投稿者「yamamogura」のアーカイブ

寺内公園(360°VRカメラ)

 寺内じない公園は神楽坂通りの北側の石畳の一つです。北側に超高層のマンションができたとき、区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」を開発業者が区に提供しました。

 を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンをつかんで動かすと、360度回ります。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。は案内板の説明で、ここで詳しく出ています。

寺内公園

寺内公園

 この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装で、黄色で書いてあります。もう1つは大きな板を置いた舗装で、南方の木の中にあります。最後はアスファルトで覆った舗装です(淡紫色)。

 点字ブロックは正確には「視覚障害者誘導用ブロック」です。ほかに、車止めポールと街灯、椅子、防災施設などがあります。

神楽小路の池

文学と神楽坂

「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏号(1998年)で、林功幸氏(今はない「巴有吾有」オーナー)は

 昔は、いまのギンレイホールの隣のビルのあるあたりは湿地帯で、きれいな湧水の池があった。

と簡単に書いています。
 平成18年(2006年)『神楽坂まちの手帖』12号「津久戸小学校(昭和31年度、佐藤学級)ミニ同窓会」では

平松 神楽小路に池がありましたよね。
土屋 ありましたね。池の左側が細長い崖みたいになってて。
上田 あの辺り、二、三年生の頃は原っぱでね。
平松 それで真ん中に池があって、よくそこでザリガニ釣ったのを覚えてますよ。
上田 釣りはやりましたね。
平松 あれは、どのくらい広い池でした?
上田 子供の頃は随分大きいような気がしたけどね。あれは佐久間さんのお屋敷(注)にあった池じやないかな。湧き水かなにかで、小川みたいにギンレイホールの方まで流れて行ってて。
平松 飯田壕まで流れてたんですか?
土屋 外堀通りには流れてなかったですね。あそこはもう車が通ってたから。
上田 どうだったかな。五、六年生の頃はもう、神楽小路になってて、トリスバーとか小柳ダンス教室とかあって。
平松 ありましたね、小柳ダンス教室。
上田 俺、大学生の頃にちょっと通ってた(笑)。

注。軽子坂を上がった左手。現在中央ビルになっている所にあったお屋敷

 同じく同書同号の「神楽坂三〇年代地図」には

神楽坂30年代地図

神楽坂30年代地図

 たしかに池はありそうです。では、年代ごとに見ていきましょう。

 最初は、江戸時代です。嘉永5年(1852年)の「当時の形」では桃色の線が将来の「神楽小路」です。でも「神楽小路」はなく、あっても垣根ぐらいでしょう。池もなく、「佐久間さんのお屋敷」には「塩谷大四郎」が住んでいました。

1852年の当時之形

1852年の当時之形。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

 次は昭和12年「火災保険特殊地図」です。昭和初期で、戦前です。将来の「佐久間さんのお屋敷」を見ると、普通の家が並んでいます。この時も、池はありそうではありません。

昭和12年「火災保険特殊地図」

昭和12年「火災保険特殊地図」

 次は昭和27年の「火災保険特殊地図」です。これは戦後で、2丁目の18番地と17番地には何も建っていません。原っぱなのでしょう。これは上の対談者たちが小学校2年生になっていた時期です。この場所で、おそらく低くなった真ん中に、池があったのでしょう。「神楽小路」の名称もこの時期からつくようになりました。

 昭和38年(1963年)の住宅地図になると「佐久間さんのお屋敷」がでてきます。上の対談者たちは19歳になり、当然ながら、池はなくなっています。

 最後に1990年の住宅地図です。まだ「佐久間さんのお屋敷」は残っていますが、その後、2000年以前に中央ビルになりました。

1990住宅地図

1990住宅地図

神楽坂仲通り(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂通りを背後に見て「仲通り」をこれから北に登っていきましょう。

 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、手のアイコンは360度動きます。左上の四角はスクリーン全面に貼る場合です。2番目の写真では解像度を上げたもので、ここをたたくと『環境にやさしい商店街 』などが出てきます。

仲通り標柱

 上を見ると「神楽坂仲通り」と巨大な看板が見えたのですが、2017年にこの看板はなくなり、かわって日本語「神楽坂仲通り」と英語の”KAGURAZAKA CENTRAL St.”がある街灯、その下に『環境にやさしい商店街 東京都政策課題対応型 商店街事業 を利用しています 平成29年 神楽坂仲通り商店会』と変わりました。

現在と過去の仲通り

現在と過去の仲通り

 左に芸者新路がでてきますが、写真ではまだ出てきません。階段が付いているのもまだ見えません。その後は右に入る路地があり、フランス料理が2軒ほど並んでいます。手前で左は「ル・クロ・モンマルトル」、後ろはフレンチカフェレストラン「ル・コキヤージュ」です。後者はそば粉のクレープを出してくれます。

 さらに左に入るかくれんぼ横丁がでてきて、そこからすぐのところに料亭「千月(ちげつ)」があります。写真は「千月」です。

 千月

 さらに赤い屋根のイタリア料理店がでると、おしまいです。

仲通り

 昔は料理店や芸妓屋だけでした。現在はフランス料理、イタリア料理、上海料理、寿司などに変わっています。場所は小さいのにあらゆる料理が出てくる。もうどんな場所にいっても大丈夫。

2013/3/26→2019/8/21

神楽坂の通りと坂に戻る場合は

文学と神楽坂

神楽小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成10(1998)年『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では…

阿久津 スタートして、まず「神楽小路」に向かいましたね。
井上  これは神楽坂としては少し異質じゃないですか。粋というより、戦後のエネルギーを感じるというか。
林   あそこは昔からあまり変わっていない。

 はいろいろな説明。を叩くと地図は奥に進み、図の上で手のアイコンは360度動きます。

 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、震災前の当時、大正11(1922)年頃は「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

 おそらく戦後になってから「神楽小路」と名前が変わります。昭和30年代にはもう神楽小路と呼んだようです。最初は頭上のアーチ看板でしたが、それが標石に変わったのは平成18年です。

 平成18(2006)年、「神楽坂まちの手帖」第13号「独自に生み出した”老舗”の味」では

 2006年3月末、「神楽小路」の名を刻んだ石柱が完成した。「紀の膳」さんの脇の小路に一歩足を踏み入れる時、丸みを帯びたその石柱を無意識に撫でていたとしても不思議はない。つるんと気持ちの良い触感だ。
「さっきね、石柱にもたれて立ってる人がいたんですよ」。そんなことを、殊更嬉しそうに言うのが、ラーメン屋「黒兵衛」店主であり、神楽小路親交会の会長でもある大野雄一さん(50歳)だ。彼の店は、その神楽小路を入ってすぐのところにある。
 もともと頭上にあった神楽小路の名を示す看板が古びて、いよいよ危険になってきた去年、それに変わるものを作ろうと中心となって奔走してきた。(神楽小路)の字体は、平野甲賀さんにお願いしたというこだわりようだ。

平野甲賀 ひらのこうが。ブックデザイナー。1964年から1992年まで晶文社の本の装丁を一手に担ってきた。生年は1938年。

 西村和夫氏の「雑学神楽坂」第7章「神楽坂を上がる」(角川学芸出版、平成22年)では

 紀の善の角を入ると神楽小路である。軽子坂に抜けるこの道は以前「紀の善横町」と呼ばれていたが、いつしか大衆的な飲み屋、中華料理、飲食店が雑然と並び、夜は人通りが多くなり神楽小路と名を変えた。紀の善前に「神楽小路」の石碑が建っている。

 ここに入ってから、「みちくさ横丁」がでてきます。また「東京ワンタン本舗」の看板はギンレイホールの屋上にあります。さらに2018年には新しく石畳と黒塀の横丁もできました。

2018年3月19日→2019年8月16日

かくれんぼ横丁(360°VRカメラ)

 は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』で渡辺功一氏が発言したものの一部です。は私の説明です。また地図は上下左右に360度動き、を叩くと奥に進みます。下の地図は2000年頃。

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

石畳とマンホール

文学と神楽坂

見返り横丁|由来(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

「見返り横丁」は、どうしてこの名前になったのでしょうか?

 もうひとつの「見返し横丁」はわかっています。平成10年(1998年)の雑誌「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で……

井上 さて、それで本多横丁に出て、すでに名前がついている「見返り横丁」。これはいい。で、その先の「鳥静」の脇の横丁も何か名前をつけてあげたい。敷石がゆるやかなS字を描いていて「見返り横丁」よりも長い。そこで『見返し横丁』ではいかが。
林  昔はあそこは抜けられた。道らしい道じゃなかったけど。
註  井上元氏はインタラクション社長
   林功幸氏は「巴有吾有」オーナー

 では、もとに戻って「見返横丁」はいつ、どこで、とんな理由で決まったのでしょうか? 上の1998年には「すでに名前がついている」ということなので、1998年以前からありました。

 まず地図はあるのでしょうか? 1994年の「神楽坂輿地全図」では「本多横丁」は確かに書かれていますが、「見返り横丁」はありません。「かくれんぼ横丁」もありません。また毎年でる「ゼンリン住宅地図 新宿区」、2013~6年の神楽坂通り商店会「神楽坂マップ」、1985年神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』には「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありません。他にも例外が一つある以外を除き、「見返り横丁」「見返し横丁」「かくれんぼ横丁」はありませんでした。

 一つだけが例外で、それは1994年の「神楽坂・楽楽散歩」(編集は神楽坂地区まちづくりの会、編集協力は東京理科大学建築学科沖塩研究室、発行は新宿区都市整備管理課)で、ここには「本多横丁」以外に「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」がでてきます。

 では書籍では? 1997年の「まちづくりキーワード集」(著者と出版は神楽坂地区まちづくりの会)には、「かくれんぼ横丁と「見返り横丁」がでてきます(下図)。一方、渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007)では「かくれんぼ横丁」はありますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はありません。西村和夫氏の「雑学 神楽坂」(角川学芸出版、2010年)ではこの「かくれんぼ横丁」「見返り横丁」「見返し横丁」は全てでていません。

まちづくりキーワード集

まちづくりキーワード集(1997年、神楽坂地区まちづくりの会)

 雑誌は? 「ここは牛込、神楽坂」では「路地・横丁に愛称をつけてしまった」で「名前がついている『見返り横丁』」とでてきます。また、2007年「神楽坂まちの手帖」15号「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」では「かくれんぼ横丁」はでますが、「見返り横丁」「見返し横丁」はでてきていません。

 つまり「見返り横丁」と「かくれんぼ横丁」は、1994年の地図「神楽坂・楽楽散歩」と1997年の本「まちづくりキーワード集」以外にありません。見返り横丁になったのか、その由来もわかりません。

 これからは、まあ、でたらめですが、「神楽坂地区まちづくりの会」などが横丁や坂をまとめることになって、誰かが「これは個人的な(か昔からの)横丁だけど、見返り横丁というものも使っている」といい、ほかの人たちも「へぇー、なるほど」と答え、あっという間に定着したのではないでしょうか。

 この「神楽坂地区まちづくりの会」のメンバーは、山下修、立壁正子、江口素子、上田邦彦、坂本二朗、荘司雅彦、寺田 弘、保坂公人、渡辺行将、渡邊義孝、矢野貞子、山口幸二などの、そうそうな人物で、「かくれんぼ横丁」の名付け親、森川安雄氏もその一員でした。おそらく「かくれんぼ横丁」と同じ頃に、こんな会合で、だれかが「見返り横丁」を推したか、知っているといったのでしょう。

 なお、「見返り横丁」「かくれんぼ横丁」の言葉は、戦前にはなかったと思います。袋小路になってはおらず、普通の通りで、何かで有名にならない限り、名前はつきません。

芸術倶楽部跡と島村抱月終焉の地(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。細かくはここに

文化財愛護シンボルマーク

新宿区指定史跡

芸術げいじゅつ倶楽部くらぶあと島村しまむら抱月ほうげつしゅうえん
         所 在 地 新宿区横寺町9・10・11番地
         指定年月日 平成三年11月6日
 この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.
 抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。
 明治39年(1906)には、坪内つぼうち逍遙しょうようの文芸協会に参加し、西欧せいおう演劇えんげきの移植に努めたが、大正2年(1913)内紛ないふんから同協会を脱会し、芸術座を結成した。
 その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。
 平成28年3月25日
新宿区教育委員会

スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)

島村抱月

島村抱月の終焉

ポールスタンド看板|本多横丁

文学と神楽坂

 本多横丁の串カツなどの店舗「本多鉄〇てつまる横丁」の前に「本多横丁」について書かれたものがあります。

本多横丁について

本多横丁について

      本 多 横 丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が本多家の邸地てあったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、禄高一万五百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したか、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
    昭和60年7月

本多横丁商店会

御府内沿革図書 ごふないえんかくずしょ。江戸の延宝年間から幕末までの地図集。1808年に収集を開始。
本多修理 本多家の三代目の本多修理忠能が神楽坂に移動してきた。元禄五(1692)年以降である。
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。関東大震災ごろから言い始めたようですが、2-3年も立たないうちに新宿が大きくなりました。
旧名復活 本多横丁は昭和24年頃「スズラン横丁」に変更し、昭和27年頃、本多横丁に戻した。

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井誠一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

「実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻した」

石畳とマンホール