神楽坂」カテゴリーアーカイブ

大胡城

文学と神楽坂

 鳥羽正雄等編の「日本城郭全集 第3(千葉・群馬・茨城編)」(人物往来社、1967)では……

 おお城は、赤城山南麓諸城の盟主である。
 南北に続く丘の長さ750メートルを数線の堀切りで断ち、七郭を並列した並郭式の城である。北端の近戸神社の曲輪出丸と推定されるが、初期の大胡城はこの一部だけだったのではあるまいか。北の堀切りを通る搦手虎口は、東側に横矢が構えてある。近戸曲輪の旧追手虎口は東南部にあり、坂虎口になっている。ここと越中屋敷曲輪との間の低地は、人工による堀切りではない。

赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
盟主 同盟の主宰者。仲間のうちで中心となる人物や国。この場合は城
堀切り ほりきり。地面を掘って切り通した水路。
七郭 ななかく。「郭」は外まわりをかこんだ土壁。すべて物の外まわり。一区域をなす地域

並郭式

並郭式 本丸(城の中心部のくるわ)と二の丸(本丸を補助する)が並行に存在し、そのまわりを三の丸(二の丸を守る郭。重臣の屋敷、馬を飼育する場所、城主のための厠など)が取り囲む。
曲輪 くるわ。郭とも。堀切や切岸などの防御施設に守られた城館の削平地。建物が建ち、生活や政治、防戦が行われた空間。
出丸 でまる。城から張り出した形に築かれた小城。
搦手 からめて。城の裏門。
虎口 こぐち。郭の入り口
横矢 敵の側面から矢を射ること。城の出塀だしべい(城郭の塀の一部を外部に突き出させたもの)の側面につくられた矢を射る所
追手 おうて。城の正門。表門。大手。
越中屋敷曲輪 下図「大胡城」の「越中曲輪」に相当する。

大胡城。「日本城郭全集 第3」(1967)から

 本丸は中央東寄りの最高所に据えられ、土塁をめぐらし、中仕切土居があった。二の丸は本丸西半に囲い付となり、東南部に枡形虎口の跡と思われる所が二ヵ所残っている。越中屋敷には東面に坂虎口が開き、西南下に王蔵院の曲輪があって搦手虎口跡が認められる。二の丸の南には三の丸南曲輪が並び、南曲輪と最南端秋葉曲輪との間の堀切りは追手虎口で東に枡形を備え、城下町に通じていた。
 西側下の南半には西曲輪がつき、東側下根小屋方面には稲荷曲輪などの四郭が構えられて、その東の荒砥川との間を埋めていた。
本丸 ほんまる。城郭で中心部をなす曲輪。天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が起居する。(本丸御殿)
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
中仕切り なかじきり。一つの室や器物の中を区切って分ける仕切り。
土居 どい。城郭や屋敷地の周囲に防御のため築いた盛土。土塁とほとんど同じ意味だが、近世までは土居の語を用いた。
二の丸 にのまる。本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護する。城主の親戚や主な家来などが居住
囲い付  周囲を取り巻くもの。まわりをふさいで囲むもの。
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
王蔵院の曲輪 王蔵院曲輪。本丸の西に見られる。(下図参照)
三の丸 二の丸を囲む外郭の部分。家臣の屋敷など。
南曲輪 現在の呼び名は「四ノ曲輪」
荒砥川 あらとがわ。群馬県を流れる利根川水系の河川。源流は赤城山南麓で、前橋市をほぼ南北に流れ、伊勢崎市と前橋市の境界で広瀬川に合流する。

大胡城跡。群馬県勢多郡大胡町教育委員会「群馬県指定史跡大胡城跡 本丸北大堀切り跡遺」2001

牛込氏についての一考察|⑨むすび

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑨「むすび」です。

 関東が家康の領となると、牛込氏は徳川氏の家臣となったというが、牛込落城後いかなる経違で徳川家臣となったかも不明である。徳川氏は、関東の地方武士をそのまま安堵させる方法をとったのであるから、あるいはそのまま牛込城に留まり、前の「牛込城の城下町」の項で述べたように、家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えたというが、この住民引率責任者には牛込氏があたったのではあるまいかとも考えられる。
 牛込氏は、北条氏時代にいかなる活動をしたかは不詳だが、一地方武士が氏綱から重要視されたのは、北条氏の東国経営がまだ不安定だったので、このような武士も味方に入れておかねばならなかったのではあるまいか。
徳川氏の家臣 「寛政重脩諸家譜」では
勝重かつしげ
   彦次郎 三右衛門 号道哲
 北條氏直につかへ、北條家没落の後、天正19年めされて東照宮にまみえたてまつり、御家人に列し、のち肥前国名護屋及び関原等の役に従ひたてまつる。元和元年 今の易譜3年7月21日死す。年66。法名宗隆。妻は遠山丹波守某が女。

註:天正19年 1591年。豊臣秀吉が天下統一を完成。
東照宮 徳川家康のこと。
御家人 ごけにん。鎌倉幕府から土地の所有を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命をかけて戦う、いわゆる「御恩と奉公」の契約を結んだ武士
肥前国名護屋 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた肥前国(佐賀県)の城
関原等の役 関ケ原の役。せきがはらのえき。せきがはらのいくさ。「役」は戦争の意味。「天下分け目の戦い」になった。慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した。
元和元年 げんな。1615年。3月15日「大坂夏の陣」で豊臣氏は滅亡。

安堵させる 「安堵」は封建時代では、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。
家康の江戸入城時には、牛込七カ村民が川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりましたが、武蔵国の川崎村というところまで牛込七ヵ村の住民はお迎えに出向いたといいます。
氏綱 北条氏綱。ほうじょううじつな。戦国時代の武将。戦国大名。後北条氏第2代当主。

牛込氏についての一考察|⑧牛込氏と行元寺

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑧「牛込氏と行元寺」です。

 牛込氏のあった袋町の北方、神楽坂五丁目に前述の行元寺があった。『江戸名所図会』によれば、相当な大寺で総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。またその門の両側に南天の木があったので南天寺と呼ばれていたという。
 源頼朝石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣営を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたという(『御府内備考』続編、天台宗の部、行元寺)。
 頼朝が江戸入りほをしてから鎌倉まで、どのようなコースを通ったかはまだ解明されない。現在、新宿区内随一の古大寺だったこの寺に、このような頼朝立ち寄り伝説があることは、一笑することなく大切に残しておきたい話である。
 また太田道灌が江戸城を築いた時は、当寺を祈願寺にしたという(『続御府内備考』)。
行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。場所は下の通り。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

牛込氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国おおを領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。
相当な大寺で…… 行元寺を参照。
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府初代将軍。治承4年(1180)挙兵したが、石橋山の戦に敗れ、安房あわにのがれた。間もなく勢力を回復、鎌倉にはいり、武家政権の基礎を樹立。建久3年(1192)征夷大将軍。
武蔵 武蔵国。武州。現在の東京都,埼玉県のほとんどの地域,および神奈川県の川崎市,横浜市の大部分を含む。
千手観世音 観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿
石橋山 頼朝は300余騎を従えて、鎌倉に向かったが、途中の石橋山で前方を大庭景親の3,000余騎に、後方を伊東祐親の300騎に挟まれて、10倍を越える平氏の軍勢に頼朝方は破れ、箱根山中から、真鶴から海路で千葉県安房に逃れた。
『御府内備考』続編 「御府内備考」の続編として寺社の沿革をまとめたもの。文政12年(1829)成立。147冊、附録1冊、別に総目録2冊。第35冊に行元寺。
頼朝えりかけの尊像 東京都社寺備考 寺院部 (天台宗之部)では
略縁起云、抑千手の尊像は、恵心僧那の作なり。往古右大将朝頼石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給ふ折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きしと霊夢を蒙り給ひしより、東八ヶ国の諸待頼朝の幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。依之俗にゑりかみの尊像といふとかや 江戸志
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
当寺を祈願寺 祈願寺とは祈願のために建立した社寺で、天皇、将軍、大名などが建立したものが多い。『御府内備考』続編は東京都公文書でコピー可能です。また、これは島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じです。「中頃太田備中守入道道灌はしめて江戸城を築きし時、当寺を祈願所となすへしとて」

御府内備考続編

 以上のようなことは、単に当寺が古刹の如く見せるために作ったものであると片づけることなく、もう一度見直してみたい。この行元寺は、前述の兵庫町の人たちの菩提寺であったろうし、最初でも述べたように古くから赤城神社の別当寺にもなっていたのであるから、大胡氏の特別の保護下にあったものと思われる。太田道灌時のように、牛込氏の祈願寺だったことはもちろんであるが、宗参寺建立以前の菩提寺だったのではあるまいか。
 天正18年(1590)7月5日、小田原は落城したが、秀吉が牛込の村々に出した禁制には18年4月とある(『牛込文書』)から、そのころすでに牛込城は落城していたのであろぅ。
 一方、小田原の落城時、北条氏直(氏政の子で家康の女婿、助命されて高野山に追放)の「北の方」が行元寺に逃亡してきたのである。寺はこの時に応接した人の不慮の失火で焼失したということである(『続御府内備考』)。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像されよう。
古刹 こさつ。由緒ある古い寺。古寺。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり寺院が家の菩提寺といわれるようになった。
別当寺 べっとうじ。神社に付属して置かれた寺院。明治元年(1868)の神仏分離で終わった。
秀吉が牛込の村々に出した禁制 天正18年4月、豊臣秀吉禁制写です。矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)では「豊臣秀吉より『武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村』に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない」
牛込文書 室町時代の古文書から、戦国時代江戸幕府までの古文書で21通。直系の子孫である武蔵市の牛込家が所蔵している。
北条氏直 ほうじょううじなお。戦国時代の武将。後北条氏第5代。徳川家康と対立したが和睦。1583年8月家康の娘督姫と結婚して家康と同盟を結ぶ。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、降伏して高野山に追放し、後北条氏は滅亡。
北の方 大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
続御府内備考 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで「天正年中に小田原北條没落の時、氏直の北の方当寺に来らる 按するに当寺の前地蔵坂の上に牛込宮内少輔勝行の城ありしと此人 北條の家人なれはそれらをたより氏直の北の方こゝに来りしにや 時に饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」

御府内備考続編


牛込氏についての一考察|⑦牛込城の城下町

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑦「牛込城の城下町」です。

 袋町高台の西北方一帯の神楽坂四五丁目は、もとさかなといった。ここは家康入国前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった(『御府内備考』)。江戸初期牛込に七カ村あったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落で、特に肴町は牛込城の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて西に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。前述したが、ここから戸塚まで古道がある。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀のまだなかった西谷間には市谷本村町から流れてくる川があり、飯田橋あたりの大沼という沼に流れていた。一方今の神田川も、大曲あたりの白鳥沼から大沼に流れ込んでいた。川は大沼から九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。
肴町 神楽坂5丁目を「肴町」と呼びました。神楽坂4丁目は「かみみや町」でした。
兵庫町 「兵庫」は「つわものぐら」「へいこ」「ひょうご」と読み、兵器を納めておく倉。兵器庫。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 肴町については
町方起立之儀は年古義にて書物無之相分不申候得共 往古武州豊島郡野方領牛込村之内有之候処 其後町屋相成御入用之砌 牛込七箇村之者とも武州川崎村ト申処迄御迎ニ罷在候由申伝候 其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候処 大猷院様御代御成ニ期度ニ御肴奉献上候之向後 肴町と相改候様 酒井讃岐守様モ仰渡候ニ付 夫より町名肴町と相唱申候

七カ村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。

戸塚地域

戸塚 戸塚地域。新宿区の中央北部に位置し高低差のある複雑な地形。江戸時代には主に農村で、明治時代になると、東京専門学校(現:早稲田大学)が開校し、学生や文化人の集まる、活気あふれる町に。
大沼 小石川大沼です。下図では水道橋の下に池が書かれています。
大曲 おおまがり。新宿区新小川町6。神田川が急に曲がっている場所
白鳥池 白鳥池は小石川大沼の上流の池でした。

菊池山哉「五百年前の東京」(批評社、1992)(色改変、一部を表現)

上平川 上流の上平川(九段下、神田橋)から下流の下平川(常盤橋、日本橋)に流れて、江戸湾に注いでいた。
常盤橋 日本橋川に架かり、公園から日本銀行側に通じる橋

 太田道灌のころは、この平川の常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町として賑ったものである。牛込城時代にも、この川をさかのぼって大沼まで舟が来たのであろう。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人もいたので兵庫町となっていたのではなかろうか。
 家康の江戸入城時、牛込七カ村の住民は川崎まで出迎えに行ったのである。三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに、町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである(『御府内備考』)。
太田道灌 室町中期の武将。扇谷上杉定正の執事。江戸築城は康正2年(1456)に開始、翌年4月に完成したという。兵法、学芸に秀で、和歌歌人だった。
高橋 千代田区の「常盤橋門跡の概要」では
 中世の常盤橋周辺は江戸前島の東岸にあたり、 のちの江戸と浅草を結ぶ街道(鎌倉往還下道)の要衝であったとされている。(中略)文明8年(1476)の「寄代江戸城静勝軒詩序」(簫庵竜統著)には、城東畔の河(平川)の「高橋」に漁船が出入りし、賑わいを見せていたことが記されている。 常盤橋と呼ばれる前は「高橋」、あるいは「大橋」(『事蹟合考』)と称されていたと考えられ、平川の河口に位置したこの地域(平川村)は、 江戸城からほど近い港として重要な位置を占めていたとされる」
家康の江戸入城 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました
川崎まで出迎え 「御府内備考」を意訳すると「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」
肴町 同じく「徳川家光様は御治世の外出の際では魚を何回も差し上げたところ、今後は肴町と改名しろといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」

牛込氏についての一考察|⑥牛込城築城

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の⑥「大胡氏の牛込城築城」です。

  6 大胡氏の牛込城築城
 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は江戸城主扇谷朝興と戦い、江戸城を攻略して遠山直景城代とした。この時前述の神楽坂にあった行元寺破壊された(『江戸名所図会』)というから、牛込はその時戦場になったものと思われる。
 この動乱の時、大胡重行弁天町から袋町の高台に牛込城を築いて移り、氏綱から認められるようになったものであろう。『新宿区史』には「牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う」といっている。『牛込文書』によれば、すでに大永6年には日比谷に警備のため陣夫を出している。
北条氏綱 ほうじょう うじつな。戦国時代の武将。小田原城主。上杉朝興ともおきの江戸城、上杉朝定の松山城を破り、下総国府台の戦で足利義明・里見義堯を破って関東一帯を制圧。小田原城下の商業発展を図った。
扇谷朝興 戦国時代の武将。上杉朝興ともおき。扇谷上杉氏の当主。北条早雲によって相模を奪われ、大永4年(1524)、その子北条氏綱に武蔵江戸城を奪取された。
遠山直景 戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
破壊された 江戸名所図会では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
牛込氏が… 「新宿区史」は
牛込氏が北条氏と結んだのは、多分氏綱が大永四年朝興を残して江戸城を手中にしてからではないかと思う。そうでなければ、牛込氏は扇谷家の大きな勢力の近くにあって孤立状態になってしまうからである。北条氏は大永4年朝興を敗って、江戸城をとり、遠山氏をここに置いてから後も、朝興との争いは絶えず、大永6年12月には里見義弘の鎌倉侵入にあたり、氏綱は鶴岡に邀え戦ってこれを破っており、享禄3年6月(1530)には朝興と戦ってこれを破っている。
陣夫 じんぷ。じんぶ。戦争に必要な食糧などの物資を運ぶため領内から徴用した人夫。

 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はない。『江戸名所図会』と『御府内備考』に書かれているだけであるし、城全体の規模も不明である。しかし、伝説によれば、西は南蔵院から船河原町に通じる道、北は大久保通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は光照寺境内南の崖(崖下は空堀)で、舌状半島形をした台地の先端部分である。
 城内の構造も不明だが、大胡氏の居館は光照寺境内で、大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる十字路あたりにあったという。
江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では
牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり
御府内備考 「御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では
牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々
(註:いかさま:1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき)
伝説によれば 新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)の牛込要図が最も詳細にできています。ここで中央の が牛込城跡です。

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(色は当方の追加)

大手門 城の正面。正門。追手おうて

 大胡氏はなぜこの場所を選定したかは不明である。地形上からみれば、この付近で城を築くに格好の場所は、この北方のつく八幡の高台である。そこは戦国時代すでに上杉管領とりでを築いたことがある(『日本城郭全集』)ほどである。
 筑土八幡の高台では、台地突出部が狭少だから広く縄張りする必要があり、規模を大きくすると短期間では築城できなかったこと、当時の古道はだいたい今の早稲田通りだったろうから、主要道を背後にするという不つごうさがあったものと思われる。その上、神楽坂の方には部落も多く、すでに行元寺も建っていたことが引きつける理由になったものであろう。
筑土八幡の高台 上図の牛込要図では右上のC㋬です。
上杉管領 関東管領とは室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉うえすぎ憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
とりで 築土城です。
縄張り 縄を張って境界を決めること。建築予定の敷地に縄を張って、建物の位置を定めること

 大胡重行は、前述のよう天文12年に死去し、弁天町宗参寺に葬られた。重行の子勝行は、北条氏康の重要家臣となり、天文24年(1555)正月6日には、宮内少輔の官位をもらい、姓を牛込氏と改めた。これはすでに呼び名となっていたものを公的に認めて貰ったものであろう。そして牛込から赤坂、桜田、日比谷あたりまで領することになった。
 牛込勝行は、弘治元年(1555)9月19日に、牛込御門に移されてあった赤城神社を現在地の赤城元町遷座した。また勝行の子勝重の妻に、江戸城の遠山綱景(直景の子)の娘を迎えたのである(児玉、杉山共著『東京の歴史』)。
牛込勝行 北條氏康につかえ、弘治元年(1555年)姓の大胡氏はやめ、牛込氏に変える。牛込、今井、桜田、日比谷、下総国堀切、千葉等の地を領有した。天正15年(1587年)死亡。年85。
北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱うじつなの嫡子。永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」を作成。永禄4 年、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ、後北条氏の全盛期を築く。
宮内少輔 くないしょうゆう。令制の第二等官である次官すけのうちで下位のもの。従五位。
遷座 神体、仏像などをよそへ移すこと。
遠山綱景 とおやま つなかげ。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。
児玉、杉山共著『東京の歴史』 児玉幸多と杉山博の共著で「東京都の歴史」(山川出版社、1977年)でしょう。その135頁は……
 江戸城代の遠山氏の次代は、丹波守綱景である。かれは隼人佑・藤九郎・甲斐守ともいった。かれは、氏綱・氏康にしたがって、府台うのだい攻撃に参加したり(天文7年)、鶴岡八峰宮の造営に協力したり(天文8~10年)、妙国寺の濁酒醸造の免除を命じたり(天文17年)、六所明神の本地仏の釈迦像を修理したり(天文21年)、浅草の総泉寺や品川の本光寺に禁制をだしたり(天文23年)している。またかれは、連歌師の宗長とも交際があった。また綱景の娘は、江戸の名族の牛込勝重・島津主水・猿渡盛正らのもとに嫁している。
 こうして綱景は、婚姻政策によっても、自家の勢力を江戸とその周辺にのばしていったが、永禄7年正月4日、国府台合戦で戦して戦死した。

註:丹波守綱景 遠山綱景。永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣である遠山直景の子(長男とも)。天文2年(1533年)、父に引き続き江戸城代となる。
国府台攻撃 国府台合戦。天文7年(1538)と永禄7年(1564)の2回、下総国国府台(現 千葉県市川市)で房総勢と後北条氏の間に行われた合戦。後北条氏が勝利し、覇権は安泰になった。
天文7年 1538年。
永禄7年 1564年。

牛込氏についての一考察|④赤城神社の旧地「田島森」

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の④「赤城神社の旧地『田島森』」です。

 宗参寺北方400メートル、早稲田鶴巻町185番地に、大胡氏が赤城山ろくにあった赤城神社をはじめて勧請した旧地「田島森」があり、小さい祠がある。ここにあった神社は、寛正元年(1460)に太田道灌によって牛込御門の所に移され、さらに牛込勝行が弘治元年(1555)9月19日に現在地に遷座したものという(「神社縁起」)。これは境内にあった正安3年5月25日の銘がある板碑が神社に保存されてあった(戦災で消失)ことから想定したものであろうと思う。というのは、正安2年は、まだ大胡氏が上州大胡に居住していたと思われる年代である。
宗参寺 そうさんじ。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)に重行の嫡男牛込勝行が建立。牛込氏や赤穂義士の師・山鹿素行の菩提寺などがある。
早稲田鶴巻町185番地 現在は新宿区早稲田鶴巻町568-13です。
田島森 江戸名所図会では
赤城明神旧地 同所田の畔、小川に傍ふてあり。大胡氏初て赤城明神を勧請せし地なり。故に祭礼の日は、神輿を此地に渡しまいらす。
 この「小川」はかに川でしょう。新撰東京名所図会第41編では
   ◯元赤城神社
早稲田村(185番地)にあり、今鶴巻町に編入す、祭神石筒雄命、正安3年草創、牛込郷社赤城神社の古跡なり、古来より赤城神の持なりしが、明治6年1月更に赤城神社附属社となれり。
本社石祠、高さ2尺巾1尺5寸、境内35坪立木3本あり。

元赤城神社。鳥居の左側は記念碑「田島森碑」。後ろに神社。コンクリートの建物は「元赤城神社 社務所」

元赤城神社。中央右に「元赤城神社新築資金寄附者御芳名」の板。

元赤城神社。説明板「神崎の牛牧」がある。

小さい祠 「ほこら」は「やしろ。おたまや。先祖の霊をまつる所」。海老沢了之介 著「新編若葉の梢 : 江戸西北郊郷土誌」(新編若葉の梢刊行、1958)は、金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)を底本しており、「牛込氏と赤城神社」を書いています。

元赤城神社仮殿(昭和31年)

牛込氏と赤城神社
 牛込忠左衛門の屋敷は、胸突坂上の番所の前に在る。この牛込家の遠祖は、大胡太郎重俊なる者であった。子孫の大胡重行の代に及んで、この牛込に移住した。その嫡男を牛込宮内少輔藤原勝行といい、父の菩堤を弔わんがために、雲居山宗参寺を開基した。
 昔その祖先の大胡常陸なる者が、上野国赤城山の三夜沢の神を敬信し、その領地の赤城山麓大胡の地に勧請し、それを近戸明神と呼んで今もある。
 大胡常陸の末孫牛込忠左衛門の先祖、即ち大胡重行が、大胡氏の氏神である上州赤城の神を、牛込惣領守として、早稲田の田の中の小森に勧請したが更に今の赤城神社の所に遷座した。よって最初の地を元赤城といっている。
 日光山の記にいう。下野国二荒山、今の日光山の神と、上野国赤城山の神とが中禅寺の湖水のことで争った。その時、二荒山の神はうわばみとなり、赤城山の神は蜈蚣むかでとなって戦ったという。
 私(直徳)が先頃旅をした時、新町と倉賀野との間の田の中において、忽ち疾風起こり、黒雲が覆い来たって、日中暗闇となった。雨は水をあびるが如く、雹は槌をもって打つが如くであったが、三時ばかりして拭うが如く晴れた。それからというものは一寸した風が直にあたっても、恐ろしくなって病気になる程であった。
 元赤城は正安二年(1300)早稲田に鎮座との説がある。これによると、大胡氏の牛込に来るより230余年前からあることとなる。なお赤城神社には、文安元年(1444)の奥書納経(大般若経)がある。これも大胡氏より百年前のものである。
菩提 ぼだい。煩悩ぼんのうを断ち切って悟りの境地に達すること。
 うわばみ。巨大な蛇、大蛇、おろち
蜈蚣 ごこう。「むかで(百足)」の異名。
 また、鳥居の左側に「田島森碑」が立っています。「温故知しん!じゅく散歩」は
概要
赤城神社の由来と「田島の森」と呼ばれた当地の歴史を伝える記念碑である。当地は、牛込早稲田村の「田島の森」と呼ばれる沼地であったところへ、正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移り住んだ大胡氏(後に牛込氏に改姓)が故郷の赤城明神を祀ったと伝えられる。碑文には、赤城神社が寛正元年(1460)太田道灌によって牛込に移され、弘治元年(1555)に現在地へ遷座した後も、元赤城神社として崇敬者の手によって維持されてきたことが刻まれている(※ 実際に大胡氏が牛込に移り住んだのは15世紀末頃と推定されている)。

田島森碑

神社縁起 赤城大明神縁起がありますが、天暦2年(948年)に書いた縁起なので、これは使えません。赤城神社の【御由緒】では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。
 新撰東京名所図会第41編では……
〇由緒
正安2年牛込早稲田村田島の森中に小祠を奉祠す、其後160余年を経て寛正元年太田持資、田島の小祠を牛込台に遷座す、後ち上野国大胡の城主大胡宮内少輔重行、神威を尊敬し、赤城姫命を合殿に祀り、弘治元乙卯年9月19日、方今の地に移し、赤城神社と称せり。別当は天台宗赤耀山等覚寺なり。

田島森碑

正安3年5月25日の銘がある板碑 正安3年は1301年の昔ですと、まず一言断わっておき、群馬県地域文化研究協議会編「群馬文化」(1967)では……

 神社で大切に保存してきたものに一枚の板碑があった。昭和20年に戦災で失ったが、神社誌に写真が載っており、その説明に高さ4尺、巾1尺余で、阿弥陀如来三尊の種子がそれぞれ蓮台上にあり、銘文は
   池中蓮華 大如車輪
  正安三年辛丑五月二十五日
   青色青光 黄色黄光
とあったという。出土地は早稲田鶴巻町185番地にあった田島の森という赤城神社の旧地で別当等覚寺所蔵のものであった。正安3年は板碑として写真をみた限りではよいようだが、神社との関係はわからないし、むしろ偶然に板碑が発見され所蔵していたとするのが正しいであろう。神社では何時ごろからかわからないが、祭日が9月19日なので、この日を創建の月日にあて、板碑の年月日が正安3年5月25日だから神社草創はそれ以前の9月19日、即ち正安2年9月19日としたのであろう。
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註:写真は東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」(昭和51年)から。「神社誌」がさす文書は不明。

 田島森あたりは、想像するに、戸山町から北流してくる金川(一名かに川)が早稲田大学の大隈講堂あたりで東流してくるのと、南方市谷薬王寺町から牛込柳町、弁天町を通って北流してくる川(加二川)とが合流する所であり、そこが沼地になり、島状の地もあったので金川以北から神田川までは、田島森と呼ばれたものと思われる。
 大胡氏が宗参寺の所に移住してくると、この田島森に上州の赤城神社を勧請して鎮守にしたものである。なぜそこを鎮守の森にしたのであろうか。上州の赤城神社は、大胡町の北方にあり、赤城山頂の大沼のほとりにある沼(水)神である。一方この地は弁天町の大胡氏居住地の北方にあたる沼地である。こうみてくるとここに故郷の赤城神社を勧請するには好適の地であったためであろう。
金川(一名蟹川) 水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。
加二川 水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する

江戸川小の歴史散歩③ 牛込地区に坂が多いのはなぜ①

東京実測図。明治18-20年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)から)

鎮守 ちんじゅ。辺境に軍隊を派遣駐屯させ、原地民の反乱などからその地をまもること。奈良・平安時代では、鎮守府にあって蝦夷を鎮衛する。一国や村落など一定の地域で、地霊をしずめ、その地を守護する神。また、その神社。霊的な疫災から守護する神や神社。
上州の赤城神社 御祭神は「赤城神社は、赤城山の麓に佇む、自然と歴史が交差する聖地です。この神社は崇高な赤城山の神と水源を司る沼の神を崇拝し、農業と産業の神として、そして東国開拓の神として崇められています」

 鶴巻町は、『新編武蔵風土記稿』によると、鶏を放し飼いし、鶴番人がいたことから名づけられた町名といっているが、これは後世の意味づけである。「鶴巻」の本義は、世田谷区の「弦巻」も同様であるが、朝鮮語からきたツル(荒野・原野)のマキ(牧)の意であるという(中島利一郎著『日本地名学研究』)。
 牛込という地名は、牛の牧場という意味で、『延喜式』にある「神崎牛牧」は牛込の地に擬されているが(『南向茶話』、『御府内備考』)、それもこの辺だったのではなかろうか。
 神田川にかかる駒留橋というのも牧場に関係あるものだろう。
 大胡氏は、高田八幡(穴八幡)の高台下と、宗参寺東との二つの谷間に柵をつくれば、前述したように、戸山町からの金川、柳町からの加二川に囲まれた 形の地域内は立派な牧場になる。牧場はその北の神田川まで広げて考えてもよい。その牧場を南の高台である宗参寺の所に居館を建てて管理し、前述の田島森に鎮守の赤城神社を建てたということになろう。
鶴巻町 新編武蔵風土記稿東京都区部編 第1巻では
早稲田ノ二所ニオリシ由其頃当村ニモ鶴番人アリシコト或書ニ見コ鶴巻ノ名ハ恐クハ是ヨリ起リシナラン
新編武蔵風土記稿 しんぺんむさしふどきこう。御府内を除く武蔵国の地誌。昌平坂学問所地理局による事業で編纂。1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完成。
中島利一郎 東洋比較言語学者。国士舘大学教授。生年は明治17年1月2日、没年は昭和34年1月6日
日本地名学研究 「日本地名学研究」で
この地方は弦巻に連接し、一帯の曠野で、農作に適せぬので、牧場として発達したわけ。荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、「つるまき」は「曠野ツルまき」という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである。ここに駒留橋あり、世田谷に駒留八幡神社あり。由来は牧場からである。
延喜式 経済雑誌社「国史大系第13巻」(明治33年)の「延喜式」では「諸国馬牛牧」として武蔵国は檜前馬牧と神崎牛牧2種を上げています。
神崎牛牧 かんざきのうしまき。兵部省所管の武蔵国の牛牧。「東京市史稿」では新宿区牛込のあたりだと推定。
南向茶話 これ以外にいい問答がなさそうです。
  問曰、牛込小日向筋御聞承及も候哉。
答曰、此地は数年居住仕候故、幼年より承り伝へ候儀も有之候。先牛込の名目は、風土記に相見へ不申候得共、古き名と被存候。凡当国は往古曠野の地なれば、駒込馬込(目黒辺)何れも牧の名にて、込は和字にて多く集る意なり。(南向茶話
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 大日本地誌大系 第3巻 御府内備考によれば、
此所は往古武蔵野の牧の有し所にて牛多くおりしかはかくとなへり駒込村 初に出  馬込村 荏原郡に馬込村あり  等の名もしかなりと 南向茶話 さもありしならん江戸古図にも牛込村見へたり
この辺だった 実は元赤城神社には「神崎の牛牧」という説明板があります。

江戸・東京の農業 神崎かんざき牛牧うしまき
 もん天皇の時代(701〜704)、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
 大宝元年(701年)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧かんまき)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするために天皇の意思により32ヶ所の牧場(ちょくまき)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、『牛が多く集まる』という意味の牛込と呼ばれるようになりました。
 牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で『生類憐みの令』が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
平成9年度JA東京グループ    
農業協同組合法施行五十周年記念事業

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kanzaki Dairy Farm
  In the era of the Emperor Monmu (701-704), government-operated stock farms were established here and there in the center of the present metropolis. The area from Waseda to Toyama thronged with roaming cows and, therefore, called ‘Ushigome’ (cow throngs). The area of this shrine was also cow ranches.
  In the dairy farm, there was established a dispensary where cows were reared on the floor for a period and unproductive old cows or sick cows were sorted out.

駒留橋 こまどめばし。丸太橋で放牧された馬がここまで来ても先には行けないので名付けたという(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年)。現在は駒塚こまつかばしです。文京区の神田上水に架かって、文京区目白台1・関口2と文京区関口1丁目を結ぶ小橋。創架時期は不明。

牛込氏についての一考察|③最初の移住地

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の③「最初の移住地」です。

  3 最初の移住地
 まず、大胡氏の牛込移住は、重行の時といわれているが(「牛込氏系図」)、重行の出生は寛正元年(1460)であるから、それよりも前のことになる。『南向茶話』には、重行の父大胡彦太郎重治とあるが、この人物は「牛込氏系図」にはない。
 ところで新宿区弁天町9番地に宗参寺がある。宗参寺は、大胡勝行が天文12年(1543)83才で死去した父重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。そこには牛込氏の墓地があり、大胡重行、勝行父子の墓があり、都の文化財に指定されている。
 思うに、この地が大胡氏の牛込移住の最初の土地ではないかと思う。『江戸砂子』には「……此の地に来り牛込城主となり」とある。
 菩提寺を建立するにはそれだけの場所選定の理由があるし、家族の居住地に寺院が建つ例が多い。『御府内備考』では、宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのはだといっているが、『東京案内』(明治40年、東京市編)は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 なぜここに居住したかについては、大胡氏勧請の赤城神社の旧地を考察する必要がある。
南向茶話 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)と『南向茶話附追考』(明和2年、1765年)はともに江戸の地誌
重治 南向茶話附追考では、「大湖重治」氏が所在地を大胡から牛込に変更し、「勝行」氏は名前を牛込家に変えたとしています。ここでも「重治」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

 なお「新撰東京名所図会 牛込区之部 中」(東陽堂、明治39年)の場合は……。

牛込の称は。北條分限帳に見えて。大胡常陸守領とあり。牛込氏家伝に。大胡宮内少輔重行。法名は宗參。其の子従五位下勝行。北條氏康に属す。勝行は武蔵国牛込並今井、桜田、日尾谷、其の外下総の堀切。千葉を領し。牛込に居住す。因て天文14年正月6日。大胡を改め牛込とすとあれば。牛込の称は。それより以前在りしてと明かなり。牛込氏居住して始て牛込の称起れるにはあらざるなり。
(新撰東京名所図会)

宗参寺 新宿区弁天町の曹洞宗雲居山の寺院。

都の文化財 宗参寺の「牛込氏墓」が文化財になっています。

   牛込氏墓
 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会
註:江戸氏牛込氏文書 江戸幕府の旗本・牛込家の古文書群21通

江戸砂子  享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り牛込城主となり 同じ言葉ではないですが、続江戸砂子温故名跡志巻之四が埋まっていました。

雲居山宗参寺 寺産十石 吉祥寺末 牛込弁天丁
開山看栄禅師、牛込氏勝行、父の重行菩提のため、天文13甲辰建立しでん四十こくす。雲居院殿前大胡大守実翁宗参大菴主。天文12年に卒す。是おほ重行しげゆきの法名也。これをとりて山寺の号とす。此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょう嫡男ちゃくなん勝行天文24乙卯従五位下ににんず。于時ときに本名大胡をあらため牛込氏とごうす、御幕下牛込氏の也。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
旧蹟 有名な建物や事件が昔にあった所。
 「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てたというのは誤だといっている」と書かれています。実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。

牛込城蹟
牛込家の傳へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(中略)
彦太郎藤原重治は武蔵守秀卿の後胤もと上野国大胡の住人なり、重治が世に至て武蔵国豊島郡牛込の城にうつり住す この城をいふなるべし その子宮内少輔重行天文12年9月27日卒す78歳、その子宮内少輔勝行北條左京大太氏康の麾下に属す、天文13年牛込の地に於て一寺を建て雲居山宗参寺と号す是父の法名によつてなり、寺領十石を寄進す 按に宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし

いかさま (1) なるほど。いかにも。(2) いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき。不正。
麾下 きか。将軍に直属する家来。ある人の指揮下にある。その者。


東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では
牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方がありそうです。1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 また、大胡家から牛込家に名前を変えた時期は、移住した時よりも遅く、勝行氏が牛込家に変えたと、多くの人が考えているようです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

牛込氏についての一考察|②牛込氏の牛込移住

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(新人物往来社、1971)の②「牛込氏の牛込移住」を読んでいきます。②と③の問題はいつ名前を「大胡氏」から「牛込氏」に変え、住所を「群馬県大胡地域」から「神楽坂」に変えたのか、です。

  2 牛込氏の牛込移住
 牛込氏の先祖は、群馬県勢多郡おおの大胡城に住んだ大胡氏である。大胡氏は、藤原秀郷の後裔(牛込氏系図)と称し、大胡を領していたので大胡氏と称したが、大胡重行の時に北条氏康の招きで牛込に移住したという(『寛政重修諸家譜』)。そしてその移住年代を『日本城郭全集』(新人物往来社刊)では、天文6年(1537)前後と推定している。
 しかし、南北朝が合体した明徳3年(1392)には、すでに大胡には大胡氏はいなかったと見られている(『新宿区史』)
 その10年後の応永9年(1402)に、大胡氏が牛込に勧請したという赤城神社に奉納した大般若経の写経が、後述するが別当寺であった神楽坂のぎょうがん(明治45年7月、品川区西大崎4-780に移転)に所蔵されていた(『江戸紀聞』)。その一巻は、郷土研究家一瀬幸三氏宅に渡って所蔵されている。それからみると、遅くとも応永9年には赤城神社があったのだから、その勧請者である大胡氏が牛込に来ていたことになる。
 そこで、大胡氏は室町時代初期には牛込に移り住んでいたものと思われる。大胡氏は、大胡で牧場経営をしていたのではあるまいか。それで牛込の牧場管理のため、江戸の上杉氏の命で牛込に移住したのではあるまいか。

勢多せた郡大胡町 平成16年(2004年)12月以降は「前橋市大胡町」に変更
大胡氏 「寛政重修諸家譜」によれば

牛込
伝左衛門勝正がとき家たゆ。太郎重俊上野国大胡を領せしより、足利を改て大胡を称す。これより代々被地に住し、宮内少軸重行がとき、武蔵国牛込にうつり住し、其男宮内少勝行地名によりて家号を牛込にあらたむ

 つまり、姓は足利氏から大胡氏に変わったのは重俊氏、大胡氏から牛込氏に変更したのは勝行氏、住所の大胡地域から牛込地域に変えたのは重行氏の時と、寛政重修諸家譜では考えています。

藤原秀郷 平安中期の武将。平将門の乱を平定し、下野守・武蔵守となる。百足むかで退治の伝説で有名。生没年未詳。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では「重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす」
 1543年から77を引くと生年は1466年(寛正7年)でした。

新宿歴史博物館 常設展示解説シート 大胡氏が牛込に居住したのは、勝行の時代からで、勝行が重行の跡を継いで姓を「大胡」から「牛込」に改めた可能性が高いのではと思われます。重行を牛込重行と記したのは「牛込」という地名を指しているからで、本来は大胡を名乗っていたのでは、との指摘もありますが、勝行の時に、大胡氏が牛込氏の遺跡ゆいせきを継いだと考えるのがスムーズかと思います。『寛政重修諸家譜』の成立は、寛政年間(1789~1801)と後世になり編纂されたものなので、時代を遡れば遡るほど、信憑性に欠けてききます。そのため、『寛政重修諸家譜』を疑いの目で見てみました。

寛政重修諸家譜」から。
重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす。
勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉ちば等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲。

 下図「江戸名所図会」は江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌です。ここでは「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したと書かれています。しかし、「重泰」氏は牛込氏系図寛政重修諸家譜の名前リストには載っていません。以下は「江戸名所図会」です。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

北条氏康 ほうじょううじやす。戦国時代の武将。後北条氏の第4代。晩年、豊臣秀吉に小田原城を包囲され、敗れて切腹。[1538~1590]
日本城郭全集 日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年前後と推察される。

天文6年(1537) 戦国時代。将軍は足利義晴で、室町幕府の第12代征夷大将軍。
明徳3年(1392)には……(『新宿区史』) 『新宿区史』(新宿区役所、昭和30年)の126頁では……
明徳4年(1393)には大胡の地は上杉氏の所領となつており、大胡上総入道跡とゆう書様から推すと、大胡の地には大胡氏は居なかつたように感ぜられる。若しそうとすれば牛込助五郎が史上に明文を見る大永6年〔1526〕までは何処にいたかと云うことになるが、この間の牛込氏の動向は史料を失いていて分らない。「米良文書」に「牛米てんきう」なるものが見えるが牛込氏との関係は不明である
書様 かきざま。書いたもののようす。かきよう。字や文章の書きぶり。
牛込助五郎 牛込重行です。(参照は「牛込氏文書 上」戦国時代)
明文 はっきりと規定されてある条文。わかりやすく筋の通った文章。
米良文書 めらもんじょ。熊野三山のうち那智大社に伝えられた古文書で、鎌倉期から室町期までのものが多い。

 また、赤城神社社史では……

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。

 1555年は天文24年=弘治元年の牛込勝行氏です。
 なお、繰り返しになりますが、「大胡彦太郎重治」は牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。
大般若経の写経 「江戸紀聞」の記載から「松原讃岐守入道妙讃大般若六百巻を書写として赤城の神祠に奉納にて応永の初より書写し文安元年甲子十一月七日おさむ」

江戸紀聞

江戸紀聞 えどきぶん。江戸時代の地誌。
室町時代初期 色々な考え方がありますが、文化庁重要文化指定目録の基準によると、応永時代~嘉吉時代(1394~1443)だそうです。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

牛込氏についての一考察|①はじめに

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『歴史研究』「牛込氏についての一考察」(歴史研究、1971)の①「はじめに」です。

  1 はじめに
 武州牛込氏については、『新宿区史』(昭和30年・新宿区役所編)に書かれているが、総合的に考察されていないし、史料が少ないので、まだ不明な点が多い。そこでここに牛込氏についての一考察をのべて今後の研究課題としたいので、諸賢のご批判ご指導を賜りたい。

 これで①は終わりです。あとは「武州牛込氏」と「新宿区史」を説明すればいいのですが、「新宿区史」の説明は長く続きます。

武州牛込氏 武州の別称は武蔵国で、これは東京都、埼玉県、神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。「武蔵国にいた牛込氏」「武蔵国牛込氏」などと同じ。
新宿区史 牛込氏については「新宿区史:区成立30周年記念」23頁から25頁までに出てきます。「総合的に考察されていないし、史料が少ない」と書かれていますが、確かに、新宿区の室町幕府〜戦国時代の史料は現在でも少なく、増やせないし、「総合的」な考察もありません。しかし、牛込関係は少なくても、書籍一冊の「新宿区史」は十分に分厚くなっています。では「新宿区史」の牛込関係を見てみましょう。

 鎌倉時代の新宿区は、近くの府中に武蔵国の国衙があり、留守所がおかれていたし、江戸・豊島・葛西氏などこの地方に分布した豪族との関係が深かったものと思われるが、具体的な史料はない。市谷冨久町の自証院に残された高さ1.2メートルの板碑に、弘安6年(1283)6月の造立年月日が記されているのが最古の記録で、区文化財の指定を受けている。しかし、こうした碑が残されていることは、この時代、かなりの財力をもった豪族が、この地域と関係をもっていたことを示しているだろう。
 さらに、正安2年(1300)、現在牛込にある赤城神社が早稲田の田嶋の森(後の元赤城、現在の鶴巻町)に祀られたという社伝も残されているが、史料としては、暦応3年(1340)、鎌倉公方足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏から芋茎郷名上げ、替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えたことを示すものが残っている。これによれば牛込郷は荏原郡に属していたことが判る。この文書は『牛込家文書』といわれ、牛込、日比谷、堀切、177貫余の所領を本貫とし、牛込袋町に居館を構えた牛込家伝来のもので、内容は江戸氏宛の7通と、牛込氏宛の11通、大胡氏宛2通、牛込七ゕ村宛1通、加藤系図写1通からなっており、牛込氏の由来については、上野国大胡城主大胡重行が天文年間(1532~55)北条氏康の招きで牛込に移ったと、「牛込系譜」に記してある。牛込氏と改めたのは天文24年(1555)のこととある。大胡氏が牛込に移った年代は、史料的には矛盾があり、同じ『牛込家文書』の後北条氏印判状写をみると、大永6年(1526)10月、北条氏綱から牛込助五郎宛に日比谷村の陣夫・夫役の徴用権を与える旨が記されていて、年代の遡りがみられる。『新編武蔵風土記稿』には大湖重行の父重治の代に牛込に移ったとも書かれている。また牛込姓も、系譜にある天文24年以前にすでに称していたようで、古い記録が紛失しているためもあり、明確ではない。牛込氏はその後徳川時代には旗本となり、明治維新には徳川家とともに駿府へ移ったが、何年かののち再び東京に戻ってきた。(暦応3年の文書他の場所に詳細があるので省略)
 後北条氏と牛込氏との関係を示す史料としては、『小田原衆所領役帳』があるが、この帳簿は後北条氏所領内の知行主(給人)を衆別(職種や地域別)にまとめ、それぞれの知行地に課せられる知行役高を書きあげたもので、いわば後北条氏の租税台帳にあたるものである。この帳簿の江戸衆のところに、牛込氏について次のように記されている。
 一、大胡
 六拾四貫四百卅文  江戸牛込
 六拾七貫七百八拾文 同 比々谷本郷
 四拾五貫文     葛西堀切
  此内廿二貫五百文 当年改而被仰付半役
  以上 百七拾七貫弐百十文
   此内八拾弐貫弐百拾文ハ   御赦免有御印判
    此内七捨弐貫五百文  知行役辻半役共
   以上
 この記述で役高の合計が177貫余で、知行役高は72貫500文として登録されていたことが判るが、この役高は他の知行主の平均が50貫前後であったのに比べると、かなり大きいものといってよい。

 これでおしまいです。「新宿区史」の話は江戸氏と太田道灌氏に移っていきます。

武蔵国の国衙 各令制国の中心地にこくなど重要な施設を集めた都市域は「国府」、その中心となる政務機関の役所群は「国衙」、その中枢で国司が儀式や政治を行う施設は「国庁」(政庁)。武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)の政治中心地「国府」は府中市に置かれた。「衙」は、つかさ、天子のいる所、宮城。
留守所 るすどころ。平安後期以降一般化した地方行政を担う在地の執務機関。
田嶋の森 田島森。新宿区早稲田鶴巻町568にあり、島に似た土地と沼地があるので「田島の森」と呼びました。
暦応3年 鎌倉公方の足利義詮が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷の替地として牛込郷の欠所分(不知行地)を与えた。これは「高師冬奉書」暦応3年8月23日の手紙です。

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

鎌倉公方 室町幕府による東国支配のために鎌倉に置かれた政庁である鎌倉府の長官。
足利義詮 あしかが よしあきら。室町幕府第2代将軍。在職1359~1367。
執事 室町幕府の将軍と鎌倉府の関東公方を補佐して政務を行なう職
高師冬 こうのもろふゆ。南北朝時代の武将。
芋茎郷 いもぐきごう。現在は「埼玉県加須市芋茎芋郷」です。
名上げ 「名」には「きこえ、てがら」の意味があり、「名が上がる」には「名声をあらわす、有名になる」という意味があるようです。「牛込家文書」は芋茎郷に何が起こって、何が起こる予定なのか等について全く触れていません。
上野国 こうずけのくに。群馬県域の古代国名。
大胡城 群馬県前橋市河原浜町の城。築城は天文年間(1532年〜1555年)、廃城は元和2年(1616年)。
牛込系譜 「牛込氏系図」です。

牛込氏系図」(牛込区史、昭和5年)

後北条氏印判状写 大永6年10月13日の「北条家朱印状写」です。

「北条家朱印状写」大永6年10月13日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

牛込助五郎 牛込重行です。
新編武蔵風土記稿 大湖重行の父重治の代に牛込に移ったと書いてあります。

 また、赤城神社社史では

伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています

 さらに重泰の代に牛込に住んだというものもあります。例えば「江戸名所図会」です。これは江戸時代後期の1834年と1836年(天保5年と7年)に刊行された江戸の地誌で、赤城明神社の説明のところで、「大胡重泰」氏がその所在地を前橋市大胡から牛込に変更したのです。なお「重治」も「重泰」も牛込氏系図寛政重修諸家譜には載っていません。

赤城明神社 同所北の裏とおりにあり。牛込の鎮守にして、別当は天台宗東覚寺と号す。祭神上野国赤城山と同じ神にして、本地仏は将軍地蔵尊と云ふ。そのかみ、大胡氏深くこの御神を崇敬し、始めは領地に勧請してちか明神と称す。その子孫しげやす当国に移りて牛込に住せり。又大胡を改めて牛込を氏とし その居住の地は牛込わら店の辺なり 先に弁ず 祖先の志を継ぎて、この御神をこゝに勧請なし奉るといへり。祭礼は九月十九日なり 当社始めて勧請の地は、目白の下関口せきぐちりょうの田の中にあり今も少しばかりの木立ありて、これを赤城の森とよべり

後北条氏 日本の氏族で、本来の氏は「北条(北條)」だが、鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏と区別するため、「後」を付して「後北条氏」、相模国小田原の地名から「小田原北条氏」「相模北条氏」とも呼ばれる。

大胡地域から牛込地域に引越大胡から牛込に姓の変更
牛込氏系図、寛政重修諸家譜重行勝行
新宿歴史博物館の常設展示解説シート勝行勝行
江戸名所図会重泰重泰
新編武蔵風土記稿、南向茶話、続江戸砂子温故名跡志重治勝行 1555年(天文24年)
赤城神社社史重治*1555年、牛込赤城に遷座
牛込氏についての一考察室町時代初期勝行 1555年

神楽から名づけられた神楽坂|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 1. 神楽から名づけられた神楽坂」についてです。

神楽から名づけられた神楽坂
      (神楽坂1から6丁目)
 飯田橋駅九段口の前に立つ。駅すぐ左手に旧牛込見付門跡の石垣の一部が残っている。そこに牛込御門があってその向うが江戸城内だった。
 九段と反対側が神楽坂である。坂を上り、矢来下、戸塚、高田馬場、下井草駅と続く道早稲田通りである。
 神楽坂の地名の由来にはいろいろあるが、江戸城内の田安にあった筑土神社を今の筑土八幡町に遷座する時、この坂の中途で神楽を奏したことからつけられた(改選江戸誌)というのが信じられている。その筑土神社は、戦後飯田町へ移転した。
 このほか、市谷駅近くの市谷八幡の祭礼時、みこしがこの坂で止って神楽を奏する習慣になっていたとか、江戸中期、坂の中ほどで穴八幡祭礼の神楽を奏するしきたりがあったから(江戸誌)とか、若宮八幡の神楽がここまで聞えるからとか、赤城元町の赤城神社の神楽音が聞えたからとか、いろいろある(江戸名所図会)が、神社の神楽と結びついて名づけられたことにはまちがいない。それだけ牛込には神社が多いということを示している。
 江戸時代には、坂に向って左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった。明治になり、早稲田に早稲田大学ができ、今の飯田橋駅九段口に甲武鉄道牛込駅ができると、そこが大学の玄関口となり、神楽坂にはしだいに商店が並んでにぎやかになったのである。
 神楽坂という町名は、以前は外堀通りから上って、大久保通りまでであった。それが、昭和26年5月1日、戦後の発展をめざす神楽坂振興会の音頭とりで、付近6ヵ町を一丸として神楽坂と改称し、赤城神社入口まで、名称が統一されたのである。
九段口 現在は西口。
石垣の一部 旧牛込御門の渡櫓わたりやぐらの土台が残ったものです。
続く道 下図参照。
神楽坂の地名の由来 「神楽坂の由来」を参照
江戸城内の田安 たやす。田安門は九段坂から北の丸に入る門。しかし、筑土神社は一度も城内に入ったことはありません。田安郷(現、千代田区九段坂上)にはありますが。
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現、千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀り「津久戸明神」として創建。室町時代、太田道灌が田安郷(現、千代田区九段坂上)に移転、以降「田安明神」とも呼ばれた。元和2年(1616年)、筑土八幡神社隣接地(現、新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。1945年の東京大空襲で全焼し、1954年、現在の九段中坂の途中にある世継稲荷境内へ移転(住所は千代田区九段北1-14-21)。

改選江戸誌 正しくは「改撰江戸志」。原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

信じられている 現在は信頼度100%のものはありません。
市谷八幡 市谷亀岡八幡宮。市谷八幡町15。文明10年(1478年)に太田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請
穴八幡 穴八幡宮出現殿。西早稲田2-1-11。康平5年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した源義家が当所に兜と太刀を納めて八幡宮を勧請し、東北鎮護の社になった。
若宮八幡 神楽坂若宮八幡神社。若宮町18。鎌倉時代の文治5年(1189年)、源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため、当所で下馬宿願し、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分社した。

神楽坂の名前の由来。築土明神、市谷八幡宮、穴八幡宮、若宮八幡宮

飯田町 飯田町ではなく現在は九段北1-14-21です。
江戸誌 「江戸志」が正しい。別名は「新編江戸志」。寛政年間に作成。ウェブサイトのコトバンクによれば「近藤儀休編著・瀬名貞雄補訂」。改正新編江戸志では(くずし字は私訳)……

市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ

江戸名所図会 神楽坂については以下の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった 正しくは「左側(下)には民家、店舗、寺院、武家屋敷2軒が並び、右側(上)は年貢町屋を除き全て武家屋敷であった」

当時(嘉永5年、1852年)の状況

早稲田大学 前身は「東京専門学校」で、明治15年10月21日に創設。20年後の明治35年9月2日、「早稲田大学」と改称。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
牛込駅ができる 明治27年10月9日、牛込駅が開通しました。
大学の玄関口 現在はJR山手線の高田馬場駅から徒歩20分。東京メトロの東西線早稲田駅から徒歩5分。都バス(学バス)の高田馬場駅から早大正門までバス7分。都電の荒川線早稲田駅から徒歩5分。
 早大正門から神楽坂4丁目までは徒歩約30分。
商店が並んで 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では、もう商店だけです。
大久保通り 戦前、神楽「町」に終わりを告げるのは、大久保通りではありません。また、戦前、神楽坂4−6丁目はなく、あるのは上宮比町、肴町、通寺町でした。終わりを告げるのは、本多横丁と毘沙門横丁です。

昭和16年、牛込区詳細図

赤城神社入口

昭和56年、新宿区史跡地図

牛込駅|史跡パネル②

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル②は「牛込駅」です。写真は6枚、図は2枚、コンピューターグラフィックス(CG)1枚で、日本語と英語で解説しています。

牛込駅

牛込うしごめえき
Ushigome Station

 1894(明治27)年10月9日にとう鉄道てつどうがいせんの新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が開業しました。この牛込駅は翌年4月3日のいい町駅まちえき開業までのわずか半年の間ですが、甲武鉄道の始発駅として活躍していました。
 牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあたりとなります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線快速のあたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。
 駅の改札口は現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、駅のこ線橋から階段で土手どてを上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。その駅舎脇にあった土手の擁壁ようへきが現在でも外濠そとぼり公園こうえん入口の付近にそのままの姿で残っています。一方新宿区側は、牛込見附のばしの脇を埋め立てて道路が塾備され、せきの水路付近に設置された小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
2方向に 正しくは、当初は新宿区側の出口だけで、遅れて跨線橋と千代田区側の出口が出現。(註:牛込駅の通路新設
こ線橋 跨線橋。こせんきょう。鉄道線路の上をまたぐような形で架けた橋。渡線橋。
擁壁 土圧に抵抗して土の崩壊を防止する土止め壁。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 川を横切って流水をせき止める施設。水を取るため、また、水深・流量の調節のため、川の途中や流出口などに設けて流水をせき止める構造物

オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の堰。低いダム

  Ushigome Station opened on October 9, 1894, the same day that Kōbu Railway initiated service between Shinjuku and Ushigome Stations. Before Iidama-chi Station opened on April 3, 1895, Ushigome Station served as the starting station on the Kōbu Line.
  Ushigome Station was located on the portion of present-day Iidbashi Station that extends from Ushigome Bridge in the direction of Ichigaya Station. At the time, portions of the outer moat were reclaimed in order to construct the station house and train tracks. Ushigome Station’s platform was located on the site currently occupied the JR Chuo Rapid Transit Line. In addition, the station house was constructed on the site currently occupied by the JR Chuo and Sobu Local Lines.
  Ushigome Station had two ticket gates. One was located on the present-day Shinjuku Ward side and the other was located on the Chiyoda Ward side. The gate building on the Chiyoda Ward side was constructed facing the road alongside the outer moat’s embankment and could be accessed by a staircase that rose from the Station’s rail bridge and climbed the embankment. A retaining wall from a section of the embankment next to the station house remains in place today in the vicinity of the entrance to Sotobori Park.
  On the Shinjuku Ward side, a road was constructed on land reclaimed from alongside Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Thereafter, Ushigome Station could be reached via a small pedestrian bridge, which was erected near the aqueduct attached to Ushigome-mon Gate’s weir. Today, portions of the foundation that supported the pedestrian bridge remain in place and are visible from Iidabashi Station’s platform and atop Ushigome Bridge.

牛込駅と土橋

 上と同じような写真はありませんが、ただし、三井住友トラスト不動産の写真「牛込駅」の開業が似ています。説明では「写真は明治後期~大正期の撮影で、手前が『牛込駅』の駅舎、その北(写真では上)に『牛込濠』が広がり、その先が『神楽坂』の入口となる。『牛込駅』から『神楽坂』の入口までは『牛込見附』の坂の隣に通路・橋が設けられており、坂を通らないで行き来することができた」

「牛込駅」の開業。三井住友トラスト不動産

 手前の駅舎と牛込濠の間にある立派な瓦屋根の建物は本屋でした。

牛込駅のCG

牛込駅見取り図

牛込駅駅舎

① 写真 牛込駅駅舎

牛込駅。法政大学専門部商科卒業アルバム(1929年3月)所載。牛込駅は1928年11月廃止。HOSEIミュージアム。

写真 現在の牛込駅駅舎跡

現在の牛込駅駅舎跡

2024/09/02の牛込駅駅舎跡

②写真 現在の外濠公園入口

現在の外濠公園入口

2024/09/02の外濠公園入口

牛込駅

③図 跨線橋立体図

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

④写真 関東大震災直後の牛込駅

関東大震災直後の牛込駅

 国立映画アーカイブで、上の「駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族」(映画)が残っています。キャプションは「被災した牛込駅や焼失した車両とともに、無蓋貨車に避難した一家の中に、幼少期の三木鶏郎の姿が写っている」。ひらがなの「うしごめ」の後ろで倒れた家は本屋でしょう。牛込濠の向こう側にある牛込区の建物は無傷に見えます。
 映画の「地割れした牛込駅前の道」のキャプションは「牛込駅とその手前の道に発生した地割れの様子。当時中央本線の駅舎は万世橋駅(煉瓦造)を除いて木造であったが、牛込駅付近は火災を逃れ、駅舎についても焼失ではなく倒壊の被害が報告された」。倒れた本屋が写っています。新宿区側(連絡橋付近)から見た牛込駅です。

⑤写真 連絡橋レンガ擁壁遺構

連絡橋レンガ擁壁遺構

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」(1972年)の「首都圏の鉄道と駅の写真」「駅市谷側」には連絡橋があり、実際に使われていたようです。ただし、この橋は橋脚よりかなり幅が狭く、おそらく牛込駅の現役時代には、もっと幅の広い橋が架けられていて、戦災で橋は焼失し、戦後に管理用の橋が架けられたのでしょう。

 また、「ひとりごと 主に鉄道工事現場・車両改造を観察した内容を紹介するページJR飯田橋駅改良工事(その26)の最後に「余談ですが、濠にちょっと出っ張った部分があります。旧牛込駅の連絡橋の擁壁遺構なのだそうです。草むらで覆われていますがよく見るとレンガ造りの遺構が見えます」と書かれています。

JR飯田橋駅改良工事

JR飯田橋駅改良工事

江戸城外堀跡の案内図|史跡解説板5

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 西口駅舎1階の歩行者空間にある「遺構巡り」は「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」と「江戸城外堀跡 散策案内図」です。

江戸城外堀跡

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡 散策案内図
Edo Castle’s Outer Moat Walking Map

 この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。

大木戸 おおきど。大きな城門。近世、国境や都市の出入り口に設けた関門。
墨引図 「御府内」とは朱引で表し、江戸時代「江戸の市域」のこと。朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、墨引で示された範囲は「町奉行所支配の範囲」

 These two maps indicate the location of historical sites in the vicinity of Iidabachi and Yotsuya Stations. The sites offer vital insights about Tokyo’s history from the early modern to the modern period.
 The map on the left traces the path of early modem Japan’s “Five Routes,” which radiated out in all directions from central Edo’s Nihon-bashi Bridge, and indicates the location of the city’s entrance gates and post stations on its periphery.
 The second map is a jurisdictional map indicating the territories under the authority of the Edo City Governor. It shows that areas inside the Yamanate Line comprised the city center and that the city area extended over a vast space that stretched far east as present-day Kinshicho Station.

江戸城外堀跡周辺案内図

 小さな小さな文字です。でも、神楽坂に関係するものは多くはありません。

神楽坂界隈(Kagurazaka District)江戸時代に武家や神社の街として作られましたが、明治期に料亭に利用され、今も江戸以来の路地が残されています。
善国寺(Zenkoku Temple)1595(文禄4)年に馬喰町で創建、麹町を経て1793(寛政5)年に現在地へ移転しました。神楽坂の毘沙門さまです。
牛込門跡(The Remains of Ushigome-mon Gate)1636(寛永13)年に作られた江戸城外郭門の1つで、1902(明治35)年に大部分が撤去されましたが、現在でも石垣が良好に保存されています。
外濠公園(Sotobori Park)1927(昭和2)年に外堀を埋め立てることにより、土手公園を開設。グランドなどに利用されています。
田安門(Tayasu-mon Gate)上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点で、1620(元和6)年に完成しました。高麗門は江戸城に残る最も古い建築物です。
市谷亀岡八幡宮(Ichigaya’s Kamegaoka Hachiman Shrine)江戸城の鎮守として1479(文明11)に建てられましたが、外堀築造で現地に移転しました。江戸名所として多くの錦絵に描かれました。
江戸歴史博物館(Shinjuku Historical Museum)旧石器、縄文時代等の遺跡から江戸時代の暮らし、明治以降の発展まで新宿区の歴史を紹介しています。
江戸歴史散歩コーナー 東京メトロ市ヶ谷駅構内(Exhibit: Walking Edo’s History/Ichigaya Metro Station Concourse)地下鉄工事で発掘された江戸城の遺構や外堀機築技術が紹介されています。
江戸城外堀跡史跡展示広場(Edo Castle Outer Moat History Plaza)外堀及び四ツ谷駅周辺の歴史を四ツ谷駅構内の展示広場で紹介しています。
市谷門跡(The Remains of Ichigaya-mon)1639(寛永16)年に完成した江戸城外郭門で、1913(大正2)年に石垣撤去され、現在は土橋の石垣のみが残っています。
コモレ四谷(CO・MO・RE YOTSUYA)四谷地域の歴史を紹介する解説版が設置されています。
四谷門跡(The Remains of Yotsuya-mon)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。1903(明治36)年に大部分は撤去され、現在枡形石垣の一部が残っています。
心法寺(Shimpo Temple)心法寺は1597(慶長2)年に創建され、一部が千代田区の文化財に指定されています。
四谷大木戸と水道碑(Totsuya Gateway and Tamagawa Aqueduct Commemorative Monuments)江戸への人や物の出入りを監視するため江戸初期に設置されました。玉川上水の碑とともに大木戸の記念碑が残っています。
四谷見附橋(Yotsuya-mistuke-bashi Bridge)1913(大正2)年に東宮御所(迎賓館)にあわせネオバロック調の意匠で架橋されました。1991(平成3)年現在の橋に架け替えられました。
須賀神社(Suga Shrine)1634(寛永11)年に江戸城外堀が造られた際に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)から移転された稲荷神社が起源で、のちに神田明神の牛頭天王が合祀されました。
外堀普請で移転した寺院(Temples Relocated in Conjunction witk Outer Moat’s Construction)江戸城外堀の工事に伴い寺院が四谷地域に移転し、現在もこの地域に多く立地しています。
御所隧道(Gosho Tunnel)1894(明治27)年に開通した甲武鉄道のトンネルで、東宮御所(現在の迎賓館)を通過することから名が付けられました。現在も利用されています。
喰違(The Remains of Kuichigai Gate)外堀で唯一土塁を組み合わさせた門で、1612(慶長17)年に完成しました。現在も原形を確認できます。
赤坂門跡(The Remains of Akasaa-mon Gate)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。石垣は一部現存し、福岡黒田家の刻印がみられます。

飯田橋周辺案内図

牛込駅(千代田区側)駅舎跡

牛込駅(千代田区側)駅舎跡
 甲武鉄道時代、ここには牛込駅の出入口がありました。
 現在でも、当時作られた駅舎の左右にあった石積み擁壁がそのまま残されており、見ることができます。
The Remains of Ushigome Station
石積み擁壁 高低差のある土地で土砂崩れを防ぐために設置し、石を積んだ壁。

牛込門枡形石垣跡の舗装表示
 かって牛込門の枡形石垣があった位置が自然石舗装で表現されており、その大きさを体感することができます。
Remnants of Ushigome-mon Gate’s Stone Walls
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。

石に刻まれた印

石に刻まれた印
 かつて牛込門の枡形石垣を構成していた石垣石が移設展示されています。
 枡形石垣の整備を担当した徳島藩蜂須賀阿波守の刻印とみられるものが確認できます。
Inscriptions on the Stone

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡散策案内図

散策モデルルート
Aルート:「外堀散策ルート」Edo Castle’s Outer Moat
周囲14kmの江戸城外堀を史跡中心に巡ります。
This walk visits heritage sites along the outer moat’s 14-kilometer periphery
Bルート:「江戸城内ルート」Edo Castle
牛込門から北の丸の田安門を経て旧江戸城本丸跡を巡ります。
Departing from Ushigome-mon Gate, this walk passes through the Northern Citadel’s Tayasu-mon Gate before visiting the remains of Edo Castle’s Inner Citadel.
Cルート:「外堀水辺散策ルート」The Outer Moat Riverside Walk
神田川と日本橋川にある鉄道遺産などを巡ります。
This route visits sites along the Kanda and Nihonbashi Rivers relates to local railroad development.

外堀の工事方法|史跡解説板3

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち3枚目は「外堀の工事方法」で、牛込から赤坂まで、外堀の工事方法の説明です。

工事方法

牛込うしごめ赤坂あかさか間の江戸えどじょう外堀そとぼりの工事方法
The Way to Make the Outer Moat from Ushigome to Akasaka

 牛込から赤坂にかけての外堀のうち、牛込~市谷までは、かんがわこくの地形を利用して造られました。次によつこうじまち付近は、もともと台地の尾根が横切っている地形であったため、台地を掘り込み、赤坂側の溜池ためいけの谷へと結ぶ大工事となりました。この区間の工事は、普請を担う各大名が組を編成し、組毎の掘削土量が一定となるように分担されました。
 外堀は、くいちがいつけが最も標高が高く、さなぼりよりかんがわに向かって堀毎に順に水位が低くなりました。そのため、牛込うしごめもん(飯田橋駅西口)のように外堀を渡る土橋にはせきが設けられ、堀の水位を調整していました。また、自然の谷地形を活かしながらも、じょうかくとしての防御効果を高めるため、現在の千代田区側の台地に土を盛って高いるいを築き、きゅうしゅん土手どてが形成されました。
 江戸城外堀は総延長約14kmをほこり、このうち牛込門から赤坂門までの約4km、面積約38haの堀が国史跡指定されています。史跡区域には、地形を巧みに利用して築かれた外堀が水をたたえる姿や、外郭がいかくもんの石垣、土塁の形態を見ることができます。

普請 家を建築したり修理したりすること。また、道・橋・水路・堤防などの土木工事。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 せき。川の途中や流出口などに設けて、農業用水・工業用水・水道用水などの水を川からとるなどのため、水位を制御する施設。ダムや堤防の機能はない。
城郭 城と外囲い。堀や土塁・石垣などにより,外敵の攻撃を防いだ施設。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
土手 川などがあふれて田地や家屋に流入するのを防ぐために、土を小高く積み上げて築いた長い堤
外郭門 城などの外がこいにある門

  The section of the outer moat located between Ushigome to Ichigaya was constructed by utilizing the topography of the Kanda River valley. In addition, because the Yotsuya and Kojimachi sections of the moat were located on a ridgeline, which cut across the Kanda Plateau, moat construction in those areas required the execution of a large-scale infrastructure project in which sections of the Plateau were removed and the moat was extended to the valley in the vicinity of the reservoir on the Akasaka side. Groups of domainal lords were mobilized to carry out the project and each group was required to remove a predetermined amount of earth from the plateau. The outer moat reached its highest point in the vicinity of Kuichigai Gate.
  From there, the water level gradually lowered as it passed through the channels linking Sanada-bori Moat with the Kanda River. In order to control the flow of water and prevent flooding, weirs were constructed to around gates, such as Ushigome-mon Gate, which were located on earthen bridges. These weirs were then utilized to control the water level in the moat. Furthermore, utilizing the natural topography, large earthen fortifications were constructed by building up sections of the Kanda Plateau on the present-day Chiyoda Ward side of the moat in order to improve the Castle’s defenses. That project resulted in the establishment of a steep embankment.
  Edo Castle’s outer moat boasts a total length of approximately 14 kilometers. The approximately 4-kilometer, 38-hectare section between Ushigome and Akasaka Gates is a designated as a National Historic Site. Visitors to the site can see the ingeniously constructed outer moat filled with water, the stone walls of the Castle’s outer gates, and the shape of its earthen fortifications.

工事方法➀

見附の水位が違う

工事方法②

喰違から弁慶濠を見る

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 石垣の桝形は、各組頭の他に毛利長門守秀就・蜂須賀阿波守忠英・森内記長継・生駒壱岐守高俊・池田勝五郎光仲(溜池櫓台)が担当している。いずれも大大名である。桝形の竣工時期(建築工事を完了する日時)を示した記録は少ない。毛利家の記録には、正月8日に諸家一同で鍬入れを行い、同家の丁場が3月14日に竣工したとある。細川家の場合は、3月27日とある。また、池田家の場合、同家の御船頭である東原半左衛門が伊豆の岩村に行き平田船(石船)に積んで回送するとあり、その後、日付は不明であるが、将軍家光が同家の丁場を巡視した記録が残されている。つまり、3月末前後には、池田家ではまた石垣工事を行っていたのである。この三家に共通しているのは、各々の担当した桝形の竣工日を正確に記されたものではないということである。しかし、竣工日を参考とするならば、各藩の担当箇所による差もあるが、およそ3月前後と考えることができよう。

 つまり、寛永13年(1636)1月8日に工事が始まり、3月14日に終了しています。

江戸城外堀|史跡解説板2

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち2枚目は江戸城の外堀です。写真は日本語と英語で書かれて、諸門の写真や図が18枚、大きい図は江戸城全体図と神田川の地形です。

江戸城外堀

江戸城外堀
The History of Edo Castle Outer Moat

 江戸城は、本丸ほんまる二の丸三の丸西の丸北の丸吹上ふきあげからなる内郭ないかく内堀が囲み、その表門おおもんでした。外堀は、雉子きじばしもんから時計回りに、ひとつばしもんかんばしもんときばしもんなど諸門をめぐり、ふくばしもんからとらもん溜池ためいけから四谷門市谷門牛込うしごめもんを経て、現在のかんがわに入り、いしかわもんから浅草あさくさもんで、すみがわに至る堀でした。外堀工事は、1606(けいちょう11)年に雉子きじばしから溜池ためいけまでの堀を構築こうちく後、1618(げん4)年に駿するだい掘削くっさくされて平川ひらかわ(現ほんがわ)のりゅうに付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川はほりどめばしで締め切られ、独立した堀となりました。
 1636(寛永かんえい13)年には、てんしんで外堀が構築され、江戸のそうがまえが完成します。この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形ますがた築造をまえほそかわいけくろなど西国さいこくざまだいみょう石垣いしがきかた六組ろくくみ)、牛込うしごめばしから赤坂あかさかばしにかけての外堀掘削とるい構築こうちく東国とうこくだいみょう堀方ほりかた七組ななくみ)が行いました。
 その後も幕府は、外堀を維持するために大名の手伝普請による堀さらいをしました。牛込~市谷間の堀は、市谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積し、が繁ったため、しんぎょうの管理下で頻繁ひんぱんにさらいが行われました。また、町人にも堀にゴミを捨てないよう町触まちぶれも出され、外堀の維持・管理が行われました。
本丸 日本の城郭建築で、最も主要な部分。多く、天守閣を築き、周囲に石垣や濠をめぐらし、城主が戦時に起居する。
二の丸 城郭で、本丸の外側の郭。二の丸の大きな役割は最重要の本丸を守護すること。
三の丸 二の丸を守るのが三の丸の主な役割
西の丸 本丸の西のほうに、独立して設けられた区画。将軍の世子の居所や、将軍の隠居所。世代交代をした城主が隠居場所として使うのが基本で、城主の妻や世継ぎとなる子が住むこともあった。
北の丸 城の北側の区画。特に、江戸城の北の丸にあった将軍の正妻の居所をいう。
吹上 元は風が吹き上げる高い所
内郭 城の内側に石などで築かれた囲い。また、その地域
内堀 ないごう。城の内部にある堀。
表門 おもてもん。建物などの表口にある門。正門
大手門 城の正門
雉子橋門 雉子橋門跡は「千代田区景観まちづくり重要物件」指定の地域遺産。千代田区一ツ橋と九段南を結ぶ。家康が朝鮮からの使節をもてなすためのきじをこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来。
一橋門  徳川家康が江戸入国の際に丸木の一本橋を渡したことによる。江戸城の外堀の橋の一つ。雉子橋の東方、神田橋との間の橋で、南詰に一ツ橋御門があった。
神田橋門 千代田区神田と大手町を結ぶ橋。江戸城外濠(日本橋川)にかかる。江戸時代には魚市がたった。
常盤橋門 常盤橋は1590年(天正18)の架橋ともいわれ、江戸でも最も古い橋で、長さ17間(約31m)、幅6間(約11m)と、両国橋が架かるまでは江戸一の大橋だった。その橋に通じるこの門は、江戸城外郭の正門にあたり、桝形ますがた門の形状をよくとどめている。
呉服橋門 中央区八重洲やえす1丁目にあり、外堀通りと永代えいたい通りの交差点にあった。
虎ノ門 江戸城を守る三十六見附門の一つである虎ノ門が置かれた
溜池 東京都港区北部と千代田区の境界にある。江戸時代には外堀の一部で、大池があり、その水は上水に使用されていたが、明治期には埋立てられた。
四谷門 現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口
市谷門 1636年(寛永13年)、美作みまさかやまはん(現在の岡山県)藩主・もり長継ながつぐが築造
牛込門 1636年(寛永13年)、阿波徳島藩(現在の徳島県)藩主はち須賀すか忠英ただてが築造
神田川  東京都を流れる荒川水系隅田川支流の一級河川
小石川門 1636年(寛永13年)、岡山藩(現在の岡山県)藩主池田光政によって築造
浅草門 浅草橋は台東区、中央区の境にある橋。神田川が隅田川に合流する地点にかかり、奥州街道の入り口になる。浅草門は現在の浅草橋の南たもとにある。
隅田川 東部を貫流する荒川の分流
駿河台 徳川家康が江戸入府の際に、駿河から連れてきた家臣団がこの地に居住したからとする説と、富士山が見えたからとする説がある。
掘削 土砂や岩石を掘り取って穴を開けること
平川 神田川の前身。三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発して、かつては河口は大手町1丁目のあたりで、日比谷入江という干潟の海に流れを注いでいた。海水が遡上してて飲料水に不適だった。1620(元和6)年、平川は天下普請の大工事により、それまでの流路を変更し、三崎橋から先は駿河台・秋葉原をへて柳橋より隅田川に流れ込むようになった。
日本橋川 千代田区と中央区を流れる一級河川。江戸時代の天下普請のとき、平川は三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となった。これは飯田堀、飯田川とも呼ばれていた。1903年(明治36年)、市区改正事業があり、埋めた区間を再度神田川まで開削し、神田川の派川として日本橋川と呼ばれるようになる。
流路 川の水が流れる場所
堀留橋 日本橋川に架かり、南堀留橋の上流約120m。九段北一丁目と飯田橋二丁目の間から西神田三丁目に通じる専大通りの橋。昔この付近の日本橋川を堀留川と称した
天下普請 江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事
総構 城以外に城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造
枡形 ますがた。枡のような四角な形。城の一の門と二の門との間にある方形の広場。出陣の際、兵の集まる所。侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
石垣方六組 西国・四国の大名61家は「石垣方」6組に編成して江戸城東方の堀に石垣を築かせた。
牛込土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


赤坂土橋 赤坂御門のこと。土橋とは城郭の構成要素の一つ。堀を掘ったときに虎口前の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
堀方七組 関東・奥羽の大名52家を「堀方」7組に編成して江戸城西方の堀を構築させた。
手伝普請 近世の統一政権(豊臣政権,江戸幕府)が大名を動員して行った土木工事。
堀さらい 水路清掃のこと。
 インド原産のハス科の多年性水生植物。地下茎は「蓮根」(れんこん、はすね)
普請奉行 土木・建築工事において基礎工事を管掌する。
町触 まちぶれ。江戸時代に町人に対して出された法令
喰違 麹町区紀尾井町阪上から赤坂離宮前に出る城門。江戸城外郭門で唯一、石垣ではなく土塁による虎口(城の出入口)
  Edo Castle’s inner hull was comprised of six citadels: the main, second, third, western, northern, and fukiage citadels. The entire inner hull was encircled by an internal moat and Ōte-mon Gate served as its main entrance. The Castle’s outer moat originated at Kijibashi-mon Gate and passed, in clockwise direction, through Hitotsubashi-mon, Kandabashi-mon, Tokiwa-bashi-mon, Gofukubashi-mon, and Torano-mon Gates. It then extended from Castle reservoir through Yotsuya-mon, Ichigaya-mon, and Ushigome-mon Gates before ultimately flowing into the present-day Kanda River. From there. it served as a canal, which passed through Koishikawa-mon and Asakusa-mon Gates and ultimately converged with the Sumida River.
  The outer moat’s development began in 1606 with the construction of a canal from Kiji-bashi Bridge to the Castle reservoir. The second stage in its evolution came in 1618, when portions of the Kanda Plateau were removed and the canal was redirected towards the Hira River. That process gave birth to the Kanda River and transformed the Hira River, which was closed off at Horidome-bashi Bridge, into an independent canal.
  The outer moat was finally completed in 1636, when feudal lords from eastern and western Japan were mobilized to construct its remaining portions. Specifically, western domainal lords, including the Maeda, Hosokawa, Ikeda, and Kuroda Houses, were ordered to supervise the construction of stone walls and the square masugata enclosures used to protect the castle gates along the section of outer moat between Kiji-bashi Bridge and Torano-mon Gate. In constrast, domainal lords from eastern Japan were order to dig a canal between Ushigome-bashi and Akasaka-bashi Bridges and construct earthen fortifications.
  In order to maintain the outer moat, the Tokugawa shogunate mobilized domainal lords from around the country to dredge it. In particular, the section of the moat between Ushigome and Ichigaya required frequent dredging because the water level often receded, resulting in the accumulation of silt on the moat floor and the development of water lilies on its surface. Such dredging projects were carried out under the supervision of the shogunate’s Governor of Construction. In addition, the city authori-ties attempted to keep the outer moat free of debris by issuing official proclamations banning the residents of commoner neigh-borhoods from disposing of garbage in the moat.


四谷門

数寄屋橋門

雉子橋門

市谷門

山下門

一橋門

牛込橋

幸橋

神田橋

小石川門

虎ノ門

常盤橋門

筋違門

赤坂門

呉服橋門

浅草門

喰違

鍛冶橋門

四谷門数寄屋橋雉子橋門市谷門山下門一橋門
牛込門幸橋門神田橋門小石川門虎ノ門常盤橋門
筋違門赤坂門呉服橋門浅草門喰違鍛治橋門

赤坂門:長崎大学附属図書館蔵
Akasaka-mon Gate: “Photo Tokyo Past and Present” Hiroshi Nozawa
喰違:『絵本江戸土産』国立国会図書館蔵
Kuichigai-mon Gate: “Edo Souvenir in Pictures” National Diet Library
そのほか:『旧江戸城写真帖』東京国立博物館蔵
Others: “Old Edo Castle Photo Collection” Tokyo National Museum

江戸城外堀

江戸城全体図zsっっっっっっっっっっd

江戸城全体図

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 61歳で待望の栄冠をにぎった家康、日本最大の実力者となって幕府を開いた。
 ところが、家康は征夷大将軍となってわずか2年で世子秀忠にゆずる。慶長10年(1605)2月24日、譜代、外様の大名10万余の軍勢を率いて江戸を出発し、威風あたりをはらう入京、天下の人々は驚いた。このことは「天下は廻り持ち」の思想を否定し、徳川の子孫が独占することを宣言するためであった。政治的中心が、江戸と大坂という分裂状況を事実上終止符をうち、諸大名にその方向を決定させるのに十分であった。
 天下は徳川のもの、政治の中心となる威容をほこる本城作りに、譜代・外様を問わず天下の大名総力をあげて工事に協力させることが可能となったのである。諸大名も将軍への忠誠を示すために命ぜられるまま城普請にかり出された。
 慶長の天下普請のはじまりである。(略)
慶長11年(1606)の修築工事
(略)この時の工事箇所は、外郭の雉子橋より溜池落口までの石垣の他、本丸石垣、天守台、富士見橋台石垣、虎門石垣などにあたり、天守台を除き5月には竣工する。(略)
慶長12年の修築工事
 この年の修築工事は、前年の工事の未了部分を継ぎ、さらに雉子橋から溜池際に至る東南の外濠を改修することを主目的としている。(略)
寛永13年(1636)の修築工事
 この年の工事は、外郭の修築によって江戸城の総がまえが完成する時である。(略)

寛永期の修築工事

慶長期の修築工事


 修築工事は、石垣方と堀方とからなり、石垣方は西国大名、堀方は東国大名が担当し、石垣工事は、神田橋から桜田にいたる修築と虎ノ門・御成橋門(幸橋門)・赤坂門・喰違門・外糀町口(四谷門)・市ヶ谷門・牛込門・小石川門・筋違門・浅草橋門・溜池台の外郭諸門の桝形、濠の掘削工事は、赤坂から市ヶ谷までの外濠西側を開削することを目的としている。外濠西側の掘削によって東北の神田川に連結し、外郭諸門の築造によって城濠が完成するのである。

神田川の地形

 堀留橋(ほりどめばし)江戸時代の堀はここで終了し、元飯田町堀留と呼ばれた。埋め立ての時期は不明だが、寛文期(1661〜1673年)には堀留(堀で掘り進められない終了地点)になっていたらしい。大正時代の関東大震災の後に復興事業があり、再び架橋した。

飯田橋駅から牛込濠に 令和6年

文学と神楽坂

 朝8時から飯田橋駅2階のモーニングサービスに行くと、そこから牛込濠がよく見えます。時間は令和6(2024)年9月2日ですが、まだまだ暑く、そのため傘を開く人もたくさんいました。

牛込濠

牛込濠

牛込濠

 一番近い店舗は牛込橋のたもとの「アパート・マンション Mini Mini」。あとは右側は外堀通りです。

牛込濠(令和6年9月)
  1. 飯田橋グラン・ブルーム(オフィス・商業棟)
  2. パークコート千代田富士見ザタワー(住宅棟)
  3. 法政大学 市ケ谷キャンパス 外濠校舎
  1. 東京理科大学入試センター(双葉ビル)
  2. 東京理科大学(9号館)10階
  3. 東京理科大学(7号館)10階
  4. 東京理科大学(1号館)17階
  5. ブリティッシュ・カウンシル(英国国際文化交流機関)
  6. 三幸ビル(1階にファミリーマート)
    ——れいざか
  7. 飯田橋レインボービル
  8. 家の光会館
  9. NBCアネックス市谷ビル
  10. (ビルが多く省略)
  11. トーマス体操スクール市ヶ谷校(市ヶ谷科学技術イノベーションセンタービル)(黒いビル)
  12. コモレ四谷(地上31階、地下3階)(遠くに見える黒いビル)

「牛込氏文書 下」江戸幕府まで

文学と神楽坂

 「牛込氏文書 下」は文書6通で、16世紀末と17世紀の世界を扱います。正確には1583年から1636年までです。
 内容は、戦国時代で贈答品を送る風習、牛込勝行が子供に相続すると北条氏はその権利を認め、豊臣秀吉が禁制を出し、徳川幕府で牛込俊重の流罪は赦免される等です。
 一つひとつは歴史の断面に過ぎません。最重要なものとは思えないのに、どうしてこの文書全体や個々の文書が500年以上の間、生きていたのか、わかりません。また「昔の書き言葉」を翻訳して「生き生きした現代の言葉」に変えるのは、特に私にとっては不可能です。最初にくずし字から「楷書」に変換し、知らない言葉を補い、不思議な言葉を訂正し、現在でもわかる言葉に変えるのは、どんな人でもおそらくできません。
 ここでは[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)、[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)を使っています。 また文書の内部と写真は[A]から、表題は[C]から、本文とキャプションは3つ全てから取っています。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

 まず[C]のまとめを簡単に見ておきます。

[C] 牛込氏が牛込の地に移り住んで以降、北条氏網以下四代に仕えました。天正17年(1589)、かねてより真田昌幸と沼田・名胡桃城の領有で争っていた北条氏政が、豊臣秀吉の裁定に背いたことをきっかけに、秀吉は北条氏に宣戦布告し、翌天正18年(1590)小田原へと兵を進めました。伊豆、相模、武蔵、下総国などを領有し、百を超える支城を有した北条氏でしたが、わずか四か月ほどで徳川家康ら多くの大名が動員された豊臣軍に降伏しました。
 小田原攻めの後、家康が関東に入国します。牛込氏の系譜には、牛込勝重が天正19年(1591)に徳川家康に召し出されたとあり、家康の江戸入城後まもなく家康の家臣となったことがうかがえます。その後の関ヶ原の戦い、大坂の陣においても家康に従い、徳川将軍家の旗本となります。
 元和2年(1616)には、牛込俊重が二代将軍徳川秀忠の子である国松(徳川忠長)附けとなりました。しかし、忠長の荒々しい言動が目立ち、寛永9年(1632)忠長は改易、家臣らは流罪となりました。俊重も配流されましたが、寛永13年(1636)に赦免されて再び幕府に出仕します。これ以降牛込家は江戸時代を通じて旗本として、小姓組や書院番、長崎奉行を務める者も輩出しました。

① 北条氏政書状写(牛込氏文書下)年不詳2月3日(堅切紙)

北条氏政書状写(牛込氏文書下)年不詳2月3日(堅切紙)

[A] 北条氏政から牛込宮内少輔(勝行)に宛てた書状の写で、新年の祝儀として鯉・蛤が送られたことに対して礼を述べている。ここでも取次ぎは遠山氏で、遠山氏から別に書状が発給されたことがわかるが、現存しない。氏政の花押判形から、永禄10(1567)年から同13(1570)年までのものと比定される。贈答品の蛤は、既に盛本昌弘氏が指摘する通り、所領の比々谷郷の入江からの上納物、鯉は神田川からの上納物と考えられる。牛込氏の所領支配が、海辺(比々谷郷)と川沿い(牛込郷)の両面を軸に展開していたことを思わせる。
[B] 北条氏政書状写 二月三日 牛込宮内少輔宛
[C] 牛込勝行が新年のお祝いとして鯉、蛤を送ったことに対する北条氏政の礼状。江戸氏牛込氏文書にいくつか含まれる礼状には、鯉や鯛などの水産物を送ったことが記されています。江戸氏と牛込氏は、牛込、日比谷、桜田郷が平川や日比谷の入江に近接していたために、海と川から獲れる水産物を多く贈答していたと考えられます。

② 北条家朱印状写(牛込氏文書下)天正11年6月5日(折紙)

北条家朱印状写(牛込氏文書下)天正11年6月5日(折紙)

[A] (ありません)
[B] 父勝行の譲状のごとく、牛込の内富塚村と日比谷郷の夫銭六貫文を安堵するから、旗本として、忠節をつくすようにとの内容である。牛込平四郎は系図上不明であるが、③号文書との関連からみれば勝重の弟と思われ、知行得分のうちの一部を分与されたものであろう。
[C] 垪和康忠を奉者として牛込平四郎に下された北条家の朱印状。牛込勝行の譲状のとおり子の平四郎に牛込郷富塚村と日比谷郷からの夫銭6貫文を相続する事を認めるとともに、北条家の直属の部隊に加わって動するように命じました。日比谷村の夫銭6貫文は[牛込文書 上]①号文、[牛込文書 上]⑧号文にも記載のある陣夫役(夫銭)に相当します。

③ 北条氏直判物(牛込氏文書下)天正12年9月18日(堅紙)

北条氏直判物(牛込氏文書下)天正12年9月18日(堅紙)

[A] 牛込彦次郎(勝重)に宛てた北条氏直判物の写である。本文と氏直の花押の墨色が同じで全文一筆と思われる。花押のバランスがやや悪く、全体の墨色・筆跡も考慮して写と判断した。
[B] 北条氏直判物 天正12年9月18日 牛込彦次郎宛。勝重に父勝行の知行相続を認めたもの。
[C] 文書袖上部の欠損部は、「父宮内少輔」と考えられ、牛込勝行が子の勝重(彦次郎)に知行と家督を相続することを認めた北条氏直の物。本文書の彦次郎は勝行の嫡子とみられ、②号文書に記載がある平四郎は庶子であったと考えられます。牛込氏の所領は牛込、日比谷村、堀切合わせておよそ180貫文ほどでした。牛込氏の系譜によると、勝行は天正15年(1587)に逝去しています。

④ 豊臣秀吉禁制写(牛込氏文書下)天正18年4月日(堅切紙)

豊臣秀吉禁制写(牛込氏文書下)天正18年4月日(堅切紙)

[A] 豊臣秀吉より「武蔵国ゑハらの郡えとの内うしこめ村」に宛てた禁制の写である。牛込七村と見える唯一の史料だが、七村が具体的にどこを指すのか判然としない。宛所と、文末の「御手印写」の筆跡・墨色が同一なので、共に追筆部と判断される。これと全く同じ内容の禁制写が他にも伝わっている
[B] 豊臣秀吉禁制写 天正十八年四月日 牛込七カ村宛
[C] 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書です。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したものです。ここでは、秀吉軍の現地での乱暴狼籍や放火、百姓らに対する不当な言動が禁止されています。禁制を受け取ることで戦下での安全保障にもなるため、戦国時代には寺社などから申請して代金を支払い発給してもらうことが多くなります。本文書と同様の禁制は相模、武蔵両国に多く発給されており、多くの武士が秀吉方に下ったことがうかがえます。同年7月に北条氏直は降伏しました。

⑤ 石巻康敬書状(牛込氏文書下)(年未詳)5月25日(堅切紙)

石巻康敬書状(牛込氏文書下)(年未詳)5月25日(堅切紙)

[A] 石巻康敬より牛宮(牛込宮内少輔)・伊源(伊丹源六郎)に宛てた書状の写である。年代は未詳で、内容的にも不明な点が多い。牛込氏は城に在番しており、北条氏から受け取った印判状の通りにするように伝えられている。この書状は全文一筆だが、筆勢がやや弱く、文字そのものが判読しづらい。特に署名と花押の部分はその傾向が強く、読めない文字を形で模写したように思われる。よって写と判断した。
[B] 某氏書状 五月廿五日 牛宮・伊源宛
[C] 石巻康敬(彦六郎)が牛込宮内少輔と伊丹源六郎の願い出を取り次ぎ、北条家に認められた旨を記した書状。陣中や城内における竹木の採集の留意点も伝達しています。この時牛込氏が参陣・在番した城は明らかではないですが、「金」(下総国葛飾郡小金・現松戸市をさすか)に馬を運び入れたとあることから、北条氏が下総国葛西城(現葛飾区青戸)へ侵攻した永禄4年(1561)以降と考えられます。康敬は北条氏の評定来などを務めた人物です。

⑥ 太田資宗書状(牛込氏文書下)寛永13年12月14日(切紙)

太田資宗書状(牛込氏文書下)寛永13年12月14日(切紙)

[A] この文書は、裏書にもある通り、牛込伝左衛門(俊重、勝重の次代の牛込家当主)が配流を許された時に、太田資宗より受け取った書状である。これについては、既に越中哲也氏の見解がある。氏は牛込家文書を元に、この文書は寛永9(1632)年の徳川忠長高崎幽閉に伴い家臣達が配流されたが、忠長の大番士の牛込俊重は赦免され、その折りに出されたものとする。これは牛込家で後世に記された記録にのみ確認される。その他『徳川実記』より、元和2(1616)年に牛込三右衛門(俊重)が忠長の大番士となったことは確認できるが、忠長の一件との関わりを示す史料的な裏付けはとれない。しかし、資宗・俊重共に慶長6(1601)年生まれで、資宗が備中守を称するのは後半であることから、時期的に寛永期ごろのものである可能性は高い。
[B] 大田資宗書状 極月十四日(寛永13年)牛込伝左衛門宛
[C] 寛永8年に(1631)徳川忠長(2代将軍徳川秀忠の子)が改易となり、この時忠長に仕えていた牛込俊重は罷免され流罪となりました。本文書は、この流罪を赦免され、再び幕府への出仕の命が下ったことを太田資宗が俊重に伝えた書状です。

2月3日牛込勝行が鯉・蛤を送り
北条氏政がその礼状
1561以降?5月25日北条氏が下総国葛西城に侵攻(1561)
した後で牛込氏などの要望が通った
天正11年15836月5日牛込勝行の子の平四郎が
一部を相続したと北条家
天正12年15849月18日牛込勝行が子の勝重に知行と
家督を相続したと北条家
天正18年15904月日豊臣秀吉が北条氏の本拠地の小田原
へ侵攻し、牛込7村には禁制令
寛永13年163612月14日徳川忠長が高崎に幽閉され、
忠長の大番士、牛込俊重も流罪に。
5年後、赦免され、幕府にまた出仕

「牛込氏文書 上」戦国時代

文学と神楽坂

 「牛込氏文書 上」では16世紀の世界を扱います。細かく言うと1526年から1569年までです。戦国時代で最も戦乱が頻発した時代で、上下の関係ははっきりしてきて、贈答品を送る風習もありました。
 ここでは[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)、[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)を使っています。 また文書の内部と写真は[A]から、表題は[C]から、カラー写真は[C]、本文は3つ全部から取っています。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

 最初に「牛込氏文書 上」をまとめたものを出します。[C]の「武蔵野ふるさと歴史館」です。

小田原衆所領役帳

[C] 江戸氏の後、牛込郷を領有していたのが牛込氏です。前述のように、牛込氏は大胡氏の庶流である大胡重行が北条氏に招かれて牛込の地に移り住んだといわれていますが、江戸氏と牛込氏との関係をあらわす資料は確認できず、両者の出自、関係性については未だ定説に至っていません。
 江戸氏衰退の後、牛込氏が牛込郷を領有していることがうかがえる資料が①号文書です。北条氏が伊豆・相模国の支配を確実に把握すると、大永4年(1524)には武蔵国江戸城、岩付城、河越城などを攻略し、武蔵国支配に乗り出します。北条氏は家臣団を軍事集団ごとに衆として組織し、牛込氏は戦時には江戸城代の指揮を受ける江戸衆の一員とされました。『小田原衆所領役帳』(永禄2年(1559))によれば、牛込氏の所領は牛込、日比谷本郷、堀切 (葛飾郡)だったようです。
 牛込氏は重行のころに牛込に移り住みしばらくは大胡姓を名乗っていましたが、牛込姓を名乗ることを北条氏康に申請し、その許可を得て天文24年(1555)以降は牛込と称しています。牛込氏文書上巻から、牛込氏は北条氏から普請役や戦時の軍事力としても期待され、また恒常的に贈答品を送ることで良好な関係を築いていたことがうかがえます。


① 北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

北条家朱印状写(牛氏文書上)大永6年(1526)10月13日[堅切紙]

[A] 北条氏から牛込助五郎(重行)に宛てた朱印状の写である。牛込氏の初見史料で、比々谷村(現千代田区)の陣夫・小屋夫役を免許されている。
[B] 北条氏綱が牛込助五郎に対し、日比谷村の陣夫と小屋夫の徴用を免除した内容。
[C] 牛込助五郎(重行力)が北条氏に日比谷村から陣夫(戦時中に物資を運ぶために徴用される人夫)役等を徴収することを免許された文書。牛込氏は、大永4年(1524)、北条氏綱が扇谷上杉氏の拠点であった江戸城を攻略した頃に北条氏家臣となったと考えられます。本文書はその後、北条氏が武蔵国支配を進めていくなかで発給した文書です。
陣夫 じんぷ。中世、軍需品の輸送、道橋修理のための労役夫として領内から徴用した人夫。軍夫
免許する ある特定の事を行うのを官公庁が許す。また、法令によって、一般には禁止されている行為を、特定の場合、特定の人だけに許す行政処分

② 北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

北条氏康判物(牛込氏文書上)天文24年(1555)正月6日[折紙]

[A] 北条氏康が牛込宮内少輔(勝行)に宛てて、牛込を本名に名乗ることを認めた判物である。本文と氏康の花押の墨が同じであり、全文一筆と判断され、写の可能性がある。
[B] 勝行に本名を牛込と号すことを許し、宮内少輔を称することを認めたもの。
[C] 牛込勝行からの願い出により、牛込と名乗ることについて北条氏康が許可をした文書。さらに宮内少輔の官途を遣わされています。この後から史料上で勝行は牛込宮内少輔と称されています。戦国大名は分国支配文書のうち、特に所領給与や安堵、特権付与・承認などの永続的効力を付与するべき文書に自らの花押を据えた判物(直状)を発給しました。

③ 北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

北条氏康書状写(牛込氏文書上)(年末)10月27日[竪切紙]

[A] 北条氏康より大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状の写で、「当口之儀」について飛脚が来たこと、「両種」が到来したことへの礼をしている。「当口」「両種」については判然としない。氏康の取ぎは遠山藤九郎(江戸城代遠山綱景嫡子)で、遠山氏からも牛込氏に宛てて書状が出されたことになるが、現存しない。藤九郎が牛込氏の取次ぎを勤めているのは、遠山氏が牛込氏ら江戸衆の指南を勤めていることに起因すると思われる。なお、発給年代は氏康の花押判形より、天文13(1544)年もしくは14(1545)年のものと推定される。
 牛込氏文書のなかには大胡氏宛ての文書があることから、本来「牛込」の呼称は在所名で、本名は「大胡」であったと思われる。この文書によって、天女24(1555)年以降は「牛込」を本名としたことになる。しかし、永禄2(1559)年の奥書を持つ『小田原衆所領役帳』のなかで、江戸衆として牛込・比々谷を領しているのは「牛込」でなく、「大胡」となっている。つまり牛込氏は、その後も公式には「大胡」と認識されていたのである。北条氏の発給文書のなかで、このような内容を持つものは他に類を見ない上、発給する必然性そのものに疑問が残るため、慎重な判断が求められよう。
[B] 氏康は氏綱の子で、天文十年家督した。宛名が大胡であることから、割と早い時期のものである。
[C] 北条氏康が大胡平五郎(牛込勝行力)に宛てた書状。平五郎からの「当口」「両種」に対して賞したことを伝えています。「当口」や「両種」については明らかではありませんが、文意からおそらく平五郎から氏康への贈り物であると考えられます。発給年は不明ですが、②号文書(天文24年(1555))の後に勝行が牛込氏と名乗るようになったことから、その前に発給されたものと推察されます。また、氏康の文書発給開始年と文中に登場する遠山藤九郎の没年を考慮すると、天文7年~17年(1538~1547)間に発給されたと考えられます。

④ 北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

北条長網書状(牛込氏文書上)(年未詳)正月10日[切紙]

[A] 北条長綱より大胡平五郎(勝行力)に出された書状の写で、新年の祝儀として鯉を送られたことに対する礼に扇子を三本送ったことを伝えている。鯉は、先述した北条氏政への新年の祝儀に加えて、北条氏綱からも鯉を送られた礼状を受けており、牛込氏の恒例の贈答品ということになろう。本文書は、切封墨引に勢いがあり、本文の筆跡も含めて原本に忠実な写、いわばレプリカと考えられる。
[B] 長綱はその花押から北条幻庵ではない。
[C] 大胡平五郎(牛込勝行力)が北条長網に正月の祝儀として鯉などを送り、その返礼として長綱から扇子3本が送られました。長網(幻庵)は北条早雲の子息で、北条氏網の弟として北条氏当主に長く仕えた人物です。本文書も発給年は不明ですが、③号文書同様に天文24年(1555)以前であると考えられます。

⑤ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

北条氏網書状(牛込氏文書上)(年未詳)11月13日〔竪切紙]

 ここで「鈴三」や「鈴」(リョウ、レイ、リン、すず)の意味は何なのでしょうか。単純に人の名前? でも、矢島氏は「酒」(シュ、シュウ、さけ、さか)と捉えて、武蔵野ふるさと歴史館は「頸」(キョウ、ギョウ、ケイ、くび)と考えているようです。右の文章は武蔵野ふるさと歴史館のもので、「鈴」の右手に〔頸〕が書かれています。

[A] 北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。普請の後に敵の夜襲があり、これに応戦した牛込氏が、安否を気づかう氏綱に酒を送った。その戦功を氏綱が賞している。しかし、どこの普請なのか、誰との戦いなのか判然としない。花押判形から大永5年以降のものである。氏網の署名は北条姓を伴っており、氏綱が伊勢から北条に改姓したのが大永4(1525)年であることを考えると、かなり早い段階のものの可能性がある。なお、宛所の隣に、後に宮内少輔と改めた旨が追記されている。この追筆部は筆跡が共通することから、助五郎が宮内少輔であるという判断は、後の人間、しかも同一人物の解釈といえる。
[B] 北条氏綱は天文十年七月に没している。敵が夜討をかけたと聞いて心配し、よく用心するよう申しつけたもの。
[C] 北条氏網から牛込助五郎(重行力)に対して送られた書状。普請の後に牛込氏が夜襲をうけ、氏網の心配するところでしたが、牛込氏から氏綱に敵の首が届けられ、安心するとともに牛込氏の働きを評価し気遣っています。北条氏と牛込氏の主従関係がうかがえます。

⑥ 北条氏網書状(牛込氏文書上)(年不詳)11月17日[竪切紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 同じく北条氏綱より牛込助五郎(重行)に宛てた書状の写である。先述したように、鯉を送られたことに対する礼状だが、「猶以御用心儀不可有御油断候」とあることから、前者と同時期に出された可能性がある。両者とも、花押判形から大永5年以降のものである。
[B] 北条氏網書状写 11月17日 牛込助五郎宛
[C] 牛込助五郎(重行力)から北条氏網に送られた鯉に対する礼状。

⑦ 北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

北条家朱印状(牛込氏文書上) 永禄6年(1563)8月17日[折紙]

牛込氏文書から

[A] 牛込宮内少輔(勝行)宛の北条家朱印状である。勝行の中間が合戦で戦死した功として、その子に牛込村の棟別銭一貫四百文を下すこと、末々は足立で田地として遣わし、その節は棟別銭を納めるべき旨を伝えている。この文書に据えられた虎朱印は、朱が薄く、印文も一部が辛うじて判読出来る程度である。寸法もやや小さい。文書全体の行間も他の文書とくらべて狭く、バランスが悪い。内容も、この文書群の中で唯一の感状である。本文として扱うことに検討の余地がある。
[B] 去年、牛込勝行の中間が戦死したが、その忠節に対し、その子供に牛込村棟別銭の内一貫四百文を与える。なお将来は、足立郷において田地を与えるから、その時には、棟別銭の方を以前のように納めるようにという内容である。棟別銭は後北条氏の場合、一軒につき百文ないし50文であった。
[C] 永禄5年(1562)の合戦で牛込勝行の中間(従者)が戦死したことを受け、その子に牛込村の棟別銭1貫400文を下す旨を記した文書。年月日の上に北条氏の虎の印判(「禄壽應穏」)が据えられています。

⑧ 北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

北条家朱印状写(牛込氏文上)永禄12年(1569)閨5月25日[竪紙]

[A] 牛込宮内少輔(勝行)に宛てた北条家朱印状の写で、近年江戸衆の中村次郎右衛門尉(宗晴)に与えていた比々谷の陣夫役6貫文を牛込氏に免許している。この陣夫役は以前重行が北条氏より免除されていたもので(①号文書)、後に陣夫役が賦課され、中村宗晴に下されていたものを、勝行の訴訟の趣旨が認められ再び牛込氏に免許された、ということになる。本書の年代(己巳)は、永禄12(1569)年と推定される。
[B] 日比谷村の陣夫銭を中村氏に付与したところ、郷民から異議が出たので、従来どうりに赦免するという内容。
[C] 日比谷村の陣夫役6貫文について、その徴収権が近年中村右衛門尉に下されていることについて牛込勝行からの詫言を受けて、北条氏から発給された文書。北条氏は勝行の訴えに応じて、日比谷村に対する陣夫役の徴収を改めて勝行に下しました。

大永6年152610月13日北条氏綱は牛込重行(か勝行)による
日比谷村の陣夫・小屋夫を認めた。
大永5年以降?1525以降11月13日北条氏綱は牛込重行を賞し、酒を送った。
あるいは重行は氏綱に敵の首を送った。
大永5年以降?1525以降11月17日牛込重行が鯉を送って、
北条氏綱がその礼状
天文7年~17年?1538~154710月27日牛込勝行力の「当口・両種」が来て、
北条氏康が礼状
天文24年以前?1555以前1月10日牛込勝行力が北条長綱に鯉などを送り、
代わって長綱から扇子3本を送られた。
天文24年15551月6日北条氏康が牛込勝行に
牛込を名乗ることを許可。
永禄6年15638月17日牛込勝行の従者が戦死し、
北条家は従者の子に棟別銭を下した。
永禄12年1569閨5月25日日比谷村に陣夫役の徴収権は
牛込勝行のものと北条家は判断

「江戸氏文書」室町時代

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)「1 牛込の夜明け前 (3)牛込文書と江戸氏」です。この本では『牛込文書』のうち江戸氏の文書7通について解説をしています。年代は1340年から1449年までで、室町時代にあたります。

武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)

牛込文書と江戸氏
 牛込氏の直系の子孫である、牛込本家(武蔵市西久保在住)所蔵の『牛込文書』という古文書が21通ある(東京都文化財)。この文書は中世後期(室町—戦国期)の新宿区域を、最も、具体的で正確に物語っている貴重な史料である。その古い時代のものから番号をつけると、①から⑦までが何故か江戸氏関係のものである。
 江戸氏は平安末期から鎌倉、南北朝時代にかけて、武蔵在地の武士団、武蔵七党の一つ、秩父党の分かれで、秩父重継の代から江戸庄を領として、江戸氏を名のり、代々、鎌倉幕府の家人を務め、その嫡男庶子を各地に配し、「八ヶ国の大福長者」と称されていた。以下、『牛込文書』江戸氏の項を要約すると次の通りになる。
武蔵七党 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。
秩父党 平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つのだま党だが、その中に秩父氏を名乗るグループがあった。例えば秩父孫次郎は北条氏綱による鶴岡八幡宮の再建に協力している。
秩父重継 平安時代末期(11世紀)の武将。武蔵江戸氏初代当主。
江戸庄 「庄」は「庄園」「荘園」ともいい、奈良時代から戦国時代までの中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態。個人が開墾したり、他人からの寄進により大きくなった。鎌倉末期以後、武士に侵害されて衰えた。荘。
家人 かじん。家の人。家族。家臣。らい
八ヶ国の大福長者 八ヶ国とは関東。武蔵国千束せんぞく郷石浜(台東区)に着岸する交通のようしょう。東京湾内の漁船、太平洋海運で航行した西国舟が集まり、水陸交通を通じて富も集中。大福だいふくとは 非常な金持。

 似た文章は他にありまして、武蔵野ふるさと歴史館の「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)です。やはり「江戸氏文書」だけの前書を書いています。

 鎌倉幕府滅亡後、内乱が全国に及ぶと武蔵国でも南朝と北朝による戦乱が起こり、武蔵国の武士も多く参陣し、武功を挙げました。暦応2年(1339)に高師冬が関東執事に任命され、足利義詮の下で北畠顕家の追討にあたります。顕家の関東撤退後、義詮、鎌倉公方足利基氏により関東支配が進められますが、師冬、上杉憲顕の両執事の対立や関東管領畠山国清の追放の後、鎌倉公方 (基氏系譜)を関東管領上杉氏が補佐するという形で関東での内乱は終息することとなります。
 暦応3年(1340)、牛込郷の名が史料上初めて登場します。この時、鎌倉幕府滅亡後に幕府に仕えていた武士の没収地である荏原郡牛込郷の支配を足利方についた江戸近江権守が任されます。また、『鎌倉大草紙』によれば、応永23年(1416)に勃発した上杉禅秀の乱において江戸近江守が参戦し戦功を挙げるも討ち死にしたことが記されています。その後、応永30年(1423)には、豊島郡桜田郷内の沽却地(売地)を江戸憲重が取得します。こうした所領の給与は、戦に参戦し戦功を挙げた際に得られることも多く、中世の武士にとって、主君の戦に従い戦功を挙げることは名誉であり、生きる道でもあったのです。
 江戸氏はその後も代々の鎌倉公方との関係を構築していたようで、足利成氏、政氏にそれぞれ酒樽や鯛などを送っている様子がうかがえます。また武蔵平一揆による江戸惣領家の没落、永享の乱、享徳の乱における江戸氏庶流の鎌倉公方・古河公方方への参陣の様子から、江戸氏の衰退および牛込・桜田郷への支配権の喪失も関東における戦乱の中で起こったものと考えられます。

 では、文書を開いてみます。

「足利義詮御教書」暦応3年(1340)
 時代は室町幕府創設直後、当時の鎌倉府の義詮(尊氏長子)が執事のこうのもろふゆに命じて、江戸氏の所領であるいも郡(現埼玉騎西町)の替地として、荏原郡牛込郷けつ分(所有者のない知行地)を与えたものである。恐らく、鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立期の混乱時に牛込郷は不知行地になっていたのであろう。

 この本文は一瀬幸三氏のものですが、他に[A] 矢島有希彦氏の「牛込家文書の再検討」(『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』昭和45年)と、[B] あれば新宿区役所の「新宿区史」(昭和30年)[C] 武蔵野ふるさと歴史館「江戸氏牛込氏文書」(令和4年)、[D] 新宿区教育委員会「新宿区文化財総合調査報告書(1)」(昭和50年)も加えています。文書①から⑦までの数は一瀬幸三氏の数字です。

① [A] 武蔵国守護の高師冬が鎌倉公方足利義の意を奉じて、江戸近江権守に崎西郡芋茎郷に替えて、闕所となっていた荏原郡牛込郷(現新宿区)を預置くことを通達している。牛込郷の初見史料である。暦応の年号を持つが、全体的な筆勢・花押共に弱い。(矢島氏)

「高師冬奉書」暦応3年8月23日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

① [B] この文書によると、江戸近江権守は今まで持つていた崎西郡芋茎郷が何らかの理由で没収されることになり、その替所として牛込郷が闕所になつていたので、それを足利氏から貰ったことが分る。従つてこれによると、本区牛込がはじめて史上に明文を見、江戸氏の領地になつたことを知るのである。しかし鎌倉時代の節に述べた如く、江戸氏は古くから本区と関係があると思われ、江戸近江権守が牛込を領したのが、江戸氏の本区支配の最初であつたとは思われない。逆に暦応に牛込の闕所地を江戸氏が領したのは、古くから縁故の土地であったためではなかろうか。(略)
 江戸氏が室町時代に於いて足利氏の配下にあったことは「太平記」、「後鑑」に見えるが、更に曆応3年の「牛込文書」によると、江戸氏は高師直の息参河守師冬の配下に属していたのではないかと思う。そうすると師冬は当時下総・常陸にいた南朝の軍と戦っていたのであるから(保暦間記・後鑑)、江戸氏もその軍に加わっていたのではあるまいか。その後、貞和5年に尊氏の息基氏が関東に下り、関東管領となったが、基氏はその時僅か十歳であった。そのため師冬はその補佐にあたっていた。従って江戸氏も亦自然基氏に属することになったらしい。(新宿区史)
① [C] 前年に関東執事に就任し、関東平定を推し進めた高師冬が足利義詮の意を奉じた文書。冬軍には多くの武蔵・相模国の中小武士らが従いましたが、長期の戦闘に疲弊し帰国を希望する者もあったといい、高幡不動本尊像内文書(国指定重要文化財 日野市・金剛寺蔵)には参戦した武士の実態が記されています。江戸氏も冬に従い戦功を挙げたと考えられ、本文書はその際の戦功として牛込郷の領有を認められたものです。(武蔵野ふるさと歴史館)
① [D] 鎌倉公方の足利義詮(尊氏の子)が、執事高師冬に命じて、江戸氏に芋茎郷(現騎西町内)の替地として、牛込郷の欠所分(不知行地)を付与したもの。宛名の江戸氏は庶流で名は不明。牛込郷のみえる最初の史料であり、荏原郡に属していたことも明らかである。(新宿区文化財総合調査報告書)

闕所 けっしょ。中世、没収や、領主が他に移ったりして、知行人のいない土地。闕所地。
預置く 預け置く。あずけおく。人や物を他の人に託して、保管・管理を任せる。

② 「前遠江守打渡状」応永30年(1423)。
③「一色持家書状」応永33年(1426)
 この書からは、当時の幕府管領と鎌倉府の対立状態が鮮明にわかってくる。

② [A] 前遠江守有秀が江戸憲重に対し、施行状の通りに豊島郡桜田郷の沽却地を打ち渡している。発給者の有秀の名字は未詳だが、署名・花押が小さいことから鎌倉府の奉行人クラスの存在と推定される。(矢島氏)

「前遠江守打渡状」応永30年11月21日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

沽却地 こきゃくち。「沽却」は売り払う。売却。沽却された土地。売買の対象となる土地。
② [C] 江戸憲重が桜田郷内の沽却地(売地)を与えられた際の打渡状。室町時代の武蔵国においては、鎌倉公方の命令により遵行を命じる奉書が作成されると、守護・守護代は遵行状(伝達命令文書)を作成しこれを取り次ぎ、遵行使を派遣して知行人に証状として打渡状を交付しました。応永23年(1416)の上杉禅秀の乱後に、足利持氏方についた武士らの還補(何らかの理由で失った土地を取り戻すこと)が認められており、桜田郷は以前から江戸氏が領有していたため、本文書も桜田郷の一部を江戸氏に還補された際のものと考えることもできます。(武蔵野ふるさと歴史館)
② [D] 江戸憲重の買得地である豊嶋郡桜田郷の下地を、江戸上野入道を証人として憲重に沙汰するという内容。(新宿区文化財総合調査報告書)


③ [A] 甲斐守護武田長と鎌倉公方足利持氏の合戦に関わるものである。鎌倉府奉公衆で武田信長討伐軍の総大将であった一色持家が、甲斐国田原(現山梨県都留市)に在陣中の江戸憲重の労をねぎらい、足利持氏に戦功を注進する旨を伝えている。端裏には切封墨引があるが、線に勢いがなく、切封の上に墨を引いた跡というより点を二点打ったような書き方になっている。(矢島氏)

「一色持家書」7月26日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

③ [B] 関東管領の下にあった刑部少輔一色持家から、長い間の在陣の労を謝し、忠節をつくしたことに対する感謝状がある。これが何時のもので、何処で誰と闘つたものか明確を欠いている。(新宿区史)
③ [C] ④号文書と関連する文書で、一色持家が応永33年の武田信長征討における江戸憲重の在陣の労をねぎらい、その忠節を足利持氏に報告するという旨を伝えた文書。持家の注進により④号文書が発給されました。(武蔵野ふるさと歴史館)
③ [D] この年(1426)6月に、鎌倉公方足利持氏は、甲斐の武田信長を攻めるため一色特家を遣わした。この文書は、従軍した江戸憲重の忠節を、持家が持氏に注申すると約束したもの。(新宿区文化財総合調査報告書)

④ 「足利持氏感状」応永33年(1426)。
⑥ 「足利成氏書状」。
⑦「足利政氏書状」。
 ⑥、⑦は共に年末詳。以上の三通の文書から、江戸氏は鎌倉幕府時代から御家人であり、終始、鎌倉府方に属し、やがて、その後引き起された「永享の乱」(1439)にも公方に従い、江戸を離れ、常陸へ移り、自ら衰亡の結果をつくっていった。

④ [A] 足利持氏が一色持家の注進を受けて憲重の田原での戦功を賞している。これは前者を受けて発給されたものである。全文一筆と思われるが、持氏の花押のバランスが悪く、寸法もやや大きい。筆跡も応永期より下ると思われることから、写と判断した。(矢島氏)

「足利持氏感状」応永33年8月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

④ [B] 関東管領足利持氏からの感状がある。多分この二通の文書(③と④)は関係のあるものであろう。そうすると江戸氏が戦っていたのは甲州田原の戦争であったことが分る。(新宿区史)
④ [C] 鎌倉公方足利持氏が江戸憲重に与えた直状。持氏が自らの花押を据えて戦功があった憲重に与えた文書で、直状のなかでも戦功に対する賞を述べるものは感状といいます。「田原陣」は甲斐国都留郡にあった田原郷をさし、持氏に従わない武田信長を一色持家率いる軍勢が征討にあたりました。憲重は持家に従い参戦しており、江戸氏と鎌倉公方との主従関係をうかがうことができます。(武蔵野ふるさと歴史館)
④ [D] 足利持氏も自ら甲斐国田原に出陣し、一色持家の注申に従って、江戸憲重の戦功を賞した。武田長は8月25日に征圧された。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑥ [A] 足利成氏が江戸越後守に宛てた書状で、酒等の贈答品に対する礼を述べている。江戸越後守は憲重・重方の一族と思われるが、実名は判らない。この文書に据えられた成氏の花押はバランスが悪いうえに重ね書きをしていることから、写の可能性がある。(矢島氏)

「足利成氏書状」12月11日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑥ [C] 江戸越後守が酒樽などを贈答したことに対する足利成氏の礼状。成氏は足利持氏の子で、永享の乱により滅亡した鎌倉府を再興した人物です。成氏が対立する関東管領上杉憲忠を殺害したことがきっかけとなり、およそ30年にわたる享徳の乱へと発展します。乱勃発後まもなく成氏は鎌倉を奪われ、下総国古河に拠点を移しました。江戸城などを奪取した上杉氏は武蔵国からも多くの武士を動員しています。本文書は発給年代が不明であり、江戸氏が享徳の乱の最中に上杉と鎌倉・古河公方のどちら方で活動していたかは定かではありません。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑥ [D] 成氏は持氏の子で、康正元年に古河に入り、文明末年まで家督していたのでその間のもの。榼(酒だる)到来の礼状。江戸氏が古河公方に従っていたことを示すものである。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑦ [A] 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状である。この鯛は、憲重・重方が桜田郷に所領があったことから、桜田郷の海辺から納められた可能性が高い。また裏書の記載から、牛込氏の分家に際しては江戸氏文書も分割して相続されていたことがうかがえる。(矢島氏)

「足利政氏書状写」12月9日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑦ [B] 該文書は基氏が江戸氏から贈物をもらつたのでその礼の手紙である。この文書が何時頃のものか年号がないので分らないが、基氏は「後鑑」巻34貞和5年(1349)10月26日の条を見ると、『是月、以将軍家次子亀若丸鎌倉管領、以上杉越後憲顯、高三河守師冬執事』とあって、貞和5年僅か10歳で鎌倉に降り、関東管領となっているから、それから彼が死んだ貞治6年(1367)まで約20年の間のものであろう。(新宿区史)
⑦ [C] 古河公方である足利政氏から江戸越後守の鯛など贈答に対して送られた礼状。政氏は延徳元年(1489)に足利成氏から家督を譲られます。本文書の発給年代は不明ですが、江戸氏が古河公方と主従関係があったことがうかがえます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑦ [D] 政氏は成氏の子。長享2年頃家督し、永正12年まで文書がみられる。鯛到来の礼状。(新宿区文化財総合調査報告書)

⑤ 「江戸憲重譲状」文安6年(1449)。<
clear=”left” /> 江戸氏内部で、所領の桜田郷、牛込郷の一部を憲重から江戸重方に譲渡するという内容であり、江戸氏が牛込の地を領有していたことを示す最後の文書である。

⑤ [A] 江戸憲重が同重方に対し、桜田知行分・牛込郷からそれぞれ5貫文、手作分などを譲り渡す旨を記した譲状である。これより重方は憲重の子息と考えられる。重方は既に文安元(1444)年に牛込赤城大明神(現赤城神社)に大般若経を奉納しており、これ以前から牛込郷の支配に関わっていたと思われる。この文書は全文一筆だが、筆勢・花押ともに大変弱く、写の可能性も否定できない。(矢島氏)

「江戸憲重詫状」文安6年5月15日 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』1970年

⑤ [B] この二つの文書(②と⑤)により、江戸憲重が牛込・桜田の両郷を領有していたことを知る。更に又以上の文書よりして江戸近江権守と江戸憲重は父子か孫の関係ではあるまいか。江戸重通・江戸淡路守・江戸房重・江戸近江権守は同時代の人物と思われるが、「江戸氏系図」にも名前がなく横の関係は分らない。しかしこれ等江戸氏はいずれも一族であり、鎌倉時代の江戸氏の正統を継ぐものであろう。江戸氏は主として、桜田・牛込・浅草を中心とした地域に拠をしめ、その庶流は室町初期の頃までには更に拡がっていたらしい。(新宿区史)
⑤ [C] 江戸憲重が江戸重方に桜田知行分と牛込郷からそれぞれ5貫文と手作(直営の耕作地)等を譲与する旨を記した文。重方は、文安元年(1444)には牛込郷の鎮守である赤城神社(現新宿区早稲田鶴巻町)に大般若経600巻を奉納しており、この頃には牛込郷の知行にも関わっていたと思われます。そのため重方は憲重の嫡子と考えられます。(武蔵野ふるさと歴史館)
⑤ [D] 江戸憲重が知行地の全部を重方に譲与するというもの。とくに桜田郷の内の年貢五貴文と牛込郷の内の年責五貫文とが中心であり、このほか手作地(屋敷まわり)なども重方に譲与するというもの。年貴高反当り500文として、両郷で二町の土地になる。(新宿区文化財総合調査報告書)

 以上、7通の解説を読んでみました。①②⑤は領有地に関する問題で、他は戦功の感謝や酒や鯛を送ったことに対するお礼です。

暦応3年13408月23日① 鎌倉公方足利義詮は北埼玉芋茎郷の替地として江戸氏に牛込郷を付与。
応永30年142311月21日② 江戸氏が桜田郷を領有していたことが判る。
応永33年14267月26日③ 一色持家から江戸憲重氏の忠節を足利持氏に報告する。
応永33年14268月11日④ 関東管領足利持氏から武田氏との戦で江戸氏は感状を貰う。
文安6年14495月15日⑤ 江戸氏が桜田郷のほか牛込郷を領していた。
12月11日⑥ 足利政氏から江戸越後守に宛てた、鯛などの贈答品に対する礼状
12月9日⑦ 足利成氏が江戸越後守に贈った酒等の贈答品に対する礼

牛込の夜明け前。牛込要図。「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、昭和62年)(緑色は当方の追加)

箪笥町(写真)ID 18243 平成26年

文学と神楽坂

  新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18243は平成26年(2014)に箪笥町などを撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18243 牛込神楽坂駅。箪笥町から牛込神楽坂駅を望む

 左手前は牛込区役所・牛込生活館のあった場所で、現在は箪笥町特別出張所、牛込箪笥区民ホール、牛込箪笥地域センター(集会室など)が集まる区民施設です。ここには地下鉄大江戸線「牛込神楽坂駅」のA1出口があります。

 左手の先には「グローバル新神楽坂」(地上12階)、「パークハウス牛込神楽坂」(地上13階)、「キッチンコート神楽坂店」と続きます。
 右手には「日米Time24ビル」(地上10階、地下1階)、「アーバンライフ神楽坂」(地上8階)、「山文ビル」(地上10階)、白色と緑色が印象的な「ルネ神楽坂」(地上17階)があります。

兵庫横丁(写真)ID 18242と18400 平成26年と平成27年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18242は平成26年(2014)に、ID 18400は平成27年(2015)に、軽子坂を登ってから(あるいは材木横丁和泉屋横丁から)兵庫横丁に入る直前に撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18242 神楽坂から南方向を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18400 神楽坂から南方向を望む

兵庫横丁 住宅地図 平成29年

 正面の高いビルはオザワビル(地上7階、地下1階)で、その右側は神楽坂テラス(地上7階、地下1階)、ID 18400では最右側に「神楽坂アインスタワー」(地上26階)も見えます。
 左側の前はイタリア料理の「リストランテ ラストリカート 神楽坂」。次の「神楽坂おいしんぼ」は良く見えませんが、ID 18400では店の前にスタンド照明が出ています。その奥の角が「旅館 和可菜」です。
 右側の建物は前から「神楽坂AGEビル」「オフィス万り八仙」「料理幸本」で、ID 18400では「神楽坂 幸本」「やくら」「八仙」と料理店名も出ています。

神楽坂下交差点(写真)ID 18399 平成27年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 18399は、平成27年(2015)、牛込橋近くから神楽坂通りや外堀通りなどを撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18399 牛込橋から神楽坂通りを望む

 四つ角の信号機には「神楽坂下/Kagurazaka shita」の表示があり、その後、この英文は「Kagurazaka-Hill」に改められました。東京オリンピック(2020年予定)や外国人観光客の増加に備えた政令改正に基づく措置のようです(ID 17576 )。
 左右の道路は外堀通り、前後の道路は早稲田通りです。
 街灯は平成15年(2003)に6角形の2灯用ランタンから逆ピラミッドの街灯に変わりました。また、電線が地中化し、歩道はブロック(インターロッキング)で舗装しています。
 周辺には街路樹(落葉樹)と足元の植栽があり、木々は裸木です。歩行者の衣服について半袖も完全な冬用もなく、3月か11月でしょうか。

神楽坂1丁目(平成27年)
  1. CANAL CAFE/boutique(カナルカフェ)
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 標識 終わり(終わり)(最高速度30km)(駐車禁止)
  4. 外堀通り
  5. STARBUCKS COFFEE。トレードマーク。(喫茶店)
  6. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  7. モスバーガー。屋上広告「M/モスバーガー」「↓ この下」
  8. 屋上広告「駅前留学 NOVA/こども駅前留学 NOVA KIDS」「神楽坂 翁庵」「ラーメン/一風堂/Uターン/徒歩3分/飯田橋サクラテラス店」「M すぐ」「まんが喫茶ゲラゲラ このビル4F」「神楽坂 吉5F」「まんが喫茶ゲラゲラ 4F」青い看板「きそば/翁庵」黄色の看板(会田ビル)
  9. 屋上広告「いちごナビ 15 Navi」
  1. 街灯に旗「神楽坂」
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 外堀通り
  4. アパマンショップ。アパマンショップ(不動産仲介業)
  5. りそな銀行/りそなクイック入金
  6. (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」 (車両進入禁止)
  7. 巨大標識板▶(一方通行)12ー24
  8. 「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」
  9. 「ドトールコーヒー/DOUTOR」
  10. カグラヒルズ 「MacDonald’s」
  11. 「地球最大 セガ神楽坂」

牛込濠(写真)遠景 ID 19340 令和1年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 19340は令和元年(2019年)、新見附橋から牛込方面などを撮影した写真ですが、ID 486と比べると、撮影位置は外濠公園(土手公園)付近でしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 19340 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右からJR中央・総武線、静寂な牛込壕、並んだ桜の裸木、その奥に外堀通りがあります。建物では……

ID 19340から

ID 19340から


A 市ヶ谷エスワンビル。看板は「(en)a 日比谷高 26名/西高 46名/国立高 69名/(エスワン)ビル」
B ヤマト運輸 市谷砂土原センター
C 油井工業所(護國園)
D 丹京ビル 慧修会 看板は「広告募集中」
E 丹京
F サクラテラス
G Nicco Corporation(日興)
H セルフ市ヶ谷店 看板は「油」(ガソリンスタンド)
J ギャラリーパウゼ

1 船河原マウントロイヤル(マンション)
2 アンスティチュ・フランセ東京(現在は「東京日仏学院」に復帰)
3 神楽坂アインスタワー(地上26階)
4 NBCアネックス市谷ビル(地上12階)
5 家の光会館(地上7階)
6 飯田橋レインボービル
7 三幸ビル
8 研究社センタービル
9 東京理科大学1号館(地上17階)
10 東京理科大学7・9号館
11 東京理科大学入試センター双葉ビル

令和2年 住宅地図

神楽坂下交差点(写真) ID 18239 平成26年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 18239は、平成26年(2014)、牛込橋方面から神楽坂の写真を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18239 牛込橋から神楽坂通りを望む

 四つ角の信号機には「神楽坂下/Kagurazaka shita」の表示があります。英文表記は後に「Kagurazaka-Hill」に改められました(ID 17576 )。左右の道路は外堀通り、前後の道路は早稲田通りです。
 牛込橋周辺には街路樹(落葉樹)と足元の植栽があり、右側の落葉樹は新芽が生えるようです。
 街灯は平成15年(2003)に6角形の2灯用ランタンから逆正4角錐の街灯に変わりました。また、電線が地中化されています。
 歩道はブロック(インターロッキング)で舗装されていて、道路は「歩行者(用道路)」として歩行者天国になっています。歩行者の衣服はどれも冬用です。カグラヒルズの広告が3月20日のイベントを告知しているので、平成26年2月から3月初め頃の撮影でしょう。

神楽坂1丁目(平成26年)
  1. ▶街灯に旗「神楽坂」
  2. (カナルカフェ)
  3. (歩行者横断禁止)(区間内)
  4. 標識 終わり(終わり)(最高速度30km)(駐車禁止)
  5. 外堀通り
  6. STARBUCKS COFFEE。トレードマーク。(喫茶店)
  7. ▶「神楽坂下」交差点。(歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」(駐車禁止)
  8. エイブル(不動産会社)
  9. モスバーガー。屋上広告「MOS BURGE R」「◯バーガー」
  10. 屋上広告「駅前留学 NOVA/こども駅前留学 NOVA KIDS」「広告募集 03-5◯74」「M すぐ」「神楽坂 翁庵」「まんが喫茶ゲラゲラ このビル4F」「神楽坂 吉5F」青い看板「きそば/翁庵」黄色の看板(会田ビル)
  1. 街灯に旗「神楽坂」
  2. (歩行者横断禁止)(区間内)
  3. 「(東京)大神宮/靖國神社/←」
  4. 外堀通り
  5. アパマンショップ。「おかげ様/全国売上」アパマンショップ(不動産仲介業)
  6. ▶ (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」 (車両進入禁止)
  7. 巨大標識板▶ (歩行者専用)「自転車を除く/12-13/日曜休日は/12-19」
  8. 「薬ヒグチ」
  9. 「(山田)紙店」
  10. 「ドトールコーヒー DOUTOR」「BOOK・OFF」「→2◯Om」「J Soul Brothers/2014.1.1発売」「J Soul Brothers/2014.1.1発売」
  11. カグラヒルズ デジタルサイネージ「PS3 ソニコ星」「KADOKAWA 3.20 in Store」「(カラ)オケの鉄人 11:00~AM/6:00」「MacDonald’s/まんま/カラオケの鉄人 3F」
  12. 「坐2F」

牛込濠(写真)遠景 ID 19041 令和3年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 19041は令和3年(2021年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 19041 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線、静かな牛込壕、樹木で隠れた外堀通りがあります。建物では……

ID 19041から

1 「東京理科大学5号館」
2 「双葉ビル」(地上4階)看板は「日刊大衆 週刊大衆 アクション」「ポケチュー」
3 「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
4 「ヒルズ砂土原」(地上5階、地下1階)
5 「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)看板は「都立中高に/圧倒的実績/ena/◯◯200◯◯◯◯/◯◯◯◯」
6 「東京日仏学院
7 「あずさセンタービル」か?
8 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)」
9 「家の光会館」(地上7階)
10 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
11 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階)
13 「東京理科大学1号館」(地上17階)

ID 19041から

14 「東京理科大学7・9号館」
16 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下2階)
17 「揚場ビル」(地上10階)
18 「第一勧銀稲垣ビル」(地上8階、地下2階)(青い塔屋は「MIZUHO」)
19 「福升ビル」(地上8階)
20 「住友不動産飯田橋ファーストビル」(地上14階、地下2階)
21 「住友不動産飯田橋ファーストビル」
22 「五洋建設
23 「後楽鹿島ビル」(地上12階、地下1階)
24 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)
25 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」南棟(地上20階)
26 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」北棟(地上16階)
27 「首都高速道路5号線(池袋線)」

牛込濠(写真)遠景 ID 18566 平成29年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 18566は平成29年(2017年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18566 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右側は千代田区富士見二丁目の高台だけが見えます。さらにJR中央・総武線と静寂な牛込壕、樹木で隠された外堀通りがあります。建物は……

ID 19041 から

1 「龍生会館」(いけばな龍生派本部会館)
2 「東京理科大学5号館」
3 「双葉ビル」(地上4階)看板は「週刊大衆」と「クレヨンしんちゃん」
4 「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
5 「ヒルズ砂土原」(地上5階、地下1階)
6 「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)
8 「市ヶ谷エスワンビル」。一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」
9 「東京日仏学院
11 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
12 「油セルフ セルフ市ヶ谷SS」ガソリンスタンド
13 「家の光会館」(地上7階)
14 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
15 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階)
17 「東京理科大学1号館」(地上17階)

ID 19041 から

18 「東京理科大学7・9号館」
19 「神楽坂一丁目ビル」
20 「揚場ビル」
21 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」
22 「第一勧銀稲垣ビル」(青い塔屋は「MIZUHO」)
23 「飯田橋升本ビル」
24 「福升ビル」
25 「飯田橋ビル」
26 「安田ビル」(赤いビル)
27 「飯田橋ラムラ(RAMLA)」
28 「CANAL CAFE」

牛込濠(写真)遠景 ID 18548 平成28年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18548は平成28年(2016年)1月27日、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18548 新見附橋から飯田橋方面を望む

 右下にはJR中央・総武線の線路があり、中央線の快速電車が走っています。牛込壕があり、左には樹木で隠れた外堀通りがあります。

 右側からの建物は……

ID 18548から

1 「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)
2 「飯田橋プラーノ」の住宅棟「プラウドタワー千代田富士見」(地上38階)と
3 「飯田橋プラーノ」の事務所棟「ステージビルディング」(地上17階)
4 「東京都立中央・城北職業能力開発センター 人材育成プラザ」
5 「警視庁飯田橋庁舎」
6 「住友不動産後楽園ビル」(地上20階、地下2階)
7 セントラルプラザ「ラムラ」の北棟(地上16階)と南棟(地上20階)

 左側からの建物は……

ID 18548から

1 「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
2 「家の光会館」(地上7階)。
「油」は「油セルフ セルフ市ヶ谷SS(ライフ白銅)」
3 「飯田橋レインボービル」(地上7階)
4 「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階 )
5 「ブリティッシュ・カウンシル」語学学校
6 「東京理科大学1号館」(地上17階)
7 「東京理科大学7・9号館」
8 「東京理科大学入試センター双葉ビル」
9 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
10 「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)

 中央は……

ID 18548から

1 「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
2 「揚場ビル」の塔屋看板
3 「揚場ビル」(地上10階)
4 「飯田橋ビル」(地上11階、地下1階)
5 「飯田橋中央ビル」(地上8階、地下1階)
6 「安田ビル」(地上8階)
7 「ファーストヒルズ飯田橋」(地上14階)
8 「五洋建設ビル」(地上13階、地下1階)
9 「エトワール飯田橋」(地上10階)
10 「CANAL CAFE」


源頼朝の伝説がある行元寺跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 7.源頼朝の伝説がある行元寺跡」についてです。

源頼朝の伝説がある行元寺(ぎょうがんじ)跡
      (神楽坂5ー6から7)
 毘沙門様を過ぎて右手に行く路地の奥一帯に行元寺があった(明治45年7月品川区西大崎4-780に移転)。
 新宿区内では古く建ったようであるが創建時代は不明である。総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。その門の両側に南天の木が多かったので南天寺と呼ばれていた
 源頼朝が、石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣容を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたというが、この伝説は信じがたい。
 この寺は、牛込氏が建立したのではあるまいか。そして後述するが、牛込城の城下町だったと思われる兵庫町の人たちの菩提寺でもあったろうし、古くから赤城神社別当寺ともなり、宗参寺建立以前の牛込氏菩提寺だったのではあるまいか(1113参照)。
 天正18年(1590)7月5日、小田原城の落城時には、北条氏直(氏政の子で、家康の女婿、助命されて紀伊の高野山に追放)の「北の方」がこの寺に逃亡してきた。寺はこの時応接した人の不慮の失火で火災にあったということである。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像できよう。
〔参考〕南向茶話 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治45年7月 明治45年ではなく、明治40年が正しく、明治40年の区画整理で行元寺は移転しました。
品川区西大崎4-780 現在は、品川区西五反田4-9-10です。
創建 建物や機関などをはじめてつくること。ウィキペディアでは「創建年代は不明である。①源頼朝が当寺で戦勝祈願をしたため平安時代末期以前から存在するとも、②太田道灌が江戸城を築城する際の地鎮祭を行った尊慶による開山ともいわれている」
 一方『江戸名所図会』では③「慈覚大師を開山とすと云ふ」と説明します。慈覚大師(円仁)とは平安時代前期の僧で、遣唐使の船に乗って入唐し、帰国後、天台宗山門派を創りました。実証はできませんが、この場合、開基の時期は9世紀末です。
総門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
中門 外郭と内郭を形づくる築地塀や回廊などがあるとき,内郭の門は中門である。
南天の木 ナンテン木の異称(下図を)

南天寺と呼ばれていた 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古は大寺にて、惣門は牛込御門の内、神楽坂は中門の内、左右に南天の並木ありし故、俗に南天寺と云しとなり」
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府の創立者。征夷大将軍。
石橋山 神奈川県小田原市の石橋山の戦場で、源頼朝軍が敗北した。平家の大庭景親や伊東祐親軍と戦った。

安房 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。安房国は最も南の国。
武蔵 武蔵国。むさしのくに。七世紀中葉以降、律令制の成立に伴ってつくった国の一つ。現、東京都、埼玉県、神奈川県川崎市、神奈川県横浜市。

千手観世音 せんじゅかんぜおん。「観世音」は「観世音菩薩」の略。慈悲を徳とし、最も広く信仰される菩薩。「千手」は千の手を持ち,各々の手掌に目がある観音。
襟かけ 掛けえりの一種。襦袢(じゅばん)の襟の上に飾りとして掛けるもの。
この伝説 酒井忠昌氏の『南向茶話』(寛延4年、1751年)には「問日、高田馬場辺は古戦場之由承伝侯……」の質問に対して、答えの最後として「牛込の内牛頭山行元寺の観音の縁記にも、頼朝卿之御所持之仏にて、隅田川一戦の後、此地に安置なさしめ給ふと申伝へたり。」
 また、島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古右大将頼朝石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給う折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きし霊夢を蒙し給ひしより、東八ヶ国諸侍を頼朝幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。」
牛込氏が建立したのでは つまり、牛込氏が建立したという仮説④が出ました。
兵庫町 ひょうごまち。起立は不明で、豊島郡野方領牛込村内にあった村が、町屋になったという。はじめ兵庫町といったが、当時から肴屋が多かったという。
菩提寺 ぼだいじ。先祖の位牌を安置して追善供養をし、自身の仏事をも修める寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
別当寺 江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺。
宗参寺 そうさんじ。新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)、重行の嫡男牛込勝行が建立した。
北条氏直 戦国時代の武将で、氏政の長男。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、3か月に及ぶ籠城のすえ、降伏した。高野山で謹慎。翌年許されたがまもなく大坂で死没。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
不慮の失火で火災 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)と同じで、「天正年中に小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に来らる時に、饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」。なお、饗応は「酒や食事などを出してもてなすこと」です。

築土城|日本城郭全集

文学と神楽坂

 『日本城郭全集』(人物往来社、1967)では新宿区にある城として3つしか載っていません。牛込城、南北朝時代の早稲田の新田陣屋、そしてこの築土城です。

つく   新宿区築土八幡町
 築土城は築土八幡町の築土八幡宮の地にある。『南向茶話』、『江戸往古図説』などによれば、上杉管領時代の砦の跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祀ったものだという。
 『江戸名所図絵』には、管領上杉時代のの跡で、時氏が弓矢をもって八幡宮に勧進したもので、文明年間(1469一86)上杉朝興(扇谷)が社殿を修飾して、この地の土産神としたとある。しかし、管領上杉家に時氏という人物はいない。おそらく、『江戸名所図絵』の編者斎藤月岑が「上杉時代」というのを「上杉時氏」と書き誤り、時氏を城主の名前と誤解したのではないかと考えられるのである。
 築土城の存続期間は不明で、軍記類にもその名を見ない。思うに長禄元年(1457)、江戸城が築かれる以前の、一時的な砦であろう。八幡宮は現存しているが、付近には砦の遺構は何一つ残ってはいない。
(江崎俊平)

南向茶話 酒井忠昌氏の『南向茶話』(寛延4年、1751年)は江戸の地誌で、

扨又当所八幡の地は、往古上杉管領時代の塞の跡にて、其城主の弓矢を以て祭ると申伝ふ
江戸往古図説 大橋方長氏の「江戸往古図説」(寛政12年、1800年)では
往古上杉官領時氏砦の跡成其城主の弓矢を祭る處
上杉管領 関東管領かんれい。室町幕府の職名。鎌倉公方の補佐役で、上杉憲顕のりあきが任ぜられて以後、その子孫が世襲した。
江戸名所図絵 江戸名所図会(斎藤月岑、1834~36)では
その後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき社壇を修飾し、この地の産土神うぶすなとすといふ。 ふみにいふ、当社の地は往古そのかみ管領上杉時氏の塁の旧跡にして、時氏のゆみを以って八幡宮に勧請なし奉ると云々
 とりで。土をかさねて築いた小城。
上杉朝興(扇谷) 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
土産神 産土神。うぶすながみ。生まれた土地の神。
斎藤月岑 さいとうげっしん。江戸末期の著述家。江戸神田の名主。著作は「江戸名所図会」「武江年表」「東都歳事記」「声曲類纂」など。

牛込見附(写真)石垣 ID 18224-25 令和6年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18224-25は令和6年(2024年)、飯田橋駅西口テラス階から見た牛込見附の石垣などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18224 飯田橋駅から見た牛込見附の石垣

 ID 18224の奥の右側から見てみると、プラットフォームとJRの線路があり、奥の中央には巨大な石垣と、その奥を歩く通行人たちがいて、白く輝いているのは「牛込見附公衆便所」です。
 この石垣は江戸城の外郭門である牛込見附の1部です。ここで「見附」とは「防御のために城の入口に設ける四角形の空地(ますがた)がある門」です。石垣の手前は道路に沿って、植栽が並んでいます。
 ID 18224の中央に牛込橋があり、道路は「早稲田通り」、左に行くと千代田区、右は新宿区です。道路標識は (歩行者通行止め)です。
 写真手前の右端は飯田橋駅西口駅舎に続く階段。階段の脇にはエレベーターに続く通路があります。その左は石垣が2段になっていて、段差の部分に石塀と青白の石碑があります。
 かつて石垣はツタに覆われ、上部には木が生えていました(ID 9810)。これらは綺麗に除去されています。千代田区は次のように説明しています。

牛込門石垣について
石垣上部の雑草の繁茂を防ぐため、
・東側の石垣上部には「防草砂」で、
・西側の石垣上部には「モルタル」で、
それぞれ舗装している

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18225 飯田橋駅から見た牛込見附の石垣

 ID 18225ではさらに左向きになって写真を撮っています。左端には緑色の囲いがあるのは、飯田橋駅から写真左側への新たな通路の公示のためでしょう。石垣の奥の2階建ての白い建物は「麹町警察署飯田橋駅前交番」です。最も左の奥は「日本基督教団 富士見町教会」で、わずかに「飯田橋サクラテラス」が見えています。
 なお、現在の牛込見附について、側面には再びツタが生えてきています。

2024

2024年9月

飯田橋(写真)駅ホーム ID 18226 令和6年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 18226は令和6年(2024年)、飯田橋駅ホームから見た外堀などを撮影しました。以下は地元の方の解説です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18226 令和6年

 写真下から順に見ていきます。

ID 18226から

 手すりの手前はJRの線路敷きです。小さな四角い石が並んでいるのは、鉄道の通信線などを収容するトレンチ(側溝)。手すりの間の大きな四角は、西口の旧駅舎を支えていたコンクリート脚を撤去した後です。
 その奥の一段、下がったコンクリート部分は牛込濠から飯田濠へ流路(どんどん)の護岸部分です。この構造は、駅改築前のID 8267やID 8286に、わずかに写っています。
 写真に戻って、中央の緑の水面が飯田堀。右の石垣は、飯田堀再開発の埋め立て地です。左奥は飯田濠の水を下流の神田川に流す暗きょの入り口。
 中央の橋は、牛込橋の土堤と飯田濠の埋め立て地を結ぶ「みやこばし」です。手すりは金属製で、細かな透かし模様があります。
 写真右上、右側のセントラルプラザの「ラムラ」には「RAM(LA)」の丸屋根、「TOMAS」「Can★Do」「日産レンタカー」「伸芽会」「北海道」などの壁面看板があります。その向こうは外堀通りを挟んだ「神楽坂一丁目ビル」です。
 この付近を令和4年(2022年)に撮影した写真があるので、以下添付します。わずかの間に手すりなどが整備されています。

飯田堀の開渠部(2022年)

牛込濠(写真)遠景 ID 17002-04 令和4年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 17002-04は令和4年(2022年)、新見附橋上から牛込方面や飯田橋方面などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID17002 、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17003、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17004、新見附橋から飯田橋方面を望む 令和4年

 右側は千代田区富士見二丁目の高台と「パークコート千代田富士見ザ タワー」(地上40階、地下2階)だけが見えます。左側を見ていくと、JR中央・総武線があり、牛込壕は透明で、樹木の間に外堀通りがあります。外堀通り周辺の建物は低層ですが、その理由は、大久保通りと同じで都市計画による拡幅が予定されているためです。

ID 17002から

ID 17004から

A「パークハウス市谷田町」(地上12階)
B「東京理科大学5号館」(地上5階)
C「神楽坂アインスタワー」(地上26階)
D「市ヶ谷エスワンビル」(地上9階、地下1階)
E「市ヶ谷エスワンビル」1階に「肉のハナマサ 市ヶ谷店」看板「ena」
F「NBCアネックス市谷ビル」(地上12階)
G「家の光会館」(地上7階)
H「神楽坂外堀通りビル」(地上10階、地下1階 )
I「東京理科大学1号館」(地上17階)
J「住友不動産飯田橋ファーストタワー」(地上34階、地下3階)
K「飯田橋ラムラ(RAMLA)」(地上20階)

1「東京日仏学院
2「油セルフ セルフ市ヶ谷SS」ガソリンスタンド
3「飯田橋レインボービル」(地上7階)
4「東京理科大学8号館」
5「ブリティッシュ・カウンシル」語学学校
6「東京理科大学7・9号館」
7「東京理科大学入試センター双葉ビル」
8「神楽坂1丁目ビル」(地上8階、地下1階)
9「飯田橋升本ビル」など。ビル越しに「みずほ銀行」の看板

坊主から医者に|宮武外骨

文学と神楽坂

宮武外骨

 『宮武外骨之著作集』5 (変態知識)上(半狂堂、大正13年。太田書房、昭和47年)国立国会図書館デジタルコレクションです。
 宮武みやたけ外骨がいこつ氏は明治中期から昭和にわたって活躍したジャーナリストで、明治20年『頓智協会雑誌』に帝国憲法を風刺して発禁、不敬罪で投獄。川柳、江戸風俗、明治文化などを研究し、昭和2年には東大明治新聞雑誌文庫の初代主任に。「外骨」は本名。生年は慶応3年1月18日(1867年2月22日)、没年は昭和30年7月28日。89歳。

 女郎買の為に坊主が医者に化け
 江戸時代の坊主が女郎買に行く時は、医者の姿に変装したものである、と云う事を知らないでは「医者は医者だが薬箱持たぬ成」の句義を解し難い。そしてこの化け医者の句は数十あるが、その中の面白いのを抜いて講義する。
  舟宿へ来て狼も医者に化け
  中宿出家這入ると医者が出る
 狼とは衣を着た狼、破戒僧、変装は中宿へ来ての事である。
  羽織着たこと人に語るな穴賢
  長羽織袖に衣の癖が出る
 コロモを脱いで長羽織に着換えたのである。「中宿からは手を長くして通い」というのも、コロモの両袖に手を隠すのでなく、羽織を着て手を出して歩くという事である。

 簡単に現在語に変えてみます。
   吉原に通う店で狼は医者に化け
   出合茶屋に
僧がはいって医者になる
   僧衣から羽織に変えたんだけど、他の人に言うなよ、あなかしこ
   長羽織の袖には僧衣の癖が出る

句義 くぎ。文章などの句の意義。
舟宿 江戸時代、船で吉原に通う客の送迎をする家。
中宿 なかやど。江戸時代、男女を密会させた宿。出合茶屋。
出家 僧。僧になる。
破戒僧 はかいそう。守るべき戒律を破った僧。なまぐさ坊主。
 ぎ。人のふみ行うべき正しい筋道。
羽織 はおり。和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
穴賢 あなかしこ。手紙文の終わりに用いて相手に敬意を表す語。恐れ多く存じます。
コロモ 衣。①衣服。着物。きぬ。②僧や尼が袈裟けさの下につける衣服。僧尼の法衣。僧衣。

坊主

  僧はさし武士は無腰の面白さ
  似合ったか納所はさして見る
  中宿は貸脇差も持っている
 武士は中宿へ腰刀を預けねばならぬ掟、医者は一本差であったので、それに化けるための脇差。
  高輪へ来ると後ろで帯をしめ
  品川の医者俳名芝山なり
  薬箱持たず品川さして行き
 芝山内の坊主が医者に化て品川女を買いに行く事である。
  俗方実見えますと四ツ手いい
  脈を見ておくんなんしに化がわれ
「ゆうべには医者あしたには僧と成り」で「出家で儲けたのを医者で遺い捨て」たのである。
 さて、何故斯く坊主が医者に化けたかというに、これは旧幕府制度では、坊主が女を買ったり、後家を手に入れた事が発覚すると、女犯の破戒僧として、この図の如く、日本橋の刑場で三日間晒されその上寺法で放逐されるからである。カゲマ買は黙許芳町へ行くにはまねをせずとよし」であった。

 これも簡単に現代語に変えてみます。
  僧は脇差1本、武士は丸腰、この面白さ
  にあっているかなどと僧侶は脇差を見る
  出合茶屋では脇差も貸してくれる
  高輪へ行ってくると、僧は後ろで帯をしめ
  品川の医者 俳名は増上寺で有名な芝山
  薬箱持たず品川まで行き
  民間の方だと実際にそう見えますと駕籠かき
  脈を見ておくんなまし、と化けの皮がとれて

さす 挿す。刀剣などを帯の間に入れる。
無腰 むごし。腰に刀を差していないこと。丸腰。
 など。等。他にも類例のある中から取り立てて指示すること。
納所 なっしょ。古代・中世、年貢などを納入した場所。そこに勤務した役人。年貢などを納めること。禅寺で、施物の金品・米穀などの出納事務を執る所。その役の僧。
脇差 わきざし。 武士が腰に差す大小2刀のうち小刀。
高輪 たかなわ。東京都港区南東部の地名。江戸時代初期、牛持の労働者を京都から呼びよせ、多くの牛車で重量物を運搬させた。その後、牛車運搬の独占権を得て定住したため、一帯は「車町」(現・高輪)、通称「牛町」と呼ばれた。
俳名 はいみょう。俳人としての名前。俳号。
品川 東京都品川区北東部の地名。江戸時代は東海道五十三次の第一の宿駅。品川宿は歩行かち新宿・北品川宿・南品川宿に分かれ、本陣は歩行新宿の北本宿に置かれた。薩摩藩士、僧の出入りで名高い遊里としてもにぎわった。
芝山 芝山の増上寺の坊主が多かった。旧芝区芝公園で、広大な寺有地に堂宇は120以上、学僧は3000人以上もいたという。
俗方 世間一般。民間。「武士方」に対する言葉
実見 じっけん。その場に居合わせて、実際にそのものを見ること。
四ツ手 四つ手駕籠かご。4本の竹を四隅の柱とし、割り竹で簡単に編んで垂れをつけた駕籠。江戸時代、庶民用の簡素なものだった。駕籠かきは駕籠をかつぐ職業の者
化がわれ ばけあらわれる。正体が現われる。包み隠した素性が現われる。
斯く かく。このように。こう。
女犯 にょぼん。戒律により女性との性行為を絶たねばならない仏教の出家者が、戒律を破り女性と性的関係を持つこと
日本橋の刑場 小伝馬町牢屋敷は中央区日本橋小伝馬町3~5番を占め、境内には処刑場があったという。
晒す 江戸日本橋などの場所で衆人に晒し、傍に罪状を記した捨札すてふだを立てた。さらしの後にはりつけ(主殺・親殺などの場合)やにん手下てか(心中の場合)の刑に処せられた。
寺法 じほう。幕府が寺院取締りのために特に制定した寺社を対象とする制法。
カゲマ 陰間。江戸で用いたしょうの通称
黙許 もっきょ。知らないふりをしてそのまま許すこと。黙認。
芳町 よしちょう。中央区日本橋人形町の旧町名。かつて「元吉原」と呼ばれる遊廓で栄えた。が、江戸市域の拡大により遊郭は移転。代わりにかげ茶屋という、10代から20代初頭の少年が接客する店と歌舞伎の芝居小屋が生まれた。さらに天保の改革(1841年から1843年)で江戸市中の岡場所(非公認の花街、遊廓)が取り潰され、深川花柳界から逃れてきた芸妓が移り住み、芳町は芸妓の花街となった。

牛込赤城社内の山猫|江戸岡場所図誌

文学と神楽坂

 礒部鎮雄氏の「江戸岡場所図誌」(江戸町名俚俗研究会、1962)赤城神社の「岡場所」です。ここでは3つに分けて、最初は全体の状況です。

江戸岡場所図誌

牛込赤城社内(山猫と云)
 赤城明神は、云うまでもなく牛込の総鎮守にして、此処も門前岡場所の形態である。
かくれ里下巻」には、
 牛込等覚寺門前とあり、此の寺は天台宗で赤城明神の別当寺でもあり、始め等覚寺(伽藍記)後に東覚寺(名所図会)と記してある。
婦美車」に上品下生之部、昼夜四ツ切チョンノマ一分、此浄土、風儀回向院前におなじ、髪の結様衣装武家にまなぶ、あまりさわぎならず、但し此所山ネコと云ふ。「花知留作登」にも同様に記す。
 とあって、勿論上等ではなく山猫と云はれる程だからすさまじい所があったろう。

岡場所考」に今はなし、又、「甚好記」には価十匁とあり、安永頃まで存在していて、寛政には取潰されてしまった。
 その場所は、赤城門前町のわづかな処である。

総鎮守 そうちんじゅ。国か土地の全体を守護する神社
門前岡場府
 岡場府とは江戸で官許の吉原に対し、非公認の深川・品川・新宿などの遊里。神社や寺に参拝に来る人を目的にした門前町に集まった。
かくれ里 「かくれざと」は『近世文芸叢書』風俗部第10(国書刊行会、明治44年)から。編纂者は国学者の石橋真国で、真国は通称茶屋七助、江戸町奉行附腰掛茶屋の主人で、没年は安政二年(1855年)。以下は「かくれざと」の「赤城」から。

   赤 城
牛込等覚寺門前〔契国策〕遊所方角図 申方  赤城〔甚好記〕赤城 十匁〔紫鹿子〕上品中生 赤城 昼夜四切チヨンノマ一分 此浄土風儀回向院前に同じ、髪の結様衣裳武家をまなぶ、余りさわぎはならず、但し此所山猫と云〔名所鑑〕赤城、昔1分の重忠の城跡なり〔江戸順礼〕酒で紅葉何れ赤城の色競。〔遊里花〕ほんに しほらしく見える女郎花。

等覚寺 とうかくじ。

等覚寺。礫川牛込小日向絵図。万延元年(1860)

婦美車。安永3年

別当寺 神社に付属して置かれた寺院。寺の最高管理者が別当、別当に補任された僧侶が神社に住み込み、運営指導に当たっていた寺を別当寺という。明治元年(1868)の神仏分離で廃棄。ここでは上図の中央と下図の右奥が別当寺。
婦美車 ふみぐるま。「婦美車紫鹿子」。正確には「鹿子」ではなく鄜の阝を子に変えて1語として書く。刊行は安永3年(1774)。作者は浮世偏歴齋道郎苦先生。
上品下生 「上品な人」「下品な人」と同じように、浄土教ではじょうぼんちゅうぼんぼんと呼び、さらにそれぞれをじょうしょうちゅうしょうしょうに分けます。つまり、極楽浄土に導くために「上品下生」は「上の下」(9番目のうち3番目)の階級です。
昼夜四ツ切 昼と夜それぞれを4分割して、きりあたりいくらと計算する。
チョンノマ 短時間での性行為を提供する時間。多くは20〜30分。

風儀 ふうぎ。風習。しきたり。ならわし。行儀作法。態度。風紀。
回向院 えこういん。墨田区両国二丁目にある浄土宗の寺院
さわぎ 騒ぐこと。騒がしいこと。ごたごた。騒動。大変な。めんどうな。酒席などで、にぎやかにたわむれる。
山ネコ 芸がまずく、淫を売る芸者。初めは寺の僧を相手としたが、後には寺の境内にいた一般人も客にした。
花知留作登 弘化4年。高柴英著。本の正確な読み方は不明。花知留作登の本文は「牛込赤城 此地本所回向院前に有りしと同じく、髪の結よふ衣裳は武家をまなび、さはがしき事はならぬゆへ、處を山猫と云ならし、夜昼四ツに切一切金一分、十匁」
岡場所考 石塚ほうかい編。安永4年(1775)。書写年は不明。豊芥子は江戸神田の粉屋に生まれ、珍書・古書を収集し、戦記、地誌、芝居、風俗に関する蔵書家として有名。蔵書を通じて山東京伝、柳亭種彦、河竹黙阿弥ら文人たちと交流をもった。
今はなし 「岡場所考」では「四ッ谷、ぢく谷、市ヶ谷」などは書いてありますが、しかし赤城神社で岡場所は全く触れていません。
甚好記 じんこうき。春画の小冊子。巻尾に江戸遊所40ヶ所の地名をあげる。安永年間(1772〜1781年)の印刷らしい。
十匁 揚代が銀10匁だったところから、上等な遊女
安永 1772年から1781年まで
寛政 1789年から1801年まで。寛政の改革(1789年~1804年)では老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗。
赤城門前町 上図(礫川牛込小日向絵図)を参照。

 次は「行元寺」の話が入り、その後は「耳袋」の話です。

「根岸守信(江戸町奉行)耳袋」に、
  〇外科不具を治せし事
予が許へ来りし外科に阿部春沢といへる 此者放蕩にして本郷二丁目住居後出奔せし由 或時噺しけるは、此程不思議の療治いらして手柄せり、牛込赤城明神境内に隠し売女あり 世に山ネコト云 彼もとより頼み越せしゆえ、其病人を蕁ねしに年比十五六歳の妓女なり、容姿美にして煩わしき気色なし、其愁ふる所を向しに、右主人答て此者近比かゝへぬるに、婬道なき庁輪故、千金を空しくせしよし、右容躰を見るに、前陰小便道有て淫道なき故、得と其様子を考へしに内そなわりしも非ス、全血皮の所なれば其日は帰りて、翌日に至り一ト間なる所に至り、彼女の足手をゆわへ、焼酎をわかし、且独参湯を貯へて前陰を切破りしが気絶せし故、独参湯をあたえ、せうちう〔焼酎〕にて洗ひ、膏薬を打しが、此程は大方快く、程なく勤めもなりぬべし、親方甚だ悦びぬと語りぬ。
妓女 ぎじょ。芸妓。げいぎ
婬道 いんどう。女性生殖器のちつの異称。
庁輪 かたわ。片端。片輪。身体の一部に欠損がある人。
独参湯 漢方で、人参の一種を煎じてつくる気付け薬。

 永井義雄氏の「図説 大江戸性風俗事典」(朝日新聞、2017年)ではまるで小説のようにこの情景を細かく書いています。

 あるとき、外科医の阿部あべしゅんたくが赤城の女郎屋に往診を依頼された。
てやってください」
 楼主が示したのは十五、六歳の遊女である。なかなかの美貌で、顔色もよく、とても病気には見えない。
「じつは、大金を払って最近抱えたのですが、陰道のない女だったので、大損をしてしまいました」
「陰道がないですと。まさか。ちと、診てみましょう」
 春沢は女の陰部を診察した。
 たしかに尿道口はあるが、膣はふさがっている。
「うーん、いま、ここではどうすることもできません。明日、準備をして、まいります」
 いったん、春沢は引きあげた。
 翌日、春沢は気付薬の独参湯どくじんとう、消毒用の焼酎しょうちゅう、手術用の小刀を用意して赤城に出向いた。
 独参湯をせんじ、焼酎を温める。女の手足をしばって股を広げさせ、陰唇を開いておいて、小刀で陰門を切開した。
 その痛みに、女は失神してしまった。焼酎で傷口を消毒しておいて、青薬を貼った。独参湯を飲ませると、女は意識を回復した。
 しばらくして傷はえ、女は客を取れるようになった。楼主は大喜びだった。

 著者のぎし鎮衛やすもりは寛政10年(1798)から文化12年(1815)まで南町奉行の任にあり、外科医の阿部春沢とは親交があった。春沢から直接聞いた体験談を書き留めたのである。内容は正確であろう。
 女は処女膜きょうじんしょうではなかったろうか。処女膜が分厚くて、普通には性交できない状態である。メスで切開手術をすることで治るという。春沢の処置も基本的には同じだった。
 それにしても痛ましい話である。症状が治った途端、けっきょくは売春を強要されたことになろう。女郎屋にとって女は商品だった。

 最後は「蜀山人」の話です。

〇蜀山先生云、
 此頃赤城明神地内に山猫の茶屋ありて、此處の倡妓の方言に、ばかの事を十九日と隠話にいへり、ぞろの字、十九日に似たればなり。此方言の初りは宝暦明和の初めの比、江戸中を売ありく針金うりあり、商ひ場所を日をきわめてうりありく、毎月十九日に者牛込より赤城近辺に来る故、右の隠語とはなりぬ、其うり声、
 〽 はりかね/\はりかねの安うり二尺一文針がね/\

倡妓 しょうぎ。歌や舞で、宴席に興を添える女。売春婦。 「倡」とは歌舞や演奏を生業なりわいとする人。

 これは「大田南畝全集第10巻 随筆」(岩波書店、昭和61年)のうち「奴凧」ですが、かなり違っています。「大田南畝全集第10巻」465頁は次の通り。

明和のはじめまで、針がね/\、二尺壱文針がねとよびて、江戸中を売ありく老父あり。予が若き時、牛込に居りしに、此辺へは毎月十九日に来りし也。風説には、此老父隠密を聞出す役にて、江戸中を一日づゝめぐるといへり。
◯馬鹿ものゝ事を十九日とよびしは、牛込赤城の縁日十九日也。其頃赤城に山猫といふ倡婦ユフジョありしが、此所にていひ出せし隠名といへり。ばかと書て十九日といふ字体にちかきゆゑともいへり。
明和 1764年から1772年まで
倡婦 しょうふ。娼婦。売春婦。

飯田橋分水路工事(写真)ID 14805-11 昭和52年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で、ID 14805-11は昭和52年(1977年)、飯田橋分水路と高速5号池袋線飯田橋入口の工事などを撮影しました。

 当時は飯田橋分水路はまだ100%はできていません。完成すれば下図のようになります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14810 飯田橋分水路工事

 下図のように地下鉄の上に既存の分水路があります。この左側に新しい分水路ができつつあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14811 飯田橋分水路工事


 当時は高速道路5号(池袋線)の飯田橋入口と料金所も新たに作っていました。左側には首都高の道路、その下に見えませんが神田川、右側には目白通り、右の遠くに飯田橋の立体交差点などが見えます。コンクリートがある地下に分水路が1本新たに追加されます。橋脚にいる作業員は合わせて4人、舗装上にいる人は1名です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14805 飯田橋分水路工事

 飯田橋料金所(飯田橋入口)に登る道路は最初には曲がっています。

飯田橋料金所の道

 飯田橋料金所に近くなり……

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14806 飯田橋分水路工事

 さらに近くに来ました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14807 飯田橋分水路工事


 別の場所ですが、ここについて考えてみます。首都高のT型橋脚が右奥へ伸び、神田川と橋が見えています。左側の目白通りに沿って建築中の建物には「安全第一 東武建設」の看板。そのすぐ右下には「飯田橋ハイツ」と読めます。飯田橋ハイツは1977年(昭和52年)完成なので、時期も符合します。
 つまり、写真に見える遠くの橋は西江戸川橋で、次の橋との距離が最小である小桜橋に撮影者はいるのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14808 飯田橋分水路工事

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14809 飯田橋分水路工事

浄溜璃坂は?|大田南畝ではない狂歌(2)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 南畝は前にも述べたように狂歌師として、名高いだけに江戸の庶民に親しまれていた。したがって封間に伝わる逸話も多い。牛込に関するものをひろってみよう。
 例によって、飄々乎として、市が谷御門の辺りを散策していたときのことである。向うからひとりの武士がやって来て、浄溜璃坂は、どの辺であるかと問うた。蜀山人はその道を懇切丁寧に教えてやったところが、その武士は撥髪(横側を深く刷りこんだ髪の形)頭であったのと、身なりも異様であったため、思わず吹き出してしまった。武士は大いに怒って「そちは何者であるか」とつっかかって来た。蜀山人はその無礼を謝した。そこで
  ばち髪で浄溜璃坂を尋ねるは
     三味線堀の人にやあるらん
と詠んだ。で、武士も刀をおさめて立ち去っていった。
(注)下谷三味線堀には、佐竹公(秋田藩)の上屋敷があったのでそこの武士をいったものだろう。
飄々乎 ひょうひょうこ。考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。
撥髪 ばちびん。鬢の形が三味線のバチの形になっているもの。

三味線堀 江戸下谷、不忍池から東南方に流れ、隅田川に合流していた忍川の下流の通称。現在の台東区小島町二丁目のあたり。大田南畝の純正の狂歌もあり……
   三階に 三味線堀を 三下り 二上り見れど あきたらぬ景

「ばち髪」の一首は大田南畝の狂歌ではなさそうです。では、その出典は? 飄禅散人氏の「滑稽洒落 三博士」(盛陽堂、明治39年)という噺か、さらに昔の笑い話でした。

 ある時のことでありました。蜀山人が、外出して、牛込御門の辺を通りましたるに、おりふし、向こうから、一人の、いかめしき武士が来て、蜀山に向かい、「浄溜璃坂は、いずこにてごきるか」と問われた。
 蜀山は、道を尋ねられて、「はい浄溜璃坂ですか。それは、これこれ、こう行けばよろしいのです」と指さし示して、別れたところ、この武士の頭が、撥髪にて、その風体が、いかにも可笑しきさまであったれば、蜀山は、別れる途端に、クスクスと笑われた。
 この武士は、この笑い声を聞いて、大にいきどおり、「その方なにものであるか、人の風体を笑うこと、はなはだ無礼である。そのままには、なしおかれまい」とだけだかに言われた。
 蜀山は、ギョッとして、「これは、はなはだ申し訳もないことをいたしました。拙者ことは、狂歌師にてござる。なにぶん、御寛大の処置にて、御免し下され」とわびられた。
 かのいかめしき武士は、これを聞いて、「ははあ、狂歌師にてあるか、これは面白いことである。さらば、今このところにて狂歌一首詠まれよ。それにて、無礼を免すである」と言う。
 蜀山は、狂歌の註文と聞いて、即座に、
  はち鬢で浄溜璃坂をたずぬるは
      三味線堀の人にやあるらん
とかくなん詠まれたので、いかめしき武士も、思わずくすくすと笑って、そのまま行かれたといいますが、狂歌の徳ならではこの危難は、なかなかに、免れぬことでありまする。

蜀山人伝説|新宿郷土研究(1)

文学と神楽坂

 一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分です。

 赤城明神の境内の掛茶屋に赤城小町という評判のお軽という娘がいた。ある日誤って足軽の足もとに打ち水をかけてしまった、足軽は怒ってお軽を打擲におよぼうとした時に、参拝を終えて通りかかった、蜀山人は、「待たれい」と大声で、
  差しかかる来かかる足へ水かかる
       あしがる怒るおかる恐がる
と詠んだめで、見物人の中からどっと笑声が起った。足軽は強そうな武士と蜀山人を見たのか、そのまま逃げるように消えるのであった。
 この……狂歌は、寡聞にして知らないが、蜀山人の狂歌集の中にもない。しかし、本居宣長の有名な「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が本居宣長の歌集におさめられていないと同じように即興のために他の記録に遺されたものであろう。いずれにしてもこんな文芸は俗説で意味がないと、いわれるかも知れないが、牛込の住人にとっては拾てがたい挿話である。
打擲 ちょうちゃく。打ちたたく。なぐる。
蜀山人 しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人、狂歌師。本名は大田直次郎。号はなんきょうえんものあかなど。蜀山人は晩年の号。

 色々調べてみると、この出典が出て来ました。明治33年の「文芸倶楽部」(暉峻康隆、興津要、榎本滋民編「明治大正落語集成」講談社、昭和55年)でした。

赤坂の溜池ためいけから葵坂を過ぎ芝の久保町の通りより、ちょうど土橋のところへかかりますると人込みで、ドヤドヤ騒いで居りまする。今十七八のしんを足軽ていの男が切ろうとして居る。酔っては何いでなさるが蜀山も人の難儀は横に見てはいられません……どいたどいたと人を押分けて中にいり
蜀「あいや、お武家御立腹はさることながら、相手は採るに足らん女のことで、どういう義かはぞんぜんが、拙者仲裁をつかまつる。いよぅ……貴公は雲州家の御足軽、田口源吾どのじゃな」
足「先生お捨ておき下さい」
蜀「これさ、そう腹を立っては困るというのに、腹を立ちすぎると腹なりが悪くなる、ハハハハハ。時に女中、この場合に至った事情を話しやれ」
女「御親切によく御たづね下さいまする。妾はこの向う側の商売あきんどの娘にござりまするが、今日こんにち往来に砂ほこり立ち通行をなさいます方が御難儀とぞんじまして、水をまいておりました。するとこのお武家さまの袖のすそに少しかかりましたところから、御わびを申し上げましたけれど、なかなか御承知下さいません。武士の袖の裾を悪水をもってけがせし段、不届ふとどき至極につきうちに致すとの御腹立ち、殺されまするこの身はいといませんけれど、親共の歎きも思いやられます。どうぞ共々御わびあそばして下さいますやう、ひとえにねがい上げまするっ」
蜀「むーそれは飛んだことだったのう。して、その名は何んと申す」
女「与平娘かるでござります」
蜀「女じゃからの字がついておかるか、そりや詫びるところが違う」
女「どこへ出ましたらよろしう御座りまするっ」
蜀「そちの父が与平という、一つふやすと一平いちべいとなるそのむすめのおかるなら、忠臣蔵の七段目が相当じゃ」
女「戯言じょうだんおっしゃっちゃいけません」
蜀「戯言じょうだんじゃぁない。忠臣蔵の七段目はやはり田口うじ見た様な足軽で、寺岡平右衛門というがある。これが軽を殺さうとする、そこへ酒に酔っても本心さらに違わぬ国家老大星由良之助という蜀山同様なのが出て、そちを助命して取らするのじゃ」
田口「何んだ人、馬鹿馬鹿しい。自分ばかり家老気取りで、飽くまで俺を足軽にたとへやぁがる」
 独りごとふくれ顔をしておりました。
蜀「あいや田口うじ、拙者は風流に世を送るもの、別にお詫のいたしょうもない。どうかこの一詠で御勘弁を」
とさしいだしましたのを不承ふしょう不承で見ました。見る見るうちに苦い顔にえみを含みました。流石さすがは名人で有ります。
  きかかる来かかる足に水かかる
    足軽あしがるいかるおかるこわがる
とうとう腹立ちを笑いにまぎらしましたのも歌の徳でありまする。

 新演芸会編の「滑稽十八番」(堀田航盛館、大正3年)では……

 蜀山人は駕籠が嫌いですから、出羽様から、足軽が一人付いて宅まで送り届ける。
 蜀山人はのん気のもので、大層酔払いながら、ブラブラヒョロヒョロやって来る。足軽も後から付いて参りましたが、丁度堀江町の新道を通ると、ある家の表で、女中が格子の掃除をしていて、汚い水を向こう見ずに往来へ撒いたのが、通り合せた蜀山人には掛らなかつたが、供をして来た足軽の頭がら着物へ、ぐしゃと掛った。いやはや足軽は怒るまいことか。
「不埒の奴だ」と刀の柄へ手を掛けた。その当時は武士が刀の柄へ手を掛けたかと思うと、町人の首は向うへ飛んでいるという位で、こういう事は度々ありますから、さあ女中は驚いて蒼白になって、家の中に逃げ込む。
 家の中からは40格好の婦人が恐る恐る出て来て参りまして、「誠に飛んだことを致しましてどうも相済みません、万望御勘なさつて下さいまし」と詫びますと、足軽は「これこれ勘弁しろもないものだ、見ろこの通り、頭から着物まで、ぐしょ濡れだ。不埒の奴だ。只今の女をここへ出せ。」婦人「ではございませうが、万望そこを一つ御勘弁下さいませ……お前ここへきてお詫びなさい」といわれて女中はぶるぶる慌いながらそこへ出まして両手をつかえ、「どうか勘弁下さいまし」という声さえ、口の内にて、歯の根も合はず、ぶるぶる振えております。
 それこも知らず行過ぎたる蜀山人、跡をふり返って、づかづかと帰って来て蜀山「どうしたどうした」足軽「先生只今かくかくの次第で」蜀山「まあ、そんなに怒っては仕方がない、勘弁さっしゃい、これこれ御女中、お前は何という名だ」女中「はい、お軽と申します」蜀山「お軽か、うむ、おかるにしちぁちょっと受け取り難いが、まあまあ心配なさるな、拙者がお詫びをして上げるから」と持っていた扇を取り出し、ひらりと開いて、腰の墨斗の筆を染めて、サラサラと書いて、足軽の前へ差出し、濁山「これで勘弁さっしゃい」言われて足軽も怒つてはいたものの、是非なく、先生が何んなことを書いたか取上げて見ると、
    行きかかる、、、来かかる、、、足に水かかる、、
      足軽いかる、、、おかるこわがる、、
 取り上げて見て足軽も吹き出し、足軽「先生有難うございます、これを頂戴したうございます」蜀山「あげるから勘弁さっしゃい」足軽「勘弁も何もありません、どうも先生ありがとございます。」そこで家の者を始め、女中のお軽も、大層喜んで厚くお礼を申し述べたと、いうことです。

 現実に起こった事実ではなく、落語だったんですね。実際の逸話ではなく、面白い咄でした。
 岩波書店の「大田南畝(第1次)月報」19「蜀山人伝説を追う(18)」(2000年)では……

 思えば、明治の中頃から大正時代へかけて、蜀山人説話はまさに花ざかりであった。概算であるが、明治に12冊、大正に17冊、合わせて30冊近い書物がかくも繰返して出版されたことに感嘆に似た気持すらおぼえる。もっとも、それらの大半以上が、読物としては巧妙でおもしろく出来上っていても、蜀山人その人の実像とはかけ離れた、根も葉もない虚譚に富む、ほとんどが他愛のないものばかりだといってよいのであるが、しかし、庶民の誰にでも親しまれる蜀山人像を思いきり描いてみせた熱意、それに対しての感銘は深い。言葉は悪いが、蜀山人という名前が商品として通用した時期、もちろん、読者の側にも、出版者の側にも、蜀山人に対する熱烈なる敬募の思いがあったればこその結果であるが、みんなで、蜀山人を伝説の主人公に仕立てあげようとする、強烈な時代風潮が脈々としてあったとすべきである。
 実像とは別に、その生涯が伝説と説話で彩られた人物に、西行と芭蕉がある。「撰集抄」「西行物語」「芭蕉翁行脚物語」「蕉門頭陀物語」などは西行と芭蕉の伝説面を流布する大きな役目を果してきた。一休禅師と會呂利新左衛門もまたそうで、「一休諸国物語」「一休ばなし」「會呂利咄」などの書物が長い間多くの人びとに親しまれた。濁山人を含めた、日本文学史上の大人物たちが、私たちの心の中に身近な姿で生き続けてきたのは、麗わしくもまた心強い伝統だというてよい。
 それにしても、こんなにまでもてはやされた蜀山人説話のあまりにも著しい衰退ぶりはどうであろう。逸話、風聞、伝承、狂歌説話など、虚の蜀山人像を形成してきたもろもろの要素一切を含め、本稿でそれを蜀山人伝説と総称してきたが、まさに、いま蜀山伝説は滅びんとしているといって過言でない。虚の蜀山人像を支持してきた土壌がもはや崩壊せんとしている。私たちが少年時代に愛読した少年講談の「蜀山人」を掉尾に、昭和の後半に蜀山人伝説が全く影をひそめてしまったのは淋しい限りだといわねばならぬのである。
 今後、蜀山人の実像は「大田南畝全集」の完結によってますますその全容が明らかにされて行くにちがいない。それに呼応して、先人たちがはぐくんで来た虚の蜀山人像もまた幾久しく生き残って行ってほしいことが願われる。そのためには、少年講談の「蜀山人」が岩波文庫に編入され、知識人層に新たに数多い読者を獲得するといったくらいの思い切った荒療治が必要なのではあるまいか。
掉尾 ちょうび。とうび。最後に来て勢いの盛んになること。単に「最後に」。

日本最初の飛行機実験場|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「大久保地区 17.日本最初の飛行機実験場」についてです。

日本最初の飛行機実験場
      (西大久保4丁目)
 明治43年3月、日野熊蔵陸軍大尉が、自分で製作した日本最初の単葉飛行機を、自分で搭乗してこの戸山ヶ原ではじめて飛行実験をしたのもここである(牛込47参照)。
 わずか200メートルばかりの狭い射撃場、しかも多数の見物人がおしかけたので、混雑して思うようにいかなかった。しかし、ともかく滑走は成功したが飛行することはできなかった。場所が狭かったためという。
 また、奈良源三次海軍技術将校の設計による複葉飛行機が同年10月完成し、30日、31日にやはりここで試乗したが、滑走程度で空中に浮ばなかった。
 なお日本最初の飛行ができたのは、同年12月19日、代々木練兵場で飛行実験が行われた時である。
 〔参考〕 航空五十年史 日本航空事始 東京科学散歩
戸山ヶ原 とやまがはら。東京都新宿区中央部で、江戸時代では尾張徳川家の下屋敷、明治以降は陸軍の射撃場・練兵場など、現在は住宅・文教地区。
射撃場 「カフェ『道みち』」では「陸軍近衛師団 戸山ヶ原演習場」は「明治15年(1882)に戸山ヶ原演習場は、射撃を行うために使用する近衛師団の演習場(近衛射的場)として、開設されます。開設当時は、敷地南側に土塁を築き、これを標的にして射撃訓練が行われました」
 下図は明治43年の地図。左側の中央に射撃場があるとわかります。なお、土塁どるいとは、土を盛りあげて土手にして防御施設。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などが訳語。

明治43年 新宿区(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

飛行することはできなかった 吉村昭氏著「虹の翼」(文芸春秋、1980)では……

 飛行機については、陸軍運輸部から発動機が提供され、日野熊蔵大尉と海軍の中技師である奈良源三次が研究にあたった。さらに、日野は独力で飛行機の設計、試作にとりかかっていた。かれがまず入手したのは、水冷式八馬力の自動車用発動機で、それにもとづいて独自の機体設計にとりくんだ。
 設計を終えた日野大尉は、牛込五軒町の林田工場で機体の製作に入った。工場主の林田好蔵は「洗米機」を発明するなどした技術者で、日野に積極的に協力した。やがて機は出来上がった。翼長8メートル、全長3メートルで、工事は3ヶ月、制作費は2000円であった。費用は、日野が私財を投じたものであった。
 実験は、戸山ヶ原でおこなわれることになり、機は電車道を押されていった。見物人が物珍しげについてきて、戸山ヶ原についた頃は、かなりの群集になっていた。
 大尉みずから座席について発動機を始動させた。機は滑走したが浮き上がらず、何度繰り返しても結果は同じであった。……3月18日のことであった。
 日野は個人的な研究を中止し、会長命令で新たに気球研究会委員に任命された徳川好敏陸軍大尉と、ヨーロッパへ飛行機研究と購入のため、4月11日に出発した。
奈良源三次 奈良原三次が正しい。奈良原氏は海軍の技術将校でした。以下は航空同人会編『日本航空事始』(出版協同社、1964)です。
日野氏が発動機に重点を置いていたのに対し、奈良原氏はもっぱら機体に重点を置いていた。
 奈良原氏が考案した飛行機は、二層式で、上下翼を強く食い違いにして、材料は国産ということを顧慮して、骨は全部竹材を用いたのである。発動機は、フランスから購入したアンザニー25馬力を用い、これを胴体の前方に装着して牽引式の方式を採用した。全重量は450キログラムであった。
 この奈良原式飛行機も、日野式と同様、研究会の事業として製作することに決定したが、日野式よりやや遅れて43年3月から製作に着手し、同年10月完成した。製作費は発動機を除いて1,843円であった。
 この飛行機も、奈良原氏みずから搭乗して数回滑走をおこなったが、遂に飛揚しなかった。
 当時の「研究会記録」には左のように記されている。
「10月30日、31日、戸山学校内練兵場に於て試験せしも飛揚するに至らず」
同年12月19日、代々木練兵場で飛行実験が行われた時 仁村俊氏の『航空五十年史』(鱒書房、昭和18年)では……
 今から考えると、公式飛揚とはおかしな言葉である。飛行機が飛ぶのに公式も私式もあるわけはないが、当時は飛行機をフランスから購入したものの、果して飛ぶか飛べないかは全く不明である。そこで、それが飛べるということを一般に事実で示そうというのがこの公式飛揚なのである。
 時は明治43年の暮も迫った12月15日から19日の5日間。
 所は代々木の練兵場。
 朝から弁当持参でつめかけた観客は、5日間を合計して50万。一日平均10万人の人が出たので、利にさとい連中はおでん屋、寿司屋等の店を出したというから面白い。
 毎日格納庫へつめかける人々の中には名士の顔も多く寺内陸相、石本次官を始め奥参謀総長、乃木大将、山川健次郎博士、和田垣謙三博士等が臨時軍用気球研究委員達と共に見えた。
 かくて幾回となき滑走試験、飛揚試験、発動機の故障、機翼の挫折等悪戦苦闘を続けたが、最後の19日には見事公式飛揚に成功した。即ち徳川大尉はファルマン式によって高度40米、飛行3280米、航続時間4分。日野大尉はグラデー式によって高度20米、飛行距離1200米、航続時間1分20秒の記録を出したのである。勿論、これは日本最初の飛行である。

飯田橋駅(写真)東口 歩道橋 ID 12104 昭和54年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12104は昭和54年(1974年)3月2日、飯田橋歩道橋を中心に、他にも巨大なタンクローリーの一部、わずかに見える首都高速道路5号線(池袋線)などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12104 飯田橋歩道橋前 目白通り

 歩道橋では左から地名表示「目白通り/新宿区下宮比町」、交差点名表示「飯田橋/IIDABASHI」、方向表示「市ヶ谷/新大久保/目白/水道橋」。道路標識は(指定方向外進行禁止)「8-20」が2個。
 建物では左から「ビューティープラザ/レディ」「(ミカワ)薬局」「ジャッカル断裁機/東京伊藤鉄工㈱」「合コンパご宴会」とおそらく万国旗「(モリ)サワ」「M」「フ(ィニッシュワークスクール)」

「山猫」の発祥地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 10. 『山猫』の発祥地」です。

「山猫」の発祥地
      (神楽坂5ー6)
 行元寺あたりは、赤城神社あたりとともに、岡場所(私娼地)の一つであり、「山猫」といわれる私娼の発祥地である。山猫とは、一種の売春婦のことであり、寺社の境内に現われた極めて下等の芸者族であった(市谷17参照)。
 「瀬田問答」という本によると、天文のはじめから寛保年代にかけて、はじめて現われたもので、はじめは踊り子(芸者)で、牛込行元寺境内から起ったとある。はじめは、寺僧専門の売春婦であったらしい。
 また同書には、「此時両国回向院前土手側にあり、是を金猫と云、銀猫と称す。金一分と七匁五分の価なれば、斯云なるべし。当所は山の手にて、赤城は金一歩、行元寺は七匁五分なり。故に山の手の猫と云事を略して山ネコ者といいしならん」とある。
  こっそりとして山猫八人を喰イ(宝九宮1
〔参考] 牛込区史  遊女風俗姿細見  江戸岡場所図会
岡場所 江戸の私娼地。官許の吉原に対し、非公認の私娼地が寺社の門前や盛り場の裏町に百数十カ所もあった。「岡」は「脇」「外」を表す言葉。
山猫 「猫」は私的な踊子(芸妓)のこと。「山」は「花知留作登」では「山の手の猫」の省略。足立直郎著『遊女風俗姿』(学風書院、1956)『遊女風俗姿細見』(那須書房、1962)では「化けて出る」意味、あるいは寺院の境内にいたから「山猫」。
私娼 公娼制度がある時代に、公認されずに営業した売春婦
瀬田問答 『瀬田問答』は天明5年(1785)から寛政2年(1790)にかけて大田南畝(おおたなんぽ。文人で狂歌師)と瀬名貞雄(せなさだお。江戸開府以来の史実にくわしく、寛政元年に奥右筆=老中の公設秘書=組頭格)との問答をまとめた書。

燕石十種、岩本佐七編、国書刊行会、明治40年)
一 江所の神社の地に山猫とて隠売女を置候事根津など始に候哉何比初り候哉
答 初めはをどり子にて橘町其外所々牛込行願寺辺の方の類ひより事起り候哉に候寺社境内にて猫の號を顕はし候は元文の初より寛保年中へかけ専に覚申候
大田南畝全集 第17巻、浜田義一郎編、岩波書店、昭和61年)
一 江戸の神社の地に山猫とてかくし売女を置候事、根津などはじめに候哉。いつ頃よりはじまり候哉。
   始めはおどり子にて、橘町其外所々、牛込行願寺辺のてらのたぐひより事発り候哉に候。寺社境内にて猫の号を顕し候は、元文の始より寛保年中えかけ専に覚へ申候。

天文 1532年から1555年まで。「瀬田問答」では元文(1736年〜1741年)が正しいとなっています。
寛保年代 1741年から1744年まで
同書 「瀬田問答」にはありません。「花知留作登」(弘化4年、1847年)ではないでしょうか。

同行願寺 此地大かたは赤城に類す、髪風俗同じ事なれ共、人物は次なり、昼夜四ッー切銀七匁五分、赤城、行願寺共、山猫と云て、此時両國回向院前土手側に妓あり、是を金猫と云、銀猫と稱す、金壹分と銀七匁五分の價なれば、斯云なるべし、当所は山の手にて赤城は金壹分と、行願寺は七匁五分なりしゆへ、山の手の猫と云る事を略して山猫と云ふならん

 また大田南畝だとすると『奴凧』に載っています。

(大田南畝全集 第10巻『奴凧』浜田義一郎編、岩波書店、1986)
〇天明の頃まで、両国橋の東回向院前 高野山大徳院やしき  隠シ売女あり、金壱歩を金猫といひ、二朱を銀猫といひし也。其ころ川柳点の前句附に、
  回向院ばかり涅槃に猫も見え
といふ句ありしもおかし。京の東福寺の開帳に兆殿司の涅槃像をおがませしに、下の所までみえがたければ、札をさげて、此下に猫ありと書しもをかしかりき。文化二年乙丑の冬、長崎よりかへりがけに立よりてみし也。

金一歩 きんいちぶ。金一分と同じ。一分金。一分判。江戸時代の金貨で、4枚で小判1枚(1両)と交換した。
宝九宮1 川柳の脚注です。数字のみは江戸時代の「誹風はいふうやなぎ多留だる」167編11万句の略。それ以外は一字目が宝・明・安・天・寛の時は、宝暦・明和・安永・天明・寛政の略で、すべて川柳評万句合の句。その二字目の漢数字はその年次。三字目の天・満・宮・梅・松・桜・仁・義・礼・智・肩・鶴・亀・叶などの一字は、柄井川柳について毎年下半期の五の日に月三回句を募集してその句の順序を示す合印。下の数字の1・2はその枚数。例えば「宝九宮1」は、宝暦9年宮印1枚目にある句。(西原柳雨著『川柳江戸名物』春陽堂書店、1982年)

飯田橋駅東口(写真)商店街 昭和54年 ID 12030, ID 12091-12100

文学と神楽坂

地元の方からです

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12030, 12091-12100は昭和54年(1974年)に飯田橋や目白通り付近を撮影したものです。
 簡単に地図で撮影場所を見てみます。

1970年 飯田町駅東口付近

(1)ID 12030は、少し離れた⑦です。突き当たりの木造住宅は、飯田町貨物駅に隣接する旧国鉄の職員住宅です。現在はホテルメトロポリタン エドモントが建っていて、写真のあたりが正面入り口になります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12030 飯田橋二丁目 1979年

(2)ID 12091は①。目白通りから1本、奥に入る道の入り口です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12091 クリーン薬局飯田橋店 1979年

(3)ID 12092-93は②③。国鉄(現在はJR)飯田橋駅の南東側で、東口から西口へ向かう土手沿いの商店街です。2階には「喫茶白ゆり」。これは深夜営業店で、仮眠しながら始発を待つ人にはよく知られていました。今は閉店中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12092 飯田橋喫茶白ゆり 1979年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12093 飯田橋 1979年

(4)ID 12096は④で、左側に国鉄(現在はJR)の飯田橋駅東口があります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12096 飯田橋通りガード 1979年

(5)ID 12097は番地から見ると⑥付近です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12097 飯田橋四丁目9住居表示 1979年

(6)ID 12100は⑤で、新宿区の下宮比町の第一勧業銀行飯田橋支店、東海銀行飯田橋支店などが見えています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12100 飯田橋歩道橋前 1979年

 コート姿の人が写っているので、時期は冬でしょう。同じエリアを撮影したID 12083、85-90、94−95、98ID 652、662、664、12102、12103、12105、12106などと同時撮影ではないでしょうか。

馬ぐそを拾う仙人|新宿の散歩

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 55.馬ぐそを拾う仙人」では……

馬ぐそを拾う仙人
      (榎町)
 済松寺のあるあたり一帯は榎町であるが、これは榎の大樹があったので名づけられた町名である。その榎の大樹はどの辺にあったか分らないが、鎌倉海道すじにあったものだという(戸塚28参照)。
 この榎の根元には洞穴ができていて、大人一人が自由に出入りできる大きさだった。貞享の頃(1684-87)、この洞穴に、「馬ぐそ仙人」と呼ばれる奇人が住みついた。
 身にボロをまとい、杖一本とかご二つをもって、早朝から往来に出て牛や馬の糞を拾い集め、かごいっぱいたまると、四谷あたりへ行って売るのであった。そして米を買い腰につるしてある古なべに入れ、道ばたに落ちている枯木などを拾い集め、煮炊きをして食べる生活をしていた。
 天気のよい日には、榎の洞穴の前に立って、子どもたちを集め、古歌を書いた紙片などをやったりするが、大人とは一言も話をしない隠遁の奇人、変人であった。
〔参考〕御府内備考 南向茶話追考 新宿と伝説

済松寺 さいしょうじ。新宿区榎町にある臨済宗妙心寺派の寺。三代将軍徳川家光が帰依し、牛込村大橋立慶(龍慶)の屋敷を寺地にするよう命じ、1646年に創建。

済松寺

 えのき。夏に日陰を作る樹。江戸時代には街道の一里塚に植えられた。

鎌倉海道 鎌倉街道。かまくらかいどう。鎌倉幕府から諸国に通じる主要道路。
隠遁 いんとん。俗世間を逃れて隠れ住むこと

 最初に「南向茶話追考」を読んでみます。

牛込榎町 古老云、昔は大木の榎有。依て号する由、是木は古来鎌倉海道の由申伝
 この大きな榎は鎌倉海道の目印で、鎌倉海道は鎌倉幕府から諸国に通じる無数の道でした。
 では「御府内備考」を見てみます。

一或老翁の記をみしに正徳元年の條云江戸に三十年前 今推考するに貞享のころか 一谷郷尾張殿の邸のうしろに大なる榎木あり ことに年ふりし木にてその根の所ほらのことくなり 人ありてその内に住すること数年なり 身に襤褸をきて一ツニツをもてり 日出るころおき出て路頭に新し牛馬の糞を拾ふ 籃にみつるころ四ツ谷といふ所の民家または官家の小吏のもとにいたりて 牛通馬矢をうれり その価ひわつかに八錢にすきず その帰るさに米あきなふ所にて一しゃくの米にかへて道傍に落たる草木の枝なとひろひとり 四谷大榎町といふ所の石橋ある所に至りて腰より鑵子をとり出して水をこひ火を求てかの米を煮て鑵子なから口に入水をのみこゝろよけにうちゑみて かの樹下の洞に帰りいり 空のとかなる時は洞の前にて出ひとりごこし わらべなとし来り ともなふ大人とは一言をまじへす 童子にもの書ておくらんといるほとに紙筆なと具すれは 手うるはしくふるきふみの文哉 古歌なとかけり 今の世村閭挙子とは同日の談にあらすかくてその所にて身まかりぬと 案に是榎町の大榎にしてかの隠者はの馬糞仙人なりと さもあるにや
    以上江戸志
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
正徳元年 1711年
一谷郷 不明
ほら 洞。がけ・岩・大木などにできた、中のうつろな穴。
襤褸 ぼろ。使い古しの布。ぼろきれ。着古して破れた衣服。つぎだらけの衣服。
 かい。かいじょう。杖。つえ。
 かご。竹で編んだかご。
牛通 牛のつうじ。牛の大便
馬矢 ばし。馬糞。ばふん。
しゃく 勺。約18mL
鑵子 かんす。銅・真鍮などで作った湯沸かし。
うるはしく うつくしい。折り目正しく、きちょうめん
ふみ 文書。書物。手紙。書状。学問。特に漢学。漢詩
村閭 そんりょ。村の入口の門
挙子 擧子。きょし。中国の官吏登用試験である科挙に応ずる人
同日の談にあらず 同様に見なして談ずべきことでない。同じ扱いにはできない。
身まかる あの世へ行く。死ぬ。
 ひさご。ひょうたん
 そう。仏道を修行する人の集団。「瓢に僧」の句はありませんでした。「新編江戸志」ではこの文章を「この隠者は瓢々傳言処の馬糞仙人なり」と変えています。「瓢々」は「考えや行動が世間ばなれしていて、つかまえどころのない様子」だそうです。「傳言」は「伝言」で、言い伝えること。

 ボロを着て、牛馬の糞をお金に替える。しかし、一旦筆をとると、古い文章や古歌はすらすらと出てくる。いかにも統合失調症らしい感じです。

とうふ屋のラッパ|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の「牛込地区 31. とうふ屋のラッパのはじまり」では……

 とうふ屋のラッパのはじまり
      (津久土町七)
 大久保通りの十字路を左折して飯田橋に向う。200メートル位歩いた右手の都自動車会社の所には、東京一のとうふ屋だった尾張屋があった。祖先は江戸草分けの旧家で、水戸家から帯刀も許されていた。明治時代には市内で指折りの資産家に数えられて、30余の支店を出していたものである。とうふ屋が行商をする時ラッパを鳴らしたが、そのラッパを使うことを明治時代にはじめたのはここで、17代の長谷川金三郎であった。
〔参考〕 明治話題事典

左折して飯田橋に向う 神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)を北西方面から入ってきて、左折して、北東方面の飯田橋に向かう。
右手の都自動車会社 下図を参照。実際には都自動車会社には津久土町8にありました。

昭和5年「牛込区全図」

 では小野秀雄編の「新聞資料 明治話題事典」(東京堂出版、昭和43年)を見ていきましょう。

 牛込区築土町七豆腐屋尾張屋といへば市内屈指の資産家にて、また東京一の豆腐屋なり。水戸家より帯刀御免となり江戸草分の旧家にて当主長谷川金三郎まで17代なり。今は三十余の支店を有せるが豆腐行商にラッパを用ひしもこの人の草案なり。<明42・8・20、万朝>
<解説>豆腐屋が天びん棒をかついで行商した明治、大正から昭和になり、自転車行商と変遷した。吹きならすラッパは円太郎馬車の御者も同じで一種の哀調を帯び庶民的である。
(豆腐は)中国では二千年前からあるそうである。日本に渡来したのは奈良朝時代である。豆腐は読んで字の通りをすると納豆の方がピタリとくるであろう。一般に常食になったのは茶道の盛んになった室町以後らしい。異名「おかべ」と呼ぶ。むかしの料理書には壁とか白壁と書いてある。宮中の大掃除の日に給食されたのは煮た豆腐に白ミソをかけた田楽でんがくミソだったという。
豆腐百珍』二編など珍しい。もめんごし・絹ごし・笹の雪など、ぎせいどうふ・冷奴・氷どうふ・高野どうふ・諸国名物いろいろある。
 ラッパは洋式調練と同時に入った。明治になって三年にラッパ師の名簿が見える。小篠秀一という人はフランス人ギッチから学び山田顕義兵部少輔に認められ、曽我祐準中将の下でラッパ士となり、陸軍軍楽隊を作った。戦時中まで在営、タテトテのむずかしい音律のうち食事ラッパをよく覚えた。日本の兵隊はどうも調子がわるく、外国兵のはうまい。まずいラッパをスカスカラッパとあざけった。呼吸が洩れて吹き出してしまうからである。
築土町七 大日本都市調査会『東京区分職業土地便覧 牛込区之部』大正4年では下図を参照で。なお、築地や築土町と書いていますが、現在はおそらく津久土町でしょう。

『東京区分職業土地便覧』大正4年

豆腐行商にラッパ 現在も行っています。軍隊信号ラッパ、熊よけラッパ、行商ラッパに分けられます。
天びん棒 てんびんぼう。天秤棒。両端に荷を掛けて、中央に肩をあて、かつぎ運ぶのに用いる棒。
円太郎馬車 明治時代の乗合馬車の愛称。落語家4世たちばな円太郎がこの乗合馬車の馬丁の吹くラッパを高座で吹いて評判になった。乗合馬車も、御者がラッパを吹きながら馬車を進ませたという。
おかべ 宮中言葉で豆腐の意味
白壁 豆腐の異称。
宮中の大掃除の日 平安時代に宮中では神様を迎える「煤払い(すすはらい)」を行いました。『江戸府内絵本風俗往来』(1905)では「煤払いの式の膳部は里芋・大根・牛蒡・人参・焼豆腐・田作(ごまめ)の平盛(ひらもり)、豆腐の味噌汁、大根・人参・田作の生酢、塩引鮭の切身の調理にて酒を汲む。勿論家例により大同小異ありと知るべし。また町家にては蕎麦の振舞あり」とあります。焼き豆腐は、堅めに造った木綿豆腐を水切りしてから、炭火やガスなどで焼いて焼き目を付けもので、一般に市販しているものと全く変わらないそうです。
豆腐百珍 とうふひゃくちん。天明2年(1782年)に出版した料理本。作者は「何必醇」だが、文人が趣味で記載したもので、一説に篆刻家の曽谷学川が書いたもの。豆腐は6種に分けられるという。

木の芽田楽・きじやきでんがく・あらかねとうふ・むすびとうふ・ハンペンとうふ・高津湯とうふ・草の八杯とうふ・草のケンチェン・あられとうふ・雷とうふ・再炙ふたたびでんがく・凍りとうふ・速成凍とうふ・すり流しとうふ・おしとうふ・砂子とうふ・ぶっかけ饂飩とうふ・しき味噌とうふ・ひりょうず・こくしょう・ふわふわとうふ・まつかさねとうふ・梨とうふ・墨染とうふ・よせとうふ・鶏卵とうふ
やきとうふ・油揚とうふ・おぼろとうふ・絹ごしとうふ・油揚でんがく・ちくわとうふ・青菽あおまめとうふ・やっことうふ。葛でんがく=祇園とうふ、赤みそのしき味噌とうふ。
なじみとうふ・つととうふ・今出川とうふ・一種の黄檗とうふ・青海とうふ・浅茅でんがく・雲丹でんがく・雲かけとうふ・線麺とうふ・しべとうふ・いもかけとうふ・砕きとうふ・備後とうふ・小竹葉とうふ・引きずりとうふ・うずみとうふ・釈迦とうふ・撫子とうふ・砂金とうふ・叩きとうふ。
蜆もどき・こほりとうふ・精進の雲丹でんがく・まゆでんがく・みのでんがく・六方焼目とうふ・茶礼とうふ・粕入りとうふ・鮎もどき・小倉とうふ・縮緬とうふ・角ヒリョウズ・焙炉ほいろとうふ・鹿の子とうふ・うつしとうふ・冬至夜とうやとうふ・味噌漬けとうふ・とうふ麺・蓮根はすとうふ
光悦とうふ・真のケンチェン・こうでんがく・こぎでんがく・鶏卵でんがく・真の八杯とうふ・茶とうふ・石焼とうふ・からすきやき・炒りとうふ・煮抜きとうふ・精進の煮抜きとうふ・五目とうふ・空蝉とうふ・海老とうふ・カスティラとうふ・別山焼・包油揚
油揚ながし・辛味とうふ・つぶてでんがく・湯やっこ・ゆきめし・鞍馬とうふ・真のうどんとうふ

食事ラッパ 実際に自衛隊が食事ラッパを吹く様子。
タテトテ 不明。音程のコントルールの難しさと関係がある?

 最後に、山田竹系著『四国風土記』「とうふ屋のラッパ」(高松ブックセンター、1962年)について記事がありました。

 とうふ屋のラッパ
 とうふ屋のラッパといえば、さきごろ亡くなった随筆家の石川欣一氏が、ある時知人の二世から、とうふ屋のラッパを買ってくれと頼まれた。
 その二世は、永年東京に住んでいて、夕方に、プープイと吹いて来るあのとうふ屋のラッパに日本の音を感じ、アメリカに帰っても、日本が恋しくなったら、このラッパを吹いて自ら慰めようというのである。
 石川氏は、二つ返事で引きうけた。
 ところが、このラッパはどこにも売っていない。
 金物屋にもないし、とうふ屋にもむろん売ってはいない。
 困り果てて、ある日、西銀座のある料理屋のおやじに聞いてみたら、そのおやじも首をかしげたが、出入のとうふ屋さんに電話で尋ねてくれた。
 その結果、あのラッパは、東京都とうふ小売販売同業組合という組合で配給するのだということが判った。
 それで、その組合に手を廻し、400円也で一つのラッパを入手したが、そうなると手ばなすのが惜しくなって、自分の机の上に置いて、時々これを吹いて楽しんでいるということで、亡くなられた今日、あのラッパはどうなったか、と心配するわけではないが、ちょっと気になる。
 このラッパは、もう一つ使い途がある。
 北海道でクマに出会ったら、このラッパを吹くと、クマが逃げるのだそうである。
 ある人が、北海道へ渡ってから、このラッパを持参するのを忘れ「ラッパオクレ」と 東京の家人に電報したというはなしを、半年ほど前さる雑誌で読んだことがある。
石川欣一 新聞人で翻訳家。東京大学を中退し、プリンストン大学英文科を卒業。毎日新聞社に入社し、米英特派員、ロンドン支局長、のち文化部長、サン写真新聞社長。日本ライオンズ・クラブ初代ガバナー。生年は明治28年3月17日。没年は昭和34年8月4日。64歳。
東京都とうふ小売販売同業組合 残念ながら、この組合はなくなっています。

酒井邸での奇怪な事件|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 25.酒井邸での奇怪な事件」では……

酒井邸での奇怪な事件
     (矢来町)
 嘉永五年(1852)12月2日、3日のころ、巣鴨の加州候下屋敷邸あたりから大きなイノシシが一匹おどり出た。このイノシシ、道を走り垣根を越えて突っ走り、ついにこの酒井邸内にもぐり込んだ。藩士はこれを見て斬りつけると、ますます猛り狂って逃げ回り、ついに早稲田の女太夫の家に入り、娘を牙にかけて投げ出した。
 イノシシはその後どこへ行ったか分らないが、娘は外科医にかかり、股の傷を縫ってもらったという話が「武江年表」に出ている。
 またこの下屋敷の早稲田通りに面して、高さ1メートル32センチほどの青石があった。このあたりは薄気味悪い所だったから、夜間は通る人がなかった。ところが気丈な酒井家の一武士が、提灯を持たないでここを通った。すると怪しい人影が仁王立ちになって前方をさえ切った。
 武士は「何物ぞ」と抜き打ちに斬りつけると、怪しい人影は消え失せた。翌朝その場所に行って調べてみると、例の青石の表面に92センチほどの刀傷がついていた。昨夜の人影はこの石の化けたものだったのである。
 このことを聞いた酒井若狭守は、その武士の武勇をほめ、それを後世まで顕彰するいみで青石をそのままにして置くことにした。土地の人々はこの石を「化け石」と呼んでいたが今はない。
 酒井邸あたりは薄暗く、屋敷の横手には大樹のモミ並木があった。江戸市中では化け物が出るといわれた場所がたくさんあったが、特に矢来は有名で、「化け物を見たければ矢来のモミ並木へ行け」とまでいわれたほどである。
 明治になっても矢来は薄暗く、作家武田仰天子は、「夜の矢来」(「文芸界」、明治35年9月定期増刊号)につぎのように書いている。
 “木の多い所だけに、夜の風が面白く聞かれます。矢来町を夜籟町と書換へた方が適当でせう。何しろ栗や杉の喬木を受けて、ざァーざァと騒ぐ様は、是が東京市かと怪しまれるほどで、町の中だとは思へません。
〔参考〕わすれのこり 江戸に就ての話 新宿と伝説
加州 加賀国の別称。石川県小松市など。

地図 令制国 加賀国

女太夫 江戸時代、菅笠をかぶり、三味線・きゅうの弾き語りをして歩いた女の門付け芸人。正月には鳥追いとなった。
武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永元年)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18年)から1848年(嘉永元年)まで、続編はその翌年から1873年(明治6年)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
 では問題となった武江年表から……

〇十二月二日・三日の頃、いづくよりか来りけん、巣鴨なる加州侯下藩邸の辺より老猪一疋駈出し、大路を過り堀かきを越て、牛込やらい下酒井侯別荘の地へ入りしを、藩士某、跡足を斬けるよりが、いよいよ猛り狂ひ、早稲田わせだなる乞丐人の家に入、その娘(閭巻りょこう徘徊し、三味線を鳴らして銭を乞ふ、世に女太夫といふものなり)を牙にかけて投出したり。其後何れへ走去りしや知らずと。かの女は外科の医生を請ふて股のを縫しめ療養を施しけるが、苦痛甚しく、存亡を知らずと聞り。
  かきね。壁。
 乞丐人 こつがいにん。こじき。貧乏のため金銭や物品を乞う人。
 閭巻 村里の入り口にある門
 徘徊 はいかい。うろうろ歩き回ること
  きず。皮膚や筋肉が裂けたり破れたりした部分。

またこの下屋敷の早稲田通りに面して もしこの文章が正しいとするとこれは「矢来下」の通りで、表門通りになります。しかし「わすれのこり」の「矢来下の怪石」を読むと、「裏門通り」が正しく、つまり、赤い線で書いた場所が正しいとなります。「裏山横丁」とも。

「牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図」嘉永2年(1849)

わすれのこりから

   矢来下の怪石
牛込矢来下、酒井若狭守殿下屋敷は、其構広大にして第中に寺あり、行安寺という。また刑罪場もあり。裏門通り藪の傍らに、高さ四尺計りの青石あり。夜更けて出所を通れば怪に逢うとて、夜に入りて通る者なし。一人気丈なる士ありて、闇夜にわざと挑灯を持たず、此ところへ来たりしが、はたして道の中央にあやしき者立てり。心得たりと抜き打に切り付けたれば、すがたは怱ち消え失せたり。夜明けて其所に来て見れば、石の面三四寸ばかり切込みしあり。殿彼が勇気を賞して取捨てず。其まま置れたりし、かれが勇を後までも伝えんとの事なり。

 酒井若狭守 さかいわかさのかみ。若狭国小浜藩は現在の福井県西部。その藩主は酒井忠勝氏などの酒井氏。
第中 ていちゅう。邸中。やしきのなか。邸内
四尺 約121cm
青石 青や緑色の岩石。庭石に使う
挑灯 ちょうちん。提灯。ろうそく用の灯火具。
抜き打 ぬきうち。刀を抜くと同時に切りつけること
三四尺 約91〜121㎝
殿彼が勇気を賞して  「殿、彼が勇気を賞して」「殿様は彼の勇気をほめたたえ」

顕彰 けんしょう。隠れた善行や功績などを広く知らせること。広く世間に知らせて表彰すること。
モミ 樅。マツ科モミ属の常緑針葉樹。

化け物を見たければ…… 岡本綺堂氏の『半七捕物帳』「柳原堤の女」では

江戸時代に妖怪の探索などということはなかった。その妖怪がよほど特別の禍いをなさない限りは、いっさい不問に付しておくのが習いで、そのころの江戸市中には化け物が出ると云い伝えられている場所はたくさんあった。現に牛込矢来下の酒井の屋敷の横手にはもみの大樹の並木があって、そこには種々の化け物が出る。化け物がみたければ矢来の樅並木へゆけと云われたくらいであるが、誰もそれを探索に行ったという話もきこえない。町奉行所でも人間の取締りはするが、化け物の取締りは自分たちの責任でないというのであろう、ただの一度も妖怪退治や妖怪探索に着手したことはない。
(岸井良衞編「岡本綺堂 江戸に就ての話」青蛙房、昭和30年、279頁)

わすれのこり 燕石十種(江戸後期の叢書そうしょで、稀書60冊を1集に10冊ずつ収録)の1冊。「わすれのこり」の著者は四壁庵茂蔦氏、出版は安政元年(1854)頃。
江戸に就ての話 江戸時代に関する、岡本綺堂氏が書かれたあらゆる事柄を収集した本。岸井良衞編、青蛙房、昭和30年。

市ヶ谷濠(写真)桜 釣り人 昭和20年代 ID 9488-91

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9488〜9491は、昭和20年代に旧江戸城の外堀、桜の花、釣り人などを撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9488 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9489 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9490 外堀(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9491 外堀(飯田橋付近)

 以下は地元の方からものです。

 ピントがあっていない写真もありますが、ほぼ同じ場所からの撮影です。手前が新宿区側、濠を挟んだ対岸が千代田区側でしょう。
 場所は「飯田橋付近」としています。ただし、この場所が飯田橋かどうかは疑問です。対岸には国鉄の中央・総武線の線路があるはずですが、奥に向かって下り坂です。飯田橋付近の牛込濠には、こんな坂はありません。

外堀。1977「気まぐれ本格派」33話

 また写真奥には線路の高さに複数の三角屋根が見えます。当時の飯田橋駅は牛込橋の向こう側なので、この場所に駅施設はありません。昭和20—30年代の航空写真でも確認できません。
 では、撮影場所はどこでしょうか。外堀とすれば、四谷方向から市ヶ谷駅に向けて、市ヶ谷濠を撮影したものではないでしょうか。四谷から市ヶ谷にかけての線路は下り坂です。駅は四谷側にのびており、航空写真でも駅施設が確認できます。心なしか濠が写真右に向かってすぼまって見えるのも、市ヶ谷濠の形に符合します。

昭和22年 市ヶ谷濠付近(地理院地図)

 濠は濁っていて、浅く見えます。ゴミも浮いており、好適な釣り場とは言えなさそうです。釣り人は両岸にいますが、多くは小中学の男の子です。大人の男性や割烹着の女性は付き添いのようにも見えます。地域の子供サークルの活動で、手軽な遊びとして「釣りの会」などをした写真ではないでしょうか。

七福神巡り|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 4.繁華街の核、毘沙門様」を見てみましょう。ここでは、主に参考書『郷土玩具大成』の中の“七福神”を扱います。つまり、8種(谷中、向島、芝、亀戸、東海、麻布稲荷、山の手、柴又)の七福神です。
 ここでどの七福神が何年に初めて参詣したのか、簡単にわかる表を作りました。
 谷中七福神   元文2年、1737年
 向島七福神   文化元年、1804年
 芝(港)七福神 明治末期、1900年以降か
 亀戸七福神   明治末期、1900年以降か
 東海七福神   昭和7年、1932年
 麻布稲荷七福神 昭和8年、1933年
 山の手七福神  昭和9年、1934年
 柴又七福神   昭和9年、1934年

繁華街の核、毘沙門様
     (神楽坂5-36)
 神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁華街だったが、その核をなすものが坂を上って左側の毘沙門様である。正式には善国寺である。文禄4年(1595)に、中央区馬喰町に建立され、寛政4年(1792)に類焼してここに移転してきたものである。本尊の毘沙門天像は新宿区の文化財になっている。
 元文2年(1737)から、江戸では七福神詣でという巡拝が谷中ではじまり、寛政初年(1789)から流行したが、文化13年(1816)の「遊歴雑記」中の、江戸七福神詣にはここを入れてあるから、そのころから有名になったのであろう。
 このにぎわいを背景にして、神楽坂に花街ができたのは明治初期で、「近代花街年表」には「明治7年1月24日、牛込肴町より出火、神楽坂花街全焼す」と出ている。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治20年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。
 だから、明治、大正時代の縁日のにぎわいは格別で、夜には表通りが人出で歩けないほどになり、坂下と坂上大久保通りの交差点には、車馬通行止めの札が出たほどである。
 なおここが山の手七福神の一つになったのは昭和9年からである。山の手七福神というのは、このほか原町の経王寺(市谷6参照)、東大久保の厳島神社(大久保27参照)、法善寺(大久保25参照)、永福寺(大久保29参照)、西大久保の鬼王神社(大久保2参照)、新宿二丁目の太宗寺(新宿22参照)である。
 七福神の発達は前にふれたが、明治末期には芝と亀戸に設置され、昭和7年には東海(品川)、8年には麻布、9年に山の手と柴又とに設けられたのである。
 山の手七福神は、大久保の旧家で中村正策という俳人(花秀という)が発案したものだが、はじめの候補に筑土八幡(恵比寿)と新宿布袋屋百貨店(布袋)が予定されていた(新宿72参照)。しかし、筑土八幡は氏子に反対されて鬼王神社にかわり、布袋屋は営業の宣伝に使われるおそれがある上に元旦から三日間は休業するので問題となり、太宗寺になったのであった。
〔参考〕 郷土玩具大成東京篇 新宿区文化財 新宿と伝説

善国寺の毘沙門天像

毘沙門天像 昭和60年7月5日、有形文化財(彫刻)で登録。
遊歴雑記 ゆうれきざっき。著者は江戸小日向廓然寺の住職・津田敬順。文化9年(1812)の隠居から文政12(1829)までの江戸、その近郊、房総から尾張地方に至るまでの名所・旧跡探訪の紀行文。
近代花街年表 おそらく『蒐集時代』の一部でしょう。『蒐集時代—近代花街年表・花街風俗展覽會目録・花街賣笑文献目録』2・3号合輯(粋古堂、1936年。再販は金沢文圃閣、2020年)

 では、有坂与太郎氏の「郷土玩具大成 第1巻(東京篇)」(建設社、昭和10年)317頁の「七福神」についてです。最初は谷中七福で、七福神が初めてこの地に設置されたのです。

 その七福神が江戸に於て初めて設置されたのは元文2年(1737)といわれているが、七福は、俗に谷中七福と呼ばれ、左の五寺院が挙げられている。即ち
  (弁財天)不忍弁天堂(毘沙門)谷中感応寺(寿老人)谷中長安寺(えびす大黒、布袋)日暮里青雲寺(福禄寿)田畑西行庵
 つまりこれを順々に巡って福を得ようというので、その中には多分に遊山気分が含まれている。特にこれが流行したのは寛政の初年(1789)あたりからであったとみえて、同じ五年には山東京伝の「花之笑七福参詣」を筆頭とし類似の青本が数冊上梓されている。

谷中 東京都台東区の地名。本郷台と上野台の谷間に位置する。
青本 江戸時代に出されていた草双紙の一種。人形浄瑠璃や歌舞伎といった演劇や浮世草子に取材したもの、勧化本や地誌、通俗演義ものや実録もの、一代記ものなどがある。

 これは写真の七福神です。高さは13.5糎(cm)しかありません。もう1つ、手に入るのはミニチュアの七福神です。スタンプを押す方がよかったかも。

七福神

 また「享和雑記」にも
  近頃正月初出に七福神参りといふ事始まりて遊人多く参詣する事となれり
とし、屠蘇機嫌で盛り立てた谷中の七福もどうやら本物になつてきたらしいが、好事魔多しとは神仏の方にもあったらしい。文化の初年[1804]、日暮里布袋堂の住職が強盗のために惨殺されたのが七福の挫折する初まりで、布袋の像は駒込の円通寺へ還され、七福が一福欠けて、さしもの初春絶好の遊山気分にひびが入ったのは是非もない盛衰である。

 住職が死亡し、挫折と衰退があり、そこで別の七福神、墨田区の向島七福神が登場します。時代は書いていませんが、おそらく文化元年(1804)頃以降でしょう。

 この機に乗じて興ったのが向島七福神であって、これは肝入りであり、土地開拓者の一人である梅屋鞠塢の宣伝よろしきを得たため加速度に売り出してしまった。
 梅屋鞠塢は仙台の産で、初め堺町の芝居茶屋和泉屋に住み込んでいたが、後、独立して骨董商を営んでいた。晩年、向島に梅屋敷を開いた事もまた七福神を創設した事もすべてこの骨董商時代に知遇を得た文人墨客の力に興って大なるものがあった。即ち、鞠塢が七福設置を企画するに当り、先づ喜多武清の宝船に、角田川七福遊びと憲斎が題をした一枚摺板行した。そして、抱ー蜀山を抱き込み通人雅客清遊地と云う折紙附の芝居を打ったので、「山師来て何やら裁えし角田川」と白猿に難じられながらも、半可な酢豆腐には迎合されるに十分なものがあった。鞠塢自身にして見れば、たただ向島に人がきて呉れればよかったので、どれほど売名的だと云われてもそんな事には亳しも頑着していなかった。文化元年に梅屋を開いた時も、千蔭春海などの歌人を利用して立派に宣伝効果を挙げていたので、七福の受り込みなどは鞠塢にとって寧ろ朝飯前の仕事であつたかも判らぬ。つまり、向島の七福は谷中のそれと相違し、創設の目的が江戸人の吸引策にあったので、七福神の如きも、寿老人の髯から思いついて対象物のない白髭神社を寿老人に見立てたり、前身の骨董商で既に経験済みの、なにやら得体の知れぬ福禄寿をさも有難そうに梅屋敷へ持ち込んだりしてみた。
 こんな具合に鞠塢の手際は頗る鮮やかだったので、終には谷中の七福という母屋を奪って、どっちが本家の如く思惟されるまでになったのは、考えように取っては鞠塢は向島発展の恩人であつたと云う事が出来る。
 天保四年(1833)に上梓された「春色梅兒誉美4編巻8には向島の変遷に就て次のやうな事が語られてある。
 由「イエ向島も自由は自由になりましたネ渡り越の舟が、今じゃア六人でかはり/”\に渡しますぜ
 藤「くわしく穿つの、船人の数まではおれも知らなんだ、昨今まで竹屋を呼に声を枯したもんだっけ、それだから故人になった白毛舎が歌に
◯   文々舎側にて当時のよみ人なりし万守が事なり
    須田堤立つゝ呼べど此雪に
     寝たか竹屋の音さたもなし
 藤「この歌も今すこし過ぐると、こんは山谷舟を土手より呼びて、堀へ乗切りし頃の風情を詠めりと、前書が無いとわからなくなりやす」
 天保頃の向島は既にこういった著るしい推移が見られた。これは勿論、鞠塢の売名的手段がその発展を急速に促したものであると共に、七福神の存続が向島に対する一般の認識を強めさせる一つの原動力となっていたという事は考えるまでもなかった。

おこった おこる。さかんになる。おこす。はじまる。ふるいたつ
肝入り 双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。鞠塢氏の百花園が中心となって七福神を立ち上げたのでしょう。
梅屋敷 正式名称は清香庵。伊勢屋喜右衛門の別荘内にあり、300本もの梅の木が植えられ、梅の名所として賑わった。
鞠塢 佐原鞠塢。きくう。江戸後期の文人、本草家。中村座の芝居茶屋に奉公し、骨董店をひらき、財をなし、文化元年、向島寺島村に3000坪の土地を使って花木や草花をあつめ、当初は「新梅屋敷」、後に「向島百花園」で開始。生年は宝暦12年。没年は天保2年8月29日。70歳。「向島百花園」は、昭和13年、全てを東京市に寄付し、現在、都立庭園の1つ。
喜多武清 きた ぶせい。1776-1857。江戸後期の画家
角田川 すみだがわ。隅田川の別表記
憲斎 中川憲斎。なかがわ けんさい。江戸後期の書家。
一枚摺 いちまいずり。紙一枚に印刷すること
板行 はんこう。書籍・文書などを版木で印刷して発行すること
抱ー 酒井抱一。さかい ほういつ。江戸後期の絵師、俳人。
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人・狂歌師
通人雅客 つうじん。あることに精通している人。がかく。風雅を理解し愛好する人。
清遊 せいゆう。世俗を離れて風流な遊びをすること
白猿 五代目市川団十郎白猿。芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」をもじって「山師来て 何やら裁えし 角田川」と詠んだ
半可な酢豆腐 知ったかぶりの若旦那が、腐って酸っぱくなった豆腐を食べさせられ、酢豆腐だと答える落語から。知ったかぶり。半可通。
亳しも こうも。「毫」は細い毛の意。少しも。ちっとも。おそらく「亳しも」と書いて「少しも」と読むのでしょう。
千蔭 加藤かげ。江戸中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。
春海 村田春海。むらたはるみ。江戸中期・後期の国学者・歌人。
福禄寿 ふくろくじゅ。七福神の一神。幸福・俸禄ほうろく・長寿命をさずける神
春色しゅんしょくうめ兒誉美ごよみ しゅんしょくうめごよみ。人情本。江戸深川の花柳界を背景に描いた、写実的風俗小説。
穿つ 穴をあける。押し分けて進む。人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。新奇で凝ったことをする。

 ここで、向島七福神の内訳を書いておきます。
角田川七福神(=隅田川七福神)
(夷大黒)東京市本所区向島二丁目 三囲神社
(布袋) 同  本所区須崎町   弘 福 寺
(弁財天)同  本所区須崎町   長 命 寺
(福禄寿)同  向島区寺島町   百 花 園
(寿老人)同  向島区寺島町   白鬚神社
(毘沙門)同  向島区隅田町   多 聞 寺
 では、谷中七福神がどうしているのでしょうか。文化13年(1816)には牛込岩戸町の善国寺がでてきます。善国寺は牛込肴町になったこともあります。明治12年(1879)、復活が企画されましたが、これも失敗。また、明治末期、芝と亀戸の七福神が出ましたが、人気は出なかったといいます。

 こうして、向島の七福は江戸人の春興として最早一つの常識とさえなるに至ったが、一方谷中の七福はどうなったかといえば、十方庵の「遊歴雑記」三編(文化13年、1816)には御府内七福神人方角詣として左の七ヶ所が挙げられている。
(毘沙門)牛込岩戸町   善国寺
(大黒) 小石川伝通院内 福聚院
(福禄寿)田畑村     西行庵
(布袋) 日暮村     妙了院
(寿老人)谷中      長安寺
(弁財天)しのぶ岡    弁天堂
(夷)  浅草寺境内   西の宮
これを一瞥して直ちに感ぜられるのは、創設時代とこれといろ/\な相違が見出される事である。即ち、創設時代から文化13年(1816)まで依然として変らないのは、不忍の弁財天と長安寺の寿老人と西行庵の福禄寿と僅かに三ヶ所で、他は凡て新らしい組織になっている事と、もう一つは、従来は上野の不忍から田畑迄という比較的短距離であったものが、これでは牛込から浅草まで延びている事である。何故こんな変動があったかといえば、これは、前記布袋堂住職の横死に起因しているものであって、この長距離(道程約三里)とこの組織では如何になんでも江戸人を吸収する事が出来ない。これでは急造の向島七福に圧倒されたのも無理からぬ事であり、谷中七福の声誉はこうして徐々に転落の一途を辿るのみとなってしまったのは誠に余儀ない結果であった。所が、明治12年(1879)、不図した事から高畠藍泉等の手により復活が企画され、山下の清凌亭施版で橋本周延画の道案内図が作られたり、清元仲太夫三遊亭金朝等の鳴物入りもあって、ここに華々しく谷中七福は毎度のお目見得をする段取にまで漕ぎつけたのであった。但し、この時組織された七福の顔触れがまた変わっている。
(弁財天)上野不忍    弁天堂
(毘沙門)谷中      感応寺
(寿老人)谷中      長安寺
(布袋) 日暮里     修性院
(大黒) 日幕里     経王院
(夷)  日暮里     青雲寺
(福禄寿)田畑      西行庵
と、こういう具合になっている。この復活は大体に於て当を得ていたが、無論これは一時的現象で殆どアトがつづかなかった。いうまでもなく、向島の七福にも盛衰があって安政の地震(1855年)後は、まさか雑煮腹を抱えて七福詣でもないので、自然閉塞の形となっていたが、これも亦、明治33年(1900)、小松宮殿下御徴行以来、漸く復活の曙光が見え出して来ている。尤も、同じ更生でもこの方は谷中と異り、鞠塢が組織したそのももの顔触れが揃って亳しも変動がなかった。現在、元旦より七日迄、七福の各社寺より尊像が授与される慣例は、この復活の機運が崩した小松宮殿下御徴行以来と云われ、大正12年(1923)の東京震災にも安政の轍を踏まず いよ/\増々盛大に行はれつつある現状に置かれている。
 この向島の七福に倣って、明治の末期、芝と亀戸との二ヶ所に七福神が設置されたが、これらは向島の如く地の利を得ていない事が第一の理由で、世間的には認められずにしまった。従って、七福神といえば、全く向島が独占した形であったが、俄然、昭和7年(1932)に東海七福神が出現するに及んで、七福の氾濫時代を惹起する事となった。こうなってみると、地下の鞠塢に先見の明ありと北叟笑まれても二の句がないかも判らない。
横死 不慮の死。非業の死。天命を全うしないで死ぬこと
声誉 せいよ。よい評判。ほまれ。名声。
高畠藍泉 たかばたけらんせん。明治初期の戯作者と近代ジャーナリスト。
清凌亭 上野の料亭。「佐多稲子の東京を歩く」で詳しい
橋本周延 はしもと ちかのぶ。江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などの浮世絵師。
清元仲太夫 江戸浄瑠璃。江戸浄瑠璃とは江戸で成立か発達した浄瑠璃のこと。
三遊亭金朝 2代目でしょう。落語家。
徴行 びこう。身分の高い人などが身をやつしてひそかに出歩くこと。
北叟笑む ほくそえむ。うまくいったことに満足して、一人ひそかに笑う。
二の句 二の句が継げない。次に言う言葉が出てこない。あきれたり驚いたりして、次に言うべき言葉を失う。

 小松宮殿下が徴行する明治33年(1900)からは、向島七福神が谷中七福などを打ち砕き、独占した形になりました。しかし、昭和7年(1932)には、新しい東海七福神が出現し、これで氾濫時代にはいりました。

 その七福氾濫時代のトップを切った東海七福の企画者はかくいう筆者であるが、生の動機は向島七福の創設当時と一致するもののあった事は断言し得られる。勿論これを企画した筆者は酒落でもなければ戯談でもなく、まして御信心の押売りをしようなどと大それた考えは毛頭持ってなかった。それではどんな所に動機があったかといえば、沈滞しつつある品川を昔の繁栄に引戻そうとした一つの手段に過ぎなかったので、これを設置すればたとえ短時日の間でも他区民が同所へ足を踏み入れるであろうし、それと同時に煙草一ヶ位は売れるに違ひない、そうすれば品川という土地がどれだけ潤うであろうと考えたのが本当であった。
 ほぼ。全部か完全にではないが、それに近い状態。
戯談 ぎだん。冗談。

 昭和8年(1933)には麻布の稲荷七福が出てきます。

 この東海七福の好評だった反響は直ちに昭和8年(1933)の麻布稲荷七福の創設によって現れて来ている。これは十番の末広稲荷の肝入りで、初めは麻布七福神として発表した所、七福が凡て対象のない稲荷を象っため、神社会から難じられ、已むを得ず稲荷の名を冠して麻布稲荷七福と看板を塗り代えたものであった。ここの宝船は皮付きの丸木舟で、尊像は悉く木彫であるが、別に恵比寿に象っている恵比寿稲荷から鯛と宝珠(いづれも土製)を吊した「女男登守」というものが出されている。
象る かたどる。物の形を写し取る。ある形に似せて作る。
悉く ことごとく。全部。残らず。すべて。みな。
宝珠 ほうじゅ。宝石。
女男登守 「男女ともにお守りを授かる」という意味?

 昭和9年(1934)、山の手七福神がついに登場し、柴又の七福神も開設されました。ここで、当時の山の手七福神を書いておきます。
山の手七福神
(昆沙門)東京市牛込区神楽坂上 善国寺内 毘沙門堂
(大黒) 同  牛込区原町        経王寺
(弁財天)同  淀橋区東大久保      巌島神社
(寿老人)同  淀橋区東大久保      法善寺
(福禄寿)同  淀橋区東大久保      豊香園
(夷)  同  淀橋区西大久保      鬼王神社
(布袋) 同  四谷区新宿二丁目     太宗寺

 つづいて昭和9年(1934)、山之手七福と呼ぶものが出現した。これは大久保の中村花秀という俳人の発願であったが、花秀氏の依頼で筆者もこれに関し、最初から七福編成の難局に当たる光栄に浴せしめられた。当初候補に充てられた恵比寿の筑土八幡と布袋の新宿百貨店布袋屋中、筑戸八幡は氏子に反対されて途中から脱したので鬼王神社を以てこれに代え、布袋屋は営業の宣伝に供される恐れがある事と、元旦から三日間休業するため他との統一がとれぬ事とで排除し、太宗寺に交渉して更めて諾を得たものであった。ここの尊像は土製着彩、東海七福の類型であるが、宝船は経木で製られた頗る瀟洒なものである。(尊像授期日、麻布、山之手共に例年元旦より七日迄)
 右の外、昭和9年から柴又七福と称するものが開設された。これは寺院ばかりで編成されたもので、福禄寿は葛飾区新宿町崇福寺、寿老人は同区高砂町観蔵寺、毘沙門は同区柴又題経寺、弁財天は同区柴又町真学院、布袋は同区金町良観寺、恵比寿は同区柴又町医王寺、大黒は同区柴又町宝生院、以上であって、出処からは仕入ものの七福の腰下げが出されている。但し、柴又に限り例月7日に修行されるので、一年に通算すると 12日間腰下げが授与されるという事になる。
 かくして七福の氾濫時代が到達したのである。右の内どれが残ってどれが廃れるかは、かかって将来に対する興味ある問題でなければならぬ。
経木 きょうぎ。杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの。
腰下げ 印籠いんろう・タバコ入れ・巾着きんちゃくなどのように、腰にさげて携帯するもの。ミニチュア七福神よりも実用性は高いのでは?

「郷土玩具大成」の本は昭和10年(1935)に上梓した約90年昔の本です。七福神が競争する、結構本気で真剣な張り合いでした。しかも、筆者自身が「東海七福神」や「山の手七福神」でダイレクトに出ている。山の手七福神ははるか昔から決めたものではなく、昭和9年に決まったものでした。

桜並木だった神田川土手|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 43.桜並木だった神田川土手」についてです。

桜並木だった神田川土手
      (新小川町)
 大曲から石切橋までの間は、明治から大正にかけて両岸が桜並木で、花時には人出でにぎわったものである。島崎藤村の詩集「若菜集」(明治30年)には「水静かなる江戸川の、ながれの岸にうまれいで、岸の桜の花影に、われは処女となりにけり」という一節がある。
 武蔵野をこよなく愛した織田一磨の「武蔵野の記録」には、大正6年の石切橋あたりの絵と説明があるが、それによると清流が豊富で、桜並木では、春は灯火をつけ、土手には青草が茂って摘草もできたということである。
 大正12年以後昭和8年にかけて神田川改修工事が行なわれると、その姿はなくなった。
 〔参考〕 新宿と文学

若菜集 明治中期、島崎藤村の第一詩集。1897年に春陽堂から刊行。詩51編。ロマン主義文学の代表的な新体詩。
水静かなる江戸川の これは「二 六人の処女をとめ おえふ」の項で出ています。他に「おきぬ」「おさよ」など。
処女 詩には「おとめ」と読み方がついています。「おとめ」は「おとこ」の反意語で、年の若い女。未婚の女性。むすめ。しょうじょ。処女。
大正6年の石切橋 「第16図 江戸川石切橋附近」と「第18図 江戸川河岸」です。

江戸川石切橋附近

第16図 江戸川石切橋附近 (素描)大正6年作 四ツ切大
 江戸川の護岸工事が始まるというので、その前に廃滅の詩趣とでもいうのか、荒廃、爛熟の境地を写生に遺したいと思って、可成精密な素描を作つた。
 崩潰しようとする石垣に、雑草が茂り合った趣き、民家の柳が水面にたれ下った調子、すべて旧文化の崩れようとする姿に似て、最も心に感じ易い美観。これを写生するのが目的でこの素描は出来る限りの骨を折ったものだ。
 20図、21図も同様の目的で、同時代の作品であるが、記録といる目的が相当に豊富だったために、素描のもつ自由、奔放といふ点が失われている。芸術としては、牛込見附の方に素描らしい味覚がある。
 記録としてはこの図なぞ絶好のもので、これ以上にはなれないし、それなら写真でもいいということになってしまう。

江戸川河岸

第18図 江戸川河岸 (素描) 大正6年作 四ツ切大
 この作も前記二図と同じ意図の下に描写した記録作品で、江戸川に香る廃滅する詩趣を写さんと志したものだ。河の左岸にあるのは洗ひ張りやさんの仕事場で、伸子に張られた呉服物が何枚か干してある。
 石垣の端には柳が枝をたれて、河の水は今よりも清く、量も多く流れている。すべて眺め尽きることのない河岸風景の一枚である。当時は護岸工事も出来ていないし、橋梁もまだ旧態を存していた。
 この下流へ行けば大曲までは桜の並木があって、春は燈火をつけ、土手には青草が茂っていて、摘草もできたものだ。現在は桜は枯死し土手はコンクリートに代って、殺風景というか、近代化というか、とにかく破滅した風景を観せられる。都会の人は、よくも貴重な、自己周辺の美を惜し気もなく放棄するものだと思わせる。

牛込城の城下町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)「牛込地区 11.牛込城の城下町」では

牛込城の城下町
      (神楽坂五丁目)
 毘沙門様の先に左折するがあるが、そのあたり一帯は、肴(さかな)町といっていた。家康入国以前から兵庫町という町屋で、肴屋まであった。江戸初期には牛込に七つの村があったが、町屋になっていたのはここだけであった。
 思うに、神楽坂一帯は古い集落であって、特に肴町はあとで案内する牛込城13参照)の城下町だったのであろう。このあたりは、地形からみて、西部に一段高い台地(牛込城)があり、南向きの緩傾斜地で、集落のつくりやすい所である。
 水運にも恵まれている。つまり、外堀がまだ造られなかったころ、その谷間には川が流れていた。そして飯田橋あたりは大沼という沼地で、その川はこの大沼に流れていた。大沼には、神田川も流れこんでいた。大沼からは、九段下、神田橋(上平川)、常盤橋、日本橋と流れて(下平川)江戸湾に注いでいた。太田道灌のころは、常盤橋あたりは高橋といい、そこは水陸の便がよかったから、江戸城の城下町としてにぎわったものである。
 牛込城時代にも、舟がこの川をさかのぼって大沼まで来ていたことであろう。揚場町は荷物の揚場であるが古くは船河原であり、今でも南に町名が残っており、船のとまる場所から名づけられたものである(市谷16参照)。
 この城下町には、この水運によって海産物はじめ諸物資が運び込まれてきたのであろう。その上ここは戸塚に通じている古い交通路の通っていた所である(戸塚28参照)。こうして兵庫町は水陸の要路であり、牛込城の城下町となり、牛込城の武器製造職人がいたので名づけられた町だったのではあるまいか。
 前にのべた行元寺は、この城下町の人たちの菩提寺でもあったのであろう。
 家康の江戸入城時には、牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向いたものである。
 三代将軍の時、家光が当地に鷹狩りに来られるたびに町の肴屋が肴を献上したので、以後命によって兵庫町を肴町と改めたのである。昭和26年5月1日神楽坂五丁目となった。
〔参考〕御府内備考 五百年前の東京 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

 藁店わらだなか同じく地蔵坂
七つの村 小田原北条氏滅亡後、1590(天正18)年4月に豊臣秀吉の禁制に「武蔵国ゑハらの郡えとの内 うしこめ七村」とあり、また「御府内備考」でも同様な文がでています。

豊臣秀吉禁制 「新宿歴史博物館研究紀要4号」「牛込家文書の再検討」

 個々の地名は書かれておらず、「牛込7村」はこれだという文書もなく、どこの地名でもいいはずです。たとえば、大久保、戸塚、早稲田、中里、和田、戸山、高田の各村(【牛込②】牛込町)、あるいは、大久保村、戸塚村、早稲田村、中里村、和田戸山村、供養塚村(喜久井町)、兵庫町(神楽坂五丁目)の町村(東京都新宿区教育委員会「新宿区町名誌」昭和51年。渡辺功一「神楽坂がまるごとわかる本」展望社、平成19年)を上げています。
 でも「御府内備考」の肴町では「牛込七箇村之者とも武州川島村ト申處迄御迎罷在候由申伝候其頃は兵庫町と相唱肴屋とも住居仕候町屋ニ御座候」、つまり、家康の江戸入城時には「牛込七ヵ村の住民は川崎までお迎えに出向き、その頃は兵庫町に住んでいました」。つまり牛込7村のうち1村は兵庫町という町だったのです。
城下町 室町時代以降、武将・大名の城郭を中心に発達し、武士団や商工業者が集住した町
大沼 小石川大沼です。下図では(すいとうばし)の下に池が書かれています。

江戸図「千代田区史 上」千代田区役所。昭和35年

 菊池山哉氏の「500年前の東京」(批評社、1992)は

「後楽園の南半部から三崎町の西へかけて余り深くはないが20尺程度の池がある。後楽園の台地と神楽坂方面の台地とは飯田橋と大曲りの橋の間で陸続きになっている。其の上流小日向の台地と牛込の台地との間の一大盆地が白鳥池である。
 江戸川が流れ込み、末はドン/”\橋で小石川の大沼へ入り小石川の流れを合せて再び平川となつて、一ツ橋から常磐橋へ流れ、末は日本橋川となって江戸橋で東京湾へそぞく」

500年以前江戸城 菊池山哉「500年前の東京」(批評社、1992)

上平川 下平川 15世紀には、現在の江戸城平川門周辺に、上平川村と下平川村の2村があり、推測の域から出ないのですが、上平川村は平川門の北側付近、下平川村は江戸城大手門から東京駅周辺とされます。また、平川門の上下に分けて、平川は上平川と下平川に分かれました。
常盤橋 常盤橋公園から日本銀行までの日本橋川に架かる橋

太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。
高橋 平川の河口には大きな橋(「高き橋」「高橋」)がかかり、港町として大賑わいでした。ちなみに、江戸という地名も平川に由来します。「江」とは大きな川、つまり平川で、「戸」とは戸口、河口のこと。平川の河口が江戸になりました。
戸塚 大正3年(1914年)1月1日に町制施行し、戸塚町になり、昭和7年(1932年)10月1日、東京市編入時に大字下戸塚は戸塚町一丁目になり、大字源兵衛は戸塚町二丁目、大字戸塚は戸塚町三丁目と四丁目、大字諏訪は諏訪町になりました。1975年(昭和50年)まで変わりませんでした。

兵庫町 兵庫は兵器の倉庫(武器庫)に由来。
武器製造職人 刀の製作では鉄師、とうしょう(刀鍛冶、刀工)、研ぎ師、彫師や研磨師、鞘師といった複数の職人が必要でした。
菩提寺 ボダイジ。先祖代々の墓や位牌をおき、葬式や法事を行う寺。檀那だんな寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
家康の江戸入城 駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城にはいりました。
牛込七ヵ村の住民…… 「牛込町方書上」肴町の項で、村から町に変わったと延べ、つづいて「御入国之砌、牛込七ヶ村之者共、武州川崎村と申所迄御迎二罷出候由申傅候」と書いてきます。つまり「御入国に関しては牛込七ヵ村の住民は武蔵むさし国の川崎村というところまでお迎えに出向きました」

牛込町方書上 肴町

兵庫町を肴町と 同じく「牛込町方書上」肴町の項で、「大猷院様御代、御成之都度々々御肴奉献上候、仍之向後肴町と相改候様、酒井讃岐守様被仰渡候二付、夫ゟ町名肴町と相唱申候」と書かれ、大猷院様とは徳川家光のこと、ゟは合字の「より」。「徳川家光様は御治世の外出について、しばしば魚を差し上げたところ、今後は肴町と改名するといわれ、酒井讃岐守もこの命令を伝えて、これより、町名は肴町となりました」
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

瞬間の累積|渋沢篤二写真集

 最初は芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」(三交社、1972年)の52頁にこんな写真とキャプションがありました。

 これは渋沢篤二氏の「瞬間の累積 渋沢篤二明治後期撮影写真集」(出版者は渋沢敬三、1963)の再録でした。

446 江戸川電車通り 42年8月

 当然、キャプションは違っています。つまり、芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」のキャプションは「明治42年8月の飯田橋交差点(渋沢氏の”瞬間の累積”)」。渋沢篤二氏の「瞬間の累積」では「446 江戸川電車通り42年8月」と2つあるのです。

 昭和40年以前では「江戸川」が「神田川中流」を指します。より正確には、当時の「江戸川」は文京区水道関口のおおあらいぜきから飯田橋(正しくは船河原橋)までの神田川のことです。また「電車通り」が「路面電車の道」に書き換えられます。つまり渋沢氏の「江戸川電車通り」の書き換えは「神田川中流の路面電車の道」になるのです。

 もう1つ、問題があります。写真で見ると、路面電車が2方向に分かれています。この分かれる理由は? 実際に路面電車の行き先が2つ以上ある以外に考えられません。
 では、明治42年8月にはどんな線路があるのでしょうか。皇居の外濠を走った外濠線は土橋—新橋間を除いて38年11月全て開通しました(東京市電・都電路線史年表)。さらに明治39年9月27日、「飯田橋」から「新小川町二丁目」(のちの「大曲」)への線路も通っていました。この2つの線路があり、しかも、向きは90度位違っています。
 なお4か月後の明治42年12月3日、「小石川表町」(後の「伝通院前」)から「大曲」(旧「新小川町二丁目」)までの線路ができ上がります。さらに大正元年に「飯田橋」から「牛込柳町」まで開通します。
 以上「江戸川電車通り」は「飯田橋交差点」と意味はほぼ同じです。
 道路は大きく、空間も広く、中央には法被はっぴと帽子を着た人がいます。路面電車は四輪単車で、外濠線は821以上の番号が与えられました。しかし、ここではこの番号は見えません。

[江戸川]

奥州街道と鎌倉海道|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「戸塚地区 28.奥州街道と鎌倉海道」では……

奥州街道と鎌倉海道
     (戸塚一丁目)
 西北診療所前をさらに西に行くと、右折する細道の西角に五角柱の高さ約40センチほどの道しるべがある。その細道が奥州街道鎌倉海道ともいう)といわれる古道の名残りである。古道は早稲田通りの南に続き、戸塚一丁目と二丁目の境をなしている。それがさらに南の学習院女子部内から戸山ハイツに通じ、西向天神下、新宿二丁目、千駄ヶ谷、霞岳町と続く(四谷45参照)。北は豊島区の宿坂、雑司谷と続くのである。
 その古道を北に行くとすぐ茶屋町通りと出合う。この茶屋町通りが、東からくる鎌倉海道といわれる古道の名残りである。鎌倉海道については、「新編若葉の梢」によると、船で芝付近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本永川から番町を横切り牛込矢来町の酒井家下屋敷にくる。その邸内には沓掛け桜牛込22参照)があり、その下通りの小笹坂下が渡船場でそこから船で戸塚の毘沙門山下の船繋ぎ松(5参照)に着き、早大正門、観音寺前、松原通り(20参照)、早大構内、茶屋町通りと続くと推定している。
 なお「南向茶話追考」には、榎町とは榎の大木があったことから名づけられた町名(牛込55参照)で、その木は古来の鎌倉海道にあったものだと書いているから、室町時代以後は、九段から神楽坂—矢来町酒井邸内沓掛桜—榎町—供養塚—茶屋町通りと、牛込台地端をやや直線的に、続いていたものと思われ、これが現在の早稲田通りの前身だったと考えられる。
 この鎌倉海道はさらに、落合台地下の妙正寺にそって西にのびたのであろう(落合7参照)。
〔参考〕武蔵野の交通路 新編若葉の梢 新宿と伝説

西北診療所 専門は内科、胃腸科、循環器科、外科、整形外科、皮膚科です。
道しるべ 残念ながら道しるべはなくなりました。

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

西北診療所、道しるべ、戸塚1・2丁目

奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩みんまやに至る街道。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち

 ここで江戸時代の奥州街道と、鎌倉時代の鎌倉海道(鎌倉街道)が同じ意味で出てくるのは納得できません。奥州街道の現在の出発地は千住で、普通の意味ではこの街道を奥州街道とは呼びません。鎌倉街道の出発地は鎌倉で、しかも、鎌倉と各地を結ぶ全ての道を総称して鎌倉街道と呼びます。この古道は鎌倉街道の1つといえますが、奥州街道とはいえません。

戸塚一丁目と二丁目 昭和50年に、新しい住所表示に変わり、戸塚1丁目以外はなくなりました。しかし、この本は昭和47年に出版したので、 2丁目は消えません。
南の学習院女子部内から……

古道。雑司が谷から霞ヶ丘町

茶屋町通り 江戸時代、流鏑馬などの馬場練習場中の旗本や、雑司ヶ谷に鬼子母神参拝人のため、松並木の下に地元の農家8軒がそれぞれ茶屋を開店。明治初年、8軒全てが廃業し、他の職種に変更。下は歌川広重作『絵本江戸土産』4編「高田馬場」で、茶屋は右下に。

 たか馬場ばば
穴八幡あなはちまんかたはらにあり このところにて弓馬きうばの 稽古けいこありまた
神事じんじ流鏑馬やぶさめ興行こうぎやう せらるゝことあり東西とうざいへ六丁
東南とうなんのぞめば堤塘つゝみつらなり 南北なんぼく三十余間よけん
むかし頼朝よりともきやう隅田すみだがはより このいたせいぞろいありしと いひつた

この茶屋町通りが…… 茶屋町通りは高田馬場跡の並行2本のうち北の1本です(↓)。「新編若葉の梢」では「古來の街道がその儘あって、尾州公戸山御屋敷に入り、高田馬場の中程の所に御門の見える所に出て、馬場を横切り、嘉兵衛の屋敷の西が古來の舊道(鎌倉街道)であって、理十郎の家の東南の隅、清水公御屋敷車門の前で、松原通りからの海道と落合う。」となっています。

正保年中江戸絵図

新編若葉の梢 金子直徳著「若葉の梢」上下2巻(寛政年間)が底本。内容を整備、訂正し、口語体に書き改めたものが「新編若葉の梢」。著者は海老澤了之介。新編若葉の梢刊行会。昭和33年。
船で芝付近に…… 「新編若葉の梢」を引用すると「水路鎌倉街道は、船で芝附近に着き、そこから霞ヶ関に登り、本氷川から番町を横切り牛込の酒井修理大輔(若狭小浜藩主、113千石)の下屋敷にかかるのであった。この酒井家の庭に三抱えもある山桜の大木があり、沓掛桜と呼ばれていた。その下通りの小笹坂という所は、楠不伝が斬られたというので、六十六部の笠の形をした石塔が立っている。ここの泉水の下が渡船場であった。この渡船場から船にのり、入江を渡って、金川の落合、毘沙門山下に着船したのである」
 この「本氷川」がわかりません。まあ「霞ヶ関」と「番町」との間にある土地だと考えていればいいでしょう。
 酒井修理大輔と若狭小浜藩主は同じ人物で、沓掛桜もわかっています。
 ざさざかは、辞書を引けば、文京区と豊島区を分ける坂で、これは違いますね。「楠不伝が斬られた」場所は『新撰東京名所図会』によれば、弁天町らしい。次の文章が弁天町の項に出ています。
「○楠不伝の斬られし地
高田ひばり云、楠不伝が切られし所、榎町宗柏寺向まきかみゆいとこの間なるべし、むかしはざさざかという」

 ここに小笹坂が出てきました。弁天町と宗柏寺の地図は……

弁天町と宗柏寺

 くすのき不伝ふでんとは江戸時代前期の兵法家。由比正雪に楠流軍学を教え、養子にしたという俗説があるそうです。
 次の渡船場もわからない。最古の江戸絵図である「寛永江戸全図」(臼杵市教育委員会、寛永19~20年、1642−43年)を使っても、神田川は遠く、あるのは田圃です。これより古い古い地図がないと本当にわかりません。まあ、あったと考えて「寛永江戸全図」田圃上に青色で航路を書いてみます。

寛永江戸全図(寛永19~20年)

毘沙門山 「新宿の散歩道」の戸山地区5では「商店街を北に行くと、まもなく左手に永田運動具店がある。この店とその奥一帯は昔毘沙門山であったが、昭和8年に道路拡張のため切り崩され、傾斜地になった。藤原秀郷が、天慶四年(941)に平将門を亡ぼして上京する時、秀卿の念持仏で慈覚大師作の毘沙門天像を納めるため毘沙門堂を建てたので毘沙門山と呼ばれたという。毘沙門堂は維新後まもなくとり払われた」

戸塚地区の一部。「新宿の散歩道」から

左が毘沙門山。「新宿の散歩道」から

船繋ぎ松 『新編若葉の梢』を引用すると「この松は毘沙門堂の後方の山腹にあった。大歓院殿(三代将軍家光)が、この古松は幾年程の樹齢かとお尋ねがあった時に、寺僧がおよそ千年にもなるでしょうと申上げたので、千歳ちとせの松というよい名を賜った。むかし藤原の秀郷が船をこの松に繋いだというので船つなぎ松と呼ばれた。この寺の垣外の田面がみな入海で、金川落口の所が着船場になっていたのである。
「この松は直徳の時代すでに枯れてしまっていたが、その後にまた植えられたものか、やはり船繋の松として伝えられる老松が残っていた。これも、昭和の初年、毘沙門山が切りくずされて分譲地となったとき伐られてしまった。いま法輪寺境内に俵藤太秀郷御紹松造跡という、大きな標示杭が建っているが、ここは全然別の山で、船繫松と何等関係ない所である」

註:藤原秀郷 ふじわら の ひでさと。栃木の武将。平将門を朝廷の命により倒し、乱を平定。
  入(り)海 いりうみ。陸地にはいり込んだ海や湖。湾。入り江。cf. 汐入、潮入:低地や海とつながる池・沼・川などに海水が流入すること、その場所。
  金川 現在は「蟹川」。かにがわ。水源は新宿区戸山公園の池。新宿区馬場下町から早稲田鶴巻町を経て新宿区西早稲田の豊橋付近で神田川に合流する。沢蟹がたくさんいた。
  落口 水の流れが落下する所

船つなぎ松(『新編若葉の梢』から)

 また『新宿の散歩道』(戸塚地区5)では「この毘沙門山には船繋ぎ松という古木があった。藤原秀郷が軍船をこの松につないだので名づけられたものという。また千歳松ともいった。家光が鷹狩りの時ここにきて、この松の樹令を開かれた時、この辺一帯を領していた宝泉寺の寺僧が、およそ千年近いだろうと答えたので名づけられたという」
観音寺 真言宗豊山派の慈雲山大悲院観音寺。早稲田大学の大隈講堂に至近。
松原通り 戸塚地区20に「観音寺と早大構内との間の細道(松原通り)を行くとつき当り左手が早大の戸塚球場である」。戸塚球場とは安部球場のことです。

戸塚地域(「新宿の散歩道」から)

南向茶話追考 酒井忠昌著『南向茶話』(寛延4年、1751年)は江戸の地誌。『南向茶話追考』(明和2年、1765年)も江戸の地誌。この『追考』では「◯牛込榎町 古老云、昔は大木の榎有。依て号する由、是木は古来鎌倉海道の由申伝」
九段から神楽坂—……

九段下駅から茶屋町通りまで

供養塚 芳賀善次郎氏の「新宿の散歩道」牛込地区75「牛込氏先祖の墓地と思われる供養塚」(喜久井町14から20)でしょう。延享2年(1745)から明治2年(1869)まで「牛込供養塚町」が出ています。「牛込供養塚町」と「喜久井町14から20」とは1対1に対応するわけではありません。

牛込供養塚町

牛込台地 落合台地 写真を参照

牛込台地と落合台地 (地理院地図 / GSI Maps|国土地理院)

妙正寺 杉並区清水3丁目にある日蓮宗の法光山妙正寺。妙正寺川の水源となる妙正寺池を中心とした妙正寺公園もあります。妙正寺川は中野区を流れて江古田川を合わせ、新宿区下落合で神田川に合流します。

水野十郎左衛門あばれる|江戸ルポルタージュ

文学と神楽坂

 綿谷雪氏の本「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)では、江戸城、剣術道場、大岡越前守、水茶屋、遊郭、忠臣蔵などを面白おかしく取り上げています。特に「水野十郎左衛門あばれる」の「牛込藁店の地蔵坂」はこの話がどうして大嘘になったのか、その理由を説明します。昭和36年らしくその書き方は現在の名文とはやや違っていますが、そこは目をつぶって行きましょう。

 新宿区牛込袋町6番地に新築された出版クラブは、建物もよいし地域も広く、高燥で、見晴らしがよいので評判がいいようです。その敷地は、神楽坂のビシャモン天を少し北へ坂を下りた辺から、戦前、牛込館という映画館のあった横丁——俚名藁店わらだなという——を西へ入った、自然に右へ曲がって登る地蔵坂(一名、藁坂ともいう)の右側で、その向かいは光照寺地籍になっています。
 ところで、この場所はむかし水野十郎左衛門の住んでいた屋敷跡で、水野が幡随院長兵衛を殺したのはこの屋敷だと、出版クラブの挨拶文にもそう書いてあるそうだが——それは完全にあやまりであります。
 この誤りは、じつは今に始まったのでなく、戦前からの引きつぎです。いったい水野十郎左衛門の名にどのような利用価値をみとめたのか知らぬが、戦争前も水野の屋敷跡という名目を売り物にして、宣伝これ努めた料理屋が、私の知っているだけで三ヵ所もありました。しかも、それが一つとして正しい場所でなかったのだから、まったくあきれるというより仕方がない。
 まず最初に、その三ヵ所の料理屋の位置からいっておきましょう。
 一、牛込藁店——前記、出版クラブの所。この店では麗々しく水野十郎左衛門の紋所いおり沢瀉おもだか)まで使っていたと思います。
 二、牛込門外、神楽坂上り口の左側——坂に面した町屋の1かわ裏で、堀の方の電車道沿いの向かって表口がありました。故代理士三木武吉氏の経営で、一時ロシア美人の女中を置いて騒がれたことがあります。
 三、江戸川ベリ、大曲の少し上流、早稲田行き電車道に面している。今その正確な位置を思い出せないが、川岸から西へ江戸川アパートの方へ曲る道がある、その曲がり角の北側だったか、それよりもう少し上流だったか。どうもはっきりしないが、むろん石切橋よりはよほど下流でした。
 右の三ヵ所は、みな正しい場所ではない。理由をかんたんに述べましょう。
 一の場所(袋町の藁店)は、幕府普請方の実測図と、寛文・延宝等の江戸図ちょうて、2軒の武士屋敷地として終始し、しかも水野姓の人物の住居だったことは、ただの一度もないのです。ここは後に、明和2年から天明2年まで佐々木文次郎(改名して吉田四郎三郎)の〈牛込天文台〉になっていた場所ですから、そのことでも自慢するならしも文化史的の意味もありましょうが、水野十郎左衛門屋敷跡というせつを売物にするのは、とんだりょうけんちがいじゃないだろうか(藁店・地蔵坂は由比正雪その他で話題の多い場所ですが、そのことは続巻にゆずります)。
 この藁店を水野十郎左衛門屋敷とした古い文献はかいであり、講談でも、邑井はじめ(明治年代、後の貞吉)の系統だけが藁店を水野屋敷と勝手にきめているのですが、こんな間違いをいい出したものは、神楽坂通りの、いまビシャモン天になっているあたりの向こう側に水野甚五兵衛という小旗本がいた時代があり(寛文図)、そこが藁店の入口に近いので、このへんに水野という屋敷が昔あったのだという近辺の人たちの記憶が俗説にむすびついて、だんだん位置を藁店の横丁の奥へ押し入れたのかも知れない。水野甚五兵衛忠弘は5百石、御書院番で、水野十郎左衛門の家系と違う。紋も、丸に沢瀉で、いおり沢瀉ではない。
 二の位置は、寛文図に水野金兵衛とあり、これも十郎左衛門の系図とちがうのです。金兵衛信利、250俵広敷ひろしきばんで、紋はなみに沢瀉です。

出版クラブ 日本出版クラブは1953年9月「出版界の総親和」という精神を掲げ、設立。会館は1957年8月に新宿区袋町6に落成。2018年、新宿区袋町から千代田区神田神保町に事務所を移転。一方、袋町6にはマンションを建築。2023年7月、ようやくマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」が落成。

日本出版クラブ(昔)

プラウド神楽坂ヒルトップ(現在)

プラウド神楽坂ヒルトップ(現在)

プラウド神楽坂ヒルトップ(現在)

高燥 こうそう。土地が周りより高く湿気が少ない。
俚名 りめい。「俚」とは「いなか、いやしい、ひなびている」
藁店 わらを売る店。車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売る店。「藁を売る店」が転じて「藁を売る店がある坂」つまり地蔵坂。
地籍 ちせき。土地の位置・形質・所有関係等を記録したもの。土地登記の記録簿。土地の戸籍にあたるもの
名目 めいもく。名称。呼称。特に、表向きの名称。「名目だけの重役」
麗々しい ことさらに目立つ。人目につくように派手に飾りたてている。おおげさで。
水野十郎左衛門の紋所 「どころ」とは「家々で定めている紋章。家々の定紋。紋」です。水野十郎左衛門という紋所は現在以下の紋などで見つかっています。

 なお、沢瀉とはオモダカ属の多年生水生植物で、日本、アジアや東ヨーロッパの湿地に広く分布します。三方向に分裂した大きな葉が人の面を思わせ、それを高く伸ばしている様子からとも。
庵に沢瀉 残念なことに「庵」と「沢瀉」が個々に見つけましたが、2個同時に見つかりませんでした。無理やりに紋所「庵に沢瀉」をつくると……

庵に沢潟

1かわ ひとかわ。「1皮」は「1枚の皮。皮1枚。本質・素質を覆い包むもの。物事のうわべの姿」。「1かわ裏」はおそらく「1軒の裏側」
三木武吉 政治家。衆議院議員。第二次大戦後、日本自由党の結成に参画。日本民主党を結成し、鳩山内閣の実現に尽力。自由民主党の結成を推進。生年は明治17年8月15日。没年は昭和31年7月4日。71歳。
電車道 路面電車が走る道路。
江戸川アパート 財団法人同潤会は、大正12年の関東大震災の住宅復興を目的に設立。鉄筋コンクリート造の集合住宅で、ガスや水道、水洗便所を備えている。江戸川アパートは昭和9年(1934)に落成。平成15年、建て替えを決議。落成から約70年後、平成17年(2005)、アトラス江戸川アパートメントとなった。
普請方の実測図 「普請ふしんかた」とは江戸幕府の職名で、城壁・堤防・用水などの土木工事を担当した。「普請方の実測図」とは「御府内沿革図書」を含め、江戸幕府が実際に測定し、製図にしたもの。

(例)「御府内沿革図書」の「当時之形」

寛文・延宝等の江戸図  国立国会図書館デジタルコレクションで、遠近道印の『新板江戸外絵図』(小日向、牛込、四ツ谷)(經師屋加兵衛、寛文11-13年、1671-74)や林吉永の『延宝三年江戸全図』(延宝3年、1675)など。
徴する 呼び寄せる。召す。証明する。照らし合わせる。取り立てる。徴収する。もとめる。要求する。
了簡 料簡。了見。考え。思慮。分別。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸初期の兵法家。軍学塾「張孔堂」を開き、クーデターを画策。出生は1605年。享年は1651年。
邑井一 むらいはじめ。講談師。二代目の一龍斎貞吉を襲名。さらに「邑井一」と改名。生年は天保12年(1841年)。没年は明治43年(1910年)4月8日
水野甚五兵衛 赤で描いた四角形のうち左の方が水野甚五兵衛の屋敷です。

1)遠近道印『新板江戸外絵図』(小日向、牛込、四ツ谷)(經師屋加兵衛、寛文11-13 [1671-1674]) 国立国会図書館デジタルコレクション 2)綿谷雪「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)

書院番 しょいんばん。江戸城の警護、将軍外出時の護衛などの任にあたった。徳川将軍の親衛隊。
丸に沢瀉 これは想像の産物です。

丸に沢瀉

水野金兵衛 先に描いた地図で右の方が水野金兵衛の屋敷です。
250俵 1石は大人1人が1年間で食べる米の量。約150kg。1俵の米量は時代と所により異なりますが、明治末年では1俵が60kg、1石は2.5俵。250俵は100石。
御広敷番 大奥の管理・警衛にあたる御広敷向の役人のうち,警衛を主とした役人。
浪に沢瀉 これも想像です。

浪に沢瀉

 『久夢日記』には、水野十郎左衛門屋敷は牛込御門内とある。牛込門内から田安台(九段坂上)へかけては、正保図に水野甲斐・水野⬜︎之助・水野石見、寛文図に水野十兵衛などの屋敷を見出しますが、調べてみれば1軒として水野十郎左衛門の家系ではありません。
 くどいようですが、もう1つ書くと、山崎美成の『海録』に、〈幡随院長兵衛事蹟〉という一文の引用がありまして、それには十郎左衛門屋敷を小石川牛天神脇、あみほしの辺と書いています。これは江戸川のおおまがりを近くにひかえて、もっとも俗伝に近接しているものの、牛天神脇の水野は正保図には水野備前とあって、これは2万石安中城主。この人の玄孫げんそん元知のときに2万石を取上げられたが、旗本2千石として家は同所で幕末まで継続しました。水野十郎左衛門なら寛文4年に切腹を命じられて家も取上げられたのだから、同じ場所で幕末まで頑張っていては理屈に合いません。
 だいたい水野といっても数が少くないので、十郎左衛門は、戦国末期のあばれ大名として有名な水野勝成かつしげの孫です。父出雲守成貞(勝成の3男、百助)のときに分家して旗本となり、寛永元年8月に初めて神田広小路に屋敷を下賜されました。諸書に十郎左衛門の家禄を、5千石とか1万5千石とかいうのは誤りです。正しくは『寛政重修諸家譜』に3千石とあります。
 神田広小路というのは、一橋から水道橋に通ずる道路(今、三崎町を通る都電の電車道)の、もう一つ西に並行する道で、西神田小学校のある通りをいいます。その小学校の東斜め向かいのへんに正保図に<水野出雲いずもと出ていて、現在の西神田1丁目11番地(明治図では中猿楽町10番地)にあたる。この屋敷こそ水野十郎左衛門の父が下賜され、十郎左衛門が相続し、そして幡随院長兵衛が殺された家なのです。

久夢日記 きゅうむにっき。風俗記。江戸後期で編者未詳
田安台 正保年中江戸絵図では、正保元年(1644)か2年の江戸の町を描いています。下の緑丸が田安御門でした。そして御門のある台地は田安台です。
正保図 正保年中江戸絵図で、赤丸が「水野」か「水ノ」です。
寛文図 新板江戸大絵図で「水野カイ」が見つかりました。
山崎美成 江戸後期の随筆作家、雑学者。曲亭馬琴や屋代弘賢など考証収集家と交わり、流行の江戸風俗考証をおこなった。生年は寛政8年。没年は安政3年7月20日。61歳。
海録 1820年〜1837年で20巻、随筆『海録』は18年間の考証随筆。項目は1700余。難解な語句や俚諺には解釈を、また当時の街談巷説や奇聞異観は詳しく考証した。
小石川牛天神 うしてんじん。小石川区(現、文京区)の牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
網干坂 牛天神と網干坂は30分位離れています。

牛天神北野神社ー網干坂

大曲 この地点は東向きに流れてきた神田川がほぼ南に流れを変える場所。
牛天神脇の水野 正保図の青円が「牛天神脇の水野」でしょう。「水ノヒンゴ」と書いるように見えます。
 しかし、下の「小日向小石川牛込北辺絵図」の水野右近の方が「牛天神脇」によく合っているようです。ただ、この絵図は200年後の1849年に描かれたものです。また、水野右近は静岡県伊東市宇佐実の一部を所管する旗本でした。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

水野備前 みずのびぜん。水野家2代が安中城主だった。2万石。
安中城 群馬県安中市安中の戦国時代から続く城。
玄孫 やしゃご。げんそん。孫の孫。ひまごの子。
水野勝成 江戸前期の備後国福山藩(福山市)藩主。幼少より徳川家康に仕えた。大坂の陣で大和(奈良県)郡山藩主になり、島原の乱では原城を落城した。通称は六左衛門。生年は永禄7年8月15日。没年は慶安4年3月15日。88歳。
出雲守 江戸東京博物館では「『◯◯守』『◯◯介』のことを『受領名』『官職名』などといいます。徳川家康が慶長11年(1606)に武家の官位執奏権を手に入れ、以降は将軍が朝廷に奏請する権利を持ちました。『近世武家官位の研究』では『同姓同名とならないか、老中など然るべき役職にある者の名前に抵触しないかなどを吟味し、支障がなければ当人が伺出た名乗りをそのまま認めたのであろう』」(橋本政宣「近世武家官位の研究」続群書類従完成会、1999年。八木書店、2015年)
下賜 かし。高貴の人が、身分の低い人に物を与えること。
神田広小路 広小路とは「近世の都市において,普通の街路よりも特に幅広くつくられた街路のこと。城下町など町制の行われた都市では,延焼防止のための防火帯であるよけとして設けられることが多い」。でも、神田広小路はどこなのか、わかりません。「江戸町巡り」では「千代田区外神田一丁目11番」が神田広小路だといっているようですが、この場所は本書の中の言葉とは相当違っています。

「水野十郎左衛門屋敷」綿谷雪「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)

正保図に<水野出雲> これは上の正保図の黒丸か下の黒四角です。この<水野出雲>は<水野出雲守成貞>以外には存在しないので(「出雲守」の項参照)、神田広小路はどこかわかなくても、この黒丸は水野出雲守成貞の屋敷だと言ってもいいでしょう。
西神田1丁目11番地 昭和42年4月1日から住居表示実施され、西神田1丁目奇数番地は西神田2丁目に変わりました。現在、正保図の黒丸は、右図の左の斜線部とは少し違って、西神田2丁目2番の一部と7番の一部をまとめたもの(下の黒四角)でしょうか。

横寺町と通寺町|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 30. 寺町だった横寺町と通寺町」についてです。

寺町だった横寺町と通寺町
 旺文社から神楽坂通りに来た通りの両側が横寺町で、早稲田通り神楽坂六丁目はもと通寺町といった。付近一帯が寺町であり、通寺町というのは、牛込御門に通ずる寺町のいみであり、横寺町は文字どおり寺町の横町から名づけられたものである。いまでも横寺町には四寺院が残っている。
 作家加納作次郎は、「大東京繁昌記」の中で、明治中ごろの神楽坂六丁目のようすを書いている。それによると狭い陰気な通りで、低い長屋建ての家のひさしが両側からぶつかり合うように突き出ていて、雨の日など傘をさすと二人並んで歩けないほどだったという。映画館のところが勧工場だったが、そのあたりから火事が出てあの辺一帯が焼け、それ以後道路が拡張されたのであった。
 夏目漱石は、「硝子戸の中」に、明治時代喜久井町から神楽坂へ来る道、今の早稲田通りは、さびしい道だったことを書いているが、「昼でも陰森として、大空が会ったやうに始終薄暗かった」といっている。
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 ここで江戸時代の話題を拾ってみよう。「武江年表」(平凡社東洋文庫)の嘉永三年(1850)につぎのようにある。
 “六月、牛込横寺町長五郎店清吉妻きんの連れるまつ11歳、食物振舞ひ猫に異ならずとの噂あり、見物に行く者多し。”
 同書の文政六年(1823)には、場所不詳だがつぎのようにある。
 “十月八日夜、牛込辺へ大さ一間半程なる石落つ。昼雷鳴あり。夜に入り光り物通る。先年も王子辺へ石落ちたる事ありといふ。”
通寺町 とおりてらまち。昭和26年5月1日、神楽坂6丁目と改称。
旺文社 おおぶんしゃ。教育・情報をメインとした総合出版と事業。
四寺院 実際には5寺院で、竜門寺、円福寺、正定院宝国寺、長源寺、大信寺です。なお、法正寺は横寺町ではなく、岩戸町でした。

横寺町の5寺

それによると 「大東京繁昌記」の本文は「その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家のひさしが両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった」
長屋建て 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
映画館 明治時代には牛込勧工場が建ち、大正時代になると映画館の文明館に変わり、戦前は神楽坂日活、戦後は東映系映画館の武蔵野館、スーパーのアカカンバン、1970年代から現在まではスーパーの「よしや」です。
勧工場 かんこうば。工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売した。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さい。多くは民営で、複数商人への貸し店舗形式の連合商店街だった。明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治40年以後になると、百貨店の進出により衰退した。例は松斎吟光の「辰之口勧工場庭中之図」(福田熊次郎、明治15年)

辰之口勧工場庭中之図

火事が出て 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などの場合、出品者に危険を分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままだが、明治44年になると拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

武江年表 ぶこうねんぴょう。斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。1848年(嘉永1)に正編8巻、1878年(明治11)に続編4巻が成立。正編の記事は、徳川家康入国の1590年(天正18)から1848年(嘉永1)まで、続編はその翌年から1873年(明治6)まで。内容は地理の沿革、風俗の変遷、事物起源、巷談、異聞など。
振舞ひ ふるまい。動作。行動。もてなし。饗応(きようおう)
異ならず 「なり」は「違っている。 変わっている。 別だ」。「異ならず」は「全く同じ。全く同一の。寸分違わぬ」。つまり、「もてなしは猫も同じだ、という噂がたっている。見物に行く客が多い」
一間半 一間半は約270cm

西江戸川橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「西江戸川橋」についてです。

西江戸川橋(にしえどがわばし) 文京区水道二丁目から新宿区西五軒町江戸川に架され、石切橋中之橋の間にある。この間にはざくら橋(西江戸川の下手)もあるが、いずれも江戸時代にはなかった橋で、西江戸川町から西五軒町に渡されたので西江戸川橋と命名したもので、新撰東京名所図会はこれを「西江戸川橋 西江戸川町(小石川区)より牛込五軒町に通ずる木橋にして、江戸川に架せり、即ち石切橋と中之橋との中間に位し、前記の諸橋に比し最も後れて架設せられたる橋なり、万延元年秋改の小日向絵図に載せず、明治後の架橋なり、又前田橋ともいう。」としているが、東京府志料(明治7年編)にはこの橋の記載がないので、それ以後の創橋であろう。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰から船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、半分は水道一丁目、昭和41年4月1日、残る半分は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
西江戸川橋 不思議ですが、この文章で始まるものは「新撰東京名所図会」牛込区や小石川区に全くありません。
小日向絵図 嘉永5年(1852)、外題「小日向絵図」、内題「礫川牛込小日向絵図」が刊行され、それに手を加えて改訂された切絵図「小日向絵図全 礫川牛込小日向絵図」(万延元年、1860年、作者は戸松昌訓、金鱗堂 尾張屋清七)です。
前田橋 昭和28〜29年の間、初めて「前田橋」が架橋され、約25年後の大正11年になると「西江戸川橋」になっています。

1. 東京実測図(明治20年)2. 東京実測図(明治20年)3. 東京実測図(明治28年)4. 東京市牛込区全図(明治29年8月調査)5. 東京市牛込区全図(明治40年1月調査)6. 地籍台帳・地籍地図(大正元年)7. 東京市牛込区(東京逓信局編纂. 大正11年)

(1) 明治20年は中之橋と石切橋の間には何もありません。(2)同じ明治20年ですが、新しい架橋があり、しかし、橋の場所が違っています。(3) 28年もほぼ同じ絵ですが、(4)明治29年になって、初めて地図とほぼ同じ場所になりました。しかし、橋の名前は「前田橋」でした。(5)明治40年、(6)大正元年も「前田橋」ですが(7)大正11年となると「西江戸川橋」と変更、現在と同じ名前になりました。さらに新しく橋が1つ、「西江戸川橋」の東側で「小桜橋」と同じ場所に登場します。
 なお、(2)と同じ橋が下の図でも出ています。

西江戸川橋の由来

東京府志料 明治5年、陸軍省は各府県勢を把握するため、地図・地誌の編纂を企画し、これに応じて東京府が編纂した地誌。人口・車馬・物産等は明治5年、田畑数・貢租の額等は6年、区界町名の改正等は7年に基づいて編纂。

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

明治33年(1900年)、花見客で賑わう江戸川橋。この絵は江戸川小同窓会長 石川省吾氏

鎌倉海道すじにあった沓掛桜|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 22.鎌倉海道すじにあった沓掛桜」では……

鎌倉海道すじにあった掛桜
      (矢来町1から11
 酒井家屋敷内(場所不明)には、沓掛桜(くつかけざくら)という彼岸桜の古木があった。昔はこの屋敷内を奥州街道鎌倉海道ともいう)が通っていて、旅人がこの桜の下で休み、すり切れたわらじを掛けていく風習があったために名づけたものだという(戸塚28参照)。
〔参考〕 東京名所図会
 音は「くつ。トウ」。意味は「くつ。はきもの」
矢来町1から11 これは大正時代の住所。昭和5年には、酒井家屋敷は矢来町1から111までと細分化され、番号は増えています。
彼岸桜 本州中部以西に分布するバラ科の小高木。カンザクラに次いで早期に咲く。春の彼岸の頃(3月20日前後)に開花するためヒガンザクラと命名。
奥州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩みんまやに至る街道。現在の「奥州街道」は江戸千住が出発点なので、この屋敷を通りません。
鎌倉海道 鎌倉と各地とを結ぶ道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉と各地とを結んでいた古道を指す。別名は鎌倉街道、鎌倉往還おうかん、鎌倉みち。「この屋敷内を鎌倉街道が通っていて」は、ありえます。

東京名所図会 新撰東京名所図会。明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。

 では、この原本である東陽堂編『新撰東京名所図会』第41編(1904、明治37年)を見てみます。

     〇沓懸桜
彼岸桜なり、花特に美なり、古木なり、沓懸の異名は往時街道の時、旅人木陰に憩ひ、切れたる草履に懸けて立ち去る者多し、故に名とすと、一里塚の目印なりき、此桜近年まで、花を発きたりしも、富士見台撤壊せらるゝに及び、可惜、名木を失ひぬ。
草履 ぞうり。わらや竹皮などで足に当たる部分を編み、鼻緒をすげたもの。
 こずえ。木の幹や枝の先。木の先端。
一里塚 おもな道路の両側に1里(約4km)ごとに築いた塚。戦国時代末期にはすでに存在していたが、全国的規模で構築されるのは、1604年(慶長9)徳川家康が江戸日本橋を起点として主要街道に築かせてからである。「塚」は人工的に土を丘状に盛った場所。

発く 音は「ひらく」。意味は「でる。生じる。起こす」
富士見台 これは「沓懸桜」の前項で出ています。(下を)
撤壊 てつかい。とり壊す。
可惜 あたら。惜しくも。残念なことに。あったら。

     〇富士見台
日下が池の西にありき、高さ、二間余、昔此所に二階建の茶屋ありしが、享保年間、火災に類焼し、再建せず、此台より富士山の眺望、殊に優れたり、因て名とす、遠く八王子秩父の連山、近く目白関口の田畑民家見ゆ、台に紅葉多し、高雄の種を移し栽う、晩秋を織る、往年比辺甲州街道にて一里塚の跡とも云ひ伝へたり。
二間 約3.6メートル
茶屋 ちゃや。旅人などに茶や和菓子を提供し、休息させる店。甘味処としても発達した。茶店ちゃみせ
享保年間 1716年から1736年まで
目白関口 文京区の関口・目白台エリアで、神田川沿いに位置し、歴史ある庭園等を多数有する、水と緑があふれる所。

 にしき。にしきのように美しい。「にしき」は「金糸や色糸などで模様を織り出した絹織物」
甲州街道 江戸時代の五街道の一つ。江戸城半蔵門から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場がある。

 沓懸桜は酒井家の屋敷の中にあったと判断しても、まず間違ってはいないでしょう。酒井家屋敷は江戸時代ではおそらく一般庶民には立入禁止になっていて、「往時街道の時」というのは、それ以前の戦国時代の時で、まだ原っぱや水田、あるいは町屋があっても自由に動ける環境でした。また、ここには沓懸桜(ヒガンザクラ)もあったはずです。奥州街道や甲州街道については戦国時代なので、これら街道はまだ不完全でした。ただし、鎌倉時代に成立した鎌倉海道=鎌倉街道はあったといえそうです。
 そして、酒井家の屋敷ができると、竹矢来の塀をこえて満開の沓懸桜や富士見台は外の人々にも見えていたはずです。それが1716〜1736年に、火災が起こり、富士見台がなくなった時に、一緒に沓懸桜もなくなりました。また「三抱えもある桜の大木があり、沓懸桜と呼ばれていた」と『新編若葉の梢』(海老沢了之介、新編若葉の梢刊行会、昭和33年)。
 この『新撰東京名所図会』第41編は1904年に出ていますから、この沓懸桜が消えたのは『図会』よりも170〜190年もの昔でした。
 富士見台は一里塚に似た丘の上で、しかも「日下が池」の西にあったようです。下図は明治16年の参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」ですが、そんな場所は2か所ありました。おそらく北のほうが正しいのではないでしょうか。

参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」明治16年

神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

材木横丁 和泉屋横町 から傘横丁 三年坂 神楽小路横 みちくさ横丁 神楽小路 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 神楽坂仲坂 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁

 

 その名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 寂しい坂道だから転ぶと三年以内に死ぬという迷信から。
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から


16/3/13⇒20/8/6⇒21/6/16⇒21/9/23

だらだら長者の埋蔵金|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「牛込地区 35. だらだら長者の埋蔵金」です。これは普通の埋宝まいほうの話ですが、〔参考〕の「東京埋蔵金考」を読んでみると、それと全く違った話があると判明します。

だらだら長者の埋蔵金
      (筑土八幡周辺)
 筑土八幡あたりに屋敷をもっていた長者がいた。安政6年(1859)、この長者生井屋久太郎、通称「だらだら長者」は死んだ。この長者は、巨万の財宝をかくしていたというので、その夏ごろ、土地の有志が先達となり、与力同心の見回りのうちに堀ったところ、油タルにはいっていた小判1200枚が発見された。
 しかし、これが全部ではなかったので、明治以後何回もあたりを堀られたが、屋敷跡がはっきりしなくなったので出なかったという。
〔参考〕 東京埋蔵金考
長者 ちょうじゃ、ちょうしゃ。年上の人。金持ち。富豪。
安政6年(1859) 黒船来航(嘉永6年、1853年)があり、わずか6年後の話です。さらに8年後には明治元年(1868年)になっています。
先達 せんだつ。道などを案内すること。案内人。指導者。せんだち
与力 江戸時代、諸奉行・大番頭・書院番頭などの支配下でこれを補佐する役の者。その配下にそれぞれ数人の同心をもっていた。警察、庶務、裁判事務などを担当。町奉行支配下の町方与力が有名で、町与力は八丁堀に組屋敷を与えられていた。
同心 江戸時代、所司代・諸奉行などに属し、与力の下にあって庶務・警察事務を分掌した下級の役人
小判1200枚 小判1枚は4万円くらい。1200枚で約4800万円。

 この〔参考〕の「東京埋蔵金考」は、昭和37年、雄山閣出版から出版し、その後、昭和55年、中央公論社から同じ内容で出版しています。著者の角田喜久雄氏は作家で、もっぱら探偵小説や時代小説を書いていたようです。
「東京埋蔵金考」には埋蔵金の8話があり、うち「筑土八幡の埋宝」の話は「だらだら長者の埋蔵金」の原本です。この原本で話が右に行ったり左に行ったりしますが、ここでは「だらだら長者」、与力の「鈴木藤吉郎」、妾の「お今」の話を中心にしていきます。

筑土八幡の埋宝
 だらだら長者屋敷の境界は、今たずねてもわからない。新宿区牛込の筑土八幡の境内の一部は屋敷内にふくまれていたことは事実らしいが、その広さが幾千坪で、またどの方角に延びていたのか、江戸時代の地図にあてはめてみても正確な解答は生れて来ないのである。(略)
 与力の鈴木藤吉郎とくんで、お蔵米の買占めで儲けたことはたしかだが、儲けるにしても、その元手(資本)をどこからもって来たかを考えると、第一の土佐分藩の家老の子説よりも、大阪の富豪の分家説が有力となる。本名は生井屋久太郎だが「だらだら長者」の異名で呼ばれたごとく、年中よだれをだらだらたらしていたというから、今日の脳膜炎か脳性小児マヒを患ったものではないかと思う。(略)
「白痴で年中だらだらよだれをたらしてから、金を与えて親子の縁を切り江戸に住ませることにした」とあるが、生涯独身を通して金儲けに専念し、しかも、金銭に関する限り、間違っても損をするようなへまをやらなかったという言い伝えが本当とすれば、決して白痴などではなかったものと考えられる。
筑土八幡の境内 ここでは筑土八幡神社境内けいだいでしょう。

 一方、長者と同じ買占めで大金を稼いだ与力の「鈴木藤吉郎」については……

 江戸へ出た(渡辺)源三郎は(略)鈴木藤吉郎と名を改めると、養父五郎右衛門の手づるで池田播磨守に接近し、与力の株を買い取った。そして池田の口添えで(略)たちまちとんとん拍子に出世して与力上席20人扶持となり、市中潤沢係に、抜擢されたのである。市中潤沢係は、道路や溝架の改修を始め、市民の利益をはかる役目だから、一般市民とのつながりも多い。「だらだら長者」との結びつきも、おそらくこの頃から始まったものではないかと思われる。
与力の株 御家人には譜代・二半場・抱入(抱席)の三つの家格があり、抱入は一代限りの奉公で、株として売買できた。幕末では与力で千両、同心で二百両が相場だった。(新人物往来社編『江戸役人役職大事典』新人物往来社、1995年)つまり、鈴木藤吉郎は武士ではありませんでしたが、千両払って、武士の身分を手に入れたのです。
扶持 ふち。主君から家臣に給与した俸禄。江戸時代には、一人1日玄米5合(約0.9リットル)を標準とし、この1年分を米または金で給与した。
市中潤沢係 しちゅうじゅんたくかがり。江戸幕府は物価の騰貴を警戒し、値段の引下げに腐心した。「諸色潤沢掛」は(「諸色しょしき」とは、諸種の商品と物価を意味する語)恐らく物価が高騰しないよう「豊富な商品を求める係」でしょうか。「市中潤沢掛」と「諸色潤沢掛」とは同じ意味、それとも別の意味でしょうか、わかりません。

 鈴木藤吉郎は「だらだら長者」と一緒になってお蔵米の買占めで儲けました。しかし、安政5年の暮(あるいは安政6年の春)、町奉行の播磨守は藤吉郎について一つの疑念を抱いていました。

 播磨守も、藤吉郎の手腕は買いすぎるほど買っていたから、特に目をかけていたが、それにしても内々疑問ももっていた。その疑問は、余人に真似の出来ない藤吉郎の豪奢な生活で、本妻の他にを四、五人ももち、山谷堀を始め、市内数ヵ所にそれぞれ妾宅を置いている。もともと市中潤沢係は、役徳の多い職務で、収入も他の与力にくらべると二倍も三倍もあるが、それにしても金に糸目をつけぬ源三郎の贅沢は尋常でない。(略)
 播磨守は、藤吉郎とはあまり仲のよくない与力を使って、そっと身辺を内偵させることにしたのである。(略)
 内偵を命じておいた与力から、藤吉郎の商人名義による、お蔵米買占めの事実のあることを告げて来た。
 めかけ。婚姻後の男性が妻以外に経済的援助がある愛人。「目を掛ける」の意味
山谷堀 江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、今戸から山谷に至る水路をつくった。新吉原の遊郭へ通う山谷船の水路として利用された。
蔵米 くらまい。江戸幕府と諸藩が家臣の俸祿として支給した貯蔵米。諸藩の蔵屋敷を通じて商品化される米。米価の値上がりを見込んで米商人などが隠匿しておく米。

 これは大問題です。藤吉郎も買占めはこの世の見納めになると映ったようです。

 いよいよ最後の時が来たと感じた彼は、ただちに妾たちにそれぞれ金品を与えて暇を出す一方、かねて、お蔵米の買占めで利益をわかち合った町人たちにも通達し、静かに奉行所からの差紙を待ったのである。
 藤吉郎が迎えをうけて伝馬町牢屋敷揚屋入りをしたのが、それから3日後。名目は「商人名義によるお蔵米買占め一件」だったが、実際は身分をいつわって武士の仲間入りしたという方が罪科としては重かった。(略)
 藤吉郎は入獄後間もなく毒を盛られて殺され、事件は、うやむやのうちに葬り去られることになったのである。
差紙 江戸時代、尋問や命令の伝達のため、役所から日時を指定して特定の個人を呼び出す召喚状。
伝馬町 てんまちょう。江戸時代、伝馬役や伝馬を業とする者が住んでいたところから、東京都中央区日本橋の地名。小伝馬町と大伝馬町に分かれ、また、江戸屈指の問屋街だった。なお小伝馬町には牢屋敷が置かれていた。
牢屋敷 ろうやしき。江戸時代、未決囚を拘留した場所。江戸小伝馬町牢屋敷は町奉行支配に属し、囚獄しゆうごく(牢屋奉行)のいし帯刀たてわきが管理した。これは世襲で、石出家が代々「帯刀」と名乗っていた。
揚屋 あがりや。江戸時代法制用語。大名や旗本の臣、武士、僧侶など身分のある未決囚を入れた場所。
罪科 ざいか。法律や道徳、宗教などのおきてに背いた罪。

 では「お今」です。

 藤吉郎のお気に入りだった妾に「お今」という女がいた。小田原の漁師の娘で、元はだらだら長者屋敷で働いていたのだが、いつの頃から藤吉郎に囲われる身となったのである。このお今が長者の妾でなかったことは、長者の死後に屍体を調べた結果、長者は局部の欠け落ちた不具者で、男性としては全く用をなさない身体であったことがみても知れるのである。
 長者が急死したのは、藤吉郎に差紙があって伝馬町入りした日の夜更け。お今は、この夜も長者屋敷に泊り込んでいたが、長者の死が使用人によって発見された時には、すでにその姿は屋敷内から消えていた。後でわかったことだが、だらだら長者屋敷から道路1つを隔てた向かい側の町家には地下道が掘られてあって、そこから抜け出したものであろうと思われる。

 さて、だらだら長者の埋蔵金についてです。

 長者の死後、枕許にあった手文庫の二重底の下から、一葉の絵図らしいものが出たことに始まる。その絵図の隅に「たいちにおくおくこのたから、みにためならすよのためならす」と2行に書かれ、さらにもう一方の隅には「大判  枚 小判  枚」と書かれてあった。その歌のような文句には「大地に億置く此の宝、身の為めなさず世の為めなさず」の解釈が与えられ、大判、小判の数量を示したと思える。遺産は巨額にのぼると推定されるのに、長者の死後、屋敷内にあったものといえば、手文庫の二百両の金だけにすぎなかったということだ。(略)
 長者屋敷のそちこちが掘り起されたのは、文政6年の夏からである。この時は、町奉行所でも後援したらしく、与力や同心が毎日のように現場を見廻っていたと伝えられている。そして、地下道の一部から、油樽にはいった小判千二百枚を発見したと言われているが、その処分がどんな風に行われたものかは伝わっていない。長者の豪勢な生活から見ても、それが埋宝の全部でなことは、当時誰しもの一致した意見で、その後も個人的にたびたび発掘を計画したものもあるが、ほとんど得るところなく明治維新を迎えたのである。
手文庫 てぶんこ。手もとに置いて、文具や手紙などを入れておく小箱
二百両 金1両の価値は、幕末で約4000円~1万円ほどになります。200両は80万~200万。平均すると約140万円です。

 それから、明治18年、会津若松に「古奈家」という小さな飲み屋があり、その女将の名前は「お今」、牛込の長者屋敷に奉公し、江戸町奉行所の与力の妻になったこともあるといいます。

 お今の患いついたのは明治17年の9月末からで、10月、11月と次第に病いが重るにつれ「死にたくない、死にたくない」と口癖のように言いだした。(略)
 「私はもう駄目。いつ死ぬかもわからないんだから」と心細い声で言いながら、初めてうち明けたのが、だらだら長者の埋宝に関する一件であったという。
 そのお今の話によると、だらだら長者の埋めた宝の量は、三万両や五万両の少額ではなかった。お今がどんな無茶な金遣いをしても、生涯かかって費いきれないほどの額で、長者は千両まとまるごとに、埋蔵していたという。埋蔵場所は二ヵ所に分かれていて、一ヵ所は屋敷内。もう一ヵ所は秘密の地下道を抜け出た町家の庭の、から井戸の途中に横穴があって、その中にかくされている。から井戸の方の埋蔵は、いつも「権」という男があたっていた。(略)
 権と長者の関係は、全く他人のごとく見せていたが、実際は親密そのもので(略)おそらく兄弟ではあるまいかと思える。(また)長者のお今に対する態度は、二人っきりの時には別人かと思える親しさで、今考えてみると、自分の父ではなかったかと思う。長者が、局所を切りとられて男性としての機能を失ったのも、壮年時代に、ある高貴な婦人との関係を疑われて、処刑をうけたためであるというようなことを、長者がふともらしたことがあったから、恐らく自分がその処刑をうける前に、長者の子として生れ、事情があって小田原の方に預けられていたものではあるまいか。また、宝をとり出すために相当の費用もかかるので、長者は秘密の地下道の中へ、千両箱を埋めておいてくれた。
 この絵図が、つまりその井戸の位置を示したものだから、もし自分に万一のことがあったならば、きっと東京へ行って地下道を探し、まず千両箱を掘って、それを費用にから井戸の宝を掘り出してもらいたい。
 ——というのがお今の話だったのである。
患いつく わずらいつく。病気になる。病みつく。
重る おもる。病気が重くなる。
から井戸 空井戸。水のかれた井戸。

 さて、この話を聞いたお今の夫、田島が、牛込に行くことで決まりました。

 田島が現われた頃は、長者の死からまだ25, 6年より経っていなかったし、すでに長者屋敷の地形は相当変わっていたというものの、当時なら徹底的にたずねれば、あるいは埋宝の発見も可能であったかも知れない。田島から話をきいて協力を約束した経師屋の久保などは、もちろんそのつもりでいたが、その計画も田島がつまらない事件を起したためにお流れとなった。
 というのは、田島が(略)ほとんど毎夜、女に接していたらしい。それも金を出して女買いのうちはまだよかった。ところが、ある時、町で見染めた近所の囲い者に目をつけ、湯帰りの途中を要して暴行したのである。(略)これが問題となったため、警察が動きだした。早くもそれと知った田島、あわてて行方をくらましてしまい、(略)折角の宝探しも沙汰止みとなってしまったのである。
 その後、この埋宝の記録と絵図なるものを持ち廻るものがあって、その絵図をもとに幾度か捜索がこころみられたが、今となっては長者屋敷の位置はもちろん、町家の場所をも正確に知ることが出来ないので、その都度失敗に終わった。
経師屋 きょうじや。巻物、掛物、和本、屛風、ふすまなどの表装をする職人。
囲い者 かこいもの。こっそり別宅などに住まわせておく情婦。めかけ
沙汰止み さたやみ。官府からの命令などが中止やたちぎえになってしまうこと

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)に「牛込地区 40. 幡随院長兵衛の死体が流れついた橋」として「隆慶橋」に焦点を当てています。

幡随院長兵衛の死体が流れついた橋
           (新小川町一丁目)
 飯田橋から高速道路添いを大曲に向うと、右手に神田川にかかる隆慶橋がある。
 町奴幡随院長兵衛は、旗本奴の総領水野十郎左衛門の誘いを受け、単身小石川牛天神網干坂にある水野屋敷を訪れた。
 十郎左術門は酒宴を張ったが、長兵衛が酒に酔うと、十郎左衛門の家中の者一人が長兵衛の顔めがけて酒を盛った燗徳利を投げつけた。それを合図に三人の者が斬りつけた。そこへしばらく身を隠していた十郎左衛門は、左の頬から顎にかけて一太刀で斬りつけた。さすがの長兵衛も、この欺し討ちにあってあえない最後をとげたのであった。
 その死体はこもに包んで仲間(ちゅうげん)二人が神田川に投げ捨てた。その死体がここの隆慶橋に流れついたのである。
 死体を発見した者が、浅草舟川戸の留守宅へ知らせると、三人の子分が馳けつけてきて死体を駕寵で浅草の源空寺に巡んで葬った。時に慶安3年(1650)4月13日、36才の男盛りであった。
 なお幡随院長兵衛、水野十郎左衛門については伝説の人で、はっきりしたことは分らない
 〔参考〕 江戸ルポルタージュ  新宿と伝説
大曲 おおまがり。道などが大きく曲がっていることや、その場所。新宿区では新小川町で道路や神田川が曲がっている場所を大曲と呼ぶ。

大曲

隆慶橋 新宿区新小川町と文京区後楽2丁目を結び、神田川に架かる橋。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

町奴 江戸初期、はでな服装で江戸市中を横行した町人出身の侠客きょうかくおとこ伊達だて。「侠客」とは弱い者を助け強い者をくじき、市井無頼の「やくざ者」に対する美称として使う。
幡随院長兵衛 ばんずいいん ちょうべえ。江戸初期の侠客。大名・旗本へ奉公人を斡旋する貸元業を始めたが、腕と度胸、強い統率力が役だち、侠気を売り物とする男伊達としても成功。水野十郎左衛門の率いる旗本奴との対立が高じ、水野邸で殺された。生年は1622年か、没年は1650年(慶安3年)か1657年(明暦3年)。
旗本奴 はたもとやっこ。旗本や御家人のうち異装をし、徒党を組み、無頼ぶらいの生活を送った者。奴とは武家奉公人。しだいに奉公人だけではなく主人の側(旗本)にもその風俗が拡大していった。無頼とは正業に就かず、無法な行いをする「やくざ者」のこと
水野十郎左衛門 みずの じゅうろうざえもん。3000石の幕臣で、大小神祇じんぎ組首領。幡随院長兵衛と争って殺害した。のち幕府に所業をとがめられて寛文4年3月27日切腹。家は断絶。
小石川 東京府東京市(後に東京都)にかつて存在した区。明治11年から昭和22年までの期間(東京15区及び35区の時代)に存在した。現在の文京区の西部。
牛天神 うしてんじん。天満宮の異称。東京都文京区の北野神社の俗称
網干坂 あみほしざか。東大付属小石川植物園の西縁に沿って北に向かう。坂下で湯立坂と接続する。坂下の谷は入江で、舟の出入りがあり、漁師が網を干したのが名前の由来。
燗徳利 かんど(っ)くり。燗酒かんざけを飲むのに適した徳利と(っ)くり。燗酒とは加熱した酒で、おかんともいう。徳利とは細長くて口の狭い、酒などの液体を入れる容器。
こも わらの編み物のなかでも薄く、木などに巻きつける物

仲間 ちゅうげん。中間。江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者。
舟川戸 現在の花川戸。台東区東部で、墨田区(吾妻橋・向島)との区境に当たる。
源空寺 台東区東上野にある浄土宗の仏教寺院。号は五台山文殊院。
はっきりしたことは分らない 東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」について「水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容です」。つまり、これ以上のことはわからないし、屋敷の宴会も、風呂も、死体も、橋も、坂も、あるかないか、全て不明です。しかし、歌舞伎では、これを元にして「幡随院ばんずい長兵衛ちょうべえ精進しょうじん俎板まないた」や「極付きわめつき幡随ばんずい長兵衛ちょうべえ」などを作り出しました。

 ここで網干坂あみほしざかが問題になります。網干坂は神田川の大曲から歩いて約30分かかります。一方、牛天神は約5分でつきます。牛天神に最も近い坂は牛坂、別名は鮫干坂で、北野神社(牛天神)の北側の坂です。あみ干坂ではなく、さめ干坂だったのでないでしょうか。

網干坂と牛坂

「小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改、地図は下図)では「水野右近」という名前がでかでかと書かれています。しかもその下の「牛天神社」、これも大きい。

小日向小石川牛込北辺絵図」(高柴三雄誌、近江屋吾平発行、嘉永2年(1849)春改)

 しかし、幡随院長兵衛がでてくるこの事件は「小日向小石川牛込北辺絵図」よりも約200年も昔に起こったもので、さらに寛文4年(1664)には、「年来の不行跡」のため、水野十郎左衛門には切腹を命じ、家は断絶されました。
 一方、この「小日向」の絵図に出てくる「水野右近」は静岡県伊東市宇佐美の一部を所管する旗本でした。つまり「水野右近」と「水野十郎左衛門」とは全く違った人物なのです。
 虚構で固めた物語でも、わかっていることがあります。実際に水野十郎左衛門がいたこと、さらに、その屋敷がどこにあったのかも判明しています。おそらく西神田2丁目でした。

中之橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。今回のテーマは中之橋です。

中之橋(なかのはし) 新宿区新小川町二、三丁目のさかい文京区水道一丁目江戸川に渡された橋で、創架年月は不詳だが寛文図に無名ながら記されている。東京市史稿はこれについて、「橋 橋名なし 同川筋(江戸川)に架し、後の中の橋に当るべきものなれど、位置やや上流にあり。この橋の位置の変れるは元禄頃なり。中の橋は武江図説に『中の橋、同し川に渡す。立慶橋大橋の間、築土下へ行く通り、此辺りゅうヶ崎と云う、一名鯉ヶ崎とも云う。』とし、また府内備考には「中ノ橋は築戸下より江戸川ばたへゆく通りにかかる橋なり。立慶橋と石切橋の中なる橋なれば、かく名付くなるべし。」と記す。明治時代になってこの江戸川両岸に桜が植えられ、市民遊行の地となった。小石川区史はこれを、
  石切橋より下流隆慶橋に至る間の江戸川両岸一帯の地は、明治の末頃まで市内屈指の桜の名所として讃えられていた。此処の歴史は比較的新しく、明治17年頃、西江戸川町居住の大原某が自宅前の川縁に植樹せるに始まり、附近の地主町民が協力して互に両岸に植附けたので、数年にして桜花の名所となり、爾来樹齢を加えると共に花は益々美しく、名は愈々喧伝せられて、其景観が小金井に似たところからいつしか「新小金井」の名称を与えられ、観桜の最勝地たりし中の橋は小金井橋に比せられるようになった。
 そこで地元でも時には樹間に雪洞ぼんぼりを点じ、俳句の懸行燈かけあんどん、花の扁額、青竹のらちなど設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて花のトンネルを上下すれば、両岸の花影、燈影、水に映じて耀かがやき如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった
  はつ桜あけおぼめく江戸川や水も小橋も
うすがすみして              金子薫園
ほそぼそと雨降り止まぬ江戸川の橋に
たたずみ君をしぞ思う           小林 操

新撰東京名所図会。牛込区。東陽堂。明治37年。

新小川町二、三丁目 現在は「丁目」を付けません。昭和57年(1982)住居表示実施に伴い、1~3丁目は統合され、単に「新小川町」といいます。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んでいました。
寛文図 寛文江戸大絵図。寛文10年12月に完成。絵図風の地図ではなく、実測図に従い、正確な方位を基準として、以後江戸図のもとになった。

武江図説 地誌。著者は大橋方長。安永2~寛政年間(1773~1799)に刊行し、寛政5年(1793年)に筆写。別名は「江戸名所集覧」
東京市史稿 明治34年から東京市が編纂を開始し、令和3年、終了した史料集。皇城篇、御墓地篇、変災篇、上水篇、救済篇、港湾篇、遊園篇、宗教篇、橋梁篇、市街篇、産業篇の全11篇184巻
大橋 石切橋と同じ
築土 つくど。江戸時代には「築土明神」も「築土」も正式な名前でした。なお「築土前」「築土下」はそれぞれ「築土の南側」「築土の北側」の意味。
築土下へ行く通り、此辺立ヶ崎を云う、一名鯉ヶ崎とも云う 「築土の北側に行く道路があるが、この周辺を立ヶ崎という。別名、鯉ヶ崎という」。「崎」は「岬 。みさき。海中に突き出た陸地」の意味です。文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)によれば「『新編江戸志』に、『中の橋、築土つくどへ行く通りなり、此辺を恋ヶ崎という、一名鯉ヶ崎、此川に多く鯉あり、むらさき鯉という、大なるは三尺(約一米)に及ぶなり。』とある。」。つまり「立ヶ崎」や「恋ヶ崎」よりも「鯉ヶ崎」の方が一歩も早く世に出た言葉だったのでしょう。
府内備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
築戸 「つくど」と読む方が正しいのでしょう。
ばた はた。端。傍。側。物のふち、へり。ある場所のほとり。そば。かたわら。そばにいる人。第三者。
江戸川両岸に桜

小石川区史」から

江戸川桜花満開『東京名所写真帖 : Views of Tokyo』尚美堂 明治43年 国立国会図書館デジタルコレクション

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

遊行 ゆぎょう。出歩く。歩き回る。
小石川区史 昭和10年、小石川区役所が「小石川区史」を発行しました。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、1/3は水道一丁目に、昭和41年4月1日、残る2/3は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

川縁 かわべり。かわぶち。川のへり。川のふち。川ばた。川べ。
爾来 じらい。それからのち。それ以来。
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まる様子。ますます。より一層
小金井 元文2年(1737年)、幕府の命により、府中押立村名主の川崎平右衛門が吉野や桜川からヤマザクラの名品を取り寄せ、農民たちが協力して植樹。文化~天保年間(1804~1844年)、多くの文人墨客が観桜に訪れる。『江戸名所図会』や広重の錦絵に描かれ、庶民の間にも有名になる。
最勝地 これは誤植。正しくは「景勝地」。けいしょうち。景色がすぐれている土地。
 この文章は一般的な花ではなく、桜のことでしょう。「桜の時には樹間に雪洞を点じ、俳句の懸行燈、桜の花の扁額、青竹の埓など設けて一層の美観を添えた。暮夜流れに小舟を浮べて桜のトンネルを上下すれば、両岸の桜影、燈影、水に映じて耀き如何にも朗らかな春の夜の観楽境であった。」
雪洞 行灯。あんどん。小型の照明具。木などで枠を作り、紙を張り、中に油皿を置いて点灯する。
懸行燈 掛行燈。屋号や商品名を書いて店先に掛けて看板代わりにするもの。俳句の懸行燈とは、屋号や商品名に加えて俳句もはいるもの。

扁額 建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(額とは書画などをおさめて、門・壁などに掲げておく)。
 周囲に設けた柵。
夜の観楽境であった この文章は「小石川区史」881頁に載っています。なお、このあとに続く文章があり「然るに其後江戸川の護岸工事の為め、漸次桜樹の数を減じて、大正の末年頃には当時の面影を全く失い、両岸は総てコンクリートの堅固な石垣と化して、忘れたように残る少数の桜樹に昔の名残を偲ぶのみとなった。已むを得ざる工作の結果とは云えあまりにも悲しき文化の侵略ではある」
はつ桜 はつざくら。その年になって最初に咲く桜の花。季語・春
 あけぼの。夜がほのぼのと明けはじめる頃。
おぼめく はっきりしない。あいまいである。ぼやける。
うすがすみ  薄くかかったかすみ。かすみが薄くかかる様子
金子薫園 かねこくんえん。歌人。和歌の革新運動に参加。明星派に対抗して白菊会を結成。近代都市風景を好んで歌った。生年は明治9年11月30日、没年は昭和26年3月30日。満75歳で死亡。
ほそぼそ 非常に細いさま。物がかろうじてつながっている様子。かろうじてその状態が続いている様子
思う 慕う。愛する。恋する。

高橋春人その軌跡

文学と神楽坂

 高橋春人記録集世話人会「高橋春人その軌跡」(ビスカムクリエイティブ、1999年)です。氏は戦前から絵画・グラフィックデザイン・公共広報デザインの第一人者として活躍し、特に1964年の東京パラリンピックでは公式ポスター、大会マーク、メダルのデザインなどを担当。出生は1914年。死亡は1998年で、84歳。
 死亡の翌年に出た「高橋春人その軌跡」ではまず春人氏の多数の作品を展示し、次に何人もの友人が弔意を表し「ここは牛込、神楽坂」編集長だった立壁正子氏はこう述べています。

立壁正子氏

 恩 
タウン誌からいま
心からの
感謝をこめて

 この春、第15号を迎えたタウン誌『ここは牛込、神楽坂』で、「鏑木清方」の特集を行なった際、清方の名作「築地明石町」にまつわる、思わぬ発見があった。
 矢来町にいた清方のことは、高橋先生からよく伺っていた。その際、必ず出るのが名作中の名作「築地明石町」のことだった。「あのモデルとなった女性は、いいとこの奥さんで、なんでも、その親族がこの近くにいるらしくてね」
「先生、神楽坂の“話し方教室”と“タゴール”のオーナーの江木さんご兄弟が、モデルの江木ませ子さんのお孫さんでした。それで、彼女の写真も出てきました!」
 心の中で真っ先にこうご報告した。
 先生がご存命だったら、どんなに喜んでくださったことだろう。先生がご他界になってこのかた、何度か先生かいらしてくださったらと思ったことがあるが、このときほど残念な思いにかられたことはなかった。

築地明石町

築地明石町 第8回帝国美術院展覧会(昭和2年)で帝国美術院賞を受賞した気品ある美人画。1972年に清方氏が逝去し、サントリー美術館の出品(1975年)を最後に行方不明に。2019年、東京国立近代美術館が購入した。
話し方教室 話し方教室の創始者は江木武彦氏。1954年10月、東京都成人学級の「上手な話し方」を始め、受講者が集まり、1960年代には興隆期に。神楽坂3丁目の五条ビルで話し方教室を開設。
タゴール カフェバー。名前の由来はインドの詩人でノーベル賞文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴール氏から。昭和62年(1987年)8月22日(土)、神楽坂3丁目の五条ビルで開店。閉店は平成16年(2004年)頃。
江木ませ子 生年は明治19年、没年は昭和18年。夫の江木定男氏は農商務省の役人。鏑木清方氏は父の江木保男氏の知人。清方氏の奥様の照氏はませ子氏の女学校時代の友達。15歳のませ子氏は淡路町の姉夫婦の家に移り住み、家事を手伝いながら通学した。鏑木清方はこの情景を捉えて

江木ませ子

 私が好きでかく明治の中ごろ、新橋の駅がまだ汐留にあつた時分で、もう出るのに間のない客車に、送るのと送られるのとふたりの美しい女学生を見た。送られる方は洋髪の人で車上にゐる。ホームに立つて送るのは桃割れで紫の袴を裾長にスラリとしたうしろすがたは、そのころ女学生をかくのにたくみだつた半古さんの絵のやうであつた。
 昭和二年にかいた「築地明石町」に面影をうつしたM夫人はその時の桃割れの女学生だつた人で、私の家内と女学校のともだちなのだ。【M夫人/鏑木清方】

註:桃割れ 江戸時代後期から昭和まで町人の娘に流行した女髷。頭頂部から後頭部にかけての髷を丸く左右両サイドに分け輪を作り、鬢を膨らませる。その形が桃の花が開くように見えることから、桃割れと呼ぶ。
半古 梶田半古。かじたはんこ。明治の日本画家。写実的で浪漫的な風俗画を得意とし、新聞や雑誌のさし絵でも有名。生年は明治3年6月25日、没年は大正6年4月23日。

亡くなってから改めて気付いたこと
 そういえば、あるとき、道で先生にお会いして、鏑木清方の家の跡をたずねてみようということになり、神楽坂にほど近い、矢来町の住宅街へ出かけたことがあった。その界隈の人に聞いてみたりしたが、誰も知らなかった。先生は、清方の随筆集『こしかたの記』を、繰り返し読んでいられるようで、「あの記述によると、確かこのあたりだが……」と、見当をつけられた。
 今回、雑誌で特集をするにあたり、清方の家に伺ったことのある神楽坂の夏目写真館の夏目正衛氏にご同道いただき、その場所を教えていただいたが、夏目氏が、「様子が大分変わって断定しにくいが、たぶんこのあたり」と言われた場所は、高橋先生の推定とほぼ一致していた。
 清方の特集のために、清方の随筆もかなり読んだが、そのところどころに、あ、これは先生から伺ったことだという箇所がよく見つかった。
 よくこれだけのことを、しかも正確に覚えていて、それを伝えてくださっていたのだと、感嘆させられた。
 そして、先生が、たいへんな読書家で、文学にも造詣の深い方だったということを知らされたのだった。

 まだ続きます。

先生からいただいた宝物をもとに…
 文学といえば、これも雑誌で夏目漱石の特集をした際、漱石の『硝子戸の中』をテキストに、少年時代の漱石がたどった夏目坂から神楽坂に至る道をご一緒に歩いたことがあった。
 先生は、まず牛込台地の説明から始まり、「ここは松平備前守の下屋敷の跡で、その後、池になったところ」とか「ここは、狐が啼くような淋しいところで、このあたりにいた田山花袋も漱石も、神楽坂に出るときは、ここの長い田圃路を通って行ったんだよ」など、道筋に埋もれた歴史を解きあかしては、私たちを驚かせた。
『硝子戸の中』に記された漱石の家の前にあった小川が、いまは暗渠となっていること、その近くにあった床屋のあった場所がここと特定してくださったのも、先生だった。
 ただ、漱石のお姉さんたちが、芝居見物に行くとき、“馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る”というコースに関しては、柿の木横丁がどこか特定できず、ベンディングとなったままになってしまった。
 このほか、父上のお仲間だったということから、ひときわ思い入れをお持ちの田山花袋のこと、そしてご自身が面識のあった稲垣足穂のこと、矢来町の酒井屋敷のことなどなど、そのうちぜひご執筆をとお願いしておいたテーマも、まだいろいろ残されている。
 これからは、お宅に伺ったとき、あるいは先生の作品を展示したギャラリーのソファーで、そして漱石散歩などのまち歩きにご同道いただきながら…その都度伺ったお話など、先生からいただいた大事な贈り物をもとに、一つ一つ、まとめていければと願っている。
 先生ほんとうにありがとうございました。どうぞこれからも宜しくお導きのほど。
牛込台地 山手台地の一部。山側(山の方向)の台地。「手」は方向を表す(上手うわて下手しもて)。

牛込台地と落合台地(地理院地図 : GSI Maps|国土地理院)

松平備前守の下屋敷 赤で描いた範囲が旧津山藩松平越後守高田下屋敷です。

喜久井町(東京市及接続郡部地籍地図 上卷 東京市区調査会 大正元年から)

狐が啼くような淋しいところ 「ここは牛込、神楽坂」第10号(牛込倶楽部、平成9年)の「金之助少年の歩いた道を行く」で「ここは牛込、神楽坂」編集長の立壁正子氏は「青年期にこの辺に住んでいた田山花袋が『早稲田町ここも都の中なれど雪の降る夜は狐しば鳴く』などど詠んだ淋しいところだったとか。漱石の『硝子戸の中』にも、“当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畑とか、竹薮とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。”とある。『田山花袋もここを通って神楽坂へ出ていたんだよ』と先生」(先生は高橋春人氏)。
 田山花袋氏は喜久井町20番地に住んでいました。これは下屋敷と同じ住所でした。
小川が、いまは暗渠 「硝子戸の中」16章では「うちの前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があつて、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える」としています。詳しくは「漱石と『硝子戸の中』16
馬場下から、筑土を下りて柿の木横丁から揚場へ出て、屋根船に乗る これは漱石と『硝子戸の中』21を参照。

出羽様下 再考

文学と神楽坂

 地元の方からです。

 東京は坂と谷の町です。数多くの崖があり、その高低差が「○○上/下」という地名になった場所が多くあります。たとえば千代田区の「九段下/上」「明神下」、新宿区の「馬場下」「池ノ上」などです。神楽坂周辺では「赤城下」「矢来下」などが坂や崖の下の地名です。
 このブログには「出羽様下」という、今では聞かなくなった地名が出てきます。
 これについて、改めて考察します。

「出羽様」は現在の神楽坂3丁目3番地にあった松平定安伯爵の神楽坂邸です。屋敷があったのはさほど長い期間ではなく、明治4年から明治26年までです。松平伯爵はその後、四谷に転居しました。
 松平家は出雲松江藩の元藩主で、官位は出羽守でした。四谷の屋敷のそばに「出羽坂」があり、今もそう呼ばれています。「出羽様」という呼び名が明治以降も一般的だったことが分かります。

 神楽坂の出羽様の屋敷は、南側の裏に崖があります。崖下は江戸期まで小身しょうしん(身分が低い、俸禄の少ない身分)の旗本などの屋敷でしたが、早い時期に町家に転じたことが明治16年東京測量原図で分かります。

松平邸と出羽様下(明治16年 東京測量原図)

 地形的に、この町家一帯が「出羽様下」と呼ばれたと考えるのが自然です。現在で言うと熱海湯を含む小栗横丁の西半分です。

 新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂附近の地名」の図は、「・出羽様下」の「・」の位置を間違えてしまったのではないでしょうか。

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

 竹田真砂子の「振り返れば明日が見えるー2」「銀杏は見ている」(「ここは牛込、神楽坂 第2号」牛込倶楽部、平成6年)では

 本多の屋敷跡は、明治15, 6年頃、一時、牛込区役所がおかれていたこともあったようだが(牛込町誌1大正10年10月)、まもなく分譲されて、ぎっしり家が建ち並ぶ、ほぼ現在のような形になった。反対側、今の宮坂金物店の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。