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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

材木横丁 和泉屋横町 から傘横丁 三年坂 神楽小路横 みちくさ横丁 神楽小路 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 神楽坂仲坂 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁

その名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 寂しい坂道だから転ぶと三年以内に死ぬという迷信から。
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から




16/3/13⇒20/8/6⇒21/6/16⇒21/9/23

夜の神楽坂

文学と神楽坂


 佐々木指月しげつ氏が書いた「亜米利加夜話」(日本評論社、大正10年)です。氏は臨済宗の僧で、禅に傾倒し、明治39年、禅伝道のため13名と一緒にカリフォルニア州に渡米。しかし布教は失敗し、彼はシアトルで日本の出版社のため様々な記事や随筆を書き始めました。大正9年で一時帰国し、この文章もこの時期です。昭和3年に再度渡米し、今度は成功し、ニューヨークで米国仏教協会を立ち上げました。太平洋戦争のときに、日章旗への発砲を拒否して逮捕、高血圧と脳卒中で苦しみ、しかし嘆願運動で収容所から昭和18年、解放し、昭和20年、死亡。生年は明治15年3月10日、没年は昭和20年5月17日。享年は63歳。

 子供と二人で、夜の神楽坂の露店をひやかす。
 私たち二人の足どりは、前の方ヘーと足、横の方へ二た足三足と云つたやうなありさまで、袖から袖へとよぎり、袂から袂へとぐぐりぬける。
 夏の夜の神楽坂は、一概に云へば、白地の浴衣のぞめきあるく町とも云へる。
 へこ帯を、猫じゃらしに結んだ男たちの、お尻をかすめて、ゴム輪の人力車が、くたくたと、とほつてゆく。
 自動車が、時たま、ブツ、ブウツと、忘れたやうな音をたてながら、それ、昔のあの下にゐろ下にゐろを、また大正の世にもち出して、土下座の露店の町人に、軽油の白い侮辱をあたへてゆく。
よぎる 避ける。よける。
ぞめく ぞめく。浮かれさわぐ。遊郭や夜店などをひやかしながら歩く。ひやかし客。
へこ帯 帯の一種。胴を二回りし、後ろで両輪奈わなに結んで締める。輪奈とはひもなどを輪状にしたもの。
猫じゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。

猫じゃらし 男帯の結び方

下にゐろ下にゐろ 誤謬ですが正しい解はわかりません。
 けむり。煙。物が焼ける時に出る気体
侮辱 相手を軽んじ、はずかしめる。見下して、名誉などを傷つける。

 なかを見ると、洋服の紳士が肘枕で、ごろりと寝てゐる。
 自動車が通るごとに、神楽坂は大変だ。立ちのぼるカンテラの上に、団扇かざした人波が、盆をどりのやうになだれかかると、そこで買つてたナヂモヴアの写真カアドの上へ、どろだらけな下駄のあとがつく。
 ごそごそと小砂利を踏んであるく多勢の下駄のおとは、小声で話す日本語の調子に似てゐる。そちらでも、こちらでも、下駄同志が木製の長方形の低音を交へてゐる。
 藳店亭は、西洋のお寺のやうな家と変つて、その隣りのしるこやは、また、いやに江戸風にまき水などをして、さうでなくともぬかるみで、靴がよごれてかなはないのに、どこからか雨だれのやうな、ピヤノのおとがしてくる。
カンテラ Kandelaar(オランダ語)。手提げ用の石油ランプ。
 すす。物が燃える際に、煙とともに出る黒い炭素の微粒子。
ナヂモヴア アラ・ナジモヴァ(Alla Nazimova)サイレント期最大の女優。ロシア出身。1906年、ブロードウェイに出演し、そ1916年、映画デビュー。生年は1879年6月3日、没年は1945年7月13日。享年は66歳。
藳店亭 わらだなてい。藳店は別名地蔵坂で、神楽坂5丁目もある坂。そこにあった料理屋なのでしょう。しかし、当時の店舗がわかる地図はありません。

 さうかと思うと、その辺のくらがりから、そばやの出前小僧が、出前を左りにさしあげて不思議な自転車の曲のりをやりながら出てくる。
 活動の看板を見るために、横町へ曲つてゐた私たち二人は、また通りへとやつて来た。
 毘沙門さまは、ほこりまみれになつて、老ぼけて塀のなかで寝てゐる。
 坂のおり口に、昔ならば西洋小間物屋、今では、洋品店と銘うつた見世があつて、飾窓のなかになにか飾つてある。
 パナマのハツトに、ピンクのポジヤマが見えた。一つは炎天に紳士がかぷるもの、一つは紅闇で淑女が着る寝巻だ。
 昼と夜、男性と女性との象徴を、窓ヘー緒に飾つたところは、流石に日本の洋品店だけあつて、頗る詩的だと思つた。
活動 活動写真。映画の旧称。昭和6年、活動写真を行う映画館は藳店にあった牛込館でした(アイランズ「東京の戦前昔恋しい散歩地図」(草思社、2004)。
ポジャマ pajamas。パジャマ

 白い絹のユニオンの女の肌着もぶらさがつてゐた。さうして空からは、十五夜ぢかくの月がさしてゐた。どこからか下水の饐ゑた臭ひもしてきた。
 まるぽちやの極彩色の女が、何がうれしいか知らないが、にこにこ顔で、人の肩をよけながら、よれるやうに、くづれるやうに、ちぎれるやうに歩いてくる。
 女の裾は花文字のエル字形に前へつき出してゐる。衿は花文字のテイ字形に後ヘつき出してゐる。ビイ字形の髷をあたまへのせて、但し帯はインテロゲイシヨンポイントであるらしい。
 私の子供もそれに目をつけてゐたが、パパア、あれは芸者だよと、教へてくれた。
千九百二十年八月

ユニオン アメリカのユニオンメイド。アメリカの労働組合である「ユニオン」の組合員が作った製品。品質保証の意味があった。
饐ゑた すえた。飲食物が腐って酸っぱくなる。
interrogation point ?。クエスチョンマーク(question mark)とも。

横寺町(写真)ID 8278-8280 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8278-8280では、昭和44年(1969年)横寺町の駐車場の写真を撮ったものです。道路は舗装し、左右に側溝があります、
 北側(左)は矢来町で、やや低い電柱は木製です。南側(右)は横寺町で、高い電柱はコンクリート製で、柱上変圧器や蛍光灯の街灯もついています。

[A]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8278 横寺町

横寺町(昭和44年)
  1. 電柱広告「旺文社」
  1. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。牛込清掃事務所か?
  2. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱広告「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  3. あさひ児童公園
  4. 東洋綿花牛込寮。
  5. 電柱広告「大佐和

現在の駐車場

[B]

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8279 横寺町

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8280 横寺町

  1. 電柱広告「横寺町二十六 電(2XX)二八五八 / 加藤質店 / ここは横寺町53」
  2. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  3. 旺文社
  1. 木製の電柱。現在は右側の電柱はなくなった。
  2. 三叉路のうち右に行くものは見えない
  3. 遠くに突き出し看板「パーマ ミハル美容室」スタンド広告「パーマ MIHARU 美容室」

現在の三叉路

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 8277 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 8277では、昭和44年(1969年)朝日坂にさしかかるあたりから、坂下に向けて、横寺町の写真1枚を撮りました。道路は舗装し、左右に側溝があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8277 横寺町 1944年頃か。

 左右に電柱があります。左側の奥の木製電柱は、道路中央に寄っているように見えます。ID 461でも同じです。側溝もねじれたようになっていて、ここから先の道路が狭くなっていることが分かります。この部分の道路は現在でも、やや狭くなったままです。
 写真左の眼科の脇の路地に4文字の標柱のようなものが建っています。「芸術座跡」だといいのですが、恐らくは行き止まりを示す「進入禁止」等でしょう。

横寺町(昭和44年)
  1. 神楽坂眼科 診察時間/午前9時~午後 時/午後3時~午後6時/(コ)ンタクトレンズ出来ます/(神)楽坂眼科
  2. 標柱?
  3. 白い塀の家
  4. ソテツの木(内野医院)
  5. 消火栓。広告福屋不動産」
  6. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」。塩
  7. (駐車禁止)
  1. 自転車
  2. 電柱広告「ヤナギサワ ここは横寺町 36」。柳沢理髪は見えないが、神楽坂眼科の隣にある。
  3. 看板「飯塚工務所」

現在の神楽坂眼科

住宅地図。1970年

横寺町(写真)ID 455-463、昭和45年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 455-463では、昭和45年(1970年)牛込中央通りから左側は横寺町、右側は矢来町の裏通りを北東方向に入り、やがて朝日坂を下がって神楽坂通りに抜けるまで、5種の写真を撮ったものです。道路は舗装し、左右に側溝があります。

[A] 赤尾好夫氏の邸宅

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 455 裏通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 456 裏通り 横寺町と矢来町

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。
 道路左には木製の低い電柱、右側にはコンクリートの高い電柱があります。これは朝日坂の下になるまで変わりません。現在は片側のコンクリート電柱だけなので、この昭和45の写真は過渡期だったかもしれません。
 街灯は長い蛍光灯で右側の電柱に付いています。また、柱上変圧器もあります。

横寺町(昭和45年)
  1. パーマ MIHARA 美容室。テント「ミハル」。50年強たっても現在も営業中
  1. 電柱看板「龍門◯ 照心会 書道 教室 この先 ここ(は)横寺町」
  2. 屋敷門(棟門)とシャッター。赤尾好夫氏邸。旺文社の元社長で、テレビ朝日の初代社長。
  3. 冠木門と、運動施設のような網のついた高い木柵。駐車場。
  4. 看板「児童遊園地あり 注意徐行 牛込警察庁」。電柱看板「 加藤質店」「神楽坂眼科」
  5. あさひ児童公園
  6. 東洋綿花牛込寮。
  7. 電柱看板「大佐和

現在の裏通り

住宅地図。1970年

[B] あさひ児童公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 457 裏通り、あさひ児童公園前

 左側は矢来町で、右側は横寺町です。

  1. 普通の家々
  1. あさひ児童公園
  2. 電柱看板は「創業㐂永五年 お茶とのり 老舗 大佐和 神楽坂 ここは横寺町51」

現在の裏通り、あさひ児童公園前

現在の裏通り、あさひ児童公園前

[C] 三孝酒店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 458 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 459 横寺町46、三孝商店前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 460 横寺町46、三孝商店前

 直前が三叉路になっていて、ここから左側も横寺町です。三孝商店はその前には三孝酒店でした。現在は商売を止め、自動販売機だけは営業中。「キムラヤのパン」もなくなりました。

  1. 三孝商店
    壁面看板「千福 三孝商店」「〇〇 三孝商店」「発売元 黄桜酒清酒造株式会社 黄桜 三孝商店」「〇〇清酒 山邑酒造株式会社蔵 櫻正宗 三孝商店」「白鷹 ハクタカ 三孝商店」
    店名「合資会社 三孝商店 リボンジュース」
    店先「サントリー」「あさひ本◯」「Cola」トイレットペーパーの山
  2. 消火栓 電気工事設計・施工 上原電気設計事務所
  3. (駐車禁止)
  1. 電柱看板「加藤質店  ここは横寺町46 」「ゴミ搬出の注意 一 ゴミは……」
  2. キムラヤのパン
  3. 電柱看板「内野医院」「皮膚科」

現在の三孝商店跡

[D] 内野医院

s新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 461 裏通り、飯塚酒店前

  1. (内野医院)
  2. 消火栓 火事と救急車 119 消火栓看板「神楽坂 福屋不動産 フクヤ」
  3. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚 酒店」
  4. (駐車禁止)
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ
  1. 看板「ポンプ 養生 水道 飯塚工務所」
  2. 電柱看板「 買入 丸越」「右門の和菓子」
  3. 「(龍)門禅(寺)」
  4. 電柱看板「野口商会
  5. チェッカーボードに似た「歯(科 川)畑」

現在の内野医院

[E] スーパーアライ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 462 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 463 横寺町入口附近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 464 横寺町入口附近

 ID 462とID 464はほかの写真とは違いますが、ID 463はID 8316と同じで、時期は昭和45年3月と述べています。立木の葉は枯れ落ちています。右側の電柱は2本目以上は木製ですが、最初の1本目はコンクリート製でしょう。「スーパーアライ」はマンションと「ろばたや次朗」に変わり、ほかのほとんどは商売をやめ、マンションに変わりました。

  1. 花輪(フラワー 一紀)開店祝い?
  2. 突き出し看板「理容サトウ」床屋のサインポール
  3. 電柱看板「 買入 丸越 神楽坂通り 協和銀行前入る」。街灯(蛍光灯)
  4. 突き出し看板「日本第一清酒 白鷹 ハクタカ 〇総本舗 寿司清」
  5. 電柱看板「歯科 川畑」「土地家屋 野口商会」
  6. チェッカーボード様の「(川)畑」
  1. 盆栽。リンゴ、香川みかん(八百政)
  2. 「天台宗 薬龍山 光圓寺 正蔵院/伝教大師/草刈薬師如来/閻魔大王尊/安置」「宗顕流 古流 いけ花」「坂」
  3. 高知ピーマン、静岡みかん、キャベツ(八百政)
  4. 「Super ARAI」
  5. 電柱看板「セルフサービス アライ  ココ 」
  6. 「(寺島巧芸)社」(看板・標識製作の会社)
  7. 突き出し看板「清酒 ※ 澤之鶴 飯塚」
  8. 内野医院
  9. (消火栓)

現在のスーパーアライ

飯田橋ラムラの「せせらぎ」

文学と神楽坂

地元の方からです

 叙情的なフォークソング『神田川』(昭和48年リリース)が流行していた頃、流域の住人のひとりとして、よくも悪臭漂うドブ川をこんな歌詞に仕立てたものだと作詞家の創造力に感心しました。
 子供時代、神田川の橋にさしかかると手前で深呼吸をひとつして、息を止めて渡ったものです。飯田橋から上流の隆慶橋や石切橋、下流の小石川橋や俎橋(日本橋川)など、どこも悪臭は同じでした。水面が近い橋ほど臭く、橋が高い位置にあって頭上を高速道路が覆わない牛込橋や新見附橋は、むしろ臭くない橋であったと思います。ドブ川に対する地域住民の最大の関心は、大雨で神田川が増水してあふれてしまうことでした。
 要するに、当時の都市河川は「迷惑で、消し去りたい存在」でした。再開発計画で飯田濠の埋め立てが始まった時にも注目されず、一部地権者の反対で再開発が長期に停滞したことで逆に変な関心を集めたように思います。

飯田濠遠景(1977 気まぐれ本格派 9話)この状態で数年間放置された

 再開発に反対した大郷材木店は、かなり前から津久戸町の移転予定地(後の「材木横丁」)を確保していたそうです。その点でも、よく分からない反対運動でした。

ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)29頁 ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

 

「自然景観を守れ」という反対派の声に押される形で、東京都は1984年(昭和59年)に完成した再開発ビルの前に「せせらぎ」を設けてラムラの目玉にしました。飯田濠の暗渠の上に清流を模した浅い流れを再現したものです。牛込橋側の小さな滝から水道水を流し、飯田橋側で排水する仕組みでした。小さな中の島や、外堀通りの歩道から流れに下りられる階段も設けました。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年) 「地区の概況」1頁

ラムラの「せせらぎ」。Google

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)38頁。現在「滝」は流れていません。

 しかし、この「せせらぎ」に実際に水が流れていたのは、わずかな期間(最初の数年間?)だったように思います。それまでの飯田濠はゴミを運ぶ「はしけ」のたまり場で、川に親しむような場所が求められていたわけではありませんでした。また人工の「せせらぎ」は水道水を多量に使うため、ラムラの店舗や周辺住人の理解を得にくかったようにも思います。
 現在では、せせらぎは石貼の川底がずっと見えている状態です。中の島や歩道につながる階段は今もあります。しかし成長した街路樹の中に埋もれてしまっているように見えます。
 神田川の水質はその後、劇的に改善しました。下水処理場の能力が上がり、きれいな「高度処理水」を多量に川に流すことで淀みをなくしたためと言われます。悪臭も感じられなくなり、実際に神田川に下りられる「親水テラス」が別の場所に作られました。
 飯田濠の再開発反対運動が、都市河川浄化のきっかけになったようには思えません。しかしラムラのせせらぎのコンセプトは、親水テラスの先駆的なものであったとは言えそうです。

横寺町|アルバム 東京文學散歩

文学と神楽坂

野田宇太郎 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)の「横寺町」です。氏は昭和時代の詩人で文芸評論家。第一早稲田高等学院英文科中退。詩作を開始。新聞記者を経て、昭和15年、小山書店に入社。第一書房に続き、河出書房では「文芸」の編集に。昭和26年、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載し、ベストセラーに。

 今から二十年にも近い昔のことであるが、九州から文学を志して上京したほんの青年になつたばかりの私は牛込の横寺町に下宿暮しをしてゐたことがあつた。その頃の横寺町は賑やかな神楽坂から肴町通寺町にそのまま続いて、まだ賑ひの絶えないやうな一筋の町であつた。
 その頃の記憶として今もありありと眼に浮ぶのは先づ町の途中の官許にごりの大看板もなつかしい縄暖簾飯塚酒場である。と云つても私は全くの下戸で、少しでも酒を飲むとすぐに心悸が乱れるやつかいな病気があつて定連と云ふわけではなかつたが、一杯十銭? の安酒と五銭の湯豆腐か何かにあこがれてそこに通ふ友人に誘はれては恐る恐る中にはいつたものである。冬でも浴衣の極貧書生や絵描きの玉子と云つた哀しい連中も、そこでは王者のやうな怪気焔をあげ、どぶろくの臭ひや煮物の湯気の立ちこめる酒場の中は妙に私の感傷をそそつたのである。今にして思ふと、あの酒のみの和製ベルレエヌのやうな熱血薄倖の詩人児玉花外翁などもその中の王者然と鎮座してゐたのであらう。
 その隣りの奥まつた所に、幽霊アパートの異名をもつた小林と云ふ、名ばかりの見るからに不潔で今にも毀れさうに軒を傾けたかなり大きなアパートがあつたが、或日それがかつての島村抱月松井須磨子芸術惧楽部のなれのはてで、ここで抱月が大正七年十一月に急性肺炎で死に二ヶ月日の命日に須磨子が抱月の後を追つて自殺した因縁深い家だと知り、一二度そこをのぞきに行つたりした。極貧画家がそこにゐて須磨子の幽霊を天井か何処かに落書さしてゐると云ふことだつた。
肴町 現在の神楽坂5丁目
通寺町 現在の神楽坂6丁目
官許 政府から民間の団体や個人に与える許可
にごり 白く濁っている酒。どぶろくと同じことが多い。「官許にごり」を看板にして稼ぎまくったどぶろく酒場が多いという。
縄暖簾 なわのれん。多くの縄を結びたらしてつくったのれん。店先にのれんがかかっているから、居酒屋、めしなど
定連 興行場、酒場などでいつも来るなじみの客。常客。
玉子 修業中の人
ベルレエヌ ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)。1844〜96。フランス象徴主義の代表的詩人。天才少年詩人ランボーを熱愛し、2人でイギリス・ベルギーを放浪するが口論となり発砲し、外傷を負わせる。酒・女が好きで、堕落放浪の日々を送ったが、すぐれた叙情詩を残した。

(2)現在の飯塚酒店前付近

(2)は昭和28年頃、朝日坂の途中から神楽坂通りの方を見下ろしたもの。坂は舗装されていません。見えている店先の看板は「マルキン」の上にで、これは「マルキン醤油」。さらに塩、酒焼酎、飯塚本店で、2棟とも同じ酒店と思われます。その先の角の「野口商会」の看板は、道を入った奥の不動産の会社(最下図)。

(3)芸術倶楽部の跡

(3)は「芸術倶楽部館|神楽坂」と最下図を参照。

 又、横寺町には何よりも尾崎紅葉が永年住みついて明治三十六年十月三十日に死ぬまでゐたと云ふ家も下宿の近くにあると聞いてゐたが、そこには遂にゆく機会もなく私は横寺町から飯田町へと下宿を移らねばならなかつた。
 戦後になつて私が横寺町に行つたのは先づ四十七番地の紅葉の所謂「十千とちまん」跡を調べることからであつたが、すつかり酷く戦火の犠牲となつた横寺町に、なつかしい想ひ出を豊かに抱いてゐた私にとつて全く悪夢のやうな場所であつた。やうやく紅葉に家を貸してゐたと云ふ家主の小さな家を見つけ出したが、そこが十千万堂の跡でもあつた。鏡花秋声風葉春葉などの紅葉門下の四天王と謳はれた作家たちの勉学のあとなど偲ぶよすがとてなく、ただ私の自由な幻想だけが、荒れはてた焼土の上をかけめぐつた。そして芸術倶楽部の跡に立つと、再び私は呆然とたたずむより外はなかつた。ただ赤く焼けた瓦礫だけがその場所と覚しい所に散乱して、僅かに昔の敷地の周囲をおぱろげにみせてゐるだけであつた。「カチューシヤの唄」の哀調が故もなく私の心の奥からシャボン玉のやうに浮びあがつて、ぽつんと消えた。
 飯塚酒場は然し何処かに昔の形をとどめて、ただわびしげなバラック風の洒店として昔の場所に建つてゐた。もう私の夢は現実の陽照りにからからに乾いて、何もそこに思ひ描くことさへ出来なかつた。
飯田町 旧東京府麹町区飯田町。九段や飯田橋など。
十千万堂 「十千万堂」は尾崎紅葉の雅号、また東京府牛込横寺町(新宿区横寺町)の紅葉の住居
カチューシヤの唄 トルストイの小説『復活』主人公の女性の名前。芸術座の第3回目の公演である『復活』の劇中歌。主演女優の松井須磨子が歌唱し、作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。「カチューシャかわいや わかれのつらさ」で始まる。


(1)十千万堂(尾崎紅葉)邸跡、前方樹木の茂る向うは箪笥町。その崖下に紅葉の文学塾があった

(1)は、昭和28年頃で、十千万堂は戦災で焼失し、その後に木造平屋が立ち始めています。下の図は最近の同じ場所。十千万堂跡は庭木が茂っていて、中が見えません。

 それても私は必要があつて其後幾度も横寺町を訪れた。その町の名の出所と思はれる寺院もすべて焼けはてて、古い墓石だけが通りからあらはに見えたが、私の下宿の場所はつひに思ひ出せなかつた。さうした焼土の中にも次々に新しい家が建ちはじめ、十千万堂あとは地元の新宿区の史跡となつて片づけられ、芸術倶楽部の跡には、新しい住宅がどしどし出来てしまつた。然し飯塚はにごりの官許がとれないとかで、さみしげに酒店を開いてゐるばかりであつた。
 そこから歩いても大して遠くない牛込弁天町多聞院にある須磨子の墓へも、横寺町に行つたついでに私は詣でた。さみしい焼け寺の墓地のさみしい墓だつた。その前の抱月須磨子の慰霊のための芸術比翼塚も、何だかわびしいばかりで、そぞろに恋の哀れが感じられた。
多聞院 真言宗豊山派に属する照臨山吉祥寺多聞院。
比翼塚 ひよくづか。愛し合って死んだ男女、心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚。
そぞろに これといった理由・目的はないが。わけもなく。なんとなく。

(4)松井須磨子の墓(多聞院)(5)多聞院内の芸術比翼塚

1960年 住宅地図

悪臭漂う飯田濠を再開発(昭和45-56年)

文学と神楽坂

 昭和45年、朝日新聞に飯田堀は臭いし汚い、との記事が出ました。

 ゆううつな季節
 お堀はゴミ捨て場 

 中央線飯田橋駅。近くの住民は憂うつな思いで夏を迎えようとしている。ホームのすぐ前に広がる通称「飯田堀」の臭気のためだ。この堀は神田川水系の1つで江戸川橋からお茶の水方面に流れる神田川の遊水池的な役割を持っている。しかし流れがごくゆるやかで水も少なく実情はゴミ捨場兼汚水だめと化している。
 住民は口々に憤まんをぶつける。「東京の真中の駅が、いまや一番汚ない駅になっているんです」「飯田橋を渡ってごらんなさい。妊婦なら絶対に吐きますよ」「ナマの汚物が流れ込み、たまっているんですよ」「住民もよくがまんしたけれど、役所もよく放っておいたもんだ」。駅でも弱っている。窓をあけたら食事ものどを通らない。
 堀は公有水面だから国のものだが、管理は都の責任である。とうとう地元、牛込地区連合町会(升本喜兵衛会長)が一万三千人の署名を集めて浄化清掃を都知事などに訴えることになった。新小川町青年部も決議した。「今や世界の東京として誇りを持ち近代化された東京都は誠に結構なことである」という皮肉たっぷりな書出しで始っている。
朝日新聞。1971年12月24日

 そこで飯田濠を再開発する計画が出てきます。渡辺功一氏の神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では…

昭和45年(1970)6月に、あらためて都議会へ(飯田濠再開発への)請願が出された。このころの飯田濠は、汚水がたれ流されてドブ川と化し、汚濁と悪臭の発生源となっていた。

 平松南氏の「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」では……

 神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
 ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。

 さて渡辺功一氏の同書によれば…

 飯田濠再開発計画の実態は、千代田区飯田橋、新宿区揚場町、神楽河岸にまたがる飯田橋地区市街地再開発である。都市計画決定は昭和47年7月。計画区域は、飯田濠を埋め立て約千平方㍍を含む2万3千平方メートル。都が地上20階の事務棟と16階の住居棟の高層ツインビルを建設するほか、緑地帯や道路を造成するというものである。

 さて、再開発を始めましたが、昭和53年6月、鯉の大量死がありました。

 17日朝、都が再開発事業を進めている国電飯田橋駅わきの飯田濠(ぼり)から神田川にかけて、約1万匹のコイが浮き上がる騒ぎがあったが、付近の住民で作っている「飯田濠を考える会」の千代田区側のメンバーは「これは行政による人災。逃げ遅れたコイに気の毒」と怒っている。一方、新宿区側のある商店主は「コイはこの日照りで酸欠死したのであって、工事とは関係ない」と語るなど、住民たちはコイの大量死にも複雑な反応を示していた。(中略)
 都公害局では、水質検査などを行って原因を調べているが、毒物などは検出されず、飯田濠に入り込んだコイが、潮が引いた際に濠の水位が下がって取り残されて、酸欠状態に陥ったものとみている。
読売新聞 昭和53年6月18日朝刊

東京都建設局再開発部「飯田橋夢あたらし」平成8年。

 大郷材木店は神楽河岸再開発による立ち退きを拒否し、それに対して都が強制代執行するという話まで出ました。

 予定地内の材木店の強い反対で工事が大幅に遅れているが、都は27日までに、この材木店に対し、都市再開発法に基づく異例の強制代執行を発動する方針を固めた。
読売新聞 昭和56年5月28日朝刊

強制代執行 強制執行しっこうとは公法や私法上の義務を国家権力によって強制的に実現する行為。代執行とは、行政庁が義務者に代わってその行為をし、あるいは第三者に行わせ、そのため要した費用を義務者から徴収する行為。

地権者の一人が反対  飯田濠再開発 大喜びの「守る会」
 都の高層ビル建設計画に反対して、「埋め立てられたお濠(ほり)を復元して」と訴えている「飯田濠を守る会」に強力が援軍が現れた。新宿区神楽河岸、材木業大郷実さん(45)で、都の再開発事業にかかる民間地権者3人のうち1人。この大郷さんが事業反対の立場を最終的に表明したからだ。(中略)
(大郷さんの)自宅の裏庭からは、すぐに埋め立てられた飯田濠。わずかに水路が残っているが、そこには都心ではめずらしいわき水があり、水鳥が飛んでくる。「再開発が進められて高層ビルが減っては、こうした光景も……」。守る会の「お濠復活。公園建設」の主張にもつながっていく。守る会側では、大郷さんの姿勢に「百万の援軍だ」と大喜びである。
朝日新聞 昭和53年10月25日朝刊

 しかし、10年に及ぶ抗争はあっという間に終わっていきます。渡辺功一氏の同書では……

 昭和56年(1981)10月20日に、東京都は立ち退きを拒否している新宿区神楽河岸の大郷義道、実親子に対して、10月29日から11月10日にかけて強制代執行をおこなうとの代執行命令書を郵送した。彼らは、話し合いを何十回と重ねてきたか、進展は見られない。これ以上工事を運らせれば事業費がかさみ、公共の福祉に反し、請負業者との契約解除に追い込まれる、と説明する。
 これを受けて大郷側は27日午後、この代執行命令書処分の収り消しと執行停止をもとめる訴訟を東京地裁民事三部に起こした。提訴に対し、泉裁判長は同日午後四時すぎ、大郷実と都側の井手建設局再開発部長ら双方の当事者を同地裁に呼んで事情聴収をおこなった。
 この結果、午後5時すぎ「再開発事業にともなうこのような強制代執行は前例がない」などの判断から、双方の話し合いをもとめ職権によって和解を勧告した。

 朝日新聞(S56/10/30)も読売新聞(S56/5/29)も決着まで詳しく書いています。

 全国初の強制代執行が直前で回避された飯田橋地区市街地再開発事業について、都は28日、代執行の対象だった大郷材木店(大郷義道社長)の支援グループ、飯田濠(ぼり)再開発対策会(川端淳郎代表)と話し合いを行い、飯田濠の一部を開きょとして残す案を提示した。(中略)
 開きょ案は(中略)飯田濠を約50㍍、そのまま残し、一部残っている玉石護岸も生かそうというもの。さらに、この開きょ部分からは、同ビルの前庭地区の下を暗きょで通すが、暗きょの真上に人工せせらぎを作る二重河川方法にする案を示した。大郷さん側が和解の条件とした「堀の水辺の景観を残す」意向を受けたもので、同会議と大郷さん側も、ほぼ同案を受け入れる見通しだ。
読売新聞 昭和56年5月29日朝刊

開きょ 開渠。上部をあけはなしたままで、おおいのない水路。
玉石 たまいし。川や海に産する丸い石。
護岸 ごがん。 海岸、河岸かし、堤防の水流に沿った所を保護して洪水や高潮などの水害を防ぐこと。そのための施設。
暗きょ 暗渠。地下に埋設し、地表にあってもふたをした導水路。

 しかし、これだけで終わったわけではありませんでした。平松南氏の同書では……

 そんな日々の中、その中核の拠点である大郷材木店が、強制代執行をさけて市谷に移転を決めてしまった。支援の人たちには寝耳に水の出来事だった。
 いま大郷さんは、神楽坂近くの大久保通りに木材店をもち、市谷駅前には大郷ビルという駅前ビルをたてているが、この移転交渉のいきさつは伝わっていない。
 ただ大郷さんを支援してきた市民運動のグループや労組の外人部隊のひとたちにとっては、自分たちの拳のやり場が消失してしまったわけである。
 藤原さん(当時の東京都環境保全局員)にきくと「地元より外人部隊が多かったから、大郷さんも仕方なかったのかもしれないなあ」と、20年たったいまは淡々とかたった。

 しかし、全くわからなかったという人もいます。坂本二朗氏(「神楽坂まちづくりの会」会長)の「まちづくり うたかたの、語り部」は…

 たった四人の反対の声は、運動と呼べるほどのものではなかったが、濠の場所に土地を持つ地権者が反対側に加わったことで、反対運動は俄然現実味を帯びてきた。近隣住民や労組、学生などさまざまな外部団体が反対派に加わってきて、反対派の勢力は大きな力を得ていた。やがて運動は激しさを増し、強制代執行による機動隊との衝突も想定される事態となっていた。加藤登紀子さんや美濃部亮吉さんも応援に駆けつけていた。代執行の前夜、飯田濠の現場は、ドラム缶に火がたかれ、仮設舞台も用意され、ものものしい雰囲気に包まれていた。たった四人ではじめた小さな反対の声は、大きな時代の渦に呑み込まれつつあった。
 ところがまずいことに、私はこの事態になじめなくなり、さらに具合の悪いことに、当日昼間に自分の結婚式を控えていた。(中略)
 そして一週間の北海道旅行(=新婚旅行)から帰ってきたら、反対運動はすべて終わっていた。もちろん、機動隊との衝突は回避された。私はいまだにその後に何が起こったのか知らない。仲間にも聞きそびれてしまった。

芸術倶楽部跡(写真)1980年頃 ID 208

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208は昭和55年(1980年)頃、芸術倶楽部跡を中心に撮ったカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208 芸術倶楽部跡 1980年頃

 この写真は下図のように撮ったものでしょう。

住宅地図。1980年

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の05-05-34-2 「芸術倶楽部跡近景 1975-08-28」は「酒屋の後ろ側から撮影したもの」で、ID 208とよく似ています。

05-05-34-2 芸術倶楽部跡近景 1975-08-28

 では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
 住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
  ❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
  ❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
  ❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
  ❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
  ❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
  ❍平成3年、新宿区指定史跡
  ❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
 高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。
 8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
 ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
 次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。

芸術倶楽部の方角。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)

 昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が下図になりました。橙色は芸術倶楽部の想像図(約180坪)。


横寺町58番地(写真)昭和45年 ID 451-454

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451~454は昭和45年(1970年)3月、牛込中央通りに南からやってきて牛込北町交差点を通り越した場所(横寺町58、旺文社前)を撮ったものです。またID 8308はID 452と、ID 8309はID 453と同じ写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 451 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 452 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8308 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 453 横寺町58、旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8309 牛込中央通り 旺文社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 454 横寺町58、旺文社前

 旺文社本社が右にあります。ID 452で道が曲がった左奥に長い万年塀が見えます。これは日本興業銀行(現みずほ銀行)の矢来寮です。それ以前は酒井子爵の邸でした。ID 453ではバスが走っていますが、これは西武バスと都営バスが手を結んだバス路線です。大泉学園駅前から出発し、練馬駅通り、目白駅前、護国寺前、江戸川橋、矢来町、牛込北町、納戸町、市ヶ谷見附、赤坂見附、溜池、虎ノ門、最後は新橋駅前です。昭和45年10月、この路線は廃止しました。

横寺町。住宅地図。1970年

 ではこの地域になにかニュースになることがあったのでしょうか? 明治時代には訳者としても有名な上田敏氏が横寺町58番地に住んでいました。しかし、昭和時代になるとウィキペディアによれば横寺町でも牛込北町でも特にニュースでなりそうではありません。
 昭和45年には何かがあるのでしょうか? 新宿区の「新宿区史 区成立50周年記念」では「昭和45(1970)年5月に表面化した牛込柳町交差点付近における自動車排気ガスによる鉛公害問題は、地域住民に不安と衝撃を与えるものであった」と書いてあります。3月には「データベース 写真で見る新宿」は「牛込柳町の交通渋滞」が取り上げられます。これでしょうね。牛込北町交差点は、牛込柳町ほどではないにしても両側から坂が落ち込んだ地形です。この3月以降、横寺町や矢来町でも「交通公害」が問題になっていきます。

飯田橋駅東口 令和元年 ID 13319

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319は令和元年(2019年)飯田橋歩道橋の下から飯田橋交差点を中心に撮ったカラー写真です。ここは飯田橋駅東口に近く、昭和58年8月5日に区境変更していますが、この写真を撮った場所はおそらく新宿区でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13319 飯田橋交差点令和

 この飯田橋交差点は五叉路ですが、道路は奥に行く大久保通りと左右の外堀通りしか見えず、前後をつなぐ目黒通りは見えません。歩道橋には「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。空に雲はなく、無電柱化の成功のため電柱もありません。左側の中央分離帯にあるのはブリンカーライト(障害物表示灯)です。

飯田橋交差点(令和元年)
    1. 名代 富士そば 24
    2. TULLY’S COFFEE 
    3. 格安販売 チケット モモ 新幹線自販機 黄色のバックカラーに「魚」か?
    4. (駐車禁止)
    5. (店舗 TULLY’S COFFEE)
    6. 「ふくの鳴」「ラーメン」
    7. 鳥よし
    8. 遠くに熊谷組ビル
  1. THE SUIT COMPANY ECC外語学院 英・中・韓・仏 伊・西・独 3F Leave a Nest 4, 5F 鳥どり B1F
  2. 魚盛  うおもり  みずほビジネスパートナー MIZUHO みずほ銀行
  3. 大野屋
  4. サンワード貿易 飯田橋内科歯科クリニック  JJS 〒
  5. 東京新宿メディカルセンター別館(東京厚生年金病院別館を平成9年に改築、平成26年に改称)

住宅地図 令和2年

筑土八幡神社|境内 ⑤

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある神社ですが、「宮比神社」「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」などがあります。これ以外にもいくつかの施設・建物があります。これらをまとめたのもです。

手水 神社・仏閣で、参詣者が手や顔を洗い口をすすぐ風習があり、この習慣や水のことを手水(ちょうず、てみず)と呼びます。語源では「てみづ→てうづ→ちょうず」と変化したものですが、「てみず」と読む神社もあります。
手水舎 ちょうずや。手水舎は、手や顔を洗い口をすすぐ建物のこと、
手水鉢 手や口を洗いきよめる水が入った鉢のこと。
御供 ごくう。神仏に供える物。
御供水 ごくうすい。神仏に供える水。ほかに御供ごくうりょうとは御供とする物や金銭。御供ごくうしょとは供物を調える所。御供でんとは御供料を収穫する田地。

手水舎と御供水

手前は手水と手水鉢、奥は御供水

百度石 ひゃくどいし。百度参詣して、心願が成就するよう願ったもの。百度詣では寺社の入口から本堂までの間を往復するか、百度石があればそこから本堂までを往復する。
御神木(銀杏) 神社の境内や神域にあって、神聖視される樹木。一般的には松,杉,ヒノキなど常緑樹が多いが、神社によって特定の神木がある。

御神木と百度石と庚申塔

神輿 みこし。しんよ。神霊の乗り物として担ぐもの。御輿。
神輿庫 しんよこ。神輿を格納する場所。
積み樽「白鷹」 祝いのしるしとして酒樽を積み上げて飾ること。また、その酒樽。

神輿庫と積み樽

積み樽「白鷹」

神楽のさくら この桜は「しだれ桜」です。「神楽のさくら」という熟語はなく、「神楽」と「さくら」のひとつひとつの語しかありません。「神楽」には原則的に「神をまつる舞楽」で、「神楽の桜」とは「神の舞楽が流れる時の桜」です。
 明治時代に社殿の右に桜があったと書かれています。今もあるソメイヨシノの古木と思われます。これとは別に平成22年にしだれ桜を植えました。当初は玉垣の内側で、現在は手水舎の右に移されています。

   日時:平成22年4月1日(木)  17:00~20:00
   場所:筑土八幡神社
   神楽の花(さくら)の植樹と石碑の除幕式をおこないました。ちょうど満開の宣言の日に申りました。行事のあとにさくらを前に花見例会と洒落込みました。

 境内一帯はかつて「筑土城」だったという伝承があります。しかし城の遺構らしきものはありません。

神楽のさくら

神楽のさくら

飯田橋交差点(写真)昭和53年 ID 673

文学と神楽坂

新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 673は、昭和54年3月に飯田橋交差点の新宿区側を撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 673 飯田橋交差点

 左右は外堀通りで、コンクリート製の中央分離帯から立っているのはブリンカーライトでしょう。横断歩道から左奥へ通じるのは大久保通りです。この他に目白通りも交差していますが写っていません。
 道路はすべて都道で、ナトリウム灯と思われる街路灯が高い位置にあります。この時代の大久保通りの左右は下宮比町でした。後に町域が変更され、写真左側は揚場町に変わりました。また図の左上にある電柱に長四角のものは自動式開閉器でした。
 東京厚生年金病院の別館は下宮比町に、本館は津久戸町にありました。

673 飯田橋交差点

飯田橋交差点(昭和54年)
  1. 剣菱 天麩羅みやこ
  2. 清酒大関 ニューア(サク)サ
    (ここから揚場町)
  3. 朝日生命 鳥よし(飯塚ビル)
  1. 東海銀行(飯田橋東海ビル 1965年竣工)
  2. 日本写真学園/(カ)ワセコンピューターサプライ株式会社/不明/銀座コージーコーナー/第一勧業銀行(第一勧銀稲垣ビル 1974年竣工)
  3. 大野屋(武道具店)
  4. 津多屋
  5. 読めない看板(日本精鉱株式会社)
  6. 東京厚生年金病院 別館
    (ここから津久戸町)
  7. 東京厚生年金病院 本館

下宮比町付近 1980年

 

紀の善の閉店(令和4年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 すでに他の記事にもあるように、神楽坂下の紀の善が閉店しました。顧客にも商店会にも予告しない突然の発表でした。
 コロナ禍でも売店の行列が途切れたことはなく、店もずっと繁盛していたように見受けられます。シャッターを下ろした時は「設備改修で10月末まで休業」と貼り紙してありました。普通の改修で1カ月も休むことはないので不思議に思われていました。
 貼り紙が「閉店」に切り替わったのは10月17日頃です。公式ウェブサイトの発表の方が少し早かったようです。もし予告していたら閉店間際に押しかけた客で混乱が起きていたでしょうから、賢明だったとも言えます。

紀の善閉店告知-

 閉店の理由は当事者しか知りません。ただ地元では2つのことが言われています。

1)高齢の店主に後継者がいなかったこと。

2)紀の善の土地が借地であったこと。東京では借地契約の更新時に「更新料」を求められます。紀の善が旧店舗をビルに立て替えたのは30年ほど前です。推測にすぎませんが、最近の土地価格高騰で更新料が予想を上回った恐れがあります。土地を持たない老舗は、どうしても世の中の変化に弱いのです。

 紀の善の脇の路地である神楽小路には再開発の動きがあります。2020年に解散した「神楽小路親交会」は理由のひとつに「私たちの地域における地上げの影響」をあげていました。これも何か関係しているかも知れません。
 多くの人に長く愛された紀の善は、まぎれもなく神楽坂の顔でした。

TV「気まぐれ本格派」(1977)第4話 建て替え前の紀の善店内

建て替え後の紀の善店内 1階

ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場

文学と神楽坂

黒川鍾信

 2003年3月、黒川鍾信あつのぶ氏が書いた「ウルトラマンから寅さんまで、監督・脚本家・作家の執筆現場」(pdf)です。副題は「神楽坂ホン書き旅館『和可菜』の50年」。2002年、NHK出版で上梓した「神楽坂ホン書き旅館」の評判がよく、そこで明治大学はこの講演会を依頼しました。著者は明治学院大学大学院を卒業し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学。明治大学情報コミュニケーション学部教授。2009年定年退職。ちなみに『神楽坂ホン書き旅館』は第51回日本エッセイスト・クラブ賞をとっています。生年は昭和13年9月2日。

神楽坂の、今回モデルになった「和可菜」のすぐそばに「川田」という旅館があった。年配の方は知っていると思いますが、かつて川田晴久という歌手・俳優がいました。若い人のために説明しますと、美空ひばりを一流の歌手にした人です。その親戚がやっていた「川田」です。そういう旅館があって、ほとんどが昭和20年代に開業しました。
 先ほど言いました私の叔母が、あるとき神楽坂に旅館の売り物があるから買わないかと誘われました。女優をやっていますからお金はたっぷりある。じゃ、買っておこうと、買いにいったら、売り主が自分と同じ名字の、(芸名は木暮実千代、本名は和田つま)和田なんですね。これだったら登記も簡単だ、というような軽い乗りで買ったわけです。それが現在の、たった5部屋きりない旅館だったわけです。
 神楽坂というのは色町なんです。「色町」という言葉は今はなくなっていますけれども三業地です。いわゆる料亭の多いところだった。「料亭」という言葉は、これは戦後、料亭という言葉になったんですけど、昔は「待合茶屋」と言いました。戦後条例が変わりまして、料理屋と茶屋が合併して料亭になったのです。料理を出して、なおかつ宴会をさせて、昔は茶屋ですから泊めたんですけど、今は一切泊めてはいけない。要するに、お座敷遊びの場所を貸し、料理を出すところになったわけです。これがいわゆる三業地です。これが昔の色町との違いです。(中略)
 叔母が旅館を買っだのが昭和28年です。買って、ほっておいたら近所から文句がきた。色町の真ん中に1軒だけ電気も点けない家があるのは困る、何とかしてくれと。それで叔母の一番下の妹に、「あなた、あそこへ行って女将やりなさいよ」と言って開業したのが昭和29年です。
川田晴久 かわだはるひさ。俳優。コメディアン。昭和8年。吉本興業に入社。12年坊屋三郎らと「あきれた・ぼういず」を結成し、ギターを片手に歌謡漫談。14年ミルク・ブラザーズを結成、テーマソング「地球の上に朝が来る…」で再び人気を得る。17年脊髄カリエスを発病。10数年の闘病生活。戦後は美空ひばり映画にしばしば出演した。生年は明治40年3月15日、没年は昭和32年6月21日。享年は50歳。
美空ひばり 歌手。1949年8月映画『踊る竜宮城』に出演し,その主題歌『河童ブギウギ』でレコード・デビュー。日本コロムビア・レコードと専属契約。「歌謡界の女王」として作品は1000曲以上。生年は昭和12年5月29日、没年は平成元年6月24日。享年は52歳。
色町 遊郭、芸者屋、待合などのある町。花柳街
三業地 芸妓げいぎ屋、待合まちあい、料理店からなる三業組合(同業組合の一種)が組織されている区域
待合茶屋 一般に待合と略称。明治以降は芸者との遊興を目的とするところと変質して発展。

 不思議なことに、あそこの旅館で書いたものはヒットするという噂が広まる。それから、昭和40年代になるとあそこで書いた小説が当たったとか、賞をとったとか、次々と出てくるわけです。それで別名「出世旅館」という噂が業界に流れるわけです。
 事実、その頃、これから伸びようとする人たちが大勢来ていたので、これは当然なことなのです。例えばOLをやめて初めての作品『BU・SU』という作品を書いた内館牧子さん。今やあそこまで立派になったけど、初めてあそこへ来たとき、これは記録に残るからまずいんですけど、履いてきた靴も本当にボロで、質素な格好して、それで一生懸命書いて偉くなっていったのです。
出世旅館 ある旅館に泊まり、作品を世に出して、非常に成功する。そんな旅館のこと。

 いい映画というのは脚本を書くとき、2人か3人で共同執筆しているケースが多いです。例えば、山田洋次さんは朝間義隆さんと必ず共同執筆なのです。ほとんど2人で書いているわけです。先週封切りされた『たそがれ清兵衛』も2人で書きました。
 渥美清さんが亡くなったとき、松竹が危機だと言われたことがあります。というのは、「寅さん」の興行収入で松竹社員の給料がほとんど支払われていたからです。収入の40%以上は「寅さん」が稼いでいたわけですから、作る方はいかに大変だったか。年2作ですよ。同じパターンじゃなければいけない。だって観ている人は、寅さんがマドンナと結婚しちゃったら、みんなブーイングです。最後はふられてまた旅へ出て行く。あのパターンの中で、なおかつ人の心にシーンとくるものを作らなければいけないわけですから、大変な作業だったわけです。
 最近書いてる「釣りバカ日誌」は、ワーワーワーワーやりながら若手が書いています。けれども、やはり最後は山田洋次さんと朝間さんが入って、締めるところを締めないと…。これは裏話ですが、西田敏行さんや三國連太郎さんなど錚々そうそうたる俳優をつかえる監督がいなくなっているんです。「これは山田さんの脚本だ」ということで納得させ、そのとおりにさせないと。三國連太郎さんは、自分でも映画を撮った人ですから、「こんなのはだめだ、ここは書き替えろ」と、すぐ現場で始まっちゃうのです。「いや、これは山田さんの脚本ですから」ということで、いつも巨匠が入るわけです。
山田洋次 映画監督。1950年、東京大学法学部卒業。松竹大船撮影所に入社。1968年、フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』の原案・脚本を担当。1969年、映画化され、大ヒット、以来年1~2本のペースで1996年に48作品をつくって、日本の代表的監督となる。生年は昭和6年9月13日。
朝間義隆 脚本家。1965年、上智大学文学部英文学科卒業。松竹大船撮影所に入社。山田監督作品の脚本を共同で手がける。生年は昭和15年6月29日
たそがれ清兵衛 1985年刊行した藤沢周平氏の時代小説短編集。これを原作とする2002年公開の日本映画。
渥美清 俳優。旧制巣鴨中学卒業。1953年、浅草のフランス座に入る。1968年フジテレビの連続ドラマ『男はつらいよ』(山田洋次脚本)に主演、翌1969年に映画化され国民的人気俳優となった。生年は昭和3年3月10日、没年は平成8年8月4日。享年は68歳。
釣りバカ日誌 北見けんいち作画、やまさき十三原作による漫画。これを原作とした映画。サラリーマンのハマちゃん(西田敏行)と社長のスーさん(三國連太郎)が起こす騒動を描いたコメディー。脚本は山田洋次。
西田敏行 俳優。「釣りバカ日誌」シリーズのハマちゃんが当たり役となった。他に「北の家族」「西遊記」など。生年は昭和22年11月4日。
三國連太郎 俳優。映画界を牽引した個性派俳優。『ビルマの竪琴』、『飢餓海峡』、『はだしのゲン』など。生年は大正12年1月20日。没年は平成25年4月14日。享年は90歳
錚々たる 多くのもののなかで、特に優れている人々の集団。傑出した

 「寅さん」では、もう逆さにしても血も出ないというくらい脚本が難航することがあります。
 一番大変だったのは、幻の49作のときでした。もうロケ地も決まっていたわけです。高知県でやる。それから西田敏行さんをつかうために彼のスケジュールも押さえてあって、さあいよいよ脚本を書こうという8月に渥美清さんが亡くなっちゃったわけです。ところが何も撮らないと、松竹はその年のボーナスが払えない。それで押さえてある西田敏行さんを主演にして、ロケ地も、高知じゃなくて愛媛県にしたと思うんですけど、映画館の館主の話タイトル忘れましたけど、観ていて気の毒なぐらいお粗末な映画でした。お粗末なんて言ってば失礼ですけど、本当に苦しんで食事も喉を通らないような思いで作りあげているわけです。
 そういうふうに監督やホン書きが追い詰められたときの作品というのは、いいものもあるかもしれないけれども、ゆとりがなくて、結局、評判が良くないようです。
寅さん 正しくは映画「男はつらいよ」の主人公のくるま寅次郎とらじろうから採用した。
愛媛県 舞台は徳島県でした
映画館の館主の話 公開は1996年12月。渥美清の急逝に伴いシリーズ終了となった「男はつらいよ」に代わって松竹の正月番組をつとめた入情喜劇。監督は「学校II」の山田洋次。
タイトル 「虹をつかむ男」

 マーガレット・プライスさんという、夏目漱石のお孫さんと結婚したオーストラリアの新聞記者だった人が、この旅館を外国で宣伝したために、今は外国のお客さんでにぎわっています。外国のお客さんは、ここはこういう旅館だというのをちゃんと知っていて、物見遊山じゃなくて、日本の作家たちが泊まる旅館だというので、ちゃんと協力して朝もゆっくり起きてくれる。「日本の宿50選」の最初のページに大きく出たものですから、最近は外人が多いそうです。
夏目漱石のお孫さんと結婚した 本当かどうか、わかりませんでした。
外国で宣伝した Margaret Price著「Classic Japanese Inns and Country Getaways(日本の宿)」(講談社、1999年)。全て英語で書いてあります。
日本の宿50選 国立国会図書館、新宿区立図書館、アマゾンで「日本の宿50選」は見つかりませんでした。

神楽坂下の五叉路案[明治の市区改正](明治22年ごろ)

文学と神楽坂

地元の方からです

 市区改正で作られた飯田橋の五叉路は今も健在です。計画図を見ると、現在の神楽坂下交差点も五叉路にする予定でした。

 図の赤い実線は、市区改正設計で最も幅の狭い第五等道路を示します。これについて市区改正委員会では以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催
委員長  まず大体を決し、支線は実施に臨み斟酌するの精神をもって、四等(以上)の主なる路線のみを議定せり。(条例に)五等道路をいちいち掲ぐるとせば、その調査容易なるまじ。
6番委員 焼失(火事)を待って改正なすとしてはいかが。
19番委員 堅牢の家屋を建設すれば改正の期なきに至らん。ことごとく決定し置くことにしたし。
15番委員 (専門の)委員を設け調査するとしては。
17番委員 五等道路ごときは市民の意見にまかすとして可ならん。
4番委員 委員の手数は省きうるも、東京府庁は道路に着手するを得ざるべし。
13番委員 路線を定めずしたらば、庶民は家屋建築、地所売買に苦しむなるべし。
(新字・新かなで適宜省略)

 火事を待って道路計画を決めるというのは、大火の多かった江戸の町の歴史を思わせる意見です。採決によって専門委員を設ける案を採用し、神楽坂通りの迂回を提案した1番委員、新見附部分の新道を提案した19番委員らが選ばれました。

 さて神楽坂下に戻って、明治22年、市区改正で以下の道が指定されました。

第五等道路
第八十一 牛込神楽坂下より若宮町・南町を経て、納戸町に至るの路線。

 具体的には神楽坂下から小栗横丁-若宮町の新坂-南町の通りを結び、幅6間(10.8m)に広げるものです。

 やや強引に見えます。何より小栗横丁と新坂の間には高いガケがあり、地図の等高線が狭くなっています。ここに道を通すのは大規模な工事になるでしょう。第五等道路の指定にあたり、十分な調査がされなかったことを思わせます。
 明治36年、市区改正が大幅に縮小された新計画で第八十一は脱落し、神楽坂下は五叉路になりませんでした。小栗横丁と新坂の間は現在、若宮神社側を迂回して上る道になっています。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。ただし、第五等道路の個別の議論は残っていないようです。

甲武鉄道の複線化(明治28年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治26年(1893年)、新宿から都心に向けた「市街線」=新線の建設に乗り出しました。「甲武鉄道市街線紀要」(明29.10)によれば、建設は以下のように進みました

年表  
明治26年3月新線敷設の本免状
7月着工
明治27年9月青山軍用停車(現・国立競技場付近)完成、
日清戦争の部隊が出征
10月新宿-牛込間を開業
本社・技術部を飯田町に移転
明治28年4月牛込-飯田町間を開業
5月複線敷設を願出
7月上記の許可、着工
12月複線開業

 つまり牛込駅開業から1年ちょっとで複線化します。あらかじめ計画しておいたから可能なスピードでした。

……新線開通の結果は、素望むなしからず(計画倒れではない)と言えども、単線のみなるを以て乗客の便利を満たすあたわざる(満たせない)を認め、当初の計画に基づき複線敷設の願書を提出し……(新字・新かなで適宜修正)

 なぜ最初から複線にしなかったのかは分かりません。東京市区改正委員会が外濠の土手の木を切らないよう注文をつけたことや、地元に一部反対運動があったことも関係しているかも知れません。複線化着工の直前に社債を発行しているので、資金面の問題だったとも考えられます。
 市街線は途中に4箇所のトンネルと多数の橋がありました。牛込橋は土堤の一部を切り崩して鉄橋をかけ、線路を下に通しました。新見附は土堤部分にトンネルを作りました。これらは当初から複線を想定していました。

 新見附の「四番町トンネル」の図面や事故時の写真を見ると複線とは思いにくいようです。なお四番町トンネルの建設は、新見附橋そのものを民間資金で建設していたのと同時期です。民間の代表者と甲武鉄道の間に、なんらかの連絡があったのでしょう。

 しかし当時の短い車両には十分でした(左下、甲武鉄道四谷トンネル)。今も現役のトンネルは単線に変更して使われています(右下)。

 甲武鉄道が国有化された中央線は、昭和4年ごろに複々線に転換する大工事をします。この時にトンネルや橋は大きく姿を変えます。それまでは小さな汽車や電車が外堀を行き来していました。

市ヶ谷見附付近の桜(花の東京 絵葉書)


小川一真出版部「東京風景」(明治44年)四谷見附より市ヶ谷方面を望む

飯田橋の五叉路[明治の市区改正](明治40年ごろ)

文学と神楽坂

地元の方からです

 五叉路の交差点は十字路に比べて交通信号が変則です。神楽坂周辺には五叉路が連続している区間があります。このふたつは明治の市区改正で作られた大久保通りが関係しています。
 西側にある筑土八幡町交差点については、筑土八幡神社前(写真)の記事で記述しています。

東京市区改正全図(明治23年)五叉路 赤の実線や破線が市区改正の道路計画

 ここでは東側の飯田橋交差点の成り立ちを見ます。
 明治22年、市区改正委員会は現在の大久保通りを第四等道路に指定します。神楽坂通りを通すと急坂になるので、北側にバイパスとして設ける計画でした。

第四等道路
 第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 この市区改正設計は「道路事業がほとんど進まず、最低限の項目を選んで拾い上げた新設計案が作成されました」(東京の都市づくりのあゆみ 1章06 032頁左下、2019)

大久保通り 飯田橋付近 比較図 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査明治40年1月調査


 明治36年に改められた新設計でも、大久保通りは「第十四」と番号が変わり、同じ内容で残りました。
 注目すべきは起点が「揚場町」であることです。同時期に第四等道路に指定された現在の目白通りは

第四等道路
 第五、飯田橋外より江戸川に沿い、江戸川橋際に至るの路線。

と「飯田橋外」と書いてあります。確かに道路計画図では、大久保通りは飯田橋交差点と少しずれて描かれています。
 しかし実際の大久保通りは揚場町より北側、下宮比町が起点となりました。新しい道は明治40年までに開通し、この工事に伴うと見られる移転などが相次いでいます。

出来事
明治36年市区改正新設計決まる
二条基弘公爵邸(津久戸前町16)(→牛込若松町に転居)
明治37年二条邸跡に津久戸小学校開校
明治40年宮比神社が筑土八幡宮境内に遷座
行元寺が西五反田に移転
明治43年牛込区議会、飯田橋-新宿車庫間の路面電車の促成の意見書
大正元年飯田橋-牛込柳町方面の市電開業

 なぜ起点を下宮比町に変更したのか。ネット公開している市区改正委員会の議事録の範囲では理由は分かりません。おそらく急速に市民権を得ていた市電の敷設が関係していたのでしょう。

携帯番地入東京區分地圖(明治42.11)21コマ 飯田橋付近 破線は市電の計画線。大久保通りは不正確

東京五案 内(大正3)13コマ 飯田橋付近 市電は延伸途中。中央線飯田町駅との乗り換え拠点に

 飯田橋は5方面から市電が集まる結節点となり、複雑に軌道が敷かれていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録のうち明治33年までを国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽河岸の踏切計画[明治の市区改正](明治25年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 甲武鉄道(現在のJR中央線)は明治22年(1889年)に内藤新宿駅と立川駅との間で開業。次いで都心に延伸する「市街線」を計画します。紆余曲折の末に路線案を図面にし、内務大臣から市区改正委員会に意見を求めたのは明治25年でした。
 委員会はこれに4つの条件をつけて同意します。甲武鉄道側の記録をもとに列挙すると次のようなものです。

1)市区改正道路に支障あるものは(改修の)費用の会社負担を確約する。
2)牛込見附付近の線路を市と協議して変更する。
3)四谷-市ヶ谷間(のカーブ部分)をトンネルに変更する。
4)樹木はなるべく伐採しない。
甲武鉄道市街線紀要(明治29年10月)を意訳

 市街線は、外濠の土塁を削って線路を敷設します。委員会では

明治25年(1888年)10月19日開催 第85号会議
19番委員 四谷-牛込間の眺望、実に無類の風致を有し、全市の美観を添えるものなれば、工事においても十分な注意を。
(新字・新かなで適宜省略)

などの議論が盛り上がりました。具体的には3)のカーブ部分は直線より土手を大きく削ってしまうので、トンネルにしろと注文をつけたわけです。このトンネルは現在はありません。

 もう1点の2)は、現在の神楽河岸に踏切を計画していたことを問題視しました。

19番委員 五等道路を斜めに踏切り不都合。後来、大なる差しつかえを生ずべし。
11番委員 道路を少し濠の方へ寄せ、軌道を土手の方へ寄せなば衝突を免れん。
19番委員 桝形へ(線路を)寄せなば石垣の地盤に変動を生ずる恐れあり。このへんは協議を要す。
(新字・新かなで適宜省略)

議事録掲載の図面を加工

 さらに道路を変更する費用負担や、どの程度の樹木を守るかについても議論が紛糾し、委員会が4条件をまとめたのは次の第86号会議でした。甲武鉄道側は条件をすべて受け入れ、翌明治26年3月にようやく鉄道延伸の免許を取得します。牛込駅まで開業したのは明治27年10月でした。

 甲武鉄道は開業を記念し「線路に数百株の桜樹を植え付け」て、風致に配慮します。これが外濠の土手の名物になりました。
 神楽河岸の踏切はどうなったのでしょう。協議の結果は議事録に見えませんが、明治28年7月調査の地図によれば、線路と道路は交わっていないようです。

 もっとも、この道路は行き止まりなので、ほとんど利用されなかったと思われます。昭和になって飯田濠が再開発されるまでは、燃料会社の寮や倉庫などの目立たない建物ばかりでした。(ID 493

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

神楽坂通りの迂回[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 早稲田通りは、千代田区九段北の田安門交差点から神楽坂や高田馬場を通り、杉並区上井草までの道路の通称です。神楽坂上交差点を境に東側(都心側)は千代田区と新宿区の区道、西が都道になっています。この原点となったと思われる決定が、明治政府の市区改正委員会の議事録にあります。
 市区改正は東京市内の道路を区間ごとに第一等~第五等と指定し、道幅を広げる計画でした。現在の内堀通りや中央通りは第一等、外濠通りは場所によって第一等または第二等です。明治21年10月、原案は次のようになっていました。

・第二等道路(幅12間=21.6m)
・第三等道路(幅10間=18m)

東京市区改正全図。明治23年3月

 神楽坂通りは第三等道路に指定され、拡幅される予定でした。この原案に異議がありました。

明治21年(1888年)10月12日開催
1番委員 この路線は飯田橋より少しく西により筑土通りの道をとる方が平坦にして実施上も便宜ならん。
24番委員 説のごとく成すときは迂回するならん。(遠回りではないか)
1番委員 いや、かえって迂回を避けうべし。
25番委員 説は至極と考える。もし路線を変更するも8間道(14.4m)にて十分。
1番、2番委員 賛成す。
(新字・新かなで適宜省略)

 賛成多数で、神楽坂通りは第四等道路に格下げになりました。しかし、次の会議でさらに修正されたのです。

明治21年(1888年)10月15日開催
1番委員 実況を調べし。神楽坂通りを肴町まで取り広げるは、はなはだしき坂路のみならず、牛込の繁盛を幾分か傷つくるきらいなしとせぬ。これを少しく北に移し、飯田橋の外の下宮比町と揚場町との間を過ぎ、筑土前町および肴町を貫き、岩戸町の四等線(第四等道路)に接続せば、急坂を避け、(道路の)改良の効果を奏すべし。路線を修正されたし。
(新字・新かなで適宜省略)

 神楽坂は急なので工事が大変だし、商店を立ち退かせるのは損だ。坂を迂回し、北側に新しい道を作ればいい-という意見です。委員会は全会一致で原案の変更を決定し、神楽坂通りは第四等道路からも外れました。
 迂回を提案した1番委員は桜井勉といい、内務省地理局長でした。全国に気象観測網を整備したことから「日本の天気予報の創始者」ともされています。

 神楽坂の迂回路となったのが、現在の飯田橋-筑八幡町-神楽坂上を結ぶ大久保通りです。地図を見ると、この区間は家を立ち退かせて道を作ったようです。

 牛込区史(昭和5年)によれば、神楽坂通りは

・第五等道路(幅6間=10.8m)
第八十二 牛込門外より神楽坂通り矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

に指定されました。ところが、この計画は明治36年の市区改正の修正で

・第五等道路
第六 牛込肴町より矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

へと短縮され、通りの神楽坂1-5丁目は東京市の管理を外れます。

神楽坂上~坂下路幅
明治21年10月(原案)市区改正・第三等道路18m
10月12日市区改正・第四等道路に格下げ14.4m
10月15日市区改正・第四等道路から格下げ
明治22年5月市区改正・五等道路10.8m
明治36年3月市区改正の対象外

 その頃には神楽坂の商店街を拡幅するのは難しくなっていいたのでしょう。神楽坂1-5丁目が都道になっていないのは、この時の決定の影響と考えられます。
 また現在の道幅は約12mですが、これは明治期から変わっていないと言われます。神楽坂が急坂だったために都市計画から外れ、古い風情が残ったというのは、とても興味深いことです。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

新見附の前史[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 市区改正委員会の初期、東京の道路計画の立案時に以下の議論がありました。

明治21年(1888年)10月15日開催 第7号会議
19番委員 (靖国神社裏の路線に)一項を加えたし。外濠に新たな橋を架し、この路線を新設せば、すこぶる便宜なるべし。
2番委員 しからば新架橋を要するや。
19番委員 しかり。市ヶ谷門と牛込門との間は8丁ほどにして、その間に橋梁なく、かつ(千代田区側の)番町あたりは道路少なき。1カ所くらいは新架橋を設けて可なり。
(新字・新かなで適宜省略)
※8丁(約870m、実際の牛込橋-市ヶ谷橋間は約1km)

関東平野迅速測図。1896(明治19)年 外濠付近

 提案した19番委員は銀林綱男という明治政府の官僚です。意欲的な人だったらしく、他の道路でも積極的に追加や改変を意見しています。後に官選第6代埼玉県知事、東京商品取引所(東京米穀取引所と合併し戦時統制で解散)初代理事長などを務めました。

明治27年(1894)10月 東京商品取引所設立、初代理事長銀林綱男。上場商品(塩、雑穀、肥料、砂糖、油、金属、木綿、棉花、綿糸)の直取引、延取引、定期取引を為すもの

 曾孫に政治家の片山さつき氏がいます。

片山(さつき)大臣……取引所につきましては、私は大変感慨深いものがございまして、東京商品取引所というのが明治時代に最初に日本にできたときの初代の理事長が私の曾祖父の銀林綱男でございまして…

 さて、もとに戻って……銀林委員の架橋提案は賛成を得られませんでした。

25番委員 新架橋を要すれば私は不同意なり。
委員長  19番の説には賛成者なきをもって消滅に属す。

 明治26年、この構想は民間資金で市区改正委員会の許可を得て実現し、後に新見附と呼ばれるようになります。銀林はすでに委員を外れていました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

筑土八幡神社(写真)参道 昭和44年頃 ID 8261, 8289, 14155

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8261、ID 8289、ID 14155は筑土八幡神社の参道です。撮影時期は昭和44年頃(ID 14155は「昭和44年頃か」)です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8261 筑土八幡神社 石段

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8289 筑土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14155 筑土八幡神社 扁額

 石段脇に「筑土八幡神社」の石標。角を鋼材で保護し、衝突防止のための石柵で囲っています。
 7段ほど上ったところに一の鳥居。石柱(注連しめばしら)に横木を渡しただけの簡素なものです。「納」の彫り込みがあり、右の柱は「奉」でしょう。
 鳥居の手前の石灯籠には「奉納 筑土自治会 新小川町」。さらに石段を上ると、途中に二の鳥居となる石鳥居があります。石鳥居には扁額へんがく「筑土八幡神社」がかかっています。
 鳥居や石灯籠は、新撰東京名所図会第41編 牛込区の部 上(明治37年)の挿画や、東京市編纂「東京案内」(明治40年)の写真とほぼ同じです。石の社名標はそれ以降に作られたものでしょう。
 一方、明治期と異なるのは参道右側のガケです。明治期は二の鳥居までだった石垣が、ID 8261とID 8289では一の鳥居の近くまで張り出し、新たな石垣が高く組まれています。この石垣の上は昭和41年に新宿区が「こどもの遊び場」(ID 7451)を開設しました。
 終戦直後の写真を見ると、空襲で焼かれた中でふたつの鳥居と石灯籠、石標は焼け残っています。

 戦後しばらくは、そのまま使っていたでしょう。ID 8261とID 8289の石灯籠は、大正期の写真と細部で違い白っぽいので、少し前に新しくされたのかも知れません。

東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯 69コマ これは築土神社。筑土八幡神社は右の石灯籠が見える

 石標は焼けてもろくなったので保護していたと考えられます。現在は、石標や一の鳥居の石柱も新しいものに置き換えられています。
 ID 8289の左半分は戦前まで築土神社が並んで鎮座していました。この写真(D 8289)当時は、地図によれば合気道の道場でした。後にカトリックの修道院「みことばの家」になります。(ID 7428
 戦前の築土神社(左)は筑土八幡(右)と並んで社殿がありました。動座後に神社の後を掘り下げて、ID 8289の左側の建物が建ったと思われます。

湯島写真場「江戸の今昔」昭和7年。

 

筑土八幡神社(写真)境内 昭和44年 ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8297, 8290, 14156, 14157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8290, 14156, 14157は筑土八幡神社境内の写真です。撮影は昭和44年ごろ。
 1枚ずつ見ていきます。最初はID 8255です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 筑土八幡神社

 左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥の囲いは純米大吟醸「白鷹」の積み樽です。白鷹は灘の蔵元の清酒ですが、明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛に見出され、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 左奥に駐車車両2台。表参道は石の階段ですが、左手の裏参道では車が通行可能です。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。玉垣の内に狛犬が一対。拝殿は昭和20年の戦災で焼失し、しかし、昭和38年、氏子の浄財で再建されました。また神前幕しんぜんまくで前を覆われています。
 右には筑土会館。会合のための施設です。手前に自動車があり、その前に注連しめなわをかけた銀杏の樹。銀杏の根本には百度参りをする時に標識する百度石ひゃくどいし
 右端は手水ちょうずばち。現在は手水が建っていますが、この時はなかったようです。
 一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。

 続いてID 8258です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8258 筑土八幡神社

 左手前から拝殿と筑土会館を狙っています。拡大すると玉垣に書かれた寄進者もよく読めます。寄進額の多い角柱は「氏子総代 牧田甚ー」「崇敬会会長 升本喜兵衛」。その他の太い柱は「筑土自治会」「新小川町自治会」「飯田橋自治会」と読めます。
 左右の柱に竹を1本ずつくくりつけてあるのは門松の一種でしょう。
 田口氏「歩いて見ました東京の街」 05-00-10-2 筑土八幡社殿の遠景 (1968-07-13)では、この玉垣はありません。撮影はそれ以降で、おそらく昭和44年(1969年)1月でしょう。

筑土八幡社殿遠景 1968-07-13 歩いて見ました東京の街

 次のID 8259は、玉垣のすぐ手前から右側の狛犬(阿形)をアップで撮影しています。

新宿歴史博物善え館「データベース 写真で見る新宿」ID 8259 筑土八幡神社 狛犬(阿形)

 狛犬は1810(文化7)年に奉納されました。台石には「津久戸」と「奉」が刻まれています。写真には見えませんが、対になる左側の吽形の台石は「津久戸」と「納」です。門柱では「崇敬会々長 升本喜兵衛」。「崇敬すうけい」とは神仏や立派な人などをあがめること。

 ID 8260ではやや引いて、参道から境内の右側を見ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8260 筑土八幡神社 境内

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まい。銀杏の木の向こう、白い雨戸が閉じているのが神楽を奏する神楽かぐら殿でん。神楽殿の手前は境内社の宮比みやび神社と鳥居。銀杏の根元の百度石と庚申塔。庚申塔は現在は銀杏に向かって右側に移されました。屋根のない手水鉢ちょうずばちには白銀町と掘ってあります。一番右は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。

 ID 8297はID 8260の左側に寄った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8297 筑土八幡神社 庚申塔(側面)

 左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まいで、御守りの言葉「一陽来復/〇〇〇」が見える。その右に伝言板。竹2本と切った木々と葉。黒い壁と民家があり、白い壁の神楽殿。庚申塔と鳥居があり、その前に注連縄がある御神木と、葉がない木々。

 次はID 14156とID 14157です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14156 筑土八幡神社 御供水

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14157築土八幡神社 御供水鉢 寄進者名陰刻(一部)

 手水舎の裏に御供水が見えます。「ごくうすい」「おこうすい」と読むようです。御供水とは神仏に供える水のこと。八角形の石とフタからできていて、新宿文化観光資源案内サイトでは天保5年(1834)8月に奉納されたのこと。
 ID 14157の陰刻とは文字や模様をくぼませた彫り方。ID 14157の真ん中に「川喜田新右ェ門」という陰刻があります。また文政10年(1827年)に提出した「牛込町方書上」では神楽坂5丁目と6丁目の間に川喜田屋横丁があって「川喜田屋久右ェ門」がそこに住んでいたといいます。この2件は7年しか離れていないし、2人はなにか関係があれば面白いと思います。また、ほかの氏名でも「〇〇屋」が多く、奉納する人は商人が多かったことがわかります。

筑土八幡神社 御供水 Google

筑土八幡神社 御供水

 最後はID 8290です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8290 筑土八幡神社境内 田村虎蔵顕彰碑

 参道の石段を登り切ると、最初に左側にこの「田村虎藏先生をたたえる碑」があります。昭和40年12月に設置したものです。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があります。顕彰けんしょうとは「隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰すること」。碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」。視学しがくとは、旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たること。

筑土八幡神社(写真)庚申塔 昭和44年 ID 8256, 8257, 8291, 8296

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256、8257、8291、8296は筑土八幡神社の庚申塔こうしんとうと周辺の写真です。昭和44年ごろとしていますが、陽差しの違いなどからすべてが同日の撮影ではないと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8257 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8291 筑土八幡神社庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8296 筑土八幡神社庚申塔

 庚申信仰については、目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は……

 庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった

 庚申塔は新宿区の区指定有形民俗文化財であり、区は……

 寛文四年(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186センチ、黒褐色安山岩。最上部に日月、中央部に雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がって実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。牡猿の左手首及び牝猿の顔面の破損は昭和20年の戦災によるといわれている。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、貴重である

 石造いしぞう鳥居の左側に庚申塔の説明板があります。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財

庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
         指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがた)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
   平成九年五月
新宿区教育委員会

 下に男女名10人が刻まれていて、さらにその下には水鉢みずばちがあり、その両脇に花立用の穴があります。
 右に注連しめなわをかけた御神木のイチョウ。このイチョウについては……

イチョウの葉は水分を多く含む。落葉した黄葉でさえ、落葉焚きができないほどだ。かつての建造物が、木と紙の本体に、檜皮や萱など燃えやすい屋根材で出来ていたことを考えれば、背が高く元気の良いイチョウが火災による輻射熱を遮り、火の粉を含んだ風も遮り、防火壁の役目を果たした。

 ID 8257では右端に百度ひゃくどいし。これは百度参りをする時に標識する石のこと。
 左後にある境内社の宮比みやび神社。鳥居をくぐると、上には見えていない本坪鈴ほんつぼすずと、そこから垂れた紐。境内にある説明板では……

 宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめの みこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。こちらは宮殿の平安を守る女神である、大宮おおみやの売命めのみことをお祀りしています。

善国寺(写真)大正12年

文学と神楽坂

 大正12年、東京市公園課は「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」を出版し、その74は肴町の善国寺を撮った写真です。写真帖の発行日は5月1日で、同年9月の関東大震災の直前でした。

毘舍門天

 1頁前の説明文は「日蓮宗池上本門寺末である。文禄麴町に創建し、寛政年間此地に移る。僧日惺の開祖で日蓮宗録所である。本尊毘門天の縁日寅の日には賽者熱閙繁昌を極めて居る」

寺末 まつじ。本山の支配下にある寺院
文禄 1592年から1596年まで
麴町 東京都千代田区西部の地名。皇居の半蔵門から西にのびる新宿通り(甲州街道)をはさんで東西に広がる。
寛政 1789年から1801年まで
日惺 にっせい。安土桃山時代の日蓮宗の僧。
録所 そうろく。一般に寺院を統轄し、人事をつかさどる僧職名
 しゃ。梵語の音写。舎利とは仏陀の遺骨のこと
賽者 さいじん。神社仏閣に参詣する人。
熱閙 ねっとう。ねっどう。人がこみあって騒がしいこと。

 ほぼ同じ画角の牛込区史(昭和5年)掲載の写真と比べながら詳しく見ます。
 境内を囲む石囲いには1本ずつ寄進者の名が刻まれています。左右の門柱にはアーチ状に樹木を透かし彫りにした飾りがあります。中央の灯籠型の門灯は「◯門」か「◯川」と読めます。アーチは牛込区史にも見えますが、戦災で失われたようです。門柱と石囲いは戦後の昭和46年、再建まで使われました(ID 8299)。
 門柱の前には一対の屋根付き提灯。右は「大毘沙門天」、左は同じものが横を向いていて「(奉)納」。この提灯は石囲いの中に立つ柱で支えており、「牛込区史」にもあるので常設のもの思われます。
 境内に入りましょう。5列の石畳が本堂に通じ、その両側に背の高い灯籠が4灯ずつ。左右対称ではなく互い違いに配置されています。灯籠の下に碍子がいしらしきものがあるので電球だったでしょう。この灯りは牛込区史では中央一列の傘型照明に変わっています。
 正面の賽銭箱の左右の隅には「牛込」と小さく切り文字がありますが、中央の大きな字は判読できません。上から本坪鈴ほんつぼすずが垂れています。本堂は入母屋屋根で、破風が正面を向いています。
 手前の石畳の左右にも別の建物があり、本堂の右にも大きな屋根が見えます。木は裸になっているものもあり、この写真は冬か初春でしょう。

「新見附」はいつから?

文学と神楽坂

地元の方からです

 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は「江戸城三十六見附」にはなく、民間資本で作られた新しい橋です。明治26年(1893年)の新設許可は単に「新道」でした。
 この橋はいつ完成し、いつごろから「新見附」と呼ばれるようになったのでしょう。
 明治28年7月調査の地図には橋が描かれており、2年足らずで完成したと思われます。しかし牛込門や市ヶ谷門と違い、名前は書いてありません。

東亰市麹町區全圖 新見附付近 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088845/5

 明治31年11月の新撰東京名所図会第17編 麹町区の部・中には「新開道」として出てきます。「名づく」とあるので、これが名前だったとも思われます。

新開道 靖国神社南側の通りを一直線に進み、市ヶ谷に至るの間。堤丘を開窄(開削)し、壕水を埋没し、もって道路とせるところを名づく。(新字・新かなに変更)

 また明治32年6月の新撰東京名所図会第19編では、絵図に描かれているにもかかわらず何も書かれていません。一口坂についても記事がありません。

 明治30年代の地図には新見附自体が描かれていないものが多く、「地元民しか知らない橋」であったようです。
 一転して明治39年8月の新撰東京名所図会第四十三編 牛込区の部・下では地図に「新見附」が明記されます。

 これ以降、他の地図でも新見附が見られるようになります。何が変わったのでしょうか。
 それは路面電車の開業です。東京電気鉄道の外濠線(後の都電3系統)が延伸され、橋のたもとに新見附停留所ができたのは明治38年8月でした。

 新撰東京名所図会の市谷田町の説明にも

電車外濠線往復し、新見附停留所あり。商家軒を連ねたり

と出てきます。
 すでに地元で新見附と呼ばれていたのか、外濠線が新しい名を考えたのかは分かりません。ただ停留所名は公文書にも記載されるため、新見附の名が定着したと思われます。

 新見附の大半は土堤でできた土橋です。大正9年9月30日の暴風雨で崩壊し、橋の下を通っていた中央線の電車(現・JR)が壕側にずり落ちる大事故がありました。崩れた部分から、土中の水道管や電線が見えます。現在は鉄道の上は鉄橋で、昭和4年(1929)7月にかけられました。

一口坂を下りきった新見附交差点から、新宿区市谷田町に向かって、JR中央・総武線を越え、外濠の水を横切っている橋です。明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。その結果、外濠は二つに仕切られ、下流の牛込橋寄りは牛込濠、上流の市ヶ谷橋寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。
千代田区観光協会

 この説明に従えば、千代田区側の橋のたもとが「新見附交差点」です。ただ外濠通りの信号(新宿区)の交差点名表示も「新見附」とあります。
 牛込見附や市ヶ谷見附の橋が「牛込橋」「市ヶ谷橋」であるのに対し、新見附は「新見附橋」と「見附」が橋の名になっています。

外濠通り「新見附」Google

注:国や東京都、他の道路地図では、外濠通りの交差点を「新見附」交差点と呼びます。また橋は「新見附橋」と呼び、普通「新見附」とは呼びません。

新見附の新設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は、明治期の新しい橋(土橋)から生まれた地名です。旧江戸城の三十六見附ではないため知名度が低く、資料も少ないようです。見附といっても門も桝形もないので、橋全体が「新見附」と呼ばれることもあります。
 東京市区改正委員会が「麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路ノ自費開設願」を審議したのは、明治26年(1893年)9月22日開催の第百号会議でした。

東京市区改正委員会議事録 第6巻81コマ 新見附開設 麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路新設之図

 市区改正は重要度順に、第1等から第5等に分けて道路建設を計画していました。その計画にない「等外」道路を、民間が自費で建設するプランです。「新見附」という名もありません。
 当時の東京府知事は、以下の内容を文書で市区改正委員会に意見を求めました

 新道開設の儀につき、福永儀八ほか22名の者より出願あり。
 麹町牛込両区を貫通する中央枢要の路線にして、将来一般の便益少なからず。かつ新道に要する土積は、目下、牛込門外壕内浚渫等の土、その他不用土を生ずべき見込みもあり。
 この不用土をもって漸次、築設することに致せば、幸いに多額の工費を要せず。工費2,486円余をもって竣工し得べきことに相成り。
 工費は願人その他有志者より悉皆寄付致すべき旨、申し出あり。建物の移転料を要せずして開設し得べき。等外道路幅員4間(7.2m)として開設可と致し候。ご意見承知したく。
新字・新カナで適宜省略

 出願者の代表である福永儀八は、市谷田町で呉服商「あまざけや」を営んでいました。橋の必要は切実だったでしょう。

 新見附橋の大部分を占める土堤が不用土処分場を兼ねていたというのも興味深いでしょう。「牛込門外壕内浚渫」とは、おそらく飯田壕の揚場の舟運のためでしょう。神楽河岸に土砂や石など建築廃材の集積場があったことも、新道の開設工事を容易にしたと思います。
 この提案に対し、委員会では次のように議論されました。

7番委員 牛込市ヶ谷間はずいぶん長きところなれば、道路の新設は誠に賛成なり。
企望(希望)は、俗に一口坂とか言うすこぶる急な坂あるが、この坂を改正(改修)せば便利を増す。この際、ともに坂路を改正せられなば大なる便宜ならんと信ず。
21番委員 本案は最初、牛込区において大いに尽力せられ、麹町区にも内談ありし。
麹町区においても等外道路として取り広げ、馬車等をも通せしむる様したいと、寄付金を募りすでに出願せんとす。その節には可決せられんことを。
新字・新カナで適宜省略

 新道の先、現在の千代田区側は都市計画道路にはないけれど、寄付金で坂をなだらかにする工事ができそうだから許可しよう-ということです。古い地図を見ると、確かに一口坂には大きなガケがあります。

明治東京全図 明治9年(1876)一口坂付近 緑斜線がガケ

 出席者に異議はなく、東京府の決定を「是認」しました。この道路の新設により、外濠は牛込壕と新見附壕に分けられました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

あまざけやと福永儀八氏 市谷田町

文学と神楽坂

地元の方からです

 大正期まで市谷田町にあった呉服商「あまざけや」は、福永儀八氏の経営でした。福永氏は明治時代に、外濠の新見附を民間資金で新設した時の代表者です。

 あまざけやは江戸期から続く老舗で、紳士録や名鑑などに見られます。古典落語にも登場します。「落語の中の言葉」では……

落語の中の言葉138「あまざけ屋」
 実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。
「市ヶ谷のあまざけ屋は、御殿向のものが一切揃えてありましたが、あまざけ屋は御用達ではありませんでした。」(三田村鳶魚「御殿女中」春陽堂、昭和5年)
「四谷市ヶ谷にあった呉服の老舗「あまざけ屋」は、店頭に大釜をかけておき、入って来るお客に甘酒を進呈していたことで人気があった。この店の屋号は福永屋であったが、誰もほんとうの屋号を呼ばず「あまざけ屋」で通っていた。(増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』青蛙房 1981)」
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/201508article_2.html

 新撰東京名所図会第43編「牛込区の部」下(東陽堂、明治39年8月)33頁に伝説めいた記事があります。

●あまざけ屋
市谷田陶二丁目十四番地、呉服商、福永商店、屋号あまぎけや電話番町一二五。山手の老舗なり、或人云、往時田町の堀端に甘酒売を渡世とする老爺あり、人あり之を憐み、奚すれぞ百年の計を爲さざると、爺、口を開いて笑つて曰く、説くことを止めよ、卿に一女あり、才色優れたりと、幸に愚老に許すあらば請ふ謹んで其誨を聞かむと、其人家に帰り、之を女に謀るに、女頗る喜色あり、即ち之を嫁す、爺少婦を得て同棲し、田町下二丁目に呉服店を開く、日ならずして店頭繁栄し、遂に老舗となれり、是に於てか甘洒屋を屋号とするとぞ。

 この牛込区の部・下には「市谷田町2丁目通り」の写真があります。この並びにあまざけやがあったと思います。

 福永氏は、渋沢栄一会頭時代の東京商業会議所(現・商工会議所)の会員選挙に当選し、委員を務めました。人望もあったでしょう。

 一方、あまざけやは明治28年に伊勢丹に買収されましたが、大正期まで事業を続けました。

 その後、あまざけやにあった「朝日弁財天」は伊勢丹の新宿本店に移され、屋上に祀られているそうです。

屋上の朝日弁財天。(photo: Pochi)
http://pochipress.blog20.fc2.com/blog-entry-82.html

朝日弁財天の由来

旧東京厚生年金病院(写真)昭和44年頃 ID 14154

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154は、筑土八幡神社の石造鳥居の陰から津久戸町の旧東京厚生年金病院(現在はJCHO 東京新宿メディカルセンター)を撮った写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154 遠方に津久戸町旧東京厚生年金病院

 鳥居は石段の参道の途中にあり、区内最古として新宿区登録有形文化財に指定されています。

住宅地図。1973年

 鳥居の額束に(見えないが)「筑土八幡神社」が刻印されていて、柱の銘にはコントラストを変えると奉納者は「享保十一丙午歳十一月十五日 従四位下行(豊)前守◯治真人」 と読めます。写真は古い鳥居と現代的な病院建築の対比を狙ったのかも知れません。鳥居のすぐ向こうの金網は、区が昭和41年9月16日に開設した「こどもの遊び場」(ID 7451)を囲むものです。
 東京厚生年金病院の旧本館は、武道館や京都タワーを手がけた建築家の山田守氏の代表作のひとつで、昭和28年(1953年)の芸術選奨で文部大臣賞を受賞しました。
「Y字型のみるからに明るいモダンな病院」(石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」修道社、昭和36年)と評されました。屋上の丸い建物は展望室で、その下はらせんのスロープになっています。

東京厚生年金病院 建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに

http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 沿革を見ると

時期内容病床数
昭和27年10月病院開設
昭和27年11月整形外科 外科 内科 診療開始66床
昭和28年10月南棟4階58床増設124床
昭和28年10月西棟3、4、5階改造319床
昭和32年9月別館増築290床増床普通510床 伝染6床
昭和33年4月高等看護学院開院
昭和40年10月別館神経科病棟16床増床。伝染6床廃止526床

建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに 赤字の説明は引用元にはない
http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 その後、この旧館はY字の一辺ごとに解体・建て直しする難工事によって建て替えられました。沿革に基づけば13年間を要しました。

時期内容病棟
昭和62年6月南棟解体
平成元年10月A棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成2年3月西棟解体
平成5年10月
B棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成10年1月東棟解体
平成12年3月外来棟竣工地下4階地上1階

 新本館も設計は山田守建築事務所で、屋上に丸い展望室があります。

筑土八幡神社(写真)昭和44年 ID 8255-8256

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255-8256は筑土八幡神社の写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 築土八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 築土八幡神社 庚申塔

 ID 8255について、左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥には見えないが純米大吟醸「白鷹」の積み樽。明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛は倉庫に白鷹を発見し、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 境内に駐車車両。筑土八幡の表参道は石の階段。しかし、正面左手の裏参道では車は通行可。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。拝殿は昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和38年、氏子の浄財で再建。拝殿前には1810(文化7)年に奉納された狛犬2匹。左は口を閉じた吽形うんぎょう、右は口を開いた阿形あぎょうの狛犬。
 右には社務所。その前に見えませんが、神楽を奏する神楽かぐら殿でん。これも見えない宮比神社。注連しめなわをかけた銀杏が見え、前にある百度ひゃくどいしは百度参りをする時に標識する石。またも見えない庚申塔こうしんとう。右で見切れている手水舎ちょうずやの一部。一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。
 ID 8256は庚申塔こうしんとう。目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は、「庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった」。この庚申塔では、猿1匹は桃の実を取り、別の1匹は手に持っており、下に男女名10人が刻まれていました。

筑土八幡神社前(写真)昭和41~昭和45年 ID 7161, 7428, 8253-8254, 8288

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7161、ID 7428、ID 8253-8254、ID 8288は筑土八幡神社前の写真です。ID 7161とID 8288とは全く同一の写真でしたので、以下はID 7161しか使いません。撮影時期はID 7161とID 8288が昭和40年代前半、ID 8253-8254は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確で、ID 7428は昭和45年3月26日で、写真解説は「昭和40年代は、明治以来庶民の足であった都電が次々に廃止された時代にあたる。写真は、3月末の廃止目前に、筑土八幡町を走る都電13系統(新宿駅―岩本町)の様子」でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7161 筑土八幡町 昭和40年代前半

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8288 筑土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7428

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8253 築土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8254 築土八幡神社前

 どの写真も左右の道は大久保通りで、都電のレールが敷かれています。横断歩道と信号から右は「筑土八幡町」交差点です。電柱の「筑土八幡町」は路面電車の停留所を示します。信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、横断歩道にはゼブラ塗装をしていません。この場所には、よく似た複数の写真があるので比較します。

 大久保通りのこの区間は、地下鉄東西線建設のため掘り返され(ID 6998)ました。東西線が昭和39年12月に開業後、開削工法の路面は埋め戻され、都電のレール回りも綺麗にアスファルト舗装されています。それ以前は石敷きでした。
 それ以外の細かな違いを見ていきます。一番、新しいのはID 7428です。目立っているのは、右の丘の上のコンクリートの建物に「みことばの家」の看板が出たことです。ここはカトリックの御受難修道会の東京修道院として2017年頃まで使われました。

みことばの家 門柱

 ID 7161は、左の信号機の柱の看板が傷ついて読みにくくなっています。ID 8253-8254はきれいな状態なので、ID 8253-8254の方が古い写真だと分かります。
 また筑土八幡神社の参道脇(階段の途中の石鳥居の右側)に、区が昭和41年9月16日に開設した「こどもの遊び場」(ID 7451)があります。この時に設置した転落防止の金網がID 7161とID 8253-8254で確認できるので、撮影時期はそれ以降です。
 筑土八幡交差点は今も昔も変則五叉路です。商店街のような街灯は見えませんが、高い位置に街路灯があったでしょう。右奥の道は目白通りの大曲付近につながります。ただ新隆慶橋につながる道が開通したのは平成28年でした。
 さらに神楽坂の本多横丁につながる道(三年坂)の出口もここです。

筑土八幡五叉路(都建設局資料に加工)

田口氏「歩いて見ました東京の街05-14-17-1 大曲付近・都電最後の日 1968-09-28

 ID 7428、ID 7161、ID 8253を左から右に見ていきます。

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  2. (末広家割烹)
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  4. 花電車(ID 7428)「新宿駅ー岩本町 が3月27日から廃止になります ながい間ご愛用ありがとうごさいました 東京都交通局」
  5. 看板「通学路です/児童を守ろう」飯田橋ライオンズクラブ
  6. 不明(養神館道場)=みことばの家
  7. 灯籠(奉納、筑戸自治会 新小川町)、筑土八幡神社、参道(石鳥居と額「筑土八幡神社」)、「こどもの遊び場」(田中久一)、唱歌 金太郎 作曲者 田中
  8. 路面電車の駅「筑土八幡町 旅館 筑土/←神楽坂 筑土八幡町 飯田橋→ /週刊朝日 毎週水曜発売」「八月九日◯◯◯」筑戸自治会 横断歩道の旗
  9. パーマ。筑土美容院
  10. 「みんなで歩いているときも一人一人がよくちゅうい 牛込警察署 筑戸自治会」
  11. 8ー20 駐車禁止
  12. ロッテ(菓子)
  13. 電柱広告「歯科 田中」

住宅地図。1969年