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酒井邸での奇怪な事件|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 25.酒井邸での奇怪な事件」では……

酒井邸での奇怪な事件
     (矢来町)
 嘉永五年(1852)12月2日、3日のころ、巣鴨の加州候下屋敷邸あたりから大きなイノシシが一匹おどり出た。このイノシシ、道を走り垣根を越えて突っ走り、ついにこの酒井邸内にもぐり込んだ。藩士はこれを見て斬りつけると、ますます猛り狂って逃げ回り、ついに早稲田の女太夫の家に入り、娘を牙にかけて投げ出した。
 イノシシはその後どこへ行ったか分らないが、娘は外科医にかかり、股の傷を縫ってもらったという話が「武江年表」に出ている。
 またこの下屋敷の早稲田通りに面して、高さ1メートル32センチほどの青石があった。このあたりは薄気味悪い所だったから、夜間は通る人がなかった。ところが気丈な酒井家の一武士が、提灯を持たないでここを通った。すると怪しい人影が仁王立ちになって前方をさえ切った。
 武士は「何物ぞ」と抜き打ちに斬りつけると、怪しい人影は消え失せた。翌朝その場所に行って調べてみると、例の青石の表面に92センチほどの刀傷がついていた。昨夜の人影はこの石の化けたものだったのである。
 このことを聞いた酒井若狭守は、その武士の武勇をほめ、それを後世まで顕彰するいみで青石をそのままにして置くことにした。土地の人々はこの石を「化け石」と呼んでいたが今はない。
 酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったが、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治35年9月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。
〔参考〕わすれのこり 江戸に就ての話 新宿と伝説
加州 加賀国の別称。石川県小松市など。

地図 令制国 加賀国

女太夫 江戸時代、菅笠をかぶり、三味線・きゅうの弾き語りをして歩いた女の門付け芸人。正月には鳥追いとなった。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永元年)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18年)から1848年(嘉永元年)まで、続編はその翌年から1873年(明治6年)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
 では問題となった武江年表から……

〇十二月二日・三日の頃、いづくよりか来りけん、巣鴨なる加州侯下藩邸の辺より老猪一疋駈出し、大路を過り堀かきを越て、牛込やらい下酒井侯別荘の地へ入りしを、藩士某、跡足を斬けるよりが、いよいよ猛り狂ひ、早稲田わせだなる乞丐人の家に入、その娘(閭巻りょこう徘徊し、三味線を鳴らして銭を乞ふ、世に女太夫といふものなり)を牙にかけて投出したり。其後何れへ走去りしや知らずと。かの女は外科の医生を請ふて股のを縫しめ療養を施しけるが、苦痛甚しく、存亡を知らずと聞り。
  かきね。壁。
 乞丐人 こつがいにん。こじき。貧乏のため金銭や物品を乞う人。
 閭巻 村里の入り口にある門
 徘徊 はいかい。うろうろ歩き回ること
  きず。皮膚や筋肉が裂けたり破れたりした部分。

またこの下屋敷の早稲田通りに面して もしこの文章が正しいとするとこれは「矢来下」の通りで、表門通りになります。しかし「わすれのこり」の「矢来下の怪石」を読むと、「裏門通り」が正しく、つまり、赤い線で書いた場所が正しいとなります。「裏山横丁」とも。

「牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図」嘉永2年(1849)

わすれのこりから

   矢来下の怪石
牛込矢来下、酒井若狭守殿下屋敷は、其構広大にして第中に寺あり、行安寺という。また刑罪場もあり。裏門通り藪の傍らに、高さ四尺計りの青石あり。夜更けて出所を通れば怪に逢うとて、夜に入りて通る者なし。一人気丈なる士ありて、闇夜にわざと挑灯を持たず、此ところへ来たりしが、はたして道の中央にあやしき者立てり。心得たりと抜き打に切り付けたれば、すがたは怱ち消え失せたり。夜明けて其所に来て見れば、石の面三四寸ばかり切込みしあり。殿彼が勇気を賞して取捨てず。其まま置れたりし、かれが勇を後までも伝えんとの事なり。

 酒井若狭守 さかいわかさのかみ。若狭国小浜藩は現在の福井県西部。その藩主は酒井忠勝氏などの酒井氏。
第中 ていちゅう。邸中。やしきのなか。邸内
四尺 約121cm
青石 青や緑色の岩石。庭石に使う
挑灯 ちょうちん。提灯。ろうそく用の灯火具。
抜き打 ぬきうち。刀を抜くと同時に切りつけること
三四尺 約91〜121㎝
殿彼が勇気を賞して  「殿、彼が勇気を賞して」「殿様は彼の勇気をほめたたえ」

顕彰 けんしょう。隠れた善行や功績などを広く知らせること。広く世間に知らせて表彰すること。
モミ 樅。マツ科モミ属の常緑針葉樹。

化け物を見たければ…… 岡本綺堂氏の『半七捕物帳』「柳原堤の女」では

江戸時代に妖怪の探索などということはなかった。その妖怪がよほど特別の禍いをなさない限りは、いっさい不問に付しておくのが習いで、そのころの江戸市中には化け物が出ると云い伝えられている場所はたくさんあった。現に牛込矢来下の酒井の屋敷の横手にはもみの大樹の並木があって、そこには種々の化け物が出る。化け物がみたければ矢来の樅並木へゆけと云われたくらいであるが、誰もそれを探索に行ったという話もきこえない。町奉行所でも人間の取締りはするが、化け物の取締りは自分たちの責任でないというのであろう、ただの一度も妖怪退治や妖怪探索に着手したことはない。
(岸井良衞編「岡本綺堂 江戸に就ての話」青蛙房、昭和30年、279頁)

わすれのこり 燕石十種(江戸後期の叢書そうしょで、稀書60冊を1集に10冊ずつ収録)の1冊。「わすれのこり」の著者は四壁庵茂蔦氏、出版は安政元年(1854)頃。
江戸に就ての話 江戸時代に関する、岡本綺堂氏が書かれたあらゆる事柄を収集した本。岸井良衞編、青蛙房、昭和30年。

横寺町と通寺町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 30. 寺町だった横寺町と通寺町」についてです。

寺町だった横寺町と通寺町
 旺文社から神楽坂通りに来た通りの両側が横寺町で、早稲田通り神楽坂六丁目はもと通寺町といった。付近一帯が寺町であり、通寺町というのは、牛込御門に通ずる寺町のいみであり、横寺町は文字どおり寺町の横町から名づけられたものである。いまでも横寺町には四寺院が残っている。
 作家加納作次郎は、「大東京繁昌記」の中で、明治中ごろの神楽坂六丁目のようすを書いている。それによると狭い陰気な通りで、低い長屋建ての家のひさしが両側からぶつかり合うように突き出ていて、雨の日など傘をさすと二人並んで歩けないほどだったという。映画館のところが勧工場だったが、そのあたりから火事が出てあの辺一帯が焼け、それ以後道路が拡張されたのであった。
 夏目漱石は、「硝子戸の中」に、明治時代喜久井町から神楽坂へ来る道、今の早稲田通りは、さびしい道だったことを書いているが、「昼でも陰森として、大空が会ったやうに始終薄暗かった」といっている。
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 ここで江戸時代の話題を拾ってみよう。「武江年表」(平凡社東洋文庫)の嘉永三年(1850)につぎのようにある。
 “六月、牛込横寺町長五郎店清吉妻きんの連れるまつ11歳、食物振舞ひ猫に異ならずとの噂あり、見物に行く者多し。”
 同書の文政六年(1823)には、場所不詳だがつぎのようにある。
 “十月八日夜、牛込辺へ大さ一間半程なる石落つ。昼雷鳴あり。夜に入り光り物通る。先年も王子辺へ石落ちたる事ありといふ。”
通寺町 とおりてらまち。昭和26年5月1日、神楽坂6丁目と改称。
旺文社 おおぶんしゃ。教育・情報をメインとした総合出版と事業。
四寺院 実際には5寺院で、竜門寺、円福寺、正定院宝国寺、長源寺、大信寺です。なお、法正寺は横寺町ではなく、岩戸町でした。

横寺町の5寺

それによると 「大東京繁昌記」の本文は「その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家のひさしが両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった」
長屋建て 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
映画館 明治時代には牛込勧工場が建ち、大正時代になると映画館の文明館に変わり、戦前は神楽坂日活、戦後は東映系映画館の武蔵野館、スーパーのアカカンバン、1970年代から現在まではスーパーの「よしや」です。
勧工場 かんこうば。工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売した。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さい。多くは民営で、複数商人への貸し店舗形式の連合商店街だった。明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治40年以後になると、百貨店の進出により衰退した。例は松斎吟光の「辰之口勧工場庭中之図」(福田熊次郎、明治15年)

辰之口勧工場庭中之図

火事が出て 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などの場合、出品者に危険を分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままだが、明治44年になると拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
振舞ひ ふるまい。動作。行動。もてなし。饗応(きようおう)
異ならず 「なり」は「違っている。 変わっている。 別だ」。「異ならず」は「全く同じ。全く同一の。寸分違わぬ」。つまり、「もてなしは猫も同じだ、という噂がたっている。見物に行く客が多い」
一間半 一間半は約270cm