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牛込氏についての一考察|⑤供養塚
牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 まず芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑤「供養塚」です。

 宗参寺の西南方350メートルほどの、喜久井町14〜20番地には江戸時代に供養塚があり、町名も供養塚町といっていた。
御府内備考』によると、この地は宗参寺の飛地境内で、古くから百姓家があり、奥州街道一里塚として庚申供養塚があったという。『江戸名所図会』の誓閑寺の絵には、その庚申塔と塚が画かれてある。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内として認められていたことは、それだけ宗参寺との特殊な関係が認められていたことで、この塚が奥州街道の一里塚だったのではなく、宗参寺に関係ある塚であったということである。とすれば、それは宗参寺の所に移住してきた大胡氏の牛込初代者を葬った塚だったのではあるまいか。
宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗の寺院。天文13年(1544)、牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため嫡男の牛込勝行が建立。
喜久井町14〜20番 赤線の「喜久井町14〜20番」の方が、実際の供養塚町よりも範囲は大きいようです。緑線で描かれていた場所は供養塚町ではないでしょうか?

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

大久保絵図(1857年、尾張屋)。左は供養塚町、右が宗参寺。

供養塚 大飢饉などの災害で亡くなった人々を供養する塚。「塚」は必ずしも遺骸が含まれず、無生物を含む。
供養塚町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌 : 地名の由来と変遷』(2010)では……

牛込供養塚町 当地一帯は寛永年中(1624-44)に宗参寺の飛地となった。往古より百姓家があったが、次第に家が造られ、町並となった。正徳元年(1711)寺社奉行に永家作を願って認められ、延享2年(1745)町奉行支配となる。町名は、地内に庚申供養塚があったことに由来する(町方書上)。この塚については、古来奥州街道の一里塚であった(町方書上)とか、大胡氏が移住した際の初代の墓や中野長者鈴木九郎の墓とする説(町名誌)、太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を立て傍らに石碑を建てたとする説(寺社備考)などがある。
 明治2年(1869)4月、牛込馬場下横町、牛込誓開寺門前、牛込西方寺門前、牛込来迎寺門前、牛込浄泉寺門前、牛込供養塚町を合併し、牛込喜久井町とする(己巳布)。この地域の旧家で名主の夏目小兵衛の家紋が、井桁の中に菊の花であることから名付けられた。

註:永家作 「家作」は家をつくること、貸家。「永家作」とは不明だが、長く住み続ける家か?
庚申供養塚 庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。


 また、岸井良衛編「江戸・町づくし稿 中巻」(青蛙房、1965)では……

 供養塚町(くようづかまち)
 1857年の安政改板の大久保絵図をみると、宗参寺の西方、馬場下横町の東どなりに牛込供養塚町としてある。南側は往来を距てて感通寺、本松寺、松泉寺、来迎寺、西方寺、誓閑寺などが並んでいる。
 寛永年中(1624~43年)宗参寺の境内4千坪の場所が御用地となって替地を下された時に当地が飛び地になっていた。ここは古くから百姓家があって、おいおいと家作が建って、奥州街道の一里塚として庚申供養塚があった。そのことから牛込供養塚町と唱えた。
 正徳元年(1711年)2月に寺社方へ家作のゆるしを得て、延享2年(1745年)に町方の支配となった。
 町内は、南北35間、東西20間余。(註:64mと37m)
 自身番屋・牛込馬場下横町と組合。
 町の裏に庚申堂がある。
 庚申塚・町の裏にあって、高さ5尺、幅1間4方〔備考〕

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 供養塚町については……
当町起立之儀 寬永年中宗参寺境內四千坪余之場所御用地に相成 当所え替地被仰付候ニ付 飛地ニ而同寺境內ニ有之候 右地所之内往古より百姓家有之候所 追々家作相増 其後町並ニ相成 往古当所奧州海道之節 一里塚之由ニ而 庚申供養塚有之候ニ付 牛込供養塚町相唱申候 尤宗参寺境内には有之候得共 地頭宗参寺え年貢差出し古券ヲ以譲渡仕来申候……
飛地 江戸時代、大名の城付きの領地に対して遠隔地に分散している領地
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から宇都宮を経て奥州白河へ至る街道。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。

庚申供養塚 こうしんくようづか。庚申信仰をする人々が供養のために建てた塚。庚申の夜に眠ると命が縮まるので、眠らずにいると災難から逃れられる。そこで神酒・神饌を供え、飲食を共にして1夜を明かす風習がある。娯楽を求めて、各地で多く行われた。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
誓閑寺 江戸名所図会では 

鶴山かくざん誓閑せいかん 同じ北に隣る。ぎょういんと号す。浄土宗にして霊巌れいがんに属す。本尊五智如来の像は(各長八尺)開山木食もくじきほん上人しゅうふう誓閑せいかん和尚の作なり。じょう念仏ねんぶつの道場にして清浄無塵の仏域なり。当寺昔は少しの庵室にして、その前に松四株を植えて、方位を定めてほうしょうあんといひけるとぞ。今四五十歩南の方、道を隔てて向らの側に庚申堂あり。これち昔の方松庵の地なり。
稲荷の祠(境内にあり。開山誓閑和尚はすべて仏像を作る事を得て、常にふいをもって種々の細工をなせり。この故に境内に稲荷を勧請し、11月8日には吹革まつりをなせしとなり。今もその余風にて年々としどしその事あり。)
庚申塔と塚 道の反対側に庚申塔と塚、絵図では札「庚申」もあり、赤丸です。

誓閑寺


大胡氏の牛込初代者 そう考える理由はどこにもありません。一つの考え方、想像です。当時の風習は全く知りませんが、豪族だった大胡氏が塚に入るのではなく、せめて墓ぐらいに入らないとおかしいと考えます。

 なお『御府内備考』にあるこの地の奥州街道については、同じように『江戸名所図会』の感通寺の項に「この地は往古鎌倉海道の旧跡なりといへり」とある。また『東京名所図会』(明治37年、東陽堂刊)の牛込矢来町の項に「沓懸くつかけざくら」がある。往時の街道を旅する人が切れた草履を梢にかけて立ち去る者が多かったので名づけられた名木の彼岸桜であった。
 これらを考えると、牛込台地の北端を当時の古道が、神楽坂から矢来町、宗参寺、供養塚と東西に通って戸塚一丁目に向い、そこを南北に通っていた鎌倉街道に合流するのである。この鎌倉街道を通って、戸塚から宗参寺の所に大胡氏は移住してきたのであろう。
感通寺 新宿区喜久井町39にある日蓮宗の寺です。江戸名所図会では……
本妙寺感通寺 (中略)摩利まりてんの像は松樹の下にあり。頼朝卿の勧請にして、頼義朝臣の念持仏といひ伝ふ。この地は往古そのかみの鎌倉海道の旧跡なりといへり。
往古 おうこ。過ぎ去った昔。大昔。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち
東京名所図会 新撰東京名所図絵。明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。

 供養塚の由来は……

《町方書上》往古ゟ百姓家有之候所、追々家作相増、其後町並相成、往古当所奧州海道之節一里塚之由て庚申供養塚有之候付、牛込供養塚町相唱申候
《新宿区町名誌》大胡氏の牛込移住初代者の墓とする。供養塚町が宗参寺の飛地として所有していたということは、宗参寺に関係深い塚だったということになる。とすれば、群馬県大胡から牛込に移ってきた初代大胡氏を葬った塚であろうと。
《新宿区町名誌》中野長者鈴木九郎の墓とする。「江戸名所図会」に、その問題を提示しているが、「大久保町誌稿」につぎのようにある。「鈴木九郎は牛込供養塚町に住し、生涯優婆うばそく塞(西新宿一丁目参照)を勧行して、遂に永享12年(1440)終歿せり」と(淀橋誌稿)。
 中野長者鈴木九郎は、中野区本郷のじょうがんや西新宿二丁目の熊野神社を建立したといわれる人である。しかし、この塚を鈴木九郎の塚とするのは、あまりにも作為的である。鈴木九郎の伝説は、戸山町内の旧みょう村にもある(戸山町参照)。
《寺社備考=御府内備考続編》文明年中(1469〜87)に太田道灌が鷹狩の際、神霊が現れ、堂宇を建て傍らに石碑を建てた。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972)「牛込地域 75.牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」では……

牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚
      (喜久井町14から20)
 来迎寺から若松町に行く。右手に感通寺がある。その左手一帯は、昔「供養塚町」といった。
 「御府内備考」によると、この地は前に案内した宗参寺の飛地で、境内になっていたという。そしてこのあたりは古くから百姓家があり、鎌倉海道一里塚の庚申供養塚があったといい、「江戸名所図会」の誓閑寺の項に、その鎌倉海道のことと庚申塔や塚の絵が出ている。
 供養塚町が宗参寺の飛地で境内にしていたということは、宗参寺に関係深い塚であったということであろう。とすれば、それは宗参寺でものべたように、大胡氏の初代牛込移住者を葬った塚だったのではあるまいか(60参照)。
 徳川家康の関東入国により、それ以前の土着武士の旧跡・事蹟は消されていったようである。
 牛込氏について不明の点が多いのは、牛込氏が徳川氏に対する遠慮から史料を処分したろうと思われるばかりではなく、為政者も黙殺していったのではなかろうか。宗参寺(60参照)でものべたように、官撰の「御府内備考」では、宗参寺の位置を大胡氏の居住地とすることを否定しているし、袋町の牛込城跡には一言もふれていないのである。
〔参考〕  牛込氏についての一考察
来迎寺 らいこうじ。新宿区喜久井町46の浄土宗の寺院。寛永8年(1631)に建立。
60参照 「新宿の散歩道」の「60」は「牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」でした。

牛込氏についての一考察|①はじめに

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の①「はじめに」です。

  1 はじめに
 武州牛込氏については、『新宿区史』(昭和30年・新宿区役所編)に書かれているが、総合的に考察されていないし、史料が少ないので、まだ不明な点が多い。そこでここに牛込氏についての一考察をのべて今後の研究課題としたいので、諸賢のご批判ご指導を賜りたい。

 これで①は終わりです。あとは「武州牛込氏」と「新宿区史」を説明すればいいのですが、「新宿区史」の説明は長く続きます。

武州牛込氏 武州の別称は武蔵国で、これは東京都、埼玉県、神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。「武蔵国にいた牛込氏」「武蔵国牛込氏」などと同じ。
新宿区史 牛込氏については「新宿区史:区成立30周年記念」23頁から25頁までに出てきます。「総合的に考察されていないし、史料が少ない」と書かれていますが、確かに、新宿区の室町幕府〜戦国時代の史料は現在でも少なく、増やせないし、「総合的」な考察もありません。しかし、牛込関係は少なくても、書籍一冊の「新宿区史」は十分に分厚くなっています。では「新宿区史」の牛込関係を見てみましょう。

 鎌倉時代の新宿区は、近くの府中に武蔵国の国衙があり、留守所がおかれていたし、江戸・豊島・葛西氏などこの地方に分布した豪族との関係が深かったものと思われるが、具体的な史料はない。市谷冨久町の自証院に残された高さ1.2メートルの板碑に、弘安6年(1283)6月の造立年月日が記されているのが最古の記録で、区文化財の指定を受けている。しかし、こうした碑が残されていることは、この時代、かなりの財力をもった豪族が、この地域と関係をもっていたことを示しているだろう。
 さらに、正安2年(1300)、現在牛込にある赤城神社が早稲田の田嶋の森(後の元赤城、現在の鶴巻町)に祀られたという社伝も残されているが、史料としては、暦応3年(1340)、鎌倉公方足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏から芋茎郷名上げ、替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えたことを示すものが残っている。これによれば牛込郷は荏原郡に属していたことが判る。この文書は『牛込家文書』といわれ、牛込、日比谷、堀切、177貫余の所領を本貫とし、牛込袋町に居館を構えた牛込家伝来のもので、内容は江戸氏宛の7通と、牛込氏宛の11通、大胡氏宛2通、牛込七ゕ村宛1通、加藤系図写1通からなっており、牛込氏の由来については、上野国大胡城主大胡重行が天文年間(1532~55)北条氏康の招きで牛込に移ったと、「牛込系譜」に記してある。牛込氏と改めたのは天文24年(1555)のこととある。大胡氏が牛込に移った年代は、史料的には矛盾があり、同じ『牛込家文書』の後北条氏印判状写をみると、大永6年(1526)10月、北条氏綱から牛込助五郎宛に日比谷村の陣夫・夫役の徴用権を与える旨が記されていて、年代の遡りがみられる。『新編武蔵風土記稿』には大湖重行の父重治の代に牛込に移ったとも書かれている。また牛込姓も、系譜にある天文24年以前にすでに称していたようで、古い記録が紛失しているためもあり、明確ではない。牛込氏はその後徳川時代には旗本となり、明治維新には徳川家とともに駿府へ移ったが、何年かののち再び東京に戻ってきた。(暦応3年の文書他の場所に詳細があるので省略)
 後北条氏と牛込氏との関係を示す史料としては、『小田原衆所領役帳』があるが、この帳簿は後北条氏所領内の知行主(給人)を衆別(職種や地域別)にまとめ、それぞれの知行地に課せられる知行役高を書きあげたもので、いわば後北条氏の租税台帳にあたるものである。この帳簿の江戸衆のところに、牛込氏について次のように記されている。
 一、大胡
 六拾四貫四百卅文  江戸牛込
 六拾七貫七百八拾文 同 比々谷本郷
 四拾五貫文     葛西堀切
  此内廿二貫五百文 当年改而被仰付半役
  以上 百七拾七貫弐百十文
   此内八拾弐貫弐百拾文ハ   御赦免有御印判
    此内七捨弐貫五百文  知行役辻半役共
   以上
 この記述で役高の合計が177貫余で、知行役高は72貫500文として登録されていたことが判るが、この役高は他の知行主の平均が50貫前後であったのに比べると、かなり大きいものといってよい。

 これでおしまいです。「新宿区史」の話は江戸氏と太田道灌氏に移っていきます。

武蔵国の国衙 各令制国の中心地にこくなど重要な施設を集めた都市域は「国府」、その中心となる政務機関の役所群は「国衙」、その中枢で国司が儀式や政治を行う施設は「国庁」(政庁)。武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の政治中心地「国府」は府中市に置かれた。「衙」は、つかさ、天子のいる所、宮城。
留守所 るすどころ。平安後期以降一般化した地方行政を担う在地の執務機関。
田嶋の森 田島森。新宿区早稲田鶴巻町568にあり、島に似た土地と沼地があるので「田島の森」と呼びました。
暦応3年 鎌倉公方の足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷の替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えた。これは「高師冬奉書」暦応3年8月23日の手紙です。

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

鎌倉公方 室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。
足利義詮 あしかが よしあきら。室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。
執事 室町幕府の将軍と鎌倉府の関東公方を補佐して政務を行なう職
高師冬 こうのもろふゆ。南北朝時代の武将。
芋茎郷 いもぐきごう。現在は「埼玉県加須市芋茎芋郷」です。
名上げ 「名」には「きこえ、てがら」の意味があり、「名が上がる」には「名声をあらわす、有名になる」という意味があるようです。「牛込家文書」は芋茎郷に何が起こって、何が起こる予定なのか等について全く触れていません。
上野国 こうずけのくに。群馬県域の古代国名。
大胡城 群馬県前橋市河原浜町の城。築城は天文年間(1532年〜1555年)、廃城は元和2年(1616年)。
牛込系譜 「牛込氏系図」です。

牛込氏系図」(牛込区史、昭和5年)

後北条氏印判状写 大永6年10月13日の「北条家朱印状写」です。

「北条家朱印状写」大永6年10月13日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

牛込助五郎 牛込重行です。
新編武蔵風土記稿 大湖重行の父重治の代に牛込に移ったと書いてあります。

 また、赤城神社社史では

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています

 さらに重泰の代に牛込に住んだというものもあります。例えば「江戸名所図会」です。これは江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌で、赤城明神社の説明のところで、「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したのです。なお「重治」も「重泰」も牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

後北条氏 日本の氏族で、本来の氏は「北条(北條)」だが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」「相模北条氏」とも呼ばれる。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

史跡紹介パネル|飯田橋駅西口

文学と神楽坂

 JR東日本は令和2年(2020)7月12日(日)初電から飯田橋駅の新しいホーム新西口駅舎歩行者空間を供用開始しました。
 さらに令和3年3月19日から、西口駅舎1階の歩行者空間に「国指定史跡『江戸城外堀跡』」、「遺構巡り」を加え、また1階の西口改札外コンコースの「史跡紹介解説板」に「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を加えました。
 そして令和3年7月21日朝9時から、西口駅舎2階にも「史跡眺望テラス」を展開し、「史跡紹介解説板」を使って「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」を説明し、また「牛込門と枡形石垣」を紹介しています。
 最後に飯田橋ホームの中に「外堀の堰の構造」があります。

史跡解説板テーマ設置箇所供用開始日
牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)西口駅舎2階「史跡眺望テラス」2021年7月21日
国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り歩行者空間2021年3月19日
外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造西口改札外コンコース2021年3月19日

飯田橋駅西口1階

史跡紹介解説板 西口駅舎1階の歩行者空間 国指定史跡『江戸城外堀跡』とその遺構巡り

史跡紹介解説板 西口改札外コンコース 外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造

スガツネ工業株式会社

 また、「スガツネ工業株式会社」がドイツ「Q-railing」社から輸入したガラスについて「(この)自立ガラスフェンスシステムを使うとガラスとガラスの継ぎ目に支柱のないフェンスを作ることができます。支柱が邪魔にならず、景観を主役にするためのシームレスなデザインを作り上げることができます。ご覧の通り『史跡』も支柱の遮りなく、愉しむことができます」と自慢げに書いていました。

Q-railing社の自立ガラスフェンスシステム

外堀の堰の構造

文学と神楽坂

 JR飯田橋駅のホームに「外堀そとぼりせき構造こうぞう」があります。

外堀の堰の構造

外堀の堰の構造

江戸城外堀縦断面

 牛込うしごめつけは牛込ぼりいい濠の間に位置しており、牛込濠の水をせき止める土橋と、その水位を調整するためのが設けられていました。
 2017(平成 29)年のJR飯田橋駅ホーム移設工事において、牛込橋の真下より、この堀の一部と思われる石敷いしじきが外堀で初めて発掘されました。明治期に撮影された古写真には、堰のおとしぐちが写っており、発掘された石敷はこの落口の手前の水路をなす箇所の一部分であることが考えられます。
 せき。河川の流水を制御し、水を取り入れるために、川の流れをさえぎって造る構造物。水力発電用ダムや堤防の機能はない。

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。

石敷 いしじき。平たい石を敷き詰めて舗装した所。石畳。
落口 おとしぐち。滝となって水流が落下する所。下水などの排水口。

牛込御門

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001)

 現在、この石敷はホームの下に保存されていますが、調査によって明らかになった限りにおいてこの石敷があったと想定される範囲がわかるように、ホーム上のそうの種類を変えて表現しています。また、一部取り外した敷石を、駅前広場に展示しており、その大きさを確認することができます。

石敷発掘位置

石敷構造図、発掘された石敷

色を変えたホームの下に敷石があった。

駅前広場に展示した敷石

 現時点で、外堀の堰の構造に関する文章や記録は残されていませんが、同時代で類似する構造物の石敷の事例として、神田川から神田上水を市中に引き込むために設置された堰である関口せきぐちおおあらい堰(現在の文京区関口に存在していた) があります。この記録によると、堰の水路に当たる部分の石材の並び方が、今回発見された石敷と類似していることがわかります。
 また、ホーム上からは堀を繋いでいる現在の水路を見ることができます。

  Ushigome-mon Gate was located between the Ushigome-bori and Iida-bori Moats. A weir was constructed under Ushigome Gate in order to protect the earthen bridge that dammed the water in Ushigome-bori Moat and control the water level.
  When JR Iidabashi Station’s platform was relocated in 2017, remnants of stone paving believed to comprise a portion of the weir was discovered for the first time anywhere in the outer moat area. Photographs from the Meiji period contain images of the weir’s outfall and the sections of stone paving uncovered at the site are thought to have comprised a portion of the aqueduct located immediately in front of the outfall.
  Currently, the section of stone paving discovered is 2017 is preserved in its original location directly under the train platform. A portion of the platform’s surface has been modified in order to express the scope of the area that was covered by the stone paving. In addition, a portion of the paving removed from the site is on display in the plaza in front of the Station. It enables visitors to get a sense of the weir’s size.
  Unfortunately, no documents or records that describe the weir’s structure have been discovered. A similar type of structure known as the Sekiguchi Weir, however, which was constructed during the same period and transported water into the city from the Kanda River, provides us with some insights about weir technology and design. Located in present-day Bunkyo Ward’s Sekiguchi district, the arrangement of stone material used to construct the Sekiguchi Weir’s channel resembles that of the stone paving discovered along the outer moat in 2017.
  Also from the platform you can see the current waterway connecting the moats.

外堀の土塁[B]|コンコース

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)からJR飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の西口改札外コンコースには「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を取り上げて、パネル[B]「外堀の土塁」は日本語と英語で解説しています。

外堀の土塁

菊池貴一郎 江戸風景 誠文館 大正4年

外堀の土塁
The Structure of the Outer Moat Ground
外堀土塁の構造
The Structure of the Base
 牛込門から赤坂門までの江戸城外堀は、谷地形を利用し、広い堀幅の水面と、水面から高い土塁を持つ江戸城防御のための空間で構成されています。目の前に見える土手もその土塁の一部であり、2013(平成25)年から始まった石垣修復工事、その後のJR飯田橋駅西口駅舎等の工事にあわせ調査が行われ、桝形石垣付近は江戸時代当時の規模を目安とした土塁の復元をしています。
 外堀の土塁は、厚さ5~10cm程度ごとに土や粘土、砂など様々な種類の土を積み重ねて突き固められた版築はんちくと呼ばれる技法で作られています。地層断面をみると、土手の斜面方向とは逆に、水面の方に向かって地層が上がっています。これは、土砂崩れを防ぐためと考えられています。土塁の道路端には土留めの石垣が築かれていましたが、現在では土手に沿って通る道路の端に確認できる通り、コンクリートの小型擁壁ようへきに代わっています。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
桝形 枡のような四角な形。城の一の門と二の門との間にある方形の広場。
版築 はんちく。板枠の中に土を入れて突き固め、層を重ねてつくる方法。板などで枠を作り、間に土と少量の石灰や凝固材を入れ、たたき棒などで、土を硬く突き固める。
土留め 法面や崖、盛土などの崩壊を防ぐため、土が低い土地に崩れてこないようにすること。
擁壁 土留めのための壁状の構造物

外堀断面図 [標高(m) 江戸期の土塁地形(推定) 上限(13.5m) 下限(12.5m) 現況 江戸期の土塁が残っている土層 土塁 江戸期の盛土 近代の盛土 (急行線)(緩行線)東京層 砂層 外堀 堀内堆積物 TP 4m]

現在の土塁

土手の小擁壁 戦後直後の牛込門付近の土塁

 The section of Edo Castle’s outer moat between Ushigome and Akasaka Gates was constructed by utilizing the valley topography, which allowed for the development of a wide canal surface and tall earthwork fortifications. The embankment visible here formed a portion of the area’s earthen fortifications. In 2013, a series of excavations were carried out in conjunction with a project to repair the stone walls and redevelop the western side of JR Iidabashi Station.
 The project enabled the reconstruction of earthen fortifications on the same scale as those that existed in the Edo era. As a result, contemporary visitors to the site can experience the grand scale of the historical fortifications that existed in the area. The outer moat’s fortifications were constructed using a rammed-earth technique in which 5-to-10-centimeter layers of earth and clay were stacked on top of one another and tamped down. An examination of the fortifications geological profile reveals that the layers of earth and clay rise towards the towards the moat’s surface and away from the embankment slope, It is likely that this construction method was utilized in order to prevent landslides. Earth-reinforced stone walls were constructed along the roadside lining the earthen fortifications. However, as can be determined from the roadside currently located parallel to the embankment, the original earth-reinforced walls have been replaced by small-scale concrete retaining walls.

外堀土塁の水際部分(発見された水際石垣)
Waterside Part of The Outer Moat Ground (Discovered Waterside Stone Wall
 2015(平成27)年に行われた発掘調査の結果、外堀の水際には、土手が崩れないようにするための低い石垣が作られていたことが判明しました。発見された場所は、牛込橋から140m程度市谷方向に進む地点の線路の間で、石垣の基礎部分と考えられる 1〜2段の石積みが、外堀で初めて確認されました。この石垣は、明治期に甲武鉄道が敷設された際に、上段部分が撤去され、基礎部分はそのまま埋められたものと考えられます。
石積み 石垣や橋台を築造する方法か構造物
甲武鉄道 1889年(明治22年)大久保利和が開業。この鉄道は御茶ノ水から飯田町、新宿、国分寺、立川、八王子に至る。1906年(明治39年)10月1日、鉄道国有法で国有化され、中央本線の一部に。

発掘された水際石垣

 An archaeological excavation carried out in 2015 revealed the existence of low stone walls along the moat’s edge. They were likely constructed in order to prevent the embankment from collapsing into the moat. The site where the walls were discovered is located in a section of rail track approximately 140 meters away from Ushigome-bashi Bridge in the direction of Ichigaya. At that site, excavators found one- and two-tier layers of stone, which are thought to have comprised the stone walls’ structural foundation. When the Kōbu Railway was constructed in the Meiji period, it is thought that the upper portion of the stone walls were removed and the foundation was buried.

外堀土塁の植栽
Planting of The Outer Moat Earth Fence
 1636(寛永13)年、外堀土塁が完成すると、幕府は翌年、堀方七組の東国大名に命じて、土塁上部から2.7m程下がった位置に、一間(約1.8m)間隔で大きめの松杉を、その内側には小さめの苗木を、二筋にわたって植樹させました。植木奉行(のち普請奉行)の管理下に置かれた牛込土橋~筋違橋の土手と堀は、近辺に屋敷を拝領する武家に割振り、植木の手入れと草刈りを担当させました。幕末に日本を訪れたオイレンブルクの『日本遠征記』によれば、「城壁天端の平坦部とその内側にはモミなどの針葉がぎっしりと並び、水面には何千という野鴨が住み着いている」と記されています。なお、真田濠(現上智大学グラウンド)の土塁上には、往時の姿を思い浮かべることができるような松の植生がみられます。

現在の飯田橋駅西口B

飯田橋駅西口Bの土塁の上部に松などの植林

飯田橋駅西口Bの2階から土塁を見る

堀方七組 関東・奥羽の大名52家を「堀方」7組に編成して江戸城西方の堀を構築させた。
松杉 しょうさん。松と杉。松の木と杉の木。
植木奉行 植木に関する用務を担当し、手代15人、同心51人を指揮。寛政3年(1791)廃止。
普請奉行 御所、城壁・堤防などの修理造築、上下水道等の土木工事、武家屋敷請取りなどの事もつかさどる職名。文久2年(1862)廃止。
オイレンブルクの『日本遠征記』 幕末、プロイセン使節団の遠征記。条約を結ぶためにドイツ地方の代表として日本にやってきた。
城壁天端… 『日本遠征記』によれば「外城の城壁や堀は内側の城のそれらとまったく似ている。この都市の一画は南西方面に著しく高くなっている。そして同様に、草のたくさん生えた傾斜地が水をたたえた堀に面する所で終っている。堀は所々大きな池となって広がる。見事な樹木が、蓮の生えた浅い池の上に枝を垂らし、その池には何千という野鴨が住み着き、また城壁の樅の木には、無数の鳥やその他の猛禽が巣くっている。これらの鳥は誰にも追われたりしない。その狩猟は将軍のみが持つ特権に属するものだからである」

 The outer moat’s earthenworks were completed in 1636. The following year, the Tokugawa shogunate order the group of eastern Japanese domainal lords previously mobilized to dig portions of the outer moat to plant a row of pine and cedar trees approximately 2.7 meters below the upper portion of those fortifications. The trees were to be planted 1.8 meters apart. In addition, they planted an inner row of smaller saplings parallel with the pine and cedar trees. This project was carried out under the direction of the Governor of Landscaping (later the Governor of Construction) and the maintenance of the newly planted fauna was entrusted to the warrior houses occupying estates along the outer moat and embankment between Ushigome-bashi Bridge and Kuichigai Gate.
 During the late-Edo period, the area was visited by Prussian diplomat Count Friedrich Albrecht zu Eulenburg. In his Record of the Eulenburg Expedition to Japan, he wrote, “Thick rows of fir trees and other conifers line the flat section crowning the castle walls and the walls’ interior section, and thousands of wild ducks inhabit the moats surface.” The rows of pine trees lining the embankment alongside Sanada-bori Moat (present-day Jōchi University Field) provide visitors with a sense of what the outer moat area was like in the Edo period.

現在の真田濠

牛込門枡形石垣の構造[A]|コンコース

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の西口改札外コンコースでは「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を取り上げています。パネルA「牛込門枡形石垣の構造」は枡形ますがたの石垣、石垣の積み方、その内部構造を、日本語と英語で解説しています。

牛込門枡形石垣の構造

牛込うしごめもん枡形ますがた石垣いしがきの構造
 牛込門枡形石垣は、門の左右の石垣が当時のままに残り、その規模や雰囲気が感じ取れる貴重な遺構となっています。また、目の前に見える北側の石垣は、2013(平成25)年に解体・調査が行われ、コンクリートを使用せず、在来工法で修復されたものです。
 これらの石垣は、両脇の石と両面端に密着させる切り込みハギという積み方と、ほぼ横目地が通る布積みが用いられ、整然とした印象をもたらしています。一方、石垣の下部やるいと接する部分は、石の間に間詰め石を入れる打ち込みハギという積み方です。石材としては伊豆半島に分布する安山あんざんがんを主とし、角石には瀬戸内海から運ばれた崗岩こんがん影岩かげいし)の巨石が利用されています。
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
石垣 いしがき。石を積み上げて造った垣。石の塀。防衛や風防、土砂どめ、境界標示のために造る。
解体・調査 加藤建設株式会社の「史跡江戸城外堀跡 牛込門跡石垣修理工事報告」(飯田橋駅西口地区市街地再開発組合・千代田区、2014年)にまとめられています。新宿区の中央図書館と歴史博物館でも読むことができます(しかし、館外利用はできません)。
切り込みハギ きりこみはぎ。切込はぎ。切込み接ぎ。切り込みハギ。石垣は土塁の表面を石で固めて強化する。まず大きな石を加工して形を整え、隙間なく積み上げて、すき間のない石垣ができる。この石垣工法を切込み接ぎと呼び,まだすき間のあるものを打込み接と呼ぶ。切込接ぎを採用するには高い財力と技術力が必要。自然な排水はできず、排水口を設ける工夫も必要。

石垣の積み方

横目地 「目地めじ」は石や煉瓦を積み上げたり、タイルなどを貼ったりしたときできる、接着剤が充填された継ぎ目。道路では横断方向が横目地、

布積み 布積み。ぬのづみ。継ぎ目が横一直線になるように石垣を積む方法。乱積み(らんづみ)は、不規則に積み上げていく。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。


間詰め石 あいづめ石。まづめ石。日本の城の石垣で、大きな石の隙間を埋めるように配置する石。大きな石同士の間に入れやすいよう、小さな石を選ぶ。
打ち込みハギ 石を打ち欠くなどして加工し、石同士の隙間を減らす積み方。加工に手間がかかるが、面積よりも高く急な石垣を造ることができる。
安山岩 日本には大量に分布。美しさや強度の点で花こう岩に及ばず、おもに土木用の割りぐり石や砕石などに利用。
花崗岩 白や淡灰、淡紅の基質に、黒の斑点が散在してみえ、堅牢で、雨や風にも劣化しにく、磨くと光沢が出る。造山帯を特徴づける。

石垣の積み方

位置図

 外堀に面したB面(西面)は、大きさが異なる石材により切り込みハギで積まれていますが、土手に埋められた下段は打ち込みハギによる乱雑な積み方となっています。土塁に続くA面(北面)は、突出部は整然とした切り込みハギですが、土塁に接する部分ではづめいしの打ち込みハギ状で、やや乱雑な印象を受けます。
 一方、枡形内のC面(南面)は長方形、方形の石が隙間なく積まれた美しい切り込みハギで、全面で横目地が通る布積になっています。枡形の内側であり、常に通行人の目に触れる場所であることが、その理由であると考えられます。

B面

布積み・打ち込みハギ

A面

C面

布積み・切り込みハギ

石垣の内部構造
 石垣の内部には、握りこぶしほどの河原石や砕石さいせきで構成されるぐり石が、石垣のうらとして詰め込まれていました。道路に面するC面では、石垣一段積むごとに平坦な石を背面に敷き並べる丁寧な裏込め(IV層)が構築されていますが、下層部のⅢ層では大形のぐり石、上層部のⅡ層では玉石状で握りこぶしほどのぐり石と、その様相が異なっています。なお、最上層は表土(Ⅰ層)となります。この特徴から、この石垣は今までに何度も改修されていたことが判明しました。
砕石 大きな岩石をクラッシャー(粉砕機)で人工的に砕いて作った石
ぐり石 栗石。クリイシ。グリ。「栗石」とは、丸みを持った径が15センチ以下の石。本来は割った物ではない自然な石のことをさす。
裏込め 擁壁などの裏に詰める物。栗石や砂利を詰めることが多い。

平面図

断面図

 Remnants of the stone walls that surrounded Ushigome-mon Gate can be found in their original form on the left and right sides of the Gate. Accordingly, they are important artifacts, which enable visitors to experience the scale and atmosphere of the stone walls that surrounded Edo Castle. During a 2013 archaeological survey, the stone wall on the northern side, which is visible here, was restored using original techniques and materials.
 The stone walls were constructed using a layering method in which stones on both ends were cut and chiseled in straight lines, and then laid in courses so that each stone fit tightly with the others. This was supported by a coursed masonry technique in which side joints passed through most sections of the wall. These methods gave the stone walls a precise, orderly appearance. In contrast, the stone walls’ lower portions and those touching the embankment were constructed using a comparatively imprecise layering technique in which small stones were pounded into gaps between the larger stones. The walls were constructed primarily using andesite from the Izu Peninsula. In addition, large granite stones transported from the Seto Inland Sea were used as cornerstones.
Layering Techniques Used to Construct the Stone Walls
 The wall’s western side (Side B), which faced the outer moat, was constructed using a cutting-and-insertion method in which stones of different sizes were carefully chiseled to ensure that they fit tightly together. In contrast, the lower tier, which was buried under the embankment, was constructed using a comparatively rough pounding technique in which stones of different sizes and shapes were broken and beaten into the wall’s face. Continuing along the embankment, the protruding portion of the wall’s northern face (Side A) was constructed using the aforementioned cutting-and-insertion technique, whereas the section touching the embankment using the pounding technique. As a consequence, the northern face presents a less orderly appearance.
 In contrast, the wall’s south face (Side C), which was located inside the square enclosure surrounding the Gate, was comprised of square and rectangular stones and precisely constructed using the cutting-and-insertion technique. The stones used to construct the south face were carefully layered to ensure that side joints crossed the entire face of the wall. It is likely that this portion of the wall was so carefully constructed because it was located inside the enclosure and a space that those passing through would inevitably see.
The Wall’s Internal Structure
 An examination of the wall’s internal structure reveals that cobblestones approximately the size of a fist, such as river stones and angular rocks, were embedded into it as backfill material. In the portion facing the road (Side C), each layer of the wall was embedded with a separate layer of backfill. The innermost layer (Layer IV) was precisely constructed using a technique in which flat stones were lined on their back. In contrast, the wall’s lower portion (Layer III) is filled with large cobble-stones, while the upper portion (Layer Il) is embedded with gemstone-shaped cobblestones the size of a fist and the outermost layer (Layer 1) is comprised of top soil. The existence of these distinct layers indicates that the rock walls have been repaired and refurbished several times in their history.

牛込門と枡形石垣|史跡パネル⑤

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル⑤「牛込門と枡形石垣」は他の4枚とは少し離れていて、テーマも「牛込門と枡形石垣」となり、「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」とは少々違っています。まあ「牛込門」だけは出ています。写真2枚と図4枚、うちコンピュータグラフィック(CG)は2枚、日本語と英語で解説しています。

牛込門と枡形石垣

史跡紹介解説板

 牛込門は、牛込ぐちとも呼ばれ、1636(寛永かんえい13)年、徳島とくしまはんしゅはち須賀すか忠英ただてる御手おてつだいしんで担当して築きました。牛込門の構造は、「江戸えどじょうえず絵図えず」に描かれているように、石垣を方形ほうけいにめぐらし、ばしから入る「かぶもん」(高麗こうらいもん)と、わたりやぐらを頂く「おおもん」の、二重の門を配置する枡形ますがたもんでした。「冠木門」から枡形内へ敵が侵入しても、「大御門」ではばみ、渡櫓と方形にめぐらした石垣から一斉に攻撃できる仕組みとなっていました。
 1872(明治5)年、旧江戸城をじょうかくとして管轄かんかつすることになった陸軍省は、こうじょう守衛しゅえいの観点から城門の存廃そんぱい方針を定め、外郭21門の廃止を決定し、東京府に引き継ぎました。東京府は、市街地整備の観点から、城門や渡櫓、枡形の石垣や土塁の撤去を進めました。
 牛込門は、渡櫓撤去後、1902(明治35)年に枡形石垣の一部が撤去されましたが、東西の石垣が残り、現在の姿になりました。当初の枡形の形状を、道路面にそうで表現をしており、この場所から、枡形の形状を眺めることができます。
 なお、石垣の構造は、当駅の駅前広場にて解説しています。現在、石垣の脇に保存される角石には、「[蜂須賀」わのかみのうち」と、枡形築造に当った蜂須賀忠英の刻印が残されています。
徳島藩 阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島・沼島)の2国を領有した藩
御手伝普請 豊臣政権江戸幕府が大名を動員して行った土木工事
江戸城御門絵図 江戸城御外郭御門絵図。江戸城外郭26図の全体図と番所の平面図を折本に仕立てたもの。奥書は享保2年 (1717)10月。
方形 四角形。
冠木門 左右の門柱を横木(冠木)によって構成した門
高麗門 正面左右の二本の本柱に切妻きりづまの屋根をかけ、これと直角に控柱を本柱の背後に立てて切妻屋根をかけたもの。城郭の外門などに多く見られる。
渡櫓 左右の石垣にまたがらせて造ったやぐら
大御門 おおみかど。「門」の尊敬語。特に皇居の門。
枡形門 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
城郭 城の周囲に設けた囲い。城壁。城と外囲い。外敵を防ぐための防御施設。とりで。
皇城 天皇の御所。宮城。皇居
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
舗装で表現 実際の枡形石垣がいた場所を舗装の変化を使ってわかりやすくしています。

枡形石垣があった位置

枡形防御の仕組み

枡形石垣。枡形門の位置は二角(⭕️)ではわかる。

実際の枡形石垣があった場所

実際の枡形石垣があった場所

角石 方形に切った石。四角な石材。岩石学辞典では緻密で珪酸質の岩石の一般名

  Also known as the Ushigome Gateway, Ushigome-mon Gate was constructed in 1636 under the direction of Hasuchika Tadateru, the lord of Tokushima domain. As described in the Illustrated Maps of Edo Castle’s Outer Gates, Ushigome-mon Gate’s inner section was surrounded by stone walls, which were arranged in a square shape to form an enclosure. It was comprised of two gates: a Korean-style outer gate, which led to a square courtyard and could be entered from the earthen bridge, and a large, two-story inner gate containing a timber-framed gatehouse. Even if enemy forces successfully penetrated the outer gate and entered the courtyard, they were prevented from entering the castle grounds by the large internal gate. Ushigome-mon Gate’s design enabled forces defending the Castle to attack the enemy from the walkway in the gatehouse’s upper tier and positions atop the stone walls surrounding the courtyard.
  In 1872, the Ministry of the Army assumed control of Edo Castle and were tasked with protecting the Imperial Palace. After taking control, they announced that many of the existing gates would be torn down in the name of security. Ultimately, they order the removal of 21 of the outer gates. The Ministry of the Army then assumed responsibility for guarding and maintaining the gates that remained in place. In an effort to develop Tokyo’s urban infrastructure, the Tokyo prefectural government moved carried out the actual work of removing the castle gates, elevated walkways above the gates, stone walls that surrounded many of the gates, and the earthen fortifications in their vicinity.
  In 1902, after the elevated walkway above Ushigome-mon Gate had been removed a portion of the stone walls surrounding its inner sections were torn down. However, the eastern and western walls were left in place and remain in existence today. The original form of the square courtyard that surrounded the gate is indicated by the surface of the road constructed in its place. It enables visitors to grasp the layout of the square courtyard that surrounded the Gate’s inner portion.
  The exhibit on the first floor provides a detailed description of the stone walls’ struc-ture. A cornerstone retrieved from the side of one Ushigome-mon Gate’s stone wallsis emblazoned with two seals: those of Hachisuka lemasa and Hachisuka Tadahide, who supervised. the construction of Ushigome-mon Gate’s walled courtyard.

神楽坂(新宿区)側に残る橋台
The Remained Bridge Stage Beside Kagurazaka
 1989(平成元)年の地下鉄南北線工事における発掘調査で、牛込うしごめばしの新宿区側の橋詰に高さ9.5mの牛込うしごめつけの土橋の石垣が確認されました。石垣は軟弱な地盤の下位にある強固な砂層地盤を支持層としてはしどうを敷いた上に築かれており、弱い地盤施工する際の工夫がうかがえます。その他、当時の土橋の側溝の構造がわかる遺構なども発見されています。

  An archaeological excavation carried out in 1989 in conjunction with the construction of Tokyo’s Nanboku Subway Line uncovered a 9.5-meter-high stone wall from the Shinjuku Ward-side approach to Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. The stone wall was constructed on top of a crib base, which served as a support layer for the hardened stratum of sand comprising the bottom tier of the site’s weak foundation. This discovery provides us with insight into the techniques used during the Edo period when building on sites with an unstable foundation.

橋詰 橋が終わっている所。橋のきわ。主に橋の架け替え用地、災害時の一時避難場所、材料置き場・交番等の敷地としての空間(関東大震災後の復興事業で制度化)
梯子胴木 長手の木材に梯子のように短い木材を一定間隔で置いてつなげた工法

側溝 道路や鉄道の側端などに設けられる小水路排水のために設置される溝。道路にたまった雨水などを排水するためや、民地の用水路・排水路として設置する。

写真 牛込御門(「旧江戸城写真帖」東京国立博物館)
Picture: Ushigome-mon Gate (The Photobook of Old Edo Castle. Tokyo National Museum)
牛込門橋台石垣位置

牛込門橋台石垣位置

橋台 きょうだい。橋の土台の部分。

牛込門橋台石垣イメージCG

牛込門橋台石垣イメージ

牛込門・牛込駅周辺の変遷|史跡パネル④

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル④は「牛込門・牛込駅周辺の変遷」です。写真3枚と図2枚を掲載し、日本語と英語で解説しています。

牛込門・牛込駅周辺の変遷

牛込うしごめもん・牛込駅周辺の変遷
The Transition of Usigome-mon Gate and Ushigome Station Areas

 外堀そとぼりは、1660(まん3)年、牛込・和泉いずみばし間の堀さらいが行われ、外堀(神田川)をさかのぼって、牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸かしができました。牛込橋東側の堀端ほりばたには、あげちょうの「町方まちかたあげ」と御三家のひとつである「わり様物さまぶつ揚場」があり、山の手の武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶかるが、「軽子坂」を往来したといわれています。
 牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国ぜんこく沙門しゃもんてん)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町屋が建ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。
 明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡がげいおきや料亭となり、神楽かぐらざか花街はなまちが形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが建てられました。
 牛込土橋東側の堀は、1984(昭和59)年、再開発事業により暗渠あんきょとなり、現在に至っています。また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・くいちがい間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公園として歴史的ふうが保全されています。
和泉橋 千代田区神田を流れる神田川にかかり神田駅に近く昭和通りの橋。。
堀さらい 水路清掃のため堀の土砂・ごみなどを取り除くこと
河岸 江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の港
堀端 堀のほとり。堀の岸
町方揚場 「町方」は江戸時代の用語で,村方・山方・浦方などの地方(じかた)や、武家方・寺社方に対する語。「揚場」とは船荷を陸揚げする場所。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んでもっこのようにつくったかると呼ばれる運搬具を用いた。
毘沙門天 多聞天。サンスクリット名はVaiśravaṇa。仏法を守護する天部の神。
寺町 寺院が集中して配置された地域。寺院や墓地を市街の外縁にまとめ、敵襲に際して防衛線とする意図があった。
芸妓置屋 芸妓を抱えておく家。揚屋、茶屋、料亭などの迎えに応じて芸妓の斡旋を業とする。置屋。
花街 はなまち。かがい。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。
暗渠 地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路。暗溝。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


土塁 どるい。敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁

喰違 喰違見附。江戸城外郭門で唯一の土塁の虎口(城郭の出入り口)。紀尾井ホールの筋向かいにある。
土手公園 昭和2年8月31日「東京市立土手公園」として開園。当初は新見附から牛込見附までの長さ300間(約550m)(大日本山林会報)の公園だった。
外濠公園 昭和7年12月17日、「土手公園」を「外濠公園」と改称。(都市計画東京地方委員会議事速記録)。区域も変更し、牛込見附から赤坂見附までの細長い公園に。現在は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までに。
風致 自然の風景などのもつおもむき。味わい。

 In 1660, the section of the outer moat located between Ushigome-bashi and Izumi Bridges was dredged. This made it possible for boats to travel up the outer moat (Kanda River) to Ushigome-bashi Bridge. In addition, banks were constructed on both sides of the Kanda River. The bankside area on the eastern side of Ushigome-mon Bridge was home to the Agebachō neighborhood’s “community landing,” and “the Owari House Landing,” which was controlled by the Owari, one of the three branches of the Tokugawa clan. Both sites were used to offload arriving cargo. Porters transporting firewood and charcoal to warrior estates and commoner neighborhoods in the Edo’s Yamanote area are said to have traveled from these moat-side landings up an incline known as Hill of Karuko.
 Entering the castle grounds from Ushigome-mon Gate, warrior estates lined the street. The area located at the foot of Zenkoku Temple between the moat banks and present-day Kagurazaka was home to warrior estates and, on the Waseda side, there were Buddhist temples. Commoner residences lined the space in front of the temple gates and the area emerged as one of Edo’s most bustling sites.
 Entering the Meiji period, unoccupied former warrior estates outside the castle walls on the Shinjuku Ward side came to host restaurants and establishments employing geisha entertainers and courtesans. This led to the establishment of the Kagurazaka pleasure quarter. In contrast, schools and other institutions were constructed on the grounds of abandoned warrior estates inside the castle wall on the Chiyoda Ward side.
 In 1984, the moat on the eastern side of Ushigome-bashi Bridge was enclosed in conjunction with a local reedevelopment project. It remains covered today. In addition, in 1911, the government presented a plan to transform the portions of the moat embankment in the vicinity of Ushigome-mon Gate that survived the construction of the railroads into a public park and preserve remaining portions of the outer moat between Ushigome and Kuichigai as a pedestrian walkway. This resulted in the creation of Tokyo Dote City Park, which was founded in 1927. Even today, historic landscapes located inside the area officially designated as a national heritage site have been preserved in the form of Sotobori Park.

図 牛込神楽坂
画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。

図 牛込揚場(江戸土産)
牛込御門外北の方 ふね原橋わらばしより南のかたちょう第宅ていたくのきを並べ 東南の方は御堀にて材木および米噌はさらなり 酒醤油始め諸色を載てここに集へり 船丘をなせり 故に揚場名は負けらし これより四谷赤坂辺まで運送す 因てこの所の繁華山の手第一とせり

写真 1905年頃の神楽坂下

牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

写真 1959年の神楽坂下
神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち(やらせ? 他にも色々な論争が発生しています)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

写真 牛込濠の桜

鉄道写真と飛行機写真の撮影紀 トーキョー春爛漫

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅|史跡パネル③

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル③は「甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅」です。写真5枚(うち空中写真が1枚)、図は1枚で、日本語と英語で解説しています。

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅

こう鉄道てつどう国有化・複々ふくふくせんと飯田橋駅
The Nationalization of Kobu Railways and Construction of Multiple Lines and Iida Station

 1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1909(明治42)年に中央東線(1911(明治44)年に中央本線に改称)の一部となりました。
 甲武鉄道の乗客数は、開業した1894(明治27)年には85万8千人、翌年には242万2千人と急増していました。大幅に増えた旅客輸送に対応するため、汽車・貨物と電車の分離を目的に、1922(大正11)年から複々線化工事が行われました。複々線化の際、牛込うしごめえき下りホーム等が支障となったため、1928(昭和3)年に電車線のいいまちえき(現在の千代田区飯田橋三丁目)と統合する形で、そのちょうど中間となる曲線位置に飯田橋駅が開業しました。
 開業当時の飯田橋駅は両端に出口があり、東口側は高架駅のような構造になっている一方、西口側は橋上の駅舎でした。この西口は旧牛込駅の利用者に対して影響が少なくなるよう設けられたものであり、長い通路が造られ、2016(平成28)年まで使用されていました。駅の屋根は古レールを使って作られ、現在もホーム上から確認することができます。
 飯田橋駅のホームは急曲線にあったため、車両の大型化に伴いホームと電車の間には広いすきができていました。2020(令和2)年に、ホームを牛込駅があった市ヶ谷駅寄りの直線部分に移設し、より安全な直線ホームに改められました。あわせて、地域のシンボルとして史跡を活かした駅前広場や駅舎が整備されました。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
駅の屋根は古レールを使って 屋根だけではなく、あらゆるところに古レールを使っていました。Golgodenka Nanchatte Researchでは……

レール

柱はホーム中央に1本の架構パターンと2本の部分に分かれており、2本が1本に集約される端部では梁の納まりにこれまた独特の古レールの絡み具合が見られる。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景
冒頭でも触れた西口への通路も古レールが下部構造に大量に使用されている。まるで線路上から撮影したような写真であるが、あくまでもホーム上から撮影したものであり、ホームの曲がり具合が相当のものであることを実感できる。奥に見える下駄ばきの建物が西口の駅舎である。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

同通路を西口改札外の牛込橋付近より見下ろす。これだけの長さで立ち上がる古レールが延々と続くのは壮観である。しかし、現在の耐震基準ではまずアウトではなかろうかと思われる華奢な架構とも言える。一体どのような構造計算の結果で OK となったのだろうか。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

 Kōbu Railway was nationalized in 1906 and became part of the Chūōtō Line in 1909. Two years later, the Chūōtō Line’s official name was changed to the Chūō Main Line.
 In 1894, Köbu Railway’s ridership numbered 858,000. By the following year, it had nearly tripled to 2,422,000. In 1922, additional lines were constructed in order to accommodate the line’s rapidly expanding ridership and to separate the steam and freight lines from the electric passenger lines. In 1928, Ushigome Station was merged with Iidamachi Station (present-day Chiyoda Ward Iidabashi 3-chome) because the platform for its outbound line obstructed the construction of the additional lines. This led to the creation of Iidabashi Station, which was located along a curve section of track equidistant from Ushigome and Iidamachi Stations.
 At the time of its opening, there were entrances at both ends of Iidabashi Station. While the eastern side had an elevated, viaduct-like structure, the eastern portion was located on a bridge. In order to accommodate passengers who previously boarded the train at Ushigome Station, a long passage connecting Iidabashi Station with its western entrance was constructed and remained in use until 2016. The Station’s roof was constructed using old pieces of rail track. These sections of the roof are visible today from the station platform.
 Because Iidabashi Station was located along a sharp curve, the construction of larger rail cars resulted in a wide gap between the platform and trains that served the station. In 2020, the platform was relocated to the straight section in the direction of Ichigaya Station previously occupied by Ushigome Station. This narrowed the gap between the platform and trains and made it safer for passengers to board. In conjunction with the platform’s relocation, a station-front plaza and station XX, was constructed.

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

手前が都電の走っていた外堀通り、左下が神楽坂方面。牛込濠と中央線の線路を越えてゆく橋が牛込橋。橋の下から右の濠端にかけてが旧・牛込駅の跡地である。橋の上に飯田橋駅の西口駅舎がある。そこからゆるやかに左へ下る長いスロープの通路とカーブを描いた飯田橋駅が見える。その先のカーブ右側一帯が旧・飯田町貨物駅。駅の左側の小さな水面 が旧飯田濠で、現在は埋め立てられて「セントラルプラザ・ラムラ」のビルが建っている。昭和38年11月8日 写真:三宅俊彦、三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

地図・空中写真閲覧サービス コース番号 M698 写真番号 99 1947/12/20(昭22)撮影高度 1524m 焦点距離 154.000mm 撮影計画機関 米軍

写真 昭和初期の牛込見附・飯田橋駅西口

写真 昭和初期の牛込濠と土塁の様子

写真 飯田橋駅旧西口通路
 飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

牛込駅|史跡パネル②

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル②は「牛込駅」です。写真は6枚、図は2枚、コンピューターグラフィックス(CG)1枚で、日本語と英語で解説しています。

牛込駅

牛込うしごめえき
Ushigome Station

 1894(明治27)年10月9日にとう鉄道てつどうがいせんの新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が開業しました。この牛込駅は翌年4月3日のいい町駅まちえき開業までのわずか半年の間ですが、甲武鉄道の始発駅として活躍していました。
 牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあたりとなります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線快速のあたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。
 駅の改札口は現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、駅のこ線橋から階段で土手どてを上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。その駅舎脇にあった土手の擁壁ようへきが現在でも外濠そとぼり公園こうえん入口の付近にそのままの姿で残っています。一方新宿区側は、牛込見附のばしの脇を埋め立てて道路が塾備され、せきの水路付近に設置された小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
2方向に 正しくは、当初は新宿区側の出口だけで、遅れて跨線橋と千代田区側の出口が出現。(註:牛込駅の通路新設
こ線橋 跨線橋。こせんきょう。鉄道線路の上をまたぐような形で架けた橋。渡線橋。
擁壁 土圧に抵抗して土の崩壊を防止する土止め壁。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 川を横切って流水をせき止める施設。水を取るため、また、水深・流量の調節のため、川の途中や流出口などに設けて流水をせき止める構造物

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

  Ushigome Station opened on October 9, 1894, the same day that Kōbu Railway initiated service between Shinjuku and Ushigome Stations. Before Iidama-chi Station opened on April 3, 1895, Ushigome Station served as the starting station on the Kōbu Line.
  Ushigome Station was located on the portion of present-day Iidbashi Station that extends from Ushigome Bridge in the direction of Ichigaya Station. At the time, portions of the outer moat were reclaimed in order to construct the station house and train tracks. Ushigome Station’s platform was located on the site currently occupied the JR Chuo Rapid Transit Line. In addition, the station house was constructed on the site currently occupied by the JR Chuo and Sobu Local Lines.
  Ushigome Station had two ticket gates. One was located on the present-day Shinjuku Ward side and the other was located on the Chiyoda Ward side. The gate building on the Chiyoda Ward side was constructed facing the road alongside the outer moat’s embankment and could be accessed by a staircase that rose from the Station’s rail bridge and climbed the embankment. A retaining wall from a section of the embankment next to the station house remains in place today in the vicinity of the entrance to Sotobori Park.
  On the Shinjuku Ward side, a road was constructed on land reclaimed from alongside Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Thereafter, Ushigome Station could be reached via a small pedestrian bridge, which was erected near the aqueduct attached to Ushigome-mon Gate’s weir. Today, portions of the foundation that supported the pedestrian bridge remain in place and are visible from Iidabashi Station’s platform and atop Ushigome Bridge.

牛込駅と土橋

 上と同じような写真はありませんが、ただし、三井住友トラスト不動産の写真「牛込駅」の開業が似ています。説明では「写真は明治後期~大正期の撮影で、手前が『牛込駅』の駅舎、その北(写真では上)に『牛込濠』が広がり、その先が『神楽坂』の入口となる。『牛込駅』から『神楽坂』の入口までは『牛込見附』の坂の隣に通路・橋が設けられており、坂を通らないで行き来することができた」

「牛込駅」の開業。三井住友トラスト不動産

 手前の駅舎と牛込濠の間にある立派な瓦屋根の建物は本屋でした。

牛込駅のCG

牛込駅見取り図

牛込駅駅舎

① 写真 牛込駅駅舎

牛込駅。法政大学専門部商科卒業アルバム(1929年3月)所載。牛込駅は1928年11月廃止。HOSEIミュージアム。

写真 現在の牛込駅駅舎跡

現在の牛込駅駅舎跡

2024/09/02の牛込駅駅舎跡

②写真 現在の外濠公園入口

現在の外濠公園入口

2024/09/02の外濠公園入口

牛込駅

③図 跨線橋立体図

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

④写真 関東大震災直後の牛込駅

関東大震災直後の牛込駅

 国立映画アーカイブで、上の「駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族」(映画)が残っています。キャプションは「被災した牛込駅や焼失した車両とともに、無蓋貨車に避難した一家の中に、幼少期の三木鶏郎の姿が写っている」。ひらがなの「うしごめ」の後ろで倒れた家は本屋でしょう。牛込濠の向こう側にある牛込区の建物は無傷に見えます。
 映画の「地割れした牛込駅前の道」のキャプションは「牛込駅とその手前の道に発生した地割れの様子。当時中央本線の駅舎は万世橋駅(煉瓦造)を除いて木造であったが、牛込駅付近は火災を逃れ、駅舎についても焼失ではなく倒壊の被害が報告された」。倒れた本屋が写っています。新宿区側(連絡橋付近)から見た牛込駅です。

⑤写真 連絡橋レンガ擁壁遺構

連絡橋レンガ擁壁遺構

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」(1972年)の「首都圏の鉄道と駅の写真」「駅市谷側」には連絡橋があり、実際に使われていたようです。ただし、この橋は橋脚よりかなり幅が狭く、おそらく牛込駅の現役時代には、もっと幅の広い橋が架けられていて、戦災で橋は焼失し、戦後に管理用の橋が架けられたのでしょう。

 また、「ひとりごと 主に鉄道工事現場・車両改造を観察した内容を紹介するページJR飯田橋駅改良工事(その26)の最後に「余談ですが、濠にちょっと出っ張った部分があります。旧牛込駅の連絡橋の擁壁遺構なのだそうです。草むらで覆われていますがよく見るとレンガ造りの遺構が見えます」と書かれています。

JR飯田橋駅改良工事

JR飯田橋駅改良工事

牛込門と土塁

文学と神楽坂

 旧飯田橋駅の西口では南西に向かって駅を出るのが普通でした。では、南東に行くのは? これは全くできませんでした。ところが、新飯田橋駅では西口出口から南東に行く方法ができるようになったのです。
 飯田橋駅の東部では現在、飯田橋二・三丁目地区や富士見二丁目3番地区が再開発中です。この地域で将来の人口は今よりもさらに巨大になるのでしょうか。

JR東日本。かつては南東に行く方法 (赤の四角)はありませんでした。

2022年9月 Googleではまだ工事中

 2009年はまだ店舗が沢山ありました。右に店舗、左は見附の一部。

現在の飯田橋駅西口

 現在、西口から北東の階段を降りると、そこは牛込門の北側です。「牛込門と土塁」の解説板が出てきます。解説板の更新日は2023年11月10日でした。つまり、初めて設置したのが23年11月10日だったのでしょう。

牛込門と土塁

牛込門と土塁

牛込門うしごめもんるい
Ushigomemon Gate and Embankment
 1636年(寛永13年)、将軍は諸大名に命じて、虎ノ門から時計回りに浅草橋門に至る外堀を構築し、翌年、芝でおおった土手松杉の苗を二列植えさせました。松杉は土手のすそから九尺(約2.7m)上がった位置に、一間(約1.8m)間隔で、外側には大きめ、内側には大小とりまぜ、互い違いになるよう植樹し、どめ遮蔽しゃへいの役割を担わせました。
 牛込門枡形ますがた石垣から東に伸びる土塁は、古写真によると堀側はなだらかな土手、門の内側(江戸城側)は、芝に松が繁る景観として「江戸風景」に描かれています。明治になると、道の拡幅や鉄道の開通により土手は数度にわたり削り取られましたが、地中には、土を板とでつき固める版築はんちくと呼ばれる工法で構築された江戸時代の土塁の一部が残っています。
 ここでは、松杉が植された土塁のイメージを再現しています。

家光 徳川家光。江戸幕府の第3代将軍。参勤交代やキリスト教の禁圧などを整え、政治的権威の伝統化をもたらした。
虎ノ門から時計回りに浅草橋門に 下図を参照。

土手 川などがあふれて田地や家屋に流入するのを防ぐために、土を小高く積み上げて築いた長い堤
松杉 しょうさん。松と杉。松の木と杉の木
土留め 斜面の土砂が崩れ落ちるのを防ぐために柵などを設けること
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。


江戸風景 大正4年、四代目の歌川広重(本名は菊池貴一郎)氏による『江戸風景』上下2冊。
 きね。うすに入れた穀物をつく道具。
版築 はんちく。板枠の中に土を入れて突き固め、層を重ねてつくる方法。板などで枠を作り、間に土と少量の石灰や凝固材を入れ、たたき棒などで、土を硬く突き固める。→動画
植された土塁

土塁の上部に松などの植林

 In 1636, Iemitsu, the third Tokugawa shogun, commanded domanial lords from around the country to construct an outer moat around Edo Castle. The following year, two rows of pine saplings were planted on the grass-covered embankment lining the outer moat. The outer row was comprised of large saplings, which were planted 2.7 meters from the embankment edge at intervals of 1.8 meters. The inner row consisted of an alternating series of large and small saplings arranged in a similar pattern. These rows supported the embarkment and shielded the castle.
 The portion of the embankment extending east from Ushigomemon Gate can be divided into two sections: one located along the outer moat and the other located inside the Gate. Photographic evidence indicates that the section lining the outer moat was a gentle earthen bank. The section inside the Gate is depicted in Views of Edo as a grass-covered landscape dotted with pine trees.
 During the Meiji period (1868-1912), the construction of wider roads and rail lines reduced the size of the embankment.
Underground, however, portions of the outer moat’s embankment, which constructed during the Tokugawa period using the ancient rammed earth (hanchiku) method, remain intact.
 This display recreates the earthen bank and rows of pines, which were located to the east Ushigomemon Gate’s box-shaped stone walls.

旧江戸城写真帖牛込見附図」1871年
 蜷川式胤編(編集)横山松三郎(撮影)高橋由一(着色)東京国立博物館蔵
 神楽坂側から牛込見附を撮影した写真で、土塁が堀に面していた当時の姿が船と共に写されています。

牛込門

江戸風景上」1915年、菊池貴一郎、国会図書館蒇
 四代広重(菊池貴一郎)が書き留めた幕末から明治期の牛込見附とそれに連なる土塁の風景です。

「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国麴町区飯田町及小石川区小石川町」1883年,参謀本部、国土地理院藏,一部加筆

五千分一東京図測量原図

 正確に方位を直し、五千分一東京図測量原図をもう一度描くと……

参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」明治16年(複製は日本地図センター、2011年)

外堀の変遷|史跡解説板4

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()の4枚目は「外堀の変遷」です。外堀は江戸城の防御が本来の役目ですが、他にも浮世絵の背景、舟船の輸送路、さらに江戸城がなくなっても、甲武鉄道と外堀の絵葉書として登場します。さらに明治では、新しい「新見附橋」もできています。

外堀の変遷

外堀そとぼりの変遷
The Transition of the Outer Moat

 外堀は江戸城防御の役割だけではなく、豊かな水辺空間として当時から江戸市民に親しまれ、名所絵などの浮世絵にも多く描かれました。「名所めいしょ江戸えどひゃっけい」(広重ひろしげ」・1856(安政あんせい3)年—1858(安政5)年)には、市ヶ谷八幡の門前町あんぜんまちが堀端に広がり賑わう景色が、外堀とともに描かれています。また、「富士ふじさんじゅう六景ろっけい」(広重・1858(安政5)年)には、御茶の水の懸樋かけどいしたを、荷物を載せた船が往来する様子が描かれ、外堀が物資輸送路としても使われていたことがわかります。
 明治期以降も外堀はけいしょうとして受け継がれました。1893(明治26)年、地域有志者からの寄付金により、ばんちょうより市谷いちがやまちに通じる新道(現・しんつけ)開設願いが出され、こう鉄道の延伸工事と一体で建設されることとなりました。
 1894(明治27)年に開通した甲武鉄道と外堀の風景は絵葉書などに多く取り入れられました。1911(明治44)年には、牛込からくいちがいまでの土手遊歩道を江戸城外堀として永久に保存するため公園とすることが計画され、1927(昭和2)年に牛込橋から新見附橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設されました。なお、甲武鉄道や近代の牛込濠周辺の変遷については、駅舎2階に解説板を設置しています。
懸樋 かけどい。懸け樋。地上にかけ渡して、水を導くとい
景勝地 景色がすぐれている土地。勝地、行楽地、観光地、保養地、避暑地、リゾート
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。

 More than just a component in Edo Castle’s defense structure, the outer moat was also a verdant, waterside leisure space much loved by city residents. Depictions of the outer moat were frequently included in Tokugawa-era collections of woodblock prints. One famous collection entitled the One Hundred Famous Views of Edo, which was composed between 1856 and 1858 by the artist Hiroshige, includes a print depicting the outer moat and bustling, moat-side cityscape in the vicinity of Ichigaya’s Hachiman Gate. In a separate collection entitled Thirty-Six Views of Mount Fuji from 1858, Hiroshige depicts a cargo-filled boat passing under the outer moat’s Ochanomizu Acqueduct. This tells us that the moat was also a functional space used to transport goods around the city.
  After the 1868 Meiji Restoration, the outer moat continued to be considered a scenic area and a residential district was constructed on the moat’s Shinjuku side. Following the construction of the Köbu Railway in 1894, the Railway and surrounding outer moat area frequently came to be featured in postcards. In 1911, the authorities presented a plan to preserve Edo Castle’s outer moat as a public park. Specifically, the plan called for the construction of a pedestrian walkway along the embankment extending from Ushigome to Kuichigai. The plan came to fruition in 1927 with the construction of Tokyo’s Dote City Park, which extended from Ushigome to Shinmitsuke Bridge.
  For more information about the Kōbu Railway and Ushigome Moat’s modern development, please visit the history plaza on the second floor.

写真 土手公園 この写真は「日本地理風俗大系 II」(新光社、昭和6年)でも「日本地理風俗大系 第1改訂版」(誠文堂新光社、昭和11年)でもありませんでした。
写真 市谷濠
写真 現在の旧土手公園
図 四ツ谷御門外 だいじょうけんに してほかばんの しょうきゃく住むこと いずれの口もことなら ねど、わきこうしゅう 街道かいどうよりるの くちにして、かの玉河たまがわの じょうすいひく大樋おおとい あり。千歳せんざいきゅうの 仁計じんけいあおぐ べしとうとむべし
図 市ヶ谷八幡

牛込見附のせきに用いられていた石
 この解説板の横に置いてある石は、牛込見附ばし構築こうちくされていた堰の水路面に使用されていたもので、駅舎工事にあたり発掘されました。発掘結果や当時の堰の様子をうかがい知れる史料などを、JR飯田橋駅ホーム上(実際に堰が発見された位置となる牛込橋の真下付近)で解説しています。

 せき。河川の流水を制御し、水を取り入れるために、川の流れをさえぎって造る構造物。水力発電用ダムや堤防の機能はない。

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

The Stone Used to Construct Ushigome-dobashi Bridge’s Weir
  The stone located next to this installation was used to construct the weir located under Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Portions of the weir were discovered during the construction of lidabashi Station. Documents detailing what was discovered at the site and describing the weir’ s appearance can be found at the exhibit on the platform at JR lidabashi Station. The exhibit is located in the vicinity of the site under Ushigome-bashi Bridge, where the weir was actually discovered.


箪笥町(写真)ID 18243 平成26年

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18243は平成26年(2014)に箪笥町などを撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18243 牛込神楽坂駅。箪笥町から牛込神楽坂駅を望む

 左手前は牛込区役所・牛込生活館のあった場所で、現在は箪笥町特別出張所、牛込箪笥区民ホール、牛込箪笥地域センター(集会室など)が集まる区民施設です。ここには地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」のA1出口があります。

 左手の先には「グローバル新神楽坂」(地上12階)、「パークハウス牛込神楽坂」(地上13階)、「キッチンコート神楽坂店」と続きます。
 右手には「日米Time24ビル」(地上10階、地下1階)、「アーバンライフ神楽坂」(地上8階)、「山文ビル」(地上10階)、白色と緑色が印象的な「ルネ神楽坂」(地上17階)があります。

飯田橋(写真)駅ホーム ID 18226 令和6年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18226は令和6年(2024年)、飯田橋駅ホームから見た外堀などを撮影しました。以下は地元の方の解説です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18226 令和6年

 写真下から順に見ていきます。

ID 18226から

 手すりの手前はJRの線路敷きです。小さな四角い石が並んでいるのは、鉄道の通信線などを収容するトレンチ(側溝)。手すりの間の大きな四角は、西口の旧駅舎を支えていたコンクリート脚を撤去した後です。
 その奥の一段、下がったコンクリート部分は牛込濠から飯田濠へ流路(どんどん)の護岸部分です。この構造は、駅改築前のID 8267やID 8286に、わずかに写っています。
 写真に戻って、中央の緑の水面が飯田堀。右の石垣は、飯田堀再開発の埋め立て地です。左奥は飯田濠の水を下流の神田川に流す暗きょの入り口。
 中央の橋は、牛込橋の土堤と飯田濠の埋め立て地を結ぶ「みやこばし」です。手すりは金属製で、細かな透かし模様があります。
 写真右上、右側のセントラルプラザの「ラムラ」には「RAM(LA)」の丸屋根、「TOMAS」「Can★Do」「日産レンタカー」「伸芽会」「北海道」などの壁面看板があります。その向こうは外堀通りを挟んだ「神楽坂一丁目ビル」です。
 この付近を令和4年(2022年)に撮影した写真があるので、以下添付します。わずかの間に手すりなどが整備されています。

飯田堀の開渠部(2022年)

飯田橋分水路工事(写真)ID 14812〜15 昭和52年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 14812-15は昭和52年(1977年)、飯田橋分水路の工事を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14812、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14813、飯田橋分水路工事、昭和52年

 神田川沿いの目白通りを東向きに撮影しています。ID 14812は右端に「石切橋」の交差点表示と信号機。左の先に石切橋があり、神田川を渡っています。目白通り沿いには写真奥に向けて「三菱石油」「共立」の看板。さらに奥のビルの「◯AN」は、ID 14813の「TO」と併せて「TOPPAN」(凸版印刷)でした。
 首都高速道路はT型橋脚で、「非常駐車帯」の出っ張りが路面を覆うコンクリートに影を落としています。分水路の工事が終わったあとでしょうか。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14814、飯田橋分水路工事、昭和52年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14815、飯田橋分水路工事、昭和52年

 ID 14812-3とは逆で西向きの撮影です。首都高のT型橋脚は右側が長く、神田川の上にせり出しています。ID 14815は手前の交通信号のある橋橋を自動車が渡っていて、これは「古川橋」です。さらに奥に向けて「掃部かもんばし」と「はなみずばし」と「江戸川橋」と続きます。

 ID 14814の左に「三菱銀行」の江戸川橋支店の看板があります。この支店は2020年10月26日に統合(廃止)され、現在は三菱UFJ銀行神楽坂支店内です。

太田運八|大田南畝ではない狂歌(3)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。これも大田南畝ではない狂歌です。

 あるとき牛込赤城下を通りかかった。ところが、太田運八という武士が、駕先を横切ったといって、烈火のごとく怒り、無理難題をふっかけて来た。「何者ぞ名をなのれ」と、詰めよった。蜀山人はおくすることなく、懐紙をとり出して、すらすらと一首をしたためた。
  やれまてと、いわれて、顔も赤城下
     とんだところで、太田運八
くだんの武士これを読み破顔一笑きびすをかえすと立ち去った。

 半仙散人「ねぼけ先生」(福井春芳堂、明治34年)では……

   ◎顔も赤城下
 牛込赤城下にて、太田運八といえる駕籠先を切て、いたく咎められたる時、蜀山がわびの狂歌は
   やれまてと云はれて顔も赤城下
       とんだところでたほ運八うんはち

 ねぼけ庵主人氏の「頓智頓才蜀山人」(山口屋、大正3年)では……

   ◎五郎べ二人で十郎兵衛
 ある時、八丁堀の太田主水もんどという与力が、手先五郎兵衛を連れ、何か調べ物があって牛込赤城下を通りかかると、南瓜かぼちゃ五郎兵衛が前方から来たのを見かけた。太田主水は突加
「五郎兵衛得てっ」
と声を掛けると、五郎兵衛失敗しまったと思うと、その途端に真赤になった。
「それ取押えろ」
 太田主水が手先五郎兵衛に烈しく下知げじを下すと南瓜五郎兵衛ひらりと身をかわし、元の来た道へ疾風の如く逃げ出した。(略)赤城下は大変な騒ぎで人の黒山が築かれた。その中に交じった蜀山先生は、かねて主水とは知り合いの中なので、人を押し分けて進み出て
「太田氏お役目ご苦労」
「これはこれは蜀山先生でござったか、誠にしばらくでござる」
「それはお互いじゃ。しかしお変わりがなくて結構」
「有難うござる」
「時に只今の賊はなんという奴でござる」
「いや、あれは——先生なぞ名をご存知もござるまいが——おにあざみ清吉の子分南瓜五郎兵衛という大賊でござる」
「ははあ、あれが今お尋ね者の南瓜五郎兵衛でござったか、あいつ、今尊公に呼び留められて赤くなりましたな」
おおせの通り」
「そこで太田氏、
    やれ待てといはれて顔を赤城下
         飛んだ所でおほたもんど◯◯◯◯◯◯
いかがでござる」
「これはどうも即吟そくぎん、しかし、かような中で恐れ入りました」
下知 げじ。下に対して命令を伝える文書

 西郊散史氏の「頓智三名人:一休和尚・曽呂利・蜀山人」(盛陽堂、大正13年)では……

   ◎蜀山の赤面
 蜀山人は、常に狂歌三昧で、浮世を茶にして渡ったので、とかくに家政は困難で、ややとすれば、借金には、苦しんだことである。
 ここに、太田雲平というものがあったが、蜀山人は、このものから、金を借りたところ、急に返済ができぬので、大分に困却せられておった。
 ある時のことであったが、蜀山人は、牛込赤城下を通られますと、いやはや、廻るの神の引き合わせ、このところにて、ひたりと太田雲平に、出会わなれた。雲平は、これは、よい所で遭ったと、たちまち声をかけて、
「おいおい、蜀山先生、例の一件は。」
と言いかけましたので、蜀山は、もうたまらずなりましたので、
  やれ待て云はれてと顔も赤城下
      とんだところで太田雲平
と即吟したので、さすがの債鬼も、思わず、くすくすと笑ってそのまま別れたということでありますが、狂歌の徳は、いよいよ、驚きに感ずることでありまする。

 最初は咎められて1首、2番目は大泥棒を傍で見ていて1首、最後は蜀山人が借金取りから避けて1首です。最初の1首の「駕籠先を切て」は一体誰が何をしているのか私にはわかりません。意味は「道や列などを横切って通る」でしょうか。

蜀山人伝説|新宿郷土研究(1)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 赤城明神の境内の掛茶屋に赤城小町という評判のお軽という娘がいた。ある日誤って足軽の足もとに打ち水をかけてしまった、足軽は怒ってお軽を打擲におよぼうとした時に、参拝を終えて通りかかった、蜀山人は、「待たれい」と大声で、
  差しかかる来かかる足へ水かかる
       あしがる怒るおかる恐がる
と詠んだめで、見物人の中からどっと笑声が起った。足軽は強そうな武士と蜀山人を見たのか、そのまま逃げるように消えるのであった。
 この……狂歌は、寡聞にして知らないが、蜀山人の狂歌集の中にもない。しかし、本居宣長の有名な「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が本居宣長の歌集におさめられていないと同じように即興のために他の記録に遺されたものであろう。いずれにしてもこんな文芸は俗説で意味がないと、いわれるかも知れないが、牛込の住人にとっては拾てがたい挿話である。
打擲 ちょうちゃく。打ちたたく。なぐる。
蜀山人 しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。

 色々調べてみると、この出典が出て来ました。明治33年の「文芸倶楽部」(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編「明治大正落語集成」講談社、昭和55年)でした。

赤坂の溜池ためいけから葵坂を過ぎ芝の久保町の通りより、ちょうど土橋のところへかかりますると人込みで、ドヤドヤ騒いで居りまする。今十七八のしんを足軽ていの男が切ろうとして居る。酔っては何いでなさるが蜀山も人の難儀は横に見てはいられません……どいたどいたと人を押分けて中にいり
蜀「あいや、お武家御立腹はさることながら、相手は採るに足らん女のことで、どういう義かはぞんぜんが、拙者仲裁をつかまつる。いよぅ……貴公は雲州家の御足軽、田口源吾どのじゃな」
足「先生お捨ておき下さい」
蜀「これさ、そう腹を立っては困るというのに、腹を立ちすぎると腹なりが悪くなる、ハハハハハ。時に女中、この場合に至った事情を話しやれ」
女「御親切によく御たづね下さいまする。妾はこの向う側の商売あきんどの娘にござりまするが、今日こんにち往来に砂ほこり立ち通行をなさいます方が御難儀とぞんじまして、水をまいておりました。するとこのお武家さまの袖のすそに少しかかりましたところから、御わびを申し上げましたけれど、なかなか御承知下さいません。武士の袖の裾を悪水をもってけがせし段、不届ふとどき至極につきうちに致すとの御腹立ち、殺されまするこの身はいといませんけれど、親共の歎きも思いやられます。どうぞ共々御わびあそばして下さいますやう、ひとえにねがい上げまするっ」
蜀「むーそれは飛んだことだったのう。して、その名は何んと申す」
女「与平娘かるでござります」
蜀「女じゃからの字がついておかるか、そりや詫びるところが違う」
女「どこへ出ましたらよろしう御座りまするっ」
蜀「そちの父が与平という、一つふやすと一平いちべいとなるそのむすめのおかるなら、忠臣蔵の七段目が相当じゃ」
女「戯言じょうだんおっしゃっちゃいけません」
蜀「戯言じょうだんじゃぁない。忠臣蔵の七段目はやはり田口うじ見た様な足軽で、寺岡平右衛門というがある。これが軽を殺さうとする、そこへ酒に酔っても本心さらに違わぬ国家老大星由良之助という蜀山同様なのが出て、そちを助命して取らするのじゃ」
田口「何んだ人、馬鹿馬鹿しい。自分ばかり家老気取りで、飽くまで俺を足軽にたとへやぁがる」
 独りごとふくれ顔をしておりました。
蜀「あいや田口うじ、拙者は風流に世を送るもの、別にお詫のいたしょうもない。どうかこの一詠で御勘弁を」
とさしいだしましたのを不承ふしょう不承で見ました。見る見るうちに苦い顔にえみを含みました。流石さすがは名人で有ります。
  きかかる来かかる足に水かかる
    足軽あしがるいかるおかるこわがる
とうとう腹立ちを笑いにまぎらしましたのも歌の徳でありまする。

 新演芸会編の「滑稽十八番」(堀田航盛館、大正3年)では……

 蜀山人は駕籠が嫌いですから、出羽様から、足軽が一人付いて宅まで送り届ける。
 蜀山人はのん気のもので、大層酔払いながら、ブラブラヒョロヒョロやって来る。足軽も後から付いて参りましたが、丁度堀江町の新道を通ると、ある家の表で、女中が格子の掃除をしていて、汚い水を向こう見ずに往来へ撒いたのが、通り合せた蜀山人には掛らなかつたが、供をして来た足軽の頭がら着物へ、ぐしゃと掛った。いやはや足軽は怒るまいことか。
「不埒の奴だ」と刀の柄へ手を掛けた。その当時は武士が刀の柄へ手を掛けたかと思うと、町人の首は向うへ飛んでいるという位で、こういう事は度々ありますから、さあ女中は驚いて蒼白になって、家の中に逃げ込む。
 家の中からは40格好の婦人が恐る恐る出て来て参りまして、「誠に飛んだことを致しましてどうも相済みません、万望御勘なさつて下さいまし」と詫びますと、足軽は「これこれ勘弁しろもないものだ、見ろこの通り、頭から着物まで、ぐしょ濡れだ。不埒の奴だ。只今の女をここへ出せ。」婦人「ではございませうが、万望そこを一つ御勘弁下さいませ……お前ここへきてお詫びなさい」といわれて女中はぶるぶる慌いながらそこへ出まして両手をつかえ、「どうか勘弁下さいまし」という声さえ、口の内にて、歯の根も合はず、ぶるぶる振えております。
 それこも知らず行過ぎたる蜀山人、跡をふり返って、づかづかと帰って来て蜀山「どうしたどうした」足軽「先生只今かくかくの次第で」蜀山「まあ、そんなに怒っては仕方がない、勘弁さっしゃい、これこれ御女中、お前は何という名だ」女中「はい、お軽と申します」蜀山「お軽か、うむ、おかるにしちぁちょっと受け取り難いが、まあまあ心配なさるな、拙者がお詫びをして上げるから」と持っていた扇を取り出し、ひらりと開いて、腰の墨斗の筆を染めて、サラサラと書いて、足軽の前へ差出し、濁山「これで勘弁さっしゃい」言われて足軽も怒つてはいたものの、是非なく、先生が何んなことを書いたか取上げて見ると、
    行きかかる、、、来かかる、、、足に水かかる、、
      足軽いかる、、、おかるこわがる、、
 取り上げて見て足軽も吹き出し、足軽「先生有難うございます、これを頂戴したうございます」蜀山「あげるから勘弁さっしゃい」足軽「勘弁も何もありません、どうも先生ありがとございます。」そこで家の者を始め、女中のお軽も、大層喜んで厚くお礼を申し述べたと、いうことです。

 現実に起こった事実ではなく、落語だったんですね。実際の逸話ではなく、面白い咄でした。
 岩波書店の「大田南畝(第1次)月報」19「蜀山人伝説を追う(18)」(2000年)では……

 思えば、明治の中頃から大正時代へかけて、蜀山人説話はまさに花ざかりであった。概算であるが、明治に12冊、大正に17冊、合わせて30冊近い書物がかくも繰返して出版されたことに感嘆に似た気持すらおぼえる。もっとも、それらの大半以上が、読物としては巧妙でおもしろく出来上っていても、蜀山人その人の実像とはかけ離れた、根も葉もない虚譚に富む、ほとんどが他愛のないものばかりだといってよいのであるが、しかし、庶民の誰にでも親しまれる蜀山人像を思いきり描いてみせた熱意、それに対しての感銘は深い。言葉は悪いが、蜀山人という名前が商品として通用した時期、もちろん、読者の側にも、出版者の側にも、蜀山人に対する熱烈なる敬募の思いがあったればこその結果であるが、みんなで、蜀山人を伝説の主人公に仕立てあげようとする、強烈な時代風潮が脈々としてあったとすべきである。
 実像とは別に、その生涯が伝説と説話で彩られた人物に、西行と芭蕉がある。「撰集抄」「西行物語」「芭蕉翁行脚物語」「蕉門頭陀物語」などは西行と芭蕉の伝説面を流布する大きな役目を果してきた。一休禅師と會呂利新左衛門もまたそうで、「一休諸国物語」「一休ばなし」「會呂利咄」などの書物が長い間多くの人びとに親しまれた。濁山人を含めた、日本文学史上の大人物たちが、私たちの心の中に身近な姿で生き続けてきたのは、麗わしくもまた心強い伝統だというてよい。
 それにしても、こんなにまでもてはやされた蜀山人説話のあまりにも著しい衰退ぶりはどうであろう。逸話、風聞、伝承、狂歌説話など、虚の蜀山人像を形成してきたもろもろの要素一切を含め、本稿でそれを蜀山人伝説と総称してきたが、まさに、いま蜀山伝説は滅びんとしているといって過言でない。虚の蜀山人像を支持してきた土壌がもはや崩壊せんとしている。私たちが少年時代に愛読した少年講談の「蜀山人」を掉尾に、昭和の後半に蜀山人伝説が全く影をひそめてしまったのは淋しい限りだといわねばならぬのである。
 今後、蜀山人の実像は「大田南畝全集」の完結によってますますその全容が明らかにされて行くにちがいない。それに呼応して、先人たちがはぐくんで来た虚の蜀山人像もまた幾久しく生き残って行ってほしいことが願われる。そのためには、少年講談の「蜀山人」が岩波文庫に編入され、知識人層に新たに数多い読者を獲得するといったくらいの思い切った荒療治が必要なのではあるまいか。
掉尾 ちょうび。とうび。最後に来て勢いの盛んになること。単に「最後に」。

私娼町のあった愛敬稲荷跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 17.私娼町のあった愛敬稲荷跡」についてです。

私娼町のあった愛敬稲荷跡
      (市谷田町2ー24)
 堀兼の井跡角向いのガソリンスタンド前横町を田町三丁目に進む。約300メートルほどで道路に出るが、その右10メートルほどにまた外堀通りに平行の横町が見えるからそこを行く。約100メートル右側に、愛敬稲荷と刻んだ石標が立ち、その奥の方に小さなが見える。そこが江戸時代繁昌した愛敬稲荷跡である。
 愛敬稲荷とは、教蔵院の境内に祭られたお宮であるが、ここが繁昌したのはその門前が岡場所(私地)だったからである。ここの繁昌のようすは、明和、安永(1764ー80)に出版された酒落本に出ている。しかし、寛政五年(1793)の岡場所取り締り以後は淋しくなった。
 岡場所は、江戸市内で40カ所以上もあったが、その三分の二は寺社の門前地にあった。寺社地は寺社奉行の支配地であるが、奉行は神職や僧侶を取り締る役で、警察力をもっていないし私娼には関係なかった。また町奉行は、市民の住む所だけの支配地だったから、管轄外の寺社地には手が届かないという盲点をついて、岡場所が繁昌したのである。
 また、江戸時代に私娼地が多かったということは、江戸人の享楽的傾向のためばかりではなくして、根本的には国元からの独身男性の単身赴任者が多かったからである。
 江戸時代には、愛敬稲荷にお参りに行くといっては岡場所に遊んだのであった。享保五年以前のことで、寛政の改革で取り払いを受けたようである。お辰という醜婦がこの稲荷に祈って良縁を得たという伝説があり、一名お辰稲荷ともいわれている。
 〔参考〕 足の向く侭 江戸岡場所図会
私娼 公娼制度の認められていた時代に、公認されずに営業した売春婦。
愛敬稲荷 市ケ谷教蔵院門前の私娼地。私娼は寛政の改革(1787‐93)で廃止し、その後、稲荷もなくなっていたが、現在はまた復活。

愛嬌稲荷

 ほこら。神を祭った小さなやしろ
教蔵院 現在は廃止。
岡場所 江戸の私娼地。官許の吉原に対し、非公認の私娼地が寺社の門前や盛り場の裏町に百数十カ所もあった。「岡」は「脇」「外」を表す言葉。
酒落本 しゃれぼん。江戸中期から後期にかけて、主として江戸で流行した遊里文学。遊里の内部や遊女・遊客の言動を描いたものが多い。例えば「花街風俗叢書」(昭和6年)には多くの吉原の酒落本が集めている。。
単身赴任者 全国の人口はほぼ2,500万人から2,700万。天保14年、江戸は町人のみで55万3,257人(男29万2,352人、女26万905人)。武家方と寺社関係の人口は町人とほぼ等しいと考えられ、江戸はほぼ100万人が住んでいた。武家方と寺社の人口はほぼ100%が男と考えると、女は多くても30万人、男は70万人。
享保 1716年から1736年まで。
寛政の改革 天明7年(1787)から寛政5年(1793)にかけて、老中松平定信が行った幕政改革。倹約、備荒貯蓄の奨励、棄捐令、人返し、異学の禁などの政策を遂行。しかし、景気は沈滞し、町人たちの不満を買った
お辰 礒部鎮雄氏の「江戸岡場所図誌」(江戸町名俚俗研究会、1962)では

市ヶ谷八幡前をお堀端に添って田町下二丁目の裏通りに愛嬌稲荷がある。別当は同所教蔵院でお寺よりも稲荷社の方が有名である。後に教蔵寺といい真言宗であり一時は、狂歌江戸砂子に「市が谷に市をなしつゝ賽銭もこぼるゝ程の愛嬌稲荷」と繁昌した。猶愛嬌の由来については、慶長年中に近江屋助七と云ふ者の娘お辰というのが、三平二満おかめで縁組なきを憂ひ、この稲荷に祈願した。その後間もなく本田氏に嫁し子孫繁栄したと伝えられ、その後良縁を得んと希ふ醜婦はこの神を祈るので繁昌したというが、この寺は元谷町饅頭谷に在って宝永中此処に移つと来たので、慶長中というと、それ以前の話になり、傳説であろうか。
 遊所も僅かなこの門前に在った。
「紫鹿子」に、中品下生四六、此浄土大抵音羽に類す。人がらは少し能き方、とあり、また、他書に、昼夜四ッ切昼六、夜四、「江戸巡礼」に歌あり
 あいきやうのきみがゑくぼにこほりかな

 狂歌江戸砂子 狂歌江戸砂子集 正編(上下2冊、1811年、編者は六樹園)と狂歌江戸砂子集 続編(上下2冊、1826年、編者は鈍々亭)。発行は共に東都書林。
慶長 1596年から1615年まで。
三平二満 額・鼻・あごの三つが平らで、両のほおがふくらむ顔。器量のよくない女の形容としていう語。おたふく。おかめ。
谷町 市ヶ谷谷町は昭和27年から住吉町に変更。
饅頭谷 新宿区富久町と住吉町にあった低地。「坂部さんに四谷の歴史を聞く 四谷四丁目」では「靖国通り沿いに川(紅葉川)が流れていて、他にも(田安家屋敷から茗荷谷、饅頭谷、市谷本村町にかけて、上流は桜川、下流は柳川)川が流れていて、川(皮)に囲まれた庵((餡)が素性庵と呼ばれていた)があった為、饅頭谷と呼ばれていました」
宝永 1704年から1711年まで。江戸幕府として第5代の徳川綱吉。
慶長 1596年から1615年まで。
紫鹿子 「鹿子」は2語ではなく、1語の「鹿偏・子」。正しくは「婦美車紫鹿子」(ふみぐるまむらさきがのこ)。安永3年(1774)刊。浮世偏歴斎道郎苦先生作。著者は蓬莱山人帰橋。洒落本。江戸遊所69所を9段階に分けて紹介。
中品下生 上品上生から下品下生までの9段階に分けて、「中品下生」とは現在の「中の下」になる。
四六 おそらく「四六見世」でしょう。岡場所の料金設定で、昼600文、夜400文でした。昼は正午~明七ツ(午後4時)、夜は日没~暮九ツ(午前0時)でした。
浄土 一切の煩悩がない清浄な国土。理想境。極楽浄土。極楽。
昼夜四ッ切 これは「昼が四ツ切、夜が四ツ切」の意味。昼四ツ切は正午から午後4時までの時間を4等分し、夜四ツ切は日没~午前0時を4等分すること。この1等分に昼600文か夜400文を支払う。
昼六、夜四 おそらく「四六見世」
江戸巡礼 田中卜平作「猿の人真似」(明和9年)(「洒落本大成 第5巻」中央公論社、昭和54年)に「江戸巡礼」の1章がありました。
あいきやうの…… 「洒落本大成」と「江戸岡場所図誌」では引用で違っています。ここは「洒落本大成」が正しいとしています。「愛敬稲荷の貴女、えくぼはあるけど、表情は氷のよう」

洒落本大成

足の向く侭 大正10年に三田村鳶魚えんぎょ氏が刊行。平成10年に中央公論社から再発行。以下は「愛敬稲荷の隠し町」の1部分です。

  愛敬稲荷の隠し町
 安永に、「タンノウ/\」という流行唄が盛んに謡われた。
 ーッとや、一ツ長屋の佐次兵衛どの、四国を廻って猿となる、お猿の身なればおいてきたンノウ。
 二ッとや、ふた目と見られぬおたふくも、女房にするとてだまされたンノウ。
 三ッとや蜜柑は食ひたし銭はなし、銭箱あけたらしかられたンノウ。
なんて調子のものだが、それを蜀山人が集録した末に、「此歌、山の手より起ると云ふ、愛敬稲荷の隠し町辺なるべし」と書いた。
 市ヶ谷の愛敬稲荷といえば、昔はすぐに知れるほどに有名な社地であった。田町の二丁目、外濠線の電車の通う大道路、ここの名物であったおお泥溝どぶも、今日では蓋が出来たから目立たない。
 新見附の停留場で下りて、ちょっと西へ歩くと、右手の角に農工銀行の支店がある、そこを曲がれば箪笥町への通り、まだ幾足も運ばない内、右手に細い路地のあるのをはいって、船河原町の方へ進むと、両側の人家は行儀よく立ち並んでいる。その左手に、家並がポッツリ切れて、へこんだように教蔵院(真言宗)の門がある。愛敬稲荷は、この教蔵院の境内に祀られたもので、今日もその祠殿が存している。存しているどころか、本堂のようにも見える有様、それだけ幅を利かせるのも、昔繁昌した余勢でもあろう。
 何故愛敬稲荷が繁昌したのか。ほかでもない、そこが岡場所であったからである。岡場所というのは私娼の巣窟のことで、愛敬稲荷の門の側と向う側とに、浅草の十二階下のようなものがあった。十二階下よりももうすこし綺麗な、もっと公開的な模様であったらしい。俗謡もここから流行し出すほど、人も沢山に集ったのだ。ここの繁昌は、明和・安永に出版した、例の洒落本に見えている。
 松平越中守定の庶政改革、それを民間では御趣意と呼んだ、その御趣意は、町奉行をして私娼掃蕩をさせた。幕閣は、おおよそ30年目くらいに一度ずつ、江戸中の大掃除を執行させた。その中間に、町奉行だけの考えで検挙摘発することもあった。寛政五年に、定信の御趣意を奉じて、岡場所取潰し、すなわち、私娼掃蕩が厲行され、愛敬稲荷の付近は、急に淋しくなってしまった。
 それだけならば別に話すほどのことではないが、一体ここは教蔵院という寺の門前地である。外濠を向うに往来を控えて、蓋をした大泥溝に並んで、家屋が立ってしまった。往来からは教蔵院が見えぬのみか、往来からは出入りが出来ない。横手の新道らしい狭い道路から、僅かに往き通いしなければならぬ。寺の大門としては、通例大道行き抜けであるべきはずだ。もとは、濠端から見通しになっていたに違いない。それが私娼の巣窟となった頃、濠端の往来を背にして、怪しい家が建てられ、往来からは見えない。いかにも隠し町が出来たのであろう。隠し町というのは、あるいは隠し売女町の略語かとも思われるが、それよりも、事実が隠し町になっている。
安永 1772年から1781年まで
 物事のほどあい。程度。限界。物事の回数を数えるのに用いる。回。
此歌、山の手より起る 蜀山人の全20冊を3回読んでみましたが、この句はなく、そもそも愛敬稲荷の言葉もありませんでした。
浅草の十二階下 浅草のりょううんかくは1890年に竣工、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で半壊、撤去。凌雲閣は浅草の顔だったが、明治末期には客足が減り経営難になった。浅草十二階の下の一帯は実態としては私娼窟と化していた。それにより浅草で「十二階下の女」と言うと娼婦の隠語を意味した(Wikipediaから)
厲行 れいこう。励行。決められたことをその通りに実行すること
隠し町 かくしまち。しょうの住む一郭。寺の門前などに多い。私娼くつ

石切橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「石切橋」からです。

石切橋(いしきりばし) 新宿区水道町から文京区水道二丁目に渡す江戸川の橋で、西江戸川橋古川橋のあいだにあり、古くは単に大橋とよび、寛文年間に架されたといわれ、新編江戸志に「大橋 俗に石切橋と云う。赤城下へゆく通りなり、馬場片町より水道丁へわたす。むかし此所に石切あるよりの名なり。」とあり、府内備考に、
 一、橋 長凡八間程 幅2間1尺
 右は江戸川相掛り候橋の儀は町内(小日向水道町)より牛込水道町の方へ渡り小橋御座候。江戸川大橋と相唱え申し候。又里俗石切橋とも唱え候えども、如何の訳にて唱え来り候や相知れ申さず候。御役所向に認め候節は、江戸川大橋と相認め申し候。右は武家方御組合橋にて、町内東側横町間口十九間の処、右入用差出し来り申し候。
 とあり、また新撰東京名所図会も諸書を引いて「石切橋 小日向水道町と西江戸川橋との間より牛込水道町に通ずる木橋にして江戸川に架せり、もと大橋といえり。続江戸砂子に云う。大橋、馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切はしというなり。(下略)」と記述している。明治19年橋架明細表ではこの橋は長8間半、幅3間の木橋で、江戸川にかかっていた諸橋のうちではもっとも幅員が広い。むかし大橋とよんだのもそういうことからであろうか。
  下りて石切橋をわたる。ここは神田上水の下流なる江戸川の流るる所なり。橋より下十町ばかりの間、両岸に桜樹ならびて新小金井の称あれど、それでは小金井があまりかわいそうなり。殊に近年水大いに減じて、川よりも寧ろのようになりて風致一層減じたり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
  江戸川の水かさまさりて春雨のけぶり
  煙れり岸の桜に    若山牧水

古川橋 ふるかわばし。文京区水道2丁目と文京区関口1丁目との間をつなぐ神田川の橋。神田川は古川ふるかわと呼ぶ時期があった。
大橋 大橋は他の大きな橋を比較検討することではなく、近隣の橋との対比で、大橋と呼ぶことが多い。
寛文年間 1661年から1673年まで。
新編江戸志 しんぺんえどし。別称江戸誌。近藤儀休編著・瀬名貞雄補。寛政年間。「江戸砂子」の体裁を意図して刊行。内容は江戸城を中心に東は葛飾、南は六郷、西が武蔵府中、北が豊島・川口方面の地誌を記す。
石切橋 いしきりばし。名前はこの周辺に石切りが住んでいたことからつけられた。石切りとは、石材に細工をする職業や職人。いし。石屋。
武家方 ぶけがた。武家の人々。武家衆。武家とは武士の総称で、公家くげはその反意語。
御組合 ある目的で、仲間をつくる、その人々。「御」は「庶民ではなく、武士がつくった組合」の意味。
馬場片町 新宿区西五軒町の一部。古く牛込村の沼地だったが、承応年中(1652-55)に埋立て、武家屋敷等を建築。町名の由来は、この時に小日こびなた馬場の隣接地だったことによる。
水道丁 東京都文京区の町名。「丁」は「市街の一区画」の意味もあったが、代わって明治期には「町」を使った。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
長凡八間程 幅2間1尺 長さ約1456cm、幅394cm
間口 正面からみた敷地・家屋などの幅。
十九間 3458cm
入用 いりよう。必要である。必要な費用。
新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
小日向水道町と…… 原文と引用の2つが違っています。「新撰東京名所図会」の本来の引用では「牛込水道町より小石川水道町に通ずる木橋にして、江戸川に架せん、古川橋と西江戸川橋との間の橋なり。府内備考、牛込水道町の書上に(略)と見ゆ。本名は江戸川大橋にして、石切橋は其俗称たりしてと比記に據て詳らかなるべし、橋の名は、蓋し側に石工の宅あろしに起因すべけれど、其證なければ容易に断定し難し、石切の俗称、最も著はれ、江戸川大橋の名は遂に世人の忘却する所となれり」
続江戸砂子 正しくは「続江戸砂子温故名跡志」。享保20年刊(1735)。江戸砂子の著者、菊岡沾涼による補遺。内容は五巻からなり、巻一は江戸の年中行事、巻二は江戸方角図・御役屋敷・高札場等、巻三は神社拾遺・名所古蹟拾遺として日本橋の南北辺・小日向・深川・渋谷・目黒・本所・亀戸など、巻四は浄土宗一八檀林と諸州宗役寺、巻五は名木。四季の遊覧場所なども紹介。
明治19年橋架明細表 石切橋では長さ8間半、巾3間、25.5坪、木造、明治7年12月架換。川名は江戸川。
長8間半、幅3間 長さ1547cm。幅546cm
幅員 ふくいん。道路・橋・船などの、はば
十町 1町は60間。メートル法換算で約109m。10町は約1090m
 みぞ。地を細長く掘って水を通す所。どぶ。下水。流し元の小溝
大町桂月 おおまちけいげつ。詩人、随筆家。東京大学国文学科卒業。雑誌「帝国文学」に評論や詩を発表。また紀行文を多く書いた。生年は明治2年1月24日(1869.3.6)。没年は大正14年6月10日。57歳
水かさ みずかさ。水嵩。川・湖・池などの水の量。水量。
けぶり 煙。物が燃えるときに立ちのぼる、微粒子が混じた気体。けむり。
煙れり けぶる。煙る。煙が立ちのぼる。煙などでかすんで見える。

石切橋

神楽河岸(写真)ID 483 ID 11459 昭和51年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 483とID 11459はほぼ同じ写真でしたが、ID 483の画角の方がやや大きくなっていました。ID 483は飯田橋駅東口でも出ています。撮影は飯田堀再開発前の1976年(昭和51年)でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 483

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11459 東京都水道局神楽河岸営業所(飯田橋付近)

 中央に2階建ての「東京都水道局」の建物があります。その左側のテント状の屋根は「ごらくえん」の建物で、すでに閉店しています。2ヶ所の間にはコンクリートの床が見えますが、丸友パチンコの跡でした。右端も水道局の建物です。
 その前にある道路が外堀通りで、その横断歩道を歩く人々がいます。道路標識は左から(歩行者横断禁止)、(駐車禁止)、(転回禁止)、(大型貨物自動車等通行止)、さらに都バス停留所「神楽河岸」です。
 水道局の背面には外濠がありますが、水面は見えません。その背面には「東京燃料林産(株)飯田橋支店」があり、少し離れて反対側から見たネオンサイン「ミ(ツ)ウロコ」(?)があります。
 さらには国鉄「飯田橋駅」の上部が見え、牛込橋も見えます。
 最後は一段高くなった千代田区の建物で、左から「飯田橋外語学院 10月生受付中」「日本歯科大学」「日本歯科大学体育館」「東京警察病院」「飯田橋会館(1階は郵便局)」「前田建設工業別館(暗く見え、1階は「三井住友銀行」)」「石原産業東京ビル」「フジボウ会館(最上階は下よりも広い)」「前田建設工業」などと続きます。

瞬間の累積|渋沢篤二写真集

 最初は芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)の52頁にこんな写真とキャプションがありました。

 これは渋沢篤二氏の「瞬間の累積 渋沢篤二明治後期撮影写真集」(出版者は渋沢敬三、1963)の再録でした。

446 江戸川電車通り 42年8月

 当然、キャプションは違っています。つまり、芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」のキャプションは「明治42年8月の飯田橋交差点(渋沢氏の”瞬間の累積”)」。渋沢篤二氏の「瞬間の累積」では「446 江戸川電車通り42年8月」と2つあるのです。

 昭和40年以前では「江戸川」が「神田川中流」を指します。より正確には、当時の「江戸川」は文京区水道関口のおおあらいぜきから飯田橋(正しくは船河原橋)までの神田川のことです。また「電車通り」が「路面電車の道」に書き換えられます。つまり渋沢氏の「江戸川電車通り」の書き換えは「神田川中流の路面電車の道」になるのです。

 もう1つ、問題があります。写真で見ると、路面電車が2方向に分かれています。この分かれる理由は? 実際に路面電車の行き先が2つ以上ある以外に考えられません。
 では、明治42年8月にはどんな線路があるのでしょうか。皇居の外濠を走った外濠線は土橋—新橋間を除いて38年11月全て開通しました(東京市電・都電路線史年表)。さらに明治39年9月27日、「飯田橋」から「新小川町二丁目」(のちの「大曲」)への線路も通っていました。この2つの線路があり、しかも、向きは90度位違っています。
 なお4か月後の明治42年12月3日、「小石川表町」(後の「伝通院前」)から「大曲」(旧「新小川町二丁目」)までの線路ができ上がります。さらに大正元年に「飯田橋」から「牛込柳町」まで開通します。
 以上「江戸川電車通り」は「飯田橋交差点」と意味はほぼ同じです。
 道路は大きく、空間も広く、中央には法被はっぴと帽子を着た人がいます。路面電車は四輪単車で、外濠線は821以上の番号が与えられました。しかし、ここではこの番号は見えません。

[江戸川]

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)に「牛込地区 40. 幡随院長兵衛の死体が流れついた橋」として「隆慶橋」に焦点を当てています。

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋
           (新小川町一丁目)
 飯田橋から高速道路添いを大曲に向うと、右手に神田川にかかる隆慶橋がある。
 町奴幡随院長兵衛は、旗本奴の総領水野十郎左衛門の誘いを受け、単身小石川牛天神網干坂にある水野屋敷を訪れた。
 十郎左術門は酒宴を張ったが、長兵衛が酒に酔うと、十郎左衛門の家中の者一人が長兵衛の顔めがけて酒を盛った燗徳利を投げつけた。それを合図に三人の者が斬りつけた。そこへしばらく身を隠していた十郎左衛門は、左の頬から顎にかけて一太刀で斬りつけた。さすがの長兵衛も、この欺し討ちにあってあえない最後をとげたのであった。
 その死体はこもに包んで仲間(ちゅうげん)二人が神田川に投げ捨てた。その死体がここの隆慶橋に流れついたのである。
 死体を発見した者が、浅草舟川戸の留守宅へ知らせると、三人の子分が馳けつけてきて死体を駕寵で浅草の源空寺に巡んで葬った。時に慶安3年(1650)4月13日、36才の男盛りであった。
 なお幡随院長兵衛、水野十郎左衛門については伝説の人で、はっきりしたことは分らない
 〔参考〕 江戸ルポルタージュ  新宿と伝説
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていることや、その場所。新宿区では新小川町で道路や神田川が曲がっている場所を大曲と呼ぶ。

大曲

隆慶橋 新宿区新小川町と文京区後楽2丁目を結び、神田川に架かる橋。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

町奴 江戸初期、はでな服装で江戸市中を横行した町人出身の侠客きょうかくおとこ伊達だて。「侠客」とは弱い者を助け強い者をくじき、市井無頼の「やくざ者」に対する美称として使う。
幡随院長兵衛 ばんずいいん ちょうべえ。江戸初期の侠客。大名・旗本へ奉公人を斡旋する貸元業を始めたが、腕と度胸、強い統率力が役だち、侠気を売り物とする男伊達としても成功。水野十郎左衛門の率いる旗本奴との対立が高じ、水野邸で殺された。生年は1622年か、没年は1650年(慶安3年)か1657年(明暦3年)。
旗本奴 はたもとやっこ。旗本や御家人のうち異装をし、徒党を組み、無頼ぶらいの生活を送った者。奴とは武家奉公人。しだいに奉公人だけではなく主人の側(旗本)にもその風俗が拡大していった。無頼とは正業に就かず、無法な行いをする「やくざ者」のこと
水野十郎左衛門 みずの じゅうろうざえもん。3000石の幕臣で、大小神祇じんぎ組首領。幡随院長兵衛と争って殺害した。のち幕府に所業をとがめられて寛文4年3月27日切腹。家は断絶。
小石川 東京府東京市(後に東京都)にかつて存在した区。明治11年から昭和22年までの期間(東京15区及び35区の時代)に存在した。現在の文京区の西部。
牛天神 うしてんじん。天満宮の異称。東京都文京区の北野神社の俗称
網干坂 あみほしざか。東大付属小石川植物園の西縁に沿って北に向かう。坂下で湯立坂と接続する。坂下の谷は入江で、舟の出入りがあり、漁師が網を干したのが名前の由来。
燗徳利 かんど(っ)くり。燗酒かんざけを飲むのに適した徳利と(っ)くり。燗酒とは加熱した酒で、おかんともいう。徳利とは細長くて口の狭い、酒などの液体を入れる容器。
こも わらの編み物のなかでも薄く、木などに巻きつける物

仲間 ちゅうげん。中間。江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者。
舟川戸 現在の花川戸。台東区東部で、墨田区(吾妻橋・向島)との区境に当たる。
源空寺 台東区東上野にある浄土宗の仏教寺院。号は五台山文殊院。
はっきりしたことは分らない 東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」について「水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容です」。つまり、これ以上のことはわからないし、屋敷の宴会も、風呂も、死体も、橋も、坂も、あるかないか、全て不明です。しかし、歌舞伎では、これを元にして「幡随院ばんずい長兵衛ちょうべえ精進しょうじん俎板まないた」や「極付きわめつき幡随ばんずい長兵衛ちょうべえ」などを作り出しました。

 ここで網干坂あみほしざかが問題になります。網干坂は神田川の大曲から歩いて約30分かかります。一方、牛天神は約5分でつきます。牛天神に最も近い坂は牛坂、別名は鮫干坂で、北野神社(牛天神)の北側の坂です。あみ干坂ではなく、さめ干坂だったのでないでしょうか。

網干坂と牛坂

「小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改、地図は下図)では「水野右近」という名前がでかでかと書かれています。しかもその下の「牛天神社」、これも大きい。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

 しかし、幡随院長兵衛がでてくるこの事件は「小日向小石川牛込北辺絵図」よりも約200年も昔に起こったもので、さらに寛文4年(1664)には、「年来の不行跡」のため、水野十郎左衛門には切腹を命じ、家は断絶されました。
 一方、この「小日向」の絵図に出てくる「水野右近」は静岡県伊東市宇佐美の一部を所管する旗本でした。つまり「水野右近」と「水野十郎左衛門」とは全く違った人物なのです。
 虚構で固めた物語でも、わかっていることがあります。実際に水野十郎左衛門がいたこと、さらに、その屋敷がどこにあったのかも判明しています。おそらく西神田2丁目でした。

国産飛行機の発祥地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 47.国産飛行機の発祥地」についてです。

国産飛行機の発祥地
      (西五軒町34前道路)
 大曲から東五軒町バス停に向い、その先の横町を左折する角に千代田商会がある。この前の道路(道路拡張で道路になる)に明治末ごろ、林田という精麦精米の工場があった。ここは、明治42年12月から翌年3月までの間に国産の飛行機が誕生したところである。
 日本ではじめて発動機 (二衛程空冷式8馬力)を設計製作に着手したのは、日野熊蔵という歩兵科の将校である。
 米国のライト兄弟が飛行機をつくってから欧米各国では長足の進歩をしているのをみた日野大尉は、その将来性に着目し、英米独仏の雑誌や図書を研究し、自力でその製作に着手したのであった。
 全く独力で発動機の構造研究に没頭し、苦心惨胆のすえ、明治42年にまず自分で設計した二つの発動機の製作にとりかかった。
 ついに完成した発動機を、飛行機関係者多数参観の下に試運転をしたが好調だった。そこで今度は飛行機の製作にとり込んだのである。これも全く独力であった。そして43年2月までに完成した。
 一層式で巾8メートル、長さ3メートル、発動機は8馬力、製作費は1900円、今からみればおもちゃほどのものであったが、無から有を生んだ日野大尉の功積は偉大なものであった。
 大尉は、この飛行機に自ら搭乗して戸山ヶ原で試験飛行を実施するのである(大久保17参照)。
〔参考〕日本航空事始 東京科学散歩

国産飛行機 左が日野熊蔵氏。徳川好敏著、航空同人会編「日本航空事始」(出版協同社、1964)

林田という精麦精米の工場 西五軒町の赤枠。林田式流米器製造株式会社でした。

西五軒町 林田式流米器製造株式会社 東京市及接続郡部地籍地図

二衛程 two-stroke cycle。「衛」は「エイ」「まわる」で、例は「衛星」。集落の周囲をめぐって警戒する。「程」は「テイ」「一定の分量」で、例は「工程」。現在は「2ストローク機関」と訳します。1往復で1周期を完結するエンジン。1往復は行程換算で2回(=2 stroke)になる。
馬力 元々は馬一頭が発揮する仕事率を1馬力としたが、現在、正確に1馬力は735.5ワットと定義している。
苦心惨胆 くしんさんたん。非常に苦しんで工夫すること。
一層式 現在は「単葉機」という言葉を使います。揚力がつく主翼が1枚だけの飛行機。反対語は「複葉機」

グラーデ式は、飛行機を研究自作(飛翔せず)していた日野氏が研究を中断して訪欧の任をうけ、予定通りに購入したもの。形状説明に「一層式」とあって、単葉とは呼称していない。(<日本航空史> グラーデ式と日野熊蔵氏

 以下は、徳川好敏著、航空同人会編「日本航空事始」(出版協同社、1964)からの引用です。

 日野氏は歩兵科将校であるが、英、仏、独各国語に通じ、数学、理学にも長じ、且つ技術に秀いでていた。かつて日野式拳銃を発明するなど、発明の天才で、陸軍部内では珍らしい卓抜なる才幹の技術者であった。ライト兄弟によって飛行機が出現し、欧米諸国においてたちまち長足の進歩を遂げつつあるのを見て、日野氏は、その将来性を洞察し、広く英、米、独、仏の雑誌や図書を漁って、その該博な知識の上に独創的な考案を組み立てて、全く独力、個人で発動機および飛行機の設計、製作に着手していたのである。
 当時は、飛行機も発動機も我国には全く皆無で、これに関心を持つ人々でも僅かに外国雑誌などでこれを知見するに過ぎなかったのである。ましてや当時は飛行機用発動機の仔細な構造を知ることなどは殆んど不可能に近いことだったが、日野氏は敢然この困難と取り組み、苦心惨憺、研究を進め、明治42年、東京市内を流れる江戸川筋、俗称大曲の西南に当たる東京市牛込区東五軒町(現在は東京都新宿区東五軒町)の林田工場で、まず自分で設計した二衝程空冷式8馬力発動機の製作に着手したのである。
 とはいうものの、全く前例のないことなので、日野氏は、各部の金質、成分の配合、鋳造等すべて外国の雑誌や図書によって研究し、自ら製作に当たったのだが、その努力が酬いられて遂に完成、試運転を実施するまでに漕ぎつけたのである。
 この日は、飛行機関係者が多数参観し、私(徳川)も列席したが、成績良好で、参観者一同は大いにその成功を祝福したのである。
「二衝程発動機は最も簡単であって、飛行機用としては良好です。また空気冷却式は水冷式に比べて重量も軽減し得るから、飛行機用としては好適です」と、そのとき説明した日野氏の言葉が、今もなお耳に残っている。
 この成功により、日野式飛行機は正式に研究会の事業として製作されることになり、この年の12月から着手、翌43年の2月に完成した。一層式で幅8メートル、長さ3メートル、発動機は8馬力(これも日野氏が設計、製作したもの)であった。そして製作費用は発動機を除いて1,9000円であった。
 そこで、いよいよその出来あがった飛行機を日野氏みずから搭乗して滑走試験することになったが、当日の「研究会記録」には次のように書かれている。
「3月、戸山ヶ原射撃場に於て試験を行いたる結果、機の安定及び各部の機能概ね良好なりしと難も、未だ以て飛場するに至らざりき」
 私(徳川)も見学したが、何分にも僅か200メートルばかりの狭い射撃場に大勢の人が出て混雑していたので、思うような滑走もできなかったのである。

〔註〕日野氏は、一種の天才児であった。歩兵科将校でありながら、飛行機の発明その他技術面に熱中するのあまり、当時の軍の空気としては軍律を紊ると考えられるような行動もないわけではなかった。例えば所沢へ尊貴の方がおいでになったとき、自動車の点検に熱中していてお出迎えに出なかったというようなことがあったのである。そういうことが軍上層部の忌諱に触れ、日本における初飛行者という栄誉ある身にもかかわらず、福岡歩兵聯隊の大隊長に転職させられるという非運に遭遇したのである。発明の天才児、航空機の研究者たる日野大尉が、兵の教練のみを主任務とする歩兵の大隊長というような職務が勤まる筈がない。快々としてたのしまないままに、自然、勤務にも身が入らなかったのであろう。そのため、今度は成績が挙がらないという理由で、遂に軍職を追われてしまったのである。時勢の違いとはいえ、まことに残念なことであった。


才幹 さいかん。物事を成し遂げる知恵や能力。
金質 「金属の性質」との意味でしょうか。
1,9000円 『新宿の散歩道』では1,900円です。また同じ時期に奈良原氏が製作した飛行機は1,843円でした。これも1,900円が正しいのでしょう。
紊る みだる。乱る。紊る。整っているものを崩す。ばらばらにする。散乱させる。平静さをなくすようにする。
尊貴 そんき。きわめてとうとい。その人。その様子。
忌諱 きき。いやがって嫌う。忌みはばかる。遠慮して口にすべからざる事柄

 また「新宿区指定史跡」になっています。

 新宿区指定史跡
国産こくさん飛行機ひこうき発祥はっしょう
        所 在 地 新宿区西5軒町12番10号
        指定年月日 昭和60年12月6日
 明治42年(1909)から翌43年(1910)にかけて、陸軍りくぐんたい日野ひの熊蔵くまぞう(1878~1946)により初の国産飛行機「日野式1号機」が製作された林田商会(後の日本醸造機械株式会社)のあった場所である。
 日野大尉は、明治時代末、飛行機が欧米各国で急速な進歩をとげている様子を見て、その将来性に着目した。イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスの文献を参考にして飛行機用発動機と機体の製作に着手し、明治43年2月に、初の国産飛行機「日野式1号機」がこの地で完成した。
 日野大尉はこの飛行機に自ら搭乗し、明治43年3月18日、戸山ヶ原において、日本で初めての国産飛行機の実地飛行試験を行った
 令和5年2月28日
新宿区教育委員会

牛込電話局(細工町)

文学と神楽坂

地元の方からです
 このブログに以下のような記事があります。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂06
 牛込第一の大建築だという北町の電話局の珍奇な建物の前をも過ぎ……

電話局 正確に言うと、新宿区北町ではなく、細工町3-12にありました。新宿区教育委員会の『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』では大正12年にはまだなく、昭和4年になると、ここにあったようです。以来ずっとあって、現在はNTT牛込ビルです。

 文中の「牛込第一の大建築」が気になって調べてみました。
 明治中期に電話の普及が始まってからしばらくの間、神楽坂周辺の電話管轄は「番町電話局」(東京中央電話局番町九段分局)でした。
 東京区分職業土地便覧 牛込区之部(大正4年)で見ると
赤井儀平(神楽町1丁目、足袋店)番町2859
青木堂(通寺町、洋酒・食料品)番町275
升本喜兵衛(揚場町、酒類問屋)番町62
あまさけ屋(市谷田町、呉服商)番町125
といった具合です。電話を早く備えた方が若い番号と思われます。

 おそらく電話加入が増えたためでしょう。官報によれば、新たに「牛込分局」を開設し、電話交換業務を開始したのは大正12年(1923)1月28日でした。これ以降、神楽坂周辺の電話は「番◯◯◯」から「牛◯◯◯」に変わります。

 牛込電話局の設計者は、逓信関係で実績のある山田守です。

東京中央電話局牛込分局。
放物線アーチ屋根の階段室や半円アーチの屋根を持つ。山田の独自色を打ち出した最初の作例。外壁の付柱が屋上まで延長し、その天端は放物線形状をなして繰返している。

 4階建て(一部5階)は、なるほど目立つ建物だったでしょう。また独特の外観は、東京中央電信局(1925年完成)の先駆的作品とされます。
 山田守は後に、東京逓信病院(千代田区富士見)、東京厚生年金病院(新宿区津久戸町)を設計したことでも知られています。

 牛込電話局の開業から7カ月後の9月1日、関東大震災が発生します。震災では真新しい庁舎の外壁などに亀裂が生じました。

 しかし火災は免れ、第二次大戦の終戦後も使われました。

 電話局は地域の回線を収容する拠点なので移動は難しく、今もNTTの牛込ビルが建っています。

タイのピプン首相亡命地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「市谷地区 13.タイのピプン首相亡命地」についてです。

タイのピプン首相亡命地
      (南町2)
 加賀町から約五百メートル先の中町の東端十字路を右折する。右側の南町2番地は、タイ国のピプン首相の亡命地であった。
 ピプンは、第二次世界大戦中に日本に協力したので戦犯に問われたが、昭和23年にクーデターを起して政権をにぎった。しかし32年に再びクーデターが起きて失脚し、日本に亡命してここに住んだのであった。
ピプン首相 現在は「ピブーン」と表記。正確にはプレーク・ピブーンソンクラーム(Luang Pibulsonggram, タイ語 แปลก พิบูลสงคราม)。タイの軍人・政治家。1924年(26歳)から3年間、フランスの砲兵学校に留学。帰国後、人民党に入党し、1932年に立憲革命、さらに立憲君主制を樹立。1938年、41歳で首相に就任。国名をシャムからタイに改変。日本タイ同盟条約を締結したが、戦局の悪化とともに日本と距離を置き、1944年、独裁ぶりに反感もあり、ピブーンは辞表を提出。終戦を迎えて、英印進駐軍により戦犯容疑者としてタイ国内で拘置。1946年、無罪で釈放。1948年、クーデターで政権に復帰。1957年、新たなクーデターで政権の座を追われ、1958年、東京で亡命生活を送る。後にインドへ渡り出家。還俗後、1964年、神奈川県相模原市で一生を終えた。生年は1897年7月14日。没年は1964年6月11日、66歳没
南町2番地 南町2番地ではなく、払方町9番地では? 払方町9番地は「ビブンソングラム」氏の家でした。

ピブーン。人文社「日本分県地図地名総覧 1960年版」(人文社編集部。1960年)

払方町9番地のうちで、ここがピブーン宅か?

焼跡・都電・40年

A

文学と神楽坂

 林順信氏の「焼跡・都電・40年ー山手ー激変した東京の街」(大正出版、昭和62年)です。北方から飯田橋駅や外堀通り、船河原橋、神田川などを撮影しました。年月が違う撮影があり、1枚は昭和41年12月で、もう1枚は20年ほど未来の昭和62年1月でした。

 まず昭和41年12月です。左端にあるのは都道8号で、外堀通りと合わさり、右は船河原橋に、左は後楽園や水道橋などに向かいます。都道8号の電柱に電柱広告「東明徽章」「オザワ」、さらに向こうには飯田橋駅のホーム、さらに行くと、千代田区の建物が並んでいます。神田川の反対側には目白通りがあります。
 船河原橋を渡り切る直前の都電13系統が1台、神田川には船2槽が出ていますが、船は平たく、わいぶね西さい船)かもしれません。神田川の右縁で船河原橋の直前に江戸期の大下水、それを飲み込む明治期の下水管の吐口があります。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

 船河原橋の右側に五叉路がありますが、この写真ではわかりません。ゼブラ柄の背面板の信号機が2つあり、近くに標識(ともに指定方向外進行禁止)もあります
 右側の建物については「ごらくえん」以外に文字は小さく、読めません。この部分は下宮比町の一部でしたが、区境の変更もあり、最終的に人は住めない地域になりました。

 昭和62年1月です。上空には首都高速道路5号線(池袋線)と歩道橋があるため、辺りは薄暗く、神田川に船はありません。
 遠くの中央やや左には第7田中ビル(10階)、大和ビル(10階)、飯田橋プラザ(7階)が並び、その右には巨大な飯田橋セントラルプラザ(マンションは地上16階)、また右端には広告塔「(婦)人倶(楽部)」ができました。

矢来町(写真)図書館資料室紀要 1970年

文学と神楽坂

 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の138頁には次の写真が載っています。

大正期の面影を残す矢来町中の丸

 今までは写真は全く不明で、これ以上は何もわからない。さわらないように、そーっと置いておこう、と考えていました。「中の丸」だけでも巨大で、矢来町の5分の1を占めています。下図では矢来町は赤、中の丸は青です。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)

 しかし、このID 118〜120と見比べると、これも一連の写真のひとつだと判明します。つまり、これはID 119ID 120との間にあるべき写真なのでした。場所は上図か下図のが正しい位置なのです。
 郵便の宛先は大正11年には「矢来町3番地あざ旧殿」、昭和5年には「矢来町78番地」か「矢来町81番地」が正しく、以降も変化はありませんでした。

矢来町と中の丸(←が正しい場所)。住宅地図。昭和5年

飯田橋(写真)昭和51年 ID 495-497 ID 11472-73, 11475

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495-97とID 11472-73, ID 11475は、昭和51年8月、飯田濠、飯田橋(架橋)、飯田橋歩道橋、遠くの首都高などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 495 飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11472 神田川 飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 496 飯田橋橋きわ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11473 神田川 飯田橋

 ID 495-496の2枚は、下の地図の赤線の画角です。右の橋がコンクリート製の飯田橋。正面が新宿区側の護岸の石垣です。
 この様子は昭和初期の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)の写真から変わっていません。
 石垣に関しては、大正8年頃の絵はがきと同じに見えます。この石垣は今は人工地盤の下に隠れています。今も利用される飯田橋は昭和4年(1929)に鉄橋からコンクリート製の橋に改良されています。
 左から……

  1. 看板「Coca-Cola 焼肉 京城館」「(サクラ)はカラーFH」
  2. 公衆電話ボックス
  3. 歩道橋「(目)白通り/新宿区下宮比町」
  4. 電柱看板「◯科」
  5. 看板「麻雀 東南荘」「近畿日本ツーリスト」「サッポロビール  八鶏園」「イーグルボウル」「写真植字機」
  6. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  7. 看板「所」「東京都◯◯◯◯◯◯事務所」
  8. 目白通りを横断する歩道橋。
  9. 飯田濠と飯田橋(架橋)
  10. 首都高速道路5号線(池袋線)
  11. (指定方向外進行禁止)、(時差式信号)、信号機
  12. 歩道橋「外堀通り/新宿区下宮比町」

住宅地図。昭和51年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 497飯田橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11475 神田川 飯田橋

 ID 497はやや右にズレて、地図の青線の画角で撮影しています。
 左寄りの東京都の看板は「セントラルプラザ飯田橋」の完成予想図ですが、この時点では名称も決まっていなかったはずです。飯田濠の再開発は昭和48年3月に始まりましたが、地権者の反対で難航しました。紆余曲折の末に昭和59年に商店街ラムラが開業。昭和61年3月、13年を経て再開発事業は完了します。
 正面右奥、歩道橋の下り階段が見えます。この階段は後に撤去され、交差点の向こうの新宿区を結ぶ歩道橋が増設されました。
 では左から……

  1. 歩道橋の上り階段
  2. 看板「東京都」(セントラルプラザ飯田橋)
  3. 橋名「いいだばし」
  4. 看板「(魚)下立喰寿(司)」
  5. 看板「キンシ政宗」
  6. ごらくえん
  7. 東海(銀行)と東海銀行の窓枠
  8. 歩道橋と飯田橋(架橋)
  9. 電灯
  10. 標識 終わり(終わり) (転回禁止)(駐車禁止)
  11. (指定方向外進行禁止)8-20

神田川(写真)浅草橋とお茶の水橋 昭和63年 ID 506〜507

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 506〜507は、昭和63年(1998)8月、神田川を撮ったカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 506 飯田橋、堀

 ID 506の写真説明は「飯田橋、堀」ですが、ここは数キロ離れた台東区浅草橋で、正面には上流の左衛門橋があります。屋形船の間をカヌーが何艘も漕いでいるのは、飯田橋付近からのツアーの様子を撮影したのでしょうか。
 神田川は滔々と流れ、マンションやオフィスビル、ホテルなどが並んでいます。

浅草橋(昭和63年)カヌーと他の船
左衛門橋(東神田二丁目と三丁目を結ぶ)
  1. ネオンサイン「サウナHotel」
  2. 看板「ヤマハ」
  3. 屋上広告塔「Etoile」(服飾品卸売会社エトワール)
  1. 第七 三浦屋(屋形船)
  2. 屋形船・つり船 野田屋(屋形船)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 507 飯田橋、堀、中央線

 ID 507も写真説明の飯田橋ではなく、JR御茶ノ水駅に近い「お茶の水橋」から撮ったものです。西向きに神田川を見ており、数艘のカヌーが川を下っています。左をJR総武線やJR中央本線が走り、黄色い電車は各駅停車で結ぶ中央・総武緩行線です。

お茶の水橋(昭和63年)カヌー
  1. 御茶の水美術学院/第二学期補欠募集受付中/御茶の水美術学院
  2. 池坊お茶の水学院
  3. 池坊◯◯お茶の水学院
  1. 順天堂大学(2館とも)
[江戸川]

神田川(写真)昭和51年 ID 479, 489-90, 11462-64

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479、489-90、11462-464は、昭和51年8月、飯田橋歩道橋の上から神田川やそこにかかる橋などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 489高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11462 神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 490 高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11463 神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 491 飯田橋周辺、橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11464 神田川(飯田橋付近)

 ID 489とID 11462は神田川の下流方向を撮っています。左から植物に覆われて突き出しているのは文京区の「市兵衛河岸」です。小屋があり、ガラス扉の中にイスが見えます。昭和55年の住宅地図では「都市◯地再開発(事)飯田橋工区」とあり、工事の詰め所のようなものでした。
 その奥、首都高速道路の橋脚ごしに見えているのは「飯田橋公共職業安定所」(現・ハローワーク飯田橋)。さらに右にクレーンが見えているのは、中央大学の旧後楽園校舎(文学部)を解体しているのでしょう。
 神田川の右岸は千代田区です。古めかしい「釣り具」の看板が見えるのは、かつて外堀や神田川で釣りを楽しむ人がいたことを示しています。
 ID 490−491とID 11463−11464は、やや手前の橋を撮影しています。誤解されがちですが、この橋は文京区と千代田区をつなぐ「船河原橋」です。

船河原橋
 飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として、交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので、飯田橋の一部と見られがちです。

 船河原橋は一見すると2本あります。メーンは文京区と新宿区を結ぶ大きな橋で、外堀通りの一部です。その橋が神田川の上で左にV字に大きく分岐し、千代田区につながっています。これも船河原橋です。
 飯田橋は千代田区と新宿区を結び、目白通りの一部です。ID 491では右下のコンクリート製の欄干部分が飯田橋になります。
 神田川の右側は近いところから…

  1. (一時停止)(指定方向外進行禁止)(駐車禁止)(区間内)
  2. 電柱。電柱広告「宮村歯科」「新村印刷」
  3.  Subway 地下鉄
  4. 消火栓。
  5. 千代田街ビル飲食街
  6. 資材置場
  7. (最高速度30キロ)
  8. 電柱。電柱広告「新村印刷」
  9. つり具
  10. 岡田不動産株式会社
  11. ビル
  12. ダイヤモンド航空サービス
  13. 東京アテナ

住宅地図。昭和55年

 

神楽河岸(写真)昭和51年 ID 474, 479, 11456, 12189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474とID 12189は昭和51年(1976年)下宮比町のおそらく歩道橋の上から南西の神楽河岸方向を狙ったカラー写真で、ID 479とID 11456は昭和51年8月、モノクロ(白黒)写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474 揚場町神楽河岸界隈

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12189 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11456 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479 駅前付近より外堀通り四谷方向

 手前の目につく街灯は水銀灯かナトリウム灯でしょう。中央は外堀通り。自動車はヘッドランプが丸く、時代を感じさせます。
 外堀通りの町並みはこの当時、右側は下宮比町、左側は神楽河岸だったようです。その後に区境変更や住居表示があり、現在は右側は揚場町、左側は千代田区になっています。

下宮比町→神楽河岸(平成51年)
  1. 東京都水道局神楽河岸営業所
  2. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  3. ▶都バス「飯田橋」
  4. 交通局定期券売り場
  5. 空き地
  6. 新宿東清掃事務所

▶は歩道上で車道寄りに看板等がある

  1. 空地。鉄の塀に無数のポスター跡と麻雀店の立て看板
  2. ▶交通信号機「飯田橋」。架線柱
  3. 文鳥堂書(店)
  4. (山)路(飯店)(中華料理店)
  5. 麻雀店とパチンコ店の突き出し看板

住宅地図。1976年

逢坂入口(写真)市谷船河原町 昭和41年頃 ID 7809-7811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809-7811は市谷船河原町の逢坂の坂下付近を撮影したものです。新宿歴史博物館の写真説明は「逢坂入口 昭和41年頃か?」としています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809 市谷船河原町 逢坂入口付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7810 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7809-10では、男女10数人が坂の途中で何かを見ています。男性は背広、女性は着物が多く、子供はいません。手にした資料のようなものに目を落とす人もいます。

逢坂(昭和39年と43年)

 右側から……

  1. 外堀通り
  2. 民家と(一時停止)
  3. 自転車の図。自転車店 水谷の自転車、協◯輪車 古川自転車店 TEL 千代田火災 SS
  4. ナショナル ポンプ 上下水道衛生工事◯◯ アルプスポンプ
  5. 古い家
  6. 左端にも家

参考 昭和51年 住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7811 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7811は一転して無人で、普通の民家(現、階段と堀兼の井)と坂の脇のコンクリート敷きの部分が写っています。何を撮影したのか分かりません。左側には日仏学院があるようです。
 この家には船河原町々会のポスターがあります。「くらしに生かそう/カギとベル」「くらしに生かそう カギとベル」「カギ◯/あなたの◯」

現在の地図

CKT7415 コース番号C27B 写真番号10 撮影年月日 1975/01/19(昭50)

 この場所には、筑土神社(千代田区九段北)の摂社である船河原町築土神社と「堀兼の井」がありますが、神社はうつっておらず、ID 7811でも堀兼の井は確認できません。
 筑土神社の社伝では「この井戸は、昭和40年代の地下鉄工事の折に一時枯渇したものの、平成21年には、当時とほぼ同じ位置に再整備されている」とあります。
 これから全くの想像ですが、堀兼の井が枯れ、埋もれてしまったことを文化財関係者や氏子らが調べ、今後の対策を協議している様子でしょうか。または、一人は史跡やその歴史を解説し、残りの全員が話を聞いている場合もあります。全員が都や国の歴史関係の委員である可能性もあり、さらに以上と違って、全く別の可能性もあります。ただし、新修新宿区史編集委員会「新修 新宿区史」(新宿区、昭和42年)では昭和41年以前に委員が築土神社か堀兼の井、その周辺を解説したという話はありませんでした。

市谷船河原町 (写真)地下鉄 昭和48年 ID 535-36

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535-36は昭和48年(1973年)5月、地下鉄工事のため牛込濠を大きく掘削したものです。カメラは新見附橋の上で、市谷田町三丁目、市谷船河原町、神楽坂一丁目などに向いています。翌49年(1974年)に地下鉄・有楽町線が開通しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535 市谷船河原町付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 536 市谷船河原町付近:市谷見附より牛込

 メトロ アーカイブ アルバムの「有楽町線の歴史」では……

有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設築堤仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。
留置線 駅などにおいて、列車を一時的に停め置くための線路。
検車用ピット線 検車とは車両を検査すること。ピット(pit)とは車の下部の検査や修理ができるよう低くなっている場所
桟橋架設 桟橋とは谷間などに高くかけた橋。架設とは線路を一方から他方にかけわたすこと
築堤 堤防をきずくこと
仮締切り 一時的に戸・窓などを、閉じたままにすること
鋼矢板 鋼製の平らな板
支保工 しほこう。坑道やトンネルなどの工事で、掘削してから覆工するまで土圧を支持する仮設の足場
土留め どどめ。高低差のある敷地で、土が低い土地に崩れてこないように止めること。
アンカー 部材や器具などを建物へ取り付けるために打つ鋲で、抜けにくい構造をもつ。

 写真の中央左、外堀通りから工事現場に下りる仮設の斜路の上に看板があり、「営団地下鉄8号線牛込第二工区土木工事」「企業者 帝都高速度交通営団」「施工業者 鉄建建設株式会社◯」とあります。
外堀通りには高層の建物は少なく、二階建てが目立ちます。昭和45年のID 13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に左から見ていくと……
 その奥に外堀通りがあり、高層の建物は少なく、二階建ての建物が目立ちます。参考は昭和45年のID13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に、左から見ていくと……

  1. 看板「三平ストア 食堂三平」
  2. 看板「タケヤみそ」
  3. 八木医院
  4. 看板「雪印牛乳」
  5. 奥山歯科
  6. 新益塾
  7. 恵◯社マイクロフィルム
  8. 週刊大衆 双葉社
  9. 龍生会館(いけばな龍生派)
  10. 東京理科大学 薬学部
  11. 東京理科大学(体育館)

  1. 双葉社
  2. 日本不動産短期大学校
  3. 三興製本
  4. 油井工業所
  5. 神田印刷㈱
  6. 渋谷ガラス㈱、看板「日本ペイント」
  7. ◯◯自動車工業㈱
  8. 教育図書㈱
  9. 尾形伊之助商店
  10. 丸善石油(ガソリンスタンド)
  11. 日仏学院
  12. 家の光会館(農協の出版・文化団体)

  1. 家の光会館
  2. 研究社新館
  3. 研究社旧館
  4. 東京理科大学
  5. 東京理科大学
  6. 東京理科大学
  7. 飯田橋東海ビル(現、飯田橋御幸ビル 下宮比町)
  8. 首都高速道路5号線(池袋線)
  9. 貸ボート乗り場(現、カナルカフェ)

寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡

下宮比町(写真)分水路吐口 昭和51年 ID 476-77, 485, 488, 11460-61, 12187-88

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476-77、485、488、11460-61、12187-88は昭和51年(1976)8月に飯田橋歩道橋の上から下宮比町、首都高速道路5号線(池袋線)や目白通り、神田川などを撮影しています。資料名は「下宮比町、高速道路下」で、ID 476-77、12187-88(カラー)が4枚、ID 485、488(白黒)が2枚、「目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)」ID 11460-61が2枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 476 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12188 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. 袖看板「麻雀 東南 お気軽にご◯」
  2. 袖看板「3F 武西歯科 ☎2◯」
  3. 袖看板「◯◯◯ ◯◯◯◯◯機械専門/東京伊藤鉄工 株式会社」
  4. 袖看板「有限会社 銀座◯」
  5. 袖看板「近畿日本ツー(リスト)」
  6. 袖看板「お気軽に大小コンパ/御宴会受け承ります/サッポロビール/たたき◯巻/大衆酒場/八鶏園」
  7. 袖看板「12月生(募)集中/M/フィニッシュワ(ークスクール)」
  8. 袖看板「(52レーン)」(イーグルボウル)
  9. 左の歩道
  10. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)(消火栓)
  1. 片側2車線。中央に三角コーン1。右側の2車線は色が違う。
  2. 隆慶橋。一時的に片側3車線に増える。交通信号機は青色。
  3. 右の歩道。両側に木製の仮設と思われる柵。裏側の道路標識。スポットライト様のライト。
  4. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  5. 神田川
  6. 首都高出口のランプから下に行く道路
  7. 右は文京区。近くに松屋ビル

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 477 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12187 飯田橋付近 目白通り 下宮比町

下宮比町(昭和51年)
  1. ポール看板「イーグルボウル」(52レーン) P有料駐車場 駐車料金◯◯ 200円
  2. 塔屋看板「モリサワ/写植スクール/随時受付 夜間部 12月生募集中」壁面看板「M」袖看板「フィニッシュワークスクール」「モリサワ写真植字機」
  3. 電柱看板「つる家」(ホテル)
  4. ポール看板「つる家」
  5. 左の歩道
  6. 道路標識 (駐車禁止)(転回禁止)
  7. 高いビルは「池田ビル」(地上8階)
  1. 右の歩道。歩道の両側に木製と思われる柵。
  2. 首都高速道路5号線(池袋線)。橋脚は2本
  3. 神田川
  4. 川の上で隆慶橋と反射像
  5. 首都高出口のランプから下に行く道路

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 485 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11460 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 488 下宮比町、高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11461 目白通り、首都高速5号線、神田川(飯田橋付近)

 神田川に近い歩道ではスポットライト様の光をあてていて、歩道橋に行く階段があります。ID 485と488で隆慶橋の交通信号機は赤。川を渡った文京区では「建物・不動産/松屋」がID 485と488ともにあり、ID 488は首都高から車が出てくる場所の上で「◯ガロ」やネオンサイン「競」「調」などが見えています。しかし、建物の名称について多くは小さすぎて読めません。
 この4枚の写真は、おそらく神田川の「江戸川橋分水路」が完成に近づいたことを記録したものでしょう。分水路は目白通りの地下に建設し、ID 488の手前に見えるコンクリートと鉄板の「吐口はきぐち」を通って神田川に流れ込みます。
 分水路が通っている部分の目白通りの舗装はコンクリートのような色で、左側のアスファルトらしき部分と色が違います。分水路はカーブして吐口につながっています。
 吐口のすぐ手前には飯田橋歩道橋の上り階段があり、交差点ギリギまで分水していることが分かります。
 江戸川橋分水路は神田川流域の洪水被害を防ぐ目的で建設され、写真の翌年の昭和52年に完成しました。

飯田橋交差点(写真)目白通り 平成元年 ID 508

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508は平成元年9月に「下宮比町交差点」(正しくは「飯田橋交差点」)を、おそらくセントラルプラザの2階デッキ部分から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 508 下宮比町交差点

 中央には五叉路があり、左下から横断歩道と飯田橋歩道橋を越えて右に抜けるのが外濠通り。横断歩道の向こうから左上に続くのが大久保通り。歩道橋の向こうの首都高速道路5号線(池袋線)に沿う形で中央奥にカーブしていくのが目白通りです。歩道橋は「外堀通り/新宿区下宮比町」と書かれています。
 手前に見えているのは地下の駐車場につながる換気装置でしょう。ラムラの「せせらぎ」にかかる「ひいらぎばし」の上で、おそらくフリーマーケットを開催中。やや離れて交差点に近い小屋は、地下鉄の出入り口のエレベーターです。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 遠くに見えるビル等は左から……

  1. 「週刊現代」と「飯田橋東海ビル」
  2. 「(セント)ラル/(ファイ)ナンス」
  3. 地面に小さなテント
  4. 「ビューティープラザ/レディ」(パーマ)
  5. 「ミカワ薬局」
  6. 「五洋建設」

昭和55年(1980年) 飯田橋交差点 ラムラ建設前

看護婦養成の苦心と賞牌

文学と神楽坂

 石黒いしぐろ忠悳ただのり氏の「懐旧九十年」(東京博文館、昭和11年。再録は岩波文庫、昭和58年)です。女の看病人をつけたらという発想から看護婦(現、看護師)が生まれ、また、日本赤十字社から今の国際的な開発協力事業が発生しました。
 氏は陸軍軍医。江戸の医学所に学び、西洋医学の移入、陸軍軍医制度や日本赤十字社の設立に尽くしました。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。97歳で死去。
 住所は牛込袋町26番地から明治13年、牛込区揚場町17番地に転居。

第5期 兵部省出仕より日清まで
  21 看護婦養成の苦心と賞牌
 我が国での看護婦の沿革を述べると、その始りともいうべきものは、維新の際、東北戦争の傷病者を神田かんだ和泉いずみばし病院へ収容した時です。この傷病者は官軍諸藩の武士ですからなかなか気が荒く、ややもすれば小使や看病人に茶碗や煙草タバコぼんを投げ付ける騒ぎが毎々のことで、当局ももて余し、一層のことにこれは女の看病人を附けたらよかろうというので、これを実行してみると案外の好成績を得たのです。
 その後、明治12, 3年頃海軍々医大監高木たかぎ兼寛かねひろ氏が、東京病院で看護婦養成を始めました。
 これが我が国看護婦養成の最初です。越えて明治19年、我が国の国際赤十字条約加入、日本赤十字社の創立となり、万国赤十字社に聯合すべき順序となりました.その結果、明治21年5月に篤志看護婦人会が組織せられ、有栖川ありすがわのみや熾仁たるひと親王董子ただこ殿下を総裁に推載し、鍋島侯爵夫人を会長と仰ぎました。これから看護婦養成事業がちょに就いて大いに発達して参ったのです。
 前にも述べた通り、私は最初陸軍々医方面に身を投じた際、自分の職分は兵隊の母たる重要任務であるとさとりました。さて、その兵隊の母として考えてみると、傷病者が重態になった時はこれを婦人の柔かき手で看護するのでなけれぱ親切な用意周到の看護は出来ない。ところが陸軍官軍では、看護婦を養成したり使用したりすることはまだ出来ない。そこで戦時に軍隊医事衛生の援助を主眼とする日本赤十字社においてこれを養成し、戦時にこれを使用することとし、世が進むと平時には重病者には看護婦を付けるようにするというのが、私の年来の計画であったのと、今一つには幸いにしてこの看護婦がその業務に熟達して来たならば、皇族におかせられてもぜひ看護婦を御使用ありたいというのが希望でした。また、そうなると皇族方の御看護をしたる手を以て傷病者の看護をさせることになる訳です。それで日本赤十字社の看護婦は看護は勿論、平素人格ということに注意しなくてはならぬという主張を持ったのです。
 そもそもやまいの治療に十の力を要するとすれば、医師の力が五、薬剤と食物が三、看護婦の力が二といったように三つの力が揃わなくてはならぬと思います。

 えき。(人民を徴発する意味から)戦争
賞牌 しょうはい。競技の入賞者などに賞として与える記章。メダル。
神田和泉橋 神田川に架かり昭和通りにある橋。
病院 明治元年、横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転、大病院と称していたが、明治10年、東京大学医学部附属病院と改称。
高木兼寛 鹿児島医学校に入学し、聖トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。臨床第一の英国医学を広め、脚気の原因について蛋白質を多く摂り、また麦飯がいいと判断。最終的には海軍軍医総監。東京慈恵会医科大学の創設者。生年は嘉永2年9月15日(1849年10月30日)。没年は大正9年(1920年)4月13日。
東京病院 明治14年、有志共立東京病院を設立。現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身。
日本赤十字社 明治10年(1877)の西南戦争時に、佐野さの常民つねたみ大給おぎゅうゆずるらが中心となり、傷病者救護を目的として組織した団体を「博愛社」と呼び、明治20年(1887)日本赤十字社と改称。
有栖川宮熾仁親王 江戸時代後期から明治時代の皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁たかひと親王の第1王子。反幕府・尊王攘夷派で、戊辰戦争では江戸城を無血開城。
董子 有栖川ありすがわの宮妃みやひ董子。有栖川宮熾仁親王の妃。博愛社(現、日本赤十字社)創設。10年間、東京慈恵医院幹事長。
鍋島侯爵夫人 鍋島なべしま榮子ながこ。イタリア公使であった侯爵鍋島直大とローマで結婚。明治20年、日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任。
緒に就く しょにつく。見通しがつく。いとぐちが開ける。

相生坂(写真)真清浄寺 令和4年 ID 17088

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088では、令和4年2月に西五軒町の真清しんしょうじょう付近から相生あいおいざかなどを撮影しました。資料名は「真清浄寺前から相生坂を望む」となっています。相生坂は東西2つありますが、西側の坂です。坂には自動車等のすべりをとめるOオーリングと呼ぶ円形のくぼみができています。また、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真 ID 14061もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17088 真清浄寺前から相生坂を望む

相生坂

相生坂(令和4年)
  1. 片岡ビル
  2. 道路標識(幅員減少)
  3. 道路標識(駐車禁止)
  4. 電柱看板「八洋」
  5. 白い店舗「パン デ フィロゾフ」。パンを求めて沢山の顧客が並んでいます。
  6. パークコート神楽坂レゼリア
  7. 電柱看板「八洋」
  8. 正面はヴィークコート神楽坂(マンション)
  1. 4階建てのアパート?
  2. カーブミラー 「よく見て 通りましょう」
  3. 電柱看板「ZEBRA」「地元でお葬式一筋 西五軒町1」
  4. 真清浄寺 のぼり「真清(浄寺)」
  5. 駐車場
  6. 掲示板
  7. 黒い店舗は「神楽坂富貴ふきぬき」(うなぎ店)
  8. 自動販売機「KIRIN」

東五軒町(写真)西五軒町 令和4年 ID17089

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089は、令和4年2月に東五軒町から西五軒町などを撮影しました。資料名は「東五軒町から西五軒町方面を望む」です。なお、平成31年にほぼ同じアングルで撮った写真があり、ID 14062です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17089 東五軒町から西五軒町方面を望む

東五軒町(令和4年)
  1. メープルハウス(地上3階のマンション)の一部
  2. フレスクーラ神楽坂(地上7階のマンション)、自動販売機「KIRIN」、大型ゴミ箱、3角コーン
  3. 電柱、(最高速度20キロ)、(駐車禁止)、バナー「放火に注意/牛込消防署・牛込防火協会」
  4. raum神楽坂(地上5階のマンション)
  5. ルーブル神楽坂(地上8階のマンション)
  6. ENEOS(共栄石油)、FC(燃料カード)
  7. (指定方向外進行禁止)、カーブミラー
  8. 横断歩道
  9. 左に行くと「相生坂」
  10. ハート株式会社/新宿支店
  1. 工事中
  2. 電柱看板「(株)八洋 次の角/左折 東五軒町6」
  3. トーハン本社、駐車場
  4. 郵便ポスト
  5. 横断歩道、(横断歩道)、バナー「一方通行につき/右折できません」、左に行くと「相生坂」
  6. 五軒町ビル
  7. アルスクモノイ(古書)
  8. 最も高いビルは、ラ・トゥール神楽坂(地上24階、地下2階)賃貸マンション

西五軒町(写真)神田川 昭和33年 ID 8430-32

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430-32は、昭和33年に西五軒町の北側から目白通り、神田川などを撮影しました。資料名は「西五軒町(目白通り、江戸川)」です。なお、江戸川は神田川の上流の古い名で、昭和40年以降は神田川と呼ぶようになりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8430 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430は、神田川にかかる橋の上から下流方向(東向き)を撮影しています。撮影場所は西五軒町の西江戸川橋で、左正面が小桜橋。その先の川面に影を落としているのが中ノ橋でしょう。川が突き当たるような形で建物が見えていますが、ここは川が大きく右に曲がっている「大曲」です。

S38 大曲付近(地理院地図に加筆)

神田川の橋

 この建物の手前に、後に新白鳥橋ができますが、まだありません。できるのは1971年(昭和46年)です。「今昔マップ」では1975年以上に登場します。
 目白通りの中央には都電の軌道があります。首都高速道路は建設されていません。通り沿いの建物は低層が主体です。
 神田川の護岸は、手すりが埋もれるような形でコンクリートでかさ上げされています。大雨のたびに、この地域が洪水に悩まされていたことを物語ります。
 地図や空中写真と照合すると、左側で見切れている建物が凸版印刷の工場、右側の端が同潤会江戸川アパートです。江戸川アパートの前の通り沿いの低いビルは日本交通大曲営業所で、横看板も無理に読めば読めそうです。その奥のビルは、日本専売公社ではないでしょうか。

ID 8430 西五軒町(一部を拡大)

 川沿いの歩道に電柱看板「う」がありますが、「うなぎ」でしょう。橋を渡った文京区側には戦前から続く「はし本」があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8431 西五軒町(目白通り、江戸川)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8432 西五軒町(目白通り、江戸川)

 ID 8430-32は、同じ西江戸川橋から上流方向(西向き)を撮影しています。護岸は両岸ともかさ上げしています。右正面は石切橋です。
 西江戸川橋は石切橋とは違って鋼板をそのまま壁高欄かべこうらん(特に丈夫な欄干らんかん)に使っています。
 右側には電柱看板「質 新客歓迎 小森」「質 長島」「ナショナル」などが付いた電柱が沢山見えます。左側の電柱看板は「活字母型製造」「」(駐車禁止。これは昭和20年代に見られた英文と和文を混合した標識)です。ID 8432では路面電車が走行中。左側には店舗が並び、「文化印刷◯」、三軒あけて「カタログ社」、また数軒あけて三菱のロゴマークがあります。
 30年代の自動車がいかにも昔々しています。当時、昭和35年のサラリーマンの平均月収は約4.2万円でしたが、一方、昭和33年「スバル360」は42.5万円でした。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

首都高速(写真)東五軒町 水道町 昭和44年 ID 12781-84

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781-84は、昭和44年9月、目白通りと首都高速道路5号線(池袋線)を撮影しました。資料名には「新小川町付近高速道路下」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12781 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12782 新小川町付近高速道路下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12783 新小川町付近高速道路下

 実際には北部の東五軒町から、目白通りを東に向けて撮影しています。
 通りは2車線ずつの対面通行です。左の神田川との境に橋脚が立ち、その上を首都高速が走っています。写真奥で首都高が膨らんだ場所が見えますが、これは「飯田橋料金所」です。2車線のランプが入り口につながった場所は4車線の幅があり、それが2車線に合流します。
 中央に見える信号機の下に、神田川を渡るざくらばしがかかっています。こちらを向いた信号機2機はゼブラ柄が確認できます。
 目白通りの向かって右側は縁石で高くなった歩道ですが、左側の首都高直下は歩道ではなく、車道と段差がない路側帯になっています。この部分にはバリケードやブロックなどが置いていてあり、神田川の洪水対策となる「放水路」ができる予定です(関口一丁目南部会)。
 ID 12781では都営バスが行き交っています。手前に向かってくるバスは「515」「小滝橋車庫ー茅場町」「ワンマン」の表示があり、逆台形のヘッドマークの中に「代替15」(「その他のヘッドマーク」の項)の字が確認できます。前年の昭和43年に廃止された都電15系統の代替バスです。また、対向車線を遠ざかるバスには同じ逆台形に「39」とあるようです。15系統と同時に廃止された都電39系統の代替バスです。
 ID 12783に見えるのは都バスではなく「KKK」(国際興業)で、「常盤台駅」「ワンマン」の表示、「ISUZU」のエンブレムが確認できます。
 電柱広告には「質 福山」「印刷ローラー 博文社」、川の対岸の文京区には「(TOP)PAN」(凸版印刷)の看板があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12784 新小川町付近高速道路下

 ID 12784は、ID 12781-839より背後(西側)に移動した新宿区水道町付近から、東方向に撮影しています。神田川に架かる橋は西江戸川橋。遠くの信号がある場所が小桜橋です。路側帯はやはりバリケードで仕切られ、小型トラックが何台か停まっています。

死者を嗤う|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛は大正7年6月に小説「死者をわら」(中央文学)を発表しています。29歳でした。

 二、三日降り続いた秋雨が止んで、カラリと晴れ渡ったこころよい朝であった。
 江戸えどがわべりに住んでいる啓吉は、平常いつものように十時頃家を出て、ひがしけんちょうの停留場へ急いだ。彼は雨天の日が致命的フェータルに嫌であった。従って、こうした秋晴の朝は、今日のうちに何かよいことが自分を待っているような気がして、なんとなく心がときめくのを覚えるのであった。
 彼はすぐ江戸川に差しかかった。そして、ざくらばしという小さい橋を渡ろうとした時、ふと上流の方を見た。すると、石切橋いしきりばしと小桜橋との中間に、架せられているを中心として、そこに、常には見馴れない異常な情景が、展開されているのに気がついた。橋の上にも人が一杯である。堤防にも人が一杯である。そしてすべての群衆は、川中に行われつつある何事かを、一心に注視しているのであった。
 啓吉は、日常生活においては、興味中心の男である。彼はこの光景を見ると、すぐ足を転じて、群衆の方へ急いだのである。その群衆は、普通、路上に形作らるるものに比べては、かなり大きいものであった。しかも、それが岸にあっては堤防に、橋の上では欄杆らんかんへとギシギシと押しつめられている。そしてその数が、刻々に増加して行きつつあるのだ。
 群衆に近づいてみると、彼らは黙っているのではない。銘々に何かわめいているのである。
「そら! また見えた、橋桁はしげたに引っかかったよ」と欄杆に手を掛けて、自由に川中を俯瞰みおろし得る御用聴らしい小憎が、自分の形勝けいしょうの位置を誇るかのように、得意になって後方に押し掛けている群衆に報告している。
「なんですか」と啓吉は、自分の横に居合せた年増の女に聴いた。
土左衛門ですよ」と、その女はちょっと眉をしかめるようにして答えた。啓吉は、初めからその答を予期していたので、その答から、なんらの感動も受けなかった。水死人は社会的の現象としては、ごく有り触れたことである。新聞社にいる啓吉はよく、溺死人に関する通信が、反古ほご同様に一瞥を与えられると、すぐ屑籠に投ぜられるのを知っている。が実際死人が、自分と数間の、距離内にあるということは、まったく別な感情であった。その上啓吉は、かなり物見高い男である。彼もまた死人を見たいという、人間に特有な奇妙な、好奇心に囚われてしまった。
嗤う 相手を見下したように、笑う。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
東五軒町の停留場 路面電車の停留場です。現在はバス停留所(バス停)に代わりました。

東五軒町のバス停 Google

フェータル fatal。命にかかわる。破滅をもたらす
小桜橋石切橋 図を参照
 西江戸川橋です。

神田川の橋

欄杆 欄干。らんかん。橋や建物の縁側、廊下、階段などの側辺に縦横に材を渡して墜落を防ぐもの。
喚く わめく。叫く。怒ったり興奮したりして大声で叫ぶ。大声をあげて騒ぐ
橋桁 はしげた。川を横断する道路の橋脚の上に架け渡して橋板を支える材。
御用聴 ごようきき。御用聞き。商店などで、得意先の用事・注文などを聞いて回る人
形勝 地勢や風景などがすぐれていること、その様子や土地
土左衛門 どざえもん。溺死者の死体。江戸の力士成瀬川土左衛門の色白の肥満体に見立てて言ったもの。
眉を顰める まゆをひそめる。不快や不満などのために、眉のあたりにしわを寄せる。顔をしかめる。
反古 反故。書きそこなったりして不要になった紙。
一瞥 いちべつ。ちらっと見ること。流し目に一たび見ること
屑籠 くずかご。紙屑など、廃物を入れる籠。
数間 1間は1.818…メートル。数間は約7〜8メートル。

 と、啓吉のすぐ横にいる洋服を着た男と、啓吉の前に、川中を覗き込んでいる男とが、話している。
 すると突然、橋の上の群衆や、岸に近い群衆が、
「わあ!」と、大声を揚げた。
「ああとうとう、引っ掛けやがった」と所々で同じような声が起った。人夫が、先にかぎの付いた竿で、屍体の衣類をでも、引っ掛けたらしい。
「やあ! 女だ」とまた群衆は叫んだ。橋桁はしげたに、足溜あしだまりを得た人夫は、屍体を手際よく水上に持ち上げようとしているらしい。
 群衆は、自分たちの好奇心が、満足し得る域境に達したと見え、以前よりも、大声をたてながら騒いでいる。が、啓吉には、水面に上っている屍体は、まだ少しも見えなかった。
足溜 足を掛ける所。足がかり。

 すると、突然「パシャッ」と、水音がしたかと思うと、群衆は一時に「どっ」と大声をたてて笑った。啓吉は、最初その場所はずれの笑いの意味が、わがらなかった。いかに好奇心のみの、群衆とはいえ屍体の上るのを見て、笑うとはあまりに、残酷であった。が、その意味は周囲の群衆が発する言葉ですぐ判った。一度水面を離れかけた屍体が、鈎のずれたため、ふたたび水中に落ちたからであった。
「しっかりしろ! 馬鹿!」と、哄笑から静まった群衆は、また人夫にこうした激励の言葉を投げている。
 そのうちに、また人夫は屍体に、鈎を掛けることに、成功したらしい。群衆は、
「今度こそしっかりやれ」と、叫んでいる。啓吉は、また押しつまされるような、気持になった。彼は屍体が群集の見物から、一刻も早く、逃れることを、望んでいた。すると、また突然水音がしたかと思うと、以前にも倍したような、笑い声が起った。無論、屍体が、再び水面に落ちたのである。啓吉は、当局者の冷淡な、事務的な手配と、軽佻な群衆とのために、屍体が不当に、曝し物にされていることを思うと、前より一層の悲憤を感じた。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
倍する 倍になる。倍にする。大いにふえる。大いに増す。
軽佻 けいちょう。考えが浅く、調子にのって行動する様子

 三度目に屍体が、とうとう正確に鈎に掛ったらしい。
「そんな所で、引き揚げたって、仕様がないじゃないか、石段の方へ引いて行けよ」と、群衆の一人が叫んだ。これはいかにも時宜タイムリイな助言であった。人夫は屍体を竿にかけたまま、橋桁はしげたから石崖の方へ渡り、石段の方へ、水中の屍体を引いて来た。
 石段は啓吉から、一間と離れぬ所にあった。岸の上にいた巡査は、屍体を引き揚げる準備として、石段の近くにいた群衆を追い払った。そのために、啓吉の前にいた人々が払い除けられて啓吉は見物人として、絶好の位置を得たのである。
 気がつくと、人夫は屍体に、繩を掛けたらしく、その繩の一端をつかんで、屍体を引きずり上げている。啓吉はその屍体を一目見ると、悲痛な心持にならざるを得なかった。希臘ギリシャの彫刻で見た、ある姿態ポーゼのように、髪を後ざまに垂れ、白蠟のように白い手を、後へ真直にらしながら、石段を引きずり上げられる屍体は、確かに悲壮な見物であった。ことに啓吉は、その女が死後のたしなみとして、男用の股引を穿うがっているのを見た時に悲劇の第五幕目を見たような、深い感銘を受けずにはいなかった。それは明らかに覚悟の自殺であった。女の一生の悲劇の大団円カターストロフであった。啓吉は暗然として、滲む涙を押えながらおもてそむけてそこを去った。さすがに屍体をマザマザと見た見物人は、もう自分たちの好奇心を充分満たしたと見え、思い思いにその場を去りかかっていた。
 啓吉も、来合せた電車に乗った。が、その場面シーンは、なかなかに、啓吉の頭を去らなかった。啓吉は、こういう場合に、屍体収容の手配が、はなはだ不完全で、そのために人生における、最も不幸なる人々が、死後においても、なおさらし物の侮辱を受けることをいきどおらずにはおられなかった。それと同時に啓吉は死者を前にして哄笑する野卑な群衆に対する反感を感じた。
 そのうちフト啓吉は、今日見た場面を基礎として、短篇の小説を書こうかと思い付いた。それは橋の上の群衆が、死者を前にして、盛んに哄笑しているうちに、あまり多くの人々を載せていた橋は、その重みに堪えずして墜落し、今まで死者をわらっていた人たちの多くが、溺死をするという筋で、作者の群衆に対する道徳的批判を、そのうちに匂わせる積りであった。が、よく考えてみると、啓吉自身も、群衆が持っていたような、浮いた好奇心を、全然持っていなかったとは、いわれなかったのである。
時宜 じぎ。その時々に応じた。ちょうど良い頃合。適時。タイミング。
タイムリイ タイムリー。ちょうどよい折に行われる。時機を得ている
後ざま うしろざま。その人や物の、後ろのほう
白蠟 はくろう。白い蝋燭ろうそく。黄蝋を日光にさらして製した純白色の蝋。
穿う うがつ。穴を開ける。人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。衣類やはきものを身につける。
カターストロフ  カタストロフ。ギリシア語のkatastrophēに由来。悲劇的結末。破局。
滲む にじむ。涙・血・汗などがうっすらと出る。
 おもて。顔。顔面。

赤城神社(写真)鳥居と拝殿 令和4年 ID 17581-82

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年令和元年、また拝殿は昭和44年昭和50-51年平成29年でも出ています。

(1)鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581 赤城神社鳥居

 左側から……

  1. 横断歩道
  2. コンビニ(LAWSON)
  3. 電柱とカーブミラー
  4. 赤城神社
    • どもえ)の紋と社号標(石柱などに刻んで建てた神社名)「赤城大明神」
    • いちの鳥居
    • 神額しんがく(神社で鳥居などにある額)「赤城神社」
    • 巨大な広葉樹
    • 参道。両側に春日灯籠、遠くに創作した灯籠
    • 掲示板と読めない掲示物
  5. 道路標識 (車両進入禁止)
  6. 裏側を向いた道路標識。縁石。歩道
  7. 民家
  8. 駒寿司


(2)拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17582 赤城神社

 左側から……

  1. 屋根があり、「螢雪天神」の提灯。かつて横寺町の朝日天満宮だったが、明治9年(1876)、信徒がなく、境内社(神社の境内に鎮座して、その管理に属する摂社や末社)になる。平成17年(2005)10月、横寺町の旺文社の寄進で『螢雪天神』として復興。
  2. 絵馬、絵馬がけどころ
  3. 八耳神社、出世稲荷神社、東照宮などの屋根
  4. 民家の2階
  5. 赤城神社の社殿
    • 「狛犬」2匹と「奉」「納」。右側は口を開き「」形を、左側は口を閉じていて「うん」形を表しています。
    • 「赤城神社」のちょうちん型の御神灯が1対。
    • 「(赤城神)社」の額
    • しめ縄。神道における神祭具。白い紙飾りが「紙垂しで
    • 本坪ほんつほすずと鈴の
    • 賽銭箱と左どもえ)の紋
    • 拝殿。本殿の参拝も可。
  6. 高札様の看板
  7. 絵馬、絵馬がけどころ
  8. マンション「パークコート神楽坂」(築年は2010年)

赤城神社(写真)駐車場の眺望 令和4年 ID 17063-66

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17063-66は、令和4年(2022)3月、備考では「赤城神社から早稲田方面を望む」となっていて、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真です。この部分は崖の上になっており、昭和28年平成31年令和元年などの撮影もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17063 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17064 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17065 赤城神社から早稲田方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17066 赤城神社から早稲田方面を望む

 撮影時刻は夕方のようで、建物の手前側(東側)が影になっています。それ以外は令和元年と大きな変化がありません。
 令和元年の◯で囲んだ部分は令和4年には見られませんが、詳細は分かりません。

【参考】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13306A 赤城神社からの眺め 令和元年

【参考】新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13305 赤城神社からの眺め 令和元年

神楽河岸の酒問屋(写真)路面電車 昭和42年 

文学と神楽坂

 雪廼舎閑人氏の「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)に次の写真がでてきました。撮影時期は昭和42年8月でした。

雪廼舎閑人「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)昭和42年8月に撮影

 都電「飯田橋」行きなのに、方向板だけは早々と「品川駅」に直してしまうという結構面白い写真です。理由は以下に
 この都電系統3番は4か月後の昭和42年12月10日に廃線しました。あとこの写真は升本酒問屋についても説明があり、『新撰東京名所図会』が続きます(引用は以下の「神楽河岸の酒問屋」で)。
 酒問屋の升本総本店は、確か田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」にもあったっけ。で、見つけました。これが(↓)昭和47年に撮った写真です。都電はなくなり、「京英自動車株式会社」は「安全第一/大林組」の看板に変わっています。この時期にはID 8793のように飯田壕で地下鉄有楽町線や護岸の工事が進んでおり、その関係の現場事務所かも知れません。
 升本の背後に出現したビルは、左が東衣裳店、右が小川ビル。いずれも大久保通り沿いです。右端はボウリングのピンの広告塔で、下宮比町のイーグルボウルです。

05-14-39-2飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 升本総本店のサイトにも写真があったはず……。ありました(↓)。説明は昭和38年ごろとあります。しかし、よく見ると最初の雪廼舎閑人氏の写真と似ている。非常に似ている。けた違いに似ている。眼光紙背に徹すると、同じじゃないか。

 雪廼舎氏と升本総本店、いずれも嘘をつく理由はなく、どちらかが間違いです。
 住宅地図で調べると、升本の倉庫の隣は昭和39年が「駐車場」、昭和42年と43年が「百合商会」、昭和45年から「京英自動車」に変わります。住宅地図の更新は数年遅れになることが多いので、これを考えると雪廼舎氏に軍配があがります。
 「続・都電百景百話」の中で雪廼舎氏は

 当初、「都電百景百話」は、私の撮影した1万枚を越すネガから、先ず四百の場面を選んで、更にそこから百景にしぼったものだった。この広い東京の町々を、百の場面で代表させることの難しさは並大抵なものではなかった。江戸の昔、葛飾北斎は「富嶽三十六景」で三十六景ならぬ四十八景を、そして安藤広重は「江戸名所百景」で、百十八景もの場面を残しているのに徴しても、このことはお解り頂けると思う。

 雪廼舎氏は趣味が高じて写真を撮っていて、都電3系統の廃止を前に撮影に行ったのでしょう。写真の大きさや解像度から見ても氏のほうが正しいでしょう。

 神楽河岸の酒問屋
 中央線に乗って四谷から御茶の水に向かって行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべる者や釣糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しいところだ。その外濠に沿って走っている電車は、昔の外濠線で、この伝統ある線は、③番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の五叉路にさしかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立往生だ。方向板は折返す時に直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げしたので、船宿や問屋などがたくさんあり、このあたりの河岸を神楽河岸と言った。
 明治37年の『新撰東京名所図会』の「牛込区之部」の巻一に、「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には油問屋の小野田。三番地には東京火災保険株式会社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ。」と出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町四丁目の質屋大和屋、本郷三丁目のかんむり質屋、音羽一丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることもできない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた水面積か減った。残念なことである。

★飯田橋の都電ミニ・ヒストリー
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、三社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川橋までが完成して、飯田橋は乗換地点となる。一方、大正1年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、⑩番江東橋~江戸川橋、⑨番の外濠線の循環線、それに新宿からの③番新宿~牛込万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで⑱番角筈~飯田橋~万世橋、⑲番早稲田~大手町~日本橋~洲崎、㉒番若松町~御茶の水~神田橋~新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から⑱番が⑬番に、⑲番が⑭番に、そして㉒番は改正されて㉜番飯田橋~虎の門~新橋~三原橋と、㉝番飯田橋~虎の門~札の辻間となった。昭和15年には㉜番は廃止となった。
 戦後は、⑮番高田馬場駅~茅場町、⑬番新宿駅~水天宮、③番飯田橋~品川駅とになった。
 ③番は42年12月10日、⑮番は43年9月29日に廃止、⑬番は43年3月31日岩本町までに短縮の後、45年3月27日から廃止された。

清隆寺(写真)赤城元町 昭和44年 ID 14134

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」 ID 14134は昭和44年頃に赤城元町の日蓮宗清隆寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14134 日蓮宗本光山清隆寺

「一実」は仏語で、絶対平等の真実、「会堂」は集会の大きな建物のこと。表札は「日蓮宗本光山 清隆寺」。
「牛込区史」(昭和5年、576頁)では

本光山清隆寺、中山法華経寺末
起立不明、開基妙行院日徳、慶安四年九月九日遷化、旧境内年貢地百二十八坪、借地百四十四坪半。

 と極めて簡潔に書いています。なお「中山法華経寺」は千葉県市川市中山にある正中山法華経寺、「遷化」は高僧の死亡したこと。
「当山縁起」によれば、寛永15年(1638年)、妙行院日徳が開基として創建したといいます。

住宅地図。1967年

 清隆寺には初代・立花家橘之助の墓があることでも知られます。橘之助は明治から大正にかけで活躍した女流音曲師で、名人と呼ばれました。
 平成29年に三遊亭小円歌師匠が二代目立花家橘之助を襲名し、82年ぶりに名跡が復活したことで改めて注目されました。
 二代目は清隆寺で初代のおんの供養をしています。
 また、後ろにはお墓以外に「神楽坂樹木葬あかぎガーデン」があります。

清隆寺 上空から

赤城神社(写真)神輿蔵 眺め ID 14133, 14159-60 昭和44年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133、ID 14159-60は昭和44年頃の赤城神社の写真を撮っています。ID 14133は神輿蔵を、ID 14159は赤城神社からの眺めを、ID 14160は赤城神社境内を撮っています。

(1)神輿蔵

あ 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14133 赤城神社 神輿蔵

 神輿みこしぐらは下の地図で「おみこしソーコ」と書いてある所です。氏子が町会ごとに神輿や山車を保管しておく建物で、左側の2棟には赤城神社の社紋である左どもえ紋()と「水道町」や「細工町」の町名があります。石造りの立派なものも、木造の漆喰塗りらしき小ぶりなもの、木の扉や錆びた扉もあり、管理状態はまちまちです。
 ただ終戦直後の航空写真には何も映っていないので、いずれも戦後に再建されたものでしょう。これらの神輿蔵は、平成22年(2010年)の新社殿では本殿の下(人工地盤の下)に移設されました。
 冬に撮影らしく立木は葉が落ちて、幹には「こも巻き」をしています。

赤城神社 住宅地図 2000年

(2)赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14159 赤城神社からの眺め

 左に赤城神社北参道の門柱。右側のビルの塔屋には「はいばら」と書かれていて「榛原記録紙工場」でしょう。左端には崖下の店の「小料理」の看板が見えます。

住宅地図 昭和42年

(3)赤城神社境内
 石敷きの参道の左側から北参道の方向を写しています。境内では子供が何人か遊んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14160 赤城神社境内

 左から……

  1. 東宮殿下碑
  2. 北参道の鳥居と門柱
  3. しょうちゅう。大山巌碑。初代の陸軍大臣大山巌が揮毫
  4. 手前に裸電球のような境内灯。石の土台から長い旗竿。
  5. 赤城会館(結婚式場)
  6. 赤城神社の社殿(拝殿)
  7. 出世稲荷神社(摂社)の鳥居

1948年1月18日(昭23)赤城神社付近(地理院地図)

赤城神社(写真)拝殿と狛犬 平成29年 ID 13977

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977は平成29年、赤城神社の社殿と狛犬などの写真を撮っています。赤城神社の境内は建築家のくまけん氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977 赤城神社社殿・狛犬

 神社の社殿とは本殿ほんでん拝殿はいでん、舞殿などといった境内の重要な建物のことです。また、本殿とは神様がいらっしゃるとされている社殿のことで、拝殿とは参拝者が拝礼を行う社殿。したがって、この写真は拝殿です。屋根には簡単な切妻きりづま屋根です。
 新社殿は、旧社殿の跡に築いた人工地盤の上に建っています。鳥居から長い階段を上って、写真の拝殿前に出ます。
 拝殿の下は氏子参集殿(あかぎホール)、本殿の下は人工地盤を貫く基礎になっています。
 では左側から……

  1. 絵馬、絵馬け、絵馬がけどころ。絵馬は社寺などに祈願や感謝の目的で奉納する絵。絵馬掛所は祈願を書いた絵馬を掛ける場所
  2. 「納」と「狛犬」。左側は口を閉じていて「うん」形を表しています。
  3. 拝殿。
    • 「赤城神社」のちょうちん型の御神灯が1対。拝殿左からは殿内に入れるようで、受付らしい机が見える。
    • 「(赤)城神社」の額
    • しめ縄。神道における神祭具。白い紙飾りが「紙垂しで
    • 本坪ほんつほすずと鈴の
    • 賽銭箱と左どもえ)の紋
  4. 「狛犬」。右側は口を開いて「」形を表しています。
  5. 狛犬の下に立て看板「厄年祈願 受付中/子ども豆まき大会/平成二十九年1月二十八日(土)十四時」
  6. 高札こうさつ様の看板「奉納 斉◯芳子」

赤城神社(写真)駐車場の眺望 令和元年 ID 13303-06

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303-06は、令和元年(2019)5月、赤城神社裏(北側)駐車場からの写真4枚です。この部分は高台の崖上になっており、昭和28年平成31年などの撮影もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13303 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13304 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13305 赤城神社からの眺め

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13306 赤城神社からの眺め

 最近の写真なので建物が特定するのも簡単で、手前のえんじ色のマンションで屋上に白い正方形の模様がたくさんあるのは「ライオンズマンション神楽坂第三」(地上5階)で、同じく北に見えるえんじ色のマンションは「神楽坂ココハイツ」(地上11階)、ID 13303-05の薄い茶色のマンションは「グラーサ 神楽坂」(地上8階)です。

近い場所

 ID 13305の奥は、池袋周辺の高層ビル群です。同時期の撮影であるID 14051で詳しく見ています。ただし、豊島区役所、つまり「ブリリアタワー池袋」(地上49階 / 地下3階)は、薄い茶色のマンションの右側で、半分は隠れています。

14051b 赤城神社から池袋方向を望む

赤城神社裏(北側)駐車場

 ID 13303-04の奥は、早稲田方面のマンションなどが写っています。左側から見ていくと、屋上に貯水槽がある青灰色のビルは赤城下町にある旭創業東京支店の「神楽坂アサヒビル」、「BELISTA 神楽坂」は地上13階/地下1階、白い「グランスイート神楽坂」は地上14階で、天神町交差点の近くです。
 水色は「菱秀神楽坂ビル」(地上10階)、その右は「フリーディオ神楽坂」(地上11階)、薄い茶色は「パーク・ハイム神楽坂」(地上14階)、全部マンションであり、江戸川橋通り沿いの渡邊坂と呼ばれているあたりです。
 中央の一番奥、高い建物は山手線高田馬場駅に近い「住友不動産新宿ガーデンタワー」(地上37階/地下2階)で、ガラスの外装が濃紺に写っています。

渡邊坂近辺

 ID 13303-4の下を走る道路は無名ですが、そのまま上に行くと「赤城坂」と一緒になってT字をつくります。

路面電車(写真)飯田橋駅 第15系統 昭和6年 昭和31年 昭和43年

文学と神楽坂

 都電15系統の飯田橋停留所付近の写真5枚をまとめました。15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
(1)昭和6年頃 中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)

飯田橋附近 飯田橋は江戸川と外濠との合する地点にあってその下流は神田川となる。写真の中央より少しく右によって前後に通ずる川が江戸川である。突きあたりの台地が小石川台で川を隔てて右は小石川区左は牛込区また飯田橋の橋手まえが麹町区。電車は5方面に通ずる。
 大正3年、市電に系統番号が採用され、電車の側面に大きく取り付けられるようになり、三田は1番、時計回りに8番まで番号をつけていました
 写真は昭和3年(1928年)に開業したばかりの中央線飯田橋駅のホームから目白通り方向を撮影しました。手前の幅の広い橋が「飯田橋」で、右に通じるのが「船河原橋」です。
 船河原橋は欄干の四隅が高い柱になっていて、その上に丸い大きな擬宝珠が乗っています。
 ここから写真奥に向けてが江戸川と呼ばれ、上流の「隆慶橋」が見えています。おそらく国鉄飯田橋駅のホームから写真を撮ったのでしょう。
 なお戦後、江戸川の名称はなくなり、神田川に統一しました。小石川区は文京区、牛込区は新宿区、麹町区は千代田区になりました。また、戦後の名称ではありますが、前後の通りは「目白通り」、左右の通りは「外堀通り」で、左奥にある「大久保通り」は見えません。
 では写真を左側から見ていきます。

  1. 小さな建物の一部。自働電話(公衆電話)でしょう。交番は船河原橋に派出所があり、不自然です。
  2. 外濠の水面は見えませんが、対岸に石垣と手すり。江戸期のものではなく、昭和4年(1929年)の飯田橋の掛け替え時に整備したものでしょう。
  3. 掲示板(裏から)。
  4. 電柱と電柱広告「耳鼻咽喉科」
  5. 交差点の向こうに店舗。看板が読めるのは「エ[ビス]ビール」と「春日堂」。
  6. 早稲田方向に向かう電車は停車中で、電停に乗降客多数。13系統は交差点を横断中。
  7. 降雪後らしく、路面は白く、車道は黒くなっている。
  8. 右前に電柱広告「魚喜」? 電柱の上にあるのは擬宝珠でしょうか。

(2)昭和31年(1956年)6月16日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

戦前と戦後の風景が重なっていた昭和30年代初めの飯田橋駅前風景
低層の建造物ばかりだったので遠望がきいた。右に神田上水、直進する電車通りは目白通り。上流の大曲、江戸川橋にかけては沿道に中小の製造・加工工場、小出版社、印刷・製本業などが密集していた。神田川に架る外堀通りの橋は「船河原橋」。左奥が神楽坂・四谷見附方面、右奥が水道橋・御茶ノ水方面である。電車の姿は無いが、撮影当時の外堀通りには⑬系統(新宿駅前~万世橋)の都電が頻繁に往復していた。現在は高層のオフィス街に変り、頭上には首都高速5号池袋線が重くのしかかっている。
◎飯田橋 1956(昭和31)年6月16日 撮影:小川峯生

 東京都電は戦後再編され、江戸川線は高田馬場まで延長して15系統になりました。外濠線は飯田橋から南が3系統。飯田橋からお茶の水方向は大久保通りにつながり、本文のように13系統になりました。「電車の姿は無いが」という文章は本文通り。
 写真は(1)の昭和6年頃と同様、中央線飯田橋駅ホームから目白通り方向を撮影しています。2枚の写真は同じ本に掲載されていますが、下は少し画角が狭くなっています。上の写真の右側の鉄骨のようなものと、空中を横切るケーブルのようなものは後の写真には見えず、防鳥対策を含めて何かの工事をしていたのでしょう。また右下には花柄らしい車が歩道に停まっています。移動販売の車でしょうか。
 停留所の安全地帯(路面電車のホーム)ではゼブラ柄の台座から2mぐらいの高い柱があり、前面に「飯田橋」と読めます。
 街灯は昭和6年と同じように照明3個が街灯1つにまとめてついています。

  1. 交差点の向こうに商店街。看板は「つるや」が縦横2つと読めない「▢口▢▢▢▢」。
  2. 飯田橋のたもとに「光」
  3. 13系統(茅場町行)は「15」と「612」

(3)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点での出会い、⑮系統茅場町行きの3000形(右)と、⑬系統秋葉原駅前行きの4000形(左)飯田橋駅至近の飯田橋交差点は五差路になっていて、⑮系統の走る目白通りと、神楽坂から下ってきた⑬系統の走る大久保通り(飯田橋まで。当所から先の⑬は外堀通りを進む)が交差しており、さらに外堀通りを赤坂見附から走ってきた③系統(品川駅~飯田橋)の線路が、交差点手前で終点となっていた。信号や横断歩道も複雑なため、交差地点を取巻く井桁スタイルの歩道橋が巡らされ、歩行者が空中を歩く「大型交差点」として知られるようになった。写真はその建設開始の頃の模様で、正面のビルは東海銀行。JRの飯田橋駅には中央・総武緩行線しか停車しないが、現在は飯田橋駅周辺の道路地下や神田川の下には東京メトロ東西線・有楽町線・南北線、都営大江戸線の「飯田橋駅」が完成していて、巨大な地下鉄ジャンクションの1つとなっている。街の方も中小商工業の街から高層ビルが並ぶオフィス街に大変身している。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 手前に向かってくる15系統の都電は「茅場町」、マーク「15」と「週刊文春」、「3214」号、「乗降者優先」。一方、左奥から下ってきて13系統は「4041」号しかわかりません。
 ゼブラ柄の交通信号機は交差点の中央にあり、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、その下にゼブラ柄の台座と脇に警察官。
 歩道橋は手すりは完成しておらず、橋台や橋脚も足場やシートがかかっています。
 歩道橋は最初は井桁スタイルではなく「士の字」形でした。井桁になるのは1978~79年です。

昭和44年 住宅地図

 店舗は左から……

  1. 東海銀行(時計と東海銀行、東[海]銀行、[T]OKAI BANK)
  2. 電柱看板「多加良」(旅館)
  3. [三平]酒造 商金
  4. パーマレディー。LADY
  5. サロンパス。[か]っぱ家
  6. 「銀行」
  7. [ミカワ薬品] アリナミン

(4)昭和43年(1968)8月24日 三好好三氏の「発掘写真で訪ねる都電が走った東京アルバム 第4巻」(フォト・パブリッシング、2021年)

飯田橋交差点で信号待ちする目白通りの⑮系統高田馬場駅前行き2000形(右)と、大久保通りの⑬系統岩本町行きの8000形・4000形(左奥)
五差路の飯田橋交差点に見る都電風景である。撮影時には左側の信号の奥にここが終点の③系統品川駅行きの停留場もあった。鉄筋コンクリート仕様の本格的な歩道橋の工事が頭上で行われていた。国鉄飯田橋駅(当時)は画面の背後にあり。ホーム上からこのような展望が開けていた。
◎飯田橋 1968(昭和43)年8月24日 撮影:小川峯生

 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2009」号と「15」「小説読売」。13系統岩本町行きは大久保通りで発車中。

 店舗などは左から……

  1. きんし正宗◯
  2. [ご]らくえん
  3. 日本精[鉱]
  4. 三割安い
  5. (速度制限解除)(転回禁止)(駐車禁止)
  6. 電柱看板「飯田橋」「飯田橋」「多聞」
  7. (歩行者横断禁止)
  8. 電柱と(指定方向外進行禁止)
  9. 「科学と美味」
  10. 「話し方」「ス」
  11. 東海銀行(時計、東海銀行、TOKAI BANK)
  12. ゼブラ柄の交通信号機、立て看板「飯田橋の花壇/一息いれて安全運転/牛込警察署」、警察官
  13. 電柱広告「フクヤ」

(5)昭和43年9月28日 運転最終日 諸河久氏の「路面電車がみつめた50年前のTOKYO

自動車で輻輳する飯田橋交差点を走る15系統高田馬場駅前行きの都電。沿道の見物人はまばらで、寂しい運転最終日だった。飯田橋~大曲(撮影/諸河久 1968年9月28日)

路面電車がみつめた50年前のTOKYO  諸河久
https://dot.asahi.com/aera/photoarticle/2019070500023.html
 都電の背景に写っている横断歩道橋は1968年3月に設置されている。当時、総延長242mに及ぶ長大な歩道橋で、上野駅前や渋谷駅前の歩道橋と長さを競っていた。街の景観を阻害する歩道橋だが、撮影者にとっては都電撮影の格好の足場となった。筆者も歩道橋に上る階段の途中から、やや俯瞰した構図で都電を撮影することができた。

 これまでの写真とは逆に飯田橋駅の方向を撮影しています。「士の字」の歩道橋の左の階段から撮影しました。
 目白通りの15系統高田馬場駅前行きで、「2502」号と「15」「小説読売」。イースタン観光のバスが併走中。また、15系統の路面電車と水平にある線面は13系統のもの。
 本文では「横断歩道橋は1968年3月に設置」とありますが、(3)や(4)ではまだ工事中です。3月に歩道橋を架設し始め、9月に供用したというペースではなかったでしょうか。

 標識などは左から……

  1. (指定方向外進行禁止)8-20
  2. (帝都高速度交通営団)
  3. ガード下に「最高速度」
  4. (転回禁止)
  5. 「飯田橋駅」
  6. 奥の千代田区のビルに「ジ◯ース味」「林◯會◯」
  7. 右隅に「飯田橋」2枚

赤城神社(写真)昭和50-51年 ID 9899‐9901

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899、ID 9900、ID 9901は昭和50-51年頃、赤城神社からの眺めを撮っています。天気は曇りで、遠くがよく見えません。トタン屋根が光っているので、雨上がりかもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899 赤城神社からの眺め

 ID 9899で目立つのは、中央にある「大日本印刷」の広告です。左手前には電柱から街灯がつき出していて、その街灯は消えていません。この下に道路があるのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9900 赤城神社からの眺め

 ID 9900では、左端の石柱に「大正十一(年)」と彫られています。その右のビルの塔屋に「はいばら」の広告看板。煙突が何本かあり、右には「竹の湯」とあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9901 赤城神社からの眺め

 ID 9901は、少し引いた位置からの撮影です。石柱は屋根つきで、門灯のようなデザインです。「竹の湯」の煙突も確認できます。遠くの集合住宅の上には広告がありますが「日本火災」以外は読めません。
 さて以上です。撮影場所の特定は難しい。ところがわかりました。

ID 9899は赤城神社から西に、ID 9900とID 9901は北西で撮りました。

 赤城神社から西の方角に「大日本印刷㈱榎町工場」、北西に「竹の湯」があります。屋根つきの石柱は赤城神社北参道の門柱です。北参道から境内に入ったところ、鳥居の下あたりから撮影したのでしょう。

TV「気まぐれ本格派」29 神社の恋の物語 1978年

赤城神社(写真)鳥居 令和元年 ID 13302

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302は令和元年(2019年)5月、赤城神社鳥居を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13302 赤城神社鳥居

 鳥居は「いちの鳥居」(神社の境内に入って最初の鳥居)で、中央に神額しんがく(鳥居等の高い位置に掲げたがく)として「赤城神社」が書かれ、左には社号しゃごうひょう(入口に石柱などの神社名)として「赤城神社」があります。昭和44年のID 8298にあった玉垣はなくなり、鳥居も二回りほど大きくなって道路ギリギリに立っています。これから参道が続きます。
 鳥居の前の左側には立て看板2つがありますが、「あかぎカフェ」の広告でしょうか、しかし読めません。右側には掲示板があり、「御大礼」以外は読めません。大礼たいれいとは冠婚葬祭などの最も重要な礼式です。この年の5月1日に今上天皇が即位されましたが、これでしょうか。
 境内けいだいには巨大な広葉樹があり、両側には春日灯籠、遠くに創作した灯籠があります。

灯籠

 社殿などの境内は建築家のくまけん氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。立木の奥に見える縦縞の建物は地上6階・地下1階のマンション「パークコート神楽坂」で、これも隈氏の設計です。赤城幼稚園の跡地を中心に境内の東側に建てられました。
 鳥居の前はT型の三叉路で、女性がスマホで鳥居や社号標を撮影しています。
 後は左から……

  1. コンビニ「[LA]WSON」
  2. 道路標識 道路標識 横断歩道(横断歩道)
  3. 電柱とカーブミラー
  4. 赤城神社
  5. 道路標識 (車両進入禁止)
  6. シャッターは閉店
  7. 味色海鮮 駒寿司

赤城神社(写真)拝殿と赤城会館 昭和50-51年 ID9902 ID9903 ID9904

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902 赤城神社

 赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒すずおは賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 右端に金網フェンスがあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9903 赤城神社

 右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左どもえ紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9904 赤城神社

 右から赤城会館、しょうちゅうの台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。

TV「気まぐれ本格派」 29 神社の恋の物語、1977年

住宅地図 1976年

赤城神社(写真)鳥居 ID 8298 ID 14161 昭和44年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298とID 14161は「赤城神社」を「昭和44年頃か」に撮ったと備考で書かれています。この2枚の写真は人間がわずかに違うだけで、連続して撮影したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14161 赤城神社境内

 ID 8293とよく似ていますが、相違点があります。
 第一に、左の玉垣の一部がないことです。ID 8293をよく見ると、玉垣の上部に黒い筋があります。この位置で計画的に除却したのか、あるいは継ぎ目が割れて外れたのか、分かりません。
 第二に、このID 8298は好天で、建物の影が出ていることです。また境内の駐車車両も違っており、別の日の撮影と推測できます。
 それ以外はよく似ています。看板は「昭和四十五年度園児募集」、写っている人もコート姿や厚着で、季節は冬です。ちなみにID 389とID 390は昭和44年12月でした。
 では、左から見ておきます。

  1. 自動車と箱を抱えた男性
  2. 外灯
  3. 玉垣。何本か抜けている。
  4. ポスター「赤城ラジオ体操◯」
  5. 2階建ての民家
  6. 高札様の看板「赤城幼稚園」「11月1日◯◯◯◯◯◯/昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」
  7. 神門に「赤城神社」
  8. 鳥居
  9. 自動車と自転車
  10. アーチ型(⨅)の車止め、赤城神社拝殿
  11. 母と子供1人
  12. 民家
  13. 玉垣、外灯、社号しゃごうひょうの「赤城神社」、自動車通行止、背の高い電柱、高札様の看板「結婚式場 赤城会館」、背の低い電柱
  14. 屋根付きの屋外掲示板
  15. 参道沿いの民家
  16. 3-4階建てのビル(東京都教育会館、現・東京都教育庁 神楽坂庁舎

路面電車(写真)飯田橋駅 第3系統 昭和27年 昭和40年 昭和42年

文学と神楽坂

 路面電車の飯田橋駅は第3系統、第13系統、第15系統が走っていました。第3系統は「外濠線」とも呼ばれ、品川駅前から飯田橋駅までを走行しました。ここでは第3系統の飯田橋駅を3つ見てみます。昭和27年、昭和40年、昭和42年です。

(1)昭和27年

林順信「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)

 ここは飯田橋交差点、五差路で車の往来しげく、真ん中にロータリーを置く。品川駅と飯田橋とを結ぶ③番の折り返し点である。右側は水道局の神楽河岸出張所、その前に薬の広告のある小さな塔は、高圧線の変圧器でそばを通ると「ブーン」とうなっていた。電車には英語で、「停車中追越時速8粁以下」の注意書きがある。

 この当時の飯田橋交差点はロータリー式でした。ロータリーとは「交通整理のための円形地帯」(大辞林)で、ゼブラ柄の模様で囲まれています。写真では複数の円形地帯が見えます。昭和22年の航空写真だと、ロータリーが2つ重なったような構造が分かります。
 円形地帯を貫いているのは、おそらく路面電車の軌道です。手間のかかる軌道移設工事まではしなかったのでしょう。飯田橋交差点は昭和28年に普通の五差路になりました。
 このロータリーの1つには大きな看板で「◯◯立入るな」か、あるいは「◯◯来る」と縦書きで書かれています。

地図院地図 昭和22年12月20日(USA-M698-99)

 写真に戻ると、路面電車の運転手がしゃがんでタバコを吸い、前には横断歩道があります。停留所はロータリーと同様なゼブラ柄で安全地帯になっていて、「KEEP LEFT/左側通行」と書かれています。英文が大きく書かれたのは占領下の名残でしょう。安全地帯からは四本足の柱が立ち上がり、上部には行灯のような時計が設置してあります。
 700形の路面電車の方向幕は「品川駅」とあり、乗客が数人、電車内で出発を待っています。車両の側面には「クラブ/◯◯」などの広告があります。
 右端に見えるのは東京都水道局の事務所で、飯田壕再開発の直前まで使われていました。建物の前の歩道には「小児せき」という薬の広告があります。

神戸市電の700形 都電の700形はありませんでした。

(2)昭和40年

諸河久「路面電車がみつめた50年」(天夢人、2023)

飯田橋交差点南西側から撮影した飯田橋停留所に停車する3系統品川駅前行きの都電。外濠通りは道幅が狭く、頻繁に渋滞が発生した。都電の後に老舗酒問屋「升本総本店」の土蔵が見える。(1965年9月12日撮影)
水運で栄えた神楽河岸(かぐらがし)の街並み
 上のカットは飯田橋交差点の南西側から外濠通りを撮影したーコマで、飯田橋停留所で品川駅前への折り返しを待つ3系統の都電にカメラを向けた。3系統は700型の独壇場だったが、1965年秋頃から旧杉並線用の2000型に置換えられていった。
 画面右側の「クララ劇場」や左方向の牛込見付にある「佳作座」が「特選洋画を大衆料金で」のフレーズによる100円均一映画館として、近隣の法政大学、理科大学の学生に親しまれていた。撮影時にはホラー映画「妖女ゴーゴン」(イギリス映画/1965年7月公開)が上映中たった。

 これは右から見ていきます。

  1. クララ劇場 特選洋画を大衆料金で 100円均一
  2. 消火栓 セントラルホテル
  3. 電柱広告「外科」
  4. 路面電車「品川駅」➂ 三菱◯◯◯ 2017 乗降者優先
  5. ◯◯家具十ヶ(丸吉家具洋装店)
  6. (松本)自動車株式会社
  7. 遠くの垣根の上に「升本総本店」
  8. 銀嶺会館(5階建て)

住宅地図。1962年。

【参考】第15系統の車体の色。これも2000形です。

当時の第15系統。J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

(3)昭和42年

三好好三「よみがえる東京 都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)

飯田橋交差点 外堀通りを赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附と走ってきた3系統の終点で、前方の目白通りを行く路線への線路が切られていた。右が飯田橋駅、左が神楽坂方面だが、外堀通りは比較的閑静で、都電の利用客も少なかった。この地点は現在ビルが林立し、オフィス街になっている。◎昭和42年12月7日 撮影:荻原二郎

中央から左下に行くのが第3系統 吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

 東京都交通局の東京都電アーカイブ③(3系統 品川駅前~飯田橋)と比較しながら見ていきます。

  1. 道路標識(指定方向外進行禁止)
  2. 小学館の百科(事典)
  3. 電柱に「飯田橋」(交差点名標示か)
  4. 路面電車の停留所で駅名標「飯田橋」広告「日本電子計算学院」上部に時計
  5. 東海銀行
  6. 酒は黄桜 きざくら 三平酒造 カッパの絵
  7. パーマレヂィー
  8. 路面電車 品川駅 ➂ 週刊文春 2015 乗降者優先
  9. 稲葉工業(建築中のビル)
  10. 田中土建(建築中のビル)
  11. ゼブラ柄の信号機

赤城神社(写真)昭和26-30年 ID 6869、6890

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
 赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。

(1)ID 6869 七五三詣り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869 赤城神社(七五三)

 正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿にはすだれ(和風カーテン)、おそなえ、三宝さんぽう(お供えを盛る台)と高坏たかつき金襴きんらんの布などが並び、回廊にはぼうしゅの飾りがあります。神職の左右はさかきの枝です。
 その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
 高札こうさつ様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/とう料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「ふきげ」は 屋根を仕上げることです。

(2)ID 6869 露店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6870赤城神社(七五三)

 石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代かいたい町」と読むのは、ID 389と同じです。
 右の狛犬の背には鉄製の天水桶てんすいおけが見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
 写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
 露店では香具師やしがさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
 参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
 左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。

住宅地図。1965年

赤城神社(写真)拝殿と鳥居 昭和44年 ID 389-90、8262、8292-93

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
 戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。

(1)赤城神社拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 389 赤城神社本殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8262 赤城神社(改代町の狛犬)

 ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒すずおが左どもえ)の賽銭箱に向かって垂れています()。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
 赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
 ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。

住宅地図 1978年 赤城神社付近

(2)神門と鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 390 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8293 赤城神社

 門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号しゃごうひょう(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
 鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居のせきの「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
 さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。

(3)赤城神社の遠景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8292 赤城神社

 さらに赤城神社から遠くなります。左から。

  1. 電柱看板に「三共グラビヤ印刷 株式会社/グラビヤ印刷/神社鳥居前/赤城元町」
  2. 自家用車、婦人2人
  3. (駐車禁止)8-20  (終わり)
  4. 男性2人
  5. 外灯
  6. 玉垣
  7. ポスター「赤城 ラジオ体操」
  8. 高札様の看板「公認 赤城幼稚園」「11月1日 昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」。神門に「赤城神社」
  9. 母と娘1人(スカートをはいている)
  10. 鳥居と自動車1台、アーチ型(⨅)の車止め、男性1人。
  11. 赤城(神社)、外灯、自動車通行止、高札様の看板の「結婚式場/赤城会館」
  12. バイク2台
  13. 看板「御婚礼 御衣裳 東衣◯◯」
  14. 看板「キッチン  トップ」テントで「キッチン  トップ」
  15. 看板「駒」

住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。

赤城神社(写真)入り口付近 昭和28年 ID 388

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388は、昭和28年11月に、赤城神社の入り口付近を撮った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 388 赤城神社入口付近

 左に石の社号しゃごうひょう(神社名を石柱などに刻んで建てたもの)の「赤城神社」、右に看板「赤城神社御造営作事場」があります。「造営」とは神社・寺院・宮殿などを建てることで、「作事場」とは土木建築の仕事場や 工事現場のこと。赤城神社のウェブサイトによると…。

 残念なことに、その立派なお社も昭和20年4月13日夕刻の戦災により、ことごとく焼失してしまいました。
 終戦後、昭和23年より復興の計画を立て昭和26年10月16日には本殿を竣功、最終的に拝殿、幣殿ができあがったのは、復興計画から10有余年を経た昭和34年5月でした。

 つまり、この撮影の時は戦災からの再建途上で、本殿はあっても拝殿はまたできていません。参道の右奥のトラックも工事のためでしょうか。
 社号標の手前は側溝をはさんで道路がありますが、よく見ると現在の神楽坂の路地のようにピンコロ石を扇状に並べた石畳でした。
 参道は未舗装で、鳥居の跡にせきがあります。後に鳥居は写真より奥まった位置に再建され、社号標も別のものになりました。
 参道の両脇は民家のようです。右の電柱の看板は「赤城〇〇建設中」と読めますが、詳細は不明です。左にはいかにも昔の自動車が停まっています。
 左に5角形の板「赤城〇〇」があり、正面奥には中鳥居、その奥に本殿が見えます。中鳥居の奥にはガーデンパラソルが見え、何かを売っているようです。
 参道には晴着姿の親子連れが目立ち、七五三の参拝客でしょう。1人の女の子は洋服と千歳ちとせあめを持ち、もう1人の女の子は着物と帯を着て、隣の母親でしょうか、千歳飴を持っています。ID 388の説明は11月ですが、おそらく11月15日頃です。

飯田河岸|中村道太郎と織田一磨

文学と神楽坂

 飯田河岸を描いた作品はあまり多くはなさそうです。中村道太郎氏の「日本地理風俗大系 大東京」(誠文堂、昭和6年)や版画家である織田一磨氏の「武蔵野の記録」(洸林堂書房、1944年。武蔵野郷土史刊行会、1982年)などです。で、この3点を見ていきます。

1.中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」

中村道太郎「日本地理風俗大系 大東京」(昭和6年)

飯田河岸は江戸開府の当時まで神田川の河口であった地で海港として諸国の船舶が輻輳していた。下町建設のため駿河台を切り開いてその方面に流路を転ぜしめて以来現在の如き水路を見るに至ったので今日ではさしたる重要性を認めず唯汚物船などが往来する。

 この飯田河岸は、背後に大きな平地があるので、船河原橋から小石川橋までの地域でしょう。ただし、千代田区の飯田河岸とすれば、背後の土手を中央線が走っているはずです。つまり、神田川から市兵衛河岸などの文京区側を見たものです。この河岸は極めて狭く、神田川が外堀通りに接しています。
 煙突がついた建物が並んでいるのは陸軍の東京砲兵ほうへい工廠こうしょうでしょう。大正12年、関東大震災のため、小倉工廠に移転を開始、昭和10年、完了しました。
 通りには無数の電線とうで7本の電柱が3本見え、道路には自動車と荷車が走っています。船荷を陸揚げする揚場には沢山はしけがとまり、1台は運送中です。

飯田河岸(明治22年以降)

2. 織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 大正3年秋の第一回二科展に著者が出品した作である。著者の解説に『当時の牛込見附附近はポプラの樹が茂っていて、現在の飯田橋停車場ホームのあるあたりには、常に石灰岩の破片が山積されていたものだ。これを小船に積込んでセメント工場に運搬する。その為にいつもこの河岸には伝馬船が集まっていた』とある。
新宿区役所「新宿区史」昭和30年

 飯田河岸を正面に見すえて、右端には石垣があり、下には床石があります。牛込橋のの下の橋台から飯田壕を見たものでしょう。てん船(=はしけ)が沢山とまり、舟員2人は竿を動かし、はしけを操っています。
 右の土手の中腹、緑と白の切れ目を中央線の電車が走っています。傾いた木の柱は架線柱でしょうか。なお、以前はこの部分を甲武鉄道といいましたが、明治39年、鉄道国有法で国有化し、中央本線になりました。
 昭和3年11月15日、複々線化し、また牛込駅と飯田町駅から飯田橋駅に統合。この水彩画はそれ以前に描いたものでしょう。

【参考】石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

3.織田一磨「武蔵野の記録」

織田一磨氏「武蔵野の記録」

 これも織田一磨氏の「飯田河岸」です。左岸は飯田河岸、右岸は神楽河岸で、牛込橋はまだ見えません。左岸の斜め屋根の荷揚場の下の壕に、はしけ数隻があります。
 また、左岸に高い崖があり、上端は平らに整理し、その上に樹木数本があり、中腹には黒く段差があります。この黒い段に中央線の鉄道があると考えると、線路より高いところに土手があるので、これが下図の土手でしょう。飯田壕がやや狭くなっているのもわかります。
 織田一磨氏は明治15年の生まれで、牛込駅が開業した時(明治27年)には12歳でした。これは2の飯田河岸と同様で、中央線の複々線化前の情景でした。

明治四十年一月調査東京市麹町區全圖 飯田壕付近。「飯」は「飯田河岸」の「飯」から。

飯田河岸と画家2人

文学と神楽坂

 飯田河岸かしはどこにあるのでしょうか。江戸時代、飯田河岸の名前はなく、その利用も全くなく、ただの「土手」でした。明治9年にまず飯田橋が架橋され、明治22年3月、東京府の「区部共有河岸地規則」で初めて牛込橋から小石川橋までを「飯田河岸」と呼ぶようになりました。

飯田河岸(江戸期)

飯田河岸(明治22年以降)

 高道昌志「明治期における飯田河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集、2016)では、当時「飯田河岸」を広大な空き地として考えられ、1号地から8号地まで分かれていました。

 明治22年、この飯田河岸は麹町区の一部になり、市町村と同等の名前になりました。ところが、昭和8年、帝都復興計画の一環としてこの河岸は飯田町二丁目に編入され、名前は廃止されています
 さて、現在は、この飯田河岸はどうなるのでしょう、橋の右側(地図では南側)は飯田河岸でいいと思います。橋の左側(南西側)では? 飯田橋ラムラがある場所です。現在、この部分は壕が暗渠になってしまったので、飯田河岸という言葉も消えてしまったものでしょう。
 さて、ではこの絵です。どこになるのでしょうか。

昼の東京 飯田橋

 解説があります。

文京区境界道をグルリ一周
「昼の東京 飯田橋」吉田遠志 画 1939〔昭和14年〕
 手前から外堀からの流れ(現在は埋め立てられている)、一方神田川が突き当たりの左から流れてきて合流し、右の水道橋方向に流れて行く合流地点を描いている。つまり現在では左岸が新宿区で右岸が千代田区、そして突き当たりが文京区になる。とすると現在は左岸の手前にJR飯田橋駅、正面には首都高速道路の高架が見えていることになる。

 しかし、少しだけ地図と一致しません。飯田橋の上から小石川方向を描いているので、神田川の合流点は画面の左で見切れている場所です。左岸は文京区です。JR飯田橋駅は右岸の手前になります。

 もう一つ同じ絵を描いた解説もあります。平松南氏が「神楽坂 まちの手帖 第11号」(2006年、けやき舎)の「神楽坂まちかど画廊11」です。

 ちょうど1年前の弊誌7号で、わたしは、「堀潔が描いた飯田濠」を取り上げた。
「昼の東京 飯田橋」は、それより5年前、同じ場所で描かれたものである。
 わたしは神楽坂下(1丁目)育ちであるから、飯田濠はいたってちかしい存在である。セントラルプラザという20階建の駅ビルが建つ前はそこに水面があり、水の生活があったことを鮮明に記憶している、いまでは数少ない住人である。
 飯田濠は埋め立てられて、いまはない。いまはないということは、永遠にないということではない。世の中には、復元ということもある。復元しないまでも、ひとの記憶のなかで、生き続け、また作品のなかで、繰り返し命を吹き込まれ、甦る。
 わたしが知る飯田濠は、美しい水辺ではなかった。しかし、ひとは、現実の光景だけを見ているわけではない。背後に、かっての姿を想像するのである。ひとりの画家が風景を描く。画家は、現存する風景を画布に定着させたいという強い動機に突き動かされる。飯田橋の水面は、昭和10年代には、ふたりの画家の絵筆を動かさしめた。風景が、さらにいえば、水辺が、それだけ豊かだった。
 ところで、吉田遠志の父は、これも風景版画家として高名だった吉田博である。堀潔もまた、吉田博に学んでいる。(平松南)

「堀潔が描いた飯田濠」の両岸の建物は、「昼の東京 飯田橋」とよく似ています。もし、これが同じ場所を描いたとすれば「飯田壕」ではなく「飯田河岸」でしょう。流れている川は神田川になるはずです。
 電車が走っていますが、これは路面電車です。

堀潔が描いた飯田濠

 堀潔は路上の画家である。
 つねに町をあるき、建物、路面電車、橋、川、空、人ごみ、野原−−目に留まったものはなんでも描く対象にした。
 滾る好奇心、エネルギー、力の根源は、堀自身の生きることへの渇望からきているようにおもえる。
 堀は広島出身だが、大正5年牛込の喜久井町に転居している。
 太平洋画会研究所で、石井柏亭、中村不折、吉田博らに学んだ。
 昭和20年5月25 日馬場下町で空襲にあい、全身に大火傷をおって、九死に一生をえた。母と妹は、そのとき焼死している。
 戦後、下落合の日本聖書神学校の管理人を勤めながら、「アイ・ラブ・TOKYO」「懐かしの東京風物百景」などを発表していくが、世に出る野望は希薄だった。
 戸山ハイツで 10数年前77歳で没したが、東京を描きつくした2000枚に絵は、いま新宿区歴史博物館に眠っている。わたしは彼の偉業を編集者として、世に問いたいと思っている(みなみ)。

 しかし、地元の方の意見では……

 吉田遠志の「昼の東京 飯田橋」は、牛込橋側から飯田壕を眺めたように見えます。壕幅が広く、左岸の石垣が高く切り立っています。また左岸の建物の向こうに高台の上の建物があります。これは揚場町の高台(現在のセントラルコーポラスのあたり)ではないでしょうか。少なくとも文京区側には、この高台はありません。
 一方、「堀潔が描いた飯田濠」は、飯田橋から小石川方向の神田川のようです。飯田壕に比べると神田川の方が幅が狭い。市電も飯田壕からは見えません。
 また正面左には石垣から川に下りる坂がありますが、これは飯田壕にはなく、小石川側にはありました。(「飯田河岸の写真」)
 両者は構図がよく似ていますが、写実的に描いたのだとすれば別の場所である可能性を考えるべきです。