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牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

神楽坂下交差点(写真)ID 18399 平成27年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 18399は、平成27年(2015)、牛込橋近くから神楽坂通りや外堀通りなどを撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18399 牛込橋から神楽坂通りを望む

 四つ角の信号機には「神楽坂下/Kagurazaka shita」の表示があり、その後、この英文は「Kagurazaka-Hill」に改められました。東京オリンピック(2020年予定)や外国人観光客の増加に備えた政令改正に基づく措置のようです(ID 17576 )。
 左右の道路は外堀通り、前後の道路は早稲田通りです。
 街灯は平成15年(2003)に6角形の2灯用ランタンから逆ピラミッドの街灯に変わりました。また、電線が地中化し、歩道はブロック(インターロッキング)で舗装しています。
 周辺には街路樹(落葉樹)と足元の植栽があり、木々は裸木です。歩行者の衣服について半袖も完全な冬用もなく、3月か11月でしょうか。

神楽坂1丁目(平成27年)
  1. CANAL CAFE/boutique(カナルカフェ)
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 標識 終わり(終わり)(最高速度30km)(駐車禁止)
  4. 外堀通り
  5. STARBUCKS COFFEE。トレードマーク。(喫茶店)
  6. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  7. モスバーガー。屋上広告「M/モスバーガー」「↓ この下」
  8. 屋上広告「駅前留学 NOVA/こども駅前留学 NOVA KIDS」「神楽坂 翁庵」「ラーメン/一風堂/Uターン/徒歩3分/飯田橋サクラテラス店」「M すぐ」「まんが喫茶ゲラゲラ このビル4F」「神楽坂 吉5F」「まんが喫茶ゲラゲラ 4F」青い看板「きそば/翁庵」黄色の看板(会田ビル)
  9. 屋上広告「いちごナビ 15 Navi」
  1. 街灯に旗「神楽坂」
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 外堀通り
  4. アパマンショップ。アパマンショップ(不動産仲介業)
  5. りそな銀行/りそなクイック入金
  6. (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」 (車両進入禁止)
  7. 巨大標識板▶(一方通行)12ー24
  8. 「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」
  9. 「ドトールコーヒー/DOUTOR」
  10. カグラヒルズ 「MacDonald’s」
  11. 「地球最大 セガ神楽坂」

神楽坂下交差点(写真) ID 18239 平成26年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 18239は、平成26年(2014)、牛込橋方面から神楽坂の写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18239 牛込橋から神楽坂通りを望む

 四つ角の信号機には「神楽坂下/Kagurazaka shita」の表示があります。英文表記は後に「Kagurazaka-Hill」に改められました(ID 17576 )。左右の道路は外堀通り、前後の道路は早稲田通りです。
 牛込橋周辺には街路樹(落葉樹)と足元の植栽があり、右側の落葉樹は新芽が生えるようです。
 街灯は平成15年(2003)に6角形の2灯用ランタンから逆正4角錐の街灯に変わりました。また、電線が地中化されています。
 歩道はブロック(インターロッキング)で舗装されていて、道路は「歩行者(用道路)」として歩行者天国になっています。歩行者の衣服はどれも冬用です。カグラヒルズの広告が3月20日のイベントを告知しているので、平成26年2月から3月初め頃の撮影でしょう。

神楽坂1丁目(平成26年)
  1. ▶街灯に旗「神楽坂」
  2. (カナルカフェ)
  3. (歩行者横断禁止)(区間内)
  4. 標識 終わり(終わり)(最高速度30km)(駐車禁止)
  5. 外堀通り
  6. STARBUCKS COFFEE。トレードマーク。(喫茶店)
  7. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  8. エイブル(不動産会社)
  9. モスバーガー。屋上広告「MOS BURGE R」「◯バーガー」
  10. 屋上広告「駅前留学 NOVA/こども駅前留学 NOVA KIDS」「広告募集 03-5◯74」「M すぐ」「神楽坂 翁庵」「まんが喫茶ゲラゲラ このビル4F」「神楽坂 吉5F」青い看板「きそば/翁庵」黄色の看板(会田ビル)
  1. 街灯に旗「神楽坂」
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 「(東京)大神宮/靖國神社/←」
  4. 外堀通り
  5. アパマンショップ。「おかげ様/全国売上」アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. ▶ (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」 (車両進入禁止)
  7. 巨大標識板▶ (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」
  8. 「薬ヒグチ」
  9. 「(山田)紙店」
  10. 「ドトールコーヒー DOUTOR」「BOOK・OFF」「→2◯Om」「J Soul Brothers/2014.1.1発売」「J Soul Brothers/2014.1.1発売」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「PS3 ソニコ星」「KADOKAWA 3.20 in Store」「(カラ)オケの鉄人 11:00~AM/6:00」「MacDonald’s/まんま/カラオケの鉄人 3F」
  12. 「坐2F」

横寺町と通寺町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 30. 寺町だった横寺町と通寺町」についてです。

寺町だった横寺町と通寺町
 旺文社から神楽坂通りに来た通りの両側が横寺町で、早稲田通り神楽坂六丁目はもと通寺町といった。付近一帯が寺町であり、通寺町というのは、牛込御門に通ずる寺町のいみであり、横寺町は文字どおり寺町の横町から名づけられたものである。いまでも横寺町には四寺院が残っている。
 作家加納作次郎は、「大東京繁昌記」の中で、明治中ごろの神楽坂六丁目のようすを書いている。それによると狭い陰気な通りで、低い長屋建ての家のひさしが両側からぶつかり合うように突き出ていて、雨の日など傘をさすと二人並んで歩けないほどだったという。映画館のところが勧工場だったが、そのあたりから火事が出てあの辺一帯が焼け、それ以後道路が拡張されたのであった。
 夏目漱石は、「硝子戸の中」に、明治時代喜久井町から神楽坂へ来る道、今の早稲田通りは、さびしい道だったことを書いているが、「昼でも陰森として、大空が会ったやうに始終薄暗かった」といっている。
      ✕     ✕      ✕
 ここで江戸時代の話題を拾ってみよう。「武江年表」(平凡社東洋文庫)の嘉永三年(1850)につぎのようにある。
 “六月、牛込横寺町長五郎店清吉妻きんの連れるまつ11歳、食物振舞ひ猫に異ならずとの噂あり、見物に行く者多し。”
 同書の文政六年(1823)には、場所不詳だがつぎのようにある。
 “十月八日夜、牛込辺へ大さ一間半程なる石落つ。昼雷鳴あり。夜に入り光り物通る。先年も王子辺へ石落ちたる事ありといふ。”
通寺町 とおりてらまち。昭和26年5月1日、神楽坂6丁目と改称。
旺文社 おおぶんしゃ。教育・情報をメインとした総合出版と事業。
四寺院 実際には5寺院で、竜門寺、円福寺、正定院宝国寺、長源寺、大信寺です。なお、法正寺は横寺町ではなく、岩戸町でした。

横寺町の5寺

それによると 「大東京繁昌記」の本文は「その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家のひさしが両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった」
長屋建て 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
映画館 明治時代には牛込勧工場が建ち、大正時代になると映画館の文明館に変わり、戦前は神楽坂日活、戦後は東映系映画館の武蔵野館、スーパーのアカカンバン、1970年代から現在まではスーパーの「よしや」です。
勧工場 かんこうば。工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売した。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さい。多くは民営で、複数商人への貸し店舗形式の連合商店街だった。明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治40年以後になると、百貨店の進出により衰退した。例は松斎吟光の「辰之口勧工場庭中之図」(福田熊次郎、明治15年)

辰之口勧工場庭中之図

火事が出て 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などの場合、出品者に危険を分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままだが、明治44年になると拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
振舞ひ ふるまい。動作。行動。もてなし。饗応(きようおう)
異ならず 「なり」は「違っている。 変わっている。 別だ」。「異ならず」は「全く同じ。全く同一の。寸分違わぬ」。つまり、「もてなしは猫も同じだ、という噂がたっている。見物に行く客が多い」
一間半 一間半は約270cm

神楽坂一丁目(写真)牛込橋 ID 8283 昭和44年頃か

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 8283は飯田橋駅西口近くから神楽坂や神楽河岸などを撮影しました。年代は「昭和44年頃か」で、桜の葉はなく、男女はコートを着ているので、晩秋から早春にかけてでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8283 飯田橋手前

 写真中央は「牛込見附」交差点で、現在は「神楽坂下」交差点に名前が変わりました。左右が外堀通り、前後が神楽坂通り(早稲田通り)です。外堀通りを走る都電3系統は昭和42年12月に廃止になり、すでに軌道はありません。
 信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、交差点名の表示はありません。逆転式一方を示す回転式の(一方通行)の標識が見えます。神楽坂通りを入った場所には標識「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯には左手前に見えている円盤形の大型蛍光灯があり、「神楽坂通り」の標識と一緒に坂上まで続いています。
 田口重久氏の05-14-37-1(1967-02-08、昭和42年、 牛込見附から神楽坂下)とよく似た画角ですが、ID 8283のほうが少し後の時代です。比べると
・「クラブ軽い心」が「喫茶 軽い心」に変わった
・軽い心の向こうに神楽坂ビルティングが出来て菱屋ビルが見えにくくなった
・左手前の「とんかつ森川」が、少し奥に(つまり「牛込見附」交差点にはより近くに)店を建てて新たな看板を出した
などの違いがあります。

牛込橋→神楽坂(昭和44年)
  1. 袖看板「もつやき 本場沖縄産 琉球 泡盛 ◯雲 ◯正宗 やなぎ」
    (食)事 中華そば やなぎ
  2. 大きく「とんかつ」、消した看板、「食通の店」(森川の旧店舗)
  3. 二(鶴)
  4. 電柱看板「タイプ学院」「独特 とんかつ 森川」
  5. 白鷹 特製とんかつ 森川 白いのれん(森川の新店舗)
  6. 77(喫茶店セブンセブン)
  7. 天下の名酒。富士錦。三富酒蔵
  8. 電柱看板「大久保
  9. (12-24 駐車禁止)
    ――「牛込見附」交差点
  10. 田口屋生花店(5階のビル)
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 広告「産婦人科 加藤医院」
     ――「牛込見附」交差点
  3. さ(くら)や(靴店)
  4. 佳作座の上映作品(赤井商店
  5. 山田紙店
  6. 不二家洋菓子
  7. 塔屋広告「喫茶 軽い心」ファサード広告「喫茶 軽い心」「ハッピージャック」
  8. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。昭和44年(1969年)2月に完成。
  9. 菱屋もビルに。メトロアーカイブの「坂のある街」でもビル。

神楽坂五丁目(写真) 令和4年 ID 17078-80

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17078-80は、令和4年3月、神楽坂五丁目から西向きに神楽坂上交差点や神楽坂六丁目方面を撮影した写真3枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17078「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17079「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17080「神楽坂上」交差点から神楽坂六丁目方面を望む

 中央の前後の通りは「神楽坂通り」、その先に出てくる南北(写真では左右)の通りは「大久保通り」、2つの交差点は「神楽坂上」交差点です。
 神楽坂通りは0時から12時までは東向きで神楽坂を下り、12〜24時は西向きで、上がります。ランチタイムの12〜13時は歩行者専用道路です。
 車道と歩道はアスファルト舗装ですが、歩道はインターロッキングという小型ブロックのかみ合わせです。
 灯具は令和4年2月から3灯タイプですが、将来道路になる場所では旧来の街灯を使っています。街灯柱は淡灰色で、下半分にビニール製の保護材と思われるものがあります。
 外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。

神楽坂5丁目(令和4年)
  1. 1階は「(くすりの福太郎 神)楽坂店」2階は「(ANYTIME FITNESS) 2F」「(ANY)TIME FITNESS」「24時間年中無休の/フィットネスジム/2F」(シュエット神楽坂)
  2. 壁面「PIZZERIA TRATTORIA」。旗「PIZZERIA &/TRATTORIA」。店名「Margherita Pagliaccio」(マルゲリータパリアッチョ 神楽坂店)(ピザ店)
  3. 突き出し看板「築地すし好/Girl’s Bar Lounge ♥ Belle」「BAR(イラスト) 鴨 社」店名「築地すし好」
  4. 株式会社 つくば商事(不動産会社)
  5. 「神楽坂上(Kagurazaka ue)」交差点、信号機
  6. 大久保通り
  7. 「くすり/ポイント5倍デー(ココカラファイン)」「JOYFIT」巨大な時計(タイヨウビル)
  8. 「神楽坂上(Kagurazaka ue)」交差点、信号機、 「自転車を除く/日曜・休日は12-19」、(駐車禁止)
  9. 街灯(六丁目用の灯具、2灯)
  10. 遠くに神楽坂FNビル(6-67)、三上ビル(6-64)、パークリュクス神楽坂(6–59)
  1. 空地(将来は道路になる)
  2. 旧来の街灯が1つ
  3. 案内看板「牛込消防署→」
  4. 12-24
  5. 「江戸三十三観音十六番札所」「厄除・除病 大佛薬師如来」「開運・繁昌 大聖歓喜天」「大聖歡喜天王 安養寺」
  6. 「(神楽坂 穂禮)上海」(中華料理店)(響ビル)
  7. 街灯(六丁目用の灯具)

インターロッキング インターロッキング(interlocking)とは、コンクリートブロックをレンガ調に組み合せて敷き詰める舗装方法で、翻訳は「つなぎ合わせた」「連結した」など。荷重がかかると、ブロック間の目地に充填した砂が働き、かみ合わせ(荷重分散効果)が得られる。

神楽坂1丁目(写真)令和4年 ID 17576

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576は、令和4年10月、神楽坂下交差点から坂上方向を撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17576 神楽坂入口

 中央の信号の上に交差点名が「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」と表示されています。よく見ると英字はシール状のものを貼っています。かつては読み通りに「Kagurazaka shita」としていましたが、外国の人々に分かりやすいように修正したのでしょう。
 左右は外堀通りで、前後が神楽坂通り。信号機にはゼブラ柄の背面板はなく、車道と歩道はアスファルト舗装。街灯柱は淡灰色で、街灯は3灯をまとめ、夜には明るく光っています。外堀通りの歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗ってあり、これは「駐車禁止」の意味です。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。

神楽坂1丁目→坂上(令和4年)
  1. (歩行者横断禁止)(区間内)
  2. 看板「交通事故多発」
  3. 「ル」「BRITISH COUNCIL 英会話スクール」「この先 約150m」(研究社研究社英語センタービル
  4. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)
  5. 広告看板「カラオケの鉄人 KARATEZ~ ここから歩いて1分‼︎」「カラオケの鉄人 神楽坂通り沿い
  6. 飯田橋ともじり皮ふ科/行きたい皮膚科がココにある。/Tel 03-6265-00xx/ 当ビル5F
  7. 交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  8. (エイ)ブル(不動産会社)
  9. モスバーガー(ハンバーガー屋)
  10. 「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「飯田橋ともじり皮ふ科 5F」「Darts bar」「(神楽坂) 翁庵」「HIRO GINZA/BARBER SHOP」
  11. 「駅前留学 NOVA」「も駅前留学 NOVA KIDS」
  1. (駐停車禁止)警告 交差点・横断歩道は駐停車禁止です。運転者が乗車中でも取締りを行います。牛込警察署 新宿区」。「信号機」。交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」
  2. 郵便ポスト
  3. (駐車禁止)
  4. Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店/広告「オーナー様募集/空室にお困り/建物管理にお困り/アパマンショップなら/グループ全体で/サポートできます」広告「新宿区・文京区/千代田区・豊島区/お部屋探しは/アパマンショップ/飯田橋店に/お任せください!」広告「お部屋探しは アパマンショップ 飯田橋店へ おまかせください!/下記QRコードから友だち追加を/していただくことで お客様のご条件にピッタリのお部屋を/ご紹介できます!」Apamanshop(不動産会社)
  5. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」「(歩行者専用)」「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  6. (カレーショップ ボナッ)
  7. 消(火栓)
  8. のレン NOREN MURO 室(米麹食品専門店)
  9. のレン(生活用品店)
  10. 案内看板「地下鉄 神楽坂駅」
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  13. 「自然エネルギーのアドバンス」「自然エネルギーのアドバンス」「広告募集中」「ドトールコーヒー 神楽坂店 Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」突き出し看板「FUJIYA」
  14. カグラヒル。屋上にKADOKAWAのデジタルサイネージ広告。「新世代のフィギュア原型師、創出ブロジェクト」「電撃文庫 KDcolle 造形大賞」「4F ス(シロー)」「マツ(モトキヨシ)」
  15. 「ゲー(ムのオアシスに飛び込め!)G(iGO)

神楽坂1丁目(写真)平成23年 ID 16075, 16710, 16711

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 16075, 16710, 16711は、平成23年(2011)、牛込橋と神楽坂下交差点から、坂上に向けて写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16075 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16710 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16711 神楽坂入口

 四つ角は「神楽坂下」交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。平成7年(1995)のID 16074と比べると整備が進みました。
 交差点名は信号機とは別に上に表示されています。「牛込見附交差点」の表示は信号機にくっついていました。
 牛込橋の土橋部分には街路樹と、その足元の植栽ができました。街路樹は落葉樹で、葉を落としています。ID 16075の右側の大きく茂っている木々は街路樹ではなく、隣接する飯田橋セントラルプラザの緑地です。
 街灯は6角形の2灯用ランタンから逆正4角錐の街灯に変わりました。この街灯は平成15年(2003)に完成したものです。
 さらに大きな違いは、ID 16074に見られる架空の電線が地中化されたことです。これに伴い、地中線を管理する地上機器(ID 16075の左側歩道の2個の緑色の小型ボックス)が設置されています。分かりにくいですが、神楽坂通りの電柱も地中化されています。
 歩道はブロック(インターロッキング)で舗装されています。歩行者の衣服はどれも冬用でした。
 ID 16074で外堀通りの角にあったマクドナルドは、カグラヒルズに移転しています。また、道路標識はここでは省略します。

神楽坂1丁目(平成23年)
  1. アパート・マンション Mini Mini
  2. はんこ屋さん21 (事務所向けサービス)
  3. アパート・マンション(ニューハウス)
  4. 親子丼・うどん な(か卯)
  5. (メガネドラッグ)
  6. (カナルカフェ)
  7. (外堀通り)
  8. New Paris スロット 新台 入替「新台 アントニオ猪木が 元気にする パチスロ後」
    (→左)(サカイ書店)
    (→左)三河屋酒店
  9. エイブル
  10. モスバーガー「MOS BURGER この下すぐ モスバーガー神楽坂下店」
  11. 15 いちご ナビ 高収入  検索
  12. 神楽坂 翁庵「24時間営業 まんが喫茶 ゲラゲラ 4階」「神楽坂 吉 5F|まんが喫茶 4F|リーチ麻〇 ふじ 3F|きそば 神楽坂 翁庵 1・2F|〇B1」
  13. 駅前留学 NOVA こども駅前留学 NOVA KIDS
  14. 志満金
  1. (都のシンボルマーク)と  (東京都飯田橋庁舎の案内看板)
  2. (外堀通り)
  3. アパマンショップ(不動産仲介業)
  4. ボナ(カレーショップ)
  5. 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 不二家 ドトールコーヒー Doutor 「J Soul Brothers 12.01 デビュー第2弾シングル」「BOOK OFF 250m」
  7. 神楽坂 あんみつ 紀の善
  8. カグラヒルズ 「Tokyo Walker 角川文庫」各階 カグ「カラオケの鉄人 AM/11:00~AM/6:00」「McDonald’s|にんにく 鶏 おでん まんま|(カラオケ)の鉄人 3F」

住宅地図。2010年

渡邊坂(写真)平成31年 ID 14057-58

文学と神楽坂

  神楽坂通りを上り切ってそのまま西へ進み、地下鉄神楽坂駅を過ぎると「逆転式一方通行」の区間が終わり、ゆるやかな下り坂の対面式になります。その道が突き当たるような三角形の変則交差点が「牛込天神町交差点」です。
 この交差点を右折し、北に下る坂に標柱「地蔵坂」が建っています。さらに100mほど進むと標柱「渡邊坂」にやってきます。「マティーニバーガー」の前です。

わた なべ ざか  江戸時代、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年(一六六七)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。

渡邊坂。北から望む。

御書院番 江戸幕府の職名のひとつ。若年寄の下で、営内を警備、 将軍外出の際には行列に従い警護にあたるほか、遠国出張や交替で駿府在番などを務める。

 でもおかしな問題があります。「地蔵坂」と「渡邊坂」、どこが違うの? 東京の坂について書いてある3冊を調べました。
 まず、横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、1970年)によれば……

渡辺坂 新宿区天神町と中里町の境を南へ矢来のほうへ上る坂。昔、坂のふもと東側、中里町に「渡部源蔵」の屋敷があった(万延元年図)

 岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)の本とほとんど同じで……

渡辺わたなべ(天神町、中里町の境)
 矢来町二七、矢来町派出所前を、早稲田通りと分かれて、北に下る広い道。なだらかに下る。この道をそのまま進むと、山吹町を経て、江戸川橋にいたる。
 むかし、坂下東側、中里町に渡辺源蔵の屋敷があった。『江戸切絵図』(尾張屋版)に、中里町から矢来下に向かう道の東側に、渡辺源蔵の名が見える。道に、坂のマークはついていない。現在、坂の東側に、「渡辺歯科」がある。源蔵さんの家系か。

 これは岡崎清記氏の図ですが、渡邊坂は大きな場所を占め、地蔵坂はここではなく右側の場所が正しいと書かれています。

岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)

 では、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)によると……

渡辺坂(わたなべざか)
 中里町と天神町の境を南へ、天神町三四番と三五番の間を入って南に上る。坂上は同町二六番と二七番の間に出て、東西に延びる崖下の狭い道につき当たる。裏町の露地という感じの道である。坂名の起りは、むかし、この坂のふもとに旗本渡辺源蔵の屋敷があったことによる。『諸家系譜』によると、渡辺源蔵は五百石取りの御書院番で、寛文七年に市谷鷹匠町の屋敷と引き替えに通称天神下の御書院番組屋敷の内を賜った。

 こんどは渡邊坂と地蔵坂、180°正反対です。

石川悌二氏『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、1971年)

 これは歴史から調べないとだめ。万延元年では旗本渡部源蔵はここにありました。

万延元年

 上と左の辺が道路になり、上辺はほぼ水平なので、坂をつくるのには左辺しかありません。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

 明治20年の地図は下のようになっています。なるほど二つのT字型交差点の間を結んで「渡邊坂」があったんですね。つまり、天神町から「渡邊坂」はクランク状で、まっすぐの道ではないのでした。

明治20年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 ところが明治29年、このクランクが改修されます。「渡邊坂」の西、地図で言うと左側に新たな道の建設が始まったのです。

 明治40年の地図では完成しており、この道路が令和になるまでそのままです。

明治40年地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 つまり、渡邊坂は今ではありません。

 最後に2019年、新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の渡邊坂です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14057 渡邊坂 「山吹町」交差点から南方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14058 渡邊坂 新宿天神局前から北方面を望む


神楽坂5丁目(写真)平成31年 ID 14056

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14056は、平成31年(2019)神楽坂5丁目から神楽坂上交差点をはさんで神楽坂6丁目方面の写真を撮ったものです。交差点の向こうは左側が5丁目、右側が6丁目になります。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14056 神楽坂上交差点から神楽坂六丁目方面を望む

 四つ角は神楽坂上交差点、左右の道路は大久保通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、上を向いて逆正4角錐の街灯(光源はアイ ツインアーク)があります。横木には「神楽坂」を染め抜いた紫の旗が下がっています。
 神楽坂上交差点を越えると、左の5丁目も右の6丁目も同じ街灯(やじろべえ型)になります。やはり「神楽坂」の旗が見えますが、違うデザインで、色も赤く変わります。
 電灯はなく、左側の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。
 大久保通りの拡幅計画のため、交差点の右前にあった河合陶器店山下漆器店はなくなり、2019年にみんなの買い取りプラザがなくなり、2020年にはアマリージュもなくなりました。
 ケヤキは裸木で、人々は厚い上着を掛け、おそらく季節は晩秋から冬。買い取りプラザは2019年4月のストリートビューでは取り壊されているので、2019年1~2月の撮影と推定されます。

神楽坂5丁目→6丁目(平成31年)
  1. (くすりの福太郎)。垂れ幕「24時間年中無休のフィットネスジム ANYTIME FITNESS 2階」「FITNESS」
  2. (駐車禁止)
  3. マルゲリータパリアッチョ(Margherita Pagliaccio)神楽坂店。PAZZERIA & TRATTORIA。薪の数束。
  4. TSUKIJI 築地すし(好)SUSHIKO
  5. (つくば商事)
  6. ▶神楽坂通り
  7. 大久保通り。
  8. 神楽坂上交差点。
  9. 信号機。
  10. ココカラファイン(薬)。JOY FIT(2階)
  11. (神楽坂)商事
  12. ( 歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. みんなの買い取りプラザ「お売りください 高価買取 無料査(定)/かしこい 生前整理 遺品整理 ご予約受付中/貴金属・ダイヤ・色石・ブランド品・時計/骨董品・美術(品) 中国骨董(・刀剣) 掛け軸(・絵画) 茶道具・書道具 象牙・珊瑚(・翡翠) 着物・帯・(毛皮)」
  2. アマリージュ
  3. 仮設のパイプ柵と緑色のネット(店舗の撤去跡)
  4. 大久保通り。
  5. 「↑ 280m  地下鉄駅 神楽坂駅」「← 100m 地下鉄駅 牛込神楽坂駅」「牛込消防署→ 160m」
  6. 安養寺
  7. 五十番
  8. (一方通行)12-24
  9. 株式会社アドバリュー2・3F(広告代理店)。株式会社ケイ・トゥー・ワン2F(デザイン会社)。証明写真(55 Station)。
  10. (Panasonic しのはらでんき)

住宅地図。平成27年。

神楽坂1丁目(写真)平成31年 ID 14049

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14049は、平成31年(2019)1月、牛込橋から神楽坂通りをのぞんで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14049 牛込橋から神楽坂通りをのぞむ

 四つ角は神楽坂下交差点、左右の道路は外堀通り、前後の道路は神楽坂通りです。歩道の縁石は一定間隔で黄色に塗り、意味は「駐車禁止」
 左右の歩道の縁石側に、神楽坂通りと同じ上を向いて逆正4角錐の街灯(アイ ツインアークが光源)があります。ここはちょうど千代田区との区境で、手前右上の下向きの正六角体の街灯は千代田区側でしょう。左側にある2個の緑色の小型ボックスは無電柱と地下の共同溝に伴ってできたものです。左右に背の低いお花畑があり、歩道はインターロッキングという小型ブロックでした。

神楽坂1丁目(平成31年)
  1. ニューハウス(不動産会社)か?
  2. 神楽坂バル Lasana
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. 名代 富士そば。のぼり旗「生蕎麦」
  5. (カナルカフェ)
  6. (歩行者横断禁止)
  7. 最高速度30km (駐車禁止)
  8. 外堀通り
  9. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  10. (STARBUCKS COFFEEのトレードマーク)(喫茶店)
  11. エイブル(不動産会社)
  12. 屋上広告「(インター)ネット (まん)が喫茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  13. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  14. (志満)金(うなぎ店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗から広告に

  1. 千代田区の街灯
  2. 神楽坂の絵
  3. ▶街灯に旗「神楽坂」
  4. ▶消火栓
  5. アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. その右に「りそな銀行」、さらに「リアット」(靴修理)
  7. (一方通行)「自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  8. のレン(生活用品店)
  9. 「ドトールコーヒー」「 ホットヨガ/カルド神楽坂」 ONE DX BOCX
  10. 右に「神楽坂 あんみつ」「紀の善」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「盾の勇者の成り上がり シリーズ〇〇1~20巻 絶賛発売中 ファンタシー 2019年1月〇日よりTV アニメ放映」「カラオケの鉄人 11:00~AM/6:00」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」(薬屋)「ミライザカ」(唐揚)

神楽坂1丁目(写真)昭和33年頃? ID 13505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13505は、神楽坂通りの入口の夜景を撮ったものです。撮影は昭和33年(1958)10月だといいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13505 神楽坂通り入口 夜景

 これと非常によく似たID 59から63までの夜景の写真があります。とくにID 62はそっくりです。新宿歴史博物館は昭和37年(1962)頃だといいます。地域ごとのファイルは「1962年頃」、フィルムごとのファイルには「昭和33年10年」と書いてありました。
 この5枚は詳細に検討していて、昭和34年の撮影だろうと結論しています。とくに左方の標識ポールの柱(下図)は昭和34年(1959)のID 47(ID 5510)ID 50(ID 7002)では見えないので、それより早く写真を撮ったはずです。

 ではID 13505が昭和33年10月というのは正しいのでしょうか? 判断材料はID 59-63と同じで、ネオンサインの見えている大島毛糸のビルが完成したのは昭和34年(1959年)5月です。まだ建築中なのにネオンだけ点灯したという特別な理由でも無い限り(たとえば店舗の1、2階の完成は早く終わった、あるいはネオンだけが終わったなど)、昭和33年10月はおかしいと思います。
 ID 31-35(夜景)ID 36-39(夜景)と同じようにID 59から63まで(夜景、昭和37年?)とID 13505(夜景、昭和33年?)は実は昭和34年に撮影したと考えると、全てはっきりします。

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13318は、令和元年(2019)6月、牛込橋あたりから神楽坂入口を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13318 神楽坂入口

 四つ角は神楽坂下交差点、左右に流れる道路は外堀通り、前後に流れる道路は神楽坂通りです。手前の舗装が違う部分は牛込橋です。戦前からの石橋を、平成8年(1996年)に鉄橋に掛け替えました。道路との間に黒いゴムを挟んでいて、小さな段差があるように見えます。おそらくコンクリートで舗装しています。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、意味は「駐車禁止」。
 縁石に近い歩道から左右で上を向いて茶色に塗った街灯があります。新宿区の街灯とは違うので、千代田区の街灯でしょう。

街灯。Google

 次に「神楽坂通り」がここから始まり、さらに道路標識が続きます。

高 田 馬 場
Takadanobaba
市 谷
Ichigaya

飯田橋
Iidabashi
◀━   外堀通り  ━▶
牛込橋→神楽坂1丁目(令和元年)
  1. ▶街灯
  2. ▶神楽坂通り
  3. ▶道路標識
  4. 部屋探し/(mini) mini/xx9-x532(賃貸物件仲介)
  5. ▶消火栓
  6. 名刺 印鑑(「はんこ屋さん」)
    ――神楽坂下交差点
  7. (STARBUCKS COFFEE)
  8. (エイブル)
  9. モスバーガー
  10. 屋上広告「いちごナビ 「ねぇ 15pay 知ってる?」「いちごナビ求人」(風俗求人情報)「(インターネッ)ト (まんが喫)茶」(向かいのカグラヒルズに入居)「神楽坂 翁庵」「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」(会田ビル)(翁庵=そば屋)
  11. 駅前留学 NOVA 子ども駅前留学 NOVA KIDS(三経 第22ビル)
  12. 志満金(うなぎ)

▶がある場合は歩道上で車道寄りに、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. ――神楽坂下交差点
  2. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  3. (車両進入禁止)が2つ
  4. カグラヒル(ズ)「ひとりぼっちの まる まる生活 TVアニメ NOW ON AIR」「カラオケ(の鉄人)」「インター(ネット) まんが(喫茶 自遊空間)」「マツモト(キヨシ)」
  5. 遠くの高層ビルは「ヴァンテ・アン神楽坂」(3丁目・マーサ美容室跡/10階建て、1998年完成)と「神楽坂アインスタワー」(5丁目・寺内地区再開発/26階建て、2003年完成)

神楽坂1丁目(写真)令和元年 ID 13298

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13298は、令和元年(2019)5月、「神楽坂入口」を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13298 神楽坂入口

 交差点名は「神楽坂下」。信号機にはゼブラ柄の背面板はありません、車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で黄色と無彩色に塗り分け、「駐車禁止」の意味です。街灯の柱は灰色で、光源はアイ ツインアーク(水銀ランプと高圧ナトリウムランプ)で、逆さまの正四角錐で包まれています。回転式の「(車両進入禁止)自転車を除く 0-12」の標識も見えます。
 横断歩道の奥の車道が赤く舗装されています。通称「ギラギラ舗装」で、交差点付近の駐停車禁止の注意喚起を目的に東京都が平成13年頃から導入しています。ただし交通標識や路面標示のような全国一律のルールではないので、道路管理者が判断しているようです。この部分は新宿区道です。
 左右に走る外堀通りは、いつか都市計画で拡幅されます。このため写真手前の建物は2階建てで、少し奥の建物から高くなっています。左側の建物が斜めに切れたようになっているのは、その部分まで道路が広がることを意味しています。

神楽坂1丁目→坂上(令和元年)
  1. ▶看板「交通事故多発 取締強化路線」
  2. STARBUCKS COFFEE(喫茶店)パチンコニューバリー跡
  3. ▶交差点名「神楽坂下/Kagurazaka-Hill」信号機。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  4. エイブル(不動産会社)田原屋フルーツパーラー跡
  5. ▶街灯。横断幕「神楽坂まち舞台・大江戸めぐり 2019年 宵祭 5月11日(土)本祭 5月11日(日)」
  6. モスバーガー(ハンバーガー屋)清水衣裳店跡
  7. 翁庵1・2F。梨々苑(焼肉)B1。「4Fはダーツバー A’s」「居酒屋 プッシュ 5F」「Darts bar」
  8. 屋上広告「インターネット まんが喫茶 自遊空間」(向かいのカグラヒルズに入居)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 情報満載お部屋探し♪ Dramatic Communication アパマンショップ Network 飯田橋店(不動産仲介会社)赤井足袋店跡
  2. (車両進入禁止)自転車を除く 0-12」。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(車両進入禁止)「自転車を除く/0-12」(一方通行入口)「12-24」
  3. カレーショップ ボナッ
  4. ▶消火栓
  5. ▶神楽坂通り
  6. ▶標柱、三角コーン
  7. のレン 室(米麹食品専門店)白十字診療所跡
  8. ▶街灯。横断幕・「神楽坂」
  9. のレン(生活用品店)山田紙店跡
  10. ▶地下鉄 神楽坂駅
  11. 地下鉄 神楽坂駅出入口
  12. 「ドトールコーヒー Finest Quality Doutor 1F 34席 2F 41席 3F 57席」「300m ホットカルドカルド神楽坂」「パク・ボゴム」「ペ(コちゃん)」突き出し看板「ペコちゃん」「ペコ(ちゃん焼)日本で(ここだけ!)」
  13. カグラヒル。屋上にあるのはKADOKAWAのデジタルサイネージ広告で、この時に表示されていたのは…「とんび」の重松清x堤真一が贈る感動作 泣くな赤鬼。6.14 FRI ROADSHOW 堤真一/柳楽優弥/川栄李奈。原作:重松清「せ(んせい。)」「(カラオケの)鉄人」「地域最〇 SEG(A)神楽坂」「インターネット まんが 喫茶 自遊(空間)」「マツモトキヨシ」

デジタルサイネージ広告 デジタル技術を活用し、平面ディスプレイやプロジェクタなどで映像や文字を表す情報・広告媒体。英語でDigital Signage(電子看板)

神楽坂6丁目(写真)昭和47-49年 ID13227

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13227は神楽坂6丁目から5丁目や3丁目の方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

 横の大通りは大久保通り、縦の大通りは神楽坂通りです。中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。全体にID 7430(昭和45年)と似ていますが、「車両進入禁止」の回転標識は角が丸くなっており、これはID 13174-13180(昭和47年秋~48年春)と同じものです。
 交差点名は「神楽坂」で、信号機にゼブラ柄の背面板はありません。横断歩道は白線のみで、路面のゼブラゾーンは描かれていません。
 交差点の奥と手前右側は神楽坂5丁目で、右側だけが電柱になり、上には大きな柱上変圧器があります。一方、交差点の手前左側は神楽坂6丁目で、左側に電柱があります。
 車道はアスファルト舗装。巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」もあります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、右側は丸い蛍光灯、左側は蛍光灯の下部に逆円錐型のランタンがあります。街灯の主柱は左側は白く、右側は黒く写っています。
 歩行者の1人が普通の背広で、外套等は着ていません。
 いくつかの手かがりから、撮影年代を推定してみましょう。まず三菱銀行神楽坂支店が3丁目の新ビルに戻り、仮店舗の後に「パチンコ山水林」ができました。これは昭和47年(1972年)以降です。
 回転標識の近くに歩行者天国を示す交通標識(歩行者専用)や(自転車及び歩行者専用)はありません。一方、ID 11824(昭和54年)には出てきます。なお、ID 11824の正面の高いビルは、昭和53年(1978年)3月に完成した相馬屋ビルです。しかし、ID 13227には建築中の様子も見えません。
 歩行者天国の交通標識について調べると、坂下の牛込見附の交差点でもID 13158(昭和47年秋~48年春)、ID 8800(昭和48年)にはの標識がありません。しかし田口氏05-10-32-01(昭和49年12月)(下図)には登場します。坂上でも同時期に交通標識が整備されたと考えれば、撮影時期は昭和47-49年と推測できます。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街神楽坂 05-10-32-1 牛込見附交差点から 1974-12-21

神楽坂6丁目→5丁目(昭和47-50年)
  1. ▶街灯。「神楽坂商栄会」「0-12 (駐車禁止)」「(区間内)」
  2. 「ナショナル ナショナル 店会の店」「JCB」(篠原電気店)
  3. 「喫茶室 ▲2階 HAKUSA」「(Coca) Cola (白砂)」「喫茶室 白砂 HAKUSA」
  4. 回転標識の背面
    ――神楽坂交差点
  5. 回転標識(車両進入禁止)
  6. 「(角)のせ(ともの)屋 (河)合(陶)器店
  7. 山下漆器店
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田
  9. 洋品 タカミ
  10. 中国料理 東(花飯店)
  11. 神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告があり、ない場合は直接店舗に広告があった、

  1. コーセー化粧品 桔梗店
  2. 宝石 メガネ 時計 (株)タイヨウ
    ――神楽坂交差点
  3. 営業案内/土地建物売買管(理)/賃貸借周(旋)/電話買取及(販売)/不動産一般(代理)(つくば商事
  4. 東電のサー(ビスステーション)
  5. サントリーバー スローン
  6. 薬ヒグチ
  7. (季)川
  8. タイヨウ メガネセンター メガネ
  9. パチ(ンコ)(山水林
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. やき(とり殿堂)鮒忠
  12. 五十鈴
  13. パチンコ おおとり
  14. 突き出し看板「田原屋
  15. 三菱銀行

住宅地図。昭和52年。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂1丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13158

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13158は、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13158 神楽坂歩行者天国

 外堀通りを走行中の車の窓越しに、バリケード看板が立っていて神楽坂通りへの進入を禁じているのが分かります。
 一方、中央やや右寄りの左向きの矢印は坂下から坂上までの「一方通行」を示しています。この標識は逆転式一方通行のための回転式です。後に歩行者天国実施中は「自転車及び歩行者専用」が表示されるようになりますが、この時代はまだ「一方通行」のままでした。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。
 大きな標識「神楽坂通り/美観街」が左右に1本ずつできています。よく見ると坂上の同じ標識も見えます。
 ここでは「牛込見附」交差点より手前のものを扱います。後ろ(奥)はID 65-66ID 8799-8800などを見て下さい。

  1. 独特 とんかつ 森川 神楽坂1-9
  2. 電柱看板「富士(見 東京)大神宮通り)」(英会話タイプ学院)
  3. (歩行者横断禁止)
  4. ROO(M)セ(ブ)ン (喫茶セブンセブン)
  5. 2F 山菜料理 おふくろ。小さく突き出し看板も 「おふくろ」
  6. 東山 東山酒蔵直営 東山酒蔵
  7. 反対向けの道路標識

 なお、右側の佳作座のポスターは何だかわかりませんでした。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13152-53,13159-60

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13152とID 13153、ID 13159、ID 13160は神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13152 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13153 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13159 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13160 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、おそらく黄色と無彩色に塗り分けていたでしょう。道路標示「駐車禁止」が立っています。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったでしょう。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。例外としてID 13160では右側にも電柱があり、路地の奥に電線をつなぐためのものでしょう。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節と思われます。歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施なので、銀行をはじめ営業していない店が目立ちます。
 ID 13152-13153の三菱銀行は昭和47年(1972)ごろ5丁目の仮店舗から建て直した新店舗に移りました。仮店舗の後に「パチンコ山水林」(現在はシュエット神楽坂)が開業しています。ところが昭和47年や昭和48年の住宅地図では「パチンコ山水林」はまだありません。
 一方、ID 13159-13160の「毘沙門せんべい 福屋本舗」は写真では2階屋ですが、昭和48年(1973)9月に5階建ての現ビルに建て替えられました。従ってこの写真の撮影時期は昭和47年の秋から、遅くとも昭和48年の春先と推定されます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. 電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  2. ジャウトーヤ (喫)茶 フルーツ。手前が果物店、奥がフルーツパーラーでした。
  3. (店舗)
  4. 神楽坂通り/美観街
  5. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  6. 宮坂金物店
  7. (歩行者横断禁止)
  8. フクヤ。電柱看板「川島歯科
  9. 街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  10. DC JCB。サムライ堂洋品店 ばぁ侍(2階)
  11. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  12. FIRE HY(DRANT) 消火栓。広告「カメラのミヨシ」本多横丁にあった。角から4軒目くらい(下の右図)
  13. 電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  14. 毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  15. 善國寺。子どもが石囲いに登っている。本堂再建時に石囲いは一新したので滑り台はなく、この写真はただのワンパク坊主。
  16. (駐車禁止)
  17. 立て看板「こどもの飛び出し多し/徐行」
  18. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  19. 電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  20. おおとり(パチンコ)
  21. やきとり殿堂 鮒忠
  22. 中河電気
  23. パチンコ(山水林)。現在はシュエット神楽坂、築年月は2007年6月
  24. タイヨウ(時計・メガネ)
  25. 神楽坂通り/美観街
  26. 薬ヒグチ
  27. 遠くに協和銀行
  1. 京都。看板「オープン 浪費させない店 コンパ 〇〇プレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. (一方通行入口)。本多横丁へ(ここから4丁目)
    (数店おいて)
  3. (大佐和)神楽坂店(現・楽山
  4. (バー)鼓 この先突き当たり右 (「紅小路」へ)(下図)
  5. 電柱看板「 フクヤ」「旅館 宝楽」
  6. (店舗としもた屋)
  7. 毘沙門せんべい 福屋本舗 福屋不動産
  8. (店舗)
  9. オシャレ洋品 アワヤ
    ―――「ごくぼそ」へ
  10. 紳士服 テーラー 島田
  11. 尾沢薬局 (くす)り尾崎 カネボウ化(粧品)
  12. (店舗) (ここから5丁目)
  13. 第一勧業信用組合(駐車場)
  14. (店舗)
  15. かやの木(玩具店)
  16. (消火栓)
  17. 第一勧業信用(組合)。昭和46年(1971年)10月に改称

住宅地図。1980年。つづみとミヨシ

住宅地図。1976年。

神楽坂1丁目(写真)昭和45年、ID 13126、ID 13128とID 13130

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 13126、ID 13128とID 13130を見ていきましょう。3つとも昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。ID13117、ID13118、ID13121-22、ID13124と同様の画角ですが、より左側に寄った場所から撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13126 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13128 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13130 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋と右側の外堀通りの車道にはあって、おそらく左側の外堀通りもあったでしょう。また、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 富士見 〇〇入学随時☎ 英会話タイプ学院 この手前
  2. 電柱看板「独特 とんかつ 森川
  3. 東山酒蔵
  4. 電柱看板「 大久保
  5. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  6. 交通標識の裏面
    ――「牛込見附」交差点
  7. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  8. 電柱看板「東電のトレードマーク 中〇」
  9. (車両通行止め)
  10. 電柱看板「八千代鮨
  1. (歩行者通行止め)
  2. 萩の宮
  3. ファサード看板「加藤医院
  4. 貸間 アパート 学生会
  5. 映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ――「牛込見附」交差点
  6. 株式会社 さく(らや)(靴)
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. (白十字医院)
  11. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  12. (車両進入禁止)
  13. 不二家洋菓子
  14. (消火栓)
  15. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」「今宵楽(しく軽い心で)」
  16. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  17. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  18. 看板「パチンコはマリーで」
  19. ニュ(ーイト)ウ(靴店)
  20. 純喫茶 クラウン(喫茶店)
  21. MAX FACTOR(化粧品)
  22. 資生堂(化粧品)(さわや
  23. ナショナルのマーク(竹谷電気工事)
  24. 東京電力(サービスステーション)
  25. 鮨どころ 二葉(寿司)

住宅地図。1970年

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID13117-18, 21-22, 24

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID13117-18, 13121-22, 13124を見ていきましょう。全ては、昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13117 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13118 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13121 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13122 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13124 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋はあり、おそらく外堀通りもありでした。
 歩道もアスファルト舗装ですが、カメラの足元の牛込橋部分は石敷でした。ID 13117の右下のガードレールの切れ目あたりで、アスファルトの歩道が縁石で終わっているのが分かります。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。ただし、牛込橋の最も手前に逆円錐形の街灯があり、これは千代田区のものと思われます。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 登録商標東山 東山酒蔵〇会 東山酒蔵
  2. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  3. ▶電柱看板「 大久保」「東電のトレードマーク 中〇」
  4. 交通標識の裏面
    ーー「牛込見附」交差点
  5. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  6. (車両通行止め)
  7. (パチン)コ Pachinko(ニューバリーパチンコ)
  8. (駐車禁止)(区間内)
  9. 田原屋(フルーツパーラー)
  10. 田口屋生花店。五階建て
  11. 「ダイヤモン(ド毛糸)」(大島糸店)
  12. (喫茶)五(条)(五条ビル)
  13. 遠くに「協和銀行」

▶は車道寄りの歩道上に広告があり、ない場合は直接店舗に

  1. 立て看板「アルバイト 下宿 アパート 貸間 日本学生会
  2. ▶立て看板「盛況 酒ビール飲放題確定サービス 8時迄〇〇一五〇〇円」
  3. 電柱広告「洋装店 ナカノ」
  4. 萩の宮
  5. ファサード看板「入院設備あり 産婦人科 加藤医院
  6. ▶映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ーー「牛込見附」交差点
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  11. (消火栓)
  12. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」
  13. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  14. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  15. クラウン(喫茶店)
  16. 資生堂(化粧品)(さわや)

住宅地図。1970年

神楽坂6丁目(写真)昭和45年 路面電車 13系統 加藤嶺夫氏

文学と神楽坂

 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)で「神楽坂通り 新宿区神楽坂6-4先から東方」は昭和45年3月15日、神楽坂6丁目から神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)を通り、神楽坂5丁目などを撮ったものです。左右に走るのは都電13系統で、この年の3月27日に廃止されました。その12日前の撮影です。

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石、歩造があります。ゆるやかな坂が大久保通り。信号の向こうは神楽坂通り(神楽坂5丁目)で、こちら向きの一方通行になっています。
 中央やや左の上面は巨大な「車両進入禁止」の回転標識がありますが、これは午前だけで、午後は「一方通行入り口」一方通行入口に変わります。この奥に黒の標識があり、不明ですが、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430を見ると、表裏に2枚張り合われた「神楽坂」だったと分かります。さらに奥には「神楽坂通り/美観街」があります。
 では信号の手前の神楽坂通りはどうでしょうか。センターラインがあるので一見、対面通行に見えます。しかし左側にある「駐車禁止」の標識には0-12(午前中)の時間表示があります。午前中の車の向きに対する標識と考えられ、逆側には12-24(午後)の標識があったはずです。これはID 9909と同じです。つまり手前の神楽坂通りも一方通行だったのです。

神楽坂6丁目→5丁目(昭和45年)
  1. 喫茶室 2階 COFFEE 白砂(田中屋)
  2. 大久保通り
  3. 山下漆器店
  4. 割烹 うなぎ (大和田
  1. 街灯標識「神楽坂通り」 この場所は神楽坂5丁目なので、信号の向こうと同じ円盤形の街灯でした。左側の街灯にはありません。
  2. 電柱看板「歯科 川畑
  3. SEIKO(タイヨウ時計店)
  4. 大久保通り。背面板(ゼブラ柄)がある信号機
  5. 「宅地建物取引 有限会社 つくば商事」 「営業案内/土地・建物・売買・管理/賃貸借・周旋/電話買取及販売/不動産一般代理」 突き出し看板「たばこ/DPE つくば」(つくば商事)
  6. COFFEE&SNACK カレッセ サントリーバー(つくば商事の2階)
  7. 電柱看板「 東電のサービスステーション」
  8. 薬ヒグチ
  9. 季川
  10. 三菱銀行(仮店舗)
  11. 麻雀
  12. 大きな建物(中河電気) 現・八潮ビル 昭和43年(1968年)9月竣工
  13. 遠くに煙突(改築予定の三菱銀行旧店舗)

住宅地図。1973年

神楽坂青年会「神楽坂まっぷ」(神楽坂青年会、1985年)

神楽坂1丁目(写真)昭和54年牛込見附→飯田橋駅西口 ID 11874とID 11876

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874とID 11876は、昭和54年(1979年)の神楽坂1丁目の牛込見附から飯田橋駅西口に向かって撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11874飯田橋駅前 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11876飯田橋駅前 牛込見附

 右側の歩道が狭くなっている部分が牛込橋です。この少し手前から向こうは千代田区富士見になります。右側の自動車のフロントグリルには正月飾りがついています。ID 94、ID 11873と同時の1月17日の撮影でしょう。
 車道はアスファルト舗装で、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装です。飯田橋駅の前の橋の部分はおそらく戦前から続く石畳でしだが、ここでは見えません。
 右の商店の前には、神楽坂通りと同じ円盤型の街灯が2つあり、「神楽坂1丁目」で、店は神楽坂通りの商店会の会員。一方、左側は水銀灯のようで、同じ新宿区でも「神楽河岸」という別の町でした。さらに奥の牛込橋のあたりには別の街灯があり、これは千代田区の管轄でしょう。
 交差点名の「牛込見附」は、現在は「神楽坂下」に変わりました。交通標識は「逆転式一方通行の延長」の写真と同じで、「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」「スプーン・フォーク・スープの標識」。「30」は最高速度が30km/h。右側で、上には「調整中」「自転車を除く」、下には「歩行者専用」と「歩行者専用道路 12-13」です。さらに「立喰そば 飯田橋」の道路側に「歩行者通行止め」があります。

神楽坂1丁目(昭和54年)牛込見附→飯田橋駅西口
  1. 波板の囲い(旧・神楽坂警察跡地、再開発準備中)
  2. 看板「神楽坂 ナカノ」(中野洋装店)
    (ここから千代田区)
  3. 飯田橋駅西口駅舎
  4. 巨大な日本歯科大学体育館
  5. ビリヤードニッポン(濃い灰色にみえるビル)
  6. ホテルグランドパレス(遠くかすんでいるビル)
  7. 看板「麻雀 ビリヤード」
  1. 東山(酒蔵)
  2. 麻雀 COFFEE SHOP
  3. 電柱看板「質 大久保
  4. (白)鷹 とんかつ 森川
  5. 金鷹 〇〇〇/ラーメン(二鶴)
  6. 立喰そば 飯田橋<
  7. 電柱看板「とんかつ 森(川)」
    (ここから千代田区)
  8. 富士見町教会(黒い低い建物)
  9. 東京警察病院(大きな白いビル)

住宅地図。1976年

神楽坂2丁目(写真)昭和54年 神楽坂通り ID 11869

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11869は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂2丁目を坂上から坂下に向かって撮ったものです。なお、ID 88とID 11868はほぼ同じ時刻に神楽坂3丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11869 神楽坂

 車道はΟリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、側溝と縁石があり、歩道はアスファルト舗装です。街灯は昭和36年(1961)以降の巨大な円盤形で、「神楽坂通り」を覆うように木と人工葉があり、正月の飾りとして、足元には細長い竹と松が結びつけられています。さらに奥には標識「神楽坂通り/美観街」があります。

神楽坂2丁目(昭和54年)
  1. (ビ)クターレゴ―ド リード商会。チャコ。でんでんむし。(神楽坂)ビル
  2. やっ(「」は変体仮名の「こ」)
  3. 音楽 坂(珈琲)
  1. TONAMI(十奈美化粧品)
  2. 巴有吾有」(おそらくシャッターの貼り紙は年賀で、正月休みでしょう)
  3. 地図によれば「仲門堂」(閉鎖中)
  4. 西川みゆき
  5. 電柱看板「 大久保」「歯 石川
  6. 夏目鍼灸治療/夏目写真館 夏目写真館。PHOTOGRAPH
  7. (消火栓標識)と消火栓広告「(神楽坂)針灸院
  8. 「麻雀」
  9. 電柱看板「 大久保」「歯 石川」
  10. 「純喫茶 カ(ブト虫)」
  11. 大(島歯科)
  12. 「(ジロ)ー 5F 4F 3F う」(志満金)(下の写真を)
  13. 丸和(証券)
  14. 神楽坂通り/美観街
中央に(横断歩道)2つ

住宅地図。1976年

気まぐれ本格派 25話 赤字は[ジロー」(志満金)

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 鮒忠 五十鈴 ID 11864

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864は、昭和54年(1979年)1月、神楽坂5丁目で鮒忠や五十鈴などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11864 神楽坂 鮒忠、五十鈴前

 車道はアスファルト舗装。街灯は円盤形の時代ですが画角から外れていて、下部の「神楽坂通り」の標識しか写っていません。斜めに出ている造花は常設の飾りで、立っている竹は正月用と思われます。逆転式一方通行の向きから午後1時以降に撮ったのでしょう。
 大きく「初荷」と書いたトラックが走っています。初荷とは「年が明けて、最初に工場や倉庫など物流拠点から販売店へ向けて商品や製品が出荷されること。元々は、初売と同じく1月2日に行われていたが、今日では官公庁や多くの企業で業務が開始される1月4日に、新年の初出荷が行われることが多い。その際、昔は『初荷』と書かれた旗やのぼりをつけたトラックが走っていたが、高速道路などでの安全性の点から、現在ではほとんどなくなっている」(ウィキペディア)

神楽坂5丁目(昭和54年)(右→左)
  1. 近江屋(乾物店)
  2. ライトバン。GOLF GOODS WESTERN。自家用。この「WESTERN」のマークはスポーツバッグなどでよくありました。
  3. 中河電気(電気店)(テ)レビ/(神楽)坂店、ボタンでんわ特約店 ナショナル、Lo-D(日立製作所のオーディオブランド)
  4. トラック 「初荷」 フロントグリルに正月飾り
  5. 「文藝春秋 ロゴマーク 文春文(庫)」 芳進堂 TEL(28〇)2978、(週刊)新潮 芳進堂、宣伝用のぼり(おそらく「日立ソリッドステート キドカラー」とCMキャラクターの巨人軍・王貞治選手 少年誌の付録か)
  6. 街灯標識「神楽坂通り」。造花の飾りと竹の飾り
  7. 電柱看板「川島歯科
  8. 地蔵坂(藁店)
  9. 鮒忠、神楽坂店。「やきとり殿堂 鮒忠 神楽坂店 TEL 280-」「忘年会・新年会ご予約承ります。280-6223」「肉まん あんまん」
  10. トラック。
  11. (甘なっ)と。御菓子司。五十鈴。
  12. (パ)チンコ おおとり

善國寺(写真)昭和54年 ID 11829-11831

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829~11831は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11831 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿  b」ID 11829 善国寺毘沙門寄席

 善国寺の境内の石囲いには複数の門があります。当時(昭和54年)は神楽坂通りに三門が開いていました。向かって左側が他の店舗などの門(たとえばスゴオ洋菓子店)、中央は本堂に続く正門(ID 11830「神楽坂」とID 11831「毘沙門天」)、右側は庫裏に続く門(ID 11829「善國寺」)です。ちなみに、毘沙門横丁の側、出世稲荷の奥にも別の通用門があります。今は石囲いの一部を壊して駐車場にしていて、アルミの扉になっています。
「神楽坂」の門には「昭和四十六年五月十二日 児玉誉士夫建(之)」と書いてあります。また、本堂の柱には「来る十一日 歳旦初寅祈願会」の告知看板が出ています。なお、歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。賽銭箱には「志納」が書いています。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
 ID 11829 の門柱脇には、蛍光灯のついた常設の「神楽坂毘沙門寄席 月例興行」の案内があります。昭和46年に完成した本堂の1階部分(内陣の下)は「毘沙門ホール」になっています。戦前にもあった寄席の復活の意味で、このホールで定期的に落語の興業がありました。
 撮影時の顔ぶれは「五日六時開演 千円 創作落語会 桂米丸 三遊亭金馬 三遊亭圓歌 林家三平 春風亭柳昇 都合で当分の間 圓右休演」と「廿五日 六時開演 七百圓 金馬いななく会 三遊亭金馬二席他 落語漫才多数助演」でした。
 落語ブームの今では考えられない、かなり豪華な顔ぶれです。なお、林家三平(初代)は1979年(昭和54年)正月に脳溢血で倒れ、翌年にがんで亡くなっています。この落語会に出られたかどうか分かりません。

神楽坂5丁目(写真)昭和54年 ID11824 神楽坂上交差点

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824は、昭和54年1月、当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)から神楽坂5丁目を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11824 大久保通りから神楽坂通り(早稲田通り)を見る

 車道はアスファルト舗装で、平坦で、凸凹もなく、両側には側溝と縁石があります。歩道もアスファルト舗装で、平坦です。街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」、さらにその下に木と人工葉があります。標識(一方通行)が大きく描かれて、その奥には大きなサイン「神楽坂」があり、さらに奥には標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 ID 7430(昭和45年)とよく似た写真ですが、10年の間に違いが生じました。
・信号機に交差点名の標識がついた。
・ロール型の方向指示標識の矢印が横から縦に変わった。
・横断歩道が「はしご型」に描かれている。
・大久保通りの路面電車13系統がなくなった(廃止は昭和45年3月)。
 変わっていないのは、電柱が向かって右側だけにあること、標識「神楽坂通り/美観街」があること、それに一方通行の矢印の陰になって「神楽坂」の標識ポールがあることです。この標識ポールは昭和20年代後半に坂下(ID 23)と坂上(ID 9495)に設置した古いものです。坂下は昭和30年代に取り外されましたが、坂上はまだ残っています。
 矢印の下の「自転車を除く」は坂下のロール型の方向指示標識にも見えます(ID 9109など)。しかしID 65(昭和48年)にはありません。自転車は一方通行に従わなくていいことを明確にしたのでしょう。
 店の並びはあまり大きく変わっていませんが、正面の大きなビルは相馬屋ビルで、1978年(昭和53年)3月築です。
 DPE(Development, printing, enlargement)は現像・焼き付け・引き伸ばしの略で、ID 7430(昭和45年)にはつくば商事が行っていたようです。今回の昭和54年では、DPEは2つあります。右側の「DP(E)気軽に海外旅(行)」はそのすぐ下に鳩のトレードマークと「ヒ」があり、ヒグチのDPEだと思います。左側の「DPE 37円」はつくば商事かヒグチか、はっきりしませんが、つくば商事の一部を借りてヒグチが業務を始めたとすると、つくば商事からすれば、ヒグチに全てあげた方がいいでしょう。

ID 11824 DPE

神楽坂5丁目(昭和54年)
  1. 裏向きのスタンド看板(歩行者天国時に車道に出す)
  2. 標識(一方通行)「自転車を除く」。標識(自転車及び歩行者専用)。「歩行者専用道路/12-13/日曜 休日は/4月-10月/12-20/11月-3月/12-18」。標識(駐車禁止)0-12。「ランチタイム・プロムナード」のマーク
  3. 古い標識ポール「神楽坂」
  4. 河合陶器店 陶磁器 ガラス食器 陶芸用品
  5. 山下漆器店
  6. 菊岡三味線店
  7. 明治ゴールド牛乳(田口牛乳店)。2階はBoss ルネ
  8. 割烹 うなぎ 蒲焼 大和田。歩道に出前用と思われるバイク数台。
  9. 立て看板「英会話」
  10. リード商会)ビクター レコード
  11. タカミ洋品店
  12. 中国料理 東花飯店
  13. 標識「神楽坂通り/美観街
  1. 電柱。「神楽坂」交差点。電柱看板(牛込犬猫病院)。貼り紙
  2. 営業案内/土地・建物・売買・管理/賃貸借・周旋/電話買取及販売/不動産一般代理(つくば商事)
  3. DPE 37円。
  4. 看板は「貸出の物件」。あるいは読めない
  5. 薬ヒグチ。DP(E)気軽に海外旅(行)。
  6. 田原屋 フルー(ツ)
  7. 三菱銀行

住宅地図。1980年

坂上の風景

神楽坂4丁目、5丁目(写真)昭和51年 ID 11482

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482は、昭和51年、神楽坂4丁目から当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)方向を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482 神楽坂

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石があり、車の渋滞はかなり長くなっています。歩道もアスファルト舗装で、看板「まず徐行 あそこに子どもとお年より 牛込警察署」が見えます。街灯は大きな円盤形で、下に「神楽坂通り」、さらにその下に数本の木と人工的な葉があり、また電柱の上には柱上変圧器があります。半袖の人が多いので夏、逆転式一方通行の向きから午後1時以降でしょう。

神楽坂4~5丁目(昭和51年)
  1. 善国寺。4角柱?などが見える部分は児童遊園
  2. レストラン フル(ーツ) 田原屋
  3. パチンコ おおとり
  4. 甘なっと 五十鈴
  5. やきとり(殿)堂 鮒忠
  6. 藁店に入る道のカーブミラー
  7. (中)河電(気)
    ここまで5丁目。ここから6丁目
  8. 遠くに協和銀(行)
  1. 福屋不動産
  2. (毘沙門)せんべい(福屋
  3. 神占 思召し/(福屋ビルテナント「神楽大国」)
  4. (事務用)品(福田屋文具店)
  5. 紳士服(テーラー島田)
  6. 尾)沢薬(品)(ク)ス(リ)尾沢
    ここまで4丁目。ここから5丁目
  7. 工事中(神楽坂コアビル 1978年4月竣工)
  8. 路上に積み荷(魚金鮮魚店)
  9. (か)やの木
  10. (第一勧業信用)組合
  11. (消火栓)

神楽坂まっぷ。1985年

住宅地図。1976年

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9808- ID 9809

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9808~9809は、昭和50年(1975年)頃、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9808 牛込見附、神楽坂通り 入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9809 牛込見附、神楽坂通り 入口

 交差点は「牛込見附」、道路は車道、側溝、縁石、歩道の順に並んでいて、歩道と平らな車道はアスファルト舗装、やや淡い色に見える車道は急勾配があり、すべり止め用のOリングを一時的に埋め込んだコンクリート舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その下に小さな看板「神楽坂通り」があります。電柱は向かって道路の左側だけで、その上には大きな柱上変圧器。標識「神楽坂通り/美観街」や各種の道路標識も出ています。左のフォーク、スプーン、ティーカップの道路標識は、平日12:00-13:00の歩行者天国「ランチタイム・プロムナード」の実施を示しています。
 半袖の人が多いようです。また、ID 68(昭和48年5月22日)と比べると、かなり高い位置から遠くを見通しているようです。また坂の途中にID 9778と同じ大型クレーン車が停まっており、同時期の撮影と思われます。

神楽坂1丁目(昭和50年頃)
  1. (パチンコニューパリー)
  2. (田原屋)
  3. 元祖 貸衣装 清水本店。
  4. 生そば。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。(翁庵
  5. 中華料理 信華園
  6. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 大島糸(店)」
  7. とんかつ
  8. 電柱看板「歯 (石川)」
  9. 話し方教室
  10. 遠くに「ジャノメミシン」
  11. さらに遠くに「協和銀行」
  1. 足袋 ワイシャツ 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. (消火栓)消火栓看板「福屋 神楽坂 不動産」
  4. (山)田紙店
  5. 地下鉄 飯田橋駅→
  6. FUJIYA 不二家洋菓子
  7. 離れて「喫茶 軽い心

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9782

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782は、昭和50年頃(1975年)、神楽坂2丁目から坂下を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9782 神楽坂

 車道のすべり止めでOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 外堀通りを越して千代田区側、最も遠い大きなビルはホテルグランドパレスでした(1972年開業-2021年営業終了)

神楽坂2丁目→坂下(昭和50年頃)
  1. 化粧品さわや (MAX) FACTOR 資生堂
  2. 停車中の「ニッポンハム」納品車。
  3. 空き店舗(元の亀井鮨)
  4. ビクターレコード リード商会
    名人荘(麻雀店)
    雪ぐに/ちゃこ/でんでんむし
    (すべて神楽坂ビルのテナント)
  5. 純喫茶クラウン
  6. (陶磁器 陶柿園)昭和47年(1972年)3月に完成。
  7. 珈琲 音楽 (坂)
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 袖看板「パチンコはマリーで」
  10. 山(一薬)品
  11. 屋上看板「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  1. せともの太陽堂
  2. ニッポンハム 肉のますだや
  3. 日本信販 UC シャッターで閉店中(大川時計店)
  4. 電柱看板「 大久保  」「歯 健康保険医 石川 このうら  
  5. とんかつ(かつ一)
  6. 資生堂化粧品 コーセー 十奈美
  7. 夏目写真館
  8. カブト虫(純喫茶)

1976年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和50年頃 ID 9781

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781は、昭和50年頃、神楽坂1~2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9781 神楽坂

 車道はアスファルト舗装、そばに側溝、縁石、歩道もアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」、さらに「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。電柱は道路の左側にしかありません。また電柱には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和50年頃)
  1. 「12-23 (駐車禁止)「レッカー移動 牛込警察署長」
  2. 電柱看板「 大久保
  1. ✚ 診療〇〇 皮膚泌尿科 婦人科 外科 内科(白十字診療所)
  2. (消火栓) 消火栓広告「三菱銀行前 福屋 神楽坂 不(動)産」
  3. 「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店」「」「事務用品」「文具」「原稿用紙」「Canon  NP コピーサービス」「Kodak」「さくら  さくらカラー」
  4. 地下鉄 飯田橋駅
  5. 不二家。不二家洋菓子
  6. 紀の善
  7. 床屋のサインポール
  8. 屋上看板「(ハッピ)ージャック」袖看板「喫茶 軽(い)心 」
  9. (山一)薬品
  10. 袖看板「パチンコはマリーで」
  11. (ニュー)イトウ(靴)
  12. (珈琲 音楽 坂)
  13. 純喫茶 クラウン

1976年。住宅地図。

神楽坂2丁目(写真)昭和50年頃 ID 9778

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778は、昭和50年(1975年)頃、神楽坂2丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9778 神楽坂

 車道のOリングがあり、続いて側溝、縁石、歩道はアスファルト舗装です。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。電柱は道路の左側にしかなく、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 坂の途中に非常に大きなクレーン車が出ていますが、該当しそうな新築ビルはありません。

神楽坂2丁目(昭和48年)
  1. (横断禁止)
  2. たばこ 経済新聞
  3. 「大島歯科」「オリジナルボタン」 「(株)オオシマ」「ᘂ ハマナカ手芸糸」「マジックバック」「カネボウ毛糸 ハマナカ手芸糸」
  4. 神楽家(せんべい)
  5. 純喫茶 カブト虫 Coca Cola
  6. 看板「通学路」
  7. 電柱看板「石川  」「 大(久保)」
  8. 麻雀
  9. 夏目写真館
  10. 西川 みゆき
  11. 地図によれば「仲門堂」
  12. (消火栓)「歯科 石川  ここ」
  13. 電柱看板「歯 石川  」「 大久保」
  14. 地図によれば「巴有吾有」
  15. 地図によれば「十奈美」
  16. とんかつ(かつ一)
  17. ニッポンハム(肉のますだや)
  18. ヒデ美容(室)
  19. 屋上看板「話し方教室」袖看板「旭図書」「話し方教室」(五条ビル)
  20. (遠くに)三菱銀行
  1. 「D/SL気分を/満喫して下さい」「サービス中!!」「マ〇ー/祝/さ・」造花(パチンコマリー)
  2. ニューイトウ(靴):
  3. 珈琲 音楽 坂
  4. 陶柿園。昭和47年(1972年)3月に完成。
  5. 純喫茶 クラウン
  6. 資生堂化粧品(さわや

1976年。住宅地図。

 

神楽坂2丁目(写真)昭和48年 ID 8805, ID 8806

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805とID 8806は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂2丁目から坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂

 休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。一方、車道について、急勾配のコンクリート坂は滑り止めが必要ですが、これは道路表面に円形のオーリングを埋め込み、一定時間後にそれを取り除く方法をとっています。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があり、電柱看板も見られます。また遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えています。

神楽坂2丁目(昭和44年)
  1. 化粧品 おしゃれの店 十奈美 ブラバス・スタッフ/BR  KOJI/コージーアイラッシュ MG5
  2. 電柱の剥がされたビラ「ベトナム革(命)」
  3. おしゃれの(S)PO(T)T ESUTA(洋品店)
  4. とんかつ かん一(2階)
  5. (高い位置に マルマン)ガスライター メガネのオオカワ Nikon メガネレンズ
  6. 街灯看板「神楽坂通り」
  7. 電柱看板「歯 石川」「 大久保
  8. ヒデ美容室
  9. (音楽)長崎(五条ビル)
  10. 菊正宗 青柳寿司
  11. そばどころ 神楽坂 丸屋
  12. 三菱銀行
  1. ビクター音楽 リ(ード商会)(レコード店) 2階 (名)人荘 (麻雀店)
  2. 山田紙店 仮営業所(以前の亀井寿司)
  3. 資生堂化粧品 さわや  カネボウ化粧品
  4. 喫茶 馬
  5. マーサ美容室(窓からウインドウ型のエアコンが飛び出している。昭和40年(1965)頃の写真ID 15にはないもの。店舗の冷房が普及していった時期でしょう)
  6. アザミ
  7. ナショナル クレジット ナショナル カラーテレビ(竹谷電気工事)
  8. 小料理 万平
  9. 東洋紡カーテン(菱屋
  10. 東京電力(サービスステーション)
  11. 鮨どころ 二葉
  12. 酒酒 鳥忠
  13. 五十(番)

1973年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8801~ID 8804

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801からID 8804は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂1丁目から坂上を撮ったものです。ID 8803はID 66と同じ写真です。休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8802 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8803 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8804 神楽坂

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)も左右に1本ずつできています。その一方は中華料理「信華園」がある歩道にできました。また遠くに同じ「神楽坂通り/美観街」が見えています。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 看板「中華料理 信華園」と6角形の竜形
  2. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  3. 電柱看板「川島歯科
  4. 小栗横丁への道
  5. 半分だけの標示「御料理 志満金
  6. 電柱看板の「 大久保
  7. 「靴 オザキヤ
  8. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸」(大島糸店)
  1. 突き出し看板「喫茶室 軽い心」。一階で 洋酒とお食事 ハッピージャック
  2. 麻雀 桜(桜別館)
  3. 山一薬品(工事中)
  4. 看板「パチンコはマリーで」
  5. ニューイトウ(靴)
  6. 坂(喫茶)
  7. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  8. 喫茶  クラウン
  9. 「神楽坂ビル」。1969年2月完成。
  10. MAX FACTOR(化粧品)
  11. 資生堂化粧品(さわや
  12. 菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か
  13. 東京電力

1973年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8799とID 8800

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8799とID 8800は、昭和48年(1973年)2月、「牛込見附」(現、神楽坂下)交差点近くから神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8800はID 65と同じです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8799 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8800 神楽坂入口

 有楽町線「飯田橋駅」が開通する予定で、そのため道路を開削し、上に鉄板を置いています。埋め戻しは開業後です。
 大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に標識「神楽坂通り」がいくつもあります。電柱の上には大きな柱上変圧器があり、また標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)が左右に1本ずつできています。休日の歩行者天国(ホコテン)も始まり、バリケード看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」があります。警官が写っていて「ひょっとするとホコテンのスタート時の写真かも」と地元の方。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 牛込見附。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 日曜祝日の12-18。
  2. 電柱看板「斉藤医院
  3. パチンコ ニューバリー。「新装開店/73年最新型/第一号登場/ゆっくり打って(牛年)/大きく取ろう。出たら/どうにも止らない機械!!」
  4. ニューバリー屋上に「ウル」と矢印がある。これはイーグルボウルで、ID 68に詳しい。
  5. フルーツパーラー 田原屋
  6. 電柱看板「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)。
  7. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  8. 中華料理 信華園
  1. (一方通行)。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 12-18。
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. (白十字医院)
  5. 地下鉄入口の建築中のためこの時点では山田紙店はなくなっている。
  6. (消火栓)
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  8. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  9. 突き出し看板「あんみつ 紀の善」切妻の屋根
  10. 白く光るのは理容バンコックのサインポール
  11. 上で「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
    一階で ハッピージャック
  12. 山一薬品
  13.  看板「パチンコはマリー(で)」
  14. ニューイトウ(靴)
  15. 坂(喫茶)
  16. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  17. 喫茶  クラウン
  18. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。1969年2月完成。
  19. 「菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か

神楽坂1~2丁目(写真)昭和45年 ID 8318

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8318は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。藤の形の造花がたくさんあり、これはID 8317(つまりID 64)からの連続した写真だと思います。ほかにも翁庵の前の自転車や駐車車両、道路の水まきの跡、不二家の商品なども同じです。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に標識「神楽坂通り」があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8318 神楽坂

 

神楽坂1~2丁目(昭和45年)
  1. (フルーツパーラー 田原)屋
  2. 電柱看板「神楽坂通 倉庫 取扱 このさき」
  3. 衣裳 清水本店(貸衣裳店)
  4. 看板「生そば おきな庵」(翁庵
  5. 中華料理 信華園
  6. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  7. 電柱看板「川島歯科
  8. 電柱看板「 大久保
  1. 山田紙店
  2. FUJIYA 不二家洋菓子 FIJIYA コーヒーショップ 歩道におそらく山積みの不二家の商品
  3. 突き出し看板「おしるこ 紀の善
  4. Frère WADAYA(メンズウェアー)
  5. 喫茶 軽い心 洋食 食事 ハッピージャック
  6. くすり 山一薬品
  7. パチンコはマリーで
  8. ニューイトウ(靴)
  9. 純喫茶 クラウン
  10. 神楽坂ビル。築年月は昭和40年11月
  11. MAX FACTOR(化粧品)
  12. 資生堂化粧品(さわや
  13. 菱屋ビル(昭和42年頃)

1971年。住宅地図。

神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。

善国寺(写真)昭和45年 ID 8299-ID 8300

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8299とID 8300を見ましょう。撮影は1970年(昭和45年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。
 ではID 8299を最初に見ていきましょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8299 善国寺

 季節は冬で、歳末セール中。歩道にはみ出す形で吊り屋根があり、提灯に「夢の歳末市福引所」とあります。
 正門の中の左側の小屋には「神楽坂通り商店会 福引所 入口」。餅花飾りに重なるようにたくさんの小さな電球が見えます。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。
 福引き所の中にはガラガラと回す多角形の箱(正式名称は「新井式回転抽選器」)があり、壁には上位当選者の貼り紙らしきものも見えます。
 門柱と石囲いはすすけていて、破損も目立ちます。昭和5年刊の「牛込区史」(臨川書店)の写真と比べると、門柱は戦前のままの焼け残り、石囲いは手直しをしたように見えます。石囲いの柱の寄進者の名前ははっきりと見えませんが、拡大すると丸い紋の下に2-3文字が多いので、おそらくは芸妓の名でしょう。
 少なくとも右側の壁の窪みは戦前の写真にはありません。窪みのさらに右には水抜きと思われる穴があり、その上には何か書かれた石版がはめていますが、詳細は不明。
 石囲いの向こうは石造の滑り台(児童遊園)です。
 手前の左側には車道と歩道を区分する1本のガードパイプ、右側は何もありません。

ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

ビタ明治牛乳

 次はID 8300で、正門の右にある脇門を写しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8300 善国寺

 女性が花を売る準備をしています。この露天の花売りは「ほんの数年前、平成が終わる頃まで続いていました」と地元の方。門内の左側にある棚のようなものはID 8271-8272と比べると児童遊園の砂場の日よけです。
 門脇には大きい字で書かれた看板「易占 毘沙門天 易断所 藤墳蕙秀 電話 2〇〇 2769番」との6本線(こう)。さらに右側の7字で書かれた看板はこの写真では読めませんが、田口政典氏の「毘沙門天遠景」の看板には「橘田耳鼻咽喉科」。門の両脇の花屋も分かります。
 歩道にはガードフェンスがあり、車道に小型トラック「いらない水枕 アイスノン」「柴崎医療器KK」。その後ろは日産サニー。
 街灯には「神楽坂通り」、提灯「〇〇歳末市」と餅花飾り。ワイヤーが左右に伸びて提灯5個が下がっています。ただ細いワイヤーには電線が見えないので、提灯が夜に光ることはなかったと思われます。

易占 えきせん。算木さんぎ筮竹ぜいちくを用いてする易の占い。
易断 えきだん。易による占い。運勢、吉凶を判断する
 け。えきで占った結果あらわれるかたち。陰と陽とを示す二種のこうがあり、これを三つ組み合わせたけん・離・震・そんかんごんこんは基本の八卦
 こう。えきを組み立てている横画。陽爻と陰爻の二種がある。
水枕 みずまくら。後頭部の冷却に用いる枕の一種。氷枕こおりまくらは氷を使う。

キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂

文学と神楽坂

「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」という雑誌「Mr. Dandy」(中央出版、昭和49年)での写真です。中扉、いろいろな場所、さらに数枚の神社仏閣ですが、ここでは中扉を扱います。
 有楽町線「飯田橋」はまだ未開通です。しかし道路は開削し、上に鉄板を並べるところまで来ています。ただし、埋め戻しは開通後です。標識「神楽坂通り/美観街」も出ています。街灯は円形の蛍光灯一つだけで、これは昭和36年(1961年)以降です。その下に看板「神楽坂通り」。柱上変圧器もあります。

キミが一生に一度も行かない所 神楽坂S47

神楽坂1丁目(昭和49年)
  1. 田原屋。Tawarayaのyaが見える。
  2. 元祖 貸衣装 清水本店。
  3. 生そば。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。ここに「翁庵」がある。
  4. 信華園(中華)
  5. 志満金」(うなぎ)
  1. 山田紙店。シャッターで閉鎖中。下に三角フェンス(バリケード)と土嚢。土嚢は雨水流入防止の常備品。地下鉄有楽町線「飯田橋駅」の出口で、利用開始寸前。ファサード看板は「山田紙」店。袖看板は「紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店」。さくらカラーの看板。地下鉄の出口に店を半分、譲渡。現在は「のレン」(お土産店)
  2. 不二家洋菓子。FUJIYA コーヒーショップ。不二家洋菓子
  3. 紀の善
  4. 床屋のサインポール
  5. 屋上広告看板の「3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック」。袖看板は「軽い心
  6. 建築中の陶柿園

神楽坂上空(写真)昭和36年、ID 12145

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145は、昭和36年(1961年)、上空から神楽坂全体を撮ったものです。また、新宿区役場「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年3月)にもでています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12145 神楽坂上空より

 主に「通り」と「横丁」を上げてみます。拡大すると見えます。

 これから神楽坂通りを1番目として、北(右)でも南(左)でも遠くなると番号も増えていきます。また、近景から遠景まで順番に書いていきます。なお、地元の方から多大な助力を頂きました。特に遠景ではこの助けがないとできませんでした。感謝、感謝です。

近北

ID 12145の一部 神楽坂上空 近北

  1. 赤井商店(足袋)
  2. さくらや(靴)
  3. 燃料市原
  4. 佳作座(名画座)
  5. ジャマイカ コーヒー
  6. モルナイト
  7. 三陽商店工場
  8. 三和計器製作所
  9. 小林商店(砂・セメント)
  10. 伝道出版社
  11. 人形の家(喫茶)
  12. 神楽坂通りは一方通行。早稲田通りは対面通行
  13. 神楽坂警察署
  14. 池か
  15. 銀鈴会館(名画館など)

1962年。住宅地図。

近南

ID 12145の一部 神楽坂上空 近南

  1. パチンコニューパリー
  2. 聖学館と酒井
  3. 三河屋 酒店
  4. 大野テーラー
  5. 双葉社 週刊大衆
  6. 中華 源来軒
  7. 東京トヨペット
  8. コーヒー カーネギー
  9. アケミ美容室
  10. ひかりのくに
  11. 建築中(東京理科大学)

は東京理科大学

1962年。住宅地図。

中北

ID 12145の一部 神楽坂上空 中北

  1. 三菱銀行
  2. ムーンライト
  3. 大久保
  4. ゴルフ神楽坂。この手前は結構なガケで、コンクリートの擁壁になっている。このガケは今も同じ。
  5. 石造りの安井邸。翌年には鈴木邸になる。子供たちにとっては「お化け屋敷」。
  6. 旅館なの花。隣の青灰色の建物と一体で。
  7. 神楽坂浴場

1962年。住宅地図。


中南

ID 12145の一部 神楽坂上空 中南

  1. 三菱銀行
  2. 牛込三業会(今の東京神楽坂組合
  3. 熱海湯
  4. 松ケ枝
  5. 丸紅飯田若松荘
  6. 神楽坂若宮八幡神社

1962年。住宅地図。


遠北

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 三菱銀行
  2. 神楽坂上交差点
  3. 音楽之友社
  4. 熊乃湯。現・玉の湯
  5. 白銀公園
  6. 赤城神社
  7. 神祇社殿
  8. 東京都職員飯田橋病院 ※後の放射線学校
  9. 雪印健保会館 ※現・升本本社
  10. 朝鮮新報社(?)

1962年。住宅地図。


遠南

ID 12145の一部 神楽坂上空 遠南

  1. 神楽坂上交差点
  2. 協和銀行
  3. 日本出版クラブ
  4. 光照寺
  5. 日本興業銀行社宅 ※旧・酒井家矢来屋敷
  6. 新宿区箪笥町特別出張所 ※ここからID 565を撮影した
  7. 見えないけど袖摺坂はこのあたり


最遠

 最後は最も遠い光景です。地元の方が教えてくれました。そのまま描いています。

ID 12145の一部 神楽坂上空 最遠

  1. 早大理工学部
  2. 都立戸山高校
  3. 早大記念会館
  4. 穴八幡
  5. 早大早稲田キャンパス
  6. 学習院目白キャンパス
  7. 椿山荘

神楽坂1丁目(写真)牛込橋 昭和37年 ID 5993~5995

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5993~5995は、昭和37年(1962年)、神楽坂1丁目を牛込橋方向から撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5993 神楽坂入口をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5994 神楽坂入口をのぞむ

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5995 神楽坂入口をのぞむ

 昭和36年4月のID 52-53と比べると、牛込橋の車道のセンターラインや歩道の柵、左右の桜の木は同じです。しかし今回の街灯はそれまでの鈴蘭灯から、大型円盤形の蛍光灯に代わっています。左側の電柱広告は「旅館かぐら苑 野乃木」から「大久保質店」に、右側のファサード看板も「森本不動産」から「伊達」に代わりました。
 右上の「メトロ映画」の看板は「ヽロ映画」(ID 52-53)から「 ヽ凵映画」(ID 5993~5995)へと老朽化が進んでいます。遠くにキャバレー「ムーンライト」が見えています。
 街の様子は、寒いのか外套を着る人もいて、桜も裸木です。ただ歳末セールや正月の飾りのようなものは見えません。
 ID 55と56ともよく似ています。左下の手すりが雑巾かシャツで覆われ、すぐ前に同じバイク、右側にも同じ「日軽サッシ」の車も停まっています。ID 55-56、5993~5995は同じ時に撮影したことが分かります。
 新宿区『新宿区15年のあゆみ』(新宿区役所内務部総務課、1962年)ではID 5994を使っています。この本は昭和37年3月に出版していますので、この写真は、それ以前に撮影したはずです。
 ID 5995の右側の桜の木に、映画のポスターらしきものが見えます。昭和37年(1962)2月11日公開の『天使と野郎ども』ではないでしょうか。とすると撮影は昭和37年2月でしょうか。

日軽サッシ サッシ(window sash)は窓枠全体のこと。日軽は日本軽金属から現在はLIXIL(リクシル)になり、これは建築材料・住宅設備機器業界最大手の企業。
映画のポスター 拡大します。

人文社「日本分県地図地名総覧 東京都」1960年

神楽坂1~2丁目(昭和37年頃)
  1. ラーメン 中華そば
  2. とん(かつ森川)「も や」
  3. 電柱看板「気軽に習えて三日で踊れる 小柳ダンス教室
  4. 地名標識「神楽坂」
  5. 喫茶室 コルヌ(Corne)
  6. 電柱看板「 大久保」「中河電気
  7. 袖看板「天下の銘酒 三富酒蔵」壁面看板「富士錦三富酒蔵」「大衆」
  8. 外堀通り
  9. パチンコニューパリー。エッフェル塔に似たネオン
  10. 神楽坂通りは省略)
  1. 桜の木にポスター
  2. 神楽坂警察署
  3. 旅館 保〇
  4. 停車中の自動車「日軽サッシ」
  5. 桜の木に看板 映画
  6. ファサード看板「入院応責 産婦人科加藤医院」「品の良いデザインカットを誇るドレスはD伊達」
  7. 外堀通り
  8. 赤井商店
  9. 右に移って「さくらや靴店」
  10. (神楽坂通りは省略)
  11. 屋上広告「メトロ映画
  12. 屋上広告「キャバレー ムーンライト」

花自動車(写真)昭和34年、ID 5056

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5056は昭和34年(1959年)、第14回「国民体育大会新宿区商業観光まつり」を撮ったものです。花自動車パレードで神楽坂振興会が出展しました。場所は早稲田鶴巻町の早大通りでした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5056 祝第14回国民体育大会新宿区商業観光まつり花自動車パレード 神楽坂振興会(早稲田鶴巻町・早大通り)

「神楽坂振興会」は昭和24年に設立し、昭和41年に「神楽坂通り商店会」と改称。神楽坂1~5丁目の商店街です。昼時なのか、自動車に乗っている人はいません。「新宿区商業観光まつり」と書いた看板と、若い水着の女性の等身大バネルだけが乗っていました。この女性は王冠(ティアラ)とローブ(マント)、「(ミ)ス神楽坂 神楽坂振興会」というサッシュをつけています。「新宿区商業観光まつり」の絵図では……

名称簡単な説明
神(楽)坂通り通り
堀部安兵ヱ高田馬場の決闘と赤穂浪士四十七士
筑土(八幡)神社
赤城神社神社
牛込城址築城年は天文年間(1532〜1555)
穴八幡神社
大田 蜀山人旧居江戸後期の文人
毘沙門天寺院
関孝和墓江戸中期の数学者
漱石猫塚明治大正の作家。飼っていた猫の墓
十千万堂 尾崎紅葉旧居明治の作家
松井須磨子明治大正の女優
坪内逍遥旧居明治大正の作家
市谷八幡神社
お岩稲荷四谷怪談
抜弁天神社
太宗寺寺院
小泉八雲旧居明治の作家
新井白石旧居江戸中期の政治家、儒学者
島崎藤村旧居明治の作家
新宿映画デパート街新宿大通り街
(熊)野神社神社
神宮維画館明治天皇の維新の大改革
競技場国立競技場

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 拡大図

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

神楽坂3丁目(写真)三つ叉通り 昭和44年 ID 101

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101は、昭和44年(1969年)、カメラを神楽坂3丁目に置き、神楽坂上の交差点方向を撮ったものです。写真の右側は4丁目、奥の方は5丁目になります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、「神楽坂通り」と花の木をモチーフにした造花があります。消火栓標識と消火栓広告がありますが、広告は空欄のようです。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101 三丁目

 すぐに左に回る路地は「三つ叉通り」という名前が付いています。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第13号の「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では…… なお、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。

 するとさっきの検番通りに出る。
井上 そこは、道が三つに分かれているので『三つ叉通り』と名付けた。安易だったか。

 地元の方に意見を聞きました。

 撮影時期としてはID 64の神楽坂下(昭和45年3月)や、ID 7430の神楽坂上(昭和45年11月)と近いのですが、違いがいくつかあります。
 第一に、歩道です。このID 101は正方形の石を敷き詰めたもので、昭和40年代の神楽坂の「坂のある街」(昭和41年)と同じです。昭和45年はアスファルト舗装に変わっています。
 第二に、「神楽坂通り/美観街」という大きな標識ポールが、この写真で確認できないことです。「美観街」の標識は昭和42年の写真(田口氏 05-14-37-1 a b c)にはなく、昭和45年はあります。歩道の舗装と同時工事だったかも知れません。
 もう1点、この写真ではほとんど見えませんが、三菱銀行は建て替え前の旧店舗だったはずです。昭和45年には5丁目の仮店舗で営業していました。
 以下に、田口氏05-02-32-2などの他の写真で分かることも含めて解説します。

    1. 見切れているのは大佐和商店(現・楽山)。3階建てでした。看板は「○○○○銘茶研究会○○」と読めます。大佐和が4丁目に移転してきたのは昭和43年でした。
    2. 電柱広告「川島歯科」 ※袋町
    3. 「(福屋不)動産部/(毘沙門)せんべい福屋本店」
    4. 立看板「こどもの飛び出し多し」
    5. 尾沢薬局/富士フィルム」 ※DPE店を兼業していました。
    6. 日本勧業(信用組合) ※勧信の車庫
    7. かやの木 玩具店
    8. 電柱広告「中河電気」 ※5丁目
    9. 消火栓広告 空欄
    10. 電柱広告「 大久保
    11. (遠くに)協和銀行  ※6丁目
    12. 電柱広告「小野眼科」 ※新小川町
    13. サントリーバー さむらい ※洋品サムライ堂が2階で並営していました。
    14. 看板「(三菱銀)行」
    15. KEYS MADE。(合鍵作成)  ※宮坂金物店

70年。住宅地図。

逆転式一方通行の延長

 逆転式一方通行の延長について、地元の方は…

 神楽坂通りに、逆転式一方通行が導入されたのは東京新聞調べの1958年(昭和33年)だということは「逆転式一方通行・再考(写真)」で考察しました。逆転式はその後、千代田区側に延長されます。
 1977年(昭和52年)のテレビドラマ『気まぐれ本格派』の牛込見附交差点のシーンには、歩行者用道路と「ランチタイム・プロムナード」(スプーンとフォーク、ティーカップ)の標識が写っています。正午から午後1時までを歩行者天国にするもので、歩行者が道の真ん中を歩いているので、ちょうど実施中と思われます。

『気まぐれ本格派』32話

 右側の高い位置にも、大きな歩行者用道路の標識が見えます。これは回転式で、時間によって表示内容が変わります。神楽坂通り入り口にも同じ標識があり、「逆転式一方通行・再考(写真)」の記事のID:9109(昭和51年8月26日)で確認できます。
 また「神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86」の記事にも回転式標識が写っていますが、表示は「調製中」です。故障していたか、あるいは表示内容を変えようとしていたのかも知れません。
 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では、昭和54年(1979)4月1日に逆転式が延長されたとあります。しかし『気まぐれ本格派』ではシーンによって牛込橋を通る車の向きが逆になっています。少なくとも千代田区の牛込橋部分については、昭和52年時点で逆転式一方通行が実施されていたことが分かります。

神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)

文学と神楽坂

 地元の方は次の情報を送って下さいました。なお【A】などの下線はたたくと元の写真が出ます。

 商店街にとって、街灯は集客のための基礎的なインフラです。神楽坂通りの街灯の歴史を写真を元に調べてみました。
【明治中期】
 新撰東京名所図会第41編(明治37年)に「神楽坂通り」と題した小さな写真【A】があります。明治30年代以前と思われます。不鮮明なのですが、中央の電柱から下がっているものが街灯かもしれません。右側の店(樽と「恵比●」の文字、さらに横看板に「BEER」が見えるので飲食店か)には軒灯を出しています。記事には「牛込区第一繁華の市街」とありますが坂道は砂利敷きで、夜の灯りも十分ではなかったでしょう。

【A】 新撰東京名所図会第41編(明治37年)神楽坂通り

 牛込神楽坂。明治35~39年頃の写真【B】には、外堀通り沿いの街灯が確認できます。市電の走る外堀通りの街灯は他の場所【C】でも確認できます。
 【B】を詳しく見ると神楽坂通りは【A】より電柱がかなり増えていて、高い電柱の間に低い柱があります。しかし街灯までは確認できません。

【B】牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

【C】新撰東京名所図会第43編(明治39年)市谷田町二丁目通

【大正期】「大正12年3月の神楽坂」の写真【D】には、明らかな街灯が写っています。角柱から丸い灯りが2つ突き出す形で、柱の上には擬宝珠のような飾りもあります。これが坂の両側に何本かある様子が見て取れます。なお、明治40年は間違いで、この写真は大正12年に撮られています。

【D】大正12年3月の神楽坂。野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)

【大正-昭和初期】
 大正15年の3丁目の写真【E】の街灯は形状が変わり、傘をかぶった吊り下げ型の1灯になります。神楽坂が舗装された1925年(大正14年)に、同時に街灯を更新したのかも知れません。

【E】 大正15年 3丁目。毎日新聞社『法政大学(大学シリーズ)』(1971年)

 同時代の肴町(現5丁目)【F】 【G】や坂下の写真【H】にも同型の街灯が見えます。ただ良く見ると【E】の街灯の方が背が高く、明治期とよく似た擬宝珠があります。他の写真の街灯の頭頂部は四角いキャップです。

【F】大正時代の神楽坂通り。国友温太『新宿回り舞台―歴史余話』(昭和52年)

【G】 昭和5年の神楽坂通り。改造社『日本地理大系』(1929年)

【H】 神楽坂界隈。毎日新聞社「大学シリーズ法政大学」(昭和46年)

 昭和8年『大東京写真案内』の写真【J】も、【E】と同じ笠をかぶった街灯です。しかし、この写真の右、上宮比町(現・4丁目)側には街灯が確認できません。街灯は町会単位で整備されることが多いので、もしかしたらこの時期、上宮比町には街灯がなかったのかも知れません。

【J】 昭和8年 。博文館編纂部『大東京写真案内』(昭和8年)

【昭和10年代】
「東京市内商店街ニ関スル調査」の昭和10年の写真【K】になると街灯は一変します。高い丸柱が立ち、梁状の支えが横に突き出して高い位置にドングリ型の照明がつきます。梁の下部はアーチ状の飾りがあり、飾りの下にも電灯があるようです。

【K】東京商工会議所「東京市内商店街ニ関スル調査」(昭和11年)。写真は昭和10年12月19日

「牛込華街読本」昭和12年【L】も【K】と同じ街灯です。神楽坂通りの両側に交互に街灯が立っている様子が分かります。

【L】牛込三業会「牛込華街読本」昭和12年。

 おそらくこの街灯は、戦災で街が焼ける昭和20年まで使われました。

 以上、これまでは地元の人でした。まとめると、下図のように、おそらくA(明治37年)は個別の店の軒灯、B(明治35~39年)とC(明治39年)は東京市の街灯、D(大正12年)は商店会の街灯、E(大正15年)、F(大正時代)、G(昭和5年)、J( 昭和8年)は同じ形をした商店会の街灯、K(昭和11年)とL(昭和12年)は鈴蘭灯に似た街灯だったと思います。ただし、すべて「おそらく」付きです。



神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85とID 11875、ID 86とID 11872

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 85とID 11875、ID 86とID 11872は、昭和54年(1979年)1月の神楽坂1~2丁目を撮ったものです。坂上方向(ID 85とID 11875)と、その逆の牛込橋方向(ID 86とID 11872)を狙っています。
 一方通行の向きから見て時間は午後です。年賀の貼り紙や街灯の若松があり、シャッターを閉めている店が多いので正月休み中でしょう。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。昭和49年の「Mr. Dandy」や、昭和51年のID 69-71より少し後の時代ですが、いくつか店がビルになるなど、若干の変化があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 85 神楽坂途中より坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11875 飯田橋駅前 牛込見附

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 86 神楽坂途中より坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11872 神楽坂

ID 11873では1月17日のID 94と同じで、さくらや靴店は開店中。ID 11874とID 11876はネクタイの人が沢山で正月とは思いにくい。ID 93もID 94と同じでしょう。これらが昭和54年(1979年)1月17日の撮影と思います」と地元の方、

神楽坂1~2丁目【牛込見附から坂上に向けて】
  1. 麻雀
  2. 牛込見附交差点の飯田橋側に「調製中」と回転式標識
  3. 「牛込見附」交差点
  4. (ニューバリーパチンコ)
  5. 電柱看板の「八千代鮨」と「(質)大久(保)」
  6. (田原屋フルーツパーラー)特徴的な丸い電飾の突き出し看板。テントの形が変わっています。

  7. (清水衣裳)店
  8. 「翁庵」のシャッターにおそらく「謹賀新年」の貼り紙。「生。」(そ)は「楚」のくずしかな、(ば)は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  1. 「カレーシ(ョップ) ボ(ナ)」の看板
  2. 白十字病院 皮膚泌尿科/婦人科/外科/内科
  3. 「紙 文具 事務用品 原稿用紙 山田紙店」 「さくら 山田紙店 さくらカラー チェーン店」「Canon NPコピーサービス」「文房具加盟店」「文具 事務用品 原稿」
  4. (FIRE H)YDRANT 消火栓。消火栓広告「三菱銀行〇前 福屋 神楽坂 不動産」
  5. 地下鉄 飯田橋駅
神楽坂通り/美観街         神楽坂通り/美観街
(坂下の案内標識)

九段坂


飯田橋 ◀━╋━▶市谷見附
  1. 「丸和証券」。上に「麻雀倶楽部 かぐら 4F」「SPC 美容室 〇店」
  2. 電柱看板の「甘露 あまなっと。神楽坂 五十鈴」と「川島歯科
  3. 小栗横丁
  4. (鰻 志満金)看板「ジロー 3F、4F、5F」
  5. 離れたところで「話し方教室」「旭図書」
  6. ほとんど見えないが「三菱銀行」
  1. 不二家洋菓子
  2. 紀の善 あんみつ
  3. 看板「英会話 ウィンザー〇ム」
  4. 神楽小路
  5. 交通標識「⮪ 自転車を除く 12-24 一方通行路←」
  6. Frère WADAYA メンズウェアー(Frère は兄弟)
神楽坂通りの一番 高いところから6丁目の「協和(銀行)」の看板

1980年 住宅地図。

気まぐれ本格派(1)

文学と神楽坂

 「気まぐれ本格派」は昭和52年(1977)年10月26日から昭和53年(1978)年9月20日まで日本テレビ系列で放送されたテレビ映画です。最初は道路や石畳を中心に書いていきます。

 最初は、神楽坂通り/美観街の標識で、構成は4つ。赤い文字で➀「神楽坂通り」と➁「美観街」、脇には➂縞々のH、さらに➃四角の箱です。夜になると、外から水銀灯で照らしています。

 次は「餅花もちばな」を模した正月向けの飾りです。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習です。

 これも冬の風景。クリスマスではないと思います。この時代、クリスマスだからといっても大々的に大騒ぎはしませんでした。ほかにも、いろいろな造花があったようです。

 芸者新道ですが、これも石畳でした。なお、2枚目の「堂」は「明月堂」の「堂」です。

 さらに牛込橋も石畳でした。下で青線で引いた場所でしょう。
 軽子坂も出てきます。今と道幅は同じです。左側の高い石積みと塀は地元の資産家・升本家の広大な本邸でした。車止めの部分が門にあたります。

 なお「軽子坂プロジェクト」でビルが後退したのは津久戸町のところです。
 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」では

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID 64, ID 8317

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64とID 8317は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8317のほうが画角は大きくなっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8317 神楽坂入口

 大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、信号機にはゼブラ柄の背面板があります。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識と、藤の形の造花がたくさんあります。電柱の上には柱上変圧器があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできました。横断歩道はここでは2本の直線だけですが、工事で一時的に消されていて、上の1本は自動車の停止線です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64 神楽坂入口から坂上方向

神楽坂1丁目(昭和45年)
  1. Pachinco ニューバリーパチンコ。角のガラス部分は景品の交換所でした。タバコらしきものが見えます。
  2. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)「質」
  3. テント上の高い位置にTA〇〇RAYA(フルーツパーラー 田原屋)
  4. 清水本店(貸衣裳店)
  5. 生そば(翁庵
  6. 中華料理 信華園
  7. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  8. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店。吊り看板の「公衆電話」とその下に2台の電話。さらに右に「赤井商」店と佳作座の映画広告「チキ(チキ)バ(ンバン)」
  2. (津田印店)看板を外しているので閉店?
  3. 皮膚泌尿科、婦人科、外科、内科(白十字病院)
  4. 原稿用紙 事務用品 山田紙店
  5. FUJIYA 不二家洋菓子 歩道におそらく山積みの不二家の商品
  6. 消火栓標識と消火栓広告「(ふ)とんのひしや(菱屋)」
  7. 紀の善)突き出し看板はあるが、今回は見えない。
  8. Frère WADAYA(メンズウェアー)
  9. ビル「軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
    ピージャック

1971年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和36年 ID 54

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 54は、昭和36年4月に神楽坂1~2丁目を撮ったものです。撮影の方向は、坂下から坂上です。街灯は昭和36~7年まで続き、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯でした。電灯は1本あたり3個なので、よく見ると、かなりの電灯は壊れています。別に神楽坂通りに桃の造花がいくつもあります。コートを着た人はいますが、半袖の人はいません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 54 神楽坂入口から坂上方向

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂1~2丁目(昭和36年?)
  1. 清水衣裳店
  2. 翁庵
  3. 桃の造花では?
  4. 甘味 桜井。1階ショーケースに
    「お赤飯」
  5. 「生花 造花」「田口屋生花店」(果実店の萬屋販売所ではなくなっている)
  6. 山崎パンの配送車が停車中。反対側のヤマザキパンに行くところ
  7. 左側の田口屋生花の下で配送車の扉に隠れて「1日-15日 大東○ 百円」。おそらくクジのイベント。(100円買うと100万円当たる)
  8. 小栗横丁に通じる通り
  9. 電柱看板「森本不動産」。小栗横丁に入り1軒裏にあった。
  10. 田口屋生花店。丸い看板「花」
  11. 志満金
  12. 電柱看板「大久保」。仲通りにありました。⚫は他の写真で「倉庫完備」
  13. 数軒して「タイヤモンド毛糸 大島糸店」
  14. 数軒があり「新古美術品店」か。将来は「松本商店」になる場所。
  15. 「ク」スリ
  16. 遠くに「(三菱銀)行」
  1. 「ヤ」が見える。2階はニューマヤ美容室。1階の入り口にスタンド看板の価格表。コールド(セット■)1500 シャンプー100など。コールドパーマとは熱は使わず、代わりに薬剤を使用
  2. 1階は山田紙店
  3. 公衆電話
  4. 神楽堂。ヤマザキパン
  5. 神楽小路に行く小道があり、その上に「ダン(ス)⇒」がある。小柳ダンス
  6. BAR みなみ
  7. 志乃多寿し
  8. 山一薬品
  9. スタンド看板で「1日ー15日 大東京○○まつり 百万円」。下には「神楽坂○興○」。神楽坂通り商店会は、昭和41年まで「神楽坂振興会」でした。

 ID 48(昭和34年)と比べると、いくつかの場所が代わっています。左側は万屋販売所だったのから「生花 造花」となり、右側は「トリスバー」から「BAR みなみ」に代わりました。昭和35年の神楽坂三十年代地図では万屋が出ています。

1960年、62年は人文社「日本分県地図地名総覧」から。63年は住宅協会「全住宅案内図帳 新宿区」から。田口屋とbarみなみ

神楽坂1丁目9(写真)森川ビル

文学と神楽坂

神楽坂1丁目4分割

 神楽坂下交差点を囲んで神楽坂通り(早稲田通り)と外堀通りがあり、この部分を4分割します。この1つは東の分割で、神楽河岸です。新宿区の建物だけで、誰も住んでいません。他には3か所は全て神楽坂1丁目です。このうち、南の分割(1丁目9)と「とんかつ森川」について、調べてみたいと思っています。
 最初は田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、昭和42年に牛込橋のほうから神楽坂下交差点を見ています。

05-14-37-1

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を 1967-02-08(昭和42年)

 では、南分割の看板(下図はさらに拡大可)を右から左に向かって…

  1. 袖看板。天下の銘酒 富士錦 三富酒蔵
  2. 富士錦の左側で、不明の文字。他の写真から「酒蔵三富
  3. 看板で隠れているが、77(喫茶店)
  4. 電柱看板で「整美歯科」と「とんかつ森川」
  5. 小柳ダンス教室は神楽小路に。
  6. ペプシコーラの宣伝
  7. とんかつ森川


 では神楽坂下交差点から牛込橋を眺めると……

05-14-37-2神楽坂下から牛込見附を 1967-02-08

  1. 77の看板があります
  2. ダンス教室の看板はなくなり、6枚のベニヤが建っています。この裏は小柳ダンス教室でしょう。
  3. ペプシコーラの看板が少し見え、屋号の「二⚫」が見える。
  4. 「とんかつ」が見える。
  5. あと2、3軒の店舗がある


 では地図はどうなっているのでしょう。人文社の地図 1964年版では…。

新宿区東部. 1964年改訂版。人文社

 「二⚫」は「二鶴」でした。
 また、1967年の地図(住宅協会地図部)では

地図。新宿区. 1967年度。住宅協会地図部

 では、これから6年経って、昭和48年の写真を見ましょう。新宿歴史博物館のデータベース 写真で見る新宿「飯田橋駅付近より坂上方向」ID 68 昭和48年5月22日です。

新宿歴史博物館のデータベース 写真で見る新宿「飯田橋駅付近より坂上方向」ID 68 昭和48年5月22日

昭和48年。全航空住宅地図帳

 後ろから前に書くと…

  1. 看板は不明
  2. 喫茶77
  3. 真っ黒な店舗で「とんかつ森川」。「とんかつ森川」は上の袖看板と下の電柱看板。
  4. 灰色の店舗で、金⚫とラーメン
  5. 立喰そば(とんかつ森川ではない)
  6. もつやきと「や⚫⚫」

 つまり「とんかつ森川」はこの間に場所が変わったのです。現在は森川ビル(モンスターコーヒー&グリル神楽坂下)です。

「とんかつ森川」について、いろいろなことを知りました。まず、地元の人から聞いたことは…

その道路向こうの1丁目の伝説の店・とんかつ森川。(廃業)

 インターネットの評判では…

神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。
「かぐらむら。記憶の中の神楽坂」

森川 (飯田橋) – BIGLOBE
お店の基本情報

98年春頃に閉店してしまったようです。
コメント・訪問記録
フライパンに少量のラードで焼き上げる独特の調理法のかつ。何か、ポークソテーに薄ごろもを付けたような、少しカリッとした香ばしさ。とてもジューシーで、肉汁が滴るような感じでうまい。ころもがじゃましないので、肉本来のおいしさがきわだつ感じ。この店は、サラサラのウースターソースを使うが、これがとてもこの独特製法のころもに良く合う。カツ丼もこの店の目玉。昼のサービスのかつライスは、注文してから5秒で目の前に油のはじけるアツアツの物が出される。この店の主人(おかみさん)の使うマジックの仕掛けは??
印度・東南亜細亜巡礼
食べ物の話 その1(トンカツ)
蓬莱屋に似たトンカツを食べさせる店が飯田橋にありました。トンカツ森川です。しかしご主人が亡くなり家族の人達で続けていましたがだいぶ前に閉めてしまいました。

都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)を見ましょう。

小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照。ただし13系統と15系統は間違いで、逆が正しい。

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】 1968年(昭和43年)
 傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】 1962年(昭和37年)
 新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」(J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年)で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。(1964年12月4日)

貸ボート(写真)カナルカフェ 神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 始めに1918年(大正7年)、ボート場がつくられました。こん和次郎わじろう編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)の「神楽坂」では…

 昭和5年、牛込區史(国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号32頁)には牛込濠の水が干上がった光景があります。原因は自然のためで、関東大震災ではなさそうです。

 昭和8年(1933)、博文館編纂の「大東京写真案内」(博文館部)は……

市ヶ谷見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神樂坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボードは、都心に珍らしい快適な娯樂機關である。

大東京写真案内 1933 博文館

 これから昭和30年代に飛んでいきます。ボート場はできていますが、あくまでも外堀通りと平行ではなく、牛込橋や神楽坂通り(早稲田通り)と平行に並んでいます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7003 外濠 昭和34年

外濠 外堀風景牛込濠 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5101

牛込濠 ボート乗り場

牛込濠 ボート乗り場 外堀風景 昭和30年代前半 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5102

住宅地図。1990年

 さらに時間が経ち、1996年に喫茶店とレストランが加わり、名前もカナルカフェとして巨大なボート乗り場とレストランになりました。

カナルカフェ。住宅地図。2020年。



逆転式一方通行・再考(写真)

文学と神楽坂

 逆転式一方通行について、 地元の方は…

 このブログで過去に逆転式一方通行の導入時期を検証した時には、諸説あって判定しがたいという結果だったと思います。
 ずっと気になっていたのですが、一枚の写真に大きなヒントがありました。新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」のID:5510(昭和35年頃)です(下図、ダブルクリックで拡大)。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 戦後、対面通行だった神楽坂で、下り坂の途中の店に自動車が飛び込む事故が発生しました。このため1956年(昭和31年)から、坂は上り一方通行に規制されたという経緯が過去記事に詳しく書いてあります。
 ところが ID:5510 を見ると、タクシーとオート三輪が坂を下っています。向かって右側にはヤマザキパンの納品車と、ポンネットを明けた車が駐車しています。いずれも禁止されていた下り方向です。さらに向かって左のトラックは明らかに坂を上っていますから、対面通行になっています。
 おかしいと思って標識をよく見ると、意外なことが分かります。坂の入り口、向かって右側の標識は「一方通行 ONE WAY」です。下の補助標識は読みづらいのですが、目をこらしてみると「正午 NOON – 午後 PM 12:00/自動車 MOTOR CARS」と書いてあるようです。
 逆側の標識を見てみましょう。「駐車禁止」の手前に別の標識が立っています。「自動車通行止」とあり、その下に「一方通行出口」。補助標識は右のものとよく似ていて 「午前 AM 0:00 – 正午 NOON/自動車 MOTOR CARS」と読めます。
 この矛盾した標識こそ、逆転式一方通行の証拠です。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

 さらに「写真で見る新宿」のID:7002と、ID:31(神楽坂下夜景)は、いずれも昭和34年ですが、同じ標識が見えます。もちろん撮影年を間違えている恐れもありますが、複数のミスは考えにくい。写っている店の看板や街灯の形をメトロ映画の記事中の写真と比べても矛盾はない。『1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶』の1962年6月の写真では街灯の形式が変わっているので、それ以前の撮影であることは明らかです。
 外堀通り手前の車道の停止線にも注目したい。ID:5510 では向かって右の路面だけ白線が描かれていて(緑色の円内)、左はありません。ID:7002 も同じです。  これは対面通行仕様の路面標識です。想像ですが、警察は昭和31年の自動車の飛び込み事故後、暫定措置として「坂の下り」を禁止した。その後、路面標識を修正しないまま(あまり期間を置かずに)逆転式を導入したのではないでしょうか。
 以上のことから、逆転式の導入は東京新聞調べの1958年(昭和33年)が正しいと考えます。
 ではなぜ、ID:5510 は対面通行なのか。これは正午ちょうど、一方通行が逆転した時に撮影した写真だからでしょう。現在は逆転の間、12:00-13:00に歩行者天国をはさみます。当時は、その仕組みがありませんでした。昼のホコ天は「ランチタイム・プロムナード」と呼ばれていて、写真の上では「写真で見る新宿」のID:9109(昭和51年8月26日)(下図)で確認できます。歩行者天国の標識の下にフォークとナイフ、ティーカップの独特のマークです。ID:65(昭和48年2月)には、このマークはありません。

9109 神楽坂下交差点 昭和51年8月26日。新宿歴史博物館


 神楽坂の逆転式一方通行が早稲田通りの九段高校前まで延長されたのは、さらに後のことです。

対面通行 往復方向に車両の通行がある道路で走行をすること。
事故が発生 昭和31年、神楽坂二丁目の陶器店「陶柿園」で、一方通行下りの車の突入事故が起きた

 地元の方や逆転式一方通行の考え方をまとめると、東京新聞やウィキメディアの考え方のほうが正しいと思っています。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

「ほてや」と「ほていや」

文学と神楽坂

「ほてや」について、地元の人の意見です。

 本多横丁(神楽坂通り~芸者新路)を興味深く拝読しました。
 ただ最後に出てくる「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」の「ほてや」広田静江さん83歳の話は、釈然としません。
 広田さんは「戦前は毘沙門天の隣の「春月」というおそば屋さんがあったところ…今の三菱銀行の隣に店がありました」と話しています。その「春月」は、こちらのブログで何度も登場します。

 たとえば…
 ◎神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形
 ◎待合「誰が袖」では「遊び場だった『寺内』」の明治40年前後の地図が書かれています。
 ◎春月[昔]は、明治25年生まれの子母沢寛氏が「書生の頃から久しく通った」と回顧します。
 ◎大正6年の神楽坂地図(龍公亭物語り)
 ◎神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期
 いずれも同じ場所にあります。「春月」は一貫して人気店で、廃業したのは戦後のことでした。

 じゃあ、ほてやさんはどこに店があったのでしょう。ウェブサイトで自社を「大正初期の創業」としています。「毘沙門横丁」の奥、春月の裏あたりなら可能性があります。


 もう少し、ほてやさんについて考えてみます。店舗は「大正初期」に創業したといいます。大正の地図は1つしかなく、「古老の記憶による関東大震災前の形」です。しかし、ここには「ほてや」はありません。
 戦前の昭和の地図は「昭和12年 火災保険特殊地図」だけです。これにも「ほてや」はありません。店舗としてはまだまだ若いと考えたのでしょうか。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年

 なお、戦後も春月が同じ場所で出てきます。したがって、「ほてや」は春月と同じ場所にはありえませんが、戦前には、その下のXに、あるいは春月の一部分を借りてもよさそうです。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

小林徳十郎「牛込区名鑑」大正15年。自治めざまし新報社

 ちなみに同じ呉服屋で似た名前の「ほていや」という店がありました。この「ほていや」についても説明します。「ほていや」は明治時代にもう出店して、住所は肴町(現在の5丁目11番地)。「ほてや」とは違うものだとわかります。「ほていや」は伊勢丹に合併されて消えました。
 ◎古老の記憶による震災前の形
 ◎東京名所図会(東陽堂、第41編、明治37年、14頁)には「呉服店には布袋屋(11番地)
 ◎明治35年、西村酔夢氏の「夜の神楽坂」では「これは土地の石川屋や、ほていやなどで拵らえる」
 ◎大正13年、泉鏡花作の「春着」では「神樂坂には、他に布袋屋と言ふ――今もあらう――呉服屋があつた」
 戦後はブティックタカミが建っていましたが、大久保通りの拡幅のため取り壊されて、現在は一部がセブンイレブンに変わりました。


 結局「ほてや」は一帯どこにあったのでしょう。「大正初期の創業」だけではわかりません。春月は戦後も生き残っています。現在のところ、「春月」ではなくその裏手にあった(Xの場所)か、あるいは春月の一部分を借りて、三菱銀行の隣に「ほてや」があったと考えます。
 なお、ほていは一般的には「布袋」と書いて、10~11世紀の仏僧で、大きな袋をせおい、体型は肥満体でした。

昭和40年代の神楽坂(写真)

文学と神楽坂

神楽坂 加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』(昭和47年)(植村峻氏『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』、2010年)

  1. 看板「神楽坂通り」
  2. 街灯の途中から斜めに筒が出ていて、季節ごとに飾りや旗を差し込む。この時期は餅花みたいなものを飾っている。そこからぶら下がった提灯が割れてしまったように見える。
  3. 「山田」紙店
  4. 街灯
  5. FUJIYA 不二家洋菓子
  6. FUJIYA コーヒーショップ
  7. 不二家洋菓子
  8. おしるこ 紀の善
  9. 床屋のサインポール。2階が理容バンコック
  10. 1階がテーラー和田屋。
  11. 軽い心
  12. 神楽坂通り
  13. 美観街
  14. 文字のない飾り
  15. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  16. 軽い心
  17. 山一薬品
  18. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  19. 陶柿園
  20. パチンコマリー
  21. 菱屋
  22. MAXFACTOR(さわや)
  23. ニューイトウ(靴)
  24. 柱上変圧器
  25. (カネ)ボウ毛糸(ダイヤ)モンド毛糸 特約(店)。大島糸店
  26. うなぎ/割烹 志満金

神楽坂入口から坂上方向 新宿歴史博物館 ID 65

昭和48年2月。神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 65 から

  1. 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. ここと4の間に山田紙店があるはずだが、この時は地下鉄出口の建設中。
  4. 不二家洋菓子。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  5. 紀の善。切妻の屋根
  6. 理容バンコックのサインポール
  7. 3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック
  8. 神楽坂通り。美観街。文字のない飾り。
  9. 牛込見附
  10. 昔は段差が見えた
  11. 質。大久保質屋。神楽坂仲通りにあった質屋
  12. 斉藤医院。小栗横丁と見番横丁、神楽坂通りで囲んだ医院(下図)。なお、神楽坂4丁目8番地の斉藤医院は戦前にはありましたが、戦後はなくなっています。

    1970年 住宅地図

  13. パチンコ ニューパリー
  14. 将来の有楽町線「飯田橋」。道路を開削し、上に鉄板。埋め戻しは開業後。





神楽坂1ー2丁目(写真)坂のある街 昭和41年

坂のある街
 1966(昭和41)年、メトロアーカイブの「坂のある街」(インターネット)から
 年代:1966(昭和41)年 路線:東西線 駅: 神楽坂 カテゴリ:街の様子 坂と小路の街、神楽坂。写真の神楽坂通りは日本でも珍しい「逆転式一方通行」(進行方向が午前と午後で逆転する)が実施されている。

  1. パチンコマリーの前の歩道が濡れている。昔は自分の店の前にほこりが立たないようジョーロで水まきしました。
  2. オー(Ο)リング。スベリ止めコンクリート
  3. 歩道が30センチ角くらいの石で舗装。この後、神楽坂はアスファルト舗装を経てカラーブロック舗装に。
  4. パチンコマリー
  5. レストラン京屋(右側にはいっていく)
  6. ニューイトウ(靴)
  7. 坂(コーヒー)
  8. 陶柿園
  9. クラウン(喫茶)
  10. カネボウ化粧品(さわや)
  11. レコード
  12. 菱屋(寝具・インテリア)
  13. さわや(化粧品)
  14. 柱上変圧器
  15. 石川歯科
  16. 夏目写真館
  17. 街路灯に看板「神楽坂」
  18. カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 特約店 大島糸店(のちに大島歯科)
  19. 大島糸店
  20. 食品まつはち
  21. 果実田金
  22. オザキヤ(靴)
  23. 質屋(大久保)。神楽坂仲通りの質屋

参考。神楽坂の今昔1

本多横丁(神楽坂通り~芸者新路)

文学と神楽坂

 神楽坂通り本多横丁にはいって右側を向き、芸者新路まで行く場合を考えます。

 まず戦前。昭和12年(1937年)の火災保険特殊地図です。「たつみや」(うなぎ屋)は当時はまだありませんが、目印として役に立つので書いておきます。上から4軒の店舗(1~4)、2軒の店舗(5~6)、最後に「床ヤ」(7)があります。
 では、2017年の住宅地図を考えます。「うなぎたつみや」の位置がわかると、昭和12年の3と4が2017年では合併して「3,4」になり、5と6は「5,6」になったとわかります。つまり、100年ぐらいは巨大な変動はなく、ささやかな変化だけがあったのです。
 大正11年ごろの新宿区教育委員会「神楽坂界隈の変遷 古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では、「せんべい」」と「餅菓子・岡女屋」と合わさって2と考えます。これで、全て合います。ただし「せんべい」」と「餅菓子・岡女屋」を別々にしてもいいと思います。なお「検番」は「見番、券番」とも書き、芸妓組合の事務局のこと。「かもじ」は「日本髪を結うとき頭髪に補うための髪」、「俥」の読み方は「くるま」で、ここでは「人力車の溜り場」です。大正時代にはまだ人力車なんですね。また、戦前の「たつみや」は「山本コーヒー」でした。
 同じく戦前です。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「戦前の本多横丁」(平成7年)です。上記の「餅菓子・岡女屋」と下記の「おかめや」とはおそらく同じものだと考えます。えっ、番号が違う。「俥・むかしや」は別の場所もある? すみません。他に資料はなくて、先に行きます。
 次は戦後です。1952年(昭和27年)火災保険特殊地図です。1は「ほて屋染物」で現在の「ほてや」と同一。2は「ふぐ源」、3は「クツ修理」、4は「魚つテ」で、「魚つる」だといいのですが。5は「ミスズパーマ」、6は更地、7は「花ヤ 生花S     」でしょうか。
 それから10年後の1962年、住宅協会という別の地図があります。肉まん「五十番」については、渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)は、創業は昭和28年。また「ベッチライン コーヒー」の「ベッチライン」は不明ですが、「ベッヒライン」Bächleinはドイツ語で「小川」「細流」。「すみれ」は「甘味すみれ」と書いた地図もありました。またこの地図によると「食堂 ふく源」であり「ふぐ源」ではなく、「袋物 ほていや」であり「ほてや」ではありません。後で出てくる「ほてや」の広田静江氏によれば「ほてや」のほうが正しいと思っています。

 しばらく7軒は変わりません。私が調べた地図では1980年は7軒で、1984年には6軒になりました。5と6で野村会館ができています。
 また、1990年には6軒でしたが、1999年には5軒になり、以降は5軒のままです。

「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」(平成7年)では

こうして戦後は 検番の跡に…。
「ほてや」広田静江さん83歳

 戦前は毘沙門天の隣の「春月」というおそば屋さんがあったところ…今の三菱銀行の隣に店がありました。その前は本多横丁にいたそうですが、私は結婚してこちらに来たので、昔のことは分からなくて。ただ、本多横丁には小じんまりしたおいしいお店が多かったをのを覚えています。
 戦後は、神楽坂上の交差点角の安養寺さんの裏の階段を上ったところで店を始めましたが、花柳界の方たちが階段を上るのがいやだというので、ここへ移ることになったんです。ここは戦前、検番があったところで、その頃は前が空き地で、コーヒー店をやるとかで建物が立っていました。これは昔、田中角栄さんがやっていた会社が建てたそうですが、花柳界の方々が集まって、「ほてや」ならいいだろうって譲ってもらったんです。
 お客さんは芸者さんがほとんどです。店は息子が大学を出た後、継ぐといってくれて、二年間外へ修業に行きまして。その後もお客さまにもいろいろ教えていただいたようですし、考えが私と同じなので口出しすることは何もありません。
 私は一人でよく日本橋や銀座に出かけて行くんです。ええ、京橋生まれなので、そちらの方はおなじみなんです。でも私が生まれた京橋あたりはみんなビルになってすっかり変わってしまって、今は神楽坂の方がずっと華やかですね。



アグネスホテル(閉館)|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 アグネスホテルは2021年(令和3年)3月31日、閉店します。

【お知らせ】アグネスホテル東京は3月31日をもって閉館いたします
 お客様各位
 平素はアグネスホテル東京をご愛顧いただき誠にありがとうございます。
 この度、諸般の事情によりアグネスホテル東京は2021年3月31日(水)をもちまして、閉館の運びとなりました。2000年のオープン以来、長らくご愛顧いただき誠にありがとうございました。
 皆様に心より感謝と御礼申し上げます。
 なお、ご宿泊、エステサロン等のご予約受付はすでに終了いたしております。ティーラウンジのみ、3月28日(日)まで営業いたします。
 何卒、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

 2000年4年、アグネスホテルは住宅地に地上5階建てのホテルとして開設。経営母体は初めは東日本クボタ住建、社長は千賀博久氏。総工費は約30億円。2012年7月(平成24年)「東京理科大学」が土地を15億円、建物を5億2500万円で購入(東京理科大学報)、所有者は東京理科大学に。大学は「アグネスホテルを大学施設として利用するための設計、改修工事に着手」と令和3年度の事業計画、これで閉館に。

 以下はかつてのアグネスホテルです。

 アグネスホテルアンドアパートメンツ東京は3方向から入れます。
アグネスの地図

 その1は外堀通りの理科大学と研究社のブリティッシュ・カウンシルの間からはいるもの。

 その2は後ろから入るもので、小栗横丁から入ります。


 その3は前の西側から入るもので、若宮八幡神社からはいりますが、一般的には使いません。

 外堀通りを使って理科大学から入ると簡単ですが、ほかの2方向は少し難しい。
アグネスホテルの外観

 場所はこれでも神楽坂2丁目です。若松町ではありません。また、ホテルの社長、千賀(senga)氏の名前を後ろから並べてアグネスagnesになりました。開設は2000年。

 玄関も、中に入っても、瀟洒で粋です。全体で56室。

 ダブルは36室、ツイン8室、スーペリア6室、スイート5室、ロイヤルスイート1室。スモールラグジュアリーホテルです。ビジネスホテルではありません。

 ノルマンディーのパティスリーで修業した上霜考二がスイーツを監修。大河原正裕総料理がレストラン。玄関からはいるとこうなっています。正面はフランス料理の「ラ・コリンヌ」で有名です。

アグネスホテルの玄関アグネスの団扇

 エステサロンもはいっています。夏なので、うちわも無料で持って帰ることもOK。

 本当にいいのは料理がうまくて美味しいこと。2階の「ラ・コリンヌ」だけしか使わないけど。★のあるレストランと比べても、価格ははるかに安く(昼は税サービス別で3000円から、味は美味。

 ホテルをやると決めたと聞いて、どうしてやれるの?と思ったのが最初。神楽坂にディズニーや空港はないのに、絶対にうまくいかないと思っていました。2000年に竣工。長く滞在する人で満員だとうわさと、実は料理がうまいらしいといううわさが広まっていきます。最初に食べてみると、おおおいしい。以来、毎年食べています。(最近、2016年にシェフが変わりました。微妙に味も変わりました。)

 部屋は綺麗ですが、眺めはうーん。ランチコンサートを月一回水曜に無料でやっています。

 4人がけのテーブルが外に1つだけあります。残念ながら神楽坂の石畳ではありません。ほんとうは神楽坂の石畳がよかったのに。

石畳ではないベンチ

「和可奈」にとってはライバルが出てきたのです。このホテルで作家の缶詰もおこるのでは? ただし、現在の大きな出版社には地下に歴とした缶詰があるといいます、

 オンライン用の素晴らしく鮮やかな写真集が出ています。たとえば下の図です。

アグネスホテルの写真集

 これは https://twitter.com/agneshoteltokyo/media/grid ででてきます。

 さて、新聞紙によれば

嵐の二宮和也(23)が主演するフジテレビ系連続ドラマ「拝啓、父上様」(来年[07年]1月11日スタート、毎週木曜午後10時)の制作発表が[06年12月]12日、東京・神楽坂のアグネスホテルで開かれ、二宮、高島礼子(42)、黒木メイサ(18)、福田沙紀(16)ら主要キャスト9人と、脚本の倉本聰氏(71)が出席した。

 また『拝啓、父上様』では最後の第11話でアグネスホテルが出てきます。

坂道
  竜次について、一平上る。
 り「竜次さんにつれて行かれたのは、若宮神社の脇にある小さいけど洒落た評判のホテルで」
アグネスホテル
  中に入る。
同・バー
  地下にあるラウンジへ下りてくる2人。

 地下ではなく、1階(見方によれば2階)のロビーで話をしています。初めて会った小説家・津山は一平の父ではないと打ち明けます。
アグネスホテルと「拝啓、父上様」




上村一夫が「寺内」から描いたもの|古賀八千香

上村一夫氏

文学と神楽坂

 平成13年(2001年)『ここは牛込、神楽坂』第18号に「上村一夫が『寺内』から描いたもの」という小文があります。
 古賀八千香氏がこの文をまとめましたが、彼女は雑誌に関わっているらしいこと以外は不明です。まあ、ここは上村氏が問題なので……。しかし、古賀氏も本当にうまい。

上村一夫が「寺内」から描いたもの
 上村一夫の作品は『同棲時代』くらいしか知らない人も、彼の描く女の顔は、すぐ見分けられるはずである。あの特徴的な眼。それが好きかどうかは別として、魅力的であることは否定できない。彼は1986年に45歳で亡くなっているが、最近再び人気が高まっているという。
 その上村一夫が、まだ劇画家としてスタートしたばかりの頃、神楽坂の「寺内」に仕事場を持っていた。1970年頃のことである。ほどなく人気作家となり、手ぜまになったのか、駒場のマンションに移ってしまったため、期間は短い。しかし、神楽坂は彼にとって印象深く、相性の良いまちだったようである。83年発表の『帯の男』というシリーズでは、舞台を神楽坂にもってきて、まちの情景を存分に描き出しており、作品的にも成功している。この『帯の男』を参照しながら、上村一夫にとっての神楽坂、というものを考えてみたいと思う。
同棲時代 双葉社『漫画アクション』の漫画。1972年から1973年まで80回連載。
特徴的な眼 魅惑の眼差しはたとえば代官山蔦屋書店で上村一夫の生誕80周年を記念する作品展(2020/7/24-8/9)があります。
83年 昭和58年

 上村一夫が神楽坂で仕事をしたのは、1968年から1971年頃である。はじめのごく短い期間は、毘沙門様近くの置屋の二階を借りていた。そこから移った本格的な事務所が「寺内」にあったのである。当時の関係者の30年前の記憶から、およその場所はすぐにわかったのだが、何しろあの辺りは特に変化の激しいところだ。事務所のあった建物も、とうになくなっでいるらしく、ここだ、という決め手がなかなか見つからなかった。古くて暗い感じの建物で、やはり二階を借りていたということしかわからない。
 そこで、上村一夫がしょっちゅう出前を取っていた店、という線から探ってみることにした。すぐ近くにあった店で、確か名前は「ひろし」。この店も今はない。が、近くで聞き込みをしたら、読売新聞販売所の方がよくご存知だった。しかもその店の元店長が、今は津久戸町のスナック「佳根子」のマスターをなさっていることまで教えてくださったのである。
 さっそく1970年の航空地図を持ってお訪ねしてみた。上村一夫が生きていたら、あまり年が違わない感じの、ダンディーな方である。事務所のことハッキリ憶えておられ、地図を見るなり「料理・白菊」という建物を指さされた。「これこれ、この白菊が旅館をやめてアパートにして、二階を上村さんに貸してたんだよ」
「白菊」は、まさにあのマンション建設予定地にあったのだった。隣が今井クリーニング店である(今井クリーニング店の方に、あとで白菊のことをたずねてみたが、上村一夫のことはご存知なかった)。今井クリーニング店の隣の隣が「ひろし」、正しくは「」だ。今、山崎パン店になっているところである。上村一夫は、とにかく「寛」のハヤシライスが好きで、出前はもちろん、ひとりでふらりと店に来ては、いつもハヤシライスを食べたという。
置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
読売新聞販売所 当時は青色の家。2020年には、焼き鳥屋「酉刻」に変わっていました。
航空地図 航空地図とは空中写真を元にした地図でしょうか。航空地図の定義はかなり調査してもなさそうです。ちなみに空中写真とは飛行機に搭載した航空カメラを使って撮影された写真。住宅地図は建物の形状や居住者名等が記された大縮尺の地図。現在は、住宅地図を使っているようです。
料理・白菊、今井クリーニング店、寛 1967年の住宅地図では、赤が白菊、橙色は今井クリーニング店とひろしです。

1967年 住宅地図

『帯の男』の源次郎も、酒を愛する男だ。初老の源次郎はアパートに独り暮らしで、しばしば酒の店「いせや」に現れる。「いせや」は明らかに「伊勢藤」がモデルで、店のつくりや雰囲気がそっくりだ。ただ、店の人物は創作で、「いせや」の女主人、お涼さんは源次郎の心の女性でもある。第二話では二人の過去が明かされるが、「いせや」の場面は、六話全部において重要な役割を果たす。(中略)『帯の男』で描かれるのは、路地のピンコロ石や、料亭の黒塀毘沙門様といった、いわばガイドブック的な神楽坂だけではない。待合だった「松の家」の外観が、置屋「松乃家」として出てきたり、岩戸町繁栄稲荷神社が、なぜか好んで描かれたりする。神楽坂通りにいたっては、看板や電信柱まで、ていねいに描きこまれており、妙にリアルで面白い。
伊勢藤 いせとう。神楽坂4-2にある日本酒居酒屋。まるで昭和の風情がある飲み屋。下図での上は兵庫横丁、下は飲み屋の伊勢藤の内部。
 なお、伊勢藤、毘沙門、松の家(現在はTrunk house)、繁栄稲荷神社の地図を出しておきます。拡大できます。ピンコロ石 こぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。
黒塀 柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀。防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出した。
毘沙門 日蓮宗鎮護山善国寺です。

昭和56年頃の毘沙門天。(加藤八重子著『神楽坂と大〆と私』詩学社、昭和56年)

「織田一磨 東京・大阪今昔物語」版画芸術。阿部出版。1993年(平成5年)

現在の毘沙門天

松の家 新宿歴史博物館の「新宿区の民俗⑸牛込地区篇」(平成13年)の29頁では待合「松ノ家」は戦前までは神楽坂3丁目にあったと書いてあります。戦後はなくなります。都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では本多横丁から一歩入った、現在はかくれんぼ横丁(360°カメラ)の家でした。2019年、Trunk house(一軒家のホテル)に代わり、2021年3月では、1泊632,500円(プライベートバトラー、プライベートシェフ、朝食付き。税込。4名まで宿泊可)。宴会は3時間で15万円。
繁栄稲荷神社 新宿区岩戸町7にある神社。

神楽坂通り 下図を見てください。赤い円の縁石はごく普通で、高くなっています。一方、青円の縁石は低く、なだらかになっています。どうしてこういう形になっているのでしょう。もちろん、車が乗り越えるためで、車道の反対側、歩道の奥、住宅街のほうには、多分、車がはいれる駐車場や袋小路があるのです。
 下図も同じですが、50年ほど昔なので、どこを絵にしたのかは、わかりません。少し上に登った場所でしょうか。
 さらに下図。「つもりらしいけど」の台詞があり、その下を見てください。やはり同じような袋小路にあると思います。
 またこの漫画の絵には「坂」と思える看板も見え、全体に奥の方が高くなっています。これは神楽坂2丁目にある袋小路を描いた絵でしょう。
 実際はこの三点は特定できると地元の方。
 なお、電柱広告の「(質)大久保」商店は、神楽坂仲通りの右側にあり、芸者新路を越えてすぐの位置にありました。

1980年、住宅地図。


 また、「大島歯科」は神楽坂2丁目の袋小路からほぼ反対側にありました。

1980年、住宅地図。





神楽坂地蔵屋

文学と神楽坂

最近気がついたものは、せんべいの自販機があったということ。インターネットでは

神楽坂地蔵屋     2020年9月30日
お煎餅の自動販売機を神楽坂地蔵屋の本店に設置しました。手土産も充実しています。是非皆さま、お立ち寄りください!

かなり昔からあったんですね。神楽坂通り五丁目を南に上がり、藁店(地蔵坂)から袋町に出ると、登場します。


2つ、買ってみました。1つは「はちみつおかき」で、賞味期限は2021.4.24、125g、580円。もう1つは「こわれ久助」で、賞味期限21.5.25、150g、500円。買った日は21.1.29。

決して湿ってはいません。でも、高級品を食べたって感じはない。そもそも、せんべいの高級品であるのかなあ。しかし、なかなか美味しい。

2012/2/22、この日もテレビかな、録画をしてました。

2012/3/13、こんな新聞広告も掲載していました。すごい! お主はただの煎餅店ではない。

すずらん通り(写真)本多横丁 ID 5092

文学と神楽坂

 本多横丁はかつて「すずらん通り」といっていました。記憶に頼ると、巨大なアーチ看板もあったと思います。しかし、写真はない。本当にない。そこで新宿歴史博物館に聞いてました。なんと「すずらん通り」がはいった写真は1枚だけで…

昭和20年代。新宿歴史博物館蔵

しかもピンボケ。でも電柱2本に「すゞらん」と書いてある。

すゞらん通り(拡大図)

 ちなみに、下水はこの時点で汲み取りのおかげで、きれいでした。

 新宿歴史博物館はもうひとつ写真を貸してくれました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5092 神楽坂 本多横丁

 こちらは2階建ての家が少ないことから、時代は少し早く、まだ「すゞらん」と書いていません(と思う)。また、昭和20年代の本多横丁の街灯は、昭和30年代に神楽坂通りで見た街灯(↓)とは少し違っています。

昭和34年。坂下から坂上を見る。『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

 一方、この本多横丁の戦前(ID 96)と戦後の街灯がよく似ています。ただし、電灯の形は違っているようです。

 では地図を見ておきます。これは昭和27年の地図です。中央は本多横丁で、一番下は神楽坂通り。

本多横丁(火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年)

 その次は昭和35年の住宅地図しかありません。これは左に神楽坂通りがあり、真ん中が本多横丁です。

住宅地図。昭和35年

 神楽坂通りに近い場所から写真を撮ったものです。

本多横丁(年は不明)
  1. 「うなぎ」で、「たつみや」
  2. 「中村屋本店」。戦前からある染め物と洗い張り屋。京染(きょうぞめ)とは京都で染めた、また京都風の染め物の総称。
  3. 「めん類食堂 海老屋」
  4. 「松月パン」。この時代は明月堂ではなかった
  5. 「ニン」
  6. 「コーヒー」
  1. 「神楽坂グリル←」
  2. 「飯田橋 犬猫の診療所」。場所は不明
  3. 「パーマネント(みすず)」
  4. すのこの下に「神楽坂」「53部」
  5. おでん
  6. 「神楽坂グリル」
  7. 「㐂らく寿司」。現在もあります。
  8. 電柱看板「パーマネント 大(場)」

20/12/10→21/11/6

神楽坂4丁目(360°カメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂4丁目は明治時代にはかみ宮比(みやび)(ちょう)と呼ばれていました。江戸時代では武家地で岡野、奥津、中村、東條他二、三軒の武家が住んでいましたが、明治2年、土地の開放があり、町屋が出来て市街地となりました(明治20年の地図)。宮比神社があったので、宮比町になりました。

礫川牛込小日向絵図。当時の上宮比町(将来の神楽坂四丁目)は青色の部分。

 上下2つの宮比町があり、この上宮比町と下宮比町との間には牛込神楽町三丁目や津久戸町が介在していて上下のつながりはありません。

明治12年「東京実測図」

 昭和26年5月1日、ようやく上宮比町は神楽坂4丁目と名前を変更しました。通りの北側だけが神楽坂4丁目です。 下の写真は矢印をたたくと左右に進み、黄色の∧はその道路の名前です。

紅小路

 ここで「楽山」から奥に行く小さな路地があります。楽山(前方)とみずほ銀行(後方)の間です。この路地をあでやかに「紅小路」と呼びます。なんで? 通りに面するビル、昔の楽山とみずほ銀行がどちらも赤いビルの壁になっているから。これは今の楽山に変わる前で、今ではそうでもないようですが。


 ではまた元の通りに戻りましょう。
鳥茶屋せんべい福屋の間に大きな路地が見えます。これは賞を取ったことで「まちなみ景観賞の路地」、千鳥足で歩きたいことで「酔石横丁」と呼ばれています。酔石

 奥には右側の古い居酒屋「伊勢(いせ)(とう)」と左側のクレープ屋「ル・ブルターニュ 」が対でならんでいます。この奥に、兵庫横丁が出てきます。

 ではもう一度元に戻って、3軒先に進みます。細身

「AWAYA」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」と呼んでいます。神楽坂で最も狭い路地です。

 しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」


ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持ってこの路地を抜け毘沙門天で待つ中川時夫に会う

2013年2月21日→2020年12月6日


三年坂|由来

文学と神楽坂

 三年坂や三念坂というのはどこをさしているのでしょうか。新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』(平成22年)では……

()()())町内南角に小坂があり、俗に字三念坂と呼ばれた(『町方書上』)。現在は俗に三念坂という(三年坂とも書く)。三年坂という名称は各地にあり、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信=寂しい坂道だから気をつけろという意味で名付けられたという説もある(町名誌)

 『町方書上』「牛込津久戸前町」(新宿近世文書研究会、平成8年)では……

町内南角片側町家続之処小坂有之、里俗字三念坂申伝候、右訳合相知不申候
 但道幅弐間余り、高三尺五六寸程

 「新宿区町名誌:地名の由来と変遷」(東京都新宿区教育委員会、昭和51年)では……

 下宮比町との境の坂を俗に三念坂という。三念坂は、三年坂とも書く。三年坂は各地にあるが、「坂道で転ぶと三年のうちに死ぬ」という迷信から名づいたものである。しかし、これは淋しい坂道だから気をつけろということが、このような迷信となったものという。

 今の津久戸町の面積は非常に大きく、町内はどこかわかりません。では江戸時代ではどこなのでしょうか? 『新修 新宿区町名誌』で津久戸町の「町地は牛込津久戸前町と牛込西照院門前があった」と書いています。西照院を囲むように牛込津久戸前町の年貢町屋は3つあります。「町内南角に小坂があり」というので、3つのうち右下を指すのでしょう。なお、年貢町屋とは年貢を納める農家がある町です。

神楽坂津久戸町の地図 江戸時代 三年坂

 つまり、現在では交差点「筑土八幡町」から三年坂に入り、それから本多横丁に行き、そのまま神楽坂通りとなって終わります。坂の標柱や標識としては、区は不吉な三年坂を黙殺して使っていないようです。

 三年坂の語源については横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)でこう書いています。

  三年坂にまつわる俗信
 三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
 三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも小供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそばの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、三たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。(中略。台東区の三年坂について書いた後で)
 つぎは、筑土の三年坂であるが、これは新宿区神楽町三丁目上宮比町との境から北へ津久戸町に下る坂である。ところが、『東京地理沿革誌』には「牛込津久戸前町下宮比町との間を新小川町二丁目のほうへ下る坂を三念坂と云ふ」とある。文政10年の「丁亥町方書上」によると津久戸前町のところに「坂。巾二間程、高三尺余、右町内南角ニ片側家続之所小坂有之、里俗三念坂と唱申候」と、くわしく書いてあるので、今の下宮比町の坂でないことは明らかである。下宮比町境には、古くお寺があったような記録も見あたらない。しかも右のような古い書上かきあげに、津久戸前町に下る坂であると明記されているので、『東京地理沿革誌』の説明は間違いである。とにかく、お寺に関係もないところに三年坂はありえないのだ。
 神楽坂の頂上から、北へ津久戸前町ヘ下る坂の西側には、西照院(絵図には西照寺)があったり、坂のふもとには成願院(絵図には成願寺)があった。この津久戸の三年坂こそ、正頁正銘の三年坂の坂路である。しかし、今は、西照院も成願院も他へ移転してしまって、この坂みちは、昔の寂しさはどこへやらお寺の跡にはぎっしり商家が建ち並んで、この近辺ではいちばん繁華な街になっている。

この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬ たとえば『洛陽名所集 巻之四』(万治元年、1658年)で京都の「再念坂」について「長さ半町ばかりもあらんか。世のことはざに三年坂とて。この坂にてつまづきころべる人。かならず三年をすぐさず身にしよからぬなど云つたへたり」と書かれています。(https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/2008/SK20081L253.pdf
筑土の三年坂 三年坂の由来にはがあります。

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

上宮比町 現在の神楽町四丁目。
東京地理沿革誌 明治23年、村田峯次郎 (看雨隠士) が書いた地誌の本です。出版社は稲垣常三郎。「東京地理沿革誌」では……

津久戸前町 市谷津久戸前町ハ築土八幡社前の町地なるを以て此名あり 起立の年代ハ詳ならされとも大抵此辺ハ幕府諸士居住の地なれは明治初年士地町地及寺院門前地等を合併せり
三念坂   此町と下宮比町との間を新小川町二町目の方へ下る坂を三念坂と云ふ

牛込津久戸前町 津久戸町のこと、以前は牛込津久戸前町と呼んでいました
丁亥 ひのとい。干支の一つで、24番目。文政十年は丁亥にあたる。
 面ではなく而が正しい。
小坂 二ではなく小坂が正しい
西照寺 現在は東京都杉並区高円寺の曹洞宗の普明山西照寺。万延元年(1860)の礫川牛込小日向絵図は下図で。
成願寺 現在は東京都中野区本町の曹洞宗の多宝山成願寺。万延元年の礫川牛込小日向絵図は下図で。

万延元年、礫川牛込小日向絵図

 横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和45年。中公文庫、昭和56年)の続きです。

 三年坂という名称は、不吉な意味を持っているので、いつの間にか他の名称に改められたものが多い。特に、おめでたい名前に変わっている。たとえば、三年坂が産寧坂とか三延坂、三念坂などと、それから全く「三年」をきらって、鶯坂螢坂淡路坂地蔵坂のように別の名に改められたものもある。
 三年坂に似たものに、二年坂(二寧坂とも)、百日坂袖きり坂袖もぎ坂花折坂などと言う坂もあるが、これらは三年坂と同じ種類のもので、二年坂は三年が二年になっただけである。百日坂はさらに期限が短縮されて、この坂でころぶと百日の内に死ぬということになっている。袖きり坂、袖もぎ坂、花折坂などは、この坂でころぶとやはり三年の内に死ぬというのであるが、仏寺に花をささげたり、自分の着物の袖を切ってささげることによって、死の難からのがれることができるというのである。
 こうした俗信は、かなり古い昔から行われ、しかも日本全国にわたって流行し、信仰されたもので、地名としても、いたるところに、その根強い民俗的信仰の記録を残しているのである。

 坂の名前がいくつも出てきます。
産寧坂 さんねいざか。京都市の坂で、ウィキペディアでは「この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから『産寧坂』と呼ばれるようになったという説が有力だ」
三延坂 日光山輪王寺に行く坂。
鶯坂 目黒区大岡山。昔この坂の両側に竹や杉が茂り、鶯がよく鳴いたため。
螢坂 台東区谷中5丁目。坂下は蛍沢と呼ばれる蛍の名所だった。三年坂の別名もある。
淡路坂 千代田区神田淡路町2丁目。鈴木淡路守の屋敷はこの坂の上であった。
地蔵坂 坂の1つは新宿区神楽坂5丁目から袋町までの坂。
二年坂 京都東山の坂で、産寧坂の下だから。「ここでつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えがある。
百日坂 不明。
袖きり坂 茨城県行方市の西蓮寺。西蓮寺に訪れた女人が、袖きり坂で怪我をしてしまい、何も奉納するものもなく、着ていた着物の袖を切り取り、薬師様に捧げたら怪我が直ったことから由来する説
袖もぎ坂 岡山県邑久郡玉津村大土井の山中で、細道の坂の辺りを袖もぎ坂。ここで転ぶと袖をちぎって捨てないと不吉があるという。
花折坂 和歌山県高野町の坂。高野山への参拝者がここで花を折って御供えした。

 石川悌二氏の『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年)では

三年坂(さんねんざか) 三念坂とも書いた。神楽坂三、四丁目の境を神楽坂の上の方から北へ下り、筑土八幡社の手前の津久上町へ抜ける長い。三年坂の名のいわれはすでに他のところで述べたので省く。津久上町はもとは牛込津久土前町とよんだが、「東京府志料」はこれを「牛込津久土前町 此地は筑土神社の前なれば此町名あり、もと旧幕府庶士の給地にして起立の年代は伝へざれども、明暦中受領の者あれば其頃既に士地なりしこと知るべし」とし、またについては「三念坂 下宮比町との間を新小川町二丁目の方へ下る。長さ五十七開、巾一間四尺より二間二尺に至る」と記している。この坂道通りは花柳界をぬけて神楽坂通りにむすびつく商店街である。

 これは上のに相当します。
他のところ 同書の「麹町台中部」のなかで「三年坂という名は、要するに人淋しい場所の無気味な坂で、各地に共通する迷信『坂道で転んだら三年のうちに死ぬ』という伝えから来たものであろう。」
東京府志料 明治5年4月、陸軍省が各府県の地図並びに地誌の編纂を企画し、国内各地の沿革現勢を記録させ、当時の日本の国勢を明らかにしようとした地誌。東京府は府下一円に渡って調査編纂した。神楽坂などは東京府志料2 巻之42 第3大区5小区

牛込津久戸前町 此地ハ築土神社ノ前ナレハ此町名アリ モト旧幕府庶士ノ給地ニシテ起立ノ年代ハ伝へサレトモ 明暦中受領ノ者アレハ其頃既に士地ニナリシコト知ルへシ 明治二年西照院門前(ヲ合セ五年又)同町続キ士地開墾地ヲ此町へ合併ス
〔土地〕形勢 同上 坂陵 三念坂下宮比町トノ間ヲ新小川町二町目ノ方へ下ル 長57間幅1間4尺ヨリ2間2尺ニ至ル

給地 領主である主君が家臣・被官に与えた土地
 これは上のに相当します。



道路通称名

文学と神楽坂

地元の方からです

 都や区は道路通称名として

(東京都)道路利用者に分かりやすく親しみやすい名称
(新宿区)「地域で古くから使われている名称」や「生活の利便性向上に寄与する名称」

を設定しています。

 神楽坂と関係する都道(道路通称名)は早稲田通り(千代田区九段北2丁目←→杉並区上井草4丁目)、大久保通り外堀通りでしょう。

都道

早稲田通り 千代田区九段北の靖国通り(田安門交差点)から西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草の青梅街道(井草八幡前交差点)に至る。
大久保通り 新宿区飯田橋(飯田橋交差点)から新宿区百人町、中野区中野などを経由し、杉並区高円寺南(大久保通り入口交差点)に至る。
外堀通り 東京駅八重洲口の中央区八重洲二丁目が起終点。全線が都道405号外濠環状線になる。

 区道では神楽坂通り、本多横丁、神楽坂仲通り、見番横丁、牛込中央通りがあげられます。この「神楽坂通り」は1丁目から5丁目までで、神楽坂6丁目の通りは誰がなんと言っても新宿区の真性の「神楽坂通り」ではありません。神楽坂1丁目から5丁目までは幅は12mのままですが、神楽坂6丁目は都道としていつか20mに広がります。

区道の道路通称名

区道の道路通称名

 さて、2つ、問題があります。1つは、早稲田通りで、神楽坂上交差点から神楽坂下交差点までの部分までです。西の方から神楽坂上交差点まで来ると、都道はここで終わり、区道の上から神楽坂下交差点に行き、さらに千代田区の区道に変わり、麹町警察署の飯田橋駅前交番を通り、九段中等学校前から田安門まで行く道です。田安門になって初めて都道になります。はい、現在もこの通りが早稲田通りです。おそらく、ここは昔は都道だったのです。いつ区道になったのか、不明です。

 また、早稲田通りの名前もなくなる理由はなく、神楽坂坂上から坂下までは正しく神楽坂通りと、昔からの早稲田通りの2つがあるのでしょう。

 2つ目の問題は、神楽小路、かくれんぼ横丁、毘沙門横丁、藁店、見返し横丁などの道路群です。これは新宿区の道路通称名にはありません。地元の方の話では、たとえば「見返し横丁」ではなく、「鳥静さんを入ったところ」などと使うほうがいいといいます。まあ、その通り。しかし、観光資源としては重要だといいます。私にとっては「鳥静さんを入ったところ」よりは「見返し横丁」のほうが簡単です。「鳥静とはなに」から話さないといけないし。しかし「見返し」なのか「見返り」なのか、どちらかに当たるのか、良く考えないとわかりません。もともと、あくまでも洒落や愛称のために使ったものだし。しかし、毘沙門横丁や藁店などの戦前から残した言葉は道路通称名として残るべきです。

 なお、地図を見ると、道路通称名がとりわけ多い部分があります。落合地区です。本当に多い。観光資源として重要ではないはずなのに。

区道道路通称名

 これは1925年から1936年の間、耕地整理を行い、耕地は碁盤目に整備したのです。2009年(平成21年)、ある神楽坂の人の話では、地元の町会が組織的に区役所に申請したため、道路通称名として認定されたといいます。

お蔵坂(360°カメラ)

文学と神楽坂

「お蔵坂」ってどこにあるのでしょう。これは神楽坂通りから小栗横丁を通り、銭湯「熱海湯」から南に上がる神楽坂二丁目の坂道のことです。

お蔵坂

小栗横丁、堀見坂、お蔵坂。大正元年

 この大正元年の東京市区調査会(上図。1917。複製は「地籍台帳・地籍地図」東京、第6巻、地図編2、地図資料編纂会、柏書房、1989年)を見ると、小栗横丁、堀見坂、お蔵坂はすでにあります。

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「お蔵坂」が始めて出てきます。なお、阿久津信芳氏は環境緑化新聞社編集部、林功幸氏は「巴有吾有」オーナー、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表でした。

阿久津 それから若宮八幡を前に見て、小栗横丁の、「熱海湯」の前に下りるまでの小路。
林   あそこは今度、ビジネスホテルが建つとかで。
坂崎  あの坂の細い道は残るのかしら。
林   残るでしょう。残さないと人が通れない。もともと蔵のようなものがあったところなんですよ。
坂崎  じゃあ『お蔵坂』と。マンションが建つと日陰で暗くなるかもしれないけど。暗い細道というのもいいものなんです。

ビジネスホテル アグネスホテルです。
蔵のようなもの 本当の蔵はなかったようです。1962年の住宅地図以降では住宅街とアパートです。1952年、火災保険特殊地図でも住宅街とアパートでした。今でもそうですが、窓は少なく壁だけが見えたので、蔵のようにみえただけでしょう。

 明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、お蔵坂だけが途中でなくなっています。でも、お蔵坂そのものはあります。

明治29年、神楽坂二丁目

明治29年、東京市牛込区全図

 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。

お蔵坂3

お蔵坂3

 つまり明治28年には2つの坂はまだなく、明治28年ごろに着工し、明治29年、一部分が完成したのです。

 もうひとつ、上の図で真ん中の坂(青色)にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。昭和57年、新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」の412頁から仮に「ほりたんざか」と付けておきます。あるいは「堀見坂」と対照的な「不見ふけん坂」はどうでしょうか。ほかに「堀不見坂」「堀聞坂」「堀闇坂」などは? あるいは「神楽坂前通り」では?


神楽坂|ル・ブルターニュ 高いけど

文学と神楽坂

 ル・ブルターニュの創業は平成8年(1996)です。ブルターニュ地方の伝統料理、そば粉のクレープ『ガレット』を提供します。このソバのクレープがブルターニュ地方の飢饉を何度も救い、ソバは何世紀もの間「主食」でした。場所はここ

 ちなみにイギリスではほとんどソバは使っていません。ソバはイギリス海峡を超えられなかったのです。

 しかし日本で食べるとほんとに高い。多分値段はフランスの数倍はする。でもソバのクレープは今まではなかったからなあ。
クレープ

伊勢藤福屋鳥茶屋大門湯[昔]

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石畳について
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2013年3月17日→2019年5月16日

神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 明治時代、東京市編纂の『東亰案内』(裳華房、1907)では…

神樂坂町二丁目 享保中、士地官収くわんしうして、よけとなし、延享えんきやう二年放生寺ほうしやうじ借地しやくちとし、文政五年田町四丁目代地だいちとなる。明治二年神樂坂のとりて牛込神樂かぐらちやう改稱し、明治四年六月附近ふきん士地しち開墾地かいこんちを合し、南隣に一丁目をつるを以て其の二丁目となす。坂に神樂かぐらざかあるを以て里俗此邊このへんすべて神樂坂と稱す。
享保 1716~36年
士地 武士の土地ではないでしょうか?
官収 官庁がとりあげること。没収。
火除地 江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地。
延享 1744~48年
放生寺 東京都新宿区西早稲田にある高田八幡宮の別当寺。別当寺とは江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺
文政 1818~31年
田町四丁目 現在の新宿区市谷本村町1丁目。
代地 江戸幕府が江戸市中において強制的に収用した土地の代替地として市中に与えた土地のこと。
改稱 名称や称号を改めること。改名。
里俗 りぞく。地方の風俗。土地のならわし

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では

神楽坂2丁目
 神楽坂一丁目の西側、神楽坂の両側に広がる地域で、江戸時代には旗本や御家人の屋敷が多くを占め、町地は市谷いちがや田町たまち四丁目代地があった。
市谷田町四丁目代地 もともと市谷田町四丁目内にあったが、文政5年(1822)2月8日に町内から出火した火災で焼失した場所が尾張徳川家の火除地となったため、同年6月9日、神楽坂南側にある穴八幡放生寺拝借地旅所跡を下され、そのときからこの町名となった(町方書上)。里俗は神楽坂。
 明治2年(1869)5月に牛込神楽町(町名唱替帳・明治2年町鑑)、同4年6月周辺の土地を合併して神楽町二丁目と改称(市史稿市街篇53)。昭和26年5月1日から現在の神楽坂二丁目となる(東京都告示第347号)
 ここで神楽坂通りを横切る右側と左側がそれぞれ別の横町につながっています。

 まず明治20年の地図2丁目。この地図では鏡花仮宅と出ていますが、現在はなくなり、「泉鏡花・北原白秋旧居跡」の標柱が立っています。

 右側は「神楽小路(こうじ)」、昔は「紀ノ善横丁」といいました。場所はここ
 神楽小路

 左側は「鏡花横丁」です。場所はここ。鏡花横丁は牛込倶楽部の平成10年夏号『ここは牛込、神楽坂』で提案した地名です。小栗横丁

 このあたりは泉鏡花の旧家があったということで『鏡花通り』とつけるといいんじゃないかと言ったことがあるんですよ。でも、文献では「小栗横丁」になっているらしい。

 志満しまきんと田口屋生花店に挟まれた横丁を鏡花横丁と呼んでいるようです。鏡花横丁はまっすく曲がらずにいって理科大に行く。曲がってからの道は小栗横丁といいます。なお、小栗横丁は以前、小栗利右衛門屋敷があったためとされています(町方書上)。詳しくは小栗横町で。二丁目のアグネスホテルはここから行くこともできます。
ここは牛込、神楽坂』「語らい広場」で、ある読者は「大通りを入ったところが横丁で、横丁を入ったその奥は路地」だといっていました。路地の幅は3尺(90cm)。神楽坂ではおおむね正しいのでしょうか。
 左側には「志満金」と「オザキヤ靴店」が見えます。

 さらに行くと「ポルタ神楽坂」にやってきます。 Portaはラテン語で城門のこと。2011年にできた新しい9階の建物です。東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。たとえば二丁目食堂トレド千年こうじや梅花亭です。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)があり、詩人がやってきたりしました。ポルタ神楽坂

Porta神楽坂(写真)ポルタ

赤はポルタ神楽坂に

 ではまた神楽坂通りを上に向いて歩いてみましょう。陶柿園神楽坂写真館さわや肉のますだや太陽堂などがでてきます。
 ここで神楽坂について、『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイ・赤井義松はこう書いています。

よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 さらに上に行くと、神楽坂の2丁目と3丁目の境にやってきます。3丁目の右側には1階はサークルK、2階はロイヤルホストが見えます。昔は牛込會館でした。
 その下には牛込神楽坂の図もあります。
2丁目と3丁目
 このあたりが一番急な坂になり、最大勾配は12%、角度は4.5度です。(『ここは牛込、神楽坂』14号42頁)

 ここから上を向いて行くと神楽坂3丁目に、右側は神楽坂仲通りになり、左側は下向きの神楽坂仲坂から小栗横丁に入ります。

昭和5年頃平成8年令和2年
はりまや喫茶夏目写真館ポルタ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽屋煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールチャイハネ インド服
樽平食堂ラーメン花の華天下一品 中華そば
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴
三好屋食品志満金 鰻
增屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服
田日屋生花店