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神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考

文学と神楽坂

「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 はい、間違いがあるのです。最初は極めて正しいのですが……

 神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考
 往古の牛込の地域とは、どこからどこまでであったという事は定め難い。
 武蔵の国の、その中の一地域が牛込村で、強いていえば小石川と四谷の間の高陵、もっと縮めていえば江戸川流域に沿った小日向と市ヶ谷台との間の地域が、つまり牛込氏(大胡氏)が砦らしき館を築いた光照寺あるいは行願寺の辺り、つまり牛込御門内外(まだ江戸城の外濠は開さくされない時分から)と神楽坂を中心として早稲田、戸塚辺までが牛込であるといえる。
 小田原北条氏麾下に、大胡氏が牛込氏となって牛込城を築いた神楽坂上が、牛込氏の本拠であった事は確かなる事実といえる。この事は前掲牛込城址の項にと述しておいたので、ここでは重記することになるのであえて記述しない。この牛込について“御府内備考”の総説を摘記しておくと、

武蔵国 むさしのくに。東京都、埼玉県、神奈川県の一部
牛込氏 淵名兼行の孫・重俊が上野国赤城山南面の勢多郡大胡に城を築き、大胡氏と称した。戦国時代、重俊から十代の孫・大胡重行の子勝行にいたって、小田原北条氏三代の氏康に招かれ、江戸牛込に移り住み、以後牛込氏と称した。
開さく おそらく「開鑿」でしょう。土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。
麾下 きか。将軍じきじきの家来。旗本。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、1829年に成稿。ところが、1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。編纂備考の資料集が『御府内備考』として残された。

 これからは国立国会図書館デジタルコレクションの御府内備考を直接使います。ただし、「が」や「ど」などの濁音や、「、」「。」などの句読点は補っています。また≪≫は割注で、本来は一行の中に二段構えで表示する補注です。
 まず牛込の「込」は、「牧」の和字で、牛が「多く集まる」という意味。次は16世紀で、大胡氏を牛込氏に変更したことが書かれています。これも全く正しいのですが……

御府内備考

御府内備考

御府内備考巻ノ五十三
  総説
此所は往古武蔵野の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり。駒込村≪初に出≫馬込村≪荏原郡に馬込村あり≫等の名もしかなりと≪南向茶話≫。さもありしならん。江戸古圖にも牛込村みへたり。中古上野國大胡の住人大胡彦太郎重治といひし人當國にうつり≪年時を詳にせず≫此豊島郡牛込村にすみ小田原の北條に属せり。その子宮内少輔亜行天文十二癸卯年の秋七十八歳にして卒す。その子宮内少輔勝行が時に至り天文廿四乙卯年≪弘治元年なり≫五月六日、北條氏康に告て大胡を改めて牛込氏となれり。此時氏康より判物を賜ひ江戸のり牛込村今井村≪今赤坂にあり≫櫻田村日尾村≪今の日比谷なり≫を領せり≪他国の領地は略せり≫勝行天正十五丁亥年七月廿五日卒すとし八十五歳≪牛込系図≫叉北條分限帳を見るに江戸牛込六十四貫四百三十文の地を大胡某領せしよし載す。
125,000デジタル標高地形図

125,000デジタル標高地形図 http://www.gsi.go.jp/kanto/kanto41001.html

往古 おうこ。おうご。過ぎ去った昔。いにしえ。
武蔵野 武蔵野台地。荒川と多摩川に挟まれた関東平野南西部の洪積台地の通称。
 まき。馬や牛を放し飼うために区画された地域。
南向茶話 国立国会図書館デジタルコレクション「戯作六家撰」を引くと、 岩本佐七「燕石十種」(国書刊行会、明治40年、国立国会図書館オンライン)が出てきます。この354コマのうち254コマに「南向茶話」がでていて、「牛込之名目は風土記に相見え不申候へども舊き名と被存候凡て當国は往古嚝野の地なれば駒込馬込(目黒邊)何れも牧の名にて込は和字にて多く集る意なり」と書いてあります。
上野国 現在の群馬県。
大胡彦太郎重治 新宿区赤城元町にある赤城神社については、鎌倉時代の上野国(群馬県)赤城山麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、正安2年(1300年)、牛込早稲田田島村に赤城神社の分霊を祀ったといいます。
宮内少輔 くないしょうゆう。従五位下の官位。長官1人、大輔1人、少輔1人。宮廷の修繕、食事、掃除、医療など庶務を務めた。
天文十二癸卯年 1543年
卒す しゅっす。死ぬ。特に皇親や四位・五位の人の死で。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代相模国の戦国大名。1515~71年。
北条分限帳 相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の役高を記した分限帳。

「牛込方」の一部は麹町にはいっているのではと、磯部鎮雄氏は指摘します。しかし、そうではなく、単に神楽坂一丁目と二丁目の発展を描いているだけです。個人の名前が出ていますが、全員、神楽坂の南に出ている名前です。

新見隨筆に云、昔は牛込の御堀もあらで、四番町にて長坂血槍、須田久左衛門なとの並びの屋敷をさして番町方といひ、牛込かたは小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門などのならびを牛込といへり[1]。その間の道幅百間に餘りし故。牛込かたと四番町の間、ことの外廣く草茂りて夜ことに辻切など云ことあり[2]、その後丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛などいへる小十人をつとめし人、小栗、間宮を屋鋪の前の方に居宅を給ひ、鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門などおしならびて市が谷の田町へつゞきし故、道幅もおのづとせばまり七十四間といふになれり。そのころ牛込の御門もいできしなり。
地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

小栗半左衛門、間宮七郎兵衛、都筑叉右衛門 名は違いますが、姓は同じものが、右図で青色で描いた居宅にあります。
[1] 磯部鎮雄氏は「註 今千代田区富士見町1丁目、日本歯科大あたりか? この辺も牛込のうちに入るらしい」と書いていますが、残念ながら、入ることはありません。
百間 1間が1.81mで、百間は181mです。
辻切 ➀ みちり。村の入り口で行われる民俗習慣のひとつ。注連縄しめなわを張ったり、大草鞋わらじを掛けたりして、悪霊や悪疫の侵入を防ぐ。➁ 辻斬。つじぎり。武士などが街中などで通行人を刀で斬りつける事。
[2] 同じく磯部鎮雄氏は「註 このあたり切図の番町図をみると御用地で広く、里俗蛙ヶ原(かわずがはら)という所で,左手に牛込御門がある。この御門内も牛込の内であったのであろう」
丸毛五郎兵衛、中根九郎兵衛 右図で水色で描いた居宅でしょう。
小十人 こじゅうにん。江戸幕府の職名で、将軍出行の際に先駆として供奉した足軽の組。
鈴木次右衛門、松平所左衛門、小林吉左衛門 右図で緑色で描いた居宅
七十四間 135.42mです。どこからどこまで測ったのか不明ですが、神楽坂下のスターバックスから麹町警察署飯田橋前交番までの距離でも正しいと思います。
牛込御門 寛永16年(1639年)に建築しました。

糞尿の話|金子光晴

文学と神楽坂

金子光晴

 安岡章太郎編の短編集『滑稽糞尿譚』(文春文庫、1995年)のうち、金子光晴氏の「糞尿の話」です。これは新宿区立図書館にはないと思って、古本を買いました。しかし、『滑稽糞尿譚』のもとは単行本で、講談社の『ウィタ・フンニョアリス』(1980年)です。これは図書館にありました。「糞尿の話」はいわば「選集」なので、元の文章はどこかにあるはずなのですが、2冊とも説明はなく、原典は不明です。

 なお、この挿話の時代は、関東大震災が起こる以前だと思います。

 さて、甚だ、前置がながくなったが、僕はこの小文で、若い時にじぶんが経験した二つの小話を紹介させていただきたいとおもう。
と言っても、それほど、人類、国家のためになる話ではない。その一つは、まだ二十二、三歳の頃、房州布良という漁村にあそびにいった。偶然にも、そこで川崎の佐藤惣之助の友達とめぐりあい、村の海岸づたいの磯で、夜の更けるまで、なにか御きげんで大ぼらを吹きあった。そのはてに、いっしょにうんこをして、「太平洋にけつを洗わせよう」と、大波に尻をむけて、ずぶぬれになり、豪快を味わったつもりでいた。

房州 安房あわ国の別名。現在の千葉県南部。
布良 めら。現在は千葉県南部、館山市の一地区。
佐藤惣之助 さとうそうのすけ。詩人。作詞家。人道主義詩人として出発。陽気で饒舌な詩風に転ずる。作詞は「赤城の子守唄」「人生劇場」など。生年は明治23年12月3日。没年は昭和17年5月15日。享年は満53歳。
御きげん ごきげん。御機嫌。気分のよいさま。上機嫌。

いま一つは、午後三時頃、神楽坂の毘沙門前をすこし肴町よりのところを通りかかって、僕は、凄まじい下痢の発作をおぼえた。夕化粧をすませた芸者たちがたえまもなく往来している。あいにくそのへんにをかりる懇意な店もなく、殆んどそんなとき、施設のないにひとしい東京の街のことをはら立ちながらも、生理の欲求は容赦なく、猿股はもう重くなり、なにやら、内股をつたわってながれ下りつつある気配、そのうち、さし込んでくるような腹痛を横腹におぼえて、道の小わきにしゃがみこんだ。それから、おもむろに猿股から片足を外し、一わたり、そのへんを始末してから後続部隊を待った。
昔の町のことで、町の両側には、細い溝があり、それをつたってうんこ大将軍は、すこしもさわがず、うしろにつづくもののふに押されて、どぶ板の下、かなたに渡御あったが、それでさっぱりというような、やさしいことではすまず、おならまじりにしぶきをたてるので、こうなっては、悪びれてもあしかりなんとおもった僕は、半眼を閉じてなりゆきにまかせることにした。

肴町 現在の神楽坂五丁目
夕化粧 夕方にする化粧。
たえまもなく 絶え間無く。とだえることがない。休みない。
 かわや。便所。川の上に設けた川屋か、家の外側に設けた側屋の意味
施設 ある目的のために建造物などをつくること。この場合は便所
猿股 パンツ形式の丈の短い男性用下着。
始末 片付けること。処理。
もののふ 武士。武をもって主君に仕え、いくさに出て戦う人。武人。もののべ。
渡御 とぎょ。天皇や将軍などがお出ましになること。
あしかりなん 悪しかりし。よくない。

 たちは、情しらずなもので、みぬふりをして通りすぎてくれるどころか、わざわざ立止って、顔をのぞいてゆくものもあった。
そんな妓と座敷で顔があったりしたら、「まあ、こちら、どっかで、お目にかかったことがあったわね」と、神経のぬけた顔で平気でいうかもしれない。それが縁となれば、ほんとうにくさい仲だ。当分のあいだ、あの社会では、話の種になったことであろう。
その後、別の土地で、気のおけない老妓にその笑話をすると、
「この社会は、案外、世間が狭くて、針ほどのことが棒のようになってしまいますから、その後、どんなふうな大きなことになったかがきいてみたいもんですわね」
布良の海で太平洋に尻を洗わせることと、座敷姿の芸者衆の前で下痢を公開することと、あなたは、どちらをおえらびになりますか。また、どちらが、男々しい、人にじまんできることとお考えになりますか。それは、僕にとってはなかなか大事なことで、僕の生きてきたねうちもそれによって変ってくることになるのです。

 酒席で、音曲・歌舞などで客をもてなす女。芸妓。芸者。
座敷姿 酒宴の席で正式な身なり。

 で、しばらくは臭いや色について話が続き、最後になってもう一度、神楽坂の下痢の話が出てきます。

最後の清掃には、肌じゅばんをぬぎ、それをもって一応に身近をきれいに処理し、立ち去ろうとしたが、狭い溝にながれもあえずそのままのこしておいてもと反省して、丁度、その前が、瀬戸物屋の店先だったので、一荷の水槽を拝借し、暗渠に落ちるぐらいまで始末をし、あわてず、さわがず、一生涯のうち、この事件に関しては貝原益軒にもひけをとらない気ばたらきをして、勝安房等のように、もう一度ぐらいは大丈夫な顔つきで家路をさして引きあげたが、あの話は当分、神楽坂の上下をさわがしたらしく、現に、僕は、あの土地のだだらとよばれた友から、「呆れた奴がいたものだ」と、僕とは知らずに語る我身の噂をきき、「神楽坂署では、その犯人を追跡中だとさ」とおもいがけぬおち、、まできいたものだった。
〔かねこ・みつはる(1895―1975)詩人〕

肌じゅばん 肌に直接つける和服用肌着。ジュバンは本来,素肌に着る肌着で、ポルトガル語gibãoから来たもの
 ぶん。その人の持っている身分や能力。身の程。分際。
あえず 完全にはできない。しきれない。
瀬戸物屋 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では「神楽坂上」交差点の瀬戸物屋(河合陶器店)しかありません。しかし、これは遠すぎます。また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「松岡陶苑」は、以前の「西善セトモノ」だったといいます。しかし「毘沙門前をすこし肴町よりのところ」ではありません。現在は不明としておきます。
一荷 いっか。一つの荷。
暗渠 地下に埋設した、または地表でふたをした導水路。排水、下水、用水などに使う。閉水路。暗溝。
貝原益軒 かいばらえきけん。江戸前中期の儒学者、本草家、教育思想家。長崎で医学を修め、福岡藩医に。経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの各分野で先駆者的業績を残した。生年は寛永7年11月14日(1630年)。没年は正徳4年8月27日(1714年)。享年は85歳
気ばたらき 気働き。その場に応じて、よく気が利くこと。機転。
勝安芳 かつやすよし。別名は勝海舟。かつかいしゅう。幕末から明治初期の武士、幕臣、政治家。生年は文政6年1月30日(1823年3月12日)、没年は明治32年(1899年)1月19日。享年は満75歳。
だだら だだらだいじん(駄駄羅大尽)と同じでは。遊里で、金銭を湯水のように使って豪遊する客。
神楽坂署 昔は神楽河岸にありました。

川柳江戸名所図会①|至文堂

文学と神楽坂

 実は川柳を調べる場合、どうやって調べればいいのか、わかりませんでした。例えば新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(平成9年、1997年)に、みずのまさを氏が書いた「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」があります。たくさんの川柳が出ていますが、いったいどこで調べたのでしょう。
 ようやくわかりました。まず「切絵図と川柳…」の出典は「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年、新宿区は比企蟬人氏がまとめ)でした。また川柳の原典は当然ながら江戸時代の「誹風はいふうやなぎ多留だる」167篇11万句です。では、最初に「川柳江戸名所図会」から「神楽坂」を取り上げます。
 しかし、みずのまさを氏の「切絵図と川柳…」について、この文献は「川柳江戸名所図会」を使ったものだとはっきりと書いてはいません。まったく。

神 楽 坂

牛込御門から濠を渡り、真直ぐに上りになる坂である。神楽坂という名については、いろいろと説があるようであるが、ここでは省略する。坂の上に岩戸町という名の町がある。
   神楽坂上に岩戸面白し         (四六・12
   神楽坂あるで近所に岩戸丁        (三四・28)
   おもしろし岩戸神楽にとんど橋      (六六・36)
   御百度で岩戸もねれる神楽坂       (六六・31)
 善国寺のお百度、岩戸は女陰をさす。
   岩戸町せなァ戸隠様だんべへ       (六六・31)
 信州から来た下男。
   諸国迄音にきこへた神楽坂        (六六・32)
   御やしろのあたりにかなう神楽坂     (安七智2)
   神楽坂ひどくころんで        (一四七・8)
 お神楽の面にたとえる。
   あふげ神垣近き神楽坂         (六六・34)

岩戸町 神楽坂上から西南にある町(右図)。あまの岩戸いわととは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟で、太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台である。
四六・12 これは46篇12丁の意味です。江戸時代の川柳の句集「誹風はいふうやなぎ多留だる」があり、この「川柳江戸名所図会」も「誹風柳多留」から取った句集でした。「誹風柳多留」は明和2年から天保11年(1765-1840)にかけて川柳167篇11万句をまとめました。
とんど橋 船河原橋のこと。江戸川落とし口にかかる橋を通称「どんどん橋」「どんど橋」といいます。江戸時代には船河原橋のすぐ下には堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていたとのこと。
御百度 願い事がかなうように社寺に100回お参りをする。お百度を上げる。
ねれる 寝ることができる。
だんべへ 「だろう」の意の近世東国語。だんべい。だんべえ。
やしろ  社。神をまつってある建物。神社。屋代やしろ。神が来臨する仮設の小屋や祭壇など
かなう 願望が実現する。叶う。適う。敵う
替り面 かわりめん。顔つきが以前と変わること
あふげ 「あふぐ」で、仰ぎ見る。尊敬する。
神垣 かみがき。神域を他と区別するための垣。神社の周囲の垣。玉垣たまがき瑞垣みずがき斎垣いがき

「切絵図と川柳から見た江戸時代の神楽坂とその周辺」では神楽坂という由来についていろいろ書き、それから川柳になります。「川柳江戸名所図会」で出た川柳がすべて出てきます。

 ○あふげ此神垣近き神楽坂
 ○御やしろのあたりにかなふ神楽坂
 この2句は前記の御やしろに囲まれた神楽坂をうたったものです。
 ○神楽坂ひどくころんで替わり面
 転ぶほど急坂であったこと、お神楽のヒョットコ面が想像されます。
 ○諸国迄音にきこへた神楽坂
 無論、音は神楽にかけたのでしょうが、それにしても、音から神楽坂は有名だったのですねえ!

 また岩戸町については、項を改め、

 善国寺も岩戸町内にあり、現神楽坂通りの眞中に岩戸町1丁目があります。現岩戸町(大久保通り東側)は明和4年(1767)から火除明地になって雑司ヶ谷の百姓の菜園拝借地となっています。(切絵図(3)参照)
○神楽坂上に岩戸は面白し
○神楽坂あるで近所に岩戸丁
○御百度で岩戸もねれる神楽坂
最後の句は善国寺のお百度詣り、岩戸は女陰をさします。

地上の楽園|杉本苑子

文学と神楽坂

 杉本その氏は東京市牛込区(現東京都新宿区)若松町に生まれた小説家です。吉川英治に師事し、歴史小説を発表。1963年、「孤愁の岸」で直木賞を受賞。現在まで大量の歴史小説は書いているのですが、それ以外の随筆やインタービューは極めて稀か、書いても全集等には載りません。生年は1925年6月26日、没年は2017年5月31日。享年は満91歳。これは神楽坂に関するインタービューです。


地上の楽園    杉本苑子 作家
 ハイカラに神楽坂でココア

  お年玉のギザ(50銭硬貨)を握りしめ、岩波文庫を読んだ。文学という病に取りつかれるまでの幸せな日々は、両親と歩いた神楽坂の縁日や新宿の雑踏の淡い記憶に彩られている。

 ――全集が刊行中ですね。
 二十二巻あっても、入るのは書いたものの半分ですね。習作時代からだと五十年。木の机なんか体の形にすり減ってるの。
 二十代の初めに小脱を書こうと志し、まっすぐにきてしまった。物語に打たれ、触発され、ものを考え出すようになってからは、どこへ行っても、何をしていても、深刻な無念や憎悪、外的・内的な怒り、屈託というものがいつも一緒だった。
 ――早熟な子だった。
 英語が敵性語とされ、短歌が必修科目になったときの女学校時代に「思うこと無げに遊べる童らよ找にもありきかかる遠き日」という歌を作った。十四、五歳の小娘が「かかる遠き日」なんていうのは生意気だけど、ちょっとおませな子どもだったら、子どもなりのもの思いが生じてくる。そういう悩みがまつたくなかったころだけが、楽園だという思いは今も同じ。
 ――楽園の風景は?
 あなたがたは戦前世代というと、もんぺで雑炊、空襲と条件反射みたいに想像するけど、大正末年生まれの子ども時代は、クリスマスだってお正月だって今と同じですよ。東京の小さな薬屋の娘だったわたしでも、よそいきは真っ赤なビロードの生地にウサギの毛のついたオーバー。赤い靴に子ども用の帽子、ハンドバッグはブロンドのフランス人形で、背中にファスナーがついていて、ハンカチとかキャンデーが入れられるの。
 ――ハイカラですね。
 神楽坂のビシャモン縁日に、両親に連れられてよく出かけたものです。お参りの人と夜店とで明るい活気があった。とくに紅家という子どもの目にもモダンな喫茶店があって、そこでケーキを食べてココアを飲むのがとっても楽しみだった。大きならせん階段があるの。その木の手すりに乗っかってツーッて滑り降りたわ。
 両親も若かったし時代にも関東大震災からの復興の雰囲気があった。あのころのビシャモンの縁日のにぎわいを思い出すと、いい雰囲気の幼児期だったなあって思いますよ。
 ――そんな子がなぜ文学へ。
 どうしてでしょうねえ。やみくもに小説が好きだった。お年玉をもらっても、岩波文庫を買って読みふけっていた。『幸福な王子』『青い鳥』だとか、子ども心にどれだけ打たれたか。小説の持つ力を、もしわたしのものにできたらと思ったのかもしれません。
 子どもの時から、長生きはしないだろうなあと予感して、自分の限られた時間は自分ひとりのためだけに使おうと決めた。夫とか子どもなど執着の対象を持つと、どうしたって時間がとられるでしよ。そういうのはいやだったの。エゴイストよね。
 ――死後は家も何もかも、熱海市に託すとか。
 ええ、本当にさっぱりした。物欲も生への執着もあまりない。もともと生存本能が淡いのかも。来世とか前世は信じてないけど、無だった状況から間違って生まれてきたような気がしてしようがない。わたしの作品にも、そんな虚無感がずっと通っている気がします。
(朝日新聞。1998.1.8.)

ビロード パイル織物の一種。綿・絹・毛などで織り、細かい毛をたて、なめらかでつやのある織り方。ポルトガル語のveludo、スペイン語のvelludoから来たもので、ベルベットvelvetと同義語。
ビシャモン 日蓮宗鎮護山善国寺毘沙門天。東京の縁日発祥の地です。
縁日 特定の神仏に縁のある日。有縁うえんの日。その日に参詣すると、特別な功徳があるという。
紅家 正しくは紅谷
『幸福な王子』 英国作家O・ワイルドの童話。1888年刊。黄金の王子像がツバメを通して黄金や宝石を貧しい人たちに配る。像は火に溶かされるが、美しい心臓だけは残ったという。
『青い鳥』 メーテルリンクの戯曲。六幕。1908年初演。チルチルとミチルの兄妹は、夢の中で幸福の使いである青い鳥を求める。翌朝目覚めて、鳥籠に青い鳥をみつけ、幸福は身近にあることを知る。

東京のプチ・バリ|ドラ・トーザン

文学と神楽坂

 ドラ・トーザン氏が書いた『東京のプチ・バリですてきな街暮らし』(青萠堂、2009年)の一節です。この本は感じたことを気持ちを込めて書いた随筆と、友達や店舗とのインタビューが主。残念ながら情報は少ないけれど、情緒は一杯あると思います。

  なぜ神楽坂プチ・パリなのか?
      坂・石畳、路地、運河……の魅力

パリを思わせるミステリアスな坂
 神楽坂はとてもパリに似ています。なんといっても共通点は坂。特にパリのムフタール通りモンマルトルは坂の多いところですが、神楽坂はその名の通り、坂の種類には事欠きません。朝日坂袖摺坂軽子坂地蔵坂赤城坂と、主な坂だけでもこんなにあります。私は熱海湯のところから鳥茶屋別亭を横に見て上がっていくフランス坂と呼んでいます。まさにフランス坂と私が命名したようにとてもパリの雰囲気をもっています。
 神楽坂には、他に三年坂逢坂弁天坂、なども、それぞれ表情の違う坂が面白い。

かくれんぼのような細い路地
 そして細い路地のある点。私のパリでの住まい、ムフタール通りと同じで、坂が多く小さな商店街の通りがあって、街のサイズがコンパクトなところです。神楽坂の大好きな三大横丁といえば、毘沙門の向かいから旅館和可菜へ抜ける兵庫横丁本多横丁からさらに入ったかくれんぼ横丁、そして、同じく肉まんで有名な五十番の脇から、本多横丁を右に曲がった芸者新道も、なかなか風情があります。少しアヴァンギャルドみちくさ横丁もいいですね。

迷宮入り(⁉)の石段
 神楽坂の曲がりくねった石段も面白い。
 兵庫横丁の石段の道は途中にもっと細い横道もあって迷子になりそうです。また私の大好きなフランス坂は、小栗通りの熱海湯のところから、S字型に昇っていく石段です。
 まるでモンマルトルのよう。曲がりくねった石段はミステリアス。石段の次に何かあるかわからない楽しみがあります。
 遠くまで見えないから突然未知のものがあらわれる。それが面白い。パリと同じで、新しい発見をする楽しみ。パリもそうだけど一つ場所を決めてスポットを発見するのも、散歩・プロムナードの楽しみです。

運河 日本ではお濠(お堀)
ムフタール通り Rue Mouffetard。パリ5区でレストラン、カフェ、市場などがあり、下町的に混雑して繁栄する地域
モンマルトル この丘を含む一帯の名前。セーヌ川右岸のパリ18区を構成。パリ有数の観光名所。鳥茶屋別亭 フランス坂(熱海湯階段、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実はこの鳥茶屋別亭の玄関でした。
フランス坂 ほかに「熱海湯階段」、「熱海坂」、「一番湯の路地」、「芸者小路」、「カラン坂」等という言い方があります。
アバンギャルド avant-garde。フランス語で、軍隊用語の「前衛」から。革新的、前衛的な芸術や芸術家たち。前衛派とも。
プロムナード promenade。散策。散歩道。遊歩道

行元寺|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年以降は品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。なお、地図などでは「行願寺」と書くともありますが、正しくは「行元寺」です。

江戸名所図会』では……

牛頭ごずさん行元寺ぎょうがんじ
千手院と号す。同所神楽坂の上、寺町道てらまちみちより右にあり。天台宗東叡山に属す。本尊千手観音大士の像は恵心僧都の作なり。(襟懸えりかけの本尊と称す。)慈覚大師を開山とすと云ふ。(土俗伝へ云ふ、当寺昔は大刹にして、総門は今の牛込御門の辺にありて、神楽坂その中門の旧跡なりしとなり。大永たいえい兵乱堂塔破壊はいす。その頃のものとて古き大般若経を秘蔵せりと云ふ。昔門の内左右に南天樹なんてんじゅ多かりしとて、世俗今も南天寺と字せり)本尊縁起に云く、右大将頼朝卿石橋山合戦の後、安房上総を歴て下総国より、この国に打ち越え給ふ頃、尊前に通夜す。その夜の夢に、頼朝卿自らこの霊像を襟にかけたてまつり、源家の武運を開くと見給ふ。後、果して天下を一統せられたりしより、頼朝襟懸の尊像と称へ奉ると云々。

[現代語訳]○牛頭山行元寺
号は千手院。その場所は神楽坂の坂上で、通寺町(現在は神楽坂6丁目)の道の右側に当たる。天台宗東叡山に属する。本尊の千手観音像は恵心僧都の作で、襟懸の本尊という。開山は慈覚大師。この土地の住民によると、かつては巨大な寺で、総門は今の牛込御門の辺りで、神楽坂は中門の旧跡だったという。大永の乱で堂塔は破壊されたが、当時のものとして、古い大般若経を所蔵する。また、昔、門の左右に南天の木が多く、南天寺と呼ばれる。本尊の言い伝えによると、石橋山合戦で源頼朝が敗れ、その後、安房、上総を経て下総国から、武蔵に入国した。頼朝は行元寺の前で夜中に祈願したが、その夜、夢の中で、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、予想通り、天下は統一し、頼朝襟懸の尊像と呼ばれたという。

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌で、神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成された。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説している。7巻20冊から成り、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版された。
恵心僧都 えしんそうず。源信げんしん。平安中期の天台宗の僧。
襟懸 衣服の首回りの部分にひっかける。ぶらさがる。
慈覚大師 平安時代前期の僧。遣唐使の船に乗って入唐。帰ってから天台宗山門派、天台密教の祖。
土俗 その土地の住民
大永 1521年~28年。室町後期の年代。
兵乱 大永の内訌ないこうでしょうか。戦国時代初期の大永年間に起こり、18代当主の宇都宮忠綱と芳賀氏の家臣団との対立で起こった下野宇都宮氏の内訌のこと

堂塔 どうとう。堂と塔。仏堂や仏塔など
大般若經 大乗経典。600巻。唐の玄奘げんじよう訳。別々に成立した般若経典類を集大成し、最高の真理(般若はんにゃ)から見るとすべてのものは実体がないくうだという教えを説く。
南天樹 ナンテン木の異称(右図を)
縁起 社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。事物の起源や由来。
石橋山合戦 平安時代末期の治承4年(1180年)、源頼朝と平氏方での戦い。敗北した源頼朝は船で安房国へ落ち延びた。
安房国、上総国、下総国 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。
通夜 神社や仏堂にこもって終夜祈願すること。

『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、1904年)でも内容はほとんど同一です。

   ●行元寺
行元寺ぎやうげんじは。牛込肴町三十九番地に在り。牛頭山と號す。天台宗にして東叡山寛永寺の末寺たり。
當寺往古は大刹にて。總門は牛込門の内に在り。今の神樂坂は中門の内にて。其の左右に南天燭●●●行樹なみきありしを以て。俗に南天でら●●●●といひしといふ。赤城神社はもと當寺の鎭守なるよしにて。奉納の大般若經にも。行元寺鎭守と記しありしといへり。大永の兵亂に堂塔破壊せしむね。砂子に載せたり。境内今は大半人家連り。其の表門は小路を入りて。其の奥に在り。書間も之を鎖せり。荒凉想ふべし。
開山は慈覺大師にて。其の本尊千手觀音は。惠心僧都の作。俗に襟懸●●觀音●●といふ。
本尊の緣起に云。右大將賴朝卿石橋山合戰の後。安房あわ上總かずさを歴て下總國しもうさより此國に打越給ふ頃。尊前に通夜す、其夜の夢に賴朝卿自ら此靈像を襟にかけたてまつり。源家の武運を開くと見給ふ。後果して天下を一統せられらりしより。賴朝襟懸の尊像と稱へ奉る云々。
[現代語訳]行元寺は、牛込肴町(現神楽坂五丁目)39番地で、号は牛頭山。天台宗で東叡山寛永寺の末寺である。
  古くは大きい寺で、総門は牛込御門の内側、現代の神楽坂は中門の内側にある。その左右にナンテンの並木があり、俗に南天寺という。赤城神社はもとこの寺を守護する神であり、奉納した大般若経に行元寺を守護すると書いてある。大永の乱に堂塔は破壊したと、『江戸砂子』はいう。現在の境内の大半は人家がはいり、この表門は小路の奥にある。昼間も門は閉鎖中で、荒凉を想うべきだ。
 開山は慈覚大師。その本尊千手観音は、恵心僧都の作で、俗に襟懸観音という。
 本尊の縁起では右大将源頼朝は石橋山合戦の後、安房、上総を歴て下総から武蔵に入国し、この尊前で通夜した。この夜、夢を見て、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、案の定、天下を統一したので、賴朝襟懸の尊像という。

牛込門 牛込御門(牛込見附)と同じ。br /> 書間 昼間。日中。太陽の出ている間。
荒凉 荒涼。こうりょう。さびれた、荒涼とした
襟懸 えりがけ。襟がけとは、襟の中に金銭など大切な物を縫い込んだこと。
頼朝 源頼朝。みなもとのよりとも。鎌倉幕府の初代将軍。
石橋山合戦 平安時代末期に源頼朝と平氏方との戦い。頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫し、安房国へ落ち延びた。
南天燭 ナンテンの異称

BU・SU|内館牧子

文学と神楽坂

 内館牧子氏が書いた「BU・SU」です。主人公は森下麦子で、神楽坂で芸者になろうとやってきた高校生。妓名は鈴女すずめ。置屋はつた屋。1987年に初めて講談社X文庫で出版し、1999年に講談社文庫になっています。初版は30年も昔なのですね。
 まず本の最初は、BU・SUという言葉について……

「顔が悪い」って、とっても悲しいことなんだ。女の子にとって。
 なのに、男の子ってすごく平気で、
「BU・SU」
 って言葉を使うのね。
 BU・SU。
 何て悲しい響きなんだろ。
 何で世の中には、可愛い人とBU・SUがいるんだろ。
 何で、私はBU・SUの方に入る顔で生まれちゃったんだろ。
「顔が悪い」って、本人が一番よく知ってるの。
 男の子に、
「BU・SU」
 なんて言われなくたって、本人が一番よく知ってるのよ。

 そこで麦子は神楽坂に行こうと決心し、実際に行ってしまいます。でもあまり大したものは起こらない。神楽坂についても同じです。

 神楽坂というのは、とても不思議な町。
 町のどまん中を、ズドーンと坂が通っている。
 町そのものが坂なの。
 坂のてっペんに立って、坂の下の方を見おろすと、町全部が見えちゃうみたいな。
 東京のサンフランシスコ。
 坂の両側はギッシリと商店街で、まん中へんに有名な毘沙門天びしゃもんてんまつられている善国寺ぜんこくじがあるんだけど、朝夕ここから聞こえてくる木魚の音がとってもいい。
 ポクポクポクなんていう木魚じゃない。木の板をガンガン叩くんだもの。
 だからすごくリキが入ってて、サイドギターがリズムきってるみたいな、独特のリズム。
 この坂から、もうクネクネとわけがわかんなくなるくらい路地や階段が入りくんでいるの。
 昔ながらのおセンベ屋さんもあるし、銭湯もあるし、粋な料亭もあるし、道路で子供が缶ケリなんかしていて、「新宿区」とは思えない昔風の町。
 毘沙門天の「ガンガン木魚」を朝夕聞いて生きてる人たちだから、ちょっとやそっとのことじゃ驚かない。
 でも……。
 驚いていた。
 みんな、町行く人はみんな、カナしばりにあったみたいに驚いていた。
 だって、蔦屋の姐さんたちを乗せた人力車が四台つらなるその後を、鈴女が走ってるんだもの。
 着物にスニーカーだよ。着物にスニーカー!
 町の人は誰も声さえ出せずに、鈴女を見ている。
 缶のかわりに思わず自分の足をけっちゃった子供だって、泣くのをやめて見ている。
 だけど、人力車を引くのはプロのニイさんたち。
 とても、鈴女がついていけるようなナマやさしい速度じゃない。
 鈴女は着物のすそをはためかせ、顔を真っ赤にして走るんだけど、全然ダメ。
 足はもつれるし、息はあがるし、それにみんなの視線が恥ずかしくて、顔は地面を向きっぱなし。
「ガンバレ!」
「着物、たくっちゃいなッ」
「イヨッ! 蔦屋の鈴女ッ」
 沿道から声がかかり始めた。
 そのうちに、子供たちは缶ケリよりおもしろそうだと、一緒に走り出した。
 これが鈴女より全然速いんだもの……。
 子供の数はどんどん増えて、ジョギングしていたおじいさんたちまで入ってきた。
 ほとんどパレードだ、こりゃ。
 鈴女はこのまま心臓が止まってくれればいいと思った。
 坂道を大きな夕陽が照らしている。

木鉦


 2つ、わからないので、質問を出してみました。
 1つ目は「木の板をガンガン叩く」。これは、なあに? 善国寺に聞いたところ、木柾もくしょうというものでした。日蓮宗では木魚はほとんど使わず、代わりにテンポが早い読経には江戸時代より木柾という仏具を使うそうです。下は実際に善国寺の木柾の音です。

 2つ目は、神楽坂で人力車を使うって、本当にできるの? 平地の浅草ならできるけれど、相手は坂が多い「山の手」だよ。
 赤城神社の結婚式をあげ、人力車に乗り、そのまま下ってアグネスホテルにいくのではできる。1回だけ人力車に乗り、神楽坂を下がるのもできる。しかし、1回が30分間以上となり、人力車の観光や旅は、神楽「坂」ではまずできない……と思う。1回か2回はやることができるけれど、数回やるともうやめた……となるはず。昔は「たちんぼ」といって荷車の後押しをして坂の頂上まで押していく人もいました。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈①


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。
 「牛込界隈」の全部は著作権の関係で、引用できません(と思います)。そこで、そのうち一部を引用します。

   神楽坂
 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、二十年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば二十年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

富士見二丁目

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。

神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。
警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。
最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治三十一年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治三十一年十月までは、東京専門学校から明治ニ十四年十月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治三十九年一月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。

東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和四年春からのことで、その後昭和八、九年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正十二年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後二十四年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。」と書いています。

飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

神楽坂をはさんで|都筑道夫①

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房で「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を勤め、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年には「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報から取っています。

   神楽坂をはさんで
都筑道夫
 色川武大さんとは、深いつきあいはなかった。けれど、共有していることがあって、尊敬のまなざしで、遠くから眺めていた。共有していたのは、場所と時間の記憶である。
 東京の新宿区と文京区のさかい目、矢来の坂の上のほうで、色川さんは生れた。私は坂の下のほうで、生れた年もおなじだった。近くの神楽坂の夜店を歩き、はるばる浅草へ遊びにいって、成長してから、おなじように小説家になった。
 もの書きになったのは、私のほうが早く、はじめて顔をあわせたのは、ある推理小説雑誌の編集部でだった。こんど入った色川君、と編集長から紹介されたのだが、私の担当にはならなかったので、ほとんど話はしなかった。したがって、おなじ台地の上と下とで、育ったことは、知らずじまいだった。
 私は麻雀をしないから、阿佐田哲也の小説とは、縁がなかった。色川武大の小説がではじめて、雑誌に写真がのったときに、名前に聞きおぼえがあり、顔に見おぼえがあって、ひょっとすると、と思った。やがてパーティであって、やはり推理小説雑誌の編集者だった色川さんだ、と確認できた。
 印刷会社のひと部屋を借りた編集室で、はじめて顔をあわせてから、二十年はたっていたろう。作品を読んで、牛込矢来の生れらしい、とわかっていたから、そのことが話題になった。以来、色川さんの名前を見ると、江戸川橋から矢来、矢来から飯田橋へかけて、のぼりおりする坂の家なみが、目に浮かんでくる。大学通りの夜店、赤城神社の縁日、神楽坂の夜店、飯田橋をわたって、靖国神社例大祭の露店までが、ひとつひとつ思い出される。

色川さんは生れた 色川氏の誕生は矢来町です。
坂の下のほう 都筑道夫氏によると、誕生は小石川区関口水道町62番地(現在は文京区関口1丁目)でした。
生れた年 2人とも昭和4年(1929年)でした。
もの書きになった 都筑氏がもの書きになったのは昭和24年、色川氏は昭和30年でした。
ある推理小説雑誌の編集部 桃園書房の『小説倶楽部』誌の編集者でしょう
台地 豊島台地です。
阿佐田哲也 阿佐田氏は色川武大氏が麻雀を書くときのペンネーム。
江戸川橋、矢来、飯田橋、大学通り、赤城神社、神楽坂 地図を参照
靖国神社 1859(明治2)年、戊辰戦争による官軍側の死者を弔うため、明治政府が「東京招魂社しょうこんしゃ」を創建。1879年に「靖国神社」と改称
例大祭 その神社の、毎年定まった日に行う大祭。

 私は往時をなつかしんで、言葉による絵として、思い出を書こうとするだけだが、色川さんは過去の記憶、現在の観察のなかに、自分の生きかた、自分のであった人びとの生きかたを、考えようとしていた。逃げ腰にならずに、小説を書いている。だから、傍観者である私は、尊敬のまなざしを、遠くから投げていたのである。
 色川さんは、『怪しい来客簿』のなかの一篇、「名なしのごんべえ」で、神楽坂の夜店を書いている。昭和六年にでた『露店研究』という、横井弘三の著書を援用して、昭和ひとけたの神楽坂に、どんな夜店がならんでいたかを列挙し、自分のみた昭和十年代の店、ひとの記憶を書いている。
 もっと古い資料としては、尾崎紅葉が『紅白毒饅頭』という明治ニ十四年の作品に、毘沙門びしゃもんさまの縁日の露店を記録している。色川さんは利用していないが、参考のために、品物のいくつかを、解説つきで抄録しよう。
 太白飴、これは白い棒餡だと思う。文字焼、お好み焼の一種で、近年、もんじや、、、、という小児なまりの名で、復活した。椎実しいのみ、これは椎の実を炒ったものだろう。説明不要の丹波ほうずき海ほうずき智恵の智恵の板、これはタングラムで、いまは夜店の商品ではない。化物ばけもの蝋燭ろうそく、青い火がとろとろ燃えて、幽霊の影がうつる花火の一種で、神楽坂の夜店では、昭和十年代にも売っていた。現に私が買っている。玻璃がらすふで、これは森村誠一さんが愛用しているガラスペンにちがいない。私が見たのは、たいがい細いガラス棒とバーナーをつかって、実演販売していた。たけ甘露かんろ、砂糖を煮つめて、ゆるい寒天状に冷やしたものを、細い竹筒につめて、穴をあけて吸う。銀流し、銅製品につけて磨くと、銀のように見える液体だ。早継はやつぎ、割れた陶器をつける接着剤である。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
丹波ほうずき 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほうずき うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
智恵の環 いろいろな形の金属の輪を組み合わせ、解く玩具。
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。
タングラム tangram。正方形の板を三角形や四角形など七つの図形に切り分け、さまざまな形を作って楽しむパズル。

http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの
硝子筆 ガラス製のペン
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。
銀流し 水銀に砥粉とのこを混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継の粉 割れた陶器をつける接着剤
 

神楽坂をはさんで|都筑道夫②

 この月報の読者は、すでにでた第一巻に、『怪しい来客簿』が入っているから、お読みになっているだろう。だから、昭和ひとけたの夜店明細表は、ここに引用はしない。赤城神社あたりから、夜店がはじまって、大久保通りを越してからは、両側になる、と書いてある。それが、昭和十年代になると、大久保通りから、飯田橋の手前まで、右がわだけになっていたように、私はおぼえている。
 リストのなかの帽子洗いは、私の好きな店だった。古ぼけたパナマ帽ソフト帽が、きれいになるのを、うっとりと眺めていた。そのくせ、洗う手順はわすれているのだから、記憶はおかしなものだ。口絵とあるのは、雑誌の色刷の口絵だけを切りとって、売っていたのだろう。風景画、美人画と分類して、茣蓙の上にならべていた。
 有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしょに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。音譜売りが、舌の裏に入れていた笛というのは、小さなブリ片を、ふたつ折りにしたものだろう。あいだに、薄いかんな屑かなにかを挾んで、ブリキ片の上から、いくえにも糸を巻きつける。それを、舌の裏に入れたのでは、吹きようがない。舌の先にのせて、上顎に押しつけながら、口笛の要領で吹くのである。
 食べあわせの薬売り、というのは、見たことがない。台などはおかずに、立つたまわりに人をあつめて、口上を長ながとのべる薬売り、睡眠術や記憶術の本をうる連中は、じめ、、という。靖国神社の例祭には、いつも二、三人、これが出ていた。明治の大盗、官員小僧のなれのはて、と称して、防犯心得の本をうる老人もいた。稽古着に袴という恰好で、八の字髭をはやして、気合術の本をうる男もいた。
 そうした露天商の紹介につづいて、色川さんは戦後、その人びとがどうなったかを、書こうとする。安田銀行のすじむこうの映画館の焼跡から、南京豆売りのお婆さんが、出てくるのを書く。
 私はその映画館が、神楽坂東宝ではなかろうか、と考える。同時に神楽坂を書いて、牛込館田原屋に筆がおよばないのに、ひそかな不満を持つ。色川さんは戦後、三十年もたってから、当時の無名の人びとを回想して、書こうとする。人びとのその後を、知ろうとする。
 色川さんのえがく神楽坂を読んで、私が尊敬のまなざしをむけるようになったわけは、わかっていただけるだろう。矢来の通りと神楽坂をはさんで、おなじ少年期を送った色川さんを、私はいまも、なつかしく思う。色川さんは、からだが大きく、私は小さい。子どものころ、青瓢箪と呼ばれた虚弱児だった。どうして、大きな色川さんが、先に死んでしまったのだろう。

リストのなかの帽子洗い 『露店研究』では「帽子洗ひ」、『怪しい来客簿』では「帽子洗い」で出ています。
パナマ帽 パナマ草の若葉を細く裂いて編んだひもで作った夏帽子。
ソフト帽 フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
茣蓙 ござ。イグサを編んだ敷物。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
食べあわせの薬売り たとえば「鰻と梅干を同時に食べると消化不良になる」と食材の取り合わせが悪いといい、薬を売る人。
官員小僧 講談師、落語が語る登場人物。懺悔談のあと、高座から盗犯防止のリーフレットを売った。
大じめ 広い場所を占領して、黒山の如き群衆を集めて長口舌を振い、商品を売る人
安田銀行  大久保通りの西側でも5丁目があります。昔の5丁目の安田銀行は大久保通りの西側で、現在の薬のココカラファインです。
映画館の焼跡 鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館は同じ場所を占めていた建物で、現在はおそらく神楽坂5丁目13です。しかし、大久保通りに拡張計画があり、すべては巨大な大久保通りの下になる予定です。
南京豆売り 南京豆とはピーナッツのこと
神楽坂東宝 はい、そうです。