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新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。
⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。


山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。

 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸

漱石の東京|武田勝彦

 文学と神楽坂

武田勝彦

武田勝彦

  武田勝彦氏の『漱石の東京』(早稲田大学出版部、1997年)です。この伝記はかなりほかの本とは違ったところがあります。つまり、細かいことが重要なのです。特に「それから」の中心は市電です。東京市には市電が市内に縦横に張り巡られていて、したがって、市電を知らないと、この本の問題もよくわからないとなってしまいます。
 武田勝彦氏の生年は1929年5月4日、没年は2016年11月25日。享年は満87歳でした。

   和良店の坂道

 小説「それから」は、明治42年6月27日から10月14日まで、110回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された。初版は春陽堂(明治43年1月1日)から刊行された。この作品の主要な舞台は、牛込台、小石川台、そしてその間を流れる江戸川べりである。また、赤坂台の青山もこの作品の主大公の実家があるので見逃せない。下町では、銀座、木挽町、神田が登場する。また、当時は汐留の新橋停車場が東京の中央駅であったので、主人公もここに足を運ぶことがある。
 主人公長井代助は30歳の高等遊民である。学校を卒業しても定職を持たない。父、得の庇護を受けて生活している。牛込区袋町5番地あたりに家を借りて住んでいる。婆さんを傭い、書生を置く結構な身分である。
 代助の家を袋町と推定したのは、「ところ天氣てんき模樣もやうわるくなって、藁店わらだながりけるとぽつ/\した」との描写があるからだ。江戸から明治にかけて、東京には二つの藁店があった。一つは、金杉の方で、一つは、神楽坂であった。この名称は金杉の場合も、神楽坂の場合も、いわゆる通りの通称であって、地名辞典の類に公式に書き記され、現行町名の丁目や番地を与えられているわけではない。そのために、とかく曖昧である。
 漱石は「僕の昔」と題する談話の中でも、「落語はなしか。落語はなしはすきで、よく牛込の肴町の和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ」といっている。正確には和良店亭で、これが牛込館となり、大正、昭和を通して、牛込、小石川の山の手族に洋画を提供する場となった。場所は袋町三番地と四番地にまたがっていた。

江戸川 神田川中流。昭和40年以前には、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
高等遊民 こうとうゆうみん。明治末期から昭和初期にかけて、世俗的な労苦を嫌い、定職につかず、自由に暮らしている人。
牛込区袋町五番地 地図を参照。

昭和5年 牛込区全図

昭和5年 牛込区全図

書生 学問を身につけるために勉強をしている人。他家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する人。
藁店 原義は「わらを売る店」。槌田満文編「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)では「藁店は牛込区袋町(新宿区袋町)と肴町(新宿区神楽坂五丁目)のあいだ、地蔵坂(藁坂)下の狸俗名」
金杉 東京都台東区金杉でしょうか。不明です。なお、至文堂編集部の『川柳江戸名所図会』(至文堂、昭和47年)では「もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという」。筋違橋は神田川にかかる万世橋の前身です。
袋町三番地と四番地 正確に言えば、牛込館(現在はリバティハウスと神楽坂センタービル)が建っていた場所は袋町3番地だけでした。

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)

 代助の借家は藁坂の上の袋町に、三千代の借家は金剛寺坂、または安藤坂を昇り詰めた小石川表町の高台に設定されている。この設定の仕方に注意してみたい。単に漱石が自分の住んだことのある地域を無雑作に選んだと見倣してよいだろうか。現在でも、この二つの地域を結ぶ便利な交通機関は発達していない。山水の形状が、それを阻害している。
 漱石は代助と三千代を両方の高台に住まわせることで、二人の逢う瀬の難しさを高めようとしたのではなかろうか。これは無意識な操作であったかもしれない。特に、心臓の悪い三千代に急坂を登り降りさせ、それで躰に変調を招くことで、代助の同情を深める。
 「それから」の執筆された明治42年の夏から秋にかけて、いわゆる東京鉄道時代の市電は、延長につぐ延長で、市内は刻一刻と便利になっていった。しかし、三千代が代助の家に行く電車は、それほど便利ではなかった。一つは小石川表町から春日町に出る。ここで乗り換え、水道橋まで行く。さらに、外濠線に乗り換え、牛込見附で下車する。ここから神楽坂を昇り、さらに一息ついで、地蔵坂を昇る。か弱い三千代には、かなりの強行軍だ、もう一つの道は、往路だけには便利だと思う。金剛寺坂か安藤坂を降り、大曲まで歩く。ここから市電で飯田橋に行き、乗り換えて牛込見附に出る。あとは徒歩である。戦前の牛込肴町を知っている読者だと、三千代が水道橋か飯田橋から角筈行に乗って、牛込肴町で下車すれば、神楽坂の急坂を避けることができたと思われるかもしれない。ところが、飯田橋-牛込柳町間の市電が開通するのは、大正元年暮のことであって、三千代の頃には工事中であった。

金剛寺坂 本田労働会館わきを通って地下鉄丸ノ内線を越え、巻石通り交差点近くに出る狭い道(下図の橙色の坂道)
安藤坂 安藤坂交差点から伝通院前交差点までの道(下図の紫色の坂道)
伝通院、金剛寺坂と安藤坂
小石川表町 伝通院や善光寺あたり一帯を表町と呼んだ。以前は伝通院前表町。

表町

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」(1981年)から

一つ 以下は図を書いていますから、それを参考してください。黒の実線や点線は当時何本があった市電の線路、黄色は徒歩で、赤色の実線は市電で動いた距離。青はそれぞれの借家です。

江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

原図は明治44年の市電。一部を変更。江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

牛込見附 市電の駅です。国鉄(現在のJR)の駅は牛込駅でしたが、1928年(昭和3年)から飯田橋駅にかわりました。
牛込肴町角筈牛込柳町 下図を参照。

日本鉄道旅行地図帳

昭和7年の市電系統図。今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」新潮社。2008年




神楽坂|江戸情趣、毘沙門天に残りけり

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「色街濡れた街」の「神楽坂」では…

「東京物語」辞典

「東京物語」辞典

 楽坂の町は、く開けた。いまあのを高く揃えた表通りの家並を見ては、薄暗い軒に、蛤の形を、江戸絵のはじめ頃のような三色に彩って、(なべ)と下にかいた小料理屋があったものだとは誰も思うまい。
 明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門の緑日になると、あそこの入口に特に大きな赤い二提灯が掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛ったのを覚えている。

 屋根の最も高い所。二つの屋根面が接合する部分。
家並 家が並んでいること。やなみ。
江戸絵 浮世絵版画の前身となった紅彩色の江戸役者絵。江戸中期から売り出され、2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵にしきえとして人気を博した。
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
提灯 ちょうちん。照明具。細い竹ひごの骨に紙や絹を張り、風を防ぎ、中にろうそくをともし、折り畳めるようにしたもの。
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
見世物小屋 見世物を興行するために設けた小屋。見世物とは寺社の境内、空地などに仮小屋を建てて演芸や珍しいものなどを見せて入場料を取った興行。

 鏡花夫人は神楽坂の芸者であったが、神楽坂といえばつくりの料亭と左棲の芸者を想起するのが常であった。
 下町とは趣き異にした山の手の代表的な花街として聞こえており、同時に早稲田の学生が闊歩した街でもあった。
 神楽坂のイメージは江戸情趣にあふれた街であるが、大正十三年頃から昭和十年頃にかけては、レストランやカフェー、三越や松屋などの百貨店も出来、繁華を極めた。夜の殷賑ぶりは銀座に勝るとも劣らず「牛込銀座」の異称で呼ばれもした。
 しかし終戦後の復興によっても昔の活気が思うように戻らなかった。

鏡花夫人 泉すず。芸者。泉鏡花(1873~1939)の妻。旧姓は伊藤。芸者時代の名前は「桃太郎」。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は69歳。
 気風、容姿、身なりなどがさっぱりとし、洗練されていて、しゃれた色気をもっていること。
つくり つくられたようす。つくりぐあい。よそおい。身なり。化粧。
左棲 ひだりづま。和服の左の褄。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
趣き おもむき。物事での感興。情趣。風情。おもしろみ。あじわい。趣味。
異にする ことにする。別にする。ちがえる。際立って特別である。
山の手 市街地のうち、高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西、すなわち、四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりをいう。
花街 はなまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。花柳街。いろまち。
闊歩 大またにゆっくり歩くこと。大いばりで勝手気ままに振る舞うこと
江戸情趣 江戸を真似するしみじみとした味わい。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華
牛込銀座 「山の手の銀座」のほうが正確。山の手随一の盛り場。

 昭和二十七年、神楽坂はん子がうたう「芸者ワルツ」がヒットした。その名のとおり、神楽坂の芸者だという、当時としては意表をついた話題性も手伝っての大ヒットであった。
 日頃、料亭とか芸者とかに縁のない庶民を耳で楽しませてくれたが、現実に足を運ぶ客の数が増えたというわけではなかった。
 しかし近年、再び神楽坂が脚光を浴びている。
 マガジンハウス系のビジュアルな雑誌などで紹介されたせいか、レトロブームの影響か、若者の間で関心が強い。
 坂の上には沙門天で知られる善国寺があり、縁日には若いカップルの姿も見られるようになった。

神楽坂はん子 芸者と歌手。本名は鈴木玉子。16歳から神楽坂で芸者に。作曲家・古賀政男の「こんな私じゃなかったに」で、昭和27年に歌手デビュー。同年、「ゲイシャ・ワルツ」もヒット、一世を風靡するが、わずか3年で引退。生年は1931年3月24日、没年は1995年6月10日。享年は満64歳。
意表をつく 意表を突く。相手の予期しないことをする。
マガジンハウス 出版社。1983年までの旧名は平凡出版株式会社。若者向け情報誌やグラビアを多用する女性誌の草分け。
レトロブーム ”retro” boom。懐古趣味。復古調スタイル
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。

①神楽坂は飯田橋駅から神楽坂三丁目へ上り、毘沙門天前を下る坂道である。
 坂の名の由来は、この坂の途中で神楽を奏したからだとも、筑土八幡市ヶ谷八幡など近隣の神楽の音が聞こえて来たからだともいう。
 町名はもちろん、この坂の名にちなむ。現在は六丁目あたりにまでを神楽坂通りと呼んでいる。

②明治十年代の後半、坂をなだらかにしてから、だんだん開けてきた。何よりも関東大震災の被害を殆んど蒙らなかったことが、大正末から昭和十年にかけての繁栄の原因であろう。

③現在でも黒板塀の料亭が立ち並ぶ一角は、昔の花街の佇いをそっくり残している。

山手(新宿)七福神の一つ。七福神のコースを列記すると、
畏沙門天(善国寺)→大黒天(経王寺)→弁財天(巌島神社)→寿老人(法善寺)→福録寿(永福寺)→恵比寿(稲荷鬼王神社)→布袋(太宗寺)
 である。

*鏡花の引用文の世界を垣間みたかったら、毘沙門天の露地を入った所にある居酒屋伊勢藤がある。
 仕舞屋風の店構えに縄のれんをさそう。
 うす暗い土間、夏は各自打扇の座敷。その上酒酔い厳禁で徳利は制限付き
 悪口ではなく風流を求めるならこれくらいのことは忍の一字。否、だからこそ、江戸情緒にもひたれるのだと、暮色あふれる居酒屋で一献かたむけてみてはいかが。

筑土八幡 東京都新宿区筑土八幡町にある神社
市ヶ谷八幡 現代は市谷亀岡八幡宮。東京都新宿区市谷八幡町15にある神社
蒙る こうむる。こうぶる。被害を受ける。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。防虫・防腐・防湿効果がある。
佇い たたずまい。その場所にある様子。あり方。そのものから醸し出されている雰囲気
仕舞屋 今までの商売をやめた家。廃業した家。しもたや。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。縄のれんを下げていることから、居酒屋、一膳飯屋などをいう語
 おもむき。味わい。面白み。
打扇 うちあおぐ。うちあおぎ。扇やうちわなどを動かしてさっと風を起こす。
徳利は制限付き 「徳利」はとっくり、とくり。どんなふうに「制限付き」なのか不明。現在は制限がない徳利です。
暮色 ぼしょく。夕暮れの薄暗い色合い。暮れかかったようす。
一献 いっこん。1杯の酒。お酒を飲むこと。酒をふるまうこと。

「夏目君、君のボートの腕前は…」伊集院静氏

文学と神楽坂

 伊集院静氏の「『夏目君、君のボートの腕前はどんなもんぞな?』(子規)」(シグネチャー、2020年)です。

伊集院静

伊集院静

昨秋から新聞小説を執筆していて、主人公が明治、大正期に活躍した夏目漱石ということもあり、漱石の生まれ育った牛込や、浅草界隈を散策することが多くなった。
 丁度、長く仕事場にしていたお茶の水のホテルから、神楽坂の丘の上にあるホテルに移ってしばらくして、連載小説の執筆がはじまった。
 漱石の誕生、幼少、少年時代から書きはじめることになったのだが、百五十年前の話であるから、遠い時間を想像するのだが、さしてそれが遠い日のことではないのは、七、八年前、漱石と同時代に生きた正岡子規のことを書いた経験で、幕末、明治はつい昨日のことでもあるという考え方ができるようになっていた。

新聞 日本経済新聞
小説 2019年9月11日から伊集院静氏の「ミチクサ先生」が始まりました。
お茶の水のホテル おそらく「山の上ホテル」
神楽坂の丘の上にあるホテル おそらく「アグネス ホテル アンド アパートメンツ東京」
連載小説 伊集院静氏の「ミチクサ先生」が『日本経済新聞』で始まりました。
書いた経験 伊集院静氏の「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社、2013)です。

 新しい仕事場になった神楽坂から、漱石の誕生した牛込坂下すぐ近くである。
 漱石記念館も静かで、思惟するには良い所であった。
 散策する場所を、物語の主人公が歩いていたり、赤ん坊の時なら、泣いていたりしていたのだろう、と想像するのは楽しいものだ。
 漱石は生まれてすぐ実母が高齢だったので、乳を貰わねばならず、里子に出された。里子に出されたが古道具屋だった。が心配になって夕刻見に行くと、夜店の商売道具を陳列した坂の隅に寵に入れられた弟がいたというので、あわてて抱いて帰ったという。その夜店のあった内藤新宿にも、夕刻行ってみたが、今はマンションになっていた。同じく乳を与えたのが、今、毘沙門天のある大通りの前の煎餅屋隣りの二階に髪結いの店があり、そこの女房であったらしい。昼間出かけた折、今は焼鳥屋になっている二階をしばらく眺めていた。
 どんな目をした、どんな赤児が、乳母の乳を飲み、満腹になるとどんな顔で眠っていたのだろうか、と想像した。

牛込坂下 「牛込坂」という坂はありません。漱石が誕生した場所は「早稲田前交差点」から「夏目坂」をのぼりかけた所です。また、誕生した坂は夏目坂です。『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)の想像図を使うと夏目家は赤色で囲まれた場所でした。

夏目漱石博物館

夏目漱石博物館

すぐ近く 「夏目漱石誕生の地」(新宿区喜久井町1番地)から「神楽坂下交差点」までは徒歩で約28分もかかります。また「夏目漱石誕生の地」から「アグネスホテル」までは徒歩で同じく約28分です。
漱石記念館 正しくは「新宿区立漱石山房記念館」です。
実母 母ちゑは数え年42歳でした。
 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 二月中旬、または下旬(不確かな推定)、母乳不足も原因となり、生後ただちに四っ谷の古道具屋に里子にやられる。源兵衛村(豊多摩郡戸塚村宇源兵衛村、現・新宿区戸塚)の八百屋ともいわれる。里子にやられる前後に、神楽坂の平野理髪店の主婦から貰い乳をする。

 夏目鏡子述、松岡譲筆談の『漱石の思い出』(角川書店、1966年)では

(四っ谷の古道具屋は)毎夜お天気がいいと四谷の大通りへ夜店を張る大道商人だったのです。
 ある晩高田の姉さんが四谷の通りを歩いていますと、大道の古道具店のそばに、おはちいれ、、、、、に入れられた赤ん坊が、暗いランプに顔を照らしだされて、かわいらしく眠っております。近よってみるとまごう方なくそれが先ごろ里子にやった弟の「金ちゃん」なのです。何がなんでもおはちいれ、、、、、に入れられて大道の野天の下に寝せられているのはひどい。姉さんはむしようにかわいそうになつて、いきなり抱きかかえて家へかえつて参りました。が一時の気の毒さで連れ帰って来てはみたものの、もともと家には乳がありません。そこでお乳欲しさに一晩じゆう泣きどおしに泣き明かす始末に、連れて来た姉さんは父からさんざん叱られて、しかたなしにまたその古道具屋へかえしてしまいました。こうして乳離れのするまで古道具屋に預けておかれました。
高田の姉 「高田の姉」とは漱石の腹違いの二番目の姉にあたり、ふさです。

その夜店 漱石が夜店に関係したのは、四谷で里子になった時だけです。生まれたときからすぐに里子になり、実家に戻った年月は不明ですが、一年ぐらいでしょうか。続いて内藤新宿北裏町の塩原昌之助の養子になりましたが、時期は明治元年ごろからでした(他の説もあり)。「内藤新宿に夜台があった」と「四谷に夜台があった」とは同一ではありません。「内藤新宿に養父母が住んでいた」のほうが正しいと思います。
内藤新宿 江戸時代に設けられた宿場の一つで、新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯。荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)の中に梅沢彦太郎氏の「夏目漱石の遺墨」『日本医事新報』(第929号、発行は昭和15年6月15日)によれば

漱石さんは五歳の頃、古道具屋へ里子に遣られた。それは自分が母親に連れられて神樂坂の毘沙門さんの緣日に遊びに行つたら、金ちやんが籠に入って、がらくた、、、、道具と一緒に緣日に出てゐたといふので、それは先生が末子で、除りに母親が年をとってから出来たので世間體を恥ぢて里子にやられたもので、その古道具屋は、先生を連れては、淺草、四谷、神樂坂と轉々として夜店を出してをつたものらしく、それでがらくた、、、、道具を列べた傍の籠の中に先生を蒲團にくるんで置いてをつたものであります。
 それで、金ちゃんが笊に入つてゐると言つてをつたので、廣森の母親は漱石先生一家とも交際があったものだから、早速、これを先生の御両親にも傅へた。それで、先生の御一家でも驚かれて、寒いのに、夜店にがらくた、、、、道具と一緒に並べておかれてはといふので、遂に引取つて、實家から小學校にも上り、それで小學校時代から先生とずつと友達だつたと廣森は私に話してゐました
浅草、四谷、神楽坂 この3か所には夜店が出ています。

同じく乳を与えた 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、慶応3年、

 母親は乳が出なかったので、神楽坂の毘沙門天(日蓮宗鎮護山護国寺、現・新宿区神楽坂五丁目三十六番)前の平野という床屋(髪結かみゆい)の先代(または先々代)の主婦から乳を貰う。(鏡・昭和三年)これは、森田草平が漱石から直接聞いている。漱石は直矩から聞いたものと思われる。里子に出される前後らしいが、後であったとも想像される。

「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』(新宿区教育委員会、昭和45年)では「床ヤ・平の」と書いてあります。

平野という床屋

平野という床屋。「古老の記憶による関東大震災前の形」『神楽坂界隈の変遷』昭和45年新宿区教育委員会。

煎餅屋 「毘沙門せんべい 福屋」です。以前は「履物・三河屋」でした。
隣りの二階 「神楽坂界隈の変遷」によれば、居酒屋「伊勢藤」の方が正しいでしょう。「隣りの二階」ではなく「向こう隣りの家で1階」でした。
焼鳥屋 「神楽坂 鳥茶屋」です。当時は「魚國」でした。

 その髪結いのあった場所から五分も歩いた所に地蔵坂という坂があり、その坂の途中に、『和良わらだなてい』という寄席小屋があり、漱石は四、五歳から姉や兄に連れられて寄席へ行っていた。
 子供が寄席へ? と思われようが、江戸中期に全盛を迎えた寄席小屋は、町内にひとつの割合いで店を出していた。子供も父親や家の贔屓の役者、噺家はなしかの楽屋へ遊びに行き、菓子等をもらっていた。その『和良店亭』のあった坂道に立つと、一高の学生になった漱石が子規と二人で寄席見物に出かけた姿を思い、何やら楽しい気分になった。

地蔵坂 神楽坂通り4丁目から光照寺に行く坂。地域名は藁店わらだな
和良店亭 江戸時代からの牛込で一番の寄席。寄席は閉店し、明治39年に「牛込高等演芸館」が新築されました。
四、五歳 矢野誠一氏の『文人たちの寄席』(文春文庫)では

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。


 荒正人氏の『漱石研究年表 増補改訂版』(集英社、昭和59年)によれば、明治2年、数え年3歳で、

12月20日(陰暦11月18日)(推定)、『桃山譚』の「地震の場」の初日を養父昌之助に連れられて観に行く。(最初の記憶)(小森隆吉)

と書かれています。
姉や兄に連れられて 八歳になる前の漱石は養子で、養父母のもと、一人っ子として生活しました(荒正人著『漱石研究年表 増補改訂版』集英社、昭和59年)。漱石が四、五歳の時に「姉や兄に連れられ」たという経験はおそらくありません。



伊集院静氏「糖蜜、みっつ」

文学と神楽坂

伊集院静 伊集院静氏は以前は電通やCMディレクター。再婚で女優・夏目雅子氏と結婚したが、妻は死亡。1992年『受け月』で直木賞。女優の篠ひろ子と再々婚。代表作に『機関車先生』など。誕生日は昭和25年2月9日。
 これは氏が三井住友トラストクラブの「シグネチャー」2019年11月号で神楽坂について書いたエッセイです。吉田博氏の木版画「東京拾二題 神楽坂通 雨後の夜」(昭和4年)も付いていました。

和可菜 初めて神楽坂に足を踏み入れたのは、30歳代半ばであったと思う。
 ベテランの編集者に連れられて、タクシーを毘沙門天の前で降り、煎餅屋の脇の細い路地に入り、ちいさな階段を降りて行くと、黒塀の旅館があり、編集者に、ここです、ここでしばらくあなたは頑張るんです、と笑って言われた。
 そこが今月号の扉ページの写真にある『和可菜』という旅館だった。
 木戸を開けて玄関に入ると、老婆が奥の暗がりからあらわれて、あら△×さんいらっしゃい、と言った。こちらが厄介になる伊集院君です。と私を紹介した。私は老婆の顔をじっと見ていた。百歳はとうに越えているのではと思った。
「先生、じゃ部屋にご案内しましょう」
――先生とは誰のことだ?
 どうやら私らしかった。私は子供と老人をあまり好まないので、ちいさく吐息を吐いた。
 初印象と違って、老婆はいい人だった。
 三和土たたきを上がって階段を先に上がる老婆の背中を見ていると、階上から、ミャーオと声がした。見ると黒っぽい猫が一匹、私たちを見下ろしていた。
 三十数年前のことだから猫の名前も、老婆の名前も失念したが、どちらかがトラという名前だった気がする。

百歳はとうに越えている 筆者が35歳と仮定すると、当年は1985年です。「和可菜」の女将、和田敏子氏は1922年に誕生したので(黒川鍾信『神楽坂ホン書き旅館』日本放送出版協会、2002年)、この時は63歳でした。
三和土 土やコンクリートで仕上げた土間。古くは、たたき土と石灰とにがりを混ぜて練ったものを土間に塗り、たたき固めた床仕上げ。

 先月、今はなくなった、その旅館『和可菜』の路地を歩くと、看板は残っていた。
 この塀を飛び越えると、ちいさな池のある小庭があった。水のない池に、あの猫が入って日向ぼこをしていた。
「何やってんだ、おまえ」
 猫は返答しなかったが、気分は良さそうだった。一度、小鳥をくわえて廊下を自慢気に歩いている姿も見た。
 あの夜、連れて行かれた鮨屋とは三十年余りつき合ったが、去年、暖簾を下ろした。
 神楽坂は色川武大さんの生家が近く、先生と二人で競輪の帰りに坂下にある甘み処に入った夕暮れがあった。
 先生は店の人に「餡蜜みっつ」と言った。
 目の前に私のひとつと先生のふたつが並んでいた。ひとつ食べてから、もうひとつ注文すればいいのではと思う人があろうが。
 私は先生のこういうところが好きだった。
「美味しいでしょう? 伊集院君」「はい」

今はなくなった 以前は娘が和可菜を継いでいたようですが、2015年末に閉店
鮨屋 『和可菜』から近くて、現在閉店した寿司屋には「青柳寿司」と「二葉」があります。「青柳寿司」は2013年に閉店、「二葉」は2015年に閉店。ほかに2018年に閉店した寿司屋があるのか、わかりませんでした。
甘み処 あまみどころ。甘い味の菓子を出す飲食店。おそらく「ぜん」のこと。
餡蜜 あんみつ。あんをのせた蜜豆みつまめ。蜜豆とはゆでた赤豌豆えんどう、賽の目に切った寒天、果物などを容器に盛り、蜜をかけて食べるもの。

お蔵坂(360°カメラ)

文学と神楽坂

「お蔵坂」ってどこにあるのでしょう。これは神楽坂通りから小栗横丁を通り、銭湯「熱海湯」から南に上がる神楽坂二丁目の坂道のことです。

お蔵坂

小栗横丁、堀見坂、お蔵坂。大正元年

 この大正元年の東京市区調査会(上図。1917。複製は「地籍台帳・地籍地図」東京、第6巻、地図編2、地図資料編纂会、柏書房、1989年)を見ると、小栗横丁、堀見坂、お蔵坂はすでにあります。

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「お蔵坂」が始めて出てきます。なお、阿久津信芳氏は環境緑化新聞社編集部、林功幸氏は「巴有吾有」オーナー、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表でした。

阿久津 それから若宮八幡を前に見て、小栗横丁の、「熱海湯」の前に下りるまでの小路。
林   あそこは今度、ビジネスホテルが建つとかで。
坂崎  あの坂の細い道は残るのかしら。
林   残るでしょう。残さないと人が通れない。もともと蔵のようなものがあったところなんですよ。
坂崎  じゃあ『お蔵坂』と。マンションが建つと日陰で暗くなるかもしれないけど。暗い細道というのもいいものなんです。

ビジネスホテル アグネスホテルです。
蔵のようなもの 本当の蔵はなかったようです。1962年の住宅地図以降では住宅街とアパートです。1952年、火災保険特殊地図でも住宅街とアパートでした。今でもそうですが、窓は少なく壁だけが見えたので、蔵のようにみえただけでしょう。

 明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、お蔵坂だけが途中でなくなっています。でも、お蔵坂そのものはあります。

明治29年、神楽坂二丁目

明治29年、東京市牛込区全図

 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。

お蔵坂3

お蔵坂3

 つまり明治28年には2つの坂はまだなく、明治28年ごろに着工し、明治29年、一部分が完成したのです。

 もうひとつ、上の図で真ん中の坂(青色)にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。昭和57年、新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」の412頁から仮に「ほりたんざか」と付けておきます。あるいは「堀見坂」と対照的な「不見ふけん坂」はどうでしょうか。ほかに「堀不見坂」「堀聞坂」「堀闇坂」などは? あるいは「神楽坂前通り」では?

360度VRカメラ(3)

クランク坂


藁店

袖摺坂

鰻坂

熱海湯


泉鏡花・北原白秋旧居跡

芸者新路

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21


 石畳とマンホール
石畳

石畳

文学と神楽坂

見番横丁|神楽坂3丁目(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 見番横丁を見ておきたいと思います。下の写真では中央の灰色の道路が見番けんばん横丁です。その下の青い色の道路はここで登場する場所。さらに、右側に熱海湯階段があります。➀から⑫までは「見番横丁」で、㉑は「熱海湯階段」です。

 当然、全てが上下左右に360度、動きます。矢印をたたくと、前に進みます。

 写真は2019年6月2日です。この食堂たちは、5年後にどれだけが残っているのでしょうか。一応「食べログ」では「中むら」が最高点で4.07、次は「蕎楽亭」で3.88でした。

見番横丁

見番横丁


➁ 伏見火防稲荷神社標柱
➂ 神楽坂組合(芸者の組合)、バル「hajimenoippo 2」、ビアバー「スリジエ
➃ フレンチ「メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ
➅ 神楽坂3丁目テラス(鉄板焼き「中むら」、イタリアン「コグスダイニング」、神楽坂鮨 りんシマダカフェ
➆ 串焼き「串 358
⑩ 焼き鳥「文ちゃん
⑫ 生ビール「ザロイヤルスコッツマン」、イタリアン「Ristorante FIORE」、和食「ほそ川
⑬ 石臼挽き手打蕎楽亭