外堀通り」タグアーカイブ

焼跡・都電・40年

A

文学と神楽坂

 林順信氏の「焼跡・都電・40年ー山手ー激変した東京の街」(大正出版、昭和62年)です。北方から飯田橋駅や外堀通り、船河原橋、神田川などを撮影しました。年月が違う撮影があり、1枚は昭和41年12月で、もう1枚は20年ほど未来の昭和62年1月でした。

 まず昭和41年12月です。左端にあるのは都道8号で、外堀通りと合わさり、右は船河原橋に、左は後楽園や水道橋などに向かいます。都道8号の電柱に電柱広告「東明徽章」「オザワ」、さらに向こうには飯田橋駅のホーム、さらに行くと、千代田区の建物が並んでいます。神田川の反対側には目白通りがあります。
 船河原橋を渡り切る直前の都電13系統が1台、神田川には船2槽が出ていますが、船は平たく、わいぶね西さい船)かもしれません。神田川の右縁で船河原橋の直前に江戸期の大下水、それを飲み込む明治期の下水管の吐口があります。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

 船河原橋の右側に五叉路がありますが、この写真ではわかりません。ゼブラ柄の背面板の信号機が2つあり、近くに標識(ともに指定方向外進行禁止)もあります
 右側の建物については「ごらくえん」以外に文字は小さく、読めません。この部分は下宮比町の一部でしたが、区境の変更もあり、最終的に人は住めない地域になりました。

 昭和62年1月です。上空には首都高速道路5号線(池袋線)と歩道橋があるため、辺りは薄暗く、神田川に船はありません。
 遠くの中央やや左には第7田中ビル(10階)、大和ビル(10階)、飯田橋プラザ(7階)が並び、その右には巨大な飯田橋セントラルプラザ(マンションは地上16階)、また右端には広告塔「(婦)人倶(楽部)」ができました。

逢坂下-新見附(写真)第3系統 都電 昭和42年など

文学と神楽坂

 新宿区の外堀通りに逢坂などが交差する付近を撮影した写真が3枚あります。でも、[1]のように、写真は「牛込見附」だと名前をつけると、とんでもない!と叱られそうです。
 戦前には「逢坂下停留所」という路面電車の停留所がありました。その廃止はおそらく昭和15年で、戦後、再開はありませんでした。しかし、もし「逢坂下停留所」が今もあれば、[2][3]の地点がまさにそうですし、[1]は「新見附停留所に近い場所」でしょうか。

[1]東京都電アーカイブ③

 写真[1]にはバスの「新見附」停も見えます。新見附橋のわずか先にあったようです。なお、写真の位置は逢坂下よりも新見附に近い場所です。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

 右手にある楕円のマークは「ピノキオ」(子供服の店舗)。(写真と地図はページの最下部で。写真は「ピ」で、地図は「子供服/ピノキオ」)

[2]東京都交通局「わが街わが都電」

東京都交通局「わが街わが都電」平成3年 撮影日時は不明

[3]都電15番の鉄道趣味

1967年7月某日
東京都新宿区東端の牛込濠脇、東京日仏学院付近
2017品川行(飯田橋行だけどもうすぐ折返しという事で)よく見るとお客がいないらしく車掌さんが運転台に来てる。
都電3系統は品川から都心を泉岳寺、三田、神谷町、虎ノ門、溜池と抜けて赤坂見附から市ヶ谷見附、飯田橋へと走っていました。一等地を走っているようですが赤坂から飯田橋はなにやらローカルな雰囲気で運転数もとても少なかった。飯田橋停留所も他路線につながってない尻切れとんぼ。僕も乗ったことないし。
撮影した年の12月10日に静かに廃止になりました。

 写真左側は牛込濠と新見附橋、左寄りに防護柵と架線柱、電柱広告「大日本印刷」、歩道。中央には外堀通りと路面電車、その路線。写真[1]~[3]は全て「飯田橋」行き(下り)の路線です。[3]の路面電車に「品川駅」と「2017」と書いてありますが、一足早く方向板だけが「品川駅」に変わったもの。
 写真[2]と[3]の右側から左側に(参考にはID 13108を)……

  1. 逢坂があり、写真[2]に運転中の自動車。町は「市谷船河原町」
  2. 色◯ ◯◯ 写真◯◯◯◯ 尾形伊之助商店
  3. (教育図書)
  4. (軽自動車工業)
  5. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  6. (神田印刷)
  7. (2)~(3)で、新見附橋の反対側にある高いビル。昭和51年「サンエール」などが入っていた

【参考】東京都電アーカイブ③

住宅地図。1976年

庾嶺坂下(写真)昭和43年 ID 8016

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016では、昭和43年10月に外堀通りの「逢坂下」を撮影したとのこと。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016 飯田橋付近 外堀通り(逢坂下)

 左手前で道が外堀通りにつながっています。歩道に沿って店がいくつかあります。手前から

  1. 看板「〇〇店」看板
  2. 「麻雀 大三元」
  3. コカコーラと読めない店名看板
  4. 看板「研究社」

 歩道には公衆電話ボックス。「丹頂形」と呼ばれる古い形です。手前の消火栓標識は「東京消防庁/Fire Hydrant/消火栓/火事は119」。
 右側の外堀の向こうには千代田区の東京警察病院といくつかのビルが見えています。警察病院の左に顔を出しているのは富士見町教会です。
 では本当にここは「逢坂下」でしょうか。もし逢坂下なら、少し先に「家の光会館」の高いビルが見えているはずです。
 「逢坂下」の北側の三叉路は「笹尾」と「〇〇〇〇〇」「〇木三史」です。1本北側の「庾嶺坂下」は、昭和43年の地図では「事務所」「〇業KK」「研究社」です。写真の3軒目の建物は「研究社」です。よく見ると、その向こうの石造りの建物も研究社の旧社屋のように見えます。
 東京警察病院の距離感も庾嶺坂のほうがいいのではないでしょうか。

昭和43年 地図 逢坂+庾嶺坂

外濠(写真)牛込地域 ID 5728-29 昭和35-36年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728−29は、カメラを千代田区側に置き、外濠を越え、新宿区牛込地域を遠望しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5728 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5729 法政大学から東京理科大学方向をのぞむ

 あとは地元の人の文章です。こちらではわからない建物が多すぎるので、お願いしました。

ID 5728 を改変

 先に結論を書けば、これは千代田区麹町の「日本テレビ塔」から牛込地域を見下ろした写真でしょう。
 写真下側を斜めに横切るのが外濠と、外堀通りです。手前には法政大学の校舎はじめ千代田区側の建物が見えますが、今回は触れません。
 写真中央、外堀通りに面した目立つ建物は家の光会館⑥。その少し向こうに見える丸い展望台は東京厚生年金病院⑩です。間にある神楽坂を飛び越して高い建物だけが見えています。
 写真の左下端は新見附橋で、新宿区側のカーブした屋根は東京理科大学の体育館②です。
 一方、右端は飯田橋交差点で、第一銀行飯田橋支店⑭の向こうに目白通りが走っています。
 これらを撮影できる画角を考えると、地図に記したように麹町方向に収束します。また非常に高いところから撮影しないと、これほど遠くの建物は撮影できません。考えられるのは旧・日本テレビ本社の電波塔です。
 遠くにいくほど画角が広がっており、建物の位置関係は必ずしも直線では結べません。レンズの歪みがあったと思われます。
 写っている建物等は以下の通りです。色による違いはありません。

  1. 新見附橋
  2. 理科大5号館・体育館(市谷船河原町)
  3. 日仏学院(市谷船河原町)
  4. 丸紅若宮荘(若宮町)
  5. 国鉄白銀アパート(白銀町)
  6. 家の光会館(市谷船河原町)
  7. 研究社旧社屋(神楽坂1丁目)
  8. 理科大(神楽坂1丁目)
  9. 通称「お化け屋敷」(神楽坂2丁目)
  10. 厚生年金病院本館(津久戸町)
  11. 厚生年金病院別館(下宮比町)
  12. 同潤会江戸川アパート(新小川町)
  13. 銀鈴会館(神楽坂2丁目)
  14. 第一銀行飯田橋支店(下宮比町)
  15. 稲垣ビル(下宮比町)

 このうち家の光会館の落成は昭和34年(1959年)、銀鈴会館は昭和35年(1960年)です。一方、セントラルコーポラスはまだできていません(竣工は昭和37年、1962年)。撮影時期は昭和35-36年と推測されます。

住宅地図。1973年

推定画角(昭和38年6月 地理院画像MKT636を加工)

外濠(写真)日仏学院、昭和27年 ID 14743, 14744

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14743と14744は、昭和27年9月、千代田区側から外濠や日仏学院、東京理科大、外堀通り等を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4795 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4796 外濠 飯田橋付近 日仏学院、東京理科大をのぞむ

 昭和20年の東京空襲で、この一帯は焼け野原になりました。写真の建物の多くは戦後の建築です。
 昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市整図社)では「戦後2」「戦後3」「戦後4」の3冊だけが新宿区にあり、「戦後4」には「神楽坂方面」の地図が含まれています。ただし、この地域にあるのかどうかについては不明なので、とりあえず少し後の時代の地図を元に見ていきます。
 写真右下から外濠公園の樹木と土手、中央線・総武線の線路、牛込濠、外堀通りがあります。
 濠の向こうの写真左寄りにひときわ目立つ建物が2棟あります。Aは外堀通り沿いで、屋根の近くに何やら書かれていますが読めません。

 その右上のBは「東京日仏学院」です。逢坂の途中の校舎が完成したのは昭和27年(1952年)1月でした。平成24年(2012年)アンスティチュ・フランセ東京に一時改称しましたが、2023年、名前を元に戻しました

 写真中央から右寄りにも、いくつかの立派な建物があります。高台のAは「個人(井上)宅」です。その下のBは昭和35年の地図を信ずる場合「家の光協会」です。左隣の小さな家が建っている場所には昭和34年(1959年)に「家の光会館」ができます。
 右側のCは「研究社」、Dは「東京理科大学」です。この2つはコンクリート造で戦前から残った建物です。

あの頃の神楽坂

文学と神楽坂

 けやき舎の「神楽坂 まちの手帖」第12号(2006年、平成18年)の「あの頃の神楽坂」を読み直しています。今は2024年なので、18年もの昔ですが、この思い出はさらに昔で、つまり、昔のまた昔でした。

 それぞれの思いで 

●外濠でね、マッカチンっていう真っ赤なアメリカザリガニを釣ったよ。

マッカチン マッカチンとはアメリカザリガニそのもの。「色が真っ赤」からきた言葉。牛込濠は飯田濠に比べて浅いので、地元の方は「大きな魚はいなくて、釣れるのはクチボソやザリガニばかり。手すりも低く、濠に下りるのは容易でした」。カナルカフェができたあたりから牛込濠で釣りができなくなりました。

神楽坂警察で剣道を教えてたよ。よく竹刀の音が聞こえたね。

神楽坂警察 神楽警察署が早稲田警察署と合併して移転したのは昭和35年(1960年)。その後は地図のように警視庁の他の組織が入っていました。それでも地元では長く「警察署」と呼ばれていました。神楽坂警視庁は図の右下に。他の1〜2丁目の店舗もここに書いてあります。

図1。1962年。住宅地図。西から神楽坂メトロ、清水衣裳店、将来のブックスサカイ、ドミニカ、赤井Yシャツ店、警視庁

●外堀通りも商店街だったんだ。今はビルばっかりになってるけど。

商店街 住宅地図による昭和62年と昭和63年の揚場町の様子です。昭和62年には小さな店が沢山あります。昭和63年には再開発が一気に進んでビルばかりになりました。

昭和62年と63年。揚場町。住宅地図。

メトロの前を山下敬二郎が散歩してたな。

メトロ メトロとは映画館の神楽坂メトロ(図1)。昭和27年元日から昭和42年まで営業。
山下敬二郎 氏はロカビリー歌手で、落語家の柳家金語楼の非嫡出子。山下氏は1939年2月22日ー2011年1月5日、72歳で死亡。

ブックスサカイのお父さんが酒井抱州っていう有名な易者さんだった。

ブックスサカイ ブックスサカイとは神楽坂下交差点から南西に向けて1軒隣の本屋さん(図1と下図)。昭和62年はカメラサカイ、昭和63年はブックサカイ、平成22年もサカイ書店、平成27年には「中華食堂日高屋 神楽坂外堀通店」に。

昭和62年はカメラサカイ。昭和63年はブックサカイ。

●鉄の釘を国電の線路においてね、轢かせると刀みたいな形になって…危ないことやってたよね。
●警察の前の柳は、大正時代に赤井さんが植えたんだ。

赤井さん 赤井さんとは神楽坂下交差点の西北にあった足袋とYシャツの店主(図1)。住宅地図では、平成7年(1995年)まではアカイ洋品店。平成8年はカフェベーカリー「ル・レーブ」。Le Reveはフランス語で「夢」。現在は不動産仲介の「アパマンショップ飯田橋店」。「赤井さんが柳を植えた」は次のエッセイ「桜と柳のこと」に出てきます。

●神楽坂警察の主導で、神楽坂ジャガースっていう少年野球のチームを作ったんだ。

古老談話。神楽坂ところどころ
神楽坂一丁目12番地 赤井儀平氏
 桜と柳のこと
 とに角、堀は昔、ずっとそこまであったんです。今のそのポート屋のところも堀だったんですよ、それを埋め立てたんです。ここはそれに桜がありましてネ。お堀端にはずうっと桜が植えてあったんですが、それが中央線の複線工事で全部切っちまったんです。あれぽっちでも植えておけばよかったんですが。大したものになっていたんですがね。
 柳は、そうですね、大震災頃までは有ったんですが、みんなが根を踏みつけるんで枯れちまったんです。それで今度都で全部植え替えたんです。昔は桜と柳で葉が落ちるし、それがごみになるというので、毎朝目が覚めるとそれを掃きに行ったものです。これがなかなかの大仕事で、うちの爺さんは朝4時に起きて橋の脇まで掃きに行く、6時頃ひととおり終って帰って来ると、あっちこっちにごみの溜まりができてるでしょ、そいつを集めに行ったものです。
 桜も柳も随分ありましたが、すっかり枯れたり切ってしまって、都で植え替える前は1本残った柳の木の脇にできた飲食店が柳屋という名をつけています。別に昔の来歴を知って付けた名前ではないんでしょうがね。又むこうの枡形、橋の際にも柳がありましてね。私が覚えてからも毎年植木やさんを入れて、手入れをしていました。柳が伸びちまうんで刈り込みをしなきゃならないんです。あんまり手が掛るというんで何時頃でしたか献木しちまったんです。
 だんだん街に緑が少なくなって来ますが、枯れるんなら止むを得ないとしてもただ邪魔だから切っちまえというんぢゃったまらないです。何んにも知らない人達が何んだか向うが見えないから切っちまえ、切っちまえとやたらに切ってしまったらしいんです。でも、その木は私達が植えたんだから切らないでくれともいえませんでしたネ。
新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年


お堀端にはずうっと桜が植えてあった 市ヶ谷見附付近を描いた絵はがきを見ると、線路と壕の間にも桜が植えてあります。牛込堀も同じような景色だったのでしょう。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)

中央線の複線工事 正しくは昭和初期の中央線の複々線化でしょう。
私が覚えてからも毎年植木やさんを入れて、手入れをしていました。
その木は私達が植えたんだから この2つをまとめると「自分たちの植えた木なので、手入れをしたが、大正12年の大震災をうけて都に献木し、それからは都が植え替えをすることになった」。つまり「赤井さんが柳を植えた」のは正しいでしょう。

坂下

●神楽小路にドミニカっていうバーがあってね、すごいキレイな女の人がいたのを覚えてる。

ドミニカ ドミニカは神楽小路にあった店舗(図1)

清水衣装店のおじさん、顔は怖いけど面白い人だったよ。

清水衣装店 清水衣装店(図1)は千代田区飯田橋3-2-12タキザワビル2Fに移転。
 けやき舎の「神楽坂 まちの手帖」第12号(2006年、平成18年)『座談会・昭和45年生まれが見つけた「昭和30年」』では、
嶋田(毘沙門天・善国寺 住職) 清水衣装店の清水さんに聞いたんだけど、清水さんのお父さんがね、夕方になるとお座敷に行っちゃうんだって。家のものが「駄目だ」っていうと、清水さんに「ちょっと散歩に行こう」っていってね、子供の面倒をみるフリをしてお座敷に行っちゃう。清水さんは奥のほうで仲居さんに遊んで貰ってたそうですよ。
平松(「神楽坂まちの手帖」編集長) それじゃあ、戦前の神楽坂は、商店主たちが結構ふところ豊かで、花柳界にも通ってたわけですか。
岡崎(元神楽坂通り商店会会長補佐) ええ。

清水衣裳店。TV「気まぐれ本格派」第7話。昭和52年

●赤井さんのYシャツは有名だったわよ、お洒落な人はみんな買いに来るのよ。

坂上

万平の柳は風流だったなあ。つい釣られて入っちゃうんだよね。

万平 新宿歴史博物館の写真で柳はID 6, 7, 11, 14, 16, 46, 99, 8806, 12903-12905に出ています。困ったことに小料理屋の万平が確認できるのはID 46ID 99だけです。また、小林信彦氏と荒木経惟氏の「私説東京繁盛記」(中央公論、昭和59年)(下図)では万平は写っていますが、柳は途中でバッサリ切られています。

神楽坂(昭和58年に撮影)私説東京繁盛記

 昭和62年の住宅地図は「小料理屋 万平」、昭和63年には何もなく、平成元年に「万平ビル」がでています。
 また『神楽坂 居酒屋「あまくさ」』では……

 外堀通りから神楽坂を150メートルほど登った右側に〈万平ビル〉はある。この場所には戦後、「万平」というすき焼きを食べさせる店が建った。入口に柳の木が立っており、とても風情のある店で、私も二十数年前に何度か入ったことがあった。小さな古い木のカウンターがあり、そこにおばあさまが一人いて客の相手をしてくれる。あの有名政治家故田中角栄氏が常連であったそうで、国会の帰りにここで軽く呑んでから裏手の神楽坂の料亭街に向かったとのこと。
「その席に角さんがいつも座っていたのよ」と、おばあさまがカウンターの端の席を指さして言っていた。
(2008 01 30 居酒屋探偵DAITENの生活)

万平の柳 気まぐれ本格派(昭和52年)10話。「すき焼」が万平の一番美味しい料理とか

毘沙門様に街頭テレビがあってさ。もう塀の上まで人が鈴なりになってた。
●テレビは日テレが置いたんだ。確か、最初は日テレしか写らなかったかな。

毘沙門様に街頭テレビ 昭和28年8月20日に日本テレビ放送網(NTV)が放送を開始。その直前にNTVの「街頭テレビ」を設置。

●大きな滑り台と砂場があったね。滑り台から砂場に飛び降りた記憶がある。

滑り台と砂場 これも毘沙門の境内の思い出。区に一部を貸すと、神社などは補助を受けられる。写真は「毘沙門さま あれこれ」や「ID 8271-ID 8272」から。図は『ここは牛込、神楽坂』第3号から。

用水池があってさ。2B弾っていう先っぽをマッチみたいにこするとシューって飛んでいく花火を池の上に滑らせて遊んでた。

用水池 用水池がどこにあるのかわかりません。
2B弾 2B弾(にービーだん)とは愛知県の花火業者が開発した花火の一種。昭和30年代の「男子の危険な遊び」。事故が多発して、製造中止命令に。1966年(昭和41年)まで製造。

●毘沙門さんに行くと誰か遊び相手がいるっていう感じだったよ。

坂上・6丁目

リード商会の息子さんは、坂下の白十字の大沼先生なんだ、有名な産婦人科・性病科の先生でね、雑誌にも出てたよ。

リード商会 リード商会は神楽坂5丁目のレコード店。2丁目(ID 9782ID 11869)に支店があった。5丁目は本店ながら三角の変則敷地の小さな店で、隣のうなぎ「大和田」とまとまって建て直し、ドラッグストア「セイジョー」になりました。2020年に都の大久保通り拡幅事業で全て閉店し、2021年1月に「神楽坂5丁目ビル」ができました。
時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

住宅地図(2017年)と航空地図(Google, 2023年)

白十字 白十字診療所は神楽坂1丁目にあった産婦人科・性病科の診療所。現在は「のレン 室」(米麹食品専門店)に。ID 9781が一番明瞭にわかる。

りそな銀行の角を入った先に、巨人の千葉茂が弟と一緒に居候してたんだ。

りそな銀行 りそな銀行神楽坂支店は神楽坂6丁目にある銀行。以前は協和銀行からあさひ銀行になり、さらに大和銀行グループと一緒になって、2002年3月、りそな銀行に統合。
千葉茂 生年は1919年5月10日。没年は2002年12月9日。読売ジャイアンツの名二塁手。愛称は「猛牛」。
居候 りそな銀行の先に左に曲がる路地があり、その路地の世帯数は相当に多く、どこに住んでいたのか不明。

●街灯もね、今みたいにタイマーがないから暗くなったら自分でつけるんだ。付け忘れたら暗いままだし、逆に明るくなってもつけっぱなしだったりね。

路地
石畳は雨が降るとすべるのよね。あそこで鬼ごっこなんかしたら面白かったわよ。だけど塩を盛る頃になると帰らなきゃ怒られちゃう。

石畳 摩擦係数が低い石畳は雨や雪で滑りやすくなります。
塩を盛る頃 盛り塩は塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く縁起物。幸運を招き千客万来を願うとされ、商家では朝、玄関脇に盛る。花柳界では開店する夕方前に盛り塩をしたのでしょう。

津久戸小学校
●むかし、つくど小学校に、てんのうへいかとこうごうへいかがいらっしゃいました。そう、お父さんがいっていました。だから、わたしたちの学校はいまではもう大ゆうめいです。つくど小学校がいっぱいになったしまいましたので、あいじつ(愛日)というがっこうをたててあげました。つくどとあいじつをくらべては、つくどはまけています。どうしてかというと、あいじつはエレベータがあるのでいいのです。
(昭和35年 三年生女子)

つくど小学校 あいじつ 歴史的には愛日小学校は明治13年7月31日開校、津久戸小学校の開校は明治37年4月10日です。(『新宿区史 資料編 区成立50周年記念』)

新宿区史 資料編 区成立50周年記念

 ただし愛日(当時は愛日国民学校)は昭和20年に全焼し、昭和21年に廃校。生徒は津久戸小などに移りました。昭和27年に愛日の再設置が決まり、新校舎第一期工事が完成して生徒が移ったのは昭和32年でした(愛日小学校の歴史)。このことを言っているのでしょう。
 昭和35年の住宅地図には、まだ津久戸小と一緒に愛日小が書いてあります。

昭和35年。住宅地図。津久戸小と愛日小


飯田橋(写真)昭和51年 ID 495-497

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495-97は、昭和51年8月、飯田濠、飯田橋(架橋)、飯田橋歩道橋、遠くの首都高などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495 飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 496 飯田橋橋きわ

 ID 495-496の2枚は、下の地図の赤線の画角です。右の橋がコンクリート製の飯田橋。正面が新宿区側の護岸の石垣です。
 この様子は昭和初期の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)の写真から変わっていません。
 石垣に関しては、大正8年頃の絵はがきと同じに見えます。この石垣は今は人工地盤の下に隠れています。今も利用される飯田橋は昭和4年(1929)に鉄橋からコンクリート製の橋に改良されています。
 左から……

  1. 看板「Coca-Cola 焼肉 京城館」「(サクラ)はカラーFH」
  2. 公衆電話ボックス
  3. 歩道橋「(目)白通り/新宿区下宮比町」
  4. 電柱看板「◯科」
  5. 看板「麻雀 東南荘」「近畿日本ツーリスト」「サッポロビール  八鶏園」「イーグルボウル」「写真植字機」
  6. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  7. 看板「所」「東京都◯◯◯◯◯◯事務所」
  8. 目白通りを横断する歩道橋。
  9. 飯田濠と飯田橋(架橋)
  10. 首都高速道路5号線(池袋線)
  11. (指定方向外進行禁止)、(時差式信号)、信号機
  12. 歩道橋「外堀通り/新宿区下宮比町」

住宅地図。昭和51年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 497飯田橋

 ID 497はやや右にズレて、地図の青線の画角で撮影しています。
 左寄りの東京都の看板は「セントラルプラザ飯田橋」の完成予想図ですが、この時点では名称も決まっていなかったはずです。飯田濠の再開発は昭和48年3月に始まりましたが、地権者の反対で難航しました。紆余曲折の末に昭和59年に商店街ラムラが開業。昭和61年3月、13年を経て再開発事業は完了します。
 正面右奥、歩道橋の下り階段が見えます。この階段は後に撤去され、交差点の向こうの新宿区を結ぶ歩道橋が増設されました。
 では左から……

  1. 歩道橋の上り階段
  2. 看板「東京都」(セントラルプラザ飯田橋)
  3. 橋名「いいだばし」
  4. 看板「(魚)下立喰寿(司)」
  5. 看板「キンシ政宗」
  6. ごらくえん
  7. 東海(銀行)と東海銀行の窓枠
  8. 歩道橋と飯田橋(架橋)
  9. 電灯
  10. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  11. (指定方向外進行禁止)8-20

神楽坂1丁目(写真)令和4年 ID 17576

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576は、令和4年10月、神楽坂下交差点から坂上方向を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576 神楽坂入口

 中央の信号の上に交差点名が「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」と表示されています。よく見ると英字はシール状のものを貼っています。かつては読み通りに「Kagurazaka shita」としていましたが、外国の人々に分かりやすいように修正したのでしょう。
 左右は外堀通りで、前後が神楽坂通り。信号機にはゼブラ柄の背面板はなく、車道と歩道はアスファルト舗装。街灯柱は淡灰色で、街灯は3灯をまとめ、夜には明るく光っています。外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。

神楽坂1丁目→坂上(令和4年)
  1. (歩行者横断禁止)(区間内)
  2. 看板「交通事故多発」
  3. 「ル」「BRITISH COUNCIL 英会話スクール」「この先 約150m」(研究社研究社英語センタービル
  4. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)
  5. 広告看板「カラオケの鉄人 KARATEZ~ ここから歩いて1分‼︎」「カラオケの鉄人 神楽坂通り沿い
  6. 飯田橋ともじり皮ふ科/行きたい皮膚科がココにある。/Tel 03-6265-00xx/ 当ビル5F
  7. 交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  8. (エイ)ブル(不動産会社)
  9. モスバーガー(ハンバーガー屋)
  10. 「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「飯田橋ともじり皮ふ科 5F」「Darts bar」「(神楽坂) 翁庵」「HIRO GINZA/BARBER SHOP」
  11. 「駅前留学 NOVA」「も駅前留学 NOVA KIDS」
  1. (駐停車禁止)警告 交差点・横断歩道は駐停車禁止です。運転者が乗車中でも取締りを行います。牛込警察署 新宿区」。「信号機」。交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」
  2. 郵便ポスト
  3. (駐車禁止)
  4. Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店/広告「オーナー様募集/空室にお困り/建物管理にお困り/アパマンショップなら/グループ全体で/サポートできます」広告「新宿区・文京区/千代田区・豊島区/お部屋探しは/アパマンショップ/飯田橋店に/お任せください!」広告「お部屋探しは アパマンショップ 飯田橋店へ おまかせください!/下記QRコードから友だち追加を/していただくことで お客様のご条件にピッタリのお部屋を/ご紹介できます!」Apamanshop(不動産会社)
  5. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」「(歩行者専用)」「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  6. (カレーショップ ボナッ)
  7. 消(火栓)
  8. のレン NOREN MURO 室(米麹食品専門店)
  9. のレン(生活用品店)
  10. 案内看板「地下鉄 神楽坂駅」
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  13. 「自然エネルギーのアドバンス」「自然エネルギーのアドバンス」「広告募集中」「ドトールコーヒー 神楽坂店 Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」突き出し看板「FUJIYA」
  14. カグラヒル。屋上にKADOKAWAのデジタルサイネージ広告。「新世代のフィギュア原型師、創出ブロジェクト」「電撃文庫 KDcolle 造形大賞」「4F ス(シロー)」「マツ(モトキヨシ)」
  15. 「ゲー(ムのオアシスに飛び込め!)G(iGO)

外濠(写真)昭和45年 ID13108-15

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、外堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13108 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13109 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13110 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13111 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13112 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13113外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13114外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13115 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

 この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。

外堀通り・解説

 写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
 この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
 外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。

美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。

http://toeibus.com/wp-content/uploads/2017/01/da658f58c676c090be7454023a3ba4ef.jpg

  1. 双葉ビル(双葉社)か?
  2. 東京理科大学7号館
  3. 東京理科大学3号館
  4. 東京理科大学1号館
    ーーーー若宮公園に上がる坂
  5. 研究社旧館
  6. 研究社新館
  7. 菱屋ビルか?
  8. 三幸工業
  9. 三幸工業
    ーーーー庾嶺坂。ここから船河原町
  10. 塩原ホテル 寿苑 東京
  11. 家の光会館
  12. スナックベルなど
  13. 個人宅
    ーーーーここは逢坂
  14. 丸谷石油(ガソリンスタンド)
  15. 尾形伊之助商店
  16. 日仏学院
  17. 教育図書
  18. 軽自動車工業
  19. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  20. 神田印刷
  21. 東京理科大学体育館

住宅地図。1973年

神田川(写真)船河原橋 昭和39年 ID 551

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 551は昭和39年頃に江戸川(現在は神田川)の上流から船河原橋方向や下宮比町などを撮影しました。撮影時期について新宿歴史博物館では「1964年?」としています。

 昭和40年以前には、神田川の中流部は江戸川と呼びました。川面にはゴミがたくさん浮かんでいます。小舟が3艘見え、うち2艘はバラ積みの船倉をテントのようなもので覆っています。廃材等の運搬に使われたものでしょう。
 向かって右の岸が目白通りで新宿区、左岸が文京区です。1969年(昭和44年)には川の上に首都高速道路5号線が建設されますが、まだありません。
 新宿区側、トラス構造の鉄塔に電飾看板「ホテル」が見えます。これは同年代の写真で「つるやホテル」です。川沿いの電柱には「ナショナル」の広告が並んでいます。その他の広告もあるようですが、よく読めません。
 左から船河原橋を渡っているのは都電13系統(新宿駅前-水天宮前)。目白通りから奥にかけて15系統(高田馬場駅前ー茅場町)が2台見えます。都電の廃止は13系統が昭和45年3月27日、15系統は昭和43年9月28日でした。
 遠くかすんだように国電(現、JR東日本)の飯田橋駅の高架ホームと屋根が確認できます。その向こう側の建物は千代田区です。

昭和43年 住宅地図。

飯田橋交差点(写真)目白通り 平成元年 ID 508

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508は平成元年9月に「下宮比町交差点」(正しくは「飯田橋交差点」)を、おそらくセントラルプラザの2階デッキ部分から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508 下宮比町交差点

 中央には五叉路があり、左下から横断歩道と飯田橋歩道橋を越えて右に抜けるのが外濠通り。横断歩道の向こうから左上に続くのが大久保通り。歩道橋の向こうの首都高速道路5号線(池袋線)に沿う形で中央奥にカーブしていくのが目白通りです。歩道橋は「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。
 手前に見えているのは地下の駐車場につながる換気装置でしょう。ラムラの「せせらぎ」にかかる「ひいらぎばし」の上で、おそらくフリーマーケットを開催中。やや離れて交差点に近い小屋は、地下鉄の出入り口のエレベーターです。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 遠くに見えるビル等は左から……

  1. 「週刊現代」と「飯田橋東海ビル」
  2. 「(セント)ラル/(ファイ)ナンス」
  3. 地面に小さなテント
  4. 「ビューティープラザ/レディ」(パーマ)
  5. 「ミカワ薬局」
  6. 「五洋建設」

昭和55年(1980年) 飯田橋交差点 ラムラ建設前

飯田橋交差点(写真)目白通り 昭和54年 ID 498, 499, 500, 12111

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498-500、12111は昭和54年3月に飯田橋交差点、飯田橋歩道橋、目白通り、外堀通り、首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しています。資料名は「下宮比町交差点」で、地元ではそう呼ばれることが多かったようですが、正しい名称は「飯田橋交差点」です。また、 ID 12111はID 498とほぼ同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 498 下宮比町交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12111 飯田橋歩道橋 目白通り 飯田橋駅付近

 歩道橋に横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとりを◯◯て東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」。その下を左右に横切るように車が走るのは外濠通りです。左端に特徴的なカーブした歩道橋の階段が見えます。
 たくさんの自動車が並んで待っている道路は「目白通り」です。奥には首都高速道路と橋脚があります。高速の直下は神田川ですが、昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 交差点の向こうは文京区です。「(写)真製版所」「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」が見えます。
 撮影位置は図のでしょう。

撮影位置(1978年下宮比町付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 499 下宮比町交差点

 ID 498より、やや左よりを撮影しています。歩道橋の横断幕「ゆずり合いモデル交差点/ゆとり◯◯◯で東京に」と地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」の左に、交通信号機と、小さく「飯田橋」交差点名表示があります。道路標識としては(指定方向外進行禁止)(大型貨物自動車等通行止め)とおそらく(駐車禁止)と(区間内)があります。撮影位置は図のです。
 右奥に伸びる片側2車線の道は目白通り。左右は外濠通りです。手前に信号機と、歩道橋が影を落としているので撮影位置が分かります。
 歩道橋の下にある建物は左から「LADY」「焼肉」「肉」「歯科」「麻雀」「土井建材」「近畿日本ツーリスト」「(フィニッシュワークス)クール」「サワ◯◯」。歩道橋の上は「ビューティープラザ/レディ」「ステッカー/も/つくります」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」「(モリ)サワ」「M」。

ID499。トーンカーブの変換


新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 500 下宮比町交差点

 ID 498とほぼ同じ場所から、右よりを撮影しています。左で見切れているのが目白通り。左右に車が走るのは外濠通りです。右手前の車は信号待ちで、頭上にある歩道橋の影が映っています。撮影位置は図のオレンジです。
 歩道橋の地名表示は「外堀通り/新宿区下宮比町」、また手すりには「飯田橋/Iidabashi」の交差点名表示があります。写真の中央から右の大部分は神田川にかかる船河原橋で、歩道橋の少し奥は文京区になります。飯田橋は千代田区の地名ですが、この写真には写っていません。
 歩道橋の角に信号機と標識(指定方向外進行禁止)とおそらく標識(直進以外進行禁止)があり、これは中央分離帯でしょう。
 建物は「ばな」「万」「5階」「◯クト」ですが、遠くの袖看板は文字が小さくて確認できません。「五洋建設」「鶴屋産業のロゴマーク」は露出のせいで読みにくくなっています。

昭和を走ったチンチン電車|うゑださと士

文学と神楽坂

 うゑださと氏の「昭和を走ったチンチン電車」(新日本出版社、2014)から2作品「飯田橋の交差点をゆきかう15系統」と「牛込うしごめやなぎちょうの坂を上る13系統」をとっています。うゑだ氏は昭和23年に生まれ、25歳の時、漫画原作者の小池一夫らの編集プロダクションに入り、現在は水彩で日々の暮らし、街並み、祭り、童謡や歌謡曲の景観などを描いています。
 同書でうゑだ氏は「『昭和』の風景ですから、資料が頼りです。参考にさせていただいた資料を、巻末に参考文献として収録いたしました」。参考文献には「わが街わが都電」「都電が走った昭和の東京」「よみがえる東京」「都電が走っていた懐かしの東京」「都電」「都電の消えた街」「東京都電の時代」「都電春秋」と、名称と出版社だけが載っています。

『飯田橋の交差点をゆきかう15系統』国鉄のプラットフォームから見たアングル。右奥にはふな河原かわらばし
「右奥には船河原橋」とありますが、正しくは右奥に伸びる道は目白通り。その手前で赤や青の車が並んでいるのが船河原橋で、左右は外堀通り、見えない大久保通りが交わって飯田橋交差点をつくります。

飯田橋の交差点をゆきかう15系統

J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

 参考文献はわかりませんでしたが、似たような写真がJ・ウォーリー・ヒギンズの撮影でありました。
 ただヒギンズの写真は1964年。うゑだ氏の風景画は、都電の塗装が1950年代までの通称「金太郎塗装」で、少し時代が違います。オート三輪も時代を感じさせます。「つる」は正確には「つるやコーヒー」。
 そこで図書館で調べました。吉川文夫氏の「東京都電の時代」(大正出版、1997)はどうでしょうか。この写真は1960年に撮られて、横書きの「つる」、オート三輪もよく似ています。都電だけが違っています。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)。国鉄飯田橋駅ホームから見た飯田橋交差点 手前の停留場のある橋が飯田橋 右奥は船河原町 (飯田橋 15系統 815号 昭和35年9月23日)

 飯田橋の都電としては3路線、つまり3系統、13系統、15系統がありましたが、15系統だけが描かれています。15系統の都電は飯田橋停留所から、右奥の目白通りにつながっています。左右の外堀通り(船河原橋)や大久保通りにも路線がありましたが、15系統とはつながっていませんでした。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

『牛込柳町の坂を上る13系統』自転車の若者が歯を食いしぼり力走

牛込柳町の坂を上る13系統

 これはわかりました。三好好三氏の「よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)でしょう。

よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角

 前後の道路は大久保通りで、左右は外苑東通り。柳町交差点は大久保通りの前後より標高が低く、凹になっているのですが、この水彩画ではわかりません。
 アカカンバンはスーパーで、倒産後に売却されて、現在「よしや SainE 柳町店」です。さらに神楽坂六丁目「よしや SainE 神楽坂店」でも同じで、当時はアカカンバンの店舗でした。その前の「パチンコたま◯」の◯はこの写真では分かりません。「パーマ」はその通り、水彩画の「ショールーム」は不明です。

飯田橋付近(写真)地理風俗大系 昭和12年

文学と神楽坂

 誠文堂新光社「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)の改訂版(昭和12年)です。神楽坂五丁目と同じくこれも新宿歴史博物館「新宿風景II」(平成31年)に出ていました。

飯田橋駅附近

飯田橋附近
飯田橋は江戸川と外濠との合流する地点でこれから下流は神田川と称す。写真は市電交叉点附近背景の小丘は富士見町一帯の台地で前は省線飯田橋駅。前面の橋は飯田橋でその下を流れるのが江戸川。この辺は四流八達の区域で市電はここを中心に五方面に通ずる。

四流八達 しつうはったつ。道路が四方八方に通じ、とても便利な交通。往来が多く、にぎやかな場所。

昭和16年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 手前の川は当時は江戸川(現在は神田川)で、ふなわらばしを超えて外濠そとぼり(外堀)と一緒になって初めて神田川になりますが、外濠(外堀)と神田川はこのアングルでは見えません。船河原橋を越えるのは外堀通りで、また外堀通りと直交するのは目白通りです。五叉路の一つ、大久保通りは出てきません。
 また目白通りの下には飯田橋という橋がかかり、さらに現在とあまり変わらない飯田橋駅が見えます。地元の方は「白文字『飯田橋駅』の『駅』の上にある階段状の建物は大松閣ですね」と言います。
 小石川区には巡査派出所(現在は交番)と自働電話(現在は公衆電話)、自動車もあり、路面電車は小石川区と牛込区をつなぐ船河原橋を渡っています。
 左隅の角丸四角の店舗には「◯◯◯◯品」と書かれ、右の角丸四角の中にはおそらくアルファベットの10字の看板、2灯が並んだ街灯、「◯◯◯京」、ロゴマークがあります。

 また地元の方は「見直して気づきましたが、船河原橋のたもとの小さなアーチは『大下水』の出口ですね。『暗渠さんぽ』の写真と同じもののように見えます」と書いています。明治44年に東京市が敷設したヒューム製下水管も同じ開口部にあり、これは厳密には江戸時代の大下水ではなく、明治時代の下水管でしょう。大下水(横幅は約1.8m、御府内備考)の一部が下水管(卵形で短径約90cm)になりました。

洋泉社MOOKの「東京ぶらり暗渠探検」(洋泉社、2010年)

牛込見附(写真)ID 9912〜17 昭和50〜51年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9912から9917までは昭和50年〜51年頃、「牛込見附」交差点周辺を撮影したものです。現在では「神楽坂下」交差点に名称が変わりました。
 半袖はおらず、コートの人が1人います。駅舎の向こうの石垣の上が裸木になっているので、冬から春先にかけての撮影でしょう。傘を持った人も何名かいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9912 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9913 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9914 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9915 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9916 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9917 国鉄飯田橋駅前 牛込見附交差点前

 この交差点は早稲田通りと外堀通りが交差します。ID 9914と9915の右中央に「外堀通り」という道路標識が立っています。交差点から右上の坂が牛込橋の土堤部分、逆に左が神楽坂です。
 最も大きな特徴は、牛込橋左側の旧神楽坂警察署の建物が撤去され、建設用の仮囲いが立っていることです。飯田濠の再開発が本格的に始まったことが分かります。下に見える昭和50年の田口氏の写真には建物があるので、ID 9912-9917は撤去から間もない写真です。実際にはその後、反対運動が起きて再開発は中断し、完成は昭和59年まで遅れました。

田口重久「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14

 またID 9914と9915では巨大なの標識も見えますが、意味は「車両進入禁止」でした。小さく「自転車を除く」と書いています。自動車は0時から12時まで、牛込中央通りと神楽坂通りの交差する点(矢来第二交差点)から「牛込見附」交差点を通り、牛込橋までの方向で、つまり西から東に一方通行し、12時から13時は歩行者専用道路となり、13時から24時は反対方向に変えます。したがって、この写真は午後1時以降に撮影したものです。
 一方、ID 9913、9916、9917では同じ交通標識の裏側が出ています。表面はおそらく(指定方向外進行禁止)でしょう。
 交通標識は他にもあり、早稲田通りの左側には(歩行者専用)、「歩行者専用道路 12-13」、都の標識「ランチタイム・プロムナード」と書かれ、12時から13時まで、牛込橋などでは歩行者天国になります。その右側には(車両通行止め、8-1◯)(区間内)です。ガードレールの後ろには(歩行者横断禁止)と書かれています。
 背の高い街灯がID 9913では早稲田通り、ID 9914、9915では早稲田通りと外堀通りで出ていて、これは東京都の街灯でしょう。ID 9914の右側に見える背の低い円盤型の街灯は神楽坂通りの商店街のものです。昭和45年のID 13117-18などでは円盤形街灯が向かい合って立っていますが、旧警察側は撤去されています。
 電柱は右側に高いコンクリート製電柱があり、変圧器が載っています。一方、牛込橋の左側には1本だけ木製の低い電柱があり「神楽坂 ナカノ」の電柱広告があります。
 ID 9915-16では、交差点に近い歩道に小屋のようなものがあり、「産婦人科 加藤医院」の広告が3つ、ほかにビラが貼られています。観音開きの扉やガラリのついた通気孔もあります。
 この小屋は第2次大戦の終戦前の「飯田橋駅から見た神楽坂付近の焼け跡」(1945年5月27日)に見られ、昭和29年の新宿区史、昭和36年のID 52-53、昭和45年のID 13126など各時代の写真に写っています。しかし地図には記載されておらず、おそらく仮設のコンテナのようなものでしょう。戦前に倉庫などに使われていたものが戦後、不法占拠物になっていたことも考えられます。これはメトロ「有楽町線建設史」には「公図が不正確で未登記の土地が随所にあった」とあり、不法占拠があっても取り締まりしにくかったことが想像できます。
 1977年(昭和52年)のTV『気まぐれ本格派』の牛込橋のシーンには、この小屋は写っていません。ID 9915-16の少し後に撤去されたと思われます。

TV『気まぐれ本格派』1977年(昭和52年)

 ID 9914では早稲田通りの右側(小屋の反対側)に「コルヌ」「白鷹 とんかつ 森川」「そば 飯田橋」が見えます。
 またID 9913とID 9917では外濠通りに沿いに地下鉄の出口と「」マークがあります。地下鉄有楽町線の池袋ー銀座一丁目間が開業したのは昭和49年10月でした。写真の出口は再開発に備えた仮設のもので、現在は再開発ビル(飯田橋ラムラ)に直結しています。
 飯田橋駅の駅舎から奥は千代田区です。最も大きい建物は日本歯科大学体育館で、隣は日本歯科大学別館です。さらに10階内外の建物がいくつかあります。歯科大に近いのは飯田橋外語学院でしょうか、「〇〇・英文タイプ」と書かれています。写真で最も左側は、ID 480などに見える飯田橋駅東口近くの複数のビルです。また、ID 9916の最左側のビルは「飯田橋プラザ」で「パブ・プラザ」と書かれています。

飯田橋駅(写真)千代田区側 ID 9810 昭和50年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810は昭和50年頃、飯田橋駅前や牛込橋を外堀通りから撮影したものです。ID 9780も昭和50年頃、同じ画角の遠景です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810 飯田橋駅前と牛込見附

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14も、ほぼ同時期の写真です(下図)。

田口重久「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14

 最も手前は外堀通りで、自動車が2台、並走しています。ガードレールの向こうは牛込濠です。柵の角柱の間から水面が光っているようです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)「水面が光っている」

 濠の向こうに電車が走っていて、水道橋方面の1番線ホームに入線しています。よく見ると行き先幕は「千葉」と読めます。電車の屋根には丸いベンチレーターしかなく、まだ冷房化されていません。
 左端の三角屋根は飯田橋駅西口駅舎で、軒上には「飯田橋駅」の看板があります。その前の牛込橋の自動車は左から右へ走っています。この時期には逆転式一方通行が牛込橋側に延長されていたので、撮影が午前中だったことが分かります。
 下の部分拡大図ではAの電灯は背が高く、主に道路を照らすものでしょう。Bの電灯は背が低く、歩行者を照らし、千代田区のものでしょう。
 2つあるCは渡櫓わたりやぐらでした。Dの建物は日本歯科大学体育館で、Eは日本歯科大学別館でした。

 写真の中央やや左の「林不動産」の看板と、その左右の建物は線路際の土手にあった商店でした。この商店は飯田橋駅の駅舎整備で2010年頃に撤去されました。

1975年 住宅地図 矢印は「林不動産」

飯田橋西口の土手沿いの店舗(2009年 ストリートビュー)

飯田橋駅東口(写真)令和元年 ID 13319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319は令和元年(2019年)飯田橋歩道橋の下から飯田橋交差点を中心に撮ったカラー写真です。ここは飯田橋駅東口に近く、昭和58年8月5日に区境変更していますが、この写真を撮った場所はおそらく新宿区でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319 飯田橋交差点令和

 この飯田橋交差点は五叉路ですが、道路は奥に行く大久保通りと左右の外堀通りしか見えず、前後をつなぐ目黒通りは見えません。歩道橋には「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。空に雲はなく、無電柱化の成功のため電柱もありません。左側の中央分離帯にあるのはブリンカーライト(障害物表示灯)です。

飯田橋交差点(令和元年)
  1. 名代 富士そば 24
  2. TULLY’S COFFEE 
  3. 格安販売 チケット モモ 新幹線自販機 黄色のバックカラーに「魚」か?
  4. (駐車禁止)
  5. (店舗 TULLY’S COFFEE)
  6. 「ふくの鳴」「ラーメン」
  7. 鳥よし
  8. 遠くに熊谷組ビル
  1. THE SUIT COMPANY ECC外語学院 英・中・韓・仏 伊・西・独 3F Leave a Nest 4, 5F 鳥どり B1F
  2. 魚盛  うおもり  みずほビジネスパートナー MIZUHO みずほ銀行
  3. 大野屋
  4. サンワード貿易 飯田橋内科歯科クリニック  JJS 〒
  5. 東京新宿メディカルセンター別館(東京厚生年金病院別館を平成9年に改築、平成26年に改称)

住宅地図 令和2年

飯田橋交差点(写真)昭和54年 ID 673, 12110, 12109

文学と神楽坂

新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 673と12110は、昭和54年3月に飯田橋交差点の新宿区側を撮影した写真です。またID 12109はこの交差点周辺の災害時の一時集合場所(公園)、広域避難場所を図示した案内板です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 673 飯田橋交差点

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12110 飯田橋駅前 大久保通り

 左右は外堀通りで、コンクリート製の中央分離帯に立っているのはブリンカーライト(分岐点用点滅灯。中央分離帯や合流地点等に設置し、24時間点滅し、中央分離帯への衝突などの事故を防ぐ)でしょう。横断歩道から左奥へ通じるのは大久保通りです。この他に目白通りも交差していますが写っていません。
 道路はすべて都道で、ナトリウム灯と思われる街路灯が高い位置にあります。この時代の大久保通りの左右は下宮比町でした。後に町域が変更され、写真左側は揚場町に変わりました。また図の左上にある電柱に長四角のものは自動式開閉器でした。
 東京厚生年金病院の別館は下宮比町に、本館は津久戸町にありました。

673 飯田橋交差点

飯田橋交差点(昭和54年)
  1. 剣菱 天麩羅みやこ
  2. 清酒大関 ニューア(サク)サ
    (ここから揚場町)(ア)サクサ
  3. 消火栓
  4. 朝日生命 鳥よし(飯塚ビル)
  1. 東海銀行(飯田橋東海ビル 1965年竣工)
  2. 日本写真学園/(カ)ワセコンピューターサプライ株式会社/三恵株式会社/銀座コージーコーナー/日本写真学園→
  3. 第一勧業銀行(第一勧銀稲垣ビル 1974年竣工)
  4. (駐車場)
  5. 大野屋(武道具店)
  6. 津多屋
  7. 読めない看板(日本精鉱株式会社)
  8. 東京厚生年金病院 別館
    (ここから津久戸町)
  9. 東京厚生年金病院 本館

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12109 飯田橋駅前表示

下宮比町付近 1980年

下宮比町(飯田橋)交差点

文学と神楽坂


地元の方です

 目白通りと外堀通り、そして大久保通りが交わる五叉路を、地元では「下宮比町の交差点」と呼ぶことが多かったと記憶します。
 しかし戦後の地図を見ると、一貫して「飯田橋」と書かれています。この理由を考察しました。
 交差点は全域が外堀の外で、新宿区内になります。隣接する千代田区の地名「飯田橋」は不適当とも言えます。しかしながら、かつては都電の結節点として交差点を取り囲むように飯田橋停留所があったことから、飯田橋と呼ぶことに抵抗は少なかったはずです。

住宅地図。飯田橋交差点 1962

 ひとつの可能性は信号機に交差点名が表示されていなかったことでしょう。単に「下宮比町のあたり」と呼ばれていたことはありそうです。
 もうひとつは、この交差点に1970年代に設置された「飯田橋歩道橋」の住所表示です。田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の写真には大きく地名が書かれています。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-1 船河原橋西詰から 1976-12-02

 実は信号機の交差点名の表示も始まっています。よほど目立たなかったのでしょう。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-2 船河原橋南詰から 1976-12-02 赤囲みが交差点名

 現在でも同様な表示はあるのですが、いくぶん文字を小さするなど誤解を避ける工夫をしているようです。


神楽坂1丁目(写真)平成23年 ID 16075, 16710, 16711

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16075, 16710, 16711は、平成23年(2011)、牛込橋と神楽坂下交差点から、坂上に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16075 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16710 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16711 神楽坂入口

 四つ角は「神楽坂下」交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。平成7年(1995)のID 16074と比べると整備が進みました。
 交差点名は信号機とは別に上に表示されています。「牛込見附交差点」の表示は信号機にくっついていました。
 牛込橋の土橋部分には街路樹と、その足元の植栽ができました。街路樹は落葉樹で、葉を落としています。ID 16075の右側の大きく茂っている木々は街路樹ではなく、隣接する飯田橋セントラルプラザの緑地です。
 街灯は6角形の2灯用ランタンから逆正4角錐の街灯に変わりました。この街灯は平成15年(2003)に完成したものです。
 さらに大きな違いは、ID 16074に見られる架空の電線が地中化されたことです。これに伴い、地中線を管理する地上機器(ID 16075の左側歩道の2個の緑色の小型ボックス)が設置されています。分かりにくいですが、神楽坂通りの電柱も地中化されています。
 歩道はブロック(インターロッキング)で舗装されています。歩行者の衣服はどれも冬用でした。
 ID 16074で外堀通りの角にあったマクドナルドは、カグラヒルズに移転しています。また、道路標識はここでは省略します。

神楽坂1丁目(平成23年)
  1. アパート・マンション Mini Mini
  2. はんこ屋さん21 (事務所向けサービス)
  3. アパート・マンション(ニューハウス)
  4. 親子丼・うどん な(か卯)
  5. (メガネドラッグ)
  6. (カナルカフェ)
  7. (外堀通り)
  8. New Paris スロット 新台 入替「新台 アントニオ猪木が 元気にする パチスロ後」
    (→左)(サカイ書店)
    (→左)三河屋酒店
  9. エイブル
  10. モスバーガー「MOS BURGER この下すぐ モスバーガー神楽坂下店」
  11. 15 いちご ナビ 高収入  検索
  12. 神楽坂 翁庵「24時間営業 まんが喫茶 ゲラゲラ 4階」「神楽坂 吉 5F|まんが喫茶 4F|リーチ麻〇 ふじ 3F|きそば 神楽坂 翁庵 1・2F|〇B1」
  13. 駅前留学 NOVA こども駅前留学 NOVA KIDS
  14. 志満金
  1. (都のシンボルマーク)と  (東京都飯田橋庁舎の案内看板)
  2. (外堀通り)
  3. アパマンショップ(不動産仲介業)
  4. ボナ(カレーショップ)
  5. 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 不二家 ドトールコーヒー Doutor 「J Soul Brothers 12.01 デビュー第2弾シングル」「BOOK OFF 250m」
  7. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  8. カグラヒルズ 「Tokyo Walker 角川文庫」各階 カグ「カラオケの鉄人 AM/11:00~AM/6:00」「McDonald’s|にんにく 鶏 おでん まんま|(カラオケ)の鉄人 3F」

住宅地図。2010年

神楽坂1丁目(写真)平成7年 ID 16074

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16074は、平成7年(1995)、牛込橋から神楽坂に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16074 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下(旧・牛込見附)交差点ですが、信号機に交差点名の表示はありません。左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通り(早稲田通り)です。
 最初に写真の手前から見ていきます。左右の歩道には植木やガードレールはなく、工事用の柵で車道と仕切っています。交差点に最も近い場所に街灯(2灯用ランタン、上向きの6角形の外灯と歩道に近く下向きのやや小さい6角形の外灯、正面から見ると卍に似てる)があり、腕木に緑色の「神楽坂」の文字が見えます。一方、手前の左側には仮設の照明と電気盤でした。
 撮影位置の背中側には牛込橋があり、戦前から使っていた石橋を現在の鉄橋に架け替え、平成8年(1996年)に完成しました。写真では橋は工事中でした。
 次に外堀通り。街路樹は葉を落としています。高所から左右を照らす街路灯が車道の中央に建っています。商店街の街灯ではありません。
 最後に神楽坂通りの奥。神楽坂通りは歩行者天国中で、車道は注意喚起のギラギラ塗装で赤くなっています。ここの街路樹も裸木です。
 信号の奥には緑色の「神楽坂」の標識ポールがあり、その向こうには信号手前と同じ2灯用ランタンの街灯が続いています。道路標識も沢山ありますが、ここでは省略します。
 現在は晩秋から早春です。

神楽坂1丁目(平成7年)
  1. 名代 うどんそば
  2. 白鷹 特製とんかつ 森川
  3. メガネドラッグ ホントにホントに安い!
  4. マクドナルド ハンバーガー
  5. 外堀通り
  6. (パチ)ンコ ニューバリー
  7. 神楽坂 翁庵 ジャンプ
  8. 5Fカラオケ

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 1年間保険付 ホントにホントに安い!
  2. 地下鉄 SUBWAY 飯田橋駅
  3. 外堀通り
  4. AKAI
  5. 薬 ヒグチ
  6. 紙店
  7. 不二家
  8. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  9. カグラヒルズ 各階名店ぞろい 英会話ECC 飯田橋校
  10. TWIN STAR Disco &

神楽坂1丁目(写真)平成31年 ID 14049

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14049は、平成31年(2019)1月、牛込橋から神楽坂通りをのぞんで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14049 牛込橋から神楽坂通りをのぞむ

 四つ角は神楽坂下交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、神楽坂通りと同じ上を向いて逆正4角錐の街灯(アイ ツインアークが光源)があります。ここはちょうど千代田区との区境で、手前右上の下向きの正六角体の街灯は千代田区側でしょう。左側にある2個の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。左右に背の低いお花畑があり、歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。

神楽坂1丁目(平成31年)
  1. ニューハウス(不動産会社)か?
  2. 神楽坂バル Lasana
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. 名代 富士そば。のぼり旗「生蕎麦」
  5. (カナルカフェ)
  6. (歩行者横断禁止)
  7. 最高速度30km (駐車禁止)
  8. 外堀通り
  9. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  10. (STARBUCKS COFFEEのトレードマーク)(喫茶店)
  11. エイブル(不動産会社)
  12. 屋上広告「(インター)ネット (まん)が喫茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  13. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  14. (志満)金(うなぎ店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 千代田区の街灯
  2. 神楽坂の絵
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. ▶消火栓
  5. アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. その右に「りそな銀行」、さらに「リアット」(靴修理)
  7. (一方通行)「自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  8. のレン(生活用品店)
  9. 「ドトールコーヒー」「 ホットヨガ/カルド神楽坂」 ONE DX BOCX
  10. 右に「神楽坂 あんみつ」「紀の善」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「盾の勇者の成り上がり シリーズ〇〇1~20巻 絶賛発売中 ファンタシー 2019年1月〇日よりTV アニメ放映」「カラオケの鉄人 11:00~AM/6:00」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」(薬屋)「ミライザカ」(唐揚)

神楽坂下のガス灯

文学と神楽坂

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」の赤井儀平氏のガス灯です。赤井足袋店は外堀通りにあった神楽坂1丁目の角で、専門は足袋、戦後にはシャツも行いました。現在は閉店し、表札は今も「赤井」ですが、店はアパマンショップ(不動産会社)に変わりました。

 見附のつき当りは石垣ですからまっ暗でした。手前共の2代目がガス灯をつけました。橋の向いがわとこちらがわにです。そうすれば麹町のお屋敷の女中さん達も淋しがらずに出て来られるだらうというわけです。その頃はまだ電灯のない時代です。皆ランプでした。ガス灯は古い写真をごらんになるとおわかりになりますが、ひさしヘガラス張りの箱形の軒先灯がつけてありまして、点灯人夫が夕方になると脚立をかついで火をつけに来るんです。日本点灯会社というのが肴町にありまして点火、掃除、油差しを請け負っていました。勿論軒先灯だけではなく街灯もありましたが、照明が暗いだけでなく夜になると通りの店はみんな「あげ戸」を下してしまうものですから通りは暗くて、宅などは上の1枚だけを障子にしておきまして、窓をつけてございましたから、遅くいらっしゃるお客様にはその窓越しにあきないをいたしておりました。街灯といっても何本もありませんでしたので、そこだけは幾分か明うございましたがそれ以外の所はまっくらでした。それがだんだん電灯がつく様になりますと表にガラス障子がはまり、屋内の明りが外に出るようになりまして通りも大変あかるくなりました。それまで神楽坂もひどうございました。
あげ戸  揚げ戸。揚戸。縦溝に沿って上下に開閉する戸。戸の上端に蝶番ちょうつがいなどを取り付け、つり上げて開ける戸。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7641 赤井足袋店

 私はこれこそがガス灯で、神楽坂唯一で最古のものだったと考えました。しかし、地元の1人は、これがガス灯かも知れないと、言い方は微妙に違っています。つまり…

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7640-41に赤井足袋店と街灯が写っています。独特の形状で、これがガス灯かも知れません。撮影時期は『明治中期以降(推定)』としていますが、電柱と電線も写っており、撮影したのは大正初期の可能性もあります。

赤井足袋 ID 7640-7641

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13318は、令和元年(2019)6月、牛込橋あたりから神楽坂入口を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13318 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下交差点、左右に流れる道路は外堀通り、前後に流れる道路は神楽坂通りです。手前の舗装が違う部分は牛込橋です。戦前からの石橋を、平成8年(1996年)に鉄橋に掛け替えました。道路との間に黒いゴムを挟んでいて、小さな段差があるように見えます。おそらくコンクリートで舗装しています。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、意味は「駐車禁止」。
 縁石に近い歩道から左右で上を向いて茶色に塗った街灯があります。新宿区の街灯とは違うので、千代田区の街灯でしょう。

街灯。Google

 次に「神楽坂通り」がここから始まり、さらに道路標識が続きます。

高 田 馬 場
Takadanobaba
市 谷
Ichigaya

飯田橋
Iidabashi
◀━   外堀通り  ━▶
牛込橋→神楽坂1丁目(令和元年)
  1. ▶街灯
  2. ▶神楽坂通り
  3. ▶道路標識
  4. 部屋探し/(mini) mini/xx9-x532(賃貸物件仲介)
  5. ▶消火栓
  6. 名刺 印鑑(「はんこ屋さん」)
    ――神楽坂下交差点
  7. (STARBUCKS COFFEE)
  8. (エイブル)
  9. モスバーガー
  10. 屋上広告「いちごナビ 「ねぇ 15pay 知ってる?」「いちごナビ求人」(風俗求人情報)「(インターネッ)ト (まんが喫)茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  11. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  12. 志満金(うなぎ)

▶がある場合は歩道上で車道寄りに、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. ――神楽坂下交差点
  2. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  3. (車両進入禁止)が2つ
  4. カグラヒル(ズ)「ひとりぼっちの まる まる生活 TVアニメ NOW ON AIR」「カラオケ(の鉄人)」「インター(ネット) まんが(喫茶 自遊空間)」「マツモト(キヨシ)」
  5. 遠くの高層ビルは「ヴァンテ・アン神楽坂」(3丁目・マーサ美容室跡/10階建て、1998年完成)と「神楽坂アインスタワー」(5丁目・寺内地区再開発/26階建て、2003年完成)

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13298

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13298は、令和元年(2019)5月、「神楽坂入口」を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13298 神楽坂入口

 交差点名は「神楽坂下」。信号機にはゼブラ柄の背面板はありません、車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、「駐車禁止」の意味です。街灯の柱は灰色で、光源はアイ ツインアーク(水銀ランプと高圧ナトリウムランプ)で、逆さまの正四角錐で包まれています。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。
 横断歩道の奥の車道が赤く舗装されています。通称「ギラギラ舗装」で、交差点付近の駐停車禁止の注意喚起を目的に東京都が平成13年頃から導入しています。ただし交通標識や路面標示のような全国一律のルールではないので、道路管理者が判断しているようです。この部分は新宿区道です。
 左右に走る外堀通りは、いつか都市計画で拡幅されます。このため写真手前の建物は2階建てで、少し奥の建物から高くなっています。左側の建物が斜めに切れたようになっているのは、その部分まで道路が広がることを意味しています。

神楽坂1丁目→坂上(令和元年)
  1. ▶看板「交通事故多発 取締強化路線」
  2. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)パチンコニューバリー跡
  3. ▶交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  4. エイブル(不動産会社)田原屋フルーツパーラー跡
  5. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  6. モスバーガー(ハンバーガー屋)清水衣裳店跡
  7. 翁庵1・2F。梨々苑(焼肉)B1。「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」「Darts bar」
  8. 屋上広告「インターネット まんが喫茶 自遊空間」(向かいのカグラヒルズに入居)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 情報満載お部屋探し♪ Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店(不動産仲介会社)赤井足袋店跡
  2. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  3. カレーショップ ボナッ
  4. ▶消火栓
  5. ▶神楽坂通り
  6. ▶標柱、三角コーン
  7. のレン 室(米麹食品専門店)白十字診療所跡
  8. ▶街灯。横断幕・「神楽坂」
  9. のレン(生活用品店)山田紙店跡
  10. ▶地下鉄 神楽坂駅
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 「ドトールコーヒー Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」「300m ホットカルドカルド神楽坂」「パク・ボゴム」「ペ(コちゃん)」突き出し看板「ペコちゃん」「ペコ(ちゃん焼)日本で(ここだけ!)」
  13. カグラヒル。屋上にあるのはKADOKAWAのデジタルサイネージ広告で、この時に表示されていたのは…「とんび」の重松清x堤真一が贈る感動作 泣くな赤鬼。6.14 FRI ROADSHOW 堤真一/柳楽優弥/川栄李奈。原作:重松清「せ(んせい。)」「(カラオケの)鉄人」「地域最〇 SEG(A)神楽坂」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」

デジタルサイネージ広告 デジタル技術を活用し、平面ディスプレイやプロジェクタなどで映像や文字を表す情報・広告媒体。英語でDigital Signage(電子看板)

神楽坂1丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13158

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13158は、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13158 神楽坂歩行者天国

 外堀通りを走行中の車の窓越しに、バリケード看板が立っていて神楽坂通りへの進入を禁じているのが分かります。
 一方、中央やや右寄りの左向きの矢印は坂下から坂上までの「一方通行」を示しています。この標識は逆転式一方通行のための回転式です。後に歩行者天国実施中は「自転車及び歩行者専用」が表示されるようになりますが、この時代はまだ「一方通行」のままでした。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。
 大きな標識「神楽坂通り/美観街」が左右に1本ずつできています。よく見ると坂上の同じ標識も見えます。
 ここでは「牛込見附」交差点より手前のものを扱います。後ろ(奥)はID 65-66ID 8799-8800などを見て下さい。

  1. 独特 とんかつ 森川 神楽坂1-9
  2. 電柱看板「富士(見 東京)大神宮通り)」(英会話タイプ学院)
  3. (歩行者横断禁止)
  4. ROO(M)セ(ブ)ン (喫茶セブンセブン)
  5. 2F 山菜料理 おふくろ。小さく突き出し看板も 「おふくろ」
  6. 東山 東山酒蔵直営 東山酒蔵
  7. 反対向けの道路標識

 なお、右側の佳作座のポスターは何だかわかりませんでした。

神楽坂1丁目(写真)昭和45年、ID 13126、ID 13128とID 13130

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 13126、ID 13128とID 13130を見ていきましょう。3つとも昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。ID13117、ID13118、ID13121-22、ID13124と同様の画角ですが、より左側に寄った場所から撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13126 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13128 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13130 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋と右側の外堀通りの車道にはあって、おそらく左側の外堀通りもあったでしょう。また、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 富士見 〇〇入学随時☎ 英会話タイプ学院 この手前
  2. 電柱看板「独特 とんかつ 森川
  3. 東山酒蔵
  4. 電柱看板「 大久保
  5. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  6. 交通標識の裏面
    ――「牛込見附」交差点
  7. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  8. 電柱看板「東電のトレードマーク 中〇」
  9. (車両通行止め)
  10. 電柱看板「八千代鮨
  1. (歩行者通行止め)
  2. 萩の宮
  3. ファサード看板「加藤医院
  4. 貸間 アパート 学生会
  5. 映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ――「牛込見附」交差点
  6. 株式会社 さく(らや)(靴)
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. (白十字医院)
  11. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  12. (車両進入禁止)
  13. 不二家洋菓子
  14. (消火栓)
  15. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」「今宵楽(しく軽い心で)」
  16. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  17. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  18. 看板「パチンコはマリーで」
  19. ニュ(ーイト)ウ(靴店)
  20. 純喫茶 クラウン(喫茶店)
  21. MAX FACTOR(化粧品)
  22. 資生堂(化粧品)(さわや
  23. ナショナルのマーク(竹谷電気工事)
  24. 東京電力(サービスステーション)
  25. 鮨どころ 二葉(寿司)

住宅地図。1970年

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID13117-18, 21-22, 24

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID13117-18, 13121-22, 13124を見ていきましょう。全ては、昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13117 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13118 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13121 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13122 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13124 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋はあり、おそらく外堀通りもありでした。
 歩道もアスファルト舗装ですが、カメラの足元の牛込橋部分は石敷でした。ID 13117の右下のガードレールの切れ目あたりで、アスファルトの歩道が縁石で終わっているのが分かります。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。ただし、牛込橋の最も手前に逆円錐形の街灯があり、これは千代田区のものと思われます。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 登録商標東山 東山酒蔵〇会 東山酒蔵
  2. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  3. ▶電柱看板「 大久保」「東電のトレードマーク 中〇」
  4. 交通標識の裏面
    ーー「牛込見附」交差点
  5. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  6. (車両通行止め)
  7. (パチン)コ Pachinko(ニューバリーパチンコ)
  8. (駐車禁止)(区間内)
  9. 田原屋(フルーツパーラー)
  10. 田口屋生花店。五階建て
  11. 「ダイヤモン(ド毛糸)」(大島糸店)
  12. (喫茶)五(条)(五条ビル)
  13. 遠くに「協和銀行」

▶は車道寄りの歩道上に広告があり、ない場合は直接店舗に

  1. 立て看板「アルバイト 下宿 アパート 貸間 日本学生会
  2. ▶立て看板「盛況 酒ビール飲放題確定サービス 8時迄〇〇一五〇〇円」
  3. 電柱広告「洋装店 ナカノ」
  4. 萩の宮
  5. ファサード看板「入院設備あり 産婦人科 加藤医院
  6. ▶映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ーー「牛込見附」交差点
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  11. (消火栓)
  12. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」
  13. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  14. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  15. クラウン(喫茶店)
  16. 資生堂(化粧品)(さわや)

住宅地図。1970年

神楽坂1丁目(写真)外堀通り 昭和54年 ID 94とID 11873

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 94とID 11873は、昭和54年(1979年)1月17日、神楽坂1丁目で、外堀通りに沿って撮ったものです。

94 風景 昭和54年1月17日

11873神楽坂 外堀通り

 ID 94については地元の人の解説があります。

 写真ID:94(昭和54年1月17日)は牛込見附(神楽坂下)交差点から揚場町の方を写したものです。
 写真左から赤井商店のテント、さくらや靴店、市原燃料店、ヤマザキパン、名画の佳作座ミッシェルズコーヒーショップ、すべて閉店しました。神楽坂飯店は営業中です。
 懐かしいのは、正面の街路樹の枝の隙間から「東海銀行」が見えること。下宮比町の交差点角に支店がありました。今はスーツカンパニーです。その左のヨコ看板は残念ながら判読できません。

 もう一つ、佳作座の「作」と「座」の間に出ているものはなあに? 「部」はわかります。ほかはわかりません、ものぐさ親父「いまさら鉄ちゃん!?」の品川駅前暮色~都電3番線に乗って~昭和42年には、かすかに全体が写っています。どうやら「婦人倶楽部」と読めます。後の時代には「週刊現代」になるので、講談社の広告スペースだったでしょう。

牛込見附から飯田橋方向(昭和42年)

 神楽坂飯店の下「ば/うどん」は「そばうどん」(立ち食い店)です。
 また、転回禁止()と自転車及び歩行者専用()があります。転回禁止とは進む方向を180°変える行為で、Uターンやスイッチターンのこと。自転車及び歩行者専用とは、この標識より先、普通自転車と歩行者に限って通行できることです。

研究社(写真)昭和51年 ID11484-11486

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11484~11486は、昭和51年(1976年)、神楽坂1丁目の外堀通り沿いにあった研究社の印刷部を撮った写真です。
 1927年(昭和2年)12月、研究社の神楽坂印刷工場(地下1階、地上4階)として完成し、第2次世界大戦は生き延びて、昭和59年にもありましたが、同年、新座市野火止にあった工場に印刷部門の本社が移転。解体され(ただし解体の正確な時期は不明)、昭和61年2月に隣の社屋と一体で「研究社英語センタービル」として新しく完成、現在に至っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11484 神楽坂 研究社

 上のID 11484では建物の北東方から撮影した印刷工場です。そばの道路に「駐車禁止」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11485 神楽坂 研究社

 ID 11485は入り口のアップです。社名は戦前の右書きで「社究研」。向かって右の門灯は失われています。その下の銘板は読めませんが、戦前の写真には見えないものです。前の路上の会社員風2人はネクタイがなく、半袖らしいワイシャツを着ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11486 神楽坂 研究社

 ID 11485は向かって左に、戦後に建てられた研究社の新館があり、旧館との間に渡り廊下のような屋根が見えます。新館には垂れ幕「建国200年アメリカの核心を衝く! 総合 アメリカ 全7巻 絶賛刊行中! 研究社」があります。旧館の右奥の建物は東京理科大学です。
 電柱広告は「〇〇部医院」と読めます。外堀通りを照らす道路灯はあかあかと光っていますが、歩道の街灯は消灯して、撮影したのは夕方でしょう。
 ID 12201~12203のカラー写真も同じなので、同時期の撮影と思われます。

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9780

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9780は、昭和50年(1975年)頃、外堀通りを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9780 外堀通り 飯田橋駅付近

 神楽坂下の角のパチンコニューパリーから外堀通りを渡った千代田区側の店々です。飯田橋駅の手前までは神楽坂1丁目です。

外堀通り

住宅地図。1976年

  1. 東山酒造
  2. スナックコルヌ
  3. とんかつ森川
  4. 北海道ラーメン
  5. 立喰そば+やなぎ(もつやき)
  6. 飯田橋駅西口駅舎
  7. ボートハウス
  8. 旧牛込駅のプラットフォームに行く

 さらに遠くをみると……

外堀通り②

  1. 日本歯科大学体育館(1970年竣工)
  2. ビリヤードニッポン
  3. 富士見町教会(鐘楼がわずかに見える)
  4. 飯田橋会館(1階に飯田橋郵便局)
  5. 東京警察病院(1970年竣工)
  6. 土手公園

住宅地図。1984年


[牛込橋]

神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。また、茶色のコメントは地元の方のものです。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。

神楽坂1丁目(写真)赤井足袋店 明治後期 ID 7640-7641

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7640とID 7641を見ましょう。撮影は新宿歴史博物館では明治中期以降と推定するか、または『新修 新宿区史』では明治40年代の神楽坂入口付近だとしています。場所は赤井足袋店で、瓦葺きです。ここは神楽坂下交差点で、左に行くと神楽坂上に向かい、右に行くと飯田橋駅西口に、前と後ろは外堀通りです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7640 赤井足袋店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7641 赤井足袋店

 明治初期の街の灯りの再現で裸火のガス灯から「明治27年頃からは、白光を発生する網状の筒を用いたガスマントル式のガス灯に置き換えられるようになり、街路灯はより明るくなりました」といっています。写真の街灯は以降とは違い、自立的で、ガスマントル式のガス灯だったのでしょう。ヤジロベエに似たものがついた蓋も「ルーカスアウトドアランプ 明治後期」とちょっと似ています。 
「赤井」の店名と「⩕」の下に「三」の屋号が大きな足袋の形の中に書かれています。店内の左側には足袋の陳列棚、奥にも細かく分かれた引き出しや棚があります。正面の帳場の左側の男性は仕事道具と思われる長細い槌を手にしています。客は通り側の四角い椅子に腰掛け、その場でコハゼの調整や簡単な修理をしたのでしょう。軒上の表札は4字で「村〇〇〇」のようです。
 家の右すぐに斜めにささえる丸太があります。さらに外堀通りの先にも同じような棒があります。実際に電柱のつっかい棒として働いたのでしょう。電柱看板は高い位置の突き出し広告が「染物〇〇〇〇」。低い位置は「政治教育論」と読めます。尾崎行雄の大正2年の著作とは時代が合いませんが、別の本でしょうか?
 また自転車の男性の左上には逓信の「〒」マークの「郵便切手・収入印紙」売捌所の吊り下げ看板が見えます。このデザインは修正を加えながら第2次大戦後も長く使われました。「〒」の下には軒灯があります。
 左は別の店で「花草」と「辻」の看板があります。木の窓枠の中には植物が見えるので、花屋か植木屋と思われます。よく見ると建物は一体で、赤井足袋店が一部を貸店にしていたのかも知れません。
 「ID 7640-7641の赤井足袋店の全体的な様子は、『牛込区史』(昭和5年、牛込区役所、590頁と591頁の間)やID 2(昭和6年)とそっくりです。新宿歴史博物館は『明治中期以降(推定)』としていますが、もう少し時代は新しく、『政治教育論』が刊行された大正初期の可能性があると思います」と地元の方。

神楽坂1丁目(写真)昭和36年 牛込橋 ID 12125~12127

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 12125、ID 12126,ID 12127を見ましょう。レンズは外堀通りと神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭すずらん灯があり、車道は平坦でデコボコはありません。信号機はゼブラ柄の背面板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12125 神楽坂下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12126 神楽坂下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12127 神楽坂下

 牛込橋から神楽坂下までの車道にセンターラインがあり、この部分が逆転式一方通行になるのはずっと後ですが、早い段階でセンターラインは描かれなくなっていたと地元の方。
 牛込橋の桜の木はよく見ると若葉がついているようです。
 写真の右上で、メトロ映画(上の看板は「yヽロ映画」)では東映作品「鳴門なると秘帖ひちょう」(公開日は昭和36年1月26日)、松竹作品「はったり青年紳士」(公開日は昭和36年3月15日)をやっていました。下に行き「さくら」は「さくらや靴店」です。森本不動産は小栗横丁に行く横丁にありました。
 右中央に「赤井商店」が見えますが、その前のID 12126に女性が描かれた看板が見えます。よく見ると『ナポリ』らしき字があり、ソフィア・ローレン出演の映画『ナポリ湾』(日本公開は昭和35年12月)を佳作座でやっていたのではないか、と地元の人。佳作座は2番館なので、昭和36年に出もいいと思います。
 撮影は牛込橋周辺で、新宿歴史博物館の発表では昭和37年になっています。でも、同じ撮影でID 52とID 53では昭和36年4月になっています。よく見ましょう。「yヽロ映画」はどちらも同じ壊れ方。映画作品もまったく同じで、外堀通りから牛込橋に渡る立て看板や、通り沿いにみえる造花の飾りも同じです。造花はカラー写真だとサクラを模したピンクだと確認できます。ID 12125~12127は、ID 52~53の左端の駐車車両は見えませんが、ほぼ同時期に撮影したと推定できます。
 では昭和37年と昭和36年、どちらでしょうか? 昭和37年2月以前に撮ったID 55と56を比べてみましょう。「メトロ映画」はさらに「 ヽ凵映画」とぼろぼろで、鈴蘭灯ではなく大型の蛍光灯になっています。ID 52~53とID 12125~27はID 55と56よりは昔なのです。つまり、昭和36年に撮影したのです。
 では色を含めて書いておきます。

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂1~2丁目(昭和36年)
  1.  中河電気 「旅館 野乃木」
  2. 天下の銘酒 富士錦  三富酒 。壁にネオン「三富」
  3. 交通標識
  4. 外堀通り
  5. 赤色ネオン「パチンコ」「(ニュ)ーパリー」。部分的に赤と黒の壁
  6.  田原屋 
  7. 貸衣裳 清水衣裳店
  1. ポスター「森本不動産」「産婦人科 加藤」
  2. 外堀通り
  3.  赤井商店  ポスター「ナポリ(湾)」 さくらや靴店
  4.  印章  ゴム印 (津田印店)
  5. 美容室(ニューマヤ
  6. ヤマザキパン(神楽堂)
  7. 神楽小路に行く(見えない)
  8.  コ〇ン〇ン (山一薬品)
  9. メトロ映画「鳴門秘帖」「はったり青年紳士」
  10. キャバレー (ムーンライト)

神楽坂1丁目(写真)牛込橋 昭和37年 ID 5993~5995

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5993~5995は、昭和37年(1962年)、神楽坂1丁目を牛込橋方向から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5993 神楽坂入口をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5994 神楽坂入口をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5995 神楽坂入口をのぞむ

 昭和36年4月のID 52-53と比べると、牛込橋の車道のセンターラインや歩道の柵、左右の桜の木は同じです。しかし今回の街灯はそれまでの鈴蘭灯から、大型円盤形の蛍光灯に代わっています。左側の電柱広告は「旅館かぐら苑 野乃木」から「大久保質店」に、右側のファサード看板も「森本不動産」から「伊達」に代わりました。
 右上の「メトロ映画」の看板は「ヽロ映画」(ID 52-53)から「 ヽ凵映画」(ID 5993~5995)へと老朽化が進んでいます。遠くにキャバレー「ムーンライト」が見えています。
 街の様子は、寒いのか外套を着る人もいて、桜も裸木です。ただ歳末セールや正月の飾りのようなものは見えません。
 ID 55と56ともよく似ています。左下の手すりが雑巾かシャツで覆われ、すぐ前に同じバイク、右側にも同じ「日軽サッシ」の車も停まっています。ID 55-56、5993~5995は同じ時に撮影したことが分かります。
 新宿区『新宿区15年のあゆみ』(新宿区役所内務部総務課、1962年)ではID 5994を使っています。この本は昭和37年3月に出版していますので、この写真は、それ以前に撮影したはずです。
 ID 5995の右側の桜の木に、映画のポスターらしきものが見えます。昭和37年(1962)2月11日公開の『天使と野郎ども』ではないでしょうか。とすると撮影は昭和37年2月でしょうか。

日軽サッシ サッシ(window sash)は窓枠全体のこと。日軽は日本軽金属から現在はLIXIL(リクシル)になり、これは建築材料・住宅設備機器業界最大手の企業。
映画のポスター 拡大します。

人文社「日本分県地図地名総覧 東京都」1960年

神楽坂1~2丁目(昭和37年頃)
  1. ラーメン 中華そば
  2. とん(かつ森川)「も や」
  3. 電柱看板「気軽に習えて三日で踊れる 小柳ダンス教室
  4. 地名標識「神楽坂」
  5. 喫茶室 コルヌ(Corne)
  6. 電柱看板「 大久保」「中河電気
  7. 袖看板「天下の銘酒 三富酒蔵」壁面看板「富士錦三富酒蔵」「大衆」
  8. 外堀通り
  9. パチンコニューパリー。エッフェル塔に似たネオン
  10. 神楽坂通りは省略)
  1. 桜の木にポスター
  2. 神楽坂警察署
  3. 旅館 保〇
  4. 停車中の自動車「日軽サッシ」
  5. 桜の木に看板 映画
  6. ファサード看板「入院応責 産婦人科加藤医院」「品の良いデザインカットを誇るドレスはD伊達」
  7. 外堀通り
  8. 赤井商店
  9. 右に移って「さくらや靴店」
  10. (神楽坂通りは省略)
  11. 屋上広告「メトロ映画
  12. 屋上広告「キャバレー ムーンライト」

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 拡大図

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

神楽坂1丁目(写真)外堀通り 昭和54年 ID 93

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 93は、昭和54年(1979年)の北東部の神楽坂1丁目で、外堀通りに沿って撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 93 神楽坂入口近く外堀通り

1980年 住宅地図。

1978年 住宅地図。

神楽坂1丁目(昭和54年)
  1. 神楽坂飯店。味自慢、ラーメン。
  2. えぞ松。上に「ラーメン えぞ松。牛丼/餃子/え(ぞ松)」
    下に「手打餃子。ジャンボ 250円。土産 270円」
  3. カレーショップ インドール
  4. そばうどん(立ち食い店)
  5. バラエティスタンド飲食街 (2)階 (トウホウビル通り抜け)
  6. (TORI)NO(喫茶店)
  7. 雀處 の舎〇
  8. 人形の家(純喫茶)
  9. 東京トラベル
  10. 松(村薬局)
  11. (離れて)東海銀行
  1. 神楽坂交差点先100M 白銀町九 フクヤ 神楽坂3-5(地番表示は誤り)
  2. 電柱看板「阿部医院」




  1. 大郷材木店
  2. (離れて)五洋建設

神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)

文学と神楽坂

 地元の方は次の情報を送って下さいました。なお【A】などの下線はたたくと元の写真が出ます。

 商店街にとって、街灯は集客のための基礎的なインフラです。神楽坂通りの街灯の歴史を写真を元に調べてみました。
【明治中期】
 新撰東京名所図会第41編(明治37年)に「神楽坂通り」と題した小さな写真【A】があります。明治30年代以前と思われます。不鮮明なのですが、中央の電柱から下がっているものが街灯かもしれません。右側の店(樽と「恵比●」の文字、さらに横看板に「BEER」が見えるので飲食店か)には軒灯を出しています。記事には「牛込区第一繁華の市街」とありますが坂道は砂利敷きで、夜の灯りも十分ではなかったでしょう。

【A】 新撰東京名所図会第41編(明治37年)神楽坂通り

 牛込神楽坂。明治35~39年頃の写真【B】には、外堀通り沿いの街灯が確認できます。市電の走る外堀通りの街灯は他の場所【C】でも確認できます。
 【B】を詳しく見ると神楽坂通りは【A】より電柱がかなり増えていて、高い電柱の間に低い柱があります。しかし街灯までは確認できません。

【B】牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

【C】新撰東京名所図会第43編(明治39年)市谷田町二丁目通

【大正期】「大正12年3月の神楽坂」の写真【D】には、明らかな街灯が写っています。角柱から丸い灯りが2つ突き出す形で、柱の上には擬宝珠のような飾りもあります。これが坂の両側に何本かある様子が見て取れます。なお、明治40年は間違いで、この写真は大正12年に撮られています。

【D】大正12年3月の神楽坂。野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)

【大正-昭和初期】
 大正15年の3丁目の写真【E】の街灯は形状が変わり、傘をかぶった吊り下げ型の1灯になります。神楽坂が舗装された1925年(大正14年)に、同時に街灯を更新したのかも知れません。

【E】 大正15年 3丁目。毎日新聞社『法政大学(大学シリーズ)』(1971年)

 同時代の肴町(現5丁目)【F】 【G】や坂下の写真【H】にも同型の街灯が見えます。ただ良く見ると【E】の街灯の方が背が高く、明治期とよく似た擬宝珠があります。他の写真の街灯の頭頂部は四角いキャップです。

【F】大正時代の神楽坂通り。国友温太『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)

【G】 昭和5年の神楽坂通り。改造社『日本地理大系』(1929年)

【H】 神楽坂界隈。毎日新聞社「大学シリーズ法政大学」(昭和46年)

 昭和8年『大東京写真案内』の写真【J】も、【E】と同じ笠をかぶった街灯です。しかし、この写真の右、上宮比町(現・4丁目)側には街灯が確認できません。街灯は町会単位で整備されることが多いので、もしかしたらこの時期、上宮比町には街灯がなかったのかも知れません。

【J】 昭和8年 。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)

【昭和10年代】
「東京市内商店街ニ関スル調査」の昭和10年の写真【K】になると街灯は一変します。高い丸柱が立ち、梁状の支えが横に突き出して高い位置にドングリ型の照明がつきます。梁の下部はアーチ状の飾りがあり、飾りの下にも電灯があるようです。

【K】東京商工会議所「東京市内商店街ニ関スル調査」(昭和11年)。写真は昭和10年12月19日

「牛込華街読本」昭和12年【L】も【K】と同じ街灯です。神楽坂通りの両側に交互に街灯が立っている様子が分かります。

【L】牛込三業会「牛込華街読本」昭和12年。

 おそらくこの街灯は、戦災で街が焼ける昭和20年まで使われました。

 以上、これまでは地元の人でした。まとめると、下図のように、おそらくA(明治37年)は個別の店の軒灯、B(明治35~39年)とC(明治39年)は東京市の街灯、D(大正12年)は商店会の街灯、E(大正15年)、F(大正時代)、G(昭和5年)、J( 昭和8年)は同じ形をした商店会の街灯、K(昭和11年)とL(昭和12年)は鈴蘭灯に似た街灯だったと思います。ただし、すべて「おそらく」付きです。



神楽坂1丁目(写真)昭和49年 田口重久氏

文学と神楽坂

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」第五章 新宿区 補-10 (11/15) 05-10-32-1 牛込見附交差点からは昭和49年(1974年)12月21日(土)に撮ったものでした。大きな左向きの矢印はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。外堀通りにはまた鉄板が覆っています。

1974-12-21 牛込見附交差点から。田口重久氏「歩いて見ました東京の街」

神楽坂1丁目(昭和49年)
  1. 有楽町線「飯田橋駅」。道路を開削、上に鉄板。埋め戻しは開業後。
  2. 看板「車両通行止め12~18 牛込警察署 新宿区」
  1.  牛込見附  (歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20。スプーン・フォーク・スープの標識
  2. ニューバリーパチンコ。Pachinko。上の看板イーグルボウル下宮比町に。
  3. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)と(質)大久保
  4. TAWARAYA。黒い看板と白の球。(フルーツパーラー 田原屋)
  5. 元祖 貸衣装 清水本店
  6. 生そば(翁庵)。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  7. 中華料理 信華園
  8. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  9. 小栗横丁にいく通り
  10. 志満金。ビルではない
  11. 靴(オザキヤ
  12. 大島糸店2階が大島歯科
  13. 話し方教室。五条ビル(ヒデ美容室の隣で)
  1. (一方通行入口)自転車を除く。(歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. 白十字医院
  5. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 地下鉄 飯田橋駅
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。
  8. あんみつ。紀の善。切妻の屋根
  9. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  10. 上でビル「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  11. 陶柿園がビルに。昭和47年(1972年)3月に完成
  12. 「菱屋」が遠くに見える

 神楽坂仲通りの△は横断歩道の標識。その奥は「神楽坂通り/美観街」です。

神楽坂1丁目(写真)昭和36年 ID 52と53

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 52と53を見ましょう。撮影は牛込橋周辺で、昭和36年4月。レンズは外堀通りや神楽坂の坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭すずらん灯があり、車道は平坦でデコボコはありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 52 神楽坂入口から坂上方向

 寺田弘発行「神楽坂アーカイブズチーム第1集」(NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2007年)では《なつかし写真館➀》としてこのID 52を「飯田橋付近から神楽坂通りをのぞむ(昭和30年ごろ)」として描いています。しかし、「昭和30年ごろ」はおかしいと思っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 53 神楽坂入口から坂上方向

「牛込橋から神楽坂下までの車道にセンターラインがあります。この部分が逆転式一方通行になるのはずっと後ですが、早い段階でセンターラインは描かれなくなっていました」と地元の方。
 よく見ると牛込橋の桜の木に若葉がついているようです。
 写真の右上で、メトロ映画(上の看板は「y ヽロ映画」)では東映作品「鳴門なると秘帖ひちょう」(公開日は1961年1月26日)をやっていました。下に行き「さくら」は「さくらや靴店」です。森本不動産は小栗横丁に行く横丁にありました。

森本不動産 全住宅案内地図帳 新宿区 昭和37年版 住宅協会

 加藤産婦人科は袋町7番地でした。

昭和37年 加藤医院 全住宅案内地図帳 新宿区 昭和37年版 住宅協会

 なお、下の地図の「神楽坂通り」の「通」のすぐ下の「あき不庵」は「おきな庵」(翁庵)の間違いでしょう。
 右中央に「赤井商店」が見えますが、その前に女性が描かれた看板が見えます。「よく見ると『ナポ』らしき字がある。ソフィア・ローレン出演の映画『ナポリ湾』(日本公開1960年12月)を佳作座でやっていたのではないか」と地元の人。佳作座は2番館なので、1961年に出ているようです。

It started in Naples

https://eiga3mai.exblog.jp/30110439/

 それでは左端に行きましょう。中央にある電柱広告「旅館かぐら苑」の隣の漢字は「野」の草書体で、「野乃木ののき」でした。また居酒屋「酒蔵三富」がその左上にあります。

52L

 なお、これよりも昔は電柱広告が「旅館かぐら苑」のままで出たこともあります。ID 7002(撮影は昭和34年)です。

7002 神楽坂昭和34年頃。新宿歴史博物館

 以上、昭和36年(1961年)4月の写真でした。

神楽坂1丁目9(写真)森川ビル

文学と神楽坂

神楽坂1丁目4分割

 神楽坂下交差点を囲んで神楽坂通り(早稲田通り)と外堀通りがあり、この部分を4分割します。この1つは東の分割で、神楽河岸です。新宿区の建物だけで、誰も住んでいません。他には3か所は全て神楽坂1丁目です。このうち、南の分割(1丁目9)と「とんかつ森川」について、調べてみたいと思っています。
 最初は田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、昭和42年に牛込橋のほうから神楽坂下交差点を見ています。

05-14-37-1

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を 1967-02-08(昭和42年)

 では、南分割の看板(下図はさらに拡大可)を右から左に向かって…

  1. 袖看板。天下の銘酒 富士錦 三富酒蔵
  2. 富士錦の左側で、不明の文字。他の写真から「酒蔵三富
  3. 看板で隠れているが、77(喫茶店)
  4. 電柱看板で「整美歯科」と「とんかつ森川」
  5. 小柳ダンス教室は神楽小路に。
  6. ペプシコーラの宣伝
  7. とんかつ森川


 では神楽坂下交差点から牛込橋を眺めると……

05-14-37-2神楽坂下から牛込見附を 1967-02-08

  1. 77の看板があります
  2. ダンス教室の看板はなくなり、6枚のベニヤが建っています。この裏は小柳ダンス教室でしょう。
  3. ペプシコーラの看板が少し見え、屋号の「二⚫」が見える。
  4. 「とんかつ」が見える。
  5. あと2、3軒の店舗がある


 では地図はどうなっているのでしょう。人文社の地図 1964年版では…。

新宿区東部. 1964年改訂版。人文社

 「二⚫」は「二鶴」でした。
 また、1967年の地図(住宅協会地図部)では

地図。新宿区. 1967年度。住宅協会地図部

 では、これから6年経って、昭和48年の写真を見ましょう。新宿歴史博物館のデータベース 写真で見る新宿「飯田橋駅付近より坂上方向」ID 68 昭和48年5月22日です。

新宿歴史博物館のデータベース 写真で見る新宿「飯田橋駅付近より坂上方向」ID 68 昭和48年5月22日

昭和48年。全航空住宅地図帳

 後ろから前に書くと…

  1. 看板は不明
  2. 喫茶77
  3. 真っ黒な店舗で「とんかつ森川」。「とんかつ森川」は上の袖看板と下の電柱看板。
  4. 灰色の店舗で、金⚫とラーメン
  5. 立喰そば(とんかつ森川ではない)
  6. もつやきと「や⚫⚫」

 つまり「とんかつ森川」はこの間に場所が変わったのです。現在は森川ビル(モンスターコーヒー&グリル神楽坂下)です。

「とんかつ森川」について、いろいろなことを知りました。まず、地元の人から聞いたことは…

その道路向こうの1丁目の伝説の店・とんかつ森川。(廃業)

 インターネットの評判では…

神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。
「かぐらむら。記憶の中の神楽坂」

森川 (飯田橋) – BIGLOBE
お店の基本情報

98年春頃に閉店してしまったようです。
コメント・訪問記録
フライパンに少量のラードで焼き上げる独特の調理法のかつ。何か、ポークソテーに薄ごろもを付けたような、少しカリッとした香ばしさ。とてもジューシーで、肉汁が滴るような感じでうまい。ころもがじゃましないので、肉本来のおいしさがきわだつ感じ。この店は、サラサラのウースターソースを使うが、これがとてもこの独特製法のころもに良く合う。カツ丼もこの店の目玉。昼のサービスのかつライスは、注文してから5秒で目の前に油のはじけるアツアツの物が出される。この店の主人(おかみさん)の使うマジックの仕掛けは??
印度・東南亜細亜巡礼
食べ物の話 その1(トンカツ)
蓬莱屋に似たトンカツを食べさせる店が飯田橋にありました。トンカツ森川です。しかしご主人が亡くなり家族の人達で続けていましたがだいぶ前に閉めてしまいました。

都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)を見ましょう。

小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照。ただし13系統と15系統は間違いで、逆が正しい。

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】 1968年(昭和43年)
 傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】 1962年(昭和37年)
 新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」(J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年)で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。(1964年12月4日)

貸ボート(写真)カナルカフェ 神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 始めに1918年(大正7年)、ボート場がつくられました。こん和次郎わじろう編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)の「神楽坂」では…

 昭和5年、牛込區史(国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号32頁)には堀の水が干上がった光景があります。原因は自然のためで、関東大震災ではなさそうです。

 昭和8年(1933)、博文館編纂の「大東京写真案内」(博文館部)は……

市ヶ谷見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神樂坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボードは、都心に珍らしい快適な娯樂機關である。

大東京写真案内 1933 博文館

 これから昭和30年代に飛んでいきます。ボート場はできていますが、あくまでも外堀通りと平行ではなく、牛込橋や神楽坂通り(早稲田通り)と平行に並んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7003 外濠 昭和34年

外濠 外堀風景牛込濠 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5101

牛込濠 ボート乗り場

牛込濠 ボート乗り場 外堀風景 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5102

住宅地図。1990年

 さらに時間が経ち、1996年に喫茶店とレストランが加わり、名前もカナルカフェとして巨大なボート乗り場とレストランになりました。

カナルカフェ。住宅地図。2020年。



逆転式一方通行・再考(写真)

文学と神楽坂

 逆転式一方通行について、 地元の方は…

 このブログで過去に逆転式一方通行の導入時期を検証した時には、諸説あって判定しがたいという結果だったと思います。
 ずっと気になっていたのですが、一枚の写真に大きなヒントがありました。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」のID:5510(昭和35年頃)です(下図、ダブルクリックで拡大)。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 戦後、対面通行だった神楽坂で、下り坂の途中の店に自動車が飛び込む事故が発生しました。このため1956年(昭和31年)から、坂は上り一方通行に規制されたという経緯が過去記事に詳しく書いてあります。
 ところが ID:5510 を見ると、タクシーとオート三輪が坂を下っています。向かって右側にはヤマザキパンの納品車と、ポンネットを明けた車が駐車しています。いずれも禁止されていた下り方向です。さらに向かって左のトラックは明らかに坂を上っていますから、対面通行になっています。
 おかしいと思って標識をよく見ると、意外なことが分かります。坂の入り口、向かって右側の標識は「一方通行 ONE WAY」です。下の補助標識は読みづらいのですが、目をこらしてみると「正午 NOON – 午後 PM 12:00/自動車 MOTOR CARS」と書いてあるようです。
 逆側の標識を見てみましょう。「駐車禁止」の手前に別の標識が立っています。「自動車通行止」とあり、その下に「一方通行出口」。補助標識は右のものとよく似ていて 「午前 AM 0:00 – 正午 NOON/自動車 MOTOR CARS」と読めます。
 この矛盾した標識こそ、逆転式一方通行の証拠です。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

 さらに「写真で見る新宿」のID:7002と、ID:31(神楽坂下夜景)は、いずれも昭和34年ですが、同じ標識が見えます。もちろん撮影年を間違えている恐れもありますが、複数のミスは考えにくい。写っている店の看板や街灯の形をメトロ映画の記事中の写真と比べても矛盾はない。『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』の1962年6月の写真では街灯の形式が変わっているので、それ以前の撮影であることは明らかです。
 外堀通り手前の車道の停止線にも注目したい。ID:5510 では向かって右の路面だけ白線が描かれていて(緑色の円内)、左はありません。ID:7002 も同じです。  これは対面通行仕様の路面標識です。想像ですが、警察は昭和31年の自動車の飛び込み事故後、暫定措置として「坂の下り」を禁止した。その後、路面標識を修正しないまま(あまり期間を置かずに)逆転式を導入したのではないでしょうか。
 以上のことから、逆転式の導入は東京新聞調べの1958年(昭和33年)が正しいと考えます。
 ではなぜ、ID:5510 は対面通行なのか。これは正午ちょうど、一方通行が逆転した時に撮影した写真だからでしょう。現在は逆転の間、12:00-13:00に歩行者天国をはさみます。当時は、その仕組みがありませんでした。昼のホコ天は「ランチタイム・プロムナード」と呼ばれていて、写真の上では「写真で見る新宿」のID:9109(昭和51年8月26日)(下図)で確認できます。歩行者天国の標識の下にフォークとナイフ、ティーカップの独特のマークです。ID:65(昭和48年2月)には、このマークはありません。

9109 神楽坂下交差点 昭和51年8月26日。新宿歴史博物館


 神楽坂の逆転式一方通行が早稲田通りの九段高校前まで延長されたのは、さらに後のことです。

対面通行 往復方向に車両の通行がある道路で走行をすること。
事故が発生 昭和31年、神楽坂二丁目の陶器店「陶柿園」で、一方通行下りの車の突入事故が起きた

 地元の方や逆転式一方通行の考え方をまとめると、東京新聞やウィキメディアの考え方のほうが正しいと思っています。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

神楽坂上の風景(写真)昭和45年 ID 7430

文学と神楽坂

 地元の人から神楽坂上についてです。

 神楽坂はもともと坂の名前なので、外堀通りの「神楽坂下(牛込見附)」交差点から坂を見上げた写真が多い。大久保通りの「神楽坂上」交差点の写真は少ないです。新宿歴史博物館の昭和45年の写真(ID:7430、下図、拡大できます)は、貴重な一枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430 神楽坂 坂上風景。昭和45年11月14日

 この交差点名は戦前は「肴町」だったそうです。町名が神楽坂になり、交差点名も「神楽坂上」に変わりました。当時は「神楽坂の出口」と認識されていました。それが最近では、地下鉄神楽坂駅や牛込神楽坂駅周辺まで、ひとくくりに神楽坂と呼ばれるようになりました。いずれは交差点名も、また変わるのかも知れませんね。

 交差点から向かって左側。「美観街」の大きな標識ポールは寺内に下っていくの角にありました。角店は見えていませんが、この時代は肉屋の恵比寿亭だと思います。ポールに隠れている黒地白文字の看板は、名称変更前の「日本勧業信用組合」本店の高い広告塔だと思います。手前の相馬屋越しに見えています。その左下、やはり読めない看板は酒屋の万長でしょう。

 寺内横丁です。
角店 かどみせ。道の曲がりかどにある店。

 手前の大きな看板は「中国料理 東花飯店」と読めます。ここは戦後、ビルが建ったのは早かったのですが、何度か商売替えをしていて、失礼ながら店としては安定していなかった印象があります。

 隣はタカミ洋品店。その隣の「東芝レコード」の看板は楽器・レコードのリード商会本店です。このリード商会は、間口が広くて奥行きがない、三角形の変則敷地の店でした。2丁目の「神楽坂ビル」に支店がありました。CDや電子配信の台頭とともに、相次いで閉店したように思います。

「割烹 うなぎ蒲焼」の看板は大和田。神楽坂には他にウナギ専門店として坂下の志満金、本多横丁のたつみやがあり、藁店の角の鮒忠もウナギが売りでした。当時の商店街としての密度の濃さを感じます。

 その先からが、大久保通りの拡幅計画で道路になってしまう土地です。新規にビルを建てることも出来ず、戦後すぐの古い建物に手を加えながら使っている店が大半でした。大和田の隣は、この当時は田口牛乳店。明治牛乳の配達から菓子店、弁当店など、時代の変化に合わせて商売替えしていたように記憶します。

 写真の一番左、見切れているのは菊岡三味線店です。ショーウインドウに三味線が下がっているのが、なんとなく分かります。今ではリード商会から左はすべて、新しいビルと道路になってしまいました。

三角形の変則敷地の店 リード商会はまさに三角形の地域でした。

1970年。住宅地図。

 向かって右側は、ほとんど商店が見えていません。この写真の頃の大和田の向かい、戦前に紅谷があったあたりには、タイヨウ時計と三菱銀行の仮店舗が並んでいたのではないかと思います。銀行には大きな金庫が必要だった時代で、仮店舗といえどもわざわざ新しいビルを建てたと聞きました。5丁目に移転しなかったのは3丁目の旧店舗の敷地の方が広いからか、あるいは土地の権利関係の問題があったのかも知れません。

 当時からタイヨウ時計は大久保通りを渡った左の角に支店があり、後にそちらに自社ビル(タイヨウビル、1987年12月竣工)を建てて店を集約。三菱銀行も3丁目に戻りました。今はどちらもこの場所にはありません。当時の銀行の仮店舗は、このブログの「神楽坂の今昔1」の記事中の写真で見られます。このビルは銀行の移転後、パチンコ店になったように記憶しています。

タイヨウ時計… 以前の益美屋からタイヨウ時計になり、紅谷(赤)は空地(赤)になりました。なお、水色は「東京靴下KK」ですが、しばらくして「薬ヒグチ」になりました。

仮店舗 三菱銀行の店舗は見えないですが、最初の写真をよく見ると、沢山の人が待っているようです。ある人は「その向こう、歩道に人が何人か見えるのが銀行っぽい」といっていました。
 住宅地図では昭和45年も昭和46年も空白でした。
 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)では、はっきり見えます。

 電柱広告の「東電のサービスステーション」は、3丁目の菱屋の隣にありました。

「薬」だけ見える看板は薬ヒグチで、「427店」に向けて積極出店していた頃です。後に1丁目と4丁目にも別店舗を出しましたが、今はすべて撤退しています。

 一番右、「DPEつくば」は不動産屋のつくば商事です。ここも大久保通りにとられる土地ですが、それを承知で店を出したそうです。道路拡張時には営業実績に応じた補償金がもらえます。

 小さいですが写真の右下隅の「歩行者天国11/15より 正午~六時」。初期のホコ天は、夏は20:00まで、冬は18:00までと季節で運用時間を変えていました。その告知です。今は通年で19:00までになりました。これも季節感が昔より希薄になったひとつの表れのように思います。

東電のサービスステーション ここです。

1970年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂(一部)

薬ヒグチ 1970年「東京靴下KK」のお隣で、つくば商事の一部が「ヒグチ薬局」になりました。


昭和30年代半ばの神楽坂下(写真)ID 5510, 7002, 9109

文学と神楽坂

 地元の人が昭和30年代の神楽坂通りについて送ってくれました。

 新宿歴史博物館所蔵のうち、昭和30年代中葉の神楽坂下の写真は解像度がよく、多くの情報が読み取れます。おそらくプロが大判フィルムで撮影したのでしょう。外堀通りを都電が走っていた頃のもので、2枚とも軌道の石敷が鮮やかです。都電牛込線は、この写真の数年後に廃止になりました。

 昭和35年の写真(ID:5510)を見てみましょう(新宿歴史博物館所蔵「データベース 写真で新宿」。下図で、拡大できます)。向かって右の角が赤井商店。戦前から続く名店で、神楽坂の入り口のランドマーク的存在でした。よく見ると、隣の津田印店と同じ建物です。木造の建屋でも、間口を区切って店の一部を他人に貸すのは古い商店街では良くあることでした。この建物は外壁をテントで覆って化粧しましたが、現在も同じものを2つの店で分けて使っています。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 

神楽坂1~2丁目(昭和35年)
  1. 電柱看板「整美歯科 山本薬局横 院長 松本茂曜」「土地家屋 野口商会不動産部」「どもり 赤面対人恐怖」

  2.  自動車通行止 一方通行出口 午前AM0-正午NOON 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. ニューバリー
  4. 田原屋 パーラー
  5. 電柱看板「質 倉庫完備 大久保
  6. 元祖 貸裳店・(清水本)店
  7. 生そば(翁庵
  8. 電柱看板「川島歯科
  9. 電柱看板「森本不動産
  10. (ダイ)ヤモンド毛(糸)
  11. (夏目)写真館
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店
  2. 一方通行
    正午 午後 PM 12:00 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. 津田印店 印章 ゴム印
  4. ニューマヤ マヤ片岡出身 小山美智子
  5. 山田紙店
  6. 神楽堂 ヤマザキパン 電話 公衆電話 ヤマザキパンの納品車
  7. おしるこ(紀の善
  8. サインポール2つ(理容バンコック)
  9. 上映〇(メトロ映画
  10. ト(リ)ス(バー)、トリスバー  沙羅
  11. ダンス(小柳ダンススクール
  12. パチンコ(マリー)
  13. 志乃(多寿し)
  14. ビリヤード
  15. ニューイトウ
  16. 喫茶 クラウン
  17. (ルナ美容室)
  18. ポーラ化(粧品)
  19. 資生堂(化粧品)

都電牛込線 1905年8月12日神楽坂から四谷見附までを開業。1967年(昭和42年)12月10日、市ヶ谷見附と飯田橋を廃止。1970年(昭和45年)3月27日、全線廃止
ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。

 その隣は、この写真では見えていませんが「白十字診療所」という名の診療所でした。昭和50年代まで続き、同じ場所の写真(ID:9109、下図)で確認できます。
 次は山田紙店。2階には美容室「ニューマヤ」が入っています。看板は「マヤ片岡出身」と読めます。戦前・戦後を通じて美容界のリーダーのひとりだったマヤ片岡の直弟子の店で、時にはマヤ片岡も巡回してきたそうです。後に3丁目に自前のビルを建てるほど成功しました。2代目の店主が急逝し、閉店したのは2016年(平成28年)のことでした。
 次の神楽堂パン店の前にはヤマザキパンの納品車が止まっています。その隣は紀の善。黒地に白文字の看板は「おしるこ」と読めます。

[参考]神楽坂下交差点 昭和51年8月26日 新宿歴史博物館 ID 9109

 神楽小路を挟んで、黒っぽい高い建物は「理容バンコック」。この建物の1階は、しばしば店が代わるのですが、2階室は現在も紳士向け理髪店の「萬国館」として続いています。商店街では珍しいケースだと思います。突き出している「ダンス」の看板は、この建物ではなく神楽小路の奥にあった「小柳ダンススクール」です。
 その向こう、いかにも路地があるように見えますが、奥にあったメトロ映画の入り口です。「上映■」の演目の看板や、なんとか「メトロ」と読めるのぼり旗があります。角にはトリスバーがあり、看板も「トリスバー 沙羅」が見えます。
 次は「志乃〇」は「志乃多寿し」。人形町にある総本店の神楽坂店でした。その向こうの山一薬品は、この頃でもまだ平屋です。「ビリヤード」は通りではなく、パチンコマリーの角を入った路地の奥にありました。
「靴ニューイトウ」から先は、このブログの別記事で詳しく書かれています。
 同じ昭和35年(ID:5510)の向かって左側。「パチンコニューパリー」「パーラー田原屋」「貸衣装(清水本)店」、「生そば」(翁庵)まで確認できます。よく見ると「(ダイ)ヤモンド毛(糸)」(大島糸店)や「(写)眞館」(夏目写真館)の看板も見えます。

理容バンコック 「東京坂道ゆるラン」の「落語『崇徳院』の古地図」「明治後期、神楽坂の床屋」で。だたし、本当に理容バンコックがどうかは、わかりません。

明治後期、神楽坂の床屋

のぼり旗 図の左側にあったのぼり旗のこと。う~ん、私はわかりません。
トリスバー 写真の「ト〇フ」も「トリスバー」

拡大図。ID:5510

ビリヤード 国際ビリヤードが袋小路のつきあたりにありました。

1995年 住宅地図。

 もう1枚の昭和34年(ID:7002、下図)は縦に画角が広く、坂の中腹から先までうかがえます。さわやのあたりで坂が少し緩くなっているのも、よく分かります。その近くの横書きの大きな「〇中御」は「お中元」のセールでしょうか。
 一番高いところの「木村(屋)」の向こうに見える週刊紙の看板は、「記憶の中の神楽坂」に出てくる茂木書店のものと思われます。この店の後に、坂下からニューマヤが移ってきました。
 書店の下にチラリと半分だけ見えている看板は、塩瀬か柏屋のように思えますが、もう確認できません。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

記憶の中の神楽坂 かぐらむら 今月の特集 記憶の中の神楽坂



アグネスホテル(閉館)|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 アグネスホテルは2021年(令和3年)3月31日、閉店します。

【お知らせ】アグネスホテル東京は3月31日をもって閉館いたします
 お客様各位
 平素はアグネスホテル東京をご愛顧いただき誠にありがとうございます。
 この度、諸般の事情によりアグネスホテル東京は2021年3月31日(水)をもちまして、閉館の運びとなりました。2000年のオープン以来、長らくご愛顧いただき誠にありがとうございました。
 皆様に心より感謝と御礼申し上げます。
 なお、ご宿泊、エステサロン等のご予約受付はすでに終了いたしております。ティーラウンジのみ、3月28日(日)まで営業いたします。
 何卒、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

 2000年4年、アグネスホテルは住宅地に地上5階建てのホテルとして開設。経営母体は初めは東日本クボタ住建、社長は千賀博久氏。総工費は約30億円。2012年7月(平成24年)「東京理科大学」が土地を15億円、建物を5億2500万円で購入(東京理科大学報)、所有者は東京理科大学に。大学は「アグネスホテルを大学施設として利用するための設計、改修工事に着手」と令和3年度の事業計画、これで閉館に。

 以下はかつてのアグネスホテルです。

 アグネスホテルアンドアパートメンツ東京は3方向から入れます。
アグネスの地図

 その1は外堀通りの理科大学と研究社のブリティッシュ・カウンシルの間からはいるもの。

 その2は後ろから入るもので、小栗横丁から入ります。


 その3は前の西側から入るもので、若宮八幡神社からはいりますが、一般的には使いません。

 外堀通りを使って理科大学から入ると簡単ですが、ほかの2方向は少し難しい。
アグネスホテルの外観

 場所はこれでも神楽坂2丁目です。若松町ではありません。また、ホテルの社長、千賀(senga)氏の名前を後ろから並べてアグネスagnesになりました。開設は2000年。

 玄関も、中に入っても、瀟洒で粋です。全体で56室。

 ダブルは36室、ツイン8室、スーペリア6室、スイート5室、ロイヤルスイート1室。スモールラグジュアリーホテルです。ビジネスホテルではありません。

 ノルマンディーのパティスリーで修業した上霜考二がスイーツを監修。大河原正裕総料理がレストラン。玄関からはいるとこうなっています。正面はフランス料理の「ラ・コリンヌ」で有名です。

アグネスホテルの玄関アグネスの団扇

 エステサロンもはいっています。夏なので、うちわも無料で持って帰ることもOK。

 本当にいいのは料理がうまくて美味しいこと。2階の「ラ・コリンヌ」だけしか使わないけど。★のあるレストランと比べても、価格ははるかに安く(昼は税サービス別で3000円から、味は美味。

 ホテルをやると決めたと聞いて、どうしてやれるの?と思ったのが最初。神楽坂にディズニーや空港はないのに、絶対にうまくいかないと思っていました。2000年に竣工。長く滞在する人で満員だとうわさと、実は料理がうまいらしいといううわさが広まっていきます。最初に食べてみると、おおおいしい。以来、毎年食べています。(最近、2016年にシェフが変わりました。微妙に味も変わりました。)

 部屋は綺麗ですが、眺めはうーん。ランチコンサートを月一回水曜に無料でやっています。

 4人がけのテーブルが外に1つだけあります。残念ながら神楽坂の石畳ではありません。ほんとうは神楽坂の石畳がよかったのに。

石畳ではないベンチ

「和可奈」にとってはライバルが出てきたのです。このホテルで作家の缶詰もおこるのでは? ただし、現在の大きな出版社には地下に歴とした缶詰があるといいます、

 オンライン用の素晴らしく鮮やかな写真集が出ています。たとえば下の図です。

アグネスホテルの写真集

 これは https://twitter.com/agneshoteltokyo/media/grid ででてきます。

 さて、新聞紙によれば

嵐の二宮和也(23)が主演するフジテレビ系連続ドラマ「拝啓、父上様」(来年[07年]1月11日スタート、毎週木曜午後10時)の制作発表が[06年12月]12日、東京・神楽坂のアグネスホテルで開かれ、二宮、高島礼子(42)、黒木メイサ(18)、福田沙紀(16)ら主要キャスト9人と、脚本の倉本聰氏(71)が出席した。

 また『拝啓、父上様』では最後の第11話でアグネスホテルが出てきます。

坂道
  竜次について、一平上る。
 り「竜次さんにつれて行かれたのは、若宮神社の脇にある小さいけど洒落た評判のホテルで」
アグネスホテル
  中に入る。
同・バー
  地下にあるラウンジへ下りてくる2人。

 地下ではなく、1階(見方によれば2階)のロビーで話をしています。初めて会った小説家・津山は一平の父ではないと打ち明けます。
アグネスホテルと「拝啓、父上様」




神楽坂、坂と路地の変化40年(2)|三沢浩

文学と神楽坂

 『神楽坂まちの手帖』第10号(2005年)に建築家の三沢浩氏が小栗横丁を主体として書いています。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(1)(3)も引用可能の分量に限って引用します。

神楽坂、坂と路地の変化40年

 小栗横丁は20数年の間、自宅からの通勤路だった。だから最近のこの道の変遷には、驚きひとしおである。神楽坂に外堀通りから入り、理科大への田口生花店の角を左へ、そして古い石垣と志満金厨房の間を右に入る。そこから始まり、突き当たりの西條歯科で終わるゆるいカーブの続く、200m余の路地が小栗横丁と呼ばれる。石垣の所に元禄時代1700年頃の、江戸切絵図に小栗五大夫の屋敷が見える。文政の1800年代には、西條歯科の斜め前の丸紅若宮寮の場所にも小栗仁右衛門とあり、これも路地に名を残す一因ではなかったか。
 左側の神楽坂2丁目22番に、泉鏡花明治38年まで4年間住み、並びの家北原白秋明治42年まで、2年間住んだことになっている。「からたちの花」はここで生まれたのかどうか。今は理科大附属の外人教師館だが、以前は石段の上に平屋の板張り小住宅が、草花やつりしのぶに囲まれてひっそりとあり、中からクラシック音楽が流れ出ていた。右の細い路地、夏日写真館の脇を抜けると神楽坂で、入口にガス灯つきの石の門があった。


ひとしお 一入。ほかの場合より程度が一段と増すこと。何か特別な事情や理由があって一段と程度が増していること。

小栗横丁。1983年。住宅地図

外堀通り 皇居のまわりを一周する最大8車線の都道。
理科大 東京理科大学。新宿区神楽坂一丁目に本部を置く私立大学
田口生花店 正しくは田口屋生花店
志満金厨房 志満金はうなぎ割烹を主にする日本料理。厨房とはその調理室のこと
西條歯科 最西部にある歯医者
江戸切絵図 江戸時代から明治にかけてつくられた区分地図。

元禄と文政。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

丸紅若宮寮 大手総合商社丸紅株式会社の共同宿舎。2001年には依然開設し、2010年には終了しています。
明治38年 泉鏡花旧居跡では、明治36年3月から明治39年7月まで住んでいたとのこと。この「泉鏡花・北原白秋旧居跡」は泉鏡花の旧居だといいます。
並びの家 道などの同じ側。神楽坂2丁目22番はかなり大きな場所です。その2軒に泉鏡花氏と北原白秋氏の2人がいたわけです。おそらく別の家に住んでいたのでしょう。

神楽坂2丁目。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

明治42年 北原白秋旧居跡では、明治41年10月末から明治42年10月まで住んでいたとのこと。
からたちの花 大正13年、「赤い鳥」で詞を発表。歌詞は「からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ/からたちのとげはいたいよ/靑い靑い針のとげだよ/からたちは畑の垣根よ/いつもいつもとほる道だよ/からたちも秋はみのるよ/まろいまろい金のたまだよ/からたちのそばで泣いたよ/みんなみんなやさしかつたよ/からたちの花が咲いたよ/白い白い花が咲いたよ」
外人教師館 地図によると「東京理科大学神楽坂客員宿舎」(右下)。その後、新宿区若宮町に移動しました。

1996年。住宅地図

つりしのぶ 釣り忍。竹や針金を芯にして山苔を巻きつけ、その上にシノブの根茎を巻き付けて、さまざまな形に仕立てたもの。
夏日写真館 以前は坂上を見て左側でした
ガス灯つき ガス灯つきの石の門に相当する門は思い出せないと、地元の人。下は商店会の街灯でした。

夏日写真館

 次の右折れの先は、藤原酒店と向き合って整美歯科、左は急坂を経ると加賀まりこさん宅へ抜ける。熱海湯前までは粋な飲食店が並び、そのうちの一軒は、やや広くなった通に店内から、客用の椅子を出して日向干し。この店の入口にはほぼ毎日、ふぐひれも干してあって、ひれ酒を誘った。熱海湯右の石段を登れば斉藤医院、突き当たりは履き物の「助六」の裏庭で、いつも池への水音が優雅。熱海湯前には煉瓦の階段がゆるく登る、手すりつきの路地があって、突き当たりには桜の古木が、すばらしい花を見せた。
 さてこれから突き当たりまでが、小栗横丁の舞台。右側は黒塀が続いて、名だたる料亭があった。まず喜久月、続いて鷹の羽、その裏に接して重の井。重の井の入口は若宮八幡の通りで右に折れ、坂を登った突き当たりが、このあたりに君臨していた松ケ枝となる。もちろん小栗横丁ではないが、道の左右には仕出屋芸妓置屋があった。

1973年、住宅地図

斉藤医院

整美歯科 以前は「正しくは臼井歯科では? 非常に短命に終わった整美歯科か、名前だけを間違えて正しくは臼井歯科だったのでしょう」と書きましたが、しかし、昭和42年の『新修新宿区史』を見ると、整美歯科は確かにあったようです(参照は「新修新宿区史」で左端の電柱広告を)。
加賀まりこ かがまりこ。女優。生年は1943月12月11日。千代田区神田小川町に生まれ、神楽坂2丁目で大きくなった。フジテレビの『東京タワーは知っている』でデビュー。和製ブリジット・バルドーとも。
若宮八幡 鎌倉時代の文治五年秋、若宮八幡宮を分社した。図の「若宮町」よりもさらに南に存在。「出羽様下」通りと同じ。
仕出屋 注文に応じて料理をつくり届けることを業とする家
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋。

 ある夕刻、この道筋を帰ってきたが、花屋から石垣の角を曲がるあたりで、脂粉の香がひと筋流れているのを感じた。この小路は巾2~3m、しかも大きくカープしながら、時にはねじれるように曲がって先が見通せない。しかも次第にゆるく登る。脂粉の流れは左右に消えることなく、家並みに沿って続いていたが、熱海湯先で消えた。料亭には置き塩のある格子戸の入口と、黒塀にとりつけた小さな木戸がある。どの入口に入ったものか。
 その格子戸を開けると、打ち水された坪庭、黒松が枝を延ばし、玄関は右か左に90度折れた所にあって、格子戸越しには全貌は見えないのが常。玄関の式台を上がると、右に折れて次の間、また90度折れて座敷に近づく。狭い敷地に小栗横丁から入り、奥行きを深くするための、日本流の入り方がそこに残っていた。植え込みに遣り水踏み石灯龍に灯、粋な庭には朝から手入れをする仲居さんの姿があり、一本ずつ格子を磨くのも仕事のうち。夕刻ともなると、ある入口には一流製鉄会社の黒い背広連、別の料亭では横山隆一等の漫画集団の姿も見た。三味線の高鳴る黒塀からは、経理関係の組合などが溢れ出したり。

脂粉 しふん。紅とおしろい。
次第にゆるく登る ノエル・ヌエット氏が描いた「若宮町」も上にのぼっています。この絵画もここでしょうか。

若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から

現在の神楽坂2丁目から若宮町に

置き塩 盛り塩。もりしお。塩を三角錐型や円錐型に盛り、玄関先や家の中に置く風習。縁起担ぎ、厄除け、魔除けの意味があります。
格子戸 格子を組んで作った戸。
木戸 街路、庭園、住居などの出入口で、屋根がなく、開き戸のある木の門。
打ち水 ほこりをしずめたり、涼をとるために水をまくこと。
坪庭 建物と建物との間や、敷地の一部につくった小さな庭。
式台 玄関の土間とホールの段差が大きい場合にその中間の高さに設けられる横板
遣り水 やりみず。水を庭の植え込みや盆栽などに与えること。
踏み石 通常は、玄関や縁側などにある、靴を脱ぎておく踏み台のような石。日本庭園にある飛び石。
灯龍 とうろう。日本古来の戸外照明用具。竹,木,石,金属などの枠に紙や布を張って,中に火をともす。
仲居 旅館や料亭などで客の接待をする女性。
横山隆一 漫画家。第2次世界大戦後『毎日新聞』に『フクちゃん』を1956年~71年まで連載。生年は1909年5月17日、没年は2001年11月8日。享年は満92歳。




再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

地価

神田千代田区神田須田町一丁目26番2513万
日本橋中央区日本橋3-11-1817万
銀座中央区銀座4-5-65770万
虎ノ門港区虎ノ門1-15-161050万
赤坂港区赤坂4-1-30540万
四谷新宿区四谷1丁目9番2外554万
神楽坂新宿区神楽坂2丁目12番18287万
後楽文京区後楽1-4-18305万
本郷 文京区本郷3-39-4220万
湯島文京区湯島3-39-10413万

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


道路通称名

文学と神楽坂

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り、外堀通りでしょう。

都道(https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000006191.pdf)

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。


鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候

この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂


 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

神楽小路の池

文学と神楽坂

「ここは牛込、神楽坂」第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏号(1998年)で、林功幸氏(今はない「巴有吾有」オーナー)は

 昔は、いまのギンレイホールの隣のビルのあるあたりは湿地帯で、きれいな湧水の池があった。

と簡単に書いています。
 同じく『神楽坂まちの手帖』第4号「軽子坂」で米倉智子氏は
 戦争で、神楽坂は丸焼けになる。そのころ、このあたりは、野っ原であった。キンレイホールのビルもその先のビル群も当然になく、代りに池があったのである。それは、こどもらのかっこうの遊び場たった。私はこの池でカエルをとり、やごをつかまえ、みずかまきり、げんごろう、たいこうちなどの水生昆虫に夢中になった。ぎんやんまもおにやんまも、この池をかすめとんでいた。
 平成18年(2006年)『神楽坂まちの手帖』12号「津久戸小学校(昭和31年度、佐藤学級)ミニ同窓会」では

平松 神楽小路に池がありましたよね。
土屋 ありましたね。池の左側が細長い崖みたいになってて。
上田 あの辺り、二、三年生の頃は原っぱでね。
平松 それで真ん中に池があって、よくそこでザリガニ釣ったのを覚えてますよ。
上田 釣りはやりましたね。
平松 あれは、どのくらい広い池でした?
上田 子供の頃は随分大きいような気がしたけどね。あれは佐久間さんのお屋敷(注)にあった池じやないかな。湧き水かなにかで、小川みたいにギンレイホールの方まで流れて行ってて。
平松 飯田壕まで流れてたんですか?
土屋 外堀通りには流れてなかったですね。あそこはもう車が通ってたから。
上田 どうだったかな。五、六年生の頃はもう、神楽小路になってて、トリスバーとか小柳ダンス教室とかあって。
平松 ありましたね、小柳ダンス教室。
上田 俺、大学生の頃にちょっと通ってた(笑)。

注。軽子坂を上がった左手。現在中央ビルになっている所にあったお屋敷

神楽坂30年代地図

神楽坂30年代地図

 たしかに池はありそうです。では、年代ごとに見ていきましょう。 最初は、江戸時代です。嘉永5年(1852年)の「当時の形」では桃色の線が将来の「神楽小路」です。でも「神楽小路」はなく、あっても垣根ぐらいでしょう。池もなく、「佐久間さんのお屋敷」には「塩谷大四郎」が住んでいました。

1852年の当時之形

1852年の当時之形。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から

 次は昭和12年「火災保険特殊地図」です。昭和初期で、戦前です。将来の「佐久間さんのお屋敷」を見ると、普通の家が並んでいます。この時も、池はありそうではありません。

昭和12年「火災保険特殊地図」

昭和12年「火災保険特殊地図」

 次は昭和27年の「火災保険特殊地図」です。これは戦後で、2丁目の18番地と17番地には何も建っていません。原っぱなのでしょう。これは上の対談者たちが小学校2年生になっていた時期です。この場所で、おそらく低くなった真ん中に、池があったのでしょう。「神楽小路」の名称もこの時期からつくようになりました。 昭和38年(1963年)の住宅地図になると「佐久間さんのお屋敷」がでてきます。上の対談者たちは19歳になり、当然ながら、池はなくなっています。

 最後に1990年の住宅地図です。まだ「佐久間さんのお屋敷」は残っていますが、その後、2000年以前に中央ビルになりました。

1990住宅地図

1990住宅地図

 ここで名前の「佐久間裕三」が出てきます。これは平成16年、81歳で亡くなった方で、昭和28(1953)年、学習院大学法学部正治科卒業。大日本図書に入社し、昭和45(1970)年に社長。また、祖父は佐久間貞一氏で、秀英舎を創立し、大日本図書と大日本印刷の創業者です。2代目の佐久間長吉郎氏も大日本図書と大日本印刷社長。地元の大地主でした。


神楽坂1丁目 神楽坂下

文学と神楽坂

 神楽坂を神楽坂通りの向かい側から見ています。交差点は「神楽坂下」です。1980年代初頭までは「牛込見附」という名称の交差点でした。
 南北(横)の道路は「外堀通り」です。 東西(縦)の道路は「神楽坂通り」、あるいは「早稲田通り」です。神楽坂下の標高は6m。ここを真っ直ぐに上がっていくのが「神楽坂」で、現在は「神楽坂1丁目」。かつては「神楽一丁目」でした。神楽坂下
 その前に左を見ると、スターバックスが見えます。(前にはパチンコ店でした)。さらに昔(江戸時代)のスターバックスは牛込「牡丹屋敷」でした。道路の右側に神楽坂の標柱があります。神楽坂のいわれを書いたものです。神楽坂

かぐざか  坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
平成14年3月 新宿区教育委員会

 これ以外にも諸説があります。
 ほかには全部のお店を描いたものがあり、これはインターネットでもでています。http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2017.pdf

 江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏は、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』で

 神楽坂1丁目 これは戦後の改称であって戦前は神楽町1丁目と称していた。現在では外濠の電車も取払われて,牛込橋を下って神楽坂を上る両側坂口が1丁目となっている。右端軽子坂より左は庾嶺坂まで1丁目である。江戸時代此の辺は片側町屋で、坂の右側は武家地であった。嘉永切図を見ても分る通り、右角松平祐之亟、その上近藤儀八郎、国領正太郎の屋敷があって、右へ曲って新小川町の通りとなる。軽子坂の上を新小川町へ下ると此処が三年坂又は三念坂という。だが1丁目は薄っぺらな町で三念坂の通りは今2丁目になっている。1丁目、坂の入口の左側の角には牡丹屋敷があった。そのあとに戦前は本所亀沢町で有名な最中を売っていた寿徳庵の支店があったが戦後はない。

 石黒敬章氏が編集した『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)では

牛込神楽坂。明治35~39年頃。

【牛込神楽坂】
 元来急坂だったものが明治10年代後半になだらかに改修され、以後賑わい始めたという。特に明治末から大正の神楽坂は、花街と毘沙門天の縁日で繁栄を謳歌した。にもかかわらず、当時の写真はほとんどない。これは牛込見附(現飯田橋駅西口付近)より写したもの。手前は外堀通り。明治35~39年頃。

神楽坂1丁目

 平成14年(2002年)、電線はなくなりました。

神楽坂上を見て左側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
陶仙亭中華田口屋花屋
東京堂洋品炭火串焼やき龍三経第22ビル
須田町食堂翁庵 そば會田ビル
翁庵 そば清水貸衣裳モスバーガー 神楽坂下店
伊勢屋乾物
空き家エイブル 飯田橋店
畔柳氷店
壽徳庵ニューパリースターバックス コーヒー

神楽坂上を見て右側
昭和5年頃

平成8年

令和2年
紀の善寿司紀の善甘味
小間物 みどりや不二家洋菓子
斎藤洋品店地下鉄
山田屋文具のレン
萩原傘店薬ヒグチ
田中謄写堂カレーボナッ
赤井足袋店カフェベーカリー
ル・レーブ
アパマンショップ