにもかかわらず、お役に立てず申し訳ございません」とのこと。
 「隅猪太郎氏の鶴印練乳所」「大宝律令・厩牧令」という文書も一瀬幸三氏のものです。
 また、農林省畜産局編「畜産発達史」(中央公論、1966)では一瀬幸三氏は戦前の酪農業の進展を描いています。この時はデーリーマン社(北海道協同組合通信社)に働いていました。この「畜産発達史」は東大教授、日大教授、常務理事など錚々たる顔ぶれが執筆しています。おそらく北海道の通信社に働くのは退職後の仕事だったのでしょう。
 ここまでは獣医らしい言質でした。一時、畜産コンサルタントになり、引っ越して、新宿区市谷山伏町に住み始めます。
 『にっぽんの教師3』(サンケイ新聞出版局、昭和41年)「BTA」(ボスと教師の会、ボスが牛耳るPTAのこと)には……

 “BTA”の弊害に気づいて、PTAの改革に成功した先生に登場してもらおう。東京・新宿区立牛込第一中学校の福本菊雄先生。
 福本先生が、牛込一中に赴任したときは、この学校のPTAも一部の役員によってきりまわされていた。赴任早々、PTAの役員選挙が行なわれた。定連の役員たちが校長室に集まり、サッサと会長、副会長の候補をきめるのをみて、福本先生はあぜんとした。
 こういうPTAを改革するには、PTAの規約を改め、新しいルールをつくりだすほかはない。先生はそう判断した。PTAの一人、一瀬幸三さんが、こういうPTAのありかたに疑問をもっていることを知ると、一瀬さんにPTAの庶務係になってもらった。そして、二人で全国各地のPTA規約を取り寄せて勉強し、三年がかりで、規約を全面的につくりなおした。
 この時はPTAの一員でした。
 さて新宿区では郷土研究家になっていきます。昭和40年頃から新宿郷土会の主宰になり、昭和40年(1965)から41年に第1号から5号までの「新宿郷土研究」を出版し、昭和47年(1972)から平成6年(1994)まで「新宿郷土研究史料叢書」15冊を出しています。また、一瀬幸三氏は新宿区の文化財調査員(昭和43~48年度)にもなっています。さらに、古文書を収集し、これは新宿区文化財総合調査報告書(2)にまとめて報告してあります。平成10年(1998)に死亡したようです。
「牛込矢来町の福島中佐と単騎シベリヤ横断」を出版した1990年に自分は「80歳を越えた老人」だといっています。すると、昭和6年(1931年)では「21歳を越え」、敗戦時(1945)に「35歳を越え」、昭和40年(1965)に「55歳を越え」ていたようです。当時、50~55歳で退職をする人もいました。
 では、50~55歳以前の職業は何だったのでしょうか。最も一般的な就職は、氏の獣医免許から見て、民間の獣医師ですが、普通は民間で働く獣医には退職はないですし、氏のようにある年齢になって(退職して?)堰を切ったように大量の文章を書き上げるのも、少し違うようです。大学や研究機関で働くのは論文が全くないので、まず違いますが、動物園で働く場合、公務員として食肉衛生や家畜衛生に関係する場合、民間企業で動物用医薬品の開発や販売する場合などは、十分あり得ます。さらに、獣医師の免許があれば高等学校の理科・農業と中学校の理科についてはそのまま教諭になれます。
  最終的には次の書籍でわかりました。つまり「海燕」第14巻第11号(1995)の松本健一氏の「こうしいて青山に入る」242頁では……
『新宿の牧場昔むかし』(新宿郷土研究史料叢書第6冊、1990年刊)をよんでいたら、広沢牧場の場所がかんたんにわかったのである。この著者の一瀬幸三さんというひとは、新宿歴史博物館の鈴木靖さんによれば、ながく雪印乳業につとめていたので酪農業や牛乳の歴史などにくわしい、ということだった。現在まだ健在である。
 なるほど、雪印乳業に勤めていたのですね。

一瀬幸三


 また、氏の書籍の中表紙には蔵書印(「一瀬文庫」)が押してあります。相当大量の書籍があり、しかも史料としても重要な古書もあったようです。一例は日蓮上人の『宗門先師略年代記』(現存するのは世界に1冊だけ。古本屋の希望価格は約54億円)です。
 考えてみると、新宿区の神楽坂に近いところに引っ越した後は、一人では考えられない量の文献を読み、全く違う分野で、つまり郷土研究家として第一線の成果を上げる。信じられない、と思います。

沼地だった大曲付近|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 42.沼地だった大曲付近」を見ていきます。「昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである」という考え方は部分的に正しく、「昭和のはじめごろ」はおかしいと思えます。

沼地だった大曲付近
     (新小川町一、二、三丁目
 大曲一帯は、江戸時代初期には白鳥沼という大きな沼であった。また前にのべたが飯田橋あたりは大沼という沼地であった(11参照)。それを、万治年間(1658ー60)、お茶の水堀を掘る時、掘りとった土や白銀町の台地(御殿山)を崩した土で埋めたてたのである。そして神田小川町の武家屋敷をここに移したので新小川町と名づけられた。大曲のところの橋を白鳥橋というのは、昔の白鳥沼の名前をとったのである。
 神田川は、このあたり低地を蛇行して流れていた。大雨の時などは川が氾濫して、まわりの田畑は洪水の害を受けることが多かった。
 そこで昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐになった。地図をみると、新宿区と文京区の区境が入れ混っているが、これは昔の江戸川の流路であったからである。新小川町などは、はじめ文京区の小石川地区であったが、明治13年11月に牛込区に編入されたものである。
 落合から下流飯田橋までをはじめ江戸川と呼んでいたが、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことになった。下流のお茶の水、浅草橋、隅田川までは、江戸時代に江戸城外堀として掘られた人工の川である。
 お茶の水堀ができない前は、神田川は、白鳥沼から大沼、小石川橋九段下神田橋常盤橋日本橋鎧橋を通って江戸湾に注いでいた。古くは大沼から一ツ橋あたりまでを上平川、それから下流を下平川と呼んでいた。
 神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年である。
〔参考〕江戸砂子 沈み行く東京 江戸町づくし稿中巻
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていること。その場所。新宿区と文京区では神田川の流路がほぼ直角に曲がっている所。
新小川町一、二、三丁目 現在は昭和57年(1982)の住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合、なくなり、新小川町だけになりました。
白鳥沼 小石川大沼の上流の池。南向茶話では
〇白鳥の池、当時江戸川中の橋の下の曲流の所は、往古は大なる池にて、白鳥の池と号す。埋れて其余地南の方久永氏の宅地にのこれるよし。

大沼 小石川大沼。江戸初期以前では神田川(平川)と小石川の合流地点。湿地帯だった。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

埋めたてた 「御府内備考」「牛込之一」「総論」では

万治のころ松平陸奥守綱宗仰をうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へかけてほりぬき水戸家の前をすき牛込御門の際まで堀しかははしめて牛込へ船入もいてきしこのほり上たる土を以て小日向の築地小川町の築地なり武士の居やしきをもたてり、この築地ならさる前は赤城の明神より自白の不動まで家居一軒もあらて畑はかりなりしか、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり
 新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)では
新小川町は、明暦四年(1658)の3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して埋め立てたのである。また、万治年中(1658一60)には仙台の伊達綱宗がお茶の水堀を掘って神田川の水を隅田川に通ずる工事をした時、その掘り土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋め立て地を新小川町といった。
 新宿区生涯学習財団「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では
万治年中(1658-61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ。
 東京市麹町区編「麹町区史」(昭和10年)では
 翌万治3年2月10日、有名な神田川開疏が行われ、伊達家の担当で牛込から此の門(筋違橋門)際舟入りとなる。

昭和のはじめごろ、河川改修が行なわれて、川はまっすぐに 間違えています。寛文11-13年(1671-73)からは、氾濫がない場合に、江戸川橋より下流では今とほぼ同じ流路でした。

新板江戸外絵図。寛文11-13年。(1671-1674)

昭和22年 住宅地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

昔の江戸川の流路 何が原因で区境になったのでしょうか? 正保元年(1644)頃の正保年中江戸絵図を見てみます(下図)。前図からさらに古い地図ですが、神田川は江戸川橋から東方になっても蛇行をしているようです。

正保年中江戸絵図。嘉永6年(1853)に模写。原図は正保元年(1644)か2年に作成か

 そこで伏目弘氏は『牛込改代町とその周辺』(自己出版、平成16年)で「仮称『江戸川大沼』の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは」と考えています。

交錯する江戸川橋付近の区境 現在の江戸川橋交差点付近には、神田川を境に文京区と新宿区の区境が錯綜している地域がある。文京区は、昭和39年から42年にかけて、町成立の歴史認識を無視し、町名変更を実施したのである。
 旧町名の小日向町・東古川町・西古川町・松ヶ枝町・関口水道町・関口町の六カ町は、一律に関口一丁目・二丁目となったのである。これらの旧町と新宿区の町境を歩いてみると、まるで迷路のようである。ここで仮説を交え、その原因を探ってみる。
 単純に立地条件を考慮してみると、江戸川橋交差点付近は往古は沼地であったと推定できる。西北に、目白関口台地と続いて雑司谷があり、雑司谷を水源とした野川は蛇行して音羽の谷に流水し、小日向台地下に弦巻川大下水を形成し、目白関口台地下には鼠谷大下水があった。
 他方南の牛込台地の流水は、音羽の谷(現江戸川橋交差点)に自然集水し、沼地となっていたと思われる。やがて江戸期になり神田上水と江戸川改修で沼地は耕作地帯に変貌し、明治期に区制が成立した際に区境の位置が問題になり、往古の仮称「江戸川大沼」の南側の淵を、小石川区(現文京区)と牛込区(現新宿区)の区境としたのでは、と推測をするのである。

 別の考え方には「蟹川」があり、その流路は図の最低標高線になり、そして2区の境界になったと考えられます。

東京実測図。明治18-20年。参謀本部陸軍部測量局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

牛込区に編入 岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)には

 明治5年7月に、旧称をそのまま町名として、東から一、二、三丁目と分けた。その当時は小石川区に属していたが、明治13年11月から牛込区に編入された。

江戸川 神田川中流。かつては文京区水道関口のおおあらいぜきからふなわらばしまでの神田川を「江戸川」と呼んだが、昭和39年制定の新河川法で、昭和40年4月からは神田川と呼ぶことに。名前の由来は、1603年に徳川家康が上水を整備した際に橋も建設したから。井の頭公園はその源流。以前は関口大滝橋までの上流を「神田上水」、船河原橋からの下流を「神田川」と呼んだ。
小石川橋 千代田区飯田橋と文京区後楽との橋。
九段下 千代田区のかつての町名。現在の九段北・九段南に相当する。
神田橋 千代田区の日比谷通りの橋。右岸は大手町一丁目、左岸上流側は神田錦町二丁目、下流は内神田一丁目など。
常盤橋 ときわばし。千代田区大手町と中央区日本橋本石町との橋。
日本橋 中央区の橋。江戸時代1603年(慶長8年)、江戸で最初に町割りが行われた場所にあった川の木造の橋。現在の橋は1911年(明治44年)に竣工した石造りの2連アーチ橋
鎧橋 よろいばし。中央区の橋。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、下流は日本橋茅場町など。

日本橋川 [8303040045] 荒川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット


一ツ橋 千代田区の日本橋川の橋。一ツ橋一丁目と大手町一丁目の間から一ツ橋二丁目と神田錦町三丁目の間までの橋。
上平川下平川 平川とは日本橋川のこと。平川は武蔵国豊嶋郡と荏原郡との境界であり、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路、江戸城を守る濠として利用された。
神田川の上を高速道路が開通したのは、昭和44年 首都高速5号池袋線(千代田区の竹橋ジャンクションから埼玉県戸田市のジャンクションまで)だけが神田川の上を走ります。西神田出入口と護国寺出入口との間の開通は1969年(昭和44年)6月27日でした。

牛込城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編『日本城郭全集』(人物往来社、1967)では新宿区にある城として3つしか載っていません。牛込城、南北朝時代の早稲田の新田陣屋、築土城です。今回は牛込城に光を当てます。
 残念なことに、いつ築城したのかは不明で、また、廃城は小田原落城と同じ頃に落城したとすると1590年前後でしょう。

牛込うしごめ   新宿区袋町
 牛込城は、牛込藁店わらだなの上(『江戸往古図説』)すなわち、いまの新宿区袋町付近の台地にあった。宗参寺を牛込城の地とする説もあるが、宗参寺は天文13年(1544)建立の寺であり、城址に建てた寺ではない。
 牛込城が、台地を利用した丘城であったことは間違いないが、その規模は明確ではない。『御府内備考』によれば、おおは神楽坂のほうにあったといい、また、「城地の蹟とおぼしき所多くのこれり」とあるが、いまではまったく城址の片鱗も残ってはいない。
 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城 (埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。
 重行の子 宮内少輔勝行は北条氏康に仕え、天文24年(1555)正月6日、大胡を攻めて牛込氏を称した(『寛政重修諸家譜』)。この改氏を『改撰江戸志』では5月としている。このときの勝行の所領は牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総の堀切、千葉にまで及んでいた。勝行は天正12年(1584)、致仕し、三右衛門勝重が跡を継ぎ北条氏直に仕えたが、天正18年(1590)、小田原落城とともに、牛込城も廃城となった。勝重は翌年、徳川家康に仕えたが、その孫伝左衛門勝正にいたって嗣子なく、牛込氏の嫡流は断絶した。
(江崎俊平)

藁店 別名は地蔵坂。細かくは藁店(わらだな)は1軒それとも10軒
江戸往古図説 国書刊行会刊行書「燕石十種 第3」「江戸往古図説」では「牛込城址今の藁店の上城地也と云牛込氏居城」になっています。
城址 じょうし。城のあった跡。城郭や城市のあと。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 牛込城蹟の部分では……

牛込城蹟
牛込家の伝へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほき所多くのこれり云々江戸志 按に今の樹王山光照寺は慶長三年(1598)戊戌の起立なり

追手門 おうてもん。おお門と同じ。城の正面に位置する門
城地 じょうち。城と領地
大胡宮内少輔重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」。宮内は「くない」。少輔は「しょうゆう」か「しょう」
後裔 子孫。すえ。後胤
群馬県勢多郡大胡町 2004年12月5日、前橋市へ編入され、現在は「群馬県前橋市大胡町」に。
寛政重修諸家譜 かんせいちょうしゅうしょかふ。大名や旗本の家譜集。幕府は寛政11年(1799)に堀田正敦まさあつを編集総裁に任命。文化9年(1812)に完成。凡例目録とも1,530巻が同年11月に献上した。
上杉修理大夫朝興 おおぎがやつ上杉朝興ともおき。室町後期の武将。北条早雲と戦って敗れ、のち早雲の子氏綱に江戸城を攻められて河越城(埼玉県)に移る。天文てんぶん6年4月27日河越で死亡。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏第3代。天文15年(1546)、河越城の戦で勝利し上杉氏を圧倒、関東における後北条氏の優位を不動にした。
勝行 「寛政重修諸家譜」では「勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲」
改撰江戸志 原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では
天文十三年牛込の地に於て一寺を健て雲居山宗参寺と号す。是父の法名によってなり。(中略)同廿四年正月六日従五位下に叙し宮内少輔に任す。同年五月氏康に告て大胡氏を改て牛込と号す。時に氏康より書を賜ひ武州牛込今井桜田日尾谷下総の堀切千景 千葉の誤りか を領す。(中略) 改撰江戸志 
致仕 ちし。官職を退く。退官して隠居する
嗣子 しし。親のあとをつぐ子。あととり。
嫡流 ちゃくりゅう。 嫡子から嫡子へと家督を伝えていく本家の血すじ。また、正統の血統。正統の流派

牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

牛込城の興亡|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「3 牛込の祖、大胡氏について」と「5 牛込城の廃城とその後について」です。もし牛込城がある場合、新しく城を建築したのは何年で、城を解体するのは何年なのかという問題です。つまり、城を維持する期間です。

3 牛込の祖、大胡氏について
(4)大永の乱と牛込の地の継承

 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は、江戸城の上杉朝興を攻め、これを攻略した。朝興は川越へ逃げ、北条氏は江戸城代遠山直景を置いた。この戦乱は上杉朝興側の江戸城代、太田資高道灌の孫)の北条氏への内通で結着がついてしまったのである。弁天町にいた大胡氏は、このような扇谷家の末期的様相を、案外、冷静に見極めていたのかも知れない。
 このとき、牛込は戦場となり、兵庫町の町屋や行元寺が破壊されたという(『江戸名所図会』、『江戸名所花暦の冬雪』)。
 戦乱が一段落すると、大胡重行は北条氏綱、氏康の親子に臣の礼をどり、袋町牛込城を築城する。そして、江戸城代、遠山家とも縁を結ぶ。後の徳川氏への随身もそうであるが、誠に素速い替り身は、これも生き延びてゆくための“戦国の論理”だったかも知れない。
 そして、牛込氏を名乗るようになる。大胡氏が公式に牛込姓を得たのは、勝行の代であったが、重行の代から通称では「牛込」で通していたと、云われている。

大永の乱 高輪原の戦い。高輪原合戦。大永4年1月13日に武蔵高輪原(港区)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦。
北条氏綱 ほうじょううじつな。戦国大名。後北条氏第2代当主。父早雲の後を継ぎ、江戸城に扇谷上杉氏を攻め、河越城を奪い武蔵に進出した。
上杉朝興 うえすぎともおき。戦国大名。扇谷上杉家当主。大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ。同時に太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
遠山直景 とおやまなおかげ。戦国時代の武将。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤める。
太田資高 おおたすけたか。戦国時代の武将。太田道灌の孫。江戸城主上杉朝興につかえたが、離反して北条氏綱に属す。大永4年(1524)江戸城を攻めた。
道灌 太田道灌。おおたどうかん。室町中期の武将。名は資長すけなが。上杉定正の執事として江戸城を築城。
弁天町にいた 大胡氏が弁天町にいたとの明瞭な証拠はありません。
大胡氏 「寛政重修諸家譜」などからまとめると、足利成行の庶子重俊は足利から大胡に改称して大胡太郎と称し、上野国大胡(現在の前橋市大胡地域)を治めていた。以降、代々この地域に住んだが、重行の時に武蔵国牛込に移り住んで、その子の勝行は家号を牛込に改めた。勝正の時(1672年)にこの家系は断絶する。
扇谷家 扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を遠祖とする家。大永4年(1524年)に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から河越へ逃れるが、これは後北条氏は江戸城への侵攻を開始したためである。
兵庫町 現在の神楽坂五丁目。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。行元寺の項では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いてあります。
江戸名所はなごよみ 別名は江戸遊覧花暦。岡島きん編著、長谷川雪旦せったん画。文政10年(1827)のガイドブック。春、夏、秋、冬の四部構成(秋と冬は合冊)で、草木花の名所を紹介しました。ここでは「市ヶ谷八幡宮」について「大永年中の兵乱に破壊す」と書かれています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では

重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす
氏康 北条氏康。ほうじょううじやす。後北条氏第3代目当主。
袋町 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はありませんが「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では……

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

牛込城を築城 上の「天文の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといへり」で、天文は1532年から1555年まで。
勝行 「寛政重修諸家譜」では

勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲

5 牛込城の廃城とその後
(1)牛込城の廃城

 天正18年(1590)7月5日、小田原城は豊臣秀吉の攻厳で落城し、5代100年にわたって関東に君臨した後北条氏は亡んだ。小田原城に先立って、その支城もつぎつぎに攻略され、江戸城も4月22日、徳川家康の臣、戸田忠次に明け渡された。
牛込家文書』に、天正18年牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城をその頃廃城したと思われる。
 この宛名が武蔵国えはらの都えとの内うしこめ七村とあるので、当時は荏原郡に所属していたことがわかる。なお、近世は豊島郡に所属していた。
(2)牛込氏、徳川氏への帰順
 遠山氏をはじめ江戸衆は解体し、その多くは投降した。牛込氏も家康に降伏し恭順の意を表した。伝承によれば家康江戸城へ入城にあたり、牛込村民は川崎まで出迎えたという。
 おそらく牛込氏が先頭になって村々の代表を連れて、出迎えたと思われる。大胡氏が上州から牛込に入って約100年で牛込城は亡んだ。天正18年8月徳川家康は江戸城に入城し(江戸打ち入り)、地方武士の所領を安堵し、治安を図った。牛込氏もいち早く家康に従い、天正19年(1591)、牛込勝重は家康にお目見えを許され、1,100石取りの家人(旗本)となった。

攻厳 こうげん。厳しく攻める。
戸田忠次 とだただつぐ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸田忠次の配した内通者の働きで江戸城は落城
禁制の写し 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したもの。
荏原郡 えばらぐん。品川区、目黒区、大田区、世田谷区の一部、川崎市川崎区など。近世までは千代田区、港区の一部を含む
豊島郡 千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、墨田区の南部分、練馬区の大部分。
遠山氏 遠山直景。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤めた。
江戸衆 支城には衆と呼ばれる家臣団が配されました。北条家臣団は、小田原衆を筆頭に14の衆から成ります。江戸城には「江戸衆」が属しました。
牛込村民は川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城に入城し、牛込七ヵ村の住民は武蔵国川崎村までお迎えに出向いたと「牛込町方書上」。

牛込町方書上 肴町

約100年で牛込城は亡んだ 以下に説明しています。
安堵 封建時代に、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。

 牛込城は「天文(1532ー1555)の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといえり」(江戸名所図会)から、築城日は遅くても1532ー1555年。廃城は「天正18年(1590)牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城もその頃廃城した」(上記)から1590年ごろ。築城から廃城する期間を約100年だと考えてみると、築城日は1490年ごろになる。
 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方があり、1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 「牛込氏文書 上」によれば、大永6年(1526)、牛込氏が牛込郷を領有しています。しかし、牛込城ができたのかどうかは、不明です。芳賀善次郎氏のように牛込の宗参寺の所に牧場経営をしていたとも考えらえます。
 一世代が約20年と考えると、この2つ目の考え方を使う場合、1510〜20年に牛込城をつくり、移住したと考えられます。濠がすでに相当あり、丘城だったので、あっという間に城ができたでしょう。
 実際には約100年の期間は長すぎるでしょう。最短時期は35年間ですが、これは短すぎる期間です。

ツルと牧場の語源|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)の「牛込の祖、大胡氏について」3「移住の一考察」です。ここでは「ツル」の語源と牧場に関係する語彙について扱います。

 赤城山南麓は古代から馬牧の地で、大胡氏も馬に関係があったに違いない。移住は管領命令だとすると、それは領地替えである。そして、最初の移住地が弁天町であれば、直ぐ近くに牛込地域の牧場地である鶴巻町があった。鶴巻町の町名由来は、「鶴の放し飼い云々」と、いう説があるが、後世の俗説である。「ツルマキ」の本義は世田谷区の弦巻等も同様で、その語源は、古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾(ツルマセル)させる専用の牧場名称で、けして、同じ牧柵に入れて雑交させたのではなく、計画的に蕃殖を行っていた(一瀬幸三大宝律令・厩牧令より)。
 薬王寺を源泉とする加仁川柳町の谷を経て北流し、馬場下を流れていた金川との間、鶴巻町あたりが地形的にも、牧場になる。附近にくぬぎ(山吹町、中里町)、こめ(牧場地)、そりまち(牧場後の未耕地)、駒とめ橋(神田川)など、牧場と関係深い地名がある。
 この牧場を大胡氏は南の高台、弁天町居館を構え、牧場管理をしていたのであろう。
 正平21年(1366)に上野と信濃の国境いあき郷(軽井沢地方)という牧場地帯から、吉良治家が管領上杉氏の命で世田谷郷上馬引沢、下馬引沢(上馬、下馬)、弦巻へ領地替えをしている(遠藤周作著『埋れた古城』、荻野三七彦編『吉良氏の研究』)。
 当時の馬は、最も重要な兵器であった。上記二氏を南武蔵に招いた管領上杉氏は、ときの推移を考え、軍馬養成に関する遠謀があったのではなかろうか。
赤城山 赤城山は群馬県のほぼ中央に位置する二重式火山で、中央にカルデラ湖、周囲を1200〜1800mの峰々、その外側には高原台地。
大胡氏 鎌倉時代から室町時代にかけて上野国赤城山南麓で勢力を持った武士の一族。一族の大胡重行が後北条氏の北条氏康の招きを受け、大胡城から武蔵国牛込に移住した。
鶴の放し飼い 東京名所図会(四谷区・牛込区之部)では
 新編武蔵風土記稿に云、元禄の頃、小石川村の田圃中を鶴を放ち飼せられしことあり、其鶴常に小石川と早稲田の二所におりし由、其頃当村にも鶴番人ありしこと或書に見ゆ、鶴巻の名は恐らく是より起りしならむ。
交尾(ツルマセル) 「ツルマセル」の意味は私はわかりませんでした。
 一般に「つる」「鶴」には数種の由来があり得ます。第1番目は鶴の飛来地で「早稲田鶴巻町は、元禄の頃、小石川村の田圃で鶴の放ち飼いをしていて、早稲田村にも鶴番人を置いた」(新編武蔵風土記稿
 2番目は水流で「(ツルは)実は『水流』に由来している。『ツル』という所は、川が鶴の首のように細長く流れている場所を指している。言い換えれば川が増水すればすぐ洪水に見舞われる湿地帯を意味しているという。(中略)ここを流れていた蟹川が「ツル」のようであったことに由来するとも言われる」(「川」や「沼」がなくても安心できない。プレジデントオンライン)「(ツルは)盆地の上下をくくるところの急湍きゅうたんの地」(柳田国男「地名の研究」)。なお、急湍とは流れのはやい浅瀬の意味。「古代人は『水路のある平地』をさしてツルと呼んでいたようです」(第23話 地名の話 秦野市鶴巻について
 3番目は「荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、『つるまき』は『曠野ツルまき』という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである」(日本地名学研究
 さらに4番目は「古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾させる専用の牧場」(上記)。
蕃殖 はんしょく。繁殖。動物・植物がどんどん新しく生まれ出てふえていくこと
『大宝律令・厩牧令』 国立図書館ではこの文書は不明でした。もくりょうは大宝元年(701)に牛馬の飼養、駅馬、伝馬などを規定した法令。これ以降、東北や関東を中心に馬牧が増えていきます。
加仁川 加二川。水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する。下図では「市谷柳町の支流」。
金川 下図では「蟹川」。水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。

江沢隆志「地形を楽しむ東京『暗渠』散歩」(洋泉社、2012)。市谷柳町の支流が加二川に

椚田 椚は神木のクヌギの木から。椚元は早稲田鶴巻町東部の大字おおあざ名。山吹町の旧あざ名。大字は江戸時代「村」を継承した地域名称で、字は大字より小さい集落の地名。大字、字、小字の3つがあり、これを市区町村の後、番地の前につく。東京名所図会(四谷区・牛込区之部)は早稲田の小名として「くぬぎもと 段町 金田 向田 石井後 籠 鶴卷」をあげる。
籠田 放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所。新編武蔵風土記は中里町の小名として「椚元 ソリ町 殿ノ下 山下 道上 道下 谷ノ中 籠田 金田」をあげる。
反町 中里町の字名。ソリ町。早稲田鶴巻町の東南部。「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」(柳田国男
駒とめ橋 馬が先には行けないという意味
牧場と関係深い地名 新宿区教育委員会編「新宿区町名誌:地名の由来と変遷」(東京都新宿区教育委員会、1976)の「牛込北部(旧牛込村北部低地)」では……
 早稲田鶴巻町の北、文京区の神田川に駒塚橋がある。昔は丸太橋で、駒留橋といった。放牧された馬は、ここまで来ても先に行けないので名づけたというが、この橋名もここの牧場に関係あるのであろう。早稲田通り八幡坂下の蟹川を渡る橋も駒留橋(今なし)といった。ここの牧場は、古代牛込にあったと思われる神崎牛牧と関係あるかどうかは不明である。
 この地の、江戸時代の字名に、段田とこめがあった。この字名も、牧場に関係ありそうである。段田の段は、広さを表わす語ではなく、反町(そりまち)と同じものと思われる。隣の中里町の宇名に、「ソリ町」のあることでも分かろう。ソリとは、草里・楚里とも書く地名用語で、反田・曲畑(そりはた)・曾利・反目などの地名として、特に関東以北にこの種の地名が多い。
 ソリは、焼畑関係の語で、休耕している意味といわれるが、柳田国男は「地名の研究」で、「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」としている。マチは区別の意味で、市店の意味ではないから、ソリマチとは何にも使われていない土地ということであろう。そこで、前述の鶴巻と合わせて考察すると、はじめ牧場だったが、その後放任されている土地ということではなかろうか。なお、その場所は次の籠といっしょに考える。
 こめは、その読み方はもちろん、場所も由来も不明である。しかし、隣の中里町の宇名に、こめがあったので、この籠も籠田と同じ意味であろう。つまり、鶴巻の牧場と関係があり、馬を集める(おし込める)所の名残りで、放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所ではなかろうか。そこで、山吹町の宇名のソリ町・籠田とともに考察すると、ソリ田・段田は榎町に近い早稲田鶴巻町の東南部、籠と籠田は弁天町に近い地域と推定される。
 そのほか、早稲田鶴巻町東部中央の大字名にくぬぎもとがあった。同町185番地は、椚元の小字椚元で、明治初期は中里村の飛地だった。そこは、赤城元町の赤城神社の旧地で小祠があり、そこには神木のクヌギの木があったので、この地一帯の字名となった。この地名も、隣の山吹町の旧字名にあるから、その方まで広がっていた古い字名と思われる。
居館 弁天町の宗参寺の周辺に居館を構えたと新宿区郷土研究会は考えているようですが、支持する文献も反論する文献もありません。
遠藤周作 えんどうしゅうさく。小説家。芥川賞は「白い人」で。キリスト教の「海と毒薬」「沈黙」、ユーモア小説「狐狸庵先生」など。生年は大正12年3月27日。没年は平成8年9月29日。73歳。
埋れた古城 古城巡り12篇を収める。世田谷城、高天神城、清洲城、備中・高松城、箕輪城、日之枝城、小浜城など。
荻野三七彦 オギノミナヒコ。古文書学者。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。早稲田大学教授。生年は明治37年3月18日。没年は平成4年8月12日。88歳。
吉良氏の研究 1975年、関東武士研究叢書第4巻(名著出版)として刊行。

牛込御門橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋 生きている江戸の歴史」(昭和52年、新人物往来社)の「牛込御門橋」です。

 牛込御門橋(うしごめごもんばし) 千代田区富士見二丁目から新宿区神楽坂一丁目に架された外濠の廓門橋で、府内備考には「牛込御門 正保御国絵図には牛込口と記す。蜂須賀系譜に、阿波守忠英寛永13年命をうけ、牛込御門石垣升形を造る」とあり、「この時建てられしならん。新見某が随筆に、昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂やり、須田久左衛門のならびの屋蚊を番町方といい、牛込方は小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築五右衛門などの並びを牛込方という。その間道はば百間にあまりしゆえ、牛込と番町の間ことの外広く、草茂りしとなり。その後牛込、市谷の御門は出来たり。」とある。この外濠は牛込見附の南側までは赤坂溜池の水をみちびき、北側は飯田橋の方から江戸川の流れをみちびいたので、この見附門の両側は水位に高低があったが、現在でもよく見るとその様子がわかるのである。牛込御門にかかる橋は土橋で廓門当時の石組の跡は千代田区側の橋畔にわずかに残っている。警備については、万治2年(1659)に旗本寄合の渡辺清綱、高力正房の両名が任命され、正徳3年(1713)にいたり万石以下三千石以上の寄合担当と定まり、また小日向通音羽町辺の出火の節は、方角火消詰所を御門内に設ける例となっていた。明治5年に渡櫓の払下げ撤去が行われ、門構えだけが残されたが、それも同35年に取払われた。現橋は鉄筋コンクリート桁長35.61メートル、幅11メートル。
  牛込の見附のやなぎ雨ふるに似たるしづれもよしと歌えり
               金子薫幽
  送りゆく牛込見附の青あらしが夏服を吹きてすずしも
               同  前
  ざわめける夜の神楽坂を下り来て見らくとうとき見附の桜
               岡山 巌
廓門 郭門。かくもん。城の外郭の門。外囲いの門
府内備考 三島政行編『御府内備考』第1(巻1至24)(大日本地誌大系刊行会、大正3年、国立国会図書館デジタルコレクション)の牛込御門では…
     牛込御門
【正保御国絵図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英 寛永13年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が随筆】に昔に牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血須・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といい、牛込方は小栗半左衛門・間宮七郎兵衛・都築又右衛門などの並びを牛込方という。其間道はば百間にあまりしゆえ、牛込と番町の間ことの外広く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。

牛込見附址(「麹町区史」から)

正保御国絵図 しょうほうくにえず。江戸幕府が、諸大名に命じて国単位で作らせた国絵図。明治6年、皇城火災により消失。
蜂須賀 蜂須賀正勝が羽柴秀吉に仕えて大名となり、1585年に阿波国徳島を与えられその領地に入る。江戸時代にも徳島藩25万石の藩主を世襲し、維新後には華族の侯爵家に列した。
阿波守忠英 阿波徳島藩の第2代藩主。

徳島藩は阿波と淡路両国を領した大藩

寛永13年 1636年
升形 枡形。ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
新見 新見正朝氏の書いた「八十翁疇昔話」(天保8年=1837年)でしょうか。

むかしは牛込の堀無之。四番町、長坂血鑓、須田久左衛門抔の屋敷並び、番町方といひ、牛込方は、小栗半右衛門、間宮七郎兵衛、都築又右衛門抔の並び、牛込方と申す。其間の道巾、百間余有之、草茂り、毎度辻切有之、其後、丸茂五郎兵衛、中根九郎兵衛などと申す小十人衆に、小栗、間宮が前にて、屋敷被之、鈴木二郎右衛門、松原所左衛門、小林善太夫抔へ通り、一谷田町まで取付くゆゑ、七十四間の道巾に成る。其後、牛込御門、一谷御門出来るなり。

番町方 牛込方 牛込門の建築以前を参照。
百間 1間が1.81mで、百間は181m。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


橋畔 きょうはん。橋のほとり。橋のたもと。橋頭
赤坂溜池 用水を溜めておく人工の池。

景山致恭ら編『〔江戸切絵図〕赤坂絵図』(尾張屋清七、1849−1862) 国立国会図書館デジタルコレクション。

水位に高低があった

見附の水位が違う

警備について 昭和10年の「麹町区史」では……

 警備に就ては万治二年(1659)の昔、8月26日と言うに発表された外郭門衛の制に、寄合渡辺半三郎清綱、同高力左京正房の下に侍2人足軽仲間各5人を附け、棒5本 サスマタ1本 ツクボウ1本 長柄5本を備えて守らせたのをはじめとし、正徳3年(1713年)4月には、大体に於て外郭門は万石未満三千石以上の寄合担当と決定し、後年には鉄砲5挺 弓3張 長柄5筋 持筒2挺 持弓1組を備えて、万石以下三千石高勤番3ヶ年間、番士3人を置いて羽織袴を着用せしめた。小日向通音羽町辺出火の節は、方角火消詰所を門内に設ける例であった。

方角火消 正徳2年(1712)に制度化。江戸城を中心に5区に分けて担当の大名を決め、その方角に火災が発生すれば出動した。
渡櫓の払下げ撤去 渡櫓(わたりやぐら)とは、左右の石垣の上に渡して建てられた櫓。昭和10年の「麹町区史」では……
 明治5年(1872)4月15日に牛込門渡櫓の払下げが発表になり、24日迄に辰之口なる土木寮出張所へ希望者の申出を布令した。かくて8月23日から着手し9月6日に終了した。撤却は同35年である。

しずれ しずること。木の枝などに積もった雪が落ちること。また、その雪。しずれ
青あらし あおあらし。青嵐。初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風。せいらん
ざわめける ざわめく。ざわざわと騒がしいようすになる。
とうとき とうとい。尊い。貴い。崇高で近寄りがたい。神聖である。高貴である

大胡城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編の「日本城郭全集 第3(千葉・群馬・茨城編)」(人物往来社、1967)では……

 おお城は、赤城山南麓諸城の盟主である。
 南北に続く丘の長さ750メートルを数線の堀切りで断ち、七郭を並列した並郭式の城である。北端の近戸神社の曲輪出丸と推定されるが、初期の大胡城はこの一部だけだったのではあるまいか。北の堀切りを通る搦手虎口は、東側に横矢が構えてある。近戸曲輪の旧追手虎口は東南部にあり、坂虎口になっている。ここと越中屋敷曲輪との間の低地は、人工による堀切りではない。

赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
盟主 同盟の主宰者。仲間のうちで中心となる人物や国。この場合は城
堀切り ほりきり。地面を掘って切り通した水路。
七郭 ななかく。「郭」は外まわりをかこんだ土壁。すべて物の外まわり。一区域をなす地域

並郭式

並郭式 本丸(城の中心部のくるわ)と二の丸(本丸を補助する)が並行に存在し、そのまわりを三の丸(二の丸を守る郭。重臣の屋敷、馬を飼育する場所、城主のための厠など)が取り囲む。
曲輪 くるわ。郭とも。堀切や切岸などの防御施設に守られた城館の削平地。建物が建ち、生活や政治、防戦が行われた空間。
出丸 でまる。城から張り出した形に築かれた小城。
搦手 からめて。城の裏門。
虎口 こぐち。郭の入り口
横矢 敵の側面から矢を射ること。城の出塀だしべい(城郭の塀の一部を外部に突き出させたもの)の側面につくられた矢を射る所
追手 おうて。城の正門。表門。大手。
越中屋敷曲輪 下図「大胡城」の「越中曲輪」に相当する。

大胡城。「日本城郭全集 第3」(1967)から

 本丸は中央東寄りの最高所に据えられ、土塁をめぐらし、中仕切土居があった。二の丸は本丸西半に囲い付となり、東南部に枡形虎口の跡と思われる所が二ヵ所残っている。越中屋敷には東面に坂虎口が開き、西南下に王蔵院の曲輪があって搦手虎口跡が認められる。二の丸の南には三の丸南曲輪が並び、南曲輪と最南端秋葉曲輪との間の堀切りは追手虎口で東に枡形を備え、城下町に通じていた。
 西側下の南半には西曲輪がつき、東側下根小屋方面には稲荷曲輪などの四郭が構えられて、その東の荒砥川との間を埋めていた。
本丸 ほんまる。城郭で中心部をなす曲輪。天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が起居する。(本丸御殿)
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
中仕切り なかじきり。一つの室や器物の中を区切って分ける仕切り。
土居 どい。城郭や屋敷地の周囲に防御のため築いた盛土。土塁とほとんど同じ意味だが、近世までは土居の語を用いた。
二の丸 にのまる。本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護する。城主の親戚や主な家来などが居住
囲い付  周囲を取り巻くもの。まわりをふさいで囲むもの。
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
王蔵院の曲輪 王蔵院曲輪。本丸の西に見られる。(下図参照)
三の丸 二の丸を囲む外郭の部分。家臣の屋敷など。
南曲輪 現在の呼び名は「四ノ曲輪」
荒砥川 あらとがわ。群馬県を流れる利根川水系の河川。源流は赤城山南麓で、前橋市をほぼ南北に流れ、伊勢崎市と前橋市の境界で広瀬川に合流する。

大胡城跡。群馬県勢多郡大胡町教育委員会「群馬県指定史跡大胡城跡 本丸北大堀切り跡遺」2001

牛込氏についての一考察|⑨むすび

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑨「むすび」です。

 関東が家康の領となると、牛込氏は徳川氏の家臣となったというが、牛込落城後いかなる経違で徳川家臣となったかも不明である。徳川氏は、関東の地方武士をそのまま安堵させる方法をとったのであるから、あるいはそのまま牛込城に留まり、前の「牛込城の城下町」の項で述べたように、家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えたというが、この住民引率責任者には牛込氏があたったのではあるまいかとも考えられる。
 牛込氏は、北条氏時代にいかなる活動をしたかは不詳だが、一地方武士が氏綱から重要視されたのは、北条氏の東国経営がまだ不安定だったので、このような武士も味方に入れておかねばならなかったのではあるまいか。
徳川氏の家臣 「寛政重脩諸家譜」では
勝重かつしげ
   彦次郎 三右衛門 号道哲
 北條氏直につかへ、北條家没落の後、天正19年めされて東照宮にまみえたてまつり、御家人に列し、のち肥前国名護屋及び関原等の役に従ひたてまつる。元和元年 今の易譜3年7月21日死す。年66。法名宗隆。妻は遠山丹波守某が女。

註:天正19年 1591年。豊臣秀吉が天下統一を完成。
東照宮 徳川家康のこと。
御家人 ごけにん。鎌倉幕府から土地の所有を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命をかけて戦う、いわゆる「御恩と奉公」の契約を結んだ武士
肥前国名護屋 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた肥前国(佐賀県)の城
関原等の役 関ケ原の役。せきがはらのえき。せきがはらのいくさ。「役」は戦争の意味。「天下分け目の戦い」になった。慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した。
元和元年 げんな。1615年。3月15日「大坂夏の陣」で豊臣氏は滅亡。

安堵させる 「安堵」は封建時代では、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。
家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりましたが、武蔵国の川崎村というところまで牛込七ヵ村の住民はお迎えに出向いたといいます。
氏綱 北条氏綱。ほうじょううじつな。戦国時代の武将。戦国大名。後北条氏第2代当主。

牛込氏についての一考察|⑧牛込氏と行元寺

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑧「牛込氏と行元寺」です。

 牛込氏のあった袋町の北方、神楽坂五丁目に前述の行元寺があった。『江戸名所図会』によれば、相当な大寺で総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。またその門の両側に南天の木があったので南天寺と呼ばれていたという。
 源頼朝石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣営を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたという(『御府内備考』続編、天台宗の部、行元寺)。
 頼朝が江戸入りほをしてから鎌倉まで、どのようなコースを通ったかはまだ解明されない。現在、新宿区内随一の古大寺だったこの寺に、このような頼朝立ち寄り伝説があることは、一笑することなく大切に残しておきたい話である。
 また太田道灌が江戸城を築いた時は、当寺を祈願寺にしたという(『続御府内備考』)。
行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。場所は下の通り。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

牛込氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国おおを領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
相当な大寺で…… 行元寺を参照。
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府初代将軍。治承4年(1180)挙兵したが、石橋山の戦に敗れ、安房あわにのがれた。間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権の基礎を樹立。建久3年(1192)征夷大将軍。
武蔵 武蔵国。武州。現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む。
千手観世音 観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿
石橋山 頼朝は300余騎を従えて、鎌倉に向かったが、途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれて、10倍を越える平氏の軍勢に頼朝方は破れ、箱根山中から、真鶴から海路で千葉県安房に逃れた。
『御府内備考』続編 「御府内備考」の続編として寺社の沿革をまとめたもの。文政12年(1829)成立。147冊、附録1冊、別に総目録2冊。第35冊に行元寺。
頼朝えりかけの尊像 東京都社寺備考 寺院部 (天台宗之部)では
略縁起云、抑千手の尊像は、恵心僧那の作なり。往古右大将朝頼石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給ふ折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きしと霊夢を蒙り給ひしより、東八ヶ国の諸待頼朝の幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。依之俗にゑりかみの尊像といふとかや 江戸志
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
当寺を祈願寺 祈願寺とは祈願のために建立した社寺で、天皇、将軍、大名などが建立したものが多い。『御府内備考』続編は東京都公文書でコピー可能です。また、これは島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じです。「中頃太田備中守入道道灌はしめて江戸城を築きし時、当寺を祈願所となすへしとて」

御府内備考続編

 以上のようなことは、単に当寺が古刹の如く見せるために作ったものであると片づけることなく、もう一度見直してみたい。この行元寺は、前述の兵庫町の人たちの菩提寺であったろうし、最初でも述べたように古くから赤城神社の別当寺にもなっていたのであるから、大胡氏の特別の保護下にあったものと思われる。太田道灌時のように、牛込氏の祈願寺だったことはもちろんであるが、宗参寺建立以前の菩提寺だったのではあるまいか。
 天正18年(1590)7月5日、小田原は落城したが、秀吉が牛込の村々に出した禁制には18年4月とある(『牛込文書』)から、そのころすでに牛込城は落城していたのであろぅ。
 一方、小田原の落城時、北条氏直(氏政の子で家康の女婿、助命されて高野山に追放)の「北の方」が行元寺に逃亡してきたのである。寺はこの時に応接した人の不慮の失火で焼失したということである(『続御府内備考』)。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像されよう。
古刹 こさつ。由緒ある古い寺。古寺。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
別当寺 べっとうじ。神社に付属して置かれた寺院。明治元年(1868)の神仏分離で終わった。
秀吉が牛込の村々に出した禁制 天正18年4月、豊臣秀吉禁制写です。矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)では「豊臣秀吉より『武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村』に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない」
牛込文書 室町時代の古文書から、戦国時代江戸幕府までの古文書で21通。直系の子孫である武蔵市の牛込家が所蔵している。
北条氏直 ほうじょううじなお。戦国時代の武将。後北条氏第5代。徳川家康と対立したが和睦。1583年8月家康の娘督姫と結婚して家康と同盟を結ぶ。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、降伏して高野山に追放し、後北条氏は滅亡。
北の方 大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
続御府内備考 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで「天正年中に小田原北條没落の時、氏直の北の方当寺に来らる 按するに当寺の前地蔵坂の上に牛込宮内少輔勝行の城ありしと此人 北條の家人なれはそれらをたより氏直の北の方こゝに来りしにや 時に饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」

御府内備考続編

牛込氏についての一考察|⑦牛込城の城下町

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑦「牛込城の城下町」です。

 袋町高台の西北方一帯の神楽坂四五丁目は、もとさかなといった。ここは家康入国前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった(『御府内備考』)。江戸初期牛込に七カ村あったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落で、特に肴町は牛込城の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて西に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。前述したが、ここから戸塚まで古道がある。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀のまだなかった西谷間には市谷本村町から流れてくる川があり、飯田橋あたりの大沼という沼に流れていた。一方今の神田川も、大曲あたりの白鳥沼から大沼に流れ込んでいた。川は大沼から九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。
肴町 神楽坂5丁目を「肴町」と呼びました。神楽坂4丁目は「かみみや町」でした。
兵庫町 「兵庫」は「つわものぐら」「へいこ」「ひょうご」と読み、兵器を納めておく倉。兵器庫。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 肴町については
町方起立之儀は年古義にて書物無之相分不申候得共 往古武州豊島郡野方領牛込村之内有之候処 其後町屋相成御入用之砌 牛込七箇村之者とも武州川崎村ト申処迄御迎ニ罷在候由申伝候 其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候処 大猷院様御代御成ニ期度ニ御肴奉献上候之向後 肴町と相改候様 酒井讃岐守様モ仰渡候ニ付 夫より町名肴町と相唱申候

七カ村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。

戸塚地域

戸塚 戸塚地域。新宿区の中央北部に位置し高低差のある複雑な地形。江戸時代には主に農村で、明治時代になると、東京専門学校(現:早稲田大学)が開校し、学生や文化人の集まる、活気あふれる町に。
大沼 小石川大沼です。下図では水道橋の下に池が書かれています。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町6。神田川が急に曲がっている場所
白鳥池 白鳥池は小石川大沼の上流の池でした。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色を改変)

上平川 上流の上平川(九段下、神田橋)から下流の下平川(常盤橋、日本橋)に流れて、江戸湾に注いでいた。
常盤橋 日本橋川に架かり、公園から日本銀行側に通じる橋

 太田道灌のころは、この平川の常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町として賑ったものである。牛込城時代にも、この川をさかのぼって大沼まで舟が来たのであろう。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人もいたので兵庫町となっていたのではなかろうか。
 家康の江戸入城時、牛込七カ村の住民は川崎まで出迎えに行ったのである。三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに、町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである(『御府内備考』)。
太田道灌 室町中期の武将。扇谷上杉定正の執事。江戸築城は康正2年(1456)に開始、翌年4月に完成したという。兵法、学芸に秀で、和歌歌人だった。
高橋 千代田区の「常盤橋門跡の概要」では
 中世の常盤橋周辺は江戸前島の東岸にあたり、 のちの江戸と浅草を結ぶ街道(鎌倉往還下道)の要衝であったとされている。(中略)文明8年(1476)の「寄代江戸城静勝軒詩序」(簫庵竜統著)には、城東畔の河(平川)の「高橋」に漁船が出入りし、賑わいを見せていたことが記されている。 常盤橋と呼ばれる前は「高橋」、あるいは「大橋」(『事蹟合考』)と称されていたと考えられ、平川の河口に位置したこの地域(平川村)は、 江戸城からほど近い港として重要な位置を占めていたとされる」
家康の江戸入城 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました
川崎まで出迎え 「御府内備考」を意訳すると「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」
肴町 同じく「徳川家光様は御治世の外出の際では魚を何回も差し上げたところ、今後は肴町と改名しろといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」

牛込氏についての一考察|⑥牛込城築城

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑥「大胡氏の牛込城築城」です。

  6 大胡氏の牛込城築城
 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は江戸城主扇谷朝興と戦い、江戸城を攻略して遠山直景城代とした。この時前述の神楽坂にあった行元寺破壊された(『江戸名所図会』)というから、牛込はその時戦場になったものと思われる。
 この動乱の時、大胡重行弁天町から袋町の高台に牛込城を築いて移り、氏綱から認められるようになったものであろう。『新宿区史』には「牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う」といっている。『牛込文書』によれば、すでに大永6年には日比谷に警備のため陣夫を出している。
北条氏綱 ほうじょう うじつな。戦国時代の武将。小田原城主。上杉朝興ともおきの江戸城、上杉朝定の松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明・里見義堯を破って関東一帯を制圧。小田原城下の商業発展を図った。
扇谷朝興 戦国時代の武将。上杉朝興ともおき。扇谷上杉氏の当主。北条早雲によって相模を奪われ、大永4年(1524)、その子北条氏綱に武蔵江戸城を奪取された。
遠山直景 戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
破壊された 江戸名所図会では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
牛込氏が… 「新宿区史」は
牛込氏が北条氏と結んだのは、多分(北条)氏綱が大永四年(扇谷家の上杉)朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う。そうでなければ、牛込氏は扇谷家の大きな勢力の近くにあって孤立状態になってしまうからである。北条氏は大永4年朝興を敗って、江戸城をとり、遠山氏をここに置いてから後も、朝興との争いは絶えず、大永6年12月には里見義弘の鎌倉侵入にあたり、氏綱は鶴岡に邀え戦ってこれを破っており、享禄3年6月(1530)には朝興と戦ってこれを破っている。
陣夫 じんぷ。じんぶ。戦争に必要な食糧などの物資を運ぶため領内から徴用した人夫。

 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はない。『江戸名所図会』と『御府内備考』に書かれているだけであるし、城全体の規模も不明である。しかし、伝説によれば、西は南蔵院から船河原町に通じる道、北は大久保通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は光照寺境内南の崖(崖下は空堀)で、舌状半島形をした台地の先端部分である。
 城内の構造も不明だが、大胡氏の居館は光照寺境内で、大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる十字路あたりにあったという。
江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では
牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり
御府内備考 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々
(註:いかさま:1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき)
伝説によれば 新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)の牛込要図が最も詳細にできています。ここで中央の が牛込城跡です。

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(色は当方の追加)

大手門 城の正面。正門。追手おうて

 大胡氏はなぜこの場所を選定したかは不明である。地形上からみれば、この付近で城を築くに格好の場所は、この北方のつく八幡の高台である。そこは戦国時代すでに上杉管領とりでを築いたことがある(『日本城郭全集』)ほどである。
 筑土八幡の高台では、台地突出部が狭少だから広く縄張りする必要があり、規模を大きくすると短期間では築城できなかったこと、当時の古道はだいたい今の早稲田通りだったろうから、主要道を背後にするという不つごうさがあったものと思われる。その上、神楽坂の方には部落も多く、すでに行元寺も建っていたことが引きつける理由になったものであろう。
筑土八幡の高台 上図の牛込要図では右上のC㋬です。
上杉管領 関東管領とは室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉うえすぎ憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
とりで 築土城です。
縄張り 縄を張って境界を決めること。建築予定の敷地に縄を張って、建物の位置を定めること

 大胡重行は、前述のよう天文12年に死去し、弁天町宗参寺に葬られた。重行の子勝行は、北条氏康の重要家臣となり、天文24年(1555)正月6日には、宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏と改めた。これはすでに呼び名となっていたものを公的に認めて貰ったものであろう。そして牛込から赤坂、桜田、日比谷あたりまで領することになった。
 牛込勝行は、弘治元年(1555)9月19日に、牛込御門に移されてあった赤城神社を現在地の赤城元町遷座した。また勝行の子勝重の妻に、江戸城の遠山綱景(直景の子)の娘を迎えたのである(児玉、杉山共著『東京の歴史』)。
牛込勝行 北條氏康につかえ、弘治元年(1555年)姓の大胡氏はやめ、牛込氏に変える。牛込、今井、桜田、日比谷、下総国堀切、千葉等の地を領有した。天正15年(1587年)死亡。年85。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱うじつなの嫡子。永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」を作成。永禄4 年、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築く。
宮内少輔 くないしょうゆう。令制の第二等官である次官すけのうちで下位のもの。従五位。
遷座 神体、仏像などをよそへ移すこと。
遠山綱景 とおやま つなかげ。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。
児玉、杉山共著『東京の歴史』 児玉幸多と杉山博の共著で「東京都の歴史」(山川出版社、1977年)でしょう。その135頁は……
 江戸城代の遠山氏の次代は、丹波守綱景である。かれは隼人佑・藤九郎・甲斐守ともいった。かれは、氏綱・氏康にしたがって、府台うのだい攻撃に参加したり(天文7年)、鶴岡八峰宮の造営に協力したり(天文8~10年)、妙国寺の濁酒醸造の免除を命じたり(天文17年)、六所明神の本地仏の釈迦像を修理したり(天文21年)、浅草の総泉寺や品川の本光寺に禁制をだしたり(天文23年)している。またかれは、連歌師の宗長とも交際があった。また綱景の娘は、江戸の名族の牛込勝重・島津主水・猿渡盛正らのもとに嫁している。
 こうして綱景は、婚姻政策によっても、自家の勢力を江戸とその周辺にのばしていったが、永禄7年正月4日、国府台合戦で戦して戦死した。

註:丹波守綱景 遠山綱景。永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣である遠山直景の子(長男とも)。天文2年(1533年)、父に引き続き江戸城代となる。
国府台攻撃 国府台合戦。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回、下総国国府台(現 千葉県市川市)で房総勢と後北条氏の間に行われた合戦。後北条氏が勝利し、覇権は安泰になった。
天文7年 1538年。
永禄7年 1564年。

牛込氏についての一考察|⑤供養塚
牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 まず芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑤「供養塚」です。

 宗参寺の西南方350メートルほどの、喜久井町14〜20番地には江戸時代に供養塚があり、町名も供養塚町といっていた。
御府内備考』によると、この地は宗参寺の飛地境内で、古くから百姓家があり、奥州街道一里塚として庚申供養塚があったという。『江戸名所図会』の誓閑寺の絵には、その庚申塔と塚が画かれてある。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内として認められていたことは、それだけ宗参寺との特殊な関係が認められていたことで、この塚が奥州街道の一里塚だったのではなく、宗参寺に関係ある塚であったということである。とすれば、それは宗参寺の所に移住してきた大胡氏の牛込初代者を葬った塚だったのではあるまいか。
宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗の寺院。天文13年(1544)、牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため嫡男の牛込勝行が建立。
喜久井町14〜20番 赤線の「喜久井町14〜20番」の方が、実際の供養塚町よりも範囲は大きいようです。緑線で描かれていた場所は供養塚町ではないでしょうか?

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

大久保絵図(1857年、尾張屋)。左は供養塚町、右が宗参寺。

供養塚 大飢饉などの災害で亡くなった人々を供養する塚。「塚」は必ずしも遺骸が含まれず、無生物を含む。
供養塚町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌 : 地名の由来と変遷』(2010)では……

牛込供養塚町 当地一帯は寛永年中(1624-44)に宗参寺の飛地となった。往古より百姓家があったが、次第に家が造られ、町並となった。正徳元年(1711)寺社奉行に永家作を願って認められ、延享2年(1745)町奉行支配となる。町名は、地内に庚申供養塚があったことに由来する(町方書上)。この塚については、古来奥州街道の一里塚であった(町方書上)とか、大胡氏が移住した際の初代の墓や中野長者鈴木九郎の墓とする説(町名誌)、太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を立て傍らに石碑を建てたとする説(寺社備考)などがある。
 明治2年(1869)4月、牛込馬場下横町、牛込誓開寺門前、牛込西方寺門前、牛込来迎寺門前、牛込浄泉寺門前、牛込供養塚町を合併し、牛込喜久井町とする(己巳布)。この地域の旧家で名主の夏目小兵衛の家紋が、井桁の中に菊の花であることから名付けられた。

註:永家作 「家作」は家をつくること、貸家。「永家作」とは不明だが、長く住み続ける家か?
庚申供養塚 庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。


 また、岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)では……

 供養塚町(くようづかまち)
 1857年の安政改板の大久保絵図をみると、宗参寺の西方、馬場下横町の東どなりに牛込供養塚町としてある。南側は往来を距てて感通寺、本松寺、松泉寺、来迎寺、西方寺、誓閑寺などが並んでいる。
 寛永年中(1624~43年)宗参寺の境内4千坪の場所が御用地となって替地を下された時に当地が飛び地になっていた。ここは古くから百姓家があって、おいおいと家作が建って、奥州街道の一里塚として庚申供養塚があった。そのことから牛込供養塚町と唱えた。
 正徳元年(1711年)2月に寺社方へ家作のゆるしを得て、延享2年(1745年)に町方の支配となった。
 町内は、南北35間、東西20間余。(註:64mと37m)
 自身番屋・牛込馬場下横町と組合。
 町の裏に庚申堂がある。
 庚申塚・町の裏にあって、高さ5尺、幅1間4方〔備考〕

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 供養塚町については……
当町起立之儀 寬永年中宗参寺境內四千坪余之場所御用地に相成 当所え替地被仰付候ニ付 飛地ニ而同寺境內ニ有之候 右地所之内往古より百姓家有之候所 追々家作相増 其後町並ニ相成 往古当所奧州海道之節 一里塚之由ニ而 庚申供養塚有之候ニ付 牛込供養塚町相唱申候 尤宗参寺境内には有之候得共 地頭宗参寺え年貢差出し古券ヲ以譲渡仕来申候……
飛地 江戸時代、大名の城付きの領地に対して遠隔地に分散している領地
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から宇都宮を経て奥州白河へ至る街道。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。

庚申供養塚 こうしんくようづか。庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。庚申の夜に眠ると命が縮まるので、眠らずにいると災難から逃れられる。そこで神酒・神饌を供え、飲食を共にして1夜を明かす風習がある。娯楽を求めて、各地で多く行われた。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
誓閑寺 江戸名所図会では 

鶴山かくざん誓閑せいかん 同じ北に隣る。ぎょういんと号す。浄土宗にして霊巌れいがんに属す。本尊五智如来の像は(各長八尺)開山木食もくじきほん上人しゅうふう誓閑せいかん和尚の作なり。じょう念仏ねんぶつの道場にして清浄無塵の仏域なり。当寺昔は少しの庵室にして、その前に松四株を植えて、方位を定めてほうしょうあんといひけるとぞ。今四五十歩南の方、道を隔てて向らの側に庚申堂あり。これち昔の方松庵の地なり。
稲荷の祠(境内にあり。開山誓閑和尚はすべて仏像を作る事を得て、常にふいをもって種々の細工をなせり。この故に境内に稲荷を勧請し、11月8日には吹革まつりをなせしとなり。今もその余風にて年々としどしその事あり。)
庚申塔と塚 道の反対側に庚申塔と塚、絵図では札「庚申」もあり、赤丸です。

誓閑寺


大胡氏の牛込初代者 そう考える理由はどこにもありません。一つの考え方、想像です。当時の風習は全く知りませんが、豪族だった大胡氏が塚に入るのではなく、せめて墓ぐらいに入らないとおかしいと考えます。

 なお『御府内備考』にあるこの地の奥州街道については、同じように『江戸名所図会』の感通寺の項に「この地は往古鎌倉海道の旧跡なりといへり」とある。また『東京名所図会』(明治37年、東陽堂刊)の牛込矢来町の項に「沓懸くつかけざくら」がある。往時の街道を旅する人が切れた草履を梢にかけて立ち去る者が多かったので名づけられた名木の彼岸桜であった。
 これらを考えると、牛込台地の北端を当時の古道が、神楽坂から矢来町、宗参寺、供養塚と東西に通って戸塚一丁目に向い、そこを南北に通っていた鎌倉街道に合流するのである。この鎌倉街道を通って、戸塚から宗参寺の所に大胡氏は移住してきたのであろう。
感通寺 新宿区喜久井町39にある日蓮宗の寺です。江戸名所図会では……
本妙寺感通寺 (中略)摩利まりてんの像は松樹の下にあり。頼朝卿の勧請にして、頼義朝臣の念持仏といひ伝ふ。この地は往古そのかみの鎌倉海道の旧跡なりといへり。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち
東京名所図会 新撰東京名所図絵。明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。

 供養塚の由来は……

《町方書上》往古ゟ百姓家有之候所、追々家作相増、其後町並相成、往古当所奧州海道之節一里塚之由て庚申供養塚有之候付、牛込供養塚町相唱申候
《新宿区町名誌》大胡氏の牛込移住初代者の墓とする。供養塚町が宗参寺の飛地として所有していたということは、宗参寺に関係深い塚だったということになる。とすれば、群馬県大胡から牛込に移ってきた初代大胡氏を葬った塚であろうと。
《新宿区町名誌》中野長者鈴木九郎の墓とする。「江戸名所図会」に、その問題を提示しているが、「大久保町誌稿」につぎのようにある。「鈴木九郎は牛込供養塚町に住し、生涯優婆うばそく塞(西新宿一丁目参照)を勧行して、遂に永享12年(1440)終歿せり」と(淀橋誌稿)。
 中野長者鈴木九郎は、中野区本郷のじょうがんや西新宿二丁目の熊野神社を建立したといわれる人である。しかし、この塚を鈴木九郎の塚とするのは、あまりにも作為的である。鈴木九郎の伝説は、戸山町内の旧みょう村にもある(戸山町参照)。
《寺社備考=御府内備考続編》文明年中(1469〜87)に太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を建て傍らに石碑を建てた。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972)「牛込地域 75.牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」では……

牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚
      (喜久井町14から20)
 来迎寺から若松町に行く。右手に感通寺がある。その左手一帯は、昔「供養塚町」といった。
 「御府内備考」によると、この地は前に案内した宗参寺の飛地で、境内になっていたという。そしてこのあたりは古くから百姓家があり、鎌倉海道一里塚の庚申供養塚があったといい、「江戸名所図会」の誓閑寺の項に、その鎌倉海道のことと庚申塔や塚の絵が出ている。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内にしていたということは、宗参寺に関係深い塚であったということであろう。とすれば、それは宗参寺でものべたように、大胡氏の初代牛込移住者を葬った塚だったのではあるまいか(60参照)。
 徳川家康の関東入国により、それ以前の土着武士の旧跡・事蹟は消されていったようである。
 牛込氏について不明の点が多いのは、牛込氏が徳川氏に対する遠慮から史料を処分したろうと思われるばかりではなく、為政者も黙殺していったのではなかろうか。宗参寺(60参照)でものべたように、官撰の「御府内備考」では、宗参寺の位置を大胡氏の居住地とすることを否定しているし、袋町の牛込城跡には一言もふれていないのである。
〔参考〕  牛込氏についての一考察
来迎寺 らいこうじ。新宿区喜久井町46の浄土宗の寺院。寛永8年(1631)に建立。
60参照 「新宿の散歩道」の「60」は「牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」でした。

牛込氏についての一考察|④赤城神社の旧地「田島森」

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の④「赤城神社の旧地『田島森』」です。

 宗参寺北方400メートル、早稲田鶴巻町185番地に、大胡氏が赤城山ろくにあった赤城神社をはじめて勧請した旧地「田島森」があり、小さい祠がある。ここにあった神社は、寛正元年(1460)に太田道灌によって牛込御門の所に移され、さらに牛込勝行が弘治元年(1555)9月19日に現在地に遷座したものという(「神社縁起」)。これは境内にあった正安3年5月25日の銘がある板碑が神社に保存されてあった(戦災で消失)ことから想定したものであろうと思う。というのは、正安2年は、まだ大胡氏が上州大胡に居住していたと思われる年代である。

宗参寺 そうさんじ。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)に重行の嫡男牛込勝行が建立。牛込氏や赤穂義士の師・山鹿素行の菩提寺などがある。
早稲田鶴巻町185番地 現在は新宿区早稲田鶴巻町568-13です。
田島森 江戸名所図会では