行元寺|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年以降は品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。なお、地図などでは「行願寺」と書くともありますが、正しくは「行元寺」です。

江戸名所図会』では……

 牛頭ごずさん行元寺ぎょうがんじ
千手院と号す。同所神楽坂の上、寺町道てらまちみちより右にあり。天台宗東叡山に属す。本尊千手観音大士の像は恵心僧都の作なり。(襟懸えりかけの本尊と称す。)慈覚大師を開山とすと云ふ。(土俗伝へ云ふ、当寺昔は大刹にして、総門は今の牛込御門の辺にありて、神楽坂その中門の旧跡なりしとなり。大永たいえい兵乱堂塔破壊はいす。その頃のものとて古き大般若経を秘蔵せりと云ふ。昔門の内左右に南天樹なんてんじゅ多かりしとて、世俗今も南天寺と字せり)本尊縁起に云く、右大将頼朝卿石橋山合戦の後、安房上総を歴て下総国より、この国に打ち越え給ふ頃、尊前に通夜す。その夜の夢に、頼朝卿自らこの霊像を襟にかけたてまつり、源家の武運を開くと見給ふ。後、果して天下を一統せられたりしより、頼朝襟懸の尊像と称へ奉ると云々。

[現代語訳]○牛頭山行元寺
号は千手院。その場所は神楽坂の坂上で、通寺町(現在は神楽坂6丁目)の道の右側に当たる。天台宗東叡山に属する。本尊の千手観音像は恵心僧都の作で、襟懸の本尊という。開山は慈覚大師。この土地の住民によると、かつては巨大な寺で、総門は今の牛込御門の辺りで、神楽坂は中門の旧跡だったという。大永の乱で堂塔は破壊されたが、当時のものとして、古い大般若経を所蔵する。また、昔、門の左右に南天の木が多く、南天寺と呼ばれる。本尊の言い伝えによると、石橋山合戦で源頼朝が敗れ、その後、安房、上総を経て下総国から、武蔵に入国した。頼朝は行元寺の前で夜中に祈願したが、その夜、夢の中で、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、予想通り、天下は統一し、頼朝襟懸の尊像と呼ばれたという。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌で、神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成された。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説している。7巻20冊から成り、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版された。
恵心僧都 えしんそうず。源信げんしん。平安中期の天台宗の僧。
襟懸 衣服の首回りの部分にひっかける。ぶらさがる。
慈覚大師 平安時代前期の僧。遣唐使の船に乗って入唐。帰ってから天台宗山門派、天台密教の祖。
土俗 その土地の住民
大永 1521年~28年。室町後期の年代。
兵乱 大永の内訌ないこうでしょうか。戦国時代初期の大永年間に起こり、18代当主の宇都宮忠綱と芳賀氏の家臣団との対立で起こった下野宇都宮氏の内訌のこと
堂塔 どうとう。堂と塔。仏堂や仏塔など
大般若經 大乗経典。600巻。唐の玄奘げんじよう訳。別々に成立した般若経典類を集大成し、最高の真理(般若はんにゃ)から見るとすべてのものは実体がないくうだという教えを説く。
南天樹 ナンテン木の異称(下図を)

縁起 社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。事物の起源や由来。
石橋山合戦 平安時代末期の治承4年(1180年)、源頼朝と平氏方での戦い。敗北した源頼朝は船で安房国へ落ち延びた。
安房国、上総国、下総国 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。

通夜 神社や仏堂にこもって終夜祈願すること。

新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、1904年)でも内容はほとんど同一です。

   ●行元寺
行元寺ぎやうげんじは。牛込肴町三十九番地に在り。牛頭山と號す。天台宗にして東叡山寛永寺の末寺たり。
當寺往古は大刹にて。總門は牛込門の内に在り。今の神樂坂は中門の内にて。其の左右に南天燭●●●行樹なみきありしを以て。俗に南天でら●●●●といひしといふ。赤城神社はもと當寺の鎭守なるよしにて。奉納の大般若經にも。行元寺鎭守と記しありしといへり。大永の兵亂に堂塔破壊せしむね。砂子に載せたり。境内今は大半人家連り。其の表門は小路を入りて。其の奥に在り。書間も之を鎖せり。荒凉想ふべし。
開山は慈覺大師にて。其の本尊千手觀音は。惠心僧都の作。俗に襟懸●●觀音●●といふ。
本尊の緣起に云。右大將賴朝卿石橋山合戰の後。安房あわ上總かずさを歴て下總國しもうさより此國に打越給ふ頃。尊前に通夜す、其夜の夢に賴朝卿自ら此靈像を襟にかけたてまつり。源家の武運を開くと見給ふ。後果して天下を一統せられらりしより。賴朝襟懸の尊像と稱へ奉る云々。

[現代語訳]行元寺は、牛込肴町(現神楽坂五丁目)39番地で、号は牛頭山。天台宗で東叡山寛永寺の末寺である。
 古くは大きい寺で、総門は牛込御門の内側、現代の神楽坂は中門の内側にある。その左右にナンテンの並木があり、俗に南天寺という。赤城神社はもとこの寺を守護する神であり、奉納した大般若経に行元寺を守護すると書いてある。大永の乱に堂塔は破壊したと、『江戸砂子』はいう。現在の境内の大半は人家がはいり、この表門は小路の奥にあり、昼間も門は閉鎖中である。思い浮かべてみよう、この寺は荒凉たる状況だったのだ。
 開山は慈覚大師。その本尊千手観音は、恵心僧都の作で、俗に襟懸観音という。
 本尊の縁起では右大将源頼朝は石橋山合戦の後、安房、上総を歴て下総から武蔵に入国し、この尊前で通夜した。この夜、夢を見て、自らがこの像を襟にかければ、源氏の武運を開くことになる、といわれた。その後、案の定、天下を統一したので、賴朝襟懸の尊像という。

牛込門 牛込御門(牛込見附)と同じ。
砂子 享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明に始まり、江戸城外堀内の説明、当時の地誌によく見られる江戸城を中心として方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)にわけて、地域の寺社や名所旧跡などを説明。
 実際の「江戸砂子」は……

〇天台宗仏閣
 〇観音堂 俗襟懸観音ト云。 牛頭山千手院行元寺 上野末寺領十石 肴町。
開山慈覚大師 本尊千手観音恵心作 源頼朝公持仏也。
往古は大寺にて、惣門は牛込御門の内、かぐら坂は中門の内にて左右に南天の並木道也。俗に南天でらと云しと地。赤城明神は当寺の鎮守なり。その頃奉納の大般若今にあり。これにも行元寺鎮守と記しありとぞ。大永の兵乱に堂塔破壊はえしけりと也。

書間 昼間。日中。太陽の出ている間。
荒凉 荒涼。こうりょう。さびれた、荒涼とした
襟懸 えりがけ。襟がけとは、襟の中に金銭など大切な物を縫い込んだこと。
頼朝 源頼朝。みなもとのよりとも。鎌倉幕府の初代将軍。
石橋山合戦 平安時代末期に源頼朝と平氏方との戦い。頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫し、安房国へ落ち延びた。
南天燭 ナンテンの異称

行元寺|縁起

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、明治40年、品川区西五反田に移転しましたが、以前は肴町(現在の神楽坂5丁目)にありました。

 さて、江戸幕府は文政9年(1826)から「御府内風土記」の編集を始め、文政12年(1829)に完成しました。史料としては「文政ぶんせい寺社じしゃ町方まちかた書上かきあげ」を提出せさました。江戸の町々や寺社から起立や由来などの詳細な調査した報告書です。総計は寺社方121冊,町方146冊にもなりました。

 行元寺の史料もあり、国会図書館の「牛込寺社書上」のコマ番号38から50です。うちコマ番号45から50は「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。
 この略縁起は、寛政10年(1798)、当時の行元寺住持じゅうじだった法印(つまり、最高の僧位)の海澄が作成し、当寺の起立・由緒、十一面千手観世音立像の効験・霊験などをまとめたものです。ちなみに「住持」とは、一寺を管理する主僧のこと。ここには明確な事実と判断できないものもあります。それでは「牛頭山千手院行元寺千手観世音略縁起」です。なお、この翻訳は新宿区生涯学習財団の「行元寺跡」(平成15年)に多くを担っています。

牛頭山千手院行元ぎょうがん寺千手観世音縁起
武蔵国豊島郡牛込郷牛頭山千手院行元寺ハ、台家たいけ高祖伝教慈覚両大師の開基累代古跡なり、古へ伝教大師東遊して此地に来り、一宇を建て行元寺と号す。所謂祖師当寺を開き、行法修行のもとなるを以てなり、然るに大師開基なりといへども、台家の法いまだ弘らず、寺号のみにして一宇成がたし、其後慈覚大師また此地に来り、先師開基の故を以て再興ありしより相続し、今に至るまで九百余年、台家不易の寺院なり、依之これを開基と申伝る事誠に故ある哉、祖師伝教当寺に於て不動明上ならびにこん迦羅がらせい吒迦たかの二童子を作り給ふ、代々護摩の本尊として今に鎮座まします、霊験古今に是多し、うや/\うしおもんじれば、本堂の千手観世音恵心大僧都の御作なり、むかし千手の示現ありて堂宇を建立し奉る、よりて千手院の名あり

 寺院の創立者(開基)は 天台宗を開いた最澄(767~822)で、「行法修行の元」であるという意味から「行元寺」と名づけられました。しかし、名ばかりの寺院となっていたところ、延暦寺の円仁(794~864)は当地に下向し、相続して再興しました。実証はできませんが、開基の時期は9世紀末から10世紀頃。行元寺の本尊である十一面千手観世音立像は恵心僧都源信(942~1017)の作で、当寺を千手院と呼ぶゆえんです。

[現代語訳] 武蔵国豊島郡牛込郷にある牛頭山千手院行元寺は、天台宗の高僧である伝教大師(最澄)と慈覚大師の2人が創立したもので、代を重ね、歴史に残る遺跡になっている。かつて伝教大師は東遊して、ここで下向し、棟一軒を建て、行元寺と呼んだ。いわゆる祖師はこの寺を開き、仏道を修行する元だという。しかし、大師は天台宗の仏法を広められず、家以外には寺号しかなかった。その後、慈覚大師は再びこの土地に来て、伝教大師の創立と聞き、再興をして、名前なども受けついだ。今にいたる900年余、天台宗の変わらない寺である。つまり、寺を創立したのは誠に由緒があるといえよう。伝教大師はこの寺で不動明上と、矜迦羅童子と制吒迦童子2人を作り、代々、護摩堂の仏様として今も鎮座している。神仏などの不可思議な力は古今に数多い。恭しく思えば、本堂の千手観世音は恵心大僧都の作品である。むかし千手観音の示現があり、堂の建物を建立したので、千手院の名がついた。

観世音 かんぜおん。観世音菩薩。世の人々の音声を観じて、その苦悩から救済する菩薩
縁起 仏教用語。社寺の由来。起源、沿革や由来。
台家 たいけ。天台宗の別称。
高祖 仏教。一宗一派を開いた高僧
伝教 伝教大師。でんぎょうだいし。最澄さいちょうの諡号。平安初期の僧。767~822。日本天台宗の祖。諡号しごうとは、生前のおこないをたたえ、死後におくる贈り名。
慈覚 慈覚大師。じかくだいし。円仁の諡号。平安初期の僧。794~864。最澄の業績を発展させ、天台宗の密教化に影響を与えた。
開基 寺院を創立すること。創立した人。開山。
累代 るいだい。古くは「るいたい」。代を重ねること。
古跡 歴史に残る有名な事件や建物などのあと。遺跡。
一宇 いちう。「宇」は軒、屋根のこと。一棟の家・建物。
行法 ぎょうほう。仏道を修行すること。
相続 先代に代わって、家名などを受け継ぐこと。
不易 ふえき。いつまでも変わらないこと。
 幷(ヘイ)の異体字。あわせる。ならぶ。ならびに。
童子 寺院へ入ってまだ剃髪ていはつはなく、仏典の読み方などを習って、雑役に従事する少年
護摩 不動明王などの前に壇を築き、火炉かろを設けてヌルデの木などを燃やして、煩悩を焼却し、併せて息災・降伏ごうぶくなどを祈願する修法。
護摩堂 護摩をたき修法を行うための仏堂。
鎮座 ちんざ。神霊が一定の場所にしずまっていること。
霊験 れいげん。人の祈請に応じて神仏などが示す不可思議な力の現れ
千手観世音 せんじゅかんぜおん。千手観音。千手観音菩薩。すべてのものを同時に見て同時に救う菩薩。
恵心大僧都 平安時代中期の天台宗の僧。942~1017。源信和尚。恵心えしん僧都そうずと尊称。
示現 神仏が霊験を示し現すこと。
堂宇 堂の建物。

その右大将源頼朝公伊豆国石橋山合戦の後、安房 上総をて武蔵にいたり給ふみぎり、当寺の千手尊の霊験あらたなるきこし召、しのび通夜し、願文を宝前こめ、終夜源氏の家運を祈給ふ、願書の大意ハ、頼朝みやこ清水寺の千手尊をあがめてより、信敬此尊にあり、あおぎ願ハくハ千手千眼のちかひを以て坂東八箇国の諸士を幕下に来らしめよ、所願の如く満足せば、永く観音の檀那となり、千手の堂宇并に寺院にいたるまで建立し、仏供料を寄附せんとなり、しかるに千葉 小山 宇都宮をはじめ八州の諸士ことことく来集し、相州鎌倉に入り給ふ、其後富士川に於て源平対陣のきざし、当寺の千手また富士中禅寺の千手に終日いのりありていはく、我引卒する所の二十万兵ハ皆是大菩薩の与へ給ふ軍士なれば、平氏を退けん事掌中にあり、いよいよ加護の御ぼうしを廻し勝事を得しめ給へとなり、其夜平氏の兵十万余水鳥の羽音に驚き退散と云々、夫より鎌倉に帰入ありて、願文の如く観世音の堂宇御再興并境内はう十町と定め、仏供料の地を御寄附あり、其後代かハり時移り、旧規の如くならずといへども、代々の将軍家より御朱印寺領頂戴し今に至れり。昔ハ大寺にて惣門ハ今の牛込御門の内、昔神楽坂ハ寺門の内にて、左右に南天の並木あり、俗に南天寺といひしと也

 治承四年(1180年)、源頼朝氏が相模石橋山で敗戦し、養和元年(1181年)、富士川の戦いで、行元寺の千手観音像に源家の家運を祈ると、勝利を収めました。なお、品川区教育委員会の行った文化財調査では、千手観音像は鎌倉末期から南北朝期の作とわかり、現存する千手観音は源信作ではなかったと判明しています。

[現代語訳]その昔、右近衛大将 源頼朝公は伊豆国の石橋山合戦の後、安房、上総をへて武蔵に渡り、ここでこの寺の千手観音の霊験ははっきりと現れると聞き、人目を避けて夜中祈願した。仏の前に願文を置き、泊まり、終夜源氏の家運を祈ったのである。その大意は、頼朝は京都の清水寺の千手尊をあがめ、尊敬できるのはこの仏だけだという。千手千眼の誓いを聞き、関東8か国の諸士を幕下に参集を祈る願文を掲げ、結願した暁には、末永く観音の寄進者となり、千手堂や寺院にいたるまで建立し、仏具料を寄附しようという。すると、千葉・小山・宇都宮をはじめ関東8か国の在武士団が次々に参向し、相模国鎌倉に入った。その後、富士川で源平対陣があり、当寺の千手尊や富士の中禅寺の千手尊に終日祈って、引卒する二十万兵は全員、大菩薩の与えた軍士であり、平氏を退ける兆候があるという。いよいよ加護の御眸を廻し、勝事を決めたいとしたが、その夜、十万余の平氏の兵は水鳥の羽音に驚いて、退散したという。これで頼朝公は鎌倉に帰り、願文の内容と同じように、観世音の建物を再興し、境内は十町四方と定め、仏具料の土地として寄附した。その後、世代が変わり、時が移り、古い規定であるが、代々の将軍家から御朱印の寺領を頂戴して、今にいたっている。≪昔は大きな寺で、正門は現在の牛込御門の内側、神楽坂は寺門(中門)の内側にあり、左右には南天の並木がある。俗に南天寺といった≫

右大将 右近衛大将。右近衛府の長官。武器を持って宮中の警護、行幸の供奉などをつかさどった役所。
 みぎり。とき。ころ。おり。
あらたなる 神仏の霊験がはっきり現れるさま
忍て 人目を避ける。隠れ忍ぶ。
宝前 ほうぜん。神仏の前
籠む 祈念するために社寺に泊まり込む。
信敬 しんけい。信じて心から尊敬すること。
 いや。いよ。いよいよ。ますます。
坂東八箇国 関東地方の古名。相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野の関東8か国を坂東八国という。
所願 しょがん。神仏に願っている事柄。願い。
檀那 だんな。寺院や僧侶への寄付・寄進、布施。
堂宇 堂の建物
八州 かん八州はっしゅう。江戸時代、関東8か国の総称。
相州 そうしゅう。相模国と同じ
 物事が起ころうとする気配。兆候。
掌中 てのひらの中。自分の勢力の及ぶ範囲。
 ひとみ、目を開いてよく見る。
云々 以下略の意味。
 ほう。正方形の一辺の長さを示す語。
旧規 昔からの規則。古い規定。
朱印 江戸時代、将軍の朱印状で、寺領の年貢が免除された寺院や神社
惣門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
寺門 じもん。寺の門。

中比太田備中守入道春苑道灌はじめて江戸の金城を築き、祈願寺を定めんと欲す、時に道灌おもへらく、さいわいに行元寺ハ伝教・慈覚両大師の開基、ことに右大将家祈をかけ源氏擁護の本尊たり、我また同流の源氏なり、祈願寺となすべしとて、金城堅固安鎮の法みな当寺に請て勤めしめ、又金城の落成を賀し、富士見櫓に於て当寺の院主を請じ、種々の布施を給り、自ら愛好する所の挿花瓶名を富士と称する名器を給ふ、所謂わが庵ハ松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見るの歌も此時となん、又当所赤城大明神ハ行元寺の境内にありて鎖守なり。其此大寺なればなり、応永年中当国六郷の城主松原讃岐守入道沙弥妙讚といふ武士あり、大般若経六百巻を書写せしめ、赤城の神祠に奉納す、応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日に納む、時に当寺の現住等当代なり、巻軸ことに奥書して行元寺住持法印等当とあり≪赤城の神祠はもと当寺の鎮守たる故に大般若経今に行元寺に蔵め有之≫。其後天正年中に、小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に御入あり、時に饗応人不慮に失火して古記録等多く焼失せしとぞ、
辱かたじけなくも寛永年中大猷院殿の御時、右の古跡こせきの趣を聞し召れ、残る所の領地御朱印を下し給ふ、時の住持ハ伝慶なり、

 次は3つ、新しい事実がでています。1つ目は、太田道灌は江戸城の祈願寺は行元寺に決めたこと。2つ目、松原妙讚という城主は大般若経600巻を書写し、行元寺が所蔵していること。3つ目、北条は没落し、奥様は当寺に来たが、この時に料理人が失火したことです。

[現代語訳]太田道灌は初めて江戸に堅固な城を築き、祈願寺を定めようと思った。その時に、幸いに行元寺は伝教・慈覚両大師が創立し、特に源頼朝は家祈をかける擁護の本尊で、私自身も同流の源氏だという。そこで、行元寺を祈願寺にして、金城堅固安鎮の修法を行い、全員行元寺に祈って仏道に勤め、さらに、江戸城の落成を賀して、富士見櫓で行元寺の院主を招き、種々の布施を行い、自ら愛好する生け花の瓶で名を富士という名器も与えよう。いわゆる「わが庵は松原つづき海近く富士の高根を軒端にぞ見る」の歌もこの時だろう。また、赤城神社は行元寺の境内にあり、守護神になっている。≪これは大きな寺だからだ≫。応永年間に当国六郷の城主の松原妙讚という武士がいて、大般若経の600巻を書写し、赤城の神祠に奉納した。応永の初めに書写をして、文安元年11月7日に納入した。時に行元寺の住職は等当で、巻軸ごとに奥書して、行元寺の最高僧正は等当だという。≪赤城の神祠はもとはこの寺の守護神で、そこで今でも大般若経は行元寺に収蔵している≫。天正年間に、小田原北条は没落し、その時、氏直の奥様は行元寺にお越しになったが、その時に饗応する人が不注意に失火して、古い記録等は多く焼失した。
 かたじけないが、寛永年間に、徳川家光はこの有名な事件を聞き、残りの領地も御朱印とした。その時の主僧は伝慶である。

中比 まったくわかりません。太田道灌か、文章の一部なのか、不明です。
備中守 律令制で定めた岡山県西部の長官
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
金城 守りの固い城。堅固な城
祈願寺 神仏に願い事を行う寺社
我が庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る 太田道灌が詠んだ歌。意味は「私の家は松林の続く海の近くにあり、家の軒端からは富士の雄姿を見上げることができる」
安鎮法 あんちんほう。天皇・親王・将軍の住む邸宅の新築などに際し、その建物の安全や除災、国家の平安を祈る密教の修法。
請う 神や仏に祈って求める。
勤める 仏道に励む。勤行ごんぎょうする。仏事を営む。
富士見櫓 皇居東御苑にある三重櫓。唯一残った江戸城遺構。
挿花瓶 花を生ける瓶。生け花の瓶
赤城大明神 現在の赤城神社。
鎖守 一定の地域や施設を守護する神。
松原讃岐守入道沙弥妙讚 松原妙讚が布施をした。
大般若経 大乗仏教の経典。600巻。
現住 現にそこに住んでいる。またはその住居。
住持 じゅうじ。一寺の主僧を務める。その僧。住持職。住職。
法印 ほういん。僧位の最上位。僧正に相当。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語
饗応人 きょうおう。酒や食事などを出してもてなす人
辱くする かたじけなくする。おそれ多くも…していただく。…していただいてもったいなく思う。
大猷院 だいゆういん。徳川家光の戒名。

そも/\いにしへより今にいたるまで当寺千手観世音の利益を蒙しもの、あげてかぞへがたし。≪右大将頼朝公陣中にて御祈念ありし故、俗に襟懸観音といふ≫、或ハ遠流の罪を蒙りしもの此尊を祈りて速に赦免を蒙り≪貞享年中 山角氏≫、又ハ父の流罪を哀し女、七条の袈裟を自ら縫て住持に贈り護摩を修せしめ、遂に帰国ありて父子相遇ふ事を得たり≪天野氏≫、或ハ重病に沈みし者忽本復し≪上総僧慈観≫、又ハ安産の後絶死せるもの蘇生せしなと≪元禄年中 小笠原氏≫。其外不思議の霊験等住持法印雄賢の記せる本縁起に詳なり、近くハ天明年中にも、与に天を戴ざるの難あるもの、此尊に祈誓し其志を遂げ名を揚し事、諸人のしる所、まのあたりなれば、願ふ所の事一つとして満足せざる事なし、しからばすなハち一心称名観世音菩薩の威神力にハ百千万億衆生の諸苦悩を除き、一たび礼拝供養する輩ハ無量無辺の福徳を得ん事、弘誓深如海歴却不思議の金言疑あるべからず、別してハ武運長久・怨敵退散・諸病悉除・息災延命・諸願成就の霊験響の聲に応じる如し、あおいうやまふへく俯して信ずべしと云尓
寛政十年戊午孟秋   行元教寺現住法印海澄

 最後は効能です。十一面千手観世音を襟懸そでかけ観音というようです。

[現代語訳]そもそも過去から今にいたるまで、当寺の千手観世音の利益を受ける人は、数多い。≪右大将の頼朝公が陣中で祈念をあげていて、俗に襟懸観音という≫。あるいは遠流の罪を受けた人が、この仏を前に祈ると、あっという間に赦免を受けたという ≪貞享年間で山角氏≫。父の流罪を哀しむ女性は、七条の袈裟を縫って、住持に贈り、護摩を焚くと、やっと帰国し、父と子が逢うことができたという ≪天野氏≫。さらに重病の者も治っている ≪上総僧慈観≫。また、出産時に死亡したが、生き返った人もある ≪元禄年間 小笠原氏≫。その外、人間の理解を越える霊験は最高僧正の雄賢の縁起に詳細に書いてある。近くは、天明年間、一緒にこの世に生きられない人は、この仏に祈誓し、その志を遂げ、名を揚げたことは、庶民が知っているところだ。願う所はすべて満足になる。観世音菩薩の威神力には百千万億の衆生が、あらゆる苦悩を除去し、ひとたび礼拝供養する人々は無量無辺の福徳を得て、「弘誓深如海歴却不思議」という金言には疑いはない。特に武運長久、怨敵退散、諸病悉除、息災延命、諸願成就の霊験はひびきの声に応じて、仰いでうやましく、下を見ては信じるべきだという。

 そもそも。改めて説き起こすとき、文頭に用いる語。いったい。だいたい。
弘誓 ぐぜい。衆生を救おうとしてたてた菩薩の誓願。
別して べっして。特別であるさま。とりわけ。
云尓 云爾。漢文で、文章の終わりに用いて、これにほかならない。上述のとおり。

夏目漱石「それから」|神楽坂

「それから」は明治42年に夏目漱石氏が書いた小説です。
 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂、あるいは、藁店わらだなの上で、おそらく袋町に住んでいます。
 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。
 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。
 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。

一の一
 誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄

 これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。
 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。

八の一
 神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いてようやく安心した。
家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略)
 その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

神楽坂 初めて神楽坂が出てきます。新宿区東部の地名。
ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では

 三月十四日 日[曜]
 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。

日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。

八の二
 仕舞にアンニュイを感じ出した。何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂から外濠そとぼりへ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近

十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。

十一の一
 新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。

十三の二
 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

電車 これも路面電車でしょう

十四の六
 津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういん焼跡の前へ出た。(中略)
 神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。
 ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨をいて又坂を上った。花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(下図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始

安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊」でしょうか?

十六の四
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。

門野 代助の書生です。

十六の七
平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門びしゃもんまえへ出た。(中略)
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。

「一七の三」で最後の文章です。

十七の三
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略)
 たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。(了)

飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと


[硝子戸]

待合「誰が袖」|夏目漱石

文学と神楽坂

 夏目漱石氏が描いた「誰が袖」は何だったのでしょうか? まず漱石氏が書いた「硝子戸の中」の「誰が袖」とその注釈を見てみます。

「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入つて見た事もないが」
「変つたの変らないのつてあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町さかなまちを通るたびに、その寺内へ入る足袋屋たびやの角の細い小路こうじの入口に、ごたごたかかげられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定かんじょうして見るほどの道楽気も起らなかつたので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えばそでなんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋つたら、寺内にたつた一軒しきや無かつたもんでさあ。東家あずまやつてね。ちょうどそら高田の旦那真向まんむこうでしたろう、東家の御神灯ごじんとうのぶら下がっていたのは。

「定本漱石全集 第12巻。小品」の注釈。誰が袖。匂袋においぶくろの名。「色よりも香こそあはれとおもほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(『古今和歌集』) にちなむ。
寺内 神楽坂五丁目の一部。江戸時代には行元寺があり「寺内」とよばれた。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
肴町 さかなまち。牛込区肴町は今の神楽坂5丁目です。行元寺、高田、足袋屋、誰が袖、東屋などは全て肴町で、かつ寺内でした
足袋屋 昔の万長酒店がある所に「丸屋」という足袋屋がありました。現在は第一勧業信用組合がある場所です
誰が袖 たがそで。「誰が袖」は待合のこと。
東家 あずまや。寺内の「吾妻屋」のこと。ここも現在は神楽坂アインスタワーの一角になっています。
高田の旦那 高田庄吉。漱石の父の弟の長男で、漱石の腹違いの姉・ふさの夫です。
御神灯 神に供える灯火。職人・芸者屋などで縁起をかついで戸口につるす「御神灯」と書いた提灯のこと。

 本当に「誰が袖」は匂袋なのでしょうか? たかが匂袋を看板につけるのはおかしいと思いませんか。実際には「誰が袖」という名の待合がありました。
 横浜市図書館に富里長松氏の「芸妓細見記」(明治43年、富里昇進堂)があり、待合の部(119頁)として待合の「誰が袖」が出ています。

 また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」では「タガソデ」の絵が出ています。

 さらに同号の「夏目漱石と『寺内』」では、「誰が袖…待合。後に「三勝さんかつ」という名に。」と書いてあります。三勝は新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)でここです。
 また大正3年、夏目漱石作の俳句でも(『定本漱石全集』)

誰袖や待合らしき春の雨
季=春の雨。*誰袖は匂袋。江戸時代に流行し、花街では暖簾につける習慣があった。この句、匂袋をつけた暖簾、そして折からの春雨を、いかにも待合茶屋の風情だと興じたものか。

 俳句は注釈通りではなく、「『誰が袖』は待合らしい。春の雨だ」と簡単に書いた方がいいのではないでしょうか。夏目漱石は『誰が袖』は待合だと知っていました。少なくともそれを知っていて、それから夏目漱石の解説を書くのが正しいと思えます。


石畳❤◇☆|かくれんぼ

文学と神楽坂

 かくれんぼ横丁に❤型のピンコロ石畳と、◇や☆を彫った石畳があるのを、知っていますか。平成28年5月、かくれんぼ横丁の石畳が下水管工事のため新しくなりました。このとき、粋な計らいをする職人はいて、特別な石畳3個を埋めたそうです。

 私は「美味彩花」で、あったんだとわかりました。本文には「場所を教えてもらったり人に言ったりしては願が叶わなくなるとか…」と書いてあります。そこで私も下の絵を描いておき、ダブルクリックして読んじゃうと、願いがかなわなくなる、と書いておこう。


春の嵐|野田宇太郎氏『灰の季節』|東京大空襲

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『灰の季節』(修道社、昭和33年)は、第二次世界大戦中から大戦以降を綴った日記です。たとえば、昭和20年(1945年)4月12日、昼食前にフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で死去し、これを受けて、野田氏は4月13日の日記で簡単に書き留めています。その翌日、神楽坂にとっては東京大空襲を受けた日でした。

四月十四日

 単機あて帝都、関東東部、東北部等に侵入、主として帝都は爆弾焼夷弾取り混ぜの攻撃をうけた。熱を押して仕方なく起きる。都心の焼けのこりの部分を中心に空が東北へかけてまつかになつてゐる。そして中央線ぞひに爆発音が近まり、むくむくと黒煙が立ちのぼる。爆弾の無気味な落下音も幾度となくきこえ、敵機が撃墜されるのも数機みる。あとで機数約百七十、四十機位撃墜の発表あり。……眠る。
 中央線は荻窪までであとは不通のため帝都線で渋谷に出、地下鉄で神田に出る。下車しようとすると、どつと乗り込む避難者の群に押し返される。皆真青な顔をして相手が見えないやうなうろたへ方である。やつとの思ひで外に出て神田の河出書房仮事務所まで歩く。
 神田から飯田橋まで見透しに焼け落ちてゐる。飯田橋で不発弾の爆発にあふ。筑土八幡のあたりから新小川町 大曲もずらりと無残に焼けてゐる。神楽坂も家が大半なくなり、飯田橋交叉点から電車通を牛込肴町へ行く途には電線がばらばらに切れ落ち、まだごんごんと音を立てて燃えのこりの家が焔をあげてゐて、焦熱地獄のやうにあつい。そこら中形容し難い悪臭がむんと鼻をつく。人間の焼ける臭ひも混つてゐるやうだ。息をとめて一気に通りぬけようとするが駄目で、途中で立停り、叉熱気のなかを走つた。平時は賑やかな肴町交叉点通寺町側にトタン板が落ちてゐて、何気なく歩きながら蹴ると、下に屍体がかくしてあつた。防護団員の姿もみえず、地獄のなかでも歩いてゐる白昼夢のやうな気持。
 其儘足を早めて大日本印刷に行つた。近づくと今度は大日本印刷が一面の火焔に包まれて、盛んにまだ燃えつゞけてゐる。しまつた! と思ひ、第四中学の焼跡前から夢中で坂を下りて正面に出ると、焔の背後に印刷会社の建物はどうやら無事なやうである。燃えてゐるのは前庭に置かれた軍用の洋紙の山だけである。玄関にゆくと、防護団服を着た人が一人佇んでゐる。思はず「大丈夫ですか」と叫ぶやうに云うと、「ありがたうござゐました。工場の方は大丈夫です……」とその人は私に礼を云つた。あとで重役だつたと判る。消火する人手がなくて焼けるにまかせてゐるのだといふ。
 事務所に入ると、さすがに人はすくないが工場の方は動き続けてゐるやうなので、やつと安心した。これでまだ文藝は出せると思ひ、すぐに火野氏の「」を四月号の組版に廻してもらふ。
 まだ熱があつて、ふらふらとする。避難者の列に加り、やうやく渋谷に出て帝都線で夕暮に家にかへり着いた。
 この日は板橋、豊島、足立方面の被害がとくにひどく、明治神宮本殿も遂に焼失した。また宮城、大宮御所、赤坂離宮の一部にも火災が起つた。



単機 編隊を組まないで、単独で飛行する軍用機。単独飛行。
あて 配分する数量・割合を表す。あたり。送り先・差し出し先を示す。
焼夷弾 敵の建造物や陣地を焼く爆弾
帝都線 京王井の頭線のこと。渋谷と吉祥寺を結んだ。
河出書房 文芸書や思想書を中心に販売する出版社。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、千代田区神田小川町に移転する。
見透し さえぎるものがなく遠くまで見えること。その場所
飯田橋、筑土八幡、新小川町、大曲、牛込肴町、肴町交叉点、通寺町、大日本印刷 下図を参照。牛込肴町と肴町交叉点は現在「神楽坂上」交差点、通寺町は現在神楽坂六丁目
防護団 軍部の強い指導のもとで満州事変勃発ごろから地域住民の防空業務(灯火管制、警報、防火、防毒、交通整理、救護等)を行わせる防護団と称する組織が全国各地に設立された。
第四中学 現在は牛込第3中学校です。
文藝 1944年11月創刊。発行所を改造社から河出書房に移して継承した雑誌。第2次世界大戦下のほぼ唯一の文芸雑誌。戦後は戦後派の作家を起用。86年からは季刊誌。
火野 火野葦平。ひのあしへい。日中戦争で従軍前に「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞受賞。生年は明治39年12月3日、没年は昭和35年1月24日で自殺。享年は満53歳
 「海南島記」(改造社 1939年)。国立国会図書館デジタルコレクションとして入手可。

昭和22年の神楽坂


かぐらむら|サザンカンパニー

文学と神楽坂

「かぐらむら」は、神楽坂界隈で配布している情報誌です。サザンカンパニーが発行中。「かぐらむら」の創刊は2002年4月1日ですが、2018年に100号になり、休刊しました。
 サザンカンパニーは続くと思います。同社は雑誌・新聞広告、カタログ・パンフレット・ポスターなど、あらゆるものの企画、編集、制作をしています。
 2018年2月、「かぐらむら」に「てくてく牛込神楽坂」が載ったので、連れ合いが「かぐらむら」を取りに行ってきました。場所は神楽坂上の花屋「花豊はなとよ」が入った三上ビルの8階です。以下はその報告です。

 郵便受けには「かぐらむら」はないけれど、かわりに「サザンカンパニー」を発見。1階の店の脇の通路を奥に進み、右側にあるエレベーターに乗って、8階で降りると、狭めのエレベーターホール。左側にドアが一つだけ。チャイムが壊れていてノックして下さいと書かれています。ノックすると代表の長岡弘志氏が出てきました。ドアの隙間から中を垣間見ると事務所で机がいくつか並び、一番奥に窓が見えていました。配布のため既に大量の雑誌「かぐらむら」が見えました。事務所は思ったより小さいのかな。

『東京生活』2005/4から

BU・SU|内館牧子

文学と神楽坂

 内館牧子氏が書いた「BU・SU」です。主人公は森下麦子で、神楽坂で芸者になろうとやってきた高校生。妓名は鈴女すずめ。置屋はつた屋。1987年に初めて講談社X文庫で出版し、1999年に講談社文庫になっています。初版は30年も昔なのですね。

 まず本の最初は、BU・SUという言葉について……

「顔が悪い」って、とっても悲しいことなんだ。女の子にとって。
 なのに、男の子ってすごく平気で、
「BU・SU」
って言葉を使うのね。
 BU・SU。
 何て悲しい響きなんだろ。
 何で世の中には、可愛い人とBU・SUがいるんだろ。
 何で、私はBU・SUの方に入る顔で生まれちゃったんだろ。
「顔が悪い」って、本人が一番よく知ってるの。
 男の子に、
「BU・SU」
 なんて言われなくたって、本人が一番よく知ってるのよ。

 そこで麦子は神楽坂に行こうと決心し、実際に行ってしまいます。でもあまり大したものは起こらない。神楽坂についても同じです。

 神楽坂というのは、とても不思議な町。
 町のどまん中を、ズドーンと坂が通っている。
 町そのものが坂なの。
 坂のてっペんに立って、坂の下の方を見おろすと、町全部が見えちゃうみたいな。
 東京のサンフランシスコ。
 坂の両側はギッシリと商店街で、まん中へんに有名な毘沙門天びしゃもんてんまつられている善国寺ぜんこくじがあるんだけど、朝夕ここから聞こえてくる木魚の音がとってもいい。
 ポクポクポクなんていう木魚じゃない。木の板をガンガン叩くんだもの。
 だからすごくリキが入ってて、サイドギターがリズムきってるみたいな、独特のリズム。
 この坂から、もうクネクネとわけがわかんなくなるくらい路地や階段が入りくんでいるの。
 昔ながらのおセンベ屋さんもあるし、銭湯もあるし、粋な料亭もあるし、道路で子供が缶ケリなんかしていて、「新宿区」とは思えない昔風の町。
 毘沙門天の「ガンガン木魚」を朝夕聞いて生きてる人たちだから、ちょっとやそっとのことじゃ驚かない。
 でも……。
 驚いていた。
 みんな、町行く人はみんな、カナしばりにあったみたいに驚いていた。
 だって、蔦屋の姐さんたちを乗せた人力車が四台つらなるその後を、鈴女が走ってるんだもの。
 着物にスニーカーだよ。着物にスニーカー!
 町の人は誰も声さえ出せずに、鈴女を見ている。
 缶のかわりに思わず自分の足をけっちゃった子供だって、泣くのをやめて見ている。
 だけど、人力車を引くのはプロのニイさんたち。
 とても、鈴女がついていけるようなナマやさしい速度じゃない。
 鈴女は着物のすそをはためかせ、顔を真っ赤にして走るんだけど、全然ダメ。
 足はもつれるし、息はあがるし、それにみんなの視線が恥ずかしくて、顔は地面を向きっぱなし。
「ガンバレ!」
「着物、たくっちゃいなッ」
「イヨッ! 蔦屋の鈴女ッ」
 沿道から声がかかり始めた。
 そのうちに、子供たちは缶ケリよりおもしろそうだと、一緒に走り出した。
 これが鈴女より全然速いんだもの……。
 子供の数はどんどん増えて、ジョギングしていたおじいさんたちまで入ってきた。
 ほとんどパレードだ、こりゃ。
 鈴女はこのまま心臓が止まってくれればいいと思った。
 坂道を大きな夕陽が照らしている。

 2つ、わからないので、質問を出してみました。

 1つ目は「木の板をガンガン叩く」。これは、なあに? 善国寺に聞いたところ、木柾もくしょうというものでした。日蓮宗では木魚はほとんど使わず、代わりにテンポが早い読経には江戸時代より木柾という仏具を使うそうです。

木鉦

 下は実際に善国寺の木柾の音です。

 2つ目は、神楽坂で人力車を使うって、本当にできるの? 平地の浅草ならできるけれど、相手は坂が多い「山の手」だよ。

 赤城神社の結婚式をあげ、人力車に乗り、そのまま下ってアグネスホテルにいくのではできる。1回だけ人力車に乗り、神楽坂を下がるのもできる。しかし、1回が30分間以上となり、人力車の観光や旅は、神楽「坂」ではまずできない……と思う。1回か2回はやることができるけれど、数回やるともうやめた……となるはず。昔は「たちんぼ」といって荷車の後押しをして坂の頂上まで押していく人もいました。

善国寺|由来

文学と神楽坂

 善国寺の由来を調べようと思って、『江戸名所図会』を見ても「毘沙門天」「善国寺」の項はまったくありません。「神楽坂」では「高田穴八幡神社」「津久戸明神」「若宮八幡」はありますが、「善国寺」はまったくありません。「行元寺」「松源寺」はあるのですが「毘沙門天」も「善国寺」もありません。なお、挿絵はでてきます。『江府名勝志』にもありません。つまり、善国寺は江戸時代はあまり知られていなかったのです。

 まず『江戸名所図会』で「神楽坂」は…

○神楽坂
同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所たびしょあり。祭礼の時は神輿しんよこの所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)
[現代語訳。主に新宿歴史博物館「江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり」平成12年を参照]
○神楽坂
この神楽坂は牛込御門から外に行く坂である。坂の中途の右側に、穴八幡神社の御旅所がある。祭礼の時は神輿がここに渡ってくる。その時に神楽を奏するのでこう呼ばれたという。(あるいは、津久戸明神が田安の地から現在地に移った時、この坂で神楽を奏したため、または若宮八幡が近く、いつも神楽の音が坂まで聞こえたためとも伝えられる)

 なお、画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。これだけです。

 新宿歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』(平成12年)では

 神楽坂が最も栄えたのは、明治時代になってからのことで、甲武鉄道の牛込停車場ができたのをきっかけとして商店街となり、毘沙門天の縁日の賑わいとも相まって、大正時代にかけて「山の手銀座」と呼ばれました。

 また、槌田満文氏の『東京文学地名辞典』(東京堂出版、1997年)では

 神楽坂毘沙門。神楽坂上の毘沙門天は牛込区肴町〔新宿区神楽坂五丁目〕の善国寺(鎮護山・日蓮宗)境内にあり、本尊は加藤清正の守護仏と伝えられる。縁日は寅の日で、明治28年に甲武鉄道(明治39年から中央線)の牛込駅が出来てからは特に参詣者が急増した。

 つまり、明治28年、甲武鉄道の牛込停車場(つまり牛込駅)ができてから、善国寺の参詣者も増えてきたといいます。

新撰東京名所図会 第41編』(1904)では

●善國寺
善國寺は肴町三十六番地に在り。日蓮宗池上本門寺の末にして鎭護山と號す。
當寺古は馬喰町馬場西北の側に在りしが。寛文十年庚辰二月朔火災に罹り。麹町六丁目の横手に移る。(今の善國寺谷)寛政九年壬子七月二十一日麻布笄橋の大火に際し。烏有となり。同五年癸丑此地に轉ぜり。
西門を入れぱ玄關あり。日蓮宗錄所の標札を掲ぐ。東門を入れば毘砂門堂あり。其の結構大ならざるも。種々の彫鏤を施して甚だ端麗なり。左に出世稻荷の小祠右に水屋あり。
本尊毘砂門天は。加藤清正の守佛なりといふ。江戸砂子に毘砂門天土中より出現霊驗いちじるしとあり。孔雀經に云。北方有大天王名曰多聞陀羅尼集に云。北方天王像其身量一肘種々天衣。左手。右手佛塔。長一丈八尺。今の所謂毘砂門天の像は即ち是なり賢愚經等に據るに。三界に餘る程のを持ち給ひ。善根の人に之を與ふといふ。是れ我邦にて七福神の一に數ふる所以か。此本尊に参詣する者多きも亦寳を獲むとの爲めなるべし。東都歳事記に。芝金杉二丁目正傳寺と此善國寺の毘砂門詣りのことを掲記して右の二ケ所分て詣人多く。諸商人出る。正五九月の初寅開帳あり。三ツあれば中寅にあり。」とあれぱ明治以前より繁昌せしものと知られたり。
[現代語訳]善国寺は肴町36番地で、日蓮宗池上本門寺の末寺であり、号は鎮護山という。昔は馬喰町馬場の西北側にいたが、寛文10年(1669年)2月に火災が起こり、麹町六丁目の横に移動した(今の善国寺谷)。寛政9年(1797年)7月21日、麻布笄橋の大火では、全て焼失。同五年、ここに移動した。
西門を入ると玄関で、日蓮宗の登録所という標札がある。東門を入ると毘沙門堂だ。この構成は大きくはないが、種々の彫刻があり、はなはだ綺麗だ。左に出世稻荷の小さな神社があり、右に手を洗い清める所がある。
本尊の毘沙門天は、加藤清正の守護仏だという。「江戸砂子」では毘沙門天は土中より出現し、霊験はいちじるしく、「孔雀経」では、北方には大天王があり、名前は多聞天という。「陀羅尼集」では北方の天王像では背丈は前腕の長さで、種々な天衣を付け、左の腕は伸ばし、地は支え、右の肘は屈し、仏教の塔を高く持っているという。長さは一丈八尺。今のいわゆる毘沙門天の像はつまり道理にかなっている。「賢愚経」等によると三界にあまる程の宝を持ち、善行が多い人ではこの宝を与えるという。わが国で七福神の一つになる由縁だろうか。この本尊に参詣する者が多いのもこの宝を取りたいためだろう。「東都歳事記」には芝金杉二丁目の正伝寺とこの善国寺の毘沙門詣りのことを記し、この二か所の参詣人は多く、いろいろな商人も出ているという。正月、五月、九月の初寅の日に毘沙門天を開帳する。三つともあれば、「中寅」になるという。明治以前から繁昌したと、知られている。

寛文十年 1670年。江戸幕府将軍は第四代、徳川家綱。
寛政九年 1797年。江戸幕府将軍は第11代、徳川家斉。
烏有 うゆう。何も存在しないこと。
日蓮宗錄所 日蓮宗の僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職
結構 もくろみ。計画。
彫鏤 ちょうる。ちょうろう。細かい模様を彫りちりばめること。
水屋 社寺で、参詣人が口をすすぎ手を洗い清める所。みたらし。
江戸砂子 菊岡沾凉せんりよう著。1732年(享保17)万屋清兵衛刊。6巻。府内の地名、寺社、名所などを掲げて解説。
孔雀経 すべての恐れや災いを除き安楽をもたらすという孔雀明王の神呪を説いた経
北方有大天王名曰多聞 北方は大天王有り。名は多聞と曰く
陀羅尼集 諸仏菩薩の種々の陀羅尼の功徳を説いたもの
種々天衣 種々天衣を著す
天衣 てんい。天人・天女の着る衣服
臂執稍拄 臂は伸し稍は執し地は拄す。直訳では「腕は伸ばし、すこし心にかけ、地は支える」。よくわかりません。
 ヒ。肩から手首までの部分。腕
 しっす。深く心にかける。とらわれる。執着する。尊重する。大切に扱う。敬意を表する
 やや。ようやく。小さい。
 体・頭を支える
肘擎佛塔 肘は屈し、佛塔に於いて擎つ。直訳では「ひじは曲がり、仏教の塔では高く持ち続ける」。よくわかりません。
 かかげる。力をこめて物を高く持ち続ける。
是なり ぜなり。道理にかなっている。正しい
賢愚経 けんぐきょう。書跡。中国北魏ほくぎ慧覚えかく等訳の小乗経で全13巻。仏の本生ほんしょう、賢者、愚者に関する譬喩的な小話69編を集める。
 たから。宝の旧字体。貴重な物。
善根 ぜんこん。仏語。よい報いを招くもとになる行為。
東都歳事記 近世後期の江戸と近郊の年中行事を月順に配列し略説した板本。斎藤月岑げつしん編。1838年(天保9年)、江戸の須原屋茂兵衛、伊八が刊行。半紙本5冊。
初寅 正月最初の寅の日。毘沙門天に参詣する風習がある。福寅。
三ツ 正月、5月、9月の最初の寅の日でしょうか。
●毘沙門の緣日
舊暦を用ゐざる吾曹記者は。けふは寅の日なるや。はた午の日なるやを知らず。甲武線の汽車に搭し。牛込停車場に至るに隨ひ。神樂阪に當り。皷笛人を動し。燭火天を燒くのありさまを見。始て其の日なるを解す。乃ち車を下りて濠畔に出れば槖駝師の奇異草を陳じで之を鬻くあり。競賣商の高く價を呼て客を集るあり。諸店はけふを晴れと飾りて大利を博せむとし。露肆は巧みに雜貨を列ねで衆庶を釣らむとす。肩摩轂鑿、漸く阪に上り。身を挺して寺門に入れば毘砂門堂には萬燈輝き。賽貨雨の如し。境内西隅には常に改良劔舞等の看場を開き。玄関の傍にも種々の看場ありて。幾むと立錐の地なし。去て門前の勧業場靜岡館の楼上に登りて俯瞰すれば。賽者の魚貫鱗次の景況。亦一奇観なり。
境内に出世稲荷あるを以て近来午の日にも縁日を開くこととしたれば。一層の繁昌を添たり。年中この兩緣日にはか丶る景況なるも。殊に夏夜を熱閙とす。當區辯天町に辨財天ましませども。一向に參詣者なし。蓋し神の繁昌を招くにあらずして。人が神を藉りに繁昌ならしひるに因るなり。
[現代語訳] 旧暦を使っていない、われわれ記者は、今日は寅の日か、それとも午の日かわからない。そこで甲武線の汽車(今の中央本線)に乗り、牛込駅に行き、神楽坂にたどり着いて、見ると、太鼓と笛が空を舞い、燭火は天を衝き、この様子を見て、初めてその日だとわかった。お堀のほとりに出てみると、奇妙な花や変わった草を売る植木屋がいる。声高く値段を呼び、客を集める競売商もいる。今日は晴れの日だと着飾って、大利を生むとする店もいる。巧みに雑貨を売り、大衆から金を釣ろうとしている露店もある。人や車馬の往来が激しいが、なんとか神楽坂の坂に上がり、寺門に入ると、毘沙門堂には仏前に点す灯明が無数に輝き、宝の貨はまるで雨のようだ。境内の西隅には常に改良剣舞の見世物屋は開き、玄関の傍にも種々の小屋がある。立錐の余地もない。そこで門前の勧業場の静岡館の楼上に登り、俯瞰すると、お参りする人が、列をなし、並んでいる景況が見える。ほかでは見られないような風景だ。
 境内には出世稲荷があり、最近、午の日にも縁日を開くようになり、一層、繁昌している。年中、特にこの両縁日にはこんな景況が見えるが、殊に夏の夜は騒がしい。当区の弁天町にも弁財天があるが、参詣者は一向にいない。つまり神の繁昌を招くのではなく、人が神樣にいいわけをして、繁昌しているのだ。

吾曹 われわれ。われら。吾人
搭し とうする。乗る。上にのせる。積み込む。
隨ふ したがう
皷笛 こてき。太鼓と笛
槖駝師 タクダシ。植木屋の異称。ラクダの異称。
 くさ。草の総称
鬻く ひさぐ、売る
露肆 ほしみせ。露店。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
肩摩轂鑿 人や車馬の往来が激しく、混雑しているさま。
挺する 他よりぬきん出る。人の先頭に立って進む。
看場 かんば。注意してよくみる場所。見世物小屋など。
魚貫 ぎょかん。魚が串刺しに連なったように、たくさんの人々などが列をなして行くこと
鱗次 りんじ。うろこのように並びつづくこと。
近来 午の日も縁日になった日はいつなのでしょうか。『新撰東京名所図会 第41編』は明治37年(1904年)よりも昔です。区の「新宿区史・史料編」(昭和31年)の「古老談話」によれば「明治中頃」です。
熱閙 ネットウ。 人が込みあって騒がしいこと。
奇観 珍しい眺め。ほかでは見られないような風景。
藉る かりる。よる。お陰をこうむる。「藉口しゃこう」とは口実をもうけていいわけをすること。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑦

文学と神楽坂

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。
モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
パリ市街の展望 右の写真は「サクレクール寺院を眺めよう!(3)」から。サクレクール寺院からパリを眺たもの。

神田駿河台 御茶ノ水駅南方の地区。標高約17mの台地がある。由来は駿府の武士を住まわせたこと。江戸時代は旗本屋敷が多く、見晴らしがよかった。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。左の写真は戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)から。

 パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。
 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。
白銀町の高台 右図は筑土八幡宮から白銀公園までの道路。白銀公園の周りを高台といったのでしょう。
小路 広津柳浪氏や永井荷風氏は左図のように通ったはずです。青丸はおそらく広津柳浪氏の家。しかし、現在は右図で真ん中の道路はなくなってしまいました。そこで、道路をまず北に進み、それから東に入っていきます。  
 戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」

ダリ スペインの画家。シュルレアリスムの最も著名な画家の一人。生年は1904年5月11日、没年は1989年1月23日。享年は満88歳。
シュルレアリスム 超現実主義。芸術作品から合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代りに無意識の表現を定着すること。
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
標石 目印の石。道標に立てた石。測量で、三角点や水準点に埋設される石。多く花崗岩の角柱が用いられる。
石灯籠 日本の戸外照明用具。石の枠に、中に火をともしたもの。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加能作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。
日露戦役 明治37年2月から翌年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって戦った戦争。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷。それを業とする家。
文庫 明治28年(1895年)、河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊。伊良子清白、横瀬夜雨などが活動。
新体詩 明治時代の文語定型詩。多くは七五調。
江戸川の谷 江戸川橋周辺から江戸川橋通りにかけての低地。
江戸川べり 江戸川は現在神田川と呼びますが、その神田川で石切橋の近く(文京区水道町27)に清風亭跡があります。
 清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋こわきに抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。
 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。
坂道の十字路 正確には十字路ではないはず(図)。ここに「赤城坂」という標柱があります。
左の上り坂を辿って… 下図を参照
銭湯 1967年の住宅地図によれば、中里町の金成湯でしょう。北側の小路には銭湯はなく、中里町13番地にありました。

野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈⑥紅葉十千万堂跡

文学と神楽坂

   紅葉十千万堂跡

 飯塚酒店藝術倶楽部の思い出を右にしてそのまま南へまっすぐに横寺町を歩くと、左に箪笥町への道がわかれ、その先は都電通りに出る。その道の右側に大信寺という罹災した古寺があり、その寺の裹が丁度ちょうど尾崎紅葉終焉の家となった十千万堂の跡である。十千万堂というのは紅葉の俳号で、戦災焼失後は紅葉の家主だった鳥居氏の住宅が建てられた。その表入口は横寺町の通りにあって、最近新らしく造られた鉄製の透し門の中に、新宿区で今年の三月に新らしく建て直したばかりの「尾崎紅葉旧居跡」と書いた、史跡でなく旧跡の木札標識がある。そこへ入った奥の左側の、鳥居と表札のある家の屋敷内が、ほぼ十千万堂の跡に当る。
 紅葉が祖父の荒木氏と共に横寺町四十七番地にそれぞれ隣りあわせて一軒ずつの貸家を借りて住みついたのは、明冶二十四年二月頃である。
 明冶二十二年の新著百種第一冊『二人比丘尼色懺悔』が作家としての出世作となった紅葉ではあったがすでにその頃は硯友社を率いる新進作家と云ってよかった。樺島喜久を妻に迎えたのは明治二十四年三月、横寺町に移って間もなくの二十五歳のときである。

都電通り 大久保通りです。
大信寺 新宿区横寺町にある浄土宗寺院です。図では赤い矢印。詳しくはここに

終焉の家 図では「尾崎紅葉旧居跡」です。
今年 昭和44年です
木札標識 現在は「新宿区指定史跡」になりました。詳しくはここで
新著百種 1889年に吉岡書籍店で刊行しました。
二人比丘尼色懺悔 ににんびくにいろざんげ。尾崎紅葉氏の出世作。ある草庵に出逢った2人の尼が過去の懺悔として語る悲しい話。

 泉鏡花が紅葉門人第一号として入門したのもその年十月で、鏡花は先ず尾崎家の書生として同居し、明治二十七年には父の死を迎えて金沢に帰郷し、貧苦の中に「義血侠血」などを書いた期間もあったが、大凡二十八年二月まで、約四年間を紅葉の許で薫陶を受けた。鏡花につづいて柳川春葉小栗風葉徳田秋聲などが硯友社の門を潜って紅葉に師事し、やがて鏡花、秋聲、風葉は次代の文壇に新風を捲き起すと共に、紅葉門の三羽烏とも呼ばれるようになった。そのうちの小栗風葉が中心となって、十千万堂裏の、少し低くなった箪笥町の一角に文学塾が開かれたのは明治三十年十二月からである。
 紅葉は入門者があると一時この文学塾に入れるのが常であった。その塾では秋聲も明治三十二年二月に筑土八幡下に移るまで梁山泊のような生活をしたことがある。
 明治三十年一月から三十五年五月に亙り読売新聞に継続連載し、三十六年一月から三月までは「新小説」にその続篇を書きつづけた『金色夜叉』を最後に、紅葉が胃癌のために歿したのは明治三十六年十月三十日で、まだ三十七歳の若さであった。だがその死は悟りに徹したともいえる大往生で、「死なば秋露のひぬ間ぞ面白き」という辞世の句をのこしている。
義血侠血 旅芸人の女性がある青年を金銭的に援助する。その女性がある男性を過失で殺し、検事になった青年が断罪する。最後は2人ともに自殺で終わる。「瀧の白糸」の原作。
大凡 おおよそ。細部にこだわらず概略を判断する。だいたい。大ざっぱに。およそ。
薫陶 人徳・品位などで人を感化し、よい方に導くこと。香をたいて薫りを染み込ませ、陶器を作り上げる意から。
文学塾 十千万堂塾、または詩星堂。詳しくは徳田秋声の「‎光を追うて」で
梁山泊 りょうざんぱく。中国山東省済寧市梁山県の沼。『水滸伝』ではここに住む人々を主人公とした小説。転じて、豪傑や野心家の集まる場所。
金色夜叉 『読売新聞』連載。未完。鴫沢しぎさわ宮はいいなずけである一高生のはざま貫一を捨てて富豪の富山と結婚する。貫一は復讐のために高利貸の手代となる。
ひぬ 干ぬ。乾く。

 わたくしが昭和二十六年にはじめて紅葉住居跡をたずねたときは、秋聾が昭和八年に書いた「和解」という小説に、K(鏡花)と共にその附近を久しぶりに歩いたことがほぼ事実通りに書かれているので、それを頼りに焼け跡の大信寺で横寺町四十七番地の紅葉住居跡を尋ねると、中年の婦人が紅葉の大家でもあったという寺の裏の鳥居という家を教えてくれた。
 鳥居家は焼け跡に建てられたばかりの、まだ新らしい家であったが、紅葉歿後の十千万堂のことを知る老婦人がいて、昔の玄関や母家の在り方まで詳しく語った。紅葉遺著の『十千万堂目録』の扉に描かれている玄関口の簡単なスケッチなどを記憶して訪れたわたくしに、玄関前の木はモチの木で、その木は戦災で焼けたが、根株だけはまだ掘らずに残しているからと、わざわざ上土を取り除けてその黒い根株を見せてくれたりもした。
 そして十千万堂の襖の下張りから出て来たという、よれよれに痛んだ鳥の子紙の一枚には、「初冬や髭もそりたてのをとこぶり 十千万」、もう一枚には「はしたものいはひすきたる雑煮かな 十千万堂紅葉」と、紅葉の癖のある書体でまだ下書きらしい句が一つずつ書かれていた。それをやっとのことで読むと、紅葉葬儀の写貞や「尾崎德太郎」と印刷した細長い洒落た名刺一枚なども奥から出して見せてくれた。……
 あれから十八年が過ぎていると思うと歳月のへだたりはすでにはるかだが、十千万堂跡が新宿区の旧跡に指定されて見学者が多くなっているほかは、鳥居家の容子もあまり変らず、老婦人もさすがに頭髪はうすくなり白いものもふえているが、依然として元気で、久しぶりに訪れたわたくしをよく覚えていて、快く迎えてくれた。
根株 ねかぶ。木の切り株。
上土 うわつち。表面の土。
下張り したばり。ふすま屏風びょうぶなどの下地。
初冬や髭もそりたてのをとこぶり 初冬や髭剃りたての男ぶり
はしたもの 端者。半者。召使いで、身分は中程度。それほど身分の低くない召使いの女。
いはひ 祝い。めでたい出来事を喜ぶこと。

芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)

へだたり 隔たること。その度合い。
容子 様子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。身なり。態度。そぶり。

わが青春の記|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦全集別巻にある「わが青春の記」(中央公論、昭和11年)です。氏がこれを書いたのは49歳。「スバル」の発行は22歳、明治42年です。ある出版社では、ボツになった氏の原稿をトイレットペーパーとして使用したという話です。

 新詩社しんししゃは中堅詩人の脱退によつて、それから間もなく崩壊してしまつた。それは與謝野氏の力が足りなかつたゝめでも何んでもない。時代は刻々こく/\轉換てんくわんして、詩そのものが既に貧困時代に入つてきたためであつた。
 脱退組はそれから辯護士だつた平出修氏の盡力じんりよくによつて、森鷗外先生を盟主にあをいで、「スバル」を發行はつかうし、それを牙城がじやうとして、更に一段の躍進をげた。僕も今度こそは出直でなほして、いよいよ小説を書かうと思ひ立ち、一生懸命になつて、「うみまち」といふものを仕上げた。明星時代と違つて、今度は僕もいくらか認めてもらへるだらうと自惚うぬぼれて、その「海邉の街」を「スバル」へもつていくと、これは編輯へんしふ委貫の吉井よしゐ君の手にひつかゝつてまんまと没書ぼつしよになつてしまつた。あんまり腹が立つたから、後年新進作家になつてから、そのまゝそつくり「太陽」へ出してやつた。これは相當さうとう評判のよかつた作品であつた。
 もうひとつほかに「へびつかひ」といふものをかいて某誌へ持ち込んだが、この作品位悲慘な最期をとげたものはない。持ち込んでから三つきたつても、四つきたつても、うんだともつぶれたともいつて來ないので、おそる恐る催促にいつてみると、編輯當事者とうじしやは、そんな原稿は受け取つた覺えはないと、劍もほろゝな挨拶である。そこで仕方がなしに、すごすご歸つてきたが、その時便所をかりくなつたので、その店の便所へ入つてみると、どうだらう、僕がずにかいた作品が無慘にも四ツりにされて尻を拭く紙になつてゐるではないか。僕はこゑをあげて號泣がうきふしたいほど無名作家のなさけなさを感じて、全くほねきざまれるやうな思ひがした。で、殘つてゐる分を切り取つてもつてかへり、そのまゝ今でも保存してゐるが、心のゆるむ時には、それを取出して今だに發奮はつぷんよすがとしてゐるのである。尤もその時分は改良半紙手刷でずけいをおいた原稿用紙だつたから、尻を拭くにはもつて來いだつたかも知れない。
 それから何年かの後、僕がいよ/\新進作家としてはなやかに文壇にデビユーすると、その雜誌からもむろんれいあつうして原稿を依賴してきたので、それに似た作品をかいて、一枚きん圓也えんなりで賣つてやつた。無名作家と有名作家の對照たいせうはかくの如くに浮世の裏表うらおもてである。滿天下まんてんかの無名作家諸氏よ、原稿がぼつをくつたとて、ゆめいかたまふな。今は西洋紙の原稿用紙であるから諸君の鏤心るしんてうたく、、の名作品が、尻を拭く紙にされないだけでもまだしもである。

新詩社 詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月に創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。
転換 別のものに変える。特に、傾向・方針などを違った方向に変える。
尽力 ある事をなすために、力をつくすこと。努力すること。ほねおり。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。
牙城 城中で主将のいる所。本丸。組織や勢力の中心となる所。本拠。
明星 詩歌雑誌。与謝野鉄幹主宰の新詩社の機関誌。明治33年(1900)4月創刊、明治41年(1908)11月廃刊。
没書 新聞・雑誌などに送った原稿が採用されないでしまうこと。没。
太陽 月刊総合雑誌。博文館発行。1895年1月―1928年2月。臨時増刊号86冊を含め全531冊。日清戦争時の国威高揚に呼応し、刊行中の雑誌を統合して創刊。
けんもほろろ 「けん」と「ほろろ」はきじの鳴き声。人の頼み事や相談事などを無愛想に拒絶するさま。取りつくしまもないさま。
夜の目も寝ない よのめもねない。一晩じゅう眠らない。
号泣 大声をあげて泣き叫ぶこと。
発奮 気持ちをふるい起こすこと。
よすが 物事をするのに、たよりとなること。よりどころ。てがかり。
改良半紙 駿河半紙を漂白して作った半紙。明治以降、水酸化ナトリウムの煮熟、さらし粉の漂白で、すぐれた半紙がつくられるようになり、改良半紙とよんだ。
手刷り 木版などを1枚1枚手で刷ること。軽便な印刷機を手で動かして印刷すること。
 文字をそろえて書くために、紙上に一定の間隔で引いた線。罫線。
裏表 物の表面と裏面。表面と内情。
満天下 天下全体。国中。世界中。
鏤心彫たく るしんちょうたく。非常に苦心して詩文などを作り上げること。鏤はちりばめる。鏤めるとは、金銀・宝石などを一面に散らすようにはめこむ。比喩的に、文章のところどころに美しい言葉などを交える。彫心鏤骨とは、ちょうしんるこつ、心に彫りつけ骨に刻み込む。彫琢は、ちょうたく、宝石などを加工研磨すること。

赤城神社|赤城元町

文学と神楽坂

 牛込区赤城元町〔新宿区赤城元町〕の赤城神社は始めは赤城明神。『江戸名所図会』では

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚とうかくと号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

江戸名所図会 江戸とその近郊の地誌。神田雉子町の名主であった斎藤幸雄、幸孝、幸成の三代の調査によって作成。名所旧跡や寺社、風俗などを長谷川雪旦による絵入りで解説。7巻20冊。前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版
別当 別当寺。神社の境内にあり、供僧が祭祀・読経・加持祈禱を行い、神社の管理経営を行った寺。
東覚寺 神仏分離で廃寺。当時、神職はなく、別当坊だけが神務を執行中だった。
重泰  牛込村へ移住して牛込姓に改めたのは宮内少輔重行(江戸氏牛込氏文書)か、重行の子勝行(寛政重修諸家譜)の時で、家系では重泰の名前はない。

赤城神社

赤城神社


[現代語訳]牛込の鎮守で、神社の境内の寺は天台宗東覚寺。祭神は上野国赤城山と同じで、本地仏は将軍地蔵菩薩という。昔、大胡氏がこの神を深く信仰し、始めは領地に祀って近戸明神と称した。その子孫重泰が武蔵国に移って牛込に住み、姓を改めて牛込氏とし(城館は牛込藁店の辺。先に話した。)代々信仰してきたこの神を移し祀ったものである。祭礼は9月19日。(始めに祀った場所は目白の下関口領の田圃の中であった。今も少しばかりの木立があり、これを赤城の森と呼んでいる)

 正安年(1300年)、群馬県赤城山赤城神社の分霊を早稲田の田島村(現在の新宿区早稲田鶴巻町、元赤城神社)に勧請。寛正元年(1460年)、牛込へ移動。明治6年に郷社に。郷社とは神社の社格で、府県社の下、村社の上に位置する神社。例祭日は毎年9月19日。
新撰東京名所図会』牛込区(明治37年)では

 赤城神社は赤城元町十六番地に鎮座す。社格郷社、石の鳥居あり、表門は南に面す、総朱塗、柱間二間、左に門番所あり、間口一間半奥行二間半、門内甃石一條、左に茶亭あり、赤城亭と稱し、参拝人の休憩所に充てたり。側らに藤棚一架及び桜を植ゑたり、右に卜者の宅並に格子造に住みなしたる家一と棟あり。更に進む事二十餘武、右に末社北野神社、出世稲荷、葵神社の小祠宇あり(中略)
本社間口三間奥行二間半、社の後、石の玉垣を繞らす慶応二丙寅年十一月築造する所。此辺樹木、鬱として昼猶暗し。皆年経たるなり。即ち境内の北隅、崖に臨んで清風亭あり。

新撰東京名所図会 「新撰東京名所図会」64冊(山下重民他編、明治29年9月~42年3月、「風俗画報」臨時増刊、東陽堂)
赤城亭 最近は2005年7月、神饌しんせん(お供え物)料理店が開店。2008年3月、閉店。
甃石 しきいし。道路・庭などに敷き並べた平らな石
祠宇 しう。やしろ。神社。
繞らす めぐる。周りを回る。とりまく。
慶応二丙寅年 1866年です。
 もみ。マツ科の常緑大高木。

 清風亭は貸座敷で、江戸川(現、神田川)の文京区水道町27(芳賀善次郎著『新宿の散歩道』三光社、昭和47年)に移ります。そのあとは下宿の長生館でした。明治36年、近松秋江氏は清風亭で慟く大貫ますと同棲し、明治40年6月、ますに赤城元町七番地で小間物屋を経営させていました。明治42年8月、ますに去られ、氏は『別れたる妻に送る手紙』(大正2年)を刊行し、また、大正2年10月から長生館に下宿しています。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑤

文学と神楽坂

   横寺町

 筑土八幡宮裏から白銀町に出て、白銀公園の前を南へゆくと、もうそこは以前の通寺町、現在は神楽坂六丁目である。神楽坂通りを横切って、その南側の横寺町に入った。
 横寺町は尾崎紅葉島村抱月、抱月の後を追った松井須磨子劇的な終焉しゆうえんの町で、昭和八年頃わたくしもしばらく間借生活をしたことがあり、とくに『新東京文学散歩』執筆以来はしばしば訪れるようになった馴染み深い町と云ってよい。戦災がひどく、道の両側に並んだ寺々と共に商家などにも戦前の面影は更にないか、ほぼこの町の中央にあった飯塚酒店が、戦前の官許にごりの店でなく普通の酒類店としてではあるが、復興も早かったことは、横寺町に辿る文学史の一つのたしかな道標でもあった。
 戦前の飯塚酒店は貧乏な文士や画家などが、労働者に混って安心して酒にひたった店で、酒豪を以て自ら任じ、やがては板橋の養老院で孤独な老死をとげた、日本のヴェルレーヌともいえそうな詩人の兒玉花外も、その店の常連であった。それに飯塚家は坪内逍遙の弟子筋に当る演劇研究家、飯塚友一郎の生家で、牛込の旧家でもあったから、官許にごりの酒店と共に、脇には質屋と米店も営んでいて、貧乏な藝術家などに重宝がられた。その飯塚家の裏側に、坪内逍遙文藝協会を離れ早稲田大学教授を辞職した島村抱月と、女優松井須磨子との藝術座の本拠として藝術倶楽部が出現したのは大正四年秋であった。藝術座はそれより先大正二年(一九一三)九月の有楽座ける「モンナ・ワンナ」の旗揚げ興業と共に松井須磨子をプリマ・ドンナとしてスタートし、オペラ形式をとった新演劇として全国津々浦々にその名声をひろめていった。(中略)中でも須磨子の演じた「復活」で抱月が作詞した「カチューシャ唱歌」や、北原白秋作詞による「さすらひの唄」「にくいあん畜生」「こんど生れたら」などの「生ける屍」の唄、「煙草のめのめ」「酒場の唄」「恋の鳥」などの「カルメン」の唄は、抱月の書生をしていた中山晋平の作曲で、流行歌としても全国を風靡ふうびした。九州の田舎に生れたわたくしなども、幼い時分に横井須磨子のうたった「カチューシャ唱歌」のレコードから「カチューシャ可愛や別れのつらさ……」などと、つい覚え込んでしまったほどである。(後略)


劇的な終焉 島村抱月氏はインフルエンザで大正7年7月7日に死亡し、大正8年1月5日、松井須磨子氏は後を追うように縊死で自殺。
にごり 発酵した米を酒袋の中にしぼって抽出し、おりを取り除き、さらにろ過するが、にごり酒は澱を残したままにするもの。
文芸協会  1909年、劇界の刷新をはかり新芸術を振興する文化団体として発足。会長は坪内逍遥。11年第1回公演として『ハムレット』などを上演。13年、松井須磨子、島村抱月が退会し、その後、解散。芸術座、無名会、舞台協会、新国劇などに分れた。
プリマ・ドンナ prima donna(第一の女性)。オペラの主役女性歌手。ソプラノ歌手が多い。オペラ以外でも使う。
オペラ形式 歌手が扮装して演技をしつつ管弦楽と共に歌う音楽劇。芸術座は確かに一部はオペラ形式でしたが、全部が全部ではなかったと思います。
風靡 風が草木をなびかせるように、多くの者をなびき従わせること。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈④

 去り難い気持であったが、わたくしはそのまま崖沿いの道を西へ歩いた。するとすぐに若宮町の一角の若宮八幡宮の境内に入る。戦災後昔の面影を失い、境内は附近の児童の遊園地になっている。そこを横切って道路に出るとそのまま右へ辿ることにした。その先は(とら)の日(うま)の日縁日でも知られた神楽坂毘沙(びしや)門天(もんてん)の脇から神楽坂通りに出るからである。
 毘沙門天の境内は、折から桜の花の真盛りで、子供連れの女のお詣り姿も見える。しかし境内でどうやら戦前からの面彫を残しているのは、表通りに面したコンクリートの玉垣位である。玉垣には寄進者の名が刻まれて、そのまま貴重な街の記録となっているが、正面入口の玉垣を見ると「カフエー田原屋」の文字がある。カフエーという名は大正時代からの記録で、戦前の神楽坂をわたくしに思い出させた。
 毘沙門天の向い側には相馬屋という文房具屋が昔のところにある。戦前にはこの店でもしばしば原稿用紙などを買った記憶がある。
 大通りから南へ分れた登り坂の通は、以前は江戸以来の通称で藁店と呼ばれていた。その坂の右側にも神楽坂キネマというセカンド・ランの洋画専門の映画館があったのも昭和はじめのなつかしい思い出である。その上はもう袋町の台地で、牛込氏居城の跡でもあったらしいことは前にも書いた。
 牛込肴町の名は消えて、まだ取払われずに残って南北に走りつづけている都電の停留場の名も、神楽坂に変っている。以前は電車の中で「牛込肴町、お降りの方はありませんか」と車掌の呼び声をきいた。今の地図では大久保通りとなっている電車通りと神楽坂通りの交叉点に立ちながら、わたくしは、このあたりの古社として有名な筑土八幡宮に久しく行かないことを思い出した。そこは交叉点から電車通りをそのまま北へ歩いて東へ折れたその道路の北側で、地図を見ると、そのあたりだけは八幡宮のある筑土八幡町も、その両隣りの津久上町や白銀町も、どうやら昔のままである。
 高い石段のある筑土八幡宮はその左側の筑土神社並んでいたが、今は筑土神社は少し離れた西側の白銀町に移り、八幡宮だけがどうやら昔の面影をのこLている。面影と云ってもそれは正面の高い石段だけで、それを登った境内は大きな銀杏(いちょう)の根株と、その前の猿の絵を浮彫りした古碑や、鉄の用水鉢以外は、本堂も社務所も戦後の再建である。その東側には津久土町の厚生年金病院のビルが、八幡宮を威圧するように高く(そび)えている。
 久しぶりに筑土八幡宮の石段を登りながら、わたくしはこの八幡宮下の柿ノ木横丁にあった薙城(なぎしろ)という下宿屋に、尾崎紅葉文学塾を出て読売新聞に勤めることになった徳田秋聲が、明治三十二年(一八九九)二月からしばらく下宿したことなど思い出していた。しかし柿ノ木横丁という小路など、もう今では夢物語にすぎない。ようやく登り着いた境内の片側に小学唱歌の「金太郎」その他のいわゆる言文一致唱歌の作詞作曲家だった「田村虎藏先生をたゝえる碑」がある。花崗かこう岩の表には「まさかりかついできんたろう」の五線譜が刻まれ、またその下に「田村先生(一八七三~一九四三)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職、言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と碑文がある。田村と筑土八幡のゆかりがわからないので、折から社務所から出て来た宮司らしい老人に(たず)ねると、田村虎蔵は晩年八幡宮の裏側高台に住んでいたから、有志によって四年前の昭和四十年に、この碑がここに建てられたのだとわかった。
寅の日 十二支の寅の日。12日ごとに巡ってくる吉日で、特に最も金運に縁がある日
午の日 十二支のうしにあたる日。
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。
玉垣 たまがき。皇居・神社の周囲に巡らした垣。垣が二重にあるときは外側のもの。
寄進者の名が刻まれて 現在はありません。昔はありました。写真は池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)から。玉垣には寄進者の名前が載っていました。昭和46年に今の本堂を建て、そこでなくなったのでしょう。   玉垣には寄進者の名前でしょうか、何かが載っていました。しかし、下の現在、左右の玉垣ではなにもなくなっています。写真では左の玉垣を示します。

カフエー田原屋 5丁目の田原屋(1階は果物屋、2階はレストラン)か、三丁目にあった「果物 田原屋」のどちかでしょう。
神楽坂キネマ 牛込館のことでしょう。神楽坂キネマはわかりません。
セカンド・ラン 二番館とも。一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館
牛込肴町 現在は神楽坂五丁目
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。
白銀町に移り その事実はなさそうです。
厚生年金病院 新宿区津久戸町5−1にあります。現在は東京新宿メディカルセンターと改称。図で右側のビル。左は筑土八幡神社。
柿ノ木横丁 新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』「揚場町」(平成22年)では「(揚場町と)下宮比町との間を俗にかき横丁よこちょうといった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという」
薙城館 不明です。東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正十一年)ではありません。
文学塾 詩星堂とか十千万堂塾と呼ばれました。
宮司 神社に仕え、祭祀、造営、庶務などをつかさどる者の長。
八幡宮の裏側高台 筑土八幡町31番地に田村虎蔵旧居跡があります。

筑土八幡神社|坂と山

文学と神楽坂

 御殿坂、御殿山、芥坂、筑土山がでてきます。石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

御殿坂(ごてんざか) 新宿区筑土八幡町の筑土八幡神社の裏手、埃坂の上から東に向い、途中右にカーブして旧都電通りへ下る短い坂路で、御殿坂の名は慶安年間三代将軍家光のころ、ここに大納言家綱(世子)の御殿が造られてこのあたりの台地を御殿山と称したことによる。「東京市史稿市街篇第六」には「慶安三年十月十八日、牛込筑土御殿御普請これあるに付……」とある。また「新撰東京名所図会」には「御殿山とは今筑土山の西、万昌院の辺より旧中山備前守の邸地をいふ。寛永頃迄は御鷹野のとき御仮屋ありしなり。」と記されている。
   夕暮るる筑土八幡渡り鳥       瓊音
旧都電通り 大久保通りです
東京市史稿 明治44(1911)年以来、現在も刊行が続く江戸から東京への歴史で資料を年代順にまとめた史料集
新撰東京名所図会 『風俗画報』の臨時増刊として、明治29年から明治42年まで刊行。テーマは公園、東京総説、区、博覧会、祝典、災害、戦争など。全64編。
筑土山 現在の筑土八幡神社がある高台
万昌院 筑土八幡町34にありましたが、大正3年に中野区上高田へ移動しました。
中山備前守 現在は東京都看護協会のビルなどです。右図は「礫川牛込小日向絵図」(万延元年)から。ただし、中山備前守ではなく、地図によれば「中山備後守」です。
芥坂(ごみざか) 埃坂とも書く。御殿坂上から反対に北方東五軒町へ下る筑土八幡社裹の坂路で、坂下西側に東京都牛込専修職業学校がある。筑土八幡は往古は江戸城の平川門へんにあったのを、天正七年、二の丸普請のために現在地へ移したものといい、また田安門のあたりにあって田安明神と呼ばれていたとも伝えられる。「南向亭茶話」には「筑戸 旧は次戸と書す。往古は江戸明神とて江戸城の鎮守たり。江と次と字形相似たる故にいづれの頃よりか誤り来りしなるべし。」とある。祭神は素戔嗚尊であるが、後代に平将門を合祀したという。社殿は戦火で焼けて戦後再建された鉄筋建築である。
東京都牛込専修職業学校 現在は筑土八幡町4-27で、東京都看護協会のビルです。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔
素戔嗚尊 すさのおのみこと。須佐之男命。日本神話の神。天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放された。出雲に降り、八岐やまたの大蛇おろちを退治し、奇稲田姫くしなだひめを救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣あまのむらくものつるぎを天照大神に献じた。

 また、横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

御前坂 新宿区筑土八幡町、八幡社裏手、芥坂の頂上から、さらに南のほう、もと都電の通りへ下る坂。慶安五年のころ、徳川家綱の大納言時代、ここに牛込御殿ができた
芥坂  新宿区筑土八幡町から東五軒町へ下る坂。筑土八幡社の西わきを北へ下る坂

 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」(平成22年)では

内田宗治著「明治大正凸凹地図」実業之日本社、2015年

筑土八幡町
(中略)津久戸八幡の西に続く高台を御殿山という。太田道濯の別館があったという説(江戸往古図説)もあるが、寛永の頃、三代将軍家光の鷹狩時の休息所として仮御殿があったという説もある(南向茶話・江戸図説)。明暦四年(一六五八)安藤対馬守が奉行となってこの山を崩し、その土でこの北の東けんちょう、西五軒町、水道すいどうちょうなどの低地を埋め立てた(町名誌)。
 筑土八幡西に上る坂を御殿坂ごてんざかという。御殿山に上る坂から名付いた。その坂を上りきり、北方の東五軒町に下る坂をごみ坂(芥坂、埃坂)という。ごみ捨て場があったので名付いた(町名誌)。



筑土八幡神社|文化財

文学と神楽坂

 筑土八幡神社の文化財の説明です。神社に入る前の坂を登り終える途中で、鳥居が見えてきます。写真のような石造りの鳥居です。
 鳥居の左側に説明板があります。

文化財愛護シンボルマーク新宿区登録有形文化財 建造物

石造いしぞう鳥居とりい

         所 在 地 新宿区筑土八幡町二ー一
         指定年月日 平成九年三月七日
 石造の明神型みょうじんがた鳥居とりいで、享保十一年(一七二六)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ三七五センチ、幅四七〇センチ、 三五センチ。
 柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸ひたち下館しもだて藩主はんしゅ黒田豊前守ぶぜんのかみ直邦により奉納されたことがわかる。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財

庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
         指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがた)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
   平成九年五月
新宿区教育委員会

明神型 柱や笠木など主要部材に照りや反りが施された鳥居。
庚申塔 庚申信仰でつくった石塔。江戸時代に流行った民間信仰で、庚申の日の夜には、長寿するように徹夜した。細かくは「道ばたの文化財 庚申塔」を参考に。
舟形光背 ふながたこうはい。仏像の光背(仏身からの光明)のうち、船首を上にして舟を縦に立てた形に似ている光背。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

34、珍らしい庚申塔
      (筑土八幡町七)
 筑土八幡境内には珍らしい庚申塔がある。高さ約1.5メートル、巾約70センチの石碑で、碑面にはオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。一猿は立って桃の実をとろうとしているところ、一猿は腰を下ろして桃の実を持っており、アダムとイブとを思わせるものである。下の方には、判読できないが、十名の男女名が刻まれている。
 寛文四年(1664)の銘が刻んであり、縁結びの神とか、交通安全守護神として、信仰が厚かった。
 またこの庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。そのような話が作られたのは、矢来町の正雪地蔵と同じように、袋町や天神町に正雪が住んだことから結びつけたものであろう(52参照)。
 庚申塔の研究家清水長輝は、これは好事家が幕末につくったものではないかといっている。
 その理由として、庚申塔としては余りにも特異であり、猿と桃との結びつきは元祿からと思われること、年号を荒削りの光背に彫ることは、普通はあり得ないこと、などをあげている。この庚申塔は、もと吉良の庭内にあったものを移したというが、廃寺になった白銀町の万昌院にあったものではないかという。
 「参考」新宿郷土研究第一号  路傍の石仏

由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。江戸へ出て塾を開き楠流軍学を講義して門弟は多数。1651年徳川家光の死に際し、幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企図。事前に露見し駿府で自殺。
清水長輝 おそらく清水長輝著「庚申塔の研究」(大日洞、1959年)でしょう。
光背 こうはい。仏身から発する光明を象徴化したもの。後光ごこう 、円光、輪光などともいう。
万昌院 明治40年の 郵便局「東京市牛込区全図」ではまだありました。(下図の赤丸)

万昌院 東亰市牛込區全圖 明治40年1月調査 郵便局

筑土八幡神社|田村虎蔵旧居跡

文学と神楽坂

田村虎蔵

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある小さい小さい神社ですが、しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財としては巨大です。
 ここでは「田村虎蔵先生顕彰碑」について。
 筑土八幡神社の入口で「田村虎蔵先生顕彰碑 入口」とあります。

 門を通り、登りつめると、左手に「田村虎藏先生をたたえる碑」がでてきます。
 この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があり、碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と書いてあります。

顕彰 けんしょう。隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰する。
視学 しがく。旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たった。

 以前は、文部省の唱歌教科書ではどれも漢文調で難しい歌詞が多く、一方、軍歌では乱暴な言い回しが多かったといいます。これに対して、田村虎蔵氏は優しい言葉で、優しい詩を書き、言文一致の唱歌の創始者の一人でした。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では、

32、作曲家田村虎蔵旧居跡
     (筑土八幡町三一)
 大久保通りから左手に行く路地の坂道を上る。坂を上りつめると、右が筑土八幡となるが、その左側は明治、大正時代の小学唱歌の作曲家田村虎蔵が明治39年12月から昭和18年まで住んでいたところで、新宿区の文化財となっている。
 代表的なものは、「金太郎のうた」、「花咲爺」、「大黒様」、「青葉の笛」、「一寸法師」、「浦島太郎」などで、今でも愛唱されているものが多い。
 昭和40年11月、教え子たちは、先生の23回忌を記念して、その徳をしのび、先生がよく散歩していた隣の筑土八幡境内に顕彰碑を建てた。大理石で、みかげ石台の上に据えられ、碑面には「田村庭蔵先生をたたえる碑」というタイトルの下に、「金太郎のうた」の音符と歌詞が刻みこまれ、その下に簡単に氏の略歴を刻んだスマートなものである。
 なお田村氏子孫は、昭和44年10月15日、神楽坂6の21に移転した。

〔参考〕新宿区文化財


坂道 昭和5年の「牛込区全図」。赤は筑土八幡町31(現在は筑土八幡町4の24)。青は登っていく坂道で、坂は「御殿坂」といいます。

 筑土八幡神社から筑土八幡町31番地(現在は4-24)までに行く場合は、筑土八幡神社を右に越えて、西北西に下り、神社から出ると、目の前に「新宿区指定史跡 田村虎蔵旧居跡」があります。とてもとても小さく標示されています。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定史跡
田村たむら虎蔵とらぞうきゅう居跡きょあと
          所 在 地 新宿区筑土八幡町31番地
          指定年月日 昭和60年3月1日
 作曲家田村虎蔵(1873~1943)は、明治39年(1906)から、その生涯をとじるまでの37年間、この地で暮らし、作曲活動を行った。
 虎蔵は、明治時代の言文一致げんぶんいっちの唱歌運動を石原和三郎、巌谷いわや小波さざなみ、芦田恵之助、田辺友三郎らと共に展開し、その普及に尽力した。小学唱歌を主に作曲し、「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「花咲はなさかじじい」など、現在も愛唱されているものが多い。
 旧居は太平洋戦争時の戦災で焼失したが、筑土八幡神社境内には虎蔵の功績をたたえた記念碑がある。
 平成25年3月  新宿区教育委員会

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈③

文学と神楽坂

   白秋と「物理学校裏」

 マスコミにかまけて俗物繁栄時代の文学界では、純粋で高度の文学者の研究は立ち遅れ気味で、北原白秋ほどの卓越たくえつした詩人さえ、もう歿後二十七年というに、まだ完全な年譜も見当らない。いくらか良心的と思われるもっとも新らしい白秋年譜で、例えば牛込山伏町から神楽坂二丁目に移った年代を調べようとすると相変らず明治四十二年十月末となっている。これは昭和十八年六月発行の雑誌「多摩」北原白秋追悼号に、側近の人々によってかなり詳しく書かれた年譜をよく検討せずにそのまま孫引している結果らしい。わたくしは昭和二十六年に『新東京文学散歩』で神楽坂の白秋を書いたとき、石川啄木の日記によって「明治四十一年十月の末近く」と訂正しておいた。それは啄木の四十一年七月二十七日の日記に「北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。」とあり、また同年十月二十九日には「北原君から転居のハガキ」「北原君の新居を訪ふ」として、やがて白秋が「物理学校裏」という詩を作ることになった神楽坂二丁目の家のことが、あたかもその詩の情景を裏書きでもしたように詳しく記録されているからであった。戦後に一応は流布るふした筈の『石川啄木日記』やわたくしの『新東京文学散歩』も、近頃の研究家にはもう活用されていないのであろう。
 わたくしは神楽坂をニ丁目から三丁目へようやく坂の頂上近くまで登り着き、三丁目と二丁目の境に当る左側の横丁に折れた。その三丁目角は戦前しばしば寄ったことのある田原屋というフルーツ・パーラーの跡で、今は山本という薬店になっているが、表口を注意して見ると、まだフルーツ・パーラー時代のモザイク模様のタイル敷きの断片がのこっている。その横丁の小路をそのまま南へ辿ってゆけば旧物理学校東京理科大学裏の崖上に出る。それは戦前の地図も現在の地図も同じである。小さなアパートや小料理店などが両側に並んで、小型自動車一台がやっと通れるほどのトンネルのような小路を、わたくしは北原白秋の「物理学校裹」という詩を切れぎれに思い出しながら歩いた。
「物理学校裏」は大正二年七月刊行の白秋第三詩集『東京景物詩及其他』に収められ、「明治四十三年三月」作となっている。白秋は九州柳河の実家の破産問題などがあって明治四十二年秋にはもう神楽坂を去って本郷動坂に移り、翌四十三年二月には牛込新小川町に移るというあわただしい時代を迎えたが、創作慾はいよいよ(さか)んで、またその頃はパンの会もようやく隆盛期に入っていたから、「物理学校裏」は市街情調詩として新小川町で書きあげた名作の一つに違いないが、内容はあくまでも初夏の神楽坂の強烈な印象である。(この章は以下略)


かまける あることに気を取られて、他のことをなおざりにする。
歿後二十七年 北原氏は昭和17年に死亡し、それから27年も時が経ち、現在は昭和44年です。
41年7月27日の日記 石川啄木の日記から。
 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が――左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。
 いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言つてゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなつてから辞した。途中まで送つて、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。
 北原君は十一円の家賃の家に住つて、老婆を一人雇つてゐる。
 その時は余程頭に余裕が出てゐた。
 神楽坂の中腹のトアル氷屋に入つた。夕日の光で、坂を上る人も下る人も、長い長い影法師を逆まに坂に落して歩いてゐた。ガツカリした気持でそれを眺めてゐて、やがて遣瀬もない“放浪”の悲みを覚えた。そこを出て間もなく、卜ある店の時計を覗くと、恰度午後六時を示してゐた。

同年10月29日 石川啄木の日記から。
 九時頃起きると直ぐ吉井君が来た。吉井君も小説をかくと言つてゐる。一緒に昼飯を食つてると、北原君から転居のハガキ。二時頃、栗原君へ小説の予告文をかいて手紙。それを投函し乍ら二人で平野君を訪ふたが不在。
 吉井君とは別れて帰つた。何となく気が落付かぬ。堀合君へ行つて一円借りて、出かけた。大学の前で横浜工学士に逢つた。北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行つてゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上つた。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒つてるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一日の談話につかれてゐてすぐ床についた

山本 小路の直後は山本漬物店(山本薬局)でした。細かくは3丁目南側最東部で。
横丁の小路 おそらく右の無名の小路です。
トンネルのような小路 おそらく小栗横町でしょう。

本郷動坂 本駒込4丁目と千駄木4丁目の境
新小川町 1982年から単独町名。「丁目」は消えている。詳しくは地図の新小川町
情調 その物のかもし出す雰囲気。心にしみる趣。感覚に伴って起こるさまざまな感情。

 以下の文章はここでは省略。それでも注釈はあります。

この詩 この詩は「物理学校裏」で細かく書いています。
深い 原文は「うすい」
Cadence (詩の)韻律,リズム。(朗読の)抑揚、 (楽章・楽曲の)終止形。楽曲の終わり特有の和声構造。汽車が停まる音でしょうか。
浮彫 平らな面に模様や形が浮き出すように彫り上げた彫刻。あるものがはっきりと見えるようにすること
甲武鉄道 御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿を経由、八王子に至る鉄道を保有・運営した。1889年(明治22年)新宿と立川で開業。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により10月1日に国有化。
飯田町駅 1895年(明治28年)、中央本線を敷設した甲武鉄道の東京側のターミナル駅として開設。
牛込駅 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近。細かくは牛込駅
明星 1900年(明治33年)4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。詩歌を中心とする月刊文芸誌。1908年(明治41年)11月の第100号で廃刊。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。


野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈②鏡花新婚の地

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)②は、泉鏡花の話です。

   鏡花新婚の地

 牛込横寺町の恩師尾崎紅葉の門を出た鏡花は、博文館大橋乙羽の家や、小石川大塚町、牛込南榎町などを転々としたあと、明治36年(1903)3月にはかねて相愛の伊藤すずと結婚して神楽坂町一丁目の裏通りにひそかな新居を持ち、まもなくその年十月には紅葉を喪ったが、明治39年2月に健康を(そこな)って逗子に転地するまで、そこに住んでいた。
 神楽坂は表通りから一歩横丁に入ると、今でも料亭や待合などが多い。昔から山の手の花柳街としで知られていた。鏡花夫人のすずはもと神楽坂で藝名を桃太郎という、まだあまり世馴れせぬ藝者であった。明治32年1月のこと、そこのとある料亭で紅葉を盟主とする硯友社の新年会が催されたとき、紅葉に従って席に連なった鏡花は藝名桃太郎のすずと親しむようになった。それには鏡花の亡母の名もまたすずで、その偶然が二人を強く結ぶ原因だったと、いかにも鏡花らしい説も伝えられている。だがまだ若く文学者としての前途も険しい鏡花が、神楽坂の藝者を身受けしてまで結婚することに反対した紅葉は、二人の仲を認めようとしなかった。恩師の眼をおそながらも、鏡花とすずの逢う瀬はひそかにつづけられ、ようやくすずが前借などを返して苦界から足を洗うことになったとき、二人はついに同棲した。それが神楽坂裏通りの家である。

博文館 1887年、大橋佐平が東京本郷で創業した出版社。高山樗牛を主幹とする「太陽」、巌谷小波編集の「少年世界」、硯友社と結んだ「文芸倶楽部」、田山花袋編集の「文章世界」などの雑誌を刊行。「帝国百科全書」全200巻(1898‐1909)は10年の歳月をかけている。大正から昭和初頭にかけて、新たな出版社も台頭し、出版王国もしだいに退潮していった。
大塚町 小石川区大塚町57番地で、右図です。寺木定芳氏の『人・泉鏡花』(昭和18年、武蔵書房)では「小石川大塚町に居を卜されたのは明治廿九年の五月だつた。有名な火藥庫のすぐ側で、未だ血氣盛んだつたのと、懷工合で致方なかつた爲なので、其の後の先生なら火藥庫ときいたゞけで、おぞ毛をふるつて逃げだしたらうが、其の時は平氣だつた」と書いてあります。

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

人文社「戦前昭和東京散歩」(2004年)から。大塚町57番地は赤丸。

伊藤すず 明治32年1月、硯友社の新年宴会で、泉鏡花(満25歳)は神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず、生年は明治14年9月24日。この年齢は17歳)を初めて知ります。
神楽坂町一丁目 新居は一丁目ではなく、二丁目でした。ここです。
喪う うしなう。大切な人に死なれる。
害う そこなう。がいす。成長をとめる。傷つける。
とある料亭 神楽坂の常盤という料亭です。
惧れ うまくいかないのではないかと,あやぶむこと。もとは「懼れ」の俗字。
逢う瀬 おうせ。会う時。特に、愛し合う男女がひそかに会う機会。
苦界 苦しみの多い世界。人間界。遊女のつらい境遇。公界

 その頃から鏡花に近づいて文学上の門人でもあったという寺木定芳が昭和15年に書いた思い出によると、その家は「坂下の紀の膳寿司の前横町を上から右へ折れて五六間、更に左へたら/\と二三間登って掘井戸のある前で、是は新築の清楚とした明るい二階家だつた」という。それは記憶だけに文字通りに受取るわけにはいかないが、妻を得、恩師紅葉を失い、鏡花の生涯の転機となったその家の、唯一の貴重な記録には違いない。
 わたくしがその文章を頼りに鏡花住居跡をたずね、戦後はじめて神楽坂裏小路を歩いたのは昭和26年である。その頃の12丁目附近はほとんど戦災後の仮普請で、神楽坂では老舗だという紀の膳寿司の跡にはやはり同じ屋号の小さい喫茶店が仮普請で出来ていた。寺木の文章に従ってその前の横丁に入ると、「左へたら/\と二三間登って」と書かれている左側はむしろ低くなっていて、どうやらそれは右の間違いらしかった。しかし、登り口の跡らしいところはあってもその辺りに掘井戸らしいものはもうみとめることが出来なかった。
 それからまた18年後の今日、改めて同じ小路に入ってみると、狭いがまっすぐに走る小路の奥正面には、相変らず昔の物理学校、現在の東京理科大学の校舎の一部が見える。18年前はまだ急場の仮普請がごみごみと立てこんでいたところに、右側には蒲焼が専門らしい小ざっぱりとした和風の料理店が出来ていて、その角から右へ曲る坂道も、狭いながら舗装されている。だが、その附近の人々が鏡花との因縁に関心を抱いているというわけでもない。わたくしは鏡花のためにこの小路を訪れるのも今日が最後かも知れぬと思いながら、まもなく神楽坂下の表通りに戻って行った。
寺木定芳 歯科医。鏡花の門人。鏡花の親睦会九九九会の幹事。生年は明治16年2月16日。没年は昭和47年11月3日。享年は満89歳。
思い出 昭和15年の思い出はわかりませんでした。昭和18年、寺木定芳氏の『人・泉鏡花』では「此の家は、新宅といふにふさはしい、ほんとの新築の二階家だつた。牛込見附から神樂坂へだら/\と五、六間登ると、すぐ左手に細い横町かある。其處を左へ折れて又五六間、表通の坂と平行に右手へ曲つて少し登ると、すぐ左手にあつた、小さいが、誠に瀟洒とした一構で、横手に堀井戸があつて其處からすぐ、臺所や勝手口になつてゐる」と書いてあります。右図は籠谷典子編著「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る。No. 13 新宿区 神楽坂・弁天町コース」(明治書院、2006年)の図ですが、現在はこの建物もなくなり、すべてが東京理科大学に変わりました。

仮普請 かりぶしん。一時しのぎの簡単な建築。
掘井戸 地面を掘って作った井戸
物理学校 東京物理学校。1881年に東京府に設立。私立の物理学校(旧制専門学校)。略称は「物理学校」。現在の東京理科大学の前身。
料理店 志満金です。
因縁 前々からの関係。縁。 由来。来歴。いわれ。

野田宇太郎|文学散歩
 牛込界隈①神楽坂


文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『東京文学散歩 山の手篇下』(昭和53年、文一総合出版)は、昭和44年春から45年秋までの記録で、46年に「改稿東京文学散歩」として刊行し、昭和53年には「その後書き加えた新しい資料も多く、全面的に筆を加えて決定版とした」ものです。

   神楽坂

 大江戸成立以来の歴史的地域として牛込の名は明治以後も東京山の手の区名にのこされたが、現在は新宿区に含まれて、遂に地図からもその文字は消されてしまった。しかし、20年前の敗戦混乱という塀の向うの歴史には牛込の文字がひしめいていて、それを知らねば20年前の歴史さえ理解出来ないのである。
 牛込から江戸城への入口であった牛込見附跡の石垣は富士見二丁目北寄りの一角に厳然と今も残り、史跡となっている。その牛込見附跡を今日の出発点として、わたくしは中央線を(また)牛込橋を渡り、飯田橋駅南口前から外壕を横切る坂を下った。歩道に生きのこる老柳の陰から、その正面に牛込界隈かいわい第一の繁華街神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る。

牛込 東京都新宿区の地域名。旧東京市牛込区。主な地名として神楽坂、市谷、早稲田など。地名の由来は、昔、武蔵野むさしのの牧場があり、多くの牛を飼育したことから。
区名 戦前は牛込区がありました。
富士見二丁目 東京都千代田区の地名。地図は右図に。
富士見二丁目
老柳 新宿区によれば、現在はハナミズキとツツジ(http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000180899.pdf)。柳は枝葉が下がって通行に支障があり、葉が小さく緑陰に乏しいため街路樹には向きません。

 神楽坂! いつもお祭りの神楽の笛や太鼓の遠音が坂の上から聞えてくるような街の名である。その地名もどうやら神楽に因縁があるらしい。「江戸砂子市谷八幡の祭礼に、神輿(しんよ)、牛込門の橋上に留まりて神楽を奏するより名を得たるとなし、江戸志は、穴八幡の祭礼に此の阪にて神楽を奏するより(なづ)くと云ひ、改撰江戸志は、津久戸社田安より今の地に移るの時、神楽を此阪に奏せしよりの名なりと記す。」と明治の『東京案内』には記されている。いずれにしても神社が多く祭礼が多いのは牛込の繁昌はんじょうを物語るものであろう。江戸以前の牛込氏居城址といわれる所も神楽坂を上ってまた左へ、藁店(わらだな)の坂を辿ったその上の袋町の台地一帯である。神楽坂は牛込氏時代から開かれていた坂道だったに違いあるまい。
 ところで現在の神楽坂は、東の牛込見附に近い坂下の外濠に面して警察署のあるあたりが神楽河岸で、東から西へ坂に沿って一丁目から六丁目まで続き、「神楽坂町」が「神楽坂」何丁目になっている。そのうち一丁目から三丁目までは以前と大した変化もないようだが、その次の四丁目は以前の宮比町、五丁目は(さかな)、そして今もまだ都電が走りつづけている旧肴町の十字路をそのまま西へ越したゆるやかな坂道の六丁目は旧通寺町である。またその先の矢来町の新称早稲田通りに矢来町ならぬ神楽坂という地下鉄駅が最近に開かれたので、神楽坂の名だけが勝手に飴棒のように引きのばされた感じである。自国の歴史認識さえ失った為政者共は、町名や地名を糝粉(しんこ)細工(ざいく)と勧違いして、勝手にいじくるのをよろこんでいるのではなかろうか。そんな感じさえする。
神楽 神をまつるために奏する舞楽。民間の神事芸能。
市谷亀岡八幡宮 いちがや かめがおか はちまんぐう。新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称した。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座。明治5年に郷社に。
神輿 みこし。祭礼の時に、神体を安置してかつぐ輿(こし)
江戸志 写本。明和年間に、近藤義休が編集し、文化年間に、瀬名貞雄が増補改正した。
穴八幡 新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。
改撰江戸志 原本はなく、成立年代は不明。文政以前(1818~1830年)にはあったらしい。
津久戸社田安 元和2年(1616年)、それまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。
『東京案内』 正確には東京市市史編纂係編「東京案内」下巻(裳華房、1907年)。インターネットでは国立図書館の「東京案内」の146コマ目。
牛込氏 当主大胡重行は戦国時代の天文年間(1532~55)に南関東に移り、北条氏の家臣となりました。天文24年(1555)、その子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近などを領有。天正十八年(1590)、徳川家康に家臣となり、牛込城は取壊。
居城址 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)では牛込氏の居城址の想像図を出しています。

警察署 昔は警察署がありました。現在の警察署は南山伏町1番15号に。
神楽河岸 昭和56年の地図で緑の部分。

最近に開かれた 地下鉄の神楽坂駅は、1964年(昭和39年)12月に開業。
飴棒 あめんぼう。駄菓子。棒状につくった飴。
糝粉細工 うるち米を洗って乾かし、ひいて粉にした糝粉を蒸して餅状にし、彩色し、鳥、花、人間などの形にした細工物

  早稲田派の忘年会や神楽坂
という句が正岡子規の明治31年俳句未定稿冬の部(『子規全集』巻三)にある。この句は明治時代の神楽坂が当時の東京専門学校後の早稲田大学)のいわゆる早稲田書生の闊歩かっぽする街であったことと、宴会などが盛んに催されるような料亭などが多い街であったことを示している、この句の作られた明治31年10月までは、東京専門学校から明治24年10月創刊以来の第一次「早稲田文学」が発行されていて、坪内逍遙傘下の早稲田派がぼつぼつ文壇に擡頭しつつあった。「早稲田文学」が自然派の拠城として文壇を占拠するまでになり、実際に早稲田派の名が文壇にひろまったのは、島村抱月が逍遙の後を継いで主宰した明治39年1月からの第二次「早稲田文学」時代だが、子規のこの一句によって神楽坂はそれ以前から早くも文学的地名になっていたことが伺われる。
東京専門学校 明治15年(1882年)「東京専門学校」が開設し、10月21日、東京専門学校の開校式。明治35年(1902年)9月、「早稲田大学」の改称を認可。
早稲田大学 明治37年(1904年)、専門学校令に準拠する高等教育機関(旧制専門学校)。大正9年(1920年)、大学令による大学となりました。
第一次「早稲田文学」 明治24年10月20日「早稲田文学」の創刊号を発行。明治26年9月、第49号からは誌面が一新。純粋の文学雑誌に転身。明治31年10月まで第一次「早稲田文学」は156冊を出版。
拠城 活動の足がかりとなる領域。
第二次「早稲田文学」 1905年、島村抱月の牽引によって第二次「早稲田文学」を開始。

 神楽坂が、なつかしい思い出と共に近づいて来る、とわたくしは云った。わたくしが神楽坂や早稲田あたりをはじめて歩いたのは昭和4年春からのことで、その後昭和8、9年頃にわたくしは近くの飯田町で貧乏文学青年の生活をはじめていて、毎夜のように神楽坂を歩き廻った。酒をたしなむのでもなく、また用事があるのでもなかったが、日に一度は必ずそこにゆかないと夜もおちおち眠れぬような気持で、ただわけもなく坂の夜店を冷やかしたり、ときには山田とか相馬屋とかの文房具店で原稿用紙を買ったり、友人と顔を合せては田原屋フルーツ・パーラーとか、白十字紅屋などの喫茶店で語りあうのが常であった。神楽坂は大正12年の大震災で下町方面が焼けた後、一時は銀座あたりの古い暖簾のれんの店が分店を出し、レストランやカフェーなども多くなって牛込というより東京屈指の繁華街であった。牛込銀座などと呼ばれたのもその頃である。わたくしが上京した頃は銀座も既に復興していたが、神楽坂の夜の賑わいなどは銀座の夜に劣るものではなかった。……それが昭和の戦火で幻のように消えてしまったのである。
 戦後24年、思い出のフィルターを透してのぞく神楽坂には、必ずしも戦前ほどのうるおいもたのしい賑わいも感じられないが、復興に成功して繁栄を収り戻した街には違いない。わたくしは一丁目に新装した山田紙店の、わざわざ原稿用紙と大きく書いた看板文字をなつかしい気持で眺め、左側の一丁目とニ丁目の境の小路入口、花屋の角で足をとめた。その小路をはいった右側のあたりが、どうやら泉鏡花の住居跡に当るからである。
飯田町 現在は飯田橋一丁目から三丁目まで。飯田町は飯田橋一丁目と二丁目からできていました。地図はhttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d8/Chiyodacity-townmap1.png
田原屋フルーツ・パーラー これは神楽坂の中腹、三丁目にあった「果物 田原屋」を指すのでしょう。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会から

ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」で故奥田卯吉氏は次のように書いています。

 創業時の田原屋のこと。神楽坂3丁目5番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた。(略)
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。それは格調高いもので、大理石張りのショーウインドーがあり、店内に入ると夏場の高原調の白樺風景で話題になった中庭があり、朱塗りの太鼓橋を渡ると奥が落ち着いたフルーツパーラーになっていた。突き当たりは藤棚のテラスで、その向こうは六本のシュロの木を植えた庭があり、立派な三波石が据えられていた。これが親父の自慢で『千疋屋などどこ吹く風』だった。

暖簾 のれん。屋号などを染め抜いて商店の先に掲げる布。信用・名声などの無形の経済的財産。「暖」の唐音「のう」が変化したもの。

夜のタクシー|海老沢泰久

文学と神楽坂

 海老沢泰久氏の「夜のタクシー」(「青春と読書」、集英社、昭和60年。文藝春秋、平成9年)です。
 氏は国学院大学折口博士記念古代研究所に勤務し、昭和49年、「乱」で小説新潮新人賞。昭和52年、文筆生活に。平成6年、「帰郷」で直木賞を受賞。自動車レースなどのスポーツもので注目を集めました。生年は1950年1月22日、没年は2009年8月13日。

「お客さん」
 運転手が前を向いたままで呼びかけていた。守谷良子が注意を向けると、左手の上を見てくださいと彼はいった。窓のすぐ上のところに読書灯がとりつけられていた。
「はい、それではうしろを見てください」
 振り向くと、シートのうしろに雑誌類がたくさん置いてあった。
「明りをつければ退屈しのぎになりますよ」
「ありがとう」
と彼女はいった。「でもわたし、車の中では本を読めないの。一ページも読まないうちに気分がわるくなるの」
 運転手は柤当の老人だった。彼女は背を伸ばしてタクシーの登録許可証を見てみた。個人タクシーだった。彼女はまた父親を思い出した。
「お客さん。いま通ったところね。右へ登る細い坂があったでしょう」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じやないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裹には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」
「はい、それじゃこんどは市ヶ谷駅ですよ。ちょうど左側です。このあたりは、お堀をはさんで、外側が牛込区、内側が麹町区といったんです。それが昭和二十二年三月十五日の区制改革で、牛込区と四谷区と淀橋区が一緒になって新宿区、麹町区と神田区が一緒になって千代田区になったんです。ということは、はい、中央線の駅名が市ヶ谷というのはおかしいことになりませんか。中央線はお堀の内側、麹町側を走ってるんですから。あ、ごめんなさい。お客さん、年よりのおしゃべり、うるさかありませんか?」
「いいえ」
と彼女はミラーの中の老運転手に笑いかけた。「きいておいて無駄になる話ってありませんもの」

いまの坂 うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)ですが、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂と北西の坂、昭和56年

芦田伸介 あしだしんすけ。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年1月9日。享年は満81歳。
区制改革 昭和22年、以前の35区から23区になりました。千代田区は麹町区と神田区から、中央区は日本橋区と京橋区から、 港区は芝区と麻布区と赤坂区から、新宿区は四谷区と牛込区と淀橋区から、文京区は小石川区と本郷区から、台東区は下谷区と浅草区から、墨田区は本所区と向島区から、江東区は深川区と城東区から、品川区は品川区と荏原区から、大田区は大森区と蒲田区から、北区は滝野川区と王子区から。板橋区は板橋区と練馬区に分離。目黒区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区は不変。

「そうですとも。あたしはね、書くことがうまくないもんですから、こうやって毎日お客さんに東京の話をしてるんですよ。一人でも多くの人に古い東京のことを覚えておいてもらいたいと思ってね。あ、右折車線に気がつかないでどうもすみません。あたしの不注意でした。だいじょうぶです。はい、出ました」
「さて、どこまで話しましたっけ。あ、そうそう、あたしは牛込弁天町の生れでしてね、いまは新宿区弁天町でちゃんと手紙が届きますが、あたしが子供のころはそうはいきませんでしてね。長々とこう書いたもんですよ。いいですか、東京府、東京市、牛込区、牛込弁天町。筆じゃなかなか一行に書けなくてね、そりゃあたいへんなもんでした。新宿といえば、大久保。なんでオオクボというか御存知ですか」
大久保彦左衛門のお屋敷でもあったのかしら?」
「いいえ、とんでもない。新宿なんてのは、ついこのあいだまでは“四谷から枯野へつづく馬糞かな”なんていわれてたぐらいでしてね、お武家が住むようなところじゃありませんでした。新宿がいかに田舎だったかという話をしましょう。あたしが小学生のとき、代々木八幡というところがありましょう。新宿から小田急で五分か十分のところ。あそこの八幡様へ遠足に行ったんですよ。ところがどうなったと思います。家も何もない野っ原でしてね、引率の先生が一日中そこらをさがしまわっても、当の八幡様が見つからなくて、日か暮れてあぶないから帰ろうって、そのまま帰ってきちゃいました。そんなところだったんです。さて、どこまで話しましたか」
「オオクボです」
「ああ、そうでした。あのオオクボは、大の字に荻窪の窪という字を書くんです。もうお分りですね。あのあたりは広大な窪地なんです。本当に退屈じゃありませんか? うるさいっていやがるお客さんもいるもんですから」
「いやじゃないわ」
 彼女はやさしく答えた。さっきからずっと父親のことを考えていたのである。父親もこうしてお客と愚にもつかない話をしているのだろうか。ときにはうるさいといやがられながら。もしそうだとしても誰にも責める権利はない。たった一人の話し相手だった娘に家を出られてしまったのだから。彼女はつまらぬことだと思いながら、老運転手にきいてみた。
「運転手さんは家族の人とご一緒に暮らしてるんですか?」
「いいえ。あたしはもうずっと一人です。息子も娘も、みんな外に出しちゃいましたから」
「さびしくない?」
「さびしいったって、あたしは家も財産も持ってないもんですからね。子供たちにしてやれることといったら、自由にしてやることだけなんですよ」
「おいくつ?」
「あたしですか。七十四です。でも、まだまだはたらけますよ」
「あのね、わるいんだけど」
 彼女は父親の顔を思いだしながらいった。
「行きさきを変えたいんだけど」
 老運転手が心配そうに振り向いた。
「失礼ですが、お客さん。さっきの男のところじゃないでしょうね」
「ちがうわ」
と彼女は笑った。「わたしの父も一人で住んでいて、わたしはもう半年も父と会っていないの」

 これで小説は終わりです。

牛込弁天町 下図を。

なんでオオクボというか 4説があり、①江戸時代、この地に大きな窪地があって大窪村と呼ばれた。②永福寺の山号である大窪山から。③小田原北条氏の家来である太田新六郎寄子衆に大久保という姓の者がいて、この地を領していた。④江戸幕府によって諸組の同心の総取締に大久保氏が任じられた。史料では大久保・諏訪・戸塚一帯を富塚(戸塚)村とされていたものが、ある時期を境に大久保村に置き換わっており、①の地形関係や②を由来とするのは不自然、④も元々の地名が変わるに足るような理由とは考えづらく、③がベスト。江戸時代は農村で、戦後、ロッテの工場や歌舞伎町の労働力として朝鮮系の人々が集まりだした。
四谷から枯野へつづく馬糞かな 正しくは「四ツ谷から馬糞のつづく枯野かな」(青蛾)
代々木八幡 代々木八幡宮のこと。渋谷区代々木5丁目1-1にある。

上田敏|『海潮音』

文学と神楽坂

 この詩は聞いたことはありますか。30代以下の人はまず知らないでしょう。

  やまのあなた
やまのあなたのそらとほ
さいはひむとひとのいふ。
あゝ、われひととめゆきて、
なみださしぐみ、かへりきぬ。
やまのあなたになほとほ
さいはひむとひとのいふ。

 もとはドイツ語からやって来ました。原文は

Über den Bergen,weit zu wandern,
sagen die Leute,wohnt das Glück.
Ach, und ich ging,im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen,weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.

 一応、英語の翻訳もあります。

Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.

 有名な人が翻訳していますが、その人の姓名は知っていますか?

 次も同じ人が訳した有名な文章です。

    秋の歌
秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦の時に、BBCのフランス語放送で流れた詩でもあります。各地のレジスタンスに命令を出す暗号なのです。
 フランス語の原文、英語の翻訳も出しておきます。

   Chanson d’automne
Les sanglots longs
Des violons
De l’automne
Blessent mon coeur
D’une langueur
Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l’heure,
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure

Et je m’en vais
Au vent mauvais
Qui m’emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
Feuille morte.

   Autumn song
The long laments
Of autumn’s
Violins
Wound my heart
With a monotone
Fatigue.

All suffocating
And pale, when
The hour chimes,
I remember
The old days
And I cry

And I go
With the nasty wind
That is carrying me
Here and there
Similar to the
Falling leaf.

 翻訳者は上田びん氏です。夏目漱石氏と比べると、年齢は8歳若く、東大には明治27年、21歳で入学しています。1905年(明治38年)、数え32歳になってから訳詞集『海潮音かいちょうおん』は発行しました。どちらの訳詞も『海潮音』からとってあります。
 では、他の『海潮音』の訳詩を知っている人は? 残念ながら、私はこれ以外の訳詩はなにも知りません。他の人も同じでは?
 ちょうど1987年、俵万智氏の『サラダ記念日』は大ブームになり、中学校の教科書にも取り上げられましたが、1句あげてといわれると、うーんというのと同じです。まあ、これが詩の生き方。『海潮音』は青空文庫で全部が載っています。
 上田敏氏は東京高等師範学校教授、東大講師、京大教授を歴任し、死亡は数え43歳、満41歳で、萎縮腎と尿毒症でした。

上田敏|横寺町

文学と神楽坂

 上田敏氏について知られていない事実があり(氏を知っている人はいる?)、子供時代は矢来町と横寺町に住んでいたのです。
 以下は安田保雄氏の『上田敏研究 増補新版-その生涯と業績』(有精堂、昭和44年)からの引用です。

 明治20年(14歳)4月、父が大蔵省に轉任することになつたので、一家とともに上京し、牛込區矢來町三番地に移り、六月、神田區錦町の私立東京英語學校に入學した。
 明治21年(15歳)、父は43歳で歿し、この年、彼は第一高等中學校の入學試験に合格したが、父の死のため入學を果さず、牛込區横寺町58番地の伯父乙骨太郎乙の邸内に移つた。(中略)
 明冶22年(16歳)9月、第一高等中學校(後の第一高等學校、當時は、五年制であつた)に入學、豫科英三級ニノ組に編入され、乙骨太郎乙の弟子である本郷區西片町十番地田口卯吉方に寄寓するやうになつた。

 まず矢来町三番地です。矢来町の90%は小浜藩酒井家の矢来屋敷でした。三番地はなかでも広く、図の赤い部分です。あまりにも大きく、このどれかに住んでいたのでしょうが、これ以上は不明です。

東京実測図(明治28年)

 次は横寺町58番地です。青い場所で、将来はこの1部分を牛込中央通りが通過し、完全に西半分だけが生き残ります。現在は下の地図での所です。

 以上、住んだのは短期間でしたが、上田敏氏も矢来町や横寺町に住んでいたのです。

矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る
 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。

矢来町 下図を参照

名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。
発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 下図を参照

学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治20年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、24年からほぼ10年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治36年3月、本郷区千駄木町へ居を構えた。
竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて18歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正2年のことであった。
矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮


新潮社

文学と神楽坂

佐藤義亮氏

 佐藤義亮氏は1896年に新声社を創立、しかし失敗。そこで1904年、矢来町71で文芸中心の出版社である新潮社を創立。雑誌は『新潮』。この時、編集長は中村武羅夫氏でした。自然主義文学運動と結んで多くの文学作品や雑誌を出版し、文壇での地位を確立します。

新潮社


 今では新宿区矢来町に広大な不動産があります。

 佐藤義亮氏の『出版おもいで話』から。

 退社後しばらく姿を見せなった正岡芸陽氏が、ひょっくりやって来て、「あなたも近ごろ経済上お困りのようですが、新声社を手離す気持はありませんか」というのである。私は驚いた。これは、私を簡単に都合よく転身させるために、神業としてこの人が出て来たのではないか――とさえ思ったのである。
 話はその場ですんだ。
 誰一人相談もせず、譲渡の条件も一切先方まかせ。ただ「結構です、結構です」と、猫の子一匹の受けわたしよりも手軽に終った。
 明治29年以来の、私の新声社は、こうして幕が閉ざされたのである。(中略)
 いよいよ雑誌を出すことに決めた。
 が、金が一文もない。質草も大抵尽きてしまった。実際当惑したが、思いついたのは、その時の借家は、飯田町赤十字の下のかなり大きな庭のある家で、敷金が二百五十円入れてある。敷金の少ない家ヘ引越して、敷金の差を利用するということだった。牛込区新小川町一丁目のすこぶる家賃のやすい家に大急ぎで越したのはそのためであって、敷金の差約百五十円――、これが私の更生の仕事の全資金だった。
新潮社 かくして明治37年(1904)5月10日、『新潮』第一号は、発行所を新潮社と名づけて世に出たのである。真先きに喜びの言葉を寄せられたのは、中村吉蔵氏だった。

正岡芸陽 まさおかげいよう。明治時代の評論家。『嗚呼売淫国』『人道之戦士 田中正造』『裸体の日本』などを刊行。明治36年「新声」主筆。人道主義の立場から社会批判を行った。生年は明治14年9月5日。没年は大正9年3月24日。享年は満40歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早稲田大学教授。米国やドイツ等を外遊。近代劇の影響を受けて帰国。芸術座に参加。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満64歳。

長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎①

文学と神楽坂

長田幹彦氏

 長田幹彦氏の『文豪の素顔』(要書房、昭和28年)で有島武郎の卷です。長田氏の生まれは明治20年で、北海道に渡ったのは、おそらく明治42年ごろ。2年間位、北海道にいて、帰った後の明治45年に発表した小説「みお」で有名になりました。

 有島武郎氏の生まれは明治11年。北海道で以下の出来事が起こったのは明治42年だとすると、長田幹彦氏は22歳、有島武郎氏は31歳でした。

 ひよいとみると、窓に近いテーブルには、農科大学の制服をきた青年が十人ばかり腰をかけて、しきりにわいわい騒いでゐる。昔の札幌農学校が大学と改称したばつかりの時代のことであるから、学生の風もまるで一高の学生のやうに素朴そのものであつた。
 その正面のところに、先生らしい三十がらみの男が、これはハイカラなの背広をきて、片手で顎へつッかい捧をしながらにこにこ笑つてゐる。どつちかといふと痩せぎすの、短い口鬚のはえた、理性の勝つたやうな、それでゐてちょいと不敵なところもあるやうな顔つきの男であつた。何にしろスッキリした背広の着つきがばかに眼にたつた

札幌農学校 北海道大学の前身。明治5年、東京芝に開拓使仮学校として開校。明治8年、札幌に移転、翌年札幌農学校となる。アメリカのマサチューセッツ農科大学学長ウィリアム・スミス・クラークを教頭として招き、北海道開拓に必要な人材を養成し、内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾ら多くの人材を出した。
 しま。2種以上の色糸を使って織り出した縦や横の筋か、織物。
つっかえ棒 物と物との間に差し挟んで、倒れたり不要に近づいたりしないように支えるための棒
不敵 敵を敵とも思わないこと。大胆でおそれを知らないこと。
着つき 「着付け」と同じか? 「着付け」は着なれていること
目に立つ 人の目を引く。目立つ

      2
 僕は、学生たちのグループが、先生を中心に何か談話会でも開いてゐるのだらうと思つた。カギヤではよくそういつた会合に出ッくはした。僕は別に気にもとめずに、隅の方でぼんやりコーヒーをすすりながら菓子をたべてゐた。とてもストーブが熱つすぎた。
 こつちはたつた一人ッきりである。あんまり所在がないもんだから、ついやつぱり学生たちの話に注意がむく。はじめのうちは何が話題になつてゐるのだか、ちよいとつかめなかつたが、だんだん聞いてゐると、それは米国の詩人ホイットマンのことである。正面に坐つた先生は、眼を生々させながら、英語で詩の一章を、朗吟してきかせる。ずつと暗記してゐるのであらう。抑揚がいかにも自然でよどみがない。発音もアメリカ風である。
 学生たちはだんだん話題をさらはれた形で、制服の両腕をくみ、深刻な顔をして、先生の口のところばかり凝視してゐる。その時の話の内容はむろん記憶してゐないが、かなり調子の高い話しかたであつた。尤もホイットマンであるから、ロマンテイックな、色彩の豊かな感しはしなかつた。われわれは、ベルレーヌや、ユイズマンで熱をあげてゐた時代であるから、そんなアメリカの百姓詩人なんかには少しも関心がなかつた。
 それから偶然にもツルゲネーフゴルキーの話になつて、ロシアの農奴開放問題に及ぶ。先生の口調はますます熱をおぴて、学生たちはワクワクしてゐるらしかつた。能弁ではなかつたが声には幅があつて、魅力があつた。
 一時間ばかりすると、先生はひよいッと立ちあがつて、藪から捧に、
「じや諸君、時間がきたから、今夜はこれで散会しよう。この次の研究題目はマコーレイの『コンペンセーション』、永松君が原書をもつてるからみんなで回読してもらふんだな。尤も図書館にはあるだらうから、誰れか索引を調べてみて下さい。今井君、君がいいだらう。一番マメだから。はゝゝゝゝ。」
 学生たちはどやどやとたちあがつて、みんなポケットに手を突ッ込んで、銅貨や銀貨をかぞへながら会費を払つてゐる。彼らもやつぱり僕同様、三十銭そこいらの割り当てらしかつた。
 学生たちがお互に、がやがやいいながら出ていつてしまふと、先生は何んと思つたか、オーバーへ片手をつッ込みながら、だしぬけにつかつかッと僕のところへやつてきた。例の不敵な眼つきで、
「失礼ですが、あなた長田さんぢやありませんか。」と、声をかける。笑ひもしない。
 僕はあんまり意外だつたので、いささか面食つて、坐つたまま、
「そうです。」と、ぶつきらぼうにこたへる。

カギヤ 長田幹彦氏が少し前の部分でこう書いています。

 三丁目の角のところに、明るい灯のともつたカギヤといふ菓子ホールがある。それは札幌独特の店で、その時分は珍しいショートケーキを焼いて売つてゐた。店の横手がホールになつてゐる。そこでカッフエみたいなサービスもしてゐた。酒は出さなかつたが、焼豆くさい甘いコーヒーを飲ましてくれた。

所在がない 手持ちぶさたである。することがなく退屈だ。
ホイットマン 米国の詩人。Walter Whitman。1819年―1892年。大工を兼業とする農家に生れ、1841年から新聞記者。以後ほぼ20年に及ぶジャーナリスト生活が始まる。奴隷制問題などをめぐって激しい抗争の渦中にあった当時のアメリカ社会の中で、ホイットマンは一貫して民主党進歩派の立場を守った。自由な形式で、強烈な自我意識、民主主義精神、同胞愛、肉体の賛美をうたった。
ベルレーヌ フランスの詩人。Paul Verlaine。1844年―1896年。放蕩無頼の生活の中から不安と憂いを抒情味豊かにうたう。象徴派の始祖。
ユイズマン ジョリス=カルル・ユイスマンス。Joris-Karl Huysmans。1848年―1907年。フランスの19世紀末の作家。イギリスのオスカー・ワイルドとともに、代表的なデカダン派作家。
ツルゲネーフ ツルゲーネフ。Ivan Sergeevich Turgenev。Ива́н Серге́евич Турге́нев。1818年―1883年。ロシアの小説家。社会問題を取り上げる一方、叙情豊かにロシアの田園を描いた。
ゴルキー ゴーリキー。Maksim Gorkiy。Максим Горький。1868年―1936年。ロシア・ソ連の小説家、劇作家、社会活動家。
農奴解放 農民を農奴の地位から解放し、自由民とすること。封建社会から近代社会への転換期に、各国で行われた。
マコーレイ Rose Macaulayでしょうか。不明。
コンペンセーション compensation。償い、賠償、代償

長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎②

有島武郎氏


「あの、僕は、あなたを知つてゐるんですよ。あなた與謝野さんの新詩社のメンバーでせう。『明星』にかいとられたですね。」
と、あんまり好意をもつてゐない、眼の輝きである。
 僕は相手が誰れだか一向に見当がつかないので、もじもじしてゐると、
「僕はね、ここの農大の教師をしてゐるんですが、毎月一回か二回、ここで文学の研究会をやつてゐるんですよ。かう雪が深くなると寂しいもんですからね。」
「さうですか。道理でホイットマンが……」といひかけると、先生は眼だけで笑つて、
「長田さんはどんな詩をお好きなんですか。」
 僕が新詩社のメンバーなら、大がい傾向は知れてゐるだらうに、わざと冷評かすやうにいふのが、かちんときた。今更ベルレーヌなどといふのを業腹なので、僕はいつもの臍曲りを発揮して、
「さあ、僕は口ングフェローがすきですね。」と、そつぽをむくと、先生はこいつといふやうな皮肉な笑ひかたをして、
「たとへば、ロングフェローのどんな詩ですか。」
 僕は言下に、
「僕はルーシー・グレイが一番好きです。アンデルセンの「リットル・マッチ・ガール」みたいに、深い雪のなかでルーシーが凍え死ぬところはいいですね。北海道へきてから、この雪をみて、一層感じが深いです。」
 先生は口鬚をふるはしながら、
「はゝゝゝッ、あなたは、さういふ観方で北海道をみとられるんですか。はゝゝ。」といかにも甘いなといふやうな露骨な軽蔑である。
 僕もその前々年に一度札幌へやつてきて親友の穂積貞三(穂積重遠氏の弟)と二人で、ひと夏農学校の農場で、あの輓馬つきのモウナークローバー刈りをやつた経験があるので、北海道の自然と生産の問題ぐらゐは些少なりと心得てゐた。僕は、しかし、そんなことはおくびにもだしたくなかつた。
 先生は本を包んだ風呂敷包みを小脇にかかへながら、せかせかして、
「長田さん、僕は、実はあなたのゐる家の先隣のT教授の家に仮寓してゐるんですがね。あなたがみえてから、Tの家ぢや非常によろこんでゐるんですよ。あなたが夜おそくまで電燈をつけてかいてをられるでせう。だから物騒でなくて、ほんとにいい。細君なんか安心して寝られるつていつてるんです。あなたは三条界隈じや有名ですよ、はゝゝゝ。」さういひながら先生は帽子をかぶつて、それなり外へ出ていつてしまつた。

明星 明治33(1900)年、新詩社は機関誌「明星」を創刊
冷評かす おそらく「ひやかす」でしょう。「冷やかす」。冷淡な態度で批評すること。
業腹 非常に腹が立つこと。しゃくにさわること
臍曲り へそまがり。ひねくれていて素直でないことや人。偏屈。
ロングフェロー ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー。Henry Wadsworth Longfellow。1807年―1882年。米国の詩人。ヨーロッパ文学をアメリカに紹介し、教授詩人として並々ならぬ名声を確立した。
ルーシー・グレイ Lucy Gray。全文はここに
アンデルセン デンマークの童話作家・小説家・詩人。Hans Christian Andersen。1805年―1875年。小説「即興詩人」「絵のない絵本」、童話「親指姫」「マッチ売りの少女」などで世界的に有名。
リットル・マッチ・ガール マッチ売りの少女。アンデルセンの童話。1848年発表。大みそかの夜、貧しいマッチ売りの少女が寒さに耐えかねてマッチを擦ると、さまざまな美しい幻が現れる。最後に亡き祖母が現れ、少女を天国へと導く。
穂積重遠 ほづみしげとお。民法学者。穂積陳重のぶしげの子供。東京大学教授、貴族院議員、最高裁判所判事を歴任。生年は明治16年4月11日。没年は昭和26年7月29日。享年は満68歳。
輓馬 ばんば。車やそりを引かせる馬。
モウナー mower。草刈り機、芝刈り機
クローバー シロツメクサの別名。右図を。
仮寓 一時的に住むこと。その家。かりずまい
それなり その状態のまま。そのまま。それきり。

 長田氏はむかむかしますが、宿に戻っています。

「ねえ、小林さん。この先隣りにTつて家ありますか。」と、たうとう口をきつた。主人には黙つてゐようと思つてゐたが、ついやつぱりさつきのことがむしやくしや胸につかへてたらしい。
「え、Tつて、大学の先生のお宅でせう。ありますとも。」
「そこから、僕のかりてゐるこの部屋の灯がめえますかね。」
「そりや夜になりやめえるでせう。尢もかう雪が深くなつちやむりですかな。どうしてですか。」
「いや、別に何んでもないんだが……そのTさんの家には、大学の先生たちが合宿でもしてるんですかね。」
「べつに合宿じやないですがね。ひとりやつぱり若い先生が同居してゐますよ。何んでも東京の大金持の息子さんとかで、長いことヨーロッパやアメリカへ留学してた方で、よく出来る先生なんださうですよ。あなたと同じやうにやつぱり文学をなさる方ださうです。」
「何んていふ名前ですか。」
有島武郎。武郎とかいて、タケオとよむんださうです。」
 僕はそんな名の作家や評論家は一人もしらなかつた。一躰どこの馬の骨なんだらう。じゃきつと奴さんも我々同様、やつぱり文学青年の三下奴なんだな、と、僕はすつかり気をよくしてしまつた。文学青年だけがもつあの一種の反撥である。
「その有島つてのは、大学で何を教へてゐるんですか。」
「私もよくは知りませんが、なんでも予科で英語と、倫理を教へてゐるらしいですね。英語がよく読めるんで、小説でも何んでもペラペラなんださうです。」
「さうですか、倫理でも教へさうな、変に思ひあがつた男ですね。実は、さつきカギヤで逢つたんですよ。あなた、ひよつとしたら、私のことをTさんの家の人にでも話したことありませんか。」
 気のいい、小林さんは頭をかいて、てれたやうに笑ひながら、
「あります。実は、こないだあなたの為替をとりに郵便局へいつたでせう。あの時局でT先生の奥さんに出ッくはしちやつたんですよ。さうしたらね、奥さんがね、お宅じやこの頃、夜半の二時までも、三時までも電燈をつけていらつしやいますねつておつしやるから、私もつい口が滑つちやつて、実は東京からこれこれで、文士の方がみえてるんです。夜どほしかきものをなさるんでつて、うつかりしやべつちやつたんですよ。実はこの為替も、原稿料らしいんで……」と、小林さんはむしろ得意さうな顔つきである。

小林 宿の主人です
三下奴 さんしたやっこ。博打打ちの仲間で、最も下位の者。三下。
夜どほし よどおし。夜通し。夜の間ずうっとすること。一晩中。

神楽坂をはさんで|都筑道夫①

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房で「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を勤め、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年には「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報から取っています。

   神楽坂をはさんで
都筑道夫
 色川武大さんとは、深いつきあいはなかった。けれど、共有していることがあって、尊敬のまなざしで、遠くから眺めていた。共有していたのは、場所と時間の記憶である。
 東京の新宿区と文京区のさかい目、矢来の坂の上のほうで、色川さんは生れた。私は坂の下のほうで、生れた年もおなじだった。近くの神楽坂の夜店を歩き、はるばる浅草へ遊びにいって、成長してから、おなじように小説家になった。
 もの書きになったのは、私のほうが早く、はじめて顔をあわせたのは、ある推理小説雑誌の編集部でだった。こんど入った色川君、と編集長から紹介されたのだが、私の担当にはならなかったので、ほとんど話はしなかった。したがって、おなじ台地の上と下とで、育ったことは、知らずじまいだった。
 私は麻雀をしないから、阿佐田哲也の小説とは、縁がなかった。色川武大の小説がではじめて、雑誌に写真がのったときに、名前に聞きおぼえがあり、顔に見おぼえがあって、ひょっとすると、と思った。やがてパーティであって、やはり推理小説雑誌の編集者だった色川さんだ、と確認できた。
 印刷会社のひと部屋を借りた編集室で、はじめて顔をあわせてから、二十年はたっていたろう。作品を読んで、牛込矢来の生れらしい、とわかっていたから、そのことが話題になった。以来、色川さんの名前を見ると、江戸川橋から矢来、矢来から飯田橋へかけて、のぼりおりする坂の家なみが、目に浮かんでくる。大学通りの夜店、赤城神社の縁日、神楽坂の夜店、飯田橋をわたって、靖国神社例大祭の露店までが、ひとつひとつ思い出される。

色川さんは生れた 色川氏の誕生は矢来町です。
坂の下のほう 都筑道夫氏によると、誕生は小石川区関口水道町62番地(現在は文京区関口1丁目)でした。
生れた年 2人とも昭和4年(1929年)でした。
もの書きになった 都筑氏がもの書きになったのは昭和24年、色川氏は昭和30年でした。
ある推理小説雑誌の編集部 桃園書房の『小説倶楽部』誌の編集者でしょう
台地 豊島台地です。
阿佐田哲也 阿佐田氏は色川武大氏が麻雀を書くときのペンネーム。
江戸川橋、矢来、飯田橋、大学通り、赤城神社、神楽坂 地図を参照
靖国神社 1859(明治2)年、戊辰戦争による官軍側の死者を弔うため、明治政府が「東京招魂社しょうこんしゃ」を創建。1879年に「靖国神社」と改称
例大祭 その神社の、毎年定まった日に行う大祭。

 私は往時をなつかしんで、言葉による絵として、思い出を書こうとするだけだが、色川さんは過去の記憶、現在の観察のなかに、自分の生きかた、自分のであった人びとの生きかたを、考えようとしていた。逃げ腰にならずに、小説を書いている。だから、傍観者である私は、尊敬のまなざしを、遠くから投げていたのである。
 色川さんは、『怪しい来客簿』のなかの一篇、「名なしのごんべえ」で、神楽坂の夜店を書いている。昭和六年にでた『露店研究』という、横井弘三の著書を援用して、昭和ひとけたの神楽坂に、どんな夜店がならんでいたかを列挙し、自分のみた昭和十年代の店、ひとの記憶を書いている。
 もっと古い資料としては、尾崎紅葉が『紅白毒饅頭』という明治ニ十四年の作品に、毘沙門びしゃもんさまの縁日の露店を記録している。色川さんは利用していないが、参考のために、品物のいくつかを、解説つきで抄録しよう。
 太白飴、これは白い棒餡だと思う。文字焼、お好み焼の一種で、近年、もんじや、、、、という小児なまりの名で、復活した。椎実しいのみ、これは椎の実を炒ったものだろう。説明不要の丹波ほうずき海ほうずき智恵の智恵の板、これはタングラムで、いまは夜店の商品ではない。化物ばけもの蝋燭ろうそく、青い火がとろとろ燃えて、幽霊の影がうつる花火の一種で、神楽坂の夜店では、昭和十年代にも売っていた。現に私が買っている。玻璃がらすふで、これは森村誠一さんが愛用しているガラスペンにちがいない。私が見たのは、たいがい細いガラス棒とバーナーをつかって、実演販売していた。たけ甘露かんろ、砂糖を煮つめて、ゆるい寒天状に冷やしたものを、細い竹筒につめて、穴をあけて吸う。銀流し、銅製品につけて磨くと、銀のように見える液体だ。早継はやつぎ、割れた陶器をつける接着剤である。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
丹波ほうずき 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほうずき うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
智恵の環 いろいろな形の金属の輪を組み合わせ、解く玩具。
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。
タングラム tangram。正方形の板を三角形や四角形など七つの図形に切り分け、さまざまな形を作って楽しむパズル。

http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの
硝子筆 ガラス製のペン
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。
銀流し 水銀に砥粉とのこを混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継の粉 割れた陶器をつける接着剤
 

神楽坂をはさんで|都筑道夫②

文学と神楽坂

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報➁から取っています。

 この月報の読者は、すでにでた第一巻に、『怪しい来客簿』が入っているから、お読みになっているだろう。だから、昭和ひとけたの夜店明細表は、ここに引用はしない。赤城神社あたりから、夜店がはじまって、大久保通りを越してからは、両側になる、と書いてある。それが、昭和十年代になると、大久保通りから、飯田橋の手前まで、右がわだけになっていたように、私はおぼえている。
 リストのなかの帽子洗いは、私の好きな店だった。古ぼけたパナマ帽ソフト帽が、きれいになるのを、うっとりと眺めていた。そのくせ、洗う手順はわすれているのだから、記憶はおかしなものだ。口絵とあるのは、雑誌の色刷の口絵だけを切りとって、売っていたのだろう。風景画、美人画と分類して、茣蓙の上にならべていた。
 有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしょに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。音譜売りが、舌の裏に入れていた笛というのは、小さなブリ片を、ふたつ折りにしたものだろう。あいだに、薄いかんな屑かなにかを挾んで、ブリキ片の上から、いくえにも糸を巻きつける。それを、舌の裏に入れたのでは、吹きようがない。舌の先にのせて、上顎に押しつけながら、口笛の要領で吹くのである。
 食べあわせの薬売り、というのは、見たことがない。台などはおかずに、立つたまわりに人をあつめて、口上を長ながとのべる薬売り、睡眠術や記憶術の本をうる連中は、じめ、、という。靖国神社の例祭には、いつも二、三人、これが出ていた。明治の大盗、官員小僧のなれのはて、と称して、防犯心得の本をうる老人もいた。稽古着に袴という恰好で、八の字髭をはやして、気合術の本をうる男もいた。
 そうした露天商の紹介につづいて、色川さんは戦後、その人びとがどうなったかを、書こうとする。安田銀行のすじむこうの映画館の焼跡から、南京豆売りのお婆さんが、出てくるのを書く。
 私はその映画館が、神楽坂東宝ではなかろうか、と考える。同時に神楽坂を書いて、牛込館田原屋に筆がおよばないのに、ひそかな不満を持つ。色川さんは戦後、三十年もたってから、当時の無名の人びとを回想して、書こうとする。人びとのその後を、知ろうとする。
 色川さんのえがく神楽坂を読んで、私が尊敬のまなざしをむけるようになったわけは、わかっていただけるだろう。矢来の通りと神楽坂をはさんで、おなじ少年期を送った色川さんを、私はいまも、なつかしく思う。色川さんは、からだが大きく、私は小さい。子どものころ、青瓢箪と呼ばれた虚弱児だった。どうして、大きな色川さんが、先に死んでしまったのだろう。
リストのなかの帽子洗い 『露店研究』では「帽子洗ひ」、『怪しい来客簿』では「帽子洗い」で出ています。
パナマ帽 パナマ草の若葉を細く裂いて編んだひもで作った夏帽子。
ソフト帽 フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
茣蓙 ござ。イグサを編んだ敷物。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
食べあわせの薬売り たとえば「鰻と梅干を同時に食べると消化不良になる」と食材の取り合わせが悪いといい、薬を売る人。
官員小僧 講談師、落語が語る登場人物。懺悔談のあと、高座から盗犯防止のリーフレットを売った。
大じめ 広い場所を占領して、黒山の如き群衆を集めて長口舌を振い、商品を売る人
安田銀行  大久保通りの西側でも5丁目があります。昔の5丁目の安田銀行は大久保通りの西側で、現在の薬のココカラファインです。
映画館の焼跡 鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館は同じ場所を占めていた建物で、現在はおそらく神楽坂5丁目13です。しかし、大久保通りに拡張計画があり、すべては巨大な大久保通りの下になる予定です。
南京豆売り 南京豆とはピーナッツのこと
神楽坂東宝 はい、そうです。

怪しい来客簿①|色川武大

文学と神楽坂

 今、私の机の上に、昭和六年刊露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。研究、とあるが、たとえばその道に有名な『香具師やし奥儀書おうぎしよ』(和田信義氏著)のように、俗にいうテキヤの実態を解剖かいぼう探究するというような内容ではない。
 ひとくちに露店といっても、縁日をめあてにするいわゆるテキヤ的なホーへーと、一定の場所に毎日出る商人あきんど的なヒラビとあり、この本は地味なヒラビの方に焦点しようてんを当てて記述してある。横井氏自身が五反田ごたんだで古本の露店をやっていたらしい。
 横井さんは本来は画家で、中年で露店商人に転業した。そう簡単な転業ではなかったと察しられる。で、職を失い、資本もなく、生きる方向を求めてウロウロしている大勢おおぜいの人たちに、思いきって露店商の世界に飛びこむための案内人を買って出ている。いかにも世界的な経済恐慌きようこうに明け暮れた昭和初年の刊行物らしい。冒頭ぼうとうに近い一節をチラリと引用するが、情が濃くて、ヴィヴィッドで、なかなか読ませる記述ぶりである。

 案ずるより産むかやすいよ、さあ、いらっしゃい、決心がつきましたら、なに、こわいことも、面倒なこともありゃしませんよ。
 さあ、しかしですねえ。露店で一家がべていかれたのは震災前後でした。我々は欲ばってはいけませんよ。今日不況ふきようの場合、一店の夜店から、一家三人の生活、五人の生活ができるものなどと、そんな考えをおこしてはいけません。露店は一人一個の生活ができるくらいと思うているべきです。一家三人、四人と喰べていくなれば、夜店を、二か所三か所に出して、一家の者じゅうで働くとか、昼、どこぞへ勤めるとか、妻君が内職するとか、してでなければ、とても生活してゆけるものではありません(私とてべつに煙草屋たばこやをしています)。

『露店研究』 横井弘三著。出版タイムス社。昭和6年。
香具師 縁日・祭礼など人出の多い所で商売する露天商人。
『香具師奥儀書』 正しくは『香具師奥義書』。大正昭和初の香具師事情紹介書。和田信義著。文芸市場社。1934年。
テキヤ 縁日や盛り場などで品物を売る業者。
ホーへー 縁日を目当てにする露店
ヒラビ 「縁日」に対する「平日」。転じて、一定の場所に毎日出る露店
ヴィヴィッド vivid。生き生きとしたさま。ありありと。

怪しい来客簿②|色川武大

 しかし、この本の不思議なところは別にある。当時の東京のさか上野浅草日本橋にほんばし京橋銀座神保町じんぽうちよう四谷よつやから新宿渋谷しぶや道玄坂どうげんざか牛込うしごめ神楽坂かぐらざか人形町大崎おおさき五反田ごたんだ、などの常設露店が、無類の熱心さで一店残らず記録されていて、かなりのスペースがそのことのためにさかれている。
 たとえば神楽坂のこう
 かみ赤城あかぎ神社のあたりから出発して、右側に、寿司すし、おでん。左側に、古本、八百屋やおや、ミカン、古本、表札、古本、古着、眼鏡めがね、電気器具、靴墨くつずみ、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺めいし刷り、古本、やなぎ行李ごうり。ここで肴町さかなまち電車路(現在の大久保おおくぼ通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏ざつとうした。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆なんきんまめ、寿司、古道具、半衿はんえり、ドラ焼、かなばさみのこぎり唐辛子とうがらし、焼物、足袋たび、文房具、化粧品けしようひん、シャツ、印判、ブラッシュ、石膏細工せつこうざいく、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗ちやわんかばん玩具がんぐ煎餅せんべい、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、くし類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆えんぴつ、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子ぼうし洗い、焼物、植木、植木、寿司。
 左側が、茶碗、金物、眼鏡、まくら下駄げた、柱掛け、ブラッシュ、金物かなもの、アルバム、うでゴム、スリッパ、雑貨、絆創膏ばんそうこう、ガラス、メリヤス、雑貨、モダンペン、がまぐち、雑貨、櫛、口絵、玩具、下駄、古本、台、スリッパ、化粧品、古本、万年筆、金魚、草花、鼻緒はなお、ツツジのえだ、メリヤス、エプロン、草履ぞうり、羽織ひも、バナナ、八百屋、刺繍ししゆう音譜おんぷ屏風びようぶメモリーマッチペーパー、下駄、ミカン、古本、呼鈴よびりん反物たんもの、文房具、紙、片布、ゴム紐、肺量器、古本、八百屋、八百屋、新聞、古本、犬の玩具、櫛、納豆、箱、マーク、ブラッシュ、手品、焼鳥、将棋しようぎ、箱、植木、植木、盆石ぼんせき

 神楽坂は大正の震災で下町の盛り場が焼けたことがきっかけになって、人出が盛るようになった。それから大戦争突入とつにゆうするまで、毎夜、散歩の人波で道路がまった。
 私は牛込の生まれで、したがってこの盛り場は我が家の庭のようなものであった。ただし、前記の昭和六年時の露店の様子は、当然いくらかはちがう。一見してすぐに売り手のイメージが出てくるのと、まったくわからないのとある。私が知っているのは昭和十年代の神楽坂である。

上野、浅草、日本橋、京橋、銀座、神保町、四谷、新宿、牛込神楽坂、人形町 下の地図を参照。

渋谷、道玄坂、大崎五反田 さらに南になります。
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つで、牛込の鎮守として信仰を集めた。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
柳行李 コリヤナギの枝の皮をはいで干したものを麻糸で編んで作った収納用の箱。
肴町 現在の神楽坂5丁目
電車路 大久保通りのこと。路面電車(チンチン電車)が走っていました。
白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ このホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
音譜 ①レコード盤。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜。
メモリー 記憶術でしょうか。
マッチペーパー マッチ箱を収集したもの。この頃マッチペーパー(マッチのラベル)の収集が流行した。
反物 和服・帯・夜具などの一枚分に仕上げた布。
肺量器 肺の換気機能を検査する装置。主に肺活量を測定。
マーク 記号。レッテルでしょうか。
盆石 趣のある自然石を盆の上に配して風景を写したもの
大戦争 第二次世界大戦のこと

怪しい来客簿③|色川武大

文学と神楽坂

 べ合せ、というタンカを使う薬売りが坂の途中の小暗いところに居たが、前記にはのっていない。
うなぎ梅干うめぼしを一緒に喰べたら大変だぞ、胃袋いぶくろ梅酢うめずいろに染まってタラタラとくさっちまう――」
「天ぷらを喰ったあと、西瓜すいかを喰った人がいる。このあいだ、その人は、喰って便所へけこんだのが最後だった。大きな音がして、胃と腸が破裂はれつしちまったね――」
 大仰おおぎようなのであるが風采ふうさいのあがらないあか深そうな三十男がやるのでかえって不思議な迫力が出て、何度きいても子供心にひきつけられた。そういう喰べ合せを羅列られつしていって、食当り予防の本を売ったか、薬を売ったか、今記憶かない。
 坂上の音譜売りのおじさんは、舌の裏に小さなふえを入れて、器用にいろいろなメロディを吹いた。汚れたソフトに眼鏡、まるい鼻からまっ黒い鼻毛がき出ており、メロディにつれてその鼻毛がふるえたりした。
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗しょうきさまのようなひげを生やしたおっさんが、あんこまきを焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。
 もう一人、人気者はバナナのたたであった。この商売、当時は新鮮な感じがあり、そのタンカでいつも黒山のように人を集めていた。この吉本よしもとさんは叩き売りで財を作り、『ジョウトウ屋』という果実店を坂上に開いていたが、半年ほど前に亡くなったらしい。

タンカ 啖呵。香具師やしが品物を売るときの口上
梅酢色 「梅酢」とは「梅の実を塩漬にしてしぼり取った汁。酸味が強く、風味がある」。「梅酢色」は定型ではないが、たとえば右図。
大仰 おおぎょう。大げさ。誇大。
風采が上がらない 見た目や服装がぱっとしない。外見が野暮ったい。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
ソフト 「ソフト帽」の略。フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
鍾馗 しょうき。濃いひげをはやした疫病をふせぐ中国の鬼神。(右図)

食べ合わせ 同時に食べると害があると信じられている食品の組み合わせ。
あんこ巻 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子
半年ほど前に亡くなった この本は昭和49年から昭和52年にかけて『話の特集』で連載しています。

怪しい来客簿④|色川武大

 しかし、私にとって一番印象に残っているのは、毘沙門天の石塀のあたりに立っていた南京豆売りのお婆さんであった。
 南京豆ばかりとに限らない。季節によって、玉蜀黍を焼いたり、焼き栗、浅蜊若布など売物が変わる。しかしいつも一品で、他の露天のように三寸と称する陳列台を持たず、ミカン箱二つに板きれをわたし、そのうえに売物を投げだすようにおくだけ。
 コードを頭上に張り、各店いくらかずつ出しあって、裸電球をつけているが、この婆さんのところだけは電球もない。
 乞食同然のまっくろい顔で、夏も冬も紺のに商店の名入りの前かけ、着たきり雀じゃなかったかと思う。
「キッタないねえ――」と私の母親などはその前を通るたびにいった。
「食べものをあっかっていてあれじゃ、売れやしないよ」
 婆さんの方は恬淡としたもので、似たような意味のことを夜店の仲間が注意すると、きまってこういったという。
「儲けなくてもいいンだよ」
 露店には場所割りがあって、多少の変動はありがちだったが、みすぼらしさでNO・1のくせに、婆さんの毘沙門天前の位置は終始不動だった。そこは通りのほぼ中央部で大変にいい場所だったのである。その理由は誰にきいてもはっきりしない。

南京豆 ピーナッツのこと。
浅蜊 あさり。マルスダレガイ科の二枚貝。淡水の混じる浅海の砂泥地にすむ。
若布 わかめ。褐藻綱コンブ目ワカメ属の海藻。
三寸 昔、露店は6尺3寸の大きさだった。この当時には、露店の広さは横2メートル、縦1メートルだった。
 あわせ。裏をつけて仕立てたきもの。表と裏との布地の間に空気層をつくり保温効果を高め、初夏と初秋に着た。
着たきり雀 着たきりの人
恬淡 てんたん。無欲であっさりしていること。

 突然、戦争が終って、焼けたところと焼けないところが、くっきり差がついた。神楽坂は、見渡すかぎりの焼野原であった。一時期、歩く人もまったくなかった。(中略)
 安田銀行の筋向かいに小さな映画館があり、焼失して映写室の外郭だけになっていたが、その中から、根強く生き残ったきのこのように、南京豆の婆さんが現われたのには驚いた。
 おそらく、誰にもことわらずに入りこんでしまったのだろう。が、そんなことはどうでもよい。私は祝盃しゆくはいをあげたいような気分になった。そうしてまた、生きていたと知ると、なんだかまがまがしいものがそこに居るような、気がかりな気分になる。
 不気味なものというものはやはりこの世にあるのであり、それどころか、人間が本当に生きようとすると、恰好が整わなくなって化け物のようにならざるをえない。大仰であろうか。
 婆さんは、あいかわらずぶあいそな顔つきで、苦行僧のような感じだった。私はその映写室をのぞいたことはないが、フィルムを映写する小さないくつかの穴以外、窓もなく、夏は風呂ぶろのようであり、冬は冷蔵庫のように冷えただろう。婆さんの持物はコンクリートのゆかの上に敷く茣蓙ござと、玉蜀黍時代からの七輪一個だけで、電気もなかった。
 そんなに条件が悪くても、この新居が気に入っていたようで、夜店仲間の近藤さんなどと顔を合わせると、
「遊びにおいでよ――」
 と誘ったという。
 うんざりするほど長年月の時、係累けいるいを作らず、ペットすらなしですごしてきたこの人物が、ときにつぶやく「遊びにおいでよ――」というセリフは、ぜひ一度私もきいておきたかった気がする。
 婆さんはかつぎ屋などして細い生計をたてていたようだが、焼跡が旧に復し、映写室もとりこわされる頃、忽然こつぜんと姿を消した。方面委員の手で養老院に送られ、そこではじめてせきを切ったようにがっくりとおとろえ、まもなく板橋の病院に廻されたという。今度の調べで、やっと彼女のせいだけはわかったが、わざとここには記さない。

安田銀行 現在薬屋さんが入っている神楽坂上交差点の西端。下図を参照。
映画館 神楽坂上交差点の東端に東宝映画館があった。

祝盃 祝いの酒を飲むさかずき。
まがまがしい 禍禍しい。不吉な。悪いことが起こりそうだ。
気がかり どうなるかと不安で、心から離れない様子
苦行僧 悟りを開くために厳しい修行をする人。山野を歩いて修験道を修める行者。
蒸し風呂 四方を密閉し湯気を出して体を温める風呂。
七輪 土製のこんろ。煮るのに炭の単価が七厘ですむことから。
玉蜀黍 とうもろこしのこと
係累 心身を拘束するわずらわしい事柄。面倒を見なければならない親・妻子など。
かつぎ屋 食料を生産地から運んできて売る人。第二次世界大戦中~戦後は特に闇物資を運ぶ人
忽然 にわかに。突然
方面委員 ほうめんいいん。民生委員の前身。生活困窮者救護のため、昭和11年、制度化。
養老院 老人を収容救護する施設。公的機関としては1932年施行の救護法に基づいて設置、65歳以上の生活困窮者を収容救護した。おそらく東京都立養育院(現在は老人総合研究所から東京都健康長寿医療センター)に入院したのでしょう。
堰を切る 川の流れが堰を壊してあふれでる。転じて、おさえられていたものが、こらえきれずにどっとあふれでる。
板橋の病院 都立豊島病院(現在は東京都保健医療公社豊島病院)に転院したのでしょう。
 同じく『怪しい来客簿』の「ふうふう、ふうふう」では宇佐美のお婆さんとして登場します。

大久保通り(筑土八幡町ー神楽坂上ー牛込北町)|拡幅計画

文学と神楽坂

 令和1(2019)年度に、「筑土八幡町」から「神楽坂上」を通り「牛込北町」までの「大久保通り」について、路幅を拡張して終了する予定でした。この予定では、幅員は18メートルだったのが、30メートルになります。つまり、小さな小さな道路だったのを、巨大な巨大な都道に変えていく予定でした。いわばもう1本「外堀通り」ができるわけです。(実際の外堀通りは40メートルあります)。神楽坂も大久保通りの北と南、西と東で、かなり違っている可能性があるわけです。

 ただし、この東京都のWEBは現在なくなっています。以前はありました。(http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2013/11/20nbp500.htm) 予定通りにいかなかったのでしょうね。2020年8月になっても、相当の道路が残っています。

以前あった計画。現在は計画はない。

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると…

都市計画道路

 神楽坂上交差点から飯田橋交差点に行くところでは、店舗がなくなるものもあります。青線が新しい道路ができるはずのことろです。(ただし正確なものはありません。)まず遠くに半分見えるのが消防署です。

 遠くの角にあるフランス料理の「レ・グルモンディーズ FRENCH-DINING」はなくなり、途中の鉄板焼きの「円居-MADOy-神楽坂」やカフェ「ムギマル2」も確実に消滅します。

 神楽坂通りにある「河合陶器店」「山下漆器店」はすでに消滅し、ケーキ店の「チカリシャスニューヨークアマリージュ」もなくなりました。その1軒の東隣り「みんなの買い取りプラザ」はすでに更地になっています。

 また、「神楽坂アインスタワー」では大久保通りの拡幅について明確に出しています。

「ここは牛込、神楽坂」第18号「『寺内』に、超高層マンション計画」

 次は反対側で、牛込北町交差点にいくものです。
「牛込神楽坂駅」のすぐ前に大久保通りがやってきます。しかし、これぐらいです。

 神楽坂上交差点は2008年2月は

2008年02月

 2012年6月では新しい10階建ての「神楽坂5丁目ビル」ができています。はい、これがビルの名前です。

2021年06月

 問題は袖摺坂の反対側です。南蔵院の墓地はなくなりません。しかし、パン屋の「MAISON KAYSER 神楽坂店」はなくなります。

 最も不思議なS型に上がる道路(私の命名では新蛇段々)です。どうなるのでしょうか。全く改修はないことはありません。小規模、あるいは大規模な改修があるはずです。その場合にはどう変貌するのでしょうか。

新蛇段々坂

 この拡幅は数十年前からあったものです。それがようやくできる。感無量です。

弁天坂|箪笥町

文学と神楽坂

 大久保通りに弁天坂という坂があります。例えば、江戸時代の「町方書上」では

同所南蔵院前脇、町内入口小坂弁天坂、是南蔵院地内名高弁才天安置有之、右故里俗唱來り候哉、縁(起)旧記等無御座候

 小さい坂というのもちょっと違うんでは…と考えますが、拡大する前の道路を考えると、まあ、これもありかぁと思います。

 明治20年ごろの拡大図では

 大久保通りの一部に弁天坂があります。また「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

南藏院なんぞうゐんまへより市廛への入口に坂あり、辨天坂べんてんざかといふ、是、南藏院に辨天堂べんてんだうあるに因りて得たる名なり。

市廛 してん。町にある店。店のある町。市街地。

南蔵院。新撰東京名所図会。第42編(1906)

 横井英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)では

新宿区箪笥町、南蔵院前を山伏町のほうへ上る坂。南蔵院には弁天堂がある。

 山伏町は西にありますので、これは正しいと思います。ところが、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

弁天坂(べんてんざか) 芥坂ともいった。箪笥町の南蔵院前旧都電通り、箪笥町四二番南蔵院の道向いを横寺町の南西部に上る小坂。「府内沿革図書」についてみると、この坂は延宝年中から段坂で、現在と形があまり変わらない。(中略)
その境内に弁天堂があったのが、弁天坂のよび名になったものである。その弁天堂は本尊として尊崇されていたが、戦災後は再建されない。

 これでは弁天坂と袖摺坂を混同しています。これでは袖摺坂と全く同じです。

 東京都も弁天坂の標識をつくっています。ちょうど南蔵院の反対側です。内容は…

 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。
 坂上近くの横寺町四十七番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花小栗風葉が玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。

 また「新修新宿区町名誌」(新宿歴史博物館、平成22年)では

南蔵院前脇から町内入り囗への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)。

 以上、現在、弁天坂と考える坂は、大久保通りの一部だと考えています。

『燈火頰杖』加賀町の家|浅見淵

文学と神楽坂

 浅見ふかし随筆集『燈火頰杖』から「加賀町の家」です。浅見淵氏は作家論、作品論、私小説風の作品などを執筆し、評論では「昭和文壇側面史」「昭和の作家たち」、小説では「目醒時計」「手風琴」などを発表しています。
 ここでは昭和39年3月、柳田国男の家について書いています。

 柳田国男氏の年譜を見ると、明治二十四年(一九〇一年)、数え年二十七歳の時、柳田家の養子になっておられるから、それから、昭和二年(一九二七年)、五十三歳の時、当時の砧村(現在の世田谷区成城町)に移居されるまで、足かけ二十七年の長きに亘って、牛込区(現在の新宿区)市ヶ谷加賀町二丁目に住んでおられた訳だ。

砧村 きぬたむら。東京都世田谷区の西部で、狛江市に近い場所
市ヶ谷加賀町二丁目 下図を。

 柳田さんの養父司法官あがりで、柳田さんは前年東京帝大を卒業して農商務省官吏となってから柳田家に入っていられるが、柳田家は当時すでにその加賀町二丁目附近の地所持ちであり家作持ちだったので、そこに邸宅を構えていたからだ。
 ところで、ぽくは偶々この柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作に住んでいたことがあるのだ。明治四十四年から四十五年(七月に大正と改元)に掛けての小学生時代である。当時、ぼくの父は或る水力電気会社の技師をしていて、日光の近くの今市の奥にダムづくりに行っていたが、その留守宅を東京に置いていた。はじめはいま法政大学の敷地になっている当時の麹町区富士見町に住んでいたのだが、急に柳田家の借家へ引越すことになったのだ。
 ぼくの母の妹に当る叔母が、その頃、柳田さんの播州の郷里の村の村長の長男である工学士と結婚したので、その方面から話が出て、柳田家の借家のほうが富士見町の借家より広かったので、引越して行ったようである。
 柳田家の在った通りは、当時の府立四中の黒板塀が長くつづいたはずれの閑静な屋敷町であった。やはり黒塗りの太い四角の門柱が立っていて、これも黒塗りの大きな頑丈な開閉扉が附いていたが、日中はそれが大きく開かれていた。また門柱の脇には耳門くぐりもあった。そして、右の門柱には柳田国男と書いただけの標札が出ていた。門を入ったところはちょっとした植込みがあって、直ぐ玄関の式台になっていた。
 ぼくの家はこの柳田邸と植木垣つづきになっていて、植木垣の裾には竜の髯が植え込まれており、秋になると青玉のような実が一杯になった。式台、内玄関などもあり、なんだか御家人でも住んでいたような家だった。柳田邸と反対側の家との境は竹藪になっていた。七室ばかりあり、南に日当りのよい長い縁側があって、広い庭に臨んでいた。庭には一本大きなの樹が植わっていて、冬など座敷の障子に影を映していたが、他は全部であった。柳田邸の庭とは二重に編まれた竹垣で隔てられていたが、柳田邸の庭もほとんどが楓のように見受けられた。楓の新緑の美しさといったものを、子供ごころに初めて知った。

養父 直平。大審院判事。
司法官 司法権を行使する公務員。普通は裁判官。
農商務省 農林・商工業の行政を司る中央官庁。明治14年、設立。大正14年、農林省と商工省に分離。
家作 かさく。人に貸して収入を得る家。貸し家。
偶々 たまたま。時おり。時たま。たまに。
柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作 上の柳田邸の図で、おそらく右下側の家でしょう”。

今市 今市いまいちで、現在は日光市の一部
法政大学の敷地 図で法政大学があったところ

麹町区富士見町 図では黄色で囲んだ範囲。
播州 ばんしゅう。播磨はりま国の別名。現在は兵庫県西南部にあたる。
柳田家の在った通り 新たに「銀杏坂通り」と命名しました。
府立四中 現在の牛込第三中学校(上図)。
耳門 じもん。耳の穴の口。くぐり戸。「くぐり戸」とはくぐってはいる戸や門。
式台 しきだい。玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分。客を送り迎えする所。
竜の髯 リュウノヒゲ。キジカクシ科ジャノヒゲ属の常緑多年草。よく植え込みに使う

内玄関 家人など内輪の人が日常出入りする玄関。
御家人 ごけにん。江戸時代、将軍直属の家臣団を旗本と御家人に区別した。御家人は一万石以下の家臣。
 かしわ。ブナ目ブナ科の落葉中高木。
 かえで。ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属(Acer)の落葉高木。

 柳田さんは年譜を見ると、その頃、農商務省の役人と宮内省書記官を兼ねていられたようである。この宮内省書記官という関係からだったろうか、よく西洋人が柳田邸を訪問していたのを記憶している。というのは、楓の庭を逍遙しているその談笑の声が屢々聞こえて来たからである。西洋人の女の賑やかな笑い声もし、それに混って、柳田さんらしい流暢な英会話も洩れて来たからだ。
 しかしながら、へいぜいは柳田邸はいつも森閑としていた。物音は全くしなかった。ぼくはこの家で腸チフスに罹り三月ばかり病臥した。そのせいで、ぼくの家では柳田さんの家の電話をしょっちゅう借りていたようだったが、一度だって厭な顔を家の人は見せなかったと、ずっと後になって、母が感心して述懐していたことがある。また、柳田家の女中がよく電話を取次いでくれたが、この女中が躾けが行届いていで、じつに物静かな女中だった。
 加賀町のこの柳田邸へは、田山花袋国木田独歩をはじめ、そもそも竜土会は最初この家で始まっており、当時の新しい文学者たちがかず多く訪問しているばかりでなく、柳田さんの前期から中期にかけての劃期的な民俗学の研究は、ほとんどがこの家で成し遂げられている。その意味において、歴史的な家である。だが、今にして考えてみると、ずいぶん不便なところだったと思う。ぼくの家が住んでいた時分には、飯田橋から新宿に通じている今の都電が通じておらず、電車に乗ろうと思えば、秀英舎(現在の日本印刷)の前を通って左内坂を降り、市ケ谷見附まで出なけれぱならなかった。また、界隈の盛り場だった神楽坂へ行くにも、歩かねばならなかった。
 その代り、静かなことも静かだった。隔世の感がある。物音といえば、納豆売りの声か豆腐屋のチリンチリン、季節によって、竿竹売りや金魚売りの触れ声が聞こえてくるばかりだった。そのほかには、夕方になると、遙か市ケ谷見附のほうの士官学校から、号令の掛け声練習と、物哀しい喇叭の音が聞こえてくるだけである。従って、この屋敷町には店屋が少なく、洗濯屋が一軒と、洋食屋が一軒あるきりだった。病気になると、この洋食屋からオムレツと肉汁を取って貰うのが楽しみになっていた。
 いっぽう、至るところに大きな樹が陰森と茂っていて、夏になると蝉やトンボが多かった。ぼくの家の庭でも、蝉が抜け変るのを屢々瞥見した。柳田邸でも同様であったろう。ところが、戦後、といっても数年前だが、偶々加賀町へ足を踏みいれて吃驚してしまった。五十年前の閑静な屋敷町は、すっかりゴミゴミした印刷関係の会社町になりさがってしまっていたのである。昔の面影など、もうどこにも残っていなかった。どっしり落着いていた柳田邸も影も形もなくなって、その跡は或る女子短大の洋風の寮に変り果てていた。しかも、車の往来がはげしく、うっかり佇んでさえもおられなくなっていた。
(「定本柳田国男集月報」昭和三十九年三月)

宮内省 1885年、皇室関係の事務を取扱う機構。1947年,新憲法発布とともに宮内府、49年に宮内庁と改称。
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。散歩。
屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われるさま。たびたび。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている様子
竜土会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩らが寄って文学談を交わしたのが始まり。柳田国男氏の年譜では1905年7月から、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となったという。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
都電 チンチン電車です。都営地下鉄は押上と人形町間の1路線しかなく、営団地下鉄はまだ全くありません。定期的なバスもなく、「都電」(つまり、チンチン電車)だけがありました。系統13の都電は「山伏町」や「牛込柳町」と「新宿駅」を結んでいました。

電車 これもチンチン電車を指しています
秀英舎 明治9年(1876年)9月、今日の大日本印刷の前身、秀英舎を設立。世界でも1位の印刷会社。
左内坂 さないざか。JR市ヶ谷駅の市谷見附交差点の北から北西に入り、防衛庁の裏側を市谷加賀町方向に向かう坂。
市ケ谷見附 これもチンチン電車の停留場です。
竿竹 竿にして使う竹。たけざお。洗濯した衣服を乾す目的で使う。
士官学佼 現在は防衛省
喇叭 ラッパ。特に無弁のナチュラルトランペットのこと
陰森 樹木が茂り日をさえぎって暗い。うすぐらく、静かでさびしい様子。
瞥見 ちらっと見ること。短い時間でざっと見ること。
或る女子短大 大妻女子大学加賀寮です。
佇む たたずむ。彳む。しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる。

銀杏坂と銀杏坂通り|薬王寺町~加賀町(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

銀杏坂(いちょうざか)
 市谷薬王寺町の中央部の七二と七五番の間を、市谷加賀町二丁目のほうから西へ下る坂で、坂下は通称薬王寺通りである。昔この坂の北側にあった久貝因幡守の邸内には銀杏稲荷とよばれた稲荷社があり、御神木の銀杏の大木があったのが坂名のおこりだと伝えられている。

 横関英一著の『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年)では

ちょう坂  新宿区市谷薬王寺町の中央七二、七五番の間を東から西に下る坂。昔、坂の北側に久貝因幡守の屋敷があって、この邸中に銀杏稲荷の社があった

『新宿区町名誌』(新宿区教育委員会、昭和51年)で

◎市谷薬王寺町
 町の東北を、バス通りに向って下る坂を銀杏いちょうといった。その横町北側に久貝くがい因幡いなばのかみの屋敷があり、その屋敷内に銀杏稲荷があったからである。

 また『新修 新宿区町名誌』(新宿歴史博物館、平成22年)では

 外苑東通りから市谷薬王寺前町の北側を東に入る坂を銀杏坂という。坂の北側にある久貝甚三郎屋敷内に古くから銀杏稲荷という社があることに由来する。

 2009年、新宿区が道路通称名を公募、67路線で決定。「銀杏坂通り」もその1つで、標柱をつくっています。

 現在、茶色の「銀杏坂」で2つ、青色の「銀杏坂通り」は3つ、合計5つの標柱があります。

 当然ですが、「銀杏坂」のほうが「銀杏坂通り」よりも短いことがよくわかります。また銀杏坂は、坂として比べると、神楽坂よりも、また焼餅坂よりも、緩やかになっています。

 茶色の標柱は

この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)。

 青色の標柱は

銀杏坂通り
Ichozaka-dori
坂の北側にあった久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があった。

360°カメラでは


誓閑寺|喜久井町

文学と神楽坂

 新宿区喜久井町の誓閑寺せいかんじの文化財としては2つあります。

文化財愛護シンボルマーク

(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 工芸品
誓閑寺(せいかんじ梵鐘(ぼんしょう)

      所 在 地  新宿区喜久井町六十一番地
      指定年月日  昭和五十九年十二月七日
 天和二年(1682)に近在の住民の寄進により鋳造された区内最古の梵鐘である。
 総高一三八センチ、口径七九センチ、周囲二三六センチで、形状は比較的古い様式を残している。
 (いけ)()(銘文等を刻む空間)は四つに区画され、全面に銘文が刻まれており、特に銘文中の「武州荏原(えばら)(ぐん)」の記載は、当時すでに豊島郡になっていたこのあたりが、古い郡名で呼ばれていた例を示す史料となっている。
 なお、鐘楼は昭和四十九年四月に、千葉県木更津市の選擇寺より移築されたものである。
   平成八年三月
東京都新宿区教育委員会

 実際、鐘楼の下には

浄土宗 開宗八百年記念 昭和四十九年四月

と書いてあります。

文化財愛護シンボルマーク

(文化財愛護シンボルマーク)半跏像
新宿区登録有形文化財 彫刻
銅造(どうぞう地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)半跏(はんか)(ぞう)

      所 在 地 新宿区喜久井町六一
      指定年月日 平成一三年二月一四日
 文政元年(一八一六)誓閑寺第十世住職進誉求道の時に鋳造された像で、神田の鋳物師太田駿河守藤原政義の作である。
 総高一三六センチメートル。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ半跏像で肉身部には鍍金が施されている。
 台座正面には「百万遍議中」と刻まれており、「市ヶ谷大奥中」以下一八〇名あまりの人名が刻まれている。「市ヶ谷大奥中」とは市ヶ谷に上屋敷を構えていた尾張徳川家に関連するものと考えている。江戸時代、この近くには尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)もあり、誓閑寺には同家の奥女中らが葬られるなど関わりが深かった。
    平成一三年九月
東京都新宿区教育委員会

龍膽と撫子|泉鏡花

文学と神楽坂

「龍膽と撫子」は大正11年から12年にかけて、泉鏡花氏が書いた未完の小説です。龍膽は「リンドウ」、撫子は「ナデシコ」と読み、どちらも花の名前です。この1部分は、最初は簡単に見えて、でも後半に行くと、なんだかよくわかりません。
 問題は(なべ)と書いた小料理屋です。その名前と場所は何なのでしょうか。

 神樂坂かぐらざかまちは、まつたひらけた、いまあのむねたかそろへた表通おもてどほりの家並やなみては、薄暗うすぐらのきに、はまぐりかたちを、江戸繪えどゑのはじめごろのやうなしよくいろどつて、(なべ)としたにかいた小料理これうりがあつたものだとはたれおもふまい。またあつてもひとにはかなからう。もつと横町よこちやう裏道うらみちことふのではない。現今げんこんカフエーにかはつたが以前いぜん毘沙門天びしやもんてんならびところに一けんあつた。時分じぶんは、土間どまはもとよりだが、二階にかいへもきやくとほした。入込いりこみおもて二階にかいと、べつ一間ひとまめうに一だんトンとひくくなつて、敷居しきゐまたいで六でふりる。すわると、うへへやたゝみよりは身體からだひくくなる部屋へやがあつた。島田しまだつた、あかぬけのしたねえさんが、唐棧たうざんがらものに繻子くろじゆすえり晝夜帶ちうやおび前垂まへだれがけで、きちんとして、さけやすくても、上手じやうずしやくをした。
 とほりすがりに、光景くわうけいおもふと、なんだか、まぼろしくも屋造やづくりに、そらごとうつしたもののやうながする。……たゞ七八ねん間隔てだたりぎないが、たちまちアスパラガスのみどりかげに、長方形ちやうはうけいしろいしたく順々じゆん/\に、かすみ水打みづうつたやうにならべたおもむきかはつたのである。
 就中なかんづくいちじるしいのは、……うしろが岩組いはぐみがけづくりつて、一面いちめん硝子戸がらすどしきつたおくところの、天井てんじやうが一だんたかい――(すなは以前いぜんだんひくかつた裏二階うらにかい小部屋こべやしたそれあたる)――其頃そのころだと、わん茶碗ちやわん板頭いたがしらに、お手輕でがる料理れうり値段ねだんづけを張出はりだしたかべわきの床柱とこばしらに、葱鮪ねぎまねぎ失禮しつれいしたかとおも水仙すゐせん竹筒たけづつかつたのを……こゝでは、硝子ビイドロなか西洋豌豆花スウィートピが、給仕きふじをんなの、種々さま/\なキスしたあとのくちびるのやうないろされて、さて、その給仕きふじは、しろのエプロンで明滅めいめつかつ往来わうらいする。
 こゝにおいて、蛤鍋はまなべ陽炎かげろふ眞中まんなかに、島田しまだ唐棧柄たうざんがらをんなおもふと、あたかもそれが安價あんかなる反魂香はんごんかう現象げんしやうて、一種いつしゆ錯覺さくかくかんぜざるをない。……それはまだい。もつと近代きんだいひとたちは、蛤鍋はまなべ風情ふぜいを、ねずみ嫁入よめいりすひものをるやうに、あかる天井てんじやうあふであらう。
[現代語訳]神楽坂の町は、全く開けた。表通りの家並みはどれも高くなった。薄暗いひさしにぶら下がった蛤の絵があり、錦絵の初めの頃に見た3色に彩って、下に(なべ)と書いた小料理店があったとは、誰も思わないだろう。また、我々の目に留まることもないだろう。もっとも横丁や裏道のことをいっているのではない。今はカフェーにかわっているが、以前は毘沙門天と並んで、そんな一軒があったのだ。そのころは、土間はもちろん、2階にも、客ははいっていた。通りに接した2階は人が多いが、ほかにひと間、敷居をまたいで、妙に一段だけ低くなって、大きさは六畳、座ると、上の部屋から見えるが、畳よりも体が低くなる、そんな部屋だった。島田髷を結い、洗練した女性が働いて、唐棧柄の着物、黒繻子の襟、表と裏に別の生地を使った帯、前がけをしていて、きちんとして、酒は安いが、上手にお酌をした。
 通りすがりに、この光景を思うと、なんだか、まぼろしの雲の中に家屋があり、絵空事を映したもののような気がする。……ただ七八年の間隔に過ぎないが、これがたちまち、アスパラガスの緑のかげがあり、長方形の白い石のテーブルが順々に、霞に水をまくように並べたという趣に変わったのである。
 なかでも、著しいのは、……この店舗は、後に岩石を配置し、床下を支え、硝子戸で仕切り、奥のところには天井が一段高くなり――(すなわち以前に一段低かった裏二階の小部屋の下にあたる)――そのころには、壁わきの床柱で、椀、茶碗を先頭に、お手軽料理の値段づけを張出して、葱鮪の葱を失礼するかと思う水仙が竹筒に生けてあった……ここでは、ガラスの中にスウィートピーがはいり、給仕女は、種々なキスしたあとの唇のような色を配置し、さて、その給仕は、白のエプロンをひらめかし、あちらこちらの場所で出現している。
 ここで、蛤鍋の陽炎は真ん中にあり、島田髷で唐棧柄の女性を思うと、あたかも死者の姿があらわる安価な香の現象にも似て、一種の錯覚を感ずるをえない。……しかし、これではまだいい。もつと近代的な人たちは、その蛤鍋の風情を見て、鼠の嫁入りの絵がはいった吸いものを見るように、明るい天井を仰ぐであろう。

 と、最後は何だかわかりません。

江戸繪 一枚刷りの極彩色の江戸役者絵。浮世絵の前身になった。2、3色刷りからしだいに多彩となり、錦絵として人気を博した。
三色 寛保末頃、紅色と緑色(藍色、黄色)の2~3色を印刷する方法が開発。紅摺べにずりといわれたそうです。これでしょう。
小料理 大正3~4年に、毘沙門天のならびに、小料理店があり、のちにカフェにかわったというのですが、これは、どこで、何なのでしょうか。神楽坂にカフェは多くはなく、毘沙門天のならびで、近くにあるのは「白十字」だけです。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では、この「白十字」ができる以前には「明治食堂」があったといいます。「肴町よもやま話③」では…

相川さん その大田の半襟屋の隣が荒物屋さんだったね。それで、その隣が米屋さんのあとへ「明治食堂」っていう食堂が来た。その食堂のある時分に明治製菓が借りて、そのあとへ「白十字」が来た。白十字は戦争の最中にあったんだよ。

 この「明治食堂」が(なべ)と書いた小料理店だったのでしょうか。なお、「明治食堂」は現在の「椿屋珈琲店」になりました。


現今 いま。現在
土間 建築内部は床を張らず、地面のままか、三和土たたき、石、煉瓦などにしたところ。
ならび 並ぶこと。並んでいるもの。列。
入込 差別なく入りまじること。人が入りまじって集まっていること。雑踏。
表2階 玄関に近いほう、目立つ方、前面・正面になる方の2階。
島田 島田まげのこと。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
あかぬけのした 洗練されている
唐桟 紺地に浅葱あさぎ・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。

繻子 しゅす。繻子織りにした織物。縦糸と横糸とが交差する点が連続することなく、縦糸か横糸だけが表に現れるような織り方。

昼夜帯 表地と裏地が異なるものを合わせて仕立てた女帯。もとは黒繻子に白の裏を付け、昼夜に見立てたもの。
前垂がけ まえだれがけ。帯のあたりから体の前面に下げて、衣服の汚れを防ぐ布。
屋造 家の構え。家屋の構造。
絵そら事 絵空事。大げさで現実にはあり得ないこと。
 机。テーブル。
水打つ 街路や路地などにたつちりほこりをしずめるために水をまくこと
 風情のある様子。あじわい。
かはつた 「かわった」でしょう。
就中 その中でも。とりわけ。
岩組 いわぐみ。庭園の岩石の配置。立て石。石立て。岩が入り組んでいる所。
崖づくり 崖や池などの上に建物を長い柱と貫で固定し、床下を支える建築方法。
画る かくする。線を引く。物事をはっきり分ける。区分する。
裏二階 表面と反対の面の2階。
板頭 「板頭」は、江戸時代、岡場所で最も多額の揚げ代をかせぐ遊女。「板元」は「料理場」「料理人」。「最初の料理]の意味?
床柱 床の間の片方の、装飾的な柱。
葱鮪 ねぎとまぐろを煮た料理。鍋料理と汁物があるが、鍋をいうことが多い。
硝子 ポルトガル語のvidroから。ガラスのこと。
西洋豌豆花 香豌豆。スイートピー Sweet pea のこと。
插す 刺す。細長い物を他の物の間に入れる。
明滅 あかりがついたり消えたりすること
往来 行ったり来たりすること。行き来。
蛤鍋 蛤のむき身と焼豆腐・ねぎなどを味噌や塩で味をつけ、煮ながら食べる鍋料理。はまなべ。
陽炎 強い日射で地面が熱せられるか、焚き火などを通して遠くを見ると、その物体が細かくゆれたり形がゆがんで見える現象。揺らめき。
 夫のある女性。女性。婦人。
反魂香 反魂香。はんこんこう。はんごんこう。焚くとその煙の中に死んだ者の姿が現れるという伝説上の香。
 裏。逆。内部。心の中。腹。
鼠の嫁入り ネズミの夫婦が秘蔵の娘に天下一の婿をとろうとして、次々に申し込むが、結局は同じ仲間のネズミを選ぶ。まず、太陽のところに行くと、太陽は雲に遮られると光が届かないので雲のほうが偉いという。そこで雲に相談すると、雲は風には吹き飛ばされてしまうので風のほうが偉いという。次に風に頼むと、いくら吹いても遮る壁にはかなわないという。そこで壁を訪ねると、壁をかじって穴をあけてしまうネズミがいちばん偉いといい、結局は同じ仲間のネズミから婿をとる。あれこれ迷っても平凡なところに落ち着く。
仰ぐ 上を向いて高い所を見る。見上げる。

骨|有島武郎①

文学と神楽坂

 有島武郎氏は小説家、評論家で、父が横浜税関長。学習院を経て札幌農学校に入り、ハバフォード大学大学院、ハーバード大学に学び、欧州巡歴を経て、帰国。明治43年「白樺」にくわわり、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表しました。

 この『骨』は大正12年4月、個人雑誌『泉』に発表しました。同年6月9日、氏は軽井沢で波多野秋子氏と心中。

 この小説で、「私」は有島氏自身だとすると46歳。「おんつぁん」は社会主義運動を行った30代前半で、モデルの本名は田所篤三郎。「勃凸」は20歳前後で問題が多い青年で、モデルは十文字仁。神楽坂で、この青年の送別会で、青年は、母親の骨をどこかになくしてしまいます。社会の異分子が奏でる哀歌です。

 小説の出だしからスタートです。

 たうとう勃凸は四年を終へない中に中学を退学した。退学させられた。学校といふものが彼にはさつぱり理解出来なかつたのだ。教室の中では飛行機を操縦するまねや、活動写真の人殺しのまねばかりしてゐた。勃凸にはそんなことが、興味といへば唯一の興味だつたのだ。
 どこにも行かずに家の中でごろ/\してゐる中におやぢとの不和が無性に嵩じて、碌でもない口喧嘩から、おやぢにしたゝか打ちのめされた揚句あげく、みぞれの降りしきる往来に塵のやうに掃き出されてしまつた。勃凸は退屈を持てあますやうな風付で、濡れたまゝぞべ/\とその友達の下宿にころがり込んだ。
 安菓子を滅茶々々に腹の中につめ込んだり、飲めもしない酒をやけらしくあふつて、水のしたゝるやうにぎすましたジヤック・ナイフをあてもなく振り廻したりして、することもなく夜更しをするのが、彼に取つてはせめてもの自由だつた。
 その中に勃凸は妙なことに興味を持ち出した。廊下一つ隔てた向ひの部屋に、これもくすぶり込んでゐるらしい一人の客が、十二時近くなると毎晩下から沢庵漬を取りよせて酒を飲むのだつたが、いかにも歯切れのよささうなばり/\といふ音と、生ぬるいらしい酒をずるつと啜り込む音とが堪らなく気持がよかつたのだ。胡坐をかいたまゝ、勃凸は鼠の眼のやうな可愛らしい眼で、強度の近眼鏡越しに友達の顔を見詰めながら、向ひの部屋の物音に聞き耳を立てた。
「あれ、今沢庵を喰つたあ。をつかしい奴だなあ……ほれ、今酒を飲んだべ」
 その沢庵漬で酒を飲むのが、あとで勃凸と腐れ縁を結ぶやうになつた「おんつぁん」だつた。
 いつとはなく二人は帳場で顔を見合すやうになつた。勃凸はおんつぁんを流動体のやうに感じた。勃凸には三十そこ/\のおんつぁんが生れる前からの父親のやうに思はれたのだつた。而してどつちから引き寄せるともなく勃凸はおんつぁんの部屋に入りびたるやうになつた。

勃凸 「ぼつとつ」と読むのでしょう。モデルは十文字仁。
ぞべぞべ 緊張感がなく だらしない。ぞべらぞべら。
くすぶる 家や田舎に引きこもって、目立った活動もしないで過ごす。世にうもれている状態で暮らす。
胡坐 あぐら。両ひざを左右に開き、両足首を組み合わせて座る座り方。
をつかしい 現在語では「おっかしい」でしょう。おかしい。思わず笑いたくなる。
おんつぁん 田所篤三郎がモデル。有島氏の出資で古書店を経営。

「おんつぁん」は小さな貸本屋を開き、一般の読者には不向きな書物も貸していました。警察の捜索を受け、「おんつぁん」たちは四日間、留置場に拘留。証拠不十分で放免になりますが、札幌での営業は停止。「おんつぁん」は東京にやって来きます。跡を追うように「勃凸」もやってきます。

 或る日、おんつぁんが来たと取り次がれたので、私は例の書斎に通すやうに云つておいて、暫くしてから行つて見ると、おんつぁんではない生若い青年だつた。背丈は尋常だが肩幅の狭い、骨細な体に何所か締りのぬけた着物の着かたをして、椅子にもかけかねる程気兼きがねをしながら、おんつぁんからの用事をいひ終ると、
「ぢや帰るから」
 といつて、止めるのも聴かずにどん/\帰つて行つてしまつた。私はすぐその男だなと思つたが、互に名乗り合ふこともしなかつた。
 二三日するとおんつぁんが来て、何か紛失物はなかつたかと聞くのだつた。あすこに行つたら記念に屹度何かくすねて来る積りだつたが、何んだか気がさして、その気になれなかつたと云つてはゐたが、あいつのことだから何が何んだか分らないといふのだ。然し勿論何にも無くなつてはゐなかつた。
めんこいとっつあんだ。額と手とがまるっでめんこくて俺らもう少しで舐めるところだつた。ありやとっつぁんぼっちやんだなあ」
 ともいつたさうだ。私は笑つた。而して私がとっつぁんぼっちやんなら、あの男はぼっちやんとっちやんだといつた。而してそれから私達の間でその男のことを勃凸、私のことを凸勃といふやうになつたのだ。だから勃凸とは札幌時代からの彼の異名ではない。
 その後勃凸と私との交渉はさして濃くなつて行くやうなこともなく、唯おんつぁんを通じて、彼が如何に女に愛着されるか、如何に放漫であるか、いざとなれば如何に抜け目のない強烈さを発揮するかといふことなどを聞かされるだけだつたが、今年になつて、突然勃凸と接近する機会が持ち上つた。

生若い青年 勃凸でしょう
めんこい かわいらしい。小さい。

 それは急におんつぁんが九州に旅立ち、その旅先きから又世界のどのはづれに行くかも知れないやうな事件が起つたからだ。勃凸の買つて来た赤皮の靴が法外に大き過ぎると冗談めいた口小言をいひながらも、おんつぁんはさすがに何処か緊張してゐた。私達は身にしみ通る夜風に顔をしかめながら、八時の夜行に間に合ふやうにと東京駅に急いだ。そこには先着の勃凸が、ハンティングを眉深かにおろし、トンビを高く立てゝ私達を待ち受けてゐた。おんつぁんは始終あたりに眼をくばらなければならないやうな境涯にゐたのだ。
 三等車は込み合つてゐたけれども、先に乗りこんで座席を占めてゐた勃凸の機転で、おんつぁんはやうやく窓に近いところに坐ることが出来た。おんつぁんはいつものやうに笑つて勃凸と話した。私は少し遠ざかつてゐた。勃凸がを拇指の根のところで拭き取つてゐるのがあやにくに見えた。おんつぁんの顔には油汗のやうなものが浮いて、見るも痛ましい程青白くなつてゐた。飽きも飽かれもしない妻と子とを残して、何んといつても住心地のいゝ日本から、どんな窮乏と危険とが待ち受けてゐるかも知れないいづこかに、盲者のやうに自分を投げ出して行かうとする。行かねばならないおんつぁんを、親身に送るものは、不良青年の極印を押された勃凸が一人ゐるばかりなのだ。こんな旅人とこんな見送り人とは、東京駅の長い歩廊にも恐らく又とはゐまい。私は思はずも感傷的になつてしまつた。而してその下らない感情を追ひ払ふためにセメントの床の上をこつ/\と寒さに首を縮めながら歩きまはつた。
  勃凸との話が途切れるとおんつぁんはぐつたりして客車の天井を眺めてゐた。勃凸はハンティングとトンビの襟との間にすつかり顔を隠して石のやうに突つ立つてゐた。
 長い事々しい警鈴の音、それは勃凸の胸をゑぐつたらう。列車は旅客を満載して闇の中へと動き出した。私達は他人同士のやうに知らん顔をし合つて別れた。
 勃凸と私と而してもう一人の仲間なるIは黙つたまゝ高い石造の建築物のはざまを歩いた。二人は私の行く方へと従つて来た。日比谷の停留場に来て、私は鳥料理の大きな店へと押し上つた。三人が通されたのはむさ苦しい六畳だつた。何しろ土曜日の晩だから、宴会客で店中が湧くやうだつたのだ。
 驚いたのは、暗闇から明るい電灯の下に現れ出た勃凸の姿だつた。私の心には歩廊の陰惨な光景がまだうろついてゐたのに、彼の顔は無恥な位晴れ/″\してゐた。
「たまげたなあ。とつても素晴らしいところだなあ」

ハンティング ハンチング帽。19世紀半ばからイギリスで用いた狩猟用の帽子
 ひさし。帽子で額の上に突き出た部分。
トンビ 外套の一種。袖が無く、ケープの背中部分がコートの背中部分と一体化して、スコットランド北部インバネス地方で着用され、インバネスコートとして広まった。日本では明治初年に輸入、和服の上に着用しやすい形に考案されて、「とんび」「二重まわし」とよんだ。
 えり。くびに当たる衣服の部分
 なみだ
あやにく 予期に反して思いどおりにならない。不本意。折あしく不都合
極印 ごくいん。永久に残るしるし。いつまでも消えない証拠。刻印。
歩廊 プラットホームのこと。2列の柱の間につくった通路。回廊

うを徳開店披露|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花が大正九年三月に書いた「うを徳」の開店披露の祝辞です。「うを徳」は料亭で、現在も神楽坂3丁目にあります。ミシュラン1つ星を取ったときもありましたが、現在、ミシュランの星はありません。
 この祝辞の終わりに現代文をつけています。

うを徳

 魚德うをとく開店かいてん披露ひろう

 それあたり四季しき眺望ながめは、築土つくどゆき赤城あかぎはな若宮わかみやつき目白めじろかね神樂坂かぐらざかから見附みつけ晴嵐せいらん緣日えんにちあるきの裾模樣すそもやう左褄ひだりづま緋縮緬ひぢりめんけてはよるあめとなる。おほり水鳥みづとり揚場あげばふね八景はつけい一霞ひとかすみ三筋みすぢいと連彈つれびきにて、はるまくまつうち本舞臺ほんぶたい高臺たかだいに、しやちほこならぬ金看板きんかんばん老舗しにせさらあたらしく新築しんちく開店みせびらき御料理おんれうり魚德うをとくと、たこひゞききにぞ名告なのりたる。うをよし、さけよし、鹽梅あんばいよし、最一もひと威勢ゐせいことは、此屋ここ亭主ていしゆ俠勢きほひにして、人間にんげんきたる松魚かつをごとし。烏帽子ゑぼしことや、蓬萊ほうらい床飾とこかざりつるくちばしまなばしの、心得こゝろえはありながら、素袍すはうにあらぬ向顱巻むかうはちまき半纏はんてんまくに、庖丁はうちやううでたゝ。よしそれ見得みえわすれ、虚飾かざりてて、只管ひたすらきやく專一せんいつの、獻立こんだて心意氣こゝろいき割烹かつぽう御仕出おんしだしは正月しやうぐわつより、さて引續ひきつゞ建増たてましの、うめやなぎいろ座敷ざしき五分ごぶすかさぬ四疊半よでふはんひらくや彌生やよひ大廣間おほひろま、おん對向さしむかひも、御宴會ごえんくわいも、お取持とりもち萬端ばんたんきよらかに、お湯殿ゆどのしつらへました。これもみな贔屓ごひいき愈々いよ/\かげかうむたさ。お心置こゝろおきなく手輕てがるに、永當えいたう々々/\御入おんいらせを、ひとへねがたてまつる、と口上こうじやうひたかろう、なん魚德うをとくどうだ、とへば、亭主ていしゆ割膝わりひざひざつて、ちげえねえ、とほりだ、とほりだ、えねえと、威張ゐばるばかりで卷舌まきじたゆゑ、つゝしんだくちかれず、こゝおい馴染なじみがひに、略儀りやくぎにはさふらへど、一寸ちよいと代理だいり御挨拶ごあいさつ
(大正九年三月吉日)

 翻訳はなにか非常に難しい。言葉の洒脱と、中身よりもリズムがいい五七調や七五調などでできています。翻訳はやらないのが正解でしたが…。

[現代語訳]このあたりで、四季を眺めてみよう。筑土町には雪、赤城町では桜、若宮町は月、目白は鐘で、神楽坂から牛込見附にかけては霞だ。
 縁日、歩いていると、裾に模様をつけた芸者は、左の褄に緋色の縮緬をきている。夜になると、雨が降ってくる。お堀には水鳥、揚場には船だ。この八景にも霞がかかっている。三味線の連奏が聞こえてくる。
 春がくる前に、正月で松飾りがある間に、この老舗はさらに新築の店を開く。晴れの舞台の高台に上がって、看板は金文字、料理店の「魚徳」だと、凧の響きに似て、そう名乗ろう。
 魚の生きがよく、酒はいいし、味もうまい。もうひとつ、威勢がいいのは、ここの亭主だ。気っ風がよく、まるで活きたカツオのようだ。
 烏帽子もいいが、床の間を飾るのは蓬莱(台湾)製だ。鉄の工具も、まな箸も、その心得はできている。礼服の素袍ではなく向こう鉢巻をかぶり、半纏の腕まくり、包丁で腕をたたく。見栄を忘れ、飾りを棄て、ただひとつ、お客様のことだけを考えて、気構えは献立をつくること。正月からこの割烹店は仕出しする。
 更に「梅の香」「柳の色」の座敷は建て増しする予定だ。四畳半は小声だって通さない。そこを開けると「弥生」の大広間。差し向かいでも、宴会でも、もてなしはどこをとっても清らかに。お風呂もつくりました。皆様、ますますもってご贔屓を賜りますように、来店の時には気兼ねは不要、お手軽に、末永く、お願いします……
 と、挨拶はこう言いたいところだ。魚徳、どうだ、と聞くと、亭主は正座して見栄をはり「違いねえ、その通りだ、違いねえ、その通りだ」と、威張るだけ。巻き舌があるので、うやうやしい口はできない。よく知っている亭主だし、ここで、略式ではありますが、ちょいと代理のご挨拶。

魚徳 当時は魚屋です。現在は料亭「うを徳」です。
築土赤城若宮目白見附揚場 全て周辺地域の名前です。
 目白下新長谷寺(旧目白不動)の鐘は、江戸時代に時刻を知らせる「時の鐘」の1つでした。
晴嵐 晴れた日に山にかかるかすみ。晴れた日に吹く山風
裾模様 着物の上半分を地染めした無地のままに残し、裾回りにだけ模様を置いたもの。衣装全体に模様を施すより手間が省ける。
左褄 和服の左の褄。褄は長着のすその左右両端の部分。
緋縮緬 ひぢりめん。緋色にそめた縮緬。多く婦人の長襦袢じばん、腰巻などに使う。縮緬とは表面に細かいしぼのある絹織物。
八景 八つのすぐれた景色。中国の瀟湘しようしよう八景が起源。日本では近江八景や金沢八景など。
一霞 一面におおうかすみ。一すじのかすみ。いっそう。ひとしお。見渡すかぎり。
三筋 三味線。三本のすじ。
連弾 つれびき。琴・三味線などを二人以上で奏すること。連奏。添え弾き。
松の内 正月の松飾りのある間。元旦から7日か15日まで。
本舞台  歌舞伎の劇場で、花道・付け舞台などを除いた正面の舞台。地方の劇場の舞台に対して、中央の劇場の舞台。本式に事を行う晴れの場所。ひのき舞台。
高台 周囲の土地よりも高くて、頂上が平らになっている所。実際にお濠よりは高くなっています。
 城などの屋根の大棟おおむねの両端につける想像上の海獣をかたどった金属製・瓦製などの飾り物。
金看板 金文字を彫り込んだ看板。世間に対して誇らしく掲げるしるし。世間に堂々と示す主義・主張・商品など。
塩梅 あんばい。飲食物の調味に使う塩と梅酢。食物の味かげん。
俠勢 「俠」は「おとこぎ。俠気」。「勢」は「いきおい。力。」。「任侠」は弱い者を助け、強い者をくじき、命を惜しまない気風。
松魚 カツオ。鰹。堅魚。たたき、煮物、かつお節、缶詰などに使う。
烏帽子 日本における男子の被り物の一種
蓬莱 ホウライ。台湾の異称。
床飾 掛物をかけたり、花・置物などを置いて、床の間を飾ること。その掛物など。
鶴の嘴 つるはし。鶴嘴。堅い土を掘り起こすときなどに用いる鉄製の工具。
まなばし 真魚箸。魚を料理するときに用いる長い箸。
素袍 上下二部式の衣服。武士が常服として用いた。
向こう鉢巻 結び目が額の前にくるようにして締めた鉢巻き。
半纏 半天。和服の一種。労務用と防寒用。普通の羽織と異なる点は、襟返しがないこと、前結びの紐がないこと。
捲り手 まくりで。腕まくり。袖まくり。
敲く 手や手に持った固い物で、物や体に強い衝撃を与える。打つ。目的は、破壊、音を出す、攻撃、注意を喚起、確認、その他いろいろ。
見得 見た目。外見。みば。みかけ。体裁。人の目を気にして、うわべ・外見を実際よりよく見せようとする態度。
専一 せんいつ。せんいち。他の事を考えずに、ただ一つの事柄に心を注ぐこと。
献立 料理の種類、内容、供する順序。
心意気 物事に積極的に取り組もうとする気構え。意気込み。気概。
割烹 食物の調理。料理。日本料理店。
建増 たてまし。現在ある建物に新しく部屋などを建て加えること。増築。
五分 ごくわずかな量・程度
彌生 弥生。草木がますます生い茂ること。陰暦3月。
対向 向き合うこと
取持 人をもてなすこと。もてなし。
万端 ある物事についての、すべての事柄。諸般。
湯殿 入浴するための部屋。浴室。風呂場。
しつらえる ある目的のための設備をある場所に設ける。
贔屓 気に入った人に特に目をかけ世話をすること。気に入ったものを特にかわいがること。
おかげ 御陰。他人の助力。援助。庇護。
蒙る こうむる。他人から、行為や恩恵などを受ける。
心置きない 気兼ねや遠慮がない。
手軽 手数がかからず、簡単。
永当 えいとう。興行などで、見物人が大勢つめかけるさま。
 ひとえに。ただそのことだけをする。いちずに。ひたすら。
奉る その動作の対象を敬う謙譲表現をつくる。
口上 興行で、俳優または頭取が観客に対して、舞台から述べる挨拶をいう。
割膝 わりひざ。膝頭を離して正座すること。男子の正しい座り方とされた。
肘を張る ひじをはる。肘を突っ張っていかにも強そうなようすをする。威張る。気負う。意地を張る。肩肘かたひじ張る。
卷舌 巻き舌、巻舌。舌の先を巻くようにして、威勢よく話す口調。江戸っ子に特有。
謹んで つつしんで。かしこまって。うやうやしく。
略儀 正式の手続きを省略したやり方。略式。

骨|有島武郎②

文学と神楽坂

 鳥料理の店で「勃凸」は「おんつぁん」のことや、勃凸の母親、母親の骨の話をします。

 勃凸は説明するやうにかういつて更に語りつゞけるのだつた。
「(中略)その晩俺はおんつぁんの作つてくれた風呂敷包を全部質において、料理屋さ行つてうつと飲んで女を買つたら、次ぐの朝払ひが足らなかつた。仕方なしに牛太郎と一緒におやぢのとこさ行つたらお袋が危篤で俺らこと捜しぬいてるところだつた。
 それから三日目にお袋が死んぢやつたさ。俺のお袋はいゝお袋だつたなあ。おやぢに始終ぶつたゝかれながら俺達をめんこがつてくれたさ。獣物けだものが自分のをめんこがるやうなもんだ。何んにもわからねえでめんこがつてゐたんだ。だから俺はこんなに馬鹿になつたども、俺はお袋だけは好きだつた。
 死水をやれつて皆んながいふべ。お袋の口をあけてコップの水をうつと流しこんでやつたら、ごゝゝと三度むせた。それだけよ。……それつきりさ」
 勃凸は他人事ひとごとのやうに笑つた。Iも私も思はず釣りこまれて笑つたが、すぐその笑ひは引つ込んでしまつた。
 気がついて見ると店の中は存外客少なになつてゐた。時計を見るといつの間にか十時近くなつてゐるので、私は家に帰ることを思つたが、勃凸はお互ひが別れ/\になるのをひどつ淋しがるやうに見えた。
 それでも勘定だけはしておかうと思つて、女中を呼んで払ひのために懐中物を出しにかゝつた時、勃凸も気がついたやうに蟆口がまぐちを取り出した。Iが金がないのにしやれたまねをするとからかつた。勃凸は耳もかさずに蟆口をひねり開けて、半紙の切れ端に包んだ小さなものを取り出した。
「これだ」
 と私達の目の前に出さうとするのを、Iがまた手で遮つて、
「おい/\御自慢のSの名刺か。もうやめてくれよ」
 といふのも構はず、それを開くと折り目のところに小さな歯のやうなものがころがつてゐた。
「何んだいそれは」
 今度は私が聞いて見た。
「これ……お袋の骨だあ」
 と勃凸は珍らしくもないものでも見せるやうにつまらなさうな顔をして紙包みを私達の眼の前にさし出した。
 私達はまた暫く黙つた。と、突然Iが袂の中のハンケチを取り出す間もおそしと眼がしらに持つて行つた。
 勃凸はやがてまたそれを蟆口の中にはふり込んだ。その時私は彼の顔にちらりと悒鬱いふうつな色が漲つたやうに思つた。おんつぁんが危険な色だといつたのはあれだなと思つた。
「俺は何んにもすることがないから何んでもするさ。糞つ、何んでもするぞ。見てれ。だどもおやぢの生きてる中は矢張駄目だ。俺はあいつを憎んでゐるども、あいつがゐる間は矢張駄目だ。……おんつぁんがゐねえばもう俺は滅茶苦茶さ。……馬鹿野郎……」
 勃凸は誰に又何に向けていふともなく、「馬鹿野郎」といふ言葉を、押しつぶしたやうな物凄い声で云つた。

牛太郎 遊女屋の客引き。妓夫ぎふ。妓夫太郎。
めんこがる 「めんこい」から、かわいらしい。小さい。
死水 死に水を取る。死に際の人の唇を水でしめしてやる。臨終まで介抱する。
ひどつ 「ひとつ」や「ひどく」を間違えて使った?
Sの名刺 本文で「おんつぁん」の言葉として「勃凸の奴、Sの名刺を貰つて来て、壁に張りつけておいて、朝晩礼拝をしてゐるんだからやりきれやしない」と書いてあります。これ以上の説明はなく、なぜ、どうしてそうするのか、わかりません。
悒鬱 ゆううつ。憂鬱。幽鬱。悒鬱。気持ちがふさいで、晴れないこと

骨|有島武郎④

文学と神楽坂

 このままこの小説は終わりになります。

 私達もそれに続いてその家を出た。神楽坂の往来はびしよ/\にぬかるんで夜風が寒かつた。而して人通りが途絶えてゐた。私達は下駄の上に泥の乗るのも忘れて、冗談口をたゝきながら毘沙門の裏通りへと折れ曲つた。屋台鮨の暖簾に顔をつツこむと、会計役を承つた勃凸があとから支払ひをした。
 たうとう私達は盛り花のしてあるやうな家のをまたいだ。ビールの瓶と前後して三人ばかりの女がそこに現はれた。すぐそのあとで、山出し風な肥つた女中がはいつて来て、勃凸に何かさゝやいた。勃凸は、
「軽蔑するない。今夜は持つてるぞ。ほれ、これ見れ」
 といひながら皆の見てゐる前で蟆口がまぐちから五円札の何枚かを取り出して見せてゐたが、急に顔色をかへて、慌てゝ蟆口から根こそぎ中のものを取り出して、
「あれつ」
 といふと立ち上つた。
「何んだ」
 先程から全く固くなつてしまつてゐたIが、自分の出る幕が来たかのやうに真面目にかう尋ねた。
 勃凸は自分の身のまはりから、坐つてゐた座蒲団まで調べてゐたが、そのまゝ何んにも云はないで部屋を出て行つた。
「勃凸の馬鹿野郎、あいつはよくあんな変なまねをするんだ。まるで狐つきださ」
 と云つておんつぁんは左程怪訝けげんに思ふ風もなかつた。
「本当に剽軽へうきんな奴だなあ、あいつは又何か僕達をひつかけようとしてゐるんだらう」
 Iもさういつて笑ひながら合槌あひづちをうつた。
 やゝ暫くしてから勃凸は少し息をはずませながら帰つて来たが、思ひなしか元気が薄れてゐた。
「何か落したか」
 とおんつぁんが尋ねた。
 勃凸は鼠の眼のやうな眼と、愛嬌のある乱杭歯とで上べツ面のやうな微笑を漂はしながら、
「うん」
 と頭を強く縦にゆすつた。
「何を」
「こつを……」
「こつ?」
「骨さ。ほれ、お袋のよ」
 私達は顔を見合はせた。一座はしらけた。何んの訳かその場の仕儀の分らない女達の一人は、帯の間からお守りを出して、それを額のところに一寸あてゝ、毒をうけないおまじなひをしてゐた。
 勃凸はふとそれに眼をつけた。
「おい、それ俺にくれや」
「これ? これは上げられませんわ」
 とその女はいかにもしとやかに答へた。
「したら、名刺でいゝから」
 女はいはれるまゝに、小さな千社札のやうな木版刷りの、名刺を一枚食卓の上においた。
「どうぞよろしく」
 勃凸はそれを取り上げると蟆口の底の方に押し込んだ。而して急に元気づいたやうな声で、
「畜生! 駄目だ俺。おんつぁん、俺この方が似合ふべ、なあ」
 と呼びながら、蟆口を懐に抛りこんでその上を平手で軽くたゝいた。而して風呂場へと立つて行つた。
 おんつぁんの顔が歪んだと思ふと、大粒の涙が流れ出て来た。
 女達は不思議さうにおんつぁんを見守つてゐた。

毘沙門の裏通り おそらく『毘沙門横丁』でしょう。
盛り花 自由花とも。明治末期の自然主義時代に発生した。丈の低い口の広い花器に盛るようにして生ける生け方。
 敷居
山出し 田舎の出身。田舎から出てきたままで洗練されていない。
根こそぎ 草木を根ごと引き抜くこと。転じて、すべて取ること。
狐つき 狐付き。狐憑き。キツネツキ。狐の霊がとりついたという、精神の異常な状態。
剽軽 ひょうきん、気軽で滑稽。おどけること。
乱杭歯 らんぐいば。ひどくふぞろいに生えている歯。歯並びの特に悪い歯。
上べツ面 「上辺っ面」か? 表面。外見。見かけ。
仕儀 しぎ。事のなりゆき。事情。特に、思わしくないことについていう。
千社札 千社詣での人が寺社の柱、天井などにはりつける刷り札。「千社詣」は巡礼の一種で、1000の神社に参拝する。
この方 「がま口に入れるのは、骨はダメ。名刺のほうがよく似合う」と考えているのでしょう。
大粒の涙 「勃凸も母の子だ」と思い、様々な生活や人生の問題を思って、泣いたのでしょうか?

骨|有島武郎③

文学と神楽坂

 ところが、「おんつぁん」は1週間ほど経って、東京に戻ってきます。二人は一緒になって生活し、「勃凸」は運転手になるため、自動車学校に入ります。

 或る晩、勃凸が大森の方に下宿するから、送別のために出て来ないかといふ招きが来た。それはもう九時過ぎだつたけれども私は神楽坂の或る飲食店へと出かけて行つた。
「お待ちかねでした」といつて案内する女中に導かれて三階の一室にはいつて行つた時には、おんつぁんも、勃凸も、Iも最上の元気で食卓を囲んでゐた。
 勃凸は体中がはずみ上るやうな声を出して叫んだ。
「ほれえ、おんつぁん、凸勃が来たな。畜生! いゝなあ。おい、おんつぁん、騒げ、うつと騒げ、なあI、もつと騒げつたら」
「うむ、騒ぐ、騒ぐ」(中略)
「僕立派な運転手になつて見せるから……芸者が来ないでねえか。畜生」
 丁度その時二人の芸者がはいつて来た。さういふところに来る芸者だから、三味線もよく弾けないやうな人達だつたけれども、その中の一人は、まだ十八九にしか見えない小柄な女の癖に、あばずれきかん気の人らしかつた。
「私ハイカラに結つたら酔はないことにしてゐるんだけれども、お座敷が面白さうだから飲むわ。ついで頂戴」
 といひながら、そこにあつた椀の中のものを盃洗にあけると、もう一人の芸者に酌をさせて、一と息に半分がた飲み干した。
「馬鹿でねえかこいつ」
 もう眼の据つたおんつぁんがその女をたしなめるやうに見やりながら云つた。
田舎もんね、あちら」
「畜生! 田舎もんがどうした。こつちに来い」
 と勃凸が居丈ゐたけ高になつた。
「田舎もん結構よ」
 さういひながらその女は、私のそばから立ち上つて、勃凸とIとの間に割つてはいつた。
 座敷はまるで滅茶苦茶だつた。私はおんつぁんと何かいひながらも、勃凸とその芸者との会話に注意してゐた。
「お前どつち―――だ」
「卑しい稼業よ」
「芸者づらしやがつて威張いばるない」
「いつ私が威張つて。こんな土地で芸者してゐるからには、―――――――――――――上げるわよ」
「お前は女郎を馬鹿にしてるだべ」
「いつ私が……」
「見ろ、畜生!」
「畜生たあ何」
「俺は世の中で―――一番好きなんだ。いつでも女郎を一番馬鹿にするのはお前等ださ。……糞、見つたくも無え」
「何んてこちらは独り合点な……」
「いゝなあ、おい、おんつぁん、とろつとしてよ、とろつと淋しい顔してよ。いゝなあ―――――――――、俺まるつで本当の家に帰つたやうだあ。畜生こんな高慢ちきな奴。……」
「憎らしいねえ、まあお聞きなさいつたら。……学生さんでせう、こちら」
「お前なんか学生とふざけてゐれや丁度いゝべさ」
「よく/\根性まがりの意地悪だねえ……ごまかしたつて駄目よ。まあお聞きなさいよ。私これでも二十三よ。姉さんぶるわけぢやないけど、修業中だけはお謹みなさいね」
「馬鹿々々々々々々……ぶんなぐるぞ」
「なぐれると思ふならなぐつて頂戴、さ」
 勃凸は本当にその芸者の肩に手をかけてなぐりさうな気勢を示した。おんつぁんとIとが本気になつて止めた。その芸者も腹を立てたやうにつうつと立つてまた私のわきに来てしまつた。そしてこれ見よがしに私にへばりつき始めた。私はそれだけ勃凸の作戦の巧妙なのに感心した。巧妙な作戦といふよりも、あふれてゆく彼の性格のほとばしりであるのを知つた。(中略)
 勃凸は大童とでもいふやうな前はだけな取り乱した姿で、私の首玉にかじりつくと、何処といふきらひもなく私の顔を舐めまはした。芸者までが腹をかゝへて笑つた。
「今度はお前ことキスするんだ、なあ」
 勃凸はさつきの芸者の方に迫つて行つた。芸者はうまく勃凸の手をすりぬけて二人とも帰つて行つてしまつた。

凸勃 「勃凸」ではなく、「凸勃」は「私」のこと。
芸者 宴席で三味線、舞、笛、鼓、太鼓などの芸を披露する職業女性。
さういうところに来る芸者 明治大正時代、牛肉屋や蕎麦屋にまで出る芸者は三流四流の芸者でした。詳しくは西村酔夢氏の「夜の神楽坂」を。
女郎 遊女。遊郭で遊客と枕をともにした女。おいらん。娼妓。売春婦。
あばずれ 阿婆擦れ。悪く人ずれしていて、厚かましい女。古くは男にも使った。
きかん気 人に負けたり言いなりになるのを嫌う性質
ハイカラ 西洋風に結った髪。ハイカラ髪。反対は日本髪。
お座敷 芸者・芸人などが呼ばれる酒宴の席
盃洗 はいせん。杯洗。酒宴の席で、人に酒をさす前に杯をすすぐ器。杯洗い。
一と息 ひと息。一気に。
田舎もん 田舎で育った人を侮蔑する表現
居丈け高 居丈高。威丈高。人を威圧するような態度をとる。
上げる 正確にはわかりません。「宴会1回分の玉代(遊興料)があがる」でしょうか?
独り合点 ひとりがてん。自分だけで、よくわかったつもりになること。ひとりのみこみ。ひとりがってん。
修業中だけはお謹みなさい 勉強中に芸者と遊ばないこと
前はだけ 着衣の合せ目が開く

青春物語|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 明治44年、谷崎潤一郎氏は『中央公論』の編集者である滝田樗陰氏に連れられて、新年会に行き、初めて泉鏡花徳田秋声に会ったことを書いています。

 谷崎氏は24歳、滝田氏は28歳、泉氏は37歳、徳田氏は39歳、内田魯庵氏は43歳でした。

此の、私が新進作家として今が賣り出しの最中と云ふ得意の絶頂にある時、明治四十四年の正月に、紅葉館で新年宴會があつたのは、たしか讀賣新聞社の主催だつたかと思ふ。招待を受けたのは、都下の美術家、評論家、小説家等で、大家と新進とを概ね網羅し、非常に廣い範圍に亙つてゐた。「新思潮」からは、私一人であつたか、外にも誰か行つたか、記憶がない。私は瀧田樗陰君が誘ひに來てくれる約束だつたので、氏の來訪を待つて、一緒に出掛けた。その頃のことだから勿論自動車などへは乘らない。神保町から電車で芝の山内へ行つたのだが、瀧田君は吊り革にぶら下りながら、私の姿を見上げ見下ろして、「谷崎さん、今日はあなた、すっかり見違へましたね」と云ふのであつた。それと云ふのが、私は紋附きの羽織がなかつたものだから、その晩の衣裳として偕樂園から頗る上等の羽織袴縞御召二枚(かざ)等一切を借用してゐた。ぜんたい私は、第一囘の「パンの會」の頃までは髮の毛をぼう/\と生やして、さながら山賊の如き物凄い形相をして、「君の顏はアウグスト・ストリンドベルグに似てゐるね」などゝ云はれていゝ氣になってゐたものなんだが、さてそんな衣裳を借りてみると、その薄汚いパルチザン式の容貌ではどうにも映りが惡いものだから、當日の朝床屋へ行って良く伸びた髮を適當に刈つて貫ひ、下町の若旦那と云った風に綺麗に分けて、それから借り着を一着に及び、二重廻しに山高帽と云ふ.まるで今までとは打って變ったいでたちをしてゐた。

縞御召

紅葉館 東京の芝区芝公園20号地にあった会員制の高級料亭。空襲で消滅し、跡地には東京タワーが建っている。
新思潮 文芸雑誌。明治40年、小山内薫が海外の新思潮紹介を目的に創刊。東大文科の同人雑誌。第二次で谷崎潤一郎、第四次で芥川竜之介が出た。
芝の山内 芝公園増上寺の山内。山内さんないとは神社・寺院の敷地内部。
偕楽園 明治10年代から日本橋区にあった中華料理店。関東大震災から伝通院前に移動。谷崎氏と園の長男は同級生で親友。
頗る すこぶる。非常に。たいそう。
縞御召 しまおめし。御召は紬や絣などと同じく織の着物。最高級なシルクの着物。縞御召は、様々な縞模様を織り出した御召のこと。
二枚襲ね 二枚重ね。和服の盛装。長着ながぎ2枚を重ねて着ること。
アウグスト・ストリンドベルグ アウグスト・ストリンドベリ。スウェーデンの劇作家、小説家。『真夏の夢』など。
パルチザン 外国軍や国内の反革命軍に対して自発的に武器をとって戦う、正規軍に入っていない遊撃兵のこと。
二重廻し 二重回し。男性用の和装防寒コート。
打って変わる 前の状態と全く変わる。がらりと変わる。

私は八方から盃を貰ひ、いろいろの人から讃辭や激勵の言葉を浴びせられ、次第に有頂天になつて、瀧田君を促しつゝ徳田秋聲氏の前へ挨拶に行つた。と、秋謦氏は、其處へ蹣跚(まんさん)と通りかゝつた痩せぎすの和服の醉客を呼び止めて、「君、泉君、いゝ人を紹介してやらう――これが谷崎君だと」と云はれると、我が泉氏ははつ(、、)と云つてピタリと臀餅(しりもち)()くやうにすわつた。私は、自分の書くものを泉氏が讀んでゐて下さるかどうかと云ふことが始終氣になつてゐたゞけに、此の秋聲氏の親切は身に沁みて有難かつた。秋聲氏はその上に言葉を添へて、「ねえ、泉君、君は谷崎君が好きだろ?」と云はれる。私は紅葉門下の二巨星の間に挟まつて、眞に光榮身に餘る氣がした。殊に秋聲氏の態度には、後進を勞はる老藝術家の温情がにじみ出てゐるやうに覺えた。けれども残念なことには、泉氏はもうたわい、、、がなくなつてゐて、「あゝ谷崎君、―――」と云つたきり、醉眼朦朧たる瞳をちよつと私の方へ向けながら、受け取つた名刺を紙人れへ収めようとされた途端に、すう、、つとうしろへつてしまはれた。「泉は醉ふと此の調子で、何も分らなくなつちまふんでね」と、秋聲氏は氣の毒さうに執り成された。私は此の二人の大作家に會つた勢ひで、叉瀧田君を促して、今度は内田魯庵翁に盃を貰ひに行つた。翁は恐らく富夜の參會者中、文壇方面に於ける第一の名大家、横綱格の大先葷だつたであらう。

蹣跚 まんさん。よろよろと歩く
身に余る 処遇が自分の身分や業績を超えてよすぎる。過分である。身に過ぎる。
たわい 正体なく酒に酔うこと。酩酊
酔眼朦朧 酒に酔って、目先がぼんやりしている様子
 

漱石山房記念館

文学と神楽坂

2017年9月24日、漱石山房記念館が開館します。

今日(8月15日)、そのパンフレットが自宅にやって来ました。


神楽坂七不思議|泉鏡花

文学と神楽坂

 明治28年、泉鏡花氏の「神楽坂七不思議」です。地図と比べてみます。

神樂坂(かぐらざか)(なゝ)不思議(ふしぎ)

なか何事なにごと不思議ふしぎなり、「おい、ちよいと煙草屋たばこやむすめはアノ眼色めつき不思議ふしぎぢやあないか。」とふはべつツあるといふ意味いみにあらず、「春狐子しゆんこしうでごす、彼處あすこ會席くわいせき不思議ふしぎくはせやすぜ。」とふもやうひねのなり。ひとありて、もし「イヤ不思議ふしぎね、日本につぽん不思議ふしぎだよ、うも。」とかたらむか、「此奴こいつ失敬しつけいなことをいふ、陛下へいか稜威みいづ軍士ぐんし忠勇ちうゆうつなアおめえあたりまへだ、なに不思議ふしぎなことあねえ。」とムキになるのはおほきに野暮やぼ號外がうぐわいてぴしや/\とひたひたゝき、「不思議ふしぎ不思議ふしぎだ」といつたとてつたが不思議ふしぎであてにはならぬといふにはあらず、こゝの道理だうり噛分かみわけてさ、この七不思議なゝふしぎたまへや。


眼色 目つき。物を見るときの目のようす。また、普段の目の表情。
春狐子 「春狐」は人の名前で、誰かは不明。泉鏡花だとも。子は「名前の下に付けて親しみか、自分の名には、卑下する意味」。
会席 日本料理の形式の一つ。江戸時代以降に発達した酒宴の料理。現在では日本料理の主流に。
捻る いろいろと悩みながら考えをめぐらす。わざと変わった趣向や考案をする。苦心して俳句や歌などを作る。
勝つ 日清戦争で勝ったこと。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因に。
稜威 天子の威光。御厳(みいつ)

東西とうざい最初さいしよきゝたつしまするは、
しゝでらのもゝんぢい。」
これ弓場だいきうば爺樣ぢいさんなり。ひとへば顏相がんさうをくづし、一種いつしゆ特有とくいうこゑはつして、「えひゝゝ。」と愛想あいさうわらひをなす、其顏そのかほては泣出なきださぬ嬰兒こどもを――、「あいつあ不思議ふしぎだよ。」とお花主とくい可愛かはいがる。
次が、
勸工場くわんこうば逆戻ぎやくもどり。」
東京とうきやういたところにいづれも一二いちに勸工場くわんこうばあり、みな入口いりぐち出口でぐちことにす、ひと牛込うしごめ勸工場くわんこうば出口でぐち入口いりぐち同一ひとつなり、「だから不思議ふしぎさ。」といてればつまらぬこと。
それから、
藪蕎麥やぶそば青天井あをてんじやう。」
下谷したや團子坂だんござか出店でみせなり。なつ屋根やねうへはしらて、むしろきてきやくせうず。時々とき/″\夕立ゆふだち蕎麥そばさらはる、とおまけはねば不思議ふしぎにならず。

しし寺 獅子寺。通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった曹洞宗保善寺のこと。江戸幕府三代将軍である徳川家光が牛込の酒井家を訪問し、ここに立寄り、獅子に似た犬を下賜しました。以来「獅子寺」と呼んでいます。明治39年、保善寺は中野区上高田に移転しました。

東京実測図。明治18-20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。獅子寺は赤い丸。

弓場 弓の稽古場。
顔相 占いで、顔の外面に現れた運勢・吉凶のきざしを見ること。
花主 こう書く熟語はありません。「得意」は「いつも商品を買ってもらったり取引したりする相手、顧客、お得意、親しい友」。「花」は花のように美しいもの。「主」は一家の長、主人。
勧工場 かんこうば。明治・大正時代、一つの建物の中に各種商店が連合して商品を陳列し正札販売した一種のマーケット。「牛込勧工場」は六丁目にあり、現在はスーパーの「よしや」
逆戻 再びもとの場所・状態に戻ること。
藪蕎麦 今は神田、浅草、上野が「藪そば」の御三家。神田藪の本家がここ団子坂にありました。神楽坂の場所は不明ですが、岡崎弘氏と河合慶子氏は『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」の図で明治40年前後の肴町のソバヤ(下図の中央)を書いています。ここでしょうか。

ソバヤ

青天井 青空。空。空を天井に見立てていう。
下谷 上野駅を中心とした地域で、1878年(明治11)、下谷区が成立。1947年(昭和22)、浅草区と合併して台東区に。
団子坂 文京区千駄木町二丁目と三丁目の境にある坂道。明治時代、坂の両側に菊人形が展示、東京名物の一つに。
攫う 掠う。さらう。油断につけこんで奪い去る。気づかれないように連れ去る。その場にあるものを残らず持ち去る。

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
いろは)のことなり、れば大廈たいか嵬然くわいぜんとしてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
島金しまきん辻行燈つじあんどう。」
いへ小路せうぢ引込ひつこんで、とほりのかどに「蒲燒かばやき」といた行燈あんどうばかりあり。はややつがむやみと飛込とびこむと仕立屋したてやなりしぞ不思議ふしぎなる。
菓子屋くわしや鹽餡しほあんむすめ。」
餅菓子店もちぐわしやみせにツンとましてる婦人をんななり。生娘きむすめそでたれてか雉子きじこゑで、ケンもほろゝ無愛嬌者ぶあいけうもの其癖そのくせあまいから不思議ふしぎだとさ。
さてどんじりが、
繪草紙屋ゑざうしや四十しじふ島田しまだ。」
女主人をんなあるじにてなか/\の曲者くせものなり、「小僧こぞうや、紅葉さん御家へ參つて……」などと一面識いちめんしきもない大家たいかこえよがしにひやかしおどかすやつれないから不思議ふしぎなり。
明治二十八年三月


いろは 昔は牛肉店「いろは」でした。現在は神楽坂6丁目1で、道路の拡幅で、なくなりました。
 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。
辻行燈 江戸時代、辻番所の前に立ててあった灯籠形の行灯

辻行灯

仕立屋 「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」では「洋服・八木下」と書いてあります。この時は「島金」(現、志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)にでていました。
菓子屋 菓子屋は1~3丁目だけでも9店がありました。不明です。
塩餡 塩で味をつけた餡
雉子の声 雄の雉は春になると「けんけん」と甲高く鳴いて雌を呼びます
曳く 物に手をかけて近くへ寄せる。無理について来させて、ある場所に移動させる。
けんもほろろ 「けん」「ほろろ」はともに雉の鳴き声。頼みや相談などを、冷淡に断ること。
絵草紙 挿絵を多く入れた大衆向けの読物。絵草紙屋は大久保通り西側にある神楽坂5丁目(京屋)や「ここは牛込、神楽坂」第17号の「お便り 投稿 交差点」では3丁目(図)にありました。また、絵葉書屋は3丁目北側最西部(開成堂)にありました。

島田 島田まげ。未婚の女性の髪形の1つ。
曲者 一筋縄ではいかない人。ひとくせある人。
ひやかす 相手が恥ずかしがったり当惑したりするような冗談を言う。からかう。
気が知れない 相手が何を考えているのかわからない。相手の考え・意図が理解できない。

河童考|柳田国男

文学と神楽坂


 ケシ坊主の話からカッパ(河童)の話に移ることにしよう。話が面倒になるが、じつはこの間漫畫家の淸水崑君に會つたとき「淸水片、君は惡いことをしてゐるね。白い女河童なんか描いて、河童をたうとうエロチックなものにしてしまつて……。河童には性別はないはずだよ」といふと「いや議論をするとなか/\長くなりますから……」と逃げ口上で話を避けてしまつた。
 河童といふ言葉は川童かはらんべでもと/\川の子供といふことなのだから、男女があつてはをかしいのではないかと思ふ。しかし九州などには河童が婿入りをしたなどといふ話もあるが、大體において性的な問題はないやうに思ふ。
 私の河童研究は非常に古く、明治四十一年九州へ行つたころから。二、三年位が絶頂であつた。今でも崑君なんかが利用してゐる「水虎考略」これは必ずしも珍らしい本ではないが、「河童は支那にいはゆる水虎なり」といふ説からこの本が出来、寫本も出てゐる。その中に大變値打があると思ふ話も四つか五つある。麹町の外堀で見つけたのはこんなのだとか、どこそこのはかうだとかみんな達つた河童が描いてある。幕末のごく末に朝川善庵といふ學者があつて、この人の本から引用してゐるのもある。頭がお河童で、背中に甲羅のある、まるで龜の子のやうなものから、褌をしめて素裸になつてつつ立つてゐるものなど、五つくらゐあつたと思ふ。
 後に内閣文庫を探してゐたら、同じ水虎考略といひながら四册本になつたのが見つかつた。一册はもとのそれを入れ、あとの三册は九州の書生さんが、興に乗じて方々からの話を集めたもので、書翰體になつてゐた。多くは九州の話だつたが、それは面白い本であつた。九州のは群をなしてゐて、一匹で獨立してゐるのはない。極端な場合には馬の足型だけの水溜りがあれば千匹もゐるなどといふことまでいふ。とにかく狹い所に群をなしてゐるものらしい。東北もしくは關東地方もさうだがこちらは一つ一つ獨立してゐて大變違つてゐた。河童はこんなに種類は違ひながら名前にはどこでも全部童兒、ワラベといふ言葉がついてゐるのである。
 私の郷里の方ではらうとよぶが、この區域は存外廣くない。大阪あたりでも通用しないことはないが、例の東海道膝栗毛の道中記が出たころから河大郎といふ名稱に差障りが出来たらしい。大阪に河内屋太郎兵衛といふ豪奢な者が出て、通稱河太郎といってゐたので、それに氣兼ねをしたため、「がたらう」といひにくゝなつたものであらう。京都あたりでは何といつてゐたか、やはり「がたらう」といつてゐたのではないかと思ふ。

ケシ坊主 子供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、まわりを全部そったもの。ある伝承では、河童の頭部がこの髪形だいう。おかっぱ頭。
清水崑 漫画家。岡本一平に師事し、挿絵画家として認知、「週刊朝日」に連載された「かっぱ天国」が人気を得る。生年は大正元年9月22日、没年は昭和49年3月27日。享年は満61歳。
川童 「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合し、「かわわっぱ」。それが変化したもの。
水虎考略 すいここうりゃく。水虎とは河童のことで、江戸時代の文政3年(1820)の河童研究書。
朝川善庵 江戸時代後期の儒者。江戸で私塾を営む。文化12年清の船が下田に漂着したとき筆談した。詩文集「楽我室遺稿」など。生年は天明元年4月18日、没年は嘉永2年2月7日。享年は満69歳。
水虎 水虎とは河童のこと
突っ立つ まっすぐに立つ。
内閣文庫 明治17年、太政官に創設された官庁図書館
河太郎 かわたろう。河童のこと。
東海道膝栗毛 正しくは「東海道中膝栗毛」。十返舎一九の滑稽本。1802~14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が失敗を繰り返しながら東海道・京都・大坂を旅する。
河内屋太郎兵衛 江戸時代中期の浪華の豪商。
豪奢 非常にぜいたくで、はでなこと

三百人の作家④|間宮茂輔

文学と神楽坂

 そんな賑やかさの中に、坂本紅蓮洞という特異の人物が、時おりまざったことも書き残しておいていいことであろう。通称「ぐれさん」の坂本紅蓮洞はもとより作家ではなく、そうかといって演出家でもない、何が専門であったのかわたしなどにはわからなかったが、ともかく芝居、劇団の方面では一種の木戸御免的な存在で、いつも酒の匂いをぷんぷんさせ、江戸っ児らしい巻き舌でものを言っていた。「ぐれさん」こと坂本紅蓮洞は当時もうかなりの年輩で、アルコール中毒らしい舌のもつれを危かしい腰つきに老残といったふうな哀しみが感じられた。広津和郎は時どきウイスキーなど奢ってやっていたようである。
 この暗い紅蓮洞と全くちがい、ふさふさした白髮のおカッパ頭をして眼の可愛らしいひとが、坂下のコーヒー店へ来ていつも独りで腰かけていた。噂によると、何んでも目白とか雑司ヶ谷とか遠いところから神楽坂まで毎日こつこつと歩いて来て、一杯のコーヒーを、ゆっくり味うと、十銭銀貨をテーブルの上において、また目白の方角へ帰って行くというのである。やがてわたしはこの童話にでて来るおじさんのような人が、じつは秋田雨雀であることを知った。
 大正十二年のそのころ、秋田雨雀はどんな立場にいてどんな仕事していたのだろうか。この追想記ではわたしはいっさい年譜や年鑑の類にたよらない建前なので、当時の秋田雨雀についてはハッキリとはわからない。しかし日本の新劇運動に心を傾けて来たこの人は、数々の劇作戯曲や演劇研究の大きな功績にもかかわらず、いつも静かで、つつましやかで、一杯のコーヒーにたのしい憩いを求めるかのようにみえた。秋田雨雀はそのうちわたしや長田などとも話をするようになり、するとわたしたちはこの先輩にコーヒーを二杯のめるようにするため、自分らのテーブルへ招じることもあるようになった。
 「秋田さん、こっちへいらっしゃい」
 そしてその勘定をわたしらが払えば、秋田雨雀は自分でさらに一杯のめるわけになる。というのも、うそか本当か、彼は奥さんから毎日十銭ずつコーヒー代をもらって散歩に出て来るのだという噂が伝わっていたからである。新劇運動に一生を捧げたこの人が今日もなお八十歳の高齢で、俳優や演出家の育成に当っていることはたれにも知られているとおもう。

 浅見淵氏が書く『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「未明と雨雀」では

 その頃の神楽坂の登場人物で忘れられないのに、小川未明のほかに、なお秋田雨雀がいる。小躯に茶色のコールテン服をまとい、午後の二時頃になると、雑司ケ谷の奥から、これまた判で押したように、神楽坂の山本という床が板敷きの学生専門の珈琲店に、決まって端整な顔を現わした。そこで一休みすると、またテクテクてくって銀座方面に出かけ、新劇の楽屋をひと回りしてくるのである。つまり、雑司ヶ谷から銀座のあいだを往復するわけだが、じつにこれが毎日なのだ。その頃、雨雀はなんの仕事もしておらず、つまりそれが毎日の日課だったのだ。昔は畸人がいたものである。
コールテン

コールテン

木戸御免 相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
かなりの年輩 大正12年で年齢は56~57歳でした。
老残 ろうざん。老いぼれて生きながらえていること。
当時の秋田雨雀 年齢は40歳。やはり童話、戯曲を書き、プロレタリア芸術運動に参加しています。
コールテン 布地の一種。丈夫でビロードに似た木綿織りで、表がうね織りのもの。英語のコーデュロイ corduroyから。レコード拭きにも利用した。
畸人 きじん。奇人。性質や言動が常人と異なっている人。変人。

三百人の作家③|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「神楽坂生活序曲」です。

 そのいっぽう神楽館では、広津を中心に、片岡長田島田、わたしなどが一室に膳をならべて食事をとるような一種の共同生活がつづいていた。食事や雑談にはいろんな雑誌の編集者をはじめ、それぞれの友人たちが絶えずくわわった。たとえば片岡鉄兵のところへは横光川端なども訪ねて来たが、彼等の往来はのちに新感覚主義の運動が展開される土台づくりであったのかも知れない。
 当時の神楽坂はまだ旧東京のおちつきと、花柳界的な色彩とが、自然に溶け合い、一筋の坂みちながら独特の雰囲気があった。フルーツ・パーラーの田原屋や、坂下のコーヒー店に坐っていると、初々しいほど頬のあかい水谷八重子が兄夫婦に守られながら通って行く。初々しい八重子はせいぜい二十一か二であったろう。そうかとおもうと、新劇俳優の東屋三郎が歩いている。後に三宅艶子と結婚した画家の阿部金剛が、パラヒン・ノイズだとわたしたちが蔭で綽名をつけた愛人とならんで散歩している。同じく画家の上野山清貢が、水野仙子との仲に出来た赤ん坊を半纒ぐるみにおぶって通って行く。貧乏で、牛ばかり描いていたこの画家は、作家でもあった愛妻と死別したあとの哀しみを文字どおりの蓬頭垢面にかくしているようにみえた。(上野山かあのころおンぶしていた赤ん坊も、健在ならばすでに四十近いのではあるまいか)
 神楽坂はまた矢来の新潮社へいく道すじでもあって、「文士」の往来が絶えなかった。雑誌「新潮」の編集者として、「中央公論」の滝田檽蔭としばしばならび称された中村武羅夫や、同じく「新潮」の編集者であった水守亀之助‥‥一名「ドロ亀さん」などが、よく通った。容貌魁偉の中村武羅夫がわたしにはひどくこわいものにみえてならなかった。
 矢来に住んでいる谷崎精二が、夕方になると、細身のステッキを腕にひっかけて、そろりそろりと神楽坂に現われる。同じく矢来在住の加能作次郎もおじさん風の姿をみせた。佐々木茂索はその頃まだ時事新報の文芸部にいたが、これも矢来に住んでおり、渋い和服の着流しに、やはりステッキを持ち、草履ばきという粋なかっこうであさに晩に通って行く。色白なメガネの顔に短い囗ひげを立てた佐々木茂索には、神楽坂の芸者で血みちをあげているのがいた。
矢来に住んでいる 谷崎精二氏や加能作次郎氏、佐々木茂索氏は矢来町に住んでいたのでしょうか。現在、わかる限り、谷崎精二氏や加能作次郎氏は確かに矢来町の近傍に住んでいましたが、矢来町には住んでいないようです。浅見淵氏の『昭和文壇側面史』を読むと、佐々木茂索氏では若いときに「矢来町の洋館に住んでいた」と書かれていますが、ここも天神町でした。

長田重男 芸術社の幹部。鎌倉の旅館「海月」の息子。英語が巧く、久米正雄や里見弴を知っていた。
島田 芸術社の番頭。他は不明。
三宅艶子 小説家、評論家。三宅恒方の長女。画家阿部金剛と結婚、阿部艶子名で執筆し、離婚後は三宅姓。昭和33年随筆集「男性飼育法」を発表、ユニークなタイトルで女性の人気をよんだ。生年は大正元年11月23日、没年は平成6年1月17日。享年は満81歳。
阿部金剛 あべこんごう。洋画家。阿部浩の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し、藤田嗣治らの影響をうける。以後、超現実主義的な作品を発表。生年は明治33年6月26日、没年は昭和43年11月20日。享年は68歳。
パラヒン・ノイズ パラヒンはParaffin。現在のパラフィン。蝋紙とも。パラフィン紙とは、紙にパラフィンを塗り、耐水性を付与した紙。甲高い声なのでしょうか。
新感覚主義 横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、稲垣足穂らの、大正末~昭和初期の文学流派。自然主義リアリズムから解放し、新しい感覚と表現技法、翻訳小説と似た新奇な文体が特徴。
蓬頭垢面 ほうとうこうめん。乱れた髪とあかで汚れた顔。身だしなみに無頓着なこと。
 

三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。
 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップ(全日本無産者芸術連盟)に加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。

住んでいた 住所は横寺町36。上図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

三百人の作家①|間宮茂輔

文学と神楽坂

まえがき

 これはわたしの自伝ではない。わたしはまだ自伝を書くほどの仕事もしていないし、それにたかの知れた男の生きて来た経過などが、たれの興味をそそるとも思えない。
 ただ、わたしは自分が文学を通して割に多くの作家たちと知り合って来たことか自分の独り占めに終らせない方がいいのではないかと考えついたのである。そこで自分が一体どれ位の作家を知っているかと数えてみた。すると、概略でも四百人以上になることがわかった。勿論その中には無名のまま逝った者も、中途で文学から去った者も、職場サークルの人も、残らず含まれる。
 この本でも初めわたしはそのような人たちをも書きたかった。しかし書きはじめてみて、名前や顔を覚えているだけでは具体的にその悉くを描くことは不可能だという点に心ついた。第一それでは読者にわからないし、わかるように描くとなれば小説になってしまう。そこでどうしても名のある作家だけを取上げることになったが、名のある作家といっても、例えばこの本に書いている小島昻という作家について現在どれ位の読者が記憶しているものか考えると心細いのてある。
 わたしは読者の便宜をも頭に入れながら、そして自分自身の歩いて来た道を筋として通しながら、その筋みちに沿うて接触のあった人びとを取上げて来た。

たかの知れた 高が知れた。大したことはない。程度がわかっている。
たれ 誰。不定称の人代名詞。だれ。
悉く ことごとく。残らず。すべて。
心つく 心付く。こころつく。気がつく。
小島昻 小島昻の名前は全く、どこにも出てこない、と現在ではその通り。「三百人の作家」の『「文戦」にて』で小島昻の名前がこう出てきます。

 しかしまた同時に、どのグループとも特別な関係をもたずに、いわば一本立ちでいる人たちもいないではなかった。作家の小鳥昴、評論家の青木壮一郎宗十三郎、詩人の今村桓夫、戯曲家の伊藤貞助などがそれであった。(中略)
 このとき小島昂はわたしなどよりはるかに強く、そして具体的に「文戦」のあいまいさを痛感していたことが後になってわかった。序にいいそえると、小鳥昴には「ケルンの鐘」という優れた作品があり、彼の妹は横光利一の恋女房で、横光が「春は馬車に乗って」でその死を描いている。(中略)
「コーヒーでも飲もうか」
「そうですね」
 小鳥もコーヒー党で、わたしが誘うと洋服に着かえ、忘れずにサッカリンを紙に包んでポケッ卜に入れた。彼は糖尿病なので医者から砂糖を禁じられているからであった。

文戦 「文芸戦線」の略。
青木壮一郎 『三百人の作家』では「青木壮一郎は動きそうじゃないかと、いろいろ意見を持ち寄りもしたが、(同士になる)望みがなかった。」と書いています。
宗十三郎 不明
今村桓夫 いまむらつねお。詩人。「文芸戦線」などに詩作を発表し、日本プロレタリア作家同盟(ナップ)に加わる。昭和7年、共産党に入党。8年、小林多喜二とともに逮捕。収監中に病状が悪化し、保釈。生年は明治41年1月15日、没年は昭和11年12月9日。享年は満29歳。
伊藤貞助 東洋大在学中から劇作を志し、昭和2年「文芸戦線」などに劇作を発表。5年、ナップに参加。共産党再建の嫌疑で2回検挙。戦後は俳優座文芸部員として活躍。生年は明治34年9月30日。没年は昭和22年3月7日。享年は満45歳。
その死 恋女房の死
サッカリン saccharin。人工甘味料の一つ。発癌性があるとされたが、現在はないと考えられる。

 過去をふりかえると、わたしは或る意味では不運な作家であるが、しかし別な意味からは幸福な作家のように思える。何故ならわたしは一八九九年、つまり十九世紀の終りに生まれたが十九世紀の人間とはいえない。自然主義文学はわたしが赤ん坊から少年になる間に隆昌期から衰退則に向ったが、しかし或る程度の影響は与えられた。そうしてわたしが青年に達する頃には、いわゆる大正期の自由主義的風潮は衰弱しはじめたが、影響としてはやはりわたしの内にとどまった。しかも同時に労慟者の文学は、自然発生的なところから意識的なところへと発展しつつあって、その影響もうけずにはすまなかった、というふうなのである。一言にいってわたしはいろんな文学的傾向を時代の変遷とともに不徹底な形でうけつぎながら歩いて来なければならなかった。
「三百人の作家」はそのようなわたしが、さまざまにゆさぶられながら歩みこして来たその巾だけ接触のあった作家を書いたものである。
 与謝野寛芥川龍之介葛西善蔵宮島資夫片岡鉄兵嘉村礒多徳田秋声島崎藤村正宗白鳥秋田雨雀広津和郎徳永直宮本百合子宇野浩二中山義秀島木健作‥‥こんなに多方面、多傾向の作家と知りあうことが出来たのは、何んといってもわたしの幸福であった、といえないだろうか。

自然主義文学 自然の事実を観察し、いかなる美化も否定する文学。日本では20世紀前半に見られた。
自由主義 集団による統制に対して、個人の自由を尊重して自由な活動を重んずる思想的立場。
労慟者の文学 プロレタリア文学。ブルジョア文学に対して、労働者階級の自覚と要求、思想と感情に根ざした、社会主義的、共産主義的な文学。

書かでもの記|永井荷風

文学と神楽坂

永井荷風

永井荷風

 大正7(1918)年、永井荷風氏が39歳の時に書いた『書かでもの記』です。矢来町で永井氏と師匠の広津柳浪氏が初めて出会いました。
 永井荷風は小説家で『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』などを執筆、耽美派の中心的存在になりました。また、花柳界の風俗を描写しています。生年は明治12年12月3日。没年は昭和34年4月30日。満79歳で死亡しました。

 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、すだれの月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町うしごめやらいちょうなる広津柳浪ひろつりゅうろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしがひとばしなる校舎におもむく日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席よせを見歩きたまさかいえにあれば小説俳句漢詩狂歌のたわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念ようやく押へがたくなりければ遂に何人なんびとの紹介をもたず一日いちにち突然広津先生の寓居ぐうきょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしはあらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中いまどしんじゅう』、『(くろ)蜥蜴とかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん(とう)の諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂かぐらざかを上りて寺町てらまちどおりをまつすぐに行く事数町すうちょうにして左へ曲りたる細き横町よこちょうの右側、格子戸造こうしどづくり平家ひらやにてたしか門構もんがまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木すくなからず手水鉢ちょうずばちの鉢前には梅の古木の形面白くわだかまたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯はせがわとうがい机を置きぬ。)それより枚立まいだてふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。とこには遊女の立姿たちすがたかきし墨絵の一幅いっぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張いっかんばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳のとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生へいぜい物に頓着とんじゃくせず襟懐きんかい常に洒々落々しゃしゃらくらくたりしを知るに足るべし。

簾の月 その原稿は今でも行方不明になったままで、荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものだという。
外国語学校 旧制東京外国語学校。現在は東京外国語大学。略称は外語大、外大、東京外大など
たまさか 思いがけず、そのような機会を得る。たまたま
 ぎ。たわむれ。面白半分にふざける
寓居 仮の住まい。わび住まい
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描く
黒蜥蜴 くろとかげ。明治28年発表。醜女お都賀が無頼の(しゅうと)を毒殺し、自殺するまでの人生を描く。
河内屋 かわちや。明治29年発表。封建主義の制度下にある家の問題点を明るみにだす
亀さん 明治28年発表。遊女と遊んだ亀麿は、女性数名に強姦未遂を起こす。一方、遊女は火災で死亡する。
雅俗文 雅俗折衷文。がぞくせっちゅうぶん。地の文は文語文(雅文)で書き,会話は口語文(俗文)で書く文体
格子 対話体 話し言葉(口語文)の文体。
何番地 牛込矢来町3番地中の丸52号でした。3番地は大きすぎて、大正か昭和になってから新しい番地をあてています。では新番地ではどこにあるのでしょうか。「広津和郎の生家」で考えをまとめていて、新番地は73番地でした。
寺町 寺院が集中して配置された町。ここでは牛込区横寺町と通寺町のこと。
格子戸造 こうしどづくり。格子状の引き戸や扉が主の建造物。採光や通風もできる。
門構 もんがまえ。門をかまえていること
蟠り わだかまり。心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など
手水鉢 ちょうずばち。手を洗ったり、口をすすいだりするための水(=手水)を溜めておく鉢。寺社の境内に置かれるほか、茶庭や日本庭園の重要な構成要素
門人 弟子。門弟。門下生。
長谷川濤涯 はせがわとうがい。明治40年から大正2年まで「東京の解剖」「誤られたる現代の女」「海外移住新発展地案内」「婦人と家庭」などを書いています
4枚立4枚立 よまいだち。柱と柱の間に4枚の襖が入るもの
一閑張 竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作り、柿渋や漆を塗る。食器や笠、机などの日用品に使いました。
襟懐 きんかい。心の中。胸のうち。
洒洒落落 しゃしゃらくらく。性質や言動がさっぱりして、物事にこだわらない

神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。
 ◆ 文士と芸者とたちんぼ

 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。


ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの いいえ。昭和初期まで東京のあらゆる場所で見られました。神楽坂だけではないのです。