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牛込の文士達➀|神垣とり子

文学と神楽坂

「牛込の文士達」(新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷、新宿区立図書館、 昭和45年)を書いた神垣とり子氏は1899年(明治32年)に貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた江戸っ子で、美貌でも気性は激しく浪費家で、しかも、相馬泰三氏の元妻。この2人、大正9年に結婚して、しばらくして横寺町の小住宅を借りていました。しかし、この結婚は長続きできず、離婚します。ただし、相馬氏が死亡した直前の昭和27年に再会し、亡くなるまで傍にいました。
 これは大正10~12年頃の世界です。

  牛込の文士達
「火事はとこだい」
「牛込だい」
「牛込のきん玉丸焼けだい!」
 牛込というと明治、大正時代の東京の子供達は、こういって噺し立てるほど、牛込の牛宿は芝の高輪車町辺の牛宿と共に有名だった。そして両方とも近所に飲み屋や小料理屋があり賑わったものだ。牛込の神楽坂は表通りが商店、裏通りは花柳界で、昔の牛込駅から入力車にのるとかなりの坂道なので車力が泣いたといわれた。「東雲のストライキ節」をもじって
「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」と替唄が出来た。
 毘沙門さまの本堂の鈴が鳴り出し、お百度道の石だたみに芸者の下駄の音が一段と冴えてくると毘沙門横丁の角のそばやの春月で「イラッシャイ」  ふらりっとはいるお客が気がつくと一羽のオームがよく馴らされていていうのだ。「もり」「かけ」 5銭とかいてあるので、もりかけを注文して10銭とられた上、もりの上からおつゆをかけて袴を汚した早稲田の学生の逸話もあった。その学生達にとりまかれて着流しのいわゆる「文士」連がいた。

牛宿 牛の牧場のこと。神楽坂には大宝律令で牛の牧場が開けて以来の歴史があります。701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧ぎゅうまき」という牧場が設置、飼育舎「乳牛院」が建てられたという。古代の馬牧が今日都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているが、古代の牛牧では「牛込」に当てはまるという。
高輪車町 高輪牛町。たかなわうしまち。牛町。市ヶ谷見附の石垣普請の時、重量運搬機の牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せて材木や石類の運搬に当たらせた。工事終了後、この町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えた。「車町」(通称牛町)とよぶ。
車力 大八車などで荷物を運ぶのを職業とする人や荷車
東雲のストライキ節 東雲節、しののめ節、ストライキ節。明治後期の1900年ころから流行した流行歌はやりうたのひとつ。代表的な歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」
お百度 病気平癒や念願成就のため社寺に参りて、その境内の一定の距離をはだしなどで100回往復し、そのたびに拝する軽い苦行
もり 従来のつゆに浸して食べること。一説には高く盛りあげるから。
かけ 「おそばにつゆをぶっかけて食べ始める」から「ぶっかけそば」転じて「かけ」
着流し はかまや羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり。

 大正の初めから神楽坂は「文士の街」になった。そうして山の手随一のさかり場だった。肴町を中心にして文なし文士は「ヤマモト」で5銭のコーヒーと、ドーナツで2時間もねばりおかみさんの大丸まげにみとれていた。
 雑司ヶ谷の森から木菟みたいに毎晩やってくるのは秋田雨雀で、雨が降ると見えないのは雨傘がないからだろうなんていわれていた。秋田雨雀は小柄な人なつっこい童顔でだれかれに愛想よく挨拶をしてゆく。「土瓶面なあど精二」とは、印度の詩入ラビンドラナート・タゴールが来朝して若い男女が話題にしたのをもじってつけた名で、谷崎精二潤一郎の弟でいい男だと己惚れていたが履物が江戸っ子のわりには安ものらしくすりへって、そり上げた額の青さとは似ても似つかぬものだった。矢来町を通って弁天町からやってくるのだから下駄もへってしまうのだろう。「」(このしろ)みたいに妙に青っぼい着物ばかり着ている細田民樹が五分刈りの頭でヒョコヒョコと歩いていた。

大丸まげ  既婚女性の代表的な髪型。丸髷の大きいもの。

大丸髷

雑司ヶ谷 東京都豊島区の町名。池袋から南に位置する。
木菟 みみずく。フクロウ科のうち羽角(うかく、いわゆる「耳」)がある種の総称。
土瓶面なあど精二 「ドビンメンナード・精二」と名前をつけたわけです。
ラビンドラナート・タゴール インドの詩人、思想家、作曲家。1913年、ノーベル文学賞を受賞。1916年から1924年まで5回来日。生年は1861年5月7日、没年は1941年8月7日。
弁天町 谷崎精二は大正8年頃から昭和元年頃までは弁天町6に住んでいました。
 このしろ。ニシン科の海水魚。全長約25センチ。約10センチのものをコハダという。
細田民樹 早稲田大学英文科卒。大正2年「泥焔」を「早稲田文学」に発表。島村抱月らの称賛をえ、早稲田派の新人に。兵役の体験を大正13年に「或兵卒の記録」、昭和5年「真理の春」として発表。プロレタリア文学の一翼を担った。大正10年から12年頃まで北町41の大正館。生年は明治25年1月27日、没年は昭和47年10月5日。

 都館という下宿やの三階に広津和郎が女房と暮していた。くたびれているが栗梅色縫紋の羽織着てソロリとしていた。親爺の柳浪お下りだといっていたがシャレタ裏がついていたっけ。ルドルフ・バレンチノにどこか似ているといわれていたが、本物が聞いたら泣きべそをかくだろうけど文士の中ではともかくいい男だった。宇野浩二葛西善蔵と歩いていると贅六や田舎っぺと違っていた。
 詩人の生田春月白銀町豆腐やの露地裏のみすぼらしい、二階に住んでいた。名とはあべこべの花世女史とー緒にいた。この花世女史が、油揚げを買ってる姿をよく見た。女弟子らしいデパートの女店員が二階にいた。これもだらしのない姿で、裾まわしがきれて綿が出ていても平気で神楽坂を散歩していた。「帯のお太鼓だけが歩いている」なんて背のひくい花世女史の陰口を長谷川時雨をとりまく女たちがいっていたが、花世はむしろ媚をうって男の詩人仲間を娼婦的に泳ぎまわる彼女らを見くだしていた。

栗梅色 くりうめいろ。栗色を帯びた濃い赤茶色。#8e3d22。#8e3d22
縫紋 ぬいもん。刺繍ししゅうをして表した紋。
ソロリ 静かにゆっくりと動作が行われるさま。そろそろ。すべるようになめらかに動く。するり
お下り おさがり。客に出した食物の残り。年長者や目上の人からもらった使い古しの品物。お古。
ルドルフ・バレンチノ サイレント映画時代のハリウッドで活躍したイタリア出身の俳優。生年は1895年5月6日.没年は1926年8月23日。
贅六 ぜいろく。関東の人が上方かみがたの人をあざけっていう語]
豆腐や 『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は白銀町を描き、豆腐屋は現在の交番に当たるといいます。

白銀町・豆腐屋

花世 生田花世。いくたはなよ。大正から昭和時代の小説家。大正2年、平塚らいてうの「青鞜せいとう」同人となり、昭和3年「女人芸術」誌の創刊に参画した。夫の生田春月の死後「詩と人生」を主宰。生年は明治21年10月15日。没年は昭和45年12月8日。享年は満82歳。
裾まわし 裾回し。すそまわし。着物の裾部分の裏布をいう。
お太鼓 おたいこ。女帯の結び方の一種。年齢,未婚既婚を問わず最も一般的な結び方

再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

地価

神田千代田区神田須田町一丁目26番2513万
日本橋中央区日本橋3-11-1817万
銀座中央区銀座4-5-65770万
虎ノ門港区虎ノ門1-15-161050万
赤坂港区赤坂4-1-30540万
四谷新宿区四谷1丁目9番2外554万
神楽坂新宿区神楽坂2丁目12番18287万
後楽文京区後楽1-4-18305万
本郷 文京区本郷3-39-4220万
湯島文京区湯島3-39-10413万

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



新宿時物語|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

新宿時物語

  新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)です(右図)。副題は「新宿区60年史」で、なかでも神楽坂の写真は沢山あります。
 さて、次の写真(下図)は「神楽坂の料亭街」と書いてあります。問題は、この場所はどこでしょうか。
 この写真と同じ頁に「楽 昭和20年代」と書いています。おそらく戦争も終わって「楽」が訪れたのしょうね。写真中央にもスカートをはいていて、文章も「ようやくにぎわいを取り戻した」と書いてあります。しかし、どう見ても「料亭街」らしくは見えません。本当に昭和20年代なの?

新宿区「新宿時物語」(星雲社、2007年)

 歴史博物館に聞いてみました。答えは、「100ページ『神楽坂の料亭街』の写真は新宿歴史博物館に所蔵しています。然しながら、申し訳ありませんが、写真のデーターに説明がなく、詳しい場所などはわかりません。昭和20年代には今よりもこの写真のような黒塀の建物は多かったようです。ただ、ほかの写真からの類推ですが、神楽坂毘沙門天の路地を入った料亭松ヶ枝付近かもしれません」
 これっておかしいでしょ。「料亭松ヶ枝付近」は絶対違う。そこで、地元の方に聞きました。答えは、神楽坂5丁目の一部だといいます。下の図を見てください。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。本当にここ以外に、なさそうです。さらに各々の家も書いてみました。

➀芸妓 分まん
➁法律OF 野町
➂民家      一時は神楽坂はん子の家に
➃料理 山下   柳家金語楼のお妾さんの家に
➄芸妓 富沢

 何もない写真だと思ったら、神楽坂はん子と金語楼がでている。こんな絶妙の写真でした。たぶん、この写真は、だれかが秘密を取り出すまで、じーっと待っている。まあ、違う可能性もあるけれど。

神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

神楽小路 みちくさ横丁 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁



名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 迷信から。神楽坂からはちょっと離れています
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から
神楽坂の通りと坂でさらに多くをまとめています























 16/3/13->20/8/6

神楽坂

文学と神楽坂

 新宿区「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(新宿区教育委員会、昭和51年)では…

 神楽坂とは、国鉄飯田橋駅九段口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代からあった名称である。

 歴史博物館「新修 新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(平成22年、新宿歴史博物館)では

 JR飯田橋駅西口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代から神楽坂という名称で呼ばれていた。
 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。
 この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。

隣区の肴町 文京区駒込肴町と混同したのでしょう。現在は文京区駒込肴町ではなく、文京区向丘1丁目か2丁目になります。

 実際の陳情書は昭和30年「新宿区史」766頁に書いてあります。以下は旧漢字を新漢字に書き換え、読みにくい漢字を平仮名に変えた等をしたものです。

     陳  情  書
 江戸名所図絵や江戸砂子などに残る古き牛込村は、丘陵起伏する武蔵野の一部、往昔は放牧の地であったとさえ、ある記錄は伝えている。徳川時代に入ってようやく人煙を増すに至ったものの『神楽坂』と『牛込』との限界はすこぶる不明確のまま、その名のみ人々の意識の中に深く刻まれて今日に及び明治初期の行政区画によって丁目と町名とは一応整ったが、
  坂上に下宮比町としばしば混同される上宮比町がありこれに接して隣区肴町と誤認され易き牛込肴町が横たわり更に西方へ数丁通寺町が伸びている 等

捕捉に苦しむ所が多い。これがため行政区画とは別に肴町、上宮比町、通寺町等の住民は、数十年来『神楽坂通り』と云う総称を用い、大衆もまたこれを肯定して日常の要務を弁じている。殊に通寺町の如きは戦災に遭って全町焼土と化するや、直ちに『大神楽坂商店街』と誇示するに至った。神楽坂より六、七丁をへだたった通寺町においてさえかくの如き実状であるため、関係町民と他区域より来訪する人々とが日常の生活上や取引上幾多の煩雑不利を招きつつあるとは枚学にいとまなき所、どこよりどこまでが神楽坂か何人も明答すること能わざるのが現実である。
 数百年来、あまねく知られた名を慕ふのは人情の常、その名を襲用して宣伝価値の昂揚を図るは商業者として当然の帰結、神楽町、上宮比町、肴町、通寺町等に居住する区民が行政区画上の町名を斥け、現実に即した『神楽坂何丁目』と左記の通り町名改称を熱望するに到った事は全く自然の趨勢であり土地発展の永久的対策というも断じて過言ではありませぬ。しかもこれが実現の暁、利便を享受するものはひとり関係住民のみでない事も瞭かであります。
 神楽坂附近一帯の堅実な復興と発展とを期し、あわせてひろく都民相互間の利益をもたらす本件実現のため、何卒格別の御明鑑を仰ぎ、一日も速かに御採択願度くひたすら御願申上げます。
 さらに関係各町住民の連署を以て陳情致します。
 (変更前の町名)    (変更後の町名)
  神楽町 一丁目     神楽坂一丁目
  同   二丁目     神楽坂二丁目
  同   三丁目     神楽坂三丁目
  上 宮 比 町     神楽坂四丁目
  肴     町     神楽坂五丁目
  通  寺  町     神楽坂六丁目
昭和25年  月  日

往昔 おうせき。過ぎ去った昔。いにしえ。往古。
人煙 人家から立ち上る煙。転じて、人の住む気配。



牛込駅リターンズ

文学と神楽坂

 2020年7月12日、JR飯田橋駅が新しい駅に生まれ変わります。駅の西口も新しいものにかわる予定です。さて、地元にお住まいの協力者の方から、こんなメールを頂きました。

駅舎完成イメージ

 神楽坂の住民にとって、もちろん飯田橋駅はなじみ深い駅なんですが、飯田橋という地名は千代田区のものだし、駅舎も東口に「みどりの窓口」があるなど飯田橋側がメーンなんです。神楽坂に近い西口は、どうしても裏口的な感じがありました。
 この東口と西口の競争みたいな感情は多分、旧牛込駅旧飯田町駅の時代から続くものなんでしょう。地下鉄の有楽町線のができる時、地元商店会は「駅名を『神楽坂』に」と運動したんです。東西線に『神楽坂』駅があるので無理だと分かっていても、目の前の駅が別の名前であることは納得しがたかったんでしょう。
 もう立ち消えになったようですが、東口に近い新宿区側の下宮比町に町名変更の話があって、その候補名が「西飯田橋」だという。そりゃないだろと思いました。今も「飯田橋駅東口郵便局」が下宮比町にあるんてすが、おかしいですよね。けど地方の人からしたら、飯田橋の方が分かりやすいんでしょう。駅名って、とても大事だと思います。
 昔の国電の飯田橋駅西口は、改札を入ってから長い傾斜路でホームに降りていくので、電車が見えているのにドアが閉まって発車してしまう。そんな時に東口との距離を感じました。
 今のJR飯田橋は普通の各駅停車の駅ですが、昔はちょっと違ったんです。総武線と中央線の線路の脇に、隣接する飯田町貨物駅引き上げ線があって、狭い場所ながら貨物列車の入れ替えがあった。この引き上げ線の跡地は、新しい西口を作るまでの仮駅舎になりました。
 それと千葉方面から来る総武線の各駅停車は何本かに1本、飯田橋が終点でした。市ヶ谷の方にあった折り返し線に入ってから、向きを変えてホームに入ってきて、今度は飯田橋始発になる。ちょっとターミナル駅みたいな感じがありました。大人が「昔の甲武鉄道は、ここが始発駅だったんだよ」と言っているのを聞いて、なるほどなと思ったものです。
 各駅停車の飯田橋始発着がなくなったのは1990年ごろかな。折り返し線も撤去されました。ちょうどそのころ、地元の商店会にJR側から「いずれ、あの折り返しの線の場所にホームを移したい」という意向が伝えられました。曲線ホームが危険だということは、ずっと前から認識されていましたからね。この話に地元は大いに期待しました。けど実現するまで30年かかった。
 新しい西口の駅舎には「みどりの窓口」も出来て、今度は西口がメーンになります。東口からは古いホームを歩いてこないと電車に乗れない。ちょうど昔と反対の立場です。
 ほかに西口の旧駅舎で、思い出話がふたつあります。ひとつは、いまラムラに入るみやこ橋のところにあった古い神楽坂警察署の木造の建物。1970年頃、もう警察は移転していたんですが、剣道場が残っていて人が出入りしていました。機動隊も一緒に使っていたんじゃないかな。
 もうひとつは桜の木です。駅から牛込見附の交差点まで下りる坂に大きな桜が2本ありました。花の季節は綺麗なんですが、桜って毛虫がつくんですよ。初夏になると頭の上からポロポロ落ちてきて、そこを通勤通学の人が歩くものだから、もうグチャグチャで大変。苦情が出たんでしょうね、いつの間にか伐採されました。
 お堀の脇の土手公園も、昔はもっと桜が生えていたと思います。けど同じ苦情で、通路の部分の木を減らしたようです。今も桜の名所ですが、毛虫が話題にならないのはなぜなんでしょうね。

旧飯田町駅 甲武鉄道で牛込駅の東で、次の駅。飯田町駅開業当初は始発駅。1928年(昭和3年)に牛込駅と同時に廃止、両駅の中間の曲線部分に飯田橋駅が開業。その後、飯田町駅は荷物や貨物の専用駅になり、1999年(平成11年)飯田町駅は廃止。
 営団地下鉄有楽町線の飯田橋駅です。1974年開業。
運動 駅名が正式決定する前の段階なので、開業の1-2年前でしょう。商店会から営団地下鉄に要望しました。
東西線に『神楽坂』駅 1964年開業。有楽町線に比べて東西線神楽坂駅の開設は10年早い。
下宮比町に町名変更の話 噂として聞こえてきた話です。神楽坂は住居表示「未実施」で、下宮比町は昭和63年2月15日に「実施」しえいます。おそらく、その前の「候補」か「構想」の段階だと思います。
飯田橋駅東口郵便局 新宿区下宮比町3-2で、大久保通りに面しています。
飯田町貨物駅 アイランズ著『東京の戦前昔恋しい散歩地図』(草思社、2004年)で、飯田橋貨物駅は

飯田橋貨物駅

また、アルビオ・ザ・タワー千代田飯田橋では

飯田橋貨物駅(旧飯田町駅・昭和63年)毎日新聞社

引き上げ線 停車場において、列車や車両の方向転換や入れ換えを行うために、一時的に本線から列車(車両)を引き上げるための側線。
折り返し線 あきぼうのブログ(https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html)に「折り返し用引き上げ線があった」として「この線路と線路の間の土地は、かつて飯田橋駅で折り返していた千葉方面への折り返し列車を引き上げていた線路跡なのです。現在折り返し運転が亡くなったため線路は撤去されています。そこで、この線路跡の土地を利用して飯田橋駅の改良工事が進められています。」と書かれています。下の図「飯田町駅牛込間新停車場」の1番奥の線路は折り返し用引き上げ線です。

飯田橋駅と牛込見附と橋

https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html

西口の駅舎 新西口駅舎は、鉄骨造・2階建て。延床面積は約2200㎡。多機能トイレ1カ所、1人乗りエレベーター1基が設置。一階は駅施設と店舗(3店舗)、二階は店舗(2店舗)。

https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200616_to02.pdf

ラムラ 昭和59年、総合ショッピングセンター・ラムラと飯田橋セントラルプラザが完成しました(東京都建設局「飯田橋夢あたらし」平成8年)

https://chikatoku.enjoytokyo.jp/spot/ramla.html

みやこ橋 牛込橋の周縁道路と総合ショッピングセンター・ラムラをつなぐ橋

http://ramla.jp/type_a1/pc/images/facilities/facilities_map.jpg

みやこばし

毛虫が話題にならない 自治体の人が桜が咲き始める前に大量の殺虫剤をまくらしいと、あるブロガー


新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。
⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。
➉桜の木 悪いことも起こしました。細かくは牛込駅リターンズで。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。


山の手銀座の文人宿――神楽坂・和可菜

文学と神楽坂

泉麻人

泉麻人

 麻人あさと氏の「東京ディープな宿」(中央公論新社、2003年)です。
 氏は、慶応義塾大学商学部卒業。1979年4月、東京ニュース通信社に入社し、『週刊TVガイド』の編集部に所属。1984年7月に退社して、フリーランスに。雑誌のコラムやエッセイの執筆、テレビの評論などに従事しました。生年は1956年4月8日。

 神楽坂、というのは、いまどきの東京において”独特のポジション”にいる街である。いわゆる情報メディアで取りあげられる東京の街は、都心の銀座、それから六本木青山白金……といった港区勢、この港区を震源にした“オシャレ志向の街”は、渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川、さらに新宿を基点にした高円寺吉祥寺などの中央線沿線のグループと、大方東京の西部に点在する。
 こういった“山の手趣味”の面々に対して、人形町浅草谷中門前仲町柴又あたりまで含めた“下町”と冠されたスポットが東京東部に散りばめられて、ここに新進の湾岸都市・お台場が加わる――といった情勢である。
 地図を広げてみたときに、丸い山手線内の、しかも中央・総武線の上にぽつんとある神楽坂のポイントは、他から隔離されたような印象がある。都心のなかのブラックボックス、とでもいおうか。そんな、ふと忘れられがちなポジションが、おおよその東京の繁華街に飽きた通人の興味をそそる。「どこにアソビに行こうか?」なんてことになったときに、「神楽坂」の名を出すと、どことなく粋な印象が放たれる……そんな効果がある。

神楽坂 下図で、紫色の丸。
銀座六本木青山白金 黒丸で
渋谷代官山下北沢自由ヶ丘二子玉川 赤丸で
新宿高円寺吉祥寺 ピンク色の丸で
人形町浅草谷中門前仲町柴又 青丸で
お台場 緑の丸で

地下鉄

地下鉄

 神楽坂は独特のポジションにいると氏はいいます。「山の手」でも「下町」でもなく、「他から隔離」して、「ブラックボックス」で、「忘れられがち」であっても、「粋」な場所。2000年までは「忘れらた」町、それ以降では、なぜか「粋」な町と書かれていることは確かに多くなってきました。

 ところで僕が神楽坂へ通うようになったのは、この10年来くらいの話である。通う、という表現はちょっと違うのだが、よく仕事をする新潮社が坂上の矢来町にある。オフィスの裏方に、古くから作家を“カンヅメ”にする屋敷があって、僕もそこを利用するようになってから、カンヅメ期間中、夜な夜な繰り出すようになった。
 そんな折、本多横丁周辺の小路をふらついていると、花街めいたなかなか味のある宿が見える。当初目をつけていたのは「かくれんぼ横丁」と名の付いた、クランク状の小路に見つけた「旅荘駒」という1軒だった。かくれんぼ、の名の如く裏道めいた場所と、「旅荘」という古風な冠にそそられたのだが、電話帳で調べて連絡すると、「予約はできません、夜10時からやってます」と、ぶっきらぼうに言われた。飛び込みオンリーの、いわゆる連れこみなのだ。
 ま、そういう所に1人で入るのも、ある意味で面白いかもしれないが、仮に満室で追い返されて、夜更けに1人路頭に迷う……なんてケースはやはり避けたい。もう1軒、編集者から「和可菜」という宿を聞いていた。僕は見落していたが、本多横丁の1本北方の小路に、黒塀を見せた趣きのある宿が建っている。取材の数日前、下見を兼ねてあたりを歩いたとき、門をくぐると感じの良さそうなおかみさんが出てきて、その場で宿泊の予約をとった。

屋敷 作者をカンヅメにする施設は新潮社クラブです。新潮社クラブ
旅荘駒 現在は「坂の上レストラン」にかわりました。

旅荘駒 かくれんぼ横丁

2000年ごろの旅荘駒

連れこみ 愛人を同伴し旅館等にはいり込むこと。
おかみさん 「和可菜」の女将さんは和田敏子氏でした。

 これで氏は「和可菜」に泊まってみました。

 お茶をいれにきたおかみさんに、この家の歴史などを伺ってみる。70くらい……と思しき彼女が、この宿を始めたのは昭和29年。うすうす噂は聞いていたが、昔から芸能関係者や作家……に親しまれた旅館だという。
「はじめの頃は、千恵蔵さんとか歌右衛門さん、東映の関係の役者さんやシナリオ作家の方に御聶厦にしていただきまして、そのうちにテレビが始まりましてね、『ダイヤル110番』『七人の刑事』のシナリオの方なんかがウチでよくカンヅメで仕事されてたんですよ」
 僕の年代が、ぎりぎりでわかる懐しい役者やテレビ番組の名前だ。
 その後、寅さんの山田洋次野坂昭如……と、お馴染みさんの名が挙げられた。作家でも、放送、芸能寄りの人々に愛されてきた宿のようである。(略)
 いわゆる“性事”をウリモノにした待合昭和33年の売春防止法の施行をもって廃止されたわけだが、芸者あそびをする料亭、の類いは昭和30年代の終わり、東京オリンピックの頃まで盛況を博していた、という。
「だいたい、坂を3分の1上ったあたりから上が、そういう大人の遊び場だったんですよ」
 3分の1というと、おそらく神楽坂仲通りから上の一帯、だろう。
「いまはぞろぞろ上の方まで若い学生さんたちが歩いてますけど、昔の早稲田の学生さんたちは、坂の3分の1までしか上がってこなかったもんです」
 まあ多少色を付けた話なのだろうが、かつては、そういう街としての“境界”がハッキリしていた、ということなのだろう。

70くらい 和田敏子氏は1922年に誕生しました。この文章が書かれた2001年には79歳になっていました。
千恵蔵 片岡千恵蔵。時代劇の俳優。生年は明治36年3月30日、没年は昭和58年3月31日。享年は満79歳。
歌右衛門 中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日、没年は平成13年3月31日。享年は満84歳。
ダイヤル110番 1957年9月から1964年9月まで日本テレビで放送された刑事ドラマ。
七人の刑事 1961年10月から1969年4月までTBSで放送された刑事ドラマ
山田洋次 映画監督。『男はつらいよ』など。生年は1931年9月13日。
野坂昭如 作家、歌手。生年は昭和5年10月10日、没年は平成27年12月9日。享年は満84歳。
昭和33年の売春防止法 「この法律は、昭和32年4月1日から施行する」と書いてあります。昭和33年に赤線が廃止されました。赤線とは半ば公認で売春が行われていた地域です。
早稲田の学生さん おそらく東京理科大学のほうが多かったのでは。市電や都電ができると、多くの早稲田の学生さんが遊びに行くのは新宿でした。

 今の本によると、昭和初めの当時、神楽坂には演芸館や映画館が5、6軒ばかりあったようだ。宿のおかみさんの話でも、いまパラパラで有名なディスコ「ツインスター」の所は、かつて映画館だったらしい。現在、神楽坂のメインストリートに劇場は1軒も見られないが、並行するこの軽子坂の下の方に、「キンレイホール」と「くらら劇場」というのが2軒並んでいる。キンレイは通好みの洋画の類いをかける名画座、くららの方はポルノ館である。
 くらら、という名も面白いけれど、横っちょに張り出された上映作品の掲示を何とはなしに眺めていたら、奇妙なタイトルが目にとまった。
「痴漢電車 くい込む犬もも」
 犬もも? 特殊なマニア向きの路線、と考えられなくもないが、これはやはり「太もも」の書き損じだろう。
 そんなおかしな看板を見た帰りがけ、宿の近くの小路で、不思議な表札に出くわした。立派なお屋敷風の家の玄関の所に「牛腸」とぽつんと出ている。料亭のようにも見えるから、もしや店の屋号かもしれない。牛の腸料理でもウリモノにしているのだろうか……。しかし、台湾料理の店なんかだったらわかるが、おちついた料亭風の佇まいに「牛腸」というネタは馴染まない。文人宿 帰ってきてからインターネットで検索してみたら、「牛腸」と書いて“コチョウ”と読ませる姓を持つ人が、けっこう存在することを知った。とはいえ、この夜神楽坂で目撃した「犬もも」と「牛腸」のネームは、謎めいた暗号のように脳裡にこびりついた。

パラパラ パラパラダンス。1980年後半、日本由来のダンスミュージック。
ディスコ「ツインスター」 1992年12月~2003年、ディスコの神楽坂TwinStarがありました。
映画館 1952年~1967年、メトロ映画館がありました。
キンレイホール 1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら劇場 成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。地下で3本立てで行っていました。
牛腸 「牛腸」は普通の一軒家でした。場所はクランク坂下。現在は「ROJI神楽坂ビル」で、料理店4軒があります。西に寺内公園があります。
牛腸

漱石の東京|武田勝彦

文学と神楽坂


武田勝彦

武田勝彦

  武田勝彦氏の『漱石の東京』(早稲田大学出版部、1997年)です。この伝記はかなりほかの本とは違ったところがあります。つまり、細かいことが重要なのです。特に「それから」の中心は市電です。東京市には市電が市内に縦横に張り巡られていて、したがって、市電を知らないと、この本の問題もよくわからないとなってしまいます。
 武田勝彦氏の生年は1929年5月4日、没年は2016年11月25日。享年は満87歳でした。

   和良店の坂道

 小説「それから」は、明治42年6月27日から10月14日まで、110回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された。初版は春陽堂(明治43年1月1日)から刊行された。この作品の主要な舞台は、牛込台、小石川台、そしてその間を流れる江戸川べりである。また、赤坂台の青山もこの作品の主大公の実家があるので見逃せない。下町では、銀座、木挽町、神田が登場する。また、当時は汐留の新橋停車場が東京の中央駅であったので、主人公もここに足を運ぶことがある。
 主人公長井代助は30歳の高等遊民である。学校を卒業しても定職を持たない。父、得の庇護を受けて生活している。牛込区袋町5番地あたりに家を借りて住んでいる。婆さんを傭い、書生を置く結構な身分である。
 代助の家を袋町と推定したのは、「ところ天氣てんき模樣もやうわるくなって、藁店わらだながりけるとぽつ/\した」との描写があるからだ。江戸から明治にかけて、東京には二つの藁店があった。一つは、金杉の方で、一つは、神楽坂であった。この名称は金杉の場合も、神楽坂の場合も、いわゆる通りの通称であって、地名辞典の類に公式に書き記され、現行町名の丁目や番地を与えられているわけではない。そのために、とかく曖昧である。
 漱石は「僕の昔」と題する談話の中でも、「落語はなしか。落語はなしはすきで、よく牛込の肴町の和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ」といっている。正確には和良店亭で、これが牛込館となり、大正、昭和を通して、牛込、小石川の山の手族に洋画を提供する場となった。場所は袋町三番地と四番地にまたがっていた。


江戸川 神田川中流。昭和40年以前には、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
高等遊民 こうとうゆうみん。明治末期から昭和初期にかけて、世俗的な労苦を嫌い、定職につかず、自由に暮らしている人。
牛込区袋町五番地 地図を参照。

昭和5年 牛込区全図

昭和5年 牛込区全図

書生 学問を身につけるために勉強をしている人。他家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する人。
藁店 原義は「わらを売る店」。槌田満文編「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)では「藁店は牛込区袋町(新宿区袋町)と肴町(新宿区神楽坂五丁目)のあいだ、地蔵坂(藁坂)下の狸俗名」
金杉 東京都台東区金杉でしょうか。不明です。なお、至文堂編集部の『川柳江戸名所図会』(至文堂、昭和47年)では「もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという」。筋違橋は神田川にかかる万世橋の前身です。
袋町三番地と四番地 正確に言えば、牛込館(現在はリバティハウスと神楽坂センタービル)が建っていた場所は袋町3番地だけでした。

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)


 代助の借家は藁坂の上の袋町に、三千代の借家は金剛寺坂、または安藤坂を昇り詰めた小石川表町の高台に設定されている。この設定の仕方に注意してみたい。単に漱石が自分の住んだことのある地域を無雑作に選んだと見倣してよいだろうか。現在でも、この二つの地域を結ぶ便利な交通機関は発達していない。山水の形状が、それを阻害している。
 漱石は代助と三千代を両方の高台に住まわせることで、二人の逢う瀬の難しさを高めようとしたのではなかろうか。これは無意識な操作であったかもしれない。特に、心臓の悪い三千代に急坂を登り降りさせ、それで躰に変調を招くことで、代助の同情を深める。
 「それから」の執筆された明治42年の夏から秋にかけて、いわゆる東京鉄道時代の市電は、延長につぐ延長で、市内は刻一刻と便利になっていった。しかし、三千代が代助の家に行く電車は、それほど便利ではなかった。一つは小石川表町から春日町に出る。ここで乗り換え、水道橋まで行く。さらに、外濠線に乗り換え、牛込見附で下車する。ここから神楽坂を昇り、さらに一息ついで、地蔵坂を昇る。か弱い三千代には、かなりの強行軍だ、もう一つの道は、往路だけには便利だと思う。金剛寺坂か安藤坂を降り、大曲まで歩く。ここから市電で飯田橋に行き、乗り換えて牛込見附に出る。あとは徒歩である。戦前の牛込肴町を知っている読者だと、三千代が水道橋か飯田橋から角筈行に乗って、牛込肴町で下車すれば、神楽坂の急坂を避けることができたと思われるかもしれない。ところが、飯田橋-牛込柳町間の市電が開通するのは、大正元年暮のことであって、三千代の頃には工事中であった。

金剛寺坂 本田労働会館わきを通って地下鉄丸ノ内線を越え、巻石通り交差点近くに出る狭い道(下図の橙色の坂道)
安藤坂 安藤坂交差点から伝通院前交差点までの道(下図の紫色の坂道)
伝通院、金剛寺坂と安藤坂
小石川表町 伝通院や善光寺あたり一帯を表町と呼んだ。以前は伝通院前表町。

表町

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」(1981年)から

一つ 以下は図を書いていますから、それを参考してください。黒の実線や点線は当時何本があった市電の線路、黄色は徒歩で、赤色の実線は市電で動いた距離。青はそれぞれの借家です。

江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

原図は明治44年の市電。一部を変更。江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

牛込見附 市電の駅です。国鉄(現在のJR)の駅は牛込駅でしたが、1928年(昭和3年)から飯田橋駅にかわりました。
牛込肴町角筈牛込柳町 下図を参照。

日本鉄道旅行地図帳

昭和7年の市電系統図。今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」新潮社。2008年



神楽坂|江戸情趣、毘沙門天に残りけり

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「色街濡れた街」の「神楽坂」では…

「東京物語」辞典

「東京物語」辞典

 楽坂の町は、く開けた。いまあのを高く揃えた表通りの家並を見ては、薄暗い軒に、蛤の形を、江戸絵のはじめ頃のような三色に彩って、(なべ)と下にかいた小料理屋があったものだとは誰も思うまい。
 明治の終りから大正の初年にかけてのことだが、その時分毘沙門の緑日になると、あそこの入口に特に大きな赤い二提灯が掲げられ、あの狭い境内に、猿芝居やのぞきからくりなんかの見世物小屋が二つも三つも掛ったのを覚えている。

 屋根の最も高い所。二つの屋根面が接合する部分。
家並 家が並んでいること。やなみ。
江戸絵 浮世絵版画の前身となった紅彩色の江戸役者絵。江戸中期から売り出され、2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵にしきえとして人気を博した。
 ちょう。提灯、弓、琴、幕、蚊帳、テントなど張るもの、張って作ったものを数える助数詞。
提灯 ちょうちん。照明具。細い竹ひごの骨に紙や絹を張り、風を防ぎ、中にろうそくをともし、折り畳めるようにしたもの。
のぞきからくり 箱の前面にレンズを取り付けた穴数個があり、内に風景や劇の続き絵を、左右の2人の説明入りでのぞかせるもの。幕末〜明治期に流行した。
見世物小屋 見世物を興行するために設けた小屋。見世物とは寺社の境内、空地などに仮小屋を建てて演芸や珍しいものなどを見せて入場料を取った興行。

 鏡花夫人は神楽坂の芸者であったが、神楽坂といえばつくりの料亭と左棲の芸者を想起するのが常であった。
 下町とは趣き異にした山の手の代表的な花街として聞こえており、同時に早稲田の学生が闊歩した街でもあった。
 神楽坂のイメージは江戸情趣にあふれた街であるが、大正十三年頃から昭和十年頃にかけては、レストランやカフェー、三越や松屋などの百貨店も出来、繁華を極めた。夜の殷賑ぶりは銀座に勝るとも劣らず「牛込銀座」の異称で呼ばれもした。
 しかし終戦後の復興によっても昔の活気が思うように戻らなかった。

鏡花夫人 泉すず。芸者。泉鏡花(1873~1939)の妻。旧姓は伊藤。芸者時代の名前は「桃太郎」。生年は1881年(明治14年)9月28日、没年は1950年(昭和25年)1月20日。享年は69歳。
 気風、容姿、身なりなどがさっぱりとし、洗練されていて、しゃれた色気をもっていること。
つくり つくられたようす。つくりぐあい。よそおい。身なり。化粧。
左棲 ひだりづま。和服の左の褄。(左手で着物の褄を持って歩くことから)芸者の異名。
趣き おもむき。物事での感興。情趣。風情。おもしろみ。あじわい。趣味。
異にする ことにする。別にする。ちがえる。際立って特別である。
山の手 市街地のうち、高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西、すなわち、四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりをいう。
花街 はなまち。芸者屋・遊女屋などが集まっている町。花柳街。いろまち。
闊歩 大またにゆっくり歩くこと。大いばりで勝手気ままに振る舞うこと
江戸情趣 江戸を真似するしみじみとした味わい。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華
牛込銀座 「山の手の銀座」のほうが正確。山の手随一の盛り場。

 昭和二十七年、神楽坂はん子がうたう「芸者ワルツ」がヒットした。その名のとおり、神楽坂の芸者だという、当時としては意表をついた話題性も手伝っての大ヒットであった。
 日頃、料亭とか芸者とかに縁のない庶民を耳で楽しませてくれたが、現実に足を運ぶ客の数が増えたというわけではなかった。
 しかし近年、再び神楽坂が脚光を浴びている。
 マガジンハウス系のビジュアルな雑誌などで紹介されたせいか、レトロブームの影響か、若者の間で関心が強い。
 坂の上には沙門天で知られる善国寺があり、縁日には若いカップルの姿も見られるようになった。

神楽坂はん子 芸者と歌手。本名は鈴木玉子。16歳から神楽坂で芸者に。作曲家・古賀政男の「こんな私じゃなかったに」で、昭和27年に歌手デビュー。同年、「ゲイシャ・ワルツ」もヒット、一世を風靡するが、わずか3年で引退。生年は1931年3月24日、没年は1995年6月10日。享年は満64歳。
意表をつく 意表を突く。相手の予期しないことをする。
マガジンハウス 出版社。1983年までの旧名は平凡出版株式会社。若者向け情報誌やグラビアを多用する女性誌の草分け。
レトロブーム ”retro” boom。懐古趣味。復古調スタイル
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。

①神楽坂は飯田橋駅から神楽坂三丁目へ上り、毘沙門天前を下る坂道である。
 坂の名の由来は、この坂の途中で神楽を奏したからだとも、筑土八幡市ヶ谷八幡など近隣の神楽の音が聞こえて来たからだともいう。
 町名はもちろん、この坂の名にちなむ。現在は六丁目あたりにまでを神楽坂通りと呼んでいる。

②明治十年代の後半、坂をなだらかにしてから、だんだん開けてきた。何よりも関東大震災の被害を殆んど蒙らなかったことが、大正末から昭和十年にかけての繁栄の原因であろう。

③現在でも黒板塀の料亭が立ち並ぶ一角は、昔の花街の佇いをそっくり残している。

山手(新宿)七福神の一つ。七福神のコースを列記すると、
畏沙門天(善国寺)→大黒天(経王寺)→弁財天(巌島神社)→寿老人(法善寺)→福録寿(永福寺)→恵比寿(稲荷鬼王神社)→布袋(太宗寺)
 である。

*鏡花の引用文の世界を垣間みたかったら、毘沙門天の露地を入った所にある居酒屋伊勢藤がある。
 仕舞屋風の店構えに縄のれんをさそう。
 うす暗い土間、夏は各自打扇の座敷。その上酒酔い厳禁で徳利は制限付き
 悪口ではなく風流を求めるならこれくらいのことは忍の一字。否、だからこそ、江戸情緒にもひたれるのだと、暮色あふれる居酒屋で一献かたむけてみてはいかが。

筑土八幡 東京都新宿区筑土八幡町にある神社
市ヶ谷八幡 現代は市谷亀岡八幡宮。東京都新宿区市谷八幡町15にある神社
蒙る こうむる。こうぶる。被害を受ける。
黒板塀 くろいたべい。黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。防虫・防腐・防湿効果がある。
佇い たたずまい。その場所にある様子。あり方。そのものから醸し出されている雰囲気
仕舞屋 今までの商売をやめた家。廃業した家。しもたや。
縄のれん 縄を幾筋も結び垂らして作ったのれん。縄のれんを下げていることから、居酒屋、一膳飯屋などをいう語
 おもむき。味わい。面白み。
打扇 うちあおぐ。うちあおぎ。扇やうちわなどを動かしてさっと風を起こす。
徳利は制限付き 「徳利」はとっくり、とくり。どんなふうに「制限付き」なのか不明。現在は制限がない徳利です。
暮色 ぼしょく。夕暮れの薄暗い色合い。暮れかかったようす。
一献 いっこん。1杯の酒。お酒を飲むこと。酒をふるまうこと。